九書・五書成立史 補論
先の「九書・五書成立史」の中で、四書と申命記以降の文書が一体であることの証拠となる単語を分析してありますが、詳しい分析内容は割愛されているので、ここでその全部を載せておきます。また、その他にもたくさんの単語を挙げることが出来ますので、その一部を追加しておきます。
これほど多くの単語、表現が四書を含む九書全体にあるのですから、九書は同一人が編集した文書であることは明らかとなります。
注 用語・表現の例は、私なりに判断して、証拠としての価値が高いと思われるものから並べています。なお、この論文はインターネットでも配布する可能性を考えていますので、ヘブル語を次のルールで表記する事にしました。馴染みがないので判りにくいかもしれませんが、この規則を覚えると元のヘブル語のスペルが判り、辞書を引くことが可能となります。あくまでスペルを置き換えただけなので、発音は関係ありません。重要単語については、カタカナで発音を示してありますので、参考にしてください。
[ヘブル語表記法]ヘブル語は子音を表記すれば辞書を引けますので、母音記号は省略させていただきます。ヌンやぺェなどは語尾にくると語形が変化しますが、辞書を引く上では関係ありませんので、ここでは無視することにします。ダゲシュも無視されています。
アレフはA、ベースはB、ギメルはG、ダレスはD、ヘェはH、ワウはW、ザインはZ、ヘスはHh、テスはTt、ヨッヅはY、カフはK、ラメツはL、メムはM、ヌンはN、サメクはSs、アインはO、ペェP、ツァーデはTs、コフはQ、レシュはR、シンのS音はS、シンのSh音はSh、タウはT となっています。
なお、ときどき現行日本語訳聖書とヘブル語聖書で章節分けが異なるところがあります。その場合は、ヘブル語聖書の節を(23)のように付記してあります。
引用箇所が、やや他の例と異なるときは、*マークが着いています。
■ 単語・表現の順序
まずは分析する単語・表現を挙げておきます。この順番に並んでいるので、関心のある単語の場所を探してください。
1)乳と蜜の流れる地 2)先祖に誓った地 3)エジプトから導き出した 4)アモリ人、ペリジ人、カナン人・・・ 5)アブラハム、イサク、ヤコブ の神 6)右にも左にも曲がらず 7)下僕(しもべ)モーセ 8) 強い手 9)罠(わな) 10)硬いうなじの民 11)主の前に喜ぶ 12)天の星 13)主の声に聞き従う 14)伸べた腕 15)寄留者 16)宝の民 17)定めとおきて 18)ヘブル人 19)妬む(ねたむ)神 20)神の指(ATsBO ALHYM)
■ 単語・表現の分析
1) 乳と密の流れる地(ARTs ZB ThHhLB WDBSh)
「乳と蜜の流れる地」という言葉は、イスラエルの人々がエジプトを出て、カナンの地を目指すときに、そこを理想化して表現したものです。この言い方は文学的であり、個性がありますので、誰か特定の人の用語であろうと思われますが、旧約聖書では、九書だけでなく、エレミヤ(11:5、32:22)やエゼキエル(20:6、15)も用いています。それゆえ、この用語を使っているから同一人物の筆になるものと結論付けることは出来ません。しかし、同じ歴史書の歴代志にはありませんし、イザヤにも、諸書にも見あたりません。それゆえ、この用語が同一人物を示す可能性がかなり高いことは確かです。
同一の著者のものかどうかは別として、まずこれが九書の中でどのように用いられているかを見てみましょう。この言葉は九書の中で16例用いられています。出エジプト記で4例、3:8、17、13:5、33:3。レビ記で1例、20:24。民数記で4例、13:27、14:8、16:13、14。申命記で6例、6:3、11:9、26:9、15、27:3、31:20。ヨシュア記で1例、5:6。合計16例となります。
出エジプト記3:8では、「私は下って、彼らをエジプト人の手から救いだし、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナン人・・・のおる所に至らせよう。」これは、資料部分ではなく、編集部分の文章です。この言葉が出エジプト記とレビ記、民数記にあるのは、これらが同一の著者の手になることの証拠となるはずです。ならば、この言葉が申命記にあるわけですから、申命記をも同一の著者の作品であることを認めなければなりません。申命記6:3には「あなたの先祖の神、主があなたに言われたように、乳と蜜の流れる国で、あなたの数は多いに増すであろう。」とあります。しかも、申命記には6箇所もあります。ヨシュア記5:6にもあります。
このような一致が、この単語ひとつだけであるなら、偶然の一致とか、一方の著者が他方の作品を知っていたなどと説明することも可能かもしれません。しかし、このような単語が、以下に紹介するように、たくさんあるということは、偶然の一致とか、真似たという次元の現象ではありません。四書も申命記も、そして九書全体が同一の著者の手により纏められたということ以外のなにものでもありません。
