人権・同和教育について(「メディアリテラシー」の視点が重要である。)
2003,11 延岡ろう学校 馬場 弘教
1、本県(宮崎県(全国も同じ?以下同じ))の同和教育の誤り
人権・同和教育は都道府県により取り組みに差があるのかもしれないと思うし、また近年急に進展してきているのでないかとも思う。私の勤務する宮崎県の事情(最近の全国情勢を受けて変化の兆しが見られる)を部分的には基調として本論分は書いている。
本論分は人権・同和教育について基本的な私の考えを述べているので、私は他県の取り組みの実態を知らないが、このことはさほどの問題にはならないと思う。
さて同和問題だが、これは現存し解決すべき人権に関わる重要な課題であり、その解決には教育の果たす役割が大きい。でもこれまで本県の同和教育は人権教育の視点を持たない単なる同和教育であり、学校の職員間や、生徒間で、あるいは我々の身の回りにも同和問題と同じ人権上の問題の存在することに触れることのない同和教育であった。
その結果、同和教育をやればやるほど逆効果と言うか、寝た子を起こすことしか出来なかった。知識として表面的な理解しか出来てない生徒は、興味本位に面白がって賤称語を使って遊ぶ事例も多発した。同和問題の事例を教育の一つの材料(教材)として、人権の教育を行い、人権感覚を育てることこそ重要であるにもかかわらず、逆に壊して行く面すら感じていた。
教育の目的は基礎・基本をしっかり身に付けさせ、生きる力を培うことにある。人権・同和教育では、同和問題という特殊事例から何を学ばせるかという事がポイントである。今までの同和教育はただ部落問題を指導するだけであり、それ以上の拡がり深まりを持ってなかった。それを通して何を教育するのかと言う視点が全くと言って良いほど無かった。人権という視点を持たない同和教育であった。これにより多くの弊害を同時にもたらしたのが宮崎県の同和教育でなかったのかと思う。
とくに同和や人権の教育は、それを実施するものの姿勢が厳しく問われる。今まで本県では残念なことに人権感覚の十分とは思われない人が中心となり推進して来た。これが同和や人権の教育に弊害をもたらし、十分な成果を上げられなかった原因であると思っている。
我々は知らぬ間に気がつかないで、相手の人権に対して配慮のない言動をして,抗議を受けてはじめて気づくことも多い。お互いに人権感覚を磨かなくてはならない気がする。人権教育の意義はここにあると思う。教師自身が教育者にふさわしい人権感覚がなければ、その教育は困難である。
部落に関する教科書の記述に誤りがあったとか、部落史に新たな見方が加わったとか、・・・・など私にはさほど興味のない部落差別について研究はすすんでいるが、私は、誰がその差別を何の目的で作ったのか、その差別によりどんな苦痛を与えてきたのか、誰が誰を差別したのか、それがなぜ現在まで続いているのか。差別のメカニズムや差別における人間心理など社会心理学的側面からアプローチした研究が欲しい。こういうことの研究(教材の作成)こそが大事であると思っているが、この面での分析解明・整理が遅れているような気がする。
同和問題という差別は人権という視点がなければ解決しないのは誰の目にも明らかであるにもかかわらず、それを推進して来た県の推進機関である県同教はその本質がちっとも分かってなかったと思う。
同和問題解決のために設置された機関(?)で制約があったのかもしれないが、たとえそうであっても教育現場では人権にスポットを当てるべきだった。現場から同和問題から脱皮できない同和教育について疑問視する声が上がっていた。声なき声も含めるとほとんど大多数であったと思う。こういう現場の声に応えようとしなかったのは、それのできる人材がいなかったからか、ともかく組織が十分に機能しきってなかった点が見られたのは残念だった。30年間近くも進展のないまま今日まで推移して来た。
2、私と同和教育の関わり
