日本文化人類学会近畿地区博士論文報告会(2007630日、京都文教大学)

到来する暴力の記憶の分有

台湾先住民族タイヤルと日本における脱植民化の民族誌記述

200612受理

大阪大学大学院文学研究科文化形態論専攻日本学講座課程博士論文

中村 平

論文目次

 

序…1

第一部 脱植民(ディコロナイゼーション)の実践へのいざない――――――――――――――――

第一章  台湾先住民族タイヤルとの関わりに(いざな)われる「私たち」…3

第一節 私…3

第二節 フィールドワーク…10

第三節 タイヤルの人々により、想起され語られる暴力の記憶…14

第四節 台湾先住民族への植民統治と戦争動員の歴史に対する日本人市民団体の向き合いかた…15

第五節 台湾先住民族の過去と現在への日本人の向き合いかた…22

第二章  脱植民化(ディコロナイゼーション)の記述のあり方:「困難な私たち」への遡行…25

はじめに…25

第一節 台湾先住民族と日本人:「困難な私たち」への遡行…25

第二節 植民統治の暴力を語る主体…36

第三節 到来する暴力の記憶と植民統治の刻印:過去の流用・過去の専有…43

第四節 主体のトランスポジション・「困難な私たち」…48

まとめ 「私は何者か」から始まる、和解と脱植民化を実践する記述…53

 

第二部 記憶の聞き書き実践――――――――――――――――――――――

第三章  自治希求の中の植民された経験:タイヤルに到来する暴力の記憶の換喩(メトニミー)的つながり…57

はじめに…57

第一節 民族自治の希求と登場する民族(ナショナル)()歴史(ヒストリー)57

第二節 第二期民族議会議長マサ・トフイ・ムルフー(頭目)と、父・原藤太郎の記憶…62

第三節 白色テロ:林茂成氏と、父ロシン・ワタン…67

第四節 高金素梅氏の打つ政治と喚起される記憶:靖国神社をめぐる訴訟と、高砂義勇隊慰霊碑をめぐる動き…73

第五節 ヤキ・ピスイの語る終戦間際の出来事…79

第六節 国民兵の経験:誰のために戦ったのか…81

第七節 女性にとっての自治、後山(こうざん)の人々にとっての自治…86

第八節 マジョリティはいかにマイノリティの自治希求の声を聞くのか…88

まとめ 困難な私たちの記憶と歴史の換喩性:民族自治希求の歴史を尊重しつつそれが開かれていくこと…90

第四章  植民地侵略戦争をめぐる歴史解釈:暴力の常態化としての「和解」…93

はじめに…93

第一節 被植民者による「糾弾しない語り」…93

第二節 「糾弾しない語り」の聞きかた…95

第三節 エヘン集落にせまる植民地侵略戦争…96

第四節 「ガオガン蕃討伐」とエヘン集落の「帰順」…98

第五節 「帰順」は「仲良くする」(スブラック)なのか?…100

第六節 語りが生み出されるコンテクスト…104

第七節 「糾弾する語り」について、そして二分法の破綻…108

まとめ…110

第五章  ムルフーと頭目における語義のせめぎ合い:呼びかけられる天皇と日本…115

はじめに…115

第一節 タイヤルの伝統的政治制度…115

第二節 エヘン集落「頭目」の誕生…117

第三節 頭目をとりまく緊張した磁場…124

第四節 頭目ワタン・アモイ以降…125

第五節 「天皇は日本のムルフー」という表現に出会う…126

第六節 語りを生み出す構造、語りが生み出しているもの…132

第七節 二体系のせめぎ合いとその中で呼びかけられる天皇と日本…134

まとめ…135

結論…137

補論 応答責任の磁場にとり込まれた日本人:近年の日本側におけるタイヤルに対する植民と戦争の経験への向き合いかた…141

第一節 問題提起…141

第二節 日本人がタイヤルの声を聞く、声と向き合うということ…141

第三節 台湾先住民族タイヤルを中心とした声に日本人は戦後どう向き合ってきたか:日本人による書き物と活動の読み直し…148

第四節 応答責任の磁場に取り込まれた日本人:日本人の書き物において登場する「困難な私たち」…165

論文の説明

 

