サマリヤ人問題
彼らの本質と成立の時期はいつか
目次
1. 序
2. サマリヤ教団の特色
(1) サマリヤ五書
(2) サマリヤ五書の文字
(3) シケムにあるゲリジム神殿
(4) ザドク系祭司
(5) 反預言者的傾向
3. サマリヤ歴代志による彼らの起源と歴史
4. サマリヤ教団の南ユダ的体質
5. サマリヤ教団の起源に関する諸説
(1) サマリヤ陥落の時
(2) ネヘミヤの時
(3) ゲリジム神殿建築の頃
(4) 「ベン・シラ」の知恵の頃
(5) 結論
6. 誤解と偏見はどのように生まれたか
1. 序
サマリヤ人というと、普通のキリスト教徒はまず、「良きサマリヤ人の譬え」を思い浮かべるのではないでしょうか。現代の社会福祉活動では、サマリヤ人とは隣人愛を実践する人のことを意味します。しかし、聖書や古代文献を読んでいますと、そうではない意味でのサマリヤ人への言及がいくつも見つかります。そして、それらの記述を纏めますと、サマリヤ人とは、イエスの時代にユダヤ教正統派と対立していたサマリヤの住民のことであるいうことが判ってきます。旧約聖書を読むと、列王紀下17章に「サマリヤ人とは、アッシリア捕囚の後、異邦人が移住してきて北イスラエルの民と混血してサマリヤ人になった。」という説明を見つけます。さらに調べると、彼らはシケムの傍のゲリジム山に神殿を持っていて、彼ら独自の祭儀を行い、エルサレムと対立していたことが判ります。
そのような知識があると、ヨハネ福音書に登場するサマリヤの女の物語は大変良く理解できるようになります。ヨハネ福音書4章では、イエスがサマリヤの女に「水を飲ませてください」と言ったところ、女が答えます。「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女の私に、飲ませてくれとおっしゃるのですか。」この会話の解説として「これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである」とヨハネは書いています。
このサマリヤ人が今日まで存続しているというのは驚きです。彼らは数百名という小数グループながら、今でもシケム(注 現在の地名はナブルス)において彼ら独自の宗教集団を守り続け、モーセ律法どおりに過ぎ越しの祭りや仮庵の祭りを守り、動物犠牲を捧げているのです。
キリスト教会は長らく歴史上の宗教集団としてのサマリヤ人のことは忘れていました。しかし、16世紀にジョセフ・スカリジャーという人がパレスチナを旅する際、サマリヤ教団を発見し、ヨーロッパに報告しました。これがきっかけとなり、1616年、ペトロ・デラ・ヴァレはサマリヤ人の共同体を訪れ、彼らの五書(いわゆるサマリヤ五書)を手に入れました。この発見はヨーロッパの学者たちにサマリヤ人への関心を呼び起こしました。
サマリヤ人がどういう宗教団体であるかは、学者たちにより調べられましたが、彼ら自身の説明はあまり有意義ではありませんでした。いわく「モーセ以来、一貫して五書を正しく教え、また守り、かつ実践する宗教である。」とのことでした。そこで、古代文献の中に残されたサマリヤ人への各種の記述を総合して、「サマリヤ人は、北イスラエルの混血の民が作った宗教である」という理解が定着することになります。
この理解は、少しサマリヤ人を研究すればおかしいと判ることです。なぜなら、サマリヤ人はモーセ律法に極めて忠実であり、シンクレティズムの要素は全くないからです。しかし、聖書の権威とヨセフスの著作の影響で、サマリヤ人への誤解はいまだに解かれずに残っています。
かく言う私もサマリヤ人について最初に学んだとき、北イスラエルの子孫たちの宗教であるとの説明を鵜呑みにし、何年もの間、何の疑いも持たなかったことを懺悔せざるを得ません。誤解を解くことができたのも、長年の研究の結果と言うより、偶然の賜物です。
スイスでキリスト教史を学んでいるとき、教育システムの違いから旧約の講座も取らなければならなくなり、私としてはいやいや旧約聖書と取り組むことになりました。その時、レポートを提出せよとのことでしたので、キリスト教史と関係するサマリヤ人を選び、その起源を論じたレポートを作りました。このレポートを作成する途中で、サマリヤ人がザドク系祭司を持っていると知り、北イスラエルの宗教なのにどうしてなのだろうかという疑問が生じ、遅ればせながらようやくヨセフスの物語を知ったという具合です。
サマリヤ人の祭司制がザドク系であるかどうかは、そう簡単に語ってはいけないことを今では知っていますが、当時はよく判らず、本に書いてありましたので、それを鵜呑みにしていました。また、図書館で見つけた他の研究書からの学びを含めてレポートを纏め、ネヘミヤの時代にザドク系祭司のマナセがサマリヤ総督のサンバラテを頼って、シケムに移住し、そこで作ったのがサマリヤ教団であると論じました。今から考えると、論理の組み立てが一部間違っていましたので、今回、まったく書き直すことにしました。しかし、結論は同じです。サマリヤ人は北の混血の民の子孫ではありません。そのことがうまく論証できていればと願うばかりです。
2. サマリヤ教団の特色
サマリヤ教団はユダヤ教の分派として、多くの特色をユダヤ教と共有しています。従来一部に、サマリヤ人は混交宗教(シンクレティズム)であるとの理解がありましたが、彼らの神学も、習慣にも、他宗教からの影響はありません。彼らは、まったくユダヤ教の枠内にあります。それ故、サマリヤ教団はパリサイ派、サドカイ派、エッセネ派同様に、ユダヤ教の一グループであると考えるべきです。彼らは一神教ですし、偶像礼拝を否定し、安息日などの律法を遵守し、動物犠牲の規定をモーセ律法どおりに守っています。また、エルサレムではないにしても、ゲリジム山で古式にのっとり礼拝を守っています。彼らはある意味で現代ユダヤ教よりも律法に忠実です。現代ユダヤ教がタルムードやミシュナを重んじることにより、旧約聖書から離れている面があるのに対して、サマリヤ教団はモーセ五書のユダヤ教そのものという印象を受けます。サマリヤ教団の本質を調べることは、古代ユダヤ教理解のためにも、またキリスト教理解のためにも、大変重要であると言わざるを得ません。
ここでは彼らとユダヤ教、キリスト教を比較するために役立つものとして5つのポイントを挙げてみましょう。1)サマリヤ五書 2)五書の文字 3)ゲリジム神殿 4)ザドク系の祭司 5)反預言者 これらの項目を分析すると、サマリヤ教団がユダヤ教の内部の分派・グループの中で、どの様な位置にあるかが明らかになってきます。
1) サマリヤ五書
サマリヤ五書はサマリヤ教団のもっとも有名な特色です。彼らは彼ら独自のモーセ五書を保存してきました。これは本文批評のために非常に重要な役割を果たします。サマリヤ五書はユダヤ教の保存してきたマソラ五書とも、キリスト教が保存してきた70人訳五書(ギリシャ語)とも内容的にほとんど同じですが、ただ無視できない相違点もあります。サマリヤ五書は、マソラテキストと6000箇所におよぶ小さな相違がありますが、そのうちの1900箇所については、70人訳と一致しています。この部分については、原本に近い読みを提供していると判断できる可能性があります。ただし、全体としては、重要な相違点は一つもありませんので、モーセ五書がいかに正確に写本されてきたかを証拠だてるものと、まず考えるべきでしょう。
