金子元臣著 萬葉集評釋 第一冊 明治書院 1935.11.7發行(底本は1943.4.20.7刷、初版とは小異有り)
 
(圖版三葉、地圖一枚省略)
 
(1)萬葉集評釋序
 
 私はもと/\奈良の風光が大好きである。况や楢の葉の名に負ふ宮の古言研究を始めてからは、長い期間、おもにこの故京の訪問を仕事にしてゐた。處でその訪問の度毎に、必ず果さなければ氣の濟まぬ事が二つあつた。それは春日野の鹿の人なつこい眼に向きあふことと、千年の昔に響く東大寺の洪鐘を撞くこととであつた。
 東大寺の洪鐘、私はその撞木綱を執つて、滿身の力で一打二打三打した。と響は氤※[氤の因が慍の旁]として鐘孔におこり、鐘樓をゆすり、漸く林木を振ひ、山谷に谺し、虚空に遍滿する。かくして大いなる滿足のもとに窃に得意の笑みを私は洩らした。
(2) 立ち代つて或力者が撞いた。すると流石の洪鐘もそれ自體に震動し、大地は轟き、行雲は停まり、餘音は遠く生駒連山に及んで反響をおこした。
 鐘はおなじ鐘、只撞き手の力量如何によつて、その結果にかくまでの差違を生ずる。もし南大門の執金剛をおこして撞かしめたらば、どうであらう。定めし鯨音は無上法悦の妙樂を奏でて一天は金色の天華を雨らし、地は紺瑠璃の地果を生らしめるであらう。
 萬葉集はわが歌集中における無二の洪鐘であ。梨壺の五人以來、これに對つて撞打を試みた者は全く無數である。その中にも仙覺といひ、契沖といひ、眞淵といひ、宣長といひ、千蔭といひ、雅澄といひ、いづれも究竟なる斯道の俊傑である。然しその人達の打鳴らしてくれた音質と音量とを、篤と試聽してみると、素より立派なるものには違ひない(3)が、大局からいへば、その傾向が偏倚してゐる。撞木の當りがらが片ずんでゐるからだ。これでは執金剛の妙音聲はさておき、その本音すら完全に打出し得まい。偏に遺憾の極みである。
 茲に私は考へた。即ち撞き方の手法を改め、先人の遺した足蹤を踐み易へ、新規の試として、評と釋との二本の撞木を、かはる/”\に揮つて見た。古人いふ「評することは易し、よく評することは即ち難し」と。私は大膽にもこの難しとする方面に向つて好んで突進して、「鐘と撞木のあひが鳴る」玄妙の扉を開かうと試みた。勿論懸命の努力は拂つたものの、自分ながら昨非を悟ることのみで、何時まで經つても雌黄の筆を擱くことが出來ない。假にもその成績が、嘗てお前が東大寺の洪鐘にその得意を誇つた程度のものだと他から認められたら、それこそ私に取つては望外の幸で、愛する野鹿の顔をも潰さずに濟むであらう。
(4) たゞ私はまさに來たるべき、萬葉の洪鐘を思ふさま撞きまくる金剛力土の出現に先立つて、只その露拂ひの役目を勤めるに過ぎないと思つてゐる。
 
  昭和十年十月                   金子元臣しるす
 
〔萬葉集評釋第一冊總目次省略〕
 
(5)凡例
 
一、本評釋第一冊には萬葉集の卷一及び卷二を收めた。
一、本書は寛永板本を以て底本とし、更に他の諸本を參訂した。文中に原本とあるは寛永本のことである。
一、本書は、釋、歌意、評の三大綱を以て組織した。
一、釋は、語釋、訓讀、考異とから成立し、評は背景説明と作歌鑑賞とから成立する。但、各説及び評の標中に分繋して一々に目を設けない。
一、釋は、つとめて詳細と精確とを期して、本文及び題詞、左註にあらはれた事實典故を説明し、辭句を解釋した。
一、評は、先づその語句の大意をあげ、次にその一語一語について精細な考異及び論斷を試みた。前賢の説は一々擧げないが、その大醇なものと大疵のものとに限つて殊更に擧げ、その是非を論及した。
一、又本文の記録文字に就いて深い注意を拂つたことは勿論、音借字の如きも現代發音と異なるものは、一々説明の勞を執つた。
(6)一、歌意は、歌意をそこね調をあやまることを恐れて、逐字譯の方法を採り、一語一字もゆるがせにせず、且省畧の字句ある時は、文意を明確にする程度にこれを補足した。
一、評は、嚴正な史實の上に立ち、その當時の時代精神、社會風潮及び作者の環境等を考察することを怠らず、最後に眼を鑑賞に轉じて、詩昧の如何、評價の如何、格調、修辭上の考究等を純然たる歌人の立場から論評した。  
一、釋、評の既出のものは再掲することを避けた故に、精粗は時に一致せず、又、結論及び論斷ばかりあつて理由の前提を怠つた觀のあるものもあるが、これは學者に最初から秩序だつて通讀されんことを希望したからである。
一、本書の難解なる原因の一は、用語、文法及び省筆法の古代的なること、文字に訛舛、脱漏のあること等にある。因つて、この點を特に明瞭ならしめる爲に心を用ゐた。
一、省筆の箇處を補ふ場合には「何々の畧」或は「何々を補ふ」などと明記したが、以上の注意のないものも、○點を字旁に附したのは悉く補足の語である。
一、訓讀に異説ある場合は、本文に採用した訓を除き、他のものには悉く――線を字旁に附した。
一、文字に異同の論のある場合は、その論爭の中心たる字の旁に、即ち本文に於ては左に、釋文に於ては右に、△印を附して一目瞭然たらしめた。
(7)一、文字の異同の論ぜられる場合、稀に確定的と認められるものは、これに依つて原本を改正したが、尚、字旁に△印を施しておいた。
一、釋及び評の文中に本文を引用することのある場合は、引用された本文の上下に「 」印を附して地の文との混同を避けた。
一、釋及び評の文中に於いて特に注意を要する文字の旁には、※[黒ごま]點を附して見易くした。
一、語釋の既出に屬するものは、なるべくその重複することを避けて、その語の下に既出の頁數を括弧を以て標出した。但、單に既出とのみ記してあるもの、及び語釋の簡單に過ぎてゐるものは、卷尾の索引によつで檢出の上參照することを望む。
一、本文の下に記した亞刺此亞數字は、國歌大觀に從つて歌の順序を示したものである。一、長文に亙る考證等、釋及び評の文中に叙述し難いものは、「雜考」として、別に本評釋の最後に附掲する心組である。
一、繪畫は、古文學研究上缺くべからざる重要のものであり、且、萬葉の如き廣汎なる範圍を有するものにあつては、地圖及び古蹟、動植物、器具、鑛物等の寫眞も亦、必須のものであることは言を俟たぬところである。この點に深く留意した著者は、多きに過ぎると思はれる程、必要に應じて評釋文中に採用した。就中、古蹟風景の寫眞に至つては、悉く著者みづから實地に踏査し撮影(8)したものであることを一言附記する。
一、概觀的總地圖は、この第一卷には近畿の部を二葉卷頭に掲げた。詳密なる部分的な地圖は、卷中各處に必要に應じて分掲した。
一、目次、索引の學者に必須なることは論を俟たない。よつて初二句索引、解釋索引、評文索引の三種の表を作成して、卷尾に收めた。
一、初二句目次は、本文の歌の初二句を順序のまゝに掲げその頁數を示した。
一、解釋索引は、語釋、本文及び附圖、挿繪等を檢索するに便ならしめる爲である。評文索引は、批評文中、特に注意すべき重要なる項目を抽出して、參照に便ならしめた。
一、最後に臨んで、先人に對して附する筈の敬語敬辭を便宜上から省畧したことを、茲に深く陳謝する。
一、尚、私の萬葉集研究に關する主義方針來由等に就いては、卷首の「著者のことば」と題する數篇、及び卷尾の跋文を是非一讀されたい。
   昭和十年九月三十日 
                       著者記す
 
(9)    著者のことば
 
  一、私の研究態度
 
 萬葉集は疑もない國歌の結集である。隨つてその本體は歌そのものである。さては歌を對象として研究することが、眞の萬葉の研究であらねばならぬ。然るにこの最重要なる目的に向つて、眞劍に克明に萬葉の本質を研究したものとては、從來殆どないといつてよい。
 古來多數の學者は、訓詁を以てその萬葉學とした。天徳の梨壺の五人以來近世の鹿持木村の諸家に至るまで、大抵がそれである。訓詁は内容研究の基礎を成す大事なものではあるが、もと/\皮相形骸に屬した部分的研究である。今日はもう訓詁時代でないことは、私が古今集評釋を作つた三昔も前に、唱道しておいたことである。
 現代に至つては、盛に種々な方面から萬葉研究の叫聲があけられてゐる。即ち學者はその專門の立場から或は特殊の立場から萬葉を透見しようとしてゐる。或は史的方面から、或は伝説的方面から、或は言語方面から、或は文化方面から、或は部分的な思想方面から、或は地理的方面から、或は博物方面から考察する。いづれも洵に結構な有益な研究ではあるものゝ、いづれもその視野の狹い天地に跼蹐してゐて、是等相互間の學的連繋の必要なることを忘れてゐる。况やその最も重要なる本質即ち歌集としての萬葉は、殆ど度外視されてゐるといつてよい。萬葉そのものからいへば旁系的研究に過ぎない。耳を執り足を捉らへ、腹を撫でて各それが鼎だと主張するのはその人達の勝手だが、これは哲人の既に嘲笑して置いたことである。鼎の本體は別に嚴として存在してゐる。
(10) 私の主張に稍近いものは、一派の歌人に依つて作された萬葉の扱ひ方である。然しこれは又前者と反對に、學術的基礎を全然考慮しない得手勝手な自己陶醉の所説に蔽はれてゐるものが多い。且悉く片々たる抄出物で、萬葉の全面目を認知することは絶對に出來ない。その他通解的のもの、又は書誌的のものは、茲に云爲する價値をもたない。
 かくて、この鼎の本體とも見るべき、歌としての萬葉集は、千古依然として凡俗の汚染を許さない、之れを仰けば愈よ高く、之れを鑽れば愈よ堅い。
 然るに私は永い歳月を費して自分の非力をはからず、萬葉の本體に向つて正攻法に出で、内容を如實に握んで本質を明らめ、その眞價値を紹介すべく、それは全く蟷螂の斧ではあるが、多少の手答へを感ずるまで鞠躬力を盡して已まぬといふ決心を持つて臨んだのである。成敗利鈍は古聖將と雖も逆賭し難いもの、ましてや隨處に自分ながら不滿の點を發見する本著の如きは、天下後世に對して頗る忸怩たる感が深いが、とにかく前人未踏のこの處女地に向つて第一の鍬を入れたことだけでも、幾分の貢獻を萬葉學の爲に輸したことゝ確信するものである。
 
  二、文獻的物的根據の尊重
 
 既に述べた如く、確乎たる實相の上に立つた研究をモツトーとする以上は、第一に歴史を輕視することは絶對に出來ない。
 私は自分の力の及ぶかぎり、この方面の探究に盡した。即ち國史律令の類は勿論、風土記、靈異記、神樂催馬樂類の歌謠、古社寺の文書その他平安朝の史料等を渉獵し參考した。
 往古からのわが傳銃に培はれた古代人の生活と思想、及び外來の新生活と新思想の檢討、政治上の經緯、經濟上(11)の状態に亙る史實の調査に力め、その他零碎なる資料にまで細心の注意を拂ひ、時代精神、社会風潮、時代文化を如實に考察した。蓋しあらゆる文藝は時代を反映して居るといはれるからは、まづ時代を理解することが何よりも最先でなければならぬ。
 又作家の箇人的性格とその境遇とその作歌の産出された特殊の機会とを多方面から考察し、その事相の要領を把握することに努力したことはいふまでもない。
 又地理的研究は歌によつては非常な重要性を帶ぶることがある。疊水練は實際の役に立たぬ。よつて諷詠にのぼつた歌枕の實地踏査を日本中に試みた。そして時代と時代の變遷とによる地理的状態を觀察し、人文的交渉を考慮した。
 正倉院御物や東大寺寶物や法隆寺その他の寺社に屬する建築物件の實檢は素より、埴輪や彫塑の作品や器財布帛の類に至るまで、出來得るだけ參考資料に採用し、別に考證すべきは考證した。
 又動物植物鑛物類の研究は比較的重要性は少いが、尚その採集とその實査とを怠らなかつた。
 かくの如くにして、各種各樣の知識をこゝに綜合し歸納して、その詠作に對するバツクを作成し、さて作家の環境をそこに關係づけて、その感情の動向を仔細に翫味し、考察することを力めた。
 
  三、私の批評鑑賞の方針
 
 私達は事實上現代的存在である。現代の空氣を呼吸し、その雰圍氣に浮沈してゐる人間である。現代人の知情意を以つて萬葉人の知情意を忖度する。圓鑿方柄、そこに大いなる矛盾がおこり無理が生ずる。况やおなじ時代人で(12)も渾べてが一樣でない、心々である。かく時代的にも大きな逕庭があり、箇人的にも分寸の差違がある。それを自己標準の定規を當てがつて、得手勝手に剪裁する。危險この上もない。大抵は偏見僻見愚見に終始してしまふ。
 近來の人達の古文學に關する批評鑑賞には、動もすれば變態的幻想に耽り、根據の乏しい又は全くない場面を描いて、自己陶醉に陷る嫌がある。私は小説は好きだが、研究と小説とは別物だ。故に力めてこれらの弊から遠ざかつて、眞實なる率直なる紹介者でありたい、説明者でありたい、鑑賞者でありたいと心掛けてゐる。
 私の性格は、よくいへば責任感が強いのであるし、惡くいへば臆病なのである。思ひ切り嘘が吐けない。同じ想像を描くにしてからが、「らむ」の組ではなくて、「らし」の組である。されば私の研究の迹を顧みると、宙を浮くやうな愉快さや不思議さはない。何處までも足が大地に着いてゐる。固く實相に根張らうとしてゐる。あるべかしき事をあるべきやうにいふのだから、一面から見れば常識的である。然しこの常識は、出來得るだけ研究の絹篩を通しての常識であることを理想としてゐる。
 私の歌に對して試みる批評鑑賞の方法には、自家獨特の順序を立ててゐる。
 第一次、直覺的の印象を握む。一唱再唱その諷誦の間ににじみ出る不言の詩味を、如實に感得することに努力する。そこには大いなる同情を以て同化し共鳴し、陶醉することを辭せぬ。
 第二次、はじめて研究の圏内に立入る。まづその時代の史的考察に力め、次に作家の個性、境遇、詠作の機会に就いて檢討し、網の目を張る如く、その背景を作る。
 第三次、解剖的に内容を檢討する。その作家の心的状態を剔抉し、暴露し、その事相を闡明し、説明してみる。それには既成の背景を按排し、投影し、映射させてゆく。
(13) 第四次、歌の外型に就いて吟味する。即ち修辭の如何、構成の如何を考察する。
 第五次、最後に至つて如上の諸研究を打つて一丸となして、集大成の味讀を試み、歌としての鑑賞三昧に入る。
 但この順序は、本書の批評欄においては、あながちに墨守しない。實は執筆に臨んでの感興の奔馳が、かゝる規則的の拘泥を肯んじないので、縱横に我儘に揮灑してゐる。これは求めざる變化とでもいはうか。かくて、平板の弊に墮し易い文字も、少しは興味がもたれるであらう。
 
  四、訓詁と解釋
 
 訓詁は萬葉研究の眞目的から見れば、根幹の學といはれぬことは既に論述した。その本質研究に先立つ、稍こみ入つた準備工作に過ぎない。然しこれが確定せぬ以上は、本質研究に相當の支障を來たすことは又いふまでもない。
 梨壺の五人の古點以來、次點、新點、仙覺點、契沖點、眞淵點、宣長點、略解點、古義點等の外、諸家の訓點は斗を以て量るとも盡きまい。現代においては、古義點が比較的信用あるものとして、一般的に採用されてゐる。
 古義點は後出のものだけに、流石に優れた處が多々あるが、強ひて非難すれば、わざと異説を樹てようと試みた傾向が強い。殊に餘に尚古の癖に偏し、言語の活動を無視し、時代的變化を諦視することを忘れてゐる。畢竟訓詁は更に還元して再吟味する必要がある。私はこの意見から出發して、あながちに古義の訓法に據らない。
 用字の異同は成るべく原文を重視する方針を執り、誤字落字説を力めて避けたいと念願したが、その實現不可能の場合の多かつたことを遺憾に思つてゐる。一時の快を取る大膽な改易は花やかで面白いものゝ、結果は徒らに學(14)者を誤るに過ぎないから、私は小心翼々として穩健の主義を執つた。
 萬葉の歌四千五百首、訓詁の如何、使用文字の如何によつて歌意の左右される程のものは、殆どその二十分一の量もあるまい。されば大局から透觀すると、訓詁の陷穽に墮して狹い青空ばかり覗いてゐることは、何としても達者の仕事でない。かう承知しながらも尚私のこの著書が訓詁に多言を費してゐることは、聊か矛盾のやうだが、これは「評釋」と題した本書の性質上、その責任を感ずるからである。
 解釋は、單語の解説考證に至つては古義の精進につく/”\敬意を拂ふ。歌意を釋するに至つては、諸家各一長一短があり、完全に近いものが少ない。餘説に至つては眞淵の「考」に折々面白いものを發見するが、極めて局部的である。私は前人の遺された數多の業蹟を基礎として、或は整理し、或は訂正し、或は補足し、或は新考を加へ、極力微細に亙つて注解を施さうと試みた。
 訓詁解釋の間には、私の發見に成る新しい所説も相應にある。私は昔から一部の人のする、僅か一二の考説を鬼の首でも取つた如く、新發見と誇稱する態度を喜ばない。故に新説と雖もあながちに特筆してないから、よく文意を注意して讀んで貰ひたいと思ふ。又本書には見えて前人の著書に無い文字は皆私の新研であることを茲に斷つておく。
 
  五、實地踏査と寫眞撮影
 
 苟も萬葉の古香に觸れた者で、身親ら大和故京の土を踏んで、回顧の想念に耽りたいと望まぬ者はないであらう。况や眞の研究に没頭する人達は、特にその地理的考査を必要の急務と感ずるであらう。
(15) 私もやはりその例に漏れず、何回となく訪問の旅を續けたものあつた。が時日が經つと記憶が段々とぼやけて、折角の印象が鮮明を缺いてくる。これではならぬと、永久的參考材料としての寫眞撮影の大願を起した。
 然るに當時は機未だ熟せずで、荏苒日を送つてゐるうち、大正十一年、私が御歌所寄人を仰せ付けられた祝賀記念といふ名目で、門人達から携帶用寫眞機の寄贈に與かつた。喜んで早速撮影に出掛けたが、何がさて伎倆未熟の爲、およそ三年ばかりの業蹟は、全く無効に近いものであつた。
 といふのは、この貴重な材料を自分一人が使用しただけで、そのまゝ秘藏するのもいかゞと感じ、それを圖版にして著書中に挿入する計畫を樹てたからだ。するとこんな藝術寫眞では製版に困るといふ抗議が出、一遍に失望してしまつた。が思ひ返して、よしそれなら本職の技術者を頼んで一緒に往つて貰ふまでのことゝ、伺處までも素志貫徹の一點張で、經費の事などは考へず、豫ての方針に隨つて、改めて寫眞師帶同の旅行を續け、その實現を期した。
 かくして大和は勿論、日本國中に散在する萬葉の遺蹟調査を試みる旁ら、一々これを撮影して歩いた。だがやはり日本は廣い。容易な事では仕事が完了しさうもない。莫大な經費倒れで大いに弱つたが、さりとて乘り懸かつた船、中途で抛棄するのも今更殘念なので、痩我慢に痩我慢を重ね、春風秋雨こゝに十餘年、漸くの事でほゞ成功の運びに近づいた。
 實をいへば、この撮影ばかりでも相應の大事業であつたと思ふ。眞の※[齋の上/非]身粉骨で、それに關しての内外の苦心と困難とは、とても局外者の想像の外である。本書中に挿入の風景寫眞は、その一部に過ぎないが、一枚も他から流用したものはない。これだけが私のせめてもの慰藉である。又莫大な經費を一文も他人の補助に仰がなかつたこと(16)も私の誇である。
 尚この寫眞原板は悉く手許に保存してあるから、他日機を見て、萬葉寫眞帖を作つて、一般學会界に寄与したいと思つてゐる。
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終に臨んで寫眞師三好玉藻君の勞苦を深謝せざるを得ない。長年の旅行にキヤビネ形原板を大抵六七ダース多い時は八ダース位、器械とと共に背負ひ、そして山野を跋渉してくれた。君は若くもあり身體も丈夫だから出來たとはいふものゝ、特別の好意と趣味とがなければ續くものではない。又奈良では多く松岡光夢君を煩はしたことを多謝する。その他各地方で隨時に同行を依頼した寫眞師は澤山あつた。中には大變な仕事ですなといつて、一日で逃げ出してしまつたのさへある。思へばそれも無理はないと、今では笑ひ話しにするものゝ、その際は一寸途方に暮れたものだ。
 
(この間目次、目録あり、省略)
 
(7) 萬葉集卷一
 
    雜歌《くさ/”\のうた》
 
○雜歌 音讀して、ザフノウタ〔五字傍線〕と訓んでもよい。「くさ/”\」は種々の意。この題下には、行幸、遊宴、覊旅、問答の歌があり、その他、相聞、挽歌、譬喩の部に屬け難いものを收めてある。稀にはその例外もある。古今集以降の勅撰歌集に立てた雜歌〔二字傍点〕の目に比較すると、その範圍が頗る廣汎雜駁である。
 この集の部立即ち分類に、大凡六種の綱目を立てゝある。いはく雜歌、相聞、挽歌、譬喩歌、四季雜歌、四季相聞である。この他便宜によつて、又覊旅、悲別、東歌、有由縁歌等の目がある。
 この集の題詞は、漢文體のものゆゑ、悉く國風に訓みつけるのもいかゞと思はれるが、古人訓讀の勞を徒らにするのも本意でないから、多くその訓に從つた。
 
泊瀬朝倉宮御宇天皇代《はつせのあさくらのみやにあめのしたしろしめすすめらみことのみよ》 大泊瀬稚武《オホハツセワカタケノ》天皇
 
泊瀬の朝倉の宮で天下を統治遊ばされた天子の御代との意。これは雄略天皇の御代のこと。まづかく榜標を立てゝおいてその御代の歌を輯めた。卷一卷二及び卷三はこの形式に依つて歌が排列してある。
 天皇の御代の標出が、かく宮名を以て純國風に書かれてあるのは、本集の編纂された頃には、まだ歴代天皇に支那風の謚號が定められてゐなかつた故である。――桓武天皇の延暦四年に至つて、淡海三船が勅を奉じて列聖の謚を撰定して獻つたといはれてゐる。――尤も下注の如く天皇の純國風の禮讃的謚號はもとからあつたけれども、こゝには用ゐなかつたのである。
○はつせ 大和國|磯城《シキ》郡。初瀬川の南岸に沿うた地域の稱で、古への初瀬《ハツセ》國、また初瀬《ハツセノ》郷である。この泊瀬朝倉宮の名稱を見ても、川の南部朝倉村一帶の丘陵地にまでかけて汎く呼んでゐたことがわかる。長谷の字を用ゐるのは、この地が金谷《カナヤ》邊から東の方へ延びて峽谷の形を成し、延長二里にも及んでゐる故であらう。後に中略してハセ〔二字傍線〕と呼ぶ。その名義、川には一の瀬二の瀬の名稱がある如く、川の上つ瀬、即ち初瀬の意とする説もあるが、又|終《ハテ》瀬の義とする説も捨て難い。これは舟運上から出來た語で、この川は大和平原を貫流する諸川の幹線で一番舟漕に適した處から、舟行の利かぬ最上流の地點に終瀬の名が與へられ、遂にそれがその邊の地名と轉じたとも考へられる。先出の字面は多く泊瀬〔二字傍点〕と書かれ(9)てあるのでも、終《ハテ》の義も有力である。○あさくらのみや 雄略天皇の都の稱。その宮址は舊都址要覽にいふ、「今磯城郡朝倉村大字黒崎の東北|字《アザ》天《テン》の森これ皇居の一部なり」と。帝王編年記には、磯城郡朝倉村の磐坂谷《イハサカダニ》の南方二十町ばかりの處とある。新撰姓氏録、秦忌寸《ハタノイミキ》の條に、「大泊瀬稚武天皇御代云々、役2諸(ノ)秦氏(ヲ)1構(ヘ)2八丈《ヤツエノ》藏(ヲ)於宮(ノ)側(ニ)1納(ル)2其貢物(ヲ)1、故(ニ)名(ケテ)2其地(ヲ)1曰(フ)2長谷朝倉(ノ)宮(ト)1」とある。朝倉の名は所所にあつて、校倉《アセクラ》の轉語である。○あめのしたしろしめしし 古義に「現報善惡靈異記に、「御」はヲサメタビシ、「宇」はアメノシタと訓めるが、卷一人麻呂の歌に「ささ浪の大津の宮に天の下|所知食《シロシメシ》けむすめらぎの」とあるが古語と思はるゝ故、シロシメシシと訓めり」とあるに從つた。
 標記の下の「大泊瀬稚武天皇」の七字は雄畧天皇の御稱へ名である。以下標下の天皇の御名の文字は、形式上附註の如き觀があり、且本によつて字に大小があつて統一せず、まさに後人の記入と考へられる
 
天皇御製歌《すめらみことのよみませるおほみうた》
 
天皇即ち雄略天皇のお詠みなされた御歌との意。○おほみうた 「おほみ」は大御の義で最敬語。「御製」は天子の御勞作を稱する漢語。
 
籠毛與《こもよ》 美籠母乳《みこもち》 布久思毛與《ふくしもよ》 美夫君志持《みふくしもち》 此岳爾《このをかに》 菜採須兒《なつますこ》 家吉閑《いへきかな》 名告沙根《なのらさね》 虚見津《そらみつ》 山跡乃國者《やままとのくには》 押奈戸手《おしなべて》 吾許曾居《あこそをれ》 師吉名倍手《しきなべて》
(10)吾已曾座《あこそませ》 我許曾〔左△〕者《あこそは》 背齒〔左△〕告目《せとはのらめ》 家乎毛名雄毛《いへをもなをも》    1
 
〔釋〕 ○こ 和名妙に「籠、竹器也、古《コ》」とある。契沖が、日本紀神代卷の無目竪間《マナシカツマ》を、マナシカタマ〔三字傍点〕と訓み、ここの「籠」をもカタマ〔三字傍線〕と訓んだことに就いて、古義にいふ「※[竹/會]※[竹/青]を古へはカツマ、後に訛りカタミとこそ言ひたれ、カタマは更に聞き及ばず」と。蓋し初二句は三音四音の古調の組織で、神武天皇の御製に、「宇陀能《ウダノ》(3)多加紀爾《タカキニ》(4)志義和難波留《シギワナハル》(6)云々」などの例もあり、強ひて五七調に訓みつける必要はない。○もよ 「も」は歎辭。「よ」は呼格の辭。もや〔二字傍点〕といふに同じく古調の助辭で、平安期には殆ど死語となつた。この集卷二に「我者《アハ》毛也〔二字右○〕安見兒得《ヤスミコエ》たり」、また顯宗紀の「於岐母慕與《オキメモヨ》」を、古事記に「意岐米母夜《オキメモヤ》」とある。「母」の字をモ〔傍点〕と讀むは次音。○みこ いゝ籠。「み」は美稱、眞《マ》に同じい。○ふくし 土を掘る小道具で篦《ヘラ》の類。竹木又は鐵にて作る。フグシ、ホゴシ(以上土佐)フグセ(北越の海人の用具)亦ホグセともいふ。掘串《ホリグシ》を中略した轉語。和名抄に「※[金+纔の旁]、犂※[金+截]又土具也、漢語抄(ニ)云(フ)、加奈布久之《カナフクシ》」とある。これは通常の掘串《フクシ》の木竹などで作るのと區別した名である。「君」の字クの假名に用ゐた。以下かく漢字の長音が短音に使用されたものは一々に註しない。○もち 持ちて〔三字傍点〕のて〔右○〕の辭をわざと略いた。○をか 「岳」は丘と同じい。字鏡に小陵(ヲ)曰(フ)v岳(ト)、乎加《ヲカ》とある。○に 「爾」をニ〔傍点〕に讀むは呉音。○なつますこ 菜を摘まれる娘よ。「菜」は食料と(11)するに足る菜蔬の總稱。海のをも山のをもいふ。「摘ます」は摘む〔二字傍点〕の動詞の第一變化摘ま〔二字傍点〕が再び左行四段に活いたもので、敬意又は親愛の意を表はす古代の語法。「兒」は若い女を信愛して呼ぶ語。古義に「男女にわたりていふ語なれど、女兒は殊に父母に愛せらるゝ情深きものなれば、おのづから女兒をさしていへるが多くなれり。縵兒《カツラコ》、櫻兒、安見《ヤスミ》兒など、やがて女の名につきたり」と。○いへ こゝの家は家名即ち氏の類をさしたもの。住家ではない。先註みな誤まる。○きかな 聞かむ。「な」は未來の助辭でむ〔傍点〕と同じだが、む〔傍点〕は弘く自他にかけていひ、な〔傍点〕は自分の上にのみ用ゐる。集中に「梅の花さきたる園の青柳をかづらにしつつ遊び暮らさな」(卷五)「山おろし風な吹きそとうちこえて名におへる森に風祭せな」(卷九)など例が多い。「吉」の字はキ〔傍点〕の假名に用ゐた。「閑」の音カン〔二字傍点〕をカナと訓むは信《シン》をシナ〔二字傍点〕と讀むの類で、語尾がn韻だからである。又「吉」を一本に告〔右△〕とあるのによつて、考には「閑」を閇〔右△〕の誤として、告閇をノラヘと訓み、亦古義に、「閑」は無論誤字にて告勢《ノラセ》ならむといつたのは、いづれも牽強である。○なのらさね 名|告《ノ》りなさいな。「のらさ」は告《ノ》るの第一變化の「告ら」を再び四段に活す古代の語法で、敬意又は親愛の意を表はすこと、上の「摘ます」と同じい。「ね」は命令ながら希望に近い意の助辭。「小松が下の草を刈《カラ》さね」(卷一)「情《コヽロ》示《シメ》さね」(卷四)「なが名|告《ノ》らさね」(卷九)等用例が多い。略解に「のらさね〔四字傍線〕を約むればノレとなる、名告れといふに同じ」とあるは、甚しい反切の濫用である。○そらみつ 大和《ヤマト》にかゝる枕詞。神武紀に「及(デ)v至(ルニ)d饒速日命(ノ)乘(リテ)2天(ノ)磐船(ニ)1而翔2行《メグリテ》大虚《オホゾラ》1也|睨《オセルニ》c是|郷《クニヲ》u而|降之《アマクダリタマフ》、故《カレ》因(リテ)目(ケテ)之曰(フ)2虚空見日本國《ソラミツヤマトノクニト》1矣」とある。虚空から見たのなら虚從見津《ソラユミツ》でなければならぬ。然し言語は意義の当否を超越して變化して行くもの故、永い傳承の間に、虚從見津が虚見津と略されてしまひ、それが記録されたと考へれば何でもない。古義の「虚御津ならむ。御は美辭、津は饒速日命大空を榜ぎ廻らしゝ時こ(12)の山跡を見つけて天降りまし、その磐船を泊め給ひし津なる由にて大和國といひ續くるか」とあるは、神武時代としては天地の差別が分明でない。○やまと 大和。こゝは狹義の用法で、日本のことではなく、手近い大和國だけを指した。尚次の歌「やまとには」の條(二○頁)を參照ありたい。「やまと」の語義については諸説あるが、こゝには直接の關係がないから略く。「跡」をトと訓むはアト〔二字傍点〕の上略。○おしなべて 押靡かせて。後撰集冬「薄おしなみ降れる白雪」のおしなみ〔四字傍点〕もオシナベの轉語である。「押し」は多く廣くかけ渡す意。○あこそをれ 大和國中人の多い中に、吾こそこゝの主として大坐《オハ》すとの意。他は然らずとの餘意を含む。「あ」はわ〔傍点〕(吾)の古言。これ及び次の二つの「あ」はワ又はアレ、ワレと訓んでもよいが、成るべく古言に訓んだ。「許」をコ〔傍点〕と讀むは呉音。○しきなべて 押竝べて領《シ》ること。「しき」はしりの轉語。山振を山ぶきといひ、又羽振りをを羽ぶきといふ如く、リ〔傍点〕とキ〔傍点〕とは相通である。「しり」は領知する、支配するなどの意。「敷坐《シキマス》國《クニ》」「太敷坐《フトシキマス》」などの敷《シ》き〔傍点〕も同意で、「敷」と書くは借字。玉の小琴に「師の字を上句へ付けて居師《ヲラシ》と訓むは誤。「吉」の字舊本に告〔傍点〕とあるによりて、ノリナベテ〔五字傍線〕と訓むもいかゞ」とある。○あこそませ 「座」の字「ませ」と訓む宣長説による。自分に敬語を使ふことは昔の貴人には多い。即ち須佐之男命が「御《ミ》心すがすがし」と詔ひ、八千矛神が「八千矛の神の命《ミコト》は云々」と詠み、この天皇亦「あぐらゐの神の御手もち、ひく琴に」と詠まれてゐる。考はヲレと訓んだ。○あこそは 考に上例に依つて曾〔右△〕の字を補ふとあるに據る。紀州本には曾者〔二字右△〕とあるよし。宣長は「我許者」をワヲコソ〔四字傍線〕と訓み、「者」を曾〔右△〕の誤とした。然しを〔右△〕の辭があつては次句の意と扞格が生ずる。○せとはのらめ 汝の〔二字右○〕夫とは宣言しよう。「せ」は夫で、せな〔二字傍点〕ともいふ。妹《イモ》に對した語。もと女性より呼ぶ男性の總稱。「背」は借字。「のらめ」はいひ出でよう〔六字傍点〕の意。上に「こそ」と係つたからむの助動詞が(13)已然形のメ〔傍点〕となつた。考は「齒」を齡の同字としてトシ〔二字傍線〕と訓んだ。木村正辭いふ「こゝの本文、もと止〔右△〕の字ありけるが、下の齒の字の上部と同じきが爲に、同字の書損と心得て省きたるならむ。されば止齒《トハ》と訓むべし」と。今は正辭の説に從つた。紀州本、六條本は「背」の下に爾〔右△〕の字がある。古義に「跡の字の扁滅せて遂に爾と誤れるなるべし。故に跡〔右△〕の字を補ひて跡齒《トハ》と訓むべきか」とあるは甚だ煩しい。尚「あこそは」以下の二句の本文は、諸本異同があり、元暦校本、類聚古集、古葉略類聚抄等に「我許背齒告目」とあるにより、これをアレコソハノラメ〔八字傍線〕と一句に訓む説もあるが、歌意に大きな矛盾を生ずるので肯け難い。又「告目」が類聚古集には告自〔右△〕とあるので、ノラジ〔三字傍線〕と否定に訓む人も最近あるが、恐らく意義をなさぬであらう。○いへをもなをも 汝の〔二字右○〕の家をも名をも告れ〔二字右○〕の略。「あこそ」以下の意を宣長、雅澄が、我をこそ夫として家をも名をも告げよと解したのは、甚しく本文の意に齟齬する。これは上にアヲ〔二字傍線〕と訓んだ結果である。「乎」をヲ〔傍点〕の假字に用ゐるのは呉音ウ〔傍点〕の轉訛である。
 
【歌意】 籠よ、その見事な籠を持ち、掘串よ、その結構な掘串を持つて、この岡で若菜を摘んで居られる娘さん、そなたの家名を聞きたい、そなたの名を仰しやい。抑もこの大和の國は、押靡けて自分が治めて居るのです、敷きならして自分が支配して居るのです。かう身分を明した以上は、自分こそそなたの夫とはいひ張らうよ。さあ、そなたも早く、自分の家名をも名前をもお打明けなさい。
 
〔評〕 全篇の結構が同語の重疊、同一語形の排對を以て始終してゐる。これは同じ音調の繰り返しに基いた辭樣であつて、この種の修辭は何れの國にあつても、文學のさ程發達せぬ時代かち行はれてゐる。蓋し人間の肉體に(14)既に一定のリズムを有することは生理學上認められる所で、隨つて五官四肢の活動にも同調のリズムが生じて來る。されば内生活を表現する言語にも亦リズムあるは當然で、それが五七調或は七五の音となつて反覆され、一の詩形を成す所以は、精神から始めて唇舌の末に至るまで、皆リズムの諧和を以て安定を得るからである。さればこれを聽く者も亦聽覺の自然に協つて、快感を起すこととなるのである。
 かく同音調の繰り返しは人間の本能に原づいた律的運動の一つといふべきものであると考へると、その原始時代から發生してゐたことは全く爭ふ餘地はない。さればいづれの民族の歌謠を檢しても、まづこの形式がその先驅を成してゐることを發見する。かくて一音の操り返しから二音三音四音五音などの各自の繰り返し、又は七音の繰り返し、更に五音七音を成句としての繰り返しとなり、遂に一節の繰り返し、二節の繰り返しと擴大され、尚この他にも各種各樣の反復樣式を建立するに至つたものである。短歌の成立もこの根本原理から出發し、長歌は更に、その延長によつて成立し、旋頭歌とは別種の構成であるものゝ、反覆樣式を基礎とすることは勿論である。
 初頭まづ極めて無造作に出て、何でもない籠や掘串を擧げて讃美してゐるのは、それだけでもかやうにめでたい以上は、少女の容姿はどれ程であらうかとの好奇の眼を※[奇+支]てしめ、讀者の心を力強く捉へてしまふ。固より「この岳に菜摘ます兒」の一句を下すのが目的であるが、冒頭からこの句を著けるのは唐突の嫌があるので、先づ女兒の携帶品を捉へて讃美した。所謂「人を射るに先づ馬を射る」の筆法で、猶豫低徊の味ひを深からしめる。「この」は近稱の指示であるから、天皇と女兒との距離は、極めて相接近してゐたと見られる。さてこそ下の、家をも名をも聞かうとのお言葉をいひ懸けられるのに、最も好都合な位置であらう。平安時代になる(15)と、上流婦人は滅多に外出せぬ風習を作つたが、上古では、野邊に遊行して菜など摘むことは、必ずしも賤女に限らなかつた。神武天皇の御時、伊須氣餘理比賣《イスケヨリヒメ》が七人の處女達と共に、高佐士野《タカサジヌ》に逍遙なされたことなどを思ひ合はせるがよい。尤も上流婦人の野遊は比較的少なからうから、こゝはまづ普通の良家の處女位の見當に見て間違はなからう。「家聞かな」と家名を御承知なりたいやうに仰せられたのでも、それが全くの賤女でないと推斷してもよからう。
 「家聞かな名告らさね」の二句は一篇の眼目である。一節幾多の語言を費して來たのも、歸する所は只この眼目を點出する爲の前提に外ならない。そして「聞かな」は我れを本としていひ、「告らさね」は彼れを基準として出た語で、自他の應接に頗る姿致がある。後世の軍記物語などに、陣頭に馬を進めて、「こゝに寄するは何人ぞ、名告れ聞かむ〔六字傍点〕」といふのと同一筆法である。
 次に「虚見つ」の枕詞によつて端を起し、風調こゝに一變して頗る莊重の趣を成し、帝王の氣象さながら天地に※[石+旁]※[石+薄]する概がある。誠に前節の風流情痴とよき對映である。下の四句一對は、聊か詞を易へたのみの疊語である。變態的反覆である。尚注意すべきは、かく我れは大和の國の君ぞと仰せられたのは、御自身の身分を先に明して、間接に家をも名をもお告げになつたものである。詰りは女兒の家名を強ひても告らせようとの御手段である。
 前段の二つの「吾《ア》」と、二つの「こそ」とを承けて、さて「吾こそは」と應接した姿致には、不言の妙味がある。又かく「吾こそ」の三疊をまで試みたのは、重きを御自身に歸して、注意を此方へ傾けさせよう引き付けようとの御努力であらう。結句は第一段の「家聞かな名告らさね」の首尾であつて、一句に二句の意を籠めた(16)のであるから、委しくは「家をも聞かな、名をも告らさね」とあるべきであるが、然しそれでは冗長でもあり、又變化を求める爲にも、わざと前段の句意に讓つて簡略にいひさしたのである。反覆の結果はその意が強調されるから、家と名とを聞かむと望むその熱心さが等閑でない趣も見えるではないか。然るにこの結句を、天皇御自身で家をも名をも告げるぞとの意に解する説もあるが、諾けられない。
 古へは女が諾けひいて夫と思ひ許す人の外は、家をも名をも顯はさないのが例であつた。神代紀一書に、皇孫瓊瓊杵尊が、
  遊2幸《イデマシテ》海濱《ウミベタニ》1、見《ミソナハス》2一(リノ)美人《ヲトメヲ》1。皇孫《スメミマ》問(ヒテ)曰(ハク)、汝(ハ)是(レ)誰(ガ)之|子耶《ムスメゾ》。對(ヘテ)曰(ハク)、妾《ヤツコハ》是(レ)大山祇神之子《オホヤマツミノムスメ》、名(ハ)神吾田鹿葦津《カムアダカアシツ》姫、亦(ノ)名(ハ)木花開耶《コノハナサクヤ》媛云々。  (日本紀、卷二)
とあるのを始として、本集中にも、
  みさごゐる磯みに生ふるなのりその名は告らしてよ親は知るとも (卷三―362)
  住の江の敷津の浦のなのりその名は告りてしを逢はなくも怪し  (卷十二―3076)
  たらちねの母が呼ぶ名をまをさめど道ゆく人を誰れと知りてか  (卷十二―3102)など多くその證がある。娉《ツマド》ひするには又、まづその氏名を問ふのが一般の古代風習だつたのである。
 更にいふ、上古では婦人達が野外の遊を好んでしたらしいので、隨つてそこは又絶好の見合場所でもあつたに相違ない。神武天皇は、高佐士野に樂しく遊行すを七人の處女達を御覽になつて、その中の伊須氣余理比賣を皇后にお求めになつた。その時媒人役の大久米《オホクメノ》命が、
  やまとの高佐士野を、七ゆく少女ども、誰をしまかむ   (古事記中、神武記)
(17)と、まづ思召を伺ふと、天皇は、先頭に立てるのが姫であることをお知りになつて、
  かつがつもいや先立てる、えをしまかむ (同上)
と仰せられたので、大久米命は思召の趣を傳へ、姫はこれを諾して、仕へまつるべき旨を申された話がある。然るにこの御製は形式的に多少の潤飾はあるが、内容は情熱の炎々たる迹が見えない。只國の主權者であるぞといふ宣言で押附けてゆかうとなさる傾向が著く目立つてるる。却つて記にある、丸邇佐都紀臣《ワニノサツキノオミ》の女|袁杼《ヲド》姫を婚《ヨバ》ひに春日に幸し給うた時、誰れとも知らぬ少女が、行幸の列を見て岡邊に避け隱れたのに、
  をとめのい隱る岡を 金※[金+且]《カナスキ》も五百箇《イホチ》もがも ※[金+且]き撥《ハ》ねるもの  (古事記下、雄略卷)
とお詠みになつた御製の如き、その情熱の爆發に、五百箇の金※[金+且]を以て岡を鋤き平げて、少女の姿をあらはしてやらうとまで仰せられたのには、遙に劣つてゐる。金※[金+且]の御製は實に人麻呂の「妹が門見むなびけこの山」、業平の「山の端にげて入れずもあらなむ」などと同調の快語で、豪宕千古に絶するものである。尚思ふに、籠毛與の御製と金※[金+且]の御製とは、或は同時の御作でもあらうか。場所といひ、人物といひ、事情といひ、すべてが殆ど合致してゐるではないか。さては、春日あたりを遊幸なされた時に、岡の邊に籠や掘串などを持つて摘草してゐる少女にお遭ひになり、先づ籠毛與の御歌を以てその意を通じようとなされたのに、少女は恥ぢ恐れて岡邊に逃け隱れたので、天皇は思慕の御心がいやが上に高まつて、遂に金※[金+且]の御歌となつたのではあるまいか。籠と掘串とから、おのづから金※[金+且]が御聯想に上つたらしく思はれる。但これは試みにいふのみで、敢て斷言する論據はまだ無い。
 この御製は、起首から古調で、音數の長短が等しくなく、あながちに五七調の定型を追はないところが、お(18)のづから奈良時代には見られぬ體裁で、一層素朴の味ひを深めてゐる所以である。
 
高市崗本宮御宇天皇代《たけちのをかもとのみやにあめのしたしろしめししすめらみことのみよ》       息長足廣額《オキナガタラシヒヒロヌカノ》天皇
 
高市の飛鳥の岡本の宮で世を治められた天皇の御代との意。これは舒明天皇の御代のこと。○高市 大和國高市郡。大和平原の南端に當り、地勢漸く南に高く、遂に高取、多武、音羽の山岳となる。飛鳥《アスカ》、藤原、檜隈《ヒノクマ》、越智《ヲチ》、巨勢《コセ》などの地方を包有する。○崗本宮 舒明紀に「二年冬十月壬辰朔癸卯、天皇遷(リマス)2於飛鳥(ノ)岡(ノ)傍(ニ)1、是(ヲ)謂(フ)2岡本(ノ)宮(ト)1」とあつて、飛鳥《アスカノ》岡の麓にある皇居なので名づけられた。飛鳥の岡は今の岡の街地の東に接して南北に連亙した岡で、逝囘《ユキヽ》の岡とも長岡ともいふ。宮址は多分今の岡の市街地の邊であらうと考へられる。喜田貞吉氏が雷(ノ)岡の麓と推定したのは賛成し難い。尚下の「明日香(ノ)清御原(ノ)宮」の條(九九頁)を參照。又飛鳥のことは本卷「飛ぶ鳥の(19)あすかの里を云々」の歌(二六八頁)の條を參照ありたい。「崗」は岡の俗字といひ又正字ともいふ。○息長足日廣額天皇 これは舒明天皇の御稱へ名である。
 
天皇登2香具山1望國之時《すめらみことのかぐやまにのぼりましてくにみしたまへるとき》、御製歌《みよみませるおほみうた》
 
舒明天皇が香具山に登つて國見をなされた時お詠みなされた御歌との意。○香具山 大和磯城郡(もと高市郡)香山村大字|戒外《カイゲ》にある。神武紀に「香山|此《コヽニ》云(フ)2介遇夜摩《カグヤマト》1」とある。土人は「具」を清んで唱ふる。この山及び畝火、耳無《ミヽナシ》を、古くから大和の三山として並び稱へた。蓋し大和平原の南部に鼎立して、卑いながら目につく故であらう。この山西方より見れば丸い形をしてゐるが、北面より望んだ處はやゝ扁平な稻塚形で、山脚廣く盤踞し樹木が蓊欝として、歌には「取よろふ天の香山」と詠まれてある。高さは大約百四十八米突、四町或は五町餘で山顛に達することが出來よう。神武紀にこの山の土を取つて平※[公/瓦]《ヒラカ》を作つたことが見える。尚次の「あめのかぐ山」の項を(20)參照(二一頁)。○望國 國見《クニミ》の語を強ひて漢字に充てたもの。「國見」は、春高い處に上り一國の形勢を觀望すること。これには軍事的のもあらう、政治的經濟的に屬するのもあらう、單に探勝的なのもあらう。前二者は治者の所爲であるから、天皇及び牧民の官吏の國見は重にこの種のものである。神武紀に「陟《ノボリ》2彼(ノ)菟田《ウダノ》高倉山(ノ)嶺(ニ)1瞻2望《ミソナハシタマフ》城(ノ)中(ヲ)云々」、又「因《カレ》登(リ)2腋上※[口+兼]間丘《ワキガミノホヽマノヲカニ》1而廻2望《ミワタシメタマヒ》國状(ヲ)1」などあるのは、皆國状の如何、民戸の盛衰如何を察するのである。集中「神代より人の言ひ繼ぎ國見する筑羽の山を」(卷三)「雨間《アママ》あけて國見もせむを故郷の花橘は散りにけるかも」(卷十)などあるのは常人の國見である。すべて國見の稱のある處は、丘にせよ山にせよ遠望の利く處である。
 
山常庭《やまとには》 村山有等《むらやまあれど》 取與呂布《とりよろふ》 天乃香具山《あめのかぐやま》 騰立《のぼりたち》 國見乎爲者《くにみをすれば》 國原波《くにはらは》 煙立龍《けぶりたちたつ》 海原波《うなはらは》 加萬目立多津《かまめたちたつ》 ※[立心偏+可]怜〔二字左△〕國曾《うましくにぞ》 蜻島《あきつしま》 八間跡能國者《やまとのくには》     2
 
〔釋〕 ○やまとには 「やまと」は今都のある大和(ノ)國を指す。尚「やまと」には三種の用法がある。(1)は大和の國稱、(2)は大和の京師の地及びその附近の稱、(3)は日本の國號である。「には」は大和に限つて特に表出した辭法だか(21)ら、他の國に對へた意となる。「常」をト〔傍点〕の假名に用ゐた例は、集中、「在常《アリト》いはなくに」(卷二)「あふや常《ト》念《モ》ひて」(同上)「春雨をまつ常《ト》にしあらし」(卷四)など多く、山の常陰《トカゲ》の常《ト》の字と同じくトハ〔二字傍点〕の下略。然し唐棣《タウテイ》花を常棣花とも書くから、常の字にタウの音の存在したことがわかる。七陽の韻字が三冬の韻に轉じた例はまゝあるから、タウ〔二字傍点〕がトウ〔二字傍点〕に轉じ、その短音のト〔傍点〕がこれに充てられたと見られぬこともない。「庭」は借字。○むらやまあれど 群山はあるが。「村」は借字。燈に「有等」を清んでアリト〔三字傍線〕と訓んだのは意を成さない。「等」は清音であるが、今はド〔傍点〕の濁音に假用した。○とりよろふ 「とり」は動詞の意を強める接頭語。「よろふ」は完備すること。こゝは山の形の具足して足り整つてゐるのを稱めた。鎧《ヨロヒ》の語も隙間なしに足り整はせて覆ふからの名である。○あめのかぐやま 記の倭建命の御歌にも「久方のあめのかぐ山」と見えて、「天」はアメ〔二字傍点〕といふのが古言で、アマは轉語である。紀記の所載によれば、神代に高天原にこの山があり、天照大神が岩戸にお籠りなされた時、大神の御心をお取り申す爲に、八百萬の神達が神議りに議つて、香具山の五百箇《イホツ》の眞賢木《マサカキ》を根こじにこじ、又この山の鹿の肩骨、波々迦《ハヽカ》、日蔭蔓《ヒカゲノカヅラ》、小竹(ノ)葉を取つて祭祀の用に供したことが見え、(22)又神代紀に伊邪那美(ノ)神の神去ります條に「御涙に成りませる神は香山の畝尾《ウネヲ》の木の本にいます云々」と見え、神武紀に「宜(シク)取(リテ)2天(ノ)香《カグ》山(ノ)社《ヤシロノ》中(ノ)土《ハニヲ》1以造(リ)2天平※[公/瓦]《アメノヒラカ》八十枚《ヤソキヲ》1云々」と天つ神が神武天皇にお命じになり、遂にこの山の土を潜に採り得られたことが見えてゐる。この香山は大和國のである。眞淵いふ「天上の迦具《カグ》山に擬へて崇み給ふ故に天乃ともいふ」と。伊余國風土記《イヨノクニノフドキ》に「伊豫(ノ)郡自(リ)2郡家《グウケ》1以東北(ニ)在(リ)2天山1、所《ユヱ》v名(クル)2天山(ト)1由|者《ハ》、倭(ニ)在(リ)2天(ノ)加具《カグ》山1、自(リ)v天|天降《アモル》時二(ツニ)分(レ)、而以(テ)2片端(ヲ)1者天2降(シ)於倭(ノ)國(ニ)1、以(テ)2片端(ヲ)1者天2降(シキ)於此土(ニ)1、因(レ)謂(フ)2天山(ト)1本也」とある。――仙覺抄所引の阿波風土記にも同樣のことが出てゐる。――この傳説によれば、天上の香山がこの國土に降りても元の稱を存して「天の」といはれたとなる。集中「天降付《アモリツク》天の芳來《カグ》山」(卷三)と詠んだのもこの典故によつたのである。上古の傳説神話の類、妄誕不稽なものですらも、その時代には相當の存在價値を有して居て信憑されてゐたものだから、後世の見から一概に抹殺してしまふべきではない。况や高天原の香山とこの國土の香山とを混一に扱つたのは頗る詩的で、趣味の饒い物語である。この説を一歩進めて學術的に論じたのが高天原即大和國説になる。さてこゝの「あめの」は單に美稱として慣用せられた語と見るのが至當であらう。○のぼりたち 山の上に登り立ち。「騰」は借字。○くにはら 「國」は大小に關はらず、凡て人の境を立てゝ住む處の稱。「原」は平にうち開いた處をいふ。人體の腹ももとは同意味から出た語。○けぶりたちたつ 人家の炊煙が立ちに立つ。「煙」は仁徳紀に煙氣《ケブリ》(23)とあるもので竈の煙のこと。煙はまた霞や靄のことをもいふが、それが立ちに立つとするとぼやけて何も見えないから、下に「うまし國」と稱へる理由にならない。「立龍」の龍〔傍点〕は借字。舊本に籠〔右△〕とあるのに據つて、略解はコメ〔二字傍線〕と訓んだが、舊本はそれを尚タツ〔二字傍線〕と訓んであるから、古寫本、拾穗本、類聚抄等に「龍」とあるのが正しいのであらう。○うなはら 海《ウミ》の原の略轉。多く波良〔二字傍点〕と書いてあるから清んで訓んだ方がよい。この海原は香山の北麓にあつた埴安の池を斥す。古へは池も海も湖も皆海といつたのである。その例は枚擧に遑がない。契沖がこの海を難波の海としたのは甚しい失考である。埴安の池のことは、下の藤原宮御井歌の條、「埴安のつつみ」を參照(二〇五頁)。○かまめ 鴎。平安朝後にはカモメ〔三字傍点〕といふ。これに大小二種あり、陸地深く來るのは小さい方である。その聲猫に似てゐる。水禽類中の長翼類。○うましくにぞ 結構な國であるぞ。「國」と「ぞ」との間になる〔二字右○〕の助動詞が含まれてゐる。「うまし」は心にも耳にも口にも感じのよく美しいのを讚めていふ語。故にたぬし〔三字傍点〕、面白し〔三字傍点〕、あはれ〔三字傍点〕などいふ意の處に用ゐられる。「ぞ」は押し強むる意の辭。「※[立心偏+可]怜」は可怜〔二字右△〕と書くが正しいが、下の怜の扁を上の可にも加へたのである。かういふ事例は誹諧、爛※[火+曼]の類、書寫字には珍しくない。さて「可怜」は神代紀に可怜小汀をウマシヲバマと訓んだ例によつて、ウマシと訓む。舊訓はオモシロキ〔五字傍線〕とある。又原本に怜※[立心偏+可]〔二字右△〕とあるは轉倒の誤。○あきつしま 神武紀に「三十有一年夏四月、皇輿《スメラミコト》巡幸《メグリイデマシテ》因(ツテ)登《ノボリマシテ》2腋上※[口+兼]間丘《ワキガミノホヽマノヲカニ》1而|廻2望《メグラシオセリテ》國状《クニノサマヲ》1曰(ハク)、妍哉《アナニヱヤ》、國之《クニミテ》獲(ツ)矣。雖(ドモ)2内木綿之眞※[しんにょう+乍]國《ウツユフノマサキクニト》1、猶2如《ゴトクモアルガ》蜻蛉之臀※[口+占]《アキツノトナメノ》1焉。由(テ)v是(ニ)始(テ)有2秋津洲《アキツシマ》之|號《ナ》1也」とあり。もと葛上郡に廣く亘つた地名と思はれるが、孝安天皇がそこに秋津島の宮を立てられてから以後、百年餘も代々宮居なされたので、逐には汎く蜻島倭〔三字傍点〕といひ續けるやうになつた。
【歌意】 大和の國には多くの山があるけれども、中でも足り整うて立派なのはこの天の香山だ。この香山に登攀(24)して國見をすると、平野には炊煙が賑はしく立ちに立ち騰り、埴安の池には鴎が盛に舞ひ上り舞ひ上りしてゐる。まことに我が治める大和の國は結構な國ぢやなあ。
 
〔評〕 突如「大和には」と劈頭第一に喝破してゐる。普通ならば枕詞でも置くべき場合であるが、體製短小であつて、さういふ餘地が無い故であらう。さてこの初句は、結末の「大和の國は」に呼応してゐる。「むら山」は例の耳無、畝火は勿論、三輪山もあらう、初瀬山もあらう、高圓山、春日山もあらう。それらの中に、「取りよろふ天の香具山」と飽くまで讃美したのは、この山に國見する理由をまづ宣言したのであつて、それは又間接に大和國の讃美にもなるのであるから、おのづから結句への匂をもつた筆法でめでたい。次に、「國見をすれば」の一句は、實に第二段に轉捩する楔子である。
 第二段、「國原は煙立ち立つ」の前對は、帝王としての立場からの御觀察であつて、仁徳紀に、
  四年春二月己未朔甲子、詔(シテ)2群臣1曰(ハク)、朕《ワレ》登(リテ)2高臺《タカドノニ》1以遠(カニ)望(ムニ)之、煙氣《ケブリ》不v起《タヽ》2於|城《クニノ》中(ニ)1、以爲《オモフニ》百姓《オホミタカラ》既(ニ)貧(クシテ)而家(ニ)無(ケン)2炊(グ)者(ト)1。  (日本書紀、卷十一)
  七年夏四月辛未朔、天皇|居《マシテ》2臺上《タカドノニ》1而遠(カニ)望(ムニ)之、煙氣《ケブリ》多《サハニ》起《タツ》。是日語(リテ)2皇后(ニ)1曰(ハク)、朕《ワレハ》既《ハヤ》富(メリ)矣、豈有(ラン)v愁乎(ト)。 (同上)
とある當時の趣が聯想される。かく平野に煙の賑はしげに立つのを御覽になつて、國民の生活の豐かさを察せられ、それを深くお喜び遊ばされた御樣子は、御詞の上に強く現はされてゐる。又、「海原はかまめ立ち立つ」の後對は探勝的の立場からの御觀光である。埴安の池ばかりでなく、すべての造り池は即ち貯水池で、平生は物寂しい處であるが、丁度この度供奉の官人達が物珍しげに舟遊を試みたので、圖らず白鴎の閑眠を驚かしもし(25)たらう。この池が常に賑つたのは、この時代より少し後れた藤原宮時代であつたらしく、大宮人達は朝夕に舟遊びなどもしたやうである。鴨(ノ)君足人の香具山の歌に、
  あもりつく天の香具山 霞立つ春に至れば 松風に池浪立ちて 櫻花木のくれしげに 奥《オキ》邊は鴨つま喚ばひ 邊津べに味村《アヂムラ》さわぎ 百磯城の大宮人の 退《マカ》り出で遊ぶ船には 梶棹もなくてさぶしも 漕ぐ人なしに
    反歌
  人漕がずあらくもしるしかづきする鴛とたかべと船のうへに住む   (卷三―257.258)
と詠んだのは、藤原宮時代、高市皇子御在世の折の殷盛を偲んだものである。〔頭注、支那では現在も池を海と稱し、北京など宮苑からはじめて、數多ある池を、北海中海南海什刹海後海などいつてゐる。〕
 さて里の賑ひを煙を以て象徴し、海の賑ひを鴎を假りて表現したのは、巧な叙述といへる。里ばかりでなく水上までも賑はつてゐることは、畢竟大和のうまし國たる具象的説明ともなつてゐるのである。然しその國原といひ、海原といふものが、實は極めて狹隘な地域内であることを思ふと、甚しい誇張の感を與へられるやうでもあるが、それは現代人の考で、古代にあつては、これはかゝる場合普通に行はれた用語である。只「煙立ち立つ」と人煙の盛なること、「かまめ立ち立つ」と鴎の盛に遊翔することを叙した趣に、わづかな誇張があると察せられる。
 末段は「蛉島大和の國はうまし國ぞ」といふを倒装して、6、5、7音の組織で、意調を強め諧へたのである。「大和の國は」の一句は、第一段の起句「大和には」とある首尾で、又全篇の眼目である。香具山の取りよろうてめでたいのも、煙立つ里の榮えも、鴎舞ふ海の賑ひも、畢竟「大和の國はうまし國ぞ」の結論を求める爲の襯染に外ならない。
(26) 芳樹は、山國の大和に鴎の棲む筈が無いから、埴安の池にゐたのは鴨であつて、「かまめ」は鴨群《カモムレ》の約轉だと釋した。一往尤なやうだが、然し當時の地理的状勢を考案すると、あながちさうでないらしい。昔の難波の浦は現今よりもずつと奥深く灣入して八十島を作つてゐたことは周知の事實で、その上に河内の北部、即ち生駒山の麓には、南北に長い草香江《クサカエ》が大きく横はり、大小の河川沼澤で難波の浦に連絡してゐた。されば草香江のあたりには鴎は常にゐたであらうことは當然想像される。その鴎が、程近い二上山と立田山との間の大和川の水を慕つて溯ると、もう直に大和平原は展開して、香具山の麓なる埴安の池の水光がまづ眼に入るので、そこに暫しの安住を求めて游弋を試みたであらうことは、決して無理な臆測ではあるまい。いや臆測どころかそれは全く事實といつてよく、現に山國の信濃の諏訪湖あたりでも鴎が來てゐることがある。
 舒明天皇の御代には蘇我|蝦夷《エミシ》が執政の大臣であつた。蝦夷の權勢は極めて強大であつたけれども、何の衝突をも惹き起さなかつたのは、畢竟この天皇の御性質が温順にましましたからであらう。否一歩進めて考察すれば、温順の御性格なればこそ、狡猾な蝦夷が利用し奉らうとした所で、推古天皇崩御の後、山背大兄王の御懇嘱を拒んだ上、山背王を奉じようとした一族|境部摩理勢《サカヒベノマリセ》を殺してまでも、遂に田村皇子即ちこの天皇を擁立し奉つた最大理由は、恐らくこゝに在つたものであらう。又天皇は御病弱で、有馬温泉、道後温泉等に湯治の爲屡ば行幸遊ばされたが、その御健康状態も勿論御性格に影響したに相違ない。この御製の風調氣格を味ふと、何となく重厚温雅で、前の雄略天皇の御製と頗る面目を異にしてゐるのは、單に時代の相違といふはかりではなく、全く御性格の反映に外ならないと拜察される。
 さて香具山は岡本宮からは正北三十町の地點にある。さほど高くはないが、四方打晴れて國見をするには恰(27)好の山である。麓に横はる埴安の池は瀲波萬傾の鏡を展べ、白鴎は山色水光共に碧なる中に点綴しつゝ去來の舟に上下し、紫煙は依稀として遠近幾處の籬落に搖曳する。かゝる繁華の氣象と明媚の風光とに對せられ、思はず、「うまし國ぞ大和國は」と詠歎しつゝ、香具山の鉾※[木+温の旁]の下でその御|廣額《ひろぬか》を撫でてお悦びになつて居られたであらう帝の御面影が、この御製を通して今も眼に見ゆる心地がする。
 飜つてこの御製を一首の體裁から拜し奉れば、第一段は頭、第二段は腹、第三段は尾〔右○〕である。腹は宜しく甕の腹の如く膨脹すべきである。然るにこれは頭尾の割合には、腹部の狹窄な感が無いでもない。鼓や手杵のやうに中央部の括れ窄まつた程のことは無いにしても、やゝ棒を延べたやうな傾がある。さはいへその篇法を觀る時は、結構布置の井然たること、多くその匹儔を見ないい。即ち第一段は事を叙し、第二段は景を寫し、しかもその景は一は人事に屬し、一は自然に屬してゐ、第三段は一途に情を抒べて結收してゐるのである。
                    △埴安池考(雜考―1參照)
 
天皇遊2獵内野1之時、中皇命〔左△〕使2間人連老獻1歌《すめらみことのうちぬにみかりしたまへるときなかちひめのみこのはしひとのむらじおゆをしてたてまつらしめたまへるみうた》
 
舒明天皇が字智野に獵しに行幸せられた時、中皇女が間人連老を便にして、帝に獻らしめられた歌との意。
○遊獵 鳥獣の狩にも五月五日の藥狩にも通じていつた。「獵」は舊本及び類聚本に※[獣偏+葛]〔右△〕とある。俗字とも通用字ともいひ、古へは多く※[獣偏+葛]の字を用ゐた。字畫が幾分か少くて書寫に樂な爲であらう。○内野 また有智野。大和宇智郡宇智村の野。吉野川沿岸より西方葛城山麓へと展開した廣野である。今はその一部に宇智町がある。○中皇命 古義にいふ「命は女〔右△〕の寫誤なるべし、皇后皇女の類に某(ノ)尊と記せる例なし」と。中皇女をナカチヒ(28)メノミコと訓む、ナカチは中つ〔右○〕の轉。古へ兄弟の次第をいふ時、母の異同に關らず二番目を中《ナカ》と申した。中つ天皇(元明)中(ノ)大兄、(天智)仲滿、(藤原)中の君の類その例が多い。されば中皇女は第二皇女の意である。こゝでは舒明帝の女|間人《ハシヒトノ》皇女のこと。舒明紀に「二年春正月立(テ)2寶(ノ)皇女(ヲ)1爲(ス)2皇后(ト)1、后生(マセリ)2二男一女(ヲ)1、一(ヲ)曰(ス)2葛城(ノ)皇子(ト)1(天智)二(ヲ)曰(ス)2間人(ノ)皇女(ト)1、三(ヲ)曰(ス)2大海(ノ)皇子(ト)1(天武)」とある。すべて次第名は男女を別々に數へるが例だから、異母の布敷押坂、錦間、箭田《ヤタ》の三皇女中に、姉君に當る方が一人あつて、間人皇女は第二皇女であらせられたと見える。孝徳天皇の皇后となり、天智帝の四年春二月薨逝された。○間人連老 間人は氏、連《ムラジ》は姓、老《オユ》は名である。孝徳紀に五年二月の遣唐使の制度の中に、小乙下|中臣《ナカツオミノ》間人(ノ)連老とある。昔は御乳母の姓を御子《ミコ》に名づける習慣があつた。文徳實録に「先朝之制毎(ニ)2皇子(ノ)生(ルヽ)1以(テ)2乳母(ノ)姓(ヲ)1爲(ス)2之(ガ)名(ト)1焉」とあり、乳母の姓|神野《カムヌ》を嵯峨天皇の諱となされた事も見えてゐる。されば皇女の間人の御名は乳母の氏で、老はその乳母の夫か兄弟かなどで、親昵な關係があるので、この老を以て歌を奉らしめられたものであらう。
(29) 又いふ、この歌の作者が疑問になつてゐる。それは中皇女御自身の作とする説があるからである。契沖は間人連老の作として、中皇女の作なら御〔右△〕歌と敬語を添ふべきであるといひ、古義もこの説に據つて、御歌とすれば傳奏せしめた人名まで事々しく載せるのもいかゞである故、尚老が皇女の仰に依つて作つて獻つたのだらうと。處で自分は事實上からこの兩説を判定して見たい。
 この御獵を假に舒明天皇御在位の最末年と見てからが、その崩御は十月朔日だから、弓矢を用ゐる狩獵は冬季に入つての行事ゆゑ、御獵はその年にはなかつたものと見てよい。で崩御の前年(即位第十二年)の御獵とすると、皇女の御兄葛城皇子(天智帝)はその十五歳に當るから、皇女は十四歳か又はそれ以下であるべき筈、隨分世には早慧の人もあるが、普通にして考へると、十四や十三の御年配としては、この歌が餘り器用に上手に出來過ぎてゐる感がある。よつてこれを老の代作と斷じたい。詰り御年少だから、御自身の詠作がおぼつかないので、乳母の身内である老その人に代作をお命じになつたものと見るのが至當であらう。
 
八隅知之《やすみしし》 我大王乃《あがおほきみの》 朝庭《あしたには》 取撫賜《とりなでたまひ》 夕庭《ゆふべには》 伊縁立之《いよせたててし》 御執乃《みとらしの》 梓弓之《あづさのゆみの》 奈加弭乃《ながはずの》 音爲奈利《おとすなり》 朝獵爾《あさがりに》 今立須良思《いまたたすらし》 暮獵爾《ゆふがりに》 今他田渚良之《いまたたすらし》 御執《みとらしの》 梓能弓之《あづさのゆみの》 奈加弭之《ながはずの》 音爲奈里《おとすなり》    3
 
(30)〔釋〕 ○やすみしし 「大王」にかゝる枕詞。安み知らすの意で、安らかに世を知しめすこと。「安み」はマ行四段の第二變化の居體言で、サ行變格に移しては安んず〔三字傍点〕と音便にしてもいふ語。「しし」は古義に「知る〔二字傍点〕の敬語たる知らす〔三字傍点〕の第二變化知らしのら〔傍点〕の略かれたる語。足らしを足し、減らしを滅し、餘らしを餘しなどいふはこの例なり。さて知之《シシ》の中止法より大王に係かるは、鯨魚《イサナ》取り海〔三字傍点〕の續きと同じく、枕詞の接續法の變格なり」と。紀の通釋には、「知《シル》をシ〔傍点〕とのみいへること日雙斯《ヒナメシ》と申す御名も日並知《ヒナミシ》の義なると同じ、下のシ〔傍点〕は助辭なり」とある。「八隅知之」の字面は、漢文に八紘を統治すなどあるのを下に思うた書方で、「八隅」は借字。○あがおほきみ 「あが」は親んでいふ語。我妹子《ワギモコ》、我背子《ワガセコ》、我が佛など皆この例である。「おほきみ」は大君の意で、おもに天皇を斥し奉るのであるが、又皇子以下皇族の方々にまで及んで稱する。こゝは天皇。「大王」をオホキミと訓むは義訓。○あした 明時《アクシタ》の略。朝のさ〔傍点〕も時《シタ》の約語だから「あした」も朝も同意である。往くさ來《ク》さのさ〔傍点〕も時《シタ》の約である。時《シタ》の語は集中清濁二樣に安之多《アシタ》、安志太《アシダ》と書いてある。往きしな歸りしな〔八字傍線〕(土佐の方言、往きしだ歸りしだ)のしな〔二字傍点〕も時《シタ》の義。○とりなでたまひ 取撫で給ひし〔右○〕と過去にいふべきを、次句の「立てしし」のし〔傍点〕に讓つて略した。「とり」は接頭語。○ゆふべ 夕方《ユフベ》。○いよせたててし そばに引寄せてお立てなされた。「い」は發語。「てし」の「し」は過去の助動詞。この訓に敬語がないから上の「取撫給」に對しないやうだが、對句に敬語の不揃な例は集中に數多見える。正辭の訓イヨリタタシシ〔七字傍線〕は敬語は揃うが、その意は不妥当になる。○みとらしの お持料の。雄略紀(31)に用(ヰル)v弓《ミタラシヲ》とあるはこの意から出た轉用である。トラシ〔三字傍点〕、タラシ〔三字傍点〕は相通の同語。「み」は敬語。「とらし」は取り〔二字傍点〕の敬相執らす〔三字傍点〕の第二變化の居體言。○あづさのゆみ 梓の木で造つた弓。その頃の弓は丸木弓である。梓に就いては古來諸説あり、小野蘭山の本草綱目啓蒙や畔田翠山の古名録等にはアカメガシハの事とし、伊勢貞丈の弓材考などには、和名抄に「梓(ハ)木名、楸之屬也」とあるによつてキササゲの事としてあり、後の學者は多くこれらの説を繼承してゐるが、いづれも弓材としては脆弱で、專門學術の立場から首肯し難い。理學博士白井光太郎氏は種々考證の結果、ミヅメ一名ヨグソミネバリと稱する樹がそれであるといつてゐる。而してこの木を秩父三峰地方では今もアヅサ又はミヅメアヅサ、ヨグソアヅサと呼び、加賀の白山ではハンサ、大和吉野ではハヅサ、紀州ではハンシヤと呼んでゐるとのことである。樺科の喬木。○ながはず 長弭。弭は弓筈《ユハズ》で、弓の弦掛けの部分の稱。上を末《ウラ》弭、下を本弭といふ。その末弭が特別に余計に長いのを長弭といふのである。正倉院御物の彈弓の弭の如きはその一例であらう。後世の半弓にも末弭の長い製がある。玉函叢説には、「音あらしめん爲に玉鈴など掛くる料にその弭を長くしたるか」といつて、長弭説を主張してゐる。然るにこれを中弭と解して、弓柄の握りの上側に矢止めの※[金+丸]打つたのをいふとする説や、彈弓の弦の中央に環状の(32)彈受《タマウケ》あるを見てそれかといふ説などは、肯き難い。又「奈加」を奈利〔右△〕の誤寫として鳴弭の意とする古義の説も臆斷である。○おとすなり 「長弭の音」は即ち弓の弦音《ツルネ》である。「なり」は詠歎の助動詞。○たたすらし お出掛けなさるらしい。「たたす」は立つの敬相。「渚」は小さをな洲をいふ。故にスと訓む。「田渚」は戲書。
【歌意】 わが天子樣が朝方には御愛撫なされ、夕方には引寄せてお立てなされた御持弓の、梓弓の長弭の音がすることわい。天子樣は朝獵に今しもお出掛け遊ばすらしい、夕獵に今しも御出掛け遊ばすらしい。御持弓の梓弓の長弭の音がすることわい。
 
〔評〕 この歌篇法が頗る奇體である。音數の排列も五七の定形を破つてゐる箇處がある。假にこれを圖式に現してみると、
 安見しし《5》〔四字傍線〕あが大王の《7》〔五字傍線〕
   あしたには《5》〔五字傍線〕取撫で給ひ《7》〔五字傍線〕
   ゆふべには《5》〔五字傍線〕い寄せ立てゝし《7》〔七字傍線〕
        御執の《5》〔三字傍線〕梓の弓の《7》〔四字傍線〕長弭の《5》〔三字傍線〕音すなり《5》〔四字傍線〕(前段)
   朝狩に《5》〔三字傍線〕今立たすらし《7》〔六字傍線〕
   夕狩に《5》〔三字傍線〕今立たすらし《7》〔六字傍線〕
        御執の《5》〔三字傍線〕梓の弓の《7》〔四字傍線〕 長弭の《5》〔三字傍線〕音すなり《5》〔四字傍線〕(後段)
となつて、單頭複式の雙腹雙尾といふ形式の構成になる。頭句「安見しし吾が大王」は前後兩段にかゝる主格であつて、腹句は聯對の形を成して反覆してゐるが、前段と後段と各詞意を殊にして居り、尾句に至つては全然同一の長句を反覆してゐる。概していへば後段は前段を更に歌ひ返して自然的對偶を形作つてゐるものである。而して尾句は圖に示す如く、5、7、5、5の音數の變つた組織を持つてゐる。此の如く變つた音數と反(33)覆的組織とは、實に歌謠的本質を示すものであつて、作者は勇壯活發な狩獵の状况を遙に想像によつて叙すると共に、今現に山野に活躍しつゝある益良雄達が、これを諷誦して以て一層士氣を奮起する料にもとの用意で詠んだものではあるまいかとも思はれる。
 前段「朝には」は詰り平常の意を分解したのである。もしこれを「常に」などいふ抽象的微温的の語を用ゐたとすると、その愛撫の感じが強く表現されぬので、かくは具對的辭句を以て反覆強調したのである。又「取撫で給ひ」「い寄せ立ててし」などと、御持弓を持主たる天皇の御態度からして形容してかゝつたのは、重きをその長弭の響に歸する手段で、頗る効果的である。但これには立派な粉本がある。即ち雄略天皇に袁杼比賣《ヲドヒメ》が獻つた歌に、
  安見ししわが大君の、朝けにはい寄り立たし、夕けにはい寄り立たす〔安見〜傍線〕、脇机《ワキヅキ》が下の、云々。(古事記下、雄略記)
とあるのを思ふと、一寸闇い心持にもなるが、然もそれは部分的の踏襲で、一篇の主想は別に嚴乎として存在してゐるのだから、大目に看過してよからう。
 後段「朝獵」「夕獵」の朝夕〔二字傍線〕は事實上の朝夕を斥すものであつて、野鳥などの草に伏す時刻であり、そこを窺つて踏み立てゝ或は射取り、或は鷹を放つてかける。で朝には朝獵が今行はれるらしい、夕には夕獵が今行はれるらしいと想像して、更に長弭の響を囘護したのである。「長弭の音すなり」は現在的叙法であるが、實際は皇女の描かれた想像を現實的に扱つたもので、語句を強調し印象を明瞭ならしめる手段である。皇都川原宮から字智野は數里離れた場所であるから、長弭の音などの聞えよう道理は、はじめから無いのである。
 亦思ふに、間人皇女は父帝が字智野の獵に出立せられたあとの寂寞から、深く父帝を思慕し奉り、それで御(34)獵場の勇ましい光景が御執の梓弓に※[炙の上/寅]縁して、縱横にその聯想に上つたのであらう。而して間人連老は皇女の仰を畏み、その御意中を限なく忖度し盡して、殆ど遺憾ないまでに歌ひ得た。即ちまづ「朝には」「夕には」とその父帝の日常の御起居から叙して、次に御獵場の状况に及び、「朝夕」の連發、「今」の語の反覆で、その時々刻々も父帝の御身の上を去らぬ皇女の迫り切つた御愛情の閃きを巧に表現した、いみじき完作である。
 この作者老は、後に遣唐の判官に任ぜられた(孝徳天皇の五年)程の漢學者であつたが、國歌に於ても、奔放周密の構想と臨機自在の篇法と洗煉し切つた修辭とを竝行せしめて、此の如き成功をしてゐる處、決して山上憶良の獨歩を許さぬ概があるといふべきであらう。
反歌《かへしうた》
 
集中長歌に添うた短歌を「反歌」と記してある。反歌の用は長歌の意を總べ、或は長歌に言ひ殘した事柄をも叙べ、又長歌の一節をも反覆する。大體の構成が長歌に對しての反覆樣式てあるから、カヘシウタと訓むがよい。然るに應酬の作即ちこの集でいふ和歌《コタフルウタ》を、平安期に入つては返歌《カヘシウタ》と呼ぶので、それに紛らはしいから面白くないといふ説が有力だが、言語は活き物で、同じ詞でも時代によつて意味の變化する例は無數だから、難者の説は成り立たない。學者は場合によつては末梢に衝き入る必要もあるが、まづ大處高處から透觀することを忘れてはならぬ。
 「反」は荀子に反辭〔二字傍点〕とあり、楚辭の離騷には亂〔傍点〕とあるもので、荀子の注に「反辭(ハ)反覆叙説(ノ)辭、猶(シ)2楚詞(ノ)亂(ニ)曰(クノ)1、亂(ハ)總2理(ス)一賦之終(ヲ)1也」とある。長歌は殆んど漢文の賦體の如き觀があるので、長歌に添へた短歌を賦に添へた(35)反(即ち亂)に擬へて反歌と書いたのである。(以上代匠記、古義、美夫君志參取)卷十九に短歌を反詠〔二字傍点〕と書き、卷十七には短歌二首を二絶〔二字傍点〕とも書いてある。かく反歌、反詠、絶などの文字を用ゐることは、支那文學流行の結果と見られるから、まだこの舒明天皇時代には反歌の語は用ゐられなかつたらうと想像される。當時大學寮の建設などもなく、さう支那文學が普遍的になつてゐたらしくもないから、文字遊戲に入り込むほどの餘裕はまだあるまい。只歌の記録者が遡らせてその時代の歌にまで、反歌の語を記したまでゝあらう。
 抑も反歌の形式的發生はその萌芽が遠く上代にある。古事記神武卷の「忍坂《オサカ》の大室屋《オホムロヤ》に」の歌の附詠「みづみづし久米《クメ》の子らが云々」、同允恭記の「隱《コモ》りくの初瀬の山の」の歌の附詠「槻《ツク》弓のこやるこやりも云々」の如きがそれである。この附詠は形式がもと一定してゐなかつたが、やう/\短歌の優勢な力に包容されて、必ず短歌と限られるやうになつたのである。
 反歌の解義の一説に、短は段と音が通ふので借用し、而も段の草を古書に※[草書]と書いたのが多い、その※[草書]が反の字に似てゐる處から、遂に反歌と書くやうになつたと(以上芳樹説)。又の一説に短反は音通である。反にタンの音のある證は、卷十一に「人ごとの繁き間もりてあへりとも八反《ハタ》わが上に事の繁けむ」の八反が將《ハタ》に借りてあるのでもわかる。されば反歌は音に讀めばタンカ〔三字傍線〕、訓によめばミジカウタ〔五字傍線〕であると(以上龍草廬説)。而して兩説とも古今集の眞字序の「始(メテ)有(リ)2三十一字之詠1、今(ノ)反歌之作也」は、正しく短歌を反歌といつた證據であると論じてゐる。集中の題詞を檢するに、反歌と記したのは一つもない。多くは短歌とある。さて長歌を擧げた後に、或は反歌或は短歌と題し、或は何ともなしに短歌が擧げられ、一向統一がない。これに就いて私説がある。              △反歌考 (雜考−2參照)
 
(36)玉刻春《たまきはる》 内乃大野爾《うちのおほぬに》 馬數而《うまなめて》 朝布麻須等六《あさふますらむ》 其草深野《そのくさふかぬ》 4
 
〔釋〕 ○たまきはる 内又は命、世、などの枕詞。古義は「手纏佩腕《タマキハクウデ》の意より内にいひかく。又|現《ウチ》(ウツの轉)に續けては、現《ウチ》は現し世の事なれば命又は世と續く、手纏は腕輪、佩《ハク》は着くる事にて、轉じてはる〔二字傍点〕といふ」といひ、荒木田久老は「新程來經《アラタマキフ》るの約にて、それを現《ウツ》に續けたり」といひ、正辭は「環《タマキ》張る美《ウツク》しの意より現《ウツ》にかけて、さて内、命、世とも續く」といつた。魂極現《タマキハマルウツ》の意とする舊説は、父帝への詠進にそんな不吉らしい意の枕詞を用ゐるもいかゞと思はれるから從へない。尚諸説ある。「刻」をキと訓むはキダ〔二字傍点〕の意。○なめて 「なめ」は竝べの古言。「數」をナメと訓むは意訓。○ふます 踏む〔二字傍点〕の敬相。○ふかぬ 草の深い野。野を古言にヌといふ。略解にはフケヌ〔三字傍線〕と訓み、泥深き田をふけ田といふとあるが、ふけ田は疲瘠の田をいふので、意がちがふ。
【歌意】 あの宇智の廣々とした野原に、父みかど樣が御近侍達と馬を竝べて朝狩にお踏み立てなさるであらうその草の深い野原よ。まあ懷かしいことわ。
 
〔評〕 抑も字智の御狩野は、皇女の御身にとつては平生何の交渉も無い場所であるが、只今父帝の御遊獵によつ(37)て、こゝに始めて深い因縁を生じた。かくてその宇智の草深野に深い懷かしみを感じ、女の身ならずば飛んでも往つて見たいほどに思召すのである。「馬なめて朝踏ます」は、大御供仕へまつる侍臣等と共に、馬上颯爽として草伏の鳥や獣を踏み立て給ふ父帝の御英姿を、丁寧に思惟し想像されたもので、そこに父帝を慕はれる皇女の優しく濃やかな御情緒が、如實に動いてゐる。長歌の後段の前對「朝獵に今立たすらし」の意を更に敷衍する間に、又別樣の姿致を生ぜしめた手腕は、頗る自在を得たものといへる。そして後對の「夕獵に今立たすらし」の句意は省略法を取つて讀者の聯想にうち任せたことは、頗る氣の利いた遣り方であるが、一面には短歌の小詩形には全部を攝取しかねた結果でもある。四五の句は倒装ではなくて平叙である。倒装とすると「その」の語が無意味に陷つてしまふ。「草深野」の下には「よ」の歎辭を含めて聞くべきである。
 
幸《いでませる》2讃岐(の)國|安益郡《あやのこほりに》1之|時《とき》、軍王《いくさのおほきみの》見v山《やまをみて》作歌《よめるうた》
 
舒明天皇が讃岐國安益郡に行幸遊ばされた時に、軍王が山を見て詠んだ歌との意。○幸讃岐國 この事記紀の舒明帝の條に見えない。但紀に「十一年十二月己巳朔壬午幸(ス)2伊豫(ノ)温湯《ユノ》宮(ニ)1」、「十二年夏四月丁卯朔壬午天皇|至《イタリマシテ》v自(リ)2伊豫1便(チ)居《タマフ》2厩坂(ノ)宮(ニ)1」とあつて、伊豫へは行幸の事實があつた。大和伊豫間の往來には讃岐沿岸の海なり陸なりを行くのが順路だから、讃岐國を御通過なされたと見て差支ない。○安益郡 「安益」は阿野とも書く。今は鵜足郡と合併して綾歌郡となつた。○軍王 どんな人か、御系譜に所見がない。燈には供奉の軍を司る人であらうとあるが、只、供奉の員にあつた王氏の人と見る方が穩かであらう。「王」をオホキミ〔四字傍線〕と訓むことはこの(38)集の例である。○見山 「山」は何山か判明しない。いづれ安益郡の山であらう。なほ評語の末章を參照。
 
霞立《かすみたつ》 長春日乃《ながきはるびの》 晩家流《くれにける》 和豆肝之良受《わづきもしらず》 村肝乃《むらぎもの》 心乎痛《こころをいたみ》 奴要子鳥《ぬえこどり》 卜歎居者《うらなげをれば》 殊手次《たまたすき》 懸乃宜久《かけのよろしく》 遠神《とほつかみ》 吾大王乃《あがおほきみの》 行幸能《いでましの》 山越風乃《やまこすかぜの》 獨座《ひとりをる》 吾衣手爾《あがころもでに》 朝夕爾《あさよひに》 還此奴禮婆《かひらひぬれば》 大夫登《ますらをと》 念有我母《おもへるあれも》 草枕《くさまくら》 客爾之有者《たびにしあれば》 思遣《おもひやる》 鶴寸乎白土《たづきをしらに》 綱能浦之《つぬのうらの》 海處女等之《あまをとめらが》 燒鹽乃《やくしほの》 念曾燒《おもひぞやくる》 吾下情《あがしたごころ》    5
 
〔釋〕 ○かすみたつ 「霞立つ」は春日の麗かな状をいはうとして置いた有心の序詞。蛙鳴く〔三字右○〕神南備川、千鳥鳴く〔四字右○〕佐保の川原、春霞〔二字右○〕立田の山といひ連ねて、山吹、紅葉、鶯を詠み合はせた例と同じい。○ながきはるびのくれにける 九十の春光の盡きた意にも解せられるが、尚春の日暮の意と見たい。春日を長いとは古から和漢共にいひ來つた事で、事實上長いのは夏の日であるが、冬の日の短いのに慣れてゐる心から、冬至に一陽來復して日(39)一日一線の長きを添へる春の日は、非常に長くなつたといふ印象を受けるからである。○わづきもしらず 辨別も知らず。「わづき」は燈は分き著き〔四字傍点〕の意といひ、略解はこれに從つて、手著《タヅキ》に少し異なりといつた。代匠記には「分きも知らず〔六字傍点〕といふに、中に豆《ツ》もじの添はれるにや」とある。集中「夜晝《ヨルヒル》といふ別《ワキ》知らに」(卷四)「年月の往くらむ別《ワキ》も念ほえぬかも」(卷十一)「出づる日の入るわき知らず」(卷十二)など多く散見してゐるので、古義は豆を衍字と見てワキモシラズ〔六字傍線〕と訓んだ。その他の誤字説は皆略く。「受」の字ズ〔傍点〕の轉音をもつてゐる。「肝」は借字。○むらぎもの 心にかゝる枕詞。醫術の開けなかつた頃は、臓腑の差別なく悉く肝といつた。さて肝即ち臓腑の錯雜した形から、群肝《ムラキモ》の凝《コヽ》るといふを心にいひ續けた。心をココロ〔三字傍点〕と名づけたのも、もとこの意味からである。「村」は群の借字。○こころをいたみ 情の迫つて痛み苦しむを心痛しといふ。「を」歎辭。「み」はサニ〔二字傍点〕或はクテ〔二字傍点〕と解すべき接尾の助辭で、苫を荒み〔四字傍点〕、瀬を早み〔四字傍点〕は皆この例である。○ぬえこどり 歎《ナゲ》にかゝる枕詞。奴要子鳥の如く〔三字傍点〕歎くといふ譬喩の續きである。また奴要《ヌエ》鳥ともいふを見れば、子《コ》は或は名詞に附屬させて用ゐる意味をもたぬ接尾語か。「ぬえ」は萎《ナ》えの轉語で、萎えたやうな力弱い聲に鳴くので附いた名といはれる。よつてぬえ聲鳥〔四字傍点〕の略といふ説もある。※[空+鳥]、鵺など書き、和名抄に「漢語抄云、沼江、恠鳥也」とあるので考へると、夜鳴く鳥に違ひない。貝原篤信は「※[空+鳥]は鬼つぐみといふ常の鶫《ツグミ》に三倍ほど大なり。星多し。山中にあり」といつた。古事記にも見え、集中にも澤山詠まれてある。世間で猿虎蛇の怪物を※[空+鳥]としたのは、盛衰記の本文を見謬つたものである。○うらなげ 心歎で、心中に歎くこと。眞淵いふ、「※[空+鳥]の鳴音は恨み哭《オラ》ぶが如し、然れば※[空+鳥]の恨鳴《ウラナ》くに人の心《ウラ》歎くを掛けたり」と。心をウラ〔二字傍点〕といふことは、表に現れぬもの故、裏の意である。「卜」は借字。○たまたすき 懸け〔二字傍点〕にかゝる枕詞。「たま」は美稱。「たすき」は手助《タスケ》の義で、袖を掲げる襷(40)のことである。「次」は借字で、古言に次《ツギ》をスキといつた。古義には「把手次《タバタスキ》の轉ならむ。左石の袖口より脊へ貫通して、後の方に引締めて把《タバ》ね結ぶを、今俗にマヽダスキ〔五字傍点〕といへると同じからむ」とあるが、語義はやゝ穿鑿に過ぎるやうだ。○かけのよろしく 懸合の宜しく。意譯すれば丁度ヨク〔四字傍点〕に當る。古人皆、言に懸けていふも宜しくの意としたのは迂遠である。祝詞に多い「懸卷くも畏し」の語も、宣長が言にかけて云はんも畏しの意に解いてから、學者は皆それに追隨してゐるが、これも我々風情の身分で懸け合するも畏れ多いの意と思ふ。○とほつかみ 大王にかゝる枕詞。凡人に遠い神の意で、古代人の天皇を尊敬した形容の語。○いでまし 出座の義。行幸をミユキといふが、古くはイデマシといつた。但集中に既に、君之三行者《キミガミユキハ》(卷九)ともある。○やまこすかぜの 山を吹き越す風が。古今集に「甲斐が根を嶺越し山越し吹く風を」とあるに同じい。吹き越すは、山のいづれの方からでもいはれるが、茲では、山の向ふから吹き越して此方に來る風である。訓は燈の説に從つた。舊訓はヤマゴシノカゼノ〔八字傍線〕。今の温泉郡の御幸村山越は、村名も小字もこの歌に據つて作つたものと考へられる。○をる 考の訓はヰル〔二字傍点〕。○ころもで 袖《ソデ》と同じい。コロモ〔三字傍点〕とソ〔傍点〕とは同物異名である。○あさよひに 「朝」はこゝでは熟語として添へたまでゝ、意に與らない。「夕」が主意であることは、上の「春日の晩れにける」に引合せてわかる。「夕」はヨヒと訓むが古言。○かへらひぬれば 頻に通うてくるので。「還らひ」は還り〔二字傍点〕の延言であるが、かく伸びた爲に時間をもち、その動作が繼續することになる。單に還り〔二字傍点〕と云ふのとはおのづから違ふ。花散《ハナチラ》ふ、天霧《アマキラ》ふなどの意も皆さうである。○ますらを 男子の讃稱。優《マサ》り男《ヲ》の義。眞淵はいふ正荒雄の意と。「大夫」は即ち丈夫のこと。丈夫の誤寫でも、大丈夫の略でもない。紀にも見えた字面。○くさまくら 旅にかゝる枕詞。菰菅の類は勿論、すべて草でもつて作つた枕をいふ。古の行旅には、旅店の設備がな(41)かつたから、何處であらうと日が暮れゝば露宿して、草を引結んで枕としたから、草枕する旅の意で續けた。古義はいふ「草を把《タバ》ね結びて造る故に、草枕|把《タバ》ぬといふ意を旅にいひかけたるなり」と。○たびにしあれば 旅中であるので。「し」は強辭。「客」は旅と同意。○おもひややる 「思」は愁緒、心配をいふ。「遣る」は遣り失ふこと。されば思ひ遣るは氣晴し、排悶、遣欝の意と同じい。又想像の意に用ゐることもある。○たづき 便り。手著きの義。「鶴寸」は借字。キは古への尺度の名で寸に當るので、「寸」の字を充てた。○しらに 知らないで。「に」は古くジ〔傍線〕の助動詞と同じに未來の否定に用ゐたが、一轉しては、かやうに現在の否定に用ゐ、否定の助動詞のズ〔傍点〕の中止法の如くに用ゐられた。知ラズシテ〔五字傍点〕、知ラズニ〔四字傍点〕、知ラヌノデ〔五字傍点〕などといふ意と見れば大差はなからう。「白土」は借字。「土」を古語にニ〔傍点〕といふ。赤土《アカニ》、青土《アヲニ》、初土《ハツニ》など例が多い。「白土」は今磨粉などに使ふ白土のこと。集中又白粉をシラニに充てたのもある。○つぬのうら 讚岐國鵜足郡の津野《ツヌノ》郷の浦。今の宇多津の海邊。「綱」はツナ〔二字傍点〕、ツヌ〔二字傍点〕相通なので津野《ツヌ》に通用させて用ゐた。僻案抄及び略解のツノ〔二字傍線〕、古義のツナ〔二字傍線〕、いづれも非。一本に「網《アミ》」とあるは采らない。○あまをとめ 海士の若い女。「海士」は男女に關はらず海邊に生業を營む者の總稱。「處女」は若い女の稱。集中又「未通女」ともあるが、あながちに漢字に拘つて、男せぬ女にいふとばかり心得てはならぬ。○やくしほの 燒(42)く鹽の如く。「綱の浦の」からこの句までは、次の「燒くる」にかゝる序詞である。○おもひぞやくる 心の燃える、思の焦るゝ、などいふと同意の語。○したごころ 下に籠めて表面に現さぬ情をいふ。眞淵がシヅココロ〔五字傍線〕と訓んだのは失考である。
【歌意】 のどかな長い春の日が暮れてしまつたその辨別さへもなく、故郷を思ふ胸痛さに、只管うら歎いて居ると、丁度そこに打合つて、天子樣のいらせられる山の、彼方から吹き越す風が、獨居の私の袖に往來するので、あつぱれ男一匹と思つて居る私も、如何にせん、旅の空に出て居ること故、故郷戀しい思を晴らす術を知らないので、この綱の浦の海士の少女等が燒く鹽の燒けるやうに、自分の胸の思が焦れることわ。
 
〔評〕舒明天皇はその御代の十一年の十二月に御發輦になつて伊豫の温湯宮に行幸遊ばされ、翌年四月に還幸あらせられた。だからこの歌の出來たのは、恐らく還幸の途次讃岐に御滯留になつた折で、暮春三月の頃でもあつたらう。去年の十二月から殆ど五閲月、從駕の人々は懷土望郷の情念に堪へず、うら/\と長閑な遲日の暮れたのも知らないで煩悶する。我れ供奉の員でなかつたならば、直ちに飛んでも還らうものをと焦慮するのも無理ではあるまい。けれども卜歎《ウラナゲ》いてのみゐて表面に露はさぬのは、供奉員としての遠慮ばかりではない。かゝる場合の人情としては皆さうしたものである。
 「春日の晩れにける」は、遠く第二段の末の「朝夕に」の句に呼應してゐる。第二段の初の「玉襷かけの宜しく」からは、前段の意を承けて專ら事を叙した。而して「獨座る」の句は全篇の主眼である。いとしい妻と二人して共寢をしたならば、この時じみの山越の風も敢へて問題にならぬのを、日は暮れ夕闇は薄る空窓の下で、孤(43)影悄然として郷愁の情に悶々たる折柄、冷い客枕を山越の風は拂ふ。どうして斷腸の思に堪へられよう。さてこそ次の第三段を胚胎して來るのである。
 第三段では、我ながら女々しく遣る瀬ない旅恨を抒べようとしては、先づ「ますらをと念へる我も」と昂然として揚言したものである。「我も」のもは、強い意義で、口語のサヘモ〔三字傍点〕に當る。この抑揚の筆法は頗る留意すべきで、
  ますらをや片戀せむと歎けども醜《シコ》の益荒雄なほ戀ひにけり   (卷二、舍人親王―117)
  ますらをと思へる吾や水莖の水城《ミヅキ》のうへに涙のごはむ    (卷六、旅人―968)
  ますらをと思へる吾をかくばかり窶《ヤツ》れに窶れ片思《カタモヒ》をせむ (卷四、家持―719)
など皆これと同意同調で、我は苟も一箇の男兒である、何ぞや區々たる一婦人の爲にかくも煩悶すると、腕を扼し地團駄を跨むそばから、「思ふには忍ぶることぞ負けにける」で、はや戀の奴となつてゆくのだ。ましてこれは草枕旅にゐての事ではないか。
 末段を考察するに、客旅の途上に見た綱の浦の海人處女等が製鹽作業は、都人である作者の眼には、餘程物珍しく印象されたのであらう。そこでこれを借りて序の材料とした。抑も瀬戸内海の南北沿岸地方は昔から製鹽が盛で、鹽屋の地名が須磨附近にも、備中にも、この宇多津の東南にもある。結末は「わが下情、念ひぞ燒くる」とあるべきを倒装したので、その爲に上の序詞からの聯絡が明確適切となり、燒くるの意が愈よ力強く印象される。又燒く鹽の〔四字傍点〕、燒くる〔三字傍点〕と係る同語の反覆も、聲調が諧つて快い響を持つ。
 飜つてこの歌の組織を見れば、第二段は腹部に當り、情景いづれにしても十分にその所思を展開伸張すべき(44)であるのに、僅に前段に次ぐ事實の推移經行を叙するのみに止まつたのは、少し變體である。第三段になつて始めて本題に入つてゐるのは、徐々に用意して叙述を愼重にし、以て一篇の主想を強く重からしめようとする一種の手法であらうが、これは一歩を誤れば、讀者の倦怠を將來し注意を散漫ならしめて、却つて反對の結果に陷ることがあり、こゝも聊かその嫌がある。且各節の轉換に「卜歎けをれば」「還らひぬれば」「客にしあれば」と、何時も同態の接續法を用ゐたが爲に、潔淨を缺き、辭樣に變化乏しく平板に墮してゐる。又枕詞と序詞との濫用が、餘に煩冗な感を與へる。試にそれらを省いて正味だけを擧げて見ると、
  長き春日の暮れにける別も知らず、心を痛みうら歎げをれば、かけの宜しく、大王の行幸の山越風の、獨居る衣手に還らひぬれば、丈夫と思へる我も、旅にしあれば思ひやるたづきも知らに、思ひぞ燒くる下情。
此の如く短小なものになつてしまふ。且「我」といふ語が五つもあるのは、多くは不用意の重複で、洗煉を缺くことも甚しい。然しかく疎笨な所に又、その眞實味と素朴な古風とを斟酌し得るので、憖ひに修辭の巧に墮して、眞摯な情の籠らぬ娼婦の態でないのが喜ばしい。
 なほ、題詞に「見山」とあるが、歌の内容に相應しない。蓋し記録者の不注意であらう。又題詞に「安益郡に幸す」とあるのに、綱の浦が鵜足郡であることに疑を懷いた人もあるが、それはついこの程見て通つた隣郡の綱の浦の光景を聯想したまでゝ、何の不合理もない。されば山の所在を必ずしも海岸に求めるにも及ばぬことになる。寧ろ宇多津から四里弱東方の國府(今の府中)あたりに、帝は御泊りなされ、軍王は後れて國府宇多津間の某地點に宿つたものと見る方がましな位である。
                      △枕詞の本質とその運命(雜考―3參照)
(45)反歌
 
山越乃《やまごしの》 風乎時自見《かぜをときじみ》 寢夜不落《ぬるよおちず》 家在妹乎《いへなるいもを》 懸而小竹櫃《かけてしぬびつ》   6
 
〔釋〕 ○かぜをときじみ 風がまあ何時も吹くので。「を」は歎辭。「時じみ」は時じく〔三字傍点〕といふ形容詞の「時じ」に、「み」の助辭の添つた語。時じくは常《トコ》じくの義で、何時もその時であるの意。垂仁紀に橘を「時じくの香《カグ》の木の實」といひ、富士の山に、「時じくぞ雪は降りける」(卷三)と詠んだ。この語を誇張に用ゐた場合にはその結果から見て、時ならずの意となる。集中に「非時」の字面を充てたのは、それである。○ぬるよおちず 寢るほどの夜が殘らず。「落ちず」は殘らず、漏れず、缺けずなどの意。上の「時じみ」もこの「落ちず」の用法も、平安胡には滅びた。○いへなる 家にあ〔二字傍点〕るの約。○いも 「いも」は男に對へて女をさしていふ時に用ゐる稱呼。これは廣義である。又夫より妻をいひ、兄弟の間の女性をさしてもいふ。但こゝの「妹」は妻を指した。○かけて 向ふへ懸けて。この「懸け」は兩方に亙るをいふ。兼をカケ〔二字傍点〕と訓むも同意。心に懸けてと解くはいまだしい。○しぬびつ 慕《シヌ》びつ。戀ひ慕ふことを古言ではシヌブといふ。「つ」は現在完了の助動詞。古義に慕《シヌ》ぶを清音としたのは穩かでない。「小竹櫃」は借字だが、當時の家財に小竹《シヌ》即ち篠で編んだ櫃《ヒツ》があつたので、戲に當てたものだらう。
【歌意】 山越の風が、やたらと吹くので、いつもいつも寢る夜といふ程の夜は殘らず、故郷の家に置いてきたいと(46)しい妻を、遠く懸けて慕はしく思ふことわ。
 
〔評〕 長歌の意を、旨く一首のうちに摘み取つていひ盡してある。されば長歌の評語をこゝに移して、大體の鑑賞を了ることが出來よう。寢る夜落ちず妹を慕ぶは、結局連夜ろくに眠らずに妻を思つたことである。素朴のうちにこの婉曲味をもつた措辭は頗る自然で、決して覓めて成つたものでない。郷愁に神經過敏になつた作者が愛妻を思ふ情味を、太い線で力強く眞劍に表現してゐる。長歌の疵だらけなのに似ず、この反歌は完璧である。
 古義が、「反歌には連夜のさまをいひて」といつたのは宜いが、「長歌には朝暮のさまをいひ」といつたのは誤解である。長歌に「朝夕爾」とあるが「朝」は熟語として添へたまでなことは、既に上にいつた。富士谷御杖も同じ謬に陷つて、「長歌には朝夕とありて、夜の事なければ」などといつた。「長き春日の晩れにける云々」とあるのを見ても、長歌は夕方から、夜にわたつた趣である事が知られるではないか。
 
右檢(スルニ)2日本書紀(ヲ)1無(シ)v幸(スルコト)2於讃岐(ノ)國(ニ)1、亦軍王(モ)未(ル)v詳(カナラ)也。但|山上憶良《ヤマノヘノオクラノ》大夫(ノ)類聚歌林(ニ)曰(ク)、「記(ニ)曰(ク)天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午、幸(ス)2于伊豫(ノ)温湯宮(ニ)1云々。一書(ニ)云(ク)、是(ノ)時宮(ノ)前(ニ)在(リ)2二(ノ)樹木1、此之二(ノ)樹(ニ)班鳩《イカルガ》此米《シメノ》二(ノ)鳥大(ニ)集(ル)、時(ニ)勅(シテ)多(ク)掛(ケ)2稻穗(ヲ)1而養(フ)v之(ヲ)、乃(テ)作歌云々」。若(シ)疑(ラクハ)從(テ)2此便(ニ)1幸(セル)v之(ニ)歟。
 
 右日本紀をしらべて見ると讃岐行幸の記事がない、軍王も傳がわからない、但山上憶良の著である類聚歌林に、紀の文を引いて「舒明天皇がその十一年十二月に伊豫温泉宮に幸す。或書に、この時宮前の二樹に斑鳩と此米とが澤山集つたので、勅命で稻穗を掛けて飼はれた。よつて歌を詠んだ」とあるから、若しやこの伊豫行(47)幸の序に讃岐へは行かれたのかとの意。
 山上憶良は本集中の代表的作家の一人、大夫は五位の稱である。類聚歌林は憶良の撰として古來名高いものであり、平安朝の末まで存したことは袋草子の記載などによつても想像されるが、今は佚亡して傳はらない。蓋し憶良が古今の歌を分類蒐聚したものであらう。「記曰」の記は實は日本書紀であるから「紀」とすべきである。舒明紀の本文をその儘引いたもので、伊豫の温湯は今の道後温泉である。一書とあるは伊豫風土記か。仙覺抄に引いた伊豫風土記にこの文と同じ意のことが載つてゐる。然し文章は同じでないから、或は他の書かも知れない。班鳩は斑鳩と書くが正しく、鵤とも書く。和名鈔に鵤の注に、和名|伊加流加《イカルカ》とし、斑鳩も和名同上としてある。今イカル、又はマメマハシと呼ぶ鳥である。此米は今もシメと呼ぶ鳥で、和名鈔には、※[旨+鳥]と書いて和名|之女《シメ》と注してゐる。伊豫風土記に比米鳥とあるは此米鳥の誤であらう。
 
明日香川原《あすかのかはらの》宮(に)御宇天皇代《あめがしたしろしめししすめらみことのみよ》  天豐財重日足《アメトヨタカライカシヒタラシ》姫(ノ)天皇
 
皇極天皇の御代とのこと。天皇は舒明天皇の皇后であらせられた。陵式に飛鳥(ノ)川原(ノ)宮(ニ)御宇皇極天皇とあり、その他皇代記をはじめ、如是院年代紀、皇年代略記等にも、皇極天皇が川原宮にまし/\た事が見えてゐる。但皇極紀には小墾田《ヲハリダノ》宮、板蓋《イタブキノ》宮におはしました事のみ出てゐる。恐らく紀の脱文であらう。又齊明(皇極重祚の帝號)紀に天皇が御即位の年の冬、飛鳥坂蓋宮が燒けたので俄に川原宮に遷り、その明年また岡本(ノ)宮に還られた事が見えてゐるが、その時の川原宮は、一時的の御動座に過ぎない。齊明の御代は次にも後(ノ)岡本(ノ)宮(ニ)御宇天皇(48)と標してある。○明日香 高市郡飛鳥村、高市村の地。なほ「飛ぶ鳥の明月香の里を」の歌の題詞の解(二六八頁)を參照)。○川原宮 河邊(ノ)宮ともいふ、飛鳥川の西岸なる高市村大字川原の川原寺即ち弘福《クフク》寺の地が、その宮址といはれてゐる。橘寺の北、島(ノ)庄の西に當り、その有名なる大理石(瑠璃と稱する)の礎石は川原宮の遺物かと思はれる。○天豐財重日足姫 皇極天皇の御稱へ名。
 
額田王《ぬかたのおほきみの》歌
 
○額田王 女王か。天武紀に「天皇初(メ)娶(ヒテ)2鏡(ノ)王(ノ)女額田(ノ)姫王(ヲ)1生(メリ)2十市(ノ)皇女(ヲ)1」とあつて、鏡(ノ)王の女で、鏡(ノ)女王の妹。父王は近江國野洲郡の鏡の里に居て鏡王と呼ばれ、この王は姉の鏡女王と共に、のち大和國平群郡の額田郷に住んで額田王と呼ばれた。宣長いふ「古へは女王をも男王と同じく只某(ノ)王といへり。萬葉の頃に至りては女王をば皆女王と記せるに、この額田王に女の字なきは、古き物に記せりしまゝに記ししなるべし。鏡女王は父の名と紛るゝ故に、古くも女王と記せるなるべし」と。卷四に「額田王思2(49)近江天皇1作歌」とある額田王も、歌の趣は婦人の作である。この王、始め天武天皇の皇子時代に召されて十市皇女を生み、のち天智天皇に召されて御兄弟の不仲を招き、天智天皇崩後また天武天皇の後宮に復歸し、天武天皇の崩後まで生存してゐた人である。
 こゝに額田王を男性とする一説がある。嚶々筆話所載の加納諸平の説に「額田王は鏡王の一名にて、大和國平群郡の額田に住まれたるから、世には額田王と稱ふれども、本名は鏡王なるべし。女君二人もち、一人は居處によりて額田姫王といひ、一人は諱によりて鏡女王といへり」と。但、額田王は鏡王の一名とある前提が頗る獨斷的のものであつて、何人をも首肯させにくい。
 
金野乃《あきのぬの》 美草刈葺《をばなかりふき》 屋杼禮里之《やどれりし》 兎道乃宮子能《うぢのみやこの》 借五百磯所念《かりほしおもほゆ》     7
 
〔釋〕 ○あきのぬ 「金」をアキと訓む。支那で讖緯家が五行の土を中央に配し、木を春、火を夏、金を秋、水を冬に配して、金を秋の義に用ゐた。集中|金芽子《アキハギ》、金風《アキカゼ》など例が多い。○をばな 尾花。薄の穗の出たものの稱。穗花の轉語といひ、又その形物の尾に似た故の名ともいふ。訓は元暦本に從つた。舊訓はミクサ〔三字傍線〕。貞觀儀式に「以(テ)2美草(ヲ)1飾v之(ヲ)」とあるは、次に「以(テ)2美木(ヲ)1爲(ス)v軸(ト)」とあるので見ると、只の褒辭としてもよいが、「秋の野の」とある初句からの續きでは、尾花《ヲバナ》と意訓によむが當然である。○かりふき 苅つて屋根に葺いて。○やどれりし 宿つたことであつた。〇うぢのみやこ 山城國宇治郡宇治に造られた行宮。宇治はまた「兎道」の字を用ゐる。大和から近江にゆく道筋なので、こゝに行宮を造り、近江への行幸の都度宿られたものであらう。(50)その證史上に散見してゐる。「みやこ」は宮處《ミヤト》の義で、行宮離宮などをも稱する語。「子」は借字。○かりほしおもほゆ 「かりほ」は假廬《カリイホ》の略。假屋に同じい。こゝは從駕の人々の假廬である。「し」は強辭。「おもほゆ」は思はるの意。訓は考に從ふ。舊訓はカリホシゾオモフ〔八字傍線〕。「ほ」に「五百」を充てたのはイホの上略。
【歌意】 宇治に行幸のあつた時、尾花を刈つて假屋に葺いて旅やどりをした事であつた、その面白い假廬をサ今に思ひ出すわ。
 
〔評〕 假廬の風情を詠んだものは、集中この外にも、
  はたすゝき尾花さかふき黒木もて造れる家はよろづ代までも  (卷八―1637)
  あきつ野《ヌ》の尾花刈りそへ秋はぎの花を葺かさね君が借廬に  (卷十―2292)  秋田刈る借廬のやどり匂ふまで咲ける秋萩見れどあかぬかも  (卷十―2100)
など少くない。いづれも所謂掘立小屋の類で、「尾花刈り葺き」の具象的描寫は、殊にその津々たる野趣を漂はしめる。貴族の方々にはこれが又、どんなにか珍しく面白い感興を催したことであらう。富貴な複雜な生活者は、反對に簡素の生活に興味をもつものである。かく一途に假廬の風情を注意深く囘想したことは、間接に當時の遊行の何時も記憶に蘇つてくる程面白くもゆかしくもあつたことを推想せしめる手段で、婉曲の味ひが永い。王はこの御代には多くとも十五六歳の芳紀に過ぎまいと思はれるのに、なか/\立派な老成の口吻である。歌壇の女王として活躍された未來は、既にこの歌に依つて卜せられるのである。御杖いふ、
  この女王、天智天武二帝の御思ひ人なれば、もしこの行幸の時、この二帝のうち御從駕せさせ給ひ、共に御やどりまし(51)て、この夜あひ初めましゝことを思ひ給へるにや。その折の忘られぬ由を詠みて、人は忘るゝやを試み給ひしか、又はつれなかりしを怨み給へるなるべし。行幸の御供にて、さるたはれたる事あるまじきことなれば、憚りて倒語し給ひしにこそ。又は餘人にや、定かに知られぬは倒語の故ぞかし。
この説は一寸面白いが、只進んで賛成し難いのは、この歌のうへだけではまだ/\その根據が薄弱で、空想に走り過ぎる嫌があるからである。
 
右檢(ルニ)2山(ノ)上(ノ)憶良(ノ)大夫(ノ)類聚歌林(ヲ)1曰(フ)、一書(ニ)戊申(ノ)年幸(セル)2比良(ノ)宮(ニ)1大御歌。但紀(ニ)曰(フ)、五年春正月己卯朔辛巳、天皇至(リマス)2自紀(ノ)温湯(ヨリ)1。三月戊寅天皇幸(シテ)2吉野(ノ)宮(ニ)1而|肆宴《トヨノアカリキコシメス》焉。庚辰(ノ)日天皇幸(ス)2近江之|平《ヒラノ》浦(ニ)1。
 
 この左注の一書にある「戊申」は孝徳天皇の大化四年で、「紀曰五年」とあるは齊明天皇の五年である。いづれにしても、皇極天皇の御代より後に當るから、注は誤である。且、紀の近江の平浦への行幸は三月だから、歌に「金野乃」とあるにも出會はない。これも紀の脱漏か。
 
後崗本宮御宇天皇代《のちのをかもとのみやにあめのしたしろしめししすめらみことのみよ》
 
この御代は皇極天皇の重祚の御時で、即ち齊明天皇と謚號のあつた御代のこと。○後崗本宮 舒明天皇の舊によつて崗本宮に都されたので、「後」の字を冠らせて別つた。齊明紀の二年に「是歳於(テ)2飛鳥(ノ)岡本(ニ)1更(ニ)定(メ)2宮地(ヲ)1云々、遂(ニ)起(シ)2宮室(ヲ)1天皇乃(チ)遷(リタマフ)、號(ケテ)曰(フ)2後(ノ)飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮(ト)1」見えた。岡本宮のことは既出(一八頁)。
 
(52)額田王《ぬかたのおほきみの》歌
 
※[就/火]田津爾《にぎたづに》 船乘世武登《ふなのりせむと》 月待者《つきまてば》 潮毛可奈比沼《しほもかなひぬ》 今者許藝乞菜《いまはこぎいでな》   8
 
〔釋〕 ○にぎたづに ※[就/火]田津は伊豫温泉郡|三津濱《ミツハマ》の舊名で、おなじ灣内も北寄りの古三津《フルミツ》と稱する處といふ。「※[就/火]」は熟の字とおなじい。齊明紀に「伊豫國云々、熟田津、此(ニ)云(フ)2爾枳陀豆《ニギタヅト》1」とある。「枳」の音濁つて讀む。「に」はにて〔二字傍点〕の意。これを「へ」の意に解した古今諸家の説は不當。○ふなのりせむと 「ふなのり」は船に乘ることを體言にしてい(53)つたのである。「せむと」は爲《セ》むとての意。とて〔二字傍点〕を「と」といふは古格。○潮もかなひぬ 「かなひぬ」は應ひぬ、適ひぬの意で、船出すべきよき潮合になつたのをいふ。「も」は含める意の助辭ゆゑ、月の出を主として、潮を副へていつたもの。○こぎいでな 漕き出でむの意。「な」はむ〔傍点〕の古格。上の「きかな」(一一頁)を見よ。「許藝乞菜」は舊訓にコギコナ〔四字傍線〕とあるが心得がたい。「乞」を※[氏/一]〔右△〕又は天〔右△〕又は手〔右△〕の誤としてコギテナ〔四字傍線〕と訓む由中道麿、宣長、御杖等の説もいかゞ。「乞はイデ〔二字傍点〕といふ挿頭《カザシ》に常に用ゐられたる字なれば、出《イデ》の假名にや」とある御杖の一説がよい。「藝」をギの音にあてることは、本音は魚祭《ギヨセイ》又|擬袂《ギベイ》の反だから、その頭音の轉用である。「菜」は借字。
【歌意】 この曉こそ月の出るのを待つて乘船しようと、熟田津の濱邊に月を待つてをれば、恰もよし、月のみならず潮廻りさへも具合が好い、今は猶豫なしに漕ぎ出さうね。
 
〔評〕 この女王は中大兄(ノ)皇子(天智天皇)の妾であらせられたので、共に齊明天皇の親征に從つて伊豫にも往かれたのであらう。齊明紀に、
  七年春正月丁酉朔壬寅、御船西(ニ)征(キ)、始(メテ)就(ク)2海路(ニ)1、甲辰御舶到(ル)2大伯《オホクノ》海(ニ)1(備前)、庚戌御船舶(ツ)2伊豫(ノ)熟田津(ノ)石湯《イハユノ》行宮(ニ)1。 (紀卷二十六) 
と見えて、韓地の亂を御鎭めの爲に、天皇御親ら筑紫に御親征の途次、(この熱田津即ち三津濱から奥へ這入つた道後温泉即ち石湯の行宮に御逗留あらせられ、熱田津出帆の時期を待機せられたのである。尚紀の文を按ずるに、七年の正月の六日に御船西征の途につき、同月の八日に備前の大伯の海に到り、同月十四日に伊豫の熟(54)田津の行宮に船は泊てられたのである。さてこの日から以降五十餘日の間は、紀に何の記載もなく、三月十三日に至つて始めて、
  庚申、御船還(リテ)至(リ)2娜《ナノ》大津(ニ)1、居(タマフ)2于磐瀬行宮(ニ)1。 (紀、卷二十六)
と見えてゐる。娜(ノ)大津は今の筑前の博多の津のことである。抑も伊豫を出離れては、關門海峽最寄りまで寄航の足溜りが殆ど無いのだから、餘程の準備と決心とを要する。軍事上の都合もどんなにか、その御進發を妨げたものだらう。隨つて少くともその、十四日から十日間位は石湯行宮に逗留なされる必要がある。
 然るに今や待ちに待つたその時は來た、月は美しく昇つた、潮の具合もすつかり注文通りだ、いざ錨を上げて艪聲勇ましく漕ぎ出さうといふ、この漸層的に律を打つた※[足+勇]躍的の調子には、歡喜に滿ちた朗かな旅情が生ま/\しく出てゐる。「今は」の一語は殊にこの突きつめた喜びの氣持を如實に表現してゐる。
 「月待てば」の月は夕月ではない。昔の航海に夜船は絶對不可能であるから、先づ曉起して支度を調へ早朝出帆の豫定であつたと見てよい。さればこの月は曉月であらねばならぬ。想ふに一月は下旬の廿五六日の頃であつたに違ひない。その「船乘せむ」とて月の出を待つ所以は、船支度に都合がよいからであらう。
 「潮もかなひぬ」は殊に大事な條件である。瀬戸内海は潮の干滿の差が非常に高い。三津濱あたりでは殆ど五六尺にも及ばうか。その際は潮流が頗る速く、而も潮先が※[螢の虫が糸]廻したりして、航路の順逆が顛倒する。されば征旅の實際に於いては潮が主で月は客であるのを、月を主として潮を輕く客位に置いて、表裏に扱つたことは、實務的觀念から遠ざかつて自然に傾倒する、風流な情懷を物語るものである。何となれば「潮もかなひぬ」といへば、月は既に東嶺に出でて在明の影を投げてゐることが暗示されてゐるからである。要するに景を抒べ興(55)を託し、風趣絶だ面白く、而も高渾な調子に終始してゐる。
  百しきのおほみや人の飽田津に船乘しけむ年の知らなく  (卷三―323)
は、疑もなくこの時の旅情を後人の追懷した作である。
 尚橘守部が初二句を「熟田津に向つて」の意に見、隨つてこの歌を備前の大伯に於いての作だと解して以來、それに同意する人々もあるが、紀の文を精讀さへすれば、その非なることは速に了承されるであらう。
 
右檢(ルニ)2山上(ノ)憶良(ノ)大夫(ノ)類聚歌林(ヲ)1、飛鳥(ノ)岡本(ノ)宮(ニ)御宇天皇(ノ)元年己丑、九年丁酉十二月己巳朔壬午、天皇大后幸(ス)2于伊豫(ノ)湯(ノ)宮(ニ)1、後(ノ)岡本(ノ)宮(ニ)馭宇(ス)天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅、御船西(ニ)征(ク)、始(メテ)、就(ク)2于海路(ニ)1、庚戌、御船泊(ツ)2于伊豫(ノ)熟田津(ノ)石湯(ノ)行宮(ニ)1、天皇|御2覽《ミソナハシ》昔日(ノ)猶|存《ノコレル》之物(ヲ)1、當時《ソノトキ》忽(ニ)起(ス)2感愛之情《メデノコロヲ》1、所以(ニ)因(リテ)製(リ)2歌詠(ヲ)1爲(ニ)v之(ガ)哀傷(ム)也、即(チ)此(ノ)歌者天皇(ノ)御製焉、額田王(ノ)歌者別(ニ)有(リ)2四首1。
 
 右山上憶良大夫の類聚歌林を檢すると、飛鳥岡本宮にまし/\た舒明天皇の元年と九年とに、天皇皇后兩陛下が伊豫の湯宮に行幸あり、齊明天皇の七年正月壬寅に、天皇西征の爲出帆、庚戌に御船は伊豫の熟田津の石湯行宮に泊《ハ》て、そこで天皇は昔行幸のあつた時の遺物を御覽ぜられて、忽ち物めでの情を動かされ、因つて歌詠みして哀まれた、故にこの歌は天皇の御製である、額田王の歌はこれではなくて別に四首あるとの意。
 「飛鳥岡本宮」より「伊豫湯宮」までの三十五字は、舒明天皇の時の事で、「大后」とあるは、當時の皇后天豐財重日足姫、即ち今の齊明天皇の御事である。舒明天皇の御代に、百濟の福信が援兵を乞ひ奉つた事があるか(56)ら、紀にこそ見えぬが、その時百濟の爲に新羅征伐を思し立たれ、皇后と共に筑紫へ御發向の途次、この熟田津あたりを御通過なされたのであらう。然し二回の伊豫行幸はおぼつかない事で、伊豫風土記に「岡本天皇竝(ニ)皇后、二躯爲(リ)2一度1」ともある。又齊明天皇の筑紫御親征は、紀にたしかに載つてゐる。そこで齊明天皇は熟田津訪問が二回目となるので、先度夫帝(舒明天皇)と行幸の折の物が昔のまゝに遺つて居たのを見て、深く感傷に陷られたのである。
 石湯は延喜式に伊豫國温泉郡湯(ノ)神社と載つてゐる道後温泉のことで、熟田津からは一里餘も奥になる。それを熟田津に續けていふ所以は、古への熟田津は今よりは深く灣入してゐて、道後温泉との距離が現在よりは稍近かつた爲もあり、且人烟稀少な田舍だから、頗る大まかな呼方をされたものと見てよい。
 さてこの左註はこゝに入るべきものでない。註家は皆これを「熟田津」の歌の左註とのみ信じて、「天皇昔日猶存云々」以下の文意に疑義を挿んだりしてゐるが、實は錯簡で、歌と左註とが何の交渉もないのはその筈である。自分の所見ではこの左註は次の「莫囂圓隣之」の歌に屬すべきもので、その歌とその左註とが前後に誤寫された爲、遂に「熟田津」の歌の左註となつたものと考へる。なほ次の條に説かう。
 
幸《いでませる》2于|紀温泉《きのゆに》1之時、額田王《ぬかたのおほぎみの》作歌《よみませるうた》
 
天皇が紀伊の湯に行幸された時、額田王が詠まれた歌との意。○紀温泉 紀伊國西|牟婁《ムロ》郡の湯の崎温泉のこと。牟婁には温泉が多いが、湯の崎の湯は海に瀕した最も形勝の地で、有馬皇子の言に符合する。齊明紀に「三(57)年九月、有馬(ノ)皇子往(ク)2牟婁(ノ)温湯(ニ)1、僞《マネシテ》v療(ル)v病(ヲ)來(リテ)、讃(メテ)2國體勢《クニガタヲ》1曰(フ)、纔(ニ)觀(ルニ)2彼(ノ)地(ヲ)1病自(ラ)※[益+蜀]消《ノゾコリヌト》、天皇聞(シメシ)悦(ビ)、思2欲《オボス》往2觀《ミソナハサント》彼(ノ)地(ヲ)1、四年冬十月庚戌朔甲子、幸(ス)2紀(ノ)温湯(ニ)1」とある。この行幸に皇太子中大兄の供奉されたことも紀にあるから、額田王は皇太子の愛人として一行に加はつたものか。但この題詞は後述の如く、この歌の題詞とは認め難い。
 
莫囂圓隣之 大相土兄爪謁氣 吾瀬子之 射立爲兼 五可新何本      9
 
〔釋〕 この歌、仙覺律師が訓點した時に訓み殘した百五十二首のうちの一つで、古點にはユフヅキノアフギテトヒシ〔十二字傍線〕とある。
 初句、古本には「莫囂國隣之」、古葉略要集には、「奠器國隣之」とある。二句、古本には「大相云兄爪謁氣」、古葉略要には「大相土兄爪湯氣」、又一本には「大相七咒竭氣」とある。なほ、異本あることは、下の諸家の説中に就いて見るがよい。
 西山公釋にいふ「莫囂圓隣之の圓の字は、圖とある本に從ひてマガヅリノ〔五字傍線〕と訓むべく、義は曲釣《マガリヅリ》にて初月を喩へたる名なり。大相七兄爪謁氣の謁の字は靄の誤なるべく、靄氣の二字を雲の義訓としてオホヒナセソクモ〔八字傍線〕と訓む。覆莫爲雲の意なり。末句はイタタセリケムイツカシガモト〔十四字傍線〕と訓むべし」と。(契沖同説)
 荷田東滿はいふ「古本、古葉略要、一本等を合はせ考ふるに、莫囂國隣之は、神武紀に依るに今の大和の國を内つ國といへり。その内つ國をこゝには、囂《サヤギ》なき國と書けり。同紀に、「雖2邊土末清妖尚梗1而中洲之地無2風塵1」の十七字を、「トツクニハナホサヤゲリトイヘドモウチツクニハヤスラケシ」と訓めるを以て、さやぎなき國は大和なれば、其の隣とはこゝには紀伊をさせり。されば、初句はキノクニノ〔五字傍線〕と訓まる、二句は、七は古を(58)誤り、爪は※[氏/一]を誤り、謁は湯を誤れるなるべし。大相古兄※[氏/一]湯氣の七字、ヤマコエテユケ〔七字傍線〕と訓むべし」と。下句は、西山公釋の訓に從つてゐる。(眞淵同説)
 村田春海は東滿、眞淵の説を補つていふ「大相土の三字にて、ヤマ〔二字傍線〕と訓むべし。一本に兄を見に作りたるもあれば、爪を乍の誤として、大相土見乍湯氣にてヤマミツツユケ〔七字傍線〕と訓まむか」と。
 本居宣長はいふ「莫囂圓隣之はカマヤマノ〔五字傍線〕と訓むべし。莫囂をカマ〔二字傍線〕と訓む故は、古へに、人の物言ふを刺して、「あなかま」と言へること、多く見ゆ。されば、カマ〔二字傍線〕とばかりいひて、莫囂といふ意なり。國隣は、山は隣國との堺にあるものなれば、かくも訓むべし。大相は霜の字の誤、七は木の誤、爪は※[氏/一]の誤、謁は湯とある本に據りて、シモキエテユケ〔七字傍線〕と訓むべし。この幸は、十月にて十一月までも、彼の國に留り坐る趣なれば、霜の深くおく頃なり。吾背子は、天智天皇をさし奉る、この時皇太子にて供奉し給へる趣、紀に見えたり。射立爲兼は、イタタスガネ〔六字傍線〕と訓むべし。五可新何本は、即ち紀伊なる竈山《カマヤマ》神社の嚴橿之本なり。この女王も、皆太子に從ひ奉りて行き給へるにて、竈山に詣で給はむとする日の朝など、霜の深くおけるにつきて詠み給へるさまなり」と。
 田中道麻呂はいふ「莫囂圓隣之の之を爾の誤とし、姑く舊訓に據つてユフヅキニ〔五字傍線〕と訓むべし。その謂は、晝にくらぶれば夜は靜かなる意にて、莫囂と書けるなり。圓は滿月の形、その隣は夕月の意なり。二句は支太相古曾湯氣《キホヒコソユケ》とありしなるべし」と。
 荒木田久老はいふ「囂しきことなきは耳無《ミミナシ》なり。圓は山の形にて、倭世紀に「圓奈流《ツブラナル》有(リ)2小山1支《キ》、其所|乎《ヲ》都不良止《ツブラト》號(ケ)支《キ》」と見えたり。されば、莫囂圓は耳無山なり。耳無山に隣れるは香久山なれば、莫囂圓隣之にて、(59)カグヤマノ〔五字傍線〕と訓むべし。大相土は、續紀四の卷に、相《ミテ》v土(ヲ)建(ツ)2帝王之邑(ヲ)1とあるによるに、大に土を相るは國見なるべし。兄は一本无に作れば、爪謁の二字は靄の一字を誤れるものにて、无2靄氣1はさやけきなれば、二句はクニミサヤケミ〔七字傍線〕と訓むべきなり。四句は、本居氏が訓に從ひてイタタスガネ〔六字傍線〕と訓むべし。五句は、古字の一本に五可期何本とあれば、イツカアハナモ〔七字傍線〕と訓むべし」と。
 橘守部はいふ、「莫囂國《サヤギナキクニ》即ち大和の隣の大相《ヤマ》土〔左△〕は、紀伊の眞土《マツチ》山なれば、こゝまでをマツチヤマ〔五字傍線〕と訓む。兄爪△△謁氣をミツツコソユケ〔七字傍線〕と訓み、兄は見、△△は落字、謁は湯の誤とす」と。
 古義はいふ「古葉略要に莫器國隣之とある、國の字を舊本の圓とあるに從ひ改めて、ミモロノ〔四字傍線〕と訓むべし。ミモロ〔三字傍線〕は御室にて、神祇を安置し奉る室をいふ。さて、神の御室の近隣には、常に奠器を置きめぐらしてあれば、其の義もて、奠(ノ)器|圓《メグラス》v隣(ニ)と書きて、ミモロ〔三字傍線〕とは訓ませたるなるべし。或は、圓は圍の字の誤にてもあらむか。圍隣とある時はいよいよたしかなり。かくて、このミモロ〔三字傍線〕は三輪山のことなり。三輪山を三室山とすることは、集中にも古事記にも往々見えたり。末句の嚴橿が本も三輪山に縁あり。二三の句は春海の訓に從ふべし。四句はイタタシケム〔六字傍線〕と訓むべし」と。
 この外異訓が盛に製造されてゐるが、畢竟無用の辯である。前掲の説中では、比較的久老の説が優つてゐるやうである。その「圓」を山と訓んだのを、「山の形は悉く圓ならんや、倭世紀の圓奈流《ツブラナル》小山といへるは、尋常なる山の形と異りて圓形なればこそ、しか斷りたれ」と古義は難じたが、耳無山は特に圓い形の山だから異議には及ぶまい。元來この卷には眞の戲書と目すべき書式は一首も無いのだから、諸家の初句の訓も、皆根本的に見方が間違つてゐるかも知れない。まして二句は全く句讀すべからざるものを、強ひて訓まうとした爲煩瑣(60)に堪へない。されば諸説を彼此參酌して、假にかうも訓まうか。
  香久山の國見さやけみあが背子《セコ》がい立たせりけむ嚴橿《イツカシ》がもと
 處がこの假定の訓を更に覆さねばならぬ理由が生じた。それは外でもない、上の熟田津の歌の左註は錯簡で、實はこの歌の左註なのである。「吾がせこがい立たせりけむ嚴橿がもと」は、いかにも懷舊意識が著しいから、註の「昔日猶存之物云々」によく當てはまり、而も齊明天皇御製として事情もふさはしい。紀の温泉行幸では有馬皇子の外は誰も初見の筈だから、懷舊の情を動かすべき理由がない。されば「幸于紀温泉之時額田王作歌」といふ題詞は全然削るべく、すると「紀の國の山越えてゆけ」の、「香久山の國見さやけみ」のと訓んでは、熟田津の石湯即ち道後温泉行幸の時の作にはならないから、從へない。只初二句において下句の意を活かすに足る適當の訓方があればよいのである。但自分には今それを穿鑿する勇氣がない。
 
○歌意及び評は、訓がかく確定的のものでないから略く。
 
中皇命《なかちひめみこの》往2于紀伊温泉《きのゆにいでませる》1之時御歌《ときのみうた》
 
中皇女が紀伊國の牟婁《ムロノ》温泉に往かれた時の御歌との意。中皇女の紀伊温泉行は何時の事やら不明である。題詞の意によれば單獨の御旅行であるらしいが、歌には「君が代」をかけ、殊に「吾勢子」を稱へてゐる。目上の同行者のあつた(61)ことは推察に難くない。すると齊明天皇の四年の行幸の際の作と見たい。或は題詞がもとは幸于紀温泉之時〔七字右○〕中皇女御作歌とあつたのはあるまいか。○中皇女は(二七頁)に、紀温泉は(五六頁)に既出。
  
君之齒母《きみがよも》 吾代毛所知哉《あがよもしれや》 磐代乃《いはしろの》 岡之草根乎《をかのくさねを》 去來結手名《いざむすびてな》    10
 
〔釋〕 ○きみがよも 「よ」は齡《ヨハヒ》の意。故に「齒」の字を用ゐた。齒に齡の義がある。○しれや 「しれ」は領《シ》るの命令格。「や」は歎辭。高田與清はシルヤ〔三字傍線〕と訓んだ。宣長はいふ「哉は武〔右△〕の誤にて、シラム〔三字傍線〕なるべくや」と。然し元のまゝで聞えてゐる。○いはしろ 紀伊國日高郡。東西磐代に分つ。濱や野や岡などある。○くさね、「ね」(根)は熟して添うたまでゝ意は輕い。月とのみいふべき所を月夜といふに同じい。「草」はクサと訓む。カヤ〔二字傍線〕と訓むはわるい。次の歌を參照。○いざむすびてな 「いざ」は誘ふ意の副詞。率なふのイザ〔二字傍点〕に同(62)じい。「てな」はてむ〔二字傍点〕といふに同じい。この「な」の解は「きかな」の項に既出(一一頁)。「去來」をイザと訓むは意訓。
【歌意】 君の御齡も、ついでに私の齡も、幾久しくとどうか守つてくれよ。ではこの磐代の岡の草を、どりや結びませうわ。
 
〔評〕 「君」とは誰れをさしたものか。齊明天皇の御代には、作者中皇女(間人皇后)は既に背の君孝徳天皇におくれ奉つて寡居して居られた。故にこの度の紀温泉行には、兄君なる皇太子中大兄と共に母帝に供奉されたものとすると、「君」は母帝を斥し奉つたことゝなり、次の歌にある「吾が背子」は御兄中大兄をお斥し申したことになる。
 磐代の岡は西磐代にあり、熊野路の交通路に當つた海沿ひの長い岡である。磐代の地名の縁由する磐石堆は少し離れた東岩代にある。かくて作者は、岩代の地名とそこの磐石堆の現状とを見聞して、まづ母帝の御齡長久咒願を懸けられた序に、一寸吾が齡も打添へて、この岡の草根を結ばうとの希望と拜察される。もとより作者御自身はまだ三十を一つ越したばかりの女盛りであらせられるが、母帝の寶算は六十五、既に頽齡にあらせられる。子としては何はさし置いても、その延命の法を講じ(63)たいは人情で、「知れや」と草結びの咒術行爲に嚴命したその情願の切なさに、いひ知らぬ御親子愛のあはれさが籠つてゐる。線のやはらかな趣をもつた歌である。    △物結びの咒術に就いて(雜考―4參照)
 
吾勢子波《あがせこは》 借廬作良須《かりほつくらす》 草無者《かやなくば》 小松下乃《こまつがしたの》 草乎苅核《くさをからさね》        11
 
〔釋〕 ○せ 「勢」は借字。○かりほつくらす 假廬をお造りなさる。「つくらす」は「菜摘ます」(一○頁)と同じ語法で、敬意又は親愛の意をあらはす。「借」は假の借字。○かや 「草」の字、屋根に葺く料としてはカヤと訓むがよい。○こまつ 萬葉人のいふ小松は可成り生長した若松にまで及んでゐる。卷十に「子松がうれゆ沫雪流る」ともある。○した 元暦本の朱書の訓に從ふ。元暦本の訓はモト〔二字傍線〕。○くさを この「草」はカヤ〔二字傍線〕と訓んでは面白くない(宜長説)。○からさね 刈りなさいな。上の「名のらさね」を參照(一一頁)。「核」は借字。
【歌意】 わが兄君は假廬をお作りになるわ。若し屋根の茅がないなら、あの小松の蔭の草をお刈りなさいませ。
 
〔評〕 齊明天皇の御代には中大兄皇子が太子で、しかも監國であつた。この紀伊行幸にあたつても、皇子が行宮造營から始めて萬事をお指圖なされたことは勿論であらねばならぬ。これが「吾背子は假廬つくらす」所以である。作者は固より婦人の事とて、それ等の※[公/心]劇を餘所に、小松まじりに薄尾花の靡くを入興して居られたが、聯想は端なく工事中の假廬の屋茅に及び、「かやなくば」の一波瀾を平地に起して、小松が下の草をば推擧された。「刈らさね」とはいつても、それは決して事務的要求ではなく、只茅野の風光に陶醉した餘の發語である。
(64)  あきつ野の尾花刈りそへ秋萩の花をふかさね君が借廬に  (卷十―2292)
とあるのも、これとその逸興を同じうするものである。
 
吾欲之《あがほりし》 野島波見世追《ぬじまはみせつ》 底深伎《そこふかき》 阿胡根能浦乃《あこねのうらの》 珠曾不拾《たまぞひりはぬ》     12
   或頭(ニ)云(フ)、我欲子島羽見遠《あがほりしこじまはみしを》
 
〔釋〕 ○ほりし 見まく〔三字右○〕ほりしの略。見たく思つた。○ぬじま 記載の順序のまゝに推すと、淡路の野島ではない。紀伊國日高郡鹽屋浦の南に野島の里がある、御坊町から南へ二里ほどの地で、島は今ない。淡路の野島に島がないのと同樣の地理的變化によるものと思ふ。○みせつ 兄皇子〔三字右○〕が見せた。正辭は、「世」に、シの音あり、「追」は遠〔右△〕の誤にて、ミシヲ〔三字傍線〕ならむといつた。○あこねのうら 西牟婁郡|粉白《コシロ》町の西の玉の浦の一名ともいふ。序にいふ、「あこ」は頤と同義で、崖地や陸地の斗出した處の稱であらう。阿胡《アコ》の海、英虞《アコ》の浦の名義もこれに由ると思ふ。「ね」はそこの岩礁をいふか。薩摩の阿久根もこれと同語らしい。山形の阿古屋も屋は叢澤の義の谷で、崖麓の濕地の稱である。○たま 眞珠のこと。石の透明なもの、或は光澤あるものをも稱するが、こゝには不當。○ひりはぬ 古義の訓に從つた。舊訓ヒロハヌ〔四字傍線〕。「ひりふ」はひろふの古言で、集中に屡ば見える。但ひろふ〔三字傍点〕と詠んだ歌が東歌に一首あるが、本文の歌は時代が古いから、やはり古言がふさはしからう。○或頭云々 「頭」は頭句の意で一二の句を指したもの。子島の所在は明かでない。
【歌意】 かねて私が見たく思つた野島を、兄君は見せてくれました。があの深淵の阿胡根の浦の珠はまだ手にし(65)ませんわ。
 
〔評〕 この歌には對象の人物がゐる。初二句はそれに向つて感謝滿足の意を表し、三句以下は更に欲求の不滿を表した。隴を得て蜀、人欲には限はないが、これは自然愛好の事柄だけに、欲求が強ければ強いほど、餘計に作者の優しいみやびな心持が強調されて面白い。「珠ぞ拾はぬ」はその好風光に接せぬことを、婉曲に表現したのである。すべて甘えたやうな我儘のやうな、情愛の籠つたこの口振は、よほど親密な間柄の人でなければいひ出せない。さればこれも上の歌と同時の詠で、對象人物は御兄中大兄と見てまづ間違ひはなからう。遊覽の作として佳品に屬する。
 野島は平凡な海村で形勝の取るべきものがない。「あがほりし」と見たがつたのが不審である。いや話や噂に聞いたのでは、飛んだ間違ひや思違ひがある。見ては幻滅の感に打たれたので、更に阿胡根の浦の珠を要求したのではあるまいか。第三句「底ふかき」は、いはゆる「深淵の珠」の語から來てゐる。底清き〔三字傍線〕の意をわざといひ換へたのではない。支那でいふ珠は海南に産する眞珠即ち鮑玉で、鮫人の涙が殊になるといひ、合浦に産し日南に生ずるといつた。今も場所が紀州の南海であるので、すぐにかの典故を踏んで「珠ぞ拾はぬ」と歌つたのである。而もこれは既定の事實で、
  木の國の濱に寄るといふ、鰒珠拾はむといひて、云々。 (卷十三―3318)
ともある。されば記録者もこの意を體して、わざと「珠」の字を書いて、「玉」の字を書かない。珠は水に産す(66)るのをいひ、玉は山に産するのを稱する語である。茲に至つて作者が漢文に相當知識をもつてゐたことが窺はれ、又以て當時の漢文學流布の状態の一端をも瞥見することが出來て面白い。
 
右檢(スルニ)2山上(ノ)憶良(ノ)大夫(ノ)類聚歌林(ヲ)1曰(ク)天皇(ノ)御製(ト)、云々。
 
 この左註によれば、この歌は齊明天皇の御製とする傳があつたものと思はれる。然し「右」といふのはおもに上の一首を斥す例ではあるが、前三首悉くを指すものと見られぬでもない。この點分明を缺く。
 
中大兄三山御〔左△〕歌《なかちおほえのみつやまのみうた》
 
○中大兄 天智天皇の皇子時代の敬稱。實の御名は葛城《カツラギノ》皇子である。舒明天皇の御子で、古人《フルヒトノ》皇子の弟、大海人《オホアマノ》皇子の兄である。第二皇子たる故に中と稱した。なほ「中《ナカチ》皇命」を參照(二七頁)。紀の私記に、昔稱(ヘテ)2皇子(ヲ)1爲2大兄《オホエト》1、又稱(ヘテ)2近臣(ヲ)1爲2少兄《スクナエト》1也とあり、大兄は大禰《オホネ》、少兄は宿禰《スクネ》と轉じいふ。古義は既に大兄といはゞ皇子、あるは尊の稱號を用ゐるべきにあらず、却りて中大兄皇子など紀に見えたるがあるは疑ふべしといつた。原本、中大兄の下、「近江宮御宇天皇」の七字が註されてゐる。〇三山 大和國の香山《カグヤマ》、畝火山、耳無山をさす。この三山は大和平原の南部において鼎足の勢を成し、その三角形の一點を耳無とすれば、右の角が香山、左の角が畝火である。山形は耳無は小高い圓巒で八方無碍、畝傍は西北から香山は西方から見ると、ほほ耳無に似て丸い。○御歌 原本「御」の字がない。補つた。
(67)この端詞は「三山御歌」とあるが、三山を現に御覽になつて詠まれたのではない。反歌に「立ちて見に來しいなみ國原」とあるによれば、播磨で詠まれたものと思はれる。三山相闘ふ原因は御歌のうちに盡されてゐる。
 
高山波《かぐやまは》 雪根火雄男志等《うねびををしと》 耳無與《みみなしと》 相諍競伎《あひあらそひき》 神代從《かみよより》 如此爾有良之《かくなるらし》 古昔母《いにしへも》 然爾有許曾《しかなれこそ》 虚蝉毛《うつせみも》 嬬乎相格良思吉《つまをあらそふらしき》    13
 
〔釋〕 ○かぐやま また香山とも書く。「高」「香」の二字は借字で、カグ〔二字傍線〕の音を表した。「香」の本音はKang(カング)であるから、これを中略して充てたのは理由あることであるが、「高」は六豪の韻でKao(カオ)であるからカグの音になる由もなく思はれるが、美夫君志にいふ如く、カガ(68)ミに高見〔二字傍点〕と書いた例が書紀に見えるので、古音ではカガ又はカグとなる理由かあつたものと思はれる。大和の國中で高い山であるからと云つた御杖の説は誤つてゐる。「香」の下には、時に具〔右△〕又は來〔右△〕の字を更に添へても書く。かゝる添字は萬葉書式中の一形式で、他にも例は多い。故に香山を香具山の中略とする説も誤である。尚「あめのかぐやま」を參照(二一頁)。○うねび 畝傍山。また畝火とも書く。高市郡白橿村の中央に突起し、八木町の南に當る。山の高さ一九九米突餘。神武天皇の橿原の宮址はこの東南麓らしい。今はそこに地を相して橿原神宮を建ててある。○うねびを 畝傍山をば〔右△〕の意。○をしと 愛《ヲ》しとての意。「をし」は古言ヱシ〔二字傍点〕の相通で、愛すること。然し古義に「男志」の男を曳〔右△〕の誤としてヱシ〔二字傍線〕と訓んだのは專斷である。○みみなし 耳無山。磯城郡(もと十市部)耳成《ミヽナシ》村にある。平野の間に突起した圓巒で、八木町の東北、香山の北に位する。高さ一三九米突強。西麓に耳無の池がある。大和志に「山中梔樹多(シ)矣、因(ツテ)呼(ブ)2梔子《クチナシ》山(ト)1」とある。○あひあらそひき 相闘爭した。僻案抄の訓アヒタタカ(69)ヒキ〔七字傍線〕も惡くはない。「諍競」は競爭と同意、「諍」は爭〔傍点〕に通ずる。畝火は古事記に、「畝火山之|美富登《ミホト》」、延喜式に「畝傍(ノ)西南(ノ)美富登之埃《エノ》宮(ノ)陵」など見えて、山の凹所を女陰即ち美富登に擬へて、古くから女山と傳へたらしい。隨つて畝火を獲ようと相爭ふ香具山と耳無山とは、共に男山でなければならぬ。古來の註者は畝火山を男山、香山と耳無とを女山として、「畝火ををしと」を畝火雄々しとの意に見て、男山の畝火山をば女山の香山と耳無とが獲ようとして互に爭ふ趣に釋いたが、木下幸文が始めてその誤を發見し、亮々《サヤ/\》草紙に畝火の女山なることを論じ、香川景樹、谷眞潮またこの説を稱へてゐる。ホトは秀處の義で男女陰相通の語といふ説もあるが、この歌では尚女山と見たい。○かみよより 神代よりの意で、必ず人の世に對していふ。こゝの神代は、播磨風土記に記された故事のあつた時を指すのである。○いにしへもしかなれこそ 古へも然なれば〔右○〕こそ。上代文法には動詞の已然形の接續にば〔右○〕の助詞のない場合がある。「歎きつゝ丈夫《マスラヲノコ》の戀ふれこそ」(卷二)、「思へかも胸安からず、戀ふれかも心の痛き」(卷六)など、集中にその例が多い。○うつせみも 現在の身(70)もの意。こゝは弘くかけての詞だから、現在の人の〔二字右○〕身もと譯するのが當る。「うつせみ」は現《ウツ》し身の轉語で、「虚蝉」又は「空蝉」と書くのは、同音の響と、脆いといふ觀念の類似とから來た借字。「も」は妻爭をした古代の三山に對していふ。○つま 「嬬」の字は、妻又は下妻《ソバメ》の義。○あらそふらしき 爭ふのらしい。舊訓のアヒウツラシキ〔七字傍線〕は「相格」の字に拘泥したもので、爭ふと義訓に訓むがよい。「こそ」の係を「らしき」と二段の結詞で應じたのは上古文に多い例で、決して誤格ではない。仁徳紀の皇后の御歌「衣こそ二重もよき」、天智紀の童謠「鮎こそは島邊も吉《エ》き」などの外、この集中にも「おのが妻こそ常《トコ》めづらしき」(卷五)など散見してゐる。
【歌意】 香具山(男)は、あの畝火山(女)をかはゆいと思つて、耳梨山(男)と奪ひ合うたことであつた。神代から、女故にはさうしたものだつたらしい。昔だつてさうであつたればこそ、今の世の人々もやはり妻爭をするものらしい。
 
〔評〕 この歌は、本文に「後岡本宮御宇」(齊明天皇)の標下に收められてゐるので見ると、齊明天皇御治世の間の皇太子中大兄の御作と見るが當然であらう。この御代に(71)播磨方面へ行幸啓のあつた事は紀に見えないが、この歌に據れば、中大兄の播磨行啓は事實で、恐らく紀の方の脱漏だらう。印南郡の加古《カコ》川から一里ばかりの西に神爪《カツメ》(古くは神詰)といふ處があり、出雲の阿菩《アホノ》大神が迹を留められた傳説地となつてゐる。中大兄はこの邊に行啓せられ、阿菩大神の垂迹の來由から溯つて、大和三山妻爭ひの傳説を、土地の故老などから御聽取になり、どうして無關心であり得よう。といふのは、その御胸中を常に往來して御煩悶の種子を蒔いてゐる或事件に、料らずそれが偶合して、大きな衝動を與へたからである。その或事件とは何か、それは外でもない、當時額田女王を中心として中大兄、大海人の御兄弟が、三角關係にあられた事である。二雄山が一雌山を爭つたといふ故事は、全く中大兄御自身の現境と符合する。そこで「神代よりかくなるらし」「古へも然なれこそ」と反覆して、かうした醜い關係でも、なほ一往の道理があるやうに、自己に有利に解釋し囘護しようとあせられた御努力は、如何に自責の念に悩まされ給うたかを思はせる。「うつせみも嬬をあらそふらしき」は何たる餘所々々しい口調であらう。只一般世人の妻爭を傍觀的に歌つたもののやうな態度である。然し實はこれを御自身の事としては發表に苦むほど、深い悔恨と慙愧とに打たれて居られたのであらう。齊明天皇の御治世は、中大兄の三十歳から三十六歳に亙る七年間で、漸く分別のつくべき御年配であらせられたことを思ふと、切々たる哀音の遠長く搖曳する心地がする。
 この歌前段は故事を叙し、後段は現在のわが境遇を比興した感懷を抒べてゐる。古今の對照、區劃が極めて判然として、映對に頗る妙味をもつ。
 だが全體から見ると、まことに無造作な卒直な叙述で、修辭上の粉飾が少なく、簡淨この上もない。殊に異樣に感ずるのは、長歌製作上の常套手段たる枕詞の使用を全然忘れてゐる事である。それは感情が昂奮し過ぎ(72)て餘裕がないせゐだといへようが、元來帝王の尊貴にあらせられる御氣象と專門歌人であらせられぬ點と時代のもつ傾向とが、大に與かつてゐると思ふ。上の舒明天皇の御製でも下の天武天皇の御製でも、長歌となるとほゞ共通した一致點がそこに見出せる。それは餘り飾り立てず一本調子に堂々と屬吐し、帝王の氣象が颯爽としてゐる事である。
 なほ中大兄、大海人御兄弟、對額田女王の關係は、上の額田王傳、及び、下の「茜さす紫野ゆき云々」の歌の條などを參看ありたい。かうした御境地と御感慨とによつて考へると、御兄弟仲の疎隔した事情も察せられ、かの不祥事壬申の亂の遠因の潜む處も自ら頷かれるのである。
 
反歌
 
高山與《かぐやまと》 耳梨山與《みみなしやまと》 相之時《あひしとき》 立見爾來之《たちてみにこし》 伊奈美國波良《いなみくにばら》         14
 
〔釋〕 ○あひしとき 闘つた時。「あひ」は立合ふなどいふ意のあふ〔二字傍点〕である。紀(卷九)に「いざ遇《ア》はなわれは」とある遇はな〔三字傍点〕も同意。古く婚合をもアフ〔二字傍点〕といつたのに據つて、こゝもその義に解するのは惡い。「相」は借字。○たちてみにこし 阿菩大神が出雲の國を立つて、大和三山の闘爭を扱はうとして來たの意。「見」は世話燒くこと、扱ふこと。眼で見ることではない。○いなみくにばら 印南國の國原。印南は伊奈毘《イナビ》ともいつて播磨の郡名。それを國といひ續けたのは、初瀬國、難波國、吉野國の類である。「くにばら」は既出(二二頁)。
 仙覺の註に、播磨風土記を引いて「揖保《イヒホ》郡|神阜《カミヲカ》、出雲國阿菩(ノ)大神、聞(シメシテ)2大和(ノ)國(ノ)畝火香山耳梨(ノ)三山(ノ)相闘(フヲ)1、此(ニ)欲(リシ)2(73)諫止(メンコトヲ)1上來(リマス)時、到(リ)2於此處(ニ)1乃(チ)聞(キ)2闘(ノ)止(ルヲ)1、覆(ヒテ)2其所v乘(ル)之船(ヲ)1而坐(シキ)v之(ニ)、故(レ)號(ク)2神阜(ト)1、阜(ノ)形似(タリ)v覆(スニ)v船(ヲ)」とある。この神阜は今の印南郡|神爪《カヅメ》の北岡のこととなつてゐる。突起が三つあつて一寸畸形の觀を成してゐる丘陵である。一説には神爪の少し西に當る生石《イクイシ》神社(石の寶殿)の山がそれかともいふ。
【歌意】 畝火の女山を得ようとして、男山である耳梨山、香山が相闘つた時に、阿菩大神がわざ/\出雲の國を立つて、扱ひにいらつしやつたが、既にその爭の止んだと聞いて、お留りになつた印南の國原は即ち此處であるわ。
 
〔評〕 この歌、表面は印南野に於ける懷古の御作である。「印南國原」といひ捨てた調子は懷古の外に他意ないやうであるが、然し阿菩大神の出自を考へると、なほ暗に寓意の存することが察せられるであらう。即ち三山の妻爭には、阿菩大神といふ立派な調停者が出現した。然るに御自身の兄弟仲の妻爭には、今にその調停者が出ない。「仲裁は時の氏神」といふ諺の如く、當世向の阿菩大神の出現を期待し翹望して居られるお心持が、言外に動いて見える。この反歌を長歌と連絡させて味つてみると、悔恨のお心持が全幅を覆うてゐるやう(74)に思はれるのである。
 さてこの歌は主語が缺けてゐるので、一寸明瞭を缺く憾が無いでもない。二三句の間に阿菩大神の〔五字右○〕といふ語を補つて解すべきである。又木下幸文は、長歌もこの反歌も、大和國で三山を望み見てお詠みになつたものだと論じた。然し反歌の「いなみ國ばら」といひ捨てた調は、これがその印南國原なのだ!との強い感銘を吐露したものであつて、實際その場所にあつての作でなければ妥當でない。
 更に又この歌調を按ずるに、初句から三句までその語意が連絡して、初、二、三を合して一句を構成してゐる。故に五七を以て斷節とする古調には逆らつて、五七五と延びたのは、夙くも胚胎してゐた七五の調に追從したものといふべきである。次の「渡つみの」の歌も同調である。奈良朝以前に既にこの調のあつたことを思へば、この集中に七五調に流れたものが多く散見するのも、決して偶然ではない。まづ奈良時代は五七、七五、兩調の過渡期と見て差支あるまい。平安朝に至つては全く七五調となり切つてしまつてゐるのに、尚往々にして五七の調を存してゐるものがあるのは、五七の調に制限された詩形を執る慣習に押されたまでゝある。
 
    ○
 
渡津海乃《わたつみの》 豐旗雲爾《とよはたぐもに》 伊理此沙之《いりひさし》 今夜乃月夜《こよひのつくよ》 清明己曾《あきらけくこそ》    15
 
〔評〕 ○わたつみ 海のこと。もと海神の名で山祇《ヤマツミ》に對する稱。渡《ワタ》つ靈《ビ》の義。「み」は靈《ビ》の轉語。○とよはたぐも 「とよ」は美稱で、大きくゆたかなる貌をいふ。「はたぐも」は長く横に引いた雲の稱。「はた」は長く巾ある(75)物にいふ。旗、鰭、機などみな同義。○いりひさし 入日の光が射し。夕燒のさまをいふ。「さし」の中止を、新考にさしぬ〔三字傍点〕とあるべき處をかくいふは古格なりとて、古今集の「狩りくらし〔五字傍点〕棚機つ女《メ》に宿からむ」(※[羈の馬が奇]旅)を例に引いたのは宜しい。下への接續上、この句の下にかくては〔四字右○〕などの詞を補うて聞く。○つくよ 月のこと。「夜」は輕く添へて使ふ例が多い。○あきらけくこそ 舊訓スミアカクコソは直譯的で古語のやうでもない。古義に「明」を照〔右△〕の誤寫としてキヨクテリコソ〔七字傍線〕と訓んだのは我儘である。今は考の訓に據つた。「こそ」は三段の係辭。依つて下にあらめ〔三字右○〕の語を略いたものとする。願望の辭とする説は取らない。(評語參照)
【歌意】 大海のおほ横雲に入日がさしたわい。この夕燒では今夜の月は正にいゝ光でサあらう。
 
〔評〕 左註にいふ如く、この歌は三山歌の反歌ではない。二首以上反歌がある時は、題詞に何首〔二字傍点〕と記すのがこの集の書式である。然るに「三山歌」とのみあつて何首とも記してないから、反歌は「高山と」の一首だけと見てよい。すると、この歌には別に詞書のあつたのが脱ちたものと思はれる。隨つて作者も詠作の場處も不明である。のみならず歌意にも異説があつて、上句を海邊で入日の曇つたのに對した趣と見、
  かくては今宵の月もさやかならじを、いかでかの入日の快く照りて雲も晴れ、今宵の月のさやかにあれかし。 (燈、古義、野雁新考、美夫君志)
と要求したのだとする説も多い。
 然し「豐旗雲に入日さし」は飽くまで晴れた日の日没にのみ見得る實景である。その海晩の景象が非常に力強く實際に喰ひ入つて叙されて居り、一誦極めて鮮明にその景觀を讀者の胸裏に映寫させるところ、決して想(76)像から抽出した叙述ではない。かく現實感の強さを考察してゆくと、下句は上句の事實に立脚した單なる想像で、希望にはならぬことになる。
 「夕燒は天氣」とは昔もいひならはした事であらう。着想においては何等の特色もないが、格調堂々雄風四邊を拂ふ概があり、まさに王者の氣象が漲つてゐる。中大兄(天智)の御屬吐としてなら誠にふさはしい。或は三山歌と同時に、印南の海邊においての御詠懷と見ることが、寧ろ當つてゐるかも知れない。
 
右一首(ノ)歌今案(フルニ)不(ル)v似2反歌(ニ)1也。但舊本以(テ)2此歌(ヲ)1載(ス)2於反歌(ニ)1、故(レ)今猶載(スル)v此(ニ)歟。亦紀(ニ)曰(フ)、天豐財重日足姫《アメトヨタカライカシヒタラシヒメ》天皇先四年乙巳、立(テヽ)2爲〔□で圍む〕天皇(ヲ)1爲(ス)2皇太子(ト)1。
 
 右の「渡津海乃」の歌は反歌のやうでない、但舊本が反歌として載せてあるから、今もやはり茲に載せておくかとの意。「紀曰」以下、「重日足姫天皇」は皇極齊明天皇の御こと。この帝は重祚なされたので、「先四年」とは皇極と申した前期の御在位の四年といふこと。「立天皇」の天皇は天智天皇即ち中大兄の御こと。
 
近江(の)大津宮御宇《おほつのみやにあめのしたしろしめしゝ》天皇代  天命開別《アメミコトヒラカスワケノ》天皇
 
天智天皇の御代とのこと。天皇は孝徳天皇即位の時より御母齊明天皇の御代を通じて、皇太子であらせられ、母帝崩後即位、御在位十年にして大津宮に崩御あらせられた。なほ「中大兄」の項を參照(六六頁)。○大津宮 近江滋賀郡南|滋賀《シガ》の地で、崇福《スフク》寺(志賀寺のこと)舊址より東南十町の臺地に、その推定舊址がある。桓武天皇、(77)の代に宮址に就いて梵釋寺が建てられ、平安末期に及んでこれも廢寺となつた。出土物に確かな大津朝時代の物がない。その正東に當る淡水《アフミ》の海(琵琶湖)の湖畔、唐崎より起つて南方に一入灣を成した地點が、當時のいはゆる大津で、宮號にも負せられたもである。「近江大津」は委しくは近江の狹々浪《サヽナミ》の滋賀《シガ》の大津といふべきであるが、略しては樣々にいつてゐる。「大津」は官船の發着する渡津をいふ。大は美稱、津は船の發著處。天智紀に、その六年三月朔近江に遷都すとあつて、約五年間の帝都である。今の大津市は平安京以後この大津の稱を移して呼んだものである。○天命開別天皇 大智の御稱へ名。
 
天皇詔(らして)2内(の)大臣《おほおみ》藤原(の)朝臣〔二字左△〕《あそみに》1競2憐《あらそはしめたまへる》春山(の)萬花之艶《はなのいろ》、秋山(の)千葉之彩《もみぢのにほひを》1時、額田王《ぬかたのおほぎみ》以(て)v歌(を)判《ことはれる》v之|歌《そのうた》
 
天智帝が内大臣藤原(ノ)朝臣鎌足に詔して群臣を集め、春山の花と秋山の紅葉との優劣論を闘はしめられた時、額田(78)王が歌で優劣を判じたその歌との意。守部は天皇が藤原朝臣と春花秋葉の優劣を爭はれた意であると主張した。天子の宣言を大事には詔といふのだから、弘く群臣に仰せられたものと見るが至當であらう。○内大臣 後世のとは違つて地位が高く、殆ど後世の攝關にひとしい。鎌足は孝徳帝の御即位の年に既に内臣《ウチノオミ》となつた。天智天皇八年その臨終に當り、内大臣《ウチツオホオミ》に任ぜられ藤原の氏と朝臣の姓とを賜はつた。こゝは無論それより以前の事だから、内(ノ)臣中臣(ノ)連《ムラジ》と書くべきだが、後の記録者が、その極官なり賜姓なりを溯らせてかく記したもの。○藤原(ノ)朝臣 藤原(ノ)卿と書くが至當である。内臣、内大臣、大納言等の高級官吏は尊貴に憚つて、名も姓も書かぬのを定式とすることが、大寶の公式令に見えてゐる。鎌足傳は著名な人ゆゑ略く。○春山萬花之艶秋山千葉之彩 春山の花の色秋山の紅葉の匂といふ程のことを、漢風に潤色して書いた。○判之 他の諸臣の意見を裁判する意ではない。諸臣は口頭でその優劣をわけたのを、額田王は歌を以て判つたといふに過ぎない。
 
冬木成《ふゆごもり》 春去來者《はるさりくれば》 不喧有之《なかざりし》 鳥毛來鳴奴《とりもきなきぬ》 不開有之《さかざりし》 花毛佐家禮杼《はなもさけれど》 山乎茂《やまをしみ》 入而毛不取〔左△〕《いりてもきかず》 草深《くさふかみ》 執手母不見《とりてもみず》 秋山乃《あきやまの》 木葉乎見而者《このはをみては》 黄葉乎婆《もみぢをば》 取而曾思奴布《とりてぞしぬぶ》 青乎者《あをきをば》 置而曾歎久《おきてぞなけく》 曾許之恨〔左△〕之《そこしうらめし》 秋山吾者《あきやまあれは》    16
 
〔釋〕 ○ふゆごもり 冬籠り。春にかゝる枕詞。草木の冬籠りして發《ハ》るといふに春をいひかけた。春をハル〔二字傍点〕といふ(79)も草木の發《ハ》り出づる義である。「木成」は籠の借字で、釋名に「成(ハ)盛也」とある。○はるさりくれば 春になつて來るとの意。「さり」に「去」の字を充てゝあるが、普通にいふ去る〔二字傍点〕の意とはやゝ異る。蓋し「さる」に二義あつたと考へられる。(1)は空間にいふもので、去るの意となり、(2)は時間にいふもので、その推移を表する意となる。春さり、夕さりのさり〔二字傍点〕は皆この第二の意義の語である。眞淵のシアリ〔三字傍点〕の約との説明は、語態の接續上にも無理があつて諾へない。獨立の四段活用動詞と見るべきである。○なかざりし 「喧」はかまびすし〔五字傍点〕の意で、鳥の囀るをも形容する。故にナクと訓む。○さけれど 咲きてあれどの意。「れ」は完了の助動詞「り」の第五變化。「杼」は呉音ト〔傍線〕であるのを濁音に使用した。○やまをしみ 山がまあ茂さに。「を」は歎辭。「しみ」の「し」はシキ〔二字傍点〕の語根。繁《シゲ》きを古言にシキ〔二字傍点〕といひ、古事記にも繁の字を醜《シキ》の借字に用ゐて、繁國《シキクニ》と書いてある。「み」は上の「を」の歎辭を承けた接尾語。尤も本文にこれに當る字はないが、文法の形態上からさう訓み付けられる。なほ下の「草深」を草探ミ〔右○〕と訓むに同じい。○きかず 聽かれず。本文「不取」とあるは鳥を取られずと解すべきだが、次句に又「取りても」とあるのでさし合ふ。古義に大神景井説として「取は聽〔右△〕の字の誤にて、キカズ〔三字傍線〕と訓むべし」とあるに從つた。○とりても 花を手に執つても。○もみぢ 古義はモミツ〔三字傍線〕と訓んだ。この語は赤くなるをいふ四段の動詞の第四變化で、次句の「青き」の語形にはよく對照するが、對語はあながち同形語を必要としない。而も「黄葉」の字面をモミツと動詞に訓むことは他に例がない。「黄葉」は紅葉と通じて用ゐ、易林に「桑葉將v落(チント)隕(ス)2其葉〔二字傍点〕(ヲ)1」、漢武帝の詩に「木葉黄〔二字傍点〕落雁南(ニ)歸(ル)」など見え、古文にはおもに黄葉〔二字傍点〕と書いてある。紅葉〔二字傍点〕は酉陽雜俎以下の書に見えるが、この集はその古に從つてゐる。○とりてぞしぬぶ 手に取つて愛でうつくしむ。「しぬぶ」は(1)慕ふ、(2)愛づる、(3)忍び隱るゝ、(4)堪へ忍ぶの四義があり、處によ(80)つてその意かはる。○おきて さし置いて。木に置いてではない。○そこしうらめし 「し」は強辭。「そこ」は上の句を直ちに承けたのではない。前に立返つて春山の事をさしたのである。(評語參看)。宣長は「恨」を怜〔右△〕の誤字としてオモシロシ〔五字傍線〕と訓み、古義はそれに依つてタヌシ〔三字傍線〕と訓んだ。○あきやまあれは 吾は秋山なるぞ〔三字右○〕の意の倒装。舊訓はアキヤマゾ〔五字傍線〕と、ゾ〔右○〕の辭をよみ添へてあるが、歌意と語勢とを味へばその必要を認めなくなる。秋山そのものが吾といつたやうに聞えるといふ説は、斷章的に拘泥した見方である。
【歌意】 春になつてくれば、山にはこれまで鳴かなかつた鳥も來て鳴く、咲いてゐなかつた花も美しく咲いてはゐるが、然し山の木が繁さに、分け入つてその鳥は聽かれもせぬし、草が深さに、その花は手に取つて見られもせぬ。それに引換へ、秋の山の木の葉を見ては、その色づいたのを手に持つて愛賞するし、その青いのはそのまゝで色づきの遲いのを歎く。春山は〔三字右○〕あの點が恨めしい、だから秋山の方に團扇を上げますわ、私は。
 
〔評〕 この歌の叙述の推移を檢するに、まづ春山の長所を叙し、次いで「咲けれど」の一句に轉捩してその短所に及び、更に秋山の好所を力説し、遂にこれに左祖したのは、取らんとする者は先づ與へよの筆法である。當時の春山禮讚黨は、恐らく口々に花光鳥語の明朗さを以て大いなるその特色として、高唱したものであらう。そこで作者は單刀直入相手の牙城に突進して鋭くこれを撃破して置き、次に從容と自説を主張したのである。その撃破とその主張とを貫く唯一の要點は、つまり愛賞の機會の自由さと不自由さとに歸着してゐる。元來春秋の優劣論は、その齎す興趣の深淺多少を比較商量するのが本旨であるが、然しそれは各人主觀上の問題であり、畢竟は好惡によつて決する性質のものであるから、汝は汝我れは我れで、いつまで經つても結論は求められない(81)のが當然である。さればこそ巧慧なる作者は、他の客觀的方面から論陣を布き、愛賞の機會如何を云爲して反對論者の虚を衝いたのである。固より作者は秋山の美景を眼前にして感興の昂騰を歌つたのではなく、冷靜な理智判斷に出發して自己の嗜好を主張したものであるから、眞に歌としての味ひに稍缺ける所のあるのも已むを得ない歸結であらう。「秋山あれは」の倒装は頗る力強い表現であり、これは他の春山禮讃黨に對する強い反駁を意味するもので、實に鐵椎一撃の概がある。
 寵臣鎌足を右に、嬖幸額田王を左に、その他多くの侍臣等を集めて、春山(ノ)霞男、秋山(ノ)下部男以來の懸案たる、春花秋葉の風流論爭を聽かれた當時の天智天皇の御得意は、蓋し想像に餘がある。殊に額田王が婦人の身を以て有髯男子の間に伍して、この長篇を屬吐して、秋山千葉の爲に大いに氣を吐いたことは、春山萬花の月竝人士をして唖然たらしめたものがあつたらう。又「閨女春を憐む」の定型を破つて秋に固執んただけでも、額田王が特異性に富む婦人であつたことが容易に推測される。而して後世の春秋優劣の論爭が多くは秋の勝に歸する傾向をもつ所以は、蓋しこの一篇がその素因を作してゐること疑ふべくもないのである。
 さてこの歌は、篇法から見れば三段から成り立つてゐる。即ち第一段は「冬ごもり」から「執りても見ず」まで、一に春山に關していひ、第二段は「秋山の」から「おきてぞ歎く」まで、專ら秋山に就いて述べ、互に對蹠的に合拍させてゐる。而して三段に至り、こゝに裁斷の語を下し、「そこし恨し秋山われは」と前に立返つて、春山を抑へ秋山を揚げたのである。故に秋山の相對上、「そこし恨めし」の上に春山は〔三字右○〕の主語が自然潜在することはいふまでも無い。
 又「鳴かざりし」「咲かざりし」は、わざと正反對の過去の事相を修飾に置いて、「鳴く」「咲く」の意を強調(82)させ、以て春の特徴を宣揚したのである。而して本來の主旨が春山には万花之艶、秋山には千葉之彩を叙するにあるから、春の鳥は畢竟ずるに陪客で、只伴奏の役目を勤めてゐる状態である。「山を茂み入りても聽かず」「草深み執りても見ず」は、いかにも婦人らしい情致が動いて見える。春の叙述には山〔右○〕の字こそ下してないが、すべてが春山の景致で、下聯の「秋山の」とあるに確かな對照を作つてゐる。
 
額田(の)王(の)下(れる)2近江(の)國(に)1時(に)作《よめる》歌、井戸〔二字左△〕王《ゐどのおほきみの》即(ち)和歌《こたふるうた》
 
額田王が都から近江國に往かれた時に詠んだ歌、井戸王が即座にそれに應じて詠んだ返歌との意。○井戸王云々 井戸王は傳未詳。「井戸王」を并女〔二字右△〕王の誤とし、額田王を父王、女王をその王女と見る説もあるが、とにかく次の「綜麻形」の歌はこの和歌とは見難い。○和歌 下の一〇七頁を見よ。
 
味酒《うまざけ》 三輪乃山《みわのやま》 青丹吉《あをによし》 奈良能山乃《ならのやまの》 山際《やまのまゆ》 伊隱萬代《いかくるまで》 道隈《みちのくま》 伊積流萬代爾《いつもるまでに》 委曲毛《つばらにも》 見管行武雄《みつつゆかむを》 數數毛《しばしばも》 見放武八萬雄《みさけむやまを》 情無《こころなく》 雲乃《くもの》 隱障倍之也《かくさふべしや》    17
 
(83)〔釋〕 ○うまざけ 三輪にかゝる枕辭。四音の句である。「うまざけ」は旨い酒で、酒を褒めていふ。酒を釀すとまづ發酵する、それが實涌《ミワ》くで、その實涌《ミワ》を三輪にかけた。實は諸實《モロミ》などの實と同じく、その材質《モト》をいふ。さて酒の發酵即ち實涌《ミワ》く加減は頗るむづかしいものなので、古人はこれを神業と考へ、神を祀つてその成功を祈り、初穗は神に捧げてその恩頼《ミタマノフユ》を謝したもので、今でも酒造家はこれを實行してゐる。實涌《ミワ》を神酒と書くもこの理由からである。舒明紀やこの集やに、既に神酒をミワ〔二字傍点〕と訓ませてあるから、こゝも味酒|神酒《ミワ》を三輪にかけたとする古義説も根據はあるが、味酒神酒の助辭なしの續きも面白くないから、尚その原義に溯つて實涌くと説明する方がよい。○みわのやま 大和城上郡三輪山。(標高四六七米突)北及び東は卷向山に接し、西麓に大物主《オホモノヌシノ》神を祀る三輪神社がある。この句は下には〔右○〕の辭を含めた格。○あ(84)をによし 奈良にかゝる枕詞。「あをに」は青士の義で、青紺の色をした土の稱。「丹」は借字。昔は種々の顔料にこれを用ゐた。常陸風土記の久慈郡の條に「河内(ノ)里云々、所有《ソコナル》土(ノ)色如(ク)2青紺(ノ)1、用(ヰルニ)v畫(ニ)麗《ウルハシ》之、俗(ニ)云(フ)2阿乎爾《アヲニト》1、或(ハ)云(フ)2加支津爾《カキツニト》1」とある。加支津爾は畫著土《カキツクニ》の義である。緑青《ロクシヤウ》をこの集にも和名抄にもアヲニ〔三字傍点〕と訓んであるが、同名異物と心得てよい。さて青土はよく水に浸透させて和熟《ナラ》して使用するものだから、青土《アヲニ》熟《ナラ》すを奈良《ナラ》にいひかけた枕詞である。「よし」の「よ」は呼格の辭。「し」は問投の強辭で、青土よと呼びかけたに過ぎない。この形式を執つた枕詞の用例は、麻裳よし〔二字傍点〕紀(着)人、眞菅よし〔二字傍点〕宗我《ソガ》(スゲ、ソガの通音)、玉藻よし〔二字傍点〕讚岐(さ貫《ヌ》き)など多い。「吉」は借字であるのを字義通りに解して、青土の良い奈良と説くは未だしいが、奈良山に青土は産出するので、この枕詞も生れたのである。著者の探檢した處では、歌姫越の北峠附近に大分發見した。また古義に、青土黏《アヲニネヤ》しのニネ〔二字傍点〕を約めてニ〔傍点〕といひ、ヤ〔傍点〕をヨ〔傍点〕に通はせ、青土|黏《ヨ》し熱《ナラ》すに奈良をかけたと解したのは、稍繁瑣で迂遠である。○ならのやま 大和添上郡。東佐保山に起つて西高野の邊に及ぶ岡陵の總稱。「なら」は奈良、寧樂、那羅など書く。崇神紀に「復遣(リ)2大彦(ト)與|和珥臣《ワニノオミノ》遠祖彦國|葺《フキトヲ》1、向(ヒテ)2山背(ニ)1撃(ツ)2埴安《ハニヤス》彦(ヲ)1――則率(ヰテ)2精兵(ヲ)1進(ンデ)登(リ)2那羅《ナラ》山(ニ)1、――時(ニ)官軍屯聚(リ)而※[足+滴の旁]2※[足+且]《フミナラシキ》草木(ヲ)1、因(テ)v此(ニ)號(ケテ)2此山(ヲ)1曰(フ)2那羅山(ト)1云々」とあるのは、例の民間語原説で、この種の説明は記紀に多く見えるが、信を置き難いものが多い。恐らく楢林の山なので附いた(85)稱であらう。○やまのまに 「ま」はその字の示す如く際《キハ》である。間《アヒダ》ではない。「に」の辭は讀み添へたもの。眞淵はユ〔傍線〕と讀み添へたが、この集の書式から見ると、ユ〔傍線〕と讀む場合には必ず從〔右○〕の字がある。但眞淵は脱字かといつてゐる。○いかくるまで 「い」は發語。「代」は呉音テイ。よつてテの音にあて、又デの濁音にも用ゐる。○みちのくま 道の曲り角。○いつもる 荷田東滿の訓イサカル〔四字傍線〕は無理である。「い」は發語。○つばらにも つまびらかにも。「も」は歎辭。○みつつ 「つつ」は乍の意、「管」は借字。○ゆかむを 行かむもの〔二字右○〕を。○みさけむやまを 見渡さう山なる〔二字右○〕を。「見放く」は遠く眼を放つこと。放《サ》け見れば〔四字傍点〕と上下してもいふ。平安期には死語となつた。○こころなく 思ひ遣りなく。同情なく。○くもの これは三音の獨立句。○かくさふべしや 「かくさふ」は隱すの延音。「や」は反語。「隱障」の「障」は意をむかへて書き添へたもの。
【歌意】 あの三輪山は、この奈良の山あひにその影が隱れるまでに、道の限々も重なるまでに、念入りにも見ながら行かう山なのを、度々も見渡したい山なのを、その思ひ遣りもなく、雲が隱してもよいものかい。
 
(86)〔評〕 この歌冒頭を見るに、「味酒三輪の山」「青丹吉奈良の山」と相對的の構成であるが、それは單に形式上のことであつて、三輪の山が全篇の主格に立ち、「情《コヽロ》なく雲の隱さふべしや」と結收してゐる。「つばらにも」「しば/\も」見たいものよと、漸層的に反復強調して、三輪山への執着を叫んでゐるその語氣は、あからさまにこの山影を隱蔽する雲の無情さを怨み且難詰してゐる。「隱さふべしや」と強い反語の表現がそれである。いかに作者が深い執心、強い愛着を三輪山にもつてゐたかが窺はれるではないか。「雲の」の三音は、上下の五七音の問に介在して獨立した一句で、この變態的句法が、力強く雲その物を捉へてゐる。
 抑も三輪山は大和平原の東南隅に峙ち、海拔僅に五百米突に足らないが、欝蒼たる原生林に蔽はれたその和やかな山容は、四方何れから望んでも一種いひ知れぬ懷かし味があり、古くから香具山や耳梨山などと同じく注目された名山である。しかも大物主の神の靈威によつて、歴史的傳説的に囘顧を餘儀なくされる靈山である。作者は今しも住み馴れた飛鳥京を辭して近江に赴かうとする。この時に當つて、飛鳥京の名殘惜しさは勿論ながら、朝夕親しく見馴れたこの山の孱顔にさへ別れて遠く去りゆくことが、如何に堪へ難い感傷を催したであらう。乃ち「道の隈いつもるまで」、いとしい戀人にでも別れるやうな心持で、この山を願望したのであつた。
 尤も初頭から「見さけむ山を」までは希望であり豫期であり、それを雲に裏切られた遺恨を歌つたのだから、作者は何處にゐても差支ないやうなものゝ、尚奈良山近くまでも既に來たうへの感想とするのが、この場合最も至當な見方であらう。
(87) さて額田王の近江下向は何時頃の事とも判明しない。題詞に只「下近江」とある所から見ると、或は近江國にまだ大津京が出來ない前の事であらうか。尤もこの題詞といふものは、必しも絶對的信憑の置けるものばかりではなく、萬葉の記者が前人の記録をそのまゝ踏襲したのもあり、或は後から追記したものもあり、創作當時の記述と思はれるものは寧ろ少いやうに思はれるので、隨つて誤謬も當然あらうし、輕々しい斷定は出來ない。奈良時代になつてからの意識でいへば、近江に往くのは下る〔二字傍点〕のである。だから或は天智天皇の近江遷都に際し、額田王も近江に往かれたその途上の作を、奈良人がかう書いたのかも知れない。左註に引いた類聚歌林に、近江遷都の時の御歌としてあるのは、相當理由のあることゝ思ふ。その甚しく三輪山に執着したことは、さうした際の作として考へると特にふさはしい感がある。然し人は箇人的に特殊の境遇が生ずるものであるから、何かの事情で一旦飛鳥京を引拂つて近江の故郷に蟄居しようとする際の途上の感懷と見られぬこともない。近江は額田王に取つては、父君鏡王から始めてその本居であつたのであるから。
 
反歌
 
三輸山乎《みわやまを》 然毛隱賀《しかもかくすか》 雲谷裳《くもだにも》 情有南畝《こころあらなむ》 可苦佐布倍思哉《かくさふべしや》    18
 
〔釋〕 ○しかも さうまあ。「しか」は雲の隱した状態をさす。○か 歎辭。○くもだにも 「谷」は借字。「雲谷」は詩の字面で「見(ル)2月(ヲ)溪下(ノ)雲谷(ニ)1」(孟郊)、「雲谷空(シク)澹蕩」、(皮日休)「暖(ニ)辭(シテ)2雲谷(ヲ)1背(ク)2殘陽(ニ)1」(羅※[業+おおざと])など、中唐以後の詩に見えるが、その字面は夙くから存在してゐたに相違なく、それを借用したと思はれる。○なむ 希望(88)の助動詞。「南畝」は詩經幽〔幺が琢の旁〕風の※[食+(去/皿)]《カレヒス》2彼(ノ)南畝(ニ)1の字面を借用した。「畝」は呉音ム〔傍点〕である。一本には「畝」を武〔右△〕に作る。
【歌意】 三輪山をあゝも雲が隱すことかまあ、せめてその雲なりとも思ひやりがあつてほしい。そんなに隱してよいものかい。
 
〔評〕 眼前に雲が三輪山を蔽へるを見て「しかも隱すか」と嗟歎し、さて「雲だにも」と縋り掛けた。懷かしの目標たる三輪の山色の有無は、搖曳する雲意の如何によるからの事である。四句で一旦切れて歌意は既に完了したものを、更に蒸し返して「隱さふべしや」と丁寧に力強く雲に對して切言に及んだ。蓋し雲の本來無情のものたることを忘れたいひ方で、全く理路を没却してゐる。いかに三輪山に深い執着をとゞめてゐるかゞ窺はれよう。即ち半面にその故郷に戀々たる情味の切にして盡きぬものゝあることが認められる。
 長歌の末章を引取つて多少の潤飾を施したものゝ、詰る所はその反覆に過ぎない。然しさうまで諄くいひ返した所以を思ふと、無心の雲も流石に同情の念に禁へぬものがあるだらう。
 「雲谷」及び「南畝」の漢熟字を應用したことは、歌の記録者の遊戲に出たものである。それがこの集編者の所爲か、はた亦以前からさう記録さわてゐたものかは不明であるが、とにかく漢文學の影響の著しいことが、躊躇なく承認さわるであらう。
 
右二首(ノ)歌、檢〔左△〕2山(ノ)上(ノ)憶良(ノ)大夫(ノ)類聚歌林(ヲ)1曰(フ)、遷(サルヽ)2都(ヲ)近江(ノ)國(ニ)1時、御2覽《ミソナハセル》三輪山(ヲ)1御歌(ト)焉。日本書紀(ニ)曰(フ)、六年丙寅春三月辛酉朔己卯遷(ス)2都(ヲ)于近江(ニ)1。(他の書例に從つて檢の字を補ふ)
 
(89) 右の長歌及び反歌は類聚歌林によれば、近江國に遷都の時三輪山を御覽じての御歌との意。御覽及び御歌とある以上は、天皇か皇太子などの御製作となる。當時の天皇は天智天皇、皇太子は大海人皇子である。但萬葉を談ずる時には、明白なる理由ある場合を除くの外は、左註よりも本文を執するが至當と思ふ。よつて尚これを額田王の作とする。
 
    ○
 
この歌は左註にいふが如くで、上の歌の和歌ではない。されば上の歌の題詞「井戸王即和歌」はこゝには移し難い。上の歌は三輪山に惜別の情を運んだ作、これは「目につくわがせ」とあつて戀歌であるから、兩者の交渉は絶對にない。さりとて次に掲げた「茜草さす」の歌とは時季が一致せぬから、その題詞「天皇遊2獵蒲生野1時云々」の條下に收むべきものでも決してない。この前後が額田王の歌である處から推すと、これも同王の作かも知れないが、かく事情が違つてゐるから、別な題詞のあつたものが書寫の際に脱落したものと斷ずるより外はない。
 
綜麻形乃《へそがたの》 林始乃《はやしのさきの》 狹野榛能《さぬはりの》 衣爾著成《きぬにつくなす》 目爾都久和我勢《めにつくわがせ》      19
 
〔釋〕 ○へそがた 綣縣《ヘソアガタ》の略。近江國栗生郡守山驛から約三十町ほど南の綣村《ヘソムラ》(今は大寶村の内の小名)といふ處が、古への綜麻縣の地と思はれる。綣は卷子とも書く。即ち綜麻《ヘソ》の義で、績麻《ウミヲ》を球の如く絡ひ附けたる物の稱。古事記に、以(テ)2閇蘇《ヘソ》1紡麻《ウミヲヲ》貫(キ)v針(ニ)云々、又土佐風土記に、以(テ)2綜麻《ヘソヲ》1貫(ク)v針(ニ)とある。縣《アガタ》をカタと上略した例は河内の(90)大縣《オホガタ》、美濃の方縣《カタガタ》、山縣、信濃の小縣《チヒサガタ》の類極めて多い。舊訓のソマガタ〔四字傍線〕に從つて杣縣と解し、近江國甲賀郡杣村の事としても通ずるが、その地が額田王の本居からは遠く又邊僻でもあるから、いかゞと思ふ。古事記崇神記(卷中)に「活玉依《イクタマヨリ》姫が竊び通ふ男の居處を知る爲に、絲を針でその衣の襴《スソ》につけたのを、男は知らずに引いて歸ると、卷子の紡紵《ウミヲ》の只|三勾《ミワゲ》殘つたので、その絲筋を辿つてゆくと御室山に來た、そこでその地を三輪といふ」とある故事に據つて、東滿が「三勾殘れる形により、綜麻形と書きて三輪山と訓ませたり」といふ説は、一寸面白いが牽強である。又|紗寐形《サヌカタ》の誤字とする久老説は愈よ非。○はやしのさき 林のはづれ。「さき」は突端。「始」をサキと訓むは意訓。眞淵はシゲキガモト〔六字傍線〕と訓んだが附會過ぎる。○さぬはり 野萩。「さ」は接頭の美稱。「はり」は萩のこと。榛の字に從つてハンの木とする説もある。尚委しくは下出「はりはら」(二二一頁)及び榛原考(雜考−5)を參照。○きぬにつく 衣に染み着く。萩の花の汁は物に染み易い。○なす 如く〔二字傍点〕の意。その如き働きをするをいふ。似す〔二字傍点〕の轉語といふ。神代紀に如五月蠅をサバヘナス〔五字傍点〕と訓んである。「成」は借字。○めにつく 見る目に立つをいふ。○わがせ 「せ」はこゝは夫又は情人を稱する。「わが」は懷かしむ意で添へた語。この句の下によ〔右○〕の歎辭を含む。△地圖 挿圖28を參照(九三頁)。
【歌意】 この綣縣の林はづれの野萩の花が、人の衣に染まり付く如く、私の目に著くそれは/\いとしいあの方よ。
 
〔評〕 綣村附近は概して平地で、何かの疎林がそこにあつたと見える。その林端は幾群の野萩が秋芳を競ひ、徂徠の人の袖袂を匂はせてゐる。作者は即ちこの背景を序詞に轉用し、「つく」の語を反復してその連鎖とした。(91)然し「衣に著くなす」が譬喩の形式だから、萩の花が衣に染み著くその具合なり状態なりが、著想の根幹を成してゐることを忘れてはならぬ。萩の花を物に摺ると實にあざやかな紫色に染まる。紫の色相は絢爛で眩惑的であるから、古今を通じて一般に喜ばれ、集中にも紫色を盛に讃歎してゐる。故に萩の花摺《ハナズリ》は人の心目を悦ばしむる程綺麗に染み着くものといふ先入觀から、林の始の狹野萩を見るや、眼前幾ばくの遊行者中に在つて、殊に優れて懷かしの人たるかの背の君に準擬したことは、折柄物柄に最も適應した措辭といはねばなるまい。かくて「目に着く」が一往も二往も強調され、隨つてその戀心の熾烈さがさもと思ひ遣られる。
 元來綣村は草津から北、守山へ通ずる琵琶湖東の舊い街道の中途にあつて、古代には綣縣の名で著れた相當な場處と見える。そこから四里半北に鏡の宿がある。そこは額田王の御父鏡王(又額田王)の御名の本據と考へられる。更に北方坂田郡筑摩郷の内に都久麻佐野方《ツクマサヌカタ》(卷十三)と續けた佐野方がある。「佐」は接頭語で、野方は即ち額田だから、こゝも王父子の名に所縁がある。かうなると、この歌はやはり額田王(女)の作ではあるまいかとも思はれる。况や近江朝廷となつては、天智帝や大海人の皇太弟がこの邊を遊幸されたことは、紀の記載以外にも多少あらうから、この「わが背」はそのいづれかを斥したものと見ても惡くはあるまい。
 又いふ、榛をハンの木とすると、その皮の煎汁で染めれば黒褐又は茶褐色になる、黒褐や茶褐色などは全然不意氣な澁い色相であり、又或人のいふやうに、その若葉が假に衣に染み著くものとしてからが、その色相ははしきわが背を連想させる程の懷かしみが淺い。萩の花であつてこそ始めてその紫の色相がふさはしいのだと思ふ。
                       △榛原考(雜考−5參照)
 
(92)右一首(ノ)歌。今案(フルニ)不v似2和歌(ニ)1。但舊本載(ス)2于此(ノ)次《ツイデニ》1。故(レ)以(テ)猶載(ス)焉。
 
 右の歌一首は和歌のやうでない。但舊本がこの順序に記載してあるのでそのまゝにしたとの意。三輪山の歌に和へた歌でないことは、前に述べた如くである。
 
天皇遊2獵《みかりしたまへる》蒲生野《かまふぬに》1時、額田(の)王(の)作歌《よめるうた》
 
天智天皇が近江の蒲生野に狩せられた時、額田王が詠んだ歌との意。この遊獵は左註にもある如く、天智天皇の七年夏五月五日の事である。○蒲生野 近江國蒲生郡の觀音寺山太郎坊山の南に横はる平野。○遊獵 こゝでは夏五月五日の事だから藥獵《クスリガリ》である。鹿茸《ロクジヨウ》、(鹿の若角で、本草に主(ル)v益(スコトヲ)v氣(ヲ)とある)及び藥草などを採ることを主とした行遊。抑も藥獵は卷十六に「四月《ウヅキ》と五月《サツキ》のほどに藥獵つかふる時に」などあつて、夏四五月の際の行事であつた。推古紀に十九年夏五月五日藥2獵(ス)兎田野(ニ)1とあるを史の初見とする。
 
茜草指《あかねさす》 武良前野逝《むらさきぬゆき》 標野行《しめぬゆき》 野守者不見哉《ぬもりはみずや》 君之袖布流《きみがそでふる》    20
 
〔釋〕 ○あかねさす 紫にかゝる枕詞で、茜色《アカネ》に匂ふの意か。古への紫は赤色が勝つて(93)ゐるのがその本色だから、茜色に近いのである。「茜」は山野に自生する蔓性宿根の草本。その根は太い髯状をなして、緋赤色の染料とする。名稱は赤根《アカネ》の義におこる。「さす」は發《タ》つことで、日影さす月影のさすのさす〔二字傍点〕もこの意。仙覺抄には赤根生《アカネサ》すの意で、紫草の根の赤く生えたる貌とした。古義に「赤さす紫といふ續きにて、ね〔傍点〕は島根草根眉根などの根に同じく、意味をもたぬ添言なり」とあるはいかゞ。島根草根眉根は皆本あり根のあるもので、場合によつて根の語が輕く使はれたに過ぎない。赤は色相で本も根もはじめからないから、一列には論じ難い。又|赤丹《アカニ》さすの義とする説もあるが迂遠である。「指」は借字。○むらさきぬ 紫野。紫草の生ふる野をいふ。固有名詞ではない。紫草のことは次の歌の條を參照。○ゆき 「逝」は借字。○しめぬ 標野とは禁野のこと。標《シメ》を立てゝ占め置かれた御料の野である。「標」はしるしの物、又表出することにいふ。○ぬもり 野の番人。古へ御料の野にはその監守を置かれたもの。山守橋守などもこの例。○見ずや 「や」は反語。○そでふる 袖を打振る。この句の下、を〔右○〕の助辭を略いてある。
【歌意】 この紫草の生えた野を行き、この御料の禁野を行きつゝ、貴方樣が私への合圖に袖をお振りになるのを、あの野守が見付けずに居ませうことかい。御注意なさいませ。
 
(94)〔評〕 蒲生野は東近江における好箇の狩場で、近江朝廷隨一の禁野であつた。――西近江には禁野たるべき野がない。――紫草は山野自生の草で、昔は何處の野にでも生えてゐた。おなじ蒲生野のことを紫野とも又標野とも呼び換へて、排對の間に姿致を求め、更に「行き」の語の反復が、その一行の行進曲を吹奏する。即ち行きつゝ〔四字傍点〕の意味を成す。しかもこの二つの「行き」がいづれも結句の「袖振る」に係るので、隨つて袖振ることも亦繼續的に行はれてゐることを表現してゐる。
 すべて他に認められようが爲に物を提擧することは或意志の表示である。手を擧げて合圖をし、領布《ヒレ》を振つて別を惜み、手巾を振り袖を振つてわが存在を示し、思慕の情を寄せる。茲に註脚を要することは、古への袖は筒袖に近いもので、後世の振袖のやうに縱に長い物ではない。横即ち裄丈の長い袖、それを打振つたものである。(95)勿論舞踊などには別裁がある。
 鳥狩鹿狩藥狩、遊獵は上代の貴族階級の人達の唯一の行樂で、特に帝王の御出獵には前躯後從にその行粧を引繕ひ、華美の限を競うた。只この行列を見物するだけでも面白いものとされた。天武紀に
  是月(九年冬十月)天皇將(ニ)v蒐《カリセムト》2於廣瀬野(ニ)1、而行宮|構訖《ツクリヲハリ》、装束既(ニ)備(ハレリ)、然(ルニ)車駕遂(ニ)不v幸(シタマハ)矣、唯親王以下及(ビ)群卿皆居(リ)2于輕(ノ)市(ニ)1、而檢2校(シ)装束(セル)鞍馬(ヲ)1、小錦以上(ノ)大夫皆列(ミ)2座(キ)樹下(ニ)1、大山位以下(ノ)者(ハ)皆親(ラ)乘(レリ)v之(ニ)、共(ニ)隨《マヽニ》大路(ノ)1自v南行(ク)v北(ニ)。(卷二十九)
その出獵の路次の行粧がいかにきら/\しいものであつたかが想像される。この蒲生野の遊幸は、去年三月の遷都後始めての試で、東近江の風光を觀賞かた/”\、皇太弟大海人皇子、諸王及び内臣中臣鎌足以下の群臣が列次を作つて群行した事を思ふと、それは/\すぐれた盛儀であつたらしい。况や五月の藥狩は冬季の鳥狩と違ひ、鹿茸を採ることの外は、折柄茂生した藥草などを抽いたり引いたりするのだから、婦人の行樂には最もふさはしい。で嬖人たる額田王をはじめ女官達も數多供奉したものであらう。――紀に婦人扈從の所見がないからとて、この事實を無視する事は出來まい。――とすると上下男女打混つた賑やかな大行進であつた。假令紫野ゆき標野ゆき狩野に入立つてからが、さう多い人目の中で一再ならず袖打振ることは、それが皇太弟對額田王であるだけ餘計に、危險な行爲といはねばならぬ。野守は嚴かにその眼を光らせてゐるではないか。
 野守を譬喩とすることは衆口の一致する處であるが、それに就いて左の數説がある。
 (1)現在の嬖主たる天智帝をさす。(守部説)
  (2) 警衛扈從の士等をきす。(古義説)
 (3) 作者自身をさす。(正辭説)
  (4) 相手の大海人皇子をさす。(契沖説)
(96)(3)(4)の説は殆ど要領を得難い。(2)はさういへぬ事もないが、切實味を缺いてゐる。で(1)が一番事情に適してゐると信ずる。既に三山(ノ)歌の條下に詳説した如く、天智天皇、皇太弟大海人の御兄弟對額田王の御關係は甚だ面倒な經緯となつて居り、天智天皇の猜疑の御眼は何時も兩者のうへに濺がれてゐたものであらう。かうした伏在的事情の上に立つて考へると、野守は天智天皇を擬へ奉つたと解するのが、極めて至當であり自然である。况や皇太弟の返歌に「人妻ゆゑに」とあるは、正に野守は天智天皇をお斥してある點から出發したお詞ではないか。
 嗚呼野守は嚴かにその眼を光らせてゐる。處が男はとかく大まかで思はぬ失策を釀し易い。大膽にも人中で袖など振つてお見せになる。それが危險さに「野守は見ずや」の警告を發したものである。婦人はやはり細心だ。
 更にこの作者の心理状態を觀察すると、かく警告を與へたことは、皇太弟の御身の上をかばふ情合から出たことで、決してその懸想を卻けてゐるのではない。却つて纏綿たる情致が隱約の間に搖曳して、涯ない柔韻を具へてゐる。然るに作者はまた天智を慕ひ奉つて、
  君まつとわが戀ひをればわが宿のすだれ動かし秋の風ふく (卷四―488)
など吟じてゐる。かうなつては、かの二人の懸想人に對して斷然|生田《イクタ》川に投身した菟原處女《ウバラヲトメ》の貞烈に劣ることも亦甚しいといへよう。が本木《モトキ》にまさる未木《ウラキ》なし、天智天皇崩じて皇太弟即位となるや、作者は直ちに入つて飛鳥(ノ)淨見原の宮人となつた。
 
皇太子《ひつぎのみこの》答(へたまへる)御歌《みうた》   明日香《アスカノ》宮(ニ)御宇天皇
 
皇太子大海人皇子の御返歌との意。大海人皇子は天武天皇の御諱。當時御兄天智天皇の皇太子であつた。○御(97)歌 とある下に天皇の御稱を注するのは、全く意義を成さない。
 
柴草能《むらさきの》 爾保敝類妹乎《にほへるいもを》 爾苦久有者《にくくあらば》 人嬬故爾《ひとづまゆゑに》 吾戀目八方《あれこひめやも》    21
 
○むらさきの 紫色のやうに。「の」はの如く〔三字傍点〕といふ意。紫はもと赤みの勝つた紅藍の間色で、紫根《シコン》色を主色とし、その濃いものは杜若などの花色から遂には黒に近いものに至る。この紫草は紫草科の山野に自生する宿根草で、高さ二尺ばかり、莖直立して技葉叢生し、葉は旋覆《ヲグルマ》花の葉に似て、梢に小白花を開く、根は牛蒡根で朝鮮人參に類似し、紫赤色の染料となる。名義は叢咲《ムラサキ》の義、その花の形状からついた名。○にほへる 美しく光澤《ツヤ》あるをいふ。○いも 額田王をさす。○ひとづまゆゑに 人妻の爲に。早くいへば、人妻なるものをの意となる。「人妻」とは他人の妻のこと。○こひめやも 戀ひむやはと同じい。「め」は推量の助動詞む〔傍点〕の第五變化。「やも」は反語。
【歌意】 紫色のやうに美しい貴女を、もし憎いと思ふなら、既に人妻であるものを、私がかうも戀ひ焦がれようことかい。
 
〔評〕 紫色はその色相が絢爛で、人目を眩燿する挑發的光彩を有する。支那でも古代から推重され服色に用ゐられ(98)た。かの惡(ム)2紫之奪(フコトヲ)1v朱(ヲ)(論語)といふものは、類似色の混亂を以て利口の邦家を覆す譬喩に用ゐたまでゝ、紫そのものを惡んだのではない。わが邦では推古時代から平安期を通じて服色の上位に置かれた。そしてその染料はすべて紫草によるのであつた。令や式に諸國から澤山の紫草を貢物とすることが見えてゐる。
 今日は外ならぬ藥狩の當日である。然し採藥はいはゞ看板で、緑陰幽草の夏野に行樂を恣にしたいのが、その本願であつたらう。この蒲生野は禁野ではあるしするから、「紫野」と呼ばれた通り、殊に紫草は澤山自生してゐたのである。藥狩と紫草、そも什麼の因縁あるかと考へてみると、紫草は一面藥草だつたのである。煎服して胃腸を整へ、貼用して腫物を解消し、今も地方により頭痛に特効があると稱してゐる。故に從駕の人達は見つけ次第手に手に曳いたもので、その上懷かしい紫色の原料だから、紫の根摺の衣などと洒落れて、打興じもしたものだらう。こゝに端なく紫草――紫色――美し妹との聯想が辿られて、「紫の匂へる妹」と擬へられるのは當然の歸結ではないか。
 貴女が紫色のやうに美しいのでとても憎いと思へず、で人妻であることも忘れて戀ひ焦がれるといふ。作者の御性格の通り、一本氣の力強い熱情が著く露出してゐる。我れから認めた理性を壓し付けて、盲押しに戀路に猛進しようとしてゐる。「妹」と「あれ」との對照も頗る要領を得た辭樣で、左右顧眄を許さないといつた調子である。それは額田王も美人ではあつたらうが、かうさし迫つた戀心が、當年もはや四十六歳の老境に臨まれた作者の心頭に往來されたことを想ふと、實に若々しいその御氣持に驚かざるを得ない。さればこそ壬申の大業も成就したのだとまで感心されるのである。尤も額田王とは既に子(十市皇女)まで生した御仲だから、餘計に反動的になられたせゐもあらう。十市皇女の年齡から逆算すると、額田王はこの時少くとも三十歳位で(99)あつたらしい。
 額田王を男王とする諸平説に從つて、芳樹がこの歌は額田王(男王)がわが娘の額田姫王と大海人皇子との關係を熟知し、皇子を諫める爲に、御獵の時に臨み密かに詠んで皇子の心を驚したもので、若しも他人が聞いても差支ないやうに、紫野標野に寄せて當日の事の如く詠んではあるが、蒲生野における實景の作ではないと。かうまでくると餘に想像が勝ち過ぎて、男王説は却つて採用しにくゝなる。
 
紀(ニ)曰(ク)、天皇七年丁卯夏五月五日、縱2獵《ミカリシタマフ》於蒲生野(ニ)1、于v時|大皇弟《ヒツギノミコ》、諸王《オホキミタチ》内(ノ)臣《オミ》及《マタ》群臣《マウチギミタチ》皆悉(ニ)從《オホムトモナリ》焉。
 
 この左註は天智紀の文を蒲生野の御獵の證に引いたのである。大皇弟は皇太弟と同じい。諸王のうちには額田王も含まれてゐるものと見てよい。内臣は中臣(ノ)鎌足のこと。
 
明日香清御原《あすかのきよみはらの》宮(に)御宇天皇代《あめのしたしろしめしゝすめらみことのみよ》
           天渟中原瀛眞人《アメノヌナハラオキノマヒトノ》天皇
 
天武天皇の御代とのこと。○清御原宮 「清」は多く淨〔右△〕の字(100)を填てゝある。天武紀の十五年夏七月に「戊午改(メテ)v元(ヲ)曰(フ)2朱鳥元年(ト)1、仍(テ)名(ケテ)v宮(ヲ)曰(フ)2飛鳥淨御《トブトリノキヨミ》原(ノ)宮1」とある。この宮號は天武の六年に小野(ノ)毛人(ノ)朝臣の墓誌や采女(ノ)竹良(ノ)卿の碑に見えるから、十五年より以前に既に用ゐて居たものである。淨御は讃稱で、御《ミ》は接尾辭である。宮址は高市郡飛鳥村飛鳥小學校の敷地附近がその宮地の一部と思はれ、小字にミカドと呼ぶ處もあり、近年石葺《イシブキ》を畑から發掘した。紀にいはゆる宮の東岳は長岡(逝回の岡)の最北端か、或はその北に接して突起してゐる鳥形山(飛鳥神社社地の岡)を斥したものと斷ずる。卷二の長歌に、天皇が朝夕雷(ノ)岡を叡覽せられたことを歌つてある點から見ても動きがないと思ふ。抑も飛鳥京の地域を按ずるに、雷(ノ)岡の南邊をその西北隅の起點として、東は逝回《ユキヽ》の岡沿ひの路線に及び、西は飛鳥川を隔てゝ、雷(ノ)岡及び豐浦の丘陵で局られ、南は岡の街地(もとの岡本(ノ)宮の地)邊まで展開したらしく、即ち大口(ノ)眞神(ノ)原の全部を包容したものと見たい。大和志や紀の通證に、高市村の上居《ジヤウゴ》を宮址とし、上居は淨御の改作であると稱したのは諾ひ難い。淨御原の京は相當大規模のものだつたから、上居の如き狹隘の地でない事は明かである。又この上居の西南に隣接した祝戸の地とする説もあるが、とにかく上居でも祝戸でも雷岡に餘り遠いから問題にならない。只困ることは紀に「營(ミ)2宮室(ヲ)於崗本宮(ノ)南〔四字傍点〕1――是謂(フ)2飛鳥(ノ)淨御原(ノ)宮(ト)1」とある事である。岡本宮を今の岡の街地だとすると、上戸や祝戸なら紀のいふ通り南に當るが、前説では西に當ることになる。然し事實の立證する處によつて、南〔傍点〕の字は西〔右△〕の誤寫と見たい。○天渟中原瀛眞人 天武天皇の御稱へ名。
 
十市皇女《とをちのひめみこの》參2赴《まゐりたまへる》伊勢(の)神宮《おほみかみのみやに》1時、見(て)2波多横山巖《はたのよこやまのいはほを》1、吹黄刀自《ふきのとじが》作歌
 
十市皇女が伊勢神宮に參詣の時、波多の横山の巖を見て吹黄の刀自が詠んだ歌との意。○十市皇女 天武天皇(101)の長女にましまし、御從兄なる弘文天皇の妃となられた。その伊勢神宮御參詣は、歌の左註には、天武天皇の四年春二月、阿閉《アベノ》皇女と御同道の由に見える。○波多横山 伊勢國一志郡八太(ノ)郷なる家城《イヘキ》川古名|廬城《イホキ》川(雲出川の上流)の傍に連亙してゐる岡山で、南北|家城《イヘキ》村に屬する。巖は南家城村の迫門《セト》が淵、眞見《マミ》の邊より上流に亙つて澤山ある。宣長の川合村としたのは誤。○吹黄刀自 傳未詳。刀自は戸主《トジ》の義で、主婦、老女などを呼ぶ稱である。この時代には、刀自賣《トジメ》などいふ婦人の名も多いが、こゝはなほ老女の稱で、人名ではあるまい。「吹黄」の「黄」は添字。元暦校本を始め古寫本に、多くは吹※[草冠/欠]〔二字右△〕とある。※[草冠/欠]は蕗《フキ》に同じで、二字でフキ〔二字傍線〕と訓む。續紀の天平七年の條に富紀《フキ》朝臣がある。同氏であらう。卷四にもこの人の歌がある。
 
河上乃《かはのへの》 湯都盤村二《ゆついはむらに》 草武左受《くさむさず》 常丹毛冀名《つねにもがもな》 常處女煮手《とこをとめにて》    22
 
〔釋〕 ○かはのへ 「へ」は邊りの古言で、野上《ヌノヘ》、山上《ヤマノヘ》、藤原がうへ、高野原のうへなど、集中に多くある「へ」「うへ」と同義。川は家城川である。古訓カハカミノ〔五字傍線〕も惡くない。○ゆついはむら 五百箇岩群《イホツイハムラ》の義。數多の岩の集團をいふ。「ゆ」はイホの約のヨ〔傍点〕の轉じた語。「湯」は借字。「つ」は數目の接尾語。「盤」は磐の通用。「村」は群の借字。○くさむさず 草が生えずの意。草でも苔でも生えることを蒸すといふ。蒸すは産の義。さてここは、草蒸さずある如く〔四字右○〕の略で、上句は譬喩である。○つねにもがもな 常にてあれかし。「常に」「も」「がも」「な」の四語から構成され、「も」は歎辭、「がも」は願望の辭、「な」は歎辭。「冀」の字をガモと讀むは意訓。○とこをとめにて 常處女は何時も若々しい女をいふ。俗の萬年新造に同じい。「とこ」は常しへの意。この(102)句は四句の上に廻らして解する。
【歌意】 この川の邊に群り立つてゐる數多の巖石のどれも/\、草が生えず古びずしてあるが如くに、何時までも變らず若い娘さんでありたいものぢやなあ。
 
〔評〕 作者は十市皇女の伊勢詣に御供して、都の飛鳥から初瀬路にかゝり、山粕《ヤマカス》菅野を經て、伊勢の家城川の波多の横山の巖を見たのである。この道は當時の神宮參詣の大道の一つであつて、史的事實の紀記に載つたものが多い。さてこの川原に群り立つてゐる巖石が、途上これまで見馴れて來た岩とは趣を異にし、皆草も生えぬ肌滑かな川石であることが、作者の眼に頗る珍しく映じたのであつて、この歌の感興の起點は全くこゝに在る。題詞に「見v巖」とあるのも、この意を認めた書振と思はれる。古義に、巖に草の生えぬ理なしとして、「初二句は蒸す〔二字傍点〕にのみかゝる序詞にて、ず〔傍点〕にまでは及ばず」(103)といつたのは甚だ迂闊で、事實を無視し義理を混雜せしめた。家城川の湯津岩群は悉く花崗岩だから、草は蒸さない。
 抑も婦人がその容姿にうき身を窶すことは先天的習性であり、「面影のかはらで年の積れかし」と願つたのも、單に浮氣な欲求とのみは見られない。眞に盛り過ぎた婦人の胸の奥底から滲み出た涙の響であらう。さればはかない川邊の頑石に對しても、それを我が身に引較べて無限の感愴に堪へ得ないのであらう。此に至つて作者吹黄刀自の身分を闡明する必要を生ずる。芳樹は、「この作者は額田王の妾にて、額田女王、鏡女王の母なり。額田女王は十市皇女の御母なれば、作者の爲には皇女は孫の列に當り給ふ」といつてゐる。然しこの説はその根據が明かでないので、なほ正辭の「乳母にてもあるべし」といつたのに姑く從つて置かう。
 作者を皇女の御乳母とする時は、「常にもがもな」の希望は無論自身の事ではなくて、養君たる皇女の御上にかゝることになる。この伊勢詣の折は、皇女は二十二歳程におはしたやうである。往古の早婚時代では、十四五歳は若くきびわなる程度、十七八歳は若盛り、二十歳前後は既に年増盛りとしたのである。然るに皇女は御輕率にもかの壬申の亂に口火を點じ、その結果夙く背の君弘文天皇に別れ給ひ、孤閨を守らるゝこと茲に四年、當帝(104)の第一皇女にまし/\ながらかくの如く不遇で、はや女盛りも過ぎようとする。乳母たる作者の心には、いかばかり情なくお痛はしくお思ひ申し上げたことであらう。そのうちには再び花咲く春もめぐり來ようかと、はかない一縷のあいな頼みも懸けてゐたであらう。伊勢詣の御本意にも或はさうした祈念が加はつてゐたかも知れない。然るに今眼前に、この川邊の巖群の肌滑かに何時も若々しくて、皇女の御身とは正反對な有樣を見せつけてゐるのを眺めては、作者は端なく茲に羨望の念を生じ、おいとしい皇女の御身の上を巖群によそへてお祝ひ申さずにゐられなかつたものと思はれる。作者の立場としては、それは誠に自然の過程である。その深い懇情のあはれさは、眞に同情に堪へない。
 然るに悲しいかな、天は常に佳人に幸せず、この後三年を經て身まかられた。天武紀に、「七年夏四月、十市皇女卒然病發(リ)、薨(リタマフ)2於宮中(ニ)1」と見えてゐる。折角の作者のこの咒願の言葉も空しかつたことを豫想に置いてこの歌を見る時は、愈よ哀韻の切なるものがある。
 
吹黄(ノ)刀自未(ル)v詳(ナラ)也。但紀(ニ)曰(フ)、天皇四年乙亥春二月乙亥朔丁亥、十市皇女、阿閇《アベ》皇女參2赴《マヰデマス》於伊勢(ノ)神宮(ニ)1。
 
 吹黄刀自の傳は不明だと註し、又作者の伊勢行を紀の文によつて證したのである。「阿閇皇女」は天智天皇の第四皇女で、草壁皇子(日竝知皇子)の妃、文武天皇の御母、後に即位して元明天皇と申す。
 
麻續《をみの》王(の)流(されたる)2於伊勢(の)國|伊良虞《いらごの》島(に)1之時、時〔左△〕(の)人(の)哀傷《かなしみて》作歌
 
麻績王が伊勢の伊良虞島に流された時、時人が哀んで詠んだ歌との意。、○麻續王 傳未詳。天武紀の四年四月(105)に「三位麻續王罪あつて因幡に流さる云々」とある。尚左註の條下を參照。○伊良虞島 三河國渥美半島の突端たる伊良湖崎のこと。志摩の答志《タフシ》崎と相對して伊勢灣の海口を扼してゐる。或はその海口に散在してゐる神島、大鼓、小鼓などいふ島を、伊良湖崎續きだから伊良虞の島といつたともいへるが、實は半島を古へは皆島と稱し、伊豆國をば伊豆の島といつた例があるのみならず、伊良湖崎は志摩の鳥羽灣から見渡すと、神島と竝んで同じやうな鳥形に見えるので、かく稱へたと思はれる。或は殊によると往昔は伊良湖崎も獨立した島であつたかも知れない。ここに「伊勢國伊良虞島」とあるは、伊勢は古國で神宮所在の要地なので、その附近の地は伊勢を中心として呼ばれるに至つたからである。下にも題詞に「幸(セル)2伊勢(ノ)國(ニ)1時」とあつて、歌には三河の伊良虞島や志摩の英虞《アゴ》浦を詠んでゐる。考などの説は非。○時人 「人」の上時〔右△〕の一字を補ふ。もとのまゝでは文を成さない。
 
打麻乎《うちそを》 麻續王《をみのおほきみ》 白水郎有哉《あまなれや》 射等籠荷四間乃《いらこがしまの》 珠藻苅麻須《たまもかります》    23
 
(106)〔釋〕 ○うちそを 麻《ヲ》にかゝる枕詞。「打十八爲《ウチソヤシ》麻續《ヲミ》の兒等」(卷十六)の類例で、「打麻」とは麻の皮を打つて繊維とした物の稱。「を」は歎辭。打麻《ウチソ》の用は即ち麻《ヲ》(緒)であるから、打麻よ麻續《ヲミ》といひ續けたのである。なほ「八穗蓼を〔傍点〕穗積」(卷十六)とあるに同じい。考に美しき麻《ヲ》を紡《ウ》むとかゝるといひ、古義に全麻《ウツソ》の義に解し、「を」をの〔傍点〕に通ふ言としたのも、迂遠過ぎて諾き難い。この句は四言の句。○をみ 麻續《ヲウミ》の略。續〔傍点〕をこの集その他の古書に多く「績」の字に書くは通用である。○あまなれや 海人であればかして。「なれ」は指定助動詞の第五變化。「や」は疑辭。「なれや」は上古文の語法で、中古となつてはなればや〔四字傍点〕といふ。「白水郎」は日本紀、和名抄等に見え、アマと訓んである。白水は地名、郎は男で、※[王+郎]※[王+耶]代醉篇に「白水郎は漁郎の如し、崑崙奴の類にてよく水に沈む」と。白水を合字にして泉とも書く。○たまも 「たま」は美稱。「も」は水草の總稱。
【歌意】 あの麻續王は貴人かと思つたが、實は海人であればか、この伊良虞の島の海藻を刈つて入らつしやるわ。
 
〔評〕 麻續王に「打麻を」の枕詞まで冠せての呼び掛けは聊か皮肉である。かく堂々とさも勿體らしく高貴の身分たることを極力主張したことは、却つて下の「海人なれやの」反語を力強く活かす襯染となつてゐる。
 抑も珠藻を刈つて食料とするのは賤しい海人の子の生活で、假にも王族たる、而も三位の高位にある貴人のなさるゝ生活ではない。然るに麻續王その人が珠藻を刈つての生活は眼前の事實である。茲に至つて「海人なれや」の一不審を投げ掛けざるを得なくなる。それは罪あつての流謫といふ一大事實の存在を全く忘れ切つたいひ方で、そんな内面の理由にこだはらず、ひたすら表面に現れた麻續王の境遇の激しい變化にのみ着目して、その詠歎を恣にした。そこに無限の感愴が動き、無量の同情が反映さわてきて面白い。
(107) 既に麻續王が海人の生活して居るのは眼前の事實だといつた。だがこれは作者の勝手な認定で、假令流人だからといつて、さう虐待を受ける筈のものではない。國司から衣食は支給されるのである。――稀には内々に死を強要されたり、國司が怨家だつたりする場合には、故意に慘《ミジメ》な目に遭はされることもないではなかつたが――されば「珠藻刈ります」には事實の誇張があることが知られる。詩人の狡猾手段にはいつもして遣られる。
 「伊良虞が島の」の地名の指摘は、上に「麻續王」と人名を提擧したのに相對的の姿致をもち、上下句の均衡をたもつ。そして作者が海人では勿論なく、又土着人でもない他郷人たることが推想される。恐らく三河の國衙に赴任してゐる官吏で、地方巡回の途次、流人の動靜など視察に伊良湖崎にまで來た人などの作であらう。
 
麻續《をみの》王(が)聞《ききて》之|感傷《かなしみて》和歌《こたふるうた》
 
麻續王が前の歌を聞いて傷んで和へた歌との意。○聞之 「之」は上の歌をさす。○和歌 「和」は唱和ともいひ、應《コタ》ふる意である。後世にいふ返歌のことで、上に「皇太子答御歌」とある答歌に同じい。ヤマトウタの義ではない。  
 
空蝉之《うつせみの》 命乎惜美《いのちををしみ》 浪爾所濕《なみにぬれ》 伊艮虞能島之《いらこのしまの》 玉藻苅食《たまもかりはむ》    24
 
〔釋〕 ○うつせみの 命にかゝる枕詞。「うつせみ」は現在の生身《ナマミ》をいふ。それは生命があるものなので、命に續ける。「うつせみも」を參照(六九頁)。○をしみ 惜しさに。○ぬれ 元暦本にはヒヂ〔二字傍線〕と訓んであるが、上に(108)「所」の字のあるを思へば、ヌレと訓む方がよい。○はむ 舊訓はヲス〔二字傍線〕。「をす」は食《ハム》の敬語だから、一般には自らの所作をいふ語としては面白くない。寧ろ現實的に露骨にハムといふ方がよい。
【歌意】 そんなにいつてくれるなよ、只一つの命が惜しさに、波に濡れ難儀な目を見つゝ、この伊良虞の島の海藻を刈つて食ひますわ。
 
〔評〕 「空蝉の」の枕詞は命そのものを強く表現する効果をもつてゐる。生の執着、それは當面の眞劍問題である。皮肉や揶揄で翻弄されてすむ譯のものでない。命一つは何としても棄てかねる。波に濡れ海藻を刈る。それがいかに賤者の生活であつても難儀な仕事であつても、もはや問ふ處でない。昔は昔今は今、石にかぶりついても生きねばならぬ。嗚呼何と悲しい慘ましい血の出るやうな叫ではないか。一誦實に腸がちぎれる。かうなると「海人なれや」の懸歌の、やはり冷淡な他人らしい態度であることが憎らしくなる。「浪に濡れ」の具象的表現は、玉藻刈る勞働の辛苦を切實に物語るものである。
 
右案(フルニ)2日本紀(ヲ)1曰(ク)、天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯、三位(品)麻續(ノ)王有(リテ)v罪流(サル)2因幡(ニ)1、一子流(サル)2伊豆(ノ)島(ニ)1、一子流(サル)2血鹿《チカノ》島(ニ)1也、是(ニ)配(ル)2于伊勢(ノ)國伊良虞(ノ)島(ニ)1者《トイフハ》、若(シ)疑(ラクハ)後人縁(ツテ)2歌(ノ)辭(ニ)1而誤(ツテ)記(ス)乎《カ》。
 
 右日本紀を案ずると、天武天皇の四年夏四月に三位麻續王が罪によつて因幡に流され、一子は伊豆島に流され、一子は血鹿島に流さるとある、茲に配伊勢國伊良虞島とあるは、若し後人が歌辭によつて誤記したものかとの意。「三位」を原本三品〔右△〕とある。麻續王は親王でないから品位はない。紀には麻續王の因幡配流の事があつて、三河に配流とはない。想ふにこれは最初因幡に流され、後三河に配流替になつたものであらう。紀にその(109)記載がないのは脱漏と見てよい。又常陸風土記には「此(ヲ)謂(フ)2板來《イタク》驛(ト)1、其西榎木成(ス)v林(ヲ)、飛鳥淨御原天皇之世遣(ハサル)2麻續王(ヲ)1之居處」とあつて、麻續王の潮來《イタコ》(板來)配流の記事が出てをる。因幡も三河も近流であるが、常陸では遠流である。さては三河配流中又何か仔細があつて、更に罪一等を重加されたものと見られぬでもない。又左註が伊勢國伊良虞島を誤記かと疑つたのは失考である。
 
天皇(の)御製歌《みよみませるおほみうた》
 
天皇 天武天皇である。○御製歌 この御製は天皇が天智帝の十年十月に東宮の位を辭退し吉野入をなされての翌年五月、決然蹶起いはゆる壬申の亂の開戰に及び、吉野を御親發せらるゝ途上の御作である。これを吉野入の際の御作と唱へ、或は壬申即位後、吉野を再訪なされての懷舊の御作とする説は、いかゞと思ふ。(委しくは釋及び評語を參照)。されば本來ならばこの御製は次代の弘文天皇の標下に隷すべき性質のものだが、弘文は淨見原方の敵人として、全然紀には皇代から削除された結果として、天皇御即位前の吉野時代の御作は、尚天皇御自身の標下に收めるより外、方法がなかつたのである。
 
三吉野之《みよしぬの》 耳我嶺爾《みかねに》 時無曾《ときなくぞ》 雪者降家留《ゆきはふりける》 間無曾《まなくぞ》 雨者零計類《あめはふりける》 其雪乃《そのゆきの》 時無如《ときなきがごと》 其雨乃《そのあめの》 間無如《まなきがごと》 隈毛不落《くまもおちず》 思乍叙來《おもひつつぞくる》 其山道乎《そのやまみちを》    25
 
(110) ○みよしぬ 大和國吉野郡の吉野。古稱|曳之努《エシヌ》。又芳野、好野とも書く。嘗て吉野(ノ)國とも稱し、元正天皇の時、監《ゲン》を置いて離宮の事を管せしめた。「み」は美稱。「三」は借字である。○みかねに 原本はミカノミネニ〔六字傍線〕、元暦校本、神田本等にはミヽガノミネとあるが、吉野連山中にかゝる名の山は無い。然るに卷十三にこの歌と字句僅に異なるものが出て居り、それには第二句「御金高爾《ミカネノタケニ》」とあるので、今は四言にかく訓んでおく。古義は耳我嶺嶽〔右△〕爾の誤とし、ミカネノタケニと訓んだ。御金の高《タケ》は吉野山の最高峯で、金《カネ》の御嶽《ミタケ》即ち金峯山のこと。吉野町にある藏王堂の奥の院と稱する。地理上から見れば金峯山を歌つたものとして至當である。○ときなくぞゆきはふりける 絶えず雪が降るの意。これは高山の常である。「時無く」は不時《トキジク》とは意やゝ異なる。混じてはいけない。○まなくぞあめはふりける 絶えず雨が降るの意。これも高山の常態で、「伊夜彦《イヤヒコ》のおのれ神《カム》さび青雲《アヲグモ》のたなびく日すら霖《コサメ》そぼふる」(卷十六)の彌彦山なども同樣である。「ま」の訓古義に從ふ。舊訓はヒマ〔二字傍線〕。○くまもおちず 道の曲り角を一つも洩さず。即ち曲り角ごとにの意。「ぬるよおちず」を參照(四五頁)。○おもひつつぞくる 物思ひをしつつ來ることよの意。「くる」は往くと同じい。「叙」は次音ゾ。「來」を元暦本の附訓にコシ〔二字傍線〕とあるので、これに追從する説もあるが、然らばシ〔傍点〕に當るべき字を記す(111)が至當である。只一字の有無で過去現在を異にし、全く別樣の意趣を成すやうな場合に、それを缺くことはまづ無いことゝ見てよい。○そのやまみちを その吉野の〔三字右○〕山路を。「その」は吉野をさす。
【歌意】 吉野の耳我の嶺に、何時も何時も雪は降つてゐる、絶間なく雨は降つてゐる。その雪のいつといふこともないやうに、又その雨の絶間もないやうに、夥しい山路の曲り角ごとに、絶えず物を思ひ續けて來ることだ。その吉野の山路をさ。
 
〔評〕 即位前の天武天皇の吉野入は、御兄の天智帝に對して皇太弟の位を辭し佛道を修業せんとの事で、孝徳天皇の時|古人《フルヒトノ》大兄が帝位辭讓の爲出家、吉野入を宣し、法興寺で落飾された例に倣ひ、※[髪の友が兵]髪を削つて僧形とはなつたものの、立派に皇妃(のちの持統帝)を携へ、既に蒐道《ウヂ》を越える時分は、東宮舍人を多人數從へてゐたものである。實に豪勢なもので、普通の隱遁者の山籠りとは譯が違ふ。虎は翼をつけて野に放たれた、鮎はその島邊に跳つた。
(112) 吉野は古へ吉野國ともいつたことのある今の吉野郡の汎稱である。吉野川沿線を溯つてゆくと、まづ眼につくは河南遙かに聳立する百戒嶽、次に金峯の山塊で、いはゆる吉野山はおもに金峯の中腹以下を稱する。
 天武天皇が吉野における一時的御隱棲地は何處であつたか。五節傳説(本朝月令所載)では、「或時離宮に琴を彈じて居らせられると、袖振山の方に當つて天女が空中に現じ、五度その袖を翻した」とある。今も袖振山(吉野山中勝手明神の山)の西北方位の田疇間に、その離宮址と稱してゐる處がある。假にこゝをその御隱棲地だとすると、金峯との關係は世話なしに解決される。
 「時なくぞ雪は降りける、間なくぞ雨は降りける」は眼前の光景を描寫したのではない。芳樹が「麓の方は時雨の雨間なく降り、奥の方は深山のしるしと雪の時なく降る」と解いたのは強辯である。かく雪と雨とが同時に降るやうに心得た人も多いが、それはこれを吉野入の當日の御製とのみ速斷した結果である。抑もこの「時なく」「間なく」とあるは、天武天皇が吉野の宮に隱棲中、その雨勝であり又雪勝であつた過去の御體驗を喚び起して下された語である。紀に據れば、冬十月十九日(今の十一月下旬)に吉野の宮に到着とある。場所が假令山陰の北向きであるにせよ、大和南部の氣象としては、そんなに澤山雪の降るには、時季その物が早過ぎる。天武天皇は翌年の六月朔日まで殆ど半歳以上、この吉野山中に籠居してゐられたのだから、山地に通有の雨雪の多量だつたこの期間の認識から出發したもので、只次句の「その雪の時なきが如、その雨の間なきが如」の前提的叙述たるに過ぎない。
 次に「思ひつつ」の思は、そも/\如何なるものであつたか。この歌ではそれに何等の説明が與へてないから、内容を攫むに苦むが、時なき間なき思は、決して尋常一樣なものではあるまい。まして上來の修飾が、間(113)斷なき雪や雨を譬喩に用ゐている爲に、頗る陰慘な氣分が往來し横溢してゐるから、愈よ以てこの思は、或物暗い感慨を寓してゐると見るが至當である。
 既にこの譬喩に用ゐた雨雪は、その體驗の語だといつた。するとこの歌の製作時期は、必ず吉野籠居以後と見なければならぬことになる。然も壬申戰後の天武天皇は得意の頂点に立たれてゐた筈だから、こんな陰慘な氣分は、その現在の御生活には略ないと假定してよからう。さればこの作を、天武天皇が吉野隱棲半歳ののち、擧兵出發の際の御作としたい。その理由は「思ひつつぞくる其の山路を」の一句にある。
 道の隈々思ひ殘す處のない心勞を重ねながら、吉野の山路を踏破する。これはそも何事を意味するものであらうか。當時皇太弟に對して近江方の壓迫は日一日とその度を加へ、政敵の魔手は既にその背後に伸びた。悲憤と危惧との混線は、端なく反噬的の態度に皇太弟を導いた。乃ち蹶然起つて擧兵を謀り、六月十二日吉野の宮を棄て、東國に發向された。吉野の里傳によれば、皇太弟はこの時吉野の宮から峯傳ひに五社峠を越え、吉野山の沿岸|國栖《クズ》の天皇淵を通過して、更に北に向つて蒐田(宇陀)の阿紀(今の松山)に出られたとなつてゐる。信にこれ嶮峻なる山路で、倉卒の際困憊を窮められたに違ひなく、のみならず兵事に就いての畫策謀籌は、一事も忽せにし難く、内外の心勞は眞にその頂點に達したと推測される。これ天武紀の明かに證する處。いはく、
  今聞(ク)。近江(ノ)朝廷之臣等爲(メニ)v朕(ガ)謀(ル)v害(ヲ)。是(ヲ)以(テ)汝等三人急(ニ)往(テ)2美濃國(ニ)1。告(ゲテ)2安八磨《アハツマノ》郡(ノ)湯沐令《ユノウナガシ》多(ノ)臣|品治《ホムヂニ》1。宜(ベ)2示(シテ)機要(ヲ)1。而先(ヅ)發(セヨ)2當郡(ノ)兵(ヲ)1。仍(テ)經《フレテ》2國司等(ニ)1。差2發(シテ)諸(ノ)軍(ヲ)1。急(ニ)塞(ゲ)2不破(ノ)道(ヲ)1。朕今|發路《イデタタム》。甲申。將(ニ)v入(ラント)v東《アヅマニ》。時(ニ)有(テ)2一(ノ)臣1。奏(テ)曰(ク)。近江(ノ)群臣無(ケムヤ)v有(ルモノ)2諜(ノ)心1。必(ズ)告(ゲバ)2天下(ニ)1則(チ)道路難(カラム)v通(ヒ)。何(ゾ)無(クテ)2一人(ノ)兵1。徒手《タムナテ》入(ラム)v東《アヅマニ》。臣恐(ル)2事(ノ)不1v就《ナラ》矣。天皇從(ヒテ)之。思3慾《オモホシ》返(シ)2召(サムト)男依等(ヲ)1。則(チ)遣(テ)d大分《オホキタノ》君|惠尺《ヱサカ》。黄書《キブミノ》造大伴。逢《アフノ》臣志摩(ヲ)。于|留守司《トマリヅカサ》高坂(ノ)王(ノモトニ)u。而令(ム)v乞(ハ)2驛鈴(ヲ)1。因(テ)以(テ)謂(テ)2惠尺等(ニ)1。曰(ク)。若(シ)不(ハ)v得v鈴(ヲ)1。廼(チ)志摩(ハ)還(テ)而復奏(セヨ)。(114)惠尺(ハ)馳(テ)之往(テ)2於近江(ニ)1。喚(テ)2高市皇子。大津皇子(ヲ)1逢(ヘ)2於伊勢(ニ)1。既(ニシテ)而惠尺等至(テ)2留守司(ニ)1。擧(ゲテ)2東宮之命(ヲ)1。乞(フ)2驛鈴於高坂之王(ニ)1。然(ニ)不v聽(サレ)矣。時(ニ)惠尺往(ク)2近江(ニ)1。志摩乃(チ)還(テ)之復奏(テ)曰(ク)。不v得v鈴(ヲ)也。是(ノ)日。發途《タチテ》入(リタマフ)2東(ノ)國(ニ)1。事急(ニシテ)不(テ)v待(タ)v駕《オホムマヲ》而行(キヌ)之。※[人偏+黨]《ニハカニ》遇(ヒ)2縣犬養(ノ)連大伴(ガ)鞍馬《クラオヘルムマニ》1。因(テ)以(テ)御駕《ミノリス》。乃(チ)皇后(ハ)載(テ)v輿(ニ)從(ヒタマフ)之。逮(テ)2于|津振《ツフリ》川(ニ)1。車駕始(テ)至(リ)。便(チ)乘《ミノリス》焉。是時(ニ)。元(ヨリ)從(ヘル)者草壁(ノ)皇子。忍壁(ノ)皇子。及(ビ)舍人朴(ノ)井(ノ)連雄君――之|類《トモガラ》。二十有餘人。女孺《メノワラハ》十有餘人也。即日。到(ル)2蒐田(ノ)吾城《アキニ》1。 (卷二十九)
これによると、犬養連大伴の馬を得るまでは、畏くも徒歩で約四里の山越をなされ、それからは馬上で、行程すべて八里を日のうちに踏破されたのであつた。
 耳我嶺の雨雪は單に譬喩の役目を果すのみではない、傍ら天皇の隱棲中の物暗い御生活を間接に語るもので、今また路といふ路の全部を「思ひつつぞくる」のでは、過去も現在もおしなべて、只これ一道の暗雲下に置かれた、頗る慘めなお氣の毒な尊いお方をそこに發見する。
 この長歌は組織上から見ると、一種の異體に屬する。冒頭「三芳野の耳我嶺に」は、その詠作の場所を限定する名には役立つてゐるが、畢竟ずるにこの句から「その雨の間なきが如」までの數句は、只「隈も落ちず」に對する修飾である。詰り末段の「隈も落ちず思ひつゝぞ來る、その山道を」の三句だけが、この歌の主要句で一篇の根幹を成して、他はその枝葉である。かういふ形式は、短歌にはよくある例で、それを序歌と呼んでゐるが、長歌としては珍しい。假に序體の長歌〔五字二重丸傍点〕といふ名稱を與へて置かう。
 
或本歌《あるほんのうた》
 
右の御製が萬葉の或本には次の如く傳はつてゐるとの意。この御製は盛に傳誦されたと見えて、卷十三にも雪(115)と雨との句が前後し、結句が全く變つた戀歌となつて、「作者不詳」として重出してゐる。蓋し盛に傳誦されゝばされる程、樣々の異傳を生ずるに至るは當然である。
 
三芳野之《みよしぬの》 耳我山爾《みかのやまに》 時自久曾《ときじくぞ》 雪者落等言《ゆきはふるといふ》 無間曾《まなくぞ》 雨者落等言《あめはふるといふ》 其雪《そのゆきの》 不時如《ときじきがごと》 其雨《そのあめの》 無間如《まなきがごと》 隈毛不墮《くまもおちず》 思乍叙來《もひつつぞくる》 其山道乎《そのやまみちを》    26
 
〔釋〕 ○ときじくぞ 季節はづれに、不時に。「山越しの風を時じみ」を參照。(四五頁)○ゆきはふるといふ 次の句「あめはふるといふ」も、何れも傳聞を記する趣であつて面白くない。本行の「ふりける」といふ直叙の方がふさはしい。又古葉略類聚鈔には「言」を二つとも之〔右△〕に作り、フルラシ〔四字傍線〕と訓んでゐるが、これも推量の語で面白くない。○ときじきがごと 舊訓にトキナラヌゴト〔七字傍線〕、又古寫本にトキナキガゴト〔七字傍線〕とあるが、トキジキと訓む御杖説がよい。○くる この歌では、上の雨雪の喩が「落等言」とあつて直叙でないから、「來」を現在にかく訓むは勿論である。歌意及び評語は大體において重複するから略く。
 
右句々相換(ル)、因(リテ)v此(ニ)重(ネテ)載(ス)焉。
 
 右は句々本文と相違があるから重ねて出すとの意。これも後人の註。
 
(116)天皇|幸《いでませる》2于|吉野《よしぬ》宮(に)1時|御製歌《みよみませるおほみうた》
 
天武天皇の吉野行幸の時の御作との意。紀に天皇の八年五月五日吉野行幸の記事がある。 
淑人乃《よきひとの》 良跡吉見而《よしとよくみて》 好常言師《よしといひし》 芳野吉見與《よしぬよくみよ》 良人四來三《よきひとよくみつ》    27
 
〔釋〕 ○よきひと 優れた人をいふ。「淑人」は詩經にも見えた語で、淑は善良なる意。○よしと 「と」はとて〔二字傍点〕の意。○よくみて 篤とみて。この「よく」は委曲の意。○よくみつ 「いひし」とある過去の辭法への應接には、こゝもミ〔傍点〕キ〔右△〕と過去に訓みたいが、「三」の一字をさう訓むことは穩かでない。で上の「よき人」は古へのよき人、下の「よき人」は當代のよき人と解して、ミツと現在完了態に訓む。
【歌意】 昔のよき人がこれはよい處だと篤と見て、あゝいゝといつた吉野を、お前達篤と見なさいよ、今のよき人も篤と見たことわ。
 
〔評〕 記紀ともに神武天皇の章に、吉野の地名が始めて著れてゐる。それはそれとして、吉野の地方的傳説に、古への淑人がよしと讃め稱へたのでその名が附いたといふやうな話が存在してゐたのだらう。
  妹が紐ゆふは河内《カフチ》といにしへのよき人見きとこを誰れか知る  (卷七−1115)
  いにしへの賢き人の遊びけむよし野の河原見れど飽かぬかも  (卷九−1725)
そのよき人といひ賢き人といふ、いづれも同じ傳説に本づいた吟咏と思はれる。懷風藻に、
(117) 「靈仙駕(リテ)v鶴(ニ)去(リヌ)」(藤原不比等)。「欲(ス)v訪(ネント)2神仙(ノ)迹(ヲ)1」(大伴王)。「此(ノ)地靈仙(ノ)宅」(紀男人)
などあるこの仙人も、よき人賢き人の事ではあるまいか。但|柘《ツミ》の枝の仙媛の如きは全くこゝには與らない。
 吉野は歴史的由緒の地であり、又山水形勝の地たるが爲に、大和朝廷時代には歴世離宮を置かれ、君臣上下非常のあこがれを以て、四時遊覽の訪問を絶たなかつた。記紀の記事、又はこの集及び懷風藻に見えた數多の詩歌が、これを立證してゐる。而もこの天皇は潜龍の際吉野の萬千の景勝を知悉して居られたのである。
 御製は「よき人」「よしといひし」「よし野」などの同語の重疊が、測らず文字遊戲の感興を唆つたので、遂に「よく見て」の一案を添加し、下句に於て更に反復し再唱して、頭韻を押してゐる。一首のうちに「よし」及びその變北の「よき」の語が八回まで繰り返されてあつて、しかも一向に猥雜煩瑣の感を與へないどころか、却つて芳野の形勝を認識すべく、古今の淑人のよく見た例によつて、侍臣等に諄々として訓誨されてゐる、その丁寧親切な情味は流れて盡きぬものがあり、而してそれが又間接には芳野形勝の禮讃となつてゐる。後世この種の遊戲文字は續出してゐるが、いづれも隣女の顰で、これに及ぶものは一つもない。
  ○なほ卷二「わがさとに大雪ふれり」の歌(三三三賞)の評語を參照。
 
紀(ニ)曰(ク)、八年己卯五月庚辰朔甲申、幸(ス)2于吉野(ノ)宮(ニ)1。
 
藤原宮御宇天皇代《ふぢはらのみやにあめのしたしろしめししすめらみことのみよ》 高天原廣野姫《タカマノハラヒロヌヒメノ》天皇
 
藤原(ノ)宮に天下を知し召した天皇の御代は持統文武の二代であるが、こゝは持統天皇の御治世のみをいふ。これに就いて別に私考がある。○藤原(ノ)宮 大和國高市郡|鴨公《カモキミ》村鴨公の森が、その大極殿の遺址といはれてゐる。從(118)來易世遷宮の遺制を破つて、奈良の京を創設する一段階となつたのはこの宮であつて、その都市は、北は耳無山に迫り、東は香久山に接し、南は豐浦五條野、西は八木小房から輕の大路までも展開したものと想定される。尚藤原の名義その他の委しいことは、下の「藤原宮御井歌」の條を參照(二〇四頁)。○高天原廣野姫天皇 持統天皇の御稱へ名。
△地圖 挿圖70を參照。
 
天皇(の)御製歌《よみませるおほみうた》
 
天皇は即ち持統天皇。
 
春過而《はるすぎて》 夏來良之《なつきたるらし》 白妙能《しろたへの》 衣乾有《ころもほしたり》 天之香來山《あめのかぐやま》    28
 
〔釋〕 ○なつきたるらし 夏が來たらしい。こゝの「らし」は衣の乾してあるといふ根據に基いての推量である。然し根據はなくても確實的推量の辭としても用ゐる場合がある。集中既にその例が多い。○しろたへ 白い布帛のこと。「たへ」は栲で、楮(穀《カヂ》)の皮の繊維を晒して織つた布をいふ。染めないのは(119)その色が白いので、白栲といふ。「妙」は借字。又「しろたへの」は衣又は袖の枕詞にも用ゐられるが、こゝは枕詞ではない。○ほしたり サラセリ〔四字傍線〕と訓むのも惡くはない。○あめのかぐやま 既出(二一、六七頁)。「かぐ山」の下に〔右○〕の助辭を略いてゐる。
【歌意】 春は既に過ぎて、早くも夏が來たらしい、向ふの香具山の里あたりに、あんなにちら/\と白い衣が乾してあるわ。
 
〔評〕 この歌初二句は、餘りにも當然過ぎて平凡なやうに思はれるが、然しそれは詞の表面のみを理智的に解釋するが故である。かく「春過ぎて」「夏きたる」と相對的にその經過を叙した間に、節物風光の須臾に改まつたのを驚嘆した趣が現じて來るのである。集中、「寒《フユ》過ぎて暖《ハル》きたるらし」(卷十)、「み冬すぎ春はきたれど」(卷十七)、「春すぎて夏來むかへば」(卷十九)など見えるのは、皆この趣である。されば、なほ暮れずと思へる〔九字右○〕春は過ぎて、未だ來らじと思へる〔九字右○〕夏はきたるらしと、詞を補足して見る時は、その詩意の浮動するを覺えるであらう。
 白たへの衣は、「夏來たるらし」の推定の根據となるものであるから、これに由つて當時の民庶の夏服は白衣であつたと想はれる。藤井高尚は四時白服であつたやうに論じてゐるが、さうとすれば白衣を乾してあつたからとて、特に「夏來たるらし」と推定すべき理由があるまい。持統記に、
  七年春正月辛卯(ノ)朔、壬辰――是日詔(シテ)令(ム)d天下(ノ)百姓(ヲシテ)1服c黄色(ノ)衣、奴(ハ)※[白/七]衣《クリゾメヲ》u
(120)とあるが、未だその實現に及ばぬ頃の御製であらう。
 さて「衣乾したり天の香具山」は、如何に香具山の小なるかを間接に語つてゐるものである。試に結句を葛城の山〔四字傍点〕又は生駒高嶺〔四字傍点〕にといふやうに置き換へて見たら、忽ちその權衡の不調和に氣付くであらう。實際香具山は登り四町にも足らぬ小山で、只その畝尾の三方に長く引延へてゐるに過ぎない。白衣を乾した民家の位置は山上ではない。山上から俯瞰すれば藤原の皇宮は目の下であるから、其處に民家を置かれる筈もない。况や山上には昔は櫛眞智《クシマチ》の社があつたといふから、民家は必ず山麓一帶の地と想定されるのである。
 鴨公の森の東に今も高殿《タカドノ》と稱する地がある。これが當時の藤原宮の西の高殿を建てられた遺址であらう。此處からとしても香具山は東の方五六町の距離に過ぎない。天皇一日東西いづれかの高殿にお昇りになつて、遠く四方を眺め給ふに、ふと香具山の畝尾にあたつて新緑の雜木の間に、白衣の隱見するのを發見せられ、それは去年の夏衣を取出して着ようとて、日光に晒してゐるものと御覽なされて、この御詠が洩れたものであらう。その取材に於いて、おのづから女帝としての御面影を浮べ奉ることが出來る。又色相の映對もあざやかな初夏氣分を漲らせて、極めて印象的である。
 
過(ぐる)2近江(の)荒都《あれたるみやこを》1時、柿本朝臣人麻呂《かきもとのあそみひとまろが》作《よめる》歌
 
近江の荒廢した大津京を過ぎた時、人麿が詠んだ歌との意。○近江荒都 天智天皇弘文天皇二代の帝都たる滋賀の大津宮の廢墟をさしたのである。天智天皇はその六年、大和の飛鳥(ノ)後(ノ)岡本宮から此處に遷都し給ひ、十年(121)十二月に崩ぜられたが、この宮はその崩御の直前に炎上し、加ふるに翌年七月、壬申の亂によつて御子弘文天皇亦俄に崩ぜられ、次の天武天皇は又大和の飛鳥淨御原に奠都し給うたので、大津宮は忽荒廢に歸レたのである。なほ上の「近江大津宮御宇天皇代」の條下を參照(七六頁)。
○柿本朝臣人麻呂 啻に本集第一の作家といふのみでなく千古の歌聖で、持統文武の兩朝に仕へたことは本集によつて知られるが、その傳は詳かでない。柿本氏は孝昭天皇の皇子天(ノ)押日子《オシヒコノ》命の後裔といはれる。人麻呂ははじめ東宮(ノ)大舍人として草壁、高市の諸皇子に歴仕し、又新田部皇子に仕へ、近江筑紫に來往し、晩年石見の國衙の官吏となり、遂にその地に歿した。眞淵は享年四十六七と斷じたが、或は六十歳近くに及んだかも知れない。紀には五位以上の薨卒は記載する例であるのに、人麻呂の事は全然出てゐない。又死歿の書例、四五位には卒〔傍点〕、六位以下には死〔傍点〕の字を用ゐるが令の規定だのに、集中卷二の題詞に「在(リテ)2石見國(ニ)1臨(メル)v死(ニ)時自(ラ)傷《カナシミテ》作歌」と書かれてある。この二つは人麻呂が六位以下であつたことを、如實に證するものゝ如くである。處が本集の題詞に、どの湯合でも、柿本朝臣人麻呂と記書されてある。これは普通五位の人の書式である。さあこの矛盾はどう解決してよいか。
 公式令に據ると、寮司の長官は位階に關はらず、大夫と稱して姓名を記し、次位の人は隨つて氏姓名を記すことになる。然し人麻呂は地位卑くその資格がない。或は尊敬の意から出たものか。山部赤人が人麻呂よりも一層微官で終つたらしいのに、尚山部宿禰赤人〔七字傍点〕と集中には記署されてある。但その他微官らしい人で姓を并記したのが澤山ある。この題詞はさう公式の書式にのみ據らず、嚴格なる統一はないものと見てよい。
 集中「人麻呂作歌」と署名のある歌は、長歌十七首短歌六十九首を算する。その他左註に「人麻呂歌集中出」(122)と記した歌が多數にあるが、それは大抵歌聖の歌風でなく、而も風調から見て時代が後れてゐるから、それらを歌聖の製作の一部として扱ふことは妥當でない。               △人麻呂總考(雜考―6參照)
 
玉手次《たまたすき》 畝火之山乃《うねびのやまの》 橿原乃《かしはらの》 日知之御世從《ひじりのみよゆ》【或云|自宮《ミヤユ》】 阿禮座師《あれましし》 神之盡〔左△〕《かみのことごと》 樛木乃《つがのきの》 彌繼嗣爾《いやつぎつぎに》 天下《あめのした》 所知食之乎《しらしめししを》【或云|食來《めしける》】 天爾滿《そらにみつ》 倭乎置而《やまとをおきて》 青丹吉《あをによし》 平山乎越《ならやまをこえ》【或云|虚見倭乎置青丹吉平山越而《ソラミツヤマトヲオキアヲニヨシナラヤマコエテ》】 何方《いかさまに》 御念食可《おもほしめせか》【或云|所念計米可《オモホシケメカ》】 天離《あまさかる》 夷者雖有《ひなにはあれど》 石走《いはばしる》 淡海國乃《あふみのくにの》 樂浪乃《ささなみの》 大津宮爾《おほつのみやに》 天下《あめのした》 所知食兼《しらしめしけむ》 天皇之《すめろぎの》 神之御言能《かみのみことの》 大宮者《おほみやは》 此間等雖聞《ここときけども》 大殿者《おほとのは》 此間等雖云《ここといへども》 春草之《はるぐさの》 茂生有《しげくおひたる》 霞立《かすみたつ》 春日之霧流《はるびのきれる》【或云 霞立春日香霧流《カスミタツハルビカキレル》、夏草香繁成奴留《ナツクサカシゲクナリヌル》】 百磯城之《ももしきの》 大宮處《おほみやどころ》 見者悲毛《みればかなしも》【或云|見者左夫思母《ミレバサブシモ》】    29
 
(123)〔釋〕 ○たまたすき 畝火に係る枕詞。「其頸所v嬰五百箇御統之瓊《ソノミウナジニウナゲルユツミスマルノタマ》云々」(神代紀)の如く、頸《ウナジ》に掛くるを古語で「うなぐ」といひ、襷は肩から頸の邊にかけてうなぐものであるから、その音の類似によつて畝傍に係けたと解く在滿の説がよい。尚既出「たまたすき」を參照(三九頁)。○うねびのやま 既出(六八頁)。○かしはら 高市郡白橿村、畝傍山の東南麓で、神武天皇の都し給うた地。今の橿原神宮はその舊址の一部である。○ひじりのみよゆ 天皇(神武)の御代から。「ひじり」は即ち「日知」で、日の御子として世を知らしめすこと。眞淵の解に「日之|食國《ヲスクニ》を知りますは大日女《オホヒルメ》の命なり。これよりして天つ日嗣しろしをす御孫《スメミマ》の命を日知《ヒジリ》と申し奉れり」とある。「ゆ」は助辭で、より〔二字傍点〕の古言。さてこの句の割註「自宮」はミヤユと訓み、或本にはかくある旨を示したのであるが、歌意から考へると、時間的繼續をいふのであるから、やはり本文の「御代ゆ」の方に從ふべきである。○あれましし 生むれ給うた。「あれ」は現れる、生まれるの義で、下二段活用の動詞。○かみのことごと 天子樣の皆悉くが。「かみ」は現《アキツ》神即ち現人神《アラヒトガミ》で、天皇を斥し奉る。「盡」を原本に書〔右△〕に作るは誤。今は元暦校本、類聚古集等に從つた。○つがのきの 「繼ぎ」との發音の類似から「つぎ/\」に冠した枕詞。「つが」は松柏類の針葉樹でトガ〔二字傍点〕ともいひ、普通に栂と書く。○いやつぎつぎに 「いや」はいよ/\、ます/\などの意。○しらしめししを 「しらし」は舊(124)訓に從つた。元暦校本、古葉略類聚抄等にはシロシ〔三字傍線〕とあり、僻案抄以來學者皆これに從つて來たが、然し本集中この語の假名書きの處を見ると、悉く「之良志賣之家流《シラシメシケル》」(卷十八)、「志良之賣師家類《シラシメシケル》」(同)、「之良志賣之祁流《シラシメシケル》」(卷二十)、「之良志賣之伎等《シラシメシキト》」(同)の如くなつてゐる。この句の割註「食來」はメシケルと訓むべく、即ち或本にはこの句がシラシメシケル〔七字傍線〕となれる由を示したものであり、眞淵はこれを可としてゐる。○そらにみつ 大和の枕詞。但この語は「虚見津」「虚見都」など書いてソラミツ〔四字傍点〕といふのが普通で、ソラニミツは他に類例が無い。ニ〔傍点〕を衍とする説もあるが、諸本皆かくあるので、姑く疑を存しておく。尚「そらみつ」を參照(一一頁)。○やまとをおきて 帝都たる大和の國をさしおいて。○あをによし 奈良の枕詞。既出(八三頁)。○ならやま 奈良山。「ならのやま」を見よ(八四頁)。○いかさまに いかやうに。○おもほしめせか 思召せばかの意。動詞の已然形から直に「こそ」「か」「や」等に續けるは古格である。「古への人にわれあれや」(卷一)、「歎きつつますらをのこの戀ふれこそ」(卷二)、「吾妹子がいかに思へか」(卷十五)など用例頗る多い。この句に對する割註のオモホシメセカ〔七字傍線〕に從へば、思召したのだらうかの意となり、時の表現は正格となる。然し本文の如く、かゝる場合は現在法を以て代用しても差支はないのである。この句は下の「知らしめしけむ」に遙に應ずる。○あまさかる 鄙に係る枕詞。大空遠く隔たる意で、鄙の國々は空の果に隔つて(125)ゐる故にいふ。○ひなにはあれど 邊鄙の地ではあるが。「鄙」は日下《ヒシタ》の義といふ。この句を古義が不の字の脱としてヒナニハアラネド〔八字傍線〕と訓んだのは頗る理由の無い説で、歌意の誤解に出たのである。○いはばしる 近江の枕詞。石の上を走る「溢水《アフミ》」の義で、同音の近江に係けたものといふ。、冠辭考はイハハシノ〔五字傍線〕と訓むべしと主張し、イハハシは石梁のことで、川の所々に石を置き竝べて飛び渡るものゆゑ「間《アヒ》」の義から近江《アフミ》に係けたといふ。集中には、「石走《イハバシリ》たぎち流るゝ泊瀬河《ハツセガハ》」(卷六)、「明日香河湍瀬由渡《アスカガハセゼユワタ》しゝ石走《イハハシ》もなし」(卷七)と兩方の訓例があるので、この「石走」も何れに訓むべきかは尚考究の餘地がある。○あふみのくに 「淡海」は即ち淡水湖《アハウミ》の義で、近江の琵琶湖のこと。「近江」の字面は「遠《トホ》つ淡海《アフミ》」(遠江)に對する「近《チカ》つ淡海《アフミ》」の義である。○ささなみ 既に古事記に、沙々那美《サヽナミ》、佐々那美遲《サヽナミヂ》、狹々浪《サヽナミノ》栗林、狹々波《サヽナミノ》山、孝徳紀に狹々浪(ノ)合坂《アフサカ》山など見え、湖西の比良山下明神崎以南の地の稱で、ほゞ今の滋賀郡全體に當る名であつた。語義は小波〔二字傍点〕の義で、淡海の湖から起つたもの。「樂浪」の字面は「神樂聲浪《ササナミ》」(卷七)とあるが元で、「神樂浪」(卷二)とも略し、更に「樂浪」と略したのである。ササ〔二字傍点〕を「神樂聲」と書くのは所謂戲書で、古へ神樂の囃しをササ〔二字傍点〕といつたからである。○おほつのみや 上の「近江大津宮御宇天皇代」の條を參照(七六頁)。〇しらしめしけむ この「けむ」は上の「いかさまに思ほしめせか」の係を承けての結辭となり、兼ねて直ちに次句へ接續してゐる併用格である。口譯には「けむ」の下に假にその〔二字右○〕の語を補足して意味を徹した。「兼」は音借字。○すめろぎのかみのみこと 天皇を直(126)ちに神として申上げる尊稱。こゝは天智天皇を指し奉る。「すめろぎ」は統《スベ》ら君《ギ》の義で、天子にいふ。○ここ 「此間」を意訓に讀んだ。○はるぐさの 舊訓ワカクサノ〔五字傍線〕とあるが、次の「茂く生ひたる」に合せて思へば妥當でない。元暦本、冷泉本その他の訓に從つた。○かすみたつはるびのきれる 霞たなびく春の日のぼんやりとしてゐる樣をいふ。「きれる」は四段活用の動詞「きる」の已然形に完了の助動辭「る」が添うたのである。「きる」は曇つて模糊たる状態を表すにいふ語。「秋の田の穗の上にきらふ朝霞」(卷二)、「目もきりて」(源氏物語)、「天きる雪」(古今集)の類その例が多い。この語が居體言となつて或水蒸氣の名となつたのが霧である。されば本文「霧流」の「霧」は借字である。さてこの二句の「生ひたる」「きれる」は次の「大宮處」へ係る格である。眞淵、千蔭等は割註のカスミタツハルビカキレル〔十二字傍線〕、ナツグサカシゲクナリヌル〔十二字傍線〕を可としてゐる。○ももしきの 宮に係る枕詞。「ももしき」は百石城《モヽイシキ》の義で、多くの石でその地盤の周圍を堅固に築きなした城《キ》だといふ。かうした立派な地域を構へての建築は、皇居などに於いて始めて見られるので、百磯城の宮と續け(127)いふことゝなつた。伊勢の内外宮の敷地の構成は、即ちその樣式を傳へたものである。「磯」をシと訓むは石《イシ》の上略。「城」は區劃を形作つた場處の稱。○おほみやどころ 皇居の地域。「おほ」は美稱。「みや」は御屋《ミヤ》の義。宮の字を常用とする。○みればかなしも 「も」は歎辭。割註のミレバサブシモ〔七字傍線〕も惡くはないが、本文のまゝでよい。「サブシ」は心の樂まぬ貌。
【歌意】 畝傍山の麓橿原の宮に御即位ましました神武天皇の御代以來、お生まれ遊ばされた歴代天子樣のすべてが、次々に同じ大和で〔五字右○〕天下をお治めなされたのに、その大和の國を棄てゝ奈良山を越え、どんな風に思召してか、當時邊鄙な田舍ではあつたが、近江の國の小波の大津宮を奠めて、天下をお治め遊ばされたことであつた、その天智天皇の皇居は此處だと聞くけれども、その殿舍は此處だといふけれども、今見れば春草の萋々と生ひ茂つてゐる有樣といひ、霞たなびく春の日の薄ぼやけてゐる有樣といひ、荒れ果てたこの皇居の廢址を見れば、昔榮えた面影もなく、誠に懷古の悲みに堪へられぬことではある。
 
〔評〕 第一段は、まづ神武天皇以來皇統連綿として繼承し四海を統治し來つた趣を叙べた。この事實は近江遷都を擧行された天皇の御宇だとて依然渝りはない。隨つて「知らしめししを」と抑へたのが無用で、意味が透徹しない。止むを得ず意釋には、倭において〔五字右○〕の語を補足した。尤も作者もその心持で、冒頭から「畝火の山」の「橿原の聖の御世」のと、大和といふ意識を強く匂はせてゐるが、修辭的には不完である。蓋し大和人たる時代意識に囚はれ過ぎた結果であらう。割註の「知らしめしける〔二字右△〕」は、第二段において「虚に見つ」の枕詞を隔てゝ「倭」に係る修飾句となるから、條理が立ち意味は疏通するが、句法が伸び過ぎて、だらけて面白くないことも事(128)實である。
 第二段「倭をおきて」と切る時は、下の「淡海の國云々」と遙に跨續る事になり、割註の「倭をおき」は直ちに次句の「平《ナラ》山を越えて」に對偶的關係をもつ。何れがこの場合尤も妥當かと考察するに、まづこの二句は「倭を」「平山を」の辭樣から推して、大體において排對的性質の組織である事を、誰れも認識するであらう。然るに「倭をおきて」と切れば、この句は上段に連繋する形式となり、聯對の意義を失つてしまひ、組織が亂れて不快を感ずる。よつて割註の方に從つて「て」の辭をこの聯句の最末に廻して置く方が穩かである。
 「思ほしめせか」は文法上にも非難がないのみならず、或本の「思ほしけめか」よりは力強い意調を感ずるから、本文に據りたい。
 第三段「霞立つ春日の霧れる、春草の繁く生ひたる」はその憑弔の時季が春季と一定する。割註の「霞立つ春日か霧れる、夏草か繁く成りぬる」は春夏の二季に亙つてゐる。どちらでも意味は通ずるが、本文の方は措辭がやゝ猥雜の感があり、割註のは對偶が比較的井整で的確である。その代り割註のはその叙景が想像から出發した總括的思索の句となり、本文は現前の光景の直叙となる。上來の「大宮は云々、大殿は云々」の句から推せば、こゝは現實の叙景であつてこそ、餘計に感愴が深まつて來ようといふものである。やはり本文に從つておきたい。
 前半歴代帝王の京は神聖なる傳承的約束があつて、輕卒に改易すべきものでない所以を闡明し、暗に「いかさまに思ほしめせか」の一句を以て天智天皇の近江遷都を非難してゐる。然しこれは一往の論であつて、既に大和國以外に遷都された先例がある。即ち
(129)  近江――志賀高穴穗《シガノタカアナホノ》宮(景行)
越前――角鹿笥飯《ツノガケヒノ》宮 (仲哀)
  長門――豐浦《トヨラノ》宮(仲哀)
  筑前――香椎《カシヒノ》宮(仲哀)
  山城――筒城《ツヽキノ》宮(繼體)
近江――志賀高穴穗《シガノタカアナホノ》宮(成務)
  攝津――長柄豐崎《ナガラトヨサキノ》宮(孝徳)
  河内――丹比柴籬《タヂヒノシバガキノ》宮(反正)
の如く澤山ある。わが大君〔四字傍点〕を絶叫する作者人麻呂にして、これらの史實を知らぬとは決していはれぬ。それを尚大まかに看過したことは、さし當つた遷都に就いての不滿と感慨とを叙するに急なるが爲であらう。作者は實に大和人で、而も大和朝廷の空氣を呼吸して生活する官吏である立場から出たものであることは勿論だが、元來作者は頗る保守的氣分に富んだ性格の持主であることが、その主因をなしてゐるやうに思ふ。
 「倭をおきて――淡海國の大津宮に天が下知らしめしけむ」、かう取捨得喪の相反する事相を對比させ、そこに「いかさまに思ほしめせか」の評語を挿んで、叡慮はとても凡慮の忖度し難いものゝやうに反らしてゐるが、實は娩曲な非難であり、却つては辛辣な皮肉とも聽かれる。かく叙事中議論をまじへる樣式は、漢詩にはその例多々であるが、わが長歌には實に珍しい。尤も議論は即ち議論で歌ではないが、歌意の平板に墮するを避ける一手段として、又健剛な※[しんにょう+猶の旁]勁な氣分と節奏とを釀成する一方法として、これを使用することも亦決して惡いことではない。
 後半いよ/\本題に入つて憑弔の意を叙べた。
 天智天皇は成務天皇の高穴穗宮の遺址から約二十五町ほど南方の坡上(南滋賀里)に皇居を奠め、諸官廳を(130)造り、大内裏を結構せられたのである。然るに天皇崩御の前月、大藏省の倉庫から火を失して皇居は全燒し、天皇はその後二旬を出でずして新宮に於いて崩ぜられた由、紀に見える、この新宮は皇居の炎上するや否や、即時御造營に着手されたのであらうが、續いて起つた壬申の亂までの間、僅か半歳ほどの間に竣工しさうな筈が無いから、全體に亙つて未完成のまゝ、或は一部分位急造の假普請のまゝであつたと推測される。されば天武天皇の飛鳥復都と共に、極めて短時日の間に大津宮が頽廢に歸した事情が、よく首肯されるのである。
 「大宮はここといへども、大殿はここと聞けども」は單なる反復の爲の反復でない。この一節はこの歌の中心點なので、最も力強い印象を與へる叙述の必要があるからである。まづ大宮と大體を提擧し、次にはその主殿たる大殿を指示した。大より細に、麁より精に入る筆法で、語に次第がある。「ここといへども」「ここと聞けども」は、舊都憑弔の作者が茫々たる草野に立つて、低囘躊躇して去りあへぬ光景が映出されて面白い。
 ※[(日+句)/列火]々たる春日は空しく山色水光を霞めて前朝を夢と隔て、※[草冠/妻]々たる芳草は徒らに閑花を著けて古宮の斷礎を埋めてゐる。この無情なる自然に對して、有情の作者はいよ/\斷腸の念に禁へなくなる。恰も詩聖杜甫の「國破(レテ)山河在(リ)、城春(ニシテ)草木深(シ)」の句とその軌を同じうし、その感をひとしうするものがある。これ「見れば悲しも」と結收された所以である。
 抑もこの歌、第一段の叙述がやゝ不完で、明晰を缺いてゐる。又「天離る夷にはあれど」の一句は全くの冗語で、こんな小理窟を挿む必要がないどころか、却つてこれあるが爲に、折角昂進して來た讀者の感情を冷却させてしまふ。隨分輪廓は立派な作だのに惜しい事である。割註が多分の異同を示したことを思ふと、尚それらの外に幾多の訛誤が潜んで居ることが想像される。
 
(131)反歌
 
樂浪之《ささなみの》 思賀乃辛崎《しがのからさき》 雖有幸《さきくあれど》 大宮人之《おほみやびとの》 船麻知兼津《ふねまちかねつ》    30
 
〔釋〕 ○ささなみの 志賀に冠せた汎稱。上の「ささなみ」を參照(一二五頁)。○しが 滋賀、志我、などの字も充てゝある。樂浪《サヽナミ》地方は殆どこれに屬して滋賀郡を立てられた。「しが」はスカ〔二字傍点〕と同じく水邊の砂地を稱する。洲處《スカ》の義。○からさき 辛崎は普通に唐崎と書く。今の唐崎とほゞ同位置と考へられる。○さきくあれど 恙なくあれどの意。「さきく」はその異状無きを喜んでいふ。○おほみやびと 大宮に仕へ奉る人。官人。○ふねまちかねつ 待てども待てども船を待ちつけ得ないとの意で、實は船の決して來ることのないことを婉曲にいつた。「かね」は「かぬ」の第二變化。この語はもとかつ〔二字傍点〕(難)から出た語。「兼」は借字。
【歌意】 志賀の辛崎は、昔のまゝに恙なく、依然として明媚な風光を展開してゐるけれども、大宮人達の美しい舟遊の船は、いくら待つても待ちつけ得ない。鳴呼もう決して來ることはないのだと思へば悲しい。
 
〔評〕 大津の宮の荒廢して麥秀離々たる情景は、既に長歌に於いていひ盡した。反歌は乃ち一轉して琵琶湖上の舟遊に及んだ。
 抑も帝都を變更することは、人心の一新を圖る政治家の秘策である。天智天皇は英明の君、この秘策を執り、不便な飛鳥の邊隅を棄て、東西交通の咽喉を扼する大津の地を選んで、帝業を弘めようとなされたのであ(132)る。而してこれはその外面的理由であり、他に内面的には、萬頃の小波瀲※[さんずい+艶]たる湖上の勝景によつて、その遊樂の欲求を充たさうとの御目的もあつたやうである。乃ち湖畔には濱樓を設けて、常にこゝで置酒高會し給ひ、月卿雲客も亦時に扁舟を操つて煙波の興を擅にし、時に遊屐をかりて邱壑の勝を探つた。而して湖上の舟遊は殊に上下を通じての歡娯であつた。されば天皇の崩御を嘆き悲しんだ歌に、額田王は、
  かゝらむとかねて知りせば大御船はてし泊《トマリ》にしめ結はましを(卷二―151)といひ、又倭(ノ)大后は、
  いさなとり近江の海を、沖さけて漕ぎくる船、へづきて漕ぎくる船、沖つ櫂いたくなはねそ、邊つ櫂いたくなはねそ、若草のつまの念ふ鳥立つ (卷二―153)
と詠まれた。蓋し近江朝廷懷古の作としては、湖上の舟遊は逸すべからざる重要題材であると思はれる。作者は即ちこゝに着眼して一吟を試みた。
 辛崎は岩石の斗出ではない。單なる沙嘴で、地質的に變形し易い場處である。それすら大津宮時代のまゝに依然として存在してゐるがと喝破した。無心の辛崎に對して、その存在を「幸くあれど」と有情に扱ふ、そこに作者の辛崎に寄せた懷(133)かしい情味の搖曳が認められる。作者は今この砂嘴に立て、嘗てよりその脳裏に描いてゐた當時の大宮人の舟遊の幻影を追うてみた。が徒らに萬疊の漣※[さんずい+獣偏+奇]の天を浸し岸に※[口+耳]くのみで、低囘良久しうするけれども、懷かしい遊舫の影は杳としてその消息を知らない。「舟待ちかねつ」は實はこれ作者の當面の感情なのを、すべて辛崎の上に寄托した擬人の修辭は、この際頗る娩曲味と含蓄味とを饒からしめる。
 語を換へていへば、辛崎の有に對する大宮人の舟の無であつて、有無正反對の現象の交錯から生ずる感愴が基礎となつてゐる。それに擬人の衣をかけて諷託寄興したのだから、内に藏した無量の慨歎と外に流れる温籍な情味とが一體に融合して、一唱三歎の味ひが生じてくる。「幸くあれど――待ちかねつ」とは一往の理窟であるが、これは既に辛崎を人格視した詩的著想の上に築かれた空中樓閣だから、さのみ感興の昂揚を妨げる程の影響を齎さないどころか、却つて感興を反撥する力強さがある。
 かくはいふものゝ舍人吉年の作に、
  八隅如しわご大君のおほみ船待ちか戀ふらむ志賀のから崎 (卷二―152)
と先鞭をつけた歌あるを如何。然し作者は歌聖である、流石に點化の術を見出すに難くなかつた。乃ち大御船を大宮人の舟に取成し、さて「待ちか戀ふらむ」の想像を「待ちかねつ」と決定的に現在に仕立てたのは、甚だ力強い印象を與へる辭樣であつて、原作に比べると更に一段の巧緻と、一層の洗煉とを加へたものといへる。况や「八隅知しわご大君」の語は長歌に用ゐる套語で、短歌には餘に莊重に過ぎ、※[奚+隹]を割くに牛刀を以てする觀があるのを、この「ささ波の志賀の辛崎」の平叙と「辛崎さきく」の疊音の諧調とは相俟つて、まづ打上ぐるより頗る優麗に聞える特色がある。
 
(134)左散難彌乃《ささなみの》 志賀能《しがの》【一云|比良乃《ヒラノ》】大和太《おほわだ》 與杼六友《よどむとも》 昔人二《むかしのひとに》 亦母相目八毛《またもあはめやも》【一云|將會跡母戸八《アハムトモヘヤ》】    31
 
〔釋〕 〇しがの 割註の「比良の」は事實に合はぬ誤傳。○おほわだ 大いなる曲《ワダ》。「わだ」は水の灣入した處をいふ。○よどむとも たとひ淀むともの意。今は淀んで居らぬ場合においてのみいふ詞。「淀む」は水の停滯すること。前註者は皆これを昔のまゝに〔五字右○〕淀むともといふ意に解してゐる。これは大曲の水だから既に淀んでゐるものと速斷して、事實を疎略にした謬見である。琵琶湖は流石に大湖で、岸邊の波は常に動搖して決して淀まない。「友」は借字。○むかしのひと 昔在りし人。大津宮當時の大宮人達をさす。○あはめやも 逢はむやはに同じい。「やも」は反辭。「相」はアヒの訓を轉用した借字。
【歌意】 志賀の大曲よ、それが假令淀むとしてからが、こゝに樂しく舟を泛べたあの當時の大津宮の官人達に、また再び逢はれうことかい。
 
〔評〕 志賀の大曲は即ち辛崎から南へ灣入した曲浦をいふのである。大津宮の頃は大宮人達の擧つて舟遊に出入した船着場であつた。今大和國から遙々と來て見ると、縹渺たる烟波は舊態依然として春光の浦に横はり、水は昔ながらにさゆらいで、汀沙を?んで折れ返つてゐる。が星霜茲に幾春秋、また大宮人の隻影をだに認め得ない。これ舊都憑弔の客の眼底に、まづ第一に映じ來つた印象であつたらう。この哀愁の意を直叙しても、なほ歌として相應の收穫があつたに相違ない。しかも人麻呂はそれだけに滿足するを得なかつた。更に一段の詩想(135)を高揚し、今眼前に漾々たる大曲の水の動きにわが感興の焦點を置き、そこに假想を描いて「淀むとも」の空中樓閣を出現せしめた幻化の手段は眞に絶妙である。現實においても昔の人に逢ふよしがない。幻化の假想世界においても亦逢ふよしは絶對にないと力んでゐる。これは前朝の繁華の尋ぬる處もない幻滅の失望を暗映させたもので、誠に老巧の構想といふべく、憑弔の哀感がおのづからその中に搖曳してゐる。
 割註に「比良乃《ヒラノ》」とあるが、比良は大津から餘に遠いので、本文の方が勿論よい。「將會跡母戸八《あはむともへや》」も惡くないが、なほ本文の思ひ入つた強い調子の方が痛切である。
 
高市古人《たけちのふるひとが》感2傷《かなしみて》近江(の)舊堵《ふるきみさとを》1作《よめる》歌  或書(ニ)云(フ) 高市連黒人《タケチノムラジクロヒト》
 
高市古人が近江の大津の舊郡を訪うて悲んで詠んだ歌との意。○古人 如何なる人物か詳でない。註の或書にいふ「黒人」も傳は不明である。但黒人の作は集中他にも散見するので、これをも黒人の作と臆斷して、高市黒人と書くべき處を歌の初句の「古人」とあるに紛はれて、高市古人と書いたのだらうと定めて、考や古義などに、題までを黒人と改めたのは私妄である。且黒人には必ず連《ムラジ》の姓が并記してあるが、この古人にはそれがない。黒人よりは身分の卑い別人であらう。又卷三に黒人の近江旅行の歌が別に出てゐるのは、いよ/\その別人である證左の一とも見られる。○近江舊堵 近江の大津の〔三字右○〕舊都。「堵」は都〔右△〕に通じて用ゐる。○或書云高市連黒人 これは例の後人の書入ながら、或歌書にはさうあつたのだらう。この「或書」は萬葉集の一本のことではない。一本の時には或本〔二字傍点〕と書くのが、この集の書例である。
 
(136)古《いにしへの》 人爾和禮有哉《ひとにわれあれや》 樂浪乃《ささなみの》 故京乎《ふるきみやこを》 見者悲寸《みればかなしき》    32
 
〔釋〕 ○いにしへのひと 古への大津宮當時の〔六字右○〕人。○われあれや 自分があるのかしての意。「あれや」は、あればやの意に當る古言の辭樣である。「あまなれや」を參照(一〇六頁)。○ささなみの 京《ミヤコ》にかゝる詞。委しくは「ささなみの志賀の京〔四字右○〕」といふべきであるが、「ささなみ」はこの地方の汎稱であるから、かうも用ゐる。○ふるきみやこ 廢都。
【歌意】 自分は今の世の人だと思つてゐたが、それともこの大津宮の盛であつた當時の人なのかして、今こゝに來て荒廢したこの都を見ると實に悲しいわ。
 
〔評〕 この作者は、全く大津宮の頃には居合はせなかつた人と思はれる。まづこの前提を置いて後、この歌を味讀することを要する。たま/\舊都を慕つて來て見ると、山水草木は舊に依つて榮えてゐるのに、廢垣破瓦は前朝の宮址に狼籍として横はつてゐる。かくの如く、大自然の威力の前には、人間の功業の轉た塵の如く煙の如く物はかない樣を、まざ/\と見せつけてゐるのに對しては、何人と雖も大いなる悲愁の情の動くに禁へないであらう。
 多感の作者は茲に於いて飜つて一轉捩を試みた。それは即ち、自分があまりな憑弔の涙にくれたことを自覺して、更に一往の思索に訴へて、自身の行爲を訝つたことである。その思索といふは、この京の盛時を實地に(137)見た人こそ今昔の感にも打たるべきであらうが、實見せぬ後人はそんな筈はないといふことで、その論理には固より非常な不備缺陷があるけれども、それらには一向頓着しないのである。即ち不完全な理性、否詩的な感情を透して、われと我が身の來歴を疑ひ、存在の時代を訝るに至つては、その癡や及ぶべからず。蓋し悲傷の餘に出た矯語である。
 更に一説を提供する。それは「古への人に」は作者自身の名を詠み入れたのではあるまいかといふことである。自他の姓名を歌謠に取込むことは、記紀ともにその例が多々あり、又「高行くや隼別《ハヤブサワケ》、鷦鷯《サヽキ》取らさね」(記―仁徳)の如く、譬喩に活用した例もある。こゝは「若しかしたら、自分は名詮自稱、古への人であるかして」とまで、わが名の古人〔二字傍点〕を活用したのではあるまいか。
 
樂浪乃《ささなみの》 國都美神乃《くにつみかみの》 浦佐備而《うらさびて》 荒有京《あれたるみやこ》 見者悲毛《みればかなしも》    33
 
〔釋〕 ○ささなみのくにつみかみ ささなみの國の國都美神といふべきを略したもの。「ささなみの國」は、國とはいつても、吉野《ヨシヌ》の國、泊瀬《ハツセ》の國の類で、狹い範圍に用ゐられた稱で、滋賀郡の地をさす。○くにつみかみ 國つ御神。但|天神《アマツカミ》に對していふ地祇《クニツカミ》とはその意を異にし、土地の神をいうたので、こ>は佐々那美《サヽナミ》の國を敷きます神をさす。「美」は借字。○うらさびて 「うら」は心のこと。「さび}は下二段の動詞「さぶ」の第二變化で、慰まず冷《スサ》まじき意。集中「不樂」「不怜」な」どをサブシと訓んである。動詞と形容詞との差はあるが、もとは同語。宣長、御杖、雅澄等は、心の荒れすさみてと解したけれども、井上氏の新考に、その非なる由を論じ(138)てゐる。「浦」は借字。○あれたるみやこ 大津の京をさす。
【歌意】 土地を守り給ふ樂波の邦の邦つ御神の御心が、樂まず氣が進まずおなりなされて、その爲かくも大津の京は荒れはてたが、この荒れた京を見ればまことに悲しいことだわい。
 
〔評〕 佛教思想は、當時上流紳士の信仰を基礎として一般に弘通せられたけれども、畢竟如來はその理想の象徴であり、佛像は更にそれを偶像化しただけに過ぎない。凡百の事物を直ちに佛とし、如來として崇拜するといふことは殆どなかつた。然るに獨りわが民族固有の信念は、森羅万象事々物々に神の存在を認め、宇宙より始めて生物は勿論、山河草木に至るまで、苟も特異の事相を有する場合には、悉くこれを神として視、且崇拜し、遂に八百萬の神あるに至つたのである。茲に於いてか土地には國つ神があり、この國つ神の心のなしにより、加護不加護によつて、その土地は或は榮え或は衰へるものと考へたのである。集中に散見する、
  山祇《ヤマツミ》のまつる貢と、春べは花かざし持ち、秋立てばもみぢ葉かざし、夕川の神も、大御食に仕へまつると、上つ瀬に鵜川をたち、下つ瀬にさでさし渡し、山川もよりて仕ふる云々。 (卷一―38)
  三芳野の秋津の宮は、神がらか尊かるらむ云々。 (卷六―907)
の類は、本文と共に以上の説に確證を與へるものである。されば作者古人も、大津京の荒廢は遷都の結果であつて、固より人爲的なのを、それも國つ御神の御心變りに由るものと觀じたのである。人に見限られたのは猶忍ぶことが出來よう、神に見放されては更に取付く島も無い。「見れば悲しも」は眞に同情のあまりに出た語であらう。
 
(139)幸《いでませる》2于|紀伊《きの》國(に)1時、川島|皇子《みこの》御作《よみませる》歌    或云 山上臣憶良《ヤマノウヘノオミオクラノ》作
 
持統天皇が紀伊行幸の時、川島皇子の詠んだ歌との意。○幸于紀伊國 持統紀に、「四年九月丁亥天皇幸(ス)2紀伊(ニ)1、戊戌天皇至(マス)v自(リ)2紀伊1」とある時のことであらう。○川島皇子 持統天皇には異母弟に當られる。位淨大參に至り、持統天皇の五年九月薨ず。御年三十五。この歌は姉帝の御供で紀伊へ往かれた時の御作である。なほ「河島皇子」を參照(五〇五頁)。○或云山上臣憶良作 後人の書入れ。憶良の傳は(四六、二三四頁)を參照。
 
白浪乃《しらなみの》 濱松之枝乃《はままつがえの》 手向草《たむけぐさ》 幾代左右二賀《いくよまでにか》 年乃經去良武《としのへぬらむ》 【一云、年者經爾計武《トシハヘニケム》】    34
 
〔釋〕 ○しらなみのはま 白波の立つ〔二字右○〕濱の意。固より完語ではないが、かゝる類例は當時は少くない。然るに眞淵が「浪は良の誤にて、シラヽノ〔四字傍線〕と訓むか、さらずばシラカミノ〔五字傍線〕の誤ならん」といつたのは獨斷であらう。○はままつがえのたむけぐさ 濱松の枝に懸かつてゐる手向種《タムケグサ》。手向種は手向の具をいふ。「手向」は神などに物を獻ること。古義には取向《トリムケ》の約と説いてゐる。「草」は借字。○いくよまでに 幾年ほどにの意。「左右」をマデと訓むは、古へ手の左右揃つたのを褒めて、眞手《マテ》と呼んだ。眞は美稱である。集中なほ、左右手、諸手、兩手、二手をマデの助辭に充てゝゐる。又二梶をマカヂと訓むも、櫓の二つ揃ふからの稱である。
【歌意】 この濱松が枝に懸かつてゐる手向種は、古への旅人が行旅の平安を祈つた物だらうが、この手向種はそも/\の昔から、もはやどの位までに年經たことであらう。隨分久しいものだらうなあ。
 
(140)〔評〕 仙覺の註に、「神に奉る物を松にかけおきたれば、濱松か枝の手向草とよめる也」とあるので、後世の註家は皆これを準據として説を立て、殊に古義に、「齊明天皇、中皇女などの紀の温泉行の折、松が枝にかけた手向草の、なほ殘れるものの如くに見做して詠めり」とまでいつてゐるが、三十餘年も以前の手向草がいまだに枝上に朽ち殘つてゐると觀ずることは、ちと考物ではなからうか。これは只誰れの捧物だかわからぬが、風雨に晒れた木綿《ユフ》などが松が枝にふら/\してゐるのを見ての詠懷としたい。松に木綿《ユフ》懸けることは、常陸風土記に「小松に木綿しでて」とも見えて、今も榊に御幣を付けて捧げるのと同じ仕業である。
 古へは道路の重要地點に岐《フナドノ》神を祀り、旅人はこれに行旅の無事平安を祈つたものである。作者川島皇子も、今紀の路の或叢祠の前に立つて、普通旅客のする如く、その幣を手向けようとしたのである。處がそこには既に舊い手向種が松が枝にしで懸けられてあつた。で一寸躊躇しつゝあるうちに、端なく「幾代までにか」といふ閑想像を馳せて、輕い追懷に耽つた。着想としては大した事もないが、かやうに疑問を投げ懸けた結果、そこに多少の姿致を生じ、纔に平凡から穎脱してゐる。卷九に再出したのには、
  白那彌之《シラナミノ》濱松の木〔右○〕の手むけ草、いく世までにか年は〔右○〕經ぬらむ  (―1716)
とある。
 さてこの歌は皇子薨去の前年の作であることを思ふと、?ひにこの歌が時間の經過を主想としただけに、何だか物はかない哀愁を感じられてならない。割註「年者經爾計武《トシハヘニケム》」とあるは純過去の語法である。現に濱松が枝を眼前に置いての作としては、當然本文の如く完了態にすべきである。
 
(141)日本紀(ニ)曰(ク)、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇幸(ス)2紀伊(ノ)國(ニ)1也。
 
 紀の今本には持統天皇の四年に紀伊行幸の記載がある。而して朱鳥改元は持統天皇御即位の前年、天武天皇の御時の事であるから、持統天皇四年は實は朱鳥五年になる譯である。干支も丁度庚寅に相當する。さればこの左註「朱鳥」の二字は衍として削るべく、若しこれを生かせば、「四」を當然五〔右△〕に改めねばならぬ。尚日本靈異記には朱鳥九年まである。(この年紀の支吾に就いては木村氏の日本紀年紀考がある。)
 
越(えます)2勢能《せの》山(を)1時、阿閇皇女《あべのひめみこの》御作歌
 
○勢能山 紀伊國伊都郡笠田村にあり、背の山、兄の山など書く。紀の川の北岸に立つ百六十米突ほどの小山。對岸の澁田村なる小山を妹山と呼んで、古來、妹背即ち夫婦の義に取成して詠んだ歌が多い。大和國吉野郡の妹背山は後世の假託。○越 今は紀の川と背の山との間に坦路が通じてゐるので、越ゆる必要もないが、昔は山根まで川が廣がつてゐたので、山越をしたのである。○阿閇皇女 天智天皇の第四皇女で、草壁皇太子(天武天皇の皇子)の妃となり、文武天皇を誕み給ひ、後に御即位あつて元明天皇と申し奉る。
 
此也是能《これやこの》 倭爾四手者《やまとにしては》 我戀流《わがこふる》 木路爾有云《きぢにありとふ》 名二負勢能山《なにおふせのやま》    35
 
〔釋〕 ○これやこの これがあのの意。「や」は疑問の係辭で、結句「せのやま」の終に含む補語で結ぶ格である。蝉丸の「これやこの往くも歸るも」の歌で思ひ合はせるがよい。○やまとにしては 大和にあつてはの意。こ(142)の「は」の辭は、紀路に對して差別の意をなす強い用法なることに注意すべきである。○きぢにありとふ 紀路に在りといふの意。この何路〔二字傍点〕といふに二義ある。(1)はその地その所に向ふ路の意。宮路家路などがその例である。(2)はその地その所の路をいふ。こゝは(2)の意。〔この「何路〜」が、初版では、「「紀路」は正しくは紀州に向ふ路の義で、宮路、家路など皆同じい。故にその國の眞中に在つては言ひ難い語であるが、時に互用してゐる。」となつていて、底本の七版の方が詳しい。SK〕「とふ」はトイフ〔三字傍点〕の約で、更に轉訛してチフ〔二字傍点〕ともなり、後世はテフ〔二字傍点〕となつた。「木路」の木は紀伊の國稱の本義で、紀の國は木の國である。森林が多くて材木に富んでゐたからの稱。○なにおふせのやま 名に負ひ持てる夫《セ》といふ山の意。「山」の下、なる〔二字右○〕の助動詞を略いてある。
【歌意】 これがあの、紀州路にあると豫て聞き及んでゐた、そして大和に在つてはわが戀ひ奉る夫《セ》の君の、そのセ〔傍点〕といふ語を名に負ひ持つ山なのかまあ。懷かしい山よ。
 
〔評〕 「大和にしてはわが戀ふる」は、元來|夫《セ》にかゝる修飾の語であるが、一首の死命を制する底の、動かすべからざる要素をなしてゐる。即ち試にこの句を省いて見る時は、
 これやこの………紀路にありといふ背の山ナル〔二字右○〕となつて、その意こそ明かであるが、詩味は索然としてしまふ。それは單なる名勝讃歎の趣に過ぎない故であ(143)る。これは恰も蝉丸の歌の
 これやこの………逢阪の關ナル
とだけでは、何等の興趣をも齎さないのと同樣である。「往くも歸るも別れては知るも知らぬも逢ふ」と、關路往來の織るが如き光景を表はした一句を挿むに至つて、始めて一段の詩趣の油然として湧く感がするであらう。この歌も「大和にしてはわが戀ふる夫《セ》」と、遣る瀬ない思慕の念をいひかけた、女らしさの情味ある句が挿入された爲に、如何にも懷かしい情緒の動きが認められるのである。
 抑も作者阿閇皇女は、この朱鳥五年の御姉君持統天皇の紀伊行幸の折は、三十七歳であらせられた。行幸の御供をなされて、端なく紀州路の背の山に行かれた。背の山は※[草冠/最]爾たる小山でこそあれ、當時畿内の南限として著名であつた。故に「紀路にありとふ」ことは、皇女は夙くより御記憶なされてゐたと思はれる。即ち孝徳紀に、
  天皇二年正月詔(シテ)曰(ク)、凡(ソ)畿内(ハ)東(ハ)自(リ)2名墾《ナバリノ》横河1以來、南(ハ)自(リ)2紀伊(ノ)兄《セノ》山1以來、西(ハ)自(リ)2赤石(ノ)櫛淵1以來、北(ハ)自(リ)2近江(ノ)狹々波(ノ)合坂《アフサカ》山1以來、爲(ス)2畿内(ノ)國(ト)1。  (卷二十五)
と見えてゐる。况や皇女は草壁皇子に嫁せられてからは、その山名の「せ」といふに就いて、常に夫君の皇子を御聯想遊ばされたであらう。今端なくこの背の山を目のあたり越えますに及んでは、これがまあ、あの懷かしい背の山かと、思はず渇仰讃歎せられたのも偶然ではない。
(144) かくて更に一考すれば、茲に一新事實を發見する。それは外でもない、背の君草壁皇子が既にこの前年の四月に薨去されてゐたことである。さては「大和にしてはわが戀ふる」は、尋常一樣の相愛の情の表現ではなく、更に一層悲慘な死別の御追懷なのであつた。いかに戀ひ慕つても再び相見る由もない。纔に「紀路にありとふ背の山」に對して、その大和に於ける平生の思慕の情を慰めて居られる。あはれとも悲しいとも申し奉るに言葉が無い。まことに御名作といふべきである。
 
幸《いでませる》2吉野《よしぬの》宮(に)1之時、柿本朝臣《かきもとのあそみ》人麻呂(の)作歌〔左△〕
 
持統天皇の吉野離宮行幸に際し、柿本人麿が詠んだ歌との意。その年月は詳かでない旨は、左註にも記してある。原本には「作」の下歌〔右△〕を脱してゐるが、古本、古寫本に據つて補ふ。○吉野宮 この時代以後では、今の吉野郡中莊村のいはゆる宮瀧の地點を、その遺址と認定したい。△地圖 挿圖35を參照(一一〇頁)。
 
八隅知之《やすみしし》 吾大王之《わがおほきみの》 所聞食《きこしをす》 天下爾《あめのしたに》 國者思毛《くにはしも》 澤二雖有《さはにあれど》 山川之《やまかはの》 清河内跡《きよきかふちと》 御心乎《みこころを》 吉野乃國之《よしぬのくにの》 花散相《はなちらふ》 秋津乃野邊爾《あきつのぬべに》 宮柱〔左△〕《みやばしら》 太敷座波《ふとしきませば》 百磯城乃《ももしきの》 大宮人者《おほみやびとは》 船竝※[氏/一]《ふねなめて》 旦川渡《あさがはわたり》 舟競《ふなぎほひ》 (145)夕河渡《ゆふがはわたる》 此川乃《このかはの》 絶事奈久《たゆることなく》 此山乃《このやまの》 彌高良之《いやたかからし》 珠水激《いはばしる》 瀧之宮子波《たぎのみやこは》 見禮跡不飽可聞《みれどあかぬかも》    36
 
〔釋〕 ○やすみしし 大王に係る枕詞。既出(三〇頁)。○きこしをす お治め遊ばされる。舊訓キコシメス〔五字傍線〕とあるが、眞淵の訓に從つた。○くにはしも 「しも」は強辭。○さはに 澤山に。「澤」は潤澤の意を採る。○やまかはの 「やまかは」は山及び川の意であるから清音に讀む。○かふち かはうちの約で、河流に抱へ込まれた地をいふ。「かふちと」は下の「ふとしきませば」に係る。「と」はとて〔二字傍点〕の意。○みこころをよしぬのくに 御心よ善《ヨ》しといふを吉野國に係けた修飾語で、いはゆる有心の序詞。「を」は歎辭。以上は古義の説である。神功紀の御《ミ》心廣田之國、御心|長《ナガ》田(ノ)國の例から推して面白いと思ふ。舊解では御心を寄すに吉野を係けたものとしてゐる。○よしぬのくに 今の吉野郡の地をい(146)ふ。こゝの「國」は狹義。「いなみ國原」を參照(七二頁)。○はなちらふ 「秋津の野邊」の修飾語。枕詞といふよりも事實に即した描寫で、こゝには春秋色々の花が咲いては散つたものと思はれる。「ちらふ」は散るの延言で、その反復繼續の意を表はす。「相」はアヒの訓からの轉借字。○あきつのぬべ 吉野離宮の所在地の稱。今は中莊村吉野川南岸の少し西寄り、御園村の中に秋戸、下津野等の地名が殘つてゐるが、地形上から考へて蜻蛉野の本據は吉野川の北岸宮瀧の地にあるべきである。これより上流なる川上村西河の大瀧附近にも同名の傳説地があり、大瀧を一名セイメイ瀧といふは蜻蛉《アキツ》の字音によるものといひ、又近頃小川の小村の地を蜻蛉離宮址と主張する異説もあるが、今は採らない。○みやばしらふとしきませば 宮殿の柱を太くしつかりと建てれば。即ち堅固な宮造をしたればの意。「太敷《フトシキ》」は太知《フトシリ》と同語。雄略天皇御製の「しきなべて」の項參照(一二頁)。大祓の枕詞に「下津磐根爾宮柱太敷立《シタツイハネニミヤバシラフトシキタテ》」、祈年祭の祝詞に「宮柱太知立《ミヤバシラフトシリタテ》」、その他の祝詞にも古事記中にも多く見える慣用語である。古義に宮柱は「ふと」にのみ係る枕詞と解(147)して、柱に敷くといふ理なしとあるが、然らば上の大祓の句を何と解するか。總べて言語は時代により時と場合に依り、種々にその語形もその意も常に變化されてゆくことを念はねばならぬ。膠柱の論には困る。「柱」を原本に桂〔右△〕とあるは誤。○ふねなめて 舟を竝べて。「なめて」は既出(三六頁)。○あさがはゆふがは 朝方の川を朝川、夕方の川を夕川といふ。朝夕で切るのではない。「旦」を原本に且〔右△〕とあるは誤。○ふなぎほひ 舟を競うて漕ぐこと。○ゆふがはわたる 諸本ワタリ〔三字傍線〕とある。古義の訓に從つた。○このかはのたゆることなく この川の如く〔二字右○〕離宮はいつまでも絶えることなく。「この川」は吉野川をさす。○このやまのいやたかからし この山の如く〔二字右○〕離宮は巍然と聳えていつまでも榮えるらしい。「この山」は離宮を取圍んでゐる山々をいふ。「いや」はいよ/\、ます/\。「たかからし」は高くある〔三字傍点〕らしの約。○いはばしる 岩石の上を水の迸り流れる。舊本には「珠水」をタマミヅノ〔五字傍線〕、「激瀧」の二字をタギ〔二字傍線〕と訓んで居り、或は古葉略類聚抄には「珠水激」をミヅタヽ(148)ク〔五字傍線〕と訓んでゐる。疑問ある字面であるが、姑く眞淵説に從つておく。古義の誤字説は采らない。○たぎのみやこ 激流に臨んだ離宮をかく稱した。「たぎ」は動詞のたぎつ〔三字傍点〕から生まれた名詞で、瀑布ではなく奔湍をいふ。「宮子」の子〔傍点〕は借字。○みれど 見れど/\といふ程の力強い調子の語。
【歌意】 わが天子樣のお治め遊ばされる天下中に、國はさあ澤山あるけれども、特に山や川の景色の清くすぐれた川添ひのよい所だと、御心がまあ快くなられるこの吉野の國の、花が咲いては散る秋津野のあたりに、宮柱を太くしつかりと立てゝ、離宮を御造營遊ばされたので、供奉の官人達は舟を竝べて朝も川を渡り、舟を競うて夕も川を渡つて、遊賞に耽つてゐる。あゝこの吉野川の流のいつまでも絶えることないのと同樣に、この宮居は〔三字右○〕永久不變に、又この周圍の山々のいよ/\高く聳えるやうに、この宮居は〔三字右○〕巍々として動きなく榮えるらしい、さてもこの急瀬激湍に臨む宮居の景色の面白さは、見ても/\飽きぬことだわい。
 
〔評〕 普天率土、國こそ處こそおほけれ、天子が特に山水秀麗の地とこの吉野を卜して、外《ト》つ宮造を剏められたのだと、徐々に口を開いて遂に重きをこの吉野に歸したのは、主題たる吉野離宮讃美の意をしかと攫んで、その體を得たものである。「よき人のよしとよく見てよしといひし」吉野の國、しかもその花木に富んだ秋津野は、清き河門あり河原あり、清き山岳がある。この申分のない勝地に離宮を建てゝの行幸、供奉の官人等は暇あるままに、扁舟を浮べて朝夕に競渡を試みる。興會想ふべしである。これ即ち半面において、天子はその高殿にその大宮柱の下に、飽くまで山水の勝を嘉賞せしめ給ふ趣を反映してゐる。君臣偕に樂しむ、禮儀三百威儀三千の皇居においては、とてもかういふ寛ぎは見られぬ圖である。でこの川渡りを契沖や雅澄が「人々が朝夕にい(149)そしく仕へ奉れるさま」と解したのは賛成し難い。
 さてかゝる結構な離宮は虧けず崩れず、永久に巍々然として存在するらしいと、山河によそへて祝福した。この手段は後來、
  芳野の離宮《ミヤ》は――その山の彌ます/\に、この河の絶ゆることなく、百敷の大宮人は常に通はむ (卷六、赤人―923)
  芳野の宮は――この山の盡きばのみこそ、この河の絶えばのみこそ、百敷の大宮所やむ時もあらめ(同上、同人―1005)
と赤人にも踏襲されたが、その原は恐らく支那の古代の盟誓語たる山脂ヘ帶〔四字傍点〕から生まれて來たものだらう。
 末節「瀧の都は見れど飽かぬかも」は上の「彌高からし」の意を承けてゐる。句法は既に切れてしまつたものゝ、底意に連絡がある。所謂藕絶えて絲絶えざる筆法とでもいはう。かくて瀧の都、即ち吉野離宮そのものの讚美は、遙に冒頭に呼應してくる。但「見れど飽かぬ」の句のみに就いていへば、集中無數に散見する。蓋し萬葉人の套語である。
 すべて詩歌では祝賀讚稱の作はむづかしいから、あながちこの歌のみを咎めるにも及ぶまいが、忌憚なく評すれば、徒らに形式美に墮して、高渾な格調ではあるが内容がやゝ空疎で、纔に大宮人の川渡りに變化を求めて、その實感の喚起を要求するに過ぎない。
 起筆より「太敷きませば」までは殆ど、舒明天皇の御製「やまとには群山あれど取|具《ヨロ》ふ天の香具山のぼり立ち國見をすれば」の詞意を敷演したやうな形である。更に句法を點檢すると「太敷きませば」の一句が次節を胚胎發生してゐる。「この川の」は直接には前句の「朝川」「夕川」を承けたのだが、次の「この山の」と共に、遙か上の「山川の清き」の山川から生まれ出て分岐してきたものである。又「絶ゆることなく」(前)「高から(150)し」(後)は何を譬喩したものかゞ甚だ的確でない。でその主格を補ふに當つても、
    前對(絶ゆることなく)        後對(高からし)
  臣下の奉仕が……(契沖)      君の高御座にましますことが……(契沖)
  行幸が……………(眞淵)      離宮が……………………(眞淵、千蔭、雅澄)  離宮が……………(雅澄)
の如く諸説がそれ/”\齟齬してゐる。詰り叙述がそれだけ不完の證據である。さりとて誤脱がこゝにあるとまでは斷言しにくい。恐らく當時にあつては本文のまゝで慣習的に領會が出來て、異議なく承認されてゐたものではあるまいか。
 從來の註家は悉く、人麻呂が吉野行幸に直接扈從したものゝ如くに考へて疑はない。然し彼れの身分は東宮舍人だから、さう行幸供奉の出來る筈がない。これは必ず、御主人の東宮(高市皇子?)が從駕せられたので、彼れは又々に供奉したものである。それを恰も文筆を載せて從駕したやうに買ひ冠つて、彼を宮廷詩人などと稱する者のあるのは笑ふべきである。
 
反歌
 
雖見飽奴《みれどあかぬ》 吉野乃河之《よしぬのかはの》 常滑乃《とこなめの》 絶事無久《たゆることなく》 復還見牟《またかへりみむ》    37
 
〔釋〕 ○とこなめ 河床の岩石を稱する。床列《トコナミ》の義。今も淡路などでは赤色の砂岩の河床をなしたものをしか呼(151)ぶ。契沖、眞淵は、石に苔の生えて滑らかになつたもの、千蔭は、いつも滑らかな石、古義は、底滑《ソコナメ》の義で水底に生える苔類だといつてゐる。苔類をいふはその苔が床列に生ずるからの稱であらう。○またかへりみむ 二度見ようとの意であるが、上の「絶ゆることなく」に呼應するので、「また」が幾度もの意に聞えるのである。
【歌意】 いくら見ても見飽きないこの吉野の河の床列の石のやうに、絶える事なしに、この吉野の景色を何遍となく來て見よう。
 
〔評〕 初句の「見れど飽かぬ」は、長歌の結末の「瀧のみやこは見れど飽かぬかも」を反覆したもので、長歌から反歌へと連環の體をなしてゐる。これは作者の新しい試であるらしい。これで、朗誦してゆく際には、環の端なき趣があつて、頗る流麗な諧調をなすのである。「絶ゆることなく」はこの時代の套語で、平安時代の歌人なら絶えず〔三字傍点〕とのみいふ所である。「復かへりみむ」は集中に十數首もあるが、中にも、
(152)  三吉野のあきつの川のよろづ代に絶ゆることなく復かへりみむ  (卷六―911)
  まきむくのあなしの川ゆ往く水の絶ゆることなく復かへりみむ   (卷七―1100)
などは、着想から修辭から全く同調同型であり、殊に下句は一字の出入もない。卷七の歌は、人麿集に出てゐる由の左註はあるけれども、標題には作者未詳とあるが、卷六のは、笠朝臣金村が養老七年元正天皇の吉野行幸に供奉した際の作となつてゐる。金村は人麻呂と同時代の人で、只後輩といふまでゝある。多少の年月は隔つてゐるとはいへ、歌聖の作が既に儼として存してゐるのに、その踏襲をやつた金村の所爲は、甚だ面白くない。「常滑」を絶えぬことの比喩に用ゐたのは、既に古史古文に「常磐堅磐」を長久不變の意に用ゐたのと同じく、別に新意は無いが、「復かへりみむ」は作者の創語であるかも知れないが、惜しいかな、後人がやたらと眞似て舊臭くしてしまつた。
 この作、長歌の方では專ら天皇の御上を歌ひ、反歌の方では自身の事を歌つて、多少の變北を求めてゐる。歌は全體から評すれば穩健な作だが、概念的で餘り面白くないやうである。
                      △吉野離宮址考 (雜考―7參照)
 
安見知之《やすみしし》 吾大王《わがおほきみの》 神長柄《かむながら》 神佐備世須登《かむさびせすと》 芳野川《よしぬがは》 多藝津河内爾《たぎつかふちに》 高殿乎《たかどのを》 高知座而《たかしりまして》 上立《のぼりたち》 國見乎爲波《くにみをすれば》 疊有〔左△〕《たたなづく》 青垣山《あをがきやま》 山神乃《やまつみの》(153) 奉御調等《まつるみつきと》 春部者《はるべは》 花挿頭持《はなかざしもち》 秋立者《あきたてば》 黄葉頭刺理《もみぢかざせり》【一云|黄葉加射少《モミヂバカザシ》】 遊副川之神母《ゆふかはのかみも》 大御食爾《おほみけに》 仕奉等《つかへまつると》 上瀬爾《かみつせに》 鵜川乎立《うがはをたち》 下瀬爾《しもつせに》 小網刺渡《さでさしわたし》 山川母《やまかはも》 依※[氏/一]奉流《よりてつかふる》 神乃御代鴨《かみのみよかも》    38
 
〔釋〕 ○かむながら 神でいらせられるまゝにの意で、即ち天皇を神と見奉つての語。「惟神」又は「隨神」の文字を充てる。古事記(雄略)に「奴にあれば奴ながら覺らずて過ち作れり」とあるナガラ〔三字傍点〕もこゝと同じ用法。「長柄」は借字。○かむさびせすと 神としてふさはしい御行動をなさるとての意。「さび」はすさび〔三字傍点〕が上略されて接尾語となつたもので、男さび、少女《ヲトメ》さびなど用例多く、その者がその者相應に振舞ふ意を表はす語。「せす」は「爲《ス》」の敬相。○たぎつかふち 激流の取廻した地をいふ。この「たぎつ」はたぎる〔三字傍点〕といふ動詞の連體形でなく、既に名詞となつた「たぎ」に領格の「つ」が添うたものと見るべきである。○たかどの 樓閣。二階屋。○たかしりまして 御領知なされて。「たか」は美稱。古事記(上)にも「高天原に氷椽多迦斯理《ヒギタカシリ》」の語が疊見し、大厦を建造されたことを婉曲にいふ古來からの辭樣。○のぼりたち 高殿に〔三字右○〕上り立ちの意。こゝは山の上に登るのではない。古義の説は非。○くにみをすれば 國見をし給へば。「こゝは天皇の國見し給ふを他よりいふ場合ゆゑ、敬ひて國見|勢爲波《セスレバ》などあるべし」との古義の論は一往尤もだが、文章と違ひ、歌謠の類は、さう几帳面にばかりは敬語を使つて居ない。意の通ずるを限度として、詳略を自由にしてゐる。「くにみ」は既出の「望國《クニミ》」を參(154)照(二○頁)。○たたなづく 原本の「疊有」はタタナハル〔五字傍線〕と訓む。眞淵、宣長は「有」を付〔右△〕の誤として、タタナヅクと訓んだ。古事記(中卷)に「多々那豆久《タタナヅク》青垣山」、集中にも「立名附青墻隱《タタナヅクアヲガキゴモリ》」(卷六)、「田立名付青垣山之《タタナヅクアヲガキヤマノ》」(卷十二)などあつて、タタナハルは後にも先にも見當らない。恐らく字形の類似からの、誤寫であらう。「たたなづく」は疊《タヽナ》はること。「つく」はその樣子を表はす意の接尾語で、輕い添語である。疊懷《タヽナツ》く(宣長)疊靡付《タヽナビキツ》く(古義)などの説は餘にうるさい。○あをがきやま 青々と樹木が密生して四周に峙つ山の垣の如くなるをいふので、山名ではない。この句の下の〔右△〕を讀み添へぬがよい。○やまつみ 山神。「わたつみ」を參照(七四頁)。○まつるみつきと 獻上する貢物として。「つき」は清んで讀む。○はるべは 春になればといふ程の意。四言の句。「べ」は方《ヘ》の義で、いにしへ、夕べ、などの「べ」に同じく、時間的推移を表はす。その清濁は語によつて、慣習的に既に異つてゐたと見てよい。舊訓はハルベニハ〔五字傍線〕とあるが、眞淵訓に從つた。「部」は借字。○はなかざしもち 花を頭に挿し。「もち」は輕く使つてある。山に花の咲いてゐるのを、山神が天皇への貢物として頭に挿してゐると形容したもの。次の「もみぢかざせり」も同樣。○もみぢかざせり 割註の「もみぢ葉かざし〔右△〕」がよい。これは下の「小網さし渡し」に對するもので、結節の「山川も云々」へ遠く係る句である。「せり」と切つては脈絡が亂れる。「かざし」は髪挿《カミサ》しの略。○ゆふのかはのかみも 誤字落字説を立てずにかく訓んでみた。舊訓はユフガハノカミモ〔八字傍線〕と五音三音に讀んだが、調ひがわるい。「ゆふのかは」は或は宮瀧の末にユガハ〔三字傍点〕の稱があるといひ、或は「妹が髪|結八川内《ユフハカフチ》」(卷八)を引いて吉野川の別名だともいふ。もし落字説を立てれば、遊副八〔右△〕川之神母と八の字を補つてユフハノカハノカミモ〔十字傍線〕と訓み、卷八の歌をその據としたい。芳樹は「川之」の之〔傍点〕は々〔右△〕の誤で遊副川々神母《ユフガハカハノカミモ》であらうといひ、香川景樹は遊副川之|川門〔二字右△〕《・カハト》神とあつたかと疑つた。元暦本(155)に「遊」を逝〔右△〕に作つてあるので、ユキソフカハノ〔七字傍線〕と訓んで、離宮に副ひ流れる川の意に見る人もあるが、それも無理な辭樣である。○おほみけにつかへまつると 天皇の御食膳の料に奉仕しようとての意。○うがはをたち 川で鵜飼を催すをいふ。鵜川は鵜の鳥で川狩すること。「たち」はその業を營むこと。集中「清き瀬毎に鵜川たち〔二字傍点〕」(卷十七)、「八十伴男《ヤソトモノヲ》は鵜川たち〔二字傍点〕けり」(同卷)、「鵜川たた〔二字傍点〕さね」(卷十九)などの語例がある。新考にいふ、この「たち」は四段活の他動詞と。こゝは天子の御遊興として鵜飼を催さるゝを、川の神が天子の爲にするやうに見立てゝいふ。○さでさしわたし 小網を瀬に張り渡して。この小網《サデ》は今の刺網《サシアミ》だらう。平たい細長い網で兩端に材を打つて川瀬に張り渡して、魚が網目に首を突き込んだのを捕へる。卷四に「小網|延《ハ》えし」とあるも、張り渡すをいふのである。「さし」は接頭語と見てよい。神樂歌|薦枕《コモマクラ》の「網おろしさでさしのぼる」は刺網を瀬に當てがふことをさし〔二字傍点〕といつたので、全然別義である。但和名妙に「※[糸+麗]【佐天、】網如(ク)2箕形(ノ)1狹(クシ)後(ヲ)廣(クシタル)v前(ヲ)名也」とあるは、一寸|箕《ミ》のやうな恰好をした今の待網《マチアミ》の事で、これは張り渡しも延べもすることは出來ない。同名異物である。○やまかはも 山の神も川の神も。臣民はもとより〔七字右○〕の餘意を含む。「やまかは」は山と川の意だから「かは」は清んで讀む。「も」は強い調子に使はれ、サヘモ〔三字傍点〕の意に聞かれる。○よりてつかふる 天皇の方へと寄りきて奉仕する。「より」は歸順の意。○かも 「鴨」は借字。
【歌意】 安らかに天下をお治め遊ばす天子樣が、神樣でいらせられるまゝに神樣としての御行動をなさらうと、吉野川の激流の行きめぐる流域に、巍然たる高樓をお建てになつ(156)て、それに登り立ち國見をなさると、重疊として垣根のやうに峙つ四圍の青山には、山神が天子樣に奉獻する貢物として、春になると美しい花を頭挿のやうに一面に咲かせるし、秋になると又同樣に美しい紅葉を飾つてゐる。さうして遊副《ユフ》川の河(ノ)伯《カミ》も天子樣の食膳《ミケ》の御用を勤めようと、上流に鵜飼を催し、下流の方に小網を張り渡してゐる。かうして山神も河伯も歸順してお仕へ申し上げるわが現人神《アラヒトガミ》天子樣の御代は、まことに尊いことではあるわい。
 
〔評〕 抑も吉野離宮は何時の頃からの設置か。
  神代よりよ〔五字傍点〕し野の宮に在りかよひ高知らするは山川をよみ  (卷六、赤人―1006)
  三芳野の蜻蛉の宮は――山川を清みさやけみ、諾《ウベ》し神代ゆ〔三字傍点〕定めけらしも  (卷六、笠金村―907)
とあるこの神代は大昔といふ程の意味で、歴史的神代の意ではあるまい。神武天皇はこの地を往來せられ「島つ鳥鵜飼が伴《トモ》」(古事記中)と阿太人《アタヒト》に馴染をもたれたとはいへ、離宮までは御手を屆かせる遑がなかつたであらう。應神雄略の二朝に吉野宮の記事が記に見えるが、その宮の所在地は分明でない。雄略天皇はそこから蜻蛉野《アキツヌ》にいでまして、蜻蛉の奇瑞に値はれたのだから、その頃の宮地が蜻蛉野でなかつたことは明白である。多分蜻蛉野より下流の然るべき或地點にあつたものと見てよからう。天武天皇潜龍の時出家して吉野宮に入られたことは有名な事實であるが、宮の所在は、吉野山中勝手明神即ち袖振山の西北方位と考へられる五節傳説をのぞくと、他に確説がない。
 されば從來の吉野離宮地は時代によつて轉々したものらしい。想ふに秋津野の離宮は持統天皇の朝に至つて(157)創建せられたものであらう。人麻呂がかく口を極めて讃美の語を盡した所以も、これが爲であはあるまいか。その前首に日本中で一番すぐれて「山川の清き河内と――秋津の野べに宮柱太敷きませば」といふものは、その創剏の事實を物語つてゐると思はれる。後首の「芳野川瀧つ河内に高殿を高知りまして」もおなじ意味を含んでゐるやうに思はれる。新離宮の讃美が目的、かうこの前後の二什を見てゆくと、作者の意の在る處がほゞ領會される。懷風藻に見えた遊2吉野宮1の詩、
  仁山狎(レ)2鳳闕(ニ)1、智水啓(ク)2龍樓(ヲ)1、(中臣人足)
の後對も、或はその邊の意味をもつかのやうに思はれる。
 「安見しし吾大王」は勿論のこと、「神ながら神さびせすと」も古來からの常套語、「高殿を高知りまして」は諧調の爲に同語の反復を帶用したもので、「高天の原に氷木《ヒギ》高知り」と同式の古い修辭、「のぼり立ち國見をすれば」は上出の舒明天皇御製中にもある語、「疊なづく青垣山」は古事記の倭建《ヤマトダケ》命の御歌の語、前半のみでもかく古典的色彩に富んだ字句の集積から成り立つたことを、明かに指摘することが出來る。斷章的に見れば後半と雖も來歴をもつた語があらう。新離宮讃美の如き作には莊重典雅の樣式を必要とする。それには來歴ある古語の起用が大切である。古語を剪裁して新樣を成すことは、大手腕のある者にして始めて出來得る藝當である。實に人麻呂は古歌、及び古文は殊に祝詞(158)宣命の精神辭章を雜揉融冶して長歌の鑄形に流し込んで、崇高典雅な格調を製り出したものゝ如くである。
 森羅萬象それ/”\に神の存在を認めることは、わが古代人の思想であつた。よき神あり惡しき神あり、無數の神には無數の神格と階級とが、自然に備はつてくる。そしてそれ等の神々は悉く現つ神とます天皇に統治されてゐると見る。しかも天皇は日の御子たる點において、天祖天照大神に歸一すると觀ずる。そこにわが建國精神と國體とが炳乎として著く現れてゐる。
 人麻呂は如上の思想を基礎として、離宮に幸す天子の御爲には、山神は百姓《オホミタカラ》の弓弭手末《ユハヅタナスヱ》の調を献るなして、春秋の花紅葉を挿頭して大御心を慰め奉り、河伯は膳夫《カシハデ》の如くに、平瀬高瀬に鵜や小網で魚を捕つて供御に奉仕すると、具象的の叙法を用ゐた。その空中に樓閣を現じ夢中に花を發かしむる構想は、頗る効果的に吉野離宮讃美の實を擧げ、秋津新宮の景象は興趣は、全くこの一節のうちに悉されてある。象《キサ》の中山、象谷、その奥なる芳野山、又|御《ミ》船の山、船張山に亙る春花秋葉の美觀、また宮瀧の上下流に於ける漁獵は、とても飛鳥藤原の京では夢想だも出來難い面白い遊樂であらねばならぬ。文字亦潤飾の精を盡して讀者の眼を眩惑せしめる。
 末段前段を結收して、流石の山神河伯さへも臣僚百姓の如くに來歸して奉仕するわが現つ神の大御代ぞとの詠歎に筆を措いたのは、起句に呼應して掉尾千鈞の力をもつ。
 組織上から全篇を見渡すと、起句より「國見をすれば」までは一意到底の直叙である。長歌は元來その構成上からして後半に重心が置かれ、一首の主脳を成す場合が多い。これもこの國見の一句から後半の全部が胚胎され展開されて、層々の波瀾を描き、以下正對偏對の變化こそあれ、句法井整を極めて排對的に分派し、その末又合流して一途に歸してゐる。これを圖式によつて示すと、
(159)        疊なづく青垣山山神のまつる調と
 國見をすれば         春べは花かざしもち
                秋立てばもみぢ葉かざし
         遊副の川の神も大御食に仕へまつると    山川もよりて仕ふる神の御代かも
                上瀬に鵜川をたち
                下瀬に小網さし渡し 
の如くで、實にその部伍整然たる編制であることが知られる。
 後年神龜二年聖武天皇の吉野行幸の時、諸家の離宮讃歌がある。中に山部赤人のいはく、  八隅しし我ご大王の 高知らす芳野の宮は たたなづく青垣ごもり 河なみの清き河内ぞ 春べは花咲きををり 秋されば霧たち渡る その山のいやます/\に この河の絶ゆることなく 百敷の大宮人は常に通はむ  (卷六―923)
人麻呂の作に比較すると餘にその生彩の乏しさに驚かされる。枯淡な赤人の性格が影響してゐるかも知れないが、見た處、こゝの前後二首の意を撮合して、漸く一首を構成した如き觀がある。その他の諸家も笠金村《カサノカナムラ》の作を除いては、大抵人麻呂を歩襲するに過ぎない。尤もかういふ題詠は多く先鞭者が勝を占める。詩仙李白が黄鶴樓を去つて金陵の鳳凰臺に題した所以も、實にこの間の消息を語つてゐるものである。
 持統天皇の吉野行幸は、紀によればその三年正月が最初である。蜻蛉離宮はその頃の新造とすれば、作者人麻呂は三十を越すこと二三歳の時分らしい。歌人としては最も新鋭の氣に富んだ情熱の燃え盛る時期である。
 
(160)反歌
 
山川毛《やまかはも》 因而奉流《よりてつかふる》 神長柄《かむながら》 多藝津河内爾《たぎつかふちに》 船出爲加母《ふなでせすかも》    39
 
〔釋〕 ○よりて 「因」は借字。○かふちに 「に」はにての意。○せすかも 「せす」は敬語で、し給ふ〔三字傍点〕に同じい。「かも」は歎辭。
【歌意】 臣民達ばかりか、山河の神樣も皆寄り集まつて來られて、天子樣に奉仕する。そこでこの瀧つ河内で、わが天子樣は神さながらの御樣で、大御船のお乘出しをなさることよ。
 
〔評〕 河内は陸についての名稱であると同時に、又水を除外することの出來ぬ名稱である。されば瀧つ河内で船出するといへば、河に船を乘り出すことになるのである。この吉野川の清流に、かく山河の神の特別な奉仕のもとに、神ながら舟遊をなさることは、どんなにお樂しいことだらうと想像し奉つた餘意がある。この歌の氣魄を察すると、起句から始めて堂々として宇宙を狹しとする概がある。即ち山神河伯もなほ首を俛して奉仕するといふ所に、天威の尊嚴が讀者を壓する。さやうな瀧つ河内に船出し給ふわが大君は、まさに神にましまさねばならぬ。恰も、
  大君は神にしませばあま雲のいかづちの上にいほりせすかも  (卷三―235)
(161)と同調の歌で、崇高雄偉の感を基調とした作である。
 尚構成上から見ると、「山川もよりて仕ふる」の初句は、長歌の末句の「山川もよりて仕ふる神の御代かも」とあるのを反覆したもので、前首と同じ形式を執つてゐる。又二句の叙述を、古義に二句は四句へかゝり、一句は結句へかゝるやうに解したのは鑿である。
 
右日本紀(ニ)曰(ク)、三年己丑正月天皇幸(ス)2吉野宮(ニ)1、八月幸(ス)2吉野宮(ニ)1、四年庚寅二月幸(ス)2吉野宮(ニ)1、五月幸(ス)2吉野宮に1、五年辛卯正月幸(ス)2吉野宮(ニ)1、四月幸(ス)2吉野宮(ニ)1者《トイヘレバ》、未v詳(カニ)2知(ラ)何月(ノ)從駕《ミトモニテ》作歌(ナルカ)1。
 
 持統天皇の吉野行幸はかくの如く囘數が多いので、この作は何時の行幸の時のとも知り難い由の註である。但こゝには只六囘の行幸を擧げたのみであるが、書紀の記載によれば、この外六年から十一年までの吉野行幸は實に二十九囘の夥しい數に上つてゐるのである。
 
幸《いでませる》2于伊勢(の)國(に)時、留(れる)v京(に)柿本(の)朝臣人麻呂(が)作歌
 
持統天皇が伊勢國に行幸の時、お供せずして藤原京に居殘つてゐた柿本人麻呂の詠んだ歌との意。○幸于伊勢國 これも同天皇の六年三月の伊勢行幸である。書紀のこの時の記事中に「甲申賜(フ)2所過《スギマス》志摩(ノ)國(ノ)百姓男女八十以上(ニ)稻人(ゴトニ)五十束(ヲ)1」とあれば、序に志摩國へも行幸があつたものと見える。志摩に於ける行宮は英虞《アゴ》の浦附近にあつたらしい。左註に阿胡《アゴノ》行宮とある。
 
(162)嗚呼兒〔左△〕乃浦爾《あごのうらに》 船乘爲良武《ふなのりすらむ》 ※[女+感]嬬等之《をとめらが》 珠裳乃須十二《たまものすそに》 四寶三都良武香《しほみつらむか》    40
 
〔釋〕 ○あごのうら 志摩の國のもとの英虞《アゴ》郡の海邊で、今の的矢灣の附近ではあるまいか。――今の英虞灣は舊稱|御座《ゴザ》灣のことで違ふ。――養老三年志摩の答志郡の五郷を割いて佐藝《サギ》郡が置かれ、その佐藝郡が英虞郡と後に改められた。和名抄によれば甲賀郷の外七郷がある。三國地志に阿胡《アコ》(英虞)山の稱は甲賀村に存すといひ、國郡考は阿胡行宮につき英虞の國府は定めたるならんといつた。國府の址は的矢灣の南岬|安乘《アノリ》の一里南の國府村にあり、英虞の松原もそこにある。隨つて英虞の浦もその邊と見てよい。鳥羽灣の坂手《サカテ》島を以て佐※[氏/一]《サテ》の崎に充て、よつて英虞の浦を鳥羽港のこととする説は甚しい牽強で、且、鳥羽灣は答志郡であることを忘れたものである。舊本は皆「兒」を見〔右△〕に作り、アミノウラ〔五字傍線〕と訓んでゐるが、見を兒の誤とした僻案抄の説がよい。○ふなのりすらむ 今丁度船遊をしてゐるであらうの意。「ふなのり」は既出(五二頁)。○をとめら 處女等の意で、こゝは從駕の女官等をさす。「※[女+感]嬬」は集中に散見する熟字でヲトメと訓むが、「※[女+感]」は字書には見えぬ文字である。○たまも 珠は美稱、衣服の上下を別裁して、上部のを衣といひ、下部のを裳といふ。裳は腰部以下を纏(163)ふ服の總稱。もし裙の上に褶《シビラ》を纏ふ時は、褶は上裳《ウハモ》、裙は下裳《シタモ》である。催馬樂に「上裳の裙ぬれ、下裳の裙ぬれ」といふものはこれである。又和名抄に「釋名(ニ)云(フ)上(ヲ)曰(ヒ)v裙(ト)、下(ヲ)曰(フ)v裳(ト)、和名|毛《モ》」ともある。「か」は疑辭。「十二」及び字對の「四寶三都」は、各戲書である。
【歌意】 風光明媚な英虞の浦で、今頃は丁度舟に乘らうとするであらう若い女官達の、あの美しい裳裾に、定めて潮が滿ちて、女官達は賑かに周章て騷ぎもしてゐろだらうか。
 
〔評〕 題詞に由つて見ると、人麻呂は今囘の行幸のお供に立たぬ殘念さに、從駕の男女の行動を想像に描いて、その詩興を逞うしたものである。
 志摩の國は即ち島の國〔三字傍点〕で、全體が半島形を成して海岸線の屈曲が多いので、或は灣を擁し、或は港を成し、波は極めて平穩で湖水のやうな感じのする處が多い。中にも的矢灣は海水深く灣入し、渡鹿野《ワタカノ》島を抱いて眞に奥深く屈折し伊雜潟《イサハガタ》を作り、風光もなか/\明媚で、婦人達が舟遊などするには誂向の處だ。この婦人達は從駕の女官であつて、都を立つ時から、伊勢大廟參拜を終へての志摩行幸には、英虞の島遊が、豫定の行動として、そのプログラムの上に載つてゐたものであらう。
 そこで人麻呂はこの事實を構想の基礎に置いて、岸邊に滿ち來る波、船にさし來る潮を更に一歩進めて、船乘すらむ處女等の赤裳裾に湊合させたことは、如何にも豐かな聯想であつて、流石に敬服に値する。さて「船(164)乘すらむ」の語に、平生奥深い殿舍の帳裏にのみ引籠つてゐる女達だから、海珍しさに渚近く立出て船に乘り爭ふ光景が想像され、「潮滿つらむか」に、その美しい長裾をぞろ/\引摺つて、滿潮にあわてゝゐる、賑かな、しかも樂しけな樣子が躍動して見える。「をとめ等」を、燈や古義などが、「數人をさしていふ如くなれども、猶心にさす女ありけるなるべし」といつたのは穿ち過ぎた見解である。殊に古義に、「荒き島囘に裳裾ぬらして、馴れぬ旅路に苦むを憐みたる也」とあるのは、志摩の島遊が豫期せられた旅中行樂の一つであることに心付かない迂闊論である。
 尚いふ、この歌は第二句と第三句との緊密さを見ると、五七調が七五調に推移してゆく道程中にあるものと思はれる。
 又いふ、天皇の行幸には假令御遊覽が眞の目的であつても、一面には政治的意味が附帶してくる。實は一擧兩得といへよう。紀の文に、
  賜(フ)2所過《スギマス》志摩(ノ)國(ノ)百姓(ノ)男女八十以上(ニ)、稻人(ゴトニ)五十束(ヲ)1。 
とあるを見れば、多くは志摩國の政治中心地に逗留せられた事實を語るものである。政治中心地といへば、後にも國府を置かれた的矢灣の南方國府村邊を限度として、的矢灣の周圍にその地を求めねばならぬ。而も灣内御遊覽に適するやうに見立てられた英虞行宮を考へなければならぬ。恐らく渡鹿野島を抱いた南部の入江(165)に近い地點にその行宮は建てられたものであらう。
 
※[金+刃]〔左△〕著《くしろつく》 手節乃崎二《たふしのさきに》 今毛可毛《いまもかも》 大宮人之《おほみやびとの》 玉藻刈良武《たまもかるらむ》    41
 
〔釋〕 ○くしろつく 手節に係る枕詞。「くしろ」は腕首に著ける飾で、貝玉石などで製する。字は釧と書く。「※[金+刃]」は多くの古寫本にかくあるが、劔〔右△〕に作つた本は、※[金+刃]を劔の俗字と見て書き改めたもので、僻案抄がこれを釧〔右△〕の誤としたのは卓見である。然し釧〔右△〕と書いたのは一本も無いが、これは古寫本には色々異體の字を書いた結果混雜して、※[金+刃]と釧とを同字として用ゐたものと見るが至當であると、種種考證してゐる山田孝雄氏の説がよいと思はれる。釧は字書に臂環とあり、和名抄に比知萬伎《ヒヂマキ》とある。手の臂にはめる飾の環で、所謂|手纏《タマキ》である。臂は手の節の一つ、手首もおなじ手節であるから、「釧着く手節」と續ける。古義に、古へは釧には纏《マ》くといふ例だから、本文の「著」は卷〔右△〕の誤だらうとあるのは一往の理があるが、言語は時代の經つに隨ひ意味も用法も變るものだから、手に著ける物を「著く」にいふに何の仔細も無い。○たふしのさき 志摩國※[草冠/合〕志《タフシ》郡※[草冠/合〕志郷の※[草冠/合〕志の崎のこと。鳥羽灣の灣口を扼してゐる答志島の出鼻で、今黒崎と稱する處である。答(166)志は即ち手節《タフシ》の義。手首のやうな斗出した岬だからである。下總の銚子岬もやはり手節の轉語である。「ふし」は清音に讀む。○いまもかも 今かの意。「か」は疑辭、二つの「も」は歎辭。○おほみやびと 既出。(一三一頁)。○たまも 既出(一〇六頁)。△地圖 挿圖34を參照(一〇五頁)。
【歌意】 めづらしい旅の御供をして、あの答志の崎あたりで、丁度今時分はまあ、大宮人達が慰みがてらに、玉藻刈りなどして遊んでゐることだらうか。羨ましいことではある。
 
〔評〕 海藻などを刈るのは、元來漁夫の生業で、餘所目には風流でもあらうが、當人達にとつては苦しい勞働である。供奉の人々は假令下級の官人達にしてからが、本氣になつて波に濡れて玉藻など刈りはしない。作者は漫然とはじめは、人々が定めし物珍しげに海邊に遊び戲れて、興を遣つてゐることだらうと想像したのであらうが、その想像は段々に深入りするに隨ひ具體化され、逐に玉藻刈る海人の仕業を拉し來つて、それを大宮人の仕業に結び付けた。この手段が明瞭な印象を呼んで、無限の面白味を生ずるのである。殊に「今もかも」の一句は、その事相を眼前に描かせ、最も強い投影を與へる。畢竟欽羨の情に勝へぬ餘の作で、遠人を思ふ優しい情味も暗にほのめいてゐる。
 さて、をとめ等の船乘するも、珠裳の裾に汐の滿つるも、大宮人の珠藻を刈るも、そこに大きな背景を成す(167)事實のあることを深く牢記すべきである。既に志摩の島遊はそのプログラムの上に豫定された事であるといつた。然し何故にかく豫定されたかと考へると、只その明媚な風光にあくがれたばかりではないことを發見する。この度の行幸は三月(今の四月)である。三月は所謂大潮まはりで、汐干の好時期である。丁度島遊には絶好の機會ではないか。即ち作者は從駕の男女の汐干遊の状態にその神思を馳せて、種々さま/”\にその想像を描いたものである。
   
潮左爲二《しほさゐに》 五十良兒乃島邊《いらごのしまべ》 榜船荷《こぐふねに》 妹乘良六鹿《いものるらむか》 荒島囘乎《あらきしまわを》    42
 
〔釋〕 ○しほさゐ 潮の滿ち來る時に波の鳴り騷ぐをいふ。「さゐ」は躁《さわ》ぎの約で、形相についても音響についてもいふ。山百合を佐爲《サヰ》といふはその搖れ騷ぐ貌から名づけ、「珠衣のさゐさゐしづみ」(卷四)はそのサワ/\と鳴る音をいつた。○いらごのしま 伊良虞島のこと。既出(一〇五頁)。「五十」を古言にイ〔傍点〕と訓む。五十鈴《イスヾ》、五十槻《イツキ》の類常のことである。○いも 汎く女性をさした語と見ても通ずるが、こゝは狹義に妻又は情人をさしての稱としたい。○のるらむか (168)「鹿」はカ〔傍点〕が本訓。○しまわを 「しまわ」は島のめぐりの意。古義は卷十七の志麻未《シマミ》の語を引いて、こゝをもシマミ〔三字傍線〕と訓んだが、之麻未は島邊《シマベ》の轉語で、「島囘」には與らない。讀萬葉古義既にこれを論じた。「を」はなる〔二字右○〕をの意。
【歌意】 伊良子の島のあたりは、平素でも波の騷がしい處だと聞いてゐるが、まして潮さゐの時に何の辨へもなく、只海珍しさの氣持からその邊を漕ぐ船に、あの女は乘つてゐることだらうか、實に荒い島のめぐりだのにさ。
 
〔評〕 前の二首は、岸邊に近い浦遊び磯遊びの樂しい旅興を思ひ遣り、この一首は、興に任せて海上遠く漕ぎ出した島めぐりの危險さを思ひ遣つた。汐干汐干といつて、婦人だてらに若しかしてそんな沖合まで乘り出して、定めし難儀してはゐまいかと、餘計な想像を描いて、いらぬ取越苦勞をする。况や女官達の中に作者その人の情人でもあつて、それを暗に「妹」とさしたものとすれば、いよいよその眞劍味が加はる。「潮さゐに」「荒き島わ」と、危險律を誇大に想像すればする程心配の度が昂騰し、そこに遠人を懷ふ美しい情味が滂※[さんずい+專]する。「島わを」の抑揚の辭法も、實にこの情味を強調するものである。
 更に委しくいふと、おなじ供奉の人達の行動を想像するにしても、端のは英虞の浦邊における女官達の行動、中のは答志崎における男官等の行動、終は伊良虞の海上における吾妹子の行動である。その秩序次第の整々たることは、聯作としてその體を得たものである。
 
(169)當麻眞人麻呂妻《たぎまのまひとまろがめの》作歌
 
○當麻眞人麻呂 傳未詳。麻呂は上に掲ぐる持統天皇の伊勢行幸に陪從した人で、この歌は留守居のその妻が旅中の夫を思つて詠んだもの。
 
吾勢枯波《わがせこは》 何所行良武《いづくゆくらむ》 己津物《おきつもの》 隱乃山乎《なばりのやまを》 今日香越等六《けふかこゆらむ》    43
 
〔釋〕 ○せこ 「せ」は一般に女から男を親しんでいふ語であるが、殊に背、夫、兄等の字を充てゝ、兄や夫をいふ。こゝは夫子《セコ》、即ち夫をさす。「こ」は更に親しんで添へた語。今日でも奥羽地方では、人のみならす物品にまでこれを添へて、親愛の心持を表はしてゐる。○おきつもの 沖つ藻ので、「なばり」に係る枕詞。沖つ藻は、邊《へ》つ藻に對する語。邊つ藻は岸近い水上に漂ふ海草をいひ、沖つ藻は岸を離れた深みにある藻をいふ。沖は奥と同語で、深みにある藻は水面に隱れて見えぬので、「なばり」に續けた。「なばり」は隱《カク》るの古言で、ラ行四段の動詞「なばる」の第二變化の體言化したもの。なまり〔三字傍点〕とも轉じいふ。「己」は玉篇に起也と見え、起と同字で、こゝは沖の借字である。「物」も借字。○なばりのやま 伊賀名張郡名張町の附近をいふ。伊勢へ越える通路に當る。△地圖 挿圖33を參照(一〇三頁)。
【歌意】 戀しいわが夫は、どこらあたりを歩いて居られることだらうか、あの國境の名張の山を、今日あたり越えて居られることか知らん。
 
(170)〔評〕 この歌は初二句を第一節とし、三四五句を第二節とした篇法である。そして第一節にはまづ汎く夫君の行旅を思ひやり、第二節には更に一歩を進め、細やかにその經路を測り行程を數へて、やゝ具象的に、場所には「名張の山」をさし、時には「今日か」と懇に思念してゐる。この精粗二樣の想像を反復して、夫君の行働を丁寧に意中に描いたことは、即ち夫君を反復思念した所以である。その孤影悄然として空閨を守り、徒然寂寥に悶々としてゐる情緒が、滿幅に往來してゐる。殊に「けふか」の疑問によつた一語は、待ちあぐんだ切羽詰つた氣持を、力強く表現してゐる。
 飛鳥藤原宮時代において、大和伊勢間の通路は幾筋もあつた。そのうち大和の榛原から伊賀の名張を經るのが一番の本道であつた。そこでこの歌にいふ名張越は、行幸の往路か復路かといふ間題が起る。藤原宮から名張までは約十一里、往路では遲くとも出發の翌日にはそこを通過する。然るに歌の趣は可なり長い間を思慕に耽つた状態だから、必ず復路と見るべきである。この行幸は三月三日の御發輦で、その二十日に御還幸であつた。多分三月は十八九日頃の歸期の最も近づいてきた時分の感懷であらう。
 「わがせこ」のわが〔二字傍点〕は、單なる添詞と見てはならぬ。「わぎもこ」「わが佛」などの類、かう身近く引付けてい(171)ふのは、皆取分けてその物を親切に思ふ情合を表はしたものである。「らむ」の反復も諧調を成してゐる。
  ○尚卷二「二人ゆけどゆき過ぎがたき秋山をいかでか君が獨こゆらむ」(106)の評語を參照。
 
石上大臣從駕《いそのかみのおほまへつぎみがみともつかへまつりて》作歌
 
○石上大臣 石上(ノ)朝臣|麻呂《マロ》のこと。麻呂は文武天皇の御代の四年筑紫總領となり、大寶元年從二位中納言から正々三位大納言、同二年太宰帥、慶雲元年右大臣に任ぜられ、元明天皇の御代和銅元年に正二位左大臣に昇り、元正天皇の御代の養老元年三月薨去、從一位を贈られた。持統天皇の朝にはまだ中納言であつたと推測される。然るにこゝに大臣と書いたのは、記録者がその極官を記したもので、珍しからぬ例である。又大臣や公卿は名を記さぬのが例であつた。○從駕 車駕に陪從するをいふ。車駕は天子の乘である。こゝの從駕は上の持統天皇の伊勢行幸のお供である。
 
吾妹子乎《わぎもこを》 去來見乃山乎《いざみのやまを》 高三香裳《たかみかも》 日本能不所見《やまとのみえぬ》 國遠見可聞《くにとほみかも》    44
 
〔釋〕 ○わぎもこ 吾妹《ワガイモ》の約が「わぎも」である。「いも」は「せ」に對し、男から女を親しみ呼ぶ語であるが、殊に妻や女弟にいふことが多い。こゝは妻をさす。「こ」は子で、例の親愛の語。この初句を「去來見の山」の序詞と解する説もあるが從ひ難い。○いざみのやま 「いざ見む」といふを山名にいひ懸けたので、その山名は必ずイサミであらう。但サの音の清濁は不明であるが、初句のいひ懸けの意を完全にする爲に濁音に讀みたい。伊勢(172)名勝志(宮内黙藏著)には、飯高郡の西端、大和宇陀郡との境なる高見山の一名を去來見《イザミノ》山とし、倭訓栞に、イサミノ山を飯高郡にありといふのに符合する。山の高さ八百八十米突。久老は「い」を發語として、伊勢國二見の浦に臨む佐見《サミ》の山としたが、そんな鼻の先の小山では實際に適はぬ。「去來」をイザと訓むは意訓。○やまを 「を」は歎辭。○たかみかも 高いゆゑにかの意。「かも」は疑問的詠歎の辭で、下の「見えぬ」で結んでゐる。結句の「かも」も同意の辭。○やまと この大和は狹義の使ひ方で、作者の家郷をさす。「日本」の字面はわが國の總名であるが、かく狹義の大和にも借り用ゐた。神代紀に「日本國之三諸山《ヤマトノクニノミモロヤマ》」とある。○くにとほみかも 國が遠いせゐかしらの意。「國」は場處の意。國偲びの國で、行政區劃による地理的名稱の國ではない。「聞」をモ〔傍点〕と讀むは呉音。△地圖 挿圖33を參照(一〇三頁)。
【歌意】 わが愛妻のゐる家郷の方を、さあ見ようと思ふが、あの伊佐見の山が高いせゐかして、それが見えない。いやそれとも、見えないのは國が遠いせゐなのかな。
 
(173)〔釋〕 この度の伊勢行幸も、その往路の御道筋を、嘗て十市皇女が取られた曾爾《ソニ》線でとすると、去來見の山即ち高見山は、伊勢大和の國界をなす高山であるが、街道からは山峽續きなので全く見えない。只山粕峠の一里東に當る鞍取峠の上からは、南方に望見し得るが、この歌は伊勢から大和方面を遠望しての作だから、方角が合はない。よつて高見の南路を行く線を取られたものと假定する。この線は京から宇陀を經、高見を越え、櫛田川の流に沿ううて田丸から山田に着く。これはその途上における述作である。
 僅に一夜の隔てでも、吾妹子の上を戀しまずには居られぬのは人情、ましてやこれは私ならぬ從駕の旅で、心任せに歸京も出來ぬ。妹が居る京の空は何處やらと囘顧して見ても、恨めしや山岳重疊の間に去來見の山が國境を塞いでゐる。そこでかく京の見えぬのは去來見の山の高い爲か、それとも國の隔つた爲かと、兩端を叩いて足摺しつゝ歎いてゐる。さればこの句法は、
 山を高みかも大和の見えぬ。――國遠みかも大和の見えぬ〔六字右○〕。
とあるべきを、下のを略いて、上の意を廻らしたものである。かく頻に反復して大和の見えぬのを殘念がるのは、間接に吾妹子を思慕する情の搖曳を思はしめるもので、重ねかけて疑問の「かも」を投げ附けた辭樣は、いかにも効果的な表現である。作者はこの時既に五十二歳の老境に臨んでゐた。而も尚かくの如く高い情熱を藏してゐることに感心させられる。
 從來の註家この歌を鳥羽|英虞《アゴ》遊行の際の作中のものとし、高見山が其の邊からは全然見えぬことを忘却してゐる。或はそれを想像に描いて詠んだものと抗辯する者もあらうが、なほ
 かり高の高圓《タカマト》山を高みかも出でこむ月のおそく照るらむ (卷六、阪上郎女―981)
(174)の例によつても解ることで、必ず去來見の山なり高圓山なりを、眼前に諦視して始めて生まるべき構想であると思ふ。
 
右日本紀(ニ)曰(ク)、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰、以(テ)2淨廣肆廣瀬(ノ)王等(ヲ)1爲(ス)2留守(ノ)官(ト)1。於(テ)v是(ニ)、中納言三輪(ノ)朝臣高市麿、脱(ギテ)2其冠位(ヲ)1フ(ゲ)2上(リ)於朝(ニ)1重(ネテ)諫(メテ)曰(ク)、農作之前、車駕未(ト)v可(ラ)2以(テ)動(カス)1。辛未天皇不v從(ヒタマハ)v諫(ニ)、遂(ニ)幸(マス)2伊勢(ニ)1。五月乙丑朔庚午|御《オハシマス》2阿胡行宮《アコノカリミヤニ》1。
 
 右は日本紀に、朱鳥六年春三月朔日に淨廣肆廣瀬王等を藤原の京の留守居役とした――これは伊勢行幸の爲――そこで中納言三輪朝臣高市麿がその官位を賭して、農繁期を前に控へての行幸は然るべきでない旨を、又も諫奏したが用ゐられず、遂に伊勢に行幸があつたとあるとの意。こゝに朱鳥六年とあるは、持統天皇六年、又は朱鳥七〔左△〕年とすべきを誤つたのである。淨廣肆は天武天皇の十四年に改定された位階十二階中の最下位である。即ち「明位二階、淨位四階、毎階有(リ)2大廣1、併(セテ)十二階」とある。「肆」は四〔右○〕である。舊本津〔右△〕に作るは誤。
 「五月乙丑云々」の文は註者の誤で、これは書紀に、三月の行幸に際し、英虞の行宮御逗留の折獻上物をした人々に、五月乙丑朔庚午(六日)種々の御賞賜があつた由の記載があるのを誤讀した結果である。この時の行幸は三月三日御發程、六日に伊勢行幸、二十日に還幸遊ばされたので、五月には既に藤原宮にましましたのである。
 
(175)輕皇子《かるのみこの》宿《やどりませる》2于|安騎野《あきのぬに》1時、柿本(の)朝臣人麻呂(が)作歌
 
輕皇子が安騎野に出遊御一泊なされた時、お供の人數中にある人麻呂が詠んだ歌との意。
○輕(また珂瑠)皇子 文武天皇のこと。この頃はまだ皇太子に立ち給はぬ時で輕(ノ)王と稱せられた。御父は天武天皇の皇子|日竝知《ヒナメシ》皇子即ち草壁(ノ)皇太子で、御母は元明天皇にまします。草壁皇太子の薨去によつて高市皇子が皇太子に立たれたが、高市皇子も亦薨ぜられたので、この皇子が持統天皇十一年二月皇太子となり、その年八月受禅御即位になつた。○安騎野 大和國宇陀郡で、今の松山町附近を中心とした大野。西は椋橋《クラハシ》山(音羽山)に接し、東は字賀志《ウガシ》、北は榛原《ハイバラ》に臨み、南は遠く吉野の龍門諸山を望んでゐる。紀には吾城、延喜式には安貴とも書かれ、又阿紀、阿騎、阿貴、明、秋に作る。○作歌 の下、并短歌四首〔五字右○〕の五字を補ひたい。次の「短歌」の條參照(一八一頁)。
 
八隅知之《やすみしし》 吾大王《わがおほきみ》 高照《たかてらす》 日之皇子《ひのみこ》 神長柄《かむながら》 神佐備世須登《かむさびせすと》 太敷爲《ふとしかす》 京乎置而《みやこをおきて》 隱口乃《こもりくの》 泊瀬山者《はつせのやまは》 眞木立《まきたつ》 荒山道乎《あらやまみちを》 石根《いはがねの》 楚〔左△〕樹押靡《しもとおしなべ》 坂鳥乃《さかとりの》 朝越座而《あさこえまして》 玉限《たまかぎる》 夕去來者《ゆふさりくれば》 三雪落《みゆきふる》 (176)阿騎乃大野爾《あきのおほぬに》 旗須爲寸《はたすすき》 四能乎押靡《しのをおしなべ》 草枕《くさまくら》 多日夜取世須《たびやどりせす》 古昔念而《いにしへおもひて》    45
 
