2008年7月25日金曜フォーラム(漢陽大学校)
中村 平(漢陽大学校国際文化大学日本言語文化学科講師)
到来する暴力の記憶の分有
台湾先住民族タイヤルと日本における脱植民化の民族誌記述
1.台湾、台湾先住民族、タイヤルに対する植民統治と先住民族運動。暴力の記憶の分有
2.タイヤル側における暴力の記憶の到来、分有
3.日本側における暴力の記憶の到来、分有――ジャーナリストの民族誌記述に注目して
4.台湾先住民族と日本の両者にとっての脱植民化――記憶によるナショナルでない「連帯」と、日本の台湾先住民族に対する植民統治責任の意識化
1.台湾、台湾先住民族、タイヤルに対する植民統治と先住民族運動。暴力の記憶の分有
マルクス主義的な視角を取る日本近代経済史の研究者である父親の影響(全共闘・全国共闘会議とのかかわり)。東京大空襲(1945年3月10日など)の記憶。資本主義的「近代化」を頭では嫌うこと。父親の管理する家と、東京に閉塞感を覚え、何か自分を変えてくれる予感を持った北海道の大学へ。帝国の首都で鬱屈する日本人とその解放をかなえてくれるものとしての「植民地」。殺伐とした帝国の首都の人間関係が失ってしまったものを、「フロンティア」において取り戻そうとする「帝国主義的ノスタルジア」(ロサルド 1998)。
北海道では教育社会学を専攻し、大学生の職業選択や「生き方」についての卒業論文を書く。アイヌ民族のことを知りたいと思いながら、そのきっかけを作るための努力を真摯に行うことはなかった。登山とスキーを好む。大学院入試の精神的挫折から父親の勧めで台湾に留学することにする。日本資本主義発達史と植民地問題に関心のあった父は、二年弱を台湾で研究していた。日本人でいることをやめたいという思いと、日本人とは何かという問い、植民地と戦争責任についての問題意識、椰子の木が茂る「南方」への憧憬が入り交ざる。
1996年に渡った台湾では植民統治の責任を糾弾されるかと身を硬くしていたが、「親日」的な台湾の方々に世話を受け、愛を受け、日本との関係の深さを身を持って実感する。日本のために戦争に赴いた男性やその妻たちに多く出会い、彼らへの補償がなされていないことや、彼らの無念さのようなものを肌で感じる。先住民族の過去の「自然と一体となった」生活に憧れ、山地集落に通うようになる。そうしたフィールドワークを方法とする人類学部を修士課程で選択する。中央研究院民族学研究所での訪問学員の一年を含め、六年間を台湾で過ごす。
台湾先住民族の人類学的研究と同時に、「日本」の植民主義(colonialism)の問題として両者の絡まりあった歴史と文化を深く考察したいと思い、沖縄と日本の近現代史について研究する冨山一郎氏のいる大阪大学文学研究科(日本学研究室)にて博士課程に進む。2007年1月に本報告と同題名の博士論文が審査され、2008年3月より漢陽大学校に赴任する。
暴力の記憶ということ
冨山一郎『増補 戦場の記憶』は、沖縄戦に関わる記憶を言葉にする中で、言葉により暴力に抗する可能性を探る試みである。それは、記憶を何かへの政治的資源として利用しない試みである。「未来」や「新しい社会形態」(バトラー 2002)と共に(それらを想像する中で)持ち出される記憶に注目する。近年、歴史学などのアカデミズムにおいて「記憶の政治学」ということが言われるようになった。記憶それ自身が政治なのではなく、また既存の政治力学の応援団として動員される資源として政治になるのでもなく、ある種の断言と仮定が先行しながら、それでも新しい社会形態が具体的に創出されていくその中にこそ、記憶の政治という設定がある(冨山 2006: 16)。記憶を言葉にすることがいかなる関係性を生成させるかということが問題なのだ。記憶を語るということが、語りだすその場において「私たち」の生成と重なっていなければならないと思う。記憶は個人のものでも、あらかじめ想定された集団のものでもなく、未来の「私たち」にかかわるのである(同上:266)。
記憶の分有
冨山の言う「私たち」は何らかの主義により裏付けられたものではなく、記憶が分有されるその場その場で立ち上げられるかすかな「私たち」である。それは、共有された歴史を持つナショナルな「私たち」とは異なる。
