キリストの愛が生まれる
ローマ人への手紙8章35節ー37節
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために 一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。(新共同訳)
クリスマスおめでとうございます。
今年も早いもので、もう年末。つい先日新しい年を迎えたと思っていたのに、もう年末です。いったい今年一年何をしたのかを考えてみると、何も思いつきません。しかし、よくよく考えると、あれも、これもと思い出してきます。
大きな出来事としては、今年5月に家内とふたりでドイツ旅行に出かけたことです。小さな出来事は山ほどありますが、良いこともたくさんありました。悪いことはあまりなかったのですが、残念なことはいくつかありました。
これらの良いこと、悪いこと、残念だったことは、すべて神様の御手の中で起きたことですから、感謝をもって受け止めるべきですし、悪いことも、次へのステップ・準備として受け止めたいと思います。
さて、今日、取り上げます聖書の箇所は特にクリスマスに関係しているわけではありませんが、今、ちょうど私が聖書研究している箇所ですので、ここからクリスマスのメッセージを読みとってみたいと考えています。
この御言葉の内容はそれほど難しくはありません。読めば誰でも理解できる内容ですが、理解できることと、実感すること、感じ取ることとは別のことです。また、理解することと悟ることとは別のことです。
ですから、私なりにこの御言葉を解説して、皆様に是非この御言葉を実感し、また、ここから人生の悟り・・・悟りと言っても大それた悟りのことを言っているのではありません。小さな、ささやかな悟りで良いですから、なるほどと思える真理を体得していただいて、これからの人生に生かしていただきたいと願っています。
35節にこのように教えられています。
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」
パウロがなぜこのような言い方をしているかはおわかりになるでしょうか。パウロがこの手紙を書いているのはエペソの牢獄の中であると言われています。暖かい部屋で、おいしいものを食べながら書いているのではありません。まさに彼自身が患難の中、苦しみの中、迫害の中、飢えの中、裸の中、危険の中、剣の中に置かれていると言うことです。それにも係わらず、パウロの心の中にはキリストへの熱い思いが満ちあふれていました。それはキリストの愛がパウロに迫っていたからなのです。このキリストの愛から引き離すものは何も無いとパウロは自分の体験を踏まえて、実存的に告白しているのがこの御言葉です。
患難や苦難を喜ぶ人はいません。患難にあうくらいなら、信仰など捨てたほうが良いと思う人もいるでしょう。しかし、パウロの場合、キリストの愛が迫っているので、どんな大きな患難であれ、迫害であれ、信仰を捨てることはないと言い切っています。そして、その言葉通りに、AD63年頃のことですが、ローマにおいて本当に殉教の死を遂げています。
残念ながら、パウロの殉教の記録は残されていません。聖書にもありませんし、外典にも、その他の古代文献にも記録されていません。しかし、殉教したらしいという仄めかす文章はパウロの手紙だけでなく、使徒行伝や、その他の外典・偽典にもたくさん載っています。
ちょうどその頃は悪名高い・ノートリアスな皇帝ネロの時代でした。パウロがローマの市民権を持っているとか、死に値する罪は何も犯してないなどのことはまったく考慮されることなく、処刑されてしまったのでしょう。とても残念で、腹立たしいことです。しかし、この非常に残念な出来事でさえも、神の御手の中で起きたことですから、私たちは受け入れざるを得ません。おそらく、殉教したパウロ自身も喜んで、誇りを持って死に臨んだはずです。
パウロはピリピ人への手紙の中で(2:17)このように述べています。(新改訳)「たとい、私があなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。」新改訳はどうも日本語としてよくわからないので、この節は口語訳で引用してみます。「たとい、あなたがたの信仰の供え物を捧げる祭壇に、私の血を注ぐことがあっても、私は喜ぼう。」
パウロは自らの殉教を予感していたのです。そして、それを喜んでいたと言うことはすごいことではないでしょうか。それもこれも、キリストの愛がパウロに迫っていて、キリストの愛ゆえに、どんな患難も苦難も厭わない、強い決意を持っていたからなのです。
ここで、パウロははっきり書いていませんが、なぜパウロがそこまで言えるのかという原因、もしくは理由というものがあります。その原因・理由をパウロは他の箇所で説明しているので、補足して、付け加えておきますが・・・、ただ、キリストの愛があるから患難や苦難に耐えられるというのではありません。神のアガペーの愛は尊いものです。しかし、愛だけでは患難の中で逃げ出してしまうでしょう。
キリスト教以外の神様も人間に愛を注いでいます。天理教の神様は親の愛をもって人々を愛していると教えています。浄土宗では阿弥陀様という仏が人々を慈悲の心で暖かく迎えてくださるとのことで、この慈悲とは愛のことだと解釈して差し支えないでしょう。どの神様も人間を祝福し、恵みを与え、愛を注いでくださるのです。
