初志の会東海集会IN愛知
平成17年1月8日(土)、9日(日) 愛知県蒲郡市・西浦・東海園にて
【参加者】 酒井、早川、山北、川合

1 座談会  「子どもが学びあう授業づくり」
○座談会       
 《司  会》   岩久義久先生 岐阜中津川市立落合小学校 
  《パネリスト》    山西 正泰先生 (愛知県・豊橋市立東陽中)     
   大橋 靜香先生 (静岡市立中藁科小小布杉分校) 
            松本 敬子先生 (三重県・小俣町立明野小学校)    
 【司会者】
 「子どもが学び合う授業」とはどのようなものか。子どもが主体となる授業について、学び合う授業について、各先生のお考えを聞かせください。
【山西先生】 
学びの主体は子どもである。当たり前のことのように思うが、現場では、教師が教えなくては、という思いの授業が中心になっている。
「子どもが主体」とは、放任とは異なる。例えば、総合で「米」を扱った。稲は花が咲く期間がとても短い。子どもたちも気づきにくい。しかし、稲の花に気づく子どもを育てるのは教師のはたらきかけ。とくに言葉がけが大切。
子どもをとらえる努力をし続ける教師でありたい。小学校の実践で、かぼちゃを子どもたちが作った。その売上をどうするかを話し合った。計算すると一人当たり68円のお金。勉強のできるある子が「ユニセフに募金しよう。」と意見を言った。学級全体がその意見にまとまりかけた時、A男が「自分で好きなものを買いたい」と発言した。その背景をさぐると、A男は、家庭的に経済的ゆとりがなくて、お小遣いをもらっていない。駄菓子屋でお金を出して自分が好きなものを買うことがその子の夢だった。自分たちで育てたかぼちゃを売って得たお金は、A君にとって自分たちのものであり、まさに夢をかなえるものだった。
学級集団から授業づくりを始める。その子が授業中何を語るか教師は予想する。一人し調べを設定し、子どもの考えの根っこをつくり、朱書きによって子どもの考えを知り、また深めさせていく。そして授業では、子どもの語りを教材にする。指名の順番は、意図的な教師の働きかけによる。こうした授業を皮肉をこめて「三河方式」といわれ、侮蔑的に観られたことがある。予め教師が子どもの意見をつかんでおいて、ドラマが生まれるように仕組まれた授業だと。しかし、子どもをとらえてなくして授業をすることはできない。他のクラスの人に「うちのクラスで授業をしてください。」といわれたが「私は、子どもを知らないからできません。」と答えた。
【大橋先生】
◆安東小7年の実践から。安東小に始めて行った年、担任した小6の子どもたちが「ぼくたちがやりたい授業はちがう」と言ってきた。その子たちと話し合った。「ぼくたちの授業は、授業でやりたいことをぼくたちが決める授業なんだ。」と。そして、授業の終わり10分くらいで、次にやることを決める授業にしていった。この出来事が私の教師しての原点になっている。安東に行く前の学校で自信があった授業記録を読んでみると、教師がしゃべっている。一問一答だった。
◆子ども主体の授業にするために、次ぎの三点に留意している。
 @環境。「教師に向かって話さない。子どもに向かって話すように。」机はコ形に並べる。教師は教室の後ろに。教卓を後ろに持っていったこともあった。「机と黒板は子どものもの」子どもが自由に使えるようにする。
 A学習リーダーを育てる。
 B教師はしゃべらない。子どもの発言を説明しない。子どもに説明させる。
◆今は全校4人の学校にいるが、集団でないことの難しさを感じている。今の私のめあては「はい」「いいえ」「ううん」で終わらない授業。それで済んでしまうことが多いから。@めあてを言うA子どもたち同士が見合うB感想を言うという展開を基本にして進めている。
【松本先生】
◆授業実践にはいる一ヶ月前くらいから、子どもたちに教材について調べさせ始める。子どもたちはね様様な動きをするようになる。教師は、むしろそれを阻止する抵抗のような役目をする。すると、子どもはそれを乗り越えようと動き出す。簡単にゴーを出さないこともある。教師の見通しも大きい。
◆国際交流、戦争について考える授業でも、地域にいる外国人を自分たちで探し、招く計画をたて始めた。お茶会を開く、その人の趣味に合わせると大変だった。
◆授業参観に市長さんがみえたときも、「どうして、○○市は、箱ものばかり作っていつもお年寄りを見てくれるヘルパーさんが少ないんだ。」などと平気でいっぱい言った。行政の人から「困る」といわれるくらいだった。
◆子どもたちの方から「先生、チャイムがじゃまだから無くして」「先生、自転車で調べに行っていい」と言ってきた。
子どもは自分で伸びる力を持っている。しかし、それに気づかない教師が多い。私もそうだった。「教え込まないと、多面的な見方はできない」と思っていた。しかし、そうではない。
荒れた中学校に勤務した。授業中教師の声が後ろに届かない状態。その中で「よい授業(子どもが作る授業)をすれば、子どもがかわる」を合言葉に取り組んだ。すると、授業が変わる。子どもたちがきまり(ルール)を作る、守ることができるようになっていった。
【司会】
教材との出会わせ方の重要性についてお願いします。
【山西】
◆地域の方との打ち合わせも重要である。鬼饅頭で実践を組もうとして、店に連れて行ったところ、ご主人さんが、他の饅頭を子どもたちに食べさせて、展開がかわったことがある。(笑い)
◆中学校では学級の雰囲気も大きい。同じようにスタートしたクラスが、少しずつ、しゃべるクラスとしゃべらないクラスになっていく。担任の雰囲気も大きい。強い指導をする先生のクラスの方がしゃべらない。授業をしながら学級を育てるということがある。
教師の最大の支援は単元構想である。子どものとらえ、学習活動、単元をぐりぬけた姿、そのすべてが単元構想に含まれる。学習記録を書かせ、集めて朱書きをする。そして座席表に落としながらつなげて考える。こうして、子ども一人一人の考えを育てる。授業では、こうした一人一人の意見を教材にして、学びあう。考えと考えのぶつかり合いから学びが生まれる。   
                                  <山西氏の発言から川合作成>
 【大橋先生】 授業づくりにおける教師の役割について
追究する価値のあるものに出会うと、子どもは納得しなければ前に進めなくなる。教師はよく「わかったね。」と言って次に進もうとするが、そんな時は絶対に子どもはわかっていない。
◆ジャム作りの単元が終わって、家庭で学びが生きたことがあった。学校で学んだことが生活に生きる姿を見ることができた。
◆子どもが追究してい姿には、感動させられることが多い。
【松本先生】
大人を小さくしたような子どもは作らないように心がけている。
◆自分に不都合な資料を扱わざるを得ないこともある。しかし、自らの追究の中での出来事であれば、子どもたちはそれを受け止めることができる。日本と韓国の問題を扱ったとき、被害者、加害者の次に抵抗者を扱ったらと授業後、アドバイスをもらったが、子どもたちが自分で日本人でありながら、韓国の独立運動を支援した人物を授業に持ち込んできた。
人に合わせる授業、正解を求める授業をしないこと。人かいなくなったとき、正解という「絶対」がなくなったとき、子どもたちは動き出さない。これは、学級経営に負う部分も大きい。
★フロアから質問
 @私は、自分は子どもの生活を授業に持ち込まないようにしている。このことをどう考えられますか。(山西先生へ)
 A子どもが学習課題を決めていく。学習課題の質はどのように保つのか。 (大橋先生へ)
 B授業を子どもの主体性に任せることになって、めざす課題、教えるべきものがかわってきてしまうのではないか。(松本先生へ)
回答
 【山西】授業もまた、子どもの姿を見る一場面であり、子どもを見ないで授業を行うことはできない、。
【大橋】学習問題の吟味を子どもたちが行う。追究する価値のある問題が残っていく。
【松本】単元構想は、単元をくぐり抜けたむ姿、つけたい力を明確にして授業を進めている。


