たまには、ぼんやり…
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=般若心経を読む=
日記に書いたものを転記しておこう。何冊かあった般若心経の解説書は、もはや散逸したままで手元に残ったのが平田師の書いた「一切は空」であった。 ★題名 『一切は空』 ★著者 平田 精耕(せいこう) ★発行 集英社 ★発刊 1991年06月25日(単行本は1983年10月刊行) |
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2006年4月21日 (金) 般若心経を読む(布施) | |
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般若心経について書かれた書籍は多い、戦後だけでも何度もブームとなっており、平成の始まりでも発刊ブームだったようだ。それまでにも何冊も購入はしていたのだが、残っているものは少ない。知人や親戚に貸したり預けたり、いずこかで役にたっているのならば良し。 たかだか276文字の経文に過ぎないのだが、言っていることは深遠であり、死ぬまでに理解できるかどうかも不明である。これが正しいとか絶対であると考えるのは間違いであり、ここに仏教の持つ思想が集約されていると考えるべきものである。ただ、その奥は広いし、底も深く、その高みは見えないほどにそびえている。 (1)般若波羅蜜多(はんにゃ はらみった) 般若は智慧を意味するのだが、波羅蜜多は「彼岸に至る」ことである。此岸(しがん)という現実から彼岸という世界に行くためには、6つの乗り物があるという。 布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧(ちえ) 布施を分かりやすく「他人に対する施し」と書かれているが、この施しを「慈善」と考えるのは間違い。キリスト教などでの、10分の1税やフィランソロピーやボランティアなどは、神との関係において為すべきことであり、仏教では自分の解脱(悟りでもあるか)のために行うものである。 仏教圏の国に対するNGOや援助が、現地ではそれほど感謝されないことには、この考え方が背景にあるためらしい。「自分のためにやっていることで威張られちゃかなわん」てな思いがあるわけで、以前の日本における托鉢僧に対する布施(食料やお金)が、乞食に恵んでやるのとは異なり、当然のことであったことと同じである。托鉢する側は、モノを貰うことで相手が功徳につながるのだから「ありがとう」などとは言わない。功徳のチャンスを与えてやるという意識なのだな。 布施には、「財施と法施」があるという。他人にモノやお金を施すことが財施なのだが、この時に恵んでやると考えるならば、何の功徳(効果)も無いことになる。当たり前のごとく、自分の持っている必要以上のものを施す、あるいは必要な分でさえも分け与える。そこに意味がある。 対して、法施とは「仏の教えを施す」ことらしい。これを仏教のみに限定することはない、自分が知っていることを「威張るわけでなく」「もったいぶるわけでもなく」、相手に伝えることが法施である。知識の共有とは、何の前提条件も代価を要求するものでもない。相手の知らないことを伝えることは、その伝える行動により自分も向上することであり、場合によっては間違っていたことを指摘されたり、周辺知識を教えてもらえることもある。 この2つだけであると思っていたのだが、後に瀬戸内寂聴の文章から「顔施」という言葉を知った。笑顔を相手に見せることは、心が和らいだり、安心を与えることでもあるのだから、これも施徳になるという。営業スマイルや造り笑いを欺瞞として排してきた人間にとって、大きなショックを受けた文章であった。 相手に見せる顔(笑顔)だけで、楽しさや安らぎや喜びを与えることができるわけであり、その反応は自分にも返ってくる。俗世間の言い回しにこだわることなく、まずは実践すべきものであるようだ。 さらに、どこかで見かけた言葉に「文施」なるものもある。これは、正確には知らないが「書いたもので他人に喜びや満足や感動を与える」ことであろう。それほど大仰に考えることもない、単に何かを考えさせるようなものでもいいのだろう。何かを振り返る、何かを考え直す、何かについて深く考えてみる、といったキッカケになるようなものでも十分に施徳につながる。 