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九書・五書成立史 (その4)



4章    編集の時期

以上のことを踏まえると、九書・五書の編纂時期は自ずから限定されてきます。九書が一体である限り、五書をふくめた九書の成立が捕囚期以前であることは不可能です。しかし、捕囚期以降であるとしても、サマリヤ教団の成立や、エズラの文字の変更や、70人訳の成立などがありますので、あまり時代が離れますと可能性も減ってきます。さらに重要な点はモーセ五書、および九書がレビ人尊重規定を持っていて、ザドク系祭司に対して冷淡であるということです。これらの特徴を考慮すると、時代はかなり特定されてきます。

しかし、一応、その前にかつて存在した説の可能性を五書の内容からも否定できることを示してみましょう。その上で、捕囚後のいくつかの説を検討し、最終的にその成立時期を特定してみることにします。五書・九書成立の下限については、前445年、前431年、前397年、前250年の4つの手がかりをすでに挙げていますが、その他の見解の可能も含めて、かなり広く検討してみるつもりです。


4・1 モーセ著作説

モーセ著作説は、古くから素朴に信じられてきたもので、誰かの発案と言うものではないようです。ヨハネによる福音書7:19では「モーセは律法を与えた」と書かれていますが、これをモーセ著作説と解釈することには、少し無理があると思います。モーセ著者説をはっきり記しているのはタルムードです。(Baba Barthra 146)ただし、タルムードが完成するのは5世紀ですので、それほど古い文献ではありません。2世紀後半に成立したと思われるクレメント説教集V/XLVUで、すでにはっきりとモーセ著作説が否定されています。また、前180年頃のキリスト教批判者ケルソスもモーセ著者説を批判しています。ということはすでにこの頃モーセ著作説があったということになります。

近代では、カールシュタット、ホッブスなどがモーセ著作説を批判しています。それらの批判の中で指摘されているのは、モーセの死の記述をモーセ自身が書くはずがないという素朴な論点ですが、素朴であるがゆえにもっともなことで、反論の余地はありません。モーセ自身が書いたという説はかなり無理があるといえるでしょう。

そもそも、モーセ五書は様々な資料をまとめたものですので、モーセが一人で書いたとはいえません。まず、資料が成立し、その後で編集されるという時間的余裕が必要となります。このことからもモーセ著者説は退けられます。

余談となりますが、モーセ著作説は中世のカトリック教会では当然のこととして受け入れられていました。しかし、近代の始まりと共にモーセ著作説に疑問がもたれるようになり、これが近代的聖書研究の始まりとなりました。


4・2 モーセ以後、ダビデ以前説

モーセの死後すぐにまとめられたとの立場はモーセの死についての記述を説明するのに便利ですが、その他の点においては、モーセ著者説と同じ欠点があります。つまり、ヨシュア記と五書が同一編集者によるものなら、五書の成立は少なくともヨシュアの死以降であるということです。また、申命記29章や30章のように、捕囚を前提として記述があることの説明が難しくなります。また、もし、ダビデ以前にまとめられたとすると、申命記12:5にある「全部族のうちから選ばれる場所、すなわち主のすまい」をエルサレムと解釈できませんので、別の説明を用意しなければならなくなります。これは容易なことではないはずです。神の箱が置かれている場所(シロ、ベテルなど)との解釈は一応可能ですが、神の箱を「主の住まい」と呼ぶことは不自然です。もし、エルサレムが前提になっているとするなら、それはダビデによるエルサレムの征服・占領以降であることは明らかです。

また、士師記には律法という言葉がほとんどでてきませんし、人々がモーセの律法を守ったと言う記述もありません。むしろ逆に繰り返し「その頃イスラエルには王がなかったので、各々自分の目に正しいと見るところを行なった」と説明しています。つまり、律法が行われていなかったことを証言しています。これが史実かどうか別問題ですが、少なくとも、士師記の立場では、この時代にモーセ五書が存在しなかったということになります。

