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学習指導方法の工夫改善について考える事(K中学校の研究公開(基礎・基本の定着を目指した学習指導法の工夫を通して)に参加して)

           2003,10,27 延岡ろう学校 馬場  弘教

 

1、「何をどう指導するか」を考えることが学習指導方法の工夫改善を考えるときの最も重要なポイントである。

K中の「研究公開」に大変興味を持って参加した。新たな視点が見つかるのでないかと期待して参加した。取り組みにはこれまでの過去の研究指定校の成果などが十分生かされていたと思ったし、先端的な取り組みというか、目新しいものもあった。素晴らしい取りが展開されていて多くのことを学び満足のできる出張であった。若い先生たちが頑張っている姿の中に、一人ひとりは素晴らしい人材であることも感じた。どなたも授業が上手かった。初任研の成果なのか最近の若い人の授業は全員問題を感じない。感心することが多かった。

でもK中学校で取り組まれた研究は、指導内容の面からのアプローチではなく、どう指導するかという、方法論からの取組みのみであった。この点において大きな失望を感じた。

私は過去に全校的な立場で通算4年間「「生きる力の育成」「自己教育力の育成、新しい学力観に基づく学力の育成」を図るため「授業の工夫改善」により「基礎的基本的な内容の徹底」を図る取り組みを推進したことがある。現在校においては学部内において同様の取り組みを推進している。前任校においてこれらの取り組み(教育課題研究)の推進を進めるに当たって、私は文部科学省の研究指定校の成果をまとめた研究集録誌を、今から10年前から20年前の10年間分を具に調べてみた。授業の工夫改善に関する研究は、かなり取り組み事例が多く参考になった。しかし私の目指したものは内容精選(精選および構造化)を核とする学習指導方法の改善であったが、事例が少なく直接的に参考になるものはほとんどなかった。

指導方法の工夫改善については方法論に関するものが多く、指導内容についてものはほとんど見当たらなかった。指導内容に関するものは現場においても、それまでほとんど議論されたことがなかった。私は内容が最も重要であると訴えてきた。学習指導方法の改善についての取組みを考えるとき、「何をどう指導するか」が最大テーマであると思う。にもかかわらずどうしても方法論にとどまる傾向が強い。方法論であれば確かに取組みの進展について、目に見える形でその成果を出すことができる。一方内容面になると教師の力量を問われ大変な労力のいる作業でもあるので、取り組みとしては難しい。それゆえ避けられていたのかもしれない。指定研究においては取り組みの実績である研究紀要としての形式上の成果が求められる。内容面からの取組みは進め方も難しく、成果としてのまとめ方も難しい。方法論に止まる取組みはこういう事情があるからなのだろうか。

内容面からの取組みをすすめるに当たって、現場においては教科書で指導するのだから内容を考える必要はないという意見や、また内容の精選(厳選および構造化)といってもどこを指導し、どこを省くかということは日常的にやっていることであり、ことさら取り組む必要はない。あるいは学習指導要領に示されている内容が基礎(的)基本(的)であり、いまさら議論する必要はないなどの意見もよく聞かれた。こういう意見が大勢を占め、内容の精選(厳選および構造化)作業を核とする学習指導方法の改善の取組みが思うように進展できなかった。私は内容面からのアプローチこそが重要なことであると思う考えは今も変わらない。これは教員生活を始めて以来の持論であるが、輪を広げる取組みは困難を極めた。管理職でもない平教員(主任)では、管理職の支援がないと取組みはうまく進まないものである。管理職の中には無関心であったり、時には抵抗勢力の中心者となったりする者もいた。

 

 

2、研究公開の意見交換の時間に私が発言したこと

公開授業のあと研究発表、そして分科会の協議へと移ったが、わずか90分しかなかった。その貴重な分科会の時間が質疑に大半の時間を取られ意見交換の場がなかった。質疑は長くても10分でよかったのでないか。研究に対して忌憚のない意見をいただきたいと何度か聞いた。しかしそれを述べる場がほとんどなかった。意見交換をする協議に多くの時間が欲しかった。どんな研究にもその成果と課題があるものだ。成果を讃えることも大事だが、課題を明らかにすることもそれ以上に大事なことだと思う。この時間こそ最も重要な時間でないかと思った。

 私は素晴らしい研究成果を認めつつも、一言言わせてもらった。私の意見は、指導内容よりも指導方法に傾斜した取り組みに対してその問題を指摘したものだった。研究成果の発表会が拍手喝さいで終わっても良かったのかもしれないが、せっかくの研究が今後より成果あるものにすべく、一石を投じたのだった。けっして研究の成果に水をさすものではなかった。今後の展開のために、あえて言わせてもらったわけである。私の意見は、ずいぶん気を使ってのものだった。発言の主旨は私の持論である「何をどう指導するかを考えることが学習指導方法の工夫改善を考えるときの最も重要なポイントである。」というものであった。