NETにおいては、「情報」という言葉が独り歩きしている。役に立つ情報のみが取り沙汰されるのだが、そうではない「文施」の視点からNET情報を考え直すことが必要となってくるだろう。 ここまで書いてくると、「施す」という表現に対する違和感も消えてくる。「施す」とは、下にくれてやるとか、しみったれた分け与えではなく、当たり前のごとくに「共有」することを意味する。その「施し」という行為を通じて、「徳」を積む。「徳」とは、神様の前で精算する資産ではなく、他者との関係で出来上がる貸借関係でもない。 施しを通じて自らの裡にできあがる「智慧」を、より深く、より広く高めることが「徳」なのではないか。ああ、そこには流行り言葉とは違う、本来の意味での「優しさ」という色合いも付くのだろう。 |
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2006年4月22日 (土) 般若心経を読む(智慧) | |
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般若心経を解説するつもりはない、かなりの出版が既にあるから。それらを読んで思うのは、真理の書であるとか、救いの手引きだとか、悟りの導きであるかのような記述に抵抗を感じる。 確かに、アタシにも知りたいという欲求はあるのだが、それは西洋の哲学や心理学に対するものと同じ知的関心であり、俗なハウツーやインナー何とかではない。何も、ひねくれた好奇心ではないし、謙虚に理論を知りたい姿勢が無いわけではないが、あまりに一方的な記述では辟易するのみ。 本書は、大学での講演内容をまとめたものらしく、分かりやすく、尊大な調子の無いものとなっている。いわゆる総論としては十分なものであり、次に各論に進むことが容易になると思われる。つまり、入門書として最適だと思うね。 (2)般若波羅蜜多(はんにゃ はらみった) 「般若とは智慧(ちえ)を意味する」と前回に書いたが、この智慧とは知恵(智恵)とどこが違うのか。普通は、智慧と難しく書いた時には仏教用語と解していいだろう。 よく「あの人は知識はあるけど知恵がない」と他人を評したりするが、これは「学歴はあるけど教養がない」とか「「お金はあるけど品がない」というのと同じで、幾らか妬みの混じった揶揄に過ぎない。ただ、俗な言い方には若干の真実はあるもので、ぼんやりとだがその2つは異なるものだと感じているわけだ。 これは英語でも、ノウレッジ knowledge とウィズダム wisdom と意味合いが異なるように、知識と知恵は別物である。アタシは、データ(情報)の分析からノウレッジ(知識)が構築され、そこに人間の意思が蓄積されることでウィズダム(知恵)が出来上がると思っている。 しかし、人間の思惟には限界があるのではないか、オーバーロード(至上の存在=神)のようなものがより高遠な(あるいは深遠な)モノを持っているのではないか、という迷いもある。「神の考えていることは私たちには分からぬこと、疑ってはならない」という東西の宗教の教えには反撥するものの、より深い考えを知りたいと思う。その、宗教的な意味合いの強いモノが「智慧」なのだろう。 本書では仏教知識のない人たちに対して、迂遠な論理展開で「智慧」なるものを説明しようとしている。 ※「仏教では、如来が中心になってその配下にたくさんの菩薩」がいる。 ・知恵のことはおれにまかせろ、というのが文殊(もんじゅ)菩薩 ・慈悲のことはおれにまかせろ、というのが観音菩薩 ・悟った後のいろいろな修業については、普賢菩薩 ・56億7000万年の未来ついては、弥勒(みろく)菩薩 「座禅瞑想法は、古代インドで5000年前に存在していた」 釈尊は6年の苦行をしたが、「不滅の真理が自らの心中に閃く」ことはなかった。その後で、菩提樹の下で端座瞑想し、「忽然として大悟徹底され」て、「仏陀になられた」という。これが、仏教の始まりである。 仏教を研究するためには、3つのこと(仏教の三学「戒・定・慧」)を学ばなくてはならない。 ・戒律を保つこと ・座禅を修すること ・智慧を得ること ※「座禅は、智慧開発のための方便手段ばかりではない」 ・「修因証果」――座禅を修することが原因となって悟りの智慧を証する結果が生じる ・「修証一等」――座禅を修していることがそのままで悟りの智慧を表わしている 道元禅師は、「仏道を習うことは自己を習うことなり」といっておられます。「自己を習う」とは「自己の本来の姿」に目覚める、ということです。この「目覚め」が六波羅蜜(ろくはらみつ)の第6番目の智慧であります。 ……略……自分自身のことを知らない人は、仏教では智慧の人とは申しません。まったく知識や教養のない人でも、本来の自己に目覚めている人は智慧の人です。文殊菩薩の分身ということができるでしょう。この智慧を般若と称します。 |