岡真理『記憶/物語』は、人が主体的に支配し想起することを拒む暴力的、トラウマ的な記憶と出来事を語ることにより、それが読者に分有される事態について述べている。オノレ・ド・バルザックの短編小説「アデュー」(1830年)は貴婦人ステファニーが戦争中に受けた暴力の経験を、経験として再現することの出来ない表象不可能な<出来事>として指し示している。
ステファニーの元の恋人であるフィリップ大佐は、生き別れになったステファニーと再会を果たすが、その時彼女は廃人のようになっており、大佐との記憶をすっかりなくしていた。自分との甘美な記憶を彼女に取り戻してもらおうと、フィリップ大佐は生き別れとなった川岸の場面を莫大な費用をかけて再現し、ステファニーをそこに連れ出す。ステファニーはその瞬間、過去に起こった暴力的な経験をすべて思い出したのか、即座にこときれてしまう。更にフィリップ大佐も、彼女のあとを追うように自殺してしまう。
小説「アデュー」は、暴力的な出来事を「事細かに」という意味でリアルに再現しない。逆に、暴力の表象不可能性がリアルに描き出されるのであり、読者はその暴力、トラウマから自由ではいられない。この暴力を読者は理解することは出来ず、「共有」することもないだろう。「分有」という事態はここに与えられた言葉である。「アデュー」の描いた暴力は、読者にかすかに感知され、分有されるのみなのだ。ここでは人の無能さと受動性が際立ち、能動的・主体的に暴力を理解しようとする側面は背景に追いやられる。
暴力の描写や語りを見聞きした者たちが、その暴力をすべてを理解することがないままに感知してしまうこと。分有はそうした事態を指すが、本報告は岡に従い、そうした事態を逆に意識することによって植民統治責任を深いレベルで取ろうとするものである。
植民統治責任と記憶の分有――台湾先住民族と日本の関係から
日本人の植民統治責任が未だに取られていないという認識がフィールドワークにおいて強まってきた。そこから、植民統治責任の取り方について考察したい。帝国日本の植民統治責任は、日本国と日本人により取られる。高木健一(2001)や板垣竜太(2005)が指摘するように、第二次大戦の日本の敗戦と、米ソ両大国を主軸とした冷戦体制は、日本の植民統治・戦争責任を明確に問うことを妨げる要因になってきた。本報告はそれを見すえた上で、政府間交渉のレベルの問題からひとまず離れ、フィールドにおいて私が見聞きした話から、つまり草の根からこの問題を考える。
加藤典洋(1997)は日本の戦争責任を考えるにあたり、自国の死者を弔うことを先に置くことによって、日本人主体を健全に立ち上げ、その後にアジアの死者と被害者に向き合う道が開けるとした。この論は日本ナショナリズムに適合的との批判を受けている。近年のナショナリズム研究は、植民統治と戦争責任を取る際に立ち上げられてしまう日本人という国民主体を批判する。では、国民主体(subject)を立ち上げずに、いかにして植民統治と戦争の責任を取っていけるのか、その主語(subject)は何なのか。本報告はこの問題に、植民暴力の記憶の「分有」から、責任をとる主語である「私たち」がかすかに立ち上がると主張するものである。責任主体を立ち上げることがナショナリズムにつながってしまうというアポリアは、「主体」を揺り動かす暴力の記憶の分有という事態によって解決されるのではないか。行為あるいは述語が主語に先行する事態に注目している。
中野敏男はこれを別の言葉で、「実際に応答する以前に「主体」が求められるとき、そのこと自体によってすでに、応答によって反省と自己変革が進むということが拒否され、それゆえ実質的な応答そのものが拒否されてしまう」(中野 2001: 307)と述べている。
本報告は、台湾における先住民族自治運動史のコンテクストの中で植民統治責任を考察する。台湾では2001年から2008年までに五民族が先住民族として政府に公式な認定をかちとり、民族自治を要求し、先住民族知識人は「脱植民化」(decolonization)を模索している現状がある(中村 2007)。
