









6月は旧暦の「水無月」で、梅雨の季節。6月の花は紫陽花、菖蒲、あやめ、百合等だろうか?尾瀬では水芭蕉の季節になる。保土ヶ谷公園も、鎌倉も紫陽花のシーズンになり、梅雨の晴れ間は成就院や明月院は大混雑になる。明月院の裏庭園は花菖蒲で有名だが別料金が必要。昔、駆け込み寺だった東慶寺は紫陽花の他にイワタバコ、花菖蒲等が見頃を迎える。長谷寺も種々の花で彩られる。(上の写真は昨年6月頃に撮影したもの)
五月雨(さみだれ)は旧暦の5月(新暦の6月)に降る雨で、降ったり止んだりする穏やかな雨のイメージだが、メイ・ストーム(5月の嵐)と言う言葉もあり、時には、寒気団が南下し、気圧が950hpa台まで下がると、天気は大荒れになり、豪雨、落雷、竜巻、冠水、土砂崩れ等の事故を誘発させる事もあり、6月も油断できない。
余談だが、雨の日にドトール珈琲に行ったら、濡れた傘にプラ袋を被せる装置が導入され、手濡らさずで処理できた。星川も文化水準がアップしたらしい。ブラジル出張で覚えた数少ない言葉の知識では「ドトール」とはポルトガル語で博士や医師と言う意味(英語のドクターに相当)なので、珈琲博士と言う店名になる。創業者がサンパウロで住んでいた時の住所・「ドトール・ピント・フェライス通り」から名づけたと言う。
梅雨の季節の名句は芭蕉の「五月雨を 集めて 早し 最上川」と言われる。この句を詠んだ地、山形県北村山郡大石田の船問屋・高野一栄宅で催された連歌の会で、最上川の川面を渡って吹き込む涼風を感じ、芭蕉が詠んだ発句は「五月雨を 集めて涼し 最上川」である。後日、推敲して、奥の細道では「涼し」が「早し」に変更されている。これだけで、最上川の増水時の勢いが感じられる様になった。地元の西光寺には「~涼し」の句碑が残っている。奥の細道には「五月雨の 降り残してや 光堂」(平泉にて)という句もあり、梅雨期の旅が長かった様である。
私が梅雨の時期に相応しいと感じる芭蕉の句は「象潟や 雨に西施が ねぶの花」である。霧雨に煙った中に萎れて咲く「ねむの木の花」を中国の美人・西施に見立てて詠まれている。この句は蘇東坡が西湖の美しさを美女・西施に喩えて詠んだ漢詩を踏まえている。(俳諧・連歌の世界に遊ぶ者は漢詩を常識として理解していた事を示す。)
当時の象潟は松島に劣らぬ風光明媚な景勝地で、西行は「松島や 雄島の磯も何ならず ただ象潟の 秋の夜の月」と詠んで、その美しさを、松島より上だと称えた。また、能因法師は象潟の小島に浮かぶ小島に3年間隠棲し「世の中は かくても経けりきさ潟の 海士(あま)の苫屋を わが宿にして」と詠み、更に西行は「象潟の 桜は波にうづもれて 花の上こぐ海士(あま)の釣り船」と詠んでいる。芭蕉は私淑する能因や西行など先人によって詠まれた歌枕の地・象潟を訪ねる事が、松島と並び、江戸を発つ前から、みちのく行脚の目的の一つにしていた。
芭蕉が象潟を訪れたのは西暦1682年だが、120年後・1802年の大地震で地盤が隆起し、芭蕉訪問時には「松島」の様に、海に島が点々と浮かぶ景色だったのが、現在は平坦な土地に島々が点々と連なる風景に変わっている。
芭蕉は大石田の前に、尾花沢の俳人の薦めに従って予定外に立石寺に立ち寄り、名句・「閑かさや 岩にしみいる 蝉の声」を詠んでいる。立石寺は、梅雨の間の晴れ間だったと思われる。
また、立石寺の前の「尿前(しとまえ)の関」では、仙台領からの出国手形の不備の為、関守に怪しまれ、関所通過に難渋した。関所を出て出羽の国に入り、堺田という部落で封人(国境警備と庄屋兼務)の家(この家は現存する)に泊まった。ここで「蚤虱(のみ しらみ) 馬の尿(しと)する 枕もと」という名吟を残している。芭蕉が馬小屋で寝た訳ではなく、実際には立派な座敷に泊まっているが、同じ屋根の下に馬小屋があり、夜に馬の尿の音を耳にした。前日の「尿前の関」にかけて、面白みを狙った句であり、芭蕉の諧謔精神を感じさせる。
江戸時代は俳諧・連歌の世界は、宗匠に高い月謝を払って習う「お金持ちの習い事」になっていて(詠曲や小唄を習うのと同じ)、宗匠が出した「お題」について詩を詠むもので、種々の決まりごとや古い歌の知識を必要とした。この時代に、芭蕉が連歌の発句を独立した「俳句」として「奥の細道」にまとめた功績は大きく、後に、正岡子規の俳句や短歌の改革につながってゆく。
最上川は「おしん」が母と分かれる雪の場面で有名。「広き野を 流れ行けども 最上川 海に入るまで濁らざりけり」と言う昭和天皇の御製がある。これにメロディをつけた曲が山形県では広く流布し「県民歌」になっている。(県民歌としては長野県の「信濃の国」が最も有名で、県出身者が集まる場では頻繁に歌われている。)
ドン・コサック合唱団が来日した時に「最上川舟歌」を聞き、「ボルガの舟歌よりも素晴らしい」と惚れ込んだ。最上川は源流から河口まで1つの県内に収まっている珍しい大河である。河口の酒田は「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と詠われた本間家が有名で、酒田の防風林にその功績を残す。
最上川の源流は吾妻山系で、源流に近い米沢市では「松川」と呼ばれていている。米沢市と言えば、伊達政宗、直江兼続、上杉鷹山などに縁がある地で、歴史を感じさせる土地柄である。上杉藩は120万石の大藩だったが、関ヶ原の合戦前に徳川家康と対立した為、30万石に減封され、本拠地の會津を追われて米沢に押し込められ、米沢藩となった。この危機は直江兼続らの働きで、新田開発や武士の農民化で乗り切っている。その後、家督相続の失敗で15万石に減封され、放漫財政で借金だらけになった。この危機を財政改革、意識改革、産業振興などで健全財政に戻したのが米沢藩・藩主の上杉鷹山である。J.F.ケネディやビル・クリントンが「最も尊敬する日本人政治家」として、上杉鷹山に敬意を払っていた事は特筆に値する。