-->





九書・五書成立史 (その3)


3章    九書成立の外部証拠

五書を含めた九書の一体性を認めると、その成立が捕囚以前でないことは論理的必然となります。つまり、列王紀が捕囚で終わっているので、その後でないと九書が成り立たないからです。これが九書成立の上限となります。歴史的事実を検討して、下限も設定できると議論が楽になります。そこで、私としては、次の4つの事実から、九書成立の時期を絞っておきたいと思います。資料分析による議論は多くの仮説を含む大変複雑な議論になり、それだけで九書成立の時期を特定することは容易ではありません。しかし、外部証拠の分析は、その議論はやはり複雑ではありますが、資料分析よりは客観的であり、時期の特定には大変役立ちます。

3・1   70人訳五書(LXX、Septuaginta)の成立(前250年)

そこで、まず70人訳五書の成立を外部証拠として取り上げましょう。70人訳五書の成立の時期はほぼ特定できますし、多くの人も納得できる事実ですので、外部証拠の例としては相応しいと言えます。つまり、70人訳五書が成立しているということは、この時期までに九書、および五書が完成していたことを示しています。

70人訳聖書(LXX)とは、ヘレニズム時代のギリシャ語(コイネー)に訳された旧約聖書のことで、セプトゥアギンタとも呼ばれます。(注   LXXとはラテン語で70という数字を表しています。Lは50を、Xは10を意味します。)この聖書は、今日のヘブル語聖書のテキストであるマソラ・テキストの確立よりも古い時代に翻訳されたものですので、本文研究の上で非常に重要な存在となっています。

70人訳聖書は現行の旧約聖書だけでなく、いわゆる外典も含むもので、その最終的完成は紀元後のことであると思われます。しかし、70人訳の五書の部分については、アリステアスの手紙、ヨセフスの古代史などで、その成立事情が語られていますので、ある程度時代を特定することができます。

前250年、プトレマイオス2世はアレキサンドリアに図書館を作り、そこに世界中の本を集めようとしました。この時、ユダヤ人の大切にしている五書も取り入れたいと願い、当時のエルサレムの大祭司エレアザルに手紙を送りました。その結果、イスラエルの12部族からそれぞれ6人ずつの優秀な翻訳家が集められ、五書翻訳のためにアレクサンドリアに派遣されました。王はこれらの翻訳家たちを歓迎し、ある静かな島の中に住まいを提供し、最高の環境の中で翻訳が進められました。この時のヘブル語五書は、「羊皮紙に金色のユダヤ文字で書かれていた」(アリステアスの手紙)とあります。つまり古代ヘブル文字で書かれていたと言うことです。そしてついに完成を見るに至りました。ある別の伝承では、この時、翻訳者はそれぞれ独立に五書を訳したにもかかわらず、訳文がまったく同じになったとされています。律法翻訳の完成後、その訳文が民の前で朗読され、その素晴らしさに感激した民は皆喜んで、これを権威あるものとし、改変してはならないと宣言したとのことです。この時の翻訳者たちの数は、72人ですが、おそらく便宜上70人と言われることもあり(注   ヨセフス古代史XU86では「70人」となっています。)、これがきっかけで、このギリシャ語訳五書は70人訳と呼ばれることになりました。その後、この名称が一般化したので、後に権威付けられた預言書、諸書、外典も含めて、ギリシャ語訳全体が70人訳と呼ばれるようになったのです。

アリステアスの物語はやや小説風のところもあり、史実性については疑うこともできますが、プトレマイオス2世が自らの図書館に世界中の本を集めたいと願うことは自然であり、当時すでに権威ある書物として存在していた五書を翻訳して図書館に入れるのは自然な成り行きであったと言えます。それゆえ、この物語は大筋において史実であると考えて差し支えありません。つまり、五書が翻訳されるということは、前250年頃には九書全体がすでに成立していたと言うことの証拠です。


3・2   エズラによる五書文字の書換え(前397年)

五書の書かれた文字について、今まで余り注目されて来ませんでしたが、重要なポイントなので、これを無視してはなりません。従来、この点の重要性を認識してこなかったことが五書・九書成立事情の解明を遅らせる原因となったと言っても過言ではありません。五書は、現存するユダヤ教のマソラ・テキストにおいて、角文字(ヘブル文字、アッシリア文字ともいう)で書かれています。しかし、もともとは古代ヘブル文字(ヘブル古書体とも言います。フェニキア文字と似ています。)で書かれていたと結論付ける充分な状況証拠があります。

