ロシン・ワタンをめぐる史料紹介
編集:中村 平
タイヤル人、ロシン・ワタン(Losin Watan)をめぐる史料の紹介をしたいと思います。
ロシン・ワタンは生年1899−1954年、抗清・抗日のタイヤル家系に生まれ、当時台北州三角湧郡大豹(たいひょう)社の日本「帰順」後、人質として日本教育を受けます。台湾總督府医学専門学校を卒業後、「公医」として台湾北部山地で医療などに従事します。日本女性日野サガノと結婚し、日本名を、渡会三郎から日野三郎とします。
日本統治から解放された後、中国名を林瑞昌とし、台湾省政府諮議、台湾省参議員を歴任。その直後に逮捕され、一年半余りの拘禁を経て、銃殺刑に処されました。
ロシン・ワタンに関しては、これまでに、いくつかの紹介が日本と台湾でなされてきました。文末の参考文献をご覧ください。このたびは、公表されていない以下の史料を紹介し、ロシン・ワタン理解への一助としたいと思います。これらを、筆者は、ロシン・ワタン氏のご長男の、林茂成氏(現桃園県復興郷在住)に提供していただき、林氏の許可を得て公開するものです。
[史料1]林茂成1995「我が父ロシン・ワタンの一生」9頁(原文日本語、手書き)
[史料2]「樂信・瓦旦(渡井日野三郎・林瑞昌)生平年暦表」(ロシン・ワタン年表)2頁(原文中国語)
[史料3]林茂成1999「泰雅族領導者樂信・瓦旦(林瑞昌)與鄒族領導者吾雍・雅達烏猶■[上下]那(高一生)之交往」(タイヤル民族リーダーロシン・ワタン(林瑞昌)とツォウ民族リーダーウオン・ヤタウヨガナ(高一生)の交際)6頁(原文中国語、手書き)
[史料4]台湾省保安司令部桃園山地治安指揮所1954「為林匪瑞昌高匪澤照執行死刑告角坂山胞書」(匪徒林瑞昌と高澤照に対する死刑執行を角板の山地同胞に告ぐ)(原文中国語、印刷物)
[史料5]林茂成1995「半世紀も長引いた同学との再会」9頁(原文日本語、手書き。中国語版もある)
[史料6]「尤幹・樂信(日野茂紀・林茂成)生平年暦表」(ユカン・ロシン年表)3頁(原文中国語)
以下の史料に関しては、今回は紙幅の都合により割愛させていただきました。
林瑞昌(ロシン・ワタン)1993[1951]「本省山地行政的検討」(本省山地行政の検討),紀念台灣省第一屆原住民省議員林公瑞昌(樂信‧瓦旦)銅像落成掲幕典禮委員會編,頁31-38(初出は『旁觀雜誌』1951年2月)
林茂成「受裁判事実陳述書」(裁判を受けた事実の陳述書)5頁
「陳情書」、1999、5頁、「原住民戒厳時期不當叛乱■[既旦]匪謀審判案件之受裁判者名冊」(先住民族戒厳時期不当叛乱並びに共産党スパイ裁判事件において裁判を受けた者の名簿)4頁、「高山族匪謀湯守仁等叛乱案」(高山族共産党スパイ湯守仁等の叛乱事件)2頁を付す。提出先は行政院原住民委員会。
[史料1]
我が父ロシン・ワタンの一生
原中文翻訳日文
一九九五年四月十七日 林茂成
「我が父ロシン・ワタンの一生」を述べる前に、祖父ワタン・セツの生涯を提起致します。
祖父は、約一八六一年頃(清朝時代)に、台北州三角湧郡大豹社(現在台北県三峡鎮挿角附近)に生れ、大嵙崁前山番總頭目として、前山各部落を率いて、他民族の侵入に、抵抗し故郷を守り、清朝の軍警を最後まで一歩も故郷に侵入させず、其の作戦中、不幸にも祖父の長弟イバン・セツを失いました。一八九五年に清國が台湾を日本に譲渡した後、一九〇三年から一九〇八年にかけて六年間、日本軍警の侵攻に抵抗し故郷を守りました。日本は此の戦役を台北州三角湧派出所管轄下の大豹事件及蕃匪事件と稱し、二度に渡る大規模な戦役で、当時日本軍警は激戦の中、徹退(ママ)反攻を繰り返へし、多数の戦死傷者を出し、日本政府に多大な打撃を與えましたが、此の戦役中、同族の損失も少なからず、祖父の三弟パヤス・セツは、右手を失い、その後現在の復興郷義盛村ウライ警察派出所附近で、日本警察が布設した地雷にかかり爆死致しました。現代化された日本軍警の武器に抵抗しがたく、後方タイヤフ社(現在高義村シブナオの上方)に徹退(ママ)しましたが、一九〇九年に祖父は同族の生命財産を保護すべく危險を冒し、自ら角板山に出頭し、長男ロシン・ワタンを日本政府に渡し、人質として就學させる條件で、日本政府に帰順致しました。それで父は現代化教育を受けるチャンスを獲得したわけです。祖父ワタン・セツは抗日英雄として、桃園忠烈祠に名を連ねています。
父ロシン・ワタンは、一八九九年八月十六日に台北州三角湧大豹社(現在台北県三峡鎮挿角附近)に生れ、一九一〇年より桃園小學校に入學し、一九一六年には台湾總督府医學専門学校に受験入学し、一九二一年三月に卒業し、同年十月より一九四五年八月迄(日本統治時代)大渓郡控渓(現在新竹県尖石郷秀巒)・大渓郡ガオガン(現在桃園県復興郷三光)・大渓郡角板山(現在桃園県復興郷復興台地)・大湖郡象鼻(現在苗栗県泰安郷象鼻)・竹東郡尖石(現在新竹県尖石郷尖石)等地で、公医に任命され、高砂族の医療工作に従事し、一九四〇年十一月には、台湾高砂族の代表として東京で、日本紀元二千六百年祝典に、参謁し、紀念章を授奨され、一九四五年四月に、台湾總督府評議員に任命され、事実上当時高砂族唯一の台湾代表になりました。
