台湾高地・植民地侵略戦争をめぐる歴史の解釈
――1910年のタイヤル族「ガオガン蕃討伐」は「仲良くする」(sblaq)なのか――
中村 平
1 被植民者による「糾弾しない語り」
2 「糾弾しない語り」の聞きかた
3 エヘン社にせまる植民地侵略戦争
4 「ガオガン蕃討伐」とエヘン社の「帰順」
5 「帰順」は「仲良くする」(sblaq)なのか?
6 語りが生み出されるコンテクスト
7 「糾弾する語り」について、そして二分法の破綻
8 結論
1.被植民者による「糾弾しない語り」
筆者は、1990年代後半から台湾北部高地の先住民族部落において、彼(女)らの歴史の語り、特に日本人との関係性について聞き取りをしているものである。筆者がしばしば訪れる部落は、「タイヤル族」と分類されまた自称する人々が住む。彼(女)らのうち、高齢者の多くは日本植民地統治下において日本教育を受けた経験を持つ。また、少なくなりつつあるが、大日本帝国によって「高砂義勇隊」としてニューギニア等の南洋戦線におもむいた男性も存在する。日本人である筆者は、部落では高齢者と日本語で交流し、中年以下の人々とは漢語で交流している。
筆者はタイヤルの人々、特に日本教育を受けた高齢者のお話をうかがううち、目をそむけることができない現実に直面している。本稿では、それを「糾弾しない語り」と名付けている。それは日本の植民地統治を糾弾せず、むしろ日本がもたらした近代化を賞賛し感謝する語りである。筆者がしばしば訪れるエヘン部落(現桃園県復興郷)は、1910年「理蕃五箇年計画」の開始と共に軍事侵略を受け、多くの戦死者を生み、日本植民地政府に「帰順」させられた地である。エヘン部落は日本統治当時、エヘン社と呼ばれており、「ガオガン蕃」の一社であった。この地域に対する一連の軍事侵略を、当局は「ガオガン蕃討伐」と呼んでいる。「糾弾しない語り」は、この軍事侵略に対して「侵略」と断定することはなく、むしろ日本はタイヤルを「平和にさせた」のであり、タイヤルは日本と「仲良くする」ようになったとするのである。「仲良くする」はタイヤル語でsblaq(スブラック)とほぼ同義であるという。
彼らの語りに耳を傾けたい。
70歳の男性W氏。「(タイヤルは)山で日本と戦った、宜蘭[1]のほうだ。日本は平和にさせる」。「お父さんは(考え方が)以前の人、日本が台湾を占領した時、(タイヤルは)馬鹿よ、(日本と)戦争する……山地ならタイヤルはまるで遊撃隊みたいだ。日本の弾を取る、弾はだんだん多くなる。人を殺すのは男らしい、nan zi han(男子漢、漢語で男らしい人という意味)だ……日本は山地を全滅させるつもりらしい。そのときゼンザン(前山)[2]からWatanという人が来た」。Watanは日本人だがタイヤル語を流暢にあやつり、通訳として活躍し、タイヤル語の名前をもち、タイヤルの人々に反抗をやめなさいと諭しに来た。「山の人(タイヤル)は、おーこれは聞かないといかんと言って、だんだんと平和になった」(日本語でのインタビュー)。ここでは「日本は平和にさせる」「平和になった」に注目したい。
64歳男性のS氏。終戦当時、9歳である。「日本人とタイヤルはボンボン山の戦い[3]をして、そのあとsblaqした」。(筆者)「sblaqは日本語ではどういう意味なんですか?」 (S氏)「仲良くする」。(筆者)「じゃあ、タイヤル語で降伏するは?」 (S氏)「……」。降伏するという言葉は、タイヤル語には翻訳しにくいようだ。(S氏)「日本人はバロン[4]から大砲を打ったよ」。W氏と同様、日本との戦争後、両者は「仲良くする」ようになったという認識である。
W氏とS氏のふたりは日本による教育所での教育を経験している。1945年まで、エヘン社の学童は、1.5キロの距離のガオガンにあった「ガオガン教育所」(現三光国民小学)に通っていた[5]。そのため、2002年現在でだいたい60数歳以上の方は、上記のように日本語で筆者とコミュニケーションがとれるのである。
61歳男性のV氏。終戦当時5歳。「(戦闘におけるタイヤルの)指揮官はHakao Yayucだ。日本人はYukan Watan(日本人の通訳者)を派遣してきた。彼は山の言葉を話せる、ボンボン山の戦いの先頭に立った。彼は仲良くしないとだめだと言って、Hakao Yayucと話した。だけどHakaoはだめだと言った。」「Hakaoはその戦いで死んだよ」(漢語での会話を日本語に翻訳した)。
前二者と比べて、最後のV氏の語り方は仲良くするという言葉を直接用いてはいない[6]。V氏の語りについては後半で戻ることにし、ここでは出発点として、前二者の「平和になった」と、「仲良くする」という、どう聞きとるべきか考えさせる解釈を強調しておきたい[7]。こうした解釈が、筆者が「糾弾しない語り」と呼ぶものである。
2.「糾弾しない語り」の聞きかた
筆者は日本人として、こうした「糾弾しない語り」をいかに聞けばよいのだろう。日本がタイヤルを「平和にさせ」、タイヤルと日本は「仲良くなった」という語りを、そのまま「ああそうなのですか」と字句どおりに聞き流すことは出来ないだろう。なぜなら、上のV氏がエヘン社の戦士Hakao Yayucを引き合いに出して語るように、「平和」に至る過程には、幾多の悲しみと暴力が存在していたことを、かすかにでも感じ取ることが出来るからである。
筆者はタイヤルの戦士Hakao Yayucの戦死の背景にあるものを、日本による台湾高地への暴力として感じながら、日本とタイヤル両者のからまりあった歴史に分け入るようになった。そのプロセスにおいて、タイヤルの歴史の解釈を字義通りに受け取ることに危険を感じるようになった。本稿はエヘン社に対する日本による侵略の歴史を掘り起こす行為を通して、日本の侵略戦争がもたらした悲しみと暴力を、読者と共有することを目指している。
まず、出発点として、上の「糾弾しない語り」を、どのように筆者が解釈したかについて述べたい。「糾弾しない語り」は、被植民者が植民者に対して、コミュニケーションを求めている語りとして聞くことが可能である。タイヤルの人々が日本人に対して、過去の悲しみと暴力を直接ぶつけることなく、未来に向けて仲良くしていこうと呼びかけているものとして聞くことが可能である。
その際、植民者は、被植民者の過去の記憶を全く考慮することなく、その語りを鵜のみにして聞いてよいものだろうか。そうではあるまい。少なくとも筆者にとって、エヘン社Hakao Yayucの勇敢な戦いぶりとその戦死や、日本軍がバロン山に大砲をすえつけ「ガオガン蕃」各社を威嚇した事実は、未知のものであった。被植民者と植民者の過去の記憶にずれがある。植民者が被植民者の認識を考慮することなく、「平和にさせた」というそのひとことだけをもぎ取ってきて、「台湾(もしくはタイヤル)は親日的」さらには「日本は台湾(もしくはタイヤル)の近代化に貢献した」という論調を生産することは出来ない。
「日本はタイヤルを平和にさせた」という呼びかけは、タイヤルの人々が日本人に対して語りかけ、コミュニケーションをとろうとする、はじめの、はじまりの一言である。しかし、その呼びかけは自動的に和解につながるのでは決してない。「糾弾しない語り」を和解につなげられるかは、その呼びかけを聞いてしまったほう、つまり植民者の側に求められている[8]。筆者は本研究を遂行していくうちにこうした認識にいたった。
では、植民者はいかに被植民者の過去の記憶を想像できるのか。ひとつは、被植民者に聞くことである。ひとつは、植民者が残した歴史資料から過去を想像することである。ここに、和解を求める語りに応答するために、歴史を掘り起す、もしくは歴史に分け入っていくという事態が生起する。
