| いわば山頭火日記。2001年のコンテンツです。 句は「山頭火大全」種田山頭火(講談社 1991)「山頭火句集」村上護編(ちくま文庫 1996)による。「裸石」とあるのは、拙作。@niftyココログを使って、俳句と詩などの散文的日常を描く「本丸自由律的日常」開設。 |
|
1年間の山頭火の旅に一応区切りをつける。365句を目指したが、なかなかそうもいかない。特に、暮れになってから全く詠むことができなかった。晦日の句をどうしようと思いながら、この日になった。今日から明日へは何の飛躍もないはずだが、ボクらは新年に思いをいたす。どうやら、それは旅先で見える峠にも似て、景観と心持ちの変化を促すものように思える。
辛い気持ちばかりが、現れてしまったような気がする。いや、実際そうなのだ。何を手がかりに何を求めて何をなそうとしてボクはもがいているのか。もがいているものさえ見つけてしまえばそこから逃れられると思ってもみたが、延々と累々と続くぬかるみに、それでも前に進もうとする自分を見つけて、悲しみに向き合いながら歩を連ねる。
20歳までの自分と40歳からの自分を振り返る。20歳から40歳までは天職とさえ思う仕事に出会えた。その幸せをこれからどうつなぐのか。わからぬ、知らぬ、見えぬ。その場その場の道標に従おう。
更新をサボっている間に、年末がやってくる。雪に浮き立ちながらながらな、冬の風が空恐ろしい。果たして山頭火は、北陸の冬をどう味わったのだろう。足跡を伝えるものが手許にない。1月、2月ともなれば、雪はしんしんと降り積もり、それはそれで閑かに沈殿していくのだが。
今の職場のメンツで夢を見るようになった。そろそろ潮時なのだろう。沸き立つものが衰えると、早い。あっという間に引いてゆく。
ようやく、ぼんやり。遠くの山が白くなる。思いに耽るのもいい季節だが、壁をたたき、窓を揺さぶる時雨に心おどかされる。見えてこない憧れを渇望する平穏な心に安心しきれない自分がいる。
根知谷に住む音楽家を訪ねる。自給自足で暮らす民族音楽家。空気の流れがそこだけ違うような塩の道に近い農家。眼前の駒ヶ岳を見ながら、この山がこの人の音楽のどこに反映しているかを突き止めたくなった。双体道祖神がやけに新しい。
集中力があると指摘される。いや、集中力がないと支えきれない心があるばかり。
ようやく妙な空想から開放されつつある。被害妄想じゃないけれど、どこまでも深く心を読んでしまうような体質があるらしい。何も気にせずにいられるほど鈍感になってみたい。それでいて大事なことは気付かない。
急に時雨れてきた。海の上に竜巻。やがて、まるで夜が攻め寄せるように大きな闇が両手を広げてあたりを覆う。今日から冬。春まで冬。
命を抱えた妹が入院。心細くも閑かな部屋で過ごしているという。ふと中学の教科書にあった句を思い出す。いや、彼女はふたり。
おかしなもので、蕎麦のことを考えていたらある光景が見えてきた。そばにつながる想像でしかないのだが、沸き上がる姿だけで嫉妬心を掻き立てられる。たぶん、ボクはおそろしく独占欲の強い依存症傾向を持つのだろう。あぶない。人に支えられて静謐な場所を持っている。
恵比寿にて数年ぶりの鴨南蛮を味わう。旅行ガイド片手の人々と共に歩きながら、飛騨の人々のくらしの深さを訪ねる。底が違う、底が。朴の葉が幾千年積もった。
飛騨の山々を望む人々に出会う。下を向かない。だれも下を向かない。うしろめたさにひしがれることなく生きている。堂々と。
礪波野からふるさとの山を見る。見えているつもりが見えていない山も雪をかぶることでどうやらそれとはっきりわかる。声を出さないでは、どうしても顕在化しないものもあるのさ。
人の心に向き合うことはどうしたってくずしたくない。それが子どもだろうが、大人だろうが。みかけや段取りよりも優先することもある。ちっぽけな意志ほど美しいものはない。今夜は流れ星が降る夜。
