執着と向き合う
欲に手足が生えたと言われる人間。欲望に引きづられることも多いのですが、無理に断つ必要はありません。欲望は、体や種族を保つために必要で、無くなればよいとは言えません。仏語では五欲として、財欲・色欲・飲食欲・名欲・睡眠欲を挙げます。そのうち、財欲・色欲・名欲は、執着に至ることが多く、人を惑わします。執着した人間は、目の前の欲望に流され、他が見えなくなります。それは、ちょうど窓ガラスでもがくハエのようなものです。外へ出ようとしても、窓ガラスがあるので、向こうへ行けません。見えない壁があるのです。ちょっと、横に出れば、窓が開いているのに、いつまでもガラスにぶつかり続けます。執着し囚われた人間も、周囲からは、そのように見えます。よく、負けず嫌いの人を目にします。勝ち負けにこだわります。負けたくないから、勝てるように努力する、そうであるなら、このこだわりは、プラスに働きます。しかし、ずるをしたり、ライバルを陥れようとする気持ちが起きる事もあります。また、人の注目を浴びたがる人もいます。注目されるよう、自分自身を磨けば、執着心は、大きな果実をもたらします。しかし、嘘を言ってみたり、物でごまかす人も出て来ます。先ほどのハエなら、ああ、見えていないのだなと、暖かい気持ちで見ていられますが、露骨なごまかし、勝手な無理押しを目の前に出されると、かなりのお人よしでも、鼻白み、一言言いたくなります。他人の執着は冷静に見られても、自分が執着するとそうはいきません。ハエと同じように、周囲が見えなってしまいます。執着したものが手に入らない、または、逃げていく。そうなると、何としてでもという思いが起きて、ごり押しをしたくなる。とりあえず、形だけでも作ろうとする。他人の感情を踏み潰す、そして、踏み潰していることも気づかない。自分が見ている側なら、「おいおい、それは無いだろう。」と言いたくなるようなことを、ついやってしまうのです。これは、善悪というより、品性に関わることです。自分を良い状態におきたいのは、人間誰しも同じです。しかし、実体が伴わないなら、潔く諦めるべきです。醜い自分、卑しい自分をさらすことになります。そして、その卑しさは、周囲の人に強力な印象を残し、今までの評価を一変させます。「良識あると思ったのに。」「意外とせこかった。」「卑怯だよね。」築きあげてきたイメージ、好意やそして尊敬までが、粉々に崩れていきます。これは、日ごろ、どのように、自分の心と向き合っていたかが、大きく影響します。執着は、大きな成果をもたらしますが、結果が出ればよいと短絡するから、おかしくなるのです。自分で犯した過ちは、自分で責任を取る、自分のもの以外は欲しがらない、自分で作ったもの以上は求めない、という心の鍛錬を日ごろからしておいたほうが良いと思います。晩節を汚す事態を避けるためにも。