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2006年4月23日 (日) 般若心経を読む(四苦八苦) | |
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考えるに、般若心経がブームになる時というのは、社会(経済)が停滞したり、人間(心)が疲弊したりするからなのだろう。閉塞や自閉が蔓延し、何か「救い」を求める気運が高まっている時に、仏教の土壌に育った日本人が帰っていく場所なのではないだろうか。 しかし、閉塞や自閉、あるいは鬱(うつ)な気分を全面的に否定することはないと思う。全国民が躁状態であったバブル景気の頃、ジャパン・アズ・ナンバーワンと浮かれ、自信満々で動き回っていた時こそ、しっかりと自分を見据えるべきだったはず。深く内省することを見逃しているほうが否定されるべきなのではないか。 躁と鬱をバランスよく繰り返すほうが、躁のまんまで激走するよりはまともに思える。社会(文化)が萎縮し、人間(精神)が自信喪失している現在、確かな内省に取り組むチャンスと思いたい。「ラディカルな自閉症」とでも言うのか、考えてみるべきだろう。 (3)照見五蘊皆空 度一切苦厄(しょうけんごうんかいくう どいっさいくやく) 般若心経は、古代インドのサンスクリット語だったかに漢字をあてたものらしいのだが、漢文読みできる。「五蘊皆空を照見して、一切の苦厄を度す」と読むのだが、この「度する」とは「救う」「救いあげる」の意である。前段の「五蘊」(色・受・想・行・識)とは認識論あるいは認知論の範疇であり、仏教独特の体系だからよく勉強しないと分からない。 要は、「苦しみや迷いは5つの要素が集まったものだから、それが無ければ苦しみは無いということが分かった(照らすし見えた)、それでもって一切の苦厄から救われる」ということらしい。 こういうところが、若い頃から仏教に関心があるものの積極的になれなかった理由でもある。長い歴史から、独特の専門(概念)用語を作り出し、それを元に体系化する――その世界は、知的関心を持たせるものの独善的な感じも誘発する。 西洋哲学でもパトスだエートスだゴモスだという、専門用語はあるのだが、それは明確に規定(定義)されている。仏教の場合は、どこか中途半端に概念設定されているように思える。だからこそ、ちゃんと仏教学を受講するか研究したくなる。ただ、分かりやすく説いているようでいて、「アンタらには難しかろう」と尊大さを匂わせる仏教書には辟易してるんだよね。 「一切の苦厄を度す」――苦しいということも、苦しいという心があるから苦しいので、そういう心というものは何からできてるかというと、今いいました色受想行識の5つの塊からできているのです。それが集まると、苦しみがでてくるわけなのです。 仏教では、「人間の力ではどうすることもできない苦しみ」を生老病死(しょうろうびょうし)と表現する。ここで面白いのは、老病死は当然なのだが、そこに「生」が加わっていることである。キリスト教の「原罪」に似た感じで、「生」そのものを苦しみと捉えている。 さらに、これらの苦しみから逃れために計略を巡らす――それが生計であると言うのだが、これが言葉の遊びなのか、正確な語源なのか調べて見たいことでもある。次いで、「老計」「病計」についても近年の福祉行政や民間ブームで始められたとして、ただ「死計」については考えられてないとしている。 医学分野や精神学分野での取り組みはあるのだが、「死計」については無理であり、そこに宗教の存在意義があるとしているようだ。 俗に、四苦(=36)八苦(=72)を合わせて108つの煩悩があるから、大晦日の除夜の鐘は108つ撞くといわれる。本書では、上記の4つに下記の4つを合わせて八苦としている。 ・五蘊盛苦(ごうんじょうく) なぜ人間はこんなに迷わなければならないのか ・怨憎会苦(おんぞうえく) なぜ人間は人を恨まねばならないのか ・愛別離苦(あいべつりく) なぜ人間はあれほど愛した人と必ず別れなければならないのか ・求不得苦(ぐふとつく) 人間はいろいろ求めるが、求めても得られない苦しみ これが再読して不審に思ったところで、確か「愛別」「死別」といったように、他者との離別をパターン分類してた記憶があった。どうも、他の書籍だったらしい。 このように、解説書籍では不十分なのが仏教である。断片的でなく、体系的に勉強してみたいという意欲が歳とともに強くなってきている。 |
