日本人が植民地統治の影響を語るということ
台湾原住民タイヤル族の場合
中村 平
第二次世界大戦終了55年を経過した現在も、台湾を訪れる多くの日本人が、台湾で日本語が非常に普及していることに気づくだろう。それは特に、だいたい65歳以上の台湾生まれの人に多い。さらに、原住民族と名のっている人たちが多く住む、山地や東部平野を訪れると、もう少し下の世代も片言ながら日本語を操つれることに驚かされる。もちろんそれは、大日本帝国の1895年から1945年までの50年にわたる植民地統治の名残である。
また、多くの人が、台湾に住む人の親日感情を指摘している。私自身の経験でも、あるタイヤル族のおばあさんは日本人が来たというと非常に懐かしがってくれ、当時の話をいろいろ聞かせてくれた上、昔習った日本語の歌を聴かせてくれた。教育勅語をすらすらとそらんじてくれたタイヤルのおじいさんもいた。「テイコクシュギ」も悪くはない、と解説してくれたブヌンのおじいさんがいた。こうした語りは日本の植民地統治と深い関係を持っていると考えられ、筆者は日本人として、彼ら台湾人、特に原住民タイヤル族の人たちの歴史評価をどのように考えたらよいのか、今後追究していくつもりである。筆者が調査を行っているエヘン部落のタイヤル族[1]は日本人と出会うと、しばしば過去の歴史をその正負の側面に拘わらず訴えかける。本研究はこのような語りが、日本人である私に向けられていることに積極的に注意したい。[2]原住民族の被植民の歴史は、日本人にとっても重要な植民の歴史である。その被植民・植民の二つの歴史はまったく相容れない、対話不可能なものなのだろうか。そうではあるまい。
タイヤル族と日本人というカテゴリーは本質的に固定した永久不変の存在ではなく、植民地下、そして植民地主義のもとで形成されてきたカテゴリーではないだろうか。一見相容れないように見える被植民者と植民者の歴史を解きほぐすことが求められている。
過去の台湾研究は、主として歴史学が、日本植民地統治の現地への影響を考察してきた。[3]しかし、語られた歴史を検討する視角は歴史学においてこれまで乏しかったと言えよう。[4]また、被支配民族の主体性をいかに語るかという問題は、依然解決されない継続中の問題と言える[北村 1998を参照]。台湾原住民族についての過去の伝統的な人類学の論議も、いわゆる伝統社会[5]の文化的特質に関心を向ける傾向が強く、国家権力の介入に人々がどう対応したかという視角、歴史や文化を語る民族主体という視角は少なかった。[6]本研究は、日本の植民地政策が原住民タイヤル族に対して果たした役割、そして現在の彼等が日本統治期の歴史を如何に解釈するのかという点に焦点を絞る。本論ではまず、植民地統治の現地への影響についての研究史を整理する。次に、近年人類学において論議されている文化表象の問題から研究の視角を導入し、タイヤル族と日本植民地経験の歴史を日本人の側から語るための、理論的な枠組みを提出したいと考えている。
二、研究対象
本研究は台湾原住民族の一民族、タイヤル族の爺■部落(以下エヘン部落)を対象として上記のテーマを検討する。現在エヘン部落は桃園県復興郷三光村にある4つの部落のうちの一つである。日本統治時代「蕃社」と呼ばれた集落は、現在「部落」と呼ばれている。現三光村は日本統治時代、新竹州大渓郡の「ガオガン蕃」(今日の高義村、三光村、華陵村に当たる)に属していた。日本時代タイヤル族は、政府によって雇われた調査官により各種の調査を経て、21の「蕃」=「種族」に分類されていた。その分類の根拠は自称と他称である[臨時台湾旧慣調査会
1915: 9]。
三光村民のお年よりの多くは、日本統治時代「ガオガン教育所」(設置年代は1917-45年、現桃園県復興郷三光村三光国民小学)に通った経験をもち、筆者は主として、当教育所に通ったことのある三光村民と、平地に引っ越していったエヘン部落の人々に、1999年から断続的にお話しを伺っている。復興郷の三民村、桃園県平鎮市のタイヤル人もその対象となる。これらはエヘン部落から、車で一時間半以上の平地に近い地である。
1910年の台湾総督府による「ガオガン蕃討伐・帰順」以降、日本植民地下台湾新竹州大渓郡の、標高約700mの山間部に存在する「ガオガン」(現三光)は、警部、部長の常駐する要地であった。エヘン部落はそのガオガンから距離にして1.5kmの地にあった。「ガオガン蕃」の二部落、エヘンとテイリック部落は1920年代から水田開発が成功した地として有名であり[岩城 1938]、テイリック部落は1938年に総督府警務局の選抜した7つの「全島優良蕃社」のうちの一つに選ばれてもいる[著者不明 1938: 4-5]。現在両部落では水田耕作は行われなくなったが、エヘン部落では今もなお、美しい棚田の跡を残しており、観光案内などでよく紹介されている。三光村は桃園と宜蘭県境近くの深山地帯に位置し、統治側から見れば、当地は初期「討伐」の後、特に大きな抵抗事件のなかった「模範」地区と言えそうだ。当時多くの深山の「蕃社」は山脚地帯に移住させられたが、エヘン部落は大きな移住は経過していないようである。
現地は桃園の山岳地帯(海抜500メートル以上)のいわゆる「後山」に位置し、「平地」から遠い深山である。現在も学童にとって交通は極めて不便であり、中学校はバスで一時間半かかってようやく着く地にあり、バス停から離れた部落に住む学童は通常学校に寄宿している。小学校は前述のとおりガオガン(三光)にあり、エヘン部落からは徒歩30分弱の距離である。現在彼等は、桃や五月桃、グァバ、しいたけ、野菜などを植えて生計を立てている。平地に日雇の仕事に出る男性、都市の工場で働く女性も多い。「ガオガン蕃」は昔魚とりで有名であったが、乱獲のため今日では魚がだいぶ少なくなり、また政府も魚の捕獲を禁止しているため、漁業を固定収入の手段とすることは出来ない。
まとめれば現在のエヘン部落は人を特に注目させるものを持っておらず、逆にそれが当部落の特徴かつ苦境である。ただし日本時代には隣のガオガン(現ブトノカン部落)は、多くの日本人と隘勇(漢人の労働者)、脳丁(樟脳業従事者)でにぎわっていたという。ガオガン警察官吏駐在所も新竹州の駐在所中相当な規模を誇っていた。太平洋戦争期に廃止されたが、エヘンにも「分駐所」が設けられていた。以下に見るように、日本の植民地統治にあっては警察による支配が大きな位置を占める。当地は平地と離れた山地にあり、また特に大きな移住を経ず(小規模のものはあった)、統治政策が「着実」に進行した地であるように思われる。エヘン部落のタイヤル人はこの様な日本人との密接な関係の中、どのような影響を受け、また彼等は現在どのように当時の歴史を日本人である私に語るのだろうか。そしてその経験は私の日本人性にいかなる変化を引き起こすのだろうか。なお、本論文では調査地に関するデータは以上にとどめ、以下、植民地統治のタイヤル族への影響を語るための理論的枠組みの提示を行う。
三、日本の植民地政策と台湾原住民族――「民族性」の変化か、持続か?
