台湾の先住民族とわたしと日本人

この10年間を振り返って

 

出典:台湾原住民族との交流会2005年『台湾原住民族との交流会十周年記念誌』発行:同会、27-30

 

中村 平

 

わたしと台湾の先住民族との直接の出会いは、大学の学部3年から4年時に休学した際、台北で働いていた父を訪ねに、20日間ばかり台湾に遊びに行ったときにさかのぼる。そのとき、わたしは北海道の札幌に暮らしていた。台湾を初めて訪れるにあたって、わたしは、台湾への日本の植民地統治・侵略に対して、どのような態度をとったらよいのか、戦々恐々とした思いであった。半ば緊張し、台湾人からいつ糾弾されるかと身をかたくしていた。

 

同時に、それとは別の心情もあった。沖縄から台湾、「蘭印」といった「南方」は、わたしのエクゾティズムをくすぐる対象だった。「琉球弧」(島尾敏雄)を身をもって体験しようと、東京からフェリーを利用し、まず沖縄に渡った。第二次大戦の影響を、米軍基地の現存在を含めて、じかに見、体験しようとした。次に沖縄から、フェリーでのんびりと台湾に渡った。帰国後に、写真と雑物を整理したが、そのファイルには『1994・南方紀行』と銘打たれた。

 

大学進学時に、当時の自分にとって閉塞感のあった東京と実家を離れ、北海道に渡ったのは、北という「未開」へのエクゾティズムだった。大学では登山系クラブに入り、行ったことのない山や沢に分け入り、北海道をすみずみまで味わおうとしていた。そんななかでの「南方紀行」であった。クラブには、「海外遠征」といった言葉も存在していた。「征服」という言葉とは無縁の活動ではなかった。東京と関東で育ったわたし自身の中に、帝国主義的なまなざしを感じる。

 

大学卒業後、いくらかの紆余曲折を経て、父の紹介を受けて台湾へと渡り、大学院に進学することを決意した。渡台時にも、上に述べた、植民地統治責任の問題意識と、「南方」へのエクゾティズムは混在していた。もうひとつ、つけ加えなければならないのが、「日本」への嫌悪感・倦怠感だった。それは、いわゆる左よりの父の影響を多分に受けたものだった。いわゆる「主流」「マジョリティ」の価値観と行動様式を想定し、それに対して身をかたくしていた。

 

どこの国籍にも属さない、コスモポリタンになりたかった。世界を気ままに旅し、あらゆる文化を楽しめる世界市民になりたかった。「日本」はわたしにとって足かせだった。

 

こうした悶々としたわたしを、台湾の人々は「あっさり」と受け入れてくれた。(「あっさり」は台湾で使われる日本語です。)歓待してくれた。先住民族の方、漢民族の方々を含めて、日本時代がなつかしいと日本語で語る年配の人々に、出会いはじめた。特に先住民族の方には面倒を見てもらい、愛を受けてきた。ある意味わたしは、もういちど人を好きになることを覚え、癒され、社会に復帰した。「社会化」された。渡台した日本人に、そうした人間は少なくない。わたしは桃園県のタイヤル族の高齢者を中心に、日本時代の聞き取りをはじめた。

 

もちろん、ここで言う「なつかしさ」には、どんな経験と意味が込められているのか、慎重に考えなければならない。安易にそれを、「親日台湾」と片付けることはできない。そう考える背後には、無批判な「反日韓国」「反日中国」があるだろうし。

 

「日本」から自由なコスモポリタンになりたいという夢は、ついえてしまった。日本人の集団を避けて、がんばって中華民国の「国語」とタイヤル語を話し、日本色を脱色しようとしても、わたしは台湾の人々から日本人として名指された。

 

在台5年の経験は、植民地統治責任という問題に身をかたくしていたわたしを変質させた。人類学を学んだことは、帝国主義的なエクゾティズムに無批判に浸りきっていたわたしを変質させた。「責任」に関しては、とても言いにくいが、これからも向き合い続けていかなければならない課題だと感じている。

 

日本人と台湾の人々との密接で深い関係に気づき始め、その歴史的な関係性に、半ば受動的にコミットせざるを得ないような感覚なのだ。責任を取らなければ、とかたくなに「主体」を立ち上げようとしていた苦しみから、若干解き放たれ、関係性のよどみのなかに、受身に身を任せるようになった、といえばよいだろうか。今でもそれはうまく言えない。

 