目に付く興味深い相違点は、申命記27:4で「あなた方がヨルダン川を渡ったならば、・・・エバル山に立って、漆喰を塗り、祭壇を築きなさい。」と書かれているところを、「ゲリジム山に立って」と書き換えていること、そしてこの同じ表現が出エジプト記20章と申命記5章の十戒の後に挿入されていることです。それだけ、ゲリジム山の重要性が強調されていることが判ります。
2) 五書の文字
彼らの保存したモーセ五書が古代ヘブル文字で書かれていることは大変注目すべきことです。現在のヘブル語聖書は、マソラ・テキストと言われるもので、いわゆる角文字(現行のヘブル文字、スクウェアレター、アッシリア文字とも言われる。)で書かれています。文字の違いは大きな問題ではないと思う人がいるかも知れませんが、これは文書の成立の時期を探る上でも重要な指標となる大変注目すべき事実です。ちょうど、日本でカタカナ混じりの法律文書を見つけたならば、この文書はかなり古いと判断できるのと同じことです。
古代ヘブル文字とは、主に捕囚期以前にイスラエルで使われていたものです。ヒゼキヤ王の時に出来た水道の壁に彫られたシロアム碑文はこの文字で書かれています。ゲゼルの農事暦もこの文字で書かれています。基本的にはフェニキアのアルファベットと似ています。捕囚後の言語事情は詳しくはよく判らないのですが、しばらくはヘブル語も使われ、またこの文字も使われていたはずです。しかし、いつの頃からか、民衆の言葉はアラム語に代わり、文字は角文字で表記されるようになりました。ネヘミヤは、ユダヤの子供たちがヘブル語を話せないことを怒り、「彼らを責め、罵り、そのうちの数人を撃って、毛を抜いた。」と激しい表現が残されています。(ネヘミヤ13:24)ですから、この頃から、次第にヘブル語が使われなくなったのでしょう。文字については残念ながら、この時代で年代確定できる文書がありませんので、角文字使用の始まりがよく判っていません。前2世紀頃のものと言われるゲゼルの境界石で、角文字が使われていますので、この頃角文字が使われるようになっていたことが確認されています。
サマリヤ五書が古代ヘブル文字での聖書を保存し、ユダヤ教が角文字の聖書を保存しているということは、サマリヤ五書の方が古い形を保っているという印象を受けます。しかし、これについては、ダルムードの中に興味深い議論を見つけることが出来ます。Sanh22a「律法は元々イスラエルにアッシリア文字(注 角文字)で与えられたが、彼らが罪を犯したとき、粗野な文字(サマリヤ文字)に変えられた。しかし、悔い改めた時、またアッシリア文字に戻された。」この主張は、角文字が本来のもので、サマリヤ文字(古代ヘブル文字)が後からのものであるということですが、興味深いことに五書がかつて古代ヘブル文字で書かれていたことまでは否定していません。21bではそれと反対の伝承が残されています。「本来、律法はヘブル文字(古代ヘブル文字)と聖なる言語(ヘブル語)にてイスラエルに与えられたが、後に、エズラの時代に、律法はアッシリア文字(角文字)とアラム語で与えられた。最後には、彼らはイスラエルのために、アッシリア文字とヘブル語を選んだ。」これらの伝承を検討すれば、古代ヘブル文字で書かれた五書が本来のものであるとの結論が、それほど無理なく導けるのではないでしょうか。
五書は最初、古代ヘブル文字で書かれたのです。サマリヤ教団はその文字の五書をそのまま保存したのに対し、正統ユダヤ教では、エズラより角文字に変えられたテキストを保存していることになります。
いくつかの解説書で、サマリヤ五書の文字をサマリヤ文字と呼んでいますが、新聖書大辞典「アルファベット」の項目にある表で比較しても、シロアム碑文や、ラキシ・オストラカと同じ文字であることは明らかです。誤解を招くサマリヤ文字という言い方は避けるべきではないでしょうか。
3)シケムのゲリジム神殿
サマリヤ教団はシケムの南側にあるゲリジム山でヤハウェを礼拝し、犠牲を捧げてきました。エルサレムがユダヤ人にとって信仰の中心であったように、ゲリジム山はサマリヤ教団の宗教生活の中心でした。このことは彼らの起源を調べる手がかりを与えてくれます。
マソラ・テキストはゲリジム山に2回しか言及しません。(申命記11:29、27:12)それに対してサマリヤテキストでは、「ゲリジム山」という言葉が、マソラテキストに無い部分にいくつか挿入されています。また申命記11:29では「ゲリジム山に祝福を置き、エバル山にのろいを置く」との表現がありますが、これが出エジプト記20:17と申命記5:18に挿入されています。これらの言葉は70人訳聖書にはありませんので、ゲリジム山の権威を高めるために、サマリヤ教団の写本家がこれらの言葉を挿入したのであろうと考えられています。
このゲリジム山神殿は、ヨセフス古代史(XT323)によると、アレクサンダー大王の時代に建築されたとのことです。このことは、考古学的調査からも支持されています。その後、ヨハネ・ヒルカノス1世により破壊され、今日まできています。しかし、サマリヤ人は神殿という建物が無くなっても宗教として消滅することなく、今日でもその場所のみが「ヤハウェに選ばれた聖なる場所」と理解し、礼拝を守り続けています。
4)ザドク系祭司
サマリヤ教団は今日に至るまで存続し、昔ながらの動物犠牲礼拝を守っています。大祭司制も維持しているようです。この大祭司の家系がエルサレムの大祭司の家系の傍流であるとの説明がヨセフスによりなされていますが、もし、それが正しい情報だとするとサマリヤ人の祭司もザドク系ということになります。
もっとも、この点については、サマリヤ教団自身が認めていると言えるかどうか、微妙なところです。ネヘミヤ13:28で「大祭司エリアジブの子、ヨイアダのひとりの子は、ホロニびとサンバラテの婿であったので、私は彼を私のところから追い出した。」と書いています。ヨセフス(古代史XT・302)は、大祭司ヤドアの弟でマナセという人物がいたこと、その妻ニカソがサマリヤの総督サンバラテの娘であったこと、マナセが、その結婚が原因でエルサレムを追放されたこと、サンバラテがマナセのためにゲリジム山に神殿を造り、大祭司職を確保したことを伝えています。この二つの報告は状況が異なるにもかかわらず大変似た内容を持っています。同じ出来事の別伝であることは容易に推測することができます。どちらが正しい状況を伝えているかは判断に迷うところですが、いずれにせよ、サマリヤ教団の大祭司が、南ユダ王国の大祭司であったザドクの子孫であるという結論は同じです。
サマリヤ教団の理解では、彼らの大祭司はエルサレムとは無関係で、アロンに直接由来する由緒正しい家柄とされています。彼らの残すサマリヤ歴代志Uの中に、サマリヤ人の大祭司の系図が載っています。それによると、彼らの先祖はアロンであり、次にエレアザル、ピネハス、アビシャ、シシャイ、ウジ、シシャイ、バギ、シェバト、シャルム・・・と多くの名がでてきます。この中にザドクという名も見つかります。しかし、彼らの理解では、これらの大祭司は捕囚前からあるゲリジム山の大祭司であって、エルサレムの大祭司とは区別されています。それゆえ、ザドクという名があるだけで、これをザドク系祭司とは理解されていません。
しかし、彼らの系図をよく見ると、歴代志上6章にあるザドクの系図と似ていることに気が付きます。アロン、エレアザル、ザドクだけでなく、シャルム、ヒルキヤの名も見えます。また、エホナタンはヨハナン(6:9)のこと、セリアはセラヤ(6:14)のことでしょう。これらの名前の一致は、シケムに存在した祭司の家系とザドクの家系と偶然一致したと言うよりも、サマリヤ教団がザドク系祭司であるが故に生じた類似ではないでしょうか。