28年ぐらい前からか、宮崎県においても同和教育が組織的(同和教育研究会という名称?)に取り組まれるようになった。私も会員になりその取り組みに参加してきた。でも2年もせずにこの組織に大きな失望を感じて脱会した。
私は同和問題も人権問題のひとつの特殊事例に過ぎないと思っていた。教育の現場で同和問題を扱うとき、特殊事例についてのみで人権問題にまで発展しないのを見て失望したのだった。
教育は常に基礎・基本(普遍性あるものがそれである)を学ばせるべきである。同和の問題から普遍性のあるものを抜き出せばそれは人権である。身の回りの差別の問題や人権の問題はたくさんあるにもかかわらず、それらについては全く触れることなく、特殊事例から抜け出せない同和教育に失望したのだった。
同和教育を推進する者は同和問題に限定する傾向が強かった。一般の教職員の中にはそのことに矛盾を感じていた人が少なくなかったのではと思う。職員の研修会や生徒対象の授業において生徒や職員の間から「また同和か、ヨダキイな」「同和はもう分かっている。これ以上必要ない」の声が蔓延していた。マンネリ化していて学ぶべきものがない。本校での研修会は担当者の配慮で結構いい研修会になっているのは幸いである。
最近第25回、第26回県同和教育研究会に順番(消極的に)で久しぶりに参加してみた。参加した分科会での話題は、部落解放(運動)や集会所・開放子供の会に同和教育研究員としてどう関わり、取り組んできたかとか、差別に負けないこどもの教育をどうするか・・・・等々が話題の中心であった。
学校の中で身の回りの差別・人権の問題・いじめの問題にどう取組み・どう関わったかなどはほとんどなかった。私が20数年前に失望した時の状況と全く変わってなかった。参加した分科会においては人権という言葉は話題にすらならなかった
私は「人権の視点を持たない同和教育では、同和問題は決して解決しないし、ますます差別をまき散らすことになる。とくに教師の人権感覚が厳しく問われている。」という主旨の意見を述べた。宮崎県の同和教育の過ちを指摘するものだったが、発言内容が理解されなかったのか、反主流的な言動だったので反発を買ったのか、司会者などには無視された。私は出張復命書に、昔とちっとも変わってない研究会に大変失望した旨の報告をした。
3、同和教育の標語(スローガン)について
私の参加した第25回の人権・同和教育大会の分科会では、「差別に負けない」強い子どもを育てることがしばしば話題になった。この標語は「差別をしない、許さない」語とともに使われることが多い。この言葉の深い意義を知らないが、私は違和感を持っている。差別に苦しむのは弱い人間だとの発想があるのだろうか。負けないように強くなれと言っているようにもある。私は「差別に負けない」指導は、差別に苦しむ人に対しては、対症療法以下というか、二重の苦痛を与えるのでないか。これは教育とは言えないのでないかとも思う。
「差別をしない、許さない」もよく見かける。私は「差別をしない、させない、許さない」の方が語の並び、調子もよくこれを使いたい。とくに教育の現場では「差別をしない、させない、許さない」の語の中の「許さない」に注目しなければならない。私はこれと同じ意味合いを持つ「(真に)差別をなくす意思と実践力を持った児童・生徒を育てる」も教育現場では大事にしなければならない標語であると思っている。
「差別をしない」と言うのは、自分から差別しないということで、消極的だが自らが関わりをはしないという意味だろう。「差別をさせない」という言葉には少し意思の強さ積極性を感じる。つまり相手からの差別を拒絶する意味を持っていると思う。
「差別を許さない」という言葉からは強い意思と実践力を感じることが出来る。当事者として自分からは差別をしない、相手からの差別も許さないだけでなく、当事者でなく第三者の立場であっても、差別の現実を見たり聞いたり発見した時、その差別の解消に積極的に関わる態度であり、強い正義感を感じる。それゆえこれこそが「強い意思と実践力」でないかと思う。これは教師自らが差別を許さないという正義感を持った生き方を持ってなくては指導出来ない。知識の伝達の指導みたいに技術ではない。それだけに教育としては難しい側面を有していると思う。