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2006年4月24日 (月) 般若心経を読む(諸法空相) | |
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日本SFで始めて、仏教をガジェットとして使ったのは山田正紀だったように思う。超能力をそれぞれ、正覚や声聞という仏教用語で表わし、弥勒(救世主=メサイア)は世界を救うのではなく人間社会を終わらせる役目を持った存在として設定してたのではないか。 そういうガイダンスを受けた後で、真言密教系の阿含宗を紹介された。一時期、ブームとなった「チャンネルを変えろ」だっけかの著者・桐山靖男が創始者である。(名前や書籍名はうろ覚え) 20代でそのようなアプローチをし、30代では「霊波」「真光」「オウム」に伝があったことで、教義書を取り寄せて比較してみた。その時期に知ったことは、日本における新興宗教の歴史であり、「教義屋」という職種があることが分かった。つまり、霊能力を持ったと称する創始者が生老病死に苦しむ人たちを助ける。信者が増える中で、教団の組織ができ、中興の祖とでもいうべきリーダーが現れる。次に、教義の確立を目指すのだが、そこで元国学者の類が出てきて教義体系を指導する。 結果としては、おおよそが大日如来から始まる教義体系となり、そこに西洋の心理学や精神医の理論やテクニックが付加されることになる。 アタシは新興宗教を否定はしないし、その信者の信仰には羨望を覚える。信仰なき者として、理知的に認められるものを探しているつもりだから、頭からの否定はしてこなかったつもりだ。仏教でさえも、当初の国策としての導入の後、親鸞、日蓮などの「新興宗教」が発生し、それは根付いている。それらの顕教に対して、密教(秘密仏教)も誰だっけかの系譜で各地に存在しているし、信者も多い。 ただ、ペダンティズムなのだろうか、純理論的あるいは学問的な興味から発展することはなかった。その中で、般若心経だけは、各派共通の経典(原書)らしきことから、何度も取り組んできたものであった。 (4)舎利子 是諸法空相(しゃりし ぜしょほうくうそう) 釈迦が「舎利子よ、是の諸(もろもろ)の法は空相なり」と弟子(舎利子)に説いているのだが、すべて森羅万象の存在が「空」であると言っている。 このメモでは、著名な「色即是空」「空即是色」については書かないつもりだ。連想することや考えはあるもの、面倒だし大きすぎる。般若心経の根髄は「色即是空」に尽きるのだろう。 この文言に続いて「不生不滅 不垢不浄 不増不減」となるのだが、ここに般若経典の「不去不来」を加えて『八不』というらしい。 不生不滅(生ぜず、滅せず) 不垢不浄(汚くもなければ、綺麗でもない) 不増不減(増すこともなければ、減ることもない) 不去不来(去ることもなければ、来ることもない) 本書のこの部分を意訳すると、「この世の存在や出来事は全て『空』である。主観(人間の心)があるから、色を持ち、形を成し、喜怒哀楽の感情が湧き起こる。それらの根源を探っていくと、何もないことが判る」とでもなるのか。 そこが色即是空であり空即是色といわれるところなのです。 その心の元の何もないところのことを「諸法空相」というわけです。 ここで、単純に「色即是空」とは無への悟りであるとか、空しき存在からの自己構築とか、生半可に分かったつもりでいたのが20代であった。どうして簡単に分かったつもりになるのか、その暴慢さと無頓着ぶりに呆れる自分がいる。 |
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2006年4月25日 (火) 般若心経を読む(四諦) | |