3.エヘン社にせまる植民地侵略戦争
大日本帝国は1895年、日清戦争の結果台湾を領有する。この年から、1910年のエヘン社「帰順」まで15年の時間が経過する。まず、この間における植民地政府と台湾住民の抗争を簡単に振り返っておこう。1895年に、日本軍は5ヶ月ほどの平地住民の武力抵抗を「鎮圧」し、台湾総督は「平定」を宣言する。しかし住民のゲリラ戦はその後も継続し、統治当局はその勢力を「土匪」と呼んで制圧しようとした。1898年から1902年までに処刑された「土匪」は、記録に残されているだけでも3万2千人に達する(伊藤1993: 87)。
平地住民のゲリラ戦は、1902年前後までに急速に制圧されていった。このころから、総督府は制圧の矛先を山地住民に向けるようになる。台北、新竹州など北部山地住民の「帰順」を図った「理蕃五箇年計画」は、1910年から14年にかけて、多額の予算を本国から得て執行されることになる。これにより日本側は山地住民から1万8千丁の銃器を押収し、北部山地における名目上の「平定」を宣言する。こうして台湾総督府は1910年代半ばに、ほぼ全島をコントロール下におく(若林2001: 43)。
では台湾北部山地に位置するエヘン社をとりまく状況を見てみよう。エヘン社の住民は300年ほど前に、現在の台中県に位置する、北港渓上流の「ピンセブカン」という地から移り住んできた。日本人によりエヘン社人は「ガオガン蕃」と分類されたが、それは彼らの自称(ko gaogan)によるものである。「ガオガン蕃」は研究者によって、現在「ガオガン群」と呼びかえられている(廖 1984)。ガオガン群は日本統治初期には19社が存在していた[9]。そのうち8社は、日本による移住政策により現存していない[10]。
日本植民勢力はエヘン社にいかに近づいていったのか。1906年、日本は「ガオガン蕃」の下流に位置する「大豹蕃」の大豹社(たいひょう社)と阿母坪を軍事占領した。両地は「ガオガン蕃」の位置する桃園県山岳地帯への山脚にある。よって「ガオガン蕃」への実際的な侵略の前史は、この事件までさかのぼると見てよい。日本当局は、「蕃人」の勢力を抑えるため、電流を通した鉄条網で「未帰順蕃地」を囲い込む。この鉄条網が隘勇線(あいゆうせん)である[11]。日本警察は1906年に、阿母坪から北部山脈を越えた現宜蘭県のリモガン社に至るまでの、直線距離40キロもの隘勇線の建設を目指し、入山した。リモガンからの前進隊はガオガン蕃の領地をかすめ、挿天山(そうてんざん)[12]まで達した。阿母坪からの一隊は、枕頭山(ちんとうさん)[13]にて、「大嵙崁(たいこかん)蕃」と思われるタイヤル人の反抗に出会う。植民地当局は軍隊を導入し、3ヶ月余りをこの「討伐」に費やす。いわゆる枕頭山の役である。タイヤルの反抗は日本軍の力に抑えられ、結果長大な隘勇線が北部山地を縦断し、タイヤル人の生活を圧迫することになる(廖1984: 279)。
4.「ガオガン蕃討伐」とエヘン社の「帰順」
このようにして、じわじわと台湾北部山地のタイヤル人を圧迫していった日本勢力は、1909年に「ガオガン蕃」11社を、4回に分けて「仮帰順」させた[14]。「仮帰順」とは、各社の「土目」もしくは「土目代理」[15]をリモガン監督所タラナン分遺所などに呼び出して、銃器を提出させ、官の命令を承服するという誓約書に拇印を押させるものである。日本側が「仮帰順式」と呼んだのは、「ガオガン蕃」全社がまだ「帰順」していないため、仮に帰順を許すという意味合いからである。なお、エヘン社は、第二回「仮帰順」の際に「服従」についての申し出を行うが、提供銃器が少ないと判断され、「誠意」不十分との理由で申し出が拒絶されている(伊能編1918: 658-9)。エヘン社に対する、1910年からの「理蕃五箇年計画」による植民地侵略戦争は、以上の前史をもって発動されるのである。
「ガオガン蕃方面隘勇線前進」という名称で始められる「理蕃五箇年計画」は、1910年1月、宜蘭県の駐在所所員と家族の殺害事件を口実に、同年5月より発動した[16]。「前進隊」と名づけられた討伐隊は、軍警双方が動員され、宜蘭、新竹、桃園庁に分かれ、3方面から「ガオガン蕃」を攻撃した。エヘン社人にも語り継がれるボンボン山、シナレク山[17]での激戦を経て、11月に3隊が集結し、解隊式挙行にいたる(猪口編1921: 547-680)。ここにいたって当局は「ガオガン蕃」地域の「鎮圧」に成功したと考えたのである。
総督府の「準官製施政史」と言われる(呉1985: 5)、井出季和太『台湾治績史』(1937)は、その様子を以下のように要約している。1910年「7月13日蕃人はその生命線である「シナレク」山の戦に敗北して以来、勢日に蹙(ちぢ)まる」。クル社の占領、カウイランまでの交通の確保ののち、最重要地点のバロン山上[18]を占領し砲台を築き、威嚇砲撃を加えたため「彼らは遂に屈服」し、銃器弾薬を提供し「降を乞ひ」、ここにガオガン各社の「帰順を見る」に至る。すなわち「ガオガン蕃」64名はバロン山にて「帰順示達式」に参加し、「遂に彼らもその兇刃を戢(おさ)むるに至った」(同上: 437-9)。ここで不明とせざるを得ないのは、タイヤル側の死傷者の数である。植民者の資料にその数字は出てこない。
前述V氏の証言のとおり、エヘン社の武将Hakao Yayucはボンボン山の戦いで戦死した。P氏(79歳女性)によれば、Hakaoは戦闘でけがをして、木の洞穴で死んだ。「背が低いけど、一番強い」人だった。彼の死体は、日本人に見つからないように、山奥の滝の裏側に隠した。現在も遺体はそこに残っているはずだという。なお、彼の息子Behu Hakaoは、その後エヘン社の駐在所に警手として雇われた(後掲の表一を参照)。
『理蕃誌稿』においては、この「帰順示達式」(10月20日)のあとに、「帰順式」(11月20日)が行われたとある。「帰順示達式」ののちも日本側は銃器の押収を継続し、「ガオガン蕃」のとなりの「マリコワン蕃」に対して、砲撃を加えて脅迫している。当局は銃器の実際の提出状況が悪いとたびたび嘆いており、ここからは「蕃人」たちの抵抗がうかがえる。「帰順式」には「ガオガン蕃各社頭目以下」が参加したとあるが、エヘン社の誰が参加したかは不明である(猪口編1921: 643-8)。
総督府の「ガオガン蕃」に対する事実上の「平定」宣言は、「ガオガン蕃取締に関する内訓」(1910年12月7日)に見てとれよう。曰く、「ガオガン蕃」に対する隘勇線の前進は「その目的を達するを得たり」。今後の経営方針としては、引き続き「密造」銃器の押収にあたり、速やかに教育を施し、「蕃人を愛撫し信頼の念」を固めさせること、などを挙げている(猪口編1921: 143)[19]。その後日本勢力は、「マリコワン蕃」「キナジー蕃」への侵略に転ずる。当該「両蕃」と日本軍は1911年、エヘン社の西北直線距離7キロの李棟山の戦いにて激突することになる。
日本人警察の駐在する「分駐所」がエヘン社に置かれたのは、1915年前後である(頼1988: 94-5)。エヘン社から1.5キロの距離にあるガオガンには、より大きな「駐在所」が設置され、100名を越す警察と隘勇が駐在した。1910年代後半に至って、「ガオガン蕃」各社には警察が配置され、日本統治勢力の本格的支配下に入ることになる。1910年代後半には警察によってエヘン社の頭目が選出された[20]。初代頭目ワタン・アモイは、日本との戦いで死んだ武将Hakao Yayucの父方のいとこにあたる(後掲の表一、また台北帝国大学土俗人種学研究室1935の系統図を参照)。
5.「帰順」は「仲良くする」(sblaq)なのか?