褒め称えられることだけを想定していたのか、関係者の中には私の意見を聞いて狼狽した人(司会者および指導助言者が迷惑そうにした)も見られた。この私の意見に謙虚に耳を傾けて欲しかったものである。成果を認めた上で、敢えて出した私の意見に対して、前向きに建設的に対処して欲しかったし、それ位の度量を持って臨んで欲しかった。

何度か「忌憚のない意見をお願いしたい」と関係者(研究の当事者側および司会)の言もあったし、意見交換は当然の事である。そのための発表会でもあると思う。

ともあれ指導内容の重要さを述べた私の意見は当事者には衝撃的だったのかもしれない。それゆえ急には受け入れ難く、理解できなかったのかも知れない。批判的な意見だと誤解されたのかもしれない。でも多くの人は、何か重要な指摘がされたよう感じを持ったことだろう。日をおいて冷静になって私の指摘の重さを感じてきたに違いない。今後の発展に期待したい。

 

 

3、指導内容が最も重要である。その内容と指導方法がセットで指導が成り立つ。

 基礎的基本的内容は指導要領に書かれている。その指導要領に則って書かれている教科書の内容は基礎的基本的内容が書かれている。そして義務制の教員の指導書には、けっこうきめ細かくその展開方法まで書かれている。・・・・そういうことで内容面からのアプローチは必要ないのであろうか。いやそんなことはけっしてないと思う。

基礎的内容や基本的な指導を行う場合に、一番大事なことはその教材について指導者がいかに深くその内容をつかんでいるかである。私は教科の中では数学は比較的好きで得意な方だった。でも小学1年生に対して、たとえ教科書やその指導書を使って指導するにしてもすごく悩むと思う。指導内容が基礎的基本的なものになればなるほど、プロとしての指導者の力量が問われる。指導者の力量によりその展開方法が違ったものになってくる。同じ内容を指導するにしても指導者が10人いれば10人とも違うのが普通である。

 指導内容の構造というか、指導する内容の全容を明らかにしなければ、それを身につけさせるための手順・方法が見えてこない。ただ教科書を使って、その指導書を参考にして指導を展開していくだけではプロとはいえないのでないだろうか。

 

 

 

4、発表会当日の意見の中から

 協議会の場で「基礎基本の内容がいかなるものかについて組織的に議論をしましたか」。と質問された方がいた。また「第三者から見て、今日の一時間の授業のなかで何を基礎基本と考えていたのか?その授業を通して、どんな力をつけたいと思っていたのか?こんな疑問が持たれるような授業であってはいけない」という意見もあった。私もほぼ似たような感想を持っていた。

毎日授業をやっている教員の立場からみても、授業を通して、何を身につけさせ、そしてどんな力を伸ばしたいのかが明確でなかったように思えた。その一時間の授業において、基礎・基本が何であるのか押さえきってなかったのかも知れない。参観した人からそのような意見が出たと言うことは、すばらしく上手に見えた授業ではあったが、何か大事なものが欠けていたのでないかと思った。

これらに意見は「何をどう指導するか考える事が学習指導方法の改善にとって最も重要なことである」と言った私の意見に符合するものであった。

見学した社会科の授業の中で感じたことだが、郷土のことを調べるにしても、そのことを通してどんな力をつけさせたいのかが不明であった。生徒の側からしてみれば、もっとそんな気がしたのでないだろうか。

自己存在感を持ち生き生きと学ぶ生徒の育成は、生徒自らが学習目標を持ち、積極的・意欲的に関わり、そして理解でき、学び得た物が自分にとって大事なものであり、それが役に立つと認識ができたときに、本当の意味での成就感を味わうことが出来るのでないかと思う。生き生きとした学びは、そんな中から生まれるものと思う。うまくプログラムされた教材で、上手に展開された1時間の授業で、ある面充実したように見えたが、(私の授業のことを棚上げして言わせてもらうと)学ぶ側にしてみてはどこまで充実した一時間であったのだろうか。

5、「確かな学力」は新しい言葉か、

教育用語は長く使うと新鮮味がなくなり、本来持っていた深い意味合いも薄れて来る。全く同じ内容でも時々模様替えして、言葉の上滑り(マンネリ化)を防ぐ必要があるようだ。自己教育力、生きる力、新しい学力観に基づく学力、確かな学力・・と、最近はサイクルが短いようだ。新鮮さを呼び戻すため店舗改装するように時々、教育用語も変えていく必要があるようだ。これらはほとんど内容的には同じだと思うが、新たな意味合いや重点(視点)の置き所がわずかに違う(付加されたりして)のかも知れない。