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70年代のことだが、金沢の永平寺(?)だったかな、座禅の修行に行きたいと思っていた。何かしら得るものがあるのではないかという思いと、西洋志向の強い自分や周囲に対して、何か日本的なアプローチをしてみたかったようだ。 金沢は無理だったが、鎌倉の寺に伝があるので紹介してもらおうとした。連絡をとってもらったりしたのだが、結局は行かなかった。何の理由だったのだろうか。 座禅は古い歴史を持ち、古代インドのインダス文明にまで遡るという。それどころか、紀元前3000年のインダス文明よりも古い、紀元前5000年の頃から座禅瞑想法はあったともいう。仏教が紀元前430年とあるからして、釈迦も座禅瞑想により仏教を開宗されたことになる。 「ただ、不思議なことにこの座禅瞑想法は、インドより西方には伝わらなかったという歴史的事実があります。このために、東西両洋の文化に大きい差異を生じました」 (5)無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故(むくじゅうめつどう むちやくむとく いむしょとくこ) これを読み下すと「苦集滅道もなし。智もなく亦た得ることもなし。無所得を以っての故に」となり、ここに弁証法的な趣を感じてしまう。 無理に言い切ってしまうのだが、仏教の最初は釈迦が悟りを開き、それを周囲に広めることで「救済」の正確が強かったと思われる。これが大乗仏教であり、大きな船であったか乗り物に乗って涅槃に至るものだった(と思う)。それに対して、後に釈迦は個人としての悟りを求めたと解釈したのか、自分が悟りを開き涅槃に至ることを目的とする小乗仏教が勃興した。 (この部分は、どうも逆らしい。だが、釈尊の悟りへの意思には、まず他者救済があったと思いたい) まあ正確でないから、大乗と小乗があることだけでもいい、その小乗仏教では前述のように専門用語をいろいろ整理・構築・体系化している。仏教の教義は、小乗仏教によって構築されたものらしい。 これに対して、「大乗仏教の根本教といわれる般若心経」は、「釈尊の教えといえども、それに執着すれば真の釈尊の教えではない」と宣言している。 苦集滅道は「四諦(したい)」と表わされるのだが、「諦」は諦めるという意味ではなく、明らかにするという意味である。(苦)苦しみとは何ぞや、(集まり)苦しみの拠って立つものは何か、(滅)苦しみの源である執着心を滅するものは何か、(道)そのための方法は何なのか、という4つの事を明らかにすることが「四諦」である。 そのうちの執着心を亡くす方法として「八正道(八聖道)」を上げている。 ※八正道(涅槃寂滅の世界に入るための正しい道) ・正見(正しく見ること) ・正思惟(正しく仏法に適って物事を思惟すること) ・正語(常に仏法に適った正しい言葉をはくこと) ・正業(正しい行いをすること) ・正命(正しく生きること) ・正精進(正しい法に適った修行の努力をすること) ・正念(正しい道を常に憶念すること) ・正定(正しい仏法に適った座禅を修すること) このように理路整然と体系化された教義体系を、般若心経は喝破する。「苦集滅道などはない、最高の知恵は無智である(プラトン哲学の無知の知)、悟りを得たと思ったらそれは本当の悟りではない」……常に、テーゼに対してアンチテーゼが突きつけられてアウフヘーベン(止揚)される弁証法に似通った図式である。 「般若の智慧は、空の智慧、何も無いことを知るという知恵でありますから、これは空智、あるいは無智と呼ぶより仕方がないのです」 座禅をしていて、一切空の世界を発見したといって、その空の世界に耽着(たんちゃく)してしまう と、これを禅の病、「禅病」あるいは「空病」と名づけます。 ――無智また無得、「智もなく、また得ることもなし」 |
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2006年4月26日 (水) 般若心経を読む(無明) | |