以上、統治側の資料を中心に、エヘン社が「帰順」にいたる経緯を見てきた。ここで、冒頭に見たエヘン社人による日本の侵略戦争の解釈に戻りたい。日本教育を受けた世代には、日本人と「仲良くする」ようになった、日本人は「平和にさせた」という解釈が存在した。ここではさらに、フィールドワークで出会ったより具体的な話から、タイヤル側の解釈を積み上げたい。
エヘン社のとなり2キロ、テイリック社の男性B氏(81歳)[21]。筆者はこの方から、日本時代のお話を日本語でうかがっている。1999年に初めてお会いしてから、既に3年がたつ。B氏は筆者に語って聞かせる。「バロンに(日本の)砲台があった。Teqliaq(テイリック)まで飛んでくるよ[22]。タイヤルが悪いことをするので、(日本は)そうする(大砲をうつ)。僕らは破片を使って、それをたたいて伸ばして、くわを作る。「ああ、日本人はありがたいな」って」。
(筆者)「それは何時ごろの話なんですか? ユタス(おじいちゃん)が生まれる前?」(B氏)「お父さんの話を聞いたんだ。(中略)バロンの一番高いところに、日本の兵隊がおった」。(筆者)「日本との戦争はどうだったんですか?」 (B氏)「やっぱりあった。実際は日本人は、タイヤルを教育したいという気持ちで(戦争を)したんだ。あの時、ひとりの警部がおる(前述の日本人通訳)。Watanと(タイヤルの名を)つけたらしい。ガオガンに頭目を集めて言った、「どの頭目が日本人を殺すのか?」って。カラホ[23]の頭目が(自慢して)言った、「わたしが率先して日本を殺す、わたしはとても勇敢の人」って。(日本は)あの人間を捕まえて、バロンに持っていった。本当は撃たれるはずなんだ。(カラホの頭目は)ユカン・スヤンという名前のタイヤルだ。(日本はユカンを)家(兵営)の一番上に置いた(監禁した)。その前は、みな兵隊が寝てるよ。(そのとき)警部がささやきして(ささやいて)(ユカンに)話した。「君は殺される」。要領があったよ、あの警部。バロンの下、鉄条網があったけど、(警部は)あのタイヤルに後ろから「早く逃げて、飛んでいけ」と話して、門を開けた。山地人は(兵隊の)腹の上を踏んで外に逃げた。鉄条網の上から逃げた。タイヤル(ユカン・スヤン)はうち(カラホ社)に帰った。(日本は)しゃくに触ったらしい。まだ日本はいじめに来たそうだ。そしたらユカンの足に鉄砲があたった。それでユカンは死んでしまった。あの(ユカンの)孫がまだおる(生きている)よ。名前は知っていない(知らない)。そのときはちょうど、日本が指導に来た時。明治らしい。その話はみんな分かってる(知っている)。年寄り連中がよく話してくれる。仕事して休んだ時、いろいろ話を持ち出すよ。実は日本の警部もタイヤルに同情する心がある。(ユカンに)改心しなさいと言ったのよ。でも(ユカンは反抗して)最後に死んでしまった。そのとき私のお父さんは玉峰[24]あたりにおった。こっちに入ったら(移住してきたら)、(そんな)話がみんな分かってしまう(みんなが話すので自然と分かるようになる)」。以上が、1999年に初めてお会いした時に、B氏が話してくれたお話である。
翌年、筆者はユカン・スヤンについての同じ話を、気づかぬまま重複して聞き取っていた。日本との戦争の時、あるときタイヤルは、「警部から呼ばれた。各社の頭目は集合せよと。みんな行った。カラホ、バロン、エヘンも。日本人は、「日本を殺そうという人は誰が命令したのか?」と聞いてきた。ユミンはうまいよ[25]。「そういう人は分からない」「指導した人(日本人)を殺すのはもってのほかです」なんて言った。そのときカラホのユカン・スヤンは、「わたしが言った」と言ってしまったんだ。ユカンは当然捕まえられて、バロンに連れて行かれた。鉄条網が張ってある。バロンの一番高いところ。大砲もある。ユカンは、そう言ったら日本がほめてくれると思ったらしい。実はユミンも、本当は率先してる(率先して日本を攻撃した)」。
「ユカンは日本の計画で、明日銃殺されることになった。警部(前述の日本人通訳)はタイヤル語が分かる。Yukan Watanという(タイヤルの)名前があった。(日本名は)イシダだったかな?とにかくその警部が、ユカンを逃がしてあげたんだ。もちろんユカンは逃げたよ。あの警部も人を愛するらしい。あの警部も、(今度は日本人に)「(みんな)早く、逃げたぞ」と言った。兵隊は鉄砲でやって(鉄砲を撃って)、ユカンは隠れて、カラホまで帰った。第二回にまた(バロンに)行かなかったら、死ななかった。ユカンはまたバロンに行ったよ、日本を殺した。そしたら兵隊に足を撃たれて、病気になって死んでしまった」。
(筆者)「それは何時ごろの話なんですか?」 (B氏)「わたしが生まれたか、学校一年生あたり。あれ(ユカン)の子ども、Hayun Kawilも勇ましかった」。(筆者)「Hayun Yukanという名前じゃないんですか?[26]」 (B氏)「Kawilはお母さんの名前。Hayun Kawilの息子がLongu HayunとLaisa Hayun。二人とももう死んだ」。(筆者)「ユカン・スヤンの話は、bu makao(ボンボン山)の戦いの前の話ですか?」 (B氏)「bu makaoが先。タイヤルは激しく日本人を殺した。日本人はシナレク、バロン、マメー[27]に大砲を置いた。ユカン・スヤンの話はわたしが生まれたころかな[28]。カラホの人間もわたしに話してくれた」。
明らかにB氏のこの話の重点は、日本の警部の「同情心」と「愛」を、聞き手である筆者に伝えようとするところにある。初めの話では、大砲での攻撃すら「ありがたい」と語られる。日本の侵略性が脱色された形で、日本人である筆者に強調して伝えられる。「糾弾しない語り」の典型といえよう。
以上のような話をふまえたうえで、冒頭の「糾弾しない語り」を再考したい。タイヤルの人たちは、第四節に見たような日本との激烈な戦争を経てもなお、なぜ「平和にさせた」「仲良くする」ようになったと解釈するのか。もしくは、本節で紹介したB氏の語りに注目するならば、日本が大砲を打つのは「タイヤルが悪いことをする」からという解釈を、筆者は一体どのように聞くべきなのか。
まず、「仲良くする」という解釈が、タイヤルの民族性に根ざしているとする解釈を考えてみたい。結論では、植民者日本人である筆者が、この解釈に全面的に依拠して「糾弾しない語り」を考えることは退けられる。しかしこの解釈は、2002年の現在、タイヤルの人々が自らの主体性を復活・創造する際に非常に重要なものとなっていること、そしてsblaq(仲良くする)という語の現在の意味を考える際に重要な要素をなしていることを鑑み、ここに日本の読者に提示したい。
伝統的タイヤルの戦争(mciriak)において、勝ち負けは、必ずしも明確なものではなかったと推測される。冒頭部分にてS氏が答えているように、「降伏する」という単語はタイヤル語に翻訳しずらい。日本人によるタイヤル族の慣習調査報告書には、それを裏付ける記載がある。タイヤル族の「敵対関係の終止即講和はこれを「ミシビラク」と云う。お互いに親好を為すの義なり。本族間には又征服又は降伏に該当すへき語を有せす。故に従来清軍又は我討伐軍に屈服したる場合にも尚之を「ミシビラク」と言へり」(臨時台湾旧慣調査会1915: 381)。「ミシビラク」とはすなわち、ここまでにたびたび登場してきた、sblaq(仲良くする)に他ならない[29]。