本研究は「タイヤル」と「日本」と呼ばれる人々の間に、新しい関係が生成するような民族誌記述を行った。この両者の関係は、1895年から1945年の日本の台湾に対する植民地統治と、その後の中華民国体制下の台湾と日本の関係に、大きく左右されてきた。タイヤルと日本の新しい関係を模索する際に、タイヤルの人々に到来する暴力の記憶の換喩(メトニミー)的なつながりと植民統治の刻印を思考する事が求められる。

植民統治(植民地統治と同義)の経験は暴力の記憶と切り離しえず、それはタイヤルの人々に到来し語られておりそれを分有してしまうことによりふたつの民族主体が出会い連帯するというものではない形でのつながりが生れる。また、タイヤルの日本教育を受けた世代が日本との関係の歴史を物語る際に登場する「平和」(スブラック)と「天皇は日本のマラホー(頭目)」という言葉には植民統治の暴力の刻印が押されており、タイヤルの人々にとっても日本人にとっても、それを理解することによりその克服への一歩が踏み出される。

 台湾先住民族タイヤルと日本における脱植民化(decolonization)を実践する方途として、到来する暴力の記憶の分有という事態を思考する民族誌の記述を行った。脱植民化と和解が、他者を感じさせる接触領域(コンタクト・ゾーン)において、暴力の記憶が分有されかすかに立ち上がるつながり(それに「困難な私たち」という名を与えた)の中でなされていくであろうことを追究した。

 第一章「台湾先住民族タイヤルとの関わりに誘われる『私たち』」ではこの研究としての書き物を制作する私自身の()(こう)として、帝国日本と植民地の歴史に関わる私を記述の対象とした。遡行とは、「私」「私たち」とは何者かという問いに答え続けようとする遂行的行為である。タイヤルの人々との関わりにおいて、私が日本人であることや祖父の直接的な中国侵略・進出、エキゾティズム、植民統治責任のとり方の問題が存在した。個人的であることと集団性を持つということが、「日本人」という名詞を媒介に切り分けられない。人類学的フィールドワーク概念は記述の対象の文化をフィールドという空間に押し込め、人類学者が記述の対象から切り離された透明な存在であってきたことを反省的に振り返り、文化を書く行為そのものがある一定の立場から文化を立ち上げるという視角を導入した。同じことが歴史を記述する行為に当てはまる。主な調査地である中華民国桃園県の山稜地帯「後山(こうざん)」に位置するエヘン集落周辺の環境が描かれた。調査者である筆者日本人に語られるさまざまな記憶があり、同時に先住民族知識人により文化と民族が立ち上げられている。台湾先住民族に積極的に関わる日本側の活動として、日本ナショナリズムに親和的な力のベクトルを持つあけぼの会、先住民族知識人との交流や文化交流を行う台湾原住民族との交流会、キリスト教者と大学生の学習ツアーといった交流を概観した。

 第二章では本研究の鍵概念を「脱植民化の記述のあり方」を模索するために導入し、歴史学・文化人類学の台湾先住民族研究のサーベイと接合した。植民統治の暴力の記憶が到来し、それを癒す形をとって言葉にしていく中で他者とそれが分有される可能性が生じ、脱植民化は進行する。脱植民化には「自分たちとは何者か」という問いが関わっており、その追求の中で暴力の記憶が植民統治の刻印とともに浮上する。記憶が分有される中でつまり行為が先行する中で生み出される主語「私たち」を、「困難な私たち」すなわちエイジェンシー(行為体)として捉えた。こうした視角は近年歴史学や文化人類学で問題となっている主体と暴力の問題機制、あるいは被植民者の主体と植民地の支配構造の関係を、文化と歴史を自分たちの不断の生成にむけて語る(つまり遡行する)主体あるいはエイジェンシーの運動において捉えることにより、解決しようとするものである。

自分たちの生成ということに関して記憶の領域は決定的な重要性を持っており、ナショナル・ヒストリーにより民族主体が形成されてしまう力が強く働く現在、それに対抗する可能性は断片的な記憶の換喩的な連鎖に求められる。植民統治の刻印は暴力の記憶の想起において浮き上がるが、その行く先は第三章で見るように民族の歴史あるいは抑圧されてきた我々という一枚板的な主体を形成する力に、往々にして回収されがちである。個々の記憶を民族の歴史のために動員する政治として「記憶の政治学」を記述するのではなく、個々の記憶自体がそれ自身さまざまな力のベクトルを有したものであり換喩的な潜在力を持つという意味での政治(ポリティクス)を描くことが目指される。記憶の持つ換喩的な原理あるいは力の発見は、「困難な私たち」を生み出す重要なきっかけである。