父は一九二一年に学業を終え、故郷に返へり、医療に従事した際、只々忘れ得ない事は、祖父ワタン・セツが故郷を守るべく他民族の侵略に抵抗し、抗清・抗日の下、少なからずの同族の生命を犠牲にし、祖父の弟二人の生命迄喪失し、又祖父の二弟も参戦の疲れで病死し、只祖父ワタン・セツの子孫だけ残ったのみで、其の得た代償は僅かに同族の生活圏を確保しただけで、現代化生活に浴する事が出来ませんでした。此の悲惨な歴史経験に鑑みて、医療工作に専念し、当時高砂族部落には、マラリア・赤痢・流行性感冒等の流行で、多数の同族が罹病し、その死亡率は只管(ヒタスラ:ルビ)増加の途を辿る状況下に於て、日本政府に免費治療と予防工作を要請し、病苦を取り除き同族の生命を保全しました。此の外台湾總督府嘱託として、同族社会の安定を計り、同族間狩猟地盤の争いの和解に努め、その上生命の危険を顧りみず糾紛の禍根たる銃器の提出を勧導し、一九二七年には銃器提出工作は、ほぼ完了、其の数は一五〇〇本に達し、埋石の誓いを立て、和平共存の古来儀式を挙行致しました。其後銃器を使用する紛争事件は跡を絶ち、同族社会が安定した後、現代化生活を享受すべく、同族の生活改善を計り、山焼き方式の輪耕作農業経営や狩猟に専念する生活を減少して、水田を開拓し定耕農業に従事することを宣導し、水田・道路・埤圳の開拓・住宅の助成・農業牧畜技術指導等、日本政府に補助奨励を要請し同族の生活環境を改善しました。又水田開拓に適しない土地に居住する同族は、政府に建議し環境の良い土地に集団移住し、水田開拓を助成し安居させました。その例は、本郷の高義村タカサン社は、宜蘭県大同郷松羅・寒渓に、本郷の三光村萱原は、本郷の奎輝村カソノ等地に集団定住して居ります。狩猟については、日本政府に建議し、各派出所に一定数量の銃を保管し、「銃器貸与辦法」を設定し、同族が狩りに出る時は、その銃を借りて従来通りに狩猟に従事することが出来る様にしました。父は壮年時代に医療に従事する傍ら、同族社会の安定と生活改善工作を成し遂げてから、一九二九年に当時卅一歳、角板山に於て、日人日野サガノと結婚しました。結婚の時機から見て、政略結婚とは言えないと思います。
タイヤル族社会がほぼ安定した後、一九三〇年十月二十七日に霧社事件が突発しました。日本警察の高砂族に対する指導方法に誤りが有り、抗議活動が勃起し、日本警察及家族が少なからず殺害され、聞く所に依れば、日本軍がガス弾投下等、手段を選ばない厳重なる報復手段に出るとの事、計りしれない結果を招く事になるので、自ら台湾總督府と台中州廳間を奔走し、日本政府に対して、無差別な厳重制裁を加えないように建議し、事件の拡大を防ぎ、事件の収拾に困難をきたさない様に要請しました。それで少部份の制裁で、全体に及ばず同族の生命財産を保護しました。父は日本統治時代異民族の統治下に於て、高砂族を保護し、生活改善を計り、又其の権益を争取し奮闘致しました。決して有る人の云ふ様な日本の走り犬とか御用紳士の類では有りません。
一九四五年十月二十五日(台湾光復節)日本が降伏して、中国が台湾を接収し、終いに中国の懐に帰へり、台湾全体住民は、歓喜に溢れました。併しその歓喜は束の間で、中国から派遣された接収人員の素質が餘りにも差が多く、日本統治下に於て、見た事もない収賄・公有物の私有化等の行為が横行し、台湾居民は喜びの後の大失望と不満がつのり、終に一九四七年二月二十八日に、二二八事件が発生し、台湾住民は、生命財産の重大なる損失を蒙り、続いて戒厳令が施行され、中国統治下の白色恐怖時代に突入しました。父は当時少数民族の立場で、過去抗清・抗日の痛々しい歴史経験を鑑みて、完全な準備を整えていない状況下、軽挙妄動を避け突発事件に参与しないことを同族に促がしましたので、タイヤル族は二二八事件に参与しませんでした。(二二八事件秩序の維持に対する功労授奨)只高砂族の中では、嘉義阿里山のツオウ族が二二八事件に参加し嘉義飛行場を襲撃しました。此の時期に、父は日本統治時代三井株式会社(現在農林公司)に、佔据された三峡大豹社祖先の失地返還を陳情し、又高砂族祖先の失地返還と集団移住を極力提唱しただけで、二二八事件で秩序を維持した功労は有れども、反対に異議份子の頭と見做されました。
一九四八年七月省政府諮議を担任し、一九四九年十二月には台湾省参議員に任命され、其の間二二八事件で逮捕されたツオウ族の呉鳳郷長高一生(日名矢田一生は、日本統治時代阿里山代表の高砂協会会員)及湯守仁等の案件で自ら保証人となり保釈しました。一九五〇年に至っては、阿里山ツオウ族の生活安定の為呉鳳郷(現阿里山郷)新美農場開発資金貸款の債務保証人となり、屢々利息負担の免除或減少を申請し開発工作援助に尽力致しました。同年(一九五〇年)十月には、中国大陸より撤退し来台した蒋介石総統を角板山迎え貴賓館に安住され、献礼祝寿典儀を挙行しました。又一九五一年初に、阿里山ツオウ族及台中県和平郷(シカヤウ・サラマオ)タイヤル族の銃器隠匿事件で中国軍警は危険を恐れ、入山して処理できず政府の要請により、自ら入山解決し、銃器提出工作を順利に完成し、タイヤル・ツオウ族の危機を避けました。一九五二年一月に、初めての県議員に依る省議員間接選挙で、政府の厳重なる阻害を受ける中、幸に第一屆台湾省臨時省議員に当選し、二回の会議に参加した後、思い掛けなく、同年十一月当局に逮捕され入獄し、面会禁止の為永遠の別れとなりました。続いて同年十二月二十二日に、母が心配の餘り精神錯乱し病に倒れ享年四十九歳で亡くなりました。その翌々年一九五四年四月十七日、軍法当局は父に死刑・全部財産没収の判決を下し、当日その場で、死刑を執行され、母が先に逝った事も知らず、永遠の別れとなり、享年五十五歳でした。
台湾が中国統治に復帰した後、父は国家の為、高砂族の権益の為、政府に託された任務を相互協調の下、圓満なる解決をし、功労有るにもかかわらず、戒厳白色恐怖時期に於て、幕後で、高砂族を指導する反政府の頭と見做され、軍法当局の死刑判決に依り、命を失い、祖父ワタン・セツの一代は、異国清朝・日本の統治下で、高砂族の生存の為犠牲にさらされ、父子二代に渡り、苛酷にも同族の生存と権益・自由平等を求めて犠牲に成りました。
戒厳令は、卅七年の長き歳月を経て、終に一九八四年七月に解除され、白色恐怖時代は、過去になり、主権は民に有る時代に臨み、深深く、民主の尊さを感じます。政府は、民主の理念を堅持し、絶対に白色恐怖が如き悲惨な歴史の再演を許すべきでは有りません。
編訳者注:句読点、旧字体、送り仮名、傍線部とルビの添付など、なるべく原文に忠実に模写しました。以下の文書においても同様です。
ロシン・ワタン(樂信・瓦旦/渡井・日野三郎/林瑞昌)年表
翻訳:中村 平
1899.8.16
台北州三角湧(現台北県三峡鎮)出張所管轄の大豹(たいひょう)社にて生まれる
1909.10.1
角板山蕃童教育所に入学
1911.11.14
桃園尋常小学校に転学
1916.3.30
同小学校卒業
1916.4.20
台湾総督府医学専門学校予科に入学