国民国家(nation-state)の政治理念は、日本植民地統治期における台湾でも席巻した。台湾原住民族はこの百年の間ずっと国民国家の文化統合政策の下にあった。国民国家の形成過程においては、「政府(統治エスニックグループ)が政治、経済、生活方式、文化的価値等各側面において強制的に被支配エスニックグループ(特に少数、部族、先住民族)を圧迫するという事実」[謝 1996: 85]が存在する。日本が台湾で行った統治もこの世界的な脈絡の下に理解することが出来よう。
しかし我々がもし国民形成をただ統治側のみが行ったと考えるならば、それは一般人民の主体性を軽視する結論を招きかねない。国民統合政策もしくは植民地下で創出されていった「部族」(tribe)は、統治者によって一方的に分類されたとはいえ、人民もまたその分類を必要に応じて自分のものとしていった可能性がある。日本統治下におけるタイヤル族もその一例ではないだろうか。
「上から下へ」の国民形成も、強行的政策の下では例えば「民族粛清」(ethnic cleansing)となってその性格を現わし、「柔軟」な政策の下では文化的同化もしくは文化統合政策となろう[謝 1996: 85;Maybury-Lewis 1997を参照]。大日本帝国が台湾で行った文化統合政策は、B.アンダーソンの言う「公定ナショナリズム」(official nationalism)の具現化と考えることが出来る[アンダーソン 1997(1991): 第6章;陳翠蓮 1999: 5-6]。その文化統合政策は、日本語教育の重視に代表されるように、一見「柔軟」な政策に見える。ただ、日本の植民地政策が「柔軟」な政策だったと断定することは出来ないだろう。例えば第二次霧社事件では「鎮圧」後のタイヤル族生存者約200名が、当局にそそのかされた別「蕃社」人によって殺された。このような「夷を以て夷を制する」(以夷制夷)政策に見られるように、日本の国民統合政策を簡単に柔軟であるなどと分類することは出来ない。以上のように、日本の植民地政策そして政策下の人民の反応は、欧米の状況と比較しても検討されるべき独特の性質を有している。
日本が台湾で行った植民地政策または植民地主義の特色は一体何だろうか。駒込武は日本の植民地政策が台湾で形成したシステムは、参政権を例とする「政治統合」の側面では台湾人を排除し、日本語教育を代表とする「文化統合」の側面では台湾人の包摂を唱っていた、と述べている[1996: 72-4]。欧米と比較して、日本の植民地政策の中で積極的に進められたものは日本語を中心とする文化統合政策であると、さしあたっては総括することが出来る。
台湾総督府の統治機構は、漢族と「蕃地」に居住する「蕃族」に対してでは異なっていた。総督府は原住民族に対する統治を「理蕃」と称した。「理蕃」行政はいくらかの変遷を経て、統治後期において、総督府警務局「理蕃課」は最下部組織である現地警察官吏駐在所を含め、治安、教育、産業、交通から衛生までの原住民族に対する政策を一手に引き受けていた[近藤 1996: 309-10]。
それでは日本の文化統合政策は、どのように原住民族の社会に展開していったのだろうか。原住民族への文化統合政策は当時一般に「教化」と呼ばれていた。統治50年の「教化」に関する歴史をここで細かく論ずることはできないが、ここでは、本研究が調査において出会う可能性のある人たちに影響を与えたであろう統治後期の政策を取り上げる。我々は近藤正己[1996]の「理蕃政策大綱」(1931年公布)の分析から、原住民族に対する日本の「教化」政策の性質を見よう。
1930年に、台中州の「霧社蕃」中のタイヤル族が日本人130余名を殺害する霧社事件が起こる。総督府警務局は「理蕃」政策に検討を加え、翌年、現地警察官の「精神武装」の為、もしくは警察官に「天職意識」を植え付ける為に「理蕃政策大綱」(以下「大綱」)を公布する[近藤 1996: 262-70]。近藤の見解では、「大綱」は過去の「理蕃」路線の焼き直しに過ぎない[同上:268]。我々は「大綱」の内容を総督府の「理蕃」理念の一つの代表と見なすことが出来よう。その第一項は「理蕃は蕃人を教化しその生活の安定を図り一視同仁の聖徳に浴せしむるを以て目的とす」である。
端的に言えば「理蕃」の目的は「教化」であり、その目的は日本人の形成にあった。すなわち「蕃人」の日本人もしくは皇民への「同化」である。その日本人の中身とは何だったのか。それは駒込武が指摘するように、植民地「教化」の目的は「近代的な規律・訓練を身につけた、『順良なる臣民』」[1996: 371]を創り出すことにあった。
近藤[1996: 284-305]は「教化」を二つの側面に分けている。一つは「授産」によるものであり、二つは精神上のものである。「授産」による「教化」のうち、原住民族に最も大きな影響を及ぼしたものが水田耕作である。総督府は水田耕作を普及させるために多くの者を山脚地帯に移住させ、いわゆる「集団移住」を行った[陳 1998を参照]。総督府は1931年から各州庁に農業講習所を設置し、「蕃童」教育所を卒業した「優良」壮丁に対して農業指導を実施した。これも「授産」の重要な一側面である。そのほか教育所卒業生を青年団に参加させ「国民精神の涵養」を図り、頭目レベルの人材を対象に「内地」(日本)や台北観光を行い日本の「近代化」を見せつけ、家長会や自助会等を組織して各種「陋習」の「改善」を図った[伊凡 1998を参照]。近藤の言う第二点、精神上の「教化」は日本的「精神文化」の形成を目的とする[近藤 1996: 292]。政策としては以下の如く具体化される。一、「蕃童」教育所での学校教育[7]。二、青年団と成人に対して夜間に行われた国語(日本語)講習会等の「社会教育」。三、当時日本の国家宗教であった神社神道による原住民族の伝統的信仰・祭祀への干渉[8]。四、日本統治末期戦争動員中の軍隊教育、陸海軍「特別志願兵」訓練所教育、及び後文にて触れる「高砂義勇隊」の従軍経験[9]である。伊凡[1998]は、青年団、国語講習会、自助会のそれぞれが、国民精神の涵養、国語の普及、生活改善と公民化訓練という機能を持たされていたとしている。植民地下のこうした政策は、究極には「順良なる」日本国民・臣民の育成を目指していた。
では、台湾総督府による、こうした原住民族同化政策の実際の成果は、如何なるものであったのだろうか。植民地政策と原住民族の対応について分析した、歴史学者と人類学者のこれまでの討論をここで振り返っておこう。以下に詳しく見るが、統治の影響の見積もりと強調点の置き方は研究者により大きな差がある。近藤正己[1996]は、同化政策が「民族の固有性」[同上:270]を、また「伝統的社会経済構造」[同上:310]を根底から破壊し尽くしたと述べている。原住民族はこうした状況の下で、「日本人として」生きのびざるを得なかった。しかも総督府は、原住民族が「自らの意思」で、自己の「民族性」を消滅させ、「自主的に」支配者の価値観を学習した、と強調している。総督府は原住民族の「自主性」を促して、原住民族自身による「積極的な」同化政策を展開させ、その結果部族秩序に分裂が広がった[同上:310]。
近藤による上の叙述は、原住民族があたかも順調に日本に同化されてしまったように読者の理解を導きかねない。実際の状況はこのように単純なものだったのだろうか。少なくとも我々は、人類学者の討論から、「民族の固有性」という側面に関して以下のような反論が存在することを知っている。黄応貴[1992]によれば、ブヌン族、ツオウ族、パイワン族において日本の植民地政策の影響を大きく受ける以前の社会構造の原則は、戦後村落社会の新しい社会経済階層の形成において、やはり大きな影響を有していた[同上:148-50]。例えば東埔(トンボ)社(南投県)のブヌン族は、日本人が頭目制度を強制的に導入する1931年以前、「祈祷師」(公巫)と「軍事的リーダー」という二つのリーダー階層を有していた。このリーダー階層は戦後の「富裕農」「自作農」「半自作農」という新しい経済階層の内、富裕農と自作農になる率が高かった。すなわち社会構造のある部分には日本時代以前からの連続性が見られる。また、黄の調査当時、富裕農が貸金なしで休耕中の土地を半自作農に貸し出すという現象が見られた。黄によれば、東埔社の伝統的土地利用は土地所有権が集団に属するという性格をもっているが、この例は、近代的な私的土地所有制概念が導入された後でも、伝統的な慣行を残している状況を示している[同上:129-50]。つまり、社会構造原則の一部は、日本時代以前からの連続性を持つ。黄のこの議論によれば、日本の干渉以前から存在する民族の固有性は、日本の統治の影響をあまり受けずに戦後も引き継がれたことになる。
