ものづくり教育について(V)(生き生きとした教育活動を目指すシラバス作成に関すること=工業高校の活性化について)         

日向工業高校   馬場 弘教

はじめに

本校の今年度の「教育課題研究」のテーマは基礎・基本の定着・・・進路意識の顕在化・・である。本校の最大な教育課題といえば、授業が充実してないことでないだろうか。本県の他の工業高校においてもほぼ同じ傾向かと思う。この現状を改善・打開する方法として、シラバスの作成が有効であるように思えたので、この事について本稿では述べていきたい。シラバスは高校段階でも作られつつあるようだ。インターネット上で各校の事例や取組みの様子を見ることができる。それらを見るといろいろな考え方があるようだ。シラバスの考え方と私が日頃考えている工業高校の活性化案に共通するものがあり、うまく融合するような気がしたので、その方向で稿をまとめてみたい。

 

充実してない授業の原因は?そしてその改善策はあるのだろうか?

  授業において私語、居眠りが目立つ。これをさせないようにするにはかなりのエネルギ

を要する。たまりかね注意すれば、その時だけは従うが、数分もしないうちにまた同じことを繰り返す。結果的には指導の無視とも思える。授業を内容的に充実させたいと思っても、そういう授業では生徒はついてこない。あの手この手で授業の「形」を保とうと努力している先生方が大部分だと思う。充実感のない授業でムナしさと疲労感を覚える。

  授業に悩みを持っている先生方は多いようだ。先日実施したアンケートの中に、教材を工夫しても興味・関心をほとんど示さない生徒の存在を気にしていると答えた先生がいた。全く同感だ。学習時に生徒の目の輝きを見ることは少ない。この事を少し分析してみる必要がある

 まず一点目として、最近はあまり聞かないが「無気力」「無責任」「無関心」と言う言葉を思い出す。これは30年前からすでに使われていた。現在はこれに「無感動」・・・などを加えた十三無主義なる言葉があるそうだ。わたしはいまの若者気質を表す代表語は、「無感動」でないかと思う。そこから他の「無関心」「無気力」などの多くの「無・・・」を生じさせているように感じる。最近の学力の低下傾向(学習の阻害要因)は、「無感動」「無気力」「無関心」の三無の影響が大きいのでないだろうか。

 「無感動」は情報化社会・物質文化の進展で、常にそれらがあふれる状態の中にいると、感動する情報、知識、モノに出会うことがすくなくなってくるからでないだろうか。我々が知的に興味関心を示すであろうと思って提供した教材も見向いてもくれないことになる。 我々が子供の頃は、知らないことを教えてくれる先生の話しに興味を示したものだ。学んだ大部分は学校の先生からのものだった。現在はテレビ等からも多くを得ている。それもあふれるチャンネルの中から受け身的に、大量の雑多な整理されてないままの情報を、しかも感覚的に受け入れやすいもののみ(受け身的であっても選択権は視聴者にある)に接する傾向がある。先生から真に大事な情報を与えられても、受け手側の都合で、ある種の逃げ・拒否の傾向も出てくる。勉強は楽しくおもしろいものだと思うより、おもしろくなく苦しいものだと思う割合は明らかに昔より増加の傾向にある。学校教育の困難な時代になりつつあるようだ。時代を逆に戻すことは不可能だろうから、「無感動」の問題にはほとんど対処の術はない。でもこの事を十分に配慮しなければ課題の解決は難しい。

 次に二点目として、本校で学習活動(授業)の障害になっているものとして、基礎学力の不足があげられると思う。学習活動はそれまでに身につけたものがベースとなり展開されるが、それが不十分だと思うようにできない。我々が見当・推測する以上に基礎学力不足の深刻な実態があるようだ。分かりやすく楽しい授業を目指していても、生徒との間にはなお大きな隔たりがあるのかもしれない。実態とのギャップのため結果的に分かりにくく、おもしろくない授業で生徒には我慢を強いているのかもしれない。

