舞い降りた翼



「裕香」


扉の向こうから声がした。その声に、暁 裕香は目を覚ました。
「――何よ」
長い黒髪を束ねるのも忘れていたらしい。裕香は髪を触れて、しまったと感じた。
時間を見ると……朝5時30分弱。
ちなみにデジタル時計の上部分は8月27日となっている。
今日から学校が再開する。といっても宿題を出すだけの生徒にとっては無意味な登校である。
「ちょ……時間的に早すぎよ」
「それより裕香、手伝って欲しいのよ」
「どーせ、宿題でしょ」
少しの沈黙があった。その後、扉の向こうの少女はため息混じりに言い放った。
「うん、宿題終わってるでしょ」
「だから?」
「ちょっと貸して」
こうなると裕香の返答はいつもひとつである。

「甜香、自分で片付けなさい」
扉の向こうから軽い唸りが聞こえるが、彼女は聞き入らないと、眠ってしまった。


「しょーがないなぁ」
と暁 甜香は宿題を再開した。しかし、多分今からではぎりぎりか間に合わないかの瀬戸際だ。
双子の姉、裕香とはえらく違い、甜香は始業式3日前に宿題をはじめ、裕香は始業式3週間前に宿題を終わらせている。
「裕香め、何で関してくれないの?しょーがないんだから」

――しょーがないのはあなたです。

そこへ、ノックの音が飛び込んだ。妙に強くたたくのでおそらく――。
「早いねぇお父さん」
その声を是正と受け取ったのか父、暁 彼方が部屋に入ってきた。
寝巻きのところを見ると起きてすぐらしい。
「差し入れだ。ほら」と彼の手から湯気の出たミルクコーヒーが甜香の机に置かれた。
「ども」
置かれたそれを飲むと、体の芯から温まる。父はコーヒーを作るのが得意である。
「さっすが、職員室でいつもコーヒーつくって飲んでるだけあるね」
「よせやい、そんな揶揄。悲しくなっちまう」

――父の彼方は奇しくも娘と同じ学校に転任し、担任となってしまった。
そんなわけで甜香ら女子のグループと仲がよく、また気さくな性格は男子に好かれている。
「とにかく、始業式までに宿題片付けろよ、担任として学校でも怒らにゃならんのは妙だからな」
――しかし目の前の立ちはだかるテキストに彼女は父の願いを叶えられないなと感じた。
父がテキストを覗き込んだ。だが今やっているテキストは英語。父の担当は国語である。
「残念だったな、俺の担当じゃないや。――この分じゃ転入生の2人に合わせる顔がなくなるぞ」
甜香の顔は完全に萎んでしまった。しかし次の瞬間、甜香の栗色の目が光った。
「え!?新入生!?どんな人どんな人!!?」
彼方はその顔に「しまった、ミスった」と出てきていた。
「ねー、どんな人なの!?ねぇってば」
「とにかく宿題を片付けなさい!」
それだけいうと、足早に彼方は甜香の部屋を出ていった。
彼女はそれから1時間後まで机の教材とにらめっこしていた。


プロローグ:始業式前


「久しぶりだ、ここへ来るのも」
青年はとある学校の前で歩みを止めた。
時刻はざっと7時30分。向かいの方向には中学校もある。
「俺のこと、覚えてるやついるかな……」
彼はそう呟き、中学校のほうへと歩き始めた。
案外中学校から先ほどの小学校まで距離は短く、10分足らずでついてしまった。
ポケットの中の紙を取り出す。どうやら事務室に行かねばならないらしい。
「そっか。校長先生なんかと会ってないんだった」
紙の書かれたメモを見てやっと思い出す限り、彼は結構軽い性格なのかもしれない。
「すみません」
事務室の受付から彼は声を出した。しかし、1回ではどうやら聞こえなかったらしい。

「あのー、すみません!」

怒声交じりの声に受付の人が重たそうなまぶたをこすり現れた。
感覚的にざっと40代の女性である。
「何ですか?」
「あの、転入生の――」
さっきの怒声から一転して、彼は縮こまってしまった。
しかし、相手には伝わったようですぐにうなずいた。
「ああ、転入してきた緋色君ですか?」
彼は一瞬足元がすくわれたような気持ちになった。
「えと、僕はシャオロンっていうんですけど……」
「あ!思い出した!!そうよシャオロン君だったわね」
その女性は体裁を取り繕うように笑った。けっこうなボリュームだったためか廊下の生徒の2,3人が驚いていた。
「待っててね。今校長室に通すから」
それから5分後。ふくよかなお腹まわりの校長が職員用の下駄箱から出てきた。
「やぁ小龍(シャオロン)君。よく来たね」
そのとき、後ろから人の気配がした。
それが妙にピリピリしていたので小龍は後ろを振り返った。
そこには目つきの鋭い同じくらいの背をした青年が立っていた。
その目は異質な冷たさを持っていた。そうたとえるなら野生の捕食者が獲物を追うときのような。
「ああ、緋色 翼君。おはよう、そしてようこそ」
「ども」
先ほど間違われた青年、彼が緋色か――。
「? 両親はこられてないのですか?」
「「都合で」」
小龍はびっくりした。いや、緋色の方もびっくりしているようだ。
異口同音、まさにそんな風だった。校長は少し笑うのをためらっているようである。
確かに仕事の都合で今日中学校に来ないのである。
「やっぱり君らはよく似ているね」
「え?」
小龍は首をかしげた。緋色のほうは困惑、といった顔である。
「いや、雰囲気というか、いい友達になりそうじゃないか」
はっはっは、と校長が笑う。つられて小龍もふふっと笑った。
こういった学校なら面白いかもしれないな。
「じゃあ、少ししたら担任の暁先生が来ますし、しばらく来客室で待ってみる?」
「いいんですか?」と緋色。
「ああ、紅茶くらいしか出せなくて申し訳ないが」
「いやいや、申し訳ないのはこっちです」と小龍。
「じゃ、こっちへ」
と校長が促すので、2人は歩き出した。


校長はしばらくすると職員室の方へいってしまった。
どうやら始業式のことらしい。確かに小龍たちのほかにも、この学校に新しく入った先生だっているのだ。
「……、名前を聞いた限り、中国人だな」
緋色の言葉にああ、と小龍は応えた。
「だが小学生のころに半年いたからな、顔見知りもいるかもな」
「なるほど」
それだけ聞いて緋色は紅茶を飲んだ。
「緋色君はどこから?」
「俺か?」
緋色の声はひどく静かだった。
「俺は兵庫から、だ」
「へぇー、兵庫のどこ?」
「そこまで詳しく知らなくたっていいだろ」
それだけいうと緋色は外に顔を向けてしまった。
――変なこと聞いたかな……、と小龍はうつむいてしまった。


――まもなく、始業式が始まります。
男性の先生のアナウンスが校内に響いた。