宮崎県教育委員会の人材育成プラン「自ら学ぶ」「職場で学ぶ」「地域で学ぶ」について(意見および提言) 2007/8/31
日向工業高校 馬場弘教
教育委員会が過日人材育成プランをとりまとめ、発表した。この種のものは他県には1,2例が存するのみで、本県のものは先駆的であり敬意を表したいが、内容および今後の活用についての意見持っているので以下にそれを述べたい。
1,人材育成を考えるに当たって、まず現況はどうなっているのだろうか
最近(ここ20年間くらいに)採用された教職員の傾向と問題点として
画一化していて個性的な教師が少ない。自主性がない。のびのび感がなく上司の機嫌を伺う傾向が強い。与えられた仕事についてはそつなくこなそうとするが、主体性に乏しい。パソコンやIT関連は得意な人が多い。授業にエネルギーを費やすより、校務分掌の仕事などには比較的熱心に取り組む。教材研究・作成をしている風景はほとんど見なくなった。平均数年間の教職浪人を経ての採用と、またその後の新採研で否応なくやらざるを得なかった研修で疲れ切っているのか、自らを高めようとする研修の意欲を持っている人は少ない。
授業の方法的・技術的なものは教職浪人時代や新採研時代に鍛えられているのか、一定の水準にはある。でも、授業の中身的なものになると全く不十分だ。教科の専門に対する力がかなりダウンしてきているように思う。
とくに工業の専門学科では教科指導ができないくらいの質の低下が見られる。資格試験やロボット競技会などの指導はできるが、教師の授業力低下で教科指導は困難になってきている。これが主原因と思われるが生徒の学力は工業高校で行われている標準テスト等から判断して、他県と比べてその低下は甚だしい。本当の意味での授業力のある人はほとんど見当たらなくなった。
なかなか採用されない臨時講師の中にはすばらしい人がいっぱいいる。個性的で意欲あふれる情熱的な人がたくさんいる。なぜそういう人が採用されないのだろうか。一方、新規採用者の中には疑問符の付く者が少なからずいる。採用試験に大いに疑問を感じることがある。
このような採用試験のあり方にもメスを入れ、採用時点からの人材の確保・育成を考えなければ、今後展望のある人材育成プランの策定は困難だし、たとえ実施に移しても実効性は期待できそうもない。
最近の管理職(一部には教育委員会のあり方を含めて)の傾向と問題点として
管理職としての経営方針などを明確に示し得ない人が多い。その経営方針も管理職が変わる度に基本的な部分が変わり、合理性・納得性のある方針でない場合もある。部下はその経営方針を理解しづらく、ついて行きにくく思うときがある。
たとえ経営方針を示したとしても、ただの作文でありそれは現状改革を目指すものではなく、そこには問題解決の糸口も戦略も見当たらない。 上昇志向の強い者やよく動いてくれる者を主任に任命して、その仲良しグループ、友達(悪く言えばツルミ)グループで仕事を進めていく傾向が極めて強い。管理職分野の仕事まで主任層にやってもらう(仕事のたれ流し)ため、機嫌取りと思えるくらいの気の使いようである。それが周囲から見れば滑稽で異様に見えることがある。
部下(とくに主任層)に対する事なかれ主義の横行もこの一部の仲良しグループで業務を進めていく姿勢と表裏一体の関係である。この事なかれ主義の姿勢により職場には正義や正論が無視され、仲良しグループである主任等が人権上の問題や様々な問題を起こしても、けっして触れる事もせず見て見ぬふりをする事になる。この事なかれ主義は多くの弊害を生み、目に余るものがある。本校における私費会計の使い込み事件もこの事なかれ主義に起因する。
近年多くの職場において、この事なかれ主義の横行で職場は暗くなり、真の人材が駆逐されていく傾向にある。これにより学校の中核的な機能が十分に果たせず学校改革が進まないなどの弊害を生み出しているのでないか。
事なかれ主義の強い管理職は学校改革などの取り組みより、目先の業務しかしない傾向が顕著である。真に学校改革を目指す取り組みのあるところには必ず職員間で摩擦が生まれる。職員間にギクシャクや軋轢が生じても、改革で頑張っている管理職・職員を評価するのでなければ、現場の管理職・職員はそういう取り組みを敬遠してしまう。
改革のための地道な展望を持った取り組みより、今日一日が見かけ上うまくいっている取り組みにのみ力を入れる傾向が強い。管理職・職員に対する評価・評定が、明日のために何をしたかというより、今日のノルマをどうこなし、学校が外見上平穏無事に送れたかで評価する傾向の強い中では、学校改革に全く無関心の管理職・職員が多くなるのは当然だ。
改革に頑張り、そのために職場に不協和音を生じさせ悪い評価を受けるより、事なかれ主義で見かけ上スムーズに動いているようにして良い評価を受けた方がましだという事ではいけない。管理職・職員の問題は教育委員会の問題でもある。
上昇指向の末にたどり管理職の椅子だからなのか、保身が強く、改革への戦略・展望を持っていない。事務的な仕事はそれなりにそつなくこなしているようだが、外聞を恐れて、いつもびくびくと怖じけ、こぢんまりしている。教育への愛情・情熱より自己保身を感じる。それ故に上司としての人間的魅力を感じない。こういう管理職が多いのを見ると、委員会はこんな管理職を望んでいるのでないかとも思える。
改革の方向性を持った取り組みをする中で、はじめて、マネジメント力やリーダシップが求められてくるものだが、その取り組みのなされてない現場には、管理職のマネジメント力もリーダシップも不要だ。こんな現場ばかりでないかと思う
今問題になっている管理職のマネジメント力もリーダシップも、改革の取り組みのなされてない現場においては全くその必要性を感じない。だからなのか、マネジメント力もリーダシップのない人材でも通用する。それでこういう人しか管理職に登用されてないのでないかと思う。いやむしろ改革をするような人物は危険視され、指導的な立場から遠ざけ、敬遠し退職まで冷や飯を食わし続け、人事面その他で冷遇してきたのでないかと観てきた。
私の知る限りの管理職では、その日暮らし的な短期目先の取り組みしか提起しない(できない)。それ故、課題解決のためのテーマの設定ができない。展望を持たないため、そのための戦略もなく、当然に企画力がない。だからリーダシップもなくマネジメント力もない。こんな人が圧倒的(9割以上)に多かった。
取り組みのなされていない職場ではいかなる方策(人材育成プランにあるような取り組み)を講じても、人材が育つわけがない(理由は後述)一般の教職員の問題より管理職の問題がはるかに根も深く問題が大きい。
工業高校の管理職にはほぼ例外なく、地道な授業の充実で基礎・基本をしっかり身につけさせる指導より、資格や検定試験で成果を上げることやロボット競技会、学校の紹介イベント、・・・・等々、見かけの成果のみを期待する傾向が顕著に表れている。
だから教員も管理職の意向を受けそれに応えようとする。部下としては上司の望むように働くのは当然ではあるが、でもそれは生徒の存在より自分のことを優先する保身そのものでないか。それは親の願い、子供の思いに背を向けることであり、愛情・情熱ある教師のすることとはとても思えない。人材を育てると言うより、せっかくの人材を管理職の姿勢・あり方でだめにしている部分がある。これにより多くの職員は大きなストレスを抱え込む。
