嫌いな先生との接し方
中学生とは大人になりかけの子供、という位置づけでしかなく、体の大きさだけはいっぱしの成人と変わりなくなっていても、精神的にはまだまだ幼く、未熟な行為しかとれないことが多いものです。従って、先生が嫌いだと、その先生が教える科目自体が嫌いになり、勉強する気がしなくなるのが普通です。しかし、それはあまりにも勿体ない状況といえます。先生の善し悪しで自分の将来まで変わってしまうなど、ナンセンスでしょう。
昔の親は、少なくとも学校の先生に対し、聖職者というイメージを持って、尊敬する態度を取っていたはずです。それが今や、モンスターペアレントなどと呼ばれ、尊敬どころか逆に子供の前で先生を馬鹿にし、ちょっとでも駄目な面を見つけると、鬼の首でもとったかのように批判を始めてしまうのです。そんな親の元で、教師を信頼する子供が育つ訳がありません。
先生を馬鹿にして子供の成績さえよければ問題はありませんが、常識的にいって、そんな生徒の成績は、目も当てられないほどの惨状を示します。あんな先公の授業なんか聞いていられるか、とばかりその担当の科目まで馬鹿にし初め、家庭での勉強にも一切取り組もうとしなくなるのです。
生徒に判りやすい授業を心がけるのが教師の使命ですから、それが出来ない先生の側にも確かに大きな欠点を抱えているのは疑いありませんが、教え方の拙さを理由に、勉強をさぼっていい屁理屈とするのは、何の解決にもなりません。いじめはあってはならないのが当然でも、嫌いな先生の出題するテストで酷い点数をとるのは、まさにその先生から精神的にいじめを受けているようなものではありませんか。
黙っていじめに耐えているだけでは、いつまでもいじめがなくなることはありません。僕がいじめの相談を受けたとすれば、いじめを仕方ないこととして受け入れるのではなく、反発しろ、というのが唯一無二のアドバイスです。例えば、友達から陰湿ないじめを受けたなら、すぐに担任に言いつけてやればいいのです。担任が然るべき処置をとらなければ、校長に訴えればいいし、校長が無視などすれば、教育委員会なり警察なりに相談し、なるべく事を大袈裟にしていきます。先生にチクったら、ますます陰に隠れたいじめが続くのではないか、などとツマラナイ心配は無用です。いじめられるたびに、こまめに、またいじめられました、と繰り返し訴えるのです。その都度先生に呼び出されて詰問されるいじめっ子の立場に立ってみてください。あいつをいじめるのはなんて面倒くさい事になるのか、と嫌になって、相手にしなくなるに違いありません。
暴力的ないじめを受けて、それに対抗して空手を習うのもいいでしょうが、強くなるまでには時間がかかります。相手よりも遥かに成績を良くし、そいつのいじめなど、頭が悪いコンプレックスの裏返しではないか、と逆に嗤ってやるのも良い手なのですが、とにかく即効性があるのは、いじめられるたびに、毎回毎回繰り返し先生にいじめの実態を報告して、そいつが事情を問いつめられ、注意されたにもかかわらず、先生のいう事を聞かず、いじめを続けたとあっては、内申にどれだけ響くでしょうか。これは非常に有効な、いじめ返しとなります。
であるならば、嫌いな先生をいじめ返すには、どうすればいいでしょうか? その最良の方法と思ったのが、30年以上前に読んだ本に載っていたのです。1975年に「諸君」という雑誌に、上智大学教授の渡部昇一さんと、自民党の平泉渉さんが、「英語教育大論争」を繰り広げた事があって、同年11月に文藝春秋より、ハードカバーの単行本として上梓されました。古い本ですから、絶版となっており、図書館なりアマゾンなりで探すしかありませんが、その22~23ページを抜き書いてみます。著作権の問題はあるかもしれませんが、渡部昇一教授の書いたその部分も、藤村作東大教授の晩年に、熊本高校時代の英語教育を回想した内容らしいので、孫引きということで大目に見ていただければ、と思います。
明治時代の五高の先生たちはほとんどがアメリカの大学出で、マスターやバチュラーの肩書きがついていたのだが、教室での解釈は、学生たちの目から見るとすこぶる曖昧で、しばしば先生と学生との間に議論が起こった。先生方はこれに対し、明確な判断で学生たちを納得させる事が出来ず、結局「アメリカの大学でやった人は駄目だ」という評判が学生たちの間に生じた。
そうした先生たちは学校に居辛くなり、中学に去られるなどして、幾人かが代わったのだけれど、学生たちにとっては一向に代わり映えしなかった。それで、中には「先生の解釈では駄目だから、リーディングだけやってください」などと失礼な注文を持ち出し、外国帰りの発音を聞いて、一時間の授業を無駄にし、一向に学力も進まなかった。先生もやりづらかったろうが、生徒も迷惑してどうにもならなかった。
こうしたところに、日本の大学を出た若い教師がやってきた。もちろんこの人は外国に行った事がない。ところがその授業が始まってみると、今までとは大違いである。学生を指名して訳させ、誤訳があると辛辣な質問で突っ込んでくる。その答え方が悪いと「君は一体、どこから来たんだ」と聞かれる。「〇〇中学です」と答えると、フンと鼻の先で嘲られ、「君の中学ではそんな訳をするのか」と言われる。さらに酷くなると「フン、中学からやり直すんだな」と冷然として言われる。