三点目には、勉強しなくても何とかなるのでないかという雰囲気をあげたい。就職率も100%(先輩の・・・君も・・・・に合格した)だし、勉強もソコソコに適当にやっていれば単位認定をしてくれ、卒業もできるし・・・。こういう安易な雰囲気を強く感じる。

単位の認定を厳しくしたら勉強するようになると言う人が少なからずいる。口には出さなくても多くの人がそう思っていると思う。でも単位認定の内規を厳しくし、それをそのように適用することには難しい問題がある。一番大きな問題は、教科担任と生徒との個別の関係の中で単位認定が行なわれるということである。あるいはその比重が大きいということである。この点から様々な問題が出てくる。単位認定を厳しくすることは、有効な方法ではあると多くの先生が感じていても、現実的に厳しくする方法が無ければ、その方法を採用することはできない。その方法・仕組みを考えることが大事だ。

以上の3点を本校生が勉強しない要因としてあげられると思う。当然解決策もこれらに対して有効なものでなければならない。何をどう指導するかという学習指導方法の工夫改善を進めることが最大の解決策であることは言うまでもないが、その一方で@職業観・進路意識をどう育むか。A生き方あり方の指導も含めて学習することの意味・意義をどう伝え理解させるかという指導を通して目的意識を育くみつつ、B学習の履修においては、一定水準に達しなくては単位認定ができないということの厳格さを求める方法も模索して行かなくては実効ある解決策にはならない。

 

2点目の基礎学力不足の問題について

 以前に勤務していた頃と比べて、最近は各種の検定試験に数多く受験させている。やさしい資格試験や検定試験ではむしろ以前より熱心な面も感じるが、内容的にちょっと難しいボイラー技士試験や電気工事士試験になると、取り組む前から逃げ腰であり、合格数は大幅に減った。「課題研究」においてもやらされているとでも思っているのか、自主性があまり見られない。ノート取りも苦手である。居眠り・私語(これは以前から目立っていた)が多い。記述式回答を求めるテスト問題では出来がすごく悪い。学習方法が身に付いてない。宅習がほとんど行われてない。・・・などを学習指導面での問題点として感じる。

 これにはいろいろな原因があるのだろうと思うが、私は先にあげた三点のうち、目的意識とともに、基礎学力不足が大きな原因であると思う。これが学習面でのいろいろな問題を引き起こしているのでないかと思う。授業での意欲の低下は、指導内容が理解できてないのが大きな原因のひとつであると思う。 漢字の読み書きはある程度できるが、文章の内容を読み取ることや、自分の考えを文章に書き表すことがすごく苦手である。理科的な内容や数学的なものに関してはその力のなさは衝撃的ですらある。基礎学力に関しては以前の生徒より明らかに低下している。それに学習方法も身に付いてないのも目立つ。考えようとするより、暗記しようとする傾向が強い。

 基礎基本をしっかり身につけさせたいと思っても、そういう指導には困難を伴う。授業を成立させるため、内容の不十分な(指導内容のない=空洞化した)授業を余儀なくされているようだ。甘やかしたくなくても、定期テストを勉強しないままで受験されるよりはましだということで、テスト前には予行問題を出し、生徒にそれを暗記させる方法をとる先生も多い。悪習と思うがこれをやっている先生方を悪いとは非難はできない。私も次から、そうするかもしれない。甘やかしがますます困難性を助長しているようだ。     私語や居眠りは、理解できなくて退屈で苦しい授業からの逃げであり、防衛の行動だと思う。わかりやすく楽しい授業の創造を目指すのはその解決策の一つだと思うけど、私語や居眠りに対して厳しい態度で臨んでも有効な解決策にはならない。

 →学ぼうとする動機が弱い→それにより意欲がわかない→学ぶことが楽しくない→勉強しない→分からない→ますます楽しくない→ますます勉強しない→ますます分からないという悪循環に陥っているようだ。 

