ザドク系祭司の秘密
目次
1. 序
2. ザドクという人物
2・1 サムエル記下15章
2・2 列王紀上1章、2章
3. ザドクとエルサレムの関係
3・1 メルキゼデク 創世記14章と詩篇110篇
3・2 アドニゼデク
3・3 アドニベゼク
3・4 ダビデによるエルサレム攻略
3・5ザドクはメルキゼデクの子孫か?
4. ザドクの先祖
4・1 歴代志上6章
4・2 アビヤタルの系図
4・3 エリがアロン・エレアザルの直系子孫であった証拠
4・4 系図すり替えの事情
5. ダビデ王朝内におけるザドク家の働き
5・1 歴代志上6章の系図
5・2 系図に登場しない大祭司たち
6. 帰還後の大祭司の活躍
6・1 大祭司エシュア
6・2 エリアシブ
6・3 ヤドア
6・4 オニアス1世
6・5 オニアス3世
7. エルサレムにおけるザドク系祭司の終わりとエジプトへの逃亡
8. サマリヤ教団におけるザドク系祭司
9. その他、ザドクに関係する可能性のある文献や問題点
9・1 サドカイ人とザドク
9・2 クムラン教団とザドク系祭司
9・3 ザドク派
9・4 義人とザドクとの関係
10・補足 エリがエレアザルの子孫である、さらなる証拠
1. 序
ザドクとはサムエル下8:17、歴代志上6:8などに登場するダビデに仕えた祭司の名前です。彼は、ソロモンとアドニヤの王位継承紛争の際、ソロモンを支持し、彼に油注いで王と認定した人物です。(列王上1:45)この功績から、以後、ザドクの家系から大祭司がでることになりました。また、捕囚帰還後、ユダヤ教が成立した社会の中で油注がれた大祭司として王の役割も兼ねたのがザドク家でした。つまりザドク家の歴史はイスラエルの王国の歴史であり、ユダヤ教の歴史なのです。それにも係わらず、旧約聖書の中において、ザドク、もしくはザドク家への言及はあまり多くはありません。そこには、モーセ五書成立の秘密が隠されているのですが、それはそれとして、旧約聖書が、おもに捕囚以前の歴史を扱っているからという理由もあります。ザドク系祭司は帰還後において、非常に重要な役割を果たすのですが、聖書の文献としてはエズラ・ネヘミヤ記のように、歴史資料としても、物語としても不十分なものしかありません。それ故、私たちは、旧約聖書を学ぶだけではザドクの重要性を見逃してしまうことにもなるのです。
かえって新約聖書の方がザドクの重要性を悟らせてくれます。新約聖書で、サドカイ人というグループが登場します。このグループ名は、ザドクの人々という意味から始まったという説があります。また、ヘブル書において特別に論じられているメルキゼデクと言う人物の名もザドクと関係しているように見えます。ザドクおよびザドクの家系について調べることは、旧約だけでなく、新約研究にも示唆を与えるものとなるはずです。
2. ザドクという人物
2・1 サムエル記下15章
ザドクと言う名が初めて登場するのは、サムエル記下8:17です。ここでは単にザドクが祭司であることが書かれているだけです。その他、サムエル記下15:24、19:11、20:25、また列王紀上1:7、32、2:35、また歴代志上6:8、9:11、16:39、エズラ記7:2などにでてきます。これらのほとんどは、系図か「ザドクは祭司である」という文章ですが、物語としては、ふたつのことが伝えられています。
ひとつは、サムエル記下15章です。アブサロムは父ダビデに逆らい、自ら王と称してクーデターを起こしました。ダビデはエルサレムを脱出し、荒野を転々とします。この時、ザドクの子アヒマアズと、もう一人の祭司アビヤタルの子ヨナタンはダビデとの連絡係りになりました。(サムエル記下15:36)やがて戦いが激しくなり、息子であり、敵でもあるアブサロムは将軍ヨアブに殺されます。この良き知らせをザドクの子アヒマアズはダビデに一刻も早く知らせようとしますが、ヨアブはそれを許しません。そのかわり、外国人を使いとしてたて、「あなたの見たことを王に伝えなさい。」と命じました。彼は走りだしました。アヒマアズは無理に願って、あとから走りだしました。走っているうちに伝令を追い越し、先にダビデに会い、軍の勝利を告げました。ダビデは「わが子アブサロムは平安ですか。」と尋ねます。それに対して「何か大きな騒ぎがありましたが、何事であったか知りません。」と答えています。まもなく伝令が到着します。彼は「わが君よ、あなたに良きおとずれを持ってきました。あなたの敵アブサロムは殺されました。」と伝えました。するとダビデは非常に悲しみ、奥の部屋に入って「わが子、わが子、アブサロムよ。ああ、私が代わって死ねばよかったのに。」と言って嘆く場面があります。ダビデにとっては嬉しい勝利ではなかったでしょうが、この戦いで、ザドクの子アヒマアズが大きな役割を果たしたことがわかります。
2・2 列王紀上1章、2章
ダビデの死が近づくと、宮廷内に権力闘争が始まりました。アブサロム亡き後、誰がダビデ王を継ぐかは明らかではありませんでした。そこでアドニヤは軍の長ヨアブと祭司アビヤタルを味方に引き入れ、王になろうとしました。それに対して、ソロモンは、預言者ナタン、エホヤダの子ベナヤ、祭司ザドクの支持を受けました。死の床にあったダビデはバテシバの願いにより、ソロモンを後継者として指名します。このため、アドニヤ側の人々は退けられ、アドニヤとヨアブは殺され、祭司アビヤタルはアナトテに追放となりました。これにより、ザドクが唯一の祭司としての権威を確立することになります。
3. ザドクとエルサレムの関係
3・1 メルキゼデク 創世記14章と詩篇110篇
ザドクとエルサレムの関係を示唆するのはメルキゼデクの存在です。メルキゼデクは旧約聖書の中で、わずか創世記14:18と詩篇110:4にしか登場しません。外典にも名前が見あたりません。おそらく、ユダヤ教内部においてはマイナーな人物であったはずです。しかし、ヘブル書でキリストを指し示す人物として詳しく論じられているところから、彼の名前は有名となりました。なぜ、ヘブル書はメルキゼデクを持ち出したのか。それは、いくらメルキゼデクがマイナーな存在であったとしても、一部に崇拝者がいたからではないかと推測されます。
メルキゼデクがエルサレムの王であったことは創世記14章で明言されています。メルキゼデクはアブラハムの時代、エルサレムの王としてカナン地方で力を持っていました。この時、メルキゼデクはアブラハムと同盟関係にあったようで、アブラハムの勝利を祝して、パンとぶどう酒を持ってきたことが書かれています。14:18に「サレムの王」と書かれていますが、これはエルサレムの事です。また、メルキとはヘブル語で王のことです。ゼデクとはザドクと同じ単語で義を意味します。つまり、義なる王、これがメルキゼデクです。
詩篇110篇4節はヘブル書にも引用されているがゆえに、有名な箇所となっていますが、単独では何のことなのか理解不能の言葉です。「メルキゼデクの位に従う」とは何を意味するのでしょうか。位(DBRTY)とはギリシャ語(LXX、および新約ヘブル書7:11での引用)ではタクシス【ギtaxis】となっています。英語では order または succession と訳すことが出来ます。これは家系という意味に解釈すべきではないでしょうか。「メルキゼデクの家系に従った祭司」とは何を意味するのか、聖書を読むだけでは明らかになりません。しかし、ザドクの家系を調べると、このことについてもヒントが与えられます。
3:2 アドニゼデク
旧約聖書にはメルキゼデクからダビデまでの間にも、エルサレムに関係する記事が載っています。ひとつはヨシュア記10:1です。ここにエルサレムの王アドニゼデクが登場します。彼は、アモリ人の王と連合してヨシュアと戦っています。この頃、アブラハムとの同盟関係は忘れられていたのでしょう。戦いの結果、アモリ人連合軍はヨシュアの前に敗れ、王はマッケダの洞穴の中で殺されました。
15:63では、「ユダの人々は、エルサレムの住民エブス人を追い払うことができなかった。」と書かれています。エブスとはカナン人の一部族で、創世記10:15ではハムの子カナンの第三子とされています。18:28では、「エブスすなわちエルサレム」と書かれていますので、エルサレムを中心とする部族であったと思われます。ヨシュアがカナンに侵入したとき、イスラエルはエルサレムに勝利したことはあったにしても、町そのものを攻略することはできなかったようです。
