メメントモリ
死を忘れるな
心理療法に、臨終のワークというものがあるそうです。生き方に迷った時に、自分の臨終を想像し、何に価値を置くべきか、もう一度判断しなおしてみるのです。周囲の人の、自分の死を前にしたときの言葉、また、自分の一生を振り返り、今の自分をどう思うかを、様々に想像してみます。「いつも優しく接してくれた。」 「あの仕事を仕上げて満足だっただろう。」「もっと自分のしたい事をすればよかったのに。」などと言ってくれるでしょう。また、自分からも、「幸せな一生だった。」「家族に優しくすれば良かった。」など、満足、反省、後悔、未練、いろいろな思いが交錯することでしょう。私たちは、生の対極にある死について、形だけは理解していても、実感がないのが、普通です。死が訪れる時、慣れ親しんだこの家も、お気に入りのスーツも、毎日通るあの商店街も、全てを後に残し去っていきます。可愛がっていたイヌ、まだまだ幼い子供たち、離れがたい恋人、もっといたわりたかった妻、抗いようのない別れが来ます。肉体から離れれば、もう、愛しい者達を触れることも、触れてもらうこともできません。言葉をかけたい、もうそれは無理です。抱きしめてやりたい、それも不可能です。「もう少し一緒にいたかった。」「もしかしたら帰れるのではないか。」そんな思いを押し流す、厳然たる断絶が訪れます。また、死は周囲の人にも訪れます。自分が遺されたとき、身近にいるのが当然だった姿がかき消され、埋めようのない喪失感が襲います。名前を呼んでも、話しかけても、返るはずの応えは、もうありません。予期しなかった心の空洞に、唖然とし、虚しい思いに捉われます。「ちょっとくらい出てきてくれてもいいのに。」、そう思っても、後戻りできない、そして、接触を拒む、絶対の境界ができてしまったのです。病気で死期が分かっていることもあれば、誰も予想できない突然の死もあります。私たちは、普通、明日死ぬかもしれないことを想定して生きてはいません。今日と同じ明日になると勝手に決めて、漫然と過ごしています。そして、死が現実となって、あたふたするのです。「死んだら、お花畑のむこうで、楽しく過ごせるから大丈夫。」そう考える楽観論者もいます。しかし、実際は、幽霊になったり、生前の安易な信仰が祟り、低級な霊界に引き込まれたりするのです。「死を忘れるな。」ともすれば放縦に奔る私たちは、死というけじめが、まだまだ必要です。影である死を見つめ、現実の生を充実させる。大切な人を大切にし、するべきこと事を仕上げ、やりたいことも全て終わらせてあの世に行く。それが、多くの人の希望です。「今死んでもいいように生きる。」雑事にまぎれ、肝心なことを後回しにしてはいませんか。。どうでもいい人にかまけて、大切な人をないがしろにしてはいませんか。自分の、その思いを伝えてありますか。死を思い出し、そして、今を振り返る。それが、私たちの人生を充実させてくれると思います。