この「基礎学力不足」の問題は、高校生の段階では少しばかり時期遅れの感じもするが、対策を考えなければならない。読み書き計算の力は全ての基礎だ。高校生の段階では、文字情報を読み取る力、自分から文字情報を発信できる力、工業分野や、日常の生活の中で物事を数的に処理できる力なども発達段階に応じて伸ばしていかなくてはならない。これらの力は、生涯学習の観点からも可能な限り伸ばすことを考えなくてはならない。いつだって遅いことはない。現実のカリキュラムの実施の中においても配慮は可能だ。それぞれの教科・科目の教育における基礎・基本の力を伸ばす一方、「基礎学力」の向上も強く意識しておかなくてはならない。十分に身に付いていない「基礎学力」の向上は、主に宅習の中で自らの意志と努力でしなければならない。宅習の習慣化もこのためには重要なことだ。「宅習の習慣化」で「基礎学力」の向上を図らなければならない。学校と家庭そして生徒本人の共通理解の下でやれたら成果は期待できる。我々も保護者も「力」の向上を願っているし、そして本人もその気持ちを当然に持っているはずだ。共通理解のためには時間が少々必要だが、組織的に取り組む仕組み(システム)さえできれば可能だと考える。

 

(*印は関連意見・補足意見、以下同じ)ところで本校の問題から それるが、近年話題になっている大学生の学力低下(大学のシラバスを見ると数学や理科に関しては高校の内容を復習しているところが多いように思えた)は20年前からしばしば指摘されてきていたが、最近はかなり進行しているようだ。また子供達の国際的な学力テスト等に見られる学力の低下もやはり事実のようだ。

各種の答申や新指導要領の文言の中に、新しい学力観・・・、生きる力を伸ばす・・・そのために基礎・基本をより重視し・・・・考える力を伸ばす学習指導の工夫・・・・あるいはゆとりの教育など・・・などがあり、現場にそれを求めてきた。その目指すところは正しいと思うが、詰め込み教育は比較的教材研究が不十分でも、だれでもさほどの準備もなく簡単にできるが、基礎的基本的内容をしっかり身につけさせるには、教師自身にそれだけの力量と教材研究・準備がなくてはできない。教師の力量不足で「ゆとりの教育」の趣旨が生かされてないところに原因があると思う。教育の質が変わらず、詰め込み教育の時代の内容を単に間引いて行っているだけのような気がする。少しだけ学んで、多くの問題が解決できる確かな学力(応用発展する力)がついてないからでないか。学力の低下は学習指導方法の工夫改善がなされず、従来型をそのまま継承しているところに原因があるのでないか。指導内容と指導方法をセットにした学習指導方法の改善が求められているようだ。日本の教師の力量・質が問われているのでないかと思う。

日本の社会がものづくり社会からサービス社会へと成熟化する構造変化の進行で、産業の空洞化、理数(工)離れが進み、全体的に生産より消費へと移行する流れがある。こういう情勢の中での学力低下であることも考慮しなくてはならない。学力の停滞は先進国へ移行する過渡期の現象として多くの先進諸国が経験してきた。それら先進諸国は現在新たな段階に進んでいるが、日本はいまだ解決策が見つからない混迷期にあるように思う。

 

3点目の勉強の動機(目的意識)が弱いこと、それと勉強しなくてもどうにかなるとの思いがあることについて

 中学校までのある程度の基礎的なものを身につけて入学してきているにもかかわらず、入学後に伸びが見られない。学年がすすむにつれ、むしろ中学校卒業時のレベルより低下しているのでないかと思うことすらある。工業高校へ入学後、とたんに勉強しなくなる生徒は多い。私はこれを「工業病」だと思っていた。

