■紫1

 あの人の平等な優しさが
 愛おしかった。
 だけどそれは
 苦痛でもあった。

 平等だからこそ、私に向けらる優しさは……ほんの僅かな物だったから。

「○○……」
 目覚める筈の無い時間、私の意識が手元にある。
 夢に出てきたあの人が、あんな事を言わなければ。
 布団の裾を掴み、ぎゅっと握り締める。
 何かに、しがみ付いていたかったのかもしれない。

『お願いだ、紫……殺さないでくれ……』

 恐怖に歪んだあの人の表情には、畏怖だけではなく。
 憎悪に満ち、私に向けられていた筈の僅かな感情さえ――残ってはいなかった。

「そんな事……あなたにする訳が、ないでしょう……?」
 枕に顔を埋めると、そのまま再び眠りに落ちようと、目を閉じる。
 けれど、意識ははっきりとしたままで、結局眠る事は叶わなかった。


 カシャン。
「……あら」
 手から茶碗が落ちて、割れてしまう。
 半分眠っているかのような表情のまま、紫は落ちた茶碗を眺めた。
「ちょっと紫、何やってんのよ」
 霊夢が驚いた様に言う。
 が、割れた欠片を機敏に片付け、奥から拭き物を瞬時に持ってきた姿勢からは、
 そんな様子は微塵も感じられなかった。
「割れた茶碗の音も風情があるでしょう?」
 そういって笑顔で答える。
「風情でうちの茶碗を全滅させるつもりじゃないでしょうね」
「そういう異変もそのうち起こるのかしら。怖いわね」
「あんたがやったんでしょーが!」
 そんなやり取りを交わす中、そのうち誰かが見ている事に気付く。
「趣味かしら?○○」
「漫才は何時見ても飽きないけど、趣味としてはどうかな」
「覗きなら○○にはお似合いなんじゃない?」
 そうして受け答えを交わすと、○○もまた会話に参加した。
 結局その日は三人で、そのまま暇という時間を大いに満喫したのだった。


 やがて話す事も無くなった頃、自然と解散する。
 ○○は何時ものように一人、何事も無く帰路につこうとする、が。
「○○」
 紫が声を掛けた。
「……何かまだ面白い話でも?」
 笑いかけるように答え、返事をする。
「偶にはエスコートの一つでもしていきなさい。それがあなたの為よ」
「…なに?」
 少し驚くように反応したが、直ぐに表情を戻すと、紫と一緒に歩き始めた。


「スキマを使えば直ぐだろうに」
「あら、○○はスキマ妖怪だったの?それは初耳ね」
「俺は人間だよ……って、何でそんな反応が返ってくるんだ?」
「エスコートをするのが今のあなたの役目。
 なら私のそれで移動してしまっては、何の意味も無いでしょう」
「確かにそうかもしれないが……ううむ」
 唸る○○に対し、くすくすと紫が笑う。
「バカねぇ、それならわざわざ一緒に帰る意味がなくなってしまうでしょう」
「ん」
 納得したような顔をして。
「それもそうか」
 頷く様に、返事をした。


「で。家に着いたのは良いんだが」
「お菓子はお煎餅だけ……あらあら」
「何でお前まで家に上がってるんだ?しかも人の台所を勝手に漁るな」
「おかまいもできず、ごめんなさいね」
「それは俺の台詞だ!いや、違うか」
 勢いのまま家に上がりこまれ、台所を荒らされて。
 そして、結局お茶を入れさせられ。
 そのまま数時間ほど、エスコートと言う名の暇潰しが終わる事は無かった。

 流石に気に触ったのか、○○が口を開く。
「まさか夕飯まで食べてくつもり……じゃ?」
 そう言おうとした○○の前に差し出されたのは料理だった。
 特に何もおかしな所の無い、普通の、料理。
「そうねぇ、○○がどうしてもというのなら」
「いや、待て。この料理は何だ?」
 相変わらずの調子で紫は言う。
「お気に召しません?毒でも入れておけば、あなたの食指を誘えたのかしら」
「誰もそんな事は言ってない」
「……食べないのかしら?」
 そういった紫の目は、他人から見れば少し甘える様な、優しげな表情だった。
 が、○○は気にした様子も無く、こんな言葉を返す。
「……これ、紫は食べたのか?」
 疑うような視線が、其処にはあった。

「……食べたわ。それが何か?」
 先程までの空気はいずこかへと消え、紫は唇を噛み締める。
「そうか。いや、ならいいんだが」
 その返事を聞いた途端、料理を口に運ぶ○○を見ながら。


 それから一週間程経った頃、○○は紫と妖夢という、
 少し奇妙な組み合わせで外に出かけていた。
 この前のお礼がしたい、という名目で。
「私とは二人きりになりたくないという○○の思惑……」
 と、紫がそんな事を言い始める。
「え」
 二人が声を合わせて、反応した。
「取って食べられる事を恐れて?
 それとも、逢引に誘う程の度胸が無かったから」

「――どちらかしら?」

「後者だな」
 即答する。
「あら、そうなの?」
「女性に恥をかかせるよりは、な」
 普段と変わらない調子で。
 そういうものなのですか?と、妖夢が口を挟んだが、
 その話題はそれ以上進展しなかった。

 用事を済ませ、今度は下山する。
「まさかあんな所に果樹園があるなんて……」
「果樹園って程のものでもないけどな。
 時々様子を見に来て、世話をする。
 殆ど自生してるようなものだよ。大したもんだろう?」
 自分の事では無いのに、嬉しそうにそう言う。
「あの場所が好きなのね、○○」
「……そうかもな」
 今度は少し考えて、そう言った。

 直後。

 落石。

 崖崩れが、起きた。


「最強って言う割には大した事ないなぁ。
 驕るのも妖精の特技の一つ、かしらね」
「う、うるさいっ!あたいはまだ負けた訳じゃない」
 ヘロヘロと飛ぶチルノに、天子が興味無さそうに相手をする。
 先程の落石はこの余波で起きたものの様だ。


「……っ!」
 あの人の、声がする。
 咄嗟に避けてはみたものの、全部は避け切れなかったらしい。
 自然に起きた落石までは読めなかった。
 落石をあの人に当てない様にする事で、手一杯だったから。

 スキマから、外に出て、聞いたのは
「……むっ!妖夢!!大丈夫か!?」
 あの人が、心配している声。

『それは私では無かったけれど』

「あ、はい……私は何とか。○○さんこそ……」
「俺の方はなんともないよ。運が良かったらしい」
 そうして、私の方を振り向く。

「……あぁ紫、大丈夫か?まぁ、お前なら心配いらな――」

 お前なら。
 心配いらない。

 なんでって

 だって、強いじゃないか

 ○○がその時何と言ったのか、聞こえはしなかった

 ただ、ただ。私には、そう  聞こえた


 聞こえた、気がした


「最近、あいつの様子がおかしい気がするんだが」
「あいつって……紫の事?」
 霊夢は煎餅を齧りながら、縁側で足をぶらぶらとさせている。
「ああ。やっぱり霊夢もそう思うか」
「んー。あいつがおかしいのはいつもの事じゃない」
 特に気に留めている様子は無い。
 ○○は、やっぱり思い込みかねぇと呟くと、茶を啜った。

