日本国国民裁判所

著作権(c) 2005年 小池 勝

 

 

【主権在民】

私たち日本国民は、法律で守られていると思いながら、最近の多発する犯罪には、これ以上増え続けたらどうしよう?との危機感を持っています。

日本人に限らず、生活の安定と平穏を願う人ならばすべての人が、これ以上社会秩序の乱れないことを願っています。

然し現実に法律を管理しているのは私達国民ではありません。

裁判所での多くの判決を見るたび、私達は何か少し違うぞ、との思いは避けられません。    

そこで私達は何もかもを法律の専門家に任せるのではなく、一般国民はこんな風に考えているのだ、と言う国民の意見を、この日本国国民裁判所で意見表示したらどうかと考えました。

専門家は法理論や法体系の難しい言葉を使いますが、私達は法律によって裁くのではなく、英米法の基本である常識に基づき判断したいと思います。

法律は本来、日本人の生命財産を護る事が目的です。

ところが権力者は、国とか特定組織を守る事を目的にして、大きく質的変化をしました。

国とか権力者とか、巨大法人が、個人保護以上の保護対象となり、保護対象が逆転しました。

そこでもう一度、本来の個人保護重視の姿勢を明確にし、組織や権力保護的色彩を薄め、もう一度【主権在民】の意識を高める必要があります。

今、特定権力者は、犯罪を犯しても罪を問われず、告発するものが嫌がらせを受けて告発の取り下げを強要される時代です。

私達は戦後60年を経て、今一度省みて社会システムの再構築をする必要がありそうです。

 

拒否された日本国憲法

平成22年11月10日

 愛知県警察本部から、那覇地方検察庁検察官宛の告発状が不受理のまま返送されてきました。

愛知県警察本部は、日本国憲法第99条には服さないと明白に意思表示をしました。

しかも決定者の氏名も無く、返送決定人の氏名や返送理由も表示されていません。

公務員は、日本国憲法に従わない、と、明確に否定する権利などあるのでしょうか?

 

 

【司法の堕落】

本来の裁判所は、法律の前に【正義】と言う規範と視点が必要です。

しかし、裁判官を職業としている人は、法律判断の基準を、社会の安定とか、秩序の維持等の美名の元、国民に負託された『自由心象の形成権限』を錯誤逸脱しています。

例えば、庶民は数百円の泥棒でも、又無銭飲食でも犯罪とされます。

然し、公務員は数億円数十億円の官々接待や遊行に税金を使っても、逮捕されません。

何故か?それは仲間同士だからです。

判検交流と言う言葉があります。 判事と検事とは癒着しており、特定業界の擁護者でもあります。

給料では近付けない高級料亭や、高級クラブで接待を受けると、正義感の乏しい堕落した法の番人達は、悪の代表者たちを、如何にして守るべきかその方法を考えます。

 

 

 

【国防思想の基礎】

国防 とは何か?

 言葉の定義として、それは、国民の生命と財産を守る事である。

これを間違えて、日本国の【土地】を守る事である、などと誤解している人が居る。

地主の土地所有権など、命を掛けて守る必要があるのでしょうか?

私たち日本人は、永年に渉り、国防とは、土地を守る事だと誤解してきました。

この日本で、土地は、地主のものであり、一坪の土地も持たない若者が、命を掛けて守るほどのものではありません。

現にバブル時代には、日本人がアメリカの土地やビルを沢山買いました。然し土地の正体は利用する権利に価値があるのです。

土地の取り合いは、今日、利用権を自由に売買できる事から、命を掛けて取り合うほどのものではなくなりました。

国防と言う言葉の定義は、時代と共に変化します。 ともすると何処の国でも、若者を煽り武装させ、戦うための方便として【国防思想】を利用しています。

国防思想は過去、権力者のものであり、純粋な若者や国民を利用する目的で利用されてきました。

日本では過去、【天皇陛下】や【神道】まで権力者達に利用されてきました。

本来、国民と共に在った象徴や文化を、国民を犠牲にする戦争道具に利用したのです。

それでも私は、当然、皇室と神道を軸に、日本の国防を構築すべきだと信じています。

注意すべきは、特定権力者に利用されるべきではない、と言うことです。

国防の定義は、韓国や中国の人々にも、国と言う名の土地の保護ではなく、国民の【生命と財産の保護にある、と理解してほしいものです。

 