第三章「自治希求の中の植民された経験」では、タイヤル民族議会の民族の歴史の立ち上げと高金素梅立法委員(国会議員に相当)による植民主義批判の行動をまず紹介し、植民された経験と記憶が明確な方向性を持った民族(ナショナル)の政治に動員されていることが理解された。その様々な記憶は、ナショナルな歴史を構成する提喩(シネクドキ)として動員されている。同時に一つ一つの断片的な暴力の記憶は、換喩(メトニミー)的なズレを伴いながらつながっている。換喩的な断片の記憶は、全一的なはっきりした境界を持つナショナル・ヒストリー(国民・民族の歴史)を形成することがない。民族議会マサ・トフイ議長(ムルフー)が語る個人のさまざまな断片的記憶に示されるように、植民された経験は脱植民へのベクトルを持ちつつもそれが民族の歴史として回収しきれない記憶の広がりを持つものである。聞く者はそのリアリティに圧倒され、記憶を換喩的に分有してしまう。

このような「大きな政治」を打っていない「普通の」人々の間でも植民された経験があり、明確な意味付与がされ得ない事態が継続するさまを、ヤキ・ピスイの経験した終戦間際の事件と、高砂義勇隊などの国民兵としての経験から見た。またこの普通の人々の経験と記憶は、「スブラック」と「ムルフー」という語義を検討する次の二章において中心的に取り上げられる。植民された経験が民族間のものだけでなく、民族内部において準植民や暴力の経験あるいは立ち位置の格差が存在するということを、女性に対する抑圧と後山(こうざん)の人々の大きな政治への反応の一部を見ることによって示そうとした。タイヤルという主体をこのようにいくら「割って」いっても語りつくすことはできず、常に他者に開かれた記述が求められる。記述自体も換喩的にならざるを得ない。

 第四章「植民地侵略戦争をめぐる歴史解釈」と第五章「ムルフーと頭目における語義のせめぎ合い」において、「和解する(平和になる)」(スブラック)と政治的リーダー・頭目(ムルフー)の語の意味を検討した。なぜこれらの語義を検討する必要があるかというと、日本とタイヤルはその出会いの後「平和になった」のであり、「天皇は日本のムルフーである」という非植民史の解釈からは、脱植民化運動のプロセスにあるタイヤルの人々の遡行が浮かび上がるためである。第三章の主要テーマだった到来する記憶、記憶の換喩的つながりは依然重要であるが、この二つの章は植民統治の語義における暴力の刻印を前景化した。「スブラック」「ムルフー」という語において、伝統的な意味と植民主義の影響を受けた意味の間のせめぎ合いが確認された。そのせめぎ合いは、日本人である筆者に対面するという接触領域における記憶の到来、そしてその記憶を語ることにあってなされていた。このせめぎ合いは「スブラック」や「ムルフー」の語を使用し会話する時、日本人である筆者のいない場においても存在するものであろう。

 スブラックやムルフーの語が伝統的な意味を持つと同時に植民主義の影響を受けた意味を持つこと、それを植民統治の刻印という言葉で表現した。民族自治を「大きな政治」の場で語る中でのみならず日常生活においても、過去を想起する際にそして未来におけるより開かれた自治を想像する際に、植民統治の暴力の刻印が浮き出る。端的に述べればそれは1910年の「ガオガン蕃討伐」に始まる暴力である。タイヤルたちが鎮圧され、和解させられた・平和にさせられたという事態であり、国家・警察権力に保障された頭目を任じ、また頭目と警察の織りなしていく治安の中でつまり暴力の常態化の中で生活していくということである。そしてそれを行った国家・大日本帝国の元首が「天皇陛下」であり、元高砂義勇隊員ら戦争に動員されたタイヤルに「日本のムルフー」として今でも言及され続けている。暴力の常態化としての平和(スブラック)は、天皇を家族国家の家長とする体制の中で確立した。

