松阪の歴史

四世紀頃松阪は

旧城下町を中心とした飯高郡、阿坂 宇気郷の一志郡、黒部 朝見 本櫛田の東南部平野の渡会郡との三郡の豪族が存在していたそうです。

5−6世紀頃は

大和朝廷の東国進出につき伊勢地方の役割増大となり伊勢神宮の成立を機に松阪周辺の豪族も大和朝廷への服従関係が益々深まって行き神宮領の時代もあったそうです。

歴史と散策

中世戦乱の時代

やがて鎌倉幕府の御家人層が荘園などに入りこみ実力で横領し始めた為、神宮側はこの難局を乗り切るため御師の布教活動をはじめて伊勢から東国一帯を中心として全国各地に広め神宮領の地位確保に努めました。

南北朝時代

北畠親房の第三子、顕能が建武2年(1335)国司となり南朝側につき強力な拠点の役割を果たすも北朝側の勝利に終わり、その後北朝側の足利幕府による全国的な支配が確立するも北畠氏についてはその後も勢力はつづききました。

戦国時代

北畠氏は永禄12年(1569)自質的な主権者となった織田信長と戦うことになり、大河内城の戦いなどへて善戦するも、天正3年(1575)信長の二男、信雄が北畠氏の家督を継ぐこととなり、北畠氏の支配に終止符がうたれ、その後豊臣秀吉の支配が確立し天正12年(1584)蒲生氏郷、が近江国日野城から松ヶ島城に移封されてくるも、四五百の森(よいほの森)へ居城をかまえました、近江日野の商人、職人はもとより松ヶ島の住人も移住する(農家を除いて)氏郷公が自由な通商を奨励する楽市、楽座の制を布いたことにより、商業都市の源をつくるも、三年後陸奥の国、会津城へ移封しましたが、その後、楽市の繁栄ぶりが桑名と並ぶようになっていたそうです、現在の松阪の基礎がこの時に出来上がったようです。

その後松阪に育った、有為な人材が伊勢商人として江戸の市場で活躍するもその源は木綿でした、その良さは御師などで全国的に広がり、まさに松阪は木綿とともに歴史を紡いできた城下町です、三井家 長谷川家 小津家がよく知られています、本居宣長公もその中から生まれた偉大な人物で、古事記伝などを世に伝えて、日本人としての精神文化を世に発し、ものの哀れとすべての自然に慈しみの心をもつことに力を尽くされたと理解しています、元禄5年(1619)徳川頼宣が紀州に入封せられてから、紀州藩領となるが、参宮街道に加えて和歌山街道と熊野街道が開け物資の集散地としての役割が増大していき、益々この中勢の松阪が商業都市としての基礎が確立されました。

江戸時代

明治と大正

御城番屋敷と苗秀社

松阪城の裏門跡と搦手門跡を結ぶ石畳の道の両側に槇垣を巡らした武家屋敷が御城番屋敷です、紀州藩時代松阪城の警備を任務とする紀州藩士とその家族の住居として建てられました、屋敷は現在も子孫の方々が維持管理されています、この美しい町並みは屋敷に住む人たちの愛着心と努力によって保存されており長い年月を経た今日でもそのままの姿を留めています。
苗秀社(びようしゅうしゃ)は明治維新時廃藩置県や徴兵制により士族授産として官有地払い下げや俸禄の6年分を時下の米相場を基準として現金と公債で支払うことで士族に帰農する道を開こうとした政府に、御城番の士族は上記の制度を受け入れて、公債で得られる資産で会社を作り農商業を営み生じる利益で家名の存続をはかろうとして、明治8年会社の設立を願い出、同11年に認可されました、社名は苗秀社で、大正14年には合資会社となり今日に至っています。                                                 

昭和と平成

町制をへて昭和8年2月1日飯南郡松阪町は市制を施行し松阪市となる、戸数7、089戸、人口34、546人で県下4番目の市制に伴い、同年4月22日から3日間全市を挙げて盛大な祝賀式が催されたそうです昭和16年12月8日太平洋戦争の開戦となり、翌年6月のミッドウエイ開戦の敗北を転機に昭和20年8月の終戦まで耐乏生活が強いられ、国家総動員がしかれ配給制度となり、日常品のすべてが配給通帳や切符がないと、購入出来なかったり、その上に昭和20年頃になると空襲が始まり松阪は3月4日、4月22日、6月26日の3回のB29の空襲を受けて、死傷者38人建物被害317戸の被害が記録されています。当時を経験した人達の苦労は並々ならぬもので、この国難の中から立ち上がり松阪市も港湾の整備と工業団地のうけ入れで次第に近代工場が立ち、かっての自然豊かな松阪市に生まれ変わりました。ものの哀れと自然を慈しむ心は松阪人の心の中に受け継がれていくことと思います。また平成17年1月からは飯南町、飯高町、嬉野町、三雲町の4町と合併し益々人と自然との調和のとれた新生松阪市となっていくこと思われます。