〔釋〕 ○やすみしし 枕詞。既出(三〇頁)。○たかてらす 天照大神のアマテラスと類似の語で、高く空を照らす意から、日の枕詞に用ゐられる。この語、春滿がタカヒカルと訓み改めて以來これに從ふ人も多いが、尚舊訓のまゝがよい。但集中「高光」と書いた所もある、これは勿論タカヒカルと訓むべきで、兩語竝存したものと思はれる。○ひのみこ 日嗣の御子の義。四音の句である。さて冒頭からこゝまでの四句、輕(ノ)皇子をさし奉る。「やすみししわが大君」も「高照す日の御子」も天皇をさし奉るが常であるが、かく皇子にも申上けた例がある。○かむながらかむさびせすと 既出(一五三頁)。○ふとしかす 「ふとしく」の敬語。「みやばしらふとしきませば」を參照(一四六頁)。○みやこをおきて 都をあとにして。「おきて」は輕く解する。さし置いて〔五字傍点〕ではない。○こもりくの 泊瀬に係る枕詞。その解説は種々ある。(1)泊瀬の地は兩山迫つて初瀬川を夾み長い峽谷をなしてゐるので、隱《コモ》り國の義で、「こもりくに泊瀬」と續け、更にそれを「こもりくの泊瀬」と略した(古義)。(2)古へこの地は葬所であつたから、「隱城《コモリキ》の終《ハツ》」を泊瀬に續けた(久老)。(3)木盛處《コモリク》の義で、泊瀬は樹(177)木の繁茂してゐた處ゆゑにいひ續けた(古義)。このうち地勢上から見て第一説が最も穩かであらう。泊瀬國を直ちに葬所と見る第二説は特に不可。○はつせのやま こゝでは初瀬川の南部朝倉村一帶の山地を斥してゐる。○まきたつ 常緑木の林立をいふ。四音の句。「まき」は眞淵はいふ檜を褒めて眞木と稱したと。いはゆる※[木+皮](高野槙)のこととする説はよくない。こゝは何の木と狹義に見るよりも、寧ろ林木の鬱蒼と繁茂した状と見るが自然である。舊訓はマキタテル〔五字傍線〕、春滿の訓はマキノタツ〔五字傍線〕であるが、眞淵訓に從つた。○あらやまみちを 荒凉たる山道なる〔二字右○〕を。○いはがねの 岩の本の。○しもとおしなべ 楚樹を靡け押伏せて。「しもと」は枝の叢生した若木をいふ。「楚」は原本禁〔右△〕とある。禁〔右△〕は明かに「楚」の誤で、眞淵訓のシモトとあるに從つた。○さかとりの 朝越の枕詞と從來説いてゐるが、坂鳥の如く〔二字右○〕の意の譬喩と見るべきである。「坂鳥」は朝早く巣を立つて山坂など飛び越す鳥をいふ。○たまかぎる 玉|燿《カギロ》ふの義で、ろふ〔二字傍点〕の約ルとなる。夕日の光り輝くを形容して「夕」の枕詞とした。この語舊訓はタマキハル〔五字傍線〕とあるが、それは「命」又は「内」の枕詞でこゝには用を成さぬ。長流はカゲロフノ〔五字傍線〕とし、眞淵は文字を玉蜻〔右△〕と改めてカギロヒノ〔五字傍線〕と訓んだが、伴信友、雅澄、正辭等の精細な研究によつてタマカギル〔五字傍線〕の訓が定説となつた。即ち同一の歌が、「朝(178)影《アサカゲ》に吾が身はなりぬ玉垣入〔三字傍点〕風《ホノカ》に見えて去にし子故に」(卷十一)、「朝影に吾が身はなりぬ玉蜻〔二字傍点〕髣髴《ホノカ》に見えて往にし兒故《コユヱ》に」(卷十二)と重出してゐるのを見れば「玉垣入」はタマカギルと訓むべきこと疑なく、隨つて「玉蜻」も當然同訓の筈である。傍證として靈異記に「多摩可妓留波呂可邇美縁而《タマカギルハロカニミエテ》」の語もある以上、「玉限」がタマカギルであることは動かせない。○ゆふさりくれば 夕方になつて來ればの意。「春さりくれば」を參照(七九頁)。○みゆきふる 「み」は美辭で、「三」は借字。後世「みゆき」に深雪〔二字右○〕の字を宛て、深い雪のことゝするは意義の轉化である。さてこの語は枕詞ではなく、この季節が恰も雪の降る折だつたと思はれる。○はたすすき (1)穗に出た薄の靡くさまを旗の靡くに譬へたとする舊説と、(2)皮《ハタ》薄で、薄の穗は皮に籠つて開き出すもの故いふとする眞淵説とある。集中ハタに皮の字を充てた例が多い。(1)に從へば皮が借字、(2)に從へば旗が借字となる。平易なのは(1)であるが、適用の自由なのは(2)である。○はたすすきしのを (1)旗薄と小竹《シノ》とをと解する説(御杖)、(2)旗薄のしなひをと解する説(眞淵)、(3)旗薄の幹《シノ》と解する説(宜長)、(4)旗薄を幹《シノ》に係る枕辭と解する説(芳樹)、(5)旗薄をシノに押なむるとする説(契沖)がある。(1)は「白眞弓靱取りおひて」(卷九)の例もあつて、比較的勝れてゐる。(3)も聞かれる説である。(2)はやゝ迂遠、(4)(5)は無理である。古義は契沖説によつて四努〔左△〕爾《シヌニ》の誤寫説を立てた。「四能」はシノと讀むより外はないが、古言にはシヌ〔二字傍点〕といふが通例。然し人麻呂の頃には轉語のシノがもう發生してゐたと見ても宜しい。猥に誤寫説を主張するは危險である。○くさまくら 枕詞。既出(四〇頁)。○たびやどりせす 旅の宿りをなさる。「せす」は「爲《ス》」の敬相。○いにしへおもひて 過去を思ひ出して。古義はオモホシテ〔五字傍線〕と訓んだが、この句は「いにしへ思ひて旅やどりせす」と上に反へるのだから、さう二重に敬語を使ふに及ばない。
(179)〔歌意〕 わが御仕へ申す輕皇子樣、天津日嗣の皇子樣は神樣でいらせられるまゝに、神樣としての御振舞をなさるとて、立派にお住ひ遊ばすその飛鳥の京をあとにして、泊瀬山の杉檜の森立した荒凉たる山路なのを、岩石道の簇生した雜木の枝などを押靡け踏み分けて、朝早く山越をなされ、夕方になると雪のちらつく廣い安騎野で、昔御父草壁皇太子樣が同じこの野に狩にお出で遊ばした事など御囘想なされつゝ、薄や篠などを押分けて、此處に感慨深い旅寢をなさることであるわい。
 
〔評〕 飛鳥淨見原の京から安騎野へゆくには、まづ磐余《イハレ》に下り忍坂《オサカ》に迂囘して投田《ナゲタ》、女寄《メヨリ》の線を經、麻生田から南して阿騎野へ來たものである。この間約七里。忍坂から先は音羽山(八百五十二米突)の北麓を横過るもので、左は朝倉村の丘陵地(最高三百二十八米突)だから、丁度藥研の底を歩くやうな具合。それが女寄峠にかゝつて一遍に急峻なる上り坂となり、安騎野の入口ではもう三百三十九米突の高さに地盤がなつてゐる。千三百年もの昔を、この歌によつて囘顧すると實に面白い。
 この初瀬の山は即ち朝倉一帶の丘陵を斥したものらしく、――泊瀬(ノ)朝倉(ノ)宮の稱がある――その邊は杉檜の生茂つた荒山路であつたと見える。「石がねのしもと押靡べ」に、いかにその崎嶇崔嵬の間に纔に一逕を通じてゐたかゞ窺はれ、「坂鳥の朝越えまして」に、いかに嶮峻なる坂路がその前途を扼してゐたかゞ知られる。朝飛鳥京を出立しても、季節が初冬で日が短いから、七里の難路を踏破して安騎野につけば、無論玉限る夕方になる。しかも高原地における霜枯の草原、吹き上げ吹きおろす山風山おろしに凍雲漸く凝つて、白い物がちらちらする。なれどもどうしても三雪ふるこの大野に一宿せねば歸られない。いづれ父尊(草壁)の御出遊の時にも(180)必ず信宿されたに相違ないから、御狩屋の設備はありもしたらうが、それは尾花刈り葺きの掘立小屋で、疊代りに旗薄四能を押靡けての草枕、而もさばかりの初冬の寒夜ときては、何と辛苦な旅寢ではあるまいか。
 辱くも金枝玉葉の御身たる輕皇子が、こんな憂いつらい目を強ひてもなさるとまで煎じ詰めて來て、これは外でもない、父尊の御在世當時この野に遊獵されたその「古へ思ひて」の事といひ放した。
 元來安騎野は御獵場である。しかも御出遊の時季が冬であるとしたら、誰れでもその目的が狩獵にあることを無造作に斷定するであらう。然しそれが父尊の「古へ思ひて」の御所爲と聞いたら、意外の感に打たれて、輕皇子の御孝心の篤さに涙を墮さぬ者はないだらう。その實をいへば第一目的は狩獵にあることは明らかであるが、第二目的たる「古へ思ひ」を誇張して、第一目的に置き換へたことは、いはゆる詩人幻化の手段で、讀者の眼を旨く眩耀して容易にその看破を許さない點は、流石に老巧である。
 又御出遊途上の光景から安騎野假寢のあわただしい動靜まで、力めて具象的表現を用ゐたことは、頗る眞實味を饒からしめ、讀者の心胸に深く喰ひ入るものがある。天に參する老檜古杉の眞木の林立、岩石磊※[石+可]たる荒山路、路を塞ぐ荊楚、雲は馬頭より生こる峻坂、人に驚いて朝飛び越ゆる一点の影、夕づく大野、降雪、旗薄四能おしなべての草枕、かく數へ來れば割合に名詞の多い歌である。
 そして起首から「旅宿りせす」までは、單なる安騎野出遊の記述としか思はれぬ處へ、最後に突然と「古へ思ひて」との一轉語を下し、一遍に大きな叙情の波紋を投げかけた。殆ど讀者は背負投を食はされた形で、變化の面白さは實に息も吐かれぬ。茲に至つて「旅宿りせす古へ思ひて」の倒装は非常な効果を齎すもので、もしこれを直叙したら全く何の生彩もあるまい。
(181) この篇一氣に揮灑して歌ひ了つてゐる。その勢破竹の如しで些の停頓もなく澁滯もない。起首こそ莊重な排對的調子で整へてゐるが、その外は「坂鳥の朝越えまして」「玉限る夕去り來れば」の二句のみが偏對をなすに過ぎず、暢達の快さは他に比類がない。「古へ思ひて」の掉尾の一句、全鱗皆立つの概がある。但「しもと押靡」「しのを押靡」と、「押靡」の語の再現は甚だ面白くない。傳誦或は筆寫の誤でもあるかと思はれる。
 輕皇子今度の御出遊は、恐らく父尊に對する三年の喪が濟んで――現に父尊は御父天武帝の爲に三年の服喪中に薨逝――の始めての冬の狩獵期であつたらう。父尊は持統天皇の三年夏四月の薨逝だから、同天皇の六年五月には既に忌服明けになる。でその年の冬の出獵には、取敢へず父尊が御生前再三出遊せられた安騎野へと、古へを慕ひがてら往かれたものであらう。人麻呂は東宮舍人で父尊に奉仕してゐた關係上、御子の輕皇子の安騎野出遊の御供に立つて、この傑作を獲たものである。當時人麻呂は三十一歳位と假定する。
 
短歌《みじかうた》
 
○短歌 長歌と同じ題詞のもとに攝せらるべきもので、長歌は專ら輕皇子の御上に就いて歌ひ、短歌の方は作者自身及び供奉諸員の上にかけて歌つてゐる。故にこれは長歌とは即不即の間にあるもので、「短」は反〔右△〕の誤かなどの説は全然不必要である。
 
阿騎乃野〔左△〕爾《あきのぬに》 宿旅人《やどれるたびと》 打靡《うちなびき》 寢毛宿良目八方《いもぬらめやも》 古部念爾《いにしへおもふに》    46
 
(182)〔釋〕 ○あきのぬに 諸本多くは「野」の字を脱してゐるが、田本によつて補ふ。○やどれるたびと 皇子の御供して野邊の假庵に宿つてゐる官人達をいふ。訓は古義に從つた。舊訓はヤドルタビビト〔七字傍線〕である。かゝる場合の存續態を現在法で代用するのは普通の事であるが、語調が促つて力強く聞える方に從つた。○うちなびき 手足を伸ばして安寢《ヤスイ》した形容。これに草や藻を冠して譬喩に用ゐるのは第二用法である。○いもぬらめやも 寢ても寢入られようか、とても寢入られはすまい。「い」は名詞で睡眠の意。「ぬ」は動詞で寢の意。「らめ」は現在推量の助動詞「らむ」の第五變化。「やも」は反辭。○いにしへ 「古部」の部〔傍点〕は、古の字を必ずイニシヘと訓ませる爲に添へたもの。
【歌意】 輕の皇子の御供で遊獵に來て、この安騎野にとまつてゐる旅人達は、手足を伸ばしてうち解けても寢られうことか、皆まんじりともせぬ一夜を明かすことであらうよ。嘗て皇子の父君日竝皇子樣がこの野に遊獵なされた古へをお慕ひ申し上けるのでね。
 
〔評〕 藤原京から阿騎野までの道程は僅々七里には過ぎないと既にいつた。たゞ信宿して歸るほどのこの遊行に、「旅人」とはいかにも仰山らしいが、往時は假令一夜でも、我が家以外に宿泊するのを旅といつたもので、後のものながら源氏物語帚木の卷雨夜の品定の條に、「内裏《うち》わたりの旅寢もすさまじかるべく」など書いてあるのは、即ち禁中に於ける一夜の宿直をいつたのである。
 狩獵はこの時代にあつては、最も男性的遊樂の一に數へられたので、天子を始め奉り王族貴顯の間には、隨分屡々これが行はれた。今作者は輕皇子の安騎野の狩獵に供奉したにつけて、嘗てその父尊(日竝知《ヒナミシ》)に供奉し(183)て、同じこの野の遊獵に侍つた當時の盛事をを追憶した。素より狩野の草舍のわびしさは旅人の安眠を許すべくもない上に、かく今昔の感慨がその旨を掻※[手偏+劣]るとなつては、一夜を輾轉反側に明かすことは必然である。
 歌は以上の説明順序を倒叙してゐる。即ち初句から四句まで一氣に勁健な調子をもつて行叙し、その間「うち靡き」の安臥状態の形容をさへ取入れ、極めて現實に即した描寫によつて「いもぬらめやも」の眞實味を強調すべく努力した。而も何故にさ程まで昂奮したかはまだ説破しない。飽くまで聽者の心を引摺つて置いて、結句に至り、始めてそれが懷舊の爲であると喝破した。一首の主要點を最後に置く表現方法は、かくの如き場合において、最も有效に使用されたものといへる。
 但懷舊の昂奮に安眠もせぬは、實は多感な作者獨自の心境である。從駕の人達の中には、各人各樣の事情から、或はさまでの感傷を起さぬ人もあつたらうが、それらに委細構はず、輕皇子から始めて從駕の人達全部の氣持であるが如くに「やどれる旅人」と叫んだのは一種の誇張で、詩人の慣手段である。詰り昂奮の押賣をした形だが、それだけ如何に作者自身が劇しい力強い昂奮に囚はれて居たかゞわかる。
 歌聖の所作は表面上何の奇もなぃ、只熱情そのものといふ風に見えて、仔細に吟味すると、奥底の測られぬ程の巧緻を藏してゐる。他作家の到底企及し難い點はそこにある。――宿る旅人を輕王を擬へ奉つたものゝ如く解した説も多いが、やゝ牽強の感がある。
 以下數首は全く聯作の體を成してゐる。そして專ら作者自身の感想や動靜ばかりを叙して、一言も輕皇子の御上に言及したものがない。陪從者の立湯としてその體を得ぬことのやうに訝つたが、果然その理由を發見した。輕皇子はこの秋は僅に十歳の御幼年であらせられたのだ。長歌の末句に「古へ思ひて」の一語を著けたの(184)みで了つた事は決して偶然でない。
 
眞草刈《まぐさかる》 荒野者雖有《あらぬにはあれど》 黄〔左△〕葉《もみぢばの》 過去君之《すぎにしきみが》 形見跡曾來師《かたみとぞこし》    47
 
〔釋〕 ○まぐさ 「ま」は美辭。檜の木を眞木といふ如く、眞草は薄茅などの高萱をいふ。○あらぬにはあれど 「あらぬ」は人氣遠い野。和名抄に、曠野を阿良乃良《アラノラ》と訓んである。本文、略解及び古義は一本に據るとして「野」の下に二〔右△〕を補つてゐるが、現存の諸本にはそんなのは無い。「念《オモ》へりし妹者《イモニハ》あれど」(卷二)その他、「者」をニハ〔二字傍点〕と訓んだ例は少くないから、この儘でよい。○もみぢばの 「過ぎ」にかゝる修飾語。木の葉の色づいたのは、すぐ散り過ぎるからいふ。原本は「葉」の上に黄〔右△〕の字がない。契沖が補つて、かく訓んだのは至當である。○すぎにし 逝つた。人の死を過ぐ〔二字傍点〕といふは古代語。過ぐは行き失せてしまふ意。○君 きみは日竝《ヒナミシノ》皇子(草壁皇太子)をさす。○かたみとぞ 形見とて〔右○〕ぞの意。
 
〔評〕 作者は公用、即ち輕皇子の供奉の一員として安騎野に來たのであつて、勝手な私的旅行ではない。それを自分が日竝知皇子の形見とて慕はしさに來たといひなしたのは、所謂空裏に樓閣を現ずる幻手段である。はじめ(185)に「眞草刈る荒野」と安騎野のすさまじげな一面を強調し、さて、とても足踏みもされぬ處だがと轉捩して、「形見とぞこし」と對映させたので、胸臆の問題は既に實行の事件と移つて、如何なる障碍も困難も、その思慕の熱情の前には全く空しい趣が歴然としてゐる。即ち故皇子を追慕し奉る情味が言外に躍動してくる。
  鹽氣たつ荒磯にはあれどゆく水の過ぎにし妹が形見とぞ來し (卷九―1797)
は同じ詩境、おなじ叙法である。
 
東《ひむがしの》  野炎《ぬにかぎろひの》 立所見而《たつみえて》 反見爲者《かへりみすれば》 月西渡《つきかたぶきぬ》    48
 
〔釋〕 ○ひむがし 日向《ヒムカ》しの義で、東をいふ。○かぎろひ 陽炎《カゲロフ》の古言。但こゝは薄く立つ靄《モヤ》の稱と思はれる。この作者の歌に又「蜻火《カギロヒ》のもゆる荒野」(卷二)の句がある。その時季は暮秋だから丁度この歌の季節と合ふ。さればこゝの陽炎《カゲロフ》は春の遊絲の事ではない。眞淵は明くる空の光と解したが、それでは野に立つとはいはれなくなる。○かへりみすれば 顧みれば〔四字傍点〕に同じい。動詞を一旦體言格にいひ据ゑて更にサ變に活かせる特殊語法で、欲りす、盡せず、消えせぬ、絶えせじ、などは皆この例。○かたぶきぬ 「西渡」をかく訓むは意訓。初句の「東」に對せしめて作爲的にかく書いた。
【歌意】 夜の引明けに狩屋を出て見渡すと、東の方には野に薄靄の立つのが見えて、さて振返つて見ると、在明の月はもう西の空低く傾いてしまつてゐる。
 
(186)〔評〕 これは前後の歌とは懸け離れた内容のもので、單純な狩獵氣分本位の作である。朝獵には鳥のまだ草伏の頃を踏み立てゝ射取るのである。隨つて霜を拂つて早起する。安騎野の一宿、夜のしら/\明に作者は狩屋から立出て、この大野をまづ望一望すると、東雲の光に薄靄めいたものが野末を低く這つてゐる。首を囘して見ると、山の端近く殘月は夢の如く淡い光を投げてゐる。東は野のかぎろひ、西は空の殘月、この兩者の對照の間にいかにも廣々とした天空と曠野の趣が現はれ、さてその大野の中央に立つて左顧右眄、狩野の朝氣分に浸つてゐる作者自身の姿が、「見えて」と「顧みすれば」との語によつて、いかにも鮮かに點出されてゐる。こゝが單なる叙景歌と違つた味のある所で、結構雄大、情景兼ね備つて、容易に後人の追隨し難い高調である。しかし歌聖は大きい。まだ/\幾多の神品絶品を所持してゐることを忘れてはならぬ。
 この歌三句までを一氣にいひ下してゐる。即ち七五調に流れてゐる。藤原宮時代において、人麻呂の作において、夙くもこの後世調を發見することは、律調の變化に留意する者の記憶すべき事であらう。
 
 
(187)日雙斯《ひなみしの》 皇子命乃《みこのみことの》 馬副而《うまなめて》 御獵立師斯《みかりたたしし》 時者來向《ときはきむかふ》    49
 
〔釋〕 ○ひなみしの 輕皇子の御父草壁皇太子の謚號で、天つ日嗣の代並《ヨナミ》を知ろし召す義。續紀に「日竝知《ヒナミシラス》皇子」とある。略して日並知《ヒナミシノ》皇子、尚略して日竝《ヒナミノ》皇子ともいふ。この句契沖はヒナメシ〔四字傍線〕、千蔭はヒナメシノ〔五字傍線〕、古義は「斯」を能〔右△〕の誤として、ヒナミノ〔四字傍線〕と訓んだ。草壁皇太子は天武天皇の皇子で、御母は持統天皇。天智天皇の元年に大津宮に生まれ、天武天皇十年二月皇太子となり、萬機を攝らしめられ、十四年春正月淨廣壹の位に上り、持統天皇三年四月薨去。御年二十八。淳仁天皇の天平寶字二年に追尊して、岡宮御宇天皇と稱し奉つた。〇みかりたたしし 御獵を催されたの意。「たたし」は立ちの敬相。この立ちは催す〔二字傍点〕こと。出で立ちの意ではない。○ときはきむかふ その季節がやつて來るの意。
【歌意】 日竝知の皇子樣が、嘗てこの阿騎野で、侍臣等と馬を乘り竝べて御獵をお催し遊ばされたが、今やその季節がまたやつて來る。それにつけてもあの當時が懷かしく思ひ出されることだ。
 
〔評〕 日竝放知皇子の安騎野御遊獵は一再に止らなかつたであらう。然しその時期は何時もきまつて、初冬から早春までの期間であつた。東宮舍人等の悼歌にも、
  毛衣を冬かたまけていでましゝ宇陀の大野はおもほえむかも  (卷二―191)
とある。「時は來向ふ」は季節の初めにいふべき言葉だから、この歌は初冬の頃の作であることは明白である。
 作者は今輕皇子の御獵の御供申して、端なくその父君たる日竝知皇子の御獵當時を聯想し、追想し、次いで(188)その季節に想到した。蓋し作者は嘗て日竝知皇子の舍人であるから、御獵の御供でこの安騎野にも再々來たに相違ない。さては今また同じ野に立ち同じ季節に値つて、今昔の感は尋常一樣のものでなかつたことも推量される。初頭から御稱へ名を取入れての「來向ふ」のいひ棄ては、實に武歩堂々たる高調で、裏に千萬無量の感愴を寓し、尋常歌人の到底夢想だもし難い表現である。あゝ御獵立たしゝ時は再び來向ふ、しかも皇子の御面影は再び見ん由も無い。對映の間にその思慕追懷の至情が躍動して、幽怨の意が言外に見はれてゐる。
 
藤原(の)宮|之《の》役《えだちの》民(の)作歌
 
藤原宮の造營に徴發されて從事した民の詠んだ歌との意。持統天皇は天武天皇の次に御即位あり、飛鳥淨御原宮にましましたが、六年五月藤原の宮地の地鎭祭を行つて、造營に御着手あり、八年十二月に遷都あらせられた。藤原宮のことは既出(一一七頁)。古義は一書によつて營〔右△〕の字を藤原宮の上に補つたが、却つて漢文の調を成さない。○役民 御造營の工事に從事する民で、この歌はそれら役民中の一人が詠んだものとの題意であるが、詠風の雄偉莊重にして頗る老巧なことを考へると、或は相當力量ある歌人が役民の心になつて詠んだものと見るのが寧ろ眞に近いであらう。宣長は人麻呂の作だらうと揣摩し、守部はさう斷定してゐるが、さう簡單に片附けるのは危險である。
 
八隅知之《やすみしし》 吾大王《わがおほきみ》 高照《たかてらす》 日之皇子《ひのみこ》 荒妙乃《あらたへの》 藤原我宇倍爾《ふぢはらがうへに》 (189)食國乎《をすくにを》 賣之賜牟登《めしたまはむと》 都〔左△〕宮者《みあらかは》 高所知武〔左△〕等《たかしらさむと》 神長柄《かむながら》 所念奈戸二《おもほすなべに》 天地毛《あめつちも》 縁而有許曾《よりてあれこそ》 磐走《いはばしる》 淡海乃國之《あふみのくにの》 衣手能《ころもでの》 田上山之《たながみやまの》 眞木佐苦《まきさく》 檜乃嬬手乎《ひのつまでを》 物之布能《もののふの》 八十氏河爾《やそうぢがはに》 玉藻成《たまもなす》 浮流禮《うかべながせれ》 其乎取登《そをとると》 散和久御民毛《さわぐみたみも》 家忘《いへわすれ》 身毛多奈不知《みもたなしらず》 鴨自物《かもじもの》 水爾浮居而《みづにうきゐて》 吾作《わがつくる》 日之御門爾《ひのみかどに》 不知國《しらぬくに》 依巨勢路從《よりこせぢより》 我國者《わがくには》 常世爾成牟《とこよにならむと》 圖負留《ふみおへる》 神龜毛《あやしきかめも》 新代登《あらたよと》 泉乃河爾《いづみのかはに》 持越流《もちこせる》 眞木乃都麻手乎《まきのつまでを》 百不足《ももたらず》 五十日太爾作《いかだにつくり》 泝須良武《のぼすらむ》 伊蘇波久見者《いそはくみれば》 神隨爾有之《かむながらならし》    50
 
〔釋〕 ○やすみししわがおほきみ 既出(三〇頁)。○たかてらすひのみこ 上の輕皇子安騎野御遊獵の所に出たが、こゝは持統天皇をさし奉る。○あらたへの 藤に係る枕詞。栲《タヘ》は布帛の總稱、荒栲は麁い布で和栲《ニギタヘ》(絹)に(190)對した語。藤蔓の繊維で織つたものなどは實に麁布である。當時|木綿《モメン》はなかつた。「妙」は借字。○ふぢはらがうへ 藤原のあたり。藤原のことは既出(一一七頁)。「うへ」は「高野原《タカヌハラ》の宇倍《ウヘ》」(卷一)「多可麻刀《タカマド》の秋野《アキヌ》の宇倍《ウヘ》」(卷二十)などの場合と同じく、あたり、ほとりの意。○をすくに 天皇の治め保ち給ふ國。上に「所聞食《キコシメス》天の下に」とあるのも同じい。訓は「乎須久爾能許等《ヲスクニノコト》とりもちて」(卷二十)の例による。○めしたまはむと 御覽にならうとて。「めし」は「見し」の敬語。委しくは下の「めしたまへば」を參照(二〇六頁)。「賣」をメと讀むは呉音。○みあらかは 宮殿をばの意。「あらか」は在處《アリカ》の義で、宮殿をいふ古語。或はいふ蒙古語の房舍をバラグワ(Baragha)と稱すると同語かと。「都宮」をミアラカと讀むは意訓。ミヤコ〔三字傍線〕と訓むは面白くない。次に「高知る」とあるを見れば必ず宮殿である。「御在香乎高知《ミアラカヲタカシ》りまして」(卷二)の例による。「都」は或は御〔右△〕の誤寫かも知れない。○たかしらさむと 立派にお營み遊ばさうとて。「武」の字原本にない。假に補つた。○かむながら 既出(一五三頁)。○なべに 共に、つけてなどの意。竝《ナメ》にの轉で、事柄の同時に起る意を表はす接尾辭。○あめつちも 天神地祇(191)もの意。「天地《あめつち》を歎き乞ひ祷《ノ》み」(卷十三)の天地に同じい。○よりてあれこそ 寄りきてあれば〔右○〕こその意。動詞の已然形と「こそ」との間に「ば」の助辭のないのは古格。「いにしへもしかなれこそ」を參照(六九頁)。○いはばしる 近江に係る枕詞。既出(一二五頁)。○ころもでの 枕詞。(1)は「ころもで」は袖といふに同じく、「で」は料の意で、デはタ〔傍点〕と通音の故に田上《タナガミ》山に冠したものといひ、(2)は袖は手先にかゝるから手之上《タナカミ》とまで懸けたものともいふ。後説やゝ勝つてゐる。○たなかみやま 近江國栗太郡に盤踞し、その西端は勢田川に臨む。○まきさく 檜の枕詞。この用例繼體紀、雄略記などにある。語義については契沖以下の學者多くは「まき」を檜、「さく」を拆き割るの意としたが、それを更に檜に繋けるのは重複である。古義は眞木幸檜《マキサクヒ》にて、眞木の功用を成し幸《サキ》はふ檜《ヒ》の意と解したが、幸〔右○〕は體言としてはサキ、サチで、サクといふ用例も無いし、而も迂遠である。思ふに眞木拆く火といふを檜《ヒ》にいひかけたもので、雷火の喬木などを打拆くよりいふか。神代紀に裂雷の語例がある。「まきたつ」を參照(一七七頁)。○ひのつま(192)で 檜の角材をいふ。眞淵説に「まづ麁木《アラキ》造りしたる材は、角※[手偏+爪]《カドツマ》あればいふなり」とあるがよい。「嬬」は借字、「手」は助辭と眞淵は見てゐるが、料〔傍点〕の意であらう。○もののふのやそうぢがは 物部《モノノフ》は武人の族をいふが、元は朝廷に仕へ奉る人等すべてを稱した語と思はれる。さてその物部には澤山の氏《ウヂ》があるので、「物部《モノノフ》の八十氏《ヤソウヂ》」といひ、同音の關係で宇治川に係けたのである。「さざれ波磯|巨勢路《コセヂ》」(卷三)、「わが紐を妹が手もちて結八《ユフヤ》川」(卷七)などと同じ修辭である。○うぢがは 近江の琵琶湖の下流、近江にては勢田川、山城宇治郡に入つては宇治川と稱する。下流を淀川といふ。○たまもなす 玉藻の如くにの意。「なす」は似すの轉語。こゝは材木の次々と流れゆく樣を藻の靡くに譬へたのである。○うかべながせれ 皇居御造營に奉仕の爲、天地の神々〔五字右○〕が材木を河に浮べ流してゐると見立てゝいふ。「流せれ」は「流せり」の已然形で、上の「よりてあれこそ」に對する結詞である。古義は流せれ〔三字傍点〕ば〔右○〕の意として、次句へ續けて解し、ば〔右○〕の辭の略かれる一格と見たが、諾き難い。○そをとると その流れて來た材木を取上げようとして。○さわぐ いそがしく立働くの意。「さわぐ」は匆忙なるをいふ。○みたみ 民は至尊の領し給ふ所謂|大御寶《オホミタカラ》であ(193)るから敬稱を付ける。民そのものを敬するのでなく、領者を敬するのである。○みもたなしらず わが身の事も一向構はず。春滿いふ「たなしる」は直《タヾ》知るの轉語にて、ひたすらに知る意と。「しらず」は口語の構ハヌ〔三字傍点〕に當る意で、中古文にはいくらも見える。「身は田菜《タナ》知らず出でぞあひくる」(卷九)「何すとか身乎田名《ミヲタナ》知りて」(卷九)「人にな告げそ事は棚《タナ》知れ」(卷十三)など用例は多い。○かもじもの 鴨そのまゝの物の意。從來枕詞と見られてゐるが、物を形容する語である。「鴨じもの」「鹿《シシ》じもの」「男じもの」などの類語が集中に多い。○みづにうきゐて 水中に浸つてゐる樣をいふ。これは流れて來た材木を宇治川の川尻で一且拾收する役民の状を叙したと同時に、持ち越した材木を泉川で筏に作る時の有樣をも兼ね叙した句と見るべきである。文脈は勿論この句から「泉乃河爾」へ續くのである。○わがつくるひのみかどに 我等役民が今工事に從つてゐるこの立派な皇居にの意。この句以下「新代登」までは挿入句で、御代の榮を讃美して泉川の序詞としたもの。○しらぬくによりこせぢより 今まで無關係の異國も歸服する即ち寄り來《コ》すといふを、地名の巨勢《コセ》に係けた。即ち「わが作る日の御門に知らぬ國寄り」は巨勢の序詞。○こせぢ 「巨勢」は南葛城郡|古瀬《コセ》。そこを通過する道が巨勢路である。巨勢路より出づ〔二字傍点〕といふを、次の「泉の川」にいひかけた。「依」は借字。○わがくにはとこよにならむ わが日の本はめでたい蓬莱國になるであらうとの意。「常世」は(1)永久變らぬ世界の稱。(2)遠方にある理想國の稱。こゝは(2)の意で、蓬莱國のことに用ゐた。雄畧紀に「水江(ノ)浦島(ノ)子乘(リテ)v船(ニ)而釣(ス)、逐(ニ)得(タリ)2大龜(ヲ)1云々、入(リテ)v海(ニ)到(ル)2蓬莱山(ニ)1」。この蓬莱山をトコヨノクニと訓んである。集中常世(ノ)國を蓬莱山の稱に用ゐた例は、卷の四、五、九などに見える。古事記傳に常世を蓬莱國とするは漢意だとあるが、大化以來盛に漢意を奨勵してゐたのだから、この時代になつては當り前の使ひ方である。蓬莱山は支那でいふ東海中にある仙山の一つである。この句も祝意を(194)表したもので、靈龜の出現に對する感想である。○ふみおへるあやしきかめ その甲にめでたい文字の表れた靈妙不思議な龜。「あやし」は奇しきことの甚しきにいふ。支那で洛書とて、禹の水を治むる時、洛水より文を背にした神龜が出たといふ故事による。爾來祥瑞とされ、易の繋辭傳に「河(ハ)出(シ)v圖(ヲ)洛(ハ)出(ス)v書(ヲ)、聖人則(ル)v之(ニ)」と見え、我が國でも、この類の神龜が屡ば出たことが記録に見える。即ち天智紀の九年六月に、「邑中獲(タリ)v龜(ヲ)、背(ニ)書(ケリ)2甲字(ヲ)1、上黄下玄、長六寸許」とあり、又續紀によれば神龜、靈龜などの年號もこの類の龜の祥瑞に因し、天平の改元は「天王貴平如百年」の背文ある龜の出現により、神龜六年の詔には「藤原朝臣麻呂等い、圖《フミ負へる龜一つ獻らくと奏し賜ふ、云々」とある。持統天皇の御代に巨勢路から神龜を獻じた事があつたのだらう。紀の文に見えぬのはその遺脱と見てよい。○あらたよと この御代は新《アラタ》しい希望に滿ちた〔六字右○〕御代としての意。「あらた」といふ副詞は、新の意で、刊本に「年月《トシツキ》は安多良安多良爾《アタラアタラニ》あひ見れどわが思ふ君は飽き足らぬかも」(卷二十)とあるが、古寫本多く「安良多安良多《アラタアラタ》」とあるので、刊本の誤なることが知られる。今現に副詞の場合は「あらたに」といふが、古くは形容詞も「あらたし」であつたのを、平安期に入つて形容詞の方は「あたらし」と轉倒せられて、惜むべき意の「あたらし」と同形になつた。さて「書《ふみ》負へる奇《アヤ》しき龜もあらた代と出づ〔二字傍点〕」をいひ掛けて、「泉の川」の序としたのは、「妹が門入りいづ〔二字傍点〕み川」(卷九)と同工である。○いづみのかは 木津川の古名で、山城國相樂郡にあり、伊賀では名張川といひ、笠置山の麓を過ぎ、甕の原木津を經て、末は淀川に合流する。○もちこせる 宇治川から泉川の落合に持ち來したの意。○ももたらず 百に滿たない意で、八十《ヤソ》又は五十《イ》にかゝる枕(195)詞。こゝは筏《イカダ》のイにかけた。○いかだにつくり 筏に組んで。○のぼすらむ 泉川を泝らせるのであらう。これは木津まで筏を泝せ、そこで陸揚して藤原の地へ陸路を運搬するのである。「らむ」は現在推量の助動詞で、作者が現にその光景を目撃しつゝ叙したのである。この句の下、しか〔二字右○〕の語を補つて聞く。○いそはくみれば 競うて働くのを見れば。皇極紀に爭陳〔二字傍点〕をイソヒテマウスと訓み、伊呂波字類抄に爭、競、角の三字、何れもイソフと訓んである。即ちいそふ〔三字傍点〕は競ひ爭ふ意で、四段活用の動詞であるが、體言格にする爲に「いそはく」と延ばしたので、思はく、曰はく、願はく、隱らく、などと同樣の語法である。○かむながらならし まことに天皇は神樣でいらせられる故らしいの意。
【歌意】 安らかに天下を知し召す天子樣、天津日嗣を承けられた天子樣が、この度藤原のほとりに於いて、國家をお治め遊ばさうが爲に、宮殿を立派に御造營なさらうと、神であらせられるまゝに神々しく思し召し立たれると、それにつけて、天地の神々も相寄りお援け申せばこそ、あの近江の田上山から伐り出した檜の木材を、宇治川に次から次と玉藻の靡くやうに浮べ流してゐる。川下でその材木を取上げようと忙しく立働く役民達も、わが身の事も一向構はず、まるで鴨の浮ぶやうに水に浸つて働き、自分等の造營しつゝあるあの莊麗な皇居に、知らぬ異國も歸服して來ることの聯想される巨勢路〔三字傍点〕から、この日本は蓬莱國になるに違ひないといふ祥瑞の文字を背に表した靈龜までも、この御代を新しい希望に滿ちた御代として出づ〔二字右○〕るが、その出づ〔二字傍点〕といふ語に縁ある泉〔傍点〕川の川合に持つて來た檜の木材を、此處で筏に組み、川を泝つて運ぶのであらう。かうして天神地祇も役民達も一所懸命に奉仕するのを見れば、あゝやはりわが天子樣は神でいらせられるからであるらしい。
 
(196)〔評〕 飛鳥藤原附近の山々にはその頃森林が多かつた。南淵《ミナブチ》の細川山あたりは伐採を禁じた事、坂田の尼寺は密林の爲に腐朽の甚しかつた事などが史に見え、朝倉の初瀬川は眞木たつ荒山であり、殊に三輪の檜原、卷向の檜原、初瀬の檜原、檜林も亦多かつた。祝詞(祈年祭)によれば、飛鳥、石村《イハレ》、忍坂、長谷、畝火、耳無の山々から宮材を求めて居つた。然し大規模の藤原宮建築には、もう間に合はなくなつたので、遠く近江の田上山に宮材を求めたのであらう。
 田上山は今こそ多く草山で碌な森林もないが、この時代には結構な材木の出た場處と見える。運搬の便は勢田川(宇治川の上流)に臨んでゐるから始末がよい。山から切り出して木取つた材木即ち嬬手を、そばから川へ投げ込む、材木から材木と恰も藻が浮いたやうに盛に流れ/\て、ぶか/\と、九里から十里に及ぶ長距離を木津川との合流點まで自然に流れ着くではないか。實にたゞ事とは思はれない。人力の及ばぬ不思議さ、全く天地の神の大君に仕へまつる御所作と感ずるより外はない。
 だがこの材木がその合流點から、ずん/\淀川へと流れ下つてしまつては大變だ。何でもかでも喰ひとめなければならぬ。仕方ないから役民等は鴨のやうに水中に漬つて、その流材を取上げる。「家忘れ身もたな知らず」は誇張の語には違ひないが、實に一所懸命な難儀な大仕事であつたらう。
 「持ち越せる」はどういふ風に持ち越したか。宇治川からすぐに木津川口へと、水續きに材木を引つ張つて來たか、或は一且陸揚して木津川岸へ轉ばし込んだか、それはどちらでもよい。とにかく木津川口で筏に組んだものとしてさて、筏は普通流に隨つてさし下すものであるのに、こゝには「泝すらむ」とあるので一寸困るが、これは筏に綱を付けて引舟のやうな具合に、川上へと引いたものだらう。木津川は頗る緩い流だから、こんな仕事(197)は爲《シ》易い。そして六里強も來て、今の木津邊で陸揚したのを、力車で藤原の宮地まで運搬したものと見てよい。
 抑も藤原新京の開設は、あの大規模な奈良京の先驅を成すもので、當時にあつては實に前代未聞の大工事であつた。持統天皇の御氣性は御婦人に似ず、雄邁果敢にあらせられたから、易世遷都の舊慣を打破して、支那の長安洛陽式の都城を造り、中興の偉業を示して大に外部に誇燿せんとの御心組で、その目的の爲には何物をも犠牲にして憚らなかつたであらう。この前古にない自然の力人の力のありたけを用ゐ盡した、大がかりの宮材運搬の作業は、時人の視聽を飽くまでも聳てしめたものらしい。
 作者は今二川合流の川俣に立つて、これらの光景に對して無限の感懷に耽つたのである。
 大寶の制、民の庸として夫役に服するは、正丁は歳に十日次丁は五日の規定であつた。處がかういふ臨時徴發の公用には十日も五日もない。役後にこそ一年の調役を免されるやうな特典も與へられるには決まつてゐるが、さし當つて稼穡の仕事を放擲せねばならず、中には遠く家郷を離れて勞役するものもある。濟まぬ事ながら迷惑な話である。彼の奈良造都の際における勅(元明天皇四年九月)に
  頃(ロ)聞(ク)諸國(ノ)役民〔二字傍点〕勞(レ)2於造都(ニ)1、奔亡(ルモノ)猶(シ)v多(キガ)、雖(モ)v禁(ズト)不v止(マ)、云々。 (續日本紀卷五)
とある。逃亡者が多くていくら止めてもその效がないといふ。如何に役民等が勞苦を厭つてゐたかゞわからう。しかも眞面目に勤め上げた役夫等は、更に又歸郷の際に、慘憺たる目を見せられるのである。和銅五年正月の詔に、
  諸國(ノ)役民〔二字傍点〕還(ル)v郷(ニ)日、食糧絶乏(シ)、多(ク)饉(ヱ)2道(ニ)1、轉2填(ス)溝壑(ニ)1其類不v少(カラ)、云々。 (同上)
とある。これでは踏んだり蹴たりで、怨嗟の聲は必ず揚がつてゐた事だらう。藤原造都の時とてもさう事情に(198)大差はあるまい。
 然るに作者はこれを逆説して、形式的の服從ではなく、王事の爲にはどんな無理な仕事にも、天地の神すらも靡いて奉仕し、人民も心から喜んで勞役に服する趣に歌ひなし、かく神人共に感銘するのも天子の神とます故らしいと、重きを帝徳の高きに歸して、聖代の禮讃に筆を擱いた。詞人の態度おのづから然るべきであるが、又この作者の利口なのに驚く。
 「吾が作る日の御門」以下「新代と出づ」を泉川にいひかけたまでの一齣は挿入句で、聖代を謳歌する爲の讃辭になつてゐる。抑も外蕃來附と祥瑞出現とは、當時の主權者及び爲政者のあこがれで、天武紀十二年春、三足の雀が獻せられる時の詔に「天瑞者行(フ)v政(ヲ)之理、協(ヘバ)2天道(ニ)1則應(フ)v之(ニ)、是今當(リ)2朕(ガ)世(ニ)1毎(ニ)v年重(ネ)至(ル)、一(ハ)則(チ)以(テ)懼(レ)、一(ハ)則(チ)以(テ)喜(ブ)、云々。」と仰せられた。――令にもその法文が見える――もとが支那思想のかぶれで、別に外藩の來附がなくても、靈龜の出現がなくても、時代の流行的思想によつて祝福の意を叙べたまでのものと解しても差支はないものの、それが事實であつたとしたら、その眞實味の爲に愈よ印象が強まるであらう。三韓の來貢は齊明朝に終を告げたが、以後もその投化者が續々あり、耽羅が又來附し、持統天皇二年八月にも「耽羅王遣(シテ)2佐平加羅(ヲ)1來(リテ)獻(ル)2方物(ヲ)1」とある。耽羅は高が朝鮮の一島に過ぎないが、その頃は歴とした獨立國だつたのだから、立派な外蕃の來附といへよう。又靈龜の出現は「巨勢路より」と特に地名を提擧した點からしても、それを事實と見るが至當で、紀の脱漏などと氣にするまでもない。いづれ能登瀬《ノトセ》川あたりで捉まへた龜の子の背に、おめでたい文字を彫り付けて獻上したものだらう。「不v得d苟(モ)陳(ベ)2虚餝(ヲ)1徒(ニ)事(トスルヲ)c浮詞(ヲ)u」(令)と小言をいひつゝも、爲政家は「新代」の象徴として方便的に取上け、聖代謳歌の用に供したと見られる。
(199) かくこの一齣は挿入句であるのに心付かなかつた古人は、非常に苦しい解説を與へた。いはく、
  田上の宮材を宇治川へくだし、そを又泉川に持越して筏に作りて、その川より難波海に出し、海より又紀の川を泝せて、巨勢の道より藤原宮地に運び來るよし也。――(宜長説――古義も)
これではまるで地理的關係を無視したもので、失笑に値する。幸に近藤芳樹によつて是正せられて事理が明確になつたのは、作者の爲に大に慶すべきである。
 この篇頗る堂々たる雄篇大作である。第一段は全く人麿の詩作に散見する如き崇高森嚴なる形式美を以て尊王的思想を包容し、第二段は帝意のある處に天神地祇も同和して、宮材切り流しに奇蹟を演じたと見、第三段は役民も心力の限を盡して運漕に奉仕する状態を細叙して、民意も亦帝意に順應したものだと觀じ、第四段はそれら神意民意の交流は、蓋し天子の神とます故であると歸納した。頗る結構雄偉秩序井整しかも活殺自在な筆法は老將の兵を遣るが如くである。
 然してこの作の重心は第三段にあるが、作者は單なる叙述や描寫だけでは何だか物足らなく感じ、そこに特殊な道樂をしたものだ。それが挿入句の一節である。これで内容も豐富に重みも付くが、一面餘り饒舌過ぎるわざとらしさが伴うて、長處短處の感を免れない。「知らぬ國よりこせ〔二字傍点〕路」、「新代といづ〔二字傍点〕みの川」などのいひ掛けも厭味であり、うるさくもある。又全體に接續辭の「と」の多いことが耳障りである。「めし給はむと」、「高知らさむと」、「そを取ると」、「新代と」の類、おなじ語法は自然おなじ句法を生ずることになるから、叙法に變化の乏しい憾がないでもない。「眞木さく檜の嬬手」といひ、又「眞木の嬬手」といふ、さし合ふやうだが、これは叙述上到底避け難い文字で、寧ろ詳畧その宜しきに適うたことを稱へたい。形容の妙としては、(200)次から次への流材を「玉藻なす浮べ流せれ」も惡くないが、殊に「鴨自物水に浮き居て」には、役民等が赤裸裸で水上に浮動する光景が如實に表現されて面白い。
 さて題に役民の作歌とあるが、當時の上下層の文化程度は天と地との如くに懸隔してゐたので、特殊の者を除く外、一般人民は全く無學で、只忠實なる番犬、從順なる小羊に過ぎなかつた。それに引換へ官僚級の生活者は高級の教養を施され、いづれも漢文といふ外國語に堪能な人達であつた。この篇の作者がわが古典に通曉し、漢土の典故を諳んじてゐる點から見れば、尋常一樣の役民ではない。芳樹はいふ、宮財の運送を掌る小吏などの名を隱して役民の作となせるものかと。或はその邊であらう。
 
從《より》2明日香宮《あすかのみや》1遷2居《うつりましし》藤原(の)宮(に)1之後、志貴皇子《しきのみこの》御作歌
 
明日香淨御原宮から藤原宮に遷都のあとで、志貴皇子が詠まれた御歌との意。○明日香宮 飛鳥の淨見原の宮をさす。既出(九九頁)。○遷居藤原宮 持統天皇がその即位八年十二月六日に、明日香宮から藤原宮に御移轉なされたのをいふ。紀にも「乙卯遷2藤原宮1」と見えてゐる。志貴皇子の御遷居ではない。○志貴皇子 天智天皇の第七皇子で、光仁天皇の御父。施基、磯城とも書く。地名の磯城を御名に負はれたもの。大寶三年四品、靈龜元年には二品となり、同二年八月薨じた。光仁帝即位に及び、追尊して春日宮天皇と稱し奉つた。
 
(201)※[女+采]女《たわやめの》 袖吹反《そでふきかへす》 明日香風《あすかかぜ》 京都乎遠見《みやこをとほみ》 無用爾布久《いたづらにふく》    51
 
〔釋〕 〇たわやめ 「たをやめ」の古言で、※[女+單]]娟《タヲヤカ》なる女をいふ。「※[女+采]」は采女の合字で、更に「女」の字を書き添へた。采女はウネメと訓む。古くにも采女の稱が見えてゐるが、當時の制は支那に則つたので、孝徳天皇の大化の詔勅に「郡領以上の姉妹子女の形容端正なるを貢せしめ、年十六以上三十以下を限る」とあるから、何れも年若い美人だつたのである。故に「※[女+采]女」をタワヤメと意訓に訓む。「※[女+采]」を眞淵が※[女+委]〔右△〕の誤寫とし、古義が媛〔右△〕の誤としてヲトメ〔三字傍線〕と訓んだのは皆よくない。元暦本の附訓にウネメノ〔四字傍線〕とあるに從ふ人も多いが、歌としては稍事が狹い。○そでふきかへす 略解、古義には吹き反しゝ〔二字傍点〕と過去の意に聞くべしといひ、宣長、正辭は、反すべき〔二字傍点〕の意とした。然し「吹き反す」はやはり吹き反すで、元より吹き反すものと定めた辭樣である。ここは「明日香風」の修飾として用ゐた。○あすかかぜ 飛鳥の地に吹く風をいふ。佐保風《サホカゼ》(卷六)、泊瀬風《ハツセカゼ》(卷十)、伊香保可是《イカホカゼ》(卷十四)など皆その地に吹く風である。○みやこをとほみ 藤原(202)の都が遠さに。○いたづらにふく 何の詮もなくむだに吹く。△地圖 挿圖70を參照(二〇五頁)。
【歌意】 若い美人の袖を吹き飜すものとなつてゐる飛鳥風も、既に飛鳥が古里となつてしまつた今日では、藤原の新都が遠さに、美人の袖を吹き反すといふこともなく、只空しく何の詮もなく吹くことだわい。
 
〔評〕 舊部飛鳥の宮の所在地は豐浦、雷岡の東に隣接した處である。そこから新都藤原の宮は、正南わづかに半里許を距るのみである。さすれば「都を遠み」とはいひ難いやうであるが、近代多く岡本の附近にのみ宮造りされた習慣から見れば、また遠みと思はれぬでもない。且「いたづらに吹く」の襯染として、誇張の筆法を用ゐたものとも見られよう。
 皇居の移轉と共に古宮は廢せられて、その榮華も一旦に盡きた。志貴皇子は常にこの宮中に出入して居られたので、今この落寞たる光景に對しては多少の感愴無き(203)を得ないのは當然である。そこで宮中に於いて最も懷かしい印象を留めてゐる「たわやめ」の花の袖をやとひ來り、飛鳥風に託してその懷抱を吐露したのである。
 更にこの「たわやめ」には一つの脚註を要する。それは外でもない、この「たわやめ」が、決して庶人の家の兒女をさしたのでないことである。芳樹の説に、
  持統天皇は天武帝の皇后にて、共に明日香宮にましまし、天の下知しめしゝに、天武の崩後は女帝にてましゝ故、下の歌にも「藤原の大宮仕へあれつげやをとめが伴はともしきろかも」とある、これは藤原宮にての事なれど、いまだ藤原宮に移り給はぬ程も、なほ召使はるゝ官女多かりし故、かく「※[女+采]女の袖吹き反す」と殊更によみ給へるにて云々。
とあるやうに、まことにこのたわやめは、朝廷奉仕の采女《ウネメ》等をさしたもので、記録者が、わざわざ「※[女+采]女」の字面を擇んで、「たわやめ」に宛てたのも、この底の意を考へたからであらう。
 なほ飛鳥風は飛鳥の地に吹く風をいふのは勿論であるが、抑もかくの如く何風といふことは、專ら風|勝《ガチ》の場所について生まれた語なることを記憶すべきである。佐保風、伊香保風、筑波ならひ、赤城おろしなどの類例が悉くさうである。さて飛鳥は北さがりの山陰で、大和平原を吹きまくる北西風は、皆こゝに集中する。これ飛鳥風の稱の起る所以である。然しその名物の風も、たわやめの袖に縁が切れて只いたづらに吹くに至つて、その對映上まことに蕭條寂寞を極めたものといへる。
 「吹きかへす」「いたづらに吹く」と、吹く〔二字傍点〕の語が重複してゐるが、古歌にはこの種の類例が多く、却つてそこに無技巧の素朴さが窺はれるのである。
 
(204)藤原(の)宮(の)御井《みゐの》歌
 
○藤原宮御井 歌によれば、藤原宮に藤井と稱する清列な水を湛へた井があつたものであらう。宮城内の井であるから「御井」と尊稱を添へて呼んだ。今はそれを主として宮地の景勝を叙し、間接に御代を言《コト》ほいだ歌である。
 
八隅知之《やすみしし》 和期大王《わごおほきみ》 高照《たかてらす》 日之皇子《ひのみこ》 麁妙乃《あらたへの》 藤井我原爾《ふぢゐがはらに》 大御門《おほみかど》 始賜而《はじめたまひて》 埴安乃《はにやすの》 堤上爾《つつみのうへに》 在立之《ありたたし》 見之賜者《めしたまへば》 日本乃《やまとの》 青香具山者《あをかぐやまは》 日經乃《ひのたての》 大御門爾《おほみかどに》 春山跡〔左△〕《はるやまと》 之美佐備立有《しみさびたてり》 畝火乃《うねびの》 此美豆山者《このみづやまは》 日緯能《ひのよこの》 大御門爾《おほみかどに》 彌豆山跡《みづやまと》 山佐備伊座《やまさびいます》 耳成〔左△〕之《みみなしの》 青菅山者《あをすがやまは》 背友乃《そともの》 大御門爾《おほみかどに》 宜名倍《よろしなべ》 神佐備立有《かむさびたてり》 名細《なぐはし》 吉野乃山者《よしぬのやまは》 影友乃《かげともの》 大御門從《おほみかどゆ》 雲居爾曾《くもゐにぞ》 遠久有家留《とほくありける》 高知也《たかしるや》 (205)天之御蔭《あめのみかげ》 天知也《あめしるや》 日之御影乃《ひのみかげの》 水許曾波《みづこそは》 常爾有米《とこしへならめ》 御井之清水《みゐのましみづ》    52
 
〔釋〕 〇やすみしし 既出(三〇頁)。○わごおほきみ 「わが」のガ〔傍点〕が、「おほきみ」のオ〔傍点〕の音に同化されて「ゴ」となつたものである。これを根據として「吾大王」は皆ワゴオホキミと訓むべしとの説もあるが、それは牽強で、ワガともワゴとも兩樣に發音され、ワゴの時には特に「和期」と書いたものであらう。○たかてらすひのみこ 既出(一七六頁)。こゝは持統天皇をさし奉る。○あらたへの 藤に係る枕詞。既出(一八九頁)。○ふぢゐがはら 藤原とはこの藤井が原の略稱で、古くから此處に藤井と呼ばれる名高い清水があつて、遂に原の名にまで及ぼしたものであらう。この歌にいふ御井《ミヰ》は即ち藤井である。○おほみかどはじめたまひて 皇居を御創造遊ばされての意。大御門は皇居の御門のこと、これを以て皇居の代表とする。○はにやすのつつみ 埴安の池の塘《ツヽミ》。埴安の池は香具山の北麓に横はつてあつた大池。岡勢を利用し塘を築いて作つた貯水池である。眞淵の香具山の南麓南浦の邊と考へたのは誤。埴安の地稱は埴黏《ハニネヤス》の義で、その來由は神武紀に見えた。「香山《カグヤマ》」の項を參照(一九、二一頁)。池は可成り廣い面積に亙つたものらしく、今も池尻、池の内の地名が遺つてゐる。その邊は磐余の地に屬するから、(206)古への磐余(ノ)市磯《イチシノ》池はこの池の事であらう。履中紀に兩枝《フタマタ》舟を浮べた記事がある。○ありたたし お立ちになつての意。「たたし」はたゝすの連用形で、立ちの敬相。「あり」はあり〔二字傍点〕經る、あり〔二字傍点〕通ふ、あり〔二字傍点〕待つ、などのあり〔二字傍点〕と同じく在〔傍点〕の義であるが、かく接頭辭的に用ゐた易合は、その動作の連續又は反覆の意を表すことが多い。○めしたまへば 御覽になればの意。「めし」はめす〔二字傍点〕の連用形。めす〔二字傍点〕は「見る」を敬語とする爲に、その未然形を更に佐行四段に活用させ、立タス、行カスなどの如く見《ミ》すとしたのが、又轉じて「めす」となつたのである。見《ミ》すは他動詞と混同の虞がある爲に、自然かく變つたのであらう。○やまと こゝのは最狹義のやまと〔三字傍点〕である(一二頁參照)。よつて「日本」の字は借用に過ぎない。○あをかぐやま 香山は青々と樹木が繁茂してゐるので、讃美的に「青」と冠したのである。○ひのたて こゝは東の意に用ゐた。成務紀に「因(リテ)以(テ)2東西(ヲ)1爲(シ)2日(ノ)縱(ト)1、南北(ヲ)爲(シ)2日(ノ)横(ト)1、山(ノ)陽《ミナミヲ》曰(ヒ)2影面《カゲトモト》1、山(ノ)陰《キタヲ》曰(フ)2背面《ソトモト》1」とあるに從へば、日の縱は東西を連ぬる線で、日の横は南北を貫く線となり、漢語の經緯〔二字傍点〕と反對になる。然るに本朝月令に引用した高橋氏(ノ)文に「日(ノ)竪《タテ》、日(ノ)横、陰面《カゲトモ》、背面《ソトモ》乃|諸國人《クニグニビト》乎云々」とあるのは、東西南北の國々の人の意と思はれ、この用法に從へば今この歌に用ゐられた「ひのたて」以下の四語も、地理上から難なく説明が出來る。〇はるやまと 春山として。「跡」は原本に路〔右△〕とあるは誤。古葉略類聚鈔に「跡」の草體が書かれてある。○しみさびたてり 「しみ」は繁き意の副詞で、「うめの花みやまと之美爾《シミニ》」(卷十七)の用例がある。「さび」はこの歌の中にも「山佐備」「神佐備」とある。「かむさびせすと」を參照(一五三頁)。○このみづやま この瑞々《ミヅ/\》しい山はの意。畝傍山を讚めていふ。○ひのよこ 舊訓ヒノヌキ〔四字傍線〕とあり、和名鈔に「緯、おと韋、和名|沼岐《ヌキ》」とあるから舊訓のまゝでもよい譯であるが、上に引用した成務紀及び高橋氏文等によればヒノヨコと訓むべきである。こゝは西の意なることは上に述べた。○やまさびいます いか(207)にも山らしい威容を具へてゐるの意。「います」と敬語を用ゐたのは山神を敬うたのである。○みみなしの 原本古寫本共に耳高〔右△〕之に作り、ミヽタカノ〔五字傍線〕と訓んであるが、地理上から藤原宮の北方に青菅山と形容すべき山は耳成山の外に無いから、これはたしかに「耳成」の誤寫である。○あをすがやま 青く菅の茂つてゐる山。菅には種々あるがこゝは山菅即ち麦門冬(龍の鬚)であらうと。宣長は菅を清《スガ》の借字として、青くすが/\しい山と解した。○そとも 北の稱。背《ソ》つ面《オモ》の約。成務紀に山陽を影面、山陰を背面とあれば、山を中心として、影面は日光《ヒカゲ》の當る南面の意、背面は日光の當らない即ちそれに背く半面なる北方の意であるのを、いつかたゞ南北の方位をさす語となつた。「友」は借字。○よろしなべ 程よい工合にの意。「よろし」は形容詞の終止言、それに「なべ」の接尾語を添へた。「なべ」は竝《ナミ》の義で、こゝは諸事兼ね備はる意に用ゐた輕い用法。○かむさびたてり いかにも神々しくして立つてゐるの意。○なぐはし 吉野に係る枕詞。名のよろしい、名の立派ななどいふ意。吉野《ヨシヌ》といふその名がよいのである。「くはし」は精妙の義。こゝは四音の句。○かげとも 南の稱。影《カゲ》つ面《オモ》の約。○おほみかどゆ 吉野は御門から遠く離れてゐるのでかくいふ。○くもゐにぞとほくありける 空のあなたに遠く峙つてゐるよの意。「くもゐ」は雲の在る所の義で、空又は天をいふ。○たかしるや 天に係る枕詞。高く覆うてゐるをいふ。又「たか」は美稱としても用ゐる。「しる」は領し治むる意。「や」は間投の歎辭。○あめのみかげ 天空の影。「み」は敬語。○あめしるや 日に係る枕詞。天を領し治むるの意。「や」は間投の歎辭。○ひのみかげのみづ 「天の御蔭、日の御影の水」は天の影日の影のうつる〔三字右○〕水の意。うつるは契沖説によつて補入した。千蔭もいふ、「御影といふにやがて映ろふ意はこもれり」と。祈年祭の枕詞に、「皇御孫命乃瑞能御舍乎仕奉※[氏/一]天之御蔭日之御蔭登隱坐※[氏/一]四方國乎安國登平久知食故爾《スメミマノミコトノミヅノミアラカヲツカヘマツリテアメノミカゲヒノミカゲトカクリマシテヨモノクニヲヤスクニトタヒラケクシロシメスガユヱニ》云々」とあるは天日を避けて蔭を作る義で、(208)御蔭が即ち殿舍なのではない。故にこゝを殿舍の水と解する古義の説は誤つてゐる。祝詞では蔭の意であるのをこゝでは影の意に取成して「御影の水」といふ。それに依つて眞淵は、天の御影日の御影にて湧く〔二字右○〕水と解したが、少し鑿に近い。○みづこそはとこしへならめ この御井の水は永久であるであらう。何時までも涸れぬをいふ。○みゐのましみづ 御井の結構な水。「ま」は美稱、「しみづ」は澄水《スミミヅ》の約。
【歌意】 安らかに天下を知し召すわが天子樣、天津日嗣を承けられた天子樣が、この藤井が原に皇居をお作り遊ばされ、埴安の池の堤の上に時々お立ちになつて御覽なさると、京地の青々と繁つた香具山は、東の御門に當つていかにも春の山らしく美しく茂り立つてゐる。又あの瑞々しい畝傍山は、西の御門に當つていかにも生き/\と山らしく鎭まつてゐる。又耳成の青い菅山は、北の御門に當つて誠に程よい形に神々しく立つてゐる。さて又名も麗はしい吉野山は、南の御門からずつと空のあなたに遠く聳つてゐる。このやうに四山に守護されつゝ形勝の地に位してゐるこの皇居に、天日の影の映射を受ける水こそは、永久變らず美しく澄み湛へるであらう。あゝ結構な御井の清水よ。
 
 
〔評〕 初頭枕詞を連用した莊重な調子、いかにも堂々たる叙出である。「麁妙の藤井が原云々」「埴安の堤の上にあり立たし」の二句は、叙事の進行を掌りながら自然對を成してゐる。「めし賜へば」の一句は第二段を展開する大事な楔子である。
 次に皇居を中心にして四山の形勝を説くに、四方の大御門に四つの名山を配屬させたその構想は面白いともいへる。尤も古代人はかく山を以て圍繞された土地を以て山靈の加護あるものと信じ、皇居としての理想地と(209)考へたらしい。鹽土翁が大和國をさして「東(ニ)有(リ)2美地《ヨキクニ》1、青山四(ニ)周(レリ)」と、神武天皇に御報告申し上けたのはそれで、疊名付青垣《タヽナヅクアヲガキ》山があれば吉野はよき國であり、山|竝《ナミ》のよろしければ甕《ミカ》の原|恭仁《クニ》の京が建てられ、奈良の京は四禽圖に叶ひ三山鎭を作して、大きい意味での山に抱かれた土地である。平安京も四神相應のかどで創始された。でこの藤原京も山で取圍まねば十分な讃美にならない譯だ。實は藤原の地は南こそ音羽《オトハ》多武《タム》高取の連山が聳えてゐるが、他の三方は吹き晒しの高地である。いはゆる大和三山は京の北東西三方に存在するものゝ、僅な平野の突起に過ぎず、圍繞の實を擧げ得ないが、流石に詞人の筆は靈妙で、青香具山、瑞山、青菅山などその自然美を推賞し形容して、一かどの山らしい山のやうに誇張し、三山鎭を作し一山遠く護る青山四周の形式美を完備させた。今日藤原京の故址に立つて顧望したら、世の俗士は實に詞人の虚誕に喫驚するであらう。
 上古から既に東西南北などの方位を示す語が存在してゐる。けれども日の經、日の緯、影面、背面の語はそれが具象的であるだけ、詩味がゆたかに、歌語としてはふさはしい。而も雄大なる自然の聯想を伴ふこれらの語を、一々大御門に結びつけて反覆したことは、上の「大御門はじめ給ひて」に呼應して、極めて有効に皇居の宏壯を強調する。
 この中腹の一段は一節三句より成り、それが四節聯對の形式を執つてゐる。試に書き分けてみると、
   やまとの青香具山は
      日のたて〔四字傍点〕の大御門に〔四字右○〕
                 春山としみさび立てり
   畝火のこの瑞山は
      日のよこ〔四字傍点〕の大御門に〔四字右○〕
(210)                瑞山と山さびいます
   耳無の青菅山は
      そとも〔三字傍点〕の大御門に〔四字右○〕
                よろしなへ神さび立てり
   名くはし吉野の山は
      影とも〔三字傍点〕の大御門ゆ〔四字右○〕
                雲居にぞ遠くありける
となり、その排偶が節々句々字々井整を極めてゐることは一目瞭然であらう。香具山を叙するに、その山色が蒼蒼としてゐるのでまづ「青香具」といひ、次に方角が東に當る處から、易理によつて「春山」といひ、木繁きがその特徴なので「しみさび」といふ。畝火山を叙するに、蒼欝としてゐるその感じに因つて「瑞山」といふ。耳無山を叙するに、その草山である處から「青菅山」といひ、山容の和やかに美しいので「よろしなへ」といふ。實におのおの形容の切實を盡してゐる。そして三山それ/”\を神格視した叙法は、勿論その時代思想のあらはれである。
 獨吉野山のみは前三節とは句法を換へて、いとも率直に「雲居にぞ遠くありける」と叙し去つた。これは駢儷の羈絆から脱して平板に陷る弊を避けたもので、その變化に規矩から解放された面白さがある。但實際からいふと、南の大御門から吉野山は絶對に見えない。それは南面に高市郡を劃する、三山などよりずつと高い音羽多武の連山が壁立してゐるからである。近いそれらの山々をさし置いて、見えもせぬ遠くの吉野山を擧げたその理由は如何。
 吉野は神武天皇以來皇室に由緒深い土地で、代々皇居の出張所たる觀をなしてゐた。「淑人のよしとよく見(211)てよしといひし」大和隨一の名勝である。殊に持統天皇には皇居と吉野離宮とを常に懸持で往來がなされてゐたから、苟も山といへば吉野を除外することの出來ないのが、その時代人の心理であつた。かう考へると、他の三山も地理的關係の外に、そのもつ三山傳説が重要なる役目を以て、こゝに登場したことゝ首肯される。
 又四山排列の順序もその用意の周到さに敬服する。即ち宮地に一番近い香具山を初頭に擧げ、最も遠い吉野山を最後に置いた。些細な事のやうだけれど、聯想の順序は自然かうあるべきである。
 末段、天といひ日といふ、それは常に高處に在つて人類に服從を強ふる。仰望は出來ても瞰下は許されない。そこに崇高森嚴なる神秘的想念を自然に發酵せしむる。而もその天の影日の影の映射を受くれば、森羅萬象一旦に光彩を生ずるので、常に驚喜と感謝とを伴ふ。吾人の先祖がこれを以て屡山岡を形容し、殿舍を形容して、その雄偉宏壯を稱へる賀頌の語とした所以もそこにある。その例にいはく、
  纏向《マキムク》の日代の宮は朝日の日照る宮、夕日の日かげる宮、云々。  (古事記、雄畧記)
  瑞のみあらかを仕へまつりて、天の御蔭日の御蔭と隱りまして。   (祈年祭祝詞)  わが宮は朝日の日向ふ處、夕日のかげる處の龍田の立野《タチヌ》の小野に、わが宮は定めまつりて。  (龍田風神祭祝詞)
 藤井の水はかく天日の影の常に照映する水であるといふ以上は、天の榮寵を蒙つた結構な水であらねばならぬ。隨つてその水が頗る清例で、天日の影を浮べてきらめいてゐることを帶映してゐる。「常へならめ」の讚語のおこるのは決して偶然でない。かく眞清水の永久を祝福した眞意は、間接に藤原新宮の永久を祝福するにある。「高知るや天の御蔭」「天知るや日の御影」の音律的交錯は朗かな諧調をなしてゐる。これは作者の創造ではないが、應用が適切なのである。結句反覆叙法によつての「御井の眞清水」のいひ捨ては頗る力強い表現で、創作の動機たる目的物象を最々後に据ゑて、がつしりと抑へた手際は、尋常一樣のものでは斷じてない。
(212) この篇分段的に見てゆくと、各立派な完成である。然し前二段と末段との交渉に想ひ到ると、殆どその連絡が付かない程にぼやけてゐる。第三段が餘に唐突な出現の如くに感ずる。雅澄は天皇が四方を眺望せらるゝを山を以て表はし、次に清きを求むる意にて水を叙べたりといひ、芳樹は山の環れる處は水清き故にまづ山をいひて水を稱ふる下組としたるなりと説いた。(野雁同説)雅澄の清きを求むる意とあるは全然附會であり、芳樹の説も殆ど謎のやうである。
 抑も宮地の所在地は藤井によつて呼ばれた原で、それが藤原とも略稱されてゐる以上は、藤原の新京當時にあつては、藤原宮と藤井とが殆ど不可分のやうに關係づけて考へられてゐたに違ひあるまい。藤井はその稱の如く藤葛の蔓延した下蔭の井で、井は人類生活の源泉だから、それが眞澄の水であつたら特に尊重せらるゝ筈で、古くからその周圍には多少の聚落が形作られてゐただらう。藤原の宮地を點定せらるゝに及んで、それらの人家は立退を命ぜられ、――文武の慶雲元年十一月、始(メテ)定(ム)2藤原宮(ノ)地(ヲ)1、宅入(ル)2宮中(ニ)1百姓一千五百五烟、賜(フコト)v布(ヲ)有(リ)v差(紀)――藤井ばかり由緒ありけに新宮内に取遺されたものであらう。これが即ち題にも「藤原(ノ)宮の御井」と特記せらるゝ所以である。新宮内の藤井の水、かく考へると、まづ皇居の壯を叙して、次に目的たるこの水の詠歎に及ぶことは決して不自然でない。况や上に「藤井が原に」と特に藤井を提唱して伏線を張つてあるではないか。
 徹頭徹尾、光彩陸離絢爛眼を奪ふの修辭と、重疊反覆した間に生ずる快い節奏とで終始してゐる。外相のもつ明るさと花やかさと滑らかさとは、紫氣天に沖する如き豪壯雄渾なる内容と相俟つて、一唱三歎、神氣は遠く藤原の宮の大御門に馳せ、藤井の水に影を鑑みする思あらしめる。
 作者は恐らく埴安池の行幸に供奉した官人の一人であらう。その東(日のたて)に就いて青色をいひ春をい(213)ふ、易や※[糸+讖の旁]緯學ぐらゐは覗いた漢學者であることが推想される。
 
短歌
 
○短歌 この「短」は反〔右△〕の誤かといふ説もあるが、目録には「藤原宮御井歌一首并短歌」とあり、このまゝで差支ないのである。
 
藤原之《ふぢはらの》 大宮都加倍《おほみやづかへ》 安禮衝哉〔左△〕《あれつくや》 處女之友者《をとめがともは》 乏〔左△〕吉呂〔左△〕賀聞《ともしきろかも》    53
 
〔釋〕 ○おほみやづかへ 大宮即ち禁中に奉仕すること。○あれつくや 在付《アリツ》くよの意。勤務することをいふ。「在り」をアレといふは古言。契沖の「生《ア》れ繼ぐ」の説は浮泛である。宣長は「哉」を武〔右△〕の誤として、アレツガム〔五字傍線〕と訓んだ。○ともしきろかも 「ともし」は羨ましの古言。「ろ」は接尾語で、「嶺《ネ》ろ」「子ろ」など集中に用例が多い。「かも」は歎辭。この句原本には「之吉召賀聞」とあつて、シキメサルカモ〔七字傍線〕など訓まれてゐるが、意義通ぜず、田中道麻呂が之〔傍点〕は乏〔右△〕の誤、召〔傍点〕は呂〔右△〕の誤として、トモシキロカモ〔七字傍線〕と訓んで以來、學者皆これに從つてゐる。果して「呂」に作つた古寫本は元暦校本以下數本ある。然し「乏」と書いた本はまだ發見されない。
【歌意】 この新しいめでたい藤原の大宮の御奉仕に、在りついてお勤め申すよ、その少女達はまことに羨ましいことだなあ。
 
〔評〕 長歌の方では、藤原の新しい宮居を、端嚴崇高な詞句の限を盡して讃歎した。さてこれは趣向を一轉して、(214)かゝるめでたい大宮に、幾久しく在り/\て仕へまつる少女達の幸福と光榮とを欽羨してゐる。蓋し持統天皇は女帝にましますので、それは上の「たわやめの袖吹き返す飛鳥風」の條で評した如く、女官女童の類が多く奉仕したらしいから、新しい御殿に花のやうに美しい影の往返※[行人偏+且]徠するのが頗る目について、ほゝ笑ましい感興を牽いた爲であらう。そしてかう少女達の大宮仕を羨むことが、側面からこの藤原の新宮を禮讃したことになるのである。詩人の老獪手段にはいつも乘せられる。
 
右(ノ)歌、作者未v詳(カナラ)。
 
 眞淵もこの短歌は長歌の反歌でなく別箇のものだと論じてゐる。勿論御井の歌ではないが、藤原宮禮讚の意は長歌と共通してゐるので、全く不可分の作である。從つて左註の「作者未詳」は長歌にまで溯らせて見るべきであらう。又守部がこの短歌をも人麻呂の作としたのは、確定の無い單なる臆測に過ぎない。
 
大寶元年(の)辛丑(の)秋九月、太上天皇《おほきすめらみこと》幸(せる)2于紀伊(の)國(に)1時(の)歌
 
文武天皇の大寶元年の秋九月、持統上皇が紀伊國に御幸があつた時の歌との意。○太上天皇 上皇の尊號。「太上」は禮記の「太上(ハ)尚(ブ)v徳(ヲ)」の語から出た。わが邦では持統上皇がこの尊號の始。○幸于紀伊國 續紀に「大寶元年九月丁亥、天皇(文武)幸(ス)2紀伊國(ニ)1、冬十月戊午、車駕自(リ)2紀伊1至(リマス)」とあつて、本文と違やうであるが、これは太上天皇と天皇と御同列であつたことが、卷九に「大寶元年辛丑冬十月太上天皇(持統)大行天皇(文武)幸(セル)2紀伊國(ニ)1時(ノ)歌」とあるので立證される。△地圖 挿圖66を參照(一九二頁)。
 
(215)巨勢山乃《こせやまの》 列列椿《つらつらつばき》 都良都良爾《つらつらに》 見乍思奈《みつつしぬばな》 許湍乃春野乎《こせのはるぬを》    54
 
〔釋〕 ○こせやま 大和南葛城郡|古瀬《コセ》村巨瀬驛の西に連亙する小山。和名鈔に高市郡、藻鹽草に葛上郡とあるのは、郡の地域の變遷による。「巨」をコと讀むは呉昔。○つらつらつばき 生ひ列なつた椿。この「つらつら」を三句にいひ重ねて序とした。○つらつらに 熟々《ツク/”\》との意。「見つつ」に係る副詞。○しぬばな 愛で思はう。「な」は未來の助辭。舊訓はオモフナ〔四字傍線〕であるが、彦麿はオモハナ〔四字傍線〕、古義はシヌバナ〔四字傍線〕と訓んだ。○こせのはるぬ 巨勢野は巨勢山の麓に沿うた南北に長い野で、そこを能登瀬《ノトセ》川(曾我川の上流)が北へと貫流してゐる。「許湍」は巨勢の字面を換へたもので、音訓の交錯。「湍」は激瀬だからセ〔傍点〕と訓ませた。
【歌意】 あの巨勢山には美しい花椿がつら/\と咲き列なつてゐる、そのつら/\と巨勢の春野の景色を見い見いして、面白くめで思はうよ。
 
〔評〕 初二句は眼前の事象を捉へて、三句の序詞としたのである。然しそれは單なる發音の類似といふやうな字句上の技巧にとゞまらず、いはゆる有心の序であつて、内容的にも一首の上にめぐつた句となり、頗る巧妙な修辭である。「つら/\」の反復は、ツラ〔二字傍点〕の音の四疊となつて、頗る流滑な諧調をなしてゐる。
 藤原の宮から紀伊へ行くには、必ず巨勢路を通るのであるが、その右方の山が巨勢山で、そこには椿並木があつたと見える。昔から椿はわざ/\栽培したもので、有名な金谷の海石榴市《ツバイチ》も、椿の實の取引市場であつたことを明示してゐる。椿はその果實から油を搾るのが目的で、遠く支那まで輸出したことが紀に見える。
(216) 今巨勢路にさしかゝると、眼前に忽ち滿幅春光の活畫圖が展開された。山縣づいた列々椿は眞紅の花を着けて咲き亂れ、麓の野邊の若草は美しい花模樣入のなごやかな緑の筵を敷き渡してゐる。乃ち山の列々椿を序詞に運用して、山花に映發する野邊の春色に、留連去る能はざる興會を叙べた。
 既に巨勢山といひ、又重ねて巨勢野といふ、一寸煩しいやうだが、山野の春色が對立的に互に映發しあつてゐる趣が言外に搖曳して、却つて面白い。而も極めてその山も低くその野も狹い場處であることが、兩者を撮合してかく一括的に歌ひ去るに、最も適應してゐることを忘れてはならぬ。いかにもやは/\とした手ざはりのする明妙《アカルタヘ》のやうな作である。
 この歌を解するに、契沖を始め古今の學者、多くは題詞に絶對信用を置き、秋日にあつて春野の樣を想像した趣としてゐるが、下の「河のへのつらつら椿云々」の歌が正に春の歌ではないか。この二首は必ず一首が兩樣に傳誦されたものに相違ないと信ずる。古義はこの題詞を誤と見て、大寶元年春二月、吉野宮行幸の時の歌とし(217)た。從ふべき説と思ふのである。
 
右一首、坂門人足《サカトノヒトタリ》
 
 これは從駕の一人であらうが、傳未詳。恐らく卑い身分の人と思はれる。
 
朝毛吉《あさもよし》 木人乏母《きびとともしも》 亦打山《まつちやま》 行來跡見良武《ゆきくとみらむ》 樹人友師母《きびとともしも》    55
 
〔釋〕 ○あさもよし 麻裳よしの意で、「朝毛」は借字。「よし」は詠歎の助語、「惡し」に對する「善し」ではない。奈良の枕詞の「青丹よし」や、讃岐の枕詞の「玉藻よし」と同格で、「よし」を隔てゝ麻裳着ると續いて、紀の枕詞に用ゐる。○きびと 紀の國人。紀國は本義が木の國であるから、「木人」「樹人」など書いた。○ともしも 羨ましいことよ。「も」は歎辭。「友」は借字。○まつち山 眞士山。大和國字智郡|坂合部《サカヒベ》村から紀伊國伊都郡隅田村へ越える峠。眞土山とは眞土即ち赤土の露出が目についた故の名と思はれる。「亦打」は借字。マタウ〔二字傍点〕チの約はマツチである。尚「亦打」のことは卷六「古ごろも亦打山」の條參照。○ゆきくとみらむ 往くと見、來《ク》と見らむの略で、往き來《キ》に常に見るだらうの意。「らむ」は動詞の第三變化を受けて、見るらむ〔四字傍点〕といふが普通であるが、かく第二變化を承けて「見らむ」といふは古格である。「人皆の(218)見らむ松浦の玉島を」(卷五)の用例もある。△地圖 挿圖46を參照(一四三頁)。
【歌意】 紀の國人は羨ましいことだなあ。この美しい姿の眞土山を、往くにも來るにも道すがら常に眺めてゐるだらうと思はれる紀の國人は、ほんに羨ましいことだなあ。
 
〔釋〕 眞土山は籍こそ大和の方にあるが、實は國境にあつて、紀伊への往還の峠になつてゐる。だから大和の都人たる作者よりは紀の國人の方が、この山には不斷馴染が深い譯である。そこでこの山を往きにも歸りにも不斷に見馴らしてゐる紀の國人は、全く果報者で羨ましい限りだと、表面は單に羨望の情を叙べてゐるのみであるが、これ老巧詩人の動もすれば試みる例の側面描寫であつて、かく羨ましいことを二度も反復したのは、實は眞土山を甚しく愛賞する意を娩曲に叙したもので、その含蓄の味ひがまことに而白い。
 只一つ困つた事は、眞土山は字智平野の南邊を遮つて、目に立つ岡勢ではあるが、碌に圭角も特徴もなく、讃歎される程のいゝ山とも思へない。樹木が欝蒼としてゐてその日受の南面は美しいともいへようが、その位の景色は月竝である。こゝに至つて一旦は作者の心境を疑つてみたが、忽にその理由(219)が判明した。
 それは外でもない、眞土山が國境の峠であることに起因してゐる。現今の如く交通機關の便利な時代では、小區劃の國境などには全然深い執着をとめ得ないが、五寸の草鞋に山河の跋渉を事とした古代では、國境といふことが、如何に旅情を刺戟し覊愁を唆つたことであらう。平凡な川一つの隔てでも「限なく遠くも來にけるかな」と都鳥に寄懷し(伊勢物語)おなじこの峠を越す情人を想起しては黄葉の飄零に詠歎を永うした(本集卷四)例がある。豫て國境にその存在を知悉してゐる眞土峠を、今目のあたり踏破する旅人の瞬間の感激、それがこの歌の主想である。而もその一向旅愁に囚はれた形迹の認められぬのは、微臣ながらも行幸の大御供仕へまつる歡喜と光榮とに醉うてゐた爲であらう。
 第二句を第五句に反復するは古體の一つで、類歌が可なり多い。
  つるはしとさ寢しさ寢てば〔七字傍点〕刈薦の亂れば亂れさ寢しさ寢てば〔七字傍点〕  (古事記下履中記)
  平潟ゆ笛吹きのぼる〔六字傍点〕近江のや毛野《ケナ》のわく子が笛吹きのぼる〔六字傍点〕  (繼體紀)
  さくら田へたづ鳴き渡る〔六字傍点〕あゆち潟汐干にけらしたづ鳴き渡る〔六字傍点〕  (卷三、黒人―271)
まづ第一印象を直叙して初句二句を構成し、更に第二印象から得た説明語を三四句に填充して、二句と結句と同一の詞形を反復する。詰り漸層的に感激を反復する、かうした表現法は讀者においては同情を強制的に催促される。
 
右一首、調首淡海《ツキノオヒトアハウミ》
 
 この人の名は天武紀に見えて居り、又續紀に、和銅二年正月に正六位上|調連《ツキノムラジ》淡海に從五位下を授けられ、(220)同六年四月に從五位上、慶雲七年五月に正五位上に昇進した由見えてゐるが、その事蹟は詳でない。初は首姓で後に連姓を賜はつたものと見える。
 
或本(の)歌
 
河上乃《かはのへの》 列列椿《つらつらつばき》 都良都良爾《つらつらに》 雖見安可受《みれどもあかず》 巨勢能春野者《こせのはるぬは》    56
 
〔釋〕 ○かはのへの 河のほとりの。この川は巨勢山下を流れる能登瀬《ノトセ》川をいふ。
【歌意】 この川のほとりの美しい花椿は、つら/\に咲き列なつてゐるが、實に巨勢野の春景色は、そのつらつらに眺めても少しも眺め飽きない、實によい景色だ。
 
〔評〕 この歌は「或本(ノ)歌」と題してあるのを見ると、上の坂門人足の作「巨勢山のつら/\椿」の評の項にも述べた如く、同じ歌の異傳であつて、別箇の作ではない。只何れが原作であるかは輕々には速斷し難いけれども、姑く、この本文記載の形式に從つて、人足の方を原作と定める外はあるまい。而して兩者の間には大した根本的差異がないから、改めてこゝに評しない。たゞ四の句は人足の作の方がふつくりして趣がある。
 
右一首、春日(ノ)藏首《クラヒト》老《オユ》
 
 この人の傳は後出「三野連入唐時云々」の條を見よ(二三一頁)。
(221) 藏首は姓であるが、これは倉を掌る官のやがて姓となつたものである。尚このこの人の歌は、法師名のも俗名のも本集中他の卷に散見してゐる。
 
二年(の)壬寅、太上天皇《おほきすめらみことの》幸(せる)2于|參河國《みかはのくにに》1時(の)歌
 
大寶二年持統上皇が參河國に御幸あらせられた時の歌との意。續紀に「大寶二年冬十月甲辰、太上天皇幸(シ)2參河國(ニ)1、行(ク)々所(ノ)2徑過《スグル》1尾張美濃伊勢伊賀等(ノ)國(ノ)郡司及百姓、叙(シ)v位(ニ)賜(フコト)v禄(ヲ)各有(リ)v差。十一月丙子朔戊子、車駕至(リマス)v自2參河(ノ)國1。」とある。
 
引馬野爾《ひくまぬに》 仁保布榛原《にほふはりはら》 入亂《いりみだり》 衣爾保波勢《ころもにほはせ》 多鼻能知師爾《たびのしるしに》    57
 
〔釋〕 ○ひくまぬ 遠江國敷智郡にある。今の濱松附近の原野。引馬は驛の名。○はりはら 萩原である。ハリ、ハギは音通であることは、集中、ヤマブキに「山振」の字を充てゝあるのでも證せられる。芳樹は、「榛」は蓁と通ずる字で、ハリが本名で、ハギはハリ木の略だといつてゐる。契沖、宣長、枝直等はこれをハンノ木のこととし、その樹皮は染料となる物ゆゑ、「衣匂はせ」とも詠むのだと論じてゐるのは無理である。この句の下、に〔右○〕の辭を含む。尚委しくは榛原考(雜考―5)を參照。○ころもにほはせ 衣を花に染めよの意。萩の花摺衣をつくるをいふ。「にほはせ」は命令格。○たびのしるしに 旅の記念に。
【歌意】 この引馬野に咲き匂ふ萩の原、さあ皆の人々よ、そこに入り込んで、花を亂して遊びつゝ、衣を花の色(222)に摺り匂はせるがよい、折角此處まで來た旅の記念にさ。
 
〔釋〕 持統上皇の今回の御幸は、題詞には「幸于參阿國」とあるが、それは大凡を擧げたもので、實際はかく遠江までも御巡幸になつたのであつた。想ふにこの御幸は、御遜位の後の事だから、勿論多少は政治的意味も伏在してゐるにはゐたらうが、主としては遠つ淡海の名の由來する濱名湖の風光を御覽なさる爲であつたと拜察される。
 引馬はその名の明示してゐる通り、驛の所在地であるから、此處に御駐輦遊ばされたことゝ思はれる。所謂引馬野はその附近に展開する原野である。時はこれ十月(今の十一月に當る)、萩の花の季節は過ぎてはゐるもの、又おくれ咲のめでたいのも混つて、その娟姿を競うてゐたに違ひない。但これは作者が實際引馬野に立ち入つての作ではない。只萩原に入り亂れて遊びつゝ衣を匂はす面白げな懷かしげな行爲を胸中に描いて、その實行を同行の誰れ彼れに慫慂したもので、全く旅中の逸興が主である。だからあながち萩の花盛りでなくとも、大體そんな見當であれはよいのである。かく考へて更に「入り亂り衣匂はせ旅のしるしに」の語調を諦視すると、畢竟供奉の官人等に、誰れも引馬野の野遊を試み(223)なかつた事を反證するものであることが看取されよう。即ち作者一人が大いに浮かれ立つて、いゝ氣分になつてゐる樣子があり/\と見えるのである。
 「入り亂り」は働いた表現で、人達の萩原に群遊する光景がこの一語に躍如とする。四五句の倒装は單に諧調の快感が湧くのみではない、「旅のしるし」を強く欲求する旅人の氣分がそこに流動してゐる。
 昔は植物の花や葉で、いきなり布帛に摺り付ける原始的の染法が行はれ、「杜若衣に摺りつけ」(卷七)の「月草の移ろひ易く」(卷四)のと、歌にも詠まれた。萩の花は染料としては月草に劣るが、その摺り付けた紫色はまた何ともいへない美しい明るさと懷かしさとがあり、面白い亂れ模樣が出來る。が、所詮實用的の物ではなく、只風流なる一時の興趣を弄ぶのである。
 尚この歌、第二句に「匂ふ」といひ、第四句に又「句はせ」といふ、不用意の重複としか見えない。但古人は餘りこんな點に拘泥しなかつた。      △榛原考 (雜考―5參照)
 
右一首、長忌寸奥麿《ナガノイミキオキマロ》
 
 奥麿の傳は詳かでないが、卷三にも歌が出て居り、又卷二、卷九、卷十六等に長忌寸|意吉《オキ》麿とあるのも、恐らく同一人であらう。書紀などに所見が無いが、相當な歌人と思はれる。長は氏、忌寸は姓。
 
何所爾可《いづくにか》 船泊爲良武《ふなはてすらむ》 安禮乃崎《あれのきき》 榜多味行之《こぎたみゆきし》 棚無小舟《たななしをぶね》    58
 
(224)〔釋〕 ○ふなはて 船が着いて泊るをいふ。○あれのさき 濱名湖岸の地名であらう。「あれ」は荒の義か。地名辭書には、遠江濱名郡新居の地をこれに宛てゝゐる。今の新居は陸であるが、この邊は地形の甚しく變化した處で、もとは湖水續きの水であつた。美濃、三河などいふ説は無論承け難い。○こぎたみ 漕ぎまはつて。「たみ」は「岡前《ヲカザキ》のたみ〔二字傍点〕たる道を」(卷十一)、「奥つ島こぎたむ〔二字傍点〕船は」(卷三)、「みぬめの崎を漕ぎため〔二字傍点〕ば」(卷三)などの用例から推せば四段活用の動詞であり、又多く「囘」「廻」などの字を宛てゝゐる所から見れば、曲り入りめぐる意の古言である。○たななしをぶね 「たな」は船棚で、波を防ぎ、又は舟人の舷側を往來するに便せんが爲に船の縁に渡す板である。和名妙に、「※[木+世](ハ)大船(ノ)旁板也。不奈太那《フナダナ》」とある。※[木+世]を又セガイともいふ。小舟にはその※[木+世]が無いから、棚なし小舟といふのである。
【歌意】 何處にまあ今夜は船泊りをすることだらうか、目路《メヂ》遙かな安禮の崎を漕ぎめぐつて往つた、あの棚なし小舟はさ。
〔評〕 煙波縹渺として際涯も無い太湖の水、岸を?む白波より外は、視線を遮る物は何も無い。たま/\一葉の舟が出崎の安禮《アレ》を漕ぎめぐつて、影を煙波の間に沒し去つた。あとは又もとのやうに見渡す限り微茫蒼然たる光景に返つて、物心細い不安な氣分にひし/\と襲はれる。あゝあの小舟は今夜は一體どこに船はてすることだらうかと、その行方が氣にかゝる。そこに懷かしい作者の同情の閃きが見える。
 こゝに至つて作者の立場を考察する必要を生じた。作者は行幸供奉の一旅人であつた。旅中夕暮の物心細く、郷思頻に催して堪へ難い折柄、湖上の葉舟に對して「いづくにか舟はてすらむ」と思ひ遣るは、即ちわが(225)心境のわびしさをそれに諷託寄興したものである。
 「漕ぎたみゆきし」と過去になつてゐるので、現在に漕ぎ囘つてゆくのよりは、その不安さが一倍深く印象され、從つて「船はてすらむ」の想像に愈よ強さが加はつてくるのである。
 
右一首、高市連黒人《タケチノムラジクロヒト》
 
 高市連黒人は相當の歌人で、本集中に多く歌を遺してゐるが、その傳は明かでない。然し連の姓を記した點から見ると、微官ながらも六位程度には昇進した人だらう。
 
譽謝女王《よさのひめみこが》作歌
 
題詞の書式を異にする點から見ると、この歌は上掲二首の歌と違ふ場合の作かとも思はれるが、歌の内容及び次に出づる二首の書式に照して見れば、尚同じ御幸の際、京に留つた作者が、從駕の夫君を思つての作と見るべきである。○譽謝女王 續紀慶雲三年の條に「六月癸酉朔丙申從四位下譽謝女王卒(リヌ)」とあり、この作者と同一人と思はれるが、傳は明かでなく、その夫君の名も知られない。
    
流經《ながらふる》 雪〔左△〕吹風之《ゆきふくかぜの》 寒夜爾《さむきよに》 吾勢能君者《わがせのきみは》 獨香宿良武《ひとりかぬらむ》    59
 
(226)〔釋〕 ○ながらふる 「らふ」はル〔傍点〕の延言で、流るゝに同じい。雪に流るゝ〔三字傍点〕といふは、その續けて降るをいふ。「天《アメ》の時雨のながらふ見れば」(卷一)、「小松がうれゆ沫雪ながる」(卷十)などの例がある。「經」は借字。〇ゆき 諸本皆妻〔右△〕となつてゐるので、諸註これを衣の褄〔傍点〕の借字となし、從つて初句を、夜の衣の裾長く引延へた意に解したが、これは久老が雪〔右△〕の誤寫とした説が勝つてゐる。○さむきよに 寒き夜なる〔二字右○〕に。○わがせのきみ 從駕の夫君をさす。
【歌意】 ひつきりなしに降り續く雪を吹く風の寒いこの夜だのに、自分の大事な夫の君は、旅の空で自分と同樣に、今宵も獨りわびしく御寢なつて居られることだらうか。おいとしいこと。
 
〔評〕 書紀所載の干支を繰つて見ると、この參河御幸は、十月十日の御發輦、十一月二十五日の御還幸であつた。殆ど三十五日の間、從駕の夫君を戀ひながら、女王は大和の京に留守居されてゐたのである。十一月も下旬となると冬のさ中で山縣近い北受けの藤原の京では、もう雪がちらつき木枯が叫ぶ。獨寢の夜床の冴えは愈よ甚しい。それにつけても悶々の焦心は頻に旅中の夫君の方へ飛ぶ。
 乃ち旅中における夫君の生活状態を想像に描き、自分が今直面してゐる夜寒の苦も弧閨の無聊も、皆夫君の上に押付けて、これを自分と同じ境地に落着させて、さて「獨かぬらむ」と、飽くまでその覊中の苦に同情を寄せたことは、即ちその綿々として盡きぬ情緒の濃やかさを語るものに外ならぬのである。「獨」の語が眼目である。三句まで一氣に流れた調子は、なだらかさに伴ふ女らしいやさしさをもつ。
 
(227)長皇子《ながのみこの》御歌
 
○長皇子 續紀靈龜元年六月の條下に「甲寅一品長(ノ)親王薨(ス)、天武天皇(ノ)第四之皇子也」と見えてゐる。御母は大江(ノ)皇女。目録にはこの題詞の下に更に「從駕作歌」の四字があるが、歌の内容を察するに、京にゐて、從駕の愛人などの上を思ひやつた趣であるから、契沖の説の如く、目録のこの四字は衍として削るがよい。
 
暮相而《よひにあひて》 朝面無美《あしたおもなみ》 隱爾加《なばりにか》 氣長妹之《けながきいもが》 盧利爲里計武《いほりせりけむ》    60
 
〔釋〕 ○よひ 夜の意に解するのが本義であるが、もうこの時代には初夜〔二字傍点〕の意が生じてゐたと見えて、「暮」の字を宛てゝゐる。「よひ」は最初からの訓で、これに異説は無い。○おもなみ 面目無さに。女が男に逢つたその翌朝、羞らつてきまりわるげに面《オモ》隱しする趣を取つて、「なばり」の序とした。「なばり」は四段活用動詞の第二變化。隱る〔二字傍点〕の古言である。それを伊賀の地名名張〔二字傍点〕にいひ懸けた。○なばり 「なばりのやま」を參照(一六九頁)。○けながきいも 月日が隔つて久しく逢ひ見ぬ妹の意。「け」は來經《キヘ》の約で、「け長き」は月日の久しき間をいふ(宜長説)。○いほり 盧入《イホイリ》の義。假屋。「いほりす」といへば(1)假屋を造ること。(2)假屋に宿泊すること。○せりけむ 「せり」はしてあり〔四字傍点〕の變形で體言を承ける助動詞。「けむ」は過去推量の助動詞であるから、こゝはシテヲツタヾラウと譯すべきであるが、それでは意味が通じない。してゐるだらう〔七字傍点〕の意に見ねばならぬ變態である。△地圖 挿圖33を參照(一〇三頁)。
(228)【歌意】 御幸のお供に仕へて隨分久しくなつたわが愛する妹は、もう段々都に近づいて、今夜あたりは伊賀の名張の里で旅の假廬に宿つてゐることであらうか。早く逢ひたいものだ。
 
〔評〕 作者の愛人は三河御幸の御供で往つてゐたものと見える。續紀によつて按ずると、十一月には、十一日尾張、十七日美濃、二十二日伊勢、二十四日伊賀、二十五日御歸京といふ日取になつてゐる。二十二日伊勢まで御還幸の報は、既に早馬で京には齎されてゐたであらう。すると「名張にか廬せりけむ」の想像も相當根據ある譯になる。そこでこの歌は十一月二十三四日頃の作と見て誤はあるまい。懷かしい人の行程を、かく仔細に測定したことは、一日千秋と待ち焦れる思慕の情の濃かさを思はせる。そして待ちに待つて、もう兩三日で逢はれるといふ希望の輝を、下に力強く感じさせる。上出、
  わが背子はいづくゆくらむ沖つ藻の名張の山をけふか越ゆらむ (當麻眞人麿妻)
と殆ど相似た着想である。
 さてこの歌の構成を見るに初二句は序詞である。序歌の性質として、その修飾は成るべく懸け離れた構想を上乘とする。それは被序語から意趣が急に轉換するので、そこに豫想を裏切る好奇の感と興味とが發生するからである。然るにこの初二句は、會合の朝の婦人の嬌態を叙したものであるから、四句の「妹」とあるに混線して、歌意が煩冗と不透明との憾を招く。然し又思ふに、卷八、縁達師の、
  よひにあひてあした面無みなばり野の萩はちりにき黄葉《モミヂ》はや續げ (―1536)
も全く同一序詞である。時代はこの歌の方が或は早いらしい。すると當時「なばり」の修飾として、こんな成(229)語が一般に流布してゐたのではあるまいか。それをこの作者も縁達師もそのまゝ流用したので、同じ上句が出來たものとする方が、穩かな見解であらう。かく作者獨創の句でない常套文句とすれば、後世の我々が考へる程、この序詞は重い意味を持たなくなり、隨つて餘り大した差合もない譯である。とはいふものゝ、綺靡艶冶の弊に墮することは勿論である。
       △枕詞及び序歌の本質(雜考―6參照)
 
舍人娘子從駕《とねりのいらつめがみともつかへまつりて》作歌
 
○舍人娘子 「舍人」は氏である。「娘子」は若い婦人の敬稱で、郎子《イラツコ》の對稱。平民の場合ではこの文字をヲトメ〔三字傍線〕と訓んだ。さてこの人、名も傳も詳かでない。然し從駕の文字を使つた點から察すると、この娘子は公卿の位置に匹敵する程の身分の人と思はれる。多分女帝持統の側近奉仕の女官中の長上たる人であらう。
 
大夫之《ますらをが》 得物矢手挿《さつやたばさみ》 立向《たちむかひ》 射流圓方波《いるまとかたは》 見爾清潔之《みるにさやけし》    61
 
〔釋〕 ○ますらを 「ますらを」及び「大夫」のことは既出(四〇頁)。○さつや 幸矢《サチヤ》の轉。獵に用ゐる矢をいふ。幸は海幸山幸のさちで、獵に仕合せのある矢の意である。故に「得物矢」と書いた。但「射る的形」と續けてあることから考へると、こゝの幸矢は的射《マトイ》に用ゐたもので、その本義は轉つて、「さつ」は只美稱に添へた語と見るがよい。○たばさみ 手に挿み、即ち持ちの意。古義にダハサミ〔四字傍線〕と清濁を顛倒すべしと論じてゐるが、(230)奇怪な説である。この語をさう讀まねばならぬ理由も無く、又さう讀んだ例證も無い。しかもこの集に用ゐた漢字は、清濁が便宜次第で變化し、確定的でない。○たちむかひ 的に對するをいふ。仙覺抄に「弓射る時二人立向ひて矢を指に挿みて射る」とあるが、射禮の方式はさることながら、こゝには無用の沙汰である。○いる こゝまで序で、地名の的形にいひ懸けた。的形は普通名詞としては、弓射る時の標的をいふ。○まとかた 伊勢國多氣郡東黒部の浦の故名であるが、地形變化して今は陸地。同國風土記に「的形(ノ)浦此浦(ノ)地形似(タル)v的(ニ)故(ニ)以(テ)爲(ス)v名(ト)、今已(ニ)跡絶(エテ)成(ル)2江湖(ト)1」とある。播磨の的形はこゝには與らない。「圓方」は戲書。○さやけし 「潔」にも清の意がある。
【歌意】 的形の浦は、かうして來て見るに、それは/\明媚で氣持がよいわ。
 
〔評〕 序歌は、その主となる句意は極めて簡單なのであるから、序詞を除いて見れば一向つまらないものになる。たゞ長々と歌ひおろして、遙かにその目的語まで持つてゆく道程の間に、叙述上の面白味が湧き、悠揚迫らざる氣分が搖曳する。そして序詞で修飾された目的語の名詞なり動詞なりが、殊に力強く印象づけられるのである。この悠々緩々たるのどやかな氣分は、後世に至るほど減少して、遂に序歌の面白味が理解されなくなつて(231)しまつた。
 芳樹がこの歌を、詞が足りないから序詞で補足したのだと説いたのは、本末顛倒のいみじき妄説であつて、これは最初から序歌の組織でゆくつもりで歌つたものである。的に向つて弓場に立つてゐる丈夫の樣子はよく出てゐる。優しい婦人の口からも、こんな太い線でこんな事が歌はれたことを思ふと、一般に奈良朝人の氣象の剛健さが推測されるのである。
 
三野連《みぬのむらじの》名闕 入唐《もろこしにゆく》時、春日(の)藏首老《くらびとおゆが》作歌
 
三野連が唐土に往つた時、春日(ノ)老が詠んだ歌との意。〇三野連 三野《ミヌ》は氏で、美努とも書く。連は姓。「名闕」とあるは後人の註であらうが、官本などの勘物に、「國史(ニ)云(フ)、大寶元年正月遣唐使民部卿粟田(ノ)眞人(ノ)朝臣以下百六十人、乘(リ)2船五艘(ニ)1、小商監從七位下中宮少進美努連岡麻呂〔六字傍点〕云々」とあるから、名は岡麿であることが分る。尤もこの國史とは何を指すか明かでない。續紀には粟田眞人以下の遣唐の事はあるが、岡麿の名は見えない。然し明治五年に大和國平群郡萩原付から發掘された美努(ノ)岡|萬《マロ》の墓志に、「大寶元年歳次辛丑五月使(ス)2乎唐國(ニ)1」とあるから、岡麿の入唐は疑もない。○入唐 唐土に往くをいふ。眞淵がこれは唐土を本としたいひ方で顛倒であると論じたのは尤もである。昔から邦人は外國文化の崇拜狂であつた。○春日藏首老 春日は氏、藏首は姓で、倉人とも書く。老は名、もと辨基といつた僧である。續紀の大寶元年三月の條に「令(メ)2僧辨紀〔二字傍点〕(ヲ)還俗(セ)1――賜(フ)2姓(ヲ)春日倉首、名(ヲ)老(ト)1、授(ク)2追大壹(ヲ)1」と見えた。辨基と辨記とは同人である。和銅七年正六位上より從五位下となる。懷風藻に、(232)從五位下常陸介、年五十一とある。〔頭注、なほ、墓志によれば、岡麻呂は靈龜二年正月從五位下主殿頭、過〔二字右○〕、神龜五年十月二十日卒、年六十七であつた。〕
 
在根良《あれねらの》〔良の左に「よし」、七版にはない〕 對馬乃渡《つしまのわたり》 渡中爾《わたなかに》 幣取向而《ぬさとりむけて》 早還許年《はやかへりこね》    62
 
〔釋〕 ○あれねらの 對馬の修飾で、明礁暗礁の散在状態をいつた。「あれねら」は荒根らで、荒根は荒い磯根をいふ。「ら」は接尾語。この詞の構成は嚴秀《イカホ》(伊香保)呂《ロ》と稍同じい。而も「あれ」は固有名詞となり、對馬の地名に阿禮の濱があり、濱名湖にも阿禮の崎があつた。阿禮の濱には阿連《アレ》村が立てちれ、西は對馬の西水道に面してゐる。日本後紀に「延暦二十四年遣唐便(ノ)船、五月十八日於(テ)2明州下※[賛+おおざと]縣(ニ)1兩船解纜、六月五日一船到(ル)2對馬島下縣郡阿禮〔二字傍点〕村(ニ)1」とある。正辭は荒嶺《アラネ》よとの意で、青土よし奈良、麻裳よし紀に類する辭樣の枕詞としたが、奈良は青土に、紀は麻裳に、おの/\縁語のいひかけ詞態になつてゐるのに、荒嶺と津とは何の交渉もないから、その構成が無理になる。他は皆誤字説で終始してゐる。即ち眞淵は布根盡《フネハツル》、百船能《モヽフネノ》、百都舟《モヽツフネ》など、宣長は布根竟《フネハツル》、古義は大夫根之《オホブネノ》の誤とした。以上は何れも津にいひかけた對馬の枕詞と解した。○つしまのわたり 當時唐土三韓へ渡るには、對馬が足溜りの船着き即ち津であつた。「つしま」は津島の義で、この島の東西水道を、對馬の渡といつた。○わたなか 海上をいふ。「渡」は借字。○ぬさとりむけ 「ぬさ」は祷總《ネギフサ》の義で、幣又は麻の字を宛てる。何でも神に捧げるが本で、主と(233)してその布帛の稱となつた。「とりむけ」は手向けること。○こね 「こ」は加變の動詞の命令形、「ね」は懇な意味をもつた命令の助辭。「許」をコと訓むは呉音。
【歌意】 遙々と唐土に行かれるあなたは、あの恐ろしい荒磯の根張つた對馬水道の海上で、海神に幣を手向けて、どうか無事に早く歸つていらつしやいませよ。
 
〔評〕 海中に幣取向けるのは、航路の安全を祈る爲である。蓋し當時では、風波の荒い日本海渤海灣の横斷は、頗る冒險な航海であつたことはいふまでもない。往くもいや還るもいやな、命賭けの旅に相違なかつた。けれども王事は如何ともし難い。絶體絶命の場合は、最早神佛を頼むより外に致し方がない。こゝに至つて海中に幣取向けることが、最も有意味になつて來るのである。當時はわが國内の浦傳ひ、磯傳ひの舟行ですら、わたつみの道觸《チブリ》の神に手向せざるを得ない程、海に對しては恐怖を抱いてゐた時代であつた。否、恐怖を抱かざるを得ない程、舟楫の幼稚な時代だつたのである。
 當時の支那は唐の時代であつた。その首府たる長安は今の西安府であるから、幸に決死的航海を終へて後も、陸路の旅がまた雲山萬里で、大變な苦勞であつた。だから只往つて歸つて來るだけでも早くて一年だ。無事に御用を果して歸れる者は仕合せ者である。この時の渡唐も大寶二年六月に出發、慶雲元年七月に歸朝したので、足掛三年かゝつた。かういふ事情であることを基礎としてこの歌を吟味すると、「はや歸りこね」の一語が、如何に大事な語であるかが分る。渡唐の三野連に對する送別の詞としては、これに上越す懇情の贐はなかつたであらう。
(234)  あら津海に吾が幣まつり齋《イハ》ひてむ早還りませ面《オモ》がはりせず (卷十二―3217)
は全くこれと同一の境地に置かれた感想である。この他遣唐使等の出發に臨んで、「早還りませ」と呼び掛けた作が、集中三首まである。
 
山上臣憶良在2大唐1《やまのうへのおみおくらがもろこしにありし》時、憶2本郷1《くにをおもへる》歌
 
山上憶良が唐土に在留してゐた時、故國の日本を憶うて詠んだ歌との意。○山上臣憶良 山上は氏、臣は姓、憶良は名である。次に擧げた如く大寶元年に無位から遣唐少録となりて渡唐し、和銅七年正月正六位下から從五位下に進み、靈龜二年四月伯耆守となり、養老五年正月の詔に「從五位下山上憶良等退朝之後|令(メヨ)v侍(ラハ)2東宮(ニ)1焉」とある。憶良の名義は前人に所見がない。思ふに大倉《オホクラ》の意で、その約オクラ〔三字傍点〕に充てたものだらう。續日本紀卷十七に尾張宿禰小倉〔二字傍点〕といふ人が見える。○在大唐時 憶良の在唐は、上の三野連岡麿と同時のことである。續紀に、「大寶元年正月、以(テ)2守民部尚書直大貮粟田朝臣眞人(ヲ)1爲(シ)2遣唐執節使(ト)1、左大辨直廣參高橋(ノ)朝臣笠間(ヲ)爲(シ)2大使(ト)1、右兵衛率直廣肆坂合(ノ)宿禰大分(ヲ)爲(シ)2副使(ト)1、參河守務大肆許勢(ノ)朝臣祖父(ヲ)爲(シ)2大佑(ト)1、刑部判事進大壹鴨(ノ)朝臣吉備麻呂(ヲ)爲(シ)2中佑(ト)1、山代國相樂郡令追廣肆掃守(ノ)宿禰阿賀流(ヲ)爲(シ)2小佑(ト)1、進大參錦部(ノ)連道麻呂(ヲ)爲(シ)2大録(ト)1進大肆白猪(ノ)史阿麻留、无位〔二字傍点〕山於億良爲2小録〔七字傍点〕1云々」と見えて、この大寶の遣唐に、憶良は年若で官吏の最末位で渡航した。山於の於はうへ(上)の意で用ゐたもの。○大唐 「大」の美稱は日本人として書くべき辭樣でない。奈良時代の人が支那に對して強い崇拜の念を抱いてゐたことが、こゝにも裏書されてゐる譯である。
 
(235)去來子等《いざこども》 早日本邊《はやくやまとへ》 大伴乃《おほともの》 御津乃濱松《みつのはままつ》 待戀奴良武《まちこひぬらむ》    63
 
〔釋〕 いざ 人を誘ひ促す意の發語。「去來」をイザと訓むは意訓。○こども 子供。こゝは同行せる目下の若い人達を親しみ呼んだ語。○はやくやまとへ 早く大倭〔日本〕へ歸らむ〔三字右○〕の略。この訓は官本及び僻案抄等に從つた。舊訓はハヤヒノモトヘ〔七字傍線〕、略解はハヤモヤマトヘ〔七字傍線〕、古義はハヤヤマトベニ〔七字傍線〕と訓んだ。とにかく、打任せてヒノモトとわが國を呼ぶことは上代には無い。卷三の「日の本〔三字傍点〕の大和」、公式令の「明神御守日本〔二字傍点〕天皇詔旨」などは、修辭も場合もこゝの場合とは違ふのである。○おほともの 御津にかゝる枕詞。「伴」は鞆の借字で、大きな鞆は嚴《イツ》かしい物だから、大鞆の嚴《イツ》(稜威)といふを類音の御津にかけたものとする。冠辭考は「大伴氏の祖道臣(ノ)命の部下たる久米部は、神武紀にみづ/\し久米の子等と歌はれたれば、その首將道臣命をかけて、大件のみづみづしてふ意にて御津に冠らせたるにや」といひ、古義もこれに從つて、みつ〔二字傍点〕は才徳勇威《イキホヒカド》ある意と解した。又冠辭考續貂に「大伴氏昔大連の職に居り、難波河内を食地にやせられけむ、欽明紀に大伴(ノ)金村居2于住吉(ノ)宅1、又靈異紀に推古の御時、大伴(ノ)野栖古居2于難波(ノ)宅(ニ)1と見ゆ」とあるに從へば、大伴氏の食邑であるから、氏名の大伴が地名となつて、大伴の御津と呼ばれた事になる。が前説も後説も下出の「大伴の高師の濱」(二四二頁)の解には通用しない。○みつのはま 「みつ」は御津で、官津の義。この津の正稱は難波の津である。大阪市内東區の高津《カウヅ》の西に當るといふ。今も同市南區に御津寺町がある、そこが古への三津寺の舊地とすれば、大抵難波の津の所在が推定出來よう。その出崎を記に三津(ノ)前《サキ》とある。又記の御綱柏《ミツナガシハ》の故事から出た名とするのは、顛倒の傳説である。○はままつまち 濱松が我れを〔四字右○〕待つと續けた。濱松を「待つ」の序と見た舊説はわる(236)い
【歌意】 さあ/\お前方よ、早く懷かしい故郷日本へ歸らうではないか。定めしあの御津の濱松が、我れ/\どもを戀しがつて待つてゐるだらうのにさ。
 
〔評〕 自分の歸思の痛切なことをさしおき、却つて指折り數へて遠人の歸朝を待つ故郷人の心情の側から逆叙したのは、面白い構想である。御津の濱の船出はこの遣唐旅行のそも/\の第一歩なので、岸に佇んで袖打振る見送りの人影、さては濱松影の見えずなるまで名殘を惜んだ樣が、今なほ記憶に新しく烙きつけられてゐる。そこでその濱松をやとひ來つて故郷人に擬へ、「待ち戀ひぬらむ」と、懷土望郷の念を寓せたその婉曲味には、不盡の妙がある。松に人格を與へた點も頗る詩趣を煽揚する。又「いざ子ども」と呼び掛け、「早くやまとへ」といひさした、是等のひどく切迫した調子が、下句を引き出す素地を作るに最もふさはしい。そして同行の下輩に對して、「子ども」と呼び掛けて、極めて親愛な情味を見せたのも懷かしい感じがする。又「はままつまち」の同音同調の反復は滑らかな快い諧調を成して、吾人の鼓膜を打つ。
 以上はこの歌を正面から考察したのであるが、更に内面に立入つて一考して見よう。今囘の遣唐は、使以下の人選のきまつたのは大寶元年正月であつたが、いよ/\難波の御津の崎をこの一行が出帆したのは、翌二年六月であつた。かうも準備に時日を要したことは、即ちその大難旅行であることを證明するものに外ならない。さて足掛三年目の慶雲元年七月に、一行はやつと歸朝した。往復の日子を一年として差引くと、唐郡長安の滯在は滿一年ぐらゐと見てよい。その間、公用やら見學やらで東西してゐるうち、何時か盛唐時代の芳烈なる文(237)化の美酒に心醉してしまつて、留連歸を忘れるの状態でゐた者も、可なり多かつたのではあるまいか。後の遣唐使藤原清河や、留學生阿倍仲麿などは、そのいゝ證人である。大便粟田眞人は、唐人から讃め立てられる程のモダン振を發揮したのであるから、下僚や下衆の連中となつては、一向埒は無かつたらうと想像される。憶良はこれを慨して、人情の常道からこの人達に覺醒の警鐘を鳴らしたのではあるまいか。
 
慶雲三年、丙午|幸《いでませる》2于|難波《なにはの》宮(に)1時(の)歌〔左△〕 
これは文武天皇の難波行幸で、續紀に「慶雲三年九月丙寅|行2幸《イデマス》難波(ニ)1、十月壬午還(リマス)v宮(ニ)」とある。ゆゑに「丙午」の下秋九月〔三字右○〕の三字があつたのであらう。尚この題詞の書式は不完で、「時」の下に歌〔右△〕の字がない。補つた。他の例によれば歌二首〔三字右○〕とあるべき筈、目録には果してそれがある。○難波宮 孝徳天皇の御造營なされた長柄《ナガラノ》豐崎(ノ)宮のことで、今の大坂城址の地である。標高百二三十米突からあつて、古へはこの岡地の三面は海水に浸され、まさに豐崎と稱すべき地形である。眼下には所在に洲渚が散布して、いはゆる八十島を成し、そこには蘆荻の叢生があり、頗る眺望がよいので、、遷都後も離宮として永く保存され、さてこの度も行幸があつたのである。攝津志に、豐崎宮の舊址を長柄本莊(西成郡豐崎村)に求めたのは從ひ難い。そこは卑濕の地で、とても豐崎の稱を與へられない。
(238) 又いふ、大寶以後即ち文武天皇御治世以後は、年號で區別を立て、御代の標を擧げぬのが例になつてゐる。
 
志貴《しきの》皇子(の)御作〔左△〕歌
 
○志貴皇子 既出(二〇〇頁)。皇子はこの度の行幸に供奉されたと見える。○御作歌 次に「長皇子御歌」とある書例に從へば、「作」の字不用となる。
 
葦邊行《あしべゆく》 鴨之羽我此爾《かものはがひに》 霜零而《しもふりて》 寒暮夕《さむきゆふべは》 和之所念《やまとしおもほゆ》    64
 
〔釋〕 ○あしべゆく 葦の叢生したあたりを游ぐこと。古義に「邊」を清みて讀めとあるは拘泥。○はがひ 羽交《ハガヒ》の義で、羽の打違ひになる所をいふが、轉じては單に羽をもいふ。こゝもその意。○ゆふべは 略解は「夕」を者〔右△〕の誤とし、その他この字から次の句にかけて誤字ありとして、諸家種々の案を出してゐるが、何れも無用の強辯である。國語の一語に宛るに、語義の近似する二箇の漢字を以てすることは、落ち〔二字傍点〕を落墮(卷九)ことに〔三字傍点〕を殊異(卷十二)と書く類で、極めて普通であるから、「暮夕」でユフベハはと訓むに何の差支もない。○やまと これは狹義の用法で、大和の藤原京又は京附近の地帶をさしていつた。「和」を倭〔右△〕の誤とする説もあるが、これは相通字で、續紀などには用例が多い。
【歌意】 枯葦の蕭條として群り立つあたりを游いでゆく鴨の羽根に霜が降つて、ひどく寒いわびしい夕方は、かうして旅にゐる身は、殊にしみ/”\と家郷大和のことがサ思ひ出されるわ。
 
(239) 〔評〕陰暦九月十月の交は、どうかすると隨分寒い日が時折ある。その寒さから聯想して、目撃してゐる葦邊の鴨の羽がひに霜を降らせたものだ。寒さは現實であるが、羽がひの霜は畢竟作者のトリツクであり、誇張の想像に過ぎない。然し場處は葦邊であり、葦叢には夕霜はさやくのであるから、その聯想には根據がある。とにかくこの誇張が時と場合とにうまく適合して、聊かも破綻を見せてゐないので、一層効果的に讀者の感愴を惹くのである。季節は陰鬱な薄暗さを感ずる初冬、時はそこはかとない暗愁の催され勝な夕暮、場所は寂しい枯蘆の叢生した海邊である。かう三拍子揃つては、何の物思もない者でも堪へられるものではない。况や作者は多感な若い旅人である。難波宮は、當時の藤原の京からはさして遠くない處ではあるが、一月も家庭の暖味から遠離つてゐる心からは、かゝる場合、頻と人戀しさの念が湧き立つて、大和に殘して來た家人の上の憶はれるのは當然である。それが憖ひに尊貴の御身で、大した公用もなく身に暇が多いだけに、餘計に堪へ難いことも容易く推量される。
 かくの如く遣る瀬なく戀しく懷かしい對象を叙するに、家とも妹ともいはず、「大和し念ほゆ」と、極めて大まかにいつてのけたその大膽な表現は、全く驚歎に値する老手である。すべて情景相叶つて神韻の高い御作といふべく、
  若の浦にしら浪立ちて沖つ風さむきゆふべは大和しおもほゆ 〔卷七―1219)
はこれと同想同型ではあるが、しかも上句の叙景が大まかで、本文のほど下句の感愴にぴつたりと來ず、この皇子の御作に劣るかのやうである。
 
(240)長皇子《ながのみこの》御歌
 
○長皇子 既出(二二七頁)。これもやはり上の難波宮行幸に供奉されての御作である。 
霞打《あられうち》 安良禮松原《あられまつばら》 住吉之《すみのえの》 弟日娘與《おとひをとめと》 見禮常不飽香聞《みれどあかぬかも》    65
 
〔釋〕 ○あられうち アラレ〔三字傍点〕の音を重ねて、「あられ松原」の序とした。「打」は霰の降るのが物に當るやうなのでいふ。古事記、輕太子の御歌にも「佐々婆爾宇都夜阿良禮能《ササバニウツヤアラレノ》云々」とある。契沖はウツ〔二字傍線〕と訓んだが、枕詞の類は、動詞の第二變北(連用言)を用ゐる例が多く、殊にこゝは打つ安良禮〔五字傍点〕と續く意ではないから、ウチと中止法に訓むがよい。○あられまつばら 疎らな松林をいふ普通名詞。神功紀にも「をち方のあらゝ松原」と、宇治の松林を詠んである。住吉のあらゝ松原は今の安立《アリフ》町がその遺地といはれる。「あられ」はあらゝの轉語で、あらゝは疎々《アラ/\》の略語である。○すみのえ 住江。清之江《スミノエ》の義。「吉」は江の借字である。攝津國住吉郡。平安期になつてはスミヨシと呼んだ。今は大阪市に編入されてゐる。○おとひをとめ 「おとひ」は娘子の名であらう。持統紀に弟日〔二字傍点〕といふ名の男も見える。○と この助辭を契沖は、と共に〔三字右○〕の意とし、眞淵は、松原と娘子と〔六字右○〕の意とした。前説は、婦人と一緒に見れば飽きるものとの通則の前提が無ければ意味が成立しない。仍つて眞淵の説に從ふべきである。○みれど 「常《ト》」をこゝでは濁音に充てゝある。
【歌意】 この風光明媚な住吉のあられ松原と、こゝに住む可憐な弟日娘とは、いくら見ても見ても、少しも見飽きのせぬことだなあ。
 
(241)〔評〕 時は陰暦九十月の交ではあるが、「霰うち」を霰の降る實景から來た有心の序と見るのは當らない。それは「見れど」が、見れども/\といふ位の力強い時間のある辭樣だから、瞬間的に降る霰では打合はないからである。風光明媚なあられ松原を主とし、※[女+單]娟たる娘子を客として、間接に住吉の懷かしさが鮮かに歌はれてある。弟日娘子は住吉の渡津に巣を構へてゐた遊行婦の類ででもあらうか。昔はこの種の身分賤しい者でも、尊貴の御前に出ることは珍しくなかつた。所謂「遊びものの推參は世の常」であつた。
 さて皇子は、行幸に扈從して難波滯在の一日、旅情の單調を破る爲に、この住吉の濱に出遊されたものであらう。左に弟日娘子あり、右にあられ松原あり、人の美と自然の美とを雙手に併せ收め得た長皇子の住吉情調は、頗る艶羨に禁へないものであつた。「飽かぬかも」は甚だ抽象的に流れた泛語であるが、割合にこゝにはよく利いてゐるのは手柄である。仁徳天皇がその愛人たる黒日賣《クロヒメ》の菘摘む處に到りまして、
  山|縣《ガタ》につめる菘菜《アヲナ》も吉備人《キビビト》と共にし摘めばたぬしくもあるか (古事記下)
(242)と詠まれた御製は、一寸この作に類似してゐるやうだが、着想の基點に相違がある。 
太上天皇《おほきすめらみことの》幸(せる)2于灘波(の)宮(に)1時(の)歌
 
持統上皇が難波宮に御幸せられた時の歌との意。○歌 の下、目録に從へば四首〔二字右○〕の字があるべきである。
 さて歌の排列の順序に就いて疑問がある。上に文武天皇の慶雲三年の難波行幸が既に掲げられてあるのに、その四年前の大寶二年に崩御になつてゐる持統上皇の難波御幸の時の歌をこゝに擧げたことは、後先を誤つたものゝ如き觀がある。で古義は英斷的にこの條の歌を一括して繰り上げて、上の「藤原宮御井歌」の次に排次した。だがそれは考慮が足りなかつた。
 抑もこの條は、上來屡見える「或書曰」又は「或本歌」の追記と同じ性質のもので、本文ではなく後からの補入である。今文武天皇の難波行幸の歌があるに就いて、持統上皇御在世の折の難波行事の際の歌どもを想ひ出して、同じ條下に書き入れたものである。蓋し或書曰〔三字傍点〕、或本曰〔三字傍点〕などの語を冠するか、さもなくば一字下りにでもなつて居れば、混線の患がないのであつた。
 
大伴乃《おほともの》 高師能濱乃《たかしのはまの》 松之根乎《まつがねを》 枕宿杼《まくらにぬれど》 家之所偲由《いへししぬばゆ》    66
 
〔釋〕 ○おほともの 高師にかゝる枕詞。この語は三津に懸けるのが普通である。「伴」は鞆の借字で、鞆の大き(243)いのは張りが高いから「大鞆の高し」といひ懸けたのではあるまいか。神代紀に嚴《イツ》の高鞆《タカトモ》の語がある。從來の説は「大伴の威《タケ》し」を高師に懸けたと解いてゐる。大伴氏は神武天皇の時の開國の功臣道臣(ノ)命の裔で、世々武を以て奉仕してゐた。故に威しいのである。尚「大伴のみつ」を參照(二三五頁)。○たかしのはま 和泉國大鳥郡。古く高脚《タカシ》の濱、高脚の海の稱がある。今の高石村高石神社の邊から濱寺の海岸線をいふ。○まくらにぬれど 「まくらに」は枕にしての意。枕することを古言卷く〔二字傍点〕といふにより、眞淵はマキテシヌレド〔七字傍線〕と訓んだが、テシに當る字が無いから無理。宣長が「杼」を夜〔右△〕の誤として、マキテヌルヨハ〔七字傍線〕と訓んだのも妄である。○しぬばゆ しのばる即ち思ひ出されるの意。「偲」は思と同意に用ゐて、シヌブの義とする。字の本義は全く別意である。「由」は例の添字。「所偲」で既にシヌバユと讀める。
【歌意】 こんなに景色のいゝ高師の濱に來て、面白い濱の松が根を枕にして寢るやうな、樂しい筈の旅であるけれども、やはり故郷の家のことが思ひ出されてならぬわ。
 
〔評〕 外ならぬ風光明媚な高師の濱に遊び暮して一夜を明したことを、そこの松が根枕に寢たと轉義したのは、(244)さも面白さに遂に野宿をした趣となつて、甚だ詩趣に富んだ所作と感ぜられる。「大伴の高師の濱の松が根を」との上來の調が、たゞの松が根枕の旅の苦患を訴へたものとは違ふ。さてかう面白さを極力誇張したのは、畢竟忽然として轉捩し來る結句の意を、より強く印象させる爲の猾手段である。藤原の京を離れて僅に一兩月、けれども家郷を憶ふ情懷は、殊に古人に於て深い。只供奉の公程にはその期があつて如何ともし難いので、樂みながら悲み、笑ひながら泣く。その衷心の葛藤がこの歌の覘ひ處である。
 
右一首、置始東人《オキソメノアヅマビト》
 
 この人は如何なる經歴の人とも知り難い。從駕の卑官であらう
 
旅爾之而《たびにして》 物戀之伎乃《ものこぼしきの》 鳴事毛《なくこゑも》 不所聞有世者《きこえざりせば》 孤悲而死萬思《こひてしなまし》    67
 
〔釋〕 ○ものこほしき 「こほし」は戀《コヒ》しの古語。契沖、眞淵の説では、「物戀しき」に鷸《シギ》をいひ懸けたのだといふ。若し本文に誤が無いとすれば、さう解する外はない。○なくこゑも 上を鷸とすれば、こゝは「鳴く聲も」でなくては、次句への續きが穩かでない。よつて假に「事」は聲〔右△〕の誤寫としておく。古義はこの二三句中の「乃鳴」を爾家〔二字右△〕の誤とし、「物こほしきに家事《イヘゴト》も」と訓んだ。家事は家言の義で、家人よりの音信をいふ。○こひて 「孤悲」は一種の戲書。○まし この助動詞は、事實に反することを假想するに用ゐるのが本格用法である。こゝもそれで、即ち聞えたから戀ひて死ななかつたのが事實なのに、その反對の場合を假想して強く詠歎(245)したのである。「萬思」は戲書の一種。「孤悲」と對語を成してゐる。
〔歌意〕 さびしい旅中にあつて、物戀しさに堪へかねてゐるのに、若し鷸の鳴く聲でも聞えなかつたら、こがれ死にに死にもせうものを、幸にあの聲を聞き得て嬉しいことよ。
 
〔評〕 僅々一月か一月半ほどの旅寢に、「戀ひて死なまし」は、餘り大仰過ぎる感がしないでもない。がかう誇張を思ひ切つてしなければ、鷸の聲が活きない。後世は鷸の聲を以て、秋の愁思をそゝる好箇の材料として扱つてゐる所から、鷸の聲がそれ程旅愁を慰めてくれるといふことは、可成り首肯しにくい慣習になつて居り、又それが常識的であるが、さりとて箇人のもつ特殊の感興を認めず、一概に抹殺してしまふことは危險であり、無謀でもある。
 これは旅中の無聊から湧き出して迫つてくる戀心をもて餘してゐる折柄、測らず物珍しい鷸の聲を聞き得た刹那の感懷である。永い間の獨坐無聊は、さま/”\の妄想を生じ、物戀し人戀しの念に悩殺させられるものである。昔獨房に監禁された囚人が僅か一匹の鼠にその寂寥を慰めて、無上の悦喜に浸つたといふ話がある。溺れた者は藁でも攫む、ましてやこれは難波潟の蘆間をわたる鷸の聲である。とゞの詰まりまで押詰められたわびしい氣持が、一遍にこの聲に依つて解放され、ほつと息を吐いたのである。さてその救はれた感謝の聲を鷸に向つて捧げたのがこの歌なのである。
 「物戀しぎ」のいひ懸けは後世風の修辭ではあるが、奈良時代のものでないと斷ずるのは固陋である。寧ろ萬葉集は後世の各樣各種の辭樣が發生した母胎であると考へる方が至當だらう。古義の解は常識的のもので、(246)而も本文を多分に改易したのは不賛成である。
 
右一首、高安(ノ)大島
 
 この歌は目録には「作主未詳(ノ)歌 高安大島」とある。だから高安大島の作とするのは一説であつて、確定的ではない。高安大島は傳未詳。
 
大伴乃《おほともの》 美津能濱爾有《みつのはまなる》 忘貝《わすれがひ》 家爾有妹乎《いへなるいもを》 忘而念哉《わすれておもへや》    68
 
〔釋〕 ○はまなる 濱に在る。○わすれがひ 片貝のことであらう。貝の一扇が無いのを、置き忘れでもしたやうに見立てた稱と思はれる。だから鮑〔傍点〕をも忘貝と集中に詠んだのもある。舊説は小貝の稱とし、古義は一種の小貝の名としたが、忘れの義が解かれてゐない。○いへなる 家に居る。○わすれておもへや 思ひ忘れむや〔六字傍点〕の古格で、後世と語法が前後してゐる。かく時によつて複合動詞の組立の順序が顛倒することは、往々例がある。「思へ」は思はめの約で、「や」は反語。
【歌意】 御津の濱邊に打寄せられてゐる忘貝のやうに、故郷の家に一人さびしく留守居をしてゐるいとしいお前を、何の忘れてよいものか、忘れるどころでなく絶えず私は思ひ續けてゐるよ。
 
〔評〕 作者|身人部《ムトベノ》王は、この御幸から十二年目の和銅三年正月の叙位に、無位から一躍して從四位下を授けられ、(247)天平元年に卒した。和銅三年を假に三十歳と見れば、卒年には四十九歳、この御幸當時は十九歳となる。よし違つたにしてもさう大した誤差は無いものと見てよい。御遊幸の供奉となれば奉仕の御用も大したことなく、若い人は愈よ暢氣で、忘貝拾ふ御津の濱遊びに、つい家書を裁することも忘れてゐたのを、ふと家信に驚かされてこの歌は出來たのではあるまいか。そこで先づ大いに辯疏これ努めて、「家なる妹」の御機嫌を取結んだといふ口吻が、あり/\と看取される。
 この「家なる妹」を、この集卷八の目録に「笠縫(ノ)女王、六人部《ムトベ》親王之女、母(ヲ)曰(フ)2田形《タカタノ》皇女(ト)1」とあるに據つて、田形皇女を斥したのだらうと、紀の通釋にあるのは誤である。續紀にこの難波御幸と同年の八月に「遣(テ)2三品田形(ノ)内親王(ヲ)1侍(ラシム)2伊勢大神宮(ニ)1」とある。これは齋宮に立てられたもので、齋宮は童女に限る嚴かな規定だから、作者とはまだ情的關係のなかつた筈、然し同年十二月には早くも多紀(ノ)内親王と交代した。これはその間に作者との秘密關係が生じて、それが露顯した爲と解せられぬ事もない。永い間作者が無位で沈淪してゐたのも、或はそんな事情が伏在してゐたからかも知れない。とはいへ密通はやはり密通で、妻女として家に居たのではないから、「家なる妹」と斥しては決していはれない。必ず別人である。
 上句は序詞であるが、結句の字眼なる「忘れて」を修飾するに、眼前なる御津の濱の忘貝を取合はせたことは、作者自身の消息を傳へた外に、その地方色が現はれて面白く、所謂有心の序の上乘と稱すべきものである。「濱なる」「家なる」は同語法の重複ではあるが、茲では却つて「忘貝」「忘れて」の反復と相俟つて、一種の諧調をなして目立たぬからよい。然し平安朝以後の撰者なら承知しかねて、濱べの忘貝〔五字傍点〕など引直すところであらう。
 
(248)右一首、身人部《ムトベノ》王
 
 この王の父祖は詳かでない。目録には六人部《ムトベノ》親王とあるが、官途の次第を見ても、親王階級とは思はれない。和銅三年に從四位下に初叙されて後は、養老五年に從四位上、同七年に正四位下、神龜元年に正四位上で、天平元年正月に卒去。
 
草枕《くさまくら》 客去君跡《たびゆくきみと》 知麻世婆《しらませば》 岸之埴布爾《きしのはにふに》 仁寶播散麻思乎《にほはさましを》    69
 
〔釋〕 ○くさまくら 旅にかゝる枕詞。既出(四〇頁)。○たびゆくきみ 旅にお出なさるお方の意。○しらませば 若しも知つてゐることだつたらの意。「ませば」は假設の助動詞。○きしの 住吉の岸をさす。○はにふ 埴生〔二字傍点〕の字を宛て、埴の在る處をいふ。但こゝは單に埴の意に用ゐた。埴は和名抄に「埴土、黄而細密(ナルヲ)曰(フ)v埴(ト)、和名|波爾《ハニ》」と見えて、黄色の粘土をいふ。一寸見は赤土のやうで、今も壁などに使つて黄色を出すが、古くは衣服の染料にも用ゐた。「和」は借字。○にほはさましを 衣を美しく染めようものをなあの意で、その隙もないのが殘念な〔十一字右○〕の意を、下に含むのは「まし」の作用である。「匂はす」は美しく色を映えさすの意で、こゝは衣を染めるにいふ。
【歌意】 かねて皇子樣を旅立つて往かれるお方と知つてゐたら、この住吉の岸の美しい黄土で御召物を染めて差上けて、私の形見ともして置かうものを、さうとは知らずにゐて、今となつてはその隙もないのが殘念なこと(249)よ。
 
〔評〕 この難波行幸はもとが御保養の爲であるから、供奉の諸員も甚だ暇が多い。隨つて附近での形勝の地たる住吉が長(ノ)皇子の訪問を辱うし、さてそこで皇子と清江(ノ)娘子との關係が成立したことも、想像に難くない。然るに皇子の歸期は忽に迫つて、娘子ははかない戀を恨まなければならなかつた。
 「旅ゆく君」は長皇子をさしたので、皇子が本來旅の人であることを忘れたいひ方である。「知らませば」は、眼前の甘い戀に醉うて、皇子に歸期のある必然の事實をすら、まるで念頭に置いてゐなかつた口吻である。これら理路を没却した感情の動きが頗る面白い。即ち既定の別離を倉卒な意外の別離に取扱つた點に、窮りない哀怨の情が躍つて見えるし、又別離の心やりには形見に上越すものは無いのに、それすら調へる隙もないと、深い惜別の情を岸の埴生を借りて具象的に述べたところに、綿々の恨は盡きない。
 住吉の岸は沖の白波の打寄せる砂地であるが、住吉神社の北方若干の地に多少の丘陵があり、そこに黄土層が露出してゐて、姫松や忘草忘貝と共に、住吉情調をそゝつてゐたものである。久保之取蛇尾(入江昌喜著)に、
  住吉の北なる岸の額に塚の侍るを、世に手塚又帝塚といふ。攝津志に大玉手塚小玉手塚と録す。今はその南なる大手塚は黄土宜しきにより土人に崩され、小手塚のみ殘る。云々。
と見え、自然又は人爲の力で、名處も名物も片はし破壞されてゆくのは歎かはしい事である。さて、
  しら浪の千重に來よする住の江の岸の埴生に匂ひてゆかな (卷六、車持千年―932)  馬のあゆみおしてとゞめよ住の江の岸の埴生に匂ひてゆかな (同 安倍豐繼―1002)
(250)などはこれと同調であつて、何れも目的格なる「衣を」を略いたのは、當時は布帛の染料に黄土を使ふことが一般的常習なので、殊更に明言する必要がなかつたのである。又「埴生に匂はす」は生〔傍点〕が冗語で理を妨げるやうでもあるが、恐らく當時「埴」といふも同意に用ゐた通語であらう。
 清江(ノ)娘子は住吉にゐた女性で、八年後の慶雲三年の難波行幸の折に於ける長皇子の詠に見えた弟日娘《オトヒヲトメ》と、同人か別人かは分らない。とにかくこの二人を堅氣ではないと自分は睨んでゐる。今の住吉は甚しく地形が變化したが、昔は難波以南の渡津で、船舶の輻輳した繁華な土地であつた。隨つてこの邊は娼家軒を列ねて、遊女が群を成してゐたのである。平安期の作ではあるが、大江匡房の遊女記に、
  上自2卿相1下及(ビ)2黎庶(ニ)1、莫(シ)v不(ル)d接(ヘ)2牀第(ヲ)1施(サ)c慈愛(ヲ)u、又爲(リ)2妻妾(ト)1歿(フルマデ)v身(ヲ)被(ル)v寵(セ)、雖(モ)2賢人君子(ト)1不v免(カレ)2此行(ヲ)1、南(ハ)則(チ)住吉、西(ハ)則(チ)廣田、以(テ)v之(ヲ)爲(ス)d祈(ル)2徴嬖(ヲ)1之處(ト)u。
とある。奈良平安兩時代を通じて、住吉を何かゆかしげな懷かしい場所のやうにもて囃したことは、あながち住吉の神の神威にあこがれたのみではなく、かうした有頂天になるべき他の大きな原因があつたのである。前掲卷六の二首などは、この意味から見れば頗る寓意のあることを發見するであらう。そこで古來諷詠の材料とした岸の姫松も埴生も、忘草忘貝も、特殊な比興があり諷示があることに氣がつく。すると清江娘子も弟日娘も、たま/\長皇子の寵を辱くした遊女と見ることが寧ろ至當で、又その稱呼の異なる點から、おの/\別人とする方が有力らしく思はれる。
 
右一首、清江娘子《スミノエノヲトメ》進《テテマツル》2長(ノ)皇子(ニ)1。 姓氏未v詳
 
(251) これは清江娘子が長皇子にお上げしたものとのこと。清江は即ち住吉の本義。清江娘子は住吉にゐた少婦の意で、勿論名ではない。名ははやく未詳と註してある程で、今知らるべくもない。
 
太上天皇(の)幸(せる)2吉野(の)宮(に)1時、高市連《たけちのむらじ》黒人(が)作歌
 
持統上皇が吉野離宮に御幸の時、お供の黒人の詠んだ歌との意。○太上天皇幸于吉野宮云々 續紀に「大寶元年六月庚午太上天皇幸(ス)2吉野(ノ)離宮(ニ)1、秋七月辛巳車駕至(リマス)v自2吉野離宮1」とあり、類聚國史にも同文が見える。古義に、これを當今文武天皇の行幸と見たのは諾け難い。○黒人 既出(二二五頁)。△地圖 挿圖35を參照(一一○頁)。
 
倭爾者《やまとには》 鳴而歟來良武《なきてかくらむ》 呼兒鳥《よぶこどり》 象乃中山《きさのなかやま》 呼曾越奈流《よびぞこゆなる》    70
 
〔釋〕 ○やまと こゝは狹義で、藤原の京を中心にその附近をさしてゐる。○なきてかくらむ 鳴いて來るだらうかしら。平安時代なら、來てや鳴くらむといふ所である。諸註或は「來《ク》」は行くの意といひ、或は大和の京を本にして「來《ク》」といつたなど、無用の鑿説が多い。○よぶこどり 古歌に詠まれた多くの例によると、春の半から秋の末まで鳴く鳥で、その聲は悲しげなものらしい。眞淵はカツポ鳥即ち郭公鳥のことゝし、清水光房は「年寄來い」と鳴く鳩の一種たる閑古鳥のことゝもいひ〔十字傍点〕、諸説區々にして確かでない。○きさのなかやま 大和(252)國吉野郡|喜佐谷《キサダニ》村にある。宮瀧の吉野川の南岸の山で、御船の山の西に竝ぶ。中山とは國郡郷里のその中部に介在する山をいふ。
【歌意】 今この吉野の象《キサ》の中山を、呼子鳥が悲しげな聲で呼び立てつゝ越えて來る。あゝ倭の京では、此處と同じやうに、この鳥が來て鳴くことだらうか。
 
〔釋〕 作者黒人は御幸のお供で、六七月の交をこの吉野に暮した。この点は、「よの常にきくは苦しき呼子鳥」(卷八)など詠まれ、何となく物寂しいあはれげな調子で鳴くものと見える。山深い幽寂な境でこんな聲を聞いた時、旅人は弧獨の悲哀をしみじみと味はせられ、端なく本郷の大和の京を思ひ浮べて、そこにも呼子鳥の來訪を想像したのは、わが家人も自分と同じ境地に置かれ、同じ感懷をもつべきものと假定しての事で、即ちそれが家人を思慕する情味の發露である。
 この歌は初二句を結句の下に廻して見ればよく意が分る。叙述が轉倒してゐるやうに見えるが、一首の重心をなすところの感興を先にして、その基礎たる事相を後にすることは、極めて自然の叙法である。又「よぶ〔二字傍点〕こ鳥よび〔二字傍点〕ぞ(253)越ゆなる」の疊語は、快い諧調を成すことの外に、そのよぶ〔二字傍点〕といふ擬人語が、呼子鳥と作者との關係を親密にして、ひたと動きの取れないものとする上に、頗る有力な役割を勤めてゐるのである。
 
大行天皇《さきのすめらみことの》幸(せる)2于難波(の)宮(に)1時(の)歌
 
○大行天皇 大行は天子崩ぜられて未だ謚號を奉らぬ間の稱と、漢書意義に見える。大行とは天命終り、往いて還らぬの義である。こゝでは文武天皇をさし奉つたもので、即ち文武天皇崩後間も無い頃、或人が、御生前難波行幸の際の諸家の歌を記銘して置いたのを、その端詞のまゝにこゝに採録したものと思はれる。○幸于難波宮 文武天皇の難波宮の行幸は、續紀によれば御代に二囘あつたが、これは前にも見えた慶雲三年九月の行幸であらう。
 
倭戀《やまとこひ》 寢之不所宿爾《いのねらえぬに》 情無《こころなく》 此渚崎爾《このすのさきに》 多津鳴倍思哉《たづなくべしや》    71
 
〔釋〕 〇やまとこひ 故卿の大和を戀しく思つて。「やまと」は、上の「倭爾者」の歌に於けると同じく狹義でいふ。○いのねらえぬに 寢ても眠れないのにの意。「い」は寢入ることで名詞。「ね」は眠ると否とに論なく只ひろく横臥するをいふ動詞。「え」は可能の意を表はす助動詞で、今の「れ」に當る古言。○こころなく 思ひやりもなく。用捨なく。この句は結句の上にまはして見ると分りよい。○このすのさき 難波の浦の洲崎をさ(254)す。○たづなくべしや 「たづ」は鶴の古言。「や」は反語。
【歌意】 自分はかうして旅中にあつて、大和の戀しさにゆつくり眠ることも出來ないでゐるのに、この洲崎に鶴が寂しげに鳴くが、そんなに思ひやりもなく鳴くべきことかい。 
〔評〕 鶴は渡り鳥で、暮秋から冬期を主として内地に棲息し、その頃は琵琶湖の沿岸でさへ「さはに鳴いて」ゐたのだから、難波や住吉などの海岸となると、勿論澤山棲んでゐた。然し大和人としてはやはり珍しいので、洲崎の蘆原などに、高い鋭いこの聲を聞くと、しみ/”\旅に出てゐるなといふ感じを唆られたのである。况や既に郷愁に堪へかねて夢も結ばれぬ遊子の身では、たまつたものではない。そこで、作者は勝手に因縁をつけて、抗議を申込んだ所が面白い。しかも鶴に對して「心なし」呼ばはりをするのは、動物と人間との區別を忘れてしまつた言ひ草で、情の趣く所理性はそこに消滅してしまつて、痴愚の態に返つてゐるのが、寧ろ自然の人情である。「この洲の崎に」は作者の位置を指示し、秋は九月の蕭條たる海邊の光景を聯想せしめて、鶴との交渉を親貼ならしめた好句である。 
右一首、忍坂部乙麻呂《オサカベノオトマロ》
 
 この人の傳未詳。
 
玉藻苅《たまもかる》 奥敝〔左△〕波不榜《おきべはこがじ》 敷妙之《しきたへの》 枕之邊《まくらのあたり》 忘可禰津藻《わすれかねつも》    72
 
(255)〔釋〕 ○たまもかる 沖の修飾語、即ち序である。「刈」るは藻を採る方法の一つである。○おきべ 沖邊である。本文「敝」は原本には敞とある。古寫本に由つて改めた。○しきたへの 「枕」にかゝる枕詞。布栲《シキタヘ》の義であるから敷衾をいふのが本で、枕、床、家の枕詞に用ゐ、更に袖、袂、衣手などの枕詞とした。又|繁栲《シキタヘ》の義で織目の細かい良布をいふ説もあるが、事が狹い。○まくらのあたり 寢所のあたりの意。枕を把るのは寢る時の所作であるから、轉義して用ゐる。
【歌意】 遠く沖の方へ漕ぎ出しての舟遊はしまい、自分はこの寢所のあたりが、離れられない程戀しく懷かしく忘れかねてゐるのだからなあ。
 
〔評〕 この歌は、人から遠出の舟遊に誘はれての挨拶であらう。都人としては殊に興味をそゝられる筈の舟遊を、一も二もなく「漕がじ」と斷つたその訝しさが、まづこの歌の山である。さてこの一見甚だ不自然なやうな結論に對する事由の説明が、どんな退《ノ》つぴきならぬ故障かと思へば、これは又案外な、「枕のあたり忘れかねつも」だからたまらない。この枕の陰には無論女がゐるので、自分にはかういふ面白い事が別にあるのだから、結構な舟遊もまづ御免だといふ。全くの手放しで相手はひどく中てられたものだ。女は例の遊行婦ででもあらう。
 從來の諸註、多くは眞意を捉へかねてゐる。即ち下句を手近の浦邊の景色の方が好いから沖へは出ないとか、故郷の妻が戀しくてとか、律義一遍に解してゐるのは、甚だ融通のきかぬ話である。且「忘れかねつも」がそれでは利かない。
 
(256)右一首、式部卿藤原(ノ)宇合《ウマカヒ》
 
 作者は目録には「作主未詳」とある。宇合は不比等の三男で、式家《シキケ》の祖となつた人、天平九年八月薨じた。公卿補任には齡四十四歳とあるから、逆算すると、この慶雲三年には
まだ十三歳にしかならぬから、こんな歌の出來よう筈がない。されば目録の「作主未詳」とあるに隨ひたい。懷風藻には年三十四とある。これは愈よ年齡が不當になる。
 
長(の)皇子(の)御歌
 
この題詞の書き方では、何れの折の作とも判明しない。古義は、前に續けてやはり難波行幸の際の作となし、且この題語を左註に移した。蓋し正當な見解であらう。○長皇子 既出(二二七頁)。
     
吾妹子乎《わぎもこを》 早見濱風《はやみはまかぜ》 倭有《やまとなる》 吾松椿《わをまつつばき》 不吹有勿勤《ふかざるなめめ》    73
 
〔釋〕 ○はやみはまかぜ 「妹を早見む」といふに、濱の名の「早見」をいひ懸けた。契沖は、「早き速瀬を、早み速瀬といふ類にて、はやみ〔三字傍点〕は地名にあらず」といつた。これも一説ではあるが却つて面白くない。すべていひ懸けは語質の違つたもの程その妙味を増して、しかも簡明になるもので、こゝも地名と「早見む」の語意とを抱合させたのである。さて早見の濱は豐後の速見郡か、或は難波附近にあつたものか。然し長皇子が豐後地方(257)に行かれた記録も見えないし、殊にこれを難波行幸の際の作とすれば、その附近の地名と見るがよい。後世改稱されてその故地を失うたものだらう。○やまと 例の狹義の用法で大和の京をいひ、更にわが家を暗に指してゐる。○わをまつつばき 「吾を待つ」に松をかけ、さて椿と續けた。いづれも故郷の家の庭にある樹木。古義に「椿」を樹〔右△〕の誤とし、尚下に爾〔右△〕の脱字ありとして、アヲマツノキニ〔七字傍線〕と訓んだのは却つて非。○ふかざるなゆめ 必ず吹かずにゐるな、即ちきつと吹けよの意。「ゆめ」は忌むの轉靴ゆむ〔二字傍点〕の命令形が副詞となつたもので、努力して、謹んで、構へて、必ず、などの意を表はす。されば本集中にもこれに、勤、努、謹などの文字を充てゝゐる。實際使用例では禁止の語句に屬く場合が多いが、「ゆめ」その語が禁止を表はすのではないことを記憶すべきである。
【歌意】 大和に歸つて戀しい妻の顔を早く見たいと思ふが、そのはやみといふ懷かしい名の早見の濱風よ、故郷の家で、旅にゐる自分の歸りを待つ松や椿を、お前は忘れても音づれずにゐるなよ、可愛さうだからさ。
 
〔評〕 眼前の物寂しい濱風、しかも濱の名が生憎や早く逢ひたいといふ早見では、いよ/\旅愁をそゝられて、國を懷ひ家を思ひ、妻を戀ひ、遂に情は餘つて庭上の松椿にまでも及んだ。その低徊の情の濃やかなことよ。さて濱風に誂へて松椿を吹けといふは、實は自分の不斷の戀心を、可憐な妻に知つて貰ひたさである。吾を待つ者をあらはに指摘せず、松椿の上でいひ果てたのは、頗る娩曲の味ひがある。されば諸註に、妻が〔二字右○〕吾を待つ松椿と解したのは、最初から底を割つたもので、折角の興味が索然としてしまふ。而もそれは詞の上にも見えぬことである。「吹かざるなゆめ」の否定に禁止を重ねた紆餘曲折の辭樣は、作者の心持の動搖を如實に表現(258)してゐる。只五音二音の組織が嚴しい迫つた語調なので、命令が殆ど強制的となり、そこに深く強く思ひ込んだ情緒の動きが見える。「吾妹子をはや見」「吾をまつ椿」のいひ懸けは上下に均衡を得て、一首の安定がよいとはいふものゝ、戲謔の藥が稍強過ぎて面白くない點がある。そのうへ松椿と竝べ立てたのは、聊か調子に乘つた形である。さりとて古義の「わを松の樹」の改竄には斷じて賛成出來ない。只作者はわざとかうした弄意を試みたものと見るが至當であらう。
 
大行天皇(の)幸(せる)2于吉野(の)宮(に)1時(の)歌
 
○大行天皇 これも文武天皇の御事。「大行」の解は上出(二五三頁)。○幸于吉野宮 いつの事か年時が明かでない。續紀に慶雲三年九月の難波行幸の記事はあるが、吉野行幸の事は見えない。蓋し續紀の脱漏であらう。
 
見吉野乃《みよしぬの》 山下風之《やまのあらしの》 寒久爾《さむけくに》 爲當也今夜毛《はたやこよひも》 我獨宿牟《わがひとりねむ》    74
 
〔釋〕 ○やまのあらし 「山下風」を舊訓はヤマシタカゼとしてゐる。古今集にも「三吉野の山したかぜに」(賀)と詠んだ歌がある。然しこゝは意訓で、本集卷十一に「佐保のうちゆ下風之《アラシ》ふければ」「あしひきの下風《アラシ》ふく夜は」などの用例があるし、和名抄にも「嵐、山下(ヨリ)出(ル)風也。和名|阿良之《アラシ》」とあるので、これらに據るがよい。○さむけくに 寒けくある〔二字右○〕にの略。○はたや 「はた」はもと擬聲語で、物と物との打合つた音であるから、「打合つ(259)て」、「さし當つて」の意に用ゐられる。「も亦」の意に用ゐられるのはその轉義である。「爲當」は漢土の俗語で、「も亦」の意に當るが、こゝは通用で填てたまでゝある。「や」は歎辭。○わがひとりねむ 舊訓にはワレヒトリネム〔七字傍線〕とある。かゝる場合の「我」「吾」は集中でも、或はワレ〔二字傍点〕と訓み或はワガ〔二字傍点〕と訓み、必しも一定して居らぬが、こゝは語調の緊密といふ點から見て、ワガの方が勝れてゐる。現に冷泉本にはワガとあり、眞淵もさう訓んでゐる。
【歌意】 吉野の山風がこんなに寒く冴えてゐるのに、旅にある身は、さてまあ今夜も私が寂しく獨りで寢ることかいなあ。
 
〔釋〕 この吉野行幸は、想ふに晩秋初冬の頃ででもあつたらう。勿論山水の勝を御賞翫の爲なのである。離宮の所在地、蜻蛉《アキツ》の宮附近は都の藤原邊とは違ひ、深い山峽なので一層山風は身にしみる。「こよひも」は昨夜〔二字傍点〕を映帶した叙法であるから、供奉して到着の第一夜に測らず嘗めた體驗を、今夜も亦繰り返して、つめたい旅宿の獨寢を重ねることかと歎息したのである。ちよつと考へると、僅に三日四日の別れなのに、如何にも大仰過ぎるやうであるが、この僅かの孤獨にも堪へられないのは、即ちその愛妻との交情の綿密さを説明するものであり、一面に又山の嵐のたまらなく寒いことを立證するものである。この孤獨の怨と寒楚の苦と旅愁とを、こきまぜに一度に味はせられては、流石の盆良雄も泣かずには居られぬ。「はたやこよひも」の語、實に千丈の堤を一度に決して、感情の激浪を澎湃として逆流させる概があり、一讀何ともいへぬ凄慘の感に打たれる。殊に「はたや」の三音、その聲響が腸を掻き毟るやうで、聲調上一首の司命となつてゐる。
 
(260)右一首、或(ヒト)云(フ) 天皇(ノ)御製歌《ミヨミマセルミウタ》
 
 一説に文武天皇の御製と傳へる旨を註したものであるが、歌の趣から察すると決して至尊の御歌ではなく、從駕の人の心情を吐露したものなること疑がない。新勅撰集にこの歌を持統天皇御製として採録したのは輕卒である。
 
宇治間山《うぢまやま》 朝風寒之《あさかぜさむし》 旅爾師手《たびにして》 衣應借《ころもかすべき》 妹毛有勿久爾《いももあらなくに》    75
 
〔釋〕 ○うぢまやま 大和國吉野郡千俣村にある。○たびにして 旅中に在つての意。○ころもかすべき この訓には古來異論が無かつたが、岸本由豆流が一石を投じて、コロモカルベキ〔七字傍線〕の異訓を主張した。「借」は元來カルが本義であるから一往尤もの説であるが、然しこの字を貸スの意に轉用した例は本家の支那にも多く、本集中にも珍しくないので、本義のみを楯に取つて訓ずるわけにはいかぬ。さて意義の上から考へると、衣ヲ借リヨウト思フ妻ガ居ナイと自己を主としていふよりも、衣ヲ借シテクレル妻ガ居ナイと妻を主としていふ方が痛切の響がある。やはり舊訓の方がよい。○いももあらなくに 妻も居ないのにの意。「なく」は否定の「ぬ」の延言。△地圖 挿圖35を參照(一一〇頁)。
【歌意】 宇治間山のこの朝風は、まことに身にしみてひどく寒いことだ。自分は今わびしい旅先にゐて、衣を貸してくれる筈の、あの懷かしい妻も居ないのにさ。
 
(261)〔評〕 宇治間山は飛鳥から吉野へ越える通路の山で、上市の北に當る。長屋王は、或はこの山附近に假寓して、一里ばかり川上なる蜻蛉の宮に伺候したものであらうか。どうもさう見なければこの歌は解けない。吉野峽谷の夜は明けて、宇治間山から吹き下す北風は、都の風よりも遙に寒い。あゝ妹が家ならこんなに朝風の寒い時は自分の衣を融通しても貸してくれように、此處は旅先でどうにもならぬ。朝風の寒さにつけては家なる妹が慕はれ、妹が慕はれるにつけては朝風の寒さが愈よ怨めしい。この幽婉哀切の情を託するに極めて率直の表現を以てしたことは、一首を全く浮華誇張の嫌味から遠ざからしめ、讀者の感銘を深からしめる上に頗る効果があつた。
 さてこの衣を貸すといふことに就いて、他の註家は皆男女互に衣を貸しあつたものだと、簡單に片付けてゐるが、事實は男が女の着物を借りる場合が多い。古歌に詠まれたのも大抵その趣である。その理由は如何。由來昔の婚嫁は後世と違ひ、假令後には本妻として北の方として自宅に迎へ取るにしても、初めの程は男が女の家に通ふのが定例であつた。だから女の家に泊つた時、もし陽氣でも寒いと、自宅から衣服を取寄せるので(262)は間に合はない。又人情の常として女の方でも知らぬ顔は出來ない。早速あり合せの自分の着物を出して、一時凌ぎに着せてくれる。それが又男の方では頗る嬉しく有り難いことだつたのである。さればこの情合の暖かさが忘られかねて、旅先などで寒い思をすると、忽ち衣の貸借を云々することにもなるのである。
 
右一首、長屋王《ナガヤノオホキミ》
 
 長屋王は高市皇子の御子にして、天武天皇の御孫に當る。慶雲元年に正四位上に叙し、その後宮内卿、式部卿、大納言、右大臣等に歴任し、神龜元年に正二位左大臣に進んだが、天平元年二月、私かに左道を學び國家を傾けむとすと讒する者があつて、逐に自盡を命ぜられた。年四十六とも或は五十四ともいひ、確かでない。漢學を好み、文藝の士を愛し、その詩作は懷風藻に出てゐる。
 
和銅元年戊申、天皇(の)御製歌
 
○天皇 和銅は元明天皇の年號であるから、天皇は元明天皇の御事である。天皇御諱は阿閇《アベノ》皇女と申された。前々の書例によれば、「和銅云々」の題詞の前に、「寧樂宮御宇天皇代《ナラノミヤニテアメノシタシロシメシヽスメラミコトノミヨ》」の標目があるべき筈である。尤も奈良遷都は和銅三年三月の事であるから、元年にはまだ藤原の宮にましましたのである。
 
大夫之《ますらをの》 鞆乃音爲奈利《とものおとすなり》 物部乃《もののふの》 大臣《おほまへつぎみ》 楯立良思母《たてたつらしも》    76
 
(263)〔釋〕 ○ますらを 男子の讃稱。こゝは兵士等をさしていふ。既出(四〇頁)。○とも 鞆。音物《おともの》の義といふ。皮革製の巴状中高の物で、内に獣毛を藏め、高い方を内側にして左の臂に着ける。昔の射法には弓反《ユガヘリ》が無いから、弓弦が腕を拂ふ、それを避ける爲に着けたので、弦は鞆に當るから音が立つのである。和名抄に、「※[旱+皮]、和名|止毛《トモ》。楊氏漢語抄、日本紀等用(フ)2鞆(ノ)字(ヲ)1、在(リテ)v臂(ニ)避(クル)v弦(ヲ)具也」とある。音を立てゝ敵を威す爲の具とか、袖をまくつて留める物とかいふのは笑ふべき空疎な説である。○もののふ 物の具を執つて奉仕する武人の稱。もと物部の義である。物部氏をいふのでない。「もののふのやそうちがは」を參照(一九二頁)。○おほまへつぎみ 大前つ君で、即ち天皇の大前に侍する君の意。文官なら大臣に當るが、こゝは「物部の大前つ君」であるから、大將軍のことである。○たて 楯。矢を禦ぐ具。この楯は「立つ」とあるからは楯板である。これを大楯といつた。紀に持統天皇即位の時、物部麻呂朝臣が大楯を立てた事が見える。又鐵盾も仁徳紀に見えるが、それは歩盾《テダテ》即ち持盾の類で、小さな物であるらしい。○らしも 「らし」は推量の助動詞。「も」は歎辭。
【歌意】 兵士等の弓弦の解れて鳴る鞆の音が、あれあのやうに盛にすることわ。さては大將軍が出場して、その陣屋に楯を立てるらしいな。
 
〔評〕 この御製については、眞淵の推斷がよく事情を穿つてゐる。それは、
  陸奥越後の蝦夷の叛きしかば、和銅二年三月、遠江駿河甲斐信濃上野越前越中等の諸國の兵士を徴發し、巨勢(ノ)麻呂(264)(陸奥鎭東將軍)、佐伯(ノ)石湯(征越後蝦夷將軍)二人を大將軍にて遣はされし事、續紀に見ゆ。然れば前年の冬、軍の調練ありしにて、北國は雪國なれば冬の戰はなし難ければ、明年三月に立たせられしなり。云々。
とある。先づさうした事情であつたらう。蝦夷の叛いたのは實際は和銅元年のうちで、諸國の徴募兵はその便宜のまゝに直接戰地に出征したと思はれるし、この御製の趣とても大部隊の演習の樣子とも受け取りにくいから、かうして京で調練したのは、大將軍直屬の兵隊に限つたことゝ思はれる。
 當時天皇はまだ藤原の宮にあらせられた。兵士の調練は恰もその大宮近い廣場で行はれたのであらう。さて平時の演習と違ひ、命を的にしてゆく出征の豫習とあつては鞆の響も自然殺氣立つ。あながちそれは思ひなしばかりではあるまい。大宮の内にましましてこの物騷がしさを聞し召された時、御即位後まだ間もない兵革沙汰に、女帝の御胸はどんなにか苦痛を感ぜられたことであらう。御耳にとまつた益良雄の鞆の音から、楯立つる大將軍出陣の樣を、眼前に彷彿と描き給うたことは、女帝にましますだけに、勇壯な武張つた男性的御想像ではなくて、實は深い御不安の念を寓せられたものである。されば御姉君御名部皇女は、「あが大君物なおもほし云々」(次出の歌)と歌つて慰め奉つたものである。
 さて「楯立つ」とあるからは掻楯《カイダテ》であらうが、楯は元來敵の矢石を防ぐ爲の道具である。ところが調練の場合では實際に敵もゐないし、身方が矢石を被る筈もないから、楯の必要があらうとも思はれない。にも拘はらず、鞆の音からかくの如く大將軍の楯板を御聯想遊ばされたことは、ちよつと解し難いことであるが、前人が一向こゝに論及してゐないのは不思議である。想ふに實戰では大將軍の陣營附近には掻楯を立てる習慣なので、かく假戰の場合でも、大將軍の陣營に掻楯を突立てゝ、大いに軍容をすぐつたものであらう。それでかう(265)した御想像も生まれたものと考へられるのである。
 
御名部《みなべの》皇女(の)奉v和《こたへまつれる》御歌
 
○御名部皇女 天智天皇の皇女で、元明天皇の同母の御姉君にまし/\た。これは前掲の御製に對し、叡慮を慰め奉らんが爲にお答へ申された御歌である。○奉和御歌 「和歌」を見よ(一〇七頁)。
 
吾大王《わがおほきみ》 物莫御念《ものなおもほし》 須賣神乃《すめがみの》 嗣而賜流《つぎてたまへる》 吾莫勿久爾《われなけなくに》    77
 
〔釋〕 ○わがおほきみ 元明天皇をさし奉る。○ものなおもほし 物思ほすなに同じい。即ち御心配遊ばしますなの意。禁止格の「な……そ」は、元來禁止の意は「な」の方にのみ存するもので、「そ」は其で強辭に過ぎない。故に「そ」を略くことは古言の一格であつた。○すめがみ 皇祖を統《ス》め給ふ神の義。廣く皇祖の神々をさし奉るが中に、こゝは天照大神、高御産靈神を申し上げる。○つぎてたまへる 君に〔二字右○〕繼いで生を〔二字右○〕賜うたの意。姉君ながら帝たる妹君を立てゝ謙遜した詞。新考は、君に嗣ぎて蒼生《タミ》に賜へるの意とした。宣長は、皇統の繼嗣に嗣いで言依《コトヨサ》し賜へるの意として、次句の「吾」を君〔右△〕の誤字と定めた。○われなけなくに 吾なきにあらぬに、即ち私が居ないのではありませんのにの意。「なけ」はなき〔二字傍点〕の轉。
【歌意】 わが畏れ多くも尊い天子樣よ、そんなにくよ/\と御心配遊ばしますな。御先祖の神樣が、あなた樣に(266)さし次いで生をお與へなされた、この私がお附き申して居りますのにさ。
 
〔評〕 御即位早々の世の擾亂を慨かれた御製に對して、なに、御姉妹と生まれたこの私がお附き申してゐますからと、お慰め申し力づけ奉つた作である。開口一番、「わが大王」と呼び掛け、「皇神の嗣ぎて賜へる」と御自身を名告り出された應接の間に、頗る嚴肅な氣分が漂うてゐる。すべて皇胤に關することを皇神の思召に歸することは、續紀の詔にも、
  天皇御子之阿禮坐牟彌繼繼爾大八嶋國將知次止天都神乃御子隨爾天坐神之依之奉之隨此天津日嗣高御座之業止《スメラガミコノアレマサムイヤツギツギニオホヤシマクニシラサムツギテトアマツカミノミコナガラニアメニマスカミノヨサシマツリシママニコノアマツヒツギタカミクラノワザト》、(文武紀)
  高天原神積坐須皇親神魯岐神魯彌命乃定賜來流天日嗣高御座次乎《タカマノハラニカムツマリマススメラガミオヤカムロギカムロミノミコトノサダメタマヒケル》云々。(稱徳紀、大殿祭祝詞同文)
とあつて、上世からの傳統的信念であることを味ふべきである。
 さてかく嚴かな修飾語で、われと御自身の存在に重味をつけられたことは、反比例に帝の御心痛の度を輕減し奉る結果になるではないか。全く巧語言である。帝の御姉君としての立場から、かうした發言はその動機に極めて美しい友愛の御情緒が閃いて見える。あの富士の卷狩に曾我兄弟が討ち入つて大騷ぎとなつた際、範頼が兄の妻政子に向つて、「御心配御無用、某が居り候」といつたのとよく似たお心持である。
 
三年庚戌春三月、從《より》2藤原(の)宮1遷《うつりませる》2于|寧樂《ならの》宮(に)1時、御輿《みこしを》停《とどめ》2長屋原《ながやのはらに》1※[しんにょう+向]2望《さけみたまひて》古郷(を)1御作《よみませる》歌
 
元明天皇が三年春三月藤原宮から奈良へ遷都行幸のあつた途中、長屋の原に御休憩があつて、古京の方を回顧(267)遊ばされての御製との意。○三年 元明天皇の三年で即ち和銅三年である。續紀にも「和銅三年始(メテ)遷2都于平城(ニ)1」と見える。○※[しんにょう+向]望  ※[しんにょう+向]は廻の俗字で遙かの意。字書に寥遠也とある。一本廻〔右△〕、囘〔右△〕など書す。囘望は見まはすこと。○古郷 舊都を斥す。○遷于寧樂宮 本文に「明日香の里をおきていなば」とあるので、「飛鳥《アスカ》と藤原とは場處が違ふから、一書に飛鳥宮から藤原宮への遷都の時とあるのが正しい」といふやうに、宣長などもいつてゐるが、よく考へない説である。それは後世こそ飛鳥は一地方の小名に過ぎないが、當時の飛鳥は廣狹二樣の範圍に用ゐられてゐたのである。即ち狹義には今いふ飛鳥地方の稱で、廣義は畝傍耳無二山以南の地の總稱であつた。この事は喜田貞吉氏の「帝都」にも論じてある。○長屋の原 大和國山邊郡長屋(ノ)郷で、今の朝和《アサワ》村|永原《ナガハラ》の地である。△地圖 挿圖66を參照(一九二頁)。
 
一書(ニ)云(フ)、太上天皇(ノ)御製(ト)
 
 この註は作者についての異傳であるが、目録には無い。且和銅三年には持統天皇は既に崩御後であるから、太上天皇と申上ぐべき方はおはしまさぬのである。宣長が「和銅の頃は持統天皇既に崩じ給へども、文武の御時に申しならへるまゝに太上(268)天皇と書けるなり」といつたのは、一往尤ものやうであるが、それはこの御歌を飛鳥から藤原へ遷都の際のものと見た先入見に支配されての上の論であるから、不可である。この註は當然削除せねばならぬ。
 
飛鳥《とぶとりの》 明日香能里乎《あすかのさとを》 置而伊奈婆《おきていなば》 君之當者《きみがあたりは》 不所見香聞安良武《みえずかもあらむ》    78
 一(ニ)云(フ) 君之當乎《キミガアタリヲ》 不見而香毛安良牟《ミズテカモアラム》
 
〔釋〕 ○とぶとりの 明日香の枕詞。天武紀十五年に「改(メテ)v元(ヲ)曰(フ)2朱鳥《アカミドリ》元年(ト)1、仍(テ)名(ケテ)v宮(ヲ)曰(フ)2飛鳥淨御原《トブトリノキヨミハラノ》宮(ト)1」とあるに據れば、當時朱い鳥が群り飛んだのを愛で珍しがつて朱鳥の年號を建て、宮號の淨御原にも宮地の明日香にも「飛鳥《トブトリ》の」の語を冠したことは明かである。然るに朱鳥は※[易+鳥]《イスカ》で、その古名アスカに地名をいひ懸けたとする眞淵、信友の説、又飛ぶ鳥の足輕《アシカル》に地名をいひ懸けたとする古義の説、又飛ぶ鳥の幽《カスカ》を地名にいひ懸けたとする詞章小苑の説は、いづれも附會である。又アスカを飛鳥〔二字傍点〕と書くのは、枕詞にその修飾の目的語の訓を移したもので、恰も春日《ハルビ》のカスガ〔三字傍点〕と續けて、枕詞であつた春日を直ちにカスガと訓ませるに至つたのと同じである。○あすかのさと こゝは廣義にいふ飛鳥の地であるから、藤原の宮地方をも含めていふ。○おきていなば さし置いて去つたならば。○きみがあたり 「君」とは藤原京に殘り留つてゐる或人を指されたお詞であるが、その何人かは明かでない。恐らく御兄弟或は御尊親の方々と思はれる。「當」は借字。○みえずかもあらむ 見えずあらむかも〔八字傍点〕に同じい。「か」は疑辭。「も」は歎辭である。
(269)【歌意】 かやうに飛鳥《アスカ》の里をうち置いて、奈良の方へ往つてしまつたら、懷かしい貴方の住まれるあたりは多分見えなくなることでせうかまあ。心細いことです。
 
〔評〕 翠華搖々として朝に藤原の宮を御發輦あらせられたが、飛鳥地方はすべて高地であるから、大和平原から行く/\顧望すると、その村落里坊が明かに指點し得られる。帝の懷かしと思召す「君があたり」も認められる。途中御休憩の爲に長屋の原に御駐輦遊ばされたが、こゝは藤原の宮から正北約二里、奈良の新都へはなほ三里の中間地點である。「おきていなば」の口氣は、此處まではほのかながらも君があたりの見えることを反證してゐる。然し一足でも此處を遠ざかつたら最早見えなからうと、豫想的に疑惧の念に驅られ、それを見限つては容易に御出發なされかねた、その低徊の情、去るに忍びぬ※[足+知]※[足+厨]の趣は、即ち思慕の情を間接に頗る強く映出せるものであり、一見平淡なやうで底に斷腸の響を藏する御作である。新京へは遠く故京へは近いこの長屋の原は、かうした悲劇には誠に恰當な舞臺であつた。
 尚思ふに、かく飛鳥を廣義に扱つて解したのは、題詞を正面から見てのことである。或はこれを普通の狹義に扱つても、或人の居る飛鳥は藤原の隣接地であるから、藤原の宮を出立して二里も來ての長屋の原あたりでは、飛鳥の里を置いて往くといつても差支は無いと思はれる。
 又異傳の「君があたりを見ずてかもあらむ」は、内容の事實に於て異なる所は無いが、歌としては拙である。かゝる場合かく能動的にいつたのでは、見るとか見えぬとかいふ作者の動作その物が主となり、君があたりといふ觀念が、まるで餘處事のやうに稀薄になつてしまひ、頗る不自然な表現となるのである。
 
(270)  或本、
從(り)2藤原(の)京1遷《うつりませる》2于|寧樂《ならの》宮(に)1時(の)歌
 
○或本 他の書式によれば或本(ノ)歌〔右△〕とあるべきである。萬葉集の他の一本に據つて、何時の頃か或人が補つたものと思はれる。正辭は、村上天皇の時かの梨壺でこの集を讀み解いた折、異本を校合して加へたものであらうと論じてゐる。○從藤原宮云云 天皇が藤原宮から奈良に遷都された時、或人の詠んだ歌で、古葉略類聚鈔ではこの題詞の下に小字で「作者未詳」とあり、眞淵は「時」の下姓名を脱せるかといつてゐる。○寧樂宮 元明天皇の和銅元年二月奈良に遷都を布告し、九月造平城宮司を置き、落成遷都せられたのは三年三月であつた。奈良を寧樂《ネイラク》と書くは好字を撰んで充てたもの。尚「ならのやま」を參照(八四頁)。
 
天皇乃《おほきみの》 御命畏美《みことかしこみ》 柔備爾之《にぎびににし》 家乎擇《いへをさかり》 隱國乃《こもりくの》 泊瀬乃川爾《はつせのかはに》 ※[舟+共]浮而《ふねうけて》 吾行河乃《わがゆくかはの》 川隈之《かはくまの》 八十阿不落《やそくまおちず》 萬段《よろづたび》 顧爲乍《かへりみしつつ》(271) 玉桙乃《たまぼこの》 道行晩《みちゆきくらし》 青丹吉《あをによし》 楢乃京師乃《ならのみやこの》 佐保川爾《さほがはに》 伊去至而《いゆきいたりて》 我宿《わがねぬる》 有衣乃上從《ありそのうへゆ》 朝月夜《あさづくよ》 清爾見者《さやにみゆれば》 栲乃穗爾《たへのほに》 夜之霜落《よるのしもふり》 磐床等《いはどこと》 川之永凝〔左△〕《かはのひこごり》 冷夜乎《さむきよを》 息言無久《やすむことなく》 通乍《かよひつつ》 作家爾《つくれるいへに》 千代二手《ちよまでに》 來座多公與《きまさむきみと》 吾毛通武《われもかよはむ》    79
 
〔釋〕 ○おほきみの 舊訓スメロギノ〔五字傍線〕又スベラギノ〔五字傍線〕とあるが、久老が「すめろぎとは遠組の天皇を申し奉るが本義で、皇祖より受繼ぎませる大御位につきては當代をも申すことがあるのを、後人が一つに心得て讀み誤つたもの」といひ、道麿、宣長もオホキミノと訓むべきを論じてゐるので、學者皆これに從つてゐる。○みことかしこみ 勅命を畏み承つて。○にぎびにしいへをさかり 平和な故郷の家を離れて。「和《ニギ》び」は荒びの反對で、融合調和する意にいふ。古義にニキビ〔三字傍線〕と清みて讀むべしとあるは例の拘泥。「家」は家庭の意。建物ではない。「さかり」は遠放《トホザカ》ること、離るゝこと。「擇」は字書に放也とあるからサカリと訓む。眞淵、千蔭はいふ、放〔右△〕の字を擇の略字なる択に書き誤りしものかと。春滿はいふ釋〔右△〕の誤と。訓もイヘヲモサカリ〔七字傍線〕(眞淵)イヘヲサカリテ〔七字傍線〕(御杖)イヘヲモオキテ〔七字傍線〕(春滿。眞淵一訓)イヘヲオキ〔五字傍線〕(雅澄)イヘヲステテ〔六字傍線〕(芳樹)などさま/”\である。(272)○こもりくの 泊瀬の枕詞。既出(一七六頁)。○はつせのかは 山邊郡並松村に發源し、初瀬の峽谷を過ぎ、三輪山の麓をめぐつて西北に向ひ、佐保川と合流して大和川となる。○ふねうけて 舟を浮べて。「※[舟+共」は小舟で高瀬舟のこと。○かはくま 川の灣曲した處。道の隈〔三字傍点〕の對語。○やそくまおちず 澤山ある曲り角ごとに洩れなく。「やそ」は多數を意義する。「おちず」は「ぬるよおちず」を見よ(四五頁)。○かへりみしつつ 振り返り/\して。○たまぼこの 道にかゝる枕詞。その意は(1)玉桙の身を道《ミチ》にいひかけたもの(冠辭考)、(2)古への桙は木製だから別に身と名づくべき物がない。玉桙は頭を圓くした桙で、玉桙の圓《マト》を道に通音でいひ寄せたもの(古義)、(3)昔の桙には引上げるに乳《チ》を附けたものだらう、玉桙の乳を御《ミ》の美稱を隔てゝ道《チ》にいひかたけもの(國號考)。など諸説まち/\で一定しない。以上の他更に一説を提供する。桙は柄が長いから、古へ道行く時、錫杖を突き立てるやうに、鉾を突き立てゝ歩いた故に、玉鉾の道と續けていふか。(2)の外は「玉」は美稱として解する。「桙」は漢字は鉾〔右△〕であるが、上古木鉾を多く用ゐたので、和字では木偏としたもので、古書にも本集にも、その例が多(273)い。○みちゆきくらし この「みち」は舟路。○あをによし 奈良にかゝる枕詞。既出(八三頁)。○ならのみやこ 普通奈良とのみ書くので、「楢」は借字の如く見られてゐる。「ならのやま」を參照(八四頁)。○さほがは 源を春日山の裏、鴬瀧の邊に發し、今の奈良市の北(古への佐保の郷)を西流して更に南に向ひ、古への平城京を貫流し、初瀬川を合せて末は大和川となる。故に舟行初瀬川を下つて合流點から佐保川を泝れば、平城京に着くのである。○いゆきいたりて 到着して。「い」は發語で殆ど意味なく、只語調を整へる爲である。い積もる〔四字傍点〕、い向ひ〔三字傍点〕、い群る〔三字傍点〕など例が多い。○わがねぬる 舊訓はワガネタル〔五字傍線〕。下の「ありその云々」を見よ。○ありそのうへゆ 荒磯の邊から。「ありそ」は荒磯《アライソ》の約で、こゝは川岸をいふ。芳樹の註疏に引いた上野常朝の説に「我宿有衣之上從とある有の字は下句につけて、ワガイネシアリソノウヘユ〔十二字傍線〕と訓むべし」と。今はこれに從つたが、イネシ〔三字傍点〕の過去はいかゞと思はれるので、ネヌルと現在法に訓んだ。眞淵は「衣」を床〔右△〕の誤としてトコノウヘヨリ〔七字傍線〕(274)と訓んだ。舊訓ワガネタルコロモノウヘユ〔十二字傍線〕は事理が通じない。○あさづくよ 朝方まである月をいふ。月を月夜といふ例は珍しくない。○さやにみゆれば あざやかに見えるので。眞淵の訓に從つた。舊訓はサヤカニミレバ〔七字傍線〕とある。これは上の「朝月夜」が序詞となる。○たへのほに 白布の色あざやかなる如くに。「たへ」は白布のこと。楮の繊維を取つて晒したのが木綿《ユフ》で、木綿で織つた布が即ち栲《タヘ》である。時に帛《キヌ》を含めてもいふ。「ほ」は秀《ホ》の義で、すべて物のそれとあらはれて見ゆること。「丹穗面《ニノホノオモワ》」(卷十)も同じ用例である。「に」は何々にそのまゝなる〔六字右○〕何といふを略して早くいつた語態。故にの如く〔三字傍点〕と譯する。「赤丹の穗に〔傍点〕聞しめす」(祈年祭祝詞)「秋津羽に〔傍点〕句へる衣」(卷十)「白木綿花に〔傍点〕波立渡る」(卷十三)などのに〔傍点〕に同じい。○よるのしもふり 正辭いふ「夜のほどに降れる霜を朝に見ていへるなり」と。○いはどこと 磐床のやうに。磐床は磐石の平かな處の稱。古義に磐を以て臥具の床に作れるをいふと解したのは鑿も甚しい。「と」はの如く〔三字傍点〕の意の辭。○かはのひこごり 「ひ」は氷の古名。「こごり」は凝り固まること。舊訓はコリテ〔三字傍線〕。古義はコホリ〔三字傍線〕と訓んで、「佐保川にこほり渡れる薄氷の」(卷二十)を例に引いた。假令こほり〔三字傍線〕の語があつたからとて、「凝」をわざ/\さう訓む必要はない。「凝」は原本に疑〔右△〕とあるが、古葉略類聚鈔、神田本その他に據つて改めた。○さむきよを 舊訓サユルヨヲ〔五字傍線〕とあり、意は通ずるが「冷」をさう訓んだ例はない。眞淵の訓に從ふ。○やすむことなく 缺勤することなく。息ふ意ではない。○かよひつつつくれるいへに 舊都から新京に絶えず通ひ/\して、やつと作り上げた家にの意。○ちよまでに いつまでも/\。「二手」をマデと訓むは意訓。「いくよまで」を參照(一三九頁)。○きまさむきみと 眞淵は「來」は爾〔右△〕の誤で上の句の末につくニ〔傍線〕であり、「多」は牟〔右△〕の誤で、この句はイマサムキミト〔七字傍線〕と訓むべしといひ、御杖は只「多」を牟〔右△〕の誤としてキマサムキミト〔七字傍線〕と訓んだ。極めて難讀難(275)解の句であるが、今姑く御杖説に從ふ。いづれにしてもこの家は作者自身の住宅ではなく、主人筋か尊長の爲にした家作りと解せられる。○われもかよはむ 私も舊都から折々通つて來て奉仕致しませう。
【歌意】 天子樣の勅命を畏み奉り、平和であつた藤原京の家から群れ、初瀬川に舟を浮べて漕いでゆくが、その川の澤山の曲り角ごとに必ず、幾度も/\振返り/\して故郷の方を見やり、かくて舟路の途中に日を暮し、新京奈良の地を流れる佐保川まで行き着いて、自分の寢てゐる荒磯の邊から、明方の月のさやかな光に見ると、まるで白布のあざやかなやうに、前夜からの霜がそこら一面に降つて居り、川岸の氷は平磐のやうに凝結して誠に寒い。かういふ寒い夜をも厭はず度々通ひ、丹精してあなた樣の爲に造つたこの新京の家に、千代八千代までも來てはお住みになるあなた樣故、私も舊郡から〔四字右○〕通うてお仕へ申しませう。
 
 
〔評〕 「天皇の御命」とは何をさしたものか。遷都の詔勅の如き一般的のものでは決してなく、
  晝見れどあかぬ田子の浦大きみの御こと畏みよる見つるかも(卷三、田口益人―297)
とある類の大君の御命で、官吏として奉ずる上命をさすのである。「にぎびにし家」は大いに有意味の語で、平和な暖い家庭を斥す。それでも公命には是非なく、屡ば留守にしなければならぬ。「八十阿落ちず、よろづたび顧みしつつ」と、藤原京を囘顧瞻望する所以はそこにある。尤も長時間の舟中は無聊極まるから、愈よわが家戀しさの念がふんだんに湧きもするだらう。「泊瀬の川に船うけて、吾がゆく川の川隈の」と「川」の語の三復「隈」の語の再復は、如何にもゆくら/\と屈曲の多い川筋にこだはつて行く川舟氣分がよく出てゐる。
 奈良遷都は春の三月、頗る陽氣のいゝ時であつたから、その以前において諸王諸臣も家地を相し、邸宅を造(276)るとすると、丁度前年の冬から懸けて建築は眞最中と見なければならぬ。
 藤原京から奈良、一口に奈良といつても、その時代の奈良は規模廣大で、北は佐保から西大寺の一線、南は辰の市村九條から郡山までの一線に劃られ、南北の距離約一里十町許に亙るが、その間を佐保川は東北から西南へと貫流してゐる。藤原から奈良までは直徑がざつと五里半、あるけば一日仕事だが、草臥れては明日の役に立たない。そこで甚だ迂遠ながら川舟利用の策を取つたものらしい。丁度今の人が寢臺車で出掛けて翌日用足しをするのと同格である。
 藤原から初瀬河畔の金谷邊へ出るこれが一里、乘船して川を下ること約五里で、佐保川との會湊點に着く。佐保川に入つてからは、棹を捨てゝ綱を付けての曳舟と早變り、もそろ/\と流に溯るのである。奈良の家の建築場はどの邊であつたか不明であるが、成たけ皇居に近い場處と假定して、舟着場まで約四里。合計九里の道程である。
 時季が冬だから、朝八時に家を立つたとして、初瀬川の乘船が九時見當、流に隨つて下るのだから割合に早いと見てもまづ四時間で、午後一時には川合に着く。さて休息が半時間、それから佐保川に溯ること四時間と假定すると、夕刻五六時の間に目的地に到着する。五時といへば冬はもう眞闇である。で泊るとなると、舟中か岸邊の假屋か、これが自然問題になつてくる。
 一日中寒い川風に吹かれ拔いた擧句、栲の樣に霜がふり磐床に氷が張る夜を、千鳥鳴く川原のしかもそんな小舟――餘程小さい舟でなければ佐保川など上れない――の中に明かされたものだらうか。それが一時的の試煉などではない。何遍も/\建築中に泊るのである。いはずと知れた事、これは岸邊の某家御用の札位打つた(277)假小屋に一泊するのであらう。然しその岸邊は川の荒磯に接續してゐるのだから、「わが寢ぬる荒磯」の誇張には決して無理がない。自然である。さうした寒夜を獨寢の床に呻吟する現實は、上の「にぎびにし家を離りて」に遙に呼應して、その勞苦を一層深刻ならしめる。「朝月夜さやに見ゆれば」は、川を前にして殘月に對した光景を想はせる。
 「通ひつつ」は最も大事な句である。初頭「天皇の」より「寒き夜を」までは、只一日一夜の經過を縷説したもの、それだけでも隨分苦難には相違ないが、更にそれを初冬から嚴寒餘寒をかけて、息むことなく通ひつゝ反復連續するに至つてはどうか。頗る慘憺を極めたものではあるまいか。
 かくの如く自分の勞苦を極力強調した目的は、その「作れる家」に重きを歸して價値づける爲で、それは見事な成功であつた。工事監督者としての立場ではおのづからかくもあるべきだ。
 「千代までに來まさむ公」に新築の賀意が兼ね表はされてある。「來まさむ」はその新邸が本宅でない事を反證する。さてはこの主人公は遷都の後も藤原の舊京にとゞまつて、只公用その他の折節だけに奈良に上京、新邸に宿泊する計畫のものであつたらしい。後代から見れば、藤原だらうが奈良だらうが何の頓着もないから、億劫な事をしたものと腑に落ちまいが、當時においては無理のない咄で、舊を戀うて新に趨りかねる、そこに人情の篤さが見える。丁度明治維新の際に、堂上の諸家が多く舊京に留まつてゐたと同じ心理である。方丈記の福原遷都の條に、
  世に仕ふる程の人誰か一人故里に殘りをらん。官位に思をかけ、主君の蔭を頼む程の人は、一日なりとも疾く移ろはんと勵みあへり。時を失ひ世に餘されて期《ゴ》する處なきものは、愁へながらとまりをれり。
(278) 何時の世だつて事情にさう大した變りはない。この主人公は、政務などには關係なしの閑散な境遇の人と想はれる。然し上命によつて新邸建築の工事監督が付く位だから、某親王家といふ程度の御身分であらせられるお方であらう。
 茲に至つて作者の身柄を闡明する必要がおこる。といふのは「われも通はむ」の一語の解決がつかないからである。從來諸註家のいふやうに造平城宮司の役人だとすると、何も出來上がつた後まで、その新邸に通ふ必要もない。又上長官なら知らず下役人などは、執務上一番掛けに新京に移居して、往復の勞を省くのが當り前で、舊京から通勤するのは事情に適はぬ。
 そこでこの作者は某親王家の上家司《カミケイシ》、今なら某宮家の別當といふ地位の人と見たい。上命によつて奈良の新京に御新邸の工事を起し、その監督を承つてはゐるものゝ、親王家の常の御用はこれ亦缺かす譯には往かぬ。止むを得ず、藤原奈良の新舊兩京間を懸持で奔走したものと見られる。主人公が何時までも藤原舊京に永住、奈良の新邸には折々御出勤の御豫定だから、自分も扈從して永久に往來奉仕しようとの宣言であらう。
 初頭より「作れる家に」までは一意到底、章段を分つべくもない。末尾一轉語を下して、新邸の落成を慶し主公の將來を賀し、序に自己をもその慶賀の雰圍氣内に浸らしめた。
 
反歌
 
青丹吉《あをによし》 寧樂乃家爾者《ならのいへには》 萬代爾《よろづよに》 吾母將通《われもかよはむ》 忘跡思勿《わするとおもふな》    80
 
(279)〔釋〕 ○あをによしなら 既出(八三頁)。○わすると この「忘る」は強い使ひ方で、見棄てる、見限るなどの意と聞える。
【歌意】 この奈良の屋敷には、永久に主公ばかりか私も通つて來ませう。假令途絶えがあつたとしても、何も見限つたと決して思ひなさるなよ。
 
〔評〕 長歌の末節を抄して、更に「忘るとおもふな」の一轉語を下した。既に「家には」とあるから、この警告は或はその「家」に對してなされたとも見られるが、實はこの新邸に住む留守居の人達に、必ず豫期せらるべき徒然に對する慰安の詞であらう。一體に語調にやわらか味があつて流滑である。流石に職分柄氣分の練れ切つた、温厚な能吏といつた調子の作者の人柄の反映であらう。
 
和銅五年王子夏四月、遣(さるゝ)2長田《ながたの》王(を)于伊勢(の)齊宮《いつきのみやに》1時、山(の)邊(の)御井(にて)作歌
 
和銅五年四月長田王を伊勢の齋宮に勅使として立てられた時、山邊の御井で詠まれた歌との意。○長田王 天武天皇の皇孫で、前に出た長皇子の御子である。和銅四年四月に從五位上より正五位下、荐に累進して衛門督、攝津大夫となり、天平九年六月正四位下にて卒した。○伊勢齋宮 未婚の内親王で伊勢神宮に奉仕される御方の御所をいひ、又その内親王をも申し上げる。伊勢の齋宮御所は渡會の竹田に在つた。「齊」は、齋〔右△〕の通用で誤ではない。○山邊御井 卷十三には「山邊の五十師の御井」とある。尚歌の解を見よ。 
(280)山邊乃《やまのべの》 御井乎見我※[氏/一]利《みゐをみがてり》 神風乃《かむかぜの》 伊勢處女等《いせをとめども》 相見鶴鴨《あひみつるかも》    81
 
〔釋〕 ○やまのべのみゐ 伊勢國川曲郡(今安藝郡)山邊《ヤマベ》村大井神社(式内)の岡の北麓に、流さ四間ほどの丸井戸がある。大井の稱もこれに本づいたものか。こゝから西に亘つた上方の原野が五十師《イシ》の原である。但こゝはその周圍の總括的地名として用ゐられ、御井その物には關係がない。山田氏の壹志郡新家村説は採らない。古義は山邊《ヤマベ》の村名によつてヤマヘノ〔四字傍線〕と四音に而も清んで訓んでゐるが、川邊を川の邊、池邊を池の邊など常に通用してゐる上に、邊を清むなどは拘泥も亦甚しい。○みがてり 見がてら〔四字傍点〕に同じい。「り」と「ら」とは通音。○かむかぜの 伊勢の枕詞。神武紀にも帝の御製に「神風の伊勢の海の大石にや云々」とある。守部いふ「大御歌にかく詠ませ給ふからは神代より由縁ありけらし。仙覺抄に引ける風土記に、伊勢國者云々、有(リ)v神曰(フ)2伊勢津彦(ト)1云々とて、その神天(ノ)日別(ノ)命の爲に大風を起せる事見え、又倭姫世記に、(281)豐蘆原瑞穗國之|内仁《ウチニ》、伊勢加佐波夜國波《イセカザハヤノクニハ》云々と見え、その國に風神鎭り座して靈驗あらたなり。この故に神風の伊勢と續くる也」と。まづこの説に從つておかう。又眞淵は「神風の息《イキ》といふべきを略きて、伊《イ》の一語にいひ懸けたり。風は神の御息なること神代紀に見ゆ」といつてゐる。古義の説は事々しくて牽強である。○いせをとめ 伊勢の國の少女。かく地名から續けて何々少女と呼ぶは、當時の語法で、集中に、菟原處女《ウナヒヲトメ》、泊瀬處女《ハツセヲトメ》などもあり、又|飛鳥壯《アスカヲトコ》、泊瀬女《ハツセメ》などの語も見える。○ども どもに〔右○〕の意。○つるかも 「鶴鴨」は戲書である。
【歌意】 景色のよい山邊の御井を見がてら、はからずも可愛い伊勢少女達に出合つたことよなあ。
 
〔評〕 卷十三の長歌「山邊の五十師《イシ》の原に内日刺す大宮仕へ云々」の反歌に
  山邊の五十師《イシ》の御井はおのづから成れる錦を張れる山かも(―3235)
とある。この反歌の御井は地名として見なければ解釋しにくい。想ふにもと神の御井の名から起つて、遂に五十一師《イシ》の原全部にまで廣被する地名となつたものと斷ずる。
 五十師の原は長歌(卷十三)の趣によれば、其處に行宮があつたらしく、それは季節柄、持統上皇の大寶二年十月の參河行幸の途次の御駐輦と察せられる。この地は南に鈴鹿川を控へ、東は遙に伊勢灣を望み、西は遠く鈴鹿山脈近く錨嶽の連峰に對する廣い丘陵地で、當時と雖も形勝を以て聞えたものだらう。
(282) 長田王は今齋宮行の序、わざとの寄路で、此處に先帝の遺蹟を偲び、又その風光を耽賞し、十分にその平素の渇望を醫せられた。况やそこには意外のお景物、即ち美しい伊勢處女等の出現まであつた。國司の指圖か郡司の氣轉かは知らぬが、皇子※[疑の左+欠]待の爲であつたらう。王はやつと去年正五位下に叙せられたばかりの若いお方である。定めて殊更に驚異の目を見張つて、この可憐の處女達を眺められたであらうことは、容易に想像される。王は後年も歌垣の頭となつて風流を盡したほどの才人である。
 「御井を見がてり」と、肝腎の公用を私的の伊勢處女等の邂逅と、殆ど同程度に扱つたことは、即ち伊勢處女等の邂逅を頗る有意味に映出させるもので、そこにこの邂逅に對しての作者の一段の歡喜と一層の逸興とが活躍するのである。
 
    ○
 
浦佐夫流《うらさぶる》 情佐麻禰之《こころさまねし》 久堅乃《ひさかたの》 天之四具禮能《あめのしぐれの》 流相見者《ながらふみれば》    82
 
〔釋〕 ○うらさぶる 上に「ささ波の國津御神のうらさびて」とある「うらさび」と同語で、何となく心慰まずさびしく思はるゝ意(一三七頁參照)。「うら」は心の裏《ウチ》をいふ。○さまねし 「さ」は接頭語、「まねし」は間無《マナ》し、の義から、遍し、繁しの意に轉つた。こゝは繁しの意。「禰」は原本に彌〔右△〕とある。ではサマミシと訓まれて意が通じないので、契沖の説によつて改めた。○ひさかたの 天に係る枕詞で、轉じてあらゆる天象の物にも冠す(283)るに至つた。その意義については、(1)「久堅」の義で、日本開闢説の天まづ固まつて形を成したによる(古説)。(2)「久方」の義で、同じ開闢説によつて天が地よりも舊き方の意とする(同上)。(3)「久方」で遠方のの義とする。(千引)(4)※[誇の旁+包]形《ヒサゴガタ》」の略で、天は圓形に見えて恰も※[誇の旁+包]の圓いのに似てゐるから(冠辭)。(5)「日放《ヒサ》す方」の略で、日光のさす方とする(久老)。(6)「提《ヒサ》げ勝間《カタマ》」の略で、提《ヒサ》げる勝間《カタマ》即ち籠の意から、その「編目《アミメ》」を類似音の天《アメ》にいひ懸ける(古義)。その他尚諸説あるが、(3)及び(5)の説が比較的簡明で自然と思はれる。(6)の説の如きは餘に牽強で問題にならない。○あめのしぐれ 空より降り來る時雨の意。時雨は晩秋から初冬にかけて降る雨の稱。○ながらふ 流る〔二字傍点〕の延言で但「流らふ」は流るゝ動作が繼續的に時間をもつことになる。すべて動詞の語尾の延言となつたものは皆さうである。さて「時雨の流らふ」とは、時雨の絶えず降ること。古へは雨雪の類の降るのを流る〔二字傍点〕といつたことは「小松がうれゆ沫雪流る」(卷十)の例によつても分る。古義には、「後世は水にのみいへど、古へは竪にも横にも長く續くことは流るといへり」といつてゐる。まことに「春霞流るゝなべに」(卷十)などの例もある。さて「流らふ見れば」は流らふ〔右○〕を見ればで、連體言の下のを〔右○〕の助辭の略かれた格。「相」は借字。
【歌意】 つめたい時雨が蕭々と絶えず降りそゝいで來るのを見てゐると、何となく寂しい慰み難い心持が、ひしひしと胸に湧いて來ることだわい。
 
〔評〕 この歌も次の歌も御井の歌ではないから、上の題詞を係けて見るべきではないが、この歌の方はやはり長皇子の伊勢旅行中の作として解けぬこともない。然し次の歌が全く關係無いもののやうに思はれる點から推す(284)と、これも長皇子の作でなく、或人の或時の作と見るが穩かであらう。
 さて何等の背景もなしにこの歌を見ると、その内容は平安朝歌人の作と大差は無い。その高古らしく聞えるのは、全く五七調の成立であることと、結句が四三音の組織で、反倒の叙法であることと、用語が古僻で、「うらさぶる」「さまねし」「あめのしぐれ」「しぐれの流らふ」など、時代色が極めて鮮明なことなどに依るのである。まづ銅鐵器や陶器などに現はれる古雅な味に似たものといへよう。
 
海底《わたのそこ》 奥津白浪《おきつしらなみ》 立田山《たつたやま》 何時鹿越奈武《いつかこえなむ》 妹之當見武《いもがあたりみむ》    83
 
〔釋〕 ○わたのそこ 海の彼方。奥《オキ》にかゝる枕詞。卷五にも「和多能曾許《ワタノソコ》おきつ深江」と續けてある。抑も「そこ」は退《ソキ》の轉語であらう。退《ソキ》は物の遠放るをいひ、又その極みをいふ。「山のそき野《ヌ》のそき」(卷六)「根の國そきの國」(牛祭の文)のそき〔二字傍点〕は皆遠放る極みの意である。されば「そこ」は縱の空間の場合には底の意となりもするが、こゝでは「底」の字は借用と見るべきである。古義引用の宮地氏説は學的根據がない。○おきつしらなみ 立田山の「立つ」にかゝる序詞である。「つ」はの〔傍点〕に同じく領格の助辭。○たつたやま 大和國平群郡。山は河内との國境にあり、大和川の龜の瀬の北岸に當る。平城京から河内攝津以西の國々へ通ずる要路に當つてゐたので、古へは關が置かれてあつた。峠村はその故地であらう。○いつかこえなむ 何時まあ越えて往かれようか。「な」は完了の助動詞ぬ〔傍点〕の第一變化、「む」は未來推量の助動詞。○あたり 「當」は借字。
(285)〔歌意〕 あゝ懷かしい故郷への通路にあるあの立田山を、いつ頃越えて往かれるのであらうか。あの山の上から、わが愛妻の住むあたりを早く見ようものを。
 
〔評〕 初二句は序詞である。然し立田山に對して、「海の底沖つ白浪」は、「立つ」の秀句でこそあれ、實質上からは餘りに縁が遠い。この歌から胚胎した例の伊勢物語及び古今集の
  風ふけば沖つ白波立田山よはにや君がひとり越ゆらむ
の一解に、「沖つ白波」を後漢書の白波緑林の故事に據つて、盗人の出ることとしたのは、古來の笑柄にはなつてゐるが、さうした附會談の起るといふも、畢竟この序詞が立田山に實質的交渉が薄くて、寧ろ突飛に感ぜられる所以に歸せねばならぬ。
 茲に於て自分は一説を立てたい。それは西國航路から久々で大和の京に歸つて來る或旅人の船中作と見るのである。船が明石海峽を通過すると、まづ戀しい故郷の生駒葛城の連山が目に入る。人麻呂が、
  あまさかる鄙の長路《ナガヂ》ゆこひ來れば明石の門《ト》より倭島《ヤマトジマ》見ゆ (卷三―255)
(286)と歌つたのは即ちそれで、更に茅渟《チヌ》の海に入ると觀察も思索も一層精細となつて、まづその倭島の一部たる立田山に想到する。この山は難波の津から大和の京への通路に當る唯一の峠で、そこに立てば、大和平原の中央部から飛鳥地方も奈良地方も一望の下にあり、作者の愛妻の住む家も無論指顧の間にある筈である。かうした印象深い立田山なので、今作者は眼前舷頭に起伏する沖つ白波を序詞として、それに呼び懸けたのである。
 かくの如く「海の底沖つ白波」が海路の即興であるとすれば、山と白波との對比も何の不自然もなく、「立田山いつか越えなむ」といひ、更に「妹があたり見む」とうち出した漸層の辭樣は、抑へ難い郷愁と旅情とを、つゝましやかに遠慮勝に歌つたものであることが領かれよう。長の旅路に何の他念なく、ひたすら故郷の愛妻の上ばかりを思念し來つた趣が、いかにも力強く動いて面白い。
 
右二首、今案(ズルニ)不v似2御井(ニテ)所1v作《ヨメル》。若(シ)疑(ラクハ)當時|誦《クチズサミタマヒシ》之古歌歟。
 
 如何にもこの左註の如く、上掲二首は山邊御井での御作とは思はれないが、然し當時長田王の口誦された古歌かといふこの推測は餘に根據がない。これは全く他に題詞のあつたのが、傳寫の際に書き落されたものに相違ない。すると作者も果して長田王かどうか、疑問の餘地が生ずることになる。
 
(287)寧樂《ならの》宮
 
長(の)皇子《みこ》與《と》2志貴皇子《しきのみこと》1於2佐紀《さきの》宮(に)1倶宴《うたげしたまふ》歌
 
寧樂宮 この三字は目録にも此處にも題詞の上に冠してあるが、下の文と續かぬので誤であることは著しい。削るべきである。但卷二の卷尾の書式に例を採れば、この三字は別行として存してもよいやうであるが、それにしても上掲「和銅五年壬子云々」とある前に、一行として挿入すべきで、此處に入るべき理由はない。
 
○長皇子 既出(二二七頁)。○志貴皇子、天智天皇の皇子、光仁天皇の御父。長皇子とは從兄弟の御仲である。既出(二〇〇頁)。○佐紀宮 大和國生駒郡佐紀村高野にあつた長皇子の御邸。○うたげ 饗宴。打上《ウチアゲ》の約で、酒宴の折には樂んで手を拍ち上げるから出た語といふ。
 
秋去者《あきさらば》 今毛見如《いまもみるごと》 妻戀爾《つまごひに》 鹿將嶋山曾《かなかむやまぞ》 高野原之宇倍《たかぬはらのうへ》    84
 
〔釋〕 ○あきさらば 秋にならばの意。「さらば」はシアラバ〔四字傍点〕の約と舊説ではいふが、これは「去る」といふ動詞の活用と見るべきである。「春さりくれば」の條を參照(七九頁)。○いまもみるごと 今眼前に見てゐる通りの意。「も」は歎辭。「ごと」は如くの意。この語はかく語根のみを以て中止形に用ゐるのが古語の常であつた。終止に用ゐるは誤。○つまごひ 牝《メ》を戀ふること。○かなかむやまぞ 鹿の鳴くべき山なる〔二字右○〕ぞの意。「か」は鹿をいふ。(288)この語は場合によつてカともシカともいふが、本集の用字例では、シカと訓むべき場合は勝牡鹿乃《カツシカノ》、小牡鹿乃角乃《ヲシカノツヌノ》、棹牡鹿鳴母《サヲシカナクモ》、妻呼雄鹿之《ツマヨブシカノ》、住云男鹿之《スムチフシカノ》など書くが普通で、稀には例外もあるが、單獨に用ゐた「鹿」の字は多くはカと訓んでゐるから、こゝもそれに從ふがよい。○たかぬはらのうへ 高野原は佐紀村の内なる高野山の原野をいふ。西方の一端に孝謙天皇の御陵があり、高野(ノ)山陵と稱する。「高野」は高原の義である。この高野山は「春日なる三笠の山に月も出でぬかも佐貴《サキ》山に咲ける櫻の花の見ゆべく」(卷十)とある佐貴山と同處である。「うへ」はあたり、ほとりなどの意。上下の上ではない。
【歌意】 追つ付け秋になりませうならば、只今まあ見えます通りに姿を見せて〔五字右○〕、妻戀して鹿が鳴きます山ですよ、この高野原のあたりはさ。何と面白い處ではございませんか。
 
〔評〕 高野山は奈良の京の北境を劃つてゐる奈良山の西に特立し、南になだれて京の一條北路に續てゐる。その(289)奥は北へ延びて深い森林であつたらしい。鹿は今も春日神社には飼養されてゐて、奈良情調を味はせてくれるものゝ最たるものであるが、往古は奈良の京の周圍の山野には、野生のが澤山棲んでゐたものである。
 佐紀の宮はこの高野山の一角形勝の地を卜して建てた御別莊と思はれる。主人長皇子と客人の志貴皇子とが對酌して、山地の風光を賞美してゐると、愛らしげな姿の鹿が林木の間を逍遙してゐる。これに愈よ興趣をそゝられて、主人の皇子は透かさず、「どうです、秋は秋であの鹿は鳴きませうぜ、私の處では」と自慢かた/”\、「ですからこの秋は聽きにお出下さい」と、暗に客人の皇子に再遊を促したその即興の面白さ、主人の皇子の誇りがな樣子が彷彿として眼前に浮んで來る。この歌の製作時季は「秋さらば」の句意によつて考察すると、夏もむしろ秋近い夏であらう。隨つてこの山莊の會合が納涼の宴であつたかも知れない。
 鹿の妻戀して鳴くのは秋の半ばからである。然るにこの歌を直譯的に解すると夏鹿が鳴くやうにも聞え、辻褄が合はぬ。故に二句の下に姿を見せて〔五字右○〕とか、來て〔二字右○〕とかいふ語を補足して詞意を完了せしめる。實詠には眼前の事相に多くを讓つて、さう絮説せぬ場合がある。これもその儔である。
 序にいふ。文武紀慶雲三年の詔に、
  頃者王公諸臣、多(ク)占(メ)2山澤(ヲ)1、不v事(トセ)2耕種(ヲ)1、競(ウテ)懷(ヒ)2貪婪(ヲ)1、空(ク)妨(ゲ)2地利(ヲ)1、若(シ)有(レバ)d百姓(ノ)採(ル)2柴草(ヲ)1者u、仍(チ)奪(ヒ)2其器(ヲ)1、令(ム)2大(ニ)辛苦(セ)1、加以被(ルコト)v賜(ハ)v地(ヲ)實(ニ)有(レバ)2一二畝1、由(テ)v是(ニ)踰(エ)v峰(ヲ)跨(リ)v谷(ニ)浪(ニ)爲(ル)2境界(ヲ)1、自今以後不(レ)v得2更(ニ)然(ルコトヲ)1。
(290) 又元明紀(續紀)和銅四年十二月の詔に、
  親王以下及(ビ)豪強之家、多(ク)占(メ)2山野(ヲ)1妨(グ)1百姓(ノ)業(ヲ)1、自今以來嚴(カニ)加(ヘヨ)2禁斷(ヲ)1。
と仰せ出さられてある。長皇子の佐紀宮も、多分高野原深く侵入して地利を占めた宏壯なものだつたらう。
 
右一首、長《ナガノ》皇子
 
 この書式は、次に志貴皇子の御答歌のあつたことを推測させる。又實際的事情から想像して見ても、志貴皇子ほどの練達堪能を以てして、かゝる場合御答歌の無い筈は無さゝうだ。恐らく書き落されたものであらう。もしそれがあつたら、一層興趣を増したらうに。
 
                2005年1月3日、午後1時50分、入力終了。
                2007年10月20日(日)午後12時55分、校正終了
 
(二九一頁より二九六頁マデ目録、省略)
 
(297) 萬葉集卷二
 
    相聞
 
○相聞 サウモンと音讀しておく。眞淵はアヒギコエ〔五字傍線〕、士清はアヒギキ〔四字傍線〕、古義はシタシミウタ〔六字傍線〕と訓んだが、或は私意に過ぎ、或はわざとらしい。宣長は「強ひて訓まばコヒ〔二字傍線〕とあるべし」といつた。○この部に收めた歌を見ると、普通の戀歌の外に、親子兄弟朋友の相思の情や存問の意を歌つたのもある。さればこの相聞は廣義の戀の意に使用されてゐる。語は文選卷九の曹植が呉季重に與へた書に「適(マ)對(シテ)2嘉賓(ニ)1口授不v悉(サ)、往來數(バ)相聞〔二字傍点〕(フ)」とある註に、「聞(ハ)問(フ)也」とあるから、相聞はもと相問ふの義である。 
難波高津宮御宇天皇代《なにはのたかつのみやにあめのしたしろしめししすめらみことのみよ》  大鷦鷯《オホサヽキノ》天皇
 
○難波 今の大阪地方の舊稱。高津(ノ)宮の所在地は今の安國寺阪の北に當る。その邊まで古へは海で、切岸になつた船着場であつたから、高津の名があつた。この宮で天下を知し召したのは仁徳天皇であらせられる。こゝにはその御代の歌を收めた。○大鷦鷯天皇 仁徳天皇の御諱である。
 
(298)盤姫《いはのひめの》皇后(の)思《しぬびたまひて》2天皇(を)1御作歌《よみませるみうた》四首
 
盤姫皇后が仁徳天皇をお慕ひなされて詠まれた御歌との意。○盤姫 葛城襲津彦《カツラキノソツヒコ》の女で、仁徳天皇の妃にましました。「盤姫皇后」の書式に就いて、皇后には御名を顯はして書く例が無いから、盤姫の二字を省くが至當であるといひ、又當時は皇族以外から皇后の立つ例が無いのに、臣下の女たる盤姫をこゝに皇后と書いたのは、履中、反正、允恭三帝の御生母であらせられた處から、後に追尊した書紀の書例に隨つたもので、便宜上折衷した書法だらうともいふ。紀には磐|之媛《ノヒメ》、記には石之日賣《イハノヒメ》とある。「盤」は磐の通用字。
 
君之行《きみがゆき》 氣長成奴《けながくなりぬ》 山多都禰《やまたづね》 迎加將行《むかへかゆか》 待爾可將待《まちにかまたむ》    85
 
〔釋〕 ○きみがゆき 君の行幸。「ゆき」は行くの居體言。○けながく 月日久しくの意。「け」は來經《キヘ》の約で、月日の程經るをいふ。これは宣長説。○やまたづね 山路を尋ねての意。○むかへかゆかむ 迎へに往かうかの意。「むかへ」の下、に〔右○〕の助詞が下の「まちにか」のに〔傍点〕に讓つて略かれてゐる。○まちにかまたむ ただ此處にゐて待ちに待たうかの意。
【歌意】 背の君の行幸は、もう大分月日久しくなつた。いつそあの山路を尋ねてお迎へに往かうか、それとも此處にじつとしてゐて、只御還幸を待ちに待たうか。どうも待つてばかりは居られぬ程戀しいわ。
 
(299)〔評〕 盤姫の命の御存生中、天皇の餘所に久しく行幸遊ばされたことは史に見えない。のみならず、この歌は下に衣通《ソトホシノ》王の歌として出てゐる。
  君がゆきけ長くなりぬ山たづの迎へを往かむ待つには待たじ   (古事記、允恭記)
の異傳であることは明かである。然し萬葉としてはこちらが本文であるから、こゝで評語を下すことゝする。
 初二句は君の歸來を既に待ちに待つて、待ちあぐんだ歎の聲である。もうとゞの詰りまで押詰めて待ち切れない場合にあることが想像される。遂にその隱忍は破裂したといつても、愛想をつかすのでない。どこまでも作者は貞實である。貞實だけに餘計に戀の試煉は切ない。この際唯一の策としては只「迎へか往かむ」である。向うから來なければこちらから往くより外はないではないか。然しそこに世間がある。御身分柄といひ女性といひ、さう容易くは往かれぬといふ事實の存在を、理性が心の隅で※[口+耳]いてゐる。で又あと戻をして「待ちにか待たむ」となる。何時まで經つても首鼠兩端で、どう/\廻りをして果てしがつかない。なまじ理性のある者は却つてつらい。苦悩煩悶の問題が課し放しにされてゐる態《カタチ》では、餘に慘酷である。殊に作者は古事記の所傳によれば、御性格が可なり我儘な嫉妬の強いお方と思はれるから、これらの苦患は人一倍甚しくあらせられたと見て、違ひあるまい。
 三句「山尋ね」は語を成さない。必ず評語中に掲出の歌の如く「山たづの」の枕詞が置かれてあつたものだらう。
 
(300)右一首(ノ)歌、山上(ノ)憶良(ノ)臣《オミノ》類聚歌林(ニ)載(ス)v焉(ヲ)。
 
 憶良及び類聚歌林のことは既出(四六頁、二三四頁)。
 
如此許《かくばかり》 戀乍不有者《こひつつあらずは》 高山之《たかやまの》 磐根四卷手《いはねしまきて》 死奈麻思物乎《しなましものを》    86
 
〔釋〕 ○こひつつあらずは 戀ひつつあらむよりはの意。古代文法で、集中他にも澤山用例がある。○いはねしまきて 岩根を枕にして寢て。「いは」は石《イシ》の意で、「ね」は輕い接尾語。「し」は強辭。「まく」は枕す〔二字傍点〕の意の古言で、加行四段活用の動詞の卷く〔二字傍点〕と同語。「四」は借字。
【歌意】 このやうにまあ戀ひどほしに苦まうよりは、いつそのこと、高山の岩を枕にして死なうものをさ、それが又さうもなりかねて、尚更苦しいことよ。
 
〔評〕 凡そ生きとし生けるものに取つて、生の價値は絶對である。然るに戀の苦悩を遁れ得るならば、その生をすら犠牲にしようといふのは、これ熱愛の極ふら/\と魔がさしたやうなもので、一切の理智を飛び超えてゐるのである。「高山の岩根し枕きて」は後にも、
  鴨山の岩根しまけるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ  (卷二、人麿―223)
とあつて、死者の山郊に葬られた状態である。この意味に於ける巖穴の語は支那にも見えるが、大和人の觀念から出たこの「高山」は、現代人の考へてゐるやうな雄峯峻嶺では勿論ない。大和地方に散布してゐる陵墓を(301)見れば忽ち解ることで、大抵が皆丘陵か小山である。がこゝは殊に誇張の必要から、「高」の一語を形容に點じたものである。畢竟四句は「死なまし」の修飾には違ひないが、家にゐて徒らに戀の煉獄に責め苛まれようよりは、あくがれ出て磐が根枕に死んだがましといふ相對的の意味が生じてゐる。されば「高山の磐根」の誇張によつて死の深刻さが強調されてくるので、それでも尚死を擇びたいとの絶叫には、その戀心が愈よ強く反撥されるのである。「死なましものを」の抑揚の辭樣も深い餘情を傳へる。戀の苦患は死にたい程切ないが、思ふ君はまた見棄て難い。こゝに大いなる矛盾があり撞着がある。この矛盾撞着が基調となつて、頗る高い強い奔放な愛の響を傳へてゐる。切迫した内容に相應して辭句に寸毫の弛緩もなく、深く讀者の胸に喰ひ入るのは、抑へ難い實感の迸出なるが故である。
 
在管裳《ありつつも》 君乎者將待《きみをばまたむ》 打靡《うちなびく》 吾黒髪爾《あがくろかみに》 霜乃置萬代日《しものおくまでに》    87
 
〔釋〕 ○ありつつも 在り/\てまあ。いつまでも存在するをいふ。「管」は借字。○うちなびく 女の髪の長いさまを形容していふ。○しものおく 次第に白髪になりゆくを譬へていふ。こゝでは實際の霜と見るのはわるい。「代」はその漢音テイをテの假字に借り、「日」はその次音ニチをニの假字に借りた。「萬代」は戲書。
【歌意】 いつまでも生き永らへて、私は君のお出をお待ち申しませう。長い美しいこの黒髪が、次第に白髪になつてゆく時分までも、じつと辛抱いたしましてさ。
 
(302)〔評〕 白髪の生えるのを色相上の聯想から「霜のおく」と轉義したことは、漢詩に於ける「霜鬢」の語と同趣である。「打靡く黒髪」の語には、若々しい瑞々しい髪の樣子がよく描き出されてゐる。その美しい黒髪の次第に白髪に變ずるまでには、可なりの歳月を要する。即ちこゝは時間の長いことを婉曲に誇張したもので、いつまでも/\お婆さんになるまでも辛抱して、君のお出を待ちませうとは、眞實その物の聲である。「霜のおくまでに」の字餘りの調子強さに、その力強い決意のほどが窺はれる。まことに婦人として、空閨を守る間にその若い誇を失つてゆくことは、堪へ難い苦痛であらう。然るにそれをも尚犠牲にしてお待ちするといふことであるから、頗る尊い堅い優しい操心の現はれであるが、かく將來に唯一の希望を置いたことは、即ち現在に失望した悲痛の聲であると思ふと、そゞろ御同情に堪へぬ次第である。眞淵が、
  下句は、古歌のきまよく心得ぬ人の書き誤れる也。古歌に譬言は多かれど、かくふと「霜のおく」といひて白髪の事を思はする如きこと上代にはなし。
といつてゐるのは一隻眼を具へたもので、全くこれは上代の辭樣ではない。然し書き誤りとするのは、何でもこれを磐姫皇后の御作と信じた先入見に由來した謬説である。又後の註家が、下に出た或本の「居明而」の歌、及び
  君待つと庭にし居ればうちなびくあが黒髪に霜ぞおきける  (卷十二―3044)
などの趣に引付けて、霜を實在の物とし、甚しいのは初句の「ありつつも」を一夜の間の事としたのは、眞淵の書き誤り説に牽かれた誤解である。
 
(303)秋之田《あきのたの》 穗上爾霧相《ほのへにきらふ》 朝霞《あさがすみ》 何時邊乃方二《いづへのかたに》 我戀將息《あがこひやまむ》    88
 
〔釋〕 ○ほのへ 「ほ」は上に「秋の田の」とあるから、無論稻穗である。「へ」は上《ウヘ》の上略。但ホトリといふ程の廣い意に用ゐられる。○きらふ 水蒸氣のボツと立つをいふ。四段活用の動詞なる霧《キ》るの延言。○あさがすみ 霞を春のもの、霧を秋のものと定めたのは平安朝以後のことで、古くは秋の靄《モヤ》をも霞と詠んだ。こゝの霞も無論今いふ靄《モヤ》である。○いづへのかたに 「いづへ」は何方《イヅヘ》の義。それを「方《カタ》」に續けていふのは重複であるが、同意の語を重ねて使ふことは、奥邊之方《オキベノカタ》、荒風乃風《アラシノカゼ》の類、歌には殊に多い。「かた」を縣《アガタ》の略言とする説は採らない。○やまむ やすまらうかの意。
【歌意】 秋の田の稻穗の上に一面に立ちふさがつてゐる朝靄、まるで方角も分らぬが、そのやうに私の戀心は止まう見當もつかない。
 
〔評〕 「朝」の一字で靄の深さが點出され、その晴間もなく秋田の上に霧らふ光景が想像される。上句を背景に置いてそれを譬喩に使ひ、下句に戀の感傷を叙したのは、ちよつと形式が變つて居り、この情景二面の合拍の具合は、恰も後世の連俳の附合の氣分に似たものがある。さて戀の苦悩は我れと自ら四面に墻を結ひ廻らしたやうなもので、どちらを向いても自由に息がつけない。「いづへの方に」の一句、まことに心中の欝結を吐露し得て痛切であり、實際塞がつた胸の鼓動が聞えるやうな感がある。
 
(304)或本(の)歌(に)曰(く)、
 
これは上の「在管裳」の歌が、或本にはかう出てゐるといふ註記であるから、勿論「在管裳」の歌の次に置くべきであるが、總べて同一系統の歌はまづ連記した上で、異傳はその後に附記するのが、この集の事例である。
 
居明而《ゐあかして》 君者乎將待《きみをばまたむ》 奴婆珠乃《ぬばたまの》 吾黒髪爾《あがくろかみに》 霜者零騰文《しもはふるとも》    89
 
〔釋〕 ○ゐあかして 起き居明しての意。契沖は卷十八に「乎里安加之《ヲリアカアシ》」とあるに據つてヲリアカシテ〔六字傍線〕とも訓むべきかといひ、芳樹はヲリアカシ〔五字傍線〕と訓んで「而」の字があるのにこれを訓まない。ヰアカシテで惡い理由は少しも無い。抑も言語は活物で、同時代でも同意の異語が竝行して行はれる例が多い。それを何でも一方に片付けようどするのが、萬葉學者の通弊である。况やこれは古調の歌であり、卷十八のは大伴家持作だから、時代においても非常の懸隔をもつてゐる筈、後例に囚はれて先迹を訂さうとするのは妄である。○ぬばたまの 黒にかゝる枕詞。野羽《ヌバ》玉の義といふ。野羽《ヌバ》は烏扇《カラスアフギ》即ち射干のことで、今は檜扇《ヒアフギ》ど呼ぶ鳶尾科の草であるが、觀賞用として栽培される。葉の重なり具合が羽にも檜扇にも似てゐるからの稱。玉はその實をさしていふ。實の色は黒いので、黒、髪、暗、夜などの枕詞に用ゐられる。久老は寐程《ヌルタマ》の轉語で、まづ夜に續けたと解いたのは苦しい。「奴」をヌと讀むは呉音。なほ烏玉、黒玉、夜干玉などの字面を充てた。
(305)【歌意】今宵一夜はこのまゝ起き明して、君のお出を待ちませう。よし私の黒髪の上に霜が置くにしても、そんな事は構はずにさ。
 
〔評〕 結婚に於けるわが國上古の習慣は、嫁入でなくて婿入であり、男は女の家に夜な/\通ふのであつた。だから若し男が來なくなれば縁は切れたので、甚だ簡單な、又心細いものであつた。されば來べき宵過ぎても男が來ないとなると、忽ち一大事の豫感に打たれる。不安な念に襲はれる。いよ/\眞劔に待たずにはゐられぬ。否待つ爲に起きてゐるのではなくて、實は寢ようにも寢られぬ爲に待つてゐるのである。この歌に於けるその本末顛倒の言は頗る詩趣が深い。一體命についで愛惜する黒髪を霜に打たせるといふことは、婦人としては忍び難いあたらしい事に相違ないが、それをも尚忍んで待たうといふ處に、その深い情味が搖曳して、傷ましくも美しい作である。
 
右一首、古歌集中(ニ)出(ヅ)。
 
 「古歌集」といふ名稱は集中處々に出てゐるが、それが悉く同一本か又は異種のものかは明かでない。ともかく何人かが古傳の歌を輯録して置いたものに相違ない。
 
古事記(ニ)曰(ク)、輕(ノ)太子|奸《タハク》2輕(ノ)太郎女《オホイラツメニ》1、故《カレ》其(ノ)太子(ハ)流(サル)2於伊豫(ノ)湯(ニ)1也。此(ノ)時、衣通《ソトホシノ》王不v堪(ヘ)2戀慕(ニ)1而追(ヒ)往(ク)時(ノ)歌(ニ)曰(ク)、 
 
(306)これは卷首磐姫皇后の御歌に就いて、別傳異説を考證したのだから、實はその御歌の次に置くべきであるが、かく別記するのが又この集の書例でもある。「古事記(ニ)曰(ク)」とあるけれども、この文は古事記の原文そのまゝでなく、大意を攝取したものである。尚この文意は次の左註に委しいから、解説はその方に讓る。衣通(ノ)王は輕(ノ)大郎女の別名であつて、日本紀(卷第十三)所載の有名なる、「わがせこが來べき宵なりさゝがにの蜘蛛のおこなひこよひしるしも」と詠まれた允恭天皇の妃なる衣通姫とは全く別人である。
 
君之行《きみがゆき》 氣長久成奴《けながくなりぬ》 山多豆乃《やまたづの》 迎乎將往《むかへをゆかむ》 待爾者不待《まつにはまたじ》 【此(ニ)云(ヘル)2山多豆(ト)1者、是(レ)今(ノ)造木《ミヤツコギトイフ》者也。】    90
 
〔釋〕 ○やまたづの 「迎へ」に冠する枕詞。「やまたづ」は原註にあるが如く、ミヤツコギと稱した樹で、轉訛して今はニハトコ(接骨木)といふ。忍冬科の植物で、葉が對生してゐるので「むかへ」の枕詞に用ゐられるのである。宣長は「造木を建〔右△〕木の誤としてタツゲ〔三字傍線〕と訓み、立削《タツケ》の義で手斧のこととなし、山多豆は即ち山※[金+斤]《ヤマタツケ》であり、手斧の刃はこちらに向いてゐるから迎の冠詞となる」と説いてゐるが、頗る牽強である。○むかへをゆかむ 迎へにまあ往つたものだらうかの意。「を」は歎辭。○まつにはまたじ 待つてゐようにはとても待つて居り切れまいの意。「またじ」は待たれまいの意で、待つまいではない。
(307)【歌意】 君のお出かけになつて後、もう隨分月日久しくなつてしまつた。今はお迎へにまあ往つたものだらうか、此處にじつとしてお待ちして居らうには、とても待ち切れさうにもないことよ。
 
〔評〕 些細な差異はあるけれども、もと同一の歌と認められるものが、類聚歌林から援いて本集に載せたものには盤姫皇后の作とあるのに、古事記には衣通王の歌とあるので、この歌は恐らくそれを怪んだ後人が、かく考證を試みて書き入れたのが、後に書寫の際本文に紛れ込んだものであらう。然し上にも述べた如く、仁徳天皇が皇后を遺して長く他に行幸せられたといふことは史に見えず、却つて記紀共に皇后の遊行を記してゐる點から考へても、亦歌の風調から推しても、類聚歌林の所傳は容易に諾けられない。寧ろ古事記の所傳の方が信じ易いやうに思はれる。然し左註にいふやうに普通の古事記にはこの歌は載つてゐない。
 
右一首(ノ)歌(ハ)古事記(ト)與2類聚歌林1所v説(ク)不v同(カラ)、歌(ノ)主亦異(ル)焉。因(リテ)※[手偏+檢の旁](スルニ)2日本紀(ヲ)1、曰(ク)、難波(ノ)高津(ノ)宮(ノ)御宇大鷦鷯天皇(ノ)廿二年春正月、天皇語(リテ)2皇后(ニ)1納《イレテ》2八田(ノ)皇女(ヲ)1將v爲(サント)v妃(ト)。時(ニ)皇后不v聽(サ)。爰(ニ)天皇歌(ヲ)以(テ)乞(ヒタマフ)2於皇后(ニ)1云々。三十年秋九月乙卯(ノ)朔乙丑、皇后|遊2行《イデマシテ》紀伊國(ニ)1到(リ)2熊野(ノ)岬(ニ)1、取(リテ)2其處之|御綱葉《ミツナカシハヲ》1而還(リタマフ)。於是《コヽニ》天皇、伺(ヒ)2皇后(ノ)不(ルヲ)1v在(マサ)而娶(リテ)2八田皇女(ヲ)1納(レタマフ)2於宮中(ニ)1。時(ニ)皇后到(リマシテ)2難波(ノ)濟《ワタリニ》1聞(キテ)3天皇合(ヒマスト)2八田(ノ)皇女(ニ)1大(ニ)恨(ミタマフ)之、云々。
亦曰(ク)、遠(ツ)飛鳥(ノ)宮御宇|雄朝嬬稚子宿禰《ヲアサヅマワクコノスクネ》天皇(ノ)廿三年春正月甲午(ノ)朔庚子、木梨輕《キナシノカルノ》皇子、爲(ル)2太子(ト)1、容姿佳麗《カホキラ/\シ》、見(ル)者自(ラ)感《メヅ》。同(ジ)母妹《ハラノイロト》輕(ノ)太娘《オホイラツメノ》皇女亦|艶妙《カホヨシ》也、云々。遂(ニ)竊(ニ)通《タハケテ》、乃(チ)悒懷《イキドホリオモフコト》少(ク)息(ム)。廿四年夏六月、御羮汁《オモノノシル》凝(リテ)以作(ル)v氷(ト)。天皇|異《アヤシミ》v之(ヲ)卜(ス)2其(ノ)所由《ユヱヲ》1。卜《ウラヘノ》者曰(ク)、有2内亂《ウチノツミ》1、蓋|親親《ハラカラドモ》相|姦乎《タハケタルヲヤ》、云々。仍(リテ)移(ス)2太娘(ノ)皇女(ヲ)於伊與(ニ)1者《テヘリ》。(308)今案(ズルニ)二代二時不v見2此歌(ヲ)1也。
 大鷦鷯天皇は仁徳天皇、皇后は即ち盤姫皇后をさし奉る。八田皇女は莵道稚郎子の同母妹で、仁徳天皇には異母妹に當られるが、上古は異母の兄妹は婚姻が普通として認められたのである。御綱葉は御津野柏、或は御角柏とも書き、ミツノガシハと訓むものに同じい。古へ宮中の御宴の時、御酒を受けて飲む用に供した木葉である。雄朝嬬稚子宿禰は允恭天皇の御諱、木梨輕皇子は允恭天皇の皇子で、輕大娘皇女はその同母妹である。「二代二時不v見2此歌1也」とは、日本紀の記事では仁徳天皇の御代にも、允恭天皇の御代にも、共にこの歌は見えないといふのである。この左註は磐媛皇后御歌の左註に屬する又の左註で、恐らく村上天皇の御時、梨壺の五人達がこの集に所謂古點を施した折の記入であらうと正辭はいつてゐる。
 
近江(の)大津(の)宮(に)御宇天皇代《あめのしたしろしめししすめらみことのみよ》  天命開別《アメミコトヒラカスワケノ》天皇
 
解は卷一に既出(七六頁)。尚多くの古寫本に、天命開別天皇の下に續けて、小字で「謚曰2天智天皇1」とあるのも後人の註である。
 
天皇(の)賜(へる)2鏡(の)女王《ひめみこに》1御歌《おほみうた》一首
 
天智天皇が鏡女王に下された御歌との意。古義にいふ、この集には天皇作〔三字傍点〕とあるべき場合には「天皇御製」と(309)書き、天皇賜2云々1〔五字傍点〕など事情を述べた末には「御歌」と書くと。
○鏡女王 額田王即ち鏡王の娘で、額田(ノ)女王の御姉にまします。鏡も額田も父王の御名であつたのを、姉妹の王女に分けて名づけられたのである。この鏡女王はのちに藤原鎌足の嫡妻となられた。但この贈答は鏡女王がまだ鎌足に嫁せぬ以前、天皇も女王もうら若い頃の事と思はれる。天皇とあるのに拘泥して、大津の宮に御即位後の御作と解するのは誤である。
 
妹之家毛《いもがいへも》 繼而見麻思乎《つぎてみましを》 山跡有《やまとなる》 大島嶺爾《おほしまのねに》 家母有猿尾《いへもあらましを》    91
  一云、妹之當繼而毛見武爾《イモガアタリツギテモミムニ》 一云、家居麻之乎《イヘヲラマシヲ》
 
〔釋〕 ○いもがいへもつぎてみましを 一本の「妹があたり繼ぎても見むに」の方が「家」及び「まし」の語の重複も避けられ、すべてに於いて穩かである。「いもがあたり」は妹が家の〔二字右○〕あたりの意。「つぎてみましを」は續いて見たいものをの意で、見られぬのが殘念だの餘意を含み、「つぎてもみむに」は續いても見ようが爲にの意である。「つぎて」は間斷なくの意に近い。○やまとなる 大和にある。○おほしまのね 大島の嶺は平群郡(今の生駒郡)の神南備《カミナヒ》山(神南山とも三室山ともいふ)であらう。立田川(大和川)がその三面を廻り、そこに南から寺川が會湊して、島山のやうな地形であるので、その名を負うて一般にさうも呼ばれたものか。日本後紀、卷十七、(310)平群(ノ)朝臣|賀是《カゼ》麻呂の歌に「いかに吹く風にあればか大島の〔三字傍点〕尾花の末を吹き結びたる」と見えて、平群人が大島を詠み、又平群大島と名告つた人さへある。これを同郡の額田部《ヌカタベ》即ち古への額田郷に求めるのは歌の趣に出合はない。而も額田の地は大むね平野である。○いへもあらましを わが家があればよいものをなあの意であるが、一本の「家居麻之乎」が穩かである。「いへをらましを」は家造して居らうものをの意。「猿」をマシと訓むは梵語|麻斯咤《マシタ》の略。古義の猿《マシラ》等の説は非。「猿尾」は戲書。
【歌意】 懷かしい妹が家のあたりを、いつも常に見たい爲に、あの大島の嶺に家造して居らうものを、かう遠ざかつてゐるのが、さてつらいことよ。
 
〔評〕 天智天皇は近江の大津宮に天下を知召したが、その皇子時代は飛鳥京、又は難波京にましました。「大和なる」の語調は他國人の口吻であるから、これは孝徳天皇の難波豐埼《ナニハノトヨサキノ》宮時代のお作と思はれる。その頃皇子は二十三歳から三十歳までの御壯年時代であつたから、鏡女王との戀も頗る熱烈なものであつたらうと想像される。鏡女王は父王の居處即ち平群の額田に住まれたとすると、皇子は難波から遠く立田越をしてその家に通はれたの(311)であらう。
 額田はやゝ高地で、大島の嶺は其處を西へ距ること約一里の立田越の街道に近い小山である。こゝの兩地の間は全くの平野であるから、大島の嶺に立てば額田の妹が家は指顧の間にある。皇子は遙々と來て暫くの逢瀬を樂んだが、今又妹が懷を離れて遠く難波の京へ歸らうとなさる。戀戀の情は身を焦すばかりで、ひたすら顧み勝に來ると、たま/\大島の嶺が眼前に峙つてゐる。あゝあそこに家でもあつたら妹が住むあたりを見渡して、切ないこの戀心を慰められもしようにと、せめて思ひ入つた感懷から、「家居らましを」と絶叫なされたのである。
 皇子とはいへ、當時の政權をその掌中に握つて居られた方であるから、そんなに妹が家の見たくば、大島の嶺に別莊《ナリドコロ》ぐらゐ造るのは何でもあるまいが、もと/\これは諷託寄興の語で、實際に大島の嶺に家造しようといふのではない。その眞意は他に存するのである。實は何時も何時も逢つてゐたいのが本意であるが、それは實行し難いことなので、第二義に就いて姑く云爲したものである。餘り遠方なので、たまさかならでは愛人に逢はれぬ懸想人の心持がよく出てゐる。
 
(312)鏡(の)女王(の)奉v和《こたへまつれる》歌一首
 
板本の註に「鏡王女(ハ)又曰(フ)2額田(ノ)姫王(ト)1」とあるのは後人の加筆で、姉妹を混淆した誤である。○和歌 応酬唱和した歌即ち返歌の意で、ヤマトウタの義ではない。
 
秋山之《あきやまの》 樹下隱《このしたがくり》 逝水乃《ゆくみづの》 吾許曾益目《あれこそまさめ》 御念從者《みおもひよりは》    92
 
〔釋〕 ○このしたがくり 木の下隱れといふに同じい。「隱る」に古くは四段活があつた。○ゆくみづの 逝く水の如く〔二字右○〕の意。上三句は「まさめ」に係る直喩的序詞。秋は殊に水が落つるゆゑ、山下水の増るにつけていふ。○あれこそまさめ 吾が思〔右○〕こそ優《マ》さめの意。「まさめ」はまさらめに同じく、「め」は助動詞む〔傍点〕の第五變化。○みおもひ 私を慕つて下さるあなたのお心持。古義は四五句をアコソマスラメ〔七字傍線〕、オモホサムヨハ〔七字傍線〕と訓んだ。四句はともかくもであるが、結句は頗る牽強の感がある。
【歌意】 私を思つて下さる御心持の深さはしみ/”\嬉しう存じますが、秋山の木々の下ゆく水の、いつもより増るやうに、私があなたをお慕ひ申す心持の方が、尚一層まさつて居りませうよ。
 
〔評〕 上句の序は當季の景物を使つてゐる。しかもそれが懸歌の大島の嶺から聯想を辿つて來た、秋山の木の下水(313)であることを思ふがよい。すると皇子のお言葉につけお振舞につけ寸毫も脇見をしない、一心不亂なこの作者の戀心が認められる。さてこそ「吾こそまさめ」も、しかと利いて來るのである。懸歌が、せめてお前の家のあたりでも見たいからと、遣る瀬ない眞情を吐露して來たに對して、いえ私の方があなたよりはと逆に出て應じたのは、贈答の常套ではあるが、單に口頭で所謂うまい事をいつて、互に競うて感情を弄んだ後世の遊戲的戀愛とは全く面目を異にし、贈答共に眞實の哀音が切々として人に迫つて來る。秋山の木の下水を譬喩に引いたのは、「まさめ」の印象に力強さを與へるものであり、四五句の轉倒もこの歌としての叙法が自然で、思ひ入つた深刻味が漂つてゐる。
 
内(の)大臣藤原(の)卿《まへつぎみ》娉《つまどひする》2鏡女王(を)1時、鏡(の)女王(の)贈(れる)2内(の)大臣(に)1歌
 
内大臣藤原鎌足が鏡女王を懸想して通はれた時に、鏡女王が鎌足に贈られた歌との意。○内大臣藤原卿 鎌足が内(ノ)大臣になされたのはその死の直前のことで、それまでは内(ノ)臣であつたが、これは遡らせてその最極官を記したもの。卿はマヘツギミ〔五字傍線〕と訓み、前つ君〔三字傍点〕の義で、天皇侍弼の臣をいふ。尚記名のことは「内大臣」の項を見よ(七八頁)。○娉 ツマドフとも、ヨバフとも訓む。女を挑むこと、慇懃を通ずることにいふ。
 
玉匣《たまくしげ》 覆乎安美《かへりをやすみ》 開而行者《あけてゆかば》 君名者雖有《きみがなはあれど》 吾名之惜毛《あがなしをしも》    93
 
(314)〔釋〕 ○たまくしけ 「たま」は美稱。「くしげ」、は櫛笥で、化粧道具を入れる筥をいふが、櫛は化粧道具中の主たる物ゆゑに代表させたものである。さてこの句は二句を隔てゝ三句の「あけて」に係る枕詞。匣筥笥の類は皆、蓋と身とあつて、開けも覆ひもするからである。○かへりをやすみ 歸りが容易《タヤス》さにの意。「覆」をカヘリと訓むのは、卷四に「覆者覆《カヘラバカヘレ》」とある例に從ふ。古義は「安」の上に不〔右△〕を脱したものとしてカヘルヲイナミ〔七字傍線〕と訓んだが、脱字説は俄に諾けられない。又舊譯はオホフヲヤスミ〔七字傍線〕とあつて、櫛笥の蓋は覆ひ易いので開けるといふ意だといふが、道理《スヂ》が一向成つてゐない。○あけて 夜が明けてから。○きみがなはあれど 貴方のお名は潰れもせねどの意。男子の貞操の大目に見られるをいふ。○あがなしをしも 私の名の潰れることがつらい。「し」は強辭。「も」は歎辭。この四五句の「君」と「吾」とを、契沖や千蔭が轉倒と見て、ワガナハアレドキミガナシヲシモ〔十五字傍線〕と訓んだのは、一往道理があるやうに見えて、實は考慮が足らなかつた。
【歌意】 歸り道が樂《ラク》だからといつて、夜が明けてから貴方がお歸りなされては、人に見付かつて、その場合貴方は男ゆゑ浮名が立たうと構ひませんが、私の名の潰れるのが口惜しいのですわ。
 
〔評〕 娉ふといふ行爲は古代の婚姻風習に於ける普通の過程であつて、男が女の家に往つてその慇懃の情を通ず(315)るをいふ。女の家では勿論初から男を家内には入れぬので、男は庭や墻の外をうろ/\して、出入する家人を捉へて消息を頼んだり、今少し傳《ツテ》があつて立入ると、簾の外や何かに陣取つて、召仕の女中に取次をして貰つたりして、執念くせがむのである。その場合男は決して一人ではなかつた。集中にも、
  いにしへのますらをの子の、相きほひ妻どひしけむ、蘆の屋のうなひ處女の…………(卷九―1801)
と歌はれた菟原處女《ウナヒヲトメ》や、
  夏蟲の火に入るがごと、湊入に船漕ぐごとく、ゆきかくれ人のいふとき……………(卷九―1807)
の眞間の手兒奈などのやうな具合に、又は竹取物語にあるやうに、女の家の周圍に色々の男が寄り集つて、我勝に女の氣に入られようと競爭するのである。勿論晝間は銘々公私の用もあるので、夕暮頃から訪問に取懸かる。こゝも鎌足が鏡女王を聘ふとて、その家の簀子即ち縁側に居明したのであつて、つまり居催促の體である。この居催促は、源氏物語を始め平安時代の物語や隨筆やを見るとすぐ了解される。
 さてその熱心さは憎くもないが、夜が明けてから歸られたのでは、恰も鎌足にその一泊を許したやうな形に見えて、痛くもない腹を世間からは探られる譯だから迷惑千萬、そこで「あが名し惜しも」と、鏡女王は歎聲を洩した次第である。
 思ふに、この頃はまだ鏡女王は中大兄(天智天皇)との手が切れずに居られたのではあるまいか。さすれば猶(316)更名の立つのを迷惑がらずには居られないことになる。「君が名はあれど」の反撥の一句を合拍的に冠せたことは、吾が名の惜しさを一層強く映出させる手段で面白い。
 往時の男子は一人で澤山の女を持つたものである。だから曉方に歩きまはつてゐたところで、それは當然の事で、誰れも見咎める人もない。然し婦人となると、さう色々な男を朝歸りさせる譯にはいかぬ。貞操觀念は後代よりも自由であつたとはいへ、尚社會はその實行を強要したものである。こゝが「君が名はあれどあが名し惜しも」と、つけ/\といつて退けた所以である。
 
内(の)大臣藤原(の)卿(の)報2贈《こたふる》鏡(の)女王(に)1歌一首
 
○報贈歌 後世にいふ返歌である。
 
玉匣《たまくしげ》 將見圓山乃《みむろのやまの》 狹名葛《さなかづら》 佐不寐者遂爾《さねずばつひに》 有勝麻之自〔左△〕《ありかつましじ》    94
 或本(ノ)歌(ニ)云(フ)、玉匣|三室戸《ミムロド》山乃
 
〔釋〕 ○たまくしげ 解は前出。蓋《フタ》、實《ミ》、懸子《カケゴ》など、匣のうへでは常にいふ語で、こゝは「玉匣|實《ミ》」に「三室の山」を係けた。○みむろのやま 三室(ノ)山。上の天智天皇の御作にある「大島の嶺」即ち神南備山のことである。諸註に三輪山としたのはこゝに適はない。「將v見圓山」は書方が珍しい。「圓」をロの假字に用ゐたのは、マロ〔二字傍点〕のマ〔傍点〕の音が上のミム〔二字傍点〕のム〔傍点〕の音に包(317)まれて省かれたもの。○みむろとやま 或本の「三室戸山」は山城國宇治郡宇治。高さ約三五〇米突。その東山に三室戸寺がある。備中にも同名の山があるが、こゝに交渉はない。○さなかづら サネカヅラのこと。蔦葛の類で、その材から出る粘液は製紙又は鬢附油の用に供せられ、又その材を薄く削つたものは水に浸して調髪用とする。よつて美男葛《ビナンカヅラ》の名がある。漢名南五味子。「さ」は美將。「な」は古義説に、萎《ナエ》の義で、この葛は葛類の中で最も萎々《ナエ/\》としてゐるからの稱といふに從ふ。さて「さな」の響を疊んで下句の「さねずば」を呼び出した。つまり上句は序詞である。○さねずば 「さね」は「寢」に接頭語の「さ」を冠したもの。こゝは男女相寢る意。「ずば」のば〔傍点〕は濁る。○ありかつましじ 居るにも居られまいの意。「かつ」は下二段活の動詞で、次の歌「得がてにすとふ安見兒得たり」のかて〔二字傍点〕の終止形であり、堪ふ、敢ふ、などの意。古來これを難しの意としたのは穩かでない。「ましじ」は推量否定の助動詞で、これが約つてまじ〔二字傍点〕となつたと思はれる。さればまじ〔二字傍点〕と全く同意と見てよい。この句は諸本に最後の字が目〔左△〕となつてゐるので、從來アリガテマシモ〔七字傍線〕と訓んでゐたが、「ましじ」は記紀、宣命等にも見え、この集中にもさう訓むべき場所が數箇所あり、且元暦校本、類聚略古葉集などには明かに「自」となつてゐるので、橋本進吉氏説を斟酌してこれに從ふ。
【歌意】 あなたは名の立つのが苦しいとて、「早く歸れ」と仰しやるが、どうしてまあ、私はあなたと共寢をしないでは、あるにもあられぬ遣る瀬ない思がしませうものをさ。
 
(318) △額田王家の王女達
        鎌 足
         ‖
      ― 鏡女王
     |    ‖
 額田王―   天智帝
     |    ‖
      ― 額田女王
         ‖
        天武帝
 
〔評〕 上句は「さねずば」の序とのみ解しておけば、至極簡單で世話はないが、それでは見方が甚だ麁漏である。この三室の山は鏡女王の額田の家に近い山であることは上に述べた。のみならず作者鎌足も難波往還の途次、常に見馴れてゐた山である。又狹名葛は野生の植物で、その用途が直接調髪に關係があるからは、作者もそれを使つてゐるものと見てよい。以上二つの理由からして、遂に三室の山の狹名葛がこの歌の序として取出されたのであらう。
 この歌は枕詞や序詞によつて修飾も加へてあるが、全體としては隨分露骨であり、ぶつきら捧である。然し又その點に上代の素朴さが窺はれ、傍目もふらない熱情が看取される。たま/\中大兄皇子の御寵は妹の額田王の方に移られたりなどして、鏡女王は閨怨に堪へないでゐられた際ででもあつたとすれば、この新しい懸想人の切なる戀情には動かされずにゐられぬはめ〔二字傍点〕になる。果然その後鏡女王は遂に鎌足の本妻となられたのである。
 
内(の)大臣藤原(の)卿(が)娶《えたる》2采女安見兒《うねめやすみこを》1時(に)作歌一首
 
内大臣藤原鎌足が采女安見兒を手に入れた時に詠んだ歌との意。○采女 主上の飯饌に奉仕する役で、宣長説に、項《うなじ》に領巾《ヒレ》を掛ける故に嬰部《ウナゲベ》の意であるといふ。采女と書くは采擇によつて宮掖に入るからの稱。古くからあつたものだが、紀の孝徳天皇大化二年の條下に、「凡(ソ)采女(ハ)者貢(セシム)2郡(ノ)少領以上(ノ)姉妹及(ビ)子女(ノ)形容端正者〔五字右○〕(ヲ)1」とある(319)のが近江朝廷時代の釆女で、年は十六以上三十以下と定められてある。○安見兒 安《ヤスミ》といふ名の婦人で、「見」は只ミ〔傍点〕の音を表はしたのみ、「兒」は婦人を親愛して呼ぶ語。
 
吾者毛也《あれはもや》 安見兒得有《やすみこえたり》 皆人乃《みなひとの》 得難爾爲云《えかてにすとふ》 安見兒衣多利《やすみこえたり》    95
 
〔釋〕 ○あれはもや 「吾は」に歎辭の「も」と、呼辭の「や」とが添うた合成語。古義は古事記の須勢理姫の御歌に「阿波母與《アハモヨ》、賣邇斯阿禮婆《メニシアレバ》」とあるによつて、アハモヤ〔四字傍線〕と訓んだが、拘はつた説で、時代の變遷を考へないものである。○えたり 手に入れたの意。○みなひとの 當時は「皆人」「人皆」竝び用ゐられてゐる。「人皆乃」の轉倒ではない。○えかてにすとふ 「かて」は上の「ありかつましじ」の「かつ」の第二變化で、「堪へ」「敢へ」などと同義である。「に」は否定の助動詞「ず」の第二變化で、後世は餘り用ゐられないが、「多杼伎乎之良爾《タドキヲシラニ》」(卷二)「田度伎乎不知《タドキヲシラニ》」(卷十三)「去方乎不知《ユクヘヲシラニ》」(卷二)「爲便乎不知跡《スベヲシラニト」(卷四)など、集中にも多くの用例がある。從來「得難爾」といふ借字に累せられ、且音の類似によつて、「かて」を「難し」の語根の轉とし、これに助詞の「に」を添へたものと解したのは誤である。「とふ」はといふ〔三字傍点〕の約語。○衣 エと讀むは呉音。△采女の像 挿圖69を參照(二〇二頁)。
【歌意】 私はこの美しい安見兒を手に入れたのだ。さうだ、皆が手に入れにくい入れにくいと評判してゐるあの美しい安見兒を、この通り手に入れたのだ。
 
(320)〔評〕 采女といへば妙齡の美人にきまつてたのである。田舍にゐれば郡領階級の、それ/”\相應な大家のお孃さんである。それが一旦采女に選ばれて、遠く家庭を離れて宮仕をするとなつては、うら若い女心では寂しさ心細さに、石にも木にもかぶり付きたい程であらう。固よりその行動を檢束する近親もなく、誘惑は盛に八方から來るといふ調子では、身はあまり持てない。昔から采女に關する艶話の多い所以は、こゝにある。然しそれに一寸脚註を要するのは、采女は主上のお側に奉仕する役だけあつて、その姦犯については法令を立てゝ、往古からやかましく規定した。で「皆人のえかてにすとふ」のである。けれども何時如何なる場合にも物には表があれば裏がある。相手次第事情次第では多少の除外例もあつたらしい。作者對安見兒の關係は現にその實證を示してゐる。
 人の意地は妙なもので、禁斷の果は食べて見たい。身分の懸隔などは、てんで問題でなくなる。意地づくが嵩じては、安見兒を手にさへ入るれば、大した功名手柄をした氣持になる。それが既に彼の女と了解がつき、お負に特別公認となつたではないか。「安見兒得たり」を反復高唱した所以は、全くこの心理から出發したのである。高が采女の一人ぐらゐと理窟をいふのは野暮である。これは他の競爭者を尻目にかけての勝鬨で、無上の誇と喜とを、極めて放膽率直にさらけ出した歡聲である。
 
久米禅師《くめのぜんじが》娉《つまどふ》2石川(の)郎女《いらつめを》1時(の)歌五首
 
(321)久米禅師が石川郎女を懸想した時の歌との意。○久米禅師 傳未詳。久米は古來から著はれた氏、禅師はその名で、法師ではない。後にも三方(ノ)沙彌があり、その他小僧だの阿彌陀だの釋迦だのと、突飛な名を付けることが當時流行してゐた。蓋し佛教全盛の影響である。支那にも既に、玉臺新詠に葛沙門〔三字傍点〕の名が見え、その他呂羅漢周羅※[目+侯]などいふ名がある。勿論これも僧ではない。○石川郎女 これ亦傳未詳。郎女は郎子《イラツコ》の對稱。色《イロ》つ女《メ》の義で、色は親愛の意を表する語であるが、後には專ら貴女の稱に用ゐられた。後出の山田女郎の石川郎女、大名兒の石川郎女とは時代が違ふ。
 
水薦苅《みすずかる》 信濃乃眞弓《しなぬのまゆみ》 吾引者《わがひかば》 宇眞人佐備而《うまびとさびて》 不欲〔左△〕常將言可聞《いなといはむかも》 禅 師    96
 
〔釋〕 ○みすずかる 眞小竹刈《ミスズカル》の義で、野にかゝる枕詞。「み」は美稱。「すず」は今も信濃地方で、節高の紫色を帶びた細竹を、しか稱してゐる。「薦」をスズと訓むのは、神代紀に野薦《ヌスヾ》とあるによる。正辭は眞淵が「薦」を篶〔右△〕に改めたのは私妄で、篶は後出の字であると考證してゐる。又古義は舊訓のまゝにミコモカル〔五字傍線〕と訓み、信濃に裏沼《シナヌ》の意をもたせたものと力説してゐるが、牽強も甚しい。「水」は借字。○しなぬ 信濃と書くのは音借字で、記紀には科野とある。名義は(1)山國にて級坂《シナサカ》ある故と。(冠辭考)(2)その野に科《シナ》の木(菩提樹の一種)多き故と。(紀通證、國名風土記)(3)篠野《シヌヌ》の轉と。(諸國名義考)の諸説がある。科の木は通證に「科(ノ)木出(ヅ)2於此國(ニ)1、其薄皮甚(ダ)靱強、今用(ヰテ)以(テ)飾(リ)v馬(ヲ)綴(ヅ)v鎧(ヲ)、蓋(シ)楮穀《カヂ》之類也」と見え、神樂歌に「木綿《ユフ》つくるしな〔二字傍点〕の原」と(322)歌つてあるので見ると、上古から存在して野に因縁をもつてゐる。又篠即ち小竹説は信濃は所在にそれが多く、或は「刈りばねに足踏ましむな」ともいつた如き邊僻の荒野だから、相當の理由がある。だが科《シナ》の木説が人文的に見てやゝ優れてゐるかと思ふ。○まゆみ 「ま」は美稱。弓は信濃の産物であつた。當時の弓は丸木弓であるから、信濃や甲斐の如き山國は弓材が多いので、それを貢進した。續紀に大寶二年信濃國から梓弓千二百張を獻じ、景雲元年千四百張を獻じた事が見え、又臨時祭式には、甲斐信濃兩國から祈年祭に梓弓百八十張を進じた事が見える。以上初二の句は三句の「引かば」にかゝる序詞。○わがひかば 私が引き試みたならば。○うまびとさびて 貴人ぶつて。「うまびと」は可美《ウマ》人の義で貴人。「さびて」は進《スサ》びての義で、その物がその物らしい樣子をするをいふ。即ち貴人が貴人らしく振舞ふのを「うま人さび」といひ、神が神としての意義を現ずるのを「神さぶ」といふ。「翁さび」「處女さび」なども同樣の義で、この動詞は上二段活用。○いなと 否《イヤ》だと。「不欲」をイナと訓むは意訓である。この字は原本に「不言」とあるが、元暦校本その他多くの古寫本に據つて改めた。○かも 「聞」は呉音モンの短音。
【歌意】 私が貴女に心を寄せて引き試みたならば、貴女は御身分柄貴人ぶつて、お前のやうなものはいやだ、と仰しやるでせうかねえ。
 
(323)〔評〕 石川郎女はすべての事情から推して、京人で貴女であることが斷定される。久米禅師は自分の推測では、國衙の掾か何かで信濃に赴任してゐたひとではあるまいかと思ふ。何となれば、その歌に「みすす刈る信濃の眞弓」をいひ、又「東人の荷前《ノサキ》の筥の荷《ニ》の緒」をいうてゐる。これは決して空想から出發した尋常一樣の文飾とは思はれず、實生活の體驗を背景とした辭樣と考へられるからである。
 とにかく署名に姓《カバネ》を書いてない所を見ると、彼れは六位以下の微官と思れる。然るに女の方は身分が高いので、それ故さし控へて居りましたと、彼れはその戀に遠慮をもつた。けれども戀は決して理性で抑へ切れるものではない。常識的には「否といはむかも」は知れきつた當然の歸結ではあるが、然し又あながちさうばかりとも限らない、戀は水物、意外の收穫もないではない。それが「否といはむかも」といひつゝも尚、この歌を思ひ切つて郎女に贈つた所以である。その恐る/\つゝましやかに打出した彼れの態度が、如何にも戀する人の心持を如實に穿つて、今も目に見るやうに表現されてゐる。げにも戀は人を臆病にする、さうして又この上なく大膽にもするのである。
 
三薦苅《みすずかる》 信濃乃眞弓《しなぬのまゆみ》 不引爲而《ひかずして》 弦〔左△〕作留行事乎《をはくるわざを》 知跡言莫君二《しるといはなくに》  郎女    97
 
〔釋〕 ○みすず 「三」は借字。○をはくるわざ 弦を懸ける仕業。「を」は弦《ツル》のこと。下に「都良絃《ツラヲ》」とあり、「絃」「弦」相通じて用ゐる。但古寫本にも原本にも皆強〔右△〕とあり、古葉略聚抄だけが濕〔右△〕の行體になつて居り、シヒザルコトヲ〔七字傍線〕と訓んであるが意義不通である。これは契沖が強〔右△〕を「弦」の誤としたのが卓見で、後の學者皆(324)これに從つてゐる。尤も契沖はツルハクルワザヲ〔八字傍線〕と訓んで居る。「弦」をヲと訓むのは眞淵説である。芳樹はなほツラ〔二字傍線〕と訓んで、「都良絃」のヲ〔傍線〕は添言だから、獨立してを〔傍線〕とのみはいはれないといつた。「はくる」は弦を弓に懸けること、即ち張ることで、下二段活用の動詞。「行事」をワザと訓むは意訓。○いはなくに いはれないのにの意。
【歌意】 弓も引いて見ないで、弦を懸けることを知つてゐるとはいはれませんものを、貴方だつて、私を引いて見ないで、私の心に否と思つてゐるかどうかが分るものですか。
 
〔評〕 何をうぢ/\していらつしやる、殿方のやうでもないと逆襲したのである。いざといふ土壇場になると、女は頗る大膽になるものである。弓に※[夕/寅]縁した譬喩のしつくり打合つた點は、あまり口達者で、寧ろ「うまびとさび」ない、稍蓮葉らしい事を思はせる。「いはなくに」の歇後の辭樣も、人柄事柄折柄ふさはしい表現である。ツラハクルコトヲ〔八字傍線〕と訓む説に從はなかつたのは、字餘りになるのみならず、語調が聊か強過ぎて、女らしい氣分を殺ぐからである。
 
梓弓《あづさゆみ》 引者隨意《ひかばまにまに》 依目友《よらめども》 後心乎《のちのこころを》 知勝奴鴨《しりかてぬかも》  郎女    98
 
〔釋〕 ○あづさゆみ 卷一に既出(三一頁)。○ひかばまにまに 引かば引くが〔三字右○〕まゝに。○よらめども 弓は引絞るに隨つて、本末が手前の方に寄つてくるのでいふ。古今集戀二にも「梓弓ひけば本末わが方によるこそまさ(325)れ云々」とある。上句は譬喩である。○のちのこころ 將來の貴方の〔三字右○〕お心。○しりかてぬ 知り得ないの意。「かて」は上の「玉くしげ三室の山の」の歌の「ありかつましじ」(三一六頁)及び「あれはもや安見兒《ヤスミコ》得たり」の歌の「えかてに」の項(三一九頁)に委しく述べた。「ぬ」は否定の助動詞。
【歌意】 弓を引くとその本末が寄つて來るやうな具合に、貴方が私を愛して引くとならば、貴方に依りついて靡きもしませうが、將來の貴方のお心がどうなるやら測りかねることですわ。それが只心配でねえ。
 
〔評〕 一旦は情の感激に任せて、無條件に肯諾の意を表したものの、さて又退いて思ひ直して見ると、うかと男の言葉には乘られない。自然的理法によつて、貞操觀念は男子より婦人の方が遙に強い。從つて一時の氣まぐれ業や慰み者ではと、二の足が踏まれるのも道理である。故に卷の十二の歌にも、
  あづさ弓末はも知らず然れどもまさかは君に縁りにしものを  (―2985)
とも見え、異性の誘惑に對しての婦人の第一に感ずろ疑惧は、全く後の心を知りかぬる一點に存してゐる。人情は古今を通じて少しの變りも無い。上の返歌と相俟つて、まことにその心理の推移が興深く眺められる歌である。
 
梓弓《あづさゆみ》 都良絃取波氣《つらをとりはけ》 引人者《ひくひとは》 後心乎《のちのこころを》 知人〔左△〕曾引《しるひとぞひく》  禅師    99
 
〔釋〕 ○つらを 蔓緒の義。蔓《ツラ》は即ち弦のこと。後にはツル〔二字傍点〕と轉じていふ。緒は長く續く物の稱。「絃」は弦の通(326)用。○とりはけ 取り懸けて。「はけ」は古義説の如く令(セ)v佩(カ)の意である。以上初二句は「引く」に係る序詞。○ひくひとは 下にこの句を承ける詞が無いので落着しない。この句に誤が無いとすれば、結句に必ず誤が無ければならぬ。然し三句以下諸本悉くかうなつてゐるのを以て見れば、餘程古くから誤り傳へられたのであらう。○しるひとぞひく この句或は「人」は訛誤で、シリテコソヒケ〔七字傍線〕などあつたのではあるまいか。假に今それに從つて解する。
【歌意】 なに貴方を引く人即ち私は、行末までもと思ひ定めて引くのです。決して一時の浮氣心からではございませんよ。
 
〔評〕 郎女の言葉について調子のいゝ事をいつたので、こんな嬉しがらせは紋切型であり、それだけに眞劔味が稀薄で、聊か文字的遊戲に感情を弄んだ傾向が見える。この歌のみではない、上の二首も少し口舌の末に墮した嫌がある。
 
東人之《あづまびとの》 荷向※[しんにょう+(竹/夾)]乃《のさきのはこの》 荷乃緒爾毛《にのをにも》 妹情爾《いもがこころに》 乘爾家留香聞《のりにけるかも》 禅師    100
 
〔釋〕 ○あづまびと 「あづま」は記紀に見えた日本武尊の吾嬬者耶《アヅマハヤ》の傳説によつて、後世はいはゆる坂東八箇國の稱呼に限られたが、實際にはもつと廣範圍に亙つたものらしい。本集中の東歌には、阪東八箇國の外、遠江、駿河、伊豆、甲斐、信濃、陸奥の歌が收められてある。「東人」はアツマンド〔五字傍線〕、アヅマド〔四字傍線〕、アヅマヅ〔四字傍線〕など(327)何れにも訓まれるが、時代が古いから正しい訓に從ふがよい。○のさき 荷のはじめの義で、荷先《ニサキ》の轉語。「向」は借字。その年に作つた穀物絹布麻等を朝廷に貢するをいふ。さてこの荷前《ノサキ》の初穗を取つて神前に捧げるので、その初穗をも荷前といふに至つた。こゝは前者の意。○はこ この「はこ」は馬背の高荷で、什行李のやうな物らしい。「※[しんにょう+(竹/夾)]」の字は字書に無いが、これは篋〔右△〕の外邊を筆寫の際に書き僻めて※[しんにょうの旧字體、ちゃく]にしたもので、古寫本では異體字として通用する。○にのをにも 荷の緒の如くもの意。「も」は歎辭。この「に」は「栲《タヘ》の穗に」を參照(二七四頁)。○いもがこころにのりにけるかも わが心の上に妹が乘つてゐることよの意。「のる」は添ひ付いてあることをいふ當時の通用語。
【歌意】 東國人が都へ運ぶあの荷前の箱の荷の紐が、しつかりと箱に結び付いてゐるやうに、私の心の中にいつも貴方が添ひ付いていらつしやることよなあ。
 
〔評〕 中山嚴水の説に「荷前は國々より奉る中に、中國北國四國西國は皆船にて難波に着き、又それより舶にて大和まで持運びゆくを、東國は皆馬にて夥しきまで多く引續くれば、殊に『東人の云々』といへるなるべし」と。尤もな説である。但東以外の地方でも、遠隔の陸路は、すべて馬背で荷前を運搬したことは、祈年祭の祝詞の文でも知られるが、こゝに特に東人の荷前に就いて注視したその理由如何と考へると、尚作者が東地方に格別の關心をもつて居たことを認めざるを得ない。作者は素より京人で、信濃の任中などに上京の際、この石川郎女との交渉が起つたと見たい。
 「東人の荷前の筥の荷の緒」、かく特殊な材料を拉し來つて譬喩修飾としたのは、その筥の荷の緒が、朝貢の御(328)用である爲に格別立派に飾り立てられ、可なり人目を惹いたものではあるまいか。江戸期でも、年々の出來秋に貢を積み出すには、馬までお化粧をして、これを飾馬といつたものである。すると驛路《ハユマヂ》を曳き續ける馬子達が訛《タミ》聲の風俗歌《クニブリウタ》も耳につくやうで、往時の在郷氣分が躍如として、この歌の背景を形づくるのである。即ち祈年祭の祝詞に、
  陸《クガ》より往く道は荷の緒|縛《ユ》ひ堅めて、磐根木根踏みさくみて、馬の爪のとゞまる限り、長道《ナガヂ》ひまなく立ち續けて、狹《サ》き國は廣く、峻《サカ》しき國は平らけく、遠き國は八十綱《ヤソヅナ》うち挂《カ》けて引き寄することの如く、――荷前は皇大御神の大前に横山の如くうち積み置きて、云々。 (延喜式の祝詞式)
とあるに符合する情景である。
 下句はあながち珍しい措辭ではない。
  春さればしだるやなぎのとをゝにも妹が心に乘りにけるかも  (卷十――1896)
  この川の瀬々にしく波しく/\に妹が心に乘りにけるかも  (卷十一――2427)
  いさりする海人の楫《カヂ》の音ゆくらかに妹が心に乘りにけるかも  (卷十二―3174)
の如く、當時の常套語であつても、この歌が何となく人を引き付けきる力があるのは、全くこの上句の特異性に由つてであらう。
 以上の禅師と郎女との贈答は、形式が一寸變つてゐる。即ち最初禅師の懸歌一首に始つて、郎女がその返歌を詠み、直ちに又追ひかけて懸歌を詠む。そこで禅師はその返歌を詠み、又更に懸歌となるべきを詠んで居る。かの有名な唐の韓愈と孟郊との城南聯句を見ると、
(329)  竹影金鎖碎(ケ)(孟) 泉音玉淙※[玉+爭](韓) 瑠璃剪(リ)2木葉(ヲ)1(韓) 翡翠開(ク)2園英(ヲ)1(孟) 流滑隨(ヒ)2仄歩(ニ)1(孟) 捜尋得(タリ)2深行(ヲ)1(韓) 遙岑出(シ)2寸碧(ヲ)1(韓) 遠目増(ス)2雙明(ヲ)1(孟)
と連續百餘句に及んでゐる。長短の差こそあれ、この贈答歌は頗るこれに似た形式である。
 尤も天智天皇時代は唐の高宗の末年に當り、韓愈の時代よりは百四十年も前であるから、彼れを學んだのでは勿論ないが、或は聯句の詩體は六朝頃から既にあつて、それを擬したのではあるまいか。唐の太宗と柳公權との聯句は、これと形式こそ違へ有名なものである。但おとなしくいへば和漢偶合と見て置いてよからう。
 
大伴(の)宿禰(が)娉《つまどへる》2巨勢郎女《こせのいらつめを》1時(の)歌一首
 
○大伴宿禰 大伴は氏、宿禰は姓、この人名を安麻呂といふ。難波朝(孝徳天皇の御代)の右大臣大紫大伴|長徳《ナガトコ》の第六子。壬申の役に功あり、大寶三年從三位式部卿となり朝政に參議す、慶雲二年大納言兼太宰帥、和銅七年五月大將軍を兼ね、正三位で薨じ、從二位を追贈された。こゝに名を署せぬのは、この集の書式が大納言以上の人には諱んで書かぬ令制による。○巨勢郎女 この人のことは次の歌の條に述べる。
 
玉葛《たまかづら》 實不成樹爾波《みならぬきには》 千磐破《ちはやぶる》 神曾著常云《かみぞつくとふ》 不成樹別爾《ならぬきごとに》    101
 
〔釋〕 ○たまかづら 玉は美稱。葛《カツラ》は蔓生の灌木類の總稱。但こゝの玉葛は蔦類の一種に屬する物をおもに斥した。挿圖に示したのはそれで、葉は厚く、常緑で、春小花を開き、秋紫黒色の實を鈴成につける。さればこの(330)句は二句の「實《ミ》」にのみかゝる序詞で、「ならぬ」にまではかゝらない。○ちはやぶる 神にかゝる枕詞。眞淵の説に、「ち」はいち〔二字傍点〕の略にて、いち〔二字傍点〕はいつ〔二字傍点〕と通ひて、稜威《イツ》、嚴《イツ》などの意、「はや」は隼《ハヤ》る意、「ぶる」は形容の接尾語とある。強く鋭いその威靈を形容した語であるから、神の善惡に關はらず通じて用ゐるが本義に協ふが、古へは多く、隼《ハヤ》り猛る神や人にいひ續けた。古義は「ち」はタギ〔二字傍点〕の約にて瀧、激《タギ》るなどの如く、猛く烈しき意と解いた。「千磐破」は借字。○かみぞつくとふ 神が取り憑《ツ》くといふの意。「とふ」はといふ〔三字傍点〕の音便約。○ならぬきごとに 實の〔二字右○〕生《ナ》らぬ樹毎にどれにもの意。
【歌意】 實のならぬ樹には、その樹にもすべて變な神樣が取り憑くといふことですぜ。だから貴方も早く身のきまりを付けたらどんなものです。魔がさしますよ。
 
〔評〕 草木崇拜の思想は神代からあつて、久々能智《ククノチ》は木の神、草野《カヤヌ》姫は(野椎《ノヅチ》)草の神であり、柏木には葉守《ハモリ》の神が宿ると信じたのである。で果樹など實の結らぬのを見ては邪神がついたものと感じ、次いでは邪神は實の結らぬ樹につくとも逆説し、時代相応の迷信を作つた。作者はこれを借り來つて、未婚婦人の身上に譬喩し、やゝ脅威的に暗に自分に靡いてくるやうに催促した諷託の手際は、誠に鮮かなものである。結句は二句を反復(331)する形式の偏格で、全然同一の句を用ゐず、多少の變化を求めた處に手腕がある。
 
巨勢(の)郎女(が)報贈《こたふる》歌一首
 
○巨勢郎女 近江朝即ち天智天皇の御代の大納言巨勢(ノ)朝臣|人《ヒト》の女で、後に大伴(ノ)安麿の妻となつた人。安麿の次子|田主《タヌシ》はこの腹である。
 
玉葛《たまかづら》 花耳開而《はなのみさきて》 不成有者《ならざるは》 誰戀爾有目《たがこひならめ》 吾孤悲念乎《わはこひもふを》    102
 
〔釋〕 ○ならざるは 實のならざるはの略。元暦校本その他にミナラズハ〔五字傍線〕と訓んだ本もあるが從ひ難い。○たがこひならめ 誰れの戀でせう、君の戀ではありませんかの意。こそ〔二字傍点〕の係辭が無くて、「め」「らめ」「けめ」など結ぶのは、古代の語法の一格であつて、誤ではない。契沖が「目」をモと訓み、歎辭としたのは鑿説である。○こひもふを 戀ひ思ふもの〔二字右○〕をの意。「もふ」はおもふ〔三字傍点〕の上略。
【歌意】 玉葛が花ばかり咲いて實がならぬと仰しやるのは不思議、そんなはかない戀は一體誰れの戀なのでせう、或は貴方の戀ではありますまいか。私は心から貴方を思つて居りますのにさ。
 
〔評〕 懸歌が皮肉に出て來たので、恐らくそんな輕薄な戀は誰れのでもない、即ち貴方の戀でせうと、此方からも(332)逆襲して當てこすつた鋭鋒は、十分に手答があつた。四五句の對比は餘り親貼に過ぎて、蘊含の味ひが乏しい嫌がある。然し一面から考へると、この場合曖昧模糊の返辭が許されぬ作者の心境であつたかも知れない。即ち判然と眞實を打明けて、決定的に早くこの戀を成立させたい意志が強かつたに違ひない。懸歌の「玉葛」は序詞であるのを、これは直ちに譬喩の材料に轉用した。そこにも作者の才慧を發見し得るであらう。
 近江朝時代に於ては、安麿も郎女も共に若盛りであつたらう。ところが忽ちかの壬申の亂が勃發して、安麿の大伴一家は飛鳥方の御方に參ずるし、郎女の父|人《ヒト》は近江方の闘將として奮戰し、軍敗れて配流に處せられた。新婚後まだ間もない郎女は板挾みの境遇に立つて、定めし苦悶したことであつたらうと、同情に堪へない。
 
明日香(の)清御《きよみ》原(の)宮(に)御宇《あめのしたしろしめしし》天皇代  天渟名原瀛眞人《アメノヌナハラオキノマヒト》天皇
 
天武天皇の御代である。委しくは卷一に既出(九九頁)。
 
天皇(の)賜(へる)2藤原(の)夫人《おほとじに》1御歌《おほみうた》一首
 
天武天皇が藤原(ノ)夫人|五百重娘《イホヘノイラツメ》に下された御歌との意。○藤原夫人 集中にかく書かれた人が二人ある。何れも内大臣鎌足の女で、天武天皇の夫人《キサキ》となられた。姉を氷上娘《ヒガミノイラツメ》、妹を五百重《イホヘノ》娘といふ。こゝは五百重娘のことで、大和の高市の大原に居られたゆゑ、大原大刀自《オホハラノオホトジ》と呼ばれた。新田部皇子《ニタベノミコ》の御母である。○夫人 大寶令の制で(333)は皇后の下に妃二員、夫人三員、嬪四員と見えて、妃は皇族方の女、夫人は三位以上の公卿の女をば擇ばれた。天武天皇の御代は大寶以前ではあるが、紀にも夫人と書いてある。
 
吾里爾《わがさとに》 大雪落有《おほゆきふれり》 大原乃《おほはらの》 古爾之郷爾《ふりにしさとに》 落卷者後《ふらまくはのち》    103
 
〔釋〕 ○わがさと 天皇御自身の御在處の意で、飛鳥の淨見原をいふ。○おほはら 大和國高市郡大原。今小原と稱する。淨御原宮より僅に十餘町の東南で、岡寺の北に當り藤原鎌足の舊居といはれてゐる。大原を藤原京の一稱とする上宮帝王世説の説もあるが、それは誤で、續紀天平神護元年十月の條に「辛未到(ル)2大和高市|小治田《ヲハリダノ》宮(ニ)1、壬申車駕巡2歴(シ)大原長岡(ヲ)1、臨(ミテ)2明日香川(ニ)1而還(ル)」と見えて、その道筋を考へるに、大原と藤原宮とは明かに別處である。○ふりにしさと 舊くなつた里。古里は當時は專ら舊都の地をさしていつた。大原は舊都の飛鳥岡本邊か(334)ら三四町東方に隣接してゐるので、かくいつたらしい。○ふらまくはのち 降らむことは後なるぞ〔三字右○〕の意。「まく」は舊説では未來の助動詞む〔傍点〕の延言とのみいつてゐたが、實はムコト〔三字傍点〕の意で、必ず體言格になるのである。「卷」は借字。
【歌意】 私のゐる飛鳥の里には、こんなに大雪が降つてまことに綺麗です。貴方の住んでゐる大原の古い里などに降るのは、お氣の毒ながらこれから後のことですぞ。
 
〔評〕 ごく親昵の間柄では、一寸いたづらに惡まれ口や、冷かしや、皮肉などをもいひ合ふものである。この御製もさうした遊戲的の輕い御心持である。「大雪」といつたところで、高が大和地方での事だから、草木の風情を面白く見せる程度の深さであらう。それも二三寸降れば大雪である。まづこの實際的事相を掴んでおかないと、この歌の誇張の程度が分らないし、從つて作者の感興の分量が測られない。
 さて今藤原夫人が何かの御事情で、大原のお里に下りて居られたとすれば、天皇はこの折角の雪景色をも一緒に見はやさないでと、殘念なお感じと思慕のお心持とが、混線してお湧きになることは自然であらう。それにつけては、折も折里下りして居られる夫人が聊か癪にお障りになる。癪にお障りなさるにつけては、そのお里の大原を腐《クサ》して、そんな「ふりにし里」などには、結構な雪の降るのは何時の事やらと、厭味を仰しやつて調戲《カラカ》つて見たくもおなりなさる。これらの御心境の推移に頗る興味があり、又その御間柄の御親密さが窺はれ(335)て微笑されるのである。淨見原宮と大原とは大した距離ではないから、雪も降るとすれば一列一帶に降るのは勿論だが、そんなへぼ理屈は一切捨てゝしまつた戲謔的弄意が、却つて桁がはづれて面白いのである。
 天皇の御氣性を書紀には雄拔神武と書いてあるが、既に卷一に「淑き人のよしとよく見て云々」の疊語にもよる諧意の作が見え、茲にまたこの作がある。又紀の朱鳥元年春正月の條に、
  癸卯(二日)。御(シテ)2大極殿(ニ)1而賜(フ)2宴(ヲ)於諸(ノ)王卿(ニ)1、是(ノ)日詔(シテ)曰(ク)、朕問(フニ)2王卿(ニ)1以(テス)2無端事《アトナシコトヲ》1、仍(テ)對言(ニ)得(バ)v實(ヲ)必(ズ)有(ラムト)v賜、於(テ)v是(ニ)高市皇子被(テ)v問(ハ)以(テ)v實(ヲ)對(フ)、賜(フ)2蓁摺《ハリスリノ》御衣三|具《ヨソヒ》、錦(ノ)袴二具、并(ニ)※[糸+施の旁]二十疋、絲五十斤、緜首斤、布一百端(ヲ)1、伊勢王亦得v實(ヲ)、即(チ)賜(フ)2皀《フクリソメノ》御衣三具、紫袴二具、※[糸+施の旁]七疋、絲二十斤、布四十端(ヲ)1。(紀―卷二十九)
  丁巳(十六日)是日問(フニ)2群臣(ニ)1以(テシ)2無端事(ヲ)1、則(チ)當時(ニ)得(バ)v實重(ネテ)給(フ)2綿※[糸+施の旁](ヲ)1。(同上)
など見え、無端事を以て屡ば群臣を試みられた。無端事は釋紀の解によれば何曾《ナゾ》(謎)の類だとある。すると、天皇の強い御氣質の半面には、かうしたユーモアを愛好する餘裕のあらせられた事も認められるので、頗る興味ある史實である。
 
藤原(の)夫人(の)奉(れる)v和《こたへ》歌一首
 
○和歌 既出(一〇七頁)。
 
吾崗之《わがおかの》 於可美爾言而《おかみにいひて》 令落《ふらしめし》 雪之摧之《ゆきのくだけし》 彼所爾塵家武《そこにちりけむ》    104
 
〔釋〕 ○わがをか 我が住む大原の里の岡。○おかみ 大神《オホカミ》の義で、雨雪を掌る龍神である。神代紀に「(伊弉諾(336)尊)斬(リテ)2軻遇突智《カグツチヲ》1爲(ス)2三段《ミキダト》1云々、一段(ヲ)爲(ス)2高※[雨/龍](ト)1」とあつて、その註に※[雨/龍]此(ニ)云(フ)2於箇美《オカミト》1とある。○いひて 言ひ付けての意。「言」を古義に乞〔右△〕と改めたは妄である。○ふらしめし フラセタル〔五字傍線〕と完了態に訓むは非で、こゝは當然過去に訓まねばならぬ。○くだけし 「くだけ」は破片をいふ。「し」は強辭。これを過去の助動詞と見てはならぬ。○そこに 飛鳥の淨見原をさす。○ちり 「塵」は借字。
【歌意】 陛下が飛鳥の里に降つた/\と大層御自慢遊ばす大雪も、實はこの頃わが大原の里の岡に棲む※[雨/龍]《オカミ》に申し付けて、私が降らせましたその雪の破片が、ほんの少しばかり、そちちに散つたので御座いませう。
 
〔評〕 懸歌は「わが里」をいひ、返歌は「わが岡」をいふ。互に在所自慢で張り合はれてゐる。私が神樣に申し付けて降らせたとは、勿體ない言葉のやうであるが、かく常識はづれの點で、狂意が一層強く印象されるのである。「大雪降れり」と威張つて來られたのに對して、「おゝ可笑し、それは此方で降らせた雪のかけらでせう、此方がほん元で」と揶揄一番、巧に先方の鋭鋒をかはしたのみならず、逆に十分打込んで成功した。作者は實に才女であられる。然しながら情味の饒かな點に於ては、懸歌に遠く及ばないやうだ。
 
藤原(ノ)宮(ニ)御宇天皇代《あめのしたしろしめししすめらみことのみよ》 天皇謚(シテ)曰(フ)2持統天皇(ト)1
 
持統文武兩朝の標である。この事既出(一一七頁〕。但次の二首は評語に闡明した如く、天武天皇の御代に屬すべきものであるが、眞淵が、「大津皇子の謀反は天武崩後に露はれた故に、持統の朝に入れたものであらう」と(337)いつたのはよい。○標題の下の細註は例の後人の筆である。
 
大津(の)皇子《みこの》竊《しぬびに》下(りて)2伊勢(の)神宮(に)1上(り)來《きます》時、大伯皇女《おほくのひめみこの》御作《よみませる》歌二首
 
大津皇子が内々に都を拔け出して姉君の居る伊勢神宮に來られて、更に都に上られる際に、姉君大伯皇女の詠まれた御歌との意。○大津皇子 天武天皇の第三子、御母は天智天皇の皇女で、持統天皇の御姉なる大田(ノ)皇女である。天武天皇の十二年二月に始めて朝政を聽き、十四年正淨大貮の位を受け、翌朱鳥元年九月天皇崩じて持統天皇即位し給ふや、十月二日その謀反露はれて囚はれ、翌日|譯語田舍《ヲサダノヤドリ》に死を賜うた。年二十四。紀(卷三十)に「皇子大津(ハ)、天渟原瀛(ノ)眞人天皇(ノ)第三子也。容止墻岸、音辭俊朗、爲(ニ)2天命開別(ノ)天皇(ノ)1所(ル)v愛(セ)、及(ビ)v長(クル)辨《ワキテ》有(リ)2才學1、尤(モ)愛(ム)2文筆(ヲ)1、詩賦之興(ルハ)自(リ)2大津1始(ル)也。」と見え、又懷風藻には「幼年(ヨリ)好(ミ)v學(ヲ)、博覽(ニシテ)而能(ク)屬(ル)v文(ヲ)、及(ビ)v壯(ナルニ)愛(シ)v武(ヲ)、多力能(ク)撃(ツ)v劍(ヲ)、性頗(ル)放蕩、不v拘(ハラ)2法度(ニ)1、降(シテ)v節禮(ス)v士(ヲ)、由(テ)v之(ニ)人多(ク)附託(ス)。云々」とあるのを以て、その風※[三に縱棒]を察することが出來る。
○大伯皇女 大津皇子と同母の姉君で、天武天皇の二年四月、十四歳で齋宮に立たれ、三年十月伊勢に赴任、朱鳥元年十一月罷め、大寶元年十二月薨ぜられた。御四十二。大伯は大來〔二字傍点〕にも作る。
 
吾勢枯乎《わがせこを》 倭邊遣登《やまとへやると》 佐夜深而《さよふけて》 ※[奚+隹]鳴露爾《あかときづゆに》 吾立所霑之《われたちぬれし》     105
 
〔釋〕 ○わがせこ 「せこ」は背子の義で、女から廣く男をさして「せ」といふ。仁賢紀に「古昔(ハ)不v言(ハ)2兄弟長幼(ヲ)1、(338)女(ハ)以(テ)v男(ヲ)稱(ヘ)v兄(ト)、男(ハ)以(テ)v女(ヲ)稱(フ)v妹(イモト)」とある如く、大津皇子は弟ではあるが、なほ兄《セ》といふ。「こ」は親しみ呼ぶ接尾辭。尚「わがせ」を參照(九〇頁)。○やまとへやると 都へ歸してやるとての意。○あかときづゆ 曉露。即ち明時露〔三字傍点〕の連合名詞である。卷十一には「旭時《アカトキ》と鷄は鳴くなり」とあつて、「あかとき」は明るくなる時をさす。平安期には轉じてアカツキといふ。「鷄鳴」は鷄鳴時〔右○〕の意。時の字がなくても、なほ意訓にしかよむ。○し の下、歎辭を含む。
【歌意】 わが愛弟を大和へ歸しやるとて、別れの惜しさに夜が更けて、その出立を見おくりつゝ立つてゐると、曉の露に我が身はひどく濡れてしまつたことよ。
 
〔評〕 この歌の題詞に「竊」とあるの、大津皇子の異圖に關したものであることを物語つてゐる。思ふに大津皇子の逆謀は可なり久しい以前からではあるまいか。紀によれば、天武天皇はその八年五月吉野に行幸の序、皇后(持統天皇)及び草壁、大津、高市、河島、忍壁、志貴の諸皇子達と誓をなされ、諸皇子達は、
 倶|隨《マヽニ》2天皇(ノ)勅(ノ)1而相扶(ケテ)無(カラム)v忤(フコト)、若(シ)自(リ)白v今以後不(ル)v如(クナラ)2此(ノ)盟(ノ)1者(ハ)、身命亡(ビ)之、子孫絶(エム)之。云々。(日本紀卷二十九)
とお答へ申し上げたとある。蓋しかうした誓盟を必要とせられたことは、天皇が何か變亂の豫感を持たれた故に相違ないと思はれる。而してその十二月に草壁皇子が皇太子となられた。當時大津皇子は寵遇威力兩つながら他の諸皇子に超え、もし皇后と草壁皇子との兩宮がおはさぬとしたら、當然皇位繼承の資格を獲得される地位にあつたのである。―高市皇子は長子だけれど母が卑しい―されば草壁皇子の立太子については、心中頗る平かならざるものがあつたに相違あるまい。けれども父帝の嚴としてまします以上は、如何とも策の施しやうもな(339)い。ところが父帝は十四年九月から御不例となられた。この不祥事こそは大津皇子にとつては、素願成就の好機会到來が期待されたことと思はれる。大津皇子の人となりを想見するに、
(イ)天稟が頗る他に優越してゐた。(紀、懷風藻)  
(ロ)文武兩道の達人であつた。(懷)
(ハ)伯父天智天皇に既に鍾愛された。(紀)
(ニ)皇后(持統天皇)の姉君の御子であつた。(紀)
(ホ)謙讓よく人望を吸收した。(懷)
(ヘ)放蕩で法度に拘らなかつた。(懷)
(ト)皇太子よりは年長であつた。(紀、懷)
(チ)既に特に朝政を聽いてゐた。(紀)
条件かう具足しては、久しく人の下に屈してゐるものではない。况やこの火に油を濺いだ人相見の惡戲があつたのだものを。懷風藻に、
  新羅僧行心、解(ス)2天文卜筮(ヲ)1、相(テ)2大津(ヲ)1曰(ク)、皇子(ノ)骨法非(ズ)2人臣之相(ニ)1、久(シク)居(ラバ)2下位(ニ)1恐(ラクハ)不(ラン)v全(ウセ)v身(ヲ)、因(テ)勸(ム)2逆謀(ヲ)1、由(テ)v是(ニ)竊(ニ)蓄(フ)2異心(ヲ)1。
とあるので消息の一半は解せられよう。即ち、貴方は王者の相がある、ぐづ/\して臣節を守つてゐると、却つて禍が身に降りかゝるといふのである。當時人相學は神秘的な外來科學として頗る尊信された時代であるからたまらない。大津皇子非望の決意は愈よこれで固められた次第である。
(340) さて皇子の伊勢下向はどういふ用件であつたか。無論姉君大伯皇女を黨中の人として語らふ必要からであつたらう。一寸考へると、こんな逆謀に婦人は寧ろ邪魔者のやうにも思はれるが、これは皇女の齋宮といふ地位が然せしめたのであらう。元來皇位繼承に就いては當時の信念として、是非とも皇祖皇宗の神靈にまづ了解を得なければならぬとしたことは、疑を容れない。然るに偶ま姉君が齋宮なので、大願成就の祈を秘密に依囑するには、誂向の好都合だつた譯である。
 而して皇子の伊勢下向は何時であつたか。これはこの歌の背景を決定する上に、大事なことである。思ふにそれは必ず事態不穩で、時期が頗る切迫した際と見なければならぬ。とすると、やはり父帝崩御の九月九日前後と見るが至當であらう。否崩御後では必ずあるまいと信ずる。崩御後では大事發覺までの日子が餘りに少いし、殊に觸穢忌服の事によつて神宮參拜が不可能となり、大伯皇女も同樣に祭事に携はれない筈である。故にそれは九月九日以前、天武天皇御大漸の頃ほひと斷ずる。
 さて旅は朝立つのが通例であるのに、この歸路、皇子は何故に曉露に霑れ/\急いで立たれたか。これはその出入を秘密にした故もあらう。又短い日子で往復しようとした故もあらう。蓋し天皇の御重態に朝野擧つて深い愁雲に鎖されてゐる折柄とて、皇子はそつと拔け出して往かれたものと見える。このあわたゞしい、而も一大事を齎しての弟宮の來訪に對して、大伯皇女が滿腔の同情を以て迎へられたことは、こゝの歌二首によつて十分に想像される。この時姉皇女は御年二十六、弟皇子は二十四であらせられた。
 「わがせこを倭へやると」は、姉が弟に對する、極めて打解けきつた親愛の心持から迸つた口氣である。「小夜更けてあかとき露」と稍重複らしくもあるが、その夜深も曉露も、仲秋の夜寒の冷まじい頃であることを思へ(341)ば、そんな夜深に見送りに出、そんな冷い夥しい露に霑れたことは、いかに難儀なことであつたらう。まして尊貴の、而も婦人の御身であるから、愈よこの感じが強まるのである。又「立ち霑れ」が時間をもつので、皇子の歸りゆく後影をやゝ暫く見送つて佇み、衣の霑れるのも忘れて名殘を惜んで居られた、姉弟別離の悲しい場面が歴々として見える。これら情合の温さから出た動作は極めて美しいもので、それをその儘表現されたこの歌は、實に醇の醇なるものである。
 
二人行杼《ふたりゆけど》 去過難寸《ゆきすぎがたき》 秋山乎《あきやまを》 如何君之《いかにかきみが》 獨越武《ひとりこゆらむ》    106
 
〔釋〕 ○ふたりゆけど 私と二人して行つてもの意。○あきやまを 秋山なるをの意。○いかにか どんな風にして。この句舊訓はイカデカ〔四字傍線〕とあるが、さうすると結句は、ヒトリハコエム〔四字傍線〕と訓まなくては調はない。然し奈良時代にはまだ、イカデカといふ語法は行はれてゐなかつた。○こゆらむ 舊訓はコエナム〔四字傍線〕。
【歌意】 姉弟二人で仲よく連れ立つて行つてすらも、物寂しくて往きにくい秋の山路だのに、どんな風にしてまあ、貴方はたつた一人で越えて行かれることであらうかしら。
 
〔評〕 二人に一人を掛け合せて、理詰めにした構想は、一見餘蘊に乏しいやうでもあるが、然し全體の情趣から見ると、いひ知らぬ味ひがある。契沖がこの歌を許して、
  睦ましき御はらからの珍しき御對面にて、程もなく歸らせ給ふ御別には、かくも詠ませ給ふべき事ながら、身に沁むや(342)うに聞ゆるは、謀反のことを聞召して、事のなりもならずも覺束なければ、又の對面もいかならんと思しける御胸より出づればなるべし。
といつたのは、頗る正鵠に中つてゐる。
 飛鳥の都と伊勢神宮との間の道程は、片道が二日路強であるのみか、岩が根のこゞしき山又山で、まことに旅は難澁であつた。それが八月下旬九月初旬の交だとすると、秋の氣分はもう頗る濃厚で、露の繁さや風の冷さや、或は枯れ初めた草木やが、どんなにか旅行く人に苦患と哀愁とを齎したものであつたらう。假令皇子自身は、大事決行の意志に熱し切つて萬事を忘れて居られたとしても、婦人の身たる姉宮としては、どうしてその旅の空を氣遣はずに居られよう。「二人ゆけど」といひ、「いかにか君がひとり越ゆらむ」といふ、何處までも自分と弟皇子とを引離さないで對蹠的に考へ續けて居られる所に、その纏綿たる情緒が見られる。これと類想的の歌で、
  玉かつま島くま山のゆふぐれに獨か君がやま路越ゆらむ  (卷十二―3193)
は理詰めの難がないから優つてゐるかといふと、さうは往かぬ。といふのは肝腎の迫眞力が乏しい。これは絶大なる氣魄を以つて、ひし/\と聽者の心胸に衝撃を與へて止まない。
 さてこの二首を通じて見ると、前のは見送りに出た御自身の上を叙し、後のは旅ゆく弟皇子の上を叙してある。この御姉弟のかくまで親密であつたのは、勿論御同腹の故もあつたが、又對持統天皇、草壁太子の關係にも由つたものと思はれる。御姉弟の御母たる大田皇女は持統天皇の姉君で、早く天武天皇の妃となられたの(343)に、却つて妹君の持統天皇に越えられて正妃になれなかつたその不滿が、この一流の方々の胸中に常に往來してゐたであらう。隨つて持統天皇一派に對する嫉視の結果が、かうした騷動をも生む一因子をなしたらしく思はれるのである。
 
大津(の)皇子(の)贈(れる)2石川(の)郎女《いらつめに》1御歌一首
 
○石川郎女 傳未詳。郎女とは婦人の美稱である。この人或は草壁(ノ)太子(日竝皇子)の後宮の人ではあるまいか、これに就いては、下の「大船の津守がうらに」の歌の評語中に愚考を述べよう。本卷の下に「大津皇子(ノ)宮侍石川女郎云々」とある題詞の下に、元暦校本その他に「女郎字(ヲ)曰(フ)2山田(ノ)郎女(ト)1也」と註してあるのによつて、古義にこゝのをも山田(ノ)郎女であらうと想定したのは粗漏である。あれは宮侍《マカタチ》即ち平安時代にいふ女房のことで、大津皇子の邸の女中だから、わざ/\野中でなど會合するに及ばぬ。
 
足日木乃《あしひきの》 山之四付二《やまのしづくに》 妹待跡《いもまつと》 吾立所沾《われたちぬれぬ》 山之四附二《やまのしづくに》    107 
 
〔釋〕 ○あしひきの 山にかゝる枕詞。(1)古説に、山の脚《アシ》を引くこと裾を曳くが如きよりいふとあるに從ひたい。(2)眞淵は青繁木《アオシミキ》の義、古義は茂檜木《イカシヒキ》の義と解したが、甚だ煩しい。集中に足日木、足日木、惡氷木、足檜木、足檜、足病、足引、足曳、足比奇、蘆檜木、足比木、安思必寄、安之比紀など、記に阿志比紀、紀に脚日木など書かれ(344)てある。(3)或人の説にアシビの木の義で、大和の山にはこの木が多い故に山の枕に用ゐたものとあるが、アシビと馬醉木《アセミ》とは別種の物である。アシビは集中安志批、安之婢と書かれてあるのに、アシヒキの多樣なる書方に、この字面が全然見えないのを見ても、その非なることが頷かれよう。○やまのしづく 山の草木から滴る露をいふ。「しづく」は繁漬《シヅ》くの義。「四附」は借字。○いもまつと 愛人を待つとての意。
【歌意】 もう來るか來るかと焦れつゝ貴女を立ち待つとて、私は山の草木の雫にひどく濡れましたよ。雫にさ。
 
〔釋〕 戀々の情が募つて來ては宮の内にも待ちあへず、あくがれて宮外に出で野外に出で、遂には戀人の辿り來る道を慕つて、もしや逢へるかと山路の繁みにまで彷徨する。けれども詰りは自らに對する氣安めで草臥儲けに終り、只徒らに衣袂を草木の滴露に霑すに過ぎない。まことに戀する人の遣る瀬ない諦め難い胸の悩が、脈打つて聞えるやうな歌である。もしその時刻が露のおく夕暮頃であつたら、いよ/\悲傷の思が深かつたらう。あの桑間濮上の詩と一脈相通ずる響がある。ひたすら「山の雫」を反復強調した所以は、貴女故にはこんな辛苦もして居りますと、恩に著せてその同情を強請したのである。男は強い、然し戀する男は寧ろ女よりも弱いのが常である。
 この歌の體製は、第二句「山のしづくに」が第四句の「立ち沾れぬ」に係るのである。畢竟、妹待つと山の雫に我れ立ち沾れぬの意を、枕詞や反復の辭樣を以て潤色したものであるが、「山のしづくに」を再唱したことは、頗る雫の落つる印象を深からしめる表現法で、その效果的確である。そして音律的諧調をもつた古調に屬する。
 
(345)石川(の)郎女(の)奉(れる)v和《こたへ》歌一首
 
吾乎待跡《わをまつと》 君之沾計武《きみがぬれけむ》 足日木能《あしひきの》 山之四附二《やまのしづくに》 成益物乎《ならましものを》    108
 
〔釋〕 ○わをまつと 私をお待ち下さるとての意。○ならましものを なりたかつたものをの意。「まし」には「時」の制限なく、過去現在未來を通じて用ゐられるが、こゝは「沾れけむ」と過去に聯關して用ゐられてゐるので、やはり過去時に使はれてゐるのである。「益物」は借字。
【歌意】 そんな事と知りましたら、私を待つとて貴方のお濡れなされたでせう、その山の雫になりたかつたものを、さうしたら貴方の御身に親しく附き添ふことが出來ましたのにねえ。
 
〔評〕 貴方の太刀になりたい、帶になりたい、何々になりたいなど、かうした對者の身體に接觸することを目的とする希望は、非常に打解けた親密な心持を表現するものである。その例歌は枚擧に遑ない。それが極端に赴くと、「願(クハ)作(ツテ)2輕羅(ト)1著(カン)2細腰(ニ)1、願(クハ)爲(リテ)2明鏡(ト)1分(タン)2嬌面(ヲ)1」(劉延芝、公子行)などのやうに、綺靡艶冶なものとなる。この歌では、懸歌の「山の雫に立ち沾れぬ」とあるを承けて、貴方の衣の袂に透るその雫になりたいものでしたと、山の雫を欽羨してゐる所、極端に濃厚な嫌味に墮せずして、却つて戀々の情味が深く、且會合の機を失つた怨意が言外に隱然として窺はれる。
 
(346)大津(の)皇子(の)竊2婚《しぬびにあへる》石川(の)女郎《いらつめに》1時、津守連通《つもりのむらじとほるが》占2露《うらへあらはせれば》其(の)事(を)1、皇子(の)御作歌一首
 
大津皇子が石川郎女に密通した時に、津守連通が占を以てその秘密を見あらはしたので、皇子の詠まれた歌との意。〇女郎 金澤本に「郎女」とあるが、畢竟同意の美稱である。○津守連通 津守は氏、連は姓《カバネ》、通は名。この人は續紀に、和銅七年正月、正七位上から從五位下に越階し、その十月美作守となつた由見え、又養老五年正月の詔に、「宜(シク)d優2遊(シ)進學業(ニ)1堪(タル)v爲(ルニ)2師範(ト)1者(ニ)、特(ニ)加(ヘテ)2賞賜(ヲ)1勤(メ)c勵(マス)後生(ヲ)u」とあつて、陰陽頭であつたこの人に、※[糸+施ノ旁]十疋、糸十絢、布二十端、鍬二十口を賜ひ、養老七年には從五位上となつたとある。當時の卜占の名手と見えた。
 
大船之《おほぶねの》 津守之占爾《つもりがうらに》 將告登波《のらむとは》 益爲爾知而《まさしにしりて》 我二人宿之《わがふたりねし》    109
 
〔釋〕 ○おほぶねの 津にかゝる枕詞。大船の泊《ハ》つる津と續ける。泊つるは船の碇泊すること。○つもり 津を掌る者の稱であるが、こゝは氏である。即ち津守連通をさす。○うらにのらむ 占《ウラナ》ひに顯れるをいふ。卷十一に「占正《ウラマサ》にのれ」とあるも同じ語法。「うら」は卜、占、筮などを訓む。うらなひ〔四字傍点〕のこと。○まさしに 正しにの意。形容詞複活用の名詞法に「に」の辭を添へて副詞とした語。「正に」と同じで、卜占上の術語。宣長はこの訓を、卷十四に「武藏野のうらへ肩燒きまさで〔三字傍点〕にも」とあるに據つて、こゝもマサデニ〔四字傍線〕と訓み、「爲」(347)を※[氏/一]〔右△〕の誤としたのは却つて附會である。マサデは正出で、素よりそれも卜占上の述語。「益」は借字。
【歌意】 あの津守奴が占ひに、かういひ顯はされやうとは、豫てからちやんと覺悟の前で、自分達二人は一緒に寢たのであつた。今更何を恐れようぞい。
 
〔評〕 津守通は、續紀によれば卜占の名人と見えた。養老七年までは確實に生存した人であるから、その頃を七十歳と假定すれば、大津皇子の榮えた頃は、彼は三十歳前後の油の乘り切つた時代で、定めしその占ひがよく中りもしたらうから、神占の名聲は一時に高かつたものであらう。で遂に大津皇子と石川郎女との秘密關係をもいひ顯はしたのであらう。然し通常の男女關係ならば、何もわざ/\これを發き立てる無粹を敢てする必要もあるまい。まして皇族方の事であるから、寧ろ憚つて伏せておいて然るべきである。それをしも忍んで通が摘發したといふのは、太だ奇怪である。茲に至つて、相手の石川女郎に就いて、何か黙過し難い理由が存したのではあるまいかと考へさせられる。
 そこで自分は、この次に載つてゐる日竝皇子即ち草壁皇太子の石川女郎に贈られた歌のことを思はずにゐられない。先賢は大津皇子の愛せられた石川郎女と、草壁太子の關係された石川女郎とを、同名異人と解してゐる。その理由は次の歌の題詞の下に、「女郎字(ヲ)曰(フ)2大名兒(ト)1」と細註があるのに、こゝには何も無いからといふのである。けれども次の歌には「大名兒《オホナコ》ををちかた野邊に云々」と、名前が詠み込んであるので、必要上それは石川女郎の字《ナ》であることを説明したに過ぎない。とすると、最早これを異人と斷ずる論據が無くなつてしま(348)ふ。そこで愈よ同人だとすると、この歌がずつと活きて來る、隨つて津守の摘發も大に有意味になつて來るのである。 
 蓋し石川郎女は元から草壁太子の嬖人であつたと思はれる。「束のあひだも我れ忘れめや」と仰せられた程の愛人であつた。然るに郎女はそれを裏切つて竊に大津皇子に走り、「足引の山の雫に」沾れ/\も會合した。ところで草壁太子と大津皇子との御間柄はもとより圓滑でなかつことは、既に上の大伯皇女の歌の條で委しく説明した如くで、頗る面白くない經緯になつてゐた。さうした事情の上に搗てゝ加へて、異母弟ながら皇太子である方の愛人を大津皇子が奪つたとなつては、愈よ事は面倒になつて來る。然し大津皇子は最初からそれも覺悟せぬではなかつた。が戀は盲目で、况やわが才氣に傲つた放縱氣分も手傳つてしまつたのである。題詞の「竊婚」の二字はこれらの消息を語るものと思ふ。津守通はよくいへば正直、惡くいへば便佞阿附の輩で、この秘密を知るや否や、職業の卜占に託して當路に密告したものと想像される。
 かうなると大津皇子の御氣質としては、反抗的氣分になつてやゝ捨鉢的に、そんな事はとつくの昔承知の上でした事だと公言するを憚らなくなる。この歌の露骨な所以も、かうした心理状態から生まれてゐる。懷風藻などに「放蕩不(ニシテ)v拘(ラ)2法度(ニ)1」と書かれたのも、畢竟この事件などがその素因を成してゐるらしく思はれる。
 
日竝《ひなみしの》皇子尊(の)贈(り)2賜(へる)石川(の)女郎(に)1御歌一首  【女郎(ノ)字(ヲ)曰(フ)2大名兒(ト)1也】
 
○日竝皇子 草壁太子の尊稱。傳は卷一に既出(一八七頁)。○石川女郎 上の大津皇子の歌にある石川女郎と(349)必ず同人である。その理由は上に述べた。細註は、石川女郎は大名兒《オホナコ》といふ名であると、歌の初句の爲に説明を與へたのである。「字」は名と同義に用ゐてある。古義には長々しい考説を費してあるが、畢竟無用の辯である。但「大名兒也」の四字、原本に無いのは疑もなく誤脱で、元暦校本その他の古寫本によつて補つた。
 
大名兒《おほなこを》 彼方野邊爾《をちかたぬべに》 刈草乃《かるかやの》 束間毛《つかのあひだも》 吾忘目八《われわすれめや》    110
 
〔釋〕 ○おほなこを この句は二三四の句を隔てゝ、五句の「忘れめや」に續く。○をちかたぬべ 彼方の野邊の意。○かるかやの 刈り取る草の意。「かや」は芒などすべて屋根に葺く料の草を稱する。苅萱《カルカヤ》といふ草の名は後世に生じたものである。さて「をち方野邊に刈る草《カヤ》の」は「束《ツカ》」にかゝる序詞である。茅草など刈るに片手に握んで刈るので、「刈る草の束の間」と續けたのである。〇つかのあひだ、一束《ヒトツカ》の間で、時間の短いのを喩へた。
【歌意】 あすこの野邊で草を握んで刈つてゐるが、その一束といふほんの暫しの間でも、大名兒、お前を私は忘れようか忘れはせぬ。その爲たゆみない苦みに堪へられぬわ。
 
〔評〕 戀人の上が束の間も忘れられぬのは眞實であるが、極めて平凡な類型的の思想である。只この歌の特徴は「大名兒を」の初句に存する。懷かしい戀しい人の名をまづ呼びかけて、縋りつきたい程の遣る瀬ない心持を吐露してゐられるのである。實際戀しさの迫つた場合には、その名を呼んだ瞬間だけでも、多少の慰藉を感ず(350)るものである。然しながら尚序詞など挿入して、迂餘曲折の寄り路をしてゐる點は、明かに作者の御性格のあらはれで、極めて温順な悠長な御氣質であらせられたと想察する。これが政治的にも他の御兄弟即ち高市、大津、新田部皇子達のやうな、花々しい活躍の迹を遺されなかつた所以でもあらう。
 「をち方野べに刈る草の」は單なる序に過ぎないと見ればそれまでだが、何となく野草の狼藉として靡き亂れるやさしい氣分があるので、戀の歌には調和がよいやうに思はれる。必ず皇子が御遊行の際の屬吐で、不用意の間に、當時の都人士の生活が山野に親しみ深いものであつたことを物語つてゐる。
 
幸《いでませる》2于吉野(の)宮(に)1時、弓削《ゆげの》皇子(の)贈2與《おくりたまへる》額田(の)王(に)1御歌一首
 
持統天皇が吉野離宮に行幸の時、弓削皇子が額田王に贈られた歌との意。○幸于吉野宮時 持統天皇の夏の吉野行幸は、その四年五月と五年四月との兩度が紀に見えてゐる。こゝのはその何れとも判定し難いが、成るべくは前度と解したい。時季を夏と斷じたのは、額田王の返歌に時鳥が詠んであるからである。○弓削皇子 天武天皇の第六皇子で、紀に「次(ノ)妃大江(ノ)皇女生(ム)2長(ノ)皇子(ト)與弓削皇子(トヲ)1」とある。持統天皇の七年に淨廣貮の位を授けられ、文武天皇の三年七月薨ぜられた。○額田王 既出(四八頁)。
 
古爾《いにしへに》 戀流鳥鴨《こふるとりかも》 弓絃葉乃《ゆづるはの》 三井能上從《みゐのうへより》 鳴渡遊久《なきわたりゆく》    111
 
(351)〔釋〕 ○いにしへにこふる 昔に戀するの意。古へを〔三字傍点〕といふべき處をかくいふは古文法。○とりかも 鳥なのかしてまあ。この「かも」は疑問的詠歎である。○ゆづるはのみゐ 「ゆづるは」は楪葉《ユヅリハ》の古言。この御井は普通には吉野郡大瀧村|弓絃葉《ユツハ》の峯の麓としてあるが、大和志料には吉野村六田ともある。六田は天武天皇の行在所想定地に近いから、縁由がありげである。「弓絃」及び「三」は借字。○うへより 「うへ」はあたりの意に近く、「より」はをの意に近い。 △地圖 挿圖35を參照(一一〇頁)。
【歌意】 あの鳥は昔にあこがれる鳥なのかしてまあ、處も多いに、この思出深い楪葉の御井の邊かけて鳴き渡つてゆくわ。
 
〔釋〕 作者は今上(持統天皇)の供奉で、秋津離宮に參つたのである。或時父帝(天武天皇)行幸の當時が偲ばれ、楪葉の御井のあたりを徘徊佇立してゐると、何鳥とも知れず、丁度その眞上をかけて鳴き渡つてゆくのを見て、乃ちあれは「古へに戀ふる鳥」との想像を投げた。それは自分が既に懷舊の情に泣きたくなつてゐた折柄を鳴かれたからである。「鳴き」の語が、作者と鳥とを結びつける連鎖即ち字眼となつてゐる。この幽婉な哀感は、全く水淨く山靜かな背景によつて愈よ痛切にされる。もと楪葉の御井が父帝と特別な因縁でもあれば、着想の起因に一層の確實性を帶びる。
 上出の藤原の御井でも山(ノ)邊の御井でも、皆神か皇室かに關係があるので、御井の讃稱が用ひられてゐることを思ふと、この楪葉の御井も天武天皇の吉野行在に何か特殊の由緒があつたに相違あるまい。
 額田王にこの歌を贈つたわけは、王は父帝の嬖人であり、父帝時代の吉野行幸には供奉されたであらうし、(352)かた/”\最もよく今の作者の深い氣持に共鳴し同情し得る人と見られたからであらう。勿論この度の行幸には王は京に留つて居られたのである。前朝追憶の情は、今囘のお供に外れた額田王によつて、一層餘計にあふられる感がある。
 
額田(の)王(の)奉《まつれる》v和《こたへ》謌一首   從(リ)2倭京《ミヤコ》1進入《マヰラス》
 
○從倭京進入 この細註も後人の所爲だが、元暦校本、金澤本その他多くの古寫本に見える。意は、弓削皇子の吉野からの贈歌に、額田王は藤原京から返歌を差上けられたといふこと。
 
古爾《いにしへに》 戀良武鳥者《こふらむとりは》 霍公鳥《ほととぎす》 蓋哉鳴之《けだしやなきし》 吾戀流其騰《わがこふるごと》    112
 
〔釋〕 ○いにしへにこふらむとりは 皇子の聞かれし〔七字右○〕の語を、上に補つて見るがよい。○ほととぎす 時鳥にしてその時鳥が〔八字右○〕の意。時鳥は本集中その鳴聲を擬音的に種々な文字で書き表はしてゐる。茲には「霍公鳥」とあるが、これも鳴聲を以て表した名稱とすると、郭公と同一物になる。ホトトギスとカクコウとは全然鳴聲が違ひ、隨つて別な物である。然し古人が誤つて霍公鳥を時鳥に充てたのだから、矢張ホトトギスと訓むより外はない。時鳥は成郡記(紫桃軒雜綴所引)に「杜宇――從(リ)v天而降(リ)、好(ンデ)2稼穡(ヲ)1、教(ユ)2人(ニ)務(ムルコトヲ)1v農(ヲ)、號(ク)2望帝(ト)1、死(シテ)其魂化(シテ)爲(リ)v鳥(ト)名(ヅケテ)曰(フ)2之(ヲ)子規(ト)1」など見え、その他末説の派生が多い。○けだし(353)やなきし 蓋し古へに戀ひあこがれて鳴いたのかの意。「や」は疑辭。○わがこふるごと 私が昔を戀ひ慕ふのと同じやうにの意。「ごと」は如く〔二字傍点〕の中止形だから、「吾が戀ふる如《ゴト》蓋しや鳴きし」と、上に反つて續く格である。「其」にゴの音は今はないが、期《ゴ》の字の呉音がゴであるから、「其」にもゴの音があつたのであらう。
【歌意】 貴方がお聞きなされたといふ、昔にあこがれて鳴くその鳥は時鳥で、大かた私が昔を戀ひ偲ぶやうに、やはり昔にあこがれて鳴いたのかと思はれます。
 
〔評〕 贈歌の「古へに戀ふる鳥」を答歌で時鳥としたのは、季節相應の面白い推斷である。この行幸は前述の推測にして誤なくんば丁度五月で、おのがさつき〔六字傍点〕と呼ばれるほど、時鳥の鳴きさかる時期である。しか昔を戀ひ啼く鳥は時鳥の外にはないからである。支那の傳説では蜀の望帝(杜宇)の魂魄がこの鳥と化し、生前の故郷を偲んで不如歸と啼くといはれてゐる。これ即ち古へに戀ふる鳥である。古今集の、
  むかしへや今も戀しきほとゝぎす故里にしも鳴きて來つらむ  (夏部)
も同一の典故から生まれた双生兒である。かうした本據があるからこそ、作者は一向猶豫なしに「古へに戀ふらむ鳥」は時鳥だと、決定的に力強く叫んだものである。然し最後に至つて「わが戀ふるごと」の一句を敢然と下して、急角度の轉囘を試み、昔を戀ひ啼くのは自分の方が本家であるやうに取成した、その口吻の自在さ狡猾さ、實に驚くべき奇手を出したものである。
 作者は天武天皇の後宮諸嬖人の中で最も年嵩で、久しい關係を持續された方と思はれるから、先帝を戀ひ偲ぶことに就いては、決して一歩も他に遜るものではない。されば若い弓削皇子に對して、それは時鳥ぞと教(354)へ、私のやうにその鳥は啼いたのでせうと、うけばつて主張するところが、作者自身の地歩を占め得て、頗る面白いと思はれる。
 「蓋し」の語は平安朝以後は歌語から排斥されて、文語としてのみ存在した。多くの場合平凡なる説明的想像に墮し勝なのと、音調のドギツイ爲とで、自然に淘汰されたものであらう。
 
從《より》2吉野1折(り)2取(りて)蘿生《こけむせる》松(が)柯《えを》1遣《おくりたまへる》時、額田(の)王(の)奉入《たてまつれる》歌一首
 
弓削皇子〔四字右○〕が吉野から蘿の生えた松の枝を折り取つて額田王に贈られた時、額田王が上げられた歌との意。○蘿 和名抄に「松蘿、一名女蘿、和名|萬豆乃古介《マツノコケ》一(ニ)云(フ)佐流乎加世《サルヲカセ》」と見え、又|垂苔《サガリゴケ》ともいふ。○遣時 弓削皇子〔四字右○〕の遣り給へる時で、上の題詞を承けてこゝは主格の語を略いたのである。「奉入」の入〔傍点〕は添字で讀まぬ例である。
 
三吉野乃《みよしぬの》 玉〔左△〕松之枝者《やままつがえは》 波思吉香聞《はしきかも》 君之御言乎《きみがみことを》 持而加欲波久《もちてかよはく》    113
 
〔釋〕 ○やままつ 「玉松」の字に從へばタママツ〔四字傍線〕と訓むべきであるが、宣長説に「玉は山〔右△〕の誤、草書にては山と玉とよく似たる故なり。玉松といふ語あることなし。後世のにはあれど、さはこの歌に據れるにて誤なり」と(355)あるのは妥当と思はれるので、證本も一つも無いが、姑くヤママツと訓んでおく。○はしきかも 愛《ハ》しきことよ。「はし」は可愛いの意。○かよはく 通ふ〔傍線〕の延言で、體言格である。「知らなく」を見よ(四四五頁)。
【歌意】 さてもこの吉野の山松の枝は、かはゆいことよ。懷かしい弓削皇子樣のお言葉を持つて、私の處へ通うて來ることわ。
 
〔評〕 小さな贈遣の物を草木の枝葉に附けて持たせやることは、わが舊い習俗であつた。「みことを持ちて通はく」とあるので見ると、弓削皇子は垂苔の附いた松の枝に書簡を結ひ附けて、使を以て出先の吉野から京にゐる額田王に贈られたのである。額田王はこれを受け取ると、直ちにこの歌を詠んで返辭がはりに送つた。歌は松が枝を擬人して、懷かしの君の文使を勤めて來た松が枝は頗るうい奴だ、と褒め立てたのである。かういふ意味での山苞の賞翫は、間接に弓削皇子の御言を珍重したことに當る。洵に折柄にふさはしいその體を得た取成し方で、才慧驚くべきではないか。非情の物をも有情に扱ふことからして、優しい情合の籠つた、婦人らしい情緒がほの見えて、ゆかしい感じがする。上句の意を下句で解説した體で、三句切れの二段構成は、この時代に於いては異體に屬する。
(356)但馬皇女《たじまのひめみこの》在《いませる》2高市《たけちの》皇子(の)宮(に)1時、思《おぼして》2穗積《ほづみの》皇子(を)1御作歌一首
 
但馬皇女が御兄高市皇子の宮人で居られた時、おなじ御兄の穗積皇子を慕うて詠まれた歌との意。○但馬皇女 天武天皇の皇女で、母は夫人|氷上娘《ヒガミノイラツメ》(藤原不比等の女)であつた。位三品に至り、和銅元年六月に薨ぜられた。○高市皇子 天武天皇の皇子で、草壁皇子の御兄、母は尼子(ノ)娘《イラツメ》。壬申の戰役に大功あり、持統天皇の四年七月太政大臣となり、後封戸五千戸を賜ひ、淨廣壹に叙せられ、十年七月薨ぜられた。卷末の題詞に「高市皇子尊殯宮之時」とあつて「尊」の敬稱を用ゐてあり、紀にも「後(ノ)皇子(ノ)尊薨(レヌ)」と見え、又その「殯宮之時歌」の作者人麻呂の歌意を討ねると、かた/”\皇太子に立たれたことが頷かれる。但こゝの題詞には尊の字がない。これは高市皇子がまだ皇太子に立たぬ頃の出來事と思はれる。○穗積皇子 天武天皇の皇子、母は大〓《オホヌノ》娘(蘇我赤兄の女)である。慶雲二年九月知太政官事、靈龜元年一品に叙せられ、同七月薨去。以上お三方皆異腹の御兄弟である。
 
秋田之《あきのたの》 穗向乃所縁《ほむきのよれる》 異所縁《かたよりに》 君爾因奈名《きみによりなな》 事痛有登母《こちたかりとも》    114
 
〔釋〕 ○ほむきのよれる 穗向の寄れるの意。稻の穗の向は一方に寄り靡くものゆゑ「片寄り」にかゝる序詞に用ゐた。「縁」は借字。○かたより 片寄る、即ち偏すること。「異」をカタと訓むは意訓。○きみによりなな 君に依りなむといふに同じい。「む」の助動詞を「な」と轉じいふ例は、「家聞かな〔傍点〕名のらさね」(卷一)「潮もか(357)なひぬ今は漕ぎ出でな〔傍点〕」(卷一)「岡の草根をいざ結びてな〔傍点〕」(卷一)など、本集中には頗る多い。「因」は借字。○こちたかりとも うるさく人にいひ騷がれようともの意。「こちたかり」は言痛《コトイタ》くあり〔三字傍点〕の約。物いひの甚しきをいふ。「事」は借字。
【歌意】 秋田の稻穗の一方にのみ片寄り靡くやうに、私も一途にもうあの方にたよりませう、たとひ世間の人にうるさくいひ騷がれようとも、そんな事は構はずにさ。
 
〔評〕 作者は最初から世間といふものを一切無視してかゝつてゐる。何が何でも構はずに猪突して君に憑らうといふ、恐ろしい戀である。茲に至つて但馬皇女對高市、穗積兩皇子の三角關係を思はざるを得ない。このお三人は母君が各違ふのである。既に前にも述べた如く、古へは異腹の兄妹の結婚は許されてゐた。それで但馬皇女は夙く高市皇子の宮人となつて居られたのである。その事は題詞に「在高市皇子宮時」と特記してあるのが十分證明してゐる。單に但馬皇女と穗積皇子との關係をいふのみならば、この一句は全く不用で、只但馬皇女思(シテ)2穗積皇子(ヲ)1御作歌とあれば澤山である。尚次々の歌の題詞にも、「竊接……事既形而……」(358)などある書體を併せ考へれば、自らこの間の消息が想察されよう。さてさうとすれば、但馬皇女は高市皇子宮人でゐながら、更に若い穗積皇子に通じたわけで、「こちたかりとも」が、普通あり觸れた情事關係から蒙る漫然たる世上の非難ぐらゐな、そんな生やさしい人言でないことは、勿論皇女は十分に豫想されてゐる。然しそれらの激しい非難も危惧も顧慮してゐられぬやうな熱烈な戀は、感情に根強い婦人にして特によく出來るのである。尚「穗向のよれる」の序は暗に穗積皇子のお名から聯想したらしい。何でもかでもあの人でなくてはといふやうな、作者の一本氣の眞劍さが、この一句でもよく想像されるではないか。しかも寄り〔二字傍点〕の語の三疊は、この意味において最も効果的な表現である。この歌卷十に再出してゐる。
 
勅(りて)2穗積(の)皇子(に)1、遣〔左△〕(はさるゝ)2近江(の)志賀山寺《しがやまでらに》1時、但馬(の)皇女(の)御作歌
 
穗積皇子に勅があつて、近江の志賀山寺に蟄居を命ぜられた時、但馬皇女の詠まれた歌との意。○志賀山寺 近江國滋賀郡南滋賀村の崇福《スフク》寺のこと。天智天皇の勅願によつて、その大津宮の所在地の西北十町の地に建てられたのである。志賀山脈の最北、山中越の東口の谷に、今も金堂その他の遺址が存在してゐる。○遣 原本に遺に作るは誤で、元暦校本その他多くの古寫本によつて訂した。
 
遺居而《おくれゐて》 戀管不有者《こひつつあらずは》 追及武《おひしかむ》 道之阿曲爾《みちのくまわに》 標結吾勢《しめゆへわがせ》    115
 
(359)〔釋〕 おくれゐて 貴方に立ち後れてゐての意。○つつ 「管」は借字。○あらずは あらむよりはの意。「ず」は否定ではなく、佐變動詞の「す」の音便で濁つたもの。○おひしかむ 追ひ付かう。「しく」は及ぶの意。○くまわ 曲り角をいふ。古義の訓はクマミ〔三字傍線〕。「しまわ」を參照(一六八頁)。○しめゆへ しるしを付けよの意。「しめ」は占《シメ》の義で、その占領の印たる標、又は標記の類をいふのが本で、一寸した印物《シルシ》をもいふ。標に結ふといふ故は、もと物を結んで印《シルシ》としたからのこと。
【歌意】 私一人あとに殘つてゐて、戀しさにくよ/\してゐようよりは、いつそ君のおあとを慕つて追ひ付きませう。だから道の曲り角毎に、しるしを付けて置いて下さいませ。
 
〔釋〕 穗積皇子が志賀山寺に放たれたことは、但馬皇女との關係が暴露した爲、兄君たる高市皇子のお怒に觸れ、一まづ蟄居を命ぜられたものである。それには二人の御仲を割く目的もあらうし、場合によつて事が嵩じると、或は出家を命じようといふ下組もないではなかつたらう。かうなると片相手たる皇女は針の筵に坐する心地で、終に來たるべき暗い運命を豫想し、頗る危惧の念に驅られたらう。さうして一面に又思慕戀々の情は、堰かれる程餘計に昂進する。さあ居ても起つても居られなくなる。これ穗積皇子の後を追つて家出をしようかといふ考も起された動機である。
 野山などに分け入るのに、道のわからぬ處は、先行者が草木を結び或は枝などに印をつけて行く、これが所謂「標ゆふ」で、平安時代にいふ栞《シヲリ》である。「道のくまわに標ゆへ」はいかにも婦人らしい口吻である。穗積皇子はいづれ公道を護送されたものと思はれるが、それを皇女は遊山の折などに經驗した「標」を聯想して、嫌(360)疑の罪人には出來もせぬ「標ゆへ」を希望し要求したことは、もう現實も理性も忘れて、感情一偏に走つてゐるものである。その上「わがせ」の呼びかけに、只管他に縋らう寄りかゝらうとする婦人の特性がまざ/\と見えて、戀にこそ強けれ、事には弱い作者の性格をよく暴露してゐる。結句の四音三音の構成も、この急迫した場合によく適應した調子である。
 さて穗積皇子も但馬皇女も、かうした苦患の道を一度は通つたけれども、紀によつて見ると再び榮えて、皇子は知太政官事にまで昇つて居られる。蓋し高市皇子は持統天皇の十年に薨去されたので、自然餘温がさめてお咎めがゆりたものと思はれる。
 
但馬(の)皇女(の)在《いませる》2高市(の)皇子(の)宮(に)1時、竊《しぬびに》接《あひたまへる》2穗積(の)皇子(に)1事|既形而後《あらはれてのち》、御作歌一首
 
但馬皇女が高市皇子の宮に居られた時、穗積皇子に密通された事が露顯してから詠まれた歌との意。○竊接 この事實は、上掲二首の歌の趣によつて明かである。
 
人事乎《ひとごとを》 繁美許知痛美《しげみこちたみ》 己母〔左△〕世爾《おのがよに》 未渡《いまだわたらぬ》 朝川渡《あさがはわたる》    116
 
〔釋〕 ○ひとごと 人言、即ち世間の人の取沙汰をいふ。「事」は借字。○しげみこちたみ 繁さにうるささにの意。かく形容詞の語根に「み」を添へると、何々の故に、何々さに等の意を表はす。○おのがよに 自分の一生に。類聚古集、元暦校本その他の古寫本に、多くは「母」の字が無いので、それに從つた。○あさがは 朝(361)の川。淺川と解する説はわるい
【歌意】 穗積皇子との關係について、世間の人の取沙汰のやかましさうるささに、かうして逃げ出して、自分のこれまでの生涯に嘗て經驗のない、こんな朝川を渡ることよ。あゝつらいこと。
 
〔評〕 「しげみこちたみ」といつた漸層の辭樣は、ひどく情感の激した、いらだたしさを表現してゐる。世間の非難などは最初から覺悟の前で、「君によりなゝこちたかりとも」など放言はしてみても、愈よそれが實際となると、とても我慢はならぬ。既に「おくれゐて戀ひつつあらずは追ひ及かむ」と浮腰で熱狂してゐる所へ、世間からはわい/\いひ騷がれ、戀しい寂しいつらい悲しいの混線となつては、もうぐづ/\しては居られぬ。希望は實行に轉ずるより外はない。そこで高市皇子の後宮を脱け出して、やむごとない御身に、いまだ經驗せぬ朝川を渡ることゝなる。「いまだ渡らぬを渡る」とは、そのよく/\なことを象徴した辭樣で、物馴れぬ辛苦さを力強く表現してゐる。然しそれ程の苦しさわびしさの中にありながら、思ふ人の爲には聊かもそれを悔とせぬ心持が、言外に強く動いてゐるのは、眞劔な戀に直進する人の本當の姿である。
 
舍人《とねりの》皇子(の)御歌一首
 
○舍人皇子 天武天皇の皇子で、淳仁天皇の御父にまします。御母は新田部皇女。一品知太政官事となり、天平元年十一月薨去された。日本紀編輯の總裁。古義は「御歌」の上に贈(リタマヘル)2舍人(ノ)娘子(ニ)〔四字右○〕1の五字を脱として補つた(362)が、次の返歌と對照して察すれば、首肯すべきである。
 
大夫哉《ますらをや》 片戀將爲跡《かたごひせむと》 嘆友《なげけども》 鬼乃益卜雄《しこのますらを》 尚戀二家里《なほこひにけり》    117
 
〔釋〕 ○ますらをや 「や」は反動辭。「大夫」は丈夫のこと。既出(四〇頁)。○かたごひ 片思ひ。○なげけども 「友」は借字。○しこのますらを この厄介な益良雄めといふ程の意で、自嘲の激語である。「しこ」は惡み嫌つて罵る詞で、醜女《シコメ》、醜時鳥《シコホトヽギス》など用例がある。「鬼」は醜〔傍点〕の寫字上の略字である。「卜」は借字。「家里」は戲書。
【歌意】 あつ晴れ男一匹、何の意氣地のない片思などをしようか、決してそんな間拔な眞似はすまいと慨歎してみるが、さてこの厄介な盆良雄《ヲトコ》めは、やはり貴女に對して片思をして居りますわい。
 
〔評〕 戀心のたゆみは、折々反省することがある。それも相思の戀ならともかく、片思ではまことに詰らない。やめにしようと理性は抑へる。けれどもさう考へる傍から戀しさはひし/\と迫つて來て、折角醒ましかけた理性を破壞してしまふ。かうなると自分ながら自分に愛想が盡きる。「しこのますらを」と罵倒してみても、畢竟それは天に向つて唾吐くと同樣だから、實に笑止千萬である。
 さてこれは娘子に贈つた歌であるから、私はか程に貴女を慕つてゐますものを、可愛さうと思つて下さいとの餘意を自然含むのである。苟も男一匹、これ程までに自己を投げ出して屈辱を甘んじての絶叫も、戀なれば(363)こそで、痴情と嘲るにはすごいまでの眞劍さである。荒削りの力作。
 
舍人(の)娘子(の)奉v和《こたへまつれる》歌一首
 
○舍人娘子 傳未詳。「舍人は氏ならむ」と古義はいつた。或は舍人皇子と關係があつたので、さう呼びなされたものかも知れない。
 
歎管《なげきつつ》 大夫之《ますらをのこの》 戀禮〔左△〕許曾《こふれこそ》 吾髪結乃《わがもとゆひの》 漬而奴禮計禮《ひぢてぬれけれ》    118
 
〔釋〕 ○こふれこそ 戀ふれば〔右○〕こその意。かくいふは古代の文法。「戀禮」は原本に戀亂〔右△〕とあつて、二句からマスラヲノコヒミダレコソ〔十二字傍線〕と契沖は訓んだが、金澤本、温故堂本、その他の古寫本に「戀禮」とあるに從つて、本文の如く訓むべきである。○もとゆひ 髪の本取を結《ユ》ふ紐。紫などの打紐を用ゐる。契沖は髪の事としたが當らない。「髪」は或は髻〔右△〕の字の誤で、髻結をモトユヒと訓ませたのではあるまいか。○ひぢてぬれけれ 漬ぢて濡れたの意。又「濡れひづ」(卷三)ともいふ。「ひぢ」は上二段活用動詞「ひづ」の第二變化で、水浸しになること。「ぬれ」は一解に、和らかにくた/\となることをもいふ。これによつて三句以下をワガユフカミノツキテヌレケレ〔十四字傍線〕と訓んで、髪を取上けて結へども結へども、ぬれ/\と締りのなくなる意とする説もあるが、「髪結」をユフカミと轉倒(364)に訓むことは無理であらう。
【歌意】 いかにも立派なますらをの貴方が、溜息つき/\戀ひ慕つて下さるからこそ、私の元結がひた/\に濡れました。あり難い事と思ひますわ。
 
〔評〕 「人に戀ひ慕はれると元結が濕《シメ》る」などいふ諺が、當時あつたのを、更に誇張して「漬ぢて濡れ」たといつたものだ。これは只元結の濡れたといふ報告ではない。かうした返歌をしたことは、即ち舍人皇子の戀を感謝し、それに理解と同情とをもつた結果であることいふまでもない。更に立入つて想像を逞しうすると、皇子と娘子との戀は、實は既に疾くより成立してゐたのではあるまいか。皇子はその遣る瀬ない戀心から、娘子の態度を頗る冷淡だといふ風に思ひ込み、只自分一人だけが熱烈に思つてゐるかのやうに感じて、當てつけの氣持で片戀といはれたのではあるまいか。それは戀する人には常にあり勝な愚癡である。
 
弓削《ゆげの》皇子(の)思《しぬびて》2紀《きの》皇女(を)1御作歌四首
 
弓削皇子が紀皇女を戀うて詠まれた歌との意。弓削皇子の傳は既出(三五〇頁)。○紀皇女 積穗皇子の同母妹で、弓削皇子には異母妹に當られる。何れも天武天皇の御子達である。
 
芳野河《よしぬがは》 逝瀬之〔左△〕早見《ゆくせをはやみ》 須臾毛《しましくも》 不通事無《よどむことなく》 有去勢濃香毛《ありこせぬかも》    119
 
(365)〔釋〕 ゆくせをはやみ 水の瀬が走る早さに。「はやみ」の語に對しては「ゆく瀬を〔右△〕」と係るのが正しい。現存の古寫本以下悉く「之」となつてゐるが、橘守部のいふ如く、乎〔右△〕の誤寫と見たい。「見」は借字。○しましくも シマラクモ〔五字傍線〕と訓んだ由豆流《ユヅル》の説も惡くないが、尚「之麻思久母《シマシクモ》獨ありうる」(卷十五)「思末志久母《シマシクモ》見ねば戀しき」(卷十五)などの用例があるので、これもさう訓むがよい。○よどむ 「不通」を意訓によむ。○ありこせぬかも 「こせ」を下二段活用の動詞こす〔二字傍点〕の第一變化とし、「ぬ」を否定の助動詞として、アツテクレヌカナアと譯した新考の説に姑く從ふ。古義は「こせ」をこそ〔二字傍点〕と同語で希望の辭、「ぬ」を命令辭のね〔傍点〕の轉語と説いたが、「秋の夜の百夜《モヽヨ》の長くありこせぬかも」(卷四)「朝ごとに見るわが宿の撫子の花にも君はありこせぬかも」(卷八)「言《コト》とくは中はよどませ水無河絶ゆちふことをありこすなゆめ」(卷十一)などの例から類推して、新考の説を妥當と見る。「巨勢」は地名を借用したので、「芳野河」に對へた戲書。「濃」は呉音ノウ〔二字傍点〕の轉音で、ヌの音に用ゐた。
【歌意】 吉野川の川瀬の早さに、寸時も水の淀むことのないやうに、わがこの戀が少しも障ることなくあつてくれないものかなあ、どうかさう都合よく運んでほしいものだ。
 
〔評〕 この歌を釋して代匠記には、「吉野川の水は瀬の早きに依りて、暫くも絶ゆる事なき如く、我が人を思ふ心も波の早瀬に劣らぬを、など逢ふことのよどみ勝なるらむ。あはれ彼の水の流れつゞくやうに、逢ひ見ることも繼ぎてあらばやとなり」とあり、古義の解も大體同樣であるが、かく會合を主とするやうな解は妥當を缺いてゐる。作者が既に皇女に逢つたのならば、成程この場合「ありこせぬ」は會合その事が主となるであらうが、(366)後々の諸作から兩者の關係を推斷すると、この兩人は遂に相逢ふに至らなかつたと思はれる。(大船のはつる泊の歌の評下參照)。して見ると當然これは、皇子御自身の戀々の情そのものが主とならざるを得ない。即ちとんとん拍子に事がうまく運んで、あの懷かしい皇女に逢ひたいものだなあと、熱望されたものと見ねばならぬのである。その吉野川を拉し來つて譬喩に用ゐたのは、作者が常に吉野通ひに眼馴れて印象深いからの事で、實感を出す上に頗る効果がある。
 
吾味兒爾《わぎもこに》 戀乍不有者《こひつつあらずは》 秋芽之《あきはぎの》 咲而散去流《さきてちりぬる》 花爾有猿尾《はなならましを》     120
 
〔釋〕 ○こひつつあらずは 戀ひつゝあらむよりはの意。既出(三五九頁)。○あきはぎ 萩は秋咲く花であるからいふ。○さきてちりぬる 「散りぬる」が主で、「咲きて」は極めて輕い意で添へた。○はなならましを 花でありたいものを、花でないのが口惜しいとの意。即ち「まし」の本格的用法で、事實に反したことを假設想像するので、從つて遺憾の心持が生じて來るのである。「猿」をマシと訓むことは既出(三一〇頁)。
【歌意】 あの皇女にかう戀ひ焦がれて苦しみ通さうよりは、自分はいつその事、咲いてすぐ散つてしまふこの萩の花でありたいものを、さうはかなく散りも失せぬのが却つて口惜しいことだ。
 
〔評〕 この歌は、本卷々首なる磐姫皇后のお作と傳へらるゝ、
     かくばかり戀ひつゝあらずは高山の磐根しまきて死なましものを   (一86)
(367)とその歸趨を同じうしてゐる。たゞ、「高山の磐根」は甚だ矯激であるが、これは幽恨の情味が頗る濃厚に漂うてゐる。蓋しこれは譬喩の叙法を執つたことが、その因を成したのである。否かうした叙法を執るといふことからして、既に多少のゆとりの存することが看取されるのである。即ち戀の爲に頗る感傷氣分になつてゐる折も折、ほろ/\と散る萩の花を見て、直覺的に死の暗示を得たやうな氣がして、かく歌つたのである。「高山の」は自發的に死を欲し、これは誘發的に死を懷つた。そこに兩者緩急の差を生じてくる。然しいづれにせよ死にたいといふ者は、却つて生に甚しい執着をもつもので、飽くまで戀を棄て得ない矛盾が、窮りない煩悶の響を傳へてゐる。
 
暮去者《ゆふさらば》 鹽滿來奈武《しほみちきなむ》 住吉乃《すみのえの》 淺香乃浦爾《あさかのうらに》 玉藻苅手奈《たまもかりてな》    121
 
〔釋〕 ○ゆふさらば 夕にならばの意。舊訓のユフサレバ〔五字傍線〕では、二句の「來なむ」に對して文法上の時が合はない。「ゆふさりくれば」を參照(一七八頁)。○しほ 潮のこと。「鹽」は借字。○あさかのうら 攝津志に、住吉郡船堂村に淺香(ノ)丘《ヲカ》を出してある。その西方前面の海濱が淺香の浦なので、今は盡く陸地となつて、その西端に堺市がある。○かりてな 「てな」はてむ〔二字傍点〕にほゞ同じい。この「な」の解は既出(一一頁)。△地圖 挿圖78を參照(二四一頁)。
【歌意】 夕方になつたら汐がさして來るだらう、だから今汐の干てゐるうちに、早くこの住吉の淺香の浦で玉藻を刈らうよ。逡巡してゐると意外な障碍が起らう、だから早くあの懷かしい人を手に入れたいな。
 
(368)〔評〕 當時の淺香の浦は遠淺の入江であつたらしい。この歌は單なる遊覽の作とも見れば見られるが、汐干の潟に玉藻を刈ることは海人の所作で、この作者のやうな貴人のなさる事ではないし、殊に題詞に照し合はせて見ても、そこに譬喩の意が認められるのである。即ち紀皇女を玉藻に、事の障礙の生ずるのを夕汐の滿ち來るに喩へて、藻は汐のこぬうちに刈る如く、邪魔の入らぬうち一刻も早く手に入れたいものとの意で、諷託に生ずる蘊含幽婉の味ひに不可説の妙がある。かく皇子の焦慮されたことは、他に有力な競爭者の現はれて來る豫感、否既にその競爭者の出現があつたからだと思はれる。この皇女は由來艶聞が絶えない方であつたらしい。
 前に芳野川をひき、こゝに淺香の浦の玉藻を諦視してゐる。それが決して想像からの修飾とのみは思はれない程の切實味に終始してゐる。恐らく東西行旅の間にも尚忘れ難い力強い、戀の焦燥を物語るものであらう。
 
大船之《おほふねの》 泊流登麻里能《はつるとまりの》 絶多日二《たゆたひに》 物念痩奴《ものおもひやせぬ》 人能兒故爾《ひとのこゆゑに》      122
 
〔釋〕 ○はつるとまり 船の往きついて碇泊する處の意。船泊《フナドマリ》は船が風波の難を避け得るやうに灣入した場處であるから、船は穩かにのたり/\と動く。○たゆたひに 「たゆたひ」は躊躇する、グズグズする意。舟や波の上では靜に動搖するにいふ。「に」はの如く〔三字傍点〕の意。「栲《タヘ》のほに」を參照(二七四頁)。「絶」は借字。○ひとのこゆゑに 他人の愛人ゆゑにの意。こゝの「ひとの」は人の親、人の子の類の輕い詞ではない。「兒」の解は既出(一○頁)。
【歌意】 大船が船《フナ》がかりする泊でゆた/\するやうに、自分はこの頃ふら/\と人妻ゆゑに物思を續けて、身も(369)痩せ細つてしまつたことよ。
 
〔評〕 片思に思ひ續けてゐた女に夫が出來ても、尚その妻戀を棄てかねて、身も痩せる程煩悶する。その愚さ未練さは自分でも知らぬではない。然しそれをどうすることも出來ぬのが、戀する人の弱味である。「人の兒ゆゑに」の語は實に沈痛血を吐く底の一語である。卷三に「紀(ノ)皇女(ノ)薨後、山前(ノ)王代(リテ)2石田(ノ)王(ニ)1作《ヨメル》之」の歌によれば、石田王が紀皇女の夫であつたらしい。いや/\さう速斷は出來ぬ。卷十二の歌、
  おのれ故|詈《ノ》らえてをればあしげ馬の面高夫駄《オモタカブチ》に乘りて來べしや  (―3098)
の左註に「右一首、平群《ヘグリノ》文屋《フミヤノ》益人《ヤスヒト》傳(ヘテ)云(フ)、昔聞(キヽ)紀(ノ)皇女|竊2嫁《シヌビニアヒマシテ》高安(ノ)王(ニ)1被(ルヽ)v責時御2作此歌(ヲ)1、但高安(ノ)王(ハ)左降《オトシテ》任(ケラル)2之伊與(ノ)國(ノ)守(ニ)1」とある。すると石田王より先に高安王が紀皇女の情人で、既に社會問題を惹き起した程である。
 「大船」を序詞に用ゐたことは、尚上の歌と同じく、住の江邊における感懷ではあるまいか。
 
三方沙彌《みかたのさみの》娶《あひて》2園臣生羽之女《そののおみいくはがむすめに》1未經幾時《いくだもあらず》、臥《こやして》v病(に)作歌
 
三方沙彌が園臣生羽の娘を娶つて、間もなく病床に臥して詠んだ歌との意。〇三方沙彌 三方は氏、沙彌は名と見るが當然である。沙彌は梵語で僧道の稱であるが、俗人がこんな變つた名を附けることは、古へは珍しくなかつたことで、上にも久米(ノ)禅師の例がある。但持統紀に「六年十月、授(ク)2山田(ノ)史《フヒト》御形《ミカタニ》務廣肆(ヲ)1、前(ニ)爲(リ)2沙門(ト)1學2問《モノナラヘリ》新羅(ニ)1と見えた山田(ノ)史御形(又御方とも書く)が僧でゐた頃をいふとの契沖や眞淵の説もある。○園臣生羽之(370)女 園は氏、臣は姓《カバネ》生羽は名である。生羽之女をイクハノメ〔五字傍線〕と讀めば、その婦人の名となる。
 
多氣婆奴禮《たけばぬれ》 多香根者長寸《たかねばながき》 妹之髪《いもがかみ》 此來不見爾《このごろみぬに》 掻入津良武香《かきれつらむか》 三方沙禰    123
 
〔釋〕 ○たけば 眞淵は、綰《タガ》ぬればの約といつたが、この二句に「多香根者」とあり、卷十に「手寸十名相殖《タキソナヘウ》ゑしもしるく」、卷十一に「青草《ワカクサ》を髪《カミ》に多久《タク》らむ、卷九に「小放《ヲハナリ》に髪多久《カミタク》までに」、又この次に「多計登雖言《タケトイヘド》」などある用例から歸納すると、「たく」といふ四段活の獨立動詞の第五變化なることは明瞭である。さて「たく」は手操《タグ》る義で、從つて髪などを掻き上げる、束ねる、又は手綱などを掻い操る意に用ゐられる。○ぬれ 下二段活用動詞「ぬる」の第二變化。ヌメる、ヌラ/\する、スベ/\などと同意。○たかねば長き 掻き上げなければ長過ぎるの意。○みぬに 見ない間に。○かきれ 掻き入れの略。
【歌意】 掻き上げようとすれば短くてぬる/\と滑り落ちて解け、掻き上けなければ長過ぎるわが妻の髪は、この頃自分が病み臥して往つて見ぬ間に、いゝ加減に伸びて、もう掻き入れたであらうかしら。
 