差別に負けない指導、差別をしない指導、差別をさせない指導までは出来得ても、差別を許さない指導や真に差別を許さない強い意思と実践力を育てる指導にまで行かないのは、実はそれを指導する教師の生き方がそのレベルに達してないからかもしれない。
4、同和教育は人権教育の視点があってこそ成り立つ
同和教育が最近人権・同和教育へと、そしてそれがさらに人権教育へと転換(一部の府県ではすでに変わっている)していく情勢にある。大変結構な事と思っている。
同和や人権に関する教育は他の教育内容と異なり、知識の伝達などではない。心の教育であり、あり方生き方の問題でもある。差別をしない、させない、許さない教育は、教師自らがそういう正義感なり生き方を持ってなければ、扱うことは危険である。これらの問題を他人事のように扱えば、生徒も同じく他人事と思って自分とは関係ないものと思ってしまう。その結果知識だけは身につくので寝た子を起こす結果ともなり、差別を拡大再生産し撒き散らすことになる。
さて過日大阪大学教授平沢安政氏の講演が宮崎市であった。同和教育が人権・同和教育へと転換してきたが、これがさらに人権教育へと転換しつつあるということが話されていた。私の言の正しさに時代が追いついて来た感がする。私の場合は人権教育の視点が同和の問題の解決に最も重要なことだと声に出して主張して来たが、私と同じ考えを持つ人は多かったのではないかと思う。声なき一般教職員もそこら辺の事情を感じていたものと思う。
5、同和問題などの人権問題の解決には「メディアリテラシー」の視点が欠かせない。
同和問題などの人権問題の解決には最近になり人権という視点が大事だと言われ始めたが、いまや人権先進国は人権の教育にはメディアリテラシー(メィア活用能力)の視点の大事さが言われ実践されている。私もそのように感じている。リテラシー教育は幅が広くいろいろな使われ方がしている。
私はメディア活用能力の中でも、マスメディアから発信される情報に限らず、ごく身近にも多くの情報が発信されている。これらの情報をいかに収集し、その情報から真に役立つ情報をどう選択し、活用して行くか。とりわけ情報の中には判断を迷わす多くの撹乱(にせで、真実でなかったり、誇大であったり、一側面からの見方・情報・データであったり)情報がある。これらを見抜き、情報を正しく読み取る力を育てるのがメディアリテラシー教育の中でも大事なものと考えている。真実を見抜く眼でありこれは人権教育に密接な関係を持っている。
現在恵まれた側にいる、甘い汁を一杯吸える地位にある人、金持ちや資本家や政治家・・・・は、現在の状況・体制を維持したいと思う。現状を維持継続したいと願う。こういう人々は(以下これらをまとめて権力者等と言う)真実を知られ、その結果批判される側になるのは困るであろう。
たとえ今後同和教育から普遍性のある人権教育へと進展して行き、同和とともに他の個別の人権問題にスポットが当たり、その解消を目指したとしても、同和という特殊な問題と同様な特殊事例である男女差別やHIV感染・・・とただ扱う数が増えただけである。
たとえそれら全ての解決の共通項である「人権」に焦点を当てた取組みをしたとしても、メディア(情報)リテラシー(真実を見る目)の視点を持つ人権教育でないとそれらを解決することは困難であり、限界がある。
あり方・生き方とも深く関係するので、教育するものの姿勢も同時に問われる。ともあれメディアリテラシーの視点を欠く人権教育では取り組む前からその行き詰まりが目に見えているような気がする。
人権教育はメディアリテラシーの教育により、情報が本来内包しているそのからくり性を理解させ、それにより生じる差別の構造、人間の陥りやすい傾向等の指導を通して一人ひとりを「賢くする」教育へと展開することが可能となる。
社会心理学的なこのようなアプローチを導入することによってはじめて諸種の人権問題の真の解決へ近づけるから、メディアリテラシーの教育は重要であると考える。