また、王国以前には、羊皮紙やパピルスなどの筆記用具がまだ発達していませんので、モーセ五書と言う膨大な文書を書きしるすということは物理的にも難しかったはずです。イスラエルの歴史書は王国時代から書き始められました。それ以前のものとして民数記21:14に言及される「主の戦いの書」があるだけです。どのような内容の書物かわかりませんが、おそらく、それほど大きな文書ではなかったでしょう。士師記に文書資料の名が見られないことからしても、王国時代以前には、「主の戦いの書」以外の大きな歴史文書はなかったと判断できます。


4・3 ダビデから北王国滅亡までの説

南北分裂の時期にモーセ五書が成立したと言う主張は耳にしませんが、考察の対象となるべき説ではあります。この時期にすでに歴史書も作成され、今日の歴代志、列王紀とは異なるものでしょうが、その原型となる王国史が王宮の書記たちによって書かれ、保存されていました。列王紀上14:19に「イスラエルの王の歴代志の書」という文書への言及があります。歴代志上29:29には「先見者サムエルの書」「預言者ナタンの書」「先見者ガドの書」への言及があります。いずれも現存しない文書ですが、おそらく、現在のサムエル・列王紀、歴代志の資料となったものと思われます。この様に歴史の文書化は王国時代の初期に始まりました。また、特に証拠があるわけではありませんが、律法の文書化もこのころ始まったのではないでしょうか。E、J、D、Pという四資料説の妥当性については別に論じますが、今日のモーセ五書の前にその資料となった文書資料があったことは確実です。これらの文書資料には、遊牧生活を前提とするものとか、古いしきたりを記述したものなどがありますので、王国時代には文書化の作業が始まっていたと考えられます。

律法(トーラー)という単語は、サムエル記、列王紀で10回用いられていますが、その多くは編集句であり、律法の文書としての存在をしめすのはヨシヤの律法の書発見以前にはみあたりません。しかし、歴史書が作られ始めているなら、律法文書も作られて良いはずです。そういう目で歴代志を見ると、そこにサムエル記、列王紀にない情報が記されていることに気が付きます。歴代志には19回、律法という単語が用いられていますが、歴代志下17:9でアサ王の時代に「祭司たちが主の律法の書を携えて民を教えた」と書かれていますので注目されます。しかし、これらの律法文書も今日のモーセ五書のような大きなものではなかったはずです。


4・4 ヨシヤ王説

北イスラエルがアッシリヤによって滅ぼされた後、一時期北イスラエルの残れる民と、ユダとの関係が改善します。(歴代志下30章)ヒゼキヤ王は北イスラエルの人々の関心を買うために、北イスラエルで行われていたと思われる過ぎ越しの祭りをエルサレムに導入します。この時期に五書が成立した可能性は検討に値するでしょう。それゆえヒゼキヤの孫、ヨシヤ王の時発見された律法書はモーセ五書であったという考えは魅力的です。(列王紀下22章)しかし、多くの学者は、この時の律法はモーセ五書ではないとしています。その理由は、なんといっても、申命記30章で捕囚への言及がなされていることです。捕囚前に、このような文書を書くことはできません。九書説を受け入れても、ヨシヤ王説はごく当然に退けられます。五書と一体の九書の中に、ヨシヤ王についての言及があるのですから、この時の律法の書がモーセ五書であることはありえません。

しかし、ヨシヤ王の時になんらかの律法文書が見つかったことについては誰も異存がありません。この時の文書が今日のモーセ五書に含まれていることもまた広く認められています。しかし、その文書の内容についてはいまだに議論が続いています。通説は原申命記であったとするものですが、この説には大きな欠陥がありますので、私としては別の理解を提案したいと思っています。これについては、長い議論が必要ですので、別論文の「ヨシヤ王の時に発見された律法の書」を参照してください。


4・5 バビロニヤ説

五書は九書の一部という私の立場からすると、以上の議論を踏まえるまでもなく、五書・九書の成立が捕囚以降であることは当然の結論となります。捕囚以降とは、つまり、前587年にユダ王国が滅び、エルサレムの主要な人々がバビロニヤにつれていかれた後と言うことです。これを五書成立の上限とするなら、下限はギリシャ語訳旧約聖書の成立する前3世紀と考えられます。この間、およそ300年ほどの時期ではありますが、多くの説が可能となります。どれも捕囚期以降という点で、真剣な考慮に値するものです。