2) 主が先祖に誓った地(ShBhO)
「主が先祖に与えると誓った地」という表現は、申命記にも四書にも登場します。この表現は、エレミヤ書(11:5、32:22)とエゼキエル書(20:42)に用例があるだけで、あとはすべて九書の中で用いられています。ということは、九書の一体性を強く示唆するものと言えます。
創世記50:24、出エジプト記13:5、11、32:13、33:1、民数記11:12、14:16、23、32:11、申命記1:8、35、6:10、18、23、7:13、8:1、10:11、11:9、21、19:8、26:15、28:11、30:20、31:7、20、21、23、34:4、ヨシュア記1:6、5:6、21:43、士師記2:1の計31例あります。
これらの中で創世記50:24、出エジプト記32:13、33:1と民数記32:11、申命記1:8、6:10、30:20、34:5などは、「主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓った地」というところまで一致しています。これほどの一致があるとは、偶然の一致、真似による一致、加筆による一致どころではなく、作者そのものの一致以外に考えられません。
この言葉を用いた作者は当然、創世記物語を知っていたことを伺わせます。そういう目で創世記を読みますと、そこですでに、神がアブラハムやイサクに対して「この地を与えると誓った」という表現がなされていることに気付きます。創世記もまた、同じ著者の作品なのです。創世記13:15、22:15f、24:7、26:3。
「乳と蜜の流れる地」と同じ文脈で用いられているのは、出エジプト記13:5、申命記11:9、26:15、31:20、ヨシュア記5:6、エレミヤ11:5、32:22です。他の九書的用語とも深いつながりがあることがわかります。
「主が先祖に誓った契約」とか「誓った国」、「誓った言葉」などの用例もあります。また、「誓った地」という表現ではありませんが、文脈上それと同じ意味の所も含めますと、さらに多くの用例をあげることが出来ます。これらはおもに申命記で見つかります。申命記4:31、7:8、12、8:18、9:5、19:8、26:3、エゼキエル20:6、15。
また、「誓い」という要素はありませんが、「主が賜った地」(NThN、与える)という表現はさらに数多くなされています。レビ記14:33、20:24、25:1、25:38、民数記13:1、27:12、32:7、9、申命記1:20、25、2:12、3:20、4:1、21、40、8:10、9:6、11:17、31、12:10、15:7、17:14、18:9、19:1、2、14、21:1、25:14、19、26:1、10、27:2、3、28:52、ヨシュア記1:11、13、15、13:16、18:3、23:13、士師記6:9、列王紀上8:40、48などです。エレミヤ35:15などの預言書や諸書にもありますが、九書内におけるこれほどの一致は偶然ではありません。
3) エジプトから導きだした(YTsA MMTsRYM)
「主がイスラエルをエジプトから導きだした」という表現も九書全体で多用されています。これは九書の神学のひとつで、著者の表現の癖と言いたくなるほど用例はたくさんあります。
出エジプト記はその内容からして「主がエジプトから導きだした」ということですから、表現が多いのは当然でしょう。ただ、その前に創世記にもあることは注目されます。また、十戒の中にもあります。
創世記48:21、50:24、出エジプト記3:8、10、12、6:6、7、13、26、7:4、5、12:17、42、51、13:3、9、14、16、14:11、16:3、6、32、18:1、20:2、29:46、32:11、レビ記11:45、19:36、22:33、23:43、25:38、42、55、26:13、45、民数記14:13、15:41、20:16、21:5、23:22、24:8、申命記1:27、4:20、38、5:6、6:12、21、23、7:8、19、8:12、14、9:12、26、28、29、13:5、10、16:1、20:1、26:8、29:24、ヨシュア記24:5、6、17、士師記2:11、6:8、13、列王紀上8:21、51、53、9:9、12:28、列王紀下17:36。
四書にも、申命記以下の歴史書にも登場することは注目されます。これだけ広く使われているのは、資料にあったという次元ではありません。九書の編集者の言葉なのです。