このように、タイヤル語には「降伏」「帰順」に相当する語が存在しないという点から、「仲良くする」という解釈を考えることができる。つまりタイヤル人は日本のいう「帰順」の何たるかを理解せず、自分勝手に「仲良くした」と解釈していたとする考え方である。タイヤル族の民族性もしくは伝統的な社会文化的特性によって、日本が押し付けてきた「帰順」を解釈しているとする考え方である。既存の認識体系によって「帰順」を解釈しているとする見方である。
伊凡・諾幹(Iban Nokan)(2000)は、「大嵙崁蕃」ならびに「大豹蕃」における「帰順」について、森丑之助(1917)による、上にあげた慣習調査報告書と同様の分析を引きながら、こう述べている。日本との抗争に際して、「蕃人は独立した精神を強くもっており、帰順とは和解に過ぎないと言える。そのため、帰順儀式にあっても、蕃人は一般に、意識の中では日本人と対等の地位にあると考えていたのである」(同上: 28)。そのため、帰順した翌日に反旗を翻すという例にはこと欠かなかった(同上: 29)。伊凡によるこうした歴史記述は、抵抗するタイヤルの主体性を抽出し、民族主体を創造する試みと読める。周知のように、1980年代からの台湾の民主化と同時に「原住民族」(漢語)の復権運動が進められており、先住民族の主体性の模索が追究されている現状がある[30]。
しかし、日本植民地統治を経験したのちにもなお、sblaqという語が、清朝時代の語義をそのまま有しているのだろうか。タイヤルの人々は、圧倒的な日本軍の力を後ろ盾とした支配を目の当たりにし、また駐在所が作られ、日本統治に巻き込まれていく中で、日本と「仲良くなった」「平和になった」と、字義どおりに本当に信じることが出来たのだろうか。
まず確認しておかねばならないのが、「仲良くする」「平和になる」という言いまわしが、日本人側から発せられている可能性である。冒頭のV氏(61歳)が語るように、日本人通訳者Yukan Watanは、「仲良くしないとだめだ」とタイヤル側に通告してきたという。日本側のその後の対応は、仲良くするためには武力をも辞さなかったわけであった。武力によりタイヤルを鎮圧・平定したことを、日本側は「仲良くなった」「平和になった」と言語化した可能性がある。この矛盾した事態をタイヤル側は一体いかに理解したのか。
日本による軍事制圧を「仲良くなった」「平和になった」としてタイヤル語で語る際、sblaqという言葉は、過去に存在した意味を変質させはじめてはいなかっただろうか。Sblaqした(「仲良くした」)はいいが、日本は社における政治や宗教や経済生活に干渉してきた。日本の統治に対する拒絶感・拒否反応は当然あったはずだ。日本とタイヤルは、対等な意味で仲良くなったといえるのだろうか。その疑問を感じたとき、sblaqという言葉を使わない社人もいたであろうし、無力感を感じながらつまり語義の変質を感じながら、sblaqという言葉を使った社人もいたであろう。
例えば、先に見た「ガオガン蕃人」による銃器の「隠匿」は、「帰順式」ののちも存在する現象だった[31]。日本側は銃器を提出、または銃器の登録を迫るが、タイヤル側にはそれを拒むものも存在したわけである。銃器の提出を拒むタイヤルが、果たして「われわれは日本とsblaqした」とタイヤル語で語ったであろうか。そうした事態は考えにくい。銃器の提出を拒む者は、おそらく日本とsblaqしたと語らなかったであろう。さらに重要なのは、たとえ日本とsblaqしたと語ったものがいたとしても、その者もsblaqの意味の変質を取りまく磁場から自由ではいられなかったということだ。それはタイヤル語sblaqの、伝統的語義をめぐっての緊張した抗争状態である。
sblaqの伝統的意味は、植民地統治体制の圧倒的な力を前に、次第に無力化していったと考えられる。1910年代にエヘン社に駐在所が設置され、隣のガオガンに教育所が設置されるなか、sblaqの伝統的語義は無力化していく。駐在所や教育所の設置が端的に象徴する日本植民地体制の常態化は、「すでに日本とタイヤルは仲良くしている」という認識をタイヤルに強制する。銃器の提出を拒むものは非合法化され、日本とタイヤルはまだsblaqしていないと認識する者は危険分子と見なされる。統治という体制の常態化こそがsblaqの伝統的語義を無力化し、骨抜きにする。日本の引き起こした侵略戦争は、侵略という性格が取り除かれてゆき、エヘン社人は1910年に生起した現象に対して、それは日本との「和解=sblaq」であったという解釈を行うようになる。Sblaqの語義をめぐる抗争状態は、ここに至って新たな局面に入ることになる。しかしここでわれわれ日本人が想起したいことは、sblaqの、伝統的語義をめぐっての緊張した抗争状態そのものなのである[32]。
6.語りが生み出されるコンテクスト
前節ではsblaqという語義のゆれをみてきた。そこから、「平和」「仲良くする」という言葉の背後に潜む、意味と感情を感知しようと努めた。次に、糾弾しない語りがいかなるコンテクスト(脈絡)においてなされたか、という側面を問題としたい。
発言や認識が、「何時、どこで、誰に」語るかによって変化してくる、状況依存的なものである可能性は否定できない。タイヤルの人々の筆者に対する「糾弾しない語り」を考える際、発言の社会的コンテクストが明らかにされなければならない[33]。以下ではエヘン社の高齢者の語りを、一、中華民国台湾における彼らの位置、二、筆者の日本人という属性と彼らの関係、の二点から考察する。
エヘン社は中華民国(Republic of China)政府の管轄下にある[34]。国民国家中華民国におけるエヘン社人の位置は、端的に言って「周縁」にある。中華民国のエスニックグループ構成は、人口2パーセントほどの先住民族(自称原住民族)と、人口の圧倒的多数を占める漢族に分かれる(土田 1998)[35]。漢族には、第二次大戦後、蒋介石政権と共に大陸から移住してきた外省人と、主に明・清朝期に移住してきた本省人というカテゴリーが存在する。また、近年政府の労働政策により外国人労働者(多くはフィリピン、タイ人)が急速に増加し、先住民族人口総数を既に上回っている。
先住民族は言語や習慣の違いから、漢族が主導権を握る労働市場になかなか食い込めないでいる。漢族の大多数を占める福佬人(閩南人)は福佬語を話し、それは先住民族が学校で習う国語(漢語)とは別の言語である。そのため、コミュニケーションをとる時点で既に障壁が存在する。先住民族の企業家は少なく、農村部では果樹や野菜栽培に従事する。または都市に出て日雇いや工場労働者になるか、自宅での下請け手工業にいそしむ労働形態が多い。近年彼らは、都市部で外国人労働者との雇用競争に敗れ、自分の村に帰るがよい職に恵まれない。農業も、「水源保留地」などさまざまな制約で政府の干渉が入るため、なかなか自由な開発が出来ない。ある程度の規模の開発には土地の申請など、下部行政機関との連携が必要である。しかし、漢族式の習慣(公務員に「袖の下」を送るなど)に慣れない先住民族は、観光開発でも漢族に一歩先をいかれてしまう[36]。教育制度においては、高校・大学入試において得点に下駄をはかせる優遇措置が取られているが、いわゆる都市の「よい」学校に子弟を就学させるには、さまざまな問題が存在する。まず子弟を下宿させる環境が必要であり、次には子どもが親と離れて暮らすことから生ずる、情緒不安定や非行の問題である。山間部には塾などの補習制度もなく、情報面においても圧倒的に不利である。一部漢族からは「ホァナ」(蕃仔)という差別用語が投げつけられ、差別は依然として継続中である。台風期には電線が故障しやすく、復旧作業ははかどらず、二日三日の停電は普通である[37]。筆者も、度重なる停電によってフィールドワーク作業が中断し、また友人との連絡もままならず、しばし困惑した。このような状況では、山地の子どもが都市の子どもに比べ学力が伸びないのも、あながち彼ら自身の努力不足に帰せられない。こうした点は、エヘン社人が台湾において周縁状況にあることをよく示していよう。
