「先住民族研究・支援活動」のありかたを考える

 

中村 平(京都在住)

 

 ワークショップ「先住民族研究・支援活動における責任と義務〜先住民族の権利と国際機構の視点から考える〜」(主催:市民外交センター・先住民族の権利ネットワーク)が、200632526日に東京で開かれた。筆者は、本誌でこれを知り参加した。感想を記す。

 説明文によると市民外交センターは、国連総会の第2次・世界の先住民族の国際10年(20052014年)決議に連動する形で、これからの10年を、「研究者や支援者の拡大によって、世界の先住民族をめぐる状況を確実に前進させていくこと」を目標としている。「部外者である研究者や支援者は、どうすれば権利の促進に貢献できるのでしょうか」と問うている。本ワークショップは、「国連人権システム」と先住民族の権利保障の視点から、また学問的視点と市民運動の視点を結びつけて、「先住民族研究・支援活動」のありかたを考えるものである。

 先住民族でないと思われている「和人」や日本人が、どのように「研究と支援」ができるのか、という問題意識である。ここで、市民外交センターの目標で表現されるところの、主体や主語が、「和人」や日本人であることに、十分注意する必要があると思われる。

 それを強く私に感じさせたのは、総合討論での参加者からのふたつの発言である。ひとつは、リンダさんから提出された、「アイヌを『先住民族』としてくくることにより、こぼれ落ちてしまうものはなんでしょうか。私は支援されなくてもいいんです。友達がほしいんです。センシティブになってほしいんです。国際法より、今すぐ活用できるし、活用しなければならない国内法を使った研究と支援がほしい」という発言。

 もうひとつは、計良(けいら)光範さんからの発言。スチュアート ヘンリ(本多俊和)さんが、博物館において「今のアイヌ」の展示が非常に少ない、と表現したことに対して表明された発言である。「今のアイヌ」という表現を、「どう定義しているのかを、その都度はっきりさせてほしい。アイヌという帰属意識をもとに『アイヌ』と判断しているなら、人間の内面、意識のありかたを博物館で展示してほしいし、するべきではないか。同じことは『アイヌの運動』という表現にも言える。いったいどこにアイヌの運動があるのか、はっきりさせてほしい」という発言。

 これらの発言は、上村英明、藤岡美恵子、苑原俊明、木村真希子、中田好美、塩原良和各氏の報告、日を改めて、スチュアート ヘンリ、マーク・ウィンチェスター各氏の報告のあとの、総合討論でなされた。リンダさん、計良さんの話は、この2日間の報告を、十分踏まえての発言だった。このふたつの発言は、ワークショップでの報告者だけにではなく、台湾の先住民族とかかわりを持ち、研究している私自身にも向けられている。

 ここでは、問題点を3点に絞り、市民外交センターの言う研究・支援運動を考えてみたい。当事者性と、非対称な権力関係、ことば(表現)の問題である。

 上村さんは、冒頭の基調報告で、「非当事者団体としての政治的スタンス」という一節を設け、話されていた。報告を注意深く聞くと、「日本人自体変わらないと何も変わらない」といった表現を同時にされていた。とすると、上村さんは、日本人という当事者として関わっているということになる。「非当事者団体としての」という言い方を、再考せざるを得なくなるのではないだろうか。

 日本人という当事者であるのであれば、その運動は、自らを変えるものともなり、「支援」という言い方は再考が必要になってこないだろうか。もちろん、「自己支援」という言い方を認めるのであれば、「支援」ということばを、再考する必要はないかもしれない。しかし、「支援はいらないんです。友達がほしいんです」という発言にあったように、「支援」ということばは誤解を生みやすい。表現を変えるか、「支援」ということばの内実を、より分かりやすく提示する必要があろう。

 このことは、問題が、ことばや表現の問題に入っていることを示している。このワークショップを通して私が感じたことは、「非当事者」「当事者」「支援」といったことばや概念自体を、(私自身も含め)ブラッシュアップさせていくことができなかったということである。非研究者として活動している人からは、本ワークショップに対し、「研究者と、研究者ではなく活動している人たちのつながり」という視点の欠如という感想を聞いた。

次に、各報告者が繰り返していた、先住民族と非先住民族の非対称な権力関係について。先住民族と非先住民族の間の権力構造を認識しなければならない(上村)。マジョリティとマイノリティの権力関係に自覚的であること(塩原)が大事である、など。

 上村報告からは、市民外交センターの活動が、そうした非対称の権力構造に苦しむ、「生きにくい状況」(リンダさん)から生まれてきたというよりは、国連や国際法とのつながりのなかで生まれた印象を強くした。それは、先の「国際法より、今すぐ活用できるし、活用しなければならない国内法を使った研究と支援がほしい」という発言とも関わっている。市民外交センターの活動は、運動の出発点から、リンダさんとは若干異なっているようだ。「支援」する側は、この出発点の相違という地点から、思考を開始せざるをえないはずだ。(「生きにくい状況」から出発せよ、と言っているわけではない。)

 塩原報告は、アイヌ民族と琉球/沖縄の人の「ハイブリッド(異種混交的)な生き方」賞賛がくりかえされ、マジョリティとマイノリティの権力関係を書き、表現することによって(自分が)たたかうという力に欠けていたように思われる。

 マジョリティは、マイノリティがたたかわざるを得ないことを理解するのが、本当に困難なのだ。だからこそ、マジョリティが行う報告には、「権力関係に自覚的でなければならない」というお題目が、往々にして隅のほうにくっつくことになる。私自身数年前、そのようなお題目を、発表の前か後ろによくつけていた。そうではなく、マーク・ウィンチェスターさんが注意を促していたように、権力関係の具体的な記述自体が、分析の中心を占めなければならない。

 「先住民族という表現でこぼれ落ちてしまうもの」という表現。研究者が「先住民族」を名指している状況で、名指された側がそれに違和感を表明している。研究者と非研究者の非対称な権力関係に自覚的である人なら、「こぼれ落ちてしまうもの」を、当事者性とことばの問題を考える中で、センシティブに考え、表現していかねばならないだろう。

 ここまで考えてきて、ようやく分かった。アイヌを名乗る友人が、大学院で学びたいと言っていたのは、敵のことばと敵のゲームの規則を身に付けて、「生きにくい状況」をたたかおうとしているのだということを。あろうことか私は、その人が、アカデミズムに対して、何か社会変革の理想や可能性を感じているのだと、すっかり勘違いしていたのであった。

そしてこのことは、図らずも私自身の立場を鮮明にすることになった。ワークショップ中、ずっと感じていた「針のむしろ」の感覚は、自分自身に潜む「偽善」にいたたまれなくなっていたことから来るものだった。「偽善」ということばをわたしに突きつけてくれたある友人の、そのことばが思い出された。台湾先住民族を、自分の立場(当事者性の検討)ぬきに、台湾先住民族のために書くということ。それは、マジョリティである自分の立場を消して、さも人のために手助けしていることを装っているという意味で、偽善に近いものである。ある人たち(アイヌ民族、台湾先住民族、日本人等)の歴史や文化について表現することを、当事者性と、非対称な権力関係、ことば(表現)の問題を思考しながら、行っていこうと考えている。

 

市民外交センターの、20年以上にわたる活動に、敬意を表します。また、すべての報告者の内容に触れることができなかったことを、お詫びします。私は、苑原、木村、中田各氏の報告には参加しておりません。(2006428日)