台湾を支配する政権は中華民国である。中国国民党(1911年成立)による中華民国(Republic of China)が、中国共産党との内戦に敗れ、1949年に台湾に撤退して中華民国は台湾大の政権となり、中国大陸には中華人民共和国(Peoples Republic of China)が1949年に成立した。1971年に国連は中華人民共和国の中国代表権を認め、中華民国は国連から脱退した。日本と米国は、1972年と1979年に相次いで中華人民共和国と国交を結び、台湾とは国交を断絶した。大韓民国は1992年に中華人民共和国と国交を結び、台湾と国交断絶している。
世界の中の孤児となったマイノリティ「国家」台湾の、さらなるマイノリティが台湾先住民族である。台湾人口2300万人のうちの2%に満たない45万人が先住民族人口であり、14民族が公式に政府認定されている。先住民族を漢民族から完全に独立の民族主体とすることは出来ない。歴史的には、中国大陸から移住してきた漢民族と先住民族は台湾において結婚し、血が混ざり合ってきたからである。近代国民国家としての性格を持つ帝国日本により、1895年から1945年までを統治された台湾では、国家による戸籍を通じての人口把握と、教育を中心とした各種政策、メディアの影響などにより「漢民族」と「先住民族」が異なる民族主体であるという認識が広まった。植民地政府は先住民族居住区を「進化」の度合いが異なるという理由から法的に漢民族と区別し、山地における先住民族居住区の大部分を特別行政区域「蕃地」とした。
台湾先住民族は、近代国家による武力統合とその後の同化政策に唯々諾々と従ってきた訳ではない。「理蕃五箇年計画」の日本との戦争(1910-14年)に始まり、帝国議会を揺るがした1930年の霧社事件など、反乱はたびたび発生した。第二次大戦後においては、民衆と中華民国政府の衝突に発展した1947年の二・二八事件以降、1950年代、60年代と白色テロと呼ばれる国家テロリズムの時代を経過する(徐(編)2004)。この中で、タイヤルやツォウの民族エリートには「国家転覆」を図る共産主義者の罪名を着せられて殺された者もおり、その名誉回復は1990年代まで待たなければならなかった。
以上のような暴力とテロリズムの中をくぐり抜け、1980年代から台湾先住民族は自分たちが他人から名付けられる存在ではなく、自分たちは自分たち自身以外の何者でもないとして運動を強く展開していった。自称を中国語で〈原住民族〉とし、1990年代からの一連の憲法改正と、独立した行政機関の設置を獲得し、国有化された民族本来の土地の返還運動を起こしていった(石垣 2007;笠原 2004;若林 2007)。2005年には「先住民族基本法」が公布され、現在「先住民族自治区法」草案が議論されている。本稿では以上のような特異な歴史的経緯をもって成立した〈原住民族〉という中国語を、日本語の「原住民」の与える語感を鑑み「先住民族」と翻訳している。
このように本報告は、台湾高地でフィールドワークをしてきた一日本人の立場から、日本人の台湾先住民族に対する植民統治と戦争の責任を考察する。先住民族は現在政府に14が認定されており、本稿は筆者が多く付き合ってきたタイヤルの人々を中心に考察する。日本の植民統治と戦争の責任は、先住民族運動の背後にある暴力の記憶を「分有」するところから思考しなければならないことを主張する。暴力の記憶は、民族誌の記述とそれが読まれることを通じて、読者にも「分有」されるものである。
2.タイヤル側における暴力の記憶の到来、分有
首都台北から車で3−4時間の距離にある、エヘン集落に住むウマオ氏(60代前半男性)のお宅に居候させてもらいながら、私は台湾で人類学的フィールドワークを行ってきた。ある時ウマオ氏は、日本の植民統治時代について「あのころ自分たちは、日本人の話をよく聞いていたな。 朝、鐘が8時に鳴って仕事を始める。お昼に休んで、5時に仕事から上がるんだ」としみじみと述懐された。
ウマオ氏の話は、日本による植民統治をよかったとも悪かったとも言わない。ウマオ氏の祖父の世代には、1910年に起こった日本との「戦争」で亡くなった方がいる。日本側はその戦いを「ガオガン蕃方面隘勇線前進」と呼ぶ(中村 2003a)。ウマオ氏の日本時代への評価には単純な言い切りを許さない何かがある。ウマオ氏の父はエヘン集落初代の「頭目」が退いた後の自助会「会長」職を務めた人物で、日本人との関係は良好だったようだ。頭目、会長共に、台湾先住民族統治のために日本人が設置した制度である(中村 2003b)。