次に、エヘン社の高齢者の語りをコンテクスト化する二点目、発言が誰に語られているかを考察しよう。つまり調査者である筆者自身の位置についてである。筆者の日本人という属性と、エヘン社タイヤルの人たちの関係が問題となろう。フィールドワーク当時、筆者の属性には、日本人、男性、27歳若者というカテゴリー、台湾の大学の修士課程学生(高学歴者)といったものが想定された。さて、筆者がエヘンの人々と相対する際に突出してくるものが、日本人という属性である[38]。エヘン社の人々は、筆者が「どんな」日本人かにかかわりなく、日本人という単一のカテゴリーに押し込もうとする。その理由を筆者は、タイヤルの人々が日本人を過去に密接な関係(さらには侵略)をもった人間集団、しかし現在はほとんど対面することのない人間集団だと認識しているからだと考えている。
ある男性(70歳)はイタリア旅行に行った際、出会った日本人に無視されたことを強調して筆者に語る。その背後には、「昔あんなに密接な関係があった日本人に無下にされるなんて」という、無念にも似た気持ちが見え隠れしていた。イタリアでこの男性に出くわした日本人は、好意的に解釈すれば不運かもしれない。彼の個人的な脈絡、例えば何かの用事で忙しかったなどは全く不明であるが、タイヤルのこの方の語りでは、一方的に「悪者」にされてしまうからである。しかしこのささやかな事件は、桃園県山地の文脈において、「傲慢な日本人」もいるというふうに解釈されてしまっている。タイヤルの方に出会った日本人は、日本人を代表するものとして日本人というカテゴリーにくくられる。「どんな」日本人かにかかわりなく、という点は、例えば筆者が反植民地主義・帝国主義の思想をもっていようがいまいが、また愛国主義の思想をもっていようがいまいが、そんなことは一切お構いなく、という意味においてである。そして、エヘン社の特に高齢者は、訪問してきた日本人を往々にして歓迎し歓待してくれるのである。筆者は、1990年の後半から、合計日数にして半年弱をエヘン社周辺にて滞在しているが、日本による戦争の侵略性や植民地統治の責任を口に出して問いつめられたり、直接に「帰れ」などと言われた経験はない。
もちろん、すべてのエヘン社高齢者が、日本人を歓迎し歓待するわけではない。例えば、Sおばあさん(80歳前後)は、コレ社から18歳の時にエヘン社に嫁いできた[39]。彼女は「蕃童教育所」に通わなかったという。そのため日本語があまり話せない。このような人が日本統治についてどのように考えているのかは、不明とせざるを得ない。つまり、筆者の収集したデータは、日本人に対して積極的な人々から得られたものになりがちであるということだ。
それをふまえたうえで、エヘン社周辺のタイヤル人が、いかに「日本」を語るか、またイメージするかを示したい。ひとことで言えば、それは日本の優勢な位置の取り方である。大別し、「日本」は桃園県の山地に対して、以下の4点において優勢な位置を占める。
一点目が技術・物質文化の優越である。フィールドワークにおいて筆者は、しばしば日本の飯盒の評価の高さを耳にした。日本に帰国したのち、再びエヘン社を訪れるために国際電話をした際、お世話になっているV氏(61歳)から「飯盒を持ってきてくれ」と頼まれる。ある日本人は親友のエヘン社人に、国際便で数十箱の飯盒を贈っている。また、魚突きを好む彼らにとって、日本製の水中眼鏡は性能の面で台湾製をしのぎ、好まれている。彼らの用いる釣具の多くは日本製である。日本製が本当によいのか筆者に判断はつかないが、少なくとも彼らの認識においてはそうである。彼らが現在多く栽培する作物である桃の品種は、日本のものが甘味が高いとして好まれる。バロン社のT氏(故人)[40]は、日本に娘が嫁いだこともあって、これまでに6、7回ほど日本を訪問し、長野県などの農家から桃の枝を入手し、研究・開発に余念がなかった。筆者は社人から、「日本で今一番高い果物は何か」などとよく聞かれることがある。彼らは日本の農業事情に非常に関心をもっている。農業発展と経済的自立のためにと、日本から桃の苗を大量に持ち込み、社人に寄付した日本人も存在する。こうしたことは日本の技術・物質文化の優越を物語る。
日本国のイメージも総じてよいものである。バロン社のC氏(70歳)は、最近の日本旅行の感想をこう言う。「大阪城とか、明治神宮にも行った。タイムカプセルを見た。あー文明人はどんなことでもするな、と思った。先進国家だ」。ブトノカン社のH氏(故人)[41]は日本旅行の際、以前台湾にいたことのある日本人にあったが、旅館で日本の礼儀を知らず恥をかいた話しをしてくれた。日本は道路にごみが落ちておらず、衛生面に非常に気を使っているという見方は社人のみならず、台湾全島において聞く話である。日本は物価が高く、食べ物は手が込んでいて精緻なものが多いという見方も普遍的である。もちろんこうした見方に、いまや山地のすみずみまで普及したテレビが寄与していることは言うまでもない。総じて、日本国のイメージは社人の間で非常に高い。
次に日本語の優越である。日本教育を受けていない40代の男性(サルツ社)は、日本に行ったとき日本語が出来ず、「悲しい思いをした」という。この方は、父の世代が流暢に日本語を操れるのに自分ができず、残念に思っているのである。彼らが東南アジアに行って、現地の言葉が出来ず悲しむだろうか。ここには「日本語が出来て当然」と思う考えが背後にある。植民地統治時代に普及した(させられた)日本語は、桃園県山地においてもその地位を高め、現在に至っているといえる。
日本人の地位の優越も垣間見ることが出来る。タイヤル女性が日本人と結婚したが関係がうまく続かず、離婚に至るケースをよく耳にする。日本人とタイヤル族の結婚では、日本人男性とタイヤル族女性の確率が圧倒的に多い。その場合、これまで述べてきたように、日本の国力が強く台湾山地人の力が弱いという関係においては、「山地人が日本人に捨てられたのではないか」という見方が往々にして生まれがちだ。離婚の実際の状況はプライバシーの問題もあって深くは聞くことが出来ないが、「日本人に捨てられたのではないか」という見方が社人の間に存在することは、筆者にも容易に想像できた。そのため、あるタイヤルの女性が台北で日本人と交際しているが、女性の母(63歳、日本語がかなり話せる)は両者の将来の関係を心配し、結婚には反対している。
