ふるさとの歴史を知る
 
第一探検地からの報告
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Home ふるさとの人を知る ふるさともの知り博士
             
ふるさとの人を知る
 

甲賀郡は、古くから交通の要衛として栄え、歴史の舞台裏として大役を果たしてきた地域です。そして、近江心学の第一人者、立川政伸や甲賀武士の総師であった和田惟政、水口藩士であり書家でもあった巌谷一六と童話作家、巌谷小波親子など、全国に誇れる優れた人材を数多く輩出した地域でもあります。そして現代、忘れかけられている先人の教えや地域の伝統を学び、しっかりと継承しておられる人、また甲賀人の特性を感じさせるような人が沢山おられます。ここでは、地域住民の皆さんから推薦のあった人達の中から、甲賀が他に誇れる方を、「ふるさともの知り博士」、「ふるさと名人」としてご紹介します。まちづくりは、郷土を知ることから始まります。そして人づくりから始まります。ここにご紹介する人達をリーダーとして、後継者が数多く誕生してもらいたいものです。(ご紹介した以外にも博士、名人にふさわしい人物がおられることと思いますが情報収集不足をお許し下さい。)
  

ふるさともの知り博士
 
甲賀地域の歴史、文化、芸能に熟知している人、あるいは研究している人、先人の教えや生活の知恵を受け継いでいる人を“ふるさともの知り博士”と命名させていただきました。もの知り博士はグループに分かれ、座談会形式でふるさとを語っていただいたのですが、その一部をご紹介しましょう。
 
石部町
 
「昔は、十五歳になると青年会に入れてもらい、出普請や村の行事などどこでも出て行ったもので、公の場合には一人前として認められたものだ。寺などに残されている伝統的なこともあと十年もすれば知っている人がいなくなってしまうのではないだろうか。」と語る川奈部善三郎さん。(87歳・石部町石部)
「学校を卒業してから石部を離れていたが、帰ってからは行政のお手伝いをしながら、郷土を見つめている。新しい世代の人は、“ふるさと”という考え方が薄れているのではないか。今のうちに伝承すべきことをまとめておきたいものだ。」と語る福島隆輔さん。(85歳・石部町石部)
「これまで家の系図や古文書を研究してきたが、西寺のことだけではなくふるさとのことをもっと知りたい。地域の人も村のことに深い関心を持ってもらいたい。道標も埋もれているのがあるので復元したいものの一つだ。」と語る竹内淳一さん。(74歳・石部町西寺)
「地域のことを見たり、聴いたりするのが楽しみ。東寺で歴史講座をやり写真やビデオに撮っている。ほ場整備や河川改修の前後の記録も残しておきたいと思う。小学校に勤めていた頃、歴史クラブを作ったが、子供達をもっと地域の伝承行事に参加させ、正しく継承することが大切だ。」と語る吉川勝さん。(62歳・石部町東寺)
東寺と西寺の神事
◇東寺や西寺の入口には新春行事として、“勧請縄吊り”というのがある。昔からの厄払いで、今でも継承されている。これは、勧講縄のあるところからは東寺、西寺という集落であるので悪い者、厄病神は入るなという意味である。近くでは栗東の観音寺に同様の習は慣が残されている。
勧請縄吊り
現在は、東寺のほうが西寺より丁寧に行われている。東寺は“鬼ばしり”行事の鬼子の親が“おごない”との関係でやっている。西寺では、戦後は青年会がやっているが、戦前はお宮さんの田の小作人が年貢の代わりにやっていた。
◇今日、青年会と称しているものは、昔の若衆組に似たもので、十五歳から結婚するまでの者が対象になっている。
◇東寺も西寺も「鬼ばしり」という行事は、修正会という宗教行事に、民間の「追儺」の行が合体して今日伝承されているものである。
◇東寺と西寺は、古くから松茸山の開禁日をいつにするとか、いもち送りの日をどうするかといったことについて、代表が話し合う習わしがある。
◇西寺には、常楽寺の山があって、その山の草刈りや木の葉掻きは、一月九日の山の神の祭事が終わるまで入れないことになっている。一月三日にも山の神が里に来られるという、俗にいう山の神祭が行われている。山の神は神主の代わりにお坊さんが神事を行うが、女人禁制である。東寺も日は異なる同じようなことをやっている。
◇東寺にある阿星山頂より少し下がったところに八大竜王の社があり、そのすぐ前の大きな岩に深い穴があいていて、干天の時山麓から水を持って行き、穴に注ぐと必ず雨が降るという雨乞い岩がある。毎年七月八日の竜王講には住職が白山神社拝殿で竜王に祈願する前に、必ず鬼子が御身体の石とともに岩に登り、水を注いで持ち帰る習わしがある。鬼子は、十人衆の最長老が持つ名簿に登録された者のうち、数え十五歳に達した者から三人を選び指名する。指名されると一年間は各種の村行事に参加する義務を負うことになり、務め終わると一人前として扱われる。いわゆる者の昔の成人式のようなものである。おこないは、今では一日だけものとなったが、昔は一週間程続けられた。
◇東寺には十二月九日に行う。“米よせ”という行事がある。これは年間の村の経費を米で計算し、住民が負担するもので、常金利、学校金利と呼んでいる。今では一升五百円の計算で金を集める。この制度は、昔お堂を建てるのに個人の家では金がないので村から金を借り、その金利を生涯にわたり負担する制度で、金利は村の財政に充てていこうというのが始まりである。また、“日牌月牌”という行事もあるが今では年寄り十人衆でもわからなくなってしまっている。
 
いもち送り
鬼ばしり
 
活気のあった石部宿

◇石部は宿場町。昔旅人は京からどのようなルートで石部に入って来たのだろう・・・・。金勝(栗東町)を抜け東坂から石部を通り、柑子袋(甲西町)から伊勢の方に行くのが伊勢参りの道だったといわれている。今の宝来坂から東寺を通っていたようなことが宮前の古い絵図に出ている。
◇石部宿では草鞋を作り門に吊るしておけば生活ができたという土地柄であったようで、文化の交流が他の地域と比べると早く、今日の部会的要素があったのではないか。従って、地場産業といえるものは少ない。
◇宿場の街並みは曲がっている。宿場の突き当たりには金山という山があり、旅人に山越えは大変だといっては宿に泊めさせたという話も残っている。
この曲がったところが横町であり、宿屋の歌が残っている。
“横町のところの角屋ここや、並びの餅屋、合いの井筒屋、川崎屋”と子供が手まりをしながら口遊んだものだ。これらの宿屋は六十軒程あったが、現在では一軒しか残っていない。
◇“京立ち石部泊まり”といって江戸方面への下り客は、京都を出て石部に泊まるというのが程よい距離であった。そして次は土山泊まりということになる。京都を昼間に出ると草津泊まりになっていた。
◇大名たちが泊まるところとして小島本陣と三大寺本陣があり、脇本陣は橘屋であった。小島本陣は膳所?の直轄で権力を持っていた。三大寺本陣は泊まり客の多い時に利用していたと思われる。
◇毎年春先になると道者といって、丹波や城崎方面から三百人もの団体が伊勢参りのためにやって来た。全員がかすりの着物、木綿の脚絆、すげ笠という揃いの出立ちであった。このような大きな団体八幡屋に泊まっていた。
◇煮売屋というのがあって、宿屋で調理するのではなく、煮物の専門店が宿に料理を運んでいた。大勢の泊まり客の場合は民家にも泊めていた。
 
知られていない石部の顔
◇石部、青木、服部の三つの城跡があるといわれているが、服部城跡はどこであったかわからない。石部城は砦のようなもので長く住み着いていたことはなく、天正二年(一五七)四)織田信長によって落成している。
◇大津に米相場があった頃、雨山はその連絡通信ルートになっていた。栗東・金勝山の方から連絡を受け、水口の方へと旗で情報を送っていたといわれる。
◇紫雲の滝は、本来行場であり、水ごり行がりや易いように竹を割った樋を通しているが、水は非常に冷たく美しい。近年、美しい水の一つに数えられ、訪れる人も多い。今でもここで修行する人があると聞く。
◇金山では昭和の初期まで銅が採堀され、精錬所も二ケ所あった。マンガンも掘られていたが今では採堀跡も崩れている。
◇藍染もあったが、今はなくなってしまった。
◇五軒茶屋は徳川幕府の命令により、石部に住んでいた者の中から希望者を募り、造られたものである。
◇石部宿は北較的高いところにあった。また、横田川(今の野洲川)沿いにある田畑には堤防も残っていないところから、川が氾濫し浸水していたのではないか。現在、田の下履
に砂利が豊富であることや、ドブ貝やタニシなど淡水に住んでいた貝の化石が出てくることから伺い知ることができる。
 
