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近江国日野城、蒲生賢秀の子として弘治2年(1556年)生まれる(幼名 鶴千代)、その後 主家の六角氏が織田信長によって滅ぼされたため、織田に臣従することとなり、永禄11(1568年)13歳の時信長の人質となって岐阜城に入る、信長はその大器なるを知り小姓として身近に置き、14歳の時氏郷は信長の部下として北畠氏の伊勢大河内城の戦いに初陣、大きな手柄を立てた氏郷に対して信長は身柄を解放するとともに次女の冬姫との婚姻で報いた、天正10年(1582年)6月10日本能寺の変で信長亡くなると秀吉と信長の弔い合戦で戦功をあげる、それらの功績により、松ヶ島城12万石に転封となる、氏郷は信長のもとで学んだ城下町つくりの手法を取り入れ行政、経済の改革に力を入れ、わずか松阪在住2年間に松ヶ島城から四五百の森に新城の松阪城を築き新しい城下町には氏郷の徳を慕い多くの日野商人が移住して来る、楽市、楽座をしき江戸時代に活躍する松阪商人の発展の基礎がこの時につくられたと言われています、天保18年(1590)小田原討伐の功で秀吉より会津黒川城42万石に転封となり後に若松と改めて会津92万石の城主となる。
文武両道に優れる
戦いにあっては常に先頭に立って敵に突入する勇猛果敢な武将として知られていて、和歌や宗教に理解があり、安土桃山文化を代表する文化人でもあり、とりわけ利休とのつながりが強かったと言われています。
蒲生氏郷公の年賦
1556年弘治2年
近江国日野城、蒲生腎秀の子として生まれる。
1568年永禄11年
信長の人質として岐阜城に入る、この時13歳。
1569年永禄12年
14歳で父腎秀と共に伊勢国大河内城に初陣。
1570年天亀元年
元服する、信長の次女冬姫と結婚する。
1580年天正10年
6月10日、本能寺の変で信長自害する。
1582年(天正12年)
4月、氏郷は伊勢国嶺城、加賀井城を攻める、その功績により松ヶ島城12万石に転封となる。
1588年(天正16年)
四五百の森に新たに松阪城を完成させて移る、城下町に日野町ができ、日野の商人が氏郷の徳を慕い移住してくる。
1590年(天正18年)
秀吉の小田原討伐に従軍、その功績により会津黒川城42万石に転封となる。
1592年(文禄元年)
九州名護屋にくだり朝鮮の役に加わる、その間、黒川城の改築と城下町の建設が始まる。
1593年(文禄2年)
6月、7層の天守閣をもつ城郭と新しい城下町が完成する、城の名前を鶴ヶ城と命名する。
1595年(文禄4年)
京都にて病に倒れ、大徳寺に葬られる、
「限りあらば吹かねど 花は散るものを 心みじかき春の山」の時世を残し40歳で生涯を終えています。
松阪城(県史跡) 蒲生氏郷が築いた松阪城(2005、10、21追加)
所在地:三重県松阪市殿町 築城年:1588年(天正16年) 形式:平山城
天正12年(1582)松ヶ島に転封になるも、より強固な城を求めて、この四五百森(よいほのもり)に天正16年(1588)松阪城が築城されました、かっては三層の天守閣がありましたが、いまは石垣のみが残っていて、切石を使わない野図積みの正面の高い石垣などは戦国時代の厳しさが偲ばれます、現在は公園として整備されていて、本居宣長記念館、鈴屋(すずのや)もあり、春には桜、藤、秋にはイチヨウの名所として市民の憩の場になっています、又松阪市街地を見下ろすず隋一のスポットでもあります、毎年11月3日には氏郷公を偲んで盛大なお祭りが行なわれています、氏郷まつり。

表門
松阪城は北を表門、南を搦め手門とし、本丸、二の丸、隠居丸、季代丸、出丸、三の丸よりなり、本丸、二の丸、季代丸、隠居丸、出丸には高い石垣を築き三の丸の外郭には水堀をめぐらせていた。
氏郷が会津若松に移封後は
服部一忠 1591(天正19年)
古田重勝 1595(文録 4年) と城主が変わるも1619(元和5年)紀州藩領となって勢州領18万5千石を統轄する城代が置かれた、
1881(明治14年)城跡公園となる。(公園内案内板より)

隠居丸石垣
城下町つくり
戦国時代の町つくりの主眼は敵に対する防御にあったようで、すでに信長の時代より蓄積された考えにより、寺院を町の外側に置き、町筋を直線にせず角を要所要所につくり一度に多くの兵が攻め込めないように工夫されています、そして商人の町として楽市楽座の制をおき各地から商人を呼び寄せ、その出身地の地名をとって、日野町、平尾町、湊町をつくり、職人や商人を集め職人町、魚町などもつくった、さらに海岸よりを通っていた参宮街道を町に引き込むなどして商都松阪の発展の基礎を築いたといわれています。

蒲生氏郷公により開かれた松阪開府の碑

氏郷まつりの始まりです、松阪市役所を出て祭り広場のメーンストリートに向かうところです、バックの木々が氏郷公の築かれた松阪城跡(松阪公園)です。