〔評〕 古への婦人は童のうちは垂髪で、成人すると髪を取上けたものである。さうして成人の第一のしるしは夫を持つことであつた。さてこの生羽の娘子は既に三方沙彌を夫に持つたし、その上、「未經幾時」は初會後いくらかの時日のあつた事を反證してゐるから、髪上はもう濟んでゐたと斷じてよい。只まだ年弱《トシワカ》なので、伸びきらぬ額や鬢も毛などのさがつてゐたのを沙彌は記憶してゐて、可なり長い自分の病中の徒然から閑想像を馳(371)せ、あの後れ毛さへもう伸びて、既に上げた髪の中に掻き入れたらうかと、自分の見ぬ間に若妻の器量のますます整つて、女振が一段上がつたであらう面影を、幻に描いて見たものである。そこに窮りない愛慕の情が漂うてゐる。「かきれつらむか」は必ずかく解すべきである。
  楠の寺の長屋にわがゐねしうなゐはなりは髪上げつらむか (卷十六―3822)
と同調の柔語で、その多情多恨は、かの佳人をしてその眉を※[手偏+賛]めて酸涕せしむるに足りる。
 然るに近來の諸註この意を得かねて、恣に結句を「掻上《カヽゲ》つらむか」の誤とし、わが病中この頃他に男が出來て、その男が髪を上げてやりもしたらうかと、嫉妬氣味に疑つたものと釋いたのがある。これも面白いやうではあるが、然し髪上は男がして遣るものといふ前提の事實が不確かであり、よし假にさうとしても、沙彌の時には上げずに他の男の時には上げるといふ點に矛盾があるので、從ふべきではない。
 さて初二句は過去の事實であるから、返歌にも「見し髪」とあるが如く、正しくは「たかねば長かりし」とあるべきであるが、音數の制限の爲に現在法を用ゐたのである。さうしてこれが却つて印象を深刻ならしめる効果を奏してゐるのである。
 
人皆者《ひとみなは》 今波長跡《いまはながしと》 多計登雖言《たけといへど》 君之見師髪《きみがみしかみ》 亂有等母《みだれたりとも》 娘子    124
 
〔釋〕 ○いまはながしと 今はもう長くなつたとての意。古義がイマハナガミト〔七字傍線〕と訓んだのは強ひてゐる。○たけといへど 掻き上げよと私に申しますがの意。「たけ」は上述の動詞「たく」の命令形である。○みだれた(372)りとも この下にたけじ〔三字右○〕の語を略いてゐる。古義はミダリタリトモ〔七字傍線〕と訓んである。ミダリは古い活用で、ラ行四段の自他通用の動詞。
【歌意】 もう後れ髪が伸び過ぎて長いといふので、人が皆束ね上げなさいと申しますが、貴方のお目にとまつたこの髪は、よしや亂れてゐても貴方に斷りなしには上げますまい。
 
〔釋〕 懸歌の「かきれつらむか」を承けて、貴方の御想像なさるやうに、皆樣ももう結ひ直して上げたがよいと仰しやるのですけれどねえ――と、今なほ片意地らしく振りかぶつてゐるのも、全く主への心中立といふのだから誠に尊い。齒を染めたり、眉を剃つたりして、男への貞操を表示する習俗と同じ心持なのである。「今は」の一語がいかにもよく利いて居り、もう伸びに伸びて、どうにか處分せねばならぬ最後の時機にまで往き詰めてゐることを思はせる。又「亂れたりとも」の歇後の辭樣は、流石に斷言を憚る、オボコらしい婦人らしい優しい情味が出て居り、頗る餘情が饒かに汲み取られる。大禮服や餘所行の晴着を着たやうな立派な作よりも、まざ/\と性靈の眞の聲に接し得るかうした歌の方が、自分には餘程嬉しく思はれる。面白い贈答である。
 
橘之《たちばなの》 蔭履路乃《かげふむみちの》 八衢爾《やちまたに》 物乎曾念《ものをぞおもふ》 妹爾不相而《いもにあはずて》 三方沙彌    125
 
〔釋〕 ○たちばなのかげふむみち この橘は街路樹の橘であるから、その下蔭を行くことを「蔭躇む」といつたのである。○たちばな 橘は柑子《カウジ》の類。天智紀十年の童謠に「橘はおのが枝々なれゝども玉にぬく時おやじ緒に(373)ぬく」と見え、今の蜜柑より粒の小さな物である。葉の常磐をめで、花の色香をめで、實の黄色をめでて、葉と花と實とを一時に賞翫し得るを以て、古來非常に珍重され、庭前路旁に好んでこれを栽ゑた。垂仁天皇の代|田道間守《タヂマモリ》を常世《トコヨ》の國に遣りて非時香菓《トキジクノカグノコノミ》を求めしめ、その名に因つてこれをタチバナと稱したことが、記紀に見えてゐる。○やちまたに 八衢の如く〔三字傍点〕にの意。「やちまた」は彌路岐《イヤチマタ》の義で、多き岐路をいふ。「に」は譬喩の意をもつ辭。この句上から續けては、縱横に通じた道にの意であるが、これは直喩的序詞で、眞意はさま/”\にの意である。
【歌意】 この頃私は病に臥してゐて、貴女に逢ふこともないので、戀しさのあまり、道の八衢の彼方此方に分れてゐるやうに、あれやこれやとさま/”\に物を思ふことよ。
 
〔評〕 垂仁天皇の勅命を承つて田道間守が橘を常世國から覓め歸つて以來、これを果實の長上として賞翫し、道旁にまでこれを植ゑたことは、雄略紀に「餌香《エカノ》市(ノ)邊(ノ)橘(ノ)本」とあるのでも知られるし、なほ後にも天平寶字三年六月の官符(類聚三代格に出づ)に、
  應(キ)3畿内七道(ノ)諸國(ノ)驛路(ノ)兩邊、遍(ク)種(ウ)2果樹(ヲ)1事。右東大寺普照法師(ノ)奏状(ニ)稱(ク)、道路(ノ)百姓來去不v絶(エ)、樹在(レバ)2其旁(ニ)1足(ル)v息(ムルニ)2疲乏(ヲ)1、夏(ハ)則就(イテ)v蔭(ニ)避(ク)v熱(ヲ)、飢(レバ)則(チ)摘(ンデ)v子(ヲ)※[口+敢](フ)v之(ヲ)、伏(シテ)願(フ)城外道路(ノ)兩邊(ニ)栽2種(セヨ)果子樹木(ヲ)1者(ヘレバ)、奉勅依奏。
など見えて、橘を植ゑたのは市路やその他の幹線道路を主としたことが推定され、隨つて岐路も八衢であるこ(374)とが想像される。その八衢にこの木が蔭を垂れて行人の爲に夏日を蔽ふ。これ蔭橘〔二字傍点〕の稱ある所以、その道は即ち「橘の蔭ふむ道」である。三方沙彌が娘子の家に通つた道は、やはりさうした往還であつたらしい。病中娘子を戀ふる餘り、その通ひ路を思ひ、橘の蔭さす八衢を思ふ、乃ちこの聯想を一括して序詞としたので、決して無關係な事を漫然と羅列したものではない。そこに切實の響がこもり、「妹に逢はずて」の卒直さと相俟つて、娘子に對するその濃到懇切の意が認められる。姿も詞も立派に諧つて完璧の作といつてよい。
  橘のもとに道|履《フ》みやちまたに物をぞおもふ人に知らえず  (卷六―1027)
の左註に、「或本(ニ)云(ク)三方沙彌(ガ)戀(ヒテ)2妻|苑《ソノノ》臣(ヲ)1作歌也」とある。歌はこの誤傳である。
 
石川(の)女郎(の)贈(れる)2大件(の)宿禰|田主《たぬしに》1歌一首
 
○石川女郎 傳不明。前出の石川郎女(大名兒)と同人か別人かは不明。但後出の大津皇子宮侍石川郎女(山田女郎)とは別人である。○田主 佐保大納言大將軍大伴安麻呂の次男で、旅人《タビト》卿の弟。母は巨勢(ノ)郎女。
 
遊士跡《みやびをと》 吾者聞流乎《われはきけるを》 屋戸不借《やどかさず》 吾乎還利《われをかへせり》 於曾能風流士《おそのみやびを》    126
 
〔釋〕 ○みやびを 所謂粹人、譯知りなどいふに當る。舊訓はタハレヲ〔四字傍線〕、眞淵はミヤビト〔四字傍線〕と訓んだが、宣長が、「遊士は集中何處にありてもミヤビヲと訓む。又ミヤビト〔四字傍線〕は宮人に混じて穩かならず」といつたのがよい。○やど(375)かさず 私を泊めてくれないでの意。「かさず」は終始法でなく、かさずして〔五字傍点〕の意。○おそ 遲鈍《オソ》の義で、敏速の反對。氣の利かない、間の拔けたなどの意。
【歌意】 私はかねて貴方を粹人と聞き及んでましたのに、噂とは違つて、折角往つた私を泊めてもくれずに、愛想もなくお戻しなされたことよ、伺の貴方は間拔な粹人さねえ。 
大伴(ノ)田主字(ヲ)曰(フ)2仲郎《ナカチコト》1、容姿佳麗、風流秀絶、見(ル)者聞(ク)者靡(シ)v不(ル)2歎息(セ)1也。時有2石川(ノ)女郎(トイフ)1、自(ラ)成(シ)2雙棲(ノ)感(ヲ)1、恒(ニ)悲(ミ)2獨守之難(キヲ)1、意(ニ)欲(リシ)v寄(セント)v書(ヲ)、未(ダ)v逢(ハ)2良信(ニ)1、爰(ニ)作(リテ)2方便(ヲ)1而似(セ)2賤(シキ)嫗(ニ)1、己(レ)提(ゲテ)2鍋子(ヲ)1而到(リ)2寢側(ニ)1、※[口+更](メ)v音(ヲ)跼(テ)v足(ヲ)、叩(キ)v戸(ヲ)諮(ウテ)曰(ク)、東隣(ノ)女郎將(ニ)2取(リ)v火(ヲ)來(ラント)1矣。於是《コヽニ》仲郎、暗裏非(レドモ)v識(ルニ)2冒隱之形(ヲ)1、慮外不v堪(ヘ)2拘接之計(ニ)1、任(セテ)v念(ニ)取(リ)v火(ヲ)就(イテ)v跡(ニ)歸(リ)去(ラシム)也。明(クル)後女郎、既(ニ)恥(ヂ)2自媒之可(キヲ)1v愧(ヅ)、復恨(ミ)2心契之弗(ルヲ)1v果(サ)、因(リテ)作(リ)2斯(ノ)歌(ヲ)1以(テ)贈(リテ)諺戲(ブル)焉。
  (左註は評語の次に掲げる例であるが、この條に限り便宜上こゝに引上げた)
 贈答の歌は本人同士には無條件で分つても、第三者には事情を説明せねば、十分意味の徹しないことが多い。この註も本文の歌を解するに、必要缺くべからざるものである。意は大伴田主は呼名を仲郎《ナカチコ》といつた。姿形うるはしくみやびかに勝れ、見聞く者感歎せぬは無かつた。時に石川女郎といふ女があつて、田主に添ひたく思ひ、獨住のつらさを歎いたが、手紙を贈らうと思つても良い媒が無いので、そこで一計を案じ、賤しい嫗の風に變装して、自分に鍋をさげて田主の寢間に近づき、聲を細め足をかゞめて戸を叩いて案内していふ、「私は東隣に住む女ですが、火を頂かして下さいませ」と。田主は眞闇なのでその假装であることは分らないが、やり取りの世話をするのも面倒臭くて、勝手に火を取らせて元の道から歸らせた。翌朝女郎は押懸け業のきまり(376)惡さを恥ぢ、且もくろみの外れたことを口惜がつて、この歌を贈つて破れかぶれに揶揄一番したといふ。 
〔評〕 門閥家の大伴氏の二男坊に生まれた田主、しかも美男で風流男の評判を取つた田主である。石川女郎ならずとも、奈良の都中の女が血道を上けて大騷をしたものであらう。田主は若し父の家にゐたとすれば、邸は都はづれの佐保である。されば附近に貧家も散在したに違ひない。昔に遡るほど社會の生活状態は單純であるから、隣家の貧女が押懸けて來て、「一寸火を頂かせて………」位なことを、お邸の御二男樣に斷つて貰つてゆくなどは、必ずしも無いことではあるまい。
 石川女郎は大膽にも一狂言書いて、直接談判の機會を作らうとしたが、あまり假装や作り聲が上手に往き過ぎて、田主の注意を惹きそこねたことば實に千載の恨事であつた。「おそのみやびを」と罵つたのは、その心持をあからさまに表現して居り、どうせもう破れかぶれだといふ捨鉢な態度が躍如として示されてゐる。梢の葡萄を取らうと骨折つて遂に及ばなかつたので、何だこの青葡萄めと罵つたイソツプの狐にも似て、笑止にも氣の毒である。
 「われは聞けるを」の「を」の辭を轉捩の楔子として、上下に反對の事相を按排した所に、反照の妙があり、「みやびを」「われ」の語の反復も、その表現の率直さを語つてゐる。
 
(377)大伴(の)宿禰田主(の)報贈《こたふる》歌一首
 
遊士爾《みやびをに》 吾者有家里《われはありけり》 屋戸不借《やどかさず》 令還吾曾《かへししわれぞ》 風流士者〔左△〕有《みやびをにある》    127
 
〔釋〕 ○みやびをにわれはありけり 「われはみやびをにありけり」の倒装である。「に」はにて〔二字傍点〕の意。「家里」は戲書。○やど 「戸」は借字。○みやびをにある 略解はミヤビヲニハアル〔八字傍線〕と訓んだが、「者」を煮〔右△〕の誤とする古義説に從つた。
【歌意】 貴女はさう仰しやるが、私は實に我れながちあつぱれ粹人でしたよ。貴女を泊めないで還した私こそ、本當の粹人なのです。
 
〔評〕 女の來たのを還したのが眞の風流男たる所以だと、作者は遣り返してゐるが、何でそれが風流男となるのか、一寸了解しにくい。古義は、「卑しき老女にまがへて謀らるゝを、うちつけに宿借さむはいと淺はかなるあだ者のすることなれば、たゞに還しゝこそ風流男ぞ」と釋いたが、甚だむづかしく、しつくりと腑に落ちかねる。孔子家語に、
  魯人有(リ)2獨處(ル)v室(ニ)者1、隣之?婦(モ)亦獨處(ル)。夜暴(カニ)風雨至(ル)。〓婦(ノ)室壞(レ)趨(ツテ)託(ス)v焉(ニ)。魯人閉(ヂテ)v戸(ヲ)不v納(レ)。〓婦自v※[片+(戸/甫)]與v之言(フ)、何(ゾ)不仁(ニシテ)而不(ル)v納(レ)v我(ヲ)乎、子(ハ)不(ト)v如(カ)2柳下惠(ニ)1。魯人曰(ク)、柳下惠(ハ)則(チ)可(ナルモ)吾(ハ)固(ヨリ)不可(ナリ)、吾(ハ)以(テ)2吾之不可(ヲ)1學(バンヤト)2柳下惠之可(ヲ)1。
(378)とある。魯人は隣の寡婦の來たのを泊めなかつたけれども、彼れには彼れの主張があつて、筋の通つた譯知りである。それ故田主は、この魯人を風流男と許して、田主自身の石川女郎を泊めなかつた事情は固より違ふが、結果は同じな處から、私はその風流男であると誇稱したのではあるまいか。然し何れにせよ、この處田主の方が立合ひ負けの氣味で、口先では威勢を張つてみたものゝ、實は理由薄弱でしどろもどろの體なのである。
 反復することには丁寧の意が存する。故にその際「宿借さずかへしし」の詳叙が附加されてくる。はじめには「みやびをに吾は」といひ、後には「吾はみやびをに」と襷掛けに顛倒の辭樣を用ゐたことは、反復體中の異製に屬する。
 
石川(の)女郎(の)更(に)贈(れる)2大伴(の)宿禰田主(に)1歌一首
 
石川女郎がまた押返して田主に贈つた歌といふこと。
 
吾聞之《わがききし》 耳爾好似《みみによくにつ》 葦若末乃《あしのうれの》 足痛吾勢《あなへくわせが》 勤多扶倍思《つとめたぶべし》    128
 
〔釋〕 ○みみによくにつ 話によく似た、噂に違はぬなどの意。耳は噂又は話の轉義。「につ」は舊訓ニバ〔二字傍線〕とあるが、古義に從ふ。○あしのうれの 葦の末葉《ウラハ》はヘナ/\してゐるので、下の「なへく」に係る序に用ゐた。「うれ」は末の意。舊訓アシカビノ〔五字傍線〕とあるが、アシカビは紀に蘆芽〔二字傍点〕を訓んである。蘆芽は蘆の初生の牙形を成した(379)ものゝ稱で、決して「なへく」ものでない。「若末乃」(末を原本に未に作るは誤)は、「卷十に小松之若末爾をコマツガウレ〔二字傍点〕ニと訓める例に從つて、ウレノと訓むべし」といふ宣長説がよい。○あなへく 足の萎《ナ》えること。「あ」は足《アシ》の下略。「なへく」は萎くの意で四段活の動詞。この句眞淵はアシナヘ〔四字傍線〕、宣長はアシナヘク〔五字傍線〕、古義はアナヤム〔四字傍線〕、官本はアシヒク〔四字傍線〕と訓み、その他種々の訓があるが、原本に從ふ。「痛」は借字。○つとめたぶべし 自愛なさるがよろしいの意。「たぶ」は給ふ〔二字傍点〕の古語。
【歌意】 ほんに私のかねて聞いた噂にそつくりですよ、全く貴方は足萎えでいらつしやるから、せい/”\御自愛なさいませ。
 
右依(リテ)2中郎(ノ)足(ノ)疾《ケニ》1問訊《トブラヘル》也
 
 中郎は二番息子の稱で田主のこと。足疾は和名妙に「脚氣一(ニ)云脚病、俗(ニ)云(フ)阿之乃介《アシノケ》」とある。但この左註は不完全である。その理由は次の評語を參看。
 
〔評〕 古來この歌の眞意を掴み得た解は一つも見當らない。いづれも皆本當に田王が當時脚病でゐて、女郎がそれを見舞つて詠んだやうに思つてゐる。尤も左註もわるい。
 抑もこの歌は前の贈答二首に聯絡したもので、決して別時の作ではない。初二句から考へれば成程、田主が一時脚氣でも病んで困つてゐるといふ噂はありもしたらう。然しそれは何も常住の脚病といふのではなく、この時分にはもうピン/\してゐたのだと見たい。只女郎が忍んで訪れた時に、田主は無精らしくおのが部屋か(380)らも出て來ず、勝手に「任v念就v跡歸去也」で、一向構ひつけなかつた。その上「おその風流男」と嘲つてやると「宿かさず還ししわれぞ風流士」などと減らず口を叩くので、女郎は忌々しさに、一時の噂をこれ幸ひと利用して大いに誇張し、成程あの時出ていらつしやらなかつた事を思ふと、貴方は全く噂通りの足萎えなのですね、折角御療養なさるがよいと飜弄したのである。男に振られたくやしさの嬌瞋が、そこにあり/\と見える。假装をして男の家に押懸ける、失敗の腹癒せに皮肉な冷かしをいふ、この女郎は隨分の刎つ返りである。が、こんな事を何時までも捏ね返してゐることは、女郎の下心に尚未練のあることを思はせる。
 
大津(の)皇子(の)宮侍《まかたち》石川(の)女郎《いらつめ》(の)贈(れる)2大伴(の)宿禰|宿奈《すくな》麻呂(に)1歌一首 【女郎字(ヲ)曰(フ)2山田(ノ)女郎(ト)1】
 
大津皇子のお邸の女房石川女郎が大伴宿奈麻呂に贈つた歌との意。○大津皇子宮侍石川女郎 かく特記したのは、前掲の石川女郎と別人なことを示す爲である。題下の註は元暦校本その他の古寫本に據つて補つた。○侍 古くマカタチと訓んでゐる。前子等達《マヘコラタチ》の約轉か。從婢、腰元、女房、お許人《モトビト》などに同じい。○宿奈麻呂 大伴安麻呂の第三子で田主の弟、和銅元年に從五位下、靈龜元年に左衛士(ノ)督、養老二年に安藝周防(ノ)按察使となり、神龜元年に從四位下に至つた。宿奈は少《スクナ》の義。
 
古之《ふりにし》 嫗爾然而也《おみなにしてや》 如此許《かくばかり》 戀爾將沈《こひにしづまむ》 如手童兒《たわらはのごと》    129
(381)   一(ニ)云(ク)、戀乎太爾忍金手武《コヒヲダニシヌビカネテム》 多和良波乃如《タワラハノゴト》
 
〔釋〕 ○ふりにし 舊訓イニシヘノ〔五字傍線〕とあるは協はない。古義の訓に從ふ。○おみな 老女のこと。翁《オキナ》の對稱。男《ヲトコ》の對稱なるをみな〔三字傍点〕ではない。○してや 「や」は反動辭。○たわらは こゝは童女をいふ。契沖は「母、乳母などの手を離れぬ童をいふか」といつたが、「た」は接頭語として輕く見るがよい。○左註の異傳は甚だよくない、捨てるがよい。
【歌意】 私はまあ、いゝお姿さんの身でもつて、かうも一途に戀に打込まうことかい、まるで若い娘つ兒のやうにさ。
 
〔評〕 この歌を味ふ上に於て、石川女郎對宿奈麻呂の年齡問題は、頗る興味あるものである。女郎自ら「ふりにしおみな」と稱したのは、餘程な老女らしくもあるが、然しそれは「たわらはのごと」に對して最も効果的の素地を作る爲、大きな誇張を用ゐたものと思はれる。かくの如きは作家の常套手段なるを知らねばならぬ。さて宿奈麻呂は和銅元年に五位に出身したが、名家の子弟としてはその若さを語るもので、當時二十五六歳位と見てほゞ誤りあるまい。又女郎は大津皇子の女房であるから、大津皇子が二十四歳にして叛死された頃は、最も若く見て十七八歳位と假定すると、同じ和銅元年には三十九か四十歳になる譯である。
 宿奈麻呂は只若いばかりでなく、あの器量よしの田主の弟であつた點から察しても、かく年上の女に思はれる點から見ても、やはり美男であつたらしい。一體安麻呂の血統は大抵美男系と見えて、田主兄弟の甥に當る(382)家持も、盛に婦人達に騷がれた美男であつた。戀には身分の隔や年齡の差別がないとはいへ、もう縮緬皺も本物の皺になる四十女が、十五六も違ふ年下の美男を追ひまはすといふのは、餘り見よい圖ではない。女郎は十分それを自覺して、「ふりにしおみなにしてや」と、その不倫さを暗に悲んでゐるのである。けれども「たわらはの如」く戀ゆゑには思ひ亂れてしまふ。戀を戀として無分別に勇往直進して憚らない若人は幸福で、かやうに多少の分別と顧慮とのあるだけ、年配者殊に老女の戀は理性と情熱との葛藤が甚しいので、一層みじめであり哀れである。
 
長《ながの》皇子(の)與《おくりたまへる》2皇弟《いろとのみこに》1御歌一首
 
○皇弟 長皇子の御弟をいふ。御兄弟が、澤山ましますので確定はされないが、歌の趣から見ると、成るべく近い親しい御兄弟の方がふさはしいから、天武紀に「次妃大江(ノ)皇女生(ム)3長(ノ)皇子(ト)與2弓削皇子1」とある御同腹の弓削皇子と見たい。
丹生乃河《にふのかは》 瀬者不渡而《せはわたらずて》 由久悠久登《ゆくゆくと》 戀痛苦弟《こひたむわがせ》 乞通來禰《いでかよひこね》    130
 
〔釋〕 ○にふのかは 丹生川。大和では吉野宇陀宇智三郡に亙つて同名の場處があるが、こゝは宇陀郡榛原町大字雨師の丹生社の社頭を流れる宇陀川、即ち神武天皇祈祷の遺蹟たる丹生川の事としたい。藤原京から東初瀬(383)を經て約六里。吉野離宮址を鷲家の小川の小村に求むる論者の、これを小村の丹生川としたのは、根本的に諾き難い。ましてこの歌を從駕の作などいふのは無稽である。○わたらずて 渡られないでの意。○ゆくゆくと 滯なく一途にの意。「ゆくらか」の意ではない。源氏賢木の卷に「何事をかは滯り給はむ、ゆく/\と宮にも愁へ聞え給ふ」のゆく/\と〔五字傍点〕もこれである。この句を結句に續けて解いた古義説はわるい。又「遊」を流布本に「※[竹冠/しんにょう+夾]」に作るのは誤で、今元暦校本、類聚古集その他多くの古寫本によつて正した。○こひたむ 甚しく戀ふる意。「たむ」は痛《イタ》むの上略。○わがせ 下に「よ」の呼格の助辭を含んでゐる。「せ」は兄弟相通じて互に稱する親愛語で、必ずしも長幼の序に拘はらない。古義の訓アオト〔三字傍線〕は却つて穿鑿に過ぎる。○いで 誘ひ立てる意の發語。舊訓コチ〔二字傍線〕はわるい。○こね 「ね」は丁寧に命ずる意の辭。
【歌意】 私自身ではこの丹生川の川瀬は渡りもえせずに、只一途に逢ひたいと戀ひ慕つてゐる最愛の弟皇子よ、さあそちらから通つて逢ひに來て下さいな。
 
〔評〕 字陀川の沿岸は小じんまりした幽遠の場處が多く、別莊の好適地である。而も道は大抵伊勢街道を行くので極めて出入に樂である。長皇子は今の萩原町からさう遠くもない都合のよい地點に、その別莊を置かれ、休沐の暇には馬を走らして此處に通はれたものであらう。別業としてはやゝ遠過ぎるなど疑つてはならぬ。平安時代ですら宇治川附近に貴紳の別莊が澤山あつて、京都から約九里の(384)遠路を往來してゐたことを思ふがよい。
 さてこの歌は、長皇子が丹生の別莊に何かの事情で逼息して居られた折の作と思はれる。人寰を絶したかゝる山莊では、只さへ物寂しい。それが自由に出入もならぬとなつては、愈よ孤獨の感がひし/\と胸に迫つて來る。さうした場合、骨肉の兄弟弓削皇子こそは、まづ第一に思ひ出される戀人であらねばならぬ。「丹生の川瀬は渡らずて」、つく/”\と弟宮戀しさが身に沁み渡る。たまらなくなつて「どうぞ來て下さい」と悲鳴を上げられたものである。四句まで一意到底にいひ下して、忽として結句で一轉換したことは、そのさし迫つた情緒を表現するに、最も印象深い手法である。この歌を得た弓削皇子は、何はさしおいても一散に丹生まで驅け付けられたことであらう。
 
柿本(の)朝臣人麻呂(の)從(り)2石見國1別(れて)v妻《めに》上(り)來(る)時(の)歌二首竝短歌
 
人麻呂が石見國から妻に別れて上京する時詠んだ歌との意。○從石見國 人麻呂が石見國にゐたのは、地方官で赴任してゐたものと思はれる。紀にもその薨卒の事が見えず、又六位以下庶人までに死〔傍点〕と書くは令の規定であるから、この集の書式もそれに隨つたに違ひないのに、彼の妻がその死を悲んだ歌の題詞に「柿本朝臣人麻呂死(ニシ)時云々」とあるので見ると、いづれ六位以下の判任と見てよい。「上來」を眞淵はいふ、「任の間に上れるは、朝集使税帳使などにて假に上りしなり。此使にはもろ/\の國の司《ツカサ》一人づつ、九十月に上りて十一月一日の官會にあふ也。その上る時の秋にもみぢ葉を詠める是れ也。石見へ歸りて彼處にて身まかりたる也」と。(385)○妻 昔は妻妾の別なくすべて一樣にメと呼んだ。こゝの妻は名は未詳。石見で新に儲けた妾であらう。
 從來諸家の研究では、人麻呂は六位以下で石見國には掾か目などで赴任したものだらうと、漫然たる想像を下してゐる。人麻呂が草壁皇太子(日竝皇子)の舍人であつた事は衆口の一致する處、恐らく天武天皇の九年草壁皇子の立太子の時に始めて奉仕したものであらう。持統天皇の三年に草壁太子は御薨去になつたが、尋いで御兄高市皇子が皇太子となられたので、人麻呂は引續いて高市太子に奉仕したものらしい。然るに高市太子が又その十年七月に薨去になつた。この年草壁太子の御子輕皇子(この集には輕(ノ)王)皇孫を以て太子に立ち、明年八月御即位。この間の一年を加へて、天武天皇九年から持統天皇十一年まで十七年間、彼は東宮舍人であつたらしい。延喜式の式部式に「凡大舍人(ノ)勞廿年(ヲ)爲(ス)v限(ト)、毎年一人任(ズ)2諸國(ノ)史|生《シヤウニ》1」とある。これは平安朝の規定だが、奈良時代に溯らせても大した相違はあるまいと思はれる。彼れの東宮舍人の勞十七年では、諸國の史生に任ずる資格が不足だが、種々の情状から、特別拔擢に與つたとしてからが、まづ筑紫の國衙の史生として赴任、その間に十年以上を經過し、遂に石見國の掾か目ぐらゐに勤め上げたものと見てよからう。草壁皇子の立太子の時、彼れは二十五歳で舍人に出身したと假定すると、この石見の任は年配五十餘見當の處であらう。
 
石見乃海《いはみのうみ》 角乃浦囘乎《つぬのうらわを》 浦無等《うらなしと》 人社見良目《ひとこそみらめ》 滷無等《かたなしと》 人社見良目《ひとこそみらめ》 能咲八師《よしゑやし》 浦者無友《うらはなくとも》 縱畫屋師《よしゑやし》 滷者無鞆《かたはなくとも》 鯨魚取《いさなとり》 海邊乎指而《うみべをさして》 (386)和多豆乃《わたづの》 荒磯乃上爾《ありそのうへに》 香青生《かあをなる》 玉藻息津藻《たまもおきつも》 朝羽振《あさはふる》 風社依米〔二字左△〕《かぜこそきよせ》 夕羽振流《ゆふはふる》 浪社來縁《なみこそきよせ》 浪之共《なみのむた》 彼縁此依《かよりかくよる》 玉藻成《たまもなす》 依宿之妹乎《よりねしいもを》【一云|波之伎余思妹乃手本乎《はしきよしいもがたもとを》】 露霜乃《つゆじもの》 置而之來者《おきてしくれば》 此道乃《このみちの》 八十隈毎《やそくまごとに》 萬段《よろづたび》 顧爲騰《かへりみすれど》 禰遠爾《いやとほに》 里者放奴《さとはさかりぬ》 益高爾《いやたかに》 山毛越來奴《やまもこえきぬ》 夏草乃《なつぐさの》 念之奈要而《おもひしなえて》 志怒布良武《しぬぶらむ》 妹之門將見《いもがかどみむ》 靡此山《なびけこのやま》    131
 
〔釋〕 ○いはみのうみ 石見國の邊海をすべていふ。○つぬのうらわ 石見國那賀郡|都濃《ツヌ》の浦。今の都野津《ツノヅ》の海邊のこと。古義の訓はツヌノウラミ〔六字傍線〕。○うらなしと 浦らしい〔四字右○〕浦がないと。浦は海裏《ウラ》の義で湖海の水の灣入した處の稱。○ひとこそみらめ この「こそ」は正格の用払で、下に反對の事相を呼び起し、又含蓄する。「み」の第二變化に「らめ」の想像の助動詞が接續するは古格。「こそ」に「社」を當てるは、此事を欲得《コソ》と社に祈願する意から戲書したもの。○かたなしと 面白かるべき潟もないと。潟は潮水の滿干に隨つて出沒する鹹地。「滷」は塩土の義。○よしゑやし よしやよし。よし/\。まゝよ。「よし」は不充分なるものを可《ヨ》しと縱《ユル》す(387)意。「ゑ」は古い歎辭。「やし」はよし〔二字傍点〕の轉語。「縱」をヨシと訓むは意訓。○なくとも この語前後いづれも、宣長はナケドモ〔四字傍線〕と訓んだ。「友」「鞆」は借字。○いさなとり 海、濱、灘にかゝる枕詞。いさなを取る海といふ續きで、取る〔二字傍点〕を「取り」と體言格にいふは枕詞の辭法の一つで、ひな曇り〔傍点〕碓氷《ウヒ》、妻隱り〔傍点〕矢野《ヤヌ》など例は多い。詞意は(1)勇魚《イサナ》(鯨のこと)取(古説)、(2)い漁《スナド》りの轉(冠辭考一説)、(3)磯菜取の轉(大石千引説)。(1)は地方的に偏局した漁業であるが、(2)(3)は一般的である。○うみべ 舊訓ウナビ〔三字傍線〕はいはれぬ語ではないが、他に例がない。卷十四の「夏|麻《ソ》ひく宇奈比《ウナビ》をさして」の宇奈比は地名である。○わたづの 渡津の。渡津は石見國那賀郡渡津村。村は江川《ゴウガハ》東岸に位し、その江川の河口港を渡津と稱したのである。こゝは四言の句。○ありそ アライソの約。○かあをなる 「か」は接頭語。か黒し、か易し、か弱しなど例が多い。「香」「生」は借字。○おきつも 沖の藻、「息」は借字で、息《イキ》の古言のオキを充てた。○あさはふる 「はふる」は口語の、アフル〔三字傍点〕(扇、翻)に當る。振動すること。「羽振」は借字なるを、これによつて鳥の羽を振るに譬へたとするは妄である。○かぜこそきよせ 「依米」はヨセメ〔三字傍線〕と訓むより外はないが、こゝは現在叙法を採る方が優つてをり、次句との對偶も整ふから、古義に「もと來依〔二字右△〕とありしを顛倒し、來を米〔右△〕に誤りしなるべし、さらばキヨセと訓むべし」とあるに據りたい。これは後掲の或本ノ歌にも「來依《キヨセ》」とあるから、尤もと思ふ。「依《ヨセ》」はサ行四段活の古言で、寄すれの意。○ゆふはる 「羽振流」の流〔傍点〕の字、上のにはない。讀萬葉古義にいふ「箇樣の所書くも書かぬも自由、虎か叫吼(388)登《ホユルト》――※[立心偏+協ノ旁]流《オビユル》までに(卷二)など、久も流も添へ添へず云々」。○なみこそきよせ 波がが藻を寄せてくる。舊訓のキヨレは自動詞だからこゝには適はぬ。○なみのむた 波のまゝに。「むた」はまゝにの意の古言。「共」の字は意を以て充てたもの。「天壤のむた無窮者矣」(古事記)「降りおける雪し風のむた〔二字傍点〕こゝに散るらし」(卷十)「君がむた〔二字傍点〕ゆかましむのを」(卷十五)など皆その意。○かよりかくよる あゝ寄りかう寄る。彼方此方に寄るをいふ。彼《カ》と此《カク》と言を隔てゝいふは、かにかくに〔五字傍点〕、かにもかくにも〔七字傍点〕の類である。舊訓カクヨリ〔四字傍線〕とあるは非。かく寄る玉藻〔六字傍点〕と續く句である。こゝは吾妹子が自分に寄り副ふ貌を、玉藻が水のまに/\靡いて片寄る趣に譬へた。○たまもなす 既出(一九二頁)。○よりねし 自分に倚り添うて寢た。割注の「はしきよし妹が手本を」は下への續きが不調。これは後掲の或本の句を誤載したものだらう。○つゆじもの 露霜の如くの意で、「置き」に係る序詞。「つゆじも」は露の霜に凝つた時の稱。集中の用例を見渡すに、專ら寒さをはじめて意識する對象になつてゐる。露と霜との二物でもなく、單なる霜の事でもない。又露霜の消《ケ》と續く場合には單なる序詞で、季候には與らない。○おきて うち置いて。さし置いて。○やそくま 「やそくまおちず」を見よ(二七二頁)○さかりぬ 遠ざかつた。○いやたかに 「益」は(389)イヤと訓むがこの集の例である。舊訓のマシ〔二字傍線〕は非。○やまも 「里は」に對していつた。○なつぐさの 「萎《シナ》え」にかゝる枕詞。夏の草は烈日の爲に萎れ返る故にいふ。○おもひしなえて 念ひ入つて萎れて。○しぬぶ 卷一に既出(七九頁)。○なびけ 平らかになれといふに同じい。「なびく」は萎え延くの義。
【歌意】 石見の海の角の浦囘を、よい浦もなく面白い潟もない詰らぬ處と、人は侮り見るであらう。まゝよ、よい浦はなくとも面白い潟はなくとも、自分に取つては大事な土地で〔一三字右○〕、沖から海|邊《ベタ》をさして、渡津の荒磯の上に眞青な藻や沖の藻を、朝のあふる風が寄せて來、夕べのあふる波が寄せてくる、その波のまゝに彼方に寄り此方に寄る藻のやうに、自分に寄り添うて寢た愛妻を家に置いて來たので、今行く道の多くの隈々毎に、何遍となく振返つて見はするけれど、そのうちに次第に遠く人里は遠ざかり、次第に高く山は越えて來た、それでもう見えない〔九字右○〕。定めてこの離別の爲に念ひ入つて萎れて、自分の事を慕つてをらうその妻の家の門を見ようわ。えゝ平になれ、目障りのこの山は。
 
〔評〕 開口一番「石見の海角の浦囘」と歌ひ出した。どこまでも他郷人の漂泊觀念からの叫である。案ずるに石見國は山陰道の果なる遠遐の僻地で、その等位は中國に屬するものゝ、田(390)畝の收穫も道中の少額に位する貧弱國で、况やそこなる角の浦など誰れも問題にして注意を拂ひもしない。
 抑も「浦なし」「潟なし」とは何の意か。浦とは湖海の水の灣入した處をいひ、潟とは鹵斥の地を稱する。萬葉人の自然鑑賞の標準は、さうした柔か味に富んだ明媚の風光にあつた。八十島の點在する難波の浦は蘆の名所の難波潟であり、見れども飽かぬ玉津島を擁する若の浦には鶴鳴き渡る汐干潟があり、その他|香椎《カシヒ》潟汐干の浦、意宇《オウ》の海汐干の潟、住吉の淺香潟、明石潟など、彼等の歌詠に上つた潟も亦多いことである。角の浦は如何なる處ぞ、その海岸は殆ど直線に近い砂濱が遠長く續き、汐干潟などには乏しい荒寥たるものである。されば「浦なし潟なし」はその殺風景な場處であることを如實に説示したものである。然し一旦かう抑へて置いて、一轉「浦はなくとも潟はなくとも」と揚げたのは、作者に取つては、その風景は如何にもあれ、特に閑却し難いあこがれの場處であるやうな口振である。それは即ち下の「置きてしくれば」に呼應するものであつて、角の浦の角の里が、外ならぬその愛妻の住居地であることを想起せしめる。
 沖つ藻でも邊つ藻でも皆一樣に玉藻である。されば「玉藻おきつ藻」は一物を二樣にいひ分けて、一句のうちに字對をなしたものには違ひないが、特に沖つ藻を擧げた理由(391)は、實は「海邊」に對へたもので、おのづから「海邊をさして」に、沖より〔三字右○〕の語が略かれてあることが暗示されてゐる。渡津は角の浦の最東端なる江の川の河口の渡津で、そこに散在する磯岩には沖つ藻邊つ藻が打寄せられ、波風に飜轉漂蕩されてゐる。今その光景を描寫するに、或時は直説し、或時は對偶の字法句法を以て反復し、極力玉藻の動的状態を細叙して、眞に形容の妙を曲盡した。朝夕風浪〔四字傍点〕の四字は便宜に割り振つて字對を成したものだが、「朝夕」は常に不斷にの意を具象的に代表させたまでゝ、事實上の時ではない。又風は輕く客位に置かれ、浪は重く主位に立つてゐる。「香青なる」は實に生々しいその色相と感じとを放散するものてある。
 作者は實にこの玉藻の動きに測らずその心胸を打たれた。それは聯想が刹那にかの懷しい我妹子の動作に及んだからである。この聯想は下の「獻泊瀬部皇女」の歌に、
  上つ瀬に生ふる玉藻は、下つ瀬に流れ觸らばへ、玉藻なすか寄りかく寄り、靡かひし嬬《ツマ》の命の、云々。
又「明日香皇女|木※[瓦+缶]《キノベノ》殯宮之時」の歌に、
  石《イハ》橋に生ひ靡ける 玉藻ぞ絶ゆれば生ふる 打橋に生ひををれる 川藻もぞ枯るればはゆる――立たせば玉藻のもころ臥《コヤ》せば川藻の如く 靡かひし宜しき君が、云々。 (卷二―196)
又「妻死之後泣血哀慟作歌」に、
  奥津藻のなびきし妹は、云々。 (卷二―207)
など見えて、この作者の好んで用ゐた修辭である。尤もこの作者以外にも
  さぬかには誰れともねめど奥《オキ》つ藻のなびきし君が言《コト》待つ吾を  (卷十一―2782)
があり、又靡くの語を連鎖として玉藻と情人とを結び付けた作が集中に多い。いづれ人麻呂のが先鞭を著けて(392)影響を與へたものであらうが、萬葉人は藻に就いて深い執著をもつてゐた。
 さて「鯨魚取」より以下「玉藻なす」までの十數句は、「依り寐し妹」にかゝる大がかりの序詞である。この序詞から愈よ本題に轉入した趣は、武夷九曲溪窮まり路轉じて眼界更に豁然として開くが如き感がある。「露霜の」は單なる序詞ではない。即ち時季が暮秋であることを表示してゐる。鐵石の心腸でも秋は悲しい。「置きてしくれば」は次の二節を展開する大切な楔子で、別離を意味する。而もその對象は最愛の我妹子である。唐詩の「悲(シキハ)莫(シ)v悲(シキハ)2兮生別離(ヨリ)1」(武昌妓)は千古の鐵案、况や今は征旅の途上にある。かう三拍子攻道具が揃つては、心一つを何ともしやうがあるまい。定めて作者の胸中は血湧き肉慄ひ、情火身を※[火+毀]くばかりに熱したものであらう。
 事茲に至つては、作者は幾ら益良男ぶつても、名殘惜しさに道々振返りつゝ躊躇低囘せざるを得なくなる。「この道」の「この」は作者の今現に踏破しつゝある道を斥すもので、切實味をしかと掟へてゐる。前對は歩の轉るに隨ひ妹の住む里は益す遠ざかつたと、顧望も尚及ぶ處ある趣であり、後對は高々と山も越え來たといひ、遂に顧望の及ばなくなつた趣である。層一層その哀切な旅愁をそゝり、その本意ない歎の息づきが耳について聞えるやうである。詰り「放りぬ」「越え來ぬ」は、上の「顧みすれど」に顧應して、その間に最も大切な或事實を暗示してゐる。即ち讀者に或想像の餘地を與へてゐる。それは外でもない、段々と妹が里は見えなくなつたといふ現實である。これがこの一節に於ける總括的主眼で、もしこの意味がないとしたら、結節の大文字は全然生まれてくる事が不可能であつたらう。
 「いや遠に云々」「いや高に云々」は勿論排對であり、「八十隈」に「萬段」は交錯の對語、「山も」のも〔傍点〕は「里」(393)に對した辭である。尚「里」は妹の住む角の里で、「山」は高角山であることを特に注記する。
 末段はかく自分が戀しく思ふ如く、妹も亦萎れ返つて自分を慕ふだらうとの想像は少し甘いが、かう甘いから情味が深く搖曳するのである。「妹が門見む」は門が必要なのではない。眞意は妹を見るにあるが、「靡けこの山」に映對上の釣合を考慮したのである。とにかく妹が影、妹が袖、妹が門、妹が里は漸々に遠放りはてて、今はいや高に越え來た高角山が眼前を遮蔽してゐるのみである。茲に至つて勵声一番、「靡けこの山」と疾呼した。動かぬものと決まつた山を靡けといふ、非常識も亦甚しい。これその胸裏に欝結した熾烈な情火が測らず破裂した爆音である。ぢれにぢれて覺えず迸つた叫声である。「この」の一語また眼前の山を指斥して、切實な力をもつ。
 何はしかれこれ程大膽な無遠慮な句は、作者人麻呂にして始めていひ得るもので、樣に依つて胡蘆を畫く凡手の夢にも思ひ寄らぬ筋である。集中、
  あしき山梢こぞりて明日よりは靡きたれこそ妹があたり見む  〔卷十二―3155)
  (上略)わが通ひ路のおきそ山美濃の山、靡かすと人は踏めども、かく寄れと人は衝《ツ》けども、云々。(卷十三、長歌―3242)
などあるも、恐らくこの句を摸倣したものではあるまいか。唐の李長吉の句に「黒風吹(イテ)v山(ヲ)作(ス)2平地(ト)1」とあるは聊か似た點があるやうだが、それは奇怪を弄して徒らに人耳を聳かしめたまでゝ、到底鬼詩たるを免れないが、これは眞情から發した自然の聲だから、更に同日の論でない。只後世在原業平の、
  飽かなくにまだきも月の隱るゝか山の端逃げて入れずもあらなむ  (古今集雜上)
の作はよく實情を失はず、稍繊弱ながらもこれと同巧異曲の妙ありと推奨して置かう。殊に「靡けこの山」と(394)ある倒装の辭樣の力強さ、その勢は實に山をも平地となすに足りる。一結、龍尾一たび掉へば全鱗盡く竪つの概がある。
 この歌第一段第二段は海、第三段は里、第四段は山と次第して叙し來つた。これ作者の通過して來た道筋のあらましであらう。かくて「海邊をさして」「里は放りぬ」「靡けこの山」が自然に全篇の首尾をなし、照應となつてゐる。愛妻と別れて躊躇去るに忍びぬ意を骨子とし、耳目に觸れて感哀を動かす周圍の事相を皮肉として採用した。小心なる時は玉藻の漂蕩する樣を形容して微細を穿ち、放膽なる時は山岳をも平地たれと命令して粗宕を極めてゐる。自由と褒めても自在と稱へても尚物足らなさを感ずる。眞淵が人麿の歌は「勢ひはみ空ゆく龍の如く、詞は海潮の湧くが如く、調は葛城の襲津彦眞弓を引きたらむが如し」と評したのは、眞に肯綮に中つた名言である。但強ひて白璧の微瑕をあなぐれば、「夏草の」の一句が間題である。もとより純然たる枕詞だから、極めて輕い意味のものには相違ないが、時季の暮秋たるに抵觸し、上に「露霜の」とあるに扞格して多少混亂の感じを與へるから、面白くないと思ふ。
 
反歌
 
石見乃也《いはみのや》 高角山之《たかつぬやまの》 木際從《このまより》 我振袖乎《わがふるそでを》 妹見都良武香《いもみつらむか》    132
 
〔釋〕 ○いはみのやたかつぬやま 石見國の高角山。「や」は間投の歎辭で、卷七に「淡海のや〔傍点〕八橋《ヤバセ》」、(卷七)、「近江のや〔傍点〕けなのわく子い」(繼體紀)など例は多い。高角山の所在は明かではないが、今人麻呂を祀つた高角神社のあ(395)る美濃郡高津村はまるで方角違ひで問題にならない。人麻呂は國府の所在地(今の那賀郡國分村又は上下府村)から東北へと進行して、都濃《ツヌ》から渡《ワタリ》へとかゝつたのである。然るに高津村は國府よりは逆に、十五里も西に當るので、その津は今の都農津《ツノヅ》で、それから南方に展開する砂原砂山がその野に當る。又この野から東して江の川河岸に出ようとする道に當る丘陵が即ち都農の山で、その最高處に特に「高」の字を冠せて高角山と呼んだものであらう。今渡津村人丸神社の東北にある高さ五六十米突の山がそれであらう。こゝから都濃の或地點までは眺望を阻害する何物もない。武津之身命(八咫烏)を祀つた處に、高角〔二字傍点〕の稱を見るが、それは京畿地方のことで、山陰地方にはあり得まいと思ふ。○このまより 「より」はニ又はニテの意に通ふ辭と見る。この用法集中に散見する。○わがふるそで 袖を打振るは惜別の情を人に示す爲の所作で、當時の風習である。卷一「茜さす紫野ゆきしめ野ゆき」の評語參看(九四頁)。○か 疑辭。
【歌意】 この石見國の高角山の森の木の間で、自分が戀しさに堪へかねて打振る袖を、可愛い妻はそれと認めたことであらうか。
 
〔評〕 前後の作、極力角の里を問題にしてゐる點から考へると、人麻呂の妻は角の里人であつたらしい。國衙の官人たる人麿は、國府から二里半の道を折々通つて往つたものであらう。それが今公務を帶びて上京の途次、妻のもと角の里を辭して愈よ高角山の木緊き山路にかゝつた。泣きの涙で別れて來た妻の居村はわづか一里足らずであるから、指顧の間に髣髴としてゐる。それが憖ひに未練の愛着を惹いて堪へ難い。まして「さ寢し夜は(396)いくだもあらず」別れたとあつては、その生々しい戀の※[火+陷の旁]は、殆ど身を燒き盡すばかりであつたらう。この遣る瀬ない作者の情感は、山岨の木々の間から袖打振つて見せた、その狂氣じみた態度に遺憾なく表現されてゐる。「妹見つらむか」は、かうして、袖打振るのを妻が知る筈もなし、又見えもせぬことは萬々承知しながら、もしやとはかない希望をかけたもので、流石の益良男も愚癡に返つた女々しさが、大きな同情と共鳴とを我々に要求する。さうして「石見のや」と端的に叫び上げたところに、作者が他國異郷にあるといふ漂泊觀念が閃いてゐる。
 この歌の一解に、初二句を結句に續けて、「わが振る袖を高角山の木の間より妹見つらむか」の意とする諸家の説は、頗る事情に暗い迂説である。袖を振るのは直接に見える場合か、或は見えもしようかの場合にすることで、既に高角山を打越えて妻の里は全く見えないのに、當てなしに袖を振る馬鹿はない。又この妻を高角山に上らせたのも無理な見解で、それなら妻の方で袖を振るのが順當である。松浦佐用媛は領巾振山に上つて、その領巾を振つて夫狹手彦に別れを惜んだではないか。次の長歌の「妹が袖さやにも見えず」とあるその袖は、渡の山での詩的想像に過ぎない。
 
小竹之葉者《ささのはは》 三山毛清爾《みやまもさやに》 亂友《みだれども》 吾者妹思《われはいもおもふ》 別來禮婆《わかれきぬれば》    133
 
〔釋〕 ○ささのは 笹の葉。古義は「佐左賀波乃《ササガハノ》さやぐ霜夜に」(卷二十)を例に取つて、こゝもササガハ〔四字傍線〕と訓むべしと主張したが、それは明かに「賀」の字を書いてあるから、こゝと同一に見ることは出來ない。これは文(397)字通りササノハで差支ない。○みやまも 「み」は美稱で、「三」と書いたのは借字である。尚後世はミヤマに深山《ミヤマ》の文字を宛てゝゐる。○さやに 擬声語で、さや/\との意。そよ/\、さわ/\なども元は同語。「清」は借字。○みだれども この「みだれ」はラ行四段活の自動詞(古言)。眞淵はサワゲドモ〔五字傍線〕、正辭はサヤゲドモ〔五字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 笹の葉は山一面にさわ/\と騷ぎ立つてゐるが、その物音にも紛れず、自分はたゞ一途に妻のことを思ひ續けることわ。かうして飽かぬ別れをして來たのでさ。
 
〔評〕 山路は物さびしい。心細い。それに滿山の熊笹などが風に搖れて鳴る音は、騷がしいのみでなく、物恐ろしい感じさへする。がそれさへ戀の一念を妨げることは出來ない。旅情は離愁に蔽はれてしまつたといふのは、なほ旅情が離愁の背景となつて動いてゐることを語るものである。これは
  高島のあどかは波はさわげどもわれは家思ふやどり悲しみ  (卷九―1690〕
とあるのとその揆を一にしてゐる。かく笹葉の音を飽くまで誇張して、張り切つた思慕の情を反映させた手際は、流石である。只五句が稍説明的に墮してゐることは爭へない。がそれも尚「妹」と「我れ」と懸け合はせて、卒直に「思ふ」といつて退けた四句の力強さに救はれてゐる。
 
或本(の)反歌
 
「石見乃也」の反歌が、或本の傳では次の如くなつてゐるといふのである。
(398)この題詞と歌とは上の「石見乃也」の歌の次に入るべきであるが、こゝに掲出するがこの集の書例。
 
石見爾有《いはみなる》 高角山乃《たかつぬやまの》 木間從文《このまよも》 吾袂振乎《わがそでふるを》 妹見監鴨《いもみけむかも》    134
 
〔釋〕 ○このまよも 木々の間からまあの意。「よ」はより〔二字傍点〕の古言、「も」は歎辭。ユモ〔二字傍線〕と訓んでもよい。「監」をケムと讀むは呉音。
【歌意】 石見の國の高角山の木々の間からまあ、妻戀しさに私が袖を打振るのを、私の妻は遙に認めたことだらうかなあ。
 
〔評〕 別傳のこの歌よりも上掲本傳の歌の方が、初句四句共に緊密にして優れてゐる。結句も完了態にいつた方が無論よい。但正辭説に「見監鴨の見監は過去なれば、此に叶はず」とあるのは當を失してゐる。妻が認めたにせよ認めぬにせよ、その事は作者がこの歌を詠じた時からすれば過去に屬する事實であるから、「見けむ」と過去にいつて少しも差支ない。只過去になると、その間に時間を多く置くことになるから、それよりも生々しい事實として完了態で表現した方が、印象深いといふまでゝある。
     ○
角※[章+おおざと]經《つぬさはふ》 石見之海乃《いはみのうみの》 言佐敝久《ことさへく》 辛乃埼有《からのさきなる》 伊久里曾《いくりにぞ》 深海松生流《ふかみるおふる》 (399)荒磯爾曾《ありそにぞ》 玉藻者流《たまもはおふる》 玉藻成《たまもなす》 靡寐之兒乎《なびきねしこを》 深海松乃《ふかみるの》 深目手思騰《ふかめてもへど》 左宿夜者《さねしよは》 幾毛不有《いくだもあらず》 延都多乃《はふつたの》 別之來者《わかれしくれば》 肝向《きもむかふ》 心乎痛《こころをいたみ》 念乍《おもひつつ》 顧爲騰《かへりみすれど》 大舟之《おぼぶねの》 渡乃山之《わたりのやまの》 黄葉乃《もみぢばの》 散之亂爾《ちりのみだりに》 妹袖《いもがそで》 清爾毛不見《さやにもみえず》 嬬隱有《つまごもり》 屋上乃《やがみの》【一云|室《ヤ》上山】山乃《やまの》 自雲間《くもまより》 渡相月乃《わたらふつきの》 雖惜《をしけども》 隱此來者《かくろひくれば》 天傳《あまづたふ》 入日刺奴禮《いりひさしぬれ》 大夫跡《ますらをと》 念有吾毛《おもへるわれも》 敷妙乃《しきたへの》 衣袖者《ころものそでは》 通而所沾奴《とほりてぬれぬ》    135
 
〔釋〕 ○つぬさはふ 石にかゝる枕詞。絡石《ツヌ》さ延《ハフ》の義。「つぬ」は蔦《ツタ》の古言。地錦類の總稱で、石などに絡《カラ》んで多く蔓延するので、石に續けたもの。古註は「絡石」に定家葛《テイカカツラ》を當てゝあるが、それは石に絡ふにふさはしくない。「さはふ」はさ渡る、さ迷ふなどの類語で、「さ」は接頭語。久老の絡石多蔓《ツヌサハハフ》の約とする説はやゝ煩しい。「角※[章+おおざと]經」は借字。「※[章+おおざと]」はサハルの訓を用ゐたので障〔右△〕と同字。卷三には「角障經」とある。○ことさへく カラ(400)(韓、辛)の枕詞。下にも「言さへく百濟《クダラ》の原」ともある。韓《カラ》といひ百濟といひ、異國人の詞はカヤ/\と鳥の囀るやうなので、言《こと》さへくといふ。「さへく」のさへ〔二字傍点〕は囀るのさへ〔二字傍点〕に同じい。さて韓と同音なる辛の枕詞にも用ゐる。○からのさき 石見の邇摩《ニマ》郡|託農《タクノ》浦にある。今は宅野《タクノ》と書く。浦は小さいが北に韓島家島が斗出して岩礁が多い。その韓島が辛の崎である。渡の山より約九里の東北に當る。「埼」は崎と同字。○いくり 「い」は接頭語。「くり」は石のこと。應神紀に「由羅《ユラ》の門《ト》の川中の異句離《イクリ》」とある釋に「句離(ハ)謂(フ)v石(ヲ)也、異(ハ)助語也」とある。多く海中の石を稱する。今陸上の石にいふ栗石、割栗などもこの語の遺つたもの。○ふかみる 海松《ミル》は海松|總《ブサ》ともいひ、海松|布《メ》ともいふ。海中の石に生ずる水草で、徑二分許の丸い棒状の物が多く枝を打つて恰も棒蘭の如く色は深緑である。宮内式の諸國の貢に深海松、長海松の二つがある。深海松は海底の深處に生ずるからいふ。○なびきねし 上の「依り寐し」に同じい。○ふかめて 心を深く籠めて。○もへど 「もへ」はおもへ〔三字傍点〕の上畧。「騰」は呉音ではドウ、故に短音はドである。○さねしよ 舊訓はサヌルヨ〔四字傍線〕。古義の過去に訓んだのに從ふ。○いくだもあらず 幾らもなくて。卷十に「さ寐し夜の伊久陀母《イクダモ》あらねば」とある。「いくだ」は奈良末期には既にイクラ〔三字傍点〕と轉じた。○はふつたの 別れにかゝる枕詞。蔦(401)は先から先へと枝を打つて蔓ひ別れてゆくので、人の別に喩へて續けた。○きもむかふ 心にかゝる枕詞。「肝向ふ」は腹中の臓腑が向き合つて寄り固まつて居る状をいふ。「むらぎもの心を」を參照(三九頁)。○おほぶねの 渡《ワタリ》にかゝる序詞。○わたりのやま 江川の東岸なる渡津の甘南寺の山をいふ。○ちりのみだりに 散り亂れの爲にの意。この「みだり」はラ行四段の自動詞を假體言にした語法。ミダレニ〔四字傍線〕と訓んでも宜しい。允恭記の歌に「亂れば亂れ」とあり、下二段に使用することも古い。舊訓チリノマガヒニ〔七字傍線〕とあるが、當時散のまがひ〔五字傍点〕と散の亂り〔四字傍点〕とは、もみち葉の知里能麻我比《チリノマガヒ》は(卷十五)春花の知里能麻可比に(卷十七)又秋萩の落乃亂《チリノミダレ》に(卷八)の如く竝び行はれてゐた。故に「亂」の字は必ずマガヒ〔三字傍点〕とは訓まぬ。○いもがそで 妹が振る〔二字右○〕袖。○さやにも あざやかにも。明らかにも。○つまごもり 屋にかゝる枕詞。妻の籠る屋とは妻の住む部屋即ち妻屋《ツマヤ》のことで、古へは新婦の爲に別に屋を建てもした。「妻隱有」はツマゴモリと訓まする爲に有〔傍点〕の字を加へたので、卷十にも、「妻隱矢野《ツマゴモリヤヌ》の神山」と訓んである。ひな曇り〔傍点〕碓氷、いさな取り〔傍点〕海の類、枕詞にはその例が多い。諸家ツマゴモル〔五字傍線〕と連體言に訓んでゐる。○やかみのやまの 屋上の山が。この山は那賀郡淺利村の屋上《ヤカミ》山一稱|小富士《コフジ》のこと。(402)標高二百四十五米突。この山の附近に、今も八神《ヤカミ》の地名が存してゐる。これを島星山とする古義の説は妄である。○くもまよりわたらふつきの 「惜しけども」にかゝる序詞。雲間の月は見るほどもなく隱れるので惜まれる故にいふ。この「より」はを〔傍点〕の辭に近い。「わたらふ」は渡る〔傍点〕の延言で、通過すること。「相」は借字。○をしけども 惜しけれ〔二字傍点〕ども。けれ〔二字傍点〕を「け」と約めてかくいふは古代語法。○かくろひくれば 「かくろひ」は隱《カク》り〔傍点〕の延言。この「隱ろひ」は八上の山が隱ろふのである。月でも妹が袖でもない。古義の「者」を乍〔右△〕の誤としてカクロヒキツヽ〔七字傍線〕と訓んだのは非。○あまづたふ 日にかゝる枕詞。天路《アマヂ》を傳ひゆく日といふ續き。○さしぬれ さしぬれば〔右○〕の意。かく「ば」の接續辭を略くは古代語法で、長歌における一格。○しきたへの 衣にかゝる枕詞。既出(二五五頁)。○とほりて 浸透して。「通」は借字。
【歌意】 石見の海の辛の崎にある岩礁には深海松が生え、荒磯には玉藻が生える。その玉藻のやうに自分に靡いて寢た女を、その深梅松の深くと思ひ入れるが、抑も共寐した夜とては幾らもなく別れてくるので、胸痛さに道々振返り/\するが、渡の山の紅葉の散り亂れる紛れに、かの女の自分を戀しがつて振る(403)袖も分明には見えず、屋上の山が雲間ゆく月のやうに惜しいながら見えなくなると、早もう夕日がさして暮れるので、大丈夫と思ひ誇つてゐる自分さへも、著物の袖は裏まで透して涙に濡れることよ。
 
〔評〕 作者は小役人ながらも石見の國衙の官吏として、職分柄國産の貢物などは勿論知悉してゐた事であらう。のみならず國内は大方巡檢し歩いて、石見の海では託農《タクノ》浦の辛の崎に岩礁が多く、海松や玉藻の産出に富んでゐること位は實見した事であらう。延喜式に據ると、交易雜物として石見の産物では、綿の外は海産物が多く、青|苔《ノリ》、海松〔二字傍点〕〕、海藻根〔三字傍点〕、鳥坂苔《トサカノリ》などの目が擧げてある。これらは食料品だから、特にその記憶が深い譯で、即ちまづ辛の崎の海松と玉藻との發生状態を叙して、次節の形容材料に使用する素地を作つた。故に辛の崎は只海松と玉藻とに關係をもつまでゝ、この歌には直接の地理的關係はない。
 「靡き寐し兒を深めて思ふ」は、そのいはゆる妹が、假令客中の無聯を慰めるだけの暫定的の妻であるにせよ、情合は又格別なものである。しかも作者の石見在任はもうその晩年で、五十歳以上と想定されるのに、相手の妹はいづれ若い女と思はれるから、愈よその愛顧眷戀の情は濃厚な譯になる。それが通婚後間もないにせよ、公務上京の命を受けたとすれば、「さ寐し夜は幾だもあらず」でも、私情を擲つてこゝに生別の袂を絞らねばならぬ。
 行々又行々、顧み勝に既に都農の高角山を打越えて、今の郷津《ガウツ》の江川《コウガハ》河畔に出た。この川は山陰道中の大河(404)で、昔の河口港即ち渡津《ワタツ》は、現在よりも上流の山根に接した場處と思はれ、街道はそこを渡船で連絡し、對岸の渡の山の眞下に着く。たま/\海船が河口に碇泊してゐるのを望見して、早速に渡の山の序詞に「大船の」と置いた手際などは流石にあざやかである。時秋にして、山おろしの風に紛々たる落葉はまゝ眺望を遮る。即ち「妹が袖さやにも見えず」と歎く。國府を距ること早くも六里、妹が振る袖は、落葉の有無に關らず見ゆべくもない。されども熾烈な戀の情念はそれらの理路に拘泥してゐるものではない。いや既に忘却してゐる。自分は既に高角山で妹が爲に袖を振つた、その體驗から、妹も亦おなじ心に、何處かの高みで自分の爲に袖を振つてゐるものと假定した。これは見やうに依つては根もない痴想とも思はれるが、元來が當事者のみ相知る情交の秘密に屬することだから、當人のいふまゝに信じて、頗る濃厚な情愛の結果と見るがよい。とにかく妹の態度をかく丁寧に胸裏に描くといふ事が、抑へても抑へ切れない思慕の情の發露である。
 屋上の山は從來作者に何の交渉もなかつた。只道中行摺りに仰望したに過ぎない。然るに「惜しけども隱ろひくれば」の句は、單なる行程の經過を叙したものでは決してなく、この山に對する深い執着を語つてゐる。これはこの山が附近第一の高山で、しかも土俗小富士と稱するほど、恰好よく目に著いて特立した山であることを考慮せねばならぬ。行くまゝに歩の轉ずるまゝに、やう/\懷かしいその山影を没してくるのを惜み/\する間に、早くも落日はそのうそ寒い秋の光を虚空に投げた。旅人の感傷は日暮人無き時に至つて極まる。恐らく江川に沿うて今の淺利《アサリ》附近を通過した頃の情景であらう。朝國府を出發してこの邊までは約八里、丁度一日の行程としてふさはしいものがある。
 作者の國府出發は九月下旬だとすると、上京して十一月一日の官會に出頭、それが濟むと始めて公務から解(405)放されて、打寛いでの都見物やら故舊親戚の存問やら、本妻への慰藉やらで、少くも一週日は費すことだらう。さて歸路に就くとして十一月一杯には石見に歸任出來る。多く見積つても七十日ばかりの留守、それにしては離別の悲哀が大仰過ぎる。
 尤も旅愁といふ重荷が小附けにされてゐることを見遁してはならぬ。即ち「嬬籠り屋上の山の」より「入日さしぬれ」までの一小節がそれである。離愁と旅愁、この二つが綯ひまぜになつて、作者の心胸を飽くまでもゆすぶるのである。「丈夫と思へる吾も」と一往は理性で抑へて見ても、それは畢竟體面的の閑思案で、結局情には負ける、古人は殊に情味に篤いのであつた。「衣の袖はとほりて沾れぬ」は多少誇張はあるにしてからが、隨分相應に泣いたものであらう。集中、
  天傳ふ日の暮れぬれば 白木綿の吾がころも手も、とほりて沾れぬ  (卷十三、長歌―3258)
は全くこの踏襲である。
 「大夫と思へる吾も」、この句は集中に多く散見する。軍王でも舍人親王でも大伴旅人でも家持でもこの作者でも、上代人は皆みづから自分が男である事を意識し強調しようとしてゐるのが面白い。
 「つぬさはふ」より「玉藻は生ふる」までは第一段、「玉藻なす」より「別れし來れば」までは第二段、「肝向ふ」より「入日さしぬれ」までは第三段、「ますらをと」より「沾れぬ」までは第四段である。
 第一段は全部が第二段の玉藻、深海松を呼び出す純然たる序詞で、對偶の辭樣を以て進行し、同語の反復を以て流麗の調を成してゐる。第二段は專ら事件の經過を説明したもので、前段の玉藻の語を直ちに承けてまづ「玉藻なす」といひ、次に「深海松の」と續けて、前節とその順序を逆にして所謂襷附けになつてゐる。この手(406)法はなか/\古い事で、古事記下(允恭)の長歌「隱國《コモリク》の初瀬の川の」の一節に、
  いくひには鏡を懸け、 まくひには眞玉を懸け、
    眞玉なすあが思ふ妹、 鏡なすあが思ふ妻、 (衣通王)
とあるはこの藍本である。
 第三段は一篇の重心をなすもので、專ら現在の旅境に伴ふ各樣の感想と實景描寫とに終始してるる。「肝向ふ心を痛み、念ひつゝ顧みすれど」は決前生後の句である。次の長句の排對的辭樣は殊に面白い。
  大舟の渡の山の、もみぢ葉の散りの亂りに、妹が袖さやにも見えず、 (前)
  嬬ごもり屋上の(【雲間より渡らふ月の、惜しけども隱ろひくれば】)天傳ふ入日さしぬれ、(後)
と句數に長短の差こそあれ、全然意對を成してをり、前對は景を借りて情を陳べ、後對は專ら景を叙してゐる。第四段はその男泣を以て、極めて手輕にしかも力強く以上を結收してゐる。
 これも前篇に劣らぬ大作で、その充實した内的の力は澎湃として楮表に横溢し、その嗚咽の聲は惻々として人の心胸を打つ。吹毛の難をいへば、「深めて思へど」「顧みすれど」、又「別れしくれば」「隱ろひくれば」の如く、同一の接續辭樣が各段に重複してゐることと「思へど」「念ひつゝ」「念へる」の三出とが、稍不快を感ずるやうに思ふ。
 
反歌二首
 
青駒之《あをごまの》 足掻乎速《あがきをはやみ》 雲居曾《くもゐにぞ》 妹之當乎《いもがあたりを》 過而來計類【一云、當者隱來計類《アタリハカクレキニケル》】 136
 
(407)〔釋〕 ○あをごま 黒に青味を帶びた毛色の馬をいふ。和名抄に「※[馬+總の旁](ハ)青馬也」とある。○あがきをはやみ 足の運びが早さに。「あがき」はアシ掻《カキ》の略。○いもがあたりを 妻が住んでゐる里の邊をの意。「當」は借字。
【歌意】 わが乘つた青駒の歩みが早いので、何時の間にか戀しい妻が住む里のあたりを、雲居遙になるまで通り過ぎて來たことよ。あゝ名殘惜しいことだ。
 
〔評〕 作者は朝の間に國府を出立して、晝頃には都濃の妻の里を別れ、高角山を打越して渡津の渡を經、屋上の山にさす夕日を眺めた。これが「妹があたりを過ぎて來にける」所以である。妻の里からはほんの二三里位しか來たに過ぎぬのであらうが、その後髪を牽かれる心からは、野山かけていくら振返つても見えないとなると、大層な遠方に來たといふ感じがふと起つて來る。「雲居にぞ」は遠方の轉義であるが、そこに大きな誇張の意をもつので、「青駒の足掻をはやみ」の前提が生きて來る。實はともすれば征馬踟躊して頗るのろ/\してゐたらしいのを、只妹があたりを遠ざかりかねた心から、かう雲居にまで隔つたと揚言して、罪を馬の足掻の早さにおふせた。そこに窮りない怨意と別恨とを湛へてゐる。そしてかく本末顛倒の痴呆の想は、頗る遠長い詩味を搖曳させるのである。歌聖ならでは到底なし得ぬ天外の落想である。
 註の異傳では「妹があたりは隱れ來にける」とあつて、愛妻の住む里の邊はすつかり見えぬ程來てしまつたことよとの意になつてゐるが、意味に大差はないにしても、本文の妥當なのに若かない。
 
(408)秋山爾《あきやまに》 落黄葉《おつるもみぢば》 須臾者《しましくは》 勿散亂曾《なちりみだりそ》 妹之當將見《いもがあたりみむ》 【一云|知里勿亂曾《チリナミダレソ》】    137
 
〔釋〕 ○おつる 古義は、花黄葉の類に「おつる」といふは古言でないといつて、チラフ〔三字傍線〕と訓んだが、獨斷一偏の説である。○もみぢば 「黄葉」は「もみぢ」の條に既出(七九頁)。○しましくは シマラクハ〔五字傍線〕と訓むもよい。「しましくも」を參照(三六五頁)。
【歌意】 向ふも見えぬほどにこの秋山に散る黄葉よ、暫くの間はどうかそんなに散り亂れずにゐてくれ、戀しい妻の居るあたりを見遣らうと思ふのに。
 
〔評〕 長歌の第三段の一章を取つて「見えず」とあるのを「見む」と希望の意にいひ換へてゐる。盛に木の葉の散り亂れるのを誇張しては、先も見えぬとは、よく用ゐる形容である。ところがこゝは形容を通り越して、木の葉が散るので本當に妻の里が見えぬと固信したのが一の痴、散るのがやめば見えると考へたのが二の痴、無心の木の葉に散るなと命令した無理解が三の痴、これが「妹があたり見む」の熱望を核心として、秋闌けた物さびた山路を背景に働いてゐるのである。「しましくは」と極めて控へ目な態度に出たことは、成るべく實現の出來さうな最低限度に於いて要求したので、そこに多少の理性がほのめいてはゐるものゝ、尚思ひ迫つた高い情熱が迸つてゐる。この構想とこの叙法とは頗る効果的であるので、後世歌人のよく踏襲する所となつた。
 註の異傳では「散りな亂れそ」とあつて、意は全く同じいが、本文の方が古い語法であるから從ふべきである。
 
(409)或本(の)歌一首并短歌
 
石見之海《いはみのうみ》 津野〔左△〕乃浦囘〔左△〕乎《つぬのうらわを》 無美〔二字□で圍む〕浦無跡《うらなしと》 人社見良目《ひとこそみらめ》 滷無跡《かたなしと》 人社見良目《ひとこそみらめ》 吉咲八師《よしゑやし》 浦者雖無《うらはなくとも》 縱惠夜思《よしゑやし》 滷者雖無《かたはなくとも》 勇魚取《いさなとり》 海邊乎指而《うみべをさして》 柔田津乃《にぎたづの》 荒磯之上爾《ありそのうへに》 蚊青生《かあをなる》 玉藻息都藻《たまもたきつも》 明來者《あけくれば》 浪己曾來依《なみこそきよせ》 夕去者《ゆふされば》 風己曾來依《かぜこそきよせ》 浪之共《なみのむた》 彼依此依《かよりかくよる》 玉藻成《たまもなす》 靡吾宿之《なびきわがねし》 敷妙之《しきたへの》 妹之手本乎《いもがたもとを》 露霜乃《つゆじもの》 置而之來者《おきてしくれば》 此道之《このみちの》 八十隈毎《やそくまごとに》 萬段《よろづたび》 顧雖爲《かへりみすれど》 彌遠爾《いやとほに》 里放來奴《さとさかりきぬ》 益高爾《いやたかに》 山毛越來奴《やまもこえきぬ》 早敷屋師《はしきやし》 吾嬬乃兒我《わがつまのこが》 夏草乃《なつくさの》 思志萎而《おもひしなえて》 將嘆《なげくらむ》 角里將見《つぬのさとみむ》 靡此山《なびけこのやま》    138
 
(410)〔釋〕 ○つぬのうらわ 原本「津」の下野〔右△〕の字を脱した。「乃」をヌ〔右△〕に充てた例は全然ない。又「浦」の下囘〔右△〕の字を脱した。次の「無美」は誤入で削るがよい。○いさなとり 鯨魚取と同じい。鯨魚をイサナと訓むは勇魚の義である。○にぎたづ 本文の和多豆《ワタヅ》の「和」をニギ〔二字傍線〕と誤訓して「柔」の字を充てたもの。○かあを 「蚊」は借字。 ○なびきわがねし これは作者が妹に依り添つて寢たのである。○しきたへの 「妹が」を隔てゝ袂(手本)にかかる枕詞。○はしきやし 「嬬」にかゝる枕詞。愛《ハ》しきよの意。「や」は歎辭、「し」は強辭。○おもひしなえて 「志」は不用ではあるが、萎《シナ》えての頭音のシ〔傍点〕を喚び出す爲にわざと添へて書いたもの。○つぬのさと 那賀郡都野津の邊か。
【歌意】 前掲の長歌と大體似たものであるから略する。隨つて評語も略く。
 
反歌
 
石見之海《いはみのうみ》 打歌角《たかつぬ・ウツタノ△》山乃《やまの》 木際從《このまより》 吾振袖乎《わがふるそでを》 妹將見香《いもみつらむか》    139
 
〔釋〕 ○いはみのうみ 石見國の海邊なるの意。○たかつぬやま 諸本すべて「角」の字がない。眞淵説に從つて補つた。「うつたの山」は所在不明。古義のいふ竹綱〔二字右△〕の誤字説は牽強である。
【歌意】 前掲「石見乃也」の歌と殆ど同じい。但「石見の海」と起句にいひおこして、「打歌角山」と續けたのは、打合ひがよくない。「海」は誤である。
 
(411)右歌體雖(モ)v同(ジト)、句句相替(ル)、因(テ)此(ニ)重(ネテ)載(ス)。
 
 右の歌は長歌も反歌も大體同じであるが、部分的に句に異同があるから、ともかく茲に重ねて載せるとの意。
 
柿本(の)朝臣人麻呂(が)妻《め》依羅娘子《よさみのいらつめが》與《と》2人麻呂1相|別《わかるゝ》歌一首
 
人麻呂の妻の依羅娘子が人麻呂と別れる時に詠んだ歌との意。○依羅娘子 傳は明かでない。依羅は氏で大和人である。眞淵は、「この娘子は人麻呂の嫡妻なるべし。但嫡妻に前後二人ありと見えたり。前妻は人麻呂に先だちて身まかれること、この卷末に見えたり。この依羅娘子は後妻にて、人麻呂の死に後れたること又末に見ゆ」といつた。○相別 人麻呂の石見へ赴任の時か、又は公用で上京して再び石見へ下る時かのことであらう。
 
勿念跡《なおもひと》 君者雖言《きみはいへども》 相時《あはむとき》 何時跡知而加《いつとしりてか》 吾不戀有牟《わがこひざらむ》    140
 
〔釋〕 ○なおもひと 物思ふなとの意。「な」は禁止の辭。「おもひ」の下にそ〔傍点〕を添へぬのは古格。眞淵はナモヒソト〔五字傍線〕と訓み、舊訓はオモフナト〔五字傍線〕とある。「念《オモ》ひ」をモヒ〔二字傍線〕と上略することは、獨出の場合にないことと古義は難じた。○あはむとき 正辭はアフトキヲ〔五字傍線〕と訓んだが從ひ難い。 
【歌意】 さうくよ/\するなと、貴方は仰しやるけれども、またお目にかゝる日をいつの事と知つてか、戀しく(412)思はずに居られませうぞ。
 
〔評〕 往く人は思ふなと慰め、留る者は思はずに居られないと歎く。氣強く見える男、心弱く見える女、離愁に對する兩者の態度が、如何にもよくクツキリと描き出されてゐる。「逢はむ時いつと知りてか」は、殆ど再會の期の測られないやうな口吻であるが、事實からいふと、地方官は一定の任期があるから必ず歸期があり、又期限中でも公務出京の折もあるから、再會はさう遠いことではない。然し情からいふと、今直面した別離そのものがつらいのである。別れると同時にすぐ逢ひたいのである。このさし迫つた心からは、幾年といふ氣長な先の事は問題でなくなる。まして絡石這《ツヌサハ》ふ石見の國などいふ僻遠の地に思ふ夫を遣ることは、當時の都女の心地では實に堪へられない悲痛事で、殆ど再會の期が測られなく感じたのは事實であらう。「わが戀ひざらむ」の逆叙も殊に幽婉の味ひを深くする。既に「君は」といひ、對へて「わが」といふ、一寸も脇目を振らぬ迫り切つた心持である。すべて女の一筋心のやさしい情緒が言々語々に滲み出てゐて、流石は歌聖人麻呂の妻の歌だなと感ぜられる。
 
挽歌
 
○挽歌 バンカと音讀しておかう。中古以來の哀傷歌と同じ性質のもので、それ故古義はカナシミウタ〔六字傍線〕と訓んでゐる。「挽」は柩車を挽く意で、支那では葬送の際、車の※[糸+弗]《ツナ》を執る者が唱へる哀歌を挽歌といつたが、こゝで(413)はその字義には拘はらない。
 
後(の)崗本宮御宇天皇代《をかもとのみやにあめのしたしろしめしゝすめらみことのみよ》  天豐財足姫天皇
 
齊明天皇の御治世とのこと。この標目のことは卷一に既出(五一頁)。
 
有馬(の)皇子(が)自傷《みづからかなしみて》結(べる)2松(が)枝(を)1御歌二首
 
有馬皇子がわが身を歎いて松の枝を結んだ時の御歌との意。○有馬皇子 孝徳天皇の皇子で、紀に、「元(ノ)妃阿倍(ノ)倉梯《クラハシ》麻呂(ノ)大臣(ノ)女(ヲ)曰(フ)2小足媛《ヲタラシヒメト》1、生(ム)2有馬(ノ)皇子(ヲ)1」とある。齊明天皇四年十月、天皇紀伊の湯に行幸遊ばされた折、謀反の罪でその十一月死刑に處せられた。御年二十一。
 抑も皇極天皇が孝徳天皇に御讓位なされたことは、蘇我氏誅滅の反動運動を緩和される爲の一時の權變に過ぎない。だから實際の權力は皇極天皇の御子、即ち舒明天皇系の皇太子中大兄(天智天皇)の御手に握られ、家格も低かつた孝徳天皇側はともすれば抑壓を受け、甚だ面白からぬ軋轢が續いたのである。孝徳天皇の崩後、齊明天皇(皇極天皇重祚)の御代に及んでも、孝徳天皇の遺子たる有馬皇子は、皇太子派とは相容れなかつたことは、想像に餘りある。當時有馬皇子は成年になつたばかりの血氣盛りだつたので、まんまと左大臣蘇我赤兄の反間策にかゝつて、拔きさしならぬ謀反の罪におとされ給うたのである。
 
(414)磐白乃《いはしろの》 濱松之枝乎《はままつがえを》 引結《ひきむすぶ》 眞幸有者《まさきくあらば》 亦還見武《またかへりみむ》    141
 
〔釋〕 ○いはしろのはま 磐代の岡續きの濱。「いはしろ」を參照(六一頁)。○ひきむすぶ 諸本皆ヒキムスビ〔五字傍線〕と訓んであるが、かく中止法に訓んでは意が疏通しにくい。故に卷十二の「妹が門ゆきすぎかねて草結ぶ〔三字傍点〕風吹きとくな又かへりみむ」の例に※[人偏+効]つて終止法に訓んだ。物を結ぶことは一種の禁厭呪術で、この事は卷一「君が代もわが代もしれや磐白の」の條下に詳記した(六二頁)。○まさきくあらば 恙なくあらば、平安ならばの意。「ま」は美稱。 △地圖 挿圖16、17を參照(六〇、六一頁)。
【歌意】 わが身の無事を祈る爲に、この磐代の濱松の枝を結び合はせておく。が若し申し開きが立ち罪がゆりて無事であつたら、復立返つてこの松を見ようわ。
 
〔評〕 皇子は十一月五日に平群郡の市經《イチフ》の家で捕はれ、その九日上命に依つて齊明天皇の紀伊の牟婁《ムロ》の湯の行在さして護送され、磐代まで來て、そこで皇太子(中大兄)の御前で檢問がすむや否や、藤白坂まで送り還されて絞殺された。市經から磐代まで約五十里、そこを二日間に乘り立て、翌十一日十五里も後戻して、その夕刻藤白で刑せられたことは、驚くべき高速度で、政策上疾風迅雷的の處置に出たものである。十日の夜は無論徹夜の審問で、濱松が枝を結ぶ機會もあるまいから、この歌は十一日の朝磐代出發の際の詠と斷ずるが至當であらう。かうした大辟の罪人には、その間際まで死の豫告がないから、皇子の一身は生死の境に彷徨してゐる譯(415)で、尤も嫌疑が嫌疑だけに、九分通り死は豫測してはゐるものゝ、そこがそれ人間の弱さで、未練らしく濱松の枝を結び合わせて、又も立返つて見るべき呪術を行つたことは、一面迷信の深い古代人としては無理もない事で、頗る根強い生の執着を語つてゐる。そして「まさきくあらば」と、なほ一縷のはかない望を繋いでゐたのは、檢問に對しての「天(ト)與2赤兄1知(レリ)、吾全(ク)不解《シラズ》」(紀の文)の辯明が、或は首尾よく通過したかも知れぬ、といふ夢のやうな事を當てにした爲で、死の魔手が既に自分の運命を攫んでしまつたことを知らなかつたのが見じめである。されば長(ノ)忌寸《イミキ》麻呂や山上(ノ)憶良などの後人が、擧つてこの結松に對して追懷の涙をとゞめ得なかつた。
  大日本史に有馬皇子の年齡を十九〔二字傍点〕とあるは、日本紀の註を見誤つたので、註には十九に陰謀の計畫をはじめ、成年になつたのでいよ/\事を起したと書いてある。今有馬の名によつて紀を檢すると、舒明天皇の十年冬十月に有馬温泉に行幸の事が見える。輕《カルノ》皇子(のち孝徳)は折しも御伴の列にあつて、その際生まれた御子に有馬の名を付けられたに違ひない。すると歿年は二十一歳になり、註の成人云々とあるに吻合する。
 
家有者《いへにあれば》 笥爾盛飯乎《けにもるいひを》 草枕《くさまくら》 旅爾之有者《たびにしあれば》 椎之葉爾盛《しひのはにもる》    142
 
〔釋〕 ○あれば 居ればの意。○け 飯笥《イヒケ》である。飯笥は和名抄に、「笥、禮記(ノ)註(ニ)盛(ル)v飯(ヲ)也、和名|計《ケ》」とある。内匠寮式に「銀器、御飯《オモノノ》笥一合、徑《ワタリ》六寸、深(サ)一寸七分」とあるので、大概の大さがわかる。○いひを 飯なるもの〔四字右○〕をの略。○たびにし 「し」は強辭。○しひ 殻斗科の常緑木。
【歌意】 わが家に居れば、ちやんと飯笥に盛つて食べる飯だのに、今はかうした侘しい旅にあることとて、情な(416)くも椎の葉に盛つて食べることぢやなあ。
 
〔釋〕 この歌はよく往古の行旅の艱苦を語る場合に例證に引かれてゐる。成程普通人の作なら、さう解しても仔細ないのであるが、かく作者の身分が高いとなると、自ら事情が違つて來る。假令旅中にもせよ、これが甚しい邊僻の地でもあることか、京から牟婁の湯かけての紀伊路は、飛鳥朝時代には屡ば行幸もあり、既に交通の立派に開けた街道で、文化も立派に發達した時代だから、事實その道中に椎の木があつたにしたところで、まさか皇子ともある御方に、椎の葉飯を差上ける筈がない。
 こゝに至つて即ち皇子の身の罪囚たることに想到せざるを得ない。上に述べたやうに皇子は大逆の罪人であり、最高速度を以て護送された爲、驛々での待遇も頗る無造作極まつたもので、椎の葉の上に飯を打あけ、二本の折箸を添へた程度の食事であつたらうと想像される。傲り切つた貴人の心には、見るから甚しい屈辱を感じて、つひ昨日まで銀の飯笥を用ゐたものをとの感慨が、ひし/\と込み上げて來る。けれども、今は幽囚の身の悲しさ、強ひて我慢して「旅にしあれば」と、一切を物不足勝な旅のせゐに託して解決を試み、纔に眼前の不滿を癒さうと努力なされた、その衷情の悲痛さを察すると、そぞろ同情の念に禁へない。かく味ひ來れば非常に含蓄に富んだ沈痛極まる作である。初二句と三四五句との對映も隨つて平板でなくなる。單なる事實の報告に近い平面的描寫でないことを、特に注意すべきである。
 
(417)長《ながの》忌寸《いみき》意吉《おき》麻呂(が)見(て)2結松《むすびまつを》1哀咽《かなしみて》作歌二首
 
長意吉麻呂が有馬皇子の結松を見て歎いて詠んだ歌との意。○意吉麻呂  卷一に奥《オキ》麻呂とあつたのと同一人である。文武天皇の朝の人であるが、傳は未詳(二二三頁參照)。○結松 その遺蹟は東磐代の岡の西坂の上にあつた。
 この歌二首及び次の「山上臣憶良追和歌一首」は、齊明天皇時代のものではないが、有馬皇子の結松の歌の次に類を以て附記したのである。
 
磐代乃《いはしろの》 岸之松枝《きしのまつがえ》 將結《むすびけむ》 人者反而《ひとはかへりて》 復將見鴨《またみけむかも》    143
 
〔釋〕 ○きし 崖になつてゐる處をいふ。こゝは磐代の岡の海に臨んだ處をさす。○むすびけむ この「けむ」は連體で、下の「人」にかゝる。○ひと 有馬皇子をさす。○みけむかも 見たであらうかまあ。かう問ひ懸けて、見なかつたことを反映させた叙法である。「かも」に反動の意があるのではない。
【歌意】 この磐代の海岸の松が枝を結んで身の無事を祈つたといふ人、即ち有馬皇子は、再び立返つて復この松を見られたであらうかなあ。いや皇子はそのまゝ落命なされて、再び返り見ることが出來なかつたのに、今なほ結ばれながらあるその松を見るのが悲しい。
 
(418)〔評〕 東磐代の岡は海際の長い岡で、岡の上が街道である。「草根を結ぶ」も「松を結ぶ」も皆その路傍の物なのである。岸といひ野といふもやはり、岡の岸であり岡の野である。
 結松と呼ばれて來たのは、嘗て有馬皇子の結んだまゝ、年經ても枝が交叉してゐたので、何だか皇子の呪願を裏切つたやうな無情さが、後人の心に深く彫り付けられた結果であらう。「また見けむかも」は、讀者にさう疑問を投げ懸けておいて、さて讀者自身に事實の反證を辿つて、復と見なかつたとの結論を見出させた面白い叙法で、懷古の歎、追憶の情を、おほく讀者の心胸から抽き出さうと試みた狡猾手段である。
 意吉麻呂は大寶二年の參河行幸に供奉して「引馬野に匂ふはり原」(卷一)の歌を詠んだ人で、これも或は大寶元年の紀伊行幸の供奉の途中の作かと思はれる。後にもこの折の結松の歌がある。果して然りとすれば、有馬皇子の歿後四十年のことである。結んだ枝も相應に太つて昔のまゝに交叉してゐたことも、一つの奇蹟であらねばならぬ。この結松が殊に感傷の題目となつた所以もそこにある。
 
盤代乃《いはしろの》 野中爾立有《ぬなかにたてる》 給松《むすびまつ》 情毛不解《こころもとけず》 古所念《いにしへおもほゆ》 未詳    144
 
〔釋〕 ○ぬなか 磐代の岡邊の野中である。○こころもとけず 心も結ぼれての意。○いにしへ 有馬皇子の古へをさす。○未詳 作者未詳の意だらう。元暦校本その他多くの古寫本及び舊刊本等に皆かくあるけれども、固より後人の筆たることは明かである。尚上と同じく意吉麻呂の作と見てよい。
【歌意】 磐代の野中に立つてゐるこの結松を見ると、松ばかりか心も結ぼれてしまつて、昔の有馬皇子の悲しい(419)御最期が思ひ出されてならない。
 
〔評〕 立意は極めて平坦である。「心も解けず」の逆寫を用ゐて、結松の「結び」と闘はせたことは、低級な修辭の巧に囚はれたものであり、且描寫としてもこの四句は餘に説明に墮してゐる。
 
山(の)上《への》臣《おみ》憶良《おくらが》追(ひて)和歌一首
 
○憶良 傳は既出(二三四頁)。○追和 あとから意吉麿の歌意に擬へて詠んだとの意。古義はオヒテナゾラフ〔七字傍線〕と訓んだ。
 
鳥翔成《つばさなす》 有我欲比管《ありがよひつつ》 見良目杼母《みらめども》 人社不知《ひとこそしらね》 松者知良武《まつはしるらむ》    145
 
〔釋〕 ○つばさなす 鳥の如くの意。眞淵いふ、羽して飛ぶものをツバサといふと。「なす」は「玉藻なす」(一九二頁)及び「もころ」(五一五頁)を見よ。「翔」の字は翅〔右△〕の誤だとは略解の説である。舊訓トリハナス〔五字傍線〕はわるい。○ありがよひ 現在に通ふの意。「欲」はその音尾を略してヨ〔傍点〕の音に充てたもの。
【歌意】 空飛ぶ鳥の如く、有馬皇子の御魂《ミタマ》は現在に通ひ/\して、この結松を見られるであらうけれども、この世の人の目には見えないから、さうとも人こそ知らないが、松はよく知つてゐるであらう。
 
(420)〔評〕 この追和といふは、上の長忌寸意吉麻呂の作二首の中、最初の「磐代の岸の松が枝」の歌に和したものなることは勿論である。皇子が二度と立返つては結松を見られなかつたと、意吉麻呂が詠じたのに對して、憶良は別に一解を下したのである。
 作者はまづ、皇子の御魂が飛ぶ鳥の如く天翔りつゝ結松のあたり去らずさまよふの想像を脳裏に描いた上で、松に活喩を用ゐて、知らぬ人を抑へ、知る松を揚げたのである。この對照はかく露骨であればあるほど、効果が有効になることを知らねばならぬ。
 上に意吉麻呂はひたすら現世的觀念に終始して憑弔の意を寄せたのに、作者は靈的觀念の立場からまた異なる天地を拓いて、おなじ憑弔の意を叙べた。それは儒佛思想の影響を受けること多く、比較的に思想上の深みを持つといはれるこの作者として、當に然るべき行き方でなければならない。但亡魂の天翔りは和漢とも古來傳承した一般的信念で、歌の上には主格たる皇子の御魂は〔六字右○〕といふ詞がなくても通ずる程の時代だから、この點には新意は無いが、然しこれを結松に湊合することによつて、頗る悲傷な感じを印象させたのは、作者の手腕である。
 
右件(ノ)歌|等《ドモ》、雖(モ)v不(レ)2挽(ク)v柩之時(ニ)所1v作《ヨメルニ》、唯擬(フル)2歌意(ニ)1故(ニ)、以(テ)載(ス)2挽歌(ノ)類(ニ)1焉。
 
 前掲三首の歌は葬送の時の作ではないが、有間皇子の歌に擬へたのであるから、挽歌の類に載せたとの意。この左註は、萬葉の編者が用ゐた「挽歌」の字面が、廣範な意味での哀傷歌であることに氣附かなかつた註者(421)のさかしらである。
 
大寶元年辛丑幸(せる)2于紀伊(の)國(に)1時、見(る)2結松(を)1歌一首
 
大寶元年に文武天皇が紀伊に行幸された時、或人が結松を見て詠んだ歌との意。文意が不完全である。假に或人が〔三字右○〕を補つた。○幸于紀伊國 文武紀に、大寶元年九月十八日紀伊に行幸、十月八日|武漏温泉《ムロノユ》に至り、同十九日京に還幸とある。
 
後將見跡《のちみむと》 君之結有《きみがむすべる》 盤代乃《いはしろの》 子松之宇禮乎《こまつがうれを》 又將見香聞《またみけむかも》    146
 
〔釋〕 ○きみ 有馬皇子のこと。○こまつがうれ 小松の梢。「うれ」はウラ(末)と同語。物の先をいふ。尚「こまつ」を參照(六三頁)。「子」は借字。
【歌意】 あとで復見ようと、君 有馬皇子が結んだその岩代の小松の秀《ホ》つ枝《エ》を、皇子が二度と見たであらうことかまあ。遂に見なかつたことが悲しい。
 
〔評〕 上の意吉麻呂の作の異傳であらう。さればこの題詞から推想すると、意吉麻呂が結松を見たのは、大寶元年九月の文武行幸の供奉によつての事と斷じてよい。
 
(422)近江(の)大津(の)宮(に)御宇天皇(の)代《みよ》   天命開別天皇
 
天智天皇の御治世とのこと。卷一に既出(七六頁)。
 
天皇(の)聖躬不豫《おほみやまひ》之時、大后奉御歌《おほぎさいのたてまつれるみうた》一首
 
天智天皇の御不例の時に、皇后の詠んで奉られた御歌との意。○不豫 不悦の義で、書經から出た語。病氣のこと。○大后 皇后の御事。天智天皇の皇后は、皇庶兄|古人大兄《フルヒトオホエ》の御女、倭姫王《ヤマトノヒメミコ》である。「后」は后妃の汎稱で、特に嫡后を大后と稱する。太〔右△〕后とある本は誤。この時太后はおはさなかつた。
 この御歌は實は挽歌ではないが、御大漸の折の作であるから、こゝに收めたものと思はれる。
 
天原《あまのはら》 振放見者《ふりさけみれば》 大王乃《おほきみの》 御壽者長久《みいのちはながく》 天足有《あまたらしたり》    147
 
〔釋〕 ○あまのはら 廣々とした空の意。「はら」は打開いた處の稱。○ふりさけみれば 「ふり」は接頭語。「さけみる」は見放《ミサ》くるの倒語で、遙に見遣ること。○あまたらしたり 天の遠長く悠久なるが如く滿ち足りて缺く(423)ることのないのをいふ。「足らし」は敬相。
【歌意】 大空をふり仰いで遠く見やると、天は無際限に廣がり悠久に續いてゐます。丁度その如くに、天皇陛下の御壽命も滿ち足りて無限でおありなされます。御柄氣などが何で御座いませう。
 
〔評〕 天智天皇の御悩は可なりお長い事で、紀によると、その十年九月に御發病、遂に十二月三日崩御となつた。夙くその十月十七日に東宮(皇弟大海人皇子)を御病床に引見し給ひ、「朕疾甚(シ)、以(テ)2後事(ヲ)1屬《ツク》v汝(ニ)」(天智紀)と仰せられたので見ると、不起の重患であることを御自覺遊ばされたに相違なく、皇后にもさやうな不吉なお言葉を洩されたものと拜察される。そこで皇后はこの御歌を奉つて、聖壽の萬歳を言賀ぎ、御病苦を慰め奉つたものである。考に、
  推古紀に、「安みしゝ吾大君の、隱ります天の八十蔭、出で立たすみ空を見れば、萬代にかくしもがも云々」てふ歌をむかへ思ふに、天を御室とします天つ御孫命におはせば、御命も長へに天足しなむと、天を仰いで言賀ぎ給ふなり。
とあるが如く、記紀人は神を絶對なる信仰の對象として、その八百萬の神の中の最高位を天つ神とし、更に天即神〔三字傍点〕といふ信仰をもつてゐた。されば天つ日嗣たる天皇の御息災を天に向つて祈ることは、最も適切な所爲であらねばならぬ。况や乞ひ求むる態度は仰ぐのである。換言すれば仰ぐのは乞ひ求むる人類自然の態度である。冤を得ては庶女天を仰いで訴へ、不平に當つて將軍咄々怪事を空に書く。天皇の御重病に際して大后のまづ「天の原」と叫ばれたことは、遣る瀬ない心の痛みから天を仰いだものである。天を仰いでさて思惟した。水に臨んでは流轉を感ずる如く、天を仰いでは悠遠を感ずるも自然の情懷である。茲に記紀人がもつた信仰は(424)涌然として起つて、この兩者がしかと結び付けられ、天はかく悠久である、天つ日嗣たる天皇の聖壽も隨つて悠遠で天足してあると、推理的に斷定された。かく斷定することに何等の躊躇をも置かれなかつた大后の突き詰めたお心持には、誠に同情に値する深い哀れさが籠つてゐる。實をいへば聖壽は殆ど絶望の境にあつた。それにも拘はらず尚萬壽を斷言したことは、大后の優しい貞淑な御氣質と、深い愛着の御情緒とを語るものに外ならない。
 一切の小細工から超越して、天馬空を行く底の堂々たる雄渾の調は、中興の英主たる天皇の御配偶の御作として頗るふさはしい。大海人皇子が「請(フ)奉《アゲテ》2洪業(ヲ)1付2屬《ツケマツリ》大后(ニ)1云々」と申上げて東宮を辭せられた結果、大后攝政といふ一大事の場合であつたので、頗る緊張した御心境であられたことも、この高調を成す一因ではなかつたかと推想される。
 二句「ふりさけ見れば」の下には、「天は悠遠である、恰もその如くに」の意の詞が當然來るべきであるが、結局「天足らし」の語に讓つてこれを省略したのである。四句の字餘り、その力強い意氣組を見るべく、初句結句にその大部分を占めてゐるア列音は、頗る快調をなして、大いにその壯語を助けてゐる。
 正辭はこの歌に就いて一異説を提供した。いはく、
  宮殿の上を振放け見れば、殿の柱など結びたる綱長くさがりたるを見て詠めるならむ。昔は結びて家を建てたり。長きほどめでたし。
聊かこれは力負の形で、祝詞にこそ見えるが、そんな事はずつと古代の話で、この歌に何の交渉もない。
 
(425)一書(ニ)曰(フ)、近江(ノ)天皇聖體不豫、御病|急時《セマレルトキ》、大后(ノ)奉獻《タテマツレル》御歌一首
 
 この一行については古來種々の異説があり、眞淵はこれは左註でなく獨立の題詞であるが歌が落ちたものだと見た。然し思ふに、これはやはり左註で、一書に見えたこの歌の題詞を、後人がこゝに追録したものに相違ない。「御病急時」の四字は、一層よくこの際の事情を説明してゐる。
      ○
この歌は内容を檢すると、天智天皇崩御後のものであることは明白である。故に必ず次の歌の題詞のうちに攝せらるべきものと思ふ。
 
青旗乃《あをはたの》 木旗能上乎《こはたのうへを》 賀欲布跡羽《かよふとは》 目爾者雖視《めにはみれども》 直爾不相香裳《ただにあはぬかも》    148
 
〔釋〕 ○あをはたのこはた 青い小旗の意。「木旗」の木は借字である。古へは殯葬の際、數多の白旗の外に青旗をも樹てたのである。考に「青旗は白旗の事にて、青白通はしいふこと、白馬節會をアヲウマの節會と讀むにても知らる」とあるのは拘はつた説である。○うへ あたりの意。○ただに まともに。一向に。○あはぬ 逢はれぬの意。「相」は借字。
【歌意】 殯宮に樹てた青い小旗のあたりを、天皇の大御魂が天翔つて通つていらつしやるとは、面影には見えるけれど、直接にはお逢ひ申すことが出來ませぬわ。まことに悲しいことではある。
 
(426)〔評〕 これは殯宮に御參拜遊ばされた折の大后の御感懷であらう。靈魂の天翔りといふ觀念は、上の山上憶良の「つばさなすあり通ひつつ」の作と同じい。「青旗の小旗」と、眼前實在の物を捉へて來たのが、一層實感を強く印象させるに好都合である。幻影目にあり、而もその人なし、かゝる感傷は悼亡の際誰もが實驗する處で、平凡に近いが、その率直な叙述は、作者の御人柄も偲ばれて畏い。
 尚再考するに「木旗」は、卷十一に「山科の木幡の山に馬はあれど」とある山科の木幡のことかとも思はれる。天智天皇の御陵はおなじ山科の鏡山にある。今こそ木幡は山科の最南部の一地名となつてゐるが、當時は大津街道まで進出してゐた汎い名稱であつたかも知れない。さうすると天智天皇の御葬列は大津宮から逢阪を越え、山科の木幡を左に見て鏡山の御陵に到達されたわけであるから、「こはたのうへ」は木幡のあたり〔六字傍点〕の意と解せられるし、「青旗の」はハタ疊音によつて木幡の枕詞として用ゐたとも見るべく。又「青旗乃葛木山《アヲハタノカヅラキヤマ》」(卷四)「青幡之忍阪山《アヲハタノオサカノヤマ》」(卷十三)などの例もあるから、青々と繁つた木幡の山を青旗の靡いたやうに見立てゝの形容語とも見られよう。かく考へ來ればこの御歌は、大后が鏡山御陵參拜の途次の御口占と解してもよくはないか。
 
(427)天皇(の)崩御《かむあがりませる》之時、倭《やまとの》大后(の)御作歌一首
 
○天皇崩御 この事は上に述べた。○倭大后 上の「大后」に同じく倭(ノ)女王であるが、書式が異例であるから「倭」の字は削るべきである。尚この題詞は、「一首」を二首と改めて、上の「青旗の」の歌の前に置くべきものと思はれるが、諸本皆かうなつてゐるので、姑くこのまゝとする。
 
人者縱《ひとはよし》 念息登母《おもひやむとも》 玉※[草冠/縵]《たまかづら》 影爾見乍《かげにみえつつ》 不所忘鴨《わすらえぬかも》    149
 
〔釋〕 ○おもひやむとも 斷念しようとも。あきらめようとも。○たまかづら 影にかゝる枕詞。※[草冠/縵]《カツラ》は頭髪の飾で、多く玉を貫いて作るので玉※[草冠/縵]といふ。玉葛《タマカヅラ》と混同してはならぬ。玉葛は植物である。玉※[草冠/縵]は玉の光の耀《カヾヨ》ふものゆゑ、映《カゲ》の意より續けて影の枕詞に用ゐると、古義は説いてゐる。○かげ ここは面影の意。
【歌意】 天皇崩御の御事を、他人は縱令仕方のないこととして思ひあきらめるにしても、自分だけは天皇の御面影が目の前に見え見えして、どうしても忘れることが出來ませんわ。 
(428)〔評〕 この御歌は、他人の思ひやむことあるを假想して、到底思ひやまぬ御自分に對比し、追慕の情を力強く表現されたもので、これは詩人の慣手段である。三句以下は、思ひやまれぬの意を只詞をかへて叙したに過ぎないけれども、「影に見えつつ」の具象的表現が多少の姿致をなしてゐる。枕詞に用ゐた玉※[草冠/縵]も富貴相が點出されて、流石に御身分柄が想はれる。――高貴の婦人の頭飾として玉※[草冠/縵]が上代に使用せられたことは、繪畫彫刻の類に證せられ、正倉院御物の中にも、それらの殘片と思はれる物がある。
 思ふにこれは天皇崩御の後相當の日子を經た頃、何かの衝動があつての御感想かと察せられる。或はあの僧正遍昭が深草の帝の諒闇の果に「人皆は花の衣になりぬなり苔の衣よ乾きだにせよ」(古今集、大和物語)と諷したと同一の御事情で、御一周忌の過ぎる頃とまでゝなくとも、相當の日子を經過した時分、周圍の男官女房等がやうやく樂しさうに嬉戲するのを御覽なされて、反感又は不快といふ程の事は無いにしても、多少の焦燥や羨望を感ぜられての御作ではあるまいか。
 
天皇(の)崩《かむあがりませる》時、婦人《をみなの》作歌一首   姓氏未詳
 
○天皇崩時 上に「天皇崩御之時」とあるに同じい。○婦人 必ず後宮に奉仕の人だらう。婦人とのみでは意が通じにくい。落字か誤寫か。○姓氏未詳 後人の註語。
 
空蝉師《うつせみし》 神爾不勝者《かみにあへねば》 離居而《さかりゐて》 朝嘆君《あさなげくきみ》 放居而《はなれゐて》 吾〔左△〕戀君《ゆふこふるきみ》 玉有者《たまならば》 (429)手爾卷持而《てにまきもちて》 衣有者《きぬならば》 脱時毛無《ぬぐときもなく》 吾戀《あがこひむ》 君曾伎賊乃夜《きみぞきそのよ》 夢所見鶴《いめにみえつる》    150
 
〔釋〕 ○うつせみし 「うつせみ」は現し身。「うつせみも」を參照(六九頁〕。「し」は強辭。○かみにあへねば 神に立合ひ得ねば。「あへ」は敢への意。この訓新考に據る。舊訓はタヘネバ〔四字傍線〕とある。○あさなげくきみ 朝において歎くその君。○ゆふこふるきみ 「吾」は暮〔右△〕の誤寫と思ふ。「吾」に從へば、アガコフルキミと訓む。○まき 纏ひの意。「いはねしまきて」を見よ(三〇〇頁)。○こひむ 賞《メ》で美しまんの意。古義に、この戀は卷三「石竹のその花にもが朝なさな手に取持ちて戀ひぬ日なけむ」とある戀と同意にて、賞で美まんの意なりと。訓は宣長のによる。舊訓コフル〔三字傍線〕は上のと重複する。○きそのよ 昨夜。「きそ」はこぞ〔二字傍点〕(去年)と同語で、昨日、又は昨夜の意に用ゐる。紀にはキス〔二字傍点〕とある。「賊」は漢音ソク、故にソの音に當てた。呉音はゾク。○いめ ゆめ〔二字傍点〕の古言。寢所見《イミエ》の義と。○つる 「鶴」は借字。
【歌意】 天皇は既に天翔ります神であるに、自分は現し身の人で、神には伴ひ得ぬから、徒らに離れ居て朝に歎き夕に戀ひ奉るその君、物に例へれば、玉なら手に卷き着けて持つて放たず、衣なら着た切りにして居るやうに愛さうと思ふその君樣が、ゆふべ私の夢にお見えなさいましたよ。
 
(430)〔評〕 一朝神去りまして幽顯境を隔てては、凡夫は神に追隨し難い。空しく離《サカ》り放れて朝夕に歎き戀ふるわが君と呼び掛けて、第一段を終へ、次に玉と衣とに假托して親愛の情味を表して、その君こそ夢中に現じたれと、第二段に高唱した。
 夢より外には再び逢ひ奉る機會はない。が追慕の涙に夢も亦結び難い。その結び難い夢を結んで、しかも君王を見奉り得たことは珍しい收穫で、大いに他に誇耀するに足りる。六宮の粉黛等の羨望の的となるに十分である。「君」の語がこの歌の字眼となつてをり、一篇の主意は最後の「君ぞきその夜夢に見えつる」にある。大作ではないが、眞實性に富んでゐる點において泣かされる。
 玉や衣やは婦人の最も愛好する装飾物だから、これに假托することは、婦人の作者としては自然である。然しこの趣向は上代人の常套手段で、さう珍とするには足らない。
 この歌、原本に從へば、同語形なる「吾戀ふる君」が重複する。不用意の底に素朴さがあると助けても見られぬ事もないが、必ず語釋にある如く、もとは「暮〔左△〕《ユフ》戀ふる君」とあつて、「朝歎く君」と扇對を作つてゐたものであらう。
 
天皇(の)大殯《おほあらき》之時(の)歌二首
 
天智天皇の葬斂《カリモガリ》の時の歌との意。○大殯之時 紀に「十年十二月癸亥乙丑天皇崩(ズ)2于近江(ノ)宮(ニ)1、癸酉殯(ス)2于新(431)宮(ニ)1」とある時をさし、その期間の歌をこゝに載せた。○大殯 アラは新、キは奥津城《オクツキ》の城で、天皇崩後、山陵を造營する間假に斂めるをいふ。その宮は即ち殯宮《アラキノミヤ》である。又オホアガリ〔五字傍線〕と訓でもよい。
 
如是有刀《かからむと》 豫知勢婆《かねてしりせば》 大御船《おほみふね》 泊之登萬里人《はてしとまりに》 標結麻思乎《しめゆはましを》 額田王    151
 
〔釋〕 ○かからむと こんな事であらうと。即ち天皇の神去りましたのを斥す。○しりせば 若しも知つてゐたことなら。○おほみふね 嘗て天皇のお乘り遊ばした御船をいふ。○しめ 「しめゆへ」を見よ(三五九頁)。○額田王 この三字は數種の古寫本によつて補ふ。
【歌意】 このやうに天子樣が崩御遊ばさうと、かねて知つたら、あのいつぞやの御舟遊の折、お召船の着いた泊に標繩《シメナハ》を張つて、おとゞめ申すのであつたものを、實に殘念なことではある。
 
〔評〕 近江朝廷での行樂は蒲生野の藥狩などもあつたが、場所柄何といつても湖上の舟遊がその隨一であつた。それは卷一、「ささ波の志賀の辛崎さきくあれど」の歌評の處にも述べたが、天智天皇の大御船は常に八十の湊の烟波に親しんで、志賀の辛崎がその發着の要津だつたのである。さうして或時の御舟遊は傷ましくもその御遊幸の最後となつてしまつた。天皇の殊寵を受けて、出入共に形影の相伴ふ如く追從し奉つた作者は、亡き帝を偲び參らすると同時に、樂しかつた當時の舟遊を囘想し、又舟遊を囘想すると同時に、若しあの時お召船の泊てた辛崎に標結ひでもしたら、あの世への行幸はありもすまいとの痴想を描いて、崩御を豫知しなかつた(432)悔しさを歌つてゐる。場所を占め、道を遮るに標結ふことは、神代から今に行はれてゐる事で別に珍しくもないが、泊に標結ふの甚しい痴呆さは、暗に追慕の甚しい悲みを映出してゐる。
 さてかく崩御を舟遊に結び付けたことは、近江朝廷としてはふさはしいことには違ひないが、今一歩深く考へて見れば、これは單に場所柄のふさはしいといふのみでなく、何か今一層緊切な事情が見遺されてゐるのではあるまいか。恐らく天皇の御發病が湖上の舟遊直後の事か、又は舟遊に起因した事かを物語るものであらうと考へられる。
  
八隅知之《やすみしし》 吾期大王之《あごおほきみの》 大御船《おほみふね》 待可將戀《まちかこふらむ》 四賀乃辛崎《しがのからさき》   舍人吉年    152
 
〔釋〕  ○やすみしし 大君にかゝる枕詞。既出(三○頁)。○あごおほきみ アガオホキミのガ〔傍点〕の母韻が次の音オ〔傍点〕に同化されてゴ〔傍点〕となつたものである。但いつでも必ずさう發表さ(433)れたのではない。集中にも「和我於保伎美《ワガオホキミ》かも」など、明かにガ〔傍点〕と書いてある。故に「吾期」と明記したものの外は、「吾王」「吾大王」「吾皇」「吾大皇」などあるのは、普通にアガオホキミ〔六字傍線〕、又はワガオホキミ〔六字傍線〕と訓むへきである。○まちか 「か」は疑辭。○こふらむ 舊訓はコヒナム〔四字傍線〕。○舍人吉年 この四字は金澤本、神田本、温故堂本その他多くの寫本によつて補ふ。舍人吉年は如何なる人か詳かでないが、卷四に田部《タノベノ》忌寸《イミキ》櫟子《イチヒコ》が太宰に任ぜられた時の歌四首ある中に「衣手《コロモデ》に取りとゞこほり云々」の歌の作者を、類聚古集、西本願寺本、温故堂本等に、舍人吉年〔四字傍点〕と註してある。
【歌意】 これまで度々行幸のあつた志賀の辛崎は、今も定めてわが大君のお召船の御到着を待ち焦れてゐることであらうか。如何に待ち焦れても再びお出ましはないものをさ。 
〔評〕 辛崎の待ち戀ふといふ擬人法の表現は、即ち作者自身の追慕の遣る瀬なさを託した寓言である。大御船を待つとは行幸を待ち奉ることを曲叙し、しかもその待ち戀ふるは、今後の行幸の絶無であることを暗示し、崩御の永い憾を傷んだもので、含蓄の味ひが永い。初二句は他の長歌の冒頭にも屡ば見え、元來が一つの成句として往古から既に慣用されてゐたものである。これをかく短歌に取り入れたのでは頗る莊重に過ぎ、頭勝な嫌があるが、纔に「志賀の辛崎」の體言止めによつて、その力量の平衡を保たせ、がつしりと踏みこたへてゐる。人麻呂が「ささ波の志賀の辛崎さきくあれど」の詠は、この歌を藍本として、更に一歩の工を進めたものか。相對比してその特長を味ふべきである。
 
(434)大后《おほきさきの》御歌一首
 
○大后 上出。上の額田王、舍人吉年の注記の書式と異つて、これ及び次の石川夫人を上掲したことは、その后妃であるが爲の敬意に出たものである。その例は集中に多い。
 
鯨魚取《いさなとり》 淡海之海乎《あふみのうみを》 奥放而《おきさけて》 榜來船《こぎくるふね》 邊附而《へつきて》 榜來船《こぎくるふね》 奥津加伊《おきつかい》 痛勿波禰曾《いたくなはねそ》 邊津加伊《へつかい》 痛莫波禰曾《いたくなはねそ》 若草乃《わかぐさの》 嬬之《つまの》 念鳥立《おもふとりたつ》    153
 
〔釋〕 ○いさなとり 「淡海の」を隔てゝ「海」にかゝる枕詞。既出(三八七頁)。○おきさけて 沖の方へ遠く放《サカ》つて。○こぎくる 漕ぎ行く。「くる」は往くと同意に用ゐられる場合が多い。○へつきて 岸邊に付いて。○おきつかい 沖の櫂。沖の舟の〔二字右○〕櫂を略して早くいつた。「かい」は舟を遣る具。和名妙に「※[楫+戈]、使2v舟捷疾1也、和名|加遲《カヂ》、在(リテ)v旁(ニ)撥(ヌルヲ)v水(ヲ)曰(フ)v櫂(ト)、字(モ)亦作(ル)v棹(ニ)、漢語抄(ニ)云(フ)加伊《カイ》」とあり、※[楫+戈]《カヂ》は舟を遣る具の總稱。櫂《カイ》はそのうちの一種の器物の稱である。○いたくなはねそ 甚しく撥ねて漕ぐな。○わかぐさの 夫《ツマ》又は嬬《ツマ》の枕詞。若草はめづらしく美しきもの故に譬へていふ。仁賢紀の「弱草吾夫※[立心偏+可]怜《ワカクサノアガツマハヤ》」の注に、古者以(テ)2弱草(ヲ)1喩(フ)2夫婦(ニ)1とある。こゝは夫の意だから「嬬」は借字。○おもふとり 愛した鳥。念ひし〔右○〕鳥とあるべきを、現在格にかくいふも一つの格である。
(435)【歌意】 この淡海の海を沖へ遠く漕いで行く舟よ、岸邊に近く漕いでくる舟よ、その沖の舟の櫂をつよく刎ねあげるな、その岸の舟の櫂をつよく刎ねあげるな、わが夫の君の愛でうつくしむ水鳥が驚いて起つことわよ。
 
〔評〕 天智帝はその湖濱の遊幸に紫鴛白鴎の游浴するを、如何に愛賞せられた事であつたらう。作者は今眼前來去の舟から、端なく御生前の事相に想到し、奥つ櫂邊つ櫂に喚びかけて、彼等の閑眠を驚かすなと懇請した。この懇請は何もその結果の實現を強要するものでもなく、又出來るものでもない。只やみ難い心中の欝結がこれによつて爆發したに過ぎない。執は遺愛の物にまで及ぶ。如何に哀慕追懷の念が昂ぶつてゐたかゞわからう。斷腸の極である。「念ふ鳥」を考や古義に、帝の崩後その御飼鳥を湖水に放つたものとしたのは、拘泥の見である。
 開口一番その場處を限定し、次に對偶的に紆餘曲折して、まづ遠近する舟の來去を詠め、さてその櫂の波を撥ねるを厭ふ。こゝまではその主意は那邊にあるか、殆ど模索し難い。而して結局「嬬のおもふ鳥立つ」に落着し、覺えず讀者をして拍案の妙を叫ばしめる。作者の手腕は實に侮り難いものがある。
 結節、宣長が「嬬之」の下、命之〔二字右△〕の落字ありとして、ツマノミコトノ〔七字傍線〕と訓んだのは謬つてゐる。これは五、三、七音の組織から成立する一體で、卷一の「三輪山」の長歌の末節、「心なく(5)雲の(3)隱さふべしや(7)」とあると同一格である。
 
(436)石川(の)夫人《きさきの》歌一首
 
○石川夫人 天智天皇の夫人、蘇我(ノ)遠智媛《ヲチノイラツメ》のこと。天智紀七年二月の條下に「逐(ニ)納(ル)2四嬪(ヲ)1、有(リ)3蘇我(ノ)山田(ノ)石川(ノ)麻呂(ノ)大臣女、曰(フ)2遠智(ノ)媛(ト)1、生(メリ)2一男二女(ヲ)1、一(ヲ)曰(フ)2大田(ノ)皇女(ト)1、一(ヲ)曰(フ)2※[廬+鳥]野《ウヌノ》皇女(ト)1」とある。※[廬+鳥]野皇女は持統天皇である。石川は父大臣の稱名であるのを、媛の字《ナ》としたもの。令制には皇后の外に、妃、夫人、嬪の三階級のキサキがあつた。遠智媛は初め嬪で、後に夫人に陞つたので、かく呼ばれた。
 
神樂浪乃《ささなみの》 大山守者《おほやまもりは》 爲誰可《たがためか》 山爾標結《やまにしめゆふ》 君毛不有國《きみもまさなくに》    155
 
〔釋〕 ○ささなみ 既出(一二五頁)。○おほやまもり 御料地の山番をいふ。「おほ」は敬稱。すべて山守は都附近ばかりでなく、諸國にも置かれたものである。○きみ (437)天智天皇をさす。○しめゆふ 「しめゆへ」を見よ(三五九頁)。○なくに 「國」は借字。
【歌意】 もう今となつては、この山を見そなはすべき帝もいらつしやらないのに、大山守は一體誰の爲に標示を立てて、かうして山を守つてゐるのであらうか。
 
〔評〕 さゝ浪山即ち滋賀山は、大津宮の西面に連亙して、雜人の出入採樵を禁じたお止め山であつた。それは皇居俯瞰の虞れもあり、又春花秋葉の御遊覽の場所でもあつたからである。されば山守は標結ひまはして監視してゐたのであるが、今はそれを見そなはすべき大君は既に神去りましていらつしやるではないか。乃ち自然に對してはその存在の無意味なことを喝破し、人間に對してはその努力の無用なことを疾呼するのは、詩人の慣手段で、また當然の感懷でもある。大山守の標結ふのは大君の御爲であることはいふまでもないが、しかも尚「誰が爲か」の一不審を提唱したことは、この感懷を一骨強める表現である。况や御一代毎に帝都の移されるのが普通であつた當時では、この大津宮も結局廢墟に歸すべき運命が豫知されるので、愈よこの感が深かつたのであらう。
 
從(り)2山科御陵《やましなのみはか》1退散《あかるゝ》之時、額田(の)王(の)作歌一首
 
山科の御陵からその宿侍の時期が終つて人達が退散する時に、額田王が詠んだ歌との意。〇山科御陵 山城宇治郡山科の鏡山の御陵のこと。御陵は延喜式に「兆域、東西十四町南北十四町」とある。○退散 古へは墓側に死者の親戚故舊が假廬を結んで宿直する習慣があり、一周忌又は中陰の果に各退散する。舒明紀にも「蘇我氏(ノ)(438)諸(ノ)族等、悉(ク)集(リテ)爲(ニ)2島(ノ)大臣(ノ)1造(リテ)v墓(ヲ)而|次《ヤドレリ》2于墓所(ニ)1〔七字傍点〕、爰(ニ)摩理勢(ノ)臣壞(リテ)2墓所之廬(ヲ)1〔五字傍点〕退(リテ)2蘇我(ノ)田家《ナリドコロニ》1而不v仕(ヘ)〔二字傍点〕」とある。
 
八隅知之《やすみしし》 和期大王之《わごおほきみの》 恐也《かしこきや》 御陵奉仕流《みはかつかふる》 山科乃《やましなの》 鏡山爾《かがみのやまに》 夜者毛《よるはも》 夜之盡《よのことごと》 晝者母《ひるはも》 日之盡《ひのことごと》 哭耳呼《ねのみを》 泣乍在而哉《なきつつありてや》 百磯城乃《ももしきの》 大宮人者《おほみやびとは》 去別南《ゆきあかれなむ》    155
 
〔釋〕 ○やすみしし 枕詞。既出(三〇頁)。○わごおほきみ 既出(二〇五頁)。○かしこきや 「や」は歎辭で、恐き御陵〔四字傍点〕と續く。○みはかつかふる 御陵《ミハカ》造りを臣下達が〔四字右○〕する。古へは帝王の陵墓をミハカ〔三字傍点〕といひ、後世はミサヽギ〔四字傍点〕と呼んだ。○かがみのやま 山科御陵の後山の稱。鏡山は諸國にあり、多くは陵墓に所縁がある。尚卷三「梓弓ひき豐國の鏡山」の歌の條下を參照。○よるはも 「も」は歎辭。○よのことごと 夜の全部即ち終夜のこと。○ひのことごと 日の全部即ち終日。○ねのみをなき 音を揚げてばかり泣き。「呼」は乎〔右△〕と同じくヲ〔傍点〕の音に用ゐる。○ありてや 「や」は疑辭。○ももしきの 枕詞。既出(一二六頁)。○なむ 「南」は借字。
【歌意】 わが帝樣の恐れ多い御陵をお造り申す山科の鏡山に、晝は終日、夜は終夜、宿直の官人達はひたすら聲を立てゝ泣きに泣いてゐて、いよ/\の忌明に退散する事であらうか。思へば情なく悲しい。
 
(439)〔評〕 鏡山の南麓に方十四町に亙る御陵造り、完成までには相當の日子を費した事であらう。尤もその未完成のうちに、まづ殯宮から移靈し奉るは例の事で、故に歌には「御陵仕ふる」と現在法で叙してゐる。帝王の儀禮は重きに從ふが常だから、一周年間は陵側の假廬に侍臣から始めて舍人等に至るまでの宿衛があつた事であらう。涙ながらに日夜を思慕したことはいふまでもない。が「夜はも云々」「晝はも云々」の對句は當時の常套語で、
  晝はも日のこと/”\、夜はも夜のこと/”\、
  臥し居歎けど、       (本卷、東人―204)
  晝はも日のこと/”\、夜はも夜のこと/”\、
  立ちて居て念ひ、      (卷三、赤人―372)
の如き珍しからぬ表現である。その他「晝は」「夜は」の對偶的修辭は可成り澤山ある。さて徒然草に、
  中陰の頃山里などに移ろひて、便あしくせばき處に數多あひ居て、後の事ども營みあへる、いとあわただし。日數の早く過ぐる程ぞ物にも似ぬ。はての日は互にいふこともなく、我れかしこげに物引きしたためて、散り/”\に行きあかれぬ。云々。(三十段)(440)とあるは、まさにこの歌の事態全部を裏書するものといつてもよい。但單に大宮人の退散の光景を叙するが目的ならば、徒然草に行きあかれぬ〔六字傍点〕とある筆法の如く、行き別れける〔六字右△〕と現在的詠歎で了るべきを、「行き別れなむ」と、さもよそ/\しげに他の行動を眺めてゐるやうな態度に出られたことは、實は作者自身が躊躇低囘、その陵側から立去り得ぬ心状から出發したものと見られる。こゝに至つて「大宮人は」の語が力強い差別的の意味を成してゐることが諾かれ、對映的にそこに故帝追慕の情味が搖曳してゐるものゝ、惜しい事に迫眞力が薄いので、讀者に十分の眞實感を與へ得ない。
 帝はその十年十二月六日に崩御、而して壬申の亂はその翌年六月即ち約半歳の後に起つたのだから、十分大葬執行の餘日がある。略解に「亂有つて天武三年に至つてこの陵は造らせ給へり、御葬御陵仕へもこの時ありしなるべし」とあるは考へ違ひである。
          △鏡山考(雜考―8參照)
 
明日香(の)淨御原(の)宮(に)御字《あめのしたしろしめしゝ》天皇(の)代《みよ》    天渟中原瀛眞人天皇
 
天武天皇の御治世とのこと。卷一に既出(九九頁)。
 
十市皇女《とをちのひめみこの》薨《すぎませる》時、高市皇子尊《たけちのみこのみことの》御作歌三首
 
○十市皇女薨時 十市皇女のことは既出(一〇〇頁)。天武紀六年の條下に「夏四月丁亥朔、……癸巳十市皇女(441)|卒然《ニハカニ》病發(リテ)薨(キマシヌ)2於宮(ノ)中(ニ)1、……庚子葬(ル)2十市(ノ)皇女(ヲ)於赤穗(ニ)1、天皇臨(ミテ)v之、降(シ)v恩(ヲ)發(ス)v哀(ヲ)」と見える。赤穗は十市郡|外山《トビ》の赤尾か。この邊舒明陵、大津皇女墓など皇族の陵墓が多い。大和志に廣瀬郡仁基墓、十市皇女云々と見えて、馬見村赤部の地としてゐる。然し馬見村赤部では歌に「三諸の」、「神山の」などあるに合はない。○高市皇子尊 皇女の異母兄に當り、この時はまだ皇太子でなかつたが、後に皇太子となられたので、尊稱を以て「尊」と追記したのである。傳は既出(三五六頁)。
 
三諸之《みもろの》 神之神須疑《かみのかみすぎ》 巳具〔左△〕耳矣自《いめにをし》 得〔左△〕見監乍〔二字左△〕共《みむとすれども》 不寢夜叙多《いねぬよぞおぼき》    156
 
〔釋〕 ○みもろのかみ こゝは三輪山の神こと。大物主神が祀られてある。○かみすぎ 神杉。神木の杉をいふ。○いめにをしみむとすれども この三四句の本文はこのまゝでは訓み難いので、誤脱のあることは明かである。現に古寫本を見ると、類聚古集には「具」を貝〔右△〕に作つて、「共」の字無く、古葉略類聚抄には「監」の右に覽〔右△〕があり、京都大學本には「矣」が讀み難い異體の文字になつてゐるなど、種々の異同がある。眞淵、信友、守部、雅澄、通泰等の説もあるが、今姑く正辭の説に從つて、本文を「巳目耳矣自將見爲共」の誤とし、上の如く訓んで置く。「いめ」は夢の古言で、神杉は齋《イ》めるものゆゑ、夢《イメ》にいひかけて序とした。「を」は歎辭、「し」は強辭である。
(442)【歌意】 死なれたあの懷かしい皇女を、せめて夢にでもまあ見ようとするけれども、悲しさに寢られぬ夜が多くて、それすら叶はぬことだ。
 
〔評〕 三四の句の訓が決定的のものでないから、姑く評語を略く。
 
神山之《みわやまの》 山邊眞蘇木綿《やまべまそゆふ》 短木綿《みじかゆふ》 如此耳故爾《かくのみゆゑに》 長等思伎《ながくとおもひき》     156
 
〔釋〕 ○みわやまの 舊訓に從つた。新訓は大抵カミヤマ〔四字傍線〕であるが、大神をオホミワ、神之埼をミワガサキと訓む例があるのみならず、上の歌の「三諸」も三輪山とすれば、こゝもミワヤマと訓むべきであり、その葬處から考へても三輪山でなければ協はない。○やまべまそゆふ 山邊に生ふる〔四字右○〕まそゆふは〔右○〕の意。夕浪の上に飛ぶ千鳥を「夕浪千鳥」と、人麻呂が詠んだのと同じ造語法で、古代に例が多い。「まそゆふ」は山楮《マソ》で製した木綿《ユフ》。「木綿」は楮又は時に麻の樹皮の繊維で造つた苧や布の稱。新釋に「阿波の山間部にては、山楮《やまかぢ》のことをまそ〔二字傍点〕と呼べり。山楮は山中に自生するが爲、普通の楮に此して發育惡く、その繊維短ければ、短木綿と續けたるならん」とあるに從ふ。舊説では眞麻《マソ》木綿、又は眞割《マサキ》木綿など解して、良い麻のこととした。○みじかゆふ 短い木綿ぞ〔右○〕の意。○かくのみゆゑに かうであるものをの意。「人妻ゆゑ〔二字傍点〕にあれ戀ひめやも」(卷一)の語法に同じい。舊訓はカクノミカラニ〔七字傍線〕。
【歌意】 三輪山の山邊の山楮木綿《マソユフ》は短い木綿である。その如くに皇女のお命は短かつたものを、長く御存命のこ(443)ととのみ思つてゐたことだ。殘念なことではある。
 
〔評〕 皇女の御葬處たる赤穗は三輪山の南麓に近く、その頃の皇族御陵地であつた。それ故三輪山附近に自生してゐる山楮の短木綿を借り來つて、不幸二十四歳で盛の花を散らした皇女の短命に譬へたので、取材がいかにも恰當である。短いものを長くと思つたとは、その薨逝の眞に意外であつたことに、頗る慌て惑うた御心持を遺憾なく表はして居り、そこに生前その懇情を盡し果てなかつた悔恨があらはされ、哀悼の意が躍々としてゐる。親身の御兄妹としては當にかくあるべきことと思はれる。
 なほこの歌に就いては、まづ皇子と皇女との關係を一往考慮したい。共に天武天皇の御子ではあるが、皇子の母は尼子娘《あまこのいらつめ》、皇女の母は問題の人額田王である。古へは異母の兄妹間では結婚を認めてゐたから、この皇子が戀人の立場にあつたものとして見ると、そこに劇的シーンが展開されるので、話も面白く隨つて一般に承認され易い。然し實際はこの御兄妹の從來の行懸りは、殆どかたき同士であられた。皇女は夙に大友皇子(弘文天皇)の妃となつて葛野《カドノ》皇子をさへ儲けられたが、壬申の亂の時、近江方の御計畫を、淨見原方にいち早く内通されたことは、全く御父皇子(天武天皇)の焦眉の(444)急を救はうとの御誠意からであつて、決して夫帝に對しての裏切ではなかつたと見るのが、最も事情に協つた穩當な推斷と信ずる。然るに結果は不幸にも豫想外の珍事となつて、反對に夫帝は崩ぜられ、皇女は全く申譯のない立場に置かれたのである。爾來居常鬱々、七箇年の星霜を空閨の裡に歎き明かされたのである。嘗て乳母の吹※[草冠/欠]刀自が、
  河のへのゆついはむらに苔むさず常にもがもなとこ處女にて  (卷一−22)
と御祝福申し上げたことは、餘りの物思に憔悴し切つて居られたので、これをお慰め申す意圖からではなかつたらうか。
 然るに高市皇子は、近江朝廷轉覆、淨見原朝廷建設の大功績者であられた。隨つてその公的生活は皇女と正反對の地位にあつたのである。これは御父天武天皇とても御同樣であつた。父帝も兄皇子もかやうな立場ではあつたが、然し情の上からは皇女の薄命に對して、どんなにか氣の毒とも可憐とも思召されたことであつたらう。今皇女の薨去に際して、皇子が一途に哀悼痛惜する眞意は、實にこゝに存するのかと思ふ。父帝が皇女の葬に臨んで、降恩發哀の儀を擧げられたといふ特別待遇も、この間の事情を説明してゐる。これを普通の御愛情から出た哀傷とのみ見るのは、短見ではあるまいか。
 
山振之《やまぶきの》 立儀足《たちよそひたるる》 山清水《やましみづ》 酌爾雖行《くみにゆかめど》 道之白鳴《みちのしらなく》    158
 
〔釋〕 ○やまぶき 山吹の花である。振《フリ》をフキといふのは古語で、古事記(上)にも「十拳《とつか》の劔を拔きて於後手布伎(445)都々《シリヘデニフキツツ》逃げ來ませるを」といふ用例があり、フキツヽは即ち振りつゝ〔四字傍点〕の意である。故に「振」をフキと訓むは當然である。○たちよそひたる 咲き飾つてゐるの意。「たち」は接頭語。この句の「儀」の字を、宣長や雅澄等は誤字として勝手な訓を與へてゐる。集中の用字例では、この字は皆スガタと訓んで他の訓は無いが、名詞にスガタと訓むなら、動詞としてヨソフと訓むことも無理ではあるまい。舊訓では二三の句をサキタルヤマノシミヅヲバ〔十二字傍線〕あるが、無理な訓である。「立儀」をこのまゝでサキ〔二字傍線〕と訓むべき理由は無い。「立」を左〔右△〕の誤字と見たものだらう。「足」は借字。○くみにゆかめど 汲みに往かうと思ふけれどの意。○しらなく 知られぬことだわいの意。「なく」は古くは否定の助動詞ぬ〔傍点〕の延言とのみ解いたが、下に感歎的語氣をもつてゐるのである。「白」も「鳴」も借字。
【歌意】 山吹の花の美しく吹き飾つてゐる皇女のお墓邊の山清水を、私は汲みに往きたく思ふけれども、道がわからないわい。はて殘念な。
 
〔評〕 時は正に初夏に入つて、山邊は山吹の花盛りである。皇女の墓邊も恐らく山清水に美しい山吹の花影を宿してゐたであらう。さればその山清水を「汲みに往かめど」とは、皇女の葬儀の供に立つて送りたいがの意を、婉曲に取成したものと見るべきである。然るに「道の知らなく」は聊か訝しい。固より御陵墓地などは、道の分らぬ筈がない。これは四句の作意を承けた寄託の言で、その葬儀の供に立つすべの無い遺恨を暗示したものと考へられる。その事情は當時目下の者の斂葬には尊長たる者は見送りせぬ習慣が存在してゐたからであらう。――是等の不文律は勿論例外はあるが――譬喩がしつくり當て嵌まつて、いかにも技巧的表現に富んでゐ(446)る。然し尚眞摯の情が如實に動いて、妹君を愛惜する悲悼の啜り泣きが耳に聞えるやうである。「たちよそひたる」とまで極力形容を盡したことは、愈よその行き得ざる遺憾を反映させる表現である。
 伴信友、橘守部、齋藤彦麿三家が、上句「山吹のたちよそひたる山清水」を、黄泉の暗喩であると解したのは頗る面白いには違ひないが、實情には疎いといはねばならぬ。他の諸家の説も擧示するほどの價値が無い。
 
天皇(の)崩之《かむあがりませる》時、大后《おほきさきの》御作歌
 
天武天皇の御崩御の時、皇后の詠まれた御歌との意。○大后 皇后の意でこゝは後の持統天皇の御こと。天武紀に「朱鳥元年九月丙午、天皇|病《ミヤマヒ》不v差《イエズ》、崩(リタマフ)2于正宮(ニ)1」とある。
 
八隅知之《やすみしし》 我大王之《わがおほきみの》 暮去者〔三字左△〕《ゆふされば》 召賜良之《めしたまへらし》 明來者〔三字左△〕《あけくれば》 問賜良之《とひたまへらし》 神岳乃《かみをかの》 山之黄葉乎《やまのもみぢを》 今日毛鴨《けふもかも》 問給麻思《とひたまはまし》 明日毛鴨《あすもかも》 召賜萬旨《めしたまはまし》 其山乎《そのやまを》 振放見乍《ふりさけみつつ》 暮去者《ゆふされば》 綾哀《あやにかなしみ》 明來者《あけくれば》 裏佐備晩《うらさびくらし》 (447) 荒妙乃《あらたへの》 衣之袖者《ころものそでは》 乾時文無《ひるときもなし》    159
 
〔釋〕 ○おほきみの の下、御生前秋毎に〔六字右○〕の語を補足して解する。○ゆふされば、あけくれば この兩句は恐らく書寫の際に誤つた顛倒であらう。故に歌意には順序を改めて解した。○めし 見し〔二字傍点〕の轉語で敬相。「めし給へば」を參照(二〇六頁)。「召」は借字。○たまへらし 仙覺抄の訓に據つた。賜へり〔傍点〕しの轉語か。「し」は過去の助動詞。この訓他に語例は見當らないが、さう訓むより外に方法がない。古點及び諸訓にはタマフラシ〔五字傍線〕と、現在的想像の意に讀んであるが、それでは、下への續きが面白くない。宣長は、らし〔二字傍点〕の一用法に過去の意あるものありとして、本集中の歌を二三例に引いたが、それは誤解で從へない。○とひ 字の如く問ふ意。○かみをか 高市郡飛鳥の神名火《カミナヒ》山のこと。もと三諸《ミモロノ》岳といつたのを、紀に雄畧天皇の時|雷岳《イカヅチノヲカ》と改めたことが見える。雷を古へカミ〔二字傍点〕と稱したので神岳ともいふ。○もみぢを の下、御存生ならば〔六字右○〕の語を補足して解する。かくて下の假設の意を承くる「まし」の辭に應ずる。○あやに 古義は奇異《アヤ》にの義とし、宣長は神代紀に「あなにえや」とある、あなに〔三字傍点〕と同語とした。古義説がよい。「綾」は借字。○うらさびくらし 心|不樂《サビ》しく日を暮し。「さび」は「うらさびて」を參照(一三七頁)。○あらたへのころも 粗布の衣。喪服をいふ。喪服は粗末な物を用ゐるが本旨で、古へは葛《フヂ》布で製した。令(ノ)集解に諒闇の時は皇后に細布を奉るとあるが、細布でも皇后の尊貴では尚粗服だから、荒妙の衣なのである。故に「あらたへの」はこゝでは枕詞ではない。「妙」は栲の借字。△地圖 挿圖−105を參照(三三四頁)。
【歌意】 わが陛下が御生前、秋毎に夜が明けるとは御覽になつて居つた、日が暮れるとはお尋ねになつて居つた(448)その神岳の山の黄葉を、御存生ならば〔六字右○〕今日もお尋ねなされうか、明日も御覽なされうか。そこで自分はその山を見渡し見渡しして、日が暮れるとは妙に悲しみ、夜が明けるとは面白からず暮して、喪服の袖は涙に乾く時とてはないわ。
 
〔評〕 「夕さればめし賜良之」は夕暮が紅葉の觀賞時ときまつてゐるやうな口氣である。集中の
  夕されば鴈の越えゆく龍田山時雨にきほひ色付きにけり (卷十−2214)
は單なる客觀の叙述に過ぎない。却つて、この時代には朝の紅葉が餘計に諷詠されてゐる。さればこゝは朝を先にして「明けくればめ〔六字傍点〕し賜良之、暮されば問〔五字傍点〕ひ賜良之」とあるのが、寧ろ順當らしい。又叙法の上から見ても、初めから朝暮の次第を顛倒することは、甚だ不自然な感じを抱かせる。それを反復した次段の「暮されば」「明けくれば」はわざと錯綜させて變化を求めた手法だから、これは論はない。
 又神岳即ち雷岡は、雷が棲んだの大蛇が居たのと、傳説は大分凄いが、高さ十米突、南北數丁に過ぎない小岡であ(449)る。但雜木が鬱蒼と茂つて居て、秋は紅葉したことが思ひ遣られる。淨見原の宮を上居《ジヤウゴ》とする從來の諸家の言に從へば、上居からは雷岡は直徑二十町ばかりの西北方位にあたり、宮地の方は高地で間に障碍物がないから、低い岡の割にはよく見えるが、その黄葉を翫賞するには餘り距離があり過ぎる。無論宮址は既に「清御原宮」の項(99)に詳説した如く、飛鳥小學校敷地附近で、それは雷の岡との距離が二三町に過ぎない。
 抑も天武天皇の崩御は九月九日で、大和地方では黄葉期に向つてはゐる。然し天皇は既にその五月から御不例だから、神岳の紅葉など「見し」も「問ふ」もあることではない。これは必ず過去の秋に於いて雷岡の紅葉を愛賞せられ、朝夕の談柄になされたといふ事實があつて、そこに立脚して、概念的に囘想し敷演せられたものであることは、疑ふべき餘地もない。
 この御歌は夫帝崩後から翌十月一杯までの雷岡の紅葉期に於いて成つたもので、今その山を振放け見るにつけても、そこに深く執著をとゞめられた故帝御生前の御動靜が囘想され、さてそれを現在に延長し再現して、(450)「今日もかも」、「明日もかも」と丁寧に想像し思惟した。これ即ち故帝に對する愛慕纏綿の情緒の深刻さを間接に物語るものである。
 詰り上來費された幾多の語言は、結章の爲の大事な素地襯染を成すもので、これに依つて結章の作者御自身の極度の悲悼が尤もであり無理のない事になり、他の同情を自然に吸收し得る結果になる。そして首尾一貫雷岡に※[夕/寅]縁し寄懷して終始してゐることを忘れてはならない。
 この御歌は前後二段に大別される。前段は專ら故帝の御上に關した事の叙述で、それが又二小節に分れ、御生前の事が第一小節、御崩後の事が第二小節になつてゐる。後段は御自身に關する事で、一意到底に叙説してゐる。「その山を」の句は前後の二段を連繋する鎖、換言すれば枢機の役目を果してゐる。
 
一書(に)曰(く)、天皇|崩之《かむあがりましし》時、太上天皇(の)御製歌《みよみませるおほみうた》二首
 
或歌書に、天武天皇崩御の時持統帝の詠まれた御歌だとあつて、この二首が載せてあるとの意。これは勿論後人の補入。○太上天皇 持統天皇を申し上げる。持統天皇は天武天皇崩後四年に御即位、十一年八月に文武天皇に御讓位あつて、太上天皇となられた。然し淨御原の御宇の標内では、持統天皇の御事を太上天皇とは書くべくもない。全く文武天皇時代の人の記録したものによつて、更にそのまゝ後人が轉載したものと思はれる。
 
燃火物《もゆるひも》 取而裹而《とりてつつみて》 福路庭《ふくろには》 入登〔左▲〕不言八面《いるといはずやも》 智〔左▲〕男雲《しるといはなくも》    160
 
(451)〔釋〕 ○もゆるひも 「も」はサヘモ〔三字傍点〕の意。「燃火」を古寫本舊本等に、トモシビ〔四字傍線〕と訓んだのは非。「物」は呉音モチ〔二字傍点〕だからモ〔傍点〕の音に充てた。○ふくろには 袋にはの意。「福路」は福園の類語とも貧道の對語とも考へられ、戲書である。「路庭」と續けたのも、やはり戲意があるらしい。○いるといはずやも 入れるといふのではないかまあの意。「登」は諸本多くは澄〔右△〕とあるは誤で、古葉略類聚抄によつて改めた。○しるといはなくも この句もとのまゝでは訓み難い。眞淵は「智」を剖いて知曰〔二字右△〕の二字とし、「シルトイハナクモ〔八字傍線〕と訓むべし。さるあやしき業をだにすめるを、崩《カムアガ》りませし君に逢ひ奉らむ術を知るといはぬが甲斐なしと歎き給へる也」といつた。假にこれに從つた。又四句の「面」を結句につけて、契沖は「智」を知〔右△〕の誤とし、「オモシルナクモ〔七字傍線〕と訓むか、面知るは卷十二に、面知君《オモシルキミ》、面知子等《オモシルコラ》など見ゆ。寶算限りましましてとゞめ奉るべき由なく、見馴れ奉りたる面わの見え給はぬを戀ひ奉り給へる也」といひ、守部は「智」を知日〔二字右△〕の誤として、アハンヒナクモ〔七字傍線〕と訓んだ。「面」を結句に廻はすことは、頗る四句の階調を破るもので、契沖、守部の説は根本からして不同意である。
【歌意】 幻術士は燃える火さへも、手に取つて裹んで袋に入れるといふのではないか。そんな奇蹟でも出來るのに、馴れ親しみ奉つたわが大君の蘇生の術は、誰れも知るといふ者が無いことよ。ほんにまあ悲しいこと。
 
〔評〕 燃え上る烈火さへも手に取つて袋に入れる、こんな幻術は莊子や列子などに類似した記述が澤山あり、列子には幻術士の事が出てゐる。もとは西域殊に印度方面から來歸したものだらう。日本には多く支那朝鮮の文明の輸入に伴つて將來されたものと思はれる。皇極紀、四年夏四月の條に、
(452)  高麗(ノ)學問僧等言(サク)、同學鞍作(ノ)得志、以(テ)v虎(ヲ)爲(テ)v友(ト)學(ビ)2取(レリ)其術(ヲ)1、或(ハ)使3枯山(ヲシテ)變(テ)爲(シ)2青山(ト)1、或(ハ)使2黄地(ヲシテ)變(テ)爲(ラ)1v泉(ニ)、種々(ノ)奇術不v可(ラ)2※[殃の左+單](シ)究(ム)1、云々。
そしてそれには例の役小角一流の仙術もあつたらうし、又正倉院御物の散樂の圖にあるやうな手品師放下師一流の魔術もあつたらう。
 死別の悲しさに思ひ餘つては、かうしたはかない幻術をすら聯想して空想に走り、起死囘生の術なき世を怨むのは、弱い人間の常情である。「いはずやも」の反語は眞に思ひ餘つた激切の調で、失望のあまり、少し焦《ヂ》れ氣味に一人でいら/\してゐる氣分が遺憾なくあらはされてゐる。これらの愚痴は即ち大きな悲みを反映させる所以である。
 
向南山《かつらきに》 陣雲之《たなびくくもの》 青雲之《あをぐもの》 星〔左△〕離去《ひもさかりゆき》 月牟〔左△〕離而《つきもさかりて》    161
 
〔釋〕 ○かつらきに 「向南山」を向ひの南の山の義とする時は、藤原の宮からは葛城や高鞭(今の高取)山が南方に聳えてゐるので、選要妙にカツラキニとあるに從ひたい。向(フ)v南(ニ)山の義として北山〔二字傍点〕と訓むことは殆ど定説のやうになつてゐるが、その事態に適せぬことは評中に論じよう。○たなびく 「陣」は金澤本、類聚古集、古葉略類聚抄、神田本、その他多くの古寫本に陳〔左△〕とあるが、陣陳は古來からの通用字である。列《ツラナ》るの義。タナビクと訓むは意訓で、青雲にはこの方がふさはしい。○あをぐもの 青雲は青空のこと。空を雲居といふに近い。初句からこの三句までは、次の日及び月にかゝる序詞である。○ひもさかりゆき 日數も積りゆきの意。「さ(453)かり」は遠ざかること。「星」は日毛〔二字右△〕の二字を一字に誤寫したものとする新考の説に從ふ。○つきもさかりて 月數も積り隔つての意。「牟」は莫浮の切で漢音ボウ、呉音ム〔傍点〕だから、モ〔傍点〕の音はあるが、集中には用例が無い。古葉略類聚妙に毛〔右△〕とあるに據らう。
【歌意】 大葬の後、いつしか日も月も次第々々に積つて遠ざかり隔つてゆく、しかも我が悲しみお慕ひ申す心持は、いよ/\堪へ難い。
 
〔評〕 上句の調子は、二句で切らずに三句までいひ下した詞態と見るが自然であらう。すると「草香江の入江のはちす花はちす」(古事記下卷)と同じ反覆の叙法となり、日及び月にかゝる序歌の形式を具備する。かく月日がたつて〔六字傍点〕の意を分解して具象的に排對した表現は、時間經過の觀念を漸層的連續的に印象させる効果がある。
 又この上句の序は、方位の關係上北山の雲を眺めたのでは、假令光陰の轉義にもせよ、日月を聯想して呼應させることは不自然である。况や今一段深い寓意を發見することによつて、必ず南山の葛城の雲でなくてはならぬことを知るであらう。その理由は、この下句が光陰の經過以外に、「日の離る」は天武天皇の崩御を、「月の離る」は草壁皇太子の薨逝を擬へてゐると見られるからである。下に見える、
  あかねさす日は照らせれどぬば玉の夜わたる月の隱らく惜しも  (人麿―169)
と構想の起點を同じうするものである。紀によると、朱鳥元年九月に天皇崩じ給ひ、越えて同三年四月に太子が薨じて居られる。僅々四年間に夫帝と太子とにお別れになつた持統天皇の御衷心の悲は、どんなであつたらう。日夕思慕して哀悼の情に勝へぬ餘り、その御陵たる檜隈の大内陵、及び阪合の眞弓丘陵の方向に對つて、(454)數行の暗涙に咽ばれたに相違ない。藤原宮からはこの兩陵共にほゞ南方に當り、遠く葛城山の雲を望む位置にある。こゝに於て葛城山の雲は所謂有心の序で、下句が暗に夫帝の崩御及び太子の薨逝を擬へた意味であることの有力な證左になるのである。假に方位關係を示すと、左のやうになる。
  ○藤原宮         ○檜隈大内陵
               ○阪合眞弓丘陵              ←―
                 ○葛城山〔藤原宮から葛城山へ斜線〕
眞淵及び雅澄が單なる臆説で、持統天皇の御製でないと斷じたのは從へない。又題詞に「天皇崩之時」とあるのは、この歌に取つては詞が完全でない。
 
天皇(の)崩之後《かむあがりましゝのち》、八年九月九日|奉2爲《つかへまつりし》御齊會《おほをがみ》1之|夜夢裏習《よのいめのうちに》賜(へる)御歌一首
 
天武天皇崩御の後、朱鳥の八年九月九日御齋會を行はせられた夜の夢中に詠まれた大后(のちの持統帝)の御歌との意。〇八年朱鳥八年と思はれる。さらばこの御歌は既に大后御即位後の作であるから、次の「藤原宮御宇天皇代」の標中に收むべきである。然し上に「天皇(天武)崩之時大后御作歌」があるので、年序に拘はらず、類を以て、後人のこゝに記入したものであらう。○御齋會 宮中大極殿において、金光明經即ち最勝王經を讀誦せしめる法會。天武天皇の九年五月に始められたことが紀に見える。「齊」は齋と同字。○夢裏習賜 夢中に詠んだ歌を覺めて御誦習なされた意と思はれるが不完である。卷十六「荒城田《アラキダ》の子師田《コシダ》の云々」の歌の左註に(455)「右一首(ハ)黒麿夢(ノ)裡《ウチニ》作(リテ)2此戀歌(ヲ)1贈(ル)v友(ニ)、覺而令2誦習〔五字傍点〕1如(シ)v前(ノ)」とあるを參考すれば、略その意がわからう。
 
明日香能《あすかの》 清御原乃宮爾《きよみばらのみやに》 天下《あめのした》 所知食《しろしめしし》 八隅知之《やすみしし》 吾大王《わがおほきみ》 高照《たかてらす》 日之皇子《ひのみこ》 何方爾《いかさまに》 所念食可《おもほしめせか》 神風乃《かむかぜの》 伊勢能國者《いせのくには》 奥津藻毛《おきつもも》 靡足波爾《なびけるなみに》 鹽氣能味《しほけのみ》 香乎禮流國爾《かをれるくにに》 味凝《うまごり》 文爾乏寸《あやにともしき》 高照日之御子《たかてらすひのみこ》    162
 
〔釋〕 ○わがおほきみ この句も次の「日のみこ」も天武天皇を斥す。○たかてらす 既出(一七六頁)。○ひのみこ 既出(一七六頁)。○かむかぜの 枕詞。既出(二八〇頁)。○おきつもも 沖の藻も。「も」は邊つ藻を含めていふ。○なびける 「靡足」は靡キタルだから、約めてかく訓む。他訓悉く非。○なみに 次の「かをれる」に係る。○しほけのみかをれる 潮の氣の漲ること、即ち潮曇《シホグモリ》するをいふ、神代紀に「我《アガ》所v生《ウメル》之國(モ)唯|有2朝霧《サギリノミアリテ》1而|薫滿之哉《カヲリミテルカナ》」とある。○くにに 國なる〔二字右○〕にの意。この下に出でましき〔五字右○〕の五字を假に補つて解する。上の「いかさまにおもほしめせか」の句に應ずる詞が無いから。恐らくこの種の説明が二句程脱落したものと思ふ。○うまごり 美《ウマ》き織《オリ》の約。美き織物は文《アヤ》あるものだから、「あやに」に係かる枕詞に用ゐた。「味凝」は借字。○あやに 既出(四四七頁)。○ともしき 稀にしてよき意。
(456)【歌意】 飛鳥の淨御原の宮に天下を御統治なされたわが天皇樣はよ、何と思召されてかしら、あの伊勢の國は沖や岸やに藻の靡いてゐる波に潮曇してゐる國だのに、お出ましになりまた〔十字右○〕、そのお立派な天皇樣はよ。
 
〔評〕 九月九日は天武天皇崩御の日である。持統紀二年二月の詔に「自今以後毎(ニ)取(リテ)2國忌(ノ)日(ヲ)1要《カナラズ》須(シ)v齋《ヲガミス》也」と見えて、朱鳥の二年以來は、夫帝の毎年の御忌日に御齋會が行はれたのである。故にその夜の夢に夫帝のありし昔を偲び奉る詠作も、自然御出來になつた譯である。
 抑も壬申の亂に、夫帝が大和の吉野を出て、伊勢に赴かれたのは、軍事上豫定の御行動で、しかも作者御自身それらの謀議に與つて居られたことは、紀の文の暗證する處である。それを何ぞや「いかさまに思ほしめせか」とある、餘に空々しく聞えはせぬか。
 いや詩歌の語はさう眞ともに聞いてはならぬ。理窟ではない情味である。夫帝崩後八年、今の大平無事なる世相からは、過去の非常時の經緯葛藤を一切忘却して、只尊貴の大御身にしてさる荒海の邊に彷徨なされたことに就いてのみ怪訝し、さて恐懼する。傾倒し盡した夫帝思慕の情と、一分尊貴に對する敬愛の念とが、かくて十分に強調されるのである。詰りは例の詞人慣用の猾手段である。集中この語を使用したものは、人麻呂の近江の舊堵憑弔の作以外六首にまで及んでゐる。
 夫帝の擧兵せられたのはその年の六月廿四日で、廿六日には伊勢の桑名の郡家《グウケ》に留宿、翌廿七日には夫帝だけ美濃に赴かれ、亂鎭つて九月八日夫帝は再び桑名に至り御一宿、相伴うて大和へ御還幸なされた。事實はかくの如くであるのに、御自身の滿三月に亙つた鹽氣のみかをれる國の桑名滯在の勞苦をさし置かれ、僅々一二(457)泊に過ぎない夫帝の御上のみ云爲してゐる。苟も夫帝の御事とあれば御自身の全部を忘れておしまひになるといふその美しい御情合には、讀者としてその胸を打たれぬ者はなからう。
 思ふにこの篇は前後の二分段から成つたもので、段末にいづれも「高照す日の御子」の句を据ゑて節奏を調へたものと見たい。前段は天威讃歎の常套語で充たされて何の奇もなく、一首の重心は後段におかれてある。夢中感得の作としては、これ程の長篇は、古今東西を通じて殆ど絶無の事であらう。
 
藤原(の)宮(に)御宇天皇(の)代   高天原廣野姫《タカマノハラヒロヌヒメノ》天皇
 
この標は持統文武二朝に亙つてゐる。この標下に持統天皇の御名(高天原廣野姫天皇)をのみ記してゐるのは不完である。
 
大津皇子(の)薨之後、大來皇女《おほくのひめみこの》從(り)2伊勢(の)|齋《いつき》宮1上京《のぼりたまへる》時御作歌二首
 
大津皇子が薨じた後、姉君の大來皇女が伊勢の齋宮から飛鳥に歸京の時詠まれた歌との意。○大津皇子及び大來皇女 のことは、上の「わがせこを倭へやると云々」の歌の題詞の條に既出(三三七頁)。「大來」は大伯とも書く。○伊勢齋宮 皇大神の御杖代として奉仕する皇女の潔齊して住まれる處で、伊勢多氣郡竹川にあつた。その役所を齋宮寮といふ。序にいふ、齋宮の字面は史記滑稽列傳に見え、「間居齋戒(ス)、爲(ニ)治(メ)2齋宮(ヲ)河上(ニ)1、張(リ)2※[糸+峰の旁]帷(ヲ)1、女居(ル)2其中(ニ)1」とあり、神の爲に河上に齋戒することも和漢相似てゐるのは、何等かの説明を要すべきものであらう。○上京之時 持統紀に「朱鳥元年十一月丁酉朔壬子、奉(スル)2伊勢神祠(ニ)1皇女大來、還(テ)至(ル)2京師(ニ)1」とあ(458)る。これは御弟大津皇子の忌穢がかゝつて、大來皇女は齋宮を罷めて歸京されたのである。
 
神風之《かむかぜの》 伊勢能國爾母《いせのくににも》 有益乎《あらましを》 奈何可來計武《なにしかきけむ》 君毛不有爾《きみもあらなくに》    163
 
〔釋〕 ○かむかぜの 枕詞。既出(二八〇頁)。○なにしか 眞淵説に從つて一般にかく訓むが、舊訓のまゝにナニニカ〔四字傍線〕と訓むもよい。○あらなくに 古義はマサナクニ〔五字傍線〕と訓んだ。「有」は在に通用。
【歌意】 かういふ事なら、やはり私は伊勢の國に居らうものを。何しにまあ遙々と出て來たことだらうか。今は懷かしい弟皇子もゐなくなつてしまはれたのにさ。
 
〔評〕 鑑賞に先立つて、皇女が皇子の死を既に知つて居られたか否かを査定する必要がある。大津皇子の誅は十月二日で、皇女が齋宮を罷めての歸京は十一月四日であるから、この間三十餘日に及んでゐる。いくら秘密にしたところで、伊勢と大和とは隣國、知れぬ筈はあるまい。况や御姉弟の關係者も多からうから、知らせぬ譯もあるまい。又重い忌服のある者は神宮奉仕は絶對出來ない習慣であるから、皇子誅死と共に、忌服の報知は即刻伊勢に發せられねばならぬ筈である。既に前々月皇子が竊に伊勢に下つて、ほゞその大望を皇女が承知して居られたといふ事實がある以上は、この突然の忌服報知によつても、大概皇弟の誅死を感付かれる筈である。或はもつと露骨に齋宮の罷免歸京を命ぜられたかも知れない。故に皇女は歸京に先だつて皇子の死を知つて居られたと見るが至當である。
(459) 抑も齋宮の御身上は、神聖の上にも神聖が要求せられ、その行動は甚だ不自由なものであつた。ましてこの場合の皇女はむづかしい事情の下にお引上げであるから、その伊勢出發も京への歸着も、可なり面倒な監視があつたに相違ない。然るに「何しか來けむ」といひ、「伊勢の國にもあらましを」といひ、その居るも往くも恰も御自身の意思通り、自由に行動が出來るもののやうな口吻を用ゐられたことは、全く理路を歿了したもので、そこに弟宮の死に對する悲痛の情の深刻さが滲み出てゐる。
 一體この御姉弟の友愛は、上の「あがせこを倭へやると」及び「二人ゆけどゆき過ぎがたき」の歌の條でも述べた如く、餘程親密なものであらせられた。思ふにこれは單に同胞の御間柄といふだけではあるまい。齋宮は獨身生活を條件としたから、皇女は十四歳から今年二十八歳に至る十五年間、花の盛を不犯で過されたので、苟も異性に對する愛情は盡く弟宮御一人の上に濺がれてゐたと察せられる。思へば思はるゝ、そこで皇子も姉宮に對して尋常以上の愛を寄せてゐられたに違ひない。すると、「何しか來けむ」と、弟宮が既にこの世の人でないことを歎かれたその哀怨は、ます/\深く大きいものに聞き取られるのである。
    
欲見《みまくほり》 吾爲君毛《わがするきみも》 不在爾《あらなくに》 奈何可來計武《なにしかきけむ》 馬疲爾《うまつからしに》     164
 
〔釋〕 ○みまくほりわがする 「吾が見まく欲りする」を倒装法でいつたもの。○きみ 弟宮大津皇子をさす。○うまつからしに 宣長の訓ウマツカルヽニ〔七字傍線〕は語調が弛んで、こゝには協はない。やはり舊訓通り積極的にいつた方がよい。
(460)【歌意】 私が逢ひたいと息ふ弟宮は、もうこの世に居られもせぬのに、何でまあ遙々伊勢から上つて來たことであらうか、むだに馬を疲らせにさ。
 
〔評〕 懷かしい京に歸りはしたものゝ、愛する弟宮には再び逢ふ由もない、こんな事ならいつそ來ぬがましだつたと悔恨めいた口振に、やる瀬ない寂しい孤獨のお氣持がよく出てゐる。初二句は音數に制限された結果の倒装ではあるが、然しこの場合、この特殊な語法が頗る強く響いて、何はさしおいても一番に逢ひたく思ふ心持を表現するには、大切な効果を擧げ得てゐる。結句も面白い。何の無駄骨折リニ〔八字傍点〕、草臥レ儲ケニ〔六字傍点〕とでもいふ意を、馬に寓せて表現したところに、鮮明な時代色が見られる。即ち當時の行旅の乘物は輿又は馬であつたのだ。さうして伊勢大和間には可なり嶮峻な山路がある。天武天皇十一年の制に、「婦人乘(ルコト)v馬(ニ)如(クセヨ)2男夫(ノ)1」とあるから、この時も皇女こそ輿でもあつたらうが、從者の一行は男女とも騎馬が多かつたであらう。皇女はそれらを見そなはして、詩材に攝取されたもので、その邊にも皇女の敏慧さが窺はれると思ふ。
 尚この二首は體制から見ても、頗る整備した連環反復の體を成してゐる。郎ち上の歌の結句をこの二三句に反復し、四句はそのまゝ反復し、又結尾に同意の「に」の助辭を配して韻脚を整へた手法は、實に老練で、諷誦上流麗微妙な階調を成してゐるのである。しかも輕浮に流れた點が微塵も無い。
 
移2葬《うつしはふる》大津(の)皇子(の)屍(を)於|葛城二上《かつらぎのふたがみ》山(に)1之時、大來《おほくの》皇女(の)哀傷《かなしみて》御作歌二首
 
大津皇子の遺骸を二上山に移葬した時、大來皇女の詠まれた歌との意。○移葬 皇子の最初の葬地は明かでな(461)いが、謀反の事露はれ、譯語田舍《ヲサダノイヘ》(磯城郡)で死を賜はつた。多分その附近に埋葬されたものと思はれる。その改葬の理由も判然しない。○二上山 フタガミヤマ。音讀してニジヤウセンともいふ。大和河内の國境を走る葛城連山の最北端の山で、大和北葛城郡に屬し、頂上は雄嶽雌嶽の二峯に分れ、頗る特殊な山容を示してゐる。標高四百七十餘米突、その麓に有名な當麻寺がある。
 
宇都曾見乃《うつそみの》 人爾有吾哉《ひとなるわれや》 從明日者《あすよりは》 二上山乎《ふたがみやまを》 弟世登吾將見《いろせとわがみむ》     165
 
〔釋〕 ○うつそみ 現し身の轉で、生身をいふ。うつせみ〔四字傍点〕と同語。「人」「命」などの枕詞ともなるが、こゝは枕詞と見るべきではない。○われや 「や」は疑辭。○いろせ 古事記に素盞鳴(ノ)命の詞に「吾者天照大神之|伊呂勢《イロセノ》者也」と見え、同母の兄弟をいふ。「いろ」は親愛の意を表する語。「弟」の字はイロセ、イロトなど訓むから、こゝは必ずイロセと訓ませる爲に「世」の字を添へたのである。舊訓はイモセ〔三字傍線〕、眞淵はナセ〔二字傍線〕、古義は「弟」を吾〔右△〕の誤としてアガセ〔三字傍線〕と訓んだが、何れも牽強である。
【歌意】 生身の人間であるこの私としたことが、明日からは、物もいはぬこの二上山を弟皇子として見ることかまあ。
 
(462)〔評〕 大津皇子の最初の御墓はその刑死の際の假埋葬に過ぎず、約半歳の後、馬醉木花咲く頃に至つて漸く移葬を許されたものらしい。
 この歌初二句は理路に亙つた語のやうであるが、これが却つて四五句の非論理の矯語に力ある反映を齎して、深刻な哀悼の意を格段に強調してゐる。又移葬の日の作であるから「明日よりは」と置いたものではあるが、この一語によつて、昨日までは埋捨《ウメズテ》にされてゐたことの感傷が暗示され、今日の移葬に眞に悲を新にした趣が見えてあはれである。何にしても「二上山をいろせと見る」とは恐ろしい聯想階段の跳躍であつて、熱烈な弟宮戀しさの發露が認められ、眞に凡常を脱してゐる。殊に注意すべきは、皇子の墓を二上山の頂上雄嶽に築いた事である。二上山は大和平原を壓して西方に屹立する畸形の面白い山である。その絶巓にある皇子の墓は、當然大和の如何なる方面からも展望されることゝなる。だから姉宮皇女のお心持には、目前に見上げた皇子の墓から、皇子が甦つて、皇子と二上山とが固く結びつけられ、遂に二上山を「いろせとわが見む」の結果に到達したのである。若しその墓が山麓などにあつたとしたら、決してこの着想の深刻な主成氣分は動いて來ないで、も少し生温いものになるに違ひない。
(463)  うつせみの世の事なればよそに見て山をや今はよすがと思はむ (卷三―482)
などと比較して見たら、直に了倒されよう。この歌はかうした地理的考慮を忘れては、その妙味の一半を減じてしまふのである。但かくの如く結構な作ではあるが、「われ」と「わが」と主格が重複してゐるのは惜しいことで、正に白璧の微瑕といふべきである。
 
礒之於爾《いそのうへに》 生流馬醉木乎《おふるあせみを》 手折目杼《たをらめど》 令視倍吉君之《みすべききみが》 在常不言爾《ありといはなくに》     166
 
〔釋〕 ○いそのうへ 「いそ」は石處の義で、水濱の石ある處をいふ。新考に岸とのみ解いたのは當らない。「うへ」はほとりの意。○あせみ 漢名は※[木+浸の旁]木。山茶科の灌木で高さ五六尺より丈餘に及ぶ、實はヒサカキ〔四字傍点〕の木の如く冬枯れず、春、枝の先に三寸ばかりの穗を垂れ小白花群がり咲くが、未開のうちは稍薄赤く見える。今も大和には春日野を始め澤山ある。關東では箱根の奥に非常に多い。有毒で馬が食へば醉ふといふ。アセミと訓むは六帖の訓に據つたが、東京では今普通アセビ〔三字傍点〕と呼んでゐる。眞淵や雅澄は集中「安之婢」「安志妣」などあるのと同じに見てアシビ〔三字傍線〕と訓み、眞淵は今の木瓜《ボケ》とし、雅澄は本文の如く※[木+浸の旁]木とした。然しアシビ〔三字傍線〕は漢名櫨子、即ち木瓜で、※[木+浸の旁]木の馬醉木とは別である。舊訓にはツゝジ〔三字傍線〕とあるが實際上從ひ難い。○ありといはなくに 在るといふ譯でもないのにの意。いふ〔二字傍点〕の語は極めて輕く使はれてゐる。
【歌意】 磯際に生えてゐる馬醉木の、折から美しい花を着けてゐるのを、一枝手折らうと思ふけれども、あゝ然し、肝腎の見せたい人が、今はこの世に居るといふ譯でもないのにさ、手折つても何にしようぞ。
 
(464)〔評〕 大來皇女が移葬の見送りに立たれての途上、又は葬處附近での所見に基いた作であらう。まことにその折の皇女の胸中は、弟皇子の追憶で一杯になつてゐる。偶ま溪間などに咲いてゐる馬醉木の花の明るさに打たれて、一枝欲しとの詩興が動くと、聯想は直ちに又弟皇子の上に立返つて、あゝこの美しい花をあの人に見せたらと思ふ。が生憎現實は一瞬時の空想をも假借しない。皇子は既に隔世の人である。さては誰が爲にか花折る勞をも取らうぞと、躊躇低徊の間に無量の感愴を寄せたのである。但「手折らめど」は卒直の語ではあるが稍理窟めく。又「ありといはなくに」は現代人は耳馴れないから陳腐を感じないが、實はその當時としては新味ある表現とはいひ難い。
 
右一首今案(フルニ)不v似2移葬之歌(ニ)1、蓋(シ)疑(フラクハ)從(リ)2伊勢神宮1還(ル)v京(ニ)之時、路上(ニ)見(テ)v花(ヲ)感傷哀咽《カナシミテ》作(メル)2此歌(ヲ)1乎。
 
 この左註は甚しい誤解である。成程この一首は移葬を主として歌つたものではないが、やはりその際に於ける口吟である。皇女が神宮から歸京途上の作とする想像は全く無稽で、皇女の歸京は十一月であるから、馬醉木の花の咲く筈がない。
 
日並皇子尊殯宮之時《ひなみしのみことのあらきのみやのとき》、柿本(の)朝臣人麻呂(の)作歌一首并短歌
 
(465)日並皇子尊の御葬送の時、人麻呂の詠んだ歌との意。○日並皇子尊 草壁皇太子の尊號。卷一「日雙斯皇子《ヒナミシノミコノ》命の」を參照(一八七頁)。○殯宮 孝徳紀の制に「凡(ソ)王以下及(ビ)至(ルマデ)2庶人(ニ)1不v得v營(ムヲ)v殯(ヲ)」と見えて、殯處を造ることの出來るのは天皇及び親王に限り、そこを殯宮と稱した。但孝徳天皇の制は何時まで嚴守されたものか。天武紀(八年)には少納言舍人王の死に「因(テ)以(テ)臨《ミソナハシ》v殯(ヲ)哭之《ネツカフ》」とある。天武天皇の頃には諸王までは殯を營むことを許されたらしい。又別に宮舍を建てず、閑處を利用して殯處に充てることもある。又殯の意を延長して葬と同意に用ゐることもある。船(ノ)首(ノ)王後墓志に(天智帝七年)戊辰十二月殯(ス)2葬松岳(ノ)山上(ニ)1とあるを、藤井貞幹の釋に「此版以(テ)v殯(ヲ)爲(ス)v葬(ト)、伊福部氏(ノ)墓志(ニ)云火葬(シテ)即(チ)殯(スト)、此處及(ビ)萬葉集(ニ)以(テ)2眞弓(ノ)岡陵(ヲ)1爲(スモ)2日並知(ノ)皇子(ノ)殯宮(ト)1亦同(ジ)、禮記檀弓楊※[人偏+京](ノ)注(ニ)云(フ)此殯(ハ)謂(フ)v葬(ムルヲ)之也」と見え、こゝ及び以下の題詞にある「殯宮之時」は御送葬之時といふに同じである。更にその意を擴張しては、御墓仕をする一周の間を斥していふやうにもなつた。尚「大殯」を見よ(四三〇頁)。
      
天地之《あめつちの》 初時之《はじめのときし》 久堅之《ひさかたの》 天河原爾《あまのかはらに》 八百萬《やほよろづ》 千萬神之《ちよろづがみの》 神集《かむづとひ》 集座而《つどひいまして》 神分《かむはかり》 分之時爾《はかりしときに》 天照《あまてらす》 日女之命《ひるめのみこと》【一云 指上《サシノボル》、日女之命《ヒルメノミコト》】 天乎波《あめをば》 所知食登《しろしめすと》 葦原乃《あしはらの》 水穗之國乎《みづほのくにを》 天地之《あめつちの》 依相之極《よりあひのきはみ》 所知行《しろしめす》 神之命等《かみのみことと》 天雲之《あまぐもの》 八重掻別而《やへかきわけて》【一云|天雲之八重雲別而《アマグモノヤヘグモワケテ》】 神下《かむくだし》 座奉之《いませまつりし》 高照《たかてらす》 日之(466)皇子波《ひのみこは》 飛鳥之《あすかの》 淨之宮爾《きよみのみやに》 神隨《かむながら》 太布座而《ふとしきまして》 天皇之《すめろぎの》 敷座國等《しきますくにと》 天原《あまのはら》 石門乎開《いはとをひらき》 神上《かむあがり》 上座奴《あがりいましぬ》【一云、神登座※[人偏+尓]之可婆《カムノボリイマシニシカバ》】 吾王《わがおほきみ》 皇子之命乃《みこのみことの》 天下《あめのした》 所知食世者《しろしめしせば》 春花之《はるばなの》 貴在等《たふとからむと》 望月乃《もちづきの》 滿波之計武跡《たたはしけむと》 天下《あめのした》【一云|食國《ヲスクニハ》】 四方之人乃《よものひとの》 大船之《おほふねの》 思憑而《おもひたのみて》 天水《あまつみづ》 仰而待爾《あふぎてまつに》 何方爾《いかさまに》 御念食可《おもほしめせか》 由縁母無《つれもなき》 眞弓乃崗爾《まゆみのをかに》 宮柱《みやばしら》 太布座《ふとしきいまし》 御在香乎《みあらかを》 高知座而《たかしりまして》 明言爾《あさごとに》 御言不御問《みこととはさず》 日月之《つきひの》 數多成塗《まねくなりぬる》 其故《そこゆゑに》 皇子之宮人《みこのみやびと》 行方不知毛《ゆくへしらずも》【一云、刺竹之皇子宮人《サスダケノミコノミヤビト》、歸邊不知爾爲《ユクヘシラニス》】
 
〔釋〕 ○あめつちのはじめのとき 記上に「天地初發之時《アメツチノハジメノトキ》」とある語を襲うてゐるが、記のは天地開闢の初めを斥し、これは神代の上世を廣く斥していつた。八百萬の神の天の河原に神集ひをした事は、初發の時ではない。(467)それより後である。○ひさかたの 天《アマ》にかゝる枕詞。既出(二八三頁)。○あまのかはら 天《アメ》の安河《ヤスガハ》のこと。記上に「於《ニ》2天(ノ)安河《ヤスガハ》之|河原《カハラ》1神2集《カムツドヘ》八百萬(ノ)神(ヲ)1」とある。○かむづとひ その集ひが神の御所爲ゆゑ「神」の語を冠せていふ古代の修辭。○かむはかり 神々の相談をいふ。大祓の祝詞に神議《カムハカリ》の語がある。「分」をハカルと訓む證は、正辭はいふ字鏡集にありと。これを信友のカムクバリ〔五字傍線〕(又カムクマリ)古義のカムアガチ〔五字傍線〕と訓む説は、神代事實を枉げる恐がある。さう訓むと、諸神が相談の上、日神は高天原、その御子孫は葦原の瑞穗の國と分配したことゝなる。諸神の相談は日神の岩門に隱《コモ》られたのを出し奉る爲の神議で、國土分配の爲ではないことは記紀に明かである。絶對なる日神の權限に消長を來たすことだから、うかと訓んではならぬ、○ひるめのみこと 天照大御神のこと。「ひる」は晝の義。「め」は尊稱のむち〔二字傍点〕の約み〔傍点〕の轉語で、なほ尊稱であるから、晝を支配する神をいふ。月夜見《ツキヨミノ》命の名義に對してゐる。或はいふ「め」は見え〔二字傍点〕の約と。割註「さしのぼる日女」は本文の「天照す日女」に比して劣る。○あめをばしろしめすと 御自身は〔四字右○〕高天原を治め給ふとて〔右○〕。○あしはらのみづほのくに 委しくは豐葦原|之《ノ》千秋之長五百秋之水穗國《チアキノナガイホアキノミヅホグニ》といひ、わが日本帝國の美稱。「みづほ」は瑞々しき稻穗。稻を褒めていふ。「水」は借字。○あめつちのよりあひのきはみ 天と地との接する果。その果は遙に遠いものだから、これを轉義して極めて久しい意に用ゐた。天地の初めて判れたのに對へて、判れた天地のまた寄り合ふ限までと解した芳樹説は牽強である。「相」は借字。○かみのみことと 神の命として〔二字右○〕。○あまぐも 天にある雲。○やへかきわけて 幾重なるを〔三字右○〕掻き分けて。これは皇孫の命が高天原より日向の高千穗の峯に下り給ふ道の状で、記紀に委しく出てゐる。割註「天空の八重雲わけて」は、本文と優劣がない。○かむくだしいませまつりし 天照大神が〔五字字右○〕天降してこの國に住まはしめられたの意。それは皇孫|邇々藝《ニゝギノ》命を斥す。「神下」は一般にカ(468)ムクダリ〔五字傍線〕と訓んであるが、こゝは他動に訓む方が、次の「座《イマ》せまつりし」の他動詞に打合つて宜しい。○たかてらすひのみこ 下の句意によれば、「日の皇子」は天武天皇を斥してゐる。然るに「いませまつりし」は皇孫の命の事だから、絶對にこの句には連續しない。必ず誤脱がある。試に「座奉之|皇孫《・スメミマ》の神の子とます〔九字右○〕高照日皇子波」とでも補つて置かう。○きよみのみや 淨御原宮のこと。「きよみ」はその宮地の稱で、淨み原、淨みの宮、淨みの川など續けていふ。「明日香淨御原宮御宇天皇代」を參照(九九頁)。○かむながら 既出(一九五頁)。「神隨」と書くは語義に從つたもの。○ふとしきまして 「ふと」は讃稱。「しき」は統治すること。既出(一七六頁)。「まして」の下、續きが不完である。假にさて〔二字右○〕の語を補つて解する。○すめろぎのしきますくにと この瑞穗の國は〔五字右○〕天皇の統治される國として。「すめろぎ」は天皇の御位を斥していふ。單に天子を斥す場合には、大王《オホキミ》といふが例である。故にこれを天武天皇の御事とするは非。○あまのはら 天上の〔右○〕。○いはとをひらき 高天が原とこの國との通路にある石門を押|排《ヒラ》いての意。宣長が「開」を閉〔右△〕の誤としてタテヽ〔三字傍線〕と訓んだのは却つて非。○かむあがり 天に上るをいふ。「崩」の字をわが國振にカムアガリと訓んだ。○あがりいましぬ 割註の「神登り(469)いましにしかば」は文脈が亂れて意味が徹らない。體製の上からも、茲で切れて段をなす方がよい。○わがおほきみみこのみこと これは日並皇子(ノ)尊のこと。○しろしめしせば 知し召さばと同意。「しろしめし」は體言格で、かく動詞を一旦體言格にして、更にそれをサ變に活用せしめる例は、欲りす〔三字傍点〕、盡き〔二字傍点〕せず、絶え〔二字傍点〕せぬ、老い〔二字傍点〕するなど多い。○はるばなの 春の花の如く。「貴し」に係る枕詞。○たふとからむと 國家が〔三字右○〕めでたく榮えようと。次の對句もおの/\補語を要する。「たふと」は極めてめでたきをいふ。こゝでは階級的の意義はもたない。○もちづきの 望月の如く。「たたはし」に係る枕詞。「もち」は滿《ミチ》の義。「望」は滿月の夜の稱。○たたはしけむと 大御惠は〔四字右○〕滿ち足らはむとの意。湛ふ〔二字傍点〕の形容詞格で、たゝはしくあらむの變形語だから「けむ」は過去の助動詞ではない。「と」は二句ながらとて〔二字傍点〕の意。○おほふねの 大船の如く。「思ひたのむ」の枕詞。航海上大船に乘るは力強きものなる故にいふ。○あまつみづ 雨のこと。「仰ぎて待つ」にかゝる枕詞。旱天に雨を待つ趣にていふ。卷十八にもこの語がある。後世テンスヰと音讀して雨の事に用ゐた。○いかさまにおもほしめせか 既出(一二四頁)。「か」は下の「まねくなりぬる」の「ぬる」で結ぶ。○つれもなき ゆかりもない。ユカリ〔三字傍点〕は新語で、奈良時代にはそれを「つれ」といつたのである。「都禮《ツレ》もなき左保《サホ》の山べに」(卷三)「津禮《ツレ》もなき城上《キノヘノ》宮に」(卷十三)などの用例がある。「つれ」の原義は連れ〔二字傍点〕である。舊訓はヨシモナキ。○まゆみのをか 高市部佐田の森にある。諸陵式に眞弓丘《マユミノヲカノ》陵、岡宮御宇天皇、在(リ)2大和高市郡(ニ)1、兆城東西二町南北二町、陵戸六烟とある。岡宮天皇の稱は淳仁天皇の天平寶字二年八月の追尊で、日並皇子の御事。○みやばしら 「みあらか」に對した實在の柱で、「ふと」に係る枕詞ではない。○ふとしきいまし 立派にお立てなされ。新考はいふ「座」は立〔右△〕の誤にてフトシキタテ〔六字傍線〕なりと。それも一理あるが、かうした辭樣も轉つて出來たものと見てよい。(470)膠柱の論は賛成しない。○みあらか 御殿。既出(一九〇頁)。○たかしりまして 既出(一五三頁)。○あさごとに 朝毎にの意。毎日といふは早い。芳樹が貴人の許には朝參るものなればといへるは當つてゐる。「明言」は借字。○みこととはさず 何も仰せられず。言問ふ〔三字傍点〕を否定した言問はず〔四字傍点〕の敬相なる言問はさず〔五字傍点〕に「み」の敬語を添へたもの。「言問ふ」は物云ふこと。「ま言問はさず」(崇神紀)「言問はぬ木すら」(卷四)など例は多い。○つきひの 四言の句。「日月」を顛倒してツキヒと訓む。○まねく 數多きこと。「さまねし」を參照(二八二頁)。舊訓はアマタニ〔四字傍線〕。○なりぬる 「ぬる」で句は切れる。古義はヌレ〔二字傍線〕と訓んだが、これはヌレバ〔三字傍点〕の意の接續の詞形だから、それを又「そこ故に」と承けると、意が重複するので從へない。「塗」は借字。○そこゆゑに それ故にといふに同じい。この接續詞がない爲に、割註「刺竹《サスダケ》の皇子の宮人行方知らにす」は上への續きが唐突で、木に竹の憾がある。「刺竹」は宮、皇子《ミコ》、君などに係る枕詞。卷六「刺竹の大宮人の」の條參照。「知らにす」は知らぬ思するの意で、「に」は否定のず〔傍点〕の辭に近い。「不知爾」の不は否定の意をたしかにする爲に添へた。○みやびと 宮に奉仕する人。官人。○ゆくへしらずも 途方に暮れることよ。即ち行くべき方の知られぬ意である。諸註、退散して行方が分からぬと解いてゐるが、一周の御喪の間は舍人はなほ分番宿直して退散などしない。
【歌意】 天地のはじめの時、高天の原の天の安河原に八百萬の神々がお集りなされて、神心に御相談なされた時に、天照大神は天上をば御自身領知なさるとて、この葦原の瑞穗の國を皇孫瓊々杵(ノ)命の永久にお治めなさるべき國とお定めなされて、天の叢雲《ムラクモ》を掻別けてお降し遊ばされた、その皇孫の御子孫とある〔十一字右○〕日の御子天武天皇は、飛鳥の淨御原(ノ)宮でこの世をお治めなされ、さてこの國は次代の〔三字右○〕天皇の御領の國とお定めなされて、御自身は天の石門を押開いて、神として天上に上つておしまひになつた。そこでわが皇太子日並知皇子が、やがて御即位(471)遊ばされて、その御代にもならば、天下はめでたく榮え、大御惠は天下に滿ち足る事だらうと、天下四方の人が頼みにして仰ぎ待つた甲斐もなく、皇子は何と思し召したか、縁もない眞弓の岡に宮柱を占め立て、御殿をお造りなされてお住ひになり、自分達が朝毎に參りはするが、何の仰も下さらずに月日が數多積つたことわい、それ故にわれら東宮奉仕の職員達は途方に暮れることよ。
 
〔評〕 この篇長い割合に組織は單純で、前後二大段に區分される。前段は天地の開闢から皇統の經緯を叙し、天武天皇の崩御に至つて終つた、一意到底の叙出である。後段は專ら草壁皇太子の御身上を主として終始し、生前の輿望と薨去の事相とを丁寧反復し、結局は終に作者の自己身上に落着してその筆を擱いた。
 開口一番天地を絶叫し、高天原對瑞穗國、皇祖對天皇、幽冥の神對現神の觀念のもとに、皇位繼承の次第を正々堂々と詳説し、高古雄渾莊重典雅、恰も記紀の文を讀むが如く、又祝詞を聞いてゐる如き心地がする。勿論古代傳説の口吻を瀉瓶して傳へたものだから、同一の古代傳説を基本として記録された記紀と相通符合の點のあるのは、蓋し當然の事であらう。
 然し古事記の撰に先立つ二十二年前に於いてこの種の文字を見得たことは、實に驚異であらねばならぬ。天武紀の九年に皇子諸臣に詔して「令(メタマフ)v記(シ)2定(メ)帝紀及(ビ)上古(ノ)諸事(ヲ)1」といふ記事が出てゐる。草壁皇子の薨去はそれより九年後の事だから、或はそれ等の記録の内容を拉し來つたものか。否々日本紀の「一書(ニ)曰(ハク)」の旁書を見ても知られる通り、諸の氏の文や諸家の口傳が澤山に存在してゐた時代だから、既に大同小異の口碑や文字が世間一般に流布して、皇室を中心とした建國觀念が、國民の胸臆に纏まつて築き上けられてゐたと見てよい。さ(472)てはこの作者は實にその代辯者である。
 天武御治世の一齣は後段の前提で、草壁皇太子出現の關鍵をなす役目を勤めてゐる。即ち天武帝が日嗣の皇子に御讓國遊ばされて神上りましたと、その御登遐を深い思召からのやうに有意味に取成し、おのづから重きを皇太子の御上に歸した。
 「天の原石門を開き」は聊か首を傾けざるを得ない。高天の原と現世との交通路に石門のあることは、如何なる記録傳説にもない。伊邪那岐命が夜見の國より逃げ還り給うた時、千引石《チビキイハ》を黄泉比良《ヨモツヒラ》坂に引塞《ヒキフタ》がれた話はあるが、それは高天原の事ではない。又天照大神が天(ノ)石屋戸《イハヤト》を閉て、さし籠り給うた故事はあるが、それは高天原においての出來事で、現世との交通路での事ではない。かうした特殊の傳説が當時存在してゐたものか、或は又作者が詩人的空想に任せて、如上二つの石戸を撮合して空中樓閣を茲に現ぜしめたものかは不明である。
 「吾王皇子の命の」以下、まづ皇太子の御治世に對する豫望と期待とを極力誇大に主張して、天下萬民が――「貴からむと――たたはしけむと――思ひ憑みて――仰ぎて待つ」とまでその深い信頼を捧げた。これは或は天子の治世を讃する紋切型の平語かも知れない。然しそれに一々「春花の」「望月の」「大船の」「天つ水」等の枕詞を冠するに至つて、詞意が甚しく強調され、作者獨自の感懷がそこに往來し躍動してくる。况やこの四句の枕詞が或は快美な、或は豪壯な、或は崇高な、いづれも陽性を帶びた本質をもつ成語であるので、いかにも瑰麗絢爛人目を眩耀せしめる。これでこそ前節の立派な格調に對應が保たれ、斤量相當ることが出來、又その期待が水泡に歸し豫望が裏切られた失望と悲痛とを力強く反撥し得る、一石二鳥の効果を擧げてゐる。
 「春花の云々」「望月の云々」の前後對、ついで「大船の云々」「天つ水云々」の前後對の間に「天下四方の人(473)の」の單句を挿入したことは、作者の修辭上の用意が窺はれる。齊整の弊は單調に陷る。わざと句法を交錯して變化を求め、それがおのづから前段の無變化に反映を成してゐることが面白い。
 「天つ水仰ぎて待つ」は輕々に看過し難い句である。それは天武天皇の朱鳥元年九月に崩御あらせられるや、皇太子は直ちに踐祚せず、以後諒闇三年の喪に服された。唐風模倣の時世相が然らしめたものである。天下の臣民は、一日も早くその九五の位を踐ませられる事を熱望し、又それを必然の結果と思惟して居たのである。豈に料らんや、諒闇ももうあと僅か五箇月で果てようとする朱鳥四年五月に至つて、梁木一朝に摧け、太子は父帝の御後を追はれた。待ちに待つてこの始末、こんな大きな失望を國民一般に齎した例は恐らくあるまい。况や朝な夕なに大御身近く侍ひ、尊き御言を平生承つてゐた東宮舍人たる作者達の與へられた衝動は、どんなものであつたらう。
 これ「皇子の命の天の下知ろし召しせば」とはかない繰言も繰り返されて、黄金世界を夢想的に描がいた所以で、思へば眞に氣の毒にも亦哀である。
 「いか樣に念しめせか」は作者が近江舊都憑弔の歌にも使用した常套句である。平地に波瀾を起す慣手段として止むを得まい。
 「つれもなき」以下「まねくなりぬる」までは、皇太子の薨去後の特異な條件や事態を捉へて描寫し、一向にその薨逝を道破せぬ點、頗る婉曲味があつて面白いと思ふ。偏に如在の觀を成し、只その御住居の島(ノ)宮が眞弓の岡に變り、朝毎にあつた御用命が「御言問はさず」で、連日に及んでもない事を思ひ疑つたその痴呆の作意は、下の
(474)  東の瀧の御門にさもらへど昨日も今日も召すこともなし  (卷二−184)
と全く同規で、詩人の慣手段である。
 眞弓の岡は皇太子の御葬處である。「宮柱太しきいまし、御在香《ミアラカ》を高知りまして」とはいふものゝ、それは作意の爲に驅られた誇張の修辭で、事實は靈壙の前に建てられた假の御靈屋《オタマヤ》に過ぎまい。又「御言問はさず」と御言の有無を問題にした事は、作者の身分を物語つてゐるもので、作者は實に東宮舍人であつた。舍人は側近の雜務に奉仕する役目(紀に出づ)だから、朝參毎にまづその日/\の御用命を承はつたものである。
 最後の一章、月日は經てど何等の御用命もないとなつては、舍人としては途方に暮れる譯である。「行方知らずも」と戞然響を收め、餘韻をいよ/\遠く永からしめてゐる。
 要するに堂々たる大作、作者の精神氣魄が字々句々に充實して、一條の煉鐵を延べた如き觀がある。若し他人をして作らしめたなら、萎靡振はざるものになり勝であらう。といふのは、草壁皇子は皇太子でこそあれ、赫々たる事迹を遺さぬお方で、尤も壬申の亂の時はまだ御年が僅に十一歳だから、御兄君、高市皇子の如き功績を樹てぬのは無理はないとしても、廿八歳御薨去までの間にも、史に特異の記事が一向に見えない。只温順一方の君であつたらしい。さうなると殆ど諷詠の題材に窮してしまふ。流石に人麻呂は歌聖である。忽ち皇太子としての薨去といふポイントを掟へて、縱横無碍に揮灑し去つた。さうして、全然その薨去と葬送とには一言も陽に觸れる事なしに、又それに對する哀悼悲痛の鋭い刺戟、深い大きい情の動搖を直叙する事なしに終つてゐる。まことに珍しい體である。かくてこそ含蓄の味ひが非常に深く永く、いはゆる長歌の哀は慟哭よりも甚しきものがあるのである。只憾むらくは前段中に、辭意の不完と思はれる一二の點が白璧の瑕をなしてゐる(475)事である。
 
反歌二首
 
久堅乃《ひさかたの》 天見如久《あめみるごとく》 仰見之《あふぎみし》 皇子乃御門之《みこのみかどの》 荒卷惜毛《あれまくをしも》     168
 
〔釋〕 ○あふぎみし この句は皇子にのみ係るもので、御門までは係らない。○みこのみかど 皇子の御所をいふ。島の宮のこと。「みかど」は御門の義であるが、こゝは全體的に御所の代表語となつてゐる。芳樹が、大殿のことに解したのはやゝ狹い。まして文字通りに門とのみ見るのは尚狹い。この島の宮の所在地は、今の高市郡高市村大字|島庄《シマノシヤウ》と思はれる。○あれまく 荒れてゆかうことがの意。「まく」はむ〔傍点〕の延言で、ムコト〔三字傍点〕の意。○をしも 「も」は歎辭。
【歌意】 天を見上げるやうに、今まで尊く長く仰いでお見上げ申した皇子樣の、その御所が次第に荒れてゆかうことが實に惜しいことではあるわい。
 
〔評〕 この歌立意は極めて單純で、東宮御所の主人たる皇子の薨逝に會つて、殿舍林苑の荒れゆく豫感に打たれた詠歎である。「天見る如く」はこの作者の套語で、長皇子の獵路《カリヂノ》池に遊獵し給ふに扈從した時の歌にも、
  ……久方の天見る如く ます鏡仰ぎて見れど 春草のいや珍しき 吾が大王かも (卷三―239)
(476)と、その景仰の態度を譬喩してゐる。三句の「仰ぎ見し」が「御門」には係らず、直ちに「皇子」に續く修飾語であるといふことも、この用例によつて明かである。さて「天」は空とほゞ同意であるが、この語に崇高な神秘的觀念が必ず附隨してゐた上代思潮から見れば、この譬喩は皇子に對する絶對禮讃で、この禮讃は間接に御門の荒廢に對する感傷の情緒を、強く搖曳せしめる。又「見し」の過去は皇子の薨逝を暗示してゐる。下句「御門の荒れまく」の一轉語を下して眼前の事象に注目したことは、概念的に墮つる弊から脱して殊によい。而して作者がかくの如くに皇子をながめ、かくの如くに御門に執着をもつ所以は、この宮の舍人として誠心誠意奉仕してゐたからであつて、決して通り一遍の儀禮的哀詞ではない。
 修辭の上からいふと「見る」「見し」の二語は互にさし合ふので、平安人なら避けて、三句を仰ぎてし〔四字傍点〕とでもいふであらう。
 
茜刺《あかねさす》 日者雖照有《ひはてらせれど》 烏玉之《ぬばたまの》 夜渡月之《よわたるつきの》 隱良久惜毛《かくらくをしも》    169          
〔釋〕 ○あかねさす 日にかゝる枕詞。既出(九二頁)。○てらせれど 照らしてゐるけれどの意。「てらせ」は照らす〔三字傍点〕の已然形で、「れ」は完了の助動詞り〔傍点〕の已然形。○ぬばたまの 夜にかゝる枕詞。「烏玉」は烏扇《ヌバタマ》の實《ミ》の稱。既出(三〇四頁)。○よわたる 夜の間に峯を經行くの意を、抽象的にかくいつた。○かくらく 隱るゝことの意。「君が御言《ミコト》を持ちて通はく〔三字傍点〕」(卷二)、「清き瀬の音《ト》を聞かく〔三字傍点〕しよしも」(卷十)、「兒ろが金門に行かく〔三字傍点〕しえしも」(卷十四)など皆同例である。
(477)【歌意】 太陽こそ晝を照してゐるけれども、夜空を經行く月の隱れることが誠に惜しいことだわい。―天子樣はましますが、太子樣のお薨れが、ほんに口惜しいことではあるよ。
 
〔評〕 表面は落月に對する愛着を歌つたもので、「日は照らせれど」の確定的前提は、その主想を強める爲にした對照である。單なる叙景として見ると、月夜に日が出てゐるやうに聞え、甚しい天變ともなるが、これは主感を歌つての譬喩だから仔細はない。元來が悼歌で、月の沒するのは皇子御薨逝の譬喩であるから、隨つて初二句も必ず寄託が無くてはならぬ。するとそれは皇子の御母持統天皇を擬へ奉つたものであることが頷かれよう。持統天皇は即位の大禮こそその四年に擧げ給うたが、天武天皇崩後は制を稱して既に三年の御治世を見た。即ち日は照してゐたのである。照れる日、隱るゝ月の合拍は、この場合比興が頗る事體にあてはまつてゐる。唐の詩仙李白が上皇西巡の歌に、玄宗(上皇)、肅宗(今上)のことを「竝(ベ)2懸(ケテ)日月(ヲ)1照(ス)2乾坤(ヲ)1」と作つたのも、譬喩の基點が同一であつて面白い。しかし人麻呂の作は李白のよりも約七十年の先出であることは、大いに愉快な次第である。風調氣格の高い作で、「茜さす」「烏玉の」の枕詞も色相上の映對をもつ。
 
或本(ニ)云(フ)、以(テ)2件(ノ)歌(ヲ)1爲(セリ)2後(ノ)皇子(ノ)尊(ノ)殯宮之時(ノ)反歌(ト)1也
 
 或本にはこの歌を、高市《タケチ》皇子の殯官の時、人麻呂が詠じた長歌の反歌だとしてあるとの意。高市皇子も日並皇子の薨後、皇太子に立つてやはり薨去されたから、後皇子尊と申し上げるのである。その殯宮の時の人麻呂の作は下に(五二五頁)出てゐる。成程その反歌の一として見ても事情は適合するので、行文は拙いがこれも一(478)の異傳として、必しも斥けるべきものではあるまい。
 
或本歌(の)一首
 
これは必ず次の「皇子(ノ)尊(ノ)舍人等(ガ)慟傷《カナシミテ》作歌」の中の「島宮池上有放鳥云々」の歌の左註たるべきものが、こゝに紛れ込んだに相違ないが、姑く舊本の位置のまゝに、こゝで釋することゝする。
   
島宮《しまのみや》 勾乃池之《まがりのいけの》 放鳥《はなちどり》 人目爾戀而《ひとめにこひて》 池爾不潜《いけにかづかず》    170
 
〔釋〕 ○しまのみや 日並皇子の御所の稱。委しくは下出の同項を參照(四八〇頁)。○まがりのいけ 勾玉などのやうに池の形の彎曲してゐた故の名で、心字他のことゝ思はれる。庭中の池だから地名ではない。○はなちどり 放し飼にしてある鳥。追善の爲の放し鳥ではない。○ひとめにこひて 皇子の御生前賑かであつた人目を戀しがつての意。○かづかず 水中に潜(479)らない。「かづく」は潜ること。
【歌意】 島の宮の心字池にゐる放し飼の水鳥は、今の寂しさに堪へず、皇子樣御在世の頃の賑かな人目を戀しがつて、一向池にもぐり込みはせぬわい。
 
〔評〕 たま/\池邊にゐる水鳥に對して、作者の感懷を寓せたものである。相變らず自分は御門には侍うてはゐるものゝ、御主人の君はましまさず、御喪中のことゝて、碌に庭上に逍遙する人影もない。御生前の繁華が實に慕はしくなる。かうした心境から眺めると、水鳥の池に潜らぬのも人戀しさのやうに思へるのである。「人目に戀ひて」は人目の無いことを反證してゐる。かく主觀の色眼鏡から何もかも一色に見てしまふ、その痴愚な點があはれである。しかも水鳥の心理をいふに、斷言の叙法を採つたことも全く理性を没却したもので、一段の詩味をそゝる。同じ放鳥でも、下の「島の宮池の上なる放鳥云々」の歌よりも一層立優つた佳作である。
 
皇子(の)尊(の)宮(の)舍人《とねり》等(が)慟傷作《かなしみてよめる》歌二十三首
 
日並皇子の殯宮の時の舍人等の悼歌である。題詞は上に讓つて省略して書いたもの。○舍人 こゝのは東宮舍人である。大寶の職員令に、舍人監といふのがあつて、舍人六百人とある。職務は分番宿直、假使容儀と見えて、分番宿直したり、使に出たり、管鑰を掌つたり、行啓に供奉したりするのである。以下の歌、何れも作者は明かでない。
 
(480)高光《たかひかる》 我日皇子乃《わがひのみこの》 萬代爾《よろづよに》 國所知麻之《くにしらさまし》 島宮波母《しまのみやはも》    171
 
〔釋〕 ○たかひかる 日に係る枕詞。「高照らす」といふに同じい。「高照らす」を見よ(一七六頁)。○わがひのみこ 日並皇子を申す。○くにしらさまし 天下をお治めなされようの意。「まし」はこゝは連體形で、直に「島宮」に續くのである。終止ではない。○しまのみや 高市郡高市村字島ノ庄にあつた。もと天武天皇の別宮で、屡ば行幸があり、次いで日並皇子の御所となり、皇子はこゝで薨ぜられた。契沖は高市郡橘寺の地として、「橘の島にし居れば」(本卷所載)を引證したが、橘寺の地は島の宮とは十餘町離れてゐる。但橘の名稱は汎く飛鳥川の南岸に亙つて、橘寺の地にも島の宮の地にも及んだものであらう。下の「橘の島の宮には」の條參照。「島」は作庭上の名稱で、推古紀三十四年に、「蘇我(ノ)馬子(ノ)大臣薨(リヌ)、家(ヅクリス)2於飛鳥河之傍(ニ)1、仍(テ)庭中(ニ)開(リ)2小池(ヲ)1、乃(チ)興(ス)2小島(ヲ)於池中(ニ)1、故《カレ》時(ノ)人曰(フ)2島(ノ)大臣(ト)1」とある。この馬子の宅址が蘇我氏滅亡の後、官に沒入されて、遂に天武天皇の別宮となつたものだらうと思はれる。○はも 歎辭。
(481)【歌意】 こんな不祥事さへ無かつたら〔十三字右○〕、わが皇子樣が皇居として、千萬年も天下をお治めなされる筈のこの島の宮であるがまあ。
 
〔評〕 島の宮の將來皇居たるべき豫想が裏切られた遺憾さを歌つてゐる。これ間接には皇子の薨逝を悼惜する所以ともなるのである。わが國古來の慣習として、當帝の皇居と太子の御所とはいつも別で、太子の踐祚と同時に、その御所が皇居即ち都となるのであつた。――藤原京建設の意旨は別として――故に今も日並皇子御即位の曉は、當然島の宮は萬代に國|領《し》らすべき皇居なのである。かうした事情からこの歌を味ふと、意外な皇子の薨逝に會つて、島の宮が皇居どころか主人なき廢宅となつてしまふ幻滅の悲哀が、しみ/”\感ぜられるのである。况や作者は東宮舍人として平生親しく出入してゐた執着があり、その上、皇子を將來は天皇陛下として奉戴すべき光榮をさへ當然豫期してゐたとすれば、その失望落膽はどの位であつたらう。「わが日の皇子」を絶叫して、死兒の歳を數へるに等しい繰言を、島の宮の上に云爲したことは、頗る悲痛である。この歌は皇子薨逝といふ眼前の事相の上に立つて、突如とそこに生じた感想だけを歌つたので、詞の上のみでは意味が完全しない。文法上から見ても「まし」は上に假設語の存するのが正格であるから、かゝる〔三字右○〕不祥事《マガゴト》なかりせば〔五字右○〕といふ前提を補足して聞くべきである。
 以下二十餘首の詠作、或は奉仕をいひ、或はお召をいひ參入をいひ、或は鳥飼をいひ、或は宮出をいひ、或は侍宿をいふ。舍人たる作者達の身分が躍如としてゐる。而もその小心翼々奉公の忠を致し精勤を抽んづる作者達の精神と態度とが、克明によく出てゐる。大寶の考課令に、舍人の服務規程を示して、
(482)  凡分番者(ハ)――小心謹卓〔四字傍点〕、執當幹〔三字傍点〕了(スル)者(ヲ)爲v上〔右●〕(ト)、番上〔二字傍点〕无(ク)v違(フコト)、供承〔二字傍点〕得(ル)v濟(ヲ)者(ヲ)爲(ス)v中〔右●〕(ト)、逋違不v上(ラ)、執幹不當虧失(アル)者(ヲ)爲(ス)v下〔右●〕(ト)。
とある上中の考課に、極めてよく合格する人達である。彼等六百人は各自に上直して分番したものである。又令の規定によれば、舍人出身に二樣の別がある。一を蔭子出身とし、一を帳内出身とする。蔭子出身は年齡廿一歳以上で父の位の五位以上なるを要し、帳内出身は庶人の帳内に出仕したもので、年齡廿五歳以上を要する事とした。この作者達はそのいづれの出身かは不明であるが、料らざる皇太子の御薨逝に、その素志一旦に違うたことは皆一樣で、失望と落膽と悲哀とが混線して、陰慘な雰圍氣を釀成してゐる。
 
島宮《しまのみや》 池〔左△〕上有《いけのうへなる》 放鳥《はなちどり》 荒備勿行《あらびなゆきそ》 君不座十方《きみまさずとも》     172
 
〔釋〕 ○いけのうへなる 池は島の宮の勾の池である。「うへ」は邊の意。原本に「上池有」とあるので、正辭はウヘノイケナル〔七字傍線〕と訓んで島の宮の山上の池のこととし、古義は勾池之〔三字右△〕の誤としてマガリノイケノ〔七字傍線〕と訓んだが、何れも穩かでない。本行のは神田本に從つた。○あらびなゆきそ 荒れてしまふなの意。「あらぶ」は、すさぶこと、變ることをいふ。下にも「あらびなゆきそ年かはるまで」とあり、尚「栲領巾《タクヒレ》の白濱浪のよりもあへず荒ぶる妹に戀ひつゝぞ居る」(卷十一)などあるのも同樣である。○とも 「十方」は戲書。
【歌意】 この島の宮の池のほとりにゐる放し飼の水鳥よ、よし御主人たる皇子樣はお薨れなされたにしても、散り/”\ばら/\になつてしまふなよ。
 
(483)〔評〕 愛育して下された御主人なき後は、水鳥どもも自然の結果として荒びゆくであらうことを豫斷して、さて「荒びなゆきそ」と懇願する。はかない何の機心もない鳥類に對してさへ、かういはずには居られぬその心持が悲しい。それは自分達の身の上の不安や退散や、島の宮の寂寥や荒廢やの悲觀的豫感が、皇子の薨逝に伴つて、ひし/\と舍人等の心を取卷くからである。
 
高光《たかひかる》 吾日皇子乃《わがひのみこの》 伊座世者《いましせば》 島御門者《しまのみかどは》 不荒有益乎《あれざらましを》     173
 
〔釋〕 ○いましせば 座《イマ》さばと同意。「いまし」はいます〔三字傍点〕の體言格で、それをサ變に活用した。上の長歌「しろしめせば」を參照(四六九頁)。○しまのみかど 島の宮に同じい。上の「みこのみかど」を參照(四七五頁)。
【歌意】わが日並皇子樣が今もいらつしやるならば、この島の御所はかうも荒れずにあらうものをなあ。
 
〔評〕 眼前の寂しさ、すさまじさは漸く頽廢に入る第一歩で、御生前の繁華を見た舍人達の目には、事々物々すべて傷心の種となつたであらう。今に御存命ならと、返らぬ愚痴も出て來るのは無理もない。その愚痴の陰には、皇子追慕の熱情が漲つて見える。「高光る日皇子」の最大敬語を用ゐた形容は、結句の意を最高限度に強調する表現で、「ましを」の歇後の叙法は、この種の内容にふさはしい形式である。
    
外爾見之《よそにみし》 檀乃岡毛《まゆみのをかも》 君座者《きみませば》 常都御門跡《とこつみかどと》 侍宿爲鴨《とのゐするかも》     174
 
(484)〔釋〕 ○よそにみし 無關係のものとして見てゐたの意。○まゆみのをかも 檀の岡は即ち眞弓の岡と同じで、上出。「も」はサヘモの意。○とこつみかどと 永久の御所としての意。○とのゐ 宿直《トノヰ》。殿居の義。
【歌意】 今までは何等關係の無い處として見過してゐたこの檀の岡でさへも、かうして皇子樣が入らつしやるので、永久の御所だと思つて宿直することではあるわい。
 
〔評〕 これから檀の岡を常つ御門として宿直するといふことによつて、つひ昨日までは常つ御門として仰いでゐなかつたことが反映されてゐる。そして餘所に見た檀の岡に君のましますことは、皇子の御魂のそこの御陵に鎭りましたことを暗示してゐる。但これは何處までも暗示であつて、明示ではない。然るに註者の多くが、三句を、斂葬し奉ればと解いてゐるのは、底を割つたいひ方で興味が索きてしまふ。この歌の妙は皇子の薨逝を全く忘れ果てた痴呆の點にあるのである。かく皇子が檀の岡に今も在すが如き口吻は、上出の長歌、
   いかさまに思ほしめせか、つれもなき眞弓の岡に、宮柱太しきいまし、みあらかを高知りまして、
と歌つたのと同工異曲である。只それのみではない、いかなる山でも岡でも、君さへましませば常つ御門と宿直《トノヰ》するといふ、そこに作者の強い忠誠の情味や思慕の心が著しく躍動して、貰ひ泣きがされる。この宿直は一面作者の身分を語るもので、蓋し一周忌間は御陵の假廬に交代侍宿するのである。
 
夢爾谷《いめにだに》 不見在之物乎《みざりしものを》 欝悒《おほほしく》 宮出毛爲鹿《みやでもするか》 佐田〔左△〕之隈囘乎《さたのくまわを》     175
 
(485)〔釋〕 ○いめ 寢《イ》見えの義で、夢《ユメ》の古言。イとユとは相通で、往く〔二字傍点〕の語は今でもイクともユクともいふ。○みざりし 思はざりし〔五字傍点〕といふに同じい。○おほほしく 氣が塞がつて、心が結ばれてなどの意。これは動詞のおほふ〔三字傍点〕から來た形容詞である。動詞を形容詞化するに、その未然形に「し」の語尾を加へて、例へば勇まし、懷かし、慕はし、などの如くするのが一形式であるが、更にその未然形のaの母韻が0に變つて、例へば頼も〔傍点〕し、好も〔傍点〕し、狂ほ〔傍点〕し、などの如くなることもある。「おほほし」もその例である。○みやで 宮に出仕すること。退出の意ではない。○か 歎辭。○さたのくまわ 佐田は高市郡檜隈郷の内で、次々の歌に眞弓の岡に宿直するとも、佐田の岡に宿直するともあるから、佐田も眞弓も同地である。皇子の御陵墓地は越智岡村大字森|字王塚《アザワウヅカ》と稱する處で、眞弓の岡より西南數町に佐田の稱が遺つてゐるが、古への佐田は大字《オホナ》で、眞弓から今の佐田にまで及ぼした稱、眞弓はその内の小字《コナ》であつたらしい。「くまわ」は上出(三五九頁)。普通本には「作日〔左△〕之隈囘《サヒノクマワ》」とあるが、今は水戸本に據つた。「作檜乃熊檜隈川《サヒノクマヒノクマガハ》の」(卷七)の用例もあり、こゝも作《サ》を美稱として檜隈の隈囘の意にも取られるが、なほ佐田に從ひたい。蓋し檜隈は御陵には遠い。○を 早く解すればより〔二字傍点〕の意。
【歌意】 かういふ事にならうとは夢にさへも思はなかつたものを、今は心さみしく佐田の隈囘を通《カヨ》つて、皇子樣の宮に出仕をすることかまあ。
 
〔評〕 佐田眞弓の附近は、岡陵が盛んに起伏してゐて、道の隈囘が頗る多い。その隈囘を來往して御陵に宮仕しに行くやうな事件が突發しようとは、誰れしも思ひもかけなかつたであらう。朝夕歡び進んで仕へ來つた島の宮の宮出に引換へ、おほゝしくする御陵の宮出に至つては、まことに斷腸の極みであらねばならぬ。さては(486)「おほほしく」の一語、輕々しく看過し難いものとなるのである。
 
天地與《あめつちと》 共將終登《ともにをへむと》 念乍《おもひつつ》 奉仕之《つかへまつりし》 情違奴《こころたがひぬ》     176
 
〔釋〕 ○あめつちとともに 天地の長久なのと共にの意。○をへむと 宮仕をなし果てようとの意。○こころ 思ハク。
【歌意】 天地のあらむ限り、いつまでもいつまでも御宮仕をしようと思ひながら、今までお仕へ申してゐた心持が、すつかり裏切られて、まるで思はくが外れてしまつたわい。 
〔評〕 天は長く地は久しく、終るべき時とては無い。それを「天地と共に終へむ」といふは、つまり終極の無いことを逆叙したもので、かく具象的に誇張したことは、皇子の薨逝の匆々であつたことを強く反映させてゐる。そこに舍人等が奉公の思はくの狂つた、即ち頼みの綱の切れた失望の氣持が強調され、眞に同情に堪へない。「仕へまつりし情たがひぬ」の率直な力強い表現は、せつぱ詰つたこの内容にいかにも適應して、線の太い作である。又叙法から見ると、たゞ結句の「情たがひぬ」の一轉語のみがその主要句をなしてゐることが、頗る蘊含の味を多からしめてゐる。
 
(487)朝日弖流《あさひてる》 佐太乃岡邊爾《さたのをかべに》 群居乍《むれゐつつ》 吾等哭涙《われらがなみだ》 息時毛無《やむときもなし》     177
 
〔釋〕 ○あさひてる 佐由の岡にかゝる修飾語。○われらがなみだ 諸本ワガナクナミダ〔七字傍線〕と訓んであるが、「吾等」をワガ〔二字傍線〕と訓むは不當である。「群れゐつつ」の語に對しても、こゝは複數にしてワレラと訓むがふさはしい。「哭涙」をナミダ〔三字傍線〕と訓むは、意訓として聊かも差支ない。
【歌意】 この佐田の岡邊に宿直の同僚が大勢が群つてゐて、皇子樣の薨去を歎いてゐるが、我等の泣く涙はいつになつたら歇むことやら、實にとめどもないことだわい。
 
〔評〕 佐田の岡に「朝日照る」の形容を以てしたのは、皇子の御陵地ゆゑの讃語である。後世の土謠にも、
  朝日さす夕日かゞやくその下に、金千兩漆千杯。
などこの種のものが各地に多い。抑も太陽の照映は朝日夕日につけ、地上物件の高い物の讃歎的形容にふさはしい。それは山岳よりは岡陵、岡陵よりは建築であるほど、形容の意義が有效になる。本來は既に朝日をいつた以上は、夕日をも擧ぐべきで
  朝日の日照る宮、夕日のかげる宮、(古事記下、三重采女)
  朝日の來向ふ國、夕日の來向ふ國、(太神宮儀式帳、倭姫世記)
などの如く、扇對法を用ゐるのが正格であるのに、この歌に夕日の方を略いてあるのは、形の小さな短歌として已むを得ぬのである。古今集には、「夕月夜さすや岡邊の」(戀一)と、朝日の方を略いた例もある。但この歌(488)では同じ事なら夕日を省くべき理由が、別に存在してゐる。それは佐田の岡が東向に連亙した朝日受けの地勢だからである。 
 同僚舍人六百人からの交代宿直は、まさに「群れ居つつ」である。かく寄り擧つて無際限に泣く、そこに皇子哀慕の情態が遺憾なく出てゐる。二句以下一意到底の、技巧を一切離れた率直極まる叙法は、實に眞實そのものである。
 
御立爲之《みたたしし》 島乎見時《しまをみるとき》 庭多泉《にはたづみ》 流涙《ながるるなみだ》 止曾金鶴《とめぞかねつる》    178
 
〔釋〕 ○みたたしし 「み」は接頭の敬語。「たたし」は立ちの敬相。「し」は過去の助動詞。○しま 庭といふほどの意。池の中島に限るは狹い。上の「しまの宮」を參照。○にはたづみ にはたづみの如く〔三字右○〕の略。涙の流るゝにのみ用ゐる枕詞。「にはたづみ」とは地上の雨水の稱で、俄泉《ニハカイヅミ》の義。和名抄に「潦(ハ)雨水也、爾八太豆美《ニハタヅミ》」とある。古義は庭※[さんずい+樣の旁]水《ニハタゞヨフミヅ》の約轉と説いたが煩はしい。○かねつる 「金鶴」は戲書。
【歌意】 嘗て皇子樣が御遊覽の爲お立ちなされた島を見ると、御生前のことがいろ/\と思ひ出されて、流れる涙は、ほんにまあ止めかねることではあるわ。
 
〔評〕 一木一草、盡く皇子の御心の留まつた御記念である庭園に對すると、胸が一遍にこみ上げ、涙が無意識にこぼれる。詩境は平凡であるが、その體驗は頗る眞實なものである。「にはたづみ流るる」は、
(489)  ……にはたづみ流るゝ涙とゞめかねつも   (卷十九―4160)
  ……にはたづみ流るゝ涙とゞめかねつも   (同、大伴家持―4214)
など集中に二首までもある。然しこれは句としては寧ろ一般的套語であるから、必しも家持等が踏襲したものともいはれまい。
 
橘之《たちばなの》 島宮爾者《しまのみやには》 不飽鴨《あかねかも》 佐田乃岡邊爾《さたのをかべに》 侍宿爲爾往《とのゐしにゆく》    179
 
〔釋〕 ○たちばな 今の高市郡高市村大字橘の地。もとは飛鳥川の南岸に亙つて、橘寺の地も島の宮の地も含んだ大字であつたらしい。上の「しまの宮」を參照。○あかねかも 飽かねばかもの意。「おもほしめせか」を參照(一二四頁)。「か」は疑辭。
【歌意】橘の島の宮には宿直しても、皇子樣が御不在なので物足らず思ふせゐかして、佐田の岡邊に宿直をしにまあ往くことだわい。人達がさ。
 
〔評〕 皇子御生前の御所であつた島の宮と、薨後の御陵たる佐田の岡とを相對的に拉して來て、島の宮の舍人等が分番交代で、佐田の岡に宿直に出かけるのを、「島の宮には飽かねかも」と、人々の心證に疑を投げけ懸けた。蓋し作者自身の心が既に飽かぬことに感じてゐるので、同情に想像を描いてみたものである。それは島の宮は何といつても主なき空御殿、佐田の岡は皇子の神さびいます御陵だからである。實は島の宮にせよ、佐田の岡(490)にせよ、宿直は何れも公務で、飽く飽かぬの問題ではないのを、感情一つでどうでも自分の自由に行動されるものゝやうにいひなした點が、愚痴に返つた幼さで、そこに限ない哀愁の氣味が漂ふのである。
 
御立爲之《みたたしし》 島乎母家跡《しまをもいへと》 住鳥毛《すむとりも》 荒備勿行《あらびなゆきそ》 年替左右《としかはるまで》   180
 
〔釋〕 ○しまをもいへと 島をさへ家としての意。水の上はもとよりその住處なるをいふ。○あらび 上出。○としかはるまで 一周忌の終るまでの意。新年になるまでの意ではない。「左右」をマデと訓むのは、片手に對する眞手〔二字傍点〕の義。「幾代までに」を參照(一三九頁)。
【歌意】 皇子樣が立つて御逍遙なされた島をさへ、おのが住處としてゐる水鳥らよ、お前達も我々と同じやうに、せめて來年四月の御一周忌までは、かうして退散せずにゐてくれい。
 
〔評〕 漸くさびれゆく島の宮の將來は、もう豫想に難くない。御遺愛の放ち鳥の運命も知れたものだ。いや放ち鳥どころか、春宮舍人たる自分達の運命も目に見えてゐる。轉任か退任か、いづれその一つであらねばならぬ。然し皇子の御一周忌までは、御在世の如く奉仕したいのが人情であり、又さうするのが規則でもあつたから、放ち鳥にのみ先に退散されては、職掌柄御庭に出入して強い親しみを持つてゐるだけ、餘計に取殘された憾みと寂しさとに堪へられない。でせめて自分達が退散の折までは、附き合つて居れと要請したのである。それはすべて皇子薨去後の寂寞から發した感懷で、窮りなき哀調を帶びてゐる。 
(491)御立爲之《みたたしし》 島之荒礒乎《しまのありそを》 今見者《いまみれば》 不生有草《おひざりしくさ》 生爾來鴨《おひにけるかも》    181
 
〔釋〕 ○ありそ アライソの約。造庭に荒磯は少しく誇大に過ぎるやうであるが、池畔のさまが荒磯らしく、石など疊んであつたのであらう。「礒」は磯の俗字、本集には皆かう書いてある。
【歌意】 皇子樣がお立ちなされた池の中島の荒磯を、久しぶりに今見ると、あの當時生えてゐなかつた草が、段々生えて來たことよ。
 
〔評〕 「今見れば」の口氣は暫く經つてから見た趣である。御葬儀もあら方濟んで、やつと少しは落着いたと思ふ頃の御庭内の所見であらう。一寸洒掃が怠られてゐた間に、池には水草がもう青々と生えてゐる。「生ひざりし」は皇子御在世、「生ひにける」は皇子薨後の光景で、草一つに今昔の感慨を取扱つた點は頗る手が利いてゐる。「生ひにける」に「生ひざりし」と冠せて、草の生えた感じを強く印象させたのも、感愴を深める手段である。唐の※[穴/賣]※[恐の上/革]の姑蘇臺の詩に、「日暮東風春草緑(ナリ)、※[庶+鳥]※[古+鳥]飛(ビ)上(ル)越王(ノ)臺」とあるのと同一の感慨である。 
鳥※[土+(一/皿)]立《とぐらたて》 飼之鴈〔左△〕乃兒《かひしたかのこ》 栖立去者《すだちなば》 檀崗爾《まゆみのをかに》 飛反來年《とびかへりこね》     182
 
〔釋〕 ○とぐらたて 塒《ネグラ》を造つての意。「とぐら」は鳥座《トリクラ》の略。「※[土+(一/皿)]」は塒〔右△〕の俗字で、類聚古集、神田本その他に「垣」に作るは誤。和名抄には「塒、和名|止久良《トグラ》」字鏡に「※[奚+隹]栖、※[木+戈]、止久良《トグラ》」とある。○たかのこ 鴈は雁と同字でカ(492)リであり、諸本皆さう訓んでゐるが、代匠記の一説に「鴈の字はもと鷹の古字たる※[應の上]〔右△〕の雁に誤れるを更に鴈に書けるか。さらば※[應の上]乃兒《タカノコ》なるべし」とある。まことに鷹ならばこの歌の趣にもふさはしいので、今これに從ふ。若し鴈を正しいとすれば、かる鴨(鳧)又は鶩《アヒル》と見るべきである。○すだちなば 雛が始めて巣離れするを巣立つ〔三字傍点〕といふ。○とびかへり 巣立して空に飛んだのが、再び地上に返り降りるをいふ。古義が、反るは幾度もの意であるとしたのは牽強。○こね 來よの意。「ね」は命令に附する助辭。
【歌意】 島の宮で塒を造つて我々が世話し育てゝゐたあの鷹の兒も、巣立をして飛んだらば、この眞弓の岡に飛び返つて來いよ。皇子樣は實際こちらにいらつしやるわ。
 
〔評〕 鷹狩はもと支那から學んだモダンな贅澤な遊技で、當時一般には禁ぜられ、貴紳の間にのみ盛に行はれた。日並皇子は大層狩獵がお好きであつたらしく、人麻呂の作にも、
  日並の皇子の尊の馬なめて御狩立たしゝ時は來向ふ (卷一―49)
の追懷がある程で、御狩の料に、島の宮には鷹の兒を飼ひ立てゝ置かれたと見える。舍人等は端なくも皇子のお薨れにあひ、交代宿直で眞弓の御陵に詰め切つてゐると、今は御遺愛となつたお鷹の兒がふと氣に懸る。蓋し鷹の事は舍人等の擔任で、鳥座の世話からはじめて、面倒を見てゐたからである。想像は遂に鷹の兒の巣立(493)にまで及んで、そしたらわが皇子樣の神隱りいますこの眞弓の岡の方に飛び返つて來いよと、丁寧に皇子の舊情を忘れぬことを鷹の兒に要望してゐる。これはつまり皇子の舊情を忘れかねてゐる人の作で、御陵仕への徒然から生まれた感想である。
 
吾御門《わがみかど》 千代常登婆爾《ちよとことはに》 將榮等《さかえむと》 念而有之《おもひてありし》 吾志悲毛《われしかなしも》    183
 
〔釋〕 ○わがみかど 吾が仕へまつりし御所の意で、即ち島の宮をさす。○とことはに 常磐に。永久に。
【歌意】 自分の奉仕してゐる御所は千秋萬歳、幾久しく榮えるだらう、とさう信じ切つてゐた自分はさ、その豫期が今はまるで相違して悲しいことだわい。
 
〔評〕 この歌の着想の基礎は、皇子の御所に將來は皇居としての隆昌を夢みてゐたことが、突如として裏切られた感傷にあるので、上の
  高ひかるわが日の皇子のよろづ代に國しらさまし島の宮はも
と同想の屬吐である。又叙述の形式は、上の
  あめ地とともにをへむと思ひつつ仕へまつりし心たがひぬ
と同作である。只「われし悲しも」と説破したことは、蘊含の味を著しく殺いで、前の二作に數籌を輸するものといはねばならぬ。「わが」といひ、「われ」といふ、力強い自己中心の感傷である。
 
(494)東乃《ひむがしの》 多藝能御門爾《たぎのみかどに》 雖伺侍《さもらへど》 昨日毛今日毛《きのふもけふも》 召言毛無《めすこともなし》     184
 
〔釋〕 ○ひむがしのたぎのみかど 御苑の東方なる瀧口の御門である。この「たぎ」は水のたぎつて流れる處の稱。「みかど」は文字通りの門で、こゝは御所や御殿の意ではない。○さもらへど 伺候してゐるけれど「さもらふ」は、さむらふ〔四字傍点〕、さぶらふ〔四字傍点〕の古言。○めすこと 皇子のお召しをいふ。「言」は借字。
【歌意】 御苑の東方の瀧口の御門に、自分は從前通りに伺候してゐるけれども、以前と違つて昨日も今日も、さつぱり皇子樣はお召しになることもないわ。
 
〔評〕 この「東の瀧の御門」は御内苑の東門で、勾の池の水の落口に當り、その門外に舍人等の詰所があつたのであらう。御生前の頃は「一日には千度參りし」程、その御門を出入して御用繁く召使はれただけに、今は餘計に寂莫無聊を感ずる。玉音なほ耳にのこり、玉容なほ眼前に彷彿してゐる。忘れては尚この世におはしますことゝ思ふ。即ち皇子の薨逝といふ問題には絶對に觸れず、なほ如在の觀を作して、昔日の如く「侍らへど」と抑へ、然るに今は「召すこともなし」と慨歎した合拍の叙法に、千萬無量の哀怨が躍動してくる。それも「きのふもけふも」と打續いてお召が無いに至つては、その甚しいお見限をいよ/\痛歎せざるを得ない。素朴率直のやうで、しかも含蓄の味が頗る深く、この一聯二十餘首の悼歌中、白眉と評すべきであらう。「も」の辭の三疊の諧調を成すことは勿論である。
(495) 但卷十三に、これと同時の作と思はれる長歌の一節に、
  ……遣はしゝ舍人の子等は、ゆく鳥の群がりて待ち、有り待てど召し賜はねば……(卷十三―3326)
とあるは全く同胤の双生兒であるが、彼れは更に進んで一層の感傷を絮説した爲に、却つて蘊合の餘味に乏しくなつた。
 
水傳《みづつたふ》 礒乃浦囘乃《いそのうらわの》 石乍自《いはつつじ》 木丘開道乎《もくさくみちを》 又將見鴨《またみなむかも》     185
 
〔釋〕 ○みづつたふ 磯の枕詞。「水傳ふ」は水の磯に沿うて流れる樣をいふ。この磯は上に「み立たしし島の荒磯」とある磯である。○いはつつじ 石南科の灌木。多く岩石などに根ざして深紅の花咲くもので、和名妙に「羊躑躅、和名|以波豆々之《イハツヽジ》、一名|毛知豆々之《モチツヽジ》」とある。毛知《モチ》躑躅のこと。羊躑躅の字面は、もと動物がこれを食ふと躑躅する蓮華躑躅からおこつた稱で、その花は黄色である。和名抄に丹《ニ》豆々之の目を別に擧げてあるので、古義に以波豆々之即ち毛知豆々之の花を白色としたのは拘泥の見である。○もくさく 茂く咲くの意。「もく」は草木の繁き貌にいふ古語で、應神紀には薈〔傍点〕を、遊仙窟には蓊〔傍点〕をいづれもモクと訓んである。ク活用〔三字傍点〕の形容詞である。信友はムク〔二字傍線〕と訓んだが、ム、モは元來通音であるから、強ひて改めるに及ばない。「木丘」は音借字。○みなむかも 見ようことかなあの意。「か」は疑辭で、反語ではない。
【歌意】 この勾の池の水磯の浦まはりの、岩躑躅が茂く咲くこの道を、今までは常に見馴れてゐたが、これから二度と見られようかなあ。
 
(496)〔評〕 勾の池の岸邊の丹躑躅が盛に花を着けたのは、ちやうど皇子薨逝の四月末から五月にかけてのことであらう。水に照映する花紅の影はまさに美觀である。然しこの景色は來年またも見られるかは疑問である。否御一周忌のはてには、その大部分は退散に運命づけられてゐる舍人の身の上である。だがそれでも尚「また見なむかも」と、殆ど絶望の事實の奥底にかすかな一縷の望を繋いでゐるやうな口吻は、作者の未練らしい執着を語るもので、低徊去るに忍びぬやさしい情懷が搖曳し、作者の人となりを懷かしく思はせる。「もくさく道」の道〔傍点〕の一字は、この庭園を徘徊してゐる作者の立場から生まれた緊切な語で、いゝ背景を成してゐる。
 
一日者《ひとひには》 千遍參入之《ちたびまゐりし》 東乃《ひむがしの》 大寸御門乎《たぎのみかどを》 入不勝鴨《いりかてぬかも》     186
 
〔釋〕 ○たぎのみかど 眞淵は「大寸」の下乃〔右○〕の字なき故、オホキミカド〔六字傍線〕と訓むべしといつたが、それでは大御門即ち表御門のやうで、事實に協はない。正辭はいふ、地名人名の下にはの〔右○〕を略く例多しと。○いりかてぬかも 入りかねることよの意。「かてぬ」は敢へぬこと、堪へぬこと。「かて」は「ありかつ」を參照(三一七頁)。
【歌意】 嘗ては皇子樣のお召で、一日中には何遍も/\あがつた東の瀧の御門を、今は御召が無くて這入りかねることよ。
 
〔評〕 「一日」に「千度」を闘はせて、御用繁多に出入した過去を力強く表現したことは、「入りがてぬ」の反映をなすもので、かくて瀧の御門をろくに出入し得ぬ現境を嗟歎する意を強調したのである。そして「御門を入り(497)かてぬ」その原由に溯ると、皇子のお薨れでお召しが無いゆゑであることは勿論、又御陵たる佐田の岡邊の宿直などで、出入の機會の少いゆいゑでもあるから、間接には皇子の薨逝を悲傷してゐることになる。意詞婉曲で、惆悵たる怨意が頗る深い。「入りかてぬ」を、眞淵が皇子の薨後御門を閉ぢた爲に〔八字傍点〕と解いたのは誤解で、而もそれでは折角のこの歌の妙味が殺がれてしまふことになる。
 
所由無《つれもなき》 佐太乃岡邊爾《さだのをかべに》 反〔左△〕居者《きみませば》 島御橋爾《しまのみはしに》 誰加住舞無《たれかすまはむ》     187
 
〔釋〕 つれもなき 既出(四六九頁)。○きみませば 「反居者」を舊訓はカヘリヰバ〔五字傍線〕と訓み、「反」を正辭は變〔右△〕の誤寫としてウツリヰバ〔五字傍線〕と訓み、古義は君〔右△〕の誤としてキミマセバ〔五字傍線〕と訓んだ。今は古義説に從ふ。君とは日竝皇子をさす。○しまのみはし 中島の御橋をいふ。この中島は勾の池のである。新考の説に、「契沖以降みはしを御階の意と解するが多けれど、島の宮の御階を打任せてシマノミハシとはいふべからず」とあるのは、肯綮に中つてゐる。○たれか 「か」は反語。○すまはむ 止まらむの意。「舞」は借字。
【歌意】 これまで何の由縁もなかつた佐田の岡邊に皇子樣は入らつしやるので、あの面白い勾の池の中島の橋にも、誰れがまあとゞまらうかい。
 
〔評〕 分番交代で皇子の御陵に侍うた舍人の作であるが、上の
  よそに見し眞弓の岡も君ませばとこつ御門と殿居するかも
(498)と着想の出發點が同じで、これは佐田の岡の方から想像を島の宮の方へ馳せたのである。島の宮の代表的特徴は、その名の示す如く島の美、水石の勝にあるから、その「島の御橋」を以て、「つれもなき佐太の岡」に對揚し、いかに結構な場處でも皇子のましまさぬ以上は、全然無價値であるやうに取成してゐる。かく重きを皇子に歸して何の猶豫も疑ももたない作者の情懷は、洵に忠誠の尊い懷かしい心状の發露である。「つれもなき」は上の人麻呂の長歌にも、
  由縁もなき眞弓の岡に 宮柱太しきいまし云々  (四六六頁)
と見えて、套句として使用されてゐる。「君ませば」の措辭に就いては「よそに見し」の歌評を參看されたい。
    
旦覆《あさぐもり》 日之入去者《ひのいりぬれば》 御立之《みたたしし》 島爾下座而《しまにおりゐて》 歎鶴鴨《なげきつるかも》     188
 
〔釋〕 ○あさぐもり 朝曇して〔二字右○〕。「覆」をクモリと讀むは意訓。「旦」は音タンであるからタナグモリ〔五字傍線〕(棚曇)と訓むべしといふは正辭説。又眞淵の天靄《アマグモリ》、雅澄の茜指《アカネサス》などの誤字説はいづれも從へない。或人の日一日復〔四字右△〕の※[言+爲]でケフモマタ〔五字傍線〕かといふ説、又旦覆は旦《アサ》の裏返ることゆゑユフサリテ〔五字傍線〕と訓むといふ説などは煩しい。○いりぬれば 舊訓はイリユケバ〔五字傍線〕とあるが、古義の訓に從ふ。○おりゐて 庭から池の中島に打出づるをいふ。階段などから下りるのではない。庭は殿前の廣場で、下級官吏等の拜趨する所である。○つるかも 「鶴鴨」は戲書。
【歌意】 朝曇して俄に日の陰るやうに、時ならず急に皇子樣がお薨れになつたので、御生前常にお立ちなされた(499)池の中島に私達は下り立つて、お慕ひ申し歎き悲しむことではある。
 
〔評〕 太子たる皇子の薨逝は、恰も朝日の天に冲らぬうちに浮雲に蔽はれたに等しい。この歌の譬喩はまことによく當つて巧妙な表現である。しかもこの眞意を解し得ぬ曲解臆説は澤山あるが、それらはすべて一笑に附してよい。身命を捧げて頼み奉つた皇子のゆくりもない御夭折には、舍人等は茫然自失、只亡き御面影を偲び參らせつゝ歎くより外、何の術をも知らなかつたのである。但その場所を、皇子が水石の興を翫ばれた「み立たしし島」に求めたことは、その切ないせめてもの心遣りであることを表現し、かねて作者の身分を語つてゐることによつて、よくその實感を出してゐる。
 
旦日照《あさひてる》 島乃御門爾《しまのみかどに》 欝悒《おほほしく》 人音毛不爲者《ひとおともせねば》 眞浦悲毛《まうらがなしも》     189
 
〔釋〕 ○あさひてる 上出。○みかど こゝは門そのものでなく御殿の意である。○おほほしく 上出。こゝは陰欝の意。○ひとおと 人の聲|氣《ケ》けはひをいふ。○まうらがなしも 「ま」は接頭の美稱。「うらがなし」は心《ウラ》悲しの義。「浦」は借字。
【歌意】 朝日照る島の御殿に、今は陰氣臭く、人聲も氣はひもしないので、ほんに心悲しいことだなあ。
 
〔評〕 まづ島の宮の地相を讃め、つひ昨日まで花やかに賑はつてゐた島の宮が、忽ち打つて變つて悲哀の沈黙に(500)鎖された相反的事相を闘はせて、詠歎してゐる。その「人音もせぬ」のは、勿論皇子の薨去によつて、御門出入の物騷がしさもなく、又群下の鳴を鎭めて悼意を表する爲でもあるが、これらの主因には一切觸れず、只その結果のみを云爲して、半ば懷疑の心持であることは、痴呆の意を伴つて一層含蓄の味ひを多からしめる。 
眞木柱《まきばしら》 太心者《ふときこころは》 有之香杼《ありしかど》 此吾心《このわがこころ》 鎭目金津毛《しづめかねつも》     190
 
〔釋〕 ○まきばしら 眞木の柱の意で、「太き」にかゝる枕詞。柱の太いのは高く大きく堅牢なる建築を意味するので、「太き」は柱の讃語として常に用ゐられた。「眞木」は「まきたつ」を見よ(一七七頁)。○ふときこころ 逞ましい丈夫心をいふ。
【歌意】 自分は苟も一箇の男子として雄々しい心は持つてゐたけれども、皇子樣のお薨れによつて、この心を取鎭めかねたことよ。
 
〔評〕 この歌は「大夫と思へる我も――思ひやるたづきをしらに」(卷一、軍王)、「大夫や片戀せむと歎けども」(卷二、舍人親王)、「大夫と思へる我や水莖の水城の上に涙のごはむ」(卷六、大伴旅人)などの類想で、當時としては清新とはいひ難いものであるが、奈良人がいかに男さびしてゐたかを、如實に物語つてゐる。「鎭め」は柱の縁語である。然し既に「太き心」といひ、次いで「わが心」といつた不用意の重複は、意味の混線を來す恐れがないでもない。率直そのものではあるが、理路に渉つてゐる。
 
(501)毛許呂裳遠《けごろもを》 春〔左△〕冬片設而《ふゆかたまけて》 幸之《いでましし》 宇陀乃大野者《うだのおほぬは》 所念武鴨《おもほえむかも》     191
〔釋〕 ○けごろもを 「毛衣を」は「片設け」に續く。「春」にかゝる枕詞ではない。毛衣は毛付の皮衣で、これは狩獵服としたもの。冬の寒い頃がおもな獵期だからである。○ふゆかたまけて 冬を時として支度して。「かたまけて」は時に當つての設をなすをいふ。「片」は方〔傍点〕の借字と思はれる。「春冬片設而」は後人が一本により春〔右△〕の字を「冬」の字の傍に書いて異傳を示したのが本行に入つたもの。新考もこの説である。○うだのおほぬ 宇陀郡の安騎野のこと。今いふ宇陀郡の大野〔二字傍点〕と稱する地ではない。「安騎野《アキヌ》」を見よ(一七五頁)。
【歌意】 毛衣を冬の季節に支度をしておいて、皇子樣が獵にお出になつた宇陀の大野は、この後も皇子樣ゆゑに思ひ出されようかまあ。
 
〔評〕 皇子の狩獵好きであらせられたことは、卷一の「輕皇子宿安騎野云々」の條の長短歌、及び上出の「とぐらたて」の條でも一寸説明しておいた如くで、宇陀野の獵は不斷の事であつた。然るに料らずも皇子の薨逝となつては、冬にならうが春が來ようが、御獵の御用はもう無いのだ。されば舍人としては御供に奉仕した宇陀野が、今は唯一の思出ぐさでなければならぬ。「おもほえむかも」と豫想などしてゐる豫裕のある態度は、四月のお薨れ後、まだその年の冬の狩獵期の來ぬ期間の作なることを示すものではあるまいか。「毛衣を」など、皇子出獵の御身装から丁寧に同顧したのは、故皇子を慕ふ濃到親切な情味の發露である。毛衣は富貴相を現してゐる。當時|黒※[豸+占]《フルキ》の皮衣などは舶來品の殊に貴重な物として、貴人の贅澤を誇耀する材料であつた。狩獵も亦貴(502)紳にのみ許された遊樂であつた。毛衣を用意して狩獵に往く、まさに皇太子草壁の君にして始めてふさはしい行爲である。
 
朝日照《あさひてる》 佐太乃岡邊爾《さだのをかべに》 鳴鳥之《なくとりの》 夜鳴變布《よなきかへらふ》 此年己呂乎《このとしごろを》     192
 
〔釋〕 ○なくとりの 鳴く鳥の如くの意。○よなきかへらふ 夜はひどく泣きに泣くの意。「かへらふ」は反《カヘ》るの延言。「なきかへる」とは甚しく泣くをいふ。もと反る〔二字傍点〕は動作の反覆をいふ語であるが、轉つては結果から解して甚しいの意に用ゐられる。咽せかへる、冴えかへる、など同じ例である。眞淵はカハラフ〔四字傍線〕と訓んで代るの意とし、侍宿の舍人の夜半に泣きつゝ交代することと解したが、それにはやゝ詞の足らぬ憾がある。又宣長は結句の「を」を歎辭と見て、鳥の夜鳴きの聲が變るこの年頃よの意としたが、これも切實味を缺く。「伊往變良比《イユキカヘラヒ》」(卷七)「見變將何《ミテカヘリコム》」(卷九)などの用字例によつても、カヘラフと訓むべきことは知られる。「變」は借字。○このとしごろを この句は四句の上に廻はして解する。
【歌意】 佐田の岡附近に頻に鳴く鳥のやうに、自分はこの御墓仕への足掛け二年間を、晝間はとにかく、夜になると堪へかねて、ひた泣きに泣くことよ。
 
〔評〕 佐田の岡はいづれも木繁き場所だから、春三四月の候となつては、いよ/\盛に百鳥の朝鳴く聲が聞かれたであらう。その「鳴く」の語から、端なくも作者自身の皇子追慕の夜泣を聯想し來つたのである。即ち「鳴く(503)鳥の」までの上句を「夜」を隔てゝ「鳴きかへらふ」の序詞に用ゐた。夜に係らぬ所以は、普通の鳥は夜は鳴かぬからである。流石に人の見る目もあり、晝間こそ益良雄振つて怺へもしようが、夜の暗黒と靜寂とに對しては、とても情を僞りえない。夜々まことに故皇子の爲に泣いた。それが年頃であつては、とても堪へられるものでない。四月のお薨れだから御一週忌は二年に渉る。二年でも「年頃」といふは當時の通語ではあるが、誇張の意を伴はぬではない。かくて、皇子追慕の悲がいよ/\大きく強調されてくる。「朝日てる」の修飾は、この歌ではあまり重要な役目をつとめてゐないやうだが「鳴く鳥」には間接に響があり、上句は序詞の役目の外に、百鳥の朝囀りに自分の夜泣を對照させた形式を成してゐる。
 
八多籠良家《やたこらが》 夜晝登不云《よるひるといはず》 行路乎《ゆくみちを》 吾者皆悉《われはみながら》 宮道叙爲《みやぢにぞする》     193
 
〔釋〕 ○やたこらが 「やたこ」は奴《ヤツコ》の轉語。召使の賤人をいふ。代匠記には、ハタコラガ〔五字傍線〕と訓み、「放籠《ハタゴ》は和名鈔に、飼(フ)v馬(ヲ)器、籠也とあれば、その旅籠をもつ馬追ふ男の稱にもうつしていふか」とある。宣長は「良」を馬〔右△〕の誤としてハタゴウマ〔五字傍線〕と訓んだ。契沖説もいかゞであるし、宣長の誤字説も例の從へない。「家」は清音の字であるが、清濁通用は集中珍しくない。尤も類聚古集、古葉略類聚抄、金澤本などには「我」とある。○みながら 全部。皆《ミナ》ながらの略。眞淵はコトゴト〔四字傍線〕と訓んだが、この歌意からするとミナガラの方がふさはしい。○みやぢ 宮へ行き通ふ路の意。
【歌意】 賤しい召使らが夜晝なしに通ふ路を、自分はそれをそつくり、佐田の宮の侍宿の爲に通ふ路に用ゐるこ(504)とよ。
 
〔評〕 この歌は頗る強い階級觀念が基調をなしてゐる。奈良時代には今人の我々の想像以上に、良賤民の區別が非常にやかましかつた。令に良賤もし通婚する時は、良民も賤民に編入されてしまふ事となつてゐた。奴脾は即ちこの賤民階級である。この奴等が夜晝となく往く道は何處か。「宮路にぞする」とあるので考へると、やはり佐田の岡の御陵へ行く道でなければならぬ。奴は何でこの道を夜晝なしに行くのか、これは或目的の爲に行動するのである。この目的とは何か、こゝに至つて舍人たる作者とこの奴等との關係を説かねばならぬ。この奴等は舍人達の私の召使である。舍人は相當身分ある五六位以下の有位の子弟もあるから、家にはおの/\奴婢を使つてゐる。六百人からの皇子附の舍人は、交代で御陵に宿直する際に、主人の弓矢から宿直物雜具を持つて奴等が出入するとなると、實に多人數が晝夜となく混雜したであらう。さやうに彼等の踏みならした道を、勿體なくもそつくり、わが皇子樣に仕へまつる宮出の道として、自分は踏みならすことよとの感傷、そこに深い階級意識が動いて見えるが、又さうまでもして奉仕するといふところに、愈よ皇子追慕の深切な情味が看取されるのである。又かうした階級意識的の眼から見たら、いかに佐田の岡の御陵參道に、平生とは違つて奴等の姿が數多目立つて異樣に映じたことであつたらう。
 
右日本紀(ニ)曰(フ)、三年己丑夏四月癸未朔乙未(ニ)薨(ズ)。
 
 これは日本書紀の記載によつて、日並皇子薨逝の日時を註したのである。三年は持統天皇の三年、乙未は十(505)三日である。
 
柿本(の)朝臣人麻呂(の)葬(りまつれる)2河島(の)皇子(を)越智野《をちぬに》1之〔九字左△〕時、獻(れる)2泊瀬部皇女《はせべのひめみこに》1歌一首并短歌
 
河島皇子を越智野に葬り奉つた時に、その妃泊瀬部(長谷部)皇女に、人麻呂が詠んで獻つた歌との意。もとの題詞は「柿本朝臣人麻呂(ノ)獻2泊瀬部皇女|忍坂部《オサカベノ》皇子〔五字左△〕(ニ)1歌」とある。忍坂部皇子は泊瀬部皇女の御兄である。然るに長歌の内容は專ら夫婦間の交情を歌つてゐて、決して御兄の皇子に兼ね獻る趣のものでない。故に左註の意を酌んで假にかく改めた。○河島皇子 天智天皇の第二子、弘文天皇の異母弟で、天智紀に「又有(リ)2宮女1、生(メリ)2一男二女(ヲ)1、其一(ヲ)曰(ヒ)2大江(ノ)皇女(ト)1、其二(ヲ)曰(ヒ)2川島(ノ)皇子(ト)1、其三(ヲ)曰(フ)2泉(ノ)皇女(ト)1」とある。天武天皇十四年に淨大參の位を授けられ、持統天皇五年九月に薨ぜられた。懷風藻によれば時に年三十五。○越智野 高市郡越智。今の越智岡村のうち。〇泊瀬部皇女 天武天皇の皇女で天平九年三品を授けられ、同十三年三月薨ぜられた。河島皇子の妃。
 
飛鳥《とぶとりの》 明日香乃河之《あすかのかはの》 上瀬爾《かみつせに》 生玉藻者《おふるたまもは》 下瀬爾《しもつせに》 流觸經《ながれふらばふ》 玉藻成《たまもなす》 彼依此依《かよりかくより》 靡相之《なびかひし》 嬬乃命乃《つまのみことの》 多田名附《たたなつく》 柔膚尚乎《にぎはだすらを》 (506)劔刀《つるぎたち》 於身副不寐者《みにそへねねば》 烏玉乃《ぬばたまの》 夜床母荒良無《よどこもあるらむ》【一云|阿禮奈牟《アレナム》】 所虚故《そこゆゑに》 名具鮫魚〔左△〕天《なぐさめかねて》 氣留〔左△〕藻《けだしくも》 相屋常念而《あふやとおもひて》【一云|公毛相哉登《キミモアフヤト》】 玉垂乃《たまだれの》 越乃大野之《をちのおほぬの》 旦露爾《あさつゆに》 玉藻者※[泥/土]打《たまもはひづち》 夕霧爾《ゆふぎりに》 衣者沾而《ころもはぬれて》 草枕《くさまくら》 旅宿鴨爲留《たびねかもする》 不相君故《あはぬきみゆゑ》     194
 
〔釋〕 ○とぶとりのあすか 既出(二六八頁)。○あすかのかは 飛鳥川は源を高市郡の南淵山に發し、細川の水を并せ北流して橘、飛鳥より磯城郡に入り、初瀬川と合して大川となる。長さ凡八里。○ながれふらばふ 靡いて觸れつゝある。「ふらばふ」は觸《フラ》ふの延言。宣長が古事記(雄略)の歌に「中つ枝《エ》に落ち布良姿閉《フラバヘ》」とあるによつてフラバヘ〔四字傍線〕と訓んだのは、よき氣付であるが、こゝはフラバフ〔右△〕と終止法に訓むがよい。古義の訓フラフ〔三字傍線〕は頑なである。○たまもなすかよりかくより 既出(三八八頁)。○なびかひし 狎《ナ》れ馴染み合つた。「靡かひ」は靡きの延言で、意は重く強まる。○つま 夫。「嬬」は借字。○たたなつく 既出(一五五頁)。○にぎはだ 柔かいはだへ。ニギ、ニゴ、ナギ、ナゴは皆古調の同語。舊訓のヤハハダは古調の語でない。○すらを 口語のサへモに當る。○つるぎたち 劔太刀の如く。身に副ふと續く序詞。「劔刀身に副へ〔四字傍点〕寐けむ若草のその嬬の子は」(下出)「劔太刀身に取副ふ〔五字傍点〕と夢に見つ」(卷四)「劔刀身に〔二字傍点〕佩きそふる〔三字傍点〕大夫や」(卷十一)「劔刀身に副ふ〔四字傍点〕妹が」(同上)など例が多い。舊説は身〔傍点〕に係る枕詞と解したが、今は古義説によつた。○よどこ 夜の寢處。○あ(507)るらむ 荒《スサ》まじからうの意。作者が皇女の閨中を想像しての詞。一本の「あれなむ」は荒れてしまはうの意。○そこ 「所」をソ「虚」をコと讀むは呉音。○なぐさめかねてけだしくも 久老の「魚」は兼〔右△〕、「留」は多〔右△〕の誤にてかく訓むべしといふに從つた。他訓はすべて意義を成さない。○けだしくも 「蓋し」の副詞はかく形容詞格の語尾を有つてゐたのであるが、平安朝以後は活用を有たなくなり、而も文語として存在し、歌には使用されなくなつた。「敷藻」は借字。○あふやと 逢はれるかどうかと。割註「きみもあふやと」は煩褥の感がする。「も」の辭が不快なうへ、下に又「君ゆゑ」とあるから。「相」は借字。○たまだれの 玉垂の緒といふを越智《ヲチ》の越《ヲ》にいひかけた枕詞。玉垂の緒に二説ある。(1)玉は垂れ懸けて飾とするに緒に貫く故である。(考)(2)「簾《スダレ》」(508)は緒で編(508)む故に、玉簾の緒といふを略したもの(舊説)。○たまも 玉裳。「藻」は借字。○ひづち ひどく濡れること。沾漬《ヒヂツキ》の略轉。「※[泥/土]打《ヒヂウチ》」は泥と同字。「打」は借字。○あはぬきみゆゑ 逢はれぬ君なるものをの意。
【歌意】 明日香川の上の瀬に生える玉藻は、下の瀬に靡いて觸れてゐる。その玉藻のやうに、あちらに依り、こちちに依り、靡き合つて睦まじくなされた夫の命(川島皇子)の柔かな膚さへを、お薨れの後は〔六字右○〕身に引添へて寐ないので、夜の御床も荒まじいことであらう。それ故に皇女はお心を慰めかねて、若しや逢ふ事もあらうかと思つて、皇子の御墓處なる越智の大野の朝露に玉裳をしめらせ、夕霧に衣を濡らして、そこに旅宿りをなさる事かよ。現在には逢はれぬ君(皇子)樣故にさ。
 
〔評〕 前段の第一節は川瀬の玉藻に終始した。飛鳥川は概して急流であるが、飛騨の細江あたりは緩流である。上の瀬の藻草が下の瀬かけてふら/\してゐるのは緩流の状態である。その藻草の靡きを夫妻の纏綿の状態に聯想して結び付けることは、この作者の慣用手段で、さのみ珍しくもないが、作者が玉藻の生成状態をそれ程までに丹念に觀察し思惟してゐたかと思ふと、可笑しくもなり、又肅然として覺えず襟を正されもする。
 第二節は一轉して夫妻綢膠の状態描寫に入つた。大分實感的な傾向ではあるが、古事記(上)所載の八千矛《ヤチホコノ》神に關係した沼河比賣《ヌナカハヒメ》の歌の句中に、
    栲綱《たくつぬ》の白きたゞむき 沫雪のわかやる胸を そだたき手《た》だきまながり 眞玉手玉手さし纏《ま》き 股長に寢《い》はなさむを……   (須勢理毘賣ノ作ニモ同句アリ)
 とある露骨さに比すれば、比較にならない程微温的である。尤も當事者でもない作者が、而も先樣はやむごと(509)ない御身分の方とすると、さう立入つた描寫は遠慮すべき筈のものであり、又それだけの必要はこの弔歌の性質上認められない。只皇子が男盛りの三十五歳を一期として、夫婦愛の最高潮期に薨去された事が、皇女の爲に控自ながらもかく言及せざるを得ないのであつた。「劍刀」は身に副ふの慣語ではあるが、女人の感傷を主とした布叙には、その物柄が、聊か哀婉味を殺ぐ感じがせぬでもない。蓋し男性たる作者自身の生活がそこに露出したものと思ふ。「身に添へ寢ねば――夜床もあるらむ」に至つて、始めてその死別問題に觸れ、後段を起す伏線を張つた。
 後段死生の既に相隔れることを忘れて「蓋しくも逢ふやと思ひて」と如在の觀をなすは、人情の自然の露れである。然し現代人の如く理性に富んで居ては、靈魂不滅論者ですら眞の信仰はもちかねる。で死者を何處までも死者として追悼する。古人は其處へゆくと情味が木地丸出しに流露してゐる。といふのは、現に上にも再三評論した通り、彼等は靈魂不滅に就いては、それを理窟からではなく、全く盲目的にさう信じてゐた。否それ處か死者の復活をさへ信じてゐた。故に事實は何時も裏切るけれど、何か心の底には、あはよくば死者に出合へるといふ漫然たる希望が、潜行的に流れて働いてゐるらしい。いや、らしい處かそれは事實であつた。下にも人麻呂は「大鳥の羽易の山に妹はいますと人のいへば」と歌つた。その外集中の作にその例證が澤山ある。
 かくて死別を生別に振替へ、越の大野に御墓仕の處の日夕の御參詣を、夫君に逢はんが爲の御訪問の如くに準擬し去つた。露を踏み霧を犯し、衣も裳も濡れ/\大野に旅宿する。辛苦は無上だ。しかも酬ゆる處は絶對にない。即ち「逢はぬ君」なのである。この結句は非常に力強い表現で、沈痛骨を刺すものである。隨つて反(510)撥的に同情は皇女の上に落下して來る。信に悲しい哀れな御身の上、お氣の毒にもとなつて來る。かくて讀者はすつかり作者の幻化手段に乘せられてしまふ。
 修辭上面白いのは、「上つ瀬に生ふる玉藻は、下つ瀬に流れふらばふ」が、一意到底の描寫でありながら、自然對を成してゐる事である。そして玉藻は全部皇子の上に關係づけられた叙述であり、「朝露に玉裳はひづち」「夕霧に衣は沾れて」は皇女の上に關係づけた排對で、前後相對映して、旨く兩々均衡がたもたれてゐる。
 取材といひ、修辭といひ、形式といひ、作者の習癖が著しく現れて、他の所作に共通點が非常に多い。同一人の製作だから據ないとはいへ、少し範疇に墮してゐるではないかとも考へられる。この作者としてはさう上乘のものではあるまい。限なく行き屆いていひおほせて居る點は流石である。
 
反歌一首
 
敷妙乃《しきたへの》 袖易之君《そでかへしきみ》 玉垂之《たまだれの》 越堅〔臣が田〕過去《をちぬすぎゆく》 亦毛將相八方《またもあはめやも》【一云|乎知野爾過奴《ヲチヌニスギヌ》】     195
 
〔釋〕 ○しきたへの 袖、袂、衣手、枕、床、家などに係る枕詞。既出(二五五頁)。○かへし 交《カハ》したの意「易」は借字。○をちぬすぎゆく 割註の「をちぬにすぎぬ」がよい。恐らく本行のもさう訓ませる積りであつたらう。「すぎぬ」は死ぬることであるが、こゝは葬送にまでかけていつた。「越野すぎゆく」では越野を通り過ぎることになつて、理が立たない。
〔歌意〕 貴女樣の袖さし交して寢られた大事な皇子樣は、越智野に斂《ヲサ》まつてしまひました。とても二度とお會ひ(511)になれませうかい。まことにお痛はしいことで御座います。
 
〔評〕 この着想とこの形式の叙述とは集中に澤山散見して、敢て珍しいものでもないが、全篇の氣分から見て高邁な處が見える。枕かはしゝ〔五字傍点〕を「袖かへし」、死ぬる〔三字傍点〕を「過ぎ」と露骨を嫌つた叙法は、當時にあつては常套語であるが、現代で聞くと頗る婉曲の感じが起る。長歌には「逢ふやと」思つて尋ね來たといひ、反歌には「またも逢はめやも」と、逢ふことは絶對に無いと痛歎してゐる。これ等の應接は互に相俟つて、はじめてその妙味を發揮するものである。初二の句と三四の句とは、おの/\枕詞を用ひた扇對で、結句が獨立してゐる。この體は平安朝以後の近體のものには類が少ない。それは一首の中に於ける枕詞の疊用を嫌つたものである。
 
右或本(ニ)曰(ク)、葬(ル)2河島皇子(ヲ)越智堅〔臣が田〕(ニ)1之時、獻(レル)2泊瀬部〔左△〕皇女(ニ)1歌也。日本紀(ニ)曰(ク)、朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑 淨大參皇子川島薨(ス)。
 
 右の歌は河島皇子を越智堅〔臣が田〕に葬つた時に泊瀬部皇女に獻つた歌との意。これはもとの題詞に「獻泊瀬部皇女忍坂部皇子歌」とあるに對してその異傳を註したので、この異傳の方が正しい。舊本「泊瀬」の下に部〔右△〕が落ちてゐるが、古葉略類聚鈔、神田本等によつて補つた。朱鳥五年とあるは誤で、持統天皇五年とすべきである。丁丑は九日である。
 
明日香《あすかの》皇女(の)木※[瓦+缶]殯《きのへのあらきの》宮(の)之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌
 
(512)〔釋〕 ○明日香皇女 天智天皇の御女。天智紀に「次(ニ)有(リ)2阿部|倉梯《クラハシ》麻呂(ノ)女1、曰(フ)2橘(ノ)娘《イラツメト》1、生(メリ)3飛鳥(ノ)皇女(ト)與(ヲ)2新田部(ノ)皇女1」と見え、文武紀に「四年夏四月癸未、淨廣肆明日香皇女薨(ズ)、遣(リテ)v使(ヲ)弔2賻之(ヲ)1」とある。忍壁皇子の妃。○木※[瓦+缶] 正しくは城上《キノヘ》。大和北葛城郡(舊廣瀬郡)大塚村|馬見《マミ》の大塚のことで、又木上、木於、於城戸などとも書いた。武烈紀に「三年十一月詔(リ)2大伴(ノ)室屋大連《ムロヤノホムラジニ》1發2信濃(ノ)國(ノ)男丁(ヲ)1作(ラシム)城(ノ)像《カタヲ》水派邑《ミナマタノムラニ》1仍(ツテ)曰(フ)2城(ノ)上(ト)1」とある。岡中、今も於《ウヘノ》社がある。なほ下の「高市皇子尊(ノ)城上殯宮之時」の條參照(五二五頁)。眞淵はいふ、「この歌は皇女の夫君|忍坂部《オサカベノ》皇子に獻れるものならむ、故に「人麻呂」の下、獻〔右△〕(ル)2忍坂部皇子〔五字右△〕1歌〔右△〕とありしが、上の歌の題詞に混入せしなるべし、又「短歌」の下二首〔二字右△〕の字脱ちたり」と
 
(513)飛鳥《とぶとりの》 明日香乃河之《あすかのかはの》 上瀬《かみつせに》 石橋渡《いははしわたし》【一云|石浪《イハナミ》】 下瀬《しもつせに》 打橋渡《うちはしわたす》 石橋《いははしに》【一云石浪】 生靡留【おひなびける】 玉藻毛叙《たまももぞ》 絶者生流《たゆればおふる》 打橋《うちはしに》 生乎爲爲禮流《おひををれる》 川藻毛叙《かはももぞ》 干者波由流《かるればはゆる》 何然毛《なにしかも》 吾王乃《わがおほきみの》 立者《たたせば》 玉藻之如許呂〔三字左△〕《たまものもころ》 臥者《こやせば》 川藻之如久《かはものごとく》 靡之相《なびかひし》 宜君之《よろしききみの》 朝宮乎《あさみやを》 忘賜哉《わすれたまふや》 夕宮乎《ゆふみやを》 背賜哉《そむきたまふや》 宇都曾臣跡《うつそみと》 念之時《おもひしときに》 春部者《はるべは》 花折挿頭《はなをりかざし》 秋立者《あきたてば》 黄葉挿頭《もみぢばかざし》 敷妙之《しきたへの》 袖携《そでたづさはり》 鏡成《かがみなす》 雖見不厭〔まだれなし〕《みれどもあかず》 三五月之《もちづきの》 益目頬染《いやめづらしみ》 所念之《おもほしし》 君與時時《きみとときどき》 幸而《いでまして》 遊賜之《あそびたまひし》 御食向《みけむかふ》 木※[瓦+缶]之宮乎《きのへのみやを》 常宮跡《とこみやと》 賜定《さだめたまひて》 味澤相《あぢさはふ》 目辭毛絶奴《めごともたえぬ》 然有鴨《しかれかも》【一云|所己乎之毛《ソコヲシモ》】 綾爾憐《あやにかなしみ》 宿兄鳥之《ぬえどりの》 嬬片戀〔三字左△〕《つまをかたごひ》【一云|爲乍《シツヽ》】 朝(514)鳥《あさどりの》【一云朝露】 往來爲君之《かよはすきみが》 夏草乃《なつぐさの》 念之萎而《おもひしなえて》 夕星之《ゆふづつの》 彼往此去《かゆきかくゆき》 大船《おほぶねの》 猶預不定見者《たゆたふみれば》 遣悶流《なぐさむる》 情毛不在《こころもあらず》 其故《そこゆゑに》 爲便知之也〔左△〕《せむすべしらに》 音耳母《おとのみも》 名耳毛不絶《なのみもたえず》 天地之《あめつちの》 彌遠長久《いやとほながく》 思將往《しぬびゆかむ》 御名爾懸世流《みなにかかせる》 明日香河《あすかがは》 及萬代《よろづよまでに》 早布屋師《はしきやし》 吾王乃《わがおほきみの》 形見何此焉〔左△〕《かたみにここを》     196
 
〔釋〕 ○いははし 石梁。水中に置き並べて蹈み渡る飛石のこと。和名抄に「石橋、※[石+工]、以之波之《イシハシ》」とあるが、奈良時代の古言でないから、舊訓イシハシ〔四字傍線〕は采らない。割註「石浪」の浪は並《ナミ》の借字。○うちはし 板などを渡りとした假橋。「うち」は打開などの打〔傍点〕である。移し橋〔三字傍点〕の約とする宣長説は煩しい。神代紀に「於天(ノ)安河原(ニ)亦造(ラシム)2打橋(ヲ)1、」源氏桐壺に「打橋渡殿こゝかしこの道に」とある。「わたす」は景樹、古義などの訓による。他訓のワタシ〔三字傍線〕と中止形にしたのは非。○もぞ 單にぞ〔傍点〕といふに同じい輕い使ひ方で、「も」は歎辭。反りて〔三字傍点〕の意を含む重い格ではない。○ををれる 「ををる」はラ行四段活の語で、フサ/\と撓むをいふ。「春部は花咲き乎遠里《ヲヲリ》」(卷六)、「春されば乎呼理爾乎呼理《ヲヲリニヲヲリ》」(同上)の類皆その意。「爲」は考の説に烏〔右△〕の誤とあるに從つた。○かはも 川に生ずる藻、上の玉藻と同一物。固有名詞ではない。○なにしかも 下の二つの「賜ふ」に係る。「然」は借(515)字。○わがおほきみ 皇女をも尚かく稱した。こゝは明日香皇女をさす。○たたせば 立て〔二字傍点〕ばの延語で敬相。○もころ 如くの意の古言。神代紀に「若《モコロニ》2※[火+票]火(ノ)1云々」と訓み、卷二十に「松の木《ケ》の並みたる見れば家人のわれを見送るとたゝりし母己呂《モコロ》」とある。平田篤胤いふ、「凡、若、如などの意の言、御國に三あり、一は那須《ナス》、二は碁登久《ゴトク》、三は母許呂《モコロ》なり、那須は似《ニ》すなるべく、碁登久は事を活かしたる言なるべく、母許呂は母〔傍点〕は添言にて比なるべし」と。金澤本に「母許呂」とあるに據つて、本文の「如」を母〔右△〕の誤とした山田氏の説による。從來の訓は、立タセバ玉藻ノゴトク〔十字傍線〕、コロフセバ川藻ノゴトク〔十一字傍線〕。○こやせば 「こやす」はこやる〔三字傍点〕とも活き、展《ノ》び臥すをいふ古言。集中に展《コイ》(卷十二)反側《コイマロビ》(卷三)など見える。○なびかひし 上出(五〇六頁)。上の「もころ」もこの句に係る。○よろしき 「よろし」は宜《ヨ》しと同意。可成《カナリ》といふ轉意は平安期の發生。○きみの 「君の朝宮」と續く意である。君は夫君忍壁皇子を斥す。下の二つの「君」も皇子を斥してゐる。他訓に皆キミガ〔三字傍線〕とあるは非。○あさみや――ゆふみや 朝夕おはします御殿といふことを、二つにいひ分けた。○たまふや――たまふや 上の「何にしかも」を承けて、この二つの「賜ふ」で結んだ。故に「や」はいづれも歎辭。○うつそみとおもひしときに 皇女が現在の人であつた時に。「念《オモ》ひ」は輕く使つた語で、古代の辭樣。「うつそみ」は現し身の轉語。「うつせみ」に同じい。「うつせみも」を參照(六九頁)。「臣」の訓はオミだから「み」の音に略用した。○しきたへの 袖に係る枕詞。既出(二五五頁)。○そでたづさはり 手を携へてといふに同じい。この句次の挿入句を隔てゝ「幸而《イデマシテ》」に係る。○かがみなす 鏡その物の如く。「見れども飽かず」の「見」に係る枕詞。「飽(516)かず」までには及ばぬことは、「鏡なすみ津《ツ》の濱邊に」(卷四、卷五)の例によつても知られる。○あかず 「おもほしし」に係る。「不」はズと訓むが一般的である。こゝは古言の否定辭のニ〔傍点〕に訓む必要はない。「厭〔まだれなし〕」は厭〔右△〕、※[日/厭]〔右△〕など書いた本もある。○もちづきの 望月の如く。「珍し」に係る枕詞に用ゐた。「三五月」は十五夜の月の義で、滿月をいふ「もち」はミチ(滿)の轉。○めづらしみ 愛《メ》でたく。「めづらし」は愛づら〔三字傍点〕の語が形容詞格になつたもので、こゝはその本義に就いて愛《メデ》たしと同意に用ゐた。「み」はサニ又はクテと譯すべき接尾語だが、ここのはそれでは解しにくい。古義のこれを古語の一格とする説に從ひ、「めづらしみ」を愛《メ》づらしと同意に解した。なほ本卷、及び四、十一、十六の卷々にその類例がある。新考にこの「み」をガリ〔二字傍線〕と解したが時に牴觸の湯合がある。「目頬」は戲書。「染」は借字。○きみと 君は忍壁皇子をさす。○ときどき 眞淵はヲリヲリ〔四字傍線〕と訓んだが、ヲリヲリは平安期に發生の語である。○みけむかふ 御食《ミケ》に供ふる酒《キ》といふことを木※[瓦+缶]《キノヘ》にいひかけた枕詞。久老いふ「食《ケ》は飯又はひろく食物をかけても稱す。向ふは供具の意にて、手向のムケに同じ。酒《キ》はサケの古名クシの約」と。古義には「葱《キ》にいひかけたるか、又は葱《キ》の※[齋の上/韮の下]《アヘ》とまでかけたるか」とあるが、食膳の供には葱よりは酒の方が遙に普遍性が多い。○きのへ 「木※[瓦+缶]」は借字。○とこみや 常住の御殿。この宮に萬代も御魂の鎭まりますをいふ。○あぢさはふ 目《メ》に係る枕詞。「あぢ」は味鳧《アヂガモ》のこと。水禽類中扁嘴類に屬し、鴨に似て小さく頭は黄赤を帶びた青緑色、翅は灰色、胸は黄赤色に小黒點を混へ、腹は灰白の中に赤黒き羽毛雜る。數百群を成して棲息し飛翔するので、味鳧多經群《アヂサハフムレ》といひ、その群《ムレ》の約メ〔傍点〕を目にいひかけた。「さはふ」は多《サハ》のハの延言と見て味鳧多群《アヂサハフメ》の義としても解される。古義の味粟生《ウマサハフ》の説は牽強である。「味」も「相」も借字。○めごとも 會ふことさへも。「めごと」は見《ミ》え事の意。ミエの約はメである。卷四にも「海山も隔たらなくに(517)奈何鴨目言乎《イカニカモメコトヲ》だにもこゝだ戀しき」とある。「辭」「言」は借字。古義は「目」と「辭」とを引離して、逢ふこと及び物言ふことの意とし、メコト〔三字傍線〕と清んで訓んだ。○しかれかも そのせゐかまあ。割註の「所己乎之毛《ソコヲシモ》」も惡くない。眞淵以來の諸家は多く割註に從つてゐるが、既に意味の通ずるものは、成るべく本行のに據りたいと思ふ。○あやにかなしみ 甚しく悲しみ。「憐」をカナシと訓むは契沖説による。「綾」は借字。○ぬえどりの ※[空+鳥]鳥の如く。片戀に係る枕詞。※[空+鳥]鳥の聲は歎き悲しむやうに聞えるので、それを片戀に歎くものと聞き做した。卷三に容鳥《カホドリ》にも片戀を詠んである。「宿兄」は借字。※[空+鳥]鳥のことは卷一「ぬえこどり」を參照(三九頁)。○つまをかたごひ 皇女は死にて皇子のみ戀ひ歎くをいふ。「かたごひ」は片思ひで、相思《アヒオモヒ》の反。諸本には「片戀嬬《カタゴヒツマ》」とあるので、その難解の爲、註者は皆割註を採つてゐる。然しこれは嬬片戀〔三字右△〕の顛倒であることは明らかなので正した。割註の「爲乍《シツヽ》」は簡明。○あさどりの 朝鳥の如く。往來《カヨフ》に係る枕詞。朝立つ鳥は遠く飛び通ふものなればいふ。割註の「朝露」は不通。神田本その他には朝霧〔二字傍点〕とある。○かよはすきみ 御墓に〔三字右○〕通はるゝ皇子が。「通はす」は通ふの敬相。○なつぐさのおもひしなえて 既出(三八九頁)。○ゆふづつの 夕星の如く。夕星は宵の明星、即ち金星のこと。この星或は東に(明《アケ》の明星《ミヤウジヤウ》)或は西に(宵《ヨヒ》の明星)見ゆる故に「かゆきかくゆき」に係る枕詞とした。和名抄に「太白星、一名長庚、暮(ニ)見(ハル)2西方(ニ)1爲(ス)2長庚(ト)1、此間《コヽニ》云(フ)由不豆々《ユフヅツ》」とある。「ゆふづつ」は夕續《ユフツヾク》の義で、その明さ夕に續く故の稱と。○かゆきかくゆき 彼方へ往き此方へ往き。○おほぶねの 大船の如く。「たゆたふ」に係る枕詞。大船は小舟と違つて大樣にゆた/\と躊躇《タユタ》ふもの故にいふ。上に「大船のはつる泊《トマリ》のたゆたひに」(三六八頁)、古今集に「大船のゆたのたゆたに物思ふ」(戀一)など同例。○たゆたふ 「たゆたひに」を參照(三六八頁)。これを「猶預不定」と書いたのは、上の句の「彼往此去」に對した作意に出づるもの。○(518)みれば これは作者が見るのである。○なぐさむる 「遣悶」をかく讀むは意訓。舊訓はオモヒヤル〔五字傍線〕。○こころもあらず 心持もない。○せむすべしらに 手の施しやうもなさに。「也」を土〔右△〕の誤字として解する。眞淵はスベシラマシヤ〔七字傍線〕と訓み、宣長は「この句誤字あるべし、セムスベヲナミ〔七字傍線〕、セムスベシラニ〔七字傍線〕など訓むべき處」といつた。○おとのみもなのみも せめて皇女のお名だけでも。音も名も同じことを詞を換へて叙べた。○あめつちの 天地の如く。○いやとほながく 極めて永久に。○しぬびゆかむ 「思」をシヌブと訓むこと、集中にその例頗る多い。○みなにかかせる 皇女の明日香といふ御名に繋け給へる。「かかせる」は繋く〔二字傍点〕の敬相たる繋かす〔三字傍点〕の延言。卷十六にも櫻兒の名によつて「妹が名に繋有《カヽセル》櫻花さかば」とある。平安以後には名に負ふ〔四字傍点〕といひ、古語には名に繋く〔四字傍点〕といふ。○はしきやし 愛《ハ》しき。「やし」は歎辭。この語記紀に見えて、はしけやし、はしきよしなど轉じいふ。「早」の訓ハはハヤの下略。○かたみに 「何」をニと訓む。何、荷は通用。毛詩に百禄是|何《ニナフ》とある。○ここを 此處《ココ》をせむ〔二字右○〕の略。宣長、景樹が「を」を歎辭と見たのは意がたじろぐ。「焉」にヲの音はあるが、或は烏〔右△〕の誤か。
【歌意】 飛鳥川の上の瀬には石橋を置き渡し、下の瀬には假橋を架け渡してある。その石橋に生ひ靡いてゐる玉藻はさ、絶えれば生える、又假橋に生ひ茂つてゐる川藻はさ、枯れゝば生えるよ。何の故にわが明日香皇女樣は、晝は玉藻の如く、夜は川藻の如く靡き合ひ、御夫婦中睦じかつた立派な皇子(忍坂皇子)樣の朝夕御住ひの御殿を、玉藻川藻の復と生ふるにも似ず〔十四字右○〕、全くお忘れなされたのかえ、お背きなされたのかえ。皇女の御在世の折は、春になると花を折り挿頭《カザ》し、秋が來ると黄葉を挿頭して、袖を連ねて、見ても見厭かず愈よ珍しくお思ひなされた皇子樣と、折々お出掛けになつてお遊になつた木※[瓦+缶]の宮を、永久の御殿とお定めになつて、夫君とお逢(519)ひになる事も絶えてしまつた。それ故か、ひどく悲しがり、亡き妻皇女を片戀しつゝ、皇女の御墓にお通ひになる夫君皇子樣には、思ひしをれて、あちらへ往きこちらへ往き、うろ/\してゐるのを拜見すると、私も心の慰めやうもなく、どう仕樣もないので、せめて皇女の御名なりとも絶やさず、天地と共に永く久しく慕ひ奉つて往かうと思ふ〔三字右○〕、幸ひ〔二字右○〕その御名に掛けてお持ちなされる明日香川、此處をば萬代の後までもあの愛でたい皇女樣の御記念に致しませう。
 
〔評〕 初頭排對的の參差交錯の句法は長歌における慣手法、上代既にその類例のあることは、上の人麻呂の「從石見國別妻上京時」の長歌の第二篇の評語中において叙べた。
 狹く淺かるべき上つ瀬には石橋、やゝ廣く深かるべき下つ瀬には打橋、かう考へると、橋そのものがおのおのその處を得た配置といふべく、たゞ漫然たる排對の如く見えながら、その實周到なる用意のある事が窺はれる。
 「石橋」「打橋」は玉藻川藻を拈出する素地を作し、その玉藻川藻は「靡かひし」の直接譬喩を成してゐる。但「絶ゆれば生ゆる、干るれば生ふる」は、緊切なる當前の交渉をもたない。無用の弄語の如く見える。然しこの生々復活の意義は、何等かの暗示を與へる役目を持つものではあるまいか。果然下に「朝宮を忘れ給ふ――夕宮を背き給ふ」とある、皇女の逝いて復返らぬ現實に對しての反映を成すもので、そこにいひ知らぬ感傷を寓することになる。「立たせば」は晝の動作、「こやせば」は夜の行爲、よつて晝夜を象徴してゐる。
 「朝宮云々」「夕宮云々」の句はその御薨逝といふ意外な衝動に驅られた慨歎の餘りの反覆で、遂に「何にしか(520)も――忘れ給ふ」の難詰約言辭が激發するに至つた。死生命あり、もとより無理と知りつゝも、尚かく怨嗟の聲を立てずには居られぬ處に、痛惜の情の最も極まつたものがある。その薨逝を直接に説破せずして「宮を忘れ給ふ――背き給ふ」といふ、かゝる暗示に類した間接的叙法は、常に婉曲味を活動せしむるのみならず、傍ら後段の爲にその叙述の餘地を遺したもので、初頭よりこゝまでは、先づ總序といつた形式である。
 さて方向を轉換していよ/\本題に入り、目的たる皇女の薨逝に對する悼意を叙さうとする。然しまだ早い。それは順序として、皇女が木※[瓦+缶]の宮に斂葬せられた事實に、一往言及せねばならぬ。第三段は即ちこの必要から成立つた叙事である。だが作者はそれを極めて簡單に、「御食向ふ」から「目辭も絶えぬ」の數句を以て片付けてゐながら、「木※[瓦+缶]」そのものゝ修飾には、極力多量の筆を吝まなかつた。
 まづ夫婦間のむつびに想到し、春秋の花紅葉にも何時も御一緒で、最愛の夫君とこゝに出遊せられた行實を叙して、木※[瓦+缶]の岡に重要性をもたせた。一は以て末段の夫君皇子の悼亡の情緒を激揚せしむる手段である。
 木※[瓦+缶]の岡は東面に高田川を帶び、高さ十五米突ほどの根張つた岡が集簇して一團の丘陵を成してゐる。麓は低濕の地で、今も潴水があちこちにある。村の古名|水派《ミナマタ》から想像すれば、昔は高田川の水が岡に近く、蜘蛛手に流れ分れてゐたらしい。紀に據れば、武烈天皇の時に信濃人を徴發して城像《キノカタ》を作つたとあるが、それはもとからある丘陵を整理して、城地に築き上けられたのであらう。爾來星霜約二百年、岡は古り水は碧に、樹林欝蒼として、春花秋葉の觀賞に値するものがあつたのであらう。「花折り挿頭し――黄葉挿頭し――君と時々|幸《イデマ》して遊び給ひし」とあるは即ちそれで、藤原京からは約三里、日歸りの行樂には好適地であつたと思はれる。然るに木※[瓦+缶]の岡勢といひ地相といひ、古代の陵制に相應してゐる處から、こゝに皇女の殯宮を建てられることに(521)なつた。夫君としては、曾遊歡樂の郷は忽ち當面傷心の地と變じた譯である。
 「嬬を片戀ひ」「往來《カヨ》はす」「思ひ萎えて」「かゆきかくゆき」「たゆたふ」と、殆ど狂するが如き夫君悲悼の態度を形状して、餘蘊がない。句々一々枕詞を据ゑてあるのは、單なる文飾とのみ考へてはならぬ。これは毎句層一層力強い印象を與へつゝ叙事を進行させてゆく手段で、この場合最も適當なる表現法である。かくて上に理由なくして夫君を見棄てたやうにいひなした皇女の無情と、その無情なる皇女をも尚熱烈に戀ひ慕ふ夫君の有情とが暗々裏に映對して、一段悲痛の情意を激成する。「見れば慰むる情もあらず」は、作者自身の動作とそれに伴ふ同情的感想で、漸く前段の叙事から立返つて、次段への轉捩を成す枢機である。
 作者は既に貰ひ泣きに泣いた。然し、散る花を追ふは愚と悟つて、別に慰籍の方法に焦慮した。即ち皇女の御名に因んだ明日香川の存在を想起して、此處をこそ終世末代皇女の記念と見たいと提唱した。これは一面、間接に悲哀の底に坤吟してゐる夫君への慰籍の詞になつてゐる。否實はそれが作者本來の眞目的なので、蘊含の妙味洵に測るべからざるものがある。かくて明日香川が初頭の句に顧應して、餘韻が全面に流動する。
 明日香川を斥して「御名にかかせる」といひ「形見にここを」といふ。人名と地名との交渉は、上代にあつては頗る緊密なる關係をもつてゐた。人名に地名を用ゐた例は枚擧に遑がない。もとより邦俗名を重んじた習慣から、高貴の子の無いお方は、御名代の土地を置かれた程だから、こゝに「天地のいや遠長くしぬびゆかむ御名にかかせる明日香川」といふものは、作者の當座の思付ではなく、深く歴史に根柢した有意味の措辭である。かくてこそ「形見にここを」も最も至當に力強く理由づけられる。
 夫君忍壁皇子は、壬申の戰時において五六歳と假定すると、妃明日香皇女薨逝の時は、ほゞ三十四五歳とな(522)る。今が盛りの御齡に、若い最愛の妃子に死別せられたその御悲は、非常であつたに違ない。作者はこの悲劇の當事者ではない。局外の他人である。しかも尚よくかゝる悽婉なる哀詞を裁し得たことは、深い同情心の衝動から生まれたのであることは勿論ながら、作者は或はこの皇子皇女の御夫妻に對して、特殊の關係をもつてゐたのではあるまいかとも疑はれる。試にいはゞ、作者は高市皇太子薨後は、一時忍壁皇子の舍人として奉仕して居たのかも知れない。
 通篇※[糸+周]繆宛轉の情緒を叙するに、綿々密々肺腑の語を屬吐し、依々脈々よく情意の動向を悉し、人をして感傷無聊に禁へざらしめる。而も死の一字を着けずして、渾べてを讀者の胸臆中に打委せてゐる。その結構布置は極めて井然として、而も波瀾重疊變化の妙に富み、字々句々凄婉、千古薄命の因を怨まずには居られぬ。
 この篇初頭より「干るれば生ゆる」までが第一段、「夕宮を背き給ふや」までが第二段、「日辭も絶えぬ」までが第三段、「情もあらず」までが第四段、「形見にここを」までが第五段、かく區分して見ると、この體制が一目瞭然となる。「三五月」の隱語「彼往此去」「猶預不定」の對語、その他「往來」「遣悶」「及萬代」等の漢熟語を盛に使用してあることは、記録者が意識しての所爲と考へられる。
 
短歌二首
 
 「短歌」は反〔右△〕歌と題した方がふさはしいやうである。
 
明日香川《あすかがは》 四賀良美渡之《しがらみわたし》 塞益者《せかませば》 進留水母《ながるるみづも》 能杼爾賀有萬思《のどにかあらまし》【一云|水乃與杼爾加有益《ミヅノヨドニカアラマシ》】     197
 
(523)〔釋〕 ○しがらみわたし 柵をかけ渡しての意。柵は河中に材を打ち、竹木を絡んで水を堰くもの。繁絡《シカラミ》の義。○せかませば もし堰かうならばの意。「ませ」は假設の助動詞「まし」の未然形である。「益」は借字。○ながるるみづも 「も」は口語のサヘモの意。「進」は意借字。○のどに のどかにと同じい。割註の「水の」はその意不通。
【歌意】 あの急流の飛鳥川でも柵をかけて堰きとめようなら、流れる水でも、ゆつたりとならうものを、この川の名を負ひ給へる皇女の御命をとゞめることの出來なかつたのは、いかにも殘念の至です。
 
〔評〕 既に長歌に皇女の御名に※[夕/寅]縁して飛鳥川を拈出した關係上、更にこれに託して皇女哀悼の誠意を反覆したのである。飛鳥川は幅は廣くないが、大和では佐保、初瀬と竝んで三大川に數へられ、その山地間にあつては約一里間に八十米突の落差をもつ急流である。だから大和人殊に飛鳥人は常にこの激湍が目についてゐた。それ故よしや至難な事でも、すれば出來るといふ引例に、あの飛鳥川でも堰けば堰かれると叫んだことは、成程と當時の人達を頷かせ得る力を持つてゐたに相違ない。そして(524)餘意に皇女の御死別ばかりは人力ではどうともならなかつたことを反映させて、悼意を婉曲に叙べたのは、實に大手腕である。古今集の壬生忠岑が、
  瀬をせけば淵となりても淀みけり別れをとむる柵ぞなき(哀傷)
の歌は主意が全くこれと同一である。只人麻呂の作の言外に含蓄させた餘意を、これは下句に明白に叙べてしまつた。哀傷の歌は必しも幽婉の體ばかりを尚ぶものでもない。時に率直な言辭が却つて強い衝動を聽者の胸に與へるから、忠岑の作も決してわるいものではない。而して忠岑のは肉親の姉の死に際しての作で、その切迫高潮した情緒は、自然かうした突き詰めた調を成すものである。然し何といつても人麻呂のは線が太い。大きい、高い、深い。調の悠揚として迫らぬのは、時代氣分に原因することは勿論であるが、又皇女と作者とが親身な直接關係に居らぬことも考慮に入れなければならぬ。同じ哀傷とはいへ、そこに多少の餘裕のあるのは當然である。
 
明日香川《あすかがは》 明日谷《あすだに》【一云|佐倍《サヘ》】將見等《みむと》 念八方《おもへやも》【一云|香毛《カモ》】 吾王《わがおほきみの》 御名忘世奴《みなわすれせぬ》【一云|御名不所忘《ミナワスラエヌ》】     198
 
〔釋〕 ○あすかがは 明日《アス》に係る序詞。アスの音を疊用した。○あすだに せめて明日でもの意。割註の「さへ」は、昨日まで見てゐたが尚明日もの意。こゝは「だに」の方がよい。○おもへやも 思へばかまあ。「や」は疑辭。「も」は歎辭。割註の「かも」も意は全く同じい。○わすれせぬ 忘れ〔二字傍点〕ぬに同じい。忘れ〔二字傍点〕を體言化して、そ(525)れをサ變に活かした語法で、「いましせば」と同例。その項參照(四八三頁)。「ぬ」は否定の助動詞。割註「みなわすらえぬ」は御名が忘れられぬの意。結局同一意に歸するけれども、本文の方が語調が強い。
【歌意】 せめては明日なりとも又お目にかゝらうと思ふせゐかして、皇女樣の明日香といふお名前が、どうしても忘れることが出來ませぬわ。
 
〔評〕 皇女の薨逝はもはや決定事實と現じ、面謁の期は全く絶えてしまつた今、泣く/\そこにあきらめをつけて、更に一縷の望を將來に繋けた。この趣が「明日だに見む」の句に躍如として窺はれる。「明日」は將來の意を強調して、最も近い時間で表現したのである。もと/\死別に再會の期は事實上あり得ない。作者もそれを意識しながら、なほ皇女の御上の忘れかねる現在の情意に惹かれ、「明日だに見む」といふ頼もしげな想像の空中樓閣を描いて、みづから慰めたものである。さうして御名を忘れぬは皇女を忘れぬことを間接に映出せしめたものである。又「御名忘れせぬ」とあつても、明日香〔三字傍点〕の御名は序詞に所縁があるだけで、「明日だに」の明日〔二字傍点〕に響をもつものと見るのはわるい。
 以上の長篇短篇三首を通じ、明日香の地名に因縁して想を構へてゐる。皇女に直接親交をもたぬ作者の立場としては、蓋し止むを得ないことであらう。
 
高市皇子尊《たけちのみこのみことの》城上殯宮之《きのへのあらきのみやの》時、柿本(の)朝臣人麻呂作歌一首并短歌
 
(526)高市皇子尊の靈柩を城上に御送葬の時、人麻呂の詠んだ歌との意。○高市皇子 傳は既出(三五六頁)。○城上殯宮 皇子の御墓は延喜式に、三立《ミタチノ》岡、高市皇子、在(リ)2廣瀬郡(ニ)1、兆城東西六町、南北四町とある。「城上」は木※[瓦+缶]に同じい。木※[瓦+缶]は上に北葛城郡(もと廣瀬郡)大塚村|馬見《マミ》の大塚に充てた。三立岡はその大塚よりは西北二十町に當り、同じ馬見村の大|垣内《カイト》にある。城上は和名抄に城上(ノ)郷と見えて、古へは廣被した地名と思はれるから、三立岡の殯宮をも城上殯官と稱するのである。尚上の「明日香皇女木※[瓦+缶]殯宮之時」を參照(五一二頁)。○殯宮之時 高市皇子の逝去は、持統天皇の十年七月庚戌である。芳樹いはく、
  壬申の亂を鎭め給へるは、皆この高市皇子にて、皇太子の草壁も壬申の年は未だ十一歳にて、この皇子はやゝ長《オトナ》にておはしましゝなり。さらばこの皇子こそまづ皇太子たるベく思はるれど、草壁は皇后の御腹にて、高市は天皇(天武)の未だ皇子にておはしゝ程、胸形君徳善の女|尼子娘《アマコノイラツメ》に産ませ給へる劣り腹なれば、儲君には立て給はざりしなるべし。されどもこの後太政大臣の官淨廣壹の位になり給へるは、皆壬申の御功によれるなり。
と。さてこゝに「皇子(ノ)尊」と記し、持統紀には、「後(ノ)皇子(ノ)尊」と記してある。これは草壁皇太子(日並皇子)の薨後を承けて皇太子となられたので、後〔傍点〕の字、尊〔傍点〕の字が加へられたと見える。上の題詞に、「但馬皇女在高市皇子宮時」とあるのは、まだ皇太子とならぬ以前ゆゑ、尊の字を附けなかつたのであらう。
 
挂文《かけまくも》 忌之伎鴨《ゆゆしきかも》【一云|由遊志計禮杼母《ユユシケレドモ》】 言久母《いはまくも》 綾爾畏伎〔左△〕《あやにかしこし》 明日香乃《あすかの》 眞神之原爾《まかみのはらに》 (527)久堅能《ひさかたの》 天津御門乎《あまつみかどを》 懼母《かしこくも》 定賜而《さだめたまひて》 神佐扶跡《かむさぶと》 磐隱座《いはがくります》 八隅知之《やすみしし》 吾王乃《わがおほきみの》 所聞見爲《きこしめす》 背友國之《そとものくにの》 眞木立《まきたつ》 不破山越而《ふはやまこえて》 狛劔《こまつるぎ》 和射見我原乃《わざみがはらの》 行宮爾《かりみやに》 安母理座而《あもりいまして》 天下《あめのした》 治賜《をさめたまひ》【一云|拂賜而《ハラヒタマヒテ》】 食國乎《をすくにを》 定賜等《さだめたまふと》 鳥之鳴《とりがなく》 吾妻乃國之《あづまのくにの》 御軍士乎《みいくさを》 喚賜而《めしたまひて》 千磐破《ちはやぶる》 人乎和爲跡《ひとをやはせと》 不奉仕《まつろはぬ》 國乎治跡《くにををさめと》【一云|掃部等《ハラヘト》】 皇子隨《みこながら》 任賜者《まけたまへば》 大御身爾《おほみみに》 大刀取帶之《たちとりはかし》 大御手爾《おほみてに》 弓取持之《ゆみとりもたし》 御軍土乎《みいくさを》 安騰毛比賜《あともひたまひ》 齊流《ととのふる》 鼓之音者《つづみのおとは》 雷之《いかづちの》 聲登聞麻低《こゑときくまで》 吹響流《ふきなせる》 小角乃音母〔左△〕《くだのおとは》【一云|笛之音波《フエノオトハ》】 敵見有《あたみたる》 虎可※[口+立刀]吼登《とらかほゆると》 諸人之《もろひとの》 協流麻低爾《おびゆるまでに》【一云|聞迷麻低《キキマヨフマデ》】 指擧有《ささげたる》 幡之靡者《はたのなびきは》 (528)冬木成《ふゆごもり》 春去來者《はるさりくれば》 野毎《ぬごとに》 著而有火之《つきてあるひの》【一云|冬木成春野燒火乃《フユゴモリハルヌヤクヒノ》】 風之共《かぜのむた》 靡如久《なびくがごとく》 取持流《とりもたる》 弓波受乃驟《ゆはずのさわぎ》 三雪落《みゆきふる》 冬乃林爾《ふゆのはやしに》【一云|由布乃林《ユフノハヤシ》】 飄可毛《つむじかも》 伊卷渡等《いまきわたると》 念麻低《おもふまで》 聞之恐久《ききのかしこく》【一云|諸人見惑麻低爾《モロヒトノミマドフマデニ》】 引放《ひきはなつ》 箭繁計久《やのしげけく》 大雪乃《おほゆきの》 亂而來禮《みだれてきたれ》【一云|霰成曾知余里久禮婆《アラレナスソチヨリクレバ》】 不奉仕《まつろはず》 立向之毛《たちむかひしも》 露霜之《つゆじもの》 消者消倍久《けなばけぬべく》 去鳥乃《ゆくとりの》 相競端爾《あらそふはしに》【一云|朝霰之消者《アサシモノケナバ》消言爾|打蝉等安良蘇布波之爾《ウツセミトアラソフハシニ》】 渡會乃《わたらひの》 齋宮從《いはひのみやゆ》 神風爾《かむかぜに》 伊吹惑之《いふきまどはし》 天雲乎《あまぐもを》 日之目毛不令見《ひのめもみせず》 常闇爾《とこやみに》 覆賜而《おほひたまひて》 定之《さだめてし》 水穗之國乎《みづほのくにを》 神隨《かむながら》 太敷座而《ふとしきまして》 八隅知之《やすみしし》 吾大王之《わがおほきみの》 天下《あめのした》 申賜者《まをしたまへば》 萬代《よろづよに》 然之毛將有登《しかしもあらむと》【一云|如是毛安良無等《カクモアラムト》】 木綿花乃《ゆふばなの》 榮時爾《さかゆるときに》 吾大王《わがおほきみ》 (529)皇子之御門乎《みこのみかどを》【一云|刺竹皇子御門乎《サスタケノミコノミカドヲ》】 神宮爾《かむみやに》 装束奉而《よそひまつりて》 遣使《つかはしし》 御門之人毛《みかどのひとも》 白妙乃《しろたへの》 麻衣著《あさごろもきて》 埴安乃《はにやすの》 御門之原爾《みかどのはらに》 赤根刺《あかねさす》 日之盡《ひのことごと》 鹿自物《ししじもの》 伊波此伏管《いはひふしつつ》 烏玉能《ぬばたまの》 暮爾至者《ゆふべになれば》 大殿乎《おほとのを》 振放見乍《ふりさけみつつ》 鶉成《うづらなす》 伊波比廻《いはひもとほり》 雖侍侯《さもらへど》 佐母良比不得者〔左△〕《さもらひかねて》 春鳥之《はるとりの》 佐麻欲比奴禮者《さまよひぬれば》 嘆毛《なげきも》 未過爾《いまだすぎぬに》 憶毛《おもひも》 未盡者《いまだつきねば》 言左敝久《ことさへく》 百濟之原從《くだらのはらゆ》 神葬《かむはふり》 葬伊座而《はふりいませて》 朝毛吉《あさもよし》 木上宮乎《きのへのみやを》 常宮等《とこみやと》 高之〔二字左△〕奉而《さだめまつりて》 神隨《かむながら》 安定座奴《しづまりましぬ》 雖然《しかれども》 吾大王之《わがおほきみの》 萬代跡《よろづよと》 所念食而《おもほしめして》 作良志之《つくらしし》 香來山之宮《かぐやまのみや》 萬代爾《よろづよに》 過牟登念哉《すぎむともへや》 天之如《あめのごと》 振放見乍《ふりさけみつつ》 玉手次《たまたすき》 (530)懸而將偲《かけてしぬばむ》 恐有騰文《かしこかれども》     199
 
〔釋〕 ○かけまくも 自分を〔三字右○〕懸け合はせようことも。「かけ」は此方かち向うへと及ぼす意。又相互にあひ及ぼす意。されば懸けが本義で、時間においては豫《カネ》の意をもち、空間においては兼《カネ》の意をもつ。その他種々の轉意が派生してゐる。故に宣長の言にかけていはむも〔九字傍点〕といふ説、眞淵の心にかくるも〔六字傍点〕といふ説は共に採り難い。殊にこゝは次句「言はまくも」とあれば、宣長説では重複になる。古義に同意を反覆するは古歌の例とあるが、他の數多の用例から推しても、本文の如く釋することが最も妥當である。「かけのよろしく」を參照(四〇頁)。○ゆゆし 齋《イ》み/\しの約で、忌み憚らるゝ意。但更に分義して、(1)は本文の如く、恐さに忌み憚らるゝ意、(2)は「ゆゆしくも吾《ワ》は歎きつるかも」(卷十二)「獨ねて絶えにし紐をゆゆしみと」(卷四)の如く、嫌はしさに忌み憚らるゝ意となる。○いはまくも 自分が〔三字右○〕言はうことも。○あやに 奇《アヤ》しきまでに。「綾」は借字。○かしこし 原本「畏伎《カシコキ》」と連體言になつてゐるが、この語の係る詞が下にない。必ずかしこし〔右△〕といひ切るべき處である。「伎」を假に支〔右△〕の誤寫としておく。○まかみのはら 大和高市郡飛鳥。又|大口《オホクチ》の眞神の原とも續けていふ。雷の岡と飛鳥の岡との中間の平野の總稱。飛鳥(ノ)淨見原(ノ)宮もその一部に建てられ、今ある飛鳥大佛の寺も古への法興寺の遺址で、即ち眞神の原の一部にある。崇峻紀に「始(メ)作(ル)2法興寺(ヲ)此地(ニ)1、名(ク)2飛鳥(ノ)眞神(ノ)原(ト)1云々」。地圖挿圖105(三三四頁)參照。○あまつみかど 皇居を讃めて「天つ」の語を冠した。○さだめたまひて 「明日香の」以下こゝまでは、天武天皇がその皇居飛鳥(ノ)淨見原宮を雷の岡の東、眞神の原に奠められたことをいふ。次句「神さぶと磐隱ります」は、その崩御のことを述べたので、又別意である。然るを先註は全部を一聯のものと(531)見て、眞神の原に御陵を定めて磐隱りました天武天皇がと解したのは、甚しい誤解である。「天つ御門」を御陵の事として、天武陵は式に檜隈《ヒノクマ》大内(ノ)陵と見え、明かに檜隈郷に屬して明日香ではないのに、明日香の眞神紳の原を檜隈郷にまで廣被させて、「大内は眞神の原の小名と聞ゆ」など古義にもあるは、牽強も亦甚しい。必竟天武皇居の淨見原(ノ)宮所在地に關して上居《ジタウゴ》村説を信ずる餘り、眞神の原説を全然忘れた結果である。「明日香淨見原(ノ)宮」の條參照(九九頁)。○かむさぶと 「と」はとて〔二字傍点〕の意。卷一「神さびせすと」を參照(一五三頁)。○いはがくり 山間の岩窟などに埋葬する習慣から起つた語で、それを死者自身の意志から岩戸に立籠る趣にいひなした。鎭火《ヒシヅメノ》祭(ノ)祝詞に「伊佐奈美乃《イザナミノ》命――みほど燒かえて石隱《イハガク》りまして」、倭姫世記に「自ら尾上の山の峯に退《シリゾ》き石隱《イハガク》りましき」、卷三に「豐國の鏡の山の岩戸たて隱《コモ》りにけらし云々」などある。こゝは天武天皇が大内(ノ)御陵に斂められたのをいふ。天武天皇の崩御は高市皇子の薨逝よりは十年も前のことゆゑ、岩隱りまし〔五字傍点〕し〔右△〕と過去の叙法を用ゐるべきであるが、かく現在格にいひなす例は歌文に多い。○わがおほきみ 天武天皇を斥す。○そとものくに 北方の國。皇居の大和を本として、こゝでは東山道地方をさした。「友」は借字。卷一「そとも」を參照(二〇七頁)。○まきたつ 既出(一七七頁)。○ふはやま 美濃國不破郡の山。東海道線關が原驛より西に當る藤川を中心にして、その東西に連亙した山脈の總稱、即ち西は伊増《イマス》峠に起つて、東は松尾山に及ぶものとする。一般には藤川の西岸から伊増峠までの稱とされてゐるが。それでは此處の地理に出會はない。○こまつるぎ 和射見《ワザミ》にかゝる枕詞。狛は即ち高麗で、朝鮮の一地方の稱だけれど、又朝鮮の總名に用ゐもしたので、朝鮮の劍(532)にはその※[木+覇]《ツカ》頭に鐶《クワン》即ち輪《ワ》があつたので和射見にいひかけた。但※[木+覇]頭の鐶は朝鮮文化の源泉たる支那の劔にも、古樂府の「何(レノ)日(カ)大刀(ノ)頭」の註に、大刀(ノ)頭有v鐶、鐶借(リテ)爲(ス)v還(ト)と見えて、※[木+覇]頭に鐶のあつたことが知られる。その鐶の圏内に多く透しの板金を容れ、柄長く、大抵|無反《ムゾリ》の長物《ナガモノ》である。○わざみがはら 美濃國不破郡。今の關が原の古名。又|和射見野《ワザミヌ》ともいふ。その南邊の山は所謂和射見|嶺《ネ》である。松尾山これに當るか。關が原の稱はこの原の西端に不破の關を立てられたのに起る。○わざみがはらのかりみや 野上《ヌガミ》の行宮のこと。野上は關が原の東偏なる鷄籠山の麓に當る。野上の稱は和射見野の上といふ意。「かりみや」は假の皇居。「行宮」の行は羈旅の意。○あもりいまして 「あもり」は天降《アマオ》の約で、天上よりこの國土に降るをいふ。茲は天(533)子の御出動遊ばされたのを、高天の原より降りますに擬へたもの。○をさめたまひ 眞淵が割註の「拂ひ賜ひて」をよいとしたのは非。○をすくに 統治せらるゝ國。卷一「聞《キコ》し食《ヲ》す國はしも」を參照(一四五頁)。○さだめたまふと 「と」はとて〔二字傍点〕の意。○とりがなく 東《アヅマ》にかゝる枕詞。古義にいふ「鷄《トリ》が啼くぞ起きよ我夫《アヅマ》といふ意の續きにて、東といふも吾妻《アヅマ》といふより起れること記紀に見えて人の知る處、神樂歌に、庭鳥はかけろと鳴きぬ起きよ/\わが一夜妻人もこそ見れ、又この集にも、吾が門に千鳥しば鳴く起きよ/\(卷十六)といへるなど思ひ合はすべし」と。冠辭考の「鳥が鳴く明《アカ》に吾妻《アガツマ》のアガを係けたるにて、明は晨明《アカトキ》をいふ。さてアガツマの省かれたるアヅマへも係けたり」といふ説は、古義説より劣つてゐる。○あづまのくに (1)關東地方の稱。(2)上の範圍より擴く、信濃遠江陸奥にまで及ぶ地方の稱。日本武尊の吾嬬者耶《アヅマハヤ》と宣へる御詞に本づいて遂に坂東地方の總稱となつたとする説は、記紀に見えた地名傳説で、著名なことだから委しくはいはぬ。松岡氏はアヅマ族の居住する國と解した。○みいくさ 官軍。「み」は敬稱。「いくさ」は軍卒をいふ。征《イ》くさの義。征く〔二字傍点〕はゆく〔二字傍点〕と同語である。征旅にのぼるをいひ、轉じてはその人をいふやうにもなつた語と思ふ。眞淵が射合箭《イクサ》の義と解したのは、戰を俗にイクサ〔三字傍点〕といふに本づ(534)いた謬説で、戰はタゝカヒ〔四字傍点〕である。○めし 天皇が〔三字右○〕。○ちはやぶるひと 甚しく荒ぶる人。この「ちはやぶる」は枕詞ではない。仁徳紀に「ちはやびと」の語が見える。「千磐破」と書くは借字。「ちはやぶる」を參照(三三〇頁)。○やはせと 令(シメヨ)v和よと。「やはせ」は和《ヤハラ》ぐの他動詞なる和《ヤハ》すの第五變化で、命令格。○まつろはぬ 歸順せぬ。「まつろふ」は奉《マツ》るの延言で、奉仕すること。○をさめと 「をさめ」は命令格。割註の「掃へと」はよくない。「人をやはせと」「國を治めと」の二句は天皇の御命令。「と」はいづれもとての意。○みこながら 高市皇子は〔五字右○〕御子であるがまゝに。「みこ」は高市皇子をさす。「神ながら」を參照(一五三頁)。○まけ 罷らせの意で、派遣するをいひ、轉じては委任の意にも用ゐる。こゝは後の意。○おほみみに この句以下は專ら高市皇子の御上の事を叙した。○とりはかし 「とり」は接頭語。「はかし」は佩《ハ》きの敬相。この訓は正辭説による。舊訓はトリオバシ〔五字傍線〕であるが、太刀は佩くといふが通語である。○とりもたし 「もたし」は持ちの敬相。○あともひ 率ゐること。卷三に「召集聚率比賜比《メシツドヘアトモヒタマヒ》」と見え、聚率の字を訓んである。大將が士卒を引率するにいふ語。守部いふ、後伴《アトトモナ》ひの義と。○ととのふる 軍卒を整ふる。この語は多人數を調整するにいふ。卷三に「網子《アコ》ととのふる」とあり、字鏡に「※[口+律](ハ)調(ヘ)v人(ヲ)率(ヰル)2下人(ヲ)1也、止々乃布《トトノフ》」と見えた。宣長の呼び集むると解したのは聊か語弊がある。呼ぶの意はこの語にない。○つづみ 當時軍中に大鼓を用ゐた。和名抄の征戰具に角はあるが鼓はない。平安初期にはもはや用ゐなかつたものか。○ふきなせる 吹き鳴らせる。鳴らすを古く鳴《ナ》す〔傍点〕といふ。「響流」をナセルと訓むは意訓。「流」を衍字としてナス〔二字傍線〕と現在格に訓む説もあるが、それは詩歌の自由律を認めぬものである。○くだ 管の義。「小角」を訓ませてある。天武紀に大角小角をハラ、クダと訓み、和名抄に「大角【波良乃布江《ハラノフエ》】、小角【久太《クダ》布江】、本(ト)出(ヅ)2胡中(ニ)1、或(ヒト)云(フ)出(ヅト)2呉越(ニ)1以(テ)象(ル)2龍吟(ヲ)1也」と見え、いはゆる夷狄の樂(535)器で、獣角で造つたから角と稱するのである。もとは羊角などを吹いたのであらうが、後には便宜上金屬などで似せて造りもしたであらう。喇叭の類と見てよい。字鏡には※[竹/秋]字を擧げて「去(リテ)v節(ヲ)吹(ク)、波良布《ハラフ》又|九太《クダ》」と見え、大小の別を混一にして居り、且※[竹/秋]字を用ゐ、去v節吹とあるに據れば竹製の物で、これは蕭の笛の類らしい。兩端の竹管の先が突出して獣角のやうであるので角と稀したとの説もある。軍中の樂器としては無論前説の方がよい。○おとは 原本はオトモ〔三字傍線〕である。前後の句「鼓の音は」「幡の靡きは」の如く、皆「は」の辭を以てその主格を提擧した中に、これのみ「も」とあるは面白くない。必ずは〔右△〕と對蹠的に調ふべきである。割註の「笛|之音波《ノオトハ》」とある「は」の辭は、正に當を得たものである。然し「笛の音」よりは本文の「小角《クダ》の音」の方が語調が力強くて、この場合遙に優つてゐる。○あたみたる 敵《アタ》見《ミ》たる。「あたみ」をマ行四段の動詞として、敵《アタ》するの意と解するも一説であるが、敵對の意の力強く表現される方がよいから、敵を見たと解する。○とら 虎。朝鮮の屬島に※[身+耽の旁]羅《トラ》(今の濟州島)がある。※[身+耽の旁]羅人が始めてこれを將來したのでトラと稱したものらしい。尤も紀にも虎は欽明朝が初出であり、※[身+耽の旁]羅の初出は繼體朝であるが、日本への入貢は齊明朝だからいかゞとの疑もあらうが、私には以前から※[身+耽の旁]羅人が往來してゐたと見れば、何の差支もない。但、通證及び倭名抄の掖齋箋註には、左傳の「楚人謂(フ)2虎(ヲ)於菟(ト)1」、を引いて、江淮南楚の間〔日が月〕方言に於※[虎+免]《オト》といひ、今は江南山邊たゞ※[虎+免]《ト》と呼ぶ。故に於は發語にて、※[虎+免]《ト》が本體の語なるべく、日本にてはこれに良《ラ》の接尾語を添へたる也と解してある。「とらか」の「か」は疑辭。○ほゆる 「※[口+立刀]吼」を訓む。「※[口+立刀]」はわが造字で叫〔右△〕の通用。○おびゆる 「恊」の字は※[立心偏+脅]〔右△〕の通用で、オビヤカスと訓む他動詞であるが、こゝは自動詞に充てた。割註「聞きまよふまで」は卑弱な調であるばかりか、上の「聞くまで」に造句が類似して面白くない。「低」の字は次の本文にも「念麻低《オモフマデ》」とあつて、(536)濁音に假用されてゐる。○ささげ 指擧《サシアゲ》の約。○なびき 靡くの體言格。○ふゆごもり 春に係る枕詞。卷一に既出(七八頁)。○ぬごとにつきてあるひの 春は畠を作る爲に野を燒くことは、古へよりの慣習。支那の火田といふもこれ。割註「冬ごもり春野燒く火の」の二句は、本文の「冬木成」以下の四句を約めた貌である。○かぜのむた 風のまゝに。○なびくが 眞淵の訓ナビケル〔四字傍線〕は語調が弱い。○とりもたる 眞淵訓はトリモテル〔五字傍線〕。○ゆはずのさわぎ 弓弭の繁き動は。句の下、は〔右○〕の辭を含む。弓弭は和名抄に「弓(ノ)末(ヲ)曰(フ)v※[弓+肅](ト)、和名|由美波數《ユミハズ》」とある。尚「ながはず」を見よ(三一頁)。「さわぎ」は形象と音響とに亙つて用ゐられるが、こゝは形象の騷と見たい。○みゆきふる 冬に係る序詞。卷十三、十八、二十にもこの用例がある。「み」は美稱。「三」は借字。○ふゆのはやし 割註の「由布《ユフ》の林」は布由〔二字傍点〕の轉倒。○つむじ つむじ風。略してつじ風ともいふ。旋風のこと。「飄」は風の字を添へても書き、いづれもツムジ又ツムジカゼと、紀その他に訓んである。古義に「し」は風の古言なれば濁るべからずとあるは膠柱の論で、神名帳に都武自《ツムジ》の神名が見える。「かも」の「か」は疑辭、「も」は歎辭。○いまき 「い」は發語。○ききのかしこく 眞淵は上の「さわぎ」を形象の騷と見て、「聞」を見〔右△〕の誤とした。いはく「雷虎には聞恊《キヽオビ》え、幡弓には見|恐《カシコ》む趣なめれば、彼此を通じて改めたり」と。尤も割註に「諸人《モロビト》の見惑ふまでに」とあるに據れば、さう見てもよい理由がある。自分は寧ろ割註を採りたい。他の註家は上の「さわぎ」を音響の騷と見て、本文のまゝに解した。○しげけく 繁き状をいふ形容詞。寒しを寒けし〔二字傍点〕と轉用すると同例。○おほゆきの 「の」はの如くの意。○みだれてきたれ 亂れて來たれば〔右○〕の意。「きたれ」とのみで、ば〔右○〕の助辭なしに接續の意をもつことは古代文法の定格。抑も「き(537)たれ」は自他を明らかにいへば往きたれ〔四字傍点〕であるが、往きと來るとは相互共通して慣用してゐるのみならず、此處は敵方の叙述に人る前提としても、わざと自他を轉じたこのいひ方が面白い。割註の「霰なすそちよりくれば」は甚だ拙劣である。そち〔二字傍点〕は其方か。○たちむかひしも 敵對した者〔右○〕も亦。○つゆじもの 「消《ケ》」に係る序詞。露霜の如く消えと續く。「つゆじも」の解は既出(三八八頁)。○けなばけぬべく 消えるなら消えもせうと。死なば死ぬべくの意を喩へた。「け」は消え〔二字傍点〕の約。○ゆくとりの 「爭ふ」に係る枕詞。群れゆく鳥は先を爭うて飛ぶと見ゆる故にいふ。○あらそふ 「相競」をかく讀むは意訓。○はしに 「間」を古言にハシ〔二字傍点〕と訓む。口語のトタンに當る。割註の「消者消言爾」はケナバケヌカニ〔七字傍線〕で、言は香〔右△〕の誤らしい。「打蝉と爭ふ」は意を成さない。○わたらひの 伊勢國渡會郡渡會。○いはひのみやゆ 皇大神宮から。「いはひのみや」は皇大神を齋く宮の意。「いはひ」は忌《イミ》の延言。垂仁紀にもさう訓んである。舊訓はイツキノミヤ〔六字傍線〕。宣長いふ「イツキの宮と訓みては齋内親王《イツキノミコ》の宮と紛るれば、イハヒの宮なるべし。大神宮の御事なり」と。○かむかぜに 皇大神が〔四字右○〕神風に。「かむかぜ」は既出(二八〇頁)。○いふきまどはし 敵を吹き惑はし。「い」は發語。諸註共に「いふき」を息吹《イキフ》きの略とするも、息をイとのみいふは諾ひ難い。今は契沖説に從ふ。○あまぐもを 大空をといふに同じい。雲を空と同意に用ゐる。原本「天」は大〔右△〕とある。○ひのめ 「め」は所見《ミエ》の約。○とこやみ 眞暗《マツクラ》といふ程の意。正しくは常《トハ》に暗いこと。神代紀に「六合之内常闇而《クニノウチトコヤミニシテ》、不v知(ラ)2晝夜之相代《ヨルヒルノワキモ》1」とある。○さだめてし 皇大神の定めた。○みづほのくに 豐蘆原(ノ)瑞穗之國。「水」は借字。○かむながらふとしきまして 天武持統〔四字右○〕二帝相繼いで神隨太敷座而の意。但詞が稍いひ足りない。古義に「而」の字を衍としてフトシキイマス〔七字傍線〕と訓み、「吾大王」にまで續けて天武天皇の御事としたのは誤。「ふとしき」は既出(一四六頁)。○やすみししわがおほきみの 高市皇子(538)を斥す。以下この君の御上を敍べた。皇子を大王《オホキミ》といふ例は卷一「輕皇子阿騎野遊獵」の長歌に既出(一七五頁)。○あめのしたまをしたまへば 皇子が〔三字右○〕天下を事執り給へば。持統天皇の四年七月に高市皇子の太政大臣となれるをいふ。「まをし」は言上するの意だが、茲は執行の意に用ゐた。○しかしもあらむと さもあらうと。皇子の現况をさしていふ。「し」は強辭、「も」は歎辭。割註の「かくもあらむと」も惡くない。○ゆふばなの 木綿花の如く。「榮ゆる」に係る枕詞。「ゆふばな」は晒した木綿《ユフ》で拵へた造花。鮮やかで立派な處から、榮ゆるの聯想をもつのである。「白木綿花に波たち渡る」(卷二)「白木綿花におちたぎつ」(卷六)によれば白い物で、「初瀬|女《メ》の作る木綿花」(卷六)とあるによれば、初瀬がその製造地であり、又木綿の生産地でもあつたらしい。これを草綿の花とする説もあるが、この頃はまだ草綿は輸入されてゐない。而も榮ゆる〔三字傍点〕などいふべき花の樣でもない。「木綿」のことは「まそゆふ」を見よ(四四二頁)。○さかゆるときに 「榮ゆる」は皇子の御上のこと。「ときに」は時なる〔二字右○〕にの意。○みこのみかど 「御門」は直に指斥するのを憚つた語で、實は皇子の御殿たる香山《カグヤマ》の宮をさす。○かむみやによそひまつりて 宮殿を神宮として装飾し奉つての意。これは皇子の宮殿内にその殯宮を建てられたことをいふ。往時死を神去るといひ、死者を神となつたものと見る故に、葬送を神葬《カミハフ》るといひ、こゝには殯宮を神宮と見たのである。「よそひまつりて」は、こゝでは白帛の帳帷などで殯宮の室内装飾するをいふ。卷十三に「大殿を振|放《サ》け見れば白細布《シロタヘ》によそひまつりて」ともある。○つかはしし お使ひなされた。これを派遣の意とする解は誤。「つかはし」は使ふ〔二字傍点〕の敬相。「し」は過去の助動詞。○みかどのひと 御門の人は御子の宮人即ち東宮職の役人をいふ。○しろたへの こゝは白色の〔三字傍点〕の意に用ゐた。既出(一一八頁)。○あさごろも 麻布で制した服。麻は一年生の桑科に屬する草。その莖皮の繊緯は即ち苧《ヲ》で、古へはこれをも木綿《ユフ》(539)といつた。苧を絲にして織つたのが麻布である。この「白妙の麻衣着て」は素服を着てといふに同じい。素服は疎末な白衣で、神葬の際に着る習慣であつた。喪服としては別に黒色の衣を看た。この差別に就いては芳樹の註疏に委しく論じてある。○はにやすのみかど 皇子の香山の宮は埴安の池邊に接してあつたのでかくいふ。「埴安のつつみ」を參照(二〇五頁)。○みかどのはら 宮前の廣場。○あかねさす 日に係る枕詞。茜は緋色を染める原料である。その緋を日にいひ懸けた。尚卷一「茜さす紫野」の條を參照(九二頁)。○ひのことごと 既出(四三八頁)。舊訓ヒノクルゝマデ〔七字傍線〕は、下の「夕べになれば」とさし合つて惡い。○ししじもの 鹿《シシ》その物なしての意。鹿猪の類膝を折つて伏すので、「這ひ」「這ひ伏し」「膝折り伏せ」などの枕詞とする。「しし」は鹿猪の總稱で、卷三に「朝獵に鹿猪《シシ》踐《フ》みおこし」とある。但その本義は肉をいふ。肉は獣肉を最とし、中にも鹿猪を主として往時は食用としたので、遂に鹿猪をシヽといふやうになつた。尚「鴨じもの」を參照(一九三頁。)○いはひふし 這ひ伏し。「い」は發語。○ぬばたまの 夕べに係る枕詞。既出(三〇四頁)。○おほとの 香山宮の殯宮をいふ。○ふりさけ 既出(四二二頁)。○うづらなす 鶉そつくり、鶉の如くなどの意。「這ひもとほり」の枕詞。鶉は鶉鷄類の小鳥。原野に棲んで草間に潜行する。その状態が這ひもとほり〔六字傍点〕である。○いはひもとほり 這ひまはり。「い」は發語。「もとほり」は徘徊の意。集中(卷十九)「囘」の字をしか訓ませてある。た〔傍点〕の發語を添へてタモトホリ〔五字傍点〕ともいひ、記にはモトホロフ〔五字傍点〕の語がある。惇《モト》る、戻《モド》るなど清濁の差はあるが、元來、囘の意から轉じたものであらう。○さもらへど さもらふ〔四字傍点〕はサムラフの古言。「侯」は候〔右△〕と同意に用ゐる。○かねて 「不得者」はエネバ〔三字傍線〕と訓むべきだが、下の各句が同じ接續詞態の連續で不快であるのみならず、句意も面白くないので、宣長説に從ひ「者」は天〔右△〕又は弖〔右△〕の誤としてカネテと訓んだ。○はるとりの 「さまよひ」(540)に係る枕詞。春の百千鳥の鳴く音を歎きの聲に聞きなして「さまよひ」へ續けた。○さまよひ 呻吟の意。字鏡に「呻(ハ)歎也、左萬與不《サマヨフ》、又|奈介久《ナゲク》」とある。「さまよふ」は即ち歎くことで、音に立てゝ息づくをいふ。卷二十にも「春鳥の聲のさまよひ」とある。○おもひ 哀傷の意。「憶」は借字。○いまだつきねば まだ盡きぬにの意。「ねば」をヌニ〔二字傍点〕の意に用ゐる例は古への歌文に多い。○ことさへく 百濟《クダラ》に係る枕詞。既出(三九九頁)。○くだらのはら 大和廣瀬郡百濟村大字百濟。又百濟野とも卷八の歌に見える。○かむはふり 「はふり」は葬送の儀全部をいふ。今いふハウムル〔四字傍点〕はこの轉語である。死者は神となる故、その葬儀を神葬といふ。上の「神宮に」を參照。○はふりいませて 葬り申上げて。「い」は座《マス》に冠せた發語。眞淵の去にまして〔五字傍点〕の説は非。○あさもよし 「麻裳よ着」を木上《キノヘ》の木にいひかけた枕詞。卷一に既出(二一七頁)。○きのへのみや 題詞にある城上の靈屋《タマヤ》のこと。「木上」の木は借字。○とこみや 既出(五一六頁)。○さだめまつりて 原本「高之〔二字傍点〕奉而」とあつて訓み難い。よつて「高之の二字は定〔右△〕の草書より誤れるならん」との宣長説に從ふ。○しづまりましぬ 「しづまり」は他處に移らず留まる意。古事記神代(ノ)卷に鎭座〔二字傍点〕とあるがそれである。故にこゝには「安定」の字を充て、祝詞には「高天原に神留座《カムツマリマス》」と留〔傍点〕の字を充てゝある。卷五に「海原の邊《ヘ》にも奥《オキ》にも神豆麻利《カムヅマリ》うしはきいます諸々《モロモロ》の大|御神《ミカミ》たち云々」と見え、神豆麻利は即ち神鎭《カミシヅ》まりの略である。出雲風土記や出雲國造の神賀(ノ)詞に靜坐《シヅマリマス》とあるも同意。眞淵がシヅモリ〔四字傍線〕と訓んだが、この語はシヅマリの轉訛で、殆ど普通には用ゐぬ僻語である。――自分は嘗て神事關係の書で只一囘この語に出合つた記憶があるが、大言海にこれを擧げてないのは賛成である。雅言集覽には出典が記してない。――假令用例が一二あつたにせよ、それは神の鎭坐を意味するもので、靜寂などいふ意味では全然ない。然るに近來の歌に靜寂の意をもつたシヅモリの濫用を見ることは(541)甚だ不快で諾ひかねる。○しかれども 上の「鎭りましぬ」を承けていふ。○よろづよと この句は「香來山の宮」に係けていふ。○かぐやまのみや 高市皇子の御所で、香山の北邊、埴安の池附近にあつたと見える。上にも「埴安の御門の原」とある。○よろづよにすぎむともへや 萬代までも無くならうと思はれうかい。「すぎ」は行き失せてしまうをいふ。「もへ」はオモへの上略。「や」は反語。○たまたすき 「懸け」に係る枕詞。既出(三九頁)。○かしこかれども 「恐《カシコ》かれども懸けて偲ばむ」を、調に隨つて上下にいひなした。「騰」は清音トに充てる例であるが、こゝは濁音に用ゐた。△地圖 「木上」は挿圖141(五一二頁)を、「埴安」は挿圖6(二二頁)を參照。
【歌意】 思ひ懸けるにも憚あり、口に言はうことも恐れ多いわい。あの明日香の眞神の原に、皇居を畏れ多くもお定めになつて、更に〔二字右○〕神業をなさらうとて、お隱れになつた吾が大君(天武天皇)が、甞て〔二字右○〕お治めになる國の〔二字右○〕北方の不破山を越えて、和射見《ワザミ》が原の行宮に御出動遊ばされて、天下を治め、領國を定められようとして、東國の兵士を徴《メ》され、「荒ぶる人を和げよ、服せぬ國を治めよ」と、皇子高市は御子であるがまゝに、軍事をお委せなされたので、高市皇子は御身に太刀をお佩きになり、御手に弓をお執りになつて、總軍を統率され、兵士を調整される鼓の音は雷の聲と聞くほど、吹き鳴らす小角《クダ》の音は敵を見た虎が吼えるかと、人々の脅える程に、指し擧げた赤幡の動きは春になると野毎に燃えてをる火が風につれて靡くがやうに、取持つてをる弓餌の騷ぎは雪の降る冬の林に廻風《ツムジ》が卷き渡るかと思ふ程に、見る目の恐ろしく、引放つ矢の繁く大雪のやうに飛んでくるので、服從せずに敵對した者も、死ぬなら死ねと闘ふトタンに、渡會の伊勢神宮から神風に敵勢を〔三字右○〕吹き惑はし、天雲を日の光を見せす眞闇に覆はれて」大神の〔三字右○〕お定めになつたこの瑞穗の國を、天武持統二帝と〔七字右○〕相繼いで(542)神とましてお治めになり、吾が大君(高市皇子)が天下の政をお執りなされた故に、萬代もこのまゝにあらうと、お榮えになつてゐる折も折、大君と仰ぎまつる皇子の御殿を殯宮として装ひ飾つて、これまでお使ひなされた宮人達も、白色の麻衣を着て、埴安のこの御所の空地に、日のうちは鹿の如くに這ひ伏しつゝ、暮になると御殿を打眺めて鶉のやうに這ひ廻り、勤に出ても居たゝまれず泣き呻《ウメ》いて居れば、歎もまだ果てぬのに、哀みもまだ盡きぬのに、早くも御葬儀は埴安の宮を出て〔十四字右○〕百濟の原から通過、木※[瓦+缶]の靈屋を永久のお住ひと定めて、皇子はお鎭りになつた。然しこんな情ない事にはなつたが、吾が大王(高市皇子)が萬代までもと思召してお造りになつた香山の宮(埴安の御門)は、永久に滅び亡せると思はれうかい。天の如くそれを打仰ぎ、恐れ多くはあるが一心にかけて慕ひ奉りませう。
 
〔評〕 起句一聯莊重なる敬詞を冠した。體は祝詞に近い。次いで、「明日香の眞神の原に」から「磐隱ります」までは、天武天皇が眞神の原の一部に淨見原宮を創められてからの御一代を略叙して、「吾大王」を修飾した。この吾大王は即ち天武天皇にまします。「八隅しし吾大王」以下は壬申戰役の詳叙である。この役は淨見原方(天武天皇)と近江方(弘文天皇)との叔姪の御爭で、結果は遂に淨見原方の勝利に歸した。その際功を樹てた猛將勇士は數あるが、特に高市皇子の勲業はその首功に居るべきもの。何となれば天皇に代つて諸軍事を總管し、籌謀畫策よく大事を決した。天武紀にこの時の事を記していふ。
  元年六月辛酉朔甲申、先遣(シテ)2高市(ノ)皇子(ヲ)於不破(ニ)1令v藍2軍事(ヲ)1、云々。丁亥、高市(ノ)皇子遣(シテ)2使(ヲ)於桑名(ノ)郡家(ニ)1以奏言《マヲシケラク》、遠2(543)居(カリ)御所(ニ)1、行(フニ)v政(ヲ)不v便《ヨカラ》、宜(シトマヲセリ)v御(ス)2近(キ)所(ニ)1。即日天皇留(メテ)2皇后(ヲ)1而入(リタマフ)2不破(ニ)1、云々。到(マスニ)2于野上(ニ)1、高市(ノ)皇子自2和暫《ワザミ》1參(リ)迎(ヘテ)以便奏言《マヲサク》、云々。既而《カクテ》天皇|謂《ノタマハク》2高市(ノ)皇子(ニ)1曰(ク)、其(ノ)近江(ノ)朝(ニハ)、左右(ノ)大臣及(ビ)智謀《サカシキ》群臣共(ニ)定議《ハカリゴテリ》、今朕無(ク)2與(ニ)計事《ハカリゴツ》者1、唯有(ル)2幼小(ノ)孺子1耳(リ)、奈之何《イカニスベキトノタマヘレバ》、皇子|攘《カキナデ》v臂(ヲ)按《トリシバリテ》v劔《ツルギノタカミヲ》奏言《マヲサク》、近江(ノ)群臣雖(モ)v多(ケレ)、何(ゾ)敢(テ)逆(キマツラムヤ)2天皇之靈(ニ)1哉、天皇雖(モ)v獨(ニマスト)、則臣高市、頼(リ)2神祇之靈(ニ)1、請(ヒ)2天皇之命(ヲ)1引2卒(テ)諸將(ヲ)2而征討《ウタムニ》豈有(ランヤ)v距(グモノ)乎。爰(ニ)天皇誉(メテ)之、携(ヘ)v手(ヲ)撫(テ)v背(ヲ)曰、愼不可怠《ユメナオコタリソト》、因(リテ)賜(ヒ)2鞍馬(ヲ)1、悉(ニ)授(ク)2軍事(ヲ)1。皇子則還(リ)2和暫(ニ)1、天皇(ハ)於茲行宮(ヲ)興(シテ)2野上(ニ)1而|居《マシ/\キ》焉。此夜|雷電雨甚《カミナリアメイタクフレリキ》。則(チ)天皇|祈之曰《ウケヒタマハク》、天神地祇扶(ケタマハヾ)v朕(ヲ)者雷雨|息《ヤマムト》矣、言訖(リテ)即雷(モ)雨(モ)止之。戌子、天皇往(キテ)2於和暫(ニ)1※[手偏+僉]2※[手偏+交]《カムガヘテ》軍事(ヲ)1而還(リマシキ)。己丑、天皇往(キテ)2和暫(ニ)1命(テ)2高市皇子(ニ)1號2令《ノリゴタシム》軍衆(ニ)1。亦還(リテ)2于野上(ニ)1而|居《マシ/\キ》之。(卷二十七)
天武天皇の大事を擧ぐるや、急遽吉野を遁れ、宇陀より名張を經て伊勢に入り、桑名の郡家に逗留せられたが、美濃の不破に先着の高市皇子の奏に依つて、一路北上、不破山を越えて和射見が原(今の關が原)の東端なる野上の行宮に駐蹕せられ、本陣はその西端なる不破に立てられ、そこには高市皇子がまし/\して、野上と不破との間を交互に往來して軍事を打合はせられた。手近の美濃尾張の軍勢の外に、更に東海東山兩道の兵士を徴發せられたことを、こゝには「吾妻の國のみいくさを喚《メ》し給ひ」と歌つてある。かくて軍備は調つた。近江方との戰闘は開始せられた。
 蓋し勝敗の數は未知數だ。近江方は既成の政府と澤山の常備軍とを有してゐる。追隨者も亦多い。天武天皇はこれを心配された。處が高市皇子は臂をかき撫で、劔のたかみ取りしばつて、
  近江の群臣多けれども、何ぞ敢へて天皇の靈に逆きまつらむや、天皇獨にますと雖も、則ち臣高市、神祇の靈に頼り、天皇の命を請け、諸將を引きゐて征たむに、豈に距ぐものあらむや。(紀二十七)
(544)と絶叫された。實に雄武絶倫、戰はざる前に既に百萬の強敵を壓倒する概がある。天武天皇は我が御子ながらもその元氣に御感佩なされて、手を執り背を撫でて、「ゆめな怠りそ」と仰せられ、軍事統轄の大任を委託された。かくて高市皇子は「大御身に太刀取帶ばし、大御手に弓取持たし、御軍をあともひ給ひ」、愈よ出陣するのであつた。當時十四五歳の瑞々しい若武者、智勇兼備の御大將、いみじくも亦悲壯なものがあつた。「齊ふる鼓の音は」以下三十句は、當然叙述すべき順序にある戰闘光景であるが、それを軍用器具の活動状態を以て代表させた趣向は面白い。鼓四句、角六句、幡八句、弓八句、矢四句で成立してゐる。弓矢は別として、鼓角幡の如きは、支那の戰爭道具をそのまゝ用ゐたもので、無暗と鳴物や道具立で虚勢を張つて威嚇し、實質の貧弱を糊塗するは、支那人の常習である。尤も本文のは詩文の常套たる誇張法であることも忘れてはならぬ。が紀にも左の如く記してゐる。
  時(ニ)大友皇子(弘文)及(ビ)群臣等、共(ニ)營(リテ)2於橋(ノ)西(ニ)1、而成(シ)v陣(ヲ)、不v見2其後(ヲ)1、旗幟蔽(シ)v野(ノ)埃塵連(ル)v天(ニ)、鉦鼓之聲聞(エ)2數千里(ニ)1、列弩亂(レ)發(チテ)、矢(ノ)下(ルコト)如(シ)v雨(ノ)云々。(卷二十七)
鼓聲を雷と聞くは殆どお約束の聯想で、何の奇もない。小角の響を虎の怒號に比したのは、抑も作者自身が虎の咆哮を聞いたかゞ疑問である。とはいへ、雷虎相對してその凄味を發揮してゐることは爭はれぬ。幡の靡きは漢文では征旗野を蔽ふなど誇張するが、こゝには枯草を拂ふ處々の野火が風にめら/\と燃え立つに譬へた。そこにその活動状態が歴々と映寫された。なか/\奇拔な面白い形容で、他に類想がない。但野火の譬喩は、恐らく當時の天武天皇方は、赤色がその標識であつたからではあるまいか。否それは事實であつた。紀に近江方の本軍と會戰する條に、その事が明示されてある。いはく、
(545)  自(リ)2不破1出(テ)、直(ニ)入(ラシム)2近江(ニ)1、恐(レテ)d其衆(ト)與2近江(ノ)師1難(キコトヲ)uv別(ケ)、以(テ)2赤色(ヲ)1著(ク)2衣(ノ)上(ニ)1〔六字傍点〕。
皆赤印を著けた赤備へであつた。そして幡まで赤色を用ゐた。古事記の上表にこの亂の顛末を叙して、
  曁(ビ)d飛鳥(ノ)清原(ノ)大宮(ニ)御《シロシメシヽ》2大八嶋洲1天皇(ノ)御世(ニ)u、――然天(ノ)時未(ダ)v臻(ラ)、蝉2蛻(シタマヒ)於南山(ニ)1、人事共(ニ)洽(クシテ)、虎2歩(シタマヒキ)於東國(ニ)1、皇輿忽(ニ)駕(シテ)凌(ギ)2渡(リ)山川(ヲ)1、六師雷(ノゴトク)震(ヒ)、三軍電(ノゴトク)逝(ク)。杖矛擧(ゲ)v威(ヲ)、猛士煙(ノゴトク)起(リ)、絳旗〔二字傍点〕耀(シテ)v兵(ヲ)、凶徒瓦解(ス)。云々。
と見え、絳旗即ち赤幡が軍容をすぐつたとある。これに對して近江方はもとより白旗であつたらう、白は軍旗の當色なので、天武天皇方はそれと區別の必要上から、赤色をその標識としたものと見える。
 弓弭の騷ぎを凍風の枯林を拂ふに譬ふるに至つては、愈よ新硯を發したもので、數多の軍士の切つては引放つその弓の、一樣にあわたゞしく起伏動搖する状態が、如實に描寫し盡され、形容の妙いふべからざるものがある。羽箭の亂飛するを大雪の舞ひ墜つると見た譬喩も、いかにも恰當と感ぜられる。特に幡と弓との句は出色の文字で、凡常を絶した聯對である。概括していへば、或は耳に訴へ或は目に訴へ或は耳目に兼ね訴へて、壯烈なる戰爭状態を間接に曲盡した雄渾無比の大文字である。
 けれども近江方も懸命の戰だ。瀬田の橋板を引いての將軍智尊の「消なば消ぬべく」の奮闘は目覺しいものがあつた。其處へ伊勢からの神風が襲來して天地晦冥、近江方の運命茲に窮つて天武天皇統一の業は成つたといふ。これは七月廿二日の瀬田口の決戰を叙したものと思はれるが、紀にはかゝる奇蹟の事は全然載つてゐない。只前月の野上の行宮における記事に、
  此夜雷電雨甚、則(チ)天皇祈(リテ)之曰(タマハク)、天神地祇扶(ケタマハバ)v朕(ヲ)者、雷雨息(マムト)矣、言訖即(チ)雨雷止(ミヌ)之。
とある。或はこの事實を便宜上、戰爭の終幕を花やかにする爲に撮合した、詩人幻化の手段と見られぬことも(546)ないが、紀にこそ洩れたれ、尚これはその際における眞事實と見たい。陰暦の七月下旬は颱風襲來の最大時季であることは、今日でも同じだ。偶ま戰爭當時暴風の襲來したのを、伊勢の神風と解釋して、奇蹟的に受け取つたに過ぎまい。特に天下二分して皇位繼承を爭ふ非常時には、皇祖の神意が唯一の頼みの綱であつた。紀にこの種の奇蹟的記事が、この外にもまだ出てゐる。
 高市皇子の功績はこればかりではない。風雲兒大伴|吹負《フケヒ》は、「高市皇子不破より來れり」と詐稱して、大和地方※[甚+戈]定の功を奏した。高市皇子は丁度建武中興の大業に與かつた大塔宮護良親王の地位に居り、それ以上に偉勲を樹てられた。
 「渡會の齋の宮ゆ」以下「神ながら太敷きいます」までの十二句は、枕詞を用ゐず、極めて質實に眞摯に叙事を運んだ。
 かくて天武天皇の御世は過ぎて、持統天皇の四年に草壁皇太子薨去の後、高市皇子は太政大臣となつて太政を執奏され、次いで皇太子となり、九五の位は豫約され、輿望の歸する所高市皇子萬歳の觀ある趣を「萬代も――榮ゆる時に」と歌つた。この句で忽ち一頓挫して、以下高市皇子薨逝の悲劇の一場面が展開されてゆく。そこに抑揚があり、力強い對映がある。
 皇子の薨逝が突然で世間の驚異であつた事は、「榮ゆる時に――皇子の御門を神宮に装ひまつりて」の應接の間に、遺憾なく發揮されてゐる。それは持統天皇の十年秋七月の事であつた。
 高市皇子の香山の宮は、そもどの邊にあつたものか。埴安の社は香山の北面にあり、隨つてその附近の地を埴安と汎稱したものらしい。故に池を埴安の池といひ、香山の宮を又埴安の御門と稱へた。或書の反歌に哭澤(547)女杜《ナキサハメノモリ》に祈つた事が見えるから、宮地は南は哭澤女杜に近く、西は藤原の宮地に對し、東は埴安の池に臨んでゐたと考へられる。その御門内の空地は即ち「御門の原」である。
 かくてその大殿に殯宮即ち神宮を起し、殿内は華美なる一切の装飾を撤し、白一色の帳帷深く垂れ込めて、高級官吏が交代侍候するのであつた。「遣はしし御門の人」は東宮所屬の職員達である。おの/\萬歳と頼んだ主君を失つて茫然自失、白紵姿で御門の原に日夕或は鹿見たやうに這ひ伏し、或は殯宮たる大殿を望んで鶉めいて這ひまはり、そして呻吟する。これ悲痛の極、身を大地に擲つて號哭したものといふべきだが、古代に跪禮《ヒザマヅクイヤ》及び匍匐禮《ハフイヤ》といふ最敬禮の樣式のあつた事を知らなければならぬ。尤もこの二禮は天武天皇の十年に立禮に易へられたが、尚朝廷に跪禮が存してゐたのは事實で、(持統紀秋七月の詔)――私には匍匐禮も跪禮に伴つて行はれてゐた事を考慮におくべきである。この二禮の状態を「膝折り伏せ」「い這ひもとほり」など形容したのである。
 「赤根さす」「烏玉の」の枕詞が、自然色相上に對映をもつことは、上の「茜さす日は照らせれど」の歌の條下に評した如くである。以下の二聯は次聯に「大殿を振放け見つつ」の二句を剰して、長短の偏對體を形作つてゐる。「侍ひかねて」に「侍へど」と、同語の既然の接續詞形を冠した表現は常套ではあるが、この際大いに強調の効果を擧げてゐる。
 あゝ奉仕者は頼む木蔭に雨が漏り、的なき弓を放つ心地、哀痛の涙尚新しきに、早くも陵墓功成つて、愈よ御葬儀は執行の運びになる。藤原京の香山の宮から靈柩は發して、北百濟の原を通過し、木※[瓦+缶]の岡に斂葬、ここ遂に皇子が尊靈の常宮となつたといふ。この項は只事實を叙べて筋を通しただけの事で何の奇もないが、又有用缺くべからざる大事の文句である。葬送の道筋に百濟の原をのみ擧げたのは、省筆法で、百濟の原は墓地(548)たる木※[瓦+缶]にも近く、又百濟宮、百濟寺など建てられた著名の地なので代表させたものと思はれる。
 「萬代とおもほしめして造らしし」は、もとより作者が誇張を混へた忖度の語ではあるが、皇子の御意中とても必ずや同じ事であつたらう。隨つて理詰めに「萬代に過ぎむと念へや」の結論を將來し、「萬代」の再現は不用意の重複ではなく有意味の反覆となる。「天のごと」は勿論譬喩であるが、「振放け見つつ」とある作者の態度と相俟つて、香山の宮の結構の雄偉さを聯想させる重大な役目を勤めてゐる。かくこの宮が萬代不易に嚴として存在する以上は、皇子追憶の情を寄するに、これに越した記念はあるまい。作者は既に明日香皇女の悼歌には明日香川を提擧して「記念にここを」と絶叫した。これこゝにも香山の宮を「懸けてしぬばむ」といふ所以である。「恐かれども」の一結は、遙に初頭の句に應ずるものゝ如くである。
 この篇前後二段で構成されてゐる。冒頭から「大敷きいます」までを前段、以下を後段として、いづれも非常の長叙述である。前段はおもに壬申の亂に於ける皇子の功績を讃へ、後段は皇子薨逝の哀慕痛惜の情を陳べ、暗裏に對映を試みさせたもので、畢竟ずるに後段が主役で、前段はそれを引立てる脇役である。惜しいかな、仔細に視ると、前段の前半は稍洗煉が足りない。「神さぶと岩隱ります――聞し召すそともの國の云々」及び「瑞穗の國を神ながら大敷きまして」の兩齣が叙述簡略に過ぎたる爲、晦澁の憾を遺し、又「吾大君」の三出、それが或は天武天皇を斥し或は高市皇子を斥す場合があるので、主格に統一を缺き、「定め」の四出、「かしこし」の三出、「振放け見つつ」の再出、「まつろはぬ」「まつろはず」の重複や、「幡の靡き」といひ、更に「靡ける如く」とあるなど、頗る煩冗の感を懷かせる。長篇だから據ないともいへるが、聊かその語彙の乏しさを疑ふ。然し全體から概觀すれば、やはり白璧の微瑕たるに過ぎまい。
(549) 本篇は本集を代表すべき雄篇大作たるのみでなく、わが國歌中、古往今來これにまさる程の大規模の作を見ない。この努力だけでも大いに推賞せねばならぬ。况やその内容の事相が史的大英雄高市皇子の薨逝に關し、その背景として劃期的の大動亂壬申の戰役をあしらつたもので、而も作者が當時に生存した、否それ處か高市皇子の御息のかゝつた大歌人東宮舍人人麻呂である。隨つて事と時と人と三事相應した絶品と稱すべく、その體格風調は高古雄渾、その結構布置は雄偉莊大、その措辭は巧緻典雅、實に堂々たる輪奐の美を極めた大建築の觀がある。契沖はいはく、
  この長歌反歌は人麻呂の獨歩の英才を以て皇子の大功を叙べ、薨去を悼み奉れる、誠に不朽を日月と爭ふもの。
と評した。要するにこの篇の風調は天籟ではなくて、人籟の極を窮めたものである。淵明や青蓮ではなくて杜子美である。情と力と、更にいひ換へれば熱と血との二重奏で、この交錯によつて渾成した生彩ある妙曲は、天地を震撼する。信に作者の特色と力量とを如實に實現し得た傑作といはずはなるまい。
 
短歌二首
 
久堅之《ひさかたの》 天所知流《あめしらしぬる》 君故爾《きみゆゑに》 日月毛不知《つきひもしらに》 戀渡鴨《こひわたるかも》     200
 
〔釋〕 ○ひさかたの 既出(二八二頁)。○あめしらしぬる 天を支配される。靈魂が高夫原に上つて神となることをいふ。「しらし」は領《シ》るの敬語。○きみゆゑに 君なるものをの意。○つきひもしらに 日月の遷る〔二字右○〕も知ら(550)ず。時の經つをも知らぬこと。「に」は否定の古辭で、ず〔傍点〕の連用形の古格。「日月」は漢熟語。訓では顛倒させて訓む。
【歌意】 既に天上にお上りになつた皇子樣なのを、自分は月日の經つのをも知らず戀ひ續けることよ。
 