文部科学省。朝、ずっと以前家族で訪ねたホテルの気配。人とは善意にあふれたものだと身に滲みた旅空。あれから、10年。お台場は、ゆりかもめが走る。
浅草。仲見世を歩く。変わらない風景が、この風景が数百年続いている。いや、おそらく変わらないものはたたずまい。ボクらのくらしのたたずまいがここまで変化しているなかで、東京はむしろかわらない。永井荷風が好んだ天蒸籠をいただく。
言葉は時として狂気をはらむ。やり場のない狂気はのたうちまわってそのうちに自らを蝕む蛸のようなになる。もはや、四方八方に伸びた足のやり場にさえ窮する。そこで初めて、言葉の狂気が刃であることを知るのだ。しかし、その刃を持たないでは、自分を支えられないこともある。弱い犬ほどよく吠えるというではないか。
どこまでも人を楽天的に信じることにする。例え、草が再び芽を吹かなくとも。
ある言葉のやり取りで、どうやら人を傷つけたらしい。だが、どうにもそうした気持ちがなかったために、逆に傷を負った感じになっている。たたみ込むような言葉のやり取りが原因のようだ。だれもが同じように議論を好んでいるわけではないが、これはこうしてやってきたボクの態度。何をどうすればいいのか。自省のしようもなく、悔い改めるにはあまりに感情の起伏がない。思案。
試験とは嫌なものだ。満足に書けるような気がしない。落ちる試験を受ける気楽さは、終わってから出てきた。学生の頃、アルバイトをしたお店が更地になっていた。すでに人手に渡っていたが、初冬の日差しにコンクリートがまぶしい。何か変わっていくものを容認できる気になった。
そばの刈り取り。冷たい風が吹く。雲が流れる。明日、心ならずもある立場になるための試験。駆られるように草庵を出奔する山頭火の心境か。
遠くの山に雪がかかる。ふと畑に足を踏み出すと、ずぶずぶもぐっていく。やがて、夕陽がめり込むように沈んでいった。
どこまでも焦りと不安を抱えて、それが歩みに出てしまう。話すことも億劫で、内にあてどない怒りを向けてしまう。自分に腹が立っていく。その自分にまた、焦る。
山に登る。白鳥山。山姥が住んだという。観光資源にしようとする林道が山腹を割く。妊婦の腹を割く山姥の怨念か。悲しい伝説。
秋の気配にぼんやり。
10月が早くも過ぎてしまった。紅葉の盛り。山を歩く。先日は南保富士。今日は、白鳥山。歩くことはどうやら特別である。満月。
南保富士へ。見渡す山々の姿がその折々に異なるのは不思議だ。ある文章で、その山頂で眠るシーンを描いた。目が覚めて、さて、ボクはどこを見るのだろう。浮遊する身体を感じる瞬間か。
休日にホームページの世話。ざっと3時間かかる。何を焦るのか。それでも、表現し続けるボクがいる。
忙しさに無理矢理閑を作って白馬へ。ボクらの山々と裏側の姿。いや、こちらが表か。
前日より岐阜朝日村。村社の闘鶏楽、獅子舞が披露されるまつり。飛騨やんさにたまらず飛び出す酔客。いい村なのだろう。誰も恨めしそうな目をしていない。
岐阜朝日村へ。山の小さな村。昔ながらのくらしが現代と何ら衝突することなく、ゆったりと続いている。こういう選択もあるのだ。
中世の山城の調査のため道を開削。ミゾソバが明るく咲いている。これを蕎麦と呼び、だれか食べたものでもあるのか。
大平匡昭という地元の書家が個展を開いた。山頭火の句がいくつか近代詩でしたためられている。有名なものでなく、心動くものを、という。書の良し悪しはわからぬが、少し印象に残る。誰にも逢わない、で始まる句作は、たくさんある。それを望んでいるのか、はたまた嘆きか。どちらでもなかろう。
また、戦争である。だが、これはボクらに報道される、かかわりのある戦争。そうでないものはいくらでもある。見えないことをないこととする愚か。自省。
世の中に母のないものはない。母を引きずって行乞の旅をする山頭火には何の後ろ姿が見えていたのか。2句はボクには対句に思えて仕方がない。