参考までに九書以外の箇所も挙げておましょう。エレミヤ7:22、11:7、34:13、アモス3:1、9:7、ミカ6:4、詩篇81:10、106:9、歴代志下6:5などです。これらの九書以外の用例は、九書の編集者以外の人物もこの表現を用いていたことを示しています。しかし、それは九書の一体性への反証となるものではありません。
「モーセがエジプトから導きだした」という表現も同等に扱ってよいでしょう。出エジプト記32:23、34、33:1にあります。これらの用例をひとつひとつ調べてみますと、同じ人物の手が加えられていることは確実であると思えてきます。
4) アモリ人、ペリジ人、カナン人・・・
イスラエルが占領すべき異邦の民の名前がよく似た形でいくつも現れます。「ヘテ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人」箇所によって名前の順序や、名前そのものが一部異なることがありますが、同じリストであることは一目瞭然です。このリストを書いたのは同一人物であることは間違いありません。これが四書にも、それに続く九書にも見られることを示してみましょう。
創世記15:19、出エジプト記3:8、17、13:5、23:23、28、33:2、34:11、民数記13:29、申命記7:1、20:17、ヨシュア記3:10、9:1、11:3、12:8、24:11、士師記3:5。列王紀上9:20。九書以外にもあります。エズラ9:1、ネヘミヤ9:8。
かなり長い名前の一致ですので、証拠能力は高いといえます。
5) アブラハム、イサク、ヤコブ(の神)(ABhRHM YTsHhQ YOQBh)
「アブラハム、イサク、ヤコブ」という3人の族長たちの名前を連記する形は九書全体の特徴です。九書以外にも名前への言及はありますが、連記される形のものはごく僅かであることを見ると、この表現がいかに九書的であるかが判ります。そしてこれが四書にも、申命記にもあるということは、これらすべての書物が九書編集者の手になるものであることを示しています。
まず、九書以外の例を調べてみましょう。系図は除きます。エレミヤ33:26に「アブラハム、イサク、ヤコブの子孫」とあります。(注 ここのイサクの綴りは "YSHhQ" となっています。)また、歴代志上29:18、歴代志下30:6に「アブラハム、イサク、イスラエルの神」とあります。いまのところ、九書外で見つかっているのはこれだけで、あとは3人の名前への言及があるのが、歴代志上16:16で「アブラハムと結ばれ、イサクに誓われた約束である。主はこれを堅く立てて、ヤコブのための定めとし・・・」とあります。イザヤ41:8では「私の選んだヤコブ、我が友アブラハムの子孫よ」、歴代志上16:12では「アブラハムのすえよ、その選ばれたヤコブの子らよ」とあります。この様なアブラハム、イサク、ヤコブへの個別の言及はいくつかありますが、「アブラハム、イサク、ヤコブ」という連名形は九書以外にほとんどないことがわかります。
九書の中には、3人の族長名が並べられている例をいくつも見つけることができます。創世記50:24には「アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地に導き上られるでしょう。」とあります。その他の箇所は以下のとおりです。出エジプト記2:24、3:6、15、16、4:5、6:2、31:13、32:13、33:1、民数記32:11、申命記1:8、9:5、27、30:20、34:4、列王紀上18:36。レビ記26:42は変形です。ヨシュア記24:2は敷衍した形で3人へ言及しています。
この様な連名形を使う人物が創世記を知らないはずはありません。当然、族長物語を知っているから「アブラハム、イサク、ヤコブ」と書くのです。しかし、「出エジプト記の著者が創世記を知っていた」と表現すると誤解を招く危険性があります。「知っていた」ということではなく、創世記の著者が出エジプト記を書き、その続きの九書も書いているからです。もう少し厳密に表現するならば、「著者」というよりも「編集者」とする方が誤解が少ないかもしれません。創世記はいくつかの資料により成り立っているというのが現在の通説ですが、その資料の作者ではなく、編集者が連名形を使っているのです。それゆえ、九書全体でこの同じ表現が見つかるのです。
創世記に連名形が少ないのは、族長たちが過去の人物になっていないので当然のことですが、創世記にすでに連名形の萌芽があることは注目されます。ヤコブ物語の中で、28:13「アブラハムの神、イサクの神」という形が現れます。31:42、32:9、35:12、27にもあります。また、やや内容は異なりますが、創世記31:53「アブラハムの神、ナホルの神」とあるのは同一人物の筆跡でしょう。46:1では「イサクの神」とあります。そして50:24で「アブラハム、イサク、ヤコブ」という連名形があらわれることはすでに述べました。それ故、創世記も同一人物の著作であると判断して間違いありません。このような現象を四資料説はどう説明するのでしょうか。
