鎌倉駅東口に10:00集合し、10:06発のバスに乗車⇒「海岸通り」バス停で降車。徒歩で鎌倉文学館へ。
鎌倉文学館の特別展では「米原万里」を取り上げていた。庭園では5月31日まで、「バラの花時」と言う催しが開催中であり、良い香りに包まれていた。文学館を背景に、御一行様の集合写真を撮影した(写真@)。文学館を背景にした薔薇園の写真(写真A)。
昼食は、鎌倉の文人・墨客に愛された「つるや」で「うな重」を堪能した(写真B)。1階の椅子席は狭いので、2階の座敷を予約した。うなぎを湧水で1週間過ごさせて、泥臭さを抜き、柔らかく蒸してあるので、脂っこさが無く、好評であった。
昼食後、鎌倉最古の甘縄神社(写真C)へ、石段を上る前の左側に旧川端康成邸がある。映画化された小説「山の音」を執筆した場所であると言う。石段を登って拝殿の前に立つと、展望が開けて由比ヶ浜が見える。ここは、万葉集にも登場する「鎌倉」の名の歌の舞台となった場所でもある。鎌倉時代初期の御家人・安達盛長の邸宅があった場所で、北條氏の部下に攻められて滅亡した場所でもある。境内に北条時宗の産湯の井戸が残っていた。
観光客で混雑する有名な「長谷寺」の隣に、鄙びた「光則寺」がある。この寺の開基は宿屋光則であり、日蓮の「立正安国論」を第5代執権・北条時頼に取り次いだ人間として知られている。自分の名前の「光則」が寺の名前になっている。裏庭に土牢がある(写真F)が、日蓮が佐渡に流罪になっていたときに、日蓮の弟子の「日朗」をここに幽閉していたが、手厚く遇していたと言う。光則は、後日、日蓮宗に帰依している。この寺は、花の名刹とも言われるが、花の種類は多いが、規模が小さい、但し、4月に咲く「海棠」は樹齢120年の古木で、鎌倉一とも言われる(写真E)。境内に、宮澤賢治の「雨にも負けず」の歌碑があるが、住職が宮澤賢治に心酔していたからか?
鎌倉の西の入口に当たる腰越海岸に「満福寺」(写真G)という寺がある。この寺は源義経の「腰越状」が書かれた寺として有名。源義経が、木曽義仲や平家を討ち滅ぼして、敵の総大将・平宗盛を捕虜にして、1185年5月に鎌倉に凱旋した。しかし、鎌倉幕府総帥である、兄・源頼朝は義経の鎌倉入りを差し止め、義経に会おうとしなかった。義経は腰越の「満福寺」に逗留して、公文所別当の要職にあった、大江広元に頼朝への執り成しを頼む書状を送った。その書状が「腰越状」と呼ばれ、幕府の公式記録書「吾妻鏡」や、「平家物語」にも全文が記載されている。
万福寺には「腰越状」の写しが展示されている。
1271年(文永8年)、日蓮が捕えられて、鎌倉時代の処刑場である「龍ノ口」で処刑されようとした時、首切りの役人が刀を振り上げると玉のようなものが上空で光り、刀は折れてしまった。(一説によると、江の島の方から満月のような光ったものがあらわれたとも言う。)役人たちは怖くなって逃げ出し、結局日蓮は助かり、佐渡に流されることになったとの言い伝えがある。後日(1337年)に、日法上人が、この「龍ノ口」の地に龍口寺を建立した。この寺には、県内最古の「五重の塔」や「仏舎利塔」、「宝物館」などがあり、見所は多い。また、山門は1858(安政5)年、大阪鴻池家(おおさかこうのいけけ)の寄進により建立されたもので、龍、唐獅子などの彫刻が見事である。(写真H、I)
昔、蒙古が日本へ4回に亘って使者を送り込んでいる。1975年4月に、4度目の使者が鎌倉を訪れ、降伏を要求した。時の執権・北条時宗は、これを拒否し、国使・杜忠ら 5人を9月7日に、龍ノ口刑場で処刑し、死骸をこの常立寺に埋葬した。(スパイの容疑との話もある)、その6年後、蒙古は兵力14万、軍船4,400隻で再来したが、再び台風に襲われ、蒙古軍10万人が水死した。これが弘安の役(1281年)である。
今回は紫陽花の時期には早すぎたため、9月18日の面掛行列で有名な御霊神社と紫陽花の名所として有名な成就院を訪問リストから外した。6月になれば、鎌倉は紫陽花の季節に入り、多くの寺院が紫陽花に彩られる。