この辛辣さに学生は憤激し、今度の先生は意地が悪いから、ひとつとっちめてやろうという相談がまとまり、クラス総掛かりで熱心に下調べをし、授業の際には質問攻めをもって食って掛かる事をしたが、結局は学生は総負けをしてしまう。
「今度の先生には歯が立たん」という事で、敬服の心が起こって、みんな真剣に勉強するようになった。教室での説明も、前のアメリカ帰りの先生方と違い、明快至極で、よく学生たちを納得させたのである。
それで学生たちは課外での英語の教授をも願い出る事となり、総代が頼みにいって、イギリスの名作を読む事となり、シェイクスピアなど何点かを読み上げたという。この時の日本の大学を出た若い教師というのが、誰であろう後の漱石、若き日の夏目金之助であった。
当時の漱石は、前任者のアメリカ帰りのバチュラーやマスターという肩書きの持ち主に比べれば、英語の「実際における活用」においては数段劣っていたはずである。彼はイギリスに行ってないし、イギリスに行ってからも、会話が上達してよくその社会に融け込む事は出来なかったぐらいだから。しかし、若い学生をピシッと把握して、原書を自発的に読もうという気を起こさせるほどに「教育力」があったのだ。アメリカ帰りの人たちは、ペラペラし流暢に英語が話せたところで、全く教育力というものはなかったのである。
ここで面白いのは、明治時代の高校生は非常に自立心があり、先生に馬鹿にされると、憤激して徹底的に予習し、先生を質問攻めにしようとするのです。その質問に答える的確な知識がなければ、教師としての信用に関わり、生徒から逆に馬鹿にされてしまいます。生徒の方は、先生を困らせるまで熱心に予習していくのですから、成績が下がる心配はない訳です。先生が嫌いだからその科目も勉強しない、という消極的な姿勢ではなく、嫌いな先生をいじめるために積極的に勉強する、といった考え方が必要なのです。
嫌いな先生の科目は勉強したくないというマイナス思考では、何も生まれてきません。英語を使うこともなく、大半の人は普通に生活しているし、因数分解やルートや合同の証明が、将来生活する上で必要になるとは思えないのに、なんで役にも立たないことを習わなければいけないのか、と考える子に未来は開けないのです。そうやって逃げてばかりいると、最終的には足し算すら勉強する必要がなくなるのではありませんか。買い物をしても、いくら払わなければいけないのか、計算するのはレジのコンピューターであり、人間ではありませんから、足し算など習わなくても良いじゃないか、と言われれば、その通りです、と全面的に賛成してあげます。しかしその意見がいかに正論であれ、1+1が理解できず、九九も覚えられない人間は、もはや人間扱いされることはなく、一生周りの誰もからバカにされ、軽蔑され続ける覚悟が要るのです。
・・・想えば、生徒から嫌われている先生も先生で、自分の選んだ仕事の意味を理解できていないのではないでしょうか。教師という仕事の本質的な存在理由は、後輩である未熟な子供たちに勉強の素晴らしさを伝え、自ら進んで勉強に取り組むような人間を育てることだと、僕は考えます。それを、上から目線で、生徒を頭ごなしに叱るばかりで、自分の教える教科の面白さを伝える技術がないのでは、その教師自身の勉強不足以外の何ものでもありません。生徒に小言や説教をして授業を進めないのは本末転倒も良いところで、同じ叱るなら、特定の生徒だけを放課後に職員室にでも呼んで、個別に諭してやればいいのです。真面目な生徒の貴重な時間を奪う権利は、阿呆な駄目教師にあるはずがないのです。
しかし、どれだけ駄目な教師であっても、簡単に馘には出来ませんから、指導の下手な教師に当たったのが運が悪かったと諦めるべきでしょうか。そうではありません。その説教好きの教師が自分の無力さを意識しないにしても、自分が生徒から嫌われていることくらい、薄々判っているに違いありません。顔を合わせても知らんぷりをされ、すれ違うにもそっぽを向かれるのです。そんな学校が、その教師自身楽しいはずはないでしょう。
僕は生徒に教えます。嫌いな先生にも、君らだけはニコニコしてあげ、顔を背けるのではなく、むしろ進んで挨拶をし、善い子ちゃんの振りをしろ、と。心の中では、この糞先公め、早く死ねばいいのに、と毒づいていても良いけれど、表面上の顔だけは、そんな本心をおくびにも出さず、ぶりっこをしなければならない、と。相手は阿呆な先生なのだから、毎日毎日他の生徒に無視されているのに、君らからだけはにこやかに挨拶され、人間らしく扱われるうちに、最初のうちこそ裏があるのではないかと警戒していても、やがて1ヶ月もすれば、その先生も表情を緩ませながら、返事をしてくれるようになる、と。その結果、君らに対して叱ることに抵抗が生まれ、テストの採点にも、嫌いな生徒にはちょっとしたミスでも厳しく×をつけても、君らにはオマケで△をくれることだってあり得る。だって、いくら嫌われている先生だって、人並みに幸せな気分に浸りたい、実は単純な先生なのだから、と。
必死で勉強してその先生を質問攻めにして苛めるのは高度であり、大変な努力を伴いますが、後者の、ただただニコニコと微笑みながら挨拶をするのは、即効性のある対処法といえるでしょう。
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