 工業高校生は中学校まではある程度勉強をしたが、高校に入学したとたんに将来の目標(勉強の動機)を見失い勉強しなくなる者が目立ってくる。でも本校でも平常授業や定期テストでは頑張りがあまり見られなくても、資格試験や検定試験ではある程度の頑張りをすることがある。生徒にとっては、平常授業より検定や資格試験の方が大事だと思っているのだろうか。過去問を一生懸命暗記し(基礎がないままで、丸暗記するケースが多い)し、合格すれば喜んでいる場面を見る。

 勉強は嫌いだが就職や進学・・・・のために、何か将来に役立ちそうだったら勉強するところはあるようだ。このように座学等の平常授業に対しても、彼らが意味や目標を持つことができたら、頑張りを見せてくれるのでないかと思う。

短時間の勉強で結果もすぐに出る比較的易しい資格・検定試験に対しての取り組みはそれほど悪くはない。このように資格試験や検定試験にはある程度の頑張りを見せるのは、親の期待もあり子供達は子供達ながら意義・価値を理解し、頑張ろうとする気持ちを持っている現れのようだ。 

一方で、最も大事にすべき平常の授業が充実してない問題が生じている。資格・検定試験が学習の動機付けになれば良いのであるが、現状はむしろ本末転倒の傾向が見られる。我々としては平常授業の充実で生きる力のベースとなるべき力、つまり高校教育の基礎・基本をしっかり身につけさせたいと思っている。

 本校生徒の平常授業が充実してないからといって、工業高校生を悪く言い非難することはできない。勉強に精を出す普通科の高校生も、大学に進学してしまえば、目標を失ったかのように全く勉強をしなくなってしまうケースが多く見られる。工業高校生が勉強しないのは、大学生に見られる現象よりも、一サイクル早く見られると考えればよいのでないか。むしろ出席状況などから見ると大学生よりはまじめであると思う。

 普通科生は大学入試を目標に受験勉強をするが、多くは入学したとたんに勉強しなくなる。中には就職や将来のことを考えて勉強する学生もいる。最近では、国家試験の合格を目指して勉強している者が結構いるようだ。大学に籍を置きながら、資格取得のために専門学校やそのための予備校に籍を置く学生がいると聞く。いわゆるダブルスクール現象だ。

 勉強しない大学生が多いのは、日本の高等教育の大きな問題だ。外国の大学は単位の認定が厳しいのでしっかり勉強していると聞いている。日本では入学できたことが自慢だが、外国では卒業できたことが自慢だと聞いたことがある。

 でも大学生が勉強しない問題点はあっても、高校までに身につけておくべき基礎学力はある水準には達しているし大学における単位認定も本校よりは少しだが厳しいものがあるので、それなりに最小限の勉強はしているようだ。生涯学習の基礎基本をしっかり身につけるべき高校生の段階で、勉強しなくなる本校生の場合は問題が大きい。

 大学や高校への入学試験は、なんと言っても学力試験の比重が大きいと生徒達は思っている。それで入試を目標として勉強はする。一方、就職は学力試験だけでなく、面接試験等の比重も大きく、人物をはじめとする人間全体を見て合否が決まる。これには特別な対策の取りようがない。就職は進学とは違い、勉強の直接的な動機とはなり難いようだ。こういう事情で大学生が勉強しないように、工業高校生も勉強をしないのでないかと思う。

  勉強しなくても就職等将来に対して何とかなりそうだとの思いや、ソコソコの勉強でも単位の認定もしてくれとあれば、ついついそれに合わせて勉強しなくなるのは人間の弱さからして事実のようだ。 本校生から学習面において意欲的態度を引き出すには、@分かりやすく、楽しい授業をするA生徒自らが目標を持ち意欲的に学習に取り組む動機付けができることB学習においては一定水準を身につけることを求める厳しさ(単位認定の厳格さ)で臨むこと。これらができれば自らすすんで勉強するようになるのでないかと考える。そうなれば学校の教育活動全般が活性化されると思う。以下に私の考える解決方法を述べたい。

 

 これらの問題解決にはシラバスの作成がポイントかもしれない (進路保証や学力保証の考えを持つことが大事)