 スキマの中で何処か遠くを見る様に、紫はそんな○○を見つめていた。


「風見、幽香――」
「珍しいお客ね」
 傘を差したまま、お互いに目線も合わせぬまま、言葉を交わす。
「花を見に来たって訳でも無さそうだけど?」
 今度は笑顔で返事をする。眩しいほどの、笑顔で。
「……あながちち間違いでもありません」
 なぜなら
「私は、あなたの弾幕という花を見に来たのですから」
「……ふぅん」
 幽香は、笑ったままだ。
「要するに、本気でいじめて欲しいって事ね?」
「いいえ」

「本気では足りないわ。
 死ぬ気で、来なさい。

 殺し合い、という言葉では生温い――
 そんな戦いになる様に」

 ……。


 神社を出て直ぐの帰路、○○は嫌な予感がした。
 正確には、嫌な物を見たかもしれない、そんな感覚。
 ふらり、ふらり、と此方に歩み寄ってくる人影が一つ。

 こんな所で、妖怪だろうか?
 場所が神社の近くだけに、妖怪を見ても別段おかしな気はしなかったが、
 何処か妙な雰囲気がある。

 はっきりとその人影が、視認出来る距離まで近付くと、
 それが、見知った人物だと言う事に気付く。


 紫だった。
 真っ直ぐと○○を見据えている、紫だった。

 ボロボロの服を纏ったまま、四肢が揃っていないのに

 傘を差して ふらり ふらりと

 ○○の方へ、近づいて行く。

「こんな時間に 何処へ帰ろうっていうの?

 ○、○。

 ……ふふ」




「どうしたんだ、その怪我!」
 ○○が、駆け寄る。
「お前がこんなになるなんて……一体何をしてたんだ?」
 驚いた、表情をしている。
「そうねぇ……私が凄い怪我をしたら、あなたは一体どんな反応をするのか。
 それが見てみたかった、なんてどうかしら?」
 自然と、本音が出た。
「紫にしては。つまらない冗談を言うんだな」
 そう言いながら、体を支え。
「……そうね」
「お前なら、何時も気をつけてればこんな事にはならないだろう?」
 心配そうな表情で、気遣って。

「つまらない冗談なんかで、俺を惑わせないでくれ。迷惑だよ」


「え……?」
 そのコトバで、ワタシを。ツきハナした。




 支えていたその手ごと、押しのける様に、○○を拒絶する。
 体の痛みも同様に、何処かへといってしまったようだった。

 気付けば私は、マヨヒガにも戻らずに――スキマの中で、閉じ篭った。


「紫……?久しぶりだな。もう、怪我は良いのか?」

「おい、聞いてるのか?
 そういえば、この前あった事なんだが……」

「それで……どうした?
 やっぱりまだ調子が悪いんじゃないのか?
 無理しないで、まだ休んでたほ……」


 ぎゅっ、と 締める。

「迷惑だから?」

 簡単に、それは砕けてしまう。


 だってこれは、夢の中の

 私の中の、あなただから。










 私があの人を愛おしいと思えたのは、何が理由だったのだろう。
 思い出そうと手を伸ばした先は、まるで靄が掛かっているかのように、先が見えなくなっていた。
 今も昔も、あの人は変わらずに。
 変わらないままの存在で、今も其処に在るというのに。

 分け隔てなく、人外とも接する事の出来る存在。
 それでいて、何処か掴み所の無い――

 可愛らしいと思った。

 それだけだった。

 だから、霊夢達と同じ様に接していた筈なのに


 ……独占したくなってしまったのは、何故なのか。
 短い様で長く。あの人と一緒にいる内に、与えられた優しさが。
 私の中の何処かに、ひっかかっている。

 ……むずがゆくて、邪魔なもの。
 だから私は、これを取り除いてしまいたい。

 ○○――

「私を恐れるかしら?」
 誰も居ない。返事を待たず、紫は喋る。
「でも私は、あなたが恐い」
 そして仰ぐ様に手を上げると。
 ぎゅっ、と握り締めた。
「あなたを好きでいられなくなりそうで。
 愛してしまいそうで、恐いの」




「壊して、しまいそうで     とっても」




「はぁい、霊夢、○○」
「いきなり出てくるな」
「つれないわねぇ。相変わらず」
「お互い様じゃないのか?」
 何時もの様に現れた紫の態度はいつもと変わらない。
 怪我をしていたという素振りさえ、何処にも無かった。
「もう体の方はいいのか?」
 ○○が気遣う様に言うと。
「ええ、大丈夫――よ」
「――っ?!」
 その手を取り、自分の体に、押し当てるように触れさせた。
「な、何を」
「ほら、なんともないでしょう?」
 確かめさせる様に、そう言いながら。
 ○○が慌てて振り解こうとするが、その手は強く握られていて離れない。
 ……痛くは無いのに、押し潰されるぐらいの強さで掴まれている様な、感覚。
「いつまでやってんのよ」
「あら」
 霊夢の言葉と同時に、その手がぱっと離れた。
 腕に痕は……残っていない。
「あんたでも鼻の下伸ばすのねぇ」
「いや、これは……」
 誤解だ、と言おうとする○○の口は紫の指で塞がれていた。
 いつもと変わらない態度で。
 しかし、何かがおかしかった。


「今日もエスコートして頂けるかしら、○○」
 あの日の様に、紫が言う。
「……あぁ」
 ○○も、断らなかった。
 先程の事を聞く為に。

「急にどうしたって、顔してるわね」
「当たり前だろう」
 二人きりで、家への道を歩いてゆく。
 いつもよりも、静かな様に感じるのは気のせいなのだろうか。
「私がああする事が意外かしら?」
「……あ、あぁ。そういうの、興味ないって言うか」

 そう言おうとする○○の口は再び塞がれる。
 彼女の、唇で。
「ん――ぐっ!?」
 慌てて後ろに下がり、よろけてしまう。
「今日は一体何なんだよ!!」
 怒鳴る様に言うと、直ぐに『しまった』といった顔をした。

 だが、紫はそれを気にした様子もなく、○○に微笑みかけている。

 いつもと何も変わらない。
 何も、変わらない。

 ……変わっていない、筈なのに。

「そうねぇ」

「無自覚に人の境界を犯す様に上がりこんで」

「自分の用件だけを済ませたら帰ってしまう」

「知らなかったでは済まさせない――
 自分が何を与したかすら判っていないあなたが

 何を、理解出来ると言うの?」
 ……加えて、言った。

『何も変わってないわ』と。


 紫と別れ、○○は自分の家へと帰った。
 何も言わずに。


 あなたが欲しい。
 他の誰でもない、あなたの口から

 一言でいい、心の底から

 私を想った、言葉が欲しい。


 朝、目が覚めた○○の部屋には紫が居た。
「いい夢は見られた?○○」
 それが当然の様に。
「何で俺の部屋に……とは、もう聞かない」
 息を落ち着ける。
「何が目的だ?」
 そう言われ、紫は答えた。微笑みながら。
「朝食をね?作ってみたの」