それでは近藤[1996]は、原住民族が「自主的」に「民族性」を消滅させたという点に関して、どのような例を挙げているのだろうか。それは主に、青年団が自主的に伝統的習慣を廃棄するという内容である。例えば、台南州嘉義郡タッパン社の青年団は、元々死者を屋内に埋葬する習慣を、共同墓地制に改編した。台東州大武支庁のパイワン族青年会幹部には「土地は天皇のものであり、税金は頭目らに納める必要はない」という意見が存在した。また、同台東州大南社は、移住と同時に「農租」が全廃され、青年団の「中堅人物」によって開催された「蕃社会」の決定により、「猟租」が廃止されたという[同上:297-8]。以上の3例の実際の状況は、今後緻密なフィールドワークによって細部が確認されるべきであろう。しかしこれらはいずれも、部落の青年が「自主的」に自分たちの伝統から決別した例とみなすことが出来る。
近藤は別にタイヤルの例も挙げている。総督府は「始政40周年記念台湾博覧会」のおりに開かれた「高砂族青年団幹部懇談会」で、タイヤル14名、ブヌン8名ら各「種族」、各州から青年団幹部32名を召集した。総督府警務局が青年団幹部に期待したのは、政策を各部落の中で支える層を育成し、「先覚者」として自覚して行動することだった。医学校を卒業したタイヤルの「先覚者」日野三郎(Losin Watan)は、タイヤルが日本に反抗することに反対し、「温順しくなり、幸福な道に入る」ことを唱えたという[同上:299]。[10]以上のように近藤は、支配者が被支配者の「自主性」を引き出すことに注目している。ただそれはもちろん、統治政策が「蕃地」の隅々にまで貫徹しえたということと同義ではない。[11]
宇野利玄[1981]は、植民地教育が被統治者をどのように変えたか、と問うている。日本の植民地教育は「被統治者の族的主体の破壊」[同上:86]を意図したものであり、政治的意図に基づいた政策的なもので、子どもたちの人間的成長を目的とする「教育的配慮」[同上:101]を意味するものではなかった。例えば、日本人警察とタイヤル女性の間に生まれた下山一と宏兄弟は当局に無視され、井上伊之助医師という「良心的」植民者の力添えなしには、小学校の教育を受けることができなかった[同上:101]。また、霧社のタイヤルは、1906年の形式的「帰順」、1910-11年の「討伐」により、銃を収奪され(生活様式の否定)、髑髏架を破壊(思考様式の否定)された。そして1930年の霧社事件「鎮圧」と第二霧社事件を経て、彼らは「族的主体」を破壊し尽くされたかのようだ[同上:91-2]。では宇野は、タイヤルの「族的主体」が破壊し尽くされたと言い切っているのだろうか。そうではない。彼の筆によると植民者の圧迫は非常に激烈である。しかし、宇野は、こうした圧倒的に不利な状況において、霧社のタイヤルの垣間見せる抵抗を積極的に読みとろうとする。
例えば宇野は、パーラン社(旧台中州能高郡)頭目であり、同時にタイヤル族霧社群[12]の「総頭目」であったコロハに注目する。コロハは、総督府による「討伐」を受け、「これからは教育を受けなければならない」と訓示を受けた際に、「老人は文字を知らさるは残念なり子供らには是否教え貰いたし」と答えたという。もし植民者によって残されたこの記述がコロハの言葉どおりであると仮定すれば、コロハは敗北に耐えながら押しつけられる「教育」を「文字」のみに限定しようと抵抗していると読むことが出来る、と宇野は主張する[同上:97]。
また宇野は、タイヤル族の「エリート」花岡一郎の、小学校の修身の成績「丙」を、「何らかの反抗的態度によるもの」ととらえ、ここから花岡の、「強いられることとなそうとすることとの矛盾に耐えて、馴致されることのない姿」を読み解こうとする[同上:100]。
さらにこれとは別に、総督府側は霧社事件におけるピホ・サッポ、ピホ・ワリスを「不良蕃丁」とみなして蜂起の一部「煽動者」とした。彼等を社会の治安を乱す者とみなした訳である。しかし宇野の分析によれば、もし彼らが本当にタイヤル社会でツマハジキにあっている者であれば、霧社群6社決起を「煽動」することは難しいだろう。はからずも日本当局によって「不良」とみなされた者が、実は最も「族的主体」を継承した者だった可能性があると宇野は解読する[同上:107]。
宇野の解読は非常に厳しいものであるが、それでも以下のような批判は免れ得ない。つまり、宇野は一体どんな権威を持ってそのような解釈と断定を行いえるのかという点である。もし現地の人々がその解釈とは異なる意見を持っていたとき、宇野はどのように考えるのだろうか。宇野の読解は、研究者が自分の欲望(被植民者は抵抗する、するものだ、しなければならない)を、ともすれば現地の人々に押し付ける結果となってはいないだろうか。また、現地の人々が行う抵抗の身ぶりを、過去の植民者日本人がさらに奪い取るという結果となってはいないだろうか。[13]
日本統治期の教育が台湾人に与えた影響では、特に天皇制イデオロギーの浸透[弘谷 1985]が挙げられる。天皇制イデオロギーは、原住民族(弘谷は「高山族」を使用)の価値体系を暴力的に変換させていった。しかし、彼等は天皇を「日本人のレベル」で、つまり日本人の思考体系と全く同じように受容したわけではなかった[同上: 173]。では一体どのように内面化したのか。弘谷は二つの例を挙げる。一つは原住民族がそのイデオロギーを、国のために命を捨てるという、絶対服従的なものとして受けとっていた点。もう一つは原住民族が天皇を、「頭目」という自分たちの持つ既存の政治体系の枠組みで理解していた点。[14]第一点目については、原住民族が国の為に命を捨てる絶対服従的意識が、日本人とどの程度異なっていたか不明である。天皇を絶対的なものとして受け入れていたのは、戦場に赴いた日本人にもある程度見られた現象ではないだろうか。
第二点は、原住民族が自らの既存の思考体系を用いて外来のイデオロギーを理解していると言い換えることが出来る。弘谷の言葉を用いれば、彼らの「民族性」は日本統治に直面してもまだ、保持されていたということになる。しかし、「頭目」とは日本人が統治に便利なために設置したものであり、もし原住民族がそうした語彙を用いているのであれば、それ自体日本統治の影響と言えなくはないか。弘谷[1985]の対象は原住民族だけではなく台湾人すべてにわたる。そのため、各々文化が異なっているとされる各原住民族について、その議論がみな当てはまるのか、彼の論考は各「民族性」の変化について十分に討論していると言いがたいのではないだろうか。
以上、近藤、黄、宇野、弘谷による、日本植民地政策の原住民族に及ぼした影響についての見解を、タイヤルに限らず取り上げてきた。これらの議論から浮かび上がった論点が「民族性」に関する見解の相違である。近藤[1996]が日本の統治が原住民族の「民族性」を根本から破壊した、と認識しているのに対し、弘谷[1985]は既存の思考体系の連続性を強調し、それに真っ向から反対する見解をとっている。黄[1992]は社会構造とその原則の連続性を強調する。宇野[1981]の論じ方は連続と変化の対立を超越しているように見え、植民地支配の破壊性・凶暴性を強調する一方で、霧社タイヤルの「族としての」(民族を主体とする)抵抗を懸命にその中に見いだそうとしている。
四、タイヤル族またはタイヤル文化を語るということ
以上の論者が「民族性」という言葉で表現しようとしているものは、人類学者が言うところの「文化」の概念と関係が深いと考えることが出来る。近藤と宇野、弘谷ら歴史学者が用いる「民族性」という言葉は、その内容と定義がはっきりしない。人類学者黄[1992]の使用する「社会構造とその原則」の意味するところは明確である。
筆者は「某族(もしくは某部落の人々)はある文化的核心・傾向を有する」という概念について、某族人の自由な活動を束縛しやすい語り口であると考える。文化的核心とは、これまで検討してきた「民族性」や「社会構造とその原則」である。あるいは我々は、「民族性」や「社会構造とその原則」について研究者がその「正解」を提出することに対して、厳粛に批判的な態度を採る必要もないかもしれない。それを「某族はある傾向をもっている」と考え、まさにルース・ベネディクトが日本人は「恥の文化」をもつと描いて見せ、日本人一般に参考や検討を引き起こしたように、一つの参考にすることも出来る。