〔評〕 口を開けば天をいひ日月をいひ、神をいひ大王をいふ。作者の信仰の何處にあるかゞ明らかに窺はれる。然しこの高天原思想と敬神尊王の念とは、上代に流れてゐた頗る一般的のものであつて、記紀祝詞の全部は勿論、他にもこの種の着想のものが幾らもある。只作者人麻呂に依つて最も多量にそれが號呼され紹介されてゐることを、特に考慮におけばよい。
 されば貴人の薨逝を「天しらす」と轉義するは、當時にあつては頗る平語に屬する。否餘に常習的になり過ぎて、多くの場合この語の表面的意義は忘られ勝であつたと思ふ。作者はこの内面的意義に耳を塞ぎ、わざとその表面的意義を捉へて、天しらしぬる君なることを忘れて、徒らに御あとを追慕するよと、その愚さを、自嘲して詠歎してゐる。これらの構想はよく腐を化して新となすもので、作者の手腕の凡ならぬを見るに足りる。「月日」は「あめ」の縁語としてのみ聞けば陳語であるが、崇高の觀念を與へるにはよき修飾である。とにかく堂々たる線の太い渾厚な作である。この二首は反歌であらう。
 
埴安乃《はにやすの》 池之堤之《いけのつつみの》 隱沼之《こもりぬの》 去方乎不知《ゆくへをしらに》 舍人者迷惑《とねりはまどふ》     201
 
(551)〔釋〕 ○はにやすのいけ 「埴安《はにやす》のつつみ」を見よ(二〇五頁)。○つつみ この池は岡陵を利用した造り池なので、一方は堤防なのである。○こもりぬ 草などに籠つて水のよく見えぬ沼のこと。「こもりぬの」は隱沼の水の如くの意で、「ゆくへをしらに」の序とした。○ゆくへをしらに 爲すべき術を知らずの意。
【歌意】 埴安の池の堤のその隱沼のはてのわからぬ水のやうに、皇子樣のお薨《カク》れにあつた自分等舍人は、どうしてよいか途方にくれることよ。
 
〔評〕 埴安の池も隱沼も同一の池なのである。只池の一部の塘際が汀も見えぬ程、草に籠つて沼を成してゐるゆゑ、池の堤のその隱沼〔八字傍点〕と反覆したに過ぎない。歌は感興のまゝに、かくの如く表現され且味はるべき性質のものである。「堤の」がこの序詞の中心點をなしてゐる。さて隱沼の水は草などに蔽はれて水先の見えぬもの故、「ゆくへを知らに」といひ續けたのである。然るに文字の表面に拘泥して埴安の池と隱沼とを切り離して、堤防外の潴溜と解した芳樹等の説は、理窟を先として歌の趣を辨へぬものである。
 作者は皇子の薨後、香山の宮に接した埴安の堤上に立つて、こゝに感懷を寓せたものである。前には日並皇子、今はこの高市皇子と、再度まで奉仕の、主君を失つた作者は、重ね/”\の失望落膽に、殆ど木から落ちた猿の感じがしたらう。「舍人はまどふ」は弘く一般舍人等の態度の如くに叙してゐるが、實は作者自身の心況から出發したものであるから、つまり作者の遣る瀬ない悲痛の叫である。
 
或書(の)反歌一首
 
(552)この題詞によれば、この歌はなほ前と同じ反歌の一つで、人麻呂の作となる。然るにこの歌の左註には類聚歌林を引いて檜隈女王の作としてある。眞淵は、これは人麻呂の歌體でない、左註を信ずると斷じた。私は眞淵の達眼に敬服するものである。〔初版には続けて「○檜隈女王 傳未詳。」がある〕
 
哭澤之《なきさはの》 神社爾三輪須惠《もりにみわすゑ》 雖祷祈《いのれども》 我王者《わがおほきみは》 高日所知奴《たかひしらしぬ》     202
 
〔釋〕 ○なきさはのもり 高市郡香具山の西麓にあり、泣澤女《ナキサハメノ》神を祀る。記(上)に、伊邪那岐命が女神伊邪那美命の逝去を悲まれた條に、「哭(ク)時於2御涙(ニ)1所成《ナリマセル》神座(ス)2香山(ノ)畝尾《ウネヲノ》木(ノ)本(ニ)1、名(ハ)泣澤女《ナキサハメノ》神」と見える。「神社」をモリと訓むは社には林叢《モリ》がある故のこと。○みわ 神酒をいふのが本で、轉じては神酒を入れる※[瓦+肆の左]《ミカ》の稱ともなり、「みわすゑ」ともいはれるのである。眞淵及び古義の説はいづれも隨ひ難い。○いのれども 古義はノマメドモ〔五字傍線〕と訓むべきを主張してゐるが、拘泥の説である。○たかひ 日を形容して「高」の美稱を添へた。「高日知らす」は天を支配なさる意で、その薨逝(553)を直接にいはず、昇天と見ていふのである。△挿圖6を見よ(二二頁)。
【歌意】 泣澤女の神のまします杜《モリ》に神酒※[瓦+缶]《ミワ》を据ゑて、皇子樣の御壽命長久をお祈りするけれども、その驗もなく、わが皇子樣は昇天なさいましたよ。 
〔評〕 香具山の宮近くに泣澤の杜があるので、皇子の御病氣平癒をこの神に祈つたのである。元來この神は陽神が陰神の逝去を悲しまれた涙が落ちて生じた神であるから、人の生壽を守らせ給ふものと信ぜられたらしい。「杜にみわ据ゑ」は頗る疎い叙法のやうであるが、實はさうでない。古へは神供の酒甕を社前の土に埋けて据ゑたので、かういへるのである。かく祭事の所作を特に叙したことは、「祈れども」の意を強調するもので、愈よその頼みがひ無い失望と怨意とを力強く反撥する譯である。天知らす〔四字傍点〕は尊貴の薨逝を譬へいふ套語であるので、「高日しらしぬ」の轉義を用ゐたことは、頗る賢い手法で、多少の新味を齎すものではあるまいか。檜隈女王はその傳詳かでないが、想像をめぐらすならば、恐らく高市皇子後宮の婦人であらう。故にこの香具山の宮近い泣澤の杜に所願を掛けたものかと考へられる。
 
右一首、類聚歌林(ニ)曰(ク)、檜隈女王(ノ)怨(メル)2泣澤(ノ)神社(ヲ)1之歌也。案(フルニ)日本紀(ニ)曰(フ)、持統天皇十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、(554)後(ノ)皇子(ノ)尊薨(ズ)。
 
 山上憶良の編んだ類聚歌林によれば、この歌は檜隈女王が泣澤神社に祈つたに靈驗が無かつたので、怨んで、詠んだとの意。紀の後(ノ)皇子(ノ)尊とは、前(ノ)皇太子日並皇子に對しての稱で、高市皇子を申す。庚戌は十日に當る。
 
但馬(の)皇女(の)薨《すぎませる》後、穗積(の)皇子(の)冬(の)日雪(の)落《ふるに》、遙2望《みさけて》御墓《みはかを》1、悲流涕《カナシミテ》御作歌一首
 
但馬皇女がお薨れの後、夫君穗積皇子が冬季雪の降る日、皇女の御墓の方角を眺めて悲んで詠まれた歌との意。○但馬皇女、穗積皇子 傳は既出(三五六頁)。
  但馬皇女の薨は元明天皇の和銅元年六月である。然るにこの次の歌の「弓削皇子薨時」は、皇女の薨より九年前の文武天皇の三年の事である。故に古義はこの題詞及び歌を末の「寧樂宮」の標下に移掲したが、今は原本の體に從つておく。
 
零雪者《ふるゆきは》 安幡爾勿落《あはになふりそ》 吉隱之《よなばりの》 猪養乃岡之《ゐかひのをかの》 塞爲卷爾《せきなさまくに》     203
 
〔釋〕 ○あはに 近江では高い積雪のことを、越後及び近江の一部では雪頽《ナダレ》のことを、アハといひ、飛騨では雪の落つることをアホ〔二字傍点〕といふ由。「あはに」をあはの如く〔三字傍点〕の意に解すれば、これら越後飛騨のアハ〔二字傍点〕、アホ〔二字傍点〕を當て嵌めて意が通じないでもない。田中大秀は、「アヲ」は猶アハと同語にて凍雪の稱、凍雪はさら/\としたるものゆ(555)ゑ、義は淡《アハ》なりといつてゐる。眞淵は「安幡」を左幡《サハ》の誤として、澤山にの意に解した。新考その意を承けてサ〔傍点〕の接頭語を添へたるサアハ〔三字傍点〕の約がサハ〔二字傍点〕だと説明してゐる。○よなばり 大和磯城郡初瀬町の東方半里にある。今の吉隱町。○ゐかひのをか 卷八に猪養の山とあるも同所で、吉隱町の北方に當る岡山。但馬皇女の葬處であるが、遺蹟は所在不明。○せきなさまくに 塞《セキ》をなすであらうによつての意。「せき」の下、を〔右○〕の助辭が略されてゐる。塞《セキ》は道塞げをなすものをいふ。關と同語。「まく」は未來の助動詞む〔傍点〕の延言。眞淵はセキナラマクニ〔七字傍線〕と訓んだが、今は古義の訓に從ふ。
【歌意】 この降る雪は澤山降つてくれるなよ、皇女のお墓のある吉隱の猪養の岡の道塞げをなさうによつてさ。
 
〔評〕 作者穗積皇子とこの皇女との開係は頗る波瀾に富んだものであつた。皇女は御兄高市皇子の宮人であつた時、穗積皇子と通じ、事露れて皇子は志賀寺に遣られ、皇女は後を慕うて出奔されたことは、既に上の「秋の田の穗向のよれる片寄りに」の歌に見えてゐる。その後高市皇子の薨逝にあひ、幸に二人は天下晴れて御夫婦となられたのであるが、然るに天公無常、端なくも皇子の手から皇女を奪ひ去つてしまつた。尤ももう十年以上も連れ添うて、愛の美酒に醉ふことは十分出來たわけであつたが、然し互に苦勞し拔いた間柄を思ふと、その悲歎は格別であつたらう。六月に皇女を失はれてからこゝに始めての冬、その間(556)半歳の日子は穗積皇子に取つては慌しいものであつた。常ならば「雪はだらなる朝たぬし」く、宴《ウタゲ》など催すべき雪の日にも、まづその墓地猪養の岡を思ひやらずには居られない。一周年の間は近親眷屬どもは墓側に宿する習慣であるから、まづ何はさしおいても墓邊の交通杜絶を氣遣うて、無心の雪に對してなほ「あはにな降りそ」と懇請した。それは皇子自身が今でも猪養の岡に參拜して、追憶の涙を濺ぎたい下心のあらはれである。初二句の「降る」の重複はもとより問題ではない。題詞の「遙望2御墓1」は、まだ平城遷都以前の事とて、藤原の都から皇女の葬處吉隱の猪養の岡を遠望したもので、地理的關係もよく出會つてゐる。
 
弓削《ゆげの》皇子(の)薨時、置始東人《おきそめのあづまびとが》作歌一首并短歌
 
○弓削皇子 續紀に文武天皇の三年秋七月癸酉淨廣貮弓削皇子薨とある。傳既出(三五〇頁)。○置始東人 既出(二四四頁)。
 
(557)安見知之《やすみしし》 吾王《わがおほきみ》 高光《たかひかる》 日之皇子《ひのみこ》 久堅乃《ひさかたの》 天宮爾《あまつみやに》 神隨《かむながら》 神等座者《かみといませば》 其乎霜《そをしも》 文爾恐美《あやにかしこみ》 晝波毛《ひるはも》 日之盡《ひのことごと》 夜羽毛《よるはも》 夜之盡《よのことごと》 臥居雖嘆《ふしゐなげけど》 飽不足香裳《あきたらぬかも》     204
 
〔釋〕 ○やすみしし 既出(三〇頁)。○わがおほきみ 「あがおほきみ」を見よ(三〇頁)。○たかひかる 既出(四八〇頁)。○ひのみこ 既出(一七六頁)。○ひさかたの 既出(二八二頁)。○あまつみやに 高天が原のお住ひに。神さりましては靈魂《ミタマ》は天上の宮におはす趣。天武天皇の崩御を上に「天皇の敷きます國と天の原|石門《イハト》を排《ヒラ》き神|上《ノボ》り上りいましぬ」と叙したるに同じい。○かみといませば 神となりて座せば。○そをしも 略解以來の訓は皆ソコヲシモ〔五字傍線〕であるが、無理である。舊訓はソレヲシモ〔五字傍線〕。「霜」は借字。○あやに 既出(五三〇頁)。「文」は借字。○ふしゐなげけど 臥して歎き居て歎けど。○あきたらぬ 滿足せぬ。
【歌意】 恐れ多い皇子樣は、この世を棄てゝ高天が原の御殿に、神となつてお住ひなさるので、それをばひどく畏み、日は終日夜は終夜、臥しても居ても歎きはするけれど、まだ悲歎の情は滿足せぬことよ。
 
〔評〕 「安見しし云々」「高光る云々」の聯對は天皇を稱へ奉る套語であるが、轉つては、皇子の上にも使用し、(558)既に卷一「輕皇子宿于安騎野云々」の人麻呂の詠にも見えてゐる。
 前半莊重、後半の平易は稍その均衡を缺いてゐるかのやうであるが、四音又六音の句の交錯の爲に、節奏緊迫して、その躍動の力強さに救はれてゐる。「臥居歎けど飽き足らぬかも」の表現は、いかにも卒直にその感情を披瀝したもので、そこにこの歌の生命がある。要するに、萬葉人としての常識的着想であることは免かれぬ。
 
反歌一首
 
王者《おほきみは》 神西座者《かみにしませば》 天雲之《あまぐもの》 五百重之下爾《いほへがしたに》 隱賜奴《かくりたまひぬ》     205
 
〔釋〕 ○あまぐも 既出(五三七頁)。○いほへがした 「五百重《イホヘ》」は千重《チヘ》、百重《モヽヘ》などいふも同じく、物の多い重疊を表はす語。「した」はうちの意。宣長は、裏《シタ》にてうら〔二字傍点〕といふに同じといつた。眞淵は「下」は上〔右△〕の誤寫かといつてゐるが、下で通じてゐる。○かくり「隱る」は古くは四段活用。
【歌意】 皇子樣は神樣であらせられるので、天雲の幾重ともなく重疊してゐる中にお隱れなされましたよ。
 
〔評〕 「雪隱る」といふ詞は、靈魂の天翔り思想から出て貴人の死を意味する常套語である。今は弓削皇子の薨逝に際して當然想起されるこの「雲隱る」を敷演して、「天雲の五百重が下に隱り」と續けたのであるが、わざと寓意の用法を採らず、表面上の叙述通りに、その雲隱りを現前の事實として扱つたのである。さうなると、こんな不思議な行動は全くの神業に屬するので、これ上句に、「大君は神にしませば」の前提が置かれた所以(559)である。故にこの前提は實在的のいひ方である。さうしてこの初二句は、
             天雲の雷のうへにいほりせすかも(卷三―235)
  大君は神にしませば  赤駒のはらばふ田居を都となしつ(卷十九―4260)
             水鳥のすだくみぬまを都となしつ(卷十九―4216)
の如き類型的の作を出し、特に「天雲の雷のうへ」の如きは、極めて近い類想的の作である。只彼れは行宮建設であるのに、此れは薨逝をしかく取成したことが、婉曲味をもつといへるのである。但引例の三首は天子の御上だから「大君は神にしませば」も論はないが、皇子では聊か諛辭に墮するやうな感がないでもない。
 
又短歌一首
 
これは前と同時の作である。然し初から獨立した短歌で、「又」の字は上の長歌及び反歌に對して下した語である。眞淵が別に題詞のあるのを落したものと見、又古義が心得難しとして削つたのは甚しい妄である。
 
神樂波之《ささなみの》 志賀左射禮浪《しがさざれなみ》 敷布爾《しくしくに》 常丹跡君之《つねにときみが》 所念有計類《おもへたりける》     206
 
〔釋〕 ○ささなみのしが ※[竹/(脩−月)]並《サヽナミ》は大|名《ナ》、志賀はその中の小|名《ナ》である。既出(一三一頁)。○しがさざれなみ 志賀の小波の意で、作者の造語。「ささ」は細小《サヽ》の義、「れ」は接尾語。初句からこゝまでは「しくしくに」に係る序詞である。「神樂」をサヽと訓む故は「樂浪」を見よ(一二五頁)。○しくしくに 重々《シキリ/\》にで、物の程度の頻繁(560)なのをいふ。「おもへ」に係る副詞。○つねにと 永久御存命であると。○おもへたりける 「おもへ」は思はれ〔二字傍点〕の約。「ける」の下、よ〔右○〕の歎辭を含めてゐる。舊訓はオモホセリケル〔七字傍線〕とあるが、今は古義の訓に據る。
【歌意】 ※[竹/(脩−月)]並の志賀の浦に寄る小波が頻るやうに、何時も/\皇子樣は永久お變りなく入らせられるとばかり思はれてゐたわい。それにまあこんな事にならうとは意外千萬ではある。
 
〔評〕 序詞を用ゐて「しくしくに」を強調したことは、一旦にして平生の豫想を裏切られた遺憾さを表示し、その薨去の意外であつたことを言外に嗟歎してゐる。いつも健在だとばかり思ひ込んでゐた人の家から、突然死亡通知に接して呆氣に取られることが往々にしてある。况や弓削皇子は三十前後の壯年での薨去と思はれるから、いよ/\この感が深かつたのであらう。「志賀さざれ波」は人麻呂の「夕浪千鳥」の儔の頗る放膽な造句で、まことに面白い。この初二句、地名が剪裁されてゐるので見ると、普通の序詞として輕く見過してしまふ譯にゆかない。必ず皇子か作者か何れかに所縁のある土地と思はれる。思ふに弓削皇子は天武天皇の第六皇子で、御兄高市、草壁、新田部諸皇子の御年齡から推算すると、天智天皇の大津宮時代の末年に生まれた方らしい。隨つてこの序詞もその邊に※[夕/寅]縁してゐると見られぬこともないが、これは聊かおぼつかない。
 
柿本(の)朝臣人麻呂(が)妻(の)死《みまかれる》之後、泣血哀慟《カナシミテ》作歌二首并短歌
 
人麻呂が妻が死んだ後で、血の涙をこぼして悲しんで詠んだ歌との意。この二首の長歌及び短歌は同じ題詞中に攝せられてはあるが、内容から見て前後首は各別のものであり、妻も隨つて前のと後のとは別人である。さ(561)れば眞淵は、こゝには新に「柿本朝臣人麻呂(ガ)所竊通娘子死之時《シヌビカヨヘルヲトメガミマカレルトキ》、悲傷《カナシミテ》作歌」といふ題詞を作つて充てた。○妻 古へは嫡妻をも妾をも通じて妻《メ》と稱した。但こゝの婦人は勿論嫡妻ではなく、又妾でもない。その理由は評語を參照。○泣血哀慟 甚しく悲しむの意を、漢語で表はしたもの。
 
天飛也《あまとぶや》 輕路者《かるのみちは》 吾妹兒之《わぎもこが》 里爾思有者《さとにしあれば》 懃《ねもころに》 欲見騰《みまくほしけど》 不止行者《やまずゆかば》 人目乎多見《ひとめをおほみ》 眞根久往者《まねくゆかば》 人應知見《ひとしりぬべみ》 狹根葛《さねかづら》 後毛相等《のちもあはむと》 大船之《おほぶねの》 思憑而《おもひたのみて》 玉蜻《たまかぎる》 磐垣淵之《いはがきぶちの》 隱耳《こもりのみ》 戀管有爾《こひつつあるに》 度日乃《わたるひの》 晩去之如《くれゆくがごと》 照月乃《てるつきの》 雪隱如《くもがくるごと》 奥津藻之《おきつもの》 名延之妹者《なびきしいもは》 黄葉乃《もみぢばの》 過伊去等《すぎていにきと》 玉梓之《たまづさの》 使乃言者《つかひのいへば》 梓弓《あづさゆみ》 聲爾聞而《おとにききて》【一云|聲耳聞而《オトノミキヽテ》】 將言爲便《いはんすべ》 世武爲便不知《せむすべしらに》 聲耳乎《おとのみを》 聞而有不得者《ききてありえねは》 吾戀《わがこひの》 千重之一隔毛《ちへのひとへも》 遣悶流《なぐさむる》 情毛有八等《こころもありやと》 (562)吾妹子之《わぎもこが》 不止出見之《やまずいでみし》 輕市爾《かるのいちに》 吾立聞者《わがたちきけば》 玉手次《たまたすき》 畝火乃山爾《うねびのやまに》 喧鳥之《なくとりの》 音母不所聞《こゑもきこえず》 玉桙《たまぼこの》 道行人毛《みちゆくひとも》 獨谷《ひとりだに》 似之不去者《にてしゆかねば》 爲便乎無見《すべをなみ》 妹之名喚而《いもがなよびて》 袖曾振鶴《そでぞふりつる》     207
 
  或本、有2謂之〔二字左△〕|名耳聞而有不得者《ナノミキヽテアリエネバ》(ノ)句1。
 
〔釋〕 ○あまとぶや 輕《カル》に係る枕詞。天《アマ》飛ぶ雁《カリ》を輕《カル》にいひかけた。古事記(下)には「天だむ〔二字傍点〕輕の少女」と續けて、や〔傍点〕の辭がない。「や」は間投の歎辭。雁《カリ》、輕《カル》は相通の音。姓氏録に「獻(ル)2加里《カリヲ》1乃(ツテ)賜(フ)2姓(ヲ)輕部《カルベノ》君(ト)1」とあるはその一例。○かるのみち 輕といふ處の道路。宮路、都路の例を推して輕に通ふ路と解するは當らない。總べてこの何路といふ語は、慣習に依つてその意が左右され、更に一定してゐない。例へば山路は山の路、海路は海の路で、山へ通ふ路、海へ通ふ路ではない如くである。况やこゝは輕の路と、領格の「の」の辭が挿まつてゐることを考へるがよい。尚この句は次の「吾妹子が里にしあれば懇《ネモゴロ》に見まくほしけど」の句を隔てゝ、「やまず行かば云々」「まねく往かば云々」の二句に係る。○かる 輕は大和高市郡白橿村に大輕《オホカル》の名が存してゐる。但輕の路は相當の道路といふよりは寧ろ當時の幹線道路であつたらしく、今の白橿村|木殿《キドノ》から大輕《オホカル》に通ず(563)る南北の路線が、昔は廣くてそれに當つたものか、或は木殿の西|小房《ヲブサ》から見瀬《ミセ》(身狹《ムサ》)に通ずる今の國道がそれであるかは不明である。孝元天皇の輕の境原《サカヒバラ》の宮地は見瀬の西に當る――紀通證の説――のだから、輕は見瀬の東西に亙つた稍廣汎なる地名であつた事は疑もない。○わぎもこがさとにしあれば 輕が〔二字右○〕我妹子の住む〔二字右○〕里であるから。輕が〔二字右○〕の語を補足しないと、その意分明を缺く。○ねもころに 懇《ネンゴロ》にの古言。「懃」は鄭重なること、懇なること。○ほしけど 望ましいけれど。ほしけれどの略で、古代語法。○ひとめをおほみ 「止まず行かば」とある將然法を「おほみ」と現在格で承けた。かく未來格で承けぬのも常の事で、未來の事を現在格で斷定することは、意志の表現上必ずあり得べき語法である。但次句が「往かば――知りぬべみ」と未來格で承けてゐるのに釣り合はぬが、これはわざと叙法を參差させたと見るか。否語そのものに備はる獨自の調子と慣習とが、さう表現させたものと見たい。○まねく 間なしに。繁多なるをいふ。「さまねし」を參照(二八二頁)。○しりぬべみ べき故にの意。「ぬ」は現在完了の助動詞。「べみ」はべし〔二字傍点〕の語根に接尾語の「み」の添つた語。○さねかづら 狹根葛《サネカヅラ》の如く〔三字右○〕。「後もあはむ」に係る序詞。葛《カヅラ》は這ひ別れて又末の行き合ふものなればいふ。狹根葛《サネカヅラ》は狹名葛《サナカヅラ》の(564)轉。「さなかつら」を見よ(三一七頁)。○あはむと 「相」は借字。○おほぶねの 大船の如く。「思ひ憑みて」に係る枕詞。既出(四六九頁)。○たまかぎる 玉|耀《カギロフ》の約。こゝは「磐垣淵」に係けた枕詞。その意は磐淵の水は碧玉の如き光をもつので續けた。「蜻」はカギロフ、又カゲロヒの訓があるので借りたもの。既出(一七七頁)。○いはがきぶちの 磐垣淵の如く。磐垣淵は岩に圍まれた淵。故に「隱《コモ》り」の序詞に用ゐた。○こもりのみ 心に秘めてのみ。○わたるひ 大空を經行く日。以下「雲がくる如」までの四句は、「靡きし妹は」の下に移して解すべき句。○くれゆく 次の「雲隱る」の對語。眞淵の訓クレヌル〔四字傍線〕は面白くない。○おきつもの 沖の藻の如く。「靡き」に係る枕詞。○なびきしいも 慕ひ寄つた彼の女。○もみぢばの 「すぎ」に係る枕詞。既出(一八四頁)。○すぎていにきと 死んでしまうたと。「伊」は「去」を必ずイニと訓ましむる爲の添字。「すぎにし」を見よ(一八四頁)。○たまづさの 使《ツカヒ》に係る枕詞。「たまづさ」はタマヂサ〔四字傍線〕の轉語で、玉齊※[土+敦]《タマチサ》樹の坏《ツキ》といふを類音の使《ツカヒ》にいひかけたものか。玉は美稱。[土+敦]《チサノ》樹はケサノキ、又ツサノキといひ、又エゴノキともいふ。安息香斜の落葉喬木で、葉は卵圓形で鋸齒が少しあり、初夏白色の五裂せる合瓣花を開き、芳香を放ち、果實は褐色の種子を藏す。その材は粗脆で多く細工物に使はれ、傘の轆轤にも盛に用ゐるのでロクロ木の稱さへある。往時土器の坏の代りにこの材を以て木の坏を作ることが行はれ、遂に玉齊[土+敦]樹の坏《ツキ》の語を成すに至つたと見たい。いづれ推古朝以後挽物細工が行はれてから發生したもので、飛鳥朝以前には未見の語である。されば「梓」は借字と斷ずる。宣(565)長の上代には梓の木に玉を著けたる使の印に持てありきしなるべしといふ説は、全くの想像説、略解の春海説は本末の前後したもので、共に採るに足らぬ。又玉梓は玉を飾れる梓弓の略にて、射遣《イヤ》る意にて使《ツカヒ》と續けたとする説もあるが、梓弓を只梓とのみいつては意義を成さぬ。○あづさゆみ 音《オト》に係る枕詞。弓は弦昔の立つもの故にいふ。「あづさの弓」を見よ。既出(三一頁)。○おとにききて 噂に聞いて。割註の「おとのみききて」は、下の「おとのみをききてありえねば」の句に抵触する。「聲」をオトと訓むは義訓。○わがこひの 眞淵の訓はワガコフル〔四字傍線〕。○ちへのひとへも 千の一つも。千重は繁きことにいふ。「一隔」は「千重」の對語。○なぐさむる 既出(五一八頁)。○こころもありやと 心なりともあるかと。「ありや」は舊訓アレヤ〔三字傍線〕、眞淵訓アルヤ〔三字傍線〕。○やまずいでみし 何時も立ち彷徨《サマヨ》うた。○かるのいち 輕市は輕の大輕の地に求むべきか。帝王編年記に「應紳天皇十年始(メテ)立(ツ)2輕(ノ)市(ヲ)1」とも見え、推古紀に輕(ノ)衢《チマタ》の名が見える。○たまたすき――うねびのやま 既出(一二三頁)。○なくとりのこゑ 「玉だすき」より「鳴く鳥の」までは「こゑ」に係る序詞。「音」をコエと讀むは意訓。舊訓はオト〔二字傍線〕。鳥の聲を音《オト》といふは古言で、鶯にも時鳥にもいつた例が集中に彼れ此れあるが、こゝは妹の聲にかけていふのだから、必ずコヱと訓む。○たまほこの 既出(二七二頁)。○ひとりだに 「谷」は借字。○そでぞふりつる 袖振ることは卷一「茜さす紫野ゆき」の歌の評語を參照(九四頁)。「鶴」は借字。○或本云々 これは本文の「聲耳乎聞而有不得者」の一傳を註したのだが、「名耳」は不妥當。謂之〔二字傍点〕は衍文。
【歌意】 抑も輕は〔二字右○〕あの兒の里であるから、よく/\見たいと思ふけれど、輕の路は止まず往かうならば人目が多さに、たび/\往かうならば人が知るであらう故に、それらがうるさいので〔十字右○〕、又そのうちに逢はうと頼みにして、磐垣淵の水の籠つてあるやうに、心の中にばかり戀ひ續けてゐるのに、自分に馴染んだあの兒は、日の暮(566)れてゆくやうに月の雲に隱れるやうになくなつたと、使が來ていふので、その話を聞いて、何ともいひやうも仕《シ》やうも知らず、とても話のみを聞いてをられないので、自分の戀の千が一つも慰められることも出きよと、あの兒が自分を待つとて、何時も出て見た輕の市に立つて聞くと、その懷かしい聲も聞えず、路を行く人も一人だつてそれに似た者が通らないから、仕方がなしに、あの兒の名を呼んで、こゝに私が居るよと〔九字右○〕袖を打振つたよ。
 
〔評〕 冒頭に何時も型にはまつたやうな大袈裟なる叙述を用ゐ、時に鬼面に人を威すかの感を抱かしめるこの作者が、「天飛ぶや輕の路は吾妹兒が里にしあれば」と、いとも卒易に輕快に、容赦なく直ちにその目的の内容に觸れて進行して往つたことは、頗る驚異に値する。蓋し作者の感情が高潮し切つて、全く左顧右眄の餘裕を存する遑がなかつた爲ともいへる。
 當時の作者は草壁(日並皇子尊)皇太子の舍人として奉仕してゐた、いづれまだ壯年期の血氣盛りの頃ほひらしい。藤原京からこの輕の路を往來して、輕の里の女の許に通つたもので、この女は内證の女であつた。
 輕の路は、天武紀十年十月の條に、
  是月將v蒐(ント)2廣瀬野(ニ)1、而行宮構(ヘ)訖(ル)、装束既(ニ)備(ハル)、然(レドモ)車駕不v幸矣、唯親王以下及(ビ)群卿、皆居(リ)2于輕(ノ)市(ニ)1、而檢2校(シ)装束鞍馬(ヲ)1、少錦以上大夫、皆列2坐(シ)於樹下(ニ)1、大山位以下者皆親(ラ)乘(ル)v之(ニ)、共(ニ)隨《ヨリ》2大路1自v南行v(ク)北(ニ)、云々。
とあるによれば、その路は大路であつた。大路といつた處で、精々三間道路位の事と思はれるが、人口の少い昔の事だから、不斷さう大した雜沓はあるまい。そのうへ土地は狹い。それだけ餘計に出這入が却つて人目に(567)も立つ。立てば噂の種となり導機となつて、戀の破滅にならぬとも限らぬ。で逢ひたい見たいの念をぢつと抑ヘ、空しく懷かしいその里その人を心に描いて、只家籠《ヒタヤゴモリ》りに戀の重壓に對抗してゐる。この辛抱の代償は只後の逢ふ瀬であつた。末長い契であつた。
 處へ注進の密使が來た。これは兩者の秘密に係り合つてゐる婢僕などであらう。「とう/\あのお方樣もお隱れで」と嘘のやうな本當の咄。突如と起つた意外の激しい衝動に姑く呆然となつたが、戀の焦燥は時に事實をさへ否定する。况や人傳の話では、おいさうかと濟ましてのみは居られぬ筈だ。乃ち直接的行動に出た。
 茲に至つて、作者と輕の女との關係状態をつぶさに探査せねばならぬ。從來の註者は忍び妻の一語に片付けて、輕の女を多くは作者の愛妾か圍ひ者位の程度にしか見て居ない。これは「妻死」の題詞にこだはつたもので、甚だ眼先が利かない。兩者の關係はもつと秘密な情交であつたと考へられる。男は休沐の暇を偸んでの輕路《カルヂ》通ひ、女は又その市路に立つて「やまず出て見し」で、來るか/\と待ちあぐむ。やがて眼と眠が會ふと點頭きかはして忽ち雲隱れするといふやうな寸法、いはゆる期(シ)2我(ヲ)乎桑中(ニ)1、要(シ)2我(ヲ)乎上宮(ニ)1、送(ル)2我(ヲ)乎湛之|上《ホトリニ》1矣(詩の※[庸+おおざと]風)底のものである。「人目を多み」「人知りぬべみ」と、無上に人の見る目を恐れたのもこの故で、遂には或故障の爲に暫く逢引を中止せねばならぬ事情のもとに置かれたものらしい。逢ひ初めてから約一年――反歌の趣による――あぶない橋を渡り/\して來た。想像を逞しうすれば、その女は作者とは餘程身分のかけ違つた權家の娘か、さもなければ有夫の婦人かも知れない。
 殊に作者が輕の女の死の報告を受けてからが、その家の弔問すらも出來ず、その死顔も見られないで、纔に嘗ての逢引の場處を往訪して、戀々悶々の情を醫するに過ぎないといふ事は、兩者の關係が秘中の秘であつた(568)事を如實に裏書するものである。
 さて直接的行動といつた處が、甚だ張合ひのない詰まらぬものであつた。既にいふが如く、逢引の場所を訪問して、既往の追憶に耽るに過ぎない。畝火の山の鳥の声は聞えても、その人の嬌音は聞く由もなく、温容は眼にあれども、實在の艶姿はもう接し得ない。市路に徂徠する澤山の女も畢竟これ赤の他人で、似た顔一つ見付からない。失望の果、落膽の極、死生の分別を忘れ、如在の人に對する態度で、その女の名を喚び掛け、「ここに私がゐます」と、袖打振つてわが存在を示し、その遣る瀬ない戀心を表示する。冷眼に見れば殆ど狂人の所爲に近いが、それ程までの極度の昂奮は、必ず極度の眞劍味から※[酉+温の旁]釀さるべきものであることを思へば、却つて眞實そのものゝ尊嚴におのづから頭がさがる。社會的制裁のもとに忍從の苦味を嘗めさせられた懊悩と、死別の痛楚と愛人を失うた落膽とが、三つ撚りに綯ひ交ぜになつて、他の窮りない同情を力強く引き摺つてゆく。畝火山は輕の路の西方に當り、輕の里からもさう遠くない。卷四に
  あま飛ぶや輕の路より 玉だすき畝火を見つゝ 云々。 (笠金村―543)
とも詠まれた。作者は輕の路の行き摺りに屡ばその山の鳥の聲を耳にしたものだらう。
 要するにこの歌は、首尾一貫、輕の路を舞臺として展開された一場の悲劇であることを、特に記憶すべきである。
 全篇の構成を便宜上「天飛ぶや」より「籠りのみ戀ひつつあるに」までを第一段、「渡る日の」より「使のいへば」までを第二段、「梓弓」より「吾立ち聞けば」までを第三段、「玉だすき」より終句までを第四段と假定して見る。
(569) 第一段「輕の路は吾妹兒が里にしあれば」は、辭句に稍不完らしく見える點もあるが、歌謠上には論理から外れた叙述が、尚想像の補足語によつて許容される場合が多いから、大目に見ておかう。「玉かぎる磐垣淵の――戀ひつつあるに」の長句は、前後の排對句の間に介在して、單調を破る効果がある。第二段は無難によく委曲を盡してゐる。構成上からは、「渡る日の晩れゆくが如」以下、「過ぎていにきと」までは、吾妹兒の訃報を齎した使者の詞であるが、素より作者の感想を混へた行叙で、使者の語そのまゝでは勿論ない。「渡る日」「照る月」の對揚は頗る常套的であるが、この際止むを得まい。第三段は大分ごた/\して面白くない。寧ろ、「梓弓おとに聞きて」の句を削つた方が重複の煩はしさもなくなり、簡明を得るであらう。又「せむすべしらに」も第四句の「すべをなみ」にさし合つて、又かの感じが起る。古歌は素朴で、重複など厭はないのだといふ説も一往は諾はれるが、反對に考へて、重複を整理するまでの餘裕を持たなかつたといふ方が至當であらう。第四段はこの歌の生命の殆ど全部が注ぎ込まれたタンクで、一首の重點は實にこゝに存する。「こゑも聞えず」は上の「立ち聞けば」を直ちに承けて聽覺から叙し、「道行く人も一人だに似てしゆかねば」は視覺から叙して排對し、作者の前から、一切空に彼の女が抹消された事相に依つて、「妹が名喚びて袖ぞ振りつる」の素地を作してゐる。是等の語はわが歌聖人麻呂にあらずんば、到底一語も下し得まいと思ふ。
 
短歌二首
    
秋山之《あきやまの》 黄葉乎茂《もみぢをしげみ》 迷流《まよはせる》 妹乎將求《いもをもとめむ》 山道不知母《やまぢしらずも》【一云|道不知而《ミチシラズシテ》】     208
 
(570)〔釋〕 ○もみぢをしげみ 紅葉が茂さにの意。○まよはせる 「迷へる」の敬相。眞淵は見失へると解したが從ひ難い。舊訓はマドハセル〔五字傍線〕。○しらずも 「しらず」は知られずの意。
【歌意】 秋山の紅葉が茂さに、分け入つたまゝ行方のわからない吾妹兒を、私は捜したいと思ふが、捜さうにもその山道が知れぬわい。
 
〔評〕 既に吾妹兒は秋山に葬送されてしまつた。その葬處位はいづれ人傳に聞きもしたらう。乃ち暮秋黄葉の道をたどつてその奥津城の露を拂ふ。したがまだ全く死んだ者の氣がしない。その紅葉の蔭にさ迷つてでも居るかの如くに思ふ。殆ど幻想に近いが、それが又人情の歸趨で、靈魂の天翔りや幽靈存在説の大きな根柢をなすものである。とにかく何としても會はれぬは事實である。途方にくれて山路に佇んで、良久しく躊躇低徊してゐる作者の悄然たる孤影が、目に見えるやうで、その眞實感には泣かされる。卷七の
  秋山の紅葉あはれみうらぶれて入りにし妹は待てど來まさず  (―1409)
と同想同型であるが、これは遙に簡淨で、餘韻も頗る永い。「山」の語の重複の如きは問題とするに足りない。一本の結句「路知らずして」は重複の嫌は避け得るが、調が繊弱で面白くない。
 
黄葉之《もみぢばの》 落去奈倍爾《ちりぬるなべに》 玉梓之《たまづさの》 使乎見者《つかひをみれば》 相日所念《あひしひおもほゆ》     209
                                        〔釋〕 ○ちりぬるなべに 散るにつれて、散ると同時になどの意。「なべ」は並《ナ》めの轉語で、動作の起る一面に又他の動作の起る意を示す。○たまづさの 上出。○あひしひ 昔その女と逢ひ初めた日。
(571)【歌意】 黄葉の散るのにつれて、妻の家から來た死亡通知の使を見ると、昔逢ひ初めた日もこんなに黄葉の散る頃であつたと思ひ出されて、まことに悲しいことだ。
 
〔釋〕 暮秋葉落の心細い折も折、愛人永眠の悲報を齎した使が來た。悼惜痛恨のあまり、綿々として盡きぬ日頃の綢繆たる情緒を追懷し、眼前の情景は忽ち鸞盟鳳結の當時を聯想させるに至つて、信に斷腸の悲みを見る。戀の序幕と切幕とが、かくも一轉瞬に囘想されるほど、二人の交情は短くはかないものであつた。恐らく去年暮秋の頃に逢ひ初めたものであらう。交合が短ければ短いほど追憶の哀愁は却つて長いのは、自然の情である。結句唐突のやうで唐突でない。それは黄葉の落葉が過去への絲を曳いてゐるからである。
 この短歌二首、内容の順序から推せば、記載が前後してゐるやうである。
 
打蝉等《うつせみと》【一云|宇都曾臣等《ウツソミト》】 念之時爾《おもひしときに》 取持而《たづさひて》 吾二人見之《わがふたりみし》 ※[走+多]出之《わしりでの》 堤爾立有《つつみにたてる》 槻木之《つきのきの》 己知碁智乃枝之《こちごちのえの》 春葉之《はるのはの》 茂之如久《しげきがごとく》 念有之《おもへりし》 妹者雖有《いもにはあれど》 憑有之《たのめりし》 兒等爾者雖有《こらにはあれど》 世間乎《よのなかを》 背之不得者《そむきしえねば》 蜻火之《かぎろひの》 燎荒野爾《もゆるあらぬに》 白妙之《しろたへの》 (572)天領巾隱《あまひれがくり》 鳥自物《とりじもの》 朝立伊麻之弖《あさたちいまして》 入日成《いりひなす》 隱去之鹿齒《かくりにしかば》 吾妹子之《わぎもこが》 形見爾置《かたみにおける》 若兒乃《みどりごの》 乞泣毎《こひなくごとに》 取與《とりあたふ》 物之無者《ものしなければ》 鳥穗〔二字左△〕自物《をとこじもの》 腋挾持《わきばさみもち》 吾妹子與《わぎもこと》 二人吾宿之《ふたりわがねし》 枕付《まくらづく》 嬬屋之内爾《つまやのうちに》 晝羽裳《ひるはも》 浦不樂晩之《うらさびくらし》 夜者裳《よるはも》 氣衝明之《いきづきあかし》 嘆友《なけけども》 世武爲便不知爾《せむすべしらに》 戀友《こふれども》 相因乎無見《あふよしをなみ》 大鳥《おほとりの》 羽易乃山爾《はがひのやまに》 吾戀流《わがこふる》 妹者伊座等《いもはいますと》 人之云者《ひとのいへば》 石根左久見手《いはねさくみて》 名積來之《なづみこし》 吉雲曾無寸《よけくもぞなき》 打蝉跡《うつせみと》 念之妹之《おもひしいもが》 珠蜻《たまかぎる》 髣髴谷裳《ほのかにだにも》 不見思者《みえぬおもへば》     210
 
〔釋〕 ○うつせみとおもひしときに わが妻が〔四字右○〕生きの身であつた時にの意。「うつせみも」(六九頁)、及び「うつそみと思ひしとき」を參照(五一五頁)。「打蝉」は借字。○たづさひて 手を取合つて。連れ立つて。次に擧げた或本(ノ)歌、即ちこの歌の別傳には「携手」とあるによつて、「取持而」をかく訓む。正辭いふ、タヅサヘテ〔五字傍線〕と他動に訓むは非と。○わがふたり わが妻と〔二字右○〕二人して〔二字右○〕。○わしりで 一寸驅け出した處。出立つた處。家の(573)近間《チカマ》をいふ。雄略紀の御製に「こもりくの泊瀬の山は――和斯里底《ワシリデ》のよろしき山」とある。ハシリデと訓むもよい。記紀に走水《ハシリミヅ》の稱が見え、ハシル〔三字傍点〕はワシルよりも語が古い。萬葉時代は兩語竝行して使はれてゐたものらしい。○つつみ 池の塘。○つきのき 欅《ケヤキ》のこと。楡科の喬木。實は櫻に似て小さく、その末梢極めて茂く、天を刺してゐる。古へは弓材に用られて、槻弓の稱がある。伊勢貞丈の冬草に、欅と甚だ相似て、葉の刻缺多く細かく、木理縱横にして欅の木理の縱なると異なりと見えて、欅の別種としたが、記紀萬葉に槻は盛に出るが、欅はない。欅ほどの目に立つ大木が閑却されて、全然記述がないのも可笑しい。これは欅を古へは槻と稱したから欅の語が出ないのである。冬草にいふ木理の事は挽き割つてから後にわかるべき事で、いかがと思ふ。○こちごち 此方此方《コチゴチ》の意。守部いふ、この語はヲチコチ〔四字傍点〕とは別にて、上に物二つを先づいひてその一つをコチと指し、今一つをコチと指していふ詞なり、ヲチコチは打付けにも詠み出だせるを、コチ/”\は一首の初めに打出せる例なしと。とはいへ譯語はアチコチといふより外はない。雄略記に「平群の山のこち/”\の山の峽《カヒ》に」、集中卷三に「なまよみの甲斐國うちよする駿河國とこち/”\の國の御中ゆ」、卷九に「こち/”\の花の盛りに」などある。○おもへりし 繁く〔二字右○〕思つてゐた。○よのなかをそむきしえねば 無常なる世間の定則を免れ得ぬから。生ある者は必ず死ある現世なの(574)でいふ。○かぎろひのもゆる 靄の立つをいふ。野を燒く火といふ説は見當違ひ。「かぎろひ」を見よ(一八五頁)。「蜻」は借字。「火」は添字。○しろたへの 白布の領巾《ヒレ》と續く。既出(一一八頁)。○あまひれがくり 芳樹いふ、「白き幡を柩の四方に樹てゝ持ち行くをいふ。喪葬令に親王大臣以下數百竿の幡を用ゐる制あり、卑官の人の妻などさばかり多くは用ゐるべきにあらねど、樣々につけて樹てたるが靡くを、天領巾といへるなるべし」と。「あま」は死を神去ると見ての敬語。古義に天人の天路を往來ふ領巾の由なればとあるは鑿に過ぎる。○ひれ 領巾。上古女子が頭上より肩に挂けて装飾とした巾。今のスカーフのやうな物、錦、羅、紗などにて製する。歴世女装考に振手《フリテ》の約かとある。蛇の比禮、蜂の比禮など、その用に從つて振りもするが、もと正装の時の装飾である。記載では崇神紀を初見とする。後世には采女女官など服用した。○とりじもの 鳥そつくりのもの。鳥は朝塒を飛び立つもの故「朝立つ」にかゝる序とする。「阪鳥の朝越えまして」(卷一)と似た造語。「かもじもの」を參照(一九三頁)。○あさたちいまして 葬送の門出するをいふ。朝鳥の立ちいましてとあるべきを、音數の制限上から、「朝」を下の句に付けた。「い」は接頭語。○いりひなす「なす」を見よ(九〇頁)。○かくりにしかば 埋葬の終れるをいふ。○かたみにおける 形見として殘して置いた。○みどりご 異傳に「緑兒」とあるによつて、姑く舊訓に從ふ。和名抄にも嬰孩兒《アカゴ》をミドリゴと訓んであり、緑は髪の色から出たとしてあ(575)るが、黒を緑といふことは漢土の慣習だから、漢學隆盛期に生まれた語と思はれる。するとそれ以前に嬰孩兒《アカゴ》を何と稱したか、古語拾遺に「天照大神育(クミ)2吾勝《アカツノ》尊(ヲ)1、特甚鐘愛《イトイタクイツクシミ》、常(ニ)懷(ク)2腋(ノ)下(ニ)1、稱(ケテ)曰(フ)2腋子《ワキゴト》l云々」とあつて、註に今俗(ニ)號(ケテ)2稚子(ヲ)1謂(フハ)2和可古《ワカコト》1是其轉語(ト)と見えた。故にこゝを契沖はワカゴノ〔四字傍線〕と訓み、古義はワカキコノ〔五字傍線〕と訓んだ。○こひなく 乳を〔二字右○〕乞ひ泣く。集中卷十八にも「禰騰里兒《ミドリゴ》の乳《チ》乞ふが如く」とある。○とりあたふ 「とり」は接頭語。この「あたふ」は四段の活用で古語。○をとこじもの 男でありながら。この「じもの」は上の「鳥じもの」とは用法が異例である。これ及び雄自物《ヲジモノ》負ひ抱きみ(卷三)男士《ヲノコジ》物や戀ひつゝをらむ(卷十一)などは、男のすまじき業をする意にいふ。「鳥穗」は異傳には「男」とあれば、烏徳〔二字左△〕《ヲトコ》の誤とした眞淵説に從ふ。又「鳥利〔右△〕」の誤として、鳥が羽交ひに雛をくゝむる貌に喩へたものと解しても通ずるが、訓の確定された名詞に添字を付することは快くない。○わきばさみもち 兒を腋に抱くことは古代の慣習で、「みどりご」の項に引いた古語拾遺の文にも見え、又卷三の高橋朝臣の歌にも「腋挾む子の泣く毎に男じもの負ひみうだきみ」とある。○まくらづく 嬬屋《ツマヤ》に係る枕詞。嬬屋には夫妻枕を並べ付くるよりいふ。○つまや 嬬の部屋で、寢室のこと。○うらさび 既出(一三七頁)。「浦」は借字。「不樂」をサビと訓むは意訓。○いきづき 息を吐《ツ》くこと、即ち歎息すること。○しらに 既出(四一頁)。○おほとりの 羽《ハ》に係る枕詞。大鳥は鷲又鸛をいふが、こゝは只大きなる鳥と解するがよい。○はがひのやま 大和添下郡春日(ノ)郷にある。羽易の山は卷十に「春日なる羽買《ハガヒ》の山ゆ狹帆《サホ》の内《ウチ》へ鳴きゆくなるは誰れ喚子鳥」と(576)ある羽買の山のことで、羽易は羽交《ハカヒ》の義、狹帆は佐保である。羽易の山から佐保の内へ喚子鳥が飛び通ふとあるによつて考へると、佐保の内に向き合つた山は春日の山塊より外はない。地名辭書に、羽易(羽買)は翼の義なれば春日山左右の一峯なるべしとあるは、尤なる推斷と思ふ。さて春日山塊の左は高圓山で、佐保とはかけ離れてゐるから關係はない。右の一峯こそはこゝにいふ羽易の山で、まさに佐保の郷に臨んでゐる。この山平安期より鶯山、又若草山(俗に三笠山)といひ、遂に羽易の山の古名を失つたものと考へられる。卷六の悲寧樂故京郷作歌の一節に「射鉤《イコマ》(駒)山|飛火賀塊爾《トブヒガヲカニ》」とある射鉤を、宣長は羽買の誤として、伊駒の烽火《トブヒ》(高安の烽火のこと)を高圓《タカマト》の烽火に振替へ、羽買山を高圓山と同處の如くに解したが、抑も射鉤を羽買と改めたことが、甚しい私妄である。○わがこふる 「吾」を異傳に「汝」とあるによつて、ナガコフル〔五字傍線〕と改むる眞淵説に從ふ人も多いが、作者みづから吾《ワガ》といつたと見れば改むるに及ばぬ。○ひとの 或〔右○〕人の。○いはねさくみて 岩根を踏み通つて。「さくみて」は凸凹《サクミ》ある上を歩くをいふ。祝詞式に「磐根木根|履佐久彌《フミサクミ》」、また卷六に、「五百重《イホヘ》山いゆき割見《サクミ》」などある。○なづみこし 澁り悩んで來たことであつた。「こし」の下、が〔右○〕の辭を補つて聞く。○よけくもぞなき 一向〔二字右○〕良くもない。「よけく」はよきの延言。こゝの「もぞ」は、却りて〔三字傍点〕の餘意の生ずる用法ではない。この一句は下の「見えぬ思へば」の次に廻(577)して解する。○たまかぎる ほのかに係る枕詞。既出(一七七頁)。
【歌意】 わが妻の在世中には、手をつないで二人で見た、つひそこの堤に立つて居る槻の木の、あちらこちらの枝の春の葉の茂つてゐるやうに、繁く念つた妻でもあり、頼みにしてゐた妻でもあるが、人間世の無常の道理を背くことが出來ないから、あの蜻火のもえる荒野に、葬送の白旗に蔽はれて、朝鳥のやうに家を立出て、入日のやうに影を隱したので、妻の形見に殘して置いた緑兒が物乞うて泣くたびに、呉れて遣る物がないから、男ながらも兒を腋の下に抱き、妻と二人で私が寢た寢室の内に、晝は心さびしく暮し、夜はうめき明し、歎きに歎いても仕やうもなく、戀ひに戀うても逢ふことも出來なさに、たま/\春日の羽易の山に私の戀しい妻は居ると人がいふので、岩を踏み分けて泥みつゝ來たが、何の詰らないこと、この世の人であつた妻が、ほのかにすらもその姿の見えないことを思へばさ。
 
〔評〕 本篇は上の長歌と共に金ピカ的御家物ではなくて、家庭的世話物である。大序から切まで何段もある通し狂言ではなくて、上中下三卷で、チヨツピリ正味だけをフンダンに利かせる悲劇である。
 この篇の妻は前篇のと違ひ、家に同棲してゐたのだから、まづ正妻であつたと見るが至當であらう。
 人麻呂の門前は池の塘であり、夫婦水入らずの逍遙にはもつて來いの處であつた。そこには槻の大木が盛※[直が三つ]立し、その千枝萬葉は天を蔽ふのであつた。「春の葉」は繁茂の感じを具象した語である。槻のもとの逍遙は作者が終生忘れ得ぬ樂しい記憶で、今この記憶を反復して、亡妻追憶の情懷に耽り、初頭より「茂きが如く」までを「念へりし」に係けて修飾とし、序詞の形式を取つたその運用に、自然の妙がある。さやうに繁く念へり(278)し妹、憑みにした兒等、とある相對的辭樣の反復は、戀慕の情味を力強く表現した手法で、後段悼亡の悲傷を十分に反撥せしむる素地を作してゐる。こゝまでは前段の第一節で次いで第二節に轉移してゆく。
 「世の中を背きし得ねば」の分別臭い理性的措辭は、折角煮立てた湯に冷水をさすものゝやうであるが、これはわざと逆手を使つたもので、そこに心頭の葛藤も見られて、却つて抑揚の味ひを生ずる。かくて又有識階級者としての作者が、當時流行の佛教の無常思想に信仰をもつてゐた點が著く示されてゐる。葬送の場處は、短歌によれば衾路《フスマヂ》の引手《ヒキテ》の山で、今の龍王山の山麓地帶が、即ち「蜻火のもゆる荒野」であつた。抑も春日山以南三輪山に至る山脈の西麓一帶の地は、往時は草樹が盛に繁茂してゐた荒地だつたので、墳塋の現存するものの多いのもこの故であつた。その荒野に「――天領巾隱り――立ちまして、――隱りにしかば」と、葬儀事をはつて、我妹子は全くあの世の人となつたといふ。畢竟この一節は後段の爲に事件の推移を叙して筋を運んだ幕である。
 後段第一節、いよ/\世話場だ。母親は死んで慘めにも赤坊が取殘された。それが乳を欲しがつて泣く。貰ひ乳か、さもなければ乳代りの米の粉か、どれも急な間に合はない。焦り付くやうに泣き立てられては、男手ではどうにもならぬ。據なく片手抱きに抱き込んで、ホイ/\あやしながら、主なき閨の内で、夜晝心さびしくフウ/\吐息を吐いて明し暮し、幾ら困る弱ると歎いても仕樣もなく、さあ女房生き返つてくれと戀しがつても、二度とこの世では逢ひやうがない。と叙事から漸く叙情に移つてきた。死んだので始めて女房の有難味を痛感する、世間によくある例である。隨つて愈よ逢ひたさ見たさの念が募る。「戀ふれども逢ふ由をなみ」の句は、實に第二節を展開する楔子である。「晝はも――」「夜はも――」の對偶は例の一連の事相を夜晝に分隷(579)して合拍させた手法である。
 第二節は實に夢幻的神秘的な事件を扱つた幕である。「羽易の山に――妹はいます」と人が告げたといふ。頗る怪異な事ではないか。葬送したのは衾路の引手の山、然るに引手の山より四里も北の春日の羽易の山に妹が居るとなつては、眞鞆に聞いて居ては話がわからぬ。で從來の註者は、引手の山も春日(ノ)郷に屬する山で羽易の山と同處だらうと臆斷してゐる。さらば「衾路を」とある地理的證文をどうするか。
 茲に至つて、吾人の祖先がもつてゐた靈魂不滅の信念を囘顧し、進んではその靈魂の活動とその活動樣式とを考察し、遂に靈魂の具象化された幽靈亡靈の存在から、時には死者の復活さへ信じてゐた時代である事を認識する必要がある。――更に顧みて神代の岩戸傳説を思ふがよい。
 されば死者に行き合へるとか、死者の幻影が見られるとかいふ迷信は、當然起り得る筈のものであつて、
  もゝ足らず八十のくまぢ〔三字傍点〕に手向せば過ぎにし人に蓋しあはむかも (卷三、刑部垂麿―427)
も、この思想を如實に裏書するものである。この迷信は後世でも各時代にそれ/”\存在し、その形式や方法や場處やが、多種多樣に指示されてある。
 人麻呂の妻君は既に衾路の引手の山の地下の人となつた。然しそれが遠く羽易の山に居るとすると、幽靈かさなくば、その復活でなくて何であらう。告げた人は抑も何者か。それは卜占者か、陰陽師か、仙釋道の術士か、或は梓御巫《アヅサミコ》のやうな者か、まじ者使ひの妖蠱者か。時代は稍後れるが、續紀天平二年の詔に、
  安藝周防(ノ)人等妄(リニ)説(イテ)2禍福(ヲ)1多(ク)集(メ)2人數(ヲ)1妖2祠(シテ)死魂(ヲ)1云(フ)v有v所v祈(ル)、又近(キ)v京(ニ)左側(ノ)山原(ニ)聚2集(シテ)多人(ヲ)1妖言(シテ)惑(ハス)v衆(ヲ)多(キハ)萬人少(キハ)數千。
と見え、京の左側の山原即ち春日附近には怪行者が跳梁し、中には死魂を妖祠する者などもあつたらう。
(580) 苦しい時の神頼み、流石のインテリ人麻呂も嬬戀ひの奴となつては、只これ一箇の痴呆者である。何かの術者の示唆の詞に乘つて、もしかしたら再び妻に逢へようの一念に驅られ、遙々四里の道を春日の羽易の山まで出掛けたものと考へられる。羽易の山即ち若草山は、多分その頃は樹林蓊欝として、水谷川(吉城川)の水源あたりは頗る物凄いものであつたらう。隨つて夜見の國への出入口、亡魂亡靈のすだく魔處といつたやうな具合に信ぜられて居たかも知れない。
 だが、それは無用の骨折に過ぎなかつた。岩が根道を息せき切つて上つては來たものゝ、ほのかなその幻影さへも捉へられなかつた。幻滅の悲哀、失望落膽の極、「よけくもぞなき」と?んで吐き出したやうな一句を吐いて、緜々として盡きざる長い恨を搖曳させてゐる。「よけくもぞなき――見えぬ思へば」の倒装は、例の長歌の結收に必要なる叙法で、それは千斤の重量を結句に集中させて、上來の語勢の迫力とその均衡を保たしめる爲である。
 この前後二篇は人麻呂その人が赤裸々に暴露された作で、歌聖の生活を考察する好資料であるのみならず、眞情激越、その嗚咽の音なほ耳に響き、酸苦の態今も眼に映ずるを覺える。蓋しその壯年血性の發する處で、泣く〔二字傍点〕の語、涙〔傍点〕の語を一切著下せず、しかも沈痛一にこゝに至るは靈妙の筆である。前篇は情界の天地を震撼する激語をもつてその末節を昂揚し、後篇は各節平均に高いレベルを終始歩んでゐる。
                 △靈魂と復活(雜考−9參照)
 
短歌二首
 
(581)去年見而之《こぞみてし》 秋乃月夜者《あきのつくよは》 雖照《てらせれど》 相見之妹者《あひみしいもは》 彌年放《いやとしさかる》     211
 
〔釋〕 ○つくよ 「夜」は單に輕く添へた接尾語で、月その物をいふ。この用例は、「こよひの月夜《ツクヨ》あきらけくこそ」(卷一)、「わが宿の毛桃の下に月夜さし」(卷十)、「燈火を月夜になぞへ」(卷十八)など集中に多い。○いやとしさかる いよ/\年が遠ざかつてゆくの意。
【歌意】 去年見たことであつた秋の月は、相變らず今年も照つてゐるが、連れ添うてゐた妻は、死後いよ/\ます/\年が經つてゆくのみで、再び相見ることも出來ぬのが悲しいことだ。
 
〔評〕 疊出の「見」の語、その意はおの/\別に使はれてゐるが、元來が同語である爲、通じて主眼の語たる立場に置かれ、おなじ嘗て見たものでも、月はもとのまゝに存在し、人は逝いて昔となつてゐることを感傷した趣に聞き取られる。かうした互に相乖離した事相の合拍から起る感懷は、誰れも抱き易いものであつて、それだけ平凡化する嫌が無いでもない。詩にも
  同(ジク)來(ツテ)翫(ビシ)v月(ヲ)人何(レノ)處(ゾ)、風景依稀(トシテ)似(タリ)2去年(ニ)1。(唐、趙※[古+瑕の旁])
の如き類想は頗る多い。
 「照らせれど」は理路に著して詩味の一半を殺ぐ。「見てし秋の月夜は」と「あひ見し妹は」と、同形の對語になつてゐるのは平板ではあるが、一面また率直味があるともいへよう。後世ならばこれを避ける處である。「いや年さかる」は誇張で、上句の趣によれば、去年の秋に死んだ妻の一周年に當つての作である。
 
(582)衾道乎《ふすまぢを》 引手乃山爾《ひきてのやまに》 妹乎置而《いもをおきて》 山徑往者《やまぢをゆけば》 生跡毛無《いけりともなし》     212
 
〔釋〕 ○ふすまぢを 諸陵式に、山邊郡に衾田《フスマダノ》墓がある。衾は地名で、そこの田が衾田、そこへ通ふ路が衾路《フスマヂ》である。「を」は古言の用法で、領格の「の」に通ふ。「みはかしを劔の池」(卷十三)の類で、衾路の引手の山の意である。眞淵、雅澄は、衾の乳《チ》(耳)を引くといひ懸けた枕詞と見たが牽強であらう。○ひきてのやま 衾田から東方に當る龍王山をいふか。山邊郡朝和村に屬する。この山の西麓釜口と稱するあたり冢墓が頗る多い。○いもをおきて 妻を墓處に葬つたのをいふ。○いけりともなし 宣長は卷十九に「生家流等毛奈之《イケルトモナシ》」とあるを證として、こゝもイケルトモナシ〔七字傍線〕と訓み、ト〔傍点〕は利心《トゴヽロ》の利《ト》で助辭の「と」でないといつたが、利心を利とのみいつては語を成さない。卷十九の方は或は誤寫かも知れないし、さうでなくとも又他に解しやうもある。
【歌意】 引手の山の寂しい墓の中にいとしい妻を葬つて置いて、山路を歸つて來れば、悲しくて自分までがまる(583)で生きてゐる氣はしない。
 
〔評〕 衾路を引手の山は當時の共同基地であつたらしい。現在でも千年以上の冢墓が累々として相望んでゐる。いづれ樹木も所在に欝蒼とした、いかにも氣疎い山中であつたらう。そんな處に假令亡骸にせよ、たつた一人愛妻を棄てゝ來ることは、人情忍び難い。けれども蘋藻禮をはれば、いやでも墓前を辭しなければならぬ。「妹をおきて山路をゆけば」、限ない哀愁に囚はれて、後髪を牽かれる思に、自分まで生きてゐる空はなくなるのである。「生けり」の一語、戀人の死を映帶して一首の眼目となつてゐる。「妹をおきて云々」を、戀人の家から辭去する生前の趣に取成したといふ説は、あまりに穿ち過ぎてゐる。「路」及び「山」の語の重複も、この時代の率直な粗派の構成と見れば、さのみ苦にならない。
或本(の)歌
 
字都曾臣等《うつそみと》 念之時《おもひしときに》 携手《てたづさひ》 吾二見之《わがふたりみし》 出立《いでたちの》 百兄槻木《ももえつきのき》 虚知期知繭《こちごちに》 枝刺有如《えださせるごと》 春葉《はるのはの》 茂如《しげきがごとく》 念有之《おもへりし》 妹庭雖在《いもにはあれど》 恃有之《たのめりし》 妹庭雖有《いもにはあれど》 世中《よのなかを》 背不得者《そむきしえねば》 香切火之《かぎろひの》 燎流荒野爾《もゆるあらぬに》 白栲《しろたへの》 天(584)領巾隱《あまひれがくり》 鳥自物《とりじもの》 朝立伊行而《あさたちいゆきて》 入日成《いりひなす》 隱西加婆《かくりにしかば》 吾妹子之《わぎもこが》 形見爾置有《かたみにおける》 緑兒之《みどりこの》 乞哭別《こひなくごとに》 取委《とりまかす》 物之無者《ものしなければ》 男自物《をとこじもの》 脅挿持《わきばさみもち》 吾妹子與《わぎもこと》 二吾宿之《ふたりわがねし》 枕附《まくらづく》 嬬屋内爾《つまやのうちに》 旦者《ひるは》 浦不怜晩之《うらさびくらし》 夜者《よるは》 息衝明之《いきづきあかし》 雖嘆《なげけども》 爲便不知《せむすべしらに》 雖戀《こふれども》 相縁無《あふよしをなみ》 大鳥《おほとりの》 羽易山爾《はかひのやまに》 汝戀《ながこふる》 妹座等《いもはいますと》 人云者《ひとのいへば》 石根割見而《いはねさくみて》 奈積來之《なづみこし》 好雲叙無《よけくもぞなき》 宇都曾臣等《うつそみと》 念之妹我《おもひしいもが》 灰而座者     213
 
〔釋〕 ○てたづさひ 手たづさはり〔二字傍点〕の約。卷五に「手さづさはり」、「手をたづさはり」などある。○いでたち 一寸出た場所をいふ。「はしり出」といふに近い。○ももえ 澤山の枝。記に「長谷《ハツセ》の百枝槻《モヽエツキ》の下」(雄略記)などある。「兄」借字。○とりまかす 小兒に與へ持たせる。○せむすべ 「爲便」をかく訓むは卷十二に「爲便《セムスベ》もなし」の例による。○ながこふる お前が慕ふ。○灰而座者 字の如くハヒニテマセバ〔七字傍線〕と訓んで、火葬の灰に(585)なつたと解せられぬでもないが、餘に唐突で穩かでない。仄〔右△〕の誤字と見て、ホノニテマセバ〔七字傍線〕と訓む時は意が愈よ通じにくい。必ず訛誤があらう。
短歌三首
 
上出の長歌には反歌は二首であつたが、この別傳の方には三首の短歌が附屬してゐるのである。さうしてその内最後の一首だけが全く別裁で、初の二首は本傳の方の短歌と微細な字句の相違のみである。
去年見而之《こぞみてし》 秋月夜《あきのつくよは》 雖度《わたれども》 相見之妹者《あひみしいもは》 益年離《いやとしさかる》     214
 
〔釋〕 ○わたれども 去年と變らず空を渡つてゆくけれどもの意。
 
衾路《ふすまぢを》 引出山《ひきてのやまに》 妹置《いもをおきて》 山路念邇《やまぢおもふに》 生刀毛無《いけりともなし》     215
 
〔釋〕 ○ひきてのやま 「引出山」は引手の山に同じい。○やまぢおもふに 妻の亡骸を置いてあるその山の寂しい道を思ひやるにつけての意。
 
〔評〕 右二首とも歌意に大差ないが、何れも前出のに及ばない。
 
(586)家來而《いへにきて》 吾〔左△〕屋乎見者《つまやをみれば》 玉床之《たまどこの》 外向來《とにむかひけり》 妹木枕《いもがこまくら》     216
 
〔釋〕 ○つまや 妻の部屋をいふ。上にも「枕付嬬屋《マクラツクツマヤ》」とあつた。但「吾屋」のまゝではワガヤ〔三字傍線〕と訓む外はないが、こゝは眞淵が妻〔右▲〕の誤寫として、ツマヤ〔三字傍線〕と訓んだのに從ふ。○たまどこ 「たま」は美稱。「とこ」は寢所。卷十の七夕歌に「あすよりはわが玉床を打拂ひ」とある。眞淵は靈床〔二字傍点〕の義としたが、靈床は神座で、枕など附近にあるべくもない。○とにむかひけり 古義の訓に從ふ。舊訓はソトニムキケリ〔七字傍線〕であるが、「外」をソトといふは古語でない。○こまくら 木製の枕である。
【歌意】 葬處からわが家に歸つて來て、妻の閨を覗くと、寢床の外に、嬬のした木枕が向いてゐるわい、あゝ今は主もないこの木枕がなあ。
 
〔評〕 長歌の趣から察すると、この妻は同棲してゐた人と思はれるのに、こゝには「家に來て」とある。この口吻は久し振に歸宅した趣に聞き取られる。然し旅行歸りでもあるまい。この際の事情から揣摩すると、妻の墓側に假庵して、相應の日子を喪に籠つて後、家に歸つた折の感想と見るのが一番至當であらう。たま/\家に來てみると、主なき閨は空洞のやうな靜さと寂しさとを湛へたのみならず、ありし空床の上に、妹が用ゐた木枕がひとり物寂しげに横はつて、その主を待つものゝ如くである。夫たり伴侶たる作者としては、最も追憶の聯想の強い物だけに、その荒涼たる感愴が無際限に波打つて襲ひ來るのである。
 嘗て自分は『歌がたり』(明治三十五年版)中に於いてかういつたことがある。
(587)  婦人葛生の地に永畢の志あるを誓ひて歌うて曰く、
   角枕粲(タリ)兮、錦衾爛(タリ)兮、予(ノ)美亡(シ)v此(ニ)、誰(ト)與(ニ)獨|且《アカサン》。(詩、唐風)
  君子歸期無し、得て見るべからず、凄慘の情※[立心偏+則]々の思、字句に溢れて悲し、歌聖人麻呂の悼亡の作に、
   家に來てつま屋を見れば玉床の外に向ひけり妹が木枕
  渠れや三百篇の詩を讀みしか、讀みてそを飜案せしか、はた知らざりしか、知らずして一致せしか、恐らくは後者。若し山上憶良ならむには前者の疑は遁るべからじ。
 
吉備〔二字左△〕津釆女死《きびつのうねめがみまかれる》時、柿本(の)朝臣人麻呂(が)作歌一首并短歌
 
○吉備津采女 吉備出身の采女の稱。然し短歌には樂浪之志我津《サヽナミノシガツノ》子、凡津《オホツノ》子などある。この長歌と短歌との中間に何の誤脱もないとすれば、「吉備」は志我〔二字右△〕の誤寫と見るより外はない。よつて「志我津《シガツノ》采女(ガ)死時」として解する。「志我〔二字右△〕津采女」は近江の滋賀の郡領の女で采女に出た人の稱。「釆女」の解は既出(三一八頁)。
 
秋山《あきやまの》 下部留妹《したぶるいも》 奈用竹乃《なよたけの》 騰遠依子等者《とをよるこらは》 何方爾《いかさまに》 念居可《おもひませか》 栲紲乃《たくなはの》 長命乎《ながきいのちを》 露己曾波《つゆこそは》 朝爾置而《あしたにおきて》 夕者《ゆふべは》 消等言《きゆといへ》 霧己曾婆《きりこそは》 夕立而《ゆふべにたちて》 明者《あしたは》 失等言《うすといへ》 梓弓《あづさゆみ》 音聞吾母《おときくわれも》 髣髴見之《ほのにみし》 事悔乎《ことくやしきを》 布栲乃《しきたへの》 (588)手枕纏而《たまくらまきて》 劔刀《つるぎたち》 身二副寐價牟《みにそへねけむ》 若草《わかぐさの》 其嬬子者《そのつまのこは》 不怜彌可《さぶしみか》 念而寐良武《おもひてぬらむ》 悔彌可〔三字左△〕《くやしみか》 念戀良武〔四字左△〕《おもひこふらむ》 時不在《ときならず》 過去子等我〔左△〕《すきにしこらが》 朝露乃如也《あさつゆのごと》 夕霧乃如也《ゆふぎりのごと》     217
 
〔釋〕 ○したぶる ハ行上二段の動詞。その解に(1)は萎《シナ》ぶの古語にて紅葉して匂ふをいふと(冠辭考)。(2)は朝《アシタ》びの上略にて赤根さす朝の天の色の如く美しきをいふと(記傳)。こゝは(1)の説がよい。秋山の色づいた美しさを妹の紅顔に擬へていつたもの。記に秋山之|下氷壯夫《シタビヲトコ》(中卷)、集中に秋山(ノ)舌日下《シタビガシタ》(卷十)などある。舊訓シタベル〔四字傍線〕は非。○いも この妹は女性を親んでいつた語。○なよたけの 「とをよる」に係る枕詞。「なよたけ」は嫋《ナヨ》竹の義で、皮竹即ち女竹のこと。なよ/\と撓み靡く意を以て、下にいひ續けた。卷三に「名湯《ナユ》竹のとをよる皇子《ミコ》」とあるに思へば、こゝもナユタケで、「用」は由〔右△〕の誤ではあるまいか。然し集中他に用例がないから決定し難い。まづ兩語竝行して存在したものとする。「奈」は次音ナイ、那と同意にも用ゐる。○とをよる 撓依《トヲヨル》の義。しなやかに靡くをいふ。「とを」はたわ〔二字傍点〕の通語で、トヲヽ〔三字傍点〕、又タワヽ〔三字傍点〕ともいひ、撓む貌にいふ。○こら 「ら」は本來複數語だが、單なる添辭として用ゐる。こゝもその意。「こ」は「なつますこ」を見よ〔初版は、「「なつますこ」を見よ」→「既出」〕(一〇頁)。○おもひませか の下ならむ〔三字右○〕の語を補うて聞く。「おもほしめせか」を參照(一二四頁)。訓は古義に從つた。舊訓はオモヒヲリテカ〔七字傍線〕、眞淵(589)訓はオモヒヲレカ〔六字傍線〕。○たくなはの 「長き」に係る枕詞。栲紲《タクハナ》は楮皮の麻《ヲ》を縒つた繩。繩は長いのを用とするから、長きに續けた。「たく」は栲《タヘ》に同じい。「しろたへ」を見よ(一一八頁)。「紲」は動物のはづなのことだが、こゝは繩と同意に用ゐた。眞淵のタクヅヌ〔四字傍線〕の訓は非。○ながきいのちを 長い命であるものを。「を」の辭を受ける辭が下にないと見て、景樹はこの下一二句落ちたる也といつたが、これは速斷の過ちで、この「を」は遠く末節の「時ならず過ぎにし」に係るのである。○ゆふべは――あしたは 古義の訓による。舊訓はユフベニハ〔五字傍線〕――アシタニハ〔五字傍線〕。○きゆといへ――うすといへ 略解の訓による、舊訓はキエヌトイヘ〔六字傍線〕――ウセヌトイヘ。○あづさゆみおと 既出(三一頁)。○ほのにみしことくやしきを 仄かながら見たことが悔しいのを。裏に※[(來+力)/心]じ見なければこんな感傷はもつまいにと悔しまれるとの意がある。「ほのに」を眞淵は短歌に「於保《オホ》に見しかば」とあるを移して、こゝをもオホニ〔三字傍線〕と訓んだが、「髣髴」はホノカの意に訓むが至當で、卷七にもさう訓んである。○しきたへの 「手枕」の枕に係る枕詞。「布」に敷くの意がある。既出(二五五頁)。○まきて 「いはねしまきて」を見よ(三〇〇頁)。○つるぎたち 「身に副ふ」と係る枕詞。既出(五〇六頁)。○ねけむ 「價」をケに充つるは呉音。○わかぐさの 夫(妻)に係る枕詞。既出(四三四頁)。○つまのこ 夫《ツマ》の子。「子」は親愛の語。「嬬」は借字。○さぶしみ さぶしがりの意。「さぶし」は「うらさびて」を參照(一三七頁)。○くやしみ 悔しがりの意。「悔彌可念戀良武」の二句は原本にないが、古寫本の多くにあるので、補入した。後世の萬葉熱旺盛時代と違ひ、恣に創作の辭句など弄ばぬ時代の記載だから、信ずべきものと思ふ。○ときならずすぎにし 死ぬる時ならずして死んだ。自殺したのをいふ。新考もこの説である。卷三長屋王賜死之後|倉橋部《クラハシベノ》女王(ノ)歌に「大君のみこと畏み大あらきの時にはあらねど〔七字傍点〕雲隱ります」、同卷|丈部《ハセツカベノ》龍麿(ガ)自縊《クビレテ》死之時大伴三中の長歌(590)に「空蝉のをしきこの世を露霜のおきていにけむ時にあらずして〔七字傍点〕」などの例を參照。○こらか 「我」を香〔右△〕の誤とした古義説に從つた。「か」は歎辭。○あさつゆのごとゆふぎりのごと 如《ゴト》は中止形の語だから、この二句は上へ返る格である。「如也」を舊訓にはゴトヤ〔三字傍線〕と訓んであるが、この二つの「也」は焉の字の如き添字。
【歌意】 秋山の色のやうに美しいかの女、女竹のやうにすんなりとしたあの子は、何と思つたかして、本來人は長い命なものを、それは露は朝に置いて夕方には消え、霧は夕方に立つて朝には失せるといふが、思ひがけなくあの子は死んだよ〔十四字右○〕、それを話で聞く私でさへ、生前一寸でも會つたことが思出の種で悔しいのを、まして手枕交はして添寢《ソヒネ》をしたであらうその夫君は、くよ/\と念ひ寢をするであらうか、なまじ狎れ馴染んだことを殘念がつて戀ひ念ふであらうか。全くはかない朝露のやうに、夕霧のやうに、思ひがけなく死んだあの子かいな。
 
〔評〕 作者人麻呂がこの薄命美人采女に對しての親昵程度は、極めて淺いものであつた。いはゞ「ほのに見し事悔しきを」の程度である。又その夫君との交際程度はどうかといふに、第一その有無さへも判然しない位のものであつた。只采女との極めて淺い交情から出發した淡い感想、それは川向ふの火事に對するやうな力弱い衝動を基礎として、推理的に夫君に同情を寄せたに過ぎない。然るに尚且この一篇の弔歌を物して捧げねばならぬ理由は何か。
 抑もこれは事件中心の作である。若い采女の不慮の死、而もその死が天命ではなくて自殺といふのなら、當時の社會人を刺戟するに、十分有力な條件を具へたものといつてよい。苟も一面の識ある歌人人麻呂にして默(591)過することの出來ぬのは、又當然であらう。
 一篇の主意は末段の「時ならず過ぎにし子らか、朝露の如夕霧の如」の五句に盡きてゐる。上の各段は或はその前景であり、或は背景である。更に委しくいへば、「秋山の」より「失すといへ」までは左右の前景、「梓弓」より「念ひ戀ふらむ」までは背景に屬する。この背景を成す作者自身と夫君とに關する直接の悼意は、この歌では殆ど挿話の如き位置に立たされてゐる。故にこの一段を除いて、前後の二段を一連に引續けて見ると、一篇の意が極めて明確に疏通する。
 人世を露に喩へ霧に擬へなどして無常を觀ずることは、既に金剛經の十喩にも見えた事で、佛教東漸以來、漢土でもわが邦でも一般社會に瀰漫してゐた思想であつた。あながち作者の新研ではない。只この露や霧を反復して、讀者に向つて無常的感傷を強要した點が、對象たる「したぶる妹、とを依る子等」の美人采女に纏綿して、効果的に哀惜の情味を唆り、同情の涙を墮さしめる。
 序にいふ、采女の姦犯の禁が嚴しかつた時代に、采女に夫のあるといふ事實は、何としても解し難い。故に眞淵は前の采女であらうと推定した。或は殊によると、この夫は公然たる資格者ではなくて、情人だつたかも知れない。采女が自殺したのは、その姦犯に就いての捌きの前の戰慄から遁れる爲の餘儀ない手段ででもあつたかも知れない。
 この篇頗る音律的諧調に富んでゐる。はじめ双頭對を以て起り、次に露霧、朝夕の錯綜的對偶を用ゐ、次に「梓弓」より「事悔しき」の四句に對した「布栲の」より「念ひ戀ふらむ」の十句は偏對を成すもので、而もその中に「さぶしみか――」「悔しみか――」と、偏對中更に小對を成してゐる。又終りの「朝露の如、夕霧の如」(592)の合拍は、前段中の露霧の反復で、聲響相應じて※[金+將]然たるものがある。結果から見れば、餘り一篇の構成が排對に過ぎて造意に墮する嫌もあらうが、恰も襷模樣の浮織のやうな感じがする。
 結末、普通の長歌とその形式を殊にしてゐる。普通は三句577音の構成であるが、これは四句5777音の構成で、一句7音だけが餘計に附加されてゐることを記憶すべきである。 
反歌
 
樂浪之《ささなみの》 志我津子等何《しがつのこらが》【一云|志我津之子我《シガツノコガ》】 罷道之《まかりぢの》 川瀬道《かはせのみちを》 見者不怜毛《みればさぶしも》     218
 
〔釋〕 ○まかりぢ 現世を退る路の義で、黄泉路《ヨミヂ》をいひ、又葬迭の路をもいふ。續紀寶龜二年の宣命に「美麻之《ミマシ》大臣の罷道《マカリヂ》も」と見えた。宣長は「道」を邇〔右△〕の誤とし、拾遺集卷二十にこの歌の上句を「小波《サヽナミ》やしがのてこらがまかりにし」とあるに據つて、マカリニシ〔五字傍線〕と訓んだが、拾遺集のは準據にはならぬ。○かはせのみち 川の渡り瀬の道。
【歌意】 志賀津の采女が葬送の路の、その川瀬の路を見ると、何がなしに氣が塞いで面白くないことよ。
 
〔評〕 川瀬の路は特定の地名でないから、大和の何處であるかはわからないが、一團の葬送の群が肅々と山川の渡り瀬を練つて往つたものであらう。荒涼たる實景に配する物寂しい葬列と傷ましい麗人の死とは、作者の心に滅入るやうな暗影を投げ懸けてゐる。「まかり路〔傍点〕の川瀬の路〔傍点〕」と、路に對する印象を強調させた疊語の表現(593)は、この場合わるくない。但この反歌二首は歌聖の作として、さう優れたものではない。
 
天數《そらかぞへ》 凡津子之《おほつのこが》 相日《あひしひに》 於保爾見敷者《おほにみしかば》 今叙悔《いまぞくやしき》     219
 
〔釋〕 ○そらかぞへ 眞淵はいふソラカゾフ〔五字傍線〕と訓んで、暗推《オシアテ》に數ふる意にて、それは大凡のことなれば、大津のオホにかけて枕詞とせりと。但枕詞としては第二變化の中止法を用ゐる例に從つて、カゾヘと訓んだ。古義には「天」は左々〔二字右△〕の誤にて「數」はナメとも訓む故、サヽナミノ〔五字傍線〕ならむとある。舊訓のアマカゾフ〔五字傍線〕は義を成さない。○おほつのこが 凡津の子にといふに同じい。この「が」の辭の用法は古文の一格。凡津の子は志賀津の兒のことで、志賀津は即ち大津なのである。「凡」は大の借字。○おほに 大凡にの意。
【歌意】 嘗てあの采女の大津の兒が自分に出合つた頃、自分はいゝ加減にして見てゐたので、死なれた今になつてみると、なぜもつと親しくしなかつたかと實に口惜しい。
 
〔評〕 かう早世されることならと、取返しのつかぬ後悔を歎いたのである。抑も麗人は天下の公寶である。采女の妖折は佳人薄命の適例として天下の人の痛惜する所、况やなまじひに一見の知遇をもつ作者として見れば、その際懇情を盡さなかつた遺憾さが、いよ/\甚しく高潮される譯である。しかもその情感を訴へるに「死」の一語を囘避した叙法は、娩曲といつてよからう。「今ぞ」は放漫に等閑だつた過去に對して、頗る緊切な對照をなしてゐる。而してこの一首、大體は長歌の、「おほに見しことぞ悔しきを」の句を更に反覆したものであ(594)る。二句は上の歌の例に倣つて、等〔右△〕を補ひ、オホツノコラガと訓んでもよからう。
 
讃岐(の)狹岑《さみねの》島(に)視(て)2石中死人《いはまのしにびとを》1柿本朝臣人麻呂(が)作歌一首并短歌
 
讃岐國の狹岑島で岩の間の死骸を見て、人麻呂の詠んだ歌との意。○狹岑島 反歌には佐美乃《サミノ》山とある。サミネ、サミ、當時兩樣に稱へてゐたものと見たい。今は沙美島《サミシマ》といつてゐる。是非に稱呼を一定する必要はない。但一言すれば「佐美乃山」は、なほサミネヤマ〔五字傍線〕と訓んでもよい。「乃」は呉音ナイだから、ネ〔傍点〕の音に充てられぬこともない。この島は讃岐那珂郡(今仲多度郡)に屬し、中の水門(金倉)よりは東北二里餘、坂出よりは北一里の海中にあり、長さ十町横三町ばかりの小島である。島中の高處は僅に二十九米突弱で、それがいはゆる佐美乃山である。サミを本名として、ネを或は峯《ミネ》の義と解し、或は島の義と解する説など、詰り無用の辯である。○石中 岩の間の意。岩穴の中の意ではない。
 
玉藻吉《たまもよし》 讃岐國者《さぬきのくには》 國柄加《くにからか》 雖見不飽《みれどもあかぬ》 神柄加《かみからか》 幾許貴寸《ここだたふとき》 天地《あめつち》 日月與共《ひつきとともに》 滿將行《たりゆかむ》 神乃御面跡《かみのみおもと》 次來《つがひくる》 中乃水門從《なかのみなとゆ》 船浮而《ふねうけて》 吾※[手偏+旁]來者《わがこぎくれば》 時風《ときつかぜ》 雲居爾吹爾《くもゐにふくに》 奥見者《おきみれば》 跡位浪立《しきなみたち》 邊見者《へみれば》 白浪散動《しらなみさわぐ》 鯨魚取《いさなとり》 (595)海乎恐《うみをかしこみ》 行船乃《ゆくふねの》 梶引折而《かぢひきをりて》 彼此之《をちこちの》 島者雖多《しまはおほけど》 名細之《なぐはし》 狹岑之島乃《さみねのしまの》 荒磯面〔左△〕爾《ありそわに》 廬作而見者《いほりてみれば》 浪音乃《なみのとの》 茂濱邊乎《しげきはまべを》 敷妙乃《しきたへの》 枕爾爲而《まくらにして》 荒床《あらどこに》 自伏君之《ころふすきみが》 家知者《いへしらば》 往而毛將告《ゆきてもつげむ》 妻知者《つましらば》 來毛問益乎《きもとはましを》 玉桙之《たまほこの》 道太爾不知《みちだにしらず》 欝悒久《おほほしく》 待加戀良武《まちかこふらむ》 愛伎妻等者《はしきつまらは》     220
 
〔釋〕 ○たまもよし 玉藻よの意。この句の構成は「あをによし」を參照(八三頁)。讃岐に係る枕詞。意は玉藻よ佐貫《サヌキ》と續けて、國名の讃岐にいひかけたものか。佐貫《サヌキ》とは藻の實は玉を貫き列ねたやうに結《ナ》るのをいふ。佐は美稱。この藻はホンダワラ〔五字傍点〕と呼ぶ藻。讃岐の沿岸は平夷卑濕の地が海に接し、藻草の發生が多い(596)ので、自然この枕詞も起つた。また簡單に、玉藻が叢生する國だから玉藻よし讃岐と續けたものとしてもよい。尚奈良に青土の産出があるから、青土よし奈良と續けた(あをによしの一解)のと同例である。古義の一解に、玉藻寄す讃岐にて、三教指歸に讃岐の事を玉藻|所歸《ヨスル》之島と見え、寄すを寄しと轉じ續くるは、鯨魚取海の如く枕詞の一格なりとあるも、相當の理由がある。○くにからか――かみからか 勝れた〔三字右○〕國故か――勝れた〔三字右○〕神故かの意。「から」は故《ユヱ》といふに同じい。清んで讀む。集中、故《ユヱ》の意味にカラを用ゐた例が多い。「か」は疑辭。○ここだ 許多。ここだく〔四字傍点〕ともいふ。○たりゆかむ 滿ち足りゆかう。立派になるをいふ。「滿」をタリと訓むは意訓。○かみのみおもと 神の御面として〔二字右○〕。記の上、二神國生みの條に「生(ミマス)2伊預之二名《イヨノフタナノ》島(ヲ)1、此島者(ハ)身一(ツニシテ)有(リ)2面《オモテ》四(ツ)1、毎(ニ)v面有(リ)v名」と見え、二名島は即ち四國のことで、尚この四つの面に伊豫讃岐阿波土佐の國名があり、國それ/”\に神名があつて、讃岐國は飯依比古《イヒヨリヒコ》と稱することが見えてゐる。これ「神の御面《ミオモ》と」いふ所以である。新考に中の水門を神の御面と稱へたとあるは牽強である。○つがひくる 今の世にまで傳承してゐるその讃岐國の〔六字右○〕の意。舊訓はツギテクル〔五字傍線〕であるが、今訓み改めた。古義は上に云〔右△〕の字を脱したものとして、イヒツゲル〔五字傍線〕と訓み、傳誦し來つたの意に解した。○なかのみなとゆ 「なかのみなと」は讃岐那珂郡(今は仲多度部)の湊。西讃府志に「中津は丸龜市の西南櫛無川の東畔にあり、下金倉を中津とも稱す。謂はゆる中(ノ)水門《ミナト》なるべし」と。現今ではさのみ好錨地でもないが、昔は相當の(597)港と見えた。「ゆ」を古義にニの意と解したのは非。○ときつかぜ 潮のさす時に發つ風の稱。卷六及び卷七の「時つ風」も同意である。五風十雨の五風をいふは後世のこと。○しきなみ 重浪。「しき」は繁き、しば/\などの意。「跡位」をシキと訓む。この「跡」の意は動詞で、循ふの意。前漢書平當傳に「深(ク)迹《シタガヒ》2其道(ニ)1而務(メテ)修(ム)2其本(ヲ)1」とある。跡《シタガフ》v位(ニ)は座次のまゝに席に即くことで、敷くの意に通ふ。卷十三の「跡座浪《シキナミ》」の跡《シタガフ》v座(ニ)も同意である。「跡」は迹の俗字。○ふくに 吹くによつて。○へみれば 「へ」は岸の方をいふ。考、略解などの訓は、ヘタミレバ〔五字傍線〕とあるが、それは「淡海の海|邊多波《ヘタハ》人知る」(卷十二)の如く、邊多〔二字傍点〕と書かれてある場合にのみ限ることである。今は檜の嬬手の説に從ふ。○さわぐ 「散動」をかく訓むは意訓。サワギ〔三字傍線〕と中止法に訓むは面白くない。舊訓はトヨミ〔三字傍線〕。○いさなとり 枕詞(三八七頁)。○うみをかしこみ この句は下の「狹岑の島の荒磯わに廬りて見れば」に係る。○かぢひきをり 櫓を引き撓めの意。「かぢ」は專ら櫓をいひ、又時に船を遣る具の總稱ともする。「ひきをり」は櫓を強く引撓むる態の折るやうに見ゆる故にいふ。新考に「海を恐み」がこの句に係るものと見たのは非。「梶」は字書に木※[木+少]と見えた。これを「かぢ」に充てたのは、古への櫓が木梢を適當に打切(598)つて造つた物であることを語つてゐる。○なぐはしさみねのしま 狹岑の名稱が眞見《サミ》即ち逢ふの意、又は眞見《サミ》ね即ち逢への意に通ずるので、名|細《グハ》しく懷かしく感ぜられたものと思はれる。「なぐはし」は 既出(二〇七頁)。○ありそわに 荒磯の隈に。「面」を囘の誤とする契沖説に從つてかく訓んだ。舊訓はアリソモユ〔五字傍線〕。古義の訓はアリソミ〔四字傍線〕。「しまわ」を參照(一六八頁)。○いほりて 廬作りするより宿るまでをいふ。「廬作」は意を以て書いたもの。○しげき 「茂」は借字。○はまべ ハマビ〔三字傍線〕と訓む説は鑿。○まくらにして 舊訓マクラニナシテ〔七字傍線〕。○あらどこ 荒/\しい寢床。荒磯に打伏せる故にいふ。○ころふす 轉び臥す。「自伏」は自動詞の轉がる〔三字傍点〕の意によつて「自」の字を添へたもの。○告げむ 告げむを〔右○〕の意。次の「問はましを」の「を」の辭が囘顧してゐる。○きもとはましを この句の下、かゝる事とも露知らず〔十字右○〕の語を補つて聞く。○たまほこの 道の枕詞。既出(二七二頁)。○みちだにしらず 夫の旅の道すら何處とも辨へず。○おほほしく 既出(四八五頁)。「欝悒」の字面のまゝに見るがよい。おぼつかなく〔六字傍点〕と解するは横入である。○はしき 既出(三五五頁)。○つまら 妻といふに同じい。「ら」は複數語だが、複數語は時に單なる添辭に過ぎない場合がある。兒等、人等、子どもなどの用例を參考すれば明らかである。
【歌意】 讃岐國は國|體《カラ》かして見ても/\飽きない。神|體《カラ》かしてえらく尊い。天地日月と共に益す立派になるべき神の御面として傳承してゐる、その讃岐國の中心たる〔十字右○〕中の水門から、船を浮べて沖へと漕いでゆくと、折しも潮時の風が虚空に吹き渡るので、沖を見ると幾重もの波が立ち、岸邊を見ると白波が騷いでゐる。この〔二字右○〕海上がま(599)あ恐ろしさに、船の櫓を引き撓ませて力漕して〔四字右○〕、あちこちの島は多いが、第一名がうるはしいこの狹岑の島の荒磯の隈に船を寄せて〔五字右○〕、廬作りして宿つて見ると、浪の音の絶間ない濱邊を枕にして、荒々しい床に轉がつて臥てゐる、――即ち磯邊に行倒れの死骸となつてゐる――その君の家を知らうならば、往つても家人に〔三字右○〕告げようものを、君の妻君が知らうならば、來ても尋ねようものを、素より旅にある夫の消息は全く不明なので〔十九字右○〕、尋ねゆく道すらわからず、只くよ/\と案じて、君を待ちあぐみ戀しがつて居るであらうか、いとしい妻君はさ。
 
〔評〕 冒頭口を極めての讃岐國の禮讃。抑も讃岐はその國形《クニガタ》が頗る秀異である。海に續いた平野の間に、飯の山をはじめ弧形の山が多く散在して和やかに美しく、まことに「見れども飽かぬ」感じを抱かしめる。隨つてそれに伴ふ聯想は「神からかここだ尊き」その崇高さにまで到達せねば已まぬ。神は即ち讃岐國を神格視したもので、飯依比古《イヒヨリヒコ》の威靈である。渾べて記紀に見えた古代傳説に準據して、天地日月と共に悠久に圓滿に榮ゆべき神の御面として現代に存する讃岐國ぞと讃美した。
 前人はこの讃美を讃岐國だけにかゝるものと見て、輕く聞き流してゐるが、作者の眞意は決してさうでない。これは「中の水門」の中を目的としたもので、かゝる立派なる國の、而もその結構なる中心地たる「中の水門」といつたもので、上來幾多の言説は詰り「中の水門」の讃美に歸するのである。
 中の水門から船浮けて狹岑島に寄港したことを、地理的に考察すると、作者が上京の途次であらうことが想像される。針路を東北方に取つて、瀬戸内海は鹽飽《シアク》七島の最南を通過し、恐らく備前の兒島方面に駛走の豫定であつたものだらう。折しも天候急に險惡になつて、潮風荒く虚鳴《ソラナリ》がし、沖合は層々の狂瀾行手を遮り、島々(600)の岸の波は銀龍白馬を跳らせてゐる。とてもこの海上は乘切れぬと見切つて、※[楫+戈]取等は梶引折つて漕ぎ返し、この狹岑島に假泊して風待をしたものである。「島は多けど名ぐはし狹岑島に云々」は、實は只風波の關係上地勢上、偶ま船を寄せたに過ぎないのを、多島中特に狹岑島に芳心をもつてゐたらしく取成し、狹岑島に相當の重みと、地歩とを占めさせたものだ。寄港の場所は不明であるが、多分今も唯一の船着場である、島の東南の細長い灣部であつたらう。
 さてその際、一寸でも航海苦から脱れたい爲に、陸上に一夜の假廬を作つて、丁度今のキャンプ生活のやうな事をやつたものだ。偶ま一行中の誰かが食料の野菜などを摘みに(反歌の意による)狹岑の野邊を打越して、島の東北邊の磯濱、それは花崗岩の磊※[石+可]たるあたりに打出た。處が意外にもそこに死人を發見したのである。
 この島は今こそ一村落を成してゐるが、その時代には無人島であつたらしい。この死人はその荒磯にぢかに伸びてゐた。それを「浪の音の繁き濱邊を敷妙の枕にして荒床にころ伏す」とは、叙事の巧妙筆に神ありといつてよい。この死人も作者自身と同じ逆旅の人の成れの果かと思へば、同情の念の惻々として起るは、又當然の次第であらう。即ち「家知らば往きても告げむ、妻知らば來も訪はましを」と、我が境遇から聯想を馳せて、死者とその家郷及びその家事とを結び付け、弔慰の情を高く昂揚せしめてゐる。而もその漸層の辭樣はその意を強調せしむるに、大いに効果的である。
 「玉桙の道だに知らず」は直ちに前節に續かず、さりとて即不即の間に詞意は聯絡を保つてゐる。所謂「藕絶えて絲なほ絶えざる」もので、家妻の遠人を懷ふ事態の叙述である。交通通信の不便だつた當時は、永い間一(601)片の消息にだも接することが出來ず、徒らに彼れは遠く家卿の天を望んで惆悵し、此れは朝雲暮月を軒端に仰いで、寤寐これを思ふに過ぎない。「可(シ)v憐(ム)無定河邊(ノ)骨、猶是(レ)春閨夢裏(ノ)人」(唐、陳陶の句)は、あながち征戰の際の事ばかりではなかつた。今もこれ「野の邊のうはぎ過ぎにける」晩春の候、別離の怨緜々として盡きず、既に夫君は海中の一孤島に冷たい亡骸《ムクロ》と横はつたのも知らずに、「おほほしく待ちか戀ふらむ」に至つては、その凄、その慘、その酷、殆ど言語に絶してゐる。實に作者の手筆は人の肉を刻み、骨を刺すもので、無情も亦甚しいと恨まざるを得ない。
 案ずるに、初頭の讃岐國禮讃は、この歌の主調とは緊密の交渉がなく、只中の水門を呼び出す莊重なる序詞の役目をつとめて居るに過ぎない。そこで餘り頭勝な不釣合な感じがおこる。然しかういふ樣式の詞章はわが邦古來からの常套語で、特に萬葉人に依つて盛に使用され、就中この作者の如きはその尤なる者であることを思ふと、大いにその價値を割引して聞く必要がある。案外作者は我れ我れの今聞く感じよりはもつと輕い氣持で使つてゐたかも知れない。他郷人としての作者が讃岐國に對しての行き摺りの辭令位と見ても、さのみ大過はなからう。
 「中の水門」以下「廬りて見れば」までは、只大筋を無難に運んだ點を賞揚しよう。「浪の音のしげき濱邊」以下結收の句までは、この歌作成の根本目的をよく達成して、委曲を盡した大文字である。概括していへば、比較的無疵の佳作として推賞に値する。
 
反歌二首
 
(602)妻毛有者《つまもあらば》 採而多宜麻之《つみてたげまし》 佐美乃山《さみのやま》 野上乃宇波疑《ぬのへのうはぎ》 過去計良受也《すぎにけらずや》     221
 
〔釋〕 ○あらば そこに〔三字右○〕居らばの意。○つみてたげまし 摘んで食べさせようものをの意。「たぐ」は食ふの意の古言。雄略紀に、「欲(ス)v設《マケント》2呉(ノ)人(ニ)1、歴2問(シテ)群臣(ニ)1曰(ク)、其《ソノ》共食者《アヒタゲヒトハ》誰(カ)好(キ)乎(ト)」、又皇極紀の童謠に「米だにも多礙底《タゲテ》とほらせ」などある用例から察すると、下二段活用である。但こゝの「たげ」はその未然形でなく、使役相「たがせ」の約である。宣長が「死屍を取上ぐること、たげ〔二字傍点〕は髪たぐなどのたぐ〔二字傍点〕也」といつたのは非。「つみて」は舊訓はトリテ〔三字傍線〕であるが、今は眞淵の訓によつた。○さみのやま 狹岑の島山をいふ。「乃」を禰〔右△〕の誤字としてサミネヤマ〔五字傍線〕と訓む古義の説は從ひ難い。○ぬのへ 野のほとり。○うはぎ 又おはぎ。嫁菜即ち莪蒿のこと。菊科の草で秋淡紫色の花が咲く。野菊。○すぎにけらずや 過ぎないことか否過ぎてしまつたではないかの意。「や」は反語。
【歌意】 狹岑島のこの死人が、もし妻でも此處に居合せたならば、この野べの嫁菜を摘んでも食はせようものを、生憎その妻(603)が居合はせないので、かう死んでしまつて、徒らに嫁菜のみは、誰れも摘むことなしに、盛りを過ぎてしまつたではないか。
 
〔評〕 岩※[石+罅の旁]の死人に對して、まづ食料問題から聯想を馳せて、「妻もあらば」と、その細君に言及したことは、若 菜摘みは專ら婦人の行事だからである。親切なそんな介抱者がゐたら、嫁菜を摘んでも餓死はさせまいにと、丁寧に思料したことは、死者哀悼の情の濃かなことを思はせると同時に、作者自身も亦温い妻の手を離れた同じ旅人として、つく/”\寂莫に堪へぬ餘りの溜息とも聞かれる。「野の邊のうはぎ過ぎにけらずや」と、專ら嫁菜のうへに詠歎の聲を永うしたことは、間接に哀悼の情意を遠長く搖曳せしむる手段で、婉曲の妙いふべからざるものがある。
 狹岑島は海中の孤島とはいへ、島の南北は瀬戸通ひの航路に當つて居り、坂出からは一里に過ぎない處だから、舶の往來は頻繁だらうし、磯邊には海藻や魚貝があり、島中にはうはぎを始め植物が多いから、さう/\易々と餓死する筈もなく、又それまでには疾うに救はれてよい筈である。さればこの死人は信仰上か何かは知らぬが、素より覺悟の絶食者か、或は殊によると、漂着の死人を餓死者と見做した作者の幻化手段かも知れない。
 
(604)奥波《おきつなみ》 來依荒磯乎《きよるありそを》 色妙乃《しきたへの》 枕等卷而《まくらとまきて》 奈世流君香聞《なせるきみかも》     222
 
〔釋〕 ○しきたへの 枕にかゝる枕詞。既出(二五五頁)。「色」は借字で、呉音シキ。○まくらとまきて 枕として纏《マ》いての意。「と」はと〔傍点〕爲《シ》て〔傍点〕の意。「まく」は纏ふこと、枕とすることの古言。○なせる 寢給へるの意。「なせ」はなす〔二字傍点〕が下の「る」に連る爲に已然形となつたもの。而してなす〔二字傍点〕は寢《ヌ》の敬相を表はす古言で四段活用である。行かす〔三字傍点〕、取らす〔三字傍点〕などと同性質の語であつて、もと「寢《ネ》す」が母韻變化をしたに過ぎない。「なすらむ妹を逢ひて早見む」(卷十七)などの用例がある。「る」は完了の助動詞り〔傍点〕の連體形。古義がこの語に對する解説は頗る非科學的で從へない。
【歌意】 沖の白浪が寄つて來るこの寂しい荒磯を枕として、一人寢て居られるお方かいな。
 
〔評〕 尋常の死には荒山中に葬られるのが普通で、それを詩的に誇張し修飾して、歌人は「高山の岩根を纏く」などいつたものである(本卷、かくばかり戀ひつゝあらずはの條參照)。然るにこの變死者は形容でも誇張でもなく、實際に沖つ浪來寄る荒磯を枕にして横はつてゐるのである。處もあらうに、物もあらうに、何たる悲慘事であらう。かうした感情から出發して、この變死者を哀悼詠歎したのであるから、さて/\傷ましいことよの餘意が、おのづから發生してくる。抽象的な哀悼の語を下さないで、却つて無限の悲痛な弔意を藏してゐるところ、作者の手腕は流石である。
 
(605) 柿本(の)朝臣人麻呂(の)在(りて)2石見國(に)1臨v死時《みまからんとするとき》、自(ら)傷《かなしみて》作歌一首
 
人麻呂が石見國に居て死なうとする時、自分から悲しんで詠んだ歌との意。○臨死 人麻呂は石見の國衙の屬官として赴任中、彼の地で歿したのであるが、その年時は明かでない。當時の制で「死」と書くは六位以下の人であるから、人麻呂が卑官で終つたことが察せられる。
 
鴨山之《かもやまの》 磐根之卷有《いはねしまける》 吾乎鴨《われをかも》 不知等妹之《しらにといもが》 待乍將有《まちつつあらむ》     223
 
〔釋〕 ○かもやま 石見國那賀郡|都農《ツヌ》の神村《カムラ》の山であらうと地名辭書の説。神《カミ》鴨《カモ》古へは通用した。今の高津浦の鴨島とする説は信用し難い。尚下の「いしかは」を見よ。○いはねし 「し」は強辭。○しらにと 宣長がかく訓んで以來殆ど定訓となつた。「に」は否定の助動詞ず〔傍点〕の變化で古語。「と」は助辭で意には關は(606)らぬと宣長はいつた。舊訓はシラズト〔四字傍線〕。△地圖 挿圖既出(三七八頁)。
【歌意】 この鴨山の岩が根を枕として死んでゐる私をまあ、さうとも知らずに故郷の妻は、定めて待ちに待つてゐることであらうかいなあ、可愛さうに。
 
〔釋〕 既に叙べたやうに、死を稱して岩根を纏くといふのは當時の常套語であるから、別に珍しくはないが、「纏ける」と既に自分を死んだものとして、故郷の大和にゐる妻の行動と情合とを想像してみた點が、頗る悲痛なのである。永い間雲山萬里を隔てゝ邊陬の異郷に老い、遂に鴨山の客舍で最後の病苦に臨んでしまつた。再び咲く花の匂ふが如く榮える都に還ることも出來ず、懷かしい妻に死水を取つて貰ふことも叶はぬ羽目に立至つた今、死んでも死にきれぬ妻への愛着が、卒讀に堪へぬまで遺憾なく表現されてゐる。情の人人麻呂が、その不遇な一生の最後の嗟歎と思へば、愈よ悲愴である。鴨山は作者が部内巡檢の出張先か又は上京の途上かに通過したらしく、測らずその終焉の場處となつたが、その葬處と斷定することは出來ない。
 
柿本(の)朝臣人麻呂(が)死時《みまかれるとき》、妻《め》依羅娘子《よさみのいらつめが》作歌二首
 
○依羅娘子 既出(四一一頁)。大和にゐた人麻呂の嫡妻と思はれる。又これを石見に於ての妻として、人麻呂はこの妻の許から稍離れた場處で死んだのであらうと見る説もあるが、歌の趣から考へて諾へない。
 
且今且今日《けふけふと》 吾待君者《わがまつきみは》 石水《いしかはの》 貝尓《かひに》【一云|谷爾《タニニ》】交而《まじりて》 有登不言八方《ありといはずやも》     224
 
(607)〔釋〕 ○けふけふと まづ今日はまづ今日はと。「且」は未定の意を表はす辭。○いしかは 今の神村の山附近には小川はあるが、石川と名づくべき程の砂利川はない。齋藤茂吉氏は鴨山を江《コウノ》川のやゝ上流の龜山にあて、石川を江川にあてた。これも一説である。「水」は川の借字。○かひにまじりて 峽《カヒ》に入りまじつての意。峽とは山と山との間の狹くなつた處をいふ。「貝」は借字。「貝」を文字のまゝに心得て、火葬の骨の川貝にまじる趣に久老が解して以來、これに從ふ人も多いのは以ての外である。細註の異傳に「谷爾」とあるのを見ても、これが峽〔右△〕の借字であることは疑を容れる餘地はあるまい。○ありと 居ると。
【歌意】 今日はお歸りか今日はお歸りかと、私の待ち焦れてゐる夫君は、あの旅先の鴨山の石川の山峽に葬られてゐると、人がいふではないかい。あゝ情ない。
 
〔評〕 死んだと石見からの使者は傳へるけれども、猶半信半疑の間に彷徨してゐながら、しかも現前の事態はどうしても「ありといはずやも」と、不性無性にその死を承認しなければならないのである。それが今日は今日はと、毎日待ちに待つてゐただけに、意外で餘計悲しいわけである。「石川の峽にまじりてあり」は、「高山の岩根をまく」と同じく、死んで葬送されたことの具象的轉義で、沈痛骨を刺すもの。
 上の作といひ又この作といひ、大和と石見と天涯相望んで、容易に相互の消息を知り難い交通不便な當時の状况を根本事實として、邊境に客死する旅人の悲哀と、孤閨に遠人を憶ふ佳人の愁緒とが、傷ましいまで如實に歌はれてゐる。
 又いふ、石川は歌聖の遺骸の火葬場で、墓處も必ずそこである。荼毘處即葬處、これが當時否後世までの一(608)般的慣習であつた。その終焉の場處鴨山も、多分石川に遠からぬ處と見てよい。
 
直相者《ただのあひは》 相不勝《あひもかねてむ》 石川爾《いしかはに》 雲立渡禮《くもたちわたれ》 見乍將偲《みつつしぬばむ》     225
 
〔釋〕 ○ただのあひは 直接の面會はの意。「ただ」は直ちの意。舊訓のタヾニアハヾ〔六字傍線〕は意義を成さない。宣長の訓に從つた。○あひもかねてむ 會ふことも難からうの意。アヒカツマシジ〔七字傍線〕の訓を主張する人が近來多いが、却つて事好みの弊に墮する。舊訓のまゝでよい。
【歌意】 直接の面會は今はもう到底出來ないであらう。さればあの石見の石川に雪が立ち渡つてくれ、せめてはそれを記念と見い/\して亡き夫を慕はうわ。
 
〔評〕 初二句は頗る冷靜な分別らしい語と見えるが、これは三句以下の無分別の着想に強い對照を成し、好い前景を作つてゐる。「石川に雲立ち渡れ見つゝしぬばむ」、何たる熱烈の語であらう。大和の娘子の家からは數百里先の石見國、その石川がどういふ場處やらも皆目知らず、假令そこに雲が立ち騰つたとしても見える筈もないのに、そんな一切の分別を排して、頗る大膽に放言してしまつたことは、流石に歌聖人麻呂の妻たるに愧ぢない口吻である。又この石川の雲は火葬の烟を擬へたものであることを忘れてはならぬ。
  こもりくの泊瀬の山の山のまにいさよふ雲は妹にかもあらむ (卷三、人麻呂―428)など、集中に類想の作が多い。古義が「これは死を聞いて石見國に下りしにや」と疑つたのは頗る不解人の言(609)で、却つて作者娘子の笑を招くに過ぎまい。更に又或人の説に、この下句から推測して娘子を石見の人と見、石川と娘子の居處とは相望み得る程度の、あまり遠からぬ位置でなければならぬとしたのは、古義に一歩を進めた謬見である。
 
丹比眞人《たぢひのまひとが》擬(へて)2柿本(の)朝臣人麻呂之意(に)1報《こたふる》歌一首
 
丹比眞人が人麻呂の歌の意に依り擬作した返歌との意。○丹比眞人 丹比は多治比《タヂヒ》の略で氏、眞人は姓《カバネ》。名が闕けてゐるので、人麻呂と交遊のあつた人か、それとも後人で只擬作を試みただけなのか、いづれとも分らない。當時丹比縣守、同笠麿などいふ人があつた。笠麿は本集の作者である。○擬人麻呂之意 人麻呂の歌意に和するの意。○報 いひ返すの意。眞淵がこの字を削つたのは非。
 この歌は依羅娘子の悼歌の直後にあるので、丹比眞人が人麻呂の辭世鴨山の詠の歌意を汲んだ擬作と見られるが、内容を檢すると全く違つて、これは上に人麻呂が讃岐狹岑島の死人を詠んだ反歌の
  沖つ波來よる荒磯をしきたへの枕とまきてなせる君かも
の意に本づき、その死人の臨終の作に擬して人麻呂に應へたものである。且人麻呂の死處鴨山は海邊ではないから、「荒波により來る玉を枕に置き」とは絶對にいひ難い。故にこの「荒浪に」の歌と次の「天離る」の歌とは、上の「讃岐狹岑島視石中死人柿本朝臣人麻呂作歌」の長短歌の次に掲ぐべきもので、記載の順序がいつか前後したものである。眞淵は、守部はこれに言及し、各新に題詞を試作してゐるが、それは無用の勞で、この不完全らしい題詞は、前の題詞から直ちに引續けて簡にして要を得るやうにした、本集の書式である。
 
(610)荒浪爾《あらなみに》 縁來玉乎《よりくるたまを》 枕爾置《まくらにおき》 吾此間有跡《われここにありと》 誰將告《たれかつげなむ》     226
 
〔釋〕 ○よりくるたま 古へは石をも貝殻をも美しきにつけて玉といつた。○まくらにおき 頭に置いての意。眞淵は「置」を卷〔右△〕に改めてマクラニマキ〔六字傍線〕と訓んだ。○つげなむ 「なむ」は未來推量の助動詞。
【歌意】 荒波につれて寄つて來る玉を頭邊に置き、こんな處にかうして私が斃れてゐると、誰れが故郷の妻に知らせてくれようか。誰れも知らせてくれるものも無いのが悲しい。 
〔評〕 漂流者として海中の孤島に客死する人のその悲慘さは、全く筆舌の外である。かゝる荒磯に今の今斃死しようとも、家人は知る由もない。嗚呼どうかしてこの境遇を知らせたい。死に直面しての願望は、淨土でもなく高天原でもない、只この一念のみである。けれども「誰か告げなむ」、當時の狹岑島はまこと無人の境であつた。絶望は彼れを取卷いた。かやうに見てゆくと、作者は如何にもよく死者の境遇に同情し得たといはねばなるまい。
 
或本(の)歌(に)曰(く)、
 
これはこの歌が或本に出てゐると、脱漏を補つたもの。よつて上の題詞のもとに攝せらるべきもの。
 
天離《あまさかる》 夷之荒野爾《ひなのあらぬに》 君乎置而《きみをおきて》 念乍有者《おもひつつあれば》 生刀毛無《いけりともなし》     227
 
(611)〔釋〕 ○あまさかる 鄙にかゝる枕詞。既出(一二四頁)。○おもひつつあれば 君が上を思ひ續けてゐればの意。
【歌意】 遠い邊鄙の荒野に夫君を打置いて 只君が上を戀しく思ひつゞけてのみ居ると、私は更に生きてゐるやうな氣もしないわ。
 
〔評〕 これも人麻呂の狹岑島で石中死人を弔うた歌意に本づいた擬作である。上の「荒浪により來る玉を」の歌は死者の意中を、この「天さかるひなの荒野に」の歌は、死の報知に接した妻女の意中を忖度して歌つたもの。原作に「妻もあらば摘みてたげまし」とあり「野のべのうはぎ」とあるので、妻女の立場から「荒野に君をおきて」と死を曲叙した。然しこの語は當時の套語である。上の人麻呂の
  衾路を引手の上に妹をおきて山路をゆけば生けりともなし (卷二―212)
と同想同型で、さう新味は無い。
 
右一首(ノ)歌(ノ)作者未詳。但古本以(テ)2此歌(ヲ)1載(ス)2於|此次《コノナミニ》1也。
 
 古本にこの歌を「荒浪に」の歌の次に載せたのは正しい。既に評語にもある如く、無論この二首は聯絡すべきもので、これも或は丹比眞人の擬作であらう。
 
寧樂宮
 
この標識の書式は前例に從へば「寧樂宮御宇天皇代」と改むべきである。こゝには、元明天皇の和銅元年から靈(612)龜元年九月御位を元正天皇に禅り給ふまでの間の歌を載せたものらしい。「寧樂宮」のことは既出(二七〇頁)。
 
和銅四年|歳次《としなみ》辛亥《かのとのゐ》、河邊(の)宮人《みやびとが》姫島(の)松原(に)見(て)2孃子屍《をとめのしかばねを》1悲歎《かなしみて》作歌
 
元明天皇の和銅四年、河邊宮人が姫島の松原で若い娘の屍を見て悲んで詠んだ歌との意。○河邊宮人 傳未詳。○姫島 攝津三島郡今の稗島村。地名辭書に中津神崎二川の間に横はり、南なる傳法《デンバウ》、西なる大和田は今に海口たりとある。一説には今の大阪の崇禅寺馬場の邊とある。仁徳紀に「天皇|將豐樂《トヨノアカリシニ》而|幸2行《イデマス》日女《ヒメ》島(ニ)1之時、於其島(ニテ)雁生(ム)v卵《コヲ》」、又安閑紀に「放(ツ)2牛(ヲ)於難波(ノ)大隅島(ト)、與媛島(ノ)松原(トニ)1」など見えた處。○屍 水死のであらう。
 
妹之名者《いもがなは》 千代爾將流《ちよにながれむ》 姫島之《ひめしまの》 子松之末爾《こまつがうれに》 蘿生萬代爾《こけむすまでに》     228
 
〔釋〕 ○いも 既出(四五頁)。○ながれむ 傳はらうの意。○こまつ 既出(六三頁)。○うれ こゝは梢をいふ。○こけむす 「蘿」は上にも「蘿生松柯《コケムセルマツガエ》」(三五四頁)とあつて、さがり苔、即ち女蘿のこと。「むす」は草や苔の生えることをいふ古語。
【歌意】 この美しい婦人の名は永代に亡びず傳はるであらう、この姫島の小松が老樹となつて、梢に蘿が生える(613)やうになる頃までもさ。
 
〔評〕 姫島の老松林には小松も叢生してゐたのであらう。「千代」は長い年月の轉義、「流れむ」は傳らむの轉義で、その「千代に」の意を更に具象的に「小松がうれに蘿むすまで」と反覆再説した。この叙法は古今集の
  わが君は千代に八千代にさゞれ石のいはほとなりて苔のむすまで(賀)
の粉本をなすもので、いづれも第二句の意がそれが爲に強調されてゐる。小松が老松となり、さてその梢に蘿がむすといふのが聯想の順序であるが、それを「小松がうれに蘿むす」と、一足飛びに頗る簡淨な辭樣を取つたのも面白い。又蘿即ちさがり苔は、老木でなければ生えない。されば普通の苔よりも時間の久しい經過を表現する上に於いて、殊に有効である。
 この歌の主想は水死の孃子の名の後世に流傳することにある。然し普通の水死者としたら、假令それは弔慰の詞としても、その當を得ないと思ふ。次の歌に「沈みにし」とあるので見ると、投身らしい。さてはその死因には何か歎賞讃美すべき事情が存在してゐたのであらう。題詞の記述が不十分な爲に、憾むらくはその意を盡してゐない。
 
難波方《なにはがた》 鹽干勿有曾禰《しほひなありそね》 沈之《しづみにし》 妹之光儀乎《いもがすがたを》 見卷苦流思母《みまくくるしも》     229
 
〔釋〕 ○なにはがた 「方」は潟の借字。○なありそね 有つてくれるなの意。「ね」は懇に命ずる意の助辭。○しづみにし 能動的の語法であるから、恐らく自ら身を投じた意に見るべきであらう。只沈没してゐるのなら、(614)沈ミタルとやうに、情態的語法を用ゐるのが自然である。○すがた 「光儀」を意訓によむ。
【歌意】 この難波の潟には、いつも潮干があつてくれるなよ、潮が干ると投身したあの美人の屍體が露はれ出て、その姿を見ることが實にたまらぬわい。
 
〔評〕 干潮につれて干潟の泥にへばり着いた妙齡婦人の水死體を見せつけられるのは、實に無慙そのものである。それで潮の干滿の事實を知りつゝも、尚「潮干なありそね」と無理な注文をせずにはゐられなくなる。死者に對する同情の深さが、かくて十分に表現される。又前の歌もさうであるが、ほんの行きずりのこの水死女を「妹」と呼んだことも、懷かしい心状の露はれである。
 さて二句はとはに潮滿て〔六字傍点〕とやうにいつても筋の通ることは同じであるが、かく逆叙して否定の辭樣を用ゐた方が、更に印象が強まる。
 
靈龜元年歳次|乙卯《きのとのう》秋九月、志貴親王薨《しきのみこのみまかりたまへる》時、作歌一首并短歌
 
(615)○志貴親王 天武天皇の御子に磯城《シキノ》皇子がある。然るに天智天皇の御子にも芝基《シキ》(施基、志貴、志紀とも)皇子があり、それは續紀に靈龜二年八月に薨逝の事が見え、薨年月が違ふ。よつてこゝの志貴親王は磯城皇子の事とする。磯城島を志貴島とも書く當時では、磯城、志貴は通用であつた。故にこの集では差別的にこゝには「親王」の稱を特に用ゐたと考へられる。天武紀に朱鳥元年八月芝基(ノ)皇子、磯城(ノ)皇子、各封加(フ)2二百戸(ヲ)1とある。正辭は紀は故ありて延期したる薨奏の年月を記したるなりとて、ここをも芝基皇子の事としたのは、強辯かと思ふ。○并短歌 長歌は薨葬の事を歌つてあるのに、短歌の内容は薨後の追懷であるから、この三字は削るがよいといふ説もあるが、餘り拘泥し過ぎてゐる。
 
梓弓《あづさゆみ》 手取持而《てにとりもちて》 大夫之《ますらをが》 得物矢手挿《さつやたばさみ》 立向《たちむかふ》 高圓山爾《たかまとやまに》 春野燒《はるぬやく》 野火登見左右《ぬびとみるまで》 燎火乎《もゆるひを》 何如(616)間者《いかにととへば》 玉桙之《たまほこの》 道來人乃《みちくるひとの》 泣涙《なくなみだ》 ※[雨/沛]霖爾落者《ひさめにふれば》 白妙之《しろたへの》 衣※[泥/土]漬而《ころもひづちて》 立留《たちとまり》 吾爾語久《われにかたらく》 何鴨《なにしかも》 本名言《もとないふ》 聞者《きけば》 泣耳師所哭《ねのみしなかゆ》 語者《かたれば》 心曾痛《こころぞいたき》 天皇乃《すめろぎの》 神之御子之《かみのみこの》 御駕之《いでましの》 手火之光曾《たびのひかりぞ》 幾許照而有《ここだてりたる》     230
 
〔釋〕 ○たちむかふ、「梓弓」からこゝまでは高|圓《マト》山に係る序詞。立ち向ふ的《マト》といひかけた。卷一にも「ますらをが得物矢《サツヤ》たばさみ立ち向ひ射る圓方《マトカタ》は」とある。○たかまとやま 大和添上郡。奈良市の東方に峙ち、北は一溪を隔てゝ春日山に接し、その裾野の東市村(古市)の上方に當る處を※[草冠/(獣偏+曷)]高《カリタカ》の野といふ。山の高さ約四百三十二米突。○はるぬやく 上の「ぬごとにつきてある火」を見よ(五三六頁)。○ぬび 野に燃える火。○たまほこの 道の枕詞。既出(二七二頁)。○みちくる 道往くに同じい。○ひさめにふれば 大雨《ヒサメ》のやうに降れば。「ひさめ」は二義ある。(1)はひたさめ〔四字傍点〕の約なるヒサメにて、大雨をいひ、(2)は氷雨《ヒサメ》にて雹雨をいふ。「※[雨/沛]霖」の※[雨/沛]は大雨、霖は長雨の意。「に」は如くの意をもつ古辭。「たへのほに」を見よ(二七四頁)。○しろたへの 衣の枕詞。既出(一一八頁)。こゝを素服の事とする芳樹説は非。○ひづちて 甚しく濡れるをいふ。泥漬《ヒヂツ》きの略轉。「※[泥/土]は泥土の合字。○かたらく 語るの延言。○もとないふ 新考の訓に從ふ。他はモトナイヘル〔六字傍線〕。○もとな 集中に語例は頗る多いが、難語である。(1)おぼつかなきをいふ。今俗に心もとなといへるは心のもとなき(617)なり(楢の落葉)。(2)メタニ、ムチヤニ、猥ニなどの意。黒白の別ちなき貌(宣長、古義)。(3)縁《ヨシ》なきなり(和訓栞)。この語記紀に全く所見がない。萬葉に至つて多い。その時代の新語であらう。或はムナシ(空)をムタナシと活かせ、それをムタナと體言格に變じたのが「もとな」と轉訛したものか。すると俗のムダ〔二字傍点〕といふ意に當る。○すめろぎのかみのみこ 神とます天子樣の御子。志貴親王をさす。「神の」は上へつけて見る。○いでまし こゝは葬送の門出をいふ。「御駕」を意訓にかくよむ。○たび 手に執る火をいふ。松火《タイマツ》のこと。神代紀に秉矩、此(ニ)云(フ)2多批《タビト》1と見えた。○てりたる の下、と語りぬ〔四字右○〕の語を補うて聞く。
【歌意】 あの高圓山に春の野を燒く火と見える程燎える火を、何かと問ふと、道を來る人が、その泣く涙は大雨のやうに降るので着物はびしよ/\に濡れつゝ立止まつて、私に話すには「貴方は何で分らぬ事を仰しやる。その事を聞けば聲に立てゝ泣かれ、その事を話せ(618)ば胸が痛い、あれは外でもない、天子樣の御子志貴親王樣の御葬送の御行列の松火の光が夥しく照つてゐるのだ。」といつた〔四字右○〕。
 
〔評〕 高圓山はその裾野が昔の奈良京の東邊に廣被して、北は春日野に續いてゐる。志貴親王の歸葬の地は何處であるか一向不明だが、その御葬列は高圓の裾野のお邸から出發して、時季はまさに八月仲秋、野萩の花を踏みしだきつゝ練つて往つたものだらう。往時の葬斂は大抵夜分に執行された。故に野邊送の人達は手に/\松明を執つて隨行する。高貴の方ほど見送人も多いから、火の數も亦隨つて多いのであつた。で、何時もは眞闇な裾野を燒いて、突如として花やかな火線が蜿蜒と出現する。野燒の行はれる春なら知らず、時ならぬ野火に、膽を潰して狐火か何ぞのやうに眼を瞠り、道行く人にあれは何かと尋ねるのであつた。新聞もラヂヲも無い時代は道聽塗説、それで噂は傳播してゆく。「いかにと問へば」の一句は、後段を展開し來る枢機である。
 さてその道行人は親切にも立ちどまつて話相手となつてくれた。相手は涙を袖にポタ/\墮して、この作者がこの事件に全然無知な事を心外に感じて、「何しかももとないふ」と、一番に叱り付けて置いて、極度の昂奮に口も利かれぬと、説明の前に自己の苦悩をまづ訴へ、それから、志貴親王樣の御葬列の手火の光が、ああも澤山耀くのですと教へてくれたといふ。
 對者の態度に就いて仔細の描寫を費したことは、それがこの作の色彩を煥發せしむる大切なバツクとなつてゐる。「聞けば」は三音、「語れば」は四音の句で、句々の詞足らずが、劇しい衝動に取|逆上《ノボ》せて口強ばり(619)舌澁る、切迫し切つた調子を如實に表現し、頗る自然の律調に協うた措辭である。「すめらぎの神の御子」と、志貴親王に拂つた最大限度の崇敬的言辭は、その「いでまし」が非常に重大性をもつ事を暗示し、隨つて悲哀の尋常一樣のものでない所以を間接に物語つてゐる。
 この篇は問答の形式によつて構成され、後段は殆ど對者の言辭のみから成り立つてゐる。 以上は表面から見た解説であり、批評であり鑑賞である。然しそれだけで終つたなら、まんまと作者の老獪手段に乘ぜられた結果にならう。更に裏面から觀察すると、この一問一答は總べて作者の空中に構成した樓閣である。
 元來この作者の何者であるかは記載がないが、これ程の歌を作成する手腕から察すると、多分當時の知識階級たる官吏であつたらう。葬列にこそ立たないが、職として皇族方の勢望家たる志貴親王の薨葬日位は心得て居る筈だ。たま/\高圓山麓の火光を望見した瞬間には、何の火かとの疑を一寸もちもしたらうが、忽ちそれは志貴親王の葬送の手火と領會して、一段の哀愁に打たれたのであつた。この心境推移の經過を、假に自分と對者との一問一答の形式に依つて發表を試みたのである。されば「泣く涙ひさめにふれば白栲の衣ひづちて」も、盡くこれ實は作者自身の心境であり態度なので、對者は全く烏有先生なのである。假託なのである。かう見ると、實に奇作妙作といはねばならぬ。集に作者の名を逸したことは信に殘念至極である。
 
(620)高圓之《たかまとの》 野邊乃秋芽子《ぬべのあきはぎ》  徒《いたづらに》  開香將散《さきかちるらむ》 見人無爾《みるひとなしに》     231
 
〔釋〕 ○たかまとのぬべ 高圓山の裾野一帶をいふ。○いたづらに 折角咲いた甲斐もなくむだにの意。○さきかちるらむ 咲いては散つてゐることだらうかの意。「か」は疑辭。「香」は借字。
【歌意】 高圓の野邊の秋萩の花は、今は皇子もお薨れなので、折角美しく咲いた甲斐もなく、見る人もなしに徒らに咲いては散つてゐることだらうか
 
〔評〕 皇子の薨逝と共に、從來伺候の客も一旦にして迹を絶つた寂寞の光景に直面して、野萩の花に托してその感懷を洩したのである。一體萬葉人は萩を非常に愛翫したもので、集中に詠まれた花卉中その第一位を占めてゐる點から見ても、その嗜好程度は察せられよう。それは大和朝廷は山野に近いので、長い間の慣習から、野樹徑草に深い馴染をもつに至つた故であらう。殊に奈良京となつては、その東偏を局る高圓山の裾野は、※[草冠/(獣偏+曷)]高《カリタカ》の野と呼ばれて、京の市中何處からでも仰望される高い廣い臺地で、其處には盛に萩の花が叢生してゐたことは、集中多くの證歌が語つてゐる。然るに今その愛賞措か(621)ぬ萩の開落さへも人の關知せぬに至つては、特に遺憾に堪へぬところであらねばならぬ。而も「見る人」は作者の眞意では、特に志貴皇子を指示してゐることが看取される。かくて間接に皇子の薨逝を哀悼痛惜した幽婉の情緒が躍如として、さゝやかな珠玉の宛轉するが如くである。
 
御笠山《みかさやま》 野邊往道者《ぬべゆくみちは》 己伎太雲《こきだくも》 繁荒有可《しげくあれたるか》 久爾有勿爾《ひさにあらなくに》     232
 
〔釋〕 ○みかさやま 集中には御笠、三笠、御蓋など種々に書かれてゐるが、要するに、春日の神の御蓋《ミカサ》なす山の義で、狹い意では春日神社の後方の蓋《キヌガサ》の形をした山をいひ、廣い意では更に後方に聳えてゐる春日山の一稱とする。嫩草山の一名を三笠山といふのは俗稱で、それは羽買の峯である。○こきだくも 「こきだく」は、こゝだく、こゝだ、などと同じで、巨多の意。「も」は歎辭。「雲」は借字。○しげく 眞淵はシジニ〔三字傍線〕と訓んだが、猶舊訓の方が率直でよい。○あれたるか 「か」は歎辭。疑問ではない。○ひさにあらなくに 久しいことでもないのにの意。
【歌意】 御笠山の裾野をゆく道は大層しげく荒れたことだなあ、皇子のお薨れ後、そんなに永い時日が經つた譯でもないのにさ。
 
〔評〕 野路は暫く踏まないと直ぐ草が生ひ繁つて荒れる。然しその踏まぬといふことが、皇子の薨逝後、往來の人の足跡の絶えた爲だと氣付くと、無窮の感愴に打たれる。即ちこの歌では、皇子御生前は拜趨參候の人の繁か(622)つた趣が反映され、一轉瞬の間に繁華と寂寞とがその地を換へたことが、強く印象させられるのである。皇子の高圓の邸へ參る人々は、奈良の宮を出て、御笠山の裾野即ち春日野の野邊を分けて往つたものと思はれる。四句はやゝ猥雜の感がないでもない。卷十七の「こゝだくも繁き戀かも」と同調のやうではあるが、彼れは戀といふ名詞を點綴したので、その難を免れてゐる。「久にあらなくに」も、やゝ道理をいひ詰めた嫌があると思ふ。
 
右(ノ)歌(ハ)、笠(ノ)朝臣金村(ノ)歌集(ニ)出(ヅ)。
 
 左註の「右」は上の長歌と短歌二首とを斥すものか、又短歌二首を斥すか、又短歌の最後の什のみを斥すか、甚だ明噺を缺いてゐる。短歌の後の方はさ程でないにしても、長歌は傑作、初の短歌は佳作であるし、且その内容の趣から見ても、無名の野人などでなく、相當身分ある、皇子に關係深い人の詠と思はれ、且長短歌の記載の形式が、全く一聯の作の如くであるから、全部を金村の作と見られぬこともない。
 
或本(の)歌
 
上の二首の短歌が、他の或本には次の如く出てゐるといふので、異傳を註したもの。
 
高圓之《たかまとの》 野邊乃秋芽子《ぬべのあきはぎ》 勿散禰《なちりそね》 君之形見爾《きみがかたみに》 見管思奴幡武《みつつしぬばむ》     233
 
(623)〔釋〕 ○なちりそね 上の「潮干なありそね」と同じ語法で、散つてくれるなの意。○かたみに 記念としての意。
【歌意】 高圓の野邊に美しく咲き亂れてゐる萩の花は、どうか散つてくれるなよ、亡き皇子樣の記念として見つつ、皇子樣をお偲び申さうわ。
 
〔評〕 皇子の高圓邸附近は殊に萩が盛であつたらしい。皇子といへば萩、萩といへば皇子が聯想されたものであらう。だから皇子の記念としては、これに越すものは無い。この意味において、はかない萩の花に對してもなほ懇に散るなと要求せざるを得ない程の作者の心持に同情される。
 上の「高圓の野べの秋萩いたづらに」の歌と、初二句こそ同じであるが、これは全然別裁を成してゐる。兩者を比較すれば絶對價値は無論前者に認めねばならぬ。その立派な三句切であることは、この時代の歌として特に注意すべき點である。
 
三笠山《みかさやま》 野邊從遊久道《ぬべゆゆくみち》 己伎太久母《こきだくも》 荒爾計類鴨《あれにけるかも》 久爾有名國《ひさにあらなくに》     234
                                        〔釋〕 ○ぬべゆゆくみち 野邊からゆく通路の意。
 
〔評〕 これは上の「御笠山野べゆく道は」と二四の句が聊か違ふだけで、全くその異傳である。二句の名詞でいひ切つた調子は力強い。四句も「繁く」などの説明的語句が無いだけうるさくない。
 
(語釋索引、省略) 
 
(25)歌のさまのよしあしを定むるは海山のけしきの人によりて心の惹く方異なるが如し。そは見る人の心の高きと卑きとによりてしもぞ異なる。萬葉集に載りたる藤原奈良の頃の人々の優れたる歌どもは、富士の嶺の雲に聳えて高く、熊野の海の底ひも知らず深きが、見るも恐ろしく臨むもあやしきが如し。古今集の頃なる歌は、須磨明石のゆほびかなる海づら、嵐山小倉の峯の花紅葉の折にあひて目もあやなるが如し。(村田春海―歌がたり) 
(27)評文索引 
△本索引は、評文中特に説明の勞を執つた事項を大略的に類聚した。
△本索引は、その項目を、體製修辭、言語、思想信仰、社會情勢、歴史、軍事、風俗、服飾、居處、慶弔、戀愛、娯樂、行旅、交通、地理、博物、雜の諸類に分ち、各所に散在してゐる同類事項を一項の下に收めて、檢索の便を計つた。
△本索引には、普通なる鑑賞批評の語、又は碎瑣なる事項は採録することを避けた。それらは一々その歌の條下に就いて、檢討せられたい。
 
(28)  體製修辭
 
リズムは内的生活の現れ              一三
疊語の文字遊戲                 一一七
辛崎の擬人法の先鞭           一三三・四三三
その名を歌謠に讀み込む             一三七
古語を起用して新樣を成す            一五七
七五調の先驅               七四・一八六
弟一目的をぼかした詩人幻化の手段    一八〇・一八四
昂奮の押賣                   一八三
羽がひの霜はトリツク              二三九
萬葉集は後世の辭樣の發生母胎          二四五
聲響の効果                   二五九
結句に急轉囘                  三五三
木未轉倒の痴態                 四〇七
首尾の均衡                   四三三
過去の動靜を現在に延長             四四九
夢中感得の長篇                 四五五
聯想の跳躍               四六一・六一三
現實は空想を容れない              四六四
主觀の色眼鏡                  四七九
一意到底の自然對                五一〇
相反的事相の合拍                五八一
序幕と切幕が一轉瞬               五七一
頭勝な冒頭句                  六〇一
長歌における叙事中の議論            一二九
長歌の特殊形式                  三二
枕詞のない長歌                  七一
序體の長歌                   一一四
人麻呂の吉野の長歌の不完            一五〇
初頭排對的の交錯句法は長歌の慣手法   四〇六・五一九
長歌から反歌への連環              一五一
冒頭なしの長歌                 五六六
結末一句七音が長い異體の長歌          五九二
問答體假托の長歌                六一八
五七三七音の變態的句法          八六・四三五
連環體                     一六一
四節聯體の形式の歌               二〇九
第二句を第五句に反覆する古體の例        二一九
弄意の過ぎた歌                 二五八
連俳の附合氣分に似た短歌            三〇三
三句切れの二段構成               三五五
反覆體中の異製                 三七八
連環反覆の體                  四六〇
結句の獨立した歌                五一一
有心の序            二一五・二四七・五〇一
序歌の本質               二二八・二三〇
海底の歌の初二句は序詞             二八五
「穗向」の序は人名から聯想           三五八
大がかりの序詞                 三九五
長歌に莊重な序詞を用ゐるは常套         六〇一
枕詞の濫用                    四四
陽性の枕詞                   四七三
初二句と三四句とに枕詞を用ゐる扇對       五一一
眞實味のある贈答                三一三
戲謔の贈答                   三三六
自己を投げ出した歌               三六二
英虞行遊の聯作                 一六八
安騎野の短歌は聯作               一八三
久米禅師と石川郎女との贈答(29)歌は聯句の詩體   三二九
益良雄の強調                   四三
春秋の優劣爭ひ                  八〇
襷附けの手法                  四〇六
讃歎的扇對法                  四八七
「夜は」「晝は」の對隅的修辭は常套       四三九
「天見る如く」は人麻呂の常套旬         四七五
誇張と時との調和した歌             二三九
足なへの翻弄                  三七九
莫囂圓隣之の歌は紀温泉行の作でない        六〇
渡津海の歌の上旬は實寫              七五
綜麻形の歌の作者                 九一
麻續王の珠藻は誇張               一〇七
「衣ほしたり」は女帝の取材           一二〇
「これやこの」の類型              一四二
背の山と故人                  一四四
吉野讃美の歌の多くは人麻呂の歌の後塵      一五九
「吾が作る日の御門」以下は挿入句        一九八
役民の歌の作者             二〇〇・二一二
從藤原遷奈良歌の作者の身分           二七八
御製と御歌との差違               三〇八
桑間の詩と共通                 三四四
「鳴き」が字眼                 三五一
楪葉の三井の歌と額田王の關係          三五一
「高山」の歌と「吾妹兒に」の歌との死の觀念の差 三六七
「暮去らば」の歌は比喩             三六八
「秋山に落つるもみぢば」の歌の三痴       四五五
「いかさまに恩ほしめせか」の類例        四五五
日並皇子殯宮歌のポイント            四七四
日月の比喩と李白の詩              四七七
今昔の感を草一つに               四九一
玉藻の生々復活は暗映がある           五一九
哀悼の作は露骨を忌まぬ             五二四
高市皇子殯宮の作は三事相應           五四九
人麻呂の悲嬬死歌二首は世話物          五七七
志賀津采女の歌は事件中心            五九〇
死の語を囘避した叙法              五九三
うはぎの詠歎                  六〇三
 
  言語
 
野守の諸説                    九五
「復かへりみむ」                一五一
「みれども飽かぬ」               一五一
「わがせこ」の「わが」             一七〇
「たわやめ」の説                二〇三
「なばり」の修飾語               二二八
娘子は若い婦人の敬稱              二二九
大和人の「高山」の語              三〇〇
白髪を霜に譬へることは上代の辭樣ならず     三〇二
親密心の表現語                 五四五
「雲隱る」は貴人の死を意味する         五五八
「大君は神にしませば」の前提          五五九
「志賀さゞれ波」の造句             五六〇
歌語としての「蓋し」              三五四
(30)「標ゆふ」                 三五九
「元結が濕める」の諺              三六四
風流男の詭辯                  三七七
「靡けこの山」の快語              三九三
ア列音の多い快調                四二四
「木幡のうへ」                 四二六
「道の知らなく」の不審             四四五
「日月の離る」は比喩              四五三
「天の原岩戸を開き」の疑義           四七二
「君ませば」の暗示               四八四
 
  思想信仰
 
萬有は神                    一三八
古代人の有する神の觀念             一三八
天つ日信仰の諸例                二一一
天皇の命令は絶對                二七五
天則神の信仰                  四二三
高天原思想と敬神尊王              五五〇
建國理想                    一五八
皇胤は皇神の命による              二六六
皇室を中心の建國思想              四七一
亡魂天翔りの信仰            四二〇・四二六
靈魂不滅                四二〇・五〇九
亡魂説の根柢                  五七〇
靈魂と復活                   五七九
草結びの咒願               六二・四一五
草木崇拜の思想                 三三〇
常處女の祝福                  一〇三
外蕃來附と祥瑞出現               一九八
幻術、仙術の信仰                四五一
無常思想                    五九一
手向草の咒願                  一四〇
箇人のもつ特殊感                二四五
 
  社會情勢
 
上代の女子の貞操            三二五・三一六
簡易な上古の生活状態              三七六
上古の階級觀念                 五〇四
益良雄意識の強調             四三・四〇五
奈良朝人の氣風                 二三一
役民の情態                   一九七
舍人の服務規程と身分年齡            四八一
鳥座の世話は舍人の役              四九二
來年の躑躅時には舍人は退散           四九六
 
  歴史
 
日本開闢説最古の文獻              四七一
盤姫の性格                   二九九
舒明帝の國見                   二四
舒明帝の御性格                  二六
舒明帝讃岐行幸の有無               四六
皇極帝御讓位の事情               四一三
有間皇子の異圖                 四一四
有間皇子の處刑は高速度             四一四
大日本史の有間皇子の年紀の誤          四一五
有間皇子護送中の薄遇              四一六
天智帝の御悩                  四二三
太后の緊張                   四二四
大津遷都の二目的                一三一
大津宮の荒廢                  一三○
額田王男性説                四九・九九
額田王の名の縁由                 九一
蒲生野の行遊には皇太弟は四(31)十六歳       九八
天武帝の好謔              一一七・三三五
高市皇子の雄武                 五四三
忍壁皇子は壯年で妃を失はれた          五二一
大津皇子異圖の一原因              三四二
大津皇子の異圖                 三三八
大津皇子伊勢下向の用件と時期          三四〇
大津皇子の死と大來皇女             四五八
津守連が卜占の事情               三四七
穗積皇子の寺入の事情              三五九
草壁皇子の御性格                三五○
日並皇子薨去事情                四七三
大津皇子の關係した石川郎女は草壁太子の嬖人か  三四八
藤原新京の開設                 一九七
持統帝の吉野離宮は新創             一五七
川嶋皇子は若死                 五〇九
輕皇子の安騎野出獵は父尊の忌明後        一八一
五十師の行宮                  二八一
去來子等の歌の内面事情             二三六
間人連老は漢學者                 三四
田主は美男                   三七六
宿奈麻呂は美男                 三八一
人麻呂の石見の妻                三九六
人麻呂の石見在任は五十歳以上          四〇三
人麻呂は再度奉仕の東宮を失ふ          五五一
人麻呂の生活を知る好資料            五八〇
上代に於ける大和以外の帝都           一二八
遣唐の旅苦                   二三三
鞆の音に兵革の憂慮               二六四
采女と艶話                   三二〇
采女の夫                    五九一
久米禅師は信濃の官吏か             三二三
 
  軍事
 
天武帝の吉野蟄居は冬から夏           一一二
天武帝の擧兵                  一一三
壬申の亂                    五四二
壬申の戰闘光景                 五四四
壬申の亂は颱風期                五四五
近江方は白旗飛鳥方は赤旗            五四四
和銅元年蝦夷の叛                二六四
 
  風俗
 
婦人の化粧                   一〇三
狹名葛は調髪用                 三一八
成人と女の髪上げ                三七〇
領布振りの習慣          九四・二三六・三九六
衣貸しの風習                  二六一
贈遣の物を草木の枝葉につける風習        三五五
跪禮匍匐禮                   五四七
 
  服飾
 
古代の袖                     九四
たわやめの袖              二〇三・二一四
毛衣の獵服                   五〇一
植物の摺染                   二二三
珠                        六五
  居處
 
(32)皇居の理想地                二〇八
淨見原の宮と雷岡との關係            四四八
皇居と東宮御所とは古來から別          四八一
香具山の民家                  一二〇
邸宅敷地の制限令                二八九
上代に於ける大和以外の帝都           一二八
新舊二京の邸宅                 二七七
五十師の行宮                  二八一
人麻呂の門前近くは池塘             五七七
 
  慶弔
 
獻瑞とその禁令                 一九八
謚號撰定                      八
殯宮風景                    五四七
殯即葬の場合                  四六五
上古の葬斂                   六一九
葬列の手火                   六一九
火葬の烟を雲                  六〇八
一周年間の陵側侍宿           四三九・五五六
二上山々頂の造墓                四六二
放ち鳥と一周忌                 四九〇
引手の山は墓地                 五八三
狹岑の山野と死人                六〇〇
 
  戀愛
 
上古の結婚習慣             三〇五・三一四
許婚と名告り                   一四
天智天武兩帝と額田王               九六
天智天皇と鏡女王                三一〇
鎌足と鏡女王              三一五・三一八
十市皇女と高市皇子との關係           四四三
大津皇子と石川郎女の邂逅            三四七
大伯皇女と大津皇子との友愛       三四〇・四五九
但馬皇女對高市穗積兩皇子との關係    三五七・五五五
紀皇女の艶聞              三六八・三六九
人麻呂と輕の里の女との秘密關係         五六七
身人王の對手は田形皇女でない          二四七
安麻呂と巨勢部女                三三二
戀人の名を呼びかける          三四九・五六八
貞操の表示                   三七二
四十女の戀                   三八一
別離の情緒                   四一二
執は遺愛の物に及ぶ               四三五
 
  娯樂
 
上古婦人と野遊                  一四
上代貴人の行樂              九五・一八二
朝狩は草伏をとる                一八六
安騎野の出獵は初冬               一八七
上代の鷹狩                   四九二
藥狩                       九八
近江朝廷の船遊び                四三一
志摩の島遊びは豫定の番組            一六三
英虞の島遊びは汐千狩              一六七
 
  行旅
 
旅の語                     一八二
旅と岐神                    一四〇
(33)旅情と離愁の交錯              三九七
往時の旅况                   六〇〇
假廬の風情                    五〇
熟田津の解纜事情                 五四
當麻の妻の歌は復路               一七〇
路次の行粧                    九五
手向草の風習                  一四〇
遣唐の旅苦                   二三三
松が根枕は樂しい旅寢              二四三
「標ゆふ」こと                 三五九
「椎の葉」の歌は普通の旅情でない        四一六
風浪による狹岑島の假泊             五九六
 
  交通
 
上古の航海苦                  六〇〇
上古行旅の乘物                 四六〇
伊勢參宮道                   一〇二
石見より上京道                 四〇三
輕の路                     五六六
藤原奈良間の水路交通              二七六
 
  地理
 
淨見原宮地                   一〇〇
吉野離宮址                   一一二
吉野と淑人傳説                 一一六
吉野離宮の讃美                 一四八
吉野離宮の地鮎                 一五六
持統帝の吉野離宮は新設             一五七
吉野山                     二一〇
三輪山の威容                   八六
背の山                     一四三
高見山                     一七三
田上山                     一九六
高野原と鹿                   二八八
立田山と白波                  二八五
大島の嶺                    三一一
高角山の袖振り                 三九六
屋上の山                    四〇四
小波山の大山守                 四三七
木※[瓦+缶]の岡の地形            五二〇
引手の山                    五七八
引手の山は墓地                 五八三
羽易の山は亡魂の棲處              五八〇
鴨山は人麻呂の最期の地             六〇六
高圓の裾野の萩                 六二〇
安騎野の地勢                  一七九
藤井と藤原宮                  二一二
巨勢野の地形                  二一六
引馬野の萩                   二二二
地名としての御井                二八一
當の狹岑島は無人島               六一〇
狹岑の山野と死人                六〇〇
青山四周の藤原京                二〇八
長屋の原の位置は悲劇の好舞台          二六九
※[糸+卷]村                  九一
海南と珠                     六五
明白香の地名の聯想               五二五
飛鳥風                     二〇三
國境踏破の感激                 二二〇
角の浦は殺風景                 三九〇
辛の崎の海松                  四〇三
飛鳥川の緩流                  五〇八
飛鳥川の落差                  五二三
(34)石川は人麻呂の火葬の地、葬處もその附近   六〇七
英虞行宮の地點                 一六四
住吉情調                    二五〇
住吉の埴生                   二四九
 
  博物
 
埴安の池と鴎                   二六
鶴は冬期内地に多かつた             二五四
時鳥傳説                    三五三
萩                九一・二二二・六二〇
榛                        九一
紫について                    九七
狹名葛は調髪用                 三一八
玉※[草冠/縵]の富貴相            四二八
街路樹としての橘                三七三
結松の存在                   四一八
玉藻と婦人               三六八・三九一
梅松                      四〇三
 
  雜
 
富者と簡素趣味                  五〇
阿菩大神                  七一・七三
上代姓名の書式             一二一・三二三
人名と地名との交渉               五二一
文武帝以後は御代の標をあげぬ          二三八
左註「古歌集」の語               三〇五
左註の左註                   三〇八
熟田津の歌の左註錯簡               五六
弟日娘子は遊行婦か               二四一
伊勢處女は國司の款待か             二八二
二人の衣通姫                  三〇六
荷前の荷の緒                  三二七
夢の收穫                    四三〇
杜に酒甕据ゑ                  五五三
男の乳貰ひの世話場               五七八
枕と閨情                    五八六
姫島孃子の屍は投身               六一三
 
(1)    おくがき
 
 私が萬葉集に親炙し始めたのは、明治二十三年頃※[木+觀]齋木村正辭先生の講義を聽いた時であつた。その頃鹿持氏の古義を見ようと思つたが、活版物で手輕に見られる現代とは違つて、それが木板本百數十冊といふのだから、到底貧書生の手に合はない。據なく圖書館通ひをして書入をしたものだ。爾來研究を怠らなかつたが、確か明治の三十年頃かと思ふ。後には新潮社を創めた佐藤義亮君が國文國歌の講義録を出した折、頼まれて萬葉の評釋を寄稿したり、次いで「人麻呂歌集」を作つたりしたことが、私の本腰にこの集の研究に入る段階となつた。明治四十年私の出世作といはれる「古今集評釋」の完成を見た。私は自己宣傳と鳴物入の前觸れとを絶對に忌避する。で一遍も口外こそしないが、内心にはそれも萬葉の評釋を作る前提として作つたものであつた。そして漸く蔗境に入る樂みを獨ひそかに味つてゐた。
 時世の變轉ぐらゐ面白いものはない。私が「人麻呂歌集」を著した時の目的は、有數なる萬葉歌人の家集を繼續的に刊行して、萬葉そのものの價値を、一般讀書界に知らしめたい爲であつた。然るに當時は機運いまだ熟せず、その成績は餘り芳ばしくなかつたので、折角の計畫も遂に抛棄のやむなきに至つた。
 處が近來の萬葉熟はどうだ。萬葉とさへいへば一知半解の徒さへ、無條件にその國寶的歌集であることを肯諾する世の中ではないか。隨つて總括的、部分的、斷片的の差はあるが、各種各樣の研究や編纂物が續々として起り、その發表は日もこれ足らずの有樣である。私からいへば聊か後の雁が先に立つた貌で、つく/”\私の怠慢を責めずには居られぬ。(2) いや實は怠慢ではない。私の性質として片々たる小著や小發表を好まぬからである。私の仕事はすべて氣が長い。尤もこの間に國文方面に進出して、難解として前人の餘り觸れなかつた枕草子の研究を了つて、その「評釋」を完成し、次いで「源氏物語新解」を作つた。のみならず、永い間萬葉關係の地理踏査の爲全國を周遊してゐたことを一言茲に附記して置きたい。
 愈よ筺底に山積してゐる舊稿の整理に取懸つて見ると、殆ど亂麻の如き有樣で、或ははじめから脱漏してゐたり、或は散逸したり、且長年月に亙つての起稿である爲、その時々に依つて樣式や繁簡の程度が相違して居り、前期間のは全部文語で書かれ、後期のは大抵口語で書かれた。文語の分は口語に譯して見ても、もと/\文致が異つてゐるので、とても調和が取れない。これでは全部書き直すより外に方法がないといふことに結着した。
 茲に舊稿を基礎として新稿を作つた。然し妙なもので、舊稿の遺傳が折々邪魔をして尻尾の取れぬ蛙の如く、不徹底な箇處が隨處にあつた。乃ち橘宗利君を煩して、一應整理して貰つた。かくて評釋の第一卷は略完成と見えたが、尚愼重の態度を取つて、訂正又訂正、全く完膚なきまでに點竄の筆を加へ、漸くにして脱稿、印刷に附することとなつた。
 本卷の校正は昭和八年の七月に始まり、爾來三年の日子を費した。甚しい訂正の爲、時には七八校に至るものもあつた。學問的良心が私を驅つた止むに止まれぬ結果であつた。且挿入の圖版の多い爲に愈よ組み直しに困難を來し、豫想外の日子と手數とを掛けたことを我れながら、當事者に深謝する。
 
   昭和十年十月
                     金子元臣しるす
 
 昭和十年十一月三日印刷          定價 停〔○で圍む〕四圓五十錢
 昭和十年十一月七日發行                    合計四圓八拾錢
 昭和十八年四月二十日七版發行  【特別行爲税相當額】金參拾錢
  
     東京市小石川區白山御殿町百十番地
 著者   金子 元臣
     東京市神田區錦町一丁目十六番地
 發行者  三樹 彰
     東京市下谷區二長町一番地
 印刷者  山田 三郎太
     東京市下谷區二長町一番地
 印刷所  凸版印刷株式会社
           東京一二二
發行所 【東京市神田區錦町一丁目【振替貯金口座東京四九九一番】】明治書院
          電話神田(25)二一四七番
                  二一四八番
                  二一四九番
 配給元  東京市神田區淡路町二丁目九番地 日本出版配給株式會社
         不許複製〔金子元臣の印あり〕(出版協承認あ420475號)
    (日本出版文化協會會員番號134008番)
 
            2005年4月3日(日)午前9時10分、入力終了、
            2007年1月13日(日)午後1時2分、校正終了
 
 
金子元臣著 萬葉集評釋 第二冊 明治書院 1938.6.15發行
 
(圖版二葉、地圖一枚省略)
(總目次、凡例、目次、圖版目録、卷三目録省略)
 
(635)  萬葉集卷三
 
この卷は雜歌、譬喩歌、挽歌の三部から成り、一二の卷と同じく時代も歌人も判然としてゐる。譬喩歌及び挽歌の末尾には、大件氏一家の作が分載されてある。
 
雜歌《くさぐさのうた》
 
種々の事相に關する歌の意。こゝには遊覽、旅行、憑弔、宴遊等の作を採録した。
 
天皇《すめらみこと》御2遊《いでませる》雷岳《いかづちのをかに》1之時、柿(の)本(の)朝臣人麻呂(が)作《よめる》歌一首
 
○天皇 持統天皇。○雷岳 又|神岳《カミヲカ》といふ。大和高市郡雷村にある飛鳥の神奈備《カムナヒ》の三諸《ミモロ》山のこと。これを雷(ノ)岳といふ故は、紀の雄略天皇七年秋七月の條に、「天皇詔(セテ)2少子※[虫+果]羸《チヒサコベノスガルニ》1曰《ノタマフ》、朕欲(フ)v見(ムト)2三諸岳《ミモロノヲカノ》神(ノ)之形(ヲ)1、汝|膂力《チカラ》過(ル)v人(ニ)、自(ラ)行(キテ)捉(ヘ)來(ヨト)、※[虫+果]羸答(ヘテ)曰(ス)、試(ニ)往(イテ)捉(ヘムト)之、乃(チ)登(リ)2三諸(ノ)岳(ニ)1捉(ヘテ)2大蛇(ヲ)1奉(ル)v示(セ)2天皇(ニ)1、天皇不2齋戒(シタマハ)1、其雷※[兀+虫]々《ヒカリテ》、目精《マナコ》赫赫《カヾヤキヌ》、天皇畏(レテ)蔽(ヒテ)v目(ヲ)不v見(タマハ)、却(キ)2入(リマシ)殿(ノ)中(ニ)1、使(メタマヒキ)v放(タ)2於岳(ニ)1、仍《カレ》改2賜(ヘテ)名(ヲ)爲(ス)v雷(ト)」とある。尚「かみをか」を見よ(四四七頁)。
△寫眞 挿圖130を參照(四四八頁)。
 
(636)皇者《おほきみは》 神二四座者《かみにしませば》 天雲之《あまぐもの》 雷之上爾《いかづちのへに》 廬爲流鴨《いほりせるかも》     235
 
〔釋〕 ○あまぐもの 雷にかゝる枕詞で空のこと。「あまぐも」は(1)天の雲。(2)は(1)の轉用で、空をいふ。雨《アマ》雲の意に用ゐるのは後世のこと。○いかづちのへ 雷の邊り。「へ」は上の上略であたり〔三字傍点〕の意。先賢の多くは、「上」を山〔右△〕の誤寫としたが、こゝは雷岳を直ちに雷に取成しての作である。○いほりせる 庵造をしてゐる。古義に「流」を須〔右△〕の誤寫として、イホリセス〔五字傍線〕と訓んだのは一應の理由はあるが、歌に敬語を略くは例の多いことで、下にも「皇は神にしませば――荒山中に海をなすかも」とある。
【歌意】 流石に天子樣は現人神であらせられるので、あの恐ろしい雷樣のあたりに、行宮《カリミヤ》住まひななされてゐることよ。
 
〔評〕 雷山の御登臨は、想ふに天皇がまだ先帝の故宮淨見原(ノ)宮にあらせられた頃、即ち藤原(ノ)宮遷都以前の事であらう。この山は一堆の丘陵に過ぎないが、飛鳥地方の眺望を一望のもとに收め得る形勝の地である。
 天皇を現神《アキツカミ》(明神)と稱へ奉ることは公式令にも規定され、わが國民古來の信念を表した當時の常套語だから、何の奇もない。只この普遍想を前提として、雷山の宮造を御神業の發露であると、聊かの躊躇なしにいひ切つてしまつた。そこに雄渾なる風調と豪宕警拔なる著意とが認められる。
 抑も雷山の雷神は、かの少子部※[虫+果]羸《チヒサコベノスガル》の事迹によつて、大和人は誰れしも知り拔いてゐるから、雷山といへば端的に雷神を意識する。處で雷霆を神格視して恐懼したことは、古代ほど甚しいので、記の黄泉國傳説に依つ(637)ても十分に證する事が出來る。然るにその雷の上に庵することは、即ち雷神を拆伏した英雄的行爲である、超人的行爲である、全く神の行爲である。されば大君の神とます所以を反説的に證明したもので、要は帝威の禮讃に歸する。「天雲の」は枕詞ではあるが、雷を莊嚴に崇高に神秘的に形容し表現する上において、立派な役目を勤めてゐる。
 又この種の類想類型をもつた作は集中に、
  大君は神にしませば天雲の五百重がしたに隱り給ひぬ (卷一、置始東人―205)
  大君は神にしませば眞木のたつ荒山中に海をなすかも (本卷―241)
  大君は神にしませば赤駒のはらばふ田居を都となしつ (卷十九、大伴卿―4260)
  大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都となしつ  (同卷―4261)
 など見え、次にも或本の「雲隱るいかづち山に」の詠がある。
 
右、或本(に)云(ふ)、獻(れる)2忍壁皇子《おさかべのみこに》1也、其歌(に)曰(ふ)
 
一本には、人麻呂が忍壁皇子に獻つたものだとしてあると、その異傳を注した。○忍壁皇子 天武天皇の第九子。天武天皇十年に帝紀及び上古の諸事の記定を、文武天皇三年に律令撰定を命ぜられた。大寶三年に知太政官事となり、同二年五月三品で薨ぜられた。
 
王《おほきみは》 神座者《かみにましませば》 雲隱《くもがくる》 伊加土山爾《いかづちやまに》 宮敷座《みやしきいます》
 
(638)〔釋〕 ○くもがくる 雷の形容。雷の鳴る時は雲の起るゆゑにいふ。○しき 「しぎなべて」を見よ(一二頁)。
【歌意】 皇子樣は現人神であらせられるので、あの恐ろしい雷山に、お住居を建てゝ入らつしやいますことよ。
 
〔評〕 天皇即神の義を擴張して皇太子即神はまだ尤であるが、これを皇子級にまで延長することは、少し諛言に近いやうだが、用例は無論ある。この歌は忍壁皇子に果して獻つたものか、そこに疑問なきを得ない。「雲隱る」の序詞はこの場合妥當な修辭とは思はれぬ。  
 
天皇(の)賜(へる)2志斐嫗《しひのおむなに》1御歌一首
 
○御歌 眞淵は御製〔右○〕歌の脱とした。○志斐嫗 志斐は氏で、連《ムラジ》姓である。嫗は老女の意。この嫗の名は未詳。
 
不聽跡雖云《いなといへど》 強流志斐能我《しふるしひのが》 強語《しひがたり》 比〔左△〕者不聞而《このごろきかずて》 朕戀爾家里《われこひにけり》     236
 
〔釋〕 ○いな 「不聽」の意訓。○しひの 「の」は背な〔傍点〕、妹なね〔二字傍点〕などのナ及びネと相通の語で、親睨の意を表示する接尾語。○しひがたり 無理じひにする物語。○このごろ 「比」原本に此〔右△〕とあるは誤。「比」は頃と同意。
【歌意】 いやもう澤山だと斷つても、何でも強ひ聞かせる志斐のが、その名の通りの強ひ物語を、この頃さつぱり聞かないので、變なもので、わたしは何だかお前が戀しくなつてきたよ。
 
(639)〔評〕 頗る率直なありのまゝの表現である。とはいへ「しふるしひ〔五字傍点〕のがしひ〔二字傍点〕がたり」の動詞名詞人名をうち込めてのシヒの音の三疊は、最も輕快な響を聽者に與へる。そして強ひ〔二字傍点〕の意がどぎつく印象されるので、いかに嫗が名詮自稱のお喋舌であつたかが窺はれる。いや實はかくわざと耳喧しいやうに誇張したのであつて、それは「戀ひにけり」を強く反映せしめる手段であつた。かういふ輕い戲謔的のお詞に、君臣間の閾を撤しての打解けた御間柄であることが想像される。
 強語りについては、古義に引いた中山嚴水説に、これはたゞの會話ではなく、大嘗會などにもある語部《カタリベ》の舊記を語る類で、志斐の嫗は何かの傳説や一部の話説を語る者であつたらうと。
 
志斐(の)嫗(が)奉和《こたへまつれる》歌一首  嫗(の)名未詳
 
不聽雖謂《いなといへど》 話禮話禮常《かたれかたれと》 詔許曾《のらせこそ》 志斐伊波奏《しひいはまをせ》 強話登言《しひがたりとのる》     237
 
〔釋〕 ○のらせこそ 宣へば〔右○〕こそ。「ば」の接續辭のないのは古文法。○しひい 「い」は名詞の接尾語。關守|伊《イ》、麿伊、紀伊の伊、これに同じい。○しひがたり 「話」を語〔右△〕と改めて、シヒゴト〔四字傍線〕と訓むはわるい。○のる 言ふ〔二字傍点〕の敬相。「言」を古義に告〔右△〕の誤かとあるは不用。
【歌意】 もういやですと申しても、なほ話せ/\と仰しやるからこそ、私志斐伊は申すのです、それを帝樣は私の強物語だと仰しやいます。あまりおひどい。
 
(640)〔釋〕 御製の初句をそのまゝ承けて、意は正反對に飜轉した。もと/\應酬の作で?みしめるやうな深味はないが、怨みつぽく輕く拗ねたその口吻が、會話そのまゝのやうで、そこに又いひ知らぬ親しい情味が鈍染み出してくる。君臣水魚の歡會といつてしまへばそれ迄だが、かやうな親褻な語は、特に婦人同士の間柄に於いて著く認められるものである。四五の句間、藕斷えて絲絶えざる、有餘不盡の姿致がある。
 
長忌寸意吉麻呂《ながのいみきおきまろが》應v詔《うけたまはりてよめる》歌一首
 
○長忌寸意吉麻呂 傳は既出(二二三頁)。○應詔歌 歌詠めとの天皇の仰によつて詠んだ歌との意。天皇は持統天皇。
 
大宮之《おほみやの》 内二手所聞《うちまできこゆ》 網引爲跡《あびきすと》 網子調流《あごととのふる》 海人之呼聲《あまのよびこゑ》     238
 
〔釋〕 おほみや こゝでは難波の豐崎の離宮を斥した。今の大阪城址の地である。○まで 「二手」は及《マデ》の借用字。「いくよまでに」を參照(一三九頁)。舊訓ニテ〔二字傍線〕は非。○すと 爲《ス》とて〔右○〕。○あごととのふる 網子《アゴ》を集めそろへる。「あご」は網子《アミコ》の略で、網を曳く者の稱。田子《タゴ》、船子《フナコ》、馬子《マゴ》の類語である。△地圖 挿圖77を參照(二三七頁)。
【歌意】 大宮の内まで聞えますよ、濱邊で網を曳くとて、網子を呼び集める海人の呼聲がさ。
 
〔評〕 持統天皇が難波の離宮に行幸遊ばされた折、意吉麻呂に即興の口吟を獻らしめられたものと思はれる。この宮は三面海に瀕うた出崎に建てられたので、時をり地引網など曳くとて、網子を催す漁師の聲高い訛《タミ》聲が響いてくる。平生大和の飛鳥藤原の山間地にのみ生活してゐる都人士の耳には、いかにもそれが物珍しく、しみじみ興を唆られるのであつた。作者は只ありのまゝにその即興を叙したに過ぎないやうだが、大宮の内と網引する濱邊と、又網子とゝのふる海人と、それを興ぜられる天皇及び大宮人とが暗裏に對映されて、それ等が「まで聞ゆ」の一語で結び付けられ、物珍しい感じを力強く表現してゐる。叙景の上乘。
 
右一首
 
「右一首」の下闕文になつてゐる。恐らく持統天皇の難波行幸に就いての但書でもあつたのであらう。蓋し持統天皇紀には難波行幸の事がない。紀の脱漏と思はれる。
 
長皇子《ながのみこの》遊2獵〔左○〕《みかりしたまへる》獵路野〔左△〕《かりぢぬに》1之時、柿本(の)朝臣人麻呂作歌一首并短歌
 
○長皇子 天武天皇の皇子。既出(二二七頁)。○遊獵 「獵」の字は原本にない。補つた。○獵路野 高市郡|大輕《オホカル》附近。獵《カリ》路は輕《カル》路のことで、音通である。「かるのみち」を見よ(五六二頁)。これを高市郡の鹿路村に充てる説、又城上郡榛原の地に求める説には尚考慮の餘地がある。「野」原本に池〔右△〕とあるが、歌の趣によつて改めた。△地圖及寫眞 挿圖155(五六四頁)154(五六三頁)を參照。
 
(642)八隅知之《やすみしし》 吾大王《わがおほきみ》 高光《たかひかる》 吾日乃皇子乃《わがひのみこの》 馬並而《うまなめて》 三獵立流《みかりたたせる》 弱薦乎《わかごもを》 獵路乃小野爾《かりぢのをぬに》 十六社者《ししこそは》 伊波此拜目《いはひをろがめ》 鶉己曾《うづらこそ》 伊波此囘禮《いはひもとほれ》 四時自物《ししじもの》 伊波比拜《いはひをろがみ》 鶉成《うづらなす》 伊浪比毛等保理《いはひもとほり》 恐等《かしこみと》 仕奉而《つかへまつりて》 久堅乃《ひさかたの》 天見如久《あめみるごとく》 眞十鏡《まそかがみ》 仰而雖見《あふぎてみれど》 春草之《はるぐさの》 益目頬四寸《いやめづらしき》 吾於富吉美可聞《わがおほきみかも》     239
 
〔釋〕 ○やすみししわがおほきみ 既出(三〇頁)。○たかひかるひのみこ 既出(四八〇頁)。○なめて 既出(三六頁)。○みかりたたせる 御獵をなさる。「み」は敬稱。「たたせる」はたつ〔二字傍点〕の敬稱たるタタスの現在完了格。たつ〔二字傍点〕はその事をなす働をいふ。出立《イデタ》つの意ではない。○わかごもを 弱薦よ刈る〔五字傍点〕を獵路にいひかけた枕詞。「を」は歎辭。「うちそを」を參照(一〇六頁)。「弱」は若の意で美稱。「薦」は眞(643)菰《マコモ》のこと。禾本科の宿根水草で、高さ四五尺に達する。秋一尺餘の穗を抽き、多く分岐して淡緑の小花を著ける。○ししこそは 「しし」は「ししじもの」を見よ(五三九頁)。「十六」は四四の乘數からの戲書。「社」をコソと訓むは、古語に願望の意に用ゐるコソがあり、乞の字を充てもした。社に向つては乞祷《コヒノ》むから、遂にコソに社の字を充てるやうになつた。○いはひをろがめ 「いはひ」は這ひ〔二字傍点〕にい〔傍点〕の接頭語を添へた語。「をろがむ」は折れ屈《カヾ》むの約轉。最敬禮の拜は折れ屈むにより、一般に拜することをもいふやうになつた。○いはひもとほれ 既出(五三九頁)。○ししじもの 既出(五三九頁)。「四時」は戲書。○うづらなす 「うづら」は既出(五三九頁)。「なす」は既出(九〇頁)。○かしこみと 上に皇子を〔三字右○〕補うて聞く。○ひさかたの 天の枕詞。既出(二八二頁)。○まそかがみ 見に係る枕詞。眞澄《マスミ》鏡の意。スミを約めてます〔二字傍点〕鏡といひ、又轉じてまそ鏡といふ。「十」は借字。○はるぐさの 春草の如く〔二字右○〕。珍しに係る枕詞。春草は僅に生ひ出て珍しいのでいふ。舊訓はワカグサノ〔五字傍線〕であるが、上の若薦《ワカゴモ》にさし合ふから、古本の訓に據つた。○めづらしき 愛《メ》づ、愛づらの形容詞格で、愛賞の意。「目頬四寸」は戲書。△挿圖 挿圖11(三六頁)137(四九二頁)を參照。
【歌意】 私の立派な皇子樣、日繼の皇子樣が、御付きの人達と馬を乘り竝べて、御狩獵をなさる獵路の小野に、鹿はさ伏して膝折り屈めようし、鶉はさ伏して這ひまはる、私達は鹿その物の如く伏して拜み、鶉の如く伏して這ひまはり、皇子樣を恐懼してお仕へ申して、恰もあの天を見るやうに仰いで、見ても/\尚飽かず珍しい、私の皇子樣であらつしやることよ。
 
(644)〔評〕 「安みししわが大王」「高光る日の御子」は、頗る崇高莊重を極めた讃語であるが、かく皇子又は皇族の御上にも、一再ならず襲用するやうになつては、漸くその特殊性を失ひ、普遍的な妥協的なものに過ぎなくなる。隨つて今日我々が想像する價値よりは、幾分の割引を必要とするのではあるまいか。
 天武天皇の御代の殺生禁斷の令は時に弛張があるが、狩獵は貴人の野外遊戲として、その特權のもとに常に行はれた。同じ扮装の同行二三、弓箭を帶し鷹犬を曳かせ、前驅後從その員を盡して、狩野に馳驅する豪快さは、蓋し溌刺たる男性的氣分を放散する。
 鹿と鶉とは主要なる鳥獣兩方面の代表的獲物である。而もその草伏し状態をうつして、奉仕者の跪禮匍匐禮を執る形容に用ゐ、丁寧反復、極力「恐みと仕へまつる」自分達の態度を叙した。この形容法は作者獨得の創語であるらしい。人麻呂以前の歌には聞かない。 抑もこの二禮は、弱者が強者を仰いでその哀憐を乞ふ態度から始まつて、最敬禮の作法とまでなつた。かくて自分達の拜伏態度を印象深く強調したことは、下に景仰の態度をいひ出す爲の伏線であつた。乃ち「久堅の天見る如く、眞十鏡仰ぎて見れど」と恭敬の限を盡して、首を擧げて拜眉し奉るのであつた。天と鏡とに關する我々祖先のもつた觀念は實に崇高嚴肅を極めたもので、今も長皇子に對して亦、この觀念から仰ぎ奉つたのである。而して天見る如く仰ぎて見れどの意を二分して、枕詞を藉つて對句とし、「見る」「見れ」の重複も却て皇子景仰の意を強調する効果を奏し、爲に「見れど」が見れど/\〔五字傍点〕といふ程の力強い感じをもつに至つたことを忘れてはならぬ。
 上來の波瀾ある叙述は、畢竟ずるに只「珍しきわが大王」の結論に到着する道程に過ぎない。見ても/\見(645)飽かぬ君、これが長皇子に作者の捧げた最大の尊敬と讃歎とであつた。
 更にいふ、作者はいづれ舍人の職で、長皇子の御出獵に追從したものと思はれる。皇子は天武天皇の第三皇子にましますので、第二皇子たる草壁皇子が天智天皇の元年の御生誕である事から考へて、少くも一年は御年下と假定して推算すると、持統天皇の御代の元年には二十二歳、その最後の七年には二十八歳であらせらるゝ事になる。獵路野の狩の年時は判明しないが、まづその中間としてからが、二十四五歳の若盛であらせられた。
 「仰ぎて見れど春草のいや珍しき」といふ所以は、全くその瑞々しい血氣旺んな大君振を、惚れ/”\と仰ぎ奉つての詠歎である。
 「春草の」は枕詞ではあるものゝ、秋の狩獵時季の作には聊かどうかと思ふ。この作者は時にかういふ事を遣る。「從石見上京」の作(卷二)にも、秋季に「夏草の思ひ萎えて」と平然と使つてゐる。
 第一段、例の双頭格の莊重なる起筆を用ゐ、以下「獵路の小野に」までは叙事を以て進行し、第二段、「鹿こそは――鶉こそは――」を前聯、「鹿じもの――鶉なす――」を後聯として相排對せしめ、さて「恐みと仕へまつりて」の單句で一旦結收した。第三段は「久堅の」より結尾までを含んで、一篇の主要なる重點を構成した。
 
反歌一首
 
久堅乃《ひさかたの》 天歸月乎《あめゆくつきを》 綱〔左△〕爾刺《つなにさし》 我大王者《わがおほきみは》 蓋爾爲有《きぬがさにせり》     240
 
(646)〔釋〕 ○あめゆく 空を渡るをいふ。「歸」の字は趨くの義ゆゑ、ユクと訓む。○つなにさし 綱にて〔右○〕刺し通し。綱は紐のこと。「綱」諸本に網〔右△〕とあるは誤。○きぬがさ 帛笠《キヌガサ》。長柄をつけて貴人の頭上に覆ふ天蓋《テンガイ》のこと。一は正式の四角の物で、儀制令に「凡蓋(ハ)皇太子(ハ)紫(ノ)表、蘇芳(ノ)裏、頂及(ビ)四角(ニ)覆(ヒ)v錦(ヲ)垂(ル)v總(ヲ)、親王(ハ)紫(ノ)大纈《ユハタ》、一位(ハ)深緑、三位已上(ハ)紺、四位(ハ)縹《ハナダ》、四品以上及(ビ)一位(ハ)頂角覆(ヒ)v錦(ヲ)垂(ル)v總(ヲ)、二位以下(ハ)覆(フ)v錦(ヲ)、大納言以上(ハ)垂(レ)v總(ヲ)竝(ニ)朱(ノ)裏、總(ハ)用(ヰル)2同色(ヲ)1」とある。二は略式の圓形の物で、帛張《キヌバリ》もあり菅茅を編んだのもある。蓋は何れも縁に綱を著けて、使人がそれを執つて動搖を調節する。
【歌意】 恰も空に出た圓い月、わが皇子樣は、その月を紐で通して、蓋にしてあらつしやるわい。
 
〔評〕 親王大官の行粧には蓋をさし掛けさせる。今長皇子は狩獵に出られたのだから、肥馬輕裘の扮装で、蓋など用ゐては居ない。輕路野の夕狩果てゝの御歸還に、恰も眞丸な大月が皇子の頭上を照射してゐる。でその圓月から忽ち圓形の蓋を聯想し、聯想は直ちに無差別の斷定にまで進んで、あはれ皇子樣は月を蓋にして居られると、躊躇なしに斷言した。不可能な事を敢へてなす、即ち奇迹を現ずることは、神の仕業でなければならぬ。そこで皇子を人間以上に禮讃したことに(647)なる。結局は上の「雷の上にいほりせる」と同趣に落ちる。然しこゝは「神にしませば」の説明的前提がないだけ、一面妄想に近くも見えるほど奇拔放膽な着想で、人麻呂その人でなければ、とてもいひ得ない語と思ふ。格調また雄渾で、語力勁健である。「綱にさし」は蓋には紐が附物なので、「蓋にせり」といふ印象を強める爲に使つた幻化手段に過ぎない。
 
或本(の)反〔左△〕歌一首
 
 この歌は「獵路野遊獵」の長歌の反歌では決してない。歌に池造りの事が見えるが、これは天子の御所作で、歌の本行にも「皇」の字が書いてある。然るに長歌の「おほきみ」は長皇子を斥してゐる。同一の場合に長歌と反歌とで、斥すところが一致しない筈がない。故にこれは獨立した別の歌と見るがよい。又この歌の體製から考へると、上出の「天雲の雷の上」「雲がくる雷山に」の又の異傳を註したものと思はれる。さては其處に引上げて、或本歌〔三字右△〕と題すべきである。略解はいふ、池を掘らせ給ひて行幸ありし時の歌にて、前に端詞ありしが落ちしなるべしと。
 
皇者《おほきみは》 神爾之坐者《かみにしませば》 眞木之立《まきのたつ》 荒山中爾《あらやまなかに》 海成可聞《うみをなすかも》     241
 
〔釋〕 ○まきのたつ 「まきたつ」を見よ(一七七頁)。〇うみをなす 海を作《ナ》す、即ち海を造ること。こゝは池を造つたのである。池を海といふ。「うなはら」を見よ(二三頁)。芳樹はウミナサス〔五字傍線〕と訓んだ。
(648)【歌意】 流石に天子樣は親人神で入らつしやるので、眞木の茂り立つ恐ろしい山の中に、海をお造りになつたことよ。
 
〔釋〕 海即ち池を造ることはもと灌漑の爲で、平地の田畝に近い丘陵に倚つて塘を築いて、天水や湧水を湛へておくのが通例である。然るにこれは眞木の立つ荒山中に造られたので、他の樣式と一寸相違してゐる。池のありさうも無い場處に池を造つたことは正に意外で、神業といはねばならぬ。集中眞木立つ荒山〔六字傍点〕と續けたのは、吉野山、不破山、初瀬山などであるが、「神にしませば」の前提を活かす爲には、却てそれほどの荒山でもないのをさやうに誇張した方が、趣があり味ひがある。それと同じ意味で、池を海といひなしたことも、その前提を活かして、大王讃歌の意を強める。面白い歌である。但この時代に池を造つたことは紀に所見がない。
 
弓削《ゆげの》皇子(の)遊《いでませる》2吉野《よしぬに》1時御歌一首
 
○弓削皇子 傳は既出(三五〇頁)。
 
瀧上之《たぎのへの》 三船乃山爾《みふねのやまに》 居雲乃《ゐるくもの》 常將有等《つねにあらむと》 和我不念久爾《わがおもはなくに》     242
 
〔釋〕 ○たぎのへ 瀧の上方。瀧は吉野郡吉野川の宮瀧の激湍。その北岸に吉野離宮があつたので宮瀧と稱する。(649)「吉野宮」を見よ(一四四頁)。○みふねのやま 吉野離宮の南、吉野川の對岸にある小山。○ゐるくもの 上句は譬喩であるが、それを「常にあらむと」にかけて、雲の聚散常なきが如くと解する説と、下句全部にまで及ぼして、雲の常にあるが如くと解する説との二つに分れてるる。略解には卷六「人皆の命もわれもみよし野の瀧のとこはの常《トコ》ならぬかも」を、この後説の旁證としてあるが、本來瀧は常磐の物、雲は常磐ならぬ物だから、出自がはじめから違ふ。前説によりたい。 ○あらむ 存在しよう。△地圖及寫眞 挿圖35(一一〇頁)47(一四五頁)を參照。
【歌意】 宮瀧の上方に見える、あの三船の山に雲がかゝつてゐる。その雲の忽ち變幻するやうに、自分がこの世に、何時までも住み果てようとは、思はれないになあ。
 
〔評〕 宮瀧の南岸に三船山(左)と象の中山(右)とが對立し、その奥に天滿の小山があり、その狹い谷を象谷といひ、その溪流を象の小川といふ。谿谷が幽遠なので、常に雲霧の集散がある。
 吉野離宮附近で三船の山を望むと、たま/\白雲が搖曳してゐる。その聚散常なき状態を目撃して、こゝに人世の無常を聯想し、いや人事ではない、自分とてもいつ死ぬかわからぬと痛感した。つまり型通りの佛教思想の聲聞觀で、珍しいものではない。只かうした高貴の御身分で、こんな事を思惟されたことに、何等かの因縁が潜んでゐさうに想はれる。作者は文武天皇の三年に、漸う三十歳を越したか位で早逝されたことを思ふと、この悲觀はその御健康上から生まれてきたのではあるまいか。「瀧のへの三船の山」の續きは類例が集中に多いが、この歌が初見である。
 
(650)春日王奉v和《かすがのおほきみがこたへまつれる》歌一首
 
○春日王 志貴皇子の子で、天智天皇の皇孫。續紀の文武天皇、大寶三年六月の條に、淨大肆春日王卒とある。○奉和歌 既出(二六五頁)。
 
王者《おほきみは》 千歳爾麻佐武《ちとせにまさむ》 白雲毛《しらくもも》 三船乃山爾《みふねのやまに》 絶日安良米也《たゆるひあらめや》     243
 
〔釋〕 ○たゆるひ 絶える時。
【歌意】 いつまでも生きられぬとは以ての外、貴王は千萬年も榮えられませう。あの貴王が定めないと仰しやる雲でも、三船山におりてゐない日がありませうかい、何時でもあるではありませんか。
 
〔評〕 そんな縁喜のわるいことを仰しやるものではありませんの餘意がある。原歌とおなじ三船の山の雲を主題に捉へて、その意を飜轉して祝ひ直して慰めたもの。口達者らしい作である。弓削皇子を「おほきみ」と稱したのは、この作者の身分柄では少し諛言に近いかと思はれる。お世辭はお互にいひ合ふものだが、弓削皇子は天武天皇の直宮《ヂキミヤ》、作者は天智天皇系の孫王で、官位も淺く身分に懸隔があるので、天武天皇系全盛時代では無理のないことかも知れない。この歌が雲を常住の意に取成したのを見ても、上の弓削皇子の歌は、雲を無常の物と觀じての作であることが證明される。
 
(651)或本(の)歌一首
 
 上出の弓削皇子の作の異傳を擧げたのである。
 
三吉野之《みよしぬの》 御船乃山爾《みふねのやまに》 立雲之《たつくもの》 常將在跡《つねにあらむと》 我思莫苦二《わがもはなくに》     244
 
〔評〕 「三吉野の」よりは「瀧のへの」の方が面白い。吉野にゐて漠然と吉野といふよりは、もつと範圍を狹めて、「瀧のへ」と局つた方が、實際感が出て印象が鮮明になるから。
 
右一首、柿本朝臣人麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
左註の人麻呂歌集なるものは絶對信憑の價値あるものとは思はれない。或は稀に人麻呂の作もあらうが、又他人の作がいくらも混つてゐる。歌の風調も人麻呂時代より降つたものが多い。おもふに雜駁に古歌を採録したものに、この名稱を冠せたものらしい。集中に於けるこの左註を通觀すると、かうした感じが浮いてくる。なほ後世の卅六人集中の人丸集が杜撰であるが如くである。されば眞に人麻呂の歌を檢べようとするには、題詞に「人麻呂作歌」の標記ある歌による外はない。「人麻呂之歌集出」の左註ある歌は危險である。 
長田《ながたの》王(の)被(れて)v遣(は)2筑紫(に)1渡(れる)2水島《みづしまに》1之時(の)歌二首
 
(652)長田王が筑紫に派遣されて、水島に渡航する時の歌との意。○長田王 長皇子の孫、粟田王の子で、續紀に天平九年六月卒とある。この王の筑紫に遣はさるゝこと、史に所見がない。○水島 肥後國八代部で、球磨《クマ》河の一支南川の河口にあたり、今は殆ど陸續きになつてゐる。周圍一町二十五間、泉石の隙から清列な水が湧いてゐる。水島といふ故は、景行天皇紀に「十八年夏四月、自2海路1泊(リテ)2於葦北(ノ)小島(ニ)1而|進食《ミヲシス》、時(ニ)召(シテ)2山部(ノ)阿弭古《アビコ》之|祖《オヤ》小左《ヲヒダリヲ》1令(ム)v進(ラ)2冷水《ミモヒヲ》1、適(マ)此時島中(ニ)無(シ)v水、不(ニ)v知(ラ)2所爲《セムスベヲ》1、則(チ)仰(イデ)之|祈《コヒノム》2于天神地祇(ヲ)1、忽(チ)寒泉(シミヅ)從(リ)2崖(ノ)旁1涌(キ)出(ヅ)、乃酌(ミテ)以獻(リキ)焉、故號(ケテ)2其(ノ)島(ヲ)1曰(フ)2水島(ト)1也、其泉猶今(ニ)在(リ)2水島(ノ)崖(ニ)1也」とある。
 
如聞《ききしごと》 眞貴久《まことたふとく》 奇母《くすしくも》 神左備居賀《かむさびますか》 許禮能水島《これのみづしま》     245
 
〔釋〕 ○ききしごと 景行天皇紀にある水島の靈泉を(653)噴出した傳説をさす。○まこと まことに。副詞挌である。○くすしくも 靈妙にも。○ますか 「か」は歎辭。「居」の字、舊訓にはヲル〔二字傍線〕とあるが、「神さび」にはマスの敬語の方がふさはしい。○これの この。「れ」は添語。
【歌意】 豫て噂に聞き及んだ如く、ほんに尊くあやしく不思議に、神々しくてあらせられることよ、この水島はさ。
 
〔評〕 水島は世間いくらもある磯際の小島で、景行天皇紀の記述がないと、永久問題にはなりさうもない島である。靈泉噴出の奇蹟、あれは海岸だから、丁度その水が潮の干滿に隨つて増減進退したに過ぎまい。古人はすべて迷信深いうへに、皇祖の御遺蹟といふので、長田王は特殊の信仰をもつて、かねて水島に敬慕の念を懷いてゐたと見える。さればこれを實見するに當つて、遂にこの禮讃的言辭を放つに至つたのである。「神さびますか」の神格視は、水島そのものを躍動させて、掲焉の靈威を想はしめる。但この手法は上代には敢へて珍しくない。四句の句末に置いた「か」の聲響は、金磬一打全山の雲悉く動くの感がある。
 
葦北乃《あしきたの》 野坂乃浦從《ぬさかのうらゆ》 船出爲而《ふなでして》 水島爾將去《みづしまにゆかむ》 浪立莫勤《なみたつなゆめ》     246
 
〔釋〕 ○あしきた 肥後國葦北郡。○ぬさかのうら 今の葦北郡の田(ノ)浦の地。○ゆめ 禁止の辭。
(654)【歌意】 自分は今葦北の野坂の浦から出帆して、遙な水島に往かうとするのだ。浪よ決して立つてはならぬぞ。
 
〔評〕 野坂の浦を今の田ノ浦とすると、こゝから本道は山越(三太郎峠)に北へ走つてゐる。作者は陸行七八里の難路を厭うて、北方五里の水島さして、一直線に球磨海岸に渡らうと、船出を試みたと想はれる。球磨河口は土砂堆積の爲延長したり分流したりして、現在の水島は殆ど陸續きであるが、この時代は全く陸地と絶縁した孤島であつたに違ひない。海は即ち葦北の海で内海だが、荒れでもすると當時の小舟ではとても溜るまい。船の恐怖は人々の特質によつて、大きな差違があるものながら、「波立つなゆめ」の切願は頗る眞劍のものらしい。それが海馴れぬ都人であり、且やごとない貴人であることを思ふと、益すその感が深い。「葦北の野坂の浦」と打出した委しい地理的叙述も、まさに他郷人の心持を表現してゐるもので、草枕時代の困難な旅情があざやかに出てゐる。
 初句以下四句まで平叙を用ゐ、落句に至つて突如として轉換する、即ち第五句に主要の語を置いて一首の司命とする格法は、古代に於いて多い。集中にはこの歌の外その例證枚擧に遑がない。
 上の歌は水島での作、これは水島に往かうとする時の作だから、排列が前後してゐるが、次にすぐこの歌の和歌を掲げる便宜上、わざと順序を易へたものと思はれる。
 
石川(の)大夫《まうちぎみが》和《こたふる》歌一首 名闕
 
〇石川大夫 石川は氏、作者の名が記してないが、類聚抄には「從四位下石川朝臣宮麻呂朝臣和歌」として、(655)この歌がある。○大夫 令制に四五位の人の稱とある。古義はいふ、氏の下に附けていへるは皆五位の人なりと。○和歌 既出(一〇七頁)。こゝは長田王の歌の作意に應へて詠んだのである。
 
奥浪《おきつなみ》 邊波雖立《へつなみたつと》 和我世故我《わがせこが》 三船乃登麻里《みふねのとまり》 瀾立目八方《なみたためやも》     247
 
〔釋〕 ○おきつなみ 沖の波。尚「おきつしらなみ」を見よ(二八四頁)。○へつなみ 岸邊の波。沖つ彼の對語だから「つ」の連辭は必ずあるがよい。卷六にも「沖つ浪邊つ浪やすみ」とある。舊訓はヘナミ〔三字傍線〕。○たつと 「と」はとも〔二字傍点〕の意。○わがせこ こゝは男性同士の呼稱に用ゐた。既出(一六九頁)、及び「わがせ」(九〇頁)を見よ。○みふね 「み」は敬稱。「三」は借字。
【歌意】 よし沖も岸邊も波は立つとも、貴方樣の御乘船の泊に、波が立たうことかい。 
〔評〕 長田王が「波立つなゆめ」と、波を氣にして取越苦勞をさせられたので、地方官吏としての御案内役たる石川大夫は、餘所に波は立つても、王樣の船泊には決して立ちません、御安心下さいと、御慰安を申上けた。もともと辭令の作だから、大した内容はもたぬが、知れ切つた矛盾の事實を、躊躇なしに受け合つて退けたその心持に、嬉しい深い情合が見える。皇子樣に對して、「わがせこ」と呼び掛けたのも、打解け切つた懇情を表してゐる。「波」の三疊は、波を事件の中心に扱つた結果である。けれども「邊つ波立つと」「波立ためやも」の重複したいひ方は、洗煉したものとはいひ惡い。もとより咄嗟の應酬で據なかつたのであらう。平安人なら、(656)「沖に邊に風は吹くとも」など避けて詠む所である。
 
右今案(フルニ)、從四位下石川(ノ)宮麻呂(ノ)朝臣、慶雲年中任(ズ)2大貮(ニ)1、又正五位下石川(ノ)朝臣|吉美侯《キミコ》、神龜中任(ズ)2少貮(ニ)1、不v知(ラ)兩人誰(カ)作(メルヲ)2此(ノ)歌(ヲ)1焉。
 
長田王は和銅四年に始めて正五位下を授けられた。これは成年後數年を經ての事であらう。王の筑紫派遣は無論その以後と見ることが至當である。左註の説及び類聚抄の石川宮麻呂の太宰大貮たることは、和銅より以前であるから問題にならない。さればこの作者は、神龜中の少貮石川(ノ)吉美侯、及び同五年の少貮石川(ノ)足人の二人の中であらう。(卷四に神龜五年太宰(ノ)少貮石川(ノ)足人(ノ)朝臣(ノ)遷任(ニ)、餞(スル)2於筑前(ノ)國蘆城(ノ)驛(ニ)1歌三首がある)
 
又、長田王(の)作歌一首
 
隼人乃《はやひとの》 薩摩之迫門乎《さつまのせとを》 雲居奈須《くもゐなす》 遠毛吾者《とほくもわれは》 今日見鶴鴨《けふみつるかも》     248
 
(657)〔釋〕 ○はやひとの 隼人《ハヤヒト》は國名。當時薩摩は隼人の國のうちの地名であつた。隼人は逸《ハヤ》り人の義、薩摩は幸島《サチシマ》の義といふ。○さつまのせと 八代灣の南端の出入口で、薩摩の出水郡の下出水村と、その西なる長島との間の海峽をいふ。長さ五海里ほど、潮流急激なので黒瀬戸の稱がある。○くもゐなす 雲の如く。「居」に意はない。
【歌意】 かねて聞き及んだ薩摩の迫門を、雲のやうに遠くも、よそながら今日見たことよな、私は。
 
〔評〕 わが大御國の最南のはての隼人の國、しかも恐ろしい航海上の魔處たる薩摩の迫門、そこにこそ往かぬが、葦北の野坂の浦まで來た長田王は、八代灣の海上十數里をとほしての南方に、あの邊がそれよと案内者から教へられた、その刹那の感じを(658)歌つたものである。「隼人の薩摩の迫門」とうち出したのからして、遠い旅人の驚異の眼を瞠つた氣分が出てゐる。「雲居なす」の譬喩は地理的關係からしても相當な表現で、初二句の調の莊重さにもふさはしい。「今日見つる」に、從來その迫門を噂にばかり聞き及んで居た趣が映帶されて、「雲居なす」ではあるものゝ、それを眼前に見識り得た今日の珍しい喜に滿ちた氣分が現れ、「われは」の自稱もこの幸を誇耀した樣子が見える。
 
柿本(の)朝臣人麻呂(が)※[覊の馬が奇〕旅《たびの》歌八首
 
三津崎《みつのさき》 浪矣恐《なみをかしこみ》 隱江乃《こもりえの》 舟公 宣奴島爾     249
 
〔釋〕 ○みつのさき 難波の御津の崎である。御津は官津の稱で、大伴の御津、住吉の御津の御津も同意である。なほ「みつのはままつ」を見よ(二三五頁)。「三」は借字。○なみなかしこみ 浪が恐しさにの意。○こもりえ 風隱りする入江の意か。〇舟公宣奴島爾 舊訓は船コグキミガユクカヌジマニ〔十三字傍線〕とある。宣長は船ハモイツカヨセム奴島ニ〔十二字傍線〕(公は八毛の誤、何時の二字は脱、宣は寄の誤)、久老は舟ハモコガズ奴島の埼ニ〔十一字傍線〕(舟八毛不榜奴島埼爾)、略解は舟ハヨセナムミヌメノ埼ニ〔十二字傍線〕(舟令寄敏馬埼爾)、古義は舟ヨセカネツ奴島の埼に〔十一字傍線〕(舟寄金津奴島埼爾)など訓んでゐる。いづれも牽強で諾きがたい。元來が誤寫で不完全なものと思はれるから解釋しない。
 
玉藻苅《たまもかる》 敏馬乎過《みぬめをすぎて》 夏草之《なつぐさの》 野島之埼爾《ぬじまがさきに》 舟近著奴《ふねちかづきぬ》     250
 
〔釋〕 ○たまもかる 藻を判ることは海人の營なので、敏馬《ミヌメ》の浦の修飾に用ゐた。「たま」は美稱。○みぬめ 攝(659)津國菟原郡(今武庫郡)岩屋の海濱に亘つた浦の名。敏馬神社の岡は古への敏馬の埼で、今は汀線より百※[間の日が月〕餘も離れてゐる、地形變化の爲錨地に適しない。「敏馬」は敏の音ビンは唇内音なのでミヌに充てた。馬をメと讀むは呉音。○すぎて 古義はスギ〔二字傍線〕とのみ讀んだ。「て」に當る字はなくても添へて讀む例は集中に多い。○なつぐさの 野に係る枕詞。古義の説に、夏草の萎《ヌ》を野にいひかけたるにて萎《ヌ》はナユの約と。夏草の生ふる野の意で直ちに續けた詞としてもよいが、これは使用範圍が狹くなる。集中の例、時季に關らず枕詞として用ゐた。○ぬじまがさき 淡路國津名郡野島村。明石海峽の南方で瀬戸内海に面した地。今の蟇《ヒキ》浦邊か。土人はいふ地盤陷落の爲故形を失つたものだと。△地圖 卷頭總圖を參照。
【歌意】 自分の船は、もう敏馬の浦を通り過ぎて、今日の豫定錨地野島が崎に、近づいたことよ。
 
〔評〕 攝津から淡路へおし渡つた時の作である。「敏馬を過ぎ」とあるから、敏馬の浦から出船したのではない。前の歌にも現に「三津の崎」とある。即ち難波の御津から船(660)出して、敏馬の浦にかゝり、さて明石海峽を經て野島へと志したのである。「過ぎ」の一語でこれだけの道行を聞かせたのは、流石に簡淨な叙法である。特に敏馬の浦を取出したのは、この航路における重要な錨地だつたからで、それは左の歌に見ても領會されよう。
  八千桙の神の御世より、百船のはつる泊と、八島國もゝ船人の、定めてし敏馬の浦は――(卷五−1065)
 「船近づきぬ」に今日一日の航海に倦み切つて、漸う今夜の錨地を目前に認め得た、嬉しさの限りない氣分が現れてゐる。然しこれはまだ「近づきぬ」であつて、既に到着したのではない。そこに一分の不安と倦怠とが殘つてゐて、有餘不盡の味ひがある。その明石湊に寄港しないで、淡路の野島に碇泊したことは、時間や風又は潮流の都合などが關係してゐると考へられる。
 敏馬には「珠藻刈る」、野島には「夏草の」と修飾句を冠せて、一首が對句で合掌してゐるのも面白い。歌聖の口吻の自由自在なのには驚く。又思ふに「夏草の」は假令修飾語にせよ、或はその時季を表してゐるのではあるまいか。とすると「珠藻刈る」も單なる修飾でなく、敏馬の浦で海人の藻刈するのを目撃しての、いはゆる有心の序と見られる。かうした背景を(661)ながめると、いよ/\事實に即した當時の實况が面白く印象されてくるやうに思ふ。
 
一本(に)云(ふ)
 
珠藻苅《たまもかる》 處女乎過而《をとめをすぎて》 夏草乃《なつぐさの》 野島我埼爾《ぬじまがさきに》 伊保里爲吾者《いほりすわれは》     
 
以下「稻日野毛」の歌を除いた他の四首左註は、卷十五の「誦2詠(ス)古歌(ヲ)1」と題した中の歌によつて、後人の異同を註したものと思はれる。
 
〔釋〕 二句以下の異同を擧げた。○處女 攝津國菟原郡(今武庫那)御影の西、有名な菟原處女《ウバラヲトメ》の塚の所在地であるので地名となり、更にその海邊の稱呼にも用ゐられたものであらう。新拾遺集には「豐島《テシマ》をすぎて」とある。○いほりす 假庵して泊る。△地圖 卷頭總圖を參照。
 
〔評〕 大體は本行のと趣が同じい。「庵すわれは」は一日の行程を終つた時の、重荷をおろしたやうな安心と滿足とを語つてゐるので、それだけ「近づきぬ」とあるに比べると別な味ひになる。行旅者の物珍しい心持と勞苦とが間接に表現されて、やはり面白い。
 
粟路之《あはぢの》 野島之前乃《ぬじまがさきの》 濱風爾《はまかぜに》 妹之結《いもがむすびし》 紐吹返《ひもふきかへす》     251
 
(662)〔釋〕 ○あはぢの 四言の句。「あはぢ」は淡路國のことで、粟(阿波)の國へゆく路なればいふ。○さき 「前」は國語では崎と同語なので、借用した。○はまかぜに 「に」の辭、結句の「吹き返す」が他動詞である爲、意が齟齬して通じない。宣長は特殊の用法と見、義門法師も同意見でノ爲ニ〔三字傍点〕と譯したが、落著がわるい。私はこれを普通の用法と見て、結句の「吹き返す」の解釋を異にする説である。○むすびし 古義はムスベル〔四字傍線〕と詠んだが、前後の關係上、結ぶの動作を過去にいふのがよろしい。○ふきかへす 吹き返さ〔右○〕すの意とし、使相の用法と見る。すると上の「に」の辭がよく落著する。かく使相に用ゐることは、類例が後世ほど多い。
【歌意】 自分は淡路の野島が崎に立つて、可愛い妻が、出立の際結んでくれた著物の紐を、その濱風に、吹き返させるわ。
 
〔評〕 場處は岬角、時節は秋、紐吹き返すぼど風の動く所以である。そこに立てば勢ひ故郷の天を遠く顧望せざるを得ない。蓋しその家を懷ひ妻女を思ふ旅愁が、湧然として生ずるからである。その間にも絶えずはた/\と濱風が上裳の紐を吹き返す、あゝこの紐とても、門出の際可愛の妻がその柔手で結んでくれた紐だわいと思ふと、ひし/\とその懷かしさが胸に取詰めてくる。以上が作者の眞懷であり、本音である。然るに殊更に紐を吹返させると、故意に濱風になぶらせるものゝ如くいひ放した。そこに男兒の通有性なる空威張の強がりが見える。外面的矜持と内面的哀愁とが綯ひ交ぜに絡み合つて、幾多の葛藤を野島の岬頭で演出してゐる。
 紐は袴の紐と假定する。記(中)に、垂仁天皇がその后に、汝所堅之美豆能小佩者誰解《イマシノカタメシミヅノヲヒモハタレカモトカム》と宣ひ、又卷九「吾妹子が結《ユ》ひてし紐を解かめやも云々」と詠んだ紐を、宣長が「古は夫婦互に下紐を結び交して又逢ふまでは他人には解かせじと契り固めしなり」といつた。但下紐では「風吹き返す」譯にゆかない。或は旅衣の肩に付け(663)た紐とする説もあるが、こゝは上裳即ち袴の紐と見てよからう。旅行の際などには妻が男の装束を手傳つて、袴の紐を結んでやる位の事は、今でもする事である。
 
荒栲《あらたへの》 藤江之浦爾《ふぢえのうらに》 鈴寸釣《すずきつる》 白水郎跡香將見《あまとかみらむ》 旅去吾乎《たびゆくわれを》     252
 
〔釋〕 ○あらたへの 藤の枕詞。既出(一八九頁)。○ふぢえのうら 播磨國明石郡藤江(今の林崎村の内)。○すずき 鱸。硬鰓類。口巨きく鱗細かく、背は淡蒼色にして腹は淡白色。大なるは二尺餘に達する。夏期は海より河にのぼり、冬期は河より海に出る。「鈴寸」は借字。○あま 既出(一〇六頁)。「白水郎」も同處を見よ。○みらむ 既出(二一七頁)。△地圖 卷頭總圖を參照。
【歌意】 世の人は、この藤江の浦に鱸を釣る、海人と思はうかい、かう旅行してゐる私なのを。
 
〔評〕 藤江の浦は明石海峽に面した小漁村で、折柄海人の釣舟が海上に浮んでゐたと見える。作者の船は丁度そこにさし懸かつたので、人が見たら海人のお仲間と思はうかと打(664)興じた。「鱸釣る」の具象的の現在描寫は、その旅行の季節と海人の行動とを明示するものであつて、この場合頗る切實である。鱸の特性として針に懸かると、必ず水面高く一旦飛躍する。海上各處に巨口細鱗の飛白を看る風景は、都人士の目に忘れ難い印象を遺す。それで「海人とか見らむ」の想像の根柢には、作者自身が可なり長時間、海人等の生活に見入つてゐた趣が暗示されてゐる。この種の類歌は集中に大分ある。
  うち麻ををみの大王あまなれやいらごが島の玉藻刈ります (卷一−23)
  網引するあまとや見らむ飽浦のきよき荒磯を見に來しわれを  (卷七−−1187)
  濱きよみ磯にわがをれば見る人は海人とか見らむ釣もせなくに  (同上−1204)
  しほ早み磯みにをればかづきする海人とや見らむ旅ゆくわれを (同上−1234)
 「うち麻を」の歌は天武天皇五年の作だから、或は歌聖のより早いかも知れず、内容も違ふが、あと三首は全くこの踏襲である。殊に最後のなどはその主要句まで符合してゐる。
 わざ/\「白水郎」の字面を使つたことは、上の藤江の藤花と色相上の對映を思はせる。 
一本(ニ)云(フ)、白栲乃《シロタヘノ》 藤江能浦爾 伊射利爲流《イサリスル》
 
上句の異同を擧げた。「いさりする」は、本文の「鱸釣る」には遙に劣つて平凡である。又卷十五の再出には、四句「安麻等也《アマトヤ》」とある。
 
(665)稻日野毛《いなびぬも》 去過勝爾《ゆきすぎかてに》 思有者《おもへれば》 心戀敷《こころこほしき》 可古能島所見《かこのしまみゆ》     253
 
〔釋〕 ○いなびぬ 印南野《イナミヌ》のこと。播磨國印南郡から加古郡に廣く及んだ、東西に非常に長い野の稱で、南は海に瀕してゐた。尚「いなみくにばら」を參照(七二頁)。○ゆきすぎかてに 「かてに」は敢へずにの意。○おもへれば 思ひてあれ〔二字傍点〕ばの約。今はこの「れ」を現在完了挌の助動詞としてゐる。○こほしき 戀《こひ》しきの轉。古語。○かこのしま 今の加古郡高砂町の地か。古への鹿子《カコ》の水門《ミナト》の地點。△寫眞 挿圖 22 を參照(七三頁)。
【歌意】 稻日野も面白さに、往き過ぎにくゝ思うてゐると、又豫て聞き及んでゐて戀しく思ふ可古の島が、ま近く見えるわい。
 
〔評〕 上句は陸路の感想らしい。作者は何かの都合で船を棄てゝ、印南野を陸行したと見える。印南野は海沿ひの野で、それを中斷してゐる加古川の附近には加古の松原があり、その他にも白砂青松の海岸などがあり、遠山の紫、近巒の翠と相俟つて、その風光の面白さに見惚れつゝ行くと、漸く前方の海邊に加古の島影を認めるのであつた。それが又豫てあくがれてゐる名所であるから、印南野をよく見ようとすれば先に心が急がれ、加古の島に早く往かうとすれば後に心が惹かれると、前後應接に遑ない趣である。可古の島が何故かく心こほしく思はれたか。應神天皇紀に、
(666) 一(ニ)云、日向(ノ)諸縣(ノ)君牛、云々、始(テ)至(レル)2播磨(ニ)1時、天皇幸(シテ)2淡路嶋(ニ)1而|遊獵《ミカリシタマフ》之、於是《コヽニ》天皇、西(ノカタヲ)望《ミサケタママヘバ》之、數十《アマタノ》糜鹿《オホシカ》浮v海(ヨリ)來《マヰキテ》之、便(チ)入(リヌ)2于播磨(ノ)鹿子《カコノ》水門(ニ)1、天皇謂2左右(ニ)1曰(ク)、其《カレ》何《イカナル》糜鹿|也《ゾヤ》、泛(リ)2巨海《オホウミ》1多(ニ)來(レル)、爰(ニ)左右共(ニ)視而|奇《アヤシム》、則(チ)遣(シテ)v使(ヲ)令v察、使者至(リ)見(ルニ)皆人也、唯以(テ)2著角《ツヌツケル》鹿皮(ヲ)1爲(セル)2衣服《キモノト》1耳、問(ウテ)曰(フ)誰人(ゾ)也、對(ヘテ)曰(フ)、諸縣(ノ)君牛、是年耆之|雖《ドモ》2致仕《マカリスレ》1、不(ルガ)得v忘《ワスレ》v朝(ヲ)故(ニ)、以(テ)2己(カ)女髪長媛(ヲ)1而貢上(ルトマヲシキ)矣、天皇悦(ンデ)之、即|喚《メシテ》令(ム)v從《ツカヘマツラ》2御船(ニ)1、是以時(ノ)人、號(ケテ)2其着(シ)v岸(ニ)之處(ニ)曰(フ)2鹿子水門《カコノミナトト》1也。
と見えた地名傳説は、確かに心|戀《こほ》しき一因を成すに足りる。
 然し別に一考察を下すと、可古の水門は明石の湊から室津に到るまでの第一の中間港であつた。今は加古川の流沙が堆積して地形が陸續きと變化し、可古の島は遂に高砂町を形成してしまつたが、往時は今の周圍の低地は深く入込んだ海灣で、そこに造つた船瀬は風待汐待に最も好都合な錨地であつたらしい。作者には作者のみの知る特殊の事情も存在するから、あながちさうと斷定は出來ないが、作者の上陸の際棄てた船は、この水門に先著して一行を待ち受ける手筈があつたので、そんな意味も手傳つて、殊に心戀しく可古の島を感じたと見られぬ事もない。左註の「湖見《ミナトミユ》」は、愈よ中心を湊の假泊に置いたことを證據だてる。
 
一(ニ)云(フ)、湖見《ミナトミユ》
 
○みなとみゆ 一本に、結句が可古能《カコノ》湖見とあるとの註。「湖」は一本に潮〔右△〕とあるのは誤。湖はこの他にもミナトと訓んである。
 
蜀火之《ともしびの》 明大門爾《あかしおほとに》 入日哉《いらむひや》 榜將別《こぎわかれなむ》 家當不見《いへのあたりみず》     254
 
(667)〔釋〕 ○ともしびの 燈火の明《アカ》しを明石《アカシ》の地名にかけた枕詞。「蜀」は原本に留〔右△〕とあるは誤。蜀火は燭の拆字。拆字は支那では古くから行はれた文字遊戲である。○あかしおほと 明石海峽の稱。「おほと」は大きな迫門《セト》。「明石大門」の續きは引佐細江《イナサホソエ》、伊駒高嶺《イコマタカネ》、夕浪千鳥の儔で、連辭のの〔右○〕を略いてある。この訓は久老説によつた。アカシノオド〔六字傍線〕と訓むは非。○いらむひや 入らむ時にや。○こぎわかれ 故郷の倭島に漕ぎ別れるのをいふ。○みず 芳樹訓ミエズ〔三字傍線〕は他に例はあつても、こゝの調子には叶はぬ。古義所引の嚴水説に「不」を所〔右△〕の誤としてミユ〔二字傍線〕と訓んだのは非。△地圖 卷頭總圖を參照。
【歌意】 この船が〔四字右○〕、あの明石海峽に進入しよう時にさ、わが家のあたりも見ず、愈よ故郷の倭島に〔六字右○〕、漕ぎ別れようことかなあ。
 
〔評〕 明石海峽に船が漕ぎ入つてしまふと、これまでの茅渟灣上の眺望に、わが家のあたりの目標としてきた生駒葛城の連山、いはゆる倭島とは絶縁してしまふ。これが「漕ぎ別れなむ」である。それは作者が嘗ての旅行に體驗したことか、或は人から聞き及んだことかは不明であるが、とにかく事實で、國しぬびの種《クサ》はひの明日はなくなることを豫想して、不安らしく危惧してゐる。まことの旅心地にまだなり切らぬ、初ひ/\しい行人の氣持が、如實に躍動してゐる。「入らむ日」と、明石海峽通過には相應の時間をもつたやうな表現によつて見ると、恐らく難波出帆から敏馬あたりの假泊までの途上における感懷であらう。
 「見ず」は歌聖にして始めて下し得る快語である。本來なら自動の否定を用ゐる場合だが、斷然他動的否定に見ず〔二字傍点〕といつて退けた。胸中の欝結が無理やりに※[口+罅の旁]隙を求めて、一旦に爆發した貌である。
(668) この歌三句まで一氣に調べおろしてある。即ち歌聖當時の現代調である。四五句はその倒装によつて危く繊弱の弊套から逸脱し、而も結句の五音三音の促調も相扶けて、巨岩の押懸るやうな上句の力量と、その斤衡を保ち得た。
 要するに結構雄偉、格調高渾、左右顧慮する處なくその眞懷を吐露し來つて、無限の底力を示してゐる。實に歌聖の代表作の一で、又藤原朝期の代表作の一である。
 
天離《あまさかる》 夷之長道從《ひなのながぢゆ》 戀來者《こひくれば》 自明門《あかしのとより》 倭島所見《やまとじまみゆ》     255
 
〔釋〕 ○あまさかる 鄙《ヒナ》の枕詞。既出(一二四頁)。○ひなのながぢ 長い田舍道。○ゆ 助辭で、ヨリの古言。又よ〔傍点〕とも轉じていふ。何れもリ〔傍点〕の尾音を添へて、ユリ、ヨリともいふ。この語は又ニ、ニテ、或はヲなどの意にも使はれた例が集中に散見してるる。こゝは本義に解してよい。○あかしのと 上の「明石大門」を見よ。(669)○やまとじま 茅渟灣を隔てゝ見た生駒葛城を主峯とした一帶の陸地(大和地方)の呼稱。
【歌意】 田舍のそれは/\長道中から、家戀ひつゝくると、やれ嬉しや、明石海峽から故郷の倭島が見えるわい。
 
〔評〕 上の五首は京から下る時の作、これは京に上る時の作である。「鄙の長道」は海陸いづれにも通用するから、作者の出發地の推定がつかない。假に筑紫から上京とすると、――作者人麻呂は筑紫に居たことがある――在國幾年、歸心の矢は切つてこゝに放された。然し公程は約廿餘日、その間行旅の艱險のあればある程、望郷の念は倍加してくる。「戀ひくれば――みゆ」の口調に、長い航海苦の後漸く、明石の門から故郷の山を認め得た歡喜の情が躍つて脈打つてゐる。僅に倭島の山影を望んだばかりでさへ、かうである、いかに甚しい郷愁に囚れてゐたかと、作者胸中の苦悩が想像されて、同情に禁へない。こゝに至つて「天離る」も單なる枕詞としてのみ見遁すことが出來ない。その出發地の「ひな」の頗る遠方であることが囘顧される。
 
一本(ニ)云(フ)、家門當所見《イヘノアタリミユ》
 
○いへのあたり 「家門」をイヘと訓む。「門」を、契沖は乃〔右△〕の誤とした。西本その他にヤドノ〔三字傍線〕の訓もある。夷の長道を戀ひ來る對象としての家のあたりは、やはり倭島である。但莊重な上來の調子によると、大やうに「倭島見ゆ」と結收した方がふさはしい。
 
飼飯海乃《けひのうみの》 庭好有之《にはよくあらし》 苅薦乃《かりごもの》 亂出所見《みだれいづみゆ》 海人釣船《あまのつりぶね》     256
 
(670)〔釋〕 ○けひのうみ 淡路國津名郡松帆村|笥飯《ケヒ》野に沿うた海の稱。松帆の浦のこと。越前にも笥飯《ケヒ》の浦があるが、上のが皆播攝附近の作だから、これも淡路と見るがよい。「飼」をケと訓むことは、食(ケ)の義に通はしたのである。笥《ケ》の通用でも誤寫(契沖説)でもない。又カヒ(飼)の約のキがケに轉じた(古義説)のでもない。○には 海面。船の航行する處の稱。○あらし ある〔右○〕らしの略。○かりごもの 「亂れ」にかゝる枕詞。刈り取つた薦の亂れ藉《シ》いた態を譬へていふ。「薦」は眞菰のこと。前出(六四二頁)。○いづみゆ 終止の「出づ」から「見ゆ」の動詞に續けるは古挌。△地圖 卷頭總圖を參照。
【歌意】 あの飼飯の海上は、和《ナギ》であるらしいわ、數多の海人の釣舟が、散り亂れて漕ぎ出すのが見える。
 
〔評〕 明石邊からの眺望であらう。海上に撒いたやうに舟が出てゐるのを見ての、「庭よくあらし」の推定は、結果を擧げてその原因を訊ねる手法で、とかく平凡に墮し易いものだ。けれども作の動機に立入つて考へると、あまり海馴れぬ旅人がその驚異の眼を瞠つたもので、そこに感哀がある。「亂れいづ」は澤山の舟が前後を爭つて活動する光景に對し、簡にして要を得た表現である。(671)すべて風調がさはやかで、快い響をもつてゐる。
 以上七首(三津崎を除く)の歌、挌調は高古、氣象は雄渾で、天馬の空を行くにも譬ふべく、又よく離人の愁緒を※[聲の耳が缶]して、その景を叙するや清光朗徹、その情を叙するや感哀無量、神あつてその筆端に繚繞してゐるやうである。わが歌聖人麻呂にして始めて可能なる傑作佳作である。
 
一本(に)云(ふ)、
 
武庫乃海《むこのうみの》 舶〔左△〕爾波余久〔二字左○〕有之《にはよくあらし》 伊射里爲流《いさりする》 海部乃釣船《あまのつりぶね》 浪上從所見《なみのへゆみゆ》
 
〔釋〕 ○むこのうみ 攝津國武庫郡の海。○にはよくあらし 卷十五の再出に、「爾波余久安良之《ニハヨクアラシ》」とあるに從ひ、舶〔右△〕を除き、余久〔二字右○〕を補つた。元のまゝでは解し難い。宣長はフナニハ(船庭)ナラシ〔九字傍線〕と訓んで、船出によい日和らしいと解し、古義はフネニハアラジ〔七字傍線〕と訓んで、武庫の海の舟ではあるまいの意としたが、何れも妥當でない。○なみのへゆ この「ゆ」は輕い用法で〔傍点〕、ニの助辭に近い。「上」はウヘ〔二字傍線〕と訓むもよい。
【歌意】 あの武庫の海上は、和《ナギ》であるらしいわ、漁りする海人の釣舟が、波のあたりに見える。
 
〔評〕 上の歌に比べると、遙に生彩がない。「浪のへゆ見ゆ」などの凡句が、その因を成してゐると思ふ。
 
鴨《かもの》君|足人《たりひとが》香具《かぐ》山(の)歌一首并短歌
 
(672) 〇鴨君足人 傳未詳。鴨は氏、君は姓、足人は名。續紀の天平寶字三年十月の條に、天下(ノ)諸姓著(クル)2君(ノ)字(ヲ)1者《ハ》換(フルニ)以(テセヨ)2公(ノ)字(ヲ)1とある。こゝに君の字を書いてあるのは、この法令の出ぬ以前に書き留めて置いたものを、そのまゝ載せたのであらう。○香具山歌 委しくは高市(ノ)皇子(ノ)薨後《カクリマセルノチ》於香具山(ニテ)作歌と書くべきを略筆した爲、意が不完になつた。高市皇子の香具山(ノ)宮のことは、卷二「高市(ノ)皇子(ノ)尊(ノ)城(ノ)上(ノ)殯宮之時」と題する人麻呂の挽歌に「わが大王の萬代と思ほしめして造らしし香具山の宮」とある。尚「かぐやまのみや」を見よ(五四一頁)。△地圖及寫眞 挿圖6(二二頁)21(七〇頁)及び4(一九頁)を參照。
 
天降付《あもりつく》 天之芳來山《あめのかぐやま》 霞立《かすみたつ》 春爾至婆《はるにいたれば》 松風爾《まつかぜに》 池浪立而《いけなみたちて》 櫻花《さくらばな》 木晩茂爾《このくれしげに》 奥邊波《おきへには》 鴨妻喚《かもつまよばひ》 邊津方爾《へつへに》 味村左和伎《あぢむらさわぎ》 百磯之《ももしきの》 大宮人乃《おほみやびとの》 退出而《まかりいでて》 遊船爾波《あそぶふねには》 梶棹毛《かぢさをも》 無而不樂毛《なくてさぶしも》 己具人奈四二《こぐひとなしに》     257
 
〔釋〕 ○あもりつく 天降著《アマオリツ》くの約。「あもりいまして」を見よ(五三二頁)。香具山(芳來山)は天から降つてこの土(673)に著いたといふ傳説によつて、香久山の枕詞とする。○かぐやま 既出(一九頁)。尚「あめのかぐ山」(二一頁)を參照。「芳來」は芳をカグと訓む、芳《カグハ》しの意。來は添字。この添字の書例は集中に多い。〇かすみたつ 舊訓カスミタチ〔五字傍線〕。○いけなみたちて 池は埴安《ハニヤス》の池。「埴安のつつみ」を見よ(二〇五頁)。○このくれしげに 樹蔭小暗く咲き〔二字右○〕たるにの意。上の櫻花を承けた。「このくれ」は水闇《コグラ》いこと、又木闇い處をいふ。「しげに」は茂《シゲ》なる〔二字右○〕にの略。この解諸註悉く誤つてゐる。古義の「爾」を彌〔右△〕の誤としてシゲミ〔三字傍線〕と訓んだのは非。○おきへ 奥の方。岸より遠い方を、海にても河にても池にても沖(奥)といつた。○かもつまよばひ 鴨がその雌を呼び。「よばひ」は呼ぶ〔傍点〕の延言。舊訓はカモメヨバヒテ〔七字傍線〕。鴎は卷一に「かまめ」とあり、降つてこの時代にはカモメと轉稱したかも知れぬが、「鴨妻」をカモメと訓むことは牽強に近い。○へつへに 岸の方に。上の「おきへには」に對して、こゝも邊つへに〔四字傍点〕は〔右○〕とあるがよい。恐らくは脱字。○あぢむら 味鳧《アヂカモ》の群。「あぢさはふ」を見よ(五一六頁)。○ももしきの 宮の枕詞。○おほみやびと 既出(一三一頁)。なほ「おほみや處」を參照(一二七頁)。○まかりいでて 既出(一二六頁)。皇子の宮より〔六字右○〕退出して。○あそぶふね 遊びし船〔四字傍点〕と過去にいふべきを現在法で叙した。「たわやめの袖吹き返〔傍四字点〕す飛鳥風」(卷一)と同格。○さぶしも 「さぶし」は「うらさびて」を見よ(一三七頁)。「も」は歎辭。
【歌意】 天の香具山が霞の立つ春になると、松風にその麓の池の浪が立つて、櫻の花が木闇く一杯に咲き、池の沖の方には鴨がおのが妻を喚び立て、岸の方には味鳧の群が立ち騷ぎ、何時も〔三字右○〕大宮人が皇子の御所から退出して遊ぶその船には、今は梶さへも棹さへもなくて詰らないことよ、漕ぐ人とても無しでさ。
 
(674)〔評〕 高市皇子の香山の宮は香山の北邊埴安池の附近にあつた。卷二に「埴安の御門の原」の語もある。高市皇子は持統天皇の十年七月に薨逝されたのだから、この歌は恐らくその翌年の春の作であらう。
 香具山の北麓には、作池としては廣大なる埴安の池が、漫々としてその碧を湛へてゐた。それが春になると山の松風が吹きおろして、池のさゝ浪は萬疊の皺を寄せ、山の櫻は爛漫と咲いて木蔭を澤山作る。然るに皇子御在世の時と違ひ、今は徒らに池の遠近は鴨や味鳧が盛に活躍して、おのが棲處を得顔に跋扈してをり、大宮人も香具山の宮から退出がけに、よく舟遊をしたことであつたが、その薨後は船漕ぎめぐる人とてもなく、無論梶棹さへもなくなつて、空船ばかり依然として洲渚に横はつてゐる。繁華寂寥、一旦に處を換へた感愴は、實に「さぶしも」の一句に盡きてゐる。結末の倒装は、殊に人影もない物寂しさを強調するに役立つてゐる。
 水鳥の來集するのは冬から春へかけてゞある。されば皇子薨逝の七月頃には鳰(ムグリ)位が常棲してゐるのであつたのが、翌年の花の頃には澤山の水鳥が喧噪してゐる。その喧噪が却て皇子逝後の荒廢の光景と寂寥感とに反映して、愈よ悲哀の情を唆るのであつた。
 この篇小じんまりと纏まつてゐる。香具山及び埴安の池の景象は、舒明天皇の御製(卷一)と相俟つて、ほぼ彷彿することが出來よう。「木のくれ茂に」は、上來の陽和駘蕩たる春色の叙事から、後來の荒涼たる光景の細叙に入る轉捩の句である。下の或本歌の「茂み」は平叙になるので、對映の妙味を缺いてゐる。
 
反歌二首
 
(675)人不※[手偏+旁]《ひとこがず》 有雲知之《あらくもしるし》 潜爲《かづきする》 鴦與高部共《をしとたかべと》 船上住《ふねのへにすむ》     258
 
〔釋〕 ○こがず 「※[手偏+旁]」は楫で漕ぐこと。榜も通用。○あらく ある〔二字傍点〕の延言。「雲」は借字。○かづきする 潜き業をするの意で、修飾語。今潜きするのではない。「かづき」は潜《モグ》ること。舊訓イサリスル〔五字傍線〕。○をし 鴛鴦。游水類の鳥。雌雄常に偶居し、その雄は鮮麗なる羽毛を有する。○たかべ 小鴨の古稱。和名妙に、※[爾+鳥]、多加閉《タカベ》、一名沈鳧、貌似v(テ)鴨(ニ)而小(ク)、背(ノ)上(ニ)有(リ)v文とある。掖齋いふ、俗にタカフ、又タカホなど呼ぶ鴨と。「高部」は借字。○すむ 居ること。
【歌意】 あの舟は〔四字右○〕、人が漕ぎもせず捨てゝあることは明らかだ、水鳥の鴦と高部とが、その上にゐるよ。
 
〔評〕 長歌の末節の餘響を繼いで、池中の捨小舟によつて再びその詠歎を繰り返した。冷熱忽に處を換へて、宮人の參退はその跡を絶ち、朱のそば舟は徒らに空渚に横はつて、只水鳥達に休憩處を供するに至つては、實に凄愴の極みである。「※[廬+鳥]※[茲+鳥]飛(ビ)上(ル)越王臺」(竇鞏)「只今惟有(リ)2※[庶+鳥]※[古+鳥](ノ)飛(ブ)1」(李白)の唐賢の諸作に彷彿してゐる。只惜しいことには初二句が、説明であること、三句の「潜きする」がさう深い意味で置かれたのでもあるまいが、「舟の上に住む」に對映してゐる結果、自然にそこに多少の理趣を存してゐることである。
 
(676)何時間毛《いつのまも》 神左備祁留鹿《かみさびけるか》 香山乃《かぐやまの》 鉾椙之本爾《ほこすぎのもとに》 ※[草冠+辟]生左右二《こけむすまでに》     259
 
〔釋〕 ○いつのまも 何時の間に〔右○〕もの意。「も」は歎辭。○かみさび 上すさびの意で、物舊ること。○けるか 「か」は疑辭。「祁」の字は漢音キ、呉音ギであるが、當時ケの音が存在してゐたものと思はれる。○ほこすぎ 杉は鉾の如き姿に生ひ立つので譬へていふ。若木の杉に限るといふ説は採らない。「椙」は日本の創字で杉のこと。○もとに 「もと」は根本で、蔭といふに同じい。
【歌意】 皇子の薨後まだ幾らも經たぬのに、何時の間にまあ物舊りたものか、この香具山の鉾杉の蔭に、※[草冠/辟]が生えるほどにさ。
 
〔評〕 皇子御生前は日夕の清掃に、鉾杉の蔭まで繊塵も留めなかつたものであらう。然るに殿守の伴の御奴餘所にして、今は※[草冠/辟]苔の自由に犯すに任せてある。作者は曾て逍遙した鉾杉の蔭に立つて、その荒廢の意想外なのに愕き、「何時の間も」の疑問を投げ懸けた。今昔の感はこの語によつて昂揚される。その「鉾杉のもと」にかうした感懷のある所以は、杉蔭などの濕潤な處には、殊に早く苔や草の生えるからである。
 
或本(の)歌(に)云(ふ)、
 
天降就《あもりつく》 神乃香山《かみのかぐやま》 打靡《うちなびく》 春去來者《はるさりくれば》 櫻花《さくらばな》 木晩茂《このくれしげみ》 (677)松風丹《まつかぜに》 池浪※[風+犬三つ]《いけなみたちて》 邊都返者《へつへには》 阿遲村動《あぢむらさわぎ》 奥邊者《おきへには》 鴨妻喚《かもつまよばひ》 百式乃《ももしきの》 大宮人乃《おほみやびとの》 去出《まかりでて》 榜來〔左▲〕舟者《こぎにしふねは》 竿梶母《さをかぢも》 無而佐夫之毛《なくてさぶしも》 榜與雖思《こがむとおもへど》     260
 
〔釋〕 ○かみのかぐやま 香具山を神格視していふ。○うちなびく 若い草木のしなやかに靡く春と續けて、春の枕詞とした。卷二十に「うち奈婢久《ナビク》春を近みか」とある。舊訓ウチナビキ〔五字傍線〕は非。○はるさりくれば 既出(七九頁)。○このくれしげみ 木蔭の闇が繁くて。○なみたち 「※[風+犬三つ]」は大風暴風などをいふ。風|立《ダ》つの意でタチと訓んだ。○さわぎ 舊訓トヨミ〔三字傍線〕は味村には打合はぬ。○まかりでて 舊訓ユキイデテ〔五字傍線〕は語を成さない。○こぎにし 「來」を去〔右△〕の誤と見た久老訓によつた。舊訓コギコシ〔四字傍線〕は非。【歌意】及び【評】は大體上のと同じなので略く。
 
右今案(フルニ)、遷(セル)2都(ヲ)寧樂1之後、怜(ミテ)v舊(ヲ)作(メル)2此歌(ヲ)1歟。
 
この註は後人の所爲で、高市皇子の宮が香具山にあつたことを遺れたいひ方である。「怜舊」の舊は藤原の舊都をさしたらしいが、歌は專ら香具山(ノ)宮懷古の作である。
 
柿本(の)朝臣人麻呂(が)獻(れる)2新田部《にたべの》皇子(に)1歌一首并短歌
 
(678)○新田部皇子 天武天皇の第七皇子。續紀によれば、母は内大臣藤原鎌足の女|五百重娘《イホヘノイラツメ》。文武天皇の四年淨廣貮、慶雲元年には三品、同二年には二品、養老三年十月内舍人二人大舍人四人衛士二十人を賜はり、同四年八月知五衛及授刀舍人事となり、神龜元年二月一品、同五年七月大將軍明一品、天平三年十一月畿内諸道に總管撫使を置かれた時、その大總督に任ぜられた。同七年九月薨去。
 
八隅知之《やすみしし》 吾大王《わがおほきみ》 高輝《たかてらす》 日之皇子《ひのみこ》 茂座《しきいます》 大殿於《おほとののへに》 久方《ひさかたの》 天傳來《あまづたひくる》 白〔左△〕雪仕物《ゆきじもの》 往來乍《ゆきかよひつつ》 益及座〔左△〕世《いやしきいませ》     261
 
〔釋〕 ○たかてらす 契沖及び古義のタカヒカル〔五字傍線〕の訓は拘つてゐる。輝又は照とある時はタカテラス、光とある時はタカヒカルと訓むがよい。既出(一七六頁)。○しきいます 敷き坐す。「敷きなべて」を見よ、(一二頁)「茂」は借字。茂及び繁にシキの古訓がある。○おほとののへに 「於」に上《ウヘ》の意がある。よつて邊《ヘ》の借字に用ゐた。○あまづたひくる 天を傳うてくる。「久方の」より「雪じもの」までの三句は「往き」に係る序詞。舊訓「白雪」までを句として、クルをコシ〔二字傍線〕と訓んだのは非。○ゆきじものゆきかよひつつ 雪その物のやうに間なく往來して。雪の降る動きを思うて「雪じもの」と序に置いた。ユ(679)キの音を疊んだのではない。「白」原本に自〔右△〕とある。白雪をユキと訓む眞淵説に從つて改めた。○いやしきいませ 彌|繁《シ》き坐せ。「及」は借字。「座」原本に常〔右△〕とある。久老説によつて改めた。眞淵は「常」を萬〔右△〕の誤としてヨロヅヨマデニ〔七字傍線〕と訓んだ。舊訓トコヨナルマデ〔七字傍線〕は意が通じない。
【歌意】 私の大王樣、日の皇子樣、貴方樣が占めて入らつしやる大殿のあたりに、天を傳うて降つてくる、あの雪その物のやうに、間斷なしに往來しつゝ、この八釣の御別莊に〔九字右○〕、この上にも繁く入らつしやいませ。
 
〔評〕 反歌に八(矢)釣山を歌つてあるので思ふと、新田部親王の別莊がそこにあつたらしい。八釣は藤原宮からは南、飛鳥からは東に當つた岡陵で、殊に上八釣は急峻に狹く屈折した迂路を有し、林木が今でも叢生して、まことに別莊向の幽邃さがある。親王は藤原京から往來して、休沐の暇こゝにその浩然の氣を養はれた。時はこれ冬、たま/\雪は鵞毛の如く紛々としてその大殿の邊に散落する。恪勤者人麻呂は忽ちこの雪の降下状態から聯想を馳せて、これを序詞に運用し、この大殿に足繁く親王の安息せられんことを冀ひ、親王永久の御榮を祝福した。間接には、親王が世事多端で御來莊の稀なる事を語つてゐる。
 この篇長歌としては頗る小形なもので、小長歌〔三字右○〕と稱する。而もその中問長句の序詞を挿入して、恰も小座敷で長槍を揮ふに似た特殊の至藝を見せてくれた。さりとて技巧の末に墮せず、莊重典雅、その體時宜に適つたものである。要するに小にして大なるものか、歌聖の擅場。
 
反歌一首
 
(680)矢釣山《やつりやま》 木立不見《こだちもみえず》 落亂《ふりまがふ》 雪驪〔左△〕《ゆきにさわげる》 朝樂毛《まゐりたぬしも》     262
 
〔釋〕 ○やつりやま 大和高市郡飛鳥村大字八釣にある。○ふりまがふ 「亂」をマガフと訓むは意訓。舊訓チリマガフ〔五字傍線〕、略解訓フリミダル〔五字傍線〕。○ゆきにさわげる 「驪」の字、類葉抄に、驟〔右△〕とあるに從つて訓んだ。古義は※[足+麗]をサワギテ〔四字傍線〕と訓んだ。眞淵は※[足+鹿]〔右△〕の誤としてキホヒテ〔四字傍線〕と訓んだが、これは字書に舞ひ履む、又は歩むの義とあるから、アユメル〔四字傍線〕(芳樹説)と訓む方がよい。舊訓にはユキハダラナル〔七字傍線〕とあるが、驪にハダラ(まだら〔三字傍点〕の古言)の意はない。○まゐりたぬしも 久老の訓によつた。アシタタヌシモ〔七字傍線〕(舊訓)もわるくもない。マヰテクラクモ〔七字傍線〕(仙覺その他の訓)は「朝」の下に來〔右○〕の字がなくては無理である。マヰラクヨシモ〔七字傍線〕(古義)は、「樂」の下、吉〔右○〕を脱したとする説である。
【歌意】 八釣山のその木立も見えず、盛に降る雪に、きほひたつての御所への出仕は、面白いことよ。
 
(681)〔評〕 八釣山は雜木に蔽はれた小山の連續に過ぎないが、「木立も見えず」と歌はれたので見ると、昔も頻る木茂き處であつたらしい。大和は元來雪が少い。それだのに或朝八釣の木立も見えぬほど降つたではないか。物珍しさに別莊參進の官人達は苦勞も何も忘れて、悉く悦に入つて興じた。板で押したやうな日々の出仕に一味の生氣を與へて、今日しも「樂しも」と叫ばせるのは、この雪といふ剽輕者の仕業である。
 作者人麻呂がこの新田部親王家に出仕する事となつたのは、恐らく養老三年に親王の賜はつた大舍人四人の内の一人であつたのであらう。嘗て奉仕した草壁(日竝皇子)高市の二皇太子の薨後は、一時地方の小吏をも勤めた外は久しく家居してゐたのを、この時三たび出仕したと見てよからう。拾芥抄に「天智天皇の時の人なり」とあるを假に助けてその出生の時とすると、この養老三年には五十八歳ほどになる。長く沈淪してゐた前後の勤勞で、間もなく地方官に轉任、遂に石見で勤務中に卒した。本朝通紀、國史實録の記事を信ずれば、神龜元年の死去になつてゐるから、通算六十三歳ほどで卒したことになる。
 
從《より》2近江(の)國1上來《まゐのぼる》時、刑部垂麻呂《おさかべのたりまろが》作歌一首
 
○從近江國云々 刑部垂麻呂の五字を上に置くが正しい。然し集の書式は統一してゐない。○刑部垂麻呂 刑部は氏、大和城上郡|忍坂《オサカノ》郷の人が刑部の職に勤務したので、遂に刑部をオサカベと唱へるやうになつた。垂麻呂は名。傳は未詳。
 
馬莫〔左△〕疾《うまいたく》 打莫行《うちてなゆきそ》 氣竝而《けならべて》 見※[氏/一]毛和我歸《みてもわがゆく》 志賀爾安良七國《しがにあらなくに》     263
 
(682)〔釋〕 〇うまいたく 「馬莫疾」の莫は、次の「打莫」と重複する故削るがよい。古義に吾馬疾《アガウマイタク》の誤とあるは、輕尻馬に乘せて貰つて行く人のやうに聞えて可笑しい。○うちて 鞭〔右○〕打つて。○けならべて 略解に、日竝べて〔四字傍点〕といふに同じく日數重ねることゝある。語例が少いので假にこの解に從つておく。「け」は宣長いふ來經《キヘ》の約と。○みてもわがゆく 見てゆくと續く。「も」は歎辭。○しが 既出(一三一頁)。△地圖及寫眞 挿圖28(九三頁)124(四三二頁)を參照。
【歌意】 馬をさう急がせて、鞭をあてゝ行きなさるなよ、日數重ねて我等が愛賞して行かれる、この志賀でもないのにさ。まあ/\ゆるりと見物しませう。
 
〔評〕 作者がその同人等と西近江の北部から上京の途次、志賀を通過しての作である。それは北偏の海津《カイヅ》にせよ今津にせよ勝野《カチヌ》にせよ、湖上の風景は決して惡いものではない。然し湖北は水面が餘に廣いので景に締りがない。湖南となると對岸の山々又は島々の風色も掬すべき程の近距離に蹙まつて、山水明媚の境となる。かく見ると、こゝに特に志賀を推賞してゐる所以もおのづから明瞭する。二度も三度も見られる譯でないから、せめて今でもゆるりとして行かうとは、疑もない旅人の感懷で、而も日程に制限をもつ官人の口吻である。「打ちてな行きそ」と同人への呼び掛け、「あらなくに」のいひさしの抑揚、この場合における自然憧憬の氣分を如實に表現し得て面白い。馬は當時の旅行にはこの背を※[人偏+就]るのが通例であつた。
 
柿本(の)朝臣人麻呂(が)從(り)2近江(の)國1上來《まゐのぼる》時、至(りて)2宇治河(の)邊(に)1作歌一首
 
(683)人麻呂が近江から上京の時、宇治川の邊にきて詠んだとの意。これは卷一に見えた近江の舊都を訪うて憑弔の長歌を作つた時の歸路ではあるまいか。あれから宇治に出て、飛鳥京か藤原京かに歸涼したものであらう。○宇治河 既出(一九二頁)。△地圖 挿圖66を參照(一九二頁)。
 
物乃部能《もののふの》 八十氏河乃《やそうぢがはの》 阿白木爾《あじろぎに》 不知代經浪乃《いさよふなみの》 去邊白不母《ゆくへしらずも》     264
 
〔釋〕 ○もののふのやそうぢ 宇治にいひかけた序體の枕詞。古事記傳に「物部《モノノベ》はすべて、武事を以て仕へ奉る建雄《タケヲ》の稱なるが、廣き義には朝廷に仕へ奉るすべての官人をもいへるは、上代武勇を主とせられしによる。さればその氏々の數多き意にて、武夫《モノノフ》の八十氏《ヤソウヂ》、武夫の八十件《ヤソトモ》の緒《ヲ》と續け、遂には八十の枕詞の如くにも用ゐたり」とある。既出(一九二頁)。○あじろぎ 網代木。川上を廣く川下を狹く、網を引いた形に川中に※[木+戈]を打つて、それに竹木を編んだ網代簀《アジロス》といふ簀の床を拵へて、そこに堰かれた水は床(684)の簀を漏れて流れ、あとに魚ばかりが聚るのを、夜々篝火をともして捕るのである。網の代であるによつて網代といふ。その※[木+戈]か網代木《アジロギ》である。「阿白」は借字。○いさよふ 休らひとゞこほる貌をいふ。猶豫、躊躇などの意。「不知」をイサと訓むは意訓。○しらずも 「しらず」は知られ〔右○〕ずの意。「も」は歎辭。「白」は借字。
【歌意】 この宇治川の網代木に堰かれて、暫時ためらふ浪の、つひの行方はわからぬことよなあ。
 
〔評〕 宇治の網代は古くから有名なものである。何を捕へたかといふと、氷魚《ヒヲ》といつて、近江の湖水から落ちてくる白魚のやうな小魚を捕つたので、延喜式の内膳式に、
  山城近江(ノ)國(ノ)氷魚(ノ)網代各一所、其氷魚始(リ)2九月(ニ)1迄(リ)2十二月三十日(ニ)1貢(ス)v之(ヲ)。
とあるから、人麻呂時代とても決して民間營業ではなく、所謂宮中のお止め川であつたらう。宇治は瀬が速い、隨つて一時網代木に堰かれて白波が立ちもするが、その末はまた汪洋たる大河の水で、波一つ揚らない。これが「行方知らずも」の語の生まれる所以である。いやかういつては餘り「波」の字に執着し過ぎた見方である。作者の意は波は水を代表させたに過ぎないので、孔子が河水に臨んで「逝(ク)者(ハ)如(キ)v斯(ノ)乎、混々(トシテ)不v舍(カ)2晝夜(ヲ)1」といはれた如く、逝く水に對した不盡不窮永遠などの哲理觀を含んだ意が歌はれてゐるのであらう。僅に「知(685)らずも」の單句を以て一首を靈動させた、この手法には敬服する。つまり一意到底の長高體で、調が高く想は平凡の大いなるものといつてよい。「八十氏河」の仕立は袖布留山《ソデフルヤマ》、衣春雨《コロモハルサメ》の類語で、いひかけが動詞でないだけに品がよく聞える。「も」の歎辭も非常に力強く響いてゐる。
 この歌が近江舊都を訪うた歸路の作とすれば、あの長歌に見えた如く時季は春であらねばならぬ。氷魚の季節は專ら冬であるが、その季節以外の春季とすると、もう竹や柴の柵《シガラミ》は取去つて、網代木ばかりが河瀬に林立し、それに白波が激してゐる光景は、清少納言がすさまじき〔五字傍点〕物と評した如くで、その索莫たる風趣に伴ふ感哀は、逝く水に對する哲理觀を生むによき媒介である。
 
長(の)忌寸|奥《おき》麻呂(が)歌一首
 
○長忌寸奥麻呂 意吉《オキ》麻呂のこと。傳は既出(二二三頁)。
 
苦毛《くるしくも》 零來雨可《ふりくるあめか》 神之埼《みわがさき》 狹野乃渡爾《さぬのわたりに》 家裳不有國《いへもあらなくに》     265
 
〔釋〕 ○あめか 「か」は歎辭。○みわがさき 紀伊國東牟婁郡三輪崎村(今新宮市内)の岬角。「神」の字を「ミワ」と訓むは大神をオホミワ〔四字傍点〕と訓む例による。古義は字のまゝにカミノサキと訓み、神をミワと訓むは大神に限つた事と斷じた。けれどもこの歌の記録者は種々(686)な假借を自由に驅使してゐるから、これもその一つと見れば異論を挾むにも及ぶまい。○さぬのわたり 三輪が埼から北西に連亙する岡陵に沿うた細長い海岸の平野。狹野の稱もこの地形から起つた。佐野と書くはあて字。「わたり」は渡津。邊の意のワタリは奈良朝時代にはないとの古義説に假に從つた。○いへも この「も」は強く響くので、サヘモの意になる。
【歌意】 わびしくも降つてくる雨よ、この三輪が埼や狹野のわたりに、宿るべき家さへもありはせぬのにさ。
 
〔評〕 旅中雨に遇つた位みじめな情けないものはない。それも雨宿りの木蔭があるとか家があるとかなればまだしも、岡と海とに挾まれた二十餘町に亙る、潮風すさぶ無人境三輪が埼狹野のわたりでは、全く立場がない。一體作者はもうこゝに來るまでに十分旅の苦患に悩み拔いてゐる。そこへさしてこの雨だ。「苦しくも」は怺え/\た擧句に、覺えず發した自然の呻きである。形容詞の使用はとかく歌の味ひを索莫たらしめるが、この初句は却て人の肺腑に深く喰ひ入る感がある。而も「か」の歎辭のもつ強い響は、その主觀の歎意(687)を的確に裏付けてゐる。また三輪が埼狹野と續けて、その場處や地形に現實性を附與し、さて「家もあらなくに」といひさした詠歎の味ひの遠長さ、部分的にいへばかうであるが、概觀すると一旅人の曠野の雨に遇つた困惑の眞情が如實によく出てゐる。
 
柿本(の)朝臣人麻呂(の)歌一首
 
上に、近江國より上る歌がある。或はそれと同時の作か。素より近江は大和からさう遠方でもないから、再三作者は往復したものと見てもよい。卷一にも「過2近江荒都1」の作がある。
 
淡海乃海《あふみのみ》 夕浪千鳥《ゆふなみちどり》 汝鳴者《ながなけば》 情毛思努爾《こころもしぬに》 古所念《いにしへおもほゆ》     266
 
〔釋〕 ○あふみのみ 神功皇后紀に「阿布彌能彌《アフミノミ》」とあるから、アフミノウ〔右○〕ミと讀むにも及ばぬ。近江の湖水のこと。○ゆふなみちどり 夕浪に立ちゐる〔四字右○〕千鳥の略。「あかしおほと」を參照(六六七頁)。○ちどり 千鳥。渉水類の小鳥で尾短く背部は青黒色、頬腹は白、頭觜は蒼黒色、冬の頃をおもに水邊に群れ(688)飛ぶ。故に千鳥の稱がある。乳鳥と書くは借字。○なが お前が。○しぬに 萎《シヌ》にて。「しぬ」は萎《シナ》ぶの語根シナの轉じたもの。「努」をヌと讀むは呉音。○おもほゆ 思はれる。
【歌意】 近江の湖水の、夕浪に立居する〔四字右○〕千鳥よ、お前が鳴くと、私の心も萎れ返つて、昔が思ひ出されるわ。
 
〔評〕 大津の宮の懷古の作である。壞宮の芳草徒らに長じて、太湖の水再び昔の俤を浮べず、空しく寄せては浪の返るばかりである。まして日暮物思のおほい時、浪の音の殊に高く聞える時、自分憑弔の客は低徊俯仰して去るに忍びない。それを何ぞや夕浪千鳥聲もしげけく鳴くではないか。切々と懷古の情を促し來つて、殆ど腸も寸斷する。千鳥が鳴くと昔が偲はれるといつたものゝ、實は千鳥の鳴かぬ以前から泣いてゐる人の作である。
 「汝が」と對稱に呼びかけて、自分と千鳥とを近く親しく關係づけておいたことは、「鳴けば」の語が有効に活躍する素地を成してゐる。かくて「鳴けば」が眼目の語となつた。この手法は集中、
  おうの海の川原の千鳥汝がなけば〔五字傍点〕わが佐保川のおもほゆらくに  (卷三、門部王―371)
  あし引の山ほとゝぎす汝がなけば〔五字傍点〕家なる妹し常におもほゆ  (卷八、沙彌―1469)
  ほとゝぎすあひだしましおけ汝がなけば〔五字傍点〕あが思ふ心いたもすべなし  (卷十五―3785)
など例が多い。「夕浪千鳥」の造語は他にも類例はあるが、それは大抵地名から普通名詞に接續の際、連辭のの〔傍点〕を略したもので、かくの如く上下とも普通名詞の場合に、助辭又は動詞の略かれたのは珍しい。實に大膽な(689)る造語である。東坡が江※[王+搖の旁]柱は天下の珍味但多食は不可といつたやうな趣である。まづ歌聖人麻呂にして始めて可なるものであらう。
 
志貴《しきの》皇子(の)御歌一首
 
〇志貴皇子 これは天智天皇の御子で、天武天皇の御子の磯城《シキ》皇子ではあるまい。傳は既出(二〇〇頁)。
 
牟佐佐婢波《むささびは》 木末求跡《こぬれもとむと》 足日木乃《あしひきの》 山能佐都雄爾《やまのさつおに》 相爾來鴨《あひにけるかも》     267
 
〔釋〕 ○むささび ※[鼠+吾]鼠。栗鼠科の動物。栗鼠より大きく、前後兩肢間に膜があつて樹上を飛ぶ。夜間その洞穴より出て果實を食ひ、鳴く聲小兒に似てゐる。古名もみ。俗にモヽガ、モヽングワ。○こぬれ 木末《コノウレ》の約。後世はこずゑ(梢)とのみいふ。○もとむと 「と」はとての意。○あしひきの 山の枕詞。既出(三四三頁)。○やまのさつを 山の獵師。「さつを」は幸雄《サチヲ》の轉で、山|幸《サチ》をあさる男の稱。
【歌意】 ※[鼠+吾]鼠は住むべき梢を求めるとて、飛びあるいた爲、つひ山獵師に出會つてしまつたことよ。
 
(690)〔評〕 聖武天皇が高圓山に獵をなされた時、※[鼠+吾]鼠が里まで飛び出してつかまへられ、坂上(ノ)郎女が、
  ますらをの高圓山にせめたれば里におりくるむさゝびぞこれ  (卷六―1028)
と詠んだことがある。然しこの作者は元明天皇の御世に薨じてゐるから、こゝの※[鼠+吾]鼠はそれとは關係の無いものである。事相が極めて單純なのに合はせて、詠歎が少し永過ぎる。で寓意の作と斷ずる。略解は、
  物慾しみして身を亡すを譬へ給へるに、大友大津の皇子たちの御事などを目のあたり見給ひて、しか思せるなるべし。
と評した。まづその邊の處と見てよからう。
 
長屋《ながやの》王(の)故郷《ふるさとの》歌一首
 
○故郷 故京の意で、歌に「古家《フルヘ》の里の飛鳥」とあるから、飛鳥京をさしたもの。尚後出の「ふるさと」を見よ(一二四九頁)。○長屋王 傳は既出(二六二頁)。
 
吾背子我《わがせこが》 古家乃里之《ふるへのさとの》 明日香庭《あすかには》 乳鳥鳴成《ちどりなくなり》 君〔左△〕待不得而《きみまちかねて》     268
 
〔釋〕 ○わがせこ この「せこ」は夫の稱ではなくて、男性間の呼稱に用ゐた。そして男兄弟をも殊に呼ぶことがある。○ふるへのさと 古家のある〔二字右○〕里。「ふるへ」はふるいへ〔四字傍点〕の略。○あすかには 外の場處は知らずこの飛鳥にはの意。「は」の辭法がおもいので、かく差別の意を生ずる。「あすか」は既出(四八頁)。○なくなり 「なり」は決定の助動詞。○きみ「君」原本に島〔右△〕とある。眞淵説によつて改めた。○かねて 「不得」をカネと訓むは意訓。△地圖及寫眞 挿圖21(七〇頁)68(二〇一頁)を參照。
(691)【歌意】 貴方の住捨ての舊家のある飛鳥の里では、貴方のお歸を待ちかねて、千鳥が頻に鳴いて居りますわい。
 
〔評〕 飛鳥の故京を訪うた作者がかく詠んで、「わが背子」とさした人に贈つた歌である。飛鳥京時代には定めてその附近に皇族方が卜居されてゐた事であらう。が藤原京に遷都後は、又競うて新都に移住するのも當然の成行である。遷都後間も無い頃、たま/\舊京の飛鳥を訪問したものは、まだ取拂に及ばぬ舊亭樹を、必ずそこ此處に見出だしたであらう。全く迹形もない荒廢ならともかく、このなまなかの存在が却て深い感傷の因を殘すのを如何ともし難い。作者の呼び掛けた「わが背子」は誰れか。親しい皇族か、殊によると或は御弟の鈴鹿王かも知れない。自分はかうして自分の舊家を音づれた、然るに他の舊家は寂しいを通り越して殆ど死の影を引いてゐる、只飛鳥の川原千鳥の哀音が僅に生物の消息を傳へて、訪ねても來ぬ舊家の主人を待ちかねて居るといふ。有情の千鳥と無情の主人とを暗に對照させ、その間に切々たる哀韻を漂はせてゐる、蘊含の味ゆたかな表現は、洵に凡手ではない。
 
右今案(フルニ)、從(リ)2明日香1遷(レル)2藤原(ノ)宮(ニ)1之後作(メル)2此歌(ヲ)1歟。
 
題詞に「故郷」と既にあるから、この註は無用である。
 
阿倍女郎《あべのいらつめが》屋部坂《やべざかの》歌一首
 
○阿倍女郎 阿倍氏の女であらうが傳は未詳。○屋部坂歌 屋部坂を詠じた歌の意とも、屋部坂で詠んだ歌の(692)意とも聞かれる。○屋部坂 三代實録元慶四年の條に、百濟《クダラノ》大寺を高市郡夜部村に移すとある。夜部は今の多村字矢部であるが、坂はなくなつた。
 
人不見者《ひとみずば》 我袖用手《わがそでもちて》 將隱乎《かくさむを》 所燒乍可將有《やけつつかあらむ》 不服而來來《けさずてきけり》     269
 
〔釋〕 ○ひとみずば 考(眞淵)の一説に人爾有者《ヒトナラバ》の誤かとあるは私に過ぎる。○やけつつかあらむ 燒かれ〔三字傍点〕つつあるのであらうか。「やけ」は燒かえ〔三字傍点〕の約。故にわざと「所燒」と書いて、その他動詞であることを示した。新考は「乍」を手〔右△〕の誤としてヤカレテ〔四字傍線〕と訓んだ。○けさずてきけり 著せないで來た。「けさ」は四段活用の著《ケ》すの將然態。著《ケ》スは著ルの古言。眞淵が「來來」を坐〔右△〕來の誤としてヲリケリ〔四字傍線〕と訓み、久老もそれによつてマシケリ〔四字傍線〕と訓んだ。以上の如く誤字説が盛であるが、その歌意を解くに至つては皆不明確であるから、一切私意による改竄を避けた。
【歌意】 この山坂の醜い赤膚を、人が知らずば、私の著物でもつて隱してやらうと思ふのを、かう赤いのは〔六字右○〕、或は誰れかに燒き立てられてゐるのであらうから、人目にかゝるも嫌と、著物も著せないで來たわい。
 
〔評〕 赤膚山に對つて袖で隱してやらう、即ち著物を著せてやらうとは、既に女らしい優しい同情であるのに、「人見ずば」が愈よ女のもつつゝましやかな氣持を出してゐる。そして人目を憚つた爲にその同情を實行し得なかつたことを、深く歎息してゐる。伺處までも婦人らしい情味に富んでゐる。「燒けつつかあらむ」は赤膚の(693)色相から火を聯想してのことであらうが、假令これが戲謔の作としても、うまい落想ではない。
 
高市《たけちの》連《むらじ》黒人(が)覊〔馬が奇〕旅《たびの》歌八首
 
○高市連黒人 傳は既出(二二五頁)。
 
この覊〔馬が奇〕旅歌八首は三河尾張の作、山城攝津の作と大體が區分され、その相互間の連絡の有無は判明しない。とにかく全部が同時の聯作でないことは確かである。
 
客爲而《たびにして》 物戀敷爾《ものこほしきに》 山下《やましたの》 赤乃曾保船《あけのそほふね》 奥※[手偏+旁]所見《おきにこぐみゆ》     270
 
〔釋〕 ○たびにして 旅中にあつて。○ものこほしきに 何がなし戀しいのに。「物」は弘くさしていふ詞。卷一の「ものこほしき」を參照(二四四頁)。〇やましたの 赤《アケ》に係る枕詞。「やました」はビ〔傍点〕の形容尾語を添へても用ゐ、山の日に句ふ耀きを意味する。故に「山したの」は赤《アケ》に續く。○あけのそほふね 赤い赤土塗《ニヌリ》の船。集中「引きのぼる赤の曾朋《ソホ》舟」(卷十三)「挾丹塗《サニヌリ》の小舟」(卷九)「左丹漆《サニヌリ》の小舟」(卷十三)「赤羅《アカラ》小船に」(卷十六)などある。「あけ」は赤《アカ》の轉。古義に朱映《アカハエ》の約とあるは煩はしい。「そほ」はそふ〔二字傍点〕ともいひ赤土のこと。卷十四に「眞金ふく丹生《ニフ》の麻曾保《マソホ》の」とある。○おきにこぐ 沖にて〔右○〕漕く。これを沖に漕ぎ出づる趣に、古義などに解したのは古代の辭樣を辨へぬもの。又新考のオキヲコグ〔五字傍線〕の訓は穿鑿である。△寫眞 挿圖125を參照(四三五頁)。
(694)【歌意】 旅の空とて何がなしに物戀しいのに、赤塗の官船が沖で漕ぐのが見える。とても懷かしいなあ。
 
〔評〕 令の集解の古記に「公船者以(テ)v朱|漆《ヌル》v之(ヲ)」(久老引用の文)とあるによれば、官船は丹朱に彩色して、その標識としたものである。作者は今都からこの海邊にさすらひ、輕い郷愁に打たれてゐる時、たま/\海上通過の官船を、その朱色によつて認めたのである。但これだけでは、主意がどう落着したのかわからない。こゝに至つて、作者の身分を一往檢討する必要がある。作者はとにかく官吏であつた。公役には官船に乘つて往來し得る資格者である。從前とても或はそれに乘つた經驗をもつてゐたらう。で官船を認めるや否や、ひし/\と何といふ事なしに、懷かしい親しい感じに打たれたものと思はれる。その官船がもし都行きのものであつたら、愈よその懷かしさが溜らなかつたであらう。作者は既に旅中の孤獨感に打たれて、物戀しき感懷に囚はれてゐた人である。
 古への船舶は多くの場合岸近に航行したのだから、沖とはいつても岸に近い。されば沖に漕ぐ船が「あけのそぼ船」たることも識別される譯で、それが碧の波に映じて蕩漾する趣は頗る印象的である。
 
櫻田部《さくらだへ》 鶴鳴渡《たづなきわたる》 年魚方《あゆちがた》 鹽干二家良進《しほひにけらし》 鶴喝渡《たづなきわたる》     271
 
〔釋〕 ○さくらだ 和名抄に尾張國愛知郡に作良(ノ)郷がある。作良は櫻の義。今も愛知郡笠寺の北に櫻といふ部落がある。天白川の流域で、その西北に當る山崎から始めて笠寺、鳴海などの線が、當時の作良卿の海岸線であ(695)つたらう。櫻田はその海岸に接する田の稱。○へ 方向を指示する辭。「部」は借字。○あゆちがた 年魚市潟。作良郷前面の海の總稱で、その一部を後世のものに鳴海潟と出てゐる。平安期にはあゆち〔三字傍点〕を阿伊智《アイチ》(愛知)と訛つた。潟は潮水の干滿する滷潟の地を稱する。潮干れば水鳥の下り立つて餌をあさるに適する。「方」は借字。○けらし 「進」類聚古集その他に之〔右△〕とある。
【歌意】 櫻田の方へ、あれ鶴が鳴いて行くわ、多分年魚市潟は汐が干たらしい、櫻田の方へ、あれ鶴が鳴いて行くわ。
 
〔評〕 潮の滿干によつて鶴が去來する。即ち干潮時には海に往き、滿潮時には陸に還る。赤人の若の浦一詠、
  わかの浦に潮みちくれば潟をなみ蘆邊をさして鶴鳴きわたる  (卷六―919)
は滿潮時の作で、これは反對の干潮時なのである。櫻田は年魚市の海に連續した潟田であつたと見える。鶴は水邊の高地などの樹林に巣喰ふから、其處から櫻田さして鳴きゆくのを見た作者は、まづ即興的に「櫻田へ鶴鳴き渡る」と歌ひ、更に一分の思索を加へて年魚市潟の潮干を推想した。この推想はほんの説明と修飾とを兼帶の脇役に過ぎず、主役はやはり碧空に羽搏つて飛ぶ白鶴の影とその清唳の聲とである。で再び立返つて、「鶴鳴き渡る」と反復して結收したものである。ごく太い線で力づよく二刷毛ばかりに掃いてのけた簡朴な素描を見るやうで、極めて清素な感じの靈動する、氣品高い作である。
(696) 第二句を第五句に反復するは古體の一格である。なほ「麻裳よし紀人ともしも」(二一九頁)の評語を參照。
 
四極山《しはつやま》 打越見者《うちこえみれば》 笠縫之《かさぬひの》 島榜隱《しまこぎかくる》 棚無小舟《たななしをぶね》     272
 
〔釋〕 ○しはつやま 雄略天皇紀、十四年|呉人《クレビト》參朝の條に、泊(ル)2住吉(ノ)津(ニ)1、是月爲(ニ)2呉客《クレビト》1通《ヒラキ》2磯齒津《シハツ》路(ヲ)1、名(ク)2呉坂(ト)1と見え、卷六に四八津《シハツ》の泉郎《アマ》を茅渟《チヌ》の海に詠み合せてある。また記傳に、難波の古圖を見るに住吉社の北方に四八津山と記せりとある。されば四極山は住吉丘陵の一部で、今の帝塚山附近の稱と見たい。攝津の喜連《キレ》(今大阪市内)は呉《クレ》の訛ではあるが、それは呉人の郷で四極山には關係なく、且住吉喜連間は地勢平坦で山も坂もない。○かさぬひのしま 攝津國東成郡深江村(今大阪市内)の古稱と傳へられてゐる。菅田が多くて菅の質が優れ、里人は昔からそれを採つて笠を縫ふことを生業としてゐた。素より寄洲の浮島で、その周圍は廣い沼江であつたらしい。笠を製るには、先づ骨組を立てそれに菅や布帛を縫ひ著けるので、縫ふ〔二字傍点〕の語がある。○たななしをぶね 小さい舟にば船棚がないのでいふ。船棚とは、和名抄に、※[木+世]、和名|不奈太那《フナダナ》、大船(ノ)旁坂也とある。舟の小縁板で、舷のこと。
【歌意】 四極山を打越して見渡すと、遙かの笠縫島に漕ぎつゝ隱れてしまふ、あの柵無しの小舟はよ。
 
(697)〔評〕 この人また住吉で、
  住の江のえな津に立ちて見わたせば武庫の泊ゆいづる舟人 (卷三―283)
と詠んでゐる。同時の作であらう。舟の出入こそあれ、いづれも跳望の叙景で、同趣同調のものである。抑も古へは淀川の下流は縱横に分派し、大和川百濟川も會湊して沼澤を作り、今の大阪附近は多くは洲嶼を成してゐた。住吉から鼻の支へたやうな四極の山路を越えると、眼界頓に豁然として一幅の活畫圖が展開され、萬頃の蒼波、幾處の蜑村島嶼が、歴々と指點される。かくてはかない棚なし小舟も、端なく詞人の一顧を得て、笠縫島に漕ぎ隱れるまで、その行方の諦視されたのは幸である。靜中の動、その景致が想ひやられる。
 この歌四極山振〔四字傍点〕として後世にまで傳誦され、古今集(卷二十)大歌所御歌の部に收められてある。それに二句「うち出でて見れば」、三句「笠ゆひの」とあるは、自然に謠ひひがめられたものである。
 
磯前《いそのさき》 榜手囘行者《こぎたみゆけば》 近江海《あふみのみ》 八十之湊爾《やそのみなとに》 鵠佐波二鳴《たづさはになく》 未詳     273
 
〔釋〕 ○いそのさき 磯の出崎。作者は固有名詞として詠んだのでないが、多分は近江國坂田郡の磯前神社の附近の地であらう。訓は考によつた。舊訓はイソザキヲ〔五字傍線〕。○こぎたみゆけば 漕ぎ廻つてゆけば。「囘」はタミと訓む。そのタの頭音を明示する爲に、タの訓ある「手」を書き添へた。頭尾の添字はこの集の書式の一である。古義の「手向」の二字をタミ〔二字傍線〕と訓むとする説は採らない。玉葉集その他の訓にコギテメグレバ〔七字傍線〕とあるは非。○やそのみなと 數々の湊。卷十三に「近江の海|泊《トマリ》八十あり」とも見えて、「やそ」は多數の轉義。これを近江國犬上(698)郡の八坂《ハツサカ》村に充てる説は附曾。○たづ 「鶴」はくゞひ〔三字傍点〕即ち白鳥の事であるが、鶴の通用字。漢代既に黄鵠を黄鶴と歌つてある。この通用を以て誤とするは、支那でも後世の議論である。神本には鶴の字になつてゐる。○未詳 これは作者の未詳ではなくて、第二句の「手囘」の訓に就いての後人の爪印かと思はれる。
【歌意】 近江の湖の、磯の出崎を漕ぎ廻つてゆくと、あちこちの湊々で、鶴が盛んに鳴くわ。
 
〔評〕 磯崎は洲崎ではない。湖岸の磯崎は北部に多いが「八十の湊」とある地形上、坂田の黒崎が最もこの歌にふさはしく考へられる。その磯の出鼻を漕ぎめぐると、忽ち前面に展開する長汀短汀が隨處に灣を成して、ひたひた波の寄る處は即ち鶴の遊息場であり、附近の樹林はその安眠の床であつた。澤山の湊に澤山に鳴くとある表現は、もとより多少の誇張を含んでもゐようが、その群居し群飛する光景までが聯想される。大和人たる作者としては、その詩情を惹くに十分な興趣であることは、「近江の海」と打上げたのでもわかる。但この窮りない逸興のうちに、輕い哀愁の旅情を蔽ふものがあることは爭はれない。萬葉人はこの鶴の聲によつて、多くの旅愁を唆られたことを忘れてはならぬ。
 
吾船者《わがふねは》 枚乃湖爾《ひらのみなとに》 榜將泊《こぎはてむ》 奥部莫避《おきへなさかり》 左夜深去來《さよふけにけり》     274
 
〔釋〕 ○ひらのみなと 比良の浦のこと。近江國滋賀郡の北比良南比良の湖岸。「枚」は片《ヒラ》の義があるので充てた。「湖」は、この集の例ミナトと訓む。○おきへなさかり 沖の方へ遠離《トホザカ》る勿《ナ》。「へ」は方向を示す辭。動詞に冠(699)した「な」の禁止の辭をそ〔傍点〕と承けぬのは古格。「部」は借字。○さよ 「さ」は美稱。
【歌意】 私のこの船は比良の湊に漕ぎ着けよう。船頭よ、さう沖の方へ出てくれるなよ、もう夜が更けてしまつたわい。
 
〔評〕 作者は粟津か今の大津邊から湖上に乘り出したと思はれる。比良の湊は大津から勝野の津にわたる途中の要津で、直徑約八里の航路である。これは陸路を往つてもいゝが、船の方が日和さへ好ければ氣持もよく、殊に同行者のある場合には何かと好都合である。然るに今作者黒人の船は、思の外豫定が狂つて航行中に日が暮れ、蒼凉たる夜色のうちに、只一隻湖上に取殘されてしまつた。その心細さは船に馴れぬ殊に夜船に馴れぬ旅人の堪へられぬ處である。けれど船頭は一向そんな事には無頓着で船を遣る。ある時は岸が近く、ある時は岸が(700)遠い。然し、航路は一直線に針路を取つてゐるので、岸の近い時にはやゝ安心し、遠くなると大變な沖へ出たやうに思はれて「沖へなさかり」とその不安さに焦燥する。况や段々と夜が更けてくる。層一層恐怖が甚しくなる。とても溜つた譯のものではない。卷七の
  吾が船は明石のうらに漕ぎはてむ沖へなさかり小夜ふけにけり(―1229)
はこの歌を歌ひ換へたものである。
 
何處《いづくにか》 吾將宿《われはやどらむ》 高島乃《たかしまの》 勝野原爾《かちぬのはらに》 此日暮去者《このひくれなば》     275
 
〔釋〕 ○いづくにか 「か」の辭は訓み添へたもの。久老はイヅクニ〔四字傍線〕と四言に訓んだ。○いづく 何處《イヅコ》を古代にはかくいつた。○たかしまのかちぬのはら 近江國高島郡大溝(もと三尾《ミヲ》の郷)即ち高島津から北西方に開いた曠野の稱。
【歌意】 何處に私は宿を取らうかい、高島の勝野の原で、今日のこの日が暮れてしまふなら。
 
(701)〔評〕 黒人のこの旅行は、越前か若狹に出る目的であつたらしい。前夜比良の湊に船を捨てゝ一泊し、今朝から陸路に就いたのであらう。比良の湊から勝野までは僅々四里ほどの道程に過ぎない。が種々の事情で勝野に著いた頃はもう羊のさがり。勝野の北はいはゆる勝野の原で、今でも曠漠たる平野が續き、古への郡家の地たる田中まではまだ一里強もある。日影は漸く西に傾くが、一行の歩速は頗るにぶい。黒人一人やきもき氣を揉んでも、どうにもならない。そこで旅人の常に懷く日暮れて道遠き歎聲を洩らしたのである。「この日」と指示代名詞を用ゐたさし迫つた表現が、この際の氣分を如實に出してゐる。殊に古へは旅宿に大きな不便を感じてゐたので、人烟の稀な曠野などにかゝつては、これが全く厄介な、しかも大切な問題であつた。前程の不安は遂に「いづくにかわれは宿らむ」と叫ばざるな得なくなつたのである。
 
妹母我母《いももわれも》 一有加母《ひとつなれかも》 三河有《みかはなる》 二見自道《ふたみのみちゆ》 別不勝鶴《わかれかねつる》     276
 
〔釋〕 ○ひとつなれかも 一體であれば〔右○〕か。「か」は疑辭。「も」は歎辭。○ふたみのみちゆ 二見の道で。「二見の道」とは三河の豐橋にある道の稱で、二見は豐橋の古稱であらう。(この私考は別にある)。こゝより道は二つに分岐し、その東北に走り本坂《ホンサカ》越(三遠の國境)をして、濱名湖の北岸を濱松(曳馬野)に出るを姫街道と呼ぶ。(702)蓋し婦人は海道筋の風浪の嶮を避けて、專らこの道を取つた故の稱である。その南して高師山より、濱名湖の南邊、海の中道を濱松に出るのを海《ウミ》街道と稱し、これを本街道とする。こ「ゆ」は殆どにて〔二字傍点〕の意に近い。より〔二字傍点〕の意としては、結句の「別れかねつる」の解が迂遠になる。「ゆ」は前出(六六八頁)。○わかれかねつる 妹に〔右○〕別れかねた。二見の路から別れかねるのではない。「一」「二」「三」は殆ど戲意的と思はれる程に數目の語が疊出した。
【歌意】 家内も私も一體であるせゐかしてまあ、この三河の二見の路で、どうにも別れて去なれぬわ。
 
〔評〕 作者は遠江以東の國衙の官吏としての赴任の途上であつたらう。「三河なる」はもとより他郷人の口吻である。三河の國府からの追分路、妻君は安きに就いて姫街道にかゝるが、自分はやはり官吏の公定道路たる海道筋にかゝらねばならぬ。なまじひに夫婦一緒にこゝまで長旅をかさねて來た爲、一時的のことにしろ忽に袂を分つことは、何としても情に忍びない。二岐路に何時までも佇立して、別を惜む綢繆纏綿の情致がよく現れてゐる。かくてその別れかぬる所以を思索して、「妹も我も一つなれかも」と、唯物的の推想を尤らしく下したことは、頗る天外の奇想で、その痴呆の妙は及び難いものがある。今この二見の路で一旦手を別つたとしても、末は必ず一つに曳馬野附近で出會ふのだから、僅か二日路ほどの(703)假の別れに過ぎない。それでもなほかく歎ぜざるを得ない所以は、その對象がうら寂しい心細い旅人の慰さの唯一の伴侶であり、片時でも離れ難い最愛の妻だからである。           △二見の道考(雜考―11參照)
 
一本(に)云(ふ)、黒人(の)妻《めが》答(ふる)歌〔五字左○〕
 
○黒人妻答歌 原本「一本云」の下、闕文になつてゐる。歌は前の黒人の作の答歌だから、必ずその妻女の作である。依つてこの五字を補つた。素より後の校勘者の記入で、題詞にいふ八首の數に入らぬものである。
 
水河乃《みかはの》 二見之自道《ふたみのみちゆ》 別者《わかれなば》 吾勢毛吾毛《わがせもわれも》 獨可毛將去《ひとりかもゆかむ》
 
〔釋〕 ○みかはの 四言の句。「水」は借字。古義に「水河乃の乃は有〔右△〕の草字からの誤にて、黒人の歌にミカハナルとあるからは、ミカハノと四字に詠む理なし」とあるは、膠柱の論である。○わがせ 既出(九〇頁)。「勢毛吾毛」を古葉その他に勢文〔右△〕吾文〔右△〕とある。○ひとりかも 「か」は疑辭。
【歌意】 ほんに仰しやるとほり〔十字右○〕、この二見路で一旦お別するならば、これからは吾が夫《セ》も私も、銘々一人ぼつちで行くのでせうかまあ。心細いこと。
 
〔評〕 上句はわざと黒人の詞をそのまゝ反復して使つた。「わがせもわれも」と等分にいつてはあるが、主となる處はやはり作者自身で、婦人としての立場から、これまで經驗しない獨旅を、危惧の豫想に驅られて、憂愁に耽つてゐる。この夫唱へ婦和する黒人夫妻の蜜の如き交情は、聽者をして愈よその暫時の別離にも深い同情の(704)涙を禁めざらしめる。
 
速來而母《とくきても》 見手益物乎《みてましものを》 山背《やましろの》 高槻村《たかのつきむら》 散去奚留鴨《ちりにけるかも》     277
 
〔釋〕 ○やましろ 「山背」は山城と改めた延暦十三年以前の書法。○たかのつきむら 「たか」は山城國綴喜郡多賀村及び井手村の稱。和名妙に多河《タカノ》郷とある。「つきむら」は槻群。「村」は借字。「つきのき」を見よ(五七三頁)。舊訓タカツキノムラ〔七字傍線〕、又タカツキムラノ〔七字傍線〕は攝津の高槻村(今は高槻町)の事となつて、山|背《シロ》ではない。
【歌意】 もつと早く來て見ようものを、殘念にも山城の高の槻林は、散つてしまうたことよ。
 
〔評〕 高(多賀)にその昔槻の林立があつたと見える。槻は即ち欅で、暮秋には悉く黄葉する。殊に水村山郭などの烟霧の發つ處ではあか/\と色づいて、その美しさは楓樹に劣らぬ。
 作者は素より官人だから、さう自由の體ではない。何かの機會でふと京北五里の高の郷を訪うて、その槻群(705)に出會つた。が惜しい事に、千葉の紅黄は早くも泥土に委して、うそ寒い風が徒らに空林を渡るに過ぎない。散り立つたら待て暫しのないのが槻の落葉の特徴である。餘りの事に「とく來ても見てましものを」と、死兒の齡を敷へるに等しい愚痴を溢して、「散りにけるかも」の詠歎を永うしてゐる。
 この歌大和と山城と國こそ異なれ、遊覽の作で獨旅の意は淺い。但類を以てこゝに攝したものと思ふ。
 序にいふ「高槻の村散りにけるかも」の一訓は不完の辭句のやうだが、古代にはかうした省筆法があつて、
  山しろの久世の鷺坂神代より春は發《ハ》りつゝ秋は散りけり   (卷九−1707)  能登河の水底さへに照るまでに三笠の山は咲きにけるかも   (卷十−1861)
の類、咲き〔二字傍点〕又は散る〔二字傍点〕といへば、花が咲き紅葉が散ることに領承されたのである。只地理的に齟齬があるので、この訓は探り難い。
 以上の諸作はいづれも粒揃ひの神品佳品で、風調體挌敢へて人麻呂の覊旅作に遜らず、或は平々景を叙して悽其人に迫り、或は情景交錯して萬端の愁緒を抽出し、或は眞率相話するものゝ如く、或は蒼凉悽婉、或は典雅流麗、その變化自在を極めた大手腕には實に敬服する。作者黒人は實に本集に於ける一方の覇主として推尊すべき歌人である。
 
石川(の)女〔左△〕郎《いらつめが》歌一首
 
○石川女郎 「女」原本に少〔右△〕とある。類聚抄によつて改めた。左註に、「今案(フルニ)石川(ノ)朝臣|君子《キミコ》號(ンデ)曰(フ)2少郎子《ワカイラツコト》1」とあるは、誤文の少郎〔二字傍点〕に就いて注したもので無用。再考するに、この石川女郎は太宰(ノ)帥大伴(ノ)旅人卿の母石川命婦(706)(邑婆《オホバ》)の事であらう。この人は大納言安麻呂の妻で、息旅人の筑紫行に隨伴して來たらしい。旅人の薨後までも長命してゐた事は、本卷の挽歌の天平七年坂上郎女(旅人の妹)が詠んだ長歌の左註に「大家石川(ノ)命婦依(ツテ)2藥餌(ノ)事(ニ)1、往(ク)2有馬(ノ)温泉(ニ)1」と見えたのでも明らかである。△地圖 下の挿圖 217 を參照(七四四頁)。
 
然之海人者《しかのあまは》 軍布苅鹽燒《めかりしほやき》 無暇《いとまなみ》 髪梳乃少櫛《くしげのをぐし》 取毛不見久爾《とりもみなくに》     278
 
〔釋〕 ○しか 筑前國糟屋郡志賀村。志賀島、志賀の濱あり、博多灣口を扼する。「しか」は洲處《スカ》の義で、沙洲をいふ。「然」は借字。筑前風土記に「この島(志賀島)近く打昇《ウチノボリノ》濱と連接して殆ど同地、よつて近《チカノ》島といふ、今訛つて資※[言+可]《シカノ》島といふ」とあるは、例の地名傳説に過ぎない。打昇濱は志賀の濱のこと。○め 和布《ニギメ》、荒布《アラメ》の海藻類の總稱。「軍布」の軍は昆と相通。昆布はヒロメと訓んで若布のこと。所謂コンブではないらしい。○いとまなみ 暇がなさに。〇くしげ 櫛笥。既出(三一四頁)。(707)「梳」はケヅルの意で、ケの假字に充てた。これは契沖訓による。舊訓はツゲノヲグシヲ〔七字傍線〕。○をぐし 「を」は接頭の美稱。○とりもみなくに 手に執つても見ぬに。△挿畫 挿圖99を參照(三一四頁)。
【歌意】 志賀の海人は海藻を刈つたり、鹽を燒いたりして、暇といふものが無さに、櫛筥の櫛さへも、手に觸れても見ぬのになあ。
 
〔評〕 婦人の作らしいことは衆口の一致する處である。まして題詞の條で解説した如く石川(ノ)命婦の作となると、愈よ面白い。
 往時の海人の生活は現代ほど分業的でないから、撈漁をはじめ海藻を刈る、鹽を燒くなど、極めて多端であつた。殊にその女達は布刈、鹽燒がふさはしい仕事とされ、毎日/\波に濡れ砂に塗れて働く。何時櫛の齒を入れたとも思はれぬ蓬頭亂髪である。
 石川命婦は累世の名家大伴家の大母(邑婆)で、太宰の長官たる旅人卿を御子息にもつた貴婦人中の貴婦人である。一日宰府から出遊して志賀の長濱、志賀の島の勝を訪ひ、始めて下賤なる海人の生活に接して、物珍しくその眼を瞠つた。命婦は勿論老年ではあるけれど高貴のこととて、日髪日化粧の、揃笥の小櫛を手から放さぬお方である。始めこそ全然懸け違つたこの同性者達の状態に奇異を感じたらうが、普通婦人の身嗜とする櫛梳さへえせぬ生活に追はれる見じめさ、一旦そこに想ひ到ると、同情の聲を放たざるを得なくなつたのである。「志賀の海人は」は他の一般婦人に對しての揚言である。
 「布刈り鹽燒き」の漸層的表現は、その促調と共に「いとまなみ」に力強い根柢を與へてゐる。四句の「櫛笥(708)の少櫛」の疊言も、二句の漸層に對應して面白い。但それらは細節のことで、全體に格調が高渾で、而も深い感愴に滿たされてゐる。
 
右今案(フルニ)、石川(ノ)朝臣|君子《キミコ》、號(ンデ)曰(フ)2少郎子《ワカイラツコト》1也。
 
この今案の從ひ難いことは、題詞の條に説明した。
 
高市(の)連黒人(の)歌二首
 
吾妹兒二《わぎもこに》 猪名野者令見都《ゐなぬはみせつ》 名次山《なすぎやま》 角松原《つぬのまつばら》 何時可將示《いつかしめさむ》     279
 
〔釋〕 ○ゐなぬ 攝津國武庫郡。古への川邊豐島二郡にわたつた野の稱。猪名川その間を流れ、北に猪名山があり、南に猪名の湊があつた。○なすぎやま 武庫郡。廣田神社の西の岡陵。○つぬのまつばら 武庫郡今津村に津門《ツト》の名がある。その津に接續した野に津野《ツヌ》の稱が與へられたのであらう。「角」は借字。
【歌意】 かねて妻に見せたいと思つて居た、猪名野はもう見せた。まだこの行先の面白い名次山や角の松原は、何時まあ見せてやれようことか。
 
(709)〔評〕 この歌の樣式は、
  あがほりし野鳥はみせつ底深きあこねのうらの珠ぞひりはぬ   (卷一―12)
と同型であるが、あれは作者自身だけの風流韻事で、これは愛他的の情味を主としてゐる。妻君に未見の地を案内して喜ばせようとする、然も一つ見せてもまだ物足らぬ、どうかしてより以上にその滿足を買はうとする努力に、限りない温情が籠つて嬉しい。殊に「示さむ」の一語に丁寧親切な氣持が表現されて居る。猪名野も名次山角の松原も、作者が曾遊の際、尤も心の惹かれた形勝の地であることが、かく歌はれた所以である。既に作者が曾遊の地といつた。かく猪名野附近に陸路の旅を取る事は、作者が中國筋の地方官として赴任してゐたのではあるまいか。もつと遠方なら海路につくのが當時は至當であつた。作者の官等は高くないと見られるから、朝集使或は他の臨時の公用で上京し、歸國には妻を伴うたその折の詠作と見たい。
 又いふ、猪名野から名次、角の道順は、古への攝津街道で、而もその下向道である事を示してゐる。これに就いては下出「むこのとまり」(七一四頁)を參照ありたい。
 
去來兒等《いざこども》 倭部早《やまとへはやく》 白菅乃《しらすげの》 眞野乃榛原《まぬのはりはら》 手折而將歸《たをりてゆかむ》     280
 
(710)〔釋〕 ○こども こゝの兒は婦人をさした稱で、「ども」と複數にはいつてあるが、妻君をのみ呼んだものと思はれる。○やまとへはやく の下、往かむ〔三字右○〕を略いた。この「やまと」は都をさした。既出(二〇頁)。○しらすげの 序詞で、白菅の生ふる〔三字右○〕眞野といふべきを早くいつた。「白菅」は莎草科の草本で水邊濕地に自生する、莖葉蚊屋釣草の如く、淡緑色にて稍白色を帶ぶ。夏莖上に穗を抽き、上部に雄花を立て下部に雌花を垂れる。○まぬ 攝津國八田部郡眞野。今の紳戸市内といふ。○はりはら 萩原。「榛」は借字。既出(二二一頁)。
【歌意】 さあ女房ども、いゝ加減にして早く京へ急がうぜ、でこの面白い眞野の萩原の花は、手折つて、持つて往かうよ。
 
〔評〕 任國から妻君を帶同して、歸京の途上にある作者であつた。忙しい旅の道行ずりにも、眞野の萩原の秋色の面白さはまた格別で、妻君なか/\その御神輿を擧げない。乃ち「倭へ早く」と催促して、その歸思を驚したのである。さりとて萩原に對しての愛着は決して妻君に劣るものではない。「手折りてゆかむ」が即ちそれで、風流情味の饒かな作である。
 「萩原手折りて」は頗る疎宕な辭法で、この類例は集中に多い。後世毛を吹いて庇を求むる習慣から、修辭が微々細々を極め、大まかで味のあるものがなくなつた。「白菅」の序詞は實在の萩原と混線を招ぎ易くて面白くないが、古代にはさのみ嫌はなかつた。
 又いふ「榛原」は必ず萩原であらねばならぬ事は、この歌の趣でも證明される。假令榛の木の皮や實が染料になるからとて、榛の林など何處に立去りかねる程の風情があり、手折つてゆく程の愛賞價値があるか。
(711) この歌と上の歌とは同時の作でない。
 
黒人(の)妻《めの》答(ふる)歌一首
 
白菅乃《しらすげの》 眞野之榛原《まぬのはりはら》 往左來左《ゆくさくさ》 君社見良目《きみこそみらめ》 眞野之榛原《まぬのはりはら》     281
 
〔釋〕 ○ゆくさくさ 往きしな歸りしな。「さ」は接尾辭でシタの約。古言に時、折、場合などの意を、シタ又はサタともいふ。俗のシナ〔二字傍点〕はこの轉語。
【歌意】 この面白い眞野の萩原を、任國へ往來の都度、貴君樣こそ度々御覽にもなりませう。私は女の事でまたとも見られますまいから、さうお急ぎなさいますなよ。
 
〔評〕 黒人が「倭へ早く」と行先を急ぐと、「貴方こそ厭になる程御覽でせうが」といひさして、拗ねたやうな口吻には、えいはぬ味ひがある。力強い「こそ」の辭から生ずる半面の情意は、婦人の境涯として又と愛賞の機會のない事を辭柄に、飽くまで萩原に深い愛着を示してゐる。かやうに言外の餘意を遺した手法は、含蓄を強要される感じも起るが、やはり面白い。咄嗟の應酬として實に達者なものである。卷七の覊旅の歌に、
  いにしへにありけむ人のもとめつゝ衣に摺りけむ眞野のはり原   (―1166)
昔から餘程聞えた萩の名所であつたと見え、黒人夫妻の唱和もこれがその素地を成してゐるものと思ふ。二句を結句に反復したのは古調の常套。
 作者黒人は頗るの愛妻家であつたと考へられる。地方官がその赴任歸任に妻子を携へることは通例である(712)が、只その諷詠に現れた膠漆の情味に至つては一方ならぬものがある。上の「妹もわれも一つなれかも」の如く、「我妹子に猪名野は見せつ」の如きを見れば、何人もこの認定に異議を唱ふる者はあるまい。妻君亦夫君と趣味を同じうした歌人で、琴瑟相和する點は、餘所目にも羨ましい。
 
春日藏首老《かすがのくらびとおゆの》歌一首
 
○春日藏首老 既出(二三一頁)。
 
角障經《つぬさはふ》 石村毛不過《いはれもすぎず》 泊瀬山《はつせやま》 何時毛將超《いつかもこえむ》 夜者深去通都《よはふけにつつ》     282
 
〔釋〕 ○つぬさはふ 石にかゝる枕詞。既出(三九九頁)。○いはれ 磐余。大和十市郡。香具山の北、安倍《アベ》の西方に當る。「村」は群の借字で、石群《イハムレ》の語の轉じてイハレとなつたのに充てたもの。景行天皇紀に「豐村」をフヽレと訓じてある。これもフムレの轉語と思はれる。或はムレは韓語の混入か。○はつせやま 「はつせの山」を見よ(一七七頁)。○ふけにつつ 「に」は去《イ》にの動詞の上略。現在完了の助動辭のニ〔傍点〕も、その語源はおなじであるが、動詞と助動詞とにその語性が別れてゐる。
【歌意】 この分では初瀬山は何時越えられうことか、まだ磐余村も過ぎぬうちに、夜は更けに更けてしまつてさ。
 
(713)〔評〕 作者が僧の辨基から春日老と還俗したのは大寶元年だから、この歌は藤原宮時代の作と見る。藤原の地から出發して磐余あたりで夜が深けるといふのは、隨分遲い門出である。何かの事情で出發が遲れたので、こんな處でかうも更けてはと、深く前程を氣遣うて、やきもき氣を揉んだものである。餘程の急用を抱へた旅人のあわたゞしい、而も不安な氣分がよく出てゐる。初瀬の山越はその道中に於ける最難路であるので、目標として取扱はれた。
 さてこの初瀬山は何處を斥したものか。初瀬南部の朝倉丘陵か、それとも榛原道の普通いふ初瀬山か、いづれとも判明しないのは殘念である。
 「過ぎず」は三四の句を隔てゝ結句の「夜は更けにつつ」へかかる。かうした變つた叙法を取つたことは、五七の格調を守つた結果である。
 
高市(の)連黒人(が)歌一首
 
墨吉乃《すみのえの》 得名津爾立而《えなつにたちて》 見渡者《みわたせば》 六兒乃泊從《むこのとまりゆ》 出流船人《いづるふなびと》     283
 
(714)〔釋〕 ○えなつ 江の〔傍点〕津の轉。即ち住の江の津のこと。和名抄には榎《エノ》津とある。住吉郡墨江村|安立《アリウ》町(今大阪市住吉區)の線で、昔は住吉の海灣を形成してゐたのである。○むこのとまり 攝津武庫郡武庫の湊。今の西宮より津門《ツト》、廣田、瓦林、富松、長洲、尼ケ崎の線が、古への海岸線で、その灣の西南端に武庫の泊があり、その奥區に猪名の湊があつた。「泊」は船どまり。△地圖 挿圖78を參照(二四一頁)。
【歌意】 住吉の攝津の岸に立つて、海上を見渡すと、あれ/\あの武庫の泊から、船頭が漕ぎ出したわ。
 
〔評〕 平淡な叙景、この種の體製は集中に充滿してゐる。けれども住吉の榎津と武庫の泊とに擁せられた一大海灣に、一葉舟の遙に點在する外は何物もなく、而もその葉舟が靜中の動致を表してゐる光景は惡くない。勿論榎津の里人なら見馴れて何でもない景色であらうが、作者は海のない大和の國人である。で物珍しさうに眺めて、「住の江のえな津に立ちて」と、先づ一番に地理的叙述を取つた。遊覽の作自然かうあるべきである。但嚴しくいふと、住吉の榎津からは、武庫の泊を出る小舟などは、遠過ぎてわかる筈がない。蓋し武庫の泊は對岸での著名な錨地である處から、たま/\海上遙に現じてきた舟影を見て、大まかに湊合したもので、そこに詩人の幻化手段を見る。
 
春日(の)藏首老(が)歌一首
    
燒津邊《やきつへ》 吾去鹿齒《わがゆきしかば》 駿河奈流《するがなる》 阿倍乃市道爾《あべのいちぢに》 相之兒等羽裳《あひしこらはも》     284
 
(715)〔釋〕 ○やきつへ 四言の句。「やきつ」は駿河國益頭郡(今の志太郡燒津)。「へ」は指示代名詞。古葉その他契沖眞淵の訓にはヤキヅヘニ〔五字傍線〕とニを訓み添へた。○ゆきしかば、往きければといふに同じい。この詞形は集中のなほ散見する。○するがなる 駿河にある。「するが」は後出(七七一頁)。○あべのいちぢに 「あべ」は駿河國安倍郡の安倍。當時國府の所在地で、今の靜岡の地に當る。「いちぢ」は市の道。こゝは市に向ふ道ではない。「に」はにて〔二字傍点〕の意。○あひし 會つたことであつた。○こら 若い女の呼稱。既出(五八八頁)。○はも 名詞に附屬する歎辭。餘意は場合によつて適當に釋する。委しくいへば、この「は」は名詞を提擧する助辭だから、隨つて「も」の歎辭の下に説明語を含む格である。古義の解は膠柱の説である。
【歌意】 燒津へ私が出掛けた爲、その折駿河の安倍の市路で出會つた、あの兒はまあ。今に忘られない。
 
〔評〕 國府の所在地は即ち貨物聚散地で、いろ/\な市が立つ。その市へ買物に人が澤山集まる。それは而も婦人が多い。この歌の趣によると、國府附近の燒津街道に市は立つたらしい。何の所用かわからぬが、作者は燒津行の途中阿倍の市路で、物買に出かけた衣被きか何かの美人を見掛けたのである。それが伺處の女とも知れぬ、娘とも人妻ともわからぬのに、今にその俤が幻にはつきりと映る。こんな馬鹿げた便りないはかない戀はありはしない。それを「逢ひし兒らはも」と、何等の感想も批評も挿まず詠歎の態度を取つたことが、頗る餘(716)情おほく味ひの永い所以である。そして下には聊か自嘲の心持が動いてゐるやうである。
 「駿河なる」はもとより他郷人の立場から出た語とは思はれるが、燒津も亦駿河の國内だから、阿倍にのみこの語を冠するのは、偏頗になつて面白くない。尤もこれは駿河を國號としての論である。或は駿河の稱はもと安倍郡地方に限局して使はれてゐたものが、後に全部の國稱と擴がつたもので、當時廣狹二樣の稱呼が存在してゐたのではあるまいか。 
丹比《たじひの》眞人《まひと》笠《かさ》麻呂(が)往(き)2紀伊(の)國(に)1超(ゆる)2勢能《せの》山(を)1時(に)作歌一首
 
○丹比眞人笠麻呂 傳は未詳。尚「丹比眞人」を見よ(六〇九頁)。○勢能山 背《セ》の山のこと。既出(一四一頁)。  △地圖及寫眞 挿圖 46(一四三頁)45(一四二頁)を參照。
 
栲領巾乃《たくひれの》 栲卷慾寸《かけまくほしき》 妹名乎《いものなを》 此勢能山爾《このせのやまに》 懸者奈何將有《かけばいかにあらむ》     285
  一云、可倍波伊香爾安良牟《カヘバイカニアラム》。
 
〔釋〕 ○たくひれの 「かけ」に係る枕詞。「たく」は又タへといふ。「しろたへ」を見よ(一一八頁)。「ひれ」は領巾の字義どほり、上代の婦人が襟へ懸けて前方に垂れた布帛である。故に「懸けまく」といひ續けた。○かけまくほしき 懸け合せていひたい。枕詞に懸卷毛畏伎《カケマクモカシコキ》とある。既出(五三〇頁)。○いものな 妹といふ稱。イモガ〔三字傍線〕の訓は當らない。○かけばいかにあらむ 「かけ」の語が重複して面白くない。左註に擧げた「かへばいかにあらむ」がよい。取換へたらどうあらうの意○。久老は左註を結句の一傳とせずして、結句の反復と見た。これは(717)佛足石の歌體と見たものであらうが、疑問である。△挿畫 挿圖 158を參照(五七五頁)。
【歌意】 何時も自分に懸け合せたい妹といふ名を、この背の山にもたせて、妹の山と呼び換へようなら、どんなであらう。定めし旅心地も慰まうに。
 
〔評〕 背の山は當時の畿内の南限で、全く紀州行の第一歩を印したに過ぎない。が圖らずその山の名が、相對的に家にある最愛の妹を聯想させ、爲に入らぬ旅愁を釀させられたのである。依つて山の名が妹山と代つたらどんなものかと、一寸空想を描いて、自分自身に疑問を投げかけた。それは定めし旅情も慰むことであらうの答案が、初めからちやんと胸の中に出來て居ての事である。或考に、この歌はまだ妹山の稱なかりし證とすべしとあるは即斷の誤で、作者は左右顧眄の猶豫なしに、當面の背の山に對しての感想を歌つたものだ。
 
春日(の)藏首老(が)即(ち)和(ふる)歌一首
 
宜奈倍《よろしなべ》 吾背乃君之《わがせのきみが》 負來爾之《おひきにし》 此勢能山乎《このせのやまを》 妹者不喚《いもとはよばじ》     286
 
〔釋〕 ○よろしなべ 宜しきにつけて。「なべ」は竝の意。○わがせ 「せ」は兄の意。前出(六九〇頁)。○きみが 舊訓キミノ〔三字傍線〕。
【歌意】 至極結構な爲に、從來わが兄《セ》の貴方が負ひ持つて來た、その背といふ名の山を、今更いひ換へて、妹山と私は決して呼ぶまいよ。
 
(718)〔評〕 例の應酬の作、掛歌の意を水火に取成した常型の小理窟である。尤もそれが笠麻呂を慰藉する友情のあらはれからであるので、そこにわづかに感激の流が潜んでゐる。この二人の紀州行、歌人だけに、他に面白い作も多くあつたらうと思ふに。
 
幸〔左△〕《いでませる》2志賀〔二字左△〕(に)1之時、石上卿《いそのかみのまへつぎみの》作歌一首 名闕
 
○幸志賀之時 この五字は削るべきである。次の歌の左註に「右今案(フルニ)不v審(ニセ)2幸行(ノ)年月(ヲ)1」と記したのもその筈、全然行幸には無關係の歌で、この石上卿及び次の穗積朝臣老の歌の内容を檢討すると、いづれも邊地流謫の途上に於ける感懷である事は分明である。○石上卿 石上家は累世の名家で、卿と敬稱すべき人は多いが、流罪になつたのは石上朝臣乙麻呂一人である。故にこの歌を乙麻呂の作と斷ずる。流人に卿はいかゞであるが、後に赦に遇つて復職、遂に上達部になつたので、かく書いた。卷六にも「石上乙麻呂卿配2土佐國1之時歌」とある。○石上朝臣乙麻呂 左大臣麻呂の子。續紀によれば、神龜元年二月正六位下より從五位下、天平十年從四位下左大辨、同十一年三月久米(ノ)連《ムラジ》若賣《ワクメ》に奸け土佐に流罪、同十三年九月の大赦には洩れたが、召還前位に復されたらしい。同十五年五月從四位上、同十六年西海道巡察使、同十八年治部卿常陸守、正四位下右大辨、同廿二年從三位、勝寶元年中務卿、中納言となり、同二年九月現職で薨じた。〔頭注に石上朝臣乙麻呂土佐配流の時の漢詩あり、省略、入力者注〕
 
此間爲而《ここにして》 家八方何處《いへやもいづく》 白雲乃《しらくもの》 棚引山乎《たなびくやまを》 超而來二家里《こえてきにけり》     287
 
(719)〔釋〕 ここにして 此處に在りてと同意。下に、見れば〔三字右○〕を補うて聞く。○やも 「や」は疑辭。○いづく この語の下、なるの助動詞を略いた。舊訓イヅコ〔三字傍線〕。
【歌意】 此處で以て見ると、懷かしい奈良の故郷の家は何處だかなあ。自分は遙にも、あの白雲のかゝつた山を、打越して來たことではあるわい。
 
〔評〕 續紀天平十一年三月の條に、
   石上朝臣乙麻呂坐(シテ)v奸(スニ)2久米(ノ)連《ムラジ》若賣《ワクメ》1配2流《ナガサレ》土佐(ノ)國(ニ)1、若賣(ハ)配2流(サル)下總(ノ)國(ニ)1。
と見え、作者は女難によつて、官位を捧に振つて土佐への流人となつた。奈良京から難波までは陸路、それから土佐までは海路である。「ここにして」の此處は何處であつたか判然しないが、多分難波を解纜してから相當の距離を來た、或地點に於いての囘顧であらう。
 遙に故郷の天を瞻望すると、白雲搖曳して生駒連山の翠を出頭没頭させてゐる。その連山の一端立田山は今囘の旅行に踏破した處である。これ「白雲の棚引く山を越えて來にけり」といふ所以で、間接に故郷の遠放つたことを暗示してゐる。となると層一層に郷思は湧き立つて、「家やもいづく」と絶叫せざるを得なくなつた。蓋し流謫の身はその歸期は何時と測られないからである。
 「ここ」と「家」との對照が望郷の念を強め、「家やもいづく」の疑問が、いかにも便りないさし迫つた心持を深く印象させる。そして多數音少數音の倒置が、その歇後の辭樣と相侯つて、こゝの調子を如實に出してゐる。遠征に家郷を憶ふことは頗る平凡の感懷であるが、特に下句の表現が婉味を帶びてゐるので、縹渺たる情(720)緒を漂はせてゐる。
  こゝにありて筑紫やいづく白雲のたなびく山の方にしあるらし(卷四、大伴卿―574)これは天平三年以前の作で先出になるが、感哀はこの歌の方が深げである。
 
穗積《ほづみの》朝臣|老《おゆが》歌一首
 
○穗積朝臣老 續紀によれば、大寶三年正月正八位、和銅三年正月左副將軍從五位下、養老元年三月正五位下、同六年正月正五位上であつたが、乘輿を指斥したかどで斬罪になる處を、皇太子の奏によつて死一等を減じ、佐渡に流され、天平十二年六月に召還された。その時前位に復されたらしい。同十六年二月正五位上で、恭仁《クニノ》宮(ノ)留守を命ぜられた。正倉院御物維磨詰經奥書により、天平勝寶元年八月十六日に卒したことが知られる。
 
吾命之《わがいのちの》 眞幸有者《まさきくあらば》 亦毛將見《またもみむ》 志賀乃大津爾《しがのおほつに》 縁流白波《よするしらなみ》     288
 
〔釋〕 ○わがいのちの 六言に讀む。「命之」を略解にイノチシと訓んだが、久老、古義は「吾が命のまたけむ限」(卷四)「吾が命の長く欲しけく」(同上)「吾が命の生けらむ極み」(同上)などの例をあけて、「ノ」と訓むべしと力説した。○まさきく 既出(四一四頁)。○しがのおほつ 志賀の大津は滋賀の唐崎の南灣。なほ「大津宮」を見よ(七六頁)。○よするしらなみ の下、を〔右○〕の辭を含む。△地圖及寫眞 挿圖 28(九三頁) 44(一三二頁)を參照。
【歌意】 自分の命がさ無事であつたら、今一遍見ようよ、この志賀の大津によせる白浪をさ。
 
(721)〔評〕 大津の濱から眺め渡した鳰の海の形勝を述べるに先立ち、まづ「志賀の大津」と場所を限定して、そこから見た湖上の大觀に對する概念をつくらせ、「寄する白浪」即ち岸邊の白レースを引延べたやうな漣※[さんずい+獣偏+奇]を以て、明媚な風光を象徴させた表現の手際には申分がない。この歌は下句が上句の素地をなす組織だから、下句の叙景が巧妙であればあるほど、愛賞の執を留めることが至當と見られ、上句の命をかけた「又も見む」の希望が、さも有力に切實に受け取られる。「わが命のまさきくあらば」は、生命に不安を感ずるほどの境涯に置かれた人の發する詞で、決して尋常遊覽人の口吻でない。
 作者老は養老六年に佐渡に流された。この歌をその途上の作とすると、地理的にもよく合致する。當時奈良京より佐渡へ行くには、西近江を通過して越前に出、三國湊から海路によつたらしい。
 老は大寶三年に正八位であつた。假にその前々年頃に二十歳で出身したものと見ると、養老六年のこの志賀の大津通過の時は四十一歳で、實に初老を越してゐた。赦免歸京は全く不定だから、湖上の好風景もこれが先づ見納めらしい。けれども尚「わが命のまさきくあらば」と、一縷の望を繋いでゐることが、生の執着を語つて、哀怨窮りなく凄酸の感に打たれる。隨つて「又も見む」は容易に又も見られぬことを意識しての詞であると思ふと哀れである。この人この景この情、三事相俟つてこの佳品を釀成した。老は又
  天地を歎き乞ひのみさきくあらば又かへり見む志賀の唐崎   (卷十三―3241)
と歌つてゐる。
 序にいふ、老は佐渡に在ること十八年、五十九歳の頽齡に及んで、始めて本土に召還された。その志賀の大津を再び見得たことは殆ど天幸である。
 
(722)右今案(フルニ)、不v審(ニセ)2幸行(ノ)年月(ヲ)1。
 
「幸行」は古事記などにも見えて、いでましのこと。行幸におなじい。この註は後人の所爲で、古義にいふが如き、續紀の元正天皇養老元年九月戊申、行(イテ)至(リマシテ)2近江(ノ)國1觀2望《ミソナハシタマフ》淡海(ヲ)1とある時の作では勿論ない。
 
間人《はしひとの》宿禰《すくね》大浦《おほうらが》初〔左△〕月《みかづきの》歌二首
 
○間人宿禰大浦 傳は未詳。卷九に間人宿禰といふ人がある、同人か。天武天皇紀十三年十二月に、間人(ノ)連賜(フ)2姓(ヲ)宿禰(ト)1とあるから、天武天皇朝以後の人である。○初月 新月のことで上絃の月である。次の歌は下絃の月を詠んである。さればこの前後二首を通じた題詞としては、「初」の字を削つて「月(ノ)歌」とすべきである。但次の歌は卷九には沙彌《サミノ》女王の作となつてゐる。若し次の歌に「沙彌女王(ノ)殘月(ノ)歌」といふ題詞の別にあつたものとすれば、初月をそのまゝにして「二首」とあるを削るべきである。略解はこの説を執つてゐる。
 
天原《あまのはら》 振離見者《ふりさけみれば》 白眞弓《しらまゆみ》 張而懸有《はりてかけたり》 夜路者將去〔左△〕《よみちはゆかむ》     289
 
〔釋〕 ○あまのはらふりさけみれば 既出(四二二頁)。〇しらまゆみ 新しい弓。「しら」は新の義に用ゐる。昔の弓は丸木弓だから、新しいのを良いとする。古くなると彈力が失せて役に立たない。素木《シラキ》弓とする從來の解は賛成し難い。「ま」は美稱。「まゆみ」を檀の木と解することはこゝに不要。○はりて 弓に絃をかけるを張る〔二字傍点〕(723)といふ。○かけたり 懸けて置いてある。弓は物に懸けて置くのでいふ。舊訓にカケタル〔四字傍線〕と結句へ續けたのはわるい。○ゆかむ 往かれようの意。「去」原本には吉〔右△〕とある。これはヨケム〔三字傍線〕又はエケム〔三字傍線〕と訓む。△挿畫 挿圖 9(三一頁)149(五三六頁)を參照。
【歌意】 大空を仰ぎ見渡すと、新弓が張つて懸けてある。これなら物騷な〔三字右○〕夜道は往かれよう。
 
〔評〕 當時の夜行は必ず物騷であつたらう。天武天皇紀三年庚寅に、詔(シテ)曰(フ)、諸王以下初位以上毎(ニ)v人備(ヘヨ)v兵(ヲ)(卷二十九)と見え、作者達の身分では、夜行の場合には勿論それらを携帶した事であらう。さうした恐怖觀念と慣習とから、新月に對しても、その形態上から夜行警戒の白眞弓を聯想し、而もそれは我々凡下の品でなく天に懸けた張弓と讃して、更にこれなら安心して夜行は出來ようと打興じた。やゝ空想的に走つてゐるやうだが、やはり萬葉人の生活から出た尚武の匂がする。月を全く陰にして道破しない處に、この歌の成功がある。
 この歌、月が出たので夜道が行けようとの意に、輕く解せぬこともないが、それでは「白眞弓張りて懸たり」と取成した趣向が活きない。ヨケム〔三字傍線〕の訓も同上の理由によつて採り難い。
 
椋橋乃《くらはしの》 山乎高可《やまをたかみか》 夜隱爾《よごもりに》 出來月乃《いでくるつきの》 光乏寸《ひかりともしき》     290
 
〔釋〕 ○くらはしのやま 椋橋山は大和十市郡倉橋にある(今は磯城郡多武峯村)。今音羽山大原山ともいふ。標高八百五十二米突。西は多武峯に隣り、東は宇陀に接してこの附近での高山。「椋」をクラと訓む理由は知り難い。(724)字書にその材質堅く重くして車輌に作るに適すと見えて、チシヤの木に當てた。材質の堅いので鞍《クラ》に專ら製つた處から、遂にクラと訓んだものか。○やまをたかみか 山が高いせいか。「か」は疑辭。○よごもり 夜の十分に保たれてあること。夜深をいふ。○ともしき (1)珍しく飽かぬこと。(2)羨ましいこと。(3)數の少いこと。こゝは(3)の意である。地圖 挿圖61 を參照(一七六頁)。
【歌意】 椋橋山の高いせゐかして、それに遮られて、夜深《ヨフケ》にやつと出てくる月が、碌々見るまもなくて、光の乏しいことよ。
 
〔評〕 夜ごもりに出る月は下絃の月である。たゞでも空に照る時間は乏しい。ましてや椋橋山がその出際を遮るとなつては、いかに空に在る時間は少くなることであらう。普通からいへば、この高い山に「高みか」と疑を投げるの要はない。これは夜ごもりに出る月の殘月たることを忘れた幼稚な考へ方なのである。そこに歌氣分が發酵する。作者の所在地は椋橋山の西方、相當の距離にあつたことは疑を容れない。
(725)  倉橋の山を高みか夜ごもりにいでくる月の片待ちがたき  (卷九、沙彌女王―1763)
結句の變るのみであるが、作者の傳がいづれも未詳であるので、先後が決し難い。たゞ「片待ちがたき」の方が餘情がやゝ饒いやうにもある。
 
小田事主〔左○〕《をだのことぬしが》勢能《せの》山(の)歌一首
 
「主」の字、諸本にない。古今六帖所載のこの歌には事主〔二字傍点〕とある。○小田事主 傳は未詳。
 
眞木葉乃《まきのはの》 之奈布勢能山《しなふせのやま》 之奴波受而《しぬばずて》 吾超去者《わがこえゆけば》 木葉知家武《このはしりけむ》     291
 
〔釋〕 ○まき 松檜杉橿などの常緑木の稱。「まきたつ」を見よ(一七七頁)。○しなふ 撓ふ。「垂穗《タリホ》八握《ヤツカ》にしなひて」(神代紀)「秋|芽子《ハギ》のしなひに」(卷十)など、皆しなやかに靡くをいふ。こゝは憂はしさうに靡くさまに用ゐた。恐らくこの時代否この歌において、特に附加された意味であらう。〇せのやま 既出(一四一頁)。○しぬばずて 家思ひに〔四字右○〕堪へかねて。「奴」類本その他に努〔右△〕とある。○こえゆけば この既然の語相を、過去の推量助動詞の「けむ」と受けたのは、時が一致しないやうだが、これは古文法の一格で、わが越えゆけば知られようとも思はぬに〔十一字右○〕木の葉知りけむと補足して聞く。古今集(秋)の「天の川あさ瀬しらなみたどりつゝ渡りはてねば明けぞしにける」と同格である。
【歌意】 眞木の葉がしほ/\と撓ふこの背の山よ、家思ひに堪へかねて私が越えてゆけば、他には知られようと(726)も思はぬに、早くも木の葉が知つてしまつたのであらう、あんなにしほ/\として居るのは。
 
〔評〕 背の山を打越せば即ち畿内の南限を離れた譯で、旅情はこゝにおいてか動き、滿眼の風物皆愁を帶びてくる。眞木の葉も撓ひうらびれたやうに感ずる。即ち
  わが骨子にわが戀ひをればわが宿の草さへ思ひうらかれにけり   (卷十一―2465)
の如く、色眼鏡で見れば萬象が色づいて見えるのである。この歌はそこに一歩を進めて、その眞木の葉の撓ひは自分の旅愁を先知したものだらうと、因果の順序を嶺倒した謬見は、つまり旅愁に逆上した痴想である。
  天雲のたなびく山のこもりたるわが下ごころ木の葉知りけむ  (卷七―1304)
も捉まへ處が同じであるが、本文の方が叙述が曲折してゐる。
 
角〔左△〕[二画目なし]《ろくの》兄〔左○〕麻呂《えまろが》歌四首
 
○角[二画目なし]兄麻呂 「角〔二画目なし〕」を普通本角〔右△〕に誤る。字書に角〔二画目なし〕(ハ)音|録《ロク》とある。この人本姓は録であるのを、筆寫上簡略の字を用ゐたのである。原本兄〔右○〕の字を脱してゐる。續紀によれば、大寶元年八月僧惠耀勅によつて還俗、姓は録名は兄麻呂といふ。養老五年正月の詔に「文人武士は國家の重んずる所、醫卜方術は古今これを崇ぶ、宜しく百僚の内學業に優遊し師範たるに堪ふる者を擢んでて、特に賞賜を加へ、後生を勸勵すべし。因りて(中略)陰陽從五位下角〔二画目なし〕兄麻呂等に各※[糸+施の旁]十匹、絲十絢、布二十端、鍬二口を賜ふ」とある。神龜元年に姓を羽林連《ハバヤシノムラジ》と賜つた。同四年十二月に至つて、「法を犯す者尤も甚しき丹後守從五位下羽林(ノ)連兄麻呂を流に處す」とある。
 
(727)久方乃《ひさかたの》 天之探女之《あまのさぐめが》 石船乃《いはふねの》 泊師高津者《はてしたかつは》 淺爾家留香裳《あせにけるかも》     292
 
〔釋〕 ○あまのさぐめ 「あま」はアメの轉語で、こゝは讃稱。「さぐめ」は記(上)に、爾《コヽニ》天(ノ)佐具賣《サグメ》聞(キテ)2此鳥(ノ)言(ヲ)1而語(ラク)2天若日子《アメワカヒコニ》1とあつて、天稚《アメワカ》彦に仕へた女探偵のこと。○いはふね 「いは」は堅牢なる義に轉用した。○はてし 船の到着するのを泊《ハ》つといふ。○たかつ 難波(大阪)の高津である。今の大阪城の地から南へ延いて住吉まで長く續いた岡があり、昔はその下まで海潮が來てゐたので、その一部の船著の場處に高津の稱があつた。攝津風土記に「天稚彦|天降《アモリマス》時、屬《ツキソヘル》之神天(ノ)探女、乘(リテ)2磐船(ニ)1至2于此(ニ)1、磐船(ノ)所v泊(ツル)、故(レ)號(ヅク)2高津(ト)1、」とある。これは高を天といふに等しい美稱と見たのである。恐らく地理的名義に傳説的名義が附會されて、混用されたものであらう。○あせにける 「あせ」は衰へ變ること。△地圖 挿圖 78 を參照(二四一頁)。
【歌意】 天の探女が乘つて來た、磐船の着いたといふこの高津は、今は船も著かぬ陸と變つてしまつたことよ。
 
〔評〕 高津に※[夕/寅]縁した神代傳説に聯想を馳せて、さうした神秘的な崇高な土地でも、歳月の銷磨には敵しかねて變つてしまつたと、蒼田碧海の感慨を寄せた。この作者の本姓が録であり、陰陽道の達者である點から見ると、その先は韓國あたりの歸化人であつたらしく思はれる。
 
鹽干乃《しほひの》 三津之海女乃《みつのあまめの》 久具都持《くぐつもち》 玉藻將苅《たまもかるらむ》 率行見《いざゆきてみむ》     293
 
(728)〔釋〕 ○しほひの 四言の句。○みつ 難波の御津。「みつのはま」を見よ(二三五頁)。○あまめ 海士の女。海士は男女にわたる稱だから、特に女性を表す爲にめ〔傍点〕を添へた。あまをとめの類語である。古義が「あまめ」は例がないとて、アマ〔二字傍線〕と訓んで六言の句と見たのは頑である。○くぐつ 芳樹いふ、莎草《クヾ》もて作れる籠の如き物にて、莎草裹《クヾツト》の約と。和名抄に、莎草、楊氏漢語抄云、具具《クグ》、草(ノ)名也とある。大和本草のクグの條に「海邊斥地に生ず、水陸共に宜し、葉は香附子の葉に似て背にかど一條あり、織つて短席とす、農人これを以て馬具を作り又繩とす云々」。時珍の本草綱目には莎草を香附子のこととしてある。後には藁繩などで作つた袋をも猶クグツといひ、これを持ち歩く故に傀儡遊女をもクヾツと稱した。
【歌意】 退潮時の御津の海女が、莎草《クヾツ》袋を持つて、今しも藻を刈ることであらう、さあそれを往つて見ようぞ。
 
〔評〕 引汐時には磯附の海藻が現れるので、その刻限を覘つて、海女どもが莎草袋を持つて藻刈に出掛けるのを見て詠んだ。物珍しい海女や莎草袋が、どんなにか作者の好奇心をそゝつたものだらう。海女等の汐干に「玉藻刈るらむ」行動をまで想像に描いて、「いざ往きて見む」と調子づいて、好奇心は止め處もなく動いて馳せてゆく。果然海なき國大和の都人の作である。
 
風乎疾《かぜをいたみ》 奥津白浪《おきつしらなみ》 高有之《たかからし》 海人釣船《あまのつりふね》 濱眷奴《はまにかヘりぬ》     294
 
〔釋〕 ○かぜをいたみ 風がひどさに。「を」は歎群。「いた」は痛し〔二字傍点〕の語根で、物事の甚しいにいふ。「み」は形容(729)の接尾辭。○たかからし 高くある〔三字傍点〕らしの約。○かへりぬ 「眷」は顧り見るの意で、歸の借字。
【歌意】 風がまあひどく吹くので、沖の波は高く立つらしい。今まで沖に出てゐた海士の釣船は、皆濱邊に歸つてきたよ。
 
〔評〕 濱邊には漁船が纜を繋ぎ楫をあげなど混雜してゐる。沖には白波を揚げて海風が吹き荒んでゐる。この遠近二つの光景に原因結果の理法を配した、平凡な着想である。只「高からし」の想像に多少の姿致を見る。
 
清江乃《すみのえの》 木志〔左○〕※[竹/矢]松原《きしのまつばら》 遠神《とほつかみ》 我王之《わがおほきみの》 幸行處《いでましどころ》     295
 
〔釋〕 ○すみのえ 既出(二四〇頁)。○きしの 「志」の字原本にない。卷十に「卷向の木志〔二字傍点〕の子松」とある例に※[人偏+交+攵]つて補つた。「※[竹/矢]」は集中ノ〔傍点〕の假字に充てた處が多い。字書によれば矢の俗字であるが、轉じて矢の※[竹/幹]《カラ》に通用させたもの。○まつばら の下、は〔右○〕の辭を補つて聞く。○とほつかみ 大君(王)の枕詞。既出(四〇頁)。○いでましどころ の下、なり〔二字右○〕の助動詞を略いた。「幸行」は行幸と向じい。舊訓ミユキシトコロ〔七字傍線〕と過去に訓んだのは非。
【歌意】 この美しい住吉の岸の松原は、第一恐れ多くも、わが天子樣のお出ましの處ですよ。
 
〔評〕 難波行幸の時、住吉の濱に御出遊があつたと見える。住吉は昔から霰松原によつた形勝の地として、又史(730)蹟地として著名である。而も今は畏くも主上のいでまし處だ。錦上花を添へたに等しいこの折の住吉は、他に讃稱の詞がない。絶對と絶對、それを只ありに揮灑し去つて、一切の感想を聽者の上に投げ懸けた手法は狡獪である。その堂々たる太く逞しい姿は、内容に又よく調和してゐる。助辭助動詞を略いた簡淨な叙述は、如上の特長を發揮するに有効である。只それが爲二句と結句とが同じ體言止めになつたことは、稍不快を免れない。
 
田口(の)益人《ますひとの》大夫《まうちぎみが》任《まけらるゝ》2上野(の)國司《くにつかさに》1時、至(りて)2駿河(の)國|淨見埼《きよみがさきに》1作歌二首
 
○田口益人 續紀によれば、慶雲元年正月從六位下より從五位下、和銅元年三月上野守となり、同二年十一月從五位上にて右兵衛(ノ)率、靈龜元年四月正五位より正五位上となる。姓氏録に、武内(ノ)大臣(ノ)後也、推古(ノ)世在(リ)2大和國高市郡田口村(ニ)1、仍(テ)號(ク)2田口(ト)1、−益人天武(ノ)御時給(フ)2朝臣(ヲ)1とある。○大夫 既出(六五五頁)。○國司 國衙の官吏の稱。又特にその長官たる守の稱。○淨見埼 駿河國庵原郡興津。清見寺の岡の突端の稱。また清見と書く。見は形容の接尾辭。淨御原の御《ミ》に同じい。
 
廬原乃《いほはらの》 清見之埼乃《きよみがさきの》 見穗乃浦乃《みほのうらの》 寛見乍《ゆたけきみつつ》 物念毛奈信《ものおもひもなし》     296
 
(731)〔釋〕 ○いほはらのきよみがさき 庵原郡の清見が崎。○みほのうら 清見が崎と三保の松原の發端とによつて構成された灣を清見潟(今の清水灣)といひ、又三保の浦といふ。三保、見穗、御穗、三穗、御庵など書く。○ゆたけきみつつ ゆたけきさまを〔三字右○〕見つゝ。「ゆたけき」は廣く暢んびりした趣。「信」は音を下略してシに充てた。
【歌意】 自分は庵原の清見が崎の三保の浦の、ゆつたりした風景を見い/\して、何の氣苦勞もないわ。
 
〔評〕 旅にある人が物思がないといふ。實は物思がないのではない。その上野國守として赴任途上の作であることは疑もないが、芳樹が「大國の受領になつた嬉しさに物思のなかりしさま思ふべし」と評したのは、大いに斜視である。嬉しい中にも旅愁は依然として附き纏ふ。−勿論境遇が幸福で平和だから、極めて輕いものには相違あるまいが−それさへも清見が崎に立つて三保の浦の好風光を眺めると、流石に一掃されてしまふのである。三保の浦の風光は全くこの「ゆたけき」の形容に盡きてゐる。初句二句三句の終りの「の」の音の三疊、いかにも和かい聲調をもち、層々重ね來つた地(732)理的叙述の暢んびりした情調に、よく調和してゐる。
 
晝見騰《ひるみれど》 不飽田兒浦《あかぬたごのうら》 大王之《おほきみの》 命恐《みことかしこみ》 夜見鶴鴨《よるみつるかも》     297
 
〔釋〕 ○ひるみれど 「騰」は音を下略して、トに充て、しかも濁音に用ゐた。○たごのうら 駿河灣の西北隅、富士川河口の左右にわたる海の稱。今は河口のデルタの爲に原形を失つてゐる。「田兒」はタゴと濁る。續紀天平勝寶二年三月の條に、庵原郡多胡浦濱とある。○みこと 御言。お詞即ち勅諚。○つるかも 「鶴鴨」は戲書。△地圖及寫眞 下の挿圖 225 (七六四頁) 226 (七六五頁)を見よ。
【歌意】 晝見てさへも、見飽きのせぬ田子の浦を、天子樣の仰言の畏さに、ゆつくり逗留もならず、夜《ヨル》通りしなに〔五字右○〕見たことであるよ。
 
〔釋〕 國守が任國の往復には日程に制限があつて、勝手に延期が出來ない。上野國への下りは、平安朝には僅か十四日の規定であつたが、奈良時代でもさう違ひはあるまい。假に今朝駿河の國府(今の靜岡)を出立したとすると、富士川の西岸蒲原驛邊がその日の泊となるのが、當時の旅程と考へられる。その間釣十里、長旅としてはこの日は強行である。作者の赴任は今の四月(三月に任官)の頃と想はれるから、大抵六時半時分が日没と見てよい。清見が崎あたりを「ゆたけき見つつ」物思もなく通過したのは、恐らく午後四時近くであつたらう、それから蒲原驛まで三里、間に薩陲峠の峻坂がある。一休息でもしようものなら、蒲原驛に入らぬうちにもう夜である。音に聞いた田子の浦の勝景も、松明をともして暗闇で見たのでは甚だ遺憾であるが、大君の御言畏み赴任してゆく途中のことゝて、實止むを得ない。この種の遺憾さは現今でも出張官吏などがよく體驗する處である。唐詩に「只見(テ)2公程(ヲ)1不v見v春(ヲ)」(熊嬬登)といふのもそれである。 
(733) 「大君の御言恐み」は公命を奉ずる官吏の常套文句であつた。
  大ふねに、眞楫しゞ貫き大君の御言かしこみ磯廻するかも (卷三、石上大夫―368)  大君の御言かしこみおほの浦をそがひに見つゝ都へのぼる (卷二十、安宿奈杼麻呂―447)
もその一で、これを以て直ちに國家的觀念の忠君的思想のと、大業に吹聽することは禁物だが、さうした責任觀をもつてゐたことは間違ひもない。只その中に多少の遊心をもつた點に、面白味を感ずるのである。惜しい事に初二句はいひ詰め過ぎて、感哀を減殺した。
  大君の御言かしこみ磯に觸りうの原わたる父母をおきて  (卷二十、丈部造人麻呂―4328)
に至つては眞に奉公的觀念の横溢したものだが、これは元來作者の境遇がちがふ。
  大君の御言かしこみ大荒城《オホアラキ》の時にはあらねど雲隱ります (本卷、倉橋女王―441)
は全然別趣の作。
題詞に「至淨見埼作歌」とあり、こゝに田子の浦を詠んであるので、註家は、清見が崎附近に田子の浦を求め、富士川河口灣たる田子の浦を、二里半も南の薩陲峠下まで延長させて辻棲を合はせてゐる。地形上事實上そんな纏まりのない浦はあり得ない。况や峠下を來去見《コヌミ》の濱といつたといふ説さへある。按ずるに、題詞は專ら第一首に係けたもので、只第二首たるこの歌は殆ど同時の作なので、同じ題下に假に攝したものと見るのが至當と斷ずる。
 
辨基《べんきの》歌一首
 
〇辨基 續紀に、大寶元年三月勅して僧辨紀に還俗せもめ、姓を春日(ノ)藏首《クラビト》、名を老《オユ》と賜ひ、追大壹を授くとある。辨紀とあるは紀基〔二字傍点〕相通である。春日藏首老の傳は既出(二三一頁)。
 
(734)亦打山《まつちやま》 暮越行而《ゆふこえゆきて》 廬前乃《いほざきの》 角太河〔左△〕原爾《すみだがはらに》 獨可毛將宿《ひとりかもねむ》     298
 
〔釋〕 ○まつちやま 既出(二一七頁)。○ゆふこえゆきて 「ゆふ」で切つて讀むがよい。○いほざき 眞土山の東南隅の芋生《イモフ》の地か。紀の川に瀕む。庵崎、五百崎とも書く。○すみだがはら 角太が原。「河」は可の誤字であらう。古葉本には、河の字なしにスミダノハラ〔六字傍線〕と訓んだことも、その河原ではないことを證する。古義は原文のまゝで角太が原の意に解したが、助辭のガに河の字を充てることは例がなく、且河原と熟すると磧の意に紛れるから、さう書く譯もあるまい。古へは庵崎が總名、角太(隅田)は小名であつた。紀州名所圖會に、眞土山の西麓、木原畠の二村はもとの隅田莊なりとある。今の伊都郡隅田村。「角」は續紀にもスミと訓んである。○かも 「か」は疑辭。△地圖及寫眞 挿圖 46 (一四三頁) 73(一二八頁)を參照。
【歌意】 眞土山を夕暮に、かう越えて往つて、庵崎の角太の原の旅寢に、獨寢をすることかまあ。
 
(735)〔評〕 「辨基の歌」と題したのは、春日(ノ)老が還俗前の歌であることを明示したもので、藤原(ノ)宮時代の作と知られる。當時作者は大和の何處に住んでゐたかは明かでないが、紀路の關門たる眞土山を越える頃は、もはや夕景であつた。勢ひ今夜の泊は山本の角太が原、そこは紀の川に向つて展開した曠野で、人家が僅に點在してゐたものだらう。處もあらうにこんな寂しい處に、しかも「獨かも寢む」と、孤衾の冷かさを像想すると、第一日を踏み出したばかりのまだ物馴れぬ旅心地は、溜らなく心細いものであつたらう。地名の湊合は、その土地のもつ地理的人文的の状勢を聯想させて、「獨かも寢む」の詠歎を如實に強める効果がある。
 茲に疑はしいのは、「獨かも寢む」は、平生暖い夢を貪つてゐた人の、たまさかの孤眠に懊悩して發する聲である。禁欲生活の僧侶の作としては受け取りにくい。春日老の歌なら知らず、辨基の歌ではどうかと思ふ。前人は一言もこの點に觸れてゐない。國史で見ると、當時の僧界の風儀はなか/\紊亂してゐたから、平安時代に見るやうな僧侶の妻帶が、一部に行はれてゐたのではあるまいか。但かうした閨情に關係なく、單なる一人旅の寂寞感を歌つたものとしても意味は通ずるが、感哀は遙に淺くなる。
 古來原文のまゝに隅田の河原と解し、武藏の隅田川には、擬似待乳山が室町期には出現してをり、(道興の廻國雜記に初出)江戸時代には擬似五百崎が出來た。だが如何に作者が僧侶でも、又歌の上の誇張としても、河原に寢るといふことは、聊か心ゆかぬと思ふ。 
右、或《アルヒト》云(フ)、辨基者春日(ノ)藏首老之法師名也。
 
上の「辨基」の項を見よ(七三三頁)。
(736)大納言大伴(の)卿《マヘツギミ》歌一首  未詳
 
○大伴卿 大伴旅人のこと。大臣公卿に名を記さぬは令制の規定である。「家持の父なる故に」といふ説は拘はつてゐる。○大伴旅人 右大臣大紫|長徳《ナガトコ》の孫で、大納言贈從二位安麻呂の第一子である。續紀に和銅三年正月左將軍正五位上、同五月中務卿、養老二年三月中納言、同三年正月正四位下、同四年三月征隼人持節大將軍同五年正月從三位、その三月資人四人を給ふ、神龜元年二月正三位、天平三年正月從二位、同七月薨ずとある。年六十七(懷風藻)。この卷の奥書に「天平二年十月一日太宰帥大伴卿被(ル)v任(ゼ)2大納言(ニ)1兼(ヌル)v帥(ヲ)如(シ)v故(ノ)」とあり、神龜二年頃に帥に任ぜられたものらしい。大納言は旅人の極官を以て記したのみで、必ずその大納言時代の作とは定め難い。この下に中納言時代の歌が載せてある。○大納言 太政官の次官。故に亞相ともいふ。大寶令に、掌(ル)d參2議(シ)庶事(ニ)1、敷奏、宣旨、侍從、獻替(ヲ)u、と見え、大臣と共に天下の政事を執る。「納言」とは令義解に、納〔傍点〕(レ)2下〔傍点〕言(ヲ)於上(ニ)1、宣(ブ)2上言(ヲ)於下(ニ)1也とある意にて、尚書に本づいた語。和名抄に「オホイモノマウスツカサ」とある。定員は、大寶令に四人とあるが、慶雲二年に二人に減じた。○未詳 の二字後人の記入である。〔頭注に旅人の漢詩「初春侍v宴」あり。入力者注〕
 
奥山乃《おくやまの》 菅葉凌《すがのはしぬぎ》 零雪乃《ふるゆきの》 消者將惜《けなばをしけむ》 雨莫零所〔左△〕年《あめなふりそね》     299
 
〔釋〕 ○おくやま 外《ト》山の對語。深くの山。○すが 菅《スガ》は山菅《ヤマスゲ》。〇やますげ 麥門冬のこと。百合科の常緑草本で、陰濕の場處に自生する。大小二種あつて、大は藪蘭とも稱し、葉長さ一二尺に達し、その形細長く叢生し、夏軸頭に穗状の淡紫色の花を著ける。小は龍の髯と呼び、地下に連珠状の根を有し、花後碧色の實を結ぶ。他(737)はすべて藪蘭に似てゐる。○しぬぎ しのぎの古言。押靡ける意。○けなばをしけむ 「け」は消《キエ》の約言。「けむ」は現在完了の推量辭。からむ〔三字傍点〕の約轉。古言。○あめなふりそね 「ね」は既出(一一頁)。「所」原本に行〔右△〕とあるは誤。
【歌意】 深山の菅の葉を押靡かして降る雪が、消えたら惜しいものであらう、で雨は降るなよ。
 
〔評〕 山菅の葉は短い。それを凌いで零るほどの雪では、さう深いものではない。大和地方に例見る雪で、奥山に薄つすり懸かつた雪景色は、一寸面白い。それ故雨に消えもするかと恐れて「な降りそね」と懇請した。こんなはかない小景にも、猶執着を忘れ得ないみやび心は懷かしい。しかも作者が武人の門閥大伴氏の棟梁であるだけ、餘計に一入ゆかしい。
 但「奥山の菅の葉凌ぎ」は實見の光景ではない。想像である。その想像が當然と見られる程、菅は山野に自生する常緑草本で、その莖葉と薄雪との色相的配合は甚だあざやかな感じを與へる。「零る」「零り」の同語の重複、これは避けられないものではないが、作者は全く考慮に入れてゐなかつたものらしい。
 山菅は古代人はこれを清淨な物として、その葉を神事に用ゐ、又その實や根を藥用とした。集中にこれを諷(738)詠した作の多いのも、さうした事情に由るのではあるまいか。
          △山菅考(雜考―12參照) 大伴旅人年齡考(雜考−13參照)
 
長屋(の)王(が)駐《とゞめて》2馬(を)寧樂《なら》山(に)1作歌二首
 
○長屋王 傳は既出(二六二頁)。○寧樂山 奈良山のこと。寧樂は好字面を擇んでナラの音に充てたもの。尚「ならのやま」を見よ(八四頁)。△地圖 挿圖 170 を參照(六一七頁)。
 
佐保過而《さほすぎて》 寧樂乃手祭爾《ならのたむけに》 置幣者《おくぬさは》 妹乎目不離〔左△〕《いもをめかれず》 相見染跡衣《あひみしめとぞ》     300
 
〔釋〕 ○さほ 佐保は大和添上郡佐保郷。佐保山の南邊の地。○ならのたむけ 奈良坂の手向。奈良坂は生駒郡|佐紀《サキ》に屬し、奈良山を踰えて山城の相樂へ通ずる路で、後に歌姫越と稱した。般若寺坂を奈良坂といふは中古からのこと。「たむけ」(1)手向すること。(2)は手向する處即ち峠《タウゲ》。峠には道祖《サヘノ》神を祀り、旅人は必ずこの神に手向して、行旅の平安を折るが古への習慣。尚(一三九頁)を見よ。「手祭」をタムケと讀むは意訓。○おくぬさ 「おく」は神には手向|種《グサ》を物に据ゑ置いて獻るのでいふ。故に置座《オキグラ》、置處《オキド》などの語がある。「ぬさ」は「ぬさとりむけ」を見よ(二三二頁)。○めかれず 目より離れず。見ることの絶えぬをいふ。夫婦間に用ゐた離《か〔傍点〕》るの語は、武家時代に入つて嫁娶の樣式が一變してからは、絶えてしまつた。「離」原本に雖〔右△〕とあるは誤。○あひみしめ 「しめ」は使相の助動辭の命令格。「染」にはシムの訓があるので借りた。
(739)【歌意】 佐保の家から出掛けて、奈良の峠に奉る幣は、他の事でもない、あの戀しい妹に絶えず相見ることのあらしめ給へ、とての幣さ。
 
〔評〕 峠の神は何でも御座れの觀音樣とは違ふ。御利益の擔任範圍が限定されて、行旅の平安一點張である。作者がその佐保の邸を出て奈良坂にかゝつたのは何のためか。それは山城の相樂あたりの女の許に通ふためと思はれる。峠の幣祭は御多分に洩れぬ行路平安の御祈祷らしいが、その底を割ると「妹を目離れず相見しめ」の情願にあるのだから、峠の神もさぞその甘さに當てられたことであらう。かく愛人を抱擁したいの一念に、自身の攘災をさへ忘れた作者の態度は、確かに灼熱した愛の發露である。
  山科の石田の杜に手向けせばけだし我妹《ワギモ》にたゞに逢はむかも (卷九、宇合卿―1731)
も全くこの類想である。
 
(740)磐金之《いはがねの》 凝敷山乎《こごしきやまを》 超不勝而《こえかねて》 哭者泣友《ねにはなくとも》 色爾將出八方《いろにいでめやも》     301
 
〔釋〕 ○いはがね 磐之根。磐根《イハネ》ともいふ。磐石のこと。「ね」は輕い添語。「金」は借字。○こごしき 凝る〔二字傍点〕の複活用の形容詞格。「極此疑《コゴシカモ》伊豫の高嶺」(本卷)「許其志可毛《コヾシカモ》磐のかむさび」(卷十七)などある。古義のコヾシク〔四字傍線〕と動詞に訓んだのは非。○ねにはなくとも 聲に出しては泣くとも。「哭」は哀號すること。故に音《ネ》と訓む。「友」は借字。○いろにいでめやも 氣振に現さうことかい。「いろ」は氣配《ケハ》ひ、樣子などの意。「いでめ」の「め」は推量の助動詞む〔傍点〕の轉語。「やも」は反動辭。
【歌意】 この磐根のごつ/\した山を越えかねて、よし聲に出して泣くことはあつても、妹を思ふとは〔六字右○〕、氣振に出さうことかい。
 
〔評〕 「磐がねのこごしき山」を奈良坂とすると、餘り誇張に過ぎて事實に反する。然しこゝは實際描寫が主ではない。只奈良山の聯想から、そんな嶮岨を越えかねてよし男づから泣くことはあるともと、假設したので、かくて「色に出でめやも」の意を強く反撥する力が生じてくる。妹を思ふと〔五字右○〕の一句を四五句の中間に補つて聞くと、一首の意が判然する。この補足語を「音には泣くとも」の上において舊注は解釋してゐるが、音に泣くは山を超えかねての事で、妹を思ふ故ではない。
 この歌は丈夫《マスラヲ》の戀を歌つたもので、いかなる場合にも戀心を人に悟られることはすまいと誓つたのである。
 「妹を目離れず相見しめ」と折るほどの熱情はあつても、「色に出でめやも」と人前を抑制してゐる。なまじ丈(741)夫さびして居るだけ、餘計にそこに戀の苦悩は大きい。
 
中納言|安倍廣庭《あべのひろにはの》卿(の)歌一首
 
○安倍廣庭 右大臣從二位安倍|御主人《ミウシ》の子。續紀によれば、和銅二年十一月正五位下にて伊豫守、同四年四月正五位上、同六年正月從四位下、靈龜元年五月宮内卿、養老二年正月從四位上、同五年六月正四位下左大辨、同六年二月朝政に參議し、同三月河内和泉の事を掌り、同七年正月正四位上、神龜元年七月既に從三位し、同四年十月中納言、天平四年二月に權造宮長官を兼ねて薨じた。年七十四。○中納言 太政官中の重職で、大納言に亞いで政務を執る。大寶の制はこれを置かず、慶雲二年大納言二人を減じて中納言三人を置いた。「納言」の解は前出(七三六頁)。
 
兒等之家道《こらがいへぢ》 差間遠烏《ややまどほきを》 野干玉乃《ぬばたまの》 夜渡月爾《よわたるつきに》 競敢六鴨《きほひあへむかも》     302
 
〔釋〕 ○こら 若い女の呼稱。既出(五八八頁)。「ら」は複數語だが、こゝは單數に用ゐた。○いへぢ 家に向ふ道。「きぢにありとふ」を見よ(一四二頁)。○まどほきを 問の遠いのを。「烏」は漢音ヲ、呉音ウである。久老は「間」を母〔右△〕の誤としてヤヽモトホキヲ〔七字傍線〕と訓んだ。○ぬばたま 夜《ヨ》にかゝる枕詞。既出(三〇四頁)。○よわたる 中天を夜ゆくをいふ。○きほひあへむ 「競」をキホヒと訓む。キソヒ〔三字傍線〕はこの轉語で、中世以後のこと。「あへむ」は敢《ア》へて爲《シ》ようの意。
(742)【歌意】 妹の家に行く路は少し遠いものを、西山さしてこの夜をゆく月に負けぬやう、競爭が出來得ようかなあ。
 
〔評〕 深夜情人家に通ふ途上の作である。遲くなり過ぎた心急ぎ、この月の没せぬ先に往き著けるかどうか、といふ覺束なさを苦に病んだ。通例月の山の端に没する頃は即ち夜明で−三日月など例にしてはいけない−夜明の頃は當時の習慣上、もう女の家から歸るべき刻限である。そこに作者の焦燥がある。表面上は月と先著を競爭する趣に取成してあるが、内面にかうした複雜の事情が包含されてゐる。時計のない時代、月星を見て時刻を測つた昔の人の、さも思ひ寄りさうな着想で面白い。
 廣庭が中納言時代はその六十九歳以後のことに屬する。この歌は彼れのぐつと若い頃の作であらう。
 
柿本(の)朝臣人麻呂(が)下(れる)2筑紫(の)國(に)1時、海路《うみぢにて》作歌二首
 
○下筑紫國 作者人麻呂は、筑紫のいづれかの國衙の小吏に任ぜられて下つたのであるらしい。その石見赴任以前の事であるのは無論のこと。○筑紫 筑前筑後の古稱。時に肥(火)の國の一部をも呼んだ。
 
名紬寸《なぐはしき》 稻見乃海之《いなみのうみの》 奥津浪《おきつなみ》 千重爾隱奴《ちへにかくりぬ》 山跡島根者《やまとしまねは》     303
 
〔釋〕 ○なぐはしき 名のよろしい。既出(二〇七頁)。こゝは稻見にかゝる修飾語であるが、稻見の名の細《クハ》しい所以の説明が古來ない。思ふに「稻」を隔てゝ「見」に懸けたのであらう。見るに相逢ふ意があるから、名細しとい(743)へる。尚卷二「讃岐(ノ)狹岑島(ニ)視(ル)2石中(ノ)死人(ヲ)1」の長歌の「名細し狹岑《サミネノ》島」の解を參照ありたい(五九八頁)。又或は往見《イナミ》とまで寄せたものとしても解ける。○いなみのうみ 播磨國印南郡の海。播磨灘の一部。「稻見」は印南と同じい。○おきつなみ 前出(六五五頁)。○やまとしまね 「倭島」と同じい。既出(六六九頁)。「根」は添語で、「岡の草根をいざ結びてな」(卷二)の草根などと同じく、重い意味をもたない。○かくりぬ 舊訓カクレヌ〔四字傍線〕。△地圖 挿圖 183を參照(六六五頁)。
【歌意】 結構な見るといふ名ある、稻見の海を見渡すが、沖の波の千重に立て隔てられて、戀しい倭島根は隱れて見えぬわ。
 
〔評〕 船は明石海峽を通過してから、加古の島を經て印南の海にはひつた。上に「燈火の明石大門に入らむ日や云々」と作者自身が既に詠歎したやうに、顧望すれば沖つ波邊つ波が千重しく/\に寄せるのみで、故郷の目標たる倭島根は愈よ見られない。この空遠く水長く隔たり來つた事實をさし置いて、沖つ波の千重の爲に隔てられたやうに寄託した構想が面白い。覊人の多くは神經過敏である。海の名を稻見と聞くと、すぐ逢ひ見ることを聯想して、名細しいと感ぜずには居られぬ。けれどもそれは糠喜びで、懷かしい吾妹にどころか、家のあたり否倭島の影さへも見えない。失望と旅愁とはこの歌の全幅を蔽うてゐる。
 
大王之《おほきみの》 遠乃朝庭跡《とほのみかどと》 蟻通《ありがよふ》 島門乎見者《しまとをみれば》 神代之所念《かみよしおもほゆ》     304
 
(744)〔釋〕 ○とほのみかど 遠方にある朝廷。諸國衙は皆朝廷の延長で遠の御門であるが、特に筑紫の太宰府を稱する。筑紫は京に遠く外邦に近いので、別に筑前に太宰府を建て、九州二島の事を管領して、唐三韓諸蕃の事を掌らしめたので、立派な遠の朝廷である。○みかど 御門の義。朝廷には御門から參入するので、有司の參朝して政事を行ふ處即ち朝廷の稱となり、更に天子の指稱ともなつた。「庭」は廷と通ずる。○と に〔傍点〕に通ふ「と」である。○ありがよふ 通ひつゝある。「ありがよひ」を見よ(四一九頁)、また「ありたたし」を參照(二〇六頁)。「蟻」は借字。○しまと 島と島とのあひの迫門《セト》の稱。○かみよしおもほゆ 舊訓カミヨシゾオモフ〔八字傍線〕。
【歌意】 天子樣の遠の朝廷(太宰府)と通うてゐる、この島門を見ると、神代がさ思ひ出されるよ。
 
〔評〕 この歌は先決問題として島門の所在を確定させる必要がある。舊説は多く瀬戸内海の島嶼を斥したものとしてゐる。然しそれでは太宰府とは餘に懸隔し過ぎて、「とあり通ふ」が浮泛で實際的でなくなる。又筑前國遠賀郡蘆屋の南なる島門村を以て充てる人もあるが、土地が神代の念はれるやうな場處ではない。この島門は必ず博多灣口を扼する玄界島、志賀《シカ》島、殘《ノコノ》島によつて形造られた島門であらねばならぬ。舟路から太(745)宰府に往くにはこの島々を通過して、博多灣において上陸する順序となる。作者は筑紫の小官吏としての赴任で、その旅行の目的地でもあり、殊にその勤先でもあるから、長い旅路に常に心頭を支配してゐるものは、筑紫の太宰府であつた。航路はこゝに果てゝ、入筑の第一關門たる博多の島門を通過する。見れば頗る威壓的な岩壁の存在である。既に太宰府に「大王の遠の朝廷」なることを深く思惟した作者が、この島門の天工鬼斧に對して、御國造りの神代を想起したのは自然である。彼れの心境は何處までも古典的であり、仰高的であり、國家的である。
 
