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神霊と私たち



 今日も世界中で、礼拝そして祈りが行われています。太古の昔から受け継がれ、宗教を全く持たない民族は、数少ないと思われます。時間の隔たり、地域の隔たりを越えて、信仰が存在することに驚嘆します。ただ、神霊の存在を否定したがる人もたくさんいます。見えないじゃないか、なぜもっといい世の中にならないんだ、宗教同士が戦争してるっておかしくないか。その通りです。しかし、そこには、神霊に対する誤解があります。五感で感じられないものも存在するというのは、もう科学の常識です。かつては、空気もウィルスも量子も存在しませんでした。ここは、人間の世界です.この世を良くするのは、人間の役割です。何もかも頼ろうとするのもどうかと思います。自爆テロが続きますが、本当の神は、神のため、あるいは教えのために死ねなどとは、決して言いません。大体が、罰を与えることも全くないのです。神の名を利用してるとしか思えません。人々の誤解を招く原因の一つに、霊格の差を知らないことがあります。この霊格の差は、生物の個体差をはるかに越えています。言うことを聞かない蟻に、正常な人間が罰を与えるでしょうか。宗教といい、神といえば、全て同じと考えられがちですが、神とはとても言えない霊体が、神を名乗ることも多いのです。神は、信仰を強要しません。違う信仰に走っても、黙って見ているだけです。まして、信仰上の争いなど起こすはずがありません。神は、手は差し伸べますが、強引に引き上げたりはしません。神は、教え諭しますが、聞かなくても、罰は与えません。試練を前にしていれば、越えるのを温かく見守ります。「助けてください。」とお願いしても、助けるわけではありません。助けが必要な状況は、人間が作ってしまったものです。自らの罪業が、招いたものです。神は、罪業の消し方、徳の積み方は教えますが、主体となるのは、やはり人間です。自分でまいた種は、自分で刈り取るのです。神とは、言葉で飾らなくても、ひれ伏したくなる存在、自分の未熟さを否応なく感じてしまう存在だと思います。やたらに偉大さを説明したり、信仰しない罰を強調するのは、神ではありません。神を感じたいがために、不思議を追い求めたり、現実にはありえないことで、神を信じようとする人達がいます。そういう問題ではないのです。普通に合掌し、信仰していれば、このときは助けていただいたなと自然に分かるものなのです。存在の確認より、信仰の継続だと思います。神の慈悲深さ、品格の高さに近づきたい、そういう思いで日を送ることが大切なのではないでしょうか。