また、私の「ザドク系祭司の秘密」という論文を前提にした上でしか論じられないことですが、実はザドク系祭司はメルキゼデクに繋がるエルサレムの祭司階級であったことは明らかな事実です。このザドク系祭司がエルサレムの宮廷内で、エリの子孫であるアヒメレクの系図を貰い受けて、アロン系祭司となって活躍することになります。しかし、メルキゼデクの伝承が後々まで生き続けていることは、新約聖書のヘブル人への手紙でメルキゼデクが登場することからも明らかです。サマリヤ教団内にはメルキゼデク伝承はまだ見つかっていませんが、おそらく残っていることでしょう。そして、サマリヤ人歴代志を見ても、アロン系であることは認めても、アロンへの尊敬とか、アロンを強調することはほとんどないところは、貰い受けた伝承の弱さの現れと見ることが出来ます。
彼らの大祭司制はイスラム支配下でも存続し、1624年まで続いています。最後の大祭司はシャルミア・ベン・ピネハス(1613−1624)で、彼に子供がいなかったので、それ以降、アロン系大祭司制は途切れて、以後、レビ人の家系から大祭司が出ているとのことです。(Reinhard
P`ummer "The Samaritan" 1987)
5) 反預言者的神学
サマリヤ教団の考え方によりますと、モーセひとりが真の預言者であり、他の人物は預言者としては認められません。このことは彼らの歴代志を分析することから明らかになります。彼らはサムエルに大変批判的ですが、それだけではなく、エリヤやエリシャも「偽預言者」として退けます。エレミヤも尊敬されていません。これは大変興味深い特徴です。北イスラエルにおいてはエリヤやエリシャ、ホセア、アモスなどを中心とした強力な預言者運動がありました。南王国にはイザヤとエレミヤがいます。このような預言者運動のただ中で、モーセひとりが預言者であるとは言いにくいものです。
ところがモーセ五書のみを眺めると、そこにはモーセ以外の預言者が登場しないことがわかります。たとえば民数記11:24で、モーセの霊を受けた70人の長老が預言をしたことが書かれています。このことだけ読むと、預言者に好意的な文章のように見えますが、つづけて「その後は重ねて預言しなかった。」と書かれていますので、預言に対して否定的なニュアンスが醸し出されています。
申命記13章は、はっきりと預言者を批判し、彼らの悪を除き去るように勧めています。18:20でも預言者が神の命令に反して語ることがあることを示して注意を呼びかけています。34:10では、モーセの死に際して、「こののちモーセのような預言者は起こらなかった。」と記しています。
つまり、モーセ五書の範囲内では、預言者は否定的に扱われていると言うことです。そう言う意味で、サマリヤ教団は、大変五書に忠実であると言うことができます。
このような、反預言者的神学、もしくはモーセのみを預言者とする神学が北イスラエルの伝統ともろに対立することは、注目されます。サマリヤ教団の神殿は北イスラエル領域にありますが、その神学の内容は反北イスラエルという特徴を示していることになります。
エルサレムのユダヤ教正統派が預言者をどう見ていたかは、実はよく判っていません。ベンシラの知恵はサドカイ人の作品との説も有力ですが、その中で預言者は高く評価されています。また、エルサレムおよびユダの伝統を色濃く残す歴代志でも、(下20:20)「主の預言者を信じなさい。」と述べられています。ハガイ、ゼカリヤなどユダヤ教初期には預言者が活動していました。ですから、ユダヤ教正統派(サドカイ派の前身)が預言者活動まで否定したかどうかは疑問としておきましょう。しかし、この正統派の中で、預言者活動に対して否定的な考えが強くなった時期があったようです。ゼカリヤ書13:2は「私はまた預言者と汚れた霊を地上から去らせる。」と述べています。預言者を尊敬する人々も多数いたはずですが、一方でエルサレムには反預言者的神学もあったことは間違いありません。それに対して、サマリヤ地方では、北イスラエルの伝統である預言者活動の余韻は後々まで存続し続けています。ですから、サマリヤ教団が預言者を否定的に見るのは、北イスラエルの伝統に立つものではないと言うことができます。
ここでも、サマリヤ教団の神学がエルサレムの神学と共通していることが示されるのです。
3. サマリヤ歴代志による彼らの起源と歴史
サマリヤ教団は自らの歴史書・サマリヤ人歴代志を持っています。彼らの歴代志はT、U、V、W、X、Y、Zの7種類に分かれています。それぞれ、似たところはあるのですが、内容としては別のものと考えた方が良いでしょう。これらの歴代志は10世紀以降に成立したものばかりであり、旧約の歴史書と内容の異なるところがあり、また、史実とは思えない話しもけっこうあります。それゆえ、歴史資料としての有用性には疑問が生じます。しかし、彼らなりの自己理解が前提になっていますので、サマリヤ教団の神学や立場を示すものとして重要な資料と言えるでしょう。
私の検討したのは歴代志Uの「先祖の書」(注 John
Macdonald ”The Samaritan Chronicle
No.2
Sepher ha-Yamim”)とVの「サマリヤ人のヨシュア記」です。Vはアラビヤ語からの翻訳ですが、より古い書物を資料としていると思われますので、非常に貴重なものです。
それらを纏めますと、サマリヤ人自身は自らを「律法を守る者(ソメリーム)」と呼び、モーセに従った民の子孫であると自覚しています。モーセはアロンと共にイスラエルをエジプトから助け出し、カナンへと導きました。モーセの死後、ヨシュアが後継者となり、カナンの地をイスラエルの各部族に分け与えました。彼の政治の中心はシケムでした。アロン、ピネハスの子孫が祭司の役割を果たし、ヨシュアと共に国を統治していました。そして聖なる山(ゲリジム山)に聖所を作りました。ヨシュアのあとは何人かの王たちが即位しました。サマリヤ人の用語では、士師ではなく、王という言葉になっています。王制はアニテルというサムソンの前任者まで続きます。サムソンの即位と共に、状況が変わります。それはサムソンが原因ではなく、エリが大祭司職を狙い、あらゆる悪人を集め、シロを占領し、そこにゲリジム山に対抗するための聖所を打ち立てたからでした。エリとは、サムエル記に登場するあの祭司エリです。彼は歴代志上24:3同様、イタマルの子孫と理解されています。
この頃、3つのグループが存在していたとされます。 a)大祭司ウジに従う正統派の人々 b)エリに従う人々 c)異教へと堕落した多くの人々 そこで、神は大きな洞穴をもってゲリジム山の神殿を飲み込ませ、人々の目から隠されました。これはタヘブ(サマリヤ人の救い主)が現れる時まで、隠されることになりました。この物語は第二マカベア記2:5と似ています。
サムエルはシロの偽聖所で教育された人物で、彼の時代に宗教は堕落し、信仰心も薄れました。サムエルはミズパに人を集め、王を立てようとしました。ここでイスラエルは二つの流れになります。ひとつはヨセフ族とその支持者たちです。ひとつはサムエルによって油注がれた王サウルに忠誠を誓う人々です。ついにサウル王の軍とヨセフ族(彼らはここで、ソメリームと言う言葉をつかいます)との間に戦争が勃発します。ついにサマリヤ人は戦いに敗れ、ゲリジム山での礼拝や彼らの習慣を実践できなくなり、ひっそりと各自の家で礼拝を守るだけとなりました。ついに、彼らはカナンの地を逃れ、ガリラヤ湖の東バシャンの地へ移り住みました。
