退職のごあいさつ(海洋高校のみなさんありがとう)
2009/3/30 馬場弘教
本校に縁がありまして1年間だけ勤めました。あと1〜2年、勤めたかったのですが希望かなわず、今日が最後の日となりました。
前任校では授業や生徒指導、そして管理職をはじめとする人間関係に、疲労困憊して「もういいや、ここまでにしよう」と思い、あと1年を残して退職しました。
だから当然退職していくのに何も感傷的なものはありませんでした。それより何かやり残したような、満足感の得られない、不本意な気持ちで41年間の教員生活を終えるのが少々残念で悔しかったものです。
そんな気持ちでいた3月末に海洋高校より、仕事のお誘いを受けました。半日ほど考えた上、お世話になる決意をしたのでした。最初は海洋高校の指導方針や学校行事そして校風それに生徒の皆さんたちの気質に慣れるのに2ヶ月くらいはかかりました。
そんな中カッター大会や海洋行事、体育大会、海鳴際、歩こう会・・・・などを通して次第に皆さんと触れ合う機会が増え、学年やクラスの垣根なく次第に多くの生徒さんとコミュニケーションがとれるようになりました。バーバ、馬場チィ、ババちょ、ババラッチ、馬場さん、そしてたぶん1年C組あたりから始まったのでないかと思う、ババちゃん・・・といろいろな呼び方で声をかけてくれましたね。中でもババちゃんが一番多かったですね。親しげに呼んでくれるのでどの呼び方もみんなうれしかったものです。
不本意な教員生活で退職したので、ある面閉じていた私の心を、皆さんの親しげな呼びかけで、癒されそして次第に心も開いていくのを感じました。人間としてのパワーが充電されていくのを実感しました。
海洋高校生は屈託なく明るく人なつっこいと思うようになったのですが、次第にそれだけでなく人間対人間の触れ合いといいますか関わり合い、コミュニケーションを求めているように強く感じるようになりました。
多感な青春の真っただ中にいて、家庭環境や進路・学習、友達との関係に悩み苦しんでいるひと、そして謹慎指導中の生徒との話しの中で、私は多くのことを学びました。教員生活を締めくくるのに、そしてこれからの残りの人生を送るのに大事なことを一杯学びました。この1年間は教員生活を不本意な形で終わるところだった私にくれた最後のまさに「ご褒美」だったのです。これから進むべき道に方向性と自信を与えてくれるそんなものだったのです。楽しく有意義な1年でした。私が皆さんに与えることができたモノより、はるかに多くの大事なものを学び、そして得ることができました。
いつも会うたびに親しく声をかけてくれていたそのうちの何名かが退学していってしましました。私にとってすごくショックな心を痛める出来事でした。海洋高校を去ったあとの彼や彼女達には、絶対に幸せへの軌道をまっしぐらに進んでいってほしいと願う。また、現在長期間におよぶ謹慎生活を送っている人たちは、決して学校が嫌になる(くさらずに)ことなく、早く教室に戻って今後の学校生活を充実して送って欲しいと願っています。
こういうこともあり3学期になって、私自身泣けて涙が出る日が続きました。皆さんと別れていく寂しさもあっただろうと思いますが、コミュニケーションする中で、皆さんの思いや優しさにふれ、みんないいやつなんだなーと感じたり、またそんな生徒の力になれない自分の無力さ感じたり・・・こういう時に泣けてくるのでした。 一人で居る時は遠慮も恥ずかしさもなく、本当に涙ボロボロで泣きました。
生徒との語らい・ふれあいの中で努めて平静な顔をしていましたが、しばしば感涙しました。感動して泣けるときに本当に幸せを感じました。最近一生のうちで泣いた回数が多いほど幸せになるのでないかと思うときがあります。つらく苦しい時の涙、誤解されたり、気持ちが通じなく、あるいは人に裏切られたとき・・・こんな時の涙だって人を豊かにするのでないかと思います。たくさん泣いた人が本当に泣いてる人の気持ちがわかるのでないか。そしてその分優しくなれるのでないかと思います。
人生はなりたいと思う方向に、そして、願いがあり祈りのある方向にいくものだと思います。人生の目標に向けてこれからさらにいっそう充実した日々を送り、生徒の皆さん全員幸せの人生の軌道を歩いてください。
ババちゃん・・・と声をかけて関わってくれた人や、遠慮してそんな呼び方ではなかったが親しげに話しかけてくれた海洋高校の生徒さんやその他全校の生徒の皆さんに感謝しながらお別れの言葉とします。この1年間本当にほんとうにありがとう。日向の地より皆さんの今後のますますの成長を祈念し、いつかまた再会できる日を楽しみにしています。
今後は住宅設備業を営む35歳の二男のところを手伝っていくつもりです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
参考1、ところで前任校まではどんな先生だったか
ある生徒との話しの中で私がこれまでどんなキャラだったのかと質問がありました。これについて少し触れます。私の最大ポリシーは、充実した授業、わかりやすい授業をすることでした。そのため1時間の授業を充実させるために多くのエネルギーを費やしました。でもショクなことに、「先生の授業はわからない」という声が少ななからずありました。そこで私は「ちゃんとしっかり聞けばおれの授業ほどわかりやすい授業はないぞ。」とも言ったし、ある時は、「今日の授業を最後までしっかり聞いて、それでもわからないのかどうか実験してみよう」とも言ってそれをやってみた。そうすれば「一所懸命に聞けば分かるが、そんなに聞かなくてもわかるそんな上手な授業をやってほしい。そういう授業がうまいというのだ」と反論するのです。私語をする生徒や居眠りをする生徒との格闘の日々でした。お互いの非を指摘するようなことでは、いい人間関係は生まれるはずもなく、生徒も私も当然疲れますね。これ以上分かりやすい授業はないと当時は思っていたが、いまはもっとわかりやすく、だれでも取り組める、力まない楽しい授業をすればよかったと私自身強く反省している。でももう再びそれを試みる機会はないだろう。
参考2、これまでの経歴
31年間
全日制制機械科(3校4回の異動、前述したように疲れを感じていました)
6年間 定時制機械科(50〜55歳まで勤務しました。海洋高校を経験し、いい先生になれる自信がついたのでもう一度行ってみたくなりました)
4年間 ろう学校(聴覚支援学校、多くのことを学びました。55〜58歳の期間でしたが年がいもなくろう教育の改革に燃えたのでした)
1年間 海洋高校(海洋高校の生徒の皆さんとの関わりのなかで、シンガーソングライター、ジャズピアニストのアンゼェラアキさんの涙や、プロ野球コーチから高校教師に転身した高畠導宏、夜回り先生の水谷修さんの教育に対する情熱に深く感じた1年でもありました。3人に共通する点は生徒を包み込むように優しく、そして常に目線は生徒と同じで決して指導者ぶって(高い所からの目線)いない点。だから生徒は心を開き、指導を受け入れていくのだと感じました)