私はウマオ氏の述懐の意味を、こう理解する。1910年に起こった、エヘン集落を含む「ガオガン蕃」の「鎮圧平定」とそれに引き続いて展開される植民政策、更には第二次大戦への動員という過程の中で、エヘンのタイヤルたちは日本統治の終了する1945年まで、日本人の命令を聞かない訳にはいかない(植民地)体制の中に組み込まれていたのだ。
日本との戦争によって受けた祖父の世代の傷、そしてその後の植民統治という「近代化」の展開、日本が去った後にも続いた国家統治の暴力の経験が、ウマオ氏の話の裏について回っている。このウマオ氏の語りは、台湾の先住民族の自治追求の運動と密接な関係を持つ。幾多の国家暴力を受けながらも、台湾先住民族は「自分たち」を中国語の「原住民族」と名乗り、国有化された土地の返還を求め、自らを自らで治めるという自治の要求を行い、近年はそれを一定程度実現してきた。
さて本報告では、この先住民族のうち主としてタイヤルに焦点を当て、暴力の記憶が到来する様々な状況を見たい。ひとつめは、2000年に成立したタイヤル民族議会の立ち上げる民族史、ナショナル・ヒストリーである。タイヤル民族議会は、民族固有の領土の返還と自治的政府の国家による承認を求め、その根拠をこの三百年余りの被植民、つまり植民されてきた歴史に求めている(パンフレット)。
ふたつめは、タイヤル民族籍の高金素梅国会議員の主張する反帝国主義史である。高金素梅氏は、靖国神社への台湾先住民族の祖霊合祀の取りやめの主張や、小泉元首相の靖国神社参拝への提訴を行い、その根本原因として日本帝国主義を批判し、抑圧されてきた台湾先住民族の歴史を取り返すことを主張し、その掘り起しを行っている(パンフレット)。
こうしたタイヤルの民族史の立ち上げの背景に共通してあるものが、植民の暴力の記憶である。タイヤル民族議会の現議長であるマサ・トフイ氏の父はトフイ・ホラといい、幼少期に人質同然に日本による教育を受け、「理蕃」体制の末端に位置する巡査になる。植民暴力のただ中で日本の教育制度が敷かれていたのである(北村 2008)。しかし日本当局が故郷のある土地を接収しようとしたことに対して、切腹自殺を持って抗議する。1939年12月のことである。父の事件当時7歳前後であったマサ・トフイ氏はその事実を私に日本語で語ってくれ、更には戦後中華民国政府による半強制的な移住政策についても証言している。
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父は大正9(1920)年から、試験を受けて警察になり、巡査補を何ヶ月かやりました。昭和14(1939)年に警察を辞めて、青年団長になりました。ある時、自分の土地に測量の旗を見つけました。政府がやるなら、どんなことでも父に相談するはずなのに、これはおかしいと思いました。昭和14年12月20日、角板山の青年団の検閲がありました。州長、警察部長、理蕃課長、警視等がみんな来ます。親父は、うちのお袋に、お前行け、体の都合悪いからと言いました。お袋は朝早く行きました。お袋が角板山の下の坂のところに来た時、青年が何十名降りてきました。「あー奥さん、奥さん」と迎えられた。「原さんのことですが、大変突然のことですが……」「電話がかかってきて、亡くなられたそうです」。
遺言の中には、水田のことについては、確定的な何かはなかったんですけれど、心配させるようなことが今後発生しないように、まぎらわしいことをしないでほしいとありました。我々の開発した土地を、政府があたかも地主の意思を問わずに自由に処分すると。私は部落(集落)の人に申し訳ない。妻子のことは面倒見てくれ、とありました。
(中華民国政府になってから)観音(桃園県の海岸沿いの町)の海岸の土地を与えられました。しかし生活できません。二、三年位して問題が出ました。イタイイタイ病の原因のカドミウムの汚染で、せっかく作った稲にカドミウムが浸透して、食えないし売れない。カドミウムは国家の重要な工業でした。田んぼを探しなさいと、政府から38万元くらいもらいました。政府がまとめて土地を買い取るのが本当でしょう。田んぼを探し当てた人はいいが、みな散り散りばらばらになりました。