高市(の)連黒人(が)近江(の)舊都《ふるきみやこの》歌一首
 
○高市連黒人 傳は既出(一三五・二二五頁)。○近江舊都 近江大津宮のこと。既出(七六頁)。△地圖及寫眞 挿圖 41(一二四頁) 23(七七頁)を參照。
 
如是故爾《かくゆゑに》 不見跡云物乎《みじといふものを》 樂浪乃《ささなみの》 舊都乎《ふるきみやこを》 令見乍本名《みせつつもとな》     305
 
(746)〔釋〕 ○かくゆゑに かう悲傷される〔五字右○〕故に。○みじといふものを 久老訓ミジトイヒシモノヲ〔九字傍線〕は拘はつてゐる。○ささなみの 既出(一二五頁)。○ふるきみやこ 天智天皇の大津の舊都をさす。○みせつつ この「つつ」は輕く使つてある。テ〔傍点〕と譯してよい。○もとな 既出(六一六頁)。
【歌意】 かう泣かされる〔五字右○〕から、私は初めから見まいといつたものを、とう/\貴方〔六字右○〕は、この大津の舊都を私に見せてさ、あ>ワツケ〔三字傍点〕もない。
 
〔評〕 同行者と大津の舊都訪問の感懷である。その訪問に就いての事情は陰にしてあるから、確かな事はわからないが、作者が反對したのを無理やりに強要したのでは、決してあるまい。ほんの往つて見ぬか位の輕い勸誘で、作者は事もなく賛成したものと見てよい。只訪問の結果が、豫想以上の感傷を來した爲、飜つて發議者に喰つて懸かつたといふ調子で、その心理情態の推移を味ふと頗る画白い。「見じといふものを」と「見せつつ」との露骨な合拍は、怨意を強調する。憑弔の意を側面にして、却て弔意を強く表現し得た、射(ルニ)v人(ヲ)先(ヅ)射(ル)v馬(ヲ)の筆法は頗る賢いといへる。
 この歌萬葉人のよく試みる會話的樣式の作の一である。
 
右(ノ)歌《ウタ》、或本(ニ)曰(フ)、小辨(ノ)作也。未(ダ)v審(カニセ)2此小辨(トイフ)者(ヲ)1也。
 
 或本には小辨作とあるが、その人物は不明だとの意。「小辨」は少〔右△〕辨に通ずる。太政官の職員で從五位相當官。
 
(747)幸(せる)2伊勢(の)國(に)1之時、安貴《あきの》王(の)作歌一首
 
○幸伊勢國 伊勢行幸は聖武天皇ので、績紀天平十ニ年十月の條に「知大政官事兼式部卿正二位鈴鹿(ノ)王、兵部卿兼中衛大將正四位下藤原朝臣豐成を以て留守となす」とある時の事。安貴王はこの行幸に供奉したものと見える。○安貴王 施基《シキ》皇子の孫で、春日(ノ)王の子。天平元年三月無位より從五位下し、同十七年正月從五位上となつた。子に市原(ノ)王がある。
 
伊勢海之《いせのうみの》 奥津白浪《おきつしらなみ》 花爾欲得《はなにもが》 裹而妹之《つつみていもが》 家裹爲《いへづとにせむ》     306
 
〔釋〕 ○いせのうみ 伊勢灣の總稱。○はなにもが 「もが」は願望の助辭。委しくは「も」は歎辭、「が」は希望辭。「欲得」をモガと讀むは意訓。契沖はハナニガモ〔五字傍線〕と訓んだが、ガモは中古以來の語。○いへづと 家への苞《ツト》物。
【歌意】 この伊勢の海の沖の白波は、きれいで面白いが、おなじ事なら花であつてまあほしい。さらば裹んで持つて歸つて、家に待つ妻への土産にしよう。
 
〔評〕 同色の聯想から波を花に擬することは陳腐であるが、これは竿頭一歩を進めて、直ちに花であることを要望した。そんな無理いふ種を明かせば、只家なる妹への家裹なのだから、頗る甘いものだ。尤も作者は三十歳位のお若さだ。殊に今次の行幸が、名張から阿保、川口の難路を擇ばれた爲、伊勢神宮御參拜までに半箇月を費し、漸く伊勢の海の沖つ白波に接し得た。隨つて國偲び家思ひの念と、物珍しい旅中の感興とが、明るい情(748)調で歌はれてゐる。「裹みて」の一語、丁寧な動的情致を見せて面白い。
 
博通《はくつう》法師(が)往(きて)2紀伊《きの》國(に)1見(て)2三穗石室《みほのいはむろを》作歌三首
 
○博通法師 傳は未詳。〇三穗石室 紀伊國日高郡三尾村。日の御埼の東北の陰に當る。名所圖會に「三尾浦の後磯《ウシロイソ》といふ處に大巖窟あり。窟中深さ十六間幅五六間。高さ七八間より十二三間もあるべし。海上に南面して磯邊に大小の巖群重なれり。この窟海面に臨み迫ると雖も、絶えて風濤衝突の患なし。現に三尾の名を存し、かゝる巖穴あれば、萬葉集の三穗石室はこゝなるべし」と。
 
皮爲酢寸《はたすすき》 久米能若子我《くめのわくごが》 伊座家留《いましける》 【一云、家牟《ケム》】 三穗乃石室者《みほのいはやは》 雖見不飽鴨《みれどあかぬかも》 【一云、安禮爾家留可毛《アレニケルカモ》】     307
 
〔釋〕 ○はたすすき 「くめ」にかゝる枕詞。眞淵いふ、薄は皮《ハタ》に籠るものゆゑ、皮薄《ハタススキ》籠《コ》めを久米にかけたりと。宣長は、薄の穗といふ詞續きで四句の「みほ」にかゝる枕詞とした。さう枕詞が語句を隔てて係ることは不快で、調も亂れるから從ひ難い。古義に例歌を引いて宣長説を證したが、それは歌意を誤解してゐる。なほ既出の(一七八頁)を參照。○くめのわくご 久米氏の若者。若子《ワクゴ》は稚子《ワカコ》と同じい。元服前の者の稱。この人の傳(749)は未詳。これを更《マタ》の名|久米稚子《クメノワクゴ》と呼ばれた弘計《ヲケノ》王即ち顯宗天皇の御事とする説は從ひ難い。あれは王の近臣|余社《ヨサノ》使主が播磨の縮見《シジミ》山の石室(靜《シヅ》の岩屋)で怪死した事件で、事柄も場所も時代も違ふ。又久老の神武天皇の率ゐられた久米部の武人の一部が紀州に殘つてゐたものを斥したとする説も無用である。何でも近頃までこの石室に住んでゐて、死んだか行方不明かになつた久米若子その人の事でなければならぬ。○いましける 割註の「家牟」の方が穩やかである。○いはや 岩室《イハムロ》と同じい。岩洞や土窟を住居としたものゝ稱。○みれど 見ても/\の意。
【歌意】 久米の若子が住んで居られたであらうこの三穗の石室は、幾ら見ても見飽きのせぬことよなあ。
 
〔評〕 久米若子は役小角《エノヲツヌ》の流を汲む行者で、この三穗の岩室に籠つて修行の果、入定でもしたのであるまいか。(750)この歌及び後出の
   風はやの美保の浦廻のしら躑躅見れどもさぶしなき人思へば   (卷二、河邊宮人−434
   みづ/\し久米の若子がい觸れけむ磯の草根の枯れまく惜しも   (同上―435)
二首の歌意を湊合して考へると、久米若子の死は決してさう舊い昔の話ではなく、つひ近頃の事と思はれる。
 その頃の紀伊路では、三穗の岩屋の久米若子の評判は高かつたものだらう。されば街道からわざ/\三里も寄り道をして、作者も賽詣したのである。見れば雄大なる岩窟で、洞上洞下には古松矮松が生ひ、洞前には奇巖亂立して、熊野灘七十五里は眼下に展開してゐる。全く「見れど飽かぬかも」である。但歌としては感激が淺い。かゝる姿體の作は結句が一首の司命を掌るものだから、もつと力強い卓拔な落想が欲しい。世のいはゆる久米仙は、この若子には交渉のない事を特に斷つておく。
 
常磐成《ときはなす》 石室者今毛《いはやはいまも》 安里家禮騰《ありけれど》 住家類人曾《すみけるひとぞ》 常無里家留《つねなかりける》     308
 
〔釋〕 ○ときはなす 常磐の如く。「常磐」は本義のまゝに、常へに變らぬ磐と解する。「なす」は既出(九〇頁)。略解にトキハナル〔五字傍線〕と訓んだのはよくない。○すみけるひと 久米(ノ)若子をさす。
【歌意】 常磐のやうに、三穗の石室は今も存在してあるが、この石室に住んで居た久米若子は、早もう影形もなくなつて、常ないものであつたなあ。
 
(751)〔評〕 岩室の常磐と住みける人の無常との對映を以て、感慨を煽る手法は月並である。例の平凡な無常觀、これは作者の身分柄止むを得ないものであらう。
 
石室戸爾《いはやとに》 立在松樹《たてるまつのき》 汝乎見者《なをみれば》 昔人乎《むかしのひとを》 相見如之《あひみるごとし》     309
 
〔釋〕 ○いはやと 岩屋の門。「戸」は借字。古義は外《ト》の意に解した。○なを 松の樹をさす。○むかしのひと 故人といふほどの意。○あひみる 「あひ」は接頭語。○ごとし 「如」は終止形の時にはゴトシといひ、中止形の時にはゴトといふ。
【歌意】 石室の門に立つてゐる松の樹よ、お前を見ると、昔の久米若子を、ぢかに見るやうな。
 
〔評〕 昔人既に仙し去つて、その行迹は沓として尋ぬべくもない。死の如き岩窟の存在は、空しく弔客の神を傷ましめるにとゞまる。只當時の消息を知るかのやうに思はれるものは、亭々たる洞邊の松樹である。松樹によつて故人を偲び、故人によつて松樹を懷ふ。懷舊の情の白熱は、遂に松樹を直ちに故人と見做すに至る。「汝を見れば」の擬人の呼掛けは、決して技巧からのみ出發したものではない。上二首の成績では大した手腕の作者でもなさゝうだが、この歌は頗る生彩がある。蓋し不用意の間に得たものであらう。
 
門部《かどべの》王(が)詠(める)2東市之《ひむがしのいちの》樹(を)1作歌一首
 
(752)○門部王 續紀によれば、和銅三年正月無位より從五位下、養老元年正月從五位上、その頃出雲守であつたらしい。同三年七月伊勢の國守にて按察使となり、伊賀志摩を管した、同五年正五位下、神龜元年二月正五位上、同五年五月從四位下、天平三年五月從四位上、その十二月に治部卿、同九年十二月右京大夫であつた。同十四年四月大原(ノ)眞人門部に從四位上を授くとあり、何十七年四月大藏卿從四位上で卒した。(位階の次第が亂れてゐる、或は天平四年より十四年までの間、仔細あつて位二階を下げられたものか)。○詠東市之樹 奈良の都の東の京即ち左京にあつた市の植木を詠んだとの意。西京即ち右京にも市があり、平安時代には月の十五日以前は東市その以後は西市に集まつて賣買した(延喜式による)。奈良時代でも同樣であつたらう。今の大和添上郡辰市村がその故地である。△地圖 挿畫、170を參照(六一七頁)。
 
東《ひむがしの》 市之殖木乃《いちのうゑきの》 木足左右《こだるまで》 不相久美《あはずひさしみ》 宇倍吾〔左△〕戀爾家利《うべこひにけり》     310
 
〔釋〕 ○いちのうゑき 市に木を植ゑたのは、主として寄り集まる人の爲に蔭を作る目的であつたらう。殊に古代の田舍の市では、橘でも桑でも椿でも何でも植ゑて、旁ら食料なり、産業なりの助とした。尚卷二「橘の蔭ふむ道の」の歌の條を見よ(三七二頁)。〇こだる 木垂る。生長して枝葉の垂れるをいふ。「足」は借字。○まで 「左右」をかく訓む。「いくよまでに」を見よ(一三九頁)。○あはずひさしみ 逢はずして久しくなつたので。○うべ 道理で。諾《ウベナ》ふ意の副詞。○こひにけり 「吾」は語頭の添字とも見られるが、尚衍であらう。
【歌意】 あの女〔四字右○〕に、東の市の若木の殖木が枝葉の垂れ下がるまで、長く逢はずに居たので、道理で戀しくなつた(753)ことよ。
 
〔評〕 市の殖木の若木の頃女に逢つたといふ事實が、前提になつてゐる。「木垂るまで」は餘程長い時日と思はれるのに、その間逢はずに居たのは、どうした事情か。これは行摺りに成立した戀と見える。古へは市に身柄の人達が盛んに集合した。然るべき婦人達も買物に出た。――平安初期までもさうであつた――上に「駿河なる安倍の市路にあひし兒らはも」と歌はれた如く、門部王は市ゆく或女に眼がとまつて、一寸浮氣をしたのであつた。それは市の殖木がまだ若木の頃で、お互に處も名も明かさずに別れてしまつたのである。月日が經つままに死灰復燃えたが、さてその女を尋ねる手懸りもない。據なく、はかない戀の故郷である東の市を訪うてみた。殖木は既に木垂つてゐる。然しその女の影は見るべくもない。失望はます/\戀心を深めた。「うべ」の一語わが行動を是認して、みづから戀の薪に油を濺いだ。かくして苦しい煩悶がある。事は毛詩の桑間の音に類するもので、行儀のよくないものであるが、誠によく率直に歌つてある。「久しみ」は上に「木垂るまで」とあるから、説破し過ぎた形で、餘蘊が乏しくなる憾がある。
 作者は天平六年の二月に歌垣の頭を勤めた程の風流公子である。そのお若い時分には、さぞ發展された事だらう。武智麻呂傳にも、神龜時代の風流侍從として擧げられてある。 
※[木+安]作村主益人《くらつくりのすくりますひとが》從(り)2豐前(の)國1上(る)v京(に)之時作歌一首
 
○※[木+安]作村主益人 ※[木+安]作は氏。※[木+安]は鞍と同じい。鉾を桙と書く類で、その製作の材料に本づいて出來た字。字鏡(754)に、※[木+案]、乘久良《ノリクラ》とあるは、※[木+安]の本字と思はれる。村主は姓、益人は名で、傳は未詳。卷六に、内匠大屬《タクミノダイサクワン》で長官|佐爲《サヰノ》王を饗應したことが見えてゐる。
 
梓弓《あづさゆみ》 引豐國之《ひきとよくにの》 鏡山《かがみやま》 不見久有者《みずひさならば》 戀敷牟鴨《こほしけむかも》     311
 
〔釋〕 ○あづさゆみひきとよくに 梓弓引き響《トヨモ》すに豐國《トヨクニ》をかけた(古義説による)。弓を引けば弦音《ツルネ》のたつて響む故にいふ。「梓弓引き」といふまでが序詞の形を成してゐる。眞淵説には引|撓《タヲ》むに豐國をかけたとある。「あづさ弓」は「あづさの弓」を見よ(三一頁)。○とよくに 豐國。文武天皇の時、豐前豐後の兩國に分割された。○かがみやま 豐前國田川郡|勾金《マガリガネ》村|香春《カハル》嶽のこと。最高峯五〇八米。東麓の鏡山神社は、式に辛國息長(ノ)大姫大目(ノ)命を祀るとある。鄰に河内王の墓がある。○みずひさならば 逢はずして長くなるなら。○こほしけむ 戀しから〔二字傍点〕むの約轉。舊訓コヒシケム〔五字傍線〕。△挿畫 挿圖 9 を參照(三一頁)。
(755)【歌意】 今上京の途に就くが、この豐國の鏡山を見ないで久しくなるなら、定めし戀しからうなあ。
 
〔評〕 「見ず久ならば」を逆に考へると、現在は常に見て居ることになる。益人が國衙の役人と假定すると、豐前の國府から常に眺望される山は鏡山即ち香春嶽である。この山は一の岳二の岳三の岳の三山相迫つて、頗る怪奇の山相を具へ、高さこそさ程でないが、非常に威壓的である。
 作者が歸京の門出に際して、永らく馴染んだ而も印象的なこの山に對して、一番に惜別の惰を起したことは蓋し當然で、「見ず久ならば戀しけむ」の豫想も、立派に同情される。
 だが再考すると、鏡山は豐國人に擬へたもので、一且別離の後は再會の覺束ないことを豫想し、相思の情に禁へられまいと歌つた留別の作とも見られる。  △鏡 山 考(雜考−9 參照)
 
式部卿藤原(の)宇合《うまかひの》卿(に)被《らるゝ》v使(め)v改(め)2造(ら)難波(の)堵《みやこを》1之時作歌一首
 
宇合卿に難波宮の改造を命ぜられた時、宇合卿が詠んだ歌との意。○式部卿 式部省の長官で、四位相當。式部省は八省の一で、朝廷の禮儀、内外文官の考課選叙、禄賜等を校定し、學校を管し貢人を策試する。○藤原宇合 「宇合」は馬養《ウマカヒ》の借字。贈太政大臣不比等の三男。續紀によれば、靈龜二年八月正六位下にて遣唐副(756)使、次いで從五位下、養老三年正月正五位上、同七年常陸守にて按察使となり安房上總下總を管す、同五年正月正四位上、神龜元年四月式部卿にて持節大將軍、同二年閏正月從三位動二等、同三年十月知造難波宮事となり、天平三年八月參議。同十一月畿内副總裁を兼ね、同四年八月西海道節度使、同六年正月正三位、同九年八月參議式部卿兼太宰帥正三位にて薨じた。年四十四(懷風藻)。○被使改造難波堵 續紀に、神龜四年二月難波宮を造る、三月知造難波宮事從三位藤原朝臣宇合以下物を賜ふこと差ありとある。「堵」は都の通用。なほ「難波宮」を見よ(二三七頁)。△地圖 挿圖 77 を參照(二三七頁)。
 
昔者社《むかしこそ》 難波居中跡《なにはゐなかと》 所言奚米《いはれけめ》 今者京引〔左△〕都《いまはみやこと》 備仁鷄里《そなはりにけり》     312
 
〔釋〕 ○むかしこそ 「社」をコソと訓む。「ししこそは」を見よ(六四三頁)。○なにはゐなか 難波の田舍。明石大門《アカシオホト》の類語で、連辭のの〔右○〕を略いた。「居中」は田居中の上略。○みやこと 都として〔二字右○〕。「引」を衍字として「京都」をかく訓む。春海や古義は「引」を外〔右△〕又は利〔右△〕の誤字としてミヤコ〔三字傍線〕と訓んだ。契沖は字のまゝにミヤコヒキ〔五字傍線〕と訓んだが、この時はまだ遷都はなかつたのである。○そなはりにけり 契沖以下の諸家は「都」を五句につけてミヤコビニケリ〔七字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 以前こそ難波の田舍といはれもしたらう。今はどうして天子樣の都として、立派に完備したことであるわい。
 
(757)〔評〕 孝徳天皇の朝に、難波には、長柄(ノ)豐崎(ノ)宮を建てゝ都されたが、以後歴朝はたゞ離宮を置かれ、臨時遊幸の處とするに過ぎなかつた。聖武天皇の神龜三年十月に至つて、この作者宇合を總裁として造宮せられ、同四年二月に落成した。
 「昔こそ難波居中」と「今は京都」との對照が、餘に眞鞆に露骨であるので、今舊觀を革めたばかりの、まだ感じの生ま/\しい頃の作と思はれる。その宮觀は東西樓殿に三百僧を請じて大般若の法會を行うた程の大建築で、續紀天平十三年三月の條に、
   攝津職言、自(リ)2今月十四日1至(ルマデ)2十八日(ニ)1、有(リ)2鸛一百八1、來(リ)2集(ル)宮内(ノ)殿上(ニ)1、或(ハ)集(リ)2樓閣之上(ニ)1、或止(ル)2太政官之庭(ニ)1。
と見え、宮殿以外官省まで具備してゐたのだから、「今は都と備りにけり」は決して誇張の放言ではなかつた。
 この堂々たる輪奐の美を僅か半歳の間に仕上げたことは、造宮總裁としての責任を完全に果し得た譯で、その大いなる作者の誇と喜とが言外に躍如としてゐる。
 今昔の感慨を三句切れで上下に合拍させての表現は、全く新らしい樣式である。當時作者は三十四歳、その新鋭の精氣がおのづから溌刺として動いてゐる。
 
土理《とりの》宣令《せんりやうが》歌一首
 
○土理宣令 土理は氏。又刀理、刀利と書く。宣令は名であるが、その訓方は不明。眞淵いふ、もしミノリと訓むか、唐學生は字音の名もありと見ゆれば、音に讀むべきかと。續紀に、養老五年從七位下刀理(ノ)宣令等に詔して、退朝の後東宮は侍はしむとある。懷風藻に正六位上、伊豫椽、注に年五十九とある。
 
(758)見吉野之《みよしぬの》 瀧之白浪《たぎのしらなみ》 雖不知《しらねども》 語之告者《かたりしつけば》 古所念《いにしへおもほゆ》     313
 
〔釋〕 ○たぎのしらなみ 吉野川の激湍をいふ。必ず宮瀧をさすものではない。さてシラ〔二字傍点〕の同音の反復で三句を生み出した。○しらねども 古への事は〔五字右○〕知らねども。○かたりしつげば 語り繼げば。「し」は強辭。「告」は借字。△地圖  挿圖 35 を參照(一一〇頁)。
【歌意】 自分は吉野の昔の事は、よくは知らないけれども、語つてさ傳へるので、當時が慕ばれるわ。
 
〔評〕 餘り對象がぼんやりしてゐて要領を得にくい。語り繼ぎは何を斥したものか。雄略、天武兩天皇その他代々の天皇の行幸か。それ等は著明過ぎた事で「知らねども」といはれない。吉野は傳説の地である。恐らくその中の一説、下にも出てゐる柘枝《ツミノエ》仙の事をさしたものであらう。
  昔吉野に美稻《ウマシネ》といふ男があつて、川に梁を打つて鮎を取るのを生業としてゐた、或時柘の枝が流れて來て梁にかゝつたのを拾つて持つて歸つたが、それが美しい女に化つて遂に夫婦となり、末は共に仙人となつた。
といふ博説である。當時それが盛に詩歌の題材となつたことは、懷風藻を見ても知られる。「三吉野のたぎのしら浪」は序詞ではあるが、柘枝、美稻の邂逅が、吉野川の梁瀬で行はれたことを、間接に意識させる大事な役目をもつてゐる。所謂有心の序である。只下句が餘りに卒易で、内容空疎の譏を免れ難い。「玉燭調(ヘ)2秋序(ヲ)1、金風扇(グ)2月※[巾+韋](ヲ)1」などやつた詩の方の手腕に比べると、大いに劣る。
 
波多《はたの》朝臣|少足《をたりが》歌一首
 
(759)○波多朝臣少足 傳は未詳。
 
小浪《さざれなみ》 礒越道有《いそこせぢなる》 能登湍河《のとせがは》 音之清左《おとのさやけさ》 多藝通瀬毎爾《たぎつせごとに》     310
 
〔釋〕 ○さざれなみ 濱臣訓はサヾラナミ〔五字傍線〕。○いそこせぢなる 小波の磯を越すに巨勢《コセ》をかけた。「礒」は磯と通用。これに私考がある。「こせぢなる」は巨勢路にあるの意。○巨勢路 大和高市郡巨勢郷の道路。巨勢は既出(一九三頁)。○のとせがは 能登瀬川。重坂《ヘサカ》川の一名で巨勢山中より發源し、北流して八里、百濟川に注ぐ。△地圖 挿圖 7 を參照(二八頁)。
【歌意】 小波が礒越して流れる、巨勢路の能登瀬川が、たぎり流れるその瀬毎に、水音のいさぎよいことよ。
 
(760)〔評〕 初二句は「をとめ等が袖ふる山」「梓弓ひき豐國」の類例で、こんな修辭の流行つたことは、如何に萬葉人が悠長であり、餘裕に富み、諧謔を好んで居たかゞわかる。而もこの序の有心であることは、能登瀬川の實景を見ればすぐ了解される。この川は柔い水波が小石に激さぬ程度に靜に流れてゐる、やさしい感じのする小川であるが、處々急湍があつて爽かな響を立てゝゐる。能登瀬の名義もそこに發つたものであらう。作者が巨勢路に來て、先づこの瀬毎の水音に耳を澄ましたのは偶然でない。明るい水の光と清かな瀬の音とを、清楚な調子で輕く表現してゐる。
 下句の倒装は「礒こせ路」の技巧が結節に對して、力強い調子を要求された爲である。 
暮春《やよひ》之月|幸《いでませる》2芳野(の)離宮《とつみやに》1之時、中納言大伴(の)卿(の)奉勅《みことのりをうけたまはりて》作歌一首并短歌 未(ダ)v※[しんにょう+至](ラ)2奏上(ニ)1歌
 
彌生に芳野離宮に行幸のあつた時、中納言大伴旅人卿が仰によつて詠んだ長歌竝に短歌との意。神龜元年三月一日に聖武天皇の吉野行幸があり、その五日に還幸された。三月は舊暦では暮春である。○大伴卿 旅人卿のこと。この年より七年前の養老二年に中納言に任ぜられた。傳は前出(七三六頁)。○未※[しんにょう+至]奏上歌 仰で詠みはしたが叡覽には供しなかつた歌との意。これは旅人卿の子家持の註だらうと、古義はいつてゐる。とにかく註語である。「※[しんにょう+至]」は至と同意に用ゐた。△地圖及寫眞 挿圖35(一一〇頁)49(一四七頁)を參照。
 
見吉野之《みよしぬの》 芳野乃宮者《よしぬのみやは》 山可良志《やまからし》 貴有師《たふとかるらし》 水〔左△〕可良思《かはからし》 清有師《さやけかるらし》 (761)天地與《あめつちと》 長久《ながくひさしく》 萬代爾《よろづよに》 不改將有《かはらずあらむ》 行幸之宮《いでましのみや》     315
 
〔釋〕 ○やまから――かはから 「から」は故に〔二字傍点〕の意。○かは 「水」に川の義がある。原本は永〔右△〕に誤る。
【歌意】この吉野離宮は、山故にさ貴くあるらしい、川故にさ清けくあるらしい。天地と共に長く久しく、何時までも變らずしてあらう、この行幸の離宮は。
 
〔評〕 吉野離宮の讃辭は、人麻呂(卷二)金村、赤人(卷六)の詠を始めとして、集中に頗る多く、その山水の明媚を主調としてゐる事は衆口一致である。殊にこれは抽象的なる平語の連續であるが、實によく一點の疵瑕なく、その叙述が井整としてゐる。奉勅の作その謹嚴を取るべきであらう。
 初頭より「さやけかるらし」までを前段、以下を後段とする。そして主格を前段は最初に、後段は最後に置いて、「吉野の宮」「行幸の宮」と反復した。
 
反歌
 
昔見之《むかししみし》 象乃小河乎《きさのをがはを》 今見者《いまみれば》 彌清《いよよさやけく》 成爾來鴨《なりにけるかも》     316
 
〔釋〕 ○きさのをがは 吉野郡|國栖《クズ》村の喜佐《キサ》谷を流れる川。宮瀧の處で吉野川に注ぐ。「きさの中山」を見よ(二五二頁)。○いよよさやけく 眞淵訓による。舊訓はイヨイヨキヨク〔七字傍線〕。△地圖 挿圖35を參照(一一〇頁)。
(762)【歌意】 昔見た象の小川を、今また見ると、昔よりはいよ/\川の水音が、さやかになつたことよなあ。
 
〔評〕 吉野行幸は天武持統兩朝以來は殊に頻繁となり、作者も再三供奉も遊覽もしたらう。だが神龜元年の行幸は聖武天皇御即位後最初のものであることが、感興の新にされる所以で、おなじ瀬の音も昔よりは優つてさやかだとは、今の新代を壽いだ詞である。奉勅の歌としておのづからしかあらねばならぬ。象の小川を以て吉野の勝を代表させたことは、作者が特にここの風致を愛した爲である。太宰帥になつて後の作にも、
  わが命も常にあらぬか昔見し象の小川を行きて見む爲  (卷三−332)
と深い執著を歌つてゐるのでも證される。實際この小川は、その天皇社前からの上流は勾配が急で、淺湍が所在に出來てゐて、小じんまりした面白い景色なのである。
 
山部(の)宿禰赤人(が)望(める)2不盡《ふじの》山(を)1歌一首并短歌
 
(763)山部赤人が富士山を望みて作つた歌との意。○山部宿禰赤人 傳未詳。顯宗天皇紀に元年四月丁酉、前播磨國司來目部(ノ)小楯に初めて山部(ノ)連の姓を賜ひ、續紀に天武天皇十三年十二月に山部(ノ)連賜(フ)2姓(ヲ)宿禰(ト)1と見えた。赤人は飛鳥藤原朝から奈良朝初期にかけての人で、京にゐては勿論微官で、地方官としては椽又は目《サクワン》程度の者と思はれるが、たゞ彼れの殘した旅行の歌によつて推すに、西は伊豫の温泉に、東は下總の葛飾の眞間に、播磨の印南に紀伊に、相當廣範圍にその足跡を遺してゐる。○不盡山 本邦第一の名山。本集には又、布士、布仕、不自、布時、布自など書いてある。富士と書くは、都良馨の富士山記がその嚆矢であらう。フジとは蝦夷語にて「火の女神」の名であるといふ。この他、古來より幾多の語義説があるが采らぬ。
 
天地之《あめつちの》 分時從《わかれしときゆ》 神左備手《かみさびて》 高貴寸《たかくたふとき》 駿河有《するがなる》 布士能高嶺乎《ふじのたかねを》 天原《あまのはら》 振放見者《ふりさけみれば》 度日之《わたるひの》 陰毛隱比《かげもかくろひ》 照月乃《てるつきの》 光毛不見《ひかりもみえず》 白雲母《しらくもも》 伊去波伐加利《いゆきはばかり》 時自久曾《ときじくぞ》 雪者落家留《ゆきはふりける》 語告《かたりつぎ》 言繼將往《いひつぎゆかむ》 不盡能高嶺者《ふじのたかねは》     317
 
(764)〔釋〕 ○あめつちのわかれしときゆ 天と地とが分れた時以來。天地は渾沌としてをつたが、清めるものは上つて天となり、濁れるものは下つて地となつたといふ記紀の天地開闢説によつてゐる。「ゆ」は既出(一二三頁)。○あまのはら 既出(四二二頁)。○ふりさけみれば 既出(四二二頁)。○わたるひの 大空を經行く日の。「わたる」は「わたらふ」を見よ(四〇二頁)。○かげもかくろひ 日光さへも障り隱れる。「かげ」は光。「かくろひ」は既出(四〇二頁)。○いゆきはばかり 行きかねるの意。「い」は接頭語。○ときじくぞ 既出(一一五頁)。○かたりつぎ 先から先へ廣く語り傳へ。「告」は繼の借字。○いひつぎ 語り繼ぎと同意。
【歌意】 天地開闢の昔から、今に神々しく高く聳え貴く秀でた、駿河なる富士の高嶺を、大空かけてはる/”\仰ぎ見れば、この山に障つては空を渡る日の影もかくれ、照り渡る月影も隱れて見えない、白雲も行きかね滯り、雪は時ならずに降つてゐる。これほど高く貴い名山であるから、天下に次々に廣く語り傳へ、言ひ繼いで行かうよ。この富士の高嶺はさ。
 
〔評〕 開口一番、「天地の別れし時ゆ」と歌ひ起した。群山を睥睨して東海の天に聳え立ち、八方美人の觀あるこの靈峯を描き出さ(765)うとするには、必ずやこの一句がなければならぬ。かくてこそ、天地の間に屹然として介立するこの山容も知られるのである。「天の原ふりさけ見れば」も障るものなき茫々たる蒼穹に、空の物かと思はれるまで聳え立つた高山を見上げる樣子が、如實に表現されてゐる。「渡る日の――雪はふりける」の四句は、本來、日月雲雪の四項目によつて聯對せしめたものであるから、最終の句も「雪は時じくぞ降る」とあるべきを轉倒して、時じくぞ雪は降りける」といつたのは、五七の語調上已むを得ぬ結果とはいへ、却て例の句法を參差して平板を避ける詞法の定則に協つたものである。かく天象に關するもののみの形容は、上の「天の原云々」の句から胚胎して來たので、自ら高潔清雅、塵界の物ならざる趣を寓してゐる。「語り繼ぎ言ひ繼ぎ」と同意の言辭を疊み重ねたのは、語調を強めて、この一篇の收拾結束を一層効果的ならしめる爲である。
 富士山は孝靈天皇の御時、一夜のうちに湧出したといふは、固より世俗の妄説である。この歌の如く天地開闢と共にあつたと見てよい。反歌の田子の浦の詠吟を思ヘば、作者赤人は必ず東國に赴任の途上に於いて、始めてこの秀麗な山容に接し、驚嘆の聲を擧げたものである。「駿(766)河なる」と富士の在處を駿河に限定したのは、東海道を來往する旅人の感懷として最も當然のことである。
 抑も富士山に「語り繼ぎいひ繼ぎ」は、現代人から見れば全く無用の語である。その存在は三尺の童子でも知らぬ者はない。處が交通不便なる古代にあつては、六尺の老翁も餘りよくは知らなかつた。偶ま海道上下の旅人や上京した東人の談話で、想像するのみであつた。然るに作者は今目のあたり實見する光榮に接した。歡喜この上もあるまい。感謝の情は茲にむら/\と湧きあがつて、天下にこの靈峯を紹介し宣傳しようと高唱せざるを得なくなつた。蓋し往時はあらゆる物事が語り繼ぎ時代〔六字傍点〕であつた。
 この歌第一段は「天地の」から「振りさけ見れば」まで、一に富士の來由を説き起し、第二段は「度る日の」から「雪はふりける」まで、專らその實景を説き、第三段は「語りつぎ云々」と讃歎して、強く前二段を總括して局を結んだ。換言すれば、第一段は過去を、第二段は現在を、第三段は將來を説いて、この靈峯を讃美したのである。而して中心たる第二段は僅か八句中に、莊大秀麗なる靈峯の大觀を盛り込んで剰すところがない。實をいへばその一句一句は決して獨創的の著語ではないが、かく集大成して斧鑿の痕なく、渾然たる珠玉を現出させた作者の手腕は敬服に値する。要するに叙事の井整を以て勝る作である。
 
反歌
 
田兒之浦從《たごのうらゆ》 打出所見者《うちいでてみれば》 眞白衣《ましろにぞ》 不盡能高嶺爾《ふじのたかねに》 雪者零家留《ゆきはふりける》     318
 
(767)〔釋〕 ○たごのうら 前出(七三二頁)。○ゆ 前出(六六八頁)。舊訓にニ〔傍線〕とあるはいかゞと思ふが、意は次に説明した如く、ニの意に通ふ「ゆ」である。○うちいでてみれば 初二句諸説まち/\に分れてゐる。(1)は田子の浦に打出でて見れば。(2)は街道より打出でて田子の浦より見れば。(3)は田子の浦より海上へ打出でて見ればの意。この他に眞淵説もあるが條理が立たぬから略く。(1)は平安朝以來の解で「ゆ」の助辭をに〔傍点〕と同意義に見たことが不滿とされてゐる。(2)は景樹説で、打出でて田子の浦より見ればの倒置としたが、餘にわがまゝな解き方である。(3)は石原正明や古義の説で、浦から打出れば海より外はないから海上から見たのだといふが、それなら漕ギ出デテ見レバ〔八字傍点〕と詠むが至當である。かくいづれも容易に首肯し難いが、自分はとにかく(1)の舊説に從ふのが穩かと思ふ。「ゆ」の辭には重くヨリの意に使用される場合と、輕くニの意に使用される場合とある。重い使用はその本義で、輕い使用はその轉用である。この轉用も既に集中に數多散見してゐる事だから、こゝをも田子の浦に打出でてと解するに不都合はあるまい。中古人が田子ノ浦ニ〔四字傍線〕と訓んだ理由も、そこにあると思ふ。○ましろにぞ 古義はマシロクゾ〔五字傍線〕と訓んで、これが古調だと主張したが、公論ではない。○ゆきはふりける 雪が今降るのではない、降つてあるのをかくいふ。
【歌意】 田子の浦に出て、そこから見ると、まつ白にさ、富士の山に雪は降り積つたわい。
 
〔評〕 作者は薩陲峠が岩木山といはれた時分、そこを東へ打越して、來去見《コヌミ》の濱をあとに、倉澤のあたりから街道(蒲原の北端)を田子の浦に打出で、靈峰富士の大觀に對した。古へ海道下りを試みる者は、こゝに至つて始めて、この一絲纏はぬ山容を麓から見上げ得るのであつた。
(768) 抑も富士の美的特徴は何か。高大な輪郭、八面玲瓏たる温雅な形體、一白玉を展べた皎潔な色相が、その主たるものであらう。この歌、描寫の目的の障害となるべき他の一切の事相をすて去つて、「富士の高根に」と喝破した所に、天上天下唯この山ある趣が表現されて、いかにも高く大きい印象を、如實に讀者の心胸に烙き付ける。又、「眞白にぞ」は下の「降りける」にかゝる副詞格の語であるのを、切り離して三句に引き上げ、何よりも先づその色相美を拈出した。蓋しその鮮明な雪白は、作者が田子の浦に打出でて見た時、一番にその眼を射た故ではあらうが、讀者に與へようとする印象の順序からしても、亦その當を得た手段といへる。さて「ぞ」の助辭を添へて、殊更に「眞白に」を強調した爲に、そこに一碧瑠璃の如き天色を反映せしめて、色彩の配合はいよ/\美しく、どんなに晴れ渡つた美しい天空だつたらうかと想はれる。殊に「降りける」の驚嘆的辭樣は、作者自身の感想の正直な告白であるのみならず、又この大自然の美觀に打たれて呆然自失してゐる、その態度までが彷彿されて面白い。
 但、幾何的な富士山の形體は一向に歌はれてゐないが、あながち遺憾とするに足らない。それは、叙景の歌といふものは、殊に一つの中心點を確立しておいて、一首の統一をはかる必要がある。もしこの注意を缺いたならば、忽ち散漫に失して、恰も寫眞同然のものとなるであらう。この歌富士の第一特色を以て描寫の中心として、その第三第四の鷄肋を棄てたものであつて、この果斷とこの狡猾とは歌人必須の手段である。
 元來赤人の歌風は平明温雅で、君子人の胆肚の如きものがある。この歌もその適例で、好んで自然を愛賞し、山水美に同化し得る性格を具へた人といふべきである。
 眞淵いはく、
(769)   由子の浦よりうち出て見れば、不盡の高峰の雪の眞白に天に秀でたるを、こはいかでとまで驚きたるさまなり。何事もいはで、有のまゝにいひたるに、その時その地その情おのづから備りて、よにも妙なる歌なり。
 景樹はいはく、
   古よりこの高嶺に歌ひあげたる言の葉は幾百首に侍らむ。さはさて麓の塵ひぢとのみ成りゆくめるを、高く尊きに憚らず、天雪の上にならび立てるは、獨この赤人主の歌なりけり。
 この他諸家の小評、枚擧に遑がないが、要するに以上二家の範圍を出ない。
 
詠(める)2不盡(の)山(を)1歌一首并短歌
 
この歌は作者の名が署してない。上の赤人の作に續けてこれも同人の作と見る説もあるが、それならば別に題詞を設ける必要はあるまい。されば詠者未詳の歌とするが正しい。短歌の下に、拾穗本には「笠朝臣金村」と附記してある。
 
奈麻余美乃《なまよみの》 甲斐乃國《かひのくに》 打縁流《うちよする》 駿河能國與《するがのくにと》 己知其智乃《こちごちの》 國之三中從《くにのみなかゆ》 出立有《いでたてる》 不盡能高嶺者《ふじのたかねは》 天雲毛《あまぐもも》 伊去波伐加利《いゆきはばかり》 飛鳥毛《とぶとりも》 翔毛不上《とびものぼらず》 燎火乎《もゆるひを》 雪以滅《ゆきもてけち》 落雪乎《ふるゆきを》 火用消通都《ひもてけちつつ》 言不得《いひもかね》 名付〔左○〕不知《なづけもしらに》 (770)靈母《あやしくも》 座神香聞《いますかみかも》 石花海跡《せのうみと》 名付而有毛《なづきてあるも》 彼山之《かのやまの》 堤有海曾《つつめるうみぞ》 不盡河跡《ふじかはと》 人乃渡毛《ひとのわたるも》 其山乃《そのやまの》 水乃當知〔左○〕烏《みづのたぎちぞ》 日本之《ひのもとの》 山跡國乃《やまとのくにの》 鎭十方《しづめとも》 座神可聞《いますかみかも》 寶十方《たからとも》 成有山可聞《なれるやまかも》 駿河有《するがなる》 不盡能高峯者《ふじのたかねは》 雖見不飽香聞《みれどあかぬかも》     319
 
〔釋〕 ○なまよみの 甲斐に係る枕詞。難解の語の一つである。(1)ナマヨミは生弓《ナマユミ》の轉語にて、生木なる弓は引くに裏反り易きが故に、生弓の反《カヒ》るを甲斐にいひ懸けたるもの。集中可比利久麻弖爾と歸りをカヒリと詠んだ例もある(眞淵説)。(2)生貝《ナマガヒ》の肉《ミ》は善き故に、生善肉《ナマヨミ》の貝を甲斐にいひ懸けたるもの。景行天皇紀に白蛤《ウムギ》を鱠にして奉つたことも見えるから(古義説)。(2)の説もわるくもあるまいが、甚だ穿鑿の感がある。(1)の説を古義はいふに足らずと卻けたが、却て簡單でいゝ。更に(3)の説として、甲斐の國から生木の弓材を貢したので、他の諸國の乾燥した弓材又は既製の弓を貢するに對して、生弓の甲斐〔五字傍点〕と續けたその轉語と見たい。○かひのくに 峽《カヒ》の國の義。甲斐はその音表字。この句の下、と〔右○〕の辭を略いた。○うちよする 駿河の枕詞。(1)河流の〔三字右○〕打|※[さんずい+甘]《ユス》る(眞淵説)。(2)音の〔二字右○〕打|動《ユス》る(古義所引景井説)。(3)波の〔二字右○〕打寄する(古説、續萬葉古義引用説)。以上のうちで(3)の(771)説に從つて、波の打寄する洲《ス》といふを駿河《スルガ》に係けたものと見たい。○するが 薦河《スルガハ》の義。する〔二字傍点〕はスル/\といふ擬態語にて、河流の停滯なく流るゝによりていふ(ハ國風土記)。(2)尖河《スルドガハ》の義(諸國名義考)。(3)動河《ユスリガハ》の義(景井説)。(4)洲有處《スルガ》の義(波多野榊説)。以上のうち(4)の説に從つて置く。國内各大河の河口に、寄洲が多く目立つたので付いた稱らしい。「駿」を訓とすれば、迅速《スミヤカ》の意を借りたもの。○こちごちの 既出(五七三頁)。○みなかゆ 眞ん中《ナカ》から。この「ゆ」はニ〔傍点〕と解してもよい。「み」は美稱。舊訓サカヒニ〔四字傍線〕は非。○いでたてる 「立」原本に之〔右△〕とあるは誤。○あまぐもも――とぶとりも 二つの「も」はサヘモの意。○とびも 「翔」を意訓にトブと讀む。○もゆるひ 富士山の噴火をいふ。當時は噴烟してゐたのである。都良馨(元慶三年没)の富士山(ノ)記に「頂上(ニ)有(リ)2平地1、廣(サ)一許里、其(ノ)頂(ノ)中央|窪下(ミテ)、體如(シ)2炊甑《コシキノ》1、甑(ノ)底(ニ)有(リ)2神池1、池中(ニ)有(リ)2大石1、石體驚奇、宛(モ)如(シ)2蹲虎(ノ)1、其甑中常(ニ)有(リテ)v氣蒸(シ)出(ヅ)、其(ノ)色純青、窺(フニ)2其甑底(ヲ)1如(ク)v湯(ノ)沸(キ)騰(ル)、其在(リテ)v遠(キニ)望(メバ)者、常(ニ)見(ル)2煙火(ヲ)1〔四字右○〕」とある。延暦以後も時々激しい噴火があつて、熔岩や砂礫が山麓を埋没したことが史に出てゐる。古今集序には「富士の山の烟も立たずなり」とあるが、その後(772)も噴烟してゐたことは諸書に散見する。○ゆきもてけち――ひもてけちつつ 眞淵訓による。舊訓ユキモテキヤシ〔七字傍線〕――ヒモテケシツツ〔七字傍線〕。「もて」を古義にモチ〔二字傍線〕と訓んだのは、古に泥み過ぎた。○いひもかね 眞淵訓による。神本イヒモエズ〔五字傍線〕。○なづけもしらに 「なづけ」は説明のしようのないの意。名を付ける意ではない。下の挽歌の「言ひもかね名付けも知らに」と同意である。「付」の字原本にない。訓は眞淵のによる。神本ナヅケモシラズ〔七字傍線〕。○あやしくも 奇靈《クス》しき意の形容詞。○かみかも 山を即神と見たので、富士の神を分けて斥したのではない。富士の神は神名帳(延喜式)に、駿河(ノ)國富士郡淺間神社、名神大とある。○せのうみ ※[(戈/戈)+立刀]《セ》の海。西湖(甲斐都留郡)及び精進湖(同西八代郡)の古名。この二湖はもと一つの水海であつたのが、貞觀五年七月の噴火によつて砂礫の爲に理沒されて、中斷したものといはれる。「石花」は和名抄に、石花、二三月皆紫(ニ)舒(ブ)v花(ヲ)、附(イテ)v石(ニ)生(ズ)、故(ニ)以(テ)名(ヅク)之、和名|勢《セ》とある。故にセの借字に用ゐた。○なづきて 古本の訓による。舊訓ナヅケテ〔四字傍線〕。○つつめる 「堤」は名詞であるが、「有」を添へて動詞たらしめた。堤《ツツミ》は包〔二字傍点〕の居體言で、土を以て水を※[雍/土]《フサ》ぎ包むよりの稱。○うみぞ 海なる〔二字右○〕ぞ。○ふじかはと 富士河とて〔右○〕。富士河は甲斐國の釜無、笛吹の諸川を湊めて富士山の西麓を流れ、駿河國田子の浦に注ぐ大川。甲斐の鰍澤以南を富士河と稱する。○みづのたぎちぞ 水の激《タギ》ちな〔二字右○〕るぞ。「當」はおなじ七陽の韻字の香《カウ》が、カグ〔二字傍点〕となると同例で、タング(tang)がタグとなり、さてタギと轉用された。なほ「かぐやま」を參照(六七頁)。「知」を補つてタギチと訓む。「烏」は焉と通用で、ゾに充てた。○ひのもとの 倭《ヤマト》にかゝる枕詞。「ひのもと」は日本の訓讀で、日本はわが國號として外國へ示さむ爲に、孝コ天皇の朝に建てられた稱で、その以前推古朝に日出處天子と書いて、漢土へ遣はされたのと同意である。依つて秋津島《アキヅシマ》倭といふ場合に、かく日の本の倭とも續けていつた。(以上國號考、古義參取)。日の神の本つ御國(773)といふ宣長説は取らない。○やまとのくに こゝは大八洲國をいふ。「やまと」を參照(二〇頁)。○しづめ 抑へとなること、又は抑へとなる物。重石《オモシ》の意。鎭子。神功皇后紀に、請《ヲギテ》2和魂《ニギタマヲ》1爲(ス)2王船鎭《ミフネノシヅメト》1、續紀廿五詔に國乃|鎭止方《シヅメハ》、皇太子|乎《ヲ》置定天之《オキサダメテシ》などの例がある。「十方」は戲書。○たからとも 山跡の國の〔五字右○〕寶とも。上句に讓つて省筆した。
【歌意】 甲斐の國と駿河の國との、あちらこちらの眞中に立ち聳えてゐる富士の高山は、流石の天の雲さへも通りかねて滯り、飛ぶ鳥さへもよう翔りあがらず、燃える火を雪で以て消やし、降る雪を火で以て消やし/\して、口にも言ひ表はしかね、何と説明しやうも分らぬ、靈異でもあらせられる神樣であることよ。あの※[(戈/戈)+立刀]《セ》の海と名の付いてゐるのも、この山の圍つてゐる湖水さ、富士河といつて人の大事にして渡るのも、その山の水の流れ落ちる激喘《ハヤセ》さ。思へば〔三字右○〕實にわが日本の倭の國の鎭めとしてまあ、あらつしやる神樣よなあ、倭の國の寶としてまあ、あらつしやる山よなあ。實にこの富士の高山は、いくら見てもく見飽かぬことであるよ。
 
〔評〕 初頭は双頭的に堂々として、まづ富士山の地理的説明に筆を起した。「こちごちの國の眞中ゆ出で立てる」と極めて無造作な叙述に、他に覇を爭ふ山も峯もなく、一切を空にしてゐる状態が明らかに看取され、偉大なる靈峯富士の威容を彷彿するに十分である。
 さて一轉してその景象の描寫に及んだ。天雲に人格を與へての「いゆき憚り」は稍套語に近いが、その高大さを形容するには、やはり缺き難い文字であらう。「飛ぶ鳥も翔びものぼらず」は、惜しいかな「天雲」の句に對してはやゝ不倫である。且かゝる繊小なる取材は、他の凡山庸峯に用ゐてこそふさはしい。その高峻を語ら(774)うとして、却て低くしてしまつた感がある。
 然し次の「燎ゆる火を雪もて消ち、ふる雪を火もて消ちつつ」の雪火相尅の形容に至つては、實に神怪不思議を極めた絶妙巧辭で、或は山靈意あつて、その筆端を加護したのではあるまいかとさへ疑はれる。作者既にこの四句の摩呵文字がある。他の屑々たる言辭はなくとも、優に萬葉に濶歩するに足りる。
 「言ひも得ず名付けも知らに」は過渡の句で、言語道斷の至と稱して、さて「靈しくも座す神かも」と一度讃歎の詞を放つた。
 作者はその山頂の奇異を歌ひ得て、一先づこゝでほつと息を吐いたものであらう。更に何物をかと岳麓の周邊を囘看すると、あるは/\、その山陰の甲斐の國には大小の諸湖が碧瑠璃を湛へて散在してゐるではないか。就中石花の海、それは今の西湖(周圍三里十八町)と二里ほど隔つた精進湖(周圍二里十六町)とが、古へは一つ湖水で石花の湖といつたとあるから、頗る廣大なもので、岳麓湖中の魁首であつたらう。依つて代表的にこれを捻出して、それ程の大湖でも、高がこの山根の一寸した窪みの溜水ぞと驚異した。
 又山陽の駿河の國を見渡して、海道筋第一の大河と聞えた富士川を發見した。
  明け放れてのち富士川渡る。朝川いと寒し。數ふれぼ十五瀬をぞ渡りける。 (十六夜日記)
  富士川は石を流す、何ぞ舟を覆さざらんや。老馬を頼みて渡る。  (海道記)
など、來往の旅人がその急流を恐こんで渡りかねた富士川、それとても高がこの山の水の落ちこぼれの急湍に過ぎないぞと、更に驚異した。
 この二つの大いなる驚異は、石花の海と富士河とに、故意に侮蔑を與へたのではないかと思はせる程に力強(775)いもので、詰る處は、靈峯富士の崇高雄偉さを反映させる妙手段であつたのである。
 「つつめる海ぞ」「水のたぎちぞ」の口調は、一般人、時によつては自分自身に向つてさへも、從來の誤解迷蒙を啓いた説明的言辭である。
 「日本の倭の國の」は、「鎭とも座す」の句のみならず、「寶とも座す」の句にも係るのだが、一方は省筆したもので、「國の鎭とも座す」はその偉大さの絶對を語り、「國の〔二字右○〕寶とも座す」はその比倫なき威靈を語つて、「神かも」「山かも」と反復して、こゝに二度讃歎の詞を放つた。神といひ山といふは語を錯落させたまでで、畢竟同意である。
 結局に至つて總括約に「駿河なる富士の高嶺は見れど飽かぬかも」と、三度讃歎の詞を放つた。そして初頭の「不盡の高嶺は」に呼應して擱筆した。然しこれは甚だ常套文字で、強弩の末魯縞をも穿つこと能はざる感じがないでもない。慾には今少し警拔なる文字を以て結收し、一首の均衡を保持させたいと思ふ。
 この篇は長歌中の異體で、段落毎に歎辭の「かも」を使用して反復詠歎に力を※[聲の上部/缶]した。作者が如何にこの靈峯に憧憬し傾倒し渇仰してゐたかゞ看取される。既に吹毛の難は試みたものゝ、概しては、壓倒的迫力を以て奇語壯語を操縱し、縱横に揮灑し去つた、男性的雄篇大作である。
 第一段は枕詞を運用した甲斐駿河の排對から起つて、富士山の位置を説明し、第二段はその前聯には天雲と飛ぶ鳥と、後聯には噴火と降雪とによる山上の景象を描寫し、以上四句の排對を「言ひもかね――」以下の單長句を以て結束した。第三段は山麓の河海の形成状態を叙するに、長句の排對を用ゐ、更に讃語を反復しての對語を以て結束した。第四段は單長句を以ての全結收である。或は第二段と第三段とは描寫方面は違ふが、目(776)的は同じく富士の讃美的叙述だから、一括して一段と見て、その中に前後の二節をもつものと見てもよい。
 山岳崇拜は世界各國を通じて、古代人のもつた信仰であつた。殊にわが邦の如き、高山唆岳に富んでゐるのみならず、本來の民族性が萬有に神ありと觀ずる信念が強いから、この靈峯富士に對しては、必ずや格別の關心をもち、幾多の神秘的傳説が構成さるべきである筈である。然るに常陸風土記の記載によれば、伊弉諾尊が宿泊を求められた際、富士神は新嘗の夜だからと斷つたのに、筑波神は歡待したので、尊は富士神の非禮を憤られ、その罸として寒冷死の如き山となつたとあつて、甚だ不面目な傳説が遺つてゐる。然しそれは筑波山を賞揚する目的で、富士山を故意に中傷した、常陸人のお國自慢の弄舌に過ぎない。その他は富士山記の神女二人が頂上に舞蹈してゐるのを里人が見たといふ咄、上宮太子傳暦の、太子が山頂を巡遊したとある僅な記事などあるばかりで、まことに話の種が少ない。竹取物語の不死の藥を焚いたといふ不死の山の地口に至つては、記紀などに見える所謂地名傳説の範疇に陷つた最も後出の話説で、一向この山を神異にするに足らない。要するに靈峰富士としてのよき傳説のないことは、この山が餘に凡常を超越し過ぎた結果であらう。
 又この山を詠じた製作も不思議なほど乏しい。集中僅に六首、即ちこの前後の長短歌五首の外、鳴澤の歌が一首あるのみ。東海道筋は東歌の諸作の證する如く、盛に訛の多い田舍詞を使つてゐた邊僻な地方で、都人士の往來は主としては地方官の上下位だから、それも無理もあるまいが、一面はやはりこの山の絶對美には、唖然として口を噤むより外はない故であらう。されば平安朝の歌仙在原業平は、側面から漫罵して「時知らぬ山は富士の嶺」と逃げを打つて通過してしまつた。彼れは才子である。
 
(777)反歌
 
不盡嶺爾《ふじのねに》 零置雪者《ふりおけるゆきは》 六月《みなづきの》 十五日消者《もちにけぬれば》 其夜布里家利《そのよふりけり》     320
 
〔釋〕 ○ふりおける 積つてゐる。卷十七に「立山に布里於家流《フリオケル》雪の」とある。舊訓はフリオク〔四字傍線〕。○みなづき 水之月《ミノツキ》の義といふ。陰暦六月の異名。○もち 望。滿ち〔二字傍点〕の轉語。月の滿つる日、即ち陰暦での十五日の稱。○けぬれば 類本その他の訓はキユレバ〔四字傍線〕。○そのよ その望の〔二字右○〕夜。
【歌意】 富士の山に積つてある雪は、六月十五日の盛夏に消えると、不思議やすぐその晩に降り積るわい。
 
〔評〕 富士山記に「積雪春夏不v消(エ)」とある。それをさう抽象的でなく「六月の望に消ぬれば」と、世の常識のままに、一旦は流石の富士の雪も盛夏の烈日には堪へぬものゝやうに思はせておいて、「その夜ふりけり」と意外な脊負投に、聽者をしてあつと驚かせた手法は、率直な叙法のやうに見えて、なか/\技巧がある。藤井高尚が「幼き心になりて詠めり」など評したのは、甚だ表面的な淺い見方である。かくて殆ど間斷なしに雪の存在する趣を、印象強く表現し得たのである。一面には間接に富士の神秘的存在を認識させる手段でもある。
    
布士能嶺乎《ふじのねを》 高見恐見《たかみかしこみ》 天雲毛《あまぐもも》 伊去羽計《いゆきはばかり》 田菜引物緒《たなびくものを》     321
 
(778)〔釋〕 ○ふじのねを 「を」は歎辭。○たかみかしこみ 高さに畏こさに。「高見」は戲書の意が含んでゐゐ。○あまぐもも 「も」は口語のサヘモの意。○たなびく 靡く〔二字傍点〕に同じい。「た」は接頭辭。「田菜引」は戲書。○ものを 「物緒」は借字。
【歌意】 富士の山がまあ高さに畏こさに、大空の雲でさへも行きかねて、山に靡いてゐるものを。どうしてこの山を仰ぎ尊ばずに居られようぞ。
 
〔評〕 富士を主とし天雲を客とし、客を※[人偏+就]つて主を形し、富士の神聖さを間接に映出した。天雲はその物にもその語にも、もとより崇高的觀念が宿されてゐる。その天雲さへ富士の前には平伏してえ動かぬものをといひさして、隱約の間に富士の絶對に渇仰せらるべきことを各人に強要した。
 著想は赤人の長歌の腹節の一部「白雲もいゆき憚り」を拜借し、「ものを」の辭によつて、その尾節の意を餘意に殘したものゝ如き作である。長短の體差こそあれ、想に獨創の少ない點が面白くない。これは赤人のより後出と見ての論である。がほゞ同時代の暗合と見たい。
 左註は高橋蟲麻呂の作とした。歌風の上から見ても、それが本當であらう。
 
右一首、高橋(ノ)連《ムラジ》蟲麻呂之歌集〔左○〕中(ニ)出(ヅ)焉、以(テ)v類(ヲ)載(ス)v此(ニ)。
 
 右一首は高橋連蟲麻呂の歌集中に出てゐる、この邊は富士の山の作を竝べた處だから、これも同じ類作ゆゑ、序にこゝに載せたとの意。これによれば「富士の嶺を」の歌は上掲の長歌の反歌ではなく、蟲麻呂歌集から補(779)入した獨立のものとなる。「集」の字原本にない。
 
山部(の)宿禰赤人(が)至《ゆきて》2伊豫(ノ)温泉《ゆに》1作歌一首竝短歌
 
○伊豫温泉 伊豫温泉郡道後の湯のこと。伊佐庭《イザニハ》の岡の麓にある。允恭天皇紀に「其輕(ノ)太子流(サル)2於伊豫(ノ)湯(ニ)1也」、舒明天皇紀に「十一年十二月幸(ス)2于伊豫(ノ)湯(ノ)宮(ニ)1」、天武天皇紀に「十三年冬十月大地震、伊豫温泉|没《フサガリテ》而不v出(デ)」など見えて、古來著名の温泉。△地圖 挿圖15を參照(五二頁)。
 
皇神祖之《すめろぎの》 神乃御言乃《かみのみことの》 敷座《しきます》 國之盡《くにのことごと》 湯者霜《ゆはしも》 左波爾雖在《さはにあれども》 島山之《しまやまの》 宜國跡《よろしきくにと》 極此疑《こごしかも》 伊豫能高嶺之《いよのたかねの》 射狹庭之《いざにはの》 崗爾立之而《をかにたたして》 歌思《うたおもひ》 辭思爲師《ことおもはしし》 三湯之上乃《みゆのへの》 樹村乎見者《こむらをみれば》 臣木毛《おみのきも》 生繼爾家里《おひつぎにけり》 鳴鳥之《なくとりの》 音毛不更《こゑもかはらず》 遐代爾《とほきよに》 神左備將往《かみさびゆかむ》 行幸處《いでましどころ》     322
 
〔釋〕 ○すめろぎのかみのみこと 既出(一二五頁)。「御言」の言〔傍点〕は借字。○しきます 「しきなべて」を見よ(一二頁)。○ゆはしも 四言の句。湯は温泉をさす。○さはに 既出(一四五頁)。○しまやまのよろしきくにと (780)伊豫を〔三字右○〕島山の面白い國としての意。島山を四國とする古義説は當らない。○こごしかも 伊豫の高嶺に冠した讃語。形容詞複活用の第三變化終止言「こごし」に「かも」の歎辭の添うたもの。久夜斯《クヤシ》かも(卷五)の例がある。「こごし」は「こごしき」を見よ(七四〇頁)。「極」の呉音ゴクを轉じてコゴに當て、「此」はその漢音を用ゐ、「疑」を意訓に疑辭のカモと讀んだ。○いよのたかね 道後温泉の北東方に亙つた峯巒の總稱。湯(ノ)岡(ノ)碑文に、窺(ヒ)2望(ム)山嶽之巖ー(ヲ)1とある山嶽のこと。石※[金+夫]《イシヅチ》山とする説もあるが、餘り離れ過ぎて伊佐庭の岡には配し難い。○いざにはのをか 伊豫の高嶺の山麓の丘陵で、道後温泉の上方の岡の總稱。神名帳に温泉郡|伊佐爾波《イサノニハノ》神社、湯(ノ)神社がある。伊佐庭の稱は、風土記に「立(ツル)2湯(ノ)岡(ノ)側(ノ)碑文(ヲ)1處(ヲ)、謂(フ)2伊社爾波《イザニハト》1者(ハ)、當土(ノ)土人等、其碑文(ヲ)欲(リシテ)v見(マク)而、伊社那比來《イザナヒキケルニ》因(リテ)謂(フ)――也」と見えた。これに據れば湯の岡即ち伊佐庭の岡だから、伊佐爾波(ノ)神社湯(ノ)神社も初めからこの岡に在つたもので、廿町も湯より奥の山地を伊佐庭の岡とする説もあるが信じ難い。今の湯月八幡は古への湯神社であらう。○をか(781)にたたして 齊明天皇が。風土記に〔以(テ)2岡本(ノ)天皇(舒明)竝皇后(皇極齊明)二躯(ヲ)1爲(ス)2一度(ト)1、于時、於大殿の戸(ニ)有(リ)2椹與〔左△〕《ムクノキト》臣(ノ)木(ト)1、於其上(ニ)集(リ)2止(ル)鵤與《イカルガト》此米〔左△〕《シメ》鳥(ト)1、天皇爲(ニ)2此鳥(ノ)1繋(ケテ)2稻穗(ヲ)1養(ヒ)賜(ヒキ)也」と見え、その後又、卷一「※[就/火]田津に船乘しけむ」の左註(實は錯簡で莫囂圓隣之の左註)に「天皇(齊明)御2覽(シ)昔日(ノ)猶存《ノコレル》之物(ヲ)1、當時忽(チ)起(シ)2感愛《メデノ》之情(ヲ)1、所以因(リテ)製(リ)2歌詠(ヲ)1爲(ニ)v之(ガ)哀傷(ム)也」と見え、「吾がせこがい立たせりけむ嚴橿が本」の御詠があつた。この歌に臣(ノ)木及び鳴く鳥を詠じてある以上は、「立たして」は齊明天皇の事とするが至當であらう。古義その他に聖徳太子の事として、「辭思はしし」を湯岡の碑文を案ずる趣に解したのはいかゞ。なほ評語を參照。○うたおもひ 歌をおもひめぐらし。宣長訓による。眞淵訓はウタシヌビ〔五字傍線〕。○ことおもはしし 文辭を思ひめぐらされた。宣長訓による。眞淵訓はコトシヌビセシ〔七字傍線〕。○みゆのへ 湯のほとり。「み」は美稱。○こむら 樹群。和名抄に、樹枝相交(ル)下陰(ヲ)曰v※[木+越](ト)、和名|古無良《コムラ》とある。○おみのき 樅《モミ》の木。風士記の文中に出た木で、和名抄に、樅(ハ)和名|毛美《モミ》。字鏡に毛牟乃《モムノ》木と見え、モミはオミの轉訛。松杉科の常線喬木で、葉は互生し線形を成し、果實は長卵形の毬果で、突出せる鱗包を有する。○おひつぎにけり あとから繼いで生えた。○なくとりの 風土記の文中の鵤と此米鳥とをいふ。鵤は斑鳩《イカルガ》即ち豆マハシ又珠敷掛鳩と呼ぶ鳩のこと。此米は雀科の小鳥、嘴太く腹黄にして脚は淡黄色。○とほきよに 永世に。(782)○かみさびゆかむ 古びてゆかう。○いでましどころ 行宮をいふ。前出(七二九頁)。
【歌意】 皇祖《スメロギ》即ち代々の御門樣が御統治遊ばされる悉くの國に、温泉はさ澤山あるにはあるが、特に伊豫は島山の面白い國として、齊明天皇樣は〔六字右○〕、嶮しい伊豫の高嶺の伊佐庭の岡にお出ましになつて、歌をお詠みになり、文藻をお案じになつたといふ、その温泉の邊の茂みを今見ると、その折の行宮の前にあつた樅の木も、古木に繼いで若木が生えたことであるわ、稻穗を掛けてお飼ひなされた小鳥の鳴く音も、昔ながらに相變らずであるわ。この分では未來永世に神々しく存在してゆかうよ、この行宮址はさ。
 
〔評〕 この篇は伊豫温泉懷古の作で、齊明天皇行幸當時の追憶である。日本六十餘州、何處にも相應に温泉はあつても、道後温泉のある伊豫國は島山の宜しき國で、かく形勝に優れた地の温泉は、他にないやうにいつて退けた。これは例の抑揚の筆法で、主體を重くする爲の褒辭である。實をいへば紀温泉即ち牟婁の湯の如きは、有馬皇子の奏言にも見える通りの明媚の土地で、紀伊の國柄も伊豫よりは遙に風光には優れてゐる。
 詞人は目的の爲には手段を擇ばぬ。時によつては法螺を吹く。或は事實を※[手偏+王]げたり、黙殺したり、顧みて他を云つたりする。尤もそれには相應の理由もある。
 齊明天皇の朝七年の伊豫行幸は、實は征韓の爲であらせられた。(卷二、※[孰/火]田津に船乘せむの評語參照。五三頁五五頁)。その征途の御都合上、石湯《イハユ》の行宮(道後)に御駐※[馬+畢]なされたのであつた。作者はそれらの史實には一切觸れず、只風景が叡慮に協つて行幸があつたやうに揚言した。勿論主題を褒美する目的もあるが、蓋し事兵革に關するので言忌したものであらう。
(783) 「伊佐庭の岡に立たして」は、天皇がわざ/\行宮から其處に御出遊なされたのではない。伊佐庭の岡が行幸《イデマシ》處即ち行宮所在地だつたのである。風土記及びその逸文の傳ふる處によれば、行宮の大殿の戸際に樅の木と椋の木があり、鵤と此米とが集まつて止まつたとある。本文の、「御湯のへの樹村を見れば、臣の木も生ひ繼ぎにけり」は即ちこの樅の木を斥し、「鳴く鳥」は即ち鵤や此米鳥を斥したことは明かである。されば岡と行宮と温泉と樅の木とは、極めて近接してゐたものと考へられる。かく考へてこそ、始めて行宮の名稱に石湯と冠したことも點頭かれるであらう。温泉より二十町北に御幸山と稱する處を行宮址とする説は首肯し難い。
 「歌思ひ」と「辭思はしし」とは、同一事を只詞を易へて交錯させた文飾に過ぎない。さて天皇の當時遊ばされた叡藻は、前度夫帝舒明天皇と御同列で行幸あらせられた往時の御追懷で、即ち「莫囂圓隣之……吾がせこがい立たせりけむ嚴橿がもと」の一詠であつた。
 作者赤人は今伊佐庭の岡の行宮址に對つて、深く齊明天皇の行幸時を追懷し、つぶさに天皇の御言動を思惟しては、岡邊の御逍遙を想ひ、夫帝追慕の聖作を傷み、又温泉附近の林叢を見ては、嘗て叡覽に觸れた、天に向つて※[直三つ]立する樅の木の空翠と、葉を隔つる鳴禽の好音とが、約四十年を經た今日も依然たる處に、大いなる感銘を起した。そしてこの現在状態から推してゆけば、永久に滅ぶることなく、この行幸處は神さび往くであらうと祝福した。この祝福の裏に限ない懷古の情が籠つてゐる。
 簡淨なる中形の長歌である。初頭、例の皇祖の御上からいひ起して、「歌思ひ辭思はしし」までは、專ら齊明天皇の御上を歌つたもので、これを前段とし、以下結收までは、更にその御遺蹟に關しての自身の感想を叙べたもので、これを後段とする。句法は「歌思ひ辭思はしし」の句中の對語と「臣の木も―」「鳴く鳥の―」の(784)二句の排對とで稍變化を求めてゐる。但「生ひ繼ぎにけり」の詠歎に「聲も變らず」の現在法は、形式上對比が面白くない。「行幸處」の體言によつての結語は例の事ながら、力強く響が永い。
 又いふ「立たして」を聖徳太子の事とし、臣の木、鳴く鳥を齊明天皇の御世の事とする諸家の説は、一篇叙事の統一を缺いて徒らに混雜を招く。「辭思はしし、三湯の上の樹村を見れば、臣の木も云々」の叙述は、異代異人の事としては文理が徹らない。况や次の反歌にある「※[就/火]田津の船乘」は明かに齊明天皇の御事蹟を歌つてゐるではないか。蓋し天皇は舒明天皇時代に皇后として一囘、又御在位の帝として一囘、かく前後二度もこの伊佐庭の岡の石湯の行宮に駐駕あらせられた深い因縁をもたれた。後來憑弔の客は勢ひこの御事蹟を主として歌はざるを得ない。依つてこの長歌及び反歌を通じて、齊明天皇の御事に就いての詠作と斷言する。
 
反歌
 
百式紀乃《ももしきの》 大宮人之《おほみやびとの》 饒〔左△〕田津爾《にぎたづに》 船乘〔左△〕將爲《ふなのりしけむ》 年之不知久《としのしらなく》     323
 
〔釋〕 ○ももしきの 宮の枕詞。既出(一二六頁)。「式」は借字。「紀」は添字。○にぎたづ 既出(五二頁)。「饒」原本に飽〔右△〕とあり、アキタヅ〔四字傍線〕と訓まれた。三津濱に古へ武田津、秋田津、成田津の三つの津があつたといふ説を、古義には擧げてあるが覺束ない。それではこの赤人の追懷した額由王の原歌の「※[就/火]田津がなくなつてしまふ。○ふなのり 「ふなのりせむと」を見よ(五二頁)。「乘」原本に乖〔右△〕とあるは誤。○しらなく 既出(四四五頁)。
△寫眞 挿圖14を參照(五二頁)。
【歌意】 昔齊明天皇の行幸の時、從駕の大宮人達が、この饒田津から發船しただらうその年暦も、數へ知られず舊く經つたことよ。
 
〔評〕 卷一の齊明天皇朝の額田王の歌の、
  ※[就/火]田津に船乘せむと月まてば潮もかなひぬ今日は漕ぎいでな、(−8)
とある名歌によつての追懷で、原作の「船乘」の語を借り用ゐて、その意を親貼ならしめ、星霜の交替の數多いことを「年の知らなく」と誇張した。實は額田王の作は齊明天皇の七年の事だから、赤人のこの作を藤原宮時代の末期と見てからが、約四十年に過ぎない。以てその誇張の程度を窺ふことが出來よう。
 道後と饒田津とは隣接の地で、齊明天皇が道後(石湯行宮)から饒田津に來往せられた如く、作者も來往したらしい。蓋し瀬戸内海の往還の渡津だからである。
 
登(りて)2神岳《かみをかに》1山部(の)宿禰赤人(が)作歌并短歌
 
○神岳 既出(四四七頁)。又「雷《イカヅチノ》岳」を參照(六三五頁)。この集の書例に從へば、山部宿禰赤人登神岳作歌と上下すべきである。△地圖及寫眞 挿圖105(三三四頁)130(四四八頁)を參照。
 
三諸乃《みもろの》 神名備山爾《かみなひやまに》 五百枝刺《いほえさし》 繁生有《しじにおひたる》 都賀乃樹乃《つがのきの》 彌繼嗣爾《いやつぎつぎに》 (786)玉葛《たまかづら》 絶事無《たゆることなく》 在管裳《ありつつも》 不止將通《やまずかよはむ》 明日香能《あすかの》 舊涼師者《ふるきみやこは》 山高三《やまたかみ》 河登保志呂之《かはとほじろし》 春日者《はるのひは》 山四見容之《やましみがほし》 秋夜者《あきのよは》 河四清之《かはしさやけし》 旦雲二《あさぐもに》 多頭羽亂《たづはみだれ》 夕霧丹《ゆふぎりに》 河津者驟《かはづはさわぐ》 毎見《みるごとに》 哭耳所泣《ねのみしなかゆ》 古思者《いにしへおもへば》     324
 
〔評〕 ○みもろの 四言の句。神岳を三諸《ミモロノ》岳とも稱する。「みもろ」は御室《ミムロ》の義、神の坐す處。○かみなひやま こゝは神岳のこと。「神名備」は字は樣々に充てゝ書くが、本來普通名詞で、出雲(ノ)神賀(ノ)枕詞に「大御和《オホミワ》の神奈備《カミナヒ》にます、葛木《カツラキ》の鴨の神奈備にます、字奈提《ウナテ》の神奈備にます、飛鳥の神奈備にます」など見え、尚諸國にも某神奈備の稱がある。語は神の杜の義と釋されてゐる。古義の説に、御門の近き衝《マモ》り神の居處を申すにやとあるは當らない。○いほえさし 多くの枝を出し。「さし」は日光の刺すの刺す〔二字傍点〕と同じい。○しじに しみしみ〔四字傍点〕にの略。しみ〔二字傍点〕は繁きこと。○つがのきのいやつぎつぎ 既出(一二三頁)。○たまかづら 既出(三二九頁)。葛は限なく蔓延するので、「絶ゆる事なく」の枕詞に用ゐた。○ありつつも 既出(三〇一頁)。「管裳」は戲書。股引の類の稱であらう。○やまず 絶えずの意に近い。○あすかのふるきみやこ 飛鳥の淨見《キヨミ》原の舊都。「清見原(ノ)宮」を見よ(九九頁)。○とほじろし 遙に目に立つこと。遠著《トホシロ》しの義。轉じてはさやかなる〔五字傍点〕の意とする。○みがほし (787)見之欲《ミガホ》しの義。「容」は借字。○かはづ 河鹿《カジカ》のこと。無尾類中盤指類に屬する兩棲動物。蛙の一種で溪流に棲み、その聲が清しい。集中、河津、蝦津など書く。○さわぐ 鳴きすだくをいふ。「驟」は數《シバ/\》の義があるので、意を以て騷グ〔二字傍点〕に充てた。△挿畫及寫眞 挿圖40(一二三頁)103(三三〇頁)を參照。
【歌意】 この神名備山に澤山の枝を刺して、一杯に繁つて生えてゐる栂《ヅガ》の樹の名のやうに、彌よつぎ/\にうちつゞいて、生きながらへてまあ、通はうと思ふ飛鳥の舊い都は、山が高くて河の流が遙に目立つ。そして春の日は山がさ花など咲いて〔六字右○〕、何でも見たい程に美しく、秋の夜は月が照つて〔五字右○〕、河がささやかである。朝の雲には鶴が飛び亂れ、夕方の霧には河鹿が鳴きすだく。かうした風景の面白い處だが、流石は舊い都のことで〔十字右○〕、見る度に聲に立てゝ泣かれることよ、その全盛だつた當年のことを思へばさ。
 
〔評〕 藤原京時代の作である。作者は或日舊都飛鳥を訪問して、その雷の岡に登臨し眺望を恣にした。岡上には栂の大木があつて、數多の枝葉が生ひ擴がつてゐる。脚下東南數町の地は、雷の岡とは切離し難い關係にある天武天皇の淨見原の舊都である。
 作者は嘗て淨見原朝を經來つた人で、其處の一草一木も盡く昔馴染で、傷心の種ならざるはない。追憶と憑弔、この二つの情が纏繞して、命のある限は是非絶えず見舞ひたいの執着があつた。これ栂の木の秀句から、「いやつぎ/\に絶ゆる事なく、止まず通はむ飛鳥の舊き京都は」と呼び掛けた所以である。
 更に宮址淨見原を中心として囘看すると、音羽(椋橋山)多武《タム》の連峯は南方に聳え、逝囘《ユキヽ》の岡陵は東方に蟠り、近く豐浦の岡が飛鳥川を隔てゝ西方を塞いでゐる。これ「山高み」である。島の庄(橘の地)から北流して來た(788)飛鳥川が、この宮址邊から忽ち西に折れて、雷の岡脚を洗つて流れ去る。これ「河遠じろし」である。
 以上は淨見原の大觀である。更に仔細に見直し考へ直すと、節物風光の推移につけて、又棄て難いものがあつた。即ち春の日はその高い山には花を飾るので面しろく、秋の夜はその遠じろい河の瀬に月がさして清《サヤ》かなのであつた。この花と月とは表面にこそ言及してないが、當然補足して説明さるべき詞態で、そこに省筆の妙を見る。又朝明となれば雲間に鶴が舞ひ亂れるし、黄昏となれば霧に咽んで河鹿が河瀬に鳴きすだくのであつた。蓋し鶴は暮秋から春へかけての臨時の景象で、河鹿は夏秋を旨としたこゝの名物であつた。下にも
  けふもかも飛鳥の川の夕さらず河津鳴く瀬のさやけかるらむ (上古麻呂―356)
かくの如く、淨見原が山水秀麗に春秋朝暮の景觀に富んだことは、一面に「いや繼ぎ/\に絶ゆる事なく止まず通はむ」の作者の意圖を裏書するものである。
 然し、是等の形勝も景觀も、淨見原が舊都となつた現在では、何にもならぬ處か、憖に森羅萬象が無心無情で、當年の面影を遺してゐるだけ餘計に、却て傷心の媒となるのであつた。結收の「見る毎に音のみし泣かゆ」といふ所以は、全く懷舊の情に緊しく囚はれたからである。この二句は甚だ套句で珍とするに足らぬが、この歌に取つては一首の司命である。
 初頭より「舊き京都は」までは、一意到底の叙述で第一段とする。「山高み河遠じろし」は過渡の句で、これより「河津はさわぐ」までを第二段、以下を第三段とする。そして「三諸の」より「河遠じろし」までは作者が當前の感想と景觀とを叙し、「春の日」より「河津はさわぐ」までの春秋朝暮の四對句は、過去の記憶を追想しての景觀を叙した。そして「山高み河遠じろし」は句中の對語で、その「山高み〕は「春の日は山し見(789)がほし」の句を、「河遠じろし」は「秋の夜は河しさやけし」の句を胚胎して、相呼應し合拍してゐる。
 この篇は長歌には珍しい完璧で、而も語々句々洗煉を極め、一點の塵垢も混へない。聲響清亮で舞限の哀調を帶びてゐる。今も飛鳥川の夕霧に咽ぶ河鹿の聲を聽くが如き感がある。赤人作中の佳篇。
 
反歌
 
明日香河《あすかがは》 川余藤不去《かはよどさらず》 立霧乃《たつきりの》 念應過《おもひすぐべき》 孤悲爾不有國《こひにあらなくに》     325
 
〔釋〕 ○かはよど 川水の淀んだ處の稱。「藤」の呉音ドウを短音に用ゐた。騰〔右△〕の誤とするに及ばぬ。○たつきりの 「過ぐ」に係り、上句よりこゝまでは序詞。霧に過ぐといふは霧の消え失するをいふ。家持の立山賦中にも「立つ霧のおもひ過ぎめや」(卷十七)とある。○おもひすぐ 物思のなくなる。諸註、念を遣り失ふと解したのは自他が違ふ。○こひ 古へを慕ひ思ふ情をいつた。廣義の戀である。
【歌意】 この飛鳥川の川淀に滯つて立つ霧は、やがて消散するが、自身の感哀はなか/\以て、その霧のやうに消散しさうな、一通りの輕い懷古の情ではないものを。はてどうせうぞ。
 
(790)〔評〕 飛鳥川の川淀の霧は、作者が神岳登臨の際の實景と見える。即ちこれを※[人偏+就]りて序に運用した。すべてかゝる有心の序は、聽者を作者と同一境地に引込むことに依つて、大いなる効果をもたらす。次いで「戀にあらなくに」の反語的歇後の語を使用して、益す婉曲味を饒からしめてゐる。
 懷古の情を戀といつたことは一寸異樣に感ずるが、弓削皇子と額田王との贈答の「古へに戀ふる鳥かも」(卷二)「古に戀ふらむ鳥は」(同上)などの例から推しても、憑弔の實際作としては當然いひ得る語である。前朝の遺物は一切空で、只天象地物のみ依然たることは、愈よ傷心をそゝる種はひで、生やさしい事ではこの悲は消失するものではない。かく修辭上に相當の技巧はあるが、要するにその情は、淡にして遠いものといつてよからう。尚下の「石《イソ》のかみ布留《フル》の山なる」の條を參照。
 
門部《かどべの》王(が)在(りて)2難波(に)1見(て)2漁父燭光《アマノイサリビヲ》1作歌一首
 
門部王が難波に居て、海人の漁火を見て詠んだ歌との意。○門部王 前出(七五二頁)。 
見渡者《みわたせば》 明石之涌爾《あかしのうらに》 燒火乃《ともすひの》 保爾曾出流《ほにぞいでぬる》 妹爾戀久《いもにこふらく》     326
 
〔釋〕 ○あかしのうら 播磨國明石郡。明石の湊に同じい。○ともすひの 燃す火の如く〔二字右○〕。燃す火は漁火のこと。上句は序詞で、「秀《ホ》」にいひかけたもの。初句の「見渡せば」は「ともす」に係り、「ともす」は初句を承け、(791)かねて「火」にいひ續けた。「燒」をトモスと讀むは意訓。○ほにぞいでぬる 火の秀《ホ》に出づるに、戀心の表面《ホ》に顯はれるを寓せた。火の秀に出づるとは※[餡の旁+炎]の立つをいふ。「ほ」の解は既出(二七四頁)。久老は「出」の下奴〔右△〕の脱とした。○こふらく 戀ふる〔傍点〕の延言。△地圖及寫眞 卷頭總圖及挿圖184(六六八頁)を參照。
【歌意】 こゝ(難波)から見渡すと、遠くの明石の浦でともす漁火が、目に立つてあらはに見える如く、あの女を戀ふる私の心が、つひ色に出で顯はれたことよ。
 
〔評〕 明石の浦の漁火は難波あたりでは見えない。見えないものを見る、これは卷三の、  住の江のえな津に立ちて見渡せば武庫の泊ゆいづる舟人  (−283)
と同じく、大まかの想定で、それが武庫の浦であり、明石の浦であることによつて、餘計に風情が加はつて面白く聞える。もとより詩人幻化の手段で、誇張の一種と見てよい。明石の浦は西國航路の最要錨地で、難波あたりからは常に想望されてゐる地點なので、見渡しの海上遠く燃ゆる漁火に湊合させたものである。
 さてその波を焦がす漁火の如く、わが妹思ふ情炎はいちじるしく色に顯れたと、驚訝したのである。蓋し人の噂は足なくして千里を走るからである。
  戀すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか(拾遺集、戀、壬生忠見)
はこのよき注脚である。比べて見ると、彼れは奇警此れは温藉を以て勝る。
 
或|娘子等《をとめらが》賜《おくりて》2裹乾鰒《つつめるほしあはびを》1、戲(れに)請(へる)2通觀|僧《はふしが》之|咒願《かしりを》1時、通觀(が)作歌一首
 
(792) 若い女達が裹んだ乾鰒を通觀法師に贈つて、戲に咒《マジナヒ》の力でこれを祈り活《イカ》してくれと請うた時、通觀が詠んだ歌との意。「カシリ」は書紀にも見え、禁厭《マジナ》ふこと。咒願は念誦廻施の意で、法會の行事だから事は違ふが、通はせて用ゐたもの。○賜 贈と同意に用ゐた。誤ではない。○通觀 傳は未詳。
 
海若之《わたつみの》 奥爾持行而《おきにもちゆきて》 雖放《はなつとも》 宇禮牟曾此之《うれむぞこれが》 將死還生《よみがへりなむ》     327
 
〔釋〕 ○わたつみ 既出(七四頁)。「海若」は楚辭に、令(ム)3海若(ヲシテ)舞(ハ)2憑夷(ヲ)1と見えて海神の名。わたつみの本義も海神であるから、この字を充てた。但こゝは海のこと。○もちゆきて 神本その他にはモテユキテ〔五字傍線〕。○うれむぞ いかむぞの意。卷十一に「平山《ナラヤマ》の小松が末《ウレ》の有廉波《ウレンゾハ》わが思ふ妹にあはずやみなむ」とある外には例のない語。○よみがへりなむ 「よみがへり」は黄泉還《ヨミカヘル》にて、死者の生き返るをいふ。蘇生すること。宣長訓による。略解はヨミガヘラマシ〔七字傍線〕と訓んだが、マシ〔二字傍線〕の用法が不當である。舊訓はシニカヘリイカム〔八字傍線〕。「死還生」は熟語で、還は復《マタ》の意。
【歌意】 假令海上のそれは遠い沖に、持つて往つて放つとも、どうしてこれ(乾鰒)が生き返らうぞい。
 
〔評〕 通觀法師は必ず驗者であつたらうと思はれる。その祈祷効驗は掲焉なものがあつたにせよ、乾鰒の復活はとても手に乘るべくもない。娘子等の惡戲も程のあつたものだ。されば寧ろ反對に彌次り返す位の機轉がほしか(793)つた。この歌は餘り正直過ぎた挨拶で話にならぬ。鰒は海産物だ。で海邊どころか、どんな遠い沖合に放つともと、誇張的假設の辭樣を以て、乾鰒の復活の不可能なる事を主張した。久老等の「この僧の死灰の心はいかでか思ひ返さむといふ意を含めり」と評したのは、全く横入りの説である。
 
太宰(の)少貮《すないすけ》小野(の)老《おゆの》朝臣(の)歌一首
 
○太宰少貮 太宰府の次官で、從四位下相當官。○太宰府 西國の九國三島を總管する役所で、筑前國三笠郡に置かれた。國事及び外交邊防の事を掌る。長官を帥及び權帥とし、次官に大貮少貮がある。大貮は一人少貮は二人、下に大監、少監おの/\二人を置き、なほ附隨の諸役があつた。帥は親王を以て任じ、權帥は納言以上を以て任じ、大貮は參議又は散二三位を以て任ずる。(以上の令制は間もなく、官等が變更された)權帥のある時は大貮なく、大貮のある時は權帥を置かぬのが例である。○小野老 績紀によれば、養老三年正月正六位下より從五位下に進み、四年十月右少辨、神龜五年には太宰少貮であり、天平元年三月從五位上、同三年正月正五位下、同五年三月正五位上、同六年正月從四位下、天乎七年には既に太宰大貮となり、同十年六月卒した。(この卒年は正倉院文書によつて訂した)。
 
青丹吉《あをによし》 寧樂乃京師者《ならのみやこは》 咲花乃《さくはなの》 薫如《にほふがごとく》 今盛有《いまさかりなり》     328
 
〔釋〕 ○あをによし 既出(八三頁)。○ならのみやこ 既出(二七三頁)。△地圖 挿圖170 を參照(六一七頁)。
【歌意】 奈良の京は、恰も咲く花の咲きさかるやうに、只今が眞盛りでありますわい。 
(794)〔評〕 繁華の讃辭とレて爛漫たる春花を縁引することは上代思想で、その例が多い。さればこの構想は作者の獨創とはいひ難いが、和諧暢達、首尾の力量がよく均當して、一分の弛緩もなく緊張しながら、悠揚迫らざる趣がある。いかにもその全盛の文化に陶醉して樂しんでゐる氣分が躍如としてゐる。寧樂京禮讃の作としてこれ以上の詞は、歌聖人麻呂と雖も加ふることは出來まい。
 元明天皇の和銅三年に奈良に遷都してから、靈龜二年に遣唐使の派遣を見、養老元年には衣服の制を定め、同二年には律令を撰み、同四年には日本紀の修撰あり、又隼人上京して歌舞を獻じ、神龜元年には僧道慈によつて唐風建築の大安寺が建てられ、五位以下及び庶人の有福な者に、瓦葺赤塗の家屋の建築を命じ、同二年に所司三千人を出家せしめ、同三年山崎の橋を架し、同四年に長谷寺が建ち、同五年に大學に律學文章の二博士を置き、進士の試を※[并+刃]め、天平二年には興福寺の塔を造り、施藥院を置き、同三年に雅樂寮を定めて、韓唐兩樂の竝用を見、同四年に帝冕朝服を受け、同六年に興福寺の西金堂が出來、歌垣の叡覽あり、同七年に遣唐使が留學生下道眞備と共に歸朝し、大學に音博士を置き、同八年に唐僧道※[王+睿]華嚴宗を將來し、遣唐副使は波斯《ハシ》醫を從へて歸朝。以上二十七年間に新羅の朝貢は定例となり、渤海又入貢し、政治的に經濟的に社會的に、各方面に異常の發展を遂げ、文化の花は爛漫と咲き誇つた。作者老が養老三年に從五位下に叙した時は既に相當の若者であり、神龜五年に少貮となつて筑紫に赴任したものらしい。こゝに歌うた奈良の京の隆昌は、老の筑紫赴任前の現状である。
 だが奈良京そのものは當時頗る未完成であつた。その敷地こそ廣大無邊であるけれども、京域内には田もあり畑もあり、水葱《ナギ》や蓮の池もあり、陵墓もあり、白銀の目貫の太刀をさげ佩きて貴公子連が練つた(催馬樂)の(795)は、宮域附近の衢に局限された或盛り場の事であつた。されば事實からのみ視祭すれば、老の言には誇張が伴うてゐるが、只今益す發展向上の途上にある都會氣分は、如實にこの歌に依つて表現されたといつてよい。
 古來この歌は、單なる寧樂京禮讃の外他意ないものとのみ受け取られてゐた。作者は何の必要があつて筑紫の果で奈良を云爲したかの問題に觸れて考へた者は嘗てない。製作の場處とその動機とに就いては、下の「帥大伴卿歌五首」の「わがゆきは」の歌の評語の末章を參照されたい。
 
防人司佑《さきもりつかさのすけ》大伴(の)四繩《よつなが》歌二首
 
○防人司佑 「防人司」は太宰府中に置かれ、職員令に「正《カミ》一人(正七位上)、掌(ル)2防人(ノ)名帳戎具教閲及(ビ)食料田(ノ)事(ヲ)1、佐一人(正八位上)掌(ルコト)同(ジ)v正(ニ)」とある。「佑」は次官である。「防人」は邊防に從事する人の義。サキモリと訓むは岬守、境守などの義で、又サキムリともいつた。筑紫の沿海に駐屯して外寇を防ぐ兵士のことで、諸國から徴發されて征くのが規例。時には東國の兵士にのみ限つた變例もある。○大伴四繩 當時の太宰帥大伴旅人の一族と見えた。宿禰〔二字右○〕の二字を補ふべしといふ説もあるが、四繩の防人司の佐で、姓を記すには及ばぬ身分である。天平十七年十月に雅樂助。正倉院文書に、正六位上行助勲九等大伴宿禰四綱とある。
 
安見知之《やすみしし》 吾王乃《わがおほきみの》 敷座在《しきませる》 國中者《くにのうちには》 京師所念《みやこしおもほゆ》     329
 
〔釋〕 ○やすみししわがおほきみ 既出(三〇頁)。○しきませる 「しきなべて」を見よ(一二頁)。○くにのうちに(796)は 國のうちにて〔右○〕は。必ずウチと訓むべく、國は國々の意。芳樹いふ、卷六に「八島|之《ノ》中爾《ウチニ》國者《クニハ》しもさはにあれども」とある中の字、記の「後(ニ)見(ル)2國中(ヲ)1」の國中を傳にクヌチと訓むべしといひ、大祓の詞にも「知ろしめさむ國中爾《クヌチニ》」と見えたれば、この「國中」をもクニノウチと訓むべきこと決《ウツナ》しと。古義に「者」を在〔右△〕の誤とし、クニノナカナル〔七字傍線〕と訓んだのは我儘である。○みやこしおもほゆ 眞淵訓による。「京」はミヤコと訓む。卷一に荒有京《アレタルミヤコ》、下の歌にも平城京《ナラノミヤコ》とある。「師」は強辭の「し」に當てた。舊訓は「京師」の二字をミヤコ〔三字傍線〕に當てゝ、ミヤコオモホユ〔七字傍線〕と訓んであるが、甚だ語調が弱い。
【歌意】 天子樣のお治め遊ばす國々の中では、殊に京がさ、思ひ出されますわい。
 
〔評〕 平凡の主感が平凡に叙されてゐる。だが作者がもと京人である事をまづ念頭において再吟味に及ぶと、相當の好處もあるやうだ。住めば都といふは痩我慢、京にうへ超すいゝ處は、何時の世だつてありはしない。况や京を故郷にもつ作者として京を偲び讃するは、又當然の人情である。實は長い田舍住ひに飽き/\して、湧き返る郷愁に悩だ呻きである。
 
藤浪之《ふぢなみの》 花者盛爾《はなはさかりに》 成來《なりにけり》 平城京乎《ならのみやこを》 御念八君《おもはすやきみ》     330
 
〔釋〕 ○ふぢなみ 藤のこと。花をいふ時にのみ藤なみといふ。「なみ」は靡き〔二字傍点〕の約轉といひ、又|竝《ナミ》の義ともいふ。「浪」は借字。○おもほすや お念ひなさるや否やの意。「御」の敬語は必ずオモホスと訓ませる爲である。
(797)【歌意】 藤の花は今が盛りになりましたわい。奈良の京のことを、思ひ出しませぬかどうですか、貴方樣は。
 
〔評〕 「藤なみの花は盛になりにけり」は、覊中に春の闌けた詠歎である。節物風光の眼前に改まる毎に、鋭く旅愁がいつも刺戟される。殊に藤の花は故郷奈良京の象徴だ。奈良の春はまさに藤の春だ。奈良の東偏春日山一帶の樹林に纏絡する古藤の花は、遠く見れば紫雲の搖曳であり、近づけば老杉古槐の※[毛+參]々たる瑶珞である。−現在でも。
 わづかに藤の花一つによつても、奈良京の愛著心は力強くそゝられる、京偲《ミヤコシヌビ》の念に堪へられない。これが作者の實際的心境だ。然るにそんな事は※[口+愛]びにも露はさず、素知らぬ顔で、「奈良の京をおもほすや君」と、振返つて他人に質問を投げ掛けてすましてゐる。この相手の君は誰れであるか、多分帥の君旅人卿であらう。卷六、太宰(ノ)少貮石川(ノ)朝臣|足人《タリヒト》の歌に、
  刺竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君(―955)
とあるも、「君」は旅人卿をさしてゐる。誰れも表面は何氣なく快活に笑つて見せても、内面にはそれ/”\深い(798)旅愁に囚はれてゐる人達である。その急處に突き込んでのこの質問は、全く殺生であらう。だがこの返答は全く仰の通りといふ外はない。作者は自分の心境を以て他人の胸臆中に推したもので、この老獪手段には一寸驚かされる。
 三句切れの句法は、前々も縷述した如く、この時代には珍しいものではない。結句、その語法の倒置と五音二音の構成とは、非常な力強さと重みとを具へ、旨く上下の均衡を保つに役立つてゐる。
 
帥《かみ》大伴(の)卿《まへつぎみの》歌五首
 
○帥大伴卿 旅人卿のこと。旅人の傳は前出(七三六頁)。○帥 太宰府の長官。和名抄に「太宰府(ニハ)曰(フ)v帥(ト)【加美】」と見えた。然し中古からは帥をソチと呼んでゐる。ソチはソツの轉。職員令に、「帥一人、掌(ル)d祠社、戸口、簿帳、字2養(シ)百姓(ヲ)1、勸2課(シ)農桑(ヲ)1、糺2案(シ)所部(ヲ)1、田宅、良賤、訴訟、租調、倉稟、徭役、兵士、器仗、鼓吹、郵驛、傳馬、烽候、城牧、過所、公私(ノ)馬牛、闌遺(ノ)雜物、及(ビ)寺(ノ)僧尼名籍、蕃歸(ノ)客化饗讌(ノ)語事(ヲ)u」とあつて、非常な重職である。太宰府のことは前出(七九三頁)。
 
吾盛《わがさかり》 復將變若〔左○〕八方《またをちめやも》 殆《ほとほとに》 寧樂京師乎《ならのみやこを》 不見歟將成《みずかなりなむ》     331
 
〔釋〕 ○さかり 年盛り。○をちめやも 元へ戻らうかい。「をち」は多行上二段の動詞。もどること。「變若」は若きに反るの意。「變」は反の通用。歌意を汲んで「をち」にこの字面を填てたもの。「若」の字原本にない、(799)久老説によつて補つた。契沖はもとのまゝでカヘラメヤ〔五字傍線〕と訓んでゐる。○ほとほとに 殆んど〔三字傍点〕はこの訛。危くの意に近い。○みずか 「か」は疑辭。
【歌意】 自分の若盛りがまたと戻つて來うかい。この分では空しくこの邊境に老い果てゝ、あぶなく故郷の奈良の京を、見ないことになるであらうか。
 
〔評〕 これは天平二年頃の作か。とすると旅人は當年六十六の頽齡(懷風藻による。實は五十五六歳位?)邊境の總帥として宰府にあること既に六年、武臣の棟梁たる大伴氏としては太宰帥は適任ではあるが、幾許もない餘命を不知火筑紫の果に終ることは、如何にも情ない口惜しい心地がしたらう。又大伴一族等の當惑も察するに餘りある。けれども王命は恐こい。據なく歌詠に托してその欝懷を遣るのみである。「わが盛り復をちめやも」といひ、「ほと/\に奈良の京を見ずかなりなむ」といふ、壯年の意氣は銷摩し盡して、ひたすら國偲びの念に禁へない老帥の憔悴した面目を想像すると、言々句々悲愴の響が脈打つて聞える。「ほと/\」の一句、萬一を疑惧する心状を表現するに、最もよき措辭である。作者はこの外に、
  わが盛いたくくだちぬ雲に飛ぶ藥はむともまたをちめやも  (卷五−847)
  雲に飛ぶ藥はむよは京《ミヤコ》見《ミ》ばいやしきわが身またをちぬべし  (同上−848)
   (右二首は天平二年正月の作。これを山上憶良の作とする説は採らぬ)
と詠んで、老を歎き郷愁を訴へ、一途に歸京の期の近きを希つてゐる。尚思ふに、この歌は上の大伴四繩の「平城の京をおもほすや君」の詠に對する返歌の如くに聞える。
 
(800)吾命毛《わがいのちも》 常有奴可《つねにあらぬか》 昔見之《むかしみし》 象小河乎《きさのをがはを》 行見爲《ゆきてみむため》     332
 
〔釋〕 ○つねにあらぬか 常であつてほしいな。「ぬ」は古義に、希望辭のね〔傍点〕が下の「か」に續く故に轉じたもの、とあるに從ふ。「か」は歎辭。契沖以來の諸家は「ぬ」を否定、「か」を反動辭とし、意はアレカシと解してゐる。「人もあはぬかも」(卷七)「妹にあはぬかも」(卷十)「又鳴かぬかも」(同上)「人も來ぬかも」(卷十一)「ありこせぬかも」(同上)「吾が待つしるしあらぬかも」(同上)「はや明けぬかも」(同上)の類、集中に例が多い。この「ぬ」は否定でないから人相逢鴫《ヒトモアハヌカモ》、妹相鴨《イモニアハヌカモ》などの如く、不の字を書かぬ。細本その他の訓はトキハナラヌカ〔七字傍線〕。○きさのをがは 前出(七六一頁)。△地圖及寫眞 挿圖35(一一〇頁)、224(七六二頁)を參照。
【歌意】 諸君のは勿論だが、自分の壽命も無事であつてほしいな、それは外でもない〔八字右○〕、昔見たあの吉野の象の小川を、往つて見よう爲にさ。
 
〔評〕 象の小川を命をかけて見たいと熱望した。作者は嘗て神龜元年暮春の吉野行幸に供奉して、この小川を詠じた作があり、その時既に「昔見し」と歌つてある。吉野は藤原人奈良人のもつ胸中山水で、客中京を思ひ家を思ふ次には、必ず思ひ出された處で、而もその象の小川は作者に取つて一再ならぬ因縁があり、最も印象が深いので、代表的に抽出したのである。一見すると如何にも風流な情懷に掩はれてゐるものゝやうだが、それは人前の事で、實は望郷の念に囚はれた老人の悲鳴で、そこにいひ知らぬ感傷が※[酉+温の旁]釀する。
 
(801)淺茅原《あさぢはら》 曲曲二《つばらつばらに》 物念者《ものもへば》 故郷之《ふりにしさとの》 所念可聞《おもほゆるかも》     333
 
〔釋〕 ○あさぢはら 「つばら」に係る枕詞。茅原《チハラ》と曲《ツバラ》との類似音を利用して反復した。淺茅は茅草《チガヤ》のまばらな態にいふ。茅草は禾本科の宿根草で、春葉より先に白い穗状の花を生ずる、これがツバナである。その葉尺餘、秋に至つて紅色に變ずる。○つばらつばらに つまびらかにの意。つばらに〔四字傍点〕を重ねた副詞。契沖訓による。○ふりにしさと 字は「故郷」とあつても舊き御里《ミサト》の意で、舊都の地のこと。○さとの 「之」をシ〔傍線〕と古義は訓んだ。
【歌意】 つく/”\と思ひ入ると、一途に〔三字右○〕もとの都が、思ひ出されることよ。
 
〔評〕 この前後五首は旅人が筑紫の客舍にあつて、懇に奈良京を懷ひ、更に壯年時代長く住み馴れた前代の故京を懷ひ、吉野離宮の勝を懷ひ、その感傷を遇せたのである。
 「ふりにし里」は、次の歌に「香具山のふりにし里」と明白に藤原京を詠じてあるから、これは飛鳥京を意識して歌つたものゝ如くである。それは夙く三十二年前に廢せられたが、作者はその二十歳より三十歳頃の少壯期を、そこに生活して居た。
 「淺茅原」は枕詞には相違ないが、この際「ふりにし里の」バツクとして、適切なる映對をなすものである。「つばら/\に」に、懇にその思惟に耽つた状態が寫出されて面白い。
(802) 以上の見解により、「舊りにし里」を大伴氏の大和にある舊家をさすものとする、久老等の説は採らない。
 
萱草《わすれぐさ》 吾※[糸+刃]二付《わがひもにつく》 香具山乃《かぐやまの》 故去之里乎《ふりにしさとを》 不忘之爲《わすれぬがため》     334
 
〔釋〕 ○わすれぐさ 物を忘るゝといふ草。詩の鄭風伯兮の章に「焉(ンゾ)得(テ)2※[言+爰]草(ヲ)1、言《コヽニ》樹(ヱン)2之背(ニ)1」とある註に、※[言+爰]《ケン》草は萱草のことゝある。「萱」は漢音ケン、異音クワン。これを樹ゑこれを佩ぶれば憂を忘るといふ諺が、漢土の古代からあつた。この草專らクワンザウと呼ぶ。山野自生の百合科の草で、地下莖から叢生する。葉は細長い劍状をなし、長さ二三尺に達し、花莖は二尺ばかり、夏百合に似た黄赤色の花を開く。藪萱草は八重、野萱草は一重である。○ひもに 衣の〔二字右○〕紐に。「※[糸+刃]」は紐の書寫字。○かぐやまのふりにしさと 藤原の故京のこと。「香具山」(一九頁)及び「藤原宮」(一一七頁)を參照。○わすれぬがため 忘れ得〔右○〕ぬが爲の意。△地圖及寫眞 挿圖6(二二頁)4(一九頁)を參照。
【歌意】 萱草《ワスレグサ》はその名の通りならばと、萱草を取つて私の衣の紐に著け添へた。それは香具山の昔の京が戀しく、とても忘れ得ぬが爲に、忘れようとしてさ〔八字右○〕。
 
〔評〕 旅人の藤原の故京に生活したのは壯老二期の十餘年に亘り、最も働盛りの思ひ出の多い時代である。隨つ(803)て何につけかにつけ藤原京の追憶のみ起つて、自分ながらその感傷の念に堪へない。乃ち萱草を著けて忘れる禁厭をするといふ。もう老年のこの作者としては、その所爲が餘にをさないやうだ。萱草忘憂はもと/\詩の鄭風に見えた婦人の作であつた。然しこれを故事に踏むとなると、直接的實感でなくなる爲、風流行爲として男子でもいひ得る。陸士衡が詩に、
  焉(ニ)得(テ)2忘歸草(ヲ)1、言(ニ)樹(ヱン)2背(ト)與(トニ)1v襟。(文選、卷六)
は即ちそれで、この歌も亦その儔であるとすると、別に非難はない事になる。ない處が、詩經殊に文選を典據とし、原詩の樹背の意を「紐に着く」といひ、忘歸の意を「香具山のふりにし里を忘れぬ」と具象的に表現した手際などは、漢文學の造詣を證するもので、愈よ作者の學殖と才敏とに感心させられる。
  萱草わが下紐につけたれど醜の醜草ことにしありけり  (卷四、家持−727)
  萱草わが紐につく時となく思ひわたれば生けるともなし  (卷十二−3060)
  萱草垣もしみに植ゑたれどしこのしこ草なほ戀ひにけり  (同上−3062)
の三首の如きは、全くこの二番煎じで、先鞭の功は作者に歸するのみならず、その風格高邁で、屑々たる他の小家のとても及ぶ所でない。
 
吾行者《わがゆきは》 久者不有《ひさにはあらじ》 夢乃和太《いめのわだ》 湍者不成而《せにはならずて》 淵有乞〔左△〕《ふちにありこそ》     335
 
〔釋〕 ○わがゆき 「君がゆき」を見よ(二九八頁)。○ひさ 久し〔二字傍点〕の語根の體言化。○いめのわだ 大和吉野郡|新住《アラズミ》(804)にある。大和志に、夢(ノ)囘(ノ)淵、俗(ニ)呼(ブ)2梅(ノ)囘《ワト》1、淵中奇石多(シ)とある。「わだ」は「おほわだ」を見よ(一三四頁)。○ありこそ あつてほしい。「こそ」は願望の辭。「乞」原本に毛〔右△〕とある。古義所引の景井説によつて改めた。契沖は「有」の下、也〔右△〕又は八〔右△〕の脱としてフチニアレヤモ〔七字傍線〕と訓んだ。△地圖 挿圖35を參照(一一〇頁)。
【歌意】 私の旅はさう永い事ではあるまい。やがて歸京したら見に往かうから〔十五字右○〕、夢の曲《ワダ》よ、淺い瀬にはならずに、もとのまゝ淵であつてくれい。
 
〔評〕 上の象の小川と同じ感傷から出てゐる。大和人は河川に對して頻に淵瀬の變化を高唱する。これは大和の地勢が狹く窄く山は淺く小川が多いからで、作者はこの外にも、左のやうに歌つた。
  しまらくも往きて見てしが神南備の淵はあせにて瀬にかなるらむ  (卷五−卷九969)
 夢の曲は大和隨一の大河吉野川の下流で、懷風藻に、
  今日夢淵(ノ)淵、遺響千年(ニ)流(ル)。 (吉田連宜)
と見え、河流が一寸屈折し、河中に亂石起伏して可なり景色がいゝ。作者は遙にこゝの風光を囘想して、まさきくあれと遠く筑紫の果から呼び掛け、その再訪を豫約した。「瀬にはならずて淵にありこそ」、この表裏からする丁寧極まるくどい表現に、綿密なその懷舊の情緒がたどられる。
  白崎はさきくありまて大船に眞かぢしじぬき又反りみむ  (九卷−1668)
に一寸似た趣だが、それは眼前の景致に對しての翫賞、これは追憶の執着を寓せた感慨である。
 考ふるに、上掲の小野老の歌より帥の君旅人のこの歌までの八首は、帥の君がその下僚たる少貮や防人司(ノ)佑(805)等と打寄つて、歡娯した際の各人の所詠と思はれる。題詞の書式がいづれも同じ署名式であるのみか、歌はいづれも同趣の雰圍氣に包容され、一脈の意想の相通ずるものがあるからである。
 事は小野老が少貮として宰府に赴任して來たのに始まる。老は天平二年正月十三日の帥宅の梅花會には出席吟詠してゐる(卷五所見)處を見ると、その前年の天平元年の暮春藤花の盛頃に始めて着任したのではあるまいか。乃ち宰府では、この奈良京から下向の新任少貮の爲に、歡迎の藤花宴が催されたものであらう。主人側の帥の君旅人は、赴任以來既に五年間も天離る鄙に暮して京を見ない。屬僚として連れて來た多くの大伴氏もその他の官吏も、在任に長短の差こそあれ、いづれも同樣であらう。さればこの新來の客人老に向つて、奈良京近來の形勢はとの質問は、雨の如くに零つたものであらう。老の離京の頃は折しも春の盛で、その離愁の眼に映つた奈良は、全く花の洛であつた。乃ち「咲く花の匂」を※[人偏+就]つて、その主觀に映じた讃美を以て、宰府の諸人に奈良京の立派な發展を紹介した。大伴四繩は早くもこれに和して、遠の御門のこの宰府も相應のものだが、何といつても「京(806)し思ほゆ」と、まづ故郷奈良にあこがれる自己の懷抱を叙べ、轉じて帥老に對つて眼前の藤花を介して「奈良の京を念ほすや君」とその發言を催促した。茲に至り帥老は憮然としてその老眼をしばただき、さほど新少貮の讃美される奈良の京も「ほと/\に見ずかなりなむ」と、公人の不自由さと天壽の頼み難さとを歎き、暗に京偲びの念に堪へぬ趣を四繩に對つて酬へた。遂に感慨は無限に、京偲びから國偲びにまで擴大され、藤原飛鳥の舊京、又は吉野の勝地に、その懷舊の情を馳せた。やゝ饒舌に過ぎるやうだが、緜々として盡きぬその覊愁の細やかさには、實に同情を唆られる。かうなると、この作者三人八首の歌が一連の聯作の如き樣式をもつ必ず總括的の題詞がその初頭に置かれて然るべきものと思ふ。
 
沙彌滿誓《さみまんせいが》詠(める)v緜(を)歌一首
 
僧の滿誓が綿を詠じた歌との意。○沙彌 梵語。息慈と譯す。息(メ)v惡(ヲ)行(フ)v慈(ヲ)の意。始めて佛門に入り髪を剃つた男の稱。○滿誓 右大辨從四位上笠朝臣麻呂の法名。續紀によれば、慶雲元年正六位下より從五位、同三年美濃守、和銅二年九月その政積を美して當國の田十町穀三百斛衣一襲を賜ふ、同七年閏二月|吉蘇路《キソヂ》を通ずる功により封七十戸田六町を賜ふ、當時從四位下、靈龜元年六月尾張守を兼任。養老元年十一月從四位上、同三年尾張參河信濃の按察使《アゼチ》となる、同四年十月右大辨、同五年五月太上天皇の爲に出家入道することを請ひて勅許。同七年二月勅して滿誓に筑紫の觀音寺を造らしむとある。○緜 綿と同字。
 
白縫《しらぬひ》 筑紫乃綿者《つくしのわたは》 身著而《みにつけて》 未者伎禰杼《いまだはきねど》 暖所見《あたたけくみゆ》     336
 
(807)〔釋〕 ○しらぬひ 筑紫に係る枕詞。「白縫」は借字。「しらぬひ」には諸説ある。(1)は不知火の義とする説。これは不知火のある筑紫の意と解する。「白砂《シラマナゴ》(ノアル)三津の黄生《ハニフ》の色にいでて」(卷十一)の續きと同例。古義はこれを不完のやうに難じたのは誤である。不知火は景行天皇紀の十八年五月の條に、天皇|葦北《アシキタ》より火(肥)の國に渡られる時、途上に日が暮れ、火光をあてに八代(ノ)縣豐村に着岸し給ひ、その火を尋ね給ふに主《ヌシ》を知らず、こゝに人の火にあらぬを知ろしめして、その國を火の國と名づけ給うたとあり、肥後風土記には、崇神天皇の代、健緒組《タケヲクミ》が勅により八代郡白髪山に投宿した時、虚空に火が現れ、漸く下つて此山に燒き著いた、それにより勅して火の國と名づけたとある。いづれにせよ主知らぬ火であるから、不知火といふに差支はない。但宣長は筑紫は筑前筑後の古稱ゆゑ、火(肥)の國の不知火を以てその枕に冠することはいかゞと難じたが、奈良時代には既に筑紫の稱が肥の國にまで及ぼして慣用されたと見ればよいであらう。(2)は新羅繍《シラギヌヒ》美《ウツク》しを筑紫にいひかけたとする説。(増補國誌)。三代實録に、新羅繍を高麗錦と竝べ擧げてある。(3)は白《シラ》(灼)野火《ヌヒ》著《ツク》を筑紫にいひかけたとする説。(古(808)義)。舊訓シラヌヒノ〔五字傍線〕とあるは非。眞淵の訓に從つた。○つくしのわた これは眞綿である。○あたたけく 舊訓アタヽカニ〔五字傍線〕は非。
【歌意】 筑紫綿は、私の身に附けてまだ著はせぬが、さも暖かさうに見えるわい。
 
〔評〕 續紀の神護景雲三年三月の條に、
  始(メテ)毎年運(ビテ)2太宰(ノ)綿二十萬|屯《ツムヲ》1、以(テ)輸(ス)2京(ノ)庫(ニ)1。とあるので見ると、以前から眞綿は筑紫の國産として著はれてゐたものらしい。平安朝になつても、
  凡太宰府、貢(グ)2棉穀(ヲ)1船者、擇(ビ)2買(ヒ)勝載二百五十石以上三百石以下(ヲ)1、不v著(ケ)v施(ヲ)進上、云々。(延喜雜式)
  上古以(テ)v預(ルヲ)2節會(ニ)1爲(ス)2大望(ト)1、多(ク)依(ル)v給(ハルニ)2禄(ノ)綿(ヲ)1也、件(ノ)絹(ハ)本太宰府(ヨリ)所v進(スル)也、云々。(江次第十二月)
など見え、筑紫綿は著名な物であつた。抑も作者の筑紫に來たのは、觀世音寺を造る工事監督の爲であつた。この寺はもと天智天皇が御母齊明天皇の追福の爲に御發願、建造に著手されたものだが、壬申變後工事遷延、和銅二年の詔にも既に工事催促の事があつた。想ふに作者の歌つた綿は造寺施入の物で、積み上げた莫大なる綿の山を見て、魂消けての感想であらう。過去の體驗から想及した官能的描寫、事は餘り平凡である。
 この歌は作者が來筑した年、即ち養老七年の夏蠶が上がつて、新綿が出盛つてから後、冬にはまだ間のある頃の作であらう。「身に著けていまだは着ねど」の句に依つて、さう推定する。
 
山上憶良《やまのへのおくらが》罷v宴《うたげよりまかれる》歌一首
 
(809)憶良が或宴席から退出する際に詠んだ歌との意。○山上憶良 傳は既出(四六頁、二三四頁)。
 
憶良等者《おくららは》 今者將罷《いまはまからむ》 子將哭《こなくらむ》 其彼母毛《そもそのははも》 吾乎將待曾《わをまつらむぞ》    337
 
〔釋〕 ○おくらら 「憶良」と作者自身の名を詠み入れた。「ら」は複數の接尾語だが、こゝは輕く添へた語。○そもその 久老訓によつた。「彼」をソノと訓むは肥前の彼杵をソノキと讀む例である。舊訓はソノカノ。古葉類聚には其子〔右△〕とあり、これはソノコノ〔四字傍線〕と訓む。袋草紙(藤原清輔著)も同訓。○わをまつらむぞ 久老訓による。舊訓はワレヲマタムゾ〔七字傍線〕。
【歌意】 私は早もう御免を蒙りませう、うちでは子供が定めし泣いてゐるでせう、又その子供の母親も、私を待つてゐるでせうよ。
 
〔評〕 實に率直なあけすけな感想を、大膽にぶちまけたものである。開口一番「憶良らは」と名告を揚げた。他人はとにかく私はと、傍若無人の體である。「今は」の一語は、いかに長時間の宴に侍して我慢し切つて居たかを語つてゐる。乃ち溜らなくなつて、滿座の中でその家庭愛を高唱して、退出の理由を公言した。
 愛妻家子煩悩屋、これが一般鑑賞者の憶良を評する套語である。然しさうした席上で女房子の事を持ち出して退出の辭柄とする事は、いかに何でも我儘過ぎて、折角の座興を打壞すものであり、會主及び會衆に對しても失禮であらう。若し帥の君旅人卿主催の席としたら、愈よ以て不都合であらう。或は醉人の戲謔と見るか、(810)すれば作者の酒臭い息の香が紛々として面白いが、それは卓落不羈の豪快の士にして始めて可なるものであつて、憶良の如き小心謹※[穀/心]の儒人には出來ない所爲である。
 當時憶良の境遇には實に氣の毒な事情が纏綿してゐた。それが憶良をして餘儀なくかく歌はしめたのであつた。憶良の官吏として筑紫への來任は、この神龜の三年と考へちれる。彼の妻君は強ひて同行を乞うて追つて來た。來ると間もなく重病で、天平二年の棟花咲く夏を最後に遠逝した。
  白ぬひ筑紫の國に、泣く兒なす慕ひ來まして、息だにも未だ休めず、年月も幾だもあらねば、心ゆも思はぬ間に、打靡き病み〔二字傍点〕こやしぬれ―。(卷五、日本挽歌−794)
といふ始末。丁度この宴會の時は、妻君の病氣最中であつたのであるまいか。然るに頑是なしの子供は、母親の膝を慕うて泣きいざつのであつた。この悲慘な事情は薄々會衆一同も承知してゐたと見てよい。當人憶良は杯を擧げながらも家庭の取込が氣に懸かり、遂にはその席に堪へかねて、先づ子供の待つ事を訴へては「子泣くらむ」といひ、次に病妻の待つ事を訴へては、極めて遠慮勝に遠廻しに「そもその母も」といひ、何處までも子供を主に病妻を從にして、會衆一同の同情を把捉し、中座退出の宥恕を乞うたのであつた。
 かく内面的事情を洗つて見ると、この歌は暢氣な家庭愛の高唱ではなくて、極めて眞摯な悲痛な愛の絶叫である。
 然し憶良が子煩悩であつた事實は爭へない。
  瓜はめば子ども思ほゆ、栗はめばまして慕《シヌ》ばゆ――。(卷五−802)
  白金も黄金も玉もなにせむにまされる寶子にしかめやも (同上−803)
(811)と歌つてゐる。これは母親なしに男手一つで育てゝゐる子供だから、一段と可愛ゆくなるのであつた。憶良の子煩悩には、かやうな注脚を要することを知らねばならぬ。
 
太宰(の)帥大伴卿(の)讃《ほむる》v酒(を)歌十三首
 
○讃酒歌 酒の徳を美める歌との意。支那では魏の武帝及び晉の陸機の短歌行、おなじ晉の劉伶の酒徳頌、劉宋の陶淵明の飲酒、唐の李白の獨酌の詩など、この種の想を盛つた作が非常に多い。
 
驗無《しるしなき》 物乎不念者《ものをおもはずは》 一杯乃《ひとつきの》 濁酒乎《にごれるさけを》 可飲有良師《のむべかるらし》     338
 
〔釋〕 ○しるしなき 詮《セン》もない、甲斐もないなどの意。○おもはずは 思はうよりはの意。「あらずは」を見よ(三五九頁)。○つき 古言にスキともいふ。大嘗祭式に多賀須伎《タカスキ》、比良須伎《ヒラスキ》とあるは、高坏平坏である。平坏の酒器に適するものが酒坏《サカヅキ》である。平坏は皿の類、高坏はその香臺の高いもの。「坏」は杯の原字。古へは土器であつたので扁を土に從つた。○にごれるさけ 濁酒。ドブロク。四時祭式に清酒濁酒の稱が見える。○のむべかるらし 宣長訓による。舊訓はノムベクアラシ〔七字傍線〕、古義訓はノムベクアルラシ〔八字傍線〕。アラシ、アルラシは集中に兩存してゐる。
【歌意】 白面《シラフ》でゐて、益《ヤク》にもたゝぬ物思をせうよりは、いつそたつた一杯の濁酒でも、それを飲むべきであるらしい。物思などは消し飛んでしまふわさ。
 
(812)〔評〕 酒を忘憂といふこと、史記の東方朔傳や古樂府や陶淵明の雜詩などに出てゐる。又忘愁箒ともいつた。人生百に滿たず、常に千載の憂を懷くで、くよ/\した處が何の足しにもならない。とはいへ大悟の境に超越することを、凡夫のすべてに望むことは不可能である。故にその際の好方便としては、醉郷に逃避することが一番近道である。劉伶の酒徳頌に、
  無(ク)v思(フコトモ)無(ク)v慮(ルコトモ)、其樂陶々(タリ)、兀然(トシテ)而醉(ヒ)、恍爾(トシテ)而醒(ム)、靜(ニ)聽(ケドモ)不v聞(カ)2雷霆之聲(ヲ)1、熟(ラ)視(レドモ)不v見2泰山之形(ヲ)1、不v覺(エ)寒暑之切(ニ)v肌(ニ)、嗜慾之感(ズルヲ)1v情(ニ)、俯(シテ)觀(レバ)2萬物之擾々(タルヲ)1焉、如(シ)2江漢之浮萍(ノ)1云々。(文選卷十)
とあるこの思想から轉生して、讃酒歌は成つたものと考へられる。「一坏」といひ「濁れる酒」といふ、量にも質にも、極めて控へ目な最低度の處を假に提擧して、それでも尚驗なき物を思ふよりはましだと、こゝに商量の斷語を下した。素より浴びるほど清《スミ》酒を飲むに優ることはない人の言葉であるが、餘意を其處までいひ詰めるのは、この歌の表現上に見えない事である。杜甫(唐)の詩に、
  莫(レ)v思(フコト)2身後無(キ)v窮事(ヲ)1、且(ク)盡(セ)生前有v限杯。
現在と未來との相違こそあれ、刹那の享樂を希求してゐることは一つである。
 作者は形の如く酒客であつたのである。卷四に丹生女王がこの卿に贈つた歌がある。
  いにしへの人の賜ばせる吉備《キビ》の酒病めばすべなし貫簀《ヌキス》賜《タ》ばらむ  (−554)
 婦人にまで酒を贈物とする程の酒客であつたのである。
 
(813)酒名乎《さけのなを》 聖跡負師《ひじりとおほせし》 古昔《いにしへの》 大聖之《おほきひじりの》 言乃宜左《ことのよろしさ》     339
 
〔釋〕 ○ひじりとおほせし 聖と名づけた。「ひじり」(1)は日知の義。既出(一二三頁)。(2)は(1)の用法から轉じて、凡人に勝れた人の稱とする。聖人。(3)は(2)の意から轉じて、清僧の稱とする。こゝは(2)の意。魏書に「太祖禁(ズ)v酒、而人竊(ニ)飲(ム)、故(ニ)難(シ)v言(ヒ)v酒(ト)、以(テ)2白酒(ヲ)1爲(シ)2賢者(ト)1以(テ)2清酒(ヲ)1爲(ス)2聖人(ト)1」と。又事類全書に「徐※[しんにょう+貌]字(ハ)景山、仕(ヘテ)v魏(ニ)爲(ル)2尚書郎(ト)1、時(ニ)禁(ズ)v酒(ヲ)、而※[しんにょう+貌]私(カニ)飯(ンデ)沈醉(ス)、趙逵問(フニ)以(テス)2曹事(ヲ)1、※[しんにょう+貌]曰、中(テラルト)2聖人(ニ)1、逵曰(ス)v之(ヲ)、太祖怒(ル)、鮮干輔進(ミテ)曰(フ)、醉客謂(ヒテ)2酒(ノ)清(ム)者(ヲ)1爲(シ)2聖人(ト)1濁(ル)者(ヲ)爲(ス)2賢人(ト)1、※[しんにょう+貌]偶(マ)醉(ヒテ)言(フ)耳(ト)、云々」。○おはきひじり えらいすぐれ人。清酒を聖と名づけた人を、假に讃めて呼んだもの。故にこれと斥す人はない。○ことのよろしさ 言葉の尤もなことよの意。「よろし」はよろふ〔三字傍点〕の形容詞格。
【歌意】 清酒に聖人といふ名を負はせた、昔の大聖の言葉が、いかにも相應して尤もなことよ。
 
〔評〕 清濁の酒を聖賢と稱したのは、魏書などの示すが如く、禁令を潜行する酒客間の戲言的暗號に過ぎない。何の誰れといふ命名者が確とあつた譯ではない。今は便宜上その命各者を假定して、「大き聖」とわざと誇大に推讃し奉つた。既に大聖である以上は、その言は萬世に範を垂れる金言であらねばならぬとなる。畢竟「言のよろしさ」と高唱せんが爲の伏線である。而してこの高唱の眞目的は、つまる處酒徳の禮讃に歸する。例の側面描寫の狡獪なる筆法。
 「聖」の語の重複の如きは、作者は始めから心配してゐない。極めて暢氣である。
 
(814)古之《いにしヘの》 七賢《ななのさかしき》 人等毛《ひとたちも》 欲爲物者《ほりせしものは》 酒西有良師《さけにしあるらし》     340
 
〔釋〕 ○ななのさかしきひとたち 七人の賢人達。晉書※[(禾+尤)/山]康傳に、※[(禾+尤)/山]康及び阮藉、王戎、山濤、劉伶、阮咸、向秀の七人の徒を擧げ、「爲(ス)2竹林之遊(ヲ)1、世(ニ)所謂(ユル)竹林(ノ)七賢也」とある。竹林の遊がいかなるものであるかは不明であるが、七賢が大抵、清談文雅の酒客である點から推しても、詩酒豪放、禮法を無視して廣長舌を弄んだものと考へられる。畫人の描く處も大抵この意である。舊訓はカシコキヒト〔六字傍線〕。「賢」は仁徳天皇紀に左柯之《サカシ》と注した。カシコシと讀むは平安期に入つてからの事である。○ひとたちも 幽齋本の訓はヒトドモモ〔五字傍線〕であるが、タチの敬意あるを採る。こゝの「も」はサヘモの意に當る力強い用法。○ほりせし 宣長及び久老訓による。舊訓ホリスル〔四字傍線〕も惡くはない。○にし 「し」は強辭。
【歌意】 晉の七賢人達すらも、欲しがつたものは、酒でさあるらしい。
 
〔評〕 だから酒といふ物は結構なものであるとの餘意を含んでゐるゐ。あの七賢人でさへ酒を欲しがつたらしいとの報告が目的ではない。作者の眞意は頗る婉含の味のあるもので、だから我々が酒に醉ふのは當然だと、他に承認させたい爲の婉辭である。詰り先賢を例に引いた、酒客としての自衛的辯護の辭と見られる。
 竹林の七賢は何時の世でも、飲仲間の大先達と敬まはれてゐるが、懷風藻を檢すると、  因(リテ)v茲(ニ)竹林(ノ)友、 榮辱莫(シ)2相驚(ク)1。(釋智藏−秋日言志)
  染(ムル)v翰(ヲ)良友(ハ)、 數不v過(ギ)2於竹林(ニ)1。(式部卿藤原宇合−暮春宴南池序)
(815)  千歳之間、※[(禾+尤)/山]康〔二字傍点〕我友、一醉之飲、伯倫〔二字傍点〕吾師。(兵部卿藤原麻呂―暮春於第園地置酒序)
など散見して、藤原奈良時代に、既に斯道の先聖先師として立てられてゐたことが知られる。
 
賢跡《さかしみと》 物言從者《ものいふよりは》 酒飲而《さけのみて》 醉哭爲師《ゑひなきするし》 益有良之《まさりたるらし》     341
 
〔釋〕 ○さかしみと さかしみて〔五字傍点〕に同じい。かしこがつての意。「と」は「知らにと妹が待ちつゝあらむ」(卷二)「かしこみと仕へまつりて」(卷三)のと〔傍点〕の用例に同じい。訓は古義に從ふ。舊訓はカシコミト〔五字傍線〕。○ものいふよりは 古義の訓はモノイハムヨハ〔七字傍線〕。○ゑひなき 酒に醉ひしれて泣くこと。○するし 「し」は強辭。○まさりたるらし 契沖訓による。舊訓はマサリテアルラシ〔八字傍線〕。
【歌意】 白面《シラフ》で、かしこがつて物言ふよりは、酒を飲んで醉泣する方が、まだ優つてゐるらしい。
 
〔評〕 醉うて泣上戸の醜態を演ずる、素より苦々しい沙汰の限である。然るに作者はなほ、白面《シラフ》でさかし言いふよりは優しだと揚言した。後にも、黙つてゐて賢立てするは、飲んで醉泣するに及ばぬと號してゐる。謹嚴な君子人からいへば、禮法を無視した倒見であるが、そこに又作者の見識と地歩とがある。單に酒客としての身びいきばかりではないと思ふ。畢竟ずるに世の僞君子に對する卷舌の挑戰であらう。酒徳頌に、
  有(リ)2貴介公子※[手偏+晉]紳處士1、聞(キ)2吾(ガ)風聲(ヲ)1、議(シ)2其所以(ヲ)1、乃(チ)奮(ヒ)v袂(ヲ)攘(ゲ)v臂(ヲ)、怒(ラシ)v目(ヲ)切(リ)v齒(ヲ)、陳2説(シ)禮法(ヲ)1、是非鋒起(ス)、云々。
といはゆる君子人の非難攻撃をいひ、次に酒徳の宏大さを述べて、終りに、
(816)  二豪(ノ)侍(スルハ)v 側(ニ)焉、如(シ)2螺羸(ト)之與螟蛉(トノ)1。と放言したのに殆ど合致するものである。
 尚作者が次々に繰り返してゐる醉泣に就いて一言したい。醉泣に二種類ある。一は醉の進みに時に依つて感哀を催して泣くもの、二は※[酉+凶]醉の極何時も無意義に泣くものである。榮花物語に「大臣醉泣し給ふ」、大和物語に「醉泣いとになくす」、又源氏物語に、源氏の君の醉泣の事がしば/\見え、紫式部日記(寛弘五年十月十六日の條)に、上東門の第に行幸の時、關白道長が喜の餘り、
  あはれ先々の行幸をなどて面目ありと思ひ給ひけむ、かゝりける事もありけるものをと、醉泣し給ふ。
とあるは一の方で、續日本後紀(卷十三)出雲權守正四位下文室(ノ)朝臣室津の卒をいふ條に、
  但在(リテハ)2飲酒(ノ)席(ニ)1似(タリ)v非(ルニ)2丈夫(ニ)1、毎(ニ)v至(ル)2酒三四坏(ニ)1、必(ズ)有(ル)2醉泣之癖1故也。
とあるは二の方であらう。この讃酒歌に荐に醉泣を云々する點から推想すると、作者自身、或は醉泣の習癖をもつて居たのではあるまいか。
 
將言爲便《いはむすべ》 將爲便不知《せむすべしらに》 極《きはまりて》 貴物者《たふときものは》 酒西有良之《さけにしあるらし》     342
 
〔釋〕 ○しらに 舊訓はシラズ〔三字傍線〕。解は既出(四一頁)。
【歌意】 言ひやうもなく、何としやうもなく、極めて貴い物は、酒でさあるらしい。
 
(817) 〔評〕 初二句は上の長歌中にも現れてゐる常套の對語で、「せむすべ」には意はない。立意に奇とする處は更に無いが、讃酒の聯作としては、是非また缺くべからざる篇什であらう。
    
中中二《なかなかに》 人跡不有者《ひととあらずは》 酒壺二《さかつぼに》 成見〔左○〕而師鴨《なりみてしがも》 酒二染嘗《さけにしみなむ》     343
 
〔釋〕 ○なかなかに なまなかにの意。以下三出の「に」に「二」を充てたのは、故意の戲意と見てよい。○あらずは 既出(三五九頁)。○なりみてしがも この句もとのまゝでは、ナリテシカモ〔六字傍線〕と訓まれる。抑も音數不足は五音の句には珍しくないが、七音の句には概してない。殊に短歌では許容されない。假に神本の訓ナリミテシガモに從つて、「成」の下に見〔右○〕を補つた。「が」は希望の辭で必ず濁る。古義に清濁の別を立てたのは僻論である。眞淵のナリニテシモノ〔七字傍線〕、略解のナリニテシカモ〔七字傍線〕は共に非。○なむ 希望のなむ〔二字傍点〕ではない。「嘗」は借字。
【歌意】 なまなかに人間として居らうよりは、いつそ酒壺になつて見たいものよ。そしたら不斷酒に染んでをらうぞ。
 
〔評〕 酒壺を羨望することは、呉志や世説に出てゐる。
  鄭泉臨(ミ)2卒(スル)時(ニ)1語(リテ)2同輩(ニ)1曰(フ)、必(ズ)葬(レ)2我(ヲ)陶家之側(ニ)1、庶(ハクハ)百歳之後化(シテ)而成(リ)v土(ト)、幸(ニ)見(レテ)v取爲(ラバ)2酒壺(ト)1、實(ニ)獲(ン)2我(ガ)心(ヲ)1矣。
(818)より來由したもの。俗論に「土になりたや備前の土に」と歌ふも、この意を繼承してゐる。酒客の襟懷、おのづから共鳴を禁め得ぬものがあつてであらう。殊に意義深い人生を抑へて、一堆の土塊に過ぎない酒壺を揚げた顛倒の見中、物我を齊しうする、老莊殊に莊子の哲學を思はせる或眞埋めいたものがあつて、くすぐつたいやうな感じを與へる。否々作者には別に深酷なる胸中の欝勃があつて、かく現實的享樂を絶叫したものであらう。
 四句「なり見てしがも」で一且頓挫しての「酒に染みなむ」の滑稽味を含んだ突飛な嬌語には、吃驚させられる。そしてその應接の姿致に面白味か湧きあがる。
 
痛醜《あなみにく》 賢良乎爲跡《さかしらをすと》 酒不飲《さけのまぬ》 人乎※[就/火]見者《ひとをよくみれば》 猿二鴨似《さるにかもにる》     344
 
〔釋〕 ○あな 發語の歎辭。○みにく 見惡《ミニク》しの居體言。○よくみれば 「※[就/火]」は熱の書寫字。給訓ヨクミバ〔四字傍線〕。○かもにる 似るかもの意。契沖訓カモニム〔四字傍線〕は、舊訓のヨクミバ〔四字傍線〕を承けたもの。「猿」「鴨」は偶然的戲書。
【歌意】 まあ醜いこと、かしこだてをするというて、飲む酒も飲まずにゐる人を、とくと見ると、猿に似て居るかね。
 
〔評〕 陶淵明はその飲酒の詩の第三章に、
  道喪(ハレテ)向(ントス)2千載(ニ)1人々惜(ム)2其情(ヲ)1、有(リ)v酒不2肯(ヘテ)飲(マ)1、但顧(ル)2世間(ノ)名(ヲ)1、所3以(ハ)貴(キ)2我(ガ)身(ニ)1、豈不(ヤ)v在(ラ)2一生(ニ)1。(陶淵明集)
(819)と高唱してゐる。皮想にのみ囚はれた經學一點張の人間が、君子人振つて飲酒を卻ける。飲む者の方から見れば猿の人眞似、即ち沐猴にして冠する徒輩《ヤカラ》に過ぎないと、史記の項羽本紀に、ある説者が楚人(ハ)沐猴(ニシテ)而冠(スル)耳と罵つた語を拜借して罵倒した。平生欝積した反感が、端なく酒氣に縁つて、かく爆發したものであらう。少し露骨過ぎて不快の感を件はしめる缺點がある。が同じ醉人の雄たる藤原麻呂(萬里)の作が、
  寄(ス)v言(ヲ)禮法(ノ)士、知(レ)3我有(ルヲ)2麁疎1。(懷風藻)
と反省約に墮ちて理窟臭いのとは一緒にならぬ。
 考課令を檢すると、徳義有v聞、清愼顯著、公平可v稱、恪勤匪懈、の四善を擧げてある。官吏の服務上尤な條件であるが、これが極端に強調されると、所謂猫冠りの僞君子を製造する。當時この儔の徒輩が却て朝野の信用を得て、チヤホヤされてゐたらしい。
 「あなみにく」の初句は全部に係つた主觀である。四句「見ば―似む」と訓んでは、生温るくて、初句の罵倒的の強い調子に協はない。
 
價無《あたひなき》 寶跡言十方《たからといふとも》 一杯乃《ひとつきの》 濁酒爾《にごれるさけに》 豈益目八《あにまさらめや》     345
 
〔釋〕 ○あたひなきたから 値《ネ》踏みのしやうもない程貴い寶の意。續博物志に無價之寶と見え、又法華經、大般若經に、無價寶珠の語がある。○とも 「十方」は次の「一杯」に對し、又「十」「一」「八」と數目の字を填てゝ戲書した。○まさらめや 類聚古葉には「豈益目八方〔右○〕」とある。これはアニマサメヤモ〔七字傍線〕と訓む。
(820)【歌意】 よしや、値の知れない寶物とても、只一杯の濁酒に、何で優らうかい。
 
〔評〕 無上の寶と無下の濁酒とを比較して、彼れを貶し是れを揚げた。世間的常規を逸した顛倒の評價に、酒客の面目が躍如としてゐる。
    
夜光《よるひかる》 玉跡言十方《たまといふとも》 酒飲而《さけのみて》 情乎遣爾《こころをやるに》 豈若目八目《あにしかめやも》【一云八方】     346
 
〔釋〕 ○よるひかるたま 夜光珠。述異記に「南海(ニ)有(リ)v珠、即鯨目、夜可(シ)2以(テ)鑒(ス)1、謂(フ)2之(ヲ)夜光(ト)1、東方朔の十洲記に「周之穆王之時、西胡獻(ズ)2夜光常滿(ノ)盃(ヲ)1、盃(ハ)是(レ)白玉(ノ)精、光明夜照(ル)、冥夕出(シ)2盃(ヲ)于中庭(ニ)1以(テ)向(ク)v天(ニ)、明(クル)比水汗已(ニ)滿(ツ)2盃中(ニ)1、捜神記に「隨侯行(イテ)見2大蛇(ノ)傷(ツケルヲ)1、救(ヒテ)而治(ス)v之(ヲ)、其後蛇銜(ミ)v珠以(テ)報(ユ)v之(ニ)、徑盈(チ)v寸(ニ)、純白(ニシテ)而夜光(ル)、可(シ)3以(テ)燭(ス)百里(ヲ)1、故(ニ)歴世稱(セラル)焉」など見え、又史記に捜神記に似た記事がある。珠玉の上乘の稱とする。○こころをやる 思を遣るに同じい。排悶の意に近い。○しかめやも 「八目」は割註の「八方」と同訓異字。また「十方」と「八目」は對語。
【歌意】 よしや夜光の珠を手に入れたとても〔八字右○〕、酒を飲んで氣晴しをするのに、何で敵《カナ》ふものかい。
 
〔評〕 上の歌と畢竟は同意に落ちる。その「價なき寶」に對して、これは「夜光る珠」と、同じやうに典故を引用し、その「一杯の濁れる酒を」を、これは抽象的に「酒飲みて心を遣る」といひ換へた。但この歌は叙法に(821)非難がある。「夜光る珠」は名詞であり、「酒飲みて心を遣る」は動作であり行爲である。この兩者を並べて比較することは不倫であらねばならぬ。故に夜光る珠を得たり〔五字右○〕といふともの意に、詞を補足して意解は施しておいた。
 
世間之《よのなかの》 遊道爾《あそびのみちに》 怜〔左△〕者《たぬしきは》 醉哭爲爾《ゑひなきするに》 可有良師《あるべかるらし》     347
 
〔釋〕 ○あそびのみちに 遊興の筋において。月見花見詩歌管絃等は皆遊の道である。これを遊の道の中にて〔三字右○〕の意と解し、酒宴を遊の道の一つと見るのは諾け難い。月の宴花の宴など、酒は遊に附隨した飲料である。○たぬしきは 「怜」の字異本による。原本に冷〔右△〕とあるは誤。次の歌も次々の歌も樂しき〔三字傍点〕を字眼として、一線の脈絡が通じてゐることを思ふがよい。古義が拾穗抄に洽〔右△〕とあるに從つて、アマネキ〔四字傍線〕と訓んだのは不當。○あるべかるらし 舊訓アリヌベカラシ〔七字傍線〕。
【歌意】 世上の種々の遊興の道に於いて、樂しいものは、酒飲んで醉泣するにある筈であるらしい。
 
〔評〕 「酒なくて何のおのれが櫻かな」、花見月見の遊であらうが、詩歌管絃の遊であらうが、必ず酒宴が伴ひ、つまる處面白味は酒にあるのだといふ。それを醉泣にまで延長したことは誇張の語なので、聊か遠慮して「あるべかるらし」と詞を濁した處が面白い。酒宴の爲の酒宴、即ち洒を遊の道とすることは、當時の上中流社會の生活にない事であつた。焦尾荒鎭の類、法令を以て堅く禁止されてゐた事を知らねばならぬ。
 
(822)今代爾之《このよにし》 樂有者《たぬしくあらば》 來生者《こむよには》 蟲爾鳥爾毛《むしにとりにも》 吾羽成奈武《われはなりなむ》     348
 
〔釋〕 ○このよにし 「このよ」は現世。來世に對する。「し」は強辭。○こむよ 未來世。佛教では現在世に對して生前の世を過去世といひ、死後に當に受くべき生を未來世と名づける。現世の惑業によつて來世に逼悩患累の苦輪を受くる。而してその苦輪に天人、人間、地獄、餓鬼、畜生、修羅の六道があると説く。「今代」「來生」は當然の字對。○むしにとりにも 蟲にも〔右○〕鳥にも。上にあるべき「も」を下の「も」に讓つて略いた。卷六に「門にやどにも珠敷かましを」とあると同例。「鳥蟲」は畜生道中の下種。○われは 「羽」は鳥蟲の縁によつた戲書。
【歌意】 この現世がさ、酒飲んで樂しくさヘあらうなら、來世には蟲にも鳥にも、私は生まれかはらうよ。あの畜生道に墮ちてもさ。
 
〔評〕 佛教々義の根幹たる三世因果の律法は確認して居ながら、現世享樂の爲にはその成佛を犠牲にして、畜生道の最下級に墮してもよいと絶叫した。上御一人から始めて一般人民まで、因果應報の理におぞ毛を慄つて、現世を來生の犠牲とするに躊躇しない程の、強い信仰を懷いてゐた時代に、こんな大膽な棄鉢的な告白には、殆ど眠をむいて腰を拔かさぬ者はなかつたらう。實に徹底的に桁外れの快語である。その享樂が何かと思へば、名譽でもなく金でもなく、又女でもなく、只酒だから面白い。酒氣狂ひの狂言といつてしまヘばそれまでだが、生醉本性違はず、作者には作者の哲學が別にあるらしい。
 
(823)生者《いけるひと》 遂毛死《つひにもしぬる》 物爾有者《ものにあれば》 今生在間者《このよなるまは》 樂乎有名《たぬしくをあらな》     349
 
〔釋〕 ○いけるひと 童訓イケルモノ〔五字傍線〕、略解訓ウマルレバ〔五字傍線〕。○つひにも 「も」は歎辭。○ものにあれば 童訓モノナレバ〔五字傍線〕 ○このよなるまは 現世にある間は。久老訓イマイケルマハ〔七字傍線〕。○を 歎辭。○あらな 「きかな」を見よ(一一頁)。
【歌意】 生きてゐる人は、しまひにはまあ厭《イヤ》でも死ぬるものだから、せめてこの現世に在る間は、酒飲んで〔四字右○〕樂しくまあ暮したいね。
 
〔評〕 理窟詰めにその現實主義享樂主義を主張した。上のと同じく、その享樂は酒にあるのだ。唐の李白の
  處(スルコト)v世(ニ)若(シ)2大夢(ノ)1、胡爲(レゾ)勞(スル)2其生(ヲ)1、所以(ニ)終日醉(ヒ)、頽然(トシテ)臥(ス)2前楹(ニ)1、云々。
とその歸趨を同じうするもの、李白と作者旅人とは殆ど同時代に生存し、作者の方が稍先輩にあたる。流石に同好者の言、邦を殊にして尚靈犀一點相通ずるものゝあるのが面白いではないか。
 但この二家の先驅をなすものがある。
  對(シテ)v酒(ニ)當(シ)v歌(フ)、 人生幾何(ゾ)、 譬(ヘバ)如(シ)2朝露(ノ)1、 去日苦(ム)v多(キニ)、 慨(シテ)當2以(テ)慷(ス)1、 憂思難(シ)v忘(レ)、 何(ヲ)以(テ)解(カン)v憂(ヲ)、 唯有(リ)2杜康1。(文選 卷六、魏武帝)
  置2酒(シ)高堂(ニ)1、悲歌臨(ム)v觴(ニ)、 人壽幾何(ゾ)、 逝(クコト)如(ク)2朝霜(ノ)1、 時(ノ)無(シ)2重(ネテ)至(ル)1、 豈曰(ハンヤ)v無(シト)v感、 憂(ハ)爲(ニ)v子(ガ)忘(ル)、我(ガ)酒既(ニ)旨(ク)、我※[肴+殺の旁]既(ニ)藏(ム)、−。(同上、陸機)
 
(824)黙然居而《もだをりて》 賢良爲者《さかしらするは》 飲酒而《さけのみて》 醉泣爲爾《ゑひなきするに》 尚不如來《なほしかずけり》     350
 
〔釋〕 ○もだをりて 黙つてゐて。契沖訓による。「もだ」は動詞ではモダスと四段に活用する。故にモダシヰテ〔五字傍線〕と訓んでもよいが、「黙然」の字面のままに、體言にモダと訓んだ。舊訓タヾニヰテ〔五字傍線〕。○しかずけり 及かざりけりの意。「ず」は否定の助動詞の第二變化。これに「けり」の助動詞の所屬するのは古文法。
【歌意】 黙つて居て賢こだてするのは、酒を飲んで醉泣するのには、やはり劣つてゐるわい。
 
〔評〕 上の「さかしみと物いふよりは」の歌と同型同調の作。彼れは饒舌、此れは沈黙の相違はあるが、さかしら者たることは即ち同じだ。「さかしらする」「醉泣する」の同態語の重複は、始めから作者は介意してゐないらしい。
 以上十三首、赤裸々なる醉人の面貌が躍如として面白く、與に肘を執つて胸中の欝勃を語りたいやうな氣がする。すべて粗派の作で、その縱横無盡な素朴な荒削りの刀痕と線とに、いひ知らぬ力強い眞摯さが漲つてゐる。
 尚この讃酒軟の全部が、劉伶の酒徳頌に胚胎してゐることが看取される。伶はみづから大人先生を以て任じ、醉郷に倨傲してゐる。作者も暗に伶を通して、竊に大人先生を以て任じてゐる形迹がある。貴公子※[手偏+晉]紳處士の禮法を陳説し是非する者を、こゝにはさかしみて物言ふ者、さかしらする者と卻け、陶醉の興趣をこゝには醉泣を以て表してゐる。又伶の交遊する竹林の諸賢に共鳴し、鄭泉の酒壺を羨み、禮法を無視して醉郷に現(825)世の享樂を夢みる。茲に至つて魏晉の間に流行した清談思想が彷彿として認められる。
 當時は道義的には論語の影響が著しいが、文學的には文選の影響を蒙つて、晉人の言行に憧憬をもち、特に清談派の詩酒に豪放し、風月に寄傲するを、會心の快事とした。旅人と同時で稍後輩に屬する參議藤原麻呂(不比等の子、京家の祖)卿は、同好の酒徒の魁たる者で、暮春置酒の詩の序にいはく、
  僕(ハ)聖代之狂生耳、直(ニ)以(テ)2風月(ヲ)1爲(シ)v情(ト)、魚鳥(ヲ)爲(ス)v翫(ト)、貪(リ)v名(ヲ)※[獣偏+旬](フルハ)v利(ヲ)、未v適(ハ)2冲襟(ニ)1、對(ヒ)v酒(ニ)當(ニ)歌(フ)、是諧(フ)2私願(ニ)1、乘(ジ)2良節之己暮(ニ)1、尋(ネ)2昆弟之芳筵(ヲ)1、一曲一盃、盡(シ)2歡情(ヲ)於此地(ニ)1、或(ハ)吟(ジ)或詠(ジ)、縱(ニス)2逸氣(ヲ)於高天(ニ)1、千歳之間、稽康(ハ)我友、一醉之飲、伯倫(ハ)吾(ガ)師(タリ)、不v慮(ラ)2軒冕之榮(ヤスヲ)1v身(ヲ)、徒(ニ)知(ル)2泉石之樂(ムルヲ)1v性(ヲ)、――既而日落(チ)庭清(ク)、※[缶+尊]傾(キ)人醉(フ)、陶然不v知(ラ)2老之將(トスルヲ)1v至(ラ)也、云々。(懷風藻)
旅人と麻呂、その迹は似てゐるやうだが、その趣は相異つてゐる。麻呂には滿足がある。旅人には不平がある。不平の人が時に激しては、對社會的に反抗的の言辭を吐くに至るのも、これ亦無理のない話であらう。
 旅人は武門の棟梁たる大伴氏の總領として、累世の遺業を繼ぎ、旁ら文事にも長じてゐたことは、この讃酒歌に現れた思想や典據に依つても知られ、又その文藻は卷五に收められ、その詩作は懷風藻に擧げられてある。門閥の尊貴に居て文武の材を該ねるとなると、これは容易ならぬ人傑である。彼れが宰府の長官に任ぜられたことは、實に漢鮮との交渉を經理するに最適任者であつたらうことは勿論であるが、その實或は藤原氏一黨の嫉視に依つて、中央政府から敬遠されたと見る方が當つてゐるかも知れない。彼れは常に歸京を熱望してゐたに關らず、その在任は殆ど例の少ない長期であつた。想ふに彼れの飲ん兵衛は、彼れの反對者にいゝ攻撃の口實を與へてゐたものであらう。彼れが裏面の眞相を何處まで察知してゐたかは不明であるが、彼れの不平(826)は遂に酒に托して禮法を楯に取つてゐる反對者を罵倒した。
            △上古の漢學思想の二潮流 (雜考−13參照)
 
沙彌滿誓《さみまんせいが》歌一首
 
○沙彌滿誓 傳は前出(八〇六頁)。
 
世間乎《よのなかを》 何物爾將譬《なににたとへむ》 旦開《あさびらき》 榜去師船之《こぎいにしふねの》 跡無如《あとなきごとし》     351
 
〔釋〕 ○あさびらき 朝舟出するをいふ。「安佐妣良伎《アサビラキ》漕ぎ出でくれば」(卷十五)「安佐婢良伎《アサビラキ》わは漕ぎ出でぬ」(卷二十)など見え、必ず漕ぐ〔二字傍点〕と續ける。○こぎいにし 眞淵はコギニシ〔四字傍線〕と訓み、古義などはそれに從つたが、上掲の卷十五、二十の「漕ぎ出で」と續けた例によれば、こゝもコギイニと動詞の連用態に讀むがよい。ニシ〔二字傍線〕と助辭態に訓むは非。○あとなきごとし 舊訓はアトナキガゴト〔七字傍線〕であるが、久老説の如く、ゴトは單活用の形容詞の第二變化の如ク〔二字傍点〕の略だから、下文に連續の場合にのみ用ゐる。終止格にはならない。
【歌意】 この世の中を何物に喩へようか。まあいつて見れば、朝|發《ダ》ちして漕ぎ去つた船の、今に全く影形もないやうなものさ。つまり色即是空だよ。
 
〔評〕 こゝの譬喩が眼前倏忽に變易した光景ではなく、既に事は過去になつて、「漕ぎいにし船」である。そこに大きな時間の隔りをもつ。でこの歌は恰も空假の二法を歌つたものゝ如くである。即ち「朝開き漕ぎいにし船」(827)を假相として、時經れば全然その形影が見えない。即ち空無の實相を示してゐるといつたものだ。
 再考するに、これはやはり普通の無常觀を主としたものか。この歌拾遺集には、
  世の中を何に譬へむ朝ぼらけ漕ぎゆく舟のあとのしら波  (卷二十、哀傷)
と出てゐる。その轉訛の多いことは勿論であるが、四句の現在描寫は、實によくこの感想の鍵を握つたものであると思ふ。さては本文の「榜去師」の師〔右○〕は衍字で、こゝもコキユクフネノ〔七字傍線〕と訓むべきであらう。
 この歌の表現法に自問自答の形式を執り、まづ「何に譬へむ」と一旦疑問を投げ掛けておいて、かう極めて適當なる譬喩によつてその説明を與へたことは、頗る効果の多い賢明な手段である。すべて勁健の調で、語句に寸分も弛緩の迹がない。
 
若湯座王《わかゆゑのおほきみの》歌一首
 
○若湯座王 傳は未詳。神代紀下に湯坐《ユヱビト》、又雄略天皇紀に湯人《ユヒト》、此(ニ)云(フ)2湯衞《ユヱト》1と見え、古事記下卷に、取(リ)2御母《ミオモヲ》1定(メ)2大湯坐、若湯坐(ヲ)1、宜(シ)2日足《ヒタシ》奉(ル)1とあつて、纂疏に洗(ヒ)2浴(スル)兒(ヲ)1者とあり、又記傳に子に湯を浴する婦とある。大と若とは大小といふに同じい。姓氏録や續紀に若湯坐の氏があるから、この王の乳母が若湯坐氏なので付いた名であらう。「座」は坐と通用。
 
葦邊波《あしべには》 鶴之哭鳴而《たづがねなきて》 湖風《みなとかぜ》 寒吹良武《さむくふくらむ》 津乎能埼羽毛《つをのさきはも》     352
 
(828)〔釋〕 ○ねなきて 音を立てゝ鳴いで。○みなとかぜ 湊に吹く風。「湖」をミナトと訓むはこの集の慣例。○つをのさき、近江國東淺井郡朝日村。和名抄に淺井郡に都宇《ツウノ》郷が見える。都《ツ》は津の義、宇〔傍点〕は津《ツ》の韻。「つを」は津尾の義で津の岬角の稱であらう。今も郡西朝日山の南端を繞つて流れる餘呉川の大湖に注ぐあたり、津の里、尾上の浜がある。尚備中越後には都宇郷の名は見えるが、この歌の趣に適する場處ではない。○はも 歎辭。
【歌意】 蘆の生ひ立つあたりには、鶴が悲しい聲を擧げて鳴いて、湊の風が身にしみ/”\寒く吹くであらう、その津乎の崎はまあ。そこに旅ゐる人は定めてつらい事であらうな〔十九字右○〕。
 
〔評〕 枯れ渡つた冬枯の蘆叢、鶴はそこに棲息して凄愴な音を鳴くのである。湖上を吹き拔いてくる寒風は蘆叢をゆすり、鶴唳を誘ひ、滿目の天地蕭條として客心を傷ましめる。津平の崎にかゝる光景を湊合したことは、單なる想像としても解せられるが、實感の喰ひ入る力が頗る強烈である點から推すと、必ず作者自身の曾遊體驗の語であらう。今の作者の立場は、津乎の崎にいかにも深い關心を持つべく餘義なくされてゐる。題詞がないからその事情は判然しないが、恐らく遁れ難い親昵の人などが、淡海の湖上を通過の途次、津乎の埼あたりに客旅の苦楚を嘗めて居るであらうその情景を想像して、深い同情を寄せたものと思はれる。ひたすら津乎の埼の詠歎に筆を擱いたことは、頗る想像の餘地を(829)饒からしめ、餘韻餘情の長々として盡きぬものがある。
 
釋|通觀《つうくわんが》歌一首
 
○釋通觀 前出(七九二頁)。「釋」は釋迦氏の略稱。佛弟子は皆釋尊の血脈を傳承するから稱する。
 
見吉野之《みよしぬの》 高城之山爾《たかきのやまに》 白雲者《しらくもは》 行憚而《ゆきはばかりて》 棚引所見《たなびけりみゆ》     353
 
〔稱〕 ○たかきのやま 歌枕として古今集以後にも再三採られてゐるが、場處は不明である。自分は水分《ミクマリ》山いはゆる吉野山の古稱と見たい。(その頂點子守明神の奥の小邱を斥す説もあるが、事實上從ひ難い)。平安末期には吉野を花の山と詠んであるに、夫木集にほ高城の山に櫻を詠み合はせたのが二三首ある。高城の山と吉野山と同處であらうといふ私の説に、多少の證據を提供してゐる。○ゆきはばかりて 「いゆきはゞかり」を見(830)よ(七六四頁)。○たなびけりみゆ 後世はタナビケルミユ〔七字傍線〕といふ。「しびがはたてに爪多弖理美由《ツマダテリミユ》」(記下卷)「船出|爲利所見《セリミユ》」(卷六)「ともし安敝里美由《アヘリミユ》」(卷十五)など見えた古文法。この訓古義による。「たなびく」は前出(七七八頁)。「棚」は借字。
【歌意】 吉野の高城の山に、白雲は山の爲に、え行きおほせずして、滯つて靡いてゐるのが見える。
 
〔評〕 白雲は高城の山に棚引くのである。古義に、嶺まで行き屆かずして中空にのみ棚引くとあるのは、甚しい誤解である。赤人の富士山の歌の一節がこの短歌となつた貌で、特異性がない。山名の「高」は、その語のもつ觀念を、一首の上に波及させる役目を成してゐる。
 この作者の他の一作を通じて考へると、餘り大した歌人ではない。まづ僧侶の餘技として見るべきであらう。
 
日置少老《へきのをおゆが》歌一首
 
○日置少老 傳は未詳。日置は氏、記に幣岐之《ヘキノ》君の稱が見える。少老は大老《オホオユ》に對する語。眞淵はスクナオキナ〔六字傍線〕と訓んだ。
 
繩乃涌爾《なはのうらに》 鹽燒火氣《しほやくけぶり》 夕去者《ゆふされば》 行過不得而《ゆきすぎかねて》 山爾棚引《やまにたなびく》     354
 
〔釋〕 ○なはのうら この地名は處々にある。(1)は播磨國赤穗郡|那波《ナハ》村、(2)は土佐國安藝郡奈半利。土佐日記に(831)見える那彼の泊のこと。(3)は大阪市|津村《ツムラ》。催馬樂に、那波のつぶら江と詠んだ處。以上のうち(3)は附近に山がないから歌の趣に適はない。(2)は餘り邊鄙だから假に(1)を以てこの歌に充てゝおく。又「繩」をツヌ〔二字傍線〕と訓み、或は綱〔右△〕の誤として、攝津又は讃岐の地名とする説は無用の辯である。○けぶり 「火氣」の意訓。下にも鹽燒|炎《ケブリ》の類訓がある。○ゆきすぎかねて 外に行き過ぎかねて。カネテは「不得而」の意訓。
【歌意】 繩の浦で鹽を燒く烟が、夕方になると風の爲に滯つて、山に棚引くことよ。
 
〔評〕 今も沿海線各處に鹽屋、鹽釜などの地名の存するのでも知られる如く、自家用又は商品用として、諸方の海邊で鹽を燒いたものである。繩の浦を赤穗の那波村即ち相生灣の粤區とすると、附近はほゞ岡陵によつて圍繞された土地で、そこに藻汐燒く烟が停滯して、磯山かけてほの白く打靡く夕氣色は、極めて物寂しい海村の生活を想はしめる。「夕されば」の一句は輕々に看過し難い。その故は夕方は風の死する時刻である。瀬戸内海附近の夕凪は人の知る處で、さればこそ鹽燒く烟が「行き過ぎかねて山に棚引く」のである。更に作意の痕がなく、頗る自然である。 
  しかの海人《アマ》の鹽燒くけぶり風をいたみ立ちはのぼらで山にたなびく (卷七―1246)
と殆ど同型同趣の作で、意は表裏してゐる。或は傳唱の際の轉訛とも思はれる。
 
(832)生石村主眞人《おほしのすくりまひとが》歌一首
 
○生石村主眞人 生石は氏、村主は姓《カバネ》、眞人は名。續紀天平勝寶二年正月の條に、正六位上大石(ノ)村主眞人(ニ)授(ク)2外從五位下(ヲ)1とある。生石が大石とあるので見ると、生はオフ〔二字傍線〕と訓まずオホと訓むがよい。なほオフス(生)をオホスと轉ずるのと同例。「村主」は韓語のスギ、スギリの轉で村の意。史に據ると、この姓には韓唐の歸化人を攝したと思はれる。孝徳天皇朝の氏姓の制によれば、國造の次に位し、諸姓の最下である。
 
大汝《おほなむち》 少彦名乃《すくなびこなの》 將座《いましけむ》 志都乃石室者《しづのいはやは》 幾代將經《いくよヘぬらむ》     355
 
〔釋〕 ○おほなむち 記(上)に、大國主(ノ)神亦(ノ)名謂(フ)2大穴牟遲《オホナムチノ》神(ト)1と見え、又紀の一書に、素戔嗚(ノ)尊之六世孫、是(ヲ)曰(フ)2大己貴《オホナムチノ》命(ト)1とある。この名義の解は古義に委しい。○すくなびこな 記(上)に、神産巣日(ノ)神之御子|少名毘古那《スクナビコナノ》神と見え、名義は記傳に委しい。大汝と少彦名との二神が相携へて國土を經營せられたことは、記(上)に「大穴牟遲(ト)與2少名毘古那(トノ)1二柱(ノ)神、相竝(バシテ)作(リ)2堅(メタマヒキ)此國(ヲ)1、」紀(卷一)の一書に「大己(ノ)貴(ト)命與2少彦名(ノ)命1、戮力一心|經2營《ツクリタマヒキ》天(ノ)下(ヲ)1」と見え、又この集及び他の古書にもその趣が見える。○しづのいはや 石見國|邑知《オホチ》郡出羽村|石屋《イハヤ》にある。山上の大きなる岩屋に大汝少彦名の二神が隱られた傳説があつて、そこに小社を齋き志都《シヅ》權現といふ。又同國邇摩郡|靜間《シヅマ》村の海邊の洞窟かともいふ。播磨國印南郡なる石の寶殿説は稍遠い。「しづ」のづ〔傍点〕は濁る。集中都〔傍点〕を濁音に用ゐる例が多くある。
(833)【歌意】 大汝、少彦名の二神の隱《コモ》られたといふ、この靜の岩屋は、一體何年位經つたことであらう。ほんに神さびてゐるわ〔十字右○〕。
 
〔評〕 着想は平凡で、その「幾代經ぬらむ」は懷古の常套文句として、後世も盛に踏襲してゐる。たゞ二神の神蹟を語ることによつて、纔に特異の存在性が認められるに過ぎない。
 
上古麻呂《かみのふるまろが》歌一首
 
○上古麻呂 上は氏。古麻呂は名。姓氏録に「上(ノ)村主《スクリハ》廣階《ヒロシナノ》連(ト)同祖、陳思王曹植之後也」と見え、續紀にもこの氏の村主姓であることが見える。古麻呂は姓を署するに及ばぬ程の微官の人か。
 
今目〔左△〕可聞《いまもかも》 明日香河乃《あすかのかはの》 夕不離《ゆふさらず》 川津鳴瀬之《かはづなくせの》 清有良武《さやけかるらむ》     356
   或本(ノ)歌(ノ)發句(ニ)云(フ)、 明日香川《アスカガハ》 今毛可毛等《イマモカモトナ》
 
〔釋〕 ○いまもかも 「目」原本に日〔右△〕とあるは誤。目《モク》をモと讀むは木《モク》をモと讀むに同じく、入聲音の下略。古義が(834)一途に目の字の使用を排したのは私斷で、上にも「あにしかめ八目《ヤモ》」とある。「かも」は疑辭。○ゆふさらず 夕方《ユフベ》を缺かさず。詰り毎夕の意となる。朝さらず〔四字傍点〕の對語。○さやけかるらむ 舊訓キヨクアルラム〔七字傍線〕。○發句 初二句を稱する。頭〔傍点〕といふに同じい。○もとな 既出(六一六頁)。
【歌意】 今もまあ、あの夕方を缺かさず、飛鳥川の蛙の鳴く瀬が、清かであることであらうかなあ。
 
〔評〕 初句は結句へ係けて解する。赤人の登神岳の作とその場所も對象も同じだが、これは囘想的で、永年聞き馴れた飛鳥の故京の蛙の聲と清瀬の響とを懷かしんだ。「今もかも」の昔を現在に引付けた着意は、懷古の情を強調して面白い。
 
山部(の)宿禰赤人(が)歌六首
 
未の二首は覊旅の歌とは思はれない。而も婦人の作である。委しくはその歌の條下で云はう。
 
繩浦從《なはのうらゆ》 背向爾所見《そかひにみゆる》 奥島《おきつしま》 榜囘舟者《こぎたむふねは》 釣爲良下《つりをすらしも》     357
 
〔釋〕 ○そかひ うしろの方。背向《ソムカ》ひの義。○こぎたむ 「こぎたみ」を見よ(二二四頁)。○つりをすらしも 「らし」は近來の文法では、同じ推量の辭ながら、らむ〔二字傍点〕とは違つて、その推量の前提たる事相の呈出を必要としてゐる。然しこの歌の如きはその前提がない。口語のラシイと同樣の使用法で、これも亦一格として存在すべき(835)である。「も」は歎辭。宣長はツリセスラシモ〔七字傍線〕と訓んだが、セス〔二字傍線〕の敬語を用ゐるのは面白くない。古義訓ツリシスラシモ〔七字傍線〕も無理に聞える。「下」は借字。
【歌意】 繩の浦からそとの方に見える沖の島、その邊を漕ぎ廻つてゐる舟は、釣をさ、してゐるらしいわい。
 
〔評〕 繩の涌から遠くに見える島嶼の邊を、小舟が往き泥んでゐるのを望見しての閑想像である。その想像は平凡に墮し、その風趣とても尋常に過ぎない。
 
武庫浦乎《むこのうらを》 榜轉小舟《こぎたむをぶね》 粟島矣《あはしまを》 背爾見乍《そかひにみつつ》 乏小舟《ともしきをぶね》     358
 
〔釋〕 ○むこのうら 「むこのうみ」を見よ(六七一頁)。○こぎたむ 「轉」は囘と同意。○あはしま 粟島。また粟の小島。その所在に就いて異説がある。(1)は淡路の岩屋町の繪島を充てる(地名辭書)。(2)は淡路の南偏、由良海峽の加太《カダ》の淡島(友が島)を充てる(常磐草)。本集中粟島を詠じた歌が七首ある。その中地理的説明に資すべきは、この歌の外卷四卷七卷十二に見える三首で、この歌及び卷七の歌は(1)に該當し、卷四及び卷十二の歌は(2)に該當する。又「武庫の浦を」の浦を海〔傍点〕と改めて友が島まで延長させる説などもあるが採らない。仙覺や古義の説も地理に合はぬ。○そがひ 京本書入には、背向〔右○〕とあるる。○みつつ の下、補足語を要する。評語を參看せよ。○ともしき 珍しく飽かぬこと。前出(七二四頁)。△地圖 卷頭總圖を參照。
【歌意】 武庫の浦を漕いで行く小舟よ、それは景色のよい粟島を、そちらに見い見いして漕いでゆく、おも白い(836)小舟よ。
 
〔評〕 反復格の一種で、その反復の際に辭句を變化して、姿致を求めたものである。そして初二句と三句以下とは、自然の結果として、
  武庫の浦を …………… 漕ぎたむ …………… 小舟 (前對)
  粟島  を そがひに見つゝ 漕ぎたむ〔四字右○〕 ともしき小舟 (後對)
の如く、長短句の偏對を成してゐる。そして前對に對し、更に委しい叙事なり説明なりを後對は與へてゐる。「見つつ」は舟人の見ることは勿論であるが、こゝは直ちに小舟が見つゝあるやうに擬人した。頗る簡淨の表現である。又「そがひに見つつ」と「ともしき小舟」との間には、必ず補足語を要するだけの間隔があつて、直接に連絡し難い。上の「漕ぎたむ」が再びそこに挿入されて、始めてその意義を完了する。
 この歌では作者の所在點が漠然たるやうだが、尚武庫の浦での眺望と思はれる。作者はその海上通過の小舟に深い興味をもち、それが粟島を背景として進行して行く好風景に、更に愛着の念をすゝめた。「小舟」の反復詠歎は、實に抑へても抑へ切れぬ感情の躍動を示してゐる。
                 △粟島考 (雜考−14參照)
 
阿倍乃島《あべのしま》 宇乃住石爾《うのすむいそに》 依浪《よするなみ》 間無比來《まなくこのごろ》 日本師所念《やまとしおもほゆ》     359
 
〔釋〕○あべのしま 所在未詳。仲哀天皇紀に阿閉《アヘノ》島あり、筑前國糟屋郡藍島に充てゝある。八雲御抄には攝津(837)とす。古義に「倍」は波〔右△〕の誤にて粟の島かとある。○う 鵜。水禽類中膜足類に屬する鳥。鴉に似て色黒く、啄長くして末少し曲り、蹼甚だ廣く、よく水中に没して魚を捕る。○いそ 磯。「石」は借字。○よするなみ 寄する波の如く〔三字右○〕。以上の句は「まなく」に係る序詞。久老訓による。舊訓ヨルナミノ〔五字傍線〕。○このごろ 「比來」の意訓。○やまと 既出(一二頁)。「日本」はこゝでは借字。
【歌意】 阿倍の島の鵜の棲む磯に寄せる波は、絶え間なしであるが、その如く絶え間なしに、私はこの頃故郷の都がさ、戀しく思はれてねえ。
 
〔評〕 元來間なく思ふの戀ふのといふ愁歎文句は、常套語であるから一向平凡で、何の刺戟をも齎さない。で種々の序詞を使用して、その新味と特異性とを出さうと骨折つてゐる形迹の見える中に、
  とのぐもり雨ふる川のさゞれ波まなくも君はおもほゆるかも   (卷十二―3012)
  神さぶる荒津の埼によする波まなくや妹に戀ひ渡りなむ  (卷十五、土師稻足―3660)
などは、本文のと同じく、波を運用してゐる。殊に鵜の棲む磯は荒波の寄せ返す場處であるから、「間なく」がよく利いてくる。そして黒い鵜と白い波、そこに鮮明なる色彩の對映を生ずる。要するに上句の序詞は下句の背景を兼ねてゐる。作者はさうした荒涼たる阿倍の島邊に覊客となつて、「この頃」の一語によつて表現され(838)た如く、まだ日の淺い眞新しい郷愁に試煉されつゝゐたので、いかに堪へ難い苦悩であらう。
 
鹽干去者《しほひなば》 玉藻苅藏《たまもかりつめ》 家妹之《いヘのいもが》 濱裹乞者《はまづとこはば》 何矣示《なにをしめさむ》     360
 
〔釋〕 ○かりつめ 刈り取れの意。後撰集の「刈りつむ蘆」(卷十)、榮花物語の「刈りつみて」(蕾の花)など、皆刈りの意で、つむ〔二字傍点〕、つみ〔二字傍点〕はその意が輕い。「藏」をツムと訓むは、卷十六の「倉に擧藏而」を舊訓クラニツミテとあり。又令に貯をツムと訓んである。古義の訓カリコメ〔四字傍線〕は拘泥。○いへのいも イヘノモ〔四字傍線〕と訓んでもよい。「伊敝能母爾《イヘノモニ》」(卷十四)「伊敝能伊毛何《イヘノイモニ》」(卷二十)兩樣に書かれて、一定してゐない。○はまづと 濱の産物の家苞。苞は裹物。
【歌意】 これ諸君達よ、海が汐干にならば、その干潟の藻草を刈り取りなさい、若し刈り取らずに歸つて、家の妻が濱苞をくれと望んだら、何を苞物として見せようぞい。
 
〔評〕 「刈りつめ」と命令した對者は分明でない。從者等とも見られるし、同輩達とも見られる。
   伊勢の海のおきつ白波花にもがつゝみて妹が家苞にせむ   (卷三、安貴王−306)
とその興趣の出發點を同じうするもので、更に一段の工作と曲折とを加へた。即ち表面は他人に向つての戲謔の言と見せかけて、その實作者自身の女房孝行の情味を、分段に放散したものと思ふ。
 
(829)秋風乃《あきかぜの》 寒朝開乎《さむきあさけを》 佐農能崗《さぬのをか》 將超公爾《こゆらむきみに》 衣借益矣《きぬかさましを》     361
 
〔釋〕 ○あさけを 朝明なる〔二字右○〕を。「開」は借字。○さぬのをか 「さぬ」は「佐野のわたり」と同處で、岡は佐野の村落のある處である。「さぬのわたり」を見よ(六八六頁)。○きみ 「公」は他稱の敬稱。但この字面に就いて別に私考がある。△地圖及寫眞 挿圖192(六八五頁)193(六八六頁)を參照。
【歌意】 秋風の寒い朝方なのに、佐野の岡を越えてゆくであらうお方樣に、私の著物を借して上げようものを。それもならぬのでねえ。
 
〔評〕 作者を佐野の里附近の婦人と見、「きみ」をその許に通ふ男と見る。女は名殘の朝床を吹く秋風の寒さに、朝歸りした男の上を想ひ遣つて、その越え行く佐野の岡邊は愈よ寒いことだらうと思ふと、いとしさに溜らず「衣借さましを」と、衣借しの習慣のまゝにいつては退けたものゝ、さて男は此處には居ないのだから、實現性のない希望であつた。そこにやさしい情味と輕い悔恨の念とが搦み合つて、限ない餘情を遺してゐる。
 眞淵はこれを赤人の妻の歌として、「上の黒人(ノ)歌八首とある中に妻の歌一首書き入れたる類ならむ」といつた。佐野の岡は遠隔なる紀州熊野の奥地で、而もその頃は格別著名な岡でもないのに、勝手を知らぬ都住居のその妻が、特に想像に上せることは、普通ではありにくい事かと思ふ。若し前に赤人の佐野の岡の詠があれば、その返歌として見られぬ事もない。宣長は又「きみ」を旅人と見て旅宿の遊女の作とした。
 なほ衣借し〔三字傍点〕の事は、卷二「宇治間《ウヂマ》山あさ風寒し」の歌の評語を參照(二六一頁)。
 
(840)美沙居《みさごゐる》 石轉爾生《いそわにおふる》 名乘藻乃《なのりその》 名者告志弖〔左△〕余《なはのらしてよ》 親者知友《おやはしるとも》     362
 
〔釋〕 ○みさご 雎鳩。猛禽類中鷹科に屬する鳥。背部は褐色にて腹部は白色。水上を飛翔して巧に魚を捕ふ。○いそわ 磯廻。「轉」は囘〔傍点〕の意に借用した。眞淵の訓はイソミ〔三字傍線〕。○なのりそ 馬尾藻。神馬藻とも書く。穗俵《ホンダハラ》のこと。長さ三四尺ほどの海藻で、莖細く枝多く細小なる葉互生す。一分餘の圓い實が着く。允恭天皇紀に、時人號(ケテ)2濱藻(ヲ)1謂(フ)2奈能利曾毛《ナノリソモト》1とある。又今も伊勢にて濱藻と呼ぶ物だらうとの説もある。こゝは名告藻《ナノリソ》の意に取成した。○なのりその 以上の句は四句の「名はのらし」に係けた同語の反復による序詞。○のらしてよ 告《ノ》らして賜へ〔二字右○〕よの略。「告らし」は告り〔二字傍点〕の敬相。「弖」原本に五〔右△〕とあるは契沖及び久老の説の如く誤。
【歌意】 雎鳩《ミサゴ》の居る磯邊に生える、名告藻《ナノリソ》の稱《ナ》のやうに、貴女のお名を告《ノ》り知らせて下さいよ、萬一親は知つて咎めるともまゝよ。
 
〔評〕 開卷第一の雄略天皇の御製の評に説明した如く、古へは男に女がその家名を告り知らせることは、夫婦關(841)係の肯諾を意味する。さては女の兩親達などが聞き付けて、干渉する事もあり勝な譯である。
   櫻麻のをふの下草露しあればあかしてゆけ母は知るとも  (卷十一―2687)
など、如何なる邪魔をも押し退けて行かうとする處に、その戀心の熾烈さが窺はれる。上句の序詞は頗る地方色を發揮して面白い。
 上の歌もこれも、純然たる覊旅の歌でないのみか婦人の作だから、この題詞中に攝すべきでない。然しこの二首が赤人の旅中においてなせる戀愛操作の結果と見れば見られぬこともない。さてはその覊旅の作中に附記することも相當理由のあることで、既に黒人の覊旅の作中にその妻君の作をも收めてゐる。
 
或本(の)歌(に)曰(ふ)、
 
美沙居《みさごゐる》 荒磯爾生《ありそにおふる》 名乘藻乃《なのりその》 吉〔左△〕名者告也《よしなはのらせ》 父母者知友《おやはしるとも》     363
 
〔釋〕 ○よし まゝよの意。「吉」原本に告〔右△〕とある。路解説によつて改めた。卷十二の再出には吉名者不告《ヨシナハノラジ》とある。上句の詞序はこの「よし」を隔てゝ「なはのらせ」に係る。○のらせ 告れ〔二字傍点〕の延言。命令格。舊訓はツゲヨ〔三字傍線〕。○おや 「父母」を意訓によむ。
【歌意】 歌意及び評語は、上の歌との相違がわづかだから略く。
 
笠《かさの》朝臣|金村《かなむらが》鹽津《しほづ》山(にて)作歌二首
 
(842)○笠朝臣金村 傳未詳。笠朝臣は姓氏録に、孝靈天皇(ノ)皇子稚武彦(ノ)命之後也とある。○鹽津山 近江國東淺井郡鹽津村の東嶺で、賤《シヅ》が嶽より北、行市山の南嶺に至る總稱。賤が嶽は蓋し鹽津《シホヅ》が嶽の轉訛である。道は鹽津の祝山より越えて餘呉湖畔又は文室を經る南路と、北偏の集福寺より越えて池原を經る北路との二筋ある。いづれも北國街道に通ずる。但南路は急峻で北路はやゝ坦路である。又集福寺より西すれば敦賀國道に會する。祝山に鹽津神社、集福寺に下鹽津神社がある。いづれも式内社である。△寫眞 挿圖75を參照(二三〇頁)。
 
大夫之《ますらをの》 弓上振起《ゆずゑふりおこし》 射都流矢乎《いつるやを》 後將見人者《のちみむひとは》 語繼金《かたりつぐがね》     364
 
〔釋〕 ○ますらを 既出(四〇頁)。○ゆずゑふりおこし 射んとする時弓を眞直に立つること。「ゆずゑ」は弓の末弭《ウラハズ》の方をいふ。本弭に對する語。「弓腹《ユバラ》振起し」(卷十三)「弓末ふりおこし」(卷十九)「振(リ)2起(シ)弓※[弓+肅]《ユハズ》1」(神代紀)「弓腹振(リ)立(テ)」(古事記)などもいふ。「上」をスエと讀むは意訓。○いつるやを 「を」は歎辭。矢なるものをの意に解するはよくない。新考よろしい。○かたりつぐがね 話し傳へよう爲にの意。「がね」は豫《カネ》の義であるが、使用上、爲に〔二字傍点〕の意に慣用され、豫の意は却てその轉語たるカニ〔二字傍点〕の方に移つた。古義の之根《ガネ》説は諾へなぃ。「金」は借字。
【歌意】 この矢は益荒雄たる私が、弓打起して射つた矢ぞよ、それは外でもない、後で見る人が、私の弓勢の程を語り傳へよう爲にさ。
 
〔評〕 金村が鹽津山を通過したのは、彼れが越前の國衙の官吏として、赴任する途上の事である。彼れは淡海の(843)湖西から船で鹽津の浦に着いたのであらう。古へ行旅の際に弓箭を帶することは、萬一に備ふる警戒として通常のことであつた。まして自ら「益荒雄の」と名告《ナノリ》を擧げる程の金村である。彼れは頗るの勇士と思はれる。抑も勇士が路傍の大樹などに矢を射込むことは、珍しい事ではない。いはゆる矢立《ヤタテ》の行事がそれである。保元物語に、源爲朝が上矢の鏑一筋を取つて末代の者に弓勢を示さうと、寶莊嚴院の門柱に射留めた話が出てゐる。又曾我物語には、
  昔文徳天皇の御弟柏原宮、東夷を鎭め給はむ爲、奥州へ下り給ふ時、權現へ法樂の爲、上矢の鏑をこの杉に射立て通らせ給ふ。後この道にかゝる人上矢を奉る習あり。
と見え、その後源頼義以降の矢立の事から、曾我兄弟の矢立の事に及んでゐる。爾雅には矢(ハ)指也、釋名には誓也と見え、韓愈の張巡傳に南霽雲が矢を浮屠に射殘して志を示した話や、五代史に周の莊宗が宗廟に矢を出納した話などを湊合すると、支那でも矢に就いては一種の信仰的觀念を伴うてゐたことが考へられる。勿論法樂祈誓の爲としてからが、又は盟約の爲禁厭の爲としてからが、その結果として、自然その弓勢を他に誇示する意圖が附帶して生ずるのは亦人(844)情である。「後見む人は語りつぐがね」、勇士の本懷こゝにありといつた調子に、金村が鹽津社頭において切つて放したその矢立の響は、さぞ林木を震撼したことであらう。
 二三の句は常套の成句であるが、「益荒雄の」いひ起しから、「後見む人は語りつぐがね」と放語するに至るまで、如何にもその自信の意識が強烈に露はれ、颯爽たる雄風が四邊を壓する概がある。三句切れでこそあれ、反倒法で叙してあるから、尚勁健な調を失はない。
                  △矢立考 (雜考―15參照)
 
※[鹽の異體字]津山《しほづやま》 打越去者《うちこえゆけば》 我乘有《わがのれる》 馬曾爪突《うまぞつまづく》 家戀良霜《いへこふらしも》     365
 
〔釋〕 ○しほづ 「※[鹽の異體字]」は字書に音|古《コ》、鹽をいひ、※[鹽の異體字]鹽二宇通用である。○いへこふ 家は家人の意。
【歌意】 鹽津山を越して行くと、私の乘つてゐる馬がさ躓くわ、コリヤ大和の家人が、私を戀しがるらしいわい。
 
〔評〕 路は急峻なる鹽津山路、そこには碎石が磊※[石+可]として、馬の動もすれば躓く處である。その躓く度毎に、心中國偲び家思ひの念を動搖させてゐる作者をそこに(845)發見する。
   妹が門入りいづみ河の瀬を速みわが馬《マ》爪づく家思ふらしも  (卷七、藤原卿―1191)
は等類である。奥儀抄にいふ。
   旅人を家にて戀ふる妻あれば、乘馬躓きなづむ。
こんな俗信は文化の開けた今日でも幾らもあるが、只その信心力が昔は殊に強かつたことは爭へない。流石の勇士金村も、旅に出てはやはり繊細なる神經の持主となり、俗信に盲從してしまふ、その情味が有難い。
 これも勁健の調子で終始してゐる。金村一流の面目。
 
角鹿《つぬがの》津(にて)乘(れる)v船(に)時、笠(の)朝臣金村(が)作謌一首并短歌
 
越前の敦賀の津で船に乘つた時に金村が詠んだ歌との意。○角鹿津 越前國|敦賀《ツルガ》郡|氣比《ケヒノ》浦の一津。今の敦賀市。角鹿《ツヌガ》の稱には傳説があつて、垂仁天皇紀及び古事記神功皇后の條に、各の異傳を載せてある。こゝには用がな(846)いから略く。和名抄に越前國敦賀郡(都留我《ツルガ》)と見え、平安期には既にツルガと訛つてゐた。
 
越海之《こしのうみの》 角鹿乃濱從《つぬがのはまゆ》 大舟爾《おほふねに》 眞梶貫下《まかぢぬきおろし》 勇魚取《いさなとり》 海路爾出而《うみぢにいでて》 阿倍寸管《あへぎつつ》 我榜行者《わがこぎゆけば》 大夫乃《ますらをの》 手結我浦爾《たゆひがうらに》 海未通女《あまをとめ》 鹽燒炎《しほやくけぶり》 草枕《くさまくら》 客之有者《たびにしあれば》 獨爲而《ひとりして》 見知師無美《みるしるしなみ》 綿津海乃《わたつみの》 手二卷四而有《てにまかしたる》 珠手次《たまたすき》 懸而之努櫃《かけてしぬびつ》 日本島根乎《やまとしまねを》     366
 
〔釋〕 ○こしのうみ 越前より越後に至るまでを古ヘは古志(越)(ノ)國と稱し、その海を越の海と稱した。○まかぢぬきおろし 「左右の楫《カヂ》を懸けて海に下すをいふ。○まかぢ 「いくよまでに」の項の左右〔二字傍点〕を見よ(一三九頁)。○いさなとり 既出(三八七頁)。○うみぢ 航路をいふ。○あへぎ 喘ぎ。古義にアベキ〔三字傍線〕と濁音に訓んだのは惡い。「倍」は原音ハイ次音ベであるが、本卷中にも「山|佐倍《サヘ》光り〕「袖さし可倍※[氏/一]《カヘテ》」などの倍はいづ(847)れも清音に用ゐてある。○ますらをの 浦の名の手結《タユヒ》に係る枕辭。「丈夫《マスラヲ》の手結」は男子專用の手を纏ふ物と思はれ、武具の小手(籠手)の如き物か。仁徳天皇紀に、將軍田道が蝦夷を征して敗死の時、從者が田道の手纏を取り得て、その妻と手纏を抱いて縊死したといふ、その手纏は和名抄射藝具に、※[韋+講の旁](ハ)和名|多末岐《タマキ》)、一(ニ)云(フ)小手《コテ》也とある。西宮記に、諸家出《スニ》2馬乘人(ヲ)1著《ク》2※[衣+兩]襠錦袴冑手纏足纏(ヲ)1と見えた足纏は必ずアユヒと訓むべく、これに對へて手纏もタユヒと訓むべきこと明かである。さては手結、手纏、小手は同物異名と心得てよい。(宣長芳樹説參取)。又別に手纏は手に纏く玉の稱とするも常の事である。○たゆひのうら 敦賀の東北に當つた敦賀灣中の一港。田結神社がある。○あまをとめ 既出(四一頁)。○しほやくけぶり 鹽燒く烟〔右○〕を。「炎」は説文に火光上也とあつて※[餡の旁+炎]のことで、それを意訓にケブリと讀む。上にも火氣をケブリと讀んである。○ひとりして 卷十二に「二爲而《フタリシテ》結びし紐を一爲而《ヒトリシテ》吾《ワレ》は解き見じ」とあつて、爲而はシテと訓む。契沖訓ヒトリヰテ〔五字傍線〕は非。○みるしるしなみ 見るかひなさに。卷七に「獨居而《ヒトリヰテ》見驗《ミルシルシ》無き暮月夜《ユフヅキヨ》かも」とある。この句は「かけてしぬびつ」に係る。○わたつみ 既出(七四頁)。○てにまかし 「まかし」は纏《マ》くの延言で敬相。「綿津見の手に纏かし(848)たる」は次の「珠手次」の珠〔傍点〕に係る序詞。「手二卷四」は數字的戲書。○たまたすき 「懸け」に係る枕詞。既出(三九頁、五四一頁)。○しぬびつ 既出(四五頁)。「櫃」は借字。○やまとしまね 前出(七四三頁)。
【歌意】 越の海の敦賀の濱から、大船に兩方の楫を貫き下げ、海上に乘り出して、私が喘ぎ/\※[手偏+旁]いで行くと、手結の浦に、海少女が鹽を燒く烟が面白〔三字右○〕く立つ、それを私は旅中の事だから、只獨で見るそのかひもなさに、ふと可愛い妻を思ひ出して〔十二字右○〕、日本島根を遠く懸けて慕はしく思ふことよ。
 
〔評〕 越の海といつても、これは敦賀灣(氣比《ケヒ》の海)でのことで、敦賀の濱からの解纜である。何の爲の旅行かといふに、次の歌に見れば、作者金村は新任の越前守石上乙麻呂の下僚として赴任したらしく、乙麻呂は越前入部の際に、この航路を取つたと見える。(次の歌評參照)。
 尚委しくこの旅程を一考すると、當時の國府は武生《タケフ》に在つたから、奈良京からくるに、近江の湖西の道を經て、愛發山を越え、敦賀の津に出て、其處から官船に乘つて、田結の浦を右に杉津に上陸、鹿蒜《カヒル》山を越えて、武生の國府に到着したものらしい。
(849) 素より國衙の官吏達は官船だから、大船の朱のそぼ船で漕ぎ出した。「喘ぎつつわが※[手偏+旁]ぎ行けば」と、さも作者自身が大働きに働いたやうだが、實をいへばそれは船子《カコ》の動作なのだ。狡猾にもそれを奪つて我が體驗として叙出した處に、行旅の苦患さが甚しく強調されてくる。全く面白い一種の詠法である。
 田結の浦は敦賀灣中更に小灣を成し、懸崖高く南に斗出した形勝の地で、そこに海少女等の製鹽の烟が搖曳したなら、海上通過の作者が涯ない興趣を感じたことは、無理はあるまい。同乘の誰れ彼れは必ずあつたらうに、茲に「獨して見る」といつたのは、全然その人達を無視したもので、心の合はぬ相手は幾ら居ても木石同然である。飽くまで旅愁に囚はれた作者の胸中に介在して眼前に彷彿するものは、只日本島根の彼方に殘して來た愛妻の面影で、田結の浦のこの佳景を見るにつけ、愈よ相共にこれを愛賞することの出來ぬ遺憾さが高まる。「獨して見るしるしなみ」は、詰りかゝる幾多の曲折をもつ情意を反映させる爲の前提で、「日本島根」は大和の愛妻を代表させた婉辭である。「綿津見の手に纏かしたる玉」は、文字の上では(850)枕詞の「珠手次」に、更に修飾を加へた無用の弄語としか見えぬものゝ、海上から眺望したその當時の實感からすると、又有用缺くべからざる文字といへよう。尤も
   海神《ワタツミ》の手に纏きもたる玉ゆゑに  (卷七―1301)  海神のもたる白玉  (同上−―1302)
   わたつみの手纏の玉  (卷十五―3627)
   海神の神のみことのみ櫛笥にたくはひおきて齋《イツ》くとふ玉  (卷十九―4220)
など數多の類想があるので思ふと、疑もないこれは萬葉人の套語で、作者獨創の言では決してない。
 又海少女の燒く鹽と家人を思うての「懸けて慕《シヌ》びつ」の造句とは、卷−の軍王の長短歌を聯想せざるを得ない。作者は既に意識してかく歌つたものか、否か。一寸疑を存しておく。
 この篇の構成は初頭より「わが※[手偏+旁]ぎ行けば」までが第一段、「見るしるしなみ」までが第二段、以下が第三段となつてゐる。
    
越海乃《こしのうみの》 手結之浦矣《たゆひのうらを》 客爲而《たびにして》 見者乏見《みればともしみ》 日本思櫃《やまとしぬびつ》     367
 
〔釋〕 ○ともしみ 面白さに。この「乏し」は不足の意ではない。「ともしき」を見よ(七二四頁)。○しぬびつ 「思」にシヌブの義がある。集中「偲」の字を用ゐた處もあるが、「偲」は借字で、字書に才力多、多鬚貌、不安貌と見えた。
【歌意】 越の海の手結の浦を、旅中で見ると面白さに、つひ故郷大和が思ひ出されたよ。それは家の人に見せた(851)いので。
 
〔評〕 長歌の句意と更に異る處もない。寧ろ無用な反歌といつてよい。
 
石上大夫《いそのかみのまへつぎみの》歌一首
 
この歌は上に「角鹿津乘船時」とある題詞を懸けて見るべきもの。下官たる金村の歌を先頭に掲げたことは、その長篇たるが爲と思はれる。○石上大夫 石上は氏、大夫は四五位の通稱。この石上大夫は左註によれば石上(ノ)朝臣乙麻呂のこと。當時五位の越前守であつた。傳は「石上(ノ)大臣」を見よ(一七一頁)。
 
大船二《おほぶねに》 眞梶繁貫《まかぢしじぬき》 大王之《おほきみの》 御命恐《みことかしこみ》 礒廻爲鴨《いそみするかも》     368
 
〔釋〕 ○しじぬき 澤山に懸け横たへるをいふ。「しじ」は繁の意の古言。○みこと 御|言《コト》。前出(七三二頁)。○いそみ 磯めぐり。「み」はメグリの約。「礒廻」を久老説によつてかく訓む。舊訓アサリ〔三字傍線〕。神本訓イソワ〔三字傍線〕。
【歌意】 大船に左右の楫を澤山たてゝ、大君の仰がまあ恐《カシコ》さに、磯めぐりすることよな。ほんにつらい。
 
〔評〕 公命を奉じて行旅の艱險を冒すことを歎息してゐる。「大船に眞梶しじ貫き磯廻する」ことは、國守としてはその入部の際や、部内巡檢の時の事であらうが、上の金村の作を通じて見ても、感激の生ま/\しさがあるから、これは入部即ち赴任の際の作と考へられる。作者は越前守として赴任するに、角鹿の津から官船を仕立(852)てゝ、敦賀灣を縱斷することになつた。素より灣は日本海から深く凹入し、風波平穩の海上ではあり、眞楫しじ貫く大船ではあり、安全律は十分であるが、而も作者は當時三十五歳以上(出身年齡から推測して)の壯年期であるが、如何せん名門の子弟―左大臣麻呂の季子―で、懷風藻に「雍容閑雅甚だ風儀に善し」といはれ、後年女一件で失脚した程の優男であり、况や海馴れぬ大和の生活者であつて見れば、恐怖の念に件ふ行旅の艱苦は、人竝以上にその心頭に往來するものがあつたらう。その弱音にはかく相當の理由の存在することを知らねばならぬ。
 尚上出「晝見れど飽かぬ田子の浦」(七三二頁)の歌の評語を參照されたい。
 
今案(フルニ)、石上(ノ)朝臣乙麻呂任(ラルト)2越前守(ニ)1、蓋(シ)此(ノ)大夫歟。
 
 續紀には乙麻呂が越前守になつた記事がないが、この左註は信憑するに足るものと思ふ。乙麻呂は天平十一年に土佐に配流、その十六年に西海道節度使となつたことが續紀に出てゐるが、歌の趣では必ず越前赴任の時の作である。
 續紀に天平四年正月に丹波守(上國)となつたとある。その任期は同八年正月滿期(當時國守の任期は滿四箇年)。次いで大國の越前守に轉じたものと思はれる。然し同十年正月には右大辨となつてゐる。多分任中に京官に召されたものだらう。
 
和歌《こたふるうた》一首
 
(853)○和歌 この上にあるべき人名が脱ちた。
 
物部乃《もののふの》 臣之壯士者《おみのをとこは》 大王《おほきみの》 任乃隨意《まけのまにまに》 聞跡云物曾《きくといふものぞ》     369
 
〔釋〕 ○もののふのおみ 官吏をいふ。「臣」は官吏の稱。「もののふのやそうぢがは」を見よ(一九二頁)。○をとこ 記に壯夫を袁登古《ヲトコ》、紀に少男を烏等孤《ヲトコ》と訓み、集中には「壯士」又「壯子」を大抵ヲトコと訓んである。○まけ 委任の意。罷《まか》らせ〔二字傍点〕の約で下二段活。但こゝはその名詞格。○まにまに 隨《マヽ》に〔傍点〕を重ねていふ。略してマニマ〔三字傍点〕、中古からはマヽニ〔三字傍点〕ともなつた。「隨意」の意訓。○きく 聽き入る。承る。
【歌意】 苟も官吏たる壯士は、大君の命令のまゝに、聽き入れ從ふといふものですぞい。御苦勞でせうが一奮發なさいませ。
 
〔評〕 上の大夫の言に對する激勵と戒飭とを兼ねた詞である。王命に走ることは官吏の常識的覺悟で、奇なる所もない。然しこれは萬葉人の強い階級意識から出發した語であることを考へる必要がある。即ち他の百姓奴婢等の下級層とは殊なつてゐるといふ、特權階級者のもつ自覺と矜持とが、その根元をなしてゐる。そして弱氣に囚はれた守の殿に、「聞くといふものぞ」と?んで含めたやうなその口氣に、年長者として又輔佐役としての、作者の立場の歴然たるものがあつて面白い。作者はいづれ官船に隨伴した人であらう。左註にある如く金村の歌集中のものなら、愈よ面白い。金村は大夫の下僚として、かく進言するにふさはしい武勇の人であり、又歌(854)人である。
 
右(ノ)作者未(ダ)v審(カナラ)、但笠(ノ)朝臣金村之歌中(ニ)出(ヅ)也。
 
安倍(の)廣庭(の)卿歌一首
 
○安倍廣庭 傳は前出(七四一頁)。
 
雨不零《あめふらず》 殿雲流夜乎〔左△〕《とのぐもるよを》 潤濕跡《ぬれひづと》 戀乍居寸《こひつつをりき》 君待香光《きみまちがてり》      370
 
〔釋〕 ○あめふらず 詞の通りに解してよい。宣長は「零」を霽〔右△〕の誤としてアメハレズ〔五字傍線〕、久老は或人の説として「雨不」を霖〔右△〕の誤としてコサメフリ〔五字傍線〕と訓んだ。いづれも無用の鑿説。○とのぐもる たな〔二字傍点〕ぐもるともいふ。トノ、〔二字傍点〕タナ〔二字傍点〕は通轉。雲のた靡いて曇ること。「殿」は借字。○よを 夜なる〔二字右○〕をの意。「乎」原本に之〔右△〕とある。全く聞えぬこともないが、乎《ヲ》の方が面白い。嚴水説がよい。○ぬれひづと 雨に濡れるとて。「ひぢてぬれけれ」を見よ(三六三頁)。○こひつつをりき 戀ひつゝ家に〔二字右○〕居りきの意。○がてり がてら〔三字傍点〕と同じい。「みがてり」を見よ(二八〇頁)。「香光」は借字。
【歌意】 雨は降らず、只雲が出て曇る夜だつたのを、つひ雨に出合つて濡れると思つて、貴方を戀ひ/\して家に居りましたよ。若しかしたらお出があるかと、貴方を待ちながらさ。
 
〔評〕 これは朋友間の交情を歌つたものである。我れ/\のよく體驗する所で、友戀しさに急に逢ひたくなつた(855)が、煮え切らぬ天候の爲に、こちらは往訪を控へる、或はと心待に待つても素より約束しないのだから、向ふからは來ない。徒らに會合の機を失して一夜を無聊に終つてしまう。「君や來む我れや行かむのいさよひに」(伊勢物語)と似た場合で、遺憾と後悔との交錯に、纏綿たる美しい情味が漂ふ。對手は餘程の親友と見える。多分かく詠んでその友に贈つたものであらう。
 註家は皆これを男女間の關係として解説し、「君待ちがてり」は婦人の夜分の來訪を豫想した事になつてゐる。現代こそ婦人の夜行は何でもないが、古代では慣習上普通にはあり得ない事である。まして作者の身柄は當時の右族であり、右大臣|御主人《ミウシ》の子である。それ程尊大の地位にある作者に交渉をもつ婦人に、夜分の來訪を豫想される理由は先づない。
 
出雲(の)守|門部《かどべの》王(の)思v京《みやこをしぬべる》歌一首
 
○門部王 傳は前出(七五二頁)。○思京 故郷の奈良京を憶ふをいふ。
 
※[飫の異體字〕宇〔左○〕海乃《おうのうみの》 河原之乳鳥《かはらのちどり》 汝鳴者《ながなけば》 吾佐保河乃《わがさほがはの》 所念國《おもほゆらくに》     371
 
〔釋〕 ○おう 「宇」は原本にはないが、卷四にもこの王の歌に「飫宇能《オウノ》海之」とあるから、必ず落字である。出雲風土記、和名抄などには意宇《オウ》と書いてある。「※[飫の異體字〕」は飫〔右△〕の書寫字で、呉音はオ〔傍点〕。○おうのうみ 出雲國意宇郡(今八束郡)の内海。中つ海ともいつた。廣袤四里四方。東北偶に中江(ノ)瀬戸ありて美保灣に通じ、西方に馬(856)潟(ノ)瀬戸ありて遠く宍道湖に通じ、海中に大根島、尖根島あり、大根島を古へ栲《タク》島といつた。○かはら 意宇川(また熊野川)の海に注ぐ邊の河原をいふか。國府の所在地八束郡竹矢に近い。○ちどり 前出(六八七頁)。○さほがは 既出(二七三頁)。○おもほゆらくに 「らく」はる〔傍点〕の延言。「國」は借字。
【歌意】 意宇の海の川原にゐる千鳥よ、お前が鳴くと、戀しい私の故郷の佐保川が、愈よ思ひ出されることなのにさ。
 
〔評〕 千鳥の鳴く音が郷愁を喚起し※[酉+鰮の旁]釀することを嗟歎して、その心なしの仕打を咎めた。一體千鳥の聲は、錆のあるソプラノ調の短音の不規則な反復で、その荒涼たる水陸の背景と相俟つて、物寂しい感じを唆る。客中この聲を聞くと、既に心胸を攪亂させられる。况やその聲とその背景とが一作者の家郷の風物を彷彿させるとなつては、鐵石で作つた人でも亦斷腸するであらう。のみならず作者はとにがく王氏の貴族で、−後に大原眞人を賜はり臣籍に降つたが−まだ三十歳未滿の若人だから、愈よ激しい感傷の氣分に打たれたものだらう。
 「飫宇の海の川原の」といふ續きは一寸むづかしい叙述のやうだが、殆ど川と海との境目のつかぬ沙嘴汀洲の交錯から成る河口状態では、かうもいへる。而も出雲の國府から意宇の川原は一望の下にあつて、居常守の殿門部王の感傷を唆つたものだ。
(857) 飫宇の川原と佐保川とが、千鳥で連繋してゐる。佐保川は「千鳥鳴く佐保の川瀬」(卷四)、「佐保川にあそぶ千鳥」(卷七)など詠まれた千鳥の名處である。作者が佐保川に深い愛着を感じてゐる點から推すと、その居邸は佐保川附近であつたかも知れない。勿論佐保や春日は、奈良京の代表的名處であるからといふ理由も伴つてゐるではあらうが。
 千鳥に向つては「汝が」、郷里の佐保川に向つては「わが」と呼び懸け、自他の代名詞を冠せて相對的に合拍させ、そこに極めて親睨なる情味を漂はせ、「思ほゆらくに」と歇後の辭樣を用ゐて、聽者に十分なる想像の餘地を與へたことは、その効果滿點である。然しこれは始めから意識的に硯つた作爲ではなく、自然の感哀の流露であることが、この作として尊い。一言に餘韻※[鳥の下が衣]々生哀婉凄絶とでも評しておかう。この作者又、
  飫宇の海の潮干の潟のかたもひに思ひやゆかむ道の永手《ナガテ》を  (卷四―536) 
(858)山部(の)宿禰赤人(が)登(りて)2春日野(に)1作歌一首并短歌
 
○山部宿禰赤人 傳は前出(七六三頁)。○登春日野 春日野は卷四に「春日野に朝ゐる雲のしく/\に」とも見え、奈良京の地盤よりも遙に高いので「登」といつた。○春日野 大和國添上郡春日。春日山の裾野で、春日神社の南郊の稱。今の奈良公園附近。△地圖及寫眞 挿圖−170(六一七頁)171(六ニ○頁)を參照。
 
春日乎《はるびを》 春日山乃《かすがのやまの》 高座之《たかくらの》 御笠之山爾《みかさのやまに》 朝不離《あささらず》 雲居多奈引《くもゐたなびき》 容鳥能《かほどりの》 間無數鳴《まなくしばなく》 雲居奈須《くもゐなす》 心射左欲比《こころいさよひ》 其鳥乃《そのとりの》 片戀耳爾《かたごひのみに》 晝者毛《ひるはも》 日之盡《ひのことごと》 夜者毛《よるはも》 夜之盡《よのことごと》 立而居而《たちてゐて》 念曾吾爲流《おもひぞわがする》 不相兒故荷《あはぬこゆゑに》     372
 
〔釋〕 ○はるびを 春日《カスガ》に係る枕詞。春日よ幽《カスカ》といふを春日にいひかけた。「を」は呼稱。古義は「を」をの〔傍点〕と同意として、春日の霞むを春日にかけたものとした。○かすがのやま 添上郡春日郷の山。奈良の東方に盤踞し、一名三笠山といふ。最高峯標高四九七米突。○たかくらの 御笠に係る枕詞。高御座《タカミクラ》の上には蓋即ち御笠《ミカサ》を懸けられるのでいふ。○みかさのやま 既出(六二一頁)。こゝにいふは春日山の前山たる春日神社め鎭坐す(859)る山を稱する。○あささらず 朝毎に退かず。夕離らず〔四字傍点〕の對語 ○くもゐたなびき 雲が靡き。雲居は雲といふと同意に用ゐた。○かほどり 美しい鳥。「かほ」は顔ある意にて、美貌の稱。美しい花を容花《カホバナ》といふ。いづれも箇有名詞でない。○しばなく 屡ば鳴く。○くもゐなす 前出(六五七頁)。○こころいさよひ 心が落ち着かぬをいふ。○いさよひ 躊躇すること。ためらふこと。○そのとりの その鳥の如く〔二字右○〕。○かたごひ 一方のみの戀。○たちてゐて 立ちつ居つしての意に近い。○あはぬこゆゑに 逢はれ〔右○〕ぬ兒の故に。宣長は逢はれぬ兒なるものをと解した。結局はその意にもなるが、語に寸分の相違がある。兒は若い婦人の呼稱。卷十一「はしきやし逢はぬ子故に」、同卷「よる波の音高きかも逢はぬ子故に」などある。△寫眞 挿圖169を參照(六一四頁)。
【歌意】 あの春日山の御笠の山に、朝毎缺かさず雲が靡き、綺麗な鳥が絶え間なしに頻に鳴くわ。その雲のやうに心が漂ひ休らひ、その容鳥のやうに片戀にばかりに、晝はまあ終日、夜はまあ終夜、立つたり居たりして物思を私がするわ。それは外でもない〔八字右○〕。一向逢はれぬあの兒のせゐでさ。
 
〔評〕 戀の焦燥は靜坐に堪へない。又その懊悩は人間界の交渉に堪へない。彼は孤獨を欲して、往いて奈良の東郊の春日野に登つた。
 春日野は現今でも相當幽邃の勝地だ。まして昔は實にその靜寂を極めた仙境と思はれる。三笠山は春日神社の後山で、山頭常に朝雲の飛白を見、幽林の好鳥は葉を隔てゝ節面白くその諧音を囀る。一切の俗念はそこに解消され、憂思は立處に洗滌さるべきである。然るに牢として拔けないのは戀の悩だ。雲を見れば衷心の鬱結(860)を感じ、鳥を聽けばその偶を求める悲しい叫をのみ認める。かうすべての聯想が現實暴露となつては、物はお仕舞ひだ。
 彼れの心頭にはもう夢はない。只片戀の苦痛あゐのみで、盡日終夜、時に起立し時に跪坐し、身その席に安んぜず、逢はぬ兒故にその腸は九廻すると自白した。
 あはれ折角の春日野行も、慰むべき自然の風物が却て傷心の媒となつて、結局依然として、拂ひ難い迷雲は作者の心身を深く閉してゐる。
 初頭より「間なく數鳴く」までの前段は景を叙し、以下結末までの後段は情を陳べた。「その鳥の片戀のみに」は關鍵の句で、後段はこれから展開してゐる。
 通篇情景相俟つて、哀婉の意を温雅のうちに藏し、作者その人の性格を深く想望させる 
反歌
 
高※[木+安]之《たかくらの》 三笠之山爾《みかさのやまに》 鳴鳥之《なくとりの》 止者繼流《やめばつがるる》 戀哭〔左△〕爲鴨《こひもするかも》     373
 
〔釋〕 ○たかくらの 「※[木+安]」は鞍と同字。尚「※[木+安]作村主盆人」の條を參照(七五三頁)。但こゝは座の借字。○なくとりの 鳴く鳥の如く〔二字右○〕。鳥は長歌に見えた容鳥である。初句より三句までは「止めば繼がるる」に係る序詞。○やめばつがるる 止めばすぐ續けられる。終え間のないことをいふ。○こひも 「哭」をモと訓む。契沖はいふ、喪《モ》には哭《ネナキ》する故にかく訓むかと。眞淵は喪〔右△〕の誤とした。
 
(861)〔評〕 山禽の間斷なき諧音も今は傷心の媒となり、その痴を自覺しながら、尚抑へきれない綿々たる戀の感傷を歌つてゐる。「止めば繼がるる」の具象的能動の叙述が面白い。
  君が著る三笠の山に居る雲の立てば繼がるる戀もするかも  (−2675)
は、この歌が訛つて傳承されたものであらう。
 
石(の)上朝臣乙麻呂(の)歌一首
 
原本「石上乙麻呂朝臣」とある。傳前出(七一八頁)。
 
雨零者《あめふらば》 將蓋跡念有《きむとおもへる》 笠之山《かさのやま》 人爾莫令蓋《ひとになきしめ》 霑者漬跡裳《ぬれはひづとも》     374
 
〔釋〕 ○きむとおもへる 古義はキナムトオモヘル。「蓋」をキとよむは意訓。○かさのやま 諸註、三笠の山の略といつてゐるが、山邊郡に笠の地名がある。或はそこの山の事であらう。○ひとになきしめ 「な」の禁止語をそ〔傍点〕と受けぬのは古格。訓は古義による。舊訓はヒトニナキセソ〔七字傍線〕。
【歌意】 雨が降らうなら私が著ようと思ふ笠だ、されば他人に著せてはなりませんぞ。假令その人が濡れ漬たらうともさ。そのやうに、時が來たら一緒にならうと思ふお前だから、他人がどんなに騷いでも、心を移してはいけませんよ。
 
(862)〔評〕 獨占慾は戀愛に至つて極まる。すこしの寛容もない、然しこれは譬喩に託して、その胸臆を訴へてゐる點を考へると、心にまだ多少の餘裕が存在してゐる。纔にその貞操に疑ある情人か、或は強い競爭者のある婦人かに對して、いひ贈つたものだらう。
 「笠の山」と地名を譬喩に取入れたことは、對手が其處に所縁ある人と見たい。が若しその對手の女が笠氏ででもあるならば、名稱の類似から應用せぬ事も亦ない。いづれにしても、「の山」はこの歌の修辭上の癌である。
 この歌はいづれ作者の若い頃の作であらう。續紀に
  天平十一年三月、石上朝臣乙麻呂、坐(シテ)v※[(女三つ)+干](ルニ)2久米(ノ)連《ムラジ》若賣《ワカメニ》1配2流(サル)土佐(ノ)國(ニ)1。
など見え、なか/\艶聞の持主である。
 
湯原《ゆはらの》王(の)芳野(にて)作歌一首
 
○湯原王 志貴皇子の御子。春日(ノ)王の弟か。
 
吉野爾有《よしぬなる》 夏實之河乃《なつみのかはの》 川餘杼爾《かはよどに》 鴨曾鳴成《かもぞなくなる》 山影爾之※[氏/一]《やまかげにして》     375
 
〔釋〕 ○よしぬなる 吉野に在る。○なつみのかは 吉野川を宮瀧(中莊村)のやゝ上流なる菜摘《ナツミ》の里附近で菜摘川と釋し、菜摘の川門の稱もある。菜摘は夏身、夏箕なども書く。○かはよど 前出(七八九頁)。○かも (863)扁嘴類の水禽。種類が多い。○やまかげけにして 山陰にて〔四字傍点〕といふに同じく、「し」の辭は輕く使はれてゐる。   △地圖 挿圖35を參照(一一〇頁)。
【歌意】 吉野にあるこの菜摘川の川の淀みに、あれ鴨がさ鳴くわい、あの山の陰でさ。 
〔評〕 菜摘は兩山相迫つた間を吉野川が南へと流れ、その西岸の山根に沿うて今でもわづかな村落を見る、閑寂な幽境である。川原廣く、處々に淀瀬を作し風光が明媚である。
 更にこの川淀に就いて一考すると、菜摘の下流の宮瀧は、今では河床低下の爲岩床が甚しく露出してしまつたが、古へは河水がその岩床に注いで激湍を成してゐた(扶桑略記による)。されば菜摘邊は却て河水が停滯してゐたらしく、對山の翠を涵した廣い川淀に游浴する鴨の聲は、實に他郷人湯原王の感哀を促さずには置かなかつたものであらう。
 叙景の作として上乘に位するもの。初句より四句までは一錬の鐵を伸べた如き調子で、眼前の景象を叙し、結句忽に一轉して、周圍の山を背景に取入れた。「山陰にして」は凡手の到底想像し能はぬ落句で、かくてこそ山影水光の映發(864)を見るべく、靜寂を破る川淀の鴨の鳴く音も、滿谷の嵐氣を動搖させ、人の心骨を寒からしめ得る。
 
湯原(の)王(の)宴席《うたげの》歌二首
 
王が宴席を催された時の歌との意。
 
秋津羽之《あきつばの》 袖振妹乎《そでふるいもを》 珠※[しんにょう+更]《たまくしげ》 奥爾念乎《おくにおもふを》 見賜吾君《みたまへわがきみ》     376
 
〔釋〕 ○あきつばの 蜻蛉羽《アキツバ》の如き〔二字右○〕の意、。蜻蛉の羽は輕く透いて美しい。よつて婦人の輕い舞袖に譬へた。○そでふる、舞ふ容にいふ。こゝは相圖の爲に振る袖ではない。○いもを この「を」は、下の「見給へ」に係る。○たまくしげ 既出(三一四頁)。こゝは奥〔傍点〕に續けた枕詞。「奥」は底の意で、櫛笥の底の方を奥といつた。水には素よりで「海《ワタ》の底|奥《オキ》を深めて」(卷四、卷十)「猪名川の奥《オキ》を深めて」(卷十六)など例が多い。「※[しんにょう+更]」は匣の書寫字。○おくにおもふを 深く思ふ妹〔右○〕をの略。「奥に」は深くの轉義。この「を」も「見給へ」に係る。○わがきみ の下、呼格のよ〔右○〕の辭を含む。眞淵訓はワギミ〔三字傍線〕。△寫眞 挿圖69を參照(二○二頁)。
【歌意】 今日のおもてなしに出した〔十二字右○〕、この綺麗な舞の袖を打振る美人を御覽下さい、私が深く大事に思ふ美人〔二字右○〕を御覺下さい。お客の貴方樣よ。
 
〔評〕 宴席の興を添へる爲に、家に蓄へた妓女や愛妾などを出して、歌舞を演奏させることは、當時の王侯貴紳(865)の誇であつたらう。支那では士人が家妓を蓄へることは普通の事で、權家はなほ更であつた。春秋時代から史に散見するが、晉の石崇の緑珠、隋の楊素の紅拂など、隨分名妓に乏しくない。それらの習俗が唐風模倣時代に輸入されたものらしい。素より家妓は兼愛妾だから、帳中深く秘藏さるべき性質のものを、出して客席に侍らしめることは、特別歡待であらねばならぬ。「奥に思ふを見給へ」と格別恩に着せた口振りは即ちそれで、主人湯原王の得意の態度が想ひ遣られる。
 「秋津羽の袖振る」は薄物の長袖を翻して舞ふのである。上下二つの「を」は「見給へ」に係る。隨つて「見給へ」が強い印象を與へる。枕詞の疊用は「珠匣」が婦人の用具だけに、うるささが稍緩和される。
    
青山之《あをやまの》 嶺乃白雲《みねのしらくも》 朝爾食爾《あさにけに》 恒見杼毛《つねにみれども》 目頬四吾君《めづらしわがきみ》     377
 
〔釋〕 ○あをやま 草木の繁つた山の色相からいふ。○けに 日に。「け」は「けならべて」を見よ(六八二頁)。「食」は借字。○めづらし 奇《アヤ》しとして愛づる意。「めづらしみ」を見よ(五一六頁)。
【歌意】 青山の峰の白雲のやうに、朝に見日に見、常に見ても、飽かず愛《メヅ》らしいわい、貴方樣は。
 
〔評〕 狎るれば飽きてくるといふ心理が前提となつてゐる。青山も白雲も湯原王家から眺望の景觀だらう。その配色が鮮明である。乃ちこれを捉へて譬喩的序詞とし、その如くいくら見ても見飽かぬ吾君と、高潮の友愛を披瀝した。
(866) 「朝にけにつねに」の漸層的表現が、「見れども」を強調する効果を奏し、結句は又、その倒装と字餘りとが相俟つて、頗る力強い張り切つた感情を表現する。
 
山部(の)宿禰赤人(が)詠(める)2故《もとの》太政大臣(の)藤原(の)家(の)之|山地《いけを》1歌一首
 
赤人が故人たる太政大臣殿の藤原の家の山池を詠じた歌との意。○故太政大臣 藤原(ノ)不比等《フヒト》のこと。内大臣鎌足の二子で、正二位右大臣となり養老四年三月薨じた。太政大臣正一位を贈られ、のち寶字四年八月に淡海公に封ぜられた。「故」は故人の意。これを贈〔右△〕の誤とした古義説は無用。○藤原家 高市郡大原の里の藤原の別莊か。 
昔看之《むかしみし》 舊堤者《ふるきつつみは》 年深《としふかみ》 池之瀲爾《いけのなぎさに》 水草生家里《みくさおひにけり》     378
 
〔釋〕 ○むかしみし 「看」原本に者〔右△〕とあるは誤。略解の説に從ふ。舊訓イニシヘノ〔五字傍線〕。○つつみ 作池は塘《ツヽミ》を築いて池とするので、池を直ちに塘といひもした。○としふかみ 年久しくの意を池の縁語で轉義した。舊訓トシフカキ〔五字傍線〕。○なぎさ 渚。波打際《ナミウチギハ》のこと。「瀲」に波際の義がある。○みくさ 水草の總稱。
【歌意】 嘗て見たこの古い塘は、年經た爲に、その渚に水草の繁つたことではあるわい。 
〔評〕 庭池はもとより瀦水であるから、少し掃除せぬと忽ち木葉に埋もれ、水草が繁つて汚くなる。若し主人が(867)不在となると、自然掃除も怠られるので、
  御立たしゝ島の荒磯を今みれば生ひざりし草生ひにけるかも (卷二―181)
といつた有樣になる。ましてこれは「年深み」であつて見れば、さぞ荒れ増つたことであらう。但既に「昔みし」といひ、更に「ふるき堤」といひ、又「年深み」といふ、恰も故意であるかのやうに、同意の叙述が重複してうるさい。
 又いふ、「堤」は池の總括的稱呼で、「池」は特にその水のある部分を斥した。
 
大伴(の)坂上郎女〔六字左○〕《さかのうへのいらつめが》祭《まつる》v神《かみを》歌一首并短歌
 
○大伴坂上郎女 原本の題詞にこの六字がない。左註によつて補つた。郎女は佐保《サホノ》大納言大伴安麻呂の女で、旅人の妹、稻公《イナギミ》の姉である。初め一品穗積(ノ)皇子に嫁ぎ、皇子薨後、同族大伴(ノ)宿奈《スクナ》麻呂に嫁ぎ、宿奈麻呂逝後、藤原(ノ)麻呂(不比等の子)の妻となり、麻呂の逝後寡居してゐた。旅人の子家持から云へば、叔母であり又姑である。この人の再嫁の順序を、考、略解、古義皆誤つてゐる。卷四の「京職大夫藤原(ノ)麻呂(ガ)賜(レル)2大伴(ノ)郎女(ニ)1歌」とある題詞及びその左註の條を參照。○坂上 坂上郎女の住地で、郎女の呼名になつた。大伴家の住邸佐保に屬し又は隣接した、奈良山のうちの或坂の上と考へられる。これを生駒郡の立田の坂上(立田神社前の坂)に擬する説には從ひ難い。又これを奈良坂(歌姫越)の上とする舊説は、郎女が女歌人である處から、歌姫の名に附會して生じた俗説で、歌姫は歌うたふ遊女の稱である。○祭神歌 祭神を左註に據つて大伴氏の氏神祭とすると、神は氏の遠祖天(ノ)忍日《オシヒノ》命のことで、皇孫邇々藝《ニニギノ》尊の日向の高千穗に天降りましゝ時に從駕した神である。この神の裔道(ノ)(868)臣(ノ)命は又神武天皇の御時の開國の功臣である。
    
久堅之《ひさかたの》 天原從《あまのはらより》 生來《あれきたる》 神之命《かみのみこと》 奥山乃《おくやまの》 賢木之枝爾《さかきのえだに》 白香付《しらがつけ》 木綿取付而《ゆふとりつけて》 齊戸乎《いはひべを》 忌穿居《いはひほりすゑ》 竹玉乎《たかだまを》 繁爾貫垂《しじにぬきたり》 十六自物《ししじもの》 膝折伏《ひざをりふせ》 手弱女之《たわやめの》 押日取懸《おすひとりかけ》 如此谷裳《かくだにも》 吾者祈奈牟《われはこひなむ》 君爾不相可聞《きみにあはぬかも》     379
 
〔釋〕 ○あまのはらより 高天の原から。○あれきたる 出現して來てゐる。こゝの「あれ」は現るゝの意。生《ウマ》レの約アレで、出産の義を本として、出現の義にも通じ用ゐる。「來」を久老はコシ〔二字傍線〕と訓み、古義もそれに從つたが、こゝは出現した過去の事をいふのではなくて、如在の神と見做しての祭神だから、舊訓の方がよい。○かみのみこと 「かみ」は祖神天(ノ)忍日(ノ)命のこと。「みこと」は上代に用ゐられた尊稱で、御事《ミコト》の義。神の外にも、父の命、母の命、名兄《ナセ》の命、夫《ツマ》(妻)の命、弟《オト》の命などいつた。この句の下によ〔右○〕の呼格の辭を置いて解する。○おくやまの 「おくやま」を見よ(七三六頁)。賢木は奥山の所産だから、いひ續けた。○さかき 榮樹《サカキ》の義で、「腎木」は〕借字。古義の眞清明樹《サアカキ》)の説は迂遠である。仙覺説は榮えたる樹として一木の名としない。眞淵もこれに(869)賛し、松杉橿などをいふといつた。さて慣習的に今いふ榊にその名が歸したものと思はれる。新撰字鏡に、杜(ハ)毛利《モリ》又|佐加木《サカキ》、又龍眼(ハ)佐加木とあり。和名抄に、龍眼木(ハ)佐加岐《サカキ》、今按(ルニ)龍眼(ハ)其(ノ)子(ノ)名也、見(ユ)2本草(ニ)1と見えた。神事に專ら用ゐるので、合字を以て榊※[木+祀]※[木+定]なども書く。山茶科に屬する常緑木。葉の全邊にして花の兩全なるものと、葉は鋸齒を有し花は果實を生ずるものとある。尚久老は樒とし、六人部是香は槻としたが從ひ難い。○しらがつけ 白紙を著け。是香説に、こゝは賢木の枝に白香《シラガ》を付け木綿を付けてといふこと。白香は大平説に「この語集中三所あり、皆白香とのみ書きて白髪と書けるはなし、されば白紙なるべし。奈良の頃より木々に白紙をも切懸けたりけむ、白|紙《カミ》をシラガといふは尚|白髪《シラガ》の例に同じ」と。舊訓シラガツク〔五字傍線〕。○ゆふ 「やまべまそゆふJ を見よ(四四二頁)。○いはひべ 齋ひたる瓮《ベ》。清淨なる土器の甕で、これに酒を盛る。「齊」は齋と通用。○いはひほりすゑ 清めて土を掘つて据ゑる。齋瓮の尻は窄り尖つてゐる故に掘り据うるのである。○たかだま 竹を短く切りて管《クダ》玉代りに使ふもの。神祭の具と見えた。仙覺説に、竹を玉のやうに刻みて神供の串に懸けて飾ることありと。○しじにぬきたり 繁く貫き垂れ。○ししじもの 既出(五三九頁)。○ひざをりふせて 猪鹿の類は膝を折り反して伏す故にいふ。「い這ひ伏す」と同じ容體である。○たわやめの たをやめが。○おすひ 被衣《カツギ》(870)の如き長衣。古代の服の一種で、記の神代の卷、又景行天皇の段にも見えた。外宮儀式帳に「木綿手次前垂縣※[氏/一]《ユフダスキマヘニカケタレテ》、天(ノ)押日蒙※[氏/一]《オスヒカヽフリテ》」、又大神宮式にこれに八條四條の語がある。記傳に「オソヒと通ひて、オシオホヒを約めたるなり、その状は一幅にまれ二幅にまれ、幅のまゝに長き物なるを、被衣の如く頭より被て衣の上より掩ひ、下に襴まで垂ると見ゆ。さて上代は男女共に人に誰と知られじと、面貌を隱す料と見えたり、然るを奈良の頃より男の着ることは絶えて、女の禮服の如くなりて、神祭の時などのみ著けるなるべし云々」。○とりかけ 打掛けて着るをいふ。○かくだにも かうしてまでもの意。○こひなむ 乞祈《コヒノ》むの轉。所祈《ノ》むは祈ること。古語。この句を終止態とする説と、下の「君」に續く態とする説とある。上來の語調からすると、終止態として、一且切つた方がよい。○あはぬかも それでも〔四字右○〕逢はれぬことかまあの意。久老は逢ひねかしの意とした。語形は「久方の雨も降らぬか」「わが命も常にあらぬか」などに似てゐるが、語調が違ひ、隨つて語意が違つてくる。古義はアハジカモ〔五字傍線〕と訓んだ。△寫眞 挿圖15を參照(五五三頁)。
【歌意】 高天の原から天降つて入らつしやる御先祖の神樣よ、まづ神籬には深山に産する賢木の枝に、眞白の木綿を取り付けて、神酒の忌瓮を土に埋けて据ゑ、竹玉を澤山緒に貫いて垂らし、婦人たる私が襲衣《オスヒ》を引き懸けて、猪鹿その物のやうに膝を折つて屈んで禮拜して、御先祖の神樣にお願をして祈りますわ。それでも〔四字右○〕戀しい君樣に逢はれぬことかまあ。
 
〔評〕 大體が天照大神の岩屋籠りの際の神祭(記、紀、及び古語拾遺所見)の樣式に則つたものといへよう。さればこの歌に於ける祭式の行叙は、何も新味をもたぬ紋切形である。
(871) だが假令それが紋切形とはいへ、歌としては、かく祭事の次第を綿々密々に敷演することに依つて、間接に神を崇敬する熱意と劬勞との尋常ならざる趣を示し、以て神意を動かして、結局神の擁護を餘儀なくせしむる手段である。
 氏神祭はその氏人が御祖の神に對して氏族の繁榮を祈り、感謝の意を表するを重要の目的とする。然し附帶しては種々雜多な祈願も懸けられた事であらう。その際族長又は家長たる男子こそ、家傳の祝詞を朗誦して、恐美畏美申しもしたらうが、婦人達となつては隨分打解けた自分勝手な御無理をお願ひしたことは、想像に餘りある。蓋し氏神はその氏子の信頼に對して、飽くまで氏子を擁護する責任をもつ。かくて郎女はその遣る瀬ない戀を祈つた。
 郎女の胸中は只戀の氣持で一杯であつた。流石の氏神樣も戀愛祈念の外には無用であつた。そこで公的の性質で執行された氏神祭が、只自分一つの戀愛の爲に催されたものゝ如く觀じ、本末は端なく顛倒されてしまつた。あらゆる祭儀も祭具も皆桃色の色彩を帶びて、その眼に映じた。かゝる倒見は即ち脇目を振らぬその戀の眞劍さを、極端に力強く語るものである。結果からいへばこれは例の幻化の手段で、知らず識らずの間に讀者は化かされてゐるのである。氏神樣とてもつひ乘せられてしまつて、「君に逢はじかも」を實現に導いて遣らずには居られなくなるのであらう。
 首尾平叙を用ゐ、中間の四句には排對を用ゐて、變化と姿致とを取つた。「鹿じもの膝折り伏せ」「たわやめの襲衣取り掛け」の二句は順序が前後してゐるが、「吾は乞ひなむ」に呼應させる都合上、成るべく近い位置に置き換へたものである。
(872) 郎女のこれ程の熱愛の對象となつた人は一體誰れであらう。郎女の夫大伴(ノ)宿奈麻呂《スクナマロ》は既に神龜の一、二年に没し、この天平五年まではほゞ八年を經過してゐる。−神龜のはじめ兄旅人が太宰の帥に赴任した。郎女は後れて筑紫にゆき、天平二年十二月一緒に歸京した−すると必然的に次の夫となつた藤原(ノ)麻呂《マロ》を想はずには居られない。郎女はこの時既に四十歳以上の老女、しかも二人の娘(坂上大孃、同二孃)の母としての郎女である。然るに尚若い娘のするやうな神いぢりの願掛けに、その戀の成功を祈つてゐる。情痴の世界に齡はないとはいへ、實にまたその不思議さと勇悍さとに驚く。序にいふ當時麻呂は從三位參議兵部卿であつた。この人も間もなく天平九年七月に薨じた。
 
反歌
 
木綿疊《ゆふだたみ》 手取持而《てにとりもちて》 如此谷母《かくだにも》 吾波乞嘗《われはこひなむ》 君爾不相鴨《きみにあはぬかも》     380
 
〔釋〕 ○ゆふだたみ 木綿を折り疊んだ物。この「たたみ」は敷物の疊ではない。○あはぬ 逢は〔右○〕れぬ。古義訓はアハジ〔三字傍線〕。「不相鴨」と不〔傍点〕の字ある時はその「ぬ」は必ず否定。
【歌意】 木綿の反物を手に捧て、これ程にも私は神樣にお願して、お祈します。それでも君に逢はれぬことかねえ。
 
〔評〕 「木綿疊手に執り持ちて」は、長歌の初頭から「襲衣取り懸け」までの祭事の總意を壓縮した句である。さ(873)れば長歌と全く同意同調の作で、別にいふべき處がない。 
右(ノ)歌(ハ)者、以(テ)2天平五年冬十一月(ヲ)1供2祭《マツレル》大伴(ノ)氏(ノ)神(ヲ)1之時、聊(カ)作(ム)2此謌(ヲ)1、故(ニ)曰(フ)2祭(ル)v神(ヲ)歌(ト)1。
 
 右の木綿疊の歌は、天平五年十−月に行はれた大伴の氏神祭の時、作者が詠んだので、内容は戀歌だけれど、祭神歌と題詞には書いたとの意。
                     △大伴坂上部女年紀考(雜考―17參照)
 
筑紫娘子《つくしをとめが》贈(れる)2行旅《たびびとに》1歌一首
 
筑紫の若い娘《コ》が、行人に贈つた歌との意。○筑紫娘子 傳未詳。他本には題詞の下に「娘子、字《ナヲ》曰(フ)2兒島(ト)1と細註がある。 
 
思家登《いへもふと》 情進莫《こころすすむな》 風候〔左△〕《かざまもり》 好爲而伊麻世《よくしていませ》 荒其路《あらきそのみち》     381
 
〔釋〕 ○いへもふと 家を思ふとて〔右○〕。○こころすすむな 心はやるな。○かざまもり 風の具合をよく候ふこと。「まもり」は目守《マモリ》の義。「候」原本に侯〔右△〕とある。諸本の訓カゼマモリ〔五字傍線〕。○よくして 上手にやつて。○あらきそのみち 波風の荒いその海路を。
【歌意】 いかに家が戀しいとて、餘りおはやりなさるなよ、風待を旨くやつてお出なさいませ、それは波風の荒い海路ですものを。
 
(874)〔評〕 惜別の情味が津々としてゐる。船路の旅の※[貝+盡]として、これに超す親切な詞はあるまい。こんな柔韻に富んだ人情深いことを誰れがいひ得よう。題詞の細註には娘子の名を兒島としてある。兒島は筑紫の遊行婦で、天平二年十二月帥大伴旅人が上京の時、
  凡《オホ》ならばかもかもせむを恐《カシコ》みと振りたき袖を忍《シヌ》びてあるかも (卷六−965)
  やまと路は雲がくれたり然れども吾が振る袖をなめしと思ふな (同上−966)
と詠んでゐる。その口吻の似通つてゐる點から推すと、細註の説を信じたい。又同年の六月に宰府の官人達が驛使の大伴(ノ)稻公等に贈つた歌の中に、
  周防なる磐國山をこえむ日は手向よくせよ荒きその道  (卷四、山口忌寸若麻呂−567)
は全く同想同型で、いづれが先出かは不明だが、彼れは一本氣な男の歌であり、此れは紆餘曲折していかにも女流の作である。
 
登(りて)2筑波岳《つくばのたけに》1、丹比眞人國人《たぢひのまひとくにひとが》作歌一首并短歌
 
○筑波岳 常陸國筑波郡における名山。筑波山、筑波嶺、小筑波とも稱し、その頂二峯に分れ、よつて二竝《フタナミ》筑波といはれる。西を男體即ち男神、東を女體即ち女神とする。關東平野に特立し、北方は延いて加波《カバ》蘆穗の連山となる。標高八八七米突。○丹比眞人國人 丹比は氏。丹治比《タヂヒ》の略で、尚タヂヒと讀む。眞人は姓、朝臣の上に位する。國人は續紀に、天平八年正月正六位より從五位下に叙し、十年閏七月民部少輔に任ずとある。天平勝寶三年正月從四位下攝津大夫、天平寶字元年七月黄文王の事に坐して伊豆國に配流。卷廿には右大辨とある。○(875)短歌 これは反〔右△〕歌とあるべきを誤つたものだらう。歌體を案ずるに疑もない反歌である。故にこれを以て短反通用の證左とするは諾へない。
  
※[奚+隹]之鳴《とりがなく》 東國爾《あづまのくにに》 高山者《たかやまは》 左波爾雖有《さはにあれども》 朋〔左△〕神之《ふたがみの》 貴山乃《たふときやまの》 儕立乃《なみたちの》 見※[日/木]石山跡《みがほしやまと》 神代從《かみよより》 人之言嗣《ひとのいひつぎ》 國見爲《くにみする》 筑羽乃山矣《つくばのやまを》 冬木成《ふゆごもり》 時敷時跡《ときじきときと》 不見而往者《みずてゆかば》 益而戀石見《ましてこひしみ》 雪滑爲《ゆきけする》 山道尚矣《やまみちすらを》 名積叙吾來竝二《なづみぞわがこし》
 
〔釋〕 ○とりがなく 東《アヅマ》に係る枕詞。既出(五三三頁)。○あづまのくに 既出。(1)の意(五三三頁)。○ふたがみ(876)の 男女二神の。東西二峯を神としていふ。卷九に「男神も許し給ひ、女神もちはひ給ひて」とある。「朋」原本に明〔右△〕とあるは誤。朋はトモ、ナラブなどの義で、意を以て二《フタ》に充てた。○たふときやまの 貴い山で。「みがほし山」へ續く。○なみたち 竝み立ち。二神即ち二峯の立ち竝んだ樣子をいふ。卷九に「二竝の筑波山」とある。「儕」はトモガラ、タグヒ、などの義。○みがほしやま 「見之欲《ミガホ》し」の成語を「山」に熟せしめた語。「欲し」の形容詞はこゝでは假體言である。「みがほし」は前出(七八六頁)。「※[日/木]」は漢音カウ。入聲音でカホ〔二字傍点〕に通ずる語性があるので充用した。「石」をシと訓むはイシの上略。○やまと 山として〔二字右○〕。○くにみする 「望國《クニミ》」を見よ(二〇頁)。○つくばのやまを 筑波の山なる〔二字右○〕を。○ふゆごもり 冬籠りの〔右○〕。こゝは春の枕詞ではない。「ふゆごもり」は既出(七八頁)。○ときじきときと 冬籠りが常住である時とて〔右○〕の意。先人が雪の時じくと解して詞の足らぬやうに難じたのは却て非。「風をときじみ」を見よ(四五頁)。○まして 傳聞で戀しく思うた以上にまして。○こひしみ 戀しからうので。「往かば」の將然を「戀しからむ」と承けるのは正格だが、かく形容詞にみ〔傍点〕の接尾辭を添へた語で承けるのも一格である。尚「引かば〔二字傍点〕難みと」(本卷)、「早く明けなば〔二字傍点〕すべをなみ」(卷四)、「あらば〔二字傍点〕すべなみ」(878)(卷十五)、「別れなば〔二字傍点〕いともすべなみ」(同上)の例證がある。○ゆきけ 雪|解《ドケ》。「け」は清む。○なづみぞ 「なづみこし」を見よ(五七六頁)。○こし 「竝二」は四の算數的戲書。集中なほ重二、二二など書いてある。
【歌意】 東國に高い山は澤山あるが、男女二神の尊い御山で、立竝んだ樣子がほんに眺めて見たい山とて、神代の昔から人が語り草にいひ傳へたり、國見したりする、この筑波の山なのを、今の時季が冬籠り最中の時だからとて、見ないで過ぎ往かうなら、話に聞いてゐた時以上に〔十一字右○〕まして戀しからうので、雪解のする山路をすら、無理に歩き悩んでさ、私は登つて來たことであつた。
 
〔評〕 馬耳の双聳、關東平野に君臨してその偉容の壯を誇示してゐるのは、新治《ニヒバリ》筑波の山である。文獻上では日本武尊の御事蹟によつて、始めて史上にその名が知られてゐるが、實際問題として考へると、大昔から關東平野を旅行する人達の大事な目標として、又その行路の方向を認定するによい展望臺として、必要上著名でもあつたらしい。隨つて八州の道路は平野からも海路(霞が浦)からも、この山を焦點に置いて通達したものと思はれる。それは風土記の古傳とは依違するが、常陸國の府治がその東麓に近い石岡の地に立てられたことも、以上の事實を裏書するものではあるまいか。かくしてこの山はその鞍部高燥の地を卜して聚落が形作られ――麓の南西兩方面は低濕の地――人出入の多い樂しい山となつた。さればその※[女+燿の旁]會《カヾヒ》の盛んだつたことも偶然でない譯になる。
 「朋神の貴き山、なみ立の見がほし山」、まこと筑波神の神威と二竝の奇状とは、その特徴であつた。「神代より人のいひ繼ぎ、國見する」はその事實であつた。作者はいづれ常陸か陸奥かの東陬の官吏として、この邊を(878)往來したものだらうが、その道行摺りにも是非登攀の勞を執らねばならぬ程に、著名な名山であつた。
 だが如何せん時季が惡い、冬だ。折柄が雪降りだ。傳説にいはく、
  昔祖神伊弉諾尊が諸神の訪問旅行をなされた時、福慈即ち富士の神は、今晩は新嘗の潔齋日だからと、その宿泊を拒絶した。祖神はお怒になつて、「此の親不孝奴、お前の山は以來四時雪霜に鎖されて人も登れず、飲食を供へる者もなからう」と仰せられ、立つて筑波の神の許に來られた。すると筑波神は、新嘗の晩だが、外ならぬお方の事ですからと、お泊めして歡待したので、祖神はお喜になつて、「詢に可變い子よ、お前の處は天地日月と共に榮え、人達は聚まつて遊宴し、飲食は飽くまで豐に永世樂しみの盡きぬであらう」と仰せられた。そこで福慈の山は何時も雪で登臨の出來ず、筑波の山は四方の人が寄り集つて歌舞宴飲することは、今に絶えぬのである。(常陸風土記による)
 然し幾ら祖神の眷顧がある山にせよ、冬はやはり寒い。四月でも頂上は時に樹氷が殘つてゐる位だ。なれども一度看過したなら一生の悔あるべきを感じ、勇躍一番國見を試みるのであつた。山は小さい割合に嶮峻で、それが冬季の雪解の道では、隨分困難したものであらう。
(879) 一意到底の叙述、わざ/\段節を切る必要を認めない。筑波の禮讃には隨分力を入れて辭句を粉飾してあるが、それも頗る常識的に墮してゐる。只困難をも憚らず踏破登臨したことが、力強く表現されてゐるので、筑波に對する強い執著が見られ、「見ずて去なばまして戀しみ」とある作者の氣持が成程と諾かれる。それといふも、古來から傳説的歴史的に地理的に山相的に探勝的に顯著な山なればこそである。
 
反歌
 
筑羽根矣《つくばねを》 四十耳見乍《よそのみみつつ》 有金手《ありかねて》 雪消之道矣《ゆきけのみちを》 名積來有鴨《なづみけるかも》     383
 
〔釋〕 ○よそのみみつつ 餘所に〔右△〕のみ見つつの意。このニ〔傍点〕の助辭を略くは古格の一。舊訓ヨソニミナガラ〔七字傍線〕。○ありかねて 在るに堪へずて。○なづみけるかも 「ける」は過去的詠歎の助動詞。宣長が來《キタ》ルの意とし、古義が來《キ》ケルの約としたのは誤解。
(880)【歌意】 筑波山を餘所目に見ながらは我慢しかねて、つひに山登りして、思ひ寄らぬ雪解の山路を、踏み泥んだ事ではあるわい。
 
〔評〕 「餘所のみ見つつありかねて」の理由は、長歌の一節、
  「ふた神の貴き山の、なみ立の見かほし山と、神代より人のいひ繼ぎ、國見する筑波の山を」
に依つて説明し得る。三句の「ありかねて」と、結句の「なづみけるかも」との應接の間に、既に山登したことが暗示されて、結句はその爲に見た難儀な結果を自歎したものである。
 
山部(の)宿禰赤人(が)歌一首
 
吾家戸爾《わがやどに》 幹藍種生之《からゐまきおほし》 雖干《かれぬれど》 不懲而亦毛《こりずてまたも》 將蒔登曾念《まかむとぞおもふ》     384
 
〔釋〕 ○やど 屋前。庭。「戸」は借字。○からゐ カラアヰの略。鷄頭花のことか。卷十一に「隱《コモリ》には戀ひて死ぬともみ苑生《ソノフ》の鷄冠草《カラヰ》の花の色に出めやも」とある。鷄冠草は即ち鷄頭草のこと。カラヰの古訓をそのまゝに考へると、鷄頭の葉は藍に近い形を有し、そして太い莖立をもつので、幹藍《カラアヰ》と稱したものらしい。集中なほ、辛藍、韓藍の字を用ゐてあるのは借字である。但卷七に「秋去らば影《ウツシ》にせむとわが蒔きし韓藍の花を」とあるが、鷄頭の花葉は影《ウツシ》になる程汁の多い物ではないが、それは詞人の綺語として置かう。鷄頭花は※[草冠/見]科の一年草。葉は互生して長い尖頭を有し、夏秋の交鷄冠状の赤色黄色の花を抽く。○おほし 生ふし〔三字傍点〕の轉。生《ハ》やすこと。
(881)【歌意】 私の庭に幹藍の種を蒔き生やし、つひそれは枯れたが、懲りずに、又も蒔かうとさ思ふわい。
 
〔評〕 或女に以前懸想したものゝ、あまり進捗しないので、それが中絶状態でゐたのを、又思ひ立つてその懸想を繼續してみようとの譬喩であるらしい。
 こゝの編次は覊旅の作のみを擧げた。然るにこれは譬喩歌である。その部にあるべきが紛れ込んだものであらう。
 
仙柘枝歌《ひじりのつみのえの》三〔五字左△〕首
 
○仙柘枝歌 柘枝の仙女を詠んだ歌との意。正しくは「仙」の上に詠〔右○〕の字を加ふべきである。但この題詞は次の「この夕べ」及び「古へに」の二首に係るべきもので、「霰零り」の歌には全く關係がない。蓋し歌と題詞とが前後したのである。それを後人辨へず、濫に二〔右△〕首を「三首」と改めた。「霰零り」の歌は杵島曲《キシマブリ》だから、題詞は「杵島(ノ)歌一首〔五字右△〕」とあつたものだらう。
 
霰零《あられふり》 吉志美我高嶺乎《きしみがたけを》 險跡《さかしみと》 草取可奈和〔二字左△〕《くさとるかなわ》 妹手乎取《いもがてをとる》     385
 
(882)〔釋〕 ○あられふり 霰降り軋《キシ》むを吉志美《キシミ》にかけた枕詞。霰零る音のカシマ〔三字傍点〕(喧)をいひ懸けたとする契沖説は迂遠。杵島曲には「霰降る〔右△〕」とあるが、枕詞の詞態としては本文の方がよい。○きしみがたけ 杵島曲には「きしまがたけ」とある山。杵島《キシマ》が岳は肥前國杵島郡杵島にある山。標高四四七米突。○さかしみと 嶮しさによつての意。「と」はとて〔二字傍点〕の意。○くさとりかなわ 「可奈和」は「かな」と「わ」との複合歎辭とする。「わ」の歎辭は古文にないが、謠物には既に發生したらしい。熱田大神宮踏歌にも、カナワ又カナヤが見える。されば舊訓のクサトリ〔四字傍線〕とあるは誤格。但この句結句への打合ひがわるい。杵島曲には「かねて」とある。これは草を捉らへかねての意。
 この歌杵島曲の本文に據つて解説する。肥前風土記に、
  杵島郡(ニ)有(リ)2一孤山1、名(ヲ)曰(フ)2杵島(ト)1、郷閭(ノ)女士、毎(ニ)v歳春秋登望(シテ)、樂飲歌舞(ス)、歌詞(ニ)曰(フ)、阿羅禮符※[縷]《アラレフル》 耆資麼加多※[立心偏+豈]塢《キシマガタケヲ》、嵯峨紫彌占《サガシミト》、區※[糸+差]刀理我泥底《クサトリカネテ》、伊謀我提塢刀縷《イモガテヲトル》。是(レ)杵島曲。
【歌意】 杵島が岳のまあ嶮しさによつて、力草の草を摘まへかねて、登りもえせず〔六字右○〕、徒らに女の手を取ることよ。
 
〔評〕 箇人的にも集團的にも、眺望のいゝ高い處に上がつてその逸興を遣ることは、人間のもつ天性で、始は臨時の所作であつたものが、途には一般的に又は地方的に、年中行事の慣習を形作るやうになり、漢土の九月九日の登高に菊酒を酌み、こゝには春秋に杵島山に登つて宴飲遊樂する。筑波山の※[女+耀の旁]會《カヾヒ》の如きも、やはりこの心持が加味してゐると思ふ、そして間々山神の祭事と結び付いた。
(883) 杵島山はさう大した山ではない。でもその邊では高い。周圍の村落の男女がその農閑を利して相擧つて登山し、酒間手を拍ち節を撃つて、「草とりかねて妹が手をとる」と、その登攀の勞苦に纏綿たる情緒を托した。
 然るにこの歌の曲節が頗る郷土的色彩的に富んで面白かつたものと見え、遂に洽く天下に流行した。常陸風土記行方郡|板來《イタク》の條に、
  天之鳥琴、天之鳥笛、隨(ツテ)v波(ニ)逐(ヒ)v潮(ヲ)、島杵唱(ヘ)v曲(ヲ)、七日七夜遊樂歌舞(ス)。
と。島杵は即ち杵島曲の事で、風土記の書かれた時代には、既に流行歌の代名詞の如くになつた。如何に杵島曲がその頃天下の歌謠界を風靡したかゞわからう。流行歌の性質として、始はその歌詞に重きを置かれるが、次第に曲調そのものに中心が移動し、歌詞は發聲上の從僕に過ぎない事となり、果にはそれがどう轉訛しようと無頓着となるのが一般的傾向である。「杵島が岳」が「吉志美が岳」、「草とりかねて」が「草とるかなわ〔三字傍点〕」となつても平氣なのであつた。
 處でこの歌にはもつと重大問題がある。古事記の仁徳天皇の條、速總別《ハヤブサワケノ》王が女鳥《メトリノ》王を連れて逃げられた時の歌に、
  梯立《ハシダテ》の倉椅《クラハシ》山をさかしみと石《イハ》かきかねて我が手取らすも
とある。あとから追手が懸かるので、必死になつて椋橋の嶮路を越える。流石に女王はもう岩石に取付いて登(884)る力も失せ、ひたすら速總別王の手に取縋るのであつた。かうした悲慘な状態が歌はれたものだのに、それがよし轉訛したとはいへ、遠い火の國杵島にまで傳播して、平和な享樂的歌謠として扱はれたといふことは、頗る不思議な因縁で、只「我が手取らすも」の一句に、特殊の艶味を感じた故であらう。
 
右、一首、或云(フ)、吉野(ノ)人|味稻《ウマシネガ》與(フル)2柘枝(ノ)仙媛(ニ)1歌也。但見(ルニ)2柘(ノ)枝傳(ヲ)1無(シ)v有(ル)2此歌1。
 
 或人がいふ、これは吉野の味稻といふ男が柘枝仙に贈つた歌だと、但柘枝傳にはこの歌がないとの意。柘枝傳は傳はらないが、傳にこの歌のないのは當然で、この左註は題詞を心得かねた後人の所爲である。尚「但以下」は仙覺などの附記かと古義は疑つた。
 
〇上の「詠〔右○〕仙柘枝歌」とある題詞をこゝに入れ、「三首」を二〔右△〕首と改めるがよい。○柘枝仙のこと 吉野にあつた傳説で、昔吉野の里人に味稻《ウマシネ》(懷風藻には美稻、續後紀には熊稻)といふ男があつて、梁を打つて鮎を取ることを生業としてゐた。或時梁に懸かつた柘の枝を拾つて持つて歸つた。するとそれが美女に化して、遂に味稻と夫婦の契を結んだが、その仙女は天帝からのお咎で、羽衣を着て蓬莱國《トコヨ》に飛び去つたといふのが、現存する文獻を湊合した概要である。所謂羽衣傳説の系統に屬する話説。
 
此暮《このゆふべ》 柘之左枝乃《つみのさえだの》 流來者《ながれこば》 梁者不打而《やなはうたずて》 不取香聞將有《とらずかもあらむ》     386
 
〔釋〕 ○つみ、柘、山桑のこと。○さえだ 小枝。「さ」は美稱。○やな 魚梁。河湍を塞いで、その水の集まり(885)落つる處に※[木+戈]を打ち竹床を造り、そこに留る魚を取る。その竹床を梁といひ、梁を掛けることを、古へは打つといつた。○やなはうたずて 梁はうたれ〔右○〕ずして。
【歌意】 若しこの夕方、柘の小枝が流れて來うなら、自分には〔四字右○〕梁は打ち得ず、取留め得ないであらうかまあ。
 
〔評〕 作者は今吉野川の岸に立つた。時が既に夕暮だ。偶まそこに著名な柘枝傳説を憶ひ出し、よしや柘の技が流れて來たとしても、素人の自分では梁も打たれず、取上げる事も出來なからう、流石に漁師だけあつて、味稻は旨いことをしたものだとの閑想像を描いて、懷古の情に耽つた。「この夕べ」の句は二句以下の全部に對する背景である。
 吉野川は鮎の名處だ。而も下流の阿太《アタ》の鵜飼は夙く神武天皇の御製に歌はれてある。味稻の梁は何處に打たれたか。菜摘の里の對岸|舟魚張《フナバリ》山の下に、花籠の社と稱する小さな禿倉がある。里人はこれを味稻を祀つたものと傳へてゐる。味稻は或は菜摘の里人で、その前川に梁を打つたのであらうか。
 
右一首、此下無(シ)v詞、諸本同(ジ)。
 
右一首の下、作者の名が闕けた。次の歌の左註には署名がある。○此下無詞諸本同 の七字は後人の註語。古義はいふ、仙覺あたりの所爲かと。
 
(886)古爾《いにしへに》 梁打人乃《やなうつひとの》 無有世伐《なかりせば》 此間毛有益《ここにもあらまし》 柘之枝羽裳《つみのえだはも》     387
 
〔釋〕 ○いにしへに 古へに於いて。○やなうつひと 味稻をさす。○ここにもあらまし 今もあらう。「ここ」は現在をさしていふ語。「も」は歎辭。「まし」はこゝでは第四變化の連體言で、柘《ツミ》の名詞に續く。宣長のあらましを〔五字傍点〕と解したのは非。
【歌意】 古へに梁打つて取留めた人がなかつたなら、只今でもあらう處の、柘の枝はなあ。
 
〔評〕 さらば自分が拾ひ上げて味稻のお株をせしめようものをとの餘意がある。前後二首ながら味稻の艶福を羨んでの作。
 吉野行幸の盛だつた持統天皇時代は、吉野の古傳説は、從駕の士大夫間の吟詠によき題目を與へ、就中柘枝仙の事蹟が尤も興味を惹いたのであつた。この歌の外、懷風藻を點檢すると、
  欲(シテ)v訪(ハムト)2鐘地(ヲ)1越(エ)2潭跡(ヲ)1  留連(ノ)美稻逢(フ)2槎洲(ニ)1。  (太宰大武、紀男人)
  栖(マシム)v心(ヲ)佳野(ノ)域、 尋(ネ)問(フ)美稻(ノ)津。 (中納言、丹※[土+穉の旁]廣成)
  鐘池越潭豈凡類(ナランヤ)、美稻逢(フハ)v仙(ニ)同(ジ)2洛洲(ニ)1。(同上)
  在昔釣魚(ノ)士、方今留(ム)2鳳公(ヲ)1、彈(キテ)v琴(ヲ)與v仙戲(レ)、投(ジテ)v江(ニ)將v神通(ズ)、柘歌泛(ビ)2寒渚(ニ)1、霞景飄(ル)2秋風(ニ)1。 (鑄錢司長官、高向諸兄)
(887)  漆姫控(ヘテ)v鶴(ヲ)擧(リ)、柘媛接莫(シ)v通(フ)。 (贈太政大臣、藤原|史《フヒト》)
の如き數首がある。又續日本後紀(卷十九)所載、興福寺の僧等が天皇の四十寶算を賀し奉つた長歌の、
  柘の枝の由求むれば、佛こそ願ひ成し給べ、――常世《トコヨ》島國成したてて、到り住み聞き見る人は、萬世の壽《イノチ》を延べつ、故事《フルゴト》にいひ繼ぎきたる、三吉|野《ヌ》にありし熊志禰《クマシネ》(味稻)、天つ女《メ》のきたり通ひて、その後は譴《セメ》かゝふりて、ひれ衣著て飛びにきといふ、これも亦これの島根の、人にこそありきといふなれ。――
は、稍柘枝仙の輪郭を彷彿せしめる。
 
右一首、若宮年魚《ワカミヤノアユ》麻呂(ガ)作《ヨメル》。
 
○若宮年魚麻呂、傳未詳。持統天皇時代の人であらう。
 
※[羈の馬が奇]旅《たびの》歌一首并短歌
 
海若者《わたつみは》 靈寸物香《あやしきものか》 淡路島《あはぢしま》 中爾立置而《なかにたておきて》 白波乎《しらなみを》 伊與爾囘之《いよにめぐらし》 座待月《ゐまちづき》 開乃門從者《あかしのとより》 暮去者《ゆふされば》 塩乎令滿《しほをみたしめ》 明去者《あけされば》 塩乎令干《しほをひしむ》 塩左爲能《しほさゐの》 浪乎恐美《なみをかしこみ》 淡路島《あはぢしま》 礒隱居而《いそがくりゐて》 何時鴨《いつしかも》 此夜乃將明跡《このよのあけむと》 (888)侍候〔左△〕爾《さもらふに》 寢乃不勝宿者《いのねかてねば》 瀧上乃《たきのへの》 淺野之雉《あさぬのきぎす》 開去歳《あけぬとし》 立動良之《たちとよむらし》 率兒等《いざこども》 安倍而※[手偏+旁]出牟《あへてこぎいでむ》 爾波母之頭氣師《にはもしづけし》     388
 
〔釋〕 ○わたつみ 既出(七四頁)。但こゝは海を直ちに海神と觀てゐる。「海若」は前出(七九二頁)。○あやしきものか 奇《クス》はしいものよ。「あやし」は既出(一九四頁)。「か」は歎辭。○あはぢしまなかにたておきて 淡路島を海の〔三字右○〕眞中に据ゑ置いて。○いよにめぐらし この「伊豫」は四國の總稱として用ゐた。古事記に四國のことを伊豫の二名《フタナ》の島とある。「囘之」を古義訓にモトホシ〔四字傍線〕とあるは非。○ゐまちづき 座待月の明《アカ》しを地名の「明石」に係けた序詞。月齡の稱に十六夜《イサヨヒ》以後、十七夜を立《タチ》待月、十八夜を居《ヰ》待月、十九夜を寢《ネ》待月といふ。○あかしのと 既出(六六八頁)。「開」は借字 ○ゆふされば 既出(一七八頁)。○あけされば 夜明になつてくると。「はるさりくれば」を參照(七九頁)。○みたしめ――ひしむ 播磨灘を中心にしていふ。○しほさゐ 既出(一六七頁)。○いそがくりゐて 礒邊に舟繋りするをいふ。○いつしかも 何時かまあ。「し」は強辭。○さもらふに 「さもらへど」を見よ(四九四頁)。「に」はによりて〔四字傍点〕の意。「候」原本に從〔右△〕とあるは誤。○いのねかてねば 寢おほせないので。下にまだ明ける筈はないのに〔十一字右○〕の意を含む。○たぎのへの 速湍《ハヤセ》のほとりの。○あ(889)さぬ 草の深からぬ野。深野の對語。こゝは普通名詞である。後世地名となつて淺野村が立てられた。淡路國津名郡。○あけぬとし 「ぬ」は現在完了辭。「歳」は借字。○こども 既出(二三五頁)。○あへて 敢へて。古義にアベテ〔三字傍線〕と「倍」を濁音に誇んだのは拘泥。「あへぎ」を見よ(八四六頁)。○には 前出(六七〇頁)。△地圖 卷頭總圖を參照。
【歌意】 海の神樣は不思議なものよなあ、淡路島を中間に立てゝ置いて、白波を遠く四國に走せ廻らし、明石の海峽からは、夕方になると潮を滿たせ、夜が明けると潮を干させる。その潮鳴のする波がまあ恐ろしさに、淡路島の磯隱れに船を寄せてゐて、何時この夜が明けようかと待ち伺ふので、よくも寢入られぬのに、早もう〔三字右○〕、瀧のほとりの淺野の雉子は、明けたとさ飛び起ち鳴き騷ぐらしい、さあ楫子《カコ》達よ、押切つて漕ぎ出さうよ、丁度海路も靜だよ。
 
〔評〕 開口一番海神の威靈を讃歎し、概觀的に瀬戸内海の東偏なる播磨灘の海勢の全輪廓を、海神の神業として描寫した。内海の水、その干潮時に東に走る時は淡路島に遮障されて、北するものは明石海峽へと流れ落ち、(890)南するものは阿波へ廻つて、その極物凄い阿波の鳴門を構成する。これ淡路島を中心として、その南北端なる海峽の潮流を云爲した所以である。但この歌としては「白波を伊豫(四國)に廻らし」は客叙即ちあしらひの地位に置かれてある。隨つてその描寫も頗る大まかに概念的にいつて退けた。作者本來の主意は明石海峽の潮流の動向にあり、それに深い關心をもつのであつた。隨つてその描寫は丁寧に觀察は委細で、「夕されば潮を滿たしめ」「明けされば潮を干しむ」と、合拍的相對約に多くの語言を費してゐる。そして一切を海神の攝理に因ると觀じた。
 蓋し明石海峽の潮流の干滿は當面の問題であつて、倭京へ歸る目的で西國から航行して來た作者の船は、此處の通過が最後の難關であつた。時季の何時であるかは判明しないが、「座待月明石の門」とあるので見ると、その當夜は十八日の夜であつたであらうことは、契沖もいつてゐる。さては正に滿潮時で、明石海峽は東方から逆流する落潮が盛りあがつて潮鳴がし、昔の小船ではとても進航は覺束ない。乃ち淡路島の或磯崎の隈を求めて船繋りし、翌曉の落潮時を伺つて發航しようとする、これ「何時しかもこの夜明けむ」といふ所以である。その磯崎は何處であつたか。そこに撮合した「瀧の上の淺野」の一句を唯一の實證として、淡路の西北岸にその地を求めると、今の机の浦の南方の出崎の陰に當つた常龍寺山の瀧(紅葉瀧)の末流に當る小河口より外はあるまい。
 まことに大自然の前には人間は飽くまで小さく弱い。海神の驅使する浪の波動の潮さゐにさへも畏縮しての淡路島の礒隱り、元より一時的の假泊であるから、「野島が崎に庵すわれは」といふやうな、ゆつくりしてゐる場合でない。旅人の氣持はせはしない。一刻も早く懷かしの故郷倭島の陸影に接する嬉しさを味ひたい。かう(891)心が隼り跳つては、まして竃Zの際では、とても寢入られるものではない。そこにゆくりなく曉起の雉子が高鳴をしたのである。
 「瀧の上の淺野」、それは河口から程近い小野を斥したものだ。だからその野雉子の「とよみ」が半睡半眠の船中の人達を驚したのである。「それ夜が明けた」と人達はいきり立つ、蓬窓を推して海上を見遣れば、恰もよし朝凪ぎだ。「さあ者共さつさと漕ぎ出せ、凪ぎはよいぞ」、これ惠まれた航海者が何時も心の底から發する悦の聲である。
 起手海神の靈異を叙するに、地名を按排して、その地理的状勢から海潮の呑吐を叙するあたり、結構雄偉措辭莊重、實に天下得易からざる無二の大文字である。「淡路島中に立て置き」「白波を伊豫に廻らし」「鹽を滿たしめ」「鹽を干しむ」と、すべて他動使相の詞形を以て表現したことは、殊にこの際有効の叙法である。以上を第一段とする。
 「鹽さゐの浪」は上來の「暮されば鹽を滿たしめ、明けされば鹽を干しむ」の排對的の反覆による諧調の餘波に乘つたもので、「鹽」の一語の三疊は、海潮に大きな關心をもつてゐることが暗示されてゐる。かくてはじめて、作者は現在の旅況に落筆する機會に到達した。その轉捩は極めて自然である。
 潮待の夜泊は、中間に僅に「何時しかもこの夜の明けむと」の情語を挿んだ外は、一意到底旅況の平叙を以て終始してゐる。而も雉子の朝鳴を點出して自然の景象に聯繋を求め、憂々冲々の旅況は忽ちこゝに一轉換を來した。恰も谿盡きて山が更に開けたといふやうな貌で、頗る明るい溌刺たる氣分の横溢を見る。それが「瀧の上」であり「淺野」であり、「雉のとよみ」であるので、愈よその爽やかな景氣が唆り立てられるのである。(892)以上を第二段とする。
  「いさ兒ども」以下は純然たる叙情の語で、恐ろしく力強い詞と調子との錯綜を以て、即ち決然たる意向を以て、船人等を激勵し命令してゐる。「庭も靜けし」の一句は翻つて第一段に顧應し、全篇を結收する重要な役目を果してゐる。以上を第三段とする。
 この歌はいはゆる雄篇大作ではないが、首尾一貫して極めて簡淨に井整に、些の澁滯もなく疵瑕もなく凡句もなく、字々句々洗煉を極め、よく覊情の委曲を盡してゐる。殆ど傑作に近い。その逸名であることが何よりも作者の爲に憾めしい。
 
反歌
 
島傳《しまづたひ》 敏馬乃埼乎《みぬめのさきを》 許藝※[しんにょう+回]者《こぎためば》 日本戀久《やまとこほしく》 鶴左波爾鳴《たづさはになく》     389
 
〔釋〕 ○しまづたひ 島傳ひして〔二字右○〕。○みぬめ 前出(六五八頁)。○こぎためば 「こぎたみ」を見よ(二二四頁)。「※[しんにょう+回]」は廻の書寫字。○やまと 既出(二○頁)。こゝはその(2)の用法。○こほしく 「ものこほしき」を見よ(二四四頁)。△地圖及寫眞 卷頭總圖及挿圖179を參照(六五九頁)。
【歌意】 島々の間を縫うて來て、敏馬の崎を漕ぎめぐると、故郷の倭戀しげに、鶴が澤山鳴くことわ。
 
〔評〕 瀬戸内海の島傳ひも漸う終つて、人麻呂が「明石の門より倭島見ゆ」と歌つた明石海峽を通過すれば、間(893)もなくその頃の錨地たる敏馬の岬端だ。すると忽ち船頭に※[口+僚の旁]々たる鶴鳴を聞いたのである。萬葉人は鶴鳴に盛にその旅愁を唆つた。作者が今その聲を倭戀しく鳴くと聞いたのも、畢竟倭戀しいその色眼鏡を透しての感想である。この手のないやうで手のある、大やうな技巧は萬葉人の特長で、又歌全體が凄凉の響をもつて、朗唱に値する。
 敏馬邊にさはに鳴く程鶴が棲んでゐたことは意想外であるが、卷六の田邊福麻呂の歌によれば、昔の敏馬は頗る自然の景勝に富んでゐたらしい。
 
右(ノ)歌、若宮(ノ)年魚麻呂|誦《ウタフ》v之(ヲ)。但未(ダ)v審(カニ)2作者(ヲ)1。
 
 この歌は若宮年魚麻呂が讀み上げて聞かせたとの意。これは記録者の詞である。歌は多分古歌であつたのだらう。年魚麻呂が若し朗誦の勞を吝んだなら、この長短二篇の傑作佳作が、湮滅してしまつたかも知れない。○但未審作者 この五字は仙覺などの補註か。
 
譬喩歌《たとへうた》
 
○譬喩歌 こゝではその譬喩の意が極めて限局され、專ら戀愛にのみ關した作が擧げてある。
 
紀(の)皇女《ひめみこの》御歌一首
 
○紀皇女 傳既出(三六四頁)。
 
(894)輕池之《かるのいけの》 ※[さんずい+内]囘往轉留《うらわゆきめぐる》 鴨尚爾《かもすらに》 玉藻乃於丹《たまものうへに》 獨宿名久二《ひとりねなくに》     390
 
〔釋〕 ○かるのいけ 高市郡大|輕《カル》村にあつた作り池。劍池が東西徑四町だから、輕池は稍々それより小かつたらしい。應神天皇紀、十一年冬十月の條に、作(ル)2劍(ノ)池、輕(ノ)池、鹿垣《カヾキノ》池、厩《ウマヤ》坂(ノ)池(ヲ)1とある。○うらわ 古義訓 ウラミ〔三字傍線〕。「※[さんずい+内]」は水の廻り流るゝ内面をいふ。○ゆきめぐる 古義訓モトホル〔四字傍線〕はいかゞ。○すらにスラモといふに同じい。古文の格。○たまものうへ 「うへ」は邊《ホトリ》の意。△地圖 挿圖155を參照(五六四頁)。
【歌意】 輕の池の浦めぐりを、泳ぎ廻つてゐる鴨でさへも、寢處の藻草のあたりに、獨では寢ぬのになあ。
 
〔評〕 これは作者がその弧獨の閏怨を歌つたのでは恐らくあるまい。卷二に弓削皇子がこの皇女に懸想された四首の御作があり、又卷十二の「おのれ故|罵《ノ》らえてをれば――」の歌の左註に、
  右一首、平群(ノ)文屋益人《フミヤノマスヒト》傳(ヘテ)云(フ)、昔聞(キヽ)紀(ノ)皇女、竊2嫁《シヌビタマヒテ》高安(ノ)王(ニ)1被(ルヽ)v責(メ)時作(メリト)2此歌(ヲ)1。
とあるによつて考へると、皇女は夙く高安王に密通されて居たので、弓削皇子の懸想を拒絶された。それが爲問題が表面化して、皇女は非難の的に立たされ、憤激の餘り、輕の池の鴨に寄托して、私の行爲の何處が惡いと、大いに抗議を試みられたものと思ふ。
 作者は深窓の貴女である。然るに「鴨すらも――獨寢なくに」のいとも露骨な痰呵《タンカ》を切られた。如何に耐へ難い欝憤が、その小さな胸中に蟠つてあられたかゞ知られる。情境倶に窮まり、眞に同情の涕を隕すに足りる。多くの譬喩歌に見る生温《ナマヌル》さがない。
 
(895)造筑紫觀世音寺別當《つくしのくわんぜおんじづくりのかみ》、沙彌滿誓(が)歌一首
 
○造筑紫觀世音寺別當 筑前の觀音寺を造る使の長官。觀音寺は續紀によると、天智天皇が御母齊明天皇の追福の爲に建てられたが、壬申の亂勃發して工事中止となり、以後年代を經ても出來なかつた。で和銅二年二月に詔があつて、太宰府に商量して檢校を加へ、早く營作にかゝるべき事を命ぜられ、養老七年二月に僧滿誓に勅して造らしめた。滿誓は在俗の笠朝臣麻呂の時、岐蘇路《キソヂ》を聞いた功があり、經營の才に富んでゐた。○觀世音寺 筑紫國三笠郡(今筑紫部)水城村。太宰府址の東二町。九州第一の貴寺で、勅建の戒壇があつた。源氏物語に清水の寺の觀世音とあるは此處で、中世衰頽した。○別當 職別專當の意で、その職の長官の稱。訓讀してカミ、音讀してベタウ。○沙彌滿誓 既出(八〇六頁)。
 
鳥總立《とぶさたて》 足柄山爾《あしがらやまに》 船木伐《ふなぎきり》 樹爾伐歸都《きにきりゆきつ》 安多良船材乎《あたらふなぎを》     391
 
〔釋〕 ○とぶさたて 和訓栞の一説に、木を切りてその梢を切株のもとに立てゝ、山神に手向くるをいふと。顯昭説に梢をいふと。取總立《トリブサタテ》の義か。「鳥」は借字。散木奇歌集に「卯の花も神のひもろぎときてけりとぶさ〔三字傍点〕もた(896)わに木綿かけて見ゆ」。○あしがらやま 相模國足柄上郡。箱根山彙の總稱。故に足柄の箱根と續けてもいふ。○ふなぎ 造船の材木。○きにきりゆきつ 徒《タヾ》の材木に切つて往つた。「きに」を宣長の船木に〔三字傍点〕と解したのは非。訓は宣長に從つた。○あたら 可惜の意。○ふなぎを 船材なるもの〔四字右○〕を。
【歌意】 取總《トブサ》を立てゝ、足柄山で船になる木を切り、それを船材にでもする事か〔九字右○〕、たゞの材木に切つて持つて往つたよ、勿體ない船材なのをさ。
 
〔評〕 祝詞の大殿《オホトノ》祭の詞に、
  今奥山の大峽小映《オホカヒヲカヒ》に立てる木を、齋部《イミベ》の齋斧《イミヲノ》を以ちて、伐り採りて、本末をば山の神に祭りて、中間《ナカラ》を持ち出で來て――。
と見え、切倒した木の梢をその切株の本に刺し、山神に感謝の意を表する慣習があつたので、これが「とぶさ立て」である。
 足柄山彙は昔時は欝蒼たる大森林を以て蔽はれ、よい船材が澤山あり、隨つて船匠の上手も住んで居たらしい。相模風土記に、足柄山の杉で船を造つたが、その船足が(897)いとも輕かつたので、足輕《アシガル》が山の名となつたといふ地名傳説は、そのまゝ信用はされぬが、足柄小舟、伊豆手舟、とにかくあの邊は船の本場であつた。
 歌は船材の樹を普通の材木に切つてしまつたのを惜んでゐる。勿論譬喩で、自分が懸想して本妻にと考へてゐた女を、横合から出て來た人に妾か何かに持つて往かれてしまつた。遺憾千萬な話で、その失戀苦を足柄の船材に托して、心なしの横奪者を罵つたものらしい。
 滿誓が在俗の笠朝臣時代の作であらう。
 
太宰(の)大藍《おほきまつりごとびと》大伴(の)宿禰|百代《もゝよが》梅(の)歌一首
 
○太宰大藍 正六位下。府内を糾判し、文案を審署し、稽失を勾へ、非違を察する。尚「太宰府」を見よ(七九三頁)。○大伴宿禰百代 續紀によれば、天平十年閏七月に外從五位下で兵部少輔、同十三年十二月筑紫鎭西府を置かれた際に副將軍、同十八年四月從五位下、同九月豐前守、同十九年正月正五位下となる。
 
烏珠之《ぬばたまの》 其夜乃梅乎《そのよのうめを》 手忘而《たわすれて》 不折來家里《をらできにけり》 思之物乎《おもひしものを》     392
 
〔釋〕 ○ぬばたまの 「その」を隔てゝ夜に係る枕詞。既出(三〇四頁)。○そのよ 嘗て出合つた或夜をさす。○たわすれて 「た」は接頭語。「手」は借字。
【歌意】 あの晩の梅を、つひ忘れて、折らずに來たことわい、折角氣に入つてゐたものをさ。
 
(898)〔評〕 梅を女に譬へた。素より身柄も輕く、折らば落ちぬべき萩の露、といつたやうな風情の女だつたのだらう。「たわすれ」る位では、さう強く手に入れぬことを後悔するには當らない、がよく考へれば又、惜しいやうな氣もするのである。好色三昧。
 
滿誓沙彌(が)月(の)歌一首
 
○滿誓沙彌 これは打解けた書式である。正しくは沙彌滿誓。傳前出(八〇六頁)。
 
不所見十方《みえずとも》 熟不戀有米《たれこひざらめ》 山之末爾《やまのまに》 射狹夜歴月乎《いさよふつきを》 外爾見而思香《よそにみてしが》     393
 
〔釋〕 ○たれこひざらめ 中古文法ではザラムとある處。「たがこひならめ」を見よ(三三一頁)。○やまのま 「末」を意訓にハ(端)と讀む説もある。○いさよふ 前出(六八四頁)。○みてしが 「が」は希望辭。〇よそに 餘所にても〔二字右○〕。
【歌意】 月はよし目に〔六字右○〕見えなくとも、誰れが戀ひずしてあらう。けれども〔四字右○〕山の端に出かゝつてゐる月を、餘所ながらでも見たいことであるよ。
 
〔評〕 月を彼女に擬へ、餘所ながらでもその艶姿を見たいと熱望した。蓋し才色兩全の噂の高い婦人で、作者は見ぬ戀にあくがれたのである。「誰れ戀ひざらめ」と他人まで卷添へにしてゐる。昔はこの見ぬ戀、聞き渡る戀などの歌が澤山ある。古代の良家權家の婦人は、「養在2深閨1人未v識」(唐の白居易)式で、現代のやうに解放され(899)てゐないから、結婚の第一歩たる懸想に取懸かつてからが、御本尊の御姿は容易に拜めるものではなかつた。
 初二句は抑、三句以下は揚で、その間にされど〔右○〕の轉捩語を補足して聞く。
 
金明軍《こむのみやうぐんが》歌一首
 
○金明軍 金は氏。孝徳天皇紀に、新羅遣(ス)2上臣金春秋等(ヲ)1と見え、新羅には金氏が多い。その子孫などの歸化した者が、元のまゝに金《コム》を氏としたと見える。明軍は名。これも字音に讀む。アキグサと讀むなどは以ての外の事である。「金」神本に余〔右△〕とある。續紀に余をアグリと訓じた。武智麿傳に、咒禁の人に余仁軍の名が見える。明軍はその一族か。大伴(ノ)旅人卿の資人《ツカヒビト》である。資人は「仕人」を見よ(一〇〇四頁)。
 
印結而《しめゆひて》 我定義之《わがさだめてし》 住吉乃《すみのえの》 濱乃小松者《はまのこまつは》 後毛吾松《のちもわがまつ》     394
 
〔釋〕○しめゆひて 「しめゆへ」を見よ(三五九頁)。○わがさだめてし 我が自分の物と定めたことであつた。「義之」は羲〔右△〕之が正しい。然し書寫上には通用。往古書家を手師《テシ》といつた。晉の王羲之は有名な書家だから、羲之と書いてテシと訓ませた戲書。卷七卷十一には、テシに大王を充てた。戲之を大王、その子獻之を小王と、書道では稱してゐる。△地圖 挿圖78を參照(二四一頁)。
【歌意】 印を付けて、一旦自分の物と決めた事であつた。この住吉の濱の小松は、今ばかりではない、末の未までも、自分の松であるわ。お前もその通りさ。
 
(900)〔評〕 住吉の濱の小松は遊行婦の儔であらう。(草枕旅ゆく君と知らませばの條の評語參照、二五〇頁)
 明軍はその行摺りの戀を語つた浮草の女を、何と信じてか「のちもわが松」と、決然たる口調でいひ放つた。例の浮氣男が口先で女を操るやうな輕佻さは微塵もなく、始めから對手の意向など問題にせぬ、眞劍な態度である。こはいやうな熱し方である。
 「濱の小松はのちもわが松」の反復は、その丁寧親切なる心持を表現するに、適當な措辭である。
 
笠女郎《かさのいらつめが》贈(れる)2大伴(の)宿禰家持(に)1歌三首
 
○笠女郎 傳未詳。笠は氏。笠(ノ)金村の一族か。遊行婦とする説は甚しい無稽。集中女流歌人の一人。○大伴宿禰家持 旅人卿の子。弟に書持《フミモチ》がある。天平十三年から十六年頃まで六位の内舍人、同十七年正月從五位下、同十八年三月宮内少輔、同六月越中守、天平勝寶元年四月從五位上、同三年七月には少納言、同六年四月兵部少輔、同十一月山陰道の巡察使、天草寶字元年六月兵部大輔、その十二月右中辨、同二年六月因幡守、同六年信部(中務)大輔、同八年正月薩摩守、神護景雲元年八月太宰少式、寶龜元年六月民部少輔、同九月左中辨兼中務大輔、同十月正五位下、同二年十一月從四位下、同三年二月兼式部員外大輔、同五年三月相模守、同九月左京大夫兼上總守、同六年衞門督、同七年三月伊勢守、同八年正月從四位上、同九月藤原仲滿を謀るに坐して姓を除き位を奪はる、仲滿滅び本位に復し、同九年正月正四位下、同十一年二月(901)參議右大辨、天應元年四月兼春宮大夫正四位上、同五月左大辨、同八月、母の憂に依つて解任してゐたのを複任、同十一月從三位、延暦元年閏正月|氷上川繼《ヒガミノカハツグ》の事に坐し大辨を罷む、同五月兼春宮大夫、同六月兼陸奥(ノ)按察使《アゼチ》鎭守府將軍、同二年七月中納言、同三年二月持節征東將軍となり、同四年八月薨じた。薨後族人大伴竹良が藤原種繼を殺した事に依つて官職を追※[衣+遞の中]され、息|永主《ナガヌシ》等が流罪となつた。
 家持は本集の大作者で、内舍人以前の弱冠時代の作から、天平寶字三年春正月一日因幡の國廳で郡司等を饗宴された時の作までが收められてある。その後延暦四年の薨時までの廿六年間の作は、愈よ多量豐富なものであつたらうが傳らない。惜しい事である。
 
託馬野爾《つくまぬに》 生流紫《おふるむらさき》 衣染《ころもしめ》 未服而《いまだきずして》 色爾出來《いろにいでにけり》     395
 
〔釋〕 ○つくまぬ 近江國坂田郡筑摩。卷十三に都久麻左野方《ツクマサヌカタ》と見え、野あり江あり、又筑摩神を以て聞えた處。(902)○むらさき 「むらさきの」を見よ(九七頁)。○ころもしめ 著物に染め。古義訓による。舊訓キヌニソメ〔五字傍線〕。
【歌意】 筑摩野に生えてゐる紫草に著物を染め、まだ著ないでゐて、早くもそれと、人に知られましたわい。
 
〔評〕 家持に戀して、まだまことの契を結ばぬ先に、早くも世上に噂が立つた趣を擬へた。取材が著物であり、染料の草であり、染色の技であることは、流石に女らしい。結句は「衣しめ」の縁語ではあるが、譬喩の條理は餘りよく立たない。
 家持は紫草に譬へる程、實に美男であつた。彼れは美男系大伴宗家の嫡子で、その上累葉門閥の勢家であり、富貴の兒でありして、盛に婦人間にモテ〔二字傍点〕たものである。
                         △家持事蹟考(雜考――19參照) 
陸奥之《みちのくの》 眞野乃草原《まぬのかやはら》 雖遠《とほけども》 面影爲而《おもかげにして》 所見云物乎《みゆとふものを》     396
 
〔釋〕 みちのく 陸の奥《オク》の略。磐城岩代から以北の總稱。海つ道(東海道)陸《クガ》つ道(中山道)の果なのでかく稱する。○まぬ 磐城國行方郡。(今の相馬郡眞野村)○かやはら 草原。茅草《チガヤ》の原。○とほけども 遠けれ〔右○〕ども。「とほけ」より直ちに「ども」と、既然に承けてれ〔傍点〕を略くは古文法。卷四、八、十、十一、十七、二十などにも、この語が見えるが、遠ケレドモ〔五字傍点〕は集中に一首もない。但形容詞以外にはかゝる例を全く見ない。○おもかげに(903)して 面影に立てゝ。「鴨ぞ鳴くなる山陰にして」のにして〔三字傍点〕とは異なる。○みゆとふものを 「みゆ」は見ゆと逢ふとの兩意をかねた。古義訓ミユチフモノヲ〔七字傍線〕。
【歌意】 陸奥の眞野の草原は、實に遠いけれど、それすら面影に立てゝさ、見えるといふものを。近くに在らつしやる貴方が、何でお見えなさらぬのであらう。
 
〔評〕 この歌は本歌に準據しての作とすれば文句もないが、若しさうでないとすれば、奈良の都育ちと思はれる女郎が、陸奥の眞野の草原を云爲したことが疑はれる。
 或は家持の口からでも聞き込んだかも知れない。武人大伴氏の門流には、蝦夷征伐に出動した者が相應にあり、中には土著してその地の豪族となつた。磐城地方に大伴某と名告る勢家があつた事は、續紀にも出てゐる。そんな關係で陸奥の眞野の草原の話が、本家の大伴家に傳へられてゐたものだらう。
 近く在りながら逢ふ瀬が稀で、その面影も見られない。眞野の草原とは反對の現象だ。この兩者の湊合に、家持との間柄の近くて遠い矛盾を際立たせて、怨意を隱然たらしめた。「見ゆとふものを」の歇後の辭樣も、隨つてその効力が十分(904)に發揮される。
    
奥山之《おくやまの》 磐本管乎《いはもとすげを》 根深目手《ねふかめて》 結之情《むすびしこころ》 忘不得裳《わすれかねつも》     397
 
〔釋〕 ○いはもとすげを 磐根に生えた菅よ。「を」は歎辭。「乎」を之〔右△〕の誤として初二句を序詞とする古義説は誤つてゐる。これは譬喩歌である。○ねぶかめてむすびし 懇に契を結んだ。菅の根の土中に深く入つて結ばれた態に譬へた。△寫眞 挿圖215を參照。(七三七頁)
【歌意】 奥山の岩根の菅よ、その根の深く結ぼれたやうに、懇に契を結んで下された貴方のお心は、とても忘れかねましたわ。
 
〔評〕 戀の芳醇に陶醉して、深い感謝を捧げてゐる。岩本菅の根深の觀察は、
    奥山の石本菅の根深くもおもほゆるかもわが念ひ妻は  (卷十一―2761)
と同趣で、殊に「結びし」と、その根の盤結した状態にまで仔細に思ひ入つたのは、流石に細かい婦人の感想である。歌の風調は平安期の先驅をなしてゐる。
 
藤原(の)朝臣|八束《やつかが》梅(の)歌二首
 
○藤原朝臣八束 後に眞楯《マタテ》と改めた。贈太政大臣|房前《フサヽキ》の三男。續紀によれば、天平十二年正月正六位上から從五位下、同十一月從五位上、同十三年十二月右衛士督、同十五年正五位上、同十六年十一月從四位下、同十九(905)年三月治部卿、二十年三月參議兼式部大輔、勝寶四年四月攝津大夫、同六年正月從四位上、寶字元年八月正四位下となり、同二年八月勅を報じて官號を改易し、同三年六月正四位上、同四年正月從三位太宰帥、同六年十二月中納言兼信部卿、同八年九月正三位、天平神護元年正月勲二等、同二年正月大納言兼式部卿となり、同三月薨じた。年五十二。度量弘深、有(リ)2公輔之才1とある。
    
妹家爾《いもがへに》 開有梅之《さきたるうめの》 何時毛何時毛《いつもいつも》 將成時爾《なりなむときに》 事者將定《ことはさだめむ》     398
 
〔釋〕 ○いもがへに 「家」をへと訓むは和我覇《ワガヘ》(卷五)、伊母我陛爾《イモガヘニ》(同上)、伊毛我敞爾《イモガヘニ》(卷十四)の例による。○いつもいつも 何時でも。結句の「ことは定めむ」に係る。○なりなむときに 實に〔二字右○〕結《ナ》るであらう時に。女の眞實に思ひならう時にの意を含めた。初二句は三句を隔てゝこの句に係る。但序詞ではない。○ことはさだめむ 夫婦事は取決めよう。
【歌意】 貴女の家に咲いた梅の花の、實にならう時に、即ち貴女の家の娘さんの心の決《キマ》つた時に、こちらは何時でも、夫婦となりませう。
 
〔評〕 甚だ氣の永い大樣な戀で、對手の心の自然に動いて來るのを、じつくりと待つてゐる。紀に度量弘深と見え、作者が餘程暢んびりした奥行のある性格であつた事は、この歌でも想像される。妹は母親を親んで呼んだ語。下にも大伴駿河麻呂が、姑の坂上郎女を我妹子と呼んでゐる。梅はその娘を譬へた事は無論。
 
(906)妹家爾《いもがへに》 開有花之《さきたるはなの》 梅花《うめのはな》 實之成名者《みにしなりなば》 左右將爲《かもかくもせむ》     399
 
〔釋〕 ○さきたるはなのうめのはな の下、の〔傍点〕の辭を略いた。「北山にたなびく雲の青雲の」(卷二)と同じ辭樣だが、こゝは序詞ではない。○かもかくもせむ どうともしよう。「かもかくも」はトモカクモに同じい。「左右」をカモカクモと訓むは意訓。
【歌意】 貴女の家に咲いた花の、その梅の花の、實にさならうなら、即ち娘さんの心が決《キマ》らうなら、その時何とでも致しませう。
 
〔評〕 上の歌と同意で、詞の換つてゐるだけである。尤も上の歌よりも更に調子が暢んびりしてゐる。略解は或本(ノ)歌としてゐる。
 
大伴(の)宿禰|駿河《するが》麻呂(が)梅(の)歌一首
 
○大伴宿禰駿河麻呂 參議道足の次子。續紀によれば、天平十五年五月正六位上から從五位下、同十八年九月越前守、寶龜元年五月出雲守、同十月正五位下、次いで肥後守となり、瑞を獻じて正五位上、同二年十一月從四位下、同三年九月陸奥按察使、正四位下、同四年七月陸奥鎭守府將軍兼按察使、同六年九月參議、同十一月正四位上勲三等、同七年七月薨じ、從三位を贈らる。
    
(907)梅花《うめのはな》 開而落去登《さきてちりぬと》 人者雖云《ひとはいへど》 吾標結之《わがしめゆひし》 枝將有八方《えだならめやも》     400
 
〔釋〕 ○さきてちりぬ 心變りを譬へた。「さきて」は輕く添へた詞。○しめゆひし 「しめゆへ」を見よ(三五九頁)。○えだ 木の轉義。
【歌意】 梅の花が咲き散つたと人はいふが、それは私が標結うた枝であらうことかい。あの女がそんな筈はない。
 
〔評〕 梅を情人に譬へた。あの女に用心しろ、どうも怪しいと、人が忠告してくれた。が平素の昵びを思ふと、如何にしても信ぜられない。「わが標結ひし枝ならめやも」、それは他の仇し女の話だらうと、屑よくその忠告を退けてゐる。これは決して自慰の詞とのみは考へられない。必ずその情人に贈つて、その本心如何を間接に叩いたものである。
  なでしこは咲きて散りぬと人はいへどわがしめし野の花ならめやも  (卷八、家持−1510)
はこれと全く同趣同型で、而もその題詞に「大伴(ノ)家持(ガ)贈(レル)2紀(ノ)女郎(ニ)1歌」とあるを思ひ合はせるがよい。
 
大伴(の)坂上(の)郎女(が)宴《うたげする》2親族《うからを》1之|日《ひ》、吟《うたへる》歌一首
 
坂上郎女が親類を集めて宴席を開いた時に唱つた歌との意。郎女には二人の娘があつた。姉を坂上大孃、妹を坂上二孃と集中には稱してある。大孃は從兄弟同士の家持の妻、妹は族人駿河麻呂の妻となつた ○吟 口誦《クチズサ》むの意。
 
(908)山守之《やまもりの》 有家留不知爾《ありけるしらに》 其山爾《そのやまに》 標結立而《しめゆひたてて》 結之辱爲都《ゆひのはぢしつ》     401
 
〔釋〕 ○やまもりの 山番を先口《センクチ》の女に譬へた。○ありけるしらに ありける〔右○〕を知らず。「しらに」は既出(四一頁)。○そのやま 駿河麻呂に譬へた。○しめゆひたてて 壻にしたことを譬へた。〔右○〕ゆひのはぢしつ 結ひての恥を見た。
【歌意】 疾くに山番の居たのを知らずに、その山に自分の標示杭を打つて、その事の爲に、とんだ恥を掻きましたよ。
 
〔評〕 坂上郎女は大伴宿奈麻呂や藤原麻呂の妻となつて、他家に嫁した人ではあるが、大伴宗家の出で、兄旅人卿薨後、この小母さんに頭の上がる人は、大伴一家に一人も居ない。最年長者ではあり、男勝りのこはい小母さんである。その威力のもとに親類の懇親會を催したので、族人達は擧つて出席したことであらう。
 さてその多勢のお客さんの前で、主人公の郎女が、二番娘(坂上家の二孃)の婿君大伴駿河麻呂の顔を睨み睨み、この歌を口吟したのだから溜らない。
 事情を説明すると、駿河麻呂は二孃と縁を結ぶ前に、既に内々他家の婿となつて居たのであつた。先口の女が相當の身分でその權利を主張したら、こちらは第二夫人になつてしまふ。そんな積りで可愛い娘を娶はせはしない。名家の面目に關する。よしそれ程の身分の女でないとしても、甚だ面白からぬ事件で、まるで山番の居る人の地處とも知らず、自分所有の表示杭を打込んで、飛んだ器量を下げたのと同じさといふ。初めから駿河(909)麻呂の出席を見越して、計畫的に當て付けたものであることは、想像に難くない。餘程癪に障つたものらしい。來客は唖然、駿河麻呂は赦然。
 郎女は富貴な權家の人だから、同じ譬喩でも事が甚だ大きい。土地の所有權確保の標結ひの行事を運用したなど、頗る面白いではないか。譬喩いかにも恰當、語氣極めて嚴肅、「結ひの恥しつ」の結句に至つて、恨氣愈よ永い。
 
大伴(の)宿禰駿河麻呂(が)即(ち)和(ふる)歌一首
 
駿河麻呂がその座ですぐに答へた歌との意。
 
山主者《やまもりは》 蓋雖有《けだしありとも》 吾妹子之《わぎもこが》 將結標乎《ゆひけむしめを》 人將解八方《ひととかめやも》     402
 
大伴駿河麻呂略系
 咋 子  長  徳   安麻呂   旅  人−家  持、
(大連) (右大臣)  (大納言) (大納言)(中納言)
            (大將軍) (大將軍)
      馬來田    道  足  伯麻呂
     (大 柴)  (鎭撫使) (從三位)
            (參議)   駿河麻呂
                  (按察使)
                  (鎭守將軍)
      吹  負   牛  養
     (大錦中)  (中納言)
 
〔釋〕 ○けだしありとも 若しあるとした處が。「けだし」に若し〔二字傍点〕の意があるのではない。この成句の間にその意が生ずるのである。尚「けだしくも」を見よ(五〇七頁)。○わぎもこが こゝは婦人の親稱。○ひと 誰れといふ程の意。
【歌意】 仰しやるやうに、山守が若しあるとして(910)も、貴女が一旦結ばれたことであらう標を、誰れが解きませうかい。私に既に女があつたとしても、貴女が二孃を妻に許されたことに、誰れが異議を唱へませうかい。御安心下さい。
 
〔評〕 駿河麻呂は滿座の中で、こはい姑さんに頭ごなしに遣つ付けられた。が彼れはとん/\拍子に比較的早い出世をした程の才人だ。婦人の機嫌を取結ぶには、旨く煽動《オダ》てるに限る位のことは、疾うに承知してゐる。で「蓋しありとも」と詞を一旦濁して置いて、假令山番が居らうが居るまいが、御威勢のすばらしい小母さんの打込まれた標示杭を、取退け得る者がありますかいと、二孃の本妻たる地位の確乎たることを保證した。なかなか苦しさうな分疏《イヒワケ》であるが、咄嗟の際の返歌としては大出來である。而もこの際「わぎもこが」と最高度の親稱を以て呼び懸けたなど、どうして隅に置ける男ではない。
 
大伴(の)宿禰家持(が)贈(れる)2同《おなじ》坂上家之|大孃《おほいらつめに》1歌一首
 
○坂上家之大孃 坂上の家の姉娘。その妹娘を二孃と稱した。委しくは「いかならむ時にか妹を」の左註の條を參照(一三六四頁)。「坂上家」は大伴坂上郎女の家。「坂上」を見よ(八六七頁)。
 
朝爾食爾《あさにけに》 欲見《みまくほりする》 其玉乎《そのたまを》 如何爲鴨《いかにしてかも》 從手不離有牟《てゆさけざらむ》     403
 
〔釋〕 ○あさにけに 「けに」を見よ(八六五頁)。○みまくほりする 古義訓はミマクホシケキ〔七字傍線〕とあるが、ホシケキ(911)といふ語はない。○てゆさけざらむ 手から離さずにあらう。久老訓テユカレザラム〔七字傍線〕は自他が違ふ。
【歌意】 朝毎にも不斷にも、見たく思ふその玉を、どういふ風にしてまあ、私の手から離さずに、あられようかしら。
 
〔評〕 朝にけに見まく欲りする玉は、玉の上乘なるもの、以て愛人に擬へるにふさはしい。然しこれは古代に於いては珍しくない着想だ。いづれの邦でも古代人ほど珠玉を極端に貴重して、重襲秘藏し、又装飾具としては頭に頸に手足に纏いて、彼等の生活を光らせたからである。眞の玉は手放さず持たうと思へば持てる。愛人に至つては、境遇上さうは往かない。これ「いかにしてかも」と呻吟懊悩する所以である。
 
娘子《をとめが》報(ふる)2佐伯《さへきの》宿禰|赤《あか》麻呂(の)贈(れる)歌(に)1歌〔左○〕一首
 
或娘子が赤麻呂の贈つた歌の返歌との意。「贈歌」の下の「歌」の字原本にない。○佐伯宿禰赤麻呂 傳未詳。
 
千磐破《ちはやぶる》 神之社四《かみのやしろし》 無有世伐《なかりせば》 春日之野邊《かすがのぬべに》 粟種益乎《あはまかましを》     404
 
〔釋〕 ○ちはやぶる 既出(三三〇頁)。○かすがのぬ 「かすがぬ」を見よ(一〇〇九頁)。○あは 粟。禾本科の草本。高さ四五尺。秋穗を出して、黄色細粒状の實を著く。△寫眞 挿圖171を參照(六ニ○頁)。
【歌意】 神樣のお社がさ、ない事であるならば、遠慮なしに春日の野邊に粟を蒔かうものを。あいにく領するお(912)社があるのでね。御本妻がおありなので、思つても手は出ませんわ。
 
〔評〕 粟や稗は山地や荒地でも蒔き付ける。で春日の野邊の粟蒔を云爲した。然し春日野は春日神社の社領である。春日神社の由來は、
  元明天皇の和銅二年、右大臣藤原不比等が鹿島神を氏神と崇めて、天皇及び皇后の御爲に、近く春日の三笠山に移し奉り、地名に依つて春日神と申す。(大鏡及その裏書、神宮雜例集)
といふ次第で、當時藤氏の勢力の増長と共に、神威は愈よ灼然たる有樣であつた。かうした事實の上に立つて考へると、「神の社しなかりせば」は、餘程強い現實的のものである事が窺はれよう。
 赤麻呂は娘子に懸想した。が赤麻呂には既に本妻があつた。而も春日の神樣見たやうな本妻があつた。神のお怒は怖ろしい、女の嫉妬はこはい。うつかり粟も蒔けない、手も出せない。まあ思召は有難いが、お斷りするより外はない。これが娘子の心境である。「粟蒔かましを」と有餘不盡の意を托したのは甚だ婉微である。
 表裏二面の意が完全に疏通してゐる。要するに筆力圓勁にして、諷託適切、更に温藉の餘芳を伴うてゐる。
 模範的譬喩歌と稱へても愧かしくない。
 
佐伯(の)宿禰赤麻呂(が)更《また》贈(れる)歌一首
 
春日野爾《かすがぬに》 粟種有世伐《あはまけりせば》 待鹿爾《ししまちに》 繼而行益乎《つぎてゆかましを》 社師留烏《やしろしるとも》     405
 
〔釋〕 ○まけりせば 蒔きてありせばの意。○ししまち 鹿の來るのを覘つて捕ること。卷十三に「射目《イメ》立てて(913)鹿《シシ》待つ如く」とある。「ししじもの」を參照(五三九頁)。○つぎてゆかまし 絶えず往かうものを。○やしろしるとも 社|領《シ》るともの意。譬喩の方では知る〔二字傍点〕の意に用ゐた。諸註皆その意を得ない。「烏」を烏合の意でトモと訓む。宣長が戸母〔二字右△〕の二字の誤とし、古義が「留烏」を有侶〔二字右△〕の誤として、アリトモ〔四字傍線〕と訓んだのは非。
【歌意】 春日野に粟を蒔いて置かれうならば、その粟に寄る鹿待《シヽマチ》に、私は〔二字右○〕朝夕絶えず往かうものを、假令社領であるとも構はずにさ。貴女が本氣に思つて下さるなら、貴女に逢ひに不斷見舞はうものを、よし本妻が知るとも構はずにさ。
 
〔評〕 その頃大和の山野に鹿は澤山棲んでゐた。――春日の神鹿はその一部の家畜化したもの――粟の實る時分には盛に喰ひに出て來る。それを待ち受けて照射《トモシ》する鹿待は、山の獵夫の生活であつた。然し春日野は社領だから狩獵も禁止だが、そこに粟が蒔いてあるなら、私も鹿待に間斷なしに出懸けよう、社領が何だと威張つて、娘子が風に柳の「粟蒔かましを」の棄詞に、尚一縷の望を繋けて、その熱意の程を娘子に示した。粟蒔は懸け歌の如く戀の應諾を意味し、鹿待は娘子に逢ふことを擬へ、社は無論本妻に擬へた。
 
娘子(が)復《また》報《こたふる》歌一首
 
吾祭《わはまつる》 神者不有《かみにはあらず》 大夫爾《ますらをに》 憑〔左△〕有神曾《つきたるかみぞ》 好應祀《よくまつるべき》     406
 
〔釋〕 ○わはまつる 吾は貴方の〔三字右○〕祀るの意。宣長訓による。舊訓ワガマツル〔五字傍線〕。○ますらをに 赤麻呂をさす。「ま(914)すらを」を見よ(四〇頁)。○つきたるかみぞ 取憑きたる神を〔右○〕ぞの意。かゝる場合のを〔右○〕の辭を略する例は多い。「憑」原本に認〔右△〕とあるは誤。
【歌意】 私は到底貴方のお祭りになる神樣では御座いません、それよりも益荒男貴方に、取憑いてゐる神樣をさ、よくお祭りなさいませ。御本妻を大事にして祟を受けぬやうにね。 
〔評〕 到頭娘子は本音を吐いた。婉曲に拒絶してゐたのでは、對手が逆上せてゐるから際限がない。でキツパリと、私は貴方に縁のない者、どうぞ御縁の深い御本妻をと逃げを打つた。
 「憑きたる神」は神憑《カミヨリ》といふ事が昔から信ぜられてゐた事を證する、これは物につき人につく。
  玉かづら實ならぬ樹にはちはやぶる神ぞ憑《ツ》くといふならぬ樹ごとに (卷二、大伴宿禰―101)
  神南備の神依板《カミヨリイタ》にする杉のおもひも過ぎず戀のしげきに   (卷九―1773)
など、神に憑くといひ依るといふ、さてその神を祭つて、或は※[示+襄]ひ或は願ぐのである。
 赤麻呂が最初、神の社を持ち出したので、遂に自分が神になり濟まし、總べてを神の託宣で片付けたその機智とその滑稽味とは、必然失戀から生ずる赤麻呂の小憤を和《ナゴ》ますに足りる。
 
大伴(の)宿禰駿河麻(が)娉《つまどふ》2坂上(の)家之|二孃《おといらつめを》1歌一首
 
春霞《はるがすみ》 春日里爾《かすがのさとに》 殖子水葱《うゑこなぎ》 苗有跡云師《なへなりといひし》 柄者指爾家牟《えはさしにけむ》     407
 
(915) ○はるがすみ 春霞|幽《カスカ》を春日《カスガ》にいひかけた枕詞。古義は春霞霞むを春日にかけたものとした。○かすがのさとにうゑこなぎ 春日の里に栽ゑたる殖小水葱《ウヱコナギ》の略。卷十四にも「上《カミ》つけ野《ヌ》伊香保《イカホ》の沼|爾《ニ》うゑ小水葱」とある。「爾」にノ〔傍点〕の音ありとする、木村黒川氏等が説は無用の辯である。。かすがのさと 大和添上郡春日郷。○うゑこなぎ 殖小水葱。栽培する小水葱の意。小水葱は雨久花科の水中自生の一年草。主莖は分岐し、葉は叢生して長柄を有し、卵形で尖頭を有する。夏秋の交、柄上に紫色の花を總状に著ける。花後その穗下方を指す。○なへなりといひし まだ〔二字右○〕苗なりといひしが〔右○〕の意。苗は栽培植物の幼きものゝ稱。○えはさしにけむ 「柄」は小水葱の葉柄。「さし」はその葉柄の立つこと。「けむ」は過去推量の助動詞。
【歌意】 あの春日の里に栽ゑた小水葱、それはまだ苗であるといつたが、もう疾うに莖は立つたことであらう。思へば、春日の里のあの娘はまだ少女だと聞いたが、もう今は年頃に成人したことであらう。
 
〔評〕 「春日の里に殖小水葱」、これで見ると、坂上郎女はその時、娘二孃と共に春日の里に住んで居たらしい。
  ますらをの高圓山にせめたれば里におりくる※[鼠+吾]鼠《ムサヽビ》ぞこれ (卷六―1028)
とある郎女の詠も亦、高圓山麓に屬する春日の里に居たことを證する。
  當時の奈良京は繩張だけは規模宏大だが、京中には空地が多く、田地もあり、池には蓮や水葱を栽培してゐ(916)た程で、水葱は奈良人の食料であつた。餘り淡泊過ぎて、「われにはな見せそ水葱の羮物《アツモノ》」(卷十六)と、鯛願ふ意吉《オキ》麻呂には嫌はれもしたが。
 こんな譯で奈良人は、駿河麻呂ほどの名家の子でも水葱に關心をもち、その發育状態を心得てをり、苗もそろ/\成育して葉柄が莖立つ頃を知つてゐた。乃ちそれに擬へて二娘の成人を想像して見た。但それは單なる想像に終るのでなく、暗に思慕の情を寓せてゐるのである。田園的の匂が搖曳して、變つた面白味がある。
 
大伴(の)宿禰家持(が)贈(れる)2同(じ)坂上(の)家之|大孃《おほいらつめに》1歌一首
 
石竹之《なでしこの》 其花爾毛我《そのはなにもが》 朝旦《あさなあさな》 手取持而《てにとりもちて》 不戀日將無《こひぬひなけむ》     408
 
〔釋〕 ○なでしこの 古義訓ナデシコガ〔五字傍線〕は非。○そのはなにもが その花にてもあれかしの意。尚「はなにもが」を見よ(七四七頁)。○あさなあさな 朝に朝にの轉語。他の解義もあるが不用。古義訓アサナサナ〔五字傍線〕。○こひぬ この戀は愛賞の意。○なけむ なから〔二字傍点〕むの約轉。
【歌意】 大孃が〔三字右○〕が撫子のその花ででもあつてほしい。さらば毎朝手に取持つて、思ひ愛でぬ日はなからう。
 
〔評〕 鍾愛衆草に抽んずる庭上の撫子、この可憐の花に依つて佳人大孃を想起するは自然である。此れは咫尺の間に何時も愛撫し得る花、彼(917)れは坂上家の深閨に居て相見ることさへ不自由な人、對比的に大孃がこの花ならばとの希望を描くに至つた。「手に取持ちて」はその親昵の極を象徴する。この作者は撫子が好きであつたらしい。下の「挽歌」の中にも「見(テ)2砌上(ノ)瞿麥花(ヲ)1」の歌がある。
 
大伴(の)宿禰駿河麻呂(が)歌一首
 
一日爾波《ひとひには》 千重浪敷爾《ちへなみしきに》 雖念《おもへども》 奈何其玉之《なぞそのたまの》 手二卷難寸《てにまきがたき》     409
 
〔釋〕 ○ひとひには 一日の中〔二字右○〕にはの意。○ちへなみしきに 幾重の波の如く頻にの意。千重波は頻《シキ》に係る序。「しきに」は頻に〔二字傍点〕の古語。「敷」は借字。○そのたまの わが欲りする〔六字右○〕その玉のの意。「その」は「思へども」とあるその主體を斥してゐる。契沖が「千重浪しきといへる海の意なれば、眞珠は海にあれば、その〔二字傍点〕といひて玉を女に譬へて云々」は誤解も甚しい。○まきがたき 「まき」は纏ふこと。尚「くしろつく」を見よ(一六五頁)。○なぞ 何《ナニ》ぞの略。ナド〔二字傍点〕はこの轉語。
【歌意】 一日の中には、何遍となく頻に思ふけれど、なぜか思ふその玉が、手に纏きかねることよ。
 
〔評〕 玉を女に比興するは萬葉人の套語。「一日」と「千重」とは對語。「なぞ」の疑問に僅に姿致を見る。
 
大伴(の)坂上(の)郎女(の)橘(の)歌一首
 
(918)〇橘 既出(三七二頁)。△寫眞 挿圖110。を參照(三七三頁)。
 
橘乎《たちばなを》 屋前爾植生《やどにうゑおほせ》 立而居而《たちてゐて》 後雖悔《のちにくゆとも》 驗將有八方《しるしあらめやも》     410
 
〔釋〕 ○やど こゝは前庭のこと。○おほせ 生《オホ》すの命令格。○たちてゐて 前出(八五九頁)。
【歌意】 この橘を早く貴方の〔三字右○〕庭にお植ゑなさい。後になつて立つたり居たりして悔んだとて、その詮があらうことかい。橘は望み手が多いからねえ。娘を早く婚約するならしなさい、外に縁が定まつた後では、幾ら悔んだとて追つ付きませんや。
 
〔評〕 橘の事は既に「橘の蔭踏む道の」(卷二)の評語中に説明した如く、この時より八年も前に溯るらしいが、天平八年に葛城《カヅラキノ》王に橘氏を賜ふ際に、
  楠は實さへ花さへその葉さへ枝に霜ふれどいやとこはの樹  (卷六――1009)
と太上天皇の御製にある程で、當時は橘を花木の長上と推し、軒端近く植ゑて愛賞した。これ橘を「屋前にうゑおほせ」といふ所以である。隨つて「橘」は必ずその愛娘を擬へたものであることは疑を容れない。
 母親は大伴宗家の坂上郎女、家柄だけでも、その娘は望み手が澤山あつたものだらうが、郎女には見込んだ壻の候補者があつた。後の祭になつてはと、郎女の縁談を急《セ》かしたことは、確かにその壻がね殿の態度が煮え切らずに居たことを間接に證する。この壻がねは前後の關係から考ヘると、必ず駿河麻呂であらう。然らばな(919)ぜ駿河麻呂はさう躊躇してゐたかといふに、それは既に山守が居たからである。かうした經緯を念頭に置いてこの歌を味ふと、涯りない興味を湧かさせられる。
 
和《こたふる》歌一首
 
誰れの答へたものかわからぬが、恐らく駿河麻呂であらう。
 
吾妹兒之《わぎもこが》 屋前之橘《やどのたちばな》 甚近《いとちかく》 殖而師故二《うゑてしゆゑに》 不成者不止《ならずばやまじ》     411
 
〔釋〕 ○わぎもこが これは二孃の母たる郎女をさす。○ならずば 結《ナ》らせ〔傍点〕ずばの意。
【歌意】 貴女の家の橘、それを大分手近く植ゑ込んだからには、實を結らせずにはおきますまい。かく二壞さんのお懇意になつたからには、この縁を纏めずにはおきますまい。 
〔評〕 往時結婚の前奏曲は懸想であつた。この懸想期の状態は、卷二の「玉くしげ覆《カヘリ》をやすみ」の評中に語つた如くである。こゝに「いと近く殖ゑてし」といふものは、懸想状態が大いに進行して、結婚の一歩手前まで近づいたことを意味する。然し作者には内々山守も既に居たことであるから、「ならずばやまじ」が、郎女の催促に周章てた申譯のやうにも聞える。
 
市原《いちはらの》王(の)歌一首
 
(920)○市原王 志貴《シキノ》皇子(春日宮天皇)の孫。安貴《アキノ》王の子。續紀に、天平十五年に無位より從五位下となり、寶字七年正月攝津大夫、四月造東大寺長官、勝寶元年從五位上、同二年正五位下となるとある。
 
〔頭注、正倉院文書によれば、天平十一年に寫經司舍人、同十八年より勝寶三年にかけ玄蕃頭、寶字元年に治部大輔同二年に左京四坊に在籍、正五位上、同三年に禮部大輔と見えた。〕
 
伊奈太吉爾《いなだきに》 伎須賣流玉者《きすめるたまは》 無二《ふたつなし》 此方彼方毛《かにもかくにも》 君之隨意《きみがまにまに》     412
 
〔釋〕 ○いなだき 頂。いたゞき〔四字傍点〕の古言。和名抄には、伊奈太岐《イナダキ》、伊太々支《イタヾキ)の兩訓を擧げてある。○きすめる 藏《ヲサ》むるの意。播磨風土記に(上略)問(フニ)2地(ノ)状(ヲ)1、對(ヘテ)曰(フ)、縫(ヒテ)v衣(ヲ)如(シ)v藏(ムルガ)2櫃(ノ)底(ニ)1、故曰(フ)2伎須美野《キスミヌト》1と見え、きすみ〔三字傍点〕を栗田寛は藏〔傍点〕の意と解した。倭姫世紀にも、玉きしめる國〔六字傍点〕の語がある。古義は統有《スベル》の義とした。○かにもかくにも 宣長訓による。舊訓コナタカナタモ〔七字傍線〕。
【歌意】 頂髪中に藏める貴い玉は、只一つあるのみさ、惜しい玉ではあるが、貴方の御望み次第、どうにでも致しませう。實に大事な只一粒種の秘藏娘ですが、御意のまゝに差上げるとも何とも致しませう。
 
〔評〕 髻珠即ち髻中に寶玉を藏めることは、法華經安樂品に、
(921)  文殊師利見(テ)3諸(ノ)兵衆(ノ)有(ルヲ)2大功1、心甚(ダ)歡喜(シテ)、以(テ)2此難(キ)v得之珠(ヲ)1、久(シク)在(キ)2髻中(ニ)1、不(リシニ)2妄(ニ)與(ヘ)1v人(ニ)、而今與(フ)v之(ヲ)、云々。
とあるを見れば、印度の習俗であらう。佛數信者はそれを學んで、所謂お守といつた具合に、髻中に珠玉を秘藏することが行はれたらしい。
  あも刀自《トジ》は玉にもがもやいたゞきて角髪《ミヅラ》のなかにあへ纏かまくも (卷二十、津守小黒栖―4377)
とある。聖徳太子が白膠木《ヌリテ》の佛像を頂髪に置かれたのも、この餘意であらう。但髻中に物を藏めることは、昔からわが國にもあつた事で、景行天皇紀に箭(ヲ)藏(ム)2頭髻(ニ)1、神功皇后紀に儲(ノ)絃(ヲ)藏(ム)2于髪中(ニ)1など見えてゐるが、これは目的が別である。又神代紀(卷一)に以(テ)2八坂瓊五百箇御統《ヤサカニノイホツミスマルヲ》1、纏《マツヒ》2其|頂髪《イナダキニ》1とあるは、澤山の珠玉を頭飾にしたことで、こゝには交渉はない。
 髻珠は無論一番大切な玉でなくてはならぬ。信に「二つなし」である。一人娘は親の目からは實に髻珠も啻ならぬいとしいものである。それをも君が爲には手放さうと、子の幸福の爲には親が多年の愛情を犠牲にする。それが即ち更により大いなる慈悲である事を思ふと、覺えず同情の涙にくれる。この二つない玉は御娘|五百井《イホヰノ》王のことらしい。
 
大網〔左△〕公人主《おほあみのきみひとぬしが》宴《うたげに》吟《うたへる》歌一首 
人主か宴會の席上に歌つた歌との意。○大網公人主 傳未詳。大網は氏、公は姓、人主は名。大網氏は姓氏録に出づ。
 
(922)須麻乃海人之《すまのあまの》 鹽燒衣乃《しほやきぎぬの》 藤服《ふぢごろも》 間遠之有者《まどほくしあれば》 未著穢《いまだきなれず》     413
 
〔釋〕 ○すま 攝津の須磨。○しほやきぎぬ 鹽を燒き製する折の衣。○ふぢごろも 葛《フヂ》の繊緯にて織つた衣。疎い織物で蝦夷のアツシに似たもの。賤者の服。以上初二句は「間遠く」に係る序詞。○まどほく 間《アヒダ》のあること。衣の間遠くは筬目《ヲサメ》が疎くて織目の密《ツ》まぬをいふ。○きなれず 「著」は衣の縁で添へた語。「穢」をナレと讀むは意訓。
【歌意】 須磨の海人の鹽燒衣の、その藤衣の如く、間遠にたまさかに逢うてゐるので、まだ十分に馴染まない。
 
〔評〕 古歌を朗吟したものであらう。
 初二句は「北山につらなる雲の青雲の」(卷二)の叙法と同じい。鹽燒衣は生活を表した勞働服、藤服はその物柄を表した疎服たることが細説されてゐる。かく丁寧に縷々反復したことは、藤衣に注意を集注させ、隨つて被序語たる「間遠く」を力強く印象づける。
(923) 或都人が須磨の田舍娘を得たが、會合の機が少ない爲、親昵の情味が湧かぬ憾を歌つたものらしい。その地方色と、下級層の生活とが如實に出てゐることは、滿座の都人士の驚異の眼を瞠らせるに十分であつたらう。
 况や上句の流暢なる諧調と、全體のもつ蒼古遒勁なる格調とは、特に朗唱に値する。
 
大伴(の)宿禰家持(の)歌一首
 
足日木能《あしひきの》 石根許其思美《いはねこごしみ》 菅根乎《すがのねを》 引者難三等《ひかばかたみと》 標耳曾結烏《しめのみぞゆふ》     414
 
〔釋〕 ○あしひきの 山の〔二字傍点〕の意。もと山〔傍点〕に係る枕詞であるが、かく轉用した。玉桙《タマホコ》(道の枕詞)を道、百敷《モヽシキ》(宮の枕詞)を宮の意に用ゐると同例。奈良時代も末期に至つて、かゝる簡略法が發生した。○こごしみ、「こごしき」を見よ(七四〇頁)。○すがのね 「やますげ」を見よ(七三六頁)。○ひかばかたみと 引かば難からむとての意。上の「見ずて往かばまして戀しみ」(八七五頁)と同格。「ひかば」は久老訓及び舊訓にはヒケバ〔三字傍線〕。○ゆふ 「烏」の字は焉と通用で、こゝは添字。、
【歌意】 山の岩石がごつ/\した嶮はしさに、欲しい山菅の根を引くのはむづかしさうなので、只繩張だけさ、しておくわい。周圍がひどく煩さゝに、女を貰ひ受けることはむづかしさうなので、只一往の豫約だけしておきます。
 
〔評〕 親兄弟とか乳母とかいふ後見だつた人間が、その縁談に就いて何かと故障を入れる。深窓の姫君はこの方(924)面では木偶であつた。名家の息子で、男振の優れた家持ほどの若者なら、壻君として申分のない筈だが、そこに却て不安がある。引手數多といふ噂も立つてゐたに相違ない。で暫く樣子を見る事となつてしまつた。只外には遣らぬといふ口約を取つたのが、何よりの成功であつた。かゝる複雜な事情を包容して、譬喩がしつくりと打合ひ、分寸の齟齬もない。やはり家持は上手である。
 山菅を引き、標を結ふ、上代人の生活から出たもので、殊に山菅に女を擬へたことは、山菅の價値が上代に於いて高く見られてゐたからである。
 
挽歌
 
○挽歌 既出(四一二頁)。
 
上《うへの》宮(の)聖徳皇子《しやうとこのみこの》出2遊《いでませる》竹原井《たかはらのゐに》1之時、見《みそなはして》2龍田山(の)死人《しにひとを》1悲傷《かなしみて》御《み》作歌一首
 
聖徳太子が竹原井に御出遊の時、龍田山で死人を見て悲んで詠まれた御歌との意。○上宮 上方の宮の意。推古天皇紀に、先天皇(用明)愛之《ウツクシミテ》、令(メタマフ)v居(ラ)2宮(ノ)南(ナミ)上殿《ウヘノミヤニ》1、故稱(ヘテ)2其名(ヲ)1謂(フ)2上(ノ)宮(ノ)云々(ト)1とある。○聖徳皇子 用明天皇の御子、御母は穴穗部間人《アナホベハシヒトノ》皇后。○竹原井 河内國大縣都高井田か(今中河内郡)。○龍田山 立田山。既出(二八四頁)。△地圖 挿圖91を參照(二八六頁)。
 
家有者《いへにあらば》 妹之手將纏《いもがてまかむ》 草枕《くさまくら》 客爾臥有《たびにこやせる》 此旅人※[立心偏+可]怜《このたびとあはれ》     415
 
〔釋〕 ○いへにあらば 舊訓イヘナラバ〔五字傍線〕。○たびに 旅にて〔右○〕。○まかむ 纏かむを〔右○〕の意。尚「いはねしまきて」を見よ(三〇〇頁)。○こやせる 古義にいふ、臥《フ》すの古語コユの敬相と。
【歌意】 家に居らうなら、煖い妻の手を纏かうものを、かうした旅の空で死なれた、この旅人は氣の毒だなあ。
 
〔評〕 主眼は初二句にある。然るにこの種の著想は、
  國にあらば父取り見まし 家にあらば母取り見まし−。  (卷五、憶良−886)
  妻もあらば摘みてたげまし−。(卷二、人麻呂−221)
など見えて、奈良期にはさう珍しいものではない。もとこの歌は、聖徳太子が片岡(平群郡)に行啓の時、飢人が路旁に臥してゐたのを御覽なされて作られた、
  しなてる片岡山に、飯《イヒ》に飢ゑてこやせる、その旅人あはれ。親なしになれりけめや、刺竹の君はやなき、飯に飢ゑてこやせる、その旅(926)人あはれ。(推古天皇紀、卷五十四)
とあるが、傳誦の間短歌に轉訛され、而もその想も詞も萬葉人の口吻に變化し、場處さへ片岡が龍田山に振替へられた。太子の御詠として考へるには餘に距離があり過ぎる。
 
大津(の)皇子《みこの》被v死《つみなえたまへる》之時、磐余《いはれの》池(の)般《つつみに》流涕《なかえて》御《み》作歌一首
 
大津皇子が誅死される時に、磐余池の塘で泣かれて詠まれた御歌との意。○大津皇子被死之時 この事卷二「わがせこを倭へやると」及び「二人行けど行き過ぎ難き」の二首の條を參照(三三七頁・三四一頁)。○磐余池 埴安(ノ)池の一名ともいふ。履中天皇紀に、二年十一月作(ル)2磐余(ノ)池(ヲ)1とある。磐余《イハレ》は上出(七一二頁)。○般 史記封禅書の鴻|漸《ススム》2于般《ツツミニ》1の注に、般(ハ)水(ノ)涯《ホトリノ》堆也とある。目録には「陂」とある。△地圖 挿圖6を參照(二二頁)。
    
百〔左△〕傳《ももづたふ》 磐余池爾《いはれのいけに》 鳴鴨乎《なくかもを》 今日耳見哉《けふのみみてや》 雲隱去牟《くもがくりなむ》     416
 
〔釋〕 ○ももづたふ 枕詞とは思はれるが、磐余に係る意は不明。或は「百」は水(〔右△〕の誤で、水傳ふ岩といふ續きか。卷二に「水傳ふ磯」とある。岩も磯も必竟同じ物である。角障〔二字右△〕の誤としてツヌサハフ〔五字傍線〕と訓む宣長説は我儘である。新考の百傳ふ五十《イ》と係るかといふ説は、傳ふ〔二字傍点〕の意が徹らない。○くもがくり 死の轉義。古へ貴人の死を「天《アメ》知らす」(五四九頁)といひ、雲隱るといつた。高天が原に上るの意である。下にも「家ゆは出でて雲隱りにき」とある。○なむ 推量の助動詞。
(927)【歌意】 この磐余の池に鳴く鴨を、殘念な事に今日だけ見て、自分は死んでしまふことかまあ。
 
〔評〕 當時の京はまだ飛鳥(ノ)淨見原(ノ)宮であつたから、いづれその邊から、皇子は刑場の譯語田客舍《ヲサダノヤドリ》(磯城郡大田の邊)に護送されたものと見てよい。途は丁度|山田道《ヤマダミチ》にかゝり安倍《アべ》の坂を下る頃は、磐余池(埴安池)の陂上を通るのであつた。香具山下に展開した一碧の水光は忽として眼に映じ、「海原はかまめ立ち立つ」(舒明天皇御製)と詠まれた、鴨や鴛鴦やの水鳥が嬉遊してゐる風光は、平時から皇子の御心を惹き付けて忘れ難いものであつた。然るにそこに數《シバ》鳴く鴨らも、死が目下に迫つてゐる今は、これがもう聞き納め見納めと思ふと、一段生の執著にひしと捉へられて、溜らない感傷に打たれるのであつた。無心の池の鴨らに對してまで、かく名殘を惜しまれたことは、もつと/\大きな悲痛の躍動を語るもので、純情貞節なる皇妃山邊(ノ)皇女をはじめ、數多の親睨に死別する嗚咽斷腸の聲を、纔に鴨らを透して放送したのである。「けふのみ見てや雲隱りなむ」、一唱胸が迫り再唱涙がこぼれ、到底讀下することが出來ない。眞情眞詩とはこれをいふか。
 皇子は又その臨終に立派な詩作を遺された。
  金烏臨(ミ)2西舍(ニ)1、 鼓聲催(ス)2短命(ヲ)1、 泉路無(ク)2賓主1、 此夕誰(ガ)家(ニ)向(ハム)。(懷風藻)
 
河内《かふちの》王(を)葬(れる)2豐前(の)國鏡山(に)1之時、手持《たもちの》女王(の)作歌三首
 
河内王を豐前の鏡山に葬送した時、手持女王が詠んだ歌との意。○河内王 天武天皇紀に、朱鳥元年正月新羅の金智淨を饗せむ爲に、淨廣肆河内王を筑紫に遣はされ、持統天皇紀に、その三年閏八月筑紫(ノ)太宰帥になり、八(928)年四月淨大肆を贈り賻物を賜ふとある。筑紫で薨ぜられたので、鏡山に葬送されたものと見える。○手持女王 傳未詳。河内王の妃であらう。○葬鏡山 河内王の御墓は豐前國田川郡|勾金《マガリガネ》村鏡山神社の東隣にある。「鏡山」は前出(七五四頁)。 △地圖 挿圖222を參照(七五五頁)。
 
王之《おほきみの》 親魄相哉《むつたまあへや》 豐國乃《とよくにの》 鏡山乎《かがみのやまを》 宮登定流《みやとさだむる》     417
 
〔釋〕 ○おほきみの 河内王を斥す。○むつたまあへや 「むつたま」は睦む魂の意。祝詞に皇我親神漏岐神漏美《スメラガムツカムロギカムロミ》とある親《ムツ》に同じい。「魂《タマ》相《ア》ふ」は心の合ふこと、氣の合ふこと。「あへや」はあへば〔右○〕やの意。○とよくに 前出(七五四頁)。
【歌意】 王の親魂に協はれたせゐかして、處もあらうに〔六字右○〕豐國の鏡山を、常宮《トコミヤ》とお定めなされることよ。
 
〔評〕 王の御魂の鎭ります墓を王の居宮と觀じた。これは記紀以來の套語で珍しくはないが、只「親魂あへや」(929)に一波瀾を起して、獨立の存在價値を優に獲得した。王の死はもとより意外な突發事件、殊に都人たる作者のお心からは、「豐國の鏡の山」の宮定めに至つては、愈よ以て不本意であらう。然しそれも王のお氣に召した事なら仕方ないと、諦め難い諦めをもたれたことは、憖に號呼哭泣するよりは哀れである。死といふことを暗示にとゞめて直説せぬのも、娩曲の妙味を滿喫させる。而もそれが自然の天工であゐことが、この上もなく嬉しい。すべて勁健の調子に終始し、三句以下地名を按排した現在的叙法は、その森嚴莊重の氣と深刻味とを發揚してゐる。
 
豐國乃《とよくにの》 鏡山之《かがみのやまの》 石戸立《いはとたて》 隱爾計良思《こもりにけらし》 雖待不來座《まてどきまさぬ》     418
 
〔釋〕 ○かがみのやまの 鏡の山にあるの意。「之」は爾〔右△〕の誤ではない。○いはとたて云云 岩戸を闔《タ》てゝ籠ることは、記紀の神代の卷に見えた天の石屋戸《イハヤト》の故事である。今は岩屋に斂めて葬つたことを天岩戸の故事に擬へて、王自身から立て籠つたやうに取成した。戸を閉づることを「立て」といふのは、眞淵説に、上代には戸は傍に取退け置きて闔てむ時はそを持ち來て立て塞く故なりと。
【歌意】 背の君樣は、豐國の鏡山の岩戸を閉て切つて、籠つてしまはれたらしい。幾ら待つても一向お出ましがありませんわ。
 
〔評〕 岩戸隱りは神典に本づいた死の婉辭で、これも套語である。「らし」の語によつて思ふと、手持女王は宰府(930)に在つて、王の臨終には居合はせなかつたものであらう。又「待てど來まさぬ」は御生前には待つに來ましたことを反證する。既に訃報を得ながら尚半信半疑の間に彷徨し、「待てど來まさず」の怨語を吐く。そこに窮りない悲悼の意を藏してゐる。
 再考するに、宰府で薨逝の河内王を葬透するに、附近に幾らもある適當の岡陵をさし置いて、宰府を距る東北十五六里も遠方の鏡山を點定したことは、何とも合點がゆかぬ。鏡山は當時宰府より上京道の三道の一たる小倉道の道旁で、太だ嶮隘の地である。想ふに王は宰府で薨ぜられたのではなく、行旅の途上で發病されて、遂に鏡山附近に於いて急逝の爲、其處に奉葬したのであらう。「豐國の鏡の山を宮と定むる」の感慨は、かくてこそ一段とその深刻味を増し、「睦魂あへや」の胸臆語も一層有効に強調されて、悲痛の度を高める。
 
石戸破《いはとわる》 手力毛欲得《たぢからもがな》 手弱寸《たよわき》 女有者《をみなにしあれば》 爲便乃不知苦《すべのしらなく》     419
 
〔釋〕 ○いはとわる 石戸を毀つ。○たぢからもがな 腕力も欲しいな。腕力のことを、古くより手力《タヂカラ》といふ。こゝは記(上)に 「天照大御神、稍自(リ)v戸出(デテ)而臨(ミ)坐(ス)之時(ニ)、天(ノ)手力男《タヂカラヲノ)神、取(リテ)2其(ノ)御手《ミテヲ》1引(キ)出(シマツリキ》」とあるを據として詠んだもの。○たよわき 「た」は接頭語。古義の訓タヤワキ〔四字傍線〕は非。○をみなにし 古義の訓はメニシ〔三字傍線〕。記(上)に「あはもよ、賣邇斯阿禮婆《メニシアレバ》」とあるが、この時代としては強ひてそれに拘はるに及ばぬ。○しらなく 既出(四四五頁)。
【歌意】 鏡山の岩戸を打破る、腕力も欲しいものよ、さすれば王の御手を取つて引出し申さうに、自分はか弱い(931)女の事だから、どうにも仕樣のないことよ。
 
〔評〕 前首に次いで、これも天の岩戸の典據を用ゐ、女の弱さを看板にして、同情を聽者の上に強請してゐる。かうなると否應なしに、貰ひ泣をせねばならなくなる。假令男だからとて手力男神ではない以上、王をその岩戸から引出し奉ることは不可能であるが、そんな分別は全く忘却してゐる處に、感情の一路に驀進して躊躇のない作者の氣持がよく窺はれる。「た弱き」は底を割つたいひ方で、稍いひ過ぎではあるまいか。
 
石田《いはたの》王(の)卒《うせたまへる》之時、丹生《にふの》王(の)作歌一首并短歌
 
石田王が卒去された時に丹生王が詠んだ歌との意。○石田王 傳未詳。その死に「卒」の字を用ゐたので見ると、四五位の間の人で、恐らく三世以下の王族であらう。○丹生王 傳未詳。卷四及び卷六に丹生(ノ)女王が大伴旅人に贈つた歌があり、その女王は旅人と情交があつたらしい。丹生王は或はこの丹生女王か。
 
名湯竹乃《なゆたけの》 十縁皇子《とをよるみこ》 狹丹頬相《さにつらふ》 吾大王者《わがおほきみは》 隱久乃《こもりくの》 始瀕乃山爾《はつせのやまに》 神左傾爾《かむさびに》 伊都伎坐等《いつきいますと》 (932)玉梓乃《たまづさの》 人曾言鶴《ひとぞいひつる》 於餘頭禮可《およづれか》 吾聞都流《わがききつる》 枉言加《たはことか》 我聞都流母《わがききつるも》 天地爾《あめつちに》 悔事乃《くやしきことの》 世間乃《よのなかの》 悔言者《くやしきことは》 天雲乃《あまぐもの》 曾久敝能極《そくへのきはみ》 大〔左△〕地乃《おほつちの》 至流左右二《いたれるまでに》 杖策毛《つゑつきも》 不衝毛去而《つかずもゆきて》 夕衢占問《ゆふけとひ》 石卜以而《いしうらもちて》 吾屋戸爾《わがやどに》 御諸乎立而《みもろをたてて》 枕邊爾《まくらべに》 齋戸乎居《いはひべをすゑ》 竹玉乎《たかだまを》 無間貫垂《まなくぬきたれ》 木綿手次《ゆふだすき》 可比奈爾懸而《かひなにかけて》 天有《あめなる》 左佐羅能小野之《ささらのをぬの》 七相菅《ななふすげ》 手取持而《てにとりもちて》 久堅乃《ひさかたの》 天川原爾《あめのかはらに》 出立而《いでたちて》 潔身而麻之乎《みそぎてましを》 高山乃《たかやまの》 石穗之上爾《いはほのうへに》 伊座都流香物《いましつるかも》     420
 
(933)〔釋〕 ○なゆたけの 枕詞。「なゆたけ」は嫋《ナヨ》竹の音通。「なよたけの」を見よ(五八八頁)。○とをよる 既出(五八八頁)。「十」は借字。○みこ 御子《ミコ》の意で敬稱。石田王は親王ではない。然るに「皇子」の字面を用ゐたのは、ミコの訓に充てたまでである。○さにつらふ 丹色の美しく匂ふをいふ。卷六に「さ丹《ニ》つらふ黄葉《モミヂ》」の例がある。さて一轉しては少年少女の紅顔を形容するに用ゐ、こゝは「大王」に繋けて形容した。尚「さ丹つらふ漢女《ヲトメ》」(卷七)「さ丹つらふ君」(卷十三)などいふ。「さ」は美稱。「狹」は借字。「に」は丹土《ニツチ》のこと。和名抄に、邇《ニ》、漢名丹砂と見え、又|眞朱《アカニ》の稱がある。辰砂と同じい。「つらふ」は眞淵は著《ツク》の延言と解した。即ちツクがツカフ〔二字傍点〕と延び、轉じてツラフ〔二字傍点〕となる。おもに動詞の形容的接尾語として、擧げつらふ〔三字傍点〕、引こつらふ〔三字傍点〕、かかつらふ〔三字傍点〕の如く用ゐる。「頬相」は借字。○こもりくの 初瀬の枕詞。既出(一七六頁)。○はつせのやま 既出(一七七頁)。○かむさびに 王みづからの神《カム》すさびに。「神さび」は既出(一五三頁)。「爾」を宣長は而〔右△〕又は(※[氏/一]〔右△〕、古義は手〔右△〕の誤としてカムサビテ〔五字傍線〕と訓んだのは却て非。その説は、次の「いつきいます」を見よ。○いつきいますと 齋《イハ》ひ鎭《シヅ》まつて居られると。これは王がその神さびに初瀬山に御自身から齋《イツ》きいますので、他から齋くのでもなく齋かれるのでもない。「いつき」は忌《イ》み付きの義で、齋の意に當る。いはふ〔三字傍点〕とほゞ同意。「齊」は齋の通用。○たまづさのひと 使の人の意。「たまづさの」は使の語に係る枕詞であるが、その使用が常習的になるにつれ、直ちに枕詞の被語たる使〔傍点〕の事に用ゐられ、更に轉つてその使の持つ書簡の事ともなつた。「たまづさの」を參照(五六四頁)。○およづれ 妖《アヤシ》、妖言《アヤシキコト》、逆言《サカコト》などの意とする。語義(934)に就いては前人に説がない。思ふに大凡《オホヨソ》づれの義か。「づれ」は接尾語と見る。その實を問はぬ漫言をいふのが本で、妖言逆言の意にも轉用したと見たい。逆言はさかさま言で、事實を反對に枉げていひなすをいふ。○たはこと 戲《タハ》れ言、妄語。「枉」は曲る、歪《ユガ》む、邪曲などの意で充てた。狂〔右△〕の誤字とするには及ばぬ。○も 歎辭。〇あめつちに 天地の間〔二字右○〕にの略。次句の「世の中」に對していふ。○くやしきことの 「ふた神の貴き山の」を見よ(八七五頁)。○くやしきことは この「は」は遠く末段の「高山のいはほの上にいませつるかも」に係る詞。故に歌意の項では、便宜上挿入句の後にまはして解しておいた。「言」は事の借字。○あまぐもの 大空の意。前出(六三六頁)。○そくへのきはみ 遠くのはて。「そくへ」は退方《ソキヘ》の轉語。ソキは縱にも横にもその行きどまりをいふ。底《ソコ》も同語。もと加行四段の動詞で、後退《シリゾ》くなど熟しても用ゐる。集中なほ「天雲の遠隔《ソキヘ》の極み」(卷四)「天雲の退部《ソキヘ》の限」(卷九)「山河の曾伎敝《ソキヘ》を遠み」(卷十七)といひ、又「天地の曾許比《ソコヒ》の浦」(卷十五)「山の曾伎《ソキ》野《ヌ》の衣寸《ソキ》見せと」(卷六)などの用例がある。○おほつちのいたれるまでに 大地の達した果までに。「大」原本に天〔右△〕とあるは誤。上に天をいひ、こゝは地をいつた。「左右」をマデと訓むことは「いくよまでに」を見よ(一三九頁)。○つゑつきもつかずもゆきて 杖〔右○〕を突きも往き〔二字右○〕突かずも往きて。卷十三に「杖衝毛不衝毛《ツエツキモツカズモ》われは行かめども」とある。「策」は動詞として充てた。○ゆふけとひ 夕占《ユフケ》を衢《マチ》にてするをいふ。「ゆふけ」は夕方の辻占で、「衢」の字は占問を衢に立つてするので書き添へたもの。又夕|占《ウラ》とも道往占《ミチユキウラ》ともいつた。その方法は占事のある時、まづ辻に出て往來の人を捉へて、簡單によいか惡いか、來るか來ぬか、など問ひかけてその返事を求める、問はれた人はそれが又一般の常習だから別に怪しみもせず、これは辻占だなと心得、漫然と只その時の口任せに單語を以て答へる。その答を神聖なる占正《ウラマサ》と信奉して、占事を判斷するのである。後拾遺集、大鏡などに見(935)えたのも略この趣である。○いしうらもちて 石卜によつてといふに同じい。祝詞に「天津|神量《ミハカリ》以ちて」(大殿祭)「神漏岐神漏美《カムロギカムロミ》のみこと以ちて」(大祓)とある。石占は極めて原始的な簡單な卜占法で、卜問ひの意味も多種であるが、その方法も多樣である。例へば目方のありさうな石に對してこれを持ち上げ得れば吉、得なければ凶と豫定しておいて持ち上げる法。よく社頭などにある力石はその名殘である。これに就いて信友はいふ、道祖神の社内に置ける石につきその輕重を定めて占ふものと。又一つは小石を投げ上げて物の上に載れば吉、墮つれば凶とする法。――これは今も行ふ――景行天皇紀に、天皇賊を討たしめ給ふ時、柏峽《カシハヲ》の大野に大石あるを「祈v之曰(マハク)、朕得(バ)v滅(スヲ)2土蜘蛛(ヲ)1者、將(ト)d蹶(ルニ)2茲石(ヲ)1如(ク)2柏葉(ノ)1而擧(ガラ)u、因(リテ)蹶(レバ)v之(ヲ)則(チ)如(ク)v柏(ノ)上(リヌ)2於|大虚《ソラニ》1、故號(ケテ)2其石(ヲ)1曰(フ)2踏石(ト)1也」(卷卅)とあるも、この石占の一法であると。夕占や石トは例へば病魔退散の祈祷を行ふに、祟神《タヽリガミ》の實體、祭事の効果の有無など、まづ誓言《チカゴト)を立てゝ問うたものであると。新考に、こゝを前後不通のやうにいひ、石占問ふことと神祭りの所論とは全然別事なればと難じたのは當らない。古義に「以而」を問〔右△〕而の誤かとあるは、却て誤である。○みもろをたてて 庭上などに神の御室《ミムロ》即ち神籬《ヒモロギ》を造つたのをいふ。正式には屋代《ヤシロ》(社)を建てるのだが、臨時の神祭には、略儀を用ゐるのである。「みもろ」は神祭る室《ムロ》の意で、「み」は敬稱。「もろ」はムロの轉。「三諸」は借字。○まくらべ 前方といふに同じい。「枕よりあとより戀のせめくれば」(古今集、雜體)も前方より後方より戀のせめくるの意。抑も枕といふ名詞は多義に分れてゐる。(1)は頭を支ふる具でこれが本義。(2)は前方をさす。(3)は身の周邊《マハリ》をさす。眞淵はこゝの枕を(1)の義にのみ考へた爲領會しかねて牀〔右△〕の誤字と斷じ、後人またその誤を襲ふものが多い。○いはひべ、前出(八六九頁)。「戸」は※[分/瓦]の借字。○たかだま 前出(八六九頁)。○まなく 一杯に。宣長はシヾニ〔三字傍線〕と意を以て訓んだ。○ゆふだすき 木綿を襷としたもの。「木綿《ユフ》」は「まそ(936)ゆふ」を見よ(四四二頁)。「たすき」は既出(三九頁)。○かひな 肱のことなれど、肩にまで及ぼしていふ。字鏡に、肱(ハ)、辟※[(尸/肉)+辛]《ヒヂ》也肩也、加比奈《カヒナ》とある。○あめなる。天上にある。○ささらのをぬ 天上にある野の名であらう。卷十六にも「天なるや神樂《サヽラ》の小野に」とあるが、他にその所見がない。「ささら」は佐瑳羅餓多《サヽラガタ》(允恭天皇紀)「やすみしゝわが大王のおばせるだゝらの御帶」(繼體天皇紀)「鵜野讃良《ウヌノサヽラ》(持統天皇紀)など見え、小《サヽ》の語にら〔傍点〕の接尾辭の添うたもの。但卷六にも月をサヽラエ男と稱してあるので思ふと、「さゝら」は天上にある事物の讃稱ではあるまいか。○ななふすげ 七編《ナナフ》菅の義で、葉の長い菅をいふ。十布《トフ》の菅薦《スカゴモ》も十經《トフ》に編みなす菅薦である。或は七節《ナナフシ》菅の義か。さらば根の七節ある菅のこと。「すが」は上出(七三六頁)。又古義が「七」を石〔右△〕の誤字としてイハヒスゲ〔五字傍線〕と訓んだのは面白くはあるが、鑿説である。○あめのかはら 天の川の川原。記紀に見えた高天原の天の安河を、銀河の天の川に湊合して用ゐた。○みそぎ 身滌《ミソヽギ》の略。水邊に出て身に水を滌いで淨むること。○たかやま 泊瀬山をさす。○いはほのうへ 巖《イハホ》のほとり。△地圖 挿圖85を參照(二七〇頁)。
【歌意】 女竹のやうにすんなりした皇子樣、丹土のやうに美しいわが大王樣は、處もあらうに神とある御自身の思召から、泊瀬山に今は〔二字右○〕齋ひ鎭まつて入らつしやると、即ち既にその御葬儀が濟んだと、あの使の人がサいひました。デタラメかしら私がさう聞きました、僞言かしら私がさう聞きましたよ。早くかうと知つたら〔九字右○〕、大空の遠くのはて、大地の行きどまりまでに、遠方なら〔四字右○〕杖突き近處なら〔四字右○〕杖突かずも往つて、辻では夕占《ユフケ》を問ひ、社には石|卜《ウラ》を立てゝ、その占《ウラ》のまゝに〔七字右○〕、私の宿に神籬をしつらひ、前の方に齋※[分/瓦]を据ゑ、竹玉を一ばいに絲に貫き垂して、木綿の襷を肩に懸けてお祭をし〔四字右○〕、出來ることなら〔七字右○〕天上にある佐々羅《サヽラ》の小野の七編《ナヽフ》菅を手に執り持つて、天の川の川原に出向つて、王の息災延命の爲|祓除《ハラヘ》の潔修《ミソギ》をしようものを、それももう今は後の祭〔十一字右○〕で、ほんに宇宙間での悔しい事で、世間での悔しい事は、この王が泊瀬の高山の巖根の邊に御出なさることかいな。 
(937)〔評〕 この歌は構成が一寸變つてゐるから、先づその組織を解剖して見る必要がある。初頭より「我が聞きつるも」までは第一段、次の「天地に」より終までは第二段と大別され、更に第二段中「天雲の」より「潔身てましを」までは中間の挿入句となる。然しこの挿入句は通例の場合と異なつて、この歌の中心がそこに置かれ、頗る重要なる役割を務め、殆どこれがこの歌の司命となつてゐる。
 次にこの歌の鑑賞に先立つて、石田王と丹生王との性別とその身分聞係とを決定せねばならぬ。それは石田王が男で、丹生王が女か、石田王が女で丹生王が男か、又身分は夫妻關係か、兄弟姉妹の關係か、朋友關係かといふことである。
 殘念な事にはそれらを決定すべき記載がなく、又歌のうへにも確たる證迹が認められない。「なゆ竹のとをよる」の形容は卷二にも「なよ竹のとをよる子ら」とあつて、婦人の※[鳥の上部/衣]※[女+耶]たる姿態に殊にふさはしいが、茲には「皇子《ミコ》」に係けてある。或は「皇子」は皇女〔右△〕の誤かも知れない。「狹丹づらふ」も男女を通じて少壯の紅顔を形容する。即ち「さ丹づらふ漢女《アヤメ》をすゑて」(卷七)「さ丹づらふ妹を念ふと」(卷十)は女を形容し、「さ丹づらふ君が名いはゞ」(卷十三)「さ丹づらふ君」(卷十六)は男を形容してゐる。又本文の「大王」は多く皇子王孫をいふが、卷一の「わが大王物なおもほし」の大王は女帝元明天皇を斥し奉つてゐる。かうなると男王か女王かも判然しないが、僅に「皇子」とある字面に依つて、石田王を男性と假定して置かう。後出「河風の寒き長谷《ハツセ》を」の左註の
  右二首者、或云(フ)、紀(ノ)皇女(ノ)薨(ギマセル)後、山前(ノ)王(ガ)代(リテ)2石田王(ニ)1作(メル)之也。
を參考すれば、この假定は殆ど眞實に近いと思ふ。又作者丹生王は卷四の丹生女王と同人と假定して、身分關(938)係は不明のまゝに、とにかく批評の筆を進めたい。
 「嫋竹のとをよる皇子、さ丹づらふわが大王」は、石田王がいかにスマートな紅顔の美丈夫であるかゞ想像される。それが事もあらうに泊瀬の山に「神さびにいつきいます」は、御心づからとは申しながら、その夭折を誰れか哀惜せぬ者があらう。まして近親者たる作者であつて見れば、その眞實なる凶報に對してすらも、尚「およづれ――たは言――」と罵らざるを得なくなるのは亦人情である。
 「玉梓の人ぞいひつる」は挽歌に散見する慣用語で、
  黄葉の過ぎて去にしと玉梓の使のいへば……(卷二、人麻呂―207)
  黄葉の過ぎて行きぬと、玉梓の使のいヘば……(卷十三使3344)
  見まくほり念ふ間に玉梓の使のくれば……(卷十七、家持―3957)
など疊見するが、これは當時の通信機關が、使丁を走らせて急報する外に方法がなかつたからである。隨つて作者は石田王とは別居して居たことが推斷される。
 「およづれか――」「たは言か――」も萬葉人の凶報に興奮した際の常套文句である。その證は、
  およづれのたは言とかも……(卷十七、遙聞2弟(ノ)喪1作歌、家持―3957)
  於與豆禮加母《オヨヅレカモ》、多波許止乎加母云《タハコトヲカモイフ》……(續紀、卷卅一、左大臣永手(ノ)薨時(ノ)詔詞)
 「天地の悔しき事の世間の悔しき事は」の反覆は、儔のないその悔しを強調するに有効な表現で、「天地」「世間」は只語をいひ換へたまでである。
 「天雲のそくへの極み」は天空の最端だから、その對句としては大地の最端を擧げるのが至當で、原本の「天(939)地の至れるまでに」では不完である。「大地」とすれば、上の「天雲のそくへの極み」とある天〔傍点〕に扞挌する患もなく、措辭の蕪穢を免れる。  「杖衝き」は行旅の際男も女もすることで、伊邪那岐命が黄泉國《ヨモツクニ》から歸られて投げ棄《ウ》てられた杖から始めて、珍しい事ではない。「衝かずも」は只排偶的に節を拍つたまでで、さう深い意味はもたないが、強ひて釋すれば、杖衝くは遠行、杖衝かずは近行を意味する。
  枚衝きも衝かずも吾れは行かめども君が來まさむ道の知らなく (卷十三―3319)
などもあれば、これも遠近の行旅を語るその頃の成句である。
 かく天の末地の果までも出て往くといふことは、法外なる誇張であるが、要はその試みたる夕占石卜に特別價値をもたしめる爲の手段である。
 「夕衢占問ひ」は所謂辻古である。その大略の樣子は、
  (1)月夜には門に出で立ち夕占問ひ足占《アウラ》をぞせし行くを欲りして(卷四、家持―736)
  (2)木の國の濱によるとふ、鰒珠拾はむといひて、妹の山背の山越えて、行きし君いつ來まさむと、玉梓の道に出で立ち、夕卜《ユフウラ》をわが問ひしかば、夕卜のわれに告ぐらく、吾妹兒や汝が待つ君は、奥つ浪來よる白珠、邊つ浪のよする白珠、求むとぞ君が來まさぬ、拾ふとぞ君は來まさぬ、久ならば今|七日《ナヌカ》ばかり、早からば今二日ばかり、あらむとぞ君は聞き來し、な戀ひそ吾妹。(卷十三−3318)
  (3)二條の大路に出でて夕占《ユフケ》問ひ給ひければ、白髪いみじき女の只二人行くが立ちとまりて、「何業し姶ふ人ぞ、もし夕占問ひ給ふか、何事なりとも思さむこと協ひて、この大路よりも廣く長く榮えさせ給へよ」と申しかけてこそまかりにけ(940)れ、人にはあらで、さるべき者の示し奉りけるにこそは侍りけめ。(大鏡、上、兼家傳)
  (4)男の來むといひ侍りけるを待ち煩ひて、夕卜を問はせけるに、よに來じと告げければ、心細く思ひて詠み侍りける。(後拾遺集、戀二)
 「石卜」は作者を婦人とすれば、大仰な石を蹴上げたり力持をしたりするのではあるまい。小石を豫め數を決めて積み上げるとか、物の上に投げ上げるとか、打ち當てるとかいふ、ごく優しい卜形であらう。
 かく夕占石卜を問ひ試みた結果として、石田王を死の災厄から救ふべく、その天津罪國津罪過ち犯せるこゝだくの罪を祓へ清める爲に、先づ庭前に神籬を立て、祭事を修する手續きを型の如くに排叙した。而もこの叙事を結收すべき肝腎の目的句が缺けてゐる。少なくとも釋中に述べた如く、「木綿襷かひなに懸けて」の下に「…………の神に乞ひ祷み」の二句ほどは補足されねば、詞意が疏通しない。がこれは祝詞などに屡ば見られる古文の變格である。
 抑もあらゆる人間の災厄をその罪咎の所生と觀じ、それを祓へ清めることによつて、禍日《マガツヒ》から遁れ、心身共に明く清く健やかに更生し得るとする思想は、わが古代からの國民的信念であつた。記紀に見える伊邪那岐命の橘の小門《ヲド》の身滌、素戔嗚尊の祓除改過の條が、即ちそれを如實に示してゐる。
 身滌と祓除とは殆ど不可分の境に置かれ、大祓の祝詞が巨細を※[聲の上半/缶]して語つた如く、相當の河海に臨んでこれを修するが例である。それでも十分なる神驗は約束されてゐる。况や天上の左佐羅の小野の七相菅を持つて、天の川原で身滌したら、その効果は覿面なものがあらう。然しそれは素より不可能な空想である。而も作者はその不能を意識しつゝも、尚強ひても實行して退けようにと、その希望を誇張し、さて惜しい哉それも後の祭(941)であると慨歎してゐる。そこに石田王に對しての甚大なる哀惜の悼意が含蓄される。
 菅茅は當時祓除や潔修に用ゐられた。大祓の祝詞に、
  如此《カク》出でば天津宮事もちて、大中臣天津金木を本打ち切り末打ち斷ちて、千座《チクラ》の置座《オキクラ》に置き足らはして。天津|菅曾《スガソ》を本刈り斷ち、末刈り切りて、八針に取り辟きて〔天津菅曾〜傍点〕、天津祝詞の太祝詞ごとを宣れ。云々。
と見え、菅曾は菅麻の意で、山菅の數多の葉の本末を打切つて、而も針尖でその葉を細く突き裂いた物を机代物として供へた。これはもと水浴の代に山菅を水湯に浸して身滌した行事が形式的となつて遺存されたものらしい。蓋し山菅の葉は常緑で四時その用途を缺かず、清淨なめでたい物といふ以上に、神聖なる物として扱はれたと思はれる。後世その葉の本末を各別に結び合はせて、山菅の占といふ事さへも行はれた。
 末節「高山の巖ほの上にいましつるかも」は第一段の總意の反覆で、直説的筆法を以て極めて卒易に叙し去つた。輕重長短おの/\その處を得たものと評してよからう。
 全篇既成の套語を剪裁して章を成した。故に句々語々を一々に檢討すれば、新味と名づくべきものがなくなる。總括的に見れば一點の疵瑕こそあれ、亦これ一顆の玉である。况や「天なる――久堅の――」の八句の如きは天外の落想であつて、特殊の光彩を煥發するものである。        △麻菅考 (雜考−12參照)
 