使い古された言葉に新鮮味を与えるのはいいことだ。しかし新しい言葉を使うことによってそれまで古い言葉を使っていた時代を切り捨てるというか、過去の実践やそれに取り組んできた人を軽視したりしてはいけない。若い人は新しい言葉を若干振りかざす傾向が見られるのは残念なことである。年配者も過去の実践に自信を持つべきだ。

ところで、「確かな学力」についてであるが、この確かな学力の反対の言葉は確かでない学力だろうと思うが、見かけというか、しっかり身に付いたものでない学力のことだろうと思う。ここでいう「確かな学力」は生涯学習の観点が不十分であると思う。従来の「自己教育力」や「生きる力・・・」の方が生涯学習の観点をも包含しているので、より確かな学力でないかと思う。最近使われだした「確かな学力」は生涯に渡って発揮できるような学力までも意味してないようだ。言葉そのものにそこまで含ませるには解説をつけなければならない。自己教育力」や「生きる力・・・」の言葉には自ずと生涯学習の観点を含んでいる。つまり基礎的基本的内容をしっかり身につけ、さらにそのうえにあり方生き方の指導や学習方法の習得、他者との共存共栄などの幅広い概念を含んでいる。「確かな学力」ではこれらがほとんど軽視され見えなくなってくる。目先を変えた言葉であるが、かえってこの言葉により明らかに30年以上は後退したようだ。こんな言葉を流行に流されて使いたくはない。

私は「生きる力」が最も好ましいと思う。生きる力とは、今を生きる力(静的学力)でもあるが、変化に対応していくあり方・生き方の問題でもあり、たくましさ(動的学力)ともいえる。知・徳・体にわたる基礎基本がしっかりしていなければ生涯に亘ってたくましく生きて行く生き抜く力にはならない。この「生きる力」こそ、教育現場で使うべき用語であり、望ましい学力観でないかと思う。

 

6、指定研究について

 文部科学省は新しい学習指導要領が実施に移されたその段階から、すでに次の10年後の改定を見据えた研究を開始している。それらは研究指定校で実施され成果を確認しつつ、次期の改定に向けて準備されていく。一方現行指導要領の定着を図り成果を確実にするためにも研究指定校において研究を進めている。町や県の教育委員会の実施する指定研究もほぼ同じ趣旨だと思う。現行の指導要領の確実な成果を目指しながらも先導的な役目をも担っているものと思う。これらの研究には、文部科学省や県教委の指導というか、てこ入れが随時なされ、現場職員のやる気を損なわないように、指導は校長を通して慎重に、ある面コントロールされながら進められていく。それで現場の先生は大変な苦労があるが、立派な成果が出来上がっていく。PTAも、研究紀要のための印刷費の経済的支援や、研究発表会における人的応援等で協力しながら一体となって進めていく。このようにしてある面で立派な研究が出来上がっていくことになる。

 当然に成果を期待されているから、不十分な成果で終わることは許されない。そういうことで、過去の多くの指定研究の事例からのノウハウを学び取りながら進めてくことになる。全く新しいルート選択はリスクを伴うことになる。そこですでに踏破されている無難なルートから攻めて行くことになる。成功するかどうかは、現場よりそれを指導する指導主事にとって大きな関心事だ。ある面責任問題として問われるからだとも思う。

 このような事情もあり「基礎基本の定着を目指した学習指導の工夫改善を通して・・・・」

の取り組みに対して、内容面からのアプローチしていくことは、教師の力量が厳しく問われるので、現場での取り組みの展開に自信が持てない。そこで方法論からのアプローチになっていかざるを得ないのだろうと思う。研究の講評では、指導した指導主事から現場の先生や関係者のご苦労にまず感謝の言葉が述べられ、肝心な「課題」についてはほとんど触れられず、「成果」を褒め讃える(これはまさに自画自賛)事になる。

方法論に傾斜する取組みは、取り組みやすく無難であっても、学習指導方法の本質的改革につながらないので当然成果は限定される。時間がかかっても、苦労が多くても、内容面からのアプローチが欲しい。成果が目に見えやすい表面的な取組みより、労多くして目に見える成果も上がりにくいかもしれないが、本質的解決(向上)を目指すことが求められていると思う。急がば回れだ。私が経営者ならこちらの道を選ぶ。

 