文字は、どの国でも時代と共に形を変えるものですが、書体の変化と文字そのものの変化とは区別しなければなりません。ひらがなの草書と楷書は書体の変化です。しかし、ひらがなとカタカナの変化は文字の変化です。書体の変化は時代と共に自然に起きる現象ですが、文字の変化はそれなりの時代背景というものがあります。ユダヤにおいて、捕囚前に広く使われていた文字は、古代ヘブル文字と呼ばれています。(注   文字の名称は、論者により、さまざまですので、時に誤解が生じる危険があります。この古代ヘブル文字は、基本的にはフェニキア文字と同じで、アラム語もこの時代にはこれとよく似た文字で書かれていました。ところが、いつの頃からかユダヤにおいては角文字が使われるようになりました。この角文字はパレスチナ・アラム文字とも呼ばれ、しばしばアッシリア文字と呼ばれています。しかし、アラム語世界で普通に使われていたのは後々まで、フェニキア文字を基本としたもので、角文字の例は聖書関係の文書以外、今のところ見つかっていません。なぜ角文字がアッシリア文字と呼ばれるのか、さらに学ばなければならないテーマです。)古代ヘブル文字の碑文は、シロアム碑文、ラキシ書簡、ゲゼルの農事暦、メシャ碑文などです。シロアム碑文は、1880年、シロアムの池で遊んでいた少年たちにより偶然発見されたものです。これは前700年頃、ヒゼキヤ王による水路工事の完成記念として刻まれたもので、捕囚以前の人々がどの様な言語生活をしていたかを知る上で貴重な資料となっています。

捕囚後のユダヤ人の言語は次第にアラム語になっていったようで、ネヘミヤは子供たちがアラム語を使うのに腹を立てています。この頃の文字はエレファンティネ文書で知られるものだけですが、エレファンティネのアラム語文書がどの文字で書かれていたかは現在調査中です。その後、前2世紀のゲゼル境界標に角文字が使われ、死海写本も角文字で書かれています。ですから、この頃には角文字が一般化していたのでしょう。

現在の旧約聖書は、すべて角文字で書かれています。しかし、もしモーセ五書が捕囚前に成立していたとするなら、当然古代ヘブル文字で書かれたことでしょう。そして、帰還後の古代ヘブル文字が使われなくなった時代に成立したなら、当然現行のような角文字で書かれたはずです。ですから、モーセ五書がはじめどちらの文字で書かれたかという問題は、モーセ五書の成立時期を決める重要なテーマとなるのです。

「サマリヤ五書はサマリヤ文字で書かれている」と解説されますが、サマリヤ文字の形は基本的に古代ヘブル文字と同じです。これはサマリヤ五書が本来の五書をそのまま引き継いでことを強く示唆するものです。現代の正統ユダヤ教の学者たちは、五書はもともと角文字で書かれていて、サマリヤ五書は偽物だといいますが、ユダヤ教の伝承の中にさえ、五書が昔、古代ヘブル文字で書かれていたことを認める文書が含まれています。トセフタ(Sanh.4:7)では「律法の書はアッシリア文字で与えられた。しかし、イスラエルが罪を犯したとき、粗野な文字(サマリヤ文字、古代ヘブル文字)に変えられ、エズラの時に再びアッシリア文字(角文字、近代ヘブル文字)に戻された。」と記されています。このような発言をせざるを得ないところに正統ユダヤ教の立場の苦しさが表れています。彼らの敵であるサマリヤ教団が古代ヘブル文字の五書を持っていますので、古代ヘブル文字の権威を落とすための発言と見えます。しかし、この発言の重要性は、正統派の五書も昔は古代ヘブル文字で書かれていた時代があったことを認めていることです。タルムードの中には、本来五書が古代ヘブル文字で書かれたものであることを素直に認めたところがあります。(Sanh.21b p119)「もともと律法の書はイスラエルにヘブル文字と聖なる言語(ヘブル語)にて与えられた。後に、エズラの時代に、律法の書はアシュシュル書体とアラム語にて与えられた。」この「ヘブル文字」とは古代ヘブル文字のことです。「アシュシュル書体」とは角文字(近代ヘブル文字、アラム文字、アッシリア文字ともいう)の意味です。これらのことから、五書が初めは古代ヘブル文字で書かれたことは確実といえます。

死海写本の中にある「ハバクク書注解」も重要な証拠と言えるでしょう。この写本は前53年頃作られたとみられています。文字は、ほとんどすべて角文字が使われていますが、神の名を示す「YHWH(ヤハウェ)」のみが古代ヘブル文字で書かれているという面白い特徴を持っています。もし、古代ヘブル文字が軽蔑に値するものであるなら、神の名を古代ヘブル文字で書くはずはありません。特別に尊重された文字だからこそ、神の名を表記するのに使われたのです。ハバクク書も初めはすべて古代ヘブル文字で書かれていたのでしょう。それがいつの頃か、角文字に書き改められました。そのとき、神の名だけは特別の尊敬を込めて、古い時代の文字のままに残されたと考えられます。この事実は、古代ヘブル文字の文書があったこと、その文書が角文字に書き改められたことを示しています。そして、同じことが五書についても起きたことは充分に考えられることです。

