聾教育に関しての考えについて、最近気になったこと。
最近職場内で、話題になったこと数点をテーマに私の考えを述べると
馬場 弘教
(1)訓練すれば口話(読み取り)はできるようになるというが
訓練すれば口話はできるようになると思っている人が多いのかもしれない。口話は聴覚活用が十分に可能な人が、それまで獲得した語彙の範囲内で、しかも話しの内容も前後関係等から類推が可能で、口形が読み取れて・・・などの各種の条件が整った上で、かろうじて通じるに過ぎない。どれかが一つでも不十分だと通じにくくなる。
昨日はどこに行ったの?釣りに行った。誰と行ったの?友達と行った。何がつれたの?鯵が一杯つれたよ。こんな日常的な会話なら比較的聴力の厳しい者でも可能なようだ。口話が得意な人でも少しこみいった話し(内容のあるもの、抽象的なもの、心情的なもの)になるとスゴク厳しく困難になってくる。
(2)(言語獲得などにおける)臨界期などの存在は信じない。高等部段階でもやれば言語力をはじめとする基礎学力がどんどん伸びるはずだというが。
ろう学校において言語獲得の臨界期を話題にする事はほとんどない。避ける気持ちは分かるが、本当の意味での改革を議論するときは、避けて通れない重要な問題だ。臨界期の存在のある事は認めそしてそれを信じても口にしないのと、それらを認めず無いのだと言うのとでは大きな違いだ。我々は伸びるはずだと思って取組みを強化持続していく事は大事であるが、言語が獲得されていく過程をもっと科学的な態度で研修し、聾教育の本質的解決に向けての取組みも忘れてはならない。
ヘレンケラーは臨界期以前(直前)にサリバン先生にめぐり会って(それ以前にも家庭教師がついていた)奇跡が起きたのであって、臨界期以後に頑張って奇跡を起こしたのではない。ところで私はろう学校に赴任してはじめて「奇跡の人」はヘレンケラーでなくサリバン先生であったのだと気づいてきた。
(3)「僕たちの言語を奪わないで!」という、ろう児の人権宣言を取り上げたマスコミ報道は偏向しているか。
全国のろう学校では一部、いや多くの学校で手話を導入している(実際は日本語対応手話でしかない、通じやすくするためのトータルコミュニケーションの一つのツールとしての使用で、言語としてのモノではない。その結果ろう児には分かり辛い)が、ろう児から見れば、それでも口パク同然だ。日本手話の環境を整えて欲しい。そのために聾の先生を採用し増やして欲しいとの訴えは、私は痛いほどよく分かる。聾の先生が少なくて(全然いないところもある)ろう児がコミュニケーションで苦労している実態を解消して欲しいとアピール(人権回復の訴え)したことを報道したニュースは、ちっとも偏向してないし、ろう学校の教師であれば、ろうの親子の立場であの報道を真摯に受け止めるべきでないかと思う。
(4)英語弁論大会に参加させるために原稿を暗誦させることの教育的意義は
丸暗記には文型暗記など重要な意味があると思うが、英語の基礎の不十分な状態での暗記は、我々がお経を暗記するぐらいの意味しかないのでないかと思う。
弁論大会の参加には、その暗誦に多くの時間を使っているのであるから、それに見合う成果が欲しい。英語の基礎(日常よく使う外来語が理解でき、ブロークンな和製英語でも少しでも使える様になるとすごい)を身に付ける事がスゴク大事なことだと思う。これらの基礎学力を少しでも向上させる取組みが、本校の英語教育として大事な事でないかと思う。
でもASL(英語対応手話のこと)を使用したことについては、すごく興味を持ったし、なにか意味がありそうな気がする。ASL導入は他校でもまだ多くは実践してない。この先進的な試みに私は注目している。ASLと英語を結びつける(導入する)事で新たな可能性が発見できるかもしれない。
(5)英語ができない人(本校生徒)がASLや国際手話を覚えたいと言うのは、ナンセンスか
ろうの子ども(大人でも)は、手話を使うときは、第二言語である日本語を介在しているわけではない。手話での思考(表現意図)を直接手話言語で表現しているのである。考えるのも、寝て入る時に見る夢も手話である。彼らは何か独り言や、考え事するときも手話である。彼らの書くろう文(と言うのだそうだ)は、第一言語を第二言語に翻訳して現しているので、実に読み辛い。彼らにとって大変苦手な事をしているのである。第一言語が十分育ってない者には、第二言語はもっと育ちにくい。第二言語で現したそのろう文を否定したり、馬鹿にするのは良くない。
ところで、ASLとJSLという異なる手話間でのコミュニケーションでは、使用する第二言語が異なっても、そしてそれ(日本語や英語)が苦手でも、ダイレクトに手話言語(単語で10パーセント位共通と聞いた事が有る)を使用して、たちまちスムーズなコミュニケーションを確立させていく事実がある。
これらの事からも我々は言語の事、手話の事、第一・第二言語の事等、多くのことを学ぶ事が出来る。JSLを第一言語とする人は、日本語は第二言語に当たるが、ASLは日本語よりも身近でその中間(日本語よりも身近である)に位置する言語と思う。ろう児には、日本語よりASLの方がよりなじみ易い言語といえる。英語が出来ないでも、ASLを学ぶことには意義があるし、英語学習もここからアプローチできそうな気もして関心を持っている。
(6)英語弁論大会で本校のG君のASLに接した他校の先生の感想について
他校の、たぶん英語の先生からと思うが、こんな感想を「・・・・手話も自然言語として非常に複雑な構造をしており、音声言語と同じような過程を通して習得されていくということを知ったのは言語学の勉強を本格的に始めてからのことです。母国語が日本語であるG君が母国語である日本語の手話を覚えるのでさえ私たちが第二外国語を覚えるのと同じぐらいの努力が必要であるという事実を考えますと、彼が外国語である英語の手話を覚える努力は並々ならぬものがあろうと思います。・・・・」
との感想を本校の英語の先生にお送りいただきありがたいことだと思いました。ろう教育関係者にはほぼこういう見方や感想を持つ人が多いのでないかと思う。
この感想文の中に少し気になるところがあったので、私の意見((5)項とダブル点が多い)を述べてみます。G君にとって手話は最もなじみやすいネイティブな言語だということです、この手話は彼にとっての第一言語なのです。彼がこれまで学んできた日本語は、彼にとってみれば第二言語なのです。ASLはむしろ彼にとってみれば日本語よりももっとなじみやすい言語なのです。彼にとってのなじみやすさの序列は、JSL、ASL、日本語、そして英語の順です。この辺の事情を理解することが、私達ろう教育関係者に求められていると思う。日本語、JSL、英語、ASLの順であると思い違いをしているところに、今日のろう教育の混迷の原因があるのでないかと思う。
(*)以上を通して思うことは、
科学的とは思えない現在の言語学に本当の意味での言語学の視点が求められている。ろう学校勤務が永くなると、うっかりすると見えなくなってくるようだ。サイエンスすることを忘れては真実が見えなくなってくる。赴任した当初に疑問(世間的には常識)に思っていたことがいつの間にか、ろう学校の常識(決して正しいとは思えない)に冒されていく部分がるようだ。用心!!用心!! 2003,10,10