(注)石部宿歴史地図より

  
甲西町
  
「最近、妙感寺で六世紀の古境が七基出てきたように、甲西町は全国でも有名な大古境群のまちである。また、中世では、町の中央に延長六十五キロメートルという県下最長の野洲川の右岸左岸を挟んで東海道、旧東海道が走り、その街道を何百万人という人々が往来した。そういう意味では、“街道のまち”といえるではないか。沢山の文化財、有名、無名の歴史を掘り起こし、町の誇りとしていったらどうか。」と語る高木進正さん。(73歳・甲西町三雲)
「自分が住んでいる花園地区は、岩根山に十二の坊があり、織田信長に焼かれるまで坊に供える花を作っていたことに地名の由来があるといわれている。十二坊へ上がる車谷川沿いには、江戸時代のものといわれる磨崖不動尊がある。
また、地元には国宝の善水寺本堂があるが、昨年、薬師四十九番札所の四十七番に指定された。もう一つ、正福寺という地区には大日寺と呼ばれる寺があり、県内で一番背の高い十一面観音菩薩がある。このように身近なところにありのまま博物館が多数ある。」と語る松村昇さん。(65歳・甲西町岩根)
   
「藤原時代の東山道(中山道の旧称)は野洲郡の方を通っていたとする説があるが、甲賀郡衙があったという事実と、古い時代の野洲川の川床のことを考えると、今の石部町の頭首工あたりの最も川床の高いところから菩提寺へ、そして古代の甲賀山から篠原(野洲町)の方へと通っていたのではないか。西応寺に残されている明応九年(一五〇〇)の絵図には二つの古境が描かれ、征夷大将軍坂上田村磨呂の父のことも注記されている。
菩提寺や正副寺地区には古境が多いが、そのように古境のある側を東山道は通っていたのではないかと考えられるのである。菩提寺には、全国で十基余りしかないといわれる石造の多宝塔が残っている。地元の人々もこれらの文化財があるということは知っているが、どういうものであるかということも追究して欲しい。」と語る鈴木儀平さん。(72歳・甲西町菩提寺)
 
横田橋の由来
◇甲賀郡全体は、甲賀五十三家の甲賀中惣、言い換えれば字単位の連邦共和国のようなものであった。望月氏のように強いものや夏見氏のような小さいものがいたが、それぞれが対等に付き合い連合国を作っていた。だから一つの集団が破れても全体が落ちない限り、滅びない強固な組織になっていた。
昔の常夜燈と黒橋(横田橋)(注)田代廣美氏(水口町泉)より 提供していただきました。
◇長享元年(一四+八七)足利義尚がこの地を攻めてきた。その当時近江源氏は天下を取るという大きな野望を持っていて、そのためには軍事力や資金がいるため荘園から強引な取り立てを行っていた。足利幕府は今のうちに六角氏を潰さなければ大変なことになるということで鈎の城館を造り込んで来たのである。六角高頼は本城である観音城を捨て、観音寺道を走り三雲城に立て籠もった。そして甲賀五十三家全部がここ(吉永地先)から攻めることになった。この時、その指揮をしていたのが横田佐馬の介政綱で六角氏と血緑関係にある大将である。横田は他の三雲、針、夏見といった土地の豪族と違い毛並みが良かったことから総指揮をするまでになっていた。結局、鈎の戦は義尚が二年目で今の栗東で死んでしまうが、十代将軍義植が再度攻め込んで来る。しかし、いわゆる甲賀忍法に苦しめられ、城を落とさず都に帰ってしまう。足利幕府はそのため著しく威信と権威を失墜したのである。横田橋の名は、この鈎の戦の総指揮者横田氏の名に由来する。
◇昔、横田川には渡し船があった。常夜燈が残っている附近である。その後、橋が架けられた。少し昔は、乗合馬車で水口に行く時、三雲の駅から黒橋と呼んでいた木橋を渡っていた。横田橋の下に朝国の在所からまっすぐに取り付けられていた朝国橋があった。それを廃止して今の新しい田川橋が付け替えられた。
中世史は甲西から始まった
◇甲西町には二十一、二の城があった。殆んどが掻揚城(空堀を掘った土を掻き揚げて土塁にしただけの城)といわれるものだが、横田と妙感寺にも残っていなければならないのだが・・・・・・・・・。天下を取ったものは、城を残しておくとゲリラの拠点になる恐れがあるため壊してしまっているのである。
中でも一番立派なものは、長享年間に造られた三雲城である。これは準近代的なもので、後に豊臣秀吉の命によって中村一氏が取り壊し、山の上まで引っ張りあげて岡山城を造ったといわれているが、江戸時代に入るまで湖南の雄と呼ばれた素晴らしい城であった。
菩提寺地区にある多宝塔
その後、岡山城は、増田長盛、長束正家が城主となり、長束正家が関ケ原の戦いで敗れ岡山城に帰るが落成してしまうのである。この素晴らしい三雲城を是非再建してもらいたいものだ。菩提寺にも菩提寺城という立派な城があったが、長享の乱の時、近江源氏佐々木六角がこの菩提寺の河原で最後の決戦をし、落城してしまうのである。これが中世史の始まりであり、中世史は甲西町から始まったといえる。
◇滋賀県には千二百程の城、砦、城館といわれるものである。このうち甲賀には二百数十の城があり、一つの特色を持っている。他の地域ではいくつかの在所に一つ大きな城を持っているが、甲賀の城は一つの在所に二つ、三つとある。甲西町をみても、柑子袋にも菩提寺にも三つずつあり、正福寺にも二つある。滋賀県の二割以上の城を甲賀郡が中世に持っていたということは、地域の人の気性というものがそこに表れているのではないか。
正福寺木造十一面観音立像(重文)
知られていない甲西の顔
◇菩提寺地区に斎神社というのがある。昔は日月大明神といい、中世の在所名は出月村であった。それが斎につながるというのは、斎王の頓宮があったからではないか。野洲の河岸段丘で起伏も少なく、大勢の伴を連れた斎王が宿営するのに恰好の場所ではなかったと考えられる。
斎神社
◇甲賀の頓宮が水口にあったとか、三雲にあったとか色々説もあるが、距離的に考えるとこの地にあったように思えるのである。京都を出た一行は瀬田川で禊をし、岡川(栗東町)の郡衙の側で休憩の後、伊勢落(栗東町)を通り、斎村で再頓宮をした。そして柏木(水口町)の御厨で休憩し、大野(土山町)の垂水頓宮で宿営、鈴鹿を越えて国衙のあった関(三重県)で泊まるという行程であったと考えられる。
◇天武天皇の皇后、?野讃良(高天原広野姫)後の特統天皇は自分の子草壁皇子を天皇にしたいがため、天武天皇の大津皇子を殺すことになるが、これに先だち大津皇子の姉大来皇女は伊勢祈願に斎宮として行かされていた。
◇斎宮は野洲川でもあちこちで禊のあった碑が残されているようだ。
◇東海道の夏見は立場といって、石部と水口の宿の途中にあり、田川の渡りをするための小休止の場所であった。
◇かけ茶屋というものがあり、裏の谷水を樋で引き、表でからくり人形を動かし、ところ天を売っていたことが名所絵図に描かれている。是非復元したいものの一つである。
◇甲賀郡は山高く谷深い地域であったためか、歴史をみても都を左遷されたり、失脚したりするとこの地に逃げてきている。鎮西八郎(源為朝)中納言藤原藤房、キリシタン大名の高山右近、足利義昭、応天門の変の大納言伴善男、吉良の仁吉、鴨長明、大津事件の津田三蔵など数多くの歴史上の人物ゆかりの地である。甲賀郡は隠れて考えるのに適地といえるような、そういう性格を持ったところではなかったか。そんなところであるからこそ忍者というものが出て来たのではないかと思う。
 
甲賀の人物探訪
 
甲賀郡は、歴史上数多くの偉人を輩出している。しかし、これらの偉人すべてが広く世人に知られているわけではない。世のため人のために優れた功績を遺しながら、今なおスポットライトを浴びることなく、名も伏せられがちな人もある。そこで、隠れた甲賀郡の偉人を紹介してみたい。人物の紹介をしていただいた乾憲雄さん(66歳・甲西町菩提寺)は、
(乾さんは“われらふるさと探検隊”の第二探検地での語り部をお願いした方です。)
「ここに紹介する人達は、陶工・農業・商業など産業の振興や治山・治水事業などに攻績のあった人をはじめ、歌俳人・画人といった文化人、そして政治、教育、医療など幅広い分野から選んでみた。物の豊かな日常生活のみを喜ぶだけでなく、心の豊かな先人を称え、互いに尊敬の念を持ちたいものだ。“甲賀郡草の根郡民史”とでも題して上梓できれば、先輩達の悦びは勿論、後輩の人達の心の糧ともなるであろう。」と語っておられます。
 
石部町
 
華頂文秀
石部宿藤谷家に生まれ、十五歳のとき比叡山に入り、のち日野町正明寺に参禅し、律学を修め、民衆の教化に努めた。黄檗山万福寺の第二十五代管長に迎えられた。
 
遠藤亮槻
農村救済のため世界最初の農業協同組合の原形をとり入れた近世の農学博士大原幽学の死後、八石教会(性理学)の二代目教主となった。石部の旅蘢八幡屋で病死した。
 