教員の新規採用もそうだが、管理職登用の選考に問題を感じる。ある面では無難(生徒の方より委員会の方に目を向けているから委員会は安心しておられる)な登用にも見えるが、個性のないこぢんまりとし、小粒の管理職が増えすぎている。
生徒に哲学を語れる管理職もほとんど見なくなった。事務的な話ししか出来ない人が多い。よくてもスピーチ本にあるような話ししかできない。これではリーダとしての魅力が感じられない。こんな管理職では現場を改革できる力があるはずがない。こういう人にリーダシップやマネジメント力を求めることには無理があり困難である。
校長会や教頭会等で内外のいろいろな最新教育事情を研修していると思うが、いかんせんベースとなる識見不足なのか理解力不足なのか、その情報の意味するところの根底を理解してない節が多々見られる。
管理職の中には識見不足どころか、基礎学力不足というか、漢字が読めない、言葉の使い方がわかってない者に今まで私は何人か仕えてきた。人間的魅力とかリーダシップとかの必要性が人材育成のプランの文中に見られたが、それ以前の問題ではないか。やはり管理職は何か秀でたものを持ってないと部下を統率できない。尊敬されない上司は人間的魅力もなくリーダシップもマネジメント力も発揮できない。
このような能力や人物・識見が不十分な管理職に対しても、一般職員側からする管理職評価においては、多くの項目で最高ランクをつけられたりする。これはいったい何を意味するのだろうか。評価制度に大きな欠陥があるということに気づかなくてはならない。
2,教育委員会がまとめた「人材育成プラン」について
人材育成プランは多岐にわたり詳細に分析され、大事な要素がほぼ網羅されている。これ以外にはもはや見つからないようにも思える。あげられている項目の中にはすでに具体的な取り組みが示され、取組の進行中のものもあるようだ。
求める教職員像として@愛情と情熱A高い専門性B幅広い社会性Cマネジメント力の4点を上げている。管理職はこれらに加えて人間的魅力、リーダシップ、判断力・決断力などが上げられている。私はよく整理され納得のいくまとめ方だと思う。
でもこれをもとに取り組みを進めても、教職員の人材育成の取り組みにおいては大きな目に見える成果は期待できそうにもない。
一見よく書かれているプランだと思うが、何か重要なことが触れられてないような気がする。いや一番大事なことに気づいてないようだ。以下にこのことについて私の論を展開していく。
ところで本論にいる前に、
最近学校評価制度についての考えを一部手直ししたのか、職場で話題になったことがある。人材育成のあり方の本論と関連するのでこのことについてまず触れたい。
これまでの学校評価は、評価項目を網羅的に列挙しているだけであった。それ故これらを集約しても、得られた評価結果を生かす取り組みは見いだせなかった。せっかくの取り組みであったが、学校改革には全く生かされていないのが現状だった。
教師の評価にしても授業力が中心になるべきだが、あまりにも多岐にわたり評価項目を網羅しすぎていて、真に大事な「授業力」が曖昧になってしまっている。ここにも現場を指導する教育委員会、文科省の洞察力不足を感じる。
これまでの学校評価制度の問題点は「なんのために学校評価をするのかという、評価をする目的が不鮮明であったことにある。問題点(課題)・改善点を見つけ、それを改善・解決するために行うのが目的であるべきだったが、それに対する認識が不十分であったようだ。
学校がいま取り組んでいるものは何なのかを明確に示し、それに対する評価も求めるのでなければ、今後の改善の方向性は見えない。また学校はどうあらねばならないのか(中核的な役割・機能というか、期待されていることについての改善点)を意識した調査項目でないとやはり今後の改善の方向性は見えない。これまでの評価は、これらの視点を欠いた評価であった。これではいけない。結果を集約し分析すれば、どこに問題があり、どこをどのように改善すればよいのか、そのためにどんな取り組みを今後展開すれよいのかが自ずと見えてくるそんな評価でなくてはならないはずだ。評価を求めるアンケート一つにも、しっかりした学校改革へのビジョンがないと意味あるものにはならない。」
こんな趣旨の意見を学科主任の代役として企画委員会に出会した折に機会があったので述べた。通常は再任用の身分の私には、学校経営に関することには無関係な存在である。
よくまとめられている人材育成のプランを実施しても成果は期待できない、
学校の評価と同様に、学校の本来の機能というか、果たすべき役割をまず分析し明確にするところから出発しなければならない。それをベースに考えれば、どんな人材が求められているのか自ずと明確になってくる。人材育成プランの本文の第1編・2編および要約書の1〜3ページまでは、よく書かれているし、その通りだと納得できる。この部分は私の日頃考えていることとほぼ一致していてうれしい。
でも先述したように人材育成プランに列挙されていることを具体的に企画して実施したとしても、人材育成についての成果はあまり期待できないと思う。むしろ多忙感ばかり増して逆効果にしかならないおそれも多分にある。講演・講話・講義などをセットしそこに対象者を集めても人材は育つはずはない。教育についての愛情や情熱に至っては全く期待できそうにない。
日常の活動・実践からかけ離れたところでの人材育成の取り組みには限界があると言うより、成果は全く期待できない。多忙観が増すだけだ。プランをまとめた委員は、プランの実施およびそれによる人材育成の難しさをどれだけ認識していたのだろうか。
これまでも現場の教師は事務的な仕事、報告的なものなど、生徒に直接的に関わらない業務が多すぎて、多忙感、疲労感を感じて、充実感が持つことが少ないようだ。それ故教材研究・作成・準備に費やす時間は少なく、理想とする教師像にほど遠いところにいる自分に、いらだちを感じ、強い空虚感を持っているのでないだろうか。それにより自らを高めようとする意欲を喪失しているのでないかと思う。
3,学校の中核的機能を果たしていく取り組みの中でしか人材育成は出来ない。
学校の中核的な役割は「多様な人々とともに変化する社会を生きていくために必要な「生きる力を育む」」。そのためには「確かな学力、多様な人々とコミュニケーションできる力・資質・人間性および人生を切り開いていけるたくましさ(心身ともに健康)を育む」ことでないだろうか。
この中核的な機能に対して学校が十分に役割を果たしているとは言えない現実があるから、いまここに、人材育成プランなるものがまとめられたと思う。どこの学校においても、学校の中核的な機能が十分に果たせていないという課題を抱えている。
この課題の解決に向けての取り組みがなされなければならない。この取り組みは、関係者の全員がそれぞれの立場・持ち場で子供を中心に据えたものとしなければならない。
この取り組みは管理職のリーダシップのもと、学年主任・分掌主任、クラス担任、教科担任、事務職員・・・・の学校全職員参加はもちろんのこと、保護者や地域や社会との連携も当然必要だし、この取り組みではそれぞれの持てる力を、子供を中心に据えてそれを結集していかざるをえないし、この取り組みの中においてはじめて各々の使命・役割・責任を自覚できるものと思う。
「先生、わかった」「できるようになった」「おもしろくなった」という言葉に我々はどれだけ生き甲斐を感じ、励ましを受けることか。そういう中で「もっとわかりやすく魅力的な授業をしたい」と当然思うようになる。そしてさらに生徒ひとり一人の優れた点を伸ばし、トータルな生きる力を育む教師を目指していくことになるだろう。
このように子供のために一丸となっていく取り組み、つまり学校を変える取り組みの中ではじめて教師は教師らしく(それぞれが・・・・・らしく)成長していけることになる。愛情や情熱はこういう中でしか育てられない。
この取り組みにおいては、同僚とのチームワークも必要になり、主任を中心にしたチームワークも必然的に生まれてくる。管理職のリーダシップも要請され、管理職もまたそれに応えていく中で、生徒の成長(生きる力を育む)を目指す学校改革のマネジメントも行われていくことになる。
教職についたものは誰でも生徒にとって良い教師、良い・・・・になりたいと願っているものである。それを私はプロ精神だといっている。生徒を中心に据えた取り組みを、全関係者が一丸となってすすめていけば、だれもがプロになっていく(=真の人材に成長する)。このような機会と場を作り与えれば、特別に新たな企画や取り組みをせずとも、自ずと成長していくはずだ。これを別稿で、私はプロ精神の呼び覚ましといっている。
学校改革の取り組みの行われる中で、教師をはじめ関係者が必然的に成長していくことになる。
職種や立場の違いも役割分担として、また経験年数などの違いも、互いに優れた点を学びあう同僚性として良い関係を作るはずだ。これが私のここ20年来の学校改革、人材育成の基本的な考え・戦略・方針である。
この取り組みの中には負担になる、生産性のないタイムリーでない無駄な企画や取り組みは淘汰されて入り込む余地はない。反対に、取り組みに必要なものは特別に意図し企画しなくても、当然のごとく現場において計画されていく事になる。その段階になれば委員会のまとめた人材育成のプランも、必要なことが網羅されているので、現場における取り組みのチェック項目として活用されていくのでないか。メインの取り組みがなされていれば、はじめて「人材育成プラン」も有効なものとなる。
繰り返しになるが、生徒を中心に据えた学校あげての取り組のなされているところでは人材は必然的に育っていくが、子供を中心に据えた現状を変える取り組みの行われてないところでは、人材育成の必要性も必然性もないし、そこで行われる企画は無駄(時宜を得ないもの)で多忙感・疲労感のみをもたらす。これが本論文における私の主張である。
4,民間人校長の任用(採用・登用)がもしあれば、学校経営はどうなるのだろうか。
学校経営に新しい血を導入し、活性化を図ろうとする観点から、導入が進められてきている。先導した県においてはすでに期待された成果を上げつつあるようだ。これまでの現場の管理職が学校経営や人材育成の面でやり得なかったことを、民間人校長は新しい感覚手法でどんどん進めていきそれなりの成果を上げてきている。現場生え抜きの管理職やヒラの我々としては、ある面では良い気持ちはしないが(嫉妬の一種)、彼らは企業等で目標達成に向けて厳しく鍛えられ、多くの経験・ノウハウを有しているので、経営の方向を打ち出しその達成に向けて、リーダシップを発揮していけるのかもしれない。
でも、企業等の経営手法をそのまま持ち込むような浅い考えの人では行き詰まってくるかもしれない。民間から採用された校長であれば、赴任早々には以下のような会話も想定され、いきなり初日から経営的手法で臨むかもしれない。
以下の新規登用の校長(民間登用)発言は、私の考えに近いものであるが、教頭の発言は、現在の現場の管理職の考え方に近いものを想定している。
校長「いま本校において果たすべき機能・役割の最大なものは何ですか。」
教頭「生きる力を育むことだと思います。」
校長「生きる力はどんな力ですか。」
教頭「生涯にわたり人生をたくましく生き抜く力といえるかもしれません。」
校長「そのためには具体的にはどんな力をつけることを期待されているのですか。」
教頭「まずは心身共に健康でなければなりませんが、確かな学力(基礎的基本的な内容をしっかり身につけ応用できる力)を身につけ、多様な人々と協調でき、生涯にわたり社会の変化に対応していくたくましさ(あり方生き方の問題でもある)であると思います。」
校長「それに対して学校の対応はどうでしたか。現状はどうなっていますか。」
教頭「各種の答申や報告書、要望、アンケート等によると、残念ながら必ずしも十分に機能し成果を上げているとはいえないようです。」
校長「どこに一番問題があり、それをどのように改善していけばよいのでしょうか。」
教頭「これまでも精一杯やってきているつもりなんですが、・・・とくにこれを・・・ということは思いつきません。」
校長「分かりました、改革すべき問題点を見つけるための現状分析を進め、その原因を分析し、改善点を明確にしなければなりませんね。そして学校全職員および関係者のすべ
てが、子供の教育に力を合わせて改革の取り組みを進めていかなくてはなりませんね。どこをどのように改善していくべきか、そして各々がそれぞれの立場でどう関わっていけば良いのか、そのための取り組みはどうあらねばならないのか、子供を中心にした、このような議論を積み重ねていけば、きっと成果の期待出来る取り組みが見つかると思います。私はこのような考えのもと、関係者の皆さんの力が結集できるように最大限の努力を続けていきます。
改革・改善に力を結集するために、これまでの業務を見直し、思い切った縮小や廃止も同時に考えていく必要があるかもしれませんね。
でも、なにしろ私は教育に関しては素人ですので、私がこれまで経験してきたことが学校現場でどれだけ通用するのか不安です。関係者の皆さんのサポートが欠かせません。共通理解を得た全関係者の一致した取り組みでないと成果は十分に期待されません。知恵と力を結集するために、協議・相談を重ねていきたいと思います。私のやり方・考え方などに問題点を感じればどんな場面・ケースにおいても、指摘し助言・忠告をして欲しい。問題点に気づきながらもそれを放置することがあっては本当の改革は進みません。だから私の職員評価はこの観点から行いますので、常に問題意識、改革意識を持って望んで欲しいと思います。」・・・・こういう会話を想定してみた。
いま問題になっているマネジメントや人材育成に関しては、学校現場の我々には、指摘
されるような不十分な面があったのかもしれない。民間人の校長は、利益第一主義の中で鍛えられ身につけている経営手法(マネジメントに関して力)を有しているので、学校経営においてもそれなりに目で見える形での成果を上げられるかもしれない。
でも現場の我々には、生徒と接する中で生徒から教師らしく成長させてもらったという貴重な経験を有しているが、民間校長はこの経験を持っている人はいない。教育の成果は数値等で単純に測定できるものではないことを我々現場の者は誰しも思うものである。学校経営は任せられても、子供の教育は民間校長には任せられないという自負と誇りを持っているものだ。
5,「教育課題研究」こそ、前述した現状を変える取り組みであるし、生徒を中心に据えた取り組みそのものである。またこれこそが人材育成の唯一最大な取り組みでもある。いまこれを現場に甦らせなくてならない。
ここ2年間この取り組みが中断されているのが残念である。このすばらしい取り組みの再開が何よりも今の現場には必要である。
以下は私の論文よりの掲載です。馬場弘教で検索し、私のホームページのトップページにたどりつき、そこから「教育課題研究の取り組みについて」を開きますと見られます。
「教育課題研究」に関わる私の取り組みについて
馬場 弘教
1,はじめに
教育課題研究の取り組みは、たしか平成元年度から始まった。私の考えと一致するところがあり、これを私は全力あげて取り組んできた。でも多くの職場において、全職員で学校を変えていくという、この大事な取り組みがなかなか定着・進展してない現状が見られる。
年度当初に取り組み課題を県に報告し、年度末に1年間の取り組み成果を報告して1年のサイクルが終わる。この繰り返しで16年経過して現場は何か変わってきたのだろうか。多くの職場において期待されたほどの成果は見られないのでないかと思う。
その原因として、教育課題の取り組みの趣旨が十分に理解されてないこと。学校改革への戦略・展望を十分に持っている人がいない(少ない)こと。多忙化している日常の中で他事を優先し、この取り組みを厄介者扱いしていること。県への報告は立派な作文でその場をしのいできて、県もそれでよしとしてきたこと。などが考えられると思う。
私は、この教育課題の取り組みが形骸化してなかなか進展してない問題点を、14年くらい前から県や現場の校長に数回だが意見してきた。現場を本気で改革しようとする気持ちより、事なかれ主義で大過なく過ごしたいという気持ちが強いようにも感じてきた。
県は議会から、そして現場の管理職は県から、現場の主任層は管理職から、現場がスムーズに動いているという見かけの成果を期待される。宮仕えの間、部下は忠実にならざるを得ない。このシステム・構図はどうすることもできない。このことを十分に理解しているつもりでいるので、現状に歯がゆい思いはしても関係者を悪く言うつもりはない。
この16年間に仕えた校長は10人、仕えた教頭も数えるのが面倒くさくなるが、たぶん同じくらいかな。 中には比較的熱心な人も見られたが、多くは無関心であった。何がテーマに設定され、どんな取り組みがなされているのかをご存じない管理職も結構見られた。また中には改革の流れに棹さす抵抗勢力のリーダと化した管理職もいた。管理職とりわけ教頭は、外部(県)から現場が混乱なくスムーズに動いているように見せたいようだ。このことばかりに気を遣って、改革に対して消極的であったり、時には抵抗勢力となったりしたのだろう。
管理職の改革に対する姿勢一つで現場は一変する。管理職の姿勢が消極的であれば、現場はそれに合わせて動かざるを得ない。
2,教育課題研究は、
教育現場において改革・改善・解決すべき教育上の課題がどの学校にも存在する。教育課題研究とは、その課題解決に向けて組織的に解決方法を研究して、全職員参加の実践的な取り組みでその解決を目指していくことだと考える。
本校における教育課題のテーマとして今年度は、基礎基本の定着、進路意識の顕在化・・・・を、設定して取り組みの展開をしている。これは、本校の現状の課題からして適当なものと考える。
テーマは学校の最も根本的で重要で、かつ基本的なものがふさわしいと考える。具体に
は基礎学力の向上(定着)を図るものや、そのために指導内容の工夫改善を図るもの、あるいは、基礎的・基本的な内容の指導徹底をどう図るか。・・・などを掲げるのも良いかと思う。全職員が日々実践している授業のなかで、取り組みをすすめて、その前進や解決を目指すものなどがふさわしいと思う。
「授業の工夫・改善を通して、基礎学力の向上を図る」が、学校における究極の教育課題
である。ここで言う基礎学力とは、生きる力のベースとなるもので、県の教育目標である「豊かな心」「たくましい体」「すぐれた知性」であり、これらの向上を、授業(全教育課程)を通して解決を目指す取り組みを進めることが、学校の最も基本的であり、常に緊急性(子供にとっての1年は取り返しのつかない貴重な年月であるから)もあり、普遍的課題でもある。これらは学校における窮極のテーマ・永遠のテーマであるともいえる。年度ごとにテーマを変えるのもいいが、上記のような内容からはずれるものは、取り組みとしてはふさわしくないと考える。
3,「教育課題」の取り組みにおける私の戦略(解決を目指すアプローチの方法)
戦略といえば、良くないイメージを連想する人がいると思うが、何かをしようと思うとき、見通しを持たなければならない。「教育課題」の取組みは、現実を変えることを目指すものであり、これは戦いのひとつだ。しっかりした戦略を持たなければ現実を切り開くことはできない。
私の戦略は特別な方法や手段を使うわけではないが、私自身では常に戦略という言葉を強く意識している。学校においては全職員が一丸とならなければ成果が期待できない課題が多い。教育課題研究はまさにそれである。
私はまず課題の分析から始めたい。その後にプランが立てられ、実践に移されるべきものであり、けっしてプランから始まるのではないこと。解決すべき課題は何なのか、その原因は何か、解決方法は何か、そのために何をすべきか。このように議論を深めていきたい。このとき常に生徒を中心に据えての議論になるように留意しなければならない。
議論では教員ならだれでもが持っているプロ精神(教員になった人は誰だって子供にとって良い先生になりたいと願っている)に訴えたい。それと、一人での取り組みでは解決できない困難な問題でも、立場や考え方の違いを乗り越え、力を合わせていけば展望が開け、チームワークもでき、そうなれば問題解決に近づいていけるということ、これらを大事にして進めたい。取り組みは全職員が行うもので、実践的なものがそれに相応しい。生徒の現実から離れたところで、特別な研究するのではなく、毎日の実践の中にその研究が生かされていなければならない。研究のための、研究ではない。生徒を中心に据えたもので、生きる力を育むものでなければならないし、本校では基礎学力向上がその中核に据えられるべきである。
ともかく私の戦略にはプロ精神の「呼び覚まし」をベースにしている。管理職から見て表面的には十分に力を発揮してないように見える職員でも、プロ精神は共通に持っているものである。生徒中心に据えた議論をすれば、プロ精神が呼び覚ませられないはずはない。これが私の持論である。この考えで取り組みをすすめたい。こらは最もオーソドックスな手法である。
4,私の「実践」の中心課題は授業をどう充実させるかである。
多くの先生は部活動指導、クラス経営、生活指導、学習指導などの分野や、校務分掌の分野それぞれの分野でそれぞれで頑張っているように思う。優れた実践をされている人の多い中で、自信を持って私はこのような実践をしていますとは言い難いというか、躊躇してしまう。
自分は・・・をしているつもりであると思っても、その実践に対して他人がどう評価するかで見方が変わるからである。
教育とは「基礎基本をしっかり身につけさせること」が私の教育における理念である。昔の卒業生に会うと@先生は公式を使うな常識を使えと言っていたねAとにかく分からなかった。難しかったよB考えろ考えろと言っていたのはよくおぼえている。」などと聞く。学問的内容を高校生に噛み砕いての指導であったが、理解させきってなかったのだろう。
基礎基本に当たる物の考え方、捉え方は指導できたと思っているが、もっと分かりやすく教え「分かった」という気持を持たせるべきだったと反省している。いまならもっと分かりやすく教えられたと思うと、申し訳なかった気持ちにもなる。
いままで3回(県内の)初任研で先輩教師としての模範授業をやったことがある。今の若い人は皆さん授業が上手だから、逆に初任者から学ぶことの方が多かったような気がする。今思うと恥ずかしくなるような授業だったような気もする。私の授業は決して洗練された上手さはない。しかし力を付ける授業では誰にも負けないと自負している。私の授業を参観した人から、「迫力に圧倒された」「教材研究に裏打ちされた自信にあふれた授業」「教材研究に対するまじめな態度が感じられる」との評をいただいたことがあった。
私が授業で目指したものは、基礎的基本的内容をしっかり身につけ、どんなときでも、どんな場面でも応用の出来る本当の力を付けることをメインに取組(実践)んできた。生きていくベースになるような力(いまでいうところの生きる力)を培ってきた自信はある。
基礎的基本的内容をしっかり身につけさせるには、教材に対しての深い思索が必要であり、そして教科の枠をも超えた普遍性(哲学性)をも求められる。教師としての専門性・力量が求められる。そのために教材研究に多くの時間を割いてきた。私と同じように工業高校の同僚の先生たちの多くは教材研究に追われているようだ。教師にとって授業が命、その授業も教材研究が命だと思っている。
5,授業や校務分掌等の仕事では、現状を変えること(改革すること)を目指してきた。
私の仕事(勤務)に対する基本的な姿勢は「変革すること」。つまりもっと良い方法はないだろうかと常に考えることであり、校務分掌等の事務的な仕事は、その仕事をしなくてすむ方法がないのかをまず考える。その次にはどう手を抜くかを考える。また、どうしたら仕事においては能率が上がるかが常に念頭にある。
授業においては生涯にわたり応用発展していける力、つまり、基礎基本をしっかり身につけ、生涯にわたってそれがベースとなり変化する社会に対応していける力、これをつけたいと思っている。これは生きる力の育成そのものである。
工業高校ではいい授業をしないと生徒は聞いてくれない。充実した授業にするためにはそのための授業の工夫改善も重要だ。わかりやすく、楽しい授業がやれたという自信はないが、基礎基本を身につけさせる努力は最大限してきた。しかし目指したものと現実の間にギャップがあったのでないかと反省している。
変革・改革といっても若いときは個人レベルの工夫改善の域だった。多くの先生はそれなりに頑張っているのに学校に存する諸課題はなかなか解決をみない。組織的に改革を目指すものでないと前進は期待できない。全職員で力を合わせた一致した取り組みでないと成果は現れにくい。とこのように思うようになっていった。そんな折り、平成元年度から学校教育課題研究の取り組みが示されたのだった。授業の工夫改善をテーマに設定し、学校の取組みとして推進する役目を負った。これが私の教育課題研究との出会いだった
6,私の前任校における教育課題研究を中心にした実践の概要および、その取り組みで感じたこと・考えたことなど
私は本校に赴任する前、前任校・前々任校において教務主任・学習指導部主任・学部主事として、学校全体の、ある時は学部全体の教育課題研究の推進責任者(もちろん校長の下で)として延べ6年間取組みを進めてきた。この取組みは私の教員生命をかけるくらいの全力で取り組んだ。大きな足跡を残したとも評価できるが、私としては大きな挫折も同時に感じた取組みだった。
工業教育改革およびろう教育改革の取組みだったが、思うような成果を上げられなかった。私の目指したものはある面大改革であるし、革命であった。多くのいろいろな抵抗勢力に阻まれ苦い思いをした。校内人事によって全日制から定時制へと異動を希望し、さらにはろう学校に転勤していった事情には、私の過去の挫折があったのだった。
全県下での学校教育課題の取組みは、私が教務主任であった平成元年から始まった。工業教育には多くの改革すべき課題があった。上級学校への進学のために、勉強に精を出す普通科の高校生も、大学に進学してしまえば、目標を失ったかのように全く勉強をしなくなってしまうケースが多い。
それとほぼ似た状況が工業高校生の中に一サイクル早く現れていた。授業に興味を持たない生徒が多く、充実した授業を行うことに困難な状況が見られた。また教科書は基礎的基本的な内容の指導には向かないような応用的な記述が多く、理解させることが困難であると感じるものが多く、無味乾燥な授業になりがちであった。生き生きとした授業をするにはどうしたらよいか。このことが工業教育の大きな課題であった。
そのひとつの解決策としてモノづくりを中核にして専門教育を再編成する必要性も感じていた。私がこういう状況を克服するために提案した取り組みは、「「生きる力の育成」「自己教育力の育成、新しい学力観に基づく学力の育成」のため「授業の工夫改善」により「基礎的基本的な内容の徹底」を図ることであるが、そのため「指導内容の見直し」「内容の精選」「内容の精選と構造化」を図ろうというものだった。
全職員が関わる組織的かつ実践的な取組みで授業の工夫改善をすることによって、困難な状況が克服できるのでないかと思った。私はまず、現状分析を行い、その問題解決の方法の研究および実践を教科・学科会にお願いした。教科・学科会で議論を深め共通理解の得られたところで取り組みを進めていけばよいのでないかと思った。
学校全体としての方向性は必要だが足並みを完全にそろえる必要はないと考えていた。それぞれの教科・学科における科の特性に合わせてやれるところからやればよいと思っていた。先導する教科・学科が出て、それを参考に後追いする教科が出てきて、やがて全体としてひとつの方向に進んでいけばよいのでないかと考えていた。私の戦略戦術として、全職員が毎日かかわるところの授業を充実させるために、教科・学科会を最も重視した。
専門学科においては実習教師の先生方の力が十分に発揮されやすい環境ができ、そうなったら改革はさらに前進すると考えていた。そんな中で、モノづくりを中核とした改革が前進する(全職員が関わることになるので)のでないかと見通しを持っていた。
学校全体としての方向性は持ちつつも、具体的な取組みの進ちょくにおいては、その科に任せる方法をとった。ある面柔軟に、科の自主性に任せる部分があり、決して強制的に強引にある方向に引っ張っていくつもりは持ってなかった。
これでうまくいくはずであったが、取り組みそのものが、現状を大きく変える展望(狙い)を持つものであり、抵抗勢力にあい、なかなか足並みがそろわなかった。提案の多くは骨抜きされ形骸化され形だけの取り組みになって、中身のない表面的な取組みになっていった。
私の取り組みの最大の欠点は、管理職の支えを得ることができなかったことである。学校を表面的にうまく動かしたい管理職と、現場を抜本的に変えたい私の取組みは衝突を免れなかった。改革・改善には抵抗勢力というものが必ず出現するものである。学校を動かしたい管理職にとっては、そういう抵抗勢力をも学校経営上では大事な職員であり、全体をうまく動かすためには私の取組みをサポートするより、抵抗勢力と手を組んだ方が学校がうまく動くと考えた様子が十分に窺えた。私の取組みはある面危険な要素を含んでいたのでないのかと・・・・つまり全職員をひとつの方向にもっていこうとしたのであり、これは本来管理職サイドでリーダシップをとって進めるべき取組みでもあるし、また職員団体側にしてみても、ある面合理化の一種であり労働強化の側面も持ち、許しがたい取り組みと見えたのかもしれない。私の取組みに対する抵抗勢力の大きなものを分析するとき、このことを感じた。
学校を大禍なく運営したい管理職にとって、私の取組みをサポートするよりむしろ押さえ込んだほうが良いとでも思ったのだろうか。私の取組みに抑え込もうとした管理職もいたが、全く無関心な管理職もいた。しかしいま、冷静になって考えるとき、私の取組みの戦略性を理解されてなかったのかもしれない。学校において取り組まれている教育課題研究のテーマすらご存じない管理職が多くあった。年度末の教育委員会報告の起案を見て、初めて知るというケースもあった。
前々任校で私の取組みに対して、「あなたのやろうとしていることは革命だよ。今までの永い本校の歴史の中で全職員を巻き込んで学校を変えようなんて考えた人はいなかったし、たとえいてもやれた人はいなかった。抵抗にあいつぶれることは明白だ。」と言われた。忠告だったのか、警告だったのか、10年ほどしていま改めて思い起こしてその人の冷静な見方に敬服する。組合員で実習教師の先生だった。その人から何度かゴルフの指導をしてもらった仲ではあったが、私の取組みには警戒されていたのだろうと思う。
前々々任校での取組みは私が去ったあと5年くらいは十分にその足跡が残っていたが、徐々に跡形もなくなって行った。前々任校では私が去ったあと、たちまち跡形もなくなっいた。その後の校長の時代に文部省(文科省)の研究指定校となり、見かけ上は私の取り組んだものとほぼ同じ取組みをしていた。授業の工夫改善をテーマにしたものであったが、二年間の期間をかけた私の取り組んだものが、ただ形だけの取組みになっていた。授業の方法論ばかりで、内容精選を目指す内容面の取組みとはなっていなかった。ほんの数年前この学校において、内容面に視点をあてた取組みがあったのだとその時の校長に、その当時(私の取り組んだもの)の取組みをまとめた研究紀要を見せたのだった。校長室に置かれていた研究紀要など目を通した様子もなかったし、関心もなかったのだろう。あれほど懸命に取り組んだものが、跡形もなく無くなって行ったのはさびしい限りであった。
しかし、宮崎工業高校の全日制の学習指導部において業務内容を大幅に改善したが、それは10年以上経った今も多くはそのまま継承され定着している。私が改革したことを知る人は今は誰もいないだろうと思う。しかし継承され残っているのはうれしいものである。
7,これまでの教育課題の取組みを通して考えたこと、学んだこと、気づいたことなど
@項からD項までの下線部は私の造語
@学習指導の工夫改善は何をどう指導するかを考えることである。
宮崎工業高校の教育課題の取り組み(13年前)の中で考えついた言葉である。授業の工夫改善といえば、方法論に目が向き、指導内容については今までほとんど議論されたことがない。私は内容が最も重要であると訴えてきた。これに対して教科書で指導するのだから内容を考える必要はないという意見や、教科書の採択の時点でその作業は終わっているなどという意見もあった。また内容の精選といってもどこを指導し、どこを省くかということは日常的にやっていることであり、ことさら取り組む必要はない。などの意見もよく聞かれた。こういう意見が大勢を占め、内容の精選作業を核とする学習指導方法の改善の取組みが思うように進展しなかった。抵抗勢力の存在をいやというほど味わった。
A読み書き計算と読み取る力書き表す力の育成が大事である
延岡ろう学校の教育課題の取組みを考えるときに考えついた言葉である。日向工業高校においても同じと考える。ろう学校の生徒は努力によって比較的漢字は読めて、書くことまではできる。しかし簡単な文章でもその内容を理解することが苦手である。また文章を書くことも苦手である。彼らにとって日本語は、外国語みたいなものである。我々が外国語で話しをし、文章を書くのと同じような関係であるようだ。外国語の単語は努力して暗記することができても、それを相手に伝わるような語順(正しい文法)で表現することは多くの人が苦手としているところである。それゆえに書き表す力・読み取る力はろう学校の生徒にとって自立のためにすごく大事な学力である。さらにはコミュニケーションの力も大事である。日向工業高校では、話す力というか、聞くこと、・・・・も含めてコミュニケーション全般の力も大事である。
B生きる力は生かし・生かされるなかで生きてくる。
これはろう学校の生徒の学力観(別紙は工業高校版に書き直した)を考えるときに思いついた言葉である。
生きる力を育成することが大事であるとよく言われているが、生きる力の多くは他者との関係において問題になってくる。他者との関係のなかで生きる力を考えていかなくてはならない。多様な考えを持つ他者との共存共栄のなかで初めて生きる力が発揮されてくるものと思う。
C生きる力は生き抜く力
平成14年度のろう学校高等部の教育課題のまとめを書くときに思いついた言葉である。生きる力とは、今を生きる力(静的学力)でもあるが、変化に対応していくあり方・生き方の問題でもあり、たくましさ(動的学力)ともいえる。知・徳・体にわたる基礎基本がしっかりしていなければ生き抜く力にはならない。
D生きることは、働くことであり、学ぶことでもある
これは、前々任校の働きながら夜間に学ぶ定時制高校の生徒、とりわけ高年齢の学ぶ人たちの姿から教えられた言葉だ。「生きる」「働く」「学ぶ」の3つは合わせて1つだということだ。別な言い方をすれば「学ぶことは生きがいでもあるし、生きることそのものでもある」3つの言葉の順序を変えると、生きることは・・・・、あるいは、働くことは・・・・となる。
97歳(当時)の大学生歌川さんの言葉には「まだまだと思う気持ちが大切。勉強や努力を忘れた人に、もはや青春はありません」とあった。「生きる」「働く」「学ぶ」この3つの言葉は生きがいとか、楽しさとか、充実感がともなってセットになっているということだ。定時制高校は学びたい人が学びにくるところ、つまり生涯学習機関であり、たとえ中卒15歳でも定時制高校に入学した人は生涯学習者だと思った。門戸を一杯に広げ、学びたい意欲が最大な入学資格で、いつでも誰でも入学できる定時制高校は「学びたいときが入学の時機」反対に「退めたいときいつでも退められる。都合がつけ(あるいはやる気の出たとき)ばまたいつでも入学できる」そんな教育機関の性格を強めつつある。私はせっかく入学しても学業を続けられない生徒には「生きることは、働くことであり、学ぶことでもある」と指導し学ぶ意義、楽しさを訴えてきた。
*
造語についてはとくに書き留めていたわけではないので、とりあえず教育課題に関係するものとして、思いついたものをあげてみた。 2004,12
5,シラバス作成に関すること
学習指導の工夫改善において、「何をどう指導するか」というテーマが最重要である。とりわけ指導内容を明確にすることを何よりも優先して取り組まなければならない。「シラバス作成に関すること」としてインターネット上に掲載しているものを、抜粋して紹介します。これなどは学校の中核的な機能を活性化するためにぜひ参考にして欲しい資料です。
ものづくり教育について(V)(生き生きとした教育活動を目指すシラバス作成に関すること=工業高校の活性化について)
日向工業高校 馬場 弘教
はじめに
(略)
充実してない授業の原因は?そしてその改善策はあるのだろうか?
