前立腺癌とは?
ー賢く対処するための考え方ー
虎の門病院泌尿器科 小松 秀樹
1 前立腺はどこにあって何をする臓器か?
1)位置
骨盤の底にあるクルミ大の臓器です。膀胱の出口の下に付着しています。
膀胱から尿を排出する為の尿道が前立腺の中央部を貫いています。前方は
粗性結合組織を介して恥骨に面しています。後方は直腸前面に接しています。
このため、直腸に指を入れると前立腺を触知できます。これは泌尿器科で
良く行われる診察方法です。
2)機能
前立腺は腺組織と平滑筋からできています。腺組織で精液の液体成分の内、
15−20%が作られます。平滑筋は射精時に収縮して精液を射出します。
3)増殖
思春期になると、脳の一部からLHRHと呼ばれるホルモンが分泌される
ようになります。これが下垂体を刺激してLHと呼ばれるホルモンの分泌を
促進します。この男性ホルモンの影響で思春期には声変わりがおき、陰毛が
生えてきます。前立腺も男性ホルモンの影響で増殖し、精液を産生し始めます。
これに伴い射精が始まります。男性ホルモンに依存して増殖する性質は癌にも
みられます。
2 日本では前立腺癌で年間どのくらいの男性が死亡しているのか?
本邦での前立腺癌による死亡数は戦後一貫して増え続けてきました。年間の
前立腺癌の死亡数は1960年480人、1970年883人、1980年
1736人、1990年3460人、2000年7514人でした。
10年で2倍になる等比級数的な増加が続いています。高齢者に多い癌です
ので、社会の高齢化によっても増えてきていますが、各年代毎の前立腺癌に
よる死亡率も増えています。
ちなみに、2000年の男性の癌死亡数の1位肺癌、2位胃癌は夫々
39,053人、32,798人でした。
3 前立腺癌になりやすいのは?
1)年齢
年齢が高くなるほど多くなる癌です。10万人当たりの年間死亡数は年齢に
正比例するのではなく、等比級数的に増えます。片対数のグラフで横軸に年令、
縦軸に10万人当たりの死亡数を対数でとると右肩上がりの直線になります。
2)地域
西欧とくに北欧で多い癌です。合衆国では前立腺癌は男性では最も頻度の
高い癌です。死亡率は大腸癌についで第2位です。アジアは前立腺癌はの頻度
最も低い地域です。
3)環境因子
癌の発生は環境因子が関係しています。例えば、オーストラリアでは皮膚癌
が多く見られます。ヨーロッパの暗く寒い森に起源を持つ白人は日光に弱く、
紫外線で皮膚のDNAに損傷がおき、この修復過程で突然変異が生じ、癌が
発生すると考えられています。インドで口腔癌が多いのは、ある種の木の葉を
噛む習慣との関係が示唆されています。中国南部で咽頭癌が多いのは、漬物が
関係しているとの説があります。日本に多い胃癌はチリにも多いことが分かって
います。関係があるかどうか判りませんが、共に魚の消費量が多い地域です。
前立腺の多い西欧では大腸癌、乳癌も高頻度に見られます。日本では子宮癌、
胃癌の死亡率は減少していますが、前立腺癌は大腸癌、乳癌と共に増加し続け
ています。これらの癌については、西欧風の栄養価の高い食事、特に脂肪が原因
ではないかとの仮説があります。
4)遺伝因子
1970年頃の調査で、日本から合衆国への移民の2世、3世の前立腺癌に
よる死亡が、日本在住の同世代の日本人より高いことが分かりました。ただし、
合衆国の日本人は黒人や白人ほど死亡率は高くなりません。同時期の調査で
ポーランドでは前立腺癌は合衆国に比べて少ないが、ポーランドから合衆国へ
の移民は合衆国の白人男性と同じレベルになっていました。環境因子と共に
遺伝因子があることを示唆しています。
同一人種内でも、遺伝子の関与が示唆されています。近年、前立腺癌が家族
内に集積することが知られてきました。親、兄弟に前立腺癌の方が複数居る場
合は要注意です。
4 前立腺癌にならないようにする為に粗食にすべきか?
現代の日本人が前立腺癌を恐れて、昭和30年以前の食生活に戻すことは現実的
ではありません。実際には不可能ですが、無理やり戻したとしても、貧弱な食生活
は結核を初めとする感染症の死亡率を上昇させます。前立腺癌になる前に感染症で
死亡することになり、平均寿命は短くなります。前立腺癌が増えていることは国民
全体としてみれば幸せな状態にある証拠かもしれません。
5 前立腺癌は死に直結した病気か?
慢性骨髄性白血病、膵癌、あるいは、胆嚢癌などは、一旦診断が確定すれば、滅多
なことでは治癒せず、多くの患者さんはこれらの癌の為に死亡されます。精巣癌で転
移があれば、治療しなければ略確実に死に至ります。しかし、適切な化学療法を実施
すれば、多くの患者さんは治癒します。表在性膀胱癌は滅多に浸潤転移せず、死の原
因となることは稀です。
これに対し、前立腺癌は多様です。診断時に全身の骨に広汎な転移を有していた場
合、2-3年以内に大半の患者さんは前立腺癌によって死亡されます。一方で、生涯
無症状の前立腺癌は、死に至る前立腺癌より遥かに多数あります。前立腺癌以外の病
気で死亡された男性の前立腺を細かく調べると、高率に前立腺癌が見つかります。
80歳以上の男性では、半数を超える方の前立腺に癌が検出されます。高齢男性の多
くが前立腺癌を有しており、殆どの男性では生涯無症状であることを意味します。これ
らの内、ごく一部が進行して臨床的な癌となり、更にその一部が死の原因となります。
6 「早期発見、早期治療、」賢い行動指針か?
生涯無症状のまま留まるような前立腺癌は診断されるより、診断されない方が幸せ
です。生涯無症状ならば治療もしない方が良いに決まっています。「早期発見、早期
治療」の方針を推し進めた場合、微小な癌まで発見できるとすれば、多数の無用な
治療が行われることになります。全体として見れば健康を損ないかねません。特に
80歳を越える高齢者は、早期癌が発見されても、余命内に進行して死にいたる事は
稀です。80歳を越える高齢者が「早期発見、早期治療」の標語に従って行動する事
は有害です。
「早期発見、早期治療」には不老不死の幻想が含まれているように思われます。実
際には現代の医師には、人間本来の寿命を延ばすような、大それた能力はありません。
「後略」
8 前立腺癌と診断されたら?
1)調べる
先ず、悪性度、臨床病期を担当医に説明してもらうことが重要です。次いで、自分
の臨床病期と提示された治療方法が一般的なものであるかどうかを本やインターネッ
ト、或いは今回の講演会の内容と照らし合わせて下さい。他の病院でセカンド・オピ
ニオンを聞くのも考慮すべき一つの方法です。早期の前立腺癌では、無治療経過観察
を含めて、複数の選択肢があります。この中から患者さん自身が選択することになり
ます。
2)無治療経過観察も現実的選択肢の一つ
人生は永遠ではありません。医師がいくら努力しても、寿命をそう変えられるもの
ではありません。早期前立腺癌は進行が遅いので、人生の残された期間内に進行しな
い可能性もあります。治療は体に対する侵襲を伴います。無治療経過観察では薬の
副作用、手術の痛さや合併症の心配はありませんが、進行してくるリスクが手術を
受ける場合より大きくなるかもしれません。手術は進行してくるリスクを減少させ
ることを期待して行いますが、手術の煩わしさや合併症のリスクを負うことになり
ます。治療法の選択はリスクの性質の選択でもあります。
「後略」