1917.4.15
台湾総督府医学学校本科に転学
1921.3.24 台湾総督府医学専門学校を卒業
1921.10.3
新竹州控渓(現新竹県尖石郷秀巒)蕃人療養所の医務嘱託になる
1923.3.31
新竹州高崗(ガオガン、現桃園県復興郷三光)公医診療所の公医になる
1926.12.28
銃器回収の任務を完遂、銃器は1500丁以上を数え奨を受ける
1928.3
新竹州角板山(現桃園県復興郷復興台地)公医診療所の公医になる
1929.1
日本愛媛県伊予郡の日野茂吉次女サガノ(玉華)と結婚
1930.2.10
長男茂紀(茂成)が角板山で生まれる
1932.10.6
次男茂秀が角板山で生まれる
1935.9.17
三男敞夫が角板山で生まれる
1937.7.2
新竹州象鼻(現苗栗県泰安郷象鼻)公医診療所の公医になる
1938.5.9
四男正義が象鼻で生まれる
1940.11.10
高砂族を代表し、東京の紀元2600年の祝典で記念章を授かる
1941.3.1
五男昌運(力一)が象鼻で生まれる
1943.2
新竹州尖石(現新竹県尖石郷尖石)公医診療所の公医になる
1945.4.1
台湾総督府評議員になる
以上日本占拠時代(日據時代)
1945.10
新竹県桃源(尖石)郷衛生所所長になる
1946.1
初代新竹県桃源(尖石)郷郷長(兼衛生所所長)になる
1946.2
台湾省山地流動治療隊隊長になる
1946.4.19
長女チエ(紫苑)尖石にて生まれる
1946.12
角板郷(現復興郷)衛生所所長になる
1947.6.8
祖先の墓のある地、台北県海山区三峡鎮大豹社復帰の陳情を行う
1947.6
新竹県政府より二二八事件の治安維持の功績を認められ、賞状を受ける
1948.6.24
四男正義が10歳で逝去
1948.7 省政府の諮議となる
1948.11
山地建設協会の理事になる
1949.2.19
長男茂紀(茂成)が寳金と結婚
1949.12.21
台湾省参議員に繰り上げ当選する
1950.1.3
初めての孫娘一菊が生まれる
1950.10.31
角板山賓館で蒋総統中正の来台第一回の祝賀会を行う
1951.10.14
二番目の孫娘月美が生まれる
1952.1
第一回台湾省臨時省議員に当選する
1952.8
甥昭明、次男茂秀が逮捕され入獄する
1952.11
本人が逮捕され入獄する。台北市青島東路一号保安司令部軍法処。面会を禁じられ、家族との永遠の離別となる
1953.12.2
甥昭光が逮捕され入獄する。台北市青島東路一号保安司令部軍法処
1952.12.21 妻サガノ(玉華)逝去。渓口台対岸、枕頭山山麓の土作りの家にて。享年49歳
1954.3.4
長男茂紀(茂成)が辞令により、角板山から大渓鎮内柵国民小学に転勤する
1954.4.17
台湾省保安司令部が死刑とすべての財産の没収を宣告し、当日銃殺を挙行する。享年55歳
訳者注:原文の「1952.12.22 妻サガノ逝去」は、林氏により「21日」に訂正された。
[史料3]
タイヤル民族リーダーロシン・ワタン(林瑞昌)とツォウ民族リーダーウオン・ヤタウヨガナ(高一生)の交際
林茂成
翻訳:中村 平
ロシン・ワタン(林瑞昌)の父ワタン・セツは、大嵙崁前山蕃總頭目であり、外からの侵略から故郷を守るため、1903年から1908年の間、台北県三峡鎮挿角大豹社において、日本軍警と六年にわたり抗戦しました。これは大豹事件および蕃匪事件と呼ばれ、台湾先住民族のうち日本に最も激しく抵抗したタイヤル民族であり、ワタン・セツは桃園忠烈祠に名を連ね、その人となりは人々に慕われています。ツォウ民族について触れれば、リーダーウオン・ヤタウヨガナ(高一生)の父の代に、1895年6月に日本に帰順し、既に協力関係にありました。
ロシン・ワタン(林瑞昌)は、1899年に大豹社において生まれ、1921年3月に台湾總督府医学専門学校を卒業し、同年10月からは復興郷の後山集落である、控渓・三光(大嵙崁後山蕃)にて公医および台湾總督府嘱託の職を担任し、医療の仕事に熱意をもって従事しました。マラリア、赤痢・流行性感冒などの伝染病の防疫に尽力し、病苦を取り除くことで人々の生命を保護したのみならず、タイヤル民族の安定した生活のため、狩場の紛争を仲裁し、命の危険を顧みず、銃器の押収を忠告しすすめ、紛争の原因を取り除き、1927年に銃器押収の仕事を完結させ、千五百丁以上の銃器を回収しました。同時に、埋石の誓いという古来からの和解の儀式を執り行ない、それ以降、銃器を用いた紛争や事件は跡を絶ちました。狩りに関しては、日本政府に各警察派出所に銃を保管しておき、人々が狩りの際に銃を借り、狩りに使うという、「銃器貸与狩猟規則」の制定を建議しました。又、民族の生活の改善を要求し、近代生活を享受するために、それまでの焼畑耕作、および専ら狩りばかりの生活形態を順次止めていくことを宣伝指導し、田を開き定耕農業に従事することを、力を尽くして提唱しました。日本政府に、田を開き、道と水路を作り、農業技術指導の資金援助と奨励を求めました。田を開くことが容易ではない集落は、集団移住をさせ良好な環境の地に田を開いて定住させ、後山集落の安定を確保した後、1928年3月に前山集落角板山の公医に転任しました。一九三〇年代になり、山地社会が安定したのち、高砂協会の設立を提唱し、本部を台北の高砂協会会館(光復後の山地会館)に置きました。各州に分会を設立し、先住民族集落の頭目を自助会長と改称し、定期的に各集落の自助会の状況を報告しあい、人々の生活改善に関する問題を討論し、お互いに集落の生活環境の改善について励ましあいました。このときから、ロシン・ワタン(林瑞昌)と、ツォウ民族リーダーウオン(高一生)は、本部会員の身分という間柄で交際し始め、お互いに励ましあいました。
ウオン・ヤタウヨガナ(高一生)は、一九〇八年に、阿里山郷達邦社で生まれ、一九三〇年三月に台南師範学校を卒業し、嘉義県阿里山郷達邦社警察分駐所において、警官と教育所教師を兼任し、教育・文化の仕事に従事し、定住農業と水田開発などをすすめ、優れた功績を持つ、唯一のツォウ民族のリーダーでした。