 

 

【太平洋戦争に想う】

国民が国の命令に従う時代は、太平洋戦争終結と共に去りました。

しかしその当時、国民は権力者の命令に一方的に従う、と言う哀しい社会構造上の欠陥がありました。

勇者達は自分を護るというのではなく、国を守るという名目の中で敗れ、そして靖国神社へ祀られました。

指導者達は当時の国力で50倍もの国へ戦いを挑みました。

動機論から言えば、日本が正しかったのは言うまでもありませんが、戦術的に言えば、正しくても負けるのは馬鹿で、相も変わらず坂本竜馬の時代からフリ−メ−ソンに振り回されていました。

国策とは国民の生命財産を護る事でなくてはなりません。

意地や面子や正義感は、国と言う名の無機物的存在は感じてはなりません。

正義で憤るのは個人であり、マスコミがこれを煽ってはならず、【動機論的思考】は組織運営を誤るものです。

コンビュ−タ−の出現は、頭脳明晰な秀才を必要とせず、【常識】と【判断力】と言う名の 【スタビライザ−】の組み込まれた一般市民が本当の意味での頭の良い人たちであることを証明しました。

かつての帝国陸海軍軍人達は、世界の大使館に【武官】として赴任し、更には外国の大学にも沢山の人たちが留学していました。

然し多くの秀才達は、【判断力】の乏しい情報屋に過ぎませんでした。               戦いとは、勝つ事である。

私たちの判断力は、A【活字】ー【目】ー【記憶】順の記憶と、もう一つはB【刺激】ー【肉体】ー【記憶】と言う二つのルートからの情報で決定します。

然し学者や専門家は、Aルートの知識を土台にしています。 庶民はBルートの、いわばマッスル・メモリーとでも言う肉体経験を土台にしています。

裁判官・軍事参謀・学者等は『火は熱い』ことを言葉として知っています。 一般の人は『火は熱い』ことを経験で知るのです。

さて貴方なら、知識で知っている人と、経験で知っている人と、どちらの意見を信じますか?

大日本帝国陸海軍は、秀才達の集団でした。

日露戦争の時は、下級藩士上がりの、知識階級ではない旧武士階級の者達が兵を率いていました。 ノモンハン事件の頃から、秀才の参謀達の時代になりました。

私は小学生の頃、名古屋市の金山体育館へ、大人に混じって辻正信旧陸軍参謀の講演会に出かけました。 印象は、60年近くの時間を経て、いま時の裁判官たちに抱く、何か少し変だぞ、との思いでした。

【ロシアにおける広瀬武夫】の様な武人の清らかさが無いのです。

その理由は何か?

それは【ベニスの商人】でシェイクスピアが、裁判官に扮した富めるポーシャに、強欲なユダヤ人の金貸しシャイロックに対して、第4幕第1場で『だからその方、さっさと肉を切り取る用意をせい』『血を流しては成らんぞ』『それから肉はかっきり1ポンド、それより多くてもならん、少なくてもならん』と言うのです。

PORTIA :Therefor prepare thee to kut off the flesh. Shed thou no blood .no cut thou ress nor mor. But just a pound of flesh:

と、詭弁を貫いたのです。

一滴の血も無い肉を求めた事で、19世紀の終わり頃、ウイーンの法律家【権利のための闘争】を著したイエーリンクは、『シャイロックの悲劇』と歪んだ法解釈の例としてベニスの商人を採り上げました。

自分を秀才とか、インテリとか思っている裁判官は、法解釈を、ある時は望遠鏡で拡大解釈し、又あるときにはワイドな広角レンズで判決を一般論に埋めるのです。

そこで私は裁判官と、口先ばかりの大学教授評論家が嫌いに成りました。