ふるさとの歴史を知る
 
第一探検地からの報告
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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甲賀町
 
薬のまち甲賀と甲賀流忍術のルーツを探るため、隊員は忍術村に入って行きました。甲賀町は、古くから「鹿深の里」と呼ばれ、縄文早期の土器が油日地区で発見されていることから、甲賀郡で最も早く開けた地域とされています。
忍術村に入る探検隊
また、山と谷が不規則に交錯し連続した地形から、古代より油日合戦など幾多の戦場にもなったところです。
天武元年(672)、天智天皇の子大友皇子と天皇の弟大海人皇子との間に皇位の継承をめぐる内乱が起こりました。これが壬申の乱ですが、この時、町の油日缶、那須ヶ丘原あたりは大海人皇子(この戦いの後天武天皇となる)の陣地であったといわれています。町域は、大化の改新後の郷里制下では蔵部郷に、また平安後期には藤原道長の荘園に属しました。南北朝時代に入ると、次第に武士化していく土豪たちは惣村の防衛のため村を支配しました。これが甲賀武士の起こりです。今でも忍術の創始者といわれる篠山忠賀一族の墓や忍術の教科書ともいえる“万川集海”などが残されています。それでは、隊長の報告を聞いてみることにしましょう。「薬の町としての甲賀は、甲賀流忍術と深い係わりをもってきました。
 
篠山忠賀一族の墓
忍者の教科書 ゛万川集海゛
甲賀流忍者は甲賀武士であり、山伏としての性格をもった文化がありました。甲賀武士という忍者は、人の心を知り尽くした心理学者であり、火薬を作る科学者、薬草から薬を作る医学者、夜道の標として星を利用する天文学者でもあり、道具を持たなくても自然のものから何でも作る大工さんのような知恵者、発明者でした。
初期の配置売薬
そうした技術を徳川家康が認めることにより、甲賀五十三家の武士として名声を高め、忍者として活躍しました。忍者の忍はしのびよることでなく、刃の心であり精神を鍛えるということです。家康に仕え大いに忍術を発揮しましたが、世の中が平和になると戦もなく、忍者の活躍する場もなくなり、薬を作る技術から薬屋となったり、江戸城の門番となったりしました。忍者は、情報を得るために全国に薬を持って歩き、色々な情報を集めていたのです。それが配置売薬の始まりでした。こうして、甲賀は薬の町として、忍者とともに発展してきました。」
隊長の報告にあった山伏は、修験道場で心身を鍛え、特殊な山岳武術を身に付けたといわれています。食糧は乾燥した少量で腹もちの良い独特のもの(くるみ、そば、もち米、薬草等で作った干丸)を持ち歩いていました。また、甲賀武士は領士を持てない武士であり、そこで同名中という名前を同じくしたもの(例えば大原氏)が集まり、多数決や話し合いによって活動するという集団会議制度や共和制の組織を作っていたのです。甲賀売薬の元祖といわれる渡邊詮吾も飯道山坊の修験者となって配札を行いながら腹薬を売りさばいていました。甲賀町の売薬業は、現在でもその伝統を受け継ぎ、町の発展に大きく貢献しているのです。
  
 
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