3・3 アドニベゼク
その後、ヨシュア記18:28でエルサレムはベニヤミンに与えられた町として名前が載っています。しかし、士師記1:21に「ベニヤミンの人々はエルサレムに住んでいたエブス人を追い出さなかったので、エブス人は今日までベニヤミンの人々と共にエルサレムに住んでいる。」と書かれています。また、後にダビデがエルサレムをエブスの町として攻略しているので、ベニヤミンの影響力は少なかったのではないでしょうか。おそらく、エルサレムにベニヤミン族の人々が住み着いたとしても、実権を握ってはいなかったのでしょう。
士師記1:5に登場するアドニベゼクの時代、エルサレムはエブス人の町でした。ここに登場するアドニベゼクは、カナン人の王として登場します。おそらく、アドニゼデクの子孫と思われます。ユダ族は彼と戦い、撃ち破り、彼を捕らえ、「手足の親指を切りはなった。」と書かれています。その後、「人々は彼をエルサレムへ連れて行ったが、彼はそこで死んだ。」と書いてあります。続いて「ユダの人々はエルサレムを攻めて、これを取り、剣を持ってこれを打ち、町に火をはなった。」とあります。しかし、この時エルサレムがユダの町になったのではなさそうです。
このように、エルサレムはエブス人の町であり、その王はおもにイスラエルの敵として登場します。メルキゼデクはアブラハムの友でしたが、その子孫はカナン人として征服の対象と見られていたのでしょう。
3・4 ダビデによるエルサレム攻略
エルサレムがイスラエルにより征服されるのはダビデ王によってです。サムエル記下5:6、および歴代志上11:4には、ダビデがイスラエル全体の王となった後、エブス人の町であるエルサレムを攻め、これをダビデの町にしたことが記録されています。ダビデは、まず交渉によりこの町を手に入れようとしました。それに対して「あなたは決して、ここに攻め入ることはできない。かえって、めしいや足なえでも、あなたを追い払うであろう。」という挑戦的な答えが返ってきました。そこで、ダビデは町を攻め、水を汲み上げる縦穴から町に侵入し、それにより町を攻略しました。(サムエル記下5:6)その後、「ダビデは城壁を築いた。」と書かれていますが、おそらく、城壁そのものは前からあったはずですから、城壁を拡張したということでしょう。
この戦闘で、多くのエブス人は殺されたことでしょう。しかし、全ての住民が殺されたわけではないことを、私たちはウリヤの妻バテシバ物語から知ることになります。ウリヤはダビデに仕える軍人ですが、ヘテ人とされています。ヘテ人とは古くからカナンに住むカナン人のひとつです。カナン人もダビデに仕えることが出来たという事実がここで明らかになります。また、ウリヤの妻バテシバもイスラエル人ではなかった可能性があります。これは推測ですが、サムエル記下5:13によると、ダビデはエルサレムでも新たに妻とそばめを入れ、息子と娘が生まれたと書かれています。ここにソロモンの名が見えるので、ソロモンの母バテシバはエルサレム出身者である可能性が出てきます。エルサレムというカナン人の町の出身ということは、カナン人であるということになります。また歴代志上2:3に「カナンの女バテシュア」という名が見えます。ダビデの妻バテシバとは別人ですが、バテシュアとはおそらくバテシバと表記の違いだけでしょう。バテシバとはカナン人の名と考えることが出来ます。このこともバテシバがカナンの女である推測を支持します。とすると、ソロモンは、ダビデとカナンの女との間に生まれた子ということになります。
そもそも、ダビデ自身が純粋なイスラエル人ではありませんでした。彼の先祖は歴代志上2:1、ルツ記4:18に書かれています。それによると、ユダ、ペレツ、ヘヅロン、ラム、アミナダブ、ナション、サルマ、ボアズ、オベデ、エッサイ、ダビデと続きます。ルツ記によると、ルツはモアブの女でしたが、不思議な導きで、ダビデの祖先の一人となっています。このような混血は、ダビデの時代、けっして珍しいものではなかったはずです。ダビデは、モアブとの姻戚関係を利用し、サウルから逃れるにあたって、両親をモアブの王に預けています。(サムエル記22:3)ダビデ自身の血の中に外国人の血が入っているのですから、ダビデがイスラエルの血に固執する考えを持つはずがありません。彼の妻や妾だけでなく、部下にも多数のカナン人が入り込んでいたのも当然でしょう。バテシバがエブス人であり、ダビデが彼女を妻としても、当時の状況では誰も違和感を感じなかったはずです。ソロモンも正統な王位継承権をもつ子供として生まれてきたのです。
3・5 ザドクはメルキゼデクの子孫か?
さて、ザドクとメルキゼデクの関係ですが、ザドクが聖書の登場するのがダビデのエルサレム攻略以降であること、名前がエルサレムの王名と似ていることなどから、ザドクはメルキゼデクの子孫ではないかというアイデアが浮かびます。しかし、歴代志ではザドクはアロンの子孫となっています。レビ記では、祭司はアロンの子孫でなければならないことになっています。もし、ザドクがメルキゼデクの子孫ならば、カナン人ということになり、大祭司として相応しくないことになるのではないでしょうか。・・・とは言うものの、ザドクがアロンの子孫でない状況証拠がいくつか見つかります。ダビデ王朝でザドクと対立した祭司アビナダブこそがアロンの子孫である可能性が高いのです。
この謎に満ちた困難な問題を整理するために、個々の問題についてもう少し詳しく検討してみることにしましょう。
4. ザドクの先祖
4・1 歴代志上6章
もし、ザドクをエルサレム王、メルキゼデクの家系とすると、ザドクはカナン人と言うことになります。しかし、聖書に載っているザドクの系図は、レビ人、しかもアロンの直系となっています。この矛盾を私は以下のように説明しようと考えます。真実の伝承をさぐる推理の鉄則は、都合のいい伝承は後から付け加えられたものであるということです。つまり、アロンの子孫であることは誇りとすべき事ですので、これが後から付け加えられたものと見なすことになります。ザドクがカナン人の出であることは都合の悪いことですから、なるべく隠されます。しかし、その痕跡が残ってしまうのです。
ザドクの先祖については歴代志上6:1、50、9:10などに書かれています。この先祖表は作為的なものであるといわざるをえません。これによるとレビ、コハテ、アムラム、アロン、エレアザル、ピネハス、アビシュア、ブッキ、ウジ、ゼラヒヤ、メラヨテ、アマリヤ、アヒトブ、ザドクとつながります。この中で、旧約聖書に物語として登場するのは、ピネハスまでであって、後は名前だけが伝えられています。アビシュア、ブッキなどが何をしていたのか、聖書はなにも語っていません。しかし、この系図さえあれば、ザドクはイスラエルの中で、アロンの直系として権威ある家柄となることができるのです。
私としては、この系図は、後にザドクの権威が確立した後、アビヤタルの家系図を買い取るか、だまし取るかして手にいれたものではないかと考えます。その理由は、アビヤタルこそイスラエルの祭司としては本流ですし、それだけ立派な系図を持っていたと思われるからです。系図を作ることは、たとえ偽物を作るとしても、容易なことではありません。根拠がまったくないものならば、作った時代の人々にも信用されないからです。
ここで参考になるのは、戦国大名の系図作成のやり方です。戦国大名のほとんどは、名もなき庶民の出身であり、系図を持つ家柄の人はいませんでした。しかし、ある程度の成功をおさめた後、立派な系図が欲しくなったようで、それぞれ昔の天皇家の子孫に繋がる家系図を作りました。その作り方としては、先祖の名前を自分勝手に創作するというのでなく、すでにある由緒ある家系図をもらって来る(つまり、買い取る)というやり方だったようです。
同じ事をザドク家もやったのではないでしょうか。目の前にはアロンの子孫といわれるアビヤタルの子孫たちがいました。その系図を勝手に使うことは出来ません。しかし、事情が許すならば、それも可能になったはずです。その間の事情について、聖書にはある暗示が残されているのです。
4・2 アビヤタルの系図
