タイヤル民族自治の希求
整理:中村 平
2006年11月9日
民族自治希求の主張において、植民された過去が民族的なものとして登場している。2005年にタイヤル民族議会が発行した、大会パンフレットにおいて表明されるタイヤルの歴史は、民族自治を希求する中で書かれている。タイヤル民族議会は、長老教会のメンバーが中心となり2000年に成立した。民族議会の推進者にとっては、誰がそしてどんな組織がタイヤル民族を代表し得るのかという困難な課題を抱える中、以下に見るように推進者は長老教会を中心としたつながりから各部落の代表を得て議会成立にこぎつけた。
タイヤル(泰雅爾)民族議會『Biru Bkgan na Tegpusal Mintxal
Melahuy Qu Ginlhoyal Pspung Zyuwaw Tayal 泰雅爾民族議會第二屆第一次大會手冊』を見よう。これは2005年6月11日に、Sinkina Tayal Kyokay(台灣基督長老教會五尖教會)で開かれた、第二期タイヤル民族議会第一回大会のパンフレットである。
タイヤルの古国を復活させようという「タイヤル古国復活論」が、展開されている。
「人類学者王嵩山先生によれば、前史時代の文化の主人は台湾北部のタイヤル民族とサイシヤット民族であり、台湾に到来した時期は最も早く、今から約五千から六千年前である」。
「太古よりわれわれは、南投の埔里以北の平地に、さらに海岸地帯まで住んでいた。尚書の禹貢揚州項によれば、『島夷卉服 厥篚織貝 錫貢』の記載があり、今から四千年以上も前に、既に夏禹と貿易関係を持っていた。当時、珠衣(ビーズのついた服)を貨幣として、あるいは着ていた人々はタイヤル民族しかいなかった。(中略)タイヤル社会は完全な社会制度を持っており、近隣の異族との間に国境を引き、お互いを侵犯することなく、もし争いがあれば、国を挙げて国を守っていた。後に侵略してきたエスニック・グループ(族群)は、タオカス、ケタガラン、パポラ、パゼッへなどであり、猟場と獲物が多くの人々により荒らされたため、タイヤルの人々も獲物を追って獲物と共に、人里を離れた山岳地帯に入り生計を立てた。当時のタイヤル民族にあって、人々により祖国中興の祖と呼ばれた者には、モウダ、モヤボ、モアエンなどの偉人がおり、お互いに分かれて山を越え、探検し土地を求め、境界を定めた。そして人を派遣し、祖先が決めた猟場や耕地に従って、子女をお互いに結婚させ、子孫が繁栄することを望み、タイヤル民族の命脈が絶えることなく代々太陽と清らかな水を仰ぎつつ生きてゆくことを、ねんごろに言い聞かせた。これがタイヤル国の立国の由来である。」
続いて、「独立主権の国“タイヤル国”」が主張される。
「1624年台湾島は、外来政権の植民統治を受け始めた。まず、aオランダ(1624−1662)、bスペイン(1626−1641)、c明の鄭氏(1662−1684)、d清朝(1684−1895)、e日本統治(1895−1945)であり、これらの植民者は、時を経過すること前後して321年である。そのうち、前者三代はタイヤル国を侵犯することはなく、お互いの間には正常な関係を保持していた。後の二代の植民者、清朝と日本の侵犯は、以下の通りである。」
「光緒10年、清の劉銘傳は番族を掃討し、開拓民を募り荒野の開拓をすることを上奏し、タイヤル民族の領地内において、軍隊を発動し以下のような掃討を行った:1884年北勢番の役、1886年南勢番の役、1886年五指山の役、1887年大豹社の役、1888年大南澳の役、1892年馬速社の役、1893年大嵙崁前山の行軍。清は軍事力を発動したものの、その目的を達することはなかった。」
「日本人が台湾を統治していた時のタイヤル国との関係」は、「日本人の領台時には、タイヤル国を番人と番地(ママ)により規定した。その五十年間の統治において、国法を使用することはなく、先住民の行政に対して、植民自治(ママ)の方式により治めた。日本人は、タイヤル人が番地を彼ら自分たちの国土であると考えていると承認していた。」
続いてパンフレットには、「太平洋戦争の終結とタイヤル国土の影響」「中華民国の先住民に対する植民政策」とあり、最後に「タイヤル国の復国運動」と記されている。以上の三項についての内容は記載されていないが、民族自治の主張は明確である。