モーセ五書がバビロニヤで捕囚となった人々によって作成されたとする説は、おもにエズラ説との関連で一部に唱えられています。つまり、バビロニヤで作られた五書をエズラがエルサレムにもたらしたと言うものです。また、セシバザル、ゼルバベルなどがバビロニヤからもたらしたとみることもできます。しかし、帰還以前のバビロニヤ説は、帰還を示唆する申命記30:5の説明に窮します。帰還を間近にひかえている時期なら30:5を書けるとも考えられますが、それにしても、バビロニヤを示唆する箇所が五書の中にまったくないとはどういうことでしょうか。作った人々の生活がまったく反映されない文書などあり得るでしょうか。バビロニヤ成立説は説得力に乏しいように思います。

また、バビロニヤに捕囚となったのはダビデ王の子孫を始め、大祭司(祭司長)の家系にある人々や有力者たちでした。当時の大祭司はザドクの子孫が世襲していましたが、ザドクの重要性が九書では強調されていません。五書のみを考察する場合にはザドク家を論じる必要はないかもしれませんが、九書として考える場合、ザドク家は大きな論点となります。ザドク家は、帰還後の大祭司を引き継ぎ、ゼルバベル亡き後、実質的にユダヤの政治的指導者となっていきます。もし、九書がバビロニヤで成立したとするなら、必ずザドクへの権威付けがなされるはずですし、少なくとももっと頻繁に言及されるはずです。それがなされていないと言うことは、九書がバビロニヤで書かれなかったことを示しています。五書・九書の成立はザドク系大祭司でない場所と時代です。バビロニヤ説はどの様な形であれ、説得力がありません。


4・6 エズラ第一説(ネヘミヤより前に活動したと見る場合)

エズラにより律法が作成されたとの説は、古くはスピノザが唱えたものですが、エズラの人物像が捉えがたいこともあって、その後広く受け入れられているわけではありません。しかし、もしあえてと言うならエズラと答える人が多いことも事実です。それゆえ多いに検討する価値のある立場であることは認めなければなりません。

エズラ説の難しさは、エズラ自身の人物像がはっきりしないことです。まず大きな問題は、エズラの活動時期のことです。エズラ・ネヘミヤ記によると、エズラのあとネヘミヤの活動が始まっているように読めます。ところが、現在、エズラをネヘミヤの後に活躍した人物とみる見方が有力になりつつあります。その理由はエズラ時代の祭司がヨハナン(エズラ10:6)であったのに対し、ネヘミヤの時の祭司がエリアシブであったことです。(ネヘミヤ3:1)ネヘミヤ12:22で祭司職の継承が「エリアシブ、ヨイアダ、ヨハナン、ヤドア」の順であることが書かれ、このことはヨセフスの資料からも支持されています。とするとエズラはエリアシブの孫ヨハナンの時代に活動したことになります。また、ネヘミヤ8:9などではエズラとネヘミヤが同時期に活躍していたように書かれていますが、エズラ・ネヘミヤ記の全体からみると、両者が同時期に活動したにしてはお互いに独立し過ぎています。ネヘミヤはエルサレムの城壁の建築に力を注いでいますが、エズラは城壁建築にはかかわっていないようです。これらのことからエズラをネヘミヤの後に活動した人物と見なす必要が生じます。そこで、エズラ7:7の「アルタシャスタ王の7年」をアルタシャスタT世ではなく、アルタシャスタU世と解釈する立場が生まれました。しかし、エズラ・ネヘミヤ記の謎はこれだけではありませんので、断定するのは容易ではありません。

そこでまず、エズラをネヘミヤよりも先に活動した人物であるとして考察してみましょう。もし、エズラの帰還がアルタシャスタ王T世の7年、つまり前458年に起こったとするならば、このエズラ第一説では、モーセ五書の成立はその数年後と言うことになります。この場合、エズラがバビロニヤからモーセ五書を持ってきたとするのはバビロニヤ説として批判してあります。ここではエズラの帰還後、エズラを中心としてエルサレムにおいて作成されたとみる説を検討します。