しかし、社会構造原則もしくは文化を客観的本質的存在とするこの種の態度の背後には、往々にして一つのイデオロギーが付きまとっている。それは「某族には某族独自の傾向があるはずだ」とする思考様式である。問題は、文化の変遷を客観的に研究者がいかに語りうるのかという点にある。筆者はこの問題に対して、決して語り得ないことはないと思っている。しかし現地の人々の考えを無視して研究者の意見を通しては、または流布させてはなるまい。研究者がアカデミズムの中のみで文化の変遷を語ってしまっては、現地の人々の主体性を軽視する事態に陥るのではないだろうか。本研究がとる戦略は、エヘン部落のタイヤル人がどのように自己と自己の歴史を語るかという点である。つまり彼ら自身の自己表象を重視する。タイヤル人自身が「民族性」(もしくは文化)の変化をどう考えているかという点に注目したい。[15]黄応貴の採るアプローチは、上のような手順を踏まえて初めて有効なものとなりえるだろう。
「某族がある傾向をもっている」ようだということを否定することはできないだろう。しかしこの種の本質主義的傾向をもつ語り口が、表象される者が反駁できない状況にあるとき生み出されるなら、またはこうした語り口が表象される者の主体性を支持しないならば、問題は生じよう。
こうした文化の表象に関する問題は、サイードが『オリエンタリズム』[1993(1978)]で提起した「オリエンタリズム批判」によって明らかにされた。オリエンタリズムとは西洋と東洋を本質的に区別する姿勢を指す。この姿勢を本質主義と呼んでもよい。もし表象される者の置かれた政治的状況(発言の権利をめぐるポリティックス)を考慮しなければ、彼等を抑圧する事態を巻き起こしかねない。サイードの「オリエンタリズム批判」の重要な点は、それがもつ「政治性」にある[太田 1998: 35; 107]。
ここでいう「政治性」とは、権力を持った者による表象(人類学者の民族誌)が表象される者の「主体性」を抑圧しているという力の関係を指す。「主体」とは、言説(表象)の対象になるのみならず、言説の生産者にもなり、自己の置かれた状況に関わることの出来る個人を指す。「主体性」を抑圧するとは、そうした行為の持ち主として人を見なさないことである[太田 1998: 248]。ハワイの人類学者H-K. Traskは言う。「ハワイの人々にとり、一般的に言うと人類学者は植民地主義者の群れに属する。何故なら人類学者は我々ハワイの人間から自己を定義する力を奪い、そしてどのようにして政治的に、文化的に行動するかを決定する力をも奪う」からだ[同上:119から引用]。もし人類学者が表象される者の主体性の問題を考慮しなければ、個人的には、つまり倫理的にはどんなに非の打ちどころがない人類学者でも、「現地の人々の主体的な活動を否定(disempower)する言説の構成に荷担してしまうこともある」[太田 1998: 119]のだ。
ハワイの状況と比べ、台湾での人類学的調査はまだおおらかな状況にあると言える。少なくとも、人類学者が大規模に排斥されるという事態にはなっていないようだ。しかしそれは裏を返せば、原住民族の発言権が、ハワイにおける先住民よりも低い位置にあることを指すのかもしれない。過去、「蕃人」を「近代化」させた日本、「進歩」した国日本からやってきた日本人はそれだけで歓迎されているのかもしれない。あるいは台湾での人類学調査は、ハワイでのそれよりうまく相互の信頼関係を作ってきたからかもしれない。この状況に安易に答えを出すことは慎まねばならないが、人類学が今後とも原住民族との関係を保つには、以上の文化表象の問題を避けて通ることはできないのではないのだろうか。
では、現地人の主体性を抑圧しない人類学研究はどのように可能なのだろうか。太田は研究者と被表象者のポジションをはっきりさせること、「誰が、何を、どのように、どんな目的で語るのか」に意識的であらねばならないとする[1998: 191-2]。太田はここで「何時」を加えていないが、彼の文脈からは「何時」も問わなければならないことが分かる。人類学者は現地の人々と研究者自身の言説の、政治的「脈絡」(context)に注意する必要がある。
台湾原住民族は1980年代末から始まった土地返還運動などの政治運動を経て、1996年の行政院原住民委員会の設置、2001年の今日は既に民族議会の設立や自治区といった議題を討論しはじめている。言い換えるなら、原住民族は中華民国という国民国家体制下において、自己のアイデンティティーと文化の政治的保障を要求しているのである。それでは本研究はそうした状況下でどのような意義を持つのか。
結論を先取りすれば本研究は以下のように主張する。日本統治後期「近代化」の促進に伴って、国家意識がエヘン部落の人々に現われた。同時に彼らは日本が分類した「日本国民─高砂族─タイヤル族」という国民─族・アイデンティティーを次第に受け入れていった。また、エヘン部落の人々は植民地統治の負の条件下において、「タイヤル族─高砂族─日本国民」という枠組みを積極的に利用した。言い換えるなら、彼らは植民地統治の差別待遇にあったが、その条件内で主体的な選択を出来る限り行っていた。こうした語りは、現在タイヤル族が国民国家において自己の政治的地位を確立しようとする際、その活動を否定する側面は少ないと思われる。また、以下に見るように積極的な「読み換え」行為や、文化の客体化という視角を導入することにより、彼らをタイヤル文化に束縛された存在としては描かない点で、本質主義的な語りからも一線を画す。さらに、調査分析の結果得られた知見を現地の人々と討論することによって、現地の人々と調査者がお互いがどう変化したのかという点を積極的に民族誌の記述に織り込みたい。
さて、「タイヤル族」は、統治者日本人によってその集団の範囲が規定された。そして現在にいたるまで、「タイヤルらしさ」すなわちタイヤル文化は研究者の関心の対象であってきた。その成果は日本統治時代の各種調査に遡ることができ、タイヤル族に関する叙述は少なくない[臨時台湾旧慣調査会 1915; 1918; 1920を参照]。戦後においては李亦園等[1963]、衛恵林[1965]、王■興[1965]、折井博子[1980]、余光弘[1980]、王梅霞[1990]、陳茂泰[1999]、山路勝彦による一連の著作など、多くの人類学者の著作によって窺い知ることが出来る。
戦後の人類学者のタイヤル族に対する描写は、日本統治時代の進化論的叙述方式を脱し、社会組織・構造等の客観的観察可能な概念によるものにとって変わった。現在、人類学者によりタイヤル文化と考えられているものは以下の要素を含む。すなわち、政治リーダーはビックマンシステムであり(個人の能力によってその力を発揮する)、明確な単系リニージを欠き、非単系もしくは双方的(双系的、bilateral)な人的組織方式を持ち、父方居住が多く、いわゆるガガという規範と社会組織、utux信仰、父子連名制を持つ。[16]
しかしこの種の「原則」的な叙述方式が、「民族誌的現在」(ethnographic present)的性格を持ち合わせていることは否めない。[17]清水昭俊[1992]は、過去英国機能主義の影響を受けた研究傾向は、他民族の影響を受けていない「伝統的」かつ「純粋」な文化を追究する傾向があると述べている。そうした研究は外来民族(植民者を含む)の当該民族に対する影響を排除し、現実から出来るだけ「近代化」の側面を抜き取って、「伝統」と「某族らしいもの」を研究の至上課題とした。つまり、ある民族の本質、文化ロジックが存在すると仮定し、それを時間を越えたものとみなし、他の民族との相互関係や影響に注意を払ってこなかった。ヌエルの単系リニージやトロブリアンド島民のクラ交換に関する古典的な記述は、そうした「民族誌的現在」の典型と見なすことが出来る。
このような欠陥を克服するため、台湾原住民族研究においても、王梅霞[1990:gagaとrutuxの変遷][18]や楊淑媛[1992:第四章「歴史のプロセスにおけるジェンダー、親族、そして人の観念」]、陳茂泰[1999:伝統的utuxと現代のUtuxの違い]、そして上述の黄応貴[1992: 129-50]等が文化の時代的変遷の分析を試みてきた。このような研究、とくに日本統治時代のタイヤル族に関する文化変遷の研究は緒についたばかりである。さらに筆者は、台湾原住民族がもしそのアイデンティティーの歴史を遡る際、日本統治時代の50年間、如何に自身の文化を変化させてきたか(もしくは変化させられてきたか)という彼ら自身の認識を軽視することは出来ないと考える。我々は三光(桃園県)と万大(南投県)のタイヤル族が同一の文化を持つか保証することは出来ない。しかしまずエヘン部落の人々がタイヤル文化を持つ、もしくは持つと主張しているという仮設の下にたって、過去の研究の成果を援用することは出来る。本研究はタイヤル族と日本人の接触を前提に論を進め、日本人・日本の植民地政策の彼らに与えた影響を仮定する。その点で本研究は、タイヤル族を「民族誌的現在」に押し込めることなく、タイヤル文化をある明確な歴史の中の時間帯――日本による植民地統治時代、そして西暦2001年の現在に歴史を語る者達として――に位置づける。