でも愚民化政策のための教育を権力者等から求められる行政の機関である文科省・教育委員会では国民を賢くする教育をすることには限界があろう。真実を見る目を育てることの難しさはこんなところにも大きなネックを持っている。
批判力(真実を見る目)を育てるのは、残念ながら学習指導要領には見当たらない。これを育てるには、メディアリテラシーの視点を持った人権上の差別(同和などの)を解消する教育の中で行うしか方法はない。
人権上の問題解決を目指すメディアリテラシーの教育により真実を見る目も養える。真実を見る目を養うことは、人権上の問題解決の手段でもあるが、教育すべき重要な目標でもあろう。
6、人権教育とは(前述内容と一部重複)
人権をどう捉えるか難しい側面がある。憲法には基本的人権の種類がかなり網羅されている。世界人権宣言にも個人の守られるべき権利が列挙されている。これらの人権に関して同和問題以外にどんな問題があるのだろうか。同和関係の書籍には、女性、子ども、高齢者、障害者、アイヌの人々、外国人、HIV感染者等、刑を追えて終えて出所した人々、その他の人権問題があると紹介している。しかし身近にある差別や人権の問題はこれらだけに限定されるものでもなく、もっとたくさんあり、そして拡がりを持っている。
大阪大学や大阪府(市)の学校が早くから同和をはじめとする人権上の問題解決に向けて「人権」に視点当てた教育に取り組んでいるようだ。そして教育カリキュラム(教材も)もずいぶん開発されている。このことを最近になって知った。
私の勤務する延岡ろう学校の職員同和研修会も最近いろいろ工夫されてきているのは、この流れと同じである。県同教の発表や意見交換に失望を感じたレベルのものとは明らかに違う先進的な取組みである。
解決すべき人権上の問題の多くは誤解や予断・偏見から生じている。正しい知識の不足という面もあるが、その多くはメディアにより意図的に差別を助長する情報が流され、植え付けられていることから生じているケースが多いと思う。だから私はいじめや同和の問題や人権の問題はメディアリテラシーの不足から生じていると見ている。
これら人権の問題解決には真実を見抜く力が重要になってくる。誤った情報・知識で刷り込みがなされた人からそれを取り除く(気づかせる)教育が人権教育でないかと思う。
私の人権・同和教育の実践では、差別や偏見のメカニズム(発生機構)について指導し、それと同じものが我々の身の回りにあることに気づかせ、自分だったらどうするかと考えさせることをする指導の展開をしてきた。
7、反人権記事に汚染され人権(真実)が見えなくなっている日本人
我々は情報の洪水の中で暮らしている。インターネットが活用できるようになってさらに一段とその感を強くする。そんな中には、悪質と思われる情報も多数含まれている。生れ落ちたときからいろいろな情報が脳に刷り込まれていく。偏見や差別感を与える事を目的とされたゆがんだ悪質な情報で差別や偏見の多くは作られていく。
現在では男性週刊誌の多くや、一部の夕刊紙・・・・・・・・等はひどい。言論の自由は野放しで、言いたい放題、書きたい放題である。
言論の自由(はきちがえている)の下に、商業主義のマスコミ報道、とりわけ週刊誌は興味本位の記事やゴシップなどで差別心を利用しそれにつけ込んでいる。この本質を理解してないと商業主義に侵されてくる。反人権の記事の多くは人々から真実を見る目から遠ざけてしまう。結果的に体制維持を願う権力者等を利している。権力者等や反人権の捏造記事で食っている週刊誌は愚かな庶民のおかげで食えている側面がある。