サマリヤ人歴代志Uによりますと、ダビデはサマリヤ人と協力してサウル王と戦います。ダビデ王はイタマル系の祭司を重んじましたが、彼らはソロモンにより退けられました。サマリヤ人自身がサマリヤの陥落について書いています。その記述の仕方は列王紀下17:25以下と驚くほどよく似ています。つまり、サマリヤの陥落後、アッシリアは様々な国民からなる植民者たちを送り込みました。すると、ライオンがでてきて、暴れ回り、多くの住民がライオンの餌食となりました。そこで代表団が組織され、以前住んでいた人々を戻してくれるようにと王に対して要請しました。そこで王はハランに住んでいたソメリーム(サマリヤ人)をカナンへと戻しました。ソメリームはゲリジム山での礼拝が回復されない限り、神の祝福はないことを説き、ゲリジム山での礼拝を復活させることに成功しました。ゲリジム山神殿は再建され、それ以後、絶えることなくそこで礼拝が行われていると言うことです。ゲリジム山神殿が再建された後、エルサレム人が捕囚から戻ってきました。ソメリームたちはゼルバベルとヨシュアの神殿再建を遅らせることに成功しました。そしてサンバラテを指導者として、ユダヤ人に対抗しました。ソメリームたちはエズラと対立しました。
このようなサマリヤ人の自己理解の史実性をあまり高く評価することはできませんが、彼らの信仰的立場を理解するには便利です。彼らは、ゲリジム神殿がゼルバベル神殿より古いと主張しています。また、彼らはサムエル、サウルと対立し、ダビデと友好関係を結んでいます。彼らはイタマル系祭司エリを諸悪の根元と見なし強く非難しています。これらの記述は九書や正典歴代志と異なるところがありますので、大変興味深いところです。
4. サマリヤ教団の南ユダ的体質
1)サマリヤ歴代志の自己理解に反映されている南ユダ王朝史
a)サマリヤ人歴代志はサムエル記・列王紀とかなり異なった内容となっています。旧約聖書の正典歴代志とも異なっています。もっとも際だった相違点はエリについての記述でしょう。エリはサムエル記上4:18にもありますように、サム・列王紀では批判的に扱われています。しかし、サマリヤ人歴代志ではそれどころではありません。エリは諸悪の根源、大悪人として位置づけられています。エリは徒党を組んでエレアザル系祭司に反対し、(シケムに対抗して)シロに聖所を作り、イスラエルに混乱をもたらしました。このことがゲリジム山神殿を神がお隠しになる原因となります。このような物語は士師記、サムエル記にもユダヤ人の歴代志にも書かれていません。内容的にも史実とは思えません。しかし、どうしてこのような内容の物語が伝えられたのかと言うならば、そこにはエリ系祭司への反感が前提に存在していたことを示しています。エリはアビヤタル(サムエル下8:17、20:25)の先祖であり、ウジはザドクの先祖です。列王紀下1:5によりますと、ダビデの死後、王位継承をめぐって祭司アビヤタルはアドニヤを支持し、祭司ザドクはソロモンを支持しました。この結果、ソロモンが勝利し、アドニヤを支持したアビヤタルは祭司職から追放され、ソロモンを支持したザドクは唯一の祭司となりました。(列王紀上2:27、35)サマリヤ歴代志のエリ物語は、北と南の対立を反映しているのではなく、南の王朝内でのアビヤタルとザドクの権力闘争を反映しているのではないでしょうか。
b)サマリヤ歴代志によりますと、ヨセフ族(ソメリーム、サマリヤ人)がサムエル・サウル軍と戦ったことになっています。しかし、サムエルはエフライム人、つまりヨセフ族です。サウルはベニヤミン族の出身です。ベニヤミンはヨセフと母を同じくする兄弟であり、特別の親愛の情があることが創世記のヨセフ物語に書かれています。ヨセフ族が、ヨセフ族の祭司とベニヤミン族出身の王に戦いを挑むという構図はどう見ても不自然です。しかも、ダビデ王はユダの王であるにもかかわらず、サマリヤ人と共に戦ったように描かれています。サマリヤ人と、ユダヤ人は挨拶もしないくらいの犬猿の仲ですので、ダビデ王を賛美する物語を後のサマリヤ人が創作するはずはありません。ヨセフ族への好意こそ後の時代の付加であって、ダビデ王への好意こそ、本来のものと認定できます。このこともサマリヤ教団が南に起源することを示しています。
c)さらにサマリヤ歴代志は、エリヤとエリシャが偽預言者であると非難します。また、奇妙なことに列王紀下17:24以下と同じ内容の伝承を伝えています。いわく、北イスラエルの捕囚の時にサマリヤの地に異邦人が住み着き、民が混血したと書いています。もし、サマリヤ人が北の諸部族の子孫なら、このような偏見を肯定するはずはありません。
これらのことだけ見ても、彼らが北イスラエルの子孫であるとはとても思えなくなるはずです。彼らの起源が北であることを示す特徴は、ヨセフ族という自己理解などいくつか挙げられますが、より多くの特徴は南ユダに関連しています。サマリヤ教団がシケムという北イスラエルのひとつの聖所を中心として発達したにも係わらず、南ユダに起源する多くの点を残していることは驚くべきことです。
2)幕屋と契約の箱が秘密の洞穴に隠された物語
サマリヤ歴代志では、エリがシロに神殿を造り、イスラエルに混乱をもたらしたとき、「神は大きな洞穴をもってゲリジム山神殿を飲み込ませ、人々の目から隠された。」と書き記しています。これとよく似た話が第二マカベア記2:5に載っています。第二マカベア記が書かれたのは前150年頃であり、すでにサマリヤ人との対立は激しくなっていましたので、ユダヤ人である著者がサマリヤ伝承を使ったとは言えません。また、同じくサマリヤ人も対立する相手から学んだわけではありません。つまり、サマリヤ人とユダヤ人が一時期伝承を共有していた時代があったことを示している現象と言えるでしょう。
第二マカベア記の物語の原型が出来たのは、捕囚期のことと考えられます。しかもこの伝承は、エルサレム神殿と契約の箱に関するものですから、南ユダの人が作り上げ、担っていた伝承のはずです。それをサマリヤ人が共有すると言うことは、サマリヤ人が南ユダの人々の子孫であることを示唆しています。
3)モーセ五書のみを権威あるものと認める
彼らがサマリヤ五書と呼ばれるモーセ五書を今日まで伝えていることは、旧約テキスト研究上、非常に有益であるということは既に指摘しました。しかも、彼らはサムエルを軽蔑するとか、エリヤ、エリシャを偽預言者呼ばわりすることからもわかるように、サムエル記、列王紀の権威をいっさい認めていません。このような五書中心の神学は、エルサレムの中にもありました。
本来九書は北イスラエルと南ユダの調和の中で成立したものです。しかし、その内容が北に好意的すぎるとか、サドク系祭司への尊敬が足りないことから、第二次帰還によりザドク系祭司の子孫が帰ってきた後、モーセ五書が九書から分離されることになると私は考えます。(「五書、九書の成立」を参照してください。)帰還した人々の中には、北を無視して五書のみを重視したグループがいました。おそらくザドク系祭司の大半はこの立場に立っていたことでしょう。彼らの神学的子孫がサドカイ派になります。もちろん、九書の伝統を守り、北イスラエルとの調和を重んじる人々もいました。彼らはエルサレムでは政治的影響力を持ちませんでしたが、エズラにより復活し、民衆の間に広まります。そして、その神学的子孫がパリサイ派となります。