服部善七
十三歳の時、五個荘の豪商外村家に奉公し、生涯にわたり社会開発事業に努め「安民米制度」を創設した。貧農救済に力を入れ、米六十六石と倉庫一棟を寄付した。

三大寺専治
国会設立建白書を政府に提出したほか、地方政治の各方面で業績を残した。
 
藤谷九兵衛
問屋を営み、石部宿内に正米会所を設け、石部宿の振興に努力した。
 
藤谷九郎治
青年期に東京に遊学し、明治五年大津で新聞会社を設立、翌年琵琶湖新聞を発行した。新聞のほか、小学校教科書の単語編、地理初歩、史略、小学読本等を出版し、文化興隆に寄与した。
 
井上敬之助
本陣小島金左衛門の八男として生まれ、県議会議長を径て衆議院議員に当選、立憲政友会本部総務および同会代議士会長を歴任するなど、中央政界で活躍した。
 
服部末石亭

「雲根志」を著した木内石亭の親友で、奇岩・珍石の六百四十種九分類の学問体系を明確にした。通称は善七、号を確甫といい、石部宿西入口の自然灰や白亜土、浮石の採集などの攻績を残した。
 
甲西町
 
井上嘉吉
菩提寺、石部の間の野洲川に渡し船を作り、人々の便宜を図った。現在は中郡橋が架けられている。
 
龍池藤兵衛
岩根全山の緑化に努めた愛林家。明治五年戸長となり、長年公職を歴任。その間勤倹躬行、貯畜の奨励、産業の開発、道路の改修、堤防の保護、水害対策など社会事業に身を挺した。
 
奥村友太郎
三雲の人たちが山林を濫伐し、保護を怠るのを憂い、これの改善のため自費を投じて苗木を栽培し、寝食を忘れて一生この業に尽くした。
 
園善作
正福寺連山のハゲ山の緑化事業を決意し、十数年かかって村民の植栽思想を高めた。
 
谷村五三郎
村会議員、消防組小頭などを歴任し、幾多の攻績を残した。下田農業組合の生みの親であり、育ての親でもある。
 
水口町
 
石王文丸
歌人。自然の感情をそのまま言い表す「ただこと歌」を主張し、長崎にも住んで多くの門人を教えた。
 
池本鴨根
水口藩の大庄屋を努め、「和歌名所集」の著書もあり、歌道への研修に努めた。
 
細野亘
水口藩主加藤明邦に、新軍制を編制し兵備の充実を図るよう進言した。
 
中村栗園
水口藩の儒官中村介石の跡継ぎとなり、藩の子弟の教育に力を注いだ。大読書家であり、晩年藩政の顧問に就いだ。
 
巌谷一六

本名は修。水口藩士、侍医。書を好み、明治三筆の一人。
 
巌谷小波
本名は秀雄、一六の三男。尾崎紅葉・川上眉山らと硯友社を起こし、のち創作童話を次々と発表するなど児童文学の普及に努めた。
 
山県順
幕府明治時代の漢字者。滋賀県庁に勤め、地誌の編纂に従事、「甲賀郡志」にも携わった。
 
木食応其
高野山を戦禍から救い、秀吉より木食上人の号を贈られた。秀吉の死後、飯道山に入り宗教の伝道に尽くした。
 
城多董

明治十六年の甲賀大干害の際、地租の減廃を請願し、郡民を救済した。
 
藤田宗兵衛
宇田の庄屋。甲賀の百姓一揆で兄弟が郡民の先頭に立って参加、弟は痩死、兄は江戸送りの途中石部で死亡した。
 
土山町
  
大原重右衛門
日本の緑茶発展と郷土の林業振興に寄与するなど、地域の産業振興の功労者。
 
前野六左衛門
京都に出て、洛北の栂ノ尾より茶の実を持ち帰り茶園を造成、近江茶を企業として成立させた。
 
松山佐平次
勤愛、水利事業に一生を捧げた。薄命に泣く人を救済し、今なお当時の徳行を慕われている。
 
吉倉惣兵衛
野上野用水の開さくに献身した。青土から頓宮に至る五・三キロメートル、現在も地域の受ける恩恵は大きい。
 
市井善之助
大野地区の耕地整理事業を完成させた。献身的努力は村民敬柳の的である。
 
松山忠二郎
朝日新聞編集局長等を務め、のち読売新聞の経営にあたり新聞人として成功した。また、全財産を投じ松山育英会が設立された。
 
三好赤甫
俳人として京阪の諸大名と交遊した。花枝神社境内に句碑がある。
 
僧虚白
俳諸に秀でた高僧。蒲生町石塔寺に「かれ野山父母こいし石の塔」という句碑がある。
 
僧湛堂
東福寺法主となった高僧。
 
甲賀町
 
梅田治敏・治忠父子
通称杢之允。父治俊は成人して知名の剣客を歴訪して、刀法を学ぶ。神道流槍術の大家樫原重俊の門に入り、修練を積み、家康に認められ、関ケ原合戦の時、伏見城に籠城の末戦死。子の治忠も後を継ぎ槍術の達人となる。治忠が油日神社に献納した槍二本が残されている。
 
渡邉詮吾
幕末から明治初年にかけて、多賀大社の神札配布を兼ねて売薬をしていた。その間、薬の調剤の研究を重ね、「虫下しセメンエン」などの調製に成功、近江売薬(株)を設立した。
 
谷村清光
十二歳の時、水口の菓子屋に養われたが、のち陸軍兵学校に入る。西南の役には山県友朋の配下で献策した。調馬の術に長じ、馬匹の改良に力を注いだ。
   
甲南町
 
田島治兵衛
庄屋の家に生まれ、性質剛直で権力に迎合しない正義感が強かった。甲賀一揆の時、幕吏と交渉し、先頭に立って活躍、首謀者として捕らえられ、天保十四年江戸の牢で獄死した。
 
西浦九兵衛
長く庄屋を務め、温厚誠実で村人の信頼が厚かった。甲賀一揆の首謀者の一人として投獄され、七十年の生涯を閉じた。
 
田中安右衛門
庄屋の家に生まれ、甲賀一揆の時、田島らと行を伴にして強訴の目的を達した。一揆後、首謀者として罪を問われ、拷問ののちに江戸送りとなり、途中、桑名で五十一年の生涯を閉じた。
 
豊田美稲
幼少より学問、兵学を好み、水口藩官中村栗園の門下に入った。水口藩が明治維新の時、勤王藩としての立場を取ったのは、美稲の活躍によるところが大きかった。
 
信楽町
 
松田宗寿
多羅尾の家臣宗英の子、江戸で育ったが、のち甲賀郡長となり十九年間在職した。その間、郡内各地に郡林を設け、緑山郡長といわれた。信楽焼模範工場、郡公会堂を建設し、天保義民碑を立てた。
 
多羅尾光弼
津藩家老藤堂数馬の第二子、多羅尾家の養子となり、明治維新後、大津県判事、甲賀郡長、多羅尾村長として地方自治に尽くした。
 
中島来章
幼少の頃から絵を好み、九歳の時、京都で円山脈の画法を勉強し、多くの門人を教え、画家として大成した。
 
田井中伊平
心学で多くの人を導いた学者であった。天保七年(一八三六)の飢饉の時には、自ら率先して米銭を出し、大いに貧民救済に努力した。
 
立浪紋左衛門
本名奥田信斉。多羅尾代官のお抱え力士。力土陶工として、大壺から小さな置物まで器用に作った。明治以降作陶に専念、信楽を離れ、信州赤羽・洗馬・越後の頸城郡、甲州須玉に移住、各地で開窯し名工として知られた。
 
水口町
 
「テレビやラジオの歴史講座を興味をもって学んだことが、水口波濤ケ平古境を発見することにつながった。以来、湖南地域の埋蔵文化財の発掘に携わってきた。歴史より大事なものは民俗であり、民俗の心である。日本には日本の、水口には水口の精神文化がある。これをどのように継承していったらよいか考えることが大切だ。」と語る中西俊弘さん。(76歳・水口町水口)
 
中西さん
中村さん
「元禄時代に開業した旅館の九代目である。台湾に生まれ学生の頃は台湾で育ったので、日本の、そして地域の歴史に興味を持つようになった。自分も中村一氏の末裔であるという言い伝えがあり、それを調べていくといろんなことがわかってくる。また、芭蕉と交渉があり伊賀蕉門の中心人物、服部土芳の研究も続けていきたい。」と語る中村又兵衛さん。(62歳・水口町本町)
 
「植という二十八戸の小さな集落に生まれた。江戸中期には四十数軒あったものがどうして減少したのか、その栄枯盛?を調べることにした。自分の住んでいるところは、小字名で城の内という。子供の頃には集落の周囲に川があり、大きな土塁が沢山残っていた。川には橋が架けられており、北木戸、西木戸、裏門、南木戸の名前があった。中世の城下であったと思う。そして植村には、昔からのしたきりが数多く残っている。」と語る西川嘉一さん。(69歳・水口町植)
 
西川さん
桑山さん
「八田地区は古い焼きものの里、そして忍者の子孫であるということに興味を持ち、江戸時代から残されている古文書を調べてきた。現在は水口町に属しているから、昔も当然水口藩と同じ歴史を歩んできたと考えていたが、実は異なる歴史を持っていたことがわかり感動した。」と語る桑山博信さん。(67歳・水口町八田)
 