 進路保障、学力保障と言う言葉をしばしば見たり聞いたりしてきた。これは差別から進路が制限を受けたり、学ぶ機会が奪われたりすることに対して、進路保障、学力保障という意味合いで使われてきた。私はこの言葉は使ったことがなかったが、最近疑問を持つようになってきた。つまり入学した生徒に対して学校の責任として十分なる学力をつけ、希望する進路の確定を責任持って請け負うという意味では、進路保証、学力保証が正しいのでないかと思うようになってきた。(保障でなく保証)

 インターネットで調べると、数的には保障がまだ多いが、保証も結構使われている。近年学校の生き残りをかけ、学校から情報を発信し、学生・生徒に入学志望を呼びかける動きが目立つ。私立を中心に「保証」という言葉が使われて来ているように思っている。そういう情勢を背景にシラバスが作られ、外部にそれを発信されているようだ。私がシラバスを知ったのはこのときだった。

 シラバスの深い意味は知らないが、教育計画のことのようだ。それもある程度詳細なものを言っているようだ。そこに記述されているのは、指導者、使用教室(施設設備)、使用教科書・参考書、指導計画、指導内容・目標・達成目標、授業の進め方、成績評価方法・水準、試験等に関することなどが記載されている。

 それらのなかでも私は達成目標、評価方法およびその水準の記載に注目した。本校ではミニマムエッセンシャルズが作成されている。これをベースにシラバスを作成するには、それをもう少し詳細にして、あわせて達成目標(水準)の設定もしくは達成度問題の作成および評価方法と水準などを組織的な議論を経て決めていく手順を踏めばよいと考える。

 このようにして作成したシラバスを公開(当面は保護者まで)し保護者と生徒に徹底し理解を求める。我々学校側にしてみれば、学力保証の水準(基準)であるが、生徒の側には達成基準である。この基準の達成は我々側の責任でもあるが生徒側の責任でもある。「保証」には目標の達成に向けて双方が努力していく意味合いを持つ。学校側のみが責任を負うのではない。シラバスで達成目標を明示すれば、生徒は学習(勉強)の目標ができ頑張れるのでないかと思うし、我々学校側にしてみれば基礎基本をしっかり身につけさせるべき責任も明確になってくるのでないかと考える。

 このように考えるからシラバスが本校の教育課題の解決策として有効であると思えるのである。唯一にして最大の解決策であるような気がする。作成にはかなりの労力を要するかもしれないが1〜2年間位を目途に精力的に取り組むべきである。全てに優先してこの作業を学校あげて組織的に取り組むべきと思う。教育委員会からもその作成を求められているようなので、作成に取りかかる絶好の機会でないかと思う。

 

私が前任校で取り組んできたものはシラバス作成だった

 私が前任校で関わった教育課題研究の取り組みは、学習指導の工夫改善についてであった。私は学習指導の工夫改善の取り組みにおいては、「何をどう指導するか」ということを組織的に議論することが最重要事であると考えた。そしてそれを訴え理解を求め取り組みを進めてきた。学習指導の工夫改善といえば、これまではどう指導するかという授業方法にだけ目が向きがちで、指導内容については二の次とされてきたように思う。     私が以前(平成4〜5年度)に取り組んだ「学習指導方法の改善」の取り組みにおいて目指した意義と効用を現時点で読み返してみると、これから作ろうとするシラバスのねらい(後述)とほぼ同じであることに気づいた。いまで言うシラバスだったといえる。当時シラバスという言葉は知らなかったが、目指したものはほぼ同じであった。私の考えた取り組みは、まず指導内容(基礎基本の抽出作業とそれの構造化)を明確化することだった。懸命に取り組んだが力不足で、提案した多くのものは値切られ、管理職の理解とサポートも得られず挫折したのだった。その結果、ミニマムエッセンシャルズみたいなものがやっとできたのだった。