この立場の弱点のひとつは、エズラがセシバザルやゼルバベルと共に帰還したのではなく、この説では約60年後の前458年に帰還したことです。この60年の歳月は決して短いものではありません。一度捕囚期に崩れた宗教体制もこの頃までには確立していたものと思われます。しかもこの頃はネヘミヤ以前ですので、北イスラエルとはある程度の友好関係を維持していたと思われますが、すでにザドク家が大祭司としての権威を確立し、ユダ中心、エルサレム中心の体制が動かしがたいものとなっていたはずです。いくらエズラが偉大なる人物であり、権威ある人物であったとしても、ザドク家を無視する文書を編集できたはずはありません。ましてやエズラは総督ではなさそうなので、ますますモーセ五書を編集するほどの権威を持っていたとは言えなくなります。


4・7 エズラ第二説(ネヘミヤの後に活動したとした場合)

さて、エズラをアルタシャスタ王U世の7年に帰還したと解釈した場合はどうでしょうか。この場合、前398年が活動開始の時となります。この時エズラがモーセ五書を編集したとしても、エズラ第一説に対すると同様の批判がこれにも妥当します。ここでも五書のみを検討の対象とすると、エズラが作ったことが有り得るようにも思えますが、九書を前提に考えますと、問題点が見えてきます。五書もそうですが、九書はユダ族中心主義と無縁の文書です。しかも、サムエル記の中で、ザドクに付いての記述が少ないことを考えますと、九書の編集者がザドクと無縁の人であったことは間違いありません。ところがエズラの活躍した時代はすでにザドク系大祭司が実権を握っていた時代です。支配者たちの意向に逆らって、これだけ大きな書物を作ることが可能だったのでしょうか。やはり不可能だと言わざるをえません。

さらに、もしサマリヤ教団の成立の年が明らかになれば、おそらくエズラ第二説は検討する必要がなくなるでしょう。私の考えとしては、サマリヤ教団の成立はネヘミヤ記13:28とヨセフスの報告のように、ネヘミヤが大祭司ヨイアダの子マナセをサンバラテの娘婿になったという理由で追放したことに始まると考えます。そして、マナセは当時すでに確立していたモーセ五書をともなって、シケムにおいて新しい教団を作りました。前431年のことでした。この説明はサマリヤ教団の南ユダ的性格をもっともよく説明し、多くの誤解をといてくれますので、事実であると私は考えます。このことが認められるなら、サマリヤ教団成立後に活動したエズラを五書・九書の編集者とする見解は退けられます。もっとも、サマリヤ教団の成立年代は諸説あるので、この論証で充分ではありません。詳しくは、私の「サマリヤ人の起源」を参照してください。

また、モーセ五書の文字からもエズラ説は否定されます。モーセ五書がもともと古代ヘブル文字で書かれていたことは、「五書の文字」の項目ですでに論じていますが、タルムードの伝承が正しいとするなら、エズラがモーセ五書の文字をアラム文字に書き換えたことになります。ということは、エズラの時代にすでにモーセ五書が権威あるものとして存在していたことになります。このことからも、エズラをモーセ五書の編集者とする考えは退けられます。

エズラをモーセ五書の編集者とする考えは、意外と多くの人々に支持されているようです。たとえば、岡村民子女史やフランシスコ会聖書研究所「創世記」の解説では、あまり論証することなしにエズラを編集者としています。ぜひ、サマリヤ教団の成立と、五書の文字の問題、神学の問題も考慮して論じてもらいたいものです。


4・8 ネヘミヤ時代

ネヘミヤはアルタクセルクセス1世の20年(前445)に活動を始めたと理解されています。この時、エルサレムの城壁が建築されましたが、ネヘミヤ記8章の記事をなんらかの形でネヘミヤに結び付けて解釈するなら、ネヘミヤ時代に五書が完成したとの見解も有り得るかもしれません。しかし、ネヘミヤ記8章は第3エズラのギリシャ語テキストをみると、エズラ記10章の付録としてつながっています。ネヘミヤ記8章は本来のネヘミヤ記からは省かれるようですので、ネヘミヤが五書を公布したとの考えは成り立ちません。さらに、ネヘミヤが実践した宗教改革が五書の精神からずれていることもまた、認識されるべきです。ネヘミヤは北イスラエルの民であるサンバラテと対立し、北の民と結婚を雑婚として非難し、民を離縁させています。これは北との調和を目指す五書・九書の立場と真っ向から対立するものです。また、ネヘミヤ12:30にあるように、この時代は 祭司とレビ人の区別が明確でした。ところが、五書・九書ではしばしばこの区別が曖昧になっています。それゆえ、ネヘミヤ時代に五書が編集されることもありえません。