市内散策

松阪木綿で世に出た松阪商人を育てたことになる蒲生氏郷公、松阪城築から417年、松阪の町を紡いできた歴史の町をゆっくりと歩いてみました。

三井家発祥地

現金、安値、掛け値なしの商法で江戸有数の呉服商になり、三越を興した三井財閥の本宅の発祥の地が本町通りに残っています。見学は通りからのみですが門の威容にその財力が伺えます。

松阪商人の館

江戸時代の豪商、小津清左衛門の邸宅を改築した木造2階建で、母屋には表座敷、見世間、勘定場など20にもの部屋を備えていて、裏手にある蔵には昔使用した看板や道具箱、万両箱などが展示されています。                        

松阪もめん手織センター

江戸で活躍した松阪商人に莫大な財をもたらし松阪を栄えさせた松阪もめん、その歴史と手織りの技術が体験ができ又木綿製品なども販売されています体験は要予約有料。                          一日織姫〜2100円      入館料  無料         木曜日  休館         (祝日の場合は翌日)     年末年始

本居宣長旧宅跡

江戸に三軒も店をもつ大きな商家だった本居宣長の生家もお父さんが亡くなってから商売がうまくいかなくなり、宣長12歳の時にここに引越して72歳の生涯を閉じるまでの60年間過ごした場所でもあります、建物は明治42年保存と公開のために松阪公園へ移築され、宣長公の書斎の名前である「鈴屋」すずのやの名称で今も親しまれています。

御城番屋敷

江戸時代末に紀州藩松坂城の警護の任にあたった紀州藩士とその家族が住むために1863年新築されたもので、槇垣と石畳の静かなたたずまいは当時のすがたを今に伝える歴史空間です、今も子孫の方が日々の生活を営まれています。 城側の一軒は内部公開されています。             入館無料(月曜日)

松阪城公園

天正16年(1588)蒲生氏郷(がもううじさと)によって築城された松阪城は秀吉の命により松ヶ島城に移されましたが、より頑丈な城を求めてこの四五百森(よいほのもり)に城を築きました。 かっては3層の天守閣が在りましたが、今は公園として整備され秋は銀杏、春は桜、藤の名所として市民の憩いの場になっています。切石を使わないこの石垣は野面積みといい正面の高い石垣などは戦国時代の厳しさが偲ばれます、又松阪市街地を見下ろす、随一のスポットでもあります。

本居宣長記念館、鈴屋

鈴屋

松阪城跡にあり「古事記伝」のj自筆稿本愛用の文具鈴などの品16000点の資料が所蔵されています。   その隣には宣長12歳のころから72歳で亡くなるまでこの鈴屋で暮らしていいました。 昼間は医者をしながら古事記といゆう日本最古の書物の研究に打ち込み、夜は門人達の教室に替わり、52歳になってつくった中二階では疲れると鈴を鳴らしたそうで、いつの間にか鈴屋(すずのや)と呼ばれるようになったそうです。

入館料  300円       9、00時〜16,00時   月曜  休館日(祝日の時 は翌日)、年末年始、

入館料   200円     9時〜16時30分      月曜日 休館日 、祝日の場合は翌日、年末年始

歴史民俗資料館

明治44年に建てられた図書館を改装したもので館内は薬種商家、松阪木綿、伊勢白粉などのコーナーに分けられており又当時の人々の暮らしぶりが伺える道具類なども展示されています。                            入館料  100円     9時〜16時30分     月曜日 休館日      (祝日の場合は翌日)   年末年始

トップページに戻る

松ヶ島城跡

1575年北畠一族滅亡後信長の二男信雄は一時田丸城に居城するも放火により城の中心部を失い、今の松ヶ島に城を築くことになる。1580年松ヶ島城は本丸、二の丸、本丸の一隅には五層の天守閣があり三方を堀で囲み、堂々たる構えと伝えられている、城は三渡川右岸ににあり海岸線から500mと近く伊勢湾からの城の姿が偲ばれます。今では「天守山」といわれる20m四方の台地が残るだけです。

散歩道

松阪市の紹介

出会いの花々

押し花

絵手紙

写真

石絵

あみぐるみ

ふるさとの歳時記

北畠氏

蒲生氏郷

本居宣長

松浦武四郎

鈴、松阪は鈴の町

松阪市街地観光案内地図