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本居宣長記念館

松阪城跡にあり鈴屋に隣接する記念館には宣長の著書、蔵書、書簡、愛用の文具やコレクションの7種鈴など16000点が収蔵されていて、そのうち古事記伝や自画像など2000点が重要文化財となっています、松阪へ来られた際には是非お立ち寄りください。
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本居宣長の年譜
享保15年(1730)
5月7日の深夜、伊勢の国飯高郡松阪(松阪市)に誕生する、幼名は富之助、父は木綿商、小津三四右衛門定利、母は村田孫兵衛の娘、勝子。
元文5年(1740)
父定利46歳で病の為歿する、時に宣長11歳、母勝子36歳、宣長を含めて2男2女の未亡人となる、遺産はすべて親戚の保管するところとなり、わずかな利子により一家の家計が支えられた、
宝暦2年(1752)
宣長23歳、春3月、母勝子は息子の将来を考えて宣長を医者にする為めに京都に遊学させる、堀景山に儒学を、武川幸順に医学を学ぶ、
遊学中に母からの手紙、70通大切に保存されていたる(遊びを覚えたことを噂に聞き、叱りの手紙を書き送る)
宝暦7年(1757)
7月宣長28歳、学成りて松阪に帰る、母勝子の願い叶えられる、小児科医、本居舜庵を開業する、場所は魚町、「あめ薬」を製造してチラシを印刷するなどして、商人的手法でいとなむ、医業のあいまに国学の研究する、この頃賀茂真淵をしる。
宝暦13年(1763)
5月25日夜宣長34歳、賀茂真淵67歳、神宮参拝の帰り松阪の旅篭、新上屋に立ち寄りし話を聞き訪ねる、おりから江戸で名高い賀茂真淵の著書、冠辞考を読み国学者としての道を思いを固めていたので弟子となる、手紙で教えを受け、古事記の研究にとりかかること決意する、「松阪の一夜」(一期一会)師弟の縁、として有名な話しです。
明和元年(1764)
古事記伝を書き始める
寛政10年(1798)
書き始めから35年の歳月を懸けて、宣長69歳の夏に古事記伝44巻完成させる。
寛政11年(1799)
5月(源氏物語玉の御櫛)を出版する。
享和元年(1801)
9月18日発病9月29日早朝歿する72歳、その時の門人数488人。
文政5年(1822)
宣長没後22年目に「古事記伝」の出版が完成する,つまり宣長や出版関係者の子の代になってからであり、そのありさまは驚くべき意志と愛情の結束があったからと思われます、版木4丁(8頁)版木総数798枚6384頁のたくさんの数にわたっている。
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ものの哀れについて
本居宣長先生といえば古事記と源氏物語の研究でよく知られています、特に古事記を研究され、時に江戸時代、漢学の普及により解読不能となっていた「古事記」を35年の歳月をかけて「古事記伝」として完成されたことは、古代からの歴史が明らかとなり、古代人がもっていた、すなおで、明るい心であったと想われます、宣長先生はこれらの情に感することは阿波礼といい、悲哀、嬉しい、悲しい、面白い、可笑しい、など人間から出でる、あるがままの情をみとめて、ものの哀れとして後の世に残された、難しい学問のことはわかりませんが、松阪の先人が残した、ももの哀れこそ、今の時代を生きる為の一番大切な言葉であろうかと思います、この言葉をもっと知るためにも自分の感受性高めていくべきかと思っています、もうすぐ咲く桜の花をみて季節の移ろいにどれだけ心ときめく事ができるか自分の内面を見るのが楽しみでもあります。
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本居宣長を訪ねて
宣長の旧宅跡 国特別史跡 魚町

宣長の祖父定治が建てた隠居の家で宣長はここに12歳から72歳で亡くなるまで住んでいました、この旧宅跡には礎石、前庭、裏庭、井戸、蔵と長男、春庭が住んでいた家が保存されていて、宣長の居宅は明治42年松阪公園に移築されました。
鈴屋(すずのや)
宣長の旧宅 国特別史跡 松阪公園内

魚町から明治42年移築されました、宣長は天正2年(1782)53歳の時2階に4畳半の書斎をつくり、この書斎で古事記を研究し疲れてくると、赤い紐に36個の鈴をつけて柱などに掛けてその紐を引っ張り、鈴の音を楽しんでいたところから「鈴屋」と呼ばれるようになったそうです、宣長は賀茂真淵の命日にはこの書斎に直筆の「懸居大人之霊位」の書を掛けて師をしのんだと云われています。
新上屋跡 市指定史跡 日野町
宝暦13年(1763)5月25日宣長34歳の時ここに宿泊した賀茂
真淵67歳に面会して師弟の縁を結んだ旅篭新上屋跡です。
嶺松院跡 樹敬寺内 新町

嶺松院では早くから歌会が行われていて宣長も宝暦8年(1758)29歳頃から参加する、当院は明治26年の大火で焼失する、跡地には歌碑が建てられていて、歌碑には「しめやかに けふ春雨の ふる言を かたらん嶺の松かげの庵」 舜庵と書かれています。
宣長 春庭の墓 樹敬寺内 国史跡 新町

樹敬寺は本居家の菩提寺で奥の左側の角に先祖代々の墓碑と並んで宣長の参墓と妻勝の墓、その背中あわせに長男春庭と妻の壱岐の墓が建てられています。
本居宣長の宮



宣長からくリ人形 中町

第一小学校正面の宣長像 殿町

本居宣長奥墓 国史跡 山室町山室山

山室山の登口の石段をたどると浄土宗妙楽寺があります、妙楽寺を右に見て山道を登ること約300mに奥墓があります、太い杉の木と石段,それに木漏れ日、先に見えるピンク色のツツジと鴬の鳴き声、奥墓には山桜が咲いていていました、宣長の「山室に千年の春のやどしめて 風にしられぬ花をこそ見め」の情景が重なるようでした。

この奥墓は宣長の埋墓で、宣長は寛政12年71歳の秋に墓所をここに定めました、墓石の碑文「本居宣長之奥墓」は宣長の直筆、墓の傍らには植松有信の歌碑と宣長の没後の門人の平田篤胤(あつたね)の追慕碑が建っています、現在この辺りは(松阪ちとせの森)と名付けられて市民のレクレーションの場となっています、又この一帯は生活環境保全林にも指定されています。
八条ヶ谷池

奥墓の後方に人造池の八条ヶ谷池が水をたたえています、四季の風景を水面にうつし季節感がとても感じられます、水鳥も羽を休められる静かな環境です。
本居宣長墓前祭 11月5日
奥墓の墓前で和楽を演奏し祝詞を唱える、その後 妙楽寺の境内で投げ餅をする。この日は命日ではなく命日は9月29日です。交通:三交バス5番乗り場より大石行き等で工業団地南下車徒歩約30分。
昨日は穀雨らしく一日降り続いた雨も今日は天候に恵まれて桜の青葉の向こうには松阪の町並みが5月の陽に照らされて輝いていました、昨年までは4月の桜の咲く頃に行なわれていましたが、合併にともない新たに郷土の偉大な国学者、本居宣長を全国的に発信していくために誕生の日を宣長まつりの日とし行なわれました、松阪公園ではたくさんのイベントが行なわれ市民の皆さんで賑わっていました、ピアノ、バイオリンの演奏の音色が新緑の間を風のように穏やかにながれていました、会場ではクイーン松阪のお披露目も行なわれて華やいだ雰囲気で宣長まつりを盛り上げていました。
市長の挨拶と2005年度クイーン松阪表彰式

THIS、ピアノ、バイオリンによる即興演奏