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ちょっと、般若心経から話が飛ぶようだが――いま、マックス・ウェーバーの評伝を読んでいるのだが、中に初耳のことがあった。彼は在学中に、親がかりであることが重く心にのしかかり、学者(研究)志向でありながら公務員(役人)を目指していた。 思い出すに、アタシも高校中退で働きたいと思っていた。経済的な自立がなければ、自分の思うままに生きることはできないと思っていたからだ。それが考えを変えて進学したのは、単に学歴コンプレックスを持ちたくなかったからであり、まともに学問として知りたいことがあったからだ。 人間が他人を支配したいという欲望を持ち、他人と比べて優越感を持ちたがるのは仕方がないことである。ただし、そこに学歴コンプレックスのような意味の無い劣等感を持つのは避けたいこと。既に、大企業での指定校制度や学閥が消えかかっている中で、学歴にこだわるのは卑屈な劣等感でしかない。 仏教での「智慧」に関する考え方は、俗否定だけではない別の考え方を指し示している。しかし、そこには限界もあるし、僅かながら尊大さもうかがえる。 (6)無無明 亦無無明尽(むむみょう やくむむみょうじん) 一節だけの抜粋だが「無明もなく、また無明の尽きることなし」と読み、我流に解釈するならば「日々精進」であり「学問(真理追究)にはゴールなし」とでもなろうか。学歴を誇る愚かさだけでなく、知識を偉ぶることの無意味さを言っていると思う。 無明とは文字通り明るくないことであり、「真実に明るくない」という意味で「愚かということ、無智ということ、ものごとを知らないこと」と説明している。この場合の「知らない」とは、知識を知らないことではなく、「本来一切は何もない」(つまり色即是空)ことを知らないことを指している。さらに、意味が転じて「人間の悩みとか迷い、8万4千もあるといわれる人間の煩悩などを、無明と呼んで」いる。 このように仏教独特の用語なのだが、これを未消化で使うと無理があるし、誤解につながる。独特の用語とは威張るための「知識」ではなく、体系を理解するためのパーツにしか過ぎない。そのパーツを理解するために、歴史や概念を考察(勉強)しなければならないのだが、それは自分のためであり次のステップを理解するためのものである。 そういう基礎的な努力をせずに、簡単にダイジェストで「知った気になる」ことが、無智の典型ともいえよう。さらに、そこでもって学歴コンプレックスに支配され、振り回される人ほど、他人に対して「知識」をひけらかし、学歴を誇示する傾向が見受けられる。怖いのは、そういう人が他者に対して影響力を持ち、それに酔いしれて悪影響を与えること。煩悩の悪連鎖が生じることになる。 ……一切は何もないのです。一切は何もないから、人が私を憎んでいようが、かわいがっていようが、そんなものは、本当は何もないわけなんです。 しかしもう一度考えてみると、何もないからといって、それでいけるかというと、ここに机があってもなくてもどうでも良いから歩いてみろ、といわれて歩いて、ガツンと机にあたれば、痛いに違いない。 だから、そういうものが結びつくと、いろんな現象が起こってくる、したがって、無明の尽きることもないと、書くわけです。 智慧と無明はセットの概念であり、既存の西洋学問(実証主義)とは無縁のアプローチの産物である。心理学のジャンルでも、ユングやフロイドが似たようなコンテクスト(文脈)でアプローチしてるように見えるが、その実態は別のものと思われる。 ちなみに、行動心理学の有効性にアタシが魅かれるのは、心理学や精神学に医学の理論まで含めた総合理論であり、それを臨床分析(実証的)に展開しているからである。仏教は総合科学ではなく、人間を考えつくすことで体系化した理論であろう。 それに対して、学問的なアプローチ(勉強)は可能だし、数千年にわたって先人が取り組んできた。そこには、叡智の積み重ねがあり、人間(心)の本質に対する理解が満ち溢れている。しかし、その精緻な概念設定や広大な理論体系化の故に、そうなのだ、あまりに広大かつ深遠なために、語り口には独特の尊大さがつきまとう。 下記の文章がいい例なのだが、「一切は空」と言いながら、仏教者は般若心経の絶対性や至上性を断言する。ある意味で、経典主義であり原理主義におちいっていることになる。 「全ての人間が持つ心の問題、人間の心の構造というものを、解き明かしているのものが般若心経です。 だから、般若の次には”心の経”と書いております。人間の一心を明らかにしています」 | |
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2006年4月27日 (木) 般若心経を読む(十二因縁) | |