反歌
 
逆言之《およづれの》 枉〔左△〕言等可聞《たはこととかも》 高山之《たかやまの》 石穗乃上爾《いはほのうへに》 君之臥有《きみがこやせる》     421
 
(942)〔釋〕 ○とかも とある〔二字右○〕かもの略。卷三、及び卷十七にも「およづれのたは言とかも」の語がある。「と」はトシテの意。古義の説はいまだしい。○いはほ 石|秀《ホ》の義。「穗」は借字。○こやせる 「こやせば」を見よ(五一五頁)。この句の下、と使のいふは〔六字右○〕の語を補つて聞く。
【歌意】 高山の岩根のあたりに石田王の葬送された、と使のいふのは〔七字右○〕、眞實ではよもあるまい、よい加減の僞言であることかな。
 
〔評〕 眞實なる訃報をもなほ「およづれのたは言」と罵倒した。固くその生を信じて誰れが何といはうとも耳をば借さぬといつた、片意地らしい程の口吻は、飽くまで王の生を希望する餘の矯語で、そのいぢらしい感傷の波動を想はせる。三句以下は、
  かくばかり戀ひつゝあらずは高山のいは根しまきて死なましものを (卷二−86)
の儔で、石田王葬送の婉辭である。さてそれを第三者の言として扱ひなから、斷然引用的の形式を略いたこの手法に、簡約の妙を見る。
 
石上《いそのかみ》 振乃山有《ふるのやまなる》 杉村乃《すぎむらの》 恩過倍吉《おもひすぐべき》 君爾有名國《きみにあらなくに》     422
 
(943)〔釋〕 ○いそのかみふるのやま 山邊郡山邊村(今は丹波市町の内)大字布留。石上は汎稱《オホナ》、布留はその小名《コナ》。布留の山は石上(ノ)神宮社地よりその背後の山をかけての總稱。今も杉村がある。○すぎむらの 「杉村」は杉の群立のこと。「村」は借字。初句よりこの句までは、下の「すぐ」に係る序詞で、スギ、スグの類音を利用しての疊語。○おもひすぐ 思ひのなくなるの意。前出(七八九頁)。
【歌意】 石上の布留の山にある杉群のすぎといふやうに、さう無造作に思ひ過ぎてしまへさうな、君樣ではないものを。はてどうせうぞ。
 
〔評〕 丹生王は石田王の兄弟か。若し丹生王を女王とすれば、その姉妹ででもあらう。その夫人とまで決定すべき條件が具備しない。又題詞にも見えぬ事である。
 「布留の山なる杉村」は世に著名なので序詞に用ゐたのは勿論であるが、この二王のいづれかゞ布留に所縁のあつた故と想像されぬこともない。歌は上に見えた、
  飛鳥川川よど去らず立つ霧のおもひ過ぐべき戀にあらなくに (赤人−325)
(944)と何型同調の作だから、その條の評語の一部をこゝに移して看られたい。更に
  朝にひに色づく山のしら雲のおもひ過ぐべき君にあらなくに  (卷四、厚見王−668)
  よろづ世にたづさはりゐて相見ともおもひ過ぐべき戀ならなくに  (卷十−2024)
の二首に至つては、下句が全く吻合してをり、只後首は序歌でないまでである。又「杉」「過ぐ」の類音反復の序法には、
  神名備の神依板にする杉の思ひも過ぎず戀のしげきに (卷九−1773)
  神名備のみもろの山にいはふ杉おもひ過ぎめや蘿《コケ》蒸すまでに (卷十三−3228)
もある。是等の諸作はその制作の後先が判然しない。只厚見王の作のみは確かにこれよりは後出と考へられる。
 
同(じ)石田(の)王(の)卒(れる)之時、山前《やまさきの》王(の)哀傷《かなしみて》作歌一首
 
上と同じ石田王の卒去の時、山前王が哀んで詠んだ歌との意。然し歌の内容は、石田王昵近の人に山前王が詠んで贈つた趣である。上の歌の題辭に既に「石田王卒之時」とあれば、こゝは石田王卒之の五字を略いて、同時〔二字傍点〕とのみある方簡明である。「同」を古義はオヤジ〔三字傍線〕と古語に訓んだが、集中オナジの語も澤山ある。○山前王 忍壁《オサカベノ》親王の子で、茅原《チバラノ》王の父。續紀に、慶雲二年十二月に無位より從四位下、養老七年十二月に散位從四位下で卒した。年壽は三十九ほどか。懷風藻には從四位下刑部卿とある。「前」にサキ、クマの二訓があるが、山前は尚ヤマザキと訓むがよい。△寫眞 挿圖209を參照(七一三頁)。
 
角障經《つぬさはふ》 石村道乎《いはれのみちを》 朝不離《あささらず》 將歸人乃《ゆきけむひとの》 念乍《おもひつつ》 (945)通計萬口〔左△〕波《かよひけまくは》 霍公鳥《ほととぎす》 鳴五月者《なくさつきには》 菖蒲《あやめぐさ》 花橘乎《はなたちばなを》 玉爾貫《たまにぬき》【一云、貫交《ヌキマジヘ》】 ※[草冠/縵]爾將爲登《かづらにせむと》 九月能《ながつきの》 四具禮能時者《しぐれのころは》 黄葉乎《もみぢばを》 折挿頭跡《をりかざさむと》 延葛乃《はふくずの》 彌遠永《いやとほながく》【一云、田葛根乃彌遠長尓《クズノネノイヤトホナガニ》】 萬世爾《よろづよに》 不絶等念而《たえじともひて》【一云、大船之念憑而《オホフネノオモヒタノミテ》】 將通《かよひけむ》 君乎波明日從《きみをばあすよ》【一云、君乎從明日香《キミヲバアスユ》】 外爾可聞見牟《よそにかもみむ》     423
 
〔釋〕 ○つぬさはふ 石《イハ》に係る枕詞。既出(三九九頁)。○いはれ 前出(七一二頁)。○あささらず 前出(八五九頁)。○ゆきけむひと 石田王を斥す。「歸」に往くの意がある。○かよひけまくは 通うたであらうは。「けまく」は過去推量の助動詞けむ〔二字傍点〕のむ〔傍点〕がマクと延びた語。「口」は類聚抄その他による。原本四〔右△〕とあり、又石〔右△〕と書いた證本もある。これはケマシ〔三字傍線〕と訓む。○なくさつきには 久老訓ナクサツキハ〔六字傍線〕。古義は上に來〔右△〕を補つてキナクサツキハ〔七字傍線〕と訓んだ。○あやめぐさ 菖蒲のこと。南天星料の水草にて多年草本。地下に長い根莖を有し、劍状の竝行脈葉を蔟生し、長さ四五尺に至る。花は花軸を抽いて、肉穗花序を成し、淡黄色の小花を數多著ける。根も葉も香氣が高い。今の花菖蒲《ハナシヤウブ》と混じてはならぬ。この句は「※[草冠/縵]にせむと」に係る。○はなたちばな (946)橘をその花期に稱する語。但こゝはその花期にまで殘つてゐる實を稱した。「たちばな」を見よ(三七二頁)。○たまにぬき、玉のやうに貫き。これは緒絲の類で貫き通すのである。「に」はの如く〔三字傍点〕の意。「たへのほに」を見よ(二七四頁)。割註の貫交《ヌキマジヘ)は直截でわかりはよい。○かづら 髪に挂けて飾とする物の稱。これを加行四段に活かせてカヅラクの語がある。髪蔓《カツラ》の義。ツルを古言ツラといふ。さて蔓物をもカヅラといつた。これに三種ある。即ち(1)葛、(ニ)鬘、※[草冠/縵]、(3)髪である。○ながつき 陰暦九月の異名。(1)夜長月の略(古説)。(2)稻刈《イネカリ》月(眞淵説)。(3)稻熟《イネアカリ》月の轉訛(宣長説)。(4)熟饒《ニギ》月にて稻穗の熟《ニ》く月の意(古義説)。○しぐれ 秋冬の交且降り且晴るゝ小雨をいひ、又その天候をいふ。頻昏《シグレ》の義。平安期の中頃よりは專ら冬季の景物と定めた。和名抄に、※[雨/衆]小雨也。之久禮《シグレ》とある。○かざさむと 「花かざしもち」を見よ(一五四頁)。○はふくずの 遠長《トホナガ》に係る枕詞。葛の蔓は長く延び亙るのでいふ。○くず 葛は荳科の蔓草で山野に自生する。葉は圓くして尖頭あり、秋小形にして紫赤色の花を著ける。根より葛粉を製し、莖の繊維を以て葛布を織る。○いやとほながく 「たえじともひて」に續く。割註「田葛《クズ》の根の禰遠長《イヤトホナガ》に」は非。葛の根は遠長くない。○きみをばあすよ 「よ」はより〔二字傍点〕の意の古言。割註「君をばあすゆ」も惡くない。但「香」を衍とする。○よそにかも 「か」は疑辭。 △地圖 挿圖208を參照(七一二頁)。
(947)【歌意】 あの磐余《イハレ》の道を毎朝缺かさず往つたであらう君が、心に念ひながら通うであらうことは、時鳥の鳴く五月には、花橘を玉のやうに緒に貫き、菖蒲草を髪飾の※[草冠/縵]にせうと、又九月の時雨の降る頃は、紅葉の枝を折つて髪挿にせうと樂んで〔三字右○〕、恰も葛の蔓の長く續いてゐるやうに、絶對永久に變るまいことと思つて、通うたであらうその君をば、私は明日からは關係なしの餘所外のものに見ることかなあ。急に卒去なされたので〔十字右○〕。
 
〔評〕 石田王はその葬處が泊瀬山であることは、上の丹生王の歌中にあるが、その居宅も泊瀬であつたと想はれる。おなじ泊瀬でも居宅の方は藤原京に近い處であらう。
 王は傳が不明だから何役を勤めてゐたかは分らぬが、中流程度の官吏として、毎日「朝さらず」藤原京に出勤したので、道は必ず磐余を通過するのであつた。
  つぬさはふ磐余も過ぎず泊瀬山いつかも越えむ夜は更けにつゝ  (卷三、春日藏首老−282)
はこの逆コースなのである。
 作者は通勤の途上にある石田王の意中を忖度して、宮中に行はれる年中行事の、最も興味饒い節會に想到した。節會には王卿をはじめ大小の官吏が、身の程々に隨つて、言壽酒にその頬を染めて拍上《ウタゲ》する光景のあるが中に、おのが五月と時鳥の名告《ナノリ》を擧げる端午の節會は、その尤なるものであつた。
  凡五月五日(ノ)節會、文武群官著(ケヨ)2菖蒲(ノ)※[草冠/縵](ヲ)1。(大寶令兵部省式)
  天平十九年五月庚辰、是日太上天皇(元正)詔(リ)曰(ハク)、昔者五日之節、常(ニ)用(ヒテ)2菖蒲(ヲ)1爲(シキ)v※[草冠/縵](ト)、比來《コノゴロ》已(ニ)停(ム)2此事(ヲ)1、從(リ)v今而後、非(レバ)2菖蒲(ノ)※[草冠/縵](ヲセ)1者、勿(レ)v入(ルル)2宮中(ニ)1。(續紀卷十七)
(948)菖蒲※[草冠/縵]せぬ者は絶對宮門を潜らせないといふのだから面白い。勿論その香氣は辟邪の料とされてゐるからではあるが、文武百官が悉く冠巾に菖蒲を挂けて出入する光景は、見て珍しいのみならず、官吏自身もその異樣な行事に大いに興味をもつて、若い男などは血の氣を湧かしたものであらう。
  時鳥いま來鳴きそむ菖蒲草かづらくまでに枯るゝ日あらめや  (卷十九−4175)
  菖蒲草はな橘を、貫きまじへかづらくまでに――。  (卷十九−4180)
丁度その頃は橘の去年の實が黄金の鈴と色づいてゐる。これを菖蒲※[草冠/縵]の中に貫き交へたり、又貫き垂れて玉佩に擬したり、或は季節の物として、一連二連と緒に貫いて贈遺の料とした。昔から橘には玉に貫き通すことを腐る程いつてゐる。  
  橘はおのが枝々なれゝども玉にぬく時おやじ緒にぬく  (天智天皇紀童謠)
  五月のはな橘を君が爲珠にこそぬけ零《チ》らまくをしも (卷八、大伴坂上郎女―1502)
  百枝さし生ふる橘、玉に貫く五月を近み――。 (同上、大伴家持−1507)
  香ぐはしき花楠を玉に貫き贈らむ妹はみつれてもあるか  (卷十−1967)
  白玉をつつみてやらな菖蒲草はな橘にあへも貫くがね  (卷十八−4102)
  菖蒲草はな橘を、をとめらが珠に貫くまでに――。 (卷十九−4166)
など見え、古へは去年の實を夏の花咲く頃まで枝に殘して置いて賞翫し、端午の日に一遍に採つてもてはやしたらしい。
 次いでは秋の重陽の宴、その頃には時雨が降りそめ、山の紅葉はそろ/\色付くのであつた。宴に侍る王卿(949)以下の官吏が、紅葉の小枝を一寸巾子に髪挿すなどは、興趣の饒いこの日の所作であらう。
 石田王は何時もかういふ若々しい希望と念願とを懷いて、千萬年も生きるやうな氣で、勤務の爲に磐余の道を通過したであらうと、想像を逞うした。石田王が相當の若者であつたことが、如實に暗示されてゐる。
 かくの如く、無より有を生ぜしめ、空中に樓閣を現ずる幻化手段を弄したこの作者は、必ず尋常一樣の詞人ではないと考へられる。恐らく作者自身もそんな氣持で暮して居たのであらう。すると石田王と作者山前王とは、若い同志の朋友であつたかも知れない。
 然しながら王の素志は一旦にして碎け、忽ち高山の巖の中の人となつた。「君をば明日よ餘所にかも見む」が即ちそれで、その死を言外に彷彿せしめ、模稜の間にその哀悼の意を萬せた。二句十二音、只それだけで一篇の命意を了し、戛としてその響を收めた。實に旨いものである。而もその句の音數が43−52の組織で、多數音を上位に置いた促調であるが爲に、調の上では非常な力強さを示し、意の上では緊しく思ひ迫つた情緒の昂揚を見る。作者は詩作の上にも當時有數の技倆を示してゐる。信に敬服すべき才人である。
 「つぬさはふ」より「通ひけまくは」までを一段、次に「通ひけむ」までを二段、以下を三段と分つ。中間「霍公鳥來鳴く五月は――」と「九月のしぐれの時は――」とは長句の對偶、「延ふ葛の――」「萬世に――」は短句の對偶で相承けてゐる。「花橘」は「玉に貫き」に直續し、「菖蒲」は「※[草冠/縵]にせむと」に跨續して、交錯の辭法を取つた。古義などに菖蒲も橘も玉に貫くやうに解したのは誤である。「※[草冠/縵]にせむと」「折り挿頭さむと」の兩句は「通ひけむ」に係る。「ゆきけむ人」「通ひけむ君」、この人〔傍点〕と君〔傍点〕とは共に石田王の事だから、いづれかに一定した方が紛れがなくてよい。上に既に「人の通ひけまくは」とあり、下に「念ひて通ひけむ君」とあ(950)るは、正に重複であるが、挿入句のある場合には、かく前後に反復して首尾を整へることが古文の格法で、枕詞などに多い例である。
 この歌古來の註家が皆誤解してゐる。
  初瀬に石田王の通ひける美人ありけるが、石田王の卒せしによりて、その美人が石田王を餘所に見るなり。(古義)
  泊瀬なる石田王(これを女王として)の許へ通ひけむ人をば、明日より女王が餘所に見姶はむとなり。(新考)
皆これ反歌に「泊瀬女」とあるに拘はつて、泊瀬の女の許にかよふ趣に誤解した爲、説明に窮して、作者と石田王との外に、更に第三者を設けて彌縫したものである。女の家で遊ぶに、公廷でやる菖蒲※[草冠/縵]などする者が、當時にある譯のものでない。
 
右一首、或云(フ)柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)作(ト)。
 
 この左註は採らない。考も削るべしといつた。
 
或本(の)反歌二首
 
或本には上の長歌の反歌としてこの二首が擧げてあるとの意。この二首は獨立したもので反歌ではない。契沖千蔭もこの説を執つてゐる。寧ろ左註の大意に據つて、紀皇女の薨後、山前王が石田王の爲に詠んだものとすべきである。
    
隱口乃《こもりくの》 泊瀬越女我《はつせをとめが》 手二纏在《てにまける》 玉者亂而《たまはみだれて》 有不言八方《ありといはずやも》     424
 
(951)〔釋〕 ○こもりくの 初瀬の枕詞。既出(一七六頁)。「口」は國〔右△〕の書寫字。クチの意ではない。○はつせをとめ 初瀬の美人。「はつせ」は既出(八頁)。「をとめ」は既出(四一頁)。「越」をヲトと訓むは、呉音ヲツの轉用。
【歌意】 初瀬處女即ち紀皇女が、手に纏いて愛でてゐた玉は、そこらに散亂してゐるといふことではないかい。テモ情《ナサケ》ないことよ。
 
〔評〕 この歌も次の歌も、その對象が婦人の死である。すべて装身具の散逸はその持主の沒落を想はせるもので、古事記にある女鳥《メトリノ》王の玉|釧《クシロ》の話などは著しい例である。こゝも緒の切れた手玉の散亂を以て、その持主の死を暗示した。紀皇女は泊瀬に住んでゐたので、まづ「初瀬處女」がと呼び掛け、その「手に纏ける」と、若い美しい女の生ま/\しい柔手を點出したことは、手玉を價値づける上において、愛吝の情を強調する上において、頗る効果的である。美しいものゝ亡びに對する愛執が、よく表現されたといつてよい。
  けふ/\とわが待つ君は石川のかひにまじりてありといはずやも (卷二、人麻呂−224)
と結句は同一であるが、彼れは一誦凄愴の氣に打たれ、此れは繊美な句の中に縹渺たる哀感を寓せてゐる。作者が第三者たる立場から、かくして、紀皇女を失うた石田王へ、その同情と悼意とを述べたものと見たい。
 
河風《かはかぜの》 寒長谷乎《さむきはつせを》 歎乍《なげきつつ》 公之阿流久爾《きみがあるくに》 似人母逢耶《にるひともあへや》     425
 
〔釋〕 ○かはかぜ 初瀬川の風。○はつせ 「長谷」は初瀬の地形より生じた字面。○あるく 古言はアリクであ(952)るが、この時代には「あるく」が發生してゐる。天武天皇紀に巡行をルクと訓み、卷五に遊び阿留伎斯《アルキシ》とある。○にる おもふ人に似る。○あへや 「あへ」は命令格。「や」は歎辭。△地圖 挿圖85を參照(二七〇頁)。
【歌意】 川風の寒い初瀬道を、亡き人戀うて〔六字右○〕歎きながら貴方がさまよふのに、せめてその人に似る人でも行き逢へよさ。
 
〔評〕 初瀬路は川沿ひのうへ、三輪卷向の檜原おろし、倉橋山の返しの風の聚まる長谷で、冬は至つて寒い。初瀬處女の歎の爲には、石田王はそれらの艱苦をも冒して、藤原京から出て初瀬路を行かれる。他人が見てもその慘ましさに堪へられない。况や膠漆の友たる作者ではないか。卷二、人麻呂の歌にも、
  玉桙の道ゆく人も、一人だに似てし行かねば、すべをなみ妹が名呼びて、袖ぞ振りつる。 (卷二−207)
とある如く、似た人の行き會ひは、この際せめてもの慰安であらうにとの王の意中の忖度から、遂に勵聲一番「似る人もあへや」と命令的にまで進行した。これその同情が沸騰點に達して立てた激しい響で、初二句はこれらの同情を煽るによき背景である。
 
(953)右二首(ハ)、紀(ノ)皇女(ノ)薨《ミマカリタマヘル》後 山前(ノ)王(ガ)代〔左△〕(リテ)2石田(ノ)王(ニ)1作《ヨメル》之也。
 
紀皇女の薨後に山前王が石田王に代つて詠んだとの意であるが、歌の趣は山前王が石田王の悼亡の情を傷んだ作で、「代」は穩かでない。爲〔右△〕とするか。
 
柿本(の)朝臣人麻呂(が)見(て)2香具山(の)屍(を)1悲慟《かなしみて》作歌一首
 
人麻呂が香具山における人の死骸を見て悲んで詠んだ歌との意。○香具山 既出(一九頁)。 
草枕《くさまくら》 覊〔馬が奇〕宿爾《たびのやどりに》 誰嬬可《たがつまか》 國忘有《くにわすれたる》  家待眞〔左△〕國《いへまたまくに》     426
 
〔釋〕 ○つま こゝは夫をいふ。「嬬」は借字。○くに こゝは本郷故郷などの意。○いへ 既出(一一頁)。○またまくに 待たむにの意。「まく」はむ〔傍点〕の延言。「眞」は類聚古集に據る。原本莫〔右△〕とあるはマタナクニ〔五字傍線〕と訓まれ、意の通りがわるい。
【歌意】 何者の夫が本國を忘れて、この旅宿に死んだのか知らん。家《ウチ》では定めしその歸りを待つてをらうのに。
 
〔評〕 客死の骸を見て、思は忽ちその愛妻の上に馳せる。蓋し當然の聯想である。この客死者も亦その臨終には、當然その本郷と妻とを戀しがつたに違ひない。然るを「國忘れたる」と、無情にも勝手に旅先で死んだものゝや(954)うな口吻は、同情の餘りの矯語で、却てその臨終における懊悩と焦燥と悲痛との交錯を反撥する。かうした裏詞は素より正攻法ではないが、効果は時により偉大なものがある。雲丹や海鼠の腸は天下の美味だが、常食にはならぬ如く、稀に用ゐれば面白い奥の手である。人麻呂の作歌上の技倆は實に不可測といへよう。「たがつまか」の疑問を投げ懸けて、その家人に關係づけ、そこに結句の「家待たまくに」が胚胎されて、死別の悲哀を強調する。
 題詞の「香具山屍」は頗る疎い叙述である。これでは行仆れのやうに聞えるが、歌には「旅のやどりに」とある。想ふに、當時は死穢を甚しく嫌つた爲、旅舍で死んだ遠國の者又は身許の不明な者は――宿帳やうのものはあるまいから――取敢へず屋外に移して暴《サラ》したものと思はれる。さてこそ行摺りの人も見、作者人麻呂も見たのであらう。 
田口(の)廣《ひろ》麻呂(が)死《みまかれる》之時、刑部《おさかべの》垂《たり》麻呂(が)作歌一首
 
○田口廣麻呂 傳未詳。田口は朝臣姓。○刑部垂麻呂 前出(六八一頁)。
 
百不足《ももたらず》 八十隅坂爾《やそくまさかに》 手向爲者《たむけせば》 過去人爾《すぎにしひとに》 蓋相牟鴨《けだしあはむかも》     427
 
〔釋〕 ○ももたらず 八十に係る枕詞。既出(一九四頁)。○やそくまさか 數多の隈坂《クマサカ》。「八十」は多數の義。「隈坂」は折れ曲つた坂のこと。後世は借字に熊坂と書いてゐる。隈路、隈川などその類例も多い。但こゝの隈坂(955)は隈に深い意味はもたぬので、熟語として見てよい。「隅」は隈と通用。廣雅に隅(ハ)隈也とある。正辭いふ、類聚名義抄にも隅(ハ)クマとありと。「隅坂」を眞淵が隅路〔右△〕の誤としてヤソノクマヂ〔六字傍線〕と訓んでから、註者は皆それに從つてゐる。記に(上)百不足八十※[土+向]手隱《モヽタラズヤソクマデカクリ)而侍とある※[土+向]手《クマデ》は即ち隈路と同語だから、正しい古語の辭樣には相違ないが、別に證本がないのに本文を改易する程の理由を發見しない。舊訓はヤソスミサカ〔六字傍線〕。○けだし 「けだしくも」を見よ(五〇七頁)。
【歌意】 澤山の隈坂に、一々手向して祈らうなら、あの死んだ廣麻呂に、蓋し又逢へようかな。
 
〔評〕 記(上卷)に、伊邪那岐命が黄泉國《ヨモツクニ》より逃げ還らるゝ時、黄泉比良《ヨモツヒラ》坂に大石を塞いて追手を喰ひ止め、その大石を道反《チガヘシノ》大神とも、黄泉戸《ヨミドノ》大神とも申すといふ話が出てゐる。これは外でもない、死者の復活を意味するものである。されば隈坂に手向することは、道反(ノ)大神を祭つて死者の復活を折る思想形式と見られる。而も一箇處で足らず、八十隈坂の手向を假想したのは、多行の信によつて祈祷効果の覿面なることを望んだもので、かく廣麻呂の復活方法を種々に工夫する處に、その死を悼む友愛の情味が躍る。
 
土形娘子《ひぢかたのをとめを》火2葬《やきはふれる》泊瀬(の)山(に)時、柿本(の)朝臣人麻呂(が)作歌一首
 
○土形娘子 傳未詳。土形は娘子の氏。應神天皇紀に、大山守(ノ)皇子(ハ)是土形(ノ)君、榛《ハリ》原(ノ)君、凡二族之始祖とある。土形も榛原も遠江國の地名に見える。○泊瀬山 「はつせ」を見よ(八頁)。
 
(956)隱口能《こもりくの》 泊瀕山之《はつせのやまの》 山際爾《やまのまに》 伊佐夜歴雲者《いさよふくもは》 妹鴨有牟《いもにかもあらむ》     428
 
〔釋〕 ○やまのまに 既出(八五頁)。眞淵訓によつた。舊訓ヤマノハニ〔五字傍線〕。古訓ヤマキハニ〔五字傍線〕。○いさよふくも 火葬の烟を喩へたもの。「いさよふ」を見よ(六八四頁)。
【歌意】 あの初瀬山の山の間にたゆたふ雲は、土形娘子なのでまあ、あらうかしら。
 
〔評〕 この泊瀬山は卷一に「こもりくの初瀬の山は眞木立つ荒山道を」とある初瀬の山で、朝倉村の岡陵一帶の地を斥したものと思はれる、長谷寺の山ではあるまい。火葬は印度的葬式法が佛教に伴うて輸入されたもので、文武天皇の四年三月に僧道昭を火葬したのに始まり、忽ちの間に流行して、朝野上下大抵この葬法を取つた。隨つて暮夜山峽岡畔にその烟が搖曳するので、雲に擬せられもするのである。委しくは「雲は妹が火葬の烟〔四字右○〕にかもあらむ」といふべきを、かく聯想の一階を跳躍した叙法は、眼前に火葬の烟を置いての上の感想だから、實在の事相がその聯想補充の役割を勤めてはゐるものゝ、文理は確かにたじろくので、聊か不快である。
 然しこれがさのみ耳障りと感じなかつたのは、火葬の烟が當時の人目に深く強く灼き付けられてゐた結果であらう。土葬から火葬への過渡期の人達の印象はかうもあらうか。
  こもりくの泊瀬の山に霞立ちたなびく雲は妹にかもあらむ  (卷七、挽歌−1407)はこの異傳と思はれる。
 
(957)溺死《おぼれしぬる》出雲(の)娘子《をとめを》火2葬(れる)吉野(に)1時、柿本(の)朝臣人麻呂(が)作歌二首
 
水死した出雲娘子を吉野で火葬した時に人麻呂の詠んだ歌との意。○出雲娘子 傳未詳。出雲は氏か國名かは不明。○溺死 歌によれば吉野川に溺死したのである。
 
山際從《やまのまゆ》 出雲兒等者《いづものこらは》 霧有哉《きりなれや》 吉野山《よしぬのやまの》 嶺霏※[雨/微]《みねにたなびく》     429
 
〔釋〕 ○やまのまゆ 出雲に係る序詞。山間から出る雲と續けた。○きりなれや 霧なれば〔右○〕や。○たなびく 既出(四五二頁)。「霏※[雨/微]」を意訓にかく讀む。「※[雨/微]」は小雨のこと。
【歌意】 出雲娘子は霧であればかして、吉野山の峯に靡くことわい。
 
〔評〕 上のは「雲は妹にか」といひ、これは「兒等は霧なれや」といふ。かゝる假設の構想は、
  打麻を麻續のおほ君海人なれや伊良虞の島の玉藻刈ります (卷−23)
の類甚だ多い。然し「打麻を」の歌では、主格たる麻續王に對して、「玉藻刈ります」がその動作の説明語になつてゐるからよいが、これは主格の「出雲の兒等は」に對しての説明が「峯にたなびく」では、何としても不合理で、聯想の跳躍の度に過ぎた難は免れまい。とはいふものゝ當時はこれでも領會が出來たものらしく、又詩人は時にこれ位の手法を運用する大膽さがあつて欲しい。
(958) 又いふ、こゝの二首、荼毘の烟から雲や霧を連想して、追慕の情を寄せてゐる。さては卷二の依羅娘子《ヨサミノイラツメ》の
  たゞのあひはあひもかねてむ石川に雲立ちわたれ見つゝしぬばむ  (卷二−225)
の雲も、おなじ烟を思念したものであらうことが類推される。
 
八雲刺《やくもさす》 出雲子等《いづものこらが》 黒髪者《くろかみは》 吉野川《よしぬのかはの》 奥名豆颯《おきになづさふ》     430
 
〔釋〕 ○やくもさす 盛に雲の立つ趣で、出雲に係る枕詞。「やくも」は彌雲《イヤクモ》の意。「八」は音借字。「さす」は立つ〔二字傍点〕の轉訛。「刺」は借字。抑も八雲立つ出雲〔六字傍点〕は記の須佐之男命の御歌に始まり、同書倭建(ノ)命の御歌に夜都米佐須《ヤツメサス》出雲建《イヅモタケル》とあるを、紀には椰勾毛多都《ヤクモタツ》出雲建とあるので、夜都米は八雲の轉訛なることが知られる。續紀(卷十一)の歌曲にも、八裳刺曲《ヤツモサスブリ》の名が見える。謠物の上では意義に拘はらず、音調の都合次第で歌ひ換へることは、神樂歌催馬樂などの證する處である。こゝもそれら慣用のまゝに、立つを「さす」といつた。○かはのおき 川でも岸より遠い處を沖《オキ》といつた。〇なづさふ 滯り澁ること。動詞に泥《ナヅ》むといふ。馴著添《ナレツキソフ》又は浪著添《ナミツキソフ》の義とす。おもに水につけていひ、又睨近の意に用ゐる。「颯」はその漢音サフを充てた。
【歌意】 あの出雲の兒の黒髪が、驚いたことに、吉野川の沖に停滯してゐるわ。
 
〔評〕 吉野川の沖には鮎こそ走れ、黒髪がなづさふのは意外な珍事で、而もその黒髪が出雲の兒のものたるに至つては、愈よ驚愕の度を強める。
(959) 作者はこゝに思索一番して逆叙の樣式を取つた。蓋し出雲の兒に注意と同情とを餘儀なくされた結果、まづその名が呼び掛けられるに至つたものであらう。
  我妹子が寢くたれ髪を猿澤の池の玉藻と見るぞ悲しき (拾遺集、卷二十、人丸)
はこの類想であるが、「悲しき」と説破しただけ、餘韻が失はれてしまつた。
 「黒髪は――川の沖になづさふ」、別に一言も哀悼の語を著けず、單なる水死者の状態描寫に過ぎぬものゝ如く見えて、その實は不倫なる物件の湊合に、その意外に打たれた驚愕の情と底知れぬ感傷との躍動を見る。線の比較的太いのもこの種の作には珍しい。「沖」の一語はいかに吉野川の廣いかを想像させ得る。
 出雲の兒は或は出雲出身の采女か。それが吉野川に水死してから荼毘の烟になるまで、作者は實見したのであつた。恐らく作者が供奉した吉野行幸中の出來事ででもあらう。
 排列の順序からいへば、この水死の作と、上の荼毘の烟とは前後すべきものである。
 
(960)過(ぐる)2勝鹿眞間娘子《かつしかのまゝのをとめの》墓(を)1時、山部宿禰赤人(が)作歌一首并短歌
 
勝鹿の眞間の娘子の墓を通つた時、赤人の詠んだ歌との意。○勝鹿 下總國東葛飾郡。カヅシカと濁る説もある。○眞間 葛飾の市川(今は市川市)に今も眞間の名がある。臺地の下は古への葛飾の眞間の入江で、そこに臨んで眞間の里があつた。「まま」は水邊の崖地の稱で、諸國にこの名が存する。卷十四にも「ままの小菅」と詠まれた。轉じては田疇間の丘隴をもいふ處がある。語義はままに崩るゝ故との説もあるが疑はしい。眞々、間々、麻萬なども書く。○眞間娘子 名は手兒名《テコナ》。卷九の長歌の趣によれば、鄙に稀なる美人であつた爲、多くの男達に挑まれたが、感ずる處あつて自殺したらしい。舊註に眞間の入江に沈みて死にたりとある。その生存時代も不明である。本文に「古へにありけむ人の」といひ、卷九に「古へにありける事と」とあつて、赤人時代でも遠い昔話として扱はれてゐる。古縁起には允恭天皇の御代の人と見え、眞淵は飛鳥岡本宮の御宇にありし事なるべしといつてゐるが、どんなものか。只赤人時代にその墓木が既に欝蒼と茂り、松根が長く根張つて露出する程の歳月を經てゐた事を思へばよい。○眞間娘子墓 現今眞間の崖下にある手兒名靈堂の附近か。そこに眞間の井の故蹟の標などあつたが信をおき難い。門前の老松をその墓標かといふ説(成田參道記)もあるが、それも覺束ない。
 手兒名の名義。その字面の如く手兒《テコ》は手童《タワラハ》の類語で、手より釋《オ》かぬ兒の意か。宣長は貴兒《アテコ》、妙兒《タヘコ》などの説を(961)提出してゐる。「名」は背な〔傍点〕、妹な〔傍点〕ね、などいふ愛稱のな〔傍点〕である。卷十四の「劍太刀身にそふ妹をとり見かね音をぞ泣きつる手兒〔二字傍点〕にあらなくに」の下句は、幼兒にもあらぬに音を揚げて泣いたの意である。轉じては、若い婦人を親愛して呼ぶ語ともなり、「埴科《ハニシナ》の石井の手兒〔二字傍点〕が言な絶えそね」(卷十四)、「澤渡《サワタ》りの手兒〔二字傍点〕にいゆきあひ」(卷十五)など詠まれた。更に轉じては、單なる愛兒の意となり、落窪物語に「麿がをぢにて治郎卿なる人のてこ〔二字傍点〕兵部少輔」とある。又愼夏漫筆(西島元齡)所引の説に、今南部津輕(ノ)間、呼(ビテ)2胡蝶(ヲ)1爲(ス)2※[氏/一]胡奈《テコナト》1と見え又古川古松軒書簡に、眞間にて蝶又は美しき物を稱していふとあるが覺束ない。和訓栞には、東國の俗女の美なる者を稱していふとある。今もある手古《テコ》舞の手古《テコ》もこれか。手兒の語性は普通名詞だが、ナの親稱を介して人名となつた。卷九の末の珠名も同格。
 
古昔《いにしへに》 有家武人之《ありけむひとの》 倭文幡乃《しづはたの》 帶解替而《おびときかへて》 廬屋立《ふせやたて》 妻問爲家武《つまどひしけむ》 (962)勝牡〔左△〕鹿乃《かつしかの》 眞間之手兒名之《ままのてこなが》 奥槨乎《おくつきを》 此間登波聞杼《こことはきけど》 眞木葉哉《まきのはや》 茂有良武《しげりたるらむ》 松之根也《まつがねや》 遠久寸《とほくひさしき》 言耳毛《ことのみも》 名耳母吾者《なのみもわれは》 不所忘《わすらえなくに》     431
 
〔釋〕 ○いにしへにありけむひとの 昔居たであらう人が。「あり」は居るの意。この人は時代も姓名も判然しない。只手兒名を妻とした人を斥す。〇しづはた 倭文機。倭文織《シヅオリ》といふに同じい。「幡」は借字。倭文織を約めてシヅリ、シドリなどもいつた。「しづ」は線《スヂ》の義、今も關東地方では筋をシズともキズともいふ處がある。栲麻などの布に横縞の入つた文《アヤ》布で、縞は青をその本色としたらしい。釋日本紀に、有(ル)2青筋(ノ)文1布也、又伯家部類に、青(キ)筋乃|文布《シトリ》とある。その名は既に神代紀に見えた。「倭文」は倭文布の略。舶來の文布に區別する爲に倭〔傍点〕の字を加へて書いたもの。平安期(延喜の頃)まで、これを東國の朝貢とした。常陸風土記にいふ久慈郡(ノ)西、靜織(ノ)里、上古之時綾織之機、人未(ダ)v知(ラ)v之(ヲ)、于時此村初(メテ)織(ル)因(テ)名(トス)と。古ヘの倭布織《シヅハタ》(卷十一)といふ故は、古代からの國産の織物なのでいふと思はれる。又それを帶に用ゐたことは、武烈天皇紀の「大君の御《ミ》帶の倭布はた結び垂れ〔十字傍点〕」の御歌、及びこの歌の句が證してゐる。○おびときかへて 帶解き交はして。○ふせやたて 伏屋《フセヤ》建て。「伏屋」は地に打臥したやうな低い家をいふ。伏廬《フセイホ》に同じい。「廬屋」を意訓にかく讀む。眞淵訓フセヤタツ〔五字傍線〕は惡い。○つまどひ (1)妻を求めに呼び掛くること。(2)妻を訪ふこと。既に「伏屋建て」とあ(963)るからは、こゝの「妻どひ」は(2)の意。○かつしか 「牡」原本に壯〔右△〕とあるは誤。○おくつき 奥津城《オクツキ》の義。墓は人里離れた處に築く故にいふ。「槨」は單にキと訓み、又ヒトキ、轉じてヒツキともいふ。○まき 「まき立つ」を見よ(一七七頁)。○ことのみ 「こと」は事の意。名に對していふ。「言」は借字。○わすらえ 忘られ。「らえ」はられ〔二字傍点〕の音轉で古言。
【歌意】 昔居たであらう人が、その倭文機帶を女と〔二字右○〕互に解き交はして婚約をし〔四字右○〕、別棟の小家を造つて、通うたであらうその女、葛飾の眞間の手兒名の墓處を此處とは聞くが、墓地の眞木の葉がひどく茂つてあるせゐか、松の根が遠長く年經たせゐか、その墓は定かならぬものゝ〔十二字右○〕、その事ばかりもその名ばかりも、私は忘られないのになあ。
 
〔評〕 新婚に別殿別棟の屋を造つて夫婦同棲することは、神代の諾册二神の八尋殿、素戔嗚尊稻田姫の八重垣から始めて、史文に所見が多く、わが邦古來の一般的習慣であつたことは、今更絮説するまでもない。こゝに「伏屋建て妻問ひしけむ」とあるは即ちそれである。そこで「倭文機の帶解きかへて」は、婚後の所作だのに、「伏屋建て云々」の句よりも前にあるは、後先が顛倒してゐると難ぜられてゐる。
 私は試に一説を提出する。想ふに野合は別として正式結婚には、豫め男女互にその帶を交換する習慣があつたのではあるまいか。倭文機帶は上《ウハ》帶で、武烈天皇紀にも見える如く、昔は高貴の方も締められた高級品である以上は、結納品としても亦ふさはしい。後世の結納目録に御帶代の名目のあることは、正にその名殘と思はれる。時代的影響から、男の方ばかりの偏務的にはなつてゐるが、これを往古に溯つて考へると、古事記に據(964)れば、大山|津見《ツミノ》神が御女を邇々藝《ニヽギノ》命に奉る時、百取机代之物《モヽトリノツクヱシロモノ》を持たしめ、大|日下《クサカノ》王はその妹(中※[草冠/帝]姫)が大|長谷《ハツセノ》皇子(のちの雄略天皇)と婚する時、押木《オシキノ》玉※[草冠/縵]を獻つた事がある。これは所謂|禮代《イヤシロ》で、女の方から贈つてゐる。婿と嫁との身分の如何によつては、時に偏務的になることも免かれまいが、先づ一般には、男女双方から禮代として、相當の物特に帶などを相贈つて、その交換に結婚の意義を象徴させたものと見てよからう。但「帶解き」の帶は現に締めてゐる帶だから、それを解いて禮代とすることはいかゞとの抗議もあらうが、この「解き」は帶の縁語としての輕い使用と見てもよく、又古代の風俗習慣には現代人の豫想外の事が多々あるから、不斷締めた帶を交換し合つたものと見たとて、決して差支はない。されば「帶解きかへて」を、必ず婚後の所作と斷定する前提が根本的に成立たない事になる。本文の叙述を疑ふ前に、先づ本文の記事に據つて、謬つた先入觀を訂正する必要があらう。(尚卷四「わが形見みつゝしぬばせ」の歌及び評語を參照)。
 「古へにありけむ人」は何れ相當の眞間男であらう。その倭文機帶をいひ、伏屋建てをいつた處を見ると、今まで井の水を汲んだり藻苅をしたりしてゐた田舍娘ながら、花々しい婚儀を擧げたものらしい。あはれ男の志は厚かつたが、女の命は短かつた。
 眞木の葉及び松が根は、その墓處附近の實在の物を運用したことは疑を容れない。墓木は或は欝蒼と茂り、或は遠く根張つて、それが幾代か前の昔話であることを、無言に物語つてゐる。
 作者赤人は田子浦を通過して富士山の秀詠を遺してゐる。恐らく房總の國衙の下吏などで、この眞間をも訪問したものであらう。惜むらくは探尋の勞を吝んだせゐか、憑弔の意は分明だが、手兒名の事蹟を陳ぶること(965)が疎く、事件の要領が握み難い。男が伏屋を建てゝ妻どふことは、往古にあつては一般の習慣であつて見れば、それだけでは更に特異性がないから、忘れ得ぬほどの事柄も名もない筈であり、手兒名としての存在價値を見出だし得ない。隨つて特に憑弔する理由も薄弱になる。叙述の不備はかくの如く甚しいが、恐らく中間に二三の落句があるのではあるまいか。又「松が根や遠く久しき」の句を承ける語がない。これも不完である。下に必ず落句があらう。
 大體から見れば、「古へにありけむ人の」から「妻問ひしけむ」までは「眞間の手古奈」に係る身柄の説明である。「眞木の葉や――」「松が根や――」の四句は、その落句を含めて、この歌の中心を形作り、「名のみも我れは忘らえなくに」が作者の感想で結收してゐる。
 手兒名の事蹟は何としても、卷九の長歌がよくその詳細を悉してゐる。いはく、
  鷄《トリ》が鳴く吾妻の國に、古へにありける事と、今までに絶えずいひくる、葛飾の眞間の手兒奈が、麻|衣《ギヌ》に青|衿《オビ》つけ、眞麻《ヒタサヲ》を裳には織り着て、髪だにも掻きは梳《ケヅ》らず、履をだにはかず行けども、錦綾のなかに包める、いはひ兒も妹に及《シ》かめや、望《モチ》月の足れる面わに、花のごと笑みて立てれば、夏蟲の火に入るがごと、湊《ミナト》入りに船漕ぐ如く、寄りかくれ人のいふ時、幾ばくも生けらぬものを、何すとか身をたな知りて、浪の音《ト》の騷ぐ湊の、奥津城に妹がこやせる、遠き世にありける事を、昨日しも見けむがごとも、思ほゆるかも。 (高橋連蟲麻呂―1807)
これに據れば、彼れは鄙に稀なる美人であつたが、數多の懸想人を卻けて、死んだものらしい。然るに本文のは、定まつた夫のある趣である。傳聞の相異にも由らうが、いかにせん本文のは筋が通らぬから、無論卷九の傳説の方を採るより外はあるまい。
 
(966)反歌
 
吾毛見都《われもみつ》 人爾毛將告《ひとにもつげむ》 勝牡鹿之《かつしかの》 間間能手兒名之《ままのてこなの》 奥津城處《おくつきどころ》     432
 
〔釋〕 ○われも――ひとにも 「われも」は「ひと」に對へていひ、「ひとにも」は「われ」に對へていふ。
【歌意】 私も見たよ、人にも話さうよ。この葛飾の眞間の手見名の墓處をさ。
 
〔評〕 手兒名の墓處を見たことの誇耀、それはかく誇耀に値するほど、手兒名の事蹟は地方的に有名な美人傳説であり、作者もそこに好奇心を唆された、そのあこがれの大きさが、この誇耀の力強さによつて愈よ映發される。「人にも告げむ」はその誇耀の餘波である。漸層法の初二句の跳ねあがつた強い調子は、下句の體言止めと相俟つて、その均衡がたもたれてゐる。
    
勝牡鹿乃《かつしかの》 眞眞乃入江爾《ままのいりえに》 打靡《うちなびく》 玉藻苅兼《たまもかりけむ》 手兒名志所念《てこなしおもほゆ》     433
 
〔釋〕 ○ままのいりえ、眞間臺下の眞間川はその入江の名殘で、もとは江戸川の河口を含んだ大きな入海であつたらしい。岸邊は洳沮地で、藻などが生えて居たのであらう。
【歌意】 この眞間の入江で、水中に靡いてゐる藻草を、苅つたであらう手兒名の事がさ、思はれてならない。
 
(967)〔評〕 手兒名は、髪を振被つて徒跣で水を汲んだり藻を苅つたりした、多寡が田舍娘である。いはゞ野の花の眼に映じて麗はしく田舍酒の人を醉はする儔で、郷土的代表美人に過ぎまい。けれどもその土地では天にも地にも二つないお月樣で、
  葛飾の眞々の手兒名をまことかもわれに寄すとふ間々の手兒名を  (卷十四、東歌−3384)
誰れかゞ自分に取持つと聞けば、有頂天に男は喜んだ。然し後世まで特にその名聲を遺した理由は別にある。若い女、しかも身分卑しい田舍娘でありながら、世間無常の道理を痛感して、あらゆる戀の誘惑を煩悩視して卻け、去つて未來の教主に、その潔い身を捧げた異常の行爲が、その郷黨を驚愕せしめ、延いては教養に富んだ都人士の心をまで感激させ、思慕哀悼の極、遂にかく詠歎の勞を執らしむるに至つたものだ。既に古人は、
  葛飾の間々の井見れば立ち馴らし水汲ましけむ手兒名し思ほゆ  (卷九−1808)
と歌つた。赤人は故人の生活状態に取材して追慕の情を寄せた手法は全く同一イであり、又その姿態も風調も徹底的に同じだ。後先いづれか。
 
和銅四年辛亥、河邊宮人見2姫島松原美人屍1哀慟作歌四首
 
卷二にこれと同じ題詞があり、(六一二頁)又次の四首の歌はこの題詞に更に關係がない。蓋し上の「葛飾の間々の手兒名がうち靡く云々」に手兒名の水死を考へた後人が、心覺えの爲に同じ水死美人を詠じた卷二のこの題詞を附記して置いたものが、本文に混入したものと斷ずる。「四首」は素より誤。
 以下の歌二首づつその意を殊にしてゐる。もとは各簡單な題詞があつたものだらうが、この題詞が誤つて本(968)文と立てられてから、それに連繋させる都合上、略き捨てられたのであらう。
 
     ○
 
茲に「過(クル)2三穗(ノ)浦(ヲ)1時作歌二首」といふ題詞があるべきである。この二首は上の博通法師の「紀伊國三穗(ノ)石室(ノ)歌」と同意の歌で、久米(ノ)若子追悼の作である。參照を要する(七四八頁)。
 
加麻〔左△〕※[白+番]夜能《かざはやの》 美保乃浦廻之《みほのうらわの》 白管仕《しらつつじ》 見十方不怜《みれどもさぶし》 無人念者《なきひとおもへば》     434
 
或云(フ)、見者悲霜《ミレバカナシモ》 無人思丹《ナキヒトオモフニ》。
 
〔釋〕 ○かざはやの 三穗の浦の序詞として用ゐた。「かざはや」は風速の義で、浪速《ナミハヤ》の對語。舟航上風の荒い處を稱する普通名詞。紀伊の三穗の浦は、卷七にも「風速の三穗の浦廻」とあり、熊野灘に画した風波の荒い處である。風速の浦は安藝の高田郡で異地。「麻」は訓のアサを上略してサに當てたものと見られるが、茲は一字一音で表した書式だから、なほ座〔右△〕の誤としたい。○みほのうら 紀伊國日高郡三尾村。三尾、三穗、美保など書く。尚「みほのいはや」を見よ(七四八頁)。○うらわ 浦のめぐり。○しらつつじ 石南科の灌木。「管仕」は躑躅の借字。「いはつつじ」を參照(四九五頁)。○さぶし 既出(五八九頁)。尚「うらさびて」を參照(一三七頁)。○なき人 亡き人。こゝは久米若子を斥す。△地圖 挿圖219を參照(七四八頁)。
(969)【歌意】 三穗の浦のこの美しい白躑躅、それさへ幾ら見ても、一向面白くないわい、亡き人のことを思ふと。
 
〔評〕 久米若子追悼の作である。
 哀傷の色眼鏡で見れば、一切の世間が薄墨がかつた陰翳をもつ。何を見ても寂しい。况や折も折その磯を飾つてゐる白躑躅、旅人の眼には一旦珍しくも美しくも映じたらうが、何としてもその色相は冷たい。寂しい心をもつて冷たい色相に對する、その刹那の感情は思ひ迫つて、遂に「見れどもさぶし」と喝道された。左註の「見れば悲しも」は本文に比すれば尋常の感がある。
 
見津見津四《みつみつし》 久米能君子我《くめのわくごが》 伊觸家武《いふれけむ》 礒之草根乃《いそのくさねの》 干卷惜裳《かれまくをしも》     435
 
〔釋〕 ○みつみつし 神武天皇の御製に「みつ/\し來|目《メ》(久米)の子等」(紀卷廿三、記中)と見え、「みつ」は稜威《イツ》の轉語で、いひ重ねては「みつみつし」と形容詞(970)格に用ゐ、こゝはその終止形を以て久米に冠した。宣長は大久米命の眼が丸かつたので滿つ/\し久米と續けたといひ、尚諸説あるが採り難い。○くめのわくご 前出(七四八頁)。○いふれ  「い」は接頭語。觸る〔二字傍点〕は四段活下二段活兩用。古義の訓はイフリ〔三字傍線〕。○くさね 「ね」は輕く添へた語。
【歌意】 あの久米若子が、生前その手に觸れたであらう、この磯の草の枯れようことが惜しいなあ。
 
〔評〕 作者は久米若子が時にその洞邊の雜草など押靡けて出入した、生前の生活に想像を馳せて、通例人の漫然と看過する磯の草根にも若子の遺薫を想ひ、深い執著を留めた。いかに若子に傾倒して追慕の情懷に浸つてゐるかゞ窺はれる。その「枯れまく惜しも」と痛歎した所以は、作者の訪問の時季が暮秋凋落の候であつたからであらう。上の歌は白躑躅開花の候だから夏季に屬してゐる。同一人で邊僻なる三穗の岩屋を、時季を殊にしての二度の訪問は先づあるまいと思はれるから、こゝの二首は各別人の作に屬するものと見たい。
      〇
次の二首は挽歌の部に攝すべきでない。相聞の部に入るべきものである。
 
人言之《ひとごとの》 繁比日《しげきこのごろ》 玉有者《たまななちば》 手爾卷以而《てにまきもちて》 不戀有益雄《こひざらましを》     436
 
〔釋〕 ○ひとごと 人の物言ひ、噂、評判などの意。○このごろ 下によの〔右○〕歎辭を添へて解する。○たまならば 上に思ふ兒が〔四字右○〕の主格が略かれてある。
(971)【歌意】 人の噂の彼れ此れとうるさいこの頃よ、それ故思ふ兒の許に通ふことも出來ぬが、もしもあの子が〔四字右○〕玉であるなら、不斷手に卷き持つて、戀しい思ひをせずにすまうものを。さらば通ふ世話もないし、隨つて人言も立つまいになあ。
 
〔評〕 男も手玉を纏いて居た時代の戀の煩悶である。人言を杜がうとすれば會合の機會がない。會合を遂げようとすれば人言がうるさい。かうしたヂレンマにかゝつた焦燥のはてに、發見した唯一の遁げ路は、「手に纏き持ちて」の空想に過ぎない。そんなたわいもない夢でも、見てゐる一瞬間だけは安慰を得るが、理性に醒めれば、依然たる戀と人言との板挾みで、懊悩の苦杯を甞め續けなければならぬ。かはいさうな作者である。
 「玉ならば手に纏きもちて」は、既に卷二「天皇(天智)崩時婦人作歌」に、
  玉ならば手に卷きもちて、衣ならば脱ぐ時もなく、――。(−150)
と見えて、新研ではない。又
  玉ならば手にもまかなむを空蝉の世の人なれば手に卷きがたし(卷四、大伴坂上大孃−729)
  大宮にちひさふ舍人玉ならば晝は手に取りよるはさねてむ(催馬樂、大宮)
はこれより後出の同調である。又
  人言のしげけき時にわぎ妹子が衣《キヌ》にありせは下《シタ》に著ましを(卷十二−2852)
は、取材に於いて玉と衣との相違こそあれ、その著想の基點は全く同一である。その後先のいづれであるかは判明しない。
(972) 戀する人の人言を氣に病んだ歌は、この外にも集中に澤山ある。試に擧げてみると、
  はつ花の散るべきものを人言のしげきによりて淀むころかも(卷四−630)
  人言のしげきまもりて逢へりとも八重わがうへに言のしげけむ(卷十一−2561)
  人言のしげけき君に玉づさのつかひも遣らず忘るとおもふな(卷十一−2586)
  人言のしげきまもると逢はずあれば遂には兒等が面わすれなむ(卷十一−2591)
  人言のよこすを聞きて玉鉾の道にもあはじといへる我妹子(卷十二ー2871)
  ねもころに思ふ我妹《ワギモ》を人言のしげきによりて逢はぬ頃かも(卷十二−3109)  人言のしげくしあれば君もわれも絶えむといひて逢ひしものかも(卷十二−3110)
  人言のしげきによりてまをごものおやじ枕はわはまかじやも(卷十四−3464)
 彼等はいかにその天地の狹さを痛歎したものであらう。然し既に秩序ある社會が構成されてゐる以上は、絶對自由はどの方面でもあるものでない。寧ろかうした屈托を口頭にのぼせ得る作者達は幸福ではあるまいか。
 
妹毛吾毛《いももわれも》 清之河乃《きよみのかはの》 河岸之《かはぎしの》 妹我可悔《いもがくゆべき》 心者不持《こころはもたじ》     437
 
〔釋〕 いももわれもきよみ 妹も我も心清みの意で、互に二心をもたぬをいふ。「清み」を淨《キヨミ》の川にいひ續けた。「み」は形容詞の語根に續く接尾語。○きよみのかは 天武天皇の御代にその宮地を飛鳥の淨原《キヨミバラ》、宮を淨の宮と讃稱した。隨つてその宮地附近の飛鳥川を淨の川と稱した。「あすかの川」を見よ(五〇六頁)。○かはぎしの (973)「くゆ」に係る序詞。○くゆべき 岩石土砂の崩壞するをクユといふ。それを悔《ク》ゆにいひ係けた。 △地圖及寫眞 挿圖21(七〇頁)144(五二三頁)を參照。
【歌意】 お前も私も二心なく心清い、その淨みの川岸の壞《ク》ゆといふやうに、お前の悔いさうな料見は、私は決してもちはすまい。
 
〔評〕 本音だか氣休めだかはわからぬが、自分の眞實を主張してゐる。恐らく女が多少男心に危惧の念を懷いたのに對した誓語であらう。「妹も我れも清み」の前提から進んで、論證的に「悔ゆべき心はもたじ」と、その誠意を打明けた。
  鎌倉のみこしの崎の岩ぐえの君が悔ゆべき心はもたじ  (卷十四−3365)
と同調の作であるが、その純乎として一本調子に突き進んだ熱意の力強さには、數籌を輸する。畢竟上句の叙法が稽簡淨を缺き、いひ掛けや反復の技巧にこだはつた爲といへる。一面から見ればそれだけの餘裕をもつた戀でもある。初句と四句との「妹」の語が、又重複感をいだかせる。
 飛鳥川は一夜に淵瀬は變るといはれる程流が急で、しかも河岸は多く土壌だから壞え易い。こゝに「淨見の河の河岸のくゆ」といふは事實である。
 
右案(フルニ)、年紀并所處、及〔左△〕娘子(ノ)屍、作(メル)v歌(ヲ)人(ノ)名、已(ニ)見(ユ)v上(ニ)也。但歌辭相違(シ)、是非難(シ)v別(ケ)、因(ツテ)以(テ)累(ネ)2載(ス)於茲(ノ)次(ツイデニ)1焉。
 
右はその年紀と場所と娘子の屍と歌の作者とは既に上(卷二)に見える、但歌の詞が全く相違して是非の分別が(974)つかぬ、よつて原本のまゝに茲の順に記載しておくとの意。蓋し上の「和銅四年辛亥河邊(ノ)宮人(ガ)見(テ)2姫島(ノ)松原(ノ)美人(ノ)屍(ヲ)1哀慟作歌」(九六七頁)の題詞を本文と信じた爲、以上四首の内容が相應せぬのを疑つたもので、その非なることは既に辯じた。「及」原本に乃〔右△〕とあるは誤。 
神龜五年|戊辰《つちのえたつ》〔六字右△〕、太宰(の)帥大伴(の)卿(の)思2戀《しぬべる》故人《なきひとを》1歌三首
 
大伴旅人が亡人を追憶した歌との意。○太宰帥 太宰府の長官。「太宰府」及び「帥」を見よ(七九三頁)。○故人 旅人の妻たる故大伴(ノ)郎女《イラツメ》のこと。卷五にも「太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿報2凶問1歌」があり、卷八の式部大輔石(ノ)上(ノ)堅魚《カツヲノ》朝臣歌の左註にも、「右神龜五年戊辰、太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿之妻大伴(ノ)郎女、遇(ウテ)v病(ニ)長逝焉」と見え、堅魚が勅使として太宰府に下向し、その喪を弔問されたことがある。〇三首 こゝの三首中、始めの一首は題詞の如く郎女の歿年神龜五年の作、次の二首は歸京の期に向つた天平二年の作である。この三首を一括する以上は、神龜五年戊辰の六字は削るがよい。
 
愛《うつくしき》 人纏而師《ひとのまきてし》 敷細之《しきたへの》 吾手枕乎《わがたまくらを》 纏人將有哉《まくひとあらめや》     438
 
〔釋〕 ○うつくしき 「うつくし」は動詞にはうつくしむ〔五字傍点〕といひ、愛すること、寵すること。美貌をウツクシといふも、顔美ければ人の愛で寵しむ故である。○しきたへの 「手枕」の枕〔傍点〕に係る枕詞。既出(二五五頁)。「數細」の細をタヘと訓むは、細に精妙《タヘ》の義があるので栲《タヘ》に借用したもの。○たまくら 手を枕とすること。
(975)【歌意】 可愛いお前が枕にした私の手を、又と外に枕にする女が、あらうことかい。
 
〔評〕 斷絃の怨極まつては時に死をさへ思ふ。男子はその貞操をさのみ強ひられなかつた當時でも、心から傷んで泣かぬ者は恐らくあるまい。もう二度の妻は持つまいと誰れも決心する。
 「わが手枕を纏く人あらめや」は全く思ひ迫つた情眞の語である。哀悼の作はなまじ技巧を弄したものよりは、かうした率直なものが眞實感を唆る。左註に據れば、死後數旬を經ての作とある。數旬の後は漸く冷靜に返つて、更に身邊の寂寞を痛感する時だが、元來この作者は、特に情味の篤い性格の人らしい。それに又老境に伴侶を失うた落膽さへ添加されてゐる。飜つて又郎女が如何に愛しき人であつたかが窺はれる。假令後年遊行婦兒島に馴染んで水城のうへに別涙を洒ぐことがあつたとしても、それは徒然の慰に浮草の花を、一寸摘んでみただけの洒落に過ぎまい。
 「纏き」「纏く」の重複も、この歌の感愴の主點として深く強く印象づけられ、不用意の成功となつてゐる。
 
右一首、別去(レテ)而經(テ)2數旬(ヲ)1作歌。
 
右は死に別れて數十日經つて詠んだ歌との意。
    
應還《かへるべき》 時者成來《ときにはなりく》 京師爾而《みやこにて》 誰手本乎可《たがたもとをか》 吾將枕《わがまくらかむ》     439
 
(976)〔釋〕 ○かへるべき 京に〔二字右○〕歸るべき。「應還」は漢文式。○ときにはなりく 眞淵訓によつた。舊訓はトキニハナリヌ。契沖訓はトキハナリケリ〔七字傍線〕。宣長千蔭は「來」を去〔右△〕の誤として、舊訓の如く讀んだ。○まくらかむ 纏かむ〔三字傍点〕といふに同じい。卷五にも「わが摩久良可武《マクラカム》」とある。枕《マクラ》を加行四段の動詞に活用したもの。
【歌意】 太宰の任果てゝ、京に愈よ歸られる時にはなつた。然し歸つた處が、京で誰れの袂を枕にして寢ようことか、その人もゐないわ。あゝ悲しい。
 
〔評〕 郎女の逝後三年、丈夫獨棲の歎は歸期に臨んで愈よ切なるものがあり、悲を新にする。「歸るべき時にはなりく」に、數年振で帝都の土の踏まれる喜びが漲つて見える。只氣の毒なことは、その半面に悲みが裏付けられてゐることである。二人來て一人で歸る。共にこの喜びを頒つべき妻郎女は既に隔世の人なのだ。なまじ京に往つた處で、「誰が袂をかわが枕かむ」と、「誰が」と「わが」との對應の間に、郎女以外絶對に女のない口吻は、眞に情鍾の至で、悽婉骨を刺す心ちがする。
 
在京師《みやこなる》 荒有家爾《あれたるいへに》 一宿者《ひとりねば》 益旅而《たびにまさりて》 可辛苦《くるしかるべし》     440
 
〔釋〕 ○みやこなる――いへ 奈良京の大伴邸をさす。「在京師」は漢文式。○ひとりねば 「一宿」は和漢混清の書式。
【歌意】 折角歸つたにしろ、京の荒れた家に只獨寢るなら、定めし今の苦しい旅以上に、苦しいことであるであ(977)らう。
 
〔評〕 作者の宰府の在任は七年、その間主なき京の家だから、荒れ切つたものと假定して、それを背景とした鰥夫の寂寥感を描き、現在の旅愁に比較しつゝ取越苦勞をしてゐる。下の「還(リ)2入(リテ)故郷(ノ)家(ニ)1作歌」、
  人もなき空しき家は草まくら旅にまさりて苦しかりけり (−451)
はその感傷の現况を歌つたもので、この歌の杞憂を如實に裏書してゐる。
 こゝの二首の書式に和習的漢文格の多いことは、注目に値する。或は漢學者たる作者の自記のまゝを傳へたものか。
 
右二首、臨(ミテ)2近(ク)向(フ)v京(ニ)之時(ニ)1作歌。
 
この二首は近々歸京しようとする際に詠んだ歌との意。「向京」は下に「天平二年庚午冬十二月太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿(ノ)上道《ミチダチスル》之時作歌」と見え、作者は二年の十月一日に大納言に昇任、同時上京の命に接したものらしく、この歌はその十月以後十二月上道の時までの間の作である。
 
神龜六年|己巳《つちのとみ》、左大臣|長屋《ながやの》王(ノ)賜v死《シナシメラルゝ》之後、倉橋部女王《くらはしべのおほきみの》作歌一首
 
左大臣長屋王が自盡の刑に處せられた後、倉橋部女王が詠んだ歌との意。○長屋王 既出(二六二頁)。○賜死 續紀によれば、天平元年二月七日、左大臣正二位長屋王が私に左道を學びて國家を傾けむとすと密告する者あ(978)り、その夜長屋王の宅を圍み、八日に鞠間、遂に長屋王を自盡せしめ、その室二品|吉備《キビノ》内親王、男從四位下|膳夫《カシハデノ》王、無位桑田(ノ)王、葛木(ノ)王、釣取(ノ)王等も亦縊死した。○倉橋部女王 傳未詳。卷八に椋橋部《クラハシベノ》女王の歌がある。同人と見えた。
 
太〔左▲〕皇之《おほきみの》 命恐《みことかしこみ》 大荒城乃《おほあらきの》 時爾波不有跡《ときにはあらねど》 雲隱座《くもがくります》     441
 
〔釋〕 ○おほきみ 「太」諸本大〔右△〕に作る。○おほあらきのとき 大荒城仕へ奉るべき時、即ち天壽の盡きた時をいふ。「おほあらき」は既出(四三〇頁)。○くもがくり 死を暗喩する。「くもがくる」を見よ(六三八頁)。
【歌意】 天皇の仰言の畏こさに、まだ天命で死ぬ時ではなけれど、お薨れなさいました。あゝ悲しいこと。
 
〔評〕 天皇の仰言は絶對である。詩の王事|靡《ナシ》v鹽《モロキコト》(唐風)も同意である。殊にわが邦に於いては詔勅は即ち神勅で、一段の威力をもつ。命を召されるとも、即ち喜んで捧げ奉る。これ長屋王の一言もなしに自裁する所以であらう。
 長屋王の鞠問は頗る峻嚴なものであつた。勅使として知太政官事舍人(ノ)親王、一品新田部(ノ)親王、大納言多治比(ノ)池守、中納言藤原(ノ)武智麻呂の大官全部が、右中辨小野(ノ)牛養、少納言巨勢(ノ)宿奈麿等の歴々を從へての臨檢だ。邸外は式部卿藤原(ノ)宇合が六衛の兵を指揮して包圍してゐる。事後の勅言に、
  左大臣正二位長屋(ノ)王(ハ)、忍戻昏凶、觸(レテ)v途則(チ)著(ル)、盡(シ)v慝(ヲ)窮(メテ)v奸(ヲ)、頓(カニ)陷(レリ)2疎網(ニ)1云々。(續紀、卷十)
(979)と見えて、餘程の惡人らしい。
 長屋王は故皇太子高市皇子の子、その妃吉備内親王は故草壁皇子の女で、御夫婦とも天武天皇の御孫で、特別の尊貴と異常の勢力人望を有たれたに違ひあるまい。加之孫王として政務の最高地位たる左大臣の職に就き太政官の實際權力を握つて居られた。而も歌も詠み詩も作る文武の才人であつた。
 亢龍の悔はこゝに兆した。密告者のいふ左道を學んで國家を傾けるとは何を斥したものか。左道とは何か、左道と國家と何の關係あるか。史上では一向不明なのである。
 想ふにこの左道は呪咀まじものの方術か。この前年皇太子が二歳で薨去になつた。御母は藤原夫人(光明子)である。この薨去を長屋王の左道の所爲とし、漸く皇位を※[豈+見]覦するものと誣ひられたものではあるまいか。この皇太子は天皇(聖武)としては始めての大事な御愛子であらせられ、殊に藤原氏としては外戚の重寄に據るべき大切な鍵であつたから、一層の憎しみが長屋王の上に加はつたものだらう。有馬皇子の反には「只天與赤兄知矣」の皇子のお詞がいひ遺されてあるが、長屋王はその審問に對し、一言の辯明なしに誅に伏したものゝ如くであるのは疑はしい。
 又想ふに當時の大政は、左大臣長屋王の外は、大納言多治比(ノ)池守は老齡、中納言大伴旅人は宰府の外任であつたとすると、主としては中納言藤原武智麻呂、同安倍廣庭、參議藤原房前、非參議藤原宇合の四人の手にあつたらしい。武智麻呂(南家の祖)房前(北家の祖)宇合(式家の祖)の三人は夫人光明子と同じく、淡海公不比等の子達であるから、一旦この四兄弟が結束して立つたら、當時の天下はその思ふまゝになるべき運勢の下にあつた。即ち一刻も早く藤氏進出の路を啓かう爲に、彼の密告を奇貨として上官たる長屋王を除き、兼ねて皇(980)子呪岨の報復をしたものとも考へられる。殊に依るとその密告者は無論傀儡で、陰で絲を引く人形使ひが居たものではあるまいか。
 果然長屋王失脚後は藤氏の進出著く目立つて、完全に天下の政柄を握るやうになつた。
 如上の事情を薄々知つた人達からは、長屋王は一層著しい同情を寄せられたものであらう。「大荒城の時にはあらねど雲隱る」と、その不自然な死であることを暗示し、否その「大荒城」「雲隱り」などの用語が普通語であつた當時では、殆ど明示に近い結果を齎し、間接に深い同情の寄與を物語り、哀悼の婉意を寓せてゐる。
 この作、體調高渾にして雄健、殆ど女人の口吻に類しない。
 
悲2傷《かなしめる》膳部《かしはでの》王(を)1歌一首
 
○膳部王 長屋王の長子。續紀によれば、神龜元年二月無位から從四位下を授けられ、天平元年二月父王の死と同日に自經された。膳部は膳夫とも書く。
 
世間者《よのなかは》 空物跡《むなしきものと》 將有登曾《あらむとぞ》 此照月者《このてるつきは》 滿闕爲家流《みちかけしける》     442
 
〔釋〕 ○あらむと あらう道理だと。○てるつき 明月といふに同じい。
【歌意】 膳部王樣のお身の上の盛衰を思ふと悲しくなるが、この世間は詰り常相のないもの、即ち一切空なものであらう道理だとてさ、恰もそれを示すものゝ如く、あの明月は滿ちたり缺けたりするわい。
 
(981)〔評〕 易傳に「日中(スレバ)則(チ)※[日/仄](キ)、月盈(テバ)即(チ)食(ク)」、又史記蔡澤傳に「語(ニ)曰(フ)日中(スレバ)即(チ)移(リ)、月滿(テバ)則(チ)虧(ケ)、物盛(ナレバ)則(チ)衰(フ)、天地之常數也」など見えてから、詩文に明月の盈虚を世相に比擬する言辭が多い。これが佛教の無常觀と合致するので「世の中は空しきもの」といつた。
  こもりくの泊瀬の山にてる月は盈ち缺けしけり人の常なき  (卷七−1270)
はこれと同調のもので、卷十九にも「悲(ム)2世間(ノ)無常(ヲ)1歌」に、
  天の原ふりさけ見れば、照る月も盈ちかけしけり、――。 (卷十九、山上憶良−4160)
と見え、類想が多い。
 膳部王は父王の運命に追隨して、榮華の頂上から一遍に顛落して、悲しい生涯の幕を閉ぢた。若い膳夫王を識る作者は、深くこの有爲轉變の世相に感傷を催したものである。王の死は二月九日であつたから、それより望月の前後に當る或夜、明月に對して故人を懷ひ、間接にその追悼の情を洩らしたのである。
 
右一首(ハ)、作者未詳。
 
天平元年己巳、攝津《つの》國(の)班田《あかちたの》史生《ふみびと・しやう》丈部《はせつかべの》龍《たつ》麻呂(が)自|經死《わなきし》之時、判官《まつりごとひと・はうぐわん》大伴(の)宿禰|三中《みなかが》作歌一首并短歌
 
攝津の班田司の史生たる丈部龍麻呂が縊死した時、その上役たる判官大伴三中が詠んだ歌との意。天平元年は神龜六年の改元。○班田 大寶の田令に凡(ソ)田(ハ)六年(ニ)一(ビ)班《タマフ》とあり、當土の百姓に、六年になる毎に、班田使その國内を巡囘して口分田を班ち與ふるのである。この制孝徳天皇の御代より起つた。班田使には長官次官判官主典史(982)生の役々があつた。○史生 諸司の四等官外の職で、書記を勤務する。和名抄に、史生(俗(ニ)二音如(クス)v賞(ノ))と見え二字でシヤウと呼んだ。○丈部龍麻呂 傳未詳。丈部は和名抄に「安房國長狹郡丈部、波世豆加倍《ハセツカベ》」と見え、義は驅使部《ハセツカヒベ》の略である。それを丈部と書くは、丈は杖の略字で、古へ驅使ひする者は杖を携へた故であらう。契沖はいふ、卷二十の防人の姓氏に安房上總にこの氏が多い。龍麻呂はもと東國人かと。○經死 「經」は縊と同じで、首絞ること。ワナキは羈《ワナ》を加行四段に活用した語。枕《マクラ》、鬘《カツラ》の如き體言も、枕く、鬘くと同じく加行四段に活用させてゐる。○判官 諸司の三等官の稱。長官次官の命を得て宮中の大小事を正し判つ職である。後世これをジヨウと呼ぶは八省の丞(判官)の音より移つたもの。○大伴宿禰三中 類聚抄に御〔左△〕中に作る。題詞にある如く、天平元年には攝津國の班田史の判官であつた。續紀には、天平九年正月遣新羅使副使從六位下が初見であり、同十二年正月に外從五位下、同十五年六月に兵部少輔、同十六年九月に山陽道巡察使、同十七年六月に太宰少貳、同十八年四月に長門守從五位下、同十九年三月に刑部大判事とある。
 
天雲之《あまぐもの》 向伏國《むかふすくにの》 武士登《ますらをと》 所云人者《いはれしひとは》 皇祖《すめろぎの》 神之御門爾《かみのみかどに》 外重爾《とのへに》 立侯《たちさもらひ》 内重爾《うちのへに》 仕奉《つかへまつりて》 玉葛《たまかづら》 彌遠長《いやとほながく》 祖名文《おやのなも》 繼往物與《つぎゆくものと》 母父爾《おもちちに》 (983)妻爾子等爾《つまにこどもに》 語而《かたらひて》 立西日從《たちにしひより》 帶乳根乃《たらちねの》 母命者《ははのみことは》 齊忌戸乎《いはひべを》 前坐置而《まへにすゑおきて》 一手者《ひとてには》 木綿取持《ゆふとりもたし》 一手者《ひとてには》 和細布奉《にぎたへまつり》 平〔左△〕《たひらけく》 間幸座與《まさきくませと》 天地乃《あめつちの》 神祇乞祷《かみにこひのみ》 何在《いかならむ》 歳月日香《としつきひにか》 ※[草冠/因]花《つつじばな》 香君之《にほへるきみが》 牛留〔二字左△〕鳥《にほどりの》 名津匝來與《なづさひこむと》 立居而《たちてゐて》 待監人者《まちけむひとは》 王之《おほきみの》 命恐《みことかしこみ》 押光《おしてる》 難波國爾《なにはのくにに》 荒玉之《あらたまの》 年經左右二《としふるまでに》 白栲《しろたへの》 衣不干《ころもかわかず》 朝夕《あさよひに》 在鶴公者《ありつるきみは》 何方爾《いかさまに》 念座可《おもひませか》 欝蝉乃《うつせみの》 惜此世乎《をしきこのよを》 露霜《つゆじもの》 置而往監《おきていにけむ》 時爾不在之天《ときならずして》     443
 
(984)〔釋〕 ○あまぐものむかふすくに 天の雲が遠く靡き伏してゐる國。こゝは遠方の國の意。龍麻呂の郷國をさす。古義に天下の國土の限の意に見たのは誤。「向」に我に向ふと土に向ふとの二説がある。さてこの語は祝詞に多く出、又集中にも見え、「青雲の棚引く極み、白雲の墜《オ》りゐ向伏す限」(祈年祭)「白雲の棚引く國の青雲の向伏す國の」(卷十三)の類、古代の套語である。○ますらをといはれしひと 龍麻呂をさす。○すめろぎのかみのみかど 天皇の朝廷。「すめろぎ」(一二五頁)及び「みかど」(四九九頁)を見よ。○とのへに 四言の句。「とのへ」は禁中の外郭の門。○たちさもらひ 「たち」は接頭語。「さもらひ」は伺候すること。尚「さもらへど」を見よ(四九四頁)。「侯」は候に通ずる。誤ではない。○うちのへ 禁中のこと。抑も内裏に外(ノ)重中(ノ)重内(ノ)重あり、これを三門といふ。宮衞令の義解に「凡理(ルニ)v門(ヲ)至(ツテ)v夜(ニ)燃(ク)v火(ヲ)、(謂(フ)内及(ビ)中外之三門皆衛士(アリテ)燃(ク)v火(ヲ))竝(ニ)大器(ニ)貯(ヘテ)v水(ヲ)監2察(ス)諸(ノ)出入(ノ)者(ヲ)1」とある。外(ノ)重は左右衛門が守り、中(ノ)重は左右兵衛が守り、内(ノ)重は中衛(左右近衛)が守る。内(ノ)重を又|閤門《ウチツミカド》ともいふ。この三門を守る兵士を衛士《ヱジ》と稱する。○たまかづら 遠長に係る枕詞。既出(三二九頁)。○おやのなも 祖先の名も。○つぎゆくものと 繼ぎ往かむものとて〔右○〕。○おもちち 「おも」は母をいふ東國の古代方言。卷二十にも意毛父《オモチヽ》、阿母志々《オモシヽ》(オモチヽの轉)などある。○こども 子供。單數にも複數にもいふ。○たちにしひ 故里を〔三字右○〕出立した日。「西日」は戲書。○たらちねの 母に係る枕詞。「たらち」は(1)足乳《タラチ》の義にて乳を足らはすをいふ(古義)。(2)日足《ヒタラシ》の義、赤子を育てつゝ日月を足らして人となすをいふ(眞淵説)。(3)足《タラ》しの義にて賛辭、足日子《タラシヒコ》、足比賣《タラシヒメ》などの足《タラシ》なり(古義説)。以上のうち(3)を可とする。「ね」は親愛の意をもつた接尾の尊稱。汝根《ナネ》の命《ミコト》(紀)垂根《タリネノ》王(古事記)など例が多い。さて足根《タラシネ》をタラチネと轉じた。母は子に對して慈愛の權化なので、足根《タラチネ》の母と續けていふ。○ははのみこと 「命」は尊稱。○いはひべ 前出(985)(八六九頁)。「戸」は※[分/瓦]の借字。○ひとて 片手。○ゆふ 「やまべまそゆふ」を見よ(四四二頁)。○とりもたし 「もたし」は持つ〔二字傍点〕の敬相。○にぎたへまつり 和やかなる布を捧げ〔二字右○〕奉り。「にぎたへ」は荒栲に對する語。祝詞に「和多閇荒多閇《ニギタヘアラタヘ》に仕へ奉りて」の語が處々にある。○たひらけく 「平」原本に乎〔右△〕とある。眞淵説によつて改めた。○まさきく 「眞幸《マサキ》くあらば」を見よ(四一四頁)。「間」は眞《マ》の借字。○あめつちのかみ 天(ノ)神|地祇《クニノカミ》といふこと。○こひのみ 願ひ祈ること。「のみ」は麻行四段の動詞で、祈祷の意の古語。○いかならむ 古義は卷五に伊可爾安良武《イカニアラム》とあるによつてイカニアラム〔六字傍線〕と訓んだ。○としつきひにか 年と月日とにかの意。舊訓トシノツキヒカ〔七字傍線〕は非。○つつじばな 「匂へる」に係る序詞。「いはつつじ」を見よ(四九五頁)。「※[草冠/因]」は蓐蓆《シキモノ》。又※[草冠/因]陳は※[草冠/高]《ヨモギ》の一種、※[草冠/因]芋は一種の藥草の名。然るに和名妙に、※[草冠/因]芋を丹躑躅、岡躑躅としてある。岩躑躅やアセボの類の短生して咲くのが※[草冠/因]の如くなるより、※[草冠/因]を躑躅に充てた邦訓と思はれる。○にほへる 若く壯なる貌にいふ。宣長訓カグハシ〔四字傍線〕。○にほどりの 「なづさひ」「かづく」などの語に係る枕詞。久老いふ「牛留」は爾富〔二字右△〕の誤と。「爾保《ニホ》鳥のなづさひこしを」(卷十二)「柔保《ニホ》鳥のなづさひゆけば」(卷十五)などあれば、久老説が可からう。眞淵は一本「牛」を牽〔右△〕とあるによりヒクアミノ〔五字傍線〕と訓み、正辭は「牛」にクの音あり「留」はロと訓む例ありとて、クロトリノ〔五字傍線〕と訓んだが首肯し難い。○にほ かいつぶりの古名、※[石+辛+鳥]※[虎+鳥]。鳩と書くはわが創字。短翼類の水禽。嘴尖鋭に兩翼小さく、足は尾端に近く各趾扁平、巧に水中に出沒す。故にムグリの名がある。○なづさひこむ 馴染んでこうの意。「なづさふ」を見よ(九五八頁)。「匝」はその音サフを轉じてさひ〔二字傍点〕に充てた。○たちてゐて 前出(八五九頁)。○おして(986)る 難波に係る枕詞。難波は神武天皇紀に、名(ケテ)爲2浪速《ナミハヤノ》國(ト)1亦曰(フ)2浪華《ナミハナトモ》1、今謂(フハ)2難波《ナニハト》1訛(レル)也と見え、枕詞の續きは、(1)襲ひ立てる波といふを浪速に續ける(眞淵説)。(2)押|並《ナ》べて光《テ》る浪の華といふを浪華に續ける(古義説)。自分は半ば(2)の説に從つて、押|並《ナ》べて光《テ》る浪といふを浪速に續けたものとする。○なにはのくに 今の大阪地方の稱。この國は郡郷などに當る狹義の國である。吉野國、泊瀬國の類。「難波(ノ)宮」を見よ(二三七頁)。○あらたまの 年に係る枕詞。その意は (1)疎《アラ》玉は砥《ト》にかけて摩り瑳く故に、疎玉の砥を年に係く(古説)。(2)阿良多は光陰の移り行くをいひ、麻は間の義にて、移り行く程の年と係る(宣長説)。(3)新《アラタ》なる田物《タモノ》(又田ノ實)の意。田物は天皇に寄せ奉る故に、田より寄す故にて穀を年といふ。されば新穀《アラタマ》の田寄《トシ》といふ續き(古義−大神景井説)。(2)(3)の説いづれも餘り煩しい。(1)に從つておく。○としふるまでに 「左右」は「いくよまでにか」を見よ(一三九頁)。○しろたへの こゝは衣の枕詞。白衣をいふのではない。「しろたへ」を見よ(一一八頁)。○ころもかわかず 旅にゐて雨露に沾れたまゝなるをいふ。古義に落字あるものとしてコロモデホサズ〔七字傍線〕と訓んだのは不當。○あさよひに 朝夕に〔三字傍点〕といふに同じい。「夕」はヨヒ、ヨ、ヨルなども訓む。○いかさまにおもひませか 「いかさまに思ほしめせか」を見よ(一二四頁)。○うつせみの 世に係る枕詞。又命の枕詞にも用ゐる。既出(一〇七頁)。「欝」は空《ウツ》の音借字。○いにけむ 死んで〔三字右○〕往つたらう。○ときならずして 死ぬる〔三字右○〕時期でなくして。
【歌意】 天雲の靡き垂れた遠い國の勇士といはれた人(龍麻呂)は衛士に差されて、天皇陛下の朝廷《ミカド》で、内裏の外重の守に伺候し、内重の守に奉仕して、永久の上にも永久に、祖先の名をも繼いで行かうものぞと、父母や妻や子供にいひ聞かせて、國元を出立したその日から、その母人は齋※[分/瓦]を前に掘り据ゑて、片手には木綿を執(987)つて持たれ、今片手には和細布《ニキタヘ》を持つて〔三字右○〕供へ、わが子〔三字右○〕(龍麻呂)が〔右○〕平安に仕合はせであれと、天の神地の祇に祈願をし、何時とした年月に、若々しく壯な君(龍麻呂)が、手許に馴れ寄つて來うことかと、起つて待ち居て待ちしたことであらうその人(龍麻呂)は、天子の仰言を恐こみ承つて、官吏〔二字右○〕(班田の史生)となつて〔四字右○〕、難波の國で年の經つまでに、雨露に〔三字右○〕衣も沾れたまゝ、朝夕に劬勞してゐた君(龍麻呂)は、何と思はれてか、惜しいこの世を棄て置いて、死んで往つたことであらう。それも命のなくなる時でもなくしてさ。
 
〔評〕 開口一番龍麻呂が遠國の壯士であることを提唱した。彼れは「額には矢は立つとも脊《そびら》には立てじ」、即ち逃げ庇を以て無上の恥辱と感じた東男であつた。
 龍麻呂は既に軍團の兵士であつたが、衛士に撰擇されて、禁闕守護の光榮に接したのであつた。
 後年彼が史生に出身したことを思ふと、書※[竹冠/下]の素養が相當にあつたことが諾かれる。かうした教育が彼れに施されたことは、即ち彼れの家は尋常の庶民ではなくて、その父祖に六位以下の位階を賜つた者などあつて、郷黨では相應に鳴らした家柄なことを想はしめる。「祖の名も繼ぎゆくものと」と、彼れが家名を口にしたのもこの故であらう。軍防令に、
  凡内六位以下八位以上(ノ)嫡子、年廿一以上(ニシテ)、見(ニ)無(クバ)2役任1者、毎(ニ)v年京國(ノ)宮司勘※[手偏+驗の旁](シテ)、知(リ)v實(ヲ)責(メ)v状(ヲ)簡(ビ)試(ミ)、今爲(ス)2三等(ト)1、儀容端正(ニシテ)工(ナルハ)2於書※[竹冠/下](ニ)1爲(ヨ)2上等(ト)1、身體強幹(ニシテ)便(ナルハ)2弓馬(ニ)1、爲(ヨ)2中等(ト)1、身材劣弱(ニシテ)不(ルハ)v識(ラ)2書※[竹冠/下](ヲ)1、爲(ヨ)2下等(ト)1、−上等(ハ)送(リ)2式部(ニ)1簡(ビ)試(ミ)爲(ヨ)2大舍人(ト)1、下等(ヲバ)爲(ヨ)2使部《ツカヒベト》1、中等(ハ)送(リ)2兵部(ニ)1試練(シテ)爲(ヨ)2兵部(ト)1。
とある。彼れは衛士の名義で上京はするものゝ、さて試驗の結果旨く往つて大舍人になるかも知れないが、先(988)づ大體が「※[草冠/因]花にほへる」流れであつて見れば、衛府の兵衛たることは間違ひもあるまい。兵衛も皆衛士の名を以て呼ばれた。
 龍麻呂は、その門出に當つて、首尾よくこの役義を勤め上げて祖先の名誉も繼ぎ立てゝ往かうと、家内眷屬に揚言した。
 處で父親は素より東男の端くれ、さ程にも思ふまいが、母親は大騷だ。衛士は嫡子を取るのが正規だから、龍麻呂は大事の迹取息子である。花の都とはいへ、知らぬ他國へと旅立てゝ遣つたので、母親は所謂苦しい時の神頼み、祭事を修してわが子が無事平安であるやうにと、天地の神に祈願をし、そしてわが子の歸郷を起つたり居たりして待ちあぐんだであらうその龍麻呂は、上番一年の衛士の年期は果てたが、又簡拔されて攝津國の班田使の史生に任ぜられたのであつた。
 既に大君の御言恐こみ史生と出世はしたが、これは衛士と違ひ、相當の年月が經つての滿期か或は事故かでなければ、解任歸郷はむづかしい。一年と期待してゐたものが、ずつと長引いてしまつた。而も當人龍麻呂は肝衣宵食雨露の沾れを乾す間もなく、忠實にその職に勤勞してゐたのであつた。
 然るに突如として龍麻呂は自殺した。それには複雜なる種々の事情もあらうが、作者は一切それらの問題に觸れず、只一言「いかさまに思ほしませか」と略筆を用ゐてぼかしてしまつた。かゝる言忌は勿論死者に對する同情でもあるが、難を避けて易に就き、煩を厭うて簡に就いた猾手段でもある。
 この歌は後段の龍麻呂が故郷の親達の待望を裏切つたことが中枢になつてゐる。第一が衛士の任期は果てゝも歸郷しなかつたこと、第二が史生轉任で更に年時を重ねて滯留してゐたこと、第三が遂に自殺してしまつた(989)ことである。これは順序のまゝの行叙であるが、一番重心をなす自殺が最後の第三にあることも、結構布置の上において適當である。さてこの三項を反映させる爲に、前段に於いて龍麻呂の希望の光明に燃えた揚言と、母親の焦心の餘りの神祭の祈願状態とを、詳密に行叙し描寫したものだ。
 作者三中と龍麻呂との邂逅は班田使に來てからの事だらう。龍麻呂の人となりが非常に眞面目で勤勉家であつたと推賞して、その數奇の運命を弔して、深く哀悼の情を寄せた。一篇まさにこれ龍麻呂の追悼碑。
 篇中龍麻呂の人稱が統一を缺いてゐる。「いはれし人は」を承けた「待ちけむ人は」は異論もない。挿入句中の「匂へる君は」は母親意中の語であるからよいが、又も「ありつる君は」とあるのが混雜を招く。こゝはやはり「ありつる人は〔二字傍点〕」といひたい處である。
 
反歌
 
昨日社《きのふこそ》 公者在然《きみはありしか》 不思爾《おもはぬに》 濱松之上於《はままつのへに》 雲棚引《くもとたなびく》     444
 
〔釋〕 ○ありしか 幸《サキ》くて〔二字右○〕ありしか。「しか」は過去の助動詞の第三變化。「然」は借字。○おもはぬに 思ひがけぬのに。意外に。卷五に「大船の思ひたのむに於毛波奴爾《オモハヌニ》よこしま風の」とあり。舊訓オモハズニ〔五字傍線〕。○はままつのへに 濱松のあたりに。道麿いふ、もしウヘニと訓むべくは於〔傍点〕の宇上の字の下にあるべからず、さればハママツノヘノクモニタナビク〔十四字傍線〕と訓むべしと。然し「上」もウヘ、「於」もウヘ又ヘと訓む。こゝは同訓の異字を重ねて記したもの。○くもとたなびく 雲として棚引く。雲は火葬の烟を譬へた。
(990)【歌意】 龍麻呂君は、つひ昨日はさ達者で居たつけが、今日は〔三字右○〕意外にも、濱松の邊の雲となつて棚引くことよ。實は荼毘の烟となつてさ。
 
〔評〕 雲は荼毘の烟でそれが「濱松のへに――棚引く」となると、難波は三津の濱松並み立つあたりで、火葬に附せられたものと見える。「昨日こそ――ありしか」に、須臾にその生涯の變轉を見た驚愕の氣持がよく出てゐる。隨つて「昨日こそ」に對する今日は〔三字右○〕の語が必ず補足さるべき叙法である。官等の上下こそあれ、同じ津の國の班田掛りで、朝夕顔を合はせてゐた龍麻呂の突然の死は、その事情が或は判明してゐたらうが、只その悼意のみを叙して、作者はわざと知らぬ顔をしてゐる。この歌は上の
  こもりくの泊瀬の山の山のまにいさよふ雲は妹にかもあらむ(人麿−428)
  山のまゆいづもの兒等は霧なれや吉野の山のみねにたなびく(同上−429)
と同調のもので、その好惡兩方面を踏襲してゐる。よつてその各條下の評語を參照されたい。
 
何時然跡《いつしかと》 待牟妹爾《まつらむいもに》 玉梓乃《たまづさの》 事太爾不告《ことだにつげず》 往公鴨《いにしきみかも》     445
 
〔釋〕 ○いつしかと 何時かと。「し」は強辭。○たまづさの 言《コト》に係る枕詞。既出(五六四頁)。○こと 言。「事」は借字。○いにし 過ぎ去にし。
(991)【歌意】 何時歸るか/\と待つであらう處の妻に、遺言さへもせずに死んだ龍麻呂君かいな。情《ナサケ》ないことよ。
 
〔評〕 甚だ平凡らしい著想だが、國に待つてゐる大事な女房にすら遺書もなく死んだ、その不可解さを咎めた點に、多少の餘情を藏してゐる。それには人にもいはれぬ深い經緯《イキサツ》がありもしたらうとの思ひ遣りである。
 
天平二年|庚午《かのえうま》冬十二月、太宰帥大伴(の)卿(の)向京上道《みやこにみちだちする》之時作歌五首
 
太宰の長官大伴旅人が京に出立する時の歌との意。○向京 作者はこの時中納言より大納言に昇任、歸京の途に上つた。
 
吾妹子之《わぎもこが》 見師鞆浦之《みしとものうらの》 天木香樹者《むろのきは》 常世有跡《とこよにあれど》 見之人曾奈吉《みしひとぞなき》     446
 
〔釋〕 ○とものうら 備後國沼隈郡鞆(ノ)津。その港形巴状を成し、東に仙醉《センスヰ》島を控へ、備後灘の北邊に位する。○むろのき モロともいふ。杜松《トシヨウ》のこと。一名ネヅミサシ。山野自生の常緑喬木にて、高さ數十尺に達する。葉は細長くして尖り針状をなす。花は小形にて雄花と雌花とは別株に生じ、(992)果實は球形肉質の毬果である。樹心香氣あり、これ天木香の名ある所以。和名抄に河柳《カハヤナギ》を充てたのは非。○とこよに 「とこよ」は常にて變らぬ世をいふ。こゝは蓬莱、常世國などの意ではない。「に」はにて〔二字傍点〕の意。
【歌意】 わが妻が嘗て見た鞆の浦の杜松《ムロ》の木は、昔變らずにあるけれど、それを見た妻は、今は世に亡いわ。
 
〔評〕 作者が數年前太宰府へ赴任の途にも、この鞆の津に寄港したものと見える。その際妻の大伴(ノ)郎女が浦の杜松に特に留意した言動でもあつて、それが追憶の因縁を作つたのだらう。郎女は既に宰府で歿したのであつた。
 杜松は中國筋の海岸に頗る多い。播磨の室《ムロ》の津も※[木+聖]生《ムロフ》の泊といひ、この木に本づいた名稱である。餘り風情もない木であるが、當時この大木が鞆の浦の磯邊にあつて、往來の舟人の眼を惹いたのであるらしい。
 杜松と吾妹子との有無の相對に生ずる感愴は、やゝ常套的に墮した。「見し」の重複の如きは一見卒易のやうだが、この場合當然の措辭であらう。
 
(993)鞆浦之《とものうらの》 磯之室木《いそのむろのき》 將見毎《みむごとに》 相見之妹者《あひみしいもは》 將所忘八方《わすらえめやも》     447
 
〔釋〕 〇あひみし 相共に見た。○むろ 「室」は借字。
【歌意】 この鞆の浦の磯邊の杜松の木を見たら、その度毎に、嘗て共に見たことであつたその妻は、忘られようかいな。
 
〔評〕 何の奇もない平凡の想と叙述とで終始してゐる。但「見む毎に」は現在から未來をかけてゐる。即ち杜松に固く亡妻を結び付けて、永久に思出の種であらうことを斷言した。事實上からは、作者は老年になつての歸京で、又と鞆の浦を往訪する機會は殆どもたぬのだ。この矛盾などは一切度外にして、只當面の感情に浸り切つた點に、その詩地を發見する。
 「見む毎に」「あひ見し」の重複は、うるさくないとはいひ難い。
    
磯上丹《いそのへに》 根蔓室木《ねはふむろのき》 見之人乎《みしひとを》 何在登問者《いづらととはば》 語將告可《かたりつげむか》     448
 
(994)〔釋〕 ○ねはふ 根這ふ。根が磐桓してゐるをいふ。「蔓」の字は動詞。○むろのき 杜松(ムロノキ)が〔右○〕。○いづらと 「いづら」はいづこ、どこといふ意に用ゐる。眞淵訓による。舊訓はイカナリト〔五字傍線〕。
【歌意】 磯邊に根張つてゐる杜松が、嘗て共に見た亡妻のことを、今度はお見えにならぬが何處に居らつしやるかと問はうなら、あれは死んだよと〔八字傍線〕、事實を話してくれようかしら。
 
〔評〕 老樹には靈あり神ありと信じてゐた――この種の迷信は支那は勿論、欧洲にも存在する――時代では、それが時に言とひ物いふことは、大して不思議な現象とするに足らぬから、四句の活喩は聯想に自然性がある。筑紫の邊境に最愛の妻を失つて、今は鞆の浦の再訪に、只一人して舊態依然たるこの杜松に對する、何人と雖も感愴に胸を打たれざるを得まい。杜松もし心あつて奥方樣はとの問を發したなら、其處に答ふべき詞を知らない。眞相を告げるには餘に悲酸である。と我れから苦勞の係蹄を作つて躊躇低囘してゐる。「か」の疑辭の一著、實に不盡の妙がある。要するに悲痛の言酸楚の語、一誦すれば涙がさしぐまれ、再誦すれば腸が引きちぎれる。
 
右三首、過(グル)2鞆(ノ)浦(ヲ)1日作歌。
 
與妹來之《いもとこし》 敏馬能埼乎《みぬめのさきを》 還左爾《かへるさに》 獨之〔左△〕見者《ひとりしみれば》 涕具末之毛《なみだぐましも》     449
 
(995)〔釋〕 ○みぬめのさき 「みぬめ」を見よ(六五八頁)。○かへるさ 歸りしな〔二字傍点〕。「ゆくさくさ」を見よ(七一一頁)。○ひとりし 「之」原本に而〔右△〕とあるは誤。類聚抄に據つて改めた。○なみだぐまし 涕ぐまれる。ぐむ〔二字傍点〕は催し萌すこと。形容詞に「ぐまし」といふ。角ぐむ、芽ぐむのグムも同語。
【歌意】 嘗て亡妻と一緒に來て見た敏馬の崎を、この歸りしなに、自分一人でさ見ると、涙が自然ともよほすわい。
 
〔評〕 これは敏馬の崎に限つたことではないが、偶ま其處に於いて湧いた感慨なのである。
 「歸るさに一人し見れば」は往きには二人であつたことを反映して、弧獨の寂寥から生ずる悲觀を高める。蓋し往路は樂しい妹背の道行であつたものが、歸途は死別の悲みを抱いた獨旅である。境遇の變化は對照上、なみ/\の感傷では濟まされない。
 
去左爾波《ゆくさには》 二吾見之《ふたりわがみし》 此埼乎《このさきを》 獨過者《ひとりすぐれば》 情悲裳〔左△〕《こころかなしも》【一云、見毛左可受伎濃《ミモサカズキヌ》〕     450
 
〔釋〕 ○ゆくさ 「ゆくさくさ」を見よ(七一一頁)。○このさき 敏馬の崎を斥す。割註の「みもさかず」は見|放《サ》けずと同意。正辭は「可」にケの響ありとしてサケズ〔三字傍線〕と訓み、山田氏はカ行四段活用の古語とした。○かなしも 「裳」は古本にも裳とも喪〔右△〕ともある。いづれに從つてもよい。原本の衷〔右△〕は非。
【歌意】 往きしなには、亡き妻と二人で、私が見たことであつたこの敏馬の崎を、今の歸りしなには〔六字右○〕、自分一人(996)で通るので、うら悲しいことわい。
 
〔評〕 前の歌とこれとは同じ母胎から生まれた双生兒である。前のに「妹と來し」とあるを、これは「二人わが見し」といつただけ露骨で、又「二人」と「獨」との對照も緊密過ぎるが、かうした際の露骨や率直は悲哀の衝動を如實ならしめる効果を奏する。註の「見もさかずきぬ」は本文の抽象的なるよりは勝つて、委曲の味がある。
 
右二首、過(グル)2敏馬崎(ヲ)1日作歌。
 
還(りて)2入故郷《もとの》家(に)1即(ち)作歌三首
 
京の故郷の家に歸著してすぐ詠んだ歌との意。○故郷家 奈良の佐保の本邸。
    
人毛奈吉《ひともなき》 空家者《むなしきいへは》 草枕《くさまくら》 旅爾益而《たびにまさりて》 辛苦有家里《くるしかりけり》     451
 
〔釋〕 むなしきいへ 女主人たる妻の居らぬのでかくいふ。○くさまくら 旅の枕詞(四〇頁)。△地圖及寫眞挿圖−170(六一七頁)及295(一〇二七頁)を參照。
【歌意】 妻もゐぬ空虚なこの家は、わが家ながら〔六字右○〕、旅の苦みより以上に、苦しいことであつたわい。
 
〔評〕 作者は筑紫出發前の豫想に、
(997)  みやこなる荒れたる家にひとりねば旅にまさりて苦しかるべし  (−440)
といつて危惧したが、案の如く今はそれが事實となつて現れてしまつた。豫想の間は尚一道の光明が朧氣ながらも漂つてゐるが、事實はすべてを暗黒にして假借しない。妻郎女逝いてより既に四年、故郷の佐保の家に還入することによつて、更にその悲を新にする。作者の打歎く息づきが耳について聞えるやうである。
 
與妹爲而《いもとして》 二作之《ふたりつくりし》 吾山齋者《わがやどは》 木高繁《こだかくしげく》 成家留鴨《なりにけるかも》     452
 
〔釋〕 いもとして 妻とで以て。○やど 「山齋」は山中にある靜坐の室をいふ。山庵に同じい。故に意訓にヤドと讀む。六帖の訓に從つた。舊訓はヤマ〔二字傍線〕。宣長及び古義訓はシマ〔二字傍線〕。宣長説に、卷二十に、「於2式部(ノ)大輔中臣(ノ)清麿(ノ)朝臣之宅(ニテ)1宴(スル)歌――屬(シテ)2目(ヲ)山齋(ニ)〔四字傍点〕1作歌三首」とありて、歌は皆庭園の樣を詠み、中には「君がこの島《シマ》」とも詠めり、庭園を古へシマ〔二字傍点〕といへり。こゝも庭園の樣なれば山齋はシマ〔二字傍線〕と訓むべしと。然し「屬目山齋」は山齋で眺めての意で、山齋は庭園をも抱容するが、庭園は山齋でないから、山齋を直ちにシマ〔二字傍線〕とは訓まれぬ。
【歌意】 亡妻と二人で以て、一緒に造つた私の山齋は、留守の間に〔五字右○〕、植ゑた木が高く繁く、なつたことであるなあ。
 
〔評〕 夫婦二人で經營した山齋、それは佐保山の大伴家の本邸内の、邸地に據つて造られたものであらう。數年振にこの山齋に對して見ると、庭土の樹木は見違へるほど長け高く繁茂し、嘗て筑紫で想像した如く「荒れた(998)る家」となつてゐるではないか。景觀は既に昔と變つた。環境は更に重大なる變化を來たし、一木一草も故人郎女の思出の種ならざるものはないとなつては、今に變らぬわが身一つが却て不思議な位のものである。この自然の反映が言外の餘情となつてゐる。殊に「妹として二人造りし」の膠漆も啻ならぬ情味の濃厚さが、背景否源泉となつて全面に流露し、無量の感愴をあふる。紀貰之の
  君がうゑし一むらすゝき蟲の音の茂き野べともなりにけるかな  (古今集、哀傷)
の詠や、土佐日記の末節の還家の記事は、全くこれと同調同趣のものであらう。
 
吾妹子之《わぎもこが》 殖之梅樹《うゑしうめのき》 毎見《みるごとに》 情咽都追《こころむせつつ》 涕之流《なみだしながる》     453
 
〔釋〕 ○こころむせつつ 「こころむす」は中古文に、胸|塞《フタ》がるといふに同じい。他にも「言とはむ由のなければ情耳咽乍《コヽロノミムセツヽ》あるに」(卷四)「心爾咽《コヽロニムセビ》哭《ネ》のみし泣かゆ」(同上)「牟世比《ムセビ》つゝ言どひすれば」(卷二十)などの例がある。「つつ」は「みせつつ」を見よ(七四六頁)。
【歌意】 亡妻が植ゑておいた、梅の樹を見る度毎に、胸が塞がつて、涙が流れるわ。
 
〔評〕 作者が天平二年十二月に上京の途に就いたことは、上の題詞にも見えるが、その日取は不明である。但太宰府での餞宴が「書殿餞酒(ノ)日倭(ノ)歌」(卷五)によると、天平二年十二月六日に催された。されば早くても十二月の七八日の出發と考へられる。現在の倭名妙には九州だけの行程が記載してないが、但周防の國府までは上十(999)九日、下十日とある。これは平安京を出發地としての規定であるが、奈良京とても、太差はなからう。されば宰府から周防までの上程を假に五六日とすると、全部の上程は二十三四日といふ事になる。作者は大納言初任の事でもあり、來る正月元日の朝拜に間に合ふやうにと急いだものならば、年内押詰つて歸京したものと見られる。さてはこゝの三首は、還入當座の天平三年の一月の詠作と斷じてよい。
 一二月は梅花の咲き出す候である。歌に單に「梅の樹」とのみあつても、それは花の咲いた梅の樹であることは疑を容れない。前人が梅花を一向考慮に上せなかつたことは、粗漏といはねばなるまい。梅の樹は花を著けた。而もそれを植ゑた妻は既に世に亡い。故にその花を見る毎に「情咽びつつ涙し流る」の悲痛が湧いてくるのである。
 「吾妹子がうゑし梅の樹」は上の「妹として二人作りしわが山齋《ヤド》)」に呼應する。山齋の主人として、妻郎女は梅を擇んで植ゑたのであらう。梅はもと支那の江南から筑紫地方に移植され、漸く北方へと分布したもので、奈良朝時代には橘と共に既に庭園花木の王座を占めて居た。集中に梅花の詠作が非常に多い。
 郎女の死は神護五年で、天平三年までは足掛け四年になる。作者はこの前年愈よ宰府の地を離るゝに臨んでその爲に泣き、上京の途次その留意した遺物を見ては傷心し、今又歸還してはかくの如く嗚咽した。大抵死の當座こそ、夫は亡妻の爲に妻は亡夫の爲に極度の悼意を捧げるが、「去者(ハ)日(ニ)以(テ)疏(シ)」(文選)で、一周忌も經てばケロリとしてしまふ。かう何年も同じ心持であることは、假令それが特殊の状况のもとに置かれたとはいへ、容易にありにくい事で、郎女がいかに愛しき人であり、作者も亦いかに純眞の愛を捧げて居たかが窺はれて、その人情美に打たれる。(1000)作者旅人はこの歌を詠んでその七月に薨じた。老いて伴侶を失うた人によく見る輕過である。
 
天平三年|辛末《かのとひつじの》秋(の)七月、大納言大伴(の)卿(ノ)薨《うせたまへる》之時(の)謌六首
 
○大伴(ノ)卿 旅人のこと。續紀に、天平三年秋七月辛未、大納言從二位大伴宿禰旅人薨とある。傳前出(七三六頁)。左註によれば、以下五首は資人金明軍の作。
 
愛八師《はしきやし》 榮之君乃《さかえしきみの》 伊座勢波《いましせば》 昨日毛今日毛《きのふもけふも》 吾乎召麻之乎《わをめさましを》     454
 
〔釋〕 ○はしきやし 既出(五一八頁)。この句は「君」に係る。○さかえし 古義は咲み榮えしと解したが、咲み〔二字傍点〕は不用。
【歌意】 あの愛でたい、御繁昌なされた旅人樣が生きて御座るなら、昨日も今日も立て續けに、私を召して御使ひ下さるであらうものを。あゝ情《ナサケ》ない。
 
〔評〕 作者金(ノ)明軍は旅人卿の資人《ツカヒビト》である。資人は朝廷より貴臣に賜ふ僕從を稱する。續紀養老五年三月の條に、
  中納言大伴宿禰旅人(ニ)給(フ)2帶刀(ノ)資人四人(ヲ)1(抄)
と見え、旅人はその五位時代から既に資人を支給せられ、從二位大納言で終つた頃まで遞次に増員され、又別に帶刀(ノ)資人を賜はつたのである。明軍は何時から奉仕したかは不明だが、いづれその廿一歳時分から旅人卿の左右に侍して、朝夕奔走の勞に服したものであらう。同輩は百八十人もゐたらしいが、獨この明軍だけが、名(1001)を後世に遺し得たことは、この僅か五首の吟詠のその誠意を披瀝した餘徳である。
 日竝皇子の御薨逝に東宮舍人等の悲んだ歌の中の、
  東のたぎのみかどにさもらへどきのふもけふも召すこともなし (卷二−184)
と同意で、東宮舍人も私人の使用人も、奉公の忠誠や、頼む樹蔭に雨の漏つたその便りなさやは、いづれも同樣であつた。只これは「いましせば」と道破しただけ、含蓄の餘味を減じてはゐるものゝ、その眞實心には頭がさがる。
    
如是耳《かくのみに》 有家類物乎《ありけるものを》 芽子花《はぎがはな》 咲而有哉跡《さきてありやと》 問之君波母《とひしきみはも》     455
 
〔釋〕 ○かくのみに 「かく」は旅人の薨逝をさす。卷十六にも「如是耳爾《カクノミニ》ありけるものを」とある。舊訓カクノミ〔五字傍線〕。○はぎ 萩。胡枝花。「芽子」はその實の牙形をなすので充てた字。萩の字も借字で、本義は艾《ヨモギ》。○ありやと ありや否や〔二字右○〕と。「や」は疑辭。
【歌意】 かう只はかない〔四字右○〕始末であつたものを、萩の花は今咲いてゐるかどうかと、この私に〔四字右○〕御尋ねになつた旅人樣はなあ。お傷はしいこと。
 
〔評〕 時は秋の七月萩の花咲く時分である。旅人はその病床の徒然に資人明軍を召して、庭上の萩の消息を尋ねられたことがあつたと見える。そして間もなくその二十二日には薨去となつた。抑も萩の花の開不開は風流(1002)な閑問題である。然るに死の一歩手前にありながら、この閑問題を思量してをられた。死の自覺不自覺に關はらず、他人の立場からは惻々の情に禁へない。もし旅人卿が快癒次第翫賞しようとの下心があつての事とすれば、尚更その欲望の裏切られた遺恨が伴うて悲しい。まして御尋を蒙つた當事者明軍としては、永久に忘れ難い思出種で、即ち終身の悲であらう。
 この「はも」に宣長が、戀ひ慕ひて尋ね求むる意あり(紀傳二十七)といつたのは却て説き過ぎてよくない。
 其處まで往かぬ處に有餘不盡の味ひを含んで面白いのである。「かくのみに」は省筆の一法。
 
君爾戀《きみにこひ》 痛毛爲便奈美《いたもすべなみ》 蘆鶴乃《あしたづの》 哭耳所泣《ねのみしなかゆ》 朝夕四天《あさよひにして》     4565
 
〔釋〕 ○いたもすべなみ 甚《イタ》も術《スベ》無みの意。「いたも」甚《イタ》くの語根に「も」の歎辭の添うた語。「いた」は痛《イタ》しの意から轉じて、最も甚しきにいふ。○あしたづの 「音鳴く」に係る枕詞。「あしたづ」は鶴は蘆荻の邊に棲む故に續けていふ。蘆鴨も蘆蟹も同例。「あし」を求食《アサリ》の約とする説もあるが煩はしい。○ねのみしなかゆ 眞淵訓による。ネヲノミナカユ〔七字傍線〕と訓んでもよい。舊訓はネノミナカルヽ〔七字傍線〕。○あさよひ 「あさよひに」を見よ(九八六頁)。○にして 「やま陰にして」を見よ(八六三頁)。
【歌意】 今は世に亡い旅人樣に戀ひ焦がれ、とても仕方がなさに、只聲をたてゝ泣かれることよ、朝に晩にさ。
 
〔評〕 字々句々何の奇もない、極めて平凡の文字を以て表現されてゐながら、内容に充實したその實感は、惻々(と)して人に薄らねば止まぬ概がみる。天眞の流露はかくの如く尊い。しかも音節の局促はその歎きの息詰りを目のあたり聞くやうで、貰ひ泣きがされる。
 題詞がなければ、この歌はたゞの戀歌となる。後世題詠時代となつては、かういふのを嫌つたものだが、實詠には普通の事である。
 
遠長《とほながく》 將仕物常《つかへむものと》 念有之《おもへりし》 君師不座者《きみしまさねば》 心神毛奈思《こころともなし》     457
 
〔釋〕 ○こころと 心の緊張をいふ。心|利《ト》の意か。さらば利《ト》心に同じい。「君に戀ふるに許己呂度《コヽロト》もなし」、(卷十七)、「わが情度《コヽロト》のなぐる日もなし」(卷十九)など見える。「度」は漢音ト、呉音ヅ、さればコヽロトは清んで讀むがよい。この訓久老のに從ふ。舊訓タマシヒ〔四字傍線〕。
【歌意】 永久にお使へ申さうと思うてをつたお方がさ、入らつしやらぬので、私は心の張《ハリ》もないわ。
 
〔評〕 日竝皇子の東宮舍人の歌に、
  あめつちと共に終へむと思ひつつ仕へまつりし心たがひぬ (卷二−176)
に比すれば餘蘊にこそ乏しいが、もとより正直一遍の肺腑の語である。
 
若子乃《わかきこの》 匍匐多毛登保里《はひたもとほり》 朝夕《あさよひに》 哭耳曾吾泣《ねのみぞわがなく》 君無二四天《きみなしにして》     458
 
(1004)〔釋〕 ○わかきこの 稚《ワカ》き兒の如く〔二字右○〕。こゝは序詞ではない。一訓ミドリゴノ〔五字傍線〕も惡くない。「みどりごの」を參照(五七四頁)。○はひたもとほり 這ひまはり。「た」は接頭語。「もとほり」は「いはひもとほり」を見よ(五三九頁)。
【歌意】 まるで赤坊のやうに、朝となく夕となく這ひまはつて、只聲を立てゝ私は泣くのです、君樣が入らつしやらないので。
 
〔評〕 作者は資人だ。嘗ては鹿じ物膝折り伏せ、鶉なす這ひもとほり、匍匐の最敬禮を以てその主人に奉仕したのであつた。今は如在の禮を以て這ひもとほつて、泣くより外の手はない。這ひまはつて泣けば赤兒だ。「君なしにして」の破題の一句千鈞の力がある。
 
右五首、仕人金明軍《ツカヒビトコムノミヤウグンガ》不v勝(ヘ)2犬馬之慕心(ニ)1申〔左△〕(ベテ)2感緒(ヲ)1作歌。
 
旅人卿の資人の金明軍が主人旅人卿を慕ふ情に堪へられず、その感情を打出して詠んだ歌との意。○仕人 正しくは資人と書く。資人をツカヒビトと訓む。資人は廷臣に賜ふ僕從の稱で、天皇皇太子に奉仕する舍人と同じく、その左右に侍し雜役に服する者。持統天皇の御代が初見である。軍防令に據れば、一位に一百人を給ひ、以下正四位まで順次二十人を減じ、從四位に三十五人、正五位に二十五人、從五位に二十人、太政大臣に三百人、左右大臣に二百人、大納言に一百人と規定されて、慶雲二年に中納言の資人を三十人と定めた。外に帶刀資人がある。親王に給ふを特に帳内と稱した。いづれも六位以下の子の廿一歳以上の者及び庶人から採用(1005)した。(令制には内八位以上の人の子は不取とある。)○犬馬之慕心 犬や馬がその飼主を慕ふ如き情。臣子報效の心を喩へた。史記三王世家に、「臣竊(ニ)不v勝(ヘ)2犬馬之心(ニ)1」また漢書汲黯傳に「臣常(ニ)有(リ)2狗馬之心1」などある。○申感緒 「感緒」は心の動きをいふ。「申」は舒《ノ》ぶること。原本中〔右△〕とあるは誤。○金明軍 前出(八九九頁)。
 
見禮杼不飽《みれどあかず》 伊座之君我《いまししきみが》 黄葉乃《もみぢばの》 移伊去者《うつりいゆけば》 悲喪有香《かなしくもあるか》     459
 
〔釋〕 ○もみぢばの 「移り」に係る枕詞。又|過《ス》とも續けていふ。○うつりいゆけば 「うつりゆく」は黄葉《モミヂ》の上では、色變つて散るをいひ、人の上では、死にゆくをいふ。「い」は接頭語。これを古義に「移り」の接尾語の如く解し、「不絶伊《タエズイ》妹」の例を引いたのは誤。細本の訓はウツリイヌレバ〔七字傍線〕。○か 歎辭。
【歌意】 見ても/\飽き足らず入らしつた貴方樣が、かうお薨《カク》れになつたので、ほんに悲しいことであるわい。
 
〔評〕 きはめて率直に尋常に現前の感傷を歌つた。「飽かぬ」は總べて愛情を表す當時の套語。三四句は「もみぢ葉の過ぎにし」(卷二)と同意で、人の死をいふ套語。
 
右一首、勅(セテ)2内(ノ)禮正《イヤノカミ》縣犬養《アガタイヌカヒノ》宿禰|人上《ヒトカミニ》1、使(メタマフ)v檢2護卿(ノ)病(ヲ)1。而醫藥無(ク)v驗《シルシ》、逝水不留《ミマカレリ》。因斯《カレ》悲慟《カナシミテ》即(チ)作(メリ)2此歌(ヲ)1。
 
天皇(聖武)が内禮正犬養人上に命じて旅人卿の看護をさせられた處が、醫藥の效なく薨去されたので、人上(1006)が悲しんでこの歌を詠んだとの意。○内禮正 中務省下に内禮司が置かれ、令に、掌(リ)2宮内(ノ)禮儀(ヲ)1禁2察《イマシメミル》非違(ヲ)1とある。正はその長官で、五六位相當官。○縣犬養宿禰人上 縣犬養氏は神魂命(ノ)の子孫で、諸國の縣に住み、犬を飼うて狩獵に從事し、天皇の大御食に仕へ奉ることを職としたので、氏の名とした。人上の傳は未詳。○逝水不留 死を喩ふ。死は逝く水の去つて留らぬ如くなるのでいふ。卷十九にも「逝く水のとゞめも得ぬと」とある。
 
七年|乙亥き《のとゐ》大伴(ノ)坂上(ノ)郎女《いらつめが》悲2嘆《かなしみて》尼|理願《りぐわんの》死去《みまかれるを》1作歌一首并短歌
 
〇七年 天平七年。○尼理願 長歌及び左註にいふが如く、新羅の女僧で日本に歸化し、旅人卿の家に寄寓して數十年に及んで沒した。
 
栲角乃《たくつぬの》 新羅國從《しらぎのくにゆ》 人事乎《ひとごとを》 吉跡所聞而《よしときかして》 問放流《とひさくる》 親族兄弟《うからはらから》 無國爾《なきくにに》 渡來座而《わたりきまして》 太皇之《おほきみの》 敷座國爾《しきますくにに》 内日指《うちひさす》 京思美禰爾《みやこしみみに》 里家者《さといへは》 左波爾雖在《さはにあれども》 何方爾《いかさまに》(1007) 念鷄目鴨《おもひけめかも》 都禮毛奈吉《つれもなき》 佐保乃山邊爾《さほのやまべに》 哭兒成《なくこなす》 慕來座而《したひきまして》 布細乃《しきたへの》 宅乎毛造《いへをもつくり》 荒玉乃《あらたまの》 年緒長久《としのをながく》 住乍《すまひつつ》 座之物乎《いまししものを》 生者《うまるれば》 死云事爾《しぬといふことに》 不免《まぬかれぬ》 物爾之有者《ものにしあれば》 憑有之《たのめりし》 人乃盡《ひとのことごと》 草枕《くさまくら》 客有間爾《たびなるほどに》 佐保川乎《さほがはを》 朝川渡《あさがはわたり》 春日野乎《かすがぬを》 背向爾見乍《そがひにみつつ》 足氷木乃《あしひきの》 山邊乎指而《やまべをさして》 晩閻跡《くれやみと》 隱益去禮《かくりましぬれ》 將言爲便《いはむすべ》 將爲須敝不知爾《せむすべしらに》 徘徊《たもとほり》 直獨而《ただひとりして》 白細之《しろたへの》 衣袖不干《ころもでほさず》 嘆乍《なげきつつ》 吾泣涙《わがなくなみだ》 有間山《ありまやま》 雲居輕引《くもゐたなびき》 雨爾零寸八《あめにふりきや》     460
 
(1008)〔釋〕 ○たくつぬの 新羅の枕詞。栲綱《タクツヌ》の白きを新羅に係けた。栲《タク》は栲《タヘ》に同じい。「しろたへ」を見よ(一一八頁)。○しらぎのくに 新羅の國。今の朝鮮慶尚道に在つた古代國の名稱。その祖朴赫居世が我が崇神天皇四十一年に興せりといふ。新羅の字は「日新〔傍点〕2其徳1網2羅〔傍点〕四方1」の義から取つたもので、支那の文書には斯廬《シロ》、斯羅《シラ》と記してある。シラは字音、キは城で、都邑のこと。この語、日韓兩國に共通する古語である。○ひとごとをよしときかして 他人《ヒト》のいふ言を尤もと聞かれて。○とひさくる 言問ひよこす。○うからはらから 「うから」は生みの家族《ヤカラ》、「はらから」は同腹の兄弟。○おほきみの 「太皇」の太〔傍点〕は大〔傍点〕と通用。舊訓スメロギノ〔五字傍線〕。○うちひさす 宮に係る枕詞。京《ミヤコ》も宮處《ミヤコ》の義なれば同樣に係る。意は(1)美日《ウツヒ》刺す(眞淵)。(2)現日《ウツヒ》刺す(古義)。の二説がある。或は珍日《ウツヒ》刺すか。珍は高く嚴しき意の美稱。いづれも宮を稱讃していふ。○みやこしみみに 京に繁く。「しみみ」は繋き意。繁々《シミ/\》の略か。集中「繁森」を訓んであるが、この森はシゲルの意であるから、シミモリ〔二字傍点〕の約とする古義説は當らない。○さといへは 里は〔右○〕家は。○いかさまにおもひけめかも この疑辭の「かも」の係に對して、下の「慕ひ來まして」のまし〔二字傍点〕が結となる格であるが、下へ接續の必要上その「まし」を「て」の接屬辭で承けた。「鷄」「鴨」は戲書。○さほのやま 佐保山。大和添下郡(今、添上那)。古への佐保(ノ)郷の北偏を局るおよそ三十米突位の岡陵。その東偏を佐保川が流れてゐる。聖武天皇の佐保(ノ)陵もその一部にある。尚「さほ」を參照(七三八頁)。○なくこなす 泣く兒がその母を慕ふやうに。「なす」は既出(九〇頁)。○しきたへの 宅《イヘ》に係る枕詞。衣袖袂枕床などに係るは普通だが、家に係るは異例である。蓋しその床より遂に家にまで延長したものであらう。「布」は敷の意。尚既出の「しきたへの」を見よ(二五五頁)。○としのを 年の續くをいふ。緒はすべて連續するものにつけていふ(宜長説)。息の緒。靈の緒の類もそれで(1009)ある。○うまるれば 舊訓イケルヒト〔五字傍線〕。○まぬかれぬ 久老は卷五「令v反2惑情1歌」(憶良作)の古本に遁路得奴《ノガロエヌ》の句あるによつて「不免」をノガロエヌ〔五字傍線〕と訓んだのは拘泥である。憶良とこの作者郎女とは同時代だから、ノガロ〔三字傍線〕もよいやうだが、元來ノガレの訛語だから、わざと遁路と書いたもので、普通には用ゐ難い。○たのめりし  タノムの第五變化「たのめ」を現在完了の「り」の助動詞で承け、過去の助動詞の「し」に接續したもの。○たびなるほどに 略解訓によつた。舊訓タビニアルマニ〔七字傍線〕。○あさがは 既出(一四七頁)。○かすがぬ 前出(八五八頁)。○そがひ 前出(八三四頁)。○くれやみと 夕闇のやうに。「と」はの如く〔三字傍点〕の意。「晩」をクレと訓むは、上に「櫻花|木晩《コノクレ》しげに」とある。舊訓ユフヤミト〔五字傍線〕。宣長訓クラヤミト〔五字傍線〕。○たもとほり 「た」は接頭語。「もとほり」は「いはひもとほり」を見よ(五三九頁)。○かくりましぬれ 隱りましぬれば〔右○〕の意。接屬辭のバを略くは古文法。○しろたへの こゝは枕詞。「しろたへ」を見よ(一一八頁)。○ほさず 干され〔右○〕ず。○ありまやま 攝津國有馬郡。六甲山を主峯とした有馬郡の山の總稱。有馬の温泉町は六甲山北の中腹にある。○くもゐたなびき この「くもゐ」は雲と同意に用ゐた。「輕引」を(1010)タナビクと讀むは意訓。○あめにふりきや 雨のやうに降つたか。この「に」はの如く〔三字傍点〕の意。△地圖 卷一卷頭總圖を參照。
【歌意】 理願尼は〔四字右○〕新羅の國から、日本はいゝ國だなど〔九字右○〕人のいふ言を、成程と聞かれて、見舞うてくれる親族兄弟もない、この國に渡つて來られて、わが大君のお治めなされる國内で、京は一杯里も家も澤山あるけれど、何と思つたであらうか、格別|由縁《ゆかり》もない大伴家の在處、佐保の山邊に慕つて來られて、そこに住宅をも造り、年經て長く住み著いてをられたものを、人は生るれば死ぬといふ事に免れないものでさあるので、尼が力にしてゐた人のすべてが、旅行に出た間に、佐保川を朝に渡り、春日野をうしろに見ながら、遠く山邊をさして、くら闇のやうにお隱れなされた爲、私は言ひやうも仕樣もわからず、まご/\うろ/\只一人で以て、衣の袖も乾し得ず、歎き/\して泣いた私の涙、それか母上貴女の入らつしやる有馬の山に、雲に靡いて雨のやうに降りましたか。どうですか。
 
〔評〕 欽明天皇朝、佛教が朝鮮から渡來し、爾來わが邦に弘通し、又佛像經論の輸入に伴うて、鮮人の僧尼の入朝歸化する者が續々と殖えた。
 奈良朝となつては、佛教隆盛の餘り、猥に妖言奸曲をなす僧尼が輩出し、それらを禁遏する法令が屡ば下された。甚しいのは俗人が勝手に出家の仲間入をして課役を免かれる方便としたなど、一口に僧尼といつても千差萬別だ。さうした時代だから、歸化鮮人の僧尼で少し徳行か學問でもあれば、朝野の崇敬を買ふ位は何の造作もない。
(1011) 新羅の理願尼はそれを「人言を善し」と聞き込んで、赤の他人ばかりの外國日本に遣つて來た。わが首都奈良京はそれは廣大な地域で、何の里くれの里を京中に抱擁し、人家が「しみみ」であつたが、理願尼は京中の住居を嫌ひ、京の北郊佐保の里にゐる大納言大將軍大伴安麻呂卿を慕つて、その邸宅内に小菴を結び、永年行ひ濟まして居たものだ。勿論大伴家扶持のもとに彼れは生活して居たのであつた。かういふ門閥の勢家權家がお抱の僧尼をもつことは、その信仰の象徴でもあり、時代に迎合する一種の誇耀でもあつたらう。
 抑も安麻呂卿は和銅七年に薨じ、その息旅人卿が又天平三年に薨じて、嗣子家持はまだ少年だつた天平七年になつて、遂に尼は入寂した。内端に見積つても二十二三年になる。全く「年の緒長くいまし」たのであつた。
 生者必滅は一般的鐵則であるが、佛教は特にこの點を高唱して、無常思想に大悟の前提を置いた。これ「生まるれば死ぬといふことに其――」と、婦人郎女の口からも發る所以である。而も尼の死には更に言及せず、直ちにその葬送を叙して暗示にとゞめたのは、そこに省筆の妙がある。
 處で尼の入寂は、大伴家に取つて時期が頗る惡るかつた。旅人卿夫妻も疾くに隔世の人で、たゞでも無人なうへに、「憑めりし人のこと/”\草枕旅なる間に」とあるによれば、當主家持の祖母石川(ノ)邑婆《オホバ》(安麻呂の妻)は老病で、津の國有馬温泉に湯治の留守中であることは勿論、家持もその看護かた/”\同行したものらしい。交通不便なる奈良時代、京から二十里も先の有馬山中に閉ぢ籠つたのでは、どんな急用があつても、容易に歸れるものではない。僅に家持の叔母坂上部女即ち作者だけが在京して居たので、獨でその後始未を付けるのであつた。
 葬送の道筋は、朝佐保の小菴からその柩を發し、佐保川を渡り、春日野をあとにして、山邊をさして往つた(1012)といふから、いづれ高圓山以南の山邊郡の山地にその葬處を卜したものと考へられる。「晩闇と隱りましぬれ」に、葬儀事了つた夕暮から荼毘の烟に附したことが想像される。
 一體葬儀の執行など表立つた事は男の領分で、女は几帳の陰で泣いてゐればよいのだつた。况や大家の貴婦人であつて見れば、幾ら男まさりの郎女とはいへ、四十歳程度の分別者とはいへ、女手一つでは歌にいふ如く、實に「たもとほり」天手古舞をした事であらう。
 郎女は尼が佐保の菴に來てからの長い馴染であつた。郎女は今大伴家の只一人の代表者として、尼の爲に泣くのであつた。遂にその悲しさわびしさの遣り端がなくなつて、何處へでもかぶり付きたい縋り付きたい氣持から、遙に有馬にゐる母石川邑婆の許に思を馳せ詞を寄せて、この涙はそちらの空に「雨に降りきや」と、暗にその同情を哀求した。蓋し邑婆は夫安麻呂と共に、理願尼を佐保邸に招請した御當人だからである。
 この篇「栲綱の新羅國」より「住まひつついまししものを」までは理願尼の來歴の行叙で、事は過去に屬し、以下は尼の死と葬送とを叙してその哀悼に及んで、事は現在に屬する。されば大きく分ければ前後の二段となる。
 叙事齊整として筆路暢達、すこしの凝滯も見えない。辭句に又指斥すべきほどの疵瑕がなく、信に完作である。而も内容に澎湃と漲つてゐる感情は生々《ナマ/\》として、言々語々讀者の心胸を打たねば止まない。結末「歎きつつわが泣く涙――雨に降りきや」の五句はまことに天籟で、郎女の歌人たる地歩もこれに依つて確保されたといつてよい。正にこれ實况實詩。
(1013) 「まし」の敬語を盛に疊用してあるのは耳立つが、然しいかに大伴家でこの尼を尊敬し信仰して居たかゞ窺はれるではないか。
 
反歌
 
留不得《とどめえぬ》 壽爾之在者《いのちにしあれば》 敷細乃《しきたへの》 家從者出而《いへゆはいでて》 雲隱去寸《くもがくりにき》     461
 
〔釋〕 ○いへゆはいでて 尼理願〔四字右○〕が家から出て。「は」は輕い使用で歎辭に近い。○にき 「に」は現在完了の助動詞の第二變化。○くもがくり 前出(九二六頁)。
【歌意】 とても留めようとしても留められぬ壽命でさあるから、理願尼さんは、とう/\この佐保の家から出て、雲隱れてしまはれましたよ。
 
〔評〕 餘に凡常な着想である。然し時代的に考察すると、當時は佛教興隆時代で、無常思想の強調を見た時代だから、日常茶飯事にも無常を口にすることが、先端を行く上流人士の常識であつたらう。僅に「家内はいでて」に現實味が認められるに過ぎない。
 
右、新羅國(ノ)尼(ヲ)曰(フ)2理願(ト)1也、遠(ク)感(カマケ)2王徳(ニ)1、歸2化《マヰク》聖朝(ニ)1。於v時|寄2住《カヽリスミ》大納言大將軍大伴(ノ)卿(ノ)家(ニ)1、既(ニ)※[しんにょう+至](リヌ)2數紀(ニ)1焉。惟《コヽニ》以天平七年乙亥、忽(チ)沈(ミ)2運病(ニ)1、既(ニ)趣(ク)2泉界(ニ)1。於v是|大家《タイコ》石川(ノ)命歸《ミヤウブ》依(リテ)1餌藥(ノ)事(ニ)1往(キ)2有馬(ノ)温泉(ニ)1、而不v會(ハ)2此(ノ)哀〔左△〕(ニ)1。但郎(1014)女獨(リ)留(リテ)葬2送《ハフリヌ》屍柩《ヒツギヲ》1。既(ニ)訖(リ)仍(ツテ)作(ミテ)2此歌(ヲ)1贈2入(リヌ)温泉(ニ)1。
 
新羅國の尼に理願といつた者がある。遙にわが天子樣の御徳に感じて、日本國に歸化し、その時大納言大將軍大伴安麻呂卿の家に奇遇して、早くも幾十年に及んだ。が天平七年に忽ち死病に罹かつて、早くもあの世の人となつた。こゝに大伴家の老母石川命婦は病氣療養の爲有馬温泉に往つてゐたので、この葬式に立合はない。只娘の坂上郎女が獨家に居て棺を送つた。葬送が濟んでさて郎女がこの歌を詠んで、有馬温泉にゐる母命婦の許に贈り屆けたとの意。○數紀 一紀は十年を稱する。○運病 命運の盡きた病。山田昌榮説には時運の氣に中りたる病にて流行病なるべしと。○泉界 夜見路のこと。「泉」は黄泉の略。土の色は黄、故に地下を黄泉といふ。左傳文選などに見えた語。○大家 タイコ。女の稱。大姑と同じい。「家」は音姑に通ずる。後漢に曹大家の名がある。○石川命婦 邑婆のこと。「石川女郎」を見よ(七〇五頁)。「命婦」は職員令に、婦人帶(ブルヲ)2五位以上(ヲ)1曰(ヒ)2内命婦《ウチノヒメトネト》1、五位以上(ノ)人(ノ)妻(ヲ)曰(フ)2外命婦(ト)1とある。書言故事の註に、婦人受(クルヲ)2朝廷之誥命(ヲ)1爲(ス)2命婦(ト)1と。○餌藥 食物と藥。こゝは病氣のこと。○有馬温泉 攝津國武庫郡有馬町。○此哀 「哀」は一本に喪〔右△〕とある。
 
十一年|己卯《つちのとう》夏六月、大伴(の)宿禰家持(が)悲2傷《かなしみて》亡妾《みまかれるめを》1作歌
 
○十一年 天平の十一年。○亡妾 「妾」はメと訓む。すべて妻妾を通じて古へはメといつた。
 
從今者《いまよりは》 秋風寒《あきかぜさむく》 將吹烏《ふきなむを》 如何獨《いかでかひとり》 長夜乎將宿《ながきよをねむ》        462
 
(1015)〔釋〕 ○なむを 「なむ」は未來完了の助動詞。「烏」は漢音ヲを充てた。呉音はウ。
【歌意】 彼れははかなく死んだが〔十一字右○〕、今からは秋風がうそ寒く吹くであらうものを、どうして只獨で、この秋の長夜を寢られうことかい。
 
〔評〕 時は六月、六月は陰暦では晩夏に當り、月が更つての七月からは初秋となる。六月ももう押詰つた下旬の作とすれば、愈よ事情がふさはしい。「ひとり」は二人あるを、秋の「長き夜」は夏の短夜を、「いかでか――寢む」は夢|圓《マド》かだつたその存生時の情態を、各反映してゐる。それらが一括されて、「今よりは秋風寒く吹きなむを」の豫想のもとに置かれると、幽微曲折の味ひを生じて、孤獨の怨氣が歴々として浮きあがり、人をして酸涕に堪へざらしめる。
 作者の年齒を案ずるに、天平十二年の歌に「内舍人大伴宿禰家持」(卷六)とある。軍防令に内舍人は廿一歳以上を取るとあるかから、その前年たる十一年には二十歳程と見てよからう。素より名門の子だから早く妻妾を有つのも習慣上當然ではあるが、その口振のいかにも老成《マセ》切つてゐる處など、古人早熟の状を見るに足りる。從兄弟坂上家の大孃との關係以前か以後かは不明であるが、この愛人を死なせた悲を紛はさう爲に、激しく大孃の方に引寄せられたのは事實であらう。
 
弟大伴(の)宿禰|書持《ふみもちが》即(ち)和(ふる)歌一首
 
○大伴宿禰書持 兄は家《ヤカ》持、弟は書《フミ》持。父旅人卿の命名に意味があるやうに思はれる。書持の傳は委しくは知(1016)られない。卷十七に「家持(ノ)卿哀2傷《カナシム》長逝之弟(ヲ)1歌」があり、自注に「斯人(ノ)爲v性《サガ》好2愛《メデ》花草花樹(ヲ)1、而多(ク)植(ウ)2於|寢院之《イヘノ》庭(ニ)1、云々」。又、「佐保山(ニ)火葬(ス)云々」。左注に「右天平十八年秋九月二十五日越中守大伴(ノ)宿禰家持、遙(ニ)聞(キテ)2弟(ノ)喪(ヲ)1感傷(ミテ)作《メル》也」とある。家持二十七歳の頃、書持は歿した。
 
長夜乎《ながきよを》 獨哉將宿跡《ひとりやねむと》 君之云者《きみがいへば》 過去人之《すぎにしひとの》 所念久邇《おもほゆらくに》     463
 
〔釋〕 ○ひとりや 「や」は反動辭。○すぎにしひと 家持の亡妻をさす。○らくに 「久邇」は戲書。
【歌意】 秋の〔二字右○〕長夜を何で獨寢られようかいと、兄君がそれ程仰しやるので、私も死にゆかれたあの人のことが、いとしく思はれましてね。
 
〔評〕 「君がいへば」の一句を母胎として、悼亡の同情を兄に寄せた。作者はこの時十七八歳位でもあらうか。元來が草花など園藝に趣味をもつ程の性格だから、おだやかな優しい氣分の人だつたらう。隨つて歌も只おとなしいの一途である。
 
又家持(が)見(て)2砌上瞿麥花《みぎりのなでしこのはなを》1作歌一首
 
○砌上 屋前に近い。○瞿麥花 撫子。山野自生の宿根草。唐撫子に對して大和撫子ともいふ。石竹は唐撫子。
 
(1017)秋去者《あきさらば》 見乍思跡《みつつしぬべと》 妹之殖之《いもがうゑし》 屋前之石竹《やどのなでしこ》 開家流香聞《さきにけるかも》     464
 
〔釋〕 あきさらば 既出(二八七頁)。尚「春さりくれば」を見よ(七九頁)。○しぬべ 愛でうつくしむ意の命令格。○やど 前出(八八〇頁)。
【歌意】 秋になつたら私に〔二字右○〕見い/\して賞翫せよと、彼女が栽ゑた屋前の撫子は、その秋が來て〔六字右○〕、花が咲いたことであつたよなあ。
 
〔評〕 いづれ家持は佐保の本邸から、その愛妾の許に通つてゐたものであらう。然るに彼の女は夏の未に歿したので、故人の爲に再びその家を音なふ頃は、既に秋になつてゐた。悵然として主なき庭を眺めてゐると、撫子の花が美しく咲き出してゐるではないか。それは彼女が嘗て、この秋には花の咲いた處をお目に懸けたいと栽ゑたものであつた。彼女が在りし世の纏綿たる情致を思ひ出すと、憖に咲いた花が怨めしくもなる。下句詠歎の味ひが永い。
 
移朔《つきかはりて》而|後《のち》、悲2歎《かなしみて》秋風(を)1家持(が)作歌一首
 
○移朔而後 朔はツイタチで、朔の換るのは即ち月が改まるのである。こゝでは六月が七月に換つたのをいふ。
 
虚蝉之《うつせみの》 代者無常跡《よはつねなしと》 知物乎《しるものを》 秋風寒《あきかぜさむみ》 思努妣都流可聞《しぬびつるかも》     465
 
(1018)〔釋〕 ○よ 「代」は世の借字。○つねなし 無常。○さむみ 類聚抄の訓による。舊訓はサムク〔三字傍線〕。○しぬび ここは思ひ慕ふの意。
【歌意】 身世は無常なもので、生あれば死があると知つてはゐるものを、秋風の寒いにつけ、死んだ人が戀しく思はれることよ。
 
〔評〕 金剛經の十喩を始め、佛教では無常思想を盛に強調してゐる。無常は佛道入門の初歩で、當時の有識階級のもつ常識となつてゐた。けれどもそれは信仰上の理論で、一度情火の試煉に値ふと、手もなく熔《トロ》けてしまふ。「秋風寒み」の官能上から來た斷想は、下火になりかゝつた愛著の煩悩を再び煽つて、智情の葛藤にその心臓を掻き※[手偏+劣]る。但語は平淺でその表現が餘蘊に乏しい。
 
又家持(が)作歌一首并短歌
 
吾屋前爾《わがやどに》 花曾咲有《はなぞさきたる》 其乎見杼《そをみれど》 情毛不行《こころもゆかず》 愛八師《はしきやし》(1019) 妹之有世婆《いもがありせば》 水鴨成《みかもなす》 二人雙居《ふたりならびゐ》 手折而毛《たをりても》 令見麻思物乎《みせましものを》 打蝉乃《うつせみの》 借〔左▲〕有身在者《かれるみなれば》 霜露乃《つゆじもの》 消去之如久《けぬるがごとく》 足日木乃《あしひきの》 山道乎指而《やまぢをさして》 入日成《いりひなす》 隱去可婆《かくれにしかば》 曾許念爾《そこもふに》 ※[匈/月]己所痛《むねこそいため》 言毛不得《いひもかね》 名付毛不知《なづけもしらに》 跡無《あともなき》 世間爾有者《よのなかなれば》 將爲須辨毛奈思《せむすべもなし》     466
 
〔釋〕 ○こころもゆかず 心のほどけぬこと。慰まぬをいふ。○はしきやし 既出(五一八頁)。○みかもなすふたりならびゐ 鴨のやうに二人竝んでゐ。又「にほ鳥の二人竝びゐ」(卷五、同十八)ともいふ。鴨類の水鳥はよく番ひで游浴してゐる故にいふ。「みかも」のみ〔傍点〕は字の如く水とも解し、又美稱の眞《ミ》とも解される。「なす」は既出(九〇頁)。○たをりても 「も」は歎辭。古義の解は非。○うつせみの 身に係る枕詞。既出(一〇七頁)。枕詞とせぬ説は不完。○かれるみ 假りた身命。人間の身命は一時的の假物で、死ぬれば本來の空に歸すと、佛説にいふ。「借」原本に惜〔右△〕とあるは誤。○つゆじもの 既出(三八八頁)。「霑」は沾《ウルホ》ふの意から露〔傍点〕の借字に用ゐた。誤字ではない「霜霑」を顛倒してツユジモと訓むは、日月をツキヒと訓むに同じい。○やまぢをさして―かくれにしかば 死して葬送する趣である。○むねこそいため 下に、されど〔三字右○〕を補うて聞く。○いひもかねなづけもしらに 「せんすべもなし」に係る。○あともなきよのなか はかない人生。
【歌意】 私の庭に瞿麥の花が咲いたわ。それを見ても心も一向慰まない。彼女が生きて居たならば二人並んで居、そしてその花を手折つて見せようものを、元來人身は借物だから、彼女は恰も露霜か消えるやうに死んで、山路をさして葬送されてしまつたから、其處を思ふと、この胸がさ痛む。そして何といつてよいやら、ど(1020)う説明しようやらも分らず、はかないこの世だから、仕樣がないわい。
 
〔釋〕 上に砌上の瞿麥花を見て歌を詠んだとある。咲いた花はその瞿麥花である。もと「見つつしぬべ」と彼女が植ゑたのだから、見たら慰みさうなものだに、却て感傷の思出種となる。あれが生きて居たら、端近に二人仲よく肩を並べて、その花を折つても見せようにといふ現實的の想像に、その艶冶な態度と情意とが躍々として看取される。
 「わが宿に花ぞ咲きたる」の突如とした發端から「見せましものを」までの前半は、太だ新味があつて面白い。
 「うつせみの」以下は佛教の無常思想を根據として、それに撞着する哀惜の情を歌つた。かうした著意は今日では陳腐極まるものだが、然し何萬年經つても、人世のある限り存在する事相である。只叙述が稍平坦で切實味が乏しい。おのづから奈良朝末期の歌風を示してゐる。
 
反歌
 
時者霜《ときはしも》 何時毛將有乎《いつもあらむを》 情哀《こころいたく》 伊去吾妹可《いゆくわぎもか》 若子乎置而《わかきこをおきて》     467
 
〔釋〕 ○ときはしも 「時」は死にゆく時をいふ。「霜」は借字。○いつもあらむを 何時〔二字右○〕でも外にもあらうを。この下、物悲しき秋に〔六字右○〕の意を含む。○こころいたく 「哀」をイタクと訓む。玉篇に哀(ハ)傷《イタム》也と見え、形容詞に(1021)イタシ、動詞にイタムとも讀む。芳樹訓コヽロナク〔五字傍線〕。○いゆく 「い」は發語。○わぎもか 「か」は歎辭。○おきて 古義にキテ〔二字傍線〕と訓み、「除汝而」をナヲキテ〔二字傍点〕と讀んだ例を引いたが、それは僻訓で普通ではない。○わかきこ ワクゴと訓むもわるくないと思ふ。舊訓ミドリゴ〔四字傍線〕。
【歌意】 何時でも外にその時はさあらうに、この物悲しい秋に〔八字右○〕、心痛くも死んで往つた、彼女じやなあ。而も幼兒を殘して置いてさ。
 
〔評〕 作者に取つては夫婦間の別れ「若き兒」に取つては親子の別れ、只一人の我妹子の死は、生き殘つた親子二人に終生の泣きを見せる、といつても實は子の分まで男親は泣くのである。而も皮肉にも物悲しい時季と相場のきまつた秋がその背景を作してゐる。眞に悲痛の二重奏である。かうなると、死んだ人が怨めしく、「時はしも何時もあらむを」といひたくなる。さりとて死んでくれていゝ時とてはあるものではない。詰り極度の悲傷と當惑との混線から湧いた愚痴の繰言である。
 初二句は實をいへば、この作者の慣用語で、
  愛しきよしわが汝背《ナセ》の命、何にしかも時しはあらむを〔十二字傍点〕――足引の木ぬれに、白雲に立ちたなびくと、―。(卷十七−3957)
  足ちねの御母《ミオモノ》命、何にしかも時はあらむを〔十一字傍点〕――玉藻なす靡きこい臥し、逝く水のとゞみもあへず、―。(卷十九−4214)
など挽歌には何時も使つてゐる。
 
出行《いでてゆく》 道知末世波《みちしらませば》 豫《あらかじめ》 妹乎將留《いもをとどめむ》 塞毛置末思乎《せきもおかましを》     468
 
(1022)〔釋〕 ○いでてゆく 死んで〔三字右○〕家から出てゆく。古義がイデユカス〔五字傍線〕と敬語に訓んだのは鑿に近い。○みち 黄泉《ヨミ》の道。○あらかじめ 久老訓による。舊訓カネテヨリ〔五字傍線〕は平安朝期の語。○せき 關。「塞」は動詞にセク。體言としては山河の杜絶する處、又は城墻。卷二にも「猪飼の岡の塞《セキ》なさまくに」とある。
【歌意】 彼女の死出〔二字右○〕の道を、何處と承知しようならば、前以てその道に、彼女をとゞめる關も、設けて置かうであつたものをさ。殘念な。
 
〔評〕 關を設けて途を塞く、この觀念は、幸に泰平の御代に逢うてゐる現代人は全く缺如してゐる。勿論文獻や遺址に就いて知ることもあらうが。それから發酵する處の氣分は的確に握み得ない。想像によつて輪廓だけはわかつても、可成り空虚な内容しか認め得ない。古代に柵《キ》、城《キ》、關、塞、の語、或はそれに複合された各種の熟語の多量に存在するのを見ても、古人の生活に極めて親密な關係をもつて居たことが想像される。
 古事記(上)に見えた伊邪那岐命が黄泉比良坂《ヨモツヒラサカ》に千引石《チビキイハ》を引き塞《サ》へられたことは、黄泉路に關を据うる最初の出典であらう。今それとは逆に黄泉國に往く人を關によつて喰ひ止めようといふ。然も陽神の事は神異に屬し、幽顯界を殊にして以來、その路は※[しんにょう+貌]として認め難い。これこゝに「路知らませば」といふ所以である。始から承知で實現不可能の空想を描いて、「妹をとどめむ」術なさを嗟歎してゐる。感情から理性に入り、理性から又更に感情に入り、その出入の間に涯りない思慕哀悼の情を寓せてゐる。
 
妹之見師《いもがみし》 屋前爾花咲《やどにはなさき》 時者經去《ときはへぬ》 吾泣涙《わがなくなみだ》 未干爾《いまだひなくに》     469
 
(1023)〔釋〕 ○やどに 「爾」をノ〔傍線〕と訓む説は非。○はなさき 宣長いふ、花咲く時が過ぎぬるにはあらで、花咲くまで時の經ぬるなれば、ハナサキと訓むべしと。舊訓はハナサク〔四字傍線〕。○ときはへぬ 死んでからの時が經つた。
【歌意】 彼女が眺めた庭前に、花が咲き出し、その没後の時日〔五字右○〕は大分經つたわい、私の泣く涙は今に乾かないのにさ。
〔評〕 花は上の「砌上瞿麥花」の歌に、
  秋さらば見つゝしぬべと妹がうゑし屋前《ヤド》の石竹《ナデシコ》咲きにけるかも (−464)
とあつたその花である。記念の撫子は花が咲いた。見つゝ愛づべきその秋は來た。が植ゑたその人は隔世の人で、空しく遺執を留めたはかない草花に對して、悼亡の悲を新しくするに過ぎない。「時は經ぬ」は光陰の早い經過に驚いた口氣で、而も悲は依然として渝らない趣を「わが泣く涙いまだ干なくに」と具象的に表現した。映對太だ襯密である。只山上憶良の
  妹が見し棟《アフチ》の花は散りぬべしわが泣く涙いまだ干《ヒ》なくに (卷五−798)
の作が先研である事はどうにもならない。
 
悲緒《かなしみ》未v息《やまずて》更《また》作歌五首
 
悲の思が息まないので、更に詠んだ歌との意。「更」は上の題詞を承けて書いたもの。○悲緒 「緒」は絲の小(1024)口の意であるが、心緒愁緒など熱して、輕く添うた語。
 
如是耳《かくのみに》 有家留物乎《ありけるものを》 妹毛吾毛《いももわれも》 如千歳《ちとせのごとく》 憑有來《たのみたりけり》     470
 
〔釋〕 ○かくのみに 妹の死をさす。○けり 「來」をケル〔二字傍線〕と訓んで、歎辭を略した格としても通ずる。
【歌意】 只もうこんなはかない〔四字右○〕始末であつたものを、彼女も私も、千年も生きてゐるものゝやうに、憑みにした事であつたわい。
 
〔評〕 熾烈極まる相思の情は、一方的の死に因つてはかなく中斷された。日の經つに隨つて、漸く感情の陰から理性があたまを持ち上げるだけの餘裕が生じ、茲に過去を廻顧しさて思索すると、結論は現况とは全く正反對なる事を思惟してゐたものだつたといふ感慨となつて現れた。さればとてこれは決して自嘲の語ではない。只豫想が裏切られた幻滅の悲哀を、稍批判的に歌つたものである。
 初二句は上の金明軍の萩の花の歌に同じい。明軍のは天平三年の秋の作である。家持はその頃十一歳位の年輩の人だから、無論この歌の方が後出である。
 作者は亡妻に對して再三反復その悼意を示してゐる。少年時代の事とて女珍しさの結果でもあらうが、その亡妻が如何にも可憐の人であり、作者が又如何に多感多情の人であつたかが窺はれる。
 
(1025)離家《いへさかり》 伊麻須吾味乎《いますわぎもを》 停不得《とどめかね》 山隱都禮《やまがくりつれ》 精神毛奈思《こころともなし》     471
 
〔釋〕 ○いへさかり 家をばあくがれ出て。○とどめかね 卷五に「時のさかりをとゞ尾《ミ》かね」「世の事なればとど尾《ミ》かねつも」「行く舟を振りとゞ尾《ミ》かね」などあるによつて、宣長がこゝをもトヾミカネ〔五字傍線〕と訓んだのは非。卷十七に「歎かくをとヾ米《メ》もかねて」卷十九に「流るゝ涙とゞ米《メ》かねつも」と見え、尚その他の歌もトヾメと訓んでゐる。これは麻行下二段活にトドメといふが正語で、トヾミ〔傍点〕はその訛語である。卷五のとゞ尾〔三字傍点〕が、山上憶良の筑前守在任中の作や、筑前人の作中に發見されるので考へると、筑前地方の方言かも知れない。正辭の尾にメの音ありといふ説の如きは蛇尾である。○やまがくりつれ 山に隱れつれば〔右○〕の意。「やまがくり」は山に隱るゝことで、磯隱る、木ぬれ隱るなどの類語。「隱り」は良行四段活で古語。「つれ」の既然形の下、ば〔右○〕の接續辭を略くは古文法。○こころと 前出(一〇〇三頁)。「精神」を神本その他にタマシヒ〔四字傍線〕と訓んである。
【歌意】 この家から出て往かれた彼女を止めかね、彼女は〔三字右○〕遂に山に隱れてしまつたので、私は心の張りも失せたわい。
 
〔評〕 死者の死を認めず尚生者の如く扱ふ手法は、古代人の常套であつた。更に進んで、その死より埋葬を終るまでの經路を生者の行動として叙した例は、集中にも、
  念へりし妹にはあれど、憑めりし子等にはあれど―一陽炎《カゲロヒ》のもゆる荒野に、白妙の天領巾《アマヒレ》隱り、鳥じもの朝立ちいまし(1026)て、入日なす隱りにしかば  (卷二、人麻呂−210)
  玉の緒の絶えじや妹と、結びてし事は果たさず、思へりし心はとけず、白妙の袂を別れ、にきびにし家ゆも出でて、緑子の泣くをもおきて、朝霧のほのめかしつゝ、山城の相樂《サガラ》の山の、山の端を行き過ぎぬれば、(卷三、高橋朝臣−481)
  憑めりし人のこと/”\、草枕旅にあるまに、佐保川を朝川渡り、春日野をそがひに見つゝ、足引の山邊をさして、晩闇《クレヤミ》と隱りましぬれ、 (卷三、坂上郎女−460)
など見えて、現代人の眼からは特異の著想の如く感ぜられるものゝ、當時では決して新案ではない。只「とどめかね」の一語が多少の姿致を齎すに過ぎない。四句の上に吾味《ワギモ》は〔四字右○〕の副主格を補足して聞くべき歌である。
 
世間之《よのなかし》 常如此耳跡《つねかくのみと》 可都知跡《かつしれど》 痛情者《いたきこころは》 不忍都毛《しぬびかねつも》     472
 
〔釋〕 ○よのなかし 「よのなか」は人間世。「し」は強辭。「之」をシと訓むは略解による。舊訓はヨノナカノ〔五字傍線〕。○かつしれど 一面には知つてゐるが。「かつ」は片一方にはの意。和《カツ》の義で物の相|混《マジ》るをいふ。この語は直ちに「知れど」に係る。古義に、知れど且〔四字傍点〕と轉倒して下句に係けたのは誤。○いたきこころ 甚しく悩む心。
【歌意】 世間はさ、何時でもかうはかないものと、一面には知らぬではないが、死者の爲に傷む心は、とても我慢し切れぬわい。
 
(1027)〔評〕 人生は無常、即ち常住でないといふことが常住の法則である。その位の道理は素より心の隅で※[口+耳]いてゐるが、さし當つたこの悲痛の感情を如何ともし難い。この胸中の小葛藤を、率直に一本氣に歌つてある點は尊いが、理路に渉るものがあるので餘蘊に乏しい。上の「秋風寒みしぬびつるかも」に酷似して、その哀婉さが劣る。
 
佐保山爾《さほやまに》 多奈引霞《たなびくかすみ》 毎見《みるごとに》 妹乎思出《いもをおもひで》 不泣日者無《なかぬひはなし》     473
 
〔釋〕 ○さほやま 「さほのやま」を見よ(一〇〇八頁)。
【歌意】 あの佐保山に靡く霞を見る度に、そこに葬つた彼女を思ひ出して、泣かぬ日とてはないわ。
 
〔評〕 作者の亡妾は佐保山で火葬し、そこに理葬された。作者がもし父祖以來の佐保の家に住んでゐたものとすれば、餘にそれが鼻の先過ぎて、感傷の不斷連續に堪へ(1028)なかつたらう。
 佐保山の霞によつて火葬の烟を聯想することは、「吉野山の霧」(上出)「石川の雲」(卷二)と同一で、もう新味はなくなつてゐるが、この歌の主想は別に下句に存在してゐる。只奈良朝末期の作とて、格調のやゝ卑弱な點が目につく。
 上に「秋の田の穗の上に霧らふ朝霞」(卷二)とも詠まれ、こゝも秋季の歌に霞を詠んでゐる。すべて靄の類は、霞とも霧とも都合次第に取成されるものである。
 
昔許曾《むかしこそ》 外爾毛見之加《よそにもみしか》 吾妹子之《わぎもこが》 奥槨常念者《おくつきともへば》 波之吉佐寶山《はしきさほやま》     474
 
〔釋〕 ○おくつき 前出(九六三頁)。○はしき 既出(三五五頁)。
【歌意】 佐保山は以前はさ、自分に何の關《カヽ》はりもない山と見たことであつた。處が今は〔二字右○〕彼女の墓處だと思ふと、可愛くてならぬ佐保山であるわ。
 
〔評〕 既に大伯皇女は二上山をいろ背《セ》と見、作者は又佐保山を愛しきものと感じた。かく生時の愛を延長して無情なる死後の葬處にまで及ぼし、熱愛の語を以て呼び掛けることは、その愛執の甚しさを物語るものに外ならない。而もこれに伴ふ今昔の感想を按排してその意を強調し、波瀾を作成してゐる。この五首中の白眉と思ふ。下の
(1029)  うつせみの世の事なればよそに見し山をや今はよすがと思はむ (高橋朝臣−482)
も類想であるが、それは聯想が更に一階の跳躍をしてゐるだけ餘計に、深みがあつて餘情が永い。
 又、こゝの「むかし」は極く近い過去である。妻の死はこの秋の事で、それより以前を大樣に昔と斥した。
 
十六年|甲申《きのえさる》春二月、安積皇子薨〔左△〕《あさかのみこのかくりませる》之時、内舍人《うどねり》大伴家持(が)作歌六首
 
○十六年 天平の十六年。○安積皇子 聖武天皇の皇子、十七歳にて薨ず。母は正三位縣(ノ)犬養宿禰唐《イヌカヒノスクネモロコシ》の女|廣刀自《ヒロトジ》。○薨之時 續紀に、天平十六年閏正月、乙亥(十一日)天皇行2幸(ス)難波(ノ)宮(ニ)1是日安積親王縁(ツテ)2脚病(ニ)1從(リ)2櫻井(ノ)頓宮1還(リ)、丁丑(十三日)薨(ヌ)とある。皇子の薨去は閏正月十三日だから、こゝに「春二月安積皇子薨之時」とあるは誤である。歌の内容で考へると、二月はその御葬送の時に當る。宜しく殯葬〔二字右△〕之時と改むべきである。○内舍人 中務省に屬し、職員令に、内舍人九十人、掌(ル)d帶(キテ)v刀(ヲ)宿衞(シ)、供2奉(シ)雜(ノ)使(ニ)1、若(シ)駕行(アレバ)分c衞(スルコトヲ)前後(ニ)uとある。文武天皇の大寶元年に始めて置かれた。初位以上の子孫の性識聽敏、儀容觀るべき者を選んで充てた。家持は卷六の天平十二年の標下に「内舍人大伴家持」とあれば、それ以來まだ内舍人であつたと見える。
 
(1030)掛卷母《かけまくも》 綾爾恐之《あやにかしこし》 言卷母《いはまくも》 齋忌志伎可物《ゆゆしきかも》 吾王《わがおほきみ》 御子乃命《みこのみこと》 萬代爾《よろづよに》 食賜麻思《をしたまはまし》 大日本《おほやまと》 久邇乃京者《くにのみやこは》 打靡《うちなびく》 春去奴禮婆《はるさりぬれば》 山邊爾波《やまべには》 花咲乎烏〔左▲〕里《はなさきををり》 河湍爾波《かはせには》 年魚小狹走《あゆこさばしり》 彌日異《いやひけに》 榮時爾《さかゆるときに》 逆言之《およづれの》 枉言登加聞《たはこととかも》 白細爾《しろたへに》 舍人装束而《とねりよそひて》 和豆香山《わづかやま》 御輿立之而《みこしたたして》 久堅乃《ひさかたの》 天所知奴禮《あめしらしぬれ》 展轉《こいまろび》 泥土打雖泣《ひづちなけども》 將爲須便毛奈思《せむすべもなし》     475
 
〔釋〕 ○かけまくもあやに 既出(五三〇頁)。○いはまくもゆゆし 既出(五三〇頁)。○みこのみこと 安積皇子をさす。○をしたまはまし お治めなさるであらう處の。この「まし」は連體形で、「おほやまと」に續く。「をし」は「聞し食す」の食す〔二字傍点〕と同じい。○おほやまと こゝは久邇京の讃稱として用ゐた。續紀に、天平十三年十一月右大臣橘宿禰諸兄奏(ス)、此間朝廷以(テ)2何(ノ)名號(ヲ)1傳(ヘント)2萬代邇1、天皇勅(リ)曰(ハク)、號《ナヲ》爲(セト)2大養徳恭仁《オホヤマトクニノ》大宮(ト)1とある(1031)によれば、國號でないことは明らかである。その大養徳をこゝには「大日本」と書いた。○くにのみやこ 「久邇」はまた好字面を擇んで恭仁とも書く。山城國相樂郡、恭仁(ノ)郷。今|瓶原《ミカノハラ》村|登大路《ノボリオホヂ》をその宮址とする。天平十二年十二月奈良京より移り、翌十三年正月天皇幸して朝會を受け、同年十一月勅して大養徳恭仁大宮《オホヤマトクニノオホミヤ》と稱し、同十五年大極殿造營が畢つた。尋いで近江|紫香樂《シガラキノ》宮を造り恭仁宮造營を中止、同十六年正月難波に遷都を決し、閏正月難波に行幸。かくて恭仁京は僅足掛け四年、滿三年間の帝都であつた。尚委しいことは卷六に「讃(ムル)2久邇(ノ)新京(ヲ)1歌」の條で説明しよう。○うちなびく 春の枕詞。前出(六七七頁)。○ををり 「ををれる」を見よ(五一四頁)。「烏」原本に爲〔右△〕とあるは誤。○あゆこ 鮎兒。小鮎のこと。「小」は借字。○さばしり 「さ」は接頭の美稱。○いやひけに 彌よ日が經つに隨つての意。「ひけに」は日にけに〔四字傍点〕といふに同じく、「け」は來經《キヘ》の約で時の經過を意味する語。「異」は借字。○さかゆる 久邇の京の〔五字右○〕榮ゆる。○およづれのたはごととかも 前出(九三三頁)。○しろたへに 白布に。白布はこゝでは舍人の素服で、白絹ではない。葬送令に規定がある。○とねりよそひて 舍人が扮装《イデタ》つて。「とねり」は既出(四七九頁)。○わづかやま 相樂郡和束。瓶原の東北に當り、布當《フタギ》川の上流を占めた群嶺。○みこしたたして 御葬輿が立つて。「たたし」は立ち〔二字傍点〕の敬相。宣長訓による。○あめしらしぬれ 薨去をいふ。「ぬれ」はぬれ〔二字傍点〕ば〔右○〕の意。古文法。○こいまろび 伏し轉び。「こい」はこやり〔二字傍点〕の約。「こやせば」を見よ(五一五頁)。○ひづち 既出(五〇八頁)。「泥土」は※[泥/土]〔傍点〕と同意。
【歌意】 懸けて思ふも恐れ多く、口に言はうことも甚だ憚あることよ、わが大君安積皇子樣が、永久にお治めなさる筈のこの大日本久邇《オホヤマトクニ》の京は、春になつて來ると、山邊には花が咲いて靡き、河瀬には若鮎が走り、日にまし榮える時に、裏言《ウラゴト》の僞り言でもあることかえ、それが事實で、素服に舍人等が扮装《イデタ》つて、和束山に皇子樣の(1032)御輿が据ゑられて、遂に御昇天遊ばされたので、私達は地に伏し轉んで涙に泣き濡れるけれども、とんと外に仕樣もないわい。
 
〔評〕 この作を一讀すると、普通の親王方の薨逝としては、過當の言辭と悼意とのあることを發見するであらう。されば先づつぶさにその事情を闡明して置く必要がある。
 聖武天皇は元來お子少なであらせられた。夫人光明子(のち立后)のお腹にお一方皇子が出來、早速皇太子に立てられたが、神龜五年九月二歳でお薨れになり、丁度その年夫人縣(ノ)犬養(ノ)廣刀自のお腹にこの安積皇子がお生まれになつた。されば安積皇子は只一粒種の皇子樣であらせられた。天平の十年に御姉君阿倍内親王(孝謙天皇)が皇太子に立たれ、皇子は平の親王であらせられたが、姉君御即位の曉は、當然聖武天皇唯一の直宮樣として、儲君たるべき權利の保持者であらせられ、行末天下を知ろし召すべき境遇にあらせられた。然るに難波宮行幸に供奉の途中、脚氣の爲に河内の櫻井頓宮から久邇京に引返して、三日目に十七歳を一期(1033)として薨ぜられた。この御急逝は恐らく脚氣の衝心であらう。
 「掛けまくも――言はまくも――」は全篇に廣被した冒頭句である。「吾が大君」から始めて本題に入つた。
 安積皇子は實に將來繼體の君として、皇都久邇京を「萬代に食し賜はまし」大事なお方であらせられた。抑もこの京は山並の宜しき國で、青山近く四周し、泉河は東より來つて其の中央を貫通し、布當《フタギ》川(和束川)北より來つて泉河に注ぎ、折柄山邊には花爛漫と咲き滿ち、河瀬には子鮎が跳る春の眞盛りであつた。二月を皇子の御葬時とすると、時候に打合はぬやうだが、この歳は閏正月があつた爲、二月は平年の三月の季候、今なら四月の陽氣に當る。さては「花咲きををり」、「鮎子さ走る」筈である。かく久邇京の節物風光の好處を細叙して、頗る悠々緩々たる態度に徘徊してゐることは、後來の悲劇の前景をなすもので、そこに反映の妙を見る。
 突如として起つた非清なる衝動に、久邇の宮人はその酣なる春の夢を破られた。安積皇子の御急病の還啓、(1034)尋いで御急逝、次にその殯斂、餘りのあわたゞしさに、忘れては「およづれの枉言」と思ふ。けれども事實は何處までも事實で、澤山な舍人、それは皇子宮奉仕の諸舍人達が、皆一樣の白装束に扮装つて御※[車+需]車に供奉し、恭仁宮から前年(天平十四年二月)開通された布當の道を布當川に添うて溯り、和束杣山の一部|活道《イクヂ》の岡に斂め奉るのであつた。作者も内舍人の一人として、役目上御葬送の列に立つた事は勿論であらう。
 「こい轉びひづち泣けども――は、作者自身の號泣の態度と抑へ難い感傷とを、あからさまに打撒けたもので、もうかうなつては何もかも最後である。かくて愈よ作者が御斂葬の行事にみづから關係してゐたことが、的確に窺はれる。
 冒頭句を除くと、「吾が王」より「榮ゆる時に」までが前段、以下が後段で、繝爛たる景象による和かな氣分と輓※[糸+弗]の人事による悲しい氣分とで、對蹠的に構成されて、そこに萬丈の波瀾の涌沸する感がある。
 
反歌
 
吾王《わがおほきみ》 天所知牟登《あめしらさむと》 不思者《おもはねば》 於保爾曾見谿流《おほにぞみける》 和豆香蘇麻山《わづかそまやま》     476
 
〔釋〕 ○あめしらさむ 薨じ給はむの意。こゝは薨去から御葬送までをかけていつた。舊訓アメシラレム〔六字傍線〕。○おほに 凡《オホヨソ》に。○そまやま 杣木を採る山。杣は山にある材木の稱。
【歌意】 我が安積皇子樣がお薨れにならうとは、一向思ひも寄らなかつたので、これまで只よい加減に見て居たことよ、御葬處たるこの和束杣山をさ。
 
(1035)〔評〕 安積皇子はまだ御少年で、前途多望の御身の上であらせられた。何でその薨去を思ひかけよう。これ「天知らさむと思はねば」といはれる所以である。和束杣山は荒山であるが、端なく皇子の薨去によつて意外な因縁を生じた。「おほにぞ見ける」は從來漫然と看過したといふのであるから、漫然ながらも既にこの杣山を知つてゐる口吻で、それは天皇(聖武)の一再ならぬ近江(ノ)紫香樂《シガラキノ》宮(朝宮)へ行幸の供奉などで通過もしたらう、又次の長歌の趣によれば、皇子の狩獵のお供で訪ひもしたらう。が皇子の奥津城として拜する程に、親しい眼で眺めなかつた悔恨を歌つてゐる。この悔恨の裏に皇子の薨逝を悼む情意が惻々としてほのめいてゐる。この作者の作として格調の高い方である。
 
足檜木乃《あしひきの》 山佐倍光《やまさへひかり》 咲花乃《さくはなの》 散去如寸《ちりぬるごとき》 吾王香聞《わがおほきみかも》     477
 
〔釋〕 ○やまさへひかり 山までも照り輝いて咲く花と續く。花自身の耀くことは勿論として「さへ」といつた。「ひかり」舊訓はテリテ〔三字傍線〕。○ちりぬる チリユク〔四字傍線〕とも訓まれるが、現在完了に訓んだ方が此の場合にふさはしい。舊訓チリニシ〔四字傍線〕は過去叙法で、却て感が淺い。
【歌意】 山までも照り耀くほどに咲き滿ちた花が、一朝に散つたやうな、はかなくて惜しいわが皇子樣よなあ。
 
〔評〕 物の最盛最榮の状態を花に比興することは、珍しい手法では決してない。而も花の爛漫たるを形容するに、光る〔二字傍点〕、耀く〔二字傍点〕の類語を用ゐることは、古代漢詩の上に常に見る處で、
(1036)  傷(ム)彼※[艸冠/惠]蘭(ノ)花、含(ンデ)v英(ヲ)揚(グルヲ)2光輝(ヲ)1 (文選、古詩)
  夭々(タリ)桃李(ノ)花、灼々(トシテ)有(リ)2輝光1。 (文選、詠懷−阮籍)
などの例ある事であるが、歌では更に一歩を進めて、
  いはほには山下耀り、 錦なす花咲きををり――。 (卷六−1053)
  能登川の水底さへに光るまでに三笠の山は咲きにけるかも  (卷十−1861)
など、周圍にまでその光輝を及ぼすやうに誇張してゐる。この歌もその流れを汲んだものである。
 安積皇子の御身分は將來九五の位を踐まるべく約束され、御年齒は十七歳の少年の春、花に喩へば全く盛りの花である。それが突然の薨去では、何人と雖も一夜に盛りの花の散つた如き、意外の感と追慕悼惜の哀感とを動かさずにはゐられまい。
 
右(ノ)三首、二月三日(ニ)作歌。
 
二月三日は恐らく、皇子葬斂の御當日であらう。
 
掛卷毛《かけまくも》 文爾恐之《あやにかしこき》 吾王《わがおほきみ》 皇子之命《みこのみこと》 物乃負能《もののふの》 八十件男乎《やそとものをを》 召集衆《めしつどへ》 率比賜比《あともひたまひ》 朝獵爾《あさがりに》 鹿猪踐起《ししふみおこし》 (1037)暮獵爾《ゆふがりに》 鶉雉履立《とりふみたてて》 大御馬之《おほみまの》 口抑駐《くちおさへとめ》 御心乎《みこころを》 見爲明米之《めしあきらめし》 活道山《いくぢやま》 木立之繁爾《こだちのしげに》 咲花毛《さくはなも》 移爾家里《うつろひにけり》 世間者《よのなかは》 如此耳奈良之《かくのみならし》 大夫之《ますらをの》 心振起《こころふりおこし》 劔刀《つるぎたち》 腰爾取佩《こしにとりはき》 梓弓《あづさゆみ》 靭取負而《ゆぎとりおひて》 天地與《あめつちと》 彌遠長爾《いやとほながに》 萬代爾《よろづよに》 如此毛欲得跡《かくしもがもと》 憑有之《たのめりし》 皇子乃御門乃《みこのみかどの》 五月蠅成《さばへなす》 驟騷舍人者《さわぐとねりは》 白栲爾《しろたへに》 服取著而《ころもとりきて》 常有之《つねなりし》 咲比振麻比《ゑまひふるまひ》 彌日異《いやひけに》 更經見者《かはらふみれば》 悲呂〔左△〕可聞《かなしきろかも》     478
 
〔釋〕 ○やそとものを 數多の役人達。「やそ」は多數の換義。「とものを」は伴男《トモノヲ》の義で、すべての部屬者の稱(1038)呼。伴の長《ヲサ》の義ではない。文官をもいふべきだが、專ら靭負《ユゲヒ》の武人の總稱となつた。靭負とは武装して禁門を守り、護衛を掌る兵士及びその長官を稱する。○あともひ 既出(五三四頁)。○とり 「とり」に「鶉雉」を充てた。上に「しし」に「鹿猪」を充てたのに對する。いづれも狩場の主要なる獲物。○しし は既出(五三九頁)。○おほみま 御召の馬。「おほみ」は最敬語。○おさへとめ 宣長訓オシトドメ〔五字傍線〕。○めしあきらめ 見晴して心を朗かにし給ふをいふ。「見爲」はメシと訓む。卷二十に「賣之《メシ》給ひ明らめ給ひ」又「賣之明らめ」とある。「めし給へば」を參照(二〇六頁)。○いくぢやま 山城國相樂郡西和束の内にある小丘。活道(ノ)岡ともいふ。卷六の題詞に「登(リ)2活道(ノ)岡(ニ)1集(リテ)2一株(ノ)松(ノ)下(ニ)1飲《ウタゲスル》歌」とある。○こだちのしげに 木立の繁りに。上に「櫻花木(ノ)晩《クレ》しげに」(六七三頁)とある。○よのなか 前出(一〇二六頁)。○かくのみ 「かく」は「咲く花も移ろひにけり」をさす。○ますらをの 益荒男が。既出(四〇頁)。○こころふりおこし 勇氣を奮ひ起すをいふ。○つるぎたち 單に太刀といふに同じい熟語。○とりはき 佩ぶること。「とり」は接頭語。○あづさゆみゆきとりおひて 梓弓を執り〔二字右○〕、靭を負ひて。梓弓と靭とを負ふのではない。不完の句のや(1039)うであるが、名詞が熟語の如く續く場合には、何れか一方の説明語を略く例がまゝある。「あづさ弓」は既出(三一・五六五頁)。「とり」は接頭語。○ゆき 矢を盛つて背に負ふ爲の具。矢笥《ヤケ》の轉語と。多く木にて作り、中には銅にて作つたものもある。大は長さ二尺四寸、小は二尺、廣さは大は六寸、小は四寸五分、厚さ二寸六分で、矢配りありて五十隻の箭を盛る。大抵|胡※[竹/録]《ヤナグヒ》と似てゐる。和名抄に、釋名(ニ)云(フ)、歩人所(ノモノ)v帶(ブル)曰(フ)v靭(ト)、以(テ)v箭叉(ス)2其中(ニ)1、和名|由岐《ユキ》とある。胡※[竹/録]《ヤナグヒ》はこれより後世の物。○あめつちと 天地と共に〔二字右○〕。天地の如く。○かくしもがも 「かく」は皇子は榮え給ひ、舍人等は拜趨奉仕するを斥す。○みこのみかど 安積皇子の宮門及び宮殿にかけていふ。○さばへなす 「騷ぐ」に係る枕詞。五月《サツキ》の蠅はうるさく羽音を立てるのでいふ。「さ」は宣長説に、田植の農事をいふ、五(サ)月、五月雨《サミダレ》、早(サ)少女の類、又植始むるを佐開《サビラキ》、植終るを佐登《サノボリ》といふと。○さわぐとねり 奉仕に立騷ぐ舍人。「とねり」は既出(四七九頁)。「驟動」は走り動くの意で、サワグに充てた。○しろたへにころもとりきて 眞白に衣を著て。白色の喪服を着るをいふ。この「しろたへ」は白色の意に用ゐた。「しろたへ」を見よ(一一八頁)。○つねなりし 何時もの事であつた。○ゑまひ 咲み〔傍点〕の延言。○ふるまひ 快活なる〔四字右○〕擧動。咲まひ〔三字傍点〕に對してかく補足して聞く。○いやひけに 前出(一○三一頁)。○かはらふ 變る〔傍点〕の延言。○かなしきろかも 「ろかも」は「ともしきろかも」を見よ(二一三(1040)頁)。「呂」原本に召〔右△〕とあるは誤。
【歌意】 縣けて思ふも甚だ恐れ多い、わが大君安積皇子樣が、武士の多勢の伴の男達を、召集め御引率なされ、朝の獵には獣類を踏み驚かし、夕の獵には鳥類を踏み立てゝ、御召料の馬の口を控へとめ、四方を見晴して御心を朗になされた、活道山の木立の繁りに、咲いてゐた花も散つたことであるわ。嗚呼はかない人の世の中は、こんな風でばかりあるらしい。流石武勇の士が心を引立てゝ、劔太刀を腰に帶び、弓を執り靭を負うて、天地のやうに彌よ永久に、萬年もかうしてまあ居たいと、力頼みに思うてゐた事であつた皇子樣の御門の舍人等、五月蠅のやうにざわ/\してゐる舍人等は、眞白に喪服を著なし、何時もの事であつたその咲み顔も、威勢のいゝ〔五字右○〕振舞も、彌よ日に益しに變つてゆくのを見ると、實に悲しいことわいな。
 
〔評〕 冒頭「皇子の命」と呼び掛けた形式は、上の歌と同軌だが、その讃語は四句に節約された。蓋し體製に變化を求める爲である。
 當時の貴紳の豪快を誇つた唯一の行遊は狩獵で、佛教信仰の餘り、庶民は簗を掛ける事すら禁ぜられ、殆ど殺生禁斷に近い法令のもとに束縛されたが、特權階級は別であつた。
 皇子の活躍時代は久邇京の盛時で、その御狩場は久邇から布當《フタギ》川を溯つた和束《ワヅカ》山附近であつたらうことは、疑を容れない。特に皇子をその活道の岡に葬送し奉つたことも、皇子の遺愛の地を卜したものであらうと考へられる。この岡は久邇京を北に距る里餘、布當の小谿谷の盡きた處の川の西岸に位し、和束の山野を一眸のもとに收めるよき展望臺である。
(1041) 皇子は幾多の侍臣及び舍人等を引率して、和束杣山の狩場にその勇姿を現され、馬竝べて倍臣等と共に山谷を馳※[馬+娉の旁]し給うたのである。朝狩夕狩に「猪鹿踏みおこし」「鶉雉踏みたてて」は狩獵の光景の實寫ではあるが、殆ど常套的で何の奇もない。然し又有用缺くべからざる文字である。
 「大御馬の口抑へとめ、御心をめし明らめ」は上來の狩場の叙事を結束して、當年取つて十七歳の若冠で渡らせられる皇子が、如何に御得意の頂上に立つて、その顏を怡ばしめ神を暢べられたかゞ想像される。而も一面漸くその薨逝に言及せんとする前提で、そこに抑揚の筆法を發見する。
 「活道山木立のしげに咲く花」は御陵の所見である。前度二月二日の御葬儀の際盛りと見えたのが、この三月廿四日に詣でて見れば、もう落花であつた。花の開落に人間世の無常を直覺するは、佛教にいはゆる聲聞觀で、そこに皇子の薨逝を暗示した婉曲な表現には敬服する。
 以上皇子の御上を主とした叙事を前段とする。
 舍人は佩刀《タチハキ》の武人だ。會集の日には弓箭を帶する。即ち「劍刀腰に取佩き、梓弓靭取負ひて」である。そして平日は雜使を勤め、宮門を守り、主公の出入には前後に分衛する。東宮舍人は六百人の定員とあるから、諸親王でも三百人位は居たであらう。 彼等舍人はその職分柄、雄心振起して颯爽たる武装に、「天地といや遠長」なる奉仕を心掛け、力強く振舞つてゐた。蓋しこの若い皇子には至大の幸福が豫約されてゐるからであつた。(上の長歌の評語參看)。だから自然舍人等の鼻息も荒かつた。これは作者の平生實見して知悉してゐる事であつた。
 然るに今その皇子の御門に侍ふとて騷ぐ舍人等を見各る、まるで調子が以前と違ふ。平生のp《クロノ》頭巾や桃花《アラ》染(1042)の衫や白い布帶やに引換へて、全部一樣の白装束、それはいふまでもなく喪服であつた。あはれ、皇子急遽の薨逝に、舍人等の描いてゐた圓かなる夢は破られた。あらゆる期待と光明とは泥土の如く踏み蹂られた。何時もは欣々として威勢よかつた彼等の言動も、ひどい落膽に日一日と霜げて、深い憂欝に閉されてゆく。いやそれを見ると、實に情けないと、滿腔の同情を舍人等のうへに捧げた。
 以上舍人の身上を主とした叙事を後段とする。
 前段は後段の前景で、後段が主體である。作者はひたすら同情の涙を濺いで舍人等を眺めてゐるが、その實作者もその渦中に立つ一人であつた。結局は内舍人家持が皇子の薨逝を悼み奉る情意が、その核心になつてゐる。
 
反歌
 
波之吉可聞《はしきかも》 皇子之命乃《みこのみことの》 安里我欲比《ありがよひ》 見之活道乃《めししいくぢの》 路波荒爾鷄里《みちはあれにけり》     479
 
〔釋〕 ○はしきかも この語は「みこの命」にのみ係る。されば早く解すると、愛しき皇子の命〔七字傍点〕と續いて、「かも」は殆ど間投辭の如き形式をなしてゐる。○ありがよひ 現實に通ひ。既出(四一九頁)。
【歌意】 わが愛する安積皇子樣が、實際に往來して、その都度御覽遊ばされた、和束の活道の岡の道は、皇子樣のお薨れ後、いやも荒れてしまつたことわい。
 
〔評〕 開口一番「愛しきかも」と喝破したことは、決して尋常でない。鍾愛のわが妻子ならとにかく、これは皇(1043)子樣だ。そこにこの皇子が、年少の花の盛りであらせられ、奉仕者からは敬虔の念以上に、いかに愛憐の度が高かつたかゞ窺はれる。
 「あり通ひめしし」は上にもいつた如く、皇子の信樂行幸のお供や、和束の御狩の事を斥したと想はれる。
 さて御薨後「活道の路は荒れにけり」とある。極めて平易な簡明の叙述で了つてゐるやうだが、退いて一考すると頗るむづかしくなる。といふは、「荒れにけり」は從來の繁華の迹が一旦に寂寥に歸した趣であるのに、事實は反對だからである。それは先づ皇子の御陵造や御葬送が濟んだとしても、御喪中は宮人や舍人やのしつ切りなしの分番宿直などで、平日よりは往來頻繁な筈である。左註に「三月二十四日作歌」とあるから、薨後漸く二月近く經つた程で、それは/\混雜してゐたゞらう。さらばこの矛盾をどう解決したものか。
 皇子昇天の爲の悲悼と寂寥とがこの作の根幹を成すことを記得して、さて考察すると、二月三日の御葬送當時は路傍の春草も、長短青いまだ齊しからずで、大して目にも著かなかつた。が時が時とてこゝ一月の間に萋々穣々として時に行路を犯すのを見て、胸中の感傷は忽ちそこに集中し、勃發し、眼前の光景以外は他の一切の事相を忘却して、皇子薨後は活道の路はさても荒れたものだと、その詠歎を逞しうしたものである。さては
  三笠山野べ行くみちはこきだくも繁くあれたるか久にあらなくに  (卷二−232)  ――踏みならし通ひし道は、馬も行かず人も往かねば、荒れにけるかも。 (卷六−1047)
の平坦な感想に比すと、外貌こそ相似してゐるが、これは非常に複雜な情緒と曲折とを、其内容に匂藏してゐる。
 
大伴之《おほともの》 名負靭帶而《なにおふゆきおびて》 萬代爾《よろづよに》 憑之心《たのみしこころ》 何所可將寄《いづくかよせむ》     480
 
(1044)〔釋〕 ○おほとものなにおふゆきおびて 大伴氏のその職名に協ふ靭を佩《オ》びて。「名に負ふ」はこゝではその職名に協ふをいふ(宜長説參酌)。大伴はもと武官の職名で靭負《ユゲヒ》の武人の總稱であつたが、大伴氏はその祖天(ノ)忍日《オシヒノ》命以來、武臣として靭を負ひ持つて奉仕する家柄なので、遂にその氏名となつたものである。卷七に「靭縣る伴の雄廣き大伴に」、大祓の祝詞に「天皇《スメラ》が朝廷《ミカド》に仕へ奉《マツ》る靭負伴男《ユキオフトモノヲ》、劍佩伴男《タチハクトモノヲ》、伴男能八十伴男《トモノヲノヤソトモノヲ》を始めて」などある。○よろづよに 萬代と〔傍点〕といふが本格なれど、かくいふも一格。いづくかよせむ 何處へ縁せて頼まうか。「いづく」は既出(七〇〇頁)。
【歌意】 大伴氏の職名に協ふ靭を負ひ縣けて、永久にお仕へ申すべく頼るにしたことであつたこの心を、その皇子樣のお薨れとなつては、今更〔二字右○〕何處へ縁せて頼まうか。ほんに頼みの綱が切れて情《ナサケ》ない。
 
〔評〕 卷二、日竝皇子の薨逝に、舍人等の詠んだ歌の中に、
  あめつちと共に終へむと念ひつつ仕へまつりし心たがひぬ (−176)
とその落想を同じうしてゐる。彼れはもとより堂々たる蒼古雄渾なる格調を具へた傑作で、此れは稍低調であることは免れぬが、それは比較の問題で、この作とても一首取離して見れば、立派な佳作として推賞するに足りる。殊に大伴の氏人たる地歩を占めて、靭取負ひて奉仕する内舍人大伴家持その人の面目を想見し得る點に於いて、愈よその眞實を見る。 
右三首、三月二十四日(ニ)作歌。
 
(1045)かく製作の日時を特記した理由は、歌が初夏の景色を叙出してゐる爲である。この年は閏正月があつたので、季候が早目になつてゐる。
 
悲2傷《かなしみて》死妻《うせるつまを》1高橋(の)朝臣(が)作歌一首并短歌
 
○高橋朝臣 名がないので誰れとも定められない。(左註の解を參照)
 
白細之《しろたへの》 袖指可倍※[氏/一]《そでさしかへて》 靡寢《なびきねし》 吾黒髪乃《わがくろかみの》 眞白髪爾《ましらがに》 成極《なりなむきはみ》 新世爾《あらたよに》 共將有跡《ともにあらむと》 玉緒乃《たまのをの》 不絶射妹跡《たえじいいもと》 結而石《むすびてし》 事者不果《ことははたさず》 思有之《おもへりし》 心者不遂《こころはとげず》 白妙之《しろたへの》 手本矣別《たもとをわかれ》 丹杵火爾之《にぎびにし》 家從裳出而《いへゆもいでて》 緑兒乃《みどりごの》 哭乎毛置而《なくをもおきて》 朝霧《あさぎりの》 髣髴爲乍《おほになりつつ》 山代乃《やましろの》 相樂山乃《さがらのやまの》 山際《やまのまに》 (1046)往過奴禮婆《ゆきすぎぬれば》 將云爲便《いはむすべ》 將爲便不知《せむすべしらに》 吾妹子跡《わぎもこと》 左宿之妻屋爾《さねしつまやに》 朝庭《あしたには》 出立偲《いでたちしぬび》 夕爾波《ゆふべには》 入居嘆合〔左△〕《いりゐなげかひ》 腋挾〔左△〕《わきばさむ》 兒乃泣毎〔左△〕《このなくごとに》 雄自毛能《をとこじもの》 負見抱見《おひみいだきみ》 朝鳥之《あさとりの》 啼耳哭管《ねのみなきつつ》 雖戀《こふれども》 効矣無跡《しるしをなみと》 辭不問《こととはぬ》 物爾波在跡《ものにはあれど》 吾妹子之《わぎもこが》 入爾之山乎《いりにしやまを》 因鹿跡叙念《よすがとぞおもふ》     481
 
〔釋〕 ○しろたへの 袖の枕詞。「しろたへ」を見よ(一一八頁)。○さしかへて 指交《サシカハ》して。「さし」は接頭語。○なびきねし 既出(四〇〇頁)。この句は次の「わが」に係る。○ましらが 眞白な髪。「ま」は美稱。○なりなむきはみ 新考訓による。略解訓ナラムキハミ〔六字傍線〕、古義のカハラムキハミ〔七字傍線〕は非。○あらたよに 「あらたよと」を見よ(一九四頁)。○たまのをの 「たえじ」に係る枕詞。殊玉を飾とするに緒に貫いて用ゐる。緒に絶ゆ〔二字傍点〕は縁語である。尚「いきのを」を見よ(一二六七頁)。○たえじいいも 「絶えじ」を一成語と見て「い」の接尾辭を添へた。「い」は「志斐《シヒ》い」を見よ(六三九頁)。舊訓タエジヤイモ〔六字傍線〕。○むすびてし 契約したことであつた。○こと(1047)は 言《コト》はと解する説もある。○たもとをわかれ 袂から別れ去つて。この「を」はヨリの意に近い。○にぎびにし 既出(二七一頁)。○みどりご 既出(五七四頁)。○あさぎりの 朝霧の如く〔二字右○〕。髣髴《オホ》に係る枕詞。○おほになり ほのかになり。字書に「髣髴」は不分明の貌と。○さがらのやま 山城國相樂郡の山の汎稱。○やまのまに 既出(八五頁)。舊訓ヤマノマヲ〔五字傍線〕、古義訓ヤマノマユ〔五字傍線〕。○さねし 寢たことであつた。「さ」は接頭語。○つまや 既出(五七五・五八六頁)。○あしたには 「には」は助辭。古義に庭の意としてアサニハニ〔五字傍線〕と訓んだのは誤解。○なげかひ 歎き〔傍点〕の延言。「合」原本に舍〔右△〕とあるは誤。○わきばさむこ 抱きかゝヘする兒。緑子に同じい。「わきばさみもち」を見よ(五七五頁)。「挾」原本に狹〔右△〕とあるは誤。○なくごとに 「毎」原本に母〔右△〕とあるは誤。○をとこじもの 既出(五七五頁)。舊訓ヲノコジモノ〔六字傍線〕。○おひみいだきみ 負うたり抱いたり。「み」は動詞の第二變化所屬の接尾辭。古義はイダキを古言にウダキ〔三字傍線〕と訓んだ。○あさとりの 「音」に係る枕辭。朝方に鳥は囀り出すが故にいふ。○しるしをなみと 效驗が無さに。この「と」は古文の格で輕い用法。○こととはぬ 物言はぬ。「こととふ」は言をいひ縣ける意から轉じて、物いふこと、口を利くことの意になつたもの。○よすが 寄《ヨ》し處《カ》の轉。寄し〔二字傍点〕は佐行四段活の古語で、下二段活の寄せ〔二字傍点〕に同じい。處《カ》は清濁兩用。古義のよせはか〔四字傍点〕説は迂遠。△地圖 第一冊卷頭總圖を參照。
【歌意】 お互に袖を指し交して、妻と〔二字右○〕長々と打解けて寢たことであつた「私の黒髪が、全くの白髪にならう時まで、この有難い御代に一緒に生き存らへよう」と、何時までも連れ添うて絶えまいと、思ふ妻と約束した夢は果さず、思うてをつた心はとほらず、妻は私の袂から別れ、住み馴れた家をも出て、赤兒の泣くをも打置いて、ぼんやり不明になつて、山城の相樂山のあひに往つてしまつたので、言はうやうも、仕よう手立もわからず、妻(1048)と寢たことであつたその部屋に、朝方には出掛けてその生前を〔五字右○〕思ひ出し、夕方には入り込んで居て歎きつゝ、赤兒の泣く度に、男でありながら、それを背負つたり抱いたりして、只もう聲に立てゝ泣き/\して、幾ら戀うてもその效驗《カヒ》がなさに、別に物も言はぬ無情のものではあるが、妻が籠つたあの相樂山を、心の寄せ處とさ思ふわい。
 
〔評〕 冒頭無しの短刀直入、何時も堂々たる玄關構を見飽きた眼には、清新な氣がする。「わが黒髪の」より「共にあらむ」までは、夫婦寢物語の軟語であつた。然し無常の風一度來れば、固い約束も決心も粉な微塵に吹き飛んでしまふ。そこに逃れ難い人生の悲劇がある。
 「――袂を別れ」「――家ゆも出でて」「――泣くをもおきて」と漸層的に丁寧反覆、「おほになりつつ」ある亡妻の行動状態を叙した。それが一々恰も意志あつて、嘗ての約束を裏切つたものゝやうに怨望した口調である。蓋し悲痛の極死生の別を忘れた混迷状態に、作者の心は置かれてあつたからである。
 「おほになりつつ」は死の暗示で、「相樂の山の山のまに行き過ぎぬれば」は相樂山に送葬したことの婉辭である。山が奈良より瞻望し得る距離として考へると、甕の原を隔つる山城大和の國境の山であらう。
 さてその後に來るものは心の空虚と室内の空虚とであつた。途方に暮れて、故人を偲ぶせめてもの慰めに、朝夕亡妻の遺室に出掛たり這入つたりして、眼前の遺愛の物に思出を描き、永く息吐いて深い感愴に耽つてゐるその耳朶を打つて、みじめな現實に引返すものは、焦り付くやうに泣く忘形見の孩兒の聲であつた。周章てゝ馴れぬ手付で抱いたり背負つたり、男泣きになきながら、血を吐く思でその蘇生を望んでも、逝水再び返(1049)らずである。
 取付く島がなくなつては、遂に慰めの詞一つも發しない相樂山だが、只亡妻の奥津城處と思ふばかりに、それを縁として萬斛の愁緒を慰めようといふ。遣る瀬ないその思慕の情悲痛の歎、惻々として人の胸を打つ。
 この篇前部は囘顧の感想で叙筆を運んでゐる。「わが黒髪の云々」の如き會話語を挿入して、その鳳誓鸞盟を描寫したあたり、相當新規な型である。さて愈よ本題に入つて、死別の行程を排叙して死の語を囘避した一節は、見るべき文字である。只後部悼亡の條に至つては、全く人麻呂の「泣血哀慟歌」(卷二)の第二篇を歩驟したもので一向新味がない。結末の相樂山は哀慟歌の羽易の山を粉本としたものながら、稍異彩があつて歸趨を殊にした爲、漸く獨自の面目を保つことが出來た。但卷十六に同想の作がある。
  志賀の山いたくなきりそ荒雄等が、よすがの山と見つゝしぬばむ (志賀白水郎−3862)
 又枕詞の「白妙の」疊出は面白くない。
 
反歌
 
打背見乃《うつせみの》 世之事爾在者《よのことなれば》 外爾見之《よそにみし》 山矣耶今者《やまをやいまは》 因香跡〔左△〕思波牟《よすがとおもはむ》     482
 
〔釋〕 ○うつせみの 既出(一〇七頁)。こゝは世〔傍点〕の枕詞ではない。○うつせみのよのことなれば 世間の道理なれば。人の世の無常なるをいふ。舊訓はヨノコトニアレバ〔八字傍線〕。○やま 相樂山をさす。○よすがと 「跡」原本に爾〔右△〕とある。類聚抄その他によつて改めた。
(1050)【歌意】 死生は〔三字右○〕世の定め事だから、仕方がないと締めて〔九字右○〕、從來縁もなくよそ/\に見てゐた、お前の葬處〔二字右○〕相樂山を、今は心のやり處と思はうかえ。
 
〔評〕 「よそに見し山をや――よすがと思はむ」とだけでは意味が完全しない。これは相樂山がその葬處だといふ事實の上に立つての構想だから、その詞を補足して聞けば明確になる。然し實感としてはこのまゝが本當で、そこに含蓄の妙味をもつ。上に
  昔こそよそにも見しか吾妹子がおくつきと思へばはしき佐保山 (−474)
とあると同想で、「今は」の一語にその突き詰めた遣る瀬ない情意が躍動する。初二句は上の
  世の中しつねかくのみと且知れどいたき心はしぬびかねつも  (家持−472)
の上句と酷似してゐるが、かゝる思想や言詞は、當時の人士の共通的套語で。誰れといふ先取權の保持者はない。
 
朝鳥之《あさとりの》 啼耳鳴六《ねのみしなかむ》 吾妹子爾《わぎもこに》 今亦更《いままたさらに》 逢因矣無《あふよしをなみ》     483
 
〔釋〕 ○あさとりの 前出(一〇四七頁)。○ねのみしなかむ 古義訓による。舊訓はネノミヤナカム〔七字傍線〕。略解の訓ナキノミナカム〔七字傍線〕は非。
【歌意】 自分は只もう哭《ネ》を擧げてさ、泣かうよ、愛する彼女に、今は又と逢ふ術《スベ》もまあ、一向に無いのでね。
 
〔評〕 生別には尚一分の希望が繋がり、頼みの綱がある。死別に至つては全く絶望だ。天地四方に俯仰し廻顧し(1050)て見ても眞闇だ。事茲に至つては泣くより外の手はない。男泣に泣かれる。「今又更に」の短語の三疊が調切に節迫つて、その腸の寸斷する趣を描寫し盡し、凄酸の氣が波動する。「あふ由をなみ」の歇後の辭樣もこの際頗る當を得たものといへよう。
 
右三首、七月廿日、高橋(ノ)朝臣(ノ)作歌也。名字未(ダ)v審(カナラ)。但云(フ)奉膳《フゼン》之|男子焉《ヲノコト》。
 
「七月廿七日」は天平十六年のである。「名字未審」以下は、高橋朝臣とのみでその實名が判然しない。但奉膳の職であつた人の男子であるといふとの意。○奉膳 内膳司の長官《カミ》をいふ。○高橋朝臣 國足か。正倉院文書(造酒司解)に、天平十七年四月十七日、外從五位下行正兼内膳奉膳勲十二等高橋朝臣國足がある。本集卷十七に、天平十八年正月の雪朝に參進、左大臣橘諸兄等と共に應詔詠進したことが見える。又、續紀に、廢帝實字三年十一月に「從五位下高橋朝臣子老(ヲ)爲(ス)2内膳(ノ)奉膳《カミト》1、」六年四月に「從五位下高橋朝臣老麻呂(ヲ)爲(ス)2内膳(ノ)奉膳(ト)1」とある。古義にいふ、子老等の男とせむには時代聊か後れたり尚考ふべしと。然し子老と老麻呂とが若し親子ならば、奉膳之男子といふに相當するから、假に老麻呂の作として考へると、老麻呂が奉膳となつた寶字六年よりは十月前の作となる。が天平十六年には子老はまだ奉膳とならなかつた。とにかく原文が不完で甚だ拙い。古義は仙覺などが附註したものかといつてゐる。
          2005年10月28日 午前9時17分 入力終了
          2008年5月17日 午後13時5分 校正終了
 
(1063)萬葉集卷四
 
〔目録省略〕
 
この卷は相聞の一部のみで始終してゐる。上代の作二三の外、まゝ他の諸家の作もあるが、大抵は大伴氏一族の作で、特に家持のが多い。殆ど家持の歌日記の觀がかある。
 
相聞
 
〇相聞 既出(二九七頁)。
 
難波《なにはの》天皇(の)妹《みいもの》奉d上《たてまつれる》在《います》2山跡《やまとに》1皇兄《いろせのみこに》u御謌一首
 
難波天皇即ち仁徳天皇の御妹皇女が、大和に居らるゝ御兄の天皇に奉つた御歌との意。○難波天皇 仁徳天皇は津(ノ)國(ノ)難波(ノ)高津(ノ)宮にましましたのでかく稱する。孝徳天皇も難波(ノ)長柄(ノ)豐崎(ノ)宮にましましたが、次に岳本(ノ)天皇(舒明天皇)の御製を掲げたので見ると、排列の順序上、仁徳天皇であらねばならぬ。まして歌體も頗る古調に屬してゐる。○天皇妹 應神天皇紀によるに皇女九人にましまし、そのうち荒田(ノ)皇女は仁徳天皇の同母の御姉であるが、他の皇女は天皇との聞係が不明であるから、その御方とはさして擧げ難い。○山跡 ヤマアトの略。大和國のこと。○皇兄 仁徳天皇をさす。古義が同母兄と解したのは拘はつてある。
 
(1064)一日社《けとひこそ》 人母待告《ひともまちつげ》 長氣乎《ながきけを》 如此所待者《かくまたるれば》 有不得勝《ありかてなくも》     484
 
〔釋〕 ○ひとひこそ 「社」をコソと訓むことは既出(三八六頁)。○まちつげ 待ち繼げの意。「告」は借字。これを古義に志と改めてヒトヲモマチシ〔七字傍線〕と訓み、新考にマツベキ〔四字傍線〕と訓んで、べ〔傍点〕を落字、告を吉の誤としたのはすべて誤解。○ながきけ 長い時日。け長き〔三字傍点〕の倒語。「け長きいも」を見よ(二二七頁)。○かくまたるれば 宣長は「所」を耳の誤としてカクノミマテバ〔七字傍線〕と訓んだのは一理あるが、もとのまゝで意が通ずる。○ありかてなくも 在り敢へぬことよ。眞淵訓に從ふ。宣長は「勝」を鴨の誤としてアリカテヌカモ〔七字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 たゞの一日のうちこそ、人も待ち通しもします、長い/\時日を、こんな風に待たれるのでは、とても居るに居られないことですわ。
 
〔評〕 婦人空閨を歎ず、その怨意隱然としてゐる。「待つ」が字眼である。初二句と三句以下との對比から成つた結構で、結局待つ身はつらいと落著した。聯か理詰めな露骨な表現のやうであるが、それも鬱結した情熱の爆發で、その素朴さに却ていひ知らぬ迫眞力がある。「人も」の主體は實は作者それ自身であるのを、一寸體裁作つてぼかした處に、多少の婉味をもつともいへよう。
  君がゆき氣長くなりぬ山たづの迎へをゆかむ待つには待たじ (記中卷、衣通王)
はこれを洗煉したもので、更に出藍の妙がある。
(1065) この集の相聞即ち戀は、あながち異性間の戀愛にのみ限らぬものゝ、この歌の語氣から推すと、まさに所謂戀歌である。古へ腹違ひの子女間は結婚を許される慣習だつたから、題詞の「皇兄」は異母兄と見てよい。仁徳天皇が何かの事情で、舊都の所在地大和に御動座の際、難波(ノ)宮の御宮中に留守居なされた異母妹のお方からの怨訴である。
 
岳本《をかもとの》天皇(の)御製《おほみうた》一首并短歌
 
○岳本天皇 舒明天皇の御こと。「崗本《ヲカモトノ》宮を見よ(一八頁)。
 
神代從《かみよより》 生繼來者《あれつぎくれば》 人多《ひとさはに》 國爾波滿而《くににはみちて》 味村乃《あぢむらの》 去來者行跡《かよひはゆけど》 吾戀流《あがこふる》 君爾之不有者《きみにしあらねば》 晝波《ひるは》 日乃久流留麻弖《ひのくるるまで》 夜者《よるは》 夜之明流寸食《よのあくるきはみ》 念乍《おもひつつ》 寢宿難爾登《いねがてにと》 阿可思通良久茂《あかしつらくも》 長此夜乎《ながきこのよを》     485
 
〔釋〕 ○あれつぎくれば 子孫次々に生まれ繼いでくるので。○あぢむらの 味鳧《アヂカモ》の群の。その飛び去《ユ》く意を以(1066)て、次句に係る枕詞とした。「あぢむら」は「あぢさはふ」を見よ(五一六頁)。○かよひは 「朝鳥の往來《カヨヒ》し君」(卷二)の例に從つて「去來」をカヨフと訓む。○きはみ 「寸食」は借字。○いねがてにと 「しらにと」を見よ(六〇五頁)。古注この「と」の辭法を解しかねて糊塗の説が多い。○つらく つる〔傍点〕の延言。△挿畫 挿圖186參照(六七三頁)。
【歌意】 神代の昔から次々に生まれてくるので、人間は澤山に國中には滿ちて往來はするけれど、その人達は私の戀ひ慕ふ君樣ではさないから、何の甲斐なく、晝は終日夜は終夜、君樣の事を思ひ/\して、碌に寢られないで、長い/\この夜を明かしますことよ。 
〔評〕 この歌、題詞のまゝに見れば無論舒明天皇の御製である。しかし後世の註家は大抵婦人の作と見、題詞「岳本(ノ)天皇」の上に後〔右△〕の字が脱ちたので、後(ノ)岡本天皇即ち皇極天皇の立后後か又はまだ皇后に立たせ給はぬ前かに、舒明天皇を思ひ奉りての御作だらうといつてゐるが、前提たる婦人の作といふことが甚だ不確定であることは遺憾である。私は寧ろ題詞の通りに解したい。
 神代から人口が蕃殖して街衢に澤山の人は行くが、それは皆わか戀ふる君ではないといふ御構想は、人麻呂の長歌の、
  吾妹子がやまず出で見し、輕の市にわが立ち聞けば、玉だすき畝火の山に、鳴く鳥の聲も聞えず、玉桙の道ゆく人の、一人だに似てしゆかねば、云々。(卷二−207)
の趣とほゞ合致してゐる。抑も街路に人を戀ふなどいふことは、多くの場合男性の所作と見るがふさはしから(1067)う。從つてこれを舒明天皇御製とは斷ずるものゝ、さて御對手たる「君」は誰れともわからない。
 この篇假に初頭より「君にしあらねば」を前段、以下を後段として考へると、前段は人麻呂の先鞭を著けた警句と稱すべく、後段は轉輾反側の情を叙するに於いて後人の踏襲を來した。而して前後を一貫して流動してゐる戀愛情緒は、頗る濃厚なものがある。
 「晝は日の暮るるまで、よるは夜の明くるきはみ」は晝夜が對立的に置かれて「思ひつつ」に係つてゐるが、その實は夜が主であることは、次に「寢ねがてにと――長きこの夜を」と、夜の動作を反復して叙してゐるのでも證せられる。「晝は」「よるは」は各三音の獨立句で、自ら古調の風格を存する。結末の倒装は力強く一篇を結收せんとする手段である。
 
反歌
 
山羽爾《やまのはに》 味村騷《あぢむらさわぎ》 去奈禮騰《ゆくなれど》 吾者左夫思惠《あれはさぶしゑ》 君二四不在者《きみにしあらねば》     486
 
〔釋〕 ○やまのは 「羽」は借字。○さぶしゑ 「さぶし」は「うらさびて」を見よ(一三七頁)。「ゑ」は歎辭。古語。
【歌意】 山の端に味鳧の群が、鳴き騷いで通りはするけれど、それが戀しい君樣ではないから、私は一向面白くないことよ。
 
〔評〕 味鳧は常に群飛する水鳥である。甲の水から乙の水、池沼から池沼へと移動する。その際低い岡陵を掠め(1068)て羽音高く飛行するのを、こゝに「山の瑞に――騷ぎゆく」といつたものだ。萬葉人殊に大和人は、中にも飛鳥人は、山野の形勢上常にこれらの光景を目撃するのであつた。天皇は實に飛鳥人におはせられる。
 山の端に味群の騷ぎ行くは面白い景致であらねばならぬ。然し憂思ある人は何の交渉をも感じ得ない處が、却て反對に物寂しい孤獨の感じを誘發させられる。その飛行が憖じ目につくに付けても、愈よかの君に迎接の期なきことに想到し、「あれはさぶしゑ」と少し反抗氣味に嗟歎されるのである。
 「君にしあらねば」は、如何なる萬般の憂思も、君にさへ會へば一旦にして解消されさうな御口氣であるのも面白い。而もこの四五句の倒装は、その戀心の絶對を表現するに最も適當なる辭法である。全體に情景相俟つて、綿々たる情恨の盡きぬ佳作。
 
淡海路乃《あふみぢの》 鳥籠之山有《とこのやまなる》 不知哉川《いさやがは》 氣乃己呂其侶波《けのころごろは》 戀乍裳將有《こひつつもあらむ》     487
 
〔釋〕 ○あふみぢ 近江國に通じてある路。近江へ行く路ではない。路の用法に二途ある。「紀路にありとふ」を見よ(一四二頁)。○とこのやま 近江國犬上郡の正法寺山か。○いさやがは 「鳥籠の山なる」とあるから、鳥籠の山中又はその附近の川で、存在の覺束ない程の小川を、いさや知らず〔六字傍点〕の意味で名づけたものか。六帖及び後拾遺集序、源氏槿の卷にはいさゝ〔三字傍点〕川とある。或は少し距離はあるが、正法寺山の南方を流るゝ大堀川(芹川)の古名か。古今集(卷二十)に「犬上のとこの山なるいさや川」とあるに據つて、これを犬上川とする説は非。○いさや 「いさ」は何《ド》ウヤラの意。「や」は歎辭。この語下に必ず知らず〔三字右○〕と承ける。本文「不知哉」はこの意(1069)によつて書いた。さてこの上句はこのまゝでは下句に連絡しない。よつて序詞として考へると、その續きが又むづかしい。契沖は「け」に係る序詞として、「け」は水の氣にて霧なりと解いたが、聊か諾ひにくい。略解にいふ、女の心をいさ知らず〔九字傍点〕の意に取り成したりと。下の歌の「眞野《マヌ》の浦の淀の繼橋」の初二句も、下に含んでゐる繼ぎて〔三字右○〕の語に係る序詞であると、殆ど同樣の辭樣と見られるので、假にそれに從うておく。○けのころごろは 時の經つこの頃はの意。「け」は「け長き」を見よ(二二七頁)。「ころごろ」はこの頃〔三字傍点〕の訛語。恐らく近江の方言であらう。「呂」を乃〔右△〕の誤字とする宣長説は採らぬ。
【歌意】 近江路の鳥籠の山にある不知哉川の名のやうに、お前の心はいさや知らずであるものゝ〔十七字傍点〕、別れてから日數の經つたこの頃は、私を戀ひ/\してまあ居らうなあ。
 
〔評〕 この御製に至つて、始めて長歌に「わが戀ふる君」、短歌に「君にしあらねば」と仰せられたお對手の婦人が近江人で、鳥籠の山附近の本居の人であることを發見する。君寵を蒙りながら何かの事情で歸郷してゐた際、眷戀の情に禁へずして詠ませられたものであることは疑もない。
 他人の心ほど忖度し難いものはない。まして婦人の心理はなほ測り難い。信に不知哉川の名の空しからぬを覺える。而も敢然と「戀ひつつかあらむ」の想像を下されたことは、相應の馴染を重ねた間柄であらせられる(1070)からであらう。そして對手の戀心に、かくの如く信を置いて思惟することは、反對に御自身の僞ない戀の熾烈さを物語るものに外ならない。
 「けのころごろ」は當時の近江言葉であらう。わざとその郷里の訛音を使つて、調戲の意を寓せられた。それは親愛の餘の脱線で、そこに優しい情緒を漂はせるものと思ふ。
 
右今案(フルニ)、高市(ノ)岳本(ノ)宮、後(ノ)岡本(ノ)宮二代二帝(ニシテ)、各有(リ)v異(ナル)焉。但稱(フルハ)2岡本(ノ)天皇(ト)1未(ダ)v審(カニ)2其指(ストコロヲ)1。
 
案ふに、岳本(ノ)宮と後(ノ)岡本(ノ)宮とは二代二帝で御一代ではない、ここに岳本天皇とあるも、どちらを指したものか判然しないとの意。この左註は御製が男性の作であることを忘れた今案で、無論誤である。
 
額田(の)王(の)思《しぬびて》2近江(の)天皇(を)1作歌一首
 
額田王が天智天皇を思ひ奉つて詠んだ歌との意。○額田王 既出(四八頁)。○近江天皇 天智天皇のこと。近江大津宮にいました故にかくいふ。なほ「中大兄」を見よ(六六頁)。 
(1071)君待登《きみまつと》 吾戀居者《あがこひをれば》 我屋戸之《あがやどの》 簾動之《すだれうごかし》 秋風吹《あきのかぜふく》     488
 
〔釋〕 ○まつと 待つとて〔右○〕。○やど 既出(八八〇頁)。戸〔傍点〕は借字。
【歌意】 君樣を待つというて、私が焦れてをると、さも待つ人の來たかの如く、私の宿の簾を動して、秋の風が吹くことわ。
 
〔評〕 王は舊人大海人皇子との熱愛時代は漸く過ぎて、新人たる天皇に全愛を捧げてゐる頃の作と思はれる。「吾が宿」とある以上は、その家居してゐることは間違もない。
 簾は殿舍の端に垂れる物、隨つて人の訪るゝにも風の通ふにも、先蝕れとしてまづ一番に有心の動搖をもたらす。思ふ君は待てど來ず、なまなかにその君が來たかのやうに、秋風が簾を勤して吹く、この對映の間に無窮の怨意が※[酉+褞の旁]釀されて、情波萬疊の觀がある。
 「君」と「吾が」との對比は、天皇と作者自身とを密接に關係づけ、怨意を訴へる素地を作してゐる。が又「吾が宿の」とあるので、リズムは生ずるが、人稱の重複が少しうるさい。白璧の微瑕か。「簾うごかし」は秋風の活動を示す大事な句で、この爲にその現實性が強調される。「秋の風ふく」のの〔傍点〕の辭、その頓挫した和かい響は絃外の妙がある。卷八に、
  吾背兒をいつぞ今かと待つなべに面《オモ》やは見えむ秋の風ふく (宇合卿−1535)
(1072)とあるによつて、古義に「風の吹き來るはその人の來む前兆ぞ」といふ諺ありしを踐みてこゝも詠めるなるべしとあるは、一寸尤もらしいが、彼れは彼れ此れは此れで、別に附會する要はないと思ふ。
 
鏡(の)王女《おほぎみのひめみこの》作〔左△〕歌一首
 
○鏡王女 鏡女王のこと。傳は既出(三〇九頁)。○作歌 歌意より見れば上の歌の返歌に當る。「作」は和〔右△〕の誤か。
 
風乎太爾《かぜをだに》 戀流波乏之《こふるはともし》 風小谷《かぜをだに》 將來登時待者《こむとしまたば》 何香將嘆《なにかなげかむ》     489
 
〔釋〕 ○ともし 物足らぬ意。尚「ともしき」を見よ(七二四頁)。○かぜをだに 「小谷」は戲書。○とし 「時」をシと讀むは漢音。
【歌意】 私のやうに絶望で、せめて風なりとも音づれてと戀ひ焦れるのは、まことに不滿なことですよ。貴女のやうに、風なりとも吹いて來よう當《アテ》があつてさ待たうなら、何で歎きませうかい。
 
〔評〕 鏡女王額田王の姉妹とも、天智天皇の召し給ふところとなつて、姉君の御寵は既に妹君に移つた頃ほひの作と思はれる。
 私などは全く見棄てられてをるのです。私が貴女の地位なら、待遠だなどそんな勿體ない不足は申しません(1073)よと、失意、艶羨、怨望、諷刺などの種々雜多の感情が絢ひまぜに織り込まれて、情致はあるが曲折に傷く。「風をだに」の再唱は、風が寄託の中心だからである。
 以上二首は卷八の「秋相聞」の部に重出してゐる。
 
吹黄刀自《ふきのとじが》歌二首
 
二首のうち端《ハシ》のは男の歌で、恐らく刀自の夫の作であらう。奥《オク》のは刀自自身の作。されば題詞は不完である。○吹黄刀自 傳は既出(一〇一頁)。
 
眞野之浦乃《まぬのうらの》 與騰乃繼橋《ヨドノツギハシ》 情由毛《こころゆも》 思哉妹之《おもへやいもが》 伊目爾之所見《いめにしみゆる》     490
 
〔釋〕 ○まぬのうら 「まぬのはりはら」(七一〇頁)と同處。近江國滋賀郡にも眞野の浦があるが、こゝの趣に打合はない。○よど 淀。水の停滯してゐる處。○つぎはし 水中に杭を立てゝその上に渡り板を繼ぎ合はせた簡略な橋。○よどのつぎはし 初二句は序詞で、繼橋の繼ぎて〔四字右○〕といふ續き方である。序詞の被語たる繼ぎて〔三字右○〕を略いたのは、異例に屬する。尤も上の「淡海路の鳥籠の山なる不知哉川」も類似格。○こころゆもおもへや 「ゆ」はより〔二字傍点〕の意であるが、こゝは輕い(1074)用法で、殆どニ〔傍点〕といふに近い。「おもへや」は思へば〔右○〕やの意。古文法。「や」は疑辭。○いめ ユメの古言。 △地圖 挿圖207を參照(七〇九頁)。
【歌意】 心からお前を思ふせゐかして、眞野の浦の淀に懸けてある繼橋のつぎつぎに〔五字右○〕、お前が私の夢に見えてならない。
 
〔評〕 眞野の浦は又「眞野の池」(卷十一)ともいつて、いづれも菅を詠み合はせ、「白菅の眞野」(卷三)とも續け、こゝには「淀の繼橋をいひ、次の歌には「河の上の」とあるので、これらを總合して考へると、必ず川尻の沮洳地から續いた大沼で、一方には小菅白菅の叢生を見、その灣入した部分を浦と稱し、淀んだ部分には繼橋など渡してあつたものであらう。攝陽の道中筋で、一寸目に着いた景色なので、一再ならず詞人の諷詠に上つたものと思ふ。
 今の神戸市西區の南偏の海近い處に、嘗て東尻池村の稱を存し、僅ばかりの池がある。想ふにそれは往古湊川の水が直ちに東流せず、市の西偏を南流して後、左折海に入つた時代の沼地の名殘であらう。平安末期に平清盛が福原遷都を策するや、河道を東に導いて現在の如くになつたといはれてゐる。次の歌に聯繋して考へると、この歌の作者も次の歌の作者も、行摺りの旅人ではない。必ず眞野の浦附近に在住してその風物を熟知してゐた人である。
 就中淀の繼橋を取出したことは、作者が殊にその好風景に留意してゐたからで、その繼橋が測らず繼ぎて〔三字傍点〕の一語を胚胎して、序詞の役目をなすに至つた。
(1075) 相思情濃やかにして、寤寐その面影を見る。作者はこれを逆説的にその、「夢にし見ゆる」所以を思索し、これも自分が絶えず妹を思ふ故かと推測した。この推測は甚だ當然過ぎて餘り平凡に墮するが、こんな平凡の道理をさへ眞劔に考へる程、作者は痴愚に返つた戀の奴であつた。否々これにはもつと深い情實が潜在してゐるのではあるまいか。刀自の返歌の「何時も/\來ませ」とあるのから溯つて考へると、何かの支障があつて、兩々會合の期を失した爲に、空しく思慕の情に懊悩を極めて、刀自に對つてその赤誠を披瀝したものであらう。
 
河上乃《かはのへの》 伊都藻之花乃《いつものはなの》 何時伺時《いつもいつも》 來益我背子《きませわがせこ》 時自異目八毛《ときじけめやも》     491
 
〔釋〕 ○かはのへ 既出(一〇一頁)。古義に、卷十四の「可波加美能《カハカミノ》根白高がや」を引いて、こゝをもカハカミ〔四字傍線〕と訓んだが、それは特に異例であることを示す爲に、一字一音に書いたものと見たい。○いつものはな 繁つた藻の花。「いつも」は五十《イ》つ藻の義。五十〔二字傍点〕をイとのみいふは五十鈴《イスヾ》、五十日《イカ》などの例で、多數を意味する。「つ」は連辭。「ものはな」は總《フサ》藻即ち金魚藻の花で、夏季五瓣白色の不完全な花を著ける。○いつものはなの 上句は「何時も」に(1076)係る序詞で、イツモの音の反復によつたもの。但補説が評語中にある。○ときじけめやも 時でない時があらうかい。「ときじけめ」は時じからむの意。ヨカラ〔二字傍点〕ムをヨケ〔傍点〕ムと轉ずると同格。「め」は推量の助動詞む〔傍点〕の第五變化。なほ「時じみ」を見よ(四五頁)。「やも」は反語。「異」をケと訓むは怪《ケ》の意による。
【歌意】 河畔の繁つた藻の花のイツモといふやうに、何時でも/\遠慮なしに御出下さいませ、私の且那樣よ。御出になるに、その時でない時がありませうかい。
 
〔評〕 この序詞はイツモの音の反復によるが故に、音調的效果のみより見れば「花の」は不用である。然し更に考察すると、「花の」は實際に即した點景の語であることを發見するであらう。
 更に思ふに、藻の花は咲きかはり/\して、夏季を何時も咲いてゐるものである。その觀念を五十《イ》つ藻の同音的聯想に織り込ませて「花の何時も/\」といつたのではあるまいか。すると作者は川淀の水面にはびこつた五十藻とその花とに深い興味を惹かれ、端なくそれが胸中に欝結してゐる戀心の琴線に觸れて、「何時も/\來ませわが背子」と愛の高音を奏したものだ。
 何時も來いは即ち何時も逢ひたいである。この意を更に強調して「時じけめやも」と反復した。如何に作者が執念深くしつこく、この戀に沒頭してゐるかゞ窺はれる。がこの句は稍蘊含の味を殺ぐ恐がある。
 さて一聯の贈答歌としてこの二首を味ふと、頗る地方色の濃く出てゐる點でまた面白い。 
(1077)田部忌寸櫟子《たべのいみきいちひこが》任《まけらゝる》2太宰《おほみこともちのつかさに》1時(の)歌四首
 
○田部忌寸櫟子 田部は氏、忌寸は姓、櫟子は男の名。古代には男の名にも子の字を付けた。○任太宰 太宰府の官吏に任官された。「太宰府」は前出(七九三頁)。
 
衣手爾《ころもでに》 取等騰己保里《とりとどこほり》 哭兒爾毛《なくこにも》 益有君〔左△〕乎《まされるきみを》 置而如何將爲《おきていかにせむ》     492
 
〔釋〕 ○とりとどこほり 取付いて動かず。○まされるきみを 「君」原本に吾〔右△〕とある。眞淵説によつて改めた。吾では結句に打合がわるい。○題詞の下、元暦本に「舍人吉年」又他本に「舍人千年」と注してあるが、何れも後人の所爲らしい。
【歌意】 母の〔二字右○〕袖に取付いて動かず、慕ひ泣く乳兒にもまさつて慕ひ泣く貴女を、此處に殘して置いて、私は何とせうぞい。とても往くにも往かれぬわ。
 
〔評〕 太宰の任は遠い不知火筑紫のはてゞある。一夜を明かす程だにも旅寢となれば物憂い時代、櫟子の太宰はいづれ六位以下の職と思はれるが、それが轉任なり辭任なりして歸京するのでは、相當な長い年月の後と見なければならぬ。一反袂を分つては殆ど再會の期が覺束ない。で女は頑是ない子供以上に取縋つて泣く、これが黙つて見棄てゝ往かれるなら、情界の天地は闇だ。男の泣くに泣かれぬ急處だ。如何にせむと途方に暮れるより外致し方がない。
(1078) 婦人と子供は感情の單純で激し易い點に共通性がある。ともすれば泣く。「衣手に取りとどこほり泣く」の態度描寫は、この生別の悲劇に現實味を強調して、「おきて如何にせむ」の嗟歎を深刻ならしめる。
 
置而行者《おきてゆかば》 妹將戀可聞《いもこひむかも》 敷細乃《しきたへの》 黒髪布而《くろかみしきて》 長此夜乎《ながきこのよを》     493
 
〔釋〕 ○しきたへの シキの音を反復して「しきて」に續けた枕詞。解は既出(二五五頁)。○歌の下、元暦本に「田部忌寸櫟子」とあるは不用。
【歌書】 今さし置いて行かうなら、この長い夜を黒髪を下に敷寢しながら、わが妻は戀ひ慕はうことかまあ。
 
〔評〕 「黒髪敷きて」は婦人の寢る折の状態をいつたものだが、實は奈良時代の婦人の髪は取上けてゐたもので、平安時代の婦人のやうな垂髪ではなかつた。「長きこの夜を」はその季節が秋であることを語つてゐる。別後の閨情を丁寧に心に描いて、時もあらうに秋の長夜を展轉反側するだらうとの豫想のもとに同情し、これでは立つにも立たれぬの餘意を遺して、そこに相思の情の濃かさを見せつけてゐる。
 初句から三四五二句と次第してみると、意味が明噺になる。
 
吾妹兒矣《わぎもこを》 相令知《あひしらしめし》 人乎許曾《ひとをこそ》 戀之益者《こひのまされば》 恨三念《うらめしみおもへ》     494
 
(1079)〔釋〕 ○あひしらしめしひと 我れと妹とを知り合ひにさせた人。即ち仲人《ナカウド》。「あひ」は接頭語。○うらめしみ 怨めしがり。「み」は形容の意の接尾辭。
【歌意】 わが妻を私に取持つた仲人をさ、別れては戀心のいや益すので、なまじな世話をしてくれたものだと、今は怨めしがり思ふわ。
 
〔評〕 身を※[火+毀]き立てる情炎に、いつそ初めから赤の他人だつたら、こんな氣苦勞もすまいにとの一案を捻出し、不足を結ぶの神の仲人に歸した。散々弄んだ擧句の果の逆恨み、かう愚痴つぼくなる處に、突き詰めた愛の高潮が盛りあがつて鳴つてゐる。
 
朝日影《あさひかげ》 爾保敝流山爾《にほへるやまに》 照月乃《てるつきの》 不※[厭のがんだれなし]君乎《あかざるきみを》 山越爾置手《やまごしにおきて》     495
 
〔釋〕 ○にほへる 「句ふ」は美しく艶なること。○あかざる 「※[厭のがんだれなし]」は厭と同字。○やまごしに 山の彼方に。
【歌意】 朝日の影が美しくさしてゐる山に照る殘月の景色が、面白くて飽かぬやうに、見ても逢うても飽かぬ貴女を、山越に置いてさ。どうして私が往かれようぞい〔十三字右○〕。
 
〔評〕 上三句は「飽かざる」に係る序詞である。新考の「山に」を山の〔二字傍点〕の意に取成し、結句に續けて解したのは強辯である。「山越におきて」の下、往かれむものか〔七字右○〕の餘意を含む。
(1080) 朝日と月と互に山に照映する光景は、元來想像的のもので、實際には即しないが、只「飽かざる」面白さを誘發する效果さへもてば、序詞としての役目は濟んでゐるのである。序にいふ、この時代は「照る」といふ語の觀念が今とは違つてゐた。霞に匂ふ朧月でも淡々たる殘月でも尚照る〔二字傍点〕といつたことを記憶したい。
 一旦征途に上れば、飽かざる君は忽ち山越しの存在となる。倩たり※[目+分]たるその面影は復再び見る由もあるまい。それをば豫想すると、立つに立たれず往くに往かれず、有髯男兒の腸も亦寸斷せざるを得ない。
 以上四首ながら、櫟子が太宰へ出立間際の詠作であらう。「朝日影」の詠を出立後の作と見る説もあるが、當らない。
 
柿本(の)朝臣人麻呂(が)歌四首
 
三熊野之《みくまぬの》 浦乃濱木綿《うらのはまゆふ》 百重成《ももへなす》 心者雖念《こころはもへど》 直不相鴨《ただにあはぬかも》     496
 
〔釋〕 ○みくまぬのうら 熊野の浦。紀伊國牟婁郡の瀕海の總稱。「み」は美稱。○はまゆふ 文殊蘭のこと。石蒜科の多年草本。葉は叢生して稍萬年青に似る。故に濱オモトの稱がある。夏日葉間から花莖を抽き、梢頭に傘状をした多くの花を開く。六瓣の白色花で、芳香がある。もと熱帶植物で、本邦暖流の走る海岸には各處に生えてゐる。この句の下にの〔右○〕の辭を含む初二句は序。○ももへなす 百重に似る。百重は幾重といふに同じい。濱木綿の葉は叢生するので、百重の觀がある。一説に莖の皮白く幾重も重なるとあるは穿鑿に過ぎる。この句は次の句の「心」にいひ續けたもの。○ただに 既出(四二五頁)。○あはぬ 前出(八七二頁)。
(1081)【歌意】 濱木綿の其の百重に重つてゐるやうに、心繁く念ひはするけれども、直接にその人には、逢はれぬことよなあ。
 
〔評〕 作者が實際に熊野の浦で濱木綿を見たかどうかは疑問である。大和朝廷時代は紀州が遠出の遊び場處で、齊明天皇の牟婁の湯行幸以來、愈よ朝臣達の往來も頻繁となり、熊野の濱木綿はそれが熱帶植物だけに、異國風味がその人達の注目を惹いて、著名になつたらうことは爭へない。すると、あながち實見しないでも、傳聞でも詠まれぬことはあるまい。
 とにかく珍植物の濱木綿の葉の百重を拉し來つて序詞に運用した點は、流石に歌聖の縱横自在なる口吻を卜すべく、全く平凡を脱せむとする修辭上の好手段である。「心は念へど――逢はぬ」とは理路に著する嫌があり、又戀する者の套語に過ぎないが、序詞の奇警さによつて救はれてゐるものゝやうである。格調から見れば蒼古遒勁で、語に分寸のたるみもない。
 尚いふ、濱木綿の名はその花の白い色相と形態とから負うた名に違ひないが、歌聖の作に花に言及したものがない。多分見たことが無いらしい。殘念な事である
 
(1082)古爾《いにしへに》 有兼人毛《ありけむひとも》 如吾歟《わがごとか》 妹爾戀乍《いもにこひつつ》 宿不勝家牟《いねかてずけむ》     497
 
〔釋〕 ○かてずけむ この語形は下二段活のカツの第二變化「かて」より、否定の助動詞のヌの第二變化たる「ず」と承け、さて過去推量の「けむ」の助動詞に續けたもの。宣長訓に從つた。
【歌意】 昔に居たであらう人も、今の自分のやうに、女にあくがれ/\して、夜の目も合ひかねることであつたらうか。
 
〔評〕 戀の煉獄はそれはつらい。古人も屡ば轉輾反側の思をその口頭に上せてゐる。さればこのつらさは敢へて自分ばかり甞めてゐる苦盃ではなからうと、古人を引合に出し比較商量して、聊かみづから慰籍の聲を洩したものだ。これは戀心の一寸たるんだ瞬間の思索であるから、措辭に調子に幾分の餘裕がある。「わが如か」と疑問の符を投げ懸けた處など、有餘不盡の婉味をもつ。人麻呂の作としては珍しく平易である。「古へにありけむ人」は誰れと斥した人があるのではない。
  いにしへにありけむ人もわが如か三輪の檜原にかざし折りけむ (−1118)
の上句は全く本行のと同じい。いづれが先出か。「けむ」の語がおなじやうに重複してゐる。
 この歌は自問で、次の歌は自答である。對照して應接の間に生ずる滋味を味ふべきである。
 
(1083)今耳之《いまのみの》 行事庭不有《わざにはあらず》 古《いにしへの》 人曾益而《ひとぞまさりて》 哭左倍鳴四《ねにさへなきし》     498
 
〔釋〕 ○わざ 戀することをさす。ワザは「行事」の意訓。○ねにさへなきし 聲に立てゝまで泣いた。「ねにはなくとも」を見よ(七四〇頁)。略解の訓はナキサヘナキシ〔七字傍線〕。
【歌意】 現在ばかりの事ではない。昔の人がさ、今の自分よりも益つて、戀故には〔四字右○〕、聲に立てゝまで泣いたことであつたよ。
 
〔評〕 これも上と同じく古へを※[人偏+就]つて今を廻護したもので、而もその意を強調して「古への人ぞ益りて」と擴充した。想ふに作者はまだ音に立てゝは泣かぬらしい。心に籠めて忍ぶ戀、泣かぬは泣くに優る場合もあるが、聊か微温的に感ずる。で古人が戀の呵責に絶叫した先例を引いて自慰の詞とした。卷一の「三山歌」に、
  ――神代よりかくなるらし、古へも然《シカ》なれこそ、うつせみも妻を爭ふらしき。 (中大兄−13)
と殆ど構想の軌をひとしうする。
 この歌の變つてゐる點は、戀の一語を著下せぬ處にある。
 
百重二物《ももへにも》 來及毳常《きしかぬかもと》 念鴨《おもへかも》 公之使乃《きみがつかひの》 雖見不飽有武〔左△〕《みれどあかざらむ》     499
 
〔釋〕 ○ももへにも 百遍にも。「物」をモ〔傍点〕と讀むはモツの音の下略。「百重二物」は戲書。○きしかぬかもと 繁(1084)く來てくれ。「しか」は加行四段活の第一變化で、およぶ、頻《シク/\》などの意。「ぬ」は願望の助辭のネの轉語。「常にあらぬか」を見よ(八〇○頁)。訓は古義による。舊訓のオヨベカモト〔六字傍線〕は破格。又オヨブ〔三字傍線〕は中古語である。「毳」は借字。和名抄に、氈(ハ)毛席、撚(リテ)v毛(ヲ)爲(ス)v席(ト)、和名|賀毛《カモ》と見え、毳も氈も同物にてカモと呼ぶ。今の毛布のことである。○おもへかも 思へば〔右○〕かも。古文法。「かも」は疑辭。上の「かも」は歎辭。○おかざらむ 「武」原本に哉〔右△〕とあるは誤。
【歌意】 何遍にも繁げ/\來いよと、思ふせゐかして、君からの御使が幾ら見ても/\、飽かれぬのであらう。
 
〔評〕 愛は屋上の烏に及ぶ。ましてや君が使である。常に好音を齎してくれる使である。その度毎に嬉しさが音づれる。こんな使は何遍も來いと思ふが當然である。然るに尚「思へかも」と疑問の語を挿入し、多少の曲折と姿致とを求めた。畢竟使を愛するは即ち君を愛すればである。さればこの歌は詠出のまゝにさし置かれたものでなく、必ずその使者に持たせてやつて、わが愛情をその思ふ君に明示したものである。
 この使は男からその往訪を前以て知らせる使である。公然たる妻妾の許には、侍の者達か主人の書簡又は口状を承けて來往したものであつた。
 「百重にも」は第一首の「百重なす」から縁を引いた。聯作としてはかく見るべきである。二つの「かも」、上のは歎辭、下のは疑辭だから、意味上の重複ではないが、同じ語形が餘り近接して置かれてあるので、稍うるさい。
 
(1085)碁檀越《ごのだぬをちが》赴《ゆく》2伊勢(の)國(に)1時、留《とゞまれる》妻《めが》作歌
 
碁檀越が伊勢國に往つた時に留守の妻が詠んだ歌との意。○碁檀越 碁は氏、檀越は名。但碁は氏として奇異である。恐らくその出自は韓人などで碁道の名手だつたので、遂に本姓を易へて碁を以て呼ばれたものであらう。檀越も奇名である。久米禅師、三方沙彌の儔で俗人であらう。檀越は梵語で、檀那《ダンナ》といふに同じい。
 
神風之《かみかぜの》 伊勢乃濱荻《いせのはまをぎ》 折伏而《をりふせて》 客宿也將爲《たびねやすらむ》 荒濱邊爾《あらきはまべに》     500
 
〔釋〕 ○かみかぜの 枕詞。既出(二八〇頁)。○はまをぎ 濱にある荻。蘆を濱荻と稱するは後世の訛。荻は禾本科の野草。高さ五六尺、葉は薄に似て濶大であるが鋭齒がない。秋花穗を出し、薄に似て長大である。
【歌意】 わが夫は〔四字右○〕、今頃伊勢の國で、濱荻を折り伏せて敷きなどして、その荒い濱邊に、旅宿りして寢なさることであらうか。
 
〔評〕 旅そのものが抑も辛苦なもの、それが濱荻折伏せてする不完全な夜床、况やその背景が荒き濱邊、かう段々(1086)と考へてくると、溜らなく夫の上が氣の毒になつて、悲しく泣きたくなる。昔の旅行が一般に辛酸なものであつたとはいへ、これは無論想像が産み出した旅况であるが、かく夫の旅行生活を細心に思惟摸索し、その旅情の辛酸を過大に想像することによつて、夫に對する深い同情と甚大なる思慕の情との交錯を見、言々句々血の滲み出るやうな切ない呼吸の音を聽かされる。古今の絶唱。
 三句まで一氣にいひおろした語勢を承けての四五句の倒装、一緩一急相俟つて、その節奏の面白さには、これまた息も吐かれぬ。背景たる「荒き濱邊に」を最後に拈出したことも、その想像の場面を最も強く深く印象づける效果がある。
 
柿本(の)朝臣人麻呂(が)歌三首
 
未通女等之《をとめらが》 袖振山乃《そでふるやまの》 水垣之《みづがきの》 久時從《ひさしきときゆ》 憶寸吾者《おもひきわれは》     501
 
〔評〕 ○をとめ 「未通女」を音訓にかく訓む。○そでふるやま 袖を振るに布留山をかけた。「未通女らが袖」までは「布留」に係る序詞。○ふるやま 布留の山ともいふ。大和山邊郡布留の石上《イソノカミ》神宮のある小山。社殿のある處を高庭といひ、老杉が林立してゐる。○ふるやまのみづがきの 布留山の神社の。「みづがき」は瑞垣にて、こゝは神社の易名に用ゐた。「みづ」は美稱。「水」は借字。石上神宮は記(中)に「建御雷神《タケミカヅチノ》神答(ヘ)曰(ク)、專(ラ)有《レバ》d平《コトムケシ》2其國(ヲ)1之|横刀《タチ》u可(シ)v降(シツ)、此刀(ノ)名(ヲ)云(ツ)2佐士布都《サジフツノ》神(ト)1、亦(ノ)名(ハ)甕布都《ミカフツ》、亦(ノ)名(ハ)布都御魂《フツノミタマ》、此刀(ハ)者坐(ス)2石上(ノ)神宮(ニ)1云々」とあれば、神代からの社で久しいのである。よつて「久し」に係る序詞とした。崇神天皇の磯城瑞垣《シキノミヅカキノ》宮のことはこ(1087)こに與らない。△地圖282(九四二頁)283(九四三頁)を參照。
【歌意】 處女等が袖を振る、その布留といふ名の神社(瑞垣)が久しいやうに、それは/\久しい以前から貴女の事を思うてをりましたよ、私は。
 
〔評〕 上句は全部序詞であるが、更に委しく分解すれば序中に序があつて、頗る曲折ある姿致を成してゐる。「未通女らが袖ふる山」の辭樣は、
   石上《イソノカミ》袖ふる河の(卷十二)
   との曇り雨ふる河の(同卷)
   吾妹兒に衣かすがの(同卷)
   梓弓ひきとよ國の(卷三)
   から衣きならの里の(卷六)
   旅人にやどかす日なる(續後紀)
の類珍しいことではない。作者の時代からいへば、布留の社を著名な古社と認めることは、當時の大和人一般の常識であるから、その聽者に格別な地理的説明を要せずに、「久しき」の觀念を認識させ得る效果がある。
(1088) 主意は私は貴女を夙くから思ひ染めて居たといふ簡單な事柄に過ぎないが、ほんの當座の花心ではなく、久しい以前からの執心だと報告することは、その戀が將來をかけて確實なる永久性をもつことの保證となるものである。詰り相手からその疑惧不安の念を除き、完全にその心を攫まうとする手段である。
 この歌は、序歌の性質上當然具ふべき特殊の妙諦を、極度に發揮してゐる。結句はその倒装と五音三音より成る促調とに、切に思ひ入つた趣が見えて、巧な表現である。上句下句力量相當り、力強く線が太い。
 卷十一に寄物陳思、
  處女ら乎《ヲ》袖ふる山の水垣のひさしき時ゆ念ひき吾等《ワレ》は  (−2415)
はこの重出である。
 
夏野去《なつぬゆく》 小牡鹿之角乃《をじかのつぬの》 束間毛《つかのまも》 妹之心乎《いもがこころを》 忘而念哉《わすれてもへや》     502
 
〔釋〕 ○なつぬゆくをじかのつぬの 「束の間」に係る序詞。雄鹿が角を持つてゐる事はいふまでもないが、その角は初夏に墮ちて新しいのが生える。初めは袋角で追々伸びてくるが、夏季はまだ十分に成育しないから短くて、一束即ち一握ほどに過ぎない。○つかのまも 束《ツカ》は握《ツカ》むの語根で名詞格。束即ち一握の間は短い間隔なので、短い時間に譬へて用ゐた。○わすれてもへや 思ひ忘れようかい。平安朝の語例では思ひ忘れめや〔六字傍点〕とあるべき處、動詞の使用順序が顛倒してゐる。蓋し語調如何にも因ることである。
(1089)【歌意】 夏野を行く雄鹿の角は、まだ一|握《ニギリ》ほどの短さだが、そのやうな短い時間でも、お前の嬉しい氣持を思ひ忘れますかい。疑ふも程にしなさい。
 
〔評〕 奈良時代の山野に鹿の多かつたことは、既に卷二「秋さらば今も見るごと妻戀に鹿鳴かむ山ぞ――」の條で説明して置いた通りである。さては夏野行く雄鹿などは、萬葉人の折々見掛けてゐたことである。只その角の束の間を序詞に運用した點に、作者の才慧が認められる。
 「束の間も妹が心を忘れて念へや」は只お前を忘れないといふだけの報告とは思はれぬ。「忘れて念へ」の顛倒の措辭と反語の力強い調子とは、そこに何か誓言めいた口吻を思はせる。されば戀愛初期に於ける御機嫌取の甘い※[口+耳]と見るよりは、爛熟し切つた情海は漸く波瀾を生じ來つて、女の狹い氣心からは怨みつらみが時に出る、それを男が極力慰撫した詞と見る方が、より自然であり、又深みも面白味もあると考へる。
  大名兒を遠方野べにかる萱の束のあひだもわれ忘れめや  (卷二、日並皇子−110)
と全く同想同型のものながら、大名兒の歌は戀愛初期の屬吐と思はれる。
 作者は上には三熊野の浦の濱木綿を、布留の瑞垣を、こゝには雄鹿の角を序詞に運用した、これ等の手際は、(1090)尋常を脱した清新さを漂はせるものである。
 
珠衣乃《たまぎぬの》 狹藍左謂沈《さゐさゐしづみ》 家妹爾《いへのもに》 物不語來而《ものいはずきにて》 思金津裳《おもひかねつも》     503
 
〔釋〕 ○たまぎぬの 「さゐさゐ」に係る枕詞。良い衣は衣摺れのしてサワ/\鳴るのでいふ。「たまぎぬ」は珠裳に對する語で、珠を着けた衣ではない。珠は美稱。卷十四に「安利伎奴乃佐惠佐惠《アリギヌノサヱサヱ》しづみ」とあるは、この歌の一傳と思はれる。然るにこゝをもアリキヌノ〔五字傍線〕と訓んで、宣長は鮮なる衣の意とし、又古義は「珠」を蟻〔右△〕の誤としてアリギヌは織衣の轉語と釋いたが、何れも無用の説。○さゐさゐ 騷ぎ。潮の騷ぐを潮さゐ〔三字傍点〕といひ、又百合花は風にゆら/\するので、古名にさゐ〔二字傍点〕と呼ばれた。卷十四の「佐惠佐惠《サヱサヱ》」はこの轉語。○しづみ 靜まり〔三字傍点〕の約。鎭むの意の自動詞。他動に鎭め〔二字傍点〕と解するは誤。この語平安期にはシヾマと轉訛して沈黙の意の名詞となつた。諸註煩瑣にして從ひ難い。○いへのも 家の妻。○きにて 物言はず〔四字傍点〕より續く時はキニテといふが、この集の例である。舊訓キテ〔二字傍線〕。○おもひかね 思に勝へずの意。思ひ敢へずの意ではない。
【歌意】 門出の際の〔五字右○〕取込も靜まり、今思へば、内の奴に碌に話もせずにきてしまつて、今更思に堪へられぬことよ。
 
〔評〕 暇乞の送別の見送りのと、社會的儀禮は落ち着いて家妻にわが別離の情を敍ぶる遑も許さない。蒼卒旅途に上つて獨坐寂寥の境に置かれた今、ひし/\と家戀し人戀しの念に打たれ、物言はず別れ來つたその悔しさを(1091)痛感する。さりとて後悔先に立たず、再び物言ふべくもない。そこに限ない感傷がある。川柳點の「品川に來て忘れたる事ばかり」もこの類想であらう。
  水鳥の立ちのいそぎに父母に物いはずきにて今ぞ悔しき  (卷二十−4337)
に至つては全く同想であるが、「立ちのいそぎに――今ぞ悔しき」はいひ過ぎて餘蘊に乏しい。
  あり衣のさゑ/”\しづみ家の妹に物いはず來にて思ひ苦しも  (卷十四、東歌−3481)
はこの異傳であるが、「さゑ/”\」の轉訛といひ、結句の辭樣の力無さといひ、本文の方がその原歌であることを證する。單に卷十四の歌のみでいへば、歌詞が卑いから、或は防人等の詠ともいへよう。
 
柿本(の)朝臣人麻呂(が)妻〔左△〕(の)歌一首
 
人麻呂の妻君の詠んだ歌との意。但歌の趣では男の作である。「妻」の字は衍。或は贈〔右○〕妻とあつたものか。
 
君家爾《きみがいへに》 吾住坂乃《われすみさかの》 家道乎毛《いへぢをも》 吾者不忘《われはわすれじ》 命不死者《いのちしなずば》     504
 
〔釋〕 ○きみがいへにわれすみさか 君が家にわれ住むといふに墨坂をいひかけた。「きみ」は女を斥す。古への婚姻は女の許に男が婿となつて通つて往く、それを住む〔二字傍点〕といふのが通語であつた。○すみさか 大和宇陀郡の墨坂。榛原町の西峠がそれである。宣長の宇陀の墨坂と思はれずと疑つたのは論據がない。○すみさかのいへぢ 墨坂の君の〔二字右○〕家にゆく路。古義に墨坂を經て彼家に到る道とあるはいかゞ。○いへぢをも 「も」は君を忘(1092)れぬ意を含めていふ。○わすれじ 古義の訓ワスラジ〔四字傍線〕は鑿。△地圖 挿圖33を參照(一〇三頁)。
【歌意】 貴方の家に私が通うてゐるが、貴女のことは勿論、その墨坂の貴女の家への通ひ路をも、この命がなくならぬ以上は、私は忘れることはあるまいと思ひます。
 
〔評〕 人麻呂の居宅は何處であつたか。柿本氏は姓氏録には大和の皇別に隷してある。顯昭法師の人丸勘文、鴨長明の無明抄に據れば、
  大和添上郡櫟本村(今櫟本町)の石上寺の附近に柿本寺といふがあり、其處に人丸冢ありて、處にては歌塚と呼ぶ。
とある。蓋しその地は柿本氏の釆邑で、人麻呂は其處に住んでゐたのであらう。今は治道村に屬して、近世に建てた歌塚の碑がある。彼れが「現せ身と思ひし時に携ひて吾が二人見し走り出の堤」(卷二)と歌つた堤は、この治道村の歌塚附近であらう。然し彼れは下級ながらも官吏だから、重(1093)に京地の飛鳥又は藤原に居たと考へられる。假に在藤原京の時としてもそこから今の墨坂の女の許にもその居宅から初瀬《ハセ》、吉隱《ヨナバリ》を經て、約六里の遠路を通つたのである。
 この遠路を通つたといふ事實がこの歌の主命となつてゐる。まづ墨坂の地名を點出しておいて、次にその家路を提擧した。いづれ馬で通うたものでもあらうが、遠路はやはり遠路で、相當骨の折れる戀のコースである。されば墨坂の女とその家路とは、何時も相反的事態のもとに、作者の心上を往來するのである。
 然し戀は熾烈だ。遂にその家路の勞苦を厭ふどころか、却てそれに執着を感じ、生きの限りはこの印象深い家路は忘れまいとの宣言、これ即ち本尊たる墨坂の女を一生忘れまいの宣言である。含蓄の味、そんな技巧的な事ではなくて、只もう一往邁進、無遠慮にその火の如き戀の至誠を、疎宕なる修辭と鐵の如き調子とで包容した。
 「君が家にわれ住坂」は「妹が門人りいづみ川の」(卷九)と同巧の修辭である。但これを墨坂への序詞と見た人もあるが、さう輕いものではあるまい。これは事相の關係を説明して、次句以下の素地を成したものである。「命死なずば」は生の限りはの逆叙で、この表現と四五句の倒装とは、「われは忘れじ」の意を強調して、戀の火※[餡の旁+炎]を煽揚する。
 難を擧げれば「家」又は「われ」の語の疊出である。頗る疎笨な點がないでもない。案ずるに、この歌は作者の獨言でさし描かれたのではなく、その至誠を披瀝する爲に墨坂の女に贈つたもの(1094)であらう。「君が家に」の語がさう思はせるのである。果してさうとすると、そこに又一段の姿致を生じ、波瀾を構成して面白い。
 
安倍《あべの》女郎(の)歌二首
 
○安倍女郎 安倍は氏。安倍は十市部(今磯城那)の在名で、孝徳天皇の朝に左大臣安倍(ノ)内麻呂の名が見える。蓋し累世の貴氏である。原本目録には阿部女郎とある。卷三にある阿陪女郎も同人か。女郎の名は不明。
 
今更《いまさらに》 何乎可將念《なにをかおもはむ》 打靡《うちなびき》 情者君爾《こころはきみに》 縁爾之物乎《よりにしものを》     505
 
〔釋〕 ○うちなびき 「よりにし」に係る。
【歌意】 今改めて何を思はうぞい、私の心は疾うに貴方に靡いて、寄りついてしまつたものをさ。
 
〔評〕 左右狐疑ぜず、全靈を捧げて悔ゆる事のない一本氣の誠實な戀、それを女らしい優しい心持で歌つた。和らかな薄絹のやうな感觸をもつた懷かしさ。かうした氣立の女は實に幸福である、隨つて男も亦幸福である。結句の抑揚の辭樣も、この湯合尤も妥當な表現である。
  天雪のよそに見しより吾妹子に心も身さへ寄りにしものを  (笠金村−547)
と比較したら、明かにその優劣がわからう。
 
(1095)吾背子波《わがせこは》 物莫念《ものなおもひそ》 事之有者《ことしあらば》 火爾毛水爾毛《ひにもみづにも》 吾莫七國《われなけなくに》     506
 
〔釋〕 ○ひにもみづにも の下、入るべき〔四字右○〕の語が略かれた。諸註、假令〔二字傍点〕火水に入る事ありとも〔四字傍点〕と解したのは誤。○われなけなくに 既出(二六五頁)。
【歌意】 私の旦那樣は、御心配などなさいますな。若しもの事がさあるなら、火の中にも水の中にも飛び込む私が、居りませぬことか、居ります程にさ。
 
〔評〕 貞節なものだ。女郎の夫は當時必ず重大な物思ふべき仔細があつたに相違ない。愈よといふ時には心身を抛つても私が盡しますと誓ふ。火に入り水に入るは危險を冒すにいふ具象的常套文句で、卷九、菟原處女《ウバラヲトノ》の歌にも、
  水に入り火にも入らむと、立ち向ひ、―― (−1809)
ともいひ、斷章的に見れば套語であるが、全體から見ると、その包容してゐる作者の絶大なる愛の誠意には、胸を打たれぬ者はあるまい。その感激鳴咽の聲は今も耳に聞えるやうである。
  吾がおほ君物なおもほし皇神のつぎて賜へるわれなけなくに (卷二、御名部皇女−77)
  事しあらば小泊瀬山の石城《イハキ》にもこもらばともにな思ひわが脊 (卷十六−3806)
とその構想形式を同じうしてゐる。
 
(1096)駿河(の)※[女+采]女《うねめの》歌一首
 
○駿河※[女+采]女 駿河から貢進した采女。「※[女+采]」は字書に采女也と見えて、采女の合字だが、更に「女」の字を添へた。「采女」のことは既出(三一八頁)。
 
敷細乃《しきたへの》 枕從久久流《まくらゆくくる》 涙二曾《なみだにぞ》 浮宿乎思家類《うきねをしける》 戀乃繁爾《こひのしげきに》     507
 
〔釋〕 ○しきたへの 枕の枕詞。既出(二五五頁)。○まくらゆくくる 枕から漏れ落つる。「くくる」は漏るゝ〔三字傍点〕の古言。潜ること。泳ぐこと。○うきね 水上に寢ること。
【歌意】 私は〔二字右○〕枕から漏れて落ちる涙の上にさ、浮寢をしたことわ。戀心が頻りに催すのでね。
 
〔評〕 涙の多量なことを誇張してそれに浮寢するとは、餘に技巧過ぎて、眞實味がけし飛んでしまふ。この種の構想は平安朝に入つて多くなり、
  涙川まくら涜るゝうき寢には  (古今集戀一)
  涙川身さへ流ると聞かばたのまむ  (同 戀三)
の類、遊戲氣分に墮して甚だ面白くない。然し奈良時代に於いてかくの如き尖端的文字を示したことは、必ずや異色の作として人目を側たしめたことであらう。
 
(1097)三方沙彌《みかたのさみが》歌一首
 
○三方沙彌 傳は既出(三六九頁)。
 
衣手乃《ころもでの》 別今夜從《わかるこよひゆ》 妹毛吾母《いももわれも》 甚戀名《いたくこひむな》 相因乎奈美《あふよしをなみ》     508
 
〔釋〕 ○ころもでのわかる 相副うてゐる二人の袖の左右に離るゝをいふ。袂を分つ〔四字傍点〕に同じい。「わかる」はこゝでは四段活で、現在の口語に、了解することや分明になることを、ワカルといふも同活用。○こひむな 「な」は歎辭。
【歌意】 お互の袂の別れ/\になる今夜から、お前も私も、又と逢ふ術がまあなさに、定めし甚《ひど》く戀しいだらうな。
 
〔評〕 これが最後の逢ふ瀬で、愈よ交した袖を解くその別れ際に臨んで、將來の戀の苦悩を豫想した。旅立の時の作か、又は何かの事情で逢ふ瀬の續かぬ時の作か。
 
丹比眞人笠麻呂《たぢひのまひとかさまろが》下(れる)2筑紫(に)1時(に)作歌一首并短歌
 
○丹比眞人笠麻呂 傳は既出(六〇九・七一六頁)。○下筑紫 官吏としての西下と思はれるが、それが臨時公用の派遣か、地方官としての赴任かは明かでない。「筑紫」は既出(七四二頁)。
 
(1098)臣女乃《たわやめの》 匣爾乘有《くしげにのれる》 鏡成《かがみなす》 見津乃濱邊爾《みつのはまべに》 狹丹頻相《さにつらふ》 紐解不離《ひもときさけず》 吾味兒爾《わぎもこに》 戀乍居者《こひつつをれば》 明晩乃《あけぐれの》 旦霧隱《あさぎりがくり》 鳴多頭乃《なくたづの》 哭耳之所哭《ねのみしなかゆ》 吾戀流《わがこふる》 千重乃一隔母《ちへのひとへも》 名草漏《なぐさもる》 情毛有哉跡《こころもありやと》 家當《いへのあたり》 吾立見者《わがたちみれば》 青※[弓+其]乃《あをはたの》 葛木山爾《かづらきやまに》 多奈引流《たなびける》 白雲隱《しらくもがくり》 天佐我留《あまさかる》 夷之國邊爾《ひなのくにべに》 直何《ただむかふ》 淡路乎過《あはぢをすぎ》 粟島乎《あはしまを》 背爾見管《そがひにみつつ》 朝名寸二《あさなぎに》 水手之音喚《かこのこゑよび》 暮名寸二《ゆふなぎに》 梶之聲爲乍《かぢのとしつつ》 浪上乎《なみのうへを》 五十行左具久美《いゆきさぐくみ》 磐間乎《いはのまを》 射往廻《いゆきもとほり》 稻日都麻《いなびつま》 浦箕乎過而《うらみをすぎて》 鳥自物《とりじもの》 魚津左比去者《なづさひゆけば》 (1099)家之島《いへのしま》 荒磯之宇倍爾《ありそのうへに》 打靡《うちなびき》 四時二生有《しじにおひたる》 莫告能〔左△〕《なのりその》 奈騰可聞妹爾《などかもいもに》 不告來二計謀《のらずきにけむ》     509
 
〔釋〕 ○たわやめ 「臣女」は姫〔傍点〕の拆字。故にタワヤメと訓む。古義はオミノメ〔四字傍線〕と訓んで、記の仁徳天皇及び雄略天皇の條のオミノヲトメ、その他臣の子、臣の壯子《ヲトコ》などの例を引いたが、それらは尊貴の方のいふ詞で、ここには協はない。○くしげにのれる 櫛笥《クシゲ》は櫛筥で、鏡をその上に載せるのは常の事である。古義が鏡は櫛笥の内にこそ納るべけれといつて、「乘有」を齋〔右△〕の誤としイツク〔三字傍線〕と訓んだのは不稽。○かがみなすみつのはまべ 鏡の如く見る〔二字傍点〕を地名の御津《ミツ》にいひかけた。「みつのはま」は既出(二三五頁)。○さにつらふひも 紅紐のこと。「さにつらふ」は前出(九三三頁)。〇ときさけず 釋いて退《ノ》けず。○あけぐれ 夜明けのまだほの暗い時の稱。夜の明けんとして却て闇くなる時とする、代匠記その他の解は俗説。○あけぐれの――なくたづの この三句は音《ネ》に係る序詞。○わがこふる――ありやと この四句は卷二、人麻呂の「妻死之後泣血哀慟作歌」中の語。但それには「わがこふる」がわがこひの〔五字傍点〕(吾戀)、「なぐさもる」がなぐさむる〔五字傍点〕とある。○なぐさもる 慰むるの轉語。高松《タカマト》、小豆無《アヂキナク》と同例。この語古へは自動詞に用ゐたらしい。舊訓はナグサムル〔五字傍線〕。○ありやと 前出(一〇〇一頁)。舊訓はアレヤ〔三字傍線〕。○いへのあたり 我妹子の〔四字右○〕家のあたり。○あをはたの 山に係る枕詞。「※[弓+其]」は旗〔傍点〕の俗體と木村氏の説である。(1)青旗の如く青きの意。されば葛城山へも忍坂《オサカ》の山、木幡山へも冠せて用ゐる。(2)以下の諸説、葛城に係る枕詞とのみ解したのは不完である。アヲハタは綾織《アヤハタ》の義で、古へ華※[草冠/縵]《カツラ》を綾羅《アヤウスハタ》(1100)で造つたから綾織《アヤハタ》の華※[草冠/縵]《カツラ》と續けた(古義)(3)「※[弓+其]」は楊〔右△〕の誤で、アヲヤギノ〔五字傍線〕と訓むべく、青柳の※[草冠/縵]《カヅラ》と續けた(冠辭考)。(4)「※[弓+其]」は弦の誤で青弦《アヲヅラ》の葛《カヅラ》と續く(古義一説)。○かづらきやま 大和河内の國境に連亙する山脈で、北は二上山に及び、南端の最高峰を高天《タカマ》山と稱する。打任せてはこの高天山を葛城山といひ、河内では金剛山といふ。標高千百十二米突餘。○しらくもがくり その家のあたりは〔八字右○〕白雲に隱れの意。ふと見ては詞が不完で、この句の下に脱句でもあるらしいが、かく補足して聞くことにする。○あまざかるひな 既出(一二四頁)。○ひなのくにべにただむかふあはぢ 鄙の國邊即ち西國方面に直面してゐる淡路。かく解するが叙述上當然の見方だ。卷六に「みけ向ふ淡路の島にたゞ向ふ〔四字傍点〕敏馬の浦の」もこの例である。鄙の國邊を四國邊と限つた古義の説は偏つてゐる。又新考は「鄙の國邊に」を下の「なづさひゆけば」に係る句とし、卷十五の「から國に渡りゆかむとたゞ向ふ敏馬《ミヌメ》をさして」を例に引き、こゝは淡路が作者にたゞ向ふ意と解した。然し跨續とするには距離があり過ぎて諾へない。○あはしま 加太の淡島のこと。前出(八三五頁)。○そがひ 前出(八三四頁)。○かこ 水手。※[楫+戈]子《カヂコ》の略。○かぢのと 櫓の音。「かぢひきをり」を見よ(五九七頁)。○いゆき 「い」は發語。○さぐくみ 「さ(1101)くみ」と同じい。「いはねさくみて」を見よ(五七六頁)。○もとほり 「いはひもとほり」を見よ(五三九頁)。「廻〔右△〕」は廻の書寫字。○いなびつま 印南端《イナミツマ》の義。卷六卷十五にも、いな美《ミ》つま、印南《イナミ》つまと見え、「いなび」はイナミの轉。播磨國印南郡の最端を稱し、古ヘの鹿兒《カコ》の島(今の高砂町)に當る。播磨風土記印南郡の條に「郡(ノ)南(ノ)海中(ニ)有(リ)2小島1、名(ヲ)曰(フ)2南※[田+比]都麻《ナビツマト》1」と見え、南※[田+比]都麻はイナビツマの略と覺しい。「かこのしま」を參照(六六五頁)。○うらみ 浦邊《ウラベ》の轉。○とりじもの 既出(五七四頁)。但こゝの鳥は水鳥を斥してゐる。○とりじものなづさひゆげば 水鳥そのまゝの樣子で水に〔二字右○〕馴染んで行くとの意。「鳰鳥《ニホドリ》のなづさひゆけば」(卷五)も同例。「なづさひ」は「なづさふ」を見よ(九五八頁)。さてこの「なづさひゆけば」を下文に承けた詞がないのは不完と思はれる。○いへのしま 又イヘジマ。播磨國飾磨郡|家島《イジマ》村。もと揖保郡に屬し、室津の南七海里にある瀬戸内海中の大島で、神名式に家島神社、名神大と見え、承知長保の時代に亘つて官馬を放牧したことは、延喜式、本朝世紀などに出てゐる。○ありそのうへ 「うへ」はあたり、ほとりなどの意。○しじに 前出(七八六頁)。「四時」は戲書。○なのりその 一句隔てた「のら」に係る序詞。「能」原本に我〔右△〕とあ(1102)る。宣長は允恭天皇紀の歌によつてナノリソモ〔五字傍線〕と訓み、我を茂〔右△〕の誤字とした。今は古義の能〔右△〕の誤とする説に從つた。「なのりそ」は前出(八四〇頁)。○などかも 「か」は疑辭。○のらず 告げず。○けむ 「謀」をムと訓むは呉音。△地圖及寫眞(卷頭)總圖及挿圖99(三一四頁)143(五一五頁)を參照。
【歌意】 美女の櫛匣に載つてゐる鏡のやうに、見るといふ名の三津の濱邊で、紅紐をほどいて取退けもせず、わが妻に戀ひ續けてゐると、夜明け頃の朝霧に籠つて鶴が高鳴くが、その如く私は聲を立てゝのみさ、泣かれるわ。そこで私の戀の千分の一でも慰む氣持も出るかどうかと、妻のゐる故里の家のあたりを、私が立上がつて見ると、遙か向うの葛城山に靡いてゐる白雲に、家のあたりは〔六字右○〕隱れて見えず〔三字右○〕、西國方面に眞向ひの淡路を過ぎ、粟島を後方に見ながらゆくと〔三字右○〕、朝凪には水手《カコ》が聲高に呼びあひ、夕凪には櫓の音が頻にし、波の上を突つ切つて往き、岩の間を往き廻つて、印南野はづれの浦邊を通過して、邊鄙の國々に拘はりつゝ往くと、家の島の荒磯のあたりに、靡いて一杯に生えてゐる莫告藻《ナノリソ》を見たが〔三字右○〕、その莫告藻の「のり」といふやうに、何で彼女に今囘の旅行の首途に、一言も告らず黙つて來たことであつたらう。今更殘念で溜らない〔九字右○〕。
 
〔評〕 難波の御津は當時西國航路の出發點で、奈良平安時代の人々が、その本土に又見送の人達に、最後の別涙を濺ぐ本無臺であつた。
 作者もその例に洩れず、一まづ御津より船に投じ、征旅の第一夜を明かした。もとより丸寢の状態で「さにつらふ紐解きさけず」であつて見れば、温い我妹子の懷を思ひつゝ、終夜を戀ひ明かすのも尤もである。而も時季が八十島の荻蘆は枯れ渡つて、朝霧隱れに鶴の鳴く冬であることに想到すると、その蕭條たる背景と鶴の(1103)鳴音とに旅愁が唆られて、「音のみし泣かゆ」が盡く利いてくる。
 令には朝服に赤紐の沙汰がない。然るに作者は今派手な赤紐をしめてゐる。恐らく平常服に締めたものであらう。卷十二に
  客《タビ》の夜の久しくなればさにづらふ紐|開離《アケサ》けず戀ふるこの頃 (−3144) ともある。
 「わが戀ふる――心もありやと」の四句は、卷二の人麻呂の「妻死之後泣血哀慟歌」の作中にも見えるが、こんな句は尋常茶飯語で、あながち人麻呂の獨創とも思はれぬから、決して踏襲とはいはれまい。
 船は今や武庫の海を紀淡海映へと南進した。舳先に立ちあがつて、悵然として奈良京なる我妹子の家のあたりを瞻望するが、葛城連山の雲は漠々として深く鎖し、無情にも更にこの船客の焦燥に關せぬものゝ如くである。「白雲隱り」は上なる「朝霧隱り」と同型の句法でうるさい。のみならず詞が不完であるらしいが、これは見えず〔三字右○〕の語を補足すれば聞える。或は落句かも知れない。
 愈よ懷かしの本土を離れて萬里波上の人となつた。船は早くも淡路の南端を一廻轉して、鳴門海峽を一路北上、もう粟島を後ろに見るのであつた。これからは愈よ眞劔の航海で、風波平穩の日時を覘ひ/\船を遣る。これが朝凪夕凪に「水手の聲呼び」「櫓の音しつつ」とある所以で、古への航海には實に水手の呼聲と櫓の音とは、船客の心を慰める唯一の福音で、何よりの力綱であつた。かくて千波萬波を押切り、幾多の島嶼の間を迂航し、遂に印南の海即ち播磨灘の一部を乘つ切つた。
 「そがひに見つつ」「※[楫+戈]の音しつつ」のつつ〔二字傍点〕の重複は面白くない。尤も上のは輕い意味に聞くべきだが。
(1104) 印南都麻から家島までの航路は、只「鳥じものなづさひ行けば」の一句を以て、抽象的に輕く平叙した。これ繁簡交錯の筆法で、惡くはない。但「なづさひ行けば」を結收する文字が下にない。試にいはゞ「家の島荒磯の上に莫告藻ぞ〔四字右○〕しじに生ひたる、その〔二字右○〕莫告藻のなどかも」といふ意味で行叙すべきである。省筆の叙法とも見たいが、やはり無理であらう。
 家島は室津から正南七海里、正北に向つて灣口を聞いた良好の錨地がある。風波潮流などの關係で、作者の船はこゝに碇泊したのである。すると、その邊の荒磯に莫告藻《ナノリソ》が一杯に生えてゐた。莫告藻に告《ノル》の語を聯想することは允恭天皇紀以來の常例で、珍しからぬことは承知しながらも、實際これを目撃した作者としては、その出發の際彼れ我妹子に告らず〔三字傍点〕來た重大な遺憾さが、居常心頭を往來してゐる爲、端的に右顧左眄の餘裕なく、「莫告藻の告らず來にけむ」と叫んだものだ。「などかも」と我れとわが行爲に不審を打つほど、作者は深い悔恨と自責の念とに迫られてゐる。蓋し不知火筑紫への赴任では、近き再會は全く絶望だからである。
 然しかゝる大事の門出に我妹子に告別せぬといふことは、聊か腑に落ちない。想ふにこの我妹子は同棲者ではあるまい。又本妻ならば假令同棲の時期に達せずとも、そんな粗略なあしらひはせぬであらう。難波から瞻望するに葛城山の雲の遮蔽を歎じてゐる點から考へると、我妹子は藤原の舊京邊に住む女で、作者は奈良京から休沐の暇を竊んで遙々通つた妾かも知れない。で忽卒の際測らず告別の機を失したものと見たい。
 この篇、難波出發より家の島寄港に至るまでの叙事と感想とで終始してゐる。初頭「たわやめの櫛笥に載れる鏡」は我妹子の生活さへ聯想されて、聊か艶冶の趣をも含み、又末節の家の島以下の句に照應をもち、その首尾頗る見るに足るものがあるが、中間は「音のみし泣かゆ」の句を除くと、同じ接續辭法の反復で、段節を(1105)分ち難いほどに、綿々と徒らに連絡し、而もその句意の應接に間々明※[目+折]を缺く憾がある。古今集に見える段節のない長歌はこの邊に胚胎したのではあるまいかと、ふと感じもした。大作ではあるが氣格が卑く、體制不調の迹があることは否めない。
 
反歌
 
白妙乃《しろたへの》 袖解更而《そでときかへて》 還來武《かへりこむ》 月日乎數而《つきひをよみて》 往而來猿尾《ゆきてこましを》     510
 
〔釋〕 ○しろたへの 袖に係る枕詞。「しろたへ」を見よ(一一八頁)。○そでときかへて 袖を切りほどいて互に取換へて。眞淵は「袖」を紐〔右△〕の誤とした。○つきひをよみて 月日を數へて。數ふることを今もヨムといふ。○ゆきて 初句の上に廻はして聞くべきである。○ましを 「猿尾」は戲書。
【歌意】 我妹子の許に〔六字右○〕往つて、十分別離の名殘を惜み、お互の袖を解いて取換へて、又自分の旅から歸つて來うまでの日數は、どれ程と數へ知らせて來うものを。さて殘念なことをしたものよ。
 
〔評〕 別れ際に男女互に袖を引ちぎつて取換へこをする、これは作者の思ひ付いた新案ではあるまい、必ず當時にさうした慣習があつたことが考へられる。尤も何時ものきぬ/”\の別などにはせぬことで、事情あつて暫く交會の機を斷つやうな場合に、記念としてお互に秘藏したものと見える。この慣習は平安朝に入つては絶對に聞かない。それは平安人の袖丈が長くなつた爲でもあるまい。御所櫻淨瑠璃に、鬼若丸の片袖をおわさ〔三字傍点〕が持(1106)つてゐた話はあるが、あれは筋が違ふ。とにかく面白い情味深い所作ではないか。尚いふ、この袖は上著のではなく、必ず下著のである。
 昵近者に對しては、特に大よその歸期を告ぐることは、旅行く者の當然なる義務である。作者は既に情誼を盡さず、又義務をも怠つた。自責の念は旅愁と共に益す燃え盛り、悔恨の情はひし/\と胸を打つ。流るゝ水が返り來ぬとは知りつゝも、尚執拗に愚癡に焦慮する、そこに人情の美しさを發見する。
 初二句と三四句とは二つの事相を排叙して、共に結句に係けて結收した。その事相が具象的であるが爲に、丁寧親切なる惜別の情味が躍動して面白い。「ゆきてこましを」の歇後の辭樣も、この場合尤も有效なる叙法である。
 序に「こむ」「こまし」と、將然形の來《コ》の語が重複してゐることを摘記しておく。 
幸《せる》2伊勢(の)國(に)1時、當麻《たぎまの》麻呂(の)大夫(の)妻(が)作歌一首
 
この歌は卷一に既出(一六九頁)。
 
吾背子者《わがせこは》 何處將行《いづくゆくらむ》 己津物《おきつもの》 隱之山乎《なばりのやまを》 今日歟超良武《けふかこゆらむ》     511
 
草孃《ゐなかをとめが》歌一首
 
○草孃 田舍娘のことか。草は草野の意。草野の竊盗を草竊と略稱する類で、草野の孃子の略らしい。古義に(1107)は輟耕録に娼婦を草娘といふとあるを引いてウカレメ〔四字傍線〕と訓み、略解は「草」の下香〔右○〕を脱せるかとてクサノイラツメ〔七字傍線〕と訓んだ。いづれもこの歌の趣に協はない。
 
秋田之《あきのたの》 穗田乃刈婆加《ほたのかりばか》 香縁相者《かよりあはば》 彼所毛加人之《そこもかひとの》 吾乎事將成《わをことなさむ》     512
 
○ほた 稻穗の出た田。○かりばか 勞働上の語で、稻刈などに、豫定の計畫地域又は範圍をいふ。「はか」は量《ハカ》るの義。俗にいふハカガユクのハカも同語と思はれる。○かよりあはば 二人が〔三字右○〕一つ所に打寄らうならの意。或説に兩方から刈り進みて出會はむにと解したのは拘泥である。「か」は接頭語、催馬樂(總角)に「まろび合ひけり、か寄り合ひ〔五字傍点〕けり」とある。○そこもか 「そこも」はそれをもの意。「か」は疑辭。○わをことなさむ 私を變に〔二字右○〕人が噂せう。「ことなさむ」はいひ做さむの意。「事」は借字。
【歌意】 實つた秋田の稻刈に、銘々の持分《モチブン》を刈つてゆく、そのうちに測らずあの人と私とが、一つ所に寄り合ふなら、それをも傍《ハタ》の人達が、何でも譯のあるやうに、私をいひ做さうかしら。
 
〔評〕 田舍は世間が狹いから、一寸した事も間題に上り、噂の種ともなる。男の刈ばかと自分の刈ばかとが隣接してゐる以上、否でも應でも寄り合うて、互に顔を見合はせもせう。處が向うの男も若い、自分も若いとなつては、他人や傍輩達はとても黙つてはゐまいと、まだ刈田に下り立たぬ前から情事的想像を描いて、取越し苦勞をしてゐる。餘り神經質過ぎるやうだが、實の處向うの男に内々氣があるので、こんなにも氣が咎めるので(1108)あらう。「人の」と「わを」とを密對させたことも、世間對自己の關係を不可分のやうに強く思惟してゐる趣が見え、そこに生《ウブ》なはにかみ屋の、その癖色氣づいた田舍娘の心理的躍動を見る。
  やまとの宇陀《ウダ》の眞赤土《マハニ》のさにつかばそこもか人のわをことなさむ (卷七−1376)
は下句が同一である。いづれが先出か。
 上流社會の人達や官吏の製作のみの多い中に、かく卑い社會層の人の土臭い聲を耳にし得るのは、洵に嬉しい。高山峻嶺の間になだらかな草山を見付けた時のやうな氣持がする。
 初二句を「寄り合はば」に係る序詞として、諸家は解してゐる。それでは折角の興味ある場面が實際的でなくなり、印象が稀薄で、「寄り合はば」が一向に活て來ない。
 
志貴(の)皇子(の)御歌:一首
 
○志費皇子 傳は既出(二〇〇頁)。△寫眞及地圖挿圖104(三三三頁)105(三三四頁)を見よ。
 
大原之《おほはらの》 此市柴乃《このいちしばの》 何時〔左△〕鹿跡《いつしかと》 吾念妹爾《わがおもふいもに》 今夜相有香裳《こよひあへるかも》     513
 
〔釋〕 ○おほはら 既出(三三三頁)。○いちしば 繁つた莱草《シバ》、五十津莱草《イツシバ》の義。五十津《イツ》は上にも「川上の五十津藻《イツモ》の花」と見え、又集中「この五柴に」(卷八)「五柴原《イツシバハラ》の」(卷十一)などある五〔傍点〕は皆|五十津《イツ》の略である。ここはそれをイチと轉じた。又「柴」が借字であることは、卷十一に「道の柴草」ともあるのでも明かである。(1109)和名抄に、莱草一名類草、和名|之波《シバ》、とある。荒地に生ずる雜草の稱。古義はイツシバ〔四字傍線〕と訓んだ。「何時《イツ》しか」に係る序としてはしつくりするが、イチシバでも差支ない。「おき〔二字傍点〕つ島山おく〔二字傍点〕まへて」(卷十一)などの例もあり序はその語響が通ひさへすればよいのである。當時イツシバ、イチシバ竝び行はれてゐたと思はれる。欅柴《イチヒシバ》の説は採らない。○いつしかと 前出(九九○頁)。「鹿」原本に庶〔右△〕とあるは誤。
【歌意】 大原のこの五十津莱草《イツシバ》のいつといふやうに、何時逢へるかと、私が待遠に思うた妹に、とう/\今夜逢うたことよなあ。
 
〔評〕 この歌は妹が家での初夜の作で、長く懸想した甲斐あつて、遂に本望を達し得た歡を述べたものだ。平凡の感想で珍しくはないが、初二句の序に多少の姿致がある。といふは「大原のこのいちしば」の口氣が、如何にも現實的であるからである。その妹は必ず大原の里に住んで居、其處は五十津莱草の草深いあたりであつたに違ない。大原は藤原氏の本居だから、或はこの妹は藤原家の娘かも知れない。
 
阿倍女郎《あべのいらつめが》歌一首
 
○阿倍女郎 上に安倍女郎とあると同人だらう。
 
吾背子之《わがせこが》 蓋〔左△〕世流衣之《けせるころもの》 針目不落《はりめおちず》 入爾家良之奈〔左○〕《いりにけらしな》 我情副《わがこころさへ》     514
 
(1110)〔釋〕 ○けせる 著《キ》られた。古義にいふ、著《キ》るを敬語ににけす〔二字傍点〕といふ。尚ミルを敬語にメスといふと同格と。そのけす〔二字傍点〕の第五變化の「けせ」に現在完了の助動詞り〔傍点〕の第四變北「る」の接續したもの。記の倭建(ノ)命の御歌に「汝《ナ》がけせる〔三字傍点〕おすひの裾に」とある。「蓋」は被《オホヒ》で、著る意もあるので蓋世流《ケセル》と訓んだ。もし「蓋」を著〔右△〕の誤とすれば解決が早い。○はりめ 針の通つた痕、即ち縫目に當る。○おちず 「ぬるよおちず」を見よ(四五頁)。○いりにけらしな 「奈」原本にない。四句は初二句と異なり音數の不完を許さぬから、假に歎辭の奈〔右○〕を補うた。○こころさへ 心までも。針目に絲の入るを本としていつた。「さへ」は副《ソヘ》の意の助辭。
【歌意】 こちの旦那樣のお召しなされた、着物の針目針目に落ちなく、這入つたらしいなあ、絲ばかりか私の心までも。
 
〔評〕 裁縫は女紅の第一として、如何なる高貴の身分でも必ず遣つたものだ。夫の著物の世話はすべて妻がするのが原則的だ。今はその仕立おろしを夫は著て、いそ/\出て往つたあとの感想である。折角縫ひ上げた喜びとそれを夫に著せて見た滿足とは、夫の外出と共に一瞬の間に消え去つて、何だか手持不沙汰な輕い失望を感じ、洞のやうな空虚の心に囚はれてしまつた。でこれはその針目毎に盡く自分の心までも縫ひ込んでしまつたせゐかしらと、極めて尖奇な、繊細な情癡の閑想像を投げ付けた。如何に眞劍に一針一針にその思を籠めて縫ひ上げたかが思ひ遣られる。
  慈母手中(ノ)線、遊子身上(ノ)衣、當(ツテ)v行(ニ)密々(ニ)縫(フ)、心(ニ)恐(ル)遲々(トシテ)歸(ランコトヲ)。(唐、孟郊)
 愛兒にせよ、夫にせよ、女の心持は一つである。そこが眞心の尊い處で、又男に取つてこの上もない嬉しい(1111)親切である。誠にこの作の如き、女でなくてはとても詠まれぬ心境である。
 次の歌によつて、この「わが背子」を中臣(ノ)東人を斥すものとするのは速斷のやうだが、女郎の眞實な誠意を認めて、男を東人一人と假定しておく。
 
中臣《なかとみの》朝臣|東人《あづまひとが》贈(れる)2阿倍(の)女郎(に)1歌一首
 
○中臣朝臣東人 續紀に、和銅四年從五位下、養老二年式部少輔、同四年左中辨、神龜元年正五位下、同三年正五位上、天平四年兵部大輔、同五年從四位下と見え、三代實録に、故刑部卿從四位下中臣朝臣東人とある。大中臣系に、意美《オミ》麿(ノ)子安麿(ノ)父、祭主從四位下神祇伯刑部卿、母は大織冠藤原内大臣(ノ)女|斗賣《トメノ》娘とある。
 
獨宿而《ひとりねて》 絶西紐緒《たえにしひもを》 忌見跡《ゆゆしみと》 世武爲便不知《せむすべしらに》 哭耳之曾泣《ねのみしぞなく》     515
 
〔釋〕 ○たえにしひもをゆゆしみと 卷三「吉志美《キシミ》が岳をさかしみと」(八八二頁)と同詞形。「ゆゆし」は既出(五三〇頁)。「紐緒」は戲書。
【歌意】 只獨寢してゐて、斷れた著物の紐がまあ不吉さに、途方にくれて、聲に立てゝさ泣くわい。
 
〔評〕 これは偶ま女郎の許に往かず、わが家に獨寢した晩の出來事に就いての悲觀である。阿倍女郎の返歌の趣によれば、その紐は附紐らしい。下著か寢卷かの附紐が、寢てゐるうちにふと取れたのであつた。こんな事は(1112)只でも一寸不快な感じのするものであるが、茲に「ゆゆしみと」あるので考へると、當時著物の紐が取れたり斷れたりするのは、縁の切れる前兆とする俗信があつたと見てもよい。
 わるい辻占が出ても舌打する、まして事實に紐が「絶えにし」不吉の前兆を見ては、さし當つた女郎との戀を生命としてゐる作者に取つては重大な衝撃で、「せむすべ知らに」當惑し、當惑の極は悲觀して泣く。「音のみしぞ泣く」は勿論誇張であらうが、ベソ〔二字傍点〕位はたしかに掻いたであらう。
 かく詠んで女郎に報告した所以は、女郎との戀をいかに重大視してゐるかといふ誠意の披瀝に外ならない。古義に、
  紐はわが嬬《ツマ》ならでは結ひ著けしむべきものならぬを、今は離り居て妹があらねば、もし他人をして著けしめば忌はしからむ、さりとて綻び切れて絶えにし紐を、それながらにあらむも苦しければ、如何ともせむ術なくして一人哭のみを泣くとなり。旅などにありて作めるなるべし。
とあるが、第一旅中の作とした事からして穩當でない。他人をして著けしめば云々も鑿説で、「ゆゆしみと」の解が違ひ、且「せむすべ知らに」も同じく見當が外れてるる。
 
阿倍(の)女郎(が)答(ふる)歌一首
 
吾以在《わがもたる》 三相二搓流《みつあひによれる》 絲用而《いともちて》 附手益物《つけてましもの》 今曾悔寸《いまぞくやしき》     516
 
〔釋〕 ○みつあひによれる、三つこに縒《ヨ》つた。「みつあひ」は三合《ミツアヒ》の義。「三相二搓」は戲書。○ましもの まし(1113)ものを〔右○〕の略。
{歌意〕 前にお出の時に〔七字右○〕、私の持つてゐる、三つこに縒つた丈夫な絲でもつて、その著物の紐を縫ひ附けて置かうものを。さて/\今となつては殘念な事です。
 
〔評〕 通常の物縫には二つこの絲を使ふ。さればいつそ三つこの絲で縫ひ付けて置かうなら、貴方のお氣を揉ませるやうな不吉な事件も起らなかつたらうにといふ悔恨である。夫の身のまはりの世話は妻の役なので、東人から、紐の取れた事とそれに附帶する不吉感を跨大に取做して來た事とに對して、全責任を感じてゐる。どこまでも貞淑なものだ。
 偶然には違ないが、前のもこれも、針線上の事に因縁して、女としての尊い感懷を歌つてゐる。女郎は必ず家庭的の善良なる婦人であつたらう。
 
大納言《おほいものまをすつかさ》兼《また》大將軍《オホキイクサノキミ》大伴(の)卿《まへつぎみの》歌一首
 
○大納言 既出(七三六頁)。○大將軍 出征の時三軍を統率する朝臣をいふ。軍令に「毎(ニ)v總(ブル)2三軍(ヲ)1、大將軍一人」とある。○大伴卿 安麻呂のこと。大伴(ノ)宿禰を見よ(三二九頁)。卿とのみで名を署さないのは、安麻呂は顯官の人なので公式令の規定によるもの。 
 
神樹爾毛《かむきにも》 手者觸云乎《てはふるとふを》 打細丹《うつたへに》 人妻跡云者《ひとづまといへば》 不觸物句聞《ふれぬものかも》     517
 
(1114)〔釋〕 ○かむき 神木《シシボク》。宣長訓による。カミキと訓むもよい。舊訓サカキ〔三字傍線〕は非。○ふるとふ フルチフ〔四字傍線〕と訓むもよい。○うつたへに ひたすらに。ひとへに。「細」をタヘと訓むは「しきたへの」を見よ(九七四頁)。○ふれぬもの 觸れられ〔二字右○〕ぬものの意。知られぬ〔四字傍点〕を知ラヌ〔二字傍点〕といふに同じい。
【歌意】 畏い神木にでも手は觸れるといふを、人妻といへば、絶對に手が觸れられぬもめかなあ。
 敬神觀念の強かつた時代だから、神の支配に屬するすべてのものは、絶對に侮慢を許さぬ。社があれば春日の野べに粟も蒔かない。まして御注連引きはへた神木の如きは、手で障つただけでも神罰が當る。かう信じた時代である。下にも
  味酒《ウマザケ》三輪のはふりがいはひ杉手觸りし罪か君にあひ難き (丹波大娘子−718)
といつてゐる。然しこの「手は觸るとふを」は假設の語で、人妻の絶對に犯し難いことをいはむ伏線である。そして神木以上に手も出せないものぞと嗟歎した。これは作者が人妻に懸想した際の感懷であることはいふまでもない。
 上下句、優に襯貼に過ぎて餘蘊が乏しく見えるが、稍焦燥の氣持からは、かうした表現も無理からぬのである。
 
石川(の)郎女《いらつめが》歌
 
(1115)○石川郎女 大伴安麻呂の妻。元暦本その他の注に「即(チ)佐保(ノ)大伴(ノ)大家《タイコ》也」とある。旅人卿の母石川(ノ)婦命《ヒメトネ》のこと。「石川女郎」を見よ(七〇五頁)。
 
春日野之《かすがぬの》 山邊道乎《やまべのみちを》 與曾理無《よそりなく》 通之君我《かよひしきみが》 不所見許呂香裳《みえぬころかも》    518
 
〔釋〕 ○よそりなく 道寄りせず。「よそり」は卷十三にも「荒山も人し寄すればよそる〔三字傍点〕とぞいふ」とあつて、寄る〔二字傍点〕の意が主であるらしいが、語の構成が明かでない。試にいはゞ外寄《ヨソヨリ》の略語か。(1)寄所とする人(契沖)。(2)寄るべきたより(略解)。(3)隨身もなく獨通ふ意〈眞淵、古義)。(4)外に寄《ヨリ》なく(景樹)。以上のうち(4)が正鵠に近い。○ころかも 「許」をコと讀むは呉音。△地圖 挿圖170を參照(六一七頁)。
【歌意】 春日野の山つきの道を、道草も喰はずに一途に通うて來られた君が、どうした事か、一向に姿を見せぬこの頃よ。案じられるわ。
 
〔釋〕 「君」は郎女の夫となつた大伴安麻呂卿か。安麻呂は佐保に住んでゐた。それが春日山の裾野道を通つて通うたとなると、石川郎女は高圓山の裾野邊に住んで居たらしい。のちにこの二人の間に出來た娘坂上部女が高圓山の御狩の時、※[鼠+吾]鼠が京の町に飛び込んだので、
  ますらをが高圓山にせめたれば里におりくるむささびぞこれ (卷六−1028)
と歌つて獻上を試みたことを思ふと、坂上郎女は父の家佐保に居たのは勿論だが、又高圓山麓近くにも住んで(1116)ゐた證據で、それは即ち母石川郎女の邸宅を傳承したものと考へられる
 さてこれまで「よそりなく」熱心に來通うた人が、近來ふつつり鼬鼠《イタチ》の道、かうなると、事故又は病氣などいふよりは、心變りといふ方に重點が置かれて心配になる。嫉妬は婦人の天性である。然しその嫉妬の氣持を輕く包んで、「通ひし君が見えぬ頃かも」と、いかにも蘊藉な物和らかな口吻は、作者の性格の流露で、却て怨意が隱然として言外に躍動する。
 眞淵その他の註者が「よそりなく」を隨身もなく獨通ふと解したのは、事實上からも諾へない。身分ある石川郎女に通ふほどの男が、供をも連れずくることは、奈良時代にせよ平安時代にせよ、決してない事である。
 安麻呂の壯年期は淨御原(ノ)宮(天武天皇)時代だから、郎女のこの歌は遲くても藤原宮時代は降るまいに、歌の風調は殆ど平安時代に近く、纔に「よそり」の語が古風を象徴するに過ぎない。
 
大伴(の)女郎《いらつめが》歌一首
 
○大伴女郎 元暦本その他の注に「今城《イマキノ》王之母也、今城王後(ニ)賜(フ)2大原(ノ)眞人《マヒトヲ》1也」とあるによれば、今城王の父王の妻である。今城王は集中に名は見えてゐるが歌はない。女郎の傳は未詳。古義はいふ、旅人卿の妻大伴郎女と同人ならば、初め今城王の父王に嫁ぎて今城王を生み、夫君におくれて後、旅人卿に再嫁せしものかと。但同人といふ證はない。
 
兩障《あまざはり》 常爲公者《つねするきみは》 久堅乃《ひさかたの》 昨夜雨爾《きそのよさめに》 將懲鴨《こりにけむかも》     519
 
(1117)〔釋〕 ○あまざはり 雨の爲に沮むをいふ。古義訓アマヅツミ〔五字傍線〕は非。○つねする 古義訓ツネセス〔四字傍線〕は鑿。 ○ひさかたの 夜雨《ヨサメ》の雨〔傍点〕にかゝる枕詞。既出(二八二頁)。○きそのよさめに 「きそ」は既出(四二九頁)。「昨」はキソ、「夜雨」は氷雨《ヒサメ》速雨《ハヤサメ》などの例によつてヨサメと訓む。卷二に「きその夜」の語がある。古義はキソノアメニ〔六字傍線〕、新考はキソノヨノアメニ〔八字傍線〕と訓んだが、音數が一は不足一は過剰で穩かでない。略解のキノフノアメ〔六字傍線〕は非。
【歌意】 何時も雨ににお差支の貴方は、夕べの雨に懲り/\なされたことであつたらうかなあ。今夜のお出はさてどうかしら。
 
〔釋〕 雨障り常する君は、餘り頼もしい男ではない。眞に熱愛してゐるなら、下にある
  石の上ふるとも雨に障らめや妹に逢はむといひてしものを (大伴宿禰像見−664)
の心意氣でなげればならぬ。然し身柄のある人は供人や何やの都合で、雨降には外出が億劫である。が待つ方からいへば、もどかしく面白くない。女は何處までも眞劍だ。
 この雨は懸想人の出動時間即ち夕暮以後に降り出したらしい。この男も出掛けの途中から降られたのだ。最初から降つてゐたのなら、例の雨障りの男だから出て來はしない。「常する」は素より誇張の言辭であらうが、表面的にはさう斷定して貰ひたいのが、作者の本意なのである。
 「きその夜」と斷つてあるのと、次の後人追同歌の歌意とを綜合して考へると、これは後朝の曉の作で、その時は雨は晴れてゐたものゝ、夕べの雨にお懲りで今夜はお出がなからうかとの餘意を遺して、情合の深い取越し苦勞をしたものだ。
(1118) この歌は考へやうによつては、男に對しての揶揄の語とも聞かれる。そのいづれであるかは、作者の性格とその場の雰圍氣によつて判斷する外はない。
 
後人追同《のちのひとのおひてなぞふる》歌一首
 
前の歌に對して、後人があとから返歌に擬へて詠んだ歌との意。○追同歌 「同」を和〔右△〕とすれば意は愈よ明瞭である。
 
久堅乃《ひさかたの》 雨毛落※[禾+康]《あめもふらぬか》 雨乍見《あまづつみ》 於君副而《きみにたぐひて》 此日令晩《このひくらさむ》     520
 
〔釋〕 ○ふらぬか 降つてくれゝばよいになあの意。「常にあらぬか」を見よ(八〇〇頁)。「※[禾+康]」は糠と同字。○あまづつみ 雨づつみして〔二字右○〕の意。「あまづつみ」は雨愼《アマヅツミ》の意で、雨に籠り居ること。古義に雨障りと同意に解したのは疎漏。○きみにたぐひて 君に竝び添うて。
【歌意】 雨も降つてくれゝばよいになあ。降れば雨籠りして、貴女のそばに附き切りで、今日の一日を過さうに。
 
〔評〕 貴女は「雨障り常する」と私をお責めなされ、「きその夜雨に懲りにけむ」と御心配なさるが、實は今日も雨が降つてほしいのです、すればいつそ仕合せで、雨嫌ひの私はこのまゝ歸らず、雨籠りしたまゝ貴女と一緒にこの一日を暮せませうといふ。詰り結果は一日二晩の居續けとなる譯だ。それなら女の滿足はこの上なしだ。敵の責道具を奪つて逆用した手段は頗る面白い。これが雨障りの男のその座での返歌なら愈よ妙であらう(1119)に。後人の追ひて和ふる所以もそこにあるので、氣の利いた返歌のほしい場合であつたのだ。
 「この日」のこの〔二字傍点〕は力が入つて、今の場合最善の措辭だ。
 この歌を返歌の意でないとする古義以下の説は、如上の機微を解しかねたもの。
 
藤原(の)宇合大夫《うまかひのまへつぎみが》遷任《つかさうつされて》上(れる)v京(に)時、常陸(の)娘子《をとめが》贈(れる)歌
 
藤原宇合朝臣が轉任して上京する時、常陸娘子が宇合に贈つた歌との意。○藤原宇合大夫 「大夫」は宇合が當時五位の常陸守であつたのでいふ。傳は前出(二五六頁)。○遷任上京 續紀に、養老三年七月始(メテ)置(ク)2按察使《アゼチヲ》1、常陸(ノ)國(ノ)守正五位上藤原(ノ)朝臣宇合管(ル)2安房上總下總(ノ)三國(ヲ)1と見え、常陸守も按察使も同時の叙任とすれば、國守は一任四年の職だから、普通ならその遷任上京は養老七年七月以後の事になる。○常陸娘子 常陸國の女子。傳は未詳。
 
庭立《にはにたつ》 麻乎〔左△〕刈干《あさをかりほし》 布慕《しきしぬぶ》 東女乎《あづまをみなを》 忘賜名《わすれたまふな》     521
 
〔釋〕 ○にはにたつ 場《ニハ》に生ひ立つ。麻にいひ續けた。卷十四にも「にはに多都麻手小衾《タツアサテコブスマ》とある。「には」は使用すべき場處の稱。麻の立つ場《ニハ》は麻畑である。○あさ 桑科の一年生耕作植物。莖は方形で高さ七八尺に達し、葉は對生で掌状に深裂し、各裂片に鋸齒がある。雌雄異株。夏秋の候その莖を刈り收め、その皮を苧とする。○あさを 「乎」は原本に手〔右△〕とあるので、アサテ〔三字傍線〕と訓んだ人も多いが、古本によつて改めた。○かりほし (1120)初二句は「しき」に係る序詞で、刈り干し布《し》くを頻慕《シキシヌ》ぶにいひ懸けた。○しきしぬぶ 頻慕《シキシヌ》ぶ。「しき」は頻にの意。「布」は借字。○あづまをみな 東國の女。常陸は東(吾嬬)國の一なのでいふ。舊訓アヅマヲトメ〔六字傍線〕。又ヲムナ〔三字傍線〕と訓んだ本もある。
【歌意】 畑に生えてゐる麻を刈り、干し、布き竝べる、その布きといふやうに頻に、貴方樣の事をお慕ひ申す東女の私を、この後とも〔七字右○〕お忘れ下さいますな。
 
〔評〕 製麻の工程は昔と今とは多少異つてをり、土地によつて又相違がある。が麻畑で刈つた麻をそのまゝ地上に暫く露出して置く、それが「刈り干し」である。それから水を濺ぎ掛けるか、水中に浸すかしてのち、その皮を剥ぐといふ段取。これが原始的に近い方法らしい。素よりこんな輕い勞働は女の仕事である。
 往古麻は關東地方特に常總から野州平野へかけて盛に播種したもので、東女と麻とは不可分の關係にあつた。作者はもとより東女の常陸娘子だから、一般慣習のまゝに、自身がその勞役に服してゐる趣をもつて、この序詞を構成してゐるが、それは卑下謙退の語で、守の殿(宇合)に特別寵愛を受けた女とすると、多少國でも(1121)相當の身柄をもつた豪族などの娘であつたらう。
 奥方同伴の國守は知らず、守が任國で妾を蓄へることは普通の慣習であつた。――人麻呂の如き微官の人でも石見で妾があつた。――まして累葉名家の子として、而も二十六歳の若盛りで赴任した宇合に、愛嬖のあるのは蓋し當然の事である。
 題詞のうちに釋した如く、宇合の國守滿期が六七月の交とすると、その上京の時季は恰も滿野の麻生の秋の收穫時に當つた。乃ち娘子は今別に臨んで、眼前に里の女達がする勞働光景を叙して序詞に用ゐ、こんな賤しい「東女」でもと、神代からの名家たる藤原氏、當時御威勢並ぶ者もない不比等公の三男でゐらせられ、而も守の殿である宇合に對して、その身分の懸隔を自覺し、又雅びかな京人に對する不骨な田舍者といふ絶對謙虚な意識をもつて、控へ目勝に而も力強く「忘れ給ふな」と率直に呼び懸けた。否率直とはいふものゝ、事實はそこに千萬無量の悲意を藏してゐる。即ち都までの御伴は協はずとも、せめてこの東女の私をお忘れ下さるなと、當然要求すべき第一の欲望を(1122)素直に放棄して、纔にはかない第二の希望に滿足を求めようとする、しほらしいその心根を推察すると實に涙がこぼれる。別離に際しての幽婉又は露骨な感傷もわるくはないが、かうした誠意の披瀝は、百千の慟哭よりも甚しく心胸を打たれる。性靈の響の高鳴する絶唱と稱へよう。
 
京職大夫《みさとのつかさのかみ》藤原(の)大夫《まへつぎみが》賜《おくれる》2大伴(の)坂上〔二字左○〕(の)郎〔左△〕女(に)1歌三首
 
奈良京の京職の長官たる藤原(ノ)麻呂が大伴(ノ)坂上(ノ)郎女に贈つた歌との意。○京職大夫 職員令に「左京職(右京職准(ズ)v左(ニ))大夫一人、掌(ル)d左京(ノ)戸口名藉、字2養(シ)百姓(ヲ)1糺2察(シ)所部(ヲ)1、貢2擧(シ)孝義(ヲ)1、田宅、雜※[人偏+徭の旁]、良賤、訴訟、市※[廛+おおざと〕、度量、云々(ノ)事(ヲ)u」と見え、和名抄に、左京職を比多利乃美佐止豆加佐《ヒダリノミサトヅカサ》と訓んである。長官は職員令に、職(ニ)曰(フ)2大夫(ト)1、加美《カミ》とある。四位相當官。○藤原大夫 類聚抄その他に「卿諱(ヲ)曰(フ)2麻呂(ト)1」と注し、目録には藤原(ノ)麻呂(ノ)大夫とある。○藤原麻呂 右大臣藤原不比等の四男で京家の祖。續紀に養老元年從五位下、同五年從四位上、左右京(ノ)大夫、神龜三年正四位上、天平元年從三位、同三年八月兵部卿で參議、同十一月山陰道(ノ)鎭撫便、同九年二月持節大使として陸奥に發遣、同七月薨ず。公卿補任に年四十三とある。懷風藻に藤原萬里とあるは麻呂を好字面に充てたもので、誤ではない。○賜 贈の通用。○大伴(ノ)坂上郎女 傳は前出(八六七頁)。原本坂上〔二字右○〕の二字脱、又「郎」を良〔右△〕に誤る。
 
※[女+感]嬬等之《をとめらが》 珠篋有《たまぐしげなる》 玉櫛乃《たまぐしの》 神家武毛《たましひけむも》 妹爾阿波受有者《いもにあはずあらば》     522
 
(1123)〔釋] ○をとめ 「※[女+感]嬬」は既出(一六二頁)。○たまくしげ 既出(三一四頁)。○たまぐしの 以上三句は「たましひ」に係る序詞。タマの疊音を以て續けた。「たまぐし」は美しい櫛の意。「たま」は美稱。「たま」を上には「珠」下には「玉」と、珠玉の熟字を分割して書いた。○たましひけむも 魂が消えてなくならうわ。「けむ」は消むの意。「も」は歎辭。「神」をタマシヒと訓むは、古義所引の今村樂の發見である。舊訓メヅラシケムモ〔七字傍線〕、契沖及び眞淵訓はカムサビケムモ〔七字傍線〕。○あらば 新考の訓に從つた。從來の訓はアレバ〔三字傍線〕。△挿畫 挿圖99を參照(三一四頁)。
【歌意】 處女達の珠櫛笥にある玉櫛の、たま〔二字傍点〕と名のつく魂《タマシヒ》が、なくなりませうよ。貴女に逢はずに居たらさ。
 
〔評〕 郎女は二度目のの夫大伴(ノ)宿奈麻呂に後れて暫く寡居してゐたが、麻呂の懸想によつて遂に縁が結ばれた。婦人の化粧道具をいひ竝べた處は桃色がかつた序詞で、「たま」の語の三疊の波を打つた諧調がこの特色である。下句は逢はずに居たら氣拔けになつてしまふだらうといふ程の平凡な感想に過ぎないが、全體の用語とその構成と表現とが古語古調に屬するので、何かしら及び難いものがあるやうに感ずるのは、尚古趣味と好奇癖とが合體して※[酉+温の旁]釀する一種の錯覺ではあるまいか。これは特にこの歌にのみ就いていふのではない。(下の「大伴坂上郎女怨恨歌」の評語參照)。
 
好渡《よくわたる》 人者年母《ひとはとしにも》 有云乎《ありとふを》 何時間曾毛《いつのほどぞも》 吾戀爾來《わがこひにけり》     523
 
(1124)〔釋〕 ○よくわたる 逢はずに〔四字右○〕よくも長い月日を經る。○としにもあり 一年間をも堪へて居る。○いつのほどぞも 逢はずに居るのはどれ位の間であるぞいの意。逢はぬ間の短いことをいつた。この句は獨立して切れてゐる。略解訓はイツノマニソモ〔七字傍線〕。○こひにけり 舊訓にコヒニケル〔五字傍線〕とあるは非。
【歌意】 逢はずによく辛抱する人は、一年にも亘つてそのまゝであるといふを、自分が逢はぬのは〔八字右○〕、何時といふ間であることぞい、ごく短い間であるものを〔十一字右○〕、自分は早くも戀しがつて居ることわい。
 
〔評〕「よく渡る人」は何者か、作者が只漫然と假設したものか、否「年にもあり」といふに合はせて考へると、これは牽牛織女二星の會合を思ひ寄せたもので、一年一度逢ふ瀬を待つ牽牛星の氣長さ辛抱強さをわが身に引比べて、我れながら怺へ性がないと自嘲してゐるのである。かうした自省的反省的の著想には餘り芳んばしい作は求めにくい。
  年渡るまでにも人はありとふをいつの間《ホド》ぞもわが戀ひにけり  (卷十三、反歌−3264)
は恐らくこの異傳であらう。
 
烝被《むしぶすま》 奈胡也我下丹《なごやがしたに》 雖臥《ふせれども》 與妹不宿者《いもとしねねば》 肌之寒霜《はだしさむしも》     524
 
〔釋〕 ○むしぶすま 蒸すやうにほか/\する衾。「烝」は火氣の升ること、むし熱いこと。蒸の誤字ではない。○なごやがした 和《ナゴ》やかな〔三字右○〕下。この初二句は記(上)の須勢理比賣《スセリヒメノ》命の歌「むし衾|柔《ニゴヤ》が下に」を襲用したも(1125)ので、いづれも副詞形接尾語のやか〔二字傍点〕のか〔右○〕を略いた異格である。久老が説に、奈胡也の奈《ナ》は爾《ニ》の略體なる尓〔右△〕を誤寫したるものとあるは、泥古の見に過ぎない。〇ふせれども 童蒙略解の訓はフシタレド〔五字傍線〕。○はだしさむしも 「寒霜」は戲書。
【歌意】 ほつかりした衾の、柔い下に臥してはゐるけれども、貴女とさ一緒に寢ないので、肌が寒いことよ。
 
〔評〕 「臥せれども」の句で轉捩させた寒熱の合拍は、その構成が餘り親貼に過ぎて含蓄がない。然し作者の心境に餘裕を持ち得なかつた際なので、極めて露骨に平凡ながら、その眞實を告白して、相手の郎女に訴へたものだ。
 處で更に一考すると、次の郎女の和歌中の第三首「來むといふも來ぬ時あるを」の詠は、これに對する返歌と覺しい。依つて逆説的にその事情を想像すると、麻呂は約束ではないが思ひ出すまゝに、寒夜を冒して、佐保川の小石を踏み渡つて郎女の許を音づれたが、生憎の不在なので、據なくすご/\わが家に戻つての獨寢であつて見れば、腹が立つほど馬鹿/\しい譯である。麻呂は藤原宗家の四郎君だから、事實に於いて烝衾なごやが下に今臥してはゐる。なれども共寢の暖さにはとても比すべくもな(1126)い。この體驗は相手郎女も十分覺えのある筈なので、そこに必然的同情が要求されてゐる。
 初二句が成句を襲用したことは、わざとの手段であらう。成るべく世に熟知された言句を拉致して運用することは、平凡を糊塗する效果的方法である。「膚し寒しも」は頗る實感的官能的の語であるが、元來夫婦間ではこの位の事はお茶の子である。只中媾の事だから遠慮して他人には洩らさぬまでゝある。記(上)の八千矛神、須勢理毘賣命の贈答の歌に至つては、露骨の點に於いて滿點であると思へる。
 二つの「し」の辭の重複、かう使用距離が近いと却てリズムが生じて、耳立たない。若しこれを嫌へば四句をイモトネザレバと訓んでもよい。
 
大伴(の)坂上〔二字左○〕(の)郎女(が)和(ふる)歌四首
 
○大伴坂上郎女 原本「坂上」の二字を缺く。補つた。
 
狹穗河乃《さほがはの》 小石踐渡《さざれふみわたり》 夜干玉之《ぬばたまの》 黒馬之來夜者《こまのくるよは》 常〔左△〕爾母有※[禾+康]《つねにもあらぬか》     525
 
〔釋〕 ○さざれ 細石。これに就いて、(1)サザレ〔三字傍線〕は細小の義のみにて石の意なし、集中サザレシ、サザレイシの語あれば、こゝはサザレシ〔四字傍線〕と訓むべし(契沖、濱臣)。(2)斑雪《ハタレユキ》をハタレ、小竹《ササタケ》をササ、大黒の鷹をオホグロと略稱する類、古くより例ある事なれば、サザレ石をサザレとのみいふに難なし(光房、文雄)。かく諸家の集訟となつてゐる。○ぬばたまの 夜に係る枕詞。既出(三〇四頁)。○こまのくるよは 「黒馬」の音コクマをクの入聲を(1127)略いて、コマに當てた。古義はクロマノクヨハ〔七字傍線〕と訓み、卷十三の「ぬばたまの黒馬《クロマ》に乘りて」の例を引いたが、それは黒馬《クロマ》と訓まなければならぬ歌で、こゝの場合とは違ふ。「ぬば玉の」の枕詞が「黒馬《コマ》のくる」を隔てて「夜」に跨續するのは不快ではあるが、例はある。○つねにもあらぬか 何時もであつてほしい。「常」原本は年〔右△〕に誤る。卷十三の再出にも常にも〔三字傍点〕ともある。古義が原本のまゝで、意を年中常にありねかしと解したのは牽強。△地圖及寫眞 挿圖85(二七〇頁)87(ニ七三頁)を參照。
【歌意】 佐保川の小石を踏み渡つて、貴方の御召料の駒の來る晩は、不斷《フダン》であればよいのですになあ。
 
〔評〕 當時郎女は夫宿奈麻呂に後れて、坂上の里に寡居してゐたらしい。されば麻呂はその愛馬を驅つて佐保川を乘り越し、郎女の許に通ふのであつた。「夜」はいふまでもなく懸想人の往訪時刻である。
 佐保邊での佐保川は水源が近くて水量が少いから、駒打入れて乘り越すのは造作もない。昔は人口も乏しく往來もさう頻繁でないからでもあるが、橋梁の數が少かつた。平安時代でも鴨河をさへ徒渉したり牛車で越したりしてゐたものだ。下の家持の歌にも、
  千鳥なく佐保の河門のきよき瀬を馬うち渡しいつか通はむ (−715)
とある。
 佐保川の往來に、相當の人は乘馬で、下衆は徒歩で、ざぶ/\と小石踏みつゝ川渡りする光景は、當時としては珍しいものでなく、郎女は貴人ではあるが、その佐保邸からの出入に常に實見してゐた事であらう。乃ちそれを情人麻呂の來路の上に聯想して、夜分といふハンデキヤツブを附けて、その劬勞に同情しつゝも、尚そ(1128)の來訪の常であらうことを熱求してゐる。情炎のいかにも熾烈なる戀であらう。
 但歌には「黒馬の來夜」と馬に就いてのみ云爲してゐる。勿論それは間接射撃の筆法で、本意は馬の乘主たる麻呂に對する要望であるので、そこに託情寄興の婉味が十分に發酵する。
 原本の「年にも」によると、年に一度は來てほしいの意となり、麻呂の贈歌のすべての趣と矛盾する。
  川の瀬の石ふみ渡りぬば玉の黒馬《コマ》の來夜《クルヨ》は常にあらぬかも  (卷十三、反故−3313)
は初句こそ違へ、全く同歌である。
 
千鳥鳴《ちどりなく》 佐保乃河瀬之《さほのかはせの》 小波《さざれなみ》 止時毛無《やむときもなし》 吾戀者〔左△〕《わがこふらくは》     526
 
〔釋〕 ○さざれなみ 小波の如く〔三字右○〕の意で、上句は「止む時もなし」に係る序詞。○こふらくは 戀ふること〔二字右○〕は。「者」原本に爾〔右△〕とある。
【歌意】 千鳥が鳴く佐保川の淺瀬の小波、その寄るのは絶え間なしだが〔十三字右○〕、その如く私が貴方を戀ふることは、止み間とてもございません。
 
〔評〕 戀心のしく/\であるの、止む時もないのといふことは、戀する人の常套語で、何の新味もない。これは纔に佐保川千鳥の鳴く瀬に立つ小波を序としてあしらつたばかりに、清新味が涌然として生じてくる。詰り背景のよさが、前景の引立役になつてゐる。「千鳥鳴く」は、事實秋冬の候は佐保川に千鳥が來てゐたので、遂に(1129)常習的に慣用された結果、後には單なる佐保川の修飾語となつてしまつてゐた。
 
將來云毛《こむといふも》 不來時有乎《こぬときあるを》 不來云乎《こじといふを》 將來常者不待《こむとはまたじ》 不來云物乎《こじといふものを》     527
 
〔釋〕 ○こじ 「じ」は未來の否定辭。
【歌意】 貴方は來うと仰しやつても來ない時があるものを、初めから來まいと仰しやるのを、何で待たれませう。來まいと仰しやるものをさ。
 
〔評〕 麻呂は明日は差支で往訪が出來ぬと斷りの使を遣つたものゝ、その日になつて都合が付いたか又は無理してでもか、訪問したものと見える。然るに郎女の方では、お出がないならその暇にと、物詣か何かに出掛けて留守にした處であつた。麻呂は失望してすご/\歸宅しての獨寢に身邊の無聊を感じて、「妹とし寢ねば」の一詠を寄せて、暗に不在にした部女の仕打に不滿を訴へて來た。郎女として何ぞ黙つて濟まされよう、忽ち逆襲したのである。
 この歌の表現は頗る論理的である。法律屋の辯論そこ退けである。然しさう聞くのは木強感の事で、この利口な矯舌のうちに包含してゐる情味そのものを、つぶさに看取せねばならぬ。
 「來むといふも來ぬ時あるを」は、麻呂の平生の仕向けに對しての烈しい抗議である。さればそんな人が來まいといつた以上は來よう筈がないと、伺處までも麻呂を薄情者として扱ひ、私はお詞を信じて留守にしたの(1130)ですと分訴したものである。「來じといふ」の反復は麻呂の口供を何處までも獨鈷に執つて、自身の方の責任を幾分でも輕くし囘避しようの方便である。「といふものを」の物柔かな口調は、作者は可成り勵しい氣性の人のやうでも、流石に女らしさの婉味がある。
 五句ながらコの頭韻を踏んでゐる。「來む」、「來ぬ」、「來じ」、「來」、「來じ」の同語の重疊反覆は、卷一の「よき人のよしとよく見て」の外、
  梓弓引きみ弛べみ來ずは來ず來ばぞそをなど來ずは來ばそを」(卷十一)と同じ遊戲氣分の作ではあるが、これは更に斧鑿の痕がなく、その表現が自然的必然的であるのは嬉しい。
 
千鳥鳴《ちどりなく》 佐保乃河門乃《さほのかはどの》 瀬乎廣彌《せをひろみ》 打橋渡須《うちはしわたす》 奈我來跡念者《ながくとおもへば》     528
 
〔釋〕 ○かはと 河門。河の兩岸の迫つた渡り處の稱。○せをひろみ 瀬が廣さに。○うちはし 既出(五二四頁)。○なが 前出(六八八頁。
【歌意】 佐保川の川門の邊の瀬がまあ廣さに、一寸した假橋を渡しましたよ、貴方がお出なさると思ふのでね。
 
〔評〕 川の水の淺い處は即ち瀬の廣い處だから、小石踏み渡る徒渉に定めてお困りの事と、板を渡して置くといふ。いづれ家扶か家奴にいひ付けてさせた事であらうが、この行き屆いた親切味は誠意がなくては出來ない事で、麻呂の來訪を下待つ心持が從つて著く出てゐる。
(1131) 夫を斥して君とも背《セ》ともいはず、汝《ナ》といふは稍無禮に聞えるが、これは極めて打ち解けた隔のない心持から出た語と見てよい。
 郎女と麻呂との關係は早く神龜二年頃と覺しく、郎女の年齡がその頃少くとも三十二三歳と假定されるが、麻呂卿の年齡は三十三四歳だ。丁度似合の夫婦である。
 以上四首のうち三首まで佐保川を詠じてゐる。郎女の住處坂上の里は必ず佐保川附近の地に求めねばならぬ。
 
右郎女|者《ハ》佐保(ノ)大納言(ノ)卿之女也、初嫁(ギ)2一品穗積(ノ)皇子(ニ)1、被(ルコト)v寵(ヲ)無(シ)v儔、而皇子薨(ルル)之後、時藤原(ノ)麻呂大夫|娉《ツマドフ》v之(ヲ)、郎女焉〔三字左△〕。郎女|家《スム》2坂上(ノ)里(ニ)1、仍(ツテ)族氏《ウカラドモ》號《ナヲ》曰(フ)2坂上(ノ)郎女(ト)1也。
 
 右歌の作者郎女は佐保(ノ)大納言大伴(ノ)安麻呂(ノ)卿の娘である、初め一品穗積皇子(天武天皇皇子)に召されて竝びない愛を承けた。皇子の薨後、藤原(ノ)麻呂(ノ)大夫が妻としで通うた。郎女は坂上の里に住居してゐたので、大伴氏の族類達は坂上(ノ)郎女と呼んだとの意。「時」はヨリ/\とも訓むから誤字ではあるまい。「郎女焉」は全く衍。「族氏」は氏族といふに同じい。熟字の顛倒は常の事である。
 但この左註は大伴宿奈麻呂が麻呂卿より以前に郎女の夫であつた事實を遺れてゐる。この二人の間には子供田村大孃まであつた。    △大伴旅人年齡考、同家持事蹟考、同坂上郎女年紀考、坂上里考(雜考−13 18 19 20參照)
 
(1132)又大伴(の)坂上(の)郎女(の)歌一首
 
佐保川乃《さほがはの》 涯之官能《きしのつかさの》 小歴木莫刈烏《しばなかりそね》 在乍毛《ありつつも》 張之來者《はるしきたらば》 立隱金《たちかくるがね》     529
 
〔釋〕○きし 「涯」は水際をいひ、轉つて岸をもいふ。○つかさ 小高い處の稱。塚《ツカ》も同義。又官司をいひその役人をいふは、高きに居て下を御するの意から出た。「官」は借字。○しば 柴。「小歴木」をシバと訓むは意訓「小」は若少の意。「歴木」はクヌギ。※[木+歴]とも書いて殻斗斜の落葉喬木、その根幹から小枝の簇生したのが小歴木で、その使用上の名稱が柴である。○なかりそね 刈るなよ。「な刈りそ」に「ね」の歎辭の添うたもの。「烏」は焉〔傍点〕と通ずるのでソに充てた。○ありつつも わが〔二字右○〕在りつつも。既出(三〇一頁)。柴が在りつつもの意ではない。○張る 「張」は春の借字。○たちかくるがね 隱れられるやうに。「たち」は接頭語。「語りつぐがね」を見よ(八四二頁)。
(1133)【歌意】佐保川の岸の高みの柴を、お前達刈りなさるなよ、私はかうして生きてゐてまあ、春がさ來たら、思ふお方を待つ爲に〔九字右○〕、その柴の茂みに立ち隱れることが出來るやうにね。
 
〔評〕 佐保川の高岸には現在でも雜木が處々簇生してゐる。刈らずにさへ置けば、春には人影を沒するほどの相當の木叢《コムラ》となる。時恰も冬季に當り、枯れ立つた小歴木を賤男達が頻に刈つてゐる。郎女はこれに對して感愴の湧かざるを得ない。といふのは、その茂みは嘗て相思の人を下待つ樂しい思出の多い物蔭であつた。で無心の賤男達に呼び懸けて、「柴な刈りそね」と一喝し、在りつゝ來るべき樂しい邂逅を期待して、「春しきたらば立ち隱るがね」殘して置けやと希望した。
 はかない榛莽に過ぎない小歴木も、生命を賭しても悔いざる戀の對象となつては、極めて重大な意義をもつ大切な玉の枝である。さりとて賤男達の利嫌の手を事實上に禁止すべくもない。止むを得ず、抑へ難い胸中の欝懷を諷詠に訴へて、聊か自慰の形式を採つた。そこに一種幽婉の情味が搖曳する。
 この歌は五七七音の三句を一囘反復した體で、旋頭歌《セドウカ》と稱する。これに(1)は前後の句を問答樣式に仕立てるもの。(2)は前後の第三句目に同句を用ゐるもの(混本歌、双本歌)。(3)は前後の句を一意到底に仕立てゝ反復の辭樣を用ゐぬもの。この三種を擧げる事が出來る。問答式のものが旋頭歌としては一番舊い體である。
 
(1134)天皇賜(へる)2海上女王《うなかみのおほきみに》1御歌一首
 
○天皇 聖武天皇。○海上女王 續紀に養老三年從四位下を、神龜元年從三位を授くとある。官本の注にいふ、志貴《シキノ》皇子之女也と。
 
赤駒之《あかごまの》 不〔左○〕越馬柵乃《こさぬうませの》 ※[糸+咸]結師《しめゆひし》 妹情者《いもがこころは》 疑毛奈思《うたがひもなし》     530
 
〔釋〕 ○あかごま 赤褐毛の馬。○こさぬ 越されぬ。「不」原本にない。馬柵は馬を越させぬ爲に造るものだから、不の落字と見て、コサヌと訓む。○うませ 馬埒。馬塞《ウマセキ》の略。○しめゆひし 引|緊《シ》め結んだ。馬柵は物で固く縛つて造るので「しめゆひし」といふ。妹が心の上では、堅く契約した意とする。初二句は序詞。「※[糸+咸]」はからぐること、綴づること。
【歌意】 赤駒の飛び越えられぬ時のやうに、緊つかり結んだ、即ち固く契り交したお前の心は、微塵疑もないわい。
 
(1135)〔評〕 昔の馬埒は黒木に柴など束《タバ》ねて作つたものだ。卷十二に「※[木+巨]※[木+若]越爾《ウマセゴシニ》」とある※[木+巨]※[木+若]は巨木と若木との合字であることでも證せられる。束ねるには藤葛など用ゐる。これ「馬柵のしめ結ひし」といふ所以である。
 「疑もなし」とは疑のあつた者に對しての釋放の宣告である。茲に至つて天皇對海上女王の關係を考へざるを得ない。蓋し女王は聖武天皇の後宮の人であつた。――續紀の叙位が何時も他の宮人達と一緒である。――想ふに君寵を相爭ふ極は、遂にあらぬ流言をまで放つて他を陷れる例は、何時の時代でも珍しくない。女王はそんな譯で、何か異心あるかのやうに讒言され、陵園(ノ)妾の如き幽閉とまではゆかぬが、御前體の出仕を止められて、家居逼息してゐたらしい。けれども無實な浮雲は何時かは晴れる時がくる。天皇一旦の御覺醒は、遂に女王に對してかくの如き優渥なるお詞を下賜されたのである。その堂々たる風調は正に流石に王者の屬吐と申されよう。
 「馬柵」を序詞に取材したことは、その場合が特殊である事を想はせる。恐らく宮中馬場殿など叡覽あらせられた折の事であらう。隨つて女王の和歌も禁中夜警の衛士の弓絃の音を以て應答し奉つた。
 
右案(フルニ)此哥疑〔左△〕古之作也、但以(テ)2往〔左△〕當《サシアタル》便(リヲ)1賜(ヘル)2斯(ノ)歌(ヲ)1歟《カ》。
 
 この歌は古人の作と疑はれる。但天皇はその場の御都合で、この古歌を海上女王に下されたのかとの意か。(1136)「疑」原本に擬〔右△〕とあるは誤。「往當」は桂本には時〔右△〕當とある。當時〔二字傍点〕の意に近い。話者が古歌と疑つた理由は判明しないが、「赤駒の越さぬ馬柵」の取材に就いて、天皇の御製にはふさはぬやうに考へたらしい。
 
海上(の)女王奉(れる)v和《こたへ》歌一首
 
梓弓《あづさゆみ》 爪引夜音乃《つまびくよとの》 遠音爾毛《とほとにも》 君之御事〔左△〕乎《きみがみことを》 聞之好毛《きかくしよしも》     531
 
〔釋〕 ○あづさゆみ 「あづさの弓」を見よ(三一頁)。○つまびく 弓絃を指で摘まんで彈《ハジ》くこと。○よと 夜の物音。ヨオトの略。○とほとにも 違い音《オト》にて〔右○〕も。「とほと」はトホオトの略。初二句は「とほと」に係る序詞。○みこと 御言。前出(七三二頁)。「事」原本に幸〔右△〕とあるは誤。眞淵説による。○きかく 聞くの延言。
【歌意】 衛士達が〔四字右○〕巡行しつゝ、弓を爪彈く夜分の響が遠いやうに、遠いお便りながらも、御門樣のお言葉を伺ふことは、嬉しいことですわ。
 
〔評〕 禁中警衛の武夫等が絃打して、火危し〔三字傍点〕と聲作りつゝ巡行する。いづれ深更の所作である。別殿深く春を鎖して空房獨夜の長きを怨む時、遙に弓絃を爪彈く音の夜氣に徹つて、次第に幽に響きつゝ、消えてゆくその折の寂しい心細い情ない感じは、後宮生活者のみが知り得る悲哀であらう。女王は今測らず自分の誠意が認められたお詞を賜はり、その御挨拶を申上げるにつけても、心魂に徹した禁廷内の弓絃の響を序詞に撮合したことは、その身分柄必然の聯想で、而も何處までも宮中を忘れ得ぬ情趣のあらはれである。
(1137) 「遠音にも君が御言を聞かく」に、未だ面謁恩を承くる運びにまで至らぬ遺憾さが、内面的に潜在し流動してゐることを見遁してはならぬ。
 
大伴(の)宿奈《すくな》麻呂(の)宿禰(の)歌二首
 
○大伴宿奈麻呂宿禰 傳は既出(三八〇頁)。「宿禰」は大伴氏の姓《カバネ》。少兄《スクナエ》の義。大兄《オホエ》に對する。
 
打日指《うちひさす》 宮爾行兒乎《みやにゆくこを》 眞悲見《まかなしみ》 留者苦《とむればくるし》 聽去者爲便無《やればすべなし》     532
 
〔評〕 ○うちひさす 前出(一〇〇八頁)。○みやにゆくこ 大宮仕にゆく若い娘。○まかなしみ、愛《カナ》しさに。「かなし」は感哀の甚しきをいふ語で、悲しむにも愛するにも用ゐる。「ま」は接頭の美稱。○とむれば 古義訓はトドムハ〔四字傍線〕。○やれば 「聽去者」は去るを聽《ユル》せばの意。古義訓はヤルハ〔三字傍線〕。
【歌意】 宮仕にと出立つ娘がまあかはゆさに、引留めれば公用を缺くので困るし、さうかといつて出して遣れば術ないことわい。 
〔評〕 「宮にゆく兒」はそも何者であるか。續紀、養老三年七月|按察使《アゼチ》を置いた條に、
  令(ム)3備後國守正五位下大伴宿禰宿奈麻呂(ヲシテ)管(セ)2安藝周妨(ノ)二國(ヲ)1。
と見えた。按察使は國守の施政を檢察する重職で細事に關らぬから、この歌は宿奈麻呂が按察便としての立場(1138)でなく、備後守として、宮中奉杜の徴女を選拔上京させた際の感想と思はれる。されば「宮にゆく兒」は吉備娘子となる。
 この徴女は釆女ならば勿論、或は以下の仕女にせよ、相當の土豪の筥入娘と見てよい。一旦國府の廳に召して、役目柄その點檢の任に當つた作者は、住み馴れた郷土を離れ、懷かしの親兄弟に引別れて、單身千里京洛の客となつて苦勞するこの若い娘つ兒に對して、一掬同情の涙を寄せざるを得ない。然し私情を以て公用を左右することは出來ない。「とむれば苦し遣ればすべなし」、げに十字懸けの玉襷で、人知らぬ懊悩に陷る。
 否々、これだけの意味で濟めばよいが、行く兒は素より容貌端正の條件に及第した、地方擇り拔きの美人、しかも若い。守殿はこれ亦お若い美男、(卷一、「ふりにし女にしてや」の歌の評語參照――三八〇頁。)かう考へると、「まがなしみ」の同情的言辭の蔭に、更に或何ものかゞ潜んでゐるかも知れない。次に擧げた歌の意で類推すると、却て同情以上の愛情を以て、宮に行く兒を詠めたと見るのが至當と思ふ。されば「苦し」「すべなし」の形容詞によつて兩端を叩いた感傷が、一層深酷なものと看取される。
 
難波方《なにはがた》 鹽干之名凝《しほひのなごり》 飽右左二《あくまでに》 人之見兒乎《ひとのみるこを》 吾四乏毛《われしともしも》     533
 
〔釋〕 ○なにはがた 難波潟。難波の浦と同處。「かた」は汐の干滿によつて出沒する鹹地。「方」は借字。「難波《ナニハノ》宮」を見よ(二三七頁)。○しほひのなごり (1)汐干あとの波の動き。「なごり」は波殘《ナミノコ》りの義と。陳鴻の長恨歌傳に、餘波をと訓ませてある。方言にナゴロといふ。(2)汐干あとの水溜り。こゝは(1)の意で、初二句は「飽く(1139)までに―見るに係る序詞。「名凝」は借字。○ひとのみるこを 他人が見る兒なるもの〔四字右○〕を。「みる」は逢ふの意。「こ」は婦人の愛稱。古義訓はヒトノミムコ〔六字傍線〕。○ともし 愛《メ》づるの意。尚「ともしき」を見よ(七二四頁)。
【歌意】 この難波潟の汐干の波殘《ナゴリ》は、飽くまで人が愛《メ》でるが、その如く飽くまで他人《ヒト》が愛する女だのを、私はさ氣に入つてねえ。 
 
〔評〕 恐らくは行幸供奉などで多人數出遊の際の口吟であらう。さすればこの「兒」は難波の津に巣喰ふ遊行婦の儔か。早くも他人が先鞭を著けて熱愛してゐる。見ると一寸よい兒である。惜しいことをしたものだといふ感じを、折からの汐干遊びに結び付けて歌つたものだ。
 前の歌もこれも、好奇の戀心は下に動いてゐながら、種々な事情が障碍となつて、その實現のむづかしい苦悩を主想とした作である。この二首が一括されて收載された理由もそこにあらう。前人は更にこの點に心付かず、二首ながら同時の作とし、古義なども、
  愛しき女が宮仕してあれば、宮内に親しく仕へまつらむ人は飽くまで相見るべからむを、吾は別れてより見ることだに乏しきことかな。
と解した。作者が任國備後に居ながら、「難波潟云々」と詠む譯がないではないか。又「飽くまで人の見る兒」は現實性の強い表現であることを思ふがよい。是非に「兒」を前後同一人と見たいなら、作者が國守解任上京の序に、この娘子を伴つて難波に着船した折、恰も汐干に際して、その感懷を寓せたと見られぬこともないが、釆女などの貢進の女は、決して人の見るを許さない兒である。
 
(1140)安貴《あきの》王(の)謌《うた》一首并短歌
 
○安貴王 前出(七四七頁)。
 
遠嬬《とほづまの》 此間不在者《ここにあらねば》 玉桙之《たまぼこの》 道乎多遠見《みちをたとほみ》 思空《おもふそら》 安莫國《やすからなくに》 嘆虚《なげくそら》 不安物乎《やすからぬものを》 水空往《みそらゆく》 雲爾毛欲成《くもにもがも》 高飛《たかとぶ》 鳥爾毛欲成《とりにもがも》 明日去而《あすゆきて》 於妹言問《いもにこととひ》 爲吾《わがために》 妹毛事無《いももことなく》 爲妹《いもがため》 吾毛事無久《われもことなく》 今裳見如《いまもみしごと》 副而毛欲得《たぐひてもがも》     534
 
〔釋〕 ○とほづま 遠くゐる妻。○たまぼこの 道の枕詞。既出(二七二頁)。○たとほみ 遠さに。「た」は接頭語。○おもふそら――なげくそら 「そら」は「空」又は「虚」の字を充てゝあるが、古義に引いた嚴水説にコヽチ〔三字傍点〕と譯したのは一番解り易い。○みそら 「み」は美稱。「水」は借字。○がも 「欲成」は成ランコトヲホリスの意。よつてガモと訓む。○たかとぶ 記の高往鵠《タカユクタヅ》、田加由久夜隼別《タカユクハヤブサワケ》の高往《タカユク》と同意同形の語で、四言に訓む。これは宣長訓に從つた。舊訓タカクトブ〔五字傍線〕は非。○あすゆきて 明日にも〔二字右○〕往きて。○こととひ 「こと(1141)とはぬ」を見よ(一〇四七頁)。○ことなく 無事に。○いまもみしごと 今も嘗て〔二字右○〕逢うた時の〔二字右○〕やうに。道麻呂宜長訓に從つた。、舊訓はイマモミルゴトク〔八字傍線〕。○たぐひてもがも 連れ添うても居たい。「欲得」は得ンコトヲホリスの意。「欲成」と殆ど同意。
【歌意】 遠妻たる因幡のあの兒が、今こゝ京地に居らぬので、その道がまあ遠さに一寸は逢へぬので〔八字右○〕、戀ひ思ふ心地が落ち着きかねるのに、思ひ歎く心地が落ち着きかねるものを、どうぞして逢ひたいが〔十字右○〕、この身が、大空を往く雲でまああつてほしい、空を飛ぶ鳥でまああつてほしい。さすればすぐ明日其處に飛んで往つて、あの兒に話を交はし、私の爲にはあの兒も無事に、あの兒の爲には私も無事に、只今でも嘗て京で逢うた時のやうに、連れ添うて見たいわい。
 
〔評〕 左註によれば、この遠妻は因幡の八上《ヤガミ》采女である。安貴王はこの采女を奸した。采女の奸犯は既に卷二「吾者もや安見見得たり」の評中にも述言した如く、甚だ嚴重な制裁があつた。蓋し主上の飯饌に奉仕する役目だから、清淨を尚び穢行を禁ずる趣旨からと思はれる。さればこそ八上采女は不敬の罪と斷ぜられ、本國に追ひ返されたのであつた。いづれ相手の安貴王は身分柄酌量があつて流罪は免れたとしても、閉居謹愼は勿論のことである。
 既に「遠づま」といひ、又「道をた遠み」とあるは冗漫の感がある。「思ふ空――」、「歎く空――」の對句はこの時代の慣用文句で、卷八の憶良の「仰觀天河歌」、卷十三の作者未詳の歌三首、卷十七卷十九の家持の歌二首などに、同形のまゝ又は稍變形して散見してゐる。
(1142) 「み空ゆく雲」になりたい。「高飛ぶ鳥」になりたい。これは足が大地を離れ得ぬ人間の何時も感ずる羨望である。あらゆる神話や古代傳説に天上をいふことの多い根本心理も、こゝに發程してゐると思ふ。然し詩歌にはその羨望の裏に、必ず主想となる第一目的が存在してるる。反言すれば不可能なる目的達成の爲に不可能なる羨望を敢へてしてゐる。信にこれ無用の焦慮に過ぎないが、そこに詩があり歌がある。
 作者は乃ち「明日往きて妹に言どひ」と、その雲や鳥を羨望する理由を高唱してゐる。その妹は因幡の八上にゐる。大和から因幡、當時としては素より漫々たる行路であるが、單にそれのみではない。既に勅勘の身で往くにも往けず、逢ふにも逢へない境遇にゐたことをまづ思ふがよい。すると、「雲にもがも――鳥にもがも」と、その不可能を知りつゝも、しか絶叫せざるを得なくなる。
 「わが爲に妹も事なく」「妹が爲我も事なく」、何といふ情合のこまやかな親切な言葉であらう。情界の天地には妹と我との外に何者の存在をも認めない。かう一本氣に凝り固まつた眞劔なる熱意と美しい誠意とには、自然頭がさがる。
 戀の最後の目的は「副ひてもがも」にある。「飛んでゆきたや主のそば」、(俗謠)人情は何時の世でも變りはない。案外平凡な處に落着してしまふものである。
 この篇前半は平々他の奇なしだが、後半は情眞語眞、まことに得易からざる文字である。 
反歌
 
(1143)敷細乃《しきたへの》手枕不纏《たまくらまかず》 間置而《へだておきて》 年曾經來《としぞへにける》 不相念者《あひおもはねば》     535
 
〔釋〕 ○しきたへのたまくら 前出(一〇九六頁)。○まかず 「磐根《イハネ》しまきて」を見よ(三○〇頁)。○へだておきて 宣長及び古義の訓アヒダオキテ〔六字傍線〕は非。○あひおもはねば あちらでは思うてくれぬから。新考いふ、アヒオモハヌは集中多くは相不念と書きたれど、又下なる「不相念《アヒモハヌ》人を思ふは大寺の」の如く、不相念と書けるもありと。宣長はアハヌオモヘバ〔七字傍線〕、古義はアハナクモヘバ〔七字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 懷かしの貴女の手を枕にもせず、二人の中に隔てを置いて、年をさ經てしまつたことよ。貴女が眞に思うてくれぬからさ。
 
〔評〕 古代人は平氣で肉感的感情やその戀を歌つてゐる。手枕を纏くなどは日常茶飯語で、もつと中々はげしいのがある。
 八上(ノ)采女は不敬の罪に坐してその本郷に退却し、勅命を畏こんで交通を絶ち、ひたすら謹愼の意を表するのであつた。されば「隔ておきて年ぞ經にける」は采女の本意でないことは、安貴王もとより承知の筈、然るを「あひ念はねば」と、何でもそれが采女の薄情に因るやうに怨んで來た。采女に取つては迷惑至極ないひ懸かりのやうで、その實この上もない嬉しい情合の籠つたお詞として受け取られるのであるとは、まことに皮肉な面白い現象である。
 畢竟「あひ念はねば」は、王自身の突き詰めた熱愛が炸裂した激語で、胸中の欝積を相手采女に叩き付けた(1144)ものである。だからその御無理が御尤なのである。
 
右、安貴(ノ)王娶(リ)2因幡(ノ)八上(ノ)采女(ヲ)1、係念|極甚《イミジク》、愛情尤(モ)盛《アツシ》、於時《トキニ》勅(リテ)斷(リ)2不敬之罪(ニ)1、退2却《サゲシム》本郷《クニニ》1焉。於v是《コヽニ》王(ノ)意|悼怛《イタミテ》、聊(カ)作(メリ)2此歌(ヲ)1也。
 
 安貴王が因幡の八上(ノ)采女に逢つて、甚しく想を懸け、盛に愛の心を注いだ。事露れ、勅して采女を不敬の罪に處斷して、因幡の本國に追ひ遣られた。そこで王の心中にひどく悼み悲んで、聊かこの歌を詠んだとの意。〇八上采女 傳未詳。因幡國の八上郡から貢した采女と思はれる。「采女」のことは既出(三一八頁)。
 
門部《かどべの》王(の)歌一首
 
○門部王 傳は前出(七五二頁)。
 
飫宇能海之《おうのうみの》 鹽干滷之《しほひのかたの》 片念爾《かたもひに》 思哉將去《おもひやゆかむ》 道之永手呼《みちのながてを》     536
 
〔釋〕 ○おうのうみ 前出(八五五頁)。○かたもひに 片思にて〔右○〕。初二句はカタの疊音による序詞。○ながて 長路。「て」は行手《ユクテ》、繩手《ナハテ》などの手と同じい。○を 「呼」は乎〔傍点〕と同音。△地圖及寫眞 挿圖253(八五六頁)254(八五七頁)を參照。
【歌意】 あの意宇《オウ》の海の汐干に出來る潟《カタ》の名の片《カタ》思ひで、長い/\路を、お前の事を思ひつゝ行かうことか。
 
(1145)〔評〕 出雲守たる作者は、その支配下の田舍娘を妾として通つたものだ。府は意宇郡の竹矢にあり、東十餘町で意宇の海に達する。昔は今よりも海水が灣入し、それが盡く遠殘で、國府の館からその汐干の潟は容易に望見されるのであつた。作者は居常この風光に接してゐる餘り、汐干の潟思ひの秀句がふつと浮んだのであつた。その娘子の居る部内といふは何處だか判らぬ。歌には「道の永手を」とある。無論誇張があるものとしてからが、又さう近間でもあるまい。これを任果てゝ出雲を出立の時の作なるべしといふ諸家の説は、この歌の趣及び左註を無視したもので、「天離《アマサカ》る鄙の長道《ナガヂ》を戀ひくれば」(卷三)などの聯想に誤まられたものらしい。
 逢うて間もなく二三月も鼬の道では、先方の娘子は見棄てた守の殿の無情を恨んで、もう疾うに諦めてゐる頃である。然るに死灰復炎えて、作者は逢つて見たくなつた。それでわざと、今となつては追つ付かぬ片思と自覺しつゝも、道の永手を冒して無理にもお前の處へ往かうかしらといひ贈つたことは、先づ娘子の氣を引いて見るのであつた。自責の念に聊か忸怩《ハニカ》んで、片思とは稱しながら、實は諸戀に好轉させたい希望を暗々裏に繋いでゐる。男は我儘なものである。 
 「かたのかたもひ〔七字傍点〕」「片もひにおもひや〔八字傍点〕」の疊音の反復は、竝行的に波打つて流滑な修辭である。四五句の倒装はその諧調を成す爲の方便であるが、又一面には結句に重力をもたせる手段でもある。
 
右、門部(ノ)王(ノ)任《マケラルヽ》2出雲(ノ)守(ニ)1時、娶(レリ)2部内《クニウチノ》娘子(ヲ)1也。未(シテ)v有(ラ)2幾時《イクダモ》1既(ニ)絶(チヌ)2往來《ユキキヲ》1。累(ネテ)v月(ヲ)之後、更(ニ)起(セリ)2愛《メデノ》心(ヲ)1。仍(ツテ)作(ミテ)2此歌(ヲ)1贈2致(リヌ)娘子(ニ)1。
(1146) これは門部王が出雲守の任に在つた時、治下の或娘子を妾にした。それが未だ幾時も經たぬのに通交を絶た、然るに月を重ねての後に復戀心を起して、この歌を詠んでその娘に贈つたとの意。
 