アビヤタルの家系については、あちこちの記事を纏めると、次のようになります。
アビヤタルがシロの祭司エリの家系であることはほぼ確実です。列王紀上2:27でアビヤタルは祭司職を解かれ追放されますが、このとき「こうして主がシロでエリの家について言われた主の言葉が成就した。」とのコメントがついています。アビヤタルがエリの子孫でなければ、この言葉は意味を持ちません。また、親子関係のつながりを調べても、シロの祭司エリに行き着きます。アビヤタルの父はアヒメレクでした。(サムエル上22:20)アヒメレクは、アナトテ近くのノブの祭司でしたが、サウル王から逃れるダビデを助けたかどにより、サウルに殺されています。(サムエル上21章、22章)アヒメレクはアヒトブの子でした。(サムエル上22:9)アヒトブはサムエル記上14:3に出てくるアヒトブと、確証はありませんが状況からして同一人物とみなしてよいでしょう。もしそうだとすると、預言者として北イスラエルで活躍するアヒヤとアヒメレクは兄弟と言うことになります。アヒトブはイカボデの兄弟となります。「アヒヤはアヒトブの子、アヒトブはイカボデの兄弟、イカボデはピネハスの子、ヒネハスはシロにおいて主の祭司であったエリの子である。」(サムエル上14:3)と書かれています。ですから、アビヤタルはエリの子孫となります。
つまり、エリ、ピネハス、アヒトブ、アヒメレク、アビヤタルとつながります。この系図と歴代志上6章のザドクの系図を比べると、いくつかの類似点が見えてきます。まず、同名の先祖がいることです。ピネハス、およびアヒトブです。歴代志のピネハスとエリの子ピネハスとは別人物と旧約聖書は認識しています。しかし、資料の段階での混同は有り得る事です。またアヒトブはアビヤタルの祖父になりますが、ザドクの父の名はアヒトブです。これは偶然でしょうか。また、エリはイスラエル人であり重要な役割を果たしたわりには、エリの先祖についての記述がありません。これは異例の事です。おそらく資料にあった記述をなんらかの理由で削除したとしか言い様がありません。その削除の理由こそ、エリの先祖表がザドクの先祖表として使われているからです。この結論はいくつかの推測を積み重ねたものですが、状況証拠はいくつもあります。
4・3 エリがアロン・エレアザルの直系子孫であった証拠
まず、エリがサムエルの教育者として当時権威ある者であったことは事実です。彼はシロの神殿の祭司であり、神の箱の管理者でした。つまりイスラエル統合の象徴である神の箱を握っていたのです。
当初、神の箱はレビ人に担がれ、荒野における聖所として宗教儀式の中心をなしていました。また、戦いの場にも担ぎだされていたようです。エリコ攻略の時、人々は神の箱を担いで、7日間にわたり城壁の周りを巡り歩きました。(ヨシュア記6章)イスラエルはカナン征服が一段落したのち、シロに集まり、神を礼拝し、部族ごとの領土を確認しました。おそらくこの時、神の箱はシロに置かれたはずです。(ヨシュア記18:1)その後、ベテルに移され、(士師記20:26)いつの頃かまたシロに戻されたようです。エリとサムエルの時代には、神の箱はシロに置かれています。サムエル記上4章では、シロから担ぎ出された神の箱が、ペリシテ人に奪われてしまう物語が載っています。この時、エリの二人の息子たちは神の箱の側にいましたので、二人とも殺されてしまいました。ペリシテ人は神の箱を自らの神殿に置きますが、神の箱の崇りで大きな災いにあいます。それで、神の箱をイスラエルに返すことになりました。
この時、神の箱はキリアテ・ヤリムに置かれます。(サムエル上7:1)なぜ、シロに戻さなかったのか、理由は書かれていませんが、おそらくこの時、シロは町として破壊されていて、神の箱を置くことが出来なかったのでしょう。また、その頃、サムエルが士師として全権を握っていましたので、エリの権威が残るシロへ戻すことをサムエルが拒んだのかもしれません。ちなみに、サムエルが重んじた町は、ミヅパであり、ベテルであり、ギルガルでした。(サムエル上7:15)サムエルはシロの神殿で育てられたことになっていますが、預言者となってからは、シロに赴いたことは記録されていません。やがて、ダビデが王とされた後、神の箱はエルサレムへと担ぎ移されました。まるで日本のお御輿のような騒ぎであったことがサムエル記下6:12に書かれています。この時、ダビデが人々の前で舞い踊るのを見たサウルの娘ミカルは、ダビデを軽蔑し、そのことから関係が壊れ、離婚とまではいきませんでしたが、家庭内別居となっています。その後、アブサロムの謀反の際、祭司アビヤタルとザドクはこの箱を担いで、ダビデと行動をともにしようとしますが、ダビデによりエルサレムへ帰らされます。その後、バビロニヤにより滅ぼされるまで、神の箱はエルサレムから動くことはありませんでした。そして、おそらく、捕囚の際、神の箱はバビロニヤ軍によって破壊されたものと思われます。なぜなら、バビロニヤ軍にとっては神の箱はただの箱であり、中に収められていたものが金や銀であるならまだしも、石の板であったとすると、バビロンに持ち運ぶ価値を見いださなかったはずだからです。すでに無くなっていましたので、エシュアもゼルバベルも神の箱をエルサレムへ戻すことはできなかったのです。
さて、神の箱を守ってきたのはエレアザルであり、ピネハスでした。この伝統を守ったのがエリの家系でした。ということは、歴代志上6章のアロン、エレアザルの家系に近いことを実践したのがエリということになります。このことからも、エリこそアロンの子孫にふさわしいといえます。ところが聖書はザドクをアロンの子孫とし、エリの先祖表を伝えていません。となると、エリの先祖表がザドクに移されたということです。いったい何がそうさせたのでしょうか。
4・4 系図すり替えの事情
後に、ザドクはエレアザルの子孫、アヒメレクはイタマルの子孫として位置づけられます。(歴代志上24:3)おそらくアヒメレクこそエレアザルの子孫でしょうから、この系図の変更はアヒメレクの子孫にとってかなり大きな痛みをともなったものと思われます。ソロモンによりアヒメレクの子、アビヤタルが追放されて以来、アビヤタルの子孫たちは祭司職から退けられていたはずです。ところが歴代志上24:3を見ますと、アヒメレクの子孫も祭司職についているように見えます。24:6「すなわちエレアザルのために氏族一つを取れば、イタマルのためにも一つを取った。」と書かれています。追放されたわりにはずいぶん優遇されている印象を受けます。その理由は、私の想像ですが、アビヤタルの子孫たちが祭司職を得るために、系図をザドク家に売ったのではないでしょうか。
サムエル記上2:35に不思議な言葉があります。
私は自分のために、一人の忠実な祭司を起こす。その人は私の心と思いとに従って行なうであろう。私はその家を確立しよう。その人は私が油注いだ者の前に常に歩むであろう。そしてあなたの家で生き残っている人々は皆来て、彼に一枚の銀と一個のパンを請い求め、「どうぞ、私を祭司の職の一つに任じ、一口のパンでも食べることが出来るようにしてください」と言うであろう。
ここに出て来る一人の祭司とはザドクであると解釈できます。油注がれた者とは、ユダの王、ダビデかソロモンでしょう。ザドクは神の心と思いに従って歩むので、神はザドクの家系を確立するということです。一方、エリの家系、つまりアビヤタルの子孫の生き残っている人々は祭司の職がないので貧乏のどん底で、なんとか生きていくかてを求めて、ザドクに頼みにくるということです。この交渉がまとまり、「エレアザルの子孫に一つを取れば、イタマルの子孫にも一つを取る」という結果となりました。エリ、およびアビヤタルにとって大変有利な条件が受け入れられたと言うことです。当然その背後には、それなりのメリットがザドク側になければなりません。それこそ、系図の売り渡しだったと考えることはできないでしょうか。一つの可能性として検討に値すると思います。
5. ダビデ王朝内におけるザドク家の働き
5・1 歴代志上6章の系図
ダビデ王朝内でザドクがどのような過程で祭司の役割を担うことになったのかは、サムエル記には何も書かれていません。おそらく、エブス人をダビデに服従させるという約束で、ザドクはダビデの側近に招き入れられたはずです。ところが、祭司としてはすでにアビヤタルが働いていました。ザドクはあえて強く祭司職を求めたのでしょう。ダビデもこだわる人間ではありませんでした。そこで祭司が二人になったのでした。ここから、ザドクとアビヤタルの隠れた権力闘争が始まりました。