以上、「日本」が桃園県の山地に対して優越な位置を占めていることを、4点にわたって見た。重要な点は、タイヤルの声を聞き取る筆者が、紛れもないその日本から来ているということである。わたしはそのような存在として認識されているのだ。さて、これら日本と桃園県山地の力関係、そして先に述べた、先住民族の中華民国における周縁の位置を重ね合わせて考えてみたい。すると、本稿の冒頭で述べられた「糾弾しない語り」が、ある脈絡の中に位置づけられるのがわかるだろう。中華民国におけるエスニックな弱者であるタイヤルの人々は、中華民国外部の日本とのつながりを強調し、もしくはつながりを持つことで、中華民国における彼らの位置を確立しようとしているのだ。この事態を、タイヤルの人々による、「日本」の流用行為とみなせよう。流用行為の背後には日本の(文化的・経済的)優位という不均衡な力関係が存在している。そうした関係のもとで、日本人との親近感は、現在においても積極的に創造されているのである。日本人との親近感は、過去から積極的に引っ張り出されているのである。「糾弾しない語り」は、力を持つ日本人に向けて語られているということが考慮されなければならない。その語りの背後には、中華民国におけるタイヤルの人々の苦境と、マジョリティである漢民族に対抗していく「原住民族」という民族主体の創造運動が織り込まれていることを理解しなければならない。
7.「糾弾する語り」について、そして二分法の破綻
これまで「糾弾しない語り」について、「和解」(sblaq)という語の意味のゆれと、その語りが生み出されるコンテクストを見てきた。しかし当然の如く、筆者に対し「糾弾する語り」は全く向けられないのかという疑問が存在するだろう。実は、以下で述べるように、「糾弾しない語り」と「糾弾する語り」を、明確に二分することはできないのである。その前に、「糾弾する語り」に見える語りを考えたい。
これまで、日本による侵略戦争を、「平和にさせる」「仲良くする」とするタイヤルの解釈を強調してきたが、実はまれにではあるが、タイヤル側が「降参する」「負ける」と日本語で語る例も存在する。これらの声は、よく耳をそばだてないと聞き取ることが出来ないものである。三つの例を挙げる。
冒頭にも発言を引用させていただいたV氏(61歳男性)。「南山(宜蘭のタイヤル部落)のほうは、早く(日本に)降参したよ」(日本語)。また、エヘン部落となりガオガン部落のS氏(70歳男性)。「ギラン(宜蘭)は早く投降した」(日本語)。これらは、ガオガン群を宜蘭のタイヤルと対比させて語る際に、半ばぽろっと飛び出した言葉である。なぜ自分たちガオガンの状況については「降参」「投降」と言わないのか。先に伊凡・諾幹(2000)による解釈でも見たように、「降参」と言わず「仲良くする」と言うことは、自分たちガオガン群タイヤル族の主体性を、現在において確立する行為であるからなのである。
E氏(51歳男性)は、しばしお酒を共にしてくれる気さくなおじさんであるが、あるとき、日本軍と戦って血だらけになった人の話を、漢語でしてくれた。E氏の父Malay Nokan(故人、1906年生まれ)は、彼のおじWatan Hakaoが日本人と戦って傷だらけ、血だらけになった様子を、幼心にはっきり覚えていた。Watan HakaoはHakao Yayucの三男であり、父と共に戦いに参加していたのである(表一を参照)。これを語ってくれたE氏は、このように生々しい経験を身近なものとして感じているはずであるが、それでも筆者を糾弾するということはなかった。この話は、彼と知り合ってすこし時間が経ってから話してくれたものである。以上のような日本を糾弾しかねない話を、彼がすぐには筆者に話さなかった(話せなかった)という点は、注意しなければならない。
現在は桃園県の平地と、山地のエヘン社に散在する子ども達の家を回り住むP氏(79歳女性)。(筆者)「タイヤルは日本と戦争したんじゃないですか?」 (P氏)「負けるでしょ、タイヤル。(中略)bu makao(ボンボン山)(の戦い)もHakao Yayucの時かもしれん。日本が台湾に来ないと、(タイヤルは)ものごとが分からないでしょう。(日本人は)桑の木を山の人に分けて、かいこを養った。(かいこの)まゆで飛行機の落下傘を作る。(かいこで)糸を作るのよ」(日本語)。
後半部分は「糾弾しない語り」に舞い戻っているが、そのなかに埋め込まれた「負けるでしょう、タイヤル」という言葉は、日本との戦争状況をはっきりと認識し解釈している[42]。以上の二つの例とも、日本との戦争を敗北したと認識しているのであるが、それらはよく耳を傾けないと聞き取れない性質のものである。「敗北」は、はじめの証言では自分達ではなく宜蘭のタイヤルに言及するなかでいわば間接に登場し、次の証言では日本が押しつけた「近代化」賞賛の声にともすれば隠されてしまう。
エヘン社近隣のタイヤルの人々は、「ガオガン蕃」への日本の侵略戦争を「負ける」とも「日本と仲良くする」とも認識しているのだ。先に触れたようにこうした事態にあって、sblaqの語義は浮遊した、確定しがたいものになっている。先に見たsblaqの語義をめぐる緊張感ある抗争状態は、現在においても継続中なのである。伝統的な意味での和解=sblaqを保持しようとする見方と、日本植民地主義による和解をsblaqとする見方のせめぎ合いは、現在においても決着を見ないのである。もしくは、日本人である筆者を前に、その緊張状態がタイヤルの人々に想起される。そこには日本人とタイヤル族の現時点での力関係が背後にある。そうしたなかにあって発話される「sblaq」や「仲良くする」という語には、植民地侵略戦争により消された無念の声が感じられるのである。
日本との戦争に「降参する」「負ける」という認識は、侵略者に対する糾弾に結びついてもよいはずである。しかし、タイヤルの人々は、日本人である筆者という存在を目の前にして糾弾する語りをぶつけはしない。糾弾する語りをぶつけないのは、前節からみてきたように、日本とタイヤルの力の関係が背後にあり、先住民族の主体性創造という流れの中でなされる選択だからなのである。
そうしてみれば、本節での三つの発話は、糾弾しているとも言えるし、していないとも言える。タイヤルの人々の発言を、「糾弾する語り」と「糾弾しない語り」に明確に腑分けすることは不可能になる。ここで冒頭のV氏の語りに戻ろう。日本人警部Yukan Watanは「仲良くしないとだめだと言って、Hakao Yayucと話した。だけどHakaoはだめだと言った」。「Hakaoはその戦いで死んだ」。ここには直接に、「平和になった」または「侵略した」という言葉はない。しかし、これまでエヘン社に対する侵略戦争の歴史と、発話がおりなされる現時点のコンテクストをみてきた私達は、V氏の語りの背後に存在している歴史の重みを感知しているはずである。発言を「糾弾する語り」と「糾弾しない語り」に腑分けすることは、問題ではなくなり、背後の歴史と現況をいかに感じ取るかが課題になる。
親日的な要素の徴候を読み取り、それはなぜかと問うていく方法は、出発点としては有効だろう。しかし、その枠組みだけにとらわれ、「親日」の原因のみを語り終え、その枠組みに疑いを持たなければ、親日言説を研究によってより確固としたものにしてしまう危険が存在する。「糾弾する語り・しない語り」「親日・反日」という枠組みは、単純に過ぎる。研究が研究対象を類型化し固定するため、定義するために行われるのだとしたら、研究者はその社会的影響力を十分に考慮する必要があるだろう。本稿は、「糾弾しない語り」に出会ったところを出発点としたが、その語りをそのまま鵜のみにしだけでは、日本とタイヤルが戦い、多くの悲劇を生んだという史実との整合性がつかなくなる。「糾弾しない語り」の背後には、戦士Hakao Yayucをはじめとして、かき消されてきた多くの声が飛びかっている。その声が霊媒としての筆者にのりうつり、筆者に歴史を語らせる[43]。「糾弾しない語り」をもって、タイヤルを「親日」であると固定化することは出来ない[44]。