一九四五年十月二十五日、日本降伏により祖国が台湾を接収し、台湾の全住民は台湾光復を祝いました。しかし、当時の政府が台湾接収に派遣した人員は、素質が甚だ低く、収賄、公共物を私物化するといった行為が、台湾住民の失望と不満を引き起こし、ついには一九四七年二月二十八日の二二八事件を引き起こし、台湾住民は生命と財産の大きな損失を蒙りました。同年三月四日、角板郷衛生所所長の任にあったロシン・ワタン(林瑞昌)は、二二八事件対策会議を開き、「過去、抗清・抗日において犠牲となったタイヤル族の生命と財産を振り返れば、慎重な準備のない情況下においては、決して軽挙妄動し突発的な事件に軽々しく参与することなきよう、また、二二八事件関係者の入山を、タイヤル族社会の秩序を維持するために阻止するよう、人員をタイヤル族各部落に派遣し伝達する」旨を決議しました。そのため、タイヤル民族は、二二八事件に参与することはありませんでした。
しかし、嘉義県阿里山ツォウ民族は、嘉義市民の要求にこたえる形で、一九四七年三月五日、呉鳳郷郷長ウオン(高一生)は、湯守仁に四十数名を率いて下山させました。彼らは、嘉義市民と合流し飛行場を攻撃し、紅毛碑空軍第十九軍の弾薬庫を陥落し、武器を阿里山に持ち帰り、二二八事件に参与しました。同年六月八日、ロシン・ワタン(林瑞昌)は、祖先の墓のある土地、台北県三峡鎮大豹社の地(日本が侵略占拠した三井会社茶園)の復帰、ならびに、人々の生活を改善し生存を求める旨の陳情を行いました。しかし政府は、先住民族の妥当な要求と権益を顧みることなく、逆に彼を、異議を申し立てる者と見なして、諜報員を送って監視させました。ロシンは、「土地返還」の要求を行った最初の一人です。一九四八年七月、ロシン・ワタン(林瑞昌)は、台湾省政府諮議の職についた後、山地資源の開発を提議し、自治財源を確保し、先住民族社会の発展を旨として(アメリカ合州国の先住民族自治区構想の如く)、山地建設協会を企画設置しました。しかし政府は、理事長を官選とするという条件でのみ立案成立を許可し、同年十一月、省政府は、官選の山地行政処長、王成章(警務処長を前任)を理事長として山地建設協会を設立させ、本人が理事となり、先住民族自治団体の健全な発展を阻害しました。協会の位置は、山地会館(日本占拠時代は高砂協会会館)でした。(民国三十八年)一九四九年五月に至り戒厳令が公布され、ウオン(高一生)と湯守仁等が逮捕されました。ロシンは自ら出向いて保釈と自首の手続きを行い、釈放させました。湯守仁は保安司令部の軍官の職に就き、ツォウ民族の危機を解除させました。その後、「民国三十八年(一九四九年)夏、ウオン(高一生)は湯守仁と陳顕富を派遣して、省参議員であった林瑞昌を招待し、当時の省警務処山地室警察高澤照、及び簡吉等が行った台北川端町月華園にての二回の会合に、参加させた。陳匪は、高砂族自治会を林瑞昌が主席となって政治面の責任を負い、湯守仁が軍事面の責任を負って組織するようにと指示した」(「」は判決書の記載に依拠する)。しかし、ロシン・ワタン(林瑞昌)とウオン(高一生)は、日本占拠時代の右派であり、共産党に参加したことは決してなく、いわゆる共産党スパイ(共匪)高砂族自治会の運動を組織したこともありませんでした。ロシン・ワタン(林瑞昌)は、一九四九年十二月に台湾省参議員に繰り上げ当選となり、それは上に述べられていることと相矛盾します。一九五〇年三月、全省の先住民族代表は、表敬団を組織し、呉主席兼保安司令国禎を訪問し、先住民族が力を尽くし協力して台湾の建設と安全確保にあたると、意見を表明しました。同年四月、阿里山ツォウ民族呉鳳郷郷長ウオン(高一生)は、人々の生活を改善するため、新美農場乙案の建設を計画し、土地銀行から五十萬を借り、唯一の保証人となることを政府に照会申請しました。一九五〇年十月卅一日ロシン・ワタン(林瑞昌)は、蒋総統中正が角板山の貴賓館に暮らすように手配し、誕生祝いをしました。一九五一年三月、国防部は山地調査令(山地清査令)を公布しましたが、そのころロシンはウオン(高一生)と共に、ツォウ民族の表敬団を率い省政府に赴き、政府を擁護する決心のあることを伝え、政府がすぐに農業投資の回収をしないよう要求し、阿里山新美農場の貸付利子を減免することにより、ツォウ民族の農業を発展させ、生活を向上させることを求めました。民国一九五二年一月に至り、政府の厳しい制止のなか、ロシンは第一回省議員に当選しました。しかし、二回の大会に参加した後、同年十一月に逮捕され入獄し、面会禁止になろうとは夢にも思わなかったことでした。政府は山地社会の安定を理由に、一九五四年四月十七日、死刑と財産の没収を宣告し、判決書が送られない情況下で、当日銃殺刑が執行されました。享年五十五歳でした。同時に、合計六人に死刑が執行され、ツォウ民族リーダーのウオン(高一生)はそのなかのひとりであり、タイヤル民族のロシン・ワタン及びツォウ民族のウオン・ヤタウヨガナの二人を同時に失ったことは、まったく遺憾なことであります。
編訳者注:本文は、林茂成氏によれば、1999年12月5日に執筆されたそうです。このころ、先住民族関係者から、事件は、ロシン氏がウオン氏を陥れようとしたという話が出てきたそうです。林氏は、それに対して説明をしなければならないと感じ、この文書を書かれたそうです。また判決書には、公金横領の疑いなどが書かれていたため、林氏はそれに対してもとより憤っていました。なお、原文の氏名の漢字表記は以下のとおりです。
ロシン・ワタン:楽信・瓦旦、ウオン・ヤタウヨガナ:吾雍・雅達烏猶■[上・下]那、ワタン・セツ:瓦旦・變促
[史料4]
以下は、1954年4月、復興郷各村に張り出された、ロシン・ワタンとベフイ・タリ両者の死刑執行の告知書です。発行主体は、台湾省保安司令部桃園山地治安指揮所と記されています。林茂成氏保管のものを、中村が転写しました。原文を先に付し、後に翻訳を載せました。
為林匪瑞昌高匪澤照執行死刑告角坂山胞書
同胞們:今天要告訴大家一件事,那就是甘心賣國殘害同胞的匪謀份子林瑞昌高澤照二犯,已經層奉核定執行死刑了.