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高金素梅国会議員は、母方がタイヤル、父方が大陸安徽省出身のいわゆる「外省人」である。氏は、2000年までは父の身分である漢民族だったが、国会議員立候補にあたり先住民族身分を取得する。先住民族身分を取得する際に大きなきっかけとなったのが、このパンフレットにも載せられているある写真である(パンフレットと写真参照)。それは、1913年にシカヨウという台湾北部山地集落付近で日本軍警がタイヤルに対して「討伐」を行っていた際に、服従しないタイヤル人を斬首する瞬間のものである。高金素梅氏はこの写真を見て、自分の先住民族としてのアイデンティティを自覚させられたと述べている。
ともに植民されてきたタイヤル民族の復権をはかる、タイヤル民族議会の議長、タイヤル民族籍の国会議員の二人には、こうした植民のむき出しの暴力の記憶が到来しており、民族自治をすすめる原動力の背後には暴力の記憶が存在している。
現在日本では、親日的な台湾と、反日・嫌日的な韓国・中国という非常に単純な二項対立の図式が、主流メディアを席巻している。それは、帝国日本の所業を肯定的に捉える小林よしのりに代表されるような歴史修正主義の台頭(高橋 2001を参照)と、軌を一にするものである。筆者のフィールドワークにおいても、「日本の人々に、山の人は感謝しておりますよと伝えてください」というタイヤルの高齢女性の語りに出会ったことがある。冒頭に紹介したウマオ氏の妻のお母さんで、彼女の夫は下級警察官であった。電話で話しているうちに、そのピスイさんが、日本時代の思い出が到来したのか、感極まって涙を流していらっしゃったことがある。こうした語りは右よりの歴史修正主義に回収されてしまいがちであるが、本報告はその背後にある暴力の問題を見すえていく。
こうした語りの一方で、漢民族研究者が調査したタイヤル高齢者のオーラルヒストリーには、日本の戦争補償について「親日」的言説とは程遠いきわめて辛らつな評価が載せられている。ヤユッツさんの話(仮名、聞き書き当時77歳の女性、二人の夫が日本のために戦争に赴いた高砂義勇隊員だった)を紹介したい。
ヤユッツさんは「夫が行った時、23歳でした。私は24歳。ちょっと辛かったけど、国家の任務のために行きました」と言う。軍事貯金、戦時補償に関して以下のように述べる。
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ヤユッツ:日本は、義勇隊の人々が南洋でどのくらい貯金があったかを調べましたよ。アロックの貯金がいくらあったか通知しました。だけど私たちは受け取りませんでした。騙されているかもしれないですし。それにあんなに少なくて。最近になってようやく調べ始めてね。(中略)たくさんの日本人が観光に来ていろいろ(補償金の問題を解決してあげると)言うけれど、私は、あの人たちがおっしゃることを信用していませんよ。あの人たちは、「大丈夫、通帳があるなら私たちがやる」って言うけど、その後何も送ってきません。(中略)日本の交流協会が調査して、(中略)貯金を確認しに行きましたけれど、ほとんどなくて、要らないって言いました。自分の父が南洋に三回も行って帰ってきて、手柄も立てたのに、あんなにちょっとではね。(括弧は中村による補足)
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日本の大使館に相当する交流協会による弔慰金は、ヤユッツさんを癒しはしなかった。ヤユッツさんはその弔慰金の受け取りを拒否しているのだ。次は、ヤユッツさんとアロックさんの間の息子・ノミンさんがフィリピンに行った時の話である。
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ヤユッツ:ノミンが二歳の時、お父さんが戦争に行きました。私はノミンに言いましたよ、父さんはこういう人だったよって。
その場にいた別の人・イコン:A会社が職員の慰労旅行をして、ノミンもA会社だったからフィリピンに行って、戦争した所にも行ったんです。たくさんの十字架があって、ノミンはそれを見てひざまずいて、父さん!って叫んで泣いていました。ガイドさんがここは台湾兵がたくさん死んだ所ですと説明したので、ノミンは父さんのことを思い出したんでしょう。ひざまずいて、自分はもう台湾に戻らないと。(中略)
質問者:ノミンは父さんの写真を見たことがあるんですか?