山の神の神事
植村には9月1日行う神水という行事がある。一般には神無水とも呼ばれるもので、宇田地区にもある。
昔はナスビを味噌で炊いたものを阿弥陀さんにお供えした。また一月十一日のおこないには大根の辛い味噌汁を供え、羽織桍姿で頭屋が接持をした。
山の神の神事
◇また、神水は紙に関係があるという説もある。昔、御札(神符)に同盟を結んだ仲間が血判を押し、神に捧げて誓い合い、これを水でほぐし、その水を互いが分けて飲み合っていたというものだ。
◇泉地区に伝わる行事の内容と比較したら植地区のものと神に唱えることばは同じであったが、泉地区には合いの手が入ることがわかった。
“早生もよかれ、中手もよかれ、晩生もよかれ”と唱える。
◇“いもやはしか”も残っているが、昔どおりの伝承行事ではなくなっている。いもやはしかのいもとは疱瘡という病気のことで、麻疹とよく似て治っても膚が荒れることから“いもやはしか”と病気を一つの言葉にしたものである。集落の者が皆んな死んでしまうという恐ろしい時代があったようだが、年に一回寄り集まり、健康を祝い、病気が出ないように、さらに子孫繁栄を神に祈ることから始まったといわれる。これらの行事は宇田地区に辛うじて残っているだけである。
◇人間は古くから神の存在を認識していた。そして時代とともに、人間としての考え方によって、もっと神を身近なところに来てもらいたいという想定のもとに、祈りを込めて生まれてきたのが、石鎚山や富士山などの神体山である。山そのものが神であると人間は考えていた。
その後、人間はそのような遠い所まで行かねば御利益が頂けないのかということで集落ごとの身近なところの山の麓を神を祀ることにした。
神の存在を認める場所の条件は、男性あるいは女性のシンボルを連想させるような古い木を御神木とし、そこを神が存在するところと考えた。山の神の信仰は、自然信仰の宗教であり、生殖信仰であった。すなわち子孫繁栄を意図したものとして生まれてきたといえる。
◇山の神は女性神であるが、神様の中で一番不美人の神であり、人間といえど同性の女性が近づくことは、自分の顔を卑下され極力嫌がられる。
男性は手ぶらで近づくわけにはいかないので、お供えとしてオコゼという海の魚を持って行くのが決まりであった。この付近ではなかなか手に入りにくいので、イワシなどで代用していた。オコゼは魚の中でも姿、形が悪いことから、世の中にはもっと不美人がいるものだということを神に伝え、慰めていた。
オコゼの代わりに使うものに“わら苞”がある。これは苞の中に川原で拾ってきた奇麗な石を二個入れる。子種の意味である。それを木の上など高いところに置く習わしがある。
◇山の神は集落の山だけに存在するだけでなく、それを身近なところへ持って来たというこも考えられる。その一つの例として、正月の門松は山の神を家に迎えるために作るものだということもいえるのではないか。
   
中世の城郭
◇植地区の小字名には、植城の存在を想像させるものが多数残されている。館があったと思われる周辺の土塁や堀が残っている。慶長年間の検地帳には、現在もある城の内、北の木戸のほか、今はなくなっているが西の木戸、馬場先などの小字名も出ている。
◇日本書紀にあるように、日本の城は稲城、壕から木を使った陣に始まり、中世の城へと発展していった。中世の城は、山の尾根の端などに周囲を土盛りしただけのようなものであった。そういうものは水口だけでも四十余りある。
◇岡山城址に古い石垣などが残っているのを発見した。この岡山城は、秀吉が天下を取った時に、関東に対する防衛のための前線墓地として築かせたものである。
◇その後、江戸時代に入ると、徳川幕府によって東海道が整備され交通が盛んになり、宿駅制度が出来た頃、将軍を本陣や旅籠に泊めるわけにはいかないので、将軍家専用の宿館が必要となり造られたのが水口城である。京都二条城と同じ性格を持ち、機能的にも二条城を縮小したようなものである。
藩主や城主はいなかったことから、水口城は番城と呼ばれ、城主の代わりに城番がおり、加藤明友が初代城主となるまでの約五十年間二十九名に亘り引き継がれた。
◇関ケ原の戦以降、土地管理のため地域に幕府から派遣された代官がいた。水口にも代官所があり、その中に水口城を設計したといわれる小堀遠州が二十六年間いたのである。
 
芭蕉とのかかわり
◇水口・大岡寺にある“命二つ中に活きたる桜かな”の芭蕉の句碑は、没後百年を記念して造られたものである。しかし、芭蕉は今の大岡寺には行っていない。なぜならば、大岡寺の桜が有名になったのは明治になってから植えたものであり、
大岡寺にある芭蕉の句碑
この句が詠まれた頃には大岡寺は現在の場所にはなかったと考えられるからである。芭蕉の句碑は水口には一本のみだが甲賀郡には十数本ある。
◇芭蕉は没後三百年を迎える。また彼の出身地については伊賀上野か柘植かいまだに判然としない。
 
焼きものの里八田
◇奈良・平安時代、蒲生野一帯に大陸半島からの帰化人が定住し、陶工集団の一部が、現在の竜王町須恵より祖父川沿いに、陶土・鋳砂を求めて開いたのが、“八田の里”である。
八田焼
◇今でも八田には、火明谷、以婦羅谷、焼谷、炭殿、炭出、灰坂、ロクロ谷等の窯業や、鋳物師谷、鍋谷等の金工、また勝谷(笙)、羯鼓谷(大型の鼓・太鼓)等の雅楽とそれぞれ係わりのある字名が残っている。また近くには、平安期の宮中、上級貴族、大寺院のみで使用されていた緑釉陶器窯跡が三カ所も発見されていることから、藤原氏の荘園として庇護を受けていたと思われる。
 
◇忍者集団の中で、八田氏は天台宗山伏系の忍者として安如山頂の寺を山城とし、八田一円を領有していた。また、長享元年(一四八七)、八田勘助は鈎の陣夜襲の攻労あって甲賀五十三家に数えられている。
◇元和三年(一六一七)、以来、江戸幕府末期まで、江戸の旗本・国領半兵衛の知行地となり、代官宮路孫兵衛等によって支配されていた。
従って、水口藩には属しておらず、年貢も水口藩の五公五民に対し、四公六民と優過されていたことが古文書により証明されている。このため、天保義民にも参加していないのである。
◇八田焼は、明暦元年(一六五五)、京都や信楽の製陶事情を学んで帰った宮治伊兵衛によって始められ、その後一時中断していたものを、明和年間に八田初代代官・宮治吉兵衛、武藤佐兵衛などによって再興された。昭和の初期には十数軒の窯元があったが、今ではただ一軒伝統を受け継いでいるのみである。
 
土山町
 
「町民が文化財に触れる良さを知らずにいる。土山の良さを互いに堀り起こし、町を知り、郡を知り、県を知ることから愛郷の気持が深く湧いてくると思う。もっと教育の場にも取り入れることが大切だ。“土山の街並みを愛する会”を結成したが、街並みを掘り起こし、歴史を巡ることによってロマンが生まれてくると思う。」と語る松山薫さん。(73歳・土山町北土山)
 
松山さん
中辻さん
「家には昔から伝わる古文書がある。先々代が天保七年に御所にいた時の記録などが記述されているのだが、この天保年間から明治にかけての日記の解読を続けている。また室町時代の応永の乱(一三九九)で大内義弘に味方し、この大野地区に蟄居されたことが書かれているものや、近江源氏としての系図なども残されているので詳しく解明したい。」と語る中辻龍次朗さん。(60歳・土山町大野)
 
「二十年程前からケンケト踊りの指導をしているが、昨年五百祭を迎えたことを契機に歴史的なことを更に深く調べている。垂水頓宮址史蹟保存会の責任者として、井戸跡の発掘調査を進めてみたい。また、土山の石造建造物の悉皆調査や前野地区の歴史をまとめていきたい。」と語る望月保さん。(64歳・土山町前野)
 
望月さん
井上さん
「町内に残っている古文書が散逸しないよう解読を進めながら、“土山町文化財のしおり”としてまとめ、広く紹介している。土山町も開発が進んでいく過渡期にあり、いいものが失われつつあることから、“郷土史セミナー”という会を作っているが、若い人にも会に入ってくれることを願っている。今後とも研究を続けていきたい。」と語る井上博さん。(63歳・土山町頓宮)
 
「化石の鮎河層群の研究をしている。また、近年失われつつある山の神の神事が土山には多く残っているので、甲賀郡全域に伝わるものとの比較をしながら共通の伝統行事として研究を続けていきたい。」と語る馬場正弘さん。(67歳・土山町黒川)
 