このように、我々がより重視していかなければならない点は、文化変遷に対してタイヤルの人たち自身が行う叙述である。何故なら、彼らが叙述を行うこと自体が主体性を確立し続けることであるからだ。同時にその叙述は、さしあたって、タイヤル族(彼ら)が日本人(私)へ語るという枠組みにおいて行われるだろう。実は、この枠組みこそが植民地時代に形成されたものなのである。これは当たり前のことを言っているように思われるかもしれない。しかしこの、「植民地、植民地主義のもとで形成された枠組み」をはっきりと認識することから、人類学的考察を行わなければならない。なぜ彼らはタイヤル族として語り、私は日本人として話を聞かねばならないのだろうか。[19]その疑問を抱きつつ、まずは彼らの歴史叙述に耳を傾けていきたい。それを書くことによって、現地人の主体性を軽視する事態を避け、歴史記述において彼らを主体として尊重したい。植民地、植民地主義のもとで形成された枠組みを超えた、彼らと私の新しい関係が生まれるのは、そうした作業を経た後ではないだろうか。
五、「読み換え」という抵抗
日本時代、原住民族が選択した道は日本人・皇民への積極的同化なのか、それとも従属的地位の忍従なのだろうか。
結論を先取りすればその両者のどちらの側面もある。更に言えば、エヘン部落のタイヤル人が選択した道は、この二つの側面に限られない第三の側面をもっていたのではないか。その側面とは、同化でもなく従属の忍従でもない積極的な「読み換え」とでも言えるものである。植民地被治者の抵抗の問題と関わるこの点について、本論は小熊英二の討論[1998]に負っている。彼は戦前の沖縄知識人伊波普猷の「日琉同祖論」と、1920年代台湾の自治議会設置運動中のイデオロギー(被統治者による植民政策学の流用)を分析して、被支配者の対応に支配イデオロギーの積極的な「読み換え」が存在していたことに注目した。
植民地時代日本の大学に留学していた台湾人学生のうち、植民政策学を学んでいた者がいた。その一人林呈禄の唱えた「自治主義」は多くの支持者を得て、議会設置運動の一つの推進要因になった。彼は日本の植民政策学を明治大学の泉哲のもとで学び、イギリスやカナダ、オーストラリアで「成功」している「自治主義」が植民政策の国際的潮流だと唱えたのである。実はこうした認識は正しいものとは言えなかった。当時のカナダやオーストラリアの自治はあくまで原住者を排除した「植民者の自治」でしかなかったからだ。しかし林呈禄の「誤解」は意外にも多くの台湾留学生の支持を集め、蔡培火や林献堂の動きとも重なって自治議会設置運動の大きなうねりをつくりあげていく[小熊 1998: 336-41]。林呈禄は、植民政策学という植民者のための理論を積極的に自分のものとし、自分の都合のよいように読み換えたのである。
小熊は、従来の植民地下の抵抗運動の研究はこうした読み換え行為を評価してこなかったと主張する。こうした読み換えは、武力を用いた抵抗運動からすれば、支配者との妥協姿勢と見なされ、なまぬるいと考えられてきたからである。タイヤル族に関して言えば、1930年に霧社事件という武力抵抗運動が存在した。しかしそれは霧社群中の一部の決起であり、本研究の対象とするエヘン部落(ガオガン群)と直接の関係はない。[20]もちろんガオガン群の初期武力抵抗は評価されてしかるべきだ。しかし当地は1910年代の「帰順」以降、当局から安定した模範地域の称をもって語られていた。それでは彼等は日本人に無抵抗に同化しようとしていたのだろうか。小熊の抵抗理論からすれば、そうではない可能性が開けてくる。
植民地下の台湾人は法制上では内地日本人から差別されていた。しかしイデオロギー上は「一視同仁」で彼らも日本人であった。そうした「日本人」であって「日本人」でない位置から、日本人という内容の定義をめぐり、支配側と被支配側がその解釈を争うという事態が、先の自治議会運動に見られる[小熊 1998: 658-9]。この例はいわば被支配者の側からの、日本人という国民をめぐっての「解釈闘争」と言える。小熊は日本的同化政策の重要なメカニズムは被支配者を日本人にすることにあるのではなく、被支配者を支配者が決定した「日本人」像に順応・適応させる点にあると述べている。簡単に言えば「日本人」の定義権は支配者の側にあったのだ[小熊 1998: 660]。自治議会設置運動はそうした解釈権を被支配者の側に取り戻そうとする動きと言える。自治議会設置運動は漢人主体の、しかもエリートによるものであった。しかしエヘン部落の人々にとってもそうした解釈闘争はありえないことだったのだろうか。彼らは林呈禄のように明確な言葉で自己のロジックを主張できなかったかもしれないが、自分たちの解釈を行うことは可能だったのではないだろうか。[21]
六、文化の客体化
さて、日本人という国民をめぐっての解釈闘争に「タイヤル」が参加していたという点には一つの前提がある。先に見たようにタイヤル族という範疇は、日本人によりいわば「上から」押しつけられたものであった。つまり「解釈闘争に参加したタイヤル」という言い方は、タイヤル族という実体を既に前提とした言い方であることが分かる。エヘン部落の人々が日本人という国民についての解釈闘争に参加する際に、既にタイヤル族というアイデンティティーを持っていたかは必ずしも明らかではない。エヘン部落でのフィールドワークでは、お年よりが「日本人」と「タイヤル」を区別して語るのをしばし耳にした。この区別は戦後になって形成されたものではなく、日本による植民地時代末期に既にそうであったと考えられる。タイヤル族というアイデンティティーは、日本統治時代末期には相当普及していたことが想像される。
それではエヘン部落の人々が自己をタイヤル族と規定していた根拠は何だったのか。エスニックアイデンティティー(これまで本論文では族アイデンティティーという言葉を用いてきた)の根拠は何かと言い換えてもよい。筆者はここで文化を操作され得る対象と見なす、「文化の客体化」(objectification of culture)という考え方[太田 1998: 第二章]を導入したい。本研究は日本時代末期にエヘン部落の人々が持っていたタイヤル族というアイデンティティーが、文化の客体化によって成立したと考える。本文は先に、文化を無意識に人々の行為を規定するものと見なす「社会構造・原則」という理論的傾向に触れた。この考え方と文化の客体化の観点とは、その重点をやや異にすると考えられるため、ここで本研究の立場について補足しておきたい。文化の客体化の視点は、文化を人々によって扱われ、流用され、操作の対象と見なす。人々は文化を使用して他の人々と社会的交渉を行う。この時文化は、ある工具箱中の一セットの道具のようなものと言ってもよい。人は必要時にこの工具箱を使用して思考し行動する。この工具箱はまた不断に増加する。
実は、無意識に人の行為を規定する「社会構造・原則」をその対象とする研究的傾向は、その原則が必ず存在するはずだという仮設を前提としている。同時に文化の客体化も一つの仮設を前提とする。それは主体という考え方である。先に表象の政治性の問題について述べた際に、主体とは言説の対象になるのみならず、その言説の生産者にもなり、自らの置かれた状況に関わることの出来る個人を指すと提示した。文化を客体化するものは主体に他ならない。このように、文化の客体化という考え方の背後には、主体の存在が前提にある。筆者は、「社会構造・原則」の考え方と文化の客体化の観点は、お互いに相容れないものではないと考える。各々の工具箱の中には確かに「社会構造・原則」が存在するからであり、文化の客体化の観点は人の主体性の側面をより重視するだけであって、両者の立場は研究重点の置き方の違いと言える。さて、本研究が文化の客体化の観点を採用するのは以下の二点の理由による。
一つには日本植民地政策の与えた影響の一つに国家意識があり、本研究はその普及過程を討論したいと考えている。国家意識とは概念であり、それは国民・族アイデンティティーの普及と密接に関係がある。アイデンティティーの根拠を考える際には、当事者による意識的な文化の客体化という考え方のほうが適切である。アイデンティティーとは他人が付与しようと自分で与えようと、何よりも観念的存在であるためだ。エヘン部落の人々は自己の文化を客体化もしくは客観化した後、国家が付与した「タイヤル族」アイデンティティーを獲得したのであり、本研究はその根拠が文化の客体化に求められるという立場をとる。第二に、現実の問題として資料の制約が存在する。日本時代の原住民族史研究はこれからも盛んになっていくと予測されるが、客観的社会構造を探るには資料の制約があまりに大きい。人々の記憶も、客観的社会構造を復元するには正確な情報提供を望みにくい。本研究は以上のような理由により、文化を「社会構造・原則」の客観的変遷過程として捉えるというより、文化を客体化されうる対象として捉える。