当初は五書のみを認め預言書を退けるのがユダヤ教正統派と見なされ、九書派は異端視されていたのでしょう。しかし、その後の歴史の展開は、別の方向へ進みます。パリサイ人が力を得てくると、正統と異端が逆転します。サドカイ人が異端となり、パリサイ人が正統となる時代がやって来たのです。そして、第二神殿崩壊後、パリサイ派も含めたラビ的ユダヤ教が主流となりますので、九書に預言書、諸書が加えられる形で旧約聖書が完成することになります。
そういう歴史の流れの中では、サマリヤ教団は明らかにエルサレムの伝統を重んじる五書派と神学を共有しています。北イスラエル伝統の正統な後継者はむしろパリサイ派へと流れていったと考えるべきではないでしょうか。
4)ゲリジム神殿を統一聖所とする発想は南ユダ的である。
サマリヤ人はシケムのゲリジム山神殿を唯一の聖所と考えるグループです。ヨハネ福音書でのサマリヤの女とイエスの対話の中でも聖所の場所がどちらであるべきかが話題となり、女がイエスに質問しています。「私達の先祖はこの山(ゲリジム山)で礼拝をしましたが、あなた方はエルサレムで礼拝すべきであると言っています。」それに対してイエスは答えます。「この山でも、またエルサレムでもない所で、父なる神を礼拝する時が来る。」紀元前後のイエスの時代に、礼拝の場所がゲリジムかエルサレムかということが問題となっていたことが判ります。このような対立は宗教なら当然起きることだと思う人も多いことでしょうが、いつでも起きる対立ではありません。北イスラエルの歴史を読むとき、まず驚くのはヤラベアム1世がベテル、ダンという複数聖所を公認したことです。しかも国家聖所でない形の聖所は、サマリヤやその他の都市にもあったと思われます。そして、北イスラエルの歴史の中で、一度も聖所同士の対立を見たことはありません。お互いに認め合っていたからでしょう。ところが南ユダの歴史を見るときに、北イスラエルとは対照的であることに気が付きます。国家公認聖所はエルサレムのみで、各地にあった聖所はヨシヤの宗教改革の時に廃止されています。また、数多く存在した「高き所」も廃止されています。そのような聖所統一思想は、やがて九書成立の際、申命記神学としてモーセ律法、および九書の中に書き込まれたのです。ですから、申命記神学なしには、互いに対立することは起きないのです。正統ユダヤ教も、サマリヤ教団も、ともに聖所はひとつであるべきだと考える南ユダの伝統に立っていますので、それゆえ対立が起きるのです。
5)反預言者
サムエル記、列王紀を読むと、北イスラエルでは預言者たちが王の任命や政治の動向に大きな影響力を持っていたことを教えられます。この預言者たちが北イスラエルをヤハウェ信仰の国に作り上げてゆきます。また、彼らがモーセ伝承を纏め、民衆に広めるために決定的役割を果たしています。ところが、南ユダではダビデ王朝の権威が認められていましたので、革命が一度もなく、それゆえ預言者活動の興隆もイザヤ以前には見られませんでした。そういう歴史的背景があるからでしょうか、帰還後の思想の中に預言者そのものを否定する発言がいくつか見られます。ゼカリヤ13:2に「私はまた預言者、および汚れた霊をこの地から追い払う。」となっています。申命記18:20では、預言があたらない場合は偽預言者であるとの明快な解説がなされています。申命記13:1も反預言者思想の表明でしょう。これらの考え方の背後にある預言者への否定的見解は、後のユダヤ教の中で大きな影響力を発揮することはありませんでしたが、一部には存在し続けています。そして、その一部がサマリヤ教団にも流れて行き、反サムエル、反エリヤ、反エリシャの伝承となるのです。このような伝承の担い手が、預言者を尊敬する北イスラエルの子孫であるはずがありません。
6)ザドク系祭司
ヨセフスの物語だけでなく、彼らの伝承からも、サマリヤ大祭司家がザドクの子孫であることは前項で明らかになったと思います。このザドク系祭司は、もとはエルサレム土着の祭司階級であったことは、「ザドク系祭司の秘密」で明らかにしたつもりです。ですから、彼らがザドク系祭司の存在そのものが、サマリヤ教団が北イスラエルの子孫ではないことの証拠となります。
5. サマリヤ教団の起源
これらの4つの基準と、彼らの南ユダ的特徴を踏まえておけば、サマリヤ人の起源を明らかにすることはそれほど難しくありません。サマリヤ人の起源については多くの説があります。サマリヤ人自身はモーセに起源すると考えます。確かに、彼らの教えはモーセの影響を強く受けていることは間違いありません。しかし、彼らの語る歴史をそのまま認めることはできません。ここでは、一応有力な説として次の4つを取り上げ、逐次説明と評価をしていくことにします。
1)サマリヤの陥落(前721年)
サマリヤ人はサマリヤの陥落により生じたグループであるとは、ヨセフスの解釈であり、長い間キリスト教会も受け入れてきた立場です。今ではそれほど支持されてはいませんが、誤解している人も少なくありませんので、ここで批判的に論評しておきましょう。
この説は列王紀下17:24以下に書かれている内容を根拠にしています。それによると、サマリヤ陥落後、真のイスラエル人はアッシリアに移され、今いるサマリヤ人はバビロン、クタなどから連れてこられた人々であると叙述されています。しかし、ライオンがその地を荒すので、イスラエルの祭司を一人連れ戻し、彼がイスラエルの宗教を教えた結果、サマリヤ在住の異邦人たちもヤーウェを拝むようになったと説明されています。列王紀はなにもここにサマリヤ人の起源があると語っているわけではありません。しかし、「サマリヤ人」という単語がここで初めて使われていますので、ヨセフスと、のちの研究家がこれをサマリヤ人の起源と理解したわけです。
ヨセフスは彼の古代史の中で、サマリヤ人を取り上げて偏見に満ちた解説を並べています。彼の立場はユダヤ教を代表するもので、当時の一般ユダヤ人も同じ見解を持っていたのでしょう。彼の著作の影響で、キリスト教会もサマリヤ人を誤解することになりましたので、ヨセフスの責任は大きいと言えます。ただし、彼の著作の中で、ザドク系祭司のマナセがシケムに神殿を建てた話しも残しています。ですから、彼の功績も認めておかなければ公平に失するでしょう。彼の著作は非常に有益ですが、誤解をもたらすところは我々の責任に於いて注意して解釈しなければなりません。
何度も言うようですが、サマリヤ教団は北イスラエルの伝統を担うサマリヤ地方の人々の宗教ではないのです。名称が同じであるから誤解が生じるのでしょうが、北イスラエルの伝統を担う人々と、サマリヤ教団の伝統とがまったく異なることをどうか理解していただきたいと思います。
2)ネヘミヤの時代(前431年)
ネヘミヤ記13:28にネヘミヤが大祭司ヨイアダの子がサンバラテの娘婿であったことを知り、この息子を追放したことがかかれています。ヨセフス(A11/302)の説明は時代を異にしますが、おそらく同じ出来事の別伝だと思いますので、これをネヘミヤ時代に投影することは許されるでしょう。ヨセフスによると、この時追放された息子はマナセと言う名前で、結婚相手はサンバラテの娘のニカソと言いました。彼は追放された後、サンバラテのところへ行き、ゲリジム山に神殿を作ってもらい、エルサレムに不満を持つ祭司たちを集め、そこで大祭司に任命されたことと書かれています。ネヘミヤ記もヨセフスもこれがサマリヤ教団の始まりであるとは説いていませんが、これがサマリヤ教団の始まりである可能性は大きいと思われます。
