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明神台バス停の桜が1本咲き始めた
@3/31・明神台バス停の桜が1本咲き始めた
A明神台バス停西側の桜は3分咲き
A3/31・明神台バス停西側の桜は3分咲き
花見の場所もまだ
B3/31・公園の花見の場所はまだまだ
花見の場所の花芽はまだ固い
C3/31・花見の場所の花芽はまだ固い
3月19日・横浜緋桜の芽はまだ固い
D3/19横浜緋桜の芽はまだ固い
3月26日・横浜緋桜の芽が色ずく
E3/26・横浜緋桜の芽が色ずく
3月31日・横浜緋桜が1分咲き
F3/31・横浜緋桜が1〜2分咲き
3/31・上には蕾が多い
G3/31・上にはまだまだ蕾が多い
横浜緋桜の全景
H3/31・横浜緋桜の群落全景
横浜緋桜の一枝
I3/31・横浜緋桜の咲き具合は?


保土ヶ谷公園付近の桜はーー

保土ヶ谷公園の桜が咲き始めた

日本気象協会の2011年・桜開花予想では3月31日、桜前線が東京を通過した。一方、桜前線研究所の発表によると、ソメイヨシノの横浜の開花時期は3月30日、満開時期は4月9日頃と予測されている様である(開花予想の楽しみ⇒横浜を選択)。北海道に桜前線が到着するのは通常は5月に入ってからになるが、今年は遅れそうな気配。
保土ヶ谷公園では、明神台バス停・西側の1本の桜が咲き始めた(写真@、写真A)。パソボラが例年花見の会場にしている梅園は3月31日現在、花芽が膨らんでいない(写真B、写真C)。
アートホール南西側に植えられている「横浜緋桜」は3月19日には花芽が小さかった(写真D)が、3月26日にはかなり色づき(写真E)、3月31日には開花していた(写真F、写真G)。全景(写真H)、一枝の写真(写真I)をみても、まだ2分咲き程度。
保土ヶ谷公園には桜以外にも多くの花が咲いていて、散歩が楽しめる季節になった。

北国の春はすべての花が一斉に咲く

桜前線が北上し、北海道に到着するのは5月になる。 幼いころの記憶では、花見は「天長節」か「端午の節句」の頃で、寒かった事を思い出す。北国の5月は桜だけでなく「全ての花が一斉に咲く」と言う表現がよく合う。
ビールのコマーシャルで「札幌、ミュンヘン、ミルゥオーキー」がいずれも、ビールの生産地で、同じ緯度上に並んでいる事を知った。同じ緯度なので、春が来るのは、札幌と同様に、5月らしい。シュ−マンがハイネの詩に曲をつけた歌曲集「詩人の恋」の第1曲に「美しき5月に」と言う作品がある。その詩は欧州の5月を表現している。
「うるわしき5月に、全ての蕾が開くとき、私の心にも恋が芽吹いた。 うるわしき5月に、すべての鳥が歌うとき、ぼくはあのひとに憧れと希みをうちあけた。」と言う訳がついている。ハイネらしい。

桜といえば、西行法師

『願はくは花のもとにて春死なむ その如月(きさらぎ)の望月の頃』西行が亡くなる十数年前に、遺言の様な句を詠んだ。如月(きさらぎ)は2月(旧暦)、望月は15日(現在の3月20日頃か)なので、(願わくば2月15日ごろ、満開の桜の下で春逝きたい)と言う意味になる。そして、平泉の藤原氏が源頼朝に攻め滅ぼされた翌年(1191年)の2月16日に72歳(73歳との説もある)で亡くなっている。西行は69歳の時に藤原秀衡に会って、東大寺再建の資金援助を取り付けているので、どのような思いで、藤原氏滅亡を見守ったのか?
西行は新古今和歌集に最多の94首が入選した平安末期〜鎌倉初期の歌人(平清盛と同期)だが、皇室の護衛兵(北面の武士)の地位も妻子も捨てて23歳で出家した。
西行の出家の理由は、種々の説があるが、有力な説は鳥羽院の妃である待賢門院(崇徳天皇の母)と一夜の契りを交わしたが、「逢い続ければ人の噂にのぼります」とフラレた--等々、こうした様々な感情が絡み合った結果、妻子と別れて仏道に入ったと言う説がある。
百人一首に収められた待賢門院の句は「ながからん こころもしらず くろかみを みだれてけさは ものをこそおもえ 」(末永く心は変わることがないといいますが、人の心は移りやすいので、黒髪が寝乱れるように、私の心も乱れています。)と思わせぶりな一句が収さめられている。
一方、西行の句は「歎けとて 月やは物をおもはする かこちがほなる わがなみだかな」(嘆けといって月が私に物思いをさせるのであろうか。いやそうではない。本当は恋のせいなのに、それを月のせいにして、恋しくなつかしく恨めしくこぼれ落ちるわが涙であることよ。)と未練がましいと思える解釈をする人もいる。
西行の句は多くの歌人に影響を与えたと言われているが、後年、芭蕉が歌枕を訪ねて「奥の細道」に分け入ることになるのも、西行への憧れに似た気持ちが根底にあると言われている。しかし、西行自身も、能因法師が記した「能因歌枕」を訪ねて旅をしている事も面白い巡りあわせの様に感ずる。(「歌枕」;狭義としては、その歌ことばのうちの「地名」を指すもので、その土地を訪ねて旅をして、歌の記録を残すことが流行したらしい。)従って、和歌と俳句の差はあるが同じ歌枕を能因も西行も芭蕉も詠いこんだ作品があるのも面白い。


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