
中道 偏らない心
柳生新陰流の極意に、「懸待表裡・一隅を守らず」という言葉があるそうです。先制攻撃をするような時も、相手の攻撃を待つ逆の心がないといけない。一つの働きに偏ってはいけない。そういう意味だそうです。先制攻撃を自分が仕掛ける時、人は、つい攻撃のみに心が捉われます。また、守る時も、ここだけは守ろうと場所に捉われます。それでは、相手に負けてしまう。表の動きには裏の心を持って調和させることが必要です。起き上がり小法師は、極端に倒さない限り、立ち上がります。立ち上がれば、攻撃・守り、どちらの態勢も取れます。危険なのは、一方に傾き、立ち上がれなくなった状態です。経典にも、似た表現があります。執着を離れよと言っています。正精進という言葉があります。文字通り正しい精進という意味です。ちょっと違うのは、「正しい」という言葉です。普通に話す時の「正しい」という言葉は、ある基準があって、それに合っていれば、正しいと言います。しかし仏教でいう「正しい」は、偏らない状態を指し、中道と言います。修行をする時、人は、一心に厳しい修行をしようとしますが、それは、正しい修行といえない。お釈迦様も、死を目前にするような修行をしましたが、意味がないと悟られたと伝わっています。苦行は、心身が疲れます。心身が疲れると、継続できません。欲望のままに生きれば、欲に妄執して、破滅を招きます。かと言って、全ての欲を断つような修業のし過ぎも、良くない。どちらの執着も採るべきでない。極端を離れ、中正な生き方が望ましいのです。この中道を保つために、逆の心を用意するのが有効です。嫌な相手と四六時中顔を合わせなければならない。避けたい避けたいと思うその心に、「この人の何処が嫌なのか、自分を分析してみよう。」あるいは、「なぜこんな嫌な人間なのか、観察しよう。」という心を滑り込ませたら、違う状況になります。そばにいてじっくり見たい気持ちが起こるかもしれません。辛いことが、いつまでもいつまでも続き、どうにもならないと思われても、希望だけは、持ち続ける。何もかもうまくいき、完璧と思われる状態でも、必ず穴が開くことを想定しておく。常に、逆の心の動きで、バランスを保つのです。しかし、バランスをとる態勢を嫌う人もいます。どちらかに決めたい、早く結論を出したい、そう思ってしまうのです。でも、ちょっと日常生活を考えてみてください。全か無かではなく、その中間、結論が出ていることは、あまりないはずです。そして、選択の自由が自分にあったはずです。中道は、選択の範囲を常に残そうとする心です。不安定と感じるかもしれません。が、それは、自由だからです。追い込まれる状況を作らない、また自分を追い込まない。これも一つの心の鍛錬です。攻撃の中に防御を、成功の中に失敗を、常に逆の想定をしておく、そういう心の鍛錬なのです。