ザドクは一度も大祭司とは呼ばれていません。(付記・・・大祭司という用語がいつから使われるようになったか、祭司長という単語とどういう関係にあるかという問題は、それ自体、大変複雑な事情を抱えています。この論文では、大祭司も祭司長も同じことという前提で説明させていただきます。)おもに祭司ザドクとして言及されています。ザドクのライバル、アビヤタルも祭司と呼ばれています。どちらも同等の権威を持つ祭司であったという印象を受けます。また、二人以外の人物も祭司とされている箇所がありますが、たとえばサムエル記下8:18ではダビデの子たちが祭司とされていますが、これらの祭司は、下級祭司か別の役割を持つ祭司であって、ザドクやアビヤタルに並ぶものではなかったはずです。それ故、理解の都合上これを二人祭司制と呼んでおきましょう。軍の長が二人いたら、軍隊も混乱するでしょう。国に総理大臣が二人いては困ります。大祭司が二人いることも、困ったことです。しかし、ダビデは二人を同等に扱うことにより、平和を保たせていました。
ダビデの死後、ソロモンとアドニヤは王の地位をめぐって激しい権力闘争を繰り広げました。この時、ソロモンを支持したのが、祭司ザドクであり、軍人ベナヤでした。アドニヤを支持したのが祭司アビヤタルとヨアブでした。結局ソロモンが権力を握り、アビヤタルは祭司職から追放され、ヨアブはベナヤによって殺害されます。列王紀上2:35に「王はエホヤダの子ベナヤを、ヨアブに代わって軍の長とした。王はまた、祭司ザドクをアビヤタルに代わらせた。」と書かれています。「アビヤタルに代わらせた」とは言うものの、ダビデの在世中、ザドクがアビヤタルの下に立っていたと言うことではないでしょう。
列王紀にはザドクの家系図は示されていません。歴代志上6章に系図が載っていますが、かなりの混乱があるようです。歴代志6:8によると、ザドクの子孫の名は次のようになっています。
アヒトブはザドクを生み、ザドクはアヒマアズを生み、アヒマアズはアザリヤを生み、アザリヤはヨハナンを生み、ヨハナンはアザリヤを生んだ。このアザリヤはソロモンがエルサレムに建てた宮で祭司の務めをした者である。アザリヤはアマリヤを生み、アマリヤはアヒトブを生み、アヒトブはザドクを生み、ザドクはシャルムを生み、シャルムはヒルキヤを生み、ヒルキヤはアザリヤを生み、アザリヤはセラヤを生み、セラヤはヨザダクを生んだ。ヨザダクは主がネブカデネザルの手によってユダとエルサレムの人を捕らえ移されたときに捕らえられて行った。
ザドクの名が2回登場しますが、後のザドクは神殿建設の後ですので、ダビデ王時代のザドクではありません。写本の間違いではないかとの説もありますが、親の名を子が引き継ぐことも多々ありましたので、写本間違いとは言いきれません。LXXも基本的に同じです。もし写本間違いが起きたとするなら、それはLXX成立前、つまり前200年以前ということになります。歴代志の最終的完成はかなり後期と推定されていますので、本文確定の後すぐに写本の間違いが生じたと説明するのはかなり困難です。とすると、本文確定の時から、こうなっていたと考えることが自然でしょう。もっとも、歴代志の編者の使った資料に誤記があったとみることも可能です。この系図にはわざとらしいところがいくつかありますので、意図的な作為と資料段階の写本上の誤りが混在しているのかもしれません。
歴代志上6章で問題になるのは、ソロモン時代に祭司を務めたのがザドクから数えて5代目のアザリヤであることです。これはソロモンが2代目であることと比べると余りにも不自然です。これは、アヒマアズの子の名前もアザリヤですから、著者か伝承者が誤解して先のアザリヤと後のアザリヤを取り違えたのだとする説明をすぐ思い付きます。列王紀上4:2では、「ザドクの子アザリヤは祭司」とありますので、混乱があることは間違いありません。また、ダビデから、捕囚までがおよそ420年あるのに対し、ザドクからヨザダクまで13代しかないことは、やや少ないかとの印象を与えます。このあいだにユダの王は20人いたことと比べますと、何人かの大祭司が抜け落ちているのではないでしょうか。ただし、たとえ抜け落ちていたとしても、ザドク家の歴史を書き換えるような大問題ではありません。
列王紀、歴代志を通じて、ザドクの子孫で活躍したことが記録されている人物はごくわずかです。ザドクの子アヒマアズは、ダビデ王におとずれを告げるために走った人物でした。(サムエル記下18章)祭司としての役割を果たしたとは記録されていませんが、おそらくザドクをついで祭司となったはずです。アザリヤも「ザドクの子」(列王紀上4:2)となっていますので、アヒマアズの兄弟ということでしょうか。彼はソロモンに仕えて新しい神殿において祭司の務めを果たしています。ヨハナンとその子アザリヤについては系図以外のことは伝えられていません。6:11のアザリヤの子アマリヤについては、歴代志下19:11に登場する「祭司長アマリヤ」のことでしょうか。ヨシャパテの時代となっていますので、前860年前後のことです。
アヒトブ、ザドク、シャルムについてはほとんどなにも知られていません。歴代志上9:10にあるザドクの家系図ではアヒトブ、ザドク、メシュラム、ヒルキヤ、アザリヤとありますので、シャルムとメシュラムは同一人物と考えられています。歴代志下27:1の「母はザドクの娘で名をエルシャと言った」という文章が見られますが、このザドクはダビデ王時代のザドクの子孫という意味にもとれますし、一人の人間としてその時代にザドクという名の人物がいたという解釈も可能です。もし後者とするなら、27:1のザドクは歴代志上6:12のザドクと解釈できる可能性もでてきます。ヨタム王の祖父に当たりますので、活動年は前800年頃と言うことになります。
ヒルキヤについては、いくつかの言及がみられます。彼はヨシヤ王に仕え、主の宮で律法の書を発見した人物で、列王紀下22:4、8、23:4、24、歴代志下34:9などに登場します。これらの箇所のいくつかでは「大祭司ヒルキヤ」と書かれています。前640年頃の人物です。ヒルキヤの子アザリヤは、ヒゼキヤ王に仕えた、「ザドクの家から出た祭司長アザリヤ」(歴代志下31:10)と同一人物とは言えません。歴代志26:17では、ヒゼキヤより60年ほど前のウジヤ王に仕えた「祭司アザリヤ」なる人物が登場しますが、別人のアザリヤか、もしくはなんらかの混乱があるのかもしれません。おそらく何人ものアザリヤがいたものと考えられます。
セラヤ、ヨザダクはバビロン捕囚時に辛苦をなめた人物です。セラヤは列王紀下25:18で祭司長と呼ばれています。彼は、エルサレム市民60人と共にバビロン王(ネブカドネザル)によりハマテの地、リブラで処刑されてます。(列王紀下25:18、エレミヤ52:24)ヨザダクについては特に何も書かれていませんが、エホヤキン(エコニヤ)と共にバビロンに連行されたものと思われます。そこで帰還後に活躍するエシュアの父となったのでした。
5・2 系図に登場しない大祭司たち
歴代志上6章に名の見えない人物で、他の書物に登場する大祭司たちは、ヒゼキヤ時代のアザリヤをのぞいて、ザドク系かどうか明らかではありません。しかし、家系を重んずる南ユダ王国の伝統からすれば、ザドクの子孫と解釈して間違いないでしょう。
歴代志下17:8に登場する祭司エリシャマは系図がありませんので、ザドク系かどうかわかりませんが、ザドクの子孫である可能性が大きいと言えます。
列王紀下12:7にヨアシ王(前837ー800)に仕えた祭司エホヤダが登場しますが、列王紀はエホヤダの家系については語っていません。エホヤダは、ヨアシ王が献げ物の銀により神殿を修理せよとの命令を出しましたが、それになかなか従わなかったことが書かれています。エホヤダの子ゼカリヤがヨアシ王の命令により殺されたことは歴代志下24:20に書かれていますが、列王紀にはありません。