これを、恋愛関係や家族関係の比喩で語ったら、不謹慎だろうか。人は自分の愛するパートナーや、家族に対して、男性/女性として、親/子として、かたくなな主体を初めに立ち上げ、そしてその次に関係をつくるのではない。渡台したころの私は、とかく「日本人として」どう彼/女らに向き合うか、ということばかり考えていたような気がする。国籍から自由な、コスモポリタンになりたいという想いも、実は、勝手に思い込み、立ち上げようとした日本人としての「責任」に耐えかねての、裏返しの感情だったのだろうか。

 

今は若干異なるのである。自分が日本人であることを、台湾の人々から名指され、交流するなかで、その受動性のうちに、日本人であるという主体性が出てくる感じである。もしくは、そこにおいてはすでに、「主体性」という言葉を使わないほうがよいものなのかもしれない。

 

日本人であることの、歴史的責任を回避しようとするのではない。「日本人は統治の責任を取らなければならない」という言い方に、若干の留保をつけたいのである。日本に帰ってからの2年半の時間が、その言い方に足りないものを、改めて考えさせてくれた。「責任を取らなければ」という言い方には、他者の顔が見えにくいのである。他者の声を聞こうとする姿勢が、見えにくいのである。「責任」は、他者に対しての「応答可能性」(responsibility)という語感から、考えはじめたいと思う(高橋哲哉氏の議論を参照してください)。

 

同時に、この一文を書くにあたって、キリスト教関係者の「赦しと和解」を求めて台湾の人々と交流しようとする行為を知った。(例えば、本山聖子「赦しと和解を求めて台湾を旅した人々:私たちには、その事実を知らなかった罪がありました」『百万人の福音』20041月号を参照してください)。歴史的事実を、神の愛によって赦し合い、分かち合うという行為である。神の前の平等という考え方を下敷きに、自分を徹底的に開き、「悔い改める」ことから、他者との関係性をつくろうとする真摯な活動を知った。日本人クリスチャンによるそうした行為は戦後、継続して行われてきたのであり、その歴史を知ることによって、歴史的責任を考えていこうと思う。

 

現在のところクリスチャンではないわたしにとっては、台湾の人々に対して、過剰な愛を押しつけることなく、また密接な過去を忘却することなく、たんたんと交流していきたい。台湾の人に対する愛は、植民地時期の日本人にもあったと思うから。その交流の過程で、既存の自分が壊され、また創り出されていく。「たんたんと交流」という言葉も、言い方を変えれば、友人づきあいしていくということなのだと思う。それと同時に、「和解」することの可能性を考えている。日本人側からの和解は、こちらの歴史的認識の不十分さに気づくことから始まるだろう。

 

日本国籍、人文系の大学院生、中産階級の子弟、奨学金の受給、都市住人、若い世代、男性、無宗教、エクゾティズム、山や自然好き、「左」よりの影響、「日本」や「東京」に対する違和感……。こうしたことすべてがわたしの属性だ。山に住む台湾の先住民族の人たちとは、大きく異なり、異なるだけでなく、力をもった存在だ。その位置を自覚することから、彼/彼女らとの交流をはじめたいと思うし、交流するなかで、その位置を自覚させられるに至ったといえる。同時に、そうした属性のすべてを取り払った自由な関係を、一方で夢見ている。

 

2004.3.17.米国カルフォルニア・デイヴィスにて。以下の友人には未完成稿を読んでいただき、コメントをいただきました。田中亮太郎、吉田寛、安場淳、大坂昇、井上幸子、薛秋玲の各氏です。ありがとうございました。)

 

 

以下は、鶴野美智子氏と薛秋玲氏に、上の原稿を翻訳していただいたものです。

 

台灣原住民交流會十週年誌翻譯稿

我與台灣原住民們的邂逅以及後來的狀況

中村 

 

我第一次直接接觸到台灣的原住民,是在我要從大學三年級升為大學四年級這段時間內休學時,為了探望在台北工作的父親,而到台灣觀光大約二十天的時候。那時候,我在北海道的札幌生活。當時的我,因為不知道該以什麼樣的態度去面對曾經被日本殖民統治、侵略過的台灣人,所以顯得戰戰兢兢的。我覺得有點緊張,也害怕隨時都有可能遭到台灣人排擠。

同時,我心中也有另一種想法。從沖繩到台灣,以及稱為「荷屬東印度」的「南方」是讓我覺得充滿異國情調的地方。因為我想體驗一下什麼叫做「琉球弧」,所以先從東京搭船前往沖繩。我也想親眼看看,因為受到第二次世界大戰的影響,使得美軍基地存在的這個地方。接下來我從沖繩搭船前往台灣。這真的是一趟很悠闢I旅行。回國之後,我開始整理照片與雜物,並且將那個檔案取名為「1994•南方紀行」。