この説はサマリヤ教団の南ユダ的特徴を説明するのに適していますので、この立場は大いに検討に値すると言えます。ただし、ゲリジム山神殿はアレクサンダー大王の時代に造られたという考古学上の結論もあり、次に述べる3)の立場も無視することは出来ません。2)と3)のどちらが正しいかの議論は、けっこう微妙なところがあり、話しは複雑となります。このふたつの説のどちらかが史実であろうとも、1)の立場が否定されるなら、それで私の当面の目的は達成されるのでが、どちらでも良いと言いたくなりますが、それはやはり無責任でしょう。少し我慢して、続きの議論にもお付き合いいただければと思います。
サマリヤ教団の成立がダレイオス3世時代ではなく、ネヘミヤの時代である証拠として、次の7つを挙げることが出来ます。
a)ネヘミヤ記13:28では「大祭司エリアシブの孫がサンバラテの婿であった」と書かれています。ネヘミヤとエリアシブが共に城壁建築のために働いたのが前444年で、ネヘミヤが再度エルサレムに戻ってきたのが前431年です。この時、エリアシブの孫が結婚適齢期に達していたことは時代的には整合性があります。それに対して、ヨセフスの記述は、「エリアシブの曾孫マナセがダレイオス3世の時代に追放された」となっています。ダレイオス3世の在位は前336年から331年ですから、エリアシブからは約100年の時の経過があります。この時代に曾孫がいるとは、時代的整合性があるとは言えません。
b)ネヘミヤは混血の民を追放し、異邦人との結婚を解消させています。(ネヘミヤ13:3、27)強制離婚事件はエズラの時にも起きたようにもとれますが、エズラ記、ネヘミヤ記の分析から、私としては、エズラ記の記述はネヘミヤ時代の事件が誤ってエズラ記に混入した結果であると考えています。その理由は、短い間に強制離婚事件が何度も起きることは考えにくいことですし、エズラよりもネヘミヤの方に強制離婚事件を起こす動機と時代状況がありますので、ネヘミヤの時代の出来事であると判断することになります。ネヘミヤは、城壁建築を巡って暗殺計画までありましたので、その背後にいた北イスラエル勢力に強い反感を持ったことは当然のことです。彼らを追放するための政策的手段として、異邦人との結婚解消を実行したことは大いにあり得ることです。
さて、ダレイオス3世時代に、ネヘミヤと同じような強制離婚事件が起きたのでしょうか?ヨセフスは、マナセだけでなく、この時代異邦の民と結婚していた多くの祭司たちがいて、マナセのところに赴き、サンバラテは彼らに資金と住む場所とを提供したと書かれています。(古代史XI
312)ネヘミヤ時代に起きた事件の記憶がまだ残っている時代に、再び同じような事件が起きるとは考えられないことです。ヨセフスの時代状況の説明は極めて不自然と言えるでしょう。
c)ヨセフスは、マナセを追放したのはエルサレムの長老たちであったとしています。(古代史XI
306)しかし、総督を差し置いて、また大祭司を無視して、長老たちが大祭司ヤドアの弟を追放することが可能なのでしょうか。しかも、この時、多くの他の祭司も追放されています。ヨセフスの記事には総督は登場しません。また、大祭司は中立を守ったようで、反対とも賛成とも書かれていません。少し前の時代に、大祭司職を巡って殺人事件がありましたが、権力闘争により、弟が追放されるなら判りますが、兄ヤドアは中立で、長老たちがマナセを追放するとはどう考えても不自然です。
d)エジプトのエレファンティネ島から出土した前410年頃の文書がネヘミヤ説を支持しているように思えます。ナイル川上流のエレファンティネ島には古くから国境警備隊としてユダヤ人傭兵が駐屯していました。彼らは自分たちの神殿を持ち、そこで律法に則っとり祭儀を行ってきましたが、前410年頃、エジプト宗教との対立で神殿が焼き討ちされてしまいました。そこで、彼らはエルサレムとサマリヤの総督に手紙を送り、神殿再開の許可と支援を要請した手紙を出しています。この時のエルサレムの総督はバゴアスと言い、サマリヤの総督はなぜかふたりの名前が載っていますが、「サンバラテの息子デラヤとシレミヤ」となっています。ここで、サマリヤ総督にも手紙が宛てられていると言うことは、サマリヤに何らかのエルサレムとは異なる宗教的権威が存在したことを示唆しています。ということは、サマリヤ教団がすでに存在していたということになります。
e)ヨセフスの記述の信憑性は全体的にはあまり高く評価することは出来ません。エズラ・ネヘミヤ記の記述にあるアルタシャスタ王(エズラ記4:7)をカンビュセスを書き直すとか、彼なりの時代状況を合わせるための資料の改変を行っています。マナセ物語も、神殿建築の時期に合わせて変更された可能性があります。それに対して、ネヘミヤ13:28は、全体的には混乱した資料の中の一節ですが、逆に改変されていないことの証拠でもあります。現代の刑事裁判でも同じ原則が通用しますが、辻褄のあう証拠よりも、辻褄のあわない証拠の方が証拠能力が高いのです。
f)また、ヨセフスは、マナセの結婚相手はサンバラテの娘と明言していますが、サンバラテという名はネヘミヤ時代のもので、この名前がネヘミヤ時代を示唆しているとも言えます。しかし、これについては、ダレイオス3世時代にもサンバラテなる人物がいたとの解説もありますので、さらなる研究が必要です。マルティン・ヘンゲルは「ユダヤ人、ギリシャ人、バルバロイ」(p25 大島訳、ヨルダン社)で、「アレクサンドロスの遠征時代、確かにサンバラテという名の人物が・・・サマリヤに住んでいた公算の大きいこと」を語っています。しかし、いつの時代でも祖父から孫へと名前が継承されるわけではありませんので、一応証拠を確認するまでは判断は留保したいと思います。
また、マナセの結婚相手はニカソという名でしたが、これがギリシャ風の名前であるとヘンゲルは指摘しています。この点はダレイオス3世説を支持する現象かもしれません。しかし、クセノフォンの「アナバシス」という歴史書にもあるように、ネヘミヤ時代の直後、すでにギリシャの傭兵たちがペルシャ帝国内で多数活躍していたことは事実です。ダレイオス1世の時代にすでにペルシャとギリシャは戦っていますので、相互交流は始まっていたのです。ですから、ネヘミヤ時代にサマリヤにもギリシャの影響が及んでいた可能性は充分考えられることです。
g)ゲリジム神殿がアレクサンダー大王時代に建築されたことは、考古学でも認めていますので、否定できません。この事実は、ネヘミヤ説に対する有力な反論となっていますので、ここで、説明しておきましょう。ネヘミヤ時代から、神殿建築までの間、マナセたちがサマリヤ市にいたか、シケムに住んだかは説明しにくいところです。考古学による説明では、いまのところアレクサンダー大王以前はシケムはしばらくの間、無人の地で、神殿跡も住居跡も見つからないとのことです。しかし、これから見つかるかもしれません。また、サマリヤ人自身が神殿破壊後でも祭儀を続行してきたことからも判るように、神殿という大きな建物でなくても祭儀を執り行うことは可能です。サマリヤ市には、北イスラエルの伝統を担う勢力もいたでしょうから、新しい祭儀を始めるにはシケムのような場所の方が適していると言えます。
3) ダレイオス3世時代(前330年)