ヤユッツ:私ら先住民は、写真なんてありませんよ。日本人はありますよね。ところで、あなた方は何の目的で私たちのところに来ているんですか?[陳茂泰(編)2001: 43-9]。
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戦争に赴いた高砂義勇隊員の遺族たちは、未だに癒されていないことが理解されよう。帝国日本の「大東亜共栄圏」 に参画し、参画させられた人々の夢は、砕かれてしまっているのだ。ヤユッツさんらの傷は、すぐには癒すことの出来ないものであると思われるが、本報告は、こうしたトラウマ的な出来事を描く民族誌記述が、ヤユッツさんたちの思いを伝え、伝えられた人がそれを更に別の人に伝えたり、心の中に大事にしまっておくことから、責任の取り方が始まると考える。
ここで日本人の植民統治と戦争責任に対する向き合い方として、戦中派団体「あけぼの会」が、積極的に台湾先住民族との交流活動を行っていることを述べておかなければならない。中国大陸帰還者を中心とした「あけぼの会」は戦後結成され、会員500名を数えるという。1990年代後半からは、元高砂義勇隊員に対して「大東亜戦争従軍記章」と「菊のご紋章」の入った金杯を授与し、従軍の「表彰」を行う。また昭和天皇の弟である三笠宮に元高砂義勇隊員らを「謁見」させ、その労をねぎらっている。あけぼの会の活動は、天皇制を中心とした植民統治以来の文化装置をノスタルジックに使用し、日本人の戦中派世代が旧植民地人と交流する際のひとつの典型を示している。そして看過し得ないことは、元高砂義勇隊員たちも「大東亜戦争」での苦労をねぎらってくれるものとしてあけぼの会の活動に参画し、一定程度の癒しを得ているように見えることなのである。
3.日本側における暴力の記憶の到来、分有――ジャーナリストの民族誌記述に注目して
あけぼの会の活動がノスタルジックなものであることは、歴史的な背景を持っている。「日本民族学会」主催で行われた、宮本延人他八名による「高砂族の統治をめぐる座談会」(1954年)をここで見ておこう。台湾の植民地統治を担った日本人の典型的な考え方が示されていると考えられるからである。元「理蕃課長」と人類学者が、日本の理蕃政策を他西洋諸国の植民地政策と比較し積極的評価を加えている[1]。台北帝大土俗人種学教室に学んだ人類学者の馬淵東一。「兎に角、よくいえば親切、悪くいえばおせっかいに過ぎるというのが台湾の理蕃政策についての感想」であり、政策は初等教育には熱心で、就学率アップのためにたいへんな努力を惜しまなかった。「うるさ過ぎても暖かみが」あり、特に欧米の植民統治と比較すると「成績がよかった方だ」(同上:190)。鈴木秀夫(元総督府理蕃課長)は、「私は台湾の高砂族は生きた天然記念物だという気がする。しかし、いくら愛すべき風俗習慣をもっているからといって、無智のままにそれをおいておくわけにはいかない。生活も高め教育も進めなければならない」(同上:188)。終戦の9年後に行われた座談会は、こうした植民統治への肯定で終っている。このような心性が、21世紀の日本で残っている。
しかしこうしたノスタルジックな心性の持ちようとは異なり、多くの日本人ジャーナリストが植民の暴力の記憶について聞き書いてきた。林えいだい、柳本通彦、加藤邦彦、佐藤愛子、石橋孝らが念頭にある。(植民統治へのノスタルジーも若干混ざったジャーナリストとしては鈴木明が挙げられるが、今回は取り上げない。)ここでは1934年生まれの中村ふじゑ(中川静子)による民族誌的記述と平和への運動に注目し、日本のジャーナリストによって植民地の経験がいかに記述され、また暴力の記憶が分有されることになっているかを考えたい。
大田君江・中川静子両氏による1969年の「霧社を訪ねて」と、中川単独による1970年の『日本帝国主義下の台湾 霧社事件』は、霧社事件と題された文章であるが、自分の「台湾との出会い」という書き出しで始められ、自己の立ち位置を強く意識したものである。「幼くして終戦をむかえた私」には戦争責任は関係のないことだと考えていた。しかし1962年に初めて台湾を訪問し、「私の父は太平洋戦争の時、日本軍に従軍して戦死した」「日本時代に抗日運動をしたために、捕えられ、拷問をうけ、そのきずあとがいまだに身体にやきついている人を私は知っている」といった声に出会い始め、「私たちは、日本の犯した罪と真正面から向かいあうことになった」という認識を持つ。