言葉の届かない世界がある。もどかしく、悩ましく、せつなく言葉は宙に浮いていく。
何を言っても始まらないとき、言うのか、口をつむぐのか。
それでも表現しようとするボクの方が好きだ。
ふと、ぼんやりと世界がボクを受け入れない不安に駆られる。
川も山も闇だってボクとともにいてくれるのに、人が寄り添ってはいないように感じられる瞬間がある。自分一人で自然と対峙しているような感覚だ。
悲しくなる。悲しいが、その瞬間に覚悟を決めようとする自分がまた悲しい。
風が冷たい。
わずかなやりとりが心に突き刺さっている。
ことばに向き合うことはこういう覚悟もいるのか。
パソコンの大量メンテナンス。ぼんやりと時間が過ぎる。
沈む心を掻き立てるようにリズムの速い仕事をする。
ボクの仕事なんてたいしたものじゃない。ボクでなくてもできるはず。
じっとしているとどこまでも心が沈んでいく。
教育の仕事は、人の心と向き合うもの。子どもたちの表情を見ているとそのことがよくわかる。同時に、そうした見方を身に付けると、どの子も輝いているのが感じられる。
子どもにはともかく大人にはわかってもらえない苦しさに悶える。
子どもたちと向き合う仕事をする。
心や言葉が見え、伝わったとき、人は動く。不安も喜びも悲しみもすべて感じ合え、わかちあえる瞬間がある。
同じ空気を<雰囲気>を吸うことだけで、人は豊かになれる。
暑さに弱い。朝から暑いとそれだけでげんなり。
秋の風はいずこ。
雨の予報がまったくの晴れ。雨にほこりを払われ、お日様は豪勢に輝く。
息子たちの運動会。走るのが苦手で、運動会は気が滅入る。
活躍する子どもたちに、少しほぐれる。
草の執着を感じた。
そばを植える畑を借りた。2年間使っていなかったそうだ。猛烈な草。どこまでもどこまでもきりがない。執着。
気付いた頃には終わっていた。4時間。ボクの執着が勝ったか。
アスリートと少し話をした。
スポーツは己と向き合う仕種だろうと思っているのだが、アスリートはどうやら何をどこまで捨てられるかにかかっているらしい。それで、誇りと見栄だけは捨てない。
無論、そんなアスリートは、傍流だけど。
一人一人の表情に向き合う仕事こそが重要なのだと思っている。
一方で、ある種の権威の付与こそ重要な役割だと思っているものがある。
権威は仮想であり、そのものに内在したものではなく、相対化されたうえで示される位相でしかない。見えているのは高低ではなく差である。
そう思ってこの句を読みたい。
今年は山が見えぬ、と嘆いていたが、ようやく秋の空気に稜線がくっきり。
それも、昼までにはまた隠れてしまう。
ふと、銭湯の帰りの月に驚く。
二百十日。数年前、もう5年くらい前か、風の盆を訪れる。
観光で行くような不遜だけは止めよう、そう思った。
研修生が残した研修記録に心を動かす。「挫折」の文字が自らを閉じこめている。
どこへ行こうと、何が起ころうと、君は君じゃないか。
権威を恨み、向上を忌避しながら、そこから逃れられないアンビバレンツ。若い、ということだけではあるまい。
20年ぶりに永平寺。20年前大学でやるせない生活をしていたボクは、両親と13歳年の離れた弟とここへやってきた。雲水の姿に、内心を見つめるくらしを見出した。思えば、祖父が1杯の桶水で頭も身体も顔もすすぎなさいと言っていたのは、彼らの作務のきまりであったか。
門前のお店の呼び込みは薄ら寒い。生活をかけて客を招き入れる鬼神の顔をしていた。焼きたてのせんべいをほおばるそんなすさまじさも絶えたが。
もうお盆がやってきた。どこからか、ボクの小さい頃の写真が出てきた。曾祖母(すでに祖母は他界していたので「ばあちゃん」と呼んでいた)と従姉妹が2人、そして、ボクの後ろには妹がいた。こうしていた夏もあったのだ。