6) 右にも左にも曲がらず(YMYN SMAL)
「右にも左にも曲がらず」という表現も特徴的です。これが申命記やヨシュア記にあるのはわかりますが、なぜ民数記にあるのでしょうか。
申命記では、5:32(29)で「それゆえ、あなたがたの神、主が命じららたとおりに、慎んで行わなければならない。そして右にも左にも曲がってはならない。」とあります。非常に印象的表現ですが、同じ言葉が、2:27、5:32(29)、17:11、20、28:14と、よく使われています。ヨシュア記1:7、23:6、に出てきます。ところが、民数記20:17の「右にも左にも曲がりません」だけは別人物の筆となるのでしょうか。そうは言えないはずです。民数記22:26では「右にも左にも曲がる道がなかった」と書かれています。これらはすべて同じ人が書いたものなのです。サムエル上6:12,サムエル下2:19,21,14:19、列王紀下22:2,歴代志下34:2にもあります。これは九書全体の統一性を示すものです。
「右、左」という点だけの一致では、出エジプト記14:22,29にもあります。「水は彼らの右に左に垣となった。」となっています。これも同じ表現と見なしてよいでしょう。列王紀上22:19、列王紀下2:8、14、にもあります。これらも参考になります。九書外では、イザヤ書54:3、ヨナ4:11、箴言4:27、にあります。
「左手、右手」という表現がエゼキエル39:3にあります。ゼカリヤ12:6、箴言3:16,4:17,歴代志12:2,創世記48:14
7) 下僕(しもべ)モーセ(MShH OBD)、預言者アブラハム(ABRHM NBYA)
「下僕(しもべ)モーセ」という表現は、ヨシュア記では、1:1など、計18回用いられています。(1:1、2、7、13、15、8:31、33、9:24、11:12、15、12:6、6、13:8、14:7、18:7、22:2、4、5)この表現は、申命記34:5のモーセの死の場面に登場します。「こうしてヤハウェの下僕モーセは主の言葉のとおりにモアブの地で死んだ。」とあります。ヨシュア記1:1はそれに続くところですが、「ヤハウェの下僕モーセが死んだ後」となっています。この連続性は同じ著者によるものとしか言いようがありません。列王紀上8:53、56、下18:12、21:8にも登場することは、列王紀も同一の著者によるものであることの証拠と考えられます。ところが、同じ表現が出エジプト記14:31、民数記12:7、8に現れるのはなぜでしょうか。出エジプト記4:10はモーセが自らを「下僕」と呼んでいますが、これは単に謙遜表現と考えることも可能です。アブラハム(創世記18:3)、ヤコブ(創世記32:10)、ユダ(創世記44:16)も、さらにはダビデ(サムエル記上17:34)など多くの人々が自らのことを「下僕」と呼んでいる例があるからです。しかし、他者がある人のことを「下僕」と呼ぶのは謙遜ではなく、タイトルであると考えなければなりません。出エジプト記14:31、民数記12:7、8は明らかにタイトルとしての「下僕」が語られています。「ヤハウェとその下僕モーセとを信じた。」「なぜ、あなたがたは私の下僕モーセを恐れず、非難するのか。」この表現が、申命記、ヨシュア記、列王紀に現れるとき、それを著者の一致の根拠にしたのですから、民数記も同一の著者によるものと判断しなければ自己矛盾に陥ります。
ここで注意すべきは、九書以外にも、マラキ4:4、詩篇105:26やネヘミヤ1:7、8、9:14、10:29、歴代志上6:34(6:49)、下1:3、24:9にも用例が見つかることです。これらの九書外の用例があるからと言って、民数記と申命記が同じ著者により書かれたことを否定するものではありません。なぜなら、もしこの論理が認められるなら、申命記とヨシュア記の著者の同一性も否定されることになるからです。しかしまた、完全な証拠であるわけではないことも確認されるべきでしょう。
(なお、下僕とは奴隷とも訳せる言葉で、エジプトの奴隷の家からの解放者として奴隷モーセがいたという語呂あわせの面もあると思われます。)