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書籍の抜粋メモをしておく中で、般若心経だけにページを割いている。その理由は、何冊読んでも何年経っても消化しきれないものがあるからだろう。前ページに書いたように、何千年もの間に先達たちがまとめあげたものであるから当然ではある。 しかし、それを無批判に、金科玉条に飲み込むことは消化不良につながる。ブログでも散見される「古今東西の名言」や「心に響く優しい言葉」を列記することは、消化能力のない赤ん坊にフレンチやケーキを食べさせることと同義になるのではないか。これは、大衆蔑視ではない、単に「ゆっくりと考え続けること」が重要だと言っているのだ。 実際に、概念整理のメモのつもりで書いていくと、一つ一つで考えることが多いのに驚く。既に分かっていたつもりのことが、意外といい加減な理解であったり、以前は納得できた部分にレトリック(詭弁)のようなものを感じてしまう。別の文献等での再確認をすることが必要だろう。 (7)無智亦無得 以無所得故(むちやくむとく いむしょとくこ) 再掲になるが「智もなく亦た得ることもなし。無所得を以っての故に」に戻ってみる。ここで本書は、プラトンの「無知の知の哲学」に敷衍して説明している。 「最高の知恵は無智であるという、これがこの『智もなく』の無智であります」 次に「無得」については、中国の学問仏教「三論宗」のの主張を引用する。 「本当の正しい見方、正しい事実を見る見方というものは、何も得るところがない――無得正観(むとくしょうかん)」 最後の「無所得をもって」の解説があいまいになっている。 ……般若の智慧の世界(仏の世界)というものは、虚空に非常によく似ている。よく似ているから、仮に空という言葉を使っているだけであって、本当は空気のような、青空のような、無内容のものでは決してないのです。 ここで、筆者自身が言葉の定義を強調することになる。「無明とは無智、つまり何も知らないこと」「上記の無智は別の意味」として、「般若心経では、煩悩は無明、般若の智慧は無智」であると断りを入れている。 ここらへんが学問としての限界であり、宗教人と話す時に「相手の世界のテクニカルタームを理解しにくい」原因であろう。歴史が長いことから、ダブルミーニングどころかトリプルミーニングのようなことさえ起こることになる。それぞれが分派して、独自の用語を作り出すのはまだしも、同じ言葉を使って別のことを意味するような混乱が仏教の特徴だと考える。 前述のように、新興宗教を比較検討すると、それが顕著に分かることになる。わざと、別の意味合いを持たせることで、末端信者の意思疎通を妨げたり、対抗意識をつくりあげてるのではないかとさえ邪推したくなる。 言い訳にも似た解説が続くのだが、「大乗経典というのは特別な新しい言葉」を使わないという。 大乗仏教が起こる以前に、小乗の仏教の人たちは『阿含経典』を中心として仏説の研究をやりました。そうして仏教の研究をしているあいだに、たくさんの言葉を作り出したわけです。十二支縁起(因縁)といった言葉も『阿含経』からでたもので、『苦集滅道』の四諦もまた『阿含経』の中に言われている言葉です。 小乗仏教を「我空法有(がくうほうえ)」と呼び、実我はないけれども法(絶対的真理)が有るという考え方、と説明する。 対して、大乗仏教は、教えそのものが人間の知恵の産物であるから、絶対の真実とは考えない。人も法も実がなく空である、だから「人法二空」と呼ぶ。あるいは、我も法も二つながらに空である、だから「我法二空」と呼び、小乗仏教と区別する。 ※十二支因縁(縁起) 無明(むみょう) 行(ぎょう) 識(しき) 名色(みょうしき) 六入(ろくにゅう) 触(そく) 受(じゅ) 愛(あい) 取(しゅ) 有(う) 生(しょう) 老死(ろうし) | |
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2006年4月28日 (金) 般若心経を読む(陀羅尼) | |