そういう愛も悪いものではありません。感謝をもって、喜んで受け取って良いのです。しかし、キリストの愛はただの愛ではありません。それはキリストご自身もまた患難を経験され、苦難を担い、迫害され、飢え、乾き、危険な目に遭っていることです。
キリストは、天の上にいて、下界を見下ろし、「人間は可哀想、助けてあげなければ」と言っているのではありません。自ら地の上に立たれ、人間として、人間と同じ苦しみを体験され、いや、どんな人間も経験しないような、人類最大の苦難である十字架を体験されたお方だと言うことです。そういうキリストの愛があるので、パウロは患難を堪え忍ぶことが出来るのです。
パウロは自らの患難をひとりで堪え忍んでいるのではありません。キリストがパウロの傍にいて、パウロとともに苦しんでくださっているのです。その苦しんでいるキリストの臨在を感じて、パウロは「キリストの愛」という言葉を使っているのです。
キリストが十字架にかからなくても、ある程度の愛の香りをかぐことはできるでしょう。しかし、はたして、キリストが神の御子として、天のある神の右の座に座り続けて、地上に降りてこなかったとしたら、どういうことになっていたでしょうか。
神の御子はたとえ、天の上にいても神の御子ですから、褒め称えられるべきです。また、信じられるべきお方です。また、礼拝されるべきお方です。しかし、それではパウロの言うローマ人への手紙8:35は成り立ちません。キリストの苦難がパウロの苦難より前にあるから、パウロはキリストの愛から離れることは出来ないと告白できたのです。
そういうわけで、神の御子イエス・キリストがこの世にこられるということがいかに偉大な出来事であったかを理解することが出来るのではないでしょうか。
神の御子は天にいたほうが楽なのです。何でわざわざ、この世に天下る必要があったのでしょうか。それは全人類の罪を赦し、全人類の救いを完成させるためだったのです。そのためにイエス・キリストは、今から2000年前、ベツレヘムの馬小屋の中で人間としてお生まれになりました。その時、御子は神であることを止め、人間となられたのです。しかも、完全な人間となられました。ですから、苦しみ、悩み、疲れ、嘆くことの出来る人間となられたのです。もちろん、悩むことの出来る人間となったキリストは実際に悩まれ、苦しまれ、ある意味でのたうちまわって十字架に付けられたのです。何でわざわざそこまでしなければならないのかと言いたくなるほどですが、それが神のご計画、神のご意志だったということです。御子イエス・キリストは父なる神に従順であられて、父なる神に従いました。そして、全人類の苦難をひとりで背負い込み、全人類の罰もまた全部ひとりで担い、全人類の呪いも全部ひとりで引き受けてくださり、苦しみの中に死んでゆかれました。このようなキリストを見上げたパウロは悟ったのです。もはや律法を守るなどと言う小さな生き方は止めよう。このキリストの愛に生かされて、生きてゆきたい。そう思ったとき、力が湧いてきました。そして、どんな患難の中にあっても、キリストが共にいてくださることを知っているので、患難に堪え忍ぶことが出来るようになったのです。
36節でパウロはこう述べています。ここは旧約の引用ですが、「あなたがたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは屠られる羊と見なされた。」とあります。
「パウロの苦しみが屠られる羊のようだ」と述べているように読めますが、もちろん、御言葉の背後の意味としては、イエス・キリストご自身が私たちのために屠られる羊としての苦しみを担ってくださったことが教えられているのです。
キリストが先に苦しんでくださっているが故に、パウロは苦しむことが出来たのです。キリストが屠られる羊としての働きをしてくださったがゆえに、パウロも屠られる羊としての苦難を担う決意が与えられました。苦難から逃げるのではなく、苦難と真っ正面から闘う力が与えられたのです。
それゆえ37節の御言葉になります。
「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても圧倒的な勝利者となるのです。」(新改訳)
苦難から逃げている人は勝利者にはなれません。苦難と戦い、苦難を担う人は勝利者となることが出来ます。それはちょうど、キリストが十字架において勝利者となったように、そして、パウロが患難のただ中にあって勝利者となったように、私たちもまた、あらゆる患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣の中にあっても、勝利者となるのです。
たいへん面白い表現だと思うのですが、ただの勝利者ではありません。「圧倒的勝利者」となると書かれています。大勝利の勝利者になれるということです。ならば、今の私たちも、今抱えている苦難の中にあって、苦難から逃げずに、それを担ってみせて、キリストと共に、そして、パウロと共に大勝利を得ようではありませんか。
私たちの抱えている苦難はキリストほどの大きな苦難ではないので、勝利もやや小粒になりますが、それでも勝利は勝利です。キリストの苦難は太平洋の水全部ほどの大きさにたとえることが出来ます。パウロの担った苦難は学校のプールいっぱいの水の大きさにたとえることができます。それぞれ担っている苦難の大きさに比例して勝利の大きさも決まってきます。