また、下僕であるのはモーセだけでなく、ヨシュアも、またそれに続く預言者たちもであることは、申命記から列王紀までの統一性を示すものと考えることができます。ヨシュア24:29で、ヨシュアは「ヤハウェの下僕ヨシュア」といわれ、モーセと同じタイトルを付けられています。また列王紀上8:66ではダビデが「下僕ダビデ」とされています。(詩篇78:70にも「下僕ダビデ」とあります。)列王紀下17:23では、預言者の名は書かれていませんが、「ヤハウェはその下僕である預言者たちによって言われたように」と書かれています。(同様の内容はエレミヤ書25:4、35:15、アモス3:7、ゼカリヤ1:6、ダニエル9:10にもあります。)つまり、モーセからヨシュアへ、ダビデへ、そして預言者へとのつながりを編集者がみとめていたことになります。ところが、同じ発想が四書の中にも見いだされます。創世記26:24でアブラハムは神により「私の下僕アブラハム」と呼ばれています。これもタイトルです。つまり、アブラハムからモーセ、ヨシュア、ダビデ、預言者へとつながっていると理解することが出来ます。ということは、これらの流れを作ったのは同一人物であると考えざるを得ません。四書だけ切り離すことはできないのです。エレミヤ書43:10では「私の下僕であるバビロンの王ネブカドネザル」という表現があることも注目されます。ハガイ2:23では、ゼルバベルが「我が下僕」と呼ばれています。ダニエル3:26ではシャデラクら、3人の若者が「いと高き神の下僕」と呼ばれています。
また、創世記20:7でアブラハムが「預言者」と呼ばれ、申命記18:15、34:10でモーセが「預言者」と呼ばれていることも偶然ではありません。預言者はすべて「神の下僕」なのです。サムエルは「ヤハウェの預言者として定められた」とサムエル記上4:20にあります。
九書以外にも下僕を特別な存在として考えている文書があります。イザヤ書53章などにある苦難の下僕の歌は、個人名は書かれていませんが、神により選ばれた特別な存在として尊敬の対象になっています。これについては別の所で紹介します。(注 詩篇119:23にもあります)
8) 強い手 (YD HZQH)
この表現は申命記と出エジプト記に共通してよく現れます。出エジプト記においては、「主なる神の強い手により出エジプトが実現した」ことが繰り返し述べられています。(出エジプト記3:19、6:1、1、13:9、14、16、32:11、計7回)同じ表現が民数記20:20にあるだけでなく、申命記にも数多く見られます。(申命記3:23、4:34、5:15、6:21、7:8、19、9:26、11:2、26:8、34:12、計10回)これは士師記から列王紀までつづきます。(士師記9:24、サムエル上23:16、下2:7、列王記上8:42、計4回)これらの表現は九書以外にもありますが、それほど目立つとは言えません。(イザヤ8:11、35:3、エレミヤ23:14、32:21、エゼキエル20、33、34、ネヘミヤ6:9、歴代志下6:32など、計8回)このような現象は申命記と出エジプト記の著者が一致していないと生じないことです。
9) 罠(わな)(MWQSh)
「罠」(わな)という単語は、申命記の中で、イスラエルがカナンの地に入るときに堕落する危険性を警告するために、象徴的に用いられているものです。このような文学的表現は申命記以外はないだろうと思ったのですが、調べてみると出エジプト記にもありました。申命記7:16では「彼らの神々に仕えてはならない。それがあなたの罠となるからである。」出エジプト記23:33では「もし、あなたが彼らの神に仕えるならば、それは必ずあなたの罠となるであろう。」と書かれています。まったく同じ文脈の中で、象徴的意味で用いられています。これは同一の著者を想定せざるを得ません。
「罠」という単語は、 "MWQSh" という名詞と、"YQSh"、"NQSh" という動詞の3種がありますが、この象徴的意味では、申命記に7:16、25、12:30の3回用いられています。出エジプト記では23:33、34:12の2回です。他の文書を調べてみますと、ヨシュア23:13、士師記2:3のみであって、これが九書的表現であることがわかります。
罠という単語は、その他に、出エジプト10:7、士師記8:27、サムエル上18:21、28:9、サムエル下22:6、預言書での5箇所、諸書での23箇所で使われていますが、「イスラエルがカナンの地に入る」という文脈ではありません。歴代志には罠という言葉は使われていません。
10) 硬いうなじの民(OM QShH ORPh)
「硬いうなじの民」という表現があります。これは、「頑なな民」と訳出される場合もありますが、他の単語も「頑な」と訳されていますので、それらと区別するために、あえて直訳しておきました。「うなじの硬い民」と表現した方がよいかもしれません。この表現は、出エジプト記の32:9、33:3、5、34:9と4回用いられていますが、その他の四書にはありません。ところが申命記9:6、13に同じ表現があります。申命記9:27もよく似ています。聖書の中では、これ以外の用例はなさそうです。この出エジプト記と申命記の見事な一致は、とても偶然とは言えません。