8.結論
本稿は、タイヤルの人々が筆者に向けた「糾弾しない語り」から語り始めた。そこには同時にタイヤル戦士の死という、侵略の暴力を感じさせる出来事も存在していた。日本人である筆者がそれらを理解するためには、エヘン社に対する日本の侵略の歴史に分け入らざるを得なかった。次に圧倒的軍事力を後ろ盾にする日本による支配のもとで、「和解」(sblaq)という語の意味が動揺し、人々の間に意味の抗争とでも呼べる事態が発生したさまを指摘した。さらに、現在タイヤルの人々が筆者に対面するという状況を、中華民国におけるタイヤル族の苦境と、日本と桃園県山地の経済・文化的な力関係から考察してきた。これらを総合して、冒頭に掲げた「糾弾しない語り」は和解を求める語りとする、本稿の主張に戻りたい。
もう一度繰り返そう。「日本はタイヤルを平和にさせた」という呼びかけは、タイヤルの人々が日本人に対して語りかけ、コミュニケーションをとろうとする、はじめの一言、はじまりの一言である。しかし、その呼びかけが、自動的に和解につながるのでは決してない。「糾弾しない語り」を和解につなげられるかは、その呼びかけを聞いてしまったほう、つまり植民者の側に求められている。
エヘン社に対する日本の侵略は、悲しみと暴力の歴史だった。そして、植民地統治によりもたらされたタイヤルの人々の苦境は、現在もなお継続中である。筆者は植民者の側にあるものとして、「糾弾しない語り」をそのまま鵜のみにしてしまうのではなく、被植民者の背負っている歴史そして現況を、想像し感知していくことを通して、その語りに応答しこうとしている。和解とは、具体的な対面状況において、植民者側が被植民者の声の意味とその呼びかけが指すものを想像し理解しようとするところに、かろうじて発生するものであろう。そして植民者側が得るに至った新しい認識は、再度、被植民者側に還元されなければならない。その結果、両者はどのように変容していくのか[45]。本稿はそうした意味での和解行為を、台湾高地における日本による植民地侵略戦争をめぐる歴史の解釈を通して、実践しようとするひとつの試みである。
(なかむらたいら 文学研究科博士後期課程)
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表一:エヘン社戦士Hakao Yayucを中心とする系譜関係
△:男性、○:女性
特に所在を示していないものはエヘン部落在住者(物故者を含む)。カッコのなかは移住先の地名。キョウダイ関係を同列に並べ、わかる限り出生順に上から下に配置した。妻を省略した。
△Tanaha Nomin―△Watan Amoi(頭目)
△Watan Nomin―△Hakao Yayuc―△Yukan Hakao(写真)―△Botu Nokan―○
―△Malay Nokan―△×2
―△E氏
―○(新竹)
―△Batu Nokan―△×3
―△Yumin Nokan―△×3(不明)
―○(不明)
―△Behui Nokan―△(前山)
―△×3(不明)
―△Tuaru Nokan(高砂義勇隊)―△×3(新竹)
―○×2(不明)
―△Behu Hakao(警手)―△Upas Behu―△×3
―○(三光)
―○(桃園)
―△Watan Hakao(宜蘭)―△Daya Watan―○×2(宜蘭)
―△×2(宜蘭)
―△Taya Hakao(不明)
―△Temu Hakao(写真、不明)―△Hakao
Temu(中国大陸)
―○×2(桃園,不明)
―△×2(桃園,不明)
―△Tuaru
Hakao(Nabai)(前山)
―○Sayun
Hakao(Nabai)(不明)
―△Yumin Yayuc―(不明)
―△Iban Yayuc―△Boai Neban(宜蘭)―○Ciwas Lawa(宜蘭)―△(台北)
―△Watan Neban―(不明)
―△Koyao Neban―(不明)
―△Qesu Neban(会長)―△V氏―△×2
―○×2(桃園)
―○×2(花蓮、台南)
―△Utao Neban―(不明)
―○Yawai Yayuc
[1] 宜蘭県は桃園県の隣県。
[2] 桃園県の平地に近い地域を前山といい、エヘン社は後山に属する。
[3] エヘン社から南東直線距離約11キロ。現在の梵梵山(1713m)、タイヤル語でbu makao(山・マカオ)、宜蘭県内に位置する。ここにおいて、「ガオガン蕃」各社の戦士と日本軍が1910年に激突した。桃園県と宜蘭県の山岳地帯の地理に関しては、『太平・拉拉山 登山導遊図』(台北:国民旅遊出版社、1997)を参照した。
[4] エヘン社から北東直線距離約2キロほどの隣の部落。「ガオガン蕃討伐」当時、日本軍はバロン山に大砲を据え付け、弾を発射し、周囲の「未帰順」部落を威嚇した。
[5] 日本統治時代の「蕃童」教育の、エヘン社における展開については中村(2001)を参照。
[6] V氏は幼令だったため日本の教育所に通った経験を持たないが、父親が日本人警察官と頻繁に連絡をとる「会長」職にあった。そのため日本語はかなり出来、筆者とのコミュニケーションは日本語と漢語が半々である。またV氏は戦死したHakao Yayucの弟の孫に当たることに注意されたい(後掲の表一を参照)。
[7] V氏の語りは、日本による侵略戦争の歴史が以下において明らかにされた後に、その重みを増してくるはずである。
[8] 植民者と被植民者間の和解に関しては、森宣雄(2002)の陳光興(2002)に対する批判を参考にした。陳光興は、戦後台湾における外省/本省という両省籍の衝突が引き起こした両者の断絶をいかに解決するか、という視角から、和解という語を提出している。省籍問題の解決として両省籍の情緒構造が異なった要因に規定されてきた――冷戦が外省人を、植民地統治が本省人を規定した――ことを認識することをあげる。これに対して森は、陳の外省人認識――亡命者――を批判的に検討し、植民者としての認識の可能性をあげる。森は、省籍問題の解決策は、陳のように二つの情緒構造を並置するという作業にとどまらず、外省人の植民行為にさかのぼって検討することを説く。外省/本省間の断絶克服(和解)は、外省人=植民者という歴史の検討抜きには一歩も進まないのである。本稿が検討する日本人/タイヤル族間の断絶克服(和解)は、枠組みとしてパラレルであると考えられる。
[9] ハカワン、サルツ、エヘン、カラホ、ブトノカン、シブナオ、ピヤワイ、カギラン、ソロ、テイリック、バロン、クル、ブシヤ、イハボ、ピヤサン、カラ、タカサン、タイヤフ、ハガイの19社。
[10] クル、ブシヤ、イハボ、ピヤサン、カラ、タカサン、タイヤフ、ハガイの8社。各社の移住の過程、特にその強制的性格の有無は検討中の課題である。例えば、1933年、クル社住民は平地近くのカソノ社に移住した、もしくはさせられた(盧1998:17;フィールドワーク資料)。復興郷郷民代表会秘書・簡清安(Taito Utao)氏(クル社生まれ)と郷民代表会職員・劉莉娟(Yawai Tarus)氏によれば、クルのタイヤルは日本の移住政策に抵抗したとのことである。また中村勝によれば、カラ社は1920年前後に日本当局により、経済的口実をもとに全戸を離村または離散させられ合理的に廃村に至らされた(1996: 121)。カラ社住民は宜蘭に移り住んでいる。移住の強制性が、直接的な武力によるものだけではなく、「近代化」がおしすすめられるなかで、経済的「合理性」をもって行われたとする視角は重要である。