小さな表情や仕種は憶えているが、悲しいことに声が聞こえない。どんな声だったのか。言葉とは虚ろなもの。
はだかになろうとしながらなれない自分がいる。脱ぎ捨てたつもりで、そこにはまだありあまる衣を纏っている。
ぼんやりと庭に佇むと、蝶が通り過ぎる。ボクはどんな風に見えるのだろう。
富山に出張。突然の雨。たたきつける窓に久しぶりの富山の街を見た。ボクが住んでいた頃は、何だか雨ばかり降っていたような気がする。
ガラスを流れる水に歪む城址公園。
週末の職場対抗のスポーツ大会。仕事で参加できなかったことよりも、声さえかからなかったこと、いや、そのことで幼い頃の運動嫌いを思い出す自分がせつない。
小さな心と貧弱な力には、大きな身体は酷く不釣り合いだ。明日は、立秋。
明け方に雨。久しぶりの雨音。ほっとしながらも、そのあとの蒸し暑さを思う。
汗だくの朝がどこまで続くか。扇風機を買ってこようか。
8月。夏の宵に秋の気配を見る。蕎麦を植える畑の除草。慣れない仕事に辟易しながらも汗の流れるのを楽しんでいる。
息をできるだけ整えて長く長く呼吸する。
久しぶりに小川温泉まで遊びに行く。オロロに出会う。夕刻の薄暮より少し闇が深くなった時間だけ飛びまわる。刺す。いや、噛む。
きれいごとを言いながら、朝のセミの声もオロロも全く辟易である。
気付かない間に、コルトレーンの夏が過ぎていた。余裕がなくなっているのかなと思い、午後ふけて惰眠。
朝から強烈な日差し。夏らしさといえば夏らしさ。だけど、ボクの身体は汗かきを忘れてしまっている。汗の流れる山歩きにでも行きたいものだ。
ぎらぎらとした夏。この夏はまだ北アルプスが一度もクリアに見えない。水蒸気の多い、梅雨のなごりの夏。
祖母が亡くなった。90歳だった。ボクの齢に50年を加える。長い時間を懸命に生きた。亡くなる少し前の指はこれまでにないほど穏やかだった。
優しかった、そんな言葉で片付けられない。感情にあふれ、いつでも大きかった。慈愛とはああしたことをいうのだろう。溺愛とは違う。母の実家がなくなった。これからは、母に祖父や祖母の面影をうつすしかないのか。
夏の境川を歩く。カワセミ、カラスアゲハ、ミヤマカワトンボ、ウグイの群れ。いくつもの生命に出会う。釣り竿がないとこれだけの風景が見えるんだ。釣り師が見ているのは、いつも心象風景なのかな。
先日の増水で逃げたところが悪かったのか、水たまりに魚。さて、如何するのか。バブルで踊らされた人々の様子に似る。
すっかり衰えて病床にある祖母が、小さい頃ボクを使いに出したことを話したという。憶えている。どこに行けと言われたのか忘れたが、夏の強い日射しと屋敷林の影が怖くて、足が進まなかった。砂利道も足を突き、痛くて泣きそうになった。祖母はそのときの様子を心にまだ置いているらしい。会わなくても通じているように思えたが、やはり会うべきだと思い、病院へ。ぐっすりと眠る祖母の肩は柔らかかった。結局起こさないで帰った。
七夕の朝。日差しが強い。風が流れる。夏山のような空気。夏がくる。
金沢郊外の昆虫館へ。降ってくるような蝶々の群に驚愕。そういえば、そんな昔もあったのか。今夜は、ホタル狩りもよい。
子どもたちを山に連れていく話をしていたら、同席した者にはどうでもいい議論に聞こえたらしい。彼我の距離を思い知る。人の判断について耳を貸すためには、自らの判断が必要であり、そこには、当然責任と誇りが必要だ。
どうやら教育は上に行くほど腐るらしい。
持病の耳鳴り。底鳴りのように音からの解放を許さない。
ゴッホのドキュメンタリーを見る。果たして耳を削ぎ落とす幻想にとらわれそうになる。
梅雨の晴れ間。久しぶりに右側に偏頭痛。どうしたものか、あの突発的な疼き。
ニーチェは頭痛に悩まされたという。悩みと頭痛は別のものと思いながら、頭痛の種を探している。
草の子にて、職場の宴席。まだまだ素人臭いが「馳走」をいただく。