以上見たように、文化の客体化の観点は、その行為者を主体とみなす前提を有している。この点は小田亮[1998; 1999; 2000; 2001]によって批判されているため、本論はここで、その批判に私なりにどう答えるか示しておく。
小田は、抵抗や文化の客体化を行うものは必ずしも主体という言葉から想像されるような固定された位置を持たない、と言う。主体とは、例えばタイヤル族とか、男とか、研究者といった固定した位置性を持つ概念であり、この考え方は西洋近代のものである。そのため、たとえ政治的弱者をエンパワーメントするためであろうが、主体概念に則っている限りは、一般の人々の日常的実践を正確に認識することはできない。抵抗や文化の客体化を行うものは、それだけを行う主体ではなく、抵抗したかと思えば支配者に迎合したりする、一貫性を持たない、豹変する存在であるのだ。そして、小田によれば、そうした日常的実践はそれだからこそ近代の支配のテクノロジーの裏をかいて、それに抵抗することになる。研究者は民衆のこうしたブリコラージュ的な戦術を評価すべきである。
小田のこうした主張は明快で傾聴に値するものだが、筆者が腑に落ちないのは、小田はいかなる位置からこうした近代知批判を行い得るかという点である。小田の視点からすれば、マイノリティエンパワーメントの運動を行う人々はどのように評価されるのだろうか。不平等な構造を変えるべく、がちがちの抵抗の主体を立ち上げつつある(立ち上げざるを得ない)人々にとって、小田の言説はどのように聞こえるのだろうか。私はここで、「普遍を追求できるのは、この不平等な世界において、すでに覇権を握っている強者である」[太田 1998: 154]という一節を引用したい。近代知は確かに批判され乗り越えられなければなるまい。しかし、近代知(例えばナショナリズム)にがんじがらめになって、その中にあって抵抗をしている人々にとって、小田のような普遍的な言説は否定的なものとしてしか聞こえないのではないだろうか。台湾人による民主化や、原住民族による運動、フェミニズムによる運動は、少なからず社会を変えてきたはずだ。こうした運動の担い手は、近代的な主体であると言える。もし小田に即して更なる課題を志向するならば、従来の運動を否定しきらない形で、日常的実践の再評価をそれに如何にリンクすることができるのかということになろう。
ではエヘンの人びとは自覚的な運動をしている主体なのだろうか。私はエヘンの人びとをがちがちの主体として記述すればよいのか。そうではない。わたしとの相互作用によって、タイヤル族主体と日本人主体が、どのように確立し固定したものとなり、また一方でどのようにそうした確固とした主体をはみ出すのだろうか。小田が示唆するのはこうした主体をはみ出す存在としての調査者、そして民衆の姿なのだろう。そうした点に注意して記述は行われるべきであろう。
以上のことをふまえると、これまでに見た近藤や宇野の、被植民者の主体性の描き方とは違った形で記述する方法が、かすかにでも見えてこないだろうか。近藤は政策を積極的に利用する主体を、宇野は抵抗する主体を、努力して読み込んだ。そうした解釈の仕方は、主体性を尊重しているようで、一つ間違えば主体性を押し付けることにもなりかねない。それは何故なら、これまでに見てきたように、現地の人びとの代表が自らを語っているのではなく、学者が彼らになり代わって彼らを語っているからである。もちろん、議論・記述を始めるにあたって、私も主体・主語としてのタイヤル族・日本人という語を用いざるを得ない。しかし、より重要なことはそうした人々が実際に何を考え、どう行為しているかであり、それを記述していくと、おそらく、当初の(タイヤル族・日本人という)名づけが、明確な境界と定義を持ったものでない事態が発生してくるであろう。
歴史を語る主体としてのタイヤル族に私が直面するとき、私は日本人としてその話を聞く。こうした「タイヤル族――日本人」という枠組みは、植民地統治によってもたらされたものである。タイヤル文化、日本文化はここにおいて突出していると考えられる。タイヤル文化を持つタイヤル族主体と、日本文化を持つ日本人主体が、ここで立ち上がっているのだ。その際、文化を客体化する主体という考えかたを、出発点としては導入することができるのではないか。[22]
七、日本人研究者という性格
最後に、筆者がフィールドワーク中に日本人という身分の問題に直面せざるを得なかった点を指摘しておきたい。私が反植民地主義の思想を持っていようと愛国主義の思想を持っていようと、エヘン部落の人々はしばしば私を「日本人」とみなすし、名づける。筆者は、彼等の面前では日本時代の記憶を引き起こす「媒介」であり[岡 2000を参照]、筆者がその身分から逃れたいと思っても、彼らはなかなか受け入れてくれない。日本人としての筆者が彼らの記憶に対して果たす役割の問題は、分析されなければならない。この点に関してどのようにデータを集めたらよいのか。我々は既に表象の政治性についての議論に際して、話者の「位置」を明らかにする必要があることを見てきた。すなわち、我々は「誰が、何時、何故、どのように、何を語っているのか」に意識的である必要がある。この戦略こそが本点を考える際に本研究がとる基本的立場である。実際には以下のような問題を明らかにする努力が必要となる。今日のタイヤル族は国民国家中華民国においてどのような位置にあるのか。経済状況と社会地位はどうか。エヘン部落のタイヤル族はこうした記憶を筆者に語る際、筆者の属性(日本人、男性、28才、日本の大学の博士課程の学生)は相手にどのような影響を与えるのか。彼らは筆者に対する際筆者を日本人の代表とみなしていないか。その際彼らにとって日本とはどのような存在であるのか。特に文化と経済的側面ではどうか。彼らが1945年ではなく、1960年でもなく、2001年の現在に語るという意味は何なのか。話者はどんな言語と態度で叙述を行っているのか。最後に、彼らは一体何のために語るのか。このようなデータ分析の方法は「脈絡化」(contextualization)と呼ぶことが出来よう[太田 1998: 173]。それは歴史学における史料検証とそれほど大きな差異はない。[23]
引用文献(日本語、漢語、英語)
アンダーソン、B
1997[1991] 『増補 想像の共同体:ナショナリズムの流行と起源』、白石・白石訳、東京:NTT出版( Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism, Revised ed., London: Verso.)
磯田一雄ほか
1991 「日本植民地、占領地に於ける教育政策の研究」『成城学園教育研究所年報』14:1-98
岩城亀彦
1935 『台湾の蕃地開発と蕃人』東京:東京文教社
宇野利玄
1981 「台湾における『蕃人』教育」、戴国■編『台湾霧社蜂起事件:研究と資料』、84-113頁、東京:社会思想社
王 ■興
1965 「非単系社会の研究:台湾アタヤル族とヤミ族を中心として」『民族学研究』30(3): 193-208
太田好信
1998 『トランスポジションの思想:文化人類学の再想像』京都:世界思想社
2001 『民族誌的近代への介入:文化を語る権利は誰にあるのか』京都:人文書院
岡 真理
2000 『記憶/物語』東京:岩波書店
小熊英二
1998 『<日本人>の境界:沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮:植民地支配から復帰運動まで』東京:新曜社
小田 亮
1998 「斜線を引く、ちぐはぐに繋ぐ――『横断性としての民衆文化』論のための覚え書き」、大胡欽一ほか編『社会と象徴』、465-478頁、岩田書院
1999 「文化の本質主義と構築主義を越えて」『日本常民文化紀要』20: 111-173
2000 「共同体というものをどのように想像するか――『歴史主体』論争への人類学的介入」『日本常民文化紀要』21: 13-56
2001 「生活世界の植民地化に抗するために――横断性としての『民衆的なもの』再論」『日本常民文化紀要』22: 1-43
北村嘉恵
1996 「台湾人の日本植民地教育認識――日本統治下台湾における公学校教育についての聞き取り調査」、天理南方文化研究会編『南方文化』23:57-65
1998 「被支配民族の主体性をどのように捉えるか――台湾史の視点から」、日本植民地教育史研究会運営委員会編『植民地教育史年報第1号 植民地教育史像の再構成』、15-27頁、東京:皓星社
駒込 武
1996 『植民地帝国日本の文化統合』東京:岩波書店
近藤正己
1996 『総力戦と台湾』東京:刀水書房
サイード、E ( Said, Edward. W.)