歴代志下26:17で、祭司アザリヤは王、ウジヤが祭司でないにもかかわらず神殿に入り、香を焚こうとするのをとがめ、王の怒りをかいます。ところが王が香を手に取ると、神に撃たれ、らい病になってしまいます。この話しは列王紀にはありません。王が祭司の役目をするかどうかは、サムエルとサウル王の時も問題となっていますし(サムエル上13:8)、ダビデの子たちも祭司として紹介されています。(サムエル記下8:18、 注、付記・・・サムエル記下20:26では「ヤイル人イラはダビデの祭司」と書かれています。歴代志下8:12ではソロモンが祭司の働きをしています。)王が祭司の役を勤めるという伝統が一部にあったものと思われますが、それを批判する勢力もまた昔からありました。列王紀下16:12のアハズ王と祭司ウリヤの話しでは、ウジヤ王の物語と異なり、アハズ王が積極的に祭司の役割も果たしています。
列王紀下16:10に祭司ウリヤが登場します。彼の名はイザヤ書8:2にも見えます。彼はアハズ王の命により、アッスリヤの習慣にまねて祭壇を作り替えた人物でした。彼もザドクの子孫だったのでしょう。ウリヤという名はヘテ人ウリヤ(サムエル記下11:6)と同じで、家系的には純粋のイスラエル人でない可能性があります。ということはザドク系である可能性がより大きいことになります。
歴代志下31:10で、ヒゼキヤ王(前715ー687)時代の祭司長アザリヤの名が見えます。彼はザドクの家の者とされていますが、歴代志上6章の系図に登場しません。すでに説明したことですが、ヒルキヤの子アザリヤはヒルキヤがヒゼキヤ王の孫のヨシヤ(前640ー609)に仕えていますので、ヒゼキヤ時代のアザリヤとは別人物と判断されます。このアザリヤが傍系であったゆえに系図に名が無いという説明も可能ですが、ヒルキヤの祖父であったアザリヤの名が単に抜け落ちた可能性もあります。
エレミヤ書の中にも何人かの祭司の名が記されています。20:1に「祭司インメルの子、主の宮のつかさの長であったパシュル」が登場します。パシュルはエレミヤを迫害した人物ですが、その父インメルがどのような人であったかは書かれていません。エレミヤ時代の大祭司がセラヤであったことは、列王記、歴代志の記述から間違いないことと思われます。エレミヤと同時代のパシュルの父ですからセラヤの父がインメルだったのでしょうか。どうもそのような印象は受けません。インメルは下級祭司と考えることもできます。しかし、少なくともセラヤの親戚であり、ザドク系の祭司ではあったはずです。ただ、困ったことに、エレミヤ21:1に「マルキヤの子パシュル」という人物が登場します。この人物と「インメルの子パシュル」とは別人物なのでしょうか。それとも、単なる書き間違いなのでしょうか。判断に迷うところです。
エレミヤ21:1に、祭司マアセヤの名が見えます。彼もエレミヤと同時代のゼパニヤの父であり、インメルと同時代の祭司であったはずです。とすると、インメル同様に大祭司ではなく、一般の祭司であったのでしょうか。29:25ではゼパニヤも祭司と呼ばれています。ゼパニヤは列王紀下25:18で「次席の祭司ゼパニヤ」とありますので、マアセヤも次席祭司であったかもしれません。「主は祭司エホヤダに代わってあなたを祭司とし、主の宮をつかさどらせる。」とありますが、この祭司エホヤダの名は、列王紀、歴代志には見あたりません。列王紀の文脈で考えますと、エホヤダは前597年の第一次捕囚の時にバビロンに連れて行かれたのかもしれません。
6. 帰還後における大祭司の活躍
6・1 大祭司エシュア(ヨシュア、ギリシャ語の表記はイエス)
エシュアは、帰還後、エルサレムを復興した人物です。彼は、エズラ3:2、5:2などでヨザダクの子とされています。彼は前522年、ゼルバベルと共に第二次帰還のメンバーとしてエルサレムに帰りました。この時の指導者はゼルバベルでした。ゼルバベルはシャルテルの子(エズラ3:2など)とされていますが、歴代志上3:19によりますと「ペダヤの子らはゼルバベルとシメイである」となっています。ペダヤとはシャルテルの兄弟ですので、どこか誤解か混乱があるようです。どちらにしても、バビロンに連れて行かれたエホヤキン(エコニヤ)の孫にあたり、ユダ王朝の直系の子孫だったことは確かです。ゼルバベルの肩書が王ではなく、総督であったことがハガイ2:21からわかります。ペルシャの政策は、各国を独立させることではなく、以前の王の家系の人物を使い、より統治しやすい行政形態を目指していたのでしょう。後にゼルバベルが人々の期待を集めすぎたのか、もしくは王となろうとしたのか、原因はわかりませんが、ペルシャ政府はゼルバベルを解任し、彼はいつのまにか歴史の舞台から消えてしまいます。(注・・・もっともゼルバベルの子孫の名が歴代志上3:19fに載っていますので、彼の子孫はエルサレムに住み続けたのかもしれません。)残ったのはザドクの家系のエシュア一人でした。ハガイと同時代のゼカリヤ書の表現は微妙です。4:14で、二人の油注がれた者として、ゼルバベルとヨシュア(エシュア)の二人を同等の権威あるものと認めています。ところが6:11では「一つの冠を作り、それをヨザダクの子であるヨシュアにかぶらせなさい」と書いています。そのすぐ後で「二人の間に平和があった」とありますが、王冠を示唆する冠が一つしかなくて、しかもそれをゼルバベルではなく、ヨシュアがかぶるとなると問題です。ゼルバベルの立場がなくなるからです。もっとも、ヨシュアとゼルバベルの間に争いがあった痕跡はありません。前516年、第二神殿の完成の後、総督としての任期が終わり、大きな混乱もなくゼルバベルだけバビロンに引き上げたのかもしれません。
6・2 エリアシブ
エシュアの子はヨアキムでした。(ネヘミヤ12:10)ヨアキムは名が伝えられるだけで、業績や物語は知られていません。ヨアキムの子はエリアシブでした。エリアシブはネヘミヤ時代の大祭司でした。エリアシブは羊の門を建て(ネヘミヤ3:1)、ネヘミヤに従って城壁を作りました。しかし、異国の者とは結婚しないと言うネヘミヤの政策には従いませんでした。「祭司エリアシブはトビヤと縁組したので、トビヤのために大きな部屋を備えた。」(ネヘミヤ13:4)バビロニヤから再度ネヘミヤが赴任したとき、ネヘミヤとエリアシブは対立します。結果的にはネヘミヤに従いますが、北イスラエルとの関係作りは大祭司にとってその後も大きな課題として残り続けます。
エリアシブの子はヨイアダでした。ヨイアダの子はヨナタン、ヨナタンの子はヤドアでした。(ネヘミヤ12:10)ヨイアダの子はサンバラテの娘をめとり、このことで、エルサレムを追放されています。ヨセフスは、古代誌XT・302で追放された人物の名をマナセ、サンバラテの娘の名をニカソと伝えています。細部においてはネヘミヤ記の物語と異なりますが、おそらく、同じ事件の別伝でしょう。ネヤミヤ記ではヨナタンと呼ばれている人物をヨセフス古代史ではヨハネスと表記しています。
ヨハネス(ヨナタン)には、イエスという兄弟がいました。イエスはペルシャの将軍と懇意でしたので、大祭司になる約束を取り付けました。このことでヨハネスとイエスは神殿の中で争いになり、ヨハネスは怒りのあまりイエスを殺してしまいました。この物語はヨセフス古代史XT・300に伝えられています。
6・3 ヤドア
ヤドアについてはヨセフスの古代史から教えられます。ヨハネスの子ヤドアは、アレキサンダー大王のパレスティナ侵攻の時の大祭司であったとされています。(古代史XT・326)アレキサンダー大王がツロを攻略するとき、エルサレムの大祭司ヤドアに手紙を出し、物資の援助を要請しました。これに対し、ヤドアはダリウス王との誓いを理由に、申し出を断りました。しかし、まもなくツロも陥落し、アレキサンダーはエルサレムに向かいました。この知らせは大祭司ヤドアを恐れさせました。彼は、彼自身と町の運命を思い、どのようにこの王に面会しようかと悩みました。しかし夢の中で、神は彼を励まし、一つの啓示を与えました。その啓示とは「町を飾り、門を開いて王を迎えに行きなさい。町の人々は白い衣を着て、祭司たちは律法で定められた服を着なさい。彼らは町に害を与えるものではない。神は守っている。」という内容でした。さっそく、ヤドアは神の啓示に従い、アレキサンダーに会いに出かけました。異邦人たちは、今やアレキサンダーは怒りのあまり、エルサレムの町を略奪し、大祭司に恥ずべき死を与えると期待していましたが、実際には反対のことが起こりました。アレキサンダーは大祭司の一行が来るのを見ると、ひれ伏して彼らに挨拶しました。周りの人は大変驚き、どうしてですかと尋ねました。すると大王は答えました。「私がひれ伏したのは、大祭司にではなく、大祭司の背後にいます神に対してです。まだマケドニヤにいるとき、白い衣を着た神が夢の中に現れ、ペルシャの国を征服するようにと私に命じたのです。」そして、町に入り、神殿において祭司の指示にしたがって神に犠牲を捧げました。このヨセフスの物語には史実性はないと考えられています。事実は、アレキサンダーはエルサレムへは行きませんでしたので、この物語のような出来事はありませんでした。しかし、この物語から大祭司の役割の重要性と困難さを感じさせられます。