馬場さん
「道」で栄えたふるさと
◇“坂は照る照る鈴鹿は曇るあいの土山雨が降る”のあいは藍を作っていたからという説もあるが、信州の小諸節(中山道と北国街道の分岐点である信濃追分の宿駅で唄われた馬子唄)を解いていくと、あいは間近にとか近くという意味であることがわかる。これが小諸の方から伝わってきたのではないか。小諸節が変化して江差追分となっていったように。
◇甲賀の経済、文化は東海道によって開かれてきた。特に国道一号線沿いは道によって発展してきたいといえる。今やどこの町でも街並みを大切にすることからまちおこしをしようとしている。“土山の街並みを愛する会”に続いて水口や石部町にも同様の組織を作ってもらい、連携をとっていくことが必要だと思う。これまで土山宿の街並みがわからなかった。土山本陣の主であった土山平十郎がほんの少し街並みを書き残している。古書を調べていたら街並みを裏向きにした史料が出てきたので電灯で透かしてみると、はっきりと街並みが表れてきた。これをもとに土山宿時代の街並みを確定し、往時の東海道の姿を追究していきたい。
 
ケンケト踊りの由来
◇瀧樹神社のケンケト踊りは杣踊りともいわれる。その由来には二つの説がある。一つは、聖武天皇が紫香楽宮で付近の住民に局の号を女の人に授けたがそのお礼として踊ったものとする説、もう一つの説は、地頭岩室守護守橘家範がこの踊りを作ったとするものである。
ケンケト踊り
お礼説であれば千二百年前からあったことになるし、地頭橘説だと五百年前ということになるが詳しくはわからない。
◇岩室、前野、徳原の三つの地区で踊っているが、それぞれ踊り方、囃子の仕方、踊りの役など同じ宮の踊りでありながら内容が異なっている。
◇瀧樹神社の氏子に、昔は大沢、五瀬、野上野、市場も入っていたが、明治時代にそれぞれ分かれている。昔は岩室の地頭が治めていたと思われる。
◇本来の氏子の集落地域を飛び越え、徳原に氏子がいるのは、この地の豪族頓宮氏の子供が徳原にいたためではないかと考えられる。
◇この踊りは、長男それも八歳から十二歳の子供しか踊れないというきまりがあるが、今日、年々子供の数が少なくなってきたため、六歳程度の小さな子供に踊らせるので踊りが少々乱れている。二十年前に撮ったビデオを基準に今日まで伝承している。
 
土山は伊勢湾だった
◇甲西町の野洲川で足跡化石が発見されたアカシ象がいたのが古琵琶湖層と呼ばれる時代。ここ土山の千六百万年から千七百万年前、岐阜県の瑞浪市、山の向こうの菰野町、南は榊原温泉、西は京都の宇治田原、そこまでが伊勢湾だった。西の限界は頓宮、大沢までが浅い湾であった。
鮎河層群の化石
土山にも石灰が出るところがあるが、そういうところは二億年前という古さである。ここは、浅い海で淡水も混じるような地域であった。貝の種類も七十種に上る。貝だけでなく、山女原ではイルカの下顎、黒滝ではクジラの背骨やアシカの骨などが出ている。
◇頓宮跡のところでは岩が押し上げられ、層が出来ているのをはっきり見ることができる。頓宮から野上野にかけて明治時代に造られた用水路のための隧道があるが、三年前隧道の中に自然の落差が出来ているのを発見した。年々動いているのがわかる。鈴鹿の方が上がりズレが出来、頓宮から大沢のところに断層線があるためだろう。
◇また、今は絶えてしまったが、明治時代、信楽、甲南地方には大きなサンショウウオがいたような形跡がある。
 
古の頓宮文化
◇瀧樹神社の由来書によると、頓宮まちというのは、東海道を境にして分かれている。今宿の街道から南側は佐治郷で、徳原、市場、前野、南土山は岩室郷であった。それからすると鮎河から山内一帯、下駒月までが頓宮まちであったようだ。

垂水斎王頓宮跡
◇頓宮跡の発堀調査によって、一万八千年前の縄文時代のものと思われる鏃のような尖頭器などが出土している。そんな古くから人が住んでいたのか住居跡などの?跡がないためはっきりしないが、大地が南側に傾斜しており、古代人が住むのには泉や川もあって最適の場所ではなかったかと思われる。この付近には沢山の貝が埋まっているようだ。また昔の山の中で拾ったとされる石皿があるが、中央がへこんでおり、擂り棒などで木の実を潰して食べた道具ではないかと思われる。この付近には沢山の貝が埋まっているようだ。また昔の山の中で拾ったとされる石皿があるが、中央がへんこんでおり、擂り棒などで木の実を潰して食べた道具ではないかと思われる。
 
土山にも忍術史料が
◇土山には山城のまちといえる程、土塁などの城跡がはっきり残っている。歴史の舞台にはなっていないが、戦国時代は豪族の要地となる他の利があったのではないか。
◇大野地区今宿の稲川から山手に入ったところに城跡がある。そこから上に山本神社があり、昔は法得庵があったといわれる。また、山屋敷の地域には西と東に大野城跡が残っている。これは、花枝神社の東に伝教大師が中都寺を建てた時、その一族が構えた城ではないかと考えられる。
◇忍術といえば甲賀、甲南のものということではない。古文書をみると、孝謙天皇の時代に中国の宋から一団の者が流れて来て、近江の国に在住した。その一団の中に伝教大師の一族がいたという。望月一族についても色々な説があるが、忍術は比叡山・天台の山岳宗教の中で生まれてきたものではないか。土山の戦国時代の豪族といわれる頓宮家一族の花押し入り忍術の巻の文書が伊賀上野の資料館に残されている。
頓宮家は藤原系であり、俵藤太(藤原秀郷)の八代目にあたるといわれる。
◇明治文壇の重鎮、森?外は、祖父白仙が生地土山で亡くなっていることから、常明寺(南土山)に墓参に来たことを「小倉日記」に書いている。以前あった白仙の石碑跡に供養塔が建てられている。
 
奉納の舞
森白仙の供養塔
   
甲賀町
 
「佐治城が落城の折、佐治氏の妻が枡形池に身を投じて死ぬ時、“竜になって天に昇り、水に苦労してきた民に水を授けよう”と言って死んだと伝えられている。今も寛政年間に建てられたという竜神という碑が残っている。松明をつけて雨乞いをし、雨が降るとそのお礼に無礼講のように踊り狂ったのが“すいりょう節”の始まりである。
河合さん
町制五周年記念事業として、踊り継がれてきた大原、油日、そして発祥の地である佐山の三つの村に通じた新しいすいりょう節を作ることになった。その後踊りの振り付けも行い今日に至っている。」と語る河合定次さんは、新すいりょう節一番目の歌詞の作詞者なのです。(79歳・甲賀町小佐治)
 
村木さん
「郷土の生い立ちを先人の言い伝えや古文書から学び、現代までの移り変わりを、“相模邑集落史”として出版した。また、郷土の偉人林田騰久郎など先達の遺徳を偲び、その精神を学ぶことにより郷土を盛り上げていくことが大切だ。」と語る村木竹雄さん。(90歳甲賀町相撲)
 
「和田は昔から清和源氏の流れを汲む地区である。甲賀郡の郡司源氏家は、和田を管理していたが、鶴岡八幡宮の分霊として若宮八幡宮を祀った。現在、油日神社の東側にその館がある。
片淵さん
源氏家は和田に移り、和田氏家と名乗った。子孫には、安土の観音寺城で六角氏の配下になり、後に甲賀武士の総帥となった和田惟政がいる。
和田の善福寺が昭和十一年の火災によって古文書を焼失したため、詳しい史実がわからなくなっている。現代は地域開発も大切だが、昔の村の面影がなくなっていくのは寂しい。」と語る片淵廣藏さん。(74歳・甲賀町和田)
  
大原さん
「甲賀郡志の編集や城跡調査会に参画してきた。近世のことはわかるが、中世以前のことは資料も少なく研究が進まず苦労している。薬業のまちにふさわしい産業育成を望みたい。」と語る大原松一さん。(79歳・甲賀町大原中)
 
「甲賀の昔話が作られる時、家に古くから言い伝えられていることなどを書いたことがあるが、郷土のことを伝える場合は、真実を伝承することが基本でなければならない。薬のまちに生まれた甲賀人として誇りを持てるようにしたいものだ。」と語る望月庄太郎さん。(85歳・甲賀町田堵野)
 

望月さん
柚木さん
「中学生の頃から郷土史や考古学に興味を持ち、地域の古老によく話を聞きに行ったものだ。その伝承がなければ、今日のように忍者や甲賀武士のことを知ることも学ぶこともできなかったと思う。
忍者のことについては、フランス、イギリス、イタリア、ハワイで忍者ショーをやったが、今後も日本といえば“富士山”ではなく、“甲賀忍者”といわれるよう、より一層甲賀の名前を世界に広めていきたい。」と語る柚木俊一郎さん。(40歳・甲賀町大原市場)
   