霧社事件は、1930年に日本の植民統治に対して霧社近辺のセデック民族が武装決起した事件である。日本人130余名が殺され、日本側は報復として軍隊と警察を動員し、セデック側は千人以上の死者と自殺者・行方不明者を出した。セデック民族の生き残りは平地に近い川中島に移住・収容させられ、多数の自殺者を出した。更にセデック民族はその十数年後、南洋における「大東亜戦争」に高砂義勇隊として日本のために動員され、自ら志願し、志願させられた。高砂義勇隊とは、日本軍が非公式に動員した台湾先住民族部隊で、1941年前後から約八千人が動員されたとされている。
高砂義勇隊への志願について、「起ちあがつては圧しつぶされ、起ちあがつては圧しつぶされ、ついに自分たちの抵抗がむだだと悟ったとき、高山族は体制のなかで人一倍働くことによつて、自己の存在を強調しようとしたのではなかつたろうか」という認識に至る。
霧社から直線で約15キロの川中島に赴いた中川らは、決起時に決起集落の少年だった高愛徳氏から「忘れられない二つの場面」を聞いた。
*
「逃げようとする日本人の警官が、自分を攻撃してくる相手が友だちと気づいたらしい。きつと、かつて討伐にいつしよに出たことでもあつたんでしよう。手で顔をふせいで、『撃つな、撃つな!』と叫んでいる。すると、その友だちが『友だちだからこそ、いま、おまえを撃つんだ。こうなつたのも日本の罪、だから、おれがおまえを撃つ』とどなりながら、名前を叫んで、『動くな!一発で殺すぞ!』と発射したんだ」。
「もう一つの場面では、師の恩というものを知りましたよ。十五歳ぐらいの公学校の卒業生だつたが、ねらつた相手が梶原先生とわかつて、どうしても撃てない。すると、となりにいた年上の者が、『なぜ撃たなかつた!』と彼をなぐつた。そうしたら、その子は『撃てない、撃てない』と泣きながら言っていた」。
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中川は、別れ際に高愛徳氏に「私たちは、日本へ帰ったら、できるだけ多くの人に霧社事件について伝えると約束した」と言っている。高氏から、「あんたたちが日本人」であることを強調され、「霧社への旅は、私たちに大きな課題を投げかけたのであった」と結ぶ。
以上は1970年の文章であるが、それから30年後の2000年に中川は、中村ふじゑ名により『オビンの伝言:タイヤルの森をゆるがせた台湾・霧社事件』を上梓した。1978年に霧社を再訪問してから、事件の生き残りであるオビン・タダオの元に足繁く通い、事件前後の経過とその背景としての日本植民地支配の暴力、高砂義勇隊と戦争動員の経験、先住民族慰安婦の話、日本の敗戦と1947年の二・二八事件と白色テロの先住民族への影響、日本人団体「霧社会」との交流などが聞き書きし、それをまとめたものだ。中村はいつしかオビンを毎年のように訪ねるようになるが、オビンは中村に彼女の経験を話す際、決まって「わたしの胸、単純じゃないのよ、(中略)心が燃えて、苦しくて、話すと怖くなるの」と言ったという。
オビンは霧社事件のことを語るようになり、1996年に日本人30名ほどに話をした翌日に倒れ、数日後に亡くなる。中村は本書の最後を、「倒れるまで語り続けようとした母の物語を、今度はわたしが書こうと、わたしは墓前で誓った」と結ぶ。オビンの死を含めて原稿をいったん書き上げた時、中村は彼女の死を深く実感し、取り乱してしまいすぐに出版できずいったん原稿を引き出しにしまったという。オビンとは、母と子の関係にまでなっていた中村の深い心情がここに見られる。
本書に結晶したオビンとその周辺の人々への聞き書きの経験は、中村ふじゑを日本の植民統治と戦争の責任問題に対する、応答の実践に強く引き込む。『語られなかったアジアの戦後:日本の敗戦・アジアの独立・賠償』(1991)、『写真図説 日本の侵略』(1992)、『アジアの新聞が報じた自衛隊の海外派兵と永野発言・桜井発言』(1995)といった書籍への分担執筆や海外の論説の翻訳を、1990年代に相次いで行う。2000年前後からは、「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」の開催とリンクして、台湾先住民族「慰安婦」問題について積極的に関わる。台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会においてたびたび学習会を開き、ニュースレターに文章を投稿した。このような実践の背後に、数十年間に渡る台湾・霧社周辺の人々への詳細な民族誌的な聞き書きが行われていたのだ。