その代表格は週刊新潮であり、反人権の捏造(デマ)記事でこの1年間に11月末時点で19回訴訟事件で負けて損害賠償を命じられている。このことを知る人は少ないが事実である。訴訟事件に至るのは反人権の記事の中のごく一部である。訴訟事件を起こしても、その過程がまたネタになったりして二重三重の被害を受ける。その賠償額はわずか1件100万円(ごく最近は300万〜400万円も出始めた。先進諸国は日本のおよそ100倍、日本は人権後進国と言われている証拠の一つ)で出版社では原稿料(必要経費)ぐらいに思っているのでないか。反人権の記事を書くことによって売れ、必要経費(裁判の賠償金)以上の利益が出るのだからまさに書き得である。裁判で負け続け謝罪広告(誰の目にもとまらない)まで命じられても書き続ける。これらの低俗誌を読む人は多い。買わないまでも新聞広告や電車の中吊広告の見出しは多くの人に読まれる。このような記事に汚染されて真実を見る目が曇ってくる。偏見や差別感情が刷り込まれていく。
差別心というか、他人より自分が尊く優位に立ちたいと思う習性なのか、反人権の記事ほど好まれて読まれている。まず見出しからして興味本位で差別心に訴えてくる。そして文字になった情報を日本人はそれがそのまま正しいと信用する傾向が強く、無批判に受け入れてしまう。怖いことだ。
権力者等は庶民が賢くなり真実に目が向くのを恐れるが、低俗な週刊誌が売れている日本ではその心配はまずしなくてすむようだ。
8、同和問題はなぜ生じたのか
同和の差別の対象の被差別部落の起源は江戸時代かそれ以前だと思うが、誰が(おそらく権力者等であろう)作ったのかは知らないが、それを利用して利益を得る者(権力者等)があったのは事実である。学説では職業が違うから(職業起源説)、生活が貧しかったから(貧困起源説)、宗教が違うから(宗教起源説)、また、人種が違うから(人種起源説)などが考えられるそうだが、・・・これらは私の関心外だ。
同和問題は徳川幕府時代に政策的に作られた「身分制度」と深く関わっていたことからも権力者等が政策的に利用してきてことがうかがわれる、そしてそれが現在まで残って来た。
権力者等は庶民が真実を知り、意識が向上するのを怖がるものであろう。そこで愚民化政策が取られたのだろう。人々の差別心を巧みに利用した同和問題を代表とする人権問題の多くはこの愚民化政策によるものと考えられる。権力者等が積極的に関わったものでなくても、彼らにとって都合の良いものは温存され、時には政策的に補強・強化されていった。・・・このように思う。
ここで注目したいのは、現実的に差別し苦痛を与え続けて来たものは、決して権力者等ではなかったということである。紛れもなく平凡な庶民同士が、人間関係の最前線である同僚や隣人間において、差別心で互いの絆を分断し合い、あるときは加害者になり、またあるときは被害者になったりした。おろかな事であるがこれが我々人間の持つ性(サガ)で、弱さなのだと思う。我々には人より優位でおりたい気持ちがあるようで、それが差別心につながり権力者等に利用されて来たものと思って間違いないと思う。
9、さて最後に本校の人権・同和教育のテーマに関連して
本校の人権・同和教育のテーマは、「自分を好きになる」であるが、これは自分を肯定的に捉えること、ありのままの自分を受け入れ肯定することで、自分への自信を培うことである。その結果として自分を飾る必要も無く、ありのままの自然体で背伸びも必要でなくなる。
それはまた他人の良さを認め、多様性を認める態度につながる。違うこと、独創性に価値を置き多様な価値観を求めるようになる。たとえ欠点に見えることだって、人と違う自分に自信を持てるとき、自分と違う他人の優れたところを認め尊敬できることになる。テーマはこれらを考えてのことだろうと思っている。自尊感情を育てることはこのように人権問題解決のキーであることに気づく。自分を好きになるという言葉には、それとセットに自分以外の相手を好きになることを含んでいる。
これまでは画一的、横並び一線を目指す一方で、成績とかある一面のみに価値観をおき、他との競争を煽ってきた。このことの反省の上に今後の教育のあり方を考えていかなくてはならない。人と人との関係を裂くものは全て反人権だと言える。これから先、樹立しなければならない人権文化は庶民同士(広くは国家間においても)がつながり合うものでなければならない。共存共栄(共生)していく考えがベースになければならない。