1993[1978] 『オリエンタリズム』上下、今沢訳、東京:平凡社( Orientalism, New York: Georges Borchardt.)
佐藤源治
1943 『臺灣教育の進展』台北:臺灣出版文化社
清水昭俊
1992 「永遠の未開文化と周辺民族――近代西欧人類学史点描」『国立民族学博物館研究報告』17(3): 417-488
1999 「忘却のかなたのマリノフスキー――1930年代における文化接触研究」『国立民族学博物館研究報告』23(3):543-634
台湾総督府警務局
1935 『蕃人教育概況』台北
1944 『高砂族の教育』台北
弘谷多喜夫
1985 「台湾の植民地支配と天皇制」『歴史学研究』547(増刊号): 163-173
古谷嘉章
2001 『異種混交の近代と人類学――ラテンアメリカのコンタクト・ゾーンから』京都:人文書院
マーカスとフィッシャー ( Marcus, G. E. & M. M. Fischer)
1989[1986] 『文化批判としての人類学:人間科学における実験的試み』、永淵訳、東京:紀伊国屋書店 ( Anthropology as Cultural Critique: An Experimental Moment in the Human Science, Chicago: University of Chicago Press.)
松園万亀雄
1984 「新進化主義」、綾部恒雄編『文化人類学15の理論』、115-131頁、東京:中央公論
山下晋司・山本真鳥編
1997 『植民地主義と文化――人類学のパースペクティヴ』東京:新曜社
李光雄と竹尾茂樹
1995 「わたしの名前はラワイ・内村光男、馬蘭社のアミ族だ」『国際学研究』(明治学院論叢531)13:47-61
臨時台湾旧慣調査会
1915 『番族慣習調査報告書 第一巻』台北
1918 『蕃族調査報告書:大■族前編』台北
1920 『蕃族調査報告書:大■族後編』台北
レイ・チョウ(Rey Chow)
1998[1993] 『ディアスポラの知識人』、本橋訳、東京:青土社 (Writing Diaspora: Tactics of Intervention in Contemporary Cultural Studies, Indiana University Press)
ロサルド, R
1998 『文化と真実――社会分析の再構築』東京:日本エディタースクール
著者不明
1938 「全島優良蕃社リレー:新竹 大渓郡テイリック社」『理蕃の友』、第7年8月号: 4-5
<漢語>(画数順)
王 梅霞
1990 『規範、信仰与実践:一個泰雅族■落的研究』、清華大学社会人類学研究所修士論文
石 磊
1990 「台湾土著民族」『国文天地』5(11): 65-70
瓦歴斯・尤幹
1994 『想念族人』台北:■星
伊凡・諾幹
1998 「近代成人教育与'tayal[msbtunux]初探:殖民主義・近代化与民族的動態」、原住民成 人教育国際参観按摩ならびに学術研討会にて発表
余 光弘
1980 「泰雅族東賽徳克群的部落組織」『中央研究院民族学研究所集刊』50: 91-110
花蓮県原住民健康■文化研究会等編
2000 『懐念族老馬紹・莫那:廖守臣老師紀念学術研討会論文集』、花蓮:花蓮県原住民健康■文化研究会
折井博子
1980 『泰雅族■■的研究』、台湾大学人類学研究所修士論文
李亦園等
1963 『南■的泰雅人』南港:中央研究院民族学研究所
林 栄代
1998 「高砂義勇隊之史実与追■」、回帰正義的起点:台湾高砂義勇隊歴史回顧研討会にて発表
陳 秀淳
1998 『日拠時期台湾山地水田作的展開』台北:稲郷
陳 茂泰
1999 「泰雅族」、台東南島文化節学術演講活動にて発表
陳 翠蓮
1999 「一九二〇年代台湾政治運動中的国家認同」、台湾政治学会1999年年会ならびに学術研討会にて発表
黄 昭堂
1994 『台湾総督府』台北:前衛
黄 応貴
1986 「台湾土著族的両種社会類型及其意義」、黄応貴編『台湾土著社会文化研究論文集』、3-43頁、台北:聯経
1992 『東■社布農族的社会生活』南港:中央研究院民族学研究所
楊 淑媛
1992 『両性、親属与人的観念:以霧鹿布農人為例的研究』、台湾大学人類学研究所修士論文
廖 守臣
1984 『泰雅族的文化』台北:世新
衛 恵林
1965 「泰雅族」『台湾省通志稿』八
謝 世忠
1996 「『伝統文化』的操控与管理:国家文化体系下的台湾原住民文化」『山海文化』13: 85-101
Maybury-Lewis, David
1997 Indigenous Peoples, Ethnic Groups, and the State, Boston: Allyn and Bacon.
[1]周知のように「タイヤル族」は、植民者日本人が台湾北部山岳地帯に居住する集団をまとめて表象する際に用いだした言葉である。その際「族」には「未開の」という意味が付与されていた。日本人には「族」を用いず、彼らにだけ用いていた。過去、植民者であった日本人がこの言葉を用いる際、そうした歴史的背景に注意しなければなるまい。「大和民族」という言葉はあったが、植民地当時「タイヤル民族」という言葉は使われなかった。現在、台湾では当事者によって、「タイヤル族」「タイヤル族人」などが使用されている[瓦歴斯・尤幹 1994;花蓮県原住民健康■文化研究会等編 2000 などを参照]。またエヘン部落にも外省人、アミ族の人たちが住んでいることを付記しておく。
[2] 原住民族による「日本人が来た」という名づけと、私による「日本人として彼らの歴史解釈を思考する」という名のりは、別々の行為として、その意味が分析されるべきである。また両行為における「日本人」の意味も異なるはずである。そして名づけと名のりの相互行為によって、お互い何がどう変わったかということに注意する必要がある。
[3] 後文で再び見るように、研究者によって、日本植民地統治の影響の見積もりと、強調点の置き方は大きな差がある。近藤[1996: 3-9]を参照。
[4] 1990年代になって、歴史学からのアプローチとして、磯田ほか[1991]や李と竹尾[1995]、北村[1996]らによって、民衆が現在、いかに植民地統治を語るかに注目する研究が行われた。台湾においても口述歴史編纂の試みが続けられている[北村 1998: 26-27を参照]。民衆による歴史の語りを対象とする歴史学が直面するものは、実証のための証言としてのみ語りを捉えるだけではなく、語りそのものがいかなる場でなされ、その語りによっていったい何がおこっているのかを、研究者が意味付けするところにあると考えられる。
[5]本文の言ういわゆる伝統社会とは国家勢力の干渉する以前の社会を指し、タイヤル族ではその時期は場所により異なる。エヘン部落では、もちろんそれ以前から国家勢力の影響は存在したが、直接の統治という意味では1910年の「討伐・平定」が一つの参照点になる。
[6] 後文にても触れるが、人類学には、未開社会の汚染されていない純粋な文化を追い求める、自分達西洋と異質な他者像を描こうとする傾向が存在した。清水昭俊[1999]の用語を借りれば、西洋との接触時「ゼロ・ポイント」以前の文化や社会を追求する姿勢である。人類学者は植民地支配を、しばしば「攪乱要因」[山下・山本 1997: 17]として受けとめてきたことは否めないであろう。ただし、1930年代から、M.グラックマンやB.マリノフスキーによって、社会内部の葛藤や植民地政策による文化変遷の問題が取り上げられてきた。それらの潮流が、なぜ人類学において主流とならなかったのか、今後綿密な検討が必要とされるだろう。また、歴史や文化を語る民族主体という視角とは、後文にて述べるように、自らの文化を表象する存在として現地の人々をみなす姿勢を指す。古谷嘉章は近代人類学が「非近代を理解=消化する近代的プロジェクト」へと逸脱してしまった[2001: 13]とし、そうではない形で人類学を再想像するには、現地の人々が自らの文化をめぐって、他の人々と交渉しているやり方にこそ注目すべきだ[同上: 22]と説いている。
[7]教育所は警務局の管轄であり、文教局学務課が管轄する一般の学校(小学校、公学校、「蕃人」公学校)とは異なる[佐藤 1943: 130; 151-4]。「蕃人」公学校は1922年台湾教育令の成立により公学校に改組された[台湾総督府警務局 1944: 11]。タイヤル族唯一の「蕃地内公学校」であった霧社公学校は1912年成立し、1930年の霧社事件を経て、1939年に廃止された[台湾総督府警務局 1935: 84; 1944: 11]。
