松浦武四郎

松浦武四郎記念館

展示室の入り口正面には映像ホールがあり松浦武四郎の生涯旅人であり、探検家、地理学者、絵画、書、篆刻家など多方面での活躍が紹介されます。またその隣の展示室には武四郎の多くの資料が展示されていて武四郎の生涯がこと細かく知ることが出来ます、記念館をあとにしたとき心のなかに温かいものが湧きあがるような気持ちになりました、現代の人でもややもすると忘れがちなヒュウマニズムの精神をあの江戸時代に持っていたことに驚かされました、この三雲の地に輩出された松浦武四郎をもっとたくさんの人に知ってもらうことを願い記念館をあとにしました。

松浦武四郎記念館アクセス

開館時間 9時30分〜4時30分  休館日 月曜日、祝日の場合は翌日 入館料 大人300円 学生200円                         所在地 松阪市小野江383番地 рO598−56−6847    

武四郎の略年譜  

文政元年(1818)
三重県松阪市小野江(旧一志郡須川村)の郷士の4男として生まれる18歳より僧となって諸国を旅する、海外の情報が豊富な長崎で蝦夷地の窮状を知り蝦夷地の調査を決意する。
弘化2年(1845)28歳
東蝦夷地調査(第1回)知床に武四郎の標柱を立てる。
弘化3年(1846)29歳
西蝦夷地調査(第2回)樺太にいたる。
嘉永2年(1849)32歳

千島窓調査(第3回)「蝦夷大概図」を作成する
嘉永3年(1850)33歳
「初航、再航、三航蝦夷日誌」を完成する、「新葉和歌集」を刊行する。
嘉永4年(1851)34歳
「表忠崇義集」を刊行する。
嘉永6年(1853)36
「三航蝦夷日誌」を徳川斉昭に献上する。
安政元年(1854)37歳
蝦夷、樺太、千島の地図を作成して幕府に献上する、この頃松前藩から狙われる・
安政2年(1855)38歳
幕府より蝦夷地御用雇をおうせつかる、蝦夷地が幕府の直轄地となる。
安政3年(1856)39歳
蝦夷地、樺太を調査(第4回)、西海岸の新道予定地を調べながら宗谷から樺太に渡る。
安政4年(1857)40歳
石狩川、手塩川を調査(第5回)石狩を詳しく探査する。
安政5年(1858)41歳
東蝦夷地を調査(第6回)、シリベツ、クスリを回る、江戸に住み始める。
安政6年(1859)42歳
「東西蝦夷山川地理取調図」28冊を完成させる、「戌牛蝦夷山川地理取調日誌」62巻完成、「蝦夷漫画」刊行、この歳に福田とうと結婚する、御役御免願いをだし認められる。
万延元年(1860)43歳
この年から「唐太日誌」「北蝦夷余誌」「石狩日誌」「手塩日誌」)「夕張日誌」「納沙布日誌」「十勝日誌」「久摺日誌」「知床日誌」を刊行す。
元治元年(1864)47歳
「東西蝦夷日誌」を刊行する。
明治2年(1869)52歳
明治政府より蝦夷地開拓御用掛、後に開拓大主典、開拓判官を命ざれる、道名、国名、郡名などにたずさわる。
明治3年(1870)53歳
アイヌの窮状、政府に通じず、官職、位階を辞し、出版の生活にはいる。
明治18年(1885)68歳
この年より大台ヶ原を3回踏破する、「乙酉掌記」、「丙戌前期」、「丁亥前期」の出版は70歳までに刊行される。
明治20年(1887)70歳
全国の古社寺などから古材を集め「一畳敷」の書斎を作り「木片勧進」を出版する、富士山に登る。
明治21年(1887)71歳
東京神田の自宅で死去。
明治22年(1889)遺言により大台ヶ原に分骨して名古屋谷に碑を建てる。

武四郎と北海道

武四郎は若い時から知識と探究心が旺盛で多方面で活躍されたと伝えられています、27才頃まで全国各地を旅し名所旧跡を訪ねています、長崎に来た時、病に倒れ土地の人の親切に接し、又自由な雰囲気の中で国際情勢を知り、時のロシアの蝦夷地への南下を伺っていることに危機を感じ、蝦夷地の探検に28歳から41歳(6回)にかけてたずさわり探検家、地理学者、著述家として蝦夷地をくまなく調べ上げ世に蝦夷地の実情を知らしめました、 武四郎の調査は海岸から川筋の奥く深くにおよびその記録は細かく正確だったのです、それはアイヌ語が話せ、並外れた体力に恵まれ、アイヌの人達との人間的なふれあいができたからだと思われます、蝦夷地でのアイヌの窮状などの記録も幕府に提出するところとなりましたが政策に取り入られたといえなかったようで武四郎にとっては非常に残念なことだったと思われます、とりわけ蝦夷地の記録、地理図、アイヌとの交流の記録のほか「北海道の名付け親」として知られています、明治2年政府高官の地位を得るも時の政府に思い通じず翌年の明治3年その地位をすて身を引き、以後蝦夷地を訪れることはなかったそうです。

2005,5,17更新

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