4・9 アレクサンダー大王時代以降

アレクサンダー大王時代は前330年からです。この時代は、世界史的には大変革がおきましたが、ユダヤ社会にとっては、支配者がペルシャ人からギリシャ人に変わっただけで、大きな変革にはなりませんでした。ユダヤの支配者は相変わらずザドク家の大祭司であり、ユダヤはプトレマイオス王朝に服従していましたので、ユダヤ人はしばしば、エジプト人支配のための傭兵として雇われました。アレクサンドリヤには多くのユダヤ人が住んでいました。このことがLXX成立の原因となるわけです。

さて、五書編集はどうでしょうか。この時代、相変わらずザドク家が支配していますので、やはり五書・九書の編集時期としてはふさわしくありません。また、サマリヤ教団がこのころ分離していたことは確実ですので、それゆえ、五書・九書編集の時期ではありません。


4・10 帰還直後説

以上のように、エズラでもそれ以降でもないとするなら、捕囚期からあまり外れない時期を検討すべきであることが見えてきます。五書・九書は、ユダ族に偏ることなく、12部族連合を前提に成り立っていますが、これを可能とするのは、ユダ族の指導者たちが捕囚によりいなくなっていた時期、つまり捕囚期、場所としてはエルサレム以外にありません。また、この時期はまだ古代ヘブル文字が使われていました。ヘブル語も生きた言葉として使われていました。また、ユダ族のうち、エルサレム近辺に残された者たちにとって、北イスラエルとの協力は部族存続のために残された唯一ともいえる選択枝だったことは容易に想像できます。

ただし、五書・九書の完成は捕囚期ではなく、帰還後になります。捕囚期に編集作業は始まっていたはずです。しかし、前538年、第一次帰還が始まりました。この時、それまでエルサレムでの祭儀を執り行っていたレビ人なる祭司を中心とするエルサレムの民と帰還民たちは共同して新しい社会建設に取り組み始めました。なぜなら、帰還民の中にザドク系大祭司がいなかったからです。この協力関係の結果、セシバザルを示唆する申命記18:15のような言葉と、申命記30章のように帰還を示唆する言葉が入れられたのです。

エルサレム崩壊後も祭儀が続行されていたことは確認されなければなりません。神殿が無いと祭儀が出来ないと考えるのは間違っています。サマリヤ人は、神殿崩壊後も今日に至るまで祭儀を守っています。なぜなら、神殿の跡地が祭儀の場として使えるからです。エルサレムの場合も同じだったはずです。ただ、祭儀を執り行う祭司は必要です。ザドク系祭司は全員バビロニアに捕囚となっていました。そこで代役として立てられたのがレビ人だったのです。

帰還には第1次帰還と、第2次帰還があります。キュロス王(聖書ではクロス王)の時にセシバザルを中心に帰ったのが第一次帰還です。前538年のことでした。ダレイオス(いわゆるダリウス)王の時、ゼルバベルとエシュアを中心に帰ってきたのが第二次帰還でした。前522年のことでした。