「タイヤル族民族議会紹介」(Pin-gleng Tqbaq Ginlhoyan Pspung Zyuwaw Tayal)の項にはこうある。「国家の存在に先立つ自然主権により、自主的な政治実体を建設する。あなたがどこへ向かおうと、みな我がタイヤルの子どもである(Laqi mu Tayal, ana su musa inu…)。」
「百年来、民族の領土と資源は国家暴力と異族の不断の侵略に遭い、生存空間は日に縮小し、自然と山林、大地に根ざした社会文化は極めて大きな破壊を受けた。今日に至るまで、各種の国家機構は依然として民族の伝統的領域を支配し、利益を取り去り、土地と生態に傷を残し続けている。」
「先住民族の土地についての政府の定義(保留地の確定と設置)、分配、支配、管理は、先住民と十分な協議を経ない状況にあって、公権力の強制執行をもって、直截に民族の生存権と土地自主権を傷つけ、タイヤル民族議会の発足を促した。1997年初め立法院で『先住民土地利用と生存権』の公聴会が開かれた際に、民族議会の推進を正式に展開し、同時に『タイヤル(泰雅爾)民族議会促進会』が成立した。」
「民族、人民、集落(部落)、領域の認証について、タイヤル民族の自己の定義策定の権利を主張する。国家については、現行の『中華民国憲法』は既に、先住民族がその民族の意思により、民族の地位を決定する権力を承認し保障している。この条文は、先住民族の自決権を実際に了承しているものに他ならない。民族議会はタイヤル各集落の結合体であり、準備会は各集落に説明に赴き、代表を推薦選抜し、正式に成立の第三段階に入った。」
「2000年12月10日、タイヤル民族各集落の六百名以上の代表は、北横道路の国家行政上は桃園県復興郷羅浮村のGogan群Knyopan集落において、タイヤル祖先の訓示(Gaga)の歌に耳を傾け、民族の領土と、集落、山河が長らく継承されていくことを宣言布告した。同時に、第一回の民族議会正副議長、常務委員の選挙を行い、『民族固有の権利と自治を実現にむけて努力し、我が人々を代表する政治実体を成立させ、我が民族の土地領域において、我が民族の自然主権を行使することを獲得するために努力する』、『タイヤル族民族議会』を正式に組織した。」
民族議会は既に、憲法草案を作成している。「タイヤル民族議会憲法草案」(Pinkusa Miru Puqing Gaga Ginlhoyan Pspung Zyuwaw Tayal)は以下の通り。
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第一章 総則
第一条 本民族議会は、名称をGinlhoyan Pspung Zyuwaw Tayalとし、英名をAssembly of Tayal Nation(タイヤル民族議会)とし、以下では本会と省略する。本会は、我が民族の固有の権利と自治の実現と実行に向けて努力し、合法的に我が民族人民を代表する政治実体を成立させ、我が民族の土地領域において、自然主権を行使することに向けて努力する。
第二章 議員代表
第三章 組織
第四章 憲章
第五章 附則(第一条以降内容は略:中村)
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パンフレットの最後は、最も大きな課題である、土地に関する主張である。”Tngsa Ke rhyal na minzok Tayal---- Ke na Tayal”とタイヤル語で書かれた「タイヤル民族土地宣言」が表明されている。北京語の翻訳が後ろにある。以下は私が北京語版から訳したものである。
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一、 タイヤル民族はその領土において自治の実体を持ち、外来政権を未だかつて承認したことはないという事実
近400年に満たない間、オランダ、明の鄭成功、清朝などの国が次々に台湾を攻略し、時に兵を挙げタイヤル民族の領土を侵略しようとしたが、すべて我がタイヤル民族の抵抗に遭遇し、その目的を達することはなかった。
二、 清、日本両国は馬関(下関)条約において台湾を割譲した際に、我がタイヤル民族をその化外の民とみなし、その人民とみなさず、また「蕃地」を承認していたという事実