「食べて、下さるかしら」
 ○○の手は握られていた。


「は、離せっ」
 紫を押し退けようと、乱暴に手を振り解こうとする。

 が、振り解こうとした腕は動かせず、もう片方の腕も掴まれ、押し倒されてしまう。
「あらあら……」

「食べさせて欲しいのかしら?まぁ、子供っぽいのも悪くないか」
「誰もそんな事は頼んでない」
 そう言った○○の口調は、いつも通りではあったが、何処か震えた感じだった。
「此処で食べます?そうなら直ぐにでも」
「……いや、いい。着替えたら行く」
 紫は笑った。
 何時もの様に、掴み所の無い笑顔で。

「本当に……何も変わって居ないのか?」

 着替え終わりテーブルへと向かうと朝食が並べてある。
 以前よりも華やかな料理の数々には、見たことの無いものも混じっていた。
 朝からこの量は無いだろう、とため息をついてテーブルに座る。
「で……味見はしたのか?」
 その言葉に紫の表情は固まった。
 ……どうして?と、驚いたような、悲しそうな顔をして。
 が、直ぐにその表情は消えた。
「食べ……たわ」
「そっか」
 そして食べようとした○○を静止する。
「あ、え?どうしたんだ?」
「……待って」

「食べさせて欲しいんだったわよね?ほら……」
 そういって料理をスプーンで差し出した。
「いや……だから!」

「何で頼んでもいないのにそんな事するんだ?からかうのもいい加減にしてくれよ!!」
 逃げる様にして席を立つ。
 ○○は置いてあった財布やら何やらを手にすると、鍵も閉めずに飛び出していった。

「○、○……。

 何で     どうして     何が気に入らないの」
 紫は○○が出て行った扉を暫く見ていたが、台所に立つといそいそと何かを始めた。


(やっぱりあいつの様子は何処かおかしい)
 仕事へと向かうでもなく、○○は何処かの山の中へと入り込んでいた。
 この辺りには夜になっても、余り妖怪を見かける事は今まで無かったので、
 無意識の内に此処へ向かっていたのかもしれない、そう思った。
(あいつは何を企んでるんだ)
 紫にたばかられているとしか思う事が出来ず、○○は不安になる。
 何かあいつの気に触る事をしてしまって、それで――

 考えたくは無かった。
 いつも、くだらない話をして、一緒に居て、それで。
 ……結局頭を働かせても、悪い考えしか浮かぶ事は無く、○○は木陰に座り込んだ。

 ――そして両目を手で覆われた。

「 だ ー れ だ 」

「ッ!!」
 ビクリ、と体がそれに震えてしまう。
 両手が離れ、何とか後ろを振り向く。振り向こうと、する。

「朝食をダメにするは勿体無いでしょう?
 だから、持ってこれるだけ、お弁当に……」

「や、やめろ……」
「――え?」
「俺が悪かった。……この通りだ。だから」
「ちょ、ちょっと○○。私は、あなたがお腹が空いてると思って……」

「だから、お願いだ、紫……殺さないでくれ……

 お前にだけは殺されたくないんだ。お願いだから……」

 いつか夢で聞いた様な、見た様な気がする光景。
 ○○の表情は必死だった。

 紫は○○が何を考えているのか、何度考えても同じ答えしか出せなかった。

 ――この人は、私を恐れていた。だからもう、何をしても――


 気が付くと其処に紫の姿はなく。
 そして、○○が神社に顔を出しても、紫を探しても、見つける事は出来なかった。

 式達も彼女を探していた。
 何処へ行ってしまったのだろう。










 幻想郷の何処か、山の中。
 激しい豪雨が降り注いでいる。

 帽子も被らず、傘も差さず。
 紫はただただ、歩いていた。

 自問自答を繰り返しては、その答えに絶望する。
 ――私を想う、事は無い――


 ……人影が一つ。
 紫はそれよりも前からその存在に気が付いていたが、特に気にする事も無かった。
 人影はやがて此方に近づき、二つ。
 二人に、変わっていた。
「……紫様」

「紫様!」
 藍は何度も主人の名前を呼んだが、返事をする事は無く。
 橙が心配そうに、主人と、その主人の主人を交互に見るが、何の解決にもならなかった。

 二人の呼びかけに応える事無く、紫は見晴らしの良い崖へと辿り着いた。
 雨は今も降り続けている。
 藍と橙もまた、その雨に打たれていた。

 ――紫が口を開く。
「ねぇ、藍。
 ……私が恐い?」
 そう言った紫は振り向き、濡れた髪を靡かせた。
「そう、ですね」
 藍は、少し頭を垂れて言った。
「恐いです。貴方の力も、貴方の性格も。
 ですが、私は――

 今の貴方の方が、よっぽど恐ろしく思えます」

「何に置いても、です」
 そう答えた彼女の表情は、悲しげというよりは、何処か諦めにも似た表情だった。

 ――手遅れだった。
 そう言いたそうな顔で。

「もう遅い、と思っているのかしらね」

「……それは正解では無いわ。答えには近い、けれど正しくはないの」
 ゆらり、と手を伸ばすと。
「藍。私の式だから、というそれだけの理由でこの場所に居るのなら」
 ――空気が、重みを得た。

「その役目を……終わらせて差し上げます」
 その言葉には、何の感情も込められていなかった。

「……折角ですが」
 即答する。
「私が貴方の式で居る理由。貴方の方が良く御存知の筈」

「貴方の能力に惹かれ。
 私は貴方を選んだ。

 ……そんな単純な理由などで例えられるものではない。
 貴方だからこそ、選ばれて、受け入れられたのです」

「わっ、私も!」
 橙が必死に口を挟む。
「私だって藍様の式じゃなければいやです!
 だから藍様のご主人様も、紫様じゃなければ駄目なんです!!」
 段々と口調がどもってゆくが、感情は伝わった。
「だっ、だから。
 上手くいえないですけど……
 家族を心配するのは当たり前じゃないですか!!
 恐いとか、そんなの関係ありません!
 そ、それに藍様は八雲って姓を貰ってるし、それに……

 だから、そのっ……」


 ……紫の伸ばした手が、ゆっくりと橙を撫ぜた。
 ごつん、と。
「もう、いい」
 その目に光は無かった。
「もういいわ。もう、いいのよ」
 ゆっくりと、ゆっくりと橙の頭に触れた紫の手は。
「――ありがとう」 
 ……冷たかったが、弱々しさは感じられなかった。
 むしろ、触れられている橙の方が、震えていた。
「あ、ぁ、あ、ぁ……」