もし、モーセ五書が古代ヘブル文字で最初書かれていたとするなら、その成立は、その文字が使われていた時代、つまり角文字使用以前であるいう推測が成り立ちます。ドイツ語には亀の子文字と呼ばれる文字があります。この文字で書かれた本があるなら、かなり古い時代の書物であると推測できます。現在の日本の状況の中で例を捜すとするなら、戦前に成立した法律文書がカタカナ書きであるのに対して、戦後成立の法律は平仮名書きとなっています。もし、ある法律がカタカナ書きであったなら、これを戦前の成立であると推理することは間違いとは言えません。同様に、古代ヘブル文字で書かれていたとするなら、五書もまだ古代ヘブル文字の廃れていない捕囚期か、その直後に書かれたことになります。もっとも、古代ヘブル文字の使われなくなった時期、また、角文字の使われ始める時期がはっきりしませんので、さらに研究が必要です。一応、ここでは、五書が最初古代ヘブル文字で書かれたことは確かであると結論付けておきましょう。

では、それを誰が、いつ、その古代ヘブル文字の五書を今日の角文字に書き換えたのかという問題が残ります。これについては、ユダヤ教の伝承の中で、「エズラが五書を角文字に書き換えた」と言われています。それ以外の伝承は残されていませんので、この伝承は非常に重要であり、考慮に値すると言えます。そして一応これが史実であるとするなら、五書の成立はエズラによってではなく、エズラより前の時代であることは確実となります。なぜなら、エズラは編集者ではなく、文字を書き換えた人物だからです。

エズラの活動年代についていくつもの説があることは、この問題の理解を複雑にしています。私の立場では、エズラ7:7「アルタシャスタ王の7年」を、アルタクセルクセス2世と解釈して前397年頃にエズラが活動を始めたと理解します。ですから、エズラの活動はネヘミヤ後ということになります。この説は最近広く受け入れられるようになってきたものですが、聖書のエズラ・ネヘミヤ記を修正した理解なので、説明が必要なところかもしれません。しかし、話しが複雑になるので、詳しい説明は別途、イスラエル史の中ですることにします。ここでは、エズラがネヘミヤ以後の人物であることを前提にし、エズラがモーセ五書の文字を角文字に書き換えたことを認めることにしておきます。すると、エズラの時代(前397年)、モーセ五書(つまり、私の立場では九書)が既に完成していたことになります。

もっとも、注意すべきことは、エズラの書き直した角文字五書が直ちにユダヤ人に受け入れられたのではなさそうです。というのは、70人訳五書が成立するとき、アリステアスの手紙によると、彼らの使った五書の文字は古代ヘブル文字(金のユダヤ文字)で書かれていました。つまりエズラの五書はエルサレムで使われていなかったと言うことになります。また、前200年頃に成立したベンシラの知恵の中に尊敬すべき先祖の名が並べられています。その中にはアブラハムやモーセと並んでネヘミヤの名前も見えます。しかし、なぜかエズラの名が見あたりません。エズラはこの時代の正統ユダヤ教では尊敬されていなかったようです。


3・3   サマリヤ教団の成立(前431年)

サマリヤ人の分離の時期が重要である理由は、サマリヤ人が彼ら独自のモーセ五書を持っているからです。彼らはモーセ五書以外の旧約文書の権威をいっさい認めず、モーセ五書のみを絶対的なものとして、それを守り通してきました。ということは、サマリヤ人とユダヤ人が分離する以前にモーセ五書が完成していたことになります。サマリヤ人とユダヤ人が分離した後、彼らは激しく対立しますので、対立している敵の正典を採用するということはあり得ません。サマリヤ人の五書が存在するということは、彼らの分離以前に五書が成立していたことを示しています。ですから、サマリヤ人がいつ分離したかは重要なテーマとなります。

従来、サマリヤ人を北イスラエルの子孫たちとする誤解が広まっていたので、その分離の意味が理解できなかったのでしょうが、サマリヤ教団を正しく理解することは非常に重要です。サマリヤ人を誤解している限り、正しいイスラエル史理解は不可能です。私が浅学ながらも古代イスラエル史(「封印の古代イスラエル史を解く」)を著そうと思い立った最初のきっかけは、サマリヤ人の起源を調べていくうちに、サマリヤ人が北イスラエルの子孫ではないとの確信を得たことでした。サマリヤ人の起源についての詳しい論証は、拙論の「サマリヤ人の起源」を参照していただければ幸いです。