2 講演(前田勝洋先生) 60分
初志の会は私の原点。昭和48年にもっとも衝撃的な出会いがあっ
た。東郷東小学校。教務主任が鈴木仁先生でしかも四年の担任で授業をしてみえた。「交通の今と昔」の授業。新城が中馬街道の起点になっていた。その中で佐々木千文さんという子どもを指導案の真ん中に書いて、位置付けてあった。今ままでに見たことのない指導案だった。子どもの名前の入った指導案。その授業の中で、真ん中に位置付けられた千文さんは、一度も発言しなかった。でも、教師はじっくりかまえていた。今まで自分がやってきた授業は何だったのか、と思った。
◆昭和40年代の日本の教育界は、広岡亮三氏などをはじめとして「学問の成果をいかに子どもに伝えるか」が主流となっていた。「教材構造図」を書き、学問の成果と子どもの思考の合体をめざす授業だった。理屈の上では納得できた。しかし、やっていて、子どもを騙す(だます)ような気がした。腑に落ちないものを感じていた。それを、新城に行って、鈴木仁先生の授業を見て「これだ。」と思った。授業後、仁先生の教室に残って二人で話をした。それが昨日のことのように思い出される。
◆附属小に行くと、霜田先生の息子さんがみえた。ごまかすことができなかった。先生が教室にも何度も出入りしてくださった。