為了揭露他們兩人的罪惡,並使大家能K底明瞭,特將他們兩人的犯罪事實分述如後:
一、參加匪黨,陰謀顛覆政府:身為省參議員的林瑞昌與充任大溪警所巡官的高澤照,竟喪心病狂,在卅八年夏和湯匪守仁(嘉義縣業商)一同參加了朱毛匪幫.曾在台北市川端盯月華園店聚會兩次,討論匪黨對山地行政、活動等問題:並組織偽「高砂族自治委員會」,林匪自任主席,兼負政治責任,向山胞宣傳匪黨主義,展開山地匪黨工作,高匪則多方與匪徒聯絡,妄想策應匪軍攻台行動.繼即成立偽「阿里山武裝支部」.於是叛亂工作更為積極.案經我治安機關於卅九年破獲逮捕,當場搜獲武器甚多,罪証確鑿,並供認企圖顛覆政府不諱,真是陰謀奸險,罪大惡極!
二、營私舞弊,侵吞農場公款:林匪瑞昌利用同案匪徒高一生的吳鳳鄉鄉長身份之便,特與高匪一生籌設新美農場,向土地銀行撥借新台弊五十萬元,除先扣利息外,實領四十四萬一千四百六十一元,但該林匪與高匪一生於發出此款時,於第一農場標價十八萬八千元內扣發二萬七千七百元,第二農場標價先付款十二萬四百元內扣發三萬四千一百元,林匪分肥二萬元.貪贓枉法,人所共恨.
以上所提出的兩項,只是林匪高匪較大的罪惡,其他一些劣行,這里還未有全部提到.
同胞們:按他們兩人的身份來講,是應該為我們做事情,代老百姓謀幸福的,誰知他們喪心病狂,參加匪黨,甘心賣國,剝削貪污,禍害人民.今天,這兩個匪徒,在天理、國法、人情、正義伸張之下,執行死刑,正是罪有應得,死有余辜.
這裡,有兩件事要提請大家注意:
第一、林匪高匪已守國法制裁了,其所有財產除了他們家屬生活必須外也被沒收了,不過大家要瞭解,雖然林匪等犯了罪,但與他們的家屬毫無關係.他們的家屬不但無罪,而且仍受政府的保障,享受他們應享的權利,一部分的財產雖被沒收了,但並不會影響他們家屬的生活.
第二、政府時刻在為我們大家的幸福生活而努力,除了禍國害民的匪徒以外,任何人都受到政府的愛護和保障,今天我們為了社會的安全,不會放鬆一個壞人,但絕不會冤枉一個好人,這是政府幾年來一慣的作法,當為大家所了解.
希望大家為了自己的幸福和安全,嚴防匪碟,檢舉匪碟!
附帶的要忠告那些執迷不悟的匪碟份子:政府仁愛為懷,自首之門,經常敞開,希望你們懸崖勒馬,回頭是岸.敗子回頭金不換,重作新民保中華!
台灣省保安司令部桃園山地治安指揮所
中華民國四十三年四月 日(ママ)
匪徒林瑞昌と高澤照に対する死刑執行を角板の山地同胞に告ぐ
翻訳:中村 平
同胞のみなさん、本日、皆さんに一つのことを告げなければなりません。それは、自ら国を売り、同胞を傷つけ害する匪徒・林瑞昌と高澤照の二犯人が、すでに死刑執行の裁定を受けたということです。
彼ら二人の罪悪を明るみに出し、皆さんに徹底的に知らしめるために、特に彼ら二人の犯罪の事実を、以下のように分けて述べます。
一、匪党(共産党)に参加し、政府転覆の陰謀を図る:省参議員の林瑞昌と、大渓警察署巡官の高澤照は、あろうことか理性を失い、(民国)三十八(1949)年の夏、匪徒・湯守仁(嘉義県の商人)とともに赤色毛沢東の匪賊一味に加わり、台北市川端町月華園にて二度の会合を持ち、匪党の山地行政や活動などの問題を討論しました。同時に、偽りかつ非合法の「高砂族自治委員会」を組織し、匪徒林が主席を任じ、また政治方面の責任を負い、山地同胞に共産主義を宣伝し、山地において共産主義工作を展開しました。匪徒高は、多方面に渡り匪徒と連絡をとり、共産党軍の台湾攻撃行動に応じる計画を策しました。さらに、偽りかつ非合法の「阿里山武装支部」を成立させ、叛乱工作を積極的に進めました。この事件は、我が治安機関が(民国)三十九(1950)年に検挙し犯人を逮捕し、その場で武器を多数押収し、罪証が極めて確実となり、また彼らは政府転覆の計画を包み隠さず白状しました。実に危険な陰謀であり、この罪は極めて重いものです!