「ゆ、紫……様?」
 藍もその妙な空気を感じ取り、後ずさる。
 紫は、何処か遠くを見ている。

「家族に……家族なら、恐いのなんて関係無い……
 家族にさえ、なってしまえば……

 恐怖する事も。

 ふ、ふふ、うふっふふふ」
 ……普段聞かない様な声で、笑っている。
「ありがとう。藍、それに橙。
 貴方達が迎えに来てくれなければ、私は今頃は」
 そう言って何かを捨てる。

 ……それはスキマに飲まれ、何かは分からなくなった。
「楽しみだわ。”新しい家族”が増えるかもしれないのよ?」


 寝転がったまま、○○は溜息ばかり着いていた。
 紫の不審な行動の数々が、頭から離れなかった。

 俺は、紫に殺されてしまうかもしれない――

 ……彼女の力は知っている。
 霊夢や、彼女と対峙した者達ほどではないにせよ、それが強大な物だという事は。
 だから、今こうして考える時間があるのも実は彼女に踊らされているだけなのかもしれない。

 ……そう考えてしまうだけでも、○○の胸中が安らぐ事はなく。
 眠れぬ夜が続いていた。

 ――ふと。
      見慣れた天井が

             その姿を、変えた。

 ス キ マ だ。


 開かれたその空間から、紫が飛び降りるように○○に圧し掛かった。
「な、なっ!?」
 突然の事に○○の口から驚きの声が漏れる。
「○○……」

「ゆか、り……?」


 名前を呼ぶと、にこりと笑った。
「良かった……」

「まだ名前を呼んでくれるのね。
 あなたが私を嫌っていて、それで。
 ……もう口も利いてくれなかったらどうしよう。
 そんな事も考えたわ」
 ○○は隙を見て体を起こそうとするが、紫は完全に○○を押さえ付けていた。
「やっ、離せッ!離してくれ」
 無駄だった。顔を背ける事位なら、出来そうなのに、出来なかった。
「ねぇ○○。

 あなたが好き。
 私が愛する殿方は、あなただけですわ。

 だからね?
 恐がる必要なんて無いの。
 私は貴方を殺さないし、傷付けるつもりなんて、塵一つも可能性も存在しない」

「う、嘘だ。どうせそれもまた、何時もみたいに冗談なんだろう」
「嘘じゃないわ。本当よ」
「嘘だろ!?お前みたいな妖怪が、そんな事を言う筈……無いじゃ、ないか。
 頼む……俺に何かあるなら、出来る事なら、してやるから……

 これ以上そんな嘘をつくのは、もう……」


 ……私も馬鹿ね。
 こんな人、なんで選んだんだろう。

 ○○の態度は変わらない。 
 こうして告白してみても、なーんにも。
 何時も、何時でも、変わらない。
 他の妖怪を相手にしている時だってそうだった。

 それにしても、好きだとか、愛してるとか。
 言葉がこれほどまでに薄っぺらいものだとは、思わなかった。

 あぁ。
 もう後戻りは、出来ない。

 今この手を離したら、彼はもう二度と私と交わる事は無いだろう。


 ――早く。

 早く、○○を

「私の家族にしないとね……」


1.顔を見る。

2.目を逸らす。

3.もっとよく考えてみる。

おやつ氏




この幻想郷に越してきて、随分と経った。
 こんな魔境で暮らすはめになったのも、まあ、ひょんなことがあったからであって、
 決して自らの意思で飛び込んできたわけではないのだが、住めば都とはよく言ったもの。

 転がり込んできた当初は、現代とは全く違う形の生活や、
 純日本的、と言うより、時代劇で見るような古めかしい町並みなど、
 飲み込みにくい事態が立て続けに襲ってきたのもあって、困惑と驚愕の日々を送っていたが、
 人間は周囲に適応する生き物だと言うのは、どうやら本当らしい。

 異郷に叩き込まれた時は右も左もわからなかったが、
 慧音先生ら親切な人たちの助けもあり、変わった環境にもようやく慣れ始め、
 現在は人里に居を構える、いっぱしの幻想郷住人になれた……と思う。

 人手はあって困らない、とのことで、肉体労働が主とは言え何とか職につくこともできたし、
 親しくしてくれる気のいい仲間もできて、一応は順風満帆な暮らしを送っていた。


 ――――そう、‘送っていた’のだ。





 きっかけは、些細なことだったように思う。


 思い出すのは、時分も定かではないが、大分前のことだ。

 その日はとてもいい天気で、空と同じように、晴れ晴れとした気分で労働に励んでいた。
 仕事の内容そのものはハードだが、たまに差し入れをもらったりできるし、
 帰宅の路を辿る途中、慧音先生に会えるのが、何よりの楽しみなのである。

 りりしくて、落ち着きがあって、物腰も柔らかくて、面倒見がよくて、おまけに相当な美人。
 寺子屋で教師をやっているらしく、授業内容はやや難解なものの、子供たちには好かれている様だ。
 その上、いつも聡明で冷静な彼女がたまに見せる笑顔は少女の様にかわいらしいのだから、もう反則である。

 そんな女性と毎日顔を合わせられるのだから、仕事の大変さなどなんのその。
 彼女に会うためだけに、この職についていると言っても過言ではないかもしれない。


 そんなこんなで、労働に励んでいたわけだが、それよりも大事なことがある。


 ――――彼女を初めて目にしたのも、その日だったのだ。







 腰まで伸ばした金髪は、さらさらと風に揺れていて。
 こちらを見据える瞳には、深い琥珀の色を湛えていた。
 日光を遮っている日傘と、ゆったりとした服、そして白磁の様に白い肌が、
 その女性の持つ雰囲気に、まるで、簡単に手折れてしまいそうな、花の様な儚さを持たせている。

 それは、一枚の絵画のような、完成された光景で。


 職務の間の昼休みにそんなものを見てしまって、まず対応に困った。


 なんで、あんな絵に描いたような美人が、こっちを見ているのか。
 思わず振り返るが、背後には人影はないし、大通りから外れているこの場所には、近くには生き物の類すら見かけられない。

 失敗したか、と、思わず表情を渋くしてしまう。
 仕事場から人里までの、まっすぐ行くより早い近道を発見したからといって、安易に利用するべきではなかったのだ。
 誰も存在に気づいていないだろうこんなところに、自分と目の前の女性以外に人がいるはずもない。

 なら、何故あの女性はこんな裏道なんかにいるのか、と言う思考は、不意に遮られた。


「ねえ、そこの貴方」

 それが、目の前に立つ彼女から発せられたのだろうことは、容易に察せられる。
 第三者がいないのは、先ほど確認したばかりだからだ。

 いきなり声をかけられたために、返答するまで、若干の時間を必要とした。
 何か用か、と問えば、女性はゆっくりと答える。


「聞きたいのだけれど、貴方、人里の人間でしょう?」


 頷けば、彼女は満足げに、ふむ、と声をもらして、こちらの顔をまじまじと観察した後に、歯切れよく名乗った。


「私は八雲 紫。貴方の名前を伺っても、よろしいかしら?」


 特に断る理由もないので、名を告げる。
 すれば、女性――――紫は、確認するように名前を復唱してから、もう一度、問いを投げかけた。


「いい名前ね。
 ……せっかくだし、少し、話をしていかない?」


 持ちかけられた誘いには、素直に乗ることにした。
 今日は急務があったわけでもないし、昼休みが終わるまではまだ余裕がある。
 加えて、新たな交友関係が開けるのならば、それを蹴る必要もないし、何より、