甲賀の語源は「鹿加」
◇韓国(朝鮮・新羅)に“鹿深臣”(日本書記に出てくる六世紀末の百済から来た人)がどんな人物か調べに行ったが何も出てこなかった。日本で百済文化といっているものは新羅のものばかりであることがわかった。昔、百済の“鹿加臣”という坊さんがいって、新羅に仏教を広めに行ったが失敗し、百済に戻り、再度日本に渡って来ている。“鹿加”と使われているが、昔、韓国では、加は宮職名であり、鹿ではなく犬や馬が使われている。鹿加の臣は地方の宮職名であり、鹿加と鹿深とは同一人物で、“鹿加”の文字が源であれば、甲賀との結びつきは考えにくいのではないか。今日、甲賀郡という場合には「こうが」と、甲賀町は「こうか」と使い分けている場合があるが、江戸時代の地図を見ると甲賀は「こうか」と濁っていない。
◇大鳥神社の祭神素戔嗚尊は新羅に渡ったとされているが、甲賀と関係があるのだろうか。
◇京都の祇園さんがここ(大鳥神社)の末社であると伝えられている。大鳥神社と八坂神社とは同じ年に創始されたといわれている。昔、都が揉めた時、疫病が流行したため、占いで東南の方角に疫病退散のお参りをすることになった。伊勢神宮に行ったが治らず間違いであったということで、あちらこちら探し辿り着いたのがここの祇園社であった。
 
忍術と城郭
◇忍術の甲賀流と伊賀流とは大きく異なっている。忍術を売りものにしたのは江戸時代初期からで、甲賀武士、伊賀武士それぞれがおり、戦の中心がどこにあったか、またその資料がどちらについているのかによって評価も違っている。忍術として説明すれば双方同じようなものになってしまうが、勢力的なものとして考えれば、甲賀は、石堂竹林という弓道の名手、油日神社に献納されている槍の名手、梅田杢之允治俊・治忠父子、そして居合と技刀術の無外流創始者辻月丹など剣術の中でも優れた人材が出ているし、かなりの実力を持っていた。
◇忍者のおもしろく興味深い部分だけを捉え、本当の姿を理解されていない傾向も見受けられるので、正しく伝えていく必要がある。
◇甲賀郡には規模は小さいが全国でもトップレベルといえる程多数の城郭が残っている。城郭といっても土塁のあるちょっとした防備ができる程度のものである。甲賀郡は地方にあって、県北部のいわば中央の乱に抱き込まれたような事件が多く、この地域独自での争いといったものは少ない。
◇源為朝は保元の乱で破れ、この地和田の風呂ケ谷に逃げ隠れし、温泉とゲンノショウコなどの薬草で傷を癒したといわれている。
 
昔の売薬道具
冶忠が献納した槍
 
隠れた郷土の歴史

◇徳川綱吉の生母、桂昌院の位牌が甲賀の寺院に多くあるように、日本の歴史に書けなったものが沢山残っている。
◇山の神の神事は、奈良、三重、滋賀など限られた地域にしかないので深く掘り下げていく必要がある。
◇ここの山の神の神事は、どんど火焚いて、そこで門松などを焼く。昔は高く上がる方がよいとされ、書初を上げたり、縫初などをしたものだが、今日では門松も小さくなり、子供達が集まってやるということも少なくなった。森林資源が豊富な地域だけにもっと山の神と結びつけた行事を盛大にやっていく必要がある。
◇昔は、一月七日に神事を行った。御神体を雄松の幹元や二股の木に松茸を使うことで祀ったものだが、最近では、松茸も出なくなり御神体を作れなくなってしまったのでやっていない。山の神は冬は山守りし、春になると田を守ってくださる。だから冬の間は山に入ることは罷り成らぬと言い伝えられた。
◇ここの石つき節は、徳島の祖谷地方でみられる何々節とか何々唄といわれるものによく似ている。これは都に近かったことで自然に伝わってきたものが、平家の落武者とともに祖谷に渡り、民俗芸能として発展していったものではないかと思われる。
◇近江朝延が大津にあった頃この辺は重要地点であったし、平安時代には伊勢平氏と宇多源氏が対峙していたので戦の接点にあった。源平合戦の終焉の地は壇の浦ではなくこの地の油日合戦だといわれている。
◇甲賀武士という広義では、信楽も含まれるが、信楽の方面では活躍の場が少なかったのではないか。伊賀越といっているところも殆んどが甲賀である。伊賀の残党がいたから伊賀越、伊賀武士が家康を攻めるから伊賀越といったようだが実際は、宇治から信楽に入り、山岡、和田、高嶺と和田氏が押えていた場所しか通っていない。和田氏が伊賀攻めで恩賞としてもらった領地であり、本当は甲賀越と呼ぶべきである。
◇甲賀は歴史上の人物として、良弁僧正が相模の出身であるといわれ、近江心学の第一人者、立川政伸や信長と秀吉に任えた武将滝川一益など数多くの偉人を輩出した地域である。これらの人物を通じて、甲賀魂を持った人材を養成していくことが大切である。
 

 
甲南町
 
「ある人の“歴史は明日(未来)への出発点である”という言葉に深い感銘を覚えた。高校生の時“万川集海”や甲南町史と出会い郷土史に興味を持つようになった。昨年、我が町をもっと知ろうと“七夕談義”と称する会を開催した。朝の六時からお寺などを借り、一カ月に十七回もやったが大変好評で、延べ六百人が集まった。皆んなが地元の歩んできた姿を学んで欲しい。」と語る辻邦夫さん。(47歳・甲南町塩野)
 
七夕談義
辻さん
福井さん
「忍術屋敷に入って十年になる。全国各地からお客さんが来るが、大半は物見遊山的だが中には詳しく追究しょうとする人もいるので、説明者としては一生懸命勉強せざるを得なくなった。学校で学ぶ歴史は余りおもしろくないが、地域の本などを読むと大変興味が湧いてきて面白い。」と語る福井博さん。(58歳・甲南町深川)
 
「本来の家業は配置売薬業であった。生来物事を調査し分析するのが好きであったから、町郷土史研究会での仏像や地域慣習の研究活動にも強い関心があった。最近では亡父と同様家に伝わる“楓翠”を名乗っている。」と語る中谷俊夫さん。(67歳・甲南町竜法師)
   
福井さん
吉田さん
「甲賀郡農協の機関誌の編集を担当しているが、昭和五十四年から地域のまつりを取材し“甲賀のまつり”を発刊した。最初は水口まつりや油日まつりなど広く知られているものを取り上げていたが、
地域のまつりには、華やかなセレモニーが目立つものだけでなく、質素なものやあまり知られていない“おこない”のようなもの、さらには秘密裏に行われているものまで様々であった。それぞれの良さを残したいものだ。」と語る吉田秀一さん。(38歳・甲南町杉谷)
 
“おこない”は地域の文化
◇まつりの流れを詳しくみると、今より昔の方が地域交流が盛んであったことが伺われる。
◇観音講などには厳しい戒律があり、若い人がついてこない傾向にある。
◇土山の旧東海道筋など山の方では、花笠踊りなど晴れやかなまつりが多く残されているのに比べ、杣川沿いなど平地の地域では、密教の関係でおこないというおとなしい形の神事が残されている。
◇子孫繁栄、無病息災、五殻豊穣などを祈る行為として伝えられてきたおこないは、県湖北地方が全国的にも有名だが、甲南にも市原、深川、稗谷、竜法師地区に伝承されている。なかでも、深川のおこないは全国的にも古く、八幡神社の古文書には永禄年間(室町時代後期)のおこないの役割が記録されていることから四百数十年も続いていることになる。今でも毎年一月十七日に浄福寺観音講がおこないの勤行に当たっている。講員は絞服桍姿で浄福寺の本堂に集まり、年頭の祈願をする。法会が終わると一同は庫裡に戻り年の順に座る。一献の儀式が行われたあと、宮守三人は鏡餅の御渡りのため本堂に戻る。宮守が一列に並び、エトーエトーと声を掛けると、庫裡に控える議員はエヤーエヤーと応える。このあと宮守達が挨拶し、新しい宮守三人に神祇用の袴の受け渡しを行うのである。昔は、村の年頭の会議の場でもあったようだ。
◇竜法師には宮座の形態が残っている。毎年一月十日に嶺南寺で行われる“いもくい”という行事。重座、中座、正面という“いもくい”の座がそれである。また、稗谷の安楽寺には村全体で行う村座があり、市原の浄照寺のおこないには掛け餠の儀式が残されているが、いずれも貴重な伝統行事である。また、甲賀の売薬は、竜法師、磯尾が元祖であり、腹痛の薬袋に望月家の馬(信州望月家は昔から御料牧場を持ち優れた献上馬を育てたことで有名)の絵が書かれている。これらのことを深く掘り起こしていくべきである。
◇竜法師は、山伏の里であった。その証拠に面座の記録や寿量院と呼ばれる法堂があったと伝えられていることや、今も本実坊、叶坊、深盛坊、蔵坊といった屋号が残っているのである。また、芭蕉の句に“山蔭は山伏村の一かまえ”というのがあるが、この句が詠まれたところに句碑を立て、山伏村を復元するのもよいのではないか。
◇道路標識の地名表示には読めないものや地域性を強く感じさせないものがある。地域の歴史を深く読みとれるような表示に工夫すべきである。
◇おこないは、地域のコミュニケーションや世代間の交流を図る上で大切な行事であったが、今やお年寄り中心のものになりつつあるのは残念である。
◇地域住民がサラリーマン化し、何事をやるにも参加する者が少なくなってきた。神興を担ぐ者もなくなっている。この頃では、まつりのため学校を休みにすると、反対する住民がいると聞き驚く。まつりは子供を感動させ、地域のことを知る生きた教材であるはずなのに・・・・・・・。
◇紫香楽宮でたとえ一世紀でも行政が行われていたら、甲賀地域の文化は大きく変わっていたであろう。
ふるさとをどのようにアピールするか
◇甲南は忍術の発祥の地。近頃はアメリカやカナダなど外国からツアーで忍術屋敷を見に来る人が多くなってきた。外国人は韓国のテコンドーなどと混同して忍術を捉えている人もいる。また、観光地の穴場探しのような形で取材に来る例もある。いずれにしても正しく伝承しながらP・Rしていく必要がある。
◇嶺南寺の半鐘は望月家が作ったものといわれている。三重県阿山町にも甲南の釣り鐘があるようだ。全国に散らばっている望月家の鐘を見つけたいもんだ。
 