「うなじを硬くする」という表現は申命記10:16、31:27、列王紀下17:14、エレミヤ7:26、17:23、19:15、箴言29:1、ネヘミヤ9:16、17、29、歴代志下30:8、36:13、にもあります。
ついでに、「頑な」という単語の使われ方も調べてみましょう。「頑な」を意味する単語は、「うなじを硬くする」以外にも、「硬い」(QShH)、「強情な」(AMTs)、「心を強くする」(HhZQATh LBh)などがあります。
「硬い」(QShH)は「うなじを硬くする」で使われている単語です。これは、文脈によっては、「荒々しい」、「きびしい」、「つらい」などの意味もありますが、「頑な」という意味で用いられる場合も多々あります。この意味での用例の箇所は、出エジプト記7:3、9:27、13:15、申命記2:30、士師記2:19、サムエル記上25:3、イザヤ48:4、エゼキエル2:4、3:7、詩篇98:8、ヨブ記9:4、箴言28:14、です。これらのうち、出エジプト記7:3、詩篇95:8、箴言28:14では「心を硬くする」と表現されています。
「強情」は、普通は「強い」という意味ですが、文脈によっては「頑な」という意味になります。申命記2:30、15:7、では「心を強情にし」と書かかれています。「頑な」の意味での用例は多くはありません。
「心を強くする」も「心」という単語と併用されて「頑な」という意味になります。この表現は出エジプト記で最もよく用いられていて、「パロの心が頑なである」と訳されている例のほとんどはこの単語です。出エジプト記4:21、7:13、22、8:15、9:12、35、10:20、27、11:10、14:3、8、17、ヨシュア11:20、にあります。
11) 主の前に喜ぶ(SMHh LPN YYHWH)
「喜ぶ」(SMHh)という単語は、聖書の中で153回ほど用いれれているごく普通の単語ですが、申命記における「主の前に喜ぶ」という表現は大変印象的です。
これは申命記で4回(12:12、18、16:11、27:7)ほど用いられていますが、その他にレビ記23:40にあるくらいです。このレビ記を書いた人は、ここで偶然申命記的表現を使ったというよりは、このレビ記23:40が申命記作者の加筆部分であると判断するほうが自然です。
12) 天の星(KWKM HSMYM)
天の星という言い方は、誰でも使う言葉ではないでしょう。聖書の中では、創世記22:17、26:4、出エジプト記32:13、申命記1:10、10:22、28:62、イザヤ13:10、ナホム3:16、ネヘミヤ9:23、歴代志上27:23、で用いられています。九書のみの用語ではありませんが、大変印象的です。
創世記15:5「天を仰いで、星の数を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるでしょう。」との言葉との関連もあるでしょう。これらは同一の著者のものなのです。
13) 主の声に聞き従う(TSMO LQWL YHWH)
「主の声に聞き従う」との表現は、申命記に目立ちます。これがヨシュア記、サムエル記にある場合には、同一の著者の証拠とされるでしょうが、出エジプト記に見つかるとき、どの様に判断するのでしょうか。九書以外にもあります。
出所は、出エジプト記15:26、申命記8:20、13:19、15:5、26:14、27:10、28:1、2、15、45、62、30:8、10、ヨシュア記5:6、サムエル記上12:15、15:1、19、20、22、28:18、エレミヤ3:35、7:28、26:13、38:20、42、6、13:21、43:4、7、44:23、ハガイ1:12、ゼカリヤ6:15、詩篇106:25、ダニエル9:10。
「主の声によく聞き従う」になりますと、用例が絞られてきます。出エジプト記15:26と申命記15:5、28:1、ゼカリヤ6:15しかありません。このような特殊とも言える例でされ、出エジプト記と申命記が一致するのは、偶然ではないのです。
14) 伸べた腕(ZRWO NTtWYH)
「強い手」と並んで「伸べた腕」という表現も申命記によくでてきます。これが出エジプト記6:6にもあるということは、偶然とは言えないでしょう。申命記4:34「強い手と伸べた腕により、ひとつの国民を他の国民の中から取り出して、自分のものとされた神が、かつていたでしょうか。」出エジプト記6:6「私はあなたがたをエジプト人の労苦の下から導き出し、奴隷の務めから救い、また伸べた腕と大いなる裁きをもって、あなたがたを贖う(GAL)であろう。」を比較してください。
出所をすべて挙げておきましょう。出エジプト記6:6、申命記4:34、5:15、7:19、9:29、11:2、26:8、列王紀上8:42、列王紀下17:36、エレミヤ27:5、32:17、21、エゼキエル20:33、34、詩篇136:12、歴代志下6:32。ここでも九書外の用例が含まれていますが、その数が増えれば増えるほど、証拠としての有効性は薄くなります。しかし、反証となるという性質のものではありません。以下の分析において、有効性を客観的に評価するために、すべて九書外の用例をすべてあげていますので、その都度比較してみてください。