二、私腹を肥やし不正行為に走り、公的貸付金を横領した:匪徒林瑞昌は、同件の匪徒高一生が呉鳳郷郷長の身分であるという点を利用し、匪徒高一生と共に新美農場の建設計画にあたり、土地銀行から新台湾ドル五十万元の割り当てを借り出し、先に利息を差し引いたのち、四十四万一千四百六十一元を受領しました。しかし、匪徒林と、匪徒高一生は、この貸付金を使用するにあたり、第一農場の正規価格十八万八千元のうち、二万七千七百元を差し引き、第二農場に払うべき正規価格十二万四百元のうち、三万四千百元を差し引き、匪徒林は二万元を懐に収め、収賄し法を曲げ、人々の恨み憎むところとなりました。
以上に述べた二つの点は、匪徒林と匪徒高の、比較的大きな罪のみであり、その他のいくつかの不正については、ここではまだすべてを挙げておりません。
同胞のみなさん、彼ら二人の地位を鑑みれば、我々のために仕事をすべきであり、民衆のために幸福を希求しなければならないはずです。それが、理性を失い、精神錯乱となり、匪党に参加し、自ら国を売り、搾取し汚職をし、人民に被害を与えるところとなりました。今日、この二人の匪徒は、天の理、国法、人としての条理、正義の下において、死刑を執行されました。罰を受けることは当然であり、死んでなお罪を償いきることはできません。
ここで、ふたつのことをみなさんに注意しておきます。
一、匪徒林と匪徒高は、既に国法により制裁されました。家族の生活に必要なものをのぞき、彼らの財産はすべて没収されました。しかし、みなさんに分かっていただきたいのは、匪徒林らは罪を犯しましたが、彼らの家族は何の関係もないということです。家族は無実であるばかりでなく、政府の保障を受け、彼らが受けるべき権利を受けるということです。財産の一部は没収されましたが、決して彼ら家族の生活には影響を与えません。
二、政府は常に私たち皆の幸福な生活のために努力しており、国に災いをもたらし民を害する匪徒以外、どんな人も政府の愛護と保障を享受します。本日、我々は社会の安全のために、一人の悪人も見逃さず、しかし一人のよき人を決して冤罪に陥れません。これが政府がこの数年間行ってきた一貫したやり方であり、みなさんに分かっていただきたいことです。
みなさんが、自身の幸福と安全のために、匪党(共産党)スパイの防止にあたり、スパイの検挙にあたりますように!
最後に、頑固で悟ることのない匪党スパイ分子に忠告しなければなりません。政府は仁愛を心に抱いています。自首の門は常に開かれています。あなたたちが崖にあって馬の手綱を引き直し、悔い改めさえすれば救われます。放蕩息子の改心は、黄金をもっても買えません。新しい民を作り直し、中華を守り保護しましょう!
台湾省保安司令部桃園山地治安指揮所
中華民国四十三(1954)年四月 日(ママ)
[史料5]
半世紀も長引いた同学との再会
新竹中学第二十一期生相思樹会誌
第二十五号登載 一九九五年三月
林茂成
私は一九四二年(昭和十七年)四月大湖小学校から、新竹中学に入学致しました。前年一九四一年(昭和十六年)十二月八日に、大東亜戦争(第二次世界大戦)が宣戦布告され、国家総動員時代に入り、一九四五年(昭和二十年)八月十五日終戦を迎へ、最も激動した時代で、竹中四年間の在学中は、戦争中の苦難と共に学びし、忘れられない思い出の時期でした。
去る平成六年(一九九四年)十月十六日に、竹中21期卒相思樹会が、沖縄で開催され、竹中同学とお会い出来るとは、夢にも思っていませんでした。開催に御尽力された中島英男会長、柿原憲二監事及当山暢英君の奔走に依る賜物と存じます。又台湾に於て、許新民会長、范秉肇幹事を始め許澄清君、徐陳年生君等の熱心な同学調査と呼び掛け等のお世話に依るもので、厚く御礼申し上げます。五十年半世紀後の初会合で、少年時代と現在の面影を甦させようと努力致しましたが、お名前と面影が、交互に錯綜し困惑しました。束の間の会合で、今後も交流の機会を設ければ、徐々に甦ると思います。懐しい同学の皆様は、昭和一桁時代に生れ、戦中戦後の二つ世代を生き抜けてきた苦難が顔に滲み出ている様な気がしました。 お互いに御苦労様でした。
私は前述の如く一九四二年(昭和十七年)四月に、新竹中学に入学し、戦争は益々激しさを増し、新竹海軍飛行場で、米軍B29大爆撃の穴埋め作業、米軍上陸阻止の為、山崎の新庄子、苗栗の通宵等海辺に、同学と共に赴き、海岸戦車壕工事に従事し、学徒動員作業に明け暮れた生活で、碌に勉強もせず、一九四四年(昭和十九年)に、海軍飛行予科練習生佐世保通信学校に入学する筈でしたが、米軍の制海権下に渡航できず、サイパン沖海戦の生残り艦兵を上司に、高雄の左營軍港で、海上特攻隊○四艇の体当たり訓練を受け、攻撃に参加する所、米艦隊は沖縄上陸作戦を開始して、幸にも自殺攻撃に参加せず、命拾いしました。一九四五年(昭和廿年)八月十五日無条件降伏勅語の玉音放送により、復員することが出来て新竹中学に戻り、翌一九四六年三月に、僅か数ヶ月で旧制中学四年を卒業。その頃日籍同学の皆様は慌ただしく、着の身着のままで、帰国される苦境に陥ち入りましたが、台湾の民衆は、永き異国統治から解放され、祖国の懐に復帰し、自治出来る喜びに満ちておりました。併し其の喜は、束の間、祖国の接収人員の素質と台湾住民の差は著しく、日本統治時代に見られ無かった収賄公物私有化の行為を見せつけられ、喜びの後の落胆・失望と不満に明け暮れる時がやって来ました。同年(一九四六年)九月に、建国中学高級部(元台北一中)二年に編入し、台湾が祖国に復帰して、僅かに一年四ヶ月翌一九四七年二月二十八日遂に台湾民衆の失望と不満が爆発し、二二八事件の勃発となり、殴打と学生の数珠繋ぎ連行・現場処刑等を目撃させられました。続いて戒厳令が施行され、恐怖政治の時代に突入し、言論・集会の自由が剥奪され、秘密裁判による投獄処刑が横行される中で、一九四七年七月に、建国中学高級部を卒業し、母の病のため進学を放棄し、故郷角板山に帰へり、国民小学校の教師に就職方々母の看護をしました。