アレクサンダー大王時代にゲリジム山に神殿が作られていますので、この時期にサマリヤ教団が始まったとみる立場も大いに検討に値します。これはヨセフスの記述を文字通り受け入れた場合の解釈です。つまり、ダレイオス3世の時、エルサレムにおいてマナセという祭司がサンバラテの娘と結婚し、そのことをユダヤの長老たちに批判され、彼はサンバラテのもとに逃れます。そしてアレクサンダー王の時代に、つまり、前310年頃、ゲリジム山に神殿を建ててもらい、そこで大祭司となったという説明です。
この立場の強さは、考古学上の結論とも一致することです。しかし、それ以外の状況証拠は、ほとんどすべてネヘミヤ説を支持しますので、私としてはネヘミヤ説に立たざるを得ません。すでにネヘミヤ説の所で、ダレイオス3世説も含めて検討してありますが、ネヘミヤ説の弱点と思われるところを再度取り上げて、検討してみましょう。
ネヘミヤ説の弱点は、ネヘミヤ時代(前431年)から神殿建築(前310年)までの間、祭儀が行われていた証拠が見つからないことです。いずれ見つかるという反論は、確かに弱い根拠であることは認めざるを得ません。また、ニカソがギリシャ風の名であることもダレイオス3世説にとって有力な根拠となります。また、ネヘミヤ説を支持する状況証拠は沢山ありますが、すべては状況証拠でしかなく、しかも、様々な推測の上に成り立っている論理です。それぞれ反論を加えればいくらでも反論可能な根拠ばかりであることも認めざるを得ません。それゆえ、ダレイオス3世説を完全に否定するのは、私としては妥当ではないと判断しています。今後もこの二つの説を対比させながらの研究が必要ではないでしょうか。
ただし、何度も言うようですが、どちらが正しかろうが、サマリヤ教団が南ユダの伝統に立つグループであることは認識されなければなりません。
4) ベンシラの知恵(シラ書とも集会の書ともいわれます)の著作の頃(前190年)
ベンシラの知恵が書かれたのはマカベア時代の前、およそ前190年頃と考えられています。この頃にサマリヤ教団が成立したと考えることは、私の立場からは検討するに値しませんが、何人かの有力が学者が支持していますので、批判的に取り上げることにします。
コギンスによると、ベンシラの知恵50:26がサマリヤ教団の存在する最初の証拠としています。ここには「シケムに住む愚かな人々」と書かれています。彼はこれ以前のユダヤ人とサマリヤ人の対立はまだ決定的なものと考えてはならないと言います。彼は繰り返し、サマリヤ人の分離は突然起こったことではないと言います。しかし、それではいつから徐々に起こったことなのか、そしてそれがいつ決定的に分離したのかを議論しなければならないのではないでしょうか。ところがそれらの分析や検討無しに、ベンシラの知恵というユダヤ人側の文書のある一節を取り上げてこれを証拠とするのは余りにも不自然です。これではサマリヤ教団がどのような集団であるのかはまったく見えてきません。
どうも、コギンズの理解の背後には、サマリヤ教団を北イスラエルの子孫とみる見解が無意識のうちに横たわっているようです。分離は北イスラエルの捕囚時代に始まり、それから、対立が徐々に深まってゆくわけです。しかし、安易に対立を強調するすると、サマリヤ五書の成立が説明できなくなりますので、もって廻った言い方をすることになるのです。分離が決定的になると、相手の持っている正典を自分のものと言い張ることはあり得なくなります。ですから、ベンシラの知恵にあるような感情的対立が生まれる頃には、五書がサマリヤ教団に移っていただろうと推測しているのでしょう。しかし、これがまったく見当違いであることは、理解されなければなりません。
ジョン・ブライトも基本的にはコギンズと同じ意見です。彼は(P411)次のように述べています。「古代ヘブル文字で書かれたサマリヤ人の聖書は分離の過程の終局として前2世紀の終わり頃に成立したもののようです。というのはこの頃サマリヤ人がはっきりと別の宗教グループとして現れてきたからです。これにより、サマリヤ人はユダヤ教から完全に分離したのです。」これに対する私の批判は、コギンズへのと同じものです。ブライトはサマリヤ人の聖書の古代ヘブル文字の書体が前2世紀頃のものであることを根拠にしていますが、これは論法として誤っています。彼の論法では、新約聖書でギリシャ語の大文字写本を見て、この書体は4世紀のものだから、新約聖書は4世紀に書かれたものだと判断することになってしまいます。
どちらも、サマリヤ人という名称から来る誤解を解くことに失敗した事例と言えるでしょう。サマリヤ教団は北イスラエルの伝統に立つグループではないのです。
5) 結論
以上で批判的検討を終え、結論を再述することにしましょう。サマリヤ教団が北イスラエルの子孫ではなく、南ユダに由来すると言うことが私のこの論述の中心的主張です。このことを踏まえ、サマリヤ教団の起源を探るならば、2)のネヘミヤの時代か、3)のダレイオスの時代かのいずれかに絞られます。どちらが史実であるかは微妙なところですが、総合的には、ネヘミヤ時代の方が筋が通っているように見えます。しかし、断言するほどの確実性ではないことは事実です。しかし、あやふやにしておきますと、議論が進展しないところもありますので、一応の結論としてネヘミヤ時代ということにしておきましょう。
前430年頃、ザドク系祭司のひとりマナセがサンバラテの娘と結婚していた時、ネヘミヤによる異邦人妻追放事件が起きて、マナセは大祭司職から除けられてしまいました。そこでマナセはサンバラテに願い、その支援のもとでシケムに新しい聖所を作り、そこで祭儀を続行することにしました。その時、ネヘミヤに反対する多数の同士が集まり、サマリヤ教団が作られたのです。その後、アレクサンダー時代にサマリヤ市が破壊される事件があり、おそらくその結果多くのサマリヤ市の有力者たちがシケムに移り住んできたのでしょう。その時、彼らの資金援助でゲリジム山に神殿が建てられ、マナセたちと北イスラエルの子孫たちとの調和が計られました。サマリヤ人が自らをヨセフの子孫と認識するのはその時からと言えます。ところがその時、サマリヤ教団の神学と伝統はすでに出来上がっていましたので、それを変更したわけではありません。彼らは相変わらずザドク系祭司の世襲により、南ユダの伝統に習った形での祭儀を続行したのです。ザドクの子孫であるという点は曖昧にされましたが、サムエル記、列王紀の権威は受け入れられず、また預言者に対しても否定的評価を下す傾向は変わりませんでした。おそらく、サマリヤ市破壊事件の当時、すでにエズラの活動の後ですから、ユダ、エルサレム内にも北イスラエルの伝統を高く評価する九書派が存在したものと考えられます。北イスラエルの子孫たちの大半はこの九書派との連携を計り、サマリヤ教団に合流する人数は少なかったのではないでしょうか。そして、北イスラエルの伝統を重んじる九書派こそ、後にパリサイ人として活躍するグループとなって行くのです。
6. 誤解と偏見はどのようにして生まれたか
サマリヤ人への誤解は二重構造になっていますので、その点を理解しておくと二度と誤解は生じないのではないでしょうか。
1) 北と南の感情的対立の歴史