 私の目指したものは、具体的指導内容(指導方法も含む)を明らかにする取り組みだった。到達度問題の作成を最終目標とし、それを生徒に示す。それにより生徒の自主的な学習態度を引き出し、学校の活性化を目指すものだった。つまり学習指導の工夫改善からのアプローチであった。私がポイントとして考えたものは、到達度問題を生徒に提示し、教師と生徒がともにその達成を目指すものだった。

この私の考えた取り組みは、全職員が一丸とならなければならないものだった。取り組みが学校改革のキーポイントとしての位置づけ・性格を持たせていた。最近教育委員会の求めるシラバスがそこまでのねらいを持たない単なる指導計画風(MEをやや詳細にした程度)で終わったら、学校改革(活性化)の目的を達することはできない。

いま教育委員会から作成を求められているシラバスは、保護者や外部にも情報の発信を行い「開かれた学校作り」を目指し、その中で学校の活性化を図っていこうとするものである。これには「情報開示」「説明責任」などの時代の要請も背景にあり結構なことだと思う。

 

シラバス作成に当たっては、(前記と一部ダブり)

  本校においてこれから作ろうとするシラバスは、本校で育てたい生徒像・学力観を先ず明確にした上で、各論である各教科・学科の作業にすすむことになると思う。作るものは単なる教育計画でなく、具体的に指導内容を明確化したものでなくてはならないと考える。

 本校の既存のミニマムエッセンシャルズをベースにし、それを発展させれば最小限のシラバスができるが、この機会に到達度(達成度)問題の作成と評価水準の作成までを目標にした本格的なシラバス作りに取り組むのがよいのでないかと考える。この作業は、目標とする到達度問題(水準の設定を含む)から、逆に指導内容を考えていく手順で進めていけば良いのでないかと考える。こうすれば比較的容易(組織的な議論を要するので時間は必要)に出来上がるのでないかと思う。委員会の考えているシラバスは、当面ミニマムエッセンシャルズに近いものを要求しているようだが、この機会に本格的なものを視野に作りたい。本校においては、各教科において、どういう学力をどの程度身につけるべきかを記載したシラバスを作りたい。具体的には、@この章での学習内容、Aこの章での学習でこんな問題が解けるように学習してほしい、Bさらにはこんなことまで解けるようにすることが出来ればよい。などと学習内容とその到達度(最低限のものから発展的なものまで)を記載し、学習者の自主性と意欲の喚起を促し、現在学校が抱えている学習指導面での諸課題の解決に資するものを想定して作るべきであると考える。実習におけるシラバスも当然他の科目と同様にその達成目標を具体的に明確にする必要がある。具体的には・・・・を使って・・・をすることができる。・・・の図面を見てそれを作ることができる 。など

 学習の動機付けとなるもので、学ぼうとする力(意欲・興味・関心を持ち自ら意欲的に学習に取り組む態度)や学ぶ力(学習方法を身につけ、学習を持続発展する基礎・基本の力)の向上にも配慮しなくてはならない。作成されたシラバスは、少なくとも学校、生徒、保護者の三者が共通認識を持ち、その連携の上に日常的に活用されていくものでないといけない。このようなシラバス作成には労力はいるが、授業での悩みはそれ以上に減るはずだ。 

このようにして出来上がったシラバス(拡張シラバスというべきもの)を、生徒・保護者に配布徹底し、目標達成に向けての共通理解を得る。このシラバスは我々学校が目指す教育内容の外部に向けての発信でもあるが、生徒の側にすれば具体的に到達目標を示されたことになる。これを評価や単位修得の目安として意識させ、これによって目標達成に向けての意欲を喚起したい。シラバスは学校側にしてみれば学力保証の基準であるが、生徒側からすれば達成基準でもある。

ともかく平常授業の充実策が何よりも重要だ。ここに議論を集中し解決策を見つけ出さなくてはならない。全職員はもちろん、生徒本人、保護者も含んだ形での共通理解(納得)の得られたもので、全関係者による一致した取り組みでないと前進・解決は難しいと考える。  