その頃父は、祖父が抗清・抗日を領導し、同族の甚大なる生命財産を失ったばかりでなく、三人の弟迄戦没し、本人だけ生存し子孫を残した事態に至り、その結果は、只同族の生活圏を確保しただけで、現代化生活に浴することが出来ない落後民族になった残酷な歴史経験を顧みて、二二八事件に、タイヤル族の参加を阻止し原住民社会の安定と秩序を計り功労を立てました。父は動乱と不安定な政治の下で、台湾原住民の前途を憂え、医療工作を捨て、専ら台湾省参議員として山地行政に参与し、台湾山地郷を駆け巡り、台湾原住民高砂族自治委員会(日本統治時代の高砂協会)を組織し、自治自力更生の道を開き、原住民の経済環境を改善すべく、日本統治時代原住民区で、日産地に編入された土地返還を強く政府に要求し、集体移住墾殖を企画して、原住民の生活改善を計りましたが、事成れるものは、一つもなく、反対に異議份子として、注意人物になり、一九五二年十一月に逮捕され、面会禁止なので事実上永遠の別れになりました。同年十二月、母は過度の憂慮に依り、精神錯乱状態で他界し、父は永遠に、母が先に他界した事を知る事が出来ず、一九五四年四月十七日秘密軍事裁判により、前述の自治組織を、共産党に参加し、政府の転覆を企てたと見做され、死刑全部財産没収の刑を宣告後、当日処刑されました。当時私は、廿四歳・妻は廿三歳已娘二人の親で、弟茂秀廿二歳、学生の身份で投獄服役中、次弟敝夫十九歳、四弟昌運十三歳、妹紫苑八歳、在学中で皆自立生活をする事が出来ない状態でした。妻の協力の下に、養育し学業を終え各自家庭を持たせ自立して居りますが、故郷角板山に帰へる事が出来ず、日本・台北県等各地で生活して居ります。
私は、父の処刑される直前に、角板国民小学校に服務する事が出来ず、平地郷の国民小学校に転勤され、単身赴任しましたが、一学期毎に、他校へ転勤されるので、生活が安定されず、一九五六年に辞職し、故郷に帰へり、翌年角板山近郊の羅浮(ラハオ)の日産地を耕地放領により、地価を十年分期支拂いで、購入定居しました。その后、国賊の遺児として、政府に監視され、公職に就く事も出来ず、親戚友人も関連されるのを恐れ、私の訪問を避けた程です。電話も録音され、訪問客は毎月派出所の担当警察官より報告されるので、友人に迷惑を掛ける事を避け交流を差し控えて来た次第です。それが同学の皆様と逢える機会を長びかせたわけです。併し台湾の戒厳令は、三十七年続き、幸に流血を避け、一九八四年七月に解除され、言論の自由等過去と天地の差ですので、安心して交流出来る様になりました。
父の遺体を受け取る時、後顧の憂いに瞑目せず、瞼を見開いて居りましたので、父の汚名を拭い遺族が永遠に一緒で、父霊を慰めるべく、前年(一九九三年)十月林家祠堂(林家霊園)を建て、父の銅像も建立しました。父の逝去当時葬式も出来ず、墓も作らなかったので、全省九郷タイヤル族の有志者に集って頂き、父の汚名を拭い、安霊の儀式を行いました。やっと私の一生の念願が叶えられました。それが台湾の新聞と日本の朝日新聞に掲載された次第です。
我々同学は、戦中戦後の二世代を苦難と共に生き抜いた難友です。どうかお体を大事に、有意義な餘生を送られる様お祈り致します。
[史料6]
ユカン・ロシン(尤幹・楽信/日野茂紀(しげのり:ルビ)/林茂成)年表
1930.2.10
桃園県復興郷角板山にて生まれる
1931.12.12 ヤゴ・シラン(雅谷・僖朗/林宝金)復興郷義盛村宇内にて生まれる
1936.3.1
台北市東門小学校に入学
1936.9.1
日本東京都小石川区林町小学校に転学
1940.9.1
新竹州大湖小学校に転学
1942.3
同小学校卒業
1942.4.1 新竹州立新竹中学校に入学
1945.10 日本降伏により、高雄州左營の海軍予科練習生〇四艇海上特攻隊から、新竹中学に復学
以上日本占拠時代(日據時代)
1946.3.1 省立新竹中学旧制四年卒業(21期)
1946.9.1 省立台北建国中学高中部二年生に試験編入
1948.7 省立台北建国中学高中部卒業
1948.6.24 三弟玉堂(正義)逝去。享年10歳
1949.2.19 復興郷義盛村宇内の林明生の長女ヤゴ・シラン(林宝金)と結婚
1949.4.1 角板国民小学校教員に任じられる
1950.1.3 長女一菊生まれる(出生地:角板山の木造の家、現高揚威宅)
1951.10.14 次女月美生まれる(下渓口対岸、枕頭山山ろくの土作りの家)
1952.8 父方の従兄昭明と、次弟茂秀、逮捕され入獄
1952.11 家父ロシン・ワタン、台北で逮捕され入獄(台北市青島東路一号台湾省保安司令部軍法処)面会禁止のため、永遠の別れとなる
1952.12.22 家母玉華(日野サガノ)下渓口対岸の枕頭山山ろくの家で逝去。享年49歳
1953.12.2 父方の従兄昭光、逮捕され入獄
1953.12.27 長男日昇生まれる(出生地:角板山、現林昭光宅わきの竹の家)
1954.3.4 角板山から転勤(大渓鎮内柵国民小学校の教員に任じられる)
1954.4.17 家父ロシン・ワタン、台湾省保安司令部により死刑を宣告される。すべての財産を没収され、当日死刑執行、享年55歳。当時の遺族は九名、本人24歳。妻宝金23歳、長弟茂秀22歳(獄中)、次弟敝夫19歳、四弟昌運13歳、妹紫苑8歳、長女一菊4歳、月美3歳、日昇1歳。
以上は家父存命中の時期
1954.9 八結小学校に転勤、当日また福安小学校に転勤させられる
1955.10 八徳郷茄苳小学校に転勤
1956.3 家計を鑑み、公職にこれ以上就くことができないと判断し、茄苳小学校教員を辞め、実家に戻り、材木伐採の勝和材木店で会計の仕事をする(教職には計7年就いた)
1956.4.25 三女月英が生まれる(出生地:角板山の竹の家、現林昭光宅わき)
1956.12.6 澤仁村8鄰拉号23号の土作りの家に引越し(現李永光宅)(羅浮)
1957.7.5 復興郷共同販売会(供銷会)の会計になる
1958.8.12 次男日龍生まれる(出生地:澤仁村8鄰拉号23号現李永光宅)
1960.4.8 三男日新生まれる(出生地:澤仁村8鄰拉号23号現李永光宅)
1962.8.25-6 長弟茂秀と田桃代、次弟敝夫と林初江が結婚。婚礼の司会をする
1965.2.12 復興郷共同販売会(供銷会)が解散し、復興郷農会が成立。会計係長になる
1965.6.24 妹紫苑が嫁に出、趙炳燦と結婚
1966.4.17 羅浮村4鄰92号レンガ作り瓦屋根の平屋に引越し
1968.11 復興郷農会専門委員と会計係長を兼任
1972.4.2 四弟昌運と陳茂妹が結婚、婚礼の司会をする
