T、最近の教育用語で気になる言葉(文科省、教育委員会指導の誤り)
2003,12,25
宮崎県立延岡ろう学校 馬場 弘教
1、「教育内容の厳選」について
精選はずいぶん前から使われている言葉である、最近(現行指導要領には既に使われている)目先を変えて厳選といっている。この用語はどこで誰が使い始めたものか勉強不足で私は知らない。この厳選という言葉は、文字通り多くの教材の中から篩(ふるい)にかけるようにして選ぶニュウアンスを持っていて、元の形を残しての選別作業を意味しているようだ。つまり篩いの目を大きくして選ぶ(大きいとより大事なものが残ることになる)事を厳選と称しているのでないか。この厳選では基礎基本の体系(構造)が壊れる危険性がある。基礎基本に当たる部分を、選びぬく(選りすぐる)ことだけを意味しているのでないか。これでは不十分だ。
一方、精選は教材の持っている基礎的・基本的なものを生徒の発達段階や学習過程を十分に考慮して行う選び抜きの作業であり、分析作業(高度の専門性が必要)を通して選びぬくことをすることで、教材に分析等の加工を施して、元の形とは違ったより根源的な基礎的基本的なものを見つけ出す作業と考える。教師の専門性がより高次に求められ創造的な作業を意味していると思う。現場においてこの精選作業が進展してないからといって、目先を変えて用語を換えるのは納得できない。「精選」のもつ教育的深い意義を見失ってしまう危険性が極めて大きい。厳選という言葉からでは中味のある精選という言葉を決して想起できない。一刻も早くこの厳選という言葉は撤回して欲しいものである。
2、「確かな学力」について、
教育用語は長く使うと新鮮味がなくなり、本来持っていた深い意味合いも忘れて来る。全く同じ内容でも時々模様替えして、言葉の上滑り(マンネリ化)を防ぐ必要があるようだ。自己教育力、生きる力、新しい学力観に基づく学力、確かな学力・・と、最近はサイクルが短いようだ。新鮮さを呼び戻すため店舗改装するように時々、教育用語も変えていく必要があるようだ。これらはほとんど内容的には同じだと思うが、新たな意味合いや重点(視点)の置き所がわずかに違う(付加されたりして)のかも知れない。
使い古された言葉に新鮮味を与えるのはいいことだ。しかし新しい言葉を使うことによってそれまで古い言葉を使っていた時代を切り捨てるというか、過去の実践やそれに取り組んできた人を軽視したりしてはいけない。若い人は新しい言葉を若干振りかざす傾向が見られるのは残念なことである。年配者も過去の実践に自信を持つべきだ。
ところで、「確かな学力」についてであるが、この確かな学力の反対の言葉は確かでない学力だろうと思うが、見かけというか、しっかり身に付いたものでない学力のことだろうと思う。ここでいう「確かな学力」は生涯学習の観点が不十分であると思う。従来の「自己教育力」や「生きる力・・・」の方が生涯学習の観点をも包含しているので、より確かな学力でないかと思う。最近使われだした「確かな学力」は生涯に渡って発揮できるような学力までも意味してないようだ。言葉そのものにそこまで含ませるには無理がある。自己教育力」や「生きる力・・・」の言葉には自ずと生涯学習の観点を含んでいる。つまり基礎的基本的内容をしっかり身につけ、さらにそのうえにあり方生き方の指導や学習方法の習得、他者との共存共栄などの幅広い概念を含んでいる。「確かな学力」ではこれらがほとんど軽視され見えなくなってくる。目先を変えた言葉であるが、かえってこの言葉により明らかに30年以上は後退したようだ。こんな言葉を流行に流されて使いたくはない。
私は「生きる力」が最も好ましいと思う。生きる力とは、今を生きる力(静的学力)でもあるが、変化に対応していくあり方・生き方の問題でもあり、たくましさ(動的学力)ともいえる。知・徳・体にわたる基礎基本がしっかりしていなければ生涯に亘ってたくましく生きて行く生き抜く力にはならない。この「生きる力」こそ、教育現場で使うべき用語であり、望ましい学力観でないかと思う。
近年県内で行われた2校の指定研究の発表会に参加した。両校とも研究タイトルに若干の違いがあるものの、基礎基本の定着を目指した学習指導法の工夫改善を通して・・・というものだった。
基礎基本をテーマとしながらも、研究発表においても協議会においても、その基礎基本の内容については触れられることはなかった。「指導と評価の一体化」についてという言葉はたびたび聞かれたが、指導内容については全く聞かれなかった。
この「指導と評価の一体化」という言葉は、「生きる力」が言われ始めた時とほぼ時期を同じくするする。およそ10年前になるだろうか。そのころから盛んに使われた言葉である。
生きる力が言われ始めてそれより少し遅れて、それに関連するものとして指導と評価の一体化という言葉が使われ始めた。文部科学省・教育委員会サイドの研修会等において、盛んに使われた。
私は新しい言葉を比較的受け入れてきた方だが、この指導と評価の一体化の取り組みの推進については当初から危ぐの念を持っていた。
指導要領の改訂のたび教育改革の必要性が叫ばれてきた。ここ30年間、いやもっと以前からかもしれないが、いつの時代にも求められて来ていた改革の本質は、基礎的基本的な内容の指導の徹底であった。そのためにどんな取組みをしていくかということであった。実践的な取組みが常に求められてきた。ところが文部科学省や教育委員会のすすめるところの「指導と評価の一体化」は、考え方であって実践的な取組みではなかった。ピンボケしているというか、本質に迫っていくものではなかった。