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これで、般若心経のメモを(一時)終わりにしておくが、書き足りないことが多い。中でも、古代インド語であるサンスクリットと漢字の関係は、言語学的にも面白いものがあるだろう。 例えば、菩提(ボディー bodhi)というのは悟りを意味するのだが、その前に「三」という接頭辞が付いた「サンボディー」が経文では「三菩提」と記され、漢訳では正しい悟りという意味から「正覚(しょうがく)」となる。 さらに、サンスクリットのドュリー(持っていくという動詞)が、梵語のダーラーニー( dharani)という名詞となり、それが発音のままに陀羅尼(だらに)と漢訳された。これは、呪(しゅ)または真言(しんごん)と訳されている。 面白いのは、 「意味がわからなくてもよろしい、これを訳してはならんというふうに、昔からなっております。訳が分からなくてもよいから陀羅尼を唱える。そして言葉を誦えることによって、音声の力を借りて悟りの世界に入ろうとする。そういう呪文を陀羅尼と読んでおります」 という部分であり、密教もそうなのだが仏教というのは全てをさらけ出しはしない。「秘密の部分があるからよろしい」ということで、教義を教えないだけでなく、護摩をたくということで神秘性さえも演出する。 私見だが、護摩たきの時の(お払いの?)紙が燃えないのは不燃紙だからだろうし、手を振りかざすと炎が高くなるのはマグネシウムなどの粉を撒けばいいだけ。見ていて面白いし、マジックの種と同じく仕掛けを考察することは楽しいものがある。問題は、それに感心して安易に信者になる連中なんだけど。 (8)是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 弘法大師が「般若心経秘鍵」で4つの呪に分けたというのだが、「大神呪(だいじんしゅ)、大明呪(だいみょうしゅ)、無上(むじょう)の呪、無等等(むとうどう)の呪」の陀羅尼がある。 般若心経の後にできた「法華経」では、開三顕一といって「声聞、縁覚、菩薩の3つの世界があり、その上に仏の世界がある」としている。そして、それぞれの陀羅尼を説明する。 大神呪は声聞が誦える呪文 ――声聞というのは、仏陀の話を聞いて、ああそうかと早合点して悟ったあわて者の修行者 大明呪は縁覚が誦える呪文 ――縁覚は、師匠なしで手前勝手に悟ったり、生まれつき悟ったようなことをいう者 無上の呪は大乗仏教徒の誦える呪文(菩薩の誦える呪文) ――般若の智慧に目覚めようと決意した修行中の者も、広義では菩薩という 無等等呪は等しいものがない、これ以上の陀羅尼はない呪文 ――弘法大師が「秘密蔵」と訳したように、匹敵するものがない立派な陀羅尼 このように、般若心経は声聞にも縁覚にも菩薩や仏にも通じる陀羅尼であると前フリしておいて、次に「般若波羅蜜多の呪を説く」と宣言するのだが、「不翻の義」と称して訳されていない。凡人は知らんでおいてよろしいという姿勢なのだな。 (9)掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提僧莎訶 この部分が、大勢で群唱してる時にも熱が入る部分である。「ぎゃ〜てい ぎゃ〜てい はらぎゃ〜てい はらそうぎゃ〜てい ぼじそわか〜」とリズムがいいし、最後の部分なもんだからホッとした気分も相まって盛り上がる。子供でも、この部分は語感が気持ちいいのだろうか覚えてしまう。 個人的には、最後の「ぼじそわか」の部分で「ボジ」というハングルの卑語が入っているような気がするのだが、これは怒られる類の連想だろうな。 本書の解説では、「いけいけ、目を覚ませ、彼の岸にいけ」と読み取ってよろしいという。さらに「般若の智慧に目覚めなさい」と言っているのだが、それが「僧」の入る由縁なのかは不明。 ボジはボディー(菩薩)であり、ソワカは「吉祥、おめでたい言葉」であるということから、上記のアホ連想はたしなめられることになる。反省するべきだろう。 ただそういう無意味な言葉というものを口で誦えて、一心不乱に般若空間に全身心を投げ入れる。心に一切空を念じ、口に呪文を誦え、体で座禅をする。これは密教の三密ではありませんが、そういう3つの形、体と口と心、こういう3つのものを通して、この般若空間に目覚めていく。そういう一つの方便、手段として、こういう陀羅尼を誦える。 ――「観音菩薩が深く現世を照見して語られたのが、この般若心経276文字である」 | |
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