4.台湾先住民族と日本の両者にとっての脱植民化――記憶によるナショナルでない「連帯」と、日本の台湾先住民族に対する植民統治責任の意識化
本稿が主張するのは、以上のような複雑でひとりひとり異なる被植民と戦争の記憶を、「反植民地主義」や「反帝国主義」としてのみ聞くことをやめようということだ。同時に、被植民と戦争の記憶を、日本人の誇りやノスタルジーを回復し、帝国日本を欲望し日本人主体を立ち上げようとするために利用することを、やめようということだ。逆に、以上に示したような具体的でひとつひとつ顔を持った植民と戦争の暴力の記憶が、民族誌的に記述され読まれる中で、「分有」されていく事態に注目しようということなのだ。
ここで「分有」ということが問題になるが、トラウマ的な記憶、暴力の記憶は自分自身も理解し得ないし、ましてや言葉にすることが非常に困難なものである。植民統治と戦争はまさにそうした経験を生み出してきたが、それを後世の人々、特に加害側に立ってきた日本人はいかに理解できるのだろうか。自分自身も理解できない暴力の経験、あるいは殺され死んでしまった人の経験はすでに言葉にする人が存在しないため、理解することは不可能である。その前提の上に立ち、これまで述べてきたような暴力の片鱗を垣間見せる記述を読むことで、読者はその人々に起こった暴力の記憶を「分有」してしまうのだ。
そうした台湾先住民族の暴力を分有してしまった日本人の一人として、中村ふじゑに焦点を当てた。しかし筆者の主張は中村のようにふるまえと主張するわけではない。中村もそんなことは望まないだろう。そうではなく、出会ってしまった暴力の記憶から顔を背けるのではなく、それを無意識にも分有してしまう中でこそ、新しい関係性が生まれる重要な契機があると主張したいのだ。主義主張が結ぶ連帯というよりも、暴力の記憶を感知するもの達のかすかなつながりが生じているはずである。
私はウマオ氏の発言を、暴力的な過去をすぐさま肯定あるいは否定するのではない、未来を模索していく力を持ったものとして聞くようになった。日本に統治されていた「あの頃の自分たちはよく人の話を聞いた」。だから、未来は、「自分たちで自分たちのことを決めていく」という脱植民=自治の運動と共に開かれていく。
筆者が注目するのは、一国史、つまりナショナル・ヒストリーにはおさまりきらない暴力の記憶の連鎖が、ナショナルではないつながりを生み出しているということだ。磯田和秀(2006)は、ナショナル・ヒストリーが個々の出来事を提喩的にまとめ上げて体系的な「ひとつの歴史」を作る一方、それを突き破ったりずらしたりする記憶の換喩的な連鎖の力に注目する。提喩(synecdoche)は全体と部分の関係性を有するのに対して、換喩(metonymy)的な関係性とはあるものとあるものの「隣接性」が特色とされている。暴力の記憶は、民族議会や高金素梅氏が描く民族の歴史を形成する要素となると同時に、分有されることにより、タイヤルと日本という民族主体の固い殻を溶解し崩すものともなりえる。そして、分有の重要なきっかけは、まずもって、「日本人とは何者か」「何をしてきたのか」という問いにあると言えるが、暴力の記憶はそのように硬く身構えなくとも、日常の付き合いの中でふと出会ってしまうものでもある。
抑圧されてきた民族の歴史と主権の復活が図られなければならない一方、さまざまな形で出会ってしまった暴力の記憶をすぐさま政治的な主張に利用するのではなく、その暴力の記憶がいかに癒されうるのかを反芻しつつ、自らが分有した記憶を言葉にし、他者と分かち合う場を作っていくことが、脱植民化を推し進め、植民統治の責任を取っていくことだと考えられる。
引用・参考文献
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[1] 参加者8名は、平沢亀一郎(元総督府理蕃課技師)、井上伊之助(元山地伝道者、医師)、佐山融吉(元蕃族調査会補助委員)、瀬川孝吉(元総督府理蕃課のちに同農務課勤務)、鈴木秀夫、横尾広輔(元総督府理蕃課視学官)、馬淵東一、宮本延人(元台北帝大土俗人種学教室講師)。