私たちの担う苦難の大きさはコップの水一杯分の大きさにたとえることができます。コップ一杯の水・・・・、「たいした量ではない」とも言えますが、私たちにとっては「たいへんな量」です。このコップ一杯の水ほどの苦難を飲み干すというのは、青汁一杯分の苦労と言うことでしょうか。苦難の大きさは測ることが出来ませんから、これはあくまでもたとえということでしかないのですが・・・・、とにかく、自分に与えられた苦難は飲み干すべきです。飲み干すべきだと言う前に、すでに飲み込んでしまっている場合もありますが、もし、目の前に苦難があるなら飲み込むべきです。すでに体験した苦難があるなら、それを後からでも良いですから精神的に受け入れることです。そうすると、青汁と同じで、とても苦い味がしますが、しかし、そこでキリストの十字架、そして、パウロの患難との共感、共に感じることが生まれ、そして、そこに、共鳴、共に鳴るという共鳴現象が起き、愛を心に深く感じることが出来るようになるのです。
どうか、患難から逃げないようにしていていただきたいのです。患難から逃げる人は祝福されません。どうせ私たちの経験する患難は客観的には小さな苦難でしかありません。私たちにはそれはとてつもなく大きな患難、苦難かもしれませんが、キリストの苦難に比べると小さなものなのです。それゆえ、自分の持っている苦難を誇ってはなりません。苦難の大きさは関係ありません。どう見ても、キリストの苦難よりは小さいのですから、その小ささを誇ることは出来ません。しかし、小さいなりにも苦難は苦難ですから、その小さな苦難を背負わせてくださったことは誇りとすることができます。そして、その小さな苦難を自分なりに担いきったとき、神様からの栄光がそれぞれに与えられることになるでしょう。
それは苦難の大きな人には大きな栄光、小さな苦難には小さな栄光という原則により与えられますが、もうひとつの原則というのがあります。それは、神に祝されると信じている人には大きな栄光と祝福、少ししか信じていない人には少しの栄光と祝福が与えられるという原則です。ですから、私たちは与えられた苦難を逃げることなく担うことも必要ですが、この苦難の報酬は必ず与えられる。・・・大きく与えられる。祝福されると、疑うことなく信じておく必要があります。そして、信じる人には大きく与えられるのです。
私自身に与えられた担うべき苦難は、良いのか悪いのか判りませんが、世の平均的苦難よりはかなり小さいような気がします。ですから、苦難が少ないことは感謝ですが、その分だけ栄光が減ってしまうので、これは困ったことだなと思っているところです。しかし、信じ切るなら、祝福が増えるようなので、足りないところは信仰によって補うつもりで、とにかく、信じ切ることにしています。いっさいを疑わず、必ず祝福される、必ず最後には良くなる、とんでもない良いことが起きると信じています。その信仰があるので、きっと本当に信じたとおりになるはずで、そうなることを期待しているところです。
そういう目で自分自身を見つけていると、本当にとんでもなく良いことがすでに過去において起きていることを悟ることが出来、とても神様には感謝しています。
そのとんでもない良いことと言うのは、あまりにプライベートなことなので、説教では話していませんが・・・・、一度だけ言ったことがあるかもしれませんが、他の人が聞くと、どうでもよいことのように思われるかもしれませんが、とにかく、良いことが起きたことは事実なので、とても感謝しています。
そして、そのような祝福が与えられたのも、私なりの小さな苦難であるかもしれませんが、苦難から逃げることなく、今日までやってきたからであり、神様がそのような私を祝福してくださったからであることと確信しています。
そして、大切なことは、今まで祝福されたのだから、これからも祝福されるはずだと信じることです。信じて歩むならば、その信仰どおりになってゆきます。ですから、私は今後も強い確信を持って、パウロの言うように、「キリストの愛から私を引き離すものは何もない。」「最後には勝利、大勝利、圧倒的勝利が与えられる」と信じて、前進してゆこうと決意しているところです。
苦難を担うなら勝利を得るのは皆さんも同じことです。誰でも、それなりに担うべき苦難の杯が与えられています。大きい人もいれば、小さい人もいます。その杯を飲み干すとき、神様からの栄冠が与えられのですから、どうか、逃げることなく、飲み干していただきたいのです。
病気であれ、体の弱さであれ、自分の性格であれ、能力であれ、家族であれ、学歴であれ、家柄であれ、地位であれ、何であれ、すべての苦難、そして、弱さはキリストの苦難の一端、欠片、一部なのです。その欠片を担うことにより、私たちはキリストと一体となり、キリストの持っている栄光、祝福、パワーがすべて私たちに流れ込んできます。すると、出来ないことが出来るようになり、あり得ないことが起きてきます。奇跡が起きるのです。そして、すべてが赦されて、勝利を得る、圧倒的勝利者となることが出来るのです。
そのことを信じて、これからも力強く前進していただきたい、そのようにお勧めさせていただきます。
<祈り>
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