エズラ記7:1によりますと、エズラもザドクの子孫であると書かれていますが、この系図の信憑性はほとんどありません。エズラを捕囚の時の祭司セラヤの子と考えることは時代的に不可能だからです。しかし、エズラをザドク系祭司のひとりとすることまで排除するわけではありません。しかし、エズラについては多くの議論すべき問題がありますので、ここでは割愛させていただきます。エズラの活動年代も簡単に特定できませんし、エズラをザドク系とする状況証拠もありません。
ペルシャ時代の大祭司は、まとめますと、エシュア、ヨアキム、エリアシブ、ヨイアダ、ヨハナン、ヤドアとなります。エシュアからヤドアまで6世代となります。前522年から前330年頃までのおよそ190年の間に6世代がたっている計算になります。やや世代数が足りないかとの印象もありますが、抜けているとしても1世代くらいでしょう。
6・4 オニアス1世
前323年、アレキサンダー大王の死後、帝国は4つに分かれます。パレスチナはエジプトのプトレマイオス王朝とシリアのセレウコス王朝の間の戦いの場となりますが、しばらくはおもにプトレマイオス王朝の支配下に入ります。この時代に大祭司であったのは、ヤドアの子、オニアス1世でした。(古代史XU・347、XV・43)彼の後はシモン1世が継ぎました。ヨセフスはシモン1世を義人シモン(XU・43)と呼んでいますが、これは誤りで、シモン2世が義人シモンであると言われています。
シモン1世の死んだとき、彼の子はまだ幼かったので、彼の兄弟であるエレアザルが大祭司となりました。(XU・44)この頃、プトレマイオス王はアレキサンドリアの図書館に律法の書を入れるために、モーセ五書をギリシャ語に翻訳するようエレアザルに要請しています。このことについてはアリステアスの手紙が事情を伝えています。ヨセフスも同様の物語を残しています。それによると、(XU・86)ユダヤの各部族から選ばれた70人の長老たちはアレキサンドリアに集められ、それぞれ72日間かけて律法を翻訳したとのことです。この翻訳は大変よい翻訳でしたので、変更してはならないと宣言され、図書館の納められました。(XU・109)後の、この翻訳の写しが広くギリシャ世界のユダヤ人の用いるところとなり、70人訳聖書(LXX)と呼ばれるようになりました。
エレアザルの死後、叔父のマナセが大祭司となりました。(XU・157)その次に、シモン1世の子オニアス2世が後を継ぎました。(XU・161)オニアス2世はエジプトに年貢、税金を払うことを拒み、エジプト王を怒らせました。トビアスの子であり、オニアスの姉妹の子にあたるヨセフはエジプトとの交渉を成功させ、それをきっかけにエジプトの年貢取り立て人となって活躍します。(XU・160)オニアス2世の死後、その子シモン2世が立ちました。(XU・225)このシモンについて、ヨセフスはただ名前のみを記すだけですが、ベンシラの知恵50章で讃えられ、またラビ文献に義人シモンとして尊敬されているのはこのシモン2世のことであろうと考えられています。シモンは神殿を修復し、町のために貯水池を掘りました。また、その徳の故に、人々から愛されていたようです。
6・5 オニアス3世
シモン2世のあとは、その子オニアス3世が大祭司となりました。彼の人となりについては第二マカベア記3章に書かれています。それは「さて、聖なる都は、完全な平和のうちに治めれら、律法も非常によく守られていた。それは大祭司オニアの敬虔と悪への憎しみによるものであった。」という導入で始まります。いかにオニアスが尊敬されていたかがわかります。
この頃、前198年、エジプトとシリヤの戦いでシリヤが勝利したことにより、ユダヤはセレウコス王朝の支配下に移ります。セレウコス王朝は絶頂期を迎えますが、わずか数年の後、東進してきたローマと戦い、マグネシアにて大敗します。これにより、セレウコス王朝は大変不安定なものとなります。
オニアス3世の晩年、アンティオコス4世(エピファネス)が即位しました。彼は、ローマへの多額の貢ぎ物を科せられていましたので、民衆を搾取する政治を行ない、ユダヤに対しては強権的ギリシャ化政策を押し進めました。オニアス3世はエピファネスの時に死に兄弟ヤソンが立てられたと、ヨセフスは述べていますが(XU・237)、死んだのではなく、退けられたものと思われます。というのは、第二マカベア記4:30の記述によると、メネラウスが登場した後、オニアスが暗殺されているからです。このオニアスがオニアス3世でないとすると、説明に窮することになります。そういうわけで、ヨセフスよりも第二マカベアの記述を受け入れることにします。
オニアス3世の兄弟ヤソンは欲深い人でした。彼はエピファネスに金を提供し、その対価として大祭司職を手にいれました。彼は、王の意向に添うように、町の中にギリシャ風の体育館を作り、人々の生活をギリシャ風に変える政策をとる約束をしました。ところが数年後、メネラオスという人物がヤソンよりもさらに多額の金額を約束して大祭司職を奪い取りました。このメネラオスという人物は、ヨセフスによればヤソンの弟ということになっていますが、第二マカベア(4:23)では、他人と説明されています。しかし、ザドク系でないということはないでしょう。メネラオスは隠居中のオニアス3世を殺害し、神殿の財宝を外へ運び出しました。メネラウスに戦いを挑んだヤソンは、戦いに敗れ、異郷の地で死んでしまいました。
この頃、エピファネス王は直接、エルサレムの神殿を略奪し、律法を守ることを禁じ、神殿の中にゼウスの像を立て、偶像礼拝を強要しました。このゼウスの像がダニエル書(11:31)のいう「荒す憎むべきもの」です。この用語は福音書も使っていますので、有名です。この常軌を逸した政策に対して愛国的なユダヤ人たちは立ち上がりました。王の命令に反して、割礼や安息日を守り、また豚肉を食べず、律法を守り抜きました。これにたいする摘発や密告により、多くの人が殉教の死を遂げたと伝えられています。ある殉教者は死を前にして言いました。「邪悪なものよ、あなたはこの世から我々の命を消しさろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせて下さるのだ。」
この混乱の中で、立ち上がったのがユダ・マカベウスとその兄弟たちでした。ユダの仲間たちは律法に熱心な者たちを各地から集め、ゲリラ戦法でエピファネス軍を苦しめました。そしてわずか3年後にはエルサレムの宮清めを実現し、荒す憎むべきものを取り去ることが出来ました。さて、大祭司メネラウスがエピファネスの行動と政策にどの様に協力したか、もしくは抵抗したかははっきりとは書かれていません。すでに実権はメネラウスの手を離れていたような印象を与える文章となっています。しかし、彼は最後にはエピファネスの怒りを買い、灰の詰まった塔に突き落とされて殺されてしまいました。(第二マカベア13:1、XU・385)メネラウスの後を継いだのは、ザドクの家系ではないアルキモスという人物でした。(XU・387)以後、ザドク系の大祭司はエルサレムには現れませんでした。
プトレマイオス時代の大祭司をまとめますと、ヤドア、オニアス1世、シモン1世、エレアザル、マナセ、オニアス2世、シモン2世、オニアス3世となります。エレアザル、マナセは父子継承ではありませんので、それを除くと、ヤドアからオニアス3世までは6世代です。期間は約160年で、一世代あたり26年で妥当なところでしょう。