1974.2.1 復興郷農会の職を辞し、材木伐採業景進株式有限会社の会計になる。註)1974年2月から1985年まで、計11年の仕事は以下の場所で行った:台北県烏来郷孝義村阿玉、苗栗県南庄郷紅毛館、嘉義県阿里山奮起湖、苗栗県泰安郷二本松、南投県国姓郷北港渓等
1974.9.28 次女月美が嫁に出、林勝利と結婚
1975.2.23 次弟敝夫が交通事故で逝去。享年40歳。葬式の司会をする
1975.12.13 長女一菊が嫁に出、游金紱と結婚
1976.5.10 長男日昇が林清美と結婚
1979.4.18 三女月英が嫁に出、陳銘裕と結婚
1982.4.17 羅浮村4鄰93号の鉄筋入りレンガ作りの家に引越し
1985.3 復興郷農会第五回理事に選出される。永順隆材木店の会計を兼任
1987.5.11
三男日新が徐秀花と結婚
1988.3.29 次男日龍が陳静芬と結婚
1989.3 第六回復興郷農会常務監事に選出される
1993.3 第七回復興郷農会理事長に選出される
1993.8.19 家父母と敝夫を安置し、林家祠堂の落成式典を挙行する
1993.10.3 家父ロシン・ワタン(林瑞昌)の銅像落成除幕式典を挙行する。参加者は本郷、仁愛郷、和平郷、泰安郷、五峰郷、尖石郷、大同郷、烏来郷、南澳郷等九郷のタイヤル民族代表。
1995.7 財団法人台米基金会が「タイヤルの先覚者、その悲運の宿命、ロシン・ワタン」をテーマに、島国写真集第二集と共に台北国父記念館において展示
1996.6 桃園県立文化センターが、角板山の介寿小学校において、「山の美展覧会」を挙行し、「タイヤルの先覚者:ロシン・ワタンの家族のアルバム」展を開く
1997.3 復興郷農会理事長を退職
編訳者によるあとがき
以上の貴重な史料が、タイヤル民族ならびに先住民族の現代史探究に寄与することを願ってやみません。細部に関しては、複数の史料と証言から、より立体的な歴史像が描けるようになるはずです。同時に、ご尊父の、ふたつの植民政権のもとでの生活の改善、そして暴力について、林茂成氏が日本語と中国語をもって、その歴史を書かないわけにはいかなかったこと、そのこと自体が、読む行為につきつけを行っているような気がします。また、ご母堂日野サガノ氏については、訳者を含め、その生涯を想像することが非常に難しいです。
本史料紹介にあたっては、林茂成氏をはじめとして、父中村勝と洪金珠氏、大川正彦氏(東京私学教育研究所)、劉瑞超氏の援助と協力をいただきました。また同時に、文部科学省科学研究費補助金(特別研究員奨励費)を受け、中華民国中央研究院民族学研究所訪問研究員としての環境提供を受けました。各位、各機関に対し、記して感謝します。
参考文献(ロシン・ワタンと桃園県復興郷に関するもの)
紀念台灣省第一屆原住民省議員林公瑞昌(樂信‧瓦旦)銅像落成掲幕典禮委員會編(台湾省第一回原住民省議員林公瑞昌(ロシン・ワタン)銅像落成開幕式典委員会編)1993『追思泰雅族英靈前省議員樂信‧瓦旦(林瑞昌)』(タイヤル族の英霊前省議員ロシン・ワタンを偲ぶ)同委員會
呉叡人2005「臺灣原住民自治主義的意識形態根源:樂信・瓦旦[日野三郎、林瑞昌](1899-1954)與吾雍・雅達烏猶■[上下]那[矢田一生、高一生](1908-1954)政治思想初探」(台湾先住民の自治主義イデオロギーの根源)『國家與原住民:亜太地區族群歴史研究國際學術研討會』(国家と先住民:アジア太平洋地域のエスニックグループ歴史研究国際学術シンポジウム)11月24-25日於台北、中央研究院台灣史研究所、22頁
呉密察2000「附件:林昭光家族相関史料」(添付資料:林昭光家族に関する史料)第四回日台青年台湾史研究者交流会議、8月3-4日於桃園県復興郷復興青年活動中心、15頁
黄志堅1996「探討羅信‧瓦旦在二二八事件中奮鬥的史實及其對「山地行政檢討」中重建頽廢民族的神學意義」(ロシン・ワタンの二二八事件における奮闘の史実と、「山地行政の検討」における頽廃した民族の再建に対する神学的意義の検討)玉山神學院道學修士論文、花蓮:玉山神學院
范燕秋1993[1992]「淪亡於二二八的原住民英霊」(二二八で亡きものにされた先住民の英霊)、紀念台灣省第一屆原住民省議員林公瑞昌(樂信‧瓦旦)銅像落成掲幕典禮委員會編、3-24頁(初出は自由時報1992.2.26-28)
―――1995「[泰雅先知・宿命悲運] 樂信‧瓦旦 (1899-1954)」([タイヤル先覚者・悲運の宿命] ロシン・ワタン)、台美文化交流基金会(策画)『島国顕影』台北:創意力文化事業、178-211頁
―――2001「樂信‧瓦旦」(ロシン・ワタン)、荘永明(総策画)『台湾放軽鬆5 台湾原住民』台北:遠流、128-35頁
傳h貽2005「北泰雅族大豹群(ncaq)史:消失的大豹群、復原的抵抗精神」(北タイヤル民族大豹群史:消失した大豹群、復原する抵抗の精神)『國家與原住民:亜太地區族群歴史研究國際學術研討會』(国家と先住民:アジア太平洋地域のエスニックグループ歴史研究国際学術シンポジウム)11月24-25日於台北、中央研究院台灣史研究所、34頁
藍博洲1993『白色恐怖』(白色テロ)台北:揚智
───2000「五○年代白色恐怖下的原住民族戰歌」(五十年代白色テロ下、先住民族の戦いの歌)『原住民族』(原住民族部落工作隊)3: 28-34
───2002「從馬武督到北京:泰雅族人田富達的道路」(マブトクから北京へ:タイヤル人田富達の道)『原住民族』16: 26-34、http://abo.theleft.org.tw/からDL可
李敖(審定)1991『安全局機密文件:暦年辦理匪案彙編』(上‧下)(安全局機密文書:暦年スパイ案件処理集)台北:李敖出版社
麗依京・尤瑪編1999『回帰歴史真相――台湾原住民族 百年口述歴史』(歴史の真相への回帰――台湾先住民族百年のオーラルヒストリー)台北:原住民族資料研究社
ワタン・タンガ(林昭明)2004「台湾少数民族の民族解放運動」徐勝編『東アジアの冷戦と国家テロリズム:米日中心の地域秩序の廃絶をめざして』東京:御茶の水書房、94-105頁
ワタン・タング(林昭明)・菊池一隆訳注1999「1950年代台湾白色テロ受難の記憶」『近代中国研究彙報』(東洋文庫近代中国研究委員会)21: 49-83
ワリス・ノカン2003『台湾原住民文学選3 永遠の山地』東京:草風館