[8]総督府は原住民族の各社に「社祀」を設置した。その数は1941年時では92個に上り、4つの「蕃社」に一つの「社祀」という計算になる[近藤 1996: 304]。
[9]陸海軍「特別志願兵」制度は1941年の第一回陸軍を初めとして、計17,000余名の台湾人を動員した[近藤 1996: 387-97;黄昭堂 1994: 184-6]。第一回「高砂義勇隊」は1942年3月に出征し、計7回の「高砂義勇隊」は約4,200人の原住民族を動員した[林栄代 1998: 9-12]。
[10]日野三郎が、タイヤルは日本に従うべきだと真摯に考えていたかは、もちろん今となってはわからない。ここで看過してはならないのは、近藤の指摘するように、懇談会終了時に青年団幹部が警務局当局により、「諸君は何処迄も指導警察官と連携を保たねばならぬ」と、しっかり釘をさされたことである。当局はあくまでも、原住民族の自主性を政策の範囲内に押し込めようとしたのだ。ただし、誤解してはならないのは、当局の意図と、原住民族の自主性が実際に政策の範囲内に押し込められていたかどうかは、全く別問題ということである。この点近藤の結論はあいまいではないだろうか。それは近藤の目的が「多様な社会を個々にまで触れて」論ずる点にあるのではなく、「総督府の政策客体」としての原住民族像にある[近藤 1996:261]からだ。
[11] 近藤の記述からは、果たして原住民族はどのようにそして何故そうした「自主性」に到達し得たのか、という論点について、曖昧な認識しか得ることが出来ない。更に言えば、日本統治が終了し50数年の経過した今日、原住民族は当時の「自主性」をどのように捉えているのだろうか。果たして、植民地統治は現地の文化を一方的に破壊したと彼等は認識しているのだろうか。そしてわたしは日本人としてそれにどう耳を傾け、どう考えるのだろうか。
[12] この分類名称は廖[1984]に従っている。なお、現在この分類名称について「タイヤル族」自身によって論議が起こされている。人類学者によってタイヤル族東セデック亜族に分類されていた人々(の一部)が、自分たちを「タロコ族」であると主張しだしている。
[13] この点に関しては広島大学での研究会のメンバーに示唆を受けた。レイ・チョウ[1998: 29]を参照のこと。またその後別メンバーより、中村の宇野に対する「読解」の根拠はどこにあるのか、中村の読解も自分の欲望を宇野に投影しているの過ぎないのではないか、なぜ中村の読解のほうがよりよいと言えるのか、という問いが寄せられた。それに端的に答えるとするなら、研究対象を(例えば抵抗する被植民者といった形で)あるイメージに固定しない形でいかに記述できるかという点において、私の提示した読解のほうがよりよいと考えられるからである。レイ・チョウには表象は暴力であるという認識があり、私も同感である。つまり暴力を最低限にとどめつつ、いかに対象を表象できるのかという問題系がここに存在している。そしてこうした問題意識は1981年時点での宇野にはなかったということであり、そう言い切ることは必ずしも宇野(の全存在)をあるイメージに固定化するものではない。
[14]頭目とは日本統治時代に一社に一人設けられた政治リーダーである。過去の原住民族の政治形態には多くの種類が存在するが、日本人は旧社会の政治リーダーを政策実行の一機関として新しく組み替えようとした。
[15]付言すれば、もし研究者の認識と現地の人々の認識が異なれば、その違いについて、現地にて積極的に討論していくべきではないだろうか(ロサルド 1998を参照)。現地の人々に迎合しきるのでもなく、逆に彼らの主体性を無視するのでもなく、研究や聞き取りが相互を変革する場となるような、そのような研究を志向したい。
[16]台湾原住民族の社会・文化的性質について、政治体系の角度から黄応貴がA型・B型という二つの類型を提出している。A型とは階級的社会階層を持つチーフダム社会であり、パイワン、ルカイ、ツオウ、アミ、プユマがそうである。B型は同権的、もしくは個人的能力をその傾向とするビッグマン社会であり、タイヤル、ブヌン、ヤミ(民族名称は同書に従った)がそうである[黄応貴 1986: 4]。E.サーヴィスは人類の「進化」五段階説を提出している。もしそれを用いれば、台湾原住民族は「バンド」−「部族」−「首長制」−「国家」−「産業社会」という五段階[松園 1984: 129]のうち、「部族」(B型)と「首長制」(A型)に位置付けられることになる。なお、いわゆる原住民族の伝統的社会文化特質は、石[1990]によって整理されている。しかし問題は、研究がこのような社会の分類作業にとどまるのではなく、各原住民族が国民国家体制の中で自己の文化を如何に考え、他エスニックグループとの間の社会的実践を如何に行っているかという点にある。
[17] マーカスとフィッシャーは、「二十世紀の民族誌は、これまでしばしば共時的な傾向が強いと非難されてきた。時間なき現在のなかに民族誌学的叙述が置かれたのは、社会は不断に変化するという事実や歴史に盲目であったためではなく、むしろ時間の流れや出来事の影響を括弧に入れてしまえば、象徴システムや社会関係の構造分析が容易になるという利点が優先されたためである」と言っている[1989(1986): 181]。
[18]王梅霞の調査地である北勢群の苗栗県泰安郷象鼻村でutuxは、rutuxと呼ばれている。両者の意味するところに差異が存在するかどうかについては不明である。
[19] ここで私は、彼らが「すべての」瞬間においてタイヤル族として語っていると主張しているのではない。日本人である私が彼らと話す際に、往々にして「タイヤル族――日本人」の枠組みが突出するという点を考察したいのである。
[20]両群の間は険しい山岳地帯を直線にして約70キロの距離がある。
[21] 小熊の提出した「読み換え」という抵抗は傾聴に値するが、本論文にて先に述べた宇野への批判は、同様に小熊にも当てはまる。つまり、研究者は被植民者が抵抗するものだと頑張って解読するが、それは研究者の欲望を被植民者に押し付けているのではないか、という批判である。読み換えを抵抗として評価することが研究者の欲望の発現となってしまってはなるまい。そうではなく、そのような解読から得られた知識を被調査者に返し、非調査者と研究者のお互いの認識が触発しあうさまを記述していきたい。
[22] ここで解決できなかった問題として、現地の人々が私に歴史を語ることと、小田の言う日常的実践がどう関係するかという点がある。また、大阪大学での研究会では、人々は自由に文化を客体化する主体であるのかという問いが私に寄せられた。おそらくその疑問は、主体という語に、自主自立のイメージが存在することに起因するためだろう。確かに、被植民者が自由意志でさまざまな文化(要素)を選択した、と言うことはできない。特に本研究が追究するような、被植民者による植民者文化の流用といったテーマにおいて、それは容易に想像されうる。太田の近刊[2001]では、調査・記述の対象者を主体とみなすというよりは、それらの対象者に「主体的関与」(agency)を認めようという議論がなされている。Agencyにはある結果を引き起こさせる力(power, force)という意味合いがある。調査者は対象者がそうした力の担い手たろうとすることを尊重しなければならない。ここには、対象者を見る理論的枠組みが、前刊と近刊で、微妙ではあるが変化していることが見て取れる。すなわち、対象者を能動的個人としての主体とみなすことから、対象者にある力のベクトル(主体的関与)を尊重することへの変化である。太田自身の別の言葉で言えば、「耳を傾ける」[同上: 225]こと、もしくは「聞くという行為」[同上: 196]が必要とされている。「聞く」ということは、それまで政治参加を否定されていた人間が、どのようなことばを紡ぎだすことによって政治への主体的関与を獲得するのか、という物語を理解することである[同上: 225]。
[23]本文は、筆者が中華民国台湾大学人類学部に提出した修士論文『国家意識の誕生−−台湾原住民族タイヤル人と日本植民地経験の記憶』の第一章(原文は漢語、いわゆる中国語)を書き直したものである。