7. エルサレムにおけるザドク系祭司の終わりとエジプトへの逃亡
オニアス3世が暗殺され、メネラウスが処刑された後、ザドク家のエルサレム支配は終わりました。マカベア家はザドク系祭司への尊敬を持っていなかったようで、敵対関係ではないにしても、両者の間に何等の協力関係は築かれませんでした。マカベア家は、ザドク系ではなく、また、エリ、アビヤタルの子孫とも言われていませんので、別の祭司の流れだったのでしょう。大祭司職がザドク家に限られるべきだという考えを持たない人々がいたということは注目されます。マカベアのユダとヨナタンの死後、弟シモンはセレウコス王朝に勝利しますが、その時(前140年)、ユダヤの大祭司に就任することを躊躇しませんでした。律法を重んじるハシディームや後に起こるパリサイ派もサドクへのこだわりはなかったものと思われます。非ザドク系大祭司職への批判は、歴史書の中には残されていません。
しかし、これでザドクの伝統が消えたわけではありません。ヨセフス(古代誌XX・236)によりますと、オニアス3世の子がエジプトに逃れたことが書かれています。(前170年頃)この子は親と同じ名前ですので、オニアス4世と呼ばれています。ユダヤ戦争XU・423の表現ですと、エジプトに逃れたのはオニアス3世のようにも読めますが、同じ著者の文章ですので、単なる書き間違いでしょう。エジプトへ逃れたのはオニアス4世であると判断して差し支えないと思います。ユダヤ戦争VU・423によりますと、オニアスがエジプトのアレキサンドリアに上り、そこでエジプト王よりメンフィス近くにユダヤ教の神殿を建てる許可をもらったことが書れています。
その後、紀元後までこの神殿は存続します。当然、大祭司職はオニアスの子孫が継いだはずです。そしてついに紀元後73年、ローマのエジプト総督パウリヌスにより神殿は閉鎖されたとなっています。(ユダヤ戦争XU・433)
8. サマリヤ教団におけるザドク系祭司
サマリヤ教団は、エルサレムを中心としたユダヤ教正統派に対して、シケムのゲリジム山神殿を中心に結束するユダヤ教の異端的分派で、今日まで存続していることも驚きですが、異端的分派という割には大変正統的ユダヤ教と共通点が多いことは認識されるべきです。ザドク系祭司については、彼らがそれを認めているわけではありませんが、ヨセフス(古代史]T・302)によると、エルサレムの大祭司ヤドアの弟マナセがエルサレムから追放され、舅であるサマリヤの総督サンバラテのもとに赴き、ゲリジム山に神殿を造ってもらい、そこで大祭司職を確保したとなっています。サマリヤ教団の神学はエルサレム正統派と大変近いものですし、サマリヤ歴代志の系図の中にザドク系と思われる祭司の名が多々見られますので、ヨセフスの記述は史実であると受け入れることが出来ます。それゆえ、彼らの自己理解にはありませんが、サマリヤの大祭司をザドク系と認定することは正当であると考えます。詳細については、拙論「サマリヤ人の起源」を参考にしてください。
サマリヤ教団のザドク家はエルサレムのザドク家と異なり、歴史の荒波を越えて存続してきました。今日まで、つまり3000年以上の年月にわたり、家系が続くということは驚くべきことです。その間にはイスラムとの対立、十字軍、さまざまな事件がありましたが、彼らは少数民族ながら、今でもナブルス(シケム)において昔ながらの宗教伝統を守り続けています。(注 1600年頃、この大祭司の家に男の子が産まれなかったので、家系としては絶えてしまったとのことです。)
彼らは、ユダヤ教の保存したマソラ・テキストのモーセ五書とよく似たサマリヤ五書を古代ヘブル文字(ヘブル古書体)で保存してきました。また、彼らの視点から纏められた「サマリヤ歴代志」を持っています。これらは、今日の旧約研究にとって、大変貴重な資料となっています。
9. その他のザドクに関係する可能性のある文献や問題点
9・1 サドカイ人とザドク
サドカイ人はハスモン家成立後エルサレムで活動する政治グループのひとつです。旧約聖書には登場しませんが、ヨセフスがユダヤ古代誌のなかで、紹介しています。(BU・119、A XV・171など)また、新約聖書でもイエスと対立する勢力として登場します。彼らがなぜサドカイ人と呼ばれたかについては、ヨセフスも新約聖書も何も語りません。多くの学者は、名前からしてザドクとのなんらかの関係があるものと考えています。彼らはパリサイ人よりは忠実にエルサレムの伝統を守ろうとしていました。モーセ五書のみを権威ある書物と認め(もしかすると、古代ヘブル文字の五書であったかもしれません)、預言書を認めませんでした。この点で、ユダヤ教正統派のザドク家の考えと共通ですし、サマリヤ教団とも大変よく似ています。また、新約聖書によると、サドカイ人は復活を認めていなかったようです。おそらくサドカイ人を当時のユダヤ教正統派と考えて間違いないでしょう。
しかし、彼らがなぜザドク系祭司のエジプト逃亡後にエルサレムで活動を始めたのか、よくわかりません。また、エジプトへ逃れたオニアス4世を支持していたという記録もありません。大祭司はザドクの家系であるべきだとの主張をした記録もありません。当初、ザドク系祭司とのなんらかの関連があったことを否定するわけではありませんが、サドカイ人とザドクとの関係を示す歴史資料がない以上、サドカイ人とザドク家を関連付けることには慎重であるべきだと思います。
9・2 クムラン教団とザドク系祭司
1947年、死海沿岸、クムランの洞窟において紀元前後のものと思われる数多くの写本が発見されました。この写本を残した宗教グループはヨセフスなどの記録にあるエッセネ派と思われますが、一部ヨセフスの記録と異なるところもありますので、一応区別してクムラン教団と呼ぶことになっています。彼らはザドクの子たちという祭司によって導かれていました。また、彼らの指導者は義(ザドク)の教師と呼ばれています。そこで大祭司ザドクとの関係が問題となります。
義(ザドク)の教師がザドク系の祭司である可能性はありますが、名前以外にザドクとの関連を示唆するものはありません。その逆に、ザドク系祭司の立場と異なるところはいくつかあります。まず、クムラン教団が信徒運動の形を取っていることです。信徒中心の活動は、エルサレムの大祭司職を重視するザドク系祭司の立場とは異なります。また、死海写本の中にはイザヤ書が含まれています。これはザドク系祭司の認めていない文書です。エルサレム神殿で犠牲を捧げないとか、結婚を重視しないとか、ザドク系祭司の見解と異なるところです。また、死海写本の中に、特に大祭司ザドクとの関係を示唆する文書は含まれていません。祭司の世襲という観念もなさそうです。
これらのことから、ザドクという言葉は、単に義なる者という意味であり、ザドク系祭司との関係は薄いという結論になります。
9・3 ザドク派
サドカイ人とは別にザドク派というものの存在も認められています。旧約偽典の中に「ザドク人の作品の断片」という文書があります。この文書は1896年にエジプトで発見されたもので、文書そのものは紀元前1世紀のものと見なされています。他の文献には、この文書の引用や存在の暗示などはいっさいありませんので、断片の著者、成立の由来など、すべて文書そのものから推測する以外にありません。
内容は、「ザドクの子たち」が義(ザドク)の教師に導かれてダマスコにおいて律法を守るグループを結成していることを示しています。しかし、はたして、ここで言われているザドクが大祭司の家系のザドクのことなのか、義人(律法を守る人)という意味でのザドクなのか、明らかではありません。少なくとも、エルサレムや大祭司への言及がありませんので、クムラン教団同様、ザドク家とは関係ないのではないかとの印象を受けます。
彼らは、エッセネ派、もしくはクムラン教団との類似性があり、キリスト教との共通点もいくつかあるようです。そういう面では興味がわきますが、ここでは詳しく論じる必要はないでしょう。ザドク派も祭司ザドクの家系とは無関係であるという結論です。
9・4 義なる者としてのザドク
義人はヘブル語でザディクであり、ザドクとは区別されますが、語根が同じです。それゆえ、クムラン教団やザドク派なるものの文献にザドクという単語が見かけられることになるのでしょう。ここでは、クムラン、ザドク派以外に義人という用語がどの様に使われているかを見ることにより、義人とザドク系祭司との関係があまり無いことを示しておきたいと思います。