亭主の奥方のケーキがおいしかった。いや、とびきりうまいわけではない。おっかなびっくり緊張して慎重に丁寧に召し上がっていただく。いやなに、気持ちがおいしいのさ。
黒部川水のフェスティバルというのにかり出されている。ドラム缶でパン窯を作ることにした。ボクらは遊んでいるつもりである。何かを提供したり、価値を外在的に生み出そうとは思っていない。
しかし、権威を求めるものも、確かにある。自らに求めるのは、充実感。教育はそういう行いだろう。
この1週間、かなりぎっしりと仕事をした。と、思いながらも、実はそうたいしたことでもないように思える。結局、なくてもいいものをしつらえて、右から左へ。
山頭火の生のリアリティには全くかなわない。
辛い一日。信じてくれていた人を裏切った。
人の思いに寄り添うことも、行政という仕事では難しい。組織をもともと当てにしたのが自分らしくない。その背後には、人を生かしたい気持ちがあった。
もう、できないだろう。自分には重すぎたのだ。
ジョン・レノンが4回の夏を過ごした軽井沢。
彼がしばしば訪れたパン屋に照れくさそうな写真が一枚。
レノンがどんな光景をこの街に見ていたのか。
唐松の森のロイヤルミルクティーは、甘く、ほのかに、苦く、香り高かった。
忙しい1週間が過ぎて、あっという間に、妹の結婚式。家族紹介で、星になった妹のことを口に出した。何だか急にそんな気持ちになった。
母が幼い頃、どうしたものか、星を見上げてそう言った。ボクと妹が好きだった絵本を今も読んでいるんだろう。黄色い洋服を着た女の子の表紙だったか。
案外、そこに、星が描かれていた。
嫁いだ妹は幸せそうだ。久しく。いと久しく。
しっとりとした土曜日の出張。おきまりの総会が続く。
立派な施設。立派な道具。立派な・・・、何だろう。
パソコンが並んでいるだけで喜んでいるのは、パソコンを使えない人だ。見えないところにくらしがあるんだろう。
富山に出張。型どおりの総会に、型どおりのお話。
言葉を殺してしまうような世界。言葉が自らの表現だとすれば、そこに身体のリアリティはない。
じきに6月
梅雨の走りのような空。じめじめとして、風もない。
「おちつかない」という心情がぴったりかな。
緑が濃い。二男が「きもちのいい朝」だと思わず叫ぶ。
影なんだ。影が薄いとはいうが、存在感の強さは影の強さ。影の濃淡に気付くのが、実に不惑前。我ながら鈍感。
夢は草庵を持つこと、そういう話を聞いた。
草庵の贅沢は、時間が楽しめること。なすべきこととてなにもない時間を謳歌する。
川で遊ぶ
きれいなヤマメが、しかも、大きい。穏やかなる心が沸き立ち、焦る。釣りの業が久しぶりによみがえった。
ときどき大声を出してしまいたいことがある。
何が不満、何が望み、そういうものではなく、根源的な渇望としてそうした声が沸き上がることがある。月に向かって吠える犬にも、案外理由がない。
息子の部活動が、だれかのしでかした不始末で活動中止。毎日、ランニングと草むしりだという。
今時はやらないペナルティ。
学校の規則は、立法も行政も司法もすべて教師が握っている。こういうのを濫用というのだろう。悲しいかなその自覚がない。責任を取るべきは、不始末の本人。
何のためにこうして分を秒につないで仕事をしているのだろうと思うことがある。何のために、誰のために。
こうしたい、ああしたいという大人の言葉の数々は権威と虚栄に満ちている。どこのだれにもあるような、そこここにある日常的な生活に生まれてくる「思い」やら「願い」やらがまさしくこの世界を形作っている意志の総体でもあるのに、そこにあるのは、告発と不満と、糾弾と蔑み。自分が一番考えているのだという慢心から、足りて十分という境地は生まれまい。それこそ、満たされぬ相対的な欲望。
焦燥感。ただただ、何を焦っているのかと思うことがある。反面もどかしく、もどかしさがまた焦燥になる。