さて、いわゆる宗教集団としての「サマリヤ人」は、北イスラエルの伝統をひく人々とはまったく別のグループです。彼らの特徴はエルサレムの正統ユダヤ教ときわめて近い関係にあり、それゆえ、サマリヤ人を理解するためには、南ユダの伝統を理解しておかなければなりません。北イスラエル人の子孫としてサマリヤ人を理解することは、歴史を誤解することになるので、気をつけなければなりません。

サマリヤ教団としてのサマリヤ人は、ネヘミヤが2度目にエルサレムを訪れたとき、大祭司の息子であるマナセがサマリヤの総督サンバラテの娘と結婚していることを知り、怒ってこれを追放したことから始まりました。それは前430年のことでした。これは私の理解であって、別の時期を想定することも可能ですが、どの時期であろうとも、サマリヤ人がエルサレムから分離した時は、すでにモーセ五書が完成いていたことは間違いありません。もしそれが、ヨセフスの想定するような前330年のダレイオス3世の時代であるなら、それが五書成立の下限となります。それより、後の時期をサマリヤ人の起源とする説もありますが、それはサマリヤ人を北イスラエルの子孫と捉えることからくる誤解が前提になっているので、私としては取り上げる価値を見いだしません。ゲリジム山神殿が存在するのに、エルサレム正統派とサマリヤ人が対立していないなどという論理はとうてい受け入れられないからです。これについては、別論文に纏めてありますので、ここではこれ以上の説明は省略させていただきます。


3・4   ネヘミヤ時代の宗教形態(前445年)

ネヘミヤについては、歴史資料がエズラ・ネヘミヤ記しかないので、確定的なことは言えません。しかし、状況証拠を積み重ねると、ネヘミヤ時代にモーセ五書が成立していたことが見えてきます。その事実関係を確認しておきましょう。

ネヘミヤ記10章26節以下の文章がネヘミヤ時代の情報を伝えるものであると認定しても、反対する人はあまりいないはずです。10:29(28)に「門衛」が登場することは、ネヘミヤ時代を示しています。また、10:31(30)の地の民(アム・ハアレツ)との結婚を否定するとか、安息日の商売を禁じるとか、他の記事から得られるネヘミヤ時代の情報に合致しています。

さて、10:36(35)以下で語られていることを纏めると、「初物と初子は神殿の祭司に与えられ、地の産物の10分の一はレビ人に与えられる」と書かれています。これは神殿経済の根本に触れる重要な決まりです。この規定がモーセ五書の存在を示唆しています。

初子と十分の一の捧げ物の関係はモーセ五書では曖昧になっている点です。モーセ五書には多くの伝承が含まれているので、それらをどのように矛盾なく理解するかは頭を悩ます所です。初子奉献と、十分の一奉献のどちらもモーセ五書内のいくつかの場所で取り上げられていますが、調和があるわけではありません。また、一方で祭司とレビ人の関係も曖昧になっています。モーセ五書を素直に読むと、レビ人の子孫の一部が祭司の役割を果たしているように見えますが、レビ人と祭司がはっきり区別されている箇所も沢山あります。申命記のように「レビ人なる祭司」という考え方もありますが、捕囚後の時代では、レビ人と祭司は別グループとして存続しています。

このようなモーセ五書の複雑な内容を混乱無く実行するには、矛盾を解消し、書かれていないことを補う慣例や解釈が必要となります。このようなモーセ五書の様々な伝承を調和するものとして、ネヘミヤ記10:36以下の文章は大変有効な内容となっています。これにより、初子と十分の一、祭司とレビ人の関係が明らかになるからです。しかし、その逆は成り立ちません。つまり、ネヘミヤ記10:36以下の公認慣例が存在するにも係わらず、それより曖昧な規定であるモーセ五書がネヘミヤ以降の時代に編集されるということはあり得ないことだからです。もし、ネヘミヤ後に律法が編集されるなら、かならずネヘミヤの約束事である10:36以下の規定がモーセ五書に含まれていなければなりません。それが見つからないと言うことは、つまりはモーセ五書がネヘミヤ時代にすでに権威ある書物として存在していたと言うことになります。

また、10:36以下の規定で祭司とレビ人が区別されている点も重要です。もし、この規定が有効である時代にモーセ五書が完成したとするなら、申命記における「レビ人なる祭司」という表現は排除されるか、弱められるに違いありません。この点は権力の根幹に係わる重要事項ですから、伝承を纏める際に放置されることはあり得ません。ところが、モーセ五書に於いて、「レビ人なる祭司」がなんら編集句を加えられることなく、また解説を加えられることなく登場すると言うことは、ネヘミヤ時代にはすでにモーセ五書が文書として存在していて、それを修正することが出来ないほどの権威を持っていたことを示しています。




表紙に戻る  前のページへ  次のページへ