高田(の)女王(が)贈(れる)2今城《いまきの》王(に)1歌六首
 
○高田女王 卷八の註に高安(ノ)王之女也とある。高安王は續紀によれば、和銅六年に從五位下、天平十一年に大原(ノ)眞人の姓を賜はり、同十四年に卒した人。「田」或は向〔右△〕の誤かと。高向《タカムコノ》女王は續紀に、神護元年無位高向(ノ)女王(ニ)授(ク)2從五位下(ヲ)1とある。○今城王 傳は未詳。卷八の作者に大原眞人今城の名が見え、續紀にその官歴は出てゐる。今城王は高安王と近親で、同時に大原眞人を賜はつたものか。
 
事清《ことぎよく》 甚毛莫言《いたくもないひ》 一日太爾《ひとひだに》 君伊之哭者《きみいしなくば》 痛寸取物     537
 
〔釋〕 ○ことぎよく 口《クチ》奇麗に。「事」は言《コト》の借字。○いたくもないひ 四句の古調に合はせてかく訓む。考の訓イトモナイヒソ〔七字傍線〕。舊訓イタクモイハジ〔七字傍線〕は、「莫」の字義によく協はない。○きみいしなくば 貴方がさないならば。「い」は名詞の接尾語。「しひい」を見よ(六三九頁)。「し」は強辭。○痛寸取物 訓讀し難い。舊訓はイタキキズソモ〔七字傍線〕。古義は偲不敢〔三字右△〕物の誤としてシヌビアヘヌモノ〔八字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 (結句が確定し難いので、歌意を解くまでもない。隨つて評語も略く。)
 
(1147)他辭乎《ひとごとを》 繋言痛《しげみこちたみ》 不相有寸《あはざりき》 心在如《こころあるごと》 莫思吾背《なおもひわがせ》     538
 
〔釋〕 ○ひとごとを――こちたみ 既出(三六○頁)。○こころある この「こころ」は仇し心又は異《コト》心の意。慮《オモンバカ》りの意ではない。
【歌意】 世間の人の取沙汰の、餘りやかましさうるささに、貴方にお逢ひしないのでした。決して私に仇し心のあるやうに思うて下さるな、私の且那樣よ。
 
〔評〕 人の噂は當事者からいへば、腹の立つほど世間では立てるものである。作者は今それを極度に恐れてゐる。といふのは、今城王との間には一緒になれない特殊の事情が伏在してゐるのであらう。
 で戀人今城王の折角の來訪も、時には依違してすげなくもてなした。男は氣の早いもの、何でも女の心變りと向つ腹を立てゝゐる樣子が想ひ遣られる。作者は又それを心配し、正當の事情をかく具陳して、「心ある如な思ひわが背」と、物柔い優しい調子で、女らしくもたれ懸かつて往つた。これでは今城王の苦り切つた顔の造作も一遍にほぐれずばなるまい。
 
吾背子師《わがせこし》 遂常云者《とげむといはば》 人事者《ひとごとは》 繁有登毛《しげくありとも》 出而相麻呼《いでてあはましを》     539
 
〔釋〕 ○とげむ 戀を〔二字右○〕仕《シ》遂げむ。
(1148)【歌意】 貴方がさ、何でもかでもこの戀を通さうと仰しやるなら、人の噂はうるさくても、構はずに出てお逢ひしませうものを。それはお心次第ですわ。
 
〔評〕 上の辯疏からこれは百尺竿頭一歩を進めた觀がある。理由はいかにもあれ、折角逢ひに來た情人を追ひ返した事實は、決して面白い仕打ではない。作者自身も稍悔恨を感じたので、御機嫌取の彌縫策にかうもいつたものだ。眞劍か不眞劍か、積極か消極か、萬事は貴方のお胸一つにあるのですと、もと/\無理な相談を持ち懸けて、責任の肩代りをした。
 是等の口吻及び兩者の情交状態の推移から察すると、この人言は單なる浮名ぐらゐの生やさしいものでなく、もつと重大な面白からぬ結果を招來するほどの事情が伏在し、女王は元より今城王まで、その戀愛遊戲を終幕に導いてゐる。
 
吾背子爾《わがせこに》 復者不相香常《またはあはじかと》 思墓〔左△〕《おもへばか》 今朝別之《けさのわかれの》 爲便無有都流《すべなかりつる》     540
 
〔釋〕 ○あはじか 逢はれまいことか。○おもへばか 「墓」原本に基〔右△〕とあるは誤。
【歌意】 貴方樣に二度とは、もう逢へまいことかと思ふせゐかして、今朝のお別がつらくて、どう仕よう手段もないのでしたわ。
 
(1149)〔評〕 事態はます/\紛糾し惡化してくる。危い橋を渡つて、無理な首尾に逢ひは逢つても、詰りは末の遂げぬ戀なのであつた。で又の逢瀬はとても覺束ない。或はこれが會合の最後であるかも知れないといふ恐ろしい豫感がする。「悲(キハ)莫(シ)d自(リ)2生別離1悲(キハ)u」(楚辭)、愛の悩みと別の苦とが、女の小さい胸を掻き※[手偏+劣]るのであつた。この際「術なかりつる」は平凡ながら、實に正直な告白である。
 
現世爾波《このよには》 人事繋《ひとごとしげみ》 來生爾毛《こむよにも》 將相吾背子《あはむわがせこ》 今不有十方《いまならずとも》     541
 
〔釋〕 ○このよには 現世にて〔右○〕は。○こむよにも 來世にて〔右○〕も。「も」は歎辭。
【歌意】 この世ではとても人の噂がうるさいから、あの世でまあ、ゆつくり逢ひませう、貴方樣よ。逢ふのは何の今でなくともさ。
 
〔評〕 佛教の三世思想に、作者の心の髓はしつかと攫まれてゐる。蓋し現世にその戀を見限つた詞で、一旦は「わが背子し遂げむといはば――」なと大層もない熱意を示したものゝ、翻つて冷靜に眺めると、現世の込み入つた社會は、さう無造作に個人の自由を許さない。で一切を來世に押片付けて現世の戀を解消し、あらゆる葛藤を清算しようとするのであつた。同じ來世を期待するのでも、後世の樣に一緒の心中にまで突き詰めるのとは、氷炭の相違がある。「今ならずとも」、何といふ微温約の諦めの詞であらう。
 「今ならずとも」の成語はこの外集中に、
(1150) 一瀬には千度さやらひゆく水の後もあひなむ今ならずとも(本卷、大伴像見−699)
  春風のおとにし出なばありさりて今ならずとも君がまに/\(同上、家持−790)
  鴨川ののち瀬しづけく後もあはむ妹にはわれは今ならずとも(卷十一−2431)
  高湍なる能登瀬の川ののちに逢はむ妹にはわれは今ならずとも(卷十一−3018)
  木綿《ユフ》だたみ田上《タナガミ》山の狹名《サナ》かづらありさりてしも今ならずとも(卷十二−3070)
など頻出してゐる。萬葉人にはかうした落付きと氣長さとがあつたことを記憶したい。
 
常不止《つねやまず》 通之君我《かよひしきみが》 使不來《つかひこず》 今者不相跡《いまはあはじと》 絶多比奴良思《たゆたひぬらし》     542
 
〔釋〕 ○いまはあはじと もう逢ふまいとて〔右○〕。○たゆたひぬ ためらうた。「たゆたひに」を見よ(三六八頁)。「絶」は借字。
【歌意】 何時もは絶え間なしに來た、貴方のお使が見えない。貴方は今はもう逢ふまいと思うて、グズ/\していらつしやるらしい。
 
〔評〕 女から體のいゝ絶縁状を叩き付けられては、今城王も男だ。いかに何でものめ/\と便りの使も出せまい。作者は又自分からいひ出したものゝ、來た使が來なくなつた現實に對しては、一抹の哀愁と寂寥とを感ぜぬ譯にはゆくまい。衷心に根をおろしてゐる戀草は刈つても復生えるからである。で男の心を案上にのぼせてつぶ(1151)さに思惟し臆測し、もうこれが縁の切れ目ではないかと、おづ/\その情けなさ心細さを歎いて泣いてゐる。氣の毒なものである。以上を通觀すると、女王の性格は稍冷靜で、而も氣弱な點をもつてゐたらしい。
 さてこの六首は一時の作でないから、聯作とはいへないが、事件の繼續中における感懷に屬するから、その進行推移を如實に物語つてゐる。
 
神龜元年|甲子《きのえね》冬十月、幸(せる)2紀伊《きの》國(に)1之時、爲(め)v贈(らむが)2從駕《みともの》人(に)所v誂《あとらへられて》2娘子《をとめに》1、笠(の)朝臣金村(が)作歌一首并短歌
 
神龜元年冬十月聖武天皇が紀伊國に行幸なされた時、お伴をした人に贈る爲に、或娘子に頼まれて、笠金村が詠んだ歌との意。○幸紀伊國之時 續紀、神龜元年十月の條に、己酉車駕至(レリ)v自2紀伊國1とある。○所誂 代作を頼まれること。これは集中この外にも卷八、卷十九などに見え、何時の時代でも珍しからぬ事である。○娘子 姓名未詳。○笠朝臣金村 傳は前出(八四二頁)。
 
大〔左△〕皇之《おほきみの》 行幸乃隨意《いでましのまに》 物部乃《もののふの》 八十伴雄與《やそとものをと》 出去之《いでゆきし》 愛夫者《うつくしづまは》 天翔哉《あまとぶや》 輕路從《かるのみちより》 玉田次《たまだすき》 畝火乎見管《うねびをみつつ》 麻裳吉《あさもよし》 木道爾入立《きぢにいりたつ》 眞土山《まつちやま》 越良武公者《こゆらむきみは》 黄葉乃《もみぢばの》 (1152)散飛見乍《ちりとぶみつつ》 親《むつまじき》 吾者不念《わをばおもはず》 草枕《くさまくら》 客乎便宜常《たびをよろしと》 思乍《おもひつつ》 公將有跡《きみはあらむと》 安蘇蘇二破《あそそには》 且者雖知《かつはしれども》 之加須我仁《しかすがに》 默然得不在者《もだもえあらねば》 吾背子之《わがせこが》 往乃萬萬《ゆきのまにまに》 將追跡者《おはむとは》 千遍雖念《ちたびおもへど》 手嫋女《たわやめの》 吾身之有者《わがみにしあれば》 道守之《みちもりの》 將問答乎《とはむこたへを》 言將遣《いひやらむ》 爲便乎不知跡《すべをしらにと》 立而爪衝《たちてつまづく》     543
 
〔釋〕 ○おほきみの 「大」原本に天〔右△〕とあるが、卷六に大皇之行幸之隨《オホキミノイデマシノマニ》とある。○まに まゝにの意。續紀の宣命に「おのが欲しき末仁《マニ》行はむと」(卷廿五)、字鏡に、恣(ハ)保志支萬爾《ホシキマニ》などある。○もののふの 既出(一九二頁)。○やそとものをと 多くの役人達と共に。既出(一〇三七頁)。○うつくしづま 「うつくし」はいつくし、いつくしむと同語。「うつくし母に」(卷二十四)、「うつくし妹が」(孝徳天皇紀)など同例。○あまとぶやかるのみち、既出(五六二頁)。○たまだすきうねび 既出(一二三頁)。○あさもよしきぢ 既出(二一七頁)。○いりたつ 入込む。眞士山は大和紀伊の國境の峠で、紀伊の入口である。イリタチ〔四字傍線〕と訓むは非。○まつちやま 既出(二一(1153)七頁)。○むつまじき 「親」に睦むの意がある、宣長訓はシタシクモ〔五字傍線〕。古義訓シタシケリ〔五字傍線〕は非。○あそそには 薄々《ウス/\》にはの意。「あそそ」は淺々《アサ/\》の轉語と思ふ。諸註は非。○かつは 片方には。「かつ」は「かつしれど」を見よ(一〇二六頁)。○しかすがに 流石《サスガ》に。「しか」の約はサである。○もだもえあらねば 徒《タダ》でもよう居られないので。「もだをりて」、を見よ(八二四頁)。○ゆきのまにまに 往くことのまゝにの意、動詞の弟二變化を居體言として、「往きの進みに」、「成しのまに」(卷九)「まけのまにまに」(卷十三)の如く續ける例が多い。○おはむとは 後《アト》を追はむとは。○たわやめ 「嫋」の字は弱女の合字。それに「女」を添へたのは釆、女の合字に尚女の字を添へて※[女+采]女と書くと同例。「手」は借字。○みちもり 道の番人。○いひやらむ 云うて退けう、言ひ放たう。○しらにと 既出(六〇五頁)。○たちてつまづく 足を爪立《ツマダ》てゝ地を踏むこと。單に爪突く(躓く)といふとは異る。卷十三にも「馬じもの立ちて〔三字傍点〕爪衝《ツマヅキ》」と見え、字鏡に蹴然、跟※[足+將]、躊躇をタチツマヅクと訓んである。△地圖及寫眞 挿圖7(二八頁)46(一四三頁)73(二一八頁)155(五六四頁)を參照。
【歌意】 天子樣の紀伊行幸につけて、供奉の澤山の役人達と共に、出掛けて往つた私のいとしい夫は、奈良から輕の道にかゝり、畝火山を右に見ながら、愈よ紀伊に這入る國境の眞士山を、今越えるであらうが、あの方は峠の紅葉の美しく散り飛ぶのを見い/\して、狃れ馴染んだ私をば忘れ、憂いつらい旅を却て面白いと思うて、あの方は居るであらうと、薄々には承知であるけれども、流石に黙つてもよう置けないので、いつそ貴方樣が旅行くまゝに、その後を追はうとは何返か思ふが、か弱い女の身でさあるので、もしも道守が何で來たと咎めよう時に、どういひ分けしてよいやら、譯がわからないので、あとも追ひ得ず、只むだに自團駄踏むことですよ。
 
(1154)〔評〕 娘子と金村とはどういふ關係にあるかは不明であるが、金村は勇士ながらも、歌人でもあるので、贈歌の代作を娘子から頼まれたものであらう。
 「大君の」より「うつくし夫は」まではまづ本事件の來由を叙し、「あまとぶや輕の路より」より「眞土山越ゆらむ公は」までは、奈良京より眞土山までの夫君の道中筋を大まかに思惟した。輕路に畝火山を湊合することは、既に人麻呂の悼亡の作中にも見え、二つながら中間の重要地點に當つてゐる。
 「紀路に入り立つ眞土山」は娘子の千愁萬緒を展開する好舞臺であつた。時はこれ神無月、峠の邊は紅葉の色盛りであらうから、風に散る寸錦片繍に心を奪はれた旅人夫の君は、鴛鴦恩愛の情をも忘れ、草枕旅を却て面白いものと觀じつゝあらうと、夫君に對する輕い嫌味と皮肉を盛り上げた。即ち婦人の通有性たる嫉妬の情を巧に取扱つて、平地に波瀾を起した。而もその嫉妬の種が、仇し女ではなくて、眞土山の秋の風景美であるに至つては、稚氣痴態、實に兒女の情を盡したものといへよう。
 思慕の念に驅られては、紅の裳裾踏み散らして男のあとを追うた例はさう珍しくない。但馬皇女は「後れゐて戀ひつゝあらずば追ひ及かむ」(卷二)と絶叫し、「おのも世に未だ渡らぬ朝川」を渡られた。然しそれ等は特別の場合に瀕んだからの事で、只遠行の人を憶ふ今の場合では、何處までも女らしい情緒の展開しかない。夫の後を追つては往きたいが、行幸の鹵簿は嚴重だから、定員外は一人たりとも「紀の歸守いとゞめなむかも」で、道守の誰何を遁るべくもない。進退こゝに谷つては、空しく地團駄踏むより外はないのである。「立ちて爪衝く」の一結戞然として遠長い響を傳へる。
 この篇を契沖は評して、面白き歌とし、
(1155)  娘子の誂にかなひてあはれにはかなく詠まれたり。物に任せて體を變ぜられけるなるべし、云々。
 まことに構想に於いては見るべきものがある。然し修辭の上から點檢すると、疵だらけで、蕪穢も亦甚しい。試にいふと、「うつくし夫は〔二字傍点〕」が主格となつてゐるのに、更に「眞土山越ゆらむ君は〔二字傍点〕」、「思ひつつ君は〔二字傍点〕あらむと」とあるは文理の混亂を招き、男の呼稱が夫、君、背子とまち/\で猥雜の感がある。「いでましのまに〔二字傍点〕」と「往きのまに/\〔四字傍点〕」又「畝火を見つつ〔三字傍点〕」「散り飛ぶ見つつ〔三字傍点〕」それに「思ひつつ〔二字傍点〕」など同語が無闇に重複し、その他「よろしと」「あらむと」「しらにと」の接續形のと〔傍点〕の重出など、尚この類が二三ある。或は代作だから無責任に遣つたか、或は急作で修正の遑がなかつたか。歌人金村作としては甚だいかゞなものである。殊に長篇に重要なる段節をもたぬ爲、句法に變北がなく、一昂一低の氣勢を缺き、繊弱の弊に陷り、平安期の長歌に近い觀がある。
 
反歌
 
後居而《おくれゐて》 戀乍不有者《こひつつあらずは》 木國乃《きのくにの》 妹背乃山爾《いもせのやまに》 有益物乎《あらましものを》     544
 
〔釋〕 ○こひつつあらずは 既出(三〇〇・三五九頁)。○きのくに 紀の國。紀は借字で、「木」が本義である。○いもせのやま 「せのやま」を見よ(一四一頁)。 △地圖及寫眞 挿圖45(一四二頁)46(一四三頁)を參照。
【歌意】 私一人あとに殘つてゐて、戀しさにくよ/\して居ようよりは、いつそ私達は〔三字右○〕、貴方のお通り筋の紀伊(1156)國の妹山と背山であらうものをさ。さすれば夫婦離れることなしに、何時も並んで居られますわ。
 
〔評〕 同音の聯想から、狹山《セヤマ》を擬人して背《セ》山(兄《セ》山)と呼び、さて相對的に川向うの山を妹山と呼んだのは、古代人の嘗ての遊戲であつた。そして何時も變愛問題の引合に出される。山もさぞ迷惑なことであらう。
 紀の川を挾んで常へに對立する背山妹山、愛別離苦の絶え間もない人間夫婦の境よりは遙に幸福であるとの前提のもとに、「妹背の山に」と羨望した。この前提は非情を有情化した詩的斷定、論據は甚だはかないものであるが、さし迫つた感情の前には、理窟の存在は許さない。弧閨の寂寞に堪へない怨意が、よく表現されてゐる。初二句はこの歌の外に、
  おくれゐて戀ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈曲にしめ結へわが背(卷二、但馬皇女−115)
  おくれゐて戀ひつつあらずは田子の浦の海人ならましを玉藻刈る/\(卷十二−3205)
など見え、但馬皇女の作よりは、この歌は確に二十九年以上の後出である。「戀ひつつあらずは」の單句に至つては、枚擧の遑がないほど、集中に澤山ある。
 
吾背子之《わがせこが》 跡履求《あとふみもとめ》 追去者《おひゆかば》 木乃關守伊《きのせきもりい》 將留鴨《とどめなむかも》     545
 
〔釋〕 ○あと 足蹤。きのせきもりい 「きのせきもり」は紀の關の關所の番人のこと。紀の關は大和紀伊の國境附近に置いたらしい。「い」は名詞の接尾語。「しひい」を見よ(六三九頁)。○とどめなむ 「將留」を五音(1157)にかく訓む。略解訓のトドメテム〔五字傍線〕は自他が違ふ。
【歌意】 旦那樣の足迹を踏み/\尋ねて、追ひ掛けて行かうなら、定めし紀の關所番人が、引止めることでせうな。
 
〔評〕 孤閨の無聊は遂に夫のあと追ひ掛けてとまで、一旦は突き詰めた。然し紀の關守は通してくれまいと理性は抑へた。感情と理性とが葛藤してゐる間に、行動の方は鈍つて猶豫逡巡といふ形。「とどめなむかも」と、一片の疑を投げてゐる處に、有餘不盡の味ひが搖曳する。
 紀の關は何處にあつたか、古書に全然その記載を見ない。地理的に考察すれば、當時紀伊の兄山(背山)までを畿内の南限と規定されてあつたから、兄山に置いたものか。又は大和紀伊の國境に當る眞土山の峠に置いたものか。何れその二つの内であらう。恐らく、この關は行幸警備の爲の臨時設置かと思ふ。
 
二年|乙丑《きのとうし》、春|三月《やよひ》、幸(せる)2三香《みかの》原(の)離宮《とつみやに》1之時、得(て)2娘子《をとめを》1、笠(の)朝臣金村(が)作歌一首并短歌
 
神龜二年の三月に聖武天皇が甕原《ミカノハラ》の離宮に行幸あらせられた時、或娘子を手に入れて金村が詠んだ歌との意。但二年の行幸は續紀に記載がなく、同四年五月に行幸の事は見える、〇三香原離宮 續紀和銅六年六月の條に、幸(ス)2甕(ノ)原(ノ)離宮(ニ)1と見え、神龜より以前から在つた離宮である。天平に至りそこに久邇京が造られた。〇三香原 山城國相樂郡。山城名勝志に、瓶(ノ)原(ハ)在(リ)2木津(ノ)渡(ノ)東一里半許(ニ)1、郷内廣(クシテ)今有(リ)2九村1と見え、南北に長く東西に狹く、四邊は山岳によつて圍繞され、木津川その中央を東より西へと横斷し、布當《フタギ》川北より來つてその東偏(1158)を限り木津川に注ぐ。西偏木津川の南岸に鹿背《カセ》山がある。天平に遷都の擧おこつて、奈良京の大極段を移した。地點は、川の北部字登大路と推定されてゐる。離宮も恐らく同地點で、甕原|恭仁《クニノ》京は離宮址に就いて起されたものであらうと思ふ。○娘子 略解はいふ遊女なるべしと。○笠朝臣金村 この五字、原本はこゝに脱して別行に記載してある。
 
三香之原《みかのはら》 客之屋取爾《たびのやどりに》 珠桙乃《たまぼこの》 道能去相爾《みちのゆきあひに》 天雲之《あまぐもの》 外耳見管《よそのみみつつ》 言將問《こととはむ》 縁乃無者《よしのなければ》 情耳《こころのみ》 咽乍有爾《むせつつあるに》 天地《あめつちの》 神祇辭因而《かみことよせて》 敷細乃《しきたへの》 衣手易而《ころもでかへて》 自妻跡《おのづまと》 憑有今夜《たのめるこよひ》 秋夜之《あきのよの》 百夜乃長《ももよのながく》 有與宿鴨《ありこせぬかも》     546
 
〔釋〕 ○たびのやどりに 旅宿の間にて〔三字右○〕の意。○たまぼこの 道の枕詞。既出(二七二頁)。○みちのゆきあひに 道にて〔二字右○〕の行合ひに。○あまぐもの 「よそ」の枕詞。雲は遠方の空に立つのでいふ。○よそのみみつつ 前出(八七九頁)。○こととはむ 「こととはぬ」を見よ(一〇四七頁)。○かみことよせて 神が寄托し給うて。「ことよせ」(1159)は事を寄托すること。課《オホ》すること。卷十八に「天地の神|許等余勢天《コトヨセテ》」とある。依せ〔二字傍点〕を祝詞には依さし〔三字傍点〕と敬相に多く使つてある。「辭」は事の借字。○しきたへの 衣の枕詞。既出(四〇二頁)。○ころもでかへて 袖を交《カハ》して。袖さし交《カ》へてと同意。○おのづま おのが妻。卷十四にも「於能豆麻《オノヅマ》ひとの里におき」とある。○あきのよの 長き〔二字右○〕秋の夜の。○ももよのながく 百夜の如く〔二字右○〕長く。○ありこせぬかも 既出(三六五頁)。「與」はオコスの意によつてコセと訓む。興〔傍点〕の誤ではない。「宿」を寢《イヌ》の意でヌと訓む。△寫眞 挿圖297を參照(一〇三二頁)。
【歌意】 甕の原の旅宿りしてゐるうちに、往來の出合ひ頭《ガシラ》に餘所ながらお前を見つゝありながら、詞を懸けよう手懸かりもないので、心ばかりは思に塞がつて居つたのに、仕合せと天地の神のお取成しで、かうやつてお互の袖をかはして、お前を私の妻として契り得た今夜は、長い秋の夜のそれが百夜であるやうに長く、あつて貰ひたいものだなあ。
 
〔評〕 甕原離宮は何時の代の建設か。續紀、元明天皇和銅六年の條に、甕原離宮行幸の記事がある。その地は奈良京から伊勢又は近江への通路の交叉點に當り、且二里にも足らぬ手近な場處で、山竝のよろしい形勝地とあ(1160)つては、離宮を置かれるのもその筈である。飛鳥末には吉野離宮が伴ひ、奈良京には甕原離宮が伴ふ。
 離宮行幸に從駕の人々は、いづれそれ/”\の「旅のやどり」に分宿したであらう。公私出入の行摺りに、作者はふと一美人を瞥見し、流石に無遠慮に詞も懸けかねて、獨りクヨ/\と懸戀の情に悩んだといふ。これは決して當坐の嬉しがらせや殺し文句ではないらしい。この長短歌三首がもつ非常な熱意は、その誠意の披瀝であることを立證する。
 どうした機會からその婦人に再會し、遂におの妻と憑むまでに立到つたかは、叙事が省略されてゐて分らない。若しもそれが例の遊行婦《アソビ》とすれば何でもなく解決がつくが、作者は只神樣の御引合せと逃げてゐる。「天地の神ことよせて」は實に小題大做の筆法で、この誇大過ぎる詞は、即ちその曾合の歡喜を象徴する。
 この曾合は春三月即ち彌生の夜であるから、事實上秋の夜よりは時間が短い。されば秋の夜を願ひその百夜を欲求するのは當然な譯であるが、又感情及び慣習上から、秋の夜永が春の日永と向じく、殆ど鐵則の如く思はれてゐる結果でもある。伊勢物語に、
  秋の夜の千夜を一夜になずらへて八千夜し寢ばや飽く時のあらむ (贈)
  秋の夜の千衣を一夜になせりとも詞のこりて鳥や鳴きなむ (答)
皆同一系統の感想で、逢ふ夜の長かれと望むは誰れしも同感であらう。それだけ内容は一般的で、特異性に乏しいが、極めて長き夜の意に、秋の百夜の具象的表現を用ゐたのは、印象が鮮明である。「憑める今夜《コヨヒ》」、「秋の夜の百夜」と、夜の語をしつこく疊用し、逢ふ夜そのものに、力強い執著をもつた點に、その感情の昂揚を認める。
(1161) 初頭より「咽せつつあるに」までを前段とし、以下を後段として考へると、前段は女を見初めた經緯と思慕の情とを叔べ、後段は會合の歡に浸つて飽くまでその幸福感を追求しようとしてゐる趣を叙べた。
 
反歌
 
天雲之《あまぐもの》 外從見《よそにみしより》 吾妹兒爾《わぎもこに》 心毛身副《こころもみさへ》 縁西鬼尾《よりにしものを》     547
 
〔釋〕 ○こころもみさへ 心も〔傍点〕身も〔傍点〕、又は心さへ〔二字傍点〕身さへ〔二字傍点〕といふが正格だが、音數上の都合でかく片寄りにいつた。「鬼」をモノといふ。「鬼尾」は戲書。
【歌意】 お前を餘所ながら見たその時から、私の心も身も、みんなお前に寄り付いてしまつたものを。逢うては尚更のことさ〔十字右○〕。
 
〔評〕 寫眞のフィルムに光線が感光するやうに、時によつては瞥見の瞬間に終生の戀を感ずることがある。一目惚れ、大抵は通り惡魔のやうなもので、時が經てばどうやら有耶無耶に終る。然るに今測らずその女に廻り合つては、これは火に油で、作者はその幸福感に浸つて、より以上に心身全幅の愛を捧げてゐる。甘い戀の※[口+耳]、聽者の耳のむづ痒さを覺えしめて止まない。「寄りにしものを」の抑揚に想像の餘地を殘したのも面白い。
 
今夜之《このよらの》 早開者《はやくあけなば》 爲便乎無三《すべをなみ》 秋百夜乎《あきのももよを》 願鶴鴨《ねがひつるかも》     548
 
(1162)〔釋〕 ○このよら この夜。「ら」は名詞格の接尾辭。はやくあけなば 契沖訓による。舊訓ハヤクアクレバ〔七字傍線〕、略解の訓ハヤアケヌレバ〔七字傍線〕は共に非。下句は夜の明けぬうちにいふ詞である。○すべをなみ 「を」は歎辭。○あきのももよ 三句の末字から「三秋百夜」と對語になつてゐる。
【歌意】 この逢ふ夜が早く明けうなら、せう事がなさに、秋の夜の百夜のやうに長いことを願うたことよ。
 
〔評〕 長歌の末節の反復で他意がない。面白い時間は早く經つもの、合歡の夜の短さは又格別である。
 
五年(の)戊辰《つちのえたつ》、太宰(の)少貮《すないのすけ》石川(の)足人《たりひとの》朝臣(の)遷任《めされて》、餞(けするときの)2于筑前(の)國|蘆城《あしきの》驛家《はゆまやに》1歌三首
 
神龜五年、太宰少貮たる石川足人朝臣が轉任して上京する時、人達が〔三字右○〕筑前の蘆城の驛家で餞別の宴を催した時の歌との意。○太宰少貮 前出(七九三頁)。○石川足人朝臣 續紀に和銅四年二月從五位下、神龜元年二月從五位上に叙すとある。その後太宰少貮となつて赴任したものと見える。○遷任 この下に、上京時〔三字右○〕の三字落ちたものか。遷任は轉任である。○蘆城驛家 筑前國御笠郡(今筑紫郡)蘆城村。太宰府の東々南一里強。朝倉道に當る。蘆城山、蘆城川、蘆城野、は集中に詠まれてゐる。この驛延喜式には見えない。
 
(1163)天地之《あめつちの》 神毛助與《かみもたすけよ》 草枕《くさまくら》 覊〔馬が奇〕行君之《たびゆくきみが》 至家左右《いへにいたるまで》     549
 
〔釋〕 ○あめつちのかみ 前出(九八五頁)。
【歌意】 天地の神も、御無事であるやうにお助け下さいませ。遠く旅行く足人の君が、その故郷のお宅に到着するまでを。
 
〔評〕 筑紫の宰府邊から奈良京までの國司上京の道程を案ずるに、和名抄に據れば、長門より平安京まで上廿一日と規定されてあり、奈良京とても大抵同樣であらう。それに宰府より長門まで約四日を要したと見て、全日數は二十四五日位はかゝる。その間官船は比較的大きいとはいへ、蒼海の一粟に過ぎない船舶に身命を托して、甲の湊乙の泊に風待日待、その困難と危險とは現代人の夢想だも許さないものがあつた。實にこれ「家に到るまで」安心の出來ない旅行である。苦しい時の神頼み、天地の神を絶叫して、その擁護を哀願するより外に術がない。
(1164) 柄の大きさ線の太さで、正面からひた押に押切つたその立派さは、實に見事である。小細工に終始する小作家の夢にも思ひ及ばぬ處であらう。「家に到るまで」、何と濃到親切な情味深い詞であらう。只この二句が全面的に幅廣い振動を與へる。要するに平凡の大いなるものである。
 
大船之《おほふねの》 念憑師《おもひたのみし》 君之去者《きみがいなば》 吾者將戀名《われはこひむな》 直相左右二《ただにあふまでに》     550
 
〔釋〕 ○おほふねのあもひたのみし 既出(四六九頁)。○こひむな 前出(一〇九七頁)。○ただに 既出(四二五頁)。○までに まで〔二字傍点〕といふに同じい。
【歌意】 大船のやうに力憑みに思うてゐた貴方が、今去なうなら、まともに再びお目に懸かるまでを、私は定めし戀ひ焦れようなあ。
 
〔評〕 作者は宰府の下僚であらう。足人はその上官である。今その遷任上京に當つて、宰府よりは東南一里強の蘆城の驛まで見送り、その最後の袂を別つのであつた。されば「思ひ頼みし」は、當坐の辭令ばかりではあるまい。又この初二句があつてこそ「君がいなば」も活きてくる。何れ自分も任果てゝ歸京の曉は、奈良京で再會の時機がほゞ豫想されてゐるが、「ただに逢ふまで」の幾年かの間は、參商徒らに相望まざるを得ないことを痛歎した。四五句の倒装と五句の字餘りと、それらを總括する力強い男性的口調とは、注意すべき表現である。但類想が多い。この事卷九「あすよりは吾は戀ひむな」の條を見よ。
 
(1165)山跡道之《やまとぢの》 島乃浦廻爾《しまのうらわに》 縁浪《よするなみ》 間無牟《あひだもなけむ》 吾戀卷者《わがこひまくは》     551
 
〔釋〕 ○やまとぢ 大和へ行く路の意。「紀路《キヂ》」を參照(一四二頁)。○しまのうらわ 筑前國志摩郡(今筑紫郡)志摩《シマノ》郷の浦。今の引津の浦か。○よするなみ 前出(八三七頁)。「縁」は借字。上句は「あひだもなけむ」に係る序詞。○なけむ 前出(九一六頁)。○こひまくは 戀ひむこと〔二字右○〕は。「まく」は「ふらまく」を見よ(三三四頁)。△地圖 挿圖217を參照(七四四頁)。
【歌意】 都の大和へ行く路の志摩の浦邊に、打寄る波は絶え間なしだが、その如く、今お別れしたら〔七字右○〕私の貴君を戀ふる心持は、絶え間もないことでせう。
 
〔評〕 別後の情を豫想して、哀愁に浸つてゐる。波の聯想から間もなきをいひ、頻々《シク/\》なるをいふは萬葉人の常識で、集中にその例が多い。
  千鳥鳴く佐保の河瀬のさゞれ波やむ時もなしわが戀ふらくは(卷四、大伴坂上郎女−526)
  神さぶる荒津の崎に寄する波|間《マ》なくや妹に戀ひわたりなむ(卷十五−3660)
  酸蛾《スガ》島のなつみの浦による波のあひだも置きてわが念《も》はなくに(卷十一−2727)
  とのぐもり雨ふる川のさゞれ波|間《マ》なくも君はおもほゆるかも(卷十二−3012)
などの如きは同想同型で、
  風を痛みいたぶる浪のあひだなくわが念ふ君は相念ふらむか (卷十一−2736)
(1166)  大件の三津のしら浪あひだなくわが戀ふらくを人の知らなく (卷十一−2737)
  安倍の島鵜のすむ磯によする波|間《マ》なくこの頃大和しおもほゆ (卷三、赤人−359)
などは波に寄せて思慕の情を叙べてゐる。只この歌の特徴としては、別離に對して一言も別離の語を下してない點に存する。而もわざと求めた巧緻ではなくて、自然の渾成であるのが嬉しい。
 序詞の「大和路の志摩の浦」は足人上京の乘船出發地と見れば、一層現實味があつて面白い。又實際その旅程に直接交渉をもたれぬ地名を撮合することは、單なる序詞としてからがふさはしくない。然し題詞では蘆城驛での餞別だから、地理的關係から説明がしにくい。
 といふのは、志摩の浦は博多灣口の南部を扼する志摩半島の南面の入海引津の浦の一稱と思はる。卷十六の題詞に、「遣唐使大判官引津亭〔三字右○〕舶泊之歌」と見え、大和路へ向ふ官船も、風向や何かの理由では此處から解纜するのもあるべき筈である。只宰府から西方十五里餘の地點引津へ行くのに、わざ/\反對の方向に近い朝倉道の蘆城驛まで一里半も往つて餞宴を開くことは、一寸不可解である。
 依つて最後の斷案としては、慮城が宰府附近の小景勝地であり、又驛家である處から、そこに送別會を開いたものと想定する。
 
右三首、作者未詳。
 
大伴(の)宿禰|三依《みよりが》歌一首
 
○大伴宿禰三依 續紀に天平二十年二月從五位下、勝寶六年七月主税(ノ)頭、寶字元年六月三川(ノ)守、同三年五月仁(1167)部(民部)少輔、同六月從五位上、同十一月遠江(ノ)守、同六年四月義部(刑部)大輔、神護元年正月正五位上、同二年十月出雲(ノ)守、寶龜元年十月從四位下、同五年五月卒とある。なほ紀には御〔右△〕依となつてゐる。 
吾君者《わがきみは》 和氣乎波死常《わけをばしねと》 念可毛《おもへかも》 相夜不相夜《あふよあはぬよ》 二走良武《ふたつゆくらむ》     552
 
〔釋〕 ○わがきみは 女をさしていつた。○わけをば この〔二字右○〕奴《ヤツコ》をば。「わけ」は卷八に「戲奴」と書いて反云|和氣《ワケ》と註してある。賤者の稱。宣長いふ「人の名又姓などに別《ワケ》といふは尊みたる稱なるに、集中の別《ワケ》は賤しめていふ稱なり」と。されば人稱代名詞ではないのに、註家は皆誤つて、自他の稱呼の説を立てゝ説明してゐる。○おもへかも 前出(一〇八四頁)。○あはぬよ この下、の〔右○〕の辭を含む。○ふたつゆく 二筋が經行く。「ゆく」は「蘆原中國《アシハラノナカツクニ》悉(ニ)闇(シ)、因(ツテ)v此(ニ)而|常夜《トコヨ》經《ユク》」(記上)、又「常《トコ》しへに夏冬ゆけ〔二字傍点〕や」(卷九)など見え、時間の經過をいふ。訓は古義による。舊訓フタユクナラム〔七字傍線〕。眞淵訓はフタユキヌラム〔七字傍線〕とあるが、フタユク〔四字傍線〕は二度往くの意でこゝには協はぬ。古點は「走」が夜〔右△〕とある本によつてヨマゼナルラム〔七字傍線〕と訓んだ。「走」は儀禮の註に「走(ハ)猶(シ)v去(ノ)、又群經音辨に、趨向(ヲ)曰(フ)v走(ト)など見え、ユクの意が生ずる。されば走を誤とする説は全く無稽。
【歌意】 貴女はこの野郎|奴《メ》をば、死んでしまへとお思ひのせゐかしてまあ、逢つてくれる晩と逢つてくれぬ晩との二つが入り交《マジ》るのでせう。どちら付かずでは罪ですよ。
 
〔評〕 蛇の生ま殺し状態では氣が揉めて溜らない、一體貴女は他《ヒト》をば死ねと思つて、こんなあしらひをなさるのかと、詰問に及んだ。然らばお望通り片方づけて、逢はぬ方に致しませうと出たら、奇麗に諦める處か、吃驚し(1168)て忽ち前言を翻す作者である。榮耀の餅の皮、本音は只折々逢はぬ夜の打混る不足にある。その不足を誇張し強調して、「わけをば死ねと思へかも」など駄太を捏ねたものだ。
 我妹兒〔三字傍点〕といつてもよい處をわざと尊敬して「わが君は」といひ、我をば〔三字傍点〕といつてよい處をわざと卑下して「わけ」といふ。かく尊卑の懸隔を誇大に表現したことは、對者に當てつけた一種の皮肉である。
 
丹生女王《にふのおほきみの》贈(れる)2太宰(の)帥《かみ》大伴(の)卿《まへつぎみに》1歌二首
 
○丹生女王 續紀に、天平十一年正月從四位下から從四位上、天平勝寶二年八月正四位上とある。○太宰帥大伴卿 旅人のこと。前出(七三六頁)。
 
天雲乃《あまぐもの》 遠隔乃極《そくへのきはみ》 遠鷄跡裳《とほけども》 情志行者《こころしゆけば》 戀流物可聞《こふるものかも》     553
 
〔釋〕 ○そくへのきはみ 前出(九三四頁)。○とほけども 前出(九〇二頁)。「鷄」をケと讀むはケイの短音。勢《セイ》をセの假名に用ゐると同格。
【歌意】 貴方の居らつしやる筑紫は天のはてで、京からは〔四字右○〕遠いけれども、戀しいと思ふ私の心が通つて行けば、不思議に〔四字右○〕そちらからも、戀しう思うてくれるものですなあ。
 
〔評〕 筑紫は天の一涯で容易く來往し難い。然し心の往くには何等の障碍もない。打てば響き、思へば思はれ、忽(1169)に貴方からの嬉しいお便りを頂き得ましたと、旅人卿から音信して來たその親切さを、反つて自分が志を致した反響であつたと翻轉した。この狡猾なる口吻には、旅人卿も覺えず失笑したことであらう。卷八にこの女王が大伴卿に贈つた「うら若み人のかざしゝ撫子の花」といふ旋頭歌が見え、女王と卿とは若い頃特別關係があつたので、かくより以上に打解けた口吻を見るのも偶然でない。
 
古《いにしへの》 人乃令食有《ひとのたばせる》 吉備能酒《きびのさけ》 病者爲便無《やめばすべなし》 貫簀賜牟《ぬきすたばらむ》     554
 
〔釋〕 ○いにしへのひと 昔の知人。旅人卿をさす。古義はフリニシヒト〔六字傍線〕と訓んだ。これは年寄つた人といふ意に聞えてよくない。○たばせる 下《クダ》された。賜《タマ》はせるの約。「令食有」を意訓によむ。舊訓ノマセル〔四字傍線〕、宣長訓ヲサセル〔四字傍線〕。○きびのさけ 吉備國に産する酒。當時の名物と見えた。吉備國は今の備前備中備後美作を含む古稱。黍《キビ》の洒と解するは横入である。○やめば 酒に病むは酒に中《アタ》るをいふ。「病」原本に痛〔右△〕とある。元暦本その他によつて改む。○ぬきす 貫簀《ヌキス》は細い竹を編み貫いた物で、洗盤即ち盥の内に敷き、手洗ふ時その水の散らぬ用意にする。○たばらむ 頂きませう。
【歌意】 舊い馴染の貴方が下された名物の吉備の酒、もしも飲み過ぎて苦しんだなら、始末に終へない。どうぞ御親切ついでに、嘔吐《モド》す時の用意に〔六字右○〕、貫簀をも頂きたうございます。
 
〔評〕 女王は舊知旅人卿から音問の書簡に添へて吉備酒を貰つた。多分その頃の名物であつたらう。旅人卿が有(1170)名の飲助で、女性に對しての贈物までも酒であることを思ふと、可笑しくなる。然し女王も亦同好の愛酒家でであつたのではあるまいか。
 貰ひ物を珍重するは贈主へ對しての禮儀である。品物が酒なら、お蔭でいゝ心持に醉ひましたといふのは一通りの挨拶、「病めばすべなし」と、嘔吐用の貫簀の要《イ》るまで醉ひしれようとなつては、愈よ以て感謝の意が強く表現されてくる。そして吉備酒の親切ついでに貫簀も頂かせてと、巫山戲て甘えかゝつたその調子に、いかにも打解け切つた交遊の情味が流動する。
 
太宰(の)帥《かみ》大伴(の)卿(の)贈(れる)2大貮《おほきすけ》丹比※[系+頁]守《たぢひのあがたもりの》卿(が)遷2任《めさるゝに》民部卿《たみのつかさのかみに》1歌一首
 
宰府の長官大伴旅人が、次官たる丹比(ノ)縣守の、民部省の長官に轉任するのに贈つた歌との意。丹比※[系+頁]守 丹比は姓氏、又|多治比《タヂヒ》を中略して多比とも書いた。眞人《マヒト》姓である。「※[系+頁]」は縣の書寫字で、又※[頁+系]と書いたのもある。縣守は續紀に、慶雲二年十二月從五位下、和銅三年三月宮内卿、同四年四月從五位上、靈龜元年正月從四位下、同五月造宮卿 同二年八月遣唐押使となり、養老二年十二月來歸、同三年正月正四位下、同七月武藏守にて、相模上野下野の按察使となる。同四年九月播磨の按察使から持節征夷將軍となり、同五年正月正四位上、同四月狄を鎭めて歸京、その六月中務卿、天平元年二月太宰大貮から權參議從三位、同三年八月參議民部卿、同十一月山陽道の鏡撫使、同四年正月中納言、同八月山陰道(ノ)節度使、同六年正月正三位、同九年六月薨ず。左大臣正二位島の子とある。池守廣成の兄。○民部卿 民部省の長官、正四位相當官。民部省は諸國の戸口、田畠、山川、道路、租税の事を掌る。
 
(1171)爲君《きみがため》 釀之待酒《かみしまちざけ》 安野爾《やすのぬに》 獨哉將飲《ひとりやのまむ》 友無二思手《ともなしにして》     555
 
〔釋〕 ○かみし 釀《カモ》した。原始時代には米を?んで酒を造つた。故に酒を造るをカムといふ。日本紀決釋、大隅風土記、武備志などにその事が出てゐる。古義に酒は神に獻る物なれば?むなど穢しき事あるべくもなしと難じたのは後世の見で、誤である。○まちざけ 客を待つ爲に特に造る酒をいふ。「其御祖息長帶日賣《ソノミオヤオキナガタラシヒメノ》命釀(シ)2待酒〔二字傍点〕(ヲ)1以(テ)獻(ル)」(記上)「味飯《ウマイヒ》を水に釀《カミ》成しわが待ち〔二字傍点〕し」(卷十六)などの證がある。○やすのぬ 安野、夜須野。筑前國夜須郡(今朝倉郡夜須村)砥上岳南方の牢野の稱。神功皇后紀に「元年三月、至(リマシテ)2層増岐野《ソゾキヌニ》1、即(チ)擧(ゲテ)v兵(ヲ)撃(チテ)2羽白熊鷲(ヲ)1而滅(シツ)v之(ヲ)。謂2左右(ニ)1曰(ク)、取(リ)2得(テ)熊鷲(ヲ)1我(ガ)心則(チ)安(シト)。故《カレ》號(ケテ)2其處《ソコヲ》1曰(フ)v安《ヤスト》也」とある。○ともなしにして 友無しを成句とした。「にして」はにて〔二字傍点〕といふに近い。
【歌意】 貴方を招待する爲に、折角造つたこの酒を、貴方が上京されたなら〔十字右○〕、夜須の野で、自分獨で飲むのかなあ、相手なしでさ。
 
〔評〕 縣守は天平元年二月十一日に權參議民部卿の辭令を受けた。(1172)蓋し榮轉である。その大貮に就任した時は物に記載ないから判然しないが、恐らく神龜二年頃、帥旅人卿が來任した前後の事であらう。この帥と大貮とは何れも名家の子で、而も才人で、殆ど四五年間を共に職を邊陬の太宰に奉じたと考へると、自然その交情は蜜の如きものがあつたらう。
 旅人は有名の愛飲家、彼れの在る處には酒の香が何時も漂ふ。時は仲春の二月、彼れは縣守を招請して夜須野に春遊の宴を張る心組で、早々待酒の用意、交友の情味想ふべしである。然るに突如として縣守の遷任上京、忽ち親友を失ひ好機會を失うて、只一人、その人の待酒を夜須野に酌む、その索寞たる情景を豫想すると、心骨兩つながち萎えて、その腸は九囘轉したであらう。
 「君が爲釀みし」といひ「獨や飲まむ」といひ「友無にして」といふ、飽くまで孤獨感を痛歎するものであつて、その凄其の聲は卒讀に堪へない。
 夜須野は宰府から東へ四里の朝倉街道に當り、北に砥上岳を負ひ南は遙に筑後平野に接するが、平遠の場處で、大した勝地ではない。想ふに春の野遊の豫定地に過ぎなかつたのであらう。
 
賀茂《かもの》女王(の)贈(れる)2大伴(の)宿禰三依(に)1謌一首
 
○賀茂女王 古寫本の註に、故(ノ)左大臣長屋《ナガヤノ》王之女也、又卷八の註に、母(ヲ)曰(フ)2阿部(ノ)朝臣(ト)1也とある。
 
筑紫船《つくしぶね》 未毛不來者《いまだもこねば》 豫《あらかじめ》 荒振公乎《あらぶるきみを》 見之悲左《みるがかなしさ》     556
 
(1173) ○つくしぶね 筑紫の船。熊野船、松浦船、伊豆手船の類、皆その地方の船を稱する。○こねば 來ぬに。委しくいへば、來ねば然《シカ》あるべきではないのに〔十字右○〕の意。舊訓マダモコザレバ〔七字傍線〕。○あらぶるきみ 心の〔二字右○〕變る君。「あらぶる」は既出(四八二頁)。△挿畫 挿圖251を參照(八四八頁)。
【歌意】 迎への筑紫の船がまだまあ來ぬのに、前以て早くも、心變りする貴方樣を見ることの悲しいことわ。
 
【評】 三依の筑紫に在官の事は史に所見はないが、卷五に旅人卿の饗宴に侍した事が見え、こゝにも筑紫船を歌つてあるので見ると、族長の旅人の縁引で赴任したものに相違ない。
 筑紫船は難波の津まで前任者を送り、更に後任者を迎へて歸るのであつた。三依は新任の事で、出發の支度や何やに取紛れ、女王の訪問を怠つたと見える。そこで女王は、まだ筑紫船も來ぬ前から、もう心變りするとは餘り情けないと、苦情を唱へたものだ。
 かう苦情を付けるだけの理由は、二人の間に存在してゐたらしい。戀愛關係、女王はその小さい胸を轟かして、來るべき長別離の前に、せめて三依の切なる愛撫を望むのであつた。然るにその期待は裏切られた。「あらかじめ荒ぶるる君」と、腸を絞るその哀音は傷心の極である。
 古義に三依が筑紫より上京の時に女王の贈つたものと釋したのは、全然誤認である。
 
土師《はにしの》宿禰|水道《みみちが》從(り)2筑紫1上(る)v京《みやこに》海路《うみつみちにて》作歌二首
 
○土師宿禰水通 土師は氏。水通の傳は未詳。卷五の梅花の歌の作者に「土師氏、御〔右△〕通」の名が見え、卷十六(1174)の注に「有2大舍人土師(ノ)宿禰水通1、字《アザナヲ》曰(フ)2志婢《シヒ》麻呂(ト)1也」とある。
 
大船乎《おほぶねを》 榜乃進爾《こぎのすすみに》 磐爾觸《いはにふり》 覆者覆《かへらばかへれ》 妹爾因而者《いもによりては》     557
 
〔釋〕 ○こぎのすすみに 漕ぎに漕ぐまゝに。「すすみ」はすさび〔三字傍点〕の意。○ふり 觸る〔二字傍点〕を良行四段に活かすのは古語。○かへらばかへれ 覆《クツガヘ》るなら覆れ。「かへれ」は命令格。○よりては 因りてなら〔二字右○〕ばの意。舊訓も景樹も「ば」を清音に訓んだ。
【歌意】この大船を大急ぎに〔四字右○〕漕ぎに漕いで、もしそれが岩に打つかつて引つくり反るなら反れさ、早く逢ひたいと思ふ彼女の故ならば。
 
〔評〕 この大船は官船で、いはゆる朱《アケ》のそほ船であらう。どんな大船でも岩礁に衝突しては、碎けるか轉覆かの二つである。
 何で作者は危險を冒して漕ぎのすゝみに猪突するのか。外でもない、それは行程を急ぐからである。然らば何で又さう行程を急ぐのか。
 一旦歸京と事がきまると、人情は妙なもので、一刻の猶豫もなりにくい。永年據なく抑へ來つた郷思が、一時に爆發するからである。况や家郷の天に愛《ハ》し妻が首を鶴《ノバ》して門に立ち待つ光景を思ひ遣ると、矢も楯もあつたものでない。泊々の風待日待は無論のこと、島嶼岩礁に迂囘航路を取ることさへ、その間《マ》だるさに焦《ヂ》り/\(1175)する。で「岩など何だ。一直線に突つ切れ、轉覆するならしろ」と、殆ど狂的である。彼れは愛の爲には生命を忘れてゐる。そこに偉大な眞實がある。
  家念ふと心すゝむな風まもりよくしていませ荒きその道 (卷三、筑紫娘子−381)
と表裏してゐる。初句より四句にわたる豪快極まる放言は、頗る聽者の心臓を激動させ、更に驚訝に禁へざらしめる。結句に至り忽に轉捩して「妹に依りてば」の大甘は、甚だ人が惡い。まるで背負投げの貌だ。豪語と艶語との摩擦、そこに不可言の妙味と滋味とを發酵する。一首の重點は全くこの結句にある。ヨリテハ〔四字傍点〕と清音に訓んでも意味は通るが、語調が浮泛で、上來の句力とその均衡が取れない。
 すべて動的の意象と節奏と、勁健なる調子と、太い力強い線とで結成された佳品である。
 
千磐破《ちはやぶる》 神之社爾《かみのやしろに》 我掛師《わがかけし》 幣者將賜《ぬさはたばらむ》 妹爾不相爾《いもにあはなくに》     558
 
〔釋〕 ○ちはやぶる 神の枕詞。既出(三三〇頁)。「千磐破」は借字。○かけしぬさ 幣を榊樹などに懸け供ふる慣習がある。「ぬさ」は「ぬさとりむけ」を見よ(二三二頁)。
【歌意】 私が出立前、神の御社に、道中恙なく早く歸京出來るやうにと、御願ひして捧げた幣、さあそれを返して頂きませう、海路に日數ばかり經つて、一向京にゐる妻に逢へないによつてさ。
 
〔評〕 かう神樣に御利益がないなら差上げた幣を返して頂きたいとは、まるで人間同志の商行爲のやうな思想の(1176)持主と蔑《サゲス》んではならぬ。神前に滿腔の熱誠を致して祈つただけに、徒らに風波に淹留してゐる現状に失望を感じ、神の頼み甲斐なさを憾み、つひ怨言の一つも放つに至つたもので、正直の處はやはり、何處までも神樣に縋り付きたい心から出た愚痴である。
 この二首激語矯語の連發で、
  梅の花をりかざしつつもろ人の遊ぶを見れば京《ミヤコ》しぞおもふ(卷五−843)
と詠んだ同一人の口吻とは思はれぬ。作者の心證は餘程我妹子ゆゑに焦燥し切つた状態に置かれたものと見てよい。
 
太宰(の)大監大伴(の)宿禰|百代《ももよが》戀(の)歌四首
 
○太宰大監 前出(八七頁)。○大伴宿禰百代 傳は前出(八九七頁)。
 
事毛無《こともなく》 在〔左△〕來之物乎《ありこしものを》 老奈美爾《おいなみに》 如此戀于毛《かかるこひにも》 吾者遇流香聞《われはあへるかも》     559
 
〔釋〕 ○こともなく 何事もなく。無事に。○ありこし 「在」原本に生〔右△〕とある。宣長説によつて誤とした。○おいなみ 老の身。の〔傍点〕を「な」と轉じた。契沖は老竝《オイナミ》の意とし、年|次《ナミ》月|次《ナミ》の類語と見たが、年や月と違つて老は一つらで區別のないものだから、次《ナミ》とはいひ難い。
【歌意】 これまではいゝ鹽梅に、何事もなく暮らして來たものを、今の年寄の身になつて、私はこんな辛い戀に(1177)まあ、出會うたことよなあ。
 
〔評〕 作者はみづから老な身〔三字傍点〕と稱したが、六七十の頽齡とは決して思はれない。四十を初老とする時代だから、多分五十にはまだ手の屆かぬ年配であつたらう。
 若い時代に、或はその境遇により、或は然るべき機會がなくて、熱烈なる戀を體驗せずにしまふ人は幾らもある。さうした人が老境に臨んで覺えた戀は、その情炎が甚だ消えにくい。無論誇張もあらうが、作者の戀は或はその儔か。なまじ年配相應に分別があるだけに苦悩が深い。下に坂上郎女は、
  黒髪に白髪まじり老ゆるまでかゝる戀にはいまだ逢はなくに (卷四−563)
と歌つた。恐らくこの返歌であらう。
 老の身を「老な身」といふ、何處かの方言であるやうな氣がする。或は當時の筑紫言葉かも知れない。
 
孤悲死牟《こひしなむ》 後者何爲牟《のちはなにせむ》 生日之《いけるひの》 爲社妹乎《ためこそいもを》 欲見爲禮《みまくほりすれ》     560
 
〔釋〕 ○なにせむ あはれと思ふとも〔八字傍点〕何か〔右○〕せむの意。○いけるひ 「日」は時〔傍点〕といふに同じい。
【歌意】 戀死したであらう後には、幾ら同情してくれても何にならうかい、私は只生きてゐる時の爲ばかりにさ、貴女に逢ひたいと思ふのです。
 
(1178)〔評〕 戀死は歌詠の上では多くは熱愛の極を表現する爲の誇張の語である。後の祭では仕方がない、私の戀を度受け入れてくれるなら、生きてゐる今の内だと、戀死の一手で以て、相手の心臓を衝撃し、早急の肯諾を催促し、強要したものだ。卷十一に
  戀ひ死なむのちは何せむわが命生けらむ日こそみまくほりすれ (−2592)
はこの變形である。生き死にの懸け合せが餘り露骨過ぎるやうだが、かう強く表現することが、この場合、相手の心を現實的に、しかと把捉し得る効果を齎す。
 この歌は獨自の詠歎に終つたものとしても解せられるが、それでは詩味の索莫を免れまい。前後三首の關係から見ても、飽くまでつれない女の許に贈つて遣つたものとするが至當であらう。
 諸註、初二句を、死後には假令妹に逢ふことありとも來世〔二字傍点〕の事は頼み難しと説明してゐる。飛んでもない事、來世現世など考へるほど、空想的の餘裕のある場合ではない。
 
不念乎《おもはぬを》 思常云者《おもふといはば》 大野有《おほぬなる》 三笠杜之《みかさのもりの》 神思知三《かみししらさむ》     561
 
〔釋〕 ○おほぬ 筑前國三笠郡大野(今筑紫郡大野村)。もと大野の稱は、宰府以南の平野に廣被してゐた。○みかさのもり 三笠郡三笠(今大野村)。今も畑中に一座の林叢がある。續風土記に、山田(大野村)の境内にて、昔大木多く繁れる林ありしが、楠二株そのしるしばかりに殘れりと。神功皇后紀に、皇后欲(シ)v撃(タント)2熊襲(ヲ)1、而自(リ)2橿日《カシヒノ》宮1遷(リマス)2于|松峽《マツカヒノ》宮(ニ)1時、飄風《ツムジ》忽起《イマキテ》御笠《ミカサ》隨v風《フキオトサエキ》、故(レ)時(ノ)人號(ケテ)2其處(ヲ)1曰(フ)2御笠(ト)1也とある。「杜」は字鏡に毛利《モリ》(森)と訓(1179)む。木盛《コモリ》の略であらう。專ら神社《ヤシロ》ある森にいひ、神社には又必ず森があるので、轉つては直に神社をいふ。漢字の義はフサグの意で、森には與らない。故に國製の字と見るべきで、古義はいふ、木の土《トコロ》の意なるべしと。○しらさむ 知ろしめすであらう。「しらす」は知る〔二字傍点〕の敬相。△地圖 挿圖217を參照(七四四頁)。
【歌意】 もしも私が、心にはさほど思はぬのを、口先だけ思ふといはうなら、大野にいらつしやる三笠の神樣がさ、その僞をお捌きなさるであらう。
 
〔評〕 神は見通し、僞を知らすは何神でもおなじ事なので、因縁のあり次第に、神樣を雇うて證人に立てた。こゝは宰府なので、三笠の杜の神を引合に出した。
  念はぬを思ふといはばあめ地の神も知らさむいぶかるなゆめ (卷四、大伴駿河麿−655)
  想はぬをおもふといはば眞島《マトリ》住むうなての杜の神し知らさむ (卷十二−3100)
などこの歌と同想同型である。古代人が動もすれば神を口頭語とすることは、確實に神の存在を信じ、常に歸敬の念が心頭に往來してゐた結果であることはいふまでもない。(1180)然しそれ程神明を恐れ畏んだ時代でも、人間はあながち正直ばかりではない。虚言でも僞でも何でもやる。殊に男女の道には隨分甘言の化《バカ》し合ひをする。だが婦人は流石にその操守の必要から、常に小心なる警戒線を張つて、容易く男の詞を受け入れない。で絶對眞實の保證を神樣にさせたものだ。
 
無暇《いとまなく》 人之眉根乎《ひとのまよねを》 徒《いたづらに》 令掻乍《かかしめつつも》 不相妹可聞《あはぬいもかも》     562
 
〔釋〕 ○まよね 眉。「ね」は添語。眉《マユ》をマヨといふは古語。舊訓マユネ〔三字傍線〕。○かかしめ 癢《カユ》さに掻くのである。
【歌意】 世話しなく私の眉を、無用に掻かせ/\てまあ、その癖一向に逢うてもくれぬ、貴女であることかな。「人に戀されると眉が癢い」といふのにさ。
 
〔評〕 これは口ばかり情けらしい事をいつて、その實なか/\靡かぬのに業を煮やして、つけ/\とその言行不一致を詰つて、女に迫つたものである。
  いとのきて薄き眉根をいたづらに掻かしめつつも逢はぬ人かも  (卷十二−2903)
はこの異傳である。古説に「人に戀ひらるれば眉皮癢しといふ諺のありし也」と。こんなタワイもない迷信、否俗信には遊び氣分が伴ふのが普通で、さう突き詰めた嚴格なものではないから、多少調戲の氣味が伴うて見られる。
  眉根掻き下いぶかしみ思へるにいにしへ人をあひ見つるかも (卷十一−2614)
(1181)  眉根掻き鼻|放《ヒ》紐解け待てりやもいつかも見むと戀ひ來しものを  (同上−2808)
  けふなれば鼻ひし/\に眉癢み思ひしことは君にしありけり  (同上−2809)
などの歌意を推しても知られる。新考に眉根を掻くは戀人に逢はむ呪なりとあるは不通の説である。
 題詞には「戀(ノ)歌」とのみあるが、四首ながら百代から女に贈つた歌である。その女は誰れか。或は大伴(ノ)坂上(ノ)郎女であらう。
 
〔頭注、更にいふ、この眉の癢きを戀に寄せることは、もと支那の俗信である。遊仙窟に昨夜眼皮※[耳+閏]今朝《キノヲノヨメノフチカユガリテケサ》」見(ル)2好人《ヨキヒトヲ》1(卷二)とある。これが輸入されて、當時の有識者階級の口頭語となつたもの。]
 
大伴(の)坂上(の)郎女(が)歌二首
 
黒髪二《くろかみに》 白髪交《しろかみまじり》 至耆《おゆるまで》 如是有戀庭《かかるこひには》 未相爾《いまだあはなくに》     563
 
〔釋〕 ○しろかみ 卷十七にも「降る雪の之路《シロ》髪までに」とある。○おゆるまで 「至耆」を意訓にかく讀む。「耆」は年寄ること、又年寄。禮記には六十歳、周禮には八十歳を稱する。但こゝは老年の意でよい。古義訓オユマデニ〔五字傍線〕は非。○かかるこひ かゝる切なる〔三字右○〕戀。
【歌意】 黒髪に白髪が混つて年寄るまで、こんな切なる戀には、まだ値《ア》はぬになあ。
 
〔評〕 この前後皆宰府に於ける人々の詠を收めてある。されば郎女のこの歌も宰府での作とすると、上の百代の「事もなく」の歌の返歌と見るのが至當であらう。返歌とすると、「かかる戀」は自分の戀ではなくて、百代の懸想を斥したことになる。
(1182) 坂上郎女はいふまでもなく大伴宗家の子妹で貴種だ。夫宿奈麻呂逝後、藤原麻呂と婚したが、間もなく中絶して失意の極、兄旅人をたよつて筑紫に往つたものと考へられる。
 百代は族人ながら、身分が卑い。現在六位の大監に過ぎない。天平一二年頃とすれば郎女も四十見當らしく、百代も同樣で、年こそ似合だらうが、身分に相當懸隔がある。郎女が「かかる戀にはいまだ値はなくに」と、その誠意を十分に認めながら、空しく百代の眉根をのみ掻かしめて躊躇してゐた理由は、その邊にあるのではあるまいか。
 
山菅乃《やますげの》 實不成事乎《みならぬことを》 吾爾所依《われによせ》 言禮師君者《いはれしきみは》 與孰可宿良牟《たれとかぬらむ》     564
 
〔釋〕 ○やますげの 實《ミ》に係る枕詞。「ならぬ」にまでは係らぬ。「やますげ」は前出(七三六頁)。○みならぬこと 實《ジツ》の無い事。○われによせいはれし、自分にいひ託《ツ》けて人に〔二字右○〕噂された。△寫眞 挿圖215を參照(七三七頁)。
【歌意】 譯もない事を譯でもあるやうに、世間が私にいひ寄せて噂をされたあの人は、今頃誰れと契り交して寢るであらうか。
 
〔評〕 百代は「戀ひ死なむのちは何せむ」と熱叫し、郎女は「かかる戀には未だ値はなくに」と唱和し、餘程際どい處まで、兩者の意氣が投合してきたが、環境が許さないので、遂に實現に及ばなかつた。けれども世間ではさうは思はない。既に關係が出來てゐたものゝやうな取沙汰だ。郎女は浮名まうけで一向榮えない。男は諦めのよいもの、大方心機一轉、又せい/”\外の懸想をしてゐることだらうと想像を逞うし、その想像は更に現(1183)實的に働いて「誰とか寢らむ」とまで發展した。かうなると、郎女胸中の情炎はなほ燃え盡さず、何時までも百代の事を案じゐたことが知られ、みづから空中樓閣を描いて輕い嫉妬の念に驅られてるる。女のもつ情痴の世界がまざ/\と眼に見るやうである。
 
賀茂(の)女王(の)歌一首
 
大伴乃《おほともの》 見津跡者不云《みつとはいはじ》 赤根指《あかねさし》 照有月夜爾《てれるつくよに》 直相在登聞《ただにあへりとも》     565
 
〔釋〕 ○おほともの 御津の枕詞。既出(二三五頁)。○みつ 御津《ミツ》に見つ〔二字傍点〕を係けた。「御津」を見よ(二三五頁)。○あかねさし 「あかねさす」を見よ(九二頁)。○つくよ 既出(七五頁)。
【歌意】 假令さやかな月夜に、まともに逢うたことであつても、一目でも貴方の氏の大伴のみつ即ち見たとは、人にいひますまい。
 
〔評〕 上の「筑紫船いまだも來ねば」の歌からの連續、明瞭に逢つた事であつても、人にはその秘密は洩らすまいと、筑紫にゐる三依の許に女王からいひ遣つた。火にも水にも飛び込まうといふ熱烈なる戀があるかと思へば、身分や地位を考へてか、内所に伏せて置かうとする、こんな便りない戀もある。「大伴のみつ」は三依の氏を運用したと見てもよい。
 
太宰(の)大監大伴(の)宿禰百代|等《らが》贈(れる)2驛使《はゆまづかひに》1歌二首
 
(1184) ○驛使 宿々の驛馬《ハユマ》を官より支給して發向させる使。驛《ハユマ》は早馬《ハヤウマ》の轉で、早馬は宿々で繼ぎ立てる傳馬《テンマ》をいひ、さてその傳馬を置く驛をも稱した。驛使は左註によれば、大伴(ノ)稻公《イナギミ》(旅人卿の庶弟)同胡麻呂の二人。
 
草枕《くさまくら》 覊行君乎《たびゆくきみを》 愛見《うつくしみ》 副而曾來四《たぐひてぞこし》 鹿乃濱邊乎《しかのはまべを》     566
 
〔釋〕 ○きみをうつくしみ 君がまあいとしさに。「を」は歎辭。○たぐひて 連れ立つて。○しかのはまべ 筑前國糟屋郡。博多灣の北濱を※[土+艮]る、今の和白村から志賀島村に亙る一帶の砂洲で、いはゆる海(ノ)中道と稱する處。その西端は志賀島に連接してゐる。「しか」は前出(七〇六頁)。△地圖及寫眞 挿圖217(七四四頁)205(七〇六頁)を參照。
【歌意】 旅行く君がまあいとしさに、別れにくゝて、とう/\連れ立つて來たことよ、志賀の濱邊をさ。
 
〔評〕 百代等は驛使を送つて、宰府から西北五里の夷守驛《ヒナモリノウマヤ》で餞宴を開いた。驛はその名の如く、當時外寇に備へる戌兵を置いた處であらう。今糟屋郡の仲原《ナカバル》村の日守《ヒモリ》がそれで、日守は夷守《ヒナモリ》の略稱であることは疑もない。――地名辭書の多々羅《タタラノ》濱とする説は無稽。
 驛使は帥旅人卿の腹違ひの弟君稻公及び姪の胡麻呂の二人で、今囘帥の病氣の爲、わざ/\京から呼び下だした人達、幸ひ帥の快癒によつて、數十日の後、上京の途に就く「旅行く君」であつた。實に御苦勞千萬ながら、見送の百代も亦大伴一家、そのうへまだ十臺の若殿さん家持まで送つて來たのだつた。かやうに血縁の深(1185)い同族者の集まりと考へると、又總領、分家、家の子の結合關係の嚴格だつた時代を思ふと、普通の離情以上に濃到親切なる情味の繋がりに依つて、愈よこの驛使の君達がうつくしい〔五字傍点〕譯になる。
 更に想ふ、驛使の人達は官位が極めて淺い。この人達の後來の官歴から推すと、いづれも二十臺の弱年時代であるらしい。――稻公は旅人の弟とはいへ庶弟で、父安麻呂の晩年の子――みづから「老な身」と歌つた年長者百代の眼には、自分の子か弟のやうに映じたらう。「旅行く君をうつくしみ」、さもあらう事と思はれる。
 かやうな譯で、百代は、更に送つて驛使の船の碇泊地まで連れ立つてきた。そこが即ち志賀の濱(いま灘濱といふ)であつて、夷守驛より更に北四里の和白《ワシロ》の灣であらうと想像される。宰府を距ること約十里。
 この「たぐひてぞ來し」が過去の辭法であることに留意を要する。百代等は志賀の濱まで連行したのみならず、尚そこに別を惜んで淹留してるたことが知られる。
 要するに宰府の祖道の宴に飽き足らず、夷守驛の別宴に飽き足らず、志賀の濱邊まで送つて來ても飽き足らず、更にその濱邊に腰を据うるに至つた。「旅行く君をうつくしみ」は決して口頭の漫語ではなかつた。
 
右二首、大監大伴(ノ)宿禰百代。
 
周防在《すはなる》 磐國山乎《いはくにやまを》 將超日者《こえむひは》 手向好爲與《たむけよくせよ》 荒其道《あらきそのみち》     567
 
〔釋〕 ○すはなる 四言の句。スハが正しい國名で、「防」は音ハウだからハの假字に充てたものが、遂に本音のまゝにハウといふやうになつたらしい。その故は信濃の諏訪《スハ》が史的に著名で紛れ易いので、區別の必要上|防《ハ》の(1186)音を延べたかとも考へられる。和名抄にも須波宇《スハウ》とある。スハの意義に就いては、信濃の諏訪《スハ》と同じく、建御方《タケミナカタ》の神に因つた傳説をもつが、確説ではない。○いはくにやま 周防國|玖珂《クカ》郡|石國《イハクニ》の山、(今の岩國町の東)峠を椎峠と呼び、椎(ノ)尾(ノ)社がある。
【歌意】 あの周防にある磐國山を越さうその折は、無事平安であるやうに、道の神に〔四字右○〕よく手向をなさいませ。それは嶮岨な道だからさ。
 
〔評〕 驛使の船は志賀の濱から出航、玄海灘を關門海峽に入り、周防の下(ノ)關邊から船を捨てゝ、陸路山陽本道を行く豫定であつたと見える。本道は徳山から久保市、峠市、呼坂、中山峠、高森、玖珂と來て、南北に分岐したものが岩國に行き合つて、室木に出る。岩國の附近は山間の隘路が岩國川に沿うて屈折してゐるが、古へは一直線に岩國山の椎峠にかゝつたと考へると、全く「荒きその道」の感がある。
 かくの如く山陽の道中では、岩國越が一番難處なので、作者は「手向よくせよ」の注意を與へた。他人の旅况を胸中に描いて、細心な忠告をしたことは、深い親切のあらはれである。卷三に、
  家念ふと心すすむな風まもりよくしていませあらきその路 (卷三、筑紫娘子−381)
と全く同趣で、海陸の双生兒の觀がある。尚「家念ふと」の條の評語を參照(八七四頁)。
 
(1187)右一首、少典山口(ノ)忌寸《イミキ》若《ワカ》麻呂。
 
○少典 職員令、太宰府の條に、「大典二人、掌(ル)d受(ケテ)v事(ヲ)上抄(シ)、勘(ヘ)2置(キ)文案(ヲ)1、檢(ベ)2出(シ)稽失(ヲ)1、讀(ミ)c申(スコトヲ)公文(ヲ)u。少典二人、掌(ルコト)同(ジ)2大典(ニ)1」とある。少典は正八位相當官。○山口忌寸若麻呂 傳未詳。忌寸は姓。
 
以※[止/舟]《サキニ》、天平二年庚午夏六月−帥大伴(ノ)卿忽(ニ)生(シ)2瘡(ヲ)脚(ニ)1疾《ヤミ》2苦(ム)枕席(ニ)1、因(リテ)此(ニ)馳(セテ)v驛(ヲ)上奏(シ)、望(ミ)2請(ウテ)庶弟稻公姪胡麻呂(ヲ)1、欲(リスト)v語(ラント)2遺言(ヲ)1者《テヘレバ》、勅(リテ)2右(ノ)兵庫(ノ)助大伴(ノ)宿禰|稻公《イナギミ》、治部(ノ)少丞大伴(ノ)宿禰|胡麻呂《コマロノ》兩人(ニ)1、給(ヒテ)v驛(ヲ)發遣《イデタチ》令(ム)v看2卿(ノ)病(ヲ)1。而※[しんにょう+至](リ)2數旬(ニ)1幸(ニ)得(タリ)2平復(ヲ)1。于v時稻公等、以(テ)2病既(ニ)療《イユルヲ》1發(チテ)v府(ヲ)上(ル)v京(ニ)。於是《コヽニ》大監大伴(ノ)宿禰百代、少典山口(ノ)忌寸若麻呂、及(ビ)卿(ノ)男家持等、相2送(リ)驛使(ヲ)1、共(ニ)到(ル)2夷守(ノ)驛家《ハユマヤニ》1。聊(カ)飲(ミテ)悲(ミ)v別(ヲ)、乃(チ)作(メリ)2此歌(ヲ)1。
 
前に天平二年夏六月に帥旅人卿が、忽に脚に腫物が出來て、床に就いて悩んだ。そこで驛使を立てゝ上奏し、庶弟の稻公と姪の胡麻呂とに來て貰つて遺言を傳へたいと望んだので、右兵庫助大伴稻公、治部少丞大伴胡麻呂兩人に勅が下つて、驛馬を給うて看病の爲遣はされたが、數十日を經て卿が平復した、そこで稻公等は宰府を立つて上京すること(1188)になつた、こゝに大伴百代、山口若麻呂及び卿の息子の家持等が送に出て、共に夷守驛《ヒナモリノウマヤ》に來、一寸會飲して別れを惜み、この歌を詠んだとの意。但註文は大まかに書いたもので、百代の歌は夷守驛での作と思はれぬことは、評語中にいつて置いた。○以※[止/舟] 「※[止/舟]」は前の古宇。○稻公 傳は後出(一二〇九頁)。○胡麻呂 また古麻呂。旅人の姪。續紀に天平十七年正月從五位下、勝寶元年八月左少辨、同二年九月遣唐副使、同三年正月從五位上、同閏三月從四位上、同六年正月唐より來歸、同四月左大辨正四位下、寶字元年六月兼陸奥鎭守府將軍按察使、同七月橘(ノ)奈良麻呂の反に坐し、拷問杖中に死すとある。
 
太宰(の)帥大伴(の)卿(の)被《れ》v任《めさ》大納言(に)1臨v入《いらむとする》v京(に)之時(に)、府官人《ふのつかさびと》等、餞(けする)2卿(を)筑前(の)國|蘆城《あしきの》騨家《はゆまやに》1歌四首
 
太宰府の長官旅人卿が大納言に任ぜられて京に歸らうとする時、府の役人達が旅人卿を蘆城の驛で餞した歌との意。○被任大納言 續紀によるに天平二年十月一日のこと。○蘆城驛 前出(一一六二頁)。
 
三埼廻之《みさきわの》 荒磯爾縁《ありそによする》 五百重浪《いほへなみ》 立毛居毛《たちてもゐても》 我念流吉美《わがもへるきみ》     568
 
〔釋〕 ○みさきわ 岬のめぐり。「み」は美稱。「三」は借字。古義訓はミサキミノ〔五字傍線〕。ミ〔傍点〕はほとり〔三字傍点〕の意。○いほへなみ 幾重もの浪。「いほ」多數を表する。以上上句は「立ちてもゐても」に係る序詞。
【歌意】 岬の邊の荒磯に寄せるあまたの浪が立居するが、そのやうに私は立つても居ても亦、念ふ貴方樣よ。どうもお別れしにくい〔十字右○〕。
 
(1189)〔評〕 追つ付け渡海して行く人を送るに、「五百浪起ちても」は、序詞としての修飾には違ひないが、餘り氣の利いた措辭ではない。只それが荒磯において常に見る實景だけに、土佐日記に「行くさきに立つ白波の聲よりも」と詠んだのよりは罪が輕い。「起ちても居てもわが念へる君」は作者の眞情で、惜別の意を言外に躍動させてゐる。帥の君の在任は割合に長年月に亘り、下僚の人達との馴染が深かつたらうから、その歸京に値うては皆慈父を失ふの思をしたであらう。
 
右一首、筑亂(ノ)掾《ジヨウ》門部連石足《カドベノムラジイハタリ》。
 
○掾 國衙の三等官で、音では丞《ジヨウ》の如くに讀む。七位相當官。○門部連石足 傳は未詳。連は姓。
 
良〔左△〕人之《うまびとの》 衣染云《ころもそむとふ》 紫之《むらさきの》 情爾染而《こころにしみて》 所念鴨《おもほゆるかも》     569
 
〔釋〕 ○うまびとの 貴人の。「うまびとさびて」を見よ(三二二頁)。「良」原本に辛〔右△〕とあるを誤としてウマビトと訓む。「辛人」は韓人《カラヒト》の借字であらうが、契沖は、この國にも紫色を貴びて衣に染みなむをカラビトノ〔五字傍線〕といへる意得がたしと疑つた。宣長は、唐人の用ゐる紫は殊に色よく染まる故にかく詠めるか、この歌は筑紫にてのなれば唐國の紫を常に見けるなるべしといつたが、必ずウマビトと訓みたい。説は評語にある。略解は淑〔右△〕の誤としてヨキヒト〔四字傍線〕と訓み、古義は宮〔右△〕の誤としてミヤビト〔四字傍線〕と訓んだ。○そむ 古義訓はシム〔二字傍線〕。○むらさきの 以上上句は「心にしみて」に係る序詞。「むらさき」は既出(九七頁)。
(1190)【歌意】 貴人のお方が衣に染めるといふ紫は、いゝ色で心に沁むが、そのやうに心に沁み透つて懷かしく、貴方樣の事が思はれますよ。
 
〔評〕 和、漢、韓を通じて古へは紫色を尚び、貴人の服色と定めた。衣服令によるに、禮服朝服に、親王及び一位の諸王、一位の諸臣は深紫、二位以下五位以上の諸王及び三位以上の諸臣は淺紫と規定された。(延喜式は少し差違がある)諸王以外は三位以上の貴《ウマ》人でなければ淺紫も著られない。今この太宰府で紫衣を著得る人は、帥の君を除いては一人もない。帥の君は當時正三位であつた。
 作者陽春は、淺緑の衣を着る七位の大典、この人達の眼からは紫の衣は遙かに縁の遠いもので、「うま人の衣染むとふ」と讃辭的に詠めたことは、處柄、人柄、蓋し當然なことであらう。
 紫色のもつ眩惑的の色相はたゞでも心に染み込む。而も作者が苟も官吏の端くれである以上は、貴色紫は殊に景望に値し、心に染むのであつた。で帥の君の從來の懇情の心魂に徹した趣をそれに準擬して、聊か送別の詞とした。
 
山跡邊《やまとへ》 君之立日乃《きみがたつひの》 近者《ちかづけば》 野立鹿毛《ぬにたつしかも》 動而曾鳴《とよみてぞなく》     570
 
〔釋〕 ○やまとへ 四言の句。「山跡邊」は「早く倭邊《ヤマトヘ》」(卷一)「倭邊《ヤマトヘ》やると」(卷二)の實例に照しても、「邊」を方向の助辭と見るが至當である。考及び古義の訓はヤマトベニ〔五字傍線〕。○ちかづけば 元暦本桂本等の訓にはチカケ(1191)ケレバ〔六字傍線〕とある。京本による。
【歌意】 倭へ旅人樣の出立の日が近くなるので、人は勿論〔四字右○〕、野にゐる鹿までも、音を立てゝ啼くことよ。
 
〔評〕 優しい情味の饒い作である。野に立つ鹿までも有情に眺めて、君が別を悲んで啼くといふ。されば人は勿論のことを暗證してゐる。例の狡猾なる側面描寫、否さういつては或は語弊があらう。
 作者はたま/\山野に※[口+幼]々の聲を聞いて、忽ち帥の君の旅立による人達の悲泣を聯想したと見たい。「なく」の一語がこの聯想の枢機となつてゐる。
 「近づけば」は何たる面白い措辭であらう。齒を喰ひしばつて切羽詰るまで怺へた我慢が、とう/\破裂して泣くより外はないといつた調子である。「たつ」が重複してゐるが、上のは發《タ》つの意。下のは起立の意でさし合ひはない。
 
右二首、大典|麻田連陽春《アサダノムラジヤス》。
 
○大典 正七位相當官。なほ「少典」を見よ(一一八七頁)。○麻田連陽春 續紀によれば、神龜元年五月正八位上|答本《タフモトノ》陽春姓を麻田(ノ)連と賜ふ、天平十一年正月正六位上から外從五位下とある。懷風藻に外從五位下石見守と見え、年五十六と註した。〔頭注に懷風藻の詩あり、省略。〕
 
月夜吉《つくよよし》 河音清之《かはとさやけし》 ※[攣の手が十]此間《いざここに》 行毛不去毛《ゆくもゆかぬも》 遊而將歸《あそびてゆかむ》     571
 
(1192)〔釋〕 〇かはとさやけし 「と」はオトの上略。東滿の訓による。舊訓カハノトキヨシ〔七字傍線〕。 ○いざ 「※[攣の手が十]」は※[攣の手]〔傍点〕の減畫で率の古宇。○ゆくも 旅行人〔右○〕も。○ゆかぬも 往かぬ人〔右○〕も。舊訓トマルモ〔四字傍線〕。
【歌意】 月の光はよい、河の音はあざやかだ。さあこゝで、京へ旅立つ人も筑紫にとまる人も、一緒に遊んで往かうよ。
 
〔評〕 蘆城驛での別宴、そこには蘆城山下をめぐる蘆城川の清流が、瀬の音を立てゝ氣持よく響いてゐる。宴席から一たび眼を轉ずると、自然は人間の雜念を洗ふ。そこで、行く人送る人の誰彼なしに、此處で一遊びしてはと提言した。作者の本意は別離の傷心に濕り切つた滿座の空氣を轉換させて、せめてこの訣別を愉快な氣分に誘導しようとの老婆的親切で、四綱は全く氣轉者である。
 然しこんな氣樂な事をいへるのも、一つは、おめでたい上京だからであらう。大伴宗家の御大將旅人卿が永い間田舍落をしてゐることは、同族者に取つても大きな打撃である。石の上にも三年、漸く時節到來、大納言に昇進して再び中央政府に打つて出る事になつたのである。
(1193) 初二句は形容詞を各句末に据ゑての二段構成、「し」の韻脚にリズムを踐んで、漸層的に跳りあがつた對語の反復に、明快なる諧調を成した。「ゆく」の三疊の如き、もとより有意的の作爲であらう。
 
右一首、防人佑《サキモリノスケ》大伴(ノ)四綱《ヨツナ》。
 
○防人佑 防人司(ノ)佑の略。防人司佑は前出(七九五頁)。○大伴四綱 前出(七九五頁)。
 
太宰(の)帥大伴(の)卿(の)上(れる)v京(に)之後、沙彌滿誓《さみまんせいが》賜《おくれる》v卿(に)歌二首
 
旅人卿が奈良に上京後、滿誓沙彌が卿に贈つた歌との意。○滿誓 前出(八〇六頁)。○賜 前出(七九二頁)
 
眞十鏡《まそかがみ》 見不飽君爾《みあかぬきみに》 所贈哉《おくれてや》 旦夕爾《あしたゆふべに》 左備乍將居《さびつつをらむ》     572
 
〔釋〕 ○まそかがみ 「見」に係る枕詞。前出(六四三頁)。○おくれてや 「贈」は借字。○さびつつ 「さび」は心《ウラ》さぶしの意。樂まぬ貌。「うらさびて」を見よ(一三七頁)。
【歌意】 幾ら見ても/\見飽かぬ貴方に、置いて往かれて、かう朝晩に不怜《サビ》しい思ひをしながら、暮らすことであらうか。
 
〔評〕 滿誓は養老七年から造觀音寺の別當として在住、旅人卿はその三年目の神龜二年頃太宰帥として來紫、爾(1194)來七年間は公私の關係で互にその交情は密なるものがあつたらう。滿誓は右大辨從四位|笠《カサノ》朝臣麻呂の入道名で、在俗の時は地方官として再三功績を樹て、又按察使を勤め、辨官を叩き上げた程の才人で、造寺別當になされたのも、その經營の才の爲と想はれる。當年およそ六十見當、老帥旅人とは丁度いゝ話相手であつたとすると、「見飽かぬ君」は單なる辭令の詞では決してない。
 然るに好友旅人は上京してしまつた。ぽつりと筑紫三界に取殘された滿誓の氣持はどうあつたらう。「あした夕べ」は何時も〔三字傍点〕の轉義で、常住君を思うて心《ウラ》さび暮さうことかと、豫め哀愁に禁へぬ別後の情を叙して、惜別の詞とした。
 この歌は旅人の出發前の作としても聞える程に近い別後の作である。恐らく滿誓はかの卿出發後、追つ懸けこの二首を裁して、郵使に托したものと思はれる。次の旅人の和歌と關聯して、この間の消息を領會すべきである。
 
野干玉之《ぬばたまの》 黒髪變白《くろかみしろく》 髪手毛《かはりても》 痛戀庭《いたきこひには》 相時有來《あふときありけり》     573
 
〔釋〕 ○ぬばたまの 黒《クロ》に係る枕詞。既出(三〇四頁)。○しろくかはりても 白髪になつても亦。宣長訓による。舊訓はカハリシラケテモ〔八字傍線〕とあるが、「黒髪變白髪」の熟語を中斷してカハリシラケ〔六字傍線〕とは訓み難い。○いたきこひ 甚しい相思の情。こゝの戀は男女間のではない。○あふ 「相」は借字。
【歌意】 黒髪が白く變る老年になつても亦、えらい戀には出合ふ時があつたわい。
 
(1195)〔評〕 戀しくて溜らぬといふ第一印象の上に立つて、更にその戀心に就いて、體驗上から檢討した。血氣盛んの時代はとにかく、今の心は死灰に近い老年で、意外な戀に悩まされることよと、我れから驚嘆した。これ即ち間接に、遠人を憶ふ情の切なさを強く表現したもので、男女の相愛と、單なる友愛とを、戀の一語で概念的に取扱つた處に、この歌の技巧がある。
 
大納言大伴(の)卿(の)和(ふる)歌二首
 
此間在而《ここにありて》 筑紫也何處《つくしやいづく》 白雲乃《しらくもの》 棚引山之《たなびくやまの》 方西有良思《かたにしあるらし》     574
 
〔釋〕 ○ありて 居て。○いづく 「いづくにか」を見よ(七〇〇頁)。○にし 「西」は借字であるが、こゝでは戲意があるやうだ。
【歌意】 こゝに居て見ると〔三字右○〕、懷かしい筑紫は、何方であらうかしら、多分あの白雲の靡く山の方にさ、あるらしい。
 
〔評〕 三四の句は奈良京に居て生駒山の雲に對した趣にはふさはない。もつと平遠なる展望である。次の歌に草香《クサカ》江の鶴を詠んでゐることを考へ合はせると、旅人が難波に着船して旅疲れを休養してゐる頃か、又は難波を既に出發して草香邊に來た時分かに滿誓の贈歌を入手したのであらう。乃ち河内野附近に立つて、西の方遙(1196)に搖曳する白雲を瞻望して「こゝにありて筑紫やいづく」と遠思を馳せたものであらう。旅人に取つては第二の故郷たる筑紫だから、懷かしいは勿論だが、間接には故人滿誓やいづくと詠め遣つたものである。
 この種の感想はさう珍しくはない。
  ここにして家やもいづく白雲のたなびく山を越えて來にけり (卷三、石上卿−287)
  ここにありて春日やいづく雨《アマ》づつみ出でて行かねば戀ひつゝぞをる (卷八、藤原朝臣八束−1570)
 なども等類であるが、この歌は殊に長高なる體姿を具へ、一種いひ知らぬ寂寥感を湛へてゐる。
 
草香江之《くさかえの》 入江二求食《いりえにあさる》 蘆鶴乃《あしたづの》 痛多豆多頭思《あなたづたづし》 友無二指天《ともなしにして》     575
 
〔釋〕 ○くさかえ 河内國中河内郡|日下《クサカ》。こゝの江は昔生駒山の西麓にあつた入江で、難波の海に通じた一大巨浸で、蓮などが生えてゐた。記(下)雄略天皇の段に「草香江の入江のはちす花はちす」(赤猪子)とある。○あしたづの 以上の上句はタヅの疊音に依つて「たづたづし」に係けた序詞。「あしたづ」は前出(一〇(1197)〇二頁)。○たづたづし 落ち着かぬ貌。たどる〔三字傍点〕はこの動詞形。○ともなしにして 前出(一一七一頁)。
【歌意】 草香江の入江に求食《アサ》る蘆|鶴《タヅ》の、たづといふやうに、私の心はまあたづ/\しいことよ、貴僧といふ友なしでねえ。
 
〔評〕 旅人の上京は十二月末日に近かつたと思はれる。――その理由は次の「わが衣」の評語參看――鶴は早くも渡つて來て、草香江にもその姿を見せてゐた。今測らず滿誓の贈歌に接して、つく/”\自分の友なしのたづ/\しさを痛感し、同音の聯想から眼前に逍遙する入江の鶴を序詞に取込んだ。老年覊中にその愛妻を失ひ、更に又親友滿誓に生別した心寂しい心境は、實に同情に値する。
  君に戀ひいたもすべなみ蘆鶴のねのみしなかゆ朝よひにして (卷三−459)
  天雲にはねうちつけて飛ぶたづのたづたづしかも君しまさねば (卷十−2490)
  たづが鳴き蘆邊をさして飛び渡るあなたづたづしひとりし寢《ヌ》れば (卷十八、長歌の反歌−3626)
などは、取材も着想も修辭も樣式も似寄つた作であるが、この歌は直線的に些の中だるみもなく、清楚なる姿をもつてゐる。
 
太宰(の)帥大伴(の)卿(の)上(れる)v京(に)之後、筑後(の)守|葛井連大成《ふぢゐのむらじおほなりが》悲嘆《なげきて》作歌一首
 
○葛井連大成 續紀に、神龜五年五月、正六位上葛井大成に外從五位下を授くとある。天平二年の頃には筑後守に任じてゐた。
 
(1198)從今者《いまよりは》 城山道者《きのやまみちは》 不樂牟《さぶしけむ》 吾將通常《わがかよはむと》 念之物乎《おもひしものを》     576
 
〔釋〕 ○きのやまみち 太宰府より肥前筑後に越ゆる國境の山道で、坂を盡《ツクシ》の坂といひ、峻險である。宰府の正南二里半古への記夷城《キノキ》の址は原田の城山にある。○きのやま 筑紫郡原田の西南にあり、その最高峯は大野山といひ四百十四米突。筑前肥前の國界を成す。○さぶしけむ 面白くなからう。「けむ」はからむ〔三字傍点〕の約轉。現在完了の推量辭。
【歌意】 これからは、城の山路は定めて面白くないことだらう。帥の君に逢ふが樂みで〔十字右○〕、私が何時でも通はうと思つてゐたものをさ。
 
〔評〕 城の山路は古風土記によると、人の命を取盡す筑紫神の居たといふ傳説地で、筑後に通ずる荒々しい古道である。九州一圓は太宰府の被官だから、筑後守も公務上宰府に出頭の義務がある。然し歌では何處までも情味がもとで、あの物凄い城の山路も、帥の君に値ふが樂しみで從來は越えたが、上京された「今よりは」たゞのさぶしい山路であらうと嗟歎し、帥の君の懇情に接し得ぬ遺憾さを、力強く主張した。
(1199) 古義が、卿の宰府におはして吾が常に通ひし時は人馬の通行絶えずて賑はしく面白かりしを、と解したのは無稽。
 
大納言大伴(の)卿の新(しき)袍《うへのきぬを》贈(れる)2於〔左△〕|攝津大夫《つのかみ》高安《たかやすの》王(より)1歌一首
 
旅人卿の新しい朝服を高安王から贈つた歌との意。○袍 ウヘノキヌ。和名抄に、著(ケタル)v襴《ハカマヲ》之|袷衣《アハセノコロモ》也、一(ニ)云(フ)2朝服(ト)1と。○攝津大夫 攝津職の長官。攝津職は職員令に、帶2津(ノ)國1、大夫一人と見え、祠社の事から始めて僧尼の名籍の事まで、掌るところ國守と何樣。○高安王 續紀に、和銅六年正月無位より從五位下、養老元年正月從五位上、同三年七月伊豫國守にて阿波讃岐土佐を管す。同五年正月正五位下、神龜元年二月正五位上、同四年正月從四位下、天平四年十月衝門督、同九年九月從四位上、同十一年四月大原(ノ)眞人の姓を賜ふ、同十二年十一月正四位下、同十四年十二月卒とある。
 この題詞「於」の字原本にない。すると大伴卿から新袍を高安王に贈つた事となつて、歌意と扞格を生ずる。古義のこれは混れて大伴卿と高安王と處を違へたるなるべしとの考は、尤もであるが、「贈」の下於〔右△〕脱とすれば、高安(1200)王ヨリ贈レル歌と讀まれて、名を入れ換へるに及ばない。
 
吾衣《わがころも》 人莫著曾《ひとになきせそ》 網引爲《あびきする》 難波壯士乃《なにはをとこの》 手爾者雖觸《てにはふれれど》     577
 
〔釋〕○なにはをとこ 難波に住む男をいふ。血沼壯士《チヌヲトコ》、菟原壯士《ウナヒヲトコ》の類である。女では河内女《カハチメ》、初瀬女《ハツセメ》など稱する。○てにはふれれど 題詞元のまゝならばテニハフレドモ〔七字傍線〕。
【歌意】 私の心を籠めて差上げたこの衣、他人にはお遣り下さるなよ、それは卑しい網引をする難波男の手に觸れて成つた物ですけれど。
 
〔評〕 かくわが贈物を卑下することは、現今でも行はれてゐる習慣である。高安王は攝津大夫なので、新袍の製作者を「網引する難波壯士」と謙稱した。難波は卷三にも「網引する網子ととのふる海士の呼聲」と詠まれ、蜑屋漁舍の散在した海村であつた。
 新袍を贈る、これに就いて古義は、往古の男女互に衣の貸借をした例を引いてゐるが、それは在り合はせの衣を融通するので、こゝには不通の説である。
(1201) 旅人の大納言に昇任は十月一日の辭令で、京からその奉書が到來、さて引上げの仕度、續いて歸京の道中等で、日子は相應に費され、十二月六日に太宰府の書殿で餞宴が行はれた程だから、その末日近くに難波到着と見てよからう。來る正月の朝參には、新大納言として新裁の紫袍に花を飾らなければならぬ。尤も大伴宗家の富裕さでは、造作なく間に合ひもしようが、高安王は氣を利かせた贈物をしたのであつた。そして「人にな著せそ」と親切の押賣をし、さて「難波壯士の手には觸れれど」と謙退してゐる、その擒縱の呼吸が面白い。
 
大伴(の)宿禰三依(が)悲別《わかれの》歌一首
 
○悲別 これは住處に對しての別恨である。
 
天地與《あめつちと》 共久《ともにひさしく》 住波牟等《すまはむと》 念而有師《おもひてありし》 家之庭羽裳《いへのにははも》     578
【歌意】 天地の長きが如く、久しく住まはうと思つて居たことであつた、この家の庭はまあ。これを住み棄てることかなあ〔十三字右○〕。
 
〔評〕 三依が加茂女王との戀も餘所にして、旅人卿のもとに筑紫に來たのは、いづれ弱年の頃だつたらう。集の何處にもその官名が記してない。多分帥卿の座下に馳走の勞を取つて居たのであらう。されば卿の歸京に伴うて又引上げるのであつた。もと/\京人の三依が、何で一生筑紫の片田舍で老い朽ちるつもりで來よう。天地と(1202)共に久しく住まはうといふのは、便宜上の誇張であることは明らかである。
 誇張しかも最大級のこの誇張は、太だ浮誇に過ぎて面白くないが、假にも住み馴れた家宅を辭去しようとする際の溜らない愛着が、胸に込み上げて來て、我れ知らずこの法外の大聲を擧げたものである。
 愈よ家を住み棄てるに當つて、名殘が庭上の一木一草にも惜しまれる。それを絮説せずして、「家の庭はも」とのみ詠歎して、餘意を讀者の揣摩するに任せた。新考にいふ、
  京に歸る嬉しさを忘れて、家の別を惜まむは人情にあらず、恐らくは家の庭に寄せて、情人の別を惜めるなるべし。
と。これは餘りの横入りであらう。卷五の梅花宴の豐後守大伴太夫を三依とするは絶對に非。
 
金明軍《こむのめうぐんが》與《おくれる》2大伴(の)宿禰家持(に)1歌一首
 
○金明軍 傳は前出(八九九頁)。
 
奉見而《みまつりて》 未時太爾《いまだときだに》 不更者《かはらねば》 如年月《としつきのごと》 所念君《おもほゆるきみ》     579
 
〔釋〕 ○みまつりて 嘗て〔二字右○〕見奉りてより〔二字右○〕。○ときだに この「とき」は、四時の時。○かはらねば 變らぬのにの意。委しくいいへば、變らねばそんな筈はないのに〔九字右○〕の意。○おもほゆるきみ 下に、よ〔右○〕又はなるかな〔四字右○〕の語を含む。
(1203)【歌意】 何時ぞやお見上げして、まだ一季さへも經たぬのに、まるで年月が經つたやうに思へて、懷かしくて溜らぬ貴方樣であるわ。
 
〔評〕明軍は旅人卿の資人《ツカヒビト》であつた。卷三に、旅人卿の薨逝に明軍の哀悼の作がある。主公の薨逝に依つて彼れは大伴家へ出入の必要がなくなつた。旅人の薨逝は天平三年の秋七月だから、「時だに變らぬ」といへば、まだ冬季に入らぬ程の作で、一寸二月ばかり若殿家持の顔を見なかつたらしい。お小さい時から若樣/\で馴れ昵んでゐた家持なので、それが一年も見ぬやうな氣がするのであつた。詩の采葛の章に、「一月不(レバ)v見如(シ)2三歳(ノ)1兮。」とあるは戀愛に關する情合だが、煎じ詰めれば人情はおなじ事だ。「年月」は熟語で、月には意はない。かういふ用例は澤山ある。
 初句は嚴格にいへばやゝ詞が不完であるが、詩歌は法文ではないから、これでもよい。
 
足引乃《あしひきの》 山爾生有《やまにおひたる》 菅根乃《すがのねの》 懃見卷《ねもごろみまく》 欲君可聞《ほしききみかも》     580
 
〔釋〕 ○すがのねの 上句は「ねもごろ」に係る序詞。「ネ」の疊音で續けた。「すが」は「やますげ」を見よ(七三六頁)。○ねもごろ 懇《ネンゴロ》の古語。
【歌意】 山に生えてゐる山菅の根《ネ》といふ、ねんごろにとつくと見たい、貴方樣であることかまあ。
 
(1204)〔評〕 上の「年月の如《ゴト》思ほゆる」意を平たく述べれば、「ねもごろ見まくほしき」にとゞまる。明軍はまことに昔忘れぬ親切な忠義者であつた。それを何ぞや、契沖は男色關係などと誣ひた。家持は明軍のお主筋、大伴家の公達だ。資人などの身分で途方もない。
  あし引の山菅の根のねもごろにわれはぞ戀ふる君がすがたを(卷十二−3051)
はこの等類である。
 抑も萬葉人の「ねもごろ」好きには驚く。即ち、ねもごろ〔四字傍点〕、ねもごろに〔五字傍点〕、ねもころ/\〔六字傍点〕、ねもころ/\に〔七字傍点〕、の語を用ゐた歌が集中二十八首を算する。そして菅〔傍点〕又は菅の根〔三字傍点〕を冠したのが十一首、他の植物を冠したのが四首ある。  △山菅考(雜考−12參照)
 
大伴(の)坂上(の)家(の)大娘《おほいらつめが》報《こたふる》2大伴(の)宿禰家持(に)1歌四首
 
○大伴坂上家之大娘 坂上(ノ)郎女と大伴(ノ)宿奈麻呂との間に生まれた女で、母郎女の坂上の里に居たので、かく稱した。尚下の「いかならむ時にか妹を」の左註の條下を參照(一三六三頁)。題詞に「報贈」の語あり、この四首のうち二首は返歌と思はれるから、必ずこの前に家持の坂上大娘に贈つた歌があつた筈で、それが逸したものである。
 
生而有者《いきてあらば》 見卷毛不知《みまくもしらに》 何如毛《なにしかも》 將死與妹常《しなむよいもと》 夢所見鶴《いめにみえつる》     581
 
(1205)〔釋〕 ○みまくもしらに 見むこと知られず。○なにしかも 「見えつる」に係る語。○しなむよいも 妹よ死なむよ〔六字傍点〕を倒置した。
【歌意】 生きて居ようなら、その内には逢はうも知れぬのに、大娘お前よ、逢はずにゐては自分は死んでしまうと、貴方が仰しやる〔七字右○〕と、何で夢に見たことかしら。
 
【評】 これはギクシヤクした甚だ妙な歌である。決して自然に浮いた感興ではない。歴然たる返歌としての痕迹を遺してゐる。想ふに家持から、「餘り逢はずにゐるので、私は戀ひ死にしますと、貴女の夢のうちになりとも知らせたい」といふやうな意味の歌を贈つて來たのであらう。で「死ぬとは何です、氣を永くして居れば、そのうちには逢へる時節も到來するかも知れません」と答へたものだ。
 家持と坂上大孃とは從兄弟同志で、後には公然の夫妻となつたが、この歌や後出の數多の歌の樣子で見ると、初めは母郎女の許諾がなくて、相當の期間可成苦勞をしたらしい。
 
丈夫毛《ますらをも》 如此戀家流乎《かくこひけるを》 幼婦之《たをやめの》 戀情爾《こふるこころに》 比有日八方《たぐひあらめやも》     582
 
〔釋〕 ○たをやめ 詠作時代が後れてゐるから、かく訓んだ。「たわやめ」を見よ(二○一頁)○「幼婦」は「丈夫」の對語で、意訓にかく讀む。○たぐひあらめやも 眞淵訓による。舊訓ナラベラレメヤモ〔八字傍線〕、略解タグヘラメヤモ〔七字傍線〕補ナゾヘラメヤモ〔七字傍線〕の諸訓もある。
(1206)【歌意】 殿方の貴方〔二字右○〕でもかう戀しがるものを、まして女の私の〔二字右○〕戀する心に、比類がありませうかい。
 
〔評〕 婦人の執心深いのは先天的で、昔もさう認めてゐた一般常識の上に立つて詠んだ。男の方から自分ひとり思つてゐるらしく詠んで來たのに對して、女心はそれ以上のものだとの竹篦《シツペ》返しだ。
 對比が襯密に過ぎて、餘情に乏しいのを憾とする。
 
月草之《つきくさの》 徙安久《うつろひやすく》 念可母《おもへかも》 我念人之《わがおもふひとの》 事毛告不來《こともつげこぬ》     583
 
〔釋〕 ○つきぐさの 「移ろひ」に係る枕詞。月草の花は物に色が移つて染み著き易いのでいふ。○つきぐさ 著草《ツキグサ》。「月」と書くは借字。一名露草といひ、現に螢草又帽子花といふ。山野自生の多年生草本で、高さ尺餘に達するが莖が弱い。葉は長卵形或は廣披針形で、夏日大なる網笠状をなせる苞の間に藍色の小花を開。鴨跖草。鴨頭草とも書く。この花を古へは染料に用ゐて青花といひ、よく物に色が染むので移し花〔三字傍点〕又略して移〔二字傍点〕しとのみもいつた。○うつろひ 移り〔傍点〕の延言。「徙」原本に徒〔右△〕とあるは誤。○おもへかも 前出(一〇八四頁)。古義は、移ろひ易ければ〔右○〕かの意にて、「念へ」は輕く添へたる辭と解した。○ことも 言《コト》も。「事」は借字。
(1207)【歌意】 月草のやうに移り易いお心で思ふせゐかして、私の戀しいお方が、一言も便りして下さらないことよ。心配な。
 
〔評〕 この歌は決して返歌ではない。それは「言《コト》も告げこぬ」とあつて、全然便りがないのであるから、返歌する譯がない。隨つて題詞の報贈――「四首」は二首〔二字右△〕とあるべきで、この歌及び次の歌は、作者獨自の感想を叙べたものらしいから、題詞の別にあつたものが脱ちて、遂に一括して四首と書かれたものだらう。
 この歌解は假に古義の説に隨つておいたが、直譯的に見ると、念ふ人が自分を移ろひ易いものに思ふ意となる。この方が寧ろ正しいのではあるまいか。姑く疑を存しておく。
 上の歌は「戀ひけるを」、「戀ふるこころ」、この歌は「念へかも」、「わが念ふ」、と同語の重複を敢へてしてゐる。
 
春日山《かすがやま》 朝立雲之《あさたつくもの》 不居日無《ゐぬひなく》 見卷之欲寸《みまくのほしき》 君毛有鴨《きみにもあるかも》     584
 
〔釋〕 〇かすがやま 「かすがのやま」を見よ(八五八頁)。○ゐぬひなく 以上上句は「見まくのほし」に係る序詞。○みまく 見ると逢ふとの兩意に通はせた。
【歌意】 春日山に、朝おこる雲が懸かつてゐぬ日がないやうに、何時も〔三字右○〕逢ひたく思はれる、貴方樣でまああることよ。
 
(1208)〔評〕 春日山(三笠山)は奈良京第一の勝景で、作者の居處からの唯一の眺望だが、朝毎にきまつて白雲が搖曳して眼に觸れる。然るに意中の人は會合が自由にならない。この反對事相の湊合によつて、端なくこの序歌は成立したものだ。矚目の物悉く戀心を刺衝する種となつて、只逢ひたいの一念に凝り固まつてゐる。作者の又家持に贈つた歌に、
  春日山かすみ細引き心ぐく照れる月夜《ツクヨ》にひとりかも寢む (卷四−735)なほ春日山と作者の居る坂上の里との關係が、相當密接なものであることが考へられる。 
大伴(の)坂上(の)郎女(の)歌一首
 
出而將去《いでていなむ》 時之波將有乎《ときしはあらむを》 故《ことさらに》 妻戀爲乍《つまごひしつつ》 立而可去哉《たちていぬべしや》     585
 
〔釋〕 ○ときしはあらむを 時は他に仕樣も〔五字右○〕あらうものを。「し」は強辭。○ことさらに 「たちていぬ」に係る。○つまごひ (1)妻を思ふこと、(2)妻を思ふ情を見せること。こゝは(2)の意。
【歌意】出て往かう時はさ、相當の出て往き方もあらうものを、何もわざ/\別れにくさうに、妻戀しながら、出立して往くべきことですかい。
 
〔評〕 郎女の夫たる男が、何處ぞへ出立の前晩に泊つての事と見える。平常の後朝の場合と違ひ、こゝ暫くは逢はれぬので、名殘を惜みつゝうぢ/\してゐる。かうなると女は尚溜らない。で反撥的に、男の所作を意地惡(1209)るの人困らせと見做し、寧ろ思ひ切りよくあつさり出て往く事を望んだ。然しこれは男の情愛に感激した餘の矯語である。
 初句と結句との同意同語の重複は、何といつても猥雜である。
 
大伴(の)宿禰|稻公《いなぎみが》贈(れる)2田村大孃《たむらのおほいらつめに》1歌一首
 
○大伴宿禰稻公 上に大伴旅人卿の病氣の時に、驛使に來た卿の庶弟である。續紀に天平三年十二月從五位下因幡守、同十五年五月從五位上、勝寶元年正五位下、兵部大輔、同六年上總守、寶字元年五月正五位上、同八月從四位下、同二年二月の勅に、大和國守從四位下大伴宿禰稻公の名が見える。○田村大孃 この下に「田村(ノ)大孃(ハ)右大辨大伴(ノ)宿奈麻呂《スクナマロノ》卿之女也、卿居(ル)2田村(ノ)里(ニ)1、號(ンデ)曰(フ)2田村(ノ)大孃(ト)1」との注がある。母は未詳。尚その條下參照(一三六〇頁)
 
不相見者《あひみずは》 不戀有益乎《こひざらましを》 妹乎見而《いもをみて》 本名如此耳《もとなかくのみ》 戀者〔左△〕奈何將爲《こふるいかにせむ》     586
 
〔釋〕 ○もとな 既出(六一六頁)。○こふる コヒバ〔三字傍線〕と訓んでは文章上の時が打合はない。「者」は留〔右△〕の誤か、或は衍字であらう。
【歌意】 いつそ見ないなら、こんなに戀しうなからうものを、なまじ貴女を見て、無茶にかう一途に思ひ焦れるのは、どうしませうぞ。                   
(1210)〔評〕 田村大孃からいふと、稻公は祖母大伴坂上郎女の庶弟で、義理の叔父に當る。實の叔姪の結婚さへ上代は公許されてゐたもの、而も稻公は大分年若の人だつたから、姪の大孃との年齡に不釣合の點もなかつたと想はれる。
 叔姪とはいへ、おなじ大伴氏とはいへ、佐保と田村とは別家である以上は、さう相見ることはない筈。左註を信じてこの歌を姉郎女の代作とすれば、郎女が最初から兩者を結び付ける意圖で、何かの機會で引合はせたのではあるまいか。
 かうした感想の歌は一種の辭令のやうな性質を帶び、何處までが本當か本音かよくわからない。既に「あひ見ずは」といひ、又「妹を見て」といふ、稍煩瑣ではあるまいか。
 
右一首、妹坂上(ノ)郎女|作《ガヨメル》。
 
 稻公の歌を郎女が作つたとすれば代作である。花鳥の風信には年長者が代作することは常の事であつた。略解に「首」は云〔右△〕の誤かとあるが、無用の説である。
 
笠《かさの》女郎(が)贈(れる)2大伴(の)宿禰家持(に)歌廿四首
 
○笠女郎 前出(九〇〇頁)。
 
吾形見《わがかたみ》 見管之努波世《みつつしぬばせ》 荒珠《あらたまの》 年之緒長《としのをながく》 吾毛將思《われもしぬばむ》     587
 
(1211) 〔釋〕○かたみ 思出種《オモヒデグサ》になる物をいふ。形見の義。遊仙窟には紀念を訓んである。○しぬばせ シヌブの敬相の命令格。○あらたまのとしのをながく 前出(一〇〇八頁)。○しぬばむ 訓は東滿に從ふ。諸訓オモハム〔四字傍線〕。
【歌意】 私の差上げる、この記念の物を見い/\して、思ひ出して下さいね。私も何時までも、貴女の事を思ひ出しませう。
 
〔評〕 女郎は何かは知らぬが、心を籠めた贈物をしたと見える。卷十六の歌註にも、
  有(リ)2所(ノ)v幸《メス》娘《ヲトメ》1、寵《ウツクシミ》薄(ルヽ)之後、還(シ)2賜《オクル》寄物《カタミヲ》1。
とあり、定情の夕べ、或は記念の物を男に贈遺する習慣があつたのではあるまいか。私と思うて持つて居て下さいといひ、貴方を又何時までも思ひませうといふ、詰り愛の交換を要求した、甚だ甘い詞である。
 
白鳥能《しらとりの》 飛羽山松之《とばやままつの》 待乍曾《まちつつぞ》 吾戀度《わがこひわたる》 此月比乎《このつきごろを》     538
 
〔釋〕 ○しらとりの 飛羽《トバ》に係る枕詞。白鳥の飛ぶといひ懸けた。「しらとり」は「白鳥の鷺坂山」(卷九)とあるに據れば鷺のことかと思へど、これは汎稱で、何鳥と指定する必要はない。故に白鳥《ハクテフ》説も諾へない。○とばやま 大和添上郡奈良坂村北鳥羽谷(ノ)上、今、青葉谷と稱する處か。卷十三に「愛《ウツク》しき十羽《トバ》の松原」とあるは別處。山城の鳥羽には山も松もない。○まつの 初二句はマツ〔二字傍点〕の音を疊んで「待ち」に係けた序詞。○つきごろを 「を」は歎辭。
(1212)【歌意】 鳥羽山の山松の、まつといふやうに、貴方を待ち/\してさ、私が戀しく思うて暮します、この月頃ですよ。少しはお察し下さい。
 
〔評〕 久しい別離に相思の情は愈よ燃え盛つてくる。されば「月頃」といつた處で、漸う月を越した位のことであらうが、この誇張らしい表現が、餘計に相手の注意と同情とを惹き付け得る。上句流滑で、頗る調子がよい。それに色彩の配合まで景物に副うてあざやかである。
 四五の句は轉倒の辭法と見ても解せられる。然し「この月頃を」と詠め捨てた方が、餘情も永く味ひも深いやうである。
 
衣手乎《ころもでを》 打廻乃里爾《うちわのさとに》 有吾乎《あるわれを》 不知曾人者《しらずぞひとは》 待跡不來家留《まてどこずける》     589
 
〔釋〕 ○ころもでを 衣手よ。「を」は呼格の辭。衣手は衣に同じい。衣は砧にかけて打つことがあるので、「打ちわ」に係る枕詞に用ゐた。○うちわのさと 卷十一に「神南備《カムナビ》の打廻の前《クマ》の岩淵に」とある。「打廻」は打ち廻るの意で普通名詞だが、神南備山の裾まはりを稱する地名となり、打廻の前《クマ》、打廻の里と呼んだものと考へられる。さては打廻の里は大和平群郡の神南備山の山根の里である。「大島《オホシマ》のね」を見よ(三〇九頁)。宣長の「打」は折〔右△〕の誤、「乃」は衍字にて折廻里《ヲリタムサト》と訓むべく、折廻れば到る里にていと近き由也との説は鑿も甚しい。○こずける 來ざりけるの意。否定の助動詞「ず」の第二變北に「ける」の助動詞の接續した詞形。古格。
(1213) △地圖及寫眞 挿圖96(三〇九頁)98(三一一頁)を參照。
【歌意】 この打廻の里に居る私を知らないでさ、あの人は幾ら待つても、入らつしやらぬわ。
 
〔評〕 この歌は表面だけで見ると、餘り當然過ぎた話で、わざ/\詠歎に上せて贈るに及ばない。そこで一考すると、讀めた。實はこれは裏をいつたもので、女郎の打廻の里に居ることは百も承知しながら、家持が音づれないので、貴方は御存じがないので入らつしやらぬと、當てこすつた皮肉である。かういはれては、家持も苦笑一番、その重い腰を擧げずには居られなかつたらう。
 女郎は何かの事情で、打廻の里に來て居たものと見える。佐保からは約五里、一寸の思ひ立ち位では往ける處ではない。で家持は通知は得ながらも、つひ延び/\に不沙汰して居たものらしい。
 
荒玉《あらたまの》 年之經去者《としのへぬれば》 今師波登《いましはと》 勤與吾背子《ゆめよわがせこ》 吾名告爲莫《わがなのらすな》     590
 
〔釋〕 ○へぬれば 眞淵訓による。舊訓ヘユケバ〔四字傍線〕。○いましはと 今は苦しからじ〔五字右○〕と。「し」は強辭。○ゆめ 禁止の辭。
【歌意】 年が經つたので、もう差支はさあるまいと氣を許して、私の名を人にお知らせなさるな、屹度よ、私の貴方樣よ。
 
(1214)〔評〕 年を重ねる程公然の秘密となつて、遂にその名を露はすが通例の事である。然るに尚その秘密を嚴守してくれといふ。茲に至つて女郎は特殊の立場に居る人と想はざるを得ない。或は有夫の女か。
 下句の短くぽつ/\に切れた三漸層は、その節奏頗る急促で、相手に力強く押被せて迫つてゆく。
 
吾念乎《わがおもひを》 人爾令知哉《ひとにしらすれや》 立匣《たまくしげ》 開阿氣津跡《ひらきあけつと》 夢西所見《いめにしみゆる》     591
 
〔釋〕 ○しらすれや 知らすれば〔右○〕や。宣長訓シラセヤ〔四字傍線〕は義を成さない。○ひらきあけつ 蓋を〔二字右○〕排《ハラ》つて開けた。
 △挿畫 挿圖99を參照(三一四頁)。
【歌意】 私が貴方を思うてゐることを、貴方は他人に知らせるせゐかして、櫛匣の蓋を拂つて開けたと、夢にさ見ましたよ。
 
〔評〕 夢は五臓の疲れと片付け得る後世人と違ひ、古人は夢の神秘性を信じ、これに依つて吉凶禍福を卜した。
 わが古代史を繙く者はその夢語りの多いのに驚くであらう。中古でも亦然りである。夢占夢合せ、遂には夢判斷が職業的になつた程である。
 櫛匣の蓋を開けたとだけのはかない夢でも、神經質な婦人としては、氣にせずには居られない。上の歌に「ゆめよわが背子わが名のらすな」と折角注意した甲斐もなく、若しやこの秘密を誰れかに打開けたのではあるまいかの疑念に驅られ、この歌を裁して家持を驚かしたものだ。契沖いふ、
(1215)  箱の蓋をあくると夢に見れば、思を人に知らするといひ慣はしける古語ありけるなるべし。
と。然しさうした俗信が既にあつたとしては、味ひが薄い。女郎が自身の夢を自身でかう判斷し、女の廻り氣から、餘計な氣苦勞を求めてゐる點に好處があると思ふ。
 
闇夜爾《やみのよに》 鳴奈流鶴之《なくなるたづの》 外耳《よそのみに》 聞乍可將有《ききつつかあらむ》 相跡羽奈之爾《あふとはなしに》     592
 
〔釋〕 ○やみのよに 「闇」この集にてはヤミと訓む。卷二十に「夜未乃欲能《ヤミノヨノ》」とある。舊訓クラキヨノ〔五字傍線〕。○なくなるたづの 初二句、闇夜の鶴は姿が見えず聲ばかり聞えるので、「よそのみに聞き」に係る序詞とした。
【歌意】 暗夜に鳴く鶴のやうに、餘所ながらばかり、貴方の便りを聞き/\して居ることでせうか、ぢかに逢ふといふことはなしでさ。
 
〔評〕 奈良時代には鶴の聲を聞く折が多かつたから、その闇夜の聲を序詞としても異常ではない處か、却て清警を感じたであらう。
 戀人の行動を徒らに餘所にのみ聞きつゝあるは、既に傷心の事である。更に「逢ふとはなしに」と思ひ到つては斷腸の極である。層一層戀々の情が胸の深くに喰ひ入る趣が見えて、あはれである。
 
君爾戀《きみにこひ》 痛毛爲便無見《いたもすべなみ》 楢山之《ならやまの》 小松下爾《こまつがしたに》 立嘆鶴〔左△〕《たちなげきつる》     593
 
(1216)〔釋〕 ○いたもすべなみ 前出(一〇〇二頁)。○ならやま 「ならのやま」を見よ(八四頁)。 ○こまつ 既出(六三頁)。○したに 元暦本の訓はモトニ〔三字傍線〕。○たちなげきつる 下にかな〔二字右○〕の歎辭を含む。「鶴」原本に鴨〔右△〕とある。多くの古寫本に據つて改めた。 △地圖 挿圖25を參照(八四頁)。
【歌意】 貴方に思ひ込んで、どうにも仕方がなさに、奈良山の小松の蔭に立つて、長く息吐《イキヅ》きましたことよ。
 
〔評〕 戀の焦燥は靜座に耐へられない。起ちつ居つした擧句は、家にも居かねて、ふら/\とあこがれ出る。人目の稀な奈良山は、かういふ人に取つての好箇の思案場で、そこに分け入つて小松が下に獨胸中の欝積を申べる。けれども心の痛手は醫すべくもない。その呻吟の聲が今も耳に聞えるやうである。
 奈良山の小松は卷一にも卷十一にも見え、今でも松は多い。
 
吾屋戸之《わがやどの》 暮陰草乃《ゆふかげぐさの》 白露之《しらつゆの》 消蟹本名《けぬがにもとな》 所念鴨《おもほゆるかも》     594
 
〔釋〕 ○ゆふかげぐさ 夕影の草。夕影は夕陽の餘光の匂ふ頃をいふ。山の陰草、水陰草とは別語。○けぬがに 消ゆるがやう〔二字右○〕に。「ぬ」は現在完了の助動詞。「がに」は之如爾《ガゴトクニ》の中略。古義の之似《ガニ》の意と釋したのは附會と思ふ。 ○もとな 既出(六一六頁)。
【歌意】 私の庭の夕影の草におく露が、はかなく消えるがやうに、私の心が無茶に消え入つて、思はれることよなあ。
 
(121) 〔評〕思ある身は眼前の風物。皆傷心の種となる。時はこれ物あはれな夕暮、物はこれはかなげな草のうへの露、作者はその時その物に暫く見入つてゐるうちに、露の脆くも碎け散るのに逢著し、「消え」の語を楔子として、わが押へ難い幽思を託した。
 
吾命之《わがいのちの》 將全幸〔左△〕限《またけむかぎり》 忘目八《わすれめや》 彌日異者《いやひにけには》 念益十方《おもひますとも》     595
 
〔釋〕 ○またけむ 全《マタ》から〔二字傍点〕むの轉語で、この「けむ」は現在の推量辭。古語。「幸」は削るがよい。「全幸」でマタシ〔三字傍線〕と訓まれぬこともない。牟〔右△〕の誤とするは非。○いやひにけには 日に時に益して。「け」は前(六八二頁)。
【歌意】 私の命の滿足であらう限は、貴方を〔三字右○〕忘れませうかい、それは彌よ時日を追うて思ひ益ることはあるともさ。
 
〔評〕 倭建命の御歌(記中)に「命のまたけむ人は」とある成語を運用して、蒼古な眞面目な調子で、思ひ優ることこそあれ、忘るゝことはないと、命を懸けての誓言、戀する者の極まり文句といへばそれ迄だが、反説の叙法の緊密さと、箇々の辭法の力強さと、反倒の句法の剛健さとで、その表現に非常なる追眞力をもつてゐる。決して口頭の漫語ではない。
 
八百日往《やほかゆく》 濱之沙毛《はまのまなごも》 吾戀二《わがこひに》 豈不益歟《あにまさらじか》 奥島守《おきつしまもり》     596
 
(1218)〔釋〕 ○やほかゆく 多くの日數を歩みゆく。「やほ」は多數の意。○まなご 眞砂子《マスナゴ》の義。「沙」は和名抄に以左古《イサゴ》又|須奈古《スナゴ》と見え、マサゴ〔三字傍線〕とも訓まれるが、集中|眞名兒《マナゴ》、愛子《マナゴ》などの事例もあるので、マナゴと訓んだ。○あにまさらじか 契沖訓による。「あにまさらじ」は恐らくは〔四字傍点〕益るまいの意に解する。この「あに」は特殊の用法で古格。恐らくは、まづは〔七字傍点〕などの意。績紀の廿五詔に「豈障るべきものにはあらず」、卅八詔に「豈障る事はあらじと」の豈の用法と似てゐる。卷十六の「豈もあらず」もこの類である。「か」は歎辭。舊訓アニマサラメヤ〔七字傍線〕。○おきつしまもり 沖合の島の番人。
【歌意】 幾日も懸かつて往く長い濱の砂でも、その數は私の戀の繁さに、怒らくは勝るまいなあ。沖の島の番人よ。どんなものです〔七字右○〕。
 
〔評〕 戀の繁き比較には「濱のまなご」だけで十分であるが、「八百日ゆく」と、出來るだけ誇張の修飾を用ゐた。抑も砂子を多數多量の例に引くことは、「既に佛經中の萬恒河砂の典據が世間周知の事となつてゐるので、何でもそれに輪の懸つた誇張を必要とした爲と見てよい。又一面にはその戀の尋常以上であることを表現したい爲でもある。
 一旦は「豈勝らじか」と思つたものゝ、局外者でなくてはその正確な判斷は出來ない。生憎處は長い砂濱で周圍に何者も居ない。乃ち一轉顧して「沖つ島守」にその解答を求めたものだ。こ結句の轉換樣式は新研を發したもので、頗る奇妙である。紀貫之はこれを學んで、その土佐日記に、
  わが髪の雪といそべの白波といづれまされり沖つしま守
(1219)と詠んだ。作者がその砂上におのれの足跡を印しつゝ呻吟した状態が想ひ遣られる。 
宇都蝉之《うつせみの》 人目乎繁見《ひとめをしげみ》 石走《いははしの》 間近君爾《まぢかききみに》 戀度可聞《こひわたるかも》     597
 
〔釋〕 ○うつせみの 人に係る枕詞。既出(一〇七頁)。○いははしの 「ま近き」に係る枕詞。水中の飛石は間《マ》近く置くのでいふ。「いははし」は既出(五一四頁)。
【歌意】 世の人目がまあ繁さに、間近く住む貴方に逢へず、月日を戀ひ暮らすことかなあ。
 
〔評〕一旦思索の網を透しての作である。間近き君ながら逢はれぬといふ矛盾が骨子で、「人目を繁み」はその説明である。勿論忍ぶ戀路であつた。歌の趣によれば、家持の家と女郎の家とは隣接する位に近かつたものらしい。古今集の、
  人知れぬおもひやなぞと蘆垣の間近けれども逢ふよしのなき(卷十、戀一)
は酷似してゐるが、間近けれども〔六字傍点〕の理攻めよりは、この方が面白い。
 
戀爾毛曾《こひにもぞ》 人者死爲《ひとはしにする》 水無河《みなせがは》 下從吾痩《したゆわれやす》 月日異《つきにひにけに》     598
 
〔釋〕 ○こひにもぞ 「もぞ」の辭にはもしかすると〔六字傍点〕の意を含む。古義に却りて〔三字傍点〕の意を含むやうに解したのは非。(1220)○しに 死ぬ〔二字傍点〕の體言格。○みなせがは (1)水のない川。(2)水は砂礫の下を潜つてうはべに見えぬ川。水《ミ》無し川の轉語。水無川《ミナシ》河、水旡《ミナシ》川、水無瀬《ミナセ》川、水瀬《ミナセ》河など書く。こゝは(2)の意によつて、「した」の枕詞に用ゐた。但詞の係りが稍不完の心地がする。こゝを攝津國嶋上郡の水無瀬川とするは非。○したゆわれやす 内々に私は痩せる。この「ゆ」は輕い用法で、ニといふに近い。「したゆ」を心から〔三字傍点〕の意とする説は一寸面白いやうだが、初二句にさし合つてうるさい。
【歌意】 戀には若しかすると、人は死にますわ、その證據には〔六字右○〕、人知れず私は、月日を追うて、づん/\痩せてゆきます。
 
〔評〕 焦れ死にの詞は聞いては居ても、本當にして居なかつた作者である。處が戀し始めてから、忽に二重の帶が三重まはるのに驚いて、焦れ死にの實演を自分がするのではないかと危惧した。「月に日にけに」の一句中における三漸層は、急テンボで痩せ細つて行く状態が著く提示されてゐる。
 
朝霧之《あさぎりの》 欝相見之《おほにあひみし》 人故爾《ひとゆゑに》 命可死《いのちしぬべく》 戀渡鴨《こひわたるかも》     599
 
〔釋〕 ○あさぎりの 「おほ」に係る枕詞。前出(一〇四六頁)。○おほに 朝霧につけては漠《ボツ》とした貌にいひ、人につけては大凡の意とする。○ひとゆゑに 早く解すれば人なるに〔四字傍点〕の意となる。
【歌意】 大凡に一寸出合うた人の爲に、不思議や、命がなくなりさうに戀うて、月日を經ることよ。私はお馬鹿(1221)さんね。
 
〔評〕 一目惚れの矛盾をみづから怪んだ。そして自嘲の語を放つて相手の同情を喚起しようと試みた。戀は思案の外とはいへ、家持の美男であつた事は、必ず考慮の中に入れて置かねばなるまい。
 
伊勢海之《いせのうみの》 礒毛動爾《いそもとどろに》 因流浪《よするなみ》 恐人爾《かしこくひとに》 戀渡鴨《こひわたるかも》     600
 
〔釋〕 いせのうみ 伊勢灣をいふ。○とどろに 轟く〔二字傍点〕の副詞格。○よするなみ 前出(八三七頁)。以上上句は序詞。「因」は借字。○かしこくひとに 恐ろしく人に。「恐」の字カシコクと副詞格に讀めばわが上、又カシコキと連體形に讀めば人の上となる。恐き人は高貴の人の意。舊訓はカシコキヒト〔六字傍線〕。
【歌意】 伊勢の海の礒も鳴り響くほどに寄せる浪、その恐ろしいやうに恐ろしく、人に戀して暮らすことかなあ。
 
〔評〕 これは伊勢灣の二見邊での作と見たい。序詞の本質上、想像的取材は許されぬこともないが、やはり實際的の方が眞實味に富んで聞える。礒もと搖する白波を、女心に恐《カシコ》しと感じたその強い印象から、端なく熱烈を極めた自己の戀に想到し、そこに批判の詞を下した。稍理性に立戻つた折の作である。
 「かしこき人に」の訓に從へば、作者對家持の身分關係が語られて、面白くもある。卷七、寄山とある歌に、
  磐たゝむ恐《カシコ》き山と知りつゝも吾は戀ふるかなぞらへなくに (−1331)
(1222)も貴人に對する戀である。
 
從情毛《こころゆも》 吾者不念寸《わはおもはざりき》 山河毛《やまかはも》 隔莫國《へだたらなくに》 如是戀常羽《かくこひむとは》     601
 
〔釋〕 ○こころゆも 「こころゆもおもへや」を見よ(一〇七三頁)。○やまかは 山と川と。こゝは土地又は場處の轉義に持ゐた。
【歌意】 貴方の住居は〔六字右○〕つひ近くで、山や川が隔たりもせぬのに、かう戀しがらうとは、心からまあ私は、思ひ懸けませんでした。
〔評〕 山河※[しんにょう+貌]たり、千里空しく相思ふ。然るにこれは戀人をつひ近隣に置きながら、日夕戀々の情に悶ゆることは不可解で、實に意外であらねばならぬ。蓋し會合期なくして、咫尺も亦千里なることを暗裏に嗟歎した。そこに含蓄の婉味を生ずる。
 
暮去者《ゆふされば》 物念益《ものおもひまさる》 見之人乃《みしひとの》 言問爲形《こととふすがた》 面景爲而《おもかげにして》     602
 
〔釋〕 ○こととふすがた 物言ふ姿を〔右○〕。「こととふ」は「こととはぬ」を見よ(一〇四七頁)。契沖訓による。眞淵訓はコトトハスサマ〔七字傍線〕。古訓コトトヒシサマ〔七字傍線〕。○おもかげにして 面影に立つるをいふ。前出(九〇二頁)。「景」は影(1223)と通用。
【歌意】 夕方になると、一層物思が烈しくなるわ。逢うた貴方の物言ふ姿を、面影に描いてさ。
 
〔評〕 夕暮方に愁思を催すは常套である。只夕暮を背景として、彼氏の甘い戀を語つた面影を眼前に彷彿させるに至つては、頗る實感的である。
 
念西《おもふにし》 死爲物爾《しにするものに》 有麻世波《あらませば》 千遍曾吾者《ちたびぞわれは》 死變益《しにかへらまし》     603
 
〔釋〕 ○しにかへらまし しにかへる〔五字傍点〕は生き返るの反。
【歌意】 戀ひ焦れるのでさ、死ぬるものであらうなら、私などは千遍も、死に返ることでありませう。
 
〔評〕 戀する人は動もすれば死を口にする。果してさうなら自分は何遍死ぬか分らぬとは、わが戀心の無限であるを逆説したものである。套語に酬ゆるに奇語を以てした才慧を取る。
 
劔太刀《つるぎたち》 身爾取副常《みにとりそふと》 夢見津《いめにみつ》 何如之怪曾毛《なにのしるしぞも》 君爾相爲《きみにあはむため》     604
 
〔釋〕 ○つるぎたち 劔太刀を〔右○〕。「つるぎたち」は前出(一〇三八頁)。○みにとりそふ わが身に著ける。○しるし(1224) 前表、前兆。紀に「怪」をシルマシ〔四字傍線〕と訓んだ。訓は古義による。舊訓サトシ〔三字傍線〕。略解訓サガ〔二字傍線〕は非。○あはむため 貴方に逢はれう爲。
【歌意】 男の〔二字右○〕佩く太刀を、女の〔二字右○〕私の身に著けたと夢に見ました。これは何の前表ですぞえ。外でもない、あなた樣に逢はれう爲さ。
 
〔評〕 劔太刀身に副ふ〔四字傍点〕は套語。然し女だてらに男の持つ太刀を佩いた夢は、實に變つた夢相である。で「何のしるしぞも」とまづ怪しみ、さて自分からその夢判斷を下して、それは「君に逢はむ爲」だと、都合のいゝ方へ合はせて往つた。四句は問、五句は答で、下句中に含むこの自問自答の樣式は、一機軸を出したものである。
 この歌と男女を反對にして詠まれたのがある。古今六帖に、
  うち靡きひとりしぬれば眞澄鏡とると夢見つ妹にあはむかも
 或はいふ、夢に婦人が劔を身に副ふと見れば男に逢ふ前表、男が鏡を身に副ふと見れば女に逢ふ前表とする俗信があつてかく詠まれたと。果してさうとすれば、劔太刀身に副ふ夢は、初めから君に逢ふに定まつた事だから、「何のしるしぞも」と改めて訝るまでもない。強ひていへばわざと詭辯を弄してみたものともいへようが、それでは詩味が索莫としてしまふ。
 
天地之《あめつちの》 神理《かみにことわり》 無者社《なくばこそ》 吾念君爾《わがおもふきみに》 不相死爲目《あはずしにせめ》     605
 
(1225)〔釋〕 ○かみに 宣長訓カミシ〔三字傍線〕、舊訓カミモ〔三字傍線〕。○ことわりなくば 感應がないなら。神が道理《コトワリ》を示すは即ち感應である。
【歌意】 天地の神に感應がないならばさ、私の戀しい貴方に逢へずに死にもせう。が神は人の誠を見透しだから、屹度逢へるでせう。
 
〔評〕 人事を盡して天命を待つ、もう神頼みをするより外手段のなくなつた趣、而も一縷の望みをそこに繋いでゐる。情恨綿々。初二句は日本紀に「天神地祇共|證v之《コトワリタマヘ》、源氏明石の卷に「天地ことわり給へ」など、古來の套語。「こそ」の語使ひ得て妙。
 
吾毛念《われもおもふ》 人毛莫忘《ひともなわすれ》 多奈和丹 浦吹風之《うらふくかぜの》 止時無有《やむときなかれ》     606
 
〔釋〕 ○多奈和丹 「吹く」に係る副詞格の語と思はれるが訓み難い。誤脱があらう。宣長は旦爾氣丹《アサニケニ》の誤としたが、窮餘の説に過ぎない。○うらふくかぜの 浦吹く風の如く〔二字右○〕、結句に係けた譬喩。○なかれ 宣長は「有」を爾〔右△〕の誤としてナシニ〔三字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 私も思ひます、貴方もお忘れなさるな。……………、浦吹く風の何時も吹くやうに、お互いの契に絶える時はあるな。
 
(1226)〔評〕 後撰集雜歌、(四)にこの歌を出して、
  吾も思ふ人も忘るなありそみの浦ふく風のやむ時もなく(六帖、君も思ふ吾も忘れじ、以下同じ)
とある。三句は六帖のも、ありそみの〔五字傍点〕とある。即ち「多奈和丹」の四字が昔から訓みかねた證據で、據なく他語を以て補うたのである。但荒磯海の浦〔五字傍点〕は續きがわるい。或は地名の訛誤か。
 
皆人乎《みなひとを》 宿與殿金者《ねよとのかねは》 打奈〔右○〕禮杼《うつなれど》 君乎之念者《きみをしもへば》 寐不勝鴨《いねかてぬかも》     607
 
〔釋〕 ○みなひとを 「を」は早く解すればニに近い。これを歎辭とする説は、かく動詞に續く場合には用ゐ難い。古義に「皆人」をヒトミナ〔四字傍線〕と訓んだのは固陋。○ねよとのかね 亥の刻(今の午後十時)の時の鍾をいふ。天武天皇紀に人定《ヰノトキ》と見え、亥の刻は人の寢靜まる時なのである。「殿」も「金」も借字。○うつなれど 「奈」は類聚抄によつて補つた。
【歌意】 世間の人を寢てしまへと告げる、亥の刻の鐘は打つのであるけれど、貴方の事を思ふと、とても寐もお(1227)ほせぬことかなあ。
 
〔評〕 舒明天皇紀八年の條に「自今以後卯(ノ)始(ニ)朝之《マヰリテ》、巳(ノ)後(ニ)退之《マカレ》、因(リテ)以(テ)v鐘(ヲ)爲(ヨト)v節《トヽノヘト》」、又孝徳天皇紀大化三年の條に、「臨(ンテ)v到(ルニ)2午(ノ)時(ニ)1聽(イテ)v鐘(ヲ)而罷(ル)、其撃(ツ)v鐘(ヲ)吏者《ツカヒハ》垂(ル)2赤(キ)巾《チギリヲ》於前(ニ)1、其鐘(ノ)臺|者《ハ》、起(ツ)2中庭《オホニハニ》1」とあるが、これらは一般的時報の證とはなし難い。一般的時報は齊明天皇の時代に始まつたことで、同紀六年の條に、
  皇太子(天智)初(メテ)始(リ)2漏刻(ヲ)1使(ム)2民(ヲシテ)知(ラ)1v時(ヲ)。(卷六十)
と見えた。又天智天皇紀十年の條に、
 置(キ)2漏尅(ヲ)於新臺(ニ)1、始(メテ)打(チ)2候時(ヲ)1動(ス)2鐘鼓(ヲ)1、始(メテ)用(ヰル)2漏尅(ヲ)1、此漏尅(ハ)者爲(ル)2皇太子1時、始(メテ)所2製造(リマス)1也。(卷六十二)
とある。又令の職員令の陰陽寮に、
 漏尅博士二人、掌(ル)d率(ヰ)2守辰丁(ヲ)1、伺(フコトヲ)c漏尅(ヲ)u、守辰丁二十人、掌d伺(ヒ)2漏尅之節(ヲ)1、撃(ツコトヲ)c以(テ)v時(ヲ)鐘鼓(ヲ)u。
とあつて、一夜を五更に分ち、(初更戌、午後八時、二更亥、午後十時、以下準v之)更毎に守辰丁《トキモリ》が鐘鼓を打鳴したものと思はれる。「寢よとの鐘」は即ち二更の鐘である。
 禁鐘人の眠を促せども、孤衾冷にして夢圓かならず、郎を思ふ情愈よ切にして、展轉の恨は奈何ともし難い。沈痛の至である。「君をし念へば」と、わが一切を捧げてもたれ懸かつた優しい氣持は、同情の涙に禁へぬ。
 「寢よ」といひ「いね」といふ。同意の語の重複は、この集には通例の事であるが、かゝる動詞の疊出又は反復は、決して修辭の蕪穢とのみ卻けることは出來ない。却て疊出又は反復の表現によつて詞意を強調し、迫眞力を昂揚する場合がある。平安朝以後の歌が、餘に潔癖に過ぎてこれを忌避した爲に、和諧齊整の特色は握(1228)み得たが、勁健沈痛の調に缺如する憾がある。
 
不相念《あひもはぬ》 人乎思者《ひとをおもふは》 大寺之《おほでらの》 餓鬼之後爾《がきのしりへに》 額衝如《ぬかづくごとし》     608
 
〔釋〕 ○あひもはぬ 「あひ」は接頭語。○がき 餓鬼は亡者の餓鬼道に墜ちた者の稱。三塗《サンヅ》(地獄、餓鬼、畜生)の一で、常に飲食を得ずして刀杖の苦を受くと佛教に説く。○ぬかづくごとし 舊訓ヌカヅクガゴト〔七字傍線〕。「あとなきごとし」を見よ(八二六頁)。
【歌意】 一向自分を思うても呉れぬ人を、此方でやきもき思ふのは、丁度大寺の餓鬼の像の後ろで拜むやうなものさ。何の甲斐もない。
 
〔評〕 大寺の餓鬼は四天王に踏み潰されてゐる天邪鬼《アマノジヤク》の儔で、佛像の前に男女の餓鬼像を配して迷悟の因果を示し、佛法を勸める方便としたもの。當時各處の大寺には是等の像が置かれてあつたことは、卷十六にも「寺々(1229)の女餓鬼《メガキ》申さく」と見えたのでも明かである。大和志に百濟大寺の事にのみ解したのは狹い。
 佛は一切衆生を濟度する覺者だが、餓鬼には他を救ふ威力は徴塵も無い。而もそれをお尻で拜んだのでは愈よ御利益の利目はありはせぬ。熱烈な戀であつてからが、片思では無駄な話。然し譬喩の仕樣もあらうに、餓鬼を以て暗に戀人に擬へ、「しりへに額づく」この馬鹿氣た態度を以て自嘲してゐる。蓋し無情を怨ずる餘に發した矯語である。女郎と家持との交情も、さう順調ではなく、大きな變化のあつたことが想像される。仙覺いふ。
  昔は大なる寺の堂舍には、餓鬼を作りて、後戸の方などに置きけるなり。田舍人などはそれをも佛と思ひて拜みけるをば、はかなき事にして笑ひける也。
と。そんな事も田舍者にはあらうが、この歌には交渉はない。
 
從情毛《こころゆも》 我者不念寸《わはおもはざりき》 又更《またさらに》 吾故郷爾《わがふるさとに》 將還來者《かへりこむとは》     609
【歌意】 心にかけても私は思はなかつたことよ、又再び、自分の故里に立歸つて來ようとはさ。貴方との縁が切れてね〔十字右○〕。
 
〔評〕 永久に家持の世話になつて居られる事と思つてゐた處が、豈料んや好事魔多しで別れ話になり、遂に故郷は「衣手を打廻の里」に立歸つたのであらう。幻滅の悲哀、情事關係には例の多い事で、人の心の嶮しさは車を(1230)摧く高山の路よりも甚しいが、又對手の身分の高過ぎることも、かうした破滅を來す原因ではあるまいか。未練らしく緜々と悔いの恨みを竝べた處は、流右愚痴に返つた女の情である。「わ」の重出一つは削つてもよい。
 
近有者《ちかからば》 雖不見在乎《みずともあらむを》 彌遠《いやとほく》 君之伊座者《きみがいませば》 有不勝自《ありかつましじ》     610
 
〔釋〕 ○ちかからば云々 この訓新考による。左註によれば、作者が故里に歸つてから贈つて來た歌だから、四句の舊訓イマサバ〔四字傍線〕はイマセバと現在格に訓むべく、隨つて初二句の舊訓チカクアレバミネドモアルヲ〔十三字傍線〕は、文法上の時が打合はぬので改めた。○ありかつましじ 既出(三一七頁)。
【歌意】 近くなら、或は見ないでも居られようものを、この故里からはずつと遠くに、貴方が入らつしやるので、とても一日片時も居たゝまれますまい。
 
〔評〕 故里に歸るとすぐに贈つた歌なので、「ましじ」の假想的否定を用ゐた。物は考へやうで、下に田村家の大孃の歌、
  遠からばわびてもあらむを里近くありと聞つゝ見ぬが悲しさ(卷四−757)
はこれと表裏してゐる。どちらも一理窟で、尤もと諾かれる。
 
右二首、相別(レテ)後更(ニ)來贈《オクレリ》。
 
(1231)以上の二首は、手が切れてから後、又女郎から贈つて來たものとの意。
 
大伴(の)宿禰家持(が)和歌(ふる)歌二首
 
上二首の女郎の歌に對しての返歌である。
 
今更《いまさらに》 妹爾將相八跡《いもにあはめやと》 念可聞《おもへかも》 幾許吾胸《ここだわがむね》 欝悒將有《おほほしからむ》     611
 
〔釋〕 ○あはめや 逢はれうかい。○おもへかも 前出(一〇八四頁)。○ここだ 既出(五九六頁)。○おほほし 「おほほしく」を見よ(四八五頁)。
【歌意】 今は又もお前に逢はれうかいと思ふせゐかして、ひどく私の胸が塞がつて切ないのであらう。
 
〔評〕 見棄てた女への體のいゝ挨拶である。一旦別れた以上は、蒸し返して逢へた義理でもないことは、勿論知つてゐる。なれども人情は妙なもので、何だか心に空虚を感じて、物戀しく切なくなるものである。もし嫌で別れた中でなければ尚更である。
 
中々爾〔左△〕《なかなかに》 黙毛有益呼《もだもあらましを》 何爲跡香《なにすとか》 相見始兼《あひみそめけむ》 不遂等《とげぬにひとし》     612
 
(1232)〔釋〕 ○なかなかに 却つて、いつそ〔六字傍点〕の事などの意。前出の解參照(八一七頁)。「爾」原本者〔右△〕とある。六條本に據つて改めた。○もだ 「もだをりて」を見よ(八二四頁)。○なにすとか 何の爲とてか、何とてか。○とげぬにひとし 契沖はトゲヌモ〔四字傍線〕と訓んだ。實はトゲヌモノユヱ〔七字傍点〕とありたい處である。「等」を元暦本金澤本などに爾〔右△〕とあるによつて、眞淵はトグトハナシニ〔七字傍点〕、宣長は更に卷〔右△〕の誤としてトゲザラマクニ〔七字傍点〕と訓んだ。【歌意】 始めから關係なしに〔九字右○〕、いつそ徒《タヾ》でもあらうものを、何だつて逢ひ初めたことだつたらうか。今ではお前との戀は、始から遂げないのと同じ事だ。
 
〔評〕 甘夢か惡夢か、おもむろに追憶してみれば、悔恨の念はひし/\とわが身を笞打つ。この感愴は笠女郎の爲にも通用する。お互に始から赤の他人で居た方がとの返らぬ繰言も、やはり戀なればこそである。「遂げぬにひとし」は手きびしい自己批判である。
  なか/\に黙もあらましをあぢきなくあひ見そめてもわれは戀ふるか (卷十二−2899)
は殆ど同調であるが、本文は場合が場合なので、自然力強い叙法を取つてゐる。
 
山口《やまぐちの》女王(の)贈(れる)2大伴(の)宿禰家持(に)1歌五首
 
○山口女王 傳は未詳。
 
物念跡《ものもふと》 人爾不見常《ひとにみえじと》 奈麻強《なまじひに》 常念弊利《つねにおもへり》 在曾金津流《ありぞかねつる》     613
 
(1233)〔釋〕 ○みえじ 見られじの意。○なまじひに なまなかに。古義が假初《カリソメ》の意。新考が強ひての意に解したのは當らない。「おもへり」に係る副詞。○おもへり 略解オモヘド〔四字傍線〕の訓は非。○ありぞかねつる 身の存在に困るをいふ。見えずには在り兼ぬると解くは誤。
【歌意】 物思をしてゐると貴方には見られまいと、なまなかに不斷考へてをります。その爲に身のおき樣に困りますわよ。
 
〔評〕 これは相愛期の作ではない。男の方に早くも倦怠の時機が來て、漸う離れ去らうとした頃の感懷である。浮氣な男の心を恨みはするものゝ、その素振を男には見せまいと常に努力する。有難い女の貞心である。「なまじひ」の副詞は使ひ得て面白い。然しその努力は何時まで續くものでもない。「ありぞかねつる」で、とゞ平《ヘタ》張つてしまふ。突き詰めた擧句、小さい胸のうちには納めかねた煩悶状態を細叙して、男に訴へた。そしてその同情を哀乞した。
 「人に」は次の「相念はぬ人をや」の人〔傍点〕と同じく、男家持を斥したもの、それを一般の世間人のやうに解した諸家の註は、甚だ事情に通じない。
 
不相念《あひもはぬ》 人乎也本名《ひとをやもとな》 白細之《しろたへの》 袖漬左右二《そでひづまでに》 哭耳四泣裳《ねのみしなかも》     614
 
〔釋〕 ○ひとをや 「ひとを」は人なる〔二字右○〕をの意。「や」は疑辭。○もとな の下思うて〔三字右○〕を補うて聞く。語は既出(六一(1234)六頁)。○しろたへの 袖の枕詞。「しろたへ」を見よ(一一八頁)。「細」は精妙《タヘ》の義。栲《タヘ》の借字。○なかも 泣かむ。「も」は推量の助動詞のムの轉。古語。集中「消《ケ》ぬとか曰毛《イハモ》」(卷八)、「誰が名にか有裳《アラモ》」(卷十二)、「今はいかに世母《セモ》」(卷十四)、「見てや渡良毛《ワタラモ》」(卷二十)の例がある。
【歌意】 一向思うてもくれぬ人なのを、無茶に思うて〔三字右○〕、袖がひどく沾れる程に、聲を立てゝばかりさ、泣かうことかまあ。
 
〔評〕 片思で泣き暮さうことかと向後の悲境を豫想して、男の無情を恨んだ。からりと諦めてしまへば何でもない話だが、さうならぬ處に戀の苦悩と眞實味とがある。
 
吾背子者《わがせこは》 不相念跡裳《あひもはずとも》 敷細乃《しきたへの》 君之枕者《きみがまくらは》 夢爾見乞《いめにみえこそ》     615
 
〔釋〕 ○しきたへの 枕の枕詞。既出(二五五頁)。○きみがまくらは その人との共寢はの意。枕を寢ることの代表語に用ゐた ○みえこそ 「こそ」は願望辭。
【歌意】 私のあの人は、よし思うて呉れぬとも、せめておなじ枕の共寢は、夢に見えてほしいわ。
 
〔評〕 現實に絶望して、はかない夢頼みをするに至つては、その心根はあはれである。或は「枕の夢を見ると、思ふ男に逢へる」といふやうな俗信があつたものか。さすればこの歌は尚解き易くて面白い。いづれにしても(1235)對手の態度を度外においた執拗な眞實さには、自然同情される。
 
劔太刀《つるぎたち》 名惜雲《なのをしけくも》 吾者無《われはなし》 君爾不相而《きみにあはずて》 年之經去禮者《としのへぬれば》     616
 
〔釋〕 ○つるぎたち 「な」に係る枕詞。令の營繕令に、凡營2造(ルハ)軍器(ヲ)1皆須(シ)v依(ル)v樣(ニ)、※[金+雋](リ)2題(ス)年月及(ビ)工匠(ノ)姓名(ヲ)1、云々と見え、刀劍の類は必ず名を※[金+雋]るものと定められたので、劔太刀を、名に係る枕詞として用ゐた。古義の一説に薙《ナ》ぐ意かとある。○をしけくも 惜しきこと〔二字右○〕も。惜しきの轉語で、善きを善けくといふに同じ古文の一格。○あはずて 逢〔右○〕はれずして。
【歌意】 私の名などは、もうどうでも惜しくもないわ、貴方に逢はれないで、年を重ねる樣になつた以上はさ。
 
〔評〕 浮名の立つのがつらいの困るのなどいふは贅澤千萬、もうかうなつては社會的批判などは眼中にない。年の換るまで逢ひにも來てくれぬ男は、鬼にも蛇にむ成つてと、辰巳あがりに猛烈にその戀は盲進する。こはい程眞劍である。「名の惜しけくもわれはなし」、この決然たる口吻は、かの風流才子家持をして慄然たらしめたものがあらう。
 
從蘆邊《あしべより》 滿來鹽乃《みちくるしほの》 彌益荷《いやましに》 念歟君之《おもへかきみが》 忘金鶴《わすれかねつる》     617
 
(1236)〔釋〕○あしべより この「より」は輕い意で、ヲ〔傍点〕といふに近い。○みちくるしほの 以上初二句は「いやましに」に係る序詞。「鹽」は潮の借字。○おもへか 思へ〔右○〕ばか。○きみが 君の事〔二字右○〕が。
【歌意】 蘆の茂るあたりを滿ちてくる汐が、段々に益すやうに、彌よ益つて思ふせゐかして、私は貴方の事が忘られかねました。
 
〔評〕 「いや益し」の譬喩としては、朝夕のさし潮は最も當てはまつた取材といへよう。卷十三にも、
  朝なぎて滿ちくる汐の――その汐のいやます/\に (−3243)
とある。序歌はすべて序詞のよしあしで歌の位が定まる。
  湖轉《ミナトミ》に滿ちくる汐のいやましに戀ひはませども忘らえぬかも (卷十二−3150)
  芦間より滿ちくる汐のいやましに思ひませども飽かぬ君かな (新撰萬葉、六帖)
はこの歌の變形であらう。但「思へか忘れかねつる」は餘り穉拙ではあるまいか。
 
大神女郎《おほみわのいらつめが》贈(れる)2大伴(の)宿禰家持(に)1歌一首
 
〇大神女郎 傳は未詳。大神は氏。
 
狹夜中爾《さよなかに》 友喚千鳥《ともよぶちどり》 物念跡《ものもふと》 和備居時二《わびをるときに》 鳴乍本名《なきつつもとな》     618
 
(1237)〔釋〕 ○さよなかに 「夜」に「さ」の接頭語を添へたもの。○ちどり 前出(六八七頁)。○なきつつもとな もとな鳴きつつの意。○もとな 既出(六一六頁)。
【歌意】 夜中に友を呼ぶ千鳥、それが、私が物思するとて困つてゐる時に、無茶に鳴いてねえ。
 
〔評〕戀の悩みに心細く思ひ入る時、そんな時は何を聞いても悲しい。喧しい蝉の聲を聞いても泣ける。
  もだもあらむ時もなかなむ日ぐらしの物思ふ時に鳴きつつもとな (卷十−1964)
まして千鳥の夜聲と來ては、たゞでも寂しい感哀を唆る。而もそれは友を呼ぶ聲であり、これは人を戀してゐる女であるとすれば、そこに一片共鳴の楔子が力強く打込まれてゐる。作者が不眠状態で佐保川千鳥に夜の衾を泣き沾らしてゐる樣子が思ひ遣られる。
 
大伴(の)坂上(の)郎女(が)怨恨《うらみの》歌一首并短歌
 
○怨恨歌 内容に依れば戀の怨恨である。
 
押照《おしてる》 難波乃菅之《なにはのすげの》 根毛許呂爾《ねもごろに》 君之聞四手〔左△〕《きみがきこして》 年深《としふかく》 長四云者《ながくしいへば》 眞十鏡《まそかがみ》 磨師情乎《とぎしこころを》 縱手師《ゆるしてし》 其日之極《そのひのきはみ》 (1238)浪之共《なみのむた》 靡珠藻乃《なびくたまもの》 云云《かにかくに》 意者不持《こころはもたず》 大船乃《おほふねの》 憑有時丹《たのめるときに》 千磐破《ちはやぶる》 神哉將離《かみやさけけむ》 空蝉乃《うつせみの》 人歟禁良武《ひとかさふらむ》 通爲《かよはしし》 君毛不來座《きみもきまさず》 玉梓之《たまづさの》 使母不所見《つかひもみえず》 成奴禮波《なりぬれば》 痛毛爲便無三《いたもすべなみ》 夜干玉乃《ぬばたまの》 夜者須我良爾《よるはすがらに》 赤羅引《あからひく》 日母至闇《ひもくるるまで》 雖嘆《なげけども》 知師乎無三《しるしをなみ》 雖念《おもへども》 田付乎白二《たづきをしらに》 幼婦常《たをやめと》 言雲知久《いはくもしるく》 手小童之《たわらはの》 哭耳泣管《ねのみなきつつ》 徘徊《たもとほり》 君之使乎《きみがつかひを》 待八兼手六《まちやかねてむ》     619
 
〔釋〕 ○おしてる 難波に係る枕詞。前出(九八五頁)。○なにはのすげの 初二句は「ねもごろ」に係る序詞。菅の根と續けた。○ねもごろに 「きみがきこして」の句を隔てゝ「年深く長くしいへば」に續く。○きこして (1239)聞きて〔三字傍点〕の敬相。キカシテと訓んでもよい。宣長が云ひて〔三字傍点〕の意に解してその例證を擧げたが、こゝには無用。「手」原本に乎〔右△〕とあるは誤。○としふかく 年久しく。「としふかみ」を參照(八六六頁)。○ながくしいへば 長い間懸想するをいふ。行末長くの意ではない。○まそかがみ 古への鏡は金屬製だから、鏡面を磨《ト》いで使つたので、「とぎ」に係る枕詞に用ゐた。語釋は前出(六四三頁)。○とぎしこころ 思ひ勵んだ心。操守の心をいふ。○ゆるしてし 心を許すは操を捧げること。「手師」は戲書。○そのひのきはみ その日の限。宣長及び古義が、その日よりこの方と解したのは非。○むた 「なみのむた」を見よ(三八八頁)。○なびくたまもの 浪に隨つて藻の動搖する態を以て、「かにかく」に係る序とした。「玉藻なすか寄りかく寄り」(卷二)と同意態の語。○かにかくに あちやこちやに。○こころは 異《コト》心は。○さけけむ 「さけ」は離間する意。○うつせみの 人の枕詞。既出(一〇七頁)。○さふらむ 「さふ」は支障の意の他動詞。「禁」の意訓。契沖訓による。○たまづさの 使の枕詞。既出(五六四頁)。○いたもすべなみ 前出(一〇〇二頁)。○ぬばたまの 枕詞。既出(三〇四頁)。○すがら 盡《スガ》るの意の接尾語。○あからひく 日に係る枕詞。古義はいふ「赤ら」のら〔傍点〕は接尾語。「ひく」は光《ヒカル》の意にてカルの約クなりと。又思ふに、明《アカ》りひくのリ〔傍点〕のラに轉じたもので、「ひく」はさす〔二字傍点〕の意か。○たづき 既出(四一頁)。○いはくもしるく いふこと〔二字右○〕も著く。「いはく」はいふ〔二字傍点〕の延言。○たわらは 既出(三八一頁)。○たもとほり 前出(一〇〇九頁)。
【歌意】 貴方が私の事をお耳に留めて、それは懇に年久しく長いことさ、仰つて下さるので、これまで立てゝ來た操を、貴方に捧げたその日から、浪と一緒に靡く藻が彼方此方に動くやうな、浮いた心は持たず、一途に貴方を大事の人と頼んで居る時に、二人の中を何かの神でも裂いたのであらうか、それとも人が邪魔を入れたの(1240)であらうか、ずつと通うて來て下された貴方が、この頃はお出なさらず、而も便りの御使さへも見えなくなつたので、酷くまあ仕方がなさに、夜は夜通し晝は日の暮れるまで、歎きはするけれども何の甲斐もなさに、又幾ら思うても取著きやうも分らぬので、詰りは若い娘《コ》だといはれるのは知れてゐるが、その若い娘のやうに〔九字右○〕又子供のやうに、聲を立てゝ泣き/\して、あちこちうろ/\して、貴方からの御使を待ちあぐんでをりませうことかなあ。
 
〔評〕 「懇に――年深く長くしいへば」は懸想人の熱心さもさる事ながら、郎女がとかく綱引いて、容易く色よい返事を與へなかつたことが反證される。そこには大きな理由が存在する、次句に「まそ鏡磨ぎし心」とあつてもう二度と男を持つまいと固く決心した趣と見えるから、夫を失つて寡居してゐた時代と假定する。
 この假定のもとに史實を考査すると、郎女は最初穗積親王に逢ひ、親王薨後大伴宿奈麿の妻となり、坂上大孃を生み、宿奈麿逝後、藤原麻呂の妻となつたのであるから、寡居時代が二度あつた。前度の時とすれば、その懸想人は宿奈麿となり、再度の時とすれば麻呂となる。前後いづれの作かは殆ど判定し難い。只こゝの編次が多く郎女の兄旅人の老年時代、甥家持の少壯時代の作を擧げてある點から推定すると、或は再度の寡居即ち宿奈麿逝後の出來事として、この懸想人を麻呂と見ても惡くはなからう。
 宿奈麿は神龜元年に歿したらしい。その頃の郎女はもういい姥櫻で三十四五歳にも及ばうか。年も年だし、且二度も夫に後れた苦い體驗を嘗めた女としては、男にあきらめを持つてゐる筈である。が女は弱い。つひ懇に年深くいひ寄つた人情に負けて、又新に麻呂の戀を受け入れ、「磨ぎし心を許して」しまつた。これを神龜(1241)三年の事とすれば、男の麻呂は三十二歳である。
 上出「京職藤原大夫贈坂上郎女歌四首」及び郎女の答歌はこの間の事であらう。
 素より名門に生まれて十分の教育を受け、又性格的にも輕浮の心を持たない郎女その人だから、一旦貞操を捧げたとなつては、その愛は一三昧である。處が折角所天と頼んだ麻呂その人は、「長く」といつた期待を裏切り、近來は鼬の道で物の便りさへない。
 「許してし」より「憑める時に」まで、極力わが持操を主張した數句は、即ち後段への強い反映を成してゐる。權式高いその自尊心を傷けられた事實は事實として、「神や難《サ》けけむ」「人や禁《サ》ふらむ」と、何處までも男の本心からではないやうに外らしてゐる。そこに心の美しさもあり、愛著心もあり、よき人のよき人たる教養も見えていぢらしい。實にこの一篇中の波瀾を作すもので、旨く平板の患を避け得た。
 幾ら憶うても溜息を吐いても何の手答もない以上、いゝ年をしてと理性は抑へるが、娘つ子や子供のやうに結句泣くより外の術はなくなる。でも涙は到底事件の解決はつけない。殘された未練に引摺られて、うろうろしながら、向後も來るか/\のよもやに、君が便を待ち兼ねて居らうことかと歎嗟し、無限の懊悩に捉へられさうなことを強く恐れてゐる。
 郎女はこの戀の破綻に氣を腐らし、兄旅人を頼つて筑紫に往つたのであらう。多分は太宰少貮小野(ノ)老が赴任の序に伴はれたものか。老赴任の事は卷三「青丹吉奈良の都は咲く花の」(七九三頁)及び「吾が行きは久にはあらじ」(八〇四頁)の評語を參照。  この篇、一意到底の作で、段落がない。強ひて分ければ、初頭より「使も見えずなりぬれば」までを前段、(1242)以下を後段と見てよからう。大體がよく事件の推移を叙し、胸臆の語を吐露し盡し、意到り筆隨ふの觀があるが、それだけ稍常識的でもある。
 「ねもごろに」は直接に「君が聞かして」に係からぬ句とすれば、「難波の菅の根もごろに」といふ七五調の叙法となり、五七の基調が亂れてしまふ。又「なりぬれば痛もすべなみ」の句も獨立性を缺き「なりぬれば」は上に隷屬して、七五調になつてゐる。が、それが時代的に當然であると思ふ。七五調は古代からの存在であることは既にいつた。奈良時代に三句までいひ下した七五の姿體をもつた短歌の多いことはいふまでもない。長歌に至つては意思の暢達上、嚴しい五七の格調のもとに整理されてゐる觀があるものゝ、元來眞の時代調とは矛盾してゐるので、奈良後期に及んでは、漸くかくの如き破調を生じ、遂に平安時代(古今集)に見るが如き破調澤山の長歌の出現を見るに至つたものである。
 
反歌
 
從元《はじめより》 長謂管《ながくいひつつ》 不令〔左△〕恃者《たのめずば》 如是念二《かかるおもひに》 相益物歟《あはましものか》     620
 
〔釋〕 ○たのめ 憑ませの意。「令」は金澤本その他に從つた。原本念〔右△〕とある。念恃でもタノメと讀めぬことはない。
【歌意】 最初から貴方が、長いこと懸想をいひ續けて、私に實のある方と〔六字右○〕憑みにさせないなら、こんな苦勞事に出會はうものですかい。
 
(1243)〔釋〕 長歌の要を摘み得て遺憾がない。後悔と怨恨とが綯ひ交ぜになつて、惻々たる沈痛の響を傳へてゐる。全責任を向うに被けたことは、往時の夫婦關係が男が絶對に能動的で、女が極度に受動的であつたことにもよる。
 
西(の)海(つ)道(の)節度使《せどしの》判官《はうぐわん》佐伯《さへきの》宿禰|東人《あづまひとの》妻《めが》贈(れる)2夫《せの》君(に)1歌一首
 
○西海道節度使判官 節度使は兵士竝に子弟、水手、官船を檢定し、弓馬を起し、陳列を講習し、兵器を作る等の事を掌る。續紀によるに、天平四年八月東海東山山陰西海四道に始めて置く。道別に判官主典四人、醫師陰陽師各一人と定む。同六年罷む。天平寶字五年十一月東海東山西海三道に又置く。同八年又罷む。判官は正副使の下に隷す。○佐伯宿禰東人 傳は未詳。續紀に、天平四年八月、西海道節度使(ノ)判官佐伯東人に外從五位下を授くとある。
 
無間《あひだなく》 戀爾可有牟《こふるにかあらむ》 草枕《くさまくら》 客有公之《たびなるきみが》 夢爾之所見《いめにしみゆる》     621
 
〔釋〕 ○あひだなく 元暦本神本その他の訓による。舊訓ヒマモナク〔五字傍線〕。○こふるにか 戀ふるによりて〔三字右○〕か。宣長はコフレニカ〔五字傍線〕と訓じ、古義もこれに從つたが、こゝには不當。○くさまくら 旅の枕詞。既出(四〇頁)。○みゆる の下よ〔右○〕の歎辭を含む。
【歌意】 貴方〔三字右○〕が絶え間なく、私を〔二字右○〕戀ふる爲でありませうか、旅にいらつしやる貴方が、私の夢にさ見えましたよ。
 
(1244)〔評〕 初二句は夫が作者を戀ふるのである。抑も夫が夢に見えたのは、畢竟夫を思ひ寐の夢だからである。それを全然棚に上けて、夫の戀をのみ云爲した眞意は那邊にあるかといふに、暫く西海は筑紫の旅に出てゐて相逢はぬ夫の心の動向を、一寸打診して見たかつたのであつた。故意に本末顛倒の言舌を弄して、暗裏に思慕の情を寓せた、その幻手段にはつい乘せられる。當時、人に戀ひらるればその人が夢に見ゆるといふ諺があつてかく詠んだのだらう、といふ説もあるが、そんな準據をもたぬものとして見る方が自然であり、面白味もある。下の
  いかばかり思ひけるかも敷細《シキタヘ》のまくら片《カタ》去り夢に見えこし(娘子−633)
も同じ著想から出た作。
 
佐伯(の)宿禰東人(が)和(ふる)歌一首
 
草枕《くさまくら》 客爾久《たびにひさしく》 成宿者《なりぬれば》 汝乎社念《なをこそおもへ》 莫戀吾妹《なこひそわぎも》     622
 
〔釋〕 ○わぎも の下によ〔右○〕の歎辭を含む。
【歌意】 私こそ旅に出て、逢はずに長いことになつたので、お前の事をさ一途に思ふわい。だからお前はさう戀しがるなよ。
 
〔評〕 東人もさる者、ハヽアこれは小當りに探りを懸けたなと曉つて、浮氣どころか、永い別離に胸の中はお前(1245)の事で一杯だと安心させたものだ。結句の促調は力強く妻に呼び掛けた趣で、そこに親切の情味が躍つてゐる。
 この贈答は紀に依つて考へると、天平五六年頃の作であらう。
 
池邊《いけべの》王(が)宴《うたげにて》誦《うたへる》歌一首
 
池邊王が宴會の席上で唱へられた歌との意。池邊王の自作ではない。○池邊王 續紀に神龜四年正月無位より從五位下、天平九年十一月從五位上内匠頭となる。弘文天皇の御孫で、正四位上式部卿葛野王の子。淡海眞人三船はこの王の子。
 
松之葉爾《まつのはに》 月者由移去《つきはゆつりぬ》 黄葉乃《もみぢばの》 過哉君之《すぎぬやきみが》 不相夜多烏〔左△〕《あはぬよおほく》     623
 
〔釋〕 ○ゆつりぬ 移《ウツ》りぬ。ウ〔傍点〕、ユ〔傍点〕は通韻。○もみぢばの 「過ぎ」に係る枕詞。既出(一八四頁)。○すぎぬや 「すぎ」は時の經つこと。死ぬることもいふがこゝには協はぬ。「や」は歎辭。古義訓はスギシヤ〔四字傍線〕。○おほく 多く過ぎぬや〔六字傍点〕と打返して聞く。宣長訓によつた。宣長又いふ、「哉」を去〔右△〕の誤とせばスギヌル君ガアハヌ夜オホミ〔十三字傍線〕と訓まんかと。神本訓オホシ〔三字傍線〕。「烏」は原本鳥〔右△〕に誤る。烏は焉と通用で、こゝは虚字として訓まぬ。
【歌意】 今夜も〔三字右○〕松の葉に月は更けて移つた。思へば〔三字右○〕君が逢うて下さらぬ夜が、多く過ぎたことよ。
 
〔評〕 閨怨を歌つてある。夕月が漸う昇つて遂に松の梢に更けるまで待つたが、今宵も亦かの人は來ない、物寂(1246)しさの餘に數へて見れば、この頃はずつと來ぬ夜が積つてゐる。もしや心變りではあるまいかの危惧の念に、悵然として天の一方を詠めてゐる女の樣子が思ひ遣られる。情景兼ね到つた作である。
 歌は古歌で、詠者は未詳である。何で王がこの歌を誦じたかといふに、興宴既に半夜に及び、この初二句の意がその場合の光景に恰も該當するからであつた。三句以下の意は一切關係ないが、然し情事に關することは、何時いかなる場合でも興趣を惹くものである。
 
天皇|思《しぬばして》2酒人女王《さかひとのおほきみを》1御製《みよみませる》歌一首
 
○天皇 聖武天皇。當代なるが故に天皇とのみ書いた。○酒人女王 古本の註に穗積皇子之孫女也とある。光仁天皇の皇女酒人内親王とは別人。この酒人内親王は寶龜三年に伊勢|齋《イツキ》となつたと續紀にある。伊勢の齋宮は處女に限られてゐる。假に二十歳で齋宮に居られたとしても、聖武天皇崩後二年の天平寶字七年の御出生となるので、御年齡が出合はない。諸註誤る。
 
道相而《みちにあひて》 咲之柄爾《ゑまししからに》 零雪乃《ふるゆきの》 消者消香二《けなばけぬがに》 戀念〔左△〕吾妹《こひもふわぎも》     624
 
〔釋〕 ○ゑまししからに 「ゑまし」は笑む〔二字傍点〕の敬相。「からに」は故にの意。故を古言にカレと訓むも同語。○ふるゆきの 消《ケ》に係る枕詞。○けぬがに 前出(一二六頁)。○こひもふ 「念」原本に云〔右△〕とある。これはコフトフ〔四字傍線〕と訓まれるが歌の意が疏通しない。宣長説により改めた。
(1247)【歌意】 途中で會うて、貴方が〔三字右○〕ニコリとせられた爲に、私は消えるなら消えてしまふばかりに、戀しく思ひますぞえ。貴女よ。
 
〔評〕 絶代の佳人は一顧傾人城、再顧傾人國(漢書、李延年)と、古人の歌つたのも嘘でない。矯羞笑みを含んだ行摺りの流眄でも「消なば消ぬがに戀ひ念ふ」ばかり悩殺される。この點に於ては男は弱い。結句の43音の促調は、このさし迫つた意調に該當した表現である。
 尊貴の御身で目下の者に「笑ましし」の敬語を用ゐられたのは、現代の考では異樣に聞えゐが、古代にあつては例の多いことで、疑ふに及ばない。又雪を以て消ゆ〔二字傍点〕の枕詞や序詞に用ゐることは、この時代の殆ど常識的修辭であつて、一々例證を擧げるまでもない。
 
高安《たかやすの》王(の)裹鮒《つつめるふなを》贈(れる)2娘子《をとめに》1歌一首
 
高安王が藻に〔二字傍点〕裹んだ鮒を或娘子に贈つた歌との意。諸註「裹鮒」の解説がない。○高安王 傳は前出(一一九九頁)。
 
奥幣往《おきへゆき》 邊去伊麻夜《へにゆきいまや》 爲妹《いもがため》 吾漁有《わがすなどれる》 藻臥束鮒《もふしつかふな》     625
 
〔釋〕 ○いまや 「や」は歎辭。○もふしつかふな 藻に隱《コモ》つてゐる大きな鮒。藻臥を地名とする説は非。「つか」は手一束ねの尺度をいふ。
(1248)【歌意】 河の〔二字右○〕沖の方へ往き又岸邊に往きして、苦勞して〔四字右○〕、今まあ貴女の爲に私が漁つて獲た、この藻伏しの束鮒です。その積りで賞翫して下さい。
 
〔評〕 わが贈物に價値づけて、厚意の押賣をした。これは古代中世に多いことであつた。お出入の魚屋から取寄せた小さな附かも知れないが、只管娘子に贈りたい爲に、王自身が河水にあちこち浸つて捕つた大きな鮒だと誇稱した。「沖へゆき邊にゆき」はその劬勞の状態描寫である。
 鮒取の行爲は贈る時には過去の筈だが、「今やすなどれる」と、尚現在態の行叙を用ゐた。過去にいふよりは、この方が印象が鮮明で、現實味が強く表現され得る。古今集に光孝天皇の御製、
  君がため春の野にいでて若菜つむわがころも手に雪は降りつつ(春上)
の趣と旨く合致してゐる。
 尚この歌には贈遺の仕組に機轉の面白さが伴ふ。それは題詞の裹鮒である。鮒はよく水中の※[草冠/行]藻の間に伏してゐる。そこでその状態を摸して鮒を藻にくるんで贈り、歌にも「藻伏し束鮒」と詠んだものだ。田中道麻呂の河内國志紀郡裳伏岡の地に産する鮒かといふ説は、横入りも亦甚しい。
 二句は嚴しくいへば碎けてゐるが、然し類例は多い。
 
八代《やしろの》女王(の)獻(れる)2天皇(に)1歌一首
 
○八代女王 續紀に、天平九年二月無位から正五位下、寶字二年十二月從四位下|矢代《ヤシロノ》王の位記を毀る、先帝に(1249)幸せられ、志を改むる以てなりとある。
 
君爾因《きみにより》 言之繁乎《ことのしげきを》 古郷之《ふるさとの》 明日香乃河爾《あすかのかはに》 潔身爲爾去《みそぎしにゆく》     626
  一尾(ニ)云(フ)、龍田越《タツタコエ》、三津之濱邊爾《ミツノハマベニ》、潔身四二由久《ミソギシニユク》
 
〔釋〕 ○きみ 聖武天皇を斥し奉る。○ふるさと 三義ある。(1)宮址、都址をさす。(2)曾て住んでゐた處をさす。(3)本貫の地をさす。こゝは(1)の意。○あすかのかは 既出(五〇六頁)。○みそぎ 前出(九三六頁)。〇一尾 或下句の意。三句以下を尾と稱した。○たつたこえ 立田山を越え。「立田山」は既出(二八四頁)。○みつのはま 既出(二三五頁)。
【歌意】 君樣の事によつて、人の噂のうるさいのを祓ふ爲に〔四字右○〕、舊都の飛鳥川に潔身しに私は參ります。
 
〔評〕 宮女花の如く春殿に滿ちても、三千の寵愛が一身に鍾まる場合には、人言はうるさい。當時皇后光明子は聞えた美人でまし/\たが、既に老衰の域に臨ませられ、女王はその若さを以て、君恩を獨占したのであらう。源氏物語の桐壺更衣が病勝ち里勝ちにのみ過したのも、他の宮女達の嫉妬偏執の結果であつた。女王も遂に宮の内に居たゝまれず、それ等の苦悩から遁れたい爲に、わが故里の飛鳥の家に退出したものと想はれる。
 潔身《ミソギ》が水邊の行事で、あらゆる穢や罪惡や災害を清め祓ふことは、大祓の枕詞の示すが如くである。人言は災害の一つであるから、これも神攘ひに攘つてしまへば清々するだらうので、「飛鳥の川に潔身しにゆく」と申(1250)し上げた。然し實の處はその退出の理由を粉飾した寄託の言で、幽婉の情味が津々として盡きない。
 一尾の「三津の濱邊に」は只潔身一點張の事となつて、面白くない。
 
娘子《をとめが》報2贈《こたふる》佐伯《さへきの》宿禰|赤麻呂《あかまろに》1歌一首
 
○報贈 とあるによれば、前に赤麻呂の贈歌があるべきだが、逸したのであらう。古義は下の「初花の――」の歌を贈歌として、排次をさへ前後に變更したが專斷である。○佐伯宿禰赤麻呂 傳は前出(九一一頁)。
 
吾手本《わがたもと》 將卷跡念牟《まかむともはむ》 大夫者《ますらをは》 戀水定《なみだにしづみ》 白髪生二有《しらがおひにたり》     627
 
〔釋〕 ○まかむ 枕にせうの意。「まき」を見よ(四二九頁)。○ますらをは 赤麻呂をさす。この句初句の上にめぐらして聞く。○なみだに云々 上にわれは〔三字右○〕の語を添へて聞く。「戀水」をナミダとよむは意訓。頗るひねつた字面である。小説中の語か。○おひにたり 古義に在〔傍点〕の字は集中皆ケリ〔二字傍線〕と訓む。在有〔二字傍点〕相通だから、こゝもオヒニケリ〔五字傍線〕と訓むとあるが、諾き難い。こゝの趣はケリ〔二字傍線〕では納まらない。
【歌意】 ますらを即ち赤麻呂の君は、私の袂を枕に寢ようと念ふであらう。然し私は〔二字右○〕老い惚けて涙に沈み、頭には白髪が生えて居ります。お氣の毒樣ね。
 
〔評〕 この歌は解説がむづかしいが、まづ上述の如くに三句を上へ廻して片付廿ておかう。さて題詞には娘子と(1251)あるから若い女と見えるが、涙に沈み白髪の生えるのは老女の事である。想ふにこの娘子は若いといつてももういゝ加減の年増なのであらう。それを頗る誇大によぼ/\の老女ですからと、戲謔の意を混へて、赤麻呂の求愛を茶化したものか。
 
佐伯(の)宿禰赤麻呂(が)和(ふる)歌一首
 
白髪生流《しらがおふる》 事者不念《ことはおもはず》 戀水者《なみだをば》 鹿※[者/火]藻闕二毛《かにもかくにも》 求而將行《もとめてゆかむ》     628
 
〔釋〕 ○おもはず 古義訓オモハジ〔四字傍線〕は非。○かにもかくにも 「鹿※[者/火]藻闕二毛」はわざと難字を填用したもの。
【歌意】 貴女の仰しやる白髪のある事などは、私は構ひません、とにもかくにも、そのお涙をば目當てに尋ねて行きませう。
 
〔評〕 返歌の常として大抵は懸歌の逆説にをはる。懸歌は眞實から出た感想の結晶だから、比較的勝れてゐる場合が多い。返歌となると、懸歌にすべてを制限されて、その狹い範圍内に小細工をするが關の山なので、懸歌に劣るのが普通である。上の歌も返歌、この歌も又その返歌で、段々と拙くなつてゆくのは據ない。
 
大伴(の)四綱《よつなが》宴席《うたげの》歌一首
 
○大伴四綱 前出(七九五頁)。○宴席歌 宴會の席でのとの意。
 
(1252)奈何鹿《なにすとか》 使之來流《つかひのきたる》 君乎社《きみをこそ》 左右裳《かにもかくにも》 待難爲禮《まちかてにすれ》     629
 
【歌意】 何の爲とてお使の來たことか。こちらでは、とにもかくにも、御本人の貴方をさ、待ちあぐんで居ます。
 
〔評〕 四綱がその家に宴席を設けて客人を招待した折の作と思はれる。尊者だつた客人が、急に使をよこして出席を斷つて來た。そんな使などは來るに及ばぬ、御當人さへ見えればよいと、ダヽを捏ねたものだ。そこにその不參を甚しく不滿に遺憾に思ひ込んだ情意が横流する。「なにすとか」は實に御挨拶である。素より當座の口占で、只その口の輕い處を賞美すればよい。
 
佐伯(の)宿禰赤麻呂(が)歌一首
 
初花之《はつはなの》 可散物乎《ちるべきものを》 人事乃《ひとごとの》 繁爾因而《しげきによりて》 止息比者鴨《よどむころかも》     630
 
〔釋〕 ○はつはな 初めて咲き出した花。少女に譬へた。○よどむころ 躊躇《タユタ》ふ頃。「よどむ」は滯るをいふ。
【歌意】 初ひ/\しい花即ちあの娘《コ》は、すぐ花の散るやうに、女盛りは過ぎてしまふ筈のものを、自分は人言のうるささによつて、ようも通はず、躊躇してゐるこの節であることよ。あゝ心配な。
 
〔評〕 君に似たる花は發く兩三枝、實に銷魂の種である。然し色衰へ香の失せるのも端的だ。氣が氣でないが、(1253)又うるさい人言も斟酌せねばならない。この人言は恐らく妻君などの怨言であらう。故い衣よりは新しい衣の方がよいといふものゝ、そこには棄て難い人情がある。あふさきるさの玉襷で、懸想人赤麻呂の情恨は徒らに永い。「よどむ頃かも」に、その煮え切らない優柔不斷の心状を持續して、焦燥に日を送る趣がよく出てゐる。
 
湯原(の)王(の)贈(れる)2娘子(に)1歌二首
 
○湯原王 傳は前出(八六二頁)。
 
宇波弊無《うはへなき》 物可聞人者《ものかもひとは》 然許《しかばかり》 遠家路乎《とほきいへぢを》 令還念者《かへすおもへば》     631
 
〔釋〕 ○うはへ 表方《ウハヘ》の義。こゝは表面《ウハベ》のなさけ、即ちお愛想の意に用ゐた。○ひと 娘子をさす。○いへぢを 家路なる〔二字右○〕を。「家路」は前出(七四一頁)。○かへす 略解訓による。古義訓カヘシシ〔四字傍線〕は非。
【歌意】 貴女は愛想氣のないものかいな。私の家路はこれ程に違いものを、泊めてもくれず歸すことを思ふとね。
 
〔評〕 この二首は例の懸想の作である。大分遠方から娘子の家に妻問《ツマドヒ》に通つたと見える。今宵も亦夜更けまで掻口説いてみたが、相變らず頑強に刎ねられて、すご/\遠路を歸る器量のわるさ、悔しさの餘り、「うはへなき人」と怨じかけて、お世辭にもまあお泊りになつてはいかゞ位の事をいつてくれても罰は當るまいにと、愚痴(1254)を溢したものだ。だがこの愚痴には恐ろしい落し穴がある。もしもそれに乘つて泊めたが最後、もう何と辯解しても娘子の貞操は認められない。そこが又この王の覘ひ處で、逶※[しんにょう+施の旁]曲折して意趣に涯りない面白さがある。
 初二句の「人は」の語の倒置は、最もよくこの際の情意に適應した表現で、強く娘子その人を把握して、對象を鮮明ならしめてゐる。
 
目二破見而《めにはみて》 手二破不所取《てにはとらえぬ》 月内之《つきのうちの》 楓如《かつらのごとき》 妹乎奈何責《いもをいかにせむ》     632
 
〔釋〕 ○みて 見え〔右○〕て。○とらえぬ 舊訓トラレヌ〔四字傍線〕にてもよい。○つきのうちの 古義訓ツキヌチ〔四字傍線〕は妄である。この事卷五「くぬち」の項を參照。○つきのうちのかつら 月中の桂樹。酉陽雜爼に「月中(ニ)有(リ)v桂、高(サ)五百丈、下(ニ)有(リテ)2一人1、常(ニ)斫(ルニ)v之(ヲ)、樹(ノ)創隨(ツテ)合(フ)云々」と見え、月中に桂樹ありとするは支那の古い説話である。「楓」はメカツラ、桂はヲカツラ。よつて字を通用した。桂は賀茂《カモ》桂をいひ、又|木犀《モクセイ》を稱する。詩文にあるは多く木犀のことである。
【歌意】 目には見えて、その癖手には捉まへられぬ、月の中にある桂のやうな、見ることは見ながら、自分の手には這入らぬ貴女を、どうせうぞいなあ。
 
〔評〕 王の懸想は可なり進行してゐる。書簡で意思を適ずる第一期、(1255)取次で物言ふ第二期は通り越して、簾を隔てゝは居るものゝ、ぢかに語らひ得る第三期に入つてゐる。だから上の歌にも、泊めてくれてもよいなど怨じたものだ。とにかく今一息といふ處だが、向うも大事を取つて、さう輕卒には靡かない。その齒痒さじれつたさたらない。まるで月の中の桂の樹だとぼやいた。「目には見て手には取らえぬ」の排對的の繁褥な描寫は、即ち複雜な心の動向を示してゐる。
 天界仙界の靈たる月桂を以て娘子に譬へたことは比倫の當を得たもので、作者の景慕の念が明らかに看取される。又理窟をいへば、月は見えても中の桂樹は見えないが、月も月桂も混一にこゝは扱つてゐる。錯覺を利用した修辭法ともいへよう。古義に
  娘子の許に到り給へるに、見たるばかりにて、父母などの障へによりて、密び遇ふ事のならねば詠み給へるなるべし。
とあるは見當違ひである。
 かく漢土の典故を使用してゐるが、かうした説話は流傳の比較的早く廣い性質のものだから、あながち王が原書を讀んだともいへぬが、下にも文選の匣中(ノ)玉を運用してゐる點からして、王は相當の漢學者だつたと見てもよからう。とにかく漢文學の影響のいちじるしさが如實に窺はれる。
 結句、伊勢物語に「君にもあるかな」とあるは、平安の時代調に傳誦されたものである。 
娘子(が)報贈(ふる)歌二首
 
幾許《いかばかり》 思異目鴨《おもひけめかも》 敷細之《しきたへの》 枕片去《まくらかたさり》 夢所見來之《いめにみえこし》     633
 
(1256)〔釋〕 ○いかばかり 舊訓イクソバク〔五字傍線〕。○おもひけめかも 思ひけめば〔右○〕かも。「けめ」は過去推量の助動詞ケムの第五變化。「異」をケと訓むは怪の音をうつして充てたもの。○まくらかたさり 枕が脇へ片寄つて。「片去り」は他に處を讓つて脇へ退くをいふ。こゝは夫の寢る分を避《ヨ》けて枕が片寄ること。諸註の解すべて誤る。評語參照。古義訓カタサルイメ〔六字傍線〕と續けたのは非。
【歌意】 どれ程貴方が思うて下されたせゐかしてまあ、寢てゐるうちに、私の枕が床の端へ片寄つて、貴方が夢に現れて來ましたことよ。
 
〔評〕 夫婦同寢の時は床を半ば避けて片寄つて寢る。娘子は今獨寢であるから、素より眞中に寢たのであつた。然るに輾轉反側の間に、何時か枕が片方に寄り、そして王が側《ソバ》に寢てゐる夢を見たのである。所謂「寤寐これを見る」ものである。然るに作者はその相思の情を專ら王の上に寄託して、逆叙の筆法を用ゐた。かういはれては義理にもその言を是認して、愛の交換を餘儀なくさせられる。この作者なか/\老獪な味をやつたものだ。「枕片去り」の艶語は即ちまた銷魂の語である。
 こゝの二首は湯原王に許して後の作である。
 
家二四手《いへにして》 雖見不飽乎《みれどあかぬを》 草枕《くさまくら》 客毛妻與《たびにもつまと》 有之乏左《あるがともしさ》     634
 
〔釋〕 ○つまとあるが 異《コト》妻と共に〔二字右○〕在るがの意。古義に「妻」を夫の借字として湯原王と見たのは誤。
(1257)【歌意】 貴方が〔三字右○〕お宅に入らしつての時に逢うても、たまさかで物足りないのを、今は御旅行で、而もその旅にも他の女と一緒に御出のことが、不足で溜りませんわ。
 
〔評〕 下の歌に「嬬は※[巒の上半/十]たれども」とあつて、湯原王は都から外の女を連れて旅に出たのであつた。娘子内心の憤懣は察するに餘ある。けれども頗るおとなしく、只嫉妬の氣持だけを歌つてゐる。上代、中古、資産階級の人達が多妻の習俗であつた以上は、夫の情事に寛大なのが當然であらねばならぬ。歌は理路に著する嫌はあるが眞率である。
 
湯原(の)王(の)亦《また》贈(れる)歌二首
 
草枕《くさまくら》 客者嬬者《たびにはつまは》 雖※[巒の上半/十]《ゐたれども》 有匣内之《くしげのうちの》 珠社所念《たまをこそおもへ》     635
 
〔釋〕 ○ゐたれども 宣長訓ヰタラメド〔五字傍線〕は非。○くしげのうちのたま 櫛筥のうちに納めた珠。深※[窗/心]にいつかれた娘子を喩へた。「くしげ」は既出(三一四頁)。○たまをこそ 諸訓タマトコソ〔五字傍線〕とあるは解説をむづかしくする。△挿畫 挿圖99を參照(三一四頁)。
【歌意】 成程私は旅に異妻《コトヅマ》は連れてはゐるが、内心には、匣の中の珠である、貴女の事をさ思つてをります。
 
〔評〕 「贈歌」と題詞にはあるが、この歌は上の「家にして」の返歌である。娘子は旅先へ一寸連れて出るやうな(1258)輕い身柄ではないので、王は外の女を伴つて旅行したのであらう。そこを突つ込んで「旅にも妻とある」と遣られた辯解に、貴女は匣中の珠でしてねと祭り上げておいて、一緒に連れて來られぬのが殘念で、私の眞の心は貴女にばかりと、口先で旨く丸め込んだものだ。
 匣中の珠は文選、石崇の王明君(ノ)(王照君のにと)辭に「昔(ハ)爲(リ)2匣中(ノ)玉1、今爲(ル)2糞土(ノ)英(ト)1」とあるに本づいた。然し文選のは進御を得ざる美人を喩へたのだが、これは筥入の美女に喩へた。そこに運用自在の妙があり、又平易で譬喩が解しやすい。當時の婦人は漢學を絶對にせぬから、典據の本文通りの意では、相手の娘子にその譬喩の意の通ずる譯がない。されば匣中の珠を異妻に喩へ、あつても無いと同樣な者で云々と解する、タマト〔三字傍線〕の舊訓に從ふことは出來ない。
 
余衣《わがころも》 形見爾奉《かたみにまつる》 布細之《しきたへの》 枕不離《まくらをさけず》 卷而左宿座《まきてさねませ》     636
 
〔釋〕 ○まつる 卷十八に萬調麻都流《ヨロヅツキマツル》と見え、「奉」はマツルと訓むが普通である。舊訓マダス〔三字傍線〕は上古文にタテマダスの語が存在して、更に「麻都里太須《マツリダス》かたみの梅を」(卷十五)ともあるから、それらの略語と見るべく、義は獻り出すである。○まくらをさけず 枕邊を遠|放《サ》けず。契沖訓による。舊訓はマクラカラサズ〔七字傍線〕。○さねませ お寢なさい。「さ」は接頭語。
【歌意】 私の衣を形見として貴女に差上けます、どうぞ貴女の枕邊を離さず、身に纏うて寢て下さいませ
 
(1259)〔評〕 衣を身代りに贈り、自分と思つて一緒に寢て、その相思の情を慰めよといふ。この温情に富んだ仕打と、この柔語軟聲とは、まことに情痴世界における銷魂の種で、「枕をさけず纏きてさ寢ませ」は實感的の極である。「まつる」「さ寢ませ」の敬語も、その慇懃の情味の躍動を示してゐる。
 措辭に一字の弛緩もなく不安もなく、上下の均衡を得、調はまた齊整を極めてゐる。完作。
 
娘子(が)復《また》報贈《こたふる》歌一首
 
吾背子之《わがせこが》 形見之衣《かたみのころも》 嬬問爾《つまどひに》 余身者不離《わがみはさけじ》 事不問友《こととはずとも》     637
 
〔釋〕 ○つまどひに 嬬間ひに賜ひぬ〔三字右○〕の意。この句は賜ひぬ〔三字右○〕の語を略いたものとして解する。「つまどひ」は前出(九六二頁)。○こととはず 言葉をかけず。「こととはぬ」を見よ(一〇四七頁)。
【歌意】 折角貴方が形見の衣を、妻の私へ見舞として下さつた。で私の身はそれを離しますまいよ。よしお便りはなくともさ。
 
〔評〕 假令音問のお便りはなくとも、お志の形見の衣は貴方と思つて瞬時も放すまいとは、何たる貞心の現れであらう。畢竟形見の衣に托して一生その人を忘れぬ純眞の情を披瀝したものである。
 「わがせこ」は成語であるだけに、下の「わが身」との重複感が割引されて聞える。但三句は尚不完の謗は免れまい。
 
(1260)湯原王(の)亦贈(れる)歌一首
 
直一夜《ただひとよ》 隔之可良爾《へだてしからに》 荒玉乃《あらたまの》 月歟經去跡《つきかへぬると》 心遮《こころふたがる》     638
 
〔釋〕 ○へだてしからに 隔てた故に。○あらたまの 月の枕詞。前出(九八六頁)。○こころふたがる 「遮」は塞〔傍点〕の借字と見て、意訓にフタガルと讀むがよい。古來附會の訓が多い。或は迷〔傍点〕の誤字として心ハマドフ〔五字傍線〕と訓んだ人もある。
【歌意】 たつた一夜さ隔てを置いた爲に、もう一月も經つたかと思はれて、私の氣持は欝ぎますわ。
 
〔評〕 人の天性は天の邪鬼で、逢はぬ夜が事實では一夜でも、感情では二日も三日もの氣がする。愛の昂揚と共にその感じが甚しく誇大され、遂には「月か經ぬる」とまでになる。詩の王風采葛に、
  彼(ノ)采(ル)v葛(ヲ)兮、一日不(レバ)v見如(シ)2三月(ノ)1兮。彼(ノ)采(レ)v※[草冠/肅]兮、一日不(レバ)v見如(シ)2三秋(ノ)1兮。彼(ノ)采(ル)v艾兮、一日不(レバ)v見如(シ)2三歳(ノ)1兮
とあるに偶合してゐる。かうした人情は古今東西とも變るものではない。が只作者が漢學者湯原王だけに、或は采葛の詩の翻案かとの疑が挿まれる。
 
娘子(が)復報贈(ふる)歌一首
 
吾背子我《わがせこが》 如兵戀禮許曾《かくこふれこそ》 夜干玉能《ぬばたまの》 夢所見管《いめにみえつつ》 寐不所宿家禮《いねらえずけれ》     639
 
(1261)〔釋〕 ○こふれこそ 戀ふれば〔右○〕こそ。既出(三六三頁)。○いねらえずけれ 「らえ」はラレの古言。「ずけれ」は否定のず〔傍点〕の第二變化に、ケリの助動詞の第五變化けれ〔二字傍点〕の接續した詞形。古文法。
【歌意】 貴方がさう私を思つて下さればこそ、私の夢に貴方の面影が見え/\して、一向眠られもせぬのでしたわ。
 
〔評〕 夢に見えて寢られないのは、實は作者自身の心からであるのを、逆に我背子のせゐにしてゐる。お蔭で寢られませんでしたと文句はいふものゝ、腹の中では嬉しさが込み上げて、そつと感謝の涙を拭つてゐる。その暗示に 含蓄の妙を見る。上の
  間なく戀ふるにかあらむ草まくら旅なる君がいめにし見ゆる (東人妻−621)
とその規を一にする。彼れは「戀ふるにか」となほ想像的疑問の餘地を存し、此れは「戀ふれこそ」と現在的事實として強くいひ切つた。彼れは贈歌であり、此れは返歌である事情から、二樣の面目をもつてきたが、もと/\胤は一つの双生兒である。
 
湯原(の)王(の)亦贈(れる)歌一首
 
波之家也思《はしけやし》 不遠里乎《まぢかきさとを》 雲居爾也《くもゐにや》 戀管將居《こひつつをらむ》 月毛不經國《つきもへなくに》     640
 
〔釋〕 ○はしけやし 里《サト》に係る。「はしけ」ははしき〔三字傍点〕の轉。「はしきやし」を見よ(五一八頁)。○まぢかきさとを(1262) 間近き里なる〔二字右○〕を。○くもゐに 雲居の如く〔三字右○〕に。雲居は大空のこと。轉義して遠方の意に用ゐる。こゝは遠方の意。なほ「栲《タヘ》の穗に」を參照(二七四頁)。
【歌意】 愛でたい而もつい近間《チカマ》である貴女の里なのを、さも恐ろしい遠方のやうに、逢ひに行きかねて〔八字右○〕、戀ひ戀ひして居らうことかえ、嘗て逢つてから碌に月も經ちもせぬのにさ。
 
〔評〕 次の娘子の返歌の意から推察すると、一旦會合の後、暫く湯原王自身の都合上から交通を絶つたものと見える。蓋し止むを得ぬ事情に依つての事ではあらう。それがなまじ間近き里であるだけに、朝夕の見聞に刺衝を感じ、又新婚後月も經ぬだけに、思慕の情は切なるものがある。
 「間近き里を雲居にや」と矛盾の交錯に感慨を托し、「月も經なくに」と情界の天地の缺陷を嗟歎してゐる。
 
娘子(が)復報贈(ふる)和〔左△〕歌一首
 
○和 元暦本その他にない。削るがよい。
 
絶常云者《たゆといはば》 和備染責跡《わびしみせむと》 燒太刀乃《やきだちの》 隔付經事者《へつかふことは》 辛〔左△〕也吾君《からしやわぎみ》     641
 
〔釋〕 ○わびしみせむ 佗びしがらむの意。「わびしみ」はわびし〔三字傍点〕の形容詞にみ〔傍点〕の尾辭の添はつた語。○やきだちの 「へつかふ」に係る枕詞。燒太刀とは鐵を火に燒いて太刀に作るのでいふ。「へつかふ」は(1)刃著《ハツク》の義で、(1263)刃《ハ》をへ〔傍点〕と轉じ、著《ツ》くをツカフ〔三字傍点〕と延べた語(久老説)。(2)太刀は鞘を隔でゝ身に著け佩《ハ》くものなれば隔著《ヘツク》の意(眞淵説)。(3)身邊に取佩く物ゆゑ邊著《ヘツカ》ふの意。(古義)以上のうち(1)の説が可からう。燒き上げた太刀に刃を付け砥にかけるは常の事で、故に燒太刀の砥竝《トナミ》ともいひ、更に砥を利《ト》に通して燒太刀の利心《トゴコロ》ともいふ。○へつかふ 諂《ヘツラ》ふの原語。尚|狹丹著《サニツカ》ふがサニツラフ〔五字傍点〕と轉ずると同規。「さにつらふ」を見よ(九三三頁)。○からしや つらいことよ。「や」は歎辭。「辛」原本に幸〔右△〕とある。道麿説によつて改めた。眞淵は元のまゝでヨケリヤ〔四字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 縁を切るといつたら、情《ナサケ》ながらうとて、お調子のいゝ事を仰しやるのは、つらいことですよ、わが君よ。御本心を仰しやいませ。
 
〔評〕 間近に居ながら雲居に戀するは、よく/\の事情であらねばならぬ。然し待つ人の心からは、まこと誠意があるなら、萬難を排しても逢ひに來さうなものとの身勝手がある。で湯原王の生温い態度に慊らず、その眞意如何と敲いてみた。盲目的猜疑心は殊に婦人において、又この道において深いので、切れるなら切れると本心を白状しなさい、氣休めは御免だといひ放つた。この贈答における兩者の心證を相對照して檢討すると、その應接に頗る興味の津々たるものがある。
 燒太刀は男子の持物、隨つて「へつかふ」が湯原王に緊密に聞係づけられてくる。
 
湯原(の)王(の)歌一首
 
吾妹兒爾《わぎもこに》 戀而亂者〔左△〕《こひてみだれば》 久流部寸二《くるべきに》 懸而縁與《かけてよせむと》 余戀始《わがこひそめし》     642
 
(1264)〔釋〕 ○こひてみだれば 「者」原本に在〔右△〕とある。眞淵説によつて改めた。舊訓コヒテミダルル〔七字傍線〕。○くるべき 蠶絲の具。絲を絡繰《カラク》るに用ゐる。※[竹/矍]《カク》の類。古義いふ絡經木《クリヘギ》の義かと。和名抄に、「反轉、久流閇枳《クルベキ》。※[糸+參]車、訓|久流《クル》、絡(メテ)v絲(ヲ)取(ル)也」とあり、神祇式四に「金銅(ノ)※[金+專]《クルベキ・サビヅエ》二枚。莖長各寸三分、輪徑一寸、銀銅(ノ)※[金+專]、一枚。莖長三分輪徑一寸一分」とある。○かけてよせむと 「よせむ」は繰り寄せること即ち整理することにいつた。訓は略解による。舊訓カケテシヨシト〔七字傍線〕。
【歌意】 貴女に戀して亂れうなら、反轉《クルベキ》に戀の亂れの絲を懸けて始末しようと覺悟して、私は戀ひ始めたことでした。
〔評〕 蠶織は婦人の仕事、隨つて反轉《クルベキ》は婦人附屬の物である。娘子が男子の太刀に取材して來たのに對して、王は婦人の反轉に取材して答歌を案出した。
 始から戀の亂れを覺悟して、その亂れは絲の亂れを整理する反轉によつて理《ヲサ》める積りだつたといふ。全く口舌上の弄語で、眞實には頗る遠い。只その應接と取材とに才慧の閃きを見るのみ。
 
紀(の)女郎《いらつめが》怨恨《うらみの》歌三首
 
○紀女郎 元暦本その他の古寫本の註に、鹿人《カビトノ》大夫之|女《ムスメ》、名(ヲ)曰(フ)2小鹿《ヲシカト》1、安貴《アキノ》王(ノ)妻《メ》也とある。安貴王の傳は前出(1265)(七四七頁)。
 
世間之《よのなかの》 女爾思有者《をみなにしあらば》 君〔左△〕渡《きみがわたる》 痛背乃河乎《あなせのかはを》 渡金目八《わたりかねめや》     643
 
〔釋〕 ○よのなかの 世間一般の。○をみなにしあらば 「をみなにし」は前出(九三〇頁)。古義はメニシ〔三字傍線〕と訓んだ。「有者」はアレバ〔三字傍線〕と既然にも訓まれるが、茲は將然にアラバ〔三字傍線〕と訓むがよい。○きみがわたる 「君」原本に吾〔右△〕とある。ワガワタル〔五字傍線〕でも意は徹らぬこともないが、怨恨の歌意にはたしかでない。宣長、道麿説によつて改めた。古義は吾を直〔右△〕の誤としてタダワタリ〔五字傍線〕と訓んだ。○あなせのかは 穴師《アナシ》川のこと。磯城郡|纏向《マキムク》村穴師にある。卷向山に發源して初瀬川に注ぐ小川。穴師は痛足、病足、なども書く。痛背《アナセ》はその轉語で、時にかくいひもしたものと思はれる。卷向川も異名同處。
【歌意】 私が〔二字右○〕世間一般の女でさあるなら、貴方の御渡りなされた穴師川を、おあとを慕つて〔七字右○〕、渡りかねようことかい。
 
〔評〕 怨恨歌は重い時は戀の破綻に對しての作となり、輕い時は旅行などの一時的別離に對しての作となる。次(1266)の二首の趣から察すると、後者の方と斷じても間違ひはあるまい。
 「君」は安貴王か又は別人かは判明せぬが、とにかく契り交はした男が、その懷から飛び立つて行くのであつた。作者女郎は奈良京時代の人だから、地理的に考へると、男が穴師川を渡るのは、恐らく奈良京を南下して何れかに旅行くのであつたらう。その奈良京以南の大河初瀬川をさし置いて、小さな穴師川を捻出したことは、その行路が初瀬川を渡らず直ちに穴師川を渡つて三輪山の南麓金谷から、初瀬路にかゝつて往くものと見るべきである。
 隨分高貴の方でも戀ゆゑには「遺れゐて戀ひつゝあらずは追ひ及かむ」と「おのも世に未だ渡らぬ朝川」を渡られた。然しそは非常の場合で、通常の別離に際しては、實をいへば一般の「世の中の女」だつて、男の蹤を慕つて飛び出す、そんなはしたない眞似は無闇に出來るものではない。畢竟見送りにも出られない作者自身の遺撼さから、世の中の女ならかうもあらうのにと、誇張的假想を描いたものだ。蓋し伏在する反省の水が情炎の燃えあがりを塞がうとして、そこに作者の煩悶を助長せしめてゐる。
 
(1267)今者吾羽《いまはわは》 和備曾四二結類《わびぞしにける》 氣乃緒爾《いきのをに》 念師君乎《おもひしきみを》 縱左久〔左○〕思者《ゆるさくもへば》     644
 
〔釋〕 ○いまは 今となつてはもう。○ける 「結」をケ「類」をルに充てた。字音の下音を略き用ゐるは常の事である。○いきのを 生きの緒。生命。「氣」は意を承けて充てた字。「としのを」を參照(一〇〇八頁)。○ゆるさくもへば 縱し放つこと〔三字右○〕を思へば。「ゆるさく」は縱す〔傍点〕の延音。原本「久」の字がない。假に補つた。略解は一本に據つて「左」を久〔右△〕の誤とした。或は「左」は作〔右△〕の誤かと思はれる。攷は「左」を奥〔右△〕の誤としてユルストオモヘバ〔八字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 今となつては私は、只情なく歎いてをります、命にかけて深く思つた貴方を、手放して遣ることを思へばさ。
 
〔評〕 纏綿綢繆の極どうでも諦めねばならぬ、ぎり/\の土壇場まで押詰めて、一遍に落膽した體である。
 「今は吾は」の二つの「は」の辭は力強い差別的意味をもつので、現在の刹那と自己とを極度に主張して、その命懸けの戀人を手放す現状の悲痛を訴へてゐる。「わびぞしにける」は稍突つ込みが足らず、今少し熱血的でありたいと思ふが、深閨の婦人としては、或はこの位の處がせい/”\であるかも知れない。
 
白妙乃《しろたへの》 袖可別《そでわかるべき》 日乎近見《ひをちかみ》 心爾咽飲《こころにむせび》 哭耳四所泣〔左△〕《ねのみしなかゆ》     645
 
(1268)〔釋〕 ○しろたへの 袖の枕詞。「しろたへ」を見よ(一一八頁)。○そでわかる 交はし馴れた袖が別れる。袂を分つ、手を分つなどの意に同じい。○むせび 「咽飲」は咽に飲めば咽せる意の戲書。○ねのみしなかゆ 「泣」原本に流〔右△〕とあるは誤。
【歌意】 どうしても別れる日がまあ近さに、私は〔二字右○〕胸のうちに咽び歎いて、聲を立てゝ泣かれるわ。
 
〔評〕 別れるに袖の袂の手のといふは、極めて兩者が密接の關係にあることを指示する。隨つてその別離の情の格段なることを暗示する効果がある。愈よ左樣ならの時には却て覺悟のしようもあらうに、「日を近み」で日一日になし崩しに、肉を殺かれ骨を削られる思をする間は、實に見じめである。我慢も辛棒もなりかねて、咽び泣くより術もない。作者はまして女である。
 内容から順序を立てると、この歌は最初に排次すべきものである。
 
大伴(の)宿禰駿河麻呂(が)歌一首
 
丈夫之《ますらをの》 思和備乍《おもひわびつつ》 遍多《たびまねく》 嘆久嘆乎《なげくなけきを》 不負物可聞《おはぬものかも》     646
 
〔釋〕 ○たびまねく 度々。「まねく」は「さまねし」を見よ(二八二頁)。訓は攷による。舊訓アマタタビ〔五字傍線〕。○おはぬものかも 「負ふ」は身に負ひ持つをいふ。「か」は疑辭。この「かも」は歎辭でも亦反辭でもない。
【歌意】 あつぱれ男一匹が、戀の思ひに苦んで、何遍となく歎く、その歎を貴女が〔三字右○〕負はずにあるものかなあ。負(1269)ひさうなものよ〔八字右○〕。
 
〔評〕 恨にせよ、歎にせよ、猜みにせよ、事にせよ、人の思は身に懸かるといふは一種の被脅迫觀念で、原始時代からあり得る迷信である。南洋、アフリカなどの蕃人は、これによる禁厭をさへ行つてゐる。
  むくつけき事、人の呪ひごとは負ふものにやあらむ、負はぬものにやあらむ。(伊勢物語)
  恨を負ふつもりにやいとあつしくなりゆきて。(源氏物語、桐壺)
など見え、かうした觀念を基礎として、外ならぬ益荒雄の思ひ入つた歎は、愈よ以て負ふべき筈であるやうに威かした。これは威かすのが目的ではない。只氣強い對手の心に一警鐘を鳴してその反省を促し、幾分でもその戀を成功に導きたい、現状から好轉させたいの熱望からである。そこに作者の稍作略めいた意圖がある。
 「歎く歎」の同語異態の反復は、強調と諧調との一石二鳥の得を覘つた修辭である。
 
大伴(の)坂上(の)郎女(が)歌一首
 
心者《こころには》 忘日無久《わするるひなく》 雖念《おもへども》 人之事社《ひとのことこそ》 繁君爾阿禮《しげききみにあれ》     647
 
〔釋〕 ○ひとのこと 「事」は言の借字。
【歌意】 私の心には、貴方を忘れる時とてもなく思ふけれど、人の噂はさ、なか/\うるさい貴方でしてね。で御希望に副へないのです〔十二字右○〕。
 
(1270)〔評〕 これは上の歌の答歌のやうに覺える。この人言は或は男が浮氣者であるなどいふ噂のことか、或は社會的の拘束を斥したかは判明しない、が多分は前者であらう。歌は率直ではあるが婉含の味に乏しい。
 駿河麻呂はこの郎女の二孃に婚した人である(九〇六頁參照)。さればその懸想時代に郎女が二孃に代つて詠んだものか。既に標《シメ》結《ユ》ふ山守など持つてゐた程の駿河麻呂だから、その方面には彼れこれの噂のあるのを揶揄したものか。
 
大伴(の)宿禰駿河麻呂(が)歌一首
 
不相見而《あひみずて》 氣長久成奴《けながくなりぬ》 比日者《このごろは》 奈何好去哉《いかにさきくや》 言借吾妹《いぶかしわぎも》     648
 
〔釋〕 ○けながく 「けながきいも」を見よ(二二七頁)。○いかにさきくや 幸くや如何にの意。「いかに」で姑く切る。○さきくや 「好去」の字面は好去好來(卷五)など見え、去〔傍点〕が主辭で行くの意に用ゐるのが正格である。行矣を漢書(ノ)注に猶《ゴトシ》3今言(フガ)2好去(ト)1と見えた。然るに書紀に行矣をサキクと訓んだのは行旅に平安《サキク》あれと祈るからの轉意で、遂に好去をもサキクと讀み慣らすに至つた。眞好去《マサキク》ありこそ(卷九)好去《サキク》通はむ(十三卷)好去《マサキク》て早歸りこと(卷二十)皆この例である。この訓解は古義による。契沖訓ヨクユケヤ〔五字傍線〕、眞淵訓ヨケクヤ〔四字傍線〕は非。○いぶかし 訝しい。覺束なく氣にかゝる意。「言借」は借字。○わぎも の下よ〔右○〕の歎辭を含む。
【歌意】 お目にかゝらないで長いことになりました。この頃は御無事ですかどうですか、ひどく氣になります。貴女樣よ。
 
(1271)〔評〕 意到り筆隨ふ、當時の會話をそのまゝに聞くやうである。存問の語、おのづから濃到深切の意が滿幅に漲つて面白い。下句の四節から成る「いかに」「さきくや」「いぶかし」「わぎも」と小刻みに刻んだ短語の重疊した促調は、その内容のもつ意態といかにも旨く調和してゐる。しかも目的格たる「我妹」を最々後に据ゑて、恰も幾多の溪流がやがては一川に歸するが如き叙法は、表現の巧なものと稱へてよからう。
 
大伴(の)坂上(の)郎女(の)歌一首
 
夏〔左▲]葛之《はふくずの》 不絶使乃《たえぬつかひの》 不通有者《よどめれば》 言下有如《ことしもあるごと》 念鶴鴨《おもひつるかも》     649
 
〔釋〕 ○はふくずの 「絶えぬ」に係る枕詞。葛は蔓延してその盡くる處を知らぬ故にいふ。前出(九四六頁)。「夏」は蔓〔左△〕《ハフ》の誤字か(宣長説)夏葛は異樣である。集中、延《ハフ》葛のいや遠永く(卷三)波布《ハフ》葛の絶えずしぬばゆ(卷二十)などある。「くず」は前出(九四六頁)。○よどめれば 滯つてゐるので。使の上では、途切れて來ぬをいふ。○ことしも 「しも」のし〔傍点〕は強辭。も〔傍点〕は歎辭。「言下」は借字。○つるかも 「鶴鴨」は戲書。
【歌意】 いえ、私の方でも、これまで絶えず來た使が、この頃途切れてゐるので、何か貴方の方に事件でも起つた事のやうに、思つたことですよ。心配しました。
 
〔評〕 畢竟は、双方から御不沙汰をしたお詫びの詞である。親戚懇意の間柄でも女は控へ目であり、而も目上だから、何時も駿河麻呂から音信の使が來、それに對して此方の消息を報ずる返簡をその使に托するのであつた。(1272)處が近來一向使が見えぬので、その安否を氣遣ふのも亦人情の常である。これも率直そのまゝの作。
 
右坂上(ノ)郎女|者《ハ》、佐保《サホノ》大納言(ノ)卿(ノ)女《ムスメ》也。駿河麻呂|者〔左△〕《ハ》、高市大《タケチノオホ》卿(ノ)之孫也。兩卿(ノ)兄弟(ノ)之家(ノ)、女孫姑姪之族《ムスメウマゴヲバヲヒノヤカラ》、是《コヽニ》以|題《ツクリテ》v歌(ヲ)送答(シ)、相2問(フ)起居(ヲ)1。
 
右の歌の坂上郎女は佐保(ノ)大納言大伴(ノ)安麻呂(ノ)卿の女である。駿河河麻呂は安麻呂の兄たる高市の大卿大伴|御行《ミユキノ》卿の孫である。この兄弟の家の女や孫や姑姪に當る身内が、茲に歌を作つて贈答し、安否を見舞ひ合つたのだとの意。「者」原本に此〔右△〕とあるは誤。
 
大伴(の)宿禰|三依《みよりが》離(れて)復《また》相《あへるを》歡《よろこべる》歌一首
 
三依が一旦離れて、又會つたのを歡んだ歌との意。これは太宰府で大伴坂上郎女に再會しての詠であらう。
 
吾妹兒者《わぎもこは》 常世國爾《とこよのくにに》 住家良思《すみけらし》 昔見從《むかしみしより》 變若益爾家利《をちましにけり》     650
 
〔釋〕 ○とこよのくに 「わがくにはとこよにならむ」を見よ(一九三頁)。○をちましにけり 若返られた。「變若《ヲチ》」は前出(七九八頁)。「まし」は坐すの意。「益」は借字。
【歌意】 貴女樣は蓬莱の國に住まれたらしい。以前會つた時よりは、お若くなられましたわい。
 
(1273)〔評〕 我妹兒は誰れか。或は坂上郎女ではあるまいか。といふは三依は大伴家の家人で、素より郎女の面を見知つてゐた。が旅人卿に從つて宰府に下向した。その頃郎女は藤原(ノ)麻呂(ノ)卿の思ひ妻だつた。然るに込み入つた事情から、麻呂との交情が絶えて、郎女は氣分轉換かた/”\、兄旅人を便つてこれも宰府に來た。で久方振に三依は郎女に會つたのである。女は獨身でゐると愈よ美しくなる。四五年前奈良の家で見掛けた時以上に、郎女は若々しく奇麗であつたらしい。三依は肝をつぶして、どう見ても今まで老も死も知らぬ仙郷の蓬莱の國に貴女は居たらしいと、最大級のお世辭を進呈に及んだ。郎女は當時四十近い中婆さん。内心こそ必ず老の悲哀を痛感して居たらうが、若くなつたといはれては、定めし北叟笑んだ事であらう。空世辭と知りつゝ女はそれを悦ぶ。その心理を旨く捉まへた三依は如在ない。
 
大伴(の)坂上(の)郎女(が)歌二首
 
久堅乃《ひさかたの》 天露霜《あめのつゆじも》 置二家里《おきにけり》 家有人毛《いへなるひとも》 待戀奴濫《まちこひぬらむ》     651
 
〔釋〕 ○あめのつゆじも 天から降る露霜。「つゆじもの」を見よ(三八八頁)。
【歌意】 この筑紫に來ても大分時が經つて〔七字右○〕、天から露霜は降つたことであるわい。自分も都戀しいが〔八字右○〕、定めし京に留守居の人達も、自分達の歸を待ち戀うてゐるであらう。
 
〔評〕 郎女が筑紫行は太宰大貮小野(ノ)朝臣|老《オユ》に伴はれたとすれば、老は奈良の花盛を見てから出立したのだから、初(1274)夏の末か仲夏の始には、老も郎女も太宰に著府したと見てよい。
 その頃から早くも露霜のおく秋となつた。天離る鄙の住居、郷思漸く濃やかに、青丹吉奈良の故郷を憶ひ、佐保の居宅を想ひ、遂にその宅なる人を懷ふ。わが望郷の念の切なれば切なるほど、宅なる人の待ち焦れる胸中いかにと思ひ遣られてくる。「人も」の一語暗に自家の胸臆を帶映して、蘊含の幽味測るべからざるものがあり、無限の感愴に泣かされる。
 「宅なる人」は勿論單なる留守番の事とは思はれない。恐らく娘の坂上大孃等であらう。とすると愈よ「待ち戀ひぬらむ」の同情が痛切を極めてくる。略解古義などに「駿河麻呂の妻をいふなるべし」とあるは早い。駿河麻呂の妻となつた二孃は勿論、姉の大孃とてもまだその頃は幼い。
 この歌三句切ではあるし、やゝ平安朝の風調に近いが、字々句々淨潔にして聲響清亮である。
 
玉主爾《たまもりに》 珠者授而《たまはさづけて》 勝且毛《かつがつも》 枕與吾者《まくらとわれは》 率二將宿《いざふたりねむ》     652
 
〔釋〕 ○たまもり 玉守。玉の番人。「主」を意訓にモリと讀む。略解訓タマヌシ〔四字傍線〕。○かつがつも 口語のマアマアに當る。宣長は、事の未だ慥ならずハツ/\なるをいふ辭と解した。但この句を初句「玉主に」の上に移して見るべしとの説は非。
【歌意】 玉の番人に玉は渡してやつて、まあ/\自分は、枕と二人で、さあ寢ようぞい。 
(1275)〔評〕 郎女が筑紫行を思ひ立つた原因はこゝにある。夫麻呂は人の中傷や何かを聞いて足を拔いた。郎女からいへば、麻呂は外に増花の妻を拵へた。お互に面白くない經緯《イキサツ》になつて、おの/\の道を歩むやうになつた。そこで玉を麻呂に譬へて、玉は玉の番人たる妾に渡して、自身は思ひ切つて獨寢をしようと決心したものだ。その決心の初夜、傍ら寂しい床の邊に悵然として思ひまはすと、共寢するのは枕であつた。即ち枕を擬人して「二人」といふ、その言葉だけでもせめてもの慰め種《グサ》で、さあお前と一緒に寢ようぞとある。玉守の方は蒸衾なごやが下の暖い夢、此方は枕と二人の冷い夢、かく對照し來ると、「いざ二人寢む」の痩我慢らしい詞の中に、曲折した永い怨恨の情意が躍々として悲しい。
 契沖が玉を娘、玉主を婿に譬へたと解したのは、大きな見當違ひだ。隨つて契沖説に依つた略解、古義などの、婿を駿河麻呂としたのも誤認となる。
 この二首内容から見れば、次第が前後してゐる。
 
大伴(の)宿禰駿河麻呂(が)歌三首
 
情者《こころには》 不忘物乎《わすれぬものを》 儻《たまたまも》 不見日數多《みざるひまねく》 月曾經去來《つきぞへにける》    653
 
〔釋〕 ○みざるひまねく 「まねく」は「さまねし」を見よ(二八二頁)。訓は略解による。古義訓ミヌヒサネマク〔七字傍線〕。
【歌意】 私の心には忘れはせぬものを、たま/\まあ、逢はれぬ日が多くなつて、とう/\月を經てしまつたことよ。
 
(1276)〔評〕 意外の不沙汰になつて濟まぬとの申譯である。もと/\熱意に乏しいから、歌も感激がない。
 
相見者《あひみては》 月毛不經爾《つきもへなくに》 戀云者《こふといはば》 乎曾呂登吾乎《をそろとわれを》 於毛保寒毳《おもほさむかも》     654
 
〔釋〕 ○つきもへなくに 一月にならぬをいふ。○をそろ 「をそ」は虚言。轉じてウソといふ。「烏とふ大をそ鳥」(卷十四、靈異記略同じい)のをそ〔二字傍点〕もこれ。「ろ」は接尾語。○おもほさむかも 「か」は疑辭。「毳」は毛布のこと。和名妙に、於(テ)v毛(ニ)保(ツ)v寒(ヲ)とある。こゝは借字。
【歌意】 逢つてからはまだ月も經たぬのに、戀しいといはうなら、それは嘘だと貴女はお思ひでせうかね。
 
〔評〕 眞實の戀には一日千秋の思がするものだ。「月も經なくに」では餘り悠長過ぎて、「をそろと――思ほさむ」が一向利かない。これは現代人の生活から見た評であらうが、作者も氣の長い暢んびりした男と見える。
 
不念乎《おもはぬを》 思常云者《おもふといはば》 天地之《あめつちの》 神祇毛知寒《かみもしらさむ》 邑禮左變〔三字左△〕《イブカルナユメ》     655
 
〔釋〕 ○いぶかるなゆめ 本文を眞淵古義の説をも參酌して、假に邑借奈齋〔三字右△〕の誤寫とする。「邑」は悒〔傍点〕の省畫として、イブセシの意を借りてイブと訓み、「齋」は忌の意によつてユメと訓む。
【歌意】 思ひもせぬのを思ふと、口だけでいはうなら、天地の神樣も御照覽でありませう。決して私の詞を訝り(1277)疑ひなさいますな。
 
〔評〕 虚言を吐いたら神罰を蒙るといふ觀念は、神の存在を信じた以上、古代から存在してゐたことゝ思ふ。故にこの種の著想の歌がまゝ見える。上には「三笠の杜の神」、卷十二には「うなての杜の神」が引合ひに出されてゐる。
 
大伴(の)坂上(の)部女(が)歌六首
 
吾耳曾《われのみぞ》 君爾者戀流《きみにはこふる》 吾背子之《わがせこが》 戀云事波《こふとふことは》 事乃名具左曾《ことのなぐさぞ》     656
 
〔釋〕 ○ことのなぐさぞ 口先の名目だけのいひ種《グサ》なる〔二字右○〕ぞ。「なぐさ」は名種《ナグサ》の意。卷七に「黙《モダ》あらじとことの名種にいふことを」とある。古義に言の慰め〔二字傍点〕と解したのは非。
【歌意】 私ばかりさ貴方には戀うてゐます。貴方樣が私を〔二字右○〕戀ふると仰しやる事は、それはほんの口先のいひ種ですぞ。
 
〔評〕 戀は熱中すればする程冷靜を失つて、とかく自我的になり勝なもので、特に婦人はその觀念が強く、隨つて動もすれば不滿を抱き猜疑心に囚はれるやうになる。自分のだけが何でも本物で、向うのは氣休めの言種だとけなし、そしてやきもきする。御苦勞の事だ。
 
(1278)不念常《おもはじと》 曰手師物乎《いひてしものを》 翼酢色之《はねずいろの》 變安寸《うつろひやすき》 吾意可聞《わがこころかも》     657
 
〔釋〕 ○いひてし 自分が〔三字右○〕いつた。「手師」は例の戲書。○はねずいろの 翼酢色の如く〔二字右○〕。はねず色の染色は他の染色よりも變色し易いので、「移ろひやすき」に續けた。翼酢の花が移ろひ易いといふのではない。卷八に「夏まけて咲きたるはねず久方の雨うち降らば移ろひなむか」とあるが、これは雨が降るから、移ろふといつたもの。さて翼酢は卷八家持の「唐棣花(ノ)歌」に「夏まけて咲きたるはねず」と見え、唐棣花は詩經の注に郁李也とある。郁李は庭梅《ニハウメ》のこと。薔薇科の落葉木で、春暮淡紅白の五瓣の細花を開く。重瓣のものを庭櫻ともいふ。實は小さく熱すれば赤色となる。されば翼酢色は粉紅色をいふか。卷十一に「はねず色の赤裳の姿」、又天武天皇紀に、朱花|此《コヽニ》云(フ)2波泥須《ハネズト》1とある。仙覺抄の、李花又は木蓮説は根據がない。
【歌意】 必ずあの人を思ふまいと、固くいつたことであつたものを、何時か思ふといふは〔九字右○〕、朱花色《ハネズイロ》のやうに實に變り易い、自分の心であることよ。 
〔評〕 もう思ふまいと決心しても、忽ち裏切つて戀の奴は攻めてくる。それが本當の戀なのだ。只この撞着は反省的に批判すると、自分ながら呆れたもので、「わが心かも」と嗟歎せざるを得ない。「思はじといひてし」は必ず特殊の情實があるものと考へられる。蓋し男の無情を恨む事などあつての發言らしい。
 朱花の染色に移ろひ易い聯想をもつたことは、やはり婦人の作である。、
 
(1279)雖念《おもへども》 知信〔左△〕裳無跡《しるしもなしと》 知物乎《しるものを》 奈何幾許《なにかここばく》 吾戀渡《わがこひわたる》     658
 
〔釋〕 ○しるし 效驗。「信」原本に僧〔右△〕とあるは誤。○なにかここばく 契沖訓による。古義訓イカデココバク〔七字傍線〕は非。
【歌意】 思うてもその甲斐はない、と知つてゐるものを、何で莫大に私は戀して、月日を重ねて行くことか。
 
〔評〕 事實は既に希望を裏切つてゐる。それを諦めが付かずに尚くよ/\と物案じしてゐる。愚痴ともいへ何ともいへ、一旦燃えた情炎は容易に消えるものではない。眞實ではあるが、自己批判で理路に著してゐる。
 
豫《あらかじめ》 人事繁《ひとごとしげし》 如是有者《かくしあれば1》 四惠也吾背子《しゑやわがせこ》 奥裳何如荒海藻《おくもいかにあらめ》     659
 
〔釋〕 ○かくしあれば 舊訓カクシアラバ〔六字傍線〕。○しゑや 歎辭の「しゑ」と「や」との熟したもので、古語。卷十一に も「四惠也《シヱヤ》いのちの借けくもなし」とある。よしや〔三字傍点〕の意とするは當らない。○おくも 後も。將來も。○いかにあらめ こそ〔二字傍点〕の係なしに第五變化で結ぶは古文の格。「荒海藻」は即ち荒布《アラメ》で、「奥」即ち沖の縁を引いた戲書。
【歌意】 逢ふか逢はぬかに、早くからもう人の物言ひがうるさい。これだからチエツ、貴方樣よ、將來もどんなであることでせう。さぞうるさいでせうね。
 
(1280)〔評〕 通常の結婚にはさう人言の繁き理由はない。想ふに最初から周圍の不同意だつたのを押切つての結婚であつたらう。で豫ねて起つた人言から將來の人言を想像して、憂慮の餘り、「しゑや吾背子」と男に縋り付いた。女の小さい胸には、さぞ納めかねた大きな心配であつたらう。「しゑや」の如き珍しい歎辭の存在を示されたことは有り難い。
 
汝乎〔左△〕與吾乎《なれとわを》 人曾離奈流《ひとぞさくなる》 乞吾君《いでわがきみ》 人之中言《ひとのなかごと》 聞起〔左△〕名湯目《ききこすなゆめ》     660
 
〔釋〕 ○なれとわを 新考にいふ、上の「乎」は衍字と。正格にはナレトワト〔右○〕ヲとあるべきだが、下のトを略する例は多い。集中にも「むろの木と棗のもとをかきはかむ爲」(卷十六)「大伴|等《ト》佐伯《サヘキ》の氏は」(卷十九)「君と吾隔てて戀ふる」(同上)などある。舊訓ナヲトワヲ〔五字傍線〕。○さく 遠|離《サ》くる。離間する。○いで 既出(三八三頁)。○わがきみ 舊訓ワギミ〔三字傍線〕に就いて、契沖は集中に例見えずといつた。○なかごと 中口。中傷。○ききこすな 聞いて下さるな。「こす」は願望辭の乞《コソ》の轉語。「起」は「有超名《アリコスナ》ゆめ」(卷十二)の例によれば超〔右△〕の誤か。
【歌意】 貴方と私との間を人が裂きますわ。さあ貴方よ、他人の中口など聞き入れて下さるなよ、きつと。
 
【評】 隨分世間にはお節介な奴があつて、睦ましい中にはわざ/\水を差すものだ。まして他に何かの事情があつたとしたら、餘計にデマが飛ぶ。作者は深閨中の人だから、外界の事情は知らなかつたにせよ、その周圍に離間の言辭を弄する者があつたので、周章てゝ男にその注意と了解と警戒とを求めた。そこに誠意の迸るもの(1281)がある。
 
戀戀而《こひこひて》 相有時谷《あへるときだに》 愛寸《うるはしき》 事盡手四《ことつくしてよ》 長常念者《ながくとおもはば》     661
 
〔釋〕 ○うるはしきこと 情合のある言。「うるはし」に兩意ある。(1)端正即キチンとしたこと。(2)うつくしいこと。
【歌意】 戀ひ焦れてやつと逢へたこの時だけでも、愛のある詞をたんとかけて下さいませよ、末長く逢はうといふ思召なら。
 
〔評〕 實に可愛いゝ事をいつたものだ。蕩ける程に甘い詞だ。然しこの半面を味ふと、たま/\の逢ふ瀬に、男が何か氣に障つた事でもあるかして、いやにつん/\してゐた樣子が彷彿する。で滿腔の愛を傾倒して男の機嫌を取つたものだ。「長くと思はば」は即ちこの間の消息を洩した詞で、輕々に看過してはならぬ。
 以上の六首はその對手の男が誰れであるか不明である。穗積親王、大伴(ノ)宿奈麻呂、藤原(ノ)麻呂はその夫、大伴(ノ)百代は懸想人として知られてゐるが。
 
市原(の)王(の)歌一首
 
○市原王 傳は前出(九二〇頁)。
 
網兒之山《あごのやま》 五百重隱有《いほへかくせる》 佐堤乃埼《さでのさき》 左手蠅師子之《さではへしこが》 夢二四所見《いめにしみゆる》     662
 
(1282)〔釋〕 ○あごのやま 志摩國英虞(阿胡)郡の群山の稱。「網兒」は借字。○いほへ 幾重と同じい。○さでのさき 英虞郡坂崎の古名か。伊雜《イサハ》潟の南岸。宣長が伊勢國朝明郡の志※[氏/一]《シデ》の崎の誤としたのは地理的に成立しない。○さではへしこ 小網を張つてゐた若い娘《コ》。「さで」は「さでさし渡し」を見よ(一五五頁)。「はへ」は伸べ張ること。「蠅」は借字。「こ」は「なつますこ」を見よ(一〇頁)。「子」は借字。○にし 「二四」は上の「五百」に對へて書いた戲書。△地圖及挿畫挿圖53(一六二頁)51(一五五頁)を參照。
【歌意】 英虞の山の幾重もが隱してるる佐堤《サデ》の崎、その崎の名に通ふ小網《サデ》を、引張つて漁りをしてゐた若い娘が忘られず、夢にさ見えてならない。
 
〔評〕 志摩は鳥羽邊から南へかけては群山が起伏してゐる。それが盡く英虞の山である。その山脈の盡きた處が佐堤の崎のある伊雜《イサハ》瀉なので、「あごの山五百重隱せる」と歌つたのだ。然しこれは單なる地理的説明ではなく、いかにも邊僻の地方であることを認識させたい爲の表現である。而もそんな處に小網さして女だてらに漁りをする娘は、卑賤の子(1283)であらねばならぬ。作者の身分からすれば天から問題にならない對手だ。が田舍酒よく人を醉はしめる類で、一目惚れをした。意外な不思議な現象といはねばなるまい。
 下句はそんな女が「夢にし見ゆる」と報告したのではない。自嘲とまでではないが、わが感情の迸りを我から訝つてゐる處に、詩として佳處がある。又上句は「小網はへし子」の背景を成すもので、殆ど序のやうで序ではない。實は佐堤の崎に〔五字傍点〕といひたい處だが、かやうに音數の制限上助辭を略く例は幾らもある。
 
安都〔左△〕《あとの》宿禰|年足《としたりが》歌一首
 
○安都宿禰年足 原本には安部〔右△〕。目録には安都とある。安部は朝臣姓で、安都は宿禰姓であるから、目録に從つた。續紀慶雲元年の條に「上(ノ)村主《スクリ》百濟(ニ)改(メテ)賜(フ)2阿刀(ノ)連(ヲ)1、又「八位下|阿刀《アト》連《ムラジ》人足《ヒトタリ》等(ニ)賜(フ)2宿禰(ノ)姓(ヲ)1」とある。阿刀は安都と同じい。年足は人足の身内らしい。
 
佐穗度《さほわたり》 吾家之上二《わぎへのうへに》 鳴鳥之《なくとりの》 音夏可思吉《こゑなつかしき》 愛妻之兒《はしきつまのこ》     663
 
〔釋〕 ○さほわたり 佐保を通つて。佐保川を渡るのではない。「さほ」は前出(七三八頁)。「わたり」をアタリの意とするは非。「度」は渡に通ずる。○わぎへのうへ 吾が家のあたり。「わぎへ」はわがい〔二字傍点〕への約。○なくとりの 以上三句は序詞。「こゑ」までを序とするは誤。○こゑなつかしき 「妻の兒」に係る。「音」或はオト〔二字傍線〕と訓むのではあるまいか。鳥獣の聲をオトともいつた。○つまのこ 妻をいふ。卷二にも「若草のその妻の兒は」(1284)とある。「こ」は親愛の呼稱。△寫眞 挿圖87等を參照(二七三頁)。
【歌意】 佐保の里を通つて自分の家の邊になく、鳥の聲は懷かしいが、その如く聲の懷かしい、可愛い女房の奴よ。
 
〔評〕 作者は偶ま歸宅の途上に於いて、佐保からわが住居の邊に鳴く鳥を聞いた。その聲はいかにも懷かしい感じを抱かせるものであつた。忽ち「吾家のうへ」の聯想から、そこに首を伸してわが歸りを下待つ妻の幻影を描き、その懷かしい聲に想到して、「はしき妻の兒」と號呼した。菊石も笑凹、甲高のキン/\聲でも、それは/\音樂的の美しい聲に感じてゐたであらう。夫としての愛の情味に滿ちた詞である。
 但「なつかしき」「はしき」の形容詞の連續的重複がある。
 
大伴(の)宿禰|像見《かたみが》歌一首
 
○大伴宿禰像見 續紀に、寶字八年十月正六位上から從五位下、景雲三年三月に左(ノ)大舍人(ノ)助、寶龜三年正月に從五位上とある。「像見」は紀に形〔右△〕見とある。
 
石上《いそのかみ》 零十方雨二《ふるともあめに》 將關哉《さはらめや》 妹似相武登《いもにあはむと》 言義之鬼尾《いひてしものを》     664
 
〔釋〕 ○いそのかみ 石上|布留《フル》を「降る」に係けた枕詞。「石上布留」は前出(九四三頁)。○さはらめや かゝは(1285)らうかい。「關」をサハルと讀むは意訓。古義訓ツツマメヤ〔五字傍線〕は迂遠。○いひてしものを 「羲之」(八九九頁)。「鬼尾」(七七八頁)は上出で、何れも戲書。
【歌意】 よし雨が降るとも、雨などに閉口しようかい。彼女に逢はうと約束したであつたものを。
 
〔評〕 「降るとも」だから今降つてはゐないのだ。これから降りさうな天候なのである。えらい劍幕で、「雨に障らめや」といふ處を見ると、左右の者などが、天氣が惡いからお控へになつたら位の事を忠告したのに對しての抗言と見られる。
 女の許に通ふ時刻は大抵暮夜である。この時代の事だから歩行か馬上かとすると、途中雨でも降つたら始末にいけない。だが作者の胸には、女との約束以外に他に何物もなぃ。
 
安倍《あべの》朝臣|蟲麻呂《むしまろが》歌一首
 
○安倍朝臣蟲麻呂 續紀に、天平九年九月正七位上から外從五位下、その十二月皇后(ノ)亮、同月少進從五位下、十年閏七月中務少輔、十二年九月太宰少貮藤原廣嗣の反に發遣軍事に任用せらる。同年十一月從五位上、十三年閏三月正五位下、同八月播磨守、十五年五月正五位上、勝寶元年八月兼紫薇大忠となり、三年正月從四位下、四年三月中務大輔從四位下にて卒すとある。
 
向座而《むかひゐて》 雖見不飽《みれどもあかぬ》 吾妹子二《わぎもこに》 立離往六《たちわかれゆかむ》 田付不知毛《たづきしらずも》     665
 
(1286)〔釋〕 たちわかれ ワカレは「離」の意訓。○たづき 既出(四一頁)。
【歌意】 向き合つて見てゐても飽かない吾が妻に、今引別れて行かう手立は、私にはわからぬわ。
 
〔評〕 次の歌の左註によると、これは戀愛的遊戲の文字で、その實はないのだ。然るに現代の我々の耳にはいかにも眞實らしく聞える。もと/\眞實らしく詠んだのだからその筈ではあるが、平安期以後の所作なら、實詠と虚詠とは比較的鑑別が出來易い。こゝが萬葉の歌を鑑賞する上に於いて、大いなる注意を拂ふべき要點である。萬葉の歌は時代が遼遠であり、隨つて風調が格別であり、用語及びその構成が特異である。渾べて古調の薄衣が懸かつてゐる。これが神秘的觀念を※[酉+温の旁]釀する源泉となつて、心粹者の眼には何もかもがよく映る。實はその内容を檢討すると、平安以後の所作に劣るものが又多分である。萬葉禮讃もいゝが、更に一隻脹を豁開して、その眞體を明らめる必要があらう。
 
大伴(の)坂上(の)郎女(が)歌二首
 
不相見者《あひみぬは》 幾久毛《いくばくひさも》 不有國《あらなくに》 幾許吾者《ここばくわれは》 戀乍裳荒鹿《こひつつもあるか》     666
 
〔釋〕 ○あひみぬは 古義は「者」を而〔右△〕の誤としてアヒミズテ〔五字傍線〕と訓んだ。○いくばくひさも 宣長の一訓にイクヒササニモ〔七字傍線〕。○ここばく 澤山。こゝだ、こゝだく〔七字傍点〕と同じい。○あるか 「か」は歎辭、「荒鹿」は戲書。
【歌意】 あひ見ぬことは幾らも長いことはないのに、莫大に私は戀ひ焦れ/\してまあ居ることよ。
 
(1287)〔評〕 理屈語である。只その基礎たる事實が理窟外れだから、理窟が理屈にならない。「幾ばく」「ここばく」はわざと同詞形を重用したものか。
 
戀戀而《こひこひて》 相有物乎《あひたるものを》 月四有者《つきしあれば》 夜波隱良武《よはこもるらむ》 須臾羽蟻待《しましはありまて》     667
 
〔釋〕 ○よはこもるらむ、夜は存在してゐるであらう。「よごもり」を見よ(七二四頁)。○しまし 「しましくも」を見よ(三六五頁)。○ありまて 居て待て。「羽蟻」は戲書。
【歌意】 戀ひ焦れて漸う逢うたものを、月がさあるので思ふと、まだ夜深なのでせう、暫時は居て明けるまで待つて下さい。
 
〔評〕 夜深に歸らうとする男を、女が名殘惜しさに引留めてゐる心持で詠んだもの。
 
右、大伴(ノ)坂上(ノ)郎女之母石川(ノ)内命婦《ウチツヒメトネト》與2安倍(ノ)朝臣|蟲滿《ムシマロ》之母|安曇《アヅミノ》外(ノ)命婦(ト)1同(ジク)居(ル)。姉妹同氣之親(ミナリ)焉。縁(ツテ)v此(ニ)郎女(ト)蟲滿(ト)、相見(ルコト)不v疎(カラ)相談(ルコト)既(ニ)密(カナリ)。聊(カ)作(ミ)2戲歌(ヲ)1以(テ)爲(ス)2問答(ヲ)1也。
 
大伴坂上郎女の母親石川内命婦は、安倍朝臣蟲麻呂の母親安曇(ノ)外命婦と同居し、姉妹同樣の懇親であつた。そこで郎女と蟲麻呂とは母親達の縁で、お互に逢うても他人行儀でなく、談話も隔なく交してゐた。で一寸戲に戀愛的の歌を詠んで贈答をしたとの意。
 
(1288)○石川内命婦 郎女(ノ)母石川|邑婆《オホバ》のこと。傳は前出(七〇五頁)。○安曇外命婦 傳は未詳。古義に邑婆の姉妹なるべしとあるは誤。○内命婦 「命婦《ミヤウブ》」を見よ(一〇一四頁)。
 
厚見(の)王(の)歌一首
 
○厚見王 續紀に、勝寶元年四月無位から從五位下、同七年十二月少納言で伊勢神宮に奉幣、寶字元年五月に從五位上とある。
 
朝爾日爾《あさにひに》 色付山乃《いろづくやまの》 白雲之《しらくもの》 可思過《おもひすぐべき》 君爾不有國《きみにあらなくに》     668
 
〔釋〕 ○あさにひに 略解訓アサニケニ〔五字傍線〕は鑿である。○いろづくやま 黄葉する山。○しらくもの 以上三句は[過ぐ」に係る序詞。○おもひすぐ 思うてすぐ止める。
【歌意】 朝毎に色づく山の白雲は、すぐ過ぎ行くが、その如くに一寸思うて止められさうな、貴女ではありませんになあ。
 
〔評〕 下句平凡で等類が多い。「色づく山の」は白雲に對する色相の對映はあるが、上句のすべてが序としての落着きを缺いてゐる。尚上の「石《イソ》の上《カミ》布留の山なる杉村の」(422)評語參照。
 
春日《かすがの》王(の)歌一首
 
(1289)○春日王 卷三に「王者《オホキミハ》千歳爾云々」と詠まれた春日王は文武天皇の三年に率せられたから、これは續紀に、養老七年正月無位春日王に從四位下を授くとある春日王のことであらう。
 
足引之《あしひきの》 山橘乃《やまたちばなの》 色丹出而《いろにいでて》 語者〔左△〕繼而《かたらばつぎて》 相事毛將有《あふこともあらむ》     669
 
〔釋〕 ○やまたちばな 藪柑子。紫金牛科の小木。高さ四五寸、葉は茶の葉に似て互生す、花は夏葉腋に咲き、實は通常紅色である。○やまたちばなの 初二句は「色にいでて」に係る序詞。○いろにいでて 氣色に現して。○かたらば 「者」原本に言〔右△〕とあるは誤(宜長説)。
【歌意】 山橘の色に出るやうに氣色に現して、心の中を語つたなら、或はなほ引續いて逢ふことも出來よう。さあ氣色に現して語らうか。
 
〔評〕 奈良時代の人士は橘の名を耳にしたばかりでも、心ゆく思がしたらしい。で物こそ違へ、山橘の名も亦懷かしい聯想を浮べるよすがであつたに相違あるまい。藪陰の下草たる山橘、冬になるとその紅い實が珊瑚の小(1290)玉を綴る。いかにも「色にいでて」の序が利いてゐる。
 王は自己が意識する如く、餘に臆病過ぎた戀人であつたらしい。何かの事情から女の誤解を招ぎ、暫くその戀は中絶してゐた。偶ま山橘の紅い實を見るに及んで、何でも色に出て語る一手だと頓悟して、一つ遣つて見ようといふ氣になりはなつたものゝ、彼れは到底氣が弱い。「語らば繼ぎて逢ふこともあらむ」の口氣の煮え切らぬことよ。然し反對に考へると、女の態度の非常に強硬である事が看取される。
 卷十一に上はこれと同じく、下句「わが戀ひなむをやめ難くすな」といふ歌がある。
 
娘子(が)贈(れる)〔三字左○〕2湯原(の)王(に)1歌一首
 
或|娘子《ヲトメ》が湯原王に贈つた歌との意。歌は女の作だから、原本の題詞に「湯原王歌」とのみあるは協はぬ。古義が娘子贈〔三字左○〕の三字を補つたのに從つた。
 
月讀之《つくよみの》 光二來益《ひかりにきませ》 足疾乃《あしひきの》 山乎隔而《やまをへだてて》 不遠國《とほからなくに》     670
 
〔釋〕 ○つくよみ 月のこと。「つくよ」は月夜、「み」は産靈《ムスビ》の靈《ビ》の轉語。神代紀に日神に對して月の神月讀尊の名が見える。○ひかりに 光によつて〔三字左○〕。○あしひきの 前出(六八九頁)。「足疾」は足悩む時足を曳くので充てた戲書。○やまをへだてて 次に「遠からなくに」とあるので、山を隔てずの意となる。
【歌意】 貴方よ、今夜の月の光に便《タヨ》つてお出下さいませ、道だとてさう山を隔てる程に遠くないのにさ。
 
(1291)〔評〕 照明の不完な時代には月が幅を利かせた。月に乘じてといふことは、古への詩歌に多い。大和の地形は里から里の間には、とかく山や岡陵が起伏散在し、狂言詞にある「山一つあなたに――御座る」が通例であつた。然るに娘子の家と湯原王の家との交通路には隔てる山がない、そのうへ「遠からなくに」である、而も今夜は月夜である。かう最好條件が具備してゐては、娘子の懇切な誘引に對して、湯原王はその御神輿を擧げずばなるまい。温柔の情味、眞に人の魂を銷さしめる。
 
湯原(の)王(の)〔三字左○〕和(ふる)歌一首
 
前の答歌だから、湯原王〔三字右○〕の三字を補つた。元暦本等には不v審(カニセ)2作者(ヲ)1と注した。
 
月讀之《つくよみの》 光者清《ひかりはきよく》 雖照有《てらせれど》 惑情《こころぞまどふ》 不堪念《たへぬおもひに》     671
 
〔釋〕 ○きよく 略解訓サヤニ〔三字傍線〕。○てらせれど テリタレド〔五字傍線〕にてもよい。○こころぞまどふ 六帖の訓によつた。舊訓マドヘルココロタヘジトゾオモフ〔十五字傍線〕は非。
【歌意】 仰しやる如く、月の光はさやかに照してゐるので、道こそ迷はぬが〔七字右○〕、貴女ゆゑの堪へ難い思に、私の心はさ惑ひますよ。
 
〔評〕 贈歌を承けての逆説的挨拶、例に依つて例の如しである。
 
(1292)安倍(の)朝臣蟲麻呂(が)歌一首
 
倭文〔左△〕手纏《しづたまき》 數二毛不有《かずにもあらぬ》 壽持《いのちもち》 奈何幾許《なにかここばく》 吾戀渡《わがこひわたる》     672
 
〔釋〕 ○しづたまき 「數にもあらね」に係る枕詞。(1)倭文環《シヅタマキ》の意にて、倭文《シヅ》布の苧環《ヲダマキ》は數多き物故に數と續けた(眞淵説)。(2)賤手纏《シヅタマキ》即ち下賤の者の手纏は品質が劣つて物數ならぬので、數にもあらぬと續けた(古義)。又賤しに〔三字傍点〕係る枕詞。(1)の意では彌繁《イヤシキ》のいひかけとなり、(2)の意ではそのまゝに係る。「文」原本に父〔右△〕とあるは誤。○かずにもあらぬ 數へるに足らぬ。即ち少數なるをいふ。諸註この解悉く不當。○いのちもち 諸註の誤字説は無用。隨つて略解のワガミモチ〔五字傍線〕、ミヲモチテ〔五字傍線〕の訓も無用。○なにか 古義訓イカデ〔三字傍線〕は非。
【歌意】 數へるに足らぬ僅かな壽命をもちながら、私は何で莫大に戀して、月日を經ることであらうか。
 
〔評〕 朝に生まれ夕べに死する蜉蝣に等しい短い人世、そんなはかない壽命の持主で、戀の妄執に數多の月日を空費する、我れながら愚の骨頂と、強ひて反省的に、「何か」と三斗の冷水を自分の頭に浴びせ懸けて見たものだ。然しそれはほんの口頭語で、心から大悟したのではない。畢竟情慾の泥犂に墮して、燃えあがる紅蓮の炎に喘ぐ悲しい叫なのである。
 
大伴(の)坂上(の)郎女(が)歌二首
 
(1293)眞十鏡《まそかがみ》 磨師心乎《とぎしこころを》 縱者《ゆるしてば》 後爾雖云《のちにいふとも》 驗將在八方《しるしあらめや》     673
 
〔釋〕 ○まそかがみとぎしこころ 前出(六四三頁)。○ゆるしてば 許してあら〔二字右○〕ばの意。○のちにいふとも 後に悔言を〔三字右○〕吐くとも。
【歌意】 磨《ミガ》き立てた操心を、一旦人に許した以上は、あとで何のかのいふとも、甲斐のあらう事ですかい。
 
〔評〕 そんな筈ではなかつたと苦情をいつた處が、身を許してしまつては後の祭ですからねえと、或懸想人に對しての拒絶である。細心な警戒は婦人に於いて必然的の要求であるが、恐らくこの懸想人には多少躊躇される理由があつたのであらう。
 
眞玉付《まだまつく》 彼此兼手《をちこちかねて》 言齒五十戸常《いひはいへど》 相而後社《あひてのちこそ》 悔二〔左△〕破有跡五十戸《くいはありといへ》     674
 
〔釋〕 ○まだまつく 眞玉付く緒《ヲ》を「をち」にいひかけた枕詞。「ま」は美稱。「眞珠服《マダマツク》をちこちかねて」(卷十二)「眞玉|就《ツク》をちごちかねて」(同上)の例がある。○をちこちかねて あちこちかけて。この「をちこち」は現在と將來とを斥す。○いひはいへど 「五十戸」は戲書。○くいは 「悔二破」の二〔右△〕は衍字。
【歌意】 現在と將來とをかけて、親切に仰しやるには仰しやるが、男といふものは〔七字右○〕、逢つてしまつたあとでさ、後悔することはあると、人が〔二字右○〕申します。
 
(1294)〔評〕 前首と同樣懸想の担絶で、體のいゝ誘惑に對して、その急處を衝いたものである。昔も今も人情世態は變らぬことをつく/”\痛感する。「ありといへ」とその拒絶を人言に托して、自分の本意のみではないやうにぼかした處は、なか/\狡猾である。
 
中臣女郎《なかとみのいらつめが》贈(れる)2大伴(の)宿禰家持(に)1歌五首
 
○中臣女郎 傳は未詳。中臣は氏。
 
娘子部四《をみなへし》 咲澤二生流《さきさはにおふる》 花勝都見《はなかつみ》 都毛不知《かつてもしらぬ》 戀裳摺可聞《こひもするかも》     675
 
〔釋〕 ○をみなへしさきさは 女郎花の咲くを佐紀澤にいひかけた。「をみなへし」は序詞。「女郎花《ヲミナヘシ》さき野《ヌ》に生ふる白つつじ」(卷十)「女郎花《ヲミナヘシ》さき野のはぎに」(同上)、又「杜若《カキツバタ》さき沼《ヌ》の菅を」(卷十一)「杜若さき澤に生ふる菅の根の」(卷十二)など、白躑躅、萩、菅が主で、女郎花杜若は咲き〔二字傍点〕とかけた修飾語に過ぎない。○女郎花 敗醤科の草。山野に自生し、高さ三四尺、葉は羽状にして對生す、夏秋の交小形淡黄色の花を著く。○さきさは 佐紀《サキ》にある澤。佐紀山の岡根は小さな沼澤が今でも散在してゐる。その大いのは佐紀の池即ち水上池である。「佐紀《サキノ》宮」を見よ(二八七頁)。○はなかつみ 以上上句は「かつて」に(1295)係る序詞で、カツの音を反復した序。「はなかつみ」は菖蒲科の野生の花菖蒲で、溪※[草冠/孫]《アヤメ》より又小さく、五六月頃紫赤色の三瓣の花を開く。日光にて赤沼アヤメ、福島の淺香邊にて花カツミといふ。單にカツミといふは菰《マコモ》のこと。○かつても 一向に。「都」の字、紀にフツニと訓んである。カツテはその意訓。○こひもする 「裳摺」は戲書。
【歌意】 佐紀澤に生える花勝見の、かつ〔二字傍点〕といふ甞《カツ》て(一向ニ)まあ、今まで〔三字右○〕覺えもない戀もすることかいなあ。
 
〔評〕 この言に依れば作者はこれまで大分戀を經驗した女と見える。
 佐紀澤の花勝見は作者の實見に觸れた物で、その可愛い優しい花形と色相とが、印象深く彼女の胸に刻まれてゐたものと見え、この序詞によつた「かつても知らぬ」の力強い表現は、家持によつて始めて眞劍の戀に没入し得た率直の告白である。かく告白することは、端(1296)的にその同情を攫取しようが爲の慣用手段でもある。
 この歌、序の形式が猥雜である。釋中にも引例した如く萬葉人の好んで用ゐた叙法と見えるが、主體と客體との植物の名が重出して、想の統一を妨げてゐる。流行であつてからが、甚だ面白からぬ洒落である。
 
海底《わたのそこ》 奥乎深目手《おきをふかめて》 吾念有《わがもへる》 君二波將相《きみにはあはむ》 年者經十方《としはへぬとも》     676
 
〔釋〕 ○わたのそこおきを 「深めて」に係る序詞。海の奥底《オクソコ》は深いので續けた。○ふかめて 心を深くして。心深くといふに同じい。
【歌意】 心深く私が思うてゐる、貴方には是非逢ひませうよ、よし年は經つとしても。 
〔評〕 氣長く男の心の動くまで待つて逢はうとの聲言、その執念蛇のやうなものがある。家持も飛んだ者に見込まれたものだ。「沖を深めて」の序は當時の套語で、
  ――猪名川の沖を深めて わがもへりける (卷十六−3804)
  なごの海の沖を深めてさどはせる君が心のすべもすべきなき (卷十八−4106)
  わたの底沖を深めて おふる藻の――。 (卷十一−2781)
など見え、この歌では「海の底」は修飾にとゞまつて現實性はない。
 
(1297)春日山《かすがやま》 朝居雲乃《あさゐるくもの》 欝《おほほしく》 不知人爾毛《しらぬひとにも》 戀物香聞《こふるものかも》     677
 
〔釋〕 ○かすがやまあさゐるくもの 「おほほし」に係る序詞。○おほほしく 「戀ふる」に係る。既出(四八五頁)。○ひとにも 「も」は歎辭。○こふるもの 神本コヒワタル〔五字傍線〕とある。△寫眞 挿圖196參照(六一四頁)。
【歌意】 春日山に朝靡く雲の結ぼれてゐるやうに、胸の塞がる程に、知りもせぬ人にまあ、戀するものかまあ。
 
〔評〕 「知らぬ人にも戀ふる」は一寸呑み込めぬが、
  逢ふことは雲居はるかに鳴神の音に聞きても戀ひ渡るかな (古今集、戀一 貫之)
など噂に聞いただけでも逆上せあがる例は、今でも少くない。家持は累世の名家の胤子で評判の美男、これでは若い女達の求愛の的となるものも無理はあるまい。家持の佐保邸は春日の隣だから、春日山の雲は相思の情を寄せるには因縁がある。但上句は前後に等類がある。
 
直相而《ただにあひて》 見而者耳社《みてばのみこそ》 靈剋《たまきはる》 命向《いのちにむかふ》 吾戀止眼《わがこひやまめ》     678
 
〔釋〕 ○ただにあひて ぢかに面會して。○みてばのみこそ 見たらばそれ一つで。○たまきはる 命の枕詞。既出(三六頁)。「剋」は刻の通用。○いのちにむかふ 命と釣替《ツリカヘ》である。「むかふ」は匹敵の意。○やまめ 「眼」は上の「耳」に對へた戲書。
(1298)【歌意】 貴方に直接逢つて見たらば、それ一つで、私が命と取替へての戀心は、堪能《タンノウ》するでせう。
 
〔評〕 「命に向ふ」戀は死を賭しての戀である。見ぬ戀にあくがれるにも程のあつたものだ。尤も、情事の交捗にはなか/\懸引のあるもので、作者は大きな誇張を用ゐてゐると睨まれぬでもない。但當面の切願は、せめて只の一度でいゝからお逢ひしたい、只それだけを主張してゐる。かういふのに限つて一遍逢つてやると、又負へば抱かれようの蟲のいゝ注文を出すに極まつてゐる。
 炎々烈々たる愛慾の火※[餡の旁+炎]は女郎の身を燒き、更にその對手を燒かねば止まぬの觀がある。
  まそ鏡ただ目に君を見てばこそ命にむかふわが戀やまめ (卷十二−2979)
同意であるが、この切實さには及ばない。五首中の白眉。
 
不欲常云者《いなといはば》 將強哉吾背《しひめやわがせ》 菅根之《すがのねの》 念亂而《おもひみだれて》 戀管母將有《こひつつもあらむ》     679
 
〔釋〕 ○しひめや 「や」は反動辭。契沖訓による。諸本の訓シヒムヤ〔四字傍線〕。○すがのねの 「亂れて」に係る枕詞。菅はその白根がモジヤ/\してゐる。「菅《スガ》」は「やますげ」を見よ(七三六頁)。△寫眞 挿圖215を參照(七三七頁)。
【歌意】 面會が〔三字右○〕厭だと仰しやるなら、無理強ひを致しませうかい、貴方樣え。仕方がない、私は獨で〔九字右○〕くよ/\物案じして、戀ひ焦れてまあ居りませうよ。
 
(1299)〔評〕 一且は逆上して、思ひ切つた事をいつて退けたが、又男の意向を顧慮して、遠慮深く「強ひめやわが背」といひ、假令拒絶されても「思ひ亂れて戀ひつつもあらむ」と、思ひ込んだからにはこの戀は棄てないといふ。かうなると却て可愛さうである。
 初二句は實に意中の語で、その情怨に双眉を※[手偏+賛]めて艶訴する嬌態の媚めかしさが想ひ遣られる。まことに情痴三昧。
 
大伴(の)宿禰家持(が)與《と》2交遊《とも》1久〔左△〕(しく)別(るゝ)歌三首 
家持が友達と久しく逢はずにゐた時の歌との意。「久」原本にない。目録には「別久」とある。
 
蓋毛《けだしくも》 人之中言《ひとのなかごと》 聞可毛《きかせかも》 幾許雖待《ここだくまてど》 君之不來益《きみがきまさぬ》     680
 
〔釋〕 ○けだしくも 既出(五〇七頁)。○きかせかも 聞かせば〔右○〕かも。この「か」は疑辭で係辭。古義訓による。舊訓キケルカモ〔五字傍線〕。○ここだくまてど 眞淵訓はココダマテドモ〔七字傍線〕。
【歌意】 蓋しまあ、人の中口を聞かれたせゐかして、幾ら私が待つても、貴方がお出下さらぬわ。
 
〔評〕 親友に對する氣持は、情人に對する氣持と少しも違はぬ、我れ往き破れ訪ひ兩心綢繆、口にこそ出さぬが終生渝るまいと誓ふ。然るにこの頃ふつつりその友が影を見せない。世には中口を利いて水を指す惡魔がゐ(1300)る。或はその乘ずる處となつたかと疑念を懷く。何處までむ對情人の關係めく處が面白い。
 
中々爾《なかなかに》 絶年云者《たゆとしいはば》 如此許《かくばかり》 氣緒爾四而《いきのをにして》 吾將戀八方《わがこひめやも》     681
 
〔釋〕 ○たゆとし 略解訓タエムト〔四字傍線〕。○いきのをにして 「いきのを」は前出(一二六七頁)。「して」は輕く添へていふ詞。
【歌意】 君が〔二字右○〕、却て絶交だとさういはうなら、いつそ埒が明いて、これ程に心にかけて、私が戀しう思はうことかい。
 
〔評〕 來訪もしてくれず、絶交だともいはず、どちら付かずで引つ張られては、全く殺生である。「なかなかに絶ゆとしいはば」は、その來訪を待ちあぐんだ餘りの嬌語で、絶交を希望してゐるのでは素よりない。「生の緒にして――戀ひ」するは、親友關係としては多少誇張の氣味があるので、却て足の遠退いた情人に對する感想めいてゐる。
 
將念《おもふらむ》 人爾有莫國《ひとにあらなくに》 懃《ねもごろに》 情盡而《こころつくして》 戀流吾毳《こふるわれかも》     682
 
〔釋〕 ○おもふらむ 「將念」は一本相〔右△〕念とあるに從へば、アヒオモフ〔五字傍線〕と訓む。
(1301)【歌意】 自分を思うてくれよう人でもないのに、それを懇に心を碎いて、戀してゐる私であることよ。
 
〔評〕 失望の極は愚痴になつた。こちらの思ふ程先は思はぬのにと、自分一人眞劍になつてゐる馬鹿らしさを自嘲した。然しそれで諦めが付いたのではない。付かないから愚痴に墮ちてるる。
 
大伴(の)坂上(の)郎女(が)歌七首
 
謂言之《ものいひの》 恐國曾《かしこきくにぞ》 紅之《くれなゐの》 色莫出曾《いろにないでそ》 念死友《おもひしぬとも》     683
 
〔釋〕 ○ものいひの 古義訓による。舊訓イフコトノ〔五字傍線〕。○かしこきくに 恐ろしい處。國は處の轉義。諸本の訓サガナキクニ〔六字傍線〕は非。○くれなゐの 「色に出づ」に係る枕詞。「くれなゐ」は呉《クレ》の藍《アヰ》の約で、紅《ベニ》花のこと。菊科の一年草で、莖葉共に刺ありて薊に似、夏の頃黄色の花開く。花よりは紅《ベニ》、種子よりは油を採取する。花汁の紅はその色鮮明なる故に、色に出づることを套語とする。「紅《クレナヰ》の末摘花の色に出でずとも」(卷十)「紅の色には出でじ」(古今集、戀一)など例が多い。○いろにないでそ 氣色に露はすな。○おもひしぬ 思に耐へず死ぬ。
(1302)【歌意】 人の物言ひの恐ろしい處ですぞ、決して氣振にお出しなさるなよ、假令思ひ死ぬともさ。
 
〔評〕 秘密ほど暴露する。忽にデマが飛ぶ。殊に作者の身邊は人目が多く口うるさい處なら、實に「物言の恐き國」ではある。二人の中の絶對秘密を保つ爲とはいへ、いつそ思ひ死にしても色に出すな、とは隨分無理な注文だが、そこに個人對社會の葛籐と、戀の冒險とが如實に窺はれる。
 紅花の色に出づは、流石に染織を嗜む婦人の口吻を想はせる。歌風も流滑で、平安調の徴候を呈してゐる。處〔傍点〕を具象的に誇張して、「國」といひ換へたのも、印象が明確でよい表現である。
 
今者吾波《いまはわは》 將死與吾背《しなむよわがせ》 生十方《いけりとも》 吾二可縁跡《われによるべしと》 言跡云莫苦荷《いふといはなくに》     684
 
〔釋〕 ○しなむよ 「よ」は呼格の辭。○われによる 自分に憑《ヨ》り付く。○いふといはなくに 契沖は、君が〔二字右○〕いふとも人の〔二字右○〕言はねばと解した。「いふと」を除けば意は簡明になる。
【意歌】 もう私は死にませうよ、貴方樣え、よし生きてゐたとても、「私に一緒になつて下さらう」と貴方が仰しやるとは、人は〔二字右○〕いひませんでね。
 
〔評〕 大事な命も戀の爲には、投げ出すことが比較的無造作である。で動もすれば死を口頭語として憚らない。一旦夫と定つた男が心變りして中絶えた頃の感想と考へられる。使を立てて隨分復縁を迫つて見ても、男は一(1303)向に承知しさうもない。で奥の手の「死なむよ」で、半分は威かし氣味である。片思の焦燥がその中核をなしてゐる。
 「わは」「わがせ」「われに」の重複は不快である。
 
人事《ひとごとを》 繁哉君乎《しげみやきみを》 二鞘之《ふたさやの》 家乎隔而《いへをへだてて》 戀乍將座《こひつつをらむ》     685
 
〔釋〕 ○ひとごと 前出(九七〇頁)。○しげみや 繁さにや。「み」は接尾辭。○ふたさやのいへ 二刀子を納れる鞘の刀室《イヘ》。古代の刀子の鞘造りに、一つの幹中に二つも三つも仕切をつけて小刀室を造り、おの/\その刀子を納める物がある。その刀室をイへといつた。(正倉院御物中に現存する)。「ふたさやの」は「家を隔てて」に係る序。○いへをへだてて 鞘の方では刀子が各|刀室《イヘ》を殊にするのでいふ。
【歌意】 人の物言の餘りうるさゝに、貴方と私とは、空しく各家を隔てゝ、逢ふ事なしに戀ひ/\して居りませうことか。
 
(1304)〔評〕 何は然れ周圍は喧ましい。双棲も出來ないのである。たま/\手まはりの小道具に二鞘の刀子あるのを見て、感慨をそれに寓せ、恰もこの刀子の室を隔てた如く、君は君の家、我れはわが家と引分れて、永久に逢ふことなしに戀暮らすのではあるまいかと憂慮した。比喩の取材が清新で、作として面白い。
 
比者《このごろは》 千歳八往裳《ちとせやゆきも》 過與《すぎにしと》 吾哉然念《われやしかもふ》 欲見鴨《みまくほれかも》     686
 
〔釋〕 ○ちとせやゆき 千年が八度往くこと。○われや 「や」は歎辭。○みまくほれかも 見まく欲れば〔右○〕かもの意。略解訓による。舊訓ミマホシミカモ。
【歌意】 逢はずにゐる〔六字右○〕この日頃は、千年が八遍も過ぎた事であつたかと、私はねさう思ふひますよ。これも逢ひたく欲するせゐかまあ。
 
〔評〕 おなじ閨怨でも、これは人言に依つて間を裂かれたのだから、その情恨は倍す永い。「この頃」といふ程の日數を八千年の心地とは、稍浮誇の感がある。詩の王風の第一作に、一日見ざれば三月の如しといひ、第二作に、三秋の如しといひ、第三作に、三歳の如しといふ。漸層的に跨張の進度を加へていつたので、一日三歳が不自然でなくなる。又結果から原因を推定した「見まく欲れかも」も、いひ詰めて餘韻が乏しい。但その節々に切迫した語調は、いかにも作者の思ひ迫つた血の高鳴を聞くやうである。
 「千歳八往」の造語の如き、尋常婦女子の口吻でない。
 
(1305)愛常《うつくしと》 吾念情《わがもふこころ》 速河之《はやかはの》 雖塞々友《せきとせくとも》 猶哉將崩《なほやくづれむ》     687
 
〔釋〕 ○はやかはの 早川の如く〔二字右○〕。○せきとせくとも 略解訓による。古義訓はセキハセクトモ〔七字傍線〕。○くづれむ 古義訓クエナム〔四字傍線〕。
【歌意】 貴方を〔三字右○〕いとしいと私の思ふ心は、恰も早川が塞き止めても/\、その塞《セキ》が崩れるやうに、幾らとめようとしても、やはり甲斐ないことであらうか。
 
〔評〕 愛慕の心は止めても止まらぬ。内容は只それだけの事を、早川の比喩で表現して姿致を求めた。修辭の上からいへば縁語の鎖り續けで、立派に平安朝の歌風の先驅をなしてゐる。
 
青山乎《あをやまを》 横※[殺の異體字]雲之《よこぎるくもの》 灼然《いちじろく》 吾共咲爲而《われとゑまして》 人二所知名《ひとにしらゆな》     688
 
〔釋〕 ○あをやま 前出(八六五頁)。初二句は序。○よこぎる 過《ヨギ》る。「※[殺の異體字]」は段〔右△〕の正字。○いちじろく 著《イチジル》く。甚しく目に立つをいふ。「灼然」は意譯字。○われと 私と一緒に。略解に、我に對してと解したのは「共」の字の意に背く。○ゑまし 笑む〔二字傍点〕の敬相。
【歌意】 青山を横切る白雲はひどく目に立つが、そのやうにあざやかに、私と一緒にニコリとなされて、そして人にお知られなさるな。
 
(1306)〔評〕 眼を以て相迎へ、笑みを以て相酬ゆる、褻語はあるが、人前での愛の交換には、笑みのウインクが一番物をいふ。いち著く笑まして人に知られるなは、素より不可能な注文で、そこに無理性な詩味が放散する。
 「青山をよこぎる雲の」の序詞も色彩鮮明で、甚だ爽快な感じを伴ふ。この歌柄にふさはしい。卷十一に「蘆垣のなかのにこ草にこよかに」とある歌の下句が、これと同じい。
 
海山毛《うみやまも》 隔莫國《へだたらなくに》 奈何鴨《なにしかも》 眼言乎谷裳《めごとをだにも》 幾許乏寸《ここだともしき》     689
 
〔釋〕 ○めごと 見ること言ふこと。「めごとも」を見よ(五一六頁)。
【歌意】 海も山も隔たりはせぬのに、何でまあ、貴方に逢ふ事も口を利く事も、大層少いのですかしら。
 
〔評〕 人は咫尺相望む地に住んで居ながら、極めて稀なる逢瀬を樂むに過ぎない。愛の不滿からこの矛盾に想到し、「何しかも」の一不審を投げ懸けた。人言のこちたさか、男の不誠意か。それを何處までも暴露せぬ處に味ひの深みがある。若しこの歌が贈歌であつたとしたら、男は或は耳痛い皮肉と聽いたであらう。
 「海山も隔たらなくに」は交通不便な當時では、今の我々の感受するより以上に、大きな誇張的轉義であつたことに留意を要する。
 
大伴(の)宿禰三依(が)悲別《わかれの》歌一首
 
(1307)照日乎《てるひを》 闇爾見成而《やみにみなして》 哭涙《なくなみだ》 衣沾津《ころもぬらしつ》 干人無二《ほすひとなしに》     690
 
〔釋〕 ○てるひを 四言の句。古義訓テラスヒヲ〔五字傍線〕。或はテレルヒヲと訓むか。宣長は「日」を月〔右△〕の誤としてテルツキヲ〔五字傍線〕と訓んだ。○みなして 或物の如くに見るをいふ。
【歌意】 照る日の光をも闇に見なして、眼も泣き塞がる涙に、衣を沾したことよ、誰れも干してくれる人もなくてさ。
 
〔評〕 天日明を失ふは、別の涙の夥しきをいふ。滂沱として衣袂は濕うても、そんな時世話を燒いてくれた妹はもう赤の他人だ。弧※[螢の虫を火に]依るところのない俄|※[魚+環の旁]《ヤモメ》の悲哀が如實によく出て、眞情流露の作である。初二句の誇張も些の浮華な點なく、下句の節奏も切實を極めてゐる。この作者はかくの如き眞情の語に長じてゐる。
 宣長が「日」を月〔右△〕の誤としたのは、卷十二の「清き月夜《ツクヨ》も闇のみに見つ」に惹かれたので採るに足らぬ。
  三つ河の淵瀬もおちず小手《サデ》刺すに衣手ぬれぬ干す兒はなしに (卷九−1717)
は等類に近いが、全然比倫すべきでない。
 
大伴(の)宿禰家持(が)贈(れる)2娘子《をとめに》1歌二首
 
百礒城之《ももしきの》 大宮人者《おほみやびとは》 雖多《おほけども》 有情爾來而《こころにのりて》 所念妹《おもほゆるいも》     691
 
(1308)〔釋〕 ○ももしきの 宮の枕詞。既出(一二六頁)。「礒」をしと讀むは巖石即ちイシの上略。但なほ説がある。○おほけども 「とほけども」を見よ(九〇二頁)。舊訓オホケレド〔五字傍線〕。○こころにのりて 己が〔二字右○〕心に浮んで。
【歌意】 大宮の女人は澤山あるけれど、たつた一人〔五字右○〕、私の心に浮んで、いとしく思はれる貴女よ。
 
〔評〕 眞實の戀の對象は一元であらぬばならぬ。
  打日刺す宮道を人は滿ちゆけどわが思ふ公《キミ》はただ一人のみ (卷十−2582)
  星のふるほど男はあれど月と頼むは主ばかり (俗謠)
の類、皆その立意を同じうするもの、但強ひて軒輊すれば本行の歌が稍劣る。かく反對の事相を合拍せしめ、轉捩の語を挿んでその楔子とする叙法は、詩家の慣手段である。
 「大宮人」とあるに依れば、その「妹」は宮中の奉仕者であるらしい。「心にのりて」に就いては、卷三「東路の荷前のはこの荷の緒にも」の條下の評語を參照。
 
得羽重無《うはへなき》 妹二毛有鴨《いもにもあるかも》 如此許《かくばかり》 人情乎《ひとのこころを》 令盡念者《つくすおもへば》     692
 
〔釋〕 ○うはへなき 「うはへ」を見よ(一二五三頁)。○つくす 盡さするの意。「令盡」は意を承けて書いたもの。諸本のツクストオモヘバ〔八字傍線〕、ツクセルモヘバ〔七字傍線〕、の二訓共に非。
【歌意】 愛想氣のないひどい貴女でもあることよ、これ程に私の心を碎かせることを思へばさ。
 
(1309)〔評〕 勝手に戀して勝手に怨んでゐる。女の方で同情がなければ無論迷惑を感じ、あれば嬉しさを感ずる。然し迷惑など遠慮しては居られぬのが、人間普通の欲求である。上の湯原王の作にもこの上句に似たのがある。
 
大伴(の)宿禰|千室《ちむろが》歌一首 未詳
 
○大伴宿禰千室 傳は未詳。題詞の下の未詳〔二字傍点〕は後人の附記で、千室の傳の未詳の意。
 
如此耳《かくのみに》 戀哉將度《こひやわたらむ》 秋津野爾《あきつぬに》 多奈引雲能《たなびくくもの》 過跡者無二《すぐとはなしに》     693
 
〔釋〕 ○あきつぬ 「あきつのぬべ」を見よ(一四六頁)。○あきつぬにたなびくくもの 「すぐ」に係る序詞。△地圖 挿圖35を參照(一一〇頁)。
(1310)【歌意】 秋津野に靡く雲はやがて過ぎ失せるが、私の思はさう過ぎ失せる事なしに、こんな風でばかり、戀ひ暮らすことであらうか。
 
〔評〕 萬葉人が雲に強い關心をもつたことは實に想像以上である。建國以來、飛鳥時代藤原時代奈良時代と、いづれも大和の峯巒重疊の間にその永い生活を仕續けて來たのだから、地勢上必然的の結果ではあるが、然し彼等がともすれば天地を口にし、日月を舌に上せることを思へば、別に大きな理由がなくてはならぬ。蓋し拜天の思想が民族の血中に遺傳して、牢乎として拔けなかつたのであらう。天象に托してその懷抱を申べた作は、現代人はその崇高なる詩味に打たれて、無批判に一も二もなく敬服してしまふが、その當時に在つては更に奇とするに足らぬ尋常茶飯語であつたらうことは想像に難くない。
 この歌は上の
  朝に日にいろづく山の白雲の思ひすぐべき戀にあらなくに (卷四、厚見王−668)
の等類がある。秋津野の雲を擢き出したことは、吉野地方に縁故があつての作と思はれる。 
廣河女王《ひろかはのおほきみの》歌二首
 
○廣河女王 續紀に、寶字七年正月無位廣河王に從五位を授くとある。類聚抄に穗積皇子之孫女、上道《カミツミチノ》王之女也と註した。
 
(1311)戀草呼《こひぐさを》 力車二《ちからぐるまに》 七車《ななくるま》 積而戀良苦《つみてこふらく》 吾心柄《わがこころから》     694
 
〔釋〕 ○こひぐさ 戀の種《クサ》はひ。「くさ」は種又は材料。草に取成して用ゐた。○ちからぐるま 荷車。重い物を運ぶ車をいふ。力ある車の義。力人の引く車ではない。○ななぐるま 「なな」は多數の代名。○こふらく 戀ふること〔二字右○〕よ。「かくらく」を參照(四七六頁)。○こころから 心づから。古義に、心の裏《ウラ》よりと解したのはいかゞ。
【歌意】 自分の心づから、例へれば戀草を七車の力車に積む程に、夥しく戀ふることよ。 
〔評〕 奇拔な構想である。賤者の生活に關する事物は、とかく貴族の口頭から忌避され勝なので、その習俗に反抗する氣慨がなくては、「力車」の如き大膽なる取材を決行し得るものでない。それが婦人の嬌唇から出たのだから愈よ驚く。
 すべて七分の豪快に三分の誹諧味を混へて、勁健の調を行つてゐる。
 
戀者今葉《こひはいまは》 不有常吾羽《あらじとわれは》 念乎《おもへるを》 何處戀其《いづくのこひぞ》 附見繋有《つかみかかれる》     695
 
〔釋〕 ○あらじ 存在すまい。○こひぞ 戀なる〔二字右○〕ぞ。この「ぞ」は係辭ではない。○つかみかかれる の下によ〔右○〕の辭を補うて聞く。
(1312)【歌意】 もう無情なあの男の事は、奇麗さつぱり諦めて、殘る戀などあるまいと、自分は思うてゐるのを、何處に隱れてゐた戀であるぞ、ふと出て來て自分に攫み懸かつて來たよ。
 
〔評〕 憎い怨めしいで別れた中でも、何ぞの節には思ひ出す。人情は脆いものさ。その戀心に惡魔的性格を與へての「攫みかかれる」は聊か荒々しい感じはするが、これは祖父穗積親王以來の傳家の寶刀を閃かしたに過ぎない。即ち
  家にありし櫃に錠《ぜう》さしをさめてし戀の奴のつかみかかりて (卷十六、穗積親王−3816)
とある。前後二首を通じて、作者の性格に戲謔的特徴を帶び、尋常婦人に似ないことが看取される。
 
石川朝臣廣成《いしかはのあそみひろなりが》歌一首、
 
○石川朝臣廣成 續紀に、寶字二年八月從六位上より從五位下、同四年二月姓|高圓《タカマトノ》朝臣を賜ふ、次いで文部少輔となすとある。尚續紀に、寶字五年以後に從五位下高圓朝臣|廣世《ヒロヨ》の事見え、同五年五月攝津(ノ)亮、同八年正月從五位上播磨守、景雲二年二月周防守、同六月伊豫守、寶龜元年十月正五位を授くとある。廣成のちに廣世と改名したものか、又別人か。
 
家人爾《いへびとに》 戀過目八方《こひすぎめやも》 川津鳴《かはづなく》 泉之里爾《いづみのさとに》 年之歴去者《としのへぬれば》     696
 
(1313)〔釋〕 ○いへびと 家に居る人。○かはづなく 泉の里の修飾で序と見る。○いづみのさと 山城國相樂郡。川を泉川といふ。恭仁《クニ》京の所在地。「いづみの川」(一九四頁)、及び「くにのみやこ」(一〇三一頁)を參照。△地圖及寫眞 挿圖296(一〇二九頁)297(一〇三二頁)65(一九一頁)を參照。
【歌意】 家の人に戀ふる心をどう〔二字右○〕遣り失へようかい。自分は泉の里に年を積ねたのでさ。
 
〔評〕 天平十二年の冬十二月奈良より久邇に遷都、百官は久邇に一時的假寓を卜した。 奈良から久邇はその距離約二里。古人は二里や三里の道は遠しとしなかつたとすれば、奈良の家から通勤が出來ない筈もあるまい。何を苦んで家人に遠離つて年を經たか。
 當時の官吏はその出勤時刻が想像以上に早かつた。
  自今以後|卯《ウノ》始(ニ)朝之、巳《ミノ》後(ニ)退之。 (舒明天皇紀八年の條)
と見え、午前六時の參朝だから、寒い時など毎日曉かけての遠路出勤は、衣冠の人として容易なことではあるまい。で久邇の假寓を便利とするのであつた。况や天平十三年閏三月の勅には、「五位以上は意のまゝに平城《ナラ》に住むことを得ざれ」とさへ命令された程である。
 「蛙鳴く泉の里」、奈良京の繁華には似もつかぬ、荒涼たる光景を想像せしめる。新都とはいへ未完成で、人煙が稀少で、徒らに山並の美しさと、布當《フタギ》泉の川瀬の蛙の聲の涼しさとが、官人達の旅愁を慰むるに過ぎない。さればこそ家人戀しの感傷にその胸を痛打されることゝなつた。
 「年の經ぬれば」は、久邇京は天平十二年十二月から同十五年中で難波遷都となり、滿三年間の帝都だつた(1314)からいふので、この間湯沐の暇には往復して、奈良の家人の顔を見ることは無論であらうが、その外は大抵形影相弔する孤客の無聊さを痛感して、「家人に戀ひ過ぎめやも」と覊愁に囚はれるのであつた。久邇京出仕の官人達の生活を想ふと、この歌の實感がひし/\と胸に迫るを覺える。
 
大伴(の)宿禰像見(が)歌三首
 
吾聞爾《わがききに》 繋莫言《かけてないひそ》 刈薦之《かりごもの》 亂而念《みだれておもふ》 君之直香曾《きみがただかぞ》     697
 
〔釋〕 ○わがききにかけて わが耳に懸けて。○かりごもの 「亂れ」に係る枕詞。前出(六七〇頁)。○ただか 直處《タダカ》の義。「君がただか」は君の上を一途にさしていふ。正香《マサカ》とは異なる。宜長いふ、「君又は妹を直にさし當てゝいへる言にて、君妹とのみいふも同じ」と。尚集中、吉美賀多太可《キミガタヾカ》(卷十七)妹|之《ガ》直香(卷九)などある。
【歌意】 私の耳に懸けて、中口を彼是いうてくれるな。この心が粉になる程思ふあの人一點張ですぞ。
 
〔評〕 噂にいゝのは少い。で作者の心地では、彼女の上の噂は一切耳に入れたくないのだ。自分の一本氣の戀、それを端から攪亂されるのは迷惑至極なのである。
 
春日野爾《かすがぬに》 朝居雲之《あさゐるくもの》 敷布二《しくしくに》 吾者戀益《わはこひまさる》 月二日二異二《つきにひにけに》     698
 
(1315)〔釋〕 ○かすがぬに――くもの 初二句は「しくしくに」に係る序詞。○しくしくに 頻繁に。「しく」は頻りの意。○わはこひまさる 古義訓による。舊訓ワレハコヒマス〔七字傍線〕。○つきにひにけに 「け」は「けならべて」を見よ(六八二頁)。「異」は借字。「二」の三疊は有意の書方と思はれる。△寫眞 挿圖171を參照(六二○頁)。
【歌意】 春日野に朝立ち渡る雲のやうに頻に、自分は貴女を戀する心がまさりますことよ、月に日に不斷に。
 
〔評〕 「春日野の雲」は珍しい。が春日野は奈良京の地盤より遙に高いから、春日山の雲が下り居るのである。卷三の題詞に「登春日野」とあり、又下にも吉野の蜻蛉野に雲を詠み合はせてゐる。「月に日にけに」の漸層的表現は「戀ひまさる」状態を如實に指示するもので、面白いやうだが、三句以下稍説明がくどくなり過ぎてゐる。「に」の助辭の多いことも耳立つ。左の歌に較べてその優劣が知られよう。
  戀にもぞ人は死にする水無河下ゆわれ痩す月に日にけに(本卷、笠女郎−598)
 
一瀬二波《ひとせには》 千遍障良比《ちたびさはらひ》 逝水之《ゆくみづの》 後毛將相《のちにもあはむ》 今爾不有十方《いまならずとも》     699
 
〔釋〕 ○ひとせには 「は」は輕く添つた辭。「一瀬二波」は戲書。諸古本の訓はヒトツセニ〔五字傍線〕。○さはらひ さはる〔傍点〕の延言。古義訓サヤラヒ〔四字傍線〕。○ゆくみづの 上三句は「のちにも逢はむ」に係る序詞。○のちにもあはむ 「も」は歎辭。新考訓ノチモアヒナム〔七字傍線〕。
【歌意】 一つの瀬にはあちこちと、何遍も突き當つて別れゆく水の、後で落ち合ふやうに、將來に於いてまあ逢(1316)ひませうよ。今でなくともさ。
 
〔評〕 序詞の構想に適實性があつて面白い。水の一瀬に千度障る如く、頗る苦情澤山で、纏まりにくい戀であつたと見える。でいつそ氣長に熟柿主義に構へて時期の到來を待たうとの決意、世間に例の多い事である。
  かにかくに人はいふとも若狹道《ワカサヂ》の後瀬《ノチセ》の山ののちもあはむ妹(本卷、坂上大孃−737)
  こせなる熊登瀬《ノトセ》の河の後もあはむ妹にはわれは今ならずとも (卷十二−3018)
  瀬を早み岩にせかるる瀧川のわれても末に逢はむとぞ思ふ(詞花集、戀上)
など共に誠意のもとに於いてのみ期待される詞である。
 
大伴(の)宿禰家持(が)到(りて)2娘子之門《をとめのかどに》1作歌一首
 
家持が或娘子の門を訪れて詠んだ歌との意。
 
如此爲而哉《かくしてや》 猶八〔左△〕將退《なほしまからむ》 不近《ちかからぬ》 道之間乎《みちのあひだを》 煩參來而《なづみまゐきて》     700
 
〔釋〕 ○かくしてやなほし 二つの「や」の辭さし合ふ。假に上の「や」を反辭とし、下の「八」を之〔右△〕の誤として解する。○なほしまからむ 「なほ」は〔三字傍点〕たゞにの意。○なづみ 「煩」を意訓にかく讀む。
【歌意】 かうして近くもない道の間を、困難しつゝ遣つて來て、たゞでさ、何で〔二字右○〕歸らうかい。
 
(1317)〔評〕 懸想人の歌で、娘子の家を訪うて詠み入れたものである。
 頼みもせぬ御苦勞を恩に著せて、色よい返事を伺はぬ以上は梃でも動きません、とすわり込む。まるで強迫だ。そこが又、尋常な熱意でないことを對手に認識させる奥の手である。
 
河内百枝娘子《かはちのもゝえをとめが》贈(れる)2大伴宿禰家持(に)1歌二首
 
○河内百枝娘子 傳未詳。
 
波都波都爾《はつはつに》 人乎相見而《ひとをあひみて》 何將有《いかならむ》 何日二箇《いづれのひにか》 又外二將見《またよそにみむ》     701
 
〔釋〕 ○はつはつに 小端《ハツハツ》に。つひ一寸《チヨツト》。はつかに〔四字傍点〕と同語。○いかならむ 「日」に係る。古義訓イカニアラム〔六字傍線〕。○ひにか 「二箇」は戲書。
【歌意】 つひ一寸貴方と出會うて、どうあらう日何時の日に、又餘所ながらに、お見掛けが出來ようかしら。
 
〔評〕 偶然の邂逅で「はつはつ」の契であつたとすれば、何時如何なる日に、又の歡會を繰り返すことが出來るかは疑問である。然し處女心としては、このまゝで濟まされる程の簡單なものではない。「餘所に見む」は控目勝に婉曲に、家持の意向を叩いてみた詞で、露骨にいへば又何時逢つて下さるか〔九字傍点〕である。
 
(1318)夜干玉之《ぬばたまの》 其夜乃月夜《そのよのつくよ》 至于今日《けふまでに》 吾者不忘《われはわすれず》 無間苦思念者《まなくしおもへば》     702
 
〔釋〕 ○ぬばたまの 夜の枕詞。既出(三〇四頁)。○そのよ 逢うた夜。前出(七七七頁)。○けふまでに 「至于今日」は純漢文。○まなく 「無間苦」は無間地獄の苦の意で充てた戲書か。
【歌意】 貴方に逢うた〔六字右○〕その晩の月夜は、けふになつても私は忘れません、貴方の事を間斷なしにさ思ふので。
 
〔評〕 月下の會合、それは「はつはつ」の出合であつた。その夜の月の面白さに托言して、その夜の君の恩情が身に沁みて時經ても忘れ難いと、戀々の意を表し、「間なくし思へば」と復説した。「われは忘れず」は、人はいざ知らず〔七字傍点〕の意を反映した含蓄のある措辭である。可成りの日が經つても、家持からはそれきり音沙汰がないので驚かした贈歌であらう。
 
巫部麻蘇娘子《かむこべのまそをとめが》歌二首
 
○巫部麻蘇娘子 傳未詳。巫部は氏。續紀、姓氏録などに巫部(ノ)宿禰がある。麻蘇は娘子の名か。
 
吾背子乎《わがせこを》 相見之其日《あひみしそのひ》 至于今日《けふまでに》 吾衣手者《わがころもでは》 乾時毛奈志《ひるときもなし》     703
 
〔釋〕 ○そのひ 下に、より〔二字右○〕の語を補うて聞く。○ひる の上に、涙に〔二字右○〕を補つて聞く。
(1319)【歌意】 貴方樣と出合うたその日から、今日になつても、私の衣は涙に〔二字右○〕乾く時もありませんわ。
 
〔評〕 逢うたその月から戀々の情に悶えて、涙に袖の乾く間もないと、極めて率直に單純に歌ひ去つた。女らしい作である。卷八に家持と贈答の戀歌があるのから推すと、これも家持に贈つたものか。
 
栲繩之《たくなはの》 永命乎《ながきいのちを》 欲苦波《ほしけくは》 不絶而人乎《たえずてひとを》 欲見社《みまくほれこそ》     704
 
〔釋〕 ○たくなはの 「ながき」に係る枕詞。既出(五八九頁)。○ほしけくは 欲しく思ふこと〔四字右○〕は。「さむけくに」を見よ(二五八頁)。○みまくほれこそ 見むことを欲すれば〔右○〕こそなれ〔二字右○〕。「みまくほれかも」を見よ(三〇四頁)。
【歌意】 私が〔二字右○〕長い命を欲しく思ふことは、絶えず何時までも、貴方を見たく思へばこそでありますわ。
 
〔評〕 愛欲の道は變幻窮りがない。逢ふには命を換へてもよいといふかと思へば、逢ふ爲には長生したいといふ。後者は戀の幸福感に既に浸つてゐる人の言で、永久に戀の飽滿を貪求してゐる。信に人欲には際限がない。「欲しけく」「欲れこそ」の重複は太だ妙でない。
 
大伴(の)宿禰家持(が)贈(れる)2童女《わらはに》1歌
 
○童女 十三四歳の處女。
 
(1320)葉根※[草冠/縵]《はねかづら》 今爲妹乎《いまするいもを》 夢見而《いめにみて》 情内二《こころのうちに》 戀度鴨《こひわたるかも》     705
 
〔釋〕 ○はねかづら 婦人の髪飾の一種の稱。近世の刎元結《ハネモツトヒ》の類で、刎※[草冠/縵]《ハネガツラ》の義か。○いまする 古義がイマセス〔四字傍線〕と敬語に訓んだのは非。
【歌意】 はね※[草冠/縵]を今する、年頃の貴女を夢にまで見て、只管胸のうちで、戀しう思うて暮らすことよ。
 
〔評〕 當時の婦人は十三歳には結婚が許された。葉根※[草冠/縵]は結婚期にある童女のする髪飾と見える。「今する」は婚期に臨んだ事の表示で、「いめに見て」は假托の誇張である。葉根※[草冠/縵]の若い娘が居る噂を聞いて、好奇心から小當りに當つて見た懸想の歌である。
 
童女(の)來報《こたふる》歌一首
 
葉根※[草冠/縵]《はねかづら》 今爲妹者《いまするいもは》 無物〔左△〕乎《なきものを》 何妹其《いづれのいもぞ》 幾許戀多類《ここだこひたる》     706
 
〔釋〕 ○なきものを 「物」原本に四〔右△〕とある。宣長説により改めた。舊訓のナカリシヲ〔五字傍線〕では意が通じない。○いもぞ 妹なる〔二字右○〕ぞ。略解訓イモカ〔三字傍線〕は非。○こひたる の下に、は〔右○〕の辭を補うて聞く。
【歌意】 貴方が仰しやる葉根※[草冠/縵]を今する娘などは、こちらには居りませんものを、何處の娘さんですぞ、貴方が夢に見るほど〔九字右○〕大層惚れたのは。
 
(1321)〔評〕 贈歌の初二句をそつくり借用して、お門違ひですが、一體何處の娘さんにと、稍冷かし氣味に詰問してゐる。その妹が葉根※[草冠/縵]もまだせぬ程の年弱とすれば、歌は童女の母親か姉か乳母かの代作となり、又もう葉根※[草冠/縵]時代を過ぎた人とすれば、その人自身の作となる。
 
粟田娘子《あはたのをとめが》贈(れる)2大伴(の)宿禰家持(に)1歌二首
 
○粟田娘子 傳は未詳。粟田は氏。
 
思遣《おもひやる》 爲便乃不知者《すべのしらねば》 片※[土+完]之《かたもひの》 底曾吾者《そこにぞわれは》 戀成爾家類《こひなりにける》     707
 
〔釋〕 ○おもひやる 思を遣り失ふ。排悶。○しらねば 古義訓シレネバ〔四字傍線〕は非。○かたもひの 底に係る序。「かたもひ」は蓋《フタ》のない※[土+完]《モヒ》。「※[土+完]」は和名妙に、説文(ニ)云(フ)※[怨の心を皿](ハ)小孟也、字(モ)亦作v椀(ニ)、辨色立成(ニ)云(フ)未里《マリ》、俗(ニ)云(フ)毛比《モヒ》とある。※[土+完]も椀も同意で、その品質によつて土、金、石、木の偏を當てた。「もひ」は水の古語。轉つてそれを容れる器の稱となつた。○そこにぞ 「底」は行止まりの意。
【歌意】 思の晴らしやうも知らないので、私はとゞの詰りにまで、戀が進行してしまひましたよ。
 
(1322)〔評〕 何をしても本氣の戀は紛れないので、行き詰つて動きが取れない。かく報告した目的は、間接に家持の同情を催促して、その慰めの詞を聞きたい甘い要求である。「片※[土+完]は變つた取材であるものゝ、元來が食器であるから、婦人の生活に關係はある。
 
復毛將相《またもあはむ》 因毛有奴可《よしもあらぬか》 白細之《しろたへの》 我衣手二《わがころもでに》 齋留目六《いはひとどめむ》     708
 
〔釋〕 ○あらぬか あれかしの意。「ふらぬか」を見よ(一一一八頁)。この句の下に、さらば〔三字右○〕の語を補うて聞く。○しろたへの 衣の枕詞。既出(一一八頁)。○いはひとどめむ 君を〔二字右○〕禁咒《マジナ》うて止めよう。
【歌意】 今一度逢ふ手段もないかなあ、そしたら、私の衣に禁咒《マジナ》うて、貴方をとめませうわ。
 
〔評〕 「片※[土+完]の底にぞ思ひなりぬる」でも手答がないと悟つては、今度來たら足止めのお禁咒をしようといふ。この「衣手に齋《イハ》ひ止《ト》め」は、その方法は全然未詳であるが、とにかく對手を前に置いての仕事だから、何でも來て貰はなければならぬ。溺るゝ者は藁をも握む。術策盡きてははかない禁咒でも唯一の縋り處だ。で「又も逢はむよしもあらぬか」と希望した。情痴世界には今日でも種々の禁咒が行はれ、殊に婦人の側に於いて甚しい。
 
豐前《とよのくちの》國(の)娘子《をとめ》大宅女《おほやけめが》歌一首
 
(1323)○大宅女 傳は未詳。大宅は娘子の名か。卷六に出てゐる娘子の歌の條にも、「娘子|字《ナヲ》曰(フ)2大宅(ト)1、姓氏未詳也」と注してある。但豐前國下毛郡に大家《オホヤノ》郷がある。
 
夕闇者《ゆふやみは》 路多豆多頭四《みちたづたづし》 待月而《つきまちて》 行吾背子《いませわがせこ》 其間爾母將見《そのまにもみむ》     709
 
〔釋〕 ○たづたづし たど/\し〔五字傍点〕はこの轉語。前出(一一九六頁)。
【歌意】 夕闇はお歸の〔三字右○〕道が暗くてたど/\しい。で月の出を待つてお出なさいませ、貴方樣よ。その間だけでも私はお見上げしませう。
 
〔評〕 情人の歸路を氣遣うて「夕闇は道たづたづし」といひ、「月待ちていませ」といふ、實に行き屆いた懇情の限を盡したと見せて、落つる處は「その間にも見む」で、なるたけ長く引留めて置きたい欲望なのである。いかにも優しい可愛らしい氣持の女ではないか。
  さ檜の隈檜の隈川に駒とめてしばし水かへわれよそに見む (卷十二−3097)
と同調で、二句四句結句の三段切れに、迂餘曲折した情緒の動向が如實に表現され、いひ知らぬ感哀を覺える。
 
安都扉娘子《あとのとびらをとめが》歌一首
 
○安都扉娘子 安都《アト》は氏。扉は名であらう。トビラと訓むか。
 
(1324)三空去《みそらゆく》 月之光二《つきのひかりに》 眞一目《ただひとめ》 相三師人之《あひみしひとの》 夢西所見《いめにしみゆる》     710
 
〔釋〕 ○みそらゆく 大空を渡る。「三空」「光二」「一目」「三師」はわざと數字を行使したもの。
【歌意】 空を經行く月の光に、只一目見たことであつた人が、夢にさ見えるわ。妙な事ね。
 
〔評〕「あひ見し」を、どの程度に扱うたものか、強く取れば一寸でも契があつたやうだし、輕く取れば行摺りの戀ともなる。今は「只一目」を文字通りに受け取つて、後者の意に假定して置かう。「夢にし見ゆる」は集中枚擧に遑がない程多い。
 
丹波大女娘子《たにはのおほきをとめが》歌三首
 
○丹波大女娘子 傳は未詳。丹波は氏。大女は長女の義。
 
鴨鳥之《かもとりの》 遊此池爾《あそぶこのいけに》 木葉落而《このはおちて》 浮心《うかべるこころ》 吾不念國《わがもはなくに》     711
 
〔釋〕 ○かもとり 鴨のこと。○このはおちて 以上三句は「浮べる」に係る序詞。○おちて 古義訓チリテ〔三字傍線〕。○うかべるこころ 浮いた心。
【歌意】 鴨の遊ぶこの池に、木の葉が散つて浮ぶやうに、浮いた心は私は思ひませんによ。
 
(1325)〔評〕 ゆくりなく池上を見ると、木の葉がひら/\と散つて水に浮く、その状態はいかにも輕い。重りかな眞實心の持主は、自家の心證に對比的衝動を感じ、そんな輕浮な心は微塵持たぬといふ。その貞、石の如き誠意にはまことに涙がこぼれる。「わが思はなくに」の口吻から察すると、何か異心あるやの疑を男からかけられた、その怨訴であり誓語である。
 「この池」は作者身邊の池であることを指示する。
 
味酒乎《うまざけを》 三輪之祝我《みわのはふりが》 忌杉《いはふすぎ》 手觸之罪歟《てふりしつみか》 君二遇難寸《きみにあひがたき》     712
 
〔釋〕 ○うまざけを 三輪の枕詞。「を」は呼辭。「うまざけ」を見よ(八三頁)。○みわ、「みわのやま」を見よ(八三頁)。○はふり 神社に奉仕する神主祝部の總稱。巫祝の輩は罪穢を抛《ハフ》り棄《ス》つる業をなす故にいふか。○いはふすぎ 齋《イツ》き祀る杉。神木の杉をいふ。○てふりし 舊訓テフレシ〔四字傍線〕。
(1326)【歌意】 三輪の神主さんが齋き祀る杉、それに手を障つた罰かして、思ふ貴方に逢にくいことよ。
 
〔評〕 不如意の事があると、何々した罸ではないかとは、今でも人のよくいふことである。作者は嘗て三輪に詣でてその神杉に障つた事があるらしい。思ふ人に逢ひ難い苦悩から、さまざまな聯想を描いて心配し、とゞの詰り、神罰にまで漕ぎつけた。又そこまで往かなければとても諦めが付かないので、女らしいその情懷が哀れである。佳作。
 
垣穗成《かきほなす》 人辭聞而《ひとごとききて》 吾背子之《わがせこが》 情多由多比《こころたゆたひ》 不合頃者《あはぬこのごろ》     713
 
〔釋〕 ○かきほなす 垣のやうに隔てる。垣は間を隔てる物なのでいふ。「垣穗」は垣根の對語であるが、穗の意は輕く、垣と同意に用ゐる。○たゆたひ 既出(三六八頁)。
【歌意】 垣のやうに間を隔てる人の中言を聞いて、あの人が、心をぐづつかせて、逢つてくれぬこの頃よ。
 
〔評〕 男女の相住は正妻だけの事であつて、他は別居してゐるから、嫉妬や羨望で、中傷が盛に飛ばされる。で自然男は出後れる。市に三虎の儔で、しまひには本當に絶縁となる。こんな事は何時の世でもざらにある。實に人言は恐ろしい。さうした境遇に置かれた女の感想としては、これは稍生ぬるい處があつて、感激の度が低い。先づ男の足の遠退きはじめた頃の作と考へられる。
(1327) この二首平均に粒が揃つてゐる。
 
大伴(の)宿禰家持(が)贈(れる)2娘子(に)1歌七首
 
情爾者《こころには》 思渡跡《おもひわたれど》 縁乎無三《よしをなみ》 外耳爲而《よそのみにして》 嘆曾吾爲《なげきぞわがする》     714
 
〔釋〕 ○よしをなみ 縁がなさに。
【歌意】 心中には貴女を〔三字右○〕思うて、月日を經てゐるが、逢ふ縁がなさに、餘所ながらでばかり、歎息を私がしてゐます。
 
〔評〕いひ盡して餘蘊がない。
 
千鳥鳴《ちどりなく》 佐保乃河門之《さほのかはとの》 清瀬乎《きよきせを》 馬打和多思《うまうちわたし》 何時將通《いつかかよはむ》     715
 
〔釋〕 ○かはと 前出(一一三〇頁)。○うまうちわたし 「うち」鞭打つをいふ。卷三に「馬いたく打ちてなゆきそ」とある。 △寫眞 挿圖87を參照(二七三頁)。
【歌意】 佐保川の川門のきれいな瀬を、何時馬に鞭打つて渡して、貴女の處へ〔五字右○〕通はれうかしら。
 
(1328)〔評〕 かくいひ縣けてその囘答を娘子に求めた。即ち間接の催促である。「千鳥鳴く」の修飾、「清き瀬」の形容は、偏に佐保川の賛詞で、その佐保川を渡つて通ふといふことに、重要な意義を寄託する結果になる。上の坂上郎女の
  佐保川のさざれふみ渡りぬば王のこまのくる夜は常にもあらぬか(−525)
と表裏して、風調はくだるが婉曲味を以て優つてゐる。
 
夜晝《よるひると》 云別不知《いふわきしらに》 吾戀《わがこふる》 情盖《こころはけだし》 夢所見寸八《いめにみえきや》     716
 
〔釋〕 ○わきしらに 區別を知らず。舊訓ワキシラズ〔五字傍線〕。
【歌意】 夜晝の差別なしに、私の戀ひ焦れる心は、一體まあ貴女の夢のうちに見えましたかい。見える筈だがなあ〔八字右○〕。
 
〔評〕 これ程思へば必ずや向うの夢にも見える筈、といふ豫斷のもとに發した質問である。實の處はそれ程にまで戀して居ますといふ通知である。然し單なる通知では效力が薄い、そこで誇大の意味をも混へて質問の形式を取つた。
 
都禮毛無《つれもなく》 將有人乎《あるらむひとを》 獨〔左△〕念爾《かたもひに》 吾念者《われはおもへば》 惑毛安流香《わびしくもあるか》     717
 
(1329)〔釋〕 ○つれもなく 既出(四六九頁)。○かたもひに カタモヒは「獨念」の意訓。「獨」原本に狩〔右△〕とあるは誤。〇わびしく 集中卷九、卷十に惑者をワビビトと訓んであるので、「惑毛」をかく訓んだ。古義訓メグシク〔四字傍線〕は非。○あるか 前出(一二八六頁)。
【歌意】 無情でまああらう人を、片思に私の思へば、面白くもまあないことよ。
 
〔評〕 平凡の愚痴で、取立てゝ評する處がない。
 
不念爾《おもはずに》 妹之咲※[人偏+舞]乎《いもがゑまひを》 夢見而《いめにみて》 心中二《こころのうちに》 燎管曾呼留《もえつつぞをる》     718
 
〔釋〕 ○ゑまひ 前出(一〇三九頁)。「※[人偏+舞]」は舞と同字でこゝは借字。
【歌意】 はからず貴女の笑顔を夢にみて、心のうちに戀ひ焦れてをりますわ。
 
〔評〕 詩の周南の「寤寐(ニ)思服(ス)」の意を委しくしたもので、上に
  みそらゆく月の光にただひとめあひみし人のいめにし見ゆる (−710)
とその歸趨を同じうしてゐる。
 
丈夫跡《ますらをと》 念流吾哉〔左△〕《おもへるわれや》 如此許《かくばかり》 三禮二見津禮《みつれにみつれ》 片思男責《かたもひをせむ》     719
 
(1330)〔釋〕 ○われや 「哉」原本に乎〔右△〕とあるが、我れや〔右△〕となくては意が通ぜぬ。よつて改めた。舊訓ワレヲ〔三字傍線〕。○みつれにみつれ 窶《ヤツ》れに窶れ。紀に羸をミツレと訓んである。羸は窶れ疲るゝをいふ。「三禮二見」は戲書。
【歌意】 天つ晴れ男と思うてゐる私が、こんなにばかりひどく窶れ切つて、片思をせうことかい。
 
〔評〕 高が一婦人の爲に六尺の男が何の態だとの自虐批判、これは強ひて理性を喚び起して情思の昂揚を抑へ付けようとの試である。そんな事でもせねばならぬ程、作者は、苦しい切羽詰つた立場にあつた。然し「われや――片もひをせむ」の聊か生温い口吻では、到底それは無效であつた。眞に戀の煉獄は苦しい。父旅人卿の
  ますらをと思へる我れや水莖の水城のうへ涙のごはむ (卷六−968)
とその體製が類似してゐる。
 
村肝之《むらぎもの》 情摧而《こころくだけて》 如此許《かくばかり》 余戀良苦乎《わがこふらくを》 不知香安類良武《しらずかあるらむ》     720
 
〔釋〕 ○むらぎもの 既出(三九頁)。○こころくだけて 心の千々に盡さるゝをいふ。「情」原本に於〔右△〕とあるは誤。古寫本に依つて改めた。
【歌意】 心が摧けて、これ程に私が戀することを、貴女は〔三字右○〕知らずにゐるでせうかなあ。
 
〔評〕 知れば必ず同情して承知する筈といふ前提の許に成つた作で、承知せぬ處を見ると、これ程の誠意と焦思(1331)とが、對手に全然了解されぬのかと怪訝して嗟歎してゐる。前提が實は不確定のものだから、その怪訝も嗟歎も砂上の塔であることが面白い。「情くだけて」は遊仙窟の「心肝恰(モ)欲(ス)v摧(ケント)」に似た造語。
 
戲(れる)2天皇(に)1歌一首
 
○獻天皇 聖武天皇に獻つた歌との意。古寫本の注に「大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)在(リテ)2佐保(ノ)宅(ニ)1作(メル)也」とある。下にも「獻天皇」の題詞の歌が二首あつて、いづれも作者の署名がない。
 
足引乃《あしひきの》 山二四居者《やまにしをれば》 風流無三《みやびなみ》 吾爲類和射乎《わがするわざを》 害目賜名《とがめたまふな》     721
 
〔釋〕 ○みやびなみ 氣の利かなさに。殺風景なるをいふ。古義訓ミサヲナミ〔五字傍線〕は鑿に過ぎる。○とがめ 「害」にトガの意がある。
【歌意】 私は山にさ住んでをりますので、都びた氣取がなさに、私が致しました事を、どうぞお咎め下さいますな。
 
〔評〕 郎女が佐保山下の家から何物かを獻つるに添へた作である。もと/\贈遺に附き物の卑下謙遜の辭令に過ぎないが、名門大伴家の郎女がみづから山人と冒稱して、愼しやかに貴任囘避の樣式を取つた處に、天威の尊嚴さが間接にしのばれる。
 
(1332)大伴(の)宿禰家持(が)歌一首
 
如是許《かくばかり》 戀乍不有者《こひつつあらずは》 石木二毛《いはきにも》 成益物乎《ならましものを》 物不思四手《ものもはずして》     722
 
〔釋〕 ○こひつつあらずは 戀ひつつあらむよりは〔三字右○〕の意。かくいふは古文法。なほ「あらずは」を見よ(三五九頁)。○いはき 石と木と。○にも 「二毛」は「四手」の對語で戲書。
【歌意】 か程戀ひ焦れ/\して居らうよりは、いつそ無情の〔三字右○〕石や木にもならうものを、そしたら苦勞などせずに、どんなにか暢氣だらうに。
 
〔評〕 無情の木石を羨むに至つては眞に焦心の極である。木石を無情の例に引くことは、木石の心腸といひ木強漢といひ、漢籍には珍しいことでない。作者は多分その邊にヒントを得ての著想であらう。結局は聊か説明に過ぎて、餘蘊の乏しさを感ぜぬでもない。
 
大伴坂(の)坂上(の)郎女(が)從《より》2跡見庄《とみのたどころ》1贈2賜《おくれる》留(れる)v宅《いへに》女子大孃《むすめのおほいらつめに》1歌一首并短歌
 
坂上郎女が跡見の別莊から、家に留守居してゐる娘の姉姫に贈つた歌との意。○跡見庄 大和宇陀郡榛原の跡見で、西は直ちに吉隱《ヨナバリ》の猪養の岡(又は山とも)に接した、鳥見《トミ》山下の別莊である。郎女また「吉名張《ヨナバリ》の猪養《ヰカヒ》の山に伏す鹿の」(卷十七)とこゝで詠んでゐる。これを生駒郡の迹見《トミ》、或は磯城郡の迹見(外山)とする諸説は非。(1333)鳥見山は神武天皇の施政の始、靈畤を立てられた處で、標高七百卅三米突。「庄」は莊の俗字で、莊は字典に田舍也と見え、田庄を紀にタドコロと訓んである。○大孃 坂上大孃のこと。前出(九一〇頁)。
 
常呼二跡《とこよにと》 吾行莫國《わがゆかなくに》 小金門爾《をかなとに》 物悲良爾《ものがなしらに》 念有之《おもへりし》 吾兒乃刀自緒《わがこのとじを》 野干玉之《ぬばたまの》 夜晝跡不言《よるひるといはず》 念二思《おもふにし》 吾身者痩奴《わがみはやせぬ》 嘆丹師《なげくにし》 袖左倍沾奴《そでさへぬれぬ》 如是許《かくばかり》 本名四戀者《もとなしこひば》 古郷爾《ふるさとに》 此月期呂毛《このつきごろも》 有勝益土《ありかつましじ》     723
 
〔釋〕 ○とこよにと 常世の國にと。外國に、遠國に、といふ程の意。宣長が紀の雄略天皇の遺詔の至於大漸をトコツクニイタラムトハと訓めるに據つて、こゝをも夜見の國の意に解し、人の死ぬる意に取つたのは、事情に協はぬ。尚「常世《トコヨ》」を見よ(一九三頁)。「呼」はヨブを下略してヨの假字に充てた。眞淵の與〔右△〕の誤とする説は非。○をかなと 「を」は美稱。「かなと」は (1)古へ金鎖を以て門戸をくされり、故にいふ(紀の釋の私記の師説)。(2)金物を打つた門の事で、略してカドといふ(宣長説)。(3)墻之門《カナト》の義。金門と書くは借字。(景樹説)。「加那斗(1334)加宜《カナトカゲ》」(記允恭天皇の條)「金門にし人の來立てば」(卷九)「ころが加那門《カナト》よ」(卷十四)「あさけの可奈刀低《カナトデ》に」(同上)など例が多い。○ものがなしらに 物悲しげにといふに近い。○わがこのとじ 大孃はわが娘ながら大伴家持の妻となつてゐるので、刀自と呼んだ。○とじ 戸主《トジ》の義。又|刀自女《トジメ》、家刀自《イヘトジ》と熟しても使つた。老少に拘はらず主婦を稱した。然るに主婦は年配の多いので、允恭天皇紀に「いで戸母《トジ》」、遊仙窟に主人母《イヘトジ》とある如く、漸く老女の稱に轉つて來た。和名抄に、俗人謂(ヒ)2老女(ヲ)1爲2刀自《トジ》1とある。無論允恭天皇時代以前より發生してゐた語で、慣用の極、白刀自賣《シラトジメ》、古《フル》刀自賣、濱《ハマ》刀自|女《メ》、新《ニヒ》刀自女(天平勝寶の東大寺奴婢帳)眉《マユ》刀自女(催馬樂)など、婦人の名にまで用ゐられた。○もとなし 「もとな」は既出(六一六頁)。「し」は強辭。○ふるさとに 跡見庄の別莊をさす。「ふるさと」は前出の解の(2)の意に當る(一二四九頁)。○ありかつましじ 居るに堪へられまい。既出(三一七頁)。舊訓アリカテマシヲ〔七字傍線〕。
【歌意】 私がさう遠國にと出て往く譯でもないのに、門に立つて物悲しさうに念うて、見送つてゐた〔六字右○〕わが兒の刀自を、夜晝なしに戀ひ思ふのでさ、私の身は痩せたまゝ歎くのでさ、私の袖さへ沾れたまゝです。こんな調子でばかり無茶にさ戀ひ思ふなら、この迹見の故里に、永くは勿論、この月頃でさへも、住みおほせることは出來ますまい。
 
〔評〕 迹見庄は大伴家の庄園で、卷八に
  紀(ノ)朝臣|鹿人《カヒトガ》至(リテ)2大伴(ノ)宿禰稻公(ノ)跡見庄(ニ)1作歌
ともあり、そこの別莊に、家の人が折々遊に往つたと見える。抑もこの地は神武天皇が靈畤を立てゝ天神地祇を祀られた鳥見山の麓で、恐らく大伴氏の祖道臣(ノ)命が開國の功臣として拜領し、爾來傳承したものだらうと考へられる。榛原を隔てゝ宇陀地方の山地低地を俯瞰し、猪養の岡の鹿鳴を聞く形勝の地で、今も小鹿野と稱する小部落があるその附近であらう。
 されば迹見庄は比較的遠方の別莊で、さう無造作に往來が出來ない。郎女は初めから月頃の豫定で、家を留守にするのであつた。多分靜養の爲でゞもあらう。永く母子一緒に住み馴れた習慣から、さも遠國にでも旅行くものゝやうな氣がして、大孃は歎くのであつた。行旅が非常な苦悩で、再會の期にも相當の日時を要した時代だから、「常世にと云々」の假設の引例が適切な效果を奏する。
 門出に當つて送りに出た娘、名殘惜しげに悄然として立ち盡したその可憐なる面影が、憖に家を離れて別莊の閑寂生活にゐるだけ餘計に、寤寐に彷彿して他念なく氣に懸か(1336)る。もう人妻ではあるが、まだうら若い娘故には身も細るほどに、袖も朽ちるほどに、胸を痛め涙を溢すのであつた。かうなると、母親郎女の心は雲山萬里の旅の思であつたらしい。
 緜々たる情緒は更に竿頭の一歩を進めて、この調子では豫定の如き別莊の長逗留はとてもむづかしからうと危ぶむに至つて、愈よ強い母性愛の發露を見る。只この一齣が一首の司命となつてゐる。
 
反歌
 
朝髪之《あさがみの》 念亂而《おもひみだれて》 如是許《かくばかり》 名姉之戀曾《なねがこふれぞ》 夢爾所見家留《いめにみえける》     724
 
〔釋〕 ○あさがみの 「亂れて」に係る枕詞。朝髪は朝起の時の髪で、未だ梳らぬから亂れてゐる。○かくばかり しかばかりの意。○なね 汝、あなた。「な」は汝《ナ》、「ね」は親愛の意の接尾語。古事記(中)にも「汝《ナ》ね汝《ナ》が命《ミコト》と」(神沼河耳命が御兄神八井耳命に宣へる語)と見え、男女に通じて用ゐた古語。古義、略解などに「ね」を姉の意としたのは誤。「名姉」は借字。○こふれぞ 戀ふれば〔右○〕ぞ。古格。童蒙抄訓ナネシコヘバゾ〔七字傍線〕。
【歌意】 いろ/\に心を掻亂して、それ程貴女が戀ひ焦れるからさ、貴女が〔三字右○〕私の夢のうちに見えましたよ。
 
〔評〕 着想は既出の621 633 639 の諸作と同樣で、陳腐に墮してゐる。宣長が戀ふれぞなねが〔七字傍線〕と打返して心得べしと解したのは分寸の差違がある。
 
(1337)右(ノ)歌(ハ)報2賜《コタフル》大孃(ニ)1歌也。
 
題詞を嚴しく見れば、反歌の「かくばかり」を上述の如く解してよく、題詞を緩やかに見れば、「かくばかり」を普通の意に解して、この左註の如く大孃への返辭としてもよい。
 
獻(れる)2天皇(に)1歌二首
 
題詞の下、類聚古集には「大伴坂上郎女(ガ)在(テ)2春日里(ニ)1作也」と註してある。然しこの二首殊に次の歌は天皇に獻つた歌とも思はれない。二首ながら池を詠んだので見ると、必ず一聯の作である。さては異なる題詞が茲にあつたと見てよい。
 
二寶鳥乃《にほどりの》 潜池水《かづくいけみづ》 情有者《こころあらば》 君爾吾戀《きみにわがこふる》 情示左禰《こころしめさね》     725
 
〔釋〕 ○にほどり 前出(九八五頁)。○かづく 潜る。○こころあらば 池の中心《コヽロ》を同情の意にかけた。○しめさね 「なのらさね」を見よ(一一頁)。 △挿畫 挿圖290參照(九八五頁)。
【歌意】 鳰がもぐる池の水よ、その心即ち同情があるなら、君に私が戀してゐる心持を示しなさいよ。
 
〔評〕 「鳰鳥の潜く」は池の修飾である。池水の心は池の中心《ナカゴ》をいふ。孝昭天皇の皇居の稱に掖上池心《ワキガミノイケゴコロノ》宮がある。(1338)水心湖心池心など詩語にもいふ。池心の縁で「情あらば」の假説に一波瀾を描き、わが深き心を示せと懇願した。「心」が重出してゐるが、その意味が別であるから難はない。
 
外居而《よそにゐて》 戀乍不有者《こひつつあらずは》 君之家乃《きみがいへの》 池爾住云《いけにすむとふ》 鴨二有益雄《かもにあらましを》     726
【歌意】 餘所に隔てゐて、徒らに戀ひ焦れ/\してゐようよりは、いつそ貴方のお邸の池に棲むと伺つてゐます鴨になりたいものですのを。それも出來ませんのでねえ〔十二字右○〕。
 
〔評〕 類聚古集の註の如く、歌は或は郎女の作かも知れないが、「君が家の」の語は天皇に獻る歌としては絶對にふさはぬ。新考に郎女が大孃に贈れる歌なるべしとあるが、大孃の家は即ち郎女の宅だから、「池に住むとふ」などよそ/\しい事はいはぬ筈である。とにかく或女から男に贈つた歌であることは確かである。
 男がその庭池に鴨の飼つてあることを話したと見え、餘に戀しい時には、もう溜りかねて、寧ろお池の鴨になつても不斷お目にかゝりたいにとは、可愛いことをいつたものだ。その實現不可能を承知の上で要望する處に、いかに切ない戀の試煉を受けてゐるかゞ窺はれる。
 
大伴(の)宿禰家持(が)贈(れる)2坂上(の)家(の)大孃(に)1歌二首 【雖(ドモ)v絶(ユト)2數年(ヲ)1復會(ヒテ)相|聞《トヒ》往來《ユキキス》。】
 
〇雖絶數年云々 この割註は家持と坂上大孃との情關係に就いて語つたもので、一旦逢うて後數年中絶してゐ(1339)たが、復縒が戻つて交通してゐるとの意。家持と大孃とは從兄弟同志の血縁である。
 
萱草《わすれぐさ》 吾下紐爾《わがしたひもに》 著有跡《つけたれど》 鬼乃志許草《しこのしこぐさ》 事二思安利家理《ことにしありけり》     727
 
〔釋〕 ○わすれぐさ 前出(八〇二頁)。○したひも 下裳の紐。○しこのしこぐさ 醜の醜草。醜は見にくきこと。萱草を惡み罵つて醜草といひ、更に罵つて「醜の」と冠せた。尚「しこのますらを」を見よ(三六二頁)。「鬼」は醜の書寫上の略字。眞淵訓による。○ことにしありけり 言葉のみにてその實なきをいふ。「こと」は言の意。 △寫眞 挿圖234を參照(八〇二頁)。
【歌意】 萱草の名を信じて、私の下紐に著けてみたが、切ない戀心は一向忘られもしない、思へば〔十八字右○〕これは怪しからん醜の醜草で、萱章とは名ばかりでさあつたわい。
 
〔評〕 萱草は乃父旅人卿も既に使用して、「舊りにし里を忘れぬが爲」(卷三)と歌つてゐる(同歌の評語參照。八〇二頁)。戀歌としては
  萱草わが紐につく時となく念ひわたれば生けるともなし (卷十二−3060)
  萱草垣もしみみに植ゑたれど鬼《シコ》のしこ草なほ戀ひにけり (同上−3062)
など見え、殊に後首はこれと殆ど双生兒の觀がある。待望を裏切つた萱草に向ひ、「醜の醜草」と力強く疊み重ねて、焦り/\して毒をいつてゐる處など、情痴の世界は別だ。
 
(1340)人毛無《ひともなき》 國母有※[米+更]《くにもあらぬか》 吾妹兒與《わぎもこと》 携行而《たづさひゆきて》 副而將座《たぐひてをらむ》     728
 
〔釋〕 ○あらぬか 「※[米+更]」は※[禾+亢]の俗字で糠《ヌカ》のこと。○たづさひ 既出(五七二頁)。○たぐひて 引添うて。一緒に。
【歌意】 人も居ない國もないものかなあ、若しあつたら、貴女と手を繋いで往つて、只二人で引添うて居りませう。
 
〔評〕 事情は如何にもあれ、一且縁が切れた間柄であつて見ると、當人同志の戀の復活は、餘り周圍を無視した遣り方で、我儘過ぎるとの非難が、八方から降つたものであらう。身分があればある程こんな點は喧ましい。で天下晴れて氣兼ねなしに逢ひたいの切願は、遂に「人もなき國」を想望した。眞に血を吐く叫であるが、畢竟ずるに空想で事實は依然として泥沼にもがくのである。まことに同情に禁へぬ。
 
大伴(の)坂上(の)大孃(が)贈(れる)2大伴(の)宿禰家持(に)歌三首
 
玉有者《たまならば》 手二母將卷乎《てにもまかむを》 鬱瞻〔左△〕乃《うつせみの》 世人有者《よのひとなれば》 手二卷難石《てにまきがたし》     729
 
〔釋〕 ○まかむを 卷くは纏ふこと。尚「いはねしまきて」を見よ(三〇〇頁)。○うつせみの 世の枕詞。前出(一〇七頁)。「瞻」は音セン、唇内音なのでセミに通ずる。原本に謄〔右△〕とあるは誤。○かたし 「難」の一字でも訓まれるが、「石」を書き添へてシに充てた。
(1341)【歌意】 玉ならば人知れず手にも纏かうものを、貴方樣は人間だから、殘念ながら手にも纏かれませんわ。
 
〔評〕 交歡のその期なきを怨んだ。玉の寄託は、同想の類型が澤山あり、一向新味は齎さない。「手に纏く」の重複なども、粗笨の修辭である。がその率直さには却て胸を打たれるものがある。尚卷三、「人言の繁きこの頃」(436)の評語を參照。
 
將相夜者《あはむよは》 何時將有乎《いつもあらむを》 何如爲常香《なにすとか》 彼夕相而《そのよひあひて》 事之繁裳《ことのしげきも》     730
 
〔釋〕 ○いつもあらむを 前出(一〇二○頁)。契沖訓による。舊訓イツシカ〔四字傍線〕。○なにすとか 前出(一二三二頁)。「か」の係辭は「しげき」で承けて結んだ。○そのよひ あの晩。眞淵訓による。舊訓カノヨニ〔四字傍線〕。○ことのしげきも 「も」は歎辭。
【歌意】 貴方に逢ふ夜は、外に何時でもあらうものを、何だとてかあの夜逢うて、早もう物言のうるさいことですなあ。
 
〔評〕 世の中の事はとかく間拍子の惡い折にかち合ふものだ。多分家持の忍妻が家人の誰れやらに見付かつて、大孃は周圍の人達から嚴しく叱責されたものらしい。當の家持は知らぬが佛でゐる。で竊に注意かた/”\その苦境を訴へたものだ。「そのよひ」は上に「ぬば玉のその夜の月夜」とあるに同じ辭法。
 
(1342)吾名者毛《わがなはも》 千名之五百名爾《ちなのいほなに》 雖立《たちぬとも》 君之名立者《きみがなたつは》 惜社泣《をしみこそなけ》     731
 
〔釋〕 ○わがなはも 「な」は噂、評判。「も」は歎辭。○ちなのいほな いや繁き名。千名に五百名〔六字傍点〕にをかく續けていふ「ち」も「いほ」も多數の義。○たちぬとも の下、惜からじ〔四字右○〕の意を含む。○たつは 舊訓タヽバ〔三字傍線〕、古義訓タテバ〔三字傍線〕。既然でも未然でも、結局の意は文法に扞格しない。
【歌意】 私の浮名はまあ、どんなに繁く立つとても、構ひません〔五字右○〕、只貴方の名が立つのは、それをこそ殘念に思うてさ泣きますわ。
 
〔評〕 上の「言の繁きも」を承けた。自分には如何なる重壓が加はつても、その苦痛を犠牲にして、只管君が名の立つに泣く。この眞實が有難いではないか。涙は女人の眞心の象徴である。
 鏡王女の「君が名はあれどあが名し惜しも」(卷二)は、これと正反對の事をいつてゐるが、あれは懸想人の場合、これは既に相思の間柄なので、話が違ふ。
 「千名の五百名」かくの如き造語は古文の格で、枕詞などに類例は多い。「名」の四疊は、名がこの歌の眼目であることを有效に強調し、傍ら諧調を成してゐる。
 
又大伴(の)宿禰家持(が)和《こたふる》歌三首
 
前三首の返歌である。
 
(1343)今時者〔左△〕四《いまはし》 名之惜雲《なのをしけくも》 吾者無《われはなし》 妹丹因者《いもによりては》 千遍立十方《ちたびたつとも》     732
 
〔釋〕 ○いまはし 四言の句。「今時」をイマと訓む。「し」は強辭。「者」原本に有〔右△〕に誤る。契沖はいふ、今はの意にてイマシハシ〔五字傍線〕と訓むべく二つのシは助辭なりと。上に今しは〔三字傍点〕の語があるから(一二一三頁)、それに「し」の辭の添うたものとしても解せられるが、シの重複が煩しい。○をしけくも 前出(一二三五頁)。
【歌意】 今はさ、私は名の惜しいことはありません。貴女故なら、何遍浮名が立つとてもよ。
 
〔評〕 戀は盲目、家も名もその前には芥子粒ほどにも値しない。もとより君が名惜しさに泣くとあるに對した辭令ではあらうが、大伴宗家の若大將の口から、こんな詞を聞くのは一寸意外である。
 
空蝉乃《うつせみの》 代也毛二行《よやもふたゆく》 何爲跡鹿《なにすとか》 妹爾不相而《いもにあはずて》 吾獨將宿《わがひとりねむ》     733
 
〔釋〕 ○うつせみの こゝは世の枕詞ではない。「うつせみも」を見よ(六九頁)。○よやもふたゆく 世が二つと來るかい。「ゆく」は來る〔二字傍点〕の意。
【歌意】 生身《ナマミ》のこの世が、二度と來ることかい。それを何の爲にか、貴女に逢はないで、私が獨り寢ませう。
 
〔評〕 決然と無軌道的反抗の放言をした。その激ミの態が見るやうである。贈歌の「何すとか」をこゝにも承け(1344)て、女らしく小心に「その宵逢ひて言の繁きを心配する大孃に向つて、間接に頗る大膽なる戀の指導をしたことになる。この三首の聯作中、最も熾烈なる情炎の炎えあがりを示し、詞意共に力強い。
 
吾念《わがおもひ》 如此而不有者《かくてあらずは》 玉二毛我《たまにもが》 眞毛妹之《まこともいもが》 手二所纏牟《てにまかれなむ》     734
 
〔釋〕 ○あらずは あらむよりはの意。○たまにもが 「が」は願望辭。○まことも 「も」は歎辭。○まかれなむ 略解訓マトハレム〔五字傍線〕は面白くない。「牟」は元暦本類聚古抄などに乎〔右△〕とある。これはマカレムヲ〔五字傍線〕と訓む。
【歌意】 私の思が戀にかう苦しんでをらうよりは、いづそ玉にでもなりたい。そして本當にまあ、貴女のお手に纏かれませう。
 
〔評〕 「玉ならば手にも」とある返歌で、同感共鳴の意を表した。
 
同《おなじ》坂上(の)大孃(が)贈(れる)2家持(に)1歌一首
 
春日山《かすがやま》 霞多奈引《かすみたなびき》 情具久《こころぐく》 照月夜爾《てれるつくよに》 獨鴨念《ひとりかもねむ》     735
 
〔釋〕○こころぐく 單活用の形容詞。意は(1)心くぐもるにて、覺束なき意。(古説)(2)めでなつかしむ意。(古義所引嚴水説)。(1)の語解に隨つて悩まし〔三字傍点〕の意に解して置かう。△寫眞 挿圖169を參照(六一四頁)。
(1345)【歌意】 春日山に霞が靡いて、物悩ましく光つてゐる月夜に、貴方なしに只獨寢ることかまあ。
 
〔評〕 春日山三笠山はよく戀愛三昧の背景に、奈良時代に用ゐられた。又
  情《コヽロ》ぐくおもほゆるかも春霞たなびく時に言の通ふは (卷四、家持−789)  情ぐき物にぞありける春霞たなびく時に戀のしげきは (卷八、坂上郎女−1450)
など淡靄蒼々たる春の情調は、物思ふ人の心腸を掻※[手偏+劣]らねばやまない。この歌は春日の山に霞を配し、加はふるに朧月夜を以てした。愈よ以て人戀しさの一念に、佳人空閨の怨は遠長く深い。
 月夜が上代の男女相思の情思を煽つた特殊の理由は、下の「ひとへ山|重《へ》なれるものを」の評語を參照。
 
又家持(が)和(ふる)2坂上(の)大孃(に)1歌一首
 
月夜爾波《つくよには》 門爾出立《かどにいでたち》 夕占問《ゆふけとひ》 足卜乎曾爲之《あうらをぞせし》 行乎欲焉《ゆかまくをほり》     736
 
〔釋〕 ○ゆふけとひ 前出(九三四頁)。○あうら あしうら〔四字傍点〕の略。目的の處に進むに、豫定したる歩數の奇偶によつて、その吉不吉を卜する法。○ゆかまくを 行かむこと〔二字右○〕を。○ほり 欲《ホ》る〔傍点〕の第二變化。「焉」は虚字。
【歌意】 貴方の獨寢を歎かれる月の晩には、私の方では門前に出掛け、夕占を問うたり、足卜をさ卜なつたりしましたよ。貴女の處に行かうと思ひまして。
 
(1346)〔評〕 贈歌の「照れる月夜」を承けて、貴女の「獨かも寢む」と仰しやるその「月夜には」、自分はかう/\だつたと答へた。「夕占問ひ」とあるのでみると、その月夜はまさに夕月夜であつた。その刻限頃から男は女の許に通ふ時習であつた。然し大孃との間は周圍の監督が嚴重なので、あぶない橋を渡つて忍んで逢ふより外に術がない。一旦は門前まで出て見たが、さて往つたものか往かぬものかと思案の餘り、夕占や足卜を遣つて見たものだ。はかないそんな辻占を縋り力にせねばならぬ程、二人の戀の行進は荊の道であつた。
 動詞の第二變化の中止法を三疊した。その節の短い促調は、作者の急き込んだ刹那の氣持をよく表現してゐる。
 尚「夕け」の事は卷三「石田王卒之時丹生王作歌」の評語(九三九頁)を參照。
 
同《おなじ》大孃(が)贈(れる)2家持(に)1歌二首
 
云々《かにかくに》 人者雖云《ひとはいふとも》 若狹道乃《わかさぢの》 後瀬山之《のちせのやまの》後毛將會〔左△〕君《のちもあはむきみ》     737
 
〔釋〕 ○わかさぢののちせのやまの 「のちも」に係る疊音の序詞。若狹は遠飛鳥《トホツアスカ》(允恭天皇)の朝に國造|荒磯《アレソノ》命に稚櫻《ワカサクラ》の佳名を賜ふ(國造本紀)ことあり、稚櫻を略してワカサと稱した。「路」は(1347)「紀路」を見よ(一四二頁)。○のちせのやま 若狹國|遠敷《ヲニフ》郡小濱市街の南方。二百二十五米突の小山。○あはむ 「會」原本に念〔右△〕とあるは誤。
【歌意】 何のかのと、よく人は小うるさくいふとも、若狹路の後瀬山の名の、後《ノチ》にも逢ひませうね、貴方樣よ。
 
〔評〕 若狹路の後瀬の山、その著名なる理由は、小山ながらも小濱の海に瀕んでその山容が目に立つ爲で、而も國府(今の府中)から東南に眞鞆に眺望される特徴があるからである。後世のやうに因縁のない未知の地名を、歌枕として濫用せぬ時代とすると、大孃の後瀬山を引用したことに疑問が起る。果然家持は天平十八年六月に越中守で赴任した。途は若狹路を取つたのであらう。在國五年の留守の間には、又種々な中言を放つて離間を試みる者がないとは限らぬ。でそれに對して誠意の豫約をした
  高湍《コセ》なる能登瀬の河ののちもあはむ妹には我は今なちずとも  (卷十−3018)
の外、「後もあはむ」と詠んだ歌が集中十三首もある。尚上なる「一瀬には千たび障らひ」(699)の評語を參照。
 
(1348)世間之《よのなかの》 苦物爾《くるしきものは》 有家良久《ありけらく》 戀二不勝而《こひにたへずて》 可死念者《しぬべきぎもへば》     738
 
〔釋〕 ○ありけらく 「けらく」はける〔二字傍点〕の延言。下にコトヨの意を補ふ。【歌意】 戀といふものは〔七字右○〕、世の中での苦しいものであります事よ、私が〔二字右○〕その戀に堪へ切れずして、死にさうな事を思ふと。
 
〔評〕 戀は他人から見れば一種の精神病だが、當事者に取つてはこの位眞面目な眞劍な問題はない。ともすれば死を思ふ。况や北陸の空を望んでの五年間の長相憶は、とても耐へられるものでない。斷腸の極。
 
又家持(が)和(ふる)2坂上(の)大孃(に)1歌二首
 
後湍山《のちせやま》 後毛將相常《のちもあはむと》 念社《おもへこそ》 可死物乎《しぬべきものを》 至今日毛生有《けふまでもいけれ》     739
 
〔釋〕 ○おもへこそ 思へば〔右○〕こそ。○いけれ 生きてゐる。
【歌意】 貴方の仰しやる通り、私も〔十一字右○〕後にまあ逢はうと思へばこそ、本來ならば思ひ死にする筈ですのを、今日までも辛抱して、生きてをるのです。
 
〔評〕 贈歌の二首の詞意を撮合して、一首を以て唱和した、
(1349) 作者は大孃の「後も逢はむ」の一首に、絶對同感の意を表し、自分も後日の逢ふ瀬に引摺られてはゐるが、戀心の切なさに、明日の命は測られぬといふ。「今日までも生けれ」は面白い措辭で、切羽詰つた土壇場まで來た口吻である。當時作者は廿六七歳の情熱盛り。
 
事耳乎《ことのみを》 後毛〔左△〕相跡《のちもあはむと》 懃《ねもごろに》 吾乎令憑而《われをたのめて》 不相妹〔左○〕可聞《あはぬいもかも》     740
 
〔釋〕 ○ことのみを 言のみを。「たのめて」に係る。○のちも 「毛」原本手〔右△〕に誤る。○いもかも 「妹」原本にない。宣長説によつて補つた。
【歌意】 口ばかりを、この後もあはうと、深切に私を當てにさせておいて、一向に逢つてくれぬ貴女よ。
 
〔評〕 遠い北國と奈良では思うても逢へぬ。その無理を知りつゝ、「後もあはむ」は體裁のいゝお預けだ、と、駄々を捏ねた。そこに無限の情味を含む。
 
更《また》大伴(の)宿禰家持(が)贈(れる)2坂上(の)大孃(に)1歌十五首
 
夢之相者《いめのあひは》 苦有家里《くるしかりけり》 覺而《おどろきて》 掻探友《かきさぐれども》 手二毛不所觸者《てにもふれねば》     741
 
〔釋〕 ○いめのあひ 夢中での出合。「相」は借字。○おどろきて 目の覺むるをいふ。(1350)【歌意】 夢に見た出會は苦しいものであつたわい。目が覺めて、そばに居た筈の貴女を〔十字右○〕手探りに探るけれども、一向手にも障らぬのでね。
 
〔評〕 この種の着想は和漢に例が多い。
  うつくしとわが思ふ妹を夢に見て起きて探るになきがさぶしき (卷十二−2914)
  當宿之夜、夢裏(ニ)相見(テ)、覺寢《ネザメテ》探(リ)抱(クニ)、曾(テ)無(シ)觸(ルヽ)v手(ニ)。 (卷十六、戀夫君歌−3857)
  少時座陲、則夢(ニ)見(ル)2十孃(ヲ)1、驚(キ)覺(メテ)攬(ルニ)v之(ヲ)、勿然(トシテ)空(シ)v手(ニ)。(遊仙窟)
  立服復(タ)横陳、忽覺(ユ)非(ルヲ)v在(ルニ)v側(ニ)。(玉臺新詠、沈約)  半寢覺(メテ)如(シ)v至(レルガ)、既(ニ)寤(メテ)了(ト)無(シ)v形、與v君隔(ツ)2平生(ヲ)1 (同上、梁武帝)
時代からいへば沈約のが一番古いが、事實は遊仙窟から與へられた影響らしい。
 
一重耳《ひとへのみ》 妹之將結《いもがむすばむ》 帶尚《おびをすら》 三重可結《みへむすぶべく》 吾身者成《わがみはなりぬ》     742
 
〔釋〕 ○ひとへのみ 一重にのみ。○おびをすら 桂本その他に「尚」をナホと訓んだのは非。○みへむすぶべく 桂本その他にミヘニユフベク〔七字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 一重廻りにばかり、貴女が結ばう帶をすら、三重廻りに結ぶやうに、私の身はなりましたよ。戀に痩せ細つてさ〔八字右○〕。
 
(1351) 〔評〕 當時の帶は男女とも一重結びであつた。「三重結ぶ」は痩することの暗喩で、而も大きな誇張である。一重に結ぶ妹と、三重に結ぶ自身とを陽に對比し、思ふ思はぬを陰に對比してゐる。そんな皮肉らしいことをいふのも戀愛遊戲の一つである。
  白たへの紐をも解かず、一重結ふ帶を三重結ひ――。 (卷九、過2足柄阪1見2死人1歌−1480)
  二つなき戀をしすれば常の帶を三重結ぶべくわが身はなりぬ (卷十二−3273)
  みづ垣のひさしき時ゆ戀すればわが帶ゆるぶ朝よひ毎に (同卷−3262)
  日々衣寛(ヒ)、朝々帶緩(ブ)。 (遊仙窟)
かういふ事は、必ずこれが先出ともいへぬが、帶のゆるびは遊仙窟を根據としたらしい。さて「三重結ぶ」の誇張も發生してきたものであらう。
 
吾戀者《わがこひは》 千引之石乎《ちびきのいはを》 七許《ななばかり》 頸二將繋母《くびにかけむも》 神之〔左△〕諸伏《かみにもろふし》     743
 
〔釋〕 ○ちびきのいは 千人して引く石。重き石をいふ。○かみにもろふし 「之」は爾〔右△〕の誤か。「もろふし」は平に伏すこと。他の誤字説には妥當なのがない。
【歌意】 私の戀は、思ふやうになるなら、重たい石を七つ程、お祈の爲に〔四字右○〕頸に縣けませうよ、神前に諸伏してね。
 
〔評〕 二三の句は素より大々的誇張で、如何なる難行苦行の祈祷でも、この戀の爲には遣つて退けようと、その熱(1352)意を示したものだ。石を頸に懸けて祈祷するなどは、佛教の外道の修法に似た處がある。
 
暮去者《ゆふさらば》 屋戸開設而《やとあけまけて》 吾將待《われまたむ》 夢爾相見二《いめにあひみに》 將來云比登乎《こむといふひとを》     744
 
〔釋〕 ○やとあけまけて 家の戸を明けておいて。この「やと」は屋戸《ヤト》の義。宿(屋處《ヤド》、屋外)の意ではない。「まけ」は設《マウケ》の原語。
【歌意】 夕方になつたら、戸を明けて置いて、私は待ちませうよ、私の夢のうちに逢ひに來よう、と仰しやる貴女をさ。
 
〔評〕 「といふ人」は即ち大孃のことで、大孃から
  人の見て言咎めせぬ夢にわれこよひ到らむ屋戸《ヤト》さすなゆめ (卷十二−1912)
この意に似た贈歌があつての返歌と見える。
  今宵莫(レ)v閇(ス)v戸(ヲ)、 夢裏向(ハム)2渠《カレノ》邊(ニ)1。 (遊仙窟)
と自他こそ異なれ著想の起點は同一である。なほこの類想の歌が多い。左に、
  人の見て言咎めせぬ夢にだにやまず見えこそわが戀やまむ(卷十二−2958)
  門たてゝ戸もさしたるを何處よか妹が入り來て夢に見えつる(同上−3117)
  門立てゝ戸はさしたれど盗人のゑれる穴より入りて見えけむ(同上−3118)
 
(1353)朝夕二《あさよひに》 將見時左倍也《みむときさへや》 吾妹之《わぎもこが》 雖見如不見《みれどみぬごと》 由戀四家武《なほこひしけむ》     745
 
〔釋〕 ○みれどみぬごと 逢つても逢はぬやうに戀しいのを〔五字右○〕。「みれど」を略解訓にミトモ〔三字傍線〕とあるはこの歌の根本事相に協はぬ。○なほ 「由」は尚と同意。孟子に「王|由《ナホ》足(ル)2用(ツテ)爲(スニ)1v善(ト)」。
【歌意】 朝晩に逢うであらう時でも、逢つて逢はぬものゝやうに、やはり戀しからう。まして全く逢はれぬ今では、愈よ以て戀しいわ。
 
〔評〕 餘意をいひ殘すこの種の表現法は面白い味のあるべきだが、この歌は稍猥雜の感がある。
 
生有代爾《いけるよに》 我者未見《わはいまだみず》 事絶而《ことたえて》 如是※[立心偏+可]怜《かくおもしろく》 縫流嚢者《ぬへるふくろは》     746
 
〔釋〕 ○いけるよ 己れを主として現世を稱した。○ことたえて 言語に絶して。「事」は借字。○おもしろく 「※[立心偏+可]怜」は字鏡に、※[言+慈](ハ)※[立心偏+可]怜也、於毛志呂之《オモシロシ》と見え、卷七にも「夜渡る月を※[立心偏+可]怜《オモシロミ》と訓んである。尚「うましくにぞ」を見よ(二三頁)。
【歌意】 この一生のうちに、私はまだ見ません、かう言語に絶して面白く縫つた袋は。 
〔評〕 袋は大孃からの贈物であつたらう。「生ける世に――いまだ見ず」と、大仰にその手工の妙を讃美したのは(1354)間接にその感謝の意を表することになる。風呂敷や鞄のなかつた時代だから、袋物の使用が多く、隨つてその贈遺も常習的の事であつた。卷八に、大伴池主が家持に贈つた歌に、
  針袋これはたばりぬすり袋いまは得てしがおきなさびせむ  (−4133)
 
吾妹兒之《わぎもこが》 形見之服《かたみのころも》 下著而《したにきて》 直相左右者《ただにあふまでは》 吾將脱八方《われぬがめやも》     747
 
〔釋〕 ○ただにあふまで 直接に逢ふまで。「ただのあひ」を見よ(六〇八頁)。元暦本タダアフマデニ〔七字傍線〕。
【歌意】 貴女のお形見の衣を下に著込めて、直接お逢ひするまでは、私は脱ぎませうことかい。
 