(略)
2点目の基礎学力不足の問題について
(略)
3点目の勉強の動機(目的意識)が弱いこと、それと勉強しなくてもどうにかなるとの思いがあることについて
(略)
これらの問題解決にはシラバスの作成がポイントかもしれない (進路保証や学力保証の考えを持つことが大事)
進路保障、学力保障と言う言葉をしばしば見たり聞いたりしてきた。これは差別から進路が制限を受けたり、学ぶ機会が奪われたりすることに対して、進路保障、学力保障という意味合いで使われてきた。私はこの言葉は使ったことがなかったが、最近疑問を持つようになってきた。つまり入学した生徒に対して学校の責任として十分なる学力をつけ、希望する進路の確定を責任持って請け負うという意味では、進路保証、学力保証が正しいのでないかと思うようになってきた。(保障でなく保証)
インターネットで調べると、数的には保障がまだ多いが、保証も結構使われている。近年学校の生き残りをかけ、学校から情報を発信し、学生・生徒に入学志望を呼びかける動きが目立つ。私立を中心に「保証」という言葉が使われて来ているように思っている。そういう情勢を背景にシラバスが作られ、外部にそれを発信されているようだ。私がシラバスを知ったのはこのときだった。
シラバスの深い意味は知らないが、教育計画のことのようだ。それもある程度詳細なものを言っているようだ。そこに記述されているのは、指導者、使用教室(施設設備)、使用教科書・参考書、指導計画、指導内容・目標・達成目標、授業の進め方、成績評価方法・水準、試験等に関することなどが記載されている。
それらのなかでも私は達成目標、評価方法およびその水準の記載に注目した。本校ではミニマムエッセンシャルズが作成されている。これをベースにシラバスを作成するには、それをもう少し詳細にして、あわせて達成目標(水準)の設定もしくは達成度問題の作成および評価方法と水準などを組織的な議論を経て決めていく手順を踏めばよいと考える。
このようにして作成したシラバスを公開(当面は保護者まで)し保護者と生徒に徹底し理解を求める。我々学校側にしてみれば、学力保証の水準(基準)であるが、生徒の側には達成基準である。この基準の達成は我々側の責任でもあるが生徒側の責任でもある。「保証」には目標の達成に向けて双方が努力していく意味合いを持つ。学校側のみが責任を負うのではない。シラバスで達成目標を明示すれば、生徒は学習(勉強)の目標ができ頑張れるのでないかと思うし、我々学校側にしてみれば基礎基本をしっかり身につけさせるべき責任も明確になってくるのでないかと考える。
このように考えるからシラバスが本校の教育課題の解決策として有効であると思えるのである。唯一にして最大の解決策であるような気がする。作成にはかなりの労力を要するかもしれないが1〜2年間位を目途に精力的に取り組むべきである。全てに優先してこの作業を学校あげて組織的に取り組むべきと思う。教育委員会からもその作成を求められているようなので、作成に取りかかる絶好の機会でないかと思う。
私が前任校で取り組んできたものはシラバス作成だった
私が前任校で関わった教育課題研究の取り組みは、学習指導の工夫改善についてであった。私は学習指導の工夫改善の取り組みにおいては、「何をどう指導するか」ということを組織的に議論することが最重要事であると考えた。そしてそれを訴え理解を求め取り組みを進めてきた。学習指導の工夫改善といえば、これまではどう指導するかという授業方法にだけ目が向きがちで、指導内容については二の次とされてきたように思う。 私が以前(平成4〜5年度)に取り組んだ「学習指導方法の改善」の取り組みにおいて目指した意義と効用を現時点で読み返してみると、これから作ろうとするシラバスのねらい(後述)とほぼ同じであることに気づいた。いまで言うシラバスだったといえる。当時シラバスという言葉は知らなかったが、目指したものはほぼ同じであった。私の考えた取り組みは、まず指導内容(基礎基本の抽出作業とそれの構造化)を明確化することだった。懸命に取り組んだが力不足で、提案した多くのものは値切られ、管理職の理解とサポートも得られず挫折したのだった。その結果、ミニマムエッセンシャルズみたいなものがやっとできたのだった。
私の目指したものは、具体的指導内容(指導方法も含む)を明らかにする取り組みだった。到達度問題の作成を最終目標とし、それを生徒に示す。それにより生徒の自主的な学習態度を引き出し、学校の活性化を目指すものだった。つまり学習指導の工夫改善からのアプローチであった。私がポイントとして考えたものは、到達度問題を生徒に提示し、教師と生徒がともにその達成を目指すものだった。
この私の考えた取り組みは、全職員が一丸とならなければならないものだった。取り組みが学校改革のキーポイントとしての位置づけ・性格を持たせていた。最近教育委員会の求めるシラバスがそこまでのねらいを持たない単なる指導計画風(MEをやや詳細にした程度)で終わったら、学校改革(活性化)の目的を達することはできない。
いま教育委員会から作成を求められているシラバスは、保護者や外部にも情報の発信を行い「開かれた学校作り」を目指し、その中で学校の活性化を図っていこうとするものである。これには「情報開示」「説明責任」などの時代の要請も背景にあり結構なことだと思う。
シラバス作成に当たっては、(前記と一部ダブり)
本校においてこれから作ろうとするシラバスは、本校で育てたい生徒像・学力観を先ず明確にした上で、各論である各教科・学科の作業にすすむことになると思う。作るものは単なる教育計画でなく、具体的に指導内容を明確化したものでなくてはならないと考える。
