流れるな 心を留めよ
心は、常に、揺れ動きます。だから、留めることは難しい。人の心は、あっちにふわふわ、こっちにふわふわ漂います。ふわふわしながら、流れが生まれ、流れの中で、またふわふわするのです。流れの中にいれば、流されたままが楽になってきます。だから流されるのです。今、この一瞬に、心を留めてみましょう。暖かい日差しだ、おでこが暖かい、そんな留め方でも結構。良い教師になりたかった、なれていないな、それも結構。そこから一歩を踏み出す。「とりあえずこなす」というのを減らしていく。心を向ける。できるだけ、心を向ける時間を増やす。できたら夢を描いてみる、希望を持ってみる。流される生き方では、人間は存在しないも同様です。流れを変えたり、流れに逆らうのは、確かに大変ですが、心だけは、しっかりしたいものです。多くの声が行き交います、主張するのは大変です。しかし、自分の声をひそめてもいいのですが、心の中では、はっきり主張しましょう。結果ばかりを求められるうちに、こなせばよいと思い始め、いつのまにか、心の中も、主張を止めてしまったのではないですか?思い通りにならない人生、それに慣れ過ぎてしまって、自分の思いまで潰してはいませんか?今ここにいるという証は、この肉体ではなく、自分の思いです。自分という存在を、この瞬間にとどめてほしい。こう思っている自分がいるということを留めてほしい。そして、できたら、その思っている事を少しずつでも実行に移したり、態度に表してほしい。私たちの思いは、実は、心に思っているだけでも伝わるのです。心の中だけだから分からないはずですが、その念は、伝わります。失敗したらとか、うまくいかないことをまず考えてしまって、願うことさえ止めていませんか?どうでもよいと思われる仕事でも、ひと工夫する人。そこまで誰も見ていないのに、手抜きをしない人。そういう人に会うと、また会ってみたい気持ちが起きてきます。そして、何か温かいものが残ります。この人たちは、流した仕事はしなかった。もしかしたら、同僚から、やりすぎと言われているかもしれません。この人たちに共通するのは、心をそこにおいて、留めていること、自分が存在していること。流されていたり、流していれば、自分はいません。誰でも同じと言うなら、その人はいない。身体があるのに、いないというのは、悲しくないですか?でも、自分を出せば、人とぶつかります。盲目の人は、歩いていて、人とぶつかると、相手の存在を知って安心すると言います。ぶつかるということは、相手がいる証拠、自分がいる証拠。失敗を怖れ、傷つくのを恐れて、殻に閉じこもるのなら、自分はいない。流れを変え、流れに逆らい、押し戻されたとしても、確かに、その人は存在したのです。仕事で無駄と思える作業があります。誰も変えようとはしなかった。あなたは上司に提案します。「変えるべきだ。」と。しかし、上司は「前例がない。」と言って却下します。仕事は何も変わりませんでした。では、あなたの提案は無駄だったのでしょうか?違います。無駄な仕事を変えようとしたあなたの意志が伝わったはずです。流されず、仕事に向き合ったあなたに気がついたはずです。いや、たとえ気がつかなくとも、その瞬間にあなたの念は残り、ゆっくり伝播します。この残るということが、大きなことなのです。強い思いは、そのままでも、周りに伝わりますが、行動を伴えば、よりはっきりと伝わっていきます。新入社員の駅員さん、大声で「出発進行!」と言っています。ほほえましいですよね。応援したくなります。周囲の人も、同じように感じているはずです。そこに、心の連帯が生まれます。
継続は力なりと言いますが、流された時間、流した時間は継続しても、力にはなりません。世の中には、努力を重ね、何かを成し遂げる人がいます。また、大勢にあらがっても、自己を貫く人がいます。充実した人生でしょう。しかし、なぜ、それができたのでしょう?努力している人は、その姿にそれが現れます。人助けを心掛けている人は、見た目が、いかつくとも、雰囲気ににじみ出ます。そういう人にあった時、私たちは、どうなるでしょう?何かが心に響き、熱い気持ちになりませんか?多くの人は、自分の思いは、伝えなければ、広がらないと思っています。そうではないのです。思っているだけでも伝わるのです。今、姿を見た場合の例を出しましたが、見えなくとも、聞こえなくても、その思いは伝わります。長く思っている、強く思っている、そういう思いは人にも、生物にも、自然にも、そして神にも伝わります。伝われば、同じ思いの人や神は、協力しようとします。そういう人が増えれば、事は成るのです。神が助けたくなるような思いなら、なおさらです。心の連帯が、結果をもたらすのです。
そんな大きなことでなくても、自分の思いを積んでいくことです。人生のその瞬間には、自分は確かに存在したことになります。そして、できれば行動に移してみる。明るい会社にしたいと思ったら、大きい声であいさつしてみる、駄目だとか無理とか思う前に、一歩でも、自分を出していく。そういう努力が、世の中を変えていきます。したいこと、願いがあるなら、時間をかけて頑張る。祈りも同様です。神に祈るその心が、神様を動かしやすくしていきます。空を飛ぼうと頑張り続けた生物が、鳥に進化したのかもしれませんよ。
過去と未来の境界線上に立つ私たち。一歩を踏み出さないうちに、時間はいつの間にか流れ、何もせず、ただ終えただけの一生を振り返る事になります。出世した、裕福になった、そういう見栄えのいい一生である必要はありません。誰かのためになった、悪習を変えた、そんな些事に思えることでも、その人がこの世にいた価値は、十分にあります。自分がしたことが、この世の中をプラスの方向にすすめたのなら、生きた甲斐があったと言えます。些細であっても、踏み出した一歩は、周囲の人間や霊体を変えるきっかけになります。流れに乗る事にあくせくするのでなく、大きな潮流の中にあっても、渦を作る。人と向き合い、ことと向き合って、自分なりの渦を作る。流れの中にいることを言い訳にせず、自分のやれる範囲のことを、一歩でも、半歩でも前に進める。その姿勢が、周囲を巻き込まないはずはありません。神の位に位置する、高位の霊体は、「我もまた大海の一粟」とおっしゃいました。神様は、たくさんおられます。神様の上の霊体もたくさんおられます。皆様、大きな海の浮いている粟粒だとおっしゃいます。全てを動かせるわけではない。それぞれが、少しずつ変えていくのだ。そうおっしゃっています。
思いは通ず 祈りは届く