子どもが向きになってやる授業に燃えた。私は、附属の中で二七市、山コシムラから出稼ぎに来ている人を職業安定所で聞いた。威光さんという酒屋で働いている。「私、学校で教員をやっていますが、あちこちから岡崎に働きに来ている人はいませんでしたか。」と尋ねた。当時235人の出稼ぎ者がいることが分かった。私、胸がわくわくした。其の人たちは、土木作業者が多かった。その人たちを除くと、酒屋さんに来ているトウジさんだった。
◆山古志村から聞いてる人は、雪国。すごい、と思った。なんとかして尋ねたいと思った。当時、とうじという仕事を知らなかった。とうじという仕事はおもしろい仕事ですね。発酵を待つんですよ。七畳ほどの部屋にみんなが雑魚ねをしていた。みんなと仲良くなって、そこで話を聞いた。そして、山古志村にも行った。行って驚いた。家の作りが岡崎よりも立派。テレビも2、3台あった。貧困で来ていると思ったのに驚いた。
◆百姓のせがれが、ひゃくしょうができなくて、安城農林から学芸大に入った。附属の子どもがきらいだった。こいつらにもっと、違う教育をしないといけない、と思っていた。二七市の実践も当時、シビコという、しゃれた買い物をする場所があった。そこでなく、きたない市、おじいさん、おばあさんが集まってくる。その市を実践にした。
◆まず、子どもたちに出稼ぎの人の家の様子を想像して描かせた。きたない、電気もない家の絵を描いた。これをひっくりかえすところから始めた。

私の実践は、こうした願いがあって行った。岡崎と名古屋の比較を商店の比較からとらえさせようした。
◆昨年度は年78回講演したり、授業を見たりする機会があった。、今年は、12月までで72回。「危ない」という思いを抱いている。それは、制度だけが動いていることによる。少人数、2学期制などの制度改革。77回も行って思うことは、「こうも授業に差があるのか」ということだ。授業の差は制度の差から生まれるものではない。問題は教師の意識であり、学校の姿勢である。連帯感を感じ、うきうきして帰るときもあるが、危ないと思い、悲しくなるときもある。話にならないほどの教師主導の授業はともかくとして、もっと言うと、附属に7年いた中で、私がまいた種の中には、みなさんに罪作りなものもあったと思う。附属の授業は、その前に一人調べをさせておいて、本時の授業をかかわりあいとして、吟味し合って学び合う授業である。しかし、現場では、発言させることがとても難しい。だから、附属から出た人間も、悩む。そのために一人調べを強く行う学校が増えた。しかし、そうした授業を見て、「これって、授業かな。」と思うことがある。悲しくなることがある。
◆附属にいたとき、授業後、みんなで授業を総括したときだった。「今日の授業はうんこをしたような授業だった」とある子が言った。「だって、調べたことを言っとるだけじゃん。」と。40人近い子が1人1分しゃべれば、それで終わりになる。その子はそんな授業が不満だった。深まっていない。
◆ただ、後から分かったことだが、「うんこの授業」も大切。最もいけないには「べんぴの授業」。つまったまま。「うんこの授業」をすると、みんなすっきりとした顔をしている。終わったような顔をしている。その次に、ノートに書いてあることを見ずに言う子を育てようとした。

それから、教師のしゃべることが気になってきた。指導案「学校の前の道が危ない道が発表ししよう」と書いてある。先生も授業の中でそう言う。子どもたちは「はい。」と手を挙げる。まさにうんこの授業。先生たちは発表することにウェィトをおき過ぎていないか。
「個をいかに自立させるか」が重要視されている。「書くこと」「意見を言うこと」に重きをおくことは、その表れであろう。しかし、「発表しよう」という言葉に疑問を持ち始めた。梅坪小(豊田市)にいて、霜田先生に教えを受けた頃の事。発言が主張になっていることに気づいた。アジ演説的。これはすれ違っている。授業は、一見豊かで、対立があるようにも見えるが、それは間違いだった。
◆人間は深呼吸をして、吐き出すと、今度は、新しいものを吸収しようとする。「吸う」という行為が行われないといけない。「呼吸」の「呼」の読みは「よぶ」であり、もう一つの読みは「はく」である。深呼吸は「吐いて吸う」が正しい。だから、うんこの授業は、それで終わらず、吸うことにつながる授業にすることが大切。

「今日、何を学んだ?学びあった」と子どもに聞くことからでよい。
◆私は、ディベートが嫌い。ディベートはすごく相手を罵倒する。豊田市にも入ってきた。私は納得できない。本来のディベートは、吐いて吸うでなくてはいけないと思う。吸う行為のある授業でなくてはならない。
◆もう一つ、私の頭にあることは、ものすごく親が扱いにくくなってきたこと。親たちの視野が狭い。自分の子どものことは大切にする。これは、親たちが子どもの頃、自己主張をすることを学んだからかもしれない。
◆授業の中で「吸う」 戦後の中で個の「自立」ということを重要視してきたが、その中で、子どもたちの個性、それぞれのよさを引き出したが、一方で、どうにもわがままで自己中心的な人が育っていったということも事実。これからは、「じりつ」言っても「自立」でなく「自律」にしていかないといけないのではないか。
◆授業の終わり方。その子に何と言う言葉をかけていくか。附属はひどい授業。しゃべらせておけばいくらでもしゃべれるこどもたち。「この続きは後で」と教師が言って終わる。これは「不時着の授業。」墜落である。子どもは即死。時間は有限。少なくとも、その時間の終わり
10分になったら、着陸体制に入ってほしい。
先生方の板書が下手。「みんな、どうだねこの板書。」と子どもたちに向かって語り、話し合う。そして、何が話の中心かを子どもたちに問う。
◆校長には二通りある。「どうしたい?」とやたら聞く校長。希望やロマンを持たせてくれるのはよいが、付いていく者は頼りなく感じる。もう一のタイプは「どうしなければならない」と常に諸職員に迫る校長。続くと疲れる。ただし、疲れることでも高い自覚を促す。この2つについてその都度、どちらがいいか常に考えることが大切。
◆附属は、指導案もひどい。量が多くてとても授業前に目を通せない。
◆感想を書く。自分は授業の中で何を学んだかを書かせたい。「言い足らなかったことをかいていい」はだめ。まだ吐き出そうとしている。そんなことでは、とても学び合いの授業などできない。
◆私は、初志の会に深い愛着がある。集会。二日かけて授業記録を読むのがいい。夜、もう一度、布団の中で読んで見る。そして、朝もう一度分科会に出る。分科会と分科会の谷間が大切。夜泊まることに意義がある。三上先生に、こてんぱんに言われた。二日目に「こういう子もいるかもしれない」と寄り添ってもらえた。その後、文通、香典返しまでもらった。初志の会は、家内制手工業。
これがいい。学校でもやってほしい。泊り込みで。蒲郡荘が安くていい。


3 特別教育分科会報告
東海集会・特別支援分科会
提案 愛知教育大学附属養護学校 増岡潤一郎
「生活をひろげる子」を目指して
〜高等部作業学習「鍋敷き作り」を通して〜
  提 案  増岡潤一郎 
  司 会  市川則文  和田精吾

  世話役 河部 拓
  協力者 川合英彦

◆分科会一日目
@ 実践報告
A      協 議の中で出された意見。
作業学習を研究のベースにのせる工夫がある。
研究は「自ら開く」。作業学習は、決められたことを決められた時間で行うもの
・ジブと補助具の区別がある。自由度のるジブ。その子の判断力を育てる。
分科会◆二日目(討論の柱立てをして)

<テーマ1> 生活に広がった姿について

          「包丁を使ってきった姿としてとらえてよいか。」

 協議 @他の実践では生活に広がった姿をどのよにう位置付けたいるか。        (例1)言葉がでなかった子に「みんなでおどりましょう」と言う姿を求め       た実践の場合、終業式の日「みんなでおどりましょう」と声がけす       るが生活に生きる姿。
     (例2)数学で 三角・四角を並べる授業→修学旅行・荷物を整理する。何か橋渡しになるものがあって、環境が変わってもそれが、出るとよい。
 ・自分の生活を意欲的に行う姿は?→切ることに意欲的になった。糸鋸ばんで切ることで、意欲的になった。子どもは一つ実践を終わると、一つ自信を持つ。実践で目指す「生活に広がる学び」を獲得する意欲化。と、その周辺に広がるのではないか。包丁、カッターが使えるということは、糸鋸以上に生活に生きる大切なことである。
・実践後意図的に生活に広がる姿を設定していく。(支援していく。)生活に広がる場面支援をしていく。家庭での姿も視野に入れる。
どこまで目指す姿を見通せるか。単元をくぐりぬけた姿→学びと意欲の両面がある。単元を終えた段階で、もう一度、練りなおす。抽出児はカステラの真ん中を切っている。けがき線がなくても、真ん中を切っている。
ことばに愛情がある。だから子どもの中に響く。
・ジグ、補助具に愛情が感じられる。
   ・

<テーマ2> これからのA君の課題は何か
卒業までに折り紙をやらせたい。丁寧に折る。正確に折る。卒業して、デイサービスで働くときに、きっと役に立つ。季節のものを一つずつ覚えておくと、きっと、相手に喜んでもらえる。
しっかり、ていねいにやる、よく見る。
・個別支援計画との関連。
・卒業後の活動を見通して、今から練習して、準備していく。
・折紙は、奥が深い。折ることを通して、人とかかわれる。広がっていく。


若手研トップへ戻る