本校の既存のミニマムエッセンシャルズをベースにし、それを発展させれば最小限のシラバスができるが、この機会に到達度(達成度)問題の作成と評価水準の作成までを目標にした本格的なシラバス作りに取り組むのがよいのでないかと考える。この作業は、目標とする到達度問題(水準の設定を含む)から、逆に指導内容を考えていく手順で進めていけば良いのでないかと考える。こうすれば比較的容易(組織的な議論を要するので時間は必要)に出来上がるのでないかと思う。委員会の考えているシラバスは、当面ミニマムエッセンシャルズに近いものを要求しているようだが、この機会に本格的なものを視野に作りたい。本校においては、各教科において、どういう学力をどの程度身につけるべきかを記載したシラバスを作りたい。具体的には、@この章での学習内容、Aこの章での学習でこんな問題が解けるように学習してほしい、Bさらにはこんなことまで解けるようにすることが出来ればよい。などと学習内容とその到達度(最低限のものから発展的なものまで)を記載し、学習者の自主性と意欲の喚起を促し、現在学校が抱えている学習指導面での諸課題の解決に資するものを想定して作るべきであると考える。実習におけるシラバスも当然他の科目と同様にその達成目標を具体的に明確にする必要がある。具体的には・・・・を使って・・・をすることができる。・・・の図面を見てそれを作ることができる 。など
学習の動機付けとなるもので、学ぼうとする力(意欲・興味・関心を持ち自ら意欲的に学習に取り組む態度)や学ぶ力(学習方法を身につけ、学習を持続発展する基礎・基本の力)の向上にも配慮しなくてはならない。作成されたシラバスは、少なくとも学校、生徒、保護者の三者が共通認識を持ち、その連携の上に日常的に活用されていくものでないといけない。このようなシラバス作成には労力はいるが、授業での悩みはそれ以上に減るはずだ。
このようにして出来上がったシラバス(拡張シラバスというべきもの)を、生徒・保護者に配布徹底し、目標達成に向けての共通理解を得る。このシラバスは我々学校が目指す教育内容の外部に向けての発信でもあるが、生徒の側にすれば具体的に到達目標を示されたことになる。これを評価や単位修得の目安として意識させ、これによって目標達成に向けての意欲を喚起したい。シラバスは学校側にしてみれば学力保証の基準であるが、生徒側からすれば達成基準でもある。
ともかく平常授業の充実策が何よりも重要だ。ここに議論を集中し解決策を見つけ出さなくてはならない。全職員はもちろん、生徒本人、保護者も含んだ形での共通理解(納得)の得られたもので、全関係者による一致した取り組みでないと前進・解決は難しいと考える。
シラバス作成の目指すもの(意義と効用)
以下に私が考えるところのシラバスのねらいをあげる。これは以前の勤務校で平成4年〜5年にかけて「学習指導方法の工夫改善」の取り組みの際に提案していたものである。これから作成したいと考えるシラバスと同じものだと思い一部追加修正し記載する。
1,シラバス作成においては指導内容の見直し(指導内容の精選と構造化)作業が行われる。これには組織的な議論が必要である。当然チームワークが必要とされこの作業を通じてそれが生まれる。
生徒を中心に据えた、実践的、組織的な議論が求められる。こういう議論の中で生徒に身につけさせるべき内容が明確になり、教材が生き生きと組み立てられ、その指導が徹底して行われるようになる。
少なく学び多くを知る応用発展する真の学力(確かな学力)を身につけさせられる。生徒が興味・関心を持って積極的に参加する授業の工夫改善の努力が必然的に求められる。このようにして教育活動全般が活性化される。
2,シラバスは常に見直しが必要とされる。データの蓄積や経験ノウハウの共有が必要となる。授業ファイル等の記録・保存が必要である。一人ひとりの経験が共有化・財産化されることで、より良いものに発展していける。
3,シラバスは学校長名で示されるのであるから、その目標の達成に向けて教師もそれを確実に身につけさせる責任があり、生徒もそれを達成していく責任がより明確になってくる。つまり目標達成は教師と生徒間の個別な関係を超え、より公的になる側面がある。
生徒と教師の双方にとって責任と義務が生じ、目標達成に向けての意識がより強く生まれてくることになる。生徒は目標に達するまでの指導を求める権利、わかりやすい授業を求める権利があり、教師側にもそれに応える責任・義務がある。生徒は目標達成に向けての努力の義務あり、教師もそれを求めていく責任がある。
単位認定は目標の達成ができたかどうかが基準になるので、双方にとってより厳しいものにならざるを得ない。目標達成は教師と生徒との共同作業であり、そのために生徒の立場に立った指導が行われ生徒一人一人を大切にしていかなくては困難である。指導と評価のありかたも含めて学習指導全般について、常により良い方向を求めて変わらざるを得なくなる。生徒と教師の関係はより望ましい関係になっていける。
4,一斉授業は全員が一定レベルに達成することを目指すので、落ちこぼしの問題は生じない。よく分かる者は、より発展的な問題でそれに挑戦できることにもなる。
5,目標達成に向けて保護者との連携も必要になってくるし、それが行える機運が生じてくるものと思う。
6,学校の教育活動が中学をはじめとする地域に、より理解され開かれたものになり、生徒も学校以外の社会の中で自分の存在・位置を確認でき成長していける機会が増えるようになる。 2005年2月
5,学力観(学力の全体像)・・・および他の論文の紹介
学校の中核的機能を考えるには、学力観(学力の全体像)を明確にしなければならない。
インターネットで馬場弘教で検索し、私のホームページのトップページにたどりつき、そこから「学力観(学力の全体像)」を開きますと次ページのものが見られます。
この学力観の図のコマーシャルになりますが、思想界・教育界で著名な川田殖氏と学力観について対話する機会があった折りに、私が示したこの図を見て「これはすごい。これを基にすれば100冊の本が書ける。是非いろいろな場面で使わせて欲しい」と絶賛して下さったもので、私の自信作の一つです。
以上紹介したもの以外にも結構おもしろいものを掲載しています。他のページも閲覧していただけますと幸いです。
掲載中の論文は一編ずつに、私のこれまでの悩み苦しみ抜いた取り組みの経験や、思索が凝縮されています。論文は、オリジナル性の高さ、視点の新鮮さが命です。他人の多くの情報に触れながらも、常に自分だけのオリジナル性の高いものを求めてそれを記述しています。読んでいただいた方には決して失望はさせない自信があります。読後には掲示板に「感想・意見」を書き込み(投稿)してくださるとうれしいです。お待ちしています。