にしでんじがた
西 田 地 方
富山県富山市西田地方 紹介

| 千石町1丁目 | |
| 千石町2丁目 | |
| 千石町3丁目 | |
| 千石町4丁目 | |
| 千石町5丁目 | |
| 千石町6丁目 | |
| 西四十物町 | |
| 旅龍町 | |
| 桃井町1丁目 | |
| 桃井町2丁目 | |
| 土居原町 | |
| 磯部町2丁目 | |
| 磯部町3丁目 | |
| 磯部町4丁目 | |
| 長柄町1丁目 | |
| 長柄町2丁目 | |
| 長柄町3丁目 | |
| 相生町 | |
| 堀端町 | |
| 西田地方町1丁目 | |
| 西田地方町2丁目 | |
| 公舎街 | |
| 西田地方町3丁目 | |
| 布瀬町1丁目 | |
| 布瀬町2丁目 | |
| 花園町1丁目 | |
| 花園町2丁目 | |
| 花園町3丁目 | |
| 花園町4丁目 | |
千石町散地
御城下本町通りの他の町を 田地方 といい、御高礼より西の方を西田地方とした。
ここに地屋敷などの願い出があったのを散地といい 飛地が数か所あることになった
田地方 (でんじがた)
古老の伝言では、この地域は開拓するのに適していたことから、里人は田地方(でちかた)と呼んだという。
万治年間(1658)頃、富山城を築くにあたり、お堀、下屋敷などの都合で東西の田地方に分割したとある。この時 産子(氏子)は田地方産米、すなわち耕作物を祈る神として祭り神明社が生まれた。(現在 千石町)明治維新の頃は 転々と農家があったほどで、地券条規によって、土地打立のとき、田地方(でんじがた)と呼ぶようになったという。
富山県魚津市新角川
旧 魚津町田地方
寛文10年 小津町田地方 明治2年 田方町ができ 明治22年魚津 田地方町ができたとあります。

富山地方裁判所

西四十物町
昔 魚屋のことを、あいもんや と いったが、富山城の城下割のときに、ここに西の魚屋市場ができたので西四十物町といった。
花園町
富山市西田地方町と接して、上新川郡堀川村大字西田地方村 (昭和15年富山市に編入)に所在する富山県師範学校・・・・・・・「在りし日・富山城下の町」 大島悦雄著 とあり
これが富山市現在の花園町である
町名は昭和40年4月1日制定
田畑や空き地の多い振興住宅地で花のあるすがすがしい街にしようという意味で名付けられたとあります。
資料・文献
高瀬 保 編 照古会 解説 富山町づくし
堀川教育百年のあゆみ
富山の石造美術 京田 良志著
在りし日・富山城下の町 大島 悦雄著
富山市立南部中学校

西田地方小学校


道しるべ地蔵 花園町
高山への道地蔵
右 根塚道
左 高山道 を示している
「上部が失われてセメントで補修されている。富山市花園町にあって 光背部右に「右根塚道」、左に「左高山道」とある。
道しるべを兼ねた石仏。
享保年間(1716〜1735)作
京田良志 著
富山の石造美術 富山文庫5
より
千石町
この町は以前 飛州街道であった。その後、御蔵が建ったので千石町といわれるようになった。
島倉の湯
この銭湯がすごいんです。
『とやま元祖しらべ』桂書房
によりますと
明治元年現在の位置 中長柄町(当時町名)
にて富山で始めて営業したとあります
〒930-0076
富山県富山市長柄町3丁目6-6
桃井町
明治三年(1870)旧町名「御坊町」を改称
「御坊町」は江戸時代富山藩が加賀藩より分かれて成立した。 城下町が整備されて行くに伴い名づけられたと考えられる。 明治時代に入って「桃井町」と改称されたがその由来はこの地内に古くから越中の四名水の一つ 富山町の三名水の一つとして「桃の井」が広く知られたからとされている。