 美人からのお誘いを断ることは、自分にはできないのだ。






 人が通らないと言うのに、何故か当然の様に鎮座していたベンチに二人腰掛けながら話した内容は、ほとんどがたわいもないことだった。
 自身の生活環境についてや、知り合いがしたバカの話、あとは趣味などの、あくまで世間話に過ぎない話題だったように思う。

 話している間、紫は随分と楽しそうだった。

 別段話下手ではないが、『自身が喋ることで他人を楽しませられる』、
 と言う確信を持てないぐらいには会話が得意ではない自分の話を聞いていて面白いのか、とたずねれば、彼女はにっこりと笑って、肯定の意を示す。

 自分としても、見目麗しいご令嬢と話していて不愉快になることはない。むしろ嬉しい。
 彼女がいいのならばよいが、と頭の中で結論づけて、はっと思い出す。
 そろそろ、昼休みも終わる時刻である。

 その旨を紫に伝えると、彼女は一度了承してから、最後にこう言った。



 明日、またここで会えないか、と。



 断る理由もないし、自分としては、今日のこの時間もなかなかに有意義だったと言える。
 首を縦に振れば、紫は嬉しそうに笑顔を見せた。

 できることならば、その笑みをずっと見ていたいところだったが、しかし、時間は待ってくれない。
 また明日、と別れの言葉を述べて、その場を後にした。








 日が明けて、そのまま太陽も傾いて。
 昼休み、約束通りあの場所を通れば、彼女は昨日と同じように、そこにいた。

 近づいて挨拶すれば、紫は口元を緩めて、同じように返す。
 まだ会って二日だと言うのに、彼女とはかなり仲良くなったような気がする。


 その日も、話をした。
 前にした話よりも、もう少し深い話を。
 好きなものだとか、生い立ちだとか、昔の思い出だとか、そう言った、自分自身の話が主だった。

 何故かといえば、紫がそう願ったからだ。

 今日は、貴方のことを話してくれない? と。


 そう頼まれれば、拒絶するわけもない。
 頼まれた通り自分のことを話せば、紫は興味津々といった具合いに、話に食いついた。

 興味をもたれている、と認識していいのだろうか。
 こんな美人にそう言う感情を抱かれるのは、自分としてもやぶさかではない。むしろ願ってもない。

 話している途中に思ったが、紫は異常なまでに知識が豊富なようで、どんな話題にもついてきたし、ローカルなネタにも、しっかりと反応していた。
 こう言うのを、波長が合う、と言うのかもしれない。
 共通の趣味や、考え方が似通っている人とは、それだけで話しやすいし、より親密になれる。

 それに、紫と話すのも、結構楽しいことだった。
 話題が尽きることもないし、会話が途切れ、重苦しい沈黙が張り詰めることは、何故か不思議なぐらいになかった。
 
 例えこれが日課になっても、多分、悪い気分はしないだろう。







 時間が来て、いざここを発たねばならなくなった時、今度はこちらから聞いた。

 また、明日も会えないか、と。

 言葉に、紫は少しばかり面食らったように固まって、それから表情を緩めると、嬉しそうに、ええ、と返答する。
 その答えが、自分でも驚くぐらいに嬉しくて、踵を返した後、自分でも気持ち悪くなるぐらいのテンションと勢いで歩いたのだった。







 そんな日が、数えるのも億劫になるぐらい続いた。


 昼に紫と話すことは、既に生活の一部に組み込まれていて。
 それがなくなったら、多分落ち着かなくなるのだろうことが自覚できるほどの大きさになっていた。

 そして、それを不思議に思わなくなって、それなりの時間が経ってからのことだったと思う。

 ある日、風邪を引いて、仕事を休んだ。
 丁度季節の変わり目だったこともあり、幻想郷での生活に慣れて気が緩んでいたこともあったか、
 情けなくも布団にもぐって一日を過ごすことになってしまったのである。

 病にかかるのは、幾日ぶりだろうか。
 体が割と頑丈だったこともあってか、あまり医者の世話にはならなかったような記憶がある。
 そのせいか、完全に油断をしていた。

 久々に感じる、ゲタで殴られている様なジンジンする頭痛と、体全体にのしかかる、異常なまでの倦怠感。
 汗ばんだ額は、自らの手で触ってもわかるぐらいに熱を放っていて、ああ、自分は今高熱で苦しんでいるのだと、しっかりと実感させてくれた。

 しかし、一人のときに床に臥せるのは、思いのほかつらい。
 水がほしいと思っても、立ち上がることすらままならないし、そもそも体を動かそうという気力すらわき上がらない。

 これはまずいな、と、不調につられる様に沈んでいく意識を引き上げたのは、声だった。



「大丈夫?」


 自分のものに比べて、高く、通りのいいそれは、間違いなく女性のもので、聞き覚えのあるものだ。
 鍵は閉めておいたのに、いったい誰だろう、と目だけ動かせば、自分の枕元には紫が座っていて、心配そうにこちらの顔を覗き込んでいた。

 ついに幻覚の類まで見えるようになってしまったか、と一瞬絶望感が襲うが、
 眉間のあたりに触れている、ひんやりとした柔らかな感覚に、不意に引き戻される。

 冷たい、手。それが、熱に浮かされた頭には気持ちがいい。

「喋れる? ああ、無理に声を出さなくてもいいわ。頷くだけでいいから」

 彼女の言葉が、すぅっと溶けるように、頭の中に入ってくる。
 ああ、とだけ返した答えは、自分の喉から出たものなのかわからないぐらいに低く、まるでうなされているようなものだった。

「……つらそうね。ちょっと待ってて頂戴」

 そう残して、紫はそっと立ち上がると、台所の方へ姿を消した。







 紫が帰ってくるのには、若干の時間を要した。

 なるべく足音を立てないよう、ゆっくりと歩いている彼女の手が持っているのは、お盆。
 その上に乗せられているのは、水の入っているらしいコップと、深みのある皿。
 皿の中にはお粥がよそわれていて、その隣には陶製の散蓮華が添えられている。