まず、北イスラエルと南ユダとは、ダビデ以前から別の伝統に立つ民族であり、感情的対立は昔から存在してたことを踏まえておく必要があります。北イスラエルと南ユダは、古くはイスラエル連合を結成し、協力して戦ったこともありましたが、デボラの歌の12部族表にユダが登場しないことを見ても判るように、前1300年の段階ですでにユダはイスラエル連合から脱退しています。その後の士師たちの活動の場が北イスラエルに偏っていることも注目すべきです。この連合はダビデにより復活しますが、一度出来た文化伝統の違いはそう簡単には乗り越えられるものではありません。ソロモンのあと、王国は南北に分裂します。その後、北イスラエルと南ユダは時に協力し、時に対立するという時代のうねりの中で、以前から持っている文化伝統の違いを残したまま存続してゆきます。南ユダ出身のアモスが北イスラエルで預言するような文化的交流はありましたが、近親憎悪的側面もあったのではないでしょうか。南ユダの人が北を蔑視していたとするなら、北の人は南を嫌悪していたと言えるでしょう。水と油の関係だったのです。しかし、昔は兄弟部族であった記憶はどちらの国にも残っていました。ですから、親しくなる時期もあり、また、兄弟部族として互いに助け合おうという考えの人々も沢山いたことは事実です。
この間の事情を示す物語が歴代志の中に残されています。歴代志下30:1によると、ヒゼキヤ王は北の人々に手紙を書いて、エルサレムで一緒に過ぎ越しの祭りを祝おうと呼びかけました。その時の北イスラエルの人々の反応ですが、「人々はこれを嘲り笑った」となっています。「しかし、中には身を低くしてエルサレムに来た人々もいた。」とあります。こういう状況はユダの捕囚後も基本的には変わらなかったのではないでしょうか。
2) 偏見の始まり
前721年、サマリヤが陥落し、北イスラエルのおもだった人々はアッシリアに連れてゆかれました。そして、多くの異邦人が北イスラエルに住み着くことになります。この時、これを見ていたユダの人々は、もともとの感情的反感もあり、サマリヤ人が異邦人と混血したとの認識が生まれたのではないでしょうか。その伝承が後々まで残り、列王紀下17章に記録されることになります。列王紀の最終編集は第一次帰還後のことですが、この時、北イスラエルの代表もこの歴史書の編集に加わっていたはずです。彼らは当然、このような偏見を認めるつもりはなかったでしょう。しかし、全面的に書き換えさせるほどの発言力はなかったようです。結果的に、「ライオンが出没するので、サマリヤの祭司を戻してヤハウェの礼拝の仕方を住民に教えさせた。」という奇妙な妥協的物語が生まれたのです。しかし、偏見が書き残されたことにより、その後、2500年に渡って影響力を発揮し続けることになります。
偏見とは、どの事例に於いても単純なものではありません。まったく根拠のないことは偏見にもなりません。偏見とは真実の要素が少し振りかけられているが故に力を発揮するのです。北イスラエルの住民に対する偏見も真実の欠片を持っていました。つまり、彼らが移住してきた異邦人と少しは混血したことは間違いありません。しかし、これが偏見であるとは、客観的事実として語られているのでなく、感情的軽蔑を込めた表現がちりばめられているからです。南ユダの捕囚が北イスラエルの捕囚と大差のない実態であったことを認識すると偏見も少しは収まるのではないでしょうか。アッシリア捕囚の際に多くの異邦人が移住してきましたが、バビロニア捕囚の時も同じ事が起こりました。北イスラエルの民ばかりでなく、異邦人もやって来ました。そして同じように混血が起きたのです。しかし、そのことは棚に上げて、北イスラエルの民だけが混血したと言い張るところが偏見と言えるでしょう。
北イスラエルには強力なヤハウェ信仰の伝統が生きていました。それは長年に渡る預言者たちの活動の結果でした。この伝統と精神があったからこそ古代ユダヤ教が誕生し、旧約聖書が生まれたのです。南ユダの伝統だけでは何も生まれなかったはずです。それゆえ、私たちは北イスラエルの人々と伝統に対して、それなりの敬意を払わなければなりません。混血という現象が一部にあったとしても、それをもって混血の民と罵ることは許されません。
3) 誤解の始まり
北イスラエルの民に対する偏見は、残念ながら列王紀下17章の影響もあり、その後も生き続けますが、サマリヤ人への偏見と北イスラエルの民に対する偏見を混同することが誤解の始まりになります。サマリヤ教団は、前431年、ネヘミヤに追放されたザドク系祭司マナセにより始められました。この時、マナセを追放したネヘミヤやその支持者たちは、マナセグループと北イスラエルの民を区別していました。しかし、エルサレム派とシケム派の対立はやがて、北イスラエルと南ユダの感情的対立を越えて激しくなってきます。それだけマナセグループの勢力が強くなったと言うことでしょう。しかし、この時代でさえ、マナセたちのシケム派とサマリヤ人とは区別されていました。
しばしば、サマリヤ人への言及の例として取り上げられるベンシラの知恵(注 シラ書ともいう。)50:25には「私の魂は二つの民を忌み嫌う。・・・ペリシテ人と、シケムに住む愚かな者どもである。」と書かれています。これは前190年頃に書かれた書物と言われていますが、この時代でも、シケムの人々を「愚か者」と言っても、「サマリヤ人」とは呼んでいません。偏見はすでにありますが、まだ、誤解は始まっていないのです。
エズラ・ネヘミヤ記のテキストが最終的に確定する時期ははっきりしませんが、前2世紀よりも後であろうと思われます。ところが、その時代でさえも、シケム派とサマリヤ人とは区別されています。エズラ記4章の「ユダとベニヤミンの敵」という表現を、現代の学者たちは無意識のうちにこれを「サマリヤ人」と解釈してしまいますが、「サマリヤ人」との表現はここには一カ所もありません。もちろん、「ユダとベニヤミンの敵」はサマリヤの住民であったでしょうが、この時代でさえもサマリヤ人という侮蔑的表現は一般的ではなかったのです。
サマリヤ人と言う表現を、北イスラエルの子孫とシケム派とを同一視ししているのはヨセフスの著作から始まります。ヨセフスの偏見は、おそらく彼個人のものではなく、当時のユダヤ教正統派の普通の考えだったのでしょう。それゆえ、ユダヤの民衆も誤解と偏見を引き継いでいたことと思われます。しかし、文書としてそれが記録に残されることはありませんでした。新約聖書にもミシュナにもサマリヤ人への言及はありますが、特に誤解とか偏見は書かれていません。ただ、サマリヤ人という言い方が偏見を暗示していると言えるくらいです。それゆえ、ヨセフスの誤解を引き継ぐのは、サマリヤ人を解説する現代の学者たちに飛ぶことになります。
サマリヤ人という言い方そのものが、誤解と偏見の象徴なのです。それゆえ、現代の我々はサマリヤ人という言い方を止めるべきかもしれません。しかし、すでにヨセフス以来2000年に渡り使われ続けている単語ですので、今更それを止めるわけにもいきません。
やむなくサマリヤ人という言い方を使い続けはしますが、しかし、少なくとも、北イスラエルの住民を混血の民と呼ぶような偏見は止めて、彼らの旧約聖書への貢献を高く評価して、尊敬の心を持ちたいものです。また、北イスラエルの民(サマリヤ市の住民)をシケム派の先祖であるかのような誤解は止めるべきです。サマリヤ人(シケム派)はマナセから始まった南ユダの伝統を引く宗教集団であって、ユダヤ人以上に律法を正しく守ろうと努力してきたグループなのです。彼らをサマリヤ市の住民と混同するようなことは、今後一切しないようにしてもらいたいものです。
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