旧約聖書で、ツェデク(TsDQ 義、義人)という言葉はたくさん使われています。詩篇1:5では「正しい者(義人、ツァデキーム)のつどい」と語られ、ハバクク2:4には、ローマ1:17で引用されている有名な言葉がでてきます。「義人(ツァディーク)はその信仰によって生きる」しかし、特定の人物をさして義人と呼びかけている例は見あたりません。
旧約の枠を外して捜すと、いくつかの用例が見つかります。まず、ヨセフス(古代誌XU・43)とラビ文献で言及されている義人シモンです。義人シモンとは、ベンシラの知恵に登場する大祭司シモン2世のことであるとされています。彼はエジプト・プトレマイオス王朝支配下にある前230年頃に大祭司となり、神殿の修復に努め、町のために貯水池を作りました。
イエス・キリストが自ら義人を称した記録はありませんが、義人として扱われた例がいくつかあります。マタイ27:17でピラトの妻が「あの義人には関係しないでください。私は今日、夢であの人のためにさんざん苦しみましたから。」と語っています。また、ルカ23:47では、十字架を見上げていた百卒長が「本当に、この人は正しい人(義人、ディカイオス)であった」と述べています。また、ヤコブ5:6で言われている義人がはたしてイエスを指すのかどうかははっきりしませんが、「そして、義人を罪に定め、これを殺した。しかも彼は、あなたがたに抵抗しない。」と書かれています。これらのことから、イエス・キリストが、一時期義人と呼ばれていた可能性を否定することは出来ません。しかし、イエス・キリストご自身の言葉として、「私がきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13など)が残されていますので、教会の中ではイエスを義人とは言いにくい面があります。
イエスの弟ヤコブはエルサレム教会の指導者として、大きな役割を果たしていますが、そのことを伝えるユーセビオス教会史(U・2)の中で、弟ヤコブは義人と呼ばれています。この場合の義人は義人シモンと同じく、称号のような役割を持っていたようです。ユーセビオスはここでアレキサンドリヤのクレメンスを引用して、イエスの召天後、ペテロ、ヤコブ、ヨハネは一致して義人ヤコブをエルサレムの司教に選んだことを書いています。ユーセビオスはクレメンスの言葉を補足して、ここで言われているヤコブはイエスの弟ヤコブであることを示しています。ユーセビオスのヨセフス引用の中にも「義人ヤコブ」とありますが、現存するヨセフスの著作の中に見つかりません。
義人という表現そのものは、ヘブル語では祭司ザドクを連想させる要素もありますが、ザドク系祭司との関係を示唆するものとは言えないでしょう。
10 補足 エリがエレアザルの子孫である、さらなる証拠
(a) エリはイタマルの子孫ではない
エリが神の箱の管理人だったがゆえに、アロン・エレアザルの直系の子孫である可能性が高いことは先に示したとおりです。ところが、ヨセフスは、エリをイタマルの子孫と明言しています。彼は、古代誌V361で、「大祭司職はアロンの子であるエレアザルの子孫に継承されたが、6代目のウジで途切れて、ウジのあとはイタマルの子孫であるエリが大祭司になった」としています。そして、「ソロモンの時代に、またエレアザルの家系に戻された」となっています。同じような言い方をサマリヤ教団もしていることは大変興味深いことですが、それはそれとして、このヨセフスの説明は説得力がありません。なぜなら、大祭司の家系が変わることは政治的な大事件です。もしそれが史実であるなら、何らかの痕跡が歴史記述の中に残されていなければなりません。しかし、士師記・サムエル記、歴代志には、そのような事件の記録が無いどころか、ほのめかされてもいません。また、ソロモン時代にエレアザル家系に戻ったとするなら、これも大事件ですから、これについての記述が無ければなりません。しかし、ザドクが大祭司になったときの列王紀上2:35、歴代志上29:22の記述のどこにもエレアザルへの言及はありません。
(注 歴代志上24:3に「イタマルの子孫アビメレク」という表現が見つかります。ヨセフスはこの伝承を根拠に彼の古代誌を書いたのでしょうが、ここは系図の箇所ではなく、歴代志の著者がどこまでエリの家系を念頭に置いていたかは不明です。)
サムエル記の著者は、エリがエレアザルの直系子孫であると知っていたと思われる状況証拠があります。というのは、サムエル記はエリの先祖が誰であるかについては何も語っていません。著者が系図好きであることは、九書全体から明らかですが、エリの先祖について語らないのは、判らなかったのではなく、書けない事情があったということです。その書けない事情とは、著作の当時、すでにエリがイタマルの子孫であるとの合意が存在し、公認されていたと言うことです。ところが、著者は、本当はエリがエレアザルの子孫であると知っていたのです。しかし、これを書くことが出来ないので、謎の多い預言の言葉(サムエル記上2:35f)を残したのです。
(b)エリという名はエレアザルの短縮形
「エリ」という彼の名前が「エレアザル」の子孫の証拠として考えることも出来ます。名前には公式名称と通称というふたつが存在するのが普通です。たとえば、英語では James という人に対して Jim と呼びかけるのはごく普通のことですし、John に対しては Jack と言います。「エリ」(Eli)という人物は、聖書の中でシロの祭司以外はいませんが、いないのではなく、これが通称だっただけではないのでしょうか。つまり、もし「エレアザル」という人物がいたとすると、彼に対して「エレアザル」と呼ぶのは面倒です。当然、通称を使うことになるわけですが、それが、「エリ」であるのは何ら不思議ではありません。
古代イスラエルにおいては、しばしば名前は父子継承されます。エレアザルの子供はピネハスでしたが、エリの子供もピネハスでした。これは偶然なのではなく、エレアザル家の伝統だったと考えられないでしょうか。
イタマルの子孫がエレアザルやピネハスを名乗ることは非常に不自然ですから、このことからもエリはエレアザルの子孫と考えるべきことになります。
(c)エズラ黙示録にあるエズラの系図
また、エズラ黙示録(外典エズラ記・ラテン語)1:2にエズラの系図がありますが、ここに驚くべきことにエリの先祖名が載っています。
この系図の中に「エリ、ピネハス、アヒヤ」と並ぶ名前が見つかります。これがシロの祭司エリであることは間違いありません。そのエリの先祖にエレアザルの名前があります。外典の中に正しい系図が残っているのは面白いことです。
(d)エリの家系はエポデの使用を重んじていた
エポデの使用もアロンの子孫の伝統です。エポデはいくつかの別々の意味がありますので、文脈により区別しなければなりません。まず、宗教的衣服としてのエポデです。出エジプト記28:6では祭司の着るべき服としてのエポデの形が記されています。もうひとつは神意を伺うための道具となるエポデです。アビヤタルはダビデの求めに応じてエポデを持っていきました。(サムエル上23:9)しかし、服としてのエポデも道具としてのエポデも別のものと言うよりも、本来同じものであった可能性があります。たとえば、サムエル上14:18では、サウルの求めに応じて、ここではアヒヤがエポデを持ってきます。ただし表現では、「アヒヤがエポデを身につけていた」と書いています。占いの道具たるエポデのついた服のこともエポデと呼ばれていたのではないでしょうか。
エリの家系の人々はエポデを重んじていました。サムエルはエリのもとでエポデを身につけていましたし(サムエル上2:18)、アヒヤもアビヤタルもエポデを使っていました。このような習慣はアロン、エレアザル、ピネハスの伝統に立つイスラエルの祭司としてふさわしいことでした。それに対して、ザドクがエポデを使ったという記事はありません。つまり、歴代志上6章の系図にも係わらず、ザドクはイスラエルの伝統に立っている証拠を示していないのです。
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