 布団までたどり着くと、紫一度お盆を置いて、こちらの肩にそっと触れた。

「食べられる? 先にお水のほうがいいかしら?」

 問いに頷いて、手をついて起き上がろうとするが、腕に力が入らない。
 上体を起こすだけのその動作にも、結構な力が必要だった。

 こちらの思惑を察したのか、紫に背中を支えてもらって、何とか起き上がる。
 女性に支えられなければまともに生活できないとは、男としてやや恥ずかしい。

「思った以上にひどいみたいね。自分で食べられる?」

 紫に手渡された蓮華を取ろうとして、取り落としてしまう。
 指先が、思ったように動かない。
 自分の考えに、体がついてこない違和感。
 
 思わず、苦い表情になる。
 すれば、紫は先ほど落としてしまった蓮華が床につく前に回収していたらしく、右手に持ったままのそれを、こちらの目の前に提示して、


「食べさせて、あげましょうか?」


 そう、問いかけた。

 正直、断ったところでどうしようもない。
 諦めて、首を縦に振るほかなかった。








 結果として、自分は恋人同士がやるような、『はい、あ〜ん』を、初めて経験することとなった。
 他人のを見ているだけでも照れくさいというのに、
 自分がやられるとなるとそれの比ではない羞恥を感じるのは新たな発見であり、そしてなるべく実証したくなかった事実だ。

 お粥を食べきった後、紫が持ってきてくれた薬を飲んで、再び横になる。
 
 隣でやさしく微笑んでいる紫の顔を見るたびに、気分がやすらぐような気がするのは、多分に気のせいではない。
 人が横にいるのは、本当に安心するものだと言うことを、深く実感した。

 ぼうっ、と彼女を眺めていれば、紫はゆっくりと手を伸ばして、こちらの頭をなで始めた。
 まるで親が子供にしているような行為だが、不思議と心が落ち着くのが、しっかりと感じられる。

 そのまま、視界が黒く染まって、




 気づけば、意識を手放していた。







 翌日になれば、紫の甲斐甲斐しい看護と、彼女が持ってきてくれた薬のおかげか、体は普段の調子を取り戻していた。
 同僚に昨日のことを説明して、皆に謝り倒す。
 普通は怒るべきだろうに、そろいもそろって体の心配をしてくれるのだから、本当にありがたい限りである。

 皆の気遣いに感動していたところ、仕事仲間の一人が、話があると持ちかけてきた。
 どうやら他人に聞かれたくない話らしく、傍から見てもはっきりとわかるぐらいに、周囲の人目を気にしている。

 その雰囲気からして、どうやら真剣なようだ。
 人気のない場所に移動した後、彼は語りだした。


 先日、ある女性にお前の家の場所を聞かれた、と。
 その女性は、金髪金目の、とても美しい容姿をしていた、と。

 そして、その女性は、









 人を食らう、妖怪である、と。






 ――――妖怪。
 人の血肉を食らい、嬲り、慰み者にすると言う、非道の生き物。


 ‘向こう’にいた時には、信じていなかった、怪異。
 そう、科学技術が発展した現代では、妖怪やら神やら、そう言ったオカルトの存在は、大多数の人間に否定されるに至っている。
 故に、‘忘れ去られたもの’として、それら幻想が流れ辿りつく地が、この幻想郷なのだ。

 そう、だから、初めてこの魔境を訪れた際に、ソレを容認することができなかった。

 今から随分と前、自分が最初に放り込まれた場所は、深い深い森だった。
 深夜だったこともあり、周囲に明かりはなく、感じられるのは、真っ黒に塗りつぶされた暗闇と、ごうごうと吹き付ける風の音だけ。

 恐怖におびえきったそんな状況で、初めて見つけた人間が、




 人の腕を、食らっていたのだ。


 少女然とした、その幼い外見。
 暗中でも目立つ金色の髪と、かわいらしい赤いリボン。

 そして、そんな女の子が口に含んでいるのは――――人の、手。

 肘の部分で強引に両断されたそれは、切断面に赤黒い‘何か’が付着しており、少女はそれを啜り、租借し、飲み込んでいるのだとわかった。

 
 見間違いではないと、今でも確信できている。
 鼻をつくすっぱい様な異臭と、耳に入る生々しい音は、忘れられないほど強く、己の体に染み付いているのだから。

 そして、闇の中、何事かと必死に目を凝らしてしまったことを、今でも後悔しているのだから。


 ぴちゃぴちゃと、少女の舌が躍る。
 切断された、間接の部分を舐めるように。

 がりがりと、少女の顎が動く。
 細かく砕かれた骨を、飲み込もうとするために。

 こくんこくんと、少女の喉が上下する。
 人間だったモノを、胃に流し込むために。


 人並みに、そう言ったグロテスクなものに対する耐性はあると思っていたが、そんな、スプラッタ映画なんかの比じゃない。
 本物の、人間の体の一部が、同じ人間に食べられているのだ、と言うことに衝撃を覚えると同時、生理的嫌悪感を刺激されて、吐き気を覚える。

 しかし、吐しゃ物を吐き出せば、音がする。
 音で、気づかれるかもしれない。

 気づかれれば、食べられる、と。
 本能的に、そう頭に浮かび上がった。



 ――――死ぬ。
 自分の命が、目の前の幼い少女に握られているのだと言う事実に対する、言い知れない恐れ。
 
 一度でも失敗すれば、死ぬ。
 ゲームや映画の様なフィクションではなく、実際に人が死ぬ。


 ――――自分が、死ぬ。


 焦燥感に煽られながら、ゆっくり、ゆっくりと、すり足で移動する。
 少女に、気づかれぬように。
 妖怪に、気づかれぬように。


 人食いに、気づかれぬように。









 意識がはっきりした時、視界から、人食いの姿は消えていた。
 ただ、記憶に残っているのは、あの凄惨な光景だけ。


 もう、周囲を確認する余裕もない。


 胃の中身を、思い切りぶちまけた。









 その後、歩きつめ、どうにかこうにか、人里にたどり着くことができた。
 精神的に衰弱していたこともあり、周囲の人々も気を遣ってくれて、何とか今の状態まで持ち直したのだ。









 だから。
 その事実を知っている目の前の男が、嘘をついているとは思えない。



 話が飲み込めず問い返せば、彼は焦っているこちらをなだめるように、ゆっくりと、落ち着いて話しはじめる。


 妖怪の中に、大妖と呼ばれる存在がいるのは理解しているな、と。


 そう、聞いたことがある。
 確か、吸血鬼だとか、花の大妖怪だとか、そう言った妖怪の中でもけたはずれの力を持つ、人外の中の人外。


 もしかして、それが。


 口から漏れた言葉に続けるように、彼は言った。


 あの女は、八雲 紫は、大妖怪――――スキマ妖怪である、と。







 昼になって、いつも通り紫のところへ赴く。
 彼女は、たおやかな笑みを浮かべて、歓迎してくれた。

 いい機会だと、紫に問う。



 何故、彼女が自分の家に入れたのか。
 鍵は閉めておいたはずであるし、他人に預けた覚えもないと言うのに。


 問いに、紫は少しの間、口を閉じた。
 答えられないのは、どういうことか。
 思わず語気を強めて、問い詰める。


 噂に聞いたが、もしかして、君は妖怪なのではないか。


 黙った彼女をもう一度強く怒鳴りつければ、彼女は恐る恐ると言った風に頷いた。

 自ら、認めたのだ。




 八雲 紫は、妖怪であると。


 思わず、体が震える。
 口からは、声にならない声が漏れて、頭の中は真っ白に染め上げられる。

 紫も、妖怪なのだ。
 人を食べる、妖怪なのだ。

 認めたくないそれを認めた瞬間、感情の沸騰の様な何かを覚えた。
 紫もまた、あの少女の様に、人を食らうのだ、と。


 では――――こちらに接触したのも、まさか、


 まさか、


 自分を、食べるためなのだろうか?