 植民統治の語義における暴力の刻印は、「スブラック」や「ムルフー」の伝統的語義を確認しようとする際に浮き上がる。自らを何者か、どのような文化を持っているのか問い続ける遡行において、暴力の刻印が浮き上がるといえる。現在民族議会においても「ムルフー」の語は使われ、民族間の和解は台湾の内部で議論されている。本研究は和解と脱植民化に関してのひとつの参画・応答となる。

 植民統治の刻印は語りにおいて浮き上がる。それは意識しようと無意識にしようと関係がない。こうした事態を認識することが植民統治の影響を明らかにすることであり、その歴史の想起と記憶の分有が脱植民化につながる。暴力の中で私たちという主体が作られてきたこと、思い出すのもつらく苦しいそのプロセスを想起することは忘れていたかもしれない(意識の底に追いやってきた)過去を再構成することである。植民者と被植民者の双方が、到来する暴力の記憶を分有し、暴力の歴史をそれぞれの形で想起すること。

 一つ一つの断片的な暴力の記憶は換喩的につながりナショナル・ヒストリーを作らないがゆえに、「困難な私たち」を生み出してしまう。記憶の断片の換喩的なつながりが、ナショナルな歴史をずらし続け、「困難な私たち」を生み出す。「困難な私たち」とは行為が先行することにより遡及的に・パフォーマティブに主語が立ち上がる私たちを指した。提喩のつながりが境界を持つある体系を作ってしまうことに対し、換喩的につながる各要素は次々と別の要素を生み出しそれにはきりがないため、明確な自他の境界を作らない。本研究は植民統治の刻印という暴力の記憶について、換喩的な記憶の連鎖の記述・民族誌を行ってきた。植民統治の暴力の記憶を分有する行為が、タイヤルと日本の間に線引きを引かない形で、新しい私たちを瞬時に、あるいは刹那刹那に生み出している。本民族誌は私が日本と台湾で見聞きしたことから「困難な私たち」が出現する重要な契機を生み出したといえる。

 その重要な契機は、いわゆる公的なメディアをにぎわす「大きな政治」だけを見ていてはうまく探ることが出来ない。本研究が示したように、いわゆる「ミクロな」日常に注意し、日常の中での語りを聴くことに注意を払うことで記憶の換喩的なつながりが理解され得る。接触領域における記憶とは、こうした事態を引き起こす。タイヤル民族議会といった大きな政治で使われる言葉も同時にタイヤルの日常生活で使われるものであり、両者を切り分けることは出来ない。政治は中央の政治家が打っているだけではなく、日常の中に潜んでおり、日常の中の記憶が切り開こうとする力を「大きな政治」につなげていくことが、接触領域において到来する暴力の記憶を描く民族誌記述の中で希求された。

 和解の問題は、マジョリティがマイノリティのたたかいの背後の暴力の記憶を図らずも受け取ってしまい、分有してしまうことから始まる。「たたかい」という言葉はすべての場面には当てはまらないかもしれない。本研究では「たたかい」という言葉から連想されるものと同時に、一見平凡な日常の中である言葉を使用する際に登場する力のせめぎ合いを中心に見た。「スブラック」や「ムルフー」の語義のせめぎ合いと、そこに刻印された植民統治の暴力の記憶を、図らずも受け取ってしまうことが和解と脱植民化を同時進行させるための重要な契機である。

 日本植民統治はタイヤルの方々に語義のせめぎ合いとして記憶されているのであり、その語りを正確に聞き続けその意味を明らかにしようと試みることにより、植民者の忘却はあり得ない。その語りを詳しく聞いていくことが暴力の経験の記憶を呼び起こし、貶められてきた民族の主体化による権益の確保を行いつつ、植民統治により形成されてきた自他の主体の区分をずらしながらつながりを生み出していく。日本とは何か、日本人は何をしてきたのか、その問いにおいて遡行する中で断絶したタイヤルとのつながりが起きるかもしれない。脱植民化はこうして、「困難な私たち」がその場その場で立ち上げられながら遂行されている。

中村平HP「到来する暴力の記憶の分有」:http://www.geocities.jp/husv83/

   連絡先: husv83@gmail.com

※ 2007822日に一部字句を修正しました。