、中味の伴わない「指導評価一体」について

基礎基本定着目指した学習指導法の工夫改善を通して・・・これテーマしながらも研究発表おいて協議会おいて、その基礎基本の内容ついては触れられることなかった「指導評価一体化」についていう言葉たびたび聞かれたが、指導内容ついて全く聞かれなかった。「指導評価一体化」という言葉、「生きる」が言われ始めたほぼ時期を同じくするする。およそ10年ぐらいなるだろう。そのころから盛ん使われ言葉ある

生きる言わ始めてそれより少し遅れて、それに関連するものして指導評価一体化いう言葉が使われ始めた。文部科学省・教育委員会サイドの研修等において、盛ん使われ。私新しい言葉を比較的受け入れてきた方だが、この指導評価一体化取り組みの推進については当初から危ぐ持っていた

指導要領改訂たび教育改革必要性叫ばれてきたここ30間、いやもっと以前からかもしれないが、いつの時代にも求められて来ていた改革本質、基礎的基本的な内容指導徹底あったそのためにどんな取組みをしていくかということであった。実践的な取組みが常に求められてきた。ところが文部科学省や教育委員会すすめるところ「指導評価一体化」は考え方であって実践的な取組みではなかった。ピンボケしているいう、本質迫っていくものなかった

「指導と評価の一体化」の本来の意味合いは、基礎的基本的内容の徹底を図るための考え方で、@事前にその内容(基礎的基本的内容)明らかにし、A到達度(評価のための問題作成も含む)を設定し、Bそのための最善の指導方法で授業を構成し、C基礎基本の定着状況の評価を毎時間して生徒全員の学習状況を把握しDその反省の上に不十分な生徒へのフォローと次からの授業の改善を行う。

ここで最も重要なものは、@の段階の、1時間1時間での授業の中で生徒に身につけさせるべき基礎的基本的な指導の内容を明確にする作業である。時代が変わりどんな言い方をしても教育においては、この段階で手を抜くことは出来ない。内容の精選という言葉の出てこない「指導と評価の一体化」は、実に危険な要素を内包していたのである。「内容の精選」の必要性に紙一重のところまで接近しながらも逆にそれから目をそらしていったのである。文部科学省・教育委員会サイドの関係者は大いに反省して欲しいものである。

指導評価一体化関連する言葉して生きる、到達評価、自己評価、絶対評価、観点別評価・・・・・。がある。「指導と評価の一体化」は本来は基礎的基本的内容を明確化する指導内容の分析の上に成り立つものである。考え方に留まって取組みにまで進展しない上滑りして本質に迫っていかないので、教育委員会サイドの研修会を私はピンボケしているといって批判したのだった。

案の定この「指導と評価の一体化」は、教育質的転換が求めらいる現場および教育者、「基礎的基本的な内容の指導の徹底」を促すものとはならなかった。評価のから逆アプローチして、指導内容改革求めるものだっただろうこの取り組推進する文部科学省教育委員会は、本質的改革ため手間惜しんだのか、力量不足だった中身伴わない上滑りした指導流れてきた。この言葉聞いたときから現在状況私は予測していたこれら委員会の取り組みって、むしろ現場基礎的基本的な内容指導から目がそれて言ったのでないかと思う。教育改革の逆推進をやってきたいうのは言い過ぎだろう。この十年間、前進は見られず後退傾向が見られる。

若い頃管理職試験受けたことある受験あきらめる4ぐらい

出題された教育論文おいて教育委員会教育改革進め方ついて批判述べてきた教育論文受け入れられることなく、ついに校長を通して指導(注意)を受けることとなった。その時点管理職断念したのだった。そういう意味「指導と評価の一体化」という言葉は、は特別な意味持つ教育用語あるそれ以後現場おける教育改革推進前線から身を退くことなった。そいうことでここ10年間ほどの最近教育思潮ついて疎いものある

ここで、一線から退いたあとここ最近の10年動向り、最近情勢・流れをインターネット検索してみた。依然と委員会サイド研究研修ではこの言葉盛ん使われいるようだ。しかし現場おける研究・取組みにおいては指導内容に目向き始めているのが分かる。教育改革現場から遅々としてではあるが、動き始めているを感じることできる教育指導内容見直しいうか、教材分析指導者とって重要テーマる。教育内容改革スポット当てた取り組みが最近ずいぶん増えつつあるよう私の主張するところと一致していて大変に嬉しい事である。

 

 

 

 