こういうものを突き抜けるといい境地がくるのだろうか。
いやいや、尽きぬものは、心。心の求めるものがあれば、焦りは表裏。
近所に蕎麦屋ができる。ちゃんとした蕎麦などここらにはなかった。同僚が「上品すぎて」という。君らの食べているものは、馬方の蕎麦でさえもっと上品だろう。それは、蕎麦とは呼べぬ。
いい味わいに、ぼんやりと蕎麦ののこり香を味わう。
若い職人を応援してやりたくなった。
久しぶりの雨。雨と山頭火は似合う。ただし、その雨はいつの間にか身体に滲み入り、心を冷やす。
友人の結婚披露パーティーに大阪へ。相変わらずの表情と、いつになっても同じスタンスで話せる彼に、震えるほどうれしくなる。いつも会っているだけが友人ではないのだな。
影に光があると発見したのはついこの間。光と風をだれよりも身近に感じた山頭火。歩く行為については、教育哲学者のボルノウがその教育的意味合いを説いている。いや、そんなことはどうだっていい。花冷えだが、若葉の頃。
学校の掃除のことを話していて、何でこんなことしなくちゃいけないんだろうって考えたことあるなあと話したら、高校の教師だったやつが「掃除で心を鍛えるんです」と言い切った。
「はたらく」ことは楽しい。心を鍛えるならほかにも方法はあるだろうに。掃除はきれいにするものじゃなくって、そうか、「がんばって、まじめに、最後まで、きちんと」するものなんだね。
春の句じゃないけれど。
長年使ってきたメガネが壊れた。常用のものではなく、山川野遊びで連れ立ったものだ。ちょっと変わったメガネに替えたんだが、しばらくは似合わぬ日々だろう。
庭にたんぽぽの種を毎年のようにちらかしているが、なかなか芽の出たことはない。
たった1錠の薬に癒される自分がいる。ゆっくりとゆったりとくらすには、才能が乏しすぎる。
何よりも仕事の夢に追い回されるのはつらい。
暖かい一日。焦りが少しだけ消えていく。
常用していた薬が切れた。どうも落ち着かない。苛々と何かに焦っている。前に服用していた薬を飲む。ようやく落ち着く。プラシーボ。まあ、それでもいい。
学生時代の友人が同じ立場に身を投じた。苦労話になってしまう自分に情けなし。教育の話、子どもの話なのに殺伐とした感じがするのはなぜだろう。そんなにもつらいものか、授業とは。人と人が相見えることの美しさを語ることがまず在る。それから、技術だの技能だの。教師を説得する授業ではなく、自らが説得される授業。たじろぎ、ゆれ、おそれ、おののくこと。その覚悟がなければ、教師たりえず。
つらかった三月が過ぎた。気持ちは少しだけだが軽くなった。遠くの山の雪景色がむしろ美しく思えるのは、風が暖かいせいでもあろうか。件の大阪の友人から結婚の報告。披露したいという。喜んでまいる。
今の職場で2年が過ぎた。心苦しきことも多かったが、楽しかった出会いも多かった。いっしょに過ごした職場のものともお別れ。特に、世話になった上司との別れは、なんともいいようのない惜別感がある。ともに、思いを、願いをひとつにした時が確かにあったのだ。
春のような、いや、夕刻には初夏の風さえ吹いた。山頭火は、どこかの地蔵を相手に酒でも飲み始めそうな日だ。フェーン現象。大阪出身の友人は、暑さ寒さも富山からと述べた。言い得て妙。この時期から5月にかけての妙な暖かさと、11月末の手をしみ通る雨の冷たさは独特だ。春スキーの季節。さあ、どこへ行こう。
先週、弟の家族がやってきた。雪を見せにきたのだという。平地にはさっぱり雪がないのだが、わずか車で5分もいけばたっぷりの雪。驚く子どもたちとそり遊び、雪投げ、雪だるま。春の雨に邪魔されて早々に帰ったが、どうやら生まれて初めて、雪を実感したらしい。ボクらさえそんな遊びを忘れていたよ。
ほぼ毎日更新の約束が果たせないでいる。うーん、ホームページ更新用にパソコンがほしいくらいだな。