甲賀町油日まつり
浄福寺のおこない
浄照寺のおこない
 
“鐘は鳴るか撞木は鳴るか
  鐘と撞木の相で鳴る“
◇鋸鍛冶が盛んであったことから鍛冶屋に関係のある地名が残っている。また、甲賀の売薬は、竜法師、磯尾が元祖であり、腹痛の薬袋に望月家の馬(信州望月家は昔から御料牧場を持ち優れた献上馬を育てたことで有名)の絵が書かれている。これらのことを深く掘り起こしていくべきである。
◇竜法師は、山伏の里であった。その証拠に面座の記録や寿量院と呼ばれる法堂があったと伝えられていることや、今も本実坊、叶坊、深盛坊、蔵坊といった屋号が残っているのである。
また、芭蕉の句に”山陰は山伏村の一かまえ”というのがあるが、この句が詠まれたところに句碑を立て、山伏村を復元するのもよいのではないか。
◇道路標識の地名表示には読めないものや地域性を強く感じさせないものがある。地域の歴史を深く読みとれるような表示に工夫すべきである。
 
息障寺のごまたき ゛春の会式゛
 
甲賀の歴史探訪「あらかると」
 
壬申の乱と甲賀郡

甲賀郡のことが最初に出てくる文献は「日本書記。」天智天皇の亡き後、皇位の継承をめぐり大海人皇子(吉野方)と大友皇子(近江方)が争ったのが壬申の乱。壬申の年(六七二)七月、近江方の別将・田辺小隅の軍勢が「鹿深山」(甲賀地域の山地)を越えて「倉歴道」(杣川に沿う古道)を進み、「た(草冠に束束)萩野」(伊賀上野地方)に陣を敷いていた吉野方と「積殖」(現在の柘植にあたる)で戦っている。この乱の記述は日本書記の天武天皇紀にある。
 
紫香楽宮の造営
天平十四年(七四二)聖武天皇は、山城国相楽郡の恭仁京から信楽に通じる道を開き「紫香楽宮」の造営に取りかかっている。また、大仏を安置するため甲賀寺を建て、天平十六年には天皇自ら大仏の芯となる柱を建てる儀式に臨んでいる。造営は順調に進み、翌十七年正月、紫香楽宮を「新京」と称することになった。離宮から帝都への格上げである。しかし、紫香楽宮の近辺に不審な山火事が相次ぎ、その上地震が続く有様。「続日本紀」の五月十一日の条には、「甲賀宮空しくて人なし。盗賊横行して、火いまだ消えず。都を平城京に復す。・・・・・」と記されている。
 
甲賀の杣

紫香楽宮・甲賀寺の造営に際しては、高度な技術をもった土木・建築の技術者の流入があったと思われる。奈良時代には「造東大寺司」の出先機関として「甲賀山作所」が設けられ、多くの技術者が働いていたことが「正倉院文書」によって知られている。甲賀の杣から切り出された用材は「矢川津・三雲川津」に集められ、杣川で筏に組んで琵琶湖に流し、石山に運ばれた。さらに瀬田川を下り、木津川をさかのぼり、木津から陸路で平城京にもたらされたようだ。
 
甲賀にあった四つの「郷」
平安時代中期の辞書「倭名類聚鈔」によると、甲賀郡には「老上、夏身、山直、蔵部」の四つの郷の名を見ることができる。この地に、郡の役所(郡衙)の所在地としての「甲賀郷」と信楽山地に「信楽郷」とを補って、六郷とするべきだという意見もある。当時、一郷は五十戸が標準とされ、一戸あたりの人数はおよそ三十〜五十人とされているから、六郷だと甲賀郡の人口は九千人程度であったということになろう。
 
延喜式内の神社と古代の寺院
「延喜式」は平安時代の初期、醍醐天皇の命を受けて延喜五年(九〇五)から編集に着手した法令集である。その中に神?宮や国司の祭るべき神社の名を記した「神名帳」がある。この延喜式神名帳に載せられた神社を「式内社」という。甲賀郡には、六所八座の神社の名がある。矢川神社・水口神社・石部鹿塩上神社・川田神社(二座)・飯道神社・川枯神社(二座)の神々である。これを「式内甲賀八座の神」と
崇めているが、千年以上の長い年月のうちに消長もあって伝承上の混乱も見られる。
甲賀には奈良・平安時代に開かれた由緒ある寺院として、石部町の長寿寺(東寺)・常楽寺(西寺)、甲西町の小菩提寺・善水寺、甲賀町の檪野寺が挙げられる。また、甲南町の嶺南寺・息障寺(岩尾山)や信楽町の仙禅寺なども古い寺伝をもつ。この地にも郡内各所に平安朝の仏像を安置する寺院がある。
 
甲賀の荘園
平安時代になると、地方にも中央の有力貴族や社寺の所領「荘園」ができる。郡内の初期の荘園には、甲賀杣を基盤にした椋部荘(西大寺領)のほか、信楽荘(近衛家領)、檜物荘(高陽院領)、馬椙荘(広隆寺領)、嶬峨荘(勧学院領)、柏木御厨(伊勢神宮領)などがある。荘園はその後も数カ村(大字)を支配する在地の豪族が、その所領を貴族・社寺に寄進するなど変質を遂げながら各地に開かれた。三雲・岩根・倉田・佐治・岩室・垂水・土山・青土・油日・大原・新宮・矢川・杣などの荘園は平安後期から中世にかけて形成されたものであり、これらは実質的には自治権を有する郷村であった。郷村は、城館を構えた嶬峨・山中・神保・頓宮・佐治など多くの豪士が支配していた。
 
甲賀郡中惣

南北朝時代、各地に城館を構えた甲賀の地侍たちは、近江の守護・佐々木氏の家臣となり、血緑的な「同名中」を強めるとともに、柏木三家・荘内三家・杣五家・南山六家・北山九家などの地緑的な結合を強めていく。これが全郡的な結合にまで広げたものを「甲賀郡中惣」という。郡中惣は、奉行・年行事などを置き、しばしば参会して有事の行動を協議した。また水論(水争い)・山論(境界争い)など内部の利害の紛争は合議制によって調停した。山中・望月・和田・三雲・隠岐・池田の各氏も郡中惣の中心的な存在であった。この “甲賀の歴史探訪「あらかると」”のしめくくりとして、杣庄章夫さん(53歳・甲南町森尻)は、「甲賀郡は古くから開発が進み、歴史や文化の香り高い地域だった。紫香楽宮跡・長寿寺・常楽寺・善水寺・檪野寺・油日神社などの優れた文化財を伝え、日本六古窯の伝統をもつ信楽焼や近江茶・家庭配置薬などの伝統産業も現代に受け継がれている。また鈴鹿国定公園・三上田上信楽県立自然公園・東海自然歩道などによって自然に親しむこともできる。歴史や伝統を踏まえ、自然との調和を図りながら、甲賀を未来に生かすことが大切だ。」と語っておられます。
 
(杣庄さんは“われらふるさと探検隊”の第三探検隊での語り部をお願いした方です。)
   
信楽町
 
「宮殿の柱の根ではないかと思われる木材が宮町の土地改良中の田の中にころがっていて、それが盆栽台となっていた。“えらいことや”ということで始まったのが宮町遺跡の発掘。また、玉桂寺の地蔵堂の中で、法然上人のために作られたという三尺の阿弥陀如来像との対面、これが文化財との出会い。信楽昔話の取りまとめも貴重な体験だった。」と語る渓逸郎さん。(59歳・信楽町神山)
 
渓さん
中島さん
「紫香楽宮跡の発掘には父親が協力した。保存会を独自に作り、地域の保存に努めてきた。親子二代の保存活動が認められ、文化庁長官賞の栄誉を受け、お陰で苦労が報われた思い。」と語る中島知夫さん。(80歳・信楽町黄瀬)
 
「小学生の頃、先生から郷土のことを学び故郷の歴史に興味を持った。“多羅尾の歴史”、“昭和二十八年大水害史”をまとめた。多羅尾には、室町時代以前のものといわれるめずらしい一石六体地蔵をはじめ、三百体を超える地蔵さんがある。その一体一体の戸籍を作ってみたい。」と語る岩田勘三郎さん。(76歳・信楽町多羅尾)
 