「手(つえ)を伸べる」(NTtH YD)という表現が出エジプト記にあります。同じ表現は申命記にはありませんが、「伸べた腕」と非常に近い表現とは言えます。ヨシュア記にもありますので、証拠としての有効性はあります。
出所は、以下のとおりです。出エジプト記7:5、19、8:1(5)、2(6)、13(17)、9:22、23、10:12、13、21、22、14:16、21、26、27、15:12、ヨシュア記8:18、19、26、イザヤ5:25、9:11、16、20、10:4、14:26、27、23:11、31:3、エレミヤ6:12、15:6、21:5、51:25、エゼキエル6:14、14:9、13、16:27、25:7、13、16、30:25、35:3、ゼパニヤ1:4、2:13、44:19、ヨブ15:25、箴言1:24。
15) 寄留者(GR)
(寄留の他国民、外国人と訳出されています)
「寄留者」という言葉は聖書全体で使われていますが、比較的九書の用例が多いといえます。用例回数は次のとおりです。創世記2回、出エジプト記11回、レビ記20回、民数記11回、申命記20回、士師記・サムエル記・列王紀合わせて4回、九書としては合計68回となります。それに対して、預言書全体で11回、歴代志を除く諸書の合計は5回、歴代志4回となっています。
寄留者とはイスラエルに住む外国人のことですが、いくつかの用例ではイスラエルがエジプトで寄留者であったことを踏まえ、イスラエルのことを意味しています。後者の意味で使われているのは、創世記15:13、23:4、出エジプト記2:22、18:4、レビ記19:34、25:23、申命記10:19、23:8(7)、詩篇49:13、119:19、歴代志上29:15のみです。
これらの、寄留者がイスラエルを意味する箇所でいくつか表現の良く似たものを見つけることが出来ます。レビ記19:34「あなたがたもかつて、エジプトの地で寄留者であったからです。」とありますが、同じ表現が、出エジプト記22:21、23:9、申命記10:19に見つかります。申命記23:8(7)も「あなたはかつてその国の寄留者であったからです。」とあり、エジプトという地名が欠けるだけです。出エジプト記2:22、18:3は「私は外国の地で寄留者であると言ったからです。」と書いています。これらも意味は同じと考えることが出来ます。九書以外にこのような用例は見つかりません。この様な表現の一致は、同一人物の筆になるものと考えるのは自然な結論です。そして、これが四書と申命記の両方に見つかるということは、四書と申命記とが一体であることを示しています。
「寄留者を愛しなさい」との教えも、四書と申命記で一致しています。これも偶然ではありません。レビ記19:34で「あなたがたと共にいる寄留者をあなたがたと同じ国に生まれたもののようにし、あなたがた自身のように愛さねばならない。」と教えています。申命記10:18、19は、もっと率直に「あなたがたは寄留者を愛しなさい。」と書いています。「愛せよ」との命令形はここだけですが、「寄留者をしえたげてはならない」とか、「寄留者に食物を与えて共に喜びなさい。」という寄留者尊重の教えは数多く挙げることが出来ます。出エジプト記22:20(21)、23:9、12、レビ記19:10、34、23:22、申命記10:18、19、14:29、16:11、14、24:14、17、19、26:11、12、13、27:19にあります。この考え方はエレミヤ7:6,22:3、ザカリヤ7:10、詩篇146:9などにもあります。命令形でなければさらに多くの用例を数えることが出来ます。つまり、寄留者尊重の教えは九書的というよりも、旧約聖書全体の考え方ということが出来ます。しかし、四書と申命記が一致していることが単なる偶然でないことに変わりありません。
16) 宝の民(OM SsGLH)
「宝の民」(his peculiar people )という表現も同じです。これは申命記14:2に現れる印象深い表現ですが、申命記7:6、26:18にも登場するきわめて申命記的表現です。ところがこの同じ言葉が出エジプト記19:5にもあることは偶然なのでしょうか。「あなたがたはすべての民にまさって、私の宝(SsGLH)となるであろう」このような表現は、マラキ3:17と詩篇135:4以外にはありません。