「指導と評価の一体化」の本来の意味合いは、基礎的基本的内容の徹底を図るための考え方で、@事前にその内容(基礎的基本的内容)明らかにし、A到達度(評価のための問題作成も含む)を設定し、Bそのための最善の指導方法で授業を構成し、C基礎基本の定着状況の評価を毎時間して生徒全員の学習状況を把握しDその反省の上に不十分な生徒へのフォローと次からの授業の改善を行う。
ここで最も重要なものは、@の段階の、1時間1時間での授業の中で生徒に身につけさせるべき基礎的基本的な指導の内容を明確にする作業である。時代が変わりどんな言い方をしても教育においては、この段階で手を抜くことは出来ない。内容の精選という言葉の出てこない「指導と評価の一体化」は、実に危険な要素を内包していたのである。「内容の精選」の必要性に紙一重のところまで接近しながらも逆にそれから目をそらしていったのである。文部科学省・教育委員会サイドの関係者は大いに反省して欲しいものである。
指導と評価の一体化に関連する言葉として生きる力、到達度評価、自己評価、絶対評価、観点別評価・・・・・。がある。「指導と評価の一体化」は本来基礎的基本的内容を明確化する指導内容の分析の上に成り立つものである。考え方に留まって取組みにまで進展しない上滑りして本質に迫っていかないので、教育委員会サイドの研修会を私はピンボケしているといって批判したのだった。
案の定この「指導と評価の一体化」は、教育の質的転換が求められている現場および教育者に、「基礎的基本的な内容の指導の徹底」を促すものとはならなかった。評価の方から逆アプローチして、指導内容の改革を求めるものだったのだろうが、この取り組を推進する文部科学省や教育委員会は、本質的改革のための手間を惜しんだのか、力量不足だったのか、中身の伴わない上滑りした指導に流れてきた。
この言葉を聞いたときから現在の状況を私は予測していた。これら委員会の取り組みによって、むしろ現場は基礎的基本的な内容の指導から目がそれて言ったのでないかと思う。教育改革の逆推進をやってきたというのは言い過ぎだろうか。この十年間、前進は見られず後退傾向が見られる。
私は若い頃、管理職試験を受けたことがあるが、受験をあきらめる前の4年間ぐらいは、
出題された教育論文において、教育委員会の教育改革の進め方について批判的意見を述べてきた。私の教育論文は受け入れられることなく、ついに校長を通して指導(注意)を受けることとなった。その時点で管理職の道を断念したのだった。そういう意味で「指導と評価の一体化」という言葉は、私には特別な意味を持つ教育用語である。それ以後私は現場における教育改革推進の前線から身を退くことになった。そいうことでここ10年間ほどの最近の教育思潮については、疎いものがある。
ここで、私が一線から退いたあとのここ最近の10年間の動向が気になり、最近の情勢・流れをインターネットで検索してみた。依然と委員会サイドの研究や研修会ではこの言葉が盛んに使われているようだ。しかし現場における研究・取組みにおいては指導内容に目が向き始めているのが分かる。教育改革は現場から遅々としてではあるが、動き始めているのを感じることができる。教育(指導)内容の見直しというか、教材の分析は指導者にとって重要なテーマである。教育内容の改革にスポットを当てた取り組みが最近ずいぶん増えつつあるようで私の主張するところと一致していて大変に嬉しい事である。
4、なぜ、「教育内容の厳選」「指導と評価の一体化」「確かな学力」を使うのか。
私は今まで用語を変える理由を、目先を変えて新鮮味を出すためだろうと思ってきた。ところが最近委員会サイドに勤務したことのある人と、これらの用語について対話することがありその人がヒントを与えてくれた。そこで改めてその理由を考えてみた。ヒントを下さった人は「現場の実態が理想とするところにないので、より現実に近づけた言葉を使用したのでないかと推察する」という主旨のことを話された。文部科学省・教育委員会においては、現場においてこれらの言葉の目指している取組みの進展がみられない実態があったので、現場の実態に近づけるために理想を捨てて、その目指すべきもの(用語)をレベルダウンしたというのが当たっているかもしれない。なるほどそうかも知れないと思った。内容の精選作業がいかに高い専門性・力量を要するかということと、生きる力は生きる力を持っている人でしかイメージできないという少々分かり辛い側面を有しているので、これらの用語の使用を避けたのかも知れない。意図してレベルダウンさせたと見るのは好意的過ぎるのかも知れない。用語の持っている内容がレベルダウンしていることを、自覚出来てないのかもしれないと見るほうが自然かも知れない。
いずれにせよレベルダウンした用語からは、決してその内容以上のものは生まれない。
一刻も早く、「教育内容の精選」、「生きる力」に戻して欲しいものである。
5、このように述べてきたが、もしかして私に誤解があったのかもしれない。
11月27日に文部科学省の教科調査官の講演を聞く機会があった。その人は、生きる力の育成のために@確かな学力、A豊かな心、B健康と体力の3つの要素を大事にしなければならないと言うのだった。つまり生きる力を育てるためには、知・徳・体をバランスして育てる必要があるとの話しだった。言い換えれば確かな学力は生きる力の大事な要素であるとのことだった。この人の言われている通りに文部科学省も使っていたのだったら、私が先程来述べてきた(2項、4項)ことは少し的外れだといえる。調査官の言い方にはすごく納得できるし合理性があるので、「確かな学力」が「生きる力」とは別に新たなものとして使われ出したと思っていた私の方が間違っていたことになる。今後教育委員会や現場でどのような使い方をするか注目していかなくてはならない。