ふるさとの歴史を知る
 
第一探検地からの報告
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Home 甲南町
 
甲南町
 
甲南町の探検隊は、希望ケ丘小学校内にある資料館で学びました。テーマは、「むらの鍛冶屋」とでもいえるでしょう。甲南町から水口町にかけての一帯の山々は、中世に池原荘あるいは杣荘と呼ばれ、木材が沢山あったようです。
資料の説明を聞く探検隊
このため、奈良時代、石山寺の増築の際には木を切り、川を使って運んだといわれており、古くから山仕事職人との係わりをもち、鋸鍛冶が盛んでした。この土地の鋸製造の歴史は、文政年間に八里平右衛門らが京都の鋸鍛治に弟子入りしたことから始まり、次第に鋸の産地としての姿を整えていったのです。
 
八里平右衛門の鍛治場
近江甲賀の刻印入り木?鋸
(注)八里平右衛門の鍛治場、刻印鋸の写真は「むらの鍛治場」(平凡社発行)の著者香月節子・香月洋一郎氏より提供していただきました。
その江州鋸は、明治末期から大正初期にかけて最盛期を迎え、ここで作られた木挽鋸には「近江甲賀」の刻印が押され、北海道の開拓や九州方面など全国各地へと出荷されていったのです。南九州の本挽歌にも「・・鋸は江卅三本柳・・」と歌われています。
忍術屋敷の内部
隊長は、鋸の鉄は甲南町にはなかったので、鳥取や島根から、はがねは岡山県から取り寄せていたのです。」と報告してくれました。
甲南町は、奈良時代、旧東海道が通り、古くから交通の要街として栄えてきました。また、甲賀流忍術ゆかりの地でもあります。伊賀と対比されるこの忍術は、山賊から生活を守る自衛の手段として、また都に近いため逃げ込んでくる貴族や落武者からの自警の手段として発達したものです。
甲賀の忍者は、甲賀五十三家と総称され、その代表的なのが望月家です。甲南町に残されている望月氏一族の歴史は、延喜年間(九百十年頃)信州望月三郎兼家が甲南町塩野に土着し、郷里の諏訪神社の分霊を祀ったことに始まります。その後、一時期荒廃した諏訪神社を応永三十一年(一四二四)、望月信濃守入道沙弥良仙が修験山伏として塩野に土着し、再興したと伝えられています。その孫の望月出雲守は、文明十二年(一四八〇)柑子に望月城を築城し、近江守護職佐々木六角の配下として、甲南地方の大部分を支配するまでに成長しました。この頃に甲賀流忍術の基礎ができ、長享の乱、鈎の陣では佐々木六角を助け、夜襲やゲリラ戦法で足利義尚将軍勢を敗北に追い込んでいったのです。江戸時代には、直系望月本実は竜法師に本拠を構え、一族を屋敷周辺に配しました。この本拠はカラクリを随所に施した屋敷で、これが現存する“忍術屋敷”なのです。甲南町と長野県北佐久郡望月町は、歴史が取り持つ緑により、平成二年十二月六日に友好親善都市提携が結ばれました。
 
水上を渡る道具 ゛水蜘蛛゛
甲賀流伝書
 
 
戻る 上へ 進む
   
Copyright (C) 2007 アイ・コラボレーション信楽. All Rights Reserved. lp-digi