シラバス作成の目指すもの(意義と効用)

 以下に私が考えるところのシラバスのねらいをあげる。これは以前の勤務校で平成4年〜5年にかけて「学習指導方法の工夫改善」の取り組みの際に提案していたものである。これから作成したいと考えるシラバスと同じものだと思い一部追加修正し記載する。

1,シラバス作成においては指導内容の見直し(指導内容の精選と構造化)作業が行われる。これには組織的な議論が必要である。当然チームワークが必要とされこの作業を通じてそれが生まれる。

  生徒を中心に据えた、実践的、組織的な議論が求められる。こういう議論の中で生徒に身につけさせるべき内容が明確になり、教材が生き生きと組み立てられ、その指導が徹底して行われるようになる。

  少なく学び多くを知る応用発展する真の学力(確かな学力)を身につけさせられる。生徒が興味・関心を持って積極的に参加する授業の工夫改善の努力が必然的に求められる。このようにして教育活動全般が活性化される。

2,シラバスは常に見直しが必要とされる。データの蓄積や経験ノウハウの共有が必要となる。授業ファイル等の記録・保存が必要である。一人ひとりの経験が共有化・財産化されることで、より良いものに発展していける。

3,シラバスは学校長名で示されるのであるから、その目標の達成に向けて教師もそれを確実に身につけさせる責任があり、生徒もそれを達成していく責任がより明確になってくる。つまり目標達成は教師と生徒間の個別な関係を超え、より公的になる側面がある。

  生徒と教師の双方にとって責任と義務が生じ、目標達成に向けての意識がより強く生まれてくることになる。生徒は目標に達するまでの指導を求める権利、わかりやすい授業を求める権利があり、教師側にもそれに応える責任・義務がある。生徒は目標達成に向けての努力の義務あり、教師もそれを求めていく責任がある。

  単位認定は目標の達成ができたかどうかが基準になるので、双方にとってより厳しいものにならざるを得ない。 目標達成は教師と生徒との共同作業であり、そのために生徒の立場に立った指導が行われ生徒一人一人を大切にしていかなくては困難である。指導と評価のありかたも含めて学習指導全般について、常により良い方向を求めて変わらざるを得なくなる。生徒と教師の関係はより望ましい関係になっていける。   

4,一斉授業は全員が一定レベルに達成することを目指すので、落ちこぼしの問題は生じない。よく分かる者は、より発展的な問題でそれに挑戦できることにもなる。

5,目標達成に向けて保護者との連携も必要になってくるし、それが行える機運が生じてくるものと思う。

6,学校の教育活動が中学をはじめとする地域に、より理解され開かれたものになり、生徒も学校以外の社会の中で自分の存在・位置を確認でき成長していける機会が増えるようになる。

シラバスを作れば自ずと上記のような効用が見られるというのでなく、そういうねらいを持っていることを念頭に作成し、また出来上がったものはそのような方向で運用して行かなくてはならない。私はこれまで教育委員会の示した改革の路線を批判的に見ることが少なからずあったが、このシラバス作りは大いに賛成だ。是非とも成功できたら良いと思う。当面「教育課題研究」はこのシラバス作りをやったらどうだろうか。解決すべき一切の課題がこの取り組みにより前進・解決していくものと思う。  

工業の専門教科の教科書は基礎的基本的な内容の指導には向かないような応用的な記述が多い。理解させることが困難であると感じるものが多く、それを使っての指導は無味乾燥な授業になりがちである。生き生きとした授業、目の輝く授業、分かる授業、理解できる授業をするにはどうしたら良いか。悩みは深い。

専門教育は普通教科の基礎がないと困難である。とりわけ数学や理科の基礎学力不足では、分からせることは困難で、ただ暗記するだけの応用の利かない学力しか身に付けることができない。教科書を使って工業の基礎(知識、技術、考え方)をどう指導するかということは、専門学科の大きな課題である。

                                   2005年2月

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