[11] エヘン社人はharai dngucyak(タイヤル語で「銅線・麻痺」)と、今でもそれを語り継ぐ。
[12] 現北挿天山(1907m)。台北県との境よりの桃園県側に位置する。
[13] 631m。桃園県の前山に位置する。
[14] 第一回仮帰順式では、タカサン、ハガイ、シブナオの各社、第二回イバオ、バロン、ブシヤ、カラの各社、第三回ブトノカン、リモガン、タラナンの各社、第四回ピヤサン社である(伊能編1918: 652-4; 658-9; 662-4; 677-9)。
[15] 「土目」とは、各社においてリーダー的存在と当局に考えられていたもの。当局によるその選抜には、恣意的な可能性が否めない。この点はタイヤル社会の政治体制にかかわるものであり、中村(近刊)で論じた。
[16] 宜蘭庁九芎湖蕃務官吏駐在所の、所員と家族8名が殺害された事件。当局が「渓頭蕃人」、「ガオガン蕃人」らから収集した情報によると、事件の実行者として、「ガオガン蕃カラホ社頭目ユーカン、スーヤンほか蕃丁」と、「キナジー蕃丁」、「マリコワン蕃丁」の名が挙げられた(猪口編1921: 51-3; 547)。後述のとおり、「カラホ社頭目ユーカン、スーヤン」(Yukan Suyan)は、バロン山の日本軍基地に捕らえられ、脱走した逸話を持つ有名戦士である。
[17] シナレク山(bu sinarek)、現尖山(1852m)、エヘン社東方直線距離約8キロ。
[18] 現馬崙砲山(1230m)。エヘン社北東直線距離約2,5キロのバロン社そばに位置する。
[19] 教育特に日本語の重視、家族国家イデオロギー、「蕃人」に対する「可愛い」「子ども」の比喩など、台湾山地で展開した日本植民地主義の特色については中村(2001)を参照。
[20] エヘン社頭目の選抜過程については中村(近刊)を参照。
[21] 第三回高砂義勇隊でニューギニアに赴く。九死に一生を得て台湾に帰ってきた。
[22] 直線距離にして4キロ強である。
[23] カラホ社。エヘン社の南東直線距離約5キロ。
[24] マリコワン群の一社。B氏の父親はマリコワン群の出身で、テイリックに移住してきた。
[25] テイリック社頭目のユミン・ロクル。1910年10月20日の「帰順条件示達式」に際して、「蕃人」の代表を務めた(猪口編1921: 643-8)。早くから日本側と接触し、ネゴシエーターの役割を務めた人物であったようだ。このB氏の話から、ユミン・ロクルは日本人に対しては表面上従順な態度を保ってはいるが、実は背後でさまざまな画策を行っている様子がうかがえる。
[26] タイヤル族は父子連名制(自分の名・父の名)をとるのが普通である。Yukan Watanの子Hayunは、Hayun Yukanとなるはずである。しかしHayun KawilとB氏が述べたため、筆者が疑問に思って質問したのである。父Yukanが日本との戦いで早死にしたため、子Hayunはうしろに母の名をとって、Hayun Kawilと呼ばれたとのことである。
[27] マメー社。ガオガン群のとなりマリコワン群の一社。李棟山頂からやや下ったところに位置する。
[28] B氏が生まれたのは1921年のはずなので、ユカン・スヤンの話はそれより10年程前の出来事である。
[29] 「ミシビラク」(msblaq)、動詞の変化形だと思われる。
[30] 小林岳二は、先住民についての歴史研究自体が、先住民民族像の模索の手段となっていることを指摘している(1997: 73)。
[31] 以下の史料を参照。「ガオガン蕃取締ニ関スル内訓」として台湾総督は、「ガオガン蕃ハ己ニ平キタレトモ善後ノ経営其ノ宜シキニ適ハサレハ十日煖之一日寒之ノ虞アリ」、そのため以下の内訓を発した。一、「銃器弾薬ノ密蔵ヲ厳重ニ捜索シ之ヲ押収スルコト」、二、「常ニ蕃情ヲ探査シ新タニ銃器弾薬ヲ取得セシメサルコト」(猪口編1921: 143)。以上より「ガオガン蕃」タイヤルたちは、「帰順」後も当局の意向に容易に従わなかったことがうかがえる。
[32] 強調されるべきは、sblaqの語義が浮遊し確定しがたいものになっていたことのみにとどまらない。語義のゆれは、植民地支配が生み出した<鎮圧――反逆>の緊張した磁場にあって生起するものである。この点は冨山一郎氏に示唆を受けた。
[33] 発話のコンテクストの重要性については中村(2002)を参照。
[34] 中華民国は国際連合や日本には一国として認められていない存在だが、台湾島と澎湖島、金門・馬祖島を実効支配のもとにおいている。
[35] 「分かれる」と述べてはいるが、これは日本の読者に台湾の大まかな状況を知らせるための便宜的な記述であり、筆者の意図が台湾住民を分類することにあるわけではない。また、漢族の友人のなかには、日本人であるわたしから「漢族」と言われることに違和感を覚える人も多い。
[36] エヘン社のとなりのバロン社は、桃栽培や檜の神木で有名な観光地であるが、当地の観光業は平地から上がってきた漢族に独占されている。
[37] どうせこんな山奥は何の関心ももたれないのさ、と自嘲気味につぶやくエヘンの人もいた。
[38] もちろん状況によっては日本人以外の属性が突出してくることも考えられるが、日本人とタイヤル族の関係の歴史を問題とする本稿においては、その他の属性に関してはとりあえずおくことにする。
[39] コレ社は、エヘン社より直線5キロのマリコワン群に属する社である。
[40] 1926年生。高砂義勇隊員。
[41] 1927年生。大東亜戦争末期、高雄の軍事工場にて働いていた経験を持つ。
[42] ここで、「負ける」という言葉が、女性から発せられているという事態をどう考えればよいのだろう。タイヤルの人々がガオガン群の主体性を確立する行為に、男女の性別によって差異が存在している可能性がある。今後の課題としたい。
[43] 霊媒としての歴史家、呪術としての歴史については森(2001)、Taussig(1986: 24章)を参照。
[44] 本文にどうしても位置づけることができなかった語りを付記しておく。注8の簡清安・劉莉娟両氏(カソノ社在住)によると、タイヤルは日本に抵抗したのみならず、「西村事件」(ボンボン山もしくはシナレク山の戦いを指すと思われる)において日本に勝った。(西村は日本により派出所が設置されてつけられた地名であり、現在もそう呼ばれている。)枕頭山事件や李棟山の戦いも日本が負けたのだと言う。この会話は、漢語により2000年8月17日復興郷郷民代表所にて行われた。日本教育を受けた世代の下の世代によるこの異質な語りは、筆者によるすっきりとした解釈を今なお許さない。少なくともここで言えることは、日本による侵略戦争の解釈をめぐって、タイヤル内部においても、個人においても、その出来事が確定しない事態が継続している、ということである。
[45] 社会調査においてしばしば言及される、調査と研究成果の還元の問題である。フィールドとの絶えなき往還の重要性はここにある。本稿においてはそれがかならずしも明示されなかった。この点は吉田寛氏に指摘を受けた。