8、学習指導に関して教師に求められている本当の力量とは

私は学校教育の目的は、子供に生きる力(@基礎基本をしっかり身につけ、A多様な考えを持つ他者と協調でき、B変化する社会に対応していける。)を育むことでないかと思う。教師力量とは主として授業を通してこの生きる力を育んでいく力とも言える。授業充実こそが最重要事である。授業充実は、指導内容見直し(分析し構造化する)から始まる指導内容分析より単元目標明らか1時間1時間狙い明確、その内容最もふさわしい授業形態なり指導方法とって、・・・・授業を展開していくことになる。そういう力量のトータルが指導力(私には不十分な点が多々あることを自覚する)であると思う。

学習指導方法改善ポイントは、何を(内容)どう指導する(方法)かあり、内容からアプローチ最も重要ある15〜16年前から訴えてきた学校教科書最近随分スリムなってきた。それでも指導内容精選(精選および構造化)をとする内容からのアプローチ重要性変わらない。内容面からのアプローチには教材対する深い分析思索求められる。プロの教師して本当力量求められる。この重要な取組みの進展があまり見られないのは、これ応えうる力量持った現場には少ないからなの教育改革指導し推進する教育委員会指導主事量も問われている

教科書どんなに分厚く(2単位で350ページのものが結構見受けられる)、指導時間どんなに少なく内容の精選(および構造化)、取捨選択、軽重をつけ教科書全部にわたって指導すること目標している

 

9、学習指導案の「教材観」に関連して

指導主事訪問時等において、学習指導案の提出を求められることがあるが、他県の指導案書式や本県の他校のものを調べると必ずしも一定でないようだ。この学習指導案の書式は本校においては教材観・指導観・生徒観の記載および指導者の捺印まで要求される。

教材観についてだが、指導する教材についての見方・考え方を授業に臨む前にしっかりと整理しておかなくてはならない。きちんとしたモノを持って授業に臨むことは大変に大事なことである。でもこの教材観・指導観・生徒観を書かせられることに関して不快感を持っている。

・・・・観といえば、物の見方考え方であり、ある面教師としての誇り・魂の部分であったりもする。たとえ上司たりとも軽軽に踏み込むのには不快の念を持つ。指導観・生徒観については、またどう書けば良いのかも分かり辛くて迷うこともある。いつもサンプルを参考にして書くことになる。

昔は教材観でなく、教材設定の理由などがあった。それが初任研の始まった頃でないかと思うが・・そのころから・・・観を書かせるようになったのでないか。授業を見て指導をし、講評する指導者としての指導主事側としては、授業者が教材に対してどんな考えで臨んでいるかを知ることは、重要な情報となることだろうが、わたしはいやだ。

それに捺印までを要求することが不快な感じを決定的に増幅させる。私は今の時代(国に対する各種の申請書等において捺印の省略が大幅に進んできている)に捺印させる意味は何なんだろうか。この捺印とセットで・・・・・・観を考えるとき、権力の傲慢さ・横暴さを感じてしまう。(自分がヒネテいるのは感じるが)

上司の指導主事様、私は・・・・と申します。・・・の考えを持って授業に臨みます。この指導案は、確かに部下の私の書いたものです。ご指導よろしくお願いします。こんなニュウアンスを感じてしまう書式でないかと思う。

 ・・・・観という言葉を使わずに、もっと平易に「教材設定の理由」、「生徒の状況」、「指導の重点」、「本時で身につけさせたい基礎基本」などにしてはどうだろうか。最近の学力観であるところの「確かな学力」「生きる力」を育むためには、「教材設定の理由」や

「本時で身につけさせたい基礎基本」などは必須の項目であり、重要な意味を持つ。

K中の指導案に書かれていた指導観は、その中には題材観、生徒観、指導観を包含していた。みなさん立派に書かれていた。でもそこには何を基礎・基本と考え、何を学ばせ、何を身につけさせたいかが必ずしも明確になっていたわけではない。見学した授業ではその感をもっと抱いた。教科書に書かれていることが基礎だとの出発点があったからだろうか。内容の精選(厳選および構造化)作業が教科をあげて組織的になされている様子はなかった。指導案の意味をも改めて考えさせられた。

 

                          以下は2004,11,12

        この書き物は、2003,10,24に行われたK中学校の「研究発表会」に参加したときの、出張の復命書に添付した私の意見・感想である。学習指導の工夫改善は私にとって大きな関心事であり、それまでの私の考えをまとめる機会でもあったので、発表会から帰って精力的に2日間(土、日)で書いた。書き上がったものを早速K中学校の校長宛に2回送信したが返事を今日に至るまでいただいてはない。何かの手違いがあったのかもしれないがそれは確認してない。

  後日の「最近の教育用語で気になること」は、この書き物がベースとなっている。