 思わず、崩れ落ちる。
 糸の切れた人形の様に、膝から地面について、地に両手をつける。


 だとしたら、
 始めて会った日の笑顔も、
 二人で会話に興じたことも、
 献身的に自分を看病してくれたことも、



 その全てが、偽りなのだろうか。




 一度そう思うと、全てが薄っぺらい。
 全部が虚構で、自分が勝手に脚色した嘘っぱちなのではないか。
 紫は、その優しい笑顔の裏で、ほくそ笑んでいるのではないか。


 妖怪である、と言う一つの事実が、紫と共に過ごした記憶に、深い深い黒の色をぶちまけていく。


 考えてみれば、おかしいことだ。
 人を食らう妖怪が、人と仲良くする必要はない。
 なんせ、相手はただの食料なのだから。



 目の前の異常な光景に、紫はこちらに向け手を伸ばす。

 その手が、こちらの体を引き裂こうとしているかの様に見えて、反射的に振り払う。

 そうだ、信用できない。
 妖怪は――――信用、できない。


 触るな、と声を張り上げて、後ずさる。


 ああ、彼女の心配そうな顔が、本当のものならば。


 待ってほしい、私を信じてほしい、なんて言葉も、陳腐な言い繕いに過ぎないのだ。
 一度こちらを安心させて、その隙に食らいつくつもりなのかもしれない。

 そもそも、考えれば、あの薬だっておかしい。
 あれほど重い風邪が、一晩でなど治るものか。
 だとしたら、あの薬には、自分の想像もつかないような何かが、含まれていたのではないか。



 だとすれば、自分の体はすでに、エサとなるべく変わっているのかもしれない。



 自分の体すらも信じられず――――いったい、何を信じればいい?





 一歩を踏み出した紫の顔を、にらみつける。
 悲しみにくれているその顔も、結局はよくできた仮面に過ぎないのだ。
 相手は、妖怪なのだから。


 そのまま、紫の顔をにらみつけて――――不意に、浮遊感を覚えた。
 浮いている、と言うより、落ちている感覚。

 何事か、と地面を見やれば、そこに広がっていたのは、人の目と、無数の手足。


 これが、スキマ妖怪の異能か。


 そうあたりをつけた瞬間、意識は急激に刈り取られた。








 飛ばされた先は、至って普通の和室だった。
 茶塗りの箪笥に、同系統の、薄めの色の卓袱台。
 扉はふすま張りで、床には上等な畳が備えられている。
 
 そう、至って普通の和室である。
 外に、出られないことを除けば。

 ふすまを開くと、そこには外の風景が広がっている。
 広がっているのに、一歩足を踏み出すと、何故か、今出た方向とは反対側につながっているのだ。

 これも、あの空間を操るスキマ妖怪の仕業だろう。
 自分を監禁して、いったい何をするつもりなのか。

 憤りを隠さずに、座布団に腰を下ろす。
 外にも出れず、かと言って箪笥の中はとっくに物色し終わっている――中は全て空だった――し、
 することもないのに、うろうろと動き回る必要もない。

 そのまま待ち続ければ、目の前の空間に‘切れ目’が入った。
 鉛筆で線を引いたように、すっと黒い棒が現れて、そこを中心に切り開かれる。


 覗くのは、数多の目と、人の手足。
 そこから姿を現したのは、妖怪――――八雲 紫だった。



 敵意を込めた視線を送れば、紫はびくっと体を震わせる。
 これも、演技だ。
 外見どおり、か弱い女性なのだとこちらに思わせて、油断を誘うための罠。
 汚い生き物だ、と吐き捨てる。


 何のつもりだ、と声を張り上げれば、紫は沈んだ表情のまま、口を開いた。


「……ごめんなさい」

 何に、謝っているのか。
 それとも、これもまた策の一環なのか。
 こう考えている時点で、既に彼女の手のひらの上なのかもしれない。

「……隠すようなことをして、ごめんなさい」

 そうだろう、騙して楽しんだ後に、自分を食べるつもりなのだろうから。

「違う! 貴方を食べたりなんか――――」

 嘘をつくな、と、叫ぶ。

 そうだ、妖怪は皆、人を食らい、人を玩具にする。
 そんな存在を、信じられるはずもない。

 若干の間逡巡すると、紫は、

「……聞いて。
 妖怪が皆、人を食べるわけじゃないの。
 そう――――例えば、貴方も知っている寺子屋の教師」

 教師、と言うと、慧音先生のことだろうか。
 慧音先生が、妖怪といったい何の関係があると言うのか。
 何が言いたい、と問いただせば、紫は調子を乱さずに、



「彼女も、妖怪。
 満月の夜にだけ妖怪になる、半人半獣。
 ……彼女も、人を食べると言うの?」

 紫の言葉に、カッとなった。
 そんな、慧音先生が妖怪だって?
 あの、優しくて、皆に好かれている慧音先生が、妖怪?


 嘘にしては稚拙すぎる。
 もしかしたら、自分の精神的な柱を折るつもりだったのかもしれない。

 そうして、絶望した瞬間の顔を見て楽しむつもりだったのだ。
 人間を、おもちゃにするつもりだったのだ。

 ふざけるな、と怒鳴りつけて、目の前の妖怪から視線をそらす。

 もう何を言われても、目の前の妖怪に付き合うつもりはない。
 食べたいのなら、食べればいい。
 死ぬのは恐ろしいが、目の前のこいつを楽しませるぐらいならば、死を選ぶのは間違っていない、と言う、確固たる思いが、自分の中にはある。

 さんざ慰み者にされた後に食い捨てられるならば、最後まで意地を張り通す。
 

 ねえ、お願い、話を聞いて、とわめいているが、もう反応もしてやらない。




 相手は――――妖怪、なのだから。








 あれから、どれだけ経っただろうか。
 太陽も月も見えないこの部屋では、時間の感覚などあいまいだ。

 そう、あれから、自分はずっとこの部屋に閉じ込められていた。
 不思議なもので、ここにいると空腹も感じないし、用を足す必要もないらしい。
 体に一切の変化はなく、髪も爪も伸びないし、ヒゲだって生えてこない。
 これも、あの妖怪が準備したのだろう。