ジャズがお好きな人は多いだろう。近年、CMなんかでも使われて、にわかジャズファンみたいなのは多い。もっとも、ボクなどは偏向もいいところで、ドルフィーやトレーン、アイラーなんぞ、知らない人も多い。
山頭火の句に、「ヂャズ」とあった。「すずかけの径」あたりが似合いそうだ。酔客がまだ盛り上がっている時間帯の路地裏を歩く山頭火か。
昨日、渓流解禁。
いきつけの鉱泉で、この3日聞き慣れぬ言葉の男3人。
甲州弁とやらはこれか。あこぎな釣りは止めにせよ。
先週末、仕事のことで落ち込んでいたら、二男になぐさめられる。
仕事に向いてないと嘆くボクに、職場の友だちがたくさんできたからよかったじゃないかといい、がんばるのは悪いことじゃないよ、という。
妙な気持ちから少し開放されつつある。
2月が終わる。3月の風が急にぼんやりと霧をおったようになるのは不思議なものだ。
あたたかさに、クルマで河原へ。そのままホットドッグをほおばる。
山がきれいだ。
仕事の大きな失敗が発覚。思い起こせばターニングポイントはあった。
気付かぬボクが悪いのか、才能がないのか。向いていない仕事に埋没する。
暗い春の帰り道。取って喰われるわけじゃないと思ったら、風があたたかくなる。
富山まで出張。
大きな山々に感激。しばらくするとあっという間に夕暮れがやってきた。
朝日岳を見に行く。クロカンを履いて、河原を歩く。
その辺にあるスキーをつかまえてクルマに放り込み、走り出す。
さて、ちゃんと合っていたろうかと心配になるが、行ってみてそろっていなければ、あるもので間に合わせよう。
病院で処方される薬を飲む。
少しだけ楽になった気がした。
のたれ死にしたいと願った山頭火は、決して生を軽んじていたわけではない。全うの先にのたれ死にをみなければ、枯れていくだけのつもりの身体を運ぶ理由もない。
食べることに執着する姿にそれを見る。
どうも仕事にのめり込めない。何をどこから手を付けていいのか。積み上げては崩される三途の川。
野心も野望も育つ余地なし。もしかしたら、それが役人の世界か。
立春。鬼を払う昨夜の豆が雪の上に落ちている。
ご近所クロカン。風の旅は、そこにもある。
ふるさとと町の行政区分は違う。ふるさとに愛着はあっても、行政体としてのまとまりにはたいした興味はない。一人一人の小さなしあわせに手をさしのべられぬ行政など、ちょっと規模の大きなエゴイスト。
なにごともなく、そんな1日はないものか。
雪、星、月。突き抜けるような明るさに少しほっとする。
正月も過ぎる。外の雨は、初冬か、2月の末。暖かき冬なれど、雨は冷たい。
今年初めての白馬。雪深き牛方宿に、雪かきの老人2人。山頭火の姿を見る思い。
ひとつ年をとる。重ねる歳にも関わらず、一向に生意気が抜けない自分がいる。同様に、何をどうしていいのかわからなくなっている自分がいる。あるいは、あがいているのか。何をどうすればいいのか、粛々とやるべしとは、対岸の火事である。
午後よりスキー。さまざまな親子の姿に酔う。無軌道に、そして、見せつけるように滑る集団あり。ここまできて、何の権威を示すのか。雪の前で戯れるのみ。
懸案の仕事がぶれた挙げ句になしくずしにこなされる。ないことよりあることを豊かと信じた惨め。
休校の木造校舎の屋根雪を下ろす。見渡す風景に。
息子の誕生日。何やらおろおろし、無事誕生の報が早朝。声を出して泣いたのを胸が覚えている。
ラジオミューでスキーの話題を語る。どこまでもスキーは楽し。いや、スキーでつながる友が楽し哉。
教え子の成人式。みなそれなりの顔で迎える。見えぬ顔こそわびしい。
息子を連れて、クロカンへ。転んで大笑い。朝日岳が美しい。
強い風が吹く。雪が千切れ飛ぶ。正月のしんしんと降る雪はまだ、ない。
2日から何となく蕎麦を打つ。居所にそばのあるのはいいものよ。
新年を迎える。不安にさいなまれる山頭火の心情は、正月も変わらない。