この第一次帰還の時こそ九書、および五書編集には最適の時代でした。なぜなら、この時の帰還の民の数はそれほど多くなかったようで、エルサレムで行われていた祭儀を否定するほどの勢力でなかったと思われるからです。彼らは、エルサレム在住のレビ人たちと北イスラエルの残れる民とが協力して作りつつあるモーセ五書、および九書を承認し、それに協力しました。それゆえ、五書、九書の内容がきわめて北イスラエルの伝統に好意的となってしまったのです。創世記でユダよりもヨセフが重要な役割を果たしているのは、編集者の力関係を表しています。このヨセフ伝承を担ってきたのはヨセフの子孫であるエフライム・マナセ族であることは間違いありません。また、ユダ族については、ダビデ王朝の部族であるにもかかわらず、12部族の一つとして、きわめて公平に扱われています。ダビデ王は尊敬されているとはいえ、絶対化されていません。また、大祭司の家系であるザドクはまったくマイナーな人物になってしまっています。第二次帰還後も、北との関係は良好でしたが、ザドク系祭司が実権を取り返していますので、その時代を背景とするなら、モーセ五書、九書はいまとはかなり異なる雰囲気の文書になっていたはずです。

エズラ黙示録(ラテン語エズラ記)に面白い記述が残されています。このエズラ黙示録の成立は紀元後ですので、資料的価値がどれだけあるかは議論が必要ですが、伝承としては無視できない内容を含んでいます。その3:1ですが、そこに「都の陥落後30年目のこと、私サラティエル、すなわちエズラはバビロンにいた。」と書かれています。サラティエルがセシバザルのことであるかどうかは問題ですが、少なくとも、エズラが捕囚時代の指導者と同定されています。この同定が一般化していたとすると、エズラ・ネヘミヤ記のエズラの記述が、史的エズラのものでなく、セシバザルの時代のものであった可能性も検討に値することになります。


5.   モーセ五書の分離

さて、前522年、ゼルバベルと大祭司エシュアに率いられた人々がバビロニヤから帰ってきました。この時の人々は、ザドク系祭司たちを含むエルサレムで捕囚以前の時代に政治的実権を握っていた人々でした。その時、セシバザルがどうなったか、記録は何も残されていません。政治闘争があったとも記録されていませんので、おそらく、ネヘミヤやその他の総督と同様、任期切れでバビロンに帰ったのではないでしょうか。セシバザルを引き継いだゼルバベル、エシュアたちは、九書の権威を認め、セシバザルの政治を引き継ぎました。

この時代、エズラ・ネヘミヤ記では北イスラエルと対立したかのような記述がありますが、エルサレムの民が北の民と婚姻関係を結んでいるのは友好の印です。エズラ・ネヘミヤ記の記述はのちのネヘミヤ時代の対立が反映していると見るべきで、史実とは受け入れられません。つまり、第二次帰還後も北イスラエル(サマリヤ教団ではありません)との友好関係は存続し、北イスラエルの協力の下で第二神殿が建築されたものと判断できます。しかし、第二次帰還の民の中には南ユダの伝統に強く固執する人々もいました。彼らは九書に書かれている12部族連合よりも、ユダ族の伝統を重んじ、サムエル、エリヤ、その他の北イスラエル的要素を嫌いました。それで、たまたま当時、律法朗読に使われていたモーセ五書という区分を利用して、それ以外の歴史書の権威を排除する方向で彼らの神学を形成していったのではないでしょうか。これについては、やや複雑な話しですので、「五書の分離」を別に纏めておきました。そちらを参照していただければと思います。


6.   補足

五書・九書成立が帰還直後であったことはかなり確実なことです。しかし、これが見えなくなっていた原因のひとつは、四資料説、およびヴェルハウゼンらによるP資料理解にあります。彼らは五書の文体・内容の検討から、いくつかの資料を抽出します。それはそれで、ある程度の有効性もあるでしょうが、P資料を帰還後のユダヤ教祭儀が反映した文書と見る点において決定的誤ちを犯しています。これについても詳しい議論が必要ですので、詳細は「五書を巡る四資料説の批判的評価」に譲りますが、ザドク系祭司がレビ人尊重の文書を書き残すことはありえません。九書においてザドクはレビの子孫と位置づけられ、対立は表面上なくなっていますが、実質的対立はその後も続いているからです。また、北の民との対立を深めるエルサレム・ユダヤ教正統派がモーセ五書のような12部族連合を重んじて、ユダ族に中立な文書を作ることも不可能です。成立の時期が第一次帰還直後であることは、あらゆる状況証拠の示すところで、かなり確実であると考えることが出来ます。





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