當我進入大學就讀時,我離開了讓我覺得很封閉的東京與老家,前往北海道。因為北方那種「未開發」的感覺讓我也覺得充滿異國情調。進入大學就讀之後,我加入了名為「登山滑雪社」的登山社團,前往我從來沒有去過的山或沼澤,並且徹底的踏遍了北海道這個地方。就在這時候,我有機會去進行「南方紀行」。在我們的社團之中,存在著「海外遠征」這個詞。在東京、關東地區長大的我的心中,確實存在著這種帝國主義的想法。

大學畢業後,經過幾番波折,我在父親的介紹之下來到台灣,並且決定在台灣就讀研究所。當我這次來到台灣的時候,心中還是混雜著上述的殖民統治責任的問題意識,以及「南方」讓我感覺到的異國情調。另外我還感覺到對「日本」的厭惡感、倦怠感。這應該是受到思想比較接近左派的父親影響。也就是說我厭惡認定「主流」、「多數」的價值觀與行動模式。

我想成為一個不屬於任何一個國家的世界主義者。我想成為一個悠闢I在世界各地旅行,藉此享受各種世界文化的世界市民。所以「日本」對我來說,根本是個枷鎖。

但是台灣的人們卻「輕易」的接納當時非常煩惱的我,也熱情的款待我。而我也慢慢遇到許多原住民、包含漢人在內的那些用日文述說著令人懷念之日本時代的老人家…當然,我們必須仔細的想一想我這裡提到的「懷念」,到底包含著什麼樣的經驗與意義。這不能輕易的以「親日的台灣」這句話帶過。因為如果這麼想,就必須考慮到對日本不友善的「反日的韓國」、「反日的中國」。

我想離開「日本」,成為自由的世界主義者的夢想,最後還是遭到挫折。雖然我避開日本人的集團,並且努力的說中華民國的「國語」與泰雅族語,藉此努力的讓我擺脫日本人的樣子,但是台灣的人們還是說我是日本人。

待在在台灣五年的經驗,讓本來對因為背負著殖民統治責任,而過得戰戰兢兢的我改變了。研究人類學,讓心中懷著帝國主義,覺得處處都充滿異國情調的我改變了。關於「責任」這一點,雖然不容易描述,但讓我深深體會到這並不是一個光是道歉就能夠解決的問題。在跟台灣的人們有親密的接觸時,讓我覺得有點必須被動的承擔這個責任。這讓我從必須要負起責任,這種主動、痛苦的想法中被稍微解放出來,並且在這種關係漸漸沈澱下來的過程中,能夠變為被動的立場,不知道是不是該這麼形容呢?現在我還是沒辦法用言語來形容這種感覺。

不知道把這種感覺比喻為戀愛關係或將家庭關係,會不會不妥當。對於自己所愛的伴侶或家人,身為男性、女性、父母親、孩子的我們,並不是一開始就要創造一個僵硬的主體,並且從那裡開始創造接下來的關係。我覺得剛來到台灣的我,都一直在想要怎麼「以日本人的身分」去面對自己的他們這件事情。我想從屬於某個國家的人,變成世界主義者的想法,可能就是因為我無法忍受自己以為自己背負著,而且自己捏造出來的身為日本人之「責任」,而出現的感情。

現在則是有點不同。我覺得因為台灣的人們說我是日本人,並且在交流的過程中存在著被動性,所以才會出現我是日本人的這個主體性。說不定現在不應該再用「主體性」這個詞語了。

雖然我身為日本人,但我並不想要迴避歷史的責任。但我想對「日本人必須負起殖民統治的責任」這個說法,抱持若干保留的態度。因為「必須要負起責任」這個說法,不容易看到別人的臉。別人不容易看到你想聽別人聲音的想法。我想這時候應該把「責任」想成帶有償付能力(responsibility)這種含意的詞。(請參考高橋哲哉氏的文章)

我希望在不會對台灣的人們投注過剩愛情的狀態下,淡淡的語台灣的人們進行交流。因為我認為殖民地時期的日本人,也有著對台灣人們的愛。在交流的過程中,既存的自己會被破壞,並且再創造出新的自己。雖然這麼說有點不妥,但我喜歡享受這個過程。或者是說我認為自己站在這種「強者」的位置上。

擁有日本國籍、人文學系的研究生、中產階級的子弟、領獎學金、住在都市、年輕世代、男性、不信教…這些都是我的屬性。這跟住在深山中的台灣原住民們有相當大的差異。我不只是跟他們有差異,而且還是個擁有力量的存在。我想在自己擁有身處於這個位置之自覺的狀態下語他們交流,也想在交流的過程中,讓我發現身處於這個位置的自覺。(2003.12.29 於加州‧戴威絲)