東京でミニコミ誌を発行する友人宛の手紙から
『悟り・自意識過剰・自覚』
仏陀 星野守夫
「悟り」を述べる時、必ず問題となるのは「自意識過剰ではないか?」の疑問である。
自己意識過剰を依り深く考える前に、簡単に「自己・自我・自己意識・自我意識・自覚」とは何かを広辞苑に依って調べて見る。
『自己』われ。おのれ。自分。自身。
『自我』英語ではselfラテン語ではego
@[哲学]私。自己。即ち意識者が他の意識者及び対象(非我)から自らを区分する称。諸体験または諸作用の主体的統一の契機。
A[心理学]㋑自我意識をもつもの。㋺精神分析で、意識的または前意識的で本能的な力を、外界の現実や良心の統制に従わせるパーソナリテイーの側面をいう。
『自己意識』[哲学]自己自身に関する意識。諸体験の統一的・恒常的・自同的主体としての自我の意識。自意識。自覚。
『自我意識』[心理学]㋑自己について持っている意識。㋺@能動性の意識A単一性の意識➂時間が経過しても同一であるという意識C外界と他人に対して自分が存在しているという意識の四側面からなる。
『自覚』[仏教]
@[仏教]自身の迷いを転じて悟りを開く事。
A自己自身の置かれている一定の状況を媒介として、そこにおける自己の位置・能力・価値・義務・使命などを知ること。
次に少し深く考えるために平凡社の哲学事典により調べてみた。
『自意識』(哲学事典より)
経験のいろいろな面で、経験にともない、それを統一する自我に関してもつ反省意識の総称を言う。したがって、なにを自我に関連させるか、いいかえれば自我感情としてどんなものに親しみの感情を覚えるかによって、心理学的には様々な自意識の階層が存することになる。 たとえば
@自分の身体との関係において自我を感じる場合、
A身体に属する物質との関係において自我を感じる場合、
➂自分を社会において他人と共存するものとみなし、他我に対する関係において自我を意識する場合、
C国家・社会などの閉じられたものとの関係を超え、広く開かれた世界、即ち宗教的世界との関係において自我を意識する場合。
Dこうした外的なもの全てとの関係を絶って、純粋に内にみられる反省意識にのみ自我を意識する場合、 など
それぞれの場合に応じて、自(我)意識にも相違がみられる。しかし哲学上の意味でいわれる場合は、最後の純粋意識我にのみ伴う意識のことをさしている。そのさい自意識とは、反省意識、自覚意識と同義であり、どんな行動、判断にあたっても、無反省、無意識にそれを行うことなく、明確な自己の承認と同意を持って事にあたろうとする態度をいう。
責任ある態度とか自由な態度は、この自意識を前提してのみ初めて可能となる。ただし、この意味での強度の自意識は、極度に反省的となる結果、しばしば行動上の不決断をまねきがちである。
『自意識過剰』(哲学事典より)
自我に関する意識は、フラストレーション(欲求阻止)が強いほど、意識化されやすい。自我が意識されるときは、これを意識する自我が対立的に意識され、したがって阻止された欲求の意識と共に、欲求を阻止された自我の意識「このような自我をさらに意識する自我の意識」と無限に進む性質を持つ。これを「自意識の過剰」という。
過剰なる自意識の進行においては矛盾拮抗する自我が意識され、劣等感、離人感、強迫感、分裂感などの異常自我意識に進む事がある。
『自我』(哲学事典より)
[エゴイズム]
[エゴティズム]
『自覚』(哲学事典より)
『自我実現』
『自我論的還元』
『自己欺瞞』
『自己原因』
『自己限定』
『自己疎外』
『自己存在』
『自己中心性』
『自己批判』
久しぶりに哲学事典を開いていたら、次々と懐かしい文字が目に飛び込んできた。
文字数も多くて、とても書ききれない。
私の意志を伝えるために、辞書の力を借りて伝えようと思っていたら、何時の間にか、辞書を読みふけってしまいました。
自分自身が「自意識過剰」かどうか?
自分自身で内証するより仕方が有りません。専門の心理学者に分析して頂くには費用が掛りますのでやめ、自己批判してみました。
結果は、多くの人と比較して「殆どの人より自意識過剰である」と言えます。
問題は「自意識過剰の進行が病的に進行し、矛盾拮抗又無限(悪)循環する自我が意識され、劣等感・離人感・強(脅)迫感・分裂感(症)等の異常自我意識に進んでいないか?」と言うことです。これらが、内向的に進むと、当初は不決断で自閉的となり、やがて自殺へと進む危険性が有ります。また外向的に進むと、自らの行動を全て正当化し、半社会的行動(犯罪)も他人のせいにし、暴力行為をエスカレートしていきます。刑事的殺人罪のみでは有りません。政治的には権力・国家・間違った正義の名の下に戦争へと人々を巻き込んで行きます。 幸いなことに
私の思考は平和的で無限開放型です。物事を突き詰めて行き、最終は希薄・未知です。即ち将来の科学・哲学の進歩に期待する形で自意識の考察・進行が行われています。
この「将来」も人類が存続する永遠の未来です。無限循環(無限地獄)ではありません。
思考過程も第一条件は平和であり、それもキリスト教元祖イエス以上の平和主義です。
イエス以上の平和主義とは「考え方の違い」とも言えるでしょう。私はキリスト教を最悪の宗教と批判しています。キリスト教の大半の宗派はイエスの思想を実行していません。これも「考えの違い」です。
仏教も同じです。私はシャカ以上の平等主義者です。そして、仏教を批判しています。仏教の殆どの宗派はシャカの思想を実行していません。これも「考えの違い」です。
イエスもシャカも当時の時代としては、最高の思想です。しかし現代にその思想を直接持ち込むと陳腐なものとなってしまいます。肝心要な事は、その『心』です。
私は心の葛藤の中から、平和・平等・自由の秩序ある論理関係式を見出したのです。
それは一言で言えば『悟り』です。
私は、仏教の研修・修行などを受けていません。そして約二十五年前に自らの悩み(葛藤)から悟ったのです。仏教のルールにのっとり、「自ら悟った」のであるから『仏陀』を名乗ることにしたのです。
以上