出エジプト記19:5と申命記14:2の一致点が「宝」だけでなく、「すべての民」という点においても一致しています。また、同じ文脈の中にある「聖なる民」も、ヘブル語の違いはありますが、似ている表現です。出エジプト記19:6が「ゴイカドーシュ」であるのに対して、申命記14:2は「アムカドーシュ」となっています。このような一致は、他方が真似をしたという次元ではありません。同じ著者の筆の跡なのです。
申命記には、4:20などでイスラエルを「自分の所有(嗣業)の民」(OM NHhLH)とする表現もあります。また、26:15「あなたの民イスラエル」という言い方もあります。27:9では、イスラエルを「その聖なる民とされる」と書かれています。「宝の民」よりも弱い言い方ですが、意味は同じです。
17) 定めと掟(HhQ MShPTt)
申命記では「定めと掟」という定形的言い方が繰り返されています。申命記4:1、5、8、14、45、5:1、31、6:1、20、7:11、8:11、12:1、26:16、17。このような個性的表現が他の文書にあることは、それらが同じ著者によるものであることを示唆しています。
申命記的歴史書は申命記と同一の著者の作品と認める学者が大多数ですが、それは妥当な結論といえます。ヨシュア記以下の歴史書にも「定めと掟」を5例見つけることができます。ヨシュア記24:25、サムエル上30:25、列王紀上8:58、9:4、列王紀下17:37。ところが、従来は別の著者と見られてきた四書に7例見つかります。出エジプト記15:25、レビ記18:4、26、20:22、25:18、26:3、43。これらは偶然の一致なのでしょうか。このひとつの例だけならば、偶然の一致とか、多くの人が使う慣用句として強弁できますが、他の一致点もありますので、やはりこれも申命記の著者と同じ人物により書かれたと見ざるをえません。
ちなみに、九書以外の用例も見ておきましょう。エゼキエル11:12、20:16、18、25、36:27、マラキ4:4、詩篇81:5、105:45、119:5、12、33、54、135、147:19、エズラ7:10、ネヘミヤ1:7、9:13、歴代志上22:13、歴代志下7:17、19:10、33:8。
18) ヘブル人(OBRYM)
この表現は旧約聖書全体で公認されている単語のようにも思えますが、九書以外ではあまり使われていません。今のところ、エレミヤ34:9、14、ヨナ1:9に見つかるくらいです。しかしだからといって、ヘブル人が表現方法として古いものと言うわけではありません。新約聖書に「ヘブル人への手紙」がありますが、ヨセフスもその著書の中で「ヘブル人」という単語を多用しています。しかし、預言書、諸書に少ないと言うことは、この言葉が特殊なものであることを示しています。この特殊な言葉が九書にあるということは、これを用いて書いた人物が同一人物であることを示しています。
「ヘブル人」は創世記と出エジプト記によく登場します。創世記14:13、39:14、17、40:15、41:12、43:32、出エジプト記1:15、16、19、2:6、7、11、13、3:18、5:3、7:16、9:1、13、10:3、21:2、申命記15:12、12、サムエル記上4:6、9、13:3、7、19、14:11、21、29:3、にあります。
19) 妬む(ねたむ)神(AL QNAH、QNA、QNWA)
「妬む」という用語は神のイメージにふさわしくありませんが、十戒のなかで使われているので、大変印象的です。「妬む神」という言い方は、出エジプト記では、十戒の20:5の他に、34:14に登場します。申命記では十戒の5:9の他に、4:24、6:15で使われています。ヨシュア記24:19にもあります。この様な一致は、著者が同じでない場合はきわめて珍しいことです。
「妬む」は、ヘブル語で「熱心」という意味もあり、文脈により訳し分けられていますが、「神が妬む(熱心)」という内容である例は、民数記25:11、申命記29:19、32:16、21、列王紀上14:22、下10:16、19:31、イザヤ9:6、26:11、37:32、42:13、59:17、63:15、エゼキエル5:13、16:42、23:25、35:11、36:5、38:19、39:25、ヨエル2:18、ナホム1:2,ゼパニヤ1:18、3:8、ゼカリヤ1:14、8:2、詩篇69:10、78:58、79:5、119:139にあります。九書外の用例もかなりありますが、注目すべき表現ではあります。
20) 神の指(ATsBO ALHYM)
神に指があるというのは面白い表現ですが、聖書全体でも用例はわずかです。それが出エジプト記と申命記しかないのは偶然なのでしょうか。そうではないはずです。
これもまた、出エジプト記と申命記の著者の一致を示しています。
出エジプト記8:19(15)、31:18,申命記9:10
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