〔評〕 この衣も贈物であらう。大孃の繊手柔腕に心を籠めて縫つたものと思へば、直ちに大孃その人に接する思があるので、逢ふ瀬は何時の事やら知れぬが、それまでは肌身近く著とほしてといふに、贈物感謝の意とその情味の濃厚さとを感ずる。
 
戀死六《こひしなむ》 其毛同曾《それもおなじぞ》 奈何爲二《なにせむに》 人目他言《ひとめひとごと》 辭痛吾將爲《こちたみわがせむ》     748
 
〔釋〕 それも 古義訓はソコモ〔三字傍線〕。○こちたみ こちたがることを〔三字右○〕。「こちたかり」を見よ(三五七頁)。舊訓コチタクワレセム〔八字傍線〕。
【歌意】 世間を遠慮して逢はずに戀ひ死にせうのも、逢つて世間にいひ騷がれうのも、比べて見れば結局は同じ(1355)事ぞ。されば何の爲に、人や人言を私が煩さがつて遠慮せうぞい。さあ何でも構はずに逢ひませう。
 
〔釋〕 兩方貫々に懸けてみて天秤が平衡だとすれば、煩さく騷がれても逢うたゞけが得《トク》だと放言した。「戀ひ死なむ」の前提が實は誇張を帶びた不確定のものであるが、そんな點に躊躇せず、決然いひ切つた其の本意は只、逢ひたいの一念にある。「せむ」の語の重複は洗練されたものとは思へない。
 
夢二谷《いめにだに》 所見者社有《みえばこそあらめ》 如此許《かくばかり》 不所見有者《みえずてあるは》 戀而死跡香《こひてしねとか》     749
 
〔釋〕 ○みえばこそあらめ 見えばこそ生きても〔四字右○〕あらめ。○みえずてあるは ミエズアナルハと訓むか、或は「不所見」の下而〔右○〕の脱か。宣長は「有」の下念〔右△〕の脱としてミエザルモヘバ〔七字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 夢になりとも貴女が見えてくれるなら、生きても居られよう、これ程夢にも見えないでゐるのは、私に戀ひ焦れて死ねといふことかしら。
 
〔評〕 相逢はぬのは既定の事實だが、思慕懊悩の極、懷かしの面影を見るべき夢さへ結び得なかつた折の感想であらう。一切の責任を先方に轉嫁して、自分獨りいゝ兒のやうな首ひ草、それも戀なればこそである。
 
念絶《おもひたえ》 和備西物尾《わびにしものを》 中々爾《なかなかに》 奈何辛苦《なにかくるしく》 相見始兼《あひみそめけむ》     750
 
(1356)〔釋〕 ○おもひたえ 斷念し。○わびにし 絶望してしまつた。こゝの「わび」は普通の用法と異る。○なにか 古義訓イカデ〔三字傍線〕は非。
【歌意】 一旦斷念し絶望してしまつたものを、なまなかに何で、心苦しく又逢ひ初めたことであらう。
 
〔評〕 「念ひ絶えわびにし」は、二人の中が一旦絶縁状態にあつたことを指示してゐる。もとより周圍からの壓迫で生木を割いたのだから、何かの機會に死灰再び燃えはしたものゝ、この戀の行進は愈よ冒險で艱苦が多いので、時に悔恨の念に打たれもするのである。人間の弱身がさらけ出された作である。
 
相見而者《あひみては》 幾日毛不經乎《いくかもへぬを》 幾許久毛《ここばくも》 久流比爾久流必《くるひにくるひ》 所念鴨《おもほゆるかも》     751
 
〔釋〕 ○ここばくも 「おもほゆる」に係る。○くるひにくるひ 來る日に來る日〔右○〕にの略。「必」の音ヒツを下略してヒに充てた。
【歌意】 逢つてはまだ〔二字右○〕幾日も經たぬのを、來る日も來る日も、莫大に戀しく思はれることよ。
 
〔評〕 比翼の鳥連理の枝であらぬ以上は、到底戀の滿足は得られない。「來る日に來る日」、その世話しない戀の喘きが聞えるやうである。
 
(1357)如是許《かくばかり》 面影耳《おもかげにのみ》 所念者《おもほえば》 何如將爲《いかにかもせむ》 人目繁而《ひとめしげくて》     752
 
〔釋〕 ○おもかげにのみおもほえば 面影に一途に立つて思はれうならば。
【歌意】 これ程貴女が〔三字右○〕面影に立つて、一途に戀しく、これから先も思はれうなら、どうまあしようかしら、逢はうにも〔五字右○〕人目が煩さいのでね。
 
〔評〕 現在状態から將來も亦さうだらうと推定して、「いかにかも」と苦悩に耽つた。人目は始終この戀愛の監視者であり、作者はその重壓に喘いでゐる。
 この歌の重點は結句に置かれてゐる。されば結句を初句の上に反轉せしめて聞くべしとの説は、一應解し易いやうで、却て意調を亂す結果を生ずる。
 
相見者《あひみてば》 須臾戀者《しましくこひは》 奈木六香登《なぎむかと》 雖念彌《おもへどいとど》 戀益來《こひまさりけり》     753
 
〔釋〕 ○しましく 「しましくも」を見よ(三六五頁)。○なぎむ おだやかになるをいふ。こゝは慰むこと。「和ぐ」は四段活の語だが、上二段活にも古へは使用した。
【歌意】 逢うてみたならば、一寸でもこの戀心は慰まうかと思うたが、逢ふ〔二字右○〕と却てひどく、戀しくなりになつたことだわい。意外なものよ。
 
(1358)〔評〕 戀は皆さうしたもの。後人の
  あひみての後の心にくらぶれば昔は物を思はざりけり (拾遺集、戀二)
はこの倒敍から又別趣が横生したもの。
 
夜之穗杼呂《よのほどろ》 吾出而來者《わがでてくれば》 吾妹子之《わぎもこが》 念有四九四《おもへりしくし》 面影二三湯《おもかげにみゆ》     754
 
〔釋〕 ○よのほどろ 「夜の程」に「ろ」の接尾辭の添うたもの。夜の程は後朝の際には未明の頃をさしていふ。尚平安朝の曉を夜深《ヨブカ》といふに似てゐる。古義が雪の保杼呂《ホドロ》波太禮《ハダレ》を附會して、ほどろ〔三字傍点〕は離れと同語にて夜の離れ即ち未明と解したのは妄。○でてくれば 諸本訓イデクレバ〔五字傍線〕。○おもへりしくし 「念へりし」の過去體に「く」の辭の添うた「念へりしく」に、更に強辭の「し」の添うたもの。この「く」は特殊の古語で、「爭はず寢しく〔二字傍点〕をしもぞ」(記、應神天皇の段)「玉拾ひしく〔二字傍点〕常忘らえず」(卷七)「そがひに寢しく〔二字傍点〕今し悔しも」(同上)など、皆過去のシを承け、念ウタコトが、寢タコトガ、拾ウタコトガ、と譯して當るやうである。宣長及び古義の説は非。袖中抄、童蒙抄は「四九四」をシクヨ〔三字傍線〕と訓んだ。「四九四」は「二三」と共に戲書。
【歌意】 まだ夜深なうちに、私が急いで出てくると、貴女が物思うてゐたことがさ、面影に立つて見えることよ。
 
〔評〕 抑も夜の程に起き別れゆくのは、通ひ住みの人達の用意であるが、この頃の大孃と作者との間では、人目を忍んだ爲もあらう。はかない僅かの逢ふ瀬に、名殘惜しげにした大孃の面影は、きぬ/\の道芝の露踏みつ(1359)つも忘れ難いのであつた。
 
夜之穗杼呂《よのほどろ》 出都追來良久《いでつつくらく》 遍多數《たびまねく》 成者吾※[匈/月]《なればわがむね》 截燒如《たちやくごとし》     755
 
〔釋〕 ○いでつつくらく 出てくることの〔三字右○〕。「くらく」は來る〔傍点〕の延言。こゝの「つつ」はて〔傍点〕の辭に近い。○たびまねく 前出(一二六八頁)。○たちやく 舊訓キリヤク〔四字傍線〕。
【歌意】 貴女の家から〔六字右○〕、まだ夜深なうちに歸つてくることの、度々になるので、私の胸はまるで、截りそして燒くやうに切ない。
 
〔評〕 上のは大孃の樣子をいひ、これは自分の所感を述べた。「たちやく」は遊仙窟の
  未(ダ)2曾飲(マ)1v炭(ヲ)、腹熱(リテ)如(ク)v燒(クガ)、不(ルニ)v憶(ハ)v呑(ムト)v刀(ヲ)、腸穿(チテ)似(タリ)v割(クニ)。
から胚胎して來たものらしい。追ひ立てられるやうな周章しい後朝の別は、古來幾多の佳人才子を泣かせてゐる。
 以上十五首及びこの前後に互つた家持の大孃に贈つた歌は、盡くその眞情の流露で、絶唱こそ認められないが、佳作は二三散見し、その餘の諸作も棄て難い滋味を藏してゐる。但多作に過ぎて洗練を缺き、誰れもが經驗する變愛の過程に外ならない常套に墮したり、平凡に流れたりしてゐる。蓋しその若い血の沸きあがりに任せた縱横の屬吐である。
(1360) 遊仙窟の文辭を運用した痕迹の歴々たるは、大いに考ふべき事である。遊仙窟は初唐の張文成の作で、六朝後期の綺靡艶冶を極めた餘風を承けた駢儷體の行文で、文成自身と崔氏の十孃五孃との歡會を叙した小説的浮誇※[糸+間]爛の文字である。
 家持の若盛は唐では初盛の二期を過した中唐の初期に當つてゐる。推古朝の遣隋使以來、再三の遣唐使の往訪や唐人の來歸やに依つて、支那文化が江河の堤を決するが如く、わが邦に流れ込んで來た。その際遊仙窟も經史や諸子百家の書や僞書や藝苑の雜籍に混つて齎らされたものであらう。遊仙窟以外にもこの種の系統に屬する幾多の書物が舶來したらうが、その中での優秀なものとして、特にこの書が漢學講習の若い諸子達に耽讀されたものであらう。
 然し更に一考察すると、その傳來に尚他の一説を提供することが出來る。それは外でもない。家持の父旅人卿は太宰府の帥(長官)であつた。太宰府は韓唐文化の輸入を締め括る關門だから、偶ま舶載した遊仙窟が、帥卿を始め宰府の學人達の翫ぶ處となつたと見え、山上憶良はその哀沈痾文中にも引用してゐる。家持また傳家の藏本に依つて密に披讀したものであらう。
 
大伴(の)田村家之《たむらのいへの》大孃(が)贈(れる)2妹坂上(の)大孃(に)1歌四首
 
○大伴田村家之大孃 大伴田村家は大伴宿奈麻呂の邸宅である。田村家の大孃は宿奈麻呂の娘だが、母は未詳。大孃は姉娘のことで、平安期には大姫君また大君と稱した。○坂上大孃 左註によれば、これは宿奈麻呂と大伴坂上郎女との間の所生。前出(九一〇頁)。
 
(1361)外居而《よそにゐて》 戀者苦《こふればくるし》 吾妹子乎《わぎもこを》 次相見六《つぎてあひみむ》 事計爲與《ことはかりせよ》     756
 
〔釋〕 ○わぎもこを 實の妹を斥していつた。○ことはかり 謀《ハカリゴト》と同じい。
【歌意】 貴女を〔三字右○〕離れて餘所にゐて戀うてゐると、溜らなく苦しいわ。で貴女を何時も續いて見られるやう思案をして下さいね。
 
〔評〕 田村の家と坂上の家、同じ大伴の一家で、母親こそ違へ父親は一つなので、その娘同士親しい交通をしてゐたものと見える。何れ田村大孃の方が四つ五つは年上の事と思はれる。
 かういふ貴族となると、婦人の出入は殊に面倒なのだ。まして若いお姫樣邊の事で、今日のやうな往來自由の交際は望めなかつた。これ「ことはかりせよ」の注文も出る所以である。
 
遠有者《とほからば》 和備而毛有乎《わびてもあるを》 里近《さとちかく》 有常聞乍《ありとききつつ》 不見之爲便奈沙《みぬがすべなさ》     757
 
〔釋〕 ○わびてもあるを 情なく思つてもあきらめて〔五字右○〕ゐるのを。略解にアラムヲ〔四字傍線〕と訓み、古義は「乎」を牟〔右△〕の誤としてアラム〔三字傍線〕と訓んだが、元のまゝで通ずる。
【歌意】 遠方に住んでゐるならば、いつそ情ないまゝにあきらめてもゐるものを、つひ鼻の先の里近くに、貴女が〔三字右○〕いらつしやると聞きながら逢はぬのが、何とも術ないのです。
 
(1362)〔評〕 この歌によると、田村の里と坂上の里とは互に近接してゐるらしい。近くに居て逢へない、こんな平仄の合はぬことはない。然るにそれが事實であるから仕方がない。で逢ひたさ見たさの念がいや益すのである。わざと理窟詰にいひ詰めて、怨意を永くした。
 「ある」「あり」同語が重複してゐる。
 
白雲之《しらくもの》 多奈引山之《たなびくやまの》 高々二《たかだかに》 吾念妹乎《わがもふいもを》 將見因毛我母《みむよしもがも》
 
〔釋〕 ○しらくもの――山の 「たか/”\に」係る序詞。○たかだかに 多量の意を表はす古語で、こゝは「念《モ》ふ」に係る副詞。集中「高々に君待つ夜らは」(卷十二)「高々に來むと待つらむ」(卷十三)「高々に待つらむ君や」(卷十五)「高々に君をいませて」(卷十二)などの例がある。契沖が遠き處を高く望みて待つ意といひ、宣長が仰ぎ望むといひ、又古義所引の春樹説に、威丈高に延びあがる義などいふは皆鑿説である。
【歌意】 白雲の靡きかゝる山の高いやうに、高々に私が思ふ貴女を、見る術もありたいなあ。
 
〔評〕 白雲の棚引く山は目に著く、それに引換へ、高々に思ふ妹君は見ることも出來ない。上句は序詞ではあるものゝ、裏にかく反映の意を藏してゐる。
 
何《いかならむ》 時爾加妹乎《ときにかいもを》 牟具良布能《むぐらふの》 穢屋戸爾《きたなきやどに》 入將座《いりいませなむ》     759
 
(1363)〔釋〕 むぐらふ 葎生。金《カナ》葎即ち八重葎の生えた處をいふ。葎は葡萄科に屬する山野自生の蔓草。莖細く長く葉は鳥趾状の複葉で五小葉より成る。秋葉柄の間に粒簇状の花をつけ、黄中に赤色を點じてゐる。○きたなきやど 汚れた家。こゝは謙遜していふ。宣長訓による。舊訓ケガシキヤド〔六字傍線〕、古義訓イヤシキヤド〔六字傍線〕は當らぬ。○いりいませなむ 略解訓はイリマサセナム〔七字傍線〕。
【歌意】 どうした場合に、貴女を、葎の絡まるきたない私の宿に、御出願へようかしら。 
〔評〕 「いかならむ時にか」の疑問を投げかけ、解決をその相手に一任した手法は太だ老獪である。三四の句は素より辭令の謙辭であるが、分家の田村邸は本家の息の直接に懸かつた坂上邸よりは、幾分簡素であつたといふ事實も手傳つてゐるのではあるまいか。以上四首親身の情味が流露して、語々人の肺腑を打つ。尚卷八「沫雪のけぬべきものを」の條の評を參照る。
 
右田村(ノ)大孃、坂上(ノ)大孃(ハ)、并是右大辨大伴(ノ)宿奈《スクナ》麻呂(ノ)卿之女也。卿居(ル)2田村(ノ)里(ニ)1、號(ケテ)曰(フ)2田村(ノ)大孃(ト)1。但妹坂上(ノ)大孃者、母居(ル)2坂上(ノ)里(ニ)1。仍(リテ)曰(フ)2坂上(ノ)大孃(ト)1。于v時姉妹|諮問《タヅネトフニ》以(テ)v歌(ヲ)贈答(ス)。
 
(1364)田村大孃と坂上大孃とは同じく大伴宿奈麻呂の娘である。宿奈麻呂は田村の里に居たので、姉を田村大孃と呼んだ。但妹は母の大伴坂上郎女の坂上里に居たので、それで坂上大孃と呼んだ。そこでこの姉妹が音問するに歌で遣り取りをしたとの意。○右大辨 辨は太政官中に左右各大中少の辨官がある。大辨は從四位相當官。
 田村大孃と坂上大孃とは姉妹とはいへ、腹違ひであるらしい。本來大孃は姉娘の呼稱であるから、左註は二人共大孃といふ所以を説明したもので、この姉妹は始から別居し、姉は父宿奈麻呂の田村邸に居り、妹は母坂上郎女の坂上邸に居て育つた。各その邸での一番娘即ち大孃なので、在名を冠せて區別した。想ふに田村大孃の生母は、田村大孃を生んで後死別か離別したので、宿奈麻呂は更に坂上郎女を妻として、坂上里に通うて居り、そのうち妹坂上大孃が生まれたのである。
 宿奈麻呂の宿奈は少《スクナ》の義で、少弟の稱とする。大伴安麻呂の子で末弟であつた。抑も安麻呂の子は旅人と坂上郎女との母は本妻石川(ノ)大婆《オホバ》(命婦)、田主の母は巨勢郎女、その他稻公宿奈麻呂の生母は不明である。古へは異母の兄弟は結婚を公許したから、宿奈麻呂が坂上郎女を妻としたことは決して不思議でない。
 田村の里は奈良京中の地と思はれ、續紀に
  先(キ)v是(ヨリ)大納言仲麻呂招(キテ)2大炊王(ヲ)1、居(ラシム)2於田村(ノ)第〔三字傍点〕(ニ)1。 (天平寶字元年夏四月辛巳)
  辛亥、天皇移2御(ス)田村(ノ)宮〔三字傍点〕1。爲《タメナリ》v改2修(センガ)大宮(ヲ)1也。 (同、五月)
  至v是(ニ)從四位上山背王復言(ス)、橘奈良麻呂備(ヘテ)2兵器(ヲ)1、謀(ル)v圍(マンコトヲ)2田村(ノ)宮〔三字傍点〕(ヲ)1。云々。 (同 六月甲辰)
  角足(ト)與2逆賊1謀(テ)。造(リ)2田村(ノ)宮〔三字傍点〕(ノ)圖(ヲ)1、指授(シテ)入(メントス)v逆(ニ)。 (同 秋七月庚戌)
などあるが所在不明である。東大寺要録には、左京の四條二坊から五條二坊に亙るとある。 
(1365)大伴(の)坂上(の)郎女(を)從(り)2竹田庄《たけだのたどころ》1贈2賜《おくれる》女子《むすめの》大孃(に)1歌二首
 
○竹田庄 大和十市郡(今、磯城郡)耳成村東竹田。東方に初瀬山や朝倉山を眺望し得る地點に、大伴家の別莊があつた。郎女また「隱口の初瀬の山は色づきぬ」(卷八)と此處で詠んだ。
 
打渡《うちわたす》 竹田之原爾《たけだのはらに》 鳴鶴之《なくたづの》 間無時無《まなくときなし》 吾戀良久波《わがこふらくは》     760
 
〔釋〕 ○うちわたす 打見渡すの意。以上三句までは序詞。○たけだのはら 竹田は東西竹田とも平遠の地である。神武天皇紀に、皇師|立詰之《タチタケビシ》處(ヲ)是(ニ)謂(フ)2猛《タケ》田(ト)1とある。○まなくときなし 桂本などの訓にマナシトキナシ〔七字傍線〕とあるも惡くないが、マナクと中止形に訓むのが穩かである。○こふらくは 戀ふること〔二字右○〕は。
【歌意】 見渡しの竹田の原に鶴の鳴くやうに、間斷とてはありません、私が貴女を戀しう思ふことはさ。
 
(1366)〔評〕 竹田庄から展望される原には、鶴の降りるやうな大きな池沼が、古へはあつたのであらう。今でも東西竹田は平田漠々として溝梁が縱横に通じ、その當日の水光を彷彿せしめる。
 郎女は竹田の莊に出遊の或日、無聊のまゝに坂上邸に遺して來た愛娘の上に想ひ到つた時、偶ま前面の水澤に鶴が頻りに鳴いた。即ちその鶴鳴を序詞に撮合して、慈母としての熱愛を歌つた。
  戀ごろもきならの山に鳴く鳥の間なく時なしわが戀ふらくは (卷十二−3088)
  衣手のまわかの浦のまなごぢの間なく時なしわが戀ふらくは (同卷−3168)
は只序詞の題材を易へたまでゞ、序法も同規であり、下句は全然一字も違へない。抑もこの間なく〔三字傍点〕又は時なし〔三字傍点〕の語は、萬葉人の套語と思はれ、隨つてこの下句も殆ど先取權が認め難い。只序詞の構成如何によつて、その價値が上下するに渦ぎぬのである。就中郎女のは線の太い勁健の調子で始終を一貫し、語句に寸分の弛緩もない。この點で一頭地を抽いてゐると思ふ。
 「燒野の雉子夜の鶴」の成句の根據となつた白居易の「夜鶴憶(ウテ)v子(ヲ)籠中(ニ)嶋(ク)」は、これと旨趣を殊にしてゐることは勿論、時代もこれより後出であることを序に一言しておく。
 
早川之《はやかはの》 湍爾居鳥之《せにゐるとりの》 縁乎奈彌《よしをなみ》 念而有師《おもひてありし》 吾兒羽裳※[立心偏+可]怜《わがこはもあはれ》     761
 
〔釋〕 ○よしをなみ 手寄り處がなさに。初二句はこの句に係る序詞。○おもひて 物〔右○〕思うて。○はも 「羽裳」は羽衣霓裳の字面から出た戲書。
(1367)【歌意】 早川の瀬に居る水鳥の、寄り付き處がないやうに、便りなげに物思うてゐたあの子はまあ、かはいさうなことよ。
 
〔評〕 坂上の家を出立する時、片親なしの娘大孃が、母親に置き去りされて、孤※[榮の木が火]依るところなげに、悄然と愁に沈んだ風情が眼について、竹田庄に來ても忘られない。即ち水鳥が急流に押され押されて岸に寄り著きかねた趣にそれを比擬して、「わが子はもあはれ」と、その強い母性愛をむき出しに高唱した。この早川は佐保川筋の早瀬を聯想したものらしい。
 
紀(の)女郎(が)贈(れる)2大伴(の)宿禰家持(に)1歌二首 【女郎(ノ)名(ヲ)曰(フ)2小鹿《ヲジカト》1也。】
 
○紀女郎 前出(一二六四頁)。割註は女郎の本名が小鹿である事を、後人が記入したのである。
 
神左夫跡《かむさぶと》 不欲者不有《いなにはあらず》 八多也八多《はたやはた》 如是爲而後二《かくしてのちに》 佐夫之家牟可聞《さぶしけむかも》     762
 
〔釋〕 ○かむさぶと 神さぶとて〔右○〕。「かむさぶ」は上進《カミスサ》ぶの略で古めくこと。よつて年寄ることにいふ。○いなにはあらず お言葉を〔四字右○〕否《イナ》むのではない。○はたやはた 「はた」は副詞。「はたや」を見よ(二五八頁)。「や」は歎辭。卷十六に「痩《ヤ》す/\も生けらばあらむを波多也波多《ハタヤハタ》鰻《ムナギ》を取ると」とある。原本「也」の上の多〔右△〕を脱した。略解、宣長説により補つた。○かくして 應諾したことを斥す。○さぶしけむ 詰らないことであらう。「さぶ(1368)し」は「うらさびて」を見よ(一三七頁)。「けむ」は既出(一二一七頁)。
【歌意】 自分は齡《トシ》が深けたとて、貴方の思召が否なのではありません、けれども又、さやうに思召に隨つたあとで、屹度貴方の愛想がお盡きで、面白くない目を見ることでありませうかまあ。
 
〔釋〕 年増であつた紀女郎は美男の若者家持からいひ寄られて、一寸動轉した。嬉しくもあるが、末の遂げぬことも見え透いてゐる。これ「はたやはた」と反覆節を拍つて躊躇低囘する所以である。分別の絆がよく感情の駒の足掻に絡まるだけ、年増女には悩みが多い。
 
玉緒乎《たまのをを》 沫緒二搓而《あわをによりて》 結有者《むすべれば》 在手後二毛《ありてのちにも》 不相在目八方《あはざらめやも》     763
 
〔釋〕 ○たまのをを 玉を貫く緒を。靈の緒の意ではない。この句は「結べれば」に係る。○あわをによりて 沫緒は搓《ヨリ》方の名で結び方の名ではない。されば略解、勢語新釋などに、アワムスビの事とする説は當らない。但沫緒といふ搓方は不明だが、想ふに、片絲に搓をかけたものか。その搓の戻り易い處から沫緒と呼んだのであらう。然しこれを結ぶとなると、諸絲の搓り合せよりは解けにくい。依つて下句の比喩に用ゐた。尚これを鎭魂祭の魂結びの行事に引付けて解した守部彦麿等の説もあるが從ひ難い。○ありて 在り在りてといふ程の意。よく存在するをいふ。
【歌意】 私は玉の緒を沫緒に搓《ヨ》つて結びましたから、とてもその解けぬやうに〔十一字右○〕、何時までも生き長らへた擧句も(1369)逢はずにありませうことかい。
 
〔評〕 「沫緒に搓て結ぶ」はおのづから女人の口吻。丈夫でゐて末始終何時までも逢はうといふ。流石に女の一念の蛇のやうな執念深さを見る。
 
大伴(の)宿禰家持(が)和(ふる)歌一首
 
百年爾《ももとせに》 老舌出而《おいしたいでて》 與余牟友《よよむとも》 吾者不厭《われはいとはじ》 戀者益友《こひはますとも》     764
 
〔釋〕 ○ももとせに 百歳になりて〔三字右○〕。○おいしたいでて 老舌出づとは齒の脱けて、口を動かすまゝに舌先の見ゆるをいふ。○よよむ 言語の明瞭ならぬ貌。
【歌意】 貴女が百歳のお婆さんになつて、ムニヤ/\物をいつても、私は嫌ひますまい、寧ろ戀ひまさることはあつてもさ。
 
〔評〕 上句は頗る色氣の拔けた老女の容姿を叙し、假令そんな年配になつても棄てはすまいと力んだ。女郎の「神さぶと否にはあらず」の杞憂であゐことを聲明し、「ありて後にも逢はざらめやも」に同和し、以て女郎の意に中らうとしたものだ。四句で一旦意は結收したものを、結句で今一層の強調を試みた、句法は面白いが、浮誇の氣味がある。
 
在(りて)2久邇《くにの》京(に)1思(ひて)d留(れる)2寧樂宅《ならのいへに》1坂上(の)大孃(を)u、大伴(の)宿禰家持(が)作歌一首
 
(1370)家持が久邇の新京に居て、舊京奈良の坂上の家に殘つて居る大孃を戀ひ思うて詠んだ歌との意。○久邇京 既出(一〇三一頁)。△地圖 挿圖296を參照(一〇二九頁)。
 
一隔山《ひとへやま》 重成物乎《へなれるものを》 月夜好見《つくよよみ》 門爾出立《かどにいでたち》 妹可將待《いもかまつらむ》     765
 
〔釋〕 ○ひとへやま 一重の山。即ち山一つの意。○へなれる 隔《ヘダ》たつてゐる。卷十一に「岩根踏み重《ヘ》なれる山は」ともある。
【歌意】 一重の山で、この私のゐる久邇京と貴女のゐる奈良とが隔つてゐるものを、今夜の月の光のよさに、貴女は門を出て、私のくるのを待つて居なさるであらうかな。
 
〔評〕 闇夜では往時の夜行は苦難であり、物騷でもあつた。火燭の器具の幼穉な時代だつたことを想ふがよい。で月の夜頃は普通の來往や行旅は勿論、戀の訪問に浮身をやつす男達の有卦に入る期間である。隨つて待つ女の方でもおなじ事がいはれる。
  月夜よし夜よしと人に告げやらばこてふに似たり待たずしもあらず(古今集、戀、四)  月夜には來ぬ人待たるかきくもり雨もふらなむわびつつもねむ(古今集、戀、五)
  月夜には門に出で立ち夕卜《ユフケ》問ひ足占《アウラ》をぞせし往かまくをほり(卷四、家持−736)
  わが宿に咲きたる梅を月夜よみよる/\見せむ君をこそ待て(卷十−2349)
  月夜よみ妹にあはむとたゞちから我は來つれど夜ぞ更けにける(卷十一−2618)
(1371)  月夜よみ門に出で立ち足占して、ゆく時さへや妹にあはざらむ (卷十二−3006)
  闇ならばうべも來まさね梅の花さける月夜に出でまさじとや (卷八、紀女郎−1452) 作者は當時大孃を故京奈良に殘して、久邇の新京に移住してゐた。折柄の月夜に大孃を偲んで、故京に居た頃は月を踏んで訪問したものであつたがと追憶し、飜つて更に大孃の身上に一想像を投げ懸けた。
 久邇京と奈良との間には一重山即ち奈良山があつて、さう容易くは往訪し難い。されば作者は嘗て久邇京から大孃の許に、
  春がすみたなびく山の隔《へ》なればぞ妹に逢はずて月ぞ經にける (卷八−1464)
とその戀々の情を訴へてゐる。然るに大孃はそれをも忘れて、この月夜には門邊に立つて自分を下待つて居るであらうと、大孃の動止を丁寧に思惟した。綿々密々たる相思の情を描いて餘蘊がない。史に據ると、
  天皇始(メテ)御(シ)2恭仁(ノ)新宮(ニ)1受(ク)v朝(ヲ)。 (續紀、天平十三年正月の條)
  自今以後、五位以上不(レ)v得3任(セテ)v意(ニ)住(ムコトヲ)2於平城(ニ)1、如(シ)有(レバ)2事故1、應(シ)2須(ラク)退(リ)歸(ル)1、被(レ)v賜(ハ)2官符(ヲ)1然(ル)後(ニ)聽(セ)v之(ヲ)、其見(ニ)在(ル)2平城(ニ)1者、限(リ)2今日内(ヲ)1悉皆催(シ)發(セ)、自餘散2在(スル)他所(ニ)1者、亦宜(シ)2急追(ス)1。(同、同年三月の條)
とあるから、この歌は天平十三年正月以後恭仁京の終るまでの四年間、家持の廿五歳から廿八歳位の作である。
 
藤原(の)郎女《いらつめが》聞(きて)v之(を)郎(ち)和(ふる)歌一首
 
藤原郎女が家持の坂上大孃に贈つた歌を聞いて、大孃の氣持を想像して詠んだ歌との意。○藤原郎女 誰れとも知り難い。古義に、藤原麻呂の子にて母は坂上郎女なるべしと。さらば坂上(ノ)二孃であらう。
 
(1372)路遠《みちとほみ》 不來常波知有《こじとはしれる》 物可良爾《ものからに》 然曾將待《しかぞまつらむ》 君之目乎保利《きみがめをほり》     766
 
〔釋〕 ○ものからに 物ながらに。物|故《ユエ》にの意ではない。○めをほり 見ることを欲し。「め」は見え〔二字傍点〕の約。齊明天皇紀の中大兄の御歌に「かくやこひむも君が目をほり」とある。
【歌意】 大孃さんは〔五字右○〕、久邇京からは道が遠さに、貴方が來まいとは勿論知つてゐるものゝ、貴方にお目に懸かりたくて、貴方の仰しやる通り、さやうに門に立つて待つのでありませう。察してお上げなさいまし。
 
〔評〕 家持の歌意では、いかにも大孃が分らずやでゝもあるかのやうに聞き取られるので、藤原郎女は大孃を辯護して、さう思はれるのも只貴方樣に逢ひたい一心からでせうと口を挾んだ。姑く姉思ひの二孃の詞として、その親昵の情意を味はう。
 
大伴(の)宿禰家持(が)更《また》贈(れる)2大孃(に)1歌二首
 
都路乎《みやこぢを》 遠哉妹之《とほみやいもが》 比來者《このごろは》 得飼飯而雖宿《うけひてぬれど》 夢爾不所見來《いめにみえこぬ》      767
 
〔釋〕 ○みやこぢ 京へ通ふ路をいふ。この京は久邇京。○うけひて 神に祈つて。「うけひ」は神に誓言を立てその驗によつて吉凶その他を卜すること。紀に、誓約また祈をウケヒと訓んである。
【歌意】 奈良から〔四字右○〕この久邇京への道の遠いせゐかして、この節は幾ら神樣にお祈りして寢ても、貴女が夢のうち(1373)に見えて來ないのです。
 
〔評〕 神武天皇紀に「是夜自(ラ)祈《ウケヒ》而|寢《ミネタマヘリ》」と見え、夢に天神が現れて示訓があつた。祈誓《ウケヒ》の信仰は、この時代にも傳存してゐたので、こゝには大娘の夢にも見えぬ無効驗さに、その理由を忖度して、「都路を遠みや」と思案一番した。こんな思案をする程、その戀は盲目だ。
 
今所知《いましらす》 久邇乃京爾《くにのみやこに》 妹二不相《いもにあはず》 久成《ひさしくなりぬ》 行而早見奈《ゆきてはやみな》     768
 
〔釋〕 ○いましらす 今新に天皇の如《シロ》し召す。「今造る久邇の京は」(卷六、卷八)と事は同じい。○くにのみやこに 久邇の京にて〔右○〕。○いもにあはず 妹に逢はずして〔二字右○〕。「ず」は中止形。契沖初訓イモニアハデ〔六字傍線〕。○みな 見むの意。「きかな」を見よ(一一頁)。△地圖 挿圖296を參照(一〇二九頁)。
【歌意】 今新造の久邇京で、貴女に逢はずに、もう長いことになりました。さあ奈良へ〔三字右○〕往つて早くお目に懸かりませう。
 
〔評〕 出入の自由が拘束されて、殆ど久邇の新京に禁足の状態だから、抑へに抑へた熱意が、こゝに破裂した貌である。但「行きて早見な」といつた處が、それは畢竟希望に過ぎず、實行には距離があるが、作者はそんな事は忘れてゐる。尚上の「ひとへ山へなれるものを」の評語を參照。
 
大伴(の)宿禰家持(が)報2贈《こたふる》紀(の)女郎(に)1歌一首
 
(1374)この前に紀女郎の贈歌があつたのが脱ちたものか。
 
久堅之《ひさかたの》 雨之落日乎《あめのふるひを》 直獨《ただひとり》 山邊爾居者《やまべにをれば》 欝有來《いぶせかりけり》     769
 
〔釋〕 ○いぶせかりけり 「いぶせし」は思の結ばるゝこと。憂欝。
【歌意】 雨の降る日をたつた一人、山近い處に居るので、私は氣が塞いでならないよ。
 
〔評〕 「ただひとり」が主眼である。それは雨の日、山邊の宿、かう物寂しい種々な材料が背景に躍動して、ひしひしと憂思を誘ふ。まして紀女郎といふ思ひ人があつての獨居と來ては、「いぶせかりけり」の感傷は的確な結語である。
 久邇京は山竝の宜しき國だから、この山邊は何處とも定め難い。
 
大伴(の)宿禰家持(が)從《より》2久邇《くにの》京1贈(れる)坂上(の)大孃(に)1歌五首
 
人眼多見《ひとめおほみ》 不相耳曾《あはざるのみぞ》 情左倍《こころさへ》 妹乎忘而《いもをわすれて》 吾念莫國《わがもはなくに》     770
 
〔釋〕 ○あはざるのみぞ 逢はずにゐるばかりさ。古義訓アハナクノミゾ〔七字傍線〕。○いもをわすれてわがもはなくに 卷一に「忘れて念へや」とあると同辭法。
(1375)【歌意】 うるさい人目が多さに、逢はずに居るだけさ、私は心まで貴女を思ひ忘れてはゐませんのにさ。信じて下さい。
 
〔評〕 作者の内心は知らず、御不沙汰の申譯は「人目多み」である。實際久邇京から奈良までわざ/\出掛けるとなつては、それは人目にも立ちもしよう。然し本妻の處へ本夫が通ふのに、人目を遠慮することは上代でもない筈だ。作者と大孃との關係は甚だ入り組んだ状態にあつたものらしい。
 
僞毛《いつはりも》 似付而曾爲流《につきてぞする》 打布裳《うつしくも》 眞吾味兒《まことわぎもこ》 吾爾戀目八《われにこひめや》     771
 
〔釋〕 ○につきてぞする 似つかはしく僞事もする。○うつしくも 實際に事實においてなどの意。顯《うつ》しくもの義。
【歌意】 假令|虚言《ウソ》を吐《ツ》くとしても似つこ〔三字傍点〕らしく吐くものですよ、貴女は私に戀してゐると仰しやるが、飛んでもない事〔貴方は〜二字右○〕、實際に本當に貴女が私に戀してゐますかい。空々しいにも程があります〔十二字右○〕。
 
〔評〕 馬鹿に捻ねくれた事をいつたものだ。往き違ひ思ひ違ひは常にあること、まして久邇京と奈良と離れ住んでゐては、愈よ誤解は起り勝だ。いはゆる倦怠期に入つた犬も喰はぬ喧嘩であらう。
  僞も似付きてぞする何時よりか見ぬ人戀ふに人の死にする (卷十一−2572)
(1376) 同一の初二句である。或は當時通用の諺であつたかも知れぬ。
 
夢爾谷《いめにだに》 將所見當吾者《みえむとわれは》 保杼毛友《ほどけども》 不相志思《あはぬこころし》 諾不所見有〔左○〕武《うべみえざらむ》     772
 
〔釋〕 ○みえむと 見《マミ》えむと。○ほどけども 衣の紐を〔四字右○〕解《ホド》いても。○あはぬこころし 同じでない心故にさ。元本、桂本には「思」の下に者〔右△〕の字がある。「志」を衍として、アヒオモハネバ〔七字傍線〕と訓むも一解である。○うべ 實《ゲ》に、道理でなどの意の副詞。○みえざちむ 「有」は元本、桂本その他に據つて補つた。
【歌意】 せめて夢になりとも逢はうと、私は寢る時紐をほどくけれども、同じでない貴女のお心故にさ、道理で夢にも逢へないでせう。
 
〔評〕 衣の紐を解いて寢れば思ふ人に逢へるといふ俗信があつたのであらう。然しそれは相思の間柄での事である。今は夢に逢へなかつたといふ結果から溯つて、その呪禁《マジナヒ》の效果のないのは、片思の爲であると推斷し、大孃の「あはぬ心」の不實を咎めた。
 
事不問《こととはぬ》 木尚味狹藍《きすらあぢさゐ》 諸茅等之《もろちらが》 練乃村戸〔二字左△〕二《ねりのことばに》 所詐來《あざむかれけり》     773
 
〔釋〕 ○こととはぬきすらあぢさゐ 言とはぬ味狹藍の木すらの顛倒。「こととはぬ」は前出(一〇四七頁)。○あ(1377)ぢさゐ 虎耳草科の山野自生の灌木。葉は楕圓形で縁齒があり、七八月頃聚繖花序に多數の花をつけ、最初白色から淡青となり、淡紫碧色となり淡紅ともなる。故に七變化の名がある。○もろち 諸茅はもろ/\の茅草。茅は「あさぢはら」を見よ(八〇一頁)。○ねりのことばに 「ねり」は阿《オモネ》り(面練)の練り〔二字傍点〕、「村戸」は次の歌に諸茅等が練の言羽《コトバ》に」とあるによつて言羽〔二字右△〕の誤とすれば、侫辯の意と聞えて解し易い。
【歌意】 物言はぬ紫陽花の木ですら、多勢の茅草達がお便《ベン》ちやらの言葉には、欺《ダマ》されたことだわい。
 
〔評〕 黙り屋の正直な紫陽花を、多くの茅花達が侫辯で誘惑して危地に陷れ、青息吐息五色の息を吹かせたので、その花が今に種々の色に變化するといつたやうな童話的傳説が、その頃あつたものらしい。紫陽花を君子善人、諸茅等を小人惡人に喩へた話としてもよからう。
 古傳説をそのまゝに詠出して暗喩とした。即ち大孃は自分を思はぬのを、その周圍の人達の取持顔の旨い口前に私は欺されたものだとの譬喩である。
 
百千遍《ももちたび》 戀跡云友《こふといふとも》 諸茅等之《もろちらが》 練乃言羽志《ねりのことばし》 吾波不信《われはたのまじ》     774
 
(1378)〔釋〕 ○ねりのことばし 「志」元本、桂本、神本には者〔右△〕とあり、コトバハ〔四字傍線〕と訓む。○たのまじ 舊訓タノマズ〔四字傍線〕。
【歌意】 假令戀しいと何百遍いつて誘つても〔四字右○〕、茅草達がお便ちやらの詞はさ、私は本當にすまい。
 
〔評〕 一寸した經緯から角芽立つて、家持は拗ねてしまつた。大孃周圍の人達は、大孃樣には貴方一點張で更に異心はないと辯護する。けれども斷じて、そんな「練の言葉」は信用しないとの空威張である。
 
大伴(の)宿禰家持(が)贈(れる)2紀(の)女郎(に)1歌一首
 
鶉鳴《うづらなく》 故郷從《ふりにしさとゆ》 念友《おもへども》 何如裳妹爾《なにぞもいもに》 相縁毛無寸《あふよしもなき》     775
 
〔釋〕 ○うづらなく 「故りにし里」の形容語。鶉は草深い野原に伏す鳥なればいふ。「うづらなす」を見よ(五三九頁)。〇ふりにしさと 故里のこと。こゝは奈良の故京をさす。既出(三三三頁)。○なにぞも なぞも〔三字傍点〕に同じい。△挿畫 挿圖173を參照(六四三頁)。
【歌意】 私は故里の奈良京に居た時から、今に〔二字右○〕思うてゐるけれども、どうした事ぞ、貴女に逢ふ手立がまあないのですよ。
 
〔評〕 作者が久邇京に居ての感懷である。「鶉鳴く」はもと秋季の景物であるが、荒廢の象徴の如く慣用され、「鶉鳴く古りにし里の」(卷八)は季をもち、「鶉鳴く人の古家《フルヘ》に」(卷十七「鶉鳴く古しと人は」(卷十七)は季をも(1379)たない。
 天平十三年正月元日久邇京で行はれた朝儀には、無論作者家持も參列したことゝ考へると、少くとも去年の暮から久邇京に移住したものであらう。次の答歌には小山田の苗代水を引いた。苗代水は三四月(陰暦の)頃の行事だから、まづ約四五箇月は遷都の匆劇に紛れて、紀女郎との情交も斷絶してゐたものらしい。然るに「何ぞも」の疑問を投げ懸けて責任囘避を平然とやり、自分は涼しい顔をしてゐる。然し歌を贈つて久方振にせよ音づれた事は、まだ忘れ切らぬ證據である。
 
紀(の)女郎(が)報2贈(ふる)家持(に)1歌一首
 
事出之者《ことでしは》 誰言爾有鹿《たがことなるか》 小山田之《をやまだの》 苗代水乃《なはしろみづの》 中與杼爾四手《なかよどにして》     776
 
〔評〕 ○ことでしは 先に言《コト》に出したのは。まづ挑み懸けたことをいふ。神代紀上の「如何婦人先言乎〔三字傍点〕」を私記に「一説唱(ヘ)讀(ンデ)曰(フ)2古登弖志立《コトデシテト》1」と見え、東舞《アヅママヒ》の歌に「今朝の言出《コトデ》は」、卷十に「鶯の言先立《コトサキダ》ちし君をし」などある。○をやまだ 「を」は美稱。○なはしろみづの 中淀《ナカヨド》に係る序。苗代には水を堰き留めて淀めておく故にいふ。○なかよど 中淀。中途で停滯すること。
【歌意】 はじめ詞に出しで挑んだのは誰れの詞でしたかね。それは貴方のではありませんか〔十五字右○〕、それなのに山田の苗代水の中途で淀むやうに、中絶して入らつしやる。あんまりです〔六字右○〕。
 
(1380)〔評〕 「妹に逢ふ由もなき」など、空々しい事をいつて來たに對する抗議である。既に家持の懸想に對して、自分は年長だから「かくしてのちにさぶしけむかも」と逡巡したのを、「百年に老舌出でてよよむとも」とまで口説かれた熱意に絆されて許したのであつた。然し多情な男は、一旦占有慾を遂げると、あとはとかく冷淡になり勝なもの、まして引手數多の美男家持と來ては「苗代水の中淀」も無理はなからう。けれどもすさめられた女の身としては、悔しい怨めしいが一杯で鬼にも蛇にもなる。
 
大伴(の)宿禰家持(が)更《また》贈(れる)2紀(の)女郎(に)1歌五首
 
吾妹子之《わぎもこが》 屋戸乃※[竹/巴]乎《やどのまがきを》 見爾往者《みにゆかば》 蓋從門《けだしかどより》 將返却可聞《かへしなむかも》     777
 
〔釋〕 ○まがき 間《マ》垣の義。「※[竹/巴]」は籬〔右△〕を書いた本も多い。字彙に ※[竹/巴](ハ)竹籬、編(ミテ)v竹(ヲ)圍(ム)v之(ヲ)とあり、籬は和名抄に、以(テ)v柴(ヲ)作(ル)v之(ヲ)、和名|未加岐《マガキ》、一(ニ)云(フ)末世《マセ》とある。○けだし 「けだしくも」を見よ(五〇七頁)。○かへしなむかも 「返却」は漢熟語。童訓カヘスラムカモ〔七字傍線〕。
【歌意】 もしも私が、貴女の宿の「※[竹/巴]を見に行かうなら、多分は門前から逐ひ返すであらうかなあ。
 
〔評〕 貴女のその見幕では、うつかり行くと門前からぼい返されることだらうとは、前の「言出しは誰が言なるか」の激しい詰問の意を承けたのである。※[竹/巴]を見に行くは紀女郎に逢ひに行くことの暗喩である。
 
(1381)打妙爾《うつたへに》 前垣乃酢堅《まがきのすがた》 欲見《みまくほり》 將行常云哉《ゆかむといへや》 君乎見爾許曾《きみをみにこそ》     778
 
〔釋〕 ○うつたへに 前出(一一一四頁)。○まがきのすがた ※[竹/巴]の姿。※[竹/巴]の樣子をいふ。「前」は借字。○いへや 「や」は反辭。○みにこそ 見にこそ行け〔二字右○〕の略。
【歌意】 「※[竹/巴]を見に」といつたとて、一途に※[竹/巴]の樣式を見たく思つて行かうとは、いひませうかい。本當の處は貴女を見に行くのさ。
 
〔評〕 前の歌の暗喩の意を更に又明示したのである。聯作としてはこれも一法であるが、稍くどくて、蛇足の感を免れない。
 「※[竹/巴]の姿」の一語は當時の作庭樣式を窺ふに足りる。庭前の前栽に※[竹/巴]を結ひ、その※[竹/巴]には種々な數寄を凝したことが想像される。
 
板蓋之《いたぶきの》 黒木乃屋根者《くろぎのやねは》 山近之《やまちかし》 明日取而《あすのひとりて》 持將參來《もちまゐりこむ》     779
 
〔釋〕 〇いたぶぎのくろぎのやね 黒木の板で葺いた屋根のこと。板蓋の屋根、黒木の屋根といふ二句を約めていつた。「黒木」は皮付の木。初二句は三句を隔てゝ四句に係る。○あすのひとりて 古義訓による。舊訓アスモトリテハ〔七字傍線〕。
(1382)【歌意】 貴方の家の板屋根の黒木は、幸に私の宅が山近です。で明日山から切出してこちらへ持つて參りませう。
 
〔評〕 紀女郎も新都久邇京に、後ればせに普請をしたと見える。家持の新宅は「山近し」で、上にも「只獨山邊にをれば」と詠んでゐる。當時五位以上の官吏の家は瓦葺であつた。
  太政官奏言、――其板屋草舍(ハ)中古(ノ)遺制(ナリ)、雖(モ)v營(ムト)易(ク)v破(レ)、空(シク)殫(ス)2民(ノ)財(ヲ)1、請(フ)d仰(セテ)2五位已上及(ビ)衆人(ノ)堪(ヘタル)v營(ムニ)者(ニ)1、構(ヘ)2立(テ)瓦舍(ヲ)1、塗(リテ)爲(ムト)c赤白(ト)u。奏可v之。(續紀、神龜元年十一月甲子)
官吏でなくても資産家は瓦舍を造るやうに上の沙汰であつたが、紀女郎の新宅は歌によると、舊式の板屋草舍であつたらしい。作者は紀女郎の普請場に來て、まだ足らぬ板屋根の黒木は明日でも私宅の後ろの山から取つて來てお間に合はせませうと、頗る親切氣を見せたものだ。輕い口頭語で、世話に碎けた情味の流動に棄て難い味ひがある。
 
黒樹取《くろぎとり》 草毛刈乍《かやもかりつつ》 仕目利《つかへめど》 勤和〔左△〕氣登《いそしきわけと》 將譽十方不在《ほめむともあらず》 【一(ニ)云(フ)、仕登母《ツカフトモ》】     780
 
〔釋〕 ○かやも 「草」は薄《ススキ》のことで、茅《カヤ》茸の料たる時はカヤと訓み、常にはクサと訓む。古義が、板葺なれば草は屋根の料にはあらじ、蔀或は壁代などに草を用ひしこと古書にありとして、クサ〔二字傍線〕と訓み改めたのは頑である。古代の建築樣式は別棟に數多く造る。されば板葺も草葺も入混り、所謂坂屋草舍なのである。○いそしきわけ 勤勉なる奴。「わけ」は前出(一一六七頁)。「和」原本に知〔右△〕とあるは誤。眞淵説によつて改めた。○あらず 古(1383)義訓アラジ〔三字傍線〕は非。
【歌意】 貴女の爲には、屋根葺の材料たる黒木を採り又は草《カヤ》も刈りなどしつゝ奔走もしませうが、感心に精出してくれる奴と、譽めようともなさらぬ。
 
〔評〕 一旦は頗る氣輕に御機嫌取りに「持ち參りこむ」とはいつたものゝ、退いて一考すると、いや/\折角の誠意も買つてくれる人ではない、結局は、無駄だと、失望的に呟いた。この呟きは小聲ながらも却て對手の心胸を拍つて、同情を喚起させる底力を持つてゐる。紀女郎が「言出しは誰が言なるか」と罵つた餘憤のまだ收まらぬ頃の事であらう。
 この黒木の二首を、眞淵が別に題詞のあつたものと考へたのは一應諾けるが、又紀女郎宅の普請中に家持が訪問しての感想と見れば、やはり前後に關聯があつて、別時の作ではない。
 
野干玉能《ぬばたまの》 昨夜者令還《きそはかへしき》 今夜左倍《こよひさへ》 吾乎還莫《われをかへすな》 路之長手呼《みちのながてを》     781
 
〔釋〕 ○ぬばたまの 夜〔傍点〕の意に係る枕詞。「きそ」は既出(三〇四頁)。○きそはかへしき 「きそ」は昨夜の古言。「きそのよ」を見よ(四二九頁)。略解訓ヨベハカヘシツ〔七字傍線〕、契沖一訓キソハカヘセリ〔七字傍線〕。○ながてを 前出(一一四四頁)。「呼」は乎と同音。
【歌意】 貴女は昨夜は私を無駄にお返しなされた。今夜もまた私を無駄にお返しなさるなよ、道は大變に遠いの(1384)ですよ。
 
〔評〕 「蓋し門より返しなむかも」と、恐る/\脈を引いた杞憂は、事實と實現し、「きそは返しつ」の目に遭つた。それにもひるまず今夜も訪問します、しかも「路の長手を」ですと、對手を熱意と義理との柵にかけて、「返すな」と懇請した。「返す」の語が草蛇の如く線を引いて隱現してゐる處が面白い。
 
紀(の)女郎(が)裹物《つとものを》贈(れる)v友(に)歌一首 【女郎名(ヲ)曰(フ)2小鹿(ト)1。】
 
紀女郎が濱苞を女友達に贈つた歌との意。○裹物 苞《ツト》に匂んだ物。「はまづと」を見よ(八三八頁)。
 
風高《かぜたかく》 邊者雖吹《へにはふけども》 爲妹《いもがため》 袖左倍所沾而《そでさへぬれて》 刈流玉藻烏《かれるたまもぞ》     782
 
〔釋〕 ○かぜたかく 風の甚しきをいふ。舊訓カゼタカミ〔五字傍線〕は非。○へには 岸邊には。○そでさへ 手は勿論〔四字右○〕袖までも。○たまもぞ 「たまも」は既出(一〇六頁)。「烏」は焉と通用。舊訓タマモヲ〔四字傍線〕。
【歌意】 風がひどく岸邊には吹くが、それによつて立つ波をも厭はず、貴女の爲、袖までも沾して刈り取つたこの海藻ですぞ。
 
〔評〕 贈物に價値づけて、厚意の押賣をすることは古代人の慣習である。事實は人に採らせたか或は買つたかで(1385)あらうが、さも自分が辛苦した物のやうに誇示してゐる。この種の構想の歌は前にもあつた。とにかくその濱邊で詠んだ趣の歌で、隨つて過去の叙法を用ゐてない。
 「風高くへには吹けども」に波の高く立つ景趣が含まれてゐる。風の上のみでいへば「高く」は穩當を缺く。尤も風高の漢熟語もあるが、作者は婦人だからまさかそれを運用したのであるまい。
 
大伴(の)宿禰家持(が)贈(れる)2娘子《をとめに》1歌三首
 
前年之《をととしの》 先年從《さきつとしより》 至今年《ことしまで》 戀跡奈何毛《こふれどなぞも》 妹爾相難《いもにあひがたき》     783
 
〔釋〕 ○をととし 遠《ヲト》つ年《トシ》の約。○さきつとし 先つ年。
【歌意】 去々年のその前年から今年まで、戀しく思うてゐるが、なぜか貴女に逢ひにくいのです。妙ですね〔四字右○〕。
 
〔評〕 上句は長い年月といふことを具象的にいつた。年限をかければ大抵の事は成功する。この一般原則に反して「妹に逢ひ難き」なのだから、そこに「なぞも」の疑問を投げ懸けざるを得ない。詰りはかういつて自分の誠意を高く宣揚したものだ。
 
打乍二波《うつつには》 更毛不得言《さらにもいはず》 夢谷《いめにだに》 妹之手本乎《いもがたもとを》 纏宿常思見者《まきぬとしみば》     784
 
〔釋〕 ○さらにもいはず 「不得言」でイハズと訓んでよい。得を衍とするに及ばぬ。○まきぬとしみば 下に嬉し(1386)からまし〔六字右○〕の語を含む。
【歌意】 現實には尚更いふまでもないこと、せめて夢になりとも、貴女の袂を枕にして寢たと見たら、どんなにか嬉しいでせう〔十一字右○〕。
 
〔評〕 逢つた夢を見ただけでも嬉しいが、その夢さへ見られないと歎息した。結句の略語は簡淨で、初二句の絮説の煩を救ふに足りる。
 
吾屋戸之《わがやどの》 草上白久《くさのへしろく》 置露乃《おくつゆの》 壽母不有惜〔左△〕《いのちもさまれ》 妹爾不相有者《いもにあはざれば》     785
 
〔釋〕 くさのへ クサノウヘ〔五字傍線〕と訓むもよい。○おくつゆの、置く露の如き〔二字右○〕。○いのちもさまれ 命もさもあらばあれの意。「さまれは」さもあれ〔四字傍点〕の約。「惜」原本に情〔右△〕とあるは誤。訓は元本、桂本に從つた。又「壽」を身〔右△〕の誤として、宣長はミモオシカラズ〔七字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 私の庭の草の上に白く置く露のやうな、はかないこの命は、どうなつてもよいわ、貴女に逢へないのならさ。
 
〔評〕 失戀となれば命などはどうでもよい。この感傷は眞劍な戀ほど強い。尤も作者は可成り漁色的傾向がありげだから、僞装的誇張が全然ないとはいはれぬ。
 
(1387)大伴(の)宿禰家持(が)報〔左△〕贈(れる)藤原(の)朝臣|久須《くす》麻呂(に)1歌一首
 
○報贈 この歌は答歌の趣でない。故に報〔右△〕を衍字とする。隨つて贈歌はこの「一首」だけで、次の二首は久須麻呂の答歌である。原本三〔右△〕首とあるは誤。○藤原朝臣久須麻呂 藤原仲滿(惠美押勝)の第二子。續紀に寶字二年八月正六位下より從五位下、同三年五月惠美朝臣と改め美濃守、同六月從四位下、同五年正月大和守、同六年八月左右京尹、中宮院に侍し勅旨を宣傳す、同七年參議兼丹波守にて京尹故の如し、同八年九月父大師押勝逆を謀る、上皇(孝謙天皇)中宮院の鈴印を收めしむるに、押勝、男訓儒(久須)麻呂をして※[しんにょう+激の旁]へてこれを奪ふ。授刀小尉坂上刈田麻呂等射てこれを殺すとある。初名淨辨。(續紀、正倉院文書)〔頭注〕淨辨時代に、寶字二年正月正六位下で、東海東山道問民苦使となり、八月從五位下に敍せらるゝや久須麻呂と改名。
 
春之雨者《はるのあめは》 彌布落爾《いやしきふるに》 梅花《うめのはな》 未咲久《いまださかなく》 伊等若美可聞《いとわかみかも》     786
 
〔釋〕 ○いやしきふるに 愈よ頻に降るのに。「しき」は前出(六三八・一二頁)。○さかなく 咲かず。「なく」は否定のぬ〔傍点〕の延言。「しらなく」を見よ(四四五頁)。○わかみ 蕾である趣をいつた。
【歌意】 春雨はなか/\繁く降るのに、梅の花はまだ咲かないで、ひどく幼げであることかいなあ。
 
【評】 春雨は開花を催す、この前提のもとに成つた構想である。春雨を自身に擬へて「いやしき降る」に戀心の繁き趣を寓せ、梅の花を久須麻呂の童女に擬へて、「未だ咲かなくいと若みかも」に一向手答のない少女であ(1388)る趣を寓せて、戀の成功の待遠であることを嗟嘆してゐる。令に據ると婦人は十三歳から結婚を公許されてゐる。恐らくこの童女もその位の年配と見て可からう。未開の梅花に添へて贈つた歌らしい。故にそれを承けて久須麻呂は「わが宿の若木の梅も」と答へたのである。
 久須麻呂は名家の子を以て天平寶字二年に從五位下に出身した、その時を二十歳と假定すると、その誅死した同八年には二十六歳だから、婚期に近づいてゐる娘のとてもあらう筈がない。さればこの童女は無論久須麻呂の娘ではない。略解には妹ならむとあるが、父親大師從一位惠美朝臣押勝が健在である以上は、まだうら若い兄の一存で妹の婚嫁を勝手に取計らふ譯には往くまい。然しこれは大體論で特例は幾らもあるが、第一年齡の差が少しあり過ぎる。家持は寶字八年には三十六歳の人、それに童女が十三歳程度では、普通の結婚としては親も許すまい。故に必ず新分家の久須麻呂邸の童女で、妾としての縁邊であらう。
 案ずるに家持に女色を漁つた傾向が著しく見えるのは、元來が名家の子であり、又美男であつたせゐもあるが、一面に大きな政治的不平があつて桃色行爲に逃避してゐたと見られぬこともない。久須麻呂の三兄弟の如き、父の故を以て寶字七年には廿五歳前後で相竝んで參議、その他藤原氏の一族は續々若くて高位高官に上つ(1389)てゐる。家持は寶龜十一年に五十二歳でやつと參議になつた。大伴の家運も亦衰へたといふべきである。それらの不平は遂に勃發して、彼れは反逆兒の嫌疑を以てその生を了つた。 △家持事蹟考(雜考――19參照)
 
大伴氏對藤原氏の出身の比較
天平寶字六年(備考【王族三人 藤原十人】)
 官    位    姓名     年齡
大師   正一位  藤原惠美押勝  五十七
御史大夫 正三位  文室淨三(王) 七十
中納言  從三位  藤原永手    四十九
          氷上鹽燒(王)
          白壁王     五十四
          藤原眞楯    四十八
參議   從三位  藤原弟貞
         (長屋王ノ子)  四十八
          藤原巨勢麿
     正四位上 藤原惠美眞先
         (押勝ノ子)  二十五六
     正四位下 藤原清河(在唐)
     從四位下 藤原惠美久須麿
         (押勝ノ子)  二十三四
          藤原惠美朝※[獣偏+葛]
         (押勝ノ子)  二十二三
因幡守  從五仕上 大伴家持    三十四
 
藤原(の)朝臣|久須《くす》麻呂(が)來報《こたふる》歌二首〔十三字左○〕
 
原本この題詞がない。今假に補つた。理由は評語を參見。
 
如夢《いめのごと》 所念鴨《おもほゆるかも》 愛八師《はしきやし》 君之使乃《きみがつかひの》 麻禰久通者《まねくかよへば》     787
 
〔釋〕 ○はしきやし 既出(四一〇頁)。○まねく 既出(四七〇頁)。
【歌意】 ほんに〔三字右○〕夢のやうに思はれますよ、親愛なる貴方の御使が、こちらの童女の許に〔九字右○〕度々通ふので。
 
〔評〕 童女への求婚の意外であることを歌つた。
 考ふるにこれ及び次の歌は、藥《クス》麻呂から家持への答歌であらう。「使のまねく通へば」も「梅を植ゑて」も、さう見るとその意が明白に徹底する。さればこの題詞として、久須麻呂來報贈歌〔八字右○〕の語を補ふがよい。
 
浦若見《うらわかみ》 花咲難寸《はなさきがたき》 梅乎植而《うめをうゑて》 人之事重三《ひとのことしげみ》 念曾吾爲類《おもひぞわがする》     788
 
(1390)〔釋〕 ○うらわかみ 未《ウラ》若み。○ひとのことしげみ 人の言の繁さに。桂本袖中抄等の訓ヒトゴトシゲミ〔七字傍線〕。
【歌意】 まだ早過ぎて花の咲きにくい梅を植ゑて、即ちまだ年齡のゆかぬ女の子を家に置いて、彼れこれと人の物言ひのうるさゝに、餘計な心配を私が致しますよ。
 
〔評〕 上の「梅の花いまだ咲かなく」の返歌である。この久須麻呂來報の意は大體からいふと、右とも左ともつかぬ頗る捉まへ處のない辭令の語である。で家持は又次の二首を追つ懸け贈つた。
 
又家持(が)贈(れる)2藤原(の)朝臣久須麻呂(に)1歌二首
 
情八十一《こころぐく》 所念可聞《おもほゆるかも》 春霞《はるがすみ》 輕引時二《たなびくときに》 事之通者《ことのかよへば》     789
 
〔釋〕 ○こころぐく 前出(一三四四頁)。「八十一」は算數的の戲書。
【歌意】 心がうき/\思はれることよ。時もあらうに〔六字右○〕春霞の棚引く面白い折柄に、貴方のお便りが來るのでさ。
 
〔評〕 「夢の如おもほゆるかも――まねく通へば」に對する挨拶である。
 
春風之《はるかぜの》 聲爾四出名者《おとにしでなば》 有去而《ありさりて》 不有今友《いまならずとも》 吾之隨意《きみがまにまに》     790
 
〔釋〕 ○はるかぜの 「おと」に係る序。○おとに 承知したと詞に。○ありさりて 在のまゝにゐて。在りし在〔二字傍点〕(1391)りての約。○まにまに 「隨意」の意訓。
【歌意】 春風が優しい音づれを齎すやうに、お前に許すとお詞を洩してくださるなら、氣長く辛抱して、何も今でなくとも、貴方のお心任せに致しませう。
 
〔評〕 風の音は秋にこそ多くいふ。こゝに「春風」を「おと」の序詞としたのは、珍しい三句以下その宛轉滑脱なる口吻を見る。
 
又〔左○〕藤原(の)朝臣久須麻呂(が)來報《こたふる》歌二首
 
上に同じ題詞を新に補つたので、こゝには「又」の字を補つた。
 
奥山之《おくやまの》 磐影爾生流《いはかげにおふる》 菅根乃《すがのねの》 懃吾毛《ねもごろわれも》 不相念有哉《あひもはざれや》     791
 
〔釋〕 ○おくやまの――すがのねの 上句は「ねもごろ」に係る序詞。○あひもはざれや 相思はざらめやの意。「や」は反辭。神本及び眞淵訓アヒモハザラメヤ〔八字傍線〕。古義訓アヒモハザラムヤ〔八字傍線〕。△寫眞 挿圖215を參照(七三七頁)。)
【歌意】 奥の岩陰に生える菅の根のネといふ懇に、私も貴方をお思ひ申さずにゐませうかい。
 
〔評〕 好意を以て何處までも思召に添ふやうに致しませうとは、上の「春風の」の歌の意に答へたもの。古義に(1392)童女の心に代りて詠めるなるべしとあるは牽強である。
 
春雨乎《はるさめを》 待常二師有四《まつとにしあらし》 吾屋戸之《わがやどの》 若木乃梅毛《わかきのうめも》 未含有《いまだふふめり》     792
 
〔釋〕 ○あらし ある〔傍点〕らしの略。○ふふめり 「ふふむ」は含《フク》むと同語。京本神本の訓ツボメリ〔四字傍線〕。
【歌意】 多分春雨の音づれを、一途に待つことでさあるらしいわい。私の家の若木の梅も、まだ花にならず含んでゐます。
 
〔評〕 「春の雨はいやしき降るに云々」の贈歌の逆説で、さう仰しやるのは貴方の誤認で、梅はもう咲きたがつてひたすら春雨の音づれを待望してゐるといふ。
 久須麻呂は前の歌では同意仲媒の意を表明し、この歌では暗に家持の來訪を促してゐる。 
(1393) 語釋索引
△本索引は解釋の項中、特に注意すべきものを抄出した。
△記録漢字の解説は可成り施してあるが、ここは一切略いた。それは本文に就いて一一檢索されたい。
△瑣細なる言語事項の如きも同樣、本文に就いての檢索を俟つ。
 (以下索引部分省略、入力者注)
 
(1) おくがき(第二)
 歌を語ることはむづかしい。
 歌は素より詩である。詩に對する感受性の淺い者は、歌を語る資格はない。歌は人情の發露、人情の機微に通ぜぬ者は歌を語る資格はない。歌は時代人の生活から生まれてくる、時代人の生活を知らぬ者は、歌を語る資格はない。歌は傳統と歴史とをもつ、傳統と歴史とを知らぬ者は、歌を語る資格はない。歌は個人の感想である、作者の個性とその環境とを辨へぬ者は歌を語る資格はない。
 又いふ人間の足は土に著いてゐる。地理地文に通曉せぬ者は歌を語る資格はない。歌は時に典據を運用し、時に森羅萬象の事相に亘る、博い學識をもたぬ者は歌を語る資格はない。歌は嗣藻に依つて表現する、修辭の才に達せぬ者は歌を語る資格はない。歌は言語を驅使する、言靈の學に精しからぬ者は歌を語る資格はない。
 萬葉集は古代の歌集である。萬葉人の心血の結晶である。これを俎上にのぼせて、恰も名醫がメスを揮ふが如く一々爬羅剔抉して、その經絡を語り、血肉骨格を説き、髄脳臓腑を指示し、さて微妙なる精神の動向を察し、潜在する滋味を適確に攫んで、綜合的にそれを講評し鑑賞してゆくことは、蓋し難中の難事で、上に布列した各種各樣の資格を具足した上に、而も自身が創作に十分の經驗を積んだ者でなければ、その言が肯綮に中るものでは決して(2)ない。
 自分は正直な處、作家として殊に四十餘年の體驗をもつてゐる。公には職を御歌所に奉じ、私には曙會を主宰して半生以上を吟※[口+我]に刻苦して來た。そして國文の學壇上に評釋學の法門を建立してから既に三十餘年この道に精進して怠らない。學間以外の眞學問即ち人間學に至つては、嘗ては極めて空疎であつたが、故朝吹柴庵の一喝に値つて聊か頓悟する處あり、今はいはゆる年の功で、多少世故に練熟して人情の表裏を洞觀する明を養ひ得た。
 かくしてこの評この釋が、萬全は素より保し難いものゝ、おのづから他に一日の長があり、或は比較的正鵠をあやまつことが尠からうかとの輕い自信を抱かせるに至つた。眼光紙背に徹る底の神業は、偏にのちの來者に期待する。
 
    昭和十三年五月評釋第二冊を校了して
                     元 臣 し る す
昭和十三年六月十五日發行 昭和十七年二月二十日四版發行 五圓貳十錢 明治書院
(2006年3月13日午後2時52分、卷四入力終了、2007年7月12日、巻四校正終了)
 
(1397)  萬葉集 卷五
 
この卷は大伴(ノ)旅人卿及び山上(ノ)憶良の連作を主として輯め、その大部分は筑紫における吟咏である。漢文の尺牘歌序に富み、題目に叙事的興味あるものが多い。
この卷の特に注意を要することは、長歌は別として、短歌の書式が前後の諸卷と異なり、殆ど一字一音を以て記録されてゐることである。恐らく全卷一人の手に依つて成つたものであらう。さてはその記録者は誰れか。旅人卿薨後の作も見えるから、或は憶良の手記か。但家持家集の一部と觀られる第二十卷の如き、矢張一字一音を以て記載されてあるのを見ると、旅人卿の息家持の手記とする説が一層有力と考へられる。
 
雜歌《くさぐさのうた》
 
太宰(の)帥(かみ)大伴(の)卿(の)報(こたふる)2凶問(に)1歌一首并序
 
太宰府の長官大伴(の)旅人卿が不幸の見舞に答へた歌との意。○太宰帥 既出(一一六八頁)。○大伴卿 傳既出(七三六頁)。○凶問 凶事の存問。口語にいふクヤミ。この凶事は旅人卿の妻大伴(ノ)郎女の逝去を斥す。卷八に、橘時鳥卯花など初仲夏の景物を詠んだ歌の左註に、(1398)
  右、神龜五年戊辰、大宰(ノ)師大伴(ノ)卿之妻大伴(ノ)郎女遇(ウテ)v病(ニ)長逝焉《ミマカリヌ》。于時勅使式部(ノ)大輔石上(ノ)朝臣|堅魚《カツヲヲ》遣(リ)2太宰府(ニ)1、弔(ヒ)v喪(ヲ)并贈(ラル)2物色(ヲ)1。其事即(チ)畢(リ)、驛使及(ビ)府(ノ)諸卿大夫等、共(ニ)登(リテ)2記夷《キイノ》城(ニ)1而望遊之日、乃(チ)作(ル)2此歌(ヲ)1。
と見えた。凶事奏聞の使、勅使の下向、その來往の日子を假に約一月と見る時は、郎女の逝去は大よそ神龜五年の暮春から初夏の間と推定される。卷三所載の神龜五年戊辰太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿(ノ)思2戀(ベル)故人(ヲ)1歌三首、天平二年冬上京の時の海路にての歌五首、故郷に歸つての三首は、皆郎女に對する哀悼の意を敍べてある。郎女の傳は既出(一二六頁)。○并序 この二字原本にない。補つた。序は端書《ハシガキ》。
 詩文に題詞の外に序の文を著して、その製作の來由を説くことは前漢の時代に始まり、魏晉の間に盛になつて來た。文選所載の詩文がこれを證する。上代のわが官吏達は皆文選を枕籍する漢學者だから、その樣式を模倣して、國歌の前に漢文の序を置いた。
 
禍〔左△〕故|重疊《ウチシキリ》、凶問|累《シキリニ》集(ル)、永《トコシヘニ》懷(キ)2崩(ク)v心(ヲ)之悲(ヲ)1、獨流(ス)2斷(ツ)v腸(ヲ)之|泣《ナミダヲ》1、但依(リ)2兩君(ノ)大(ナル)助(ニ)1、傾(ケル)命纔(ニ)繼(ガルヽ)耳《ノミ》。筆不(ルハ)v盡(サ)v言(ヲ)、古今(ノ)所v歎(ク)。
 
(1399)○禍故 わざはひ。故は事故の意。「禍」原本に福〔右△〕とあるは誤。神本その他による。○崩心の悲 心を碎く悲。○斷腸之泣 悲の切なる涙。文選の魏文帝の詩に、思(ハバ)2君(ガ)客遊(ヲ)1思(フ)v斷(タント)v腸(ヲ)。斷腸の故事としては、捜神記に、猿の子を捉へてて殺した時、猿の母が悲んで自殺したので、その腹を割いて見たら腸が斷れてゐたといふ話が出てゐる。○兩君大助 兩君は多分都より弔辭をよこした身分柄の人であらう。大助はお蔭。○傾命 死にかけた命。頽齡の意に近い。○筆不盡言 意の如く筆の廻らぬ。易(ノ)繋辭に、書(ハ)不v盡(サ)v言(ヲ)、言(ハ)不v盡v意(ヲ)とある。
 奈良時代とのみいはず、わが邦上代の漢文は、文選の四六駢儷の文體を祖述し歩驟してゐた。尤も漢土でも中唐の末韓柳の二家が出るまでは、悉く四六文であつた。彫心鏤骨排對に苦心し、字々金句々玉、絢爛眼を奪ふに足るものはあるが、畢竟これ剪裁補綴の技巧を爭ふに過ぎない。然し漢文をかくの如く立派に自由に驅使し得たことは、何としても古人の努力に敬服せざるを得ない。唐風模倣の世相は全く眞劍に一三昧であつた。殊に文臣はとにかく、武臣の棟梁たる旅人卿にして、尚かく漢學の素養に富み、讃酒歌(卷四所載)に見れば、その思想は晉の清談派の餘薫に浸り、詩作は懷風藻に、文章(1400)はこの集に著れ、全く文人としての地位を確保してゐる。文武兩道の達人、漢韓諸蕃を控制する太宰府の長上官として、この位の適任者は當時なかつたであらう。
 
余能奈可波《よのなかは》 牟奈之伎母乃等《むなしきものと》 志流等伎子《しるときし》 伊與余麻須萬須《いよよますます》 加奈之可利家理《かなしかりけり》     793
 
〔釋〕 ○よのなか 人間世。○むなしきもの 世間一切の諸法は滅びて空しきをいふ。佛經に、諸法皆空また諸法如幻化などの語が見える。○ときし 「し」は強辭。
【歌意】 もとより世間ははかないものと聞いては居たが、今郎女の死によつて〔もとより〜右○〕、その空しい道理を眞に合點した時さ、愈よ以てひどく、悲しいことでありますわい。
 
〔評〕 當時成實宗では我法の二空を説き、三論宗では有爲空無爲空畢竟空を説き、殊に名僧道慈が三論にその法螺を鳴らしてゐた時代だが、作者の佛教觀はもつと簡單なもので、所謂諸法皆空の大まかの處であつた。即ち生あるものは死に、形あるものは滅ぶ、一切の有爲は盡く無爲と觀ずる悲觀的思想に、漫然と支配されて居たのであらう。
 愛妻郎女の死は、作者をしてその悲傷に殆ど喪心せしめた。時日の經過に隨ひ、やう/\心の冷靜を取戻した時、金剛經に、如夢幻泡影、如露亦如電と説いた如く、一切有爲の世界は一物として常住不變のものある事なく、無常生滅にして自性をもたぬ者であることを覺悟するに至つた時、如來の金口の我れを欺かざるを知つ(1401)た時、更に一層の大いなる悲哀を痛感したのであつた。「いよよますます」とは、この心の動きの過程を象徴した詞である。
 
神龜五年六月二十三日
 
これは凶問を寄せられた都の兩君へ對しての返簡の日付と思はれる。製作の日子を記したのではあるまい。兩君のうちの一人は或は藤原|房前《フササキ》か。後にも房前に梧桐日本琴《キリノヤマトゴト》を贈つた旅人卿の消息と歌とがある。
 
筑前(の)守山(の)上(の)臣《おみ》憶良(が)悲2傷《かなしめる》亡妻《なきつまを》1詩《からうた》一首并序〔筑前〜左○〕
 
筑前守山上憶良が亡くなつた妻を悼み悲んだ漢詩との意。○筑前守 筑前の國守。○國守 國に大上中下國の別あり、その長官は守、次官は介、次に大少の掾、目を加へて四等官となる。國の大小によつて位階にも次第があるが、大抵守は五位、介は六位、掾は七位、目は八位相當。尚「國(ノ)司」を見よ(七三〇頁)。この題詞、原本にはない。假に補つた。憶良の傳は既出(二三四頁)。
 
蓋(シ)聞(ク)、四生(ノ)起滅、方(ニ)夢(ニシテ)皆空(シク)、三界(ノ)標流、喩(フ)2環(ノ)不(ルニ)1v息(マ)。所以(ニ)維摩大士《ユヰマダイジ》、在(リテ)2乎方丈(ニ)1、有(リ)v懷(クコト)2染疾之患(ヲ)1、釋迦|能仁《ノウニン》、坐《マシテ》2於雙林(ニ)1、無(シ)v免(ルヽコト)2泥※[さんずい+亘]《ナイヲン》之苦(ヲ)1。故(ニ)知(ル)二聖(ノ)至極(ナルモ)、不v能(ハ)v拂(フコト)2力負之尋(ギテ)至(ルヲ)1、三千世界、誰(レカ)能(ク)逃(レム)2黒闇之捜(リ)來(ルヲ)1。二鼠競(ヒ)走(リテ)而、度(ル)v目(ヲ)之鳥旦(ニ)飛(ビ)、四蛇爭(ヒ)侵(シテ)而、過(グル)(1402)v隙(ヲ)之駒夕(ベニ)走(ル)。嗟乎痛(マシキ)哉。紅顏共(ニ)2三從(ト)1長(ヘニ)逝(キ)、素質與《トモニ》2四徳(ト)1永(ク)滅(ビヌ)。何(ゾ)圖(ラム)偕〔左△〕老違(ヒ)2於要期(ニ)1、獨飛生(ゼムトハ)2於半路(ニ)1。蘭室(ノ)屏風徒(ニ)張(リ)、斷腸之哀(ミ)彌(ヨ)痛(マシ)。枕頭(ノ)明鏡空(シク)懸(リ)、染※[竹/均]之涙逾(ヨ)落(ツ)。泉門一(タビ)掩(ヘバ)、無(シ)v由2再(ビ)見(ルニ)1。嗚呼哀(シキ)哉。
 
〔釋〕 〇四生起滅− 胎生卵生濕生化生の四生の起滅即ち生死は、夢と同じで皆空であるの意。生物の産るゝ状相を、佛教では分類して四生とする。方夢は莊子齊物論に、方(リテヤ)2其夢(ナル)1也、不v知(ラ)2其夢(ナルコトヲ)1也。〇三界漂流− 欲界色界無色界の三界は何れも迷界で、造惡の衆生は皆この三界に生を受け、四苦八苦の間に大海に漂ふ如く輪廻するから、恰も環のその端《ハシ》といふものが無いのに喩へられるの意。環不息は越絶書に、終(リテ)而始(マル)、如(シ)2環之無(キガ)1v端。○維摩大土 維摩詰。淨名《ジヤウミヤウ》と譯す。印度|※[田+比]舍離《ビヤリ》國|※[田+比]耶離《ビヤリ》城の長者で、釋迦と同時代の人。家に居ながら菩薩行を修した。大士は菩薩の異稱。ダイジと讀む。○在乎方丈− 維摩經によると、釋尊の命によつて文殊菩薩を始とし佛弟子等が、維摩の染疾即ち病氣を見舞の爲、その室に詣つて問答する事がある。文殊が「何の故に疾むか」と問ふと、「衆生皆疾めり、我故に疾む」(1403)と維摩が答へ、次に不二法門の問答に入り、文殊は言説なしと答へて、更に維摩に反問すると、維摩黙然として答へずとあつて、その言舌の外たるを體現して示した維摩の黙は、有名な典故である。方丈は維摩の室の遺址を、唐の王玄策が西域に使した折、その笏(長さ一尺)を以て縱横に測つたら、各十笏あつたのでいふ。轉じて僧室の稱に用ゐた。。釋迦能仁 佛教の教祖釋迦牟尼佛のこと。皇紀一〇四年に印度|迦毘羅《カビラ》城に生まれ、同一八四年に拘尸那掲羅《クシナカラ》城外、跋提河畔の沙羅《サラ》雙樹下に入滅。壽八十(異説がある)。能仁は釋迦の語譯だから、釋迦能仁は梵漢竝擧となるが、佛陀の稱號に用ゐた。○坐於雙林―― 沙羅雙樹の林下に寂滅即ち死して、生ある者の死苦を遁れぬことを示したの意。雙林は沙羅林中特に二本高い樹があつたのでいふ。「泥※[さんずい+亘]」はナイヲンと梵讀し、涅槃《ネハン》と同語で、死を意味する。〇二聖至極 維摩や釋迦の優れた聖人ですら。下の思(ブ)2子等(ヲ)1歌の序にも、至極(ノ)大聖とある。○不能拂力負之―― 死生の變化は逃れ難いことをいふ。莊子大宗師篇に、藏(シ)2舟(ヲ)於壑(ニ)1、藏(スルヲ)2山(ヲ)於澤(ニ)1、謂(フ)2之(ヲ)固(シト)1矣、然而夜半有(ル)v力者負(ヒテ)v之(ヲ)而走(ル)、昧者(ハ)不(ル)v知(ラ)也と。力負は有力〔傍点〕者負〔傍点〕之の要約語。○三千世界 廣漠たる一切世界。一大三千大千世界の略。○誰能逃黒闇―― 誰が死の迫り來るを逃れることが出來よう。黒闇は佛經にある天部の神名で、災厄を司る神。○(1404)二鼠競走 賓頭盧爲優陀延王説法經に、「或者が曠野で象に追はれて、一の井戸を見付け、樹の根を傳うて藏れた、すると上に黒白の二鼠が樹の根を?む、廻りに四毒蛇が居て螫さうとする、下には三大毒龍が居て呑まうとする。或者は凡夫、曠野は生死、象は無常、井は人身、樹は人命、黒白の鼠は晝夜、樹の根は念々滅、四毒蛇は四大、三毒龍は死で、三惡道に墮するに喩へる」とある。○度目之鳥旦飛 人命のはかなさの喩。文選の張景陽(ノ)雜詩に、人(ノ)生(ルヽ)2瀛海(ノ)内(二)1、忽(タル)如《コトシ》2鳥之過(グルガ)1v目(ヲ)。〇四蛇爭侵 上の二鼠の條を見よ。又最勝王經の偈に、地水火風共(二)成(ス)v身(ヲ)、如(シ)3四毒蛇(ノ)居(ルガ)2一筺(二)1、云々。○過隙之駒夕走 度目之鳥と同意の喩。莊子知北遊篇に、人(ノ)生(ルヽ)2天地之間(二)1、若(シ)2白駒之過(グル)1v隙(ヲ)。又史記の留侯世家及び魏豹傳にもある語。○紅顔共三從―― 美しい姿もその具へた三從の義と一緒に長く滅びの意。三從は禮記に、婦人有(リ)2三從之義1、未(ル)v嫁(ガ)從(ヒ)v父(二)、既(二)嫁(ギテ)從(ヒ)v夫(二)、夫死(シテ)從(フ)v子(二)。○素質與四徳―― 白い肌もその具へた四徳と一緒に永く滅びたの意。「素質」は洛神賦にも皓質とある。「四徳」は周禮に婦學について、婦徳婦言婦容婦功の四徳を擧げた。○偕老違於要期 夫婦|偕《トモ》に老いようとの約束の時も違ひ。偕老は毛詩に、君子偕(二)老(ユ)とある。要期は所期に同じい。「偕」原本に階〔右△〕とあるは誤。○獨飛生於半路 獨居することが中年に出來ようとは。獨飛は漢書の李陵與(フル)2蘇武(二)1書に、雙鳧倶(二)北(二)飛(ビ)、一鳧獨南(ニ)翔(ル)。また文選の潘安仁(ノ)悼亡詩に、如(シ)2彼|翰《トブ》v林(二)鳥(ノ)1、雙棲一朝(二シテ)隻(ナリ)。○蘭室屏風徒張 人は逝いてその閨の屏風のみ空しく立ち。蘭室は芳ばしい室で、婦人の閨をいつた。孔子家語に、入(ルハ)2善人之室(二)1、如(シ)v入(ルガ)2芝蘭之室(二)1。蘭は香草の名。○斷腸―― 上出「斷腸之泣」を見よ(一三九九頁)。○枕頭 枕もと。○染※[竹/均]之涙 血の涙。染※[竹/均]は博物志に、舜南巡(シテ)不v返(ラ)、葬(ル)2蒼梧之野(二)1、堯(ノ)二女娥皇女英追(ヘドモ)v之(ヲ)不v及(バ)、至(リ)2洞庭之山(二)1、涙下(チテ)染(メ)v竹(ヲ)即(チ)斑(ナリ)。とある。※[竹/均]は竹の惣名。○泉門一掩 黄泉の門を一度閉ぢたら。一度死んだらの意。泉門は黄泉《ヨミ》の入口。左傳の注に、天玄(ク)(1405)地黄(二)、泉在(リ)2其中(ニ)1、故(ニ)言(フ)2黄泉(ト)1。後人語を借りて冥路の意となす。遊仙窟に、九泉下(ノ)人一錢(二ダモ)不v直(ヒセ)。
 
 この序は素より佛教の無常思想の所産である。然しこの思想は人類のすべてが、昔から懷いてゐた哲學と思ふ。莊子の力負説もそれである。文は梵漢の典故を湊合し、尺繍寸錦を剪裁して、而も天衣無縫と評すべき佳作。流石に入唐して勉強した人だけの事はある。
 憶良は釋迦如來に對して何時も維摩居士を考へてゐたらしい。下の悲歎俗道假合即離云々の詩序にもさうある。蓋し通俗二面の代表として、當時尊崇したものであらう。淡海三船にも聽v讀2維摩經1の詩がある。抑も聖徳太子の維摩經義疏の撰著の意義も、この認識に因縁したことゝ思ふ。
 
愛河(ノ)波浪已(二)先(ヅ)滅(ビ)、苦海(ノ)煩悩亦無(シ)v結(ブコト)、從來厭2離(ス)此(ノ)穢土(ヲ)1、本願|託〔左△〕(セン)2彼(ノ)淨刹(二)1。
 
〔釋〕 ○愛河波浪―― 一旦死んでは愛着の經緯《イキサツ》もなくなりの意。愛は人の溺るゝ故に河に喩へて、さて波浪といつた。文選の頭陀寺碑にも、愛涙成(ス)v海(ヲ)とある。○苦海煩悩―― 苦界に生ずる煩悩も亦起ることがないの意。苦界はその涯がないので海に喩へた。煩悩は即ち迷で、衆生を迷はし悩ますもの。菩提即ち悟の對語。○從來―― もとからこの穢れた地即ちこの婆婆世界を厭ふの意。淨土教では專ら現在の穢土を厭離し、未來の淨土を欣求することを標語としてゐる。○本願―― 阿彌陀佛の本願に縋つて彼の淨土に生まれたいの意。本願は彌陀經にある彌陀の四十八本願の字面を用ゐた。淨刹は淨土に同じい。刹は梵語で國土の義。「託」原本に詫〔右△〕とあるは非。託は托の通用。(1406)詩とはいふものゝ、これは佛者の作る漢讃の體である。平仄を問はず、滅、結、刹の屑韻、即ち仄韻を踐んである點など、普通の詩ではない。
 
日本挽歌《やまとのかなしみうた》一首并短歌
 
○日本挽歌 とは上の詩《カラウタ》の哀詩に對しての稱。挽歌を見よ(四一二頁)。
 
大王能《おほきみの》 等保乃朝庭等《とほのみかどと》 期良農比《しらぬひ》 筑紫國爾《つくしのくにに》 泣子那須《なくこなす》 斯多比枳摩斯提《したひきまして》 伊企陀爾母《いきだにも》 伊摩陀夜周米受《いまだやすめず》 年月母《としつきも》 伊久陀阿良禰婆《いくだもあらねば》 許許呂由母《こころゆも》 於母波奴阿比陀爾《おもはぬあひだに》 宇知那比枳《うちなびき》 病〔左△〕許夜斯努禮《やみこやしぬれ》 伊波牟須弊《いはむすべ》 世武須弊斯良爾《せむすべしらに》 石木乎母《いはきをも》 刀比佐氣斯良受《とひさけしらず》 伊弊那良婆《いへならば》 迦多知波阿良牟乎《かたちはあらむを》 宇良賣斯企《うらめしき》 伊毛乃美許等能《いものみことの》 阿禮乎婆母《あれをばも》 伊可爾世與等可《いかにせよとか》 爾保鳥能《にほどりの》 布多利那良※[田+比]爲《ふたりならびゐ》 加多良比斯《かたらひし》 許許呂曾牟企弖《こころそむきて》 伊弊社可利伊摩須《いへさかりいます》     794
 
(1407)〔釋〕○とほのみかどと この「と」はタルと解する。トシテでは意が通じない。「とほのみかどと」を見よ(七四四頁)。○しらぬひ 筑紫の枕詞。既出(八〇七頁)。○つくしのくに 「筑紫」を見よ(七四二頁)。○なくこなす 既出(一○〇八頁)。○したひきまして この筑紫へ〔五字右○〕追つて來られて。○いきだにもいまだやすめず 遠路を來た息をまだ叶《ツ》く暇もなく。○いくだもあらねば 幾らも經たぬので。下にかゝるべしとは〔七字右○〕の語を含む。「いくだもあらず」を參照(四〇〇頁)。[久」原本に摩〔右△〕とある。イマダモ〔四字傍線〕では前後の關係が面白くない。古義説により改めた。○こころゆも 心にまあ。この「ゆ」はニの意に近い。○うちなびきやみこやしぬれ 横になつて病み臥されたので。死を暗示した句。この句の下、バ〔右○〕の接續辭を含む。これは古文の格。「こやし」は臥す〔二字傍点〕の敬語。「病」の字原本にないが、コヤシヌレとのみでは句を成さぬので、新考の説に同じて補つた。童本は伏〔右△〕を上に補つてフシコヤシヌレ〔七字傍線〕と訓み、略解は婆〔右△〕を下に補つてコヤシヌレバ〔六字傍線〕と訓んだが、童本訓は重複の嫌があり、略解訓は古文法を無視した憾がある。○いはきをもとひさけしらず 石や木をも一々問ひ尋ねることも知らずの意。即ち石や木の辨別もなく衝き當る状をいふ。「とひさくる」を見よ(一〇〇八頁)。宣長の、言問ひて思を晴し遣る意、古義の、え問ひ放たむ由を知らぬ意などの説は全く不可。○いへならばかたちはあらむを 家に在らばその形骸はあらうものを。「家に在らば」は葬送せずに亡骸をおくをいふ。○いものみこと 「かみのみこと」を見よ(八六八頁)。○あれをばもいかにせよとか この句「語らひし心背きて――」に係る。「あれ」はワレの古言。「も」は歎辭。○にほどりの ※[辟+鳥]※[虎+鳥]は雌雄番ひで居るので、「二人並びゐ」に係る枕詞に用ゐた。卷十八にもこの用例がある。又卷三に「水鴨《ミカモ》なす二人竝びゐ」ともある。「にほどり」は既出(九八五頁)。○こころそむきて 心に背いて。○いへさかりいます 家を離れて居られる。△挿畫 挿圖290(九八五頁)を參照。
(1408)【歌意】 天皇陛下の遠くの朝廷たる筑紫の國に、妻は私のあとを〔七字右○〕慕つて來られて、息をすら吐く間もまだなく、年月も幾らも經たぬので、こんな事があらうとは〔十字右○〕、心にも思はぬ程に、病み臥されたので即ち死なれたので、何ともいひやうも仕樣も知らず、葬送の路の〔五字右○〕石や木をも構ふこともしない。これが家に居るまゝなら、その形骸《カタチ》はあらうものを、ほんに恨めしい妻の命が、私をばまあどうなれとてか、これまで夫婦中よく、二人竝んで居て語らつた情に背いて、家を遠ざかつて居られるわ。
 
〔評〕 前段は初頭より「こやしぬれ」まで、妻の命の來歴を絮説し、後段はその葬送時の感懷を叙べた。憶良の妻は憶良の筑紫赴任後、年時を置いて折角來紫したが、間もなく病死、その周章しさに憶良は途方に暮れたらしい。葬送の途に立つて、哀悼の涙に路傍の木石も辨ぜず、然し大江定基入道の如き、死屍を撫する愛執は狂人沙汰で、やはり世間法のまゝに事を運んだとなると、「家にあらば形はあらむを」の憾は、何人と雖も取敢へず感ずる事であらう。ありし日の鸞盟鳳誓の睦言を廻顧し追憶すれば、その盟誓を踏み躙つて去つた妹の命の無情さは、實に「恨めしき」限であらねばならぬ。
 前段は前景で平々に筆を運び、詞意明暢である。肝腎の焦點たる後段に至つて、「石木をも問ひさけ知らず」の下、或は落句あるかと疑はれる。「あれをばもいかにせよとか」は萬葉人の套語である。その死を死者の故意的行爲の如く扱つた逆怨み的命意は面白いが、これとても前人の嘗て用ゐた手法で、
  何しかも吾大王の、立たせば玉藻の如く、ころ臥せば川藻の如く、靡かひし宜しき君が、朝宮を忘れ給ふや、夕宮を背き給ふや――。(卷二、人麿−199)
(1409)と見え、作者の獨創ともいへぬ。「家さかりいます」は遠く奥山に埋葬したことの曲叙である。結尾「にほ鳥のふたり並びゐ、語らひし心背きて、家離りいます」の句に至つては、その白熱的激情に打ちのめされる。以下の短歌五首を通じて、漸く老境に入つてその伉儷を失つた悲痛の感愴が、如何にも如實に表現されて遺憾がない。
 憶良は實に山柿と並行すべき有數の作家で、殊に彼れは生活派の大家である。時に卒易の傾向があつて、疵瑕が散見するは、蓋しその自由奔放を喜び、拘束を嫌つた結果ではあるまいか。
 
反歌
 
伊弊爾由伎弖《いへにゆきて》 伊可爾可阿我世武《いかにかあがせむ》 摩久良豆久《まくらづく》 都摩夜佐夫斯久《つまやさぶしく》 於母保由倍斯母《おもほゆべしも》     795
 
〔釋〕 ○まくらづくつまや 既出(五七五頁)。○さぶしく 「うらさびて」を見よ(一三七頁)。
【歌意】 家に歸つて往つて、どう私はしようかしら。主のない〔四字右○〕閨房《ネヤ》は、定めし物寂しく、思はれるであらうなあ。
 
〔評〕 一坏の土既に香魂を埋め、送葬の人は一旦に散じて、身邊俄に無聊を覺えた時、思索の餘裕は茲に漸く生じて來た。乃ち主なき閨房はいかに索莫たるものだらうの想像網を張つて、「家にゆきていかにかあがせむ」と、始めて體驗す(1410)る俄鰥の立ち切れない悲哀を、直截的に痛歎した。これは葬送直後の作。人麻呂もまた、
  家にきて妻屋を見れば玉床の外《ト》に向ひけり妹が木枕 (卷二−586)
と歸家後の感愴を妻屋と枕とに寓せてゐる。既にその歌評中に「毛詩の角枕粲兮」を例に引いたが、文選所載の潘岳の悼亡(ノ)詩、寡婦(ノ)賦なども有名な作で、當時の學人達で知らぬ者は無かつた筈、
  ――展轉|盻《ミレバ》2枕席(ヲ)1、長箪竟(フ)2牀(ノ)空(シキヲ)1、牀空(クシテ)委(ネ)2清塵(二)1、室空(クシテ)來(ス)2悲風(ヲ)1、――。(悼亡詩)
  歸(リテ)2空館(二)1而自(ラ)憐(ミ)兮、撫(デテ)衾※[衣+周](ヲ)1以(テ)歎息(ス)、思纏綿(シテ)以(テ)※[務/目]亂(シ)兮、心摧傷(シテ)以(テ)愴惻(ス)。(寡婦賦)
など見え、夫婦愛を語るに方つて、枕席衾※[衣+周]ぐらゐ現實的の物件はなからう。乃ち柿本山上二家の作も、その淵源する處をほゞ討ね知ることが出來よう。
 長歌に「あれ」こゝに「あが」とあるのに、次々の歌には和何《ワガ》とあつて、呼稱が統一してゐない。此處だけで見ればア、ワ、並行時代と思はれるが、一般的には當時、吾《ワ》の語が優勢の勢力を占めてゐたことを記憶されたい。
 反歌はこの一首にとゞまるか。或は次の「はしきよし」の歌までを數へてもよからう。他は隨時の所感と思はれる。
 
伴之伎〔左△〕與之《はしきよし》 加久乃未可良爾《かくのみからに》 之多比己之《したひこし》 伊毛我己許呂乃《いもがこころの》 須別毛須別那左《すべもすべなさ》     796
 
〔釋〕 ○はしきよし 妹《イモ》にかゝる。「はしきやし」を見よ(五一八頁)。「伎」原本に枝〔右△〕とあるは誤。○かくのみからに (1411)既出(四四二頁)。「かく」は妻の不幸なる身の上をさす。契沖は、慕ひ來て年月も經ぬことをさすといひ、古義は、短き命をさすと解したのはいづれも非。○すべもすべなさ せむ方もなきをいふ。
【歌意】 妻は苦勞して死んだ〔九字右○〕、こんな事であるより外はないのに、はる/”\私のあとを慕うてこの筑紫に來た、可愛い妻の心の術ないことよ。
 
〔評〕 妻の身上を決算して見れば、不幸といふ赤字が殘るだけ。それをも知らず、奈良京から長い族路の苦患を重ねて、而も子供まで引連れて、筑紫の自分の手許まで來るや、息を休める間もなしに死んだ。夫の立場として、この位不愍な事はあるまい。「すべも」といひさして、更に「すべなさ」といふ。意迫り語窮つた嗚咽の状態が見るやうである。 
久夜斯可母《くやしかも》 可久斯良摩世婆《かくしらませば》 阿乎爾與斯《あをによし》 久奴知許等其等《くぬちことごと》 美世摩斯母乃乎《みせましものを》     797
 
〔釋〕 ○くやしかも 「こごしかも」を見よ(七八〇頁)。○しらませば 既出(二四八頁)。○あをによし 奈良の枕詞であるが、こゝは奈良の事に用ゐた。押照《オシテル》を難波、足引を山、玉桙を道、百敷を宮のことに用ゐたと同例。かく枕詞をその被語たる名詞の意に轉用することは、枕詞慣用の餘に生じた變態である。既出(八三頁)。○くぬち 國内《クニウチ》の約。近來この種の語が濫造され、遂に部屋ぬち、幕ぬち〔七字傍点〕などの畸形語を見るは厭はしい。○あをによしくぬち 奈良の國内。奈良の國といふ名稱はもとない。吉野國初瀬國の例によつて、奈良京の全周に亘(1412)つた地を假稱した。○ことごと 「許」をコと讀むは呉音、「其」は呉音ギ、轉音ゴ。
【歌意】 妻がかうなると知らうならば、奈良の國内盡く見せうものを。さうしなかつた事が殘念な。
 
〔評〕 死者に對して生前に眷顧の淺かつたことを後悔するは、人情の常である。殊に妻君に對してこの感が深い。憶良は大寶元年に無位の遣唐少録で渡唐した。當時を假に二十五歳と見て起算すると、この神龜五年には五十二歳になる。(沈痾自哀文ノ本文ニ是時七十有四トアルハ必ズ誤)又この妻君を初婚當時の人とすると、「子や泣かむ」とある如く、四五歳位の幼兒をもつ母親としては、少し年を取り過ぎはしまいか。或は後添の若い人かも知れない。
 昔ほど現代人の意想外に、婦人の外出は不自由だつたから、見物にあちこち連れて歩く機會が少かつた。それに子供も澤山居たらしいから尚更だ。奈良には名勝地が澤山あり、舊構新構の神社佛閣も數知れぬ程點在し、東市西市繁華の衢も亦相應にあつたとなると、「見せましものを」の後悔は一段と深くなる。それが雙棲期間の比較的短い後添の人なら、更に強い愛着の念まで手傳つて、愈よその憾は甚しからう。で覺えず「悔しかも」の第一聲を放つた。感情の激越は自然倒装の詞態を取るに至らしめたものである。
 或説に國内を筑前の國内と解したのがある。都から到著するや間もなしに死んだ人に、筑前の國内を見せる見せぬは問題でない。况や「あをによし」の解釋をどうするか。
 この歌はまづその形態に就いて大いに注意を要する。それは初句の獨立してゐることで、五七の定型を破つたのみか、首切型である。次に「あをによし」の枕詞が變態的に使用されたことである。平安期の後世風に轉(1413)化してゆく道程の最先驅を作したものといつて可からう。
 
伊毛何美斯《いもがみし》 阿布知乃波那波《あふちのはなは》 知利奴倍斯《ちりぬべし》 和何那久那美多《わがなくなみだ》 伊摩陀飛那久爾《いまだひなくに》     798
 
〔釋〕 ○あふち 楝。また樗とも書く。古名キサ。俗にセンダンの木といふ。暖地産の落葉喬木。葉は羽状複葉で、卵形又は披針形である。夏日淡紫色の五辨花を開き、果實は橢圓で黄熟する。
【歌意】 亡妻が見たことであつた、楝の花はもう散るであらう、その死の悲に私の泣く涙は、まだ乾かぬのにさ。
 
〔評〕 楝の花は五月下旬(陰暦)時分が盛り、それが散り盡す頃は六月一杯か。元來が暖地産の植物だから、筑前守の官舍附近には、日除けかたがた植ゑたものであらう。現在でも九州南部には殊に多い。契沖の奈良の家の木なるべしといふ説は當らぬ。――吉野の象《キサ》谷は珍しく楝があつての稱だらう。
 哀悼の涙はまだ盡きぬのに、彼れが珍しがつた美しい楝の花は散らんずらんと、その矛盾を扱つて、時經ても尚新たなる悲を歌つた。卷三家持の作、
(1414)  妹が見しやどに花咲く時はへぬわが泣く涙いまだ干なくに (−469)
とその歸趨を同じくして、これは更に一層の洗煉を見る。
 
大野山《おほぬやま》 紀利多知和多流《きりたちわたる》 和何那宜久《わがなげく》 於伎蘇乃可是爾《おきそのかぜに》 紀利多知和多流《きりたちわたる》     799
 
〔釋〕 ○おほぬやま 城《キ》の山の奥山。肥筑の國境をなす。「きのやま」は既出。(一一九八頁)。○なげく 「宜」は音ギ、轉音ゲ。○おきそのかぜ、息吐によつて起る風。「おき」は息《イキ》の古言。「そ」は嘯《ウソ》の略(宣長説)。神代紀に嘯《ウソムク》之時|迅風《ハヤチ》忽(チ)起(ル)。△地圖及寫眞 挿圖330。(一一九八頁)331(一一九九頁)を參照。
【歌意】 大野山に霧が立ち渡るわ。私が歎くその溜息の風に、霧が立ち渡るわ。
 
〔評〕 大野山は宰府平野の南方を局る山岳で、宰府に向つた山陰は、ともすれば曇り勝に雲霧の搖曳を見るのである。作者は忽ちこれを拉へ來つて、わが歎の霧だと高唱して、その甚しい誇張に何等の躊躇も疑念も挿まぬ、一本氣の力強さに壓倒される。抑も歎の霧や息吹の霧は神代からいひ舊した着想で、
  吹棄《フキウツル》氣吹《イブキ》之狹霧。(古事記、上)
  猪鹿多(ニ)有(リ)、――呼吸《イブク》氣息《イキ》似(タリ)2朝霧(ニ)1。(雄略天皇紀――卷四十四)
  あかねさす日ならべなくにわが戀は吉野の河の霧に立ちつつ (卷六−916)
  この小川霧たなびけり落ちたぎつはしゐの上に事あげせねども (卷七−1113)
  吾妹兒に戀すべなかり胸をあつみ旦《アサ》戸あくれば見ゆる霧かも (卷十二−3034)
(1415)  君がゆく海邊のやどに霧立たばわが立ち歎く息と知りませ (卷十五−3580)
  わが故に妹なげくらし風早の浦のおき邊に霧たなびけり (同卷−3615)
など襲用され、又その反復の律調的詞型も古體の一格で珍しくはない。すべてが常套的でありながら、よく腐を化して新となし、完全に別樣の一生面を描き出した作者の手腕には敬服する。
 以上は一時の聯作ではない。
 
神龜五年七月二十一日、筑前(ノ)國(ノ)守山(ノ)上(ノ)憶良(ガ)上《タテマツル》。
 
 この年時は以上の漢詩及びその序と、長短の和歌とを一括して、太宰帥旅人卿に上つた時を示したもので、製作の日時ではない。憶良は筑前守で旅人卿の被官だから、卿の求めに依つて、これらの詩作をその高覽に供したのである。依つて「上」の字を書いた。
 但これには少々仔細がある。旅人卿の奥方大伴(ノ)郎女はこの年の初仲夏の頃に逝去、それから約一月、楝の花盛りに憶良の妻君は沒した。で二人の男やもめは同病相憐む同じ境遇に置かれ、故人を追懷する一念に支配されてゐた。されば憶良にこの諸作があると聞くや、旅人卿はその呈出を促したものであらう。蓋し憶良の悲悼は即ち旅人卿の悲悼で、兩々相通ふものがあるのであつた。
 或説に憶良のこの諸作は、愛妻大伴(ノ)郎女を喪うた旅人卿の爲に哀傷の意を叙べて上つたので、憶良自身の悼亡の作ではないと。想ふに上の報凶問歌が六月、こゝの歌が七月とあるので、日時が近い處から誤つて混同した説であらう。左註の日時の考は既に各條に示しておいたから再言せぬ。歌にのみ就いて見るに、「妹が見し楝(1416)の花は散りぬべし」とある。楝は枕草子に「必ず五月五日に値ふもをかし」と見えて、早咲のは五月初句もあらうが、普通は五六月の間の花である。然るに大伴郎女は春夏の交に故人となつてゐるから、今年の楝の花を見るに及ばない。又長歌に「筑紫の國に、泣く子なす慕ひ來まして、息だにも未だやすめず云々」とあつて、夫の赴任地筑紫に妻君があとから追つて來た趣であるのに、大伴郎女は、夫旅人卿と同道して筑紫に來たのである。その敏馬崎に於ける懷舊の作、
  妹とこし敏馬の崎をかへるさに獨し見れば涙ぐましも (卷三−449)
  行くさには二人わが見しこの崎を獨過ぐれば懷《コヽロ》かなしも (同上−450)
に依つてこれを證することが出來る。かくの如く事實も齟齬し、季節も稍違ふ。死者が別人である事は火よりも明らかだ。况や「家にゆきていかにかあがせむ」の作、又「青丹吉國内こと/”\見せましものを」の如き、他人の妻女に就いていふべき口吻ではない。
 元來或説は甚しい失考だから、始めから問題にしなかつたが、近頃折々雷同の説を聞くので、茲に聊か顯正の筆を下した。
 序にいふ、太宰府は筑前國に在つたので、筑前守は殆ど宰府隷屬の官吏たる觀があり、遂にはその獨立性を失つて、後には太宰少貮の兼任となり、或は置かれぬ時代さへあつた。それ程に府との聞係が密接で、筑前守は不斷府中に出入してゐた事は疑もない。帥旅人は素より漢學に長じ、守憶良は又斯道の大家で、國歌は又共にその趣味を同じうする好敵手、隨つてその私交も尋常以上であつたらしい。集中に憶良が帥の家で歌を詠んだことが見え、又帥の歸京に際しての私懷を布べた作など、その交情の親密さを物語つてゐる。
(1417) 又いふ、宰府には夙くから學業院が置かれ、經學を主として、府僚その他の勉學を奨勵した。勿論帥の君旅人はその監督者で、筑前守憶良はそのよい教官であつたらう。
 
令(むる)v反(さ)2惑情《まどへるこころを》1歌一首并序
 
道理に外づれた情を誨《サト》して本心に反らしめる歌との意。當時仙術の擬ひ者が流行し、爲に父母妻子を棄て家を棄てゝ、山野に入る者が多かつたので、その惑情を警醒したのである。註家にこの意を得た者がない。
 
或(ハ)有(リ)v人、不〔左○〕(シテ)v知(ラ)v敬(フコトヲ)父母(ヲ)1忽〔左△〕《ユルガセニシ》2於侍養(ヲ)1、不(シテ)v顧(ミ)2妻子(ヲ)1輕(クス)2於脱※[尸/徙]〔左△〕(ヨリ)1。自(ラ)稱(ヘ)2異〔左△〕俗先生(ト)1、意氣雖(ドモ)v揚(ルト)2青雲之上(二)1、身體猶在(リテ)2塵俗之中(二)1、未(ダ)v驗《ミ》2修行得道之聖(ヲ)1。蓋(シ)是亡2命(スル)山澤(二)1之民(ナリ)。所以(二)指(シ)2示(シ)三綱(ヲ)1、更(二)開(キ)2五教(ヲ)1、遺《オクルニ》v之(二)以(テ)v歌(ヲ)令(ム)v反(サ)2其惑(ヲ)1。歌(二)曰(フ)、
 
〔釋〕 ○或有人 或人ありの意。○不知 「不」原本にない。文意の上から補つた。○忽於侍養 側にゐて世話することを疎かにする。「忽」原本に忘〔右△〕とあるは不妥當。○不顧、「顧」は顧の書寫字。○輕於脱※[尸/徙] 脱いだ履よりも粗末にする。※[尸/徙]は跟のない底の平らな履物の稱。史記の孝武本紀に、吾視(ルコト)2妻子之去(クヲ)1如(キ)2脱※[足+徙の旁](ノ)1耳《ノミ》。「※[尸/徙]」原本に履〔右△〕とある。○異俗先生 自ら先生と稱するは五柳先生の儔で、先生は韓詩外傳に猶(シ)2先醒(ノ)1、又文選の注に學人之通稱とある。異俗は凡人と異る意。莊子に、此有道者(ハ)所(ノ)v異(ル)2乎俗(二)1者也。「異」原本に畏〔右△〕とあり、或本には離〔右△〕とある。○意氣雖揚青雲之上 氣位は高いけれども。青雲之上は青空の上といふことで、史記の范雎傳、文選(1418)の東方朔の答客難などに見えた字面。○身體猶在塵俗之中 體はやはり汚れた世俗の中に在る。○未驗修行得道之聖 まだ難行苦行を積んで悟の道を得た達人を見ない。○亡命山澤之民 山や澤の間に逃げ匿れて正業に就かぬ民である。亡命はいはゆる驅落《カケオチ》で、亡は無、命は名である。驅落者は戸籍《ヘフミ》からその名籍を削られたのでいふ。史記の張耳傳、文選の楊雄の解嘲などに見えた字面。○所以指示三綱―― これが三綱五教の何者たるかを確と示して、歌を遺つてその惑情を反さしめようとする理由であるの意。三綱は禮記に、君(ハ)爲(リ)2臣之綱1、父(ハ)爲(リ)2子之綱1、夫(ハ)爲(リ)2婦之綱1と見えて、君臣父子夫婦の義をいふ。五教は五常の教で、書經の舜典、大禹謨などに見えた語。五常は書經の注に、五常(ハ)父義(アリ)、母慈(アリ)兄友(アリ)、弟恭(アリ)、子孝(アリ)。
 
父母乎《ちちははを》 美禮婆多布斗新《みればたふとし》 妻子美禮婆《めこみれば》 米具斯宇都久志《めぐしうつくし》 余能奈迦波《よのなかは》 加久叙許等和理《かくぞことわり》 母智騰利乃《もちどりの》 可可良波志母與《かからはしもよ》 由久弊斯良禰婆《ゆくへしらねば》」 宇既具都遠《うけぐつを》 奴伎都流其等久《ぬぎつるごとく》 布美奴伎提《ふみぬぎて》 由久智布比等波《ゆくちふひとは》 伊波紀欲利《いはきより》 奈利提志比等迦《なりでしひとか》 奈何名能良佐禰《ながなのらさね》」 阿米弊由迦婆《あめへゆかば》 奈何麻爾麻爾《ながまにまに》 都智奈良婆《つちならば》 大王伊麻周《おほきみいます》 許(1419)能提羅周《このてらす》 日月能斯多波《ひつきのしたは》 阿麻久毛能《あまくもの》 牟迦夫周伎波美《むかふすきはみ》 多爾具久能《たにぐくの》 佐和多流伎波美《さわたるきはみ》 企許斯遠周《きこしをす》 久爾能麻保良叙《くにのまほらぞ》 可爾迦久爾《かにかくに》 保志伎麻爾麻爾《ほしきまにまに》 斯可爾波阿羅慈迦《しかにはあらじか》     800
 
〔釋〕 ○めこ 妻をメと呼ぶ。○めぐし いとしいこと。可愛いこと。單活用の形容詞。○うつくし 「うつくしき」を見よ(九七四頁)。この句の下、契沖は代匠記に「遁路得奴兄弟親族《ノガロエヌハラカラウカラ》、遁路得奴老見幼見《ノガロエヌオイミイトケミ》、朋友乃言問交之《トモドチノコトトヒカハシ》」の六句ある一本を引いた。略解に、書體とも非なるべしとあるは當つてゐる。○かくぞことわり かくある〔二字右○〕ぞ道理《コトワリ》なる〔二字右○〕の略。○もちどりの 黐鳥の如く〔二字右○〕。「かかる」に係けた枕詞。「もちどり」は黐《モチ》に著いた鳥。黐は冬青《モチノキ》の皮を削り水に漬した上湯に煮て製す。○かからはしもよ 面倒な煩はしいものよ。「かからはし」は關《カヽ》るの形容詞態の斷定格で、拘束されるの意。「もよ」は歎辭。○ゆくへしらねば 仕樣《シヤウ》もわからぬので。こゝは行方知らねば拘《カヽ》らはしもよ〔十一字傍点〕の倒装。「ゆくへ」は卷二「ゆくへを知らに」(五五〇頁)又「逢坂の關の嵐のはげしきにゆくへ知らねばわびつゝぞをる」(今昔物語、蝉丸)のゆくへ〔三字傍点〕と同意。尚この句は七音の獨立句である。次にも「ながなのらさね」の句が七音で獨立してゐる。古義にハヤカハノ〔五字傍線〕(早川の)の句を上に補つて五七の調にしたのは非。○うけぐつ 穿け沓。穿け〔二字傍点〕は穴の明くこと。「既」をケと讀むは呉音。○ぬぎつるごとく 脱ぎ棄《ウ》つる(1420)如く。「つる」は、うつる〔三字傍点〕の上略。うつる〔三字傍点〕は棄《ス》つるの古言。孟子盡心篇に、舜視(ルコト)v棄(ツルヲ)2天下(ヲ)1、猶(シ)v棄(ツルガ)2敞※[尸/徙](ヲ)1。なほ上の「輕於脱※[尸/徙]」を見よ。「伎」は呉音ギ。○ふみぬぎて 踏み脱ぎて。○ゆくちふ 「ちふ」はとふ〔二字傍点〕ともいふ、トイフの轉語。○いはきよりなりでしひと  木石から出來て來た人。「なりでし」は化《ナ》り出しの意。○ながなのらさね 「な」は汝。「なのらさね」を見よ(一一頁)。○あめへゆかば 天上へゆくなら。○ながまにまに の下、なるべし〔四字右○〕の語を略いた。○つちならば 大地の上ならば。○おほきみいます 「天へゆかば」の將然格を現在格で承けた。○ひつき 日や月。時をいふ場合にはツキヒ。○あまぐものむかふすきはみ 「あまぐものむかふすくに」を見よ(九八四頁)。○たにぐくのさわたるきはみ 蟾蜍《ヒキガヘル》の行き、いたる果。祝詞(祈年祭、月次祭)にも出た詞。「たにぐく」は祝詞に谷※[虫+莫]、卷六に谷潜と書いてある。「※[虫+莫]」は蟇と同宇で、蝦蟇即ち普通の蛙のことだが、蟾蜍に通じて用ゐた。兩棲類中無尾類の動物。谷潜は谷潜《クヾ》りの意でこの名の本義か。宜長はクヽをその鳴聲と解した。「さわたる」の「さ」は接頭語。○きこしをす 既出(一四五頁)。○まほらぞ 勝れた地域なる〔二字右○〕ぞ。「まほら」のまほ〔二字傍点〕は眞秀《マホ》の義で、優秀なる事又はその處をいふ。「ら」は接尾語。古義には眞含《マホ》の義に解して辯があるけれども煩しい。古事記(中)倭建(ノ)命の御歌に「倭は國のまほろ〔三字傍点〕(ホラと同語)は」、同記應神天皇御製に「百千たる家庭《ヤニハ》も見ゆ國の秀《ホ》も見ゆ」など見えた。○ほしきまにまに の下、振舞ふべきことかは〔九字右○〕の意を補つて解する。或は脱句か。○しかにはあらじか さうではあるまいかの意。「しか」は作者の主張をさす。「阿羅慈迦」は佛經中の字面を用ゐた戲書。
(1421)【歌意】 父母を見れば尊い、妻子を見ればいとしい可愛い。人間界はかうあるのが當り前である。黐に罹つた鳥のやうに仕樣もないので、それは小うるさいものさ。然し〔二字右○〕穴の開いた沓を脱ぎ棄てるやうに、無造作にその父母妻子を打棄てゝゆくといふ人は、石や木から出來あがつた人か、お前の名を名告んなさいよ。それも天上へ行くならお前の隨意だ、苟も大地の上に居るなら、こゝには畏い天子樣がいらつしやいます。この照らす日月の下は、大空の向ひ伏す限り、蝦蟇のあるき渡る果までも、天子樣の御治めなさる國の結構な處だぞ。何にせかにせ、我儘勝手でよいものかい〔六字右○〕。何とさうではあるまいかね。
 
〔評〕 憶良は素より孔子教を奉ずる儒者で、且佛教信者であつた。隋唐時代には儒者で佛教に歸伏した人が多分であつたのを見ると、後世の如く、その教理の究竟に存する大いなる矛盾を精討するに至らぬ時代で、大まかに看過してゐたらしい。
 處で上代には、この儒佛兩道以外に、種々の變態的信仰や、咒術や卜占や祈祷やが盛に行はれた。神仙道の如きは、その中での高尚なる特殊の存在であつた。神仙思想は元來支那人特有のもので上古から存在し、それが黄老の教と結び付いて、後世は變形して道教となつた。その求める處は不老不死の術を修するにあつて、山に入るに始まり、天に昇るに終るのであつた。列仙傳の讃語中に、
  嘗(テ)得(タリ)2秦(ノ)大夫阮倉(ガ)撰(レル)圖(ヲ)1、自2六代1迄(リ)v今(二)、有(リ)2七百餘人1。始皇好(ム)2遊仙之事(ヲ)1、故(二)方土霧集(ス)。
と見えた。わが邦の仙道はこれを祖述したものらしく、それが佛教と結び付いて、遂に修驗道の基を開いた。
(1422) 懷風藻に荐に神仙に觸れた詩句が疊見する。假令それが文飾にせよ、上代の有識階級者が神仙に對して、憧憬をもつてゐた事が窺知される。年所を經るに隨つて、この思想は漸く一般の人心に浸染し、仙人氣取の變人が輩出して來た。本文にいふ異俗先生は箇人ではなくて、この徒輩の假稱である。彼等はその修行の第一歩として家出をした。然し僧道の出家ではないから、こゝに先生と呼んでゐるのである。この先生を始め當時の人達が描いてゐた仙人の恰好を紹介すると、
  とこしへに夏冬往くや皮ごろも扇はなたず山に住む人 (卷九、獻忍壁皇子−1682)
で、羽扇綸巾に皮衣、暑さ寒さを一張羅でとほして、松の葉を食ひ/\、巖穴にその道を修するのであつた。
 とに角この先生輩は弊履を脱ぎ棄てるやうに、父母妻子を棄て生業を抛つて、輸租貢調の國民的義務を怠り、吉野葛城その他の山野に漂浪して、煉行の結果、その靈驗の掲焉を求めた。集中(卷二、卷三)に見えた久米(ノ)若子《ワクゴ》の如きも、その一人であらう。扶桑略記に、
  古老傳(フ)、本朝往年有(リ)2三人(ノ)仙1、飛(ブ)2龍門寺(ニ)1、所謂大伴仙、安曇仙、久米仙|也《ナリ》。大伴仙(ハ)、有(リ)v基無v舍、餘(ノ)兩仙(ノ)室(ハ)、今猶在(リ)。
と見え、大伴氏安曇氏久米氏の者が仙人となつて飛行したといふのだから、仙道の卒業者であらう。是等の仙人達にしてからが、その出發が三綱五常の道を蔑ろにした、非人情の行爲者であつた事は爭へまい。禮記問喪篇に、禮義之經(ハ)非(ズ)2從(リ)v天降(レル)1、非(ズ)2從(リ)v地出(デタルニモ)1、人情而已矣と見え、社會の紀綱は人情が根本である。然し反面から視れば、人情ほど面倒なうるさいものは又ない。まこと「黐島のかからはしもよ」であると、一旦はその亡命の動機を是認した。蓋し一擒一縱の筆法で、次にその非を痛撃する爲の伏線である。
 作者は茲に至つて、先づ人道の根本たる父母妻子の私的情誼から、第一の鐵槌をその頭上に下した。これを(1423)無視して亡命した汝は、抑も「石木よりなり出し人か」と、鋭い攻撃の鉾先を向け、「汝が名告らさね」と手嚴しく詰責した。蓋し彼等はその國籍(戸籍)から離脱して奉公を蔑ろにした山澤亡命の民で、強ひてその名迹を隱匿してゐたものであらう。――仙者は大抵氏のみで呼ばれ、名の勒された者は殆どない。
 僧道の方でも林下に聖行を修する輩が、非常に澤山あつた。只根本が佛教の大教理に依據してゐるので、仙道の如く妄誕不稽ではない。
 天下(ノ)諸國、隱(ルヽ)2於山林(二)1清行(ノ)逸士、十年已上、皆令(メヨ)2得度(セ)1。(續紀卷二十一淳仁天皇天平寶字二年八月庚子朔の勅語)
とある如く、修行得道の境に入るのであつたが、異俗先生輩は青雲に昂揚する意氣ばかり凄くて、天ばかり仰いでゐても、足が第一土を離れぬから、詰りは塵俗中に蠢動する無用の民乞食の徒たるに過ぎない。
 作者は次に天下の公道から第二の鐵槌をその頭上に下した。昇天の術を講じ得て虚空に歩む。天上界は治外法權だから、「天行かば汝がまにまに」だとは、これも縱擒の筆法で、やがて來る恐ろしい風雲を孕んでゐる。「土ならば大君います」、この迅雷的大喝は嚴肅莊重を極めた豪句である。
(1424) 日月の照臨する處、詩の小雅にいはゆる、
  普天之下、莫(ク)v非(ルハ)2王土(二)1、率土之濱、莫(シ)v非(ルハ)王臣(二)1。
で、この大地は「天雲の向伏す極み、谷※[虫+莫]の狹渡る極み」と祝詞の神明に對して誓言する如く、天皇陛下の治め給ふ國のまほらである。苟も御國の空氣を呼吸してゐる以上は、御國の民として君國に盡すべき義務がある。さう自己本位の我儘をしてなるものか」「しかにはあらじか」、考へてみなさいと、一寸餘裕を與へてその覺醒を待つた。
 仙道でも僧道でも大抵幻術咒術が附隨してゐる。就中その尤なる者では役《エノ》君|小角《ヲツヌ》がゐる。小角は仙佛融合の端を開いた修驗道の豪傑である。
  丁丑。役(ノ)君小角流(サル)2伊豆(ノ)島(二)1。初(メ)小角往(キテ)2於葛木山(二)1、以(テ)2咒術(ヲ)1稱(セラル)。外從五位下韓國(ノ)連《ムラジ》廣足師(トス)v焉。後害(シ)2其能(ヲ)1、讒(スルニ)以(テス)2妖惑(ヲ)1。故《カレ》配(ス)2遠處(二)1。世(二)相傳(ヘテ)云(フ)、小角能(ク)役2使(シテ)鬼神(ヲ)1、汲(ミ)v水(ヲ)採(ラシム)v薪(ヲ)。若(シ)不(レバ)v用(ヰ)v命(ヲ)、即(チ)以(テ)v咒縛(スト)v之(ヲ)。(續紀卷一、文武天皇三年五月の條)
かうした術者は何時の時代でも、不思議に世俗の歡迎を受けるもので、隨つてその流を汲む者が盛に殖える。續いていか樣者が出てくる。しまひには、
  方今(ノ)僧尼、輒向(ヒ)2病人之家(二)1、詐(リテ)祷(リ)2幻恠之情(ヲ)1、戻《モトリテ》執(リ)2巫術(ヲ)1、逆《マヽニ》占(ヒ)2吉凶(ヲ)1、恐2脅(シテ)耆穉(ヲ)1、稍致(ス)v有(ルコトヲ)v求。道俗無(ク)v別、終(二)生(ス)2奸亂(ヲ)1。(續紀卷七、元正天皇養老元年三月壬辰の條)
  癸亥勅(ス)。内外文武百宮及(ビ)天下(ノ)百姓、有(ラバ)d學2習(シ)異端(ヲ)1蓄2積(シ)幻術(ヲ)1、壓魅《エンミ》咒咀、害2傷(スル)百物(ヲ)1者u、首(ハ)斬(リ)從(ハ)流(サン)(續紀卷十、聖武天皇天平元年四月の條)
の如き勅令まで出るに至つては、如何に信仰界が亂脈であつたかゞ想像される。「學習異端」とある中には、必ず異俗先生輩も含まれてゐるものと考へられる。
(1425) この歌題目が特異で對象が變つてゐるから、天馬空をゆく底の快味がありさうに想像されるが、令反惑情の目的を果す爲に、極めて道徳的の常識論議に墮したことは止むを得ない。作者は地方官(筑前守)たる立場から、上掲の天平元年の詔旨實行の責任があり、爲政上常にこれらの徒輩に憤懣を感じてゐたので、その鬱積が勃發して、遂にこの大作を成すに至つたものと思ふ。乃ち忠君愛國の精神を主體とし、儒佛二道の總意を羽翼として、警世の鐘を鳴した。かくて作者は尋常一樣の花鳥風月歌人を尻目にかけて、人道詩人として躍進した。
 この篇七言の獨立句が、第一「ゆくへ知らねば」、第二「なが名のらさね」、第三「しかにはあらじか」と三箇處にある。第三のは長歌結收の常格だから論はないが、篇中に置かれた第一第二は全く異製で、各そこに段節を形作るから、全部が劃然たる三段編制になつてゐる。これが必ず作者の創造とは斷じ難いが、(卷一の中皇命の御歌が二段編制である)かゝる特異の體製を紹介してくれたゞけでも、作者に滿腔の敬意を表する。
 
反歌
 
比佐迦多能《ひさかたの》 阿麻遲波等保斯《あまぢはとほし》 奈保奈保爾《なほなほに》 伊弊爾可弊利提《いへにかへりて》 奈利乎斯麻佐爾《なりをしまさに》     801
 
〔釋〕 ○あまぢ 天上の路。○なほなほに 當り前に。平凡に。直《ナホ》を反復した副詞。 ○なり 業《ナリ》はひ。家業。○しまさに なさいませ。「に」は命令辭のね〔傍点〕の轉化語。「爾」を禰〔右△〕の誤として、シマサネ〔四字傍線〕と訓めば落著は早い。
【歌意】 天上に昇るとしても、その路は遠いさ。仙道成就は覺束ないものだから〔十四字右○〕、素直に家へ歸つて、家業を爲《シ》なさいよ。
 
(1426)〔評〕 この時代は、徭役を忌避して逃亡する者、安きに迷うて乞食する者、軍器を挾んで亡命する盗賊などが尠からずあつた上に、又仙道僧道の出家者が多かつたから、上司でも實に經濟統制と人物整理とに困つたらしい。何よりも家に歸つて正業に就いて貰うのが、爲政者の唯一の希望で、目前の急務であつた。「久方の天路は遠し」は實に心骨に徹る冷語で、徒らに空想にあこがれて居るよりは、鍬を揮つて田を作れである。
 長歌では可なり語氣鋭く叩き付けてゐるが、飜つてこゝでは物柔く訓誨してゐる。これは單に變化を求めるばかりではない。改過善導の手段としても、この擒縱の呼吸を大切とする。
  
思《しぬぶ》2子等《こどもを》1歌一首并序
 
○子等 コドモと訓む。歌にも「こども」とある。コラ〔二字傍線〕と讀む場合は大抵は若い女の愛稱に用ゐた。
 
釋迦如來|金口《コンクニ》正(ニ)説(キタマヘリ)、等(シク)思(フコト)2衆生(ヲ)1、如(クナラムト)2羅※[目+候]羅《ラゴラノ》1。又説(カシメタマフ)、愛(ハ)無(シト)v過(グルハ)v子(ニ)。至極(ノ)大聖(モ)、尚有(リ)2愛(シム)v子(ヲ)之心1、况(ンヤ)乎世間(ノ)蒼生《タミ》、誰(カ)不(ランヤ)v愛(マ)v子(ヲ)乎。
 
〔釋〕 ○金口 釋迦は金身なので、その口を金口といふ。○等思衆生―― 最勝王經に、普(ク)觀(テ)2衆生(ヲ)1、愛(ニ)無(ク)2偏黨1、如(クセン)2羅怙羅《ラゴラノ》1。〇羅※[目+候]羅。釋迦の出家前の子。佛十大弟子の一。○蒼生 萬民をいふ。草木の蒼々《アヲアヲ》として衆多きに喩へた。書經の益稷篇に出た語。
 
(1427)宇利波米婆《うりはめば》 胡藤母意母保由《こどもおもほゆ》 久利波米婆《くりはめば》 麻斯提斯農波由《ましてしぬばゆ》 伊豆久欲利《いづくより》 枳多利斯物能曾《きたりしものぞ》 麻奈迦比爾《まなかひに》 母等奈可可利提《もとなかかりて》 夜周伊斯奈佐農《やすいしなさぬ》     802
 
〔釋〕 ○うり 瓜。※[甜/心]瓜をいふ。眞桑瓜これに當るか。○くり ※[殻/心]斗科の喬木。○まして の下、子供〔二字右○〕の語を略いた。○しぬばゆ 既出(二四三頁)。○まなかひ 目睫。遊仙窟に眼子を讀んだのは意訓。眼之交《マナカヒ》の義。眞淵はマナコアヒの約と解した。「まなかひに」は「かかりて」へ續く。○もとな 既出(六一六頁)。○やすいしなさぬ 安寢《ヤスイ》をさせない。「し」は強辭。
【歌意】 瓜を喰ふと子供が思ひ出される、栗を喰ふとまして子供が慕はしくなる。一體何處から出て來たものぞえ、眼先に無茶にちら/\して、私に安眠をさ、させないわい。
 
〔評〕 甜瓜だの栗だのは子供の好物である。陶淵明の責(ムル)v子(ヲ)詩に、通子(ハ)垂《ナム/\トス》2九齡(ニ)1、但覓《モトム》2梨(ト)與1v栗(トヲ)など、何處の國でも何時の時代でも、子供は子供である。
 前段突如、瓜や栗から筆を起して、「しぬばゆ」と上下にウ韻を踐み、漸層的に刻み込んで、聽者に息を吐かせぬ敍法は實に面白い。而も食物に對する毎にまづ子を思ふは、その聯想が自然で、又現實性が強い。
 さて轉一轉、「何處より來りしものぞ」の一不審を投げ懸けた。契沖いふ、
  宿世の因縁に依つて親となり子となるとは聞けど、宿命智なければ、知られぬ故なり。
(1428)と。成程それも理窟だが、作者はそこまでは考へてはゐないらしい。我ながら子煩悩の甚しさに、一體何處から此奴は出て來た奴かと、直感的に輕く叩いたと見てよからう。そしてこの句は前段が後段に轉捩する枢機の役目を勤めてゐる。
 後段は前段の意を更に具象的に敷演し、常に眼前にその面影が髣髴して、夜は安眠を許さぬと歎息した。
 「安寢しなさぬ」の被動の意をもつた表現も、この際最も要を得た手段である。
 小長歌は手輕に纏り易い特長はあるが、小型だから變化の求めにくい憾がある。然るにこの篇は十分に變化の妙を悉してゐる。そして長歌の弊竇たる繋褥さがなく、簡明直截で、感哀が何物にも妨げられず、生ま/\と露出されてゐる。蓋し接續詞形及び接續辭を用ゐぬことも、その一因を成してゐることゝ思はれる。
 憶良は神龜五年の夏に妻に死なれ、その時まだ四五歳の幼兒が殘されてゐた。その幼兒こそ天平五年の戀(フル)2男子|古日《フルヒヲ》1歌に見える古日であらうとの説もあるが、それはともかく、片親のない子供の事とて、男親の手一つに育てゝゐるし、又晩年の子供ではあり、愛も心配も人一倍で、居常子供の事ばかりがその胸臆に往來してゐたと考へられる。憶良の子煩惱たるは、實に餘儀ないその境遇からと思ふと、氣の毒にもなる。眞淵説に、都に留めたる子供を思ふなりとあるは適實でない。
 
反歌
 
銀母《しろがねも》 金母玉母《こがねもたまも》 奈爾世武爾《なにせむに》 麻佐體留多可良《まされるたから》 古爾斯迦米夜母《こにしかめやも》     803
 
(1429)〔釋〕 ○こがね 黄金《コガネ》。古言にクガネと訓むもよい。○なにせむに の下、欲りせむ〔四字右○〕の意を含む。古義に何故に〔三字傍点〕と解したのは非。○まされるたから 勝れた寶もの意。
【歌意】 銀や金も玉も、何しに欲しからうぞ。どんな結構な寶も、子に及ばうかい。
 
〔評〕 金銀珠玉を貴重して寶とすることは、古來からの世界的思想である。作者獨反抗して「何せむに」と揚言した。これには何人も耳を※[奇+攴]てゝ、その二の句を聞かざるを得なくなる。聞いてみれば、子寶が一番だといふ。まことに物質的富は、親子愛の精神的富に一籌を輸する。只その比較物件の意外な引用は、一寸牝牛に腹突かれた貌で、詩味は稀薄だが金言である。下の戀2古日1歌にも
  世の人の貴み慕《ネガ》ふ、七種の寶もわれは何せむに、わが中の産れ出でたる、白玉のわが子|古日《ふるひ》は、云々。(−904)
とある。但
  三國の時、呉主孫皓が諸姑、相共に小姑の家に會す。諸姑各その金玉の装飾を誇示して寶の美を爭ふ。獨小姑黙して應へず。諸姑強ひて問ふ。乃ち臥内より孩兒を抱き出でて〔八字傍点〕、顧みていはく妾の寶とするはこれのみ〔十一字傍点〕と。
憶良の作蓋しこれに本づく。もと/\この歌は、その詩味の如何よりも、親子愛を高唱した誠實なる情味が買はれたもので、作者獨創の感想として、より以上に高く評價され來つたものである。然るに既に出典がある以上は、洒落の二番煎じと同じく、その價値は半減してしまふ。若しこの故事の存在を知らずに偶合したものとすれば又別問題だが、作者が漢學者たるだけ、準據の疑がいとも濃厚である。
 
哀(しむ)2世間《よのなかの》難(きを)1v住《とどまり》歌一首并序
 
(1430)人間界の無常變易の理を逃れ難いことを哀む歌との意。この理は佛教の力説する處。
 
易(ク)v集(リ)難(キハ)v排《ハラヒ》、八大辛苦、難(ク)v遂(ゲ)易(キハ)v盡(キ)、百年(ノ)賞樂。古人(ノ)所v歎(ク)、今亦及(ブ)v之(ニ)。所以(ニ)因(リテ)作(リテ)2一章之歌(ヲ)1、以撥《ハラフ》2二毛之歎(キヲ)1。其歌曰、
 
〔釋〕 ○易集難排―― 人界は苦界で、生老病死の四苦に、愛別離、怨憎會、求不得、五陰盛の四苦を加へた八大辛苦が、動もすれば迫つて來て押退け難いの意。○難遂易盡―― 人生の賞心樂事即ち快樂は、思ふやうに求めかね、又求め得ても盡き易いの意。○古人所歎 八大辛苦の排ひ難き佛説は涅槃經中に見え、百年賞樂の盡き易いことは文選諸家の詩に見える。○今亦及之 作者が今亦その意に及んで觸れた。〇一章 文詞を章といふ。○撥二毛之歎 老の歎を追ひ遣る。二毛は黒髪に白髪の交ること。禮記に出で、又左傳に不v禽(ラ)2二毛(ヲ)1。文選の潘岳秋興賦に、余春秋去十有二、始(メテ)見(ル)2二毛(ヲ)1とある。これに就いて契沖いふ、
  憶良は天平五年に七十四歳にて卒せらる。此歌の左註の神龜五年とあるによりて逆推するに、六十九歳の作なれば、秋興賦の意に協はず、左傳によりて老を歎く心を作れりとすべし。
と。されど二毛之歎は、やはり初老中老の白髪を苦にしはじめた年配者の言で、六十九歳の頽老者のいふことではない。隨つて天平五年の作らしい沈痾自哀文に「是時七十有四」とあるは、必ず數字に誤があらう。上の「くやしかも」の歌の評中に考へた如く、憶良は神龜五年には五十二歳見當と覺しい。さてこそ二毛之歎もふさはしくなる。
 
(1431)世間能《よのなかの》 周弊奈伎物能波《すべなきものは》 年月波《としつきは》 奈何流流其等斯《ながるるごとし》 等利都都伎《とりつづき》 意比久留母能波《おひくるものは》 毛毛久佐爾《ももぐさに》 勢米余利伎多流《せめよりきたる》 遠等※[口+羊]〔左△〕良何《をとめらが》 遠等※[口+羊]佐備周等《をとめさびすと》 可羅多麻乎《からだまを》 多母等爾麻可志《たもとにまかし》 之路多倍乃〔五字左○〕《しろたへの》 袖布利可伴之〔六字左○〕《そでふりかはし》 久禮奈爲乃《くれなゐの》 阿可毛須蘇毘伎〔七字左○〕《あかもすそひき》 余知古良等《よちこらと》 手多豆佐波利提《てたづさはりて》 阿蘇比家武《あそびけむ》 等伎能佐迦利乎《ときのさかりを》 等等尾迦禰《とどみかね》 周具斯野利都禮《すぐしやりつれ》 美奈乃和多《みなのわた》 迦具漏伎可美爾《ぐろきかみに》 伊都乃麻可《いつのまか》 斯毛乃布利家武《しものふりけむ》 爾能保奈須《にのほなす》【本文、久禮奈爲能《クレナヰノ》】 意母提乃宇倍爾《おもてのうへに》 伊豆久由可《いづゆきゅか》 斯和何伎多利斯《しわかきたりし》 都禰奈利之〔五字左○〕《つねなりし》 惠麻比麻欲毘伎〔七字左○〕《ゑまひまよびき》 散久伴奈能〔五字左○〕《さくはなの》 宇都呂比爾家里〔七字左○〕《うつろひにけり》 余乃奈可伴《よのなかは》 可久乃未奈良之《かくのみならし》 麻周羅遠乃《ますらをの》 遠刀古佐備周等《をとこさびすと》 都流岐多智《つるぎたち》 許志爾刀利波枳《こしにとりはき》
(1432)佐都由美乎《さつゆみを》 多爾伎利物知提《たにぎりもちて》 阿迦胡麻爾《あかごまに》 志都久良宇知意伎《しづぐらうちおき》 波比能利提《はひのりて》 阿蘇比阿留伎斯《あそびあるきし》 余乃奈迦野《よのなかや》 都禰爾阿利家留《つねにありける》 遠等※[口+羊]良何《をとめらが》 佐那周伊多斗乎《さなすいたどを》 思斯比良伎《おしひらき》 伊多度利與利提《いたどりよりて》 摩多麻提乃《またまでの》 多麻提佐斯迦閉《たまでさしかへ》 佐禰斯欲能《さねしよの》 伊久陀母阿羅禰婆《いくだもあらねば》 多都可豆惠《たづかづゑ》 許志爾多何禰提《こしにたがねて》 可久〔左△〕由既婆《か ゆけば》 比等爾伊等波延《ひとにいとはえ》 可久由既婆《かくゆけば》 比等爾邇久麻延《ひとににくまえ》 意余斯遠〔左△〕波《およし は》 迦久能尾奈良志《かくのみならし》 多摩枳波流《たまきはる》 伊能知意志家騰《いのちをしけど》 世武周弊母奈斯《せむすべもなし》     804
 
〔釋〕 ○すべなきものは の下、年月にてその〔六字右○〕と補うて、下の「年月は流るゝ如し」に續ける。○とりつづき 打續き。「とり」は接頭語。○おひくるものは 追ひ來るものは。○ももぐさに 百種に。いろ/\〔四字傍点〕にといふに同じい。○せめよりきたる 責め寄り來る。○をとめらが 「※[口+羊]」原本に呼〔右△〕とあるは誤。「※[口+羊]」をメと讀む。羊の鳴聲を表した字。○をとめさびすと 處女振るとて〔右○〕。「さび」は「かむさびせすと」を見よ(一五三頁)。○から(1433)だま 韓玉 よい玉を稱する。○たもとにまかし 手本に纏はれ。この「たもと」は手頸のことで袂ではない。「まかし」は纏く〔二字傍点〕の敬相。政事要略、本朝月令に五節舞の歌として「乎度綿度茂《ヲトメドモ》、遠度綿左備須茂《ヲトメサビスモ》、可良多萬乎《カラタマヲ》、多茂度邇麻岐底《タモトニマキテ》、乎度綿左備須茂《ヲトメサビスモ》」を載せ、淨見原天皇(天武)が吉野宮におはしました時、神女が現れて舞ひ歌つたものとしてある。これは後世の傳説で、實は天平十五年五月詔して五節の樂を作られた時(續紀に出づ)作つて歌はせられたのであらう。宣長及び古義は、本文の歌の句を取つて尾一句を作り添へたものと斷じた。○しろたへの 袖の枕詞。「しろたへ」を見よ(一一八頁)。この句より以下、「阿可毛須蘇※[田+比]伎《アカモスソヒキ》」までの四句、原本には本文になく、或有此句として割註に擧げてある。今は本文に補入した。○ふりかはし 互に振合うて。「伴」原本に佯〔右△〕とある。神本その他によつて改めた。○くれなゐのあかもすそ 赤《アカ》はその種の色の總稱で、裳裾が紅色《クレナヰ》の赤なるをいふ。○よちこら 仙覺抄に、同じほどの子等の意と。この外新説がない。案ずるに、よちこ〔三字傍点〕は寄し(由)兒の轉訛で、所縁《ユカリ》ある兒の意か。兒は「菜摘ます兒」を見よ(一一頁)。○ときのさかり 盛りの時。若盛りをいふ。(1434)○とどみかね 留め難《カ》ね。「み」はメの音轉。トドムに四段活用があるのではない。「尾」の次音はミ。正辭の尾にメの音ありとする説は※[手偏+勾]つてゐる。○やりつれ 遣りつれば〔右○〕の意。古文の辭格。早くいへば遣リツルニの意。○みなのわた 蜷《ニナ》の腸《ワタ》。その腸が青黒いので「か黒き」に係る枕詞とした。ニナをミナといふは古言。「蜷」は腹足類中前鰓類の軟體動物。形は田螺に似、介殻大さ一寸餘、黒色にして細長い。川溝などに棲む。又海のもある。賤民の食料としたもの。河貝子。○かぐろき 「か」は接頭辭。「香青《カアヲ》なる」を參照(三八七頁)。○しものふりけむ 白髪を霜に喩へていふ。○にのほなす 丹の秀《ホ》の如く。丹土の色に出て冴えたのを丹の秀といふ。「吾が戀ふる丹の穗の面わ」(卷十)、「赤丹《アカニ》の穗に聞し召す」(祝詞)などある。この句はもと割註の句で、本文は「くれなゐの」とある。上に割註から補入した「紅の赤裳すそ引き」の句と差合ふので、こゝも本文を卻け、割註を取つた。○いづくゆか 何處よりか。○しわかきたりし 皺掻き垂りし。筋肉は老いて弛緩すると皺づいて垂れる。この句の下、六句は本文にない。割註の句を補入して、下の「手束杖《タヅカツエ》腰にたがねて云々」の八句に對せしめることゝした。○つねなりし 何時もの事であつた。○ゑまひ 笑み〔二字傍点〕の延言。○まよびき 眉引。眉の靡く状態をいふ。○さくはなの 「移《ウツ》ろひ」に係る序詞。盛りの花は衰ふるものなればいふ。○うつろひにけり 「ううろふ」は衰へ變るをいふ。○をとこさびすと 壯士《ヲトコ》振るとて〔右○〕。「かむさびせすと」を見よ(一五三頁)。○とりはき、「とりはけ」を見よ(三二六頁)。○さつゆみ 幸《さち》弓の義。「さつや」を見よ(二二九頁)。○たにぎり 「た」は接頭語。○しづぐら 倭文鞍《シヅクラ》。紀の雄畧天皇の御製に、(1435)「玉纏《タママキ》の胡座《アグラ》に立たし、倭文纏《シヅマキ》の胡座《アグラ》に立たし」と見え、延喜式にも倭文纏《シヅマキノ》刀形、※[糸+施の旁]纏《キヌマキノ》刀形、布纏《ヌノマキノ》刀形の稱がある。されば古へは鞍を飾るにも倭文布を以て纏うたと思はれる。契沖が下鞍と解したのは非。今昔物語に賤の鞍とあるは借字であらう。尚「しつはた」を見よ(九六二頁)。○はひのりて 匐ひ乘りて、「匐ひ」は乘る時のかたちをいふ。契沖がよくも乘り得ぬ意と解したのは非。○あそびあるきし 「あるき」は卷三にも「君があるくに」とあり、古言アリクがこの時代には既にかく轉化してゐる。この句は次の「世の中や」の句に續く。切つては惡い。○よのなかや 「や」は反動辭。○さなすいたど さ鳴《ナ》す板戸。「さ」は接頭辭。閉《サ》しの略ではない。「なす」は鳴らす〔三字傍点〕の古言。古への戸は多く開き戸で、開け閉てに音のする故にいふ。この句以下「さ寢し夜は」までは、記(上)の八千矛《ヤチホコノ》神の御歌に「をとめのなすや板戸〔九字傍点〕を、おそぶらひわが立たせれば――眞玉手の玉手さし纏《マ》き云々〔十二字傍点〕」とあるに據つた。○いたどりよりて 辿り寄りて。「い」は發語。○またまでの 眞玉手の。「ま」は美稱。「たまで」は手を賞めて玉に譬へていふ。○たまでさしかへ 玉手指し交《カ》へ。「かへ」は交し〔二字傍点〕の意。○さねしよの 眞寢《サネ》し夜の。○いくだもあらねば 下に、まだ若いと思ふのに〔九字傍点〕の意を含む。○たづかつゑ 手束杖。手に握む杖の義。一握に餘る杖の義とする説はいかゞ。弓にも手束弓といふ。○こしにたがねて 杖を腰に綰《タガ》ねること解し難い。想ふに、杖に紐を付けそれを腰に綰ね結ぶ習慣から、略言したものであらう。契沖以來束ねて〔三字傍点〕とのみ解して、その説を見ない。「たがね」はわかね〔三字傍点〕に同じい。○かゆけば (1436)二條院本に從つた。原本の「可久《カク》ゆけば」は、次に又「かくゆけば」とあるので面白くない。對語の場合には先出のカクをカとのみ略きいふが通例である。續紀第五詔にかく〔二字傍点〕を疊用した例もあるが、文章と歌とはおのづから別途である。○いとはえ 厭はれ。能相の助動詞のれ〔傍点〕をエ〔傍点〕に轉ずることは古語の常である。「※[既/且]」は呉音ケ。○にくまえ、惡まれして〔二字右○〕。○およしは 「およし」は凡《オヨソ》の轉。「遠」は衍字であらう。古義の斯遠《シヲ》の約ソなればとの説は煩はしい。○たまきはる 命及び現《ウチ》などの枕詞。既出(三六頁)。○をしけど 既出(四〇二頁)。△挿畫 挿圖11(36頁)54(163頁)69(二〇二頁)を參照。
【歌意】 人の世の中のどうにも手に乘らぬものは歳月で〔三字右○〕、その駐まらぬことは〔九字右○〕水の流れるやうである。そのあとから引續いて追つて來るものは、老や死など〔五字右○〕種々雜多に迫め掛けてくる。
 娘達がいゝ兒振るとて、唐玉を手首に嵌め、袖をお互に振合つて、赤裳の裾を曳きして、知り合の娘達と手を引連れて遊んだことであらう盛りの時を、さう/\は引止めかねて通り過ぎさせると、黒々した髪に、何時の間に霜(白髪)が降つたことであらうか、艶のいゝ顔のうへに、何處から來て皺が寄つたことか。何時もの事であつた美しい笑みも眉付も、花の散るやうに衰へて變つてしまつたことであるわ。嗟世の中は渾べてかうである外はないらしい。
 又益良雄が壯士《ヲトコ》振るとて、太刀を腰に佩び、獵弓を手に執り持つて、赤駒に倭文鞍を置いて跨がつて、遊び歩いたその世の中が、常住變らずにあつたことかい。娘達が音立てゝ閉める板戸を押開けて、その側《ソバ》に辿り寄つて、奇麗なその手をさし交はして寢た夜が幾らもないのに、早くも年寄つて〔七字右○〕、手束杖の紐を〔二字右○〕腰に綰ねて、ああ行けば人に厭はれ、かうくれば人に惡まれして〔二字右○〕、嗟世の中は〔五字右○〕大抵はかうである外はないらしい。さてこの老(1437)の次に來るものは死だ〔十五字右○〕、命は惜しいけれど仕樣も模樣もないわい。
 
〔評〕 人生ははかない。駒隙逝水を歎じてゐる間に、遠慮なしに老苦病苦死苦などが、まことに「百種に迫め寄りきたる」のである。但こゝには專ら老苦を主題とした。序文にも「二毛の歎を撥ふ」とある。
 老を歎き死を惡むは、古往今來何れの民族でも同じ事だが、只その觀念に就いては時に解釋を殊にして、そこに迷信も生じ、哲學も興つて來た。が作者は普通の人情に立脚して詠歎し、まづ少男少女の老の過程を具象的に描いてみた。
 美女艶婦の容姿服飾を賦することは、漢土上代の詞人の最も得意とした處で、古樂府の日出東南行を始め、辛延年の羽林郎詩、曹植の美女篇、傳元の有女篇、陸機の艶歌行の如き、枚擧に遑がない。作者もそれは知つてゐる筈だ。然るに本篇の處女さびの描寫は、量に於いては貧弱、叙述に於いては疎略だが、これは更に進んで、その衰老状態に言及するが目的だから、彼此相通じて、簡にして要を得た美人形容と見てよからう。
 「面影の變らで年の積れかし」と平安美人の歎いた如く、老の象徴として、婦人の一番氣にするのは第一に皺、第二に白髪だ。それが實に「何時の間か」「いづくゆか」だから溜らない。この二語共に置き得て可なりである。そして結局は「咲く花の移ろひにけり」となつて納まつてしまふ。
 富貴繁華の子の誇りかな容體や行動の描寫に至つては、更に一段の生彩がある。
 上代鷹狩は貴紳の遊樂だが、單なる狩獵は弓箭を帶する程の身柄の者は自由であつた。獵失手挾み、赤駒に倭文鞍置いて山野に馳驅する若者は、白金の目貫の太刀をさげ佩いて都大路を練る子と、風流の好一對を成す(1438)ものであつた。
 公子行少年行、唐代の少年なら彈を挾んで鷹を杜陵の北に飛ばし、日暮は共に娼家に斷腸の花を手折る處を、これは處女子がさ鳴す板戸を叩いて、眞玉手の玉手さし交へてゐる。その眞玉手の玉手は八千矛神の神言をそのまゝに援引したので、聊か知慧のないやうだが、何れにしても若い者は、宴樂と遊蕩でなければ、夜も日も明けない。節物風光不2相待(タ)1、(唐、蘆照隣)で、朝(二ハ)2爲(ルモ)2媚少年1、夕暮(二)成(ル)2醜老(ト)1、(晉、阮籍)、又は昨日(ハ)少年今(ハ)白頭、(唐、許渾)の歎逃るゝに途なく、昔日軒昂の意氣は頓に消沈して、手束杖に漸うその醜い姿を運ぶ。「か行けば人に厭はえ、かく行けば人に惡まえ」は、餘に現實暴露に過ぎて悲慘である。
 以上を抽象的に要約すれば、左の如くであらう。
 三界はみな生者必滅のことわりを歎く。中にも閻浮は老少不定の習ひを添へたり――駒の足いそがはしく羊の歩みあわたゞしければ、暫しともいひあへず、過ぎ易き影に誘はれて、童形ちの遠ざかり行くも名殘惜しけれども力なく、明け暮るゝ月日にはからはれて、我が儘にせぬ齡なれば、心ならず親み來ける知らぬ翁こそ厭はしけね。(向阿、父子相迎抄)
 さて老の次に來るものは死で、「明日知らぬわが身」(古今集、貫之)どころか、今がその時であるかも知れない。「命惜しけど」こればかりは防ぎやうもない。まこと人間世ははかない。
 以上眞に堂々たる大作で、組織が井整を極めてゐる。世間の男及び女の少壯期と頽老期との生活を封象に、その行動を相對的に排敍し、特に男子の方に重鮎を置いたことは、蓋し作者が男性だからである。而して客觀的敍事を以て進行しつゝ、結局人世の無常を痛歎するに至つては、作者その人の切ない息吐を聽くやうである。抑もかくの如き人生觀は、佛教が徹底的に一般人の心に喰ひ入つた後世に於いては、尋常茶飯語に過ぎないが、(1439)推古朝以來佛教隆昌の時代を來したとはいへ、聖武天皇が三寶の奴と宣うた時(天平勝寶元年)より殆ど二十年前に、かゝる思想のもとに人世描寫を、而も精細に切實にかくの如く試みた作家が、何處にあらう。當時に於てもこの歌は識者の注目する處となり、人口に膾炙したものであらう。歌中の一節「から玉を手本にまかし云云」が一寸潤飾されて、五節舞の歌詞となつた一事を以ても、これを證することが出來得る。
 初頭より「迫め寄りきたる」までは冒頭で、これを第一段とする。次に少年少女の榮枯盛衰を極力敷陳したのは、必然なる老苦の殺到を示すにあるので、總括的に第二段として前後二節に分つべきだが、便宜上少女の件を第二段、少年の件を第三段とする。次に結收の三句を第四段とする。
 少女の段末には「世の中はかくのみならし」、少年の段末には「およしはかくのみならし」の同意同型の結語を反復して、一々冒頭の「世の中はすべなきものか」を廻顧し、末段に又「命惜しけどせむすべもなし」と、冒頭に呼應を求めてゐる。かくして人間世が苦界で厭離しつべきものであることが強調される。なほ仔細に看れば修辭上の疵瑕が多少ある。「追ひくる」「迫め寄り來たる」の類語の重複も面白くないが、「世の中や常にありける」の句は全く冗語である。「すべなきものは」と「せむすべもなし」とは、古文の格として有意的の呼應とみて置かう。
 この篇は佛教思想の所産であることは勿論だが、その命意結構は漢詩に由來してゐるやうである。唐の劉廷芝の代(ル)d悲(ム)2白頭(ヲ)1翁(二)uの詩を參考の爲に左に、
  洛陽城東桃李(ノ)花、飛(ビ)來(リ)飛(ビ)去(ツテ)落(ツ)2誰(ガ)家(二カ)1、洛陽(ノ)女兒惜(ム)2顔色(ヲ)1、行(ク/\)逢(ツテ)2落花(二)1長(二)歎息(ス)、今年花落(チテ)顔色改(リ)、明年花開(イテ)復誰(カ)在(ル)、已(二)見(ル)松柏(ノ)摧(ケテ)爲(ルヲ)v薪(ト)、更(二)聞(ク)桑田(ノ)變(ジテ)成(ルヲ)v海(ト)、古人無(シ)2復洛城(ノ)東(二)1、今人|還《マタ》對(ス)落花(ノ)風、年年歳歳花相似(タリ)、歳歳年年人不v同(ジカラ)、寄(ス)v言全盛(ノ)紅(1440)顔子、應(シ)v燐(ム)半※[粲の左上+人](ノ)白頭翁、此翁(ノ)白或眞(二)可v憐(ム)、伊(レ)昔紅顔(ノ)美少年、公子王孫芳樹(ノ)下、清歌砂舞落花(ノ)前、光禄池臺開(キ)2錦繍(ヲ)1、將軍樓閣畫(ク)2神仙(ヲ)1、一朝臥v病無(シ)2相識(ル)1、三春(ノ)行樂在(ル)2誰(ガ)邊(ニカ)1、宛轉(タル)蛾眉能(ク)幾時(バクゾ)、須臾(二)鶴髪亂(レテ)如(シ)v絲(ノ)、但看古來歌舞(ノ)地、惟有(リ)2黄昏鳥雀(ノ)悲(ム)1。
 
反歌
 
等伎波奈周《ときはなす》 迦久斯何母〔二字左○〕等《かくしもがもと》 意母閉騰母《おもへども》 余能許等奈薩婆《よのことなれば》 等登尾可禰都母《とどみかねつも》     805
 
〔釋〕 ○ときはなす 常磐《トキハ》にの意。この「なす」は變態である。「常磐なすわれは通はむ萬代までに」(卷七)「常磐なすいや榮《サカ》はえに」(卷十八)は同例。○かくしもがもと 「かく」は現在の生活をさす。「何母」原本にない。類本その他による。○よのことなれば 「うつせみのよのことなれば」を見よ(一〇四九頁)。
【歌意】 何時も常磐に、かうまあして居たいと思ふけれども、變るが〔三字右○〕世の習なので、それを押とめかねたことよ。
 
〔評〕 長歌の大意を承け、末段の「命惜しけどせむすべもなし」に連絡して、無常變易を主眼として歌つた。下句の修辭に稍不完の氣味はあるが、それは反歌の性質上許容される事である。
 
神龜五年七月二十一日、於(テ)2嘉摩《カマノ》郡(二)1撰定《エラブ》。筑前(ノ)守山(ノ)上(ノ)憶良。
 
「令反惑情歌」以下の長短歌各三首は、嘉摩郡でこの日に調べ定めたとの意。○嘉摩郡 また嘉麻に作る。今(1441)は穗波郡と合して嘉穗郡となつた。太宰府から東約十里の山地。
 筑前守たる作者は偶ま嘉摩郡に滯留、その少閑を偸んで、如上の諸篇が草稿であつたのに、完全の仕上げをした。日附が旅人卿に上つた哀傷歌と同日である。想ふに、哀傷歌以下全部は同日に脱稿したが、哀傷歌のみは旅人卿に見せたので、名の下に「上」と書き、他はそのまゝ篋底に納めたものであらうか。
 
太宰(の)帥大伴(の)卿(の)相聞(の)歌二首〔十一字左○〕
 
この題詞、原本にはない。目録に依つて補つた。○相聞 こゝは友愛の情を叙べた。なほ既出(二九七頁)を見よ。
 
伏(シテ)辱(クシ)2來書(ヲ)1、具《ツブサニ》承(ル)2芳旨(ヲ)1。忽(二)成(シ)2隔(ツル)v漢(ヲ)之戀(ヲ)1、復傷(ム)2抱(ク)v梁(ヲ)之意(二)1。唯羨(ム)去留無(キコトヲ)v恙、遂(二)待(ツ)2披雲(ヲ)1耳。
 
 在京の知人から太宰府にゐる旅人卿に音信があつた、そのこれは返翰で、旅人卿の作である。古義にこの文を次の答歌の前に置き換へたのは非。○伏辱來書―― 辱くも御手紙を頂き、委細に御意の程を承つたの意。○承芳旨 下の「承芳音」と同意。○忽成隔漢之戀 離居して戀しい思をする。七夕傳説に據つたので、事は卷八に詳説する。隔漢は銀河を隔てること。文選の古詩に、迢々(タリ)牽牛(ノ)星、皓々(タリ)河漢(ノ)女、――河漢清(クシテ)且淺(シ)、相去(ルコト)復幾許(ゾ)、盈々(トシテ)一水|間《ヘダタレリ》、脉々(トシテ)不v得v語(ルコトヲ)。とある。漢は銀河のこと。○傷泡梁之意 信を忘れぬ心故に悲む。抱梁は抱(ク)2梁柱(ヲ)1の略で、梁は橋のこと。莊子盗跖篇に、尾生|與《ト》2女子1期(ス)2於梁下(二)1、女子不v來(ラ)、水至(レドモ)不v去(ラ)、抱(イテ)2梁柱(ヲ)1而死(ス)。〇去留無恙 起居の無事なるをいふ。○披雲 面會の意。徐幹の中論に、文王遇(フ)2姜公(二)1、灼然(トシテ)如(シ)3披(イテ)v雲(ヲ)(1442)見(ルガ)2白日(ヲ)1。又晉書に、衛※[王+讙の旁]見(テ)2樂廣(ヲ)1而奇(トシテ)之歎(ジテ)曰(フ)、若(シト)d披(イテ)2雲霧(ヲ)1而覩(ルガ)c青天(ヲ)u。
 
歌詞兩首
 
原本、「歌詞兩首」の下に、太宰帥大伴卿の六字あり、削つた。
 
多都能馬母《たつのまも》 伊麻勿愛弖之可《いまもえてしか》 阿遠爾與志《あをによし》 奈良乃美夜古爾《ならのみやこに》 由吉帝己牟丹米《ゆきてこむため》     806
 
〔釋〕 ○たつのまも 龍の馬をも。「たつのま」は良き馬をいふ。周禮に、凡(ソ)馬(ハ)八尺以上(ヲ)爲(シ)v龍(ト)、七尺以上(ヲ)爲(シ)v※[馬+來](ト)、六尺以上(ヲ)爲(ス)v馬(ト)。○いまも 「も」は歎辭。
【歌意】 時の間に千里を走る龍の馬も、たつた今でも得たいことよ、貴方のいらつしゃる〔九字右○〕懷かしい奈良の京に、一寸往つて來う爲にさ。
 
〔評〕 筑紫の果から奈良京、想うても遙である。况や地方官は私に任地を離れることは出來ない。そこで寸間を偸んでの往復には、千里汗血の龍馬を得るより外に手はない。然し龍馬は滅多に世にない。ないと知りつゝも尚「得てしが」と無い物ねだりをいふまでに、作者の心境は奈良京戀しの一念に逆上してゐる。而も「今も」といふ、如何に思ひ迫つた端的の感じであらう。但これは間接射撃で、その實は書簡の贈主たる奈良人に對して、一途に面晤したいといふ景慕親昵の意を、極度に表明したのである。例の詞人の幻化手段だ。
 
(1443)宇豆都仁波《うつつには》 安布余志勿奈子《あふよしもなし》 奴波多麻能《ぬばたまの》 用流能伊昧仁越《よるのいめにを》 都伎提美延許曾《つぎてみえこそ》     807
 
〔釋〕 ○うつつ 現實。○いめにを 「を」は歎辭。○つぎてみえこそ 續いて見えてくれ。「こそ」は願望辭。
【歌意】 實際には貴方に〔三字右○〕逢ふ術もないわい。せめて夜の間の夢にまあ、打續いて見えて下さい。
 
〔評〕 龍の馬も出來ない相談、「現《ウツツ》には逢ふ由もなし」と自覺するに至つては、當てにならぬ夢を當てにするより外はなくなる。
  空蝉の人目しげくはぬば玉のよるのいめにを繼ぎて見えこそ (卷十二−3108)
  今よりは戀ふとも妹に逢はめやも床のべさらず夢に見えこそ (卷十二−2957)
  今更に戀ふとも君に逢はめやもぬる夜をおちず夢に見えこそ (卷十三−3283)
戀歌にはかくの如く等類が多い。作者の來筑を神龜の二年とすれば、約五年の星霜を天離る鄙に暮した。離人の郷愁は殆ど戀の苦患と※[人偏+牟]しい。
 
(1444) 大伴(ノ)淡等《タビト》 謹状
 
この六字、原本は答歌の「ただにあはば」の歌の直後にあるが、こゝに置くが至當と思ふ。
○淡等 旅人《タビト》の聲に充てた作名。作名は漢詩文に署する爲、漢土人に擬した名を作ることで、大抵本名の類音を用ゐる。語呂が合ひさへすればよいので、音韻の理論に合ふのもあり、合はぬのもある。なほ「藤原宇合」の項を見よ(二五六頁)。○謹状 謹んで認めた書状の意。
 
答(ふる)歌兩首〔二字右○〕
 
これは在京の知人の作である。自分の見舞に對して、旅人卿からの書状に歌を添へてよこしたので、その返歌を又詠んで贈つたもの。○兩首 この二字補つた。
 
多都乃麻乎《たつのまを》 阿禮波毛等米牟《あれはもとめむ》 阿遠爾與志《あをによし》 奈良乃美夜古爾《ならのみやこに》 許牟比等乃多仁《こむひとのたに》     808
 
〔釋〕 ○たに 爲《タメ》にの略言。續紀十七詔に、國家護《ミカドマモ》るが多仁波《タニハ》勝れたり、佛足石の歌に、比○乃多爾《ヒトノタニ》などのタニは皆爲に〔二字傍点〕の意である。「仁」神本には米〔右△〕とある。これはタメ〔二字傍線〕と讀む。
【歌意】 龍の馬を私は探しませう、この奈良の京に來うといふ貴方の爲にさ。
 
(1445)【評】旅人卿の前首に對した返歌で、得難い龍の馬でも君の爲には求めようとは、切實に面會を欲する懇情の詞である。
 
多陀爾阿波須《ただにあはず》 阿良久毛於保之〔左△〕《あらくもおほし》 志岐多閉乃《しきたへの》 麻久良佐良受提《まくらさらずて》 伊米爾之美延牟《いめにしみえむ》     809
 
〔釋〕 ○ただにあはず 一向に逢はず。○あらく ある〔二字傍点〕の延音。〇おほし 多しの意か。「之」原本に久〔右△〕とある。宜長略解などの説に隨つて改めた。
【歌意】 その後一向に逢はず居ることがまあ多い。でお詞のまゝに、貴方の〔九字右○〕枕許を退かないで、貴方の〔三字右○〕夢にさ現れませうよ。
 
〔評〕 これは後首の返歌である。例の應酬の語、別にいふ處もない。新考に「おほし」はおほゝし〔四字傍点〕の意か、又は本文に於保々〔二字右△〕之とありしかとあるが、それも覺來ない。
 
大伴(の)卿(の)梧桐日本琴《きりのやまとごとを》、贈(れる)2中衛(の)大將藤原(の)卿(に)1歌二首〔大伴〜左○〕
 
旅人卿が桐で造つた日本琴《ヤマトゴト》を、中衛(ノ)大將藤原(ノ)房前(ノ)卿に贈つた時の歌との意。この題詞は原本にない。目録に依つて補つた。○中衛大將 ナカツマモリノツカサノカミ。中衛府の長官。○中衛府 禁中警衛の官衙で、神龜五年七月始めて置かれ、大將一人從四位上、少將一人正五位上、將監四人從六位上、以下諸役がある。天平寶(1446)字二年鎭國衞と改め、大將を正三位、少將を從四位上としたが、天平勝寶八年舊名舊制に復し、近衛府に對せしめた。○藤原卿 房前はこの時まだ從四位上だが、敬意を以て卿と書いた。○房前 贈太政大臣藤原不比等の第二子。續紀に、大寶三年五月正六位下藤原朝臣房前を東海道に遣はし政績を巡省せしめ、慶雲三年十二月從五位下、和銅四年四月從五位上、靈龜元年從四位下、養老元年十月朝政を參議し、同三年正月從四位上、同五年正月從三位、神龜元年二月正三位、天平元年九月中務卿となり、同四年八月東海東山二道の節度使を命ぜられ、同九年四月民部卿正三位にて薨ずとある。年五十七。(懷風藻)その年十月正一位左大臣を贈られた。生前兄武智麻呂の家の北に住んでゐたので、世に武智麻呂を南卿、房前を北卿と稱した。
 
梧桐日本琴一面《きりのやまとごとひとつ》 【對馬(ノ)結石《ユフシ》山(ノ)桐(ノ)孫枝《ヒコエ》也。】
 
これは書牘中の題言である。○梧桐 桐の木。玄參科の落葉喬木。和名抄に、陶隱居の本草註を引いて、桐(二)有(リ)2四種1、青桐梧桐崗桐椅桐、椅桐(ハ)白桐也、三月(二)花紫(ナリ)、亦堪(ヘタル)v作(ルニ)2琴瑟(二)1者是也とあるもの。椅桐を絃にこは梧桐と稱(1447)した。○日本琴 和名抄に、體似(テ)v箏《サウニ》而短小、有(リ)2六弦1、俗(二)用(ヰル)2倭琴(ノ)二字(ヲ)1、夜萬止古止《ヤマトゴト》、云々。又|東《アヅマ》琴といふ。大中小の三種あり、大は長さ六尺二寸、中は六尺、小は五尺或は五尺八寸、横六寸。○一面 面は平にして面ある物を數ふる稱呼。○結石山 對馬の北部にある山。今ユヒイシと唱ふ。○孫枝 卷十八橘の歌に「春されば孫枝《ヒコエ》もいつつ」、字鏡に、※[木+少](ハ)木(ノ)細枝也、比古江《ヒコエ》とある。文選※[(禾+尤)/山]康の琴賦に、乃(チ)〓(リ)2孫枝(ヲ)1准(ヘ)2量(ル)所(二)1v任(ス)。體源抄に、箏の甲の木、舊記にいふ、鹽風に吹かれたる日あたりの孫枝を用ゐるべき也と。
 
此琴夢(二)化《ナリテ》2娘子(ト)1曰(フ)、余|託《ヨセ》2根(ヲ)遙島之崇巒(二)1、晞《サラス》2※[韓の左+夸]《カラヲ》九陽之休光(二)1、長(ク)帶(ビテ)2煙霞(ヲ)1、逍2遙(シ)山川之|阿《クマニ》1、遠(ク)望(ミテ)2風波(ヲ)1、出2入(ス)雁木之間(二)1。唯恐(ル)百年之後、空(シク)朽(チムコトヲ)2溝壑(二)1。偶(マ)遭(ヒテ)2良匠(二)1、散(ジテ)爲(レリ)2小琴(ト)1、不v顧(ミ)2質廉(ク)音少(キヲ)1、恒(二)希(フ)2君子之左琴(タラムコトヲ)1。即(チ)歌(ヒテ)曰(フ)、
 
○此琴夢化―― 琴が夢中に娘子となつて現じ、作者に物語つたとかいふ趣向である。○託根遙島之崇巒―― 遠い海島の對馬の高い山に根を下しの意。「託」は托の通用。○晞※[韓の左+夸]九陽之體光 幹を太陽のよき光に照らさせ。※[韓の左+夸]は幹と同字。九陽の九は陽の極數、陽は日、體は善美の意。※[(禾+尤)/山]康の琴賦に、
  惟椅梧之所v生(ズル)兮、託(ス)2峻嶺之崇巒〔五字傍点〕(二)1、――含(ミ)2天地之醇和(ヲ)1兮、吸(フ)2日月之休光〔三字傍点〕1、欝(ト)紛紜(トシテ)以(テ)獨茂(リ)兮、飛(ス)2英〓(ヲ)昊蒼(二)1、夕(二)納(レ)2景(ヲ)于虞淵(二)1、旦(二)晞(ス)2幹於九陽〔四字傍点〕(二)1。(1448)○長帶煙霞―― 長いこと靄や霞を帶びて、山川の曲隅に自適しの意。逍遙は彼地此地と遊びあるくこと。詩の鄭風に、河上(ニ)乎逍遙(ス)。また莊子に逍遙游の篇がある。○遠望風波―― 遙に島外の風波を望んで、どちらつかずの境に身を保つてゐるの意。雁木とは莊子山木篇に、
  莊子行(イテ)2於山中(ニ)1、見(ル)d大木(ノ)枝葉盛茂(シ)、伐(ル)v木(ヲ)者止(リテ)2其(ノ)旁(ニ)1而不(ルヲ)uv取(ラ)也。問(ヘバ)2其故(ヲ)1曰(ク)、無(シト)v所v可(キ)v用(ヰル)。莊子曰(ク)、此木(ハ)以(テ)2不材(ナルヲ)1得(ト)v終(フルヲ)2其天年(ヲ)1。夫子出(デ)2於山(ヨリ)1舍(ル)2於故人之家(ニ)1。故人喜(ンデ)命(ジテ)2豎子(ニ)1殺(シテ)v雁(ヲ)而烹(ル)v之(ヲ)。豎子請(フテ)曰(ク)、其一能(ク)鳴(ク)、其一不v能(ハ)v鳴(ク)、奚(レヲカ)殺(サン)。主人曰(ク)殺(セ)2不(ル)v能(ハ)v鳴(ク)者(ヲ)1。明日弟子問(フ)2於莊子(ニ)1曰(ク)、昨日山中之木、以(テ)2不材(ヲ)1得v終(フルヲ)2其天年(ヲ)1今主人之雁(ハ)以(テ)2不材(ヲ)1死(ス)、先生將(ニ)何(レニカ)處(セン)。莊子笑(ツテ)曰(ク)、周(ハ)將(ムト)v處(ラ)d夫材(ト)與2不材(トノ)1間(ニ)u。。云々。
〇百年之後 長き歳月の後。人の一生をいふ。○朽溝壑 命を失ふことの謙辭。戰國策、史記などに填2溝壑1とある。壑は谷のこと。〇偶遭良匠―― 丁度良い職人に出合つて、ばら/\になつて小さい琴となつたの意。琴賦に、至人|※[手偏+慮]《ノベ》v思(ヲ)、制(シテ)爲(ル)2雄琴(ヲ)1。〇希君子之左琴 いゝ方の座側の琴となりたい。劉向の列女傳に、君子左(ニシ)v琴(ヲ)右(ニス)v書(ヲ)、樂材(リ)2其中(ニ)1。○歌曰 娘子が詠んだ歌にいふの意。
 夢中に桐の琴が娘子となつて、その來歴と希望とを語る。素より荒唐假托の言で、莊子の寓言に類する。尤も非情又は異類のものが人格を持つて現れる話説は、一般古代人のもつ迷想で、萬有を神と信ずる思想と一縷共通するものがある。後世の雜書はさておき、支那の捜神記や日本靈異記などを見たら、その類話の多いのに驚くであらう。
 
(1449)伊可爾安良武《いかにあらむ》 日能等伎爾可母《ひのときにかも》 許惠之良武《こゑしらむ》 比等能比射乃倍《ひとのひざのへ》 和我摩久良可武《わがまくらかむ》     810
 
〔釋〕 ○ひのときに いかにあらむ日のいかにあらむ〔六字右○〕時にを略していつた。○こゑしらむひと 音を聞き知るであらう人。知音。列子に、伯牙善(ク)鼓(ス)v琴(ヲ)、鍾子期善(ク)聽(ク)。呂氏春秋に、鍾子期死(ス)、伯牙破(リ)v琴(ヲ)絶(チ)v絃(ヲ)、終身不2復鼓(セ)1v琴(ヲ)、以爲(ラク)無(シト)d足(ル)2爲(ニ)鼓(スルニ)者u。○ひざのへ 膝の上《ウヘ》の略。○まくらかむ 枕にせう。「まくらく」は四段括。
【歌意】 どうした日のどうした〔四字右○〕時に、音を知らう人の膝の上を、私が枕に出來ようかまあ。
 
〔評〕 旅人卿は或時、その太宰府管内に屬する對馬の結石山の桐の木で和琴を造り、座右の愛翫とした。相當調子が良いので、これを奈良京にゐる知人藤原(ノ)房前に贈らうとしたが、それには何か一趣向と思ひ付いたのが、この琴が娘子に化つて夢中に現れての問答なのである。
 「いかならむ日の時にかも」の口調は、如何にも世話しない。一刻も早く知音に出遇ひたいの熱望が表現されてゐる。これを反對に考へれば、琴の娘子が旅人卿を前に置いて、お前などは聲知らぬ耳無しだからと見限つた事になる。かう娘子にいはせたのは、即ち自分はこの琴の持主たる資格のない人間と卑下して、房前に贈る爲の素地を作つたもので、一寸面白い趣向ではないか。
 「膝の上枕かむ」は、和琴は時としては膝に片乘せて彈じもするのでいつた。
 
僕《やつがれ》報《こたへて》v詩(に)詠《よめる》曰。
 
(1450) 私がその娘子の歌に答へて詠んたとの意。○僕 自稱の謙稱。漢書に自稱(シテ)爲(ス)v僕(ト)。○詩 こゝでは和歌を唐めかして稱した。下にも卷十七にも、この例がある。
 
許等等波奴《こととはぬ》 樹爾波安里等母《きにはありとも》 宇流波之吉《うるはしき》 伎美我手奈禮能《きみがたなれの》。 許等爾之安流倍志《ことにしあるべし》。     811
 
〔釋〕 ○こととはぬ 既出(一〇四七頁)。○きにはありとも 新考にアレドモの誤であるやうに主張してゐるのは却て非。琴の娘子への返歌だから、「あれども」と確言するは失禮の嫌があるので避けたもの。○うるはしき 端正なること。立派なること。○きみが 人の〔二字傍点〕とあるべきを、轉じてかくいつた。蓋し贈歌だからである。○たなれのこと 手に執り馴らす琴。
【歌意】 物いはぬ木で、よしあるとしても、君子たる方の持ち馴らす琴でさ、あるであらう。
 
〔評〕 琴の娘子が氣を揉んで、知音の膝を求めたのに對しては、まあ安心しなさい、何れ立派な方の左琴とならうからと慰めた。かうしてその琴を房前に宛てゝ贈つた以上は、その房前は必ず「聲聞き知らむ人」「うるはしき君」であらぬばならぬことが、間接に暗證される。實に巧妙なる辭令である。この贈答とも旅人卿の戲作。
 
琴(の)娘子《をとめの》答曰(ふる)。
 
敬(ンデ)奉《ウケタマハル》2徳音(ヲ)1、幸甚幸甚(ト)。片時(二)覺(メタリ)。即(チ)感《カマケテ》2於夢(ノ)言(二)1、慨然(トシテ)不v得2默止《モダスコトヲ》1。故《カレ》附(ケテ)2公(ノ)使(二)1聊(カ)以(テ)進御(スル)耳。
 謹状不具。
 
(1451) ○敬奉徳音―― 敬んで有難い仰を承り嬉しいことですと、琴の娘子が答へたと見て、自分の夢が覺めた。そこで夢中の娘子の言葉をめでて、心に衝動を感じて捨てゝも置かれず、それ故公の使に托して、聊かこの琴を貴方に差上げますのです、との意。○徳音―― 文選の李陵答蘇武書に、時(ニ)因(リテ)2北風(二)1復惠(メ)2徳音(ヲ)1、幸甚幸甚とある。毛詩谷風にも、徳音莫(シ)v違(フコト)など用例が多い。〇進御 進め參らす。琴賦に進2御(ス)君子(二)1。
 
天平元年十月七日、附(ケテ)v使(二)進上《タテマツル》。
 
 太宰府から公用で上京する使に托して差上げますとの意。本文には「附公使」とある。この使は太宰(ノ)大監大伴(ノ)百代であらう。
 
謹(ミテ)通《タテマツル》2中衞高明|閤下《カフカニ》1謹空
 
 ○謹通中衞高明閤下 謹んで中衛大將房前殿の許に差上げるとの意。○高明 優れた聡明。相手の徳を稱へていふ。陸機の弔(フ)2魏武帝(ヲ)1文(ノ)序に高明之質、夏侯湛の東方朔畫賛に高明克(ク)柔(ナリ)などみる。○閤下 尊稱。閤下に同じい。閣は高殿、閤は門傍の小戸で意は殊なるが、並用してゐる。○謹空 謹んで空白を置くの意。書簡に奥を明くるを敬とする。故に敬空とも書く。東寺にある傳教大師の弘法大師への返簡にも謹空の字がある。唐時代の書簡の樣式。
 
中衞(の)大將藤原(の)卿(の)報(ふる)歌一首〔十一字左○〕
 
(1452)この題詞原本にはない。目録に依つて補つた。
 
跪(キテ)承(ル)2芳音(ヲ)1、嘉懽|交《コモゴモ》深(シ)、乃(チ)知(ル)龍門之恩、復厚(キコトヲ)2蓬身之上(ニ)1、戀望(ノ)殊(ナル)念、常心(ニ)百倍(セリ)。謹(ミテ)和《ナゾラヘ》2白雲〔左△〕之什(ニ)1、以(テ)奏(ス)2野鄙之歌(ヲ)1。 房前謹状。
 
○嘉懽交深 嬉しさと喜とが入交つて一方ならない。○乃知龍門之恩―― 御引立の恩が、私の身に深いことを知つたの意。和琴を贈られた感謝の意を寓せた。龍門は登龍門の義。三秦記に、支那の黄河のよ流に龍門山あり、河水迅急、鯉魚こゝを登れば龍と化《ナ》ると。以て人の榮達に喩へる。後漢書李膺傳に、膺以(テ)2聲名(ヲ)1自(ラ)高(ウス)、士有(レバ)d被(ル)2容接(ヲ)1者u、名(ケテ)爲v登(ルト)2龍門(ニ)1。蓬身は卑しい身。蓬はヨモギ、雜草なので冠して謙稱とした。○戀望殊念―― 戀ひ念ふ切なる心は平生に百倍したの意。○和白雲之什―― 高作に答へて拙い歌を申上げるの意。白雲は白雪〔右△〕の誤か。白雪之什とは支那の楚國の歌曲の名で、高尚の詞を稱する。文選の宋玉が楚王問對に、客有(リ)d歌(フ)2於郢中(ニ)1者u、其始(ヲ)曰(フ)2下里巴人(ト)1、國中屬(シテ)而和(スル)者數千人、其爲(ス)2陽阿薤露(ト)1、國中屬(シテ)和(スル)者數百人、其爲(ス)2陽春白雪(ト)1、國中屬(シテ)而和(スル)者不v過(ギ)數人(ニ)1、云々。愈よ高尚なるほど和する者が少い。よつて陽春白雪を高調なる詞章の稱に用ゐた。什は詞歌の成數の稱。
 文意は龍門の何のと謙抑の辭に滿ちてゐる。房前も名家藤原氏の出ではあるが、當時旅人卿は高官の長老、自分は後輩(四十九歳)で官位も稍後れてゐるので、懇親の間柄とはいひながら謙遜した。
 
許等騰波奴《こととはぬ》 紀爾茂安理等毛《きにもありとも》 和何世古我《わがせこが》 多那禮乃美巨騰《たなれのみこと》 都地爾意加米移母《つちにおかめやも》     812
 
(1453) ○わがせこ こゝは友人旅人卿をさした。漢語の尊兄などいふに近い。既出(三三七頁)を參照。○みこと 御琴。○やも 「移」は古へヤの假字に充てた。例は神功皇后紀、欽明天皇紀などにある。本音はヤ行音のイなので、轉用された。
【歌意】 仰の如く、物いはぬ木であるとしても、貴方樣が持ち馴らされた御琴を、假初にも下に置きませうことかい。
 
〔評〕 旅人の贈遺に對しての感謝である。すべて樂器の類は上手が彈き込んだ物程よいのだから、外ならぬ旅人卿の手馴の琴は愈よ結構な筈で、下にも置かず珍重しませうの意を轉義して、「土に置かめやも」と、「木」の縁語を用ゐた。初二句は贈歌のまゝを返却した。
 
十一月八日、附2還《ツケテカヘス》使(ノ)大監《ダイゲンニ》1。
 
 天平元年十一月八日、御使の太宰(ノ)太監に返簡を托するとの意。下の梅花宴の歌註によると、この時の大監は大伴(ノ)百代《モモヨ》である。傳は卷三に既出(八九七頁)。
 
謹(ミテ)通《タテマツル》2尊門記室(ニ)1。
 
 謹んで貴殿の書記までに差上げるとの意。直接に宛てることを憚つた書式。尊門はその人の家を尊んだ稱。記室は書記の室。又その人の稱。漢書百官志に、王公大將軍幕府、皆有(リ)2記室1、掌(ル)v草(スルコトヲ)2書紀(ヲ)1とある。
 
〔1452.1453頁の上欄に房前の懷風藻の漢詩三首があるが、省略、入力者注〕
 
(1454)山上(の)臣憶良(が)詠(める)2鎭懷石(を)1歌一首并短歌〔全部左○〕
 
この題詞原本にない。目録に依つて補つた。○鎭懷右 記記を併せ考へると、古へ神功皇后が三韓征代の御時、臨月の御腹を鎭めの爲、御腰に石を挿まれたが、御凱旋後怡土郡の子負の原に至り皇子御降誕、その際お取置きになつた石が今に存してゐるとある。次の歌序によると、奈良時代には原の小邱上にその石が二箇あつた。然るに後世何時か紛失して、今は八幡の小社が建つてゐる。鎭懷とは歌に「御懷《ミココロ》を鎭め給ふと」と見え、産氣を抑へるをいふ。 
 
筑前(ノ)國|怡士《イトノ》郡(ノ)深江村(ノ)子負《コフノ》原(ニ)、臨(メル)v海(ニ)丘(ノ)上(ニ)有(リ)2二(ノ)石1。大(ナル)者(ハ)長(サ)一尺二寸六分、圍《ウダキ》一尺八寸六分、重(サ)十八斤五兩、小(キ)者(ハ)長(サ)一尺一寸、圍一尺八寸、重(サ)十六斤十兩。(1455)並皆《ミナ》楕円(ニシテ)状如(シ)2鷄子《トリノコノ》1。其|美好《ヨキコトハ》者、不v可(カラ)2勝(ゲテ)論(フ)1。所謂《イハユル》徑尺(ノ)璧是也。【或(ハ)云(フ)此二石(ハ)者肥前(ノ)國|彼杵《ソノキ》郡(ノ)平敷《ヒラシキ》之石、當(リ)v占(ニ)而取(ルト)v之(ヲ)】去(ルコト)2深江(ノ)驛家《ウマヤヲ》1二十〔左△〕許里《サトバカリ》。近(ク)在(リ)2路(ノ)頭(ニ)1。公私(ノ)往來(ニ)莫(シ)v不2下(リテ)v馬(ヨリ)跪拜《ヲロガマ》1。古老相傳(ヘテ)曰(フ)、往昔《イニシヘ》息長足日女《オキナガタラシヒメノ》命、征2討《コトムケタマヒシ》新羅《シラギノ》國(ヲ)1之時、用(テ)2茲(ノ)兩(ノ)石(ヲ)1挿2著《サシハサミタマヒテ》御袖之中(ニ)1、以爲(タマヒキ)2鎭懷(ト)1。【實(ハ)是御裳(ノ)中矣】所以《カレ》行人《ミチユキビト》敬2拜《ウヤマヒヲロガム》此石(ヲ)1。乃(チ)作歌曰《ウタヨミスラク》、
 
〔釋〕 ○怡土郡 今|志麻《シマ》郡と合して糸島郡となつた。怡土は伊斗、伊覩、逸都など書く。○深江村 福岡の東南八里、唐津路に當る海村で、西に一小灣を抱いてゐる。兵部省式に茲に驛馬を置いたことが見える。○子負原 筑紫風土記及び筑前風土記には子饗原とある。今コブノハラといふ。深江町の南五町。下文に「去深江驛家二十許里」とあるので、地名辭書は、二十許里は今路《イマミチ》にして三里餘なれば、濱崎の北なる鹿家《シカガ》崎、包石《ツヽミ》の邊なるべしとの一説を立てた。然しその邊は山海の相迫つた隘路ばかりで、假にも原の名を下すべき場所がない。案ずるに「二十許里」、は二許里〔三字傍点〕の誤で、十〔右△〕は衍字であらう。六町一里の制とすれば、二許里なら深江の驛頭から子負原まで、略その距離が出合ふ。〇一尺二寸六分 元明天皇の和銅六年の改制で、唐の大小尺を採用し、大尺を常用とし、小尺は※[日/処の几をト/口]景を測り湯藥を合するにのみ用ゐた。大尺の一尺は曲尺《カネ》の九寸七分八厘、小尺の一尺は同八寸一分五厘に當る。〇十八斤五兩 約二貫目ほどの重さ。大寶令の制に大小二樣あり、小兩は二十四銖を一兩、十六兩を一斤とした大兩は小兩の三兩を一兩に數へた。銀銅を量るには大を用ゐ、その他は小を用ゐた。(1456)令の大一斤は今の百八十匁に當る。○圍一尺八寸 原本「一」の下に寸〔右△〕の字あり、削つた。○状如鷄子 形が鷄卵のやうだ。○不可勝論 とても口で現せない。○所謂徑尺璧是也 一石ではなくて、世にいふ徑尺璧、即ち大きな玉であるとの意。徑尺はさし渡し一尺あるをいふ。淮南子に、聖人不(シテ)v貴(バ)2尺之璧(ヲ)1、而重(ンズ)2寸之陰(ヲ)1。○平敷之石當占而取之 割註の文で、神功皇后は占によつて平敷の石を取寄せられたとの意。平敷は長崎の北浦上村の平野寄のことといふ。そこに燧石の類の美麗なるが多く、里人はこれを子産《コウミ》の咒物とし、又緒締の玉などに磋るといふ。(記傳その他參取)。○公私往來――公用私用の往來に乘物から下りて跪いて拜まぬ者はないの意。○古老 土地の老人達。○息長足日女命 神功皇后の御名。○征討新羅國 皇后の三韓征伐は紀記に委しい。○挿著御袖之中 御袖の内に挿まれたとの意。○實是御裳中矣 割註の文で、本文は御袖之中とあるが、實は御袴の内であるとの注意。この石の事紀記の外、風土記に、
  子(ノ)饗原(ニ)有(リ)2石兩顆1、一片(ハ)長一尺二寸、周一尺八寸、一(ハ)長一尺一寸、周一尺八寸、色白(クシテ)而便(チ)圓(ク)如(シ)2磨(キ)成(セル)1、――凱旋之日至(リ)2芋※[さんずい+眉]1太子誕生、有(リテ)2此因縁1曰(フ)2芋※[さんずい+眉]《ウミ》野(ト)1、俗間(ニ)婦人忽然(チ)娠動(クトキ)、裙腰(ニ)挿(ミ)v石(ヲ)令(ム)v迎(ヘ)v時(ヲ)、蓋(シ)由(ル)v此(ニ)乎。(筑紫風土記)
  兒饗野、此野之西(ニ)有(リ)2白石二顆1、一顆(ハ)長(サ)一尺一寸、太(サ)一尺、重(サ)四十一斤、一顆(ハ)長(サ)一尺一寸、太(サ)一尺、重(サ)四十九斤、――時人號(ケテ)2其石(ニ)1曰(フ)2皇子|産石《ウミイシト》1、今訛(リテ)謂(フ)2兒饗(ノ)石(ト)1。(筑前風土紀)
 
可既麻久波《かけまくは》 阿夜爾可斯故斯《あやにかしこし》 多良志比※[口+羊]《たらしひめ》 可尾能彌許等《かみのみこと》 可良久爾遠《からくにを》 武氣多比良宜弖《むけたひらげて》 彌許々呂遠《みこころを》 斯豆迷多麻布等《しづめたまふと》 伊刀良斯弖《いとらして》 伊波比多麻比斯《いはひたまひし》 麻(1457)多麻奈須《まだまなす》 布多都能伊斯乎《ふたつのいしを》 世人爾《よのひとに》 斯※[口+羊]斯多麻比弖《しめしたまひて》 余呂豆余爾《よろづよに》 伊比都具可禰等《いひつぐかねと》 和多能曾許《わたのそこ》 意枳都布可延乃《おきつふかえの》 宇奈可美乃《うなかみの》 故布乃波良爾《こふのはらに》 美弖豆可良《みてづから》 意可志多麻比弖《おかしたまひて》 可武奈何良《かむながら》 可武佐備伊麻須《かむさびいます》 久志美多麻《くしみたま》 伊麻能遠都豆爾《いまのをつつに》 多布刀伎呂可※[人偏+舞]《たふときろかも》     813
 
〔釋〕 ○かけまくは 「かけまくも」を見よ(五三〇頁)。○あやに 既出(四四七、五三〇頁)。○たらしひめ 神功皇后の御事。息長足姫《オキナガタラシヒメ》の略。卷十五にも「多良思比賣《タラシヒメ》御舶《ミフネ》はてけむ」とある。歌謠の上ではかく略稱することは珍しくない。○みこと 命が〔右○〕。○からくに (1)大|加羅《カラノ》國、(2)三韓、(3)唐國、(4)弘く外國の稱とする。松下見林の説に、崇神天皇之世、大加羅國王之子|都怒我阿羅之《ツヌガアラシ》來(ル)、此外夷歸化之始也、故(ニ)韓地(ヲ)爲(ス)2加羅國(ト)1と(通證所引)。○むけたひらげて 征服して。紀に平をムケと訓んである。向けの義。さてこの句は切離して、遙に下の「眞玉なす二つの石を」へ續けて解する。○みこころをしづめたまふと 御懷《ミココロ》を鎭め拾ふとて。御産氣の腹を齋ひ鎭めて、その期を延ばすのをいふ。記に、即(チ)爲(ニ)v鎭(メム)2御腹(ヲ)1、取(リ)v石(ヲ)以纏(フ)2御裳之腰(ニ)1。○いとらして 「い」は接頭の發語。「とらし」は取るの敬相。○いはひたまひし 神に祈つて潔《キヨマ》はれた。○まだまなす 眞玉|如《ナ》す。○(1458)いひつぐがねと「語りつぐがね」を見よ(八四二頁)。○わたのそこおきつふかえ 海の底の極みの深しといふを、地名の深江《フカエ》にかけた修飾語。「おき」は奥の意。○うなかみ 海之上《ウナカミ》。海邊といふに同じい。○おかしたまひて 「おかし」は置く〔二字傍点〕の敬相。以上は足姫の御所爲を叙べた。○かむながら云々 その石が〔四字右○〕。「かむながら」は既出(1一五三頁)。○かむさび 「かむさぶと」を見よ(一五三頁)。○くしみたま 奇《ク》し御玉《ミタマ》。「奇し」はくすし〔三字傍点〕、くすはし〔四字傍点〕ともいひ、靈妙の意。「みたま」は石を玉と見ての言で、御靈《ミタマ》の意ではない。(宣長説)。新考はくしみ〔三字傍点〕と切つてみ〔右○〕を接尾語と見た。○いまのをつつに 今の現在に。「をつつ」はうつつ〔三字傍点〕(現)と同語。○たふときろかも 貴いことよ。「ろ」は「ともしきろかも」を見よ(二一三頁)。
【歌意】 懸けて思ふことは眞《アヤ》に恐れ多い、あの神功皇后樣が、御産氣をお鎭めなさるというて、お取りなされて神に祈り齋はれた、玉のやうな二つの石を、韓國を平定して後に〔二字右○〕、世人にお示しになつて、萬代に語り續ける爲にとて、深江の海邊の子負の原に、御手づから置かれて、それからこの方〔七字右○〕、神としてかう/\しく入らつしやいます、不思議なこの靈石《タマ》は、今の現在に尊くあらしやることよなあ。
 
〔評〕 神功皇后征韓の御時からこの天平元年まで、その間五百廿七年、久しくない事はないが、御裳の中に挿まれた石が、長さ一尺何寸の重さ十八斤のと生長したことは、餘に非科學的であらう。が傳説として、そこに特殊の光彩があり、時代を反映し時代人の心理を照射する。
 拜石の慣習は太古に於いて何れの邦でも存在してゐた。殊に萬有を神と信じてゐたわが國では勿論の事で、磐座《イハクラ》神籠石の類から始めて、石神に至つては所在に無數だ。又石に關するる奇蹟話説は枚擧に遑がなく、或は石(1459)に依つて吉凶を卜する石卜力石など、いひ立てれば全く無際限である。
 子負の原丘上の白石も、始から特殊の意味で別に存在してゐたものであらう。それに鎭懷の話説が纏綿して、愈よ神聖なる物として崇敬されるに至つたと考へられる。
 元明天皇の和銅六年に諸國に詔して、風土記を作らしめられた。この時から天平元年頃までは二十七年を經過してゐるから、遲速はあつても大抵は既に撰了されたと見てよからう。出雲風土記の如きは、追加の附記が天平五年である。然るに筑前守たる憶良は、記紀にさへ採收された鎭懷石の史蹟の詳説を、さも珍しさうに怡土人牛麻呂から聞いて、歌序に記載してゐる。筑前國ではまだ風土記の撰が成つてゐなかつた處か、各郡司からその原稿さへも、國衙に提出されて居なかつたことを想はせる。
 本篇は傳聞より外に何等の取材をしてゐない。靈石に就いての來歴を一意到底に行敍して、只末節に至り聊か轉捩して、稱讃の歎語を下して筆を收めた。「韓國をむけ平げて」の一句が聯絡の妥當を缺いてゐる爲に、完作と推奨する事の出來ないのは遺憾である。多分二三の落辭か脱句があるのであらう。「海の底おきつ深江」の辭樣は「海の底おきつ白波たつ田山」(卷一)と吻合する技巧である。
 國守は部内を巡檢してその風俗を察るのが任務の一である。然るに作者はその部内であり、太宰府からさう遠くもない深江の驛家を、まだ訪はなかつた。蓋し神經痛の持病で外出が不自由だつたせゐもあらう。若しこの石を實見してその詩想を縱横に發揮させたならば、より大いなる感興のもとに、或はその四圍の景象までも織り込まれて、情景兼ね到る非常な大作を、必ず世に遺したであらう。これは憶良の技倆を信ずる者の齊しく疑はない處である。
(1460) この歌の製作時期を案ずるに、上の梧桐日本琴の歌が天平元年十月であり、下の梅花の歌が同二年正月である。その間に按排されてあるから、まづ天平元年十月以降の冬季中の作と假定する。
 
反歌〔二字右○〕
 
○反歌 この二字原本にない。補つた。
 
阿米都知能《あめつちの》 等母爾比佐斯久《ともにひさしく》 伊比都夏等《いひつげと》 許能久斯美多麻《このくしみたま》 意可志家良斯母《おかしけらしも》     814
 
〔釋〕 ○あめつちのともに 天地と共に。天地と〔傍点〕が天地の〔傍点〕と音便で轉じた。別にトに通ふの辭があるのではない。○いひつげと 語り繼げとて〔右○〕。○おかしけらしも 「意」原本に志〔右△〕とある。田中大秀説によつて改めた。長歌にも「置かし給ひて」とある。志可志《シカシ》は敷く〔二字傍点〕の敬相で、こゝには不當。
【歌意】 足姫(ノ)命が〔四字右○〕、天地と一緒に、久しくいひ傳へてゆけというて、この靈石はお取置きなされたらしいわい。
 
〔評〕 尊いことかなと感激してゐる。玉石混淆といふが、石の質の佳いのは即ち玉だから、認識次第で石を玉といふことが出來得る。まして鎭懷石は白色で磨いたやうに美しいのであつたさうだ。
 
右(ノ)事傳(ヘ)言(フハ)、那珂《ナカノ》郡|伊知郷《イチノサト》蓑島(ノ)人、建部《タケベノ》牛麻呂是也。
 
鎭懷石の事を自分に話し傳へたのはこれ/\の人だとの註記。○那珂郡伊知郷衰島 那珂郡は今筑紫郡に併合(1461)された。地名辭書にいふ、伊知郷は海部郷の別名ならんと。續風土記に、簑島は今住吉の枝村の名に殘るとある。○建部牛麻呂 傳未詳。
 
宴《うたげしてよめる》2太宰(の)帥大伴(の)卿(の)宅(に)〔八字左○〕1梅花(の)歌三十二首并序
 
○宴太宰帥大伴卿宅 この八字、原本にない。ないのが原形であらう。但この卷前後出入の混線を避ける爲に、題詞を目録に依つて補つて來た書式に準じて、拾穗抄に隨つて補つた。△地圖 挿圖217(744頁)を參照。
 
 天平二年正月十三日、萃《アツマリ》2于帥老之宅(ニ)1申(ブ)2宴會(ヲ)1也。于時(ニ)初春令月、氣|淑《ヨク》風|和《ナゴミ》、梅(ハ)披(キ)2鏡前(ノ)粉(ト)1、蘭(ハ)薫(ル)2珮後之香(ト)1。加以《シカノミナラズ》、曙嶺移(シ)v雲(ヲ)、松(ハ)掛〔左△〕(ケテ)v羅(ヲ)而傾(ケ)v蓋《カサヲ》、夕岫結(ビ)v霧(ヲ)、鳥(ハ)封(ゼラレテ)v※[穀の禾が糸]而迷(フ)v林(ニ)、庭(ニハ)舞(フ)新蝶(アリ)、空(ニハ)歸(ル)故鴈(アリ)。於是《コヽニ》、蓋《カサトシ》v天(ヲ)坐《シキヰトシ》v地(ヲ)、促(シテ)v膝(ヲ)飛(バシ)v觴(ヲ)、忘(レ)2言(ヲ)一室之裏(ニ)1、開(ク)2衿(ヲ)煙霞之外(ニ)1。淡然(トシテ)自(ラ)放《ホシイマヽニ》、快然(トシテ)自(ラ)足(リヌ)。若(シ)非(ズバ)2翰苑(ニ)1何(ヲ)以(テ)※[手偏+慮]《ノベム》v情(ヲ)。詩(ニ)紀〔左△〕(ス)2落梅之篇(ヲ)1、古今夫(レ)何(ゾ)異(ナラム)矣。宜(シ)d賦(シ)2園梅(ヲ)1、聊(カ)成《ヨム》c短詠(ヲ)u。
 
〔釋〕 ○萃于帥老之宅 太宰の老帥旅人卿の宅に集つての意。○申宴會 申は安らかに暢びやかなる貌。○于時初春令月―― 文選晉の張衡の歸田賦の仲春(ノ)令月、時和(ミ)氣清(シ)に倣つた。○氣淑 淑は清いこと。○梅披鏡前之粉 梅は婦人の鏡臺前の白粉のやうに咲くの意。宋書又は初學記に、宋(ノ)武帝(ノ)女壽陽公主、人日臥(ス)2於含章殿(ニ)1、簷(1462)下(ノ)梅花落(チ)2於額上(ニ)1、成(ス)2五出(ノ)花(ヲ)1、拂(ヘドモ)v之(ヲ)不v去(ラ)、自後有(リ)2梅花(ノ)粧1とあるが、本文はこの典故に及ばない。○蘭薫珮後之香 蘭は男子の佩《オビモノ》のあとに殘る香のやうに薫るの意。この蘭は春蘭であらう。楚詞に、紐(ニシ)2秋蘭(ヲ)1以(テ)爲(ス)v珮(ト)。珮は玉の帶物。○曙嶺移雲 明方の山に雲が動いての意。○松掛羅而傾蓋 松は雲の輕羅を掛けて蓋《カサ》を傾けた如く掩ひの意。松の梢を蓋に譬へていふ。傾蓋は孔子家語に傾(ケテ)v蓋(ヲ)語(ル)とある。隋の煬帝の老松詩に、獨留(メ)2塵尾(ノ)影(ヲ)1、猶横(フ)2偃蓋(ノ)陰(ヲ)1。「羅」原本に蘿〔右△〕とあるは非。羅は薄物の帛で、蓋にも張る。諸註は誤る。○夕岫結霧 夕方の山が霧を立てての意。岫は文選の注に山(ノ)穴とあるが、嶺をもいふ。和名抄に久木《クキ》と訓んである。○鳥封※[穀の禾が糸]而迷林 鳥は薄霧の籠織《コメオリ》に閉ぢられて、おのが塒の林に迷ふの意。宋玉の神女賦に、動(シテ)2霧※[穀の禾が糸](ヲ)1以(テ)徐歩(ス)兮と見え、註に※[穀の禾が糸](ハ)今之輕紗とある。又史記司馬相加傳の重霧※[穀の禾が糸]の註に言(フ)2細(カニテ)加(キヲ)1v霧(ノ)とある。古義に※[穀の禾が糸]を〓の誤かとあるは非も亦甚しい。○蓋天坐地 坐は座と通用。淮南子に以(テ)v天(ヲ)爲(ス)v蓋(ト)。又劉伶の酒徳頌に幕(トシ)v天(ヲ)席(トス)v地(ヲ)。○促膝 膝を近づけること。梁陸※[人偏+垂]の詩、促(ス)v膝(ヲ)豈異(ナラムヤ)v人(ニ)の註に促(ハ)近(ヅイテ)v膝(ニ)坐(スル)也とある。○飛觴 杯を廻らすこと。觴は酒巵の總名。○忘言一室之(1463)裏 席上にゐて口利くことも忘れの意。蘭亭記の悟(ル)2言(ヲ)
一室之内(二)1を翻轉した。忘言は莊子に得(テ)v意(ヲ)而忘(ル)v言(ヲ)、陶潜の詩に欲(シテ)v辯(ゼント)已(二)忘(ル)v言(ヲ)。○開衿煙霞之外 心を外界の景色に馳せるの意。衿は襟と同じで、心の義に用ゐる。煙霞は霞であるが、唐書田遊岩傳に煙霞(ノ)痼疾と見え、山水の風光をいふ。○淡然自放 さらりとして氣儘での意。卷十七、大伴池主の歌序にも、淡交促(シ)v席(ヲ)、得(テ)v意(ヲ)忘(ル)v言(ヲ)。○快然自足 蘭亭記の句。○非翰苑何以※[手偏+慮]情 詩文でなくては、何で以てこの情を舒べることが出來ようぞの意。翰は筆のこと。よつて翰苑を詩文の事に用ゐた。○詩紀落梅之篇 詩には落梅の詩を擧げ記してあるの意。紀は識《シル》すの意。宋の飽照の樂府に梅花落の篇がある。
  中庭雜樹多(シ)、偏(ニ)爲(ニ)v梅(ノ)咨嗟(ス)、問(フ)v君(ニ)何(ゾ)獨然(ル)、念(フ)2其霜中能(ク)作(シ)v花(ヲ)、霜中能(ク)作(スヲ)1v實、搖蕩(タル)春風媚(ブ)2春日(ニ)1、念(フ)爾零落逐2寒風1、徒(ヨ)有(リテ)2霜華1無(シ)2霜質1。
この曲魏晉以後行はれ、樂府雜録に、笛羌樂也とある。毛詩召南の標有梅は典故としてはよいが、梅子の落つることで、花に交渉がない。「詩」原本に請〔右△〕とあるは誤。京本による。○古今夫何異矣 昔も今も何で違はうぞの意。○宜賦園梅聊成短詠 庭園の梅を詠じて聊か短歌を作りなさいの意。
 契沖いふ、この篇は晉の王羲之の蘭亭記を學んだもので、作者は山上憶良だらうと。蘭亭記はさもあらう、作者に至つては旅人卿とする説もある。新考はこれを破していふ。
  もし旅人の作ならば、萃于帥老之宅の上に主格の語あるべく、又帥老は自稱にあらで、親愛の意を帶びたる他稱なるべく思はる。又もし自稱ならば、第八首の下に主人と書かで帥老と書くべきなり。
と。然し歌の排列の順序を考察すると、必ず旅人卿自身か或は旅人卿の意を承けた隨身者の集録と見られる。さては序文も旅人卿の自撰となる。(1464)旅人卿のこの梅花宴は實に一代の清遊で、後人の欽羨する處であるが、或は梁の何遜の梅花宴を學んだものではあるまいか。梁書に
  何遜字(ハ)仲言、東海※[炎+立刀](ノ)人、爲(ル)2梁(ノ)法曹(ノ)水部員外郎(ト)1。揚州(ノ)廨宇(ニ)有(リ)v梅盛(ニ)開(ク)、遜常(ニ)吟2詠(ス)其下(ニ)1。後居(リ)2洛陽(ニ)1、思(ウテ)v梅(ヲ)不v得。請(フ)3再(ビ)任(ゼンコトヲ)2揚州(ニ)1。從(フ)v之(ニ)。既(ニ)至(ル)、適(マ)梅花盛(ニ)發(ク)。開(イテ)2東閣(ヲ)1延(キ)2文士(ヲ)1、嘯傲(スルコト)終日。
と見え、開東閣延文士は旅人卿のこの宴に示唆を與へたものらしく、その梅花の詩は、明人高青邱をして何郎去(ツテ)後無(シ)2好詠1とまで感歎させてゐる。
 
武都紀多知《むつきたち》 波流能吉多良婆《はるのきたらば》 可久斯許曾《かくしこそ》 鳥梅乎乎利都都《うめををりつつ》 多努之岐乎倍米《たぬしきをへめ》【大貮紀卿】     815
 
〔釋〕 ○むつきたち 正月になり。「むつき」は正月のこと。(1)睦《ム》月の意。(古設)(2)本《モト》つ月の約(眞淵設)(3)蒸す月の略(古一説)(4)身《ム》月の意(古義)。○うめ 烏梅の字面はウメに當てたまでで、別に意味はない。○をりつつ 皆人が各の折るので「つつ」といつた。○たぬしきをへめ 「たぬしき」は樂しき事〔右○〕をの意。「をへめ」は竟《ヲ》へめの意。これは眞淵宣長の説による。舊説は、樂しきを經《ヘ》めの意とする。○大貮 「太宰府を見よ(七九三頁)。○紀卿 名は未詳。紀氏は武内宿禰の後裔の名家。大貮は四位相當官である。四位は卿と公稱する資格はないが、私には尊敬の意で呼びもした。紀卿が大貮に任じたのは天平元年二月丹比縣守《タヂヒノアガタモリ》遷任の替であつたらう。(1465)この紀卿を假に紀(ノ)男人《ヲヒト》とすると、續紀天平十年十月の條に大貮で卒したとある。大貮としての在職年限が永過ぎるが、特別事情もあるから一概には疑へない。天平五年十月に旅人卿は太宰帥を罷め、藤原武智麻呂が就任したが、武智麻呂は遙任なので、既に經驗のある男人を大貮に再任せしめたと、考へられぬこともない。
【歌意】 毎年〔二字右○〕正月になり春が來たら、かうやつてさ、皆で以て梅を折り折りして、樂しみを極め盡しませう。
 
〔評〕 筑紫は暖地だから正月に梅もさぞ咲いたことであらう。この東風第一番の花を賞翫することは、
  春のうちの樂しき終へば梅の花手折り持ちつつ遊ぶにあるべし (卷十九−4174)
などその等類は多いが、殊にこれは春正を賀しつゝ諸人會同して偕に樂む趣が加はつてゐる。これが平安時代の調子となると、左のやうな風姿のものになる。
   新しき年のはしめにかくしこそ千年をかねて樂しきをへめ (古今集大歌所歌−1096)
 梅花を賞美することは、わが上代の文獻には見えない。飛鳥藤原時代に至つて、漸く左の三句を擧げることが出來る。
  素梅開(キ)2素靨(ヲ)1。嬌鶯弄(ス)2嬌聲(ヲ)1。(葛野王、春日翫2鶯梅1。)
  楊絮未(ダ)v飛(バ)蝶先(ヅ)舞(ヒ)。梅芳酒遲(クシテ)花早(ク)臨(ム)。(紀(ノ)朝臣古麻呂、望v雪。)
  折(ル)v花(ヲ)梅花(ノ)側。酌(ム)v醴(ヲ)碧瀾(ノ)中。(大學頭調(ノ)忌寸老人、三月三日應v詔。)
これが奈良時代に入ると、俄然盛になり、懷風藻を檢すると、諸家の作殆ど九句に及んでゐる。聖武天皇の天平十年には、
  秋七月癸酉。天皇御(シテ)2大藏省(ニ)1覽(タマフ)相撲《スマヒヲ》1。晩頭(ニ)御(ス)2西(ノ)池(ノ)宮(ニ)1。因(テ)指(シ)2殿前(ノ)梅樹(ヲ)1、勅(シテ)2右衛士(ノ)督|下道《シモツミチノ》朝臣眞備及(ビ)諸(ノ)才子(ニ)1曰(タマハク)、人(1466)皆有(リ)v志。所v好(ム)不v同(ジカラ)。朕去春欲(シテ)v翫(バント)2此樹(ヲ)1、而未v及(バ)2賞翫(スル)1、花葉遽(カニ)落(チテ)、意甚(ダ)惜(ム)焉。宜(シト)d各賦(シテ)2春意(ヲ)1詠(ズ)c此(ノ)梅樹(ヲ)u。文人三十人|奉《ウケテ》v詔(ヲ)賦(ス)v之(ヲ)。因(テ)賜(フ)2五位已上(ニハ)※[糸+施の旁]二十疋。六位已下(ニハ)各六疋(ヲ)1。(續紀卷十三)
と見え、當時いかに珍しがつて梅花を愛賞したかゞ諾かれよう。
 梅は始め支那の江南地方から移植されたものであることは、殆ど定説になつてゐる。蓋し毛詩から始めて續出する支那歴代の文獻に刺衝された結果であらう。否それ以上に、生活上必須の理由があつての事と考へられる。即ちその實が藥物として又食料として重大なる効果をもつので、實用的の意義からも播殖させたものであらう。
 
烏梅能波奈《うめのはな》 伊麻佐家留期等《いまさけるごと》 知利須義〔左△〕受《ちりすぎず》 和我覇能曾能爾《わがへのそのに》 阿利己世奴加毛《ありこせぬかも》 【少貮小野大夫】     816
 
〔釋〕 ○ちりすぎず 盛であるをいふ。「義」原本に蒙〔右△〕とあるは誤。○わがへ 我が家《イヘ》の略。わぎへ〔三字傍点〕に同じい。○ありこせぬかも 既出(三六五頁)。○少貮 「太宰少貮」を見よ(七九三頁)。○小野大夫 小野(ノ)老《オユ》のこと。傳既出(七九三頁)大夫は四五位の稱。
【歌意】 梅の花が、今こちら〔三字右○〕に咲いてゐるやうに、散り過ぎずに、私の庭にあつてくれないものかなあ。
 
〔評〕 羨望の餘は欲求となつた。即ち間接に、折柄滿開の帥老宅の園梅を讃美したもの。平淡の裏に巧緻を藏してゐる。
 
(1466)烏梅能波奈《うめのはな》 佐吉多流僧能能《さきたるそのの》 阿遠也疑波《あをやぎは》 可豆良爾須倍久《かづらにすべく》 奈利爾家良受夜《なりにけらずや》 【少貮粟田大夫】     817
 
〔釋〕 ○あをやぎ 青柳。「やぎ」はヤナギ(楊ノ木)の中略。楊柳科の落葉喬木。おもに垂《シダリ》柳を稱する。春葉より先に暗紫緑色の花を開き、晩春その果熱して絮が雪の如く飛散する。○かづら 既出(九四六頁)。○なりにけらずや 「けら」は助動詞けり〔二字傍点〕の第一變化。「や」は反動辭。○粟田大夫 この人も小野老と同役の少貮。粟田は氏。續紀に、和銅七年正月從六位下粟田朝臣|人上《ヒトカミニ》授(ク)2從五位下(ヲ)1、神龜元年二月正五位下、天平元年三月正五位上、同四年十月爲(ル)2造藥師寺(ノ)大夫(ト)1、同七年四月從四位下、同十年六月武藏守從四位下(ニテ)卒(ス)とある。この人上の事か。
【歌意】 梅の花の咲いた園の青柳は、折も折〔三字右○〕、※[草冠/縵]にされよう程に、なつたのでないことかい。
 
〔評〕 諸君よ、さあ柳※[草冠/縵]して梅に遊ばうぞの餘意がある。
  命のまたけむ人はたたみごも平群の山の熊橿の葉をうづにさせそのこ (古事記、中、倭建命)
  卷もくのあなしの山の山人と人も見るがに山かづらせよ (古今集、卷二十)
など、古人は時に臨んで、草木の枝葉や花を髪挿にし※[草冠/縵]にして興じたものであつた。會衆の皆が梅にばかり關心してゐる中で、麹塵の絲の新柳の※[草冠/縵]にその逸興を促したのは、作者の才慧を示すものであるが、賦園梅の題意外に逸してゐる。柳を※[草冠/縵]《カヅラ》く歌はこの時分から多くなつた。
 
(1468)波流佐禮婆《はるされば》 麻豆佐久耶登能《まづさくやどの》 烏梅能波奈《うめのはな》 比等利美都都夜《ひとりみつつや》 波流比久良佐武《はるびくらさむ》 【筑前守山上大夫】     818
 
〔釋〕 ○まづさく 「梅の花」に係る。○みつつや 「や」は疑辭。○山上大夫 憶良のこと。傳既出(四六頁、二三四頁)。
【歌意】 春になると、一番に咲くこの宿の梅の花を、獨見い/\して、春の日を暮さうことか。
 
〔評〕 あゝ勿體ないの余意がある。衆と偕に樂しまうとする人情の温さを取る。「春されば」「春日くらさむ」、春の語の重複は太だ卒易の憾がある。
 
余能奈可波《よのなかは》 古飛斯宜志惠夜《こひしげしゑや》 加久之阿良婆《かくしあらば》 烏梅能波奈爾母《うめのはなにも》 奈良麻之勿能※[死/心]《ならましものを》 【豐後守大伴大夫】     819
 
〔釋〕 ○こひしげしゑや 「ゑや」はゑ〔傍点〕とや〔傍点〕との複合歎辭。よしゑやし〔五字傍点〕のエヤは構成が違ふ。同項を見よ(三八六頁)。○を 「※[死/心]」は怨と同字。呉音ヲン。その短音を充てた。○大伴大夫 傳未詳。大伴三依とする説は非。三依の傳は既出(一一六七頁)。
【歌意】 世の中は戀の思がうるさいわいなあ。こんな始末なら、人間をやめて、いつそ物思のない〔十四字右○〕、梅の花にもならうものをさ。
 
〔評〕 知れ切つた實現不可能の希望をも、尚愚痴らしくいはずには居られぬ處に、さし迫つた心の苦悩があるの(1469)のだ。この苦悩を「戀」といつてゐる。思ふにこれは廣い意味での戀で、滿座の人達の誰れもがもつ覊人の郷愁であらう。時はこれ正月の十三日、奈良京では元旦の朝拜から始めて、七日の五位以上を召される宴会など、その他公私新正の營みに、何かにつけて思出種が多いのである。然るに軒頭の梅は無關心に、その清高の氣を吐いてゐるではないか。そこに無量の感愴がおこる。
 
烏梅能波奈《うめのはな》 伊麻佐可利奈理《いまさかりなり》 意母布度知《おもふどち》 加射之爾斯弖奈《かざしにしてな》 伊麻佐可利奈理《いまさかりなり》 【筑後守|葛井《フヂヰノ》大夫】     820
 
〔釋〕 ○かざし 既出(一五四頁)。○おもふどち 「どち」は口語のドウシ〔三字傍点〕である。神功皇后紀の御歌に「うま人はうま人|奴知《ドチ》」とある。○てな 既出(三六七頁)。○葛井大夫 葛井大成のこと。傳既出(十一九七頁)。
【歌意】 梅の花が今眞盛であるわ。思ふ同志で頭挿にしませうよ、今眞盛であるわ。
 
〔評〕 睦魂《ムツタマ》會《ア》へる友達と梅花をかざして遊ぶ、人間清福の極みであらう。「今盛なり」の反覆は「思ふどち頭挿にしてな」の逸興を促進する背景である。この反覆の句法は、卷二「櫻田へ鶴《タヅ》鳴き渡る」の評語を參照(六九四頁)。
 
(1470)阿乎夜奈義《あをやなぎ》 烏梅等能波奈乎《うめとのはなを》 遠理可射之《をりかざし》 能彌弖能能知波《のみてののちは》 知利奴得母與斯《ちりぬともよし》 笠沙彌《カサノサミ》     821
 
〔釋〕 ○うめとのはなを 初句より續けて見ると、青柳と梅との花をの意で、花は青柳にも梅にも隷屬する。柳は春葉より先に暗紫緑色の花を著く。提示辭のトは、必ず各語の下に附けるのが正格だが、これは「あをやなぎ」の下のトを略いた。この例は集中にまゝある。○のみて 酒を〔二字右○〕飲みて。○笠沙彌 滿誓のこと。傳既出(八〇六頁)。笠は氏、沙彌は既出(八〇六頁)。
【歌意】 柳の花と梅の花とを折つて、頭挿にさして、杯を擧げた後は、それらの花が散つたとても構はないよ。
 
〔評〕 初春の景物として梅柳を竝稱する例は、漢詩に古くからあるが、それを挿頭して遊ぶに至つては、特にわが古代人の業くれである。
 愛すべき梅柳の花挿頭、それをすら「散りぬともよし」と許容したのは、一寸人耳を驚かすが、よく見れば「飲みての後」といふ條件付であつた。さては今日の興宴を極度にもてはやした反射的言辭であることが諾かれよう。坂上郎女の
  酒杯に梅の花浮けおもふどち飲みての後は散りぬともよし (卷八−1656)
の下句は全くこれと同じい。何れが先出か。
 
(1471)和何則能爾《わがそのに》 宇米能波奈知流《うめのはなちる》 比佐可多能《ひさかたの》 阿米欲里由吉能《あめよりゆきの》 那何列久流加母《ながれくるかも》 【主人《アロジ》】     822
 
〔釋〕 ○ながれくる 雪の降り頻《シキ》るを流る〔二字傍点〕といふ。「ながらふる」を見よ(二二六頁)。○主人 帥老即ち、今日の花梅宴の主人公旅人卿のこと。
【歌意】 私の庭に梅の花が散るわ、こりやあ〔四字右○〕、天から雪が續いて降つてくるかまあ。
 
〔評〕 梅の散るを見て雪を聯想するは凡常の事ながら、一切譬喩の辭を著けぬ處に、この歌のよさがある。感情だけで思索の迹を遺さず、「天より――流れくるかも」と大らかに長け高く調べ成した。流石に旅人その人を想望させるに足りる。又この卿の詩には、
  梅花亂(レ)2殘岸(ニ)1、 煙霞接(グ)2早春(ニ)1。(初春侍v宴、懷風藻)
の句もある。天平十二年十一月(九日)その子家持は父のこの歌に追和して、
  みそのふの百木の梅の散る花のあめに飛びあがり雪と降りけむ (卷十七、追和太宰之時梅花、−3906)
と詠んだ。
 序に梅花歌の席次に就いて一言する。公席では官位の順序で座次がきまる。されば歌の排列も帥老自身の作を第一に置くべきだが、自分がこの宴會の催主なので、謙遜して、配下ながら大貮少貮以下諸國守の四五位の人人、及び造觀音寺別當たる滿誓沙彌を上座に推し、自分は、こゝに座を占めた。他は六七位の身分の人なので、下位に序でた。中に壹岐守があるが、それは島司に等しいもので、官等は六七位程度のものだつた。
 
(1472)烏梅能波奈《うめのはな》 知良久波伊豆久《ちらくはいづく》 慈可須我爾《しかすがに》 許能紀能夜麻爾《このきのやまに》 由企波布理都々《ゆきはふりつつ》 大監大伴氏|百代《モヽヨ》     823
 
〔釋〕 ○ちらく 散る〔二字傍点〕の延言。○いづく 既出(七〇〇頁、七一九頁)。○しかすがに 流石《サスガ》ニはこの約語。○きのやま 既出(一一九八頁)。○大監 「太宰大監」を見よ(八九七頁)。○大伴氏百代 傳既出(八九七頁)。
 △地圖及寫眞 挿圖330。(一一九八頁)331(一一九九頁)を參照。
【歌意】 梅の花が散るといふは、何處ぞい、それなのに、この城の山には雪は降り/\して、寒いことよ。
 
〔評〕 城の山は葛井《フヂヰノ》大成が「今よりは城の山道はさぶしけむ」(卷四)と歌つた如く、氣疎い山道で、宰府を望むその北側は殊に寒いから、隨つて筑紫大野に見ぬ雪がこゝでは降る。想ふに作者は宰府の梅花宴の後、城の山を越えた折の感想か。もし必ず當座の作とすれば、城の山を題詠的に扱つて詠んだものであらう。實際帥老宅の梅花は、「天より雪の流れくるかも」とある如く、盛に散つてゐたのである。然るに城の山は春寒料※[山+肖]として雪がちらつく。さし當つた眼前の景致を基準とすると、甚しい季候の差違に喫驚せざるを得ない。なまじひに色相が通うてゐるだけ、雪の花より花の雪が聯想されるので、乃ちわざとそ知らぬ顔を作つて、「散らくはいづく」の疑問の石を投じ、一環の波紋を描いてみた。そこに不盡の詩味が横溢する。
 
烏梅乃波奈《うめのはな》 知良麻久怨之美《ちらまくをしみ》 和家曾乃乃《わがそのの》 多氣乃波也之爾《たけのはやしに》 于具比須奈久母《うぐひすなくも》 【少監阿氏|奥島《オキシマ》】     824
 
(1473)〔釋〕ちらまくをしみ 散らむことの〔三字右○〕惜しさに。○うぐひす 燕雀類の鳥。支那にいふ鶯は黄鳥、黄※[麗+鳥]金衣公子などもいひ、毛詩に、出(デテ)v自(リ)2幽谷1、遷(ル)2于喬木(二)1とあつて、日本の鶯とは異る。○なくも 「も」は歎辭。○少監 「太宰府」を見よ(七九頁)。○阿氏奥島 傳未詳。阿氏は阿部氏か阿刀氏かの略。以下大抵氏を修《ツ》めてある。官位の卑い爲と名族でない爲とであらう。
【歌意】 梅の花の散らうことが惜しさに、私の園の竹の林に、鶯があれ鳴くわい。
 
〔評〕 宴は帥老の宅である。然るに「わが園の」といつてゐる。蓋し歌序に「賦園梅」とある園梅は、廣い意味に解釋すべきで、帥老宅自宅の差別なしに、園中の梅を詠ずればよいのであつた。
 竹の林の鶯は杜甫の詩にも、「春日鶯啼(ク)修竹(ノ)裏」と見えるが、その鶯聲を自分と同じ心に落梅を惜む有意的行爲に見做した。然しそれはわざとの技巧ではなくて、作者の感情が鶯と同化したのである。
 
烏梅能波奈《うめのはな》 佐岐多流曾能能《さきたるそのの》 阿乎夜疑遠《あをやぎを》 加豆良爾志都都《かづらにしつつ》 阿素※[田+比]久良佐奈《あそびくらさな》 少監土氏|百《モヽ》村     825
 
〔釋〕 ○土氏百村 土氏は土師氏の略。「土」原本に士〔右△〕とあるは誤。續紀、養老五年正月の條に、正七位上土師宿禰百村の名が見える。
【歌意】 梅の花の咲いた、この園の青柳の枝を、※[草冠/縵]にしながら遊びくらさう。
 
〔評〕 柳※[草冠/縵]で梅花のもとに遊ぶ春興を描いて、會同の人達にその實行を慫慂してゐる。流滑なるその諧調は打聞(1474)くからに快い。
 
有知奈※[田+比]久《うちなびく》 波流能也奈宜等《はるのやなぎと》 和家夜度能《わがやどの》 烏梅能波奈等遠《うめのはなとを》 伊可爾可和可武《いかにかわかむ》 【大典史氏大原】     826
 
〔釋〕 ○うちなびく 春の枕詞。既出(六七七頁)。○わかむ 判かむの意。○大典 既出(一一九一頁)。○史氏大原 傳未詳。史氏は史部《フミベ》氏の略。
【歌意】 春の青柳と私の宿の梅の花とを、その優劣を〔三字右○〕、どう判定しようかえ。とても判からない。
 
〔評〕こんな風流な閑問題に、全力を傾注して首を捻つてゐる、作者の態度が面白い。
 
波流佐禮波《はるされば》 許奴禮我久利弖《こぬれがくりて》 宇具比須曾《うぐひすぞ》 奈岐弖伊奴奈流《なきていぬなる》 烏梅我志豆延爾《うめがしづえに》 【少典山氏若麻呂】     827
 
〔釋〕 ○こぬれがくりて 梢に隱れて。「こぬれ」は木之末《コノウレ》の約。古義に、「弖」を之〔右△〕の訣としてカクリシ〔四字傍線〕と訓んだのは非。○いぬなる 去《イ》ぬなる。眞淵及び古義は、寐《イ》ぬなる意に解した。○しづえ 下枝。○少典 既出(一一八七頁)。○山氏若麻呂 山口(ノ)忌寸《イミキ》若麻呂のこと。既出(一一八七頁)。
【歌意】 春になると、他の木の〔四字右○〕梢隱れをして、鶯がさ鳴いて行くわ、梅の下枝にさ。
 
〔評〕 鶯の枝移りは遂に梅花に至つてとゞまる趣である。詩の小雅に、緜蠻(タル)黄鳥、止(ル)2于丘阿(ニ)1、また出(デ)v自(リ)2幽谷1、(1475)遷(ル)2于喬木(二)1などの意から、鶯に枝移りはいひ慣らされたらしい。
 
比等期等爾《ひとごとに》 乎理加射之都都《をりかざしつつ》 阿蘇倍等母《あそべども》 伊夜米豆良之岐〔左△〕《いやめづらしき》 烏梅能波奈加母《うめのはなかも》 【大判事舟氏麻呂】     828
 
〔釋〕 ○めづらしき 「岐」原本に波〔右△〕とあるは誤。○大判事 太宰府職員令に、大判事一人從六位下、小判事一人正七位下と見え、共に管内上申する處の犯状を案覆し、刑名を斷定し、爭訟を判決する職。○舟氏麻呂 傳未詳。舟氏は船子氏のことか。
【歌意】 人毎に折つて頭挿して遊ぶけれど、それでもやはり珍しい、梅の花ではあることよ。
 
〔評〕 理窟つぽく、梅花の見ても見飽かぬことを主張した。人毎に梅折りかざすは、帥老宅の興宴の光景であらう。調は平安期に近い。
 
烏梅能波奈《うめのはな》 佐企弖知理奈婆《さきてちりなば》 佐〔左○〕久良婆那《さくらばな》 都伎弖佐久倍久《つぎてさくべく》 奈利爾弖阿良受也《なりにてあらずや》 【藥師《クスリシ》張氏|福子《フクシ》】     829
 
〔釋〕 ○さきてちりなば 「咲きて」は添言で、「散りなば」が主である。○さくらばな 「佐」原本に脱、神本その他によつて補つた。○藥師 太宰府職員令に、醫師二人正八位上と見え、診候し病を療することを掌る。佛足石の歌に久須理師《クスリシ》、和名抄に、諸國醫師云々、俗(ニ)云(フ)久須之《クスシ》とある。○張氏福子 傳未詳。武智麻呂傳に、方(1476)士として張福子の名が見える。張は氏、福子は名。氏名共に音讀するがよい。韓唐の歸化人かその後裔かであらう。女性ではない。
【歌意】 梅の花が散るならば、櫻の花があとから續いて咲くやうに、なつて居るではないかいや。
 
〔評〕 衆口一致落梅を惜むに對して、何もさう落膽するに當らない、まだ櫻があるよと、一寸異議を唱へてみた。主題の梅には親切でないが、一座の空氣轉換には、これも面白い。
 
萬世爾《よろづよに》 得之波岐布得母《としはきふとも》 烏梅能波奈《うめのはな》 多由流己等奈久《たゆることなく》 佐吉和多流倍子《さきわたるべし》 筑前(ノ)介佐氏|子首《コビト》     830
 
〔釋〕 〇としはきふとも 年は來經《キフ》とも。○筑前介 介は國守を見よ(一四〇一頁)。○佐氏子首 傳未詳。佐氏は佐伯氏の略か。
【歌意】 萬年とまで年は過ぎても、梅の花は絶える事なく、今日のやうに〔六字右○〕咲きとほすことであらう。
 
〔評〕 「梅の花」を櫻花〔二字傍点〕としてもその意は通ずる。然し櫻では初二句が活きない。やはり新年の初頭に於いての感想が、その基調を成してゐるから、梅の花は決して動かない。一意到底に力強く押切つた處に、この歌の充實性を見る。葢し帥老宅の園梅を言壽いで賀意を表したのである。
 
(1477)波流奈例婆《はるなれば》 宇倍母佐枳多流《うべもさきたる》 烏梅能波奈《うめのはな》 岐美乎於母布得《きみをおもふと》 用伊母禰奈久爾《よいもねなくに》  【壹岐(ノ)守板氏|安《ヤス》麻呂】     831
 
〔釋〕 〇うめのはな の下、よ〔右○〕の歎辭を含む。○よいもねなくに 夜|寢《イ》も寐《ネ》ぬのに。○きみを 梅花を斥していふ。○板氏安麻呂 板氏は板茂《イタモチ》氏の略。連《ムラジ》姓。續紀に、天平七年冬九月、從六位下板茂連安麻呂云々と見え、その時右大史であつた。
【歌意】 今が春なので、道理でまあ咲いたこの梅の花よ、お前を思ふとて〔右○〕、夜も碌々寢もされぬになあ。
 
〔評〕 梅花は古人のいふ如く百花の魁として、第一に春信を齎す。これ「春なればうべも咲きたる」である。されば親愛の餘り、遂に「君」の敬稱を以て呼ぶに至つた。王子猷が竹を指して、何(ゾ)可(ケンヤ)3一日(モ)無(カル)2此君〔二字傍点〕1といつたのに似てゐる。戀愛の作に、詩には轉輾反側、歌にはいも寢ぬ〔四字傍点〕が紋切型であるが、それを非情の梅に應用したのは新案である。
 
烏梅能波奈《うめのはな》 乎利弖加射世留《をりてかざせる》 母呂比得波《もろひとは》 家布能阿比太波《けふのあひだは》 多努斯久阿流倍斯《たぬしくあるべし》 【神司《カムツカサ》荒氏|稻布《イナフ》】     832
 
〔釋〕 ○あるべし この「べし」は推量の意で命令ではない。○神司 太宰府職員令に主神《カムツカサ》一人と見え、諸祭詞の事を掌る。○荒氏稻布 傳未詳。荒氏は荒城氏か。稻布は稻生の義か。
【歌意】 梅の花を手折つて、頸挿してゐる皆人達は、今日一日は、物思ふこともないであらう。
 
(1478)〔評〕 今日の梅花宴をもてはやした。これは間接に主人帥老への挨拶となるのである。輕々といひ棄てた處に、淡々とした味ひがある。
 
得志能波爾《としのはに》 波流能伎多良婆《はるのきたらば》 可久斯己曾《かくしこそ》 烏梅乎加射之弖《うめをかざして》 多努志久能麻米《たぬしくのまめ》 【大令史、野氏宿奈麻呂】     833
 
〔釋〕 ○としのはに 年の端《ハ》に。卷十九、家持の自作の註に、毎年謂(フ)2之(ヲ)等之乃波《トシノハト》とある。○大令史 太宰府職員令に、大令史一人、小令史一人と見え、判文を抄寫することを掌る。○野氏宿奈麻呂 傳未詳。野氏は小野氏か野上氏か。
【歌意】 毎年春が來たならば、かうしてさ、梅花を挿頭して、樂しく酒を〔二字右○〕飲まうよ〔右○〕。
 
〔評〕 上なる紀の大貮殿の作「む月たち春のきたらば」と同じ鑄型から生まれたものだが、これは酒を飲まうといふ景物が付いてゐる。今日の梅花宴を取成したもので、作者は笠沙彌と同じ左利であらう。
 
烏梅能波奈《うめのはな》 伊麻佐加利奈利《いまさかりなり》 毛毛等利能《ももとりの》 己惠能古保志枳《こゑのこほしき》 波流岐多流良斯《はるきたるらし》 【少令史田氏肥人】     834
 
〔釋〕 ○ももとり 澤山の鳥。百千鳥(古今集春上)といふに同じい。○こほしき 「ものこほしき」を見よ(二四四頁)。○少令史 上の「大令史」を見よ。○田氏肥人 傳未詳。田氏は田口氏か田部氏か。肥人は契沖訓はウマビト。(1479)或はクマビト(球磨人)か。
【歌意】 梅の花が今まつ盛りである。澤山の小鳥の聲の戀しい春が、來たことらしい。
 
〔評〕 鶯をはじめ百千鳥の喧しい囀は、春の奏する交響樂である。梅に依つて春を感じ、春に依つて百鳥の諧調を懷ふ。想は平凡であるが自然である。
 
波流佐良婆《はるさらば》 阿波武等母比之《あはむともひし》 烏梅能波奈《うめのはな》 家布能阿素※[田+比]爾《けふのあそびに》 阿比美都流可母《あひみつるかも》 【藥師高氏義通】     835
 
〔釋〕 ○高氏義通 傳未詳。高氏は高橋氏か。高向氏か。
【歌意】 春になつたら會はう、と思つてゐた梅の花、念が屆いて〔五字右○〕、今日の宴遊において、出合つたことであるよ。
 
〔評〕 擬人法で仕立てた點に巧者はあるが、修辭はいまだしい。
 
烏梅能波奈《うめのはな》 多乎利加射志弖《たをりかざして》 阿蘇倍等母《あそべども》 阿岐太良奴比波《あきたらぬひは》 家布爾志阿利家利《けふにしありけり》 【陰陽師礒氏法麻呂】     836
 
〔釋〕 〇陰陽師 太宰府職員令に陰陽師一人と見え、占筮し地を相《ミ》ることを掌る。○礒氏法麻呂 傳未詳。礒部氏か磯城氏か。
【歌意】 梅の花を見るばかりか〔六字右○〕、手折り頭挿して遊んでも、まだ飽き足らぬ日は、外ならぬ〔四字右○〕今日でさあつたわい。
 
(1480)〔評〕 今日の梅花宴を讃美したもの。率直さと素朴さとで見られる。
 
波流能努爾《はるのぬに》 奈久夜※[さんずい+于]隅比須《なくやうぐひす》 奈都氣牟得《なつけむと》 和何弊能曾能爾《わがへのそのに》 ※[さんずい+于]米何波奈佐久《うめがはなさく》 【※[竹冠/卞]師志氏|大道《オホミチ》】     837
 
〔釋〕 ○なくやうぐひす 鳴く鶯。「や」は間接の歎辭。○なつけむ 懷けむ。○うめがはな この「が」の辭の用法珍しい。○※[竹冠/卞]師 太宰府職員令に※[竹/弄]師一人と見え、物數を勘へ計ることを掌る。○志氏大道 傳未詳。志氏は志紀氏の略。武智麻呂傳に暦※[竹/弄]算の人として、志紀(ノ)連《ムラシ》大道の名が見える。同人であらう。
【歌意】 春の野に鳴くまあ鶯を、馴熟ませようとて、私の家の園に梅の花が咲くわ。
 
〔評〕 園梅に依つて春野の鶯を懷うた作者は、遂に梅を擬人して鶯を懷はしめた。
 
烏梅能波奈《うめのはな》 知利麻我比多流《ちりまがひたる》 乎加肥爾波《をかびには》 宇具比須奈久母《うぐひすなくも》 波流加多麻氣弖《はるかたまけて》 【大隅目榎氏|鉢麻呂《ハツマロ》】     838
 
〔釋〕 ○ちりまがひ 散ることの甚しきにいふ。○をかび 岡邊。山び、濱び、河びの類語で、邊《ベ》は古言にビ〔傍点〕とも轉じていふ。○はるかたまけて 「ふゆかたまけて」を見よ(五〇頁)。○目 フミヒト。國衙の四等官。和名抄に、國(ニ)曰(フ)v目(ト)皆|佐官《サクワン》。○榎氏鉢麻呂 傳未詳。榎氏は榎本氏か榎井氏か。鉢麻呂の鉢は字音のまゝに讀むが(1481)よい。或はマリと讀むか。古義訓はモヒ〔二字傍線〕。
【歌意】 梅の花が散り亂れる岡邊では、春を時として待ち設けて、鶯が鳴くことわ。
 
〔評〕 日當りのいゝ岡の邊、梅花は散つて霰の如く、時に鶯の流音を聞く、その春光の快さは無二であらう。然し「春かたまけて」が有意的である爲に、自然味が缺けた。「岡べ」は毛詩の緜蠻(タル)黄鳥、止(ル)2于丘阿(ニ)1から出たものか。
 
波流能能爾《はるののに》 紀利多知和多利《きりたちわたり》 布流由岐得《ふるゆきと》 比得能美流麻提《ひとのみるまで》 烏梅能波奈知流《うめのはなちる》 【筑前(ノ)目田氏|眞上《マカミ》】     839
 
〔釋〕 ○はるののに 野《ヌ》をノ〔傍点〕と轉じた。卷六の大能備《オホノビ》も大野邊である。既に人麻呂の歌「はた薄|志能《しの》をおしなべ」(卷一)は篠《シヌ》をシノと轉じてゐる。藤原朝時代以前から、後世の野《ノ》(ヌ)篠《シノ》(シヌ)慕《シノ》ぶ(シヌブ)の類が發生したと見てよからう。○きりたちわたり 曇り渡りて〔五字傍点〕といふに同じい。「きり」は動詞で、名詞の霧ではない。○まで 「提」は漢音テイ、呉音ダイ。その單音を清濁兩用とする。○田氏眞上 傳未詳。田氏は田中氏。續紀に、天平十四年外從五位下田中朝臣眞上(ヲ)爲(ス)2肥後守(ト)1とある。「上」原本に人〔右△〕とある。類本その他によつて改めた。
【歌意】 春の野に、曇り渡つて降る雪と、人が見るほどに、梅の花が散ることわ。
 
〔評〕 雪に霧るといふは、古今集(冬)に「天きる雪のなべて降れゝば」なども見えてゐる。著想は旅人卿の「天よ(1482)り雪の流れくるかも」に似てゐて格調が劣る。而も園梅の歌でなく野梅を詠じてゐる。                  覽
 
波流楊奈那〔左△〕宜《はるやなぎ》 可豆良爾乎利都〔左△〕《かづらにをりつ》 烏梅能波奈《うめのはな》 多禮可宇可倍志《たれかうかべし》 佐加豆蚊能倍爾《さかづきのへに》 【壹岐(ノ)目村氏|彼方《ヲチカタ》】     840
 
〔釋〕 ○はるやなぎ この句を「かづら」の枕詞とする説は取らない。「奈」の下の那〔右△〕は衍字。○をりつ 「都」原本に志〔右△〕とある。濱臣説に從つて改めた。○うかべし 「可」原本に脱。拾穗抄に依つて補つた。○へに 「へ」は上《ウヘ》の略。○村氏彼方 傳未詳。村氏は村岡氏か村山氏か。
【歌意】 春の柳は折つて、私の※[草冠/縵]にした、そのうへ梅の花を、誰れが浮べたのかえ、この盃のうへにさ。
 
〔評〕 「春柳」を枕詞とすると、「さし柳根はる梓《アヅサ》」(卷十三)の例もあるが、名詞が混雜してうるさいのみならず、濱臣はいふ、
  梅は頭挿にはすべし、※[草冠/縵]にはなすべからず。故に二句にて句を切りて心得べし。「志」は都〔右△〕の誤ならむ。
この説まことに當を得てゐる。
 柳を折つて※[草冠/縵]にするは、既に春興のはずみに任せた所作である。飜つて見れば杯に梅花が浮んでゐる。逸興そのとゞまる處を知らずで、そも梅花を杯に摘み入れた風流兒は何者ぞと、他の共鳴者を幻想して喜んでゐる。昔の杯は大きいし、大抵は冷酒だから、ゆるりと下に置きもするので、自然梅の花が散り込むのであつた。
 
(1483)于遇比須能《うぐひすの》 於登企久奈倍爾《おときくなべに》 烏梅能波奈《うめのはな》 和企弊能曾能爾《わぎへのそのに》 佐伎弖知留美由《さきてちるみゆ》 【對馬(ノ)目高氏|老《オユ》】     841
 
〔釋〕 ○おときくなべに 聲を聞くにつれて。鳥獣の聲をオトとも古へはいつた。「時鳥聞く於登《オト》はるけし」(卷十七)、「鳴く鹿の目には見えずておとのさやけさ」(古今集秋上)などの例がある。「なべ」は並《ナベ》の義。○さきてちる 「さきて」は添言で、主意は散る〔二字傍点〕にある。○高氏老 高氏は高向氏。正倉院文書に、天平十七年十月、正六位上行雅樂少允であつた事が見え、續紀、天平勝寶二年四月の條に、正六位上高向|村主《スクリ》老(ニ)授(ク)2外從五位下(ヲ)1とある。
【歌意】 鶯の聲を聞くにつれて、梅の花が、私の家の園に散るのが見える。
 
〔評〕 鳥鳴き花散る、鬧がしい春意を描いて、平凡だけれど温雅な氣味がある。
 
和家夜度能《わがやどの》 烏梅能之豆延爾《うめのしづえに》 阿蘇※[田+比]都都《あそびつつ》 宇具比須奈久毛《うぐひすなくも》 知良麻久乎之美《ちらまくをしみ》 【薩摩(ノ)目高氏|海人《アマ》】     842
 
〔釋〕 ○高氏海人 傳末詳。この高氏は高向氏か、高丘氏か、高橋氏か。
【歌意】 私の庭の梅の下枝に遊びながら、鴬が鳴くわまあ、梅の散らうことが惜しさに。 
〔評〕 類想のおほい歌で、上出の
(1484)  梅の花ちらまくをしみわが園の竹のはやしにうぐひす鳴くも(阿氏奥島)
と同調の作。下向に倒装の變化はあるが、歌柄は劣る。
 
宇梅能波奈《うめののはな》 乎理加射之都都《をりかざしつつ》 毛呂比登能《もろびとの》 阿蘇失遠美禮婆《あそぶをみれば》 彌夜古之叙毛布《みやこしぞもふ》 【土師《ハニシ》氏|御通《ミミチ》】     843
 
〔釋〕 ○みやこしぞもふ 京が思はるの意。京を思ふの意ではない。これは四句の「遊ぶを見れば」の語意に押されての事である。○土師氏御通 土師《ハニシノ》宿禰|水通《ミミチ》のこと。既出(一一七三頁)。
【歌意】 梅の花を折つて挿頭して、人達がかう遊ぶ態を見ると、京がさ思はれるわ。
 
〔評〕 樂盡き悲來るで、目前の樂しい宴遊も、測らず奈良京の歡樂を追憶する連鎖となり、遂に懷土望郷の念に囚へられてしまつた。天涯の覊客たる一座の人達には、これを聽いて同じ感傷に打たれた者が多からう。
 
伊母我陛邇《いもがへに》 由岐可母不流登《ゆきかもふると》 彌流麻弖爾《みるまでに》 許許陀母麻我不《ここだもまがふ》 烏梅能波奈可毛《うめのはなかも》 【小野氏|國堅《クニカタ》】 844
 
〔釋〕 ○いもがへ 「へ」は家《イヘ》の上略。○みるまでに 「まがふ」に係る。○ここだ 甚しき意に用ゐた。なほ既出(五九六頁)參照。○小野氏國堅 正倉院文書によれば、天平十年頃から同十五年頃にかけ、東大寺寫經司の史生であり、天平十一年には大初位上であつた。又國方〔二字傍点〕とも書いてある。宰府では勸業院の小吏で居たのではあ(1485)るまいか。
【歌意】 我妹子の家に、雪がまあ降るかと思ふまでに、ひどくまあ紛うて散る、梅の花であることよ。
 
〔評〕 「妹が家」は今日の場合、餘り箇人的の感想になり過ぎた。無造作な口任せの作である。
 
宇具比須能《うぐひすの》 麻知迦弖爾勢斯《まちかてにせし》 宇米我波奈《うめがはな》 知良須阿利許曾《ちらずありこそ》 意母布故我多米《おもふこがため》 【筑前(ノ)掾門氏|石足《イソタリ》】     845
 
〔釋〕 ○まちかてに 「えかてに」を見よ(三一九頁)。○ありこそ この「こそ」は願望の辭。古語。○※[木+掾の旁] 既出(一一八九頁)。○門氏右足 門部連《カドベノムラジ》石足のこと。既出(一一八九頁)。
【歌意】 鶯が待つに待ち切れないであつた、その梅の花、散らずにあつてほしいなあ、思ふ人の爲にさ。
 
〔評〕 愛人に見せう爲に花の散らぬやうにと希望した。そしてその花に價値づける爲に「鶯の待ちかてにせし」の修飾を用ゐた。「おもふ兒」に就いては契沖いふ、
  今日の主人帥殿をさすか。卷六に藤原八束朝臣の家にて宴ありし時、家持の
   久堅の雨はふりしけ念ふ子が宿にこよひは明して行かむ (−1040)
  と詠まれしも、主人(八束)をさして申されたれば、これに準ふべきにや(代匠紀)
と。これは甚しい誤解で、その念ふ子は八束の家の婦人を斥したのである。さればこゝの「おもふ兒」も旅人(1486)卿の家の侍女かも知れない。
 
可須美多都《かすみたつ》 那我比〔左○〕岐波流卑乎《ながきはるびを》 可謝勢例杼《かざせれど》 伊野那都可子岐《いやなつかしき》 烏梅能波那可毛《うめのはなかも》 【小野氏淡理】     846
 
〔釋〕 ○かすみたつながきはるび 既出(三八頁)。「我」の下の比〔右○〕は衍字。○小野氏淡理 傳未詳。正辭いふ、高向《タカムクノ》黒麻呂の名に玄理を充てたること孝徳天皇紀に見ゆ、理をマロと訓む證なり、故に淡理はアハマロならむと。然しかやうな作名はあながち正訓ばかりでなく、類音類訓を充てもする。理《マサ》をマロに充てるは類訓である。
【歌意】 長閑な長い春の日を挿頭してをるが、それでもやはり、飽かず懷かしい梅の花であることよ。
 
〔評〕 理路にも渉り、平凡でもあるが、この邊が普通の處であらう。上の「人毎に折りかざしつつ遊べども」と、殆ど等類の作。
 以上三十二首、題詞に賦園梅とはあつても、あながち園梅を主とせず、頗る題外に傍出し、或は自家の梅、或は妹が家の梅、甚しいのは途上の口占さへある。想ふにこの作者達は帥老の梅花の招宴には侍しはしたものの、歌はその當座の即吟のみでなく、後日に提出したものもあつて、かうまち/\になつたのであらう。
 作者達の顔觸れを見ると、盡く文官で武官の人は居ない。大伴一族で防人司の人もあるが、歌が出てゐない。とにかく文官達は文事に居常親炙してゐる人達だから、歌は詠み得る筈である。然るにこの梅花の作を概括的(1487)に評すると、絶唱は勿論、佳作として推賞するに足るものが割合に乏しい。大抵平凡な類想類型に墮し、低級な處に彷徨してゐる。園梅といふ一つのボイントを與へられた爲、それに拘束されて自由が利かなくなつたらしい。
 又いふ、全部の作が白梅の詠である。帥老宅は固より一般にも紅梅はまだ無かつたらしい。否絶對に無いのではなく、極めて少なかつたと見るが至當であらう。
 
員外《かずよりほか》、思《しぬぶ》2故郷《ふるさとを》1歌兩首
 
○員外 定數の外の義。上の一連の梅花の歌の外といふ意で、同時の作ながら、内容の殊なる歌を附記する爲に、特に員外と題して書き添へた。作者は排行の順序上、梅花宴の主人旅人卿であることは明かである。卿は梅花宴の序と歌とを一括した後に、ふと浮んだ感想を詠じて茲に附記した。これを山上(ノ)憶良の作とした略解古義の説の如き、餘に無稽で是正の價値がない。
 
利我佐可理《わがさかり》 伊多久久多知奴《いたくくだちぬ》 久毛爾得夫《くもにとぶ》 久須利波武等母《くすりはむとも》 麻多遠知米也母《またをちめやも》     847
 
〔釋〕 ○わがさかり、「さかり」は齡の盛り。○くだち 降《クダ》ちの義、降る〔二字傍点〕の古言。こゝは時の更くるにいふ。夜くだち(卷十九)本くだち(古今集)などの例がある。○くもにとぶくすり 雲に飛ぶ藥は昇天の仙藥のこと。列仙傳に、劉安(ハ)高帝(ノ)孫(ナリ)、封(ゼラル)2淮南《ヱナン》王(二)1、好(ム)2儒術方技(ヲ)1、有(リ)2八公1往(イテ)詣(ル)v之(二)、遂(二)授(ク)2丹經及(ビ)三十六(ノ)水銀等(ノ)方(ヲ)1、――八公(1488)告(ゲテ)v安(ニ)曰(フ)可(シト)2以(テ)去(ル)1矣、於(イテ)v是(ニ)與v安登(リ)v山(ニ)、大(イニ)祭(リテ)埋(メ)2金(ヲ)於地(ニ)1、白日(ニ)昇(ル)v天(ニ)焉、所(ノ)2棄(テ)置(ク)1藥鼎、鷄犬舐(レバ)v之(ヲ)並(ニ)得2輕(ク)擧(ガルコトヲ)1、鷄(ハ)鳴(キ)2雲中(ニ)1、犬(ハ)吠(ユ)2天上(ニ)1とある。「得」はその入聲を略いてトに充てた。○はむ 食ふこと。服すること。○をちめやも 既出(七九八頁)。
【歌意】 自分の年盛りはひどく傾いたよ。假令あの淮南王の雲に飛ぶ藥を食べた處が、又と若返らうことかい。
 
〔評〕 「わが盛りいたくくだちぬ」は壯年期を可成り過ぎた人のいふ詞で、甚しい老人のいふべき詞ではない。梅花宴のあつた天平二年に於ける作者旅人卿の年齡は、懷風藻に據れば六十六の頽齡となるが、他にも又大きな理由があつて肯定し難い。懷風藻の年齡は約十年を減じて勘ふべきであらう。
 四十歳を初老と觀じた往時の人達には、五十六歳は實に盛期のいたく傾いた感傷を懷かしめたであらう。况や又一歳の老を加へた新年の初頭である。鷄犬も天上する淮南王の仙藥も、自分にはもう若返りの效能はなからうと悲觀した。この悲觀は果して籤を作して、その翌年の天平三年七月に故人となつたことは、同情に禁へない。
                     △大伴旅人年齡考(雜考――20 參照)
 
久毛爾得夫《くもにとぶ》 久須利波牟用波《くすりはむよは》 美也古彌婆《みやこみば》 伊夜之吉阿何微《いやしきあがみ》 麻多越知奴倍之《またをちぬべし》     848
 
〔釋〕 ○はむよは 「よ」はヨリの意。紀傳にいふ、記にヨリの意のヨをユといへるは一つもなし、書紀にはユとのみありてヨは一つもなし、萬葉にはヨともユともあるなりと。○いやしき 卑しき。淮南王劉安に對して自(1489)分を卑下した詞。古義の彌重《イヤシキ》と解したのは非。
【歌意】 雲に飛ぶ仙藥を食べるよりは、戀しい奈良の京を見ようならば、淮南王ならぬ〔六字右○〕卑しい私の身でも亦、若返りもせうよ。
 
〔評〕 一旦は流石の仙藥も若返りの效果なしと諦めてみたが、只一目京が見たい、自分の若返り方法はこれのみだとは、何といふ見じめな傷ましい詞であらう。旅人卿は神龜二年から茲に六歳の星霜を、天離る鄙の住居に暮した。既に六十近い老境にはあり、愛妻郎女は三年あとにこの異境で逝去、嗣子家持は十餘歳の幼年、いかに心ぼそい物寂しい生活を、その家庭に見詰めて來たことであらう。一刻も早くこのいやな思出のある鄙の住居から遁れて、命のあるうち花の洛に歸りたいとあこがれるのは、當然過ぎた感懷で、この他にも卿は、
  わが盛りまたをちめやもほと/\に奈良の京《ミヤコ》を見ずかなりなむ (卷三−331)
  あわ雪のほどろ/\に降りしけば奈良の京し思ほゆるかも  (卷八−1639)
など、再三反復その京|偲《シヌビ》の覊愁を詐へてゐる。
 
後《のちに》追(ひて)和《よめる》2梅(の)花〔左○〕(を)1歌四首
 
あとから繼ぎ足して詠んだ梅花の歌との意。「花」の字原本にない。補ふがよい。
 
能許判多流《のこりたる》 由棄仁末自列留《ゆきにまじれる》 烏梅能半奈《うめのはな》 半也久奈知利曾《はやくなちりそ》 由吉波氣奴等勿《ゆきはけぬとも》     849
(1490)〔釋〕 〇とも 「勿」は呉音モチ、略してモの音に充てた。
【歌意】 殘雪に混《マジ》つて咲く梅の花よ、假令その雪は消えるとしても、それをまねて〔六字右○〕、早く散るなよ。
 
〔評〕 正月十三日の梅花宴後、雪が降つたものと見える。梅雪おの/\その皎を競ふを見ての感興で、梅花に聲援を與へてゐる。
 
由吉能伊呂遠《ゆきのいろを》 有婆比弖佐家流《うばひてさける》 有米能波奈《うめのはな》 伊麻左加利奈利《いまさかりなり》 彌牟必登母我聞《みむひともがも》     850
【歌意】 雪の色を奪つて、白く咲いてゐる梅の花が、今まつ盛りであるわ。これを見よう人もありたいなあ。
 
〔評〕 梅が雪の色を奪ふは、必ず漢詩文にその出典があると思ふが、未だ索ね得ない。初二句の奇矯に似合はず、想は平々たるものである。
 
和我夜度爾《わがやどに》 左加里爾散家留《さかりにさける》 牟梅能波奈《むめのはな》 知流倍久奈里奴《ちるべくなりぬ》 美牟必登聞我母《みむひともがも》     851
 
〔釋〕 ○むめ 梅をムメと書くことのの初出。「牟」は漢音ボウ、呉音ム。
【歌意】 私の家に盛に咲いてゐる梅の花が、もう散りさうになつたわい、早く〔二字右○〕見よう人もありたいなあ。
 
〔評〕 著想平凡。「さかりに咲ける」といひ「散るべくなりぬ」といふ、甚だ煩冗である。既に上に「雪の色を」(1491)の歌ある以上は、これは除いてもよかつた。
 
烏梅能波奈《うめのはな》 伊米爾加多良久《いめにかたらく》 美也備多流《みやびたる》 波奈等阿例母布《はなとあれもふ》 左氣爾于可倍許曾《さけにうかべこそ》  852
 
 一(二)云(フ)、伊多豆良爾《イタヅラニ》、阿例乎知良順奈《アレヲチラスナ》、左氣爾于可倍己曾《サケニウカベコソ》、
 
〔釋〕 ○かたらく 語ることには〔四字右○〕の意。○みやびたる 風流である。以下梅花の詞。○こそ 願望辭。
【歌意】 梅の花が私の〔二字右○〕夢に現れていふことには、「自分は風流な花と思ひます、どうぞ貴方の〔三字右○〕酒杯に浮べて頂きたい」と。
 
〔評〕 上出の倭琴が娘子と化つて夢中に現じたと同趣である。梅花の精靈が誇かに自薦して「みやびたる花とあれもふ」といひ、作者の酒杯に浮かびたいと希ふ。作者の風流士たることはそこに暗證されてゐる。隨つて作者自薦の詞でもある。酒飲みの作者の思ひ付きさうな愉快な構想ではないか。
 隨の趙師雄が羅浮(支那廣東省惠州府羅浮)の梅花村で、月夜に夢寐恍惚の間に、梅の精靈たる美人と會飲した話がある。柳宗元の龍城録に、
  隋(ノ)開皇中、趙師雄遷(ル)2羅浮(ニ)1、一日天寒(ク)日暮(ル)、在(リ)2醉醒(ノ)間(ニ)1、因(リテ)憩(ム)2僕車(ヲ)松林(ノ)間(ノ)酒肆(ニ)1、傍舍(ニ)見(ル)2一女人(ヲ)1、淡粧素服出(デテ)迎(フ)2師雄(ヲ)1、時已(ニ)昏黒(ニ)、殘雪對(シ)2月色(ニ)1微(シク)明(ナリ)、師雄喜(ビ)v之(ヲ)、與v之語(ル)、但覺(ユ)2芳香(ノ)襲(フヲ)1v人(ヲ)、語言極(メテ)清麗(ナリ)、因(リテ)與(モニ)v之叩(キ)2酒家(ノ)門(ヲ)1得2數杯(ヲ)1、相與(ニ)飲(ム)、少頃(シテ)有(リテ)2一緑衣(ノ)童1來(リ)、笑歌戲舞(ス)、亦自(ラ)可(シ)v觀(ル)、頃(シテ)辭(シテ)寢(ヌ)、師雄亦※[立心偏+夢の夕を目]然、但覺(ユ)2風雨(ノ)相襲(フヲ)1、久(ウシテ)之時東方已(ニ)白(シ)、師雄起(チテ)視(レバ)、乃(チ)在(リ)2大梅花(ノ)樹下(ニ)1、上(ニ)有(リ)2翠羽(ノ)啾※[口+曹](タル)1、相顧(レバ)月落(チテ)v參(ニ)横(ル)、但惆悵(スル)而已。
(1492)と見えた。おなじ梅花の精靈でも、旅人卿のは夢に托した假作の言だから、花木精靈説は直ちに成立しないが、下にはさうした意識が潜在してゐたとも見られる。抑も木花咲耶姫、久々乃智、草野姫の類、草木を神と見た思想は、その精靈物語の由來する根源でもある。左註の「徒らに我れを散らすな」は、或は作者の一案かも知れないが、かうした物語形式では、素直でおとなしいのよりは、、曲折のある方が趣があつて面白いから、本文を採らう。
 
遊(び)2於松浦河《まつらがはに》1贈答(する)歌八首〔五字左○〕并序
 
○松浦河 また玉島川といふ。肥前國東松浦部。浮嶽山の南に發源し、西流四里、濱崎驛に至つて海に入る。今いふ松浦川は本名を栗川といひ、古への松浦川ではない。但玉島川の舊い河道は玉島の南山邊から西南下し、領巾振山の北麓と虹の松原との間を西流して、唐津灣に注いだと傳へられてある。松浦は紀の傳説では珍《メヅラ》の義であるが、夙くからマツラと清んで呼んだ。
 この篇、序及び仙女と贈答の歌、後人追和の歌、盡く旅人卿の自作である。これに就いて契沖の説が委しい。左に、
  此序竝に仙女に贈る歌を古來憶良の作とす。今按ずるに是は旅人卿の作なるべし。其故は太宰帥は九國二島を管攝する故に都督と號すれば、所部を檢察せむために何れの國にも到るべし。此故に第六には「隼人ノセトノイハホモ吉野ノ瀧ニシカズ」と詠まれたり。是一つ〔三字傍点〕。(1493)憶良は筑前守にて輒く境を越えて他國に赴く事を得べからず。是二つ〔三字傍点〕。次の吉田(ノ)連宜が状に、伏奉2賜書1といひ戀v主之誠と云ひ心同2葵※[草冠/霍]1と云へるは、同輩に報ずる文體にあらず。憶良は從五位下、宜も此時從五位上なれば、かやうには書くべからず。帥殿への返簡なる故に、徑に梅花(ノ)芳席といへり。松浦玉潭の仙媛贈答も同人の體なり、是四つ〔三字傍点〕。又彼次下の憶良の書并歌は、帥卿の典法に依つて部下を巡察せらるゝに贈らる、書尾に天平二年七月十一日と書かれたる三首の歌、何れも憶良は終に松浦河をも領巾麾山をも見られざること明なり、是五つ〔三字傍点〕。聊辨論して後人の發明を待つのみ。
 
余|以《コヽニ》、暫(ク)往(キテ)2松浦之|縣《アガタニ》1逍遙(シ)、聊(カ)臨(ミテ)2玉島之|潭《フチニ》1遊覽(ス)。忽(チ)値(フ)2釣(ル)v魚(ヲ)女子等《ヲトメラニ》1也。花容無(ク)v雙《ナラビ》、光儀無(シ)v匹《タグヒ》。開(キ)2柳(ノ)葉(ヲ)於眉(ノ)中(二)1、發(ク)2桃(ノ)花(ヲ)於頬(ノ)上(二)1。意氣凌(ギ)v雲(ヲ)、風流絶(エタリ)v世(二)。僕《ヤツガレ》問(ヒテ)曰(フ)、誰(ガ)郷誰(ガ)家(ノ)兒等《コラゾ》、若疑《ケダシ》神仙(ナル)者|乎《カト》。娘等《ヲトメラ》皆咲(ヒテ)答(ヘテ)曰(フ)、兒等者《コラハ》漁夫之舍兒《アマノイヘノコ》、草庵之微《クサノヤノイヤシキ》者(ナリ)、無(ク)v郷(モ)無(シ)v家(モ)、何(ゾ)足(ラム)2稱云《ナノルニ》1、唯性|便《ナラヒ》v水(二)、復心|樂《ネガフ》v山(ヲ)、或(ハ)臨(ミテ)2洛浦(二)1而徒(二)羨(ミ)鳥〔左△〕魚(ヲ)1、乍(チ)臥(シテ)2巫峽(二)1以空(シク)望(ム)2煙霞(ヲ)1、今|以《コヽニ》、邂逅《ワクラバニ》相2遇《アヒ》貴客《ウマビトニ》1、不v勝(ヘ)2感應《メデノコヽロニ》1、輒(チ)陳《ノブ》2款曲《マコトヲ》1。而今(ヨリ)而|後《ノチ》、豈可(ケンヤ)v非(ル)2偕(二)老(イ)1哉(ト)。下官《オノレ》對(ヘテ)曰(フ)、唯唯《ヲヲ》、敬(ミテ)奉(ハルト)2芳命《アフセヲ》1。于時、日(ハ)落(チ)2山(ノ)西(ニ)1驪馬|將《ス》v去(カムト)。遂(二)申(ベ)2懷抱《オモヒヲ》1、因(リテ)贈(リテ)2詠歌《ウタヲ》1曰(フ)、
 
○松浦之縣 大體東松浦郡の地をさす。神功皇后紀に、九年夏四月、北到(リ)2火前《ヒノクチノ》國松浦(ノ)縣(二)1、而進2食《ミヲシス》於玉島(ノ)里小河之側(二)1、云々、擧(ゲテ)v竿(ヲ)乃獲(タマヒキ)2細鱗魚《アユヲ》1、時(二)皇后曰(タマヒキ)2希見《メヅラシキ》物(ト)1、故《カレ》時《ヨノ》人號(ビテ)2其處(ヲ)1曰(フ)2梅豆羅《メヅラノ》國(ト)1、今謂(フハ)2松浦《マツラト》1訛(レルナリ)焉、是以《ココニ》(1494)其國(ノ)女人、毎(二)v當(ル)2四月(ノ)上旬《ハジメニ》1、以(テ)v鉤《ハリヲ》投(ゲ)2河(ノ)中(二)1、捕(ルコト)2年魚《アユヲ》1於今(二)不v絶(エ)云々。古事記(中)に、亦到(リ)2坐《マシ》筑紫(ノ)末羅縣《マツラガタ》之玉島(ノ)里(ニ)1、而御2食《ミヲシセス》其河(ノ)邊(二)1之時、當(ル)2四月之上旬(二)1、爾(二)坐(シテ)2其河中之磯(二)1、拔(キ)2取(リ)御裳《ミモノ》之糸(ヲ)1、以(テ)2飯粒《イヒボヲ》1爲(テ)v餌(ト)、釣(リタマフ)2其河(ノ)年魚(ヲ)1、故四月上旬之時、女人拔(キ)2裳(ノ)糸(ヲ)1、以粒《イヒボヲ》爲(テ)v餌(ト)釣(ルコト)2年魚(ヲ)1、至(ルマデ)2于今(二)1不(ル)v絶(エ)也と。今玉島村の南山に皇后祠がある。○玉島之潭 玉島川の淵。潭は水涯の深い處をいふ。玉島は里の名で、玉島川の岸に沿ふ玉島濱崎邊の舊名。○花容無雙光儀無匹 美しい顔や姿が儔がない。花容は花の如き容貌《カタチ》、光儀は美しい姿。○開柳葉於眉中 柳の葉を眉に靡かせ。眉の形とその翠の色との譬喩的形容。○發桃花於頬上 桃の花を頬に咲かせる。頬の樣子とその紅い色との譬喩的形容。文鏡秘府論六言句例に、訝(リ)2桃花之似(タルヲ)1v頬(二)、笑(フ)2柳葉之如(キヲ)1v眉(ノ)、とある。○意氣凌雲 氣位が遙に高く。史記司馬相如傳に、飄々(トシテ)有(リ)2凌雲之氣1。○風流絶世 みやびかさが世に最(モ)拔けてゐる。○若疑神仙者乎 若しや女仙人ではあるまいか。○兒等者 私共は。○漁夫之舍兒 海人《アマ》の家の兒。○草庵之微者 草屋に住む賎しい者。○何足稱云 何で名告る甲斐があらう。「稱云」は魏の曹昭の東征賦に出た語。○唯性便水復心樂山 只生れ付水に馴れ親しみ、また心に山を好いてゐる。論語に、知者|樂《ネガヒ》v水(ヲ)、仁者樂(フ)v山(ヲ)とあるに據つた。便水は水に習ふこと。○臨洛浦而徒―― 洛浦を窺つて、徒らに淵に棲む魚や鳥を羨みの意。洛浦は支那河南省河南府にある洛川のこと。魏の曹植洛神賦に、神女のこゝに現じたことが作つてある。徒羨鳥魚は淮南子の臨(ンデ)v河(二)而羨(ムハ)v魚(ヲ)、不v如(カ)2歸(リテ)v家(二)織(ルニ)1v網(ヲ)とあるに據つた。「鳥」原本に王〔右△〕とあるは解し難い。假に鳥と改めて解する。下の「煙霞」の對語。○臥巫峽以空―― 巫峽に身を横たへて、空しく山谷に靡く靄や霞を眺めの意。巫峽は巫山峽の略で、四川省より湖北に至る間の揚子江の水の嶮難を極めた處。三峽の一。楚の宋玉高唐賦に、巫山の神女が楚王の夢に入つた話が出てゐる。遊仙窟にも洛川巫峽の對句がある。○不勝感應 心に(1495)嬉しく應《こた》へて溜らない。○輒陳款曲 そこで眞心を申し述べる。款曲は誠または眞心をいふ。○而今而後 今からのち。論語泰伯篇に出た語。○豈可非偕老哉  何で偕老即ち夫婦でなしに居られようかい。毛詩の※[北+おおざと]風に與《ト》v子偕《トモニ》老(イン)。「非」は不の意に用ゐた。○下官 卑稱である。もと下級官吏の意。莊子、漢書賈誼傳に見え、又遊仙窟に多く見える。○唯唯 人の言を諾ふ敬語。文選にもある。○奉芳命 仰を承つた。○驪馬將去 夕暮にならうとする。驪は純黒の馬。よつて暗黒を意味する。文選應休連の書に、白日傾(キ)v夕(ベニ)驪駒就(ク)v駕(二)。○申懷抱 心を述べて。遊仙窟中の語。
 宋玉の高唐(ノ)賦神女(ノ)賦、曹植の洛神(ノ)賦、その賦中に現ずる神女は假托で、事實は男女會合の意を極めて婉微に述作したものと思ふ。遊仙窟はそれを現實的に扱つて、更に一歩進んで小説化し、
   見(テ)d一女子(ノ)向(ヒテ)2水側(二)1浣(フヲ)uv衣(ヲ)、余乃(チ)問(ウテ)曰(フ)、承(カニ)聞(ク)、此處有(リト)2神仙之窟宅1、故(ニ)來(リ)伺候(フ)…。女子答(ヘテ)曰(フ)、兒(ノ)家(ハ)堂舍賤陋、供給單疎(ナリ)、亦恐(ル)v不(ランコトヲ)v堪(ヘ)、終(二)無(シ)2吝惜(スル)1。余答(ヘテ)曰(フ)、下官是|客《タビビト》、觸(レテ)v事(二)卑微《イヤシ》、但避(クレバ)2風塵(ヲ)1則爲(ス)2幸甚(ト)1。云々
とあり、それから盛に詩歌を贈答して、遂に慇懃を通ずるに至つた經緯が書かれてある。
 作者は今松浦川に遊んで鮎釣る田舍娘どもに出會つた。乃ち宋玉曹植の艶辭に立脚し、遊仙窟の冶詞を歩驟し、彼等を神仙の兒の如くに假想し、豈可偕老哉と結んで、一場の話説と贈答の歌とを假作した。中古文學における伊勢大和の如き歌物語の樣式は、本集卷十六の有由縁歌と題した竹取翁の歌、及びその他の歌やこの歌に淵源したといふならば、その濫觴は更に遠く支那の古詩賦にあるといふこともいへよう。
 
阿佐里須流《あさりする》 阿末能古等母等《あまのこどもと》 比得波伊倍騰《ひとはいへど》 美流爾之良延奴《みるにしらえぬ》 有麻必等能古等《うまびとのこと》     853
 
(1496)〔釋〕 ○あさり 捜の意。集中、求食をアサルと訓んであるのは意訓。○しらえぬ 「しらえ」は知られ〔三字傍点〕。能相被相のレの助動詞をエと轉じいふは古格。「ぬ」は現在完了の助動詞。○うまびとのこと 良き人の子と。「うまびと」は「うま人さびて」を見よ(三二二頁)。
【歌意】 漁りする海人の子供だと、貴女は仰つしやるが、良家の子と、見るからに知られますわい。
 
〔評〕 名告るにも足らぬ漁夫の舍の兒、草庵の微しき者といはれるのは謙遜のお詞ですと、一寸オダテて置いて、誰が郷誰が家の兒等ぞと尋ねたその返辭を、暗に催促してゐる。
 
答(ふる)詩《うたに》曰(ふ)
 
○詩 例の歌を詩と稱した。
 
多麻之未能《たましまの》 許能可波加美爾《このかはかみに》 伊返波阿禮騰《いへはあれど》 吉美乎夜佐之美《きみをやさしみ》 阿良波佐受阿利吉《あらはさずありき》     854
 
(1497)〔釋〕 ○やさしみ 羞かしさに。○あらはさず 里をも家をも〔六字右○〕顯さず。
【歌意】 郷も無く家も無く、何ぞ稱云に足らんとは申しましたものゝ、實はこの玉島川の川上に家はありはありますが、貴方がまあ羞かしさに、ハツキリ言はずに居つたのです。
〔評〕 今こそ本當の事を明かしますがの餘意がある。この餘意は「顯さずありき」の過去的表現によつて生じてくる。空世辭と知れても悦ぶのが女、娘子等はつひ乘せられて、玉島の川上の里にその家のあることを打明けた。「君をやさしみ」に、その嬌羞を帶びて猜視してゐた女兒の態が想像される。
 
蓬客等《いやしきものら》、更(に)贈(れる)歌三首
 
○蓬客 いやしき者の意で、仙孃に對した謙辭。蓬心、蓬身、蓬體の蓬は皆賤卑の意。契沖説に轉蓬の旅客の心なるべしとあるは非。蓬はよもぎ。菊科の山野生自生の多年草本。
 
麻都良河波《まつらがは》 可波能世比可利《かはのせひかり》 阿由都流等《あゆつると》 多多勢流伊毛河《たたせるいもが》 毛能須蘇奴例奴《ものすそぬれぬ》     855
 
〔釋〕 ○かはのせひかり 娘子等の艶姿が映じて川瀬が光るのである。この句は四句の「立たせる」に係る。○あゆつると 鮎を釣るとて〔右○〕。鮎は有腹鰭類中鮭科に屬する小魚。年魚、香魚。「鮎」は借字。○たたせる 立たす〔三字傍点〕の現在完了格。「みかりたたしし」を見よ(一八七頁)。○も 「たまも」を見よ(一〇六頁)。
(1498)【歌意】 松浦川の川瀬が影美しく光り、鮎を釣るとて立つて居られる、貴女の裳の裾が、水に浸つて濡れたわい。
 
〔評〕 松浦川には鮎、鮎には婦人、婦人には裳、これ神功皇后以來の本事である。
 山翠に水淨き松浦川を背景として、その艶冶の影を水面に落しつゝ、赤裳の裾濡れ/\に若鮎釣る兒等を想ふ時、自然美と人物美との相煥發する光彩に、作者でなくても、こは神仙なる者かと疑ひたくなるであらう。「川の瀬光り」はこの意味において大事な豪句である。裳の裾の濡れを氣遣うたことは、婦人に對しての親切の情意を表示するものであつて、既に人麻呂も「珠裳の裾に汐滿つらむか」(卷一)と歌つてゐる。
 
麻都良奈流《まつらなる》 多麻之麻河波爾《たましまがはに》 阿由都流等《あゆつると》 孝多勢流古良何《たたせるこらが》 伊弊遲斯良受毛《いへぢしらずも》     856
 
〔釋〕 ○たましまがは 玉島川。松浦川のこと。○こら 既出(五八八頁)。○いへぢ 家路。既出(七四一頁)。
【歌意】 松浦にある玉島川に、鮎を釣るとて〔右○〕、立つて入らつしやる麗人達の、お宅の路のわからぬことよ。
 
〔評〕 尋ねて行きたいがの餘意がある。上の歌意より一歩を進めて、更に餘計に接近しようとあせつてゐる。家は玉島のこの川上の里であることは、既に明言されてあるが、委しくは知らぬ遺憾さを歌つた。
 
等富都比等《とほつひと》 未都良能加波爾《まつらのかはに》 和可由都流《わかゆつる》 伊毛我多毛等乎《いもがたもとを》 和禮許曾末加米《われこそまかめ》     857
 
(1499)〔釋〕 ○とほつひとまつら 遠つ人即ち遠方にゐる人の歸りを待つを、松浦に係けた序詞。○わかゆ 若鮎《ワカアユ》の略。○まかめ 「纏く」を見よ(三〇〇頁)。
【歌意】 松浦川に若鮎を釣る、貴女の袂を、私こそ枕にしませうよ。
 
〔評〕 又更に一歩を進めて、他人の手には落すまい、「われこそ纏かめ」と、とう/\最後の本音を吹いた。袂を纏くは即ちその玉手を纏くの婉語である。
 以上三首の聯作、その愛の表現進度が井々として規律だつてゐる。それは素より計畫的の作爲である。
 
娘等(が)更《また》報(ふる)歌三首
 
この返歌も假作である。
 
和可由都流《わかゆつる》 麻都良能可波能《まつらのかはの》 可波奈美能《かはなみの》 奈美邇之母波婆《なみにしもはば》 和禮故飛米夜母《われこひめやも》     858
 
〔釋〕 ○かはなみの なみ〔二字傍点〕の音の反復によつて、上句を「なみにし」に係る序詞とした。古今集に「三吉野の大川の邊の藤波のなみに思はばわが戀ひめやは」(戀五)と同例。○なみに 並々に。
【歌意】 この若鮎を釣る松浦川の川波の、なみ〔二字傍点〕といふやうに、貴方を〔三字右○〕竝大抵にさ思はうなら、私がかう戀ひませうかい。
 
(1500)〔評〕 眼前の景致を序詞に應用し、かは〔二字傍点〕となみ〔二字傍点〕との二語の反復交錯に、その語調を成した。序歌のもつ風格と、愚痴らしく詰め寄つたその情致とが、この歌を相當の完作にまで導いた。
 
波流佐禮婆《はるされば》 和伎覇能佐刀能《わぎへのさとの》 加波度爾波《かはとには》 阿由故佐婆斯留《あゆこさばしる》 吉美麻知我弖爾《きみまちかてに》     859
 
〔釋〕○わぎへ 我家《ワガイヘ》の約。「覇」をへと讀むは呉音。○かはと 河門。既出(一一三○頁)。「度」は漢音ト。ドは日本讀だから、古義訓にカハド〔三字傍線〕とあるは非。○あゆこ 鮎の兒。○さばしる 「さばしり」を見よ(一〇三一頁)。○かてに 待ち敢へずに。「かて」は既出(三一九頁)。
【歌意】 春になると、私の家のある玉島の里の川門では、鮎の兒が游ぎ走りますわ、貴方のお出を持ち切れなさうにさ。
 
〔評〕 さ走る鮎兒に托して、娘子自身の抑へ切れない慇懃の情を陳べた。四句までは全部叙景で、結句に到つて突如「君待ちかてに」の情語を著け、そこに最高度の躍動を示した手法は面白い。情景相俟つて、無盡の妙味を發揮してゐる。
 
麻都良我波《まつらがは》 奈奈勢能與騰波《ななせのよどは》 與等武等毛《よどむとも》 和禮波與騰麻受《われはよどまず》 吉美遠志麻多武《きみをしまたむ》     860
 
(1501)〔釋〕 ○ななせのよど 七瀬の淀。瀬と淀とは水の淺深が反對であるが、瀬が盡きれば淀になるので、かくいひ續けた。瀬に淀の意があるのではない。卷七にも「明日香川七瀬のよどに住む鳥も」とある。「ななせ」は數多の瀬の意。必ず七の數に拘はらない。玉島の里の山奥に七山村があるが、何の交渉もない。○よどむ 「よどむころ」を見よ(一二五二頁)。○よどまず たゆまずの意。川の縁語。
【歌意】 松浦川の數多の瀬の淀は、さやうに淀むにしても、私は滯りたゆむことなく、貴方の又のお出をお待ち致しませう。
 
〔評〕 眼前に停滯してゐる川淀の水を、逸り切つたわが戀心に對照して、こゝに深い感想を發し、「淀むともわれは淀まず」と反語の力強い表現によつて、自然を蔑視して自我を強調した。いかに君待ち戀ふる心が熾烈であるかを物語つてゐる。よど〔二字傍点〕の三疊も、その諧調を成す所以である
 以上の三首、上の贈歌三首とは全くその選を殊にし、殆ど別人の手に成つたものかと疑はれる程優れてゐる。蓋し作者は娘子の代作といふ點に、格別の興味が唆られた結果だと考へてよからう。
 
後(に)人(の)追(ひて)和(める)之|詩《うた》三首 都帥老
 
あとから或人がその歌意を襲うて詠んだ歌との意。後人を熟語と見ると、後世の人の意となつて、こゝには打合はない。契沖はオクルヽヒトノ〔七字傍線〕と訓んだ。○都帥老 都は都督の略稱。太宰府を支那の都督府に擬して、そこの樓を都府樓と稱する。帥老は旅人卿のこと。
(1502) この後に追和した人は誰れか。註に都帥老とあるは、上出八首が旅人卿の作なのを山上憶良の作と誤認した筆録者が、これのみは旅人の作と考へて、さう記入したものらしい。契沖いふ、
  帥の追和ならば、都帥老聞之追和詩三首などいふべし。
と。處で上出八首を旅人作として考へると、これは或は憶良の唱和かといふに、憶良なら何も後人と書く必要がない。立派に姓名を署して、山上憶良追和之詩と題してよろしい筈、而も憶良の松浦の清遊羨望の歌は別に三首下に出てゐる。そこで當然の歸結として、これも旅人卿の作で、後人云々の題詞は例の假托としたい。理由は多少違ふが新考も結論は同樣である。されば序文から始めて十一首の歌は、全部旅人卿の手になつた文藝遊戲と斷ずるに躊躇しない。
 
麻都良河波《まつらがは》 河波能世波夜美《かはのせはやみ》 久禮奈爲能《くれなゐの》 母能須蘇奴例弖《ものすそぬれて》 阿由可都流良武《あゆかつるらむ》     861
 
○ぬれて 濡らして。他動にいふ處をかく自動にいふ例が、當時この語にあつた。「袖さへぬれて刈れる玉藻ぞ」(卷四、「袖さへぬれて朝菜摘みてむ」(卷六)なども同意。○つるらむ 「都」原本にない。補つた。
【歌意】 松浦川の川瀬が早さに、娘子等は〔四字右○〕、赤裳の裾がその波に濡れて、鮎を釣るであらうか。
 
〔評〕 蓬客の更贈歌の第一首「立たせる妹が裳のすそ濡れぬ」の現在描寫を、これは想像にうつしたに過ぎない。但さやうに想像することは即ち、それに外ならぬ興味を感じたからである。以下三首ながら松浦の清遊に同伴(1503)しなかつた遺憾さを歌つてゐる。
 
比等未奈能《ひとみなの》 美良武麻都良能《みらむまつらの》 多麻志末乎《たましまを》 美受弖夜和禮波《みずてやわれは》 故飛都都遠良武《こひつつをらむ》     862
 
〔釋〕 ○みらむ 「ゆきくとみらむ」を見よ(二一七頁)。
【歌意】 皆の人が見るであらう松浦の玉島を、私一人見ないで、戀ひ懷かしんで居らうことかえ。
 
〔評〕 相反の事相を對比し、そこに羨望の情を湛へて、玉島を見ぬ遺憾さを力強く表現しようとした。その手段は尋常で、蘊含の味は乏しいが、一本氣の率直さを見る。
 「見」の語の重複の如きは、疎派の作では問ふ處でない。
 
麻都良河波《まつらがは》 多麻斯麻能有良爾《たましまのうらに》 和可由都流《わかゆつる》 伊毛良遠美良牟《いもらをみらむ》 比等能等母斯佐《ひとのともしさ》     863
 
〔釋〕 ○たましまのうら 玉島の浦はいづれ玉島川の河口であらう。今の河口は濱崎であるが、地方傳説には、玉島川の舊い河道は、濱崎の南方より領巾振山の北麓に沿うて西流し、今の松浦川(栗川)に合流し、唐津灣に入つたといふから、今の松浦川の河口が、古への玉島川の河口となる譯である。○いもら 妹達。「ら」は添語として單數の時にも使ふが、序に釣魚(ノ)女子等、題に娘等などあるから、こゝは複數と見る。○ともし 既出(四五五頁)。
(1504)【歌意】 松浦川、その玉島の浦に、若鮎釣る女共を見るであらう、その人の羨ましさよ。
 
〔評〕 玉島の兒等に對するあくがれは一轉して、兒等に値遇する人達にまで羨望が及んだ。
 
吉田連宜答和《よしだのむらじよろしがこたふる》之歌四首〔十字右○〕〔頭注に吉田連宜の懷風藻の漢詩二首あり、省略〕
 
吉田宜が返歌である。この題詞は原本にない。古義に從つて假に補足した。拾穗妙には答和人歌書并歌四首吉田宜とあるが、文が甚だ拙い。さてこれは旅人卿より、宰府の梅花篇、松浦の贈答篇を一括して書犢に添へて、四月六日に京なる吉田宜に遺つたのに對した、宜から旅人卿への返書と返歌とである。○吉田連宜 續紀に、文武天皇四年八月勅(リシテ)2僧通徳惠俊(ニ)1並(ニ)還俗(セシム)、云々、賜(ヒ)2惠俊(ニ)姓(ハ)吉名(ハ)宜(ト)1、授(ク)2務廣肆(ヲ)1、爲(メ)v用(ヰンガ)2其藝(ヲ)1也、と見え、又和銅七年正月に從五位下、養老五年正月に醫術從五位上吉(ノ)宜に※[糸+施の旁]十疋絲十※[糸+句]布二十端鍬二十口を賜ふ、神龜元年五月に姓吉田連を賜ふ、天平二年三月太政官の奏により弟子を取り業を習はしめらる、同五年十二月に圖書頭、同九年九月に正五位下、同十年閏七月に典藥頭となると見え、懷風藻に年七十とある。武智麿傳にも出。宜|啓《マヲス》。伏(シテ)奉《ウケ玉ハル》2四月六日《ウヅキムカノ》賜書(ヲ)1。脆(イテ)開(キ)2封〔左△〕函(ヲ)1、拜2讀(スレバ)芳藻(ヲ)1、心神|開朗《ホガラカニシ》、似v懷(ケルニ)2泰初之月(ヲ)1、鄙懷|除※[衣+去]〔左△〕《ノゾコリテ》、若(シ)v披(ケルガ)2樂廣之天(ヲ)1。至(リテハ)v若(キニ)d覊〔馬が奇〕2旅(シ)邊域〔左△〕(ニ)1、懷(ヒテ)2古舊(ヲ)1而傷(メ)v志(ヲ)、年矢不v停(ラ)、憶(ヒテ)2平生(ヲ)1而落(スガ)uv涙(ヲ)、 但達人安(ミシ)v排(ニ)、君子無(シ)v悶(ユルコト)。伏(シテ)冀(ハクハ)朝(ニ)宣(ベ)2懷(クル)v※[擢の旁]《キギシヲ》之化(ヲ)1、暮(ニ)存(シ)2放(ツ)v龜(ヲ)之術(ヲ)1、架(シ)2張趙(ヲ)於百代(ニ)1、追(ハム)2松(1505)喬(ヲ)於千齡(ニ)1耳。兼(ネテ)奉(ハル)2垂示(ヲ)1、梅花(ノ)芳席、群英※[手偏+漓の旁]《ノベ》v藻(ヲ)、松浦(ノ)玉潭、仙媛贈答(ス)、類《タグヒ》2杏壇〔左△〕各言之作(ニ)1、疑(フ)2衡皐※[木+兌]駕之篇(カト)1。※[身+耽の旁]讀吟諷(シ)、感謝歡怡(ス)。宜、戀《シヌブ》v主(ヲ)之誠、誠(ハ)逾(エ)2犬馬(ニ)1、仰(グ)v徳(ヲ)之心、心(ハ)同(ジ)2葵※[草冠/霍](ニ)1。而碧海分(チ)v地(ヲ)、白雲隔(テ)v天(ヲ)、徒(ニ)積(ムモ)2傾延(ヲ)1、何(ゾ)慰(メム)2勞緒(ヲ)1。孟秋(ノ)膺節、伏(シテ)願(ハクハ)萬祐日(ニ)新(ナラムコトヲ)。今因(リテ)2相撲部領使《スマヒノコトリヅカヒニ》1、謹(ミテ)付(ク)2片紙(ヲ)1。宜、謹(ミテ)啓(ス)、不次。
 
○四月六日 天平二年の。○跪開封函 謹んで封じた文函《フミバコ》を開けた。「封」原本に對〔右△〕とあるは誤。○芳藻 芳は美稱。藻は水草の彩《アヤ》ある者なので、文章に喩へていふ。○心神開朗 心がほがらかで。○似懷泰初之月 朗らかだといふ泰初の月を胸に抱いたやうだ。泰初ば魏の夏侯玄の字《アザナ》。世説に、朗々(タルコト)如(シ)2日月之入(ルガ)1v懷《フトコロニ》と、時人の泰初を評した語が見える。古義の解甚だ非。○鄙懷除※[衣+去] 卑しい思は除かれ。「※[衣+去]」は集韻に去と同義とある。原本は私〔右△〕とある。神本細本に據つた。○君披樂廣之天 晴やかだといふ樂廣の天を雲霧を押披いて見るやうだ。晉書に、衛※[王+懽の旁]が樂廣を見て奇なりとして、若(シ)d披《ヒライテ》2雲霧(ヲ)1覩《ミルガ》c青空(ヲ)uと歎じた。○覊〔馬が奇〕旅邊域―― 片田舍に長旅して、昔の知人を懷ひ出して悲みの意。邊域は太宰府をさす。「域」原本に城〔右△〕とある。○年矢不停―― 年の經つことは早くて、平常を顧みて泣くの意。年矢は周興嗣の千字文に、年矢毎(ニ)催(ス)と見え、年の經過の早いことを矢に喩へた。○達人安排 悟つた人は物の變北や推移りに驚かず。文選賈誼の鵬鳥賦に達人(ハ)大觀(ス)。また莊子太宗師篇に、安(ンジテ)v排(ニ)而去化(シテ)、乃(チ)入(ル)2於寥天(ノ)一(ニ)1とありて、排(ハ)推移也と注した。○君子無悶 よき人は物思しない。○宜懷※[擢の旁]之化 雉をも懷ける徳化を人民に布き。※[擢の旁]は玉篇に山雉とある。後漢書に、魯恭といふ人が中牟の令に拜した、上官(1506)の河南尹袁安が肥親といふ男を遣つて、その政迹を察《ミ》しめた時、偶ま雉が居たのを見て、傍にゐる童子に向つて肥親が何故に捉へぬのかと問ふと、童子が今雉が雛を養ふ時だからと答へたので、恭の徳化の深いのに驚いたとある。○存放龜之術 龜を放ち遣る手段を遺し置き。晉書に、孔愉といふ人が、路旁で人の龜を籠に入れて持つて居たのを買ひ、水に放して遣つた、すると龜は度々左向に振返り/\して往つた、のち功を建て餘不亭侯に封ぜられ、侯印を鑄ると、その鈕の龜の首が左向に出來た、三度鑄直したがやはり左向なので、不思議がつて職工がこれを愉に話すると、愉は龜を放つた報で出世したことを悟つたとある。〇架張趙於百代 張安世や趙充國を末代に於いて乘り越し。旅人卿が功名に依つて、昔の張趙の輩を凌駕することを希うたのである。張安世趙充國は共に前漢の名臣で、安世は宣帝の時の大司馬、充國は同上時の車騎將軍。班固が公孫弘傳賛に、將相(ニハ)則(チ)張安世趙充國と見えた。文選北山移文の籠2張趙於往圖1の李善注に、張敞と趙廣漢の事としてあるが、この二人は國家輔弼の大官でないから、こゝには協はぬ。架は駕と同意。○追松喬於千齡耳 赤松子や王子喬を長命して後から追はうばかりさ。旅人卿の長壽を希うたのである。赤松子も王子喬も共に仙人。列仙傳に、赤松子(ハ)神農(ノ)時(ノ)雨師云々、王子喬(ハ)周(ノ)靈王(ノ)太子晉也云々と見えた。○兼奉垂示、又お示しになつた。○梅花芳席 上の梅花宴をさす。○群英※[手偏+漓の旁]藻 勝れた人達の作歌。※[手偏+漓の旁]藻は文選に間出する字面で、※[手偏+漓の旁](ハ)舒也と注し、叙述することをいふ。〇玉潭 玉島の潭。○仙媛 仙女。媛は玉篇に美女とある。○類杏壇各言之作 孔夫子の座でその弟子達が各志を述べた詞に似てをり。梅花篇は帥老の宴席での各人の詠作なので擬へたもの。杏壇は孔子が群弟子に教を施した處。もと地名だつたが、後世壇を敷いて杏壇と名づけた。莊子漁父篇に、孔子休2坐(ス)于杏壇之上(ニ)1、弟子讀(ム)v書(ヲ)、夫子鼓(シ)v瑟(ヲ)奏(ス)v曲(ヲ)とある。各言之作とは、論語先進篇に、孔子が弟子達に向つて、蓋(ザル)3各言(ハ)2爾(ノ)志(ヲ)1とい(1507)はれたので、子路冉有曾點等が、銘々にその所思を陳べた事が見える。「壇」原本に檀〔右△〕とあるは誤。○疑衡皐※[木+兌]駕之篇 魏の曹植が洛水の神に値つて作つた洛神賦かと疑はれる。松浦(ノ)篇は玉島の仙媛に逢つて作つた趣なので擬へた。衡皐※[木+兌]駕は洛神賦に、日既(ニ)西(ニ)傾(キ)、車殆(ク)馬煩(シ)、爾廼《スナハチ》挽※[木+兌]《トキ》2駕(ヲ)乎※[草冠/衡]皐(ニ)1、秣(フ)2駟(ヲ)乎芝田(ニ)1と見え、※[木+兌]駕は乘車から馬を解き放つこと。※[木+兌]は税と通じ音ダツ。※[草冠/衡]皐は※[草冠/衡]といふ香草のある澤。○※[身+沈の旁]讀吟諷感謝歡怡 示された梅花松浦の二篇を貪り讀み唱へ歌ひ、感に堪へて樂しい。○戀主之誠―― 犬馬は飼主を戀ふ赤誠があるが、私はそれ以上に帥老を慕ひの意。○仰徳之心―― 葵※[草冠/霍]の花葉は日に向つて廻るが、私はそれと同じく徳を慕うて帥老を仰ぐの意。葵は向日葵のこと。※[草冠/霍]は弱《ワカ》い豆、又豆の葉をいふ。犬馬葵※[草冠/霍]は文選曹植の求v通2親々1表に、犬馬之誠不v能(ハ)v動(ス)v人(ヲ)、また若(キ)3葵※[草冠/霍]之傾(クルガ)2葉(ヲ)太陽(ニ)1、雖(ドモ)v不(ト)2爲(ニ)v之(ガ)廻(サ)1v光(ヲ)、終(ニ)向(フハ)v之(ニ)者誠也とある。○碧海分地白雲隔天 海が大地を區切り、雲が天を隔てる。碧白は色相上の對語。奈良京と筑紫との距離の遙なことをいつた。○積傾延 度々首を傾け領《エリ》を延ばす。傾延の出典不明。○勞緒 苦勞の心。緒は心緒愁緒など熟して心の意に用ゐる。○孟秋膺節 初秋に當る時。孟は始、膺は當の義。○萬祐日新 多くの幸が日に日に來てほしい。○相撲部領使―― 相撲の部領使に托して謹んで寸楮を拜呈致しますの意。相撲部領使は國内の相撲人を簡拔して京師に引率しゆく使。奈良時代には毎年七月七日に、天皇相撲を觀給ふ式が宮中に行はれた。よつて六月二十日までに部領使は相撲人を領して上京し、七日の相撲の節が終ると、又相撲人を率ゐてそれ/”\歸國した。こゝは筑紫へ歸國の部領使に返簡を託したのである。部領をコトリと訓む。事執《コトトリ》の約。
 この文は卷中殊に優れた佳篇である。素より文選の餘風を煽いてゐるには相違ないが、支那とても宋代に至り韓柳の文章が盛行するまでは、文選體であつたのだ。又篇中漢晉間の故事が多く使用されてあるが、支那で(1508)も唐時代は一般にさうだつた事は、李華の蒙求を見ても感ずる事であらう。
 宜はもと僧侶出身であつた。姓氏録によると、彼の家は孝照天皇を祖として、垂仁天皇の時、その先鹽乘津彦(ノ)命が任那を鎭めた。任那語に宰《ミコトモチ》を吉といふので、その子孫吉氏を稱し、奈良の田村(ノ)里河に家居したので、神龜中に居處の稱を取合せて吉田連となつたとある。以上の家歴から推すと、彼れの家は、韓國文化の仲介者となつてゐたのではあるまいか。まして僧籍に居たとなつては、彼れが醫術を善くし、漢文に堪能なのも偶然でない。
 
奉(る)v和《なぞらへ》2諸人《もろひとの》梅(の)花(の)歌(に)1一首
 
於久禮爲天《おくれゐて》 那我古飛世珠波《ながこひせずは》 彌曾能不乃《みそのふの》 于梅能波奈爾母《うめのはなにも》 奈良麻之母能乎《ならましものを》     864
 
〔釋〕 ○おくれゐて 梅花宴に立合はぬをいふ。○ながこひ 長戀。久しく戀ひ渡ること。卷十二にも「長戀しつついねかてぬかも」とある。○せずは せむよりはの意。古文の格。○みそのふ 御薗生。○うめ 「于梅」は烏梅と書くに同じい。
【歌意】 面白い梅花宴に居合はせずして、何時までも羨ましがらうよりは、いつそ帥老の御庭の梅の花にもならうものを。それも出來ない相談なので殘念です。
 
〔評〕「まし」の助動詞を使つて、假設の構想を猫き出す手段は古來の常套で、形式も一定し過ぎてゐる。されば(1509)餘程内容に優れたものを持たぬ以上は、陳腐の感は免れまい。この歌など折柄にふさはしいといふまでであらう。
 
和(らふる)2松浦(の)仙媛(の)歌(に)1一首
 
伎彌乎麻都《きみをまつ》 麻都良乃宇良能《まつらのうらの》 越等賣良波《をとめらは》 等己與能久爾能《とこよのくにの》 阿麻越等賣可忘《あまをとめかも》      865
 
〔釋〕 ○きみをまつ 上の娘子等の更報歌に「われはよどまず君をし待たむ」とあるに據つた。○まつらのうら 玉島の浦と同處。○とこよのくに 蓬莱國。「常世《トコヨ》」を見よ(一九三頁)。○あまをとめ 天少女。仙女をいふ。「あま」を海人と解するは非。○かも 「忘」は呉音モウで、その短音を用ゐた。
【歌意】 貴方を待つといふ、松浦の浦の娘子達は、蓬莱國の仙女であるかまあ。さても羨ましい。
 
〔評〕 仙女に待たれるに至つては、その艶福は欽羨の極であらう。但原作の序文には、松浦玉潭の釣魚の娘子等を既に仙媛視してゐる。それを承けての唱和だから、今更「蓬莱國の天をとめかも」といふは二番煎じで、別に何とか一層の波瀾を起して、一生面を打開すべきであつた。で「あまをとめ」を海人少女と解する説も出て來たらしい。然し蓬莱國の女漁師では、折角の仙女も型なしで、ゆかしげがないではないか。「君をまつまつ浦」の同音反復のゆとりある語調は、その構成が自然である。
 蓬莱國の事は山海經、列子、特に史記の封禅書によつて、上代人は知得したらしい。
 
(1510)思(ひて)v君(を)未(ず)v盡(き)重《また》題《しるせる》歌〔左○〕二首
 
貴君を思ふことが果しなく、又も書き記した歌との意。重の字は梅花松浦二篇の唱和の外に又の意である。「歌」原本にない。補つた。
 
波漏波漏爾《はろばろに》 於忘方由流可母《おもはゆるかも》 志良久毛能《しらくもの》 智弊仁邊多天留《ちへにへだてる》 都久紫能君仁波《つくしのくには》     866
 
〔釋〕 ○はろばろに 遙々《ハルバル》にの古言。皇極天皇紀の謠にも「波魯波魯爾《ハロバロニ》ことぞ聞ゆる」とある。○おもはゆる 思ほゆるの轉。「方」は漢音ハウで、その短音を用ゐた。○ちへに 「ちへのひとへも」を見よ(五六五頁)。○へだてる 古言の多行四段の既然格隔て〔二字傍点〕に現在完了のるの助動詞の接續したもの。類聚古葉には敞太津留《ヘダツル》とある。
【歌意】 いかにも遠々しく思はれることよ、白雲が幾重にも隔てゝゐる、貴君の入らつしやる〔九字右○〕筑紫の國はさ。
 
〔評〕 奈良京と筑紫國、千里遠く相望めども、白雲漫々として相逢ふ由もない。その愁思には同情するが、常識的で、平淺に近い。
 
枳美可由伎《きみがゆき》 氣那我久奈理努《けながくなりぬ》 奈良遲那留《ならぢなる》 志滿乃己太知母《しまのこだちも》 可牟佐飛仁家理《かむさびにけり》     867
 
(1511)〔釋〕 ○きみがゆき 既出(二九八頁)。○けながく 既出(二九八頁)。○ならぢ 奈良にある路の意。佐保路、立田路の類語。「きぢ」を見よ(一四二頁)。○しま 奈良路なる志滿《シマ》の續きは必ず地名である。和名抄に添上郡八島郷が見え、今も東市村に、古市の南に大字八島の名がある。志滿は八島の略稱であらう。奈良京の東市の遺地古市はこゝの首邑である。古義に、立田のあたりの地名としたのは牽強。又新考に山齋《シマ》の事としたのは失考で、「奈良路なる」の句に續かない。○かむさびにけり この「かむさび」は物舊るをいふ。上《カミ》すさびの意。
【歌意】 貴方の旅行は、年月長いことになりました。奈良路にある志滿の木立も、見違へる程、物舊りてしまひましたわい。
 
〔評〕 作者宜が故舊たる旅人卿の書簡を得たのは、四月の最末から五月の上旬頃であらう。梅花松浦二篇の返歌は早く成つたとしても、七月に入つての相撲部領使の筑紫歸國までは、他に依託の好便がなかつたらしい。この重題歌二首はその間に成つたものと思はれる。
 志滿には大伴家の別墅があつたのだらう。作者は今奈良路を往き、圖らずその別墅の木立の神さびを發見し、歳月はかくも早く流れ去つたものかと驚歎して、天涯に覊〔馬が奇〕遊する舊知己の久しい流離を傷む情意を寓せた。
 「君が行き氣長くなりぬ」の初二句は、磐姫皇后が天皇を思び給うた御歌(卷二所載)の初二句である。かやうに著名な成句を、而も何等の用意なしに襲用することは、牴觸感が強く響いて面白くない。
(1512)天平二年七月十日
 
 これは上の歌文全部を。七日の相撲の節會をすまして歸國する相撲部領使に託して、旅人卿に贈つた日付である。古義に、この日付が部領使の出入の時期に打合はずとして異説を挿んだが、それは平安期の規定からの推論で、奈良時代の事には與らない。委しくは歌序中の相撲部領使《スマヒノコトリヅカヒ》の項を參照。
 
山(の)上(の)臣憶良(が)松浦(の)歌三首〔十字左○〕
 
この題詞、原本にない。目録によつて補つた。
 この題詞序及び歌は、下の詠2領巾麾嶺1歌の次に置くべきで、順序が前後してゐる。蓋し錯簡である。その理由は三首の歌のうち、第二首が玉島釣魚の歌の唱和であることは明かだから、第一首も領巾麾嶺の歌の唱和と見るが當然だ。渾べてが旅人卿から示された松浦(ノ)篇領巾麾嶺篇に對しての應酬である以上は、憶良のこの作が旅人卿作の領巾麾嶺篇の前にあるべき筈がない。
 
憶良誠惶頓首、謹(ミテ)啓(ス)
憶良聞(ク)、方岳諸侯、都督刺史、並《ミナ》依(リテ)2典法(ニ)1、巡(リ)2行(キ)部下(ヲ)1、察《ミル》2其風俗(ヲ)1。意(ノ)内多端(ニシテ)、口(ノ)外(ニ)難(シ)v出(シ)。謹(ミテ)以(テ)2三首之鄙歌(ヲ)1、欲(リス)v寫(サムト)2五藏(ノ)欝結(ヲ)1。其歌(ニ)曰(フ)、
 
○方岳諸侯 方岳と諸侯と。方岳は地方を鎭むる大諸侯をいふ。晉紀總論に見えた語。文選潘安仁の詩、藩岳(1513)爲(ス)v鎭(ヲ)の注に、藩岳(ハ)謂(フ)2諸侯(ヲ)1也とある。諸侯は方岳に對しては小諸侯をいつた。但當時の日本は郡縣制で封建制ではないから、畢竟都督刺史に對した文飾の語である。それを辨へず無用の辯を費す人のあるのは可笑しい。○都督刺史 都督は總督に同じい。漢魏の間に始めて置かれた官。こゝは太宰帥に充てた、宰府を都府と稱するもこの意に據つた。○刺史 州の知事の稱。こゝは國守に充てた。○依典法―― 法規に依つて、都督即ち帥は管内九州二島を、刺史即ち守はその國内を巡行し、治下の人民の風俗を視察するの意。○意内多端―― 心の内に思ふことが多いが、口からは述べ難いの意。○欲寫五藏之欝結 心の蟠りを敍べようと思ふ。五藏は心肝腎肺脾をいふ。藏は臓に同じい。この文は憶良が筑前守として、長官たる太宰帥旅人卿に寄せた體裁である。旅人卿がその管内巡行の傍、松浦玉島の遊を試みたのに羨望の意を述べてゐる。
 
麻都良我多《まつらがた》 佐欲比賣能故何《さよひめのこが》 比列布利斯《ひれふりし》 夜麻能名乃美夜《やまのなのみや》 伎伎都都遠良武《ききつつをらむ》     868
 
(1514)〔釋〕 ○まつらがた 松浦|縣《アガタ》の略。松浦之縣を見よ(一四九三頁)。松浦潟の説もある。○さよひめのこ 佐用媛の兒。兒は親稱。肥前風土記に領巾振山の事をいうて、
  俗(ニ)傳(ヘテ)云(フ)。昔者|檜前《ヒノクマノ》天皇之世、遣(リ)2大伴(ノ)紗手比古《サテヒコヲ》1鎭(メシム)2任那《ミマナノ》國(ヲ)1、于時奉(リ)v命(ヲ)經2過(グ)此處(ヲ)1、於是|篠《シヌ》原(ノ)村(ニ)(篠(ハ)資農也)有(リ)2娘子《ヲトメ》1、名(ヲ)曰(フ)2乙等比賣《オトヒメト》1、容貌|端正《タダシク》、孤(リ)爲(リ)2國色1、紗手比古便|娉《ヨバヒテ》成(ル)v婚《メヲト》、離別《ワカルヽ》之日、乙等比賣登(リ)2此(ノ)岑(ニ)1擧(ゲテ)v※[巾+白](ヲ)招(ク)、因(リテ)以(テ)爲(ス)v名(ト)。
 又袖中抄に童蒙抄所載の肥國風土記を引いて、
  昔大伴狹手彦(ノ)連、任那國を鎭め、かねて百濟國を救はむが爲に、詔を承りてこの村に至りぬ。即ち篠原村弟日姫(ノ)子を聘しつ。その形人に勝れたり。別れ去る日鏡をとりて婦に與ふ。婦別の悲びに、その鏡を抱いて栗川に沈みぬ。こゝを鏡の渡りといふ。狹手彦船出する時、弟日姫(ノ)子こゝに登りて袖をもちて振り招く、この故に袖振嶺といふ、云々。
○ひれふりしやま 領巾を振つた山。下の「領巾麾嶺」を見よ(一五一七頁)。○ひれ 「たくひれの」を見よ(七一六頁)。○なのみや 「や」は疑辭。反動辭ではない。△挿畫 挿圖158を參照(五七五頁)。
【歌意】 昔松浦縣に居た佐用姫の兒が、夫狹手彦の船出を慕うて領巾を振つた、といふ山の名ばかり、私は〔二字右○〕聞き聞きして居らうことか。甚だ殘念な〔五字右○〕。
 
〔評〕 佐用媛の領巾振山傳説は、地方的に著しかつたのに、作者は往訪の期のないことを歎き、暗にそれを實見し得た帥老の多幸を羨んだ。そこに蘊含の味がある。松浦は肥前國内で筑前守の管外だから、憶良としては公然の出遊は出來ないのみならず、實は神經痛で足腰不自由の病人だつた事を思ふと、「山の名のみや聞きつつをらむ」には、實に切々たる哀音が纏綿してゐるのを感ずる。果して序に、欲v寫2五藏欝結1とある。
 
(1515)多良志比賣《たらしひめ》 可尾嚢美許等能《かみのみことの》 奈都良須等《なつらすと》 美多多志世利斯《みたたしせりし》 伊志遠多禮美吉《いしをたれみき》     869 一(ニ)云(フ)、阿由都留等《アユツルト》。
 
〔釋〕 ○なつらすと 魚《ナ》釣らすとて〔右○〕。この「な」は(1)魚を饌《ナ》に用ゐる時の稱。(2)轉じて魚の一名の如く用ゐる。神功皇后釣魚の事は上の「松浦之鮎」を見よ(一四九三頁)。○みたたしせりし 「みたたし」は既出(四八八頁)。「せり」は現在完了の助動詞。「し」は過去の助動詞。○いしを 神功皇后釣魚の石は、玉島川の河中にあつた。古事記の爾坐(ス)2其河中之礒(ニ)1の註に、其河(ノ)名(ヲ)謂(ヒ)2小河(ト)1、亦其礒(ノ)名(ヲ)謂(フ)2勝門比賣《カチドヒメト》也とある、その勝門比賣の事であらう。紀の通證に、玉島川岸に七尺ばかりの大石ありて俗に紫石といふ、皇后垂釣の處とあり、又同通釋には紫石は元和年中の洪水にて水底に埋れたりとあり、雲根志には、浮島と玉島川の間にある松原にありとある。その松原は虹の松原か。玉島川の舊河道はこゝを通過したらしいから、それも捨て難いが、とにかく石の所在は判明しない。○たれみき 不定の代名詞は第三變化終止言で結ぶのが正格。それがもし第四變化で結ばれた時には、「か」の疑辭の係辭が存在するものとして解釋する。詞の玉の緒に、タレはミシと結ぶべきを、ミキとあるは誤とあるは却て非。
【歌意】 神功皇后樣が魚をお釣になるとて、お立ち遊ばされたことであつた石を、誰れが見たのですえ。それは即ち貴方でせう、お羨ましい〔十五字右○〕。
 
〔評〕 劈頭から神の命の御名を提唱して、第五句の「石を」に至るまで、極めて莊重に敬虔にその叙事を運んだ。それは記紀に準據し、口碑に※[夕/寅]縁した興味饒い事柄である。結句に入つて突如その主觀に轉じ、僅に「誰れ見(1516)き」の一語を旅人聊に投げ懸けて、その裏詞に無窮の情意を※[酉+褞の旁]釀せしめた。稀に見る異體の作。
 
毛毛可斯母《ももかしも》 由加奴麻都良遲《ゆかぬまつらぢ》 家布由伎弖《けふゆきて》 阿須波吉奈武遠《あすはきなむを》 奈爾可佐夜禮留《なにかさやれる》     870
 
〔釋〕 ○ももかしもゆかぬ 百日もかゝらぬ。「し」は強辭。○まつらぢ こゝは松浦へゆく路。○さやれる 障つてゐる。「さやる」はさはる〔三字傍点〕の古言。
【歌意】 百日もさ歩きはせぬ松浦路、それ處か今日往つて明日は歸つて來られよう近い松浦路〔五字右○〕を、何に差支へて往かぬのか。
 
〔評〕 大した遠方でもないの意を、具象的に「百日しも往かぬ」と誇大に轉義した。それは次の「今日往きて明日は來なむ」に強い反映を持たしめる手段である。又かく漸層的に折返し、くどく〔三字傍点〕松浦路の近いことを唱道したので、「何かさやれる」の疑問が深く強く印象づけられ、そこに嚴しい自己詰問が展開される。而もこの詰問には答辯を與へてない。それは作者の現况が無言の雄辯で囘答をしてゐるので、餘意餘情はすべてその間に往來してゐるのである。
 作者の現况、それは上の「山の名のみや聞きつつをらむ」の評中に既に語つた如く、作者は長い病人なのである。
 
天平二年七月十一日、筑前(ノ)國(ノ)守山上(ノ)憶良 謹(ミテ)上(ツル)。
 
(1516) 謹上は帥旅人卿に上つたのである。旅人卿の松浦の歌は四月若鮎の節で、奈良京にゐる吉田宜でさへ、その返書と返歌とを七月十日の日付でよこしてゐる、然るに筑前の國衙に居る憶良が漸うこの月になつて唱和したのは稍怠慢らしい。古義の次第説はすべて誤解。
 
詠(める)2領巾麾嶺《ひれふりのねを》1歌一首〔八字左○〕
 
この題詞原本にない。目録に依つて補つた。○領巾麾嶺 また領巾振山。肥前國東松浦郡濱崎の西南、鏡村の東嶺である。高さ約二百八十四米突。北は松浦の海(唐津灣)に面し、山脚の砂濱二里の松林を虹の松原と稱する。唐津の東一里。
 この篇は序及び歌、後人追和、最後人追和、最々後追和の歌まで、盡く旅人卿の自作である。序及び歌の作者に就いて、契沖は夙く從來の憶良説を破して、
  憶良は松浦山玉島川ともに、終に見られざる由を書けり。典法に依つて巡察する次に、帥殿(旅人)の見けるなるべし。
といつた。この篇の後人追和の諸歌も、松浦篇の樣式を襲用したもので、その手法の同じ點かろ見ても、旅人卿の戲意に出たことは明かである。尚この篇は上の憶良の松浦(ノ)歌の前にあるべきもので、その錯簡であることは、既に松浦(ノ)歌の條で辯明した。 
 
大伴(ノ)佐提比古郎子《サテヒコノイラツコ》、特(ニ)被《カヽフリ》2朝命《オホミコトヲ》1、奉《マケラル》2使|藩國《トツクニニ》1。艤v棹《フナヨソヒシテ》言《コヽニ》歸《ユキ》、稍赴(ム)2蒼波(ヲ)1。妾也《メヤ》松浦|佐用嬪面《サヨヒメ》、嗟(キ)2此別(ノ)易(キヲ)1、歎(ク)2彼(ノ)會(ノ)難(キヲ)1。即(チ)登(リ)2高山之嶺(ニ)1、遙(ニ)望(ミテ)2離去《コギサル》之船(ヲ)1、悵然(トシテ)斷(チ)v肝(ヲ)、黯然(トシテ)銷(ス)v魂(ヲ)。遂(ニ)脱(ギテ)2領巾《ヒレヲ》1麾《フル》之。傍者莫(シ)v不(ルハ)2流涕《ナカ》1。因《カレ》號(ビテ)2此山(ヲ)1、曰(フ)2領巾麾《ヒレフリ》之|嶺《ネト》1也。乃(チ)作歌《ウタヨミシテ》曰(フ)、
 
(1518)○大伴佐提比古 佐提比古は狹手彦のこと。宣化天皇紀に、二年冬十月、天皇以(テ)3新羅《シラギノ》寇《アタナフヲ》2於|任那《ミマナニ》1、詔(リ)2大伴(ノ)金村(ノ)大連《オホムラジニ》1、遣(リ)3其子磐(ト)與(ヲ)2狹手彦1以助(ケシム)2任那(ヲ)1、是時磐(ハ)留(リ)2筑紫(ニ)1執(リ)2國(ノ)政(ヲ)1以(テ)備(ヘ)2三韓(ニ)1、狹手彦(ハ)往(イテ)鎭(メ)2任那(ヲ)1、加《マタ》救(フ)2百濟(ヲ)1。欽明天皇紀に、廿三年八月、天皇遣(リテ)2大將軍大伴(ノ)連狹手彦(ヲ)1、領(ヰテ)2兵數萬(ヲ)1伐(シム)2高麗(ヲ)1、狹手彦乃(チ)用(ヰテ)2百濟(ノ)計(ヲ)1、打2破(リキ)高麗(ヲ)1、其王踰(エテ)v垣(ヲ)而逃(ゲヌ)、狹手彦遂(ニ)乘(リテ)v勝(ニ)以入(リ)v宮(ニ)、盡(ク)得(テ)2珍寶貨賂《タカラモノ》、七織帳、鐵(ノ)屋(ヲ)1還(リ)來《ク》、など見えて、古代の猛將である。○郎子 若い男子の敬稱で、郎女《イラツメ》の對稱。「いらつこ」は色《イロ》つ子《コ》の義。イロは親愛を表する語で、カゾイロ、イロセ、イロト、などもいふ。○特被朝命奉使藩國 取分け詔を承り、外國に派遺され。藩は蕃と同じい。化外の國また夷をいふ。○艤樟言歸 船支度して出で立ち。艤は船装ひ。棹は船の意に用ゐた。言は虚字でココニと訓む。歸は往く、趨くなどの意。○赴蒼波 大海に乘り出した。○松浦佐用殯面 殯面はその字音をヒメに當てた。但殯の一字にヒメの訓があるから、面は添字とも見られる。この語末の添字書式は集中に散見する。傳は「さよひめのこ」を見よ(一五一四頁)。○嗟此別易歎彼會難 遊仙窟の所(ハ)v恨(ム)別(ノ)易(ク)會(ヒノ)難(ク)、去留乖(キ)離(ル)の句に據つた。佛經にいふ八大辛苦中の愛(ニ)別離苦、會者(ニ)定離の意である。○悵然斷肝 悲み痛んで肝がちぎれる。悵は痛む、怨むなどの章。○黯然銷魂 心が暗がつて魂が消える。黯は深黒、また別を傷む貌にいふ。江滝が別賦に、黯然釣銷(ス)v魂(ヲ)者《ハ》唯別|而已《ノミ》。○脱領巾麾之 頸に掛けた領巾を取つて振つた。麾はさし招くの意。
 
得保都必等《とほつひと》 麻通良佐用比米《まつらさよひめ》 都麻胡非爾《つまごひに》 比例布利之用利《ひれふりしより》 於返流夜麻能奈《おへるやまのな》     871
 
〔釋〕 ○とほつひとまつら 前出(一四九九頁)。○おへるやまのな、負ひ持つた山の名。
【歌意】 松浦佐用姫が夫戀しい心に、その領巾を振つた事から附いた、この山の領巾振の名であるわ。
 
(1519)〔評〕 契沖はこの初句を評していふ、
  遠つ人は大方の枕詞なるを、今は佐用媛が狹提比古《サテヒコ》の歸るを待つに、おのづから協へり。
と。成程初句にさうした技巧はあるとしても、山の名は傳説に於いて既に知れ渡つた話、それを何の潤飾もなく直敍してゐる。これでは短歌の形式を取つた報告に過ぎない觀がある。然し作者としては別に、この領巾振るに深い感銘をもつたのであつた。
 それは作者旅人が大伴氏である事に留意しなければならぬ。領巾振傳説の立物松浦佐用姫の戀の對象たる大伴狹手彦は、旅人卿の傍系の遠祖に當る。外征に偉勲を樹てゝ、大伴氏の家門に赫々たる光輝を齎した英雄である。その人その事に伴ふ佳人の消魂的哀話は、後裔旅人をして、格別に斷陽の因を成さしめるのであつた。
 狹手彦が宜化天皇二年に出征の命を受けてから欽明天皇二十三年に振旅凱旋するまで、無慮二十七年間を經過したことを知らねばならぬ。實に馬鹿/\しい程の長期戰だ。最初のうちは兄磐と共に松浦に居て、韓地の指揮を執つてゐたので、軍旅の徒然に佐用媛は聘されたのである。その渡韓を決行した年時は分明しないが、佐用媛との雙棲期間は相應長かつたことと思はれる。
 佐用媛は乙等《オト》比賣、弟日《オトヒ》姫など書かれて、松浦の篠原村の某家の二番娘であつたさうな。正妻でこそないが一旦許した恩愛の情味は同じ事で、夫の出征に飽かぬ別を惜むこと、その閨裏に於いて足らず、渡頭に於いて足らず、遂に高山の頂に領巾振るに至つて極まる。後人その情思を敷演して幾多の傳説を派生し、遂に支那の望夫石の故事まで湊合して、佐用媛を石化せしめたのも偶然でない。
 領巾振の本事はこの外に、欽明天皇紀に、調吉士伊企儺《ツキノキシイキナ》が韓國に捕へられた時、妻|大葉子《オホバコ》が歌に、
  から國の城のへに立ちて大葉子は領巾振らすもよやまとへ向きて (紀、第十九)
(1520)それを或者が和して、
  から國の城のへに立たし大葉子は領巾ふらす見ゆ難波へ向きて (同上)
とあつて、場處や事情こそ違へ、同時代であるのも不思議である。只佐用媛自身に歌のないことは寂しいが、この領巾麾嶺篇の宣傳力によつて、大葉子以上に花やかに、その事蹟が世間に流傳した。
 
後(の)人(が)追(ひて)和《なぞらふる》歌〔左○〕一首
 
上の「遠つ人」の詠に、人が後から唱和した歌との意。「歌」原本にない、補つた。以下皆同じい。
 
夜麻能奈等《やまのなと》、伊賓都夏等可母《いひつげとかも》 佐用比賣何《さよひめが》 許能野麻能閉仁《このやまのへに》 必例遠布利家無《ひれをふりけむ》     872
 
〔釋〕 ○やまのなと 山の名として〔二字右○〕。○いひつげとかも 言ひ繼げとて〔右○〕かまあ。「か」は疑辭。「夏」をゲと讀むは呉音。○やまのへ 山の上。
【歌意】 山の名として、領巾振〔三字右○〕をいひ傳へよといふことでまあ、佐用媛がこの山の上で、領巾を振つたのであらうか。
 
〔評〕 今は領巾振が山名になつた事に就いて一案を立て、始からその下組があつての所作であつたらうと、佐用媛の心理を勝手に推想した。結句語調が弱い。領巾ふらしけむ〔七字傍点〕とでもいひたい。「山の名」「山のへ」の重複も(1521)例は多いがうるさい。
 
最《いと》後《のちの》人(が)追(ひて)和(ふる)歌一首
 
又々人が後から唱和した歌との意。
 
余呂豆余爾《よろづよに》 可多利都夏等之《かたりつげとし》 許能多氣仁《このたけに》 比例布利家良之《ひれふりけらし》 麻通羅佐用嬪面《まつらさよひめ》     873
 
〔釋〕 ○このたけ 此嶽。領巾振山をさす。
【歌意】 萬年の後にも語り傳へよとさ、この山にて〔右○〕、領巾を振つたらしい、松浦佐用媛は。
 
〔評〕 佐用媛の意中は夫《ツマ》戀より外はない。それを作者は色々な角度から見て模索するのである。この「萬代に語りつげとし」は名誉心からその領巾を振つたやうにも聞えるが、既に著名な傳説として語り繼がれてゐる事實がある以上は、そんな嫌疑はない。作者の心持はもつと潔白である。
 
最《いと》最《いと》後(の)人〔左○〕(が)追(ひて)和(ふる)歌〔左○〕一首二首
 
宇奈波浪能《うなばらの》 意吉由久布禰遠《おきゆくふねを》 可弊禮等加《かへれとか》 比頴布良斯家武《ひれふらしけむ》 麻都良佐欲比賣《まつらさよひめ》     874
 
(1522)〔釋〕 ○ふらし 振る〔二字傍点〕の敬相。
【歌意】 大海の沖をゆく、夫狹手彦の〔五字右○〕船を、返れといふ事で、その領巾を振られたであらうか、松浦佐用媛は。
 
〔評〕 領巾振の本事に就いて、狹手彦出征の場面に即して、媛の情思を別な方面から描いてみた。總べて船は一旦漕ぎ出したら戻さぬのが定法である。而も「沖ゆく」である。その不可能なる返航を媛の意中に推した處に、この歌の山がある。
 
由久布禰遠《ゆくふねを》 布利等騰尾加禰《ふりとどみかね》 伊加波加利《いかばかり》 故保新苦阿利家武《こほしくありけむ》 麻都良佐欲比賣《まつらさよひめ》     875
 
〔釋〕 ○ふりとどみかね 「ふり」は領巾〔二字右○〕振りの略。「とどみかね」は前出(一四三四頁)。
【歌意】 漕ぎ出した夫の船を、その眞心こめた領巾振にも止めかねて、どんなにか戀しいことであつたらう、松浦佐用媛は。
 
(1523)〔評〕 前の歌の繼續場面で、流石の領巾振も、返航はさておき、その船足をさへ止め得ず、一別杳としてその消息を斷つに至つては、斷陽の極みであらう。「いかばかり戀しかりけむ」位では、まだ物足らぬ憾がある。
 
書殿《ふみどのに》餞(る)v酒(を)日(の)倭《やまと》歌四首
 
書殿で帥旅人卿が上京されるに就いての〔十五字右○〕餞別の酒を斟んだ時の歌との意。旅人卿の上京は天平二年十二月大納言に任ぜられた爲である。○書殿 學問所のこと。これは太宰府中の建物なので、帥殿の送別宴をそこに開いたのである。都府樓址の南にガギヤウと呼ばれる地がある。學業《ガクギヤウ》の轉訛で、宰府時代に學業院を置かれた遺址である。學業院は即ち書殿の在るべき處。これを旅人卿の家の書殿、又は憶良の住む筑前の國衙の書殿などいふ説は諾け難い。○倭歌 この餞宴に詩人は詩を賦し、歌人は歌を詠じたので、詩即ち唐歌《カラウタ》に對して特に倭歌《ヤマトウタ》と題した。この字面はこゝが初出である。唱和の意の和歌と混じてはならぬ。上にも詩に竝べて日本挽歌と書いてある。
 
阿摩等夫夜《あまとぶや》 等利爾母賀母夜《とりにもがもや》 美夜故摩提《みやこまで》 意久利摩遠志弖《おくりまをして》 等比可弊流母能《とびかへるもの》     876
 
〔釋〕 ○あまとぶや 天飛ぶ鳥と續く。「や」は間接の歎辭。天飛ぶ鳥も(紀、輕太子)天飛ぶや輕(卷二、卷四、卷十一)天飛ぶや雁(卷十五)など例が多い。○とりにも 鳥にて〔右○〕も。○がもや 「がも」は願望の辭、「や」は歎辭。○とびかへるもの  飛び還らうものをの意。「もの」はモノヲの略。推量詞を用ゐるべき處を現在格にし(1524)て、もの〔二字傍点〕と收めた例は、紀の應神天皇御歌に「逢ひ見つるもの」、記の雄略天皇御歌に「金※[金+助]《カナスキ》を五百千《イホチ》もがも※[金+助]きはぬるもの」、卷十三に「公《キミ》にまつりて越《ヲチ》えしむもの」など數多ある。
【歌意】 空飛ぶ鳥にでもなりたいなあ。そしたら君を奈良の京まで送り申して、早速飛び還らうものを。それがならぬので殘念な。
 
〔評〕 鳥は旦に出て夕べに還る。よつて鳥にでもなつて、一散に歸京する帥殿を造り屆けて來ようにといふ。實に懇情の限を盡した詞で、その不可能な事は百も承知でゐながら、尚愚痴らしくかういはねばならぬ處に、抑へ切れぬ惜別の情緒が漲り漂ふ。安貴王の歌、
  高飛ぶ鳥にもかも明日往きて妹に言問ひ――。(卷四、安貴王−534)
とその情趣を同じうしてゐる。
 「送り申して飛び還るもの」は古代の口語そのまゝを聞くやうな感じがする。憶良は漢學者だけに、國語の修辭に就いて、極めて無造作な表現をなす傾向をもつてゐる。時には却てそれが疎宕の味ひをもち、眞摯卒直な響を傳へる事もある。
 
比等母禰能《ひともねの》 宇良夫禮遠留爾《うらぶれをるに》 多都多夜麻《たつたやま》 美麻知可豆加婆《みまちかづかば》 和周良志奈牟迦《わすらしなむか》     877
 
〔釋〕○ひともね 人皆の意。皆《ミナ》をモネと訛るは筑紫の方言か。宣長は彌那〔二字右△〕の誤字とし、正辭は「母」にミの音あ(1525)り、「禰」は呉音ナイなれば、このまゝにてヒトミナと讀むべしと論じたが、正訓とは思はれない。○うらぶれ 心觸《ウラフ》れの義。愁ふること。○みま 御馬。○わすらし 忘る〔二字傍点〕の敬相。△地圖 第一册卷頭總圖を參照。
【歌意】 筑紫の人達は皆この通り、君の御出立を愁へ歎いて居るのに、君は奈良京の入口なる〔十字右○〕立田山に、御馬が近付かうならば、その喜に我等の事を〔九字右○〕、お忘れなさるであらうかえ。
 
〔評〕 旅人卿の旅况と旅情とを委曲に描いて、殆ど餘蘊がない。長い間の宰府の蟄伏は、一陽來復して中央政府に召還、今や大政輔佐の顯官として、花々しく奈良京の土を踏まうとするその人が、入京の關門たる立田山を、目のあたり馬頭に望んだ時の襟懷はどんなものであらう。この大きな喜の前には、宰府に於ける今の別離の如き小さな悲は、端的に消し飛んでしまふであらう。實に「御馬近づかば忘らしなむか」である。この直ちに人の肺腑を刺す言辭には、筑紫に取殘される運命のもとにある人達の寂しい氣持から發した、生別の悲哀を抱藏して、惻々と人に迫る。
 
伊比都都母《いひつつも》 能知許曾斯良米《のちこそしらめ》 志萬〔二字左△〕斯久母《しましくも》 佐夫志計米夜母《さぶしけめやも》 吉美伊〔左△〕麻佐受斯弖《きみまさずして》     878
 
〔釋〕 ○いひつつも 寂しといひつつも。○のちこそしらめ 後にこそ眞に思ひ知らう。○しましくも 暫らくまあ。「志萬」原本に等乃〔二字右△〕とあるが解し難い。宣長説により改めた。○さぶしけめやも 寂しからんやはの意。○きみまさずして 「伊」は衍字。但關守伊、麿伊の如く、「君」の接尾辭として解してもよい。
(1526)【歌意】 貴方が居られないでは寂しいと〔十四字右○〕、口にはいひながらも、本當の寂しさは、お別れした〔十二字右○〕後になつてこそ思ひ知らう。今の暫くは何の寂しからうかい。
 
〔評〕 送別の際に繰り返す詞は、衆口一致別後の離愁である。然し去(ル)者(ハ)日(ニ)以(テ)疎(シ)(文選古詩)で、少し日が經てば、泣いた烏はもう笑ふのである。それに引換へ、作者は愈よ以てその寂寞感に打たれるであらうことを、豫定的に揚言した。情意が紆餘曲折してゐるので、表現も隨つて紆曲してゐる。
 
余呂豆余爾《よろづよに》 伊麻志多麻比提《いましたまひて》 阿米能志多《あめのした》 麻乎志多麻波禰《まをしたまはね》 美加度佐良受弖《みかどさらずて》     879
 
〔釋〕 ○よろづよ 多年の轉義。○まをしたまはね 天下の政を執奏なさいませ。臣下の政を執るには、天皇に奏し上げてする故に、天の下申すといふ。「ね」は懇にいふ命令辭。○みかど 朝廷。御門《ミカド》の義より轉用。
【歌意】 貴方は〔三字右○〕萬代に壽長くお出なされて、天下の政をお執りなさいませ、朝廷を離れることなしに。
 
〔評〕 大納言は天下の庶事に參議し、敷奏、宣旨、獻替の事を掌る。天の下申す〔五字傍点〕とはこれをいふのである。天平二年には旅人卿は正三位中納言兼太宰帥で、中納言の勞十三年、帥の勞約七年に及んでゐた。令の制、大納言は定員四名だが、實際は一二名の任命に過ぎなかつた。この前年(天平元年)左大臣長屋(ノ)王の變あり、以後大臣を置かず、その代りに現任の大納言多治比(ノ)池守の外に、今一名の大納言を補した。その人は藤原武智麻呂で、(1527)旅人卿の後輩である。それは藤原氏專權の鋒鋩の著しい露出であつた。旅人卿としては大いに不平ならざるを得まい。偶ま同二年九月に入つて多治比(ノ)池守が薨じたので、その補缺に漸く大納言に任ぜられた。當時知太政官事舍人親王の下に、大臣なしで二名の大納言が政務を執つたのだから、その權力は例になく絶大だつたと思はれる。遲蒔ながら旅人卿が、この地位に昇進し得たことは、單に當人の喜ばかりか、宰府の部下一統の喜、別しては大伴一族が手を額にしたことはいふまでもあるまい。
 されば「萬代にいまし給ひて云々」には、普通の祝意以上に、頗る重大な意味と感想とが含まれてゐたものと考へられる。旅人卿が最早老年で生ひ先の長くないといふ懸念がその一、假令長命しても、政情や病氣やの種々の事故で、致仕退官の餘儀なくなる場合がその二である。故に長壽の上に朝廷を去らず仕へませと祝福せざるを得ない。洵に實際に即した懇切を極めた詞の餞別で、浮泛の點が微塵もない。然るに事實はこの祝福を裏切つて、果然その翌年七月を以て旅人卿は薨逝したではないか。嗟。
 尚卷四、太宰府の官人等が餞(クル)2卿(ヲ)筑前(ノ)國(ノ)蘆城(ノ)驛家(ニ)1歌の條下を參照(一一八八頁)。
 
聊(か)布《のぶる》2私(の)懷《こゝろを》1歌三首
 
上の送別の歌三首に添へて、自分一己の情懷を叙べた歌との意。「布」は左傳の註に陳(ブル)也とある。これも憶良の作である。
 
阿麻社迦留《あまさかる》 比奈爾伊都等世《ひなにいつとせ》 周麻比都都《すまひつつ》 美夜故能提夫利《みやこのてぶり》 和周良延爾家利《わすらえにけり》     880
 
(1528)〔釋〕 ○あまさかる 鄙《ヒナ》の枕詞。既出(一一二頁)。「社」をサに充てたのは、シヤの直音を用ゐたもの。○てぶり 手振。風俗をいふ。○わすらえ 忘られ〔三字傍点〕の古言。
【歌意】 私はこの遠くの田舍に、五年も住み通して、京のみやびた風俗は、何時か忘られてしまひましたわい。
 
〔評〕 足掛け五年の田舍住ひに、毎日接するのは田舍風俗田舍訛りで、何時か御同樣の田舍者になつてしまふ。國司が京官に轉任しても、家庭に進入した田舍詞が、何時までも拔けなかつた話がある。それ程だから、翻然として氣が付いて見ると、懷かしい京の手振は自分ながら夢のやうに遠い。實感そのものが用捨なくさらけ出されて、惻々の情に禁へない。
 但この歌は「布私懷」と題詞に斷つた如く、上の送別歌に添へて帥卿に贈つたものである。こんな私情的の作を何の爲にと考へて來ると、そこに手を拍つて失笑され、又黯然として涙ぐまれるものがあらう。即ちかやうに永い田舍住ひに降參してをります、と帥卿に愁訴し、間接にその同情を促して、京官への推輓を哀求したものである。
 「五年」は筑紫に來てからの五年で、國守としての五年ではない。この天平二年から逆算すると、神龜三年に憶良は筑紫に來たことになる。然るに天平三年六月にはまだ國守だつたのだから、神龜四年が國守任命の年となる。されば來紫してから半年乃至一年間は、守でなかつたといへる。多分筑前介などで赴任して來たが、そのうち守の缺員によつて補任されたものと思ふ。
 
(1529)加久能未夜《かくのみや》 伊吉豆伎遠良牟《いきづきをらむ》、阿良多麻能《あらたまの》 吉倍由久等志乃《きへゆくとしの》 可伎利斯良受提《かぎりしらずて》     881
 
〔釋〕 ○かくのみや 「や」は疑辭。○いきづき 息を吐くこと。この息は歎きの息。○あらたまの 年に係る枕詞。既出(九八六頁)。○きへゆく 來經往く。過ぎ行くをいふ。
【歌意】 自分はかうして一途に、京戀しさに溜息吐いて居らうことか、年月の經つ限も知らないでさ。
 
〔評〕 憶良の筑前守はこの天平二年十二月にはまだ現任であつた。それはこの歌どもの末に、筑前國司山上憶良と署してあり、又天平三年の作熊凝の歌の題詞にも、筑前守憶良とあるので證せられる。新考に年限を過ぎたれど召還されざりし也とあるは非。
 國守の任期は滿四年であつた。當時重任は許されぬから、滿期の曉他に轉任の口がない以上は、當てなしに歸京するか、又は長い馴染の土地だけに、前司殿で田舍に居据るかより外に方法がない。憶良の懊悩は實にこの點にあるのだ。
 もしかすると、未來永劫筑紫の果で老い朽ちてしまふかも知れない。「かくのみや息づき居らむ」といひ、「來經ゆく年の限知らずて」といふは、全くこれが爲である。實に悲しい聲を聞くものだ。その溜息には彼れの心腸が蕩けて流れ出すのではあるまいかと思はれる。これも旅人卿に相當の盡力を乞ふ間接的哀願である。
 
阿我農斯能《あがぬしの》 美多麻多麻比弖《みたまたまひて》 波流佐良婆《はるさらば》 奈良能美夜故爾《ならのみやこに》 ※[口+羊]佐宜多麻波禰《めさげたまはね》     882
 
(1530)〔釋〕 ○あがぬし 我が主。旅人卿をさす。「ぬし」はノウシ〔三字傍点〕(之大人)の約で、ノは領格の辭。さればアヌシ、ワヌシといふが正格、アガ主《ヌシ》、何某の大人などいふは誤用であるが、主《ヌシ》の語が既に一つの成語となつては、又かうも使用されるのである。平安期に入つてはこの用例が愈よ多い。○みたまたまひて 御靈《ミタマ》の〔右○〕頼《フユ》を〔右○〕賜ひての略。「ふゆ」は殖《フ》ユ、榮《ハ》ユなどの義。○めさげ 召しあ〔二字傍点〕げの約。呼び上げること。績紀廿六詔に、尊靈乃子孫乃《タフトキミタマノコドモノ》、遠流天在乎《トホクハフリテアルヲ》、京都仁召上天《ミヤコニメサゲテ》、臣止成無止云利《オミトナサムトイヘリ》。
【歌意】 貴方樣がお惠を垂れて下さつて、來春になつたら、この私を〔四字右○〕奈良京に、呼び上げて下さいませ。
 
〔評〕 旅人卿はこの十二月上旬に上京、來年正月からは太政官に出仕、政務を執るのである。そこで「春さらば」といつたので、その時は宜しくお引立を蒙りたい、どうか京官の口を世話して頂きたいと頼み込んだ。
 始に五年も經つて田舍者になり切つたと愁へ、次にもしかしてこのまゝ田舍に朽ち果てるのではないかと歎き、終りに京に呼び取つて下さいと本音を吹いた。その言辭整然と秩序立つて、層一層に迫力を強めて來た。要するにそのいかに田舍住ひに飽き/\し、又仕進の途に齷齪してゐるかゞ窺はれる。且又永年の知己旅人卿に置き去られては、一刻も不知火筑紫の片田舍に居る氣がしないのは無理もあるまい。
 
天平二年十二月六日、筑前(ノ)國(ノ)司山(ノ)上(ノ)憶良謹(ミテ)上(ル)。 
この十二月六日は、旅人卿發足の日に最も近いものと思ふ。されば府の官人等の蘆城驛家の餞宴(卷四所見)は、同月の上旬中の事だらう。當時宰府から奈良京まで、急いでまづ半月はかゝつた。年内に著京、新大納言とし(1531)て新年の儀禮に臨む必要上、一日も早く出發せねばならぬのである。
 
三島(の)王(の)後(に)追(ひて)和(ふる)2松浦|佐用嬪面《さよひめの》歌(に)1歌一首
 
三島王が後から旅人卿の松浦佐用媛の歌に和した歌との意。〇三島王 續紀に、養老七年正月無位より從五位下とある。なほ同紀、寶龜二年七月の條に、故從四位下三島王の女河邊(ノ)王葛(ノ)王が伊豆(ノ)國に配流されてゐたのを、皇族籍に復籍された事が見える。又天平七年に從四位下で相模國大住郡に食封を有してゐた事が、正倉院文書に見える。
 この題詞及び歌は順序上、旅人卿の領巾麾嶺歌の最々後の後人追和歌二首の次に置くべきで、茲にあるは錯簡と見るべきであらう。
 
於登爾吉岐《おとにきき》 目爾波伊麻太見受《めにはいまだみず》 佐容比賣我《さよひめが》 必禮布理伎等敷《ひれふりきとふ》 吉民萬通良楊滿《きみまつらやま》     883
 
〔釋〕 ○おとにきき 噂に聞き。音聞《オトギキ》と名詞にもいふ。○きみまつらやま 君待つに松浦山をいひ係けた。松浦山は領巾振山のこと。
【歌意】私は〔二字右○〕噂には聞き、目のあたりにはまだ見ない、佐用媛が領巾を振つたといふ、君待つといふ名の松浦山をさ。
 
(1532)〔評〕 佐用媛の傳説から領巾振山を景望しただけの意で、格別な詩味をもたない。「君まつ浦山」の造語は、上の「遠つ人まつ裏佐用媛」又「夫《ツマ》まつの木」(卷九)「君まつの木」(卷六)と同じく無用の技巧で、徒らに意味の混線を招くに過ぎない。
 三島王の系譜も、旅人卿と如何なる因縁があつて、この唱和をしたものかも判明しない。その女王達の配流は惠美押勝の叛に關係したものと考へられる。
 
大伴(の)君《きみ》熊凝《くまごりの》歌二首 大典麻田|陽春《ヤス》作
 
目録には、大典麻田(ノ)連陽春(ガ)爲2大伴(ノ)君熊凝(ガ)1述(ブル)v志(ヲ)歌二首とある。この歌は陽春が熊凝その人の氣持になつて詠んだものである。○大伴君熊凝 傳は次の憶良の漢文序中に記した如くである。君は姓。○大典 既出(一一九一頁)。○麻田陽春 既出(一一九一頁)。
 
國遠伎《くにとほき》 路乃長手遠《みちのながてを》 意保保斯久《おほほしく》 計〔左△〕布夜須疑南《けふやすぎなむ》 己常騰比母奈久《ことどひもなく》     884
 
〔釋〕 ○くにとほきみちのながて 遙な黄泉《ヨミ》の國への長い路。次の憶良の歌及び同序の意から推すと、國は冥路《ヨミヂ》、冥土の事と思はれる。「ながて」は既出(一一四四頁)。○おほほしく 既出(四八五頁)。○けふや 「計」原本に許〔右△〕とあるは誤。類本その他による。古義の戀ふや〔三字傍点〕の説甚だ非。○ことどひもなく 物言ふこともなく。「ことどひ」は「こととはぬ」を見よ(一〇四七頁)。
(1533)【歌意】 遠い冥路の〔三字右○〕長い路を、自分は〔三字右○〕心さみしく、何の物言ふこともなく、今日|通《トホ》つて行くことであらうか。
 
〔評〕 「おほほしく宮出もするか」(卷二)の趣に似て、彼れは佐田の隈囘、これは冥路であることに、相對の興が惹かれるに過ぎない。客死する熊凝の意中を忖度して、その自作の體に擬したもの。例の仏教思想の所産。
 
朝露乃《あさつゆの》。既夜須伎我身《けやすきわがみ》。比等國爾《ひとくにに》。須疑加弖奴可母《すぎかてぬかも》。意夜能目遠保利《おやのめをほり》。     885
 
〔釋〕 ○あさつゆの 朝露の如く〔二字右○〕。○けやすき 消《ケ》易き。○このみ この身。下によ〔右○〕の歎辭又はなり〔二字右○〕の決定辭を含む。○ひとくに 他國、外國。こゝは黄泉《ヨミ》の國をさす。○すぎかてぬ 死に行き敢へぬ。○めをほり 「ひとのめをほり」を見よ(一三七二頁)。
【歌意】 朝露のやうに消え易い、自分のこの身だ、が快く冥路の客《タビ》趣きかねることよ、親に逢ひたいの切願で。
 
〔評〕 熊凝は年十八で客中に死んