12月8日の開戦記念日、D班の有志は紅葉を期待して、鎌倉散策にでかけた。鎌倉の「紅葉が谷」という地域なら、紅葉が見られる筈との期待を込めてのコース設定をしたが、台風15号による風害と塩害で「紅葉」は不調であった。
(コース)鎌倉駅集合⇒バス⇒鎌倉宮バス停⇒覚園寺⇒瑞泉寺⇒凛林(昼食)⇒報国寺⇒浄妙寺⇒バス⇒鎌倉駅解散
午後から小雨になり、やや冷えた。最後の浄妙寺の石釜テラスガーデンで、飲み物と洋菓子のセットを楽しんだが、満席のため、屋外のテラス席しかなく、寒かった。解散後、鎌倉駅前で、体内から温めたメンバーもいる。
山号は鷲(じゅ)峰山(ぶせんじ)。寺号を真言宗・覚園寺と言う。もとは真言、律、禅、浄土の4宗派を兼学する寺院であった。覚園寺の始まりは北条義時が1218(建保6)年に建立した大倉薬師堂である。後に、北条貞時が元寇の難を避ける祈願のために智海心彗(ちかいしんえ)を開山として、寺院を整備した。南北朝時代には後醍醐天皇や足利尊氏の保護を受けた。現在も薬師堂の天井を見上げると尊氏自筆の銘が梁に残っている。薬師堂の12神将立像も見所。愛染堂の木造愛染明王坐像。地蔵堂の木造地蔵菩薩立像(別名黒地蔵、国の重要文化財)十三佛やぐら。旧内海家(江戸中期の大型の名主住宅)等の見所がある。秋の紅葉は素晴らしい、特に庭のメタセコイアの大木が素晴らしい。
しかし、寺内が撮影禁止であることが残念であった。
1327(嘉暦2)年に、二階堂道薀(どううん)が夢窓疎石の為に建てた瑞泉院がその前身。中興開基の足利基氏の時に寺名が改まったものと見られる。足利尊氏の子・基氏(鎌倉公方)は夢窓疎石に帰依し、当寺に葬られて以後は鎌倉公方代々の菩提寺となり、盛時には塔頭10余院を数えた。夢窓疎石が庭園の後の山に建てた偏界一覧亭は、鎌倉五山の僧による五山文学の中心となり、また、江戸時代には徳川光圀がここで「新編鎌倉志」を編纂させたという。 この場所は「紅葉ヶ谷」の最奥地で、「花の寺」と呼ばれるだけあって、殆ど1年中、何かの花が咲いている(水仙、梅、牡丹、花菖蒲、紫陽花、萩、女郎花、菊)。 第25代住職・竹院和尚は吉田松陰の伯父に当たる人物で、吉田松陰自身が4度この寺を訪れて、宿泊したと伝えられる。
瑞泉寺の近くの裏通りにある中国料理店。オーナーは中国・福建省の華僑で、道場六三郎との料理対決で引き分けたと言われている。今回は「昼御膳」(毎月メニューが変わる)を頂いた。表通りからは見えない穴場的な店。
1333年、足利尊氏の祖父・家時が建てたと言われており、家時のことを報国寺殿義恩と呼んでいる。
しかし、家時は1317年に没したという記録もある上、寺蔵の「報国寺記」に上杉重兼が開いた旨、記してある点から、「市史」社寺編では、開基は重兼ではないかとする。
裏山の大きな「やぐら」は足利氏の墓と伝えられている。将軍足利義教に敵対した鎌倉公方・足利持氏とその子・義久は永享の乱(1438〜39)で敗れ、義久はここ報国寺に入り、自殺させられた。
本堂の裏手は見事な竹林で「竹の寺」として有名。鎌倉33観音の第10番。北条・新田合戦追悼歌碑がある。
別棟で、抹茶(¥500)を頂くことができる.
鎌倉五山第五位の寺。足利尊氏の7代祖・義兼が1188年に創建した寺で、はじめは極楽寺と称した。
当初は真言密教系の寺院であったが、蘭渓道隆の弟子・月(げつ)峯(ぽう)了(りょう)然(ぜん)が住持となってから禅刹に改め、寺号も浄妙寺と称するようになった。
足利尊氏の父・貞氏は浄妙寺殿と呼ばれ、中興開基といわれており、貞氏の時代に伽藍が整ったのではないかと考えられる。寺内の墓地には貞氏の墓と伝えられる「明徳三(1392)年」銘の宝筐印塔(ほうきょういんとう)がある。
本堂の左手には枯山水の小庭園があり、喜撰庵で和菓子と抹茶(¥500)を頂きながら、心静かに愛でるのもよい。
また、境内に石窯ガーデンテラスがあり、紅葉を見ながら洋菓子とコーヒのセット(¥1,050)を楽しめる。