岩田さん
北田さん
「ふるさとのことは何でも見たい、聴きたいの野次馬根性が必要だ。朝宮郷土愛好会十六名の会員とともにミニコミ誌を発行してみたい。そして歴史や方言の掘り起こし活動を展開したい。」と語る北田重樹さん。(53歳・信楽町上朝宮)
 
「信楽焼の歴史を伝えていかなければという使命感を持っている。陶器に関連して古い窯を調べたり、古い陶器を保存していくことが後世のためにも大切。三十四名の信楽古陶愛好会の仲間とともに歴史を調べ書物にすることが生きがい。」と語る富増純一さん。(52歳・信楽町長野)
富増さん
 
信楽の地名の由来

◇甲賀、信楽という地名を結びつけて考えると、すぐ紫香楽宮ということになるのだが・・・・・。昔話に“天狗さんが飛んでくる”というのがある。北山というところに天狗が飛んでくるような大きな木があった。“繁る木”が信楽の語源だとする説がある。
◇どうも大仏さんを造りたいというのが聖武天皇の最初の発想のようだ。しかし、紫香楽では完成せず現在の奈良・東大寺のところに場所を移し、完成させたものである。
◇大仏殿の一番最初の副柱は、信楽から運んだという記録が東大寺にあるそうだ。本柱より良質のものでないと副柱の役目をしないという。
◇そのような素晴らしい木が信楽に繁っていた。天狗が来るような自然林、これが甲賀杣と呼ばれるものだ。今、この信楽や甲賀一帯を見ても、天狗が来るような木はなくなっている。
◇正倉院展を見ていると、甲賀から材木を運搬したという記録に突き当る。材木何石、運搬人の名前、人相まで書かれている。何年もの歳月をかけ運んだのであろう。
◇信楽、繁る木、甲賀杣という言葉を合わせて考えると、信楽は素晴らしい森林地帯であったように思える。今日、地球から自然林が消え、砂漠化が進行しているという。地球を守るべしという議論とともに、甲賀地域も自然を大事に残していきたいものだ。
◇地名の由来にはさまざまな考証があるが、その代表的な説として、“樹木繁茂の木なるべしというのが信楽である”と日本地理史料にある。
◇紫香楽宮?の研究をした僧の資料の中には“繁良久”と書いてある。これは、朝鮮の言語らしく、良久、(らく)とは在所、集落という意味のようだ。設楽の言葉も信楽と通ずるのではないか。また、愛知県にも北設楽郡設楽町という陶器のまちがある。信楽の陶器も朝鮮から若狭を経て伝わり、定着したものだという説もある。
 
紫香楽宮跡

 
信楽焼は大陸からやって来た
◇渡来文化を思わせる地名として、信楽には昔、峠を七曲半とかいったが、勅旨に八丁縄手という堤防がある。この「八」という数は朝鮮文化を表しているらしい。出雲神話の八岐大蛇も朝鮮文化と深い係わりがあるのではないか。だから陶器も朝鮮半島から渡ってきた文化と考えられるのである。
◇信楽焼は、良質の陶土があり、そこへ大陸からの渡来文化が根付いて生まれたのではないか。渡来人は信楽焼の先生だったかもしれない。
◇紫香楽宮で大仏を造ろうとした時には、奈良から名工が大勢来ていたであろう。そのうちの何人かが残り土着したのではないか。
 

多羅尾の磨崖仏
登り窯の炉内 仕組図 (注)信楽古陶愛好会発刊 「信楽焼歴史図録」より
 
多羅尾は交通のターミナル

◇多羅尾は信楽で最も古いところで、倭姫命が来たとか、聖徳太子が寺を建てたという伝説がある。弘法大師が今の多羅尾という文字を付けたともいわれる。
◇多羅尾の磨崖仏は有名である。昔の人は大きな石を見たらそこに仏様を彫り、大きな木があったら大杉大明神として奉祀する。自然とくらしを一つに捉え、敬虔な気持ちから生まれたものであろう。
玉桂寺
磨崖仏のところに昔は滝があり、行場となっていた。
◇多羅尾は山奥であるが、滋賀、三重、京都、奈良の各県がくっついたところであり、昔から交通の重要なポイントであった。多羅尾代官が置かれた所以である。信楽は、いろんな町から集まることができる小高いところで、多羅尾は近畿一帯の大名を睨むには恰好の場所であったに違いない。そういう意味では、交通の要路、ターミナルのような役割を持っていたといえる。
 
信楽と甲賀三郎
◇天正年間に書かれた多羅尾伝記の中に甲賀三郎のことが記されている。甲賀三郎は、平将門を征伐した時の勲攻として甲賀郡を賜った。館は竜法師(甲南町)にあり、役所は多羅尾にあった聖徳太子が建てた寺であった。しかし、信州にいた兄二人は弟の出世を妬み、役所に火をつけ殺そうと図った。三郎は助かったが寺は焼けてしまった。甲賀三郎は仮説の人物であるという学者もいるが、四百年前の伝記にはそのように書かれているのである。
◇甲賀五十三家には多羅尾家も含まれている。望月家は、朝宮、小川出にもあるが分家に違いない。
 
聖武天皇の真のねらい
◇宮町の遺跡を発掘しているが、黄瀬の新宮神社の一角を掘ってみると平安時代の焼きものが出土した。あの付近一帯は、溝、川すべてが宮址に関連していることがわかる。
◇聖武天皇は宮を造るより、大仏を造りたかったのではあるまいか。あの丘には大仏殿がふさわしい、そう思ったのではないか。中国の長安をモデルにしたことからも、仏教を中心に考えたのであろう。
◇宮町で発掘しているところは、居住区すなわち宮殿に属する部分であり、紫香楽宮址のところは、大仏殿を建立しようとした場所ではなかったのか。その収拾策として甲賀宮国分寺というものを造って、最後になったのであろう。
◇信楽で古墳としてはっきりしているものは、勅旨の古墳のみである。聖武天皇を迎えた豪族は、勅旨の辺が中心ではなかったか。そして宮にふさわしい場所を選定したのではないか。
 
信楽の伝統を残すために
◇平安時代の歌をみると、信楽の外山の霞とか、外山の紅葉というのが沢山ある。外山というのは、深山(深い山奥)に対する言葉で、すぐそこにある山という意味。すなわち都からすぐ近くにある山のことである。奈良、平安時代も都の外周すぐ近くにあるという土地柄であったが故に、堺や京都など文化の中心のための茶陶器などが盛んに作られた。信楽は決して深山ではないということを歴史から学び、忘れてはならない。
◇信楽の昔話も沢山あるが、先人の心は大変おおらかであった。これは大事な生活文化である。信楽の代表として狸は恥ずかしいという人もあるが、日本人はおおらかでユーモアのある付き合いが下手である。その意味で、狸はおおらかな心を象徴したものとして、世界に通用するといわれている。恥じずに信楽の顔として誇りにしてよい。
◇出土した焼きものの保管はあちこちに分散しているので、一堂に展示できる資料館が必要である。町内の民家にも徳川時代のものなど古いものが沢山あるが、保管が雑になっている。伝統資料は残そうとする心掛けが大切である。
◇信楽焼も作陶を志す人は多いが、製品を作る職人は少なくなった。子供の頃から作る喜びを感じさせることが大切だし、そうすれば後継者も生まれてこよう。
 
最後にこの“ふるさともの知り博士座談会”の司会を務めていただいた甲賀地域研究会のお二人に感想を一言。
 
お二人に感想を一言。
甲賀郡七町は、それぞれ独自の産業基盤や文化を持っている。各町それぞれこれらの独自性を発揮してまちづくりを進めることも大切なことではあるが、同時に「甲賀」の総合性を追求し、“甲賀の顔づくり”を進めることも重要なことだと考える。そこで、甲賀の「地域文化をつくる」ための試みとして、次のようなことを提言してみたい。
@ 行政機関による郷土史情報テレホンサービス、A小・中学校における「郷土史教育」とふるさと料理を活用した「ふるさと学校給食」、B高校図書館開放講座、C文化財みて歩きウォークラリー(文化財散策コース・遠足コースの設定)、D甲賀三十三カ所観音霊場めぐりマラソン
これらを開催・実施し、定着化させることにより、文化財を通じて「甲賀は一つ」の合言葉は現実化するであろう。甲賀は、北部を東西に野洲川が貫流し、南部は杣川が三雲で合流して甲賀谷をつくり、一方、信楽は信楽川と大戸川がまちの中心部で合流して瀬田川に注いで信楽谷をつくっている。これら二つの谷によって甲賀は形成されており、文化的・歴史的にも異なっているところがみえる。古代においては、様々な宗教文化が育った地域であり、中世は戦いに明け暮れたところでもあった。その中で甲賀武士団の活躍がみられ、また多くの文化財が伝来されている。私達は、先人の残してくれた歴史・文化に想いをはせ、そこから学び、ふるさとのまちづくりを進めたいものである。
 
池内順一郎さん
小川和彦さん
 
 
戻る 上へ 進む
   
Copyright (C) 2007 アイ・コラボレーション信楽. All Rights Reserved. lp-digi