 さて、スキマ妖怪は、何度も何度も何度も何度もやってくる。
 やってきては、話を聞いて、と、お願い、と言ってくるが、それも全て無視していた。

 妖怪の話など、聞く耳も持たない。






 これが何ヶ月続こうと、何年続こうと、決して、妖怪の思い通りにはならない。



 そう、相手は――――妖怪、なのだから。









 何度も同じことを繰り返していると、人の精神は磨耗する。
 自ら固く誓ったはずの決意でさえも、緩んでしまうほどに。

 そう、だから、目の前のこの妖怪に、『同情』の様な何かを、覚えてしまったのかもしれない。
 ねえ、ねえ、とずっと言ってくる‘紫’に、聞いた。

 話とは、何なのか、と。

 言葉に、紫はしばし呆然と固まって、その後、ぱぁっと笑顔の花を開かせた。
 体全体から迸る嬉しそうな空気が見えるほどなのだが、何故だか、今はそれを嘘だとは感じない。
 まるで、昔に戻ったようだ、と思う。昔、だなんて思えるほど前だったのかどうか、今はわからないが。

 紫が、ぎゅっと抱きついてくる。
 それに、不快感は覚えなかった。
 彼女が、そんなことをしてくれたことに、若干の驚喜をするほどに。

「……最初は、偶然だったの」

 ぽつり、ぽつり、と紫はこぼし始める。
 独白の様なそれを、最後まで聞き届けようと自分が思ったのは、心境の変化故か。

「初めて見た時に……ぼうっとこっちを見ていたから、少し、気になっただけで。
 あそこにいたのだって、特に意図があったわけではなかったのだけど」

 紫の声と腕は、時折震える。
 彼女は、押しつぶされそうな何かを感じていたのだと、そして、それから開放されたのだと、言われずとも理解できた。

「それから……短い間だけど、話をして。
 段々、気になっていったの、貴方を。
 ……大妖怪の、私にも……初めての、ことだった」

 そうだ。
 紫には、深い考えなど、微塵もなかった。
 こちらを騙そうなどと、食べようなどと、一切考えてもいなかった。

「貴方が、体を壊したと聞いたときは……いてもたっても、いられなかった。
 妖怪だって……気づかれないよう気をつけていたのに、それももうどうでもよくなって、私の‘力’を使って、家の中に入ったの」

 紫が、自分の看病をしてくれたのは。
 紫が、自分を心配してくれていたのは。
 作為的な何かでは、なかった。
 人間らしい、純粋で温かな心故だった。

「貴方に嫌われたくなくて、話を聞いてもらおうと思って、自分の力を使って……貴方のことも、考えないで……
 自分勝手に、貴方を縛り付けて……ごめんなさい……ごめん、なさい……」

 紫は、悲しかったのだ。
 妖怪である、と言うことだけで、否定されて。
 そうして、妖怪であるが故に、特別な力があるが故に、それを、振るってしまった。
 その罪の意識に、苛まれている。そして、謝っている。


 ―――――なんてことを、してしまったのか。
 

 勝手に決め付けて、否定して、傷つけたのは……自分の方だというのに。
 紫は、その重責を、背負っているのだ。
 


 すまない、とつぶやいて、ぎゅっと抱き寄せる。
 
 自分が許されないことをしたのは事実であれど、彼女に応えずにはいられなかった。そんな資格すら、ないくせに。


 すまない、すまない、すまない、と、ひとつだけ、その言葉をずっと繰り返す。
 紫に許してもらおうと思っているわけではなく、そうでもしなければ、自分自身に対する後悔と自己嫌悪でおかしくなってしまいそうなのだ。


 紫は、罵らなかった。
 紫は、蔑まなかった。

 ただ、謝罪の言葉にも、ごめんなさい、と返すだけだった。


 そうしている内、紫を抱き寄せている、自分の手の爪が、不意に目に付いた。
 今まで切りそろえられていたはずのそれは、いつの間にか、鋭利にとがっている。
 体中を迸る血がも異様なまでに熱くて、無気力感が支配していた体に、異常なまでの力を与えている。


 ああ、と、直感的に、理解した。
 自分は、妖怪になったのだ、と。


 けれど、それに嫌悪感は覚えなかった。
 おそらく、紫の能力のおかげでこうなったのだろうが、むしろ感謝すら覚える。
 

 妖怪になったおかげで、紫の真意を、理解することができたのだから。


 そうだ、人間を食べるのが何だというのだろう。
 人間だって、生き物の肉を食べる。
 単に対象が違うだけで、それと、何も変わらない。

 きっと、紫は、自分を妖怪にしてしまったことを謝っているのだろう。
 けれど、別に謝る必要はない。
 こうなったことに、後悔なんてしていないのだから。 









 それから、相当な――――そう、季節が何度も変わるぐらいの時間が経って、今の自分は、縁側に腰掛けていた。
 もちろん、隣には紫がいる。

 自身の住処は、あの閉鎖された部屋から移り変わった。
 こう言っては何だが、紫と同じ家に、同棲生活である。

 既に妖怪となった以上、人里には戻れない。
 未練はないでもないが、それよりも、今は紫と共にあることの方が重要だった。

 
 ぼうっと空を眺めていれば、紫が顔を覗き込んでくる。
 何を考えているのか、と聞きたいのだろう、と考えて、懐かしい思い出を振り返っていた、と返答した。


「懐かしい思い出?」

 まだ自分が人間だった頃のことだ、と告げると、

「それは……」

 紫が、すまなそうに表情をかげらせる。
 いいんだ、と告げて、ぎゅっと抱き寄せた。
 彼女の軽い体は、妖怪並の――と言うより妖怪そのものの――力を手に入れた今では、簡単に引き寄せられる。

 今になって考えが及ぶことだったが、人間のままでは、紫より先に死んでしまう。
 もう二度と紫を悲しませないと決めた以上、自身にできることは、何でもやっていくつもりである。

 だから、感じることがあれば、是非とも言ってほしい、と伝えれば、紫はゆっくりと、しかし確かに頷いた。

 それから、若干の間を置いて、いいか、とだけたずねる。
 自分の腕の中に納まっている柔らかい感触に、ふと衝動を覚えてしまったのだ。

 紫は、そのまま一度頷いて、

「ええ。わざわざ聞かなくても、貴方ならいくらでも」

 了承を得て、すっと顔を近づける。
 彼女の柔らかな唇に、触れようとして――――







「紫様、少々よろしいでしょうか―――――あ」
「…………」


 紫の式――――八雲 藍が、突如現れた。
 
 聡明で賢い彼女のことだ、きっと、一目見ただけでこちらの状況を察したのだろう。
 あ〜、とか、えっと、とかもらした後、彼女は勢いよく頭を下げて、


「しっ、失礼しました!」

 これまた凄まじいまでのスピードで、姿を消した。



 予期せぬ乱入者に、場の空気は一変。
 けれど、どこか和やかで、ゆるいその雰囲気は、悪くない。

 そう考えていると、自分に抱きしめられている紫の腕の力が、少しだけ強まった。
 彼女の心を完全に察することはできないが、これには応えるべきだと、言葉もなくそう感じた。

 だから、返事をするように、自らも、もっと近くに、紫を抱き寄せる。



 こんな時間が、ずっと続けばいいと、そう思った。


 いや、願うまでもなく、叶えられていくだろう。


 何せ――――
 





 今の自分は、彼女と同じ、妖怪なのだから。