1985年、日清戦争は講和条約を結び、その中でタイヤル民族を「化外の民」つまり「その人民に非ず」とし、タイヤル民族の領土は民族の所有と認めた。日本は台湾を領土とした後、我々の領土を侵略し占領しようと、理論を立てて我がタイヤル民族の人権を抹殺しようとした。理論に基づき領土掠奪の目的を達しようと、著名な「蕃人征服」の戦役を引き起こした(蕃とは先住民族を指す)。日本人は次に我がタイヤル民族の領土を「蕃地」と定め、その領域は当時台北州に属した「文山郡」蕃地、「羅東郡」蕃地…(中略)…などの土地(すべてタイヤル民族の伝統領域)に及んだ。これらは我々タイヤル民族の領土とされ、その面積はおよそ60万ヘクタールあまりになる。日本は台湾を50年間統治し、我がタイヤル民族の領土認定は、日本人が第二次世界大戦で敗れ、台湾を離れるまでずっと変わらなかった。
三、 日本政府に侵奪されていた固有の領土は「サンフランシスコ平和条約」成立後、即刻元の主人(タイヤル民族)に返還されるべきことの正当性と主張
1951年9月8日、国連は日本に対して平和条約の儀式をサンフランシスコで挙行し、日本は第条において台湾と澎湖諸島、南沙群島、西沙群島のすべての権利と権限、請求権を放棄することを承認した。ここにおいて、日本の台湾占領による権利侵犯行為は終了した。名目を立てて侵略掠奪されてきた土地を元の主に返還するべきであることは、上述した我がタイヤル民族の領土もその例外ではない。
四、 政府がタイヤルの領土を侵奪し、植民と侵略を行っている事実
1949年中華民国政府(以下政府と略す)は台湾に撤退し、戦後の不安定な時局にあって政府は我々タイヤル民族の土地の帰属についての証明を行うことなく『台湾省山地保留地管理辦法』を勝手に制定し、我が先住民族の土地使用を制限した。それに先駆ける1948年政府は戒厳令を発布し人民の自由を制限し、先住民族に対しては勝手な理由を捏造し白色テロの圧制を加え、我がタイヤル民族が主権を行使することを出来なくした。
『台湾省山地保留地管理辦法』(どの修正版も同様である)を見れば、この辦法が日本占拠時期に村落移住計画の実施のために整備された高砂族所要地24万ヘクタールあまりのみをその範囲(これは前台湾先住民族をその対象とする)としていることが分かる。その他の130万ヘクタールあまりの広大な領地は、日本政府が我がタイヤル民族の土地を盗んだ騙しのテクニックを再度模倣して国有にされてしまったのである。
近年、個人または財団を含む不肖漢人が現地の不肖の輩と結託し、また我が民族の人々の無知に付け込み、人々から安価に土地を売るようにしむけ、また『台湾省山地保留地管理辦法』の隙を突いて広範囲の保留地を購入し、無知なる先住民を買収して名義人とさせぼろを隠している。当局は事情を知っていながらこれまで調査と取り締まりを積極的に行わず、逆に「精査」の名目を立ててこれらの秘密裏の土地売買事件を既成事実として処理し、『修正辦法』に則り不法な事実を合法なものと追認している。
五、 宣言発布の目的と希望
我々はタイヤル民族の土地主権と生存権を維持保護するために、また上述の理由に基づきここに「タイヤル民族土地宣言」を提出する。第二項に言うところの土地の範囲をタイヤルの全民族の土地領域とみなす。この土地にかかわる権利と利益はタイヤル民族の共有に永遠に帰属し、管理権はタイヤル民族の独立の自治政府などに帰し、政府に人類社会の正義を認めさせる。よって公明正大な新しい台湾の民主的政体を構築し、国際社会に分け入る際には我々タイヤル民族に対する侵略ならびに民族を滅亡に追いやる植民意識を排除し、これに替わって人権と人類社会の正義を尊重し、我々の主権を承認させ、我々の伝統的領土にかかわる一切の法律と約款を取り消し、我々の主権を尊重させる。
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上に明らかなように、タイヤル民族議会の主張は中華民国内部での自治政府を承認させ、伝統的な土地を民族自治政府の手に取り戻すことにある。抑圧され、人権を蹂躙されてきたタイヤルは、その歴史認識を今伴いながら立ち上がろうとしている。民族の歴史はここに立ち上がっているのだ。
以上のパンフレットが配布された2005年6月11日に、第二期タイヤル民族議会第一回大会が開催された。ここで民族議会議長にマサ・トフイ・ムルフー(頭目あるいは議長、首長)が選出された。選出のされ方は、あえて投票を排除し、お互いに推薦するという形をとった。これは、現在行われている金まみれの選挙政治に対するアンチ・テーゼであると同時に、タイヤルの伝統的なリーダー選出方法であると司会から説明があった。