繰り返しに神が宿る


 " 繰り返すことで神が宿る " と言った人がいます。何万冊となく読んだ本の中で、頭に残ったワン・フレーズですから、誰の言葉なのか、もしくは、どんな本に載っていたのかすら思い出せませんが、その後に " コカ・コーラ、コカ・コーラ、コカ・コーラ " とお題目にして唱えれば、コカ・コーラ教ができあがる、と至って真面目に論じてあったのを記憶しています。

 僕もまさに、國弘先生の " 只管朗読教 " に感化され、一度も留学経験がないにもかかわらず、イギリス人が話すようなクイーンズ・イングリッシュを発音できるようになっていったのでした。おかげで様々な国の人と喋っても、" Good English ! " と褒められてきました。

 人を殺して死刑判決を受けた殺人鬼でさえ、独房の中でいつ自分の首にロープが巻かれ、死刑を執行されるのかと怯えながら、心の平安を求めて、黙々と般若心経を写経すると聞きます。毎日毎日漢字しかないお経を、ひたすら写し書くのです。何百回何千回と僅か二百余文字の般若心経を写していると、次第に素直な反省の気持ちが生まれ、殺した相手に申し訳なかったと涙が溢れ、やがて綺麗な心で己の死を受け入れられるようになるのだそうです。

 あるいは若い頃、好きな人が出来て、告白する勇気もなく、ままならぬ感情に身悶えしながら、ただ白いノートに相手の名前を、何百回も何千回も繰り返して書いた覚えはないでしょうか。男の子なら自分の名字の下に相手の女の子の名前を続け、女の子なら相手の名字の下に自分の名前を書いて、二人並べてみたりするわけです。そうやって、いつか相手と結婚が出来れば、どんなに嬉しいだろう、などと想像し、深いため息をつくのでした。好きという想いは、それだけでどんどんどんどん強くなっていくのです。

 生きていくことが辛く、苦しく、独りぼっちでリスト・カットを繰り返す子達が、夜回り先生のパソコンに、何十行にも渡って画面一杯に " 死にたい " とメッセージを送っているのを、NHK のドキュメントで視たことがあります。画面一面に " 死にたい " と書き込むのは、生きたい気持ちの裏返しなのだと思い知らされます。助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて・・・その血を吐くほどの思いを、何百、何千とキーボードに打ち込むことによって、自分という存在に気づいて貰いたがっているに違いありません。

 僕の中学時代は、まだまだ塾など少なかったですし、公立中学でも毎週5回は英語も数学も授業がありましたから、どこに習いに行かなくても学校だけで充分でした。しかし今のように、主要な受験必須科目が週3回しか教えて貰えず、教科書もこれでもかと薄っぺらくなれば、入試用に知識を補充せざるを得ません。

 知識偏重になることへの警戒感から、個性を重視したゆとりの教育へと舵を切った結果、単なる我が儘人間が増殖してしまったのです。学ぶべき事を削って個性を尊重してやるのでは、本来なるべく楽をして生きたいのが絶対多数の人間というものなのですから、我慢だの辛抱などという美徳がはぐくまれることはあり得ないのは自明でしょう。

 辛さに耐え、日々地道に机と向き合い、英文を書きなぐり、イヤというほど計算問題を解き、週に1冊ずつでも本を読むという努力を、一日たりとも休むことなく、何百回何千回と繰り返すことを怠らない、素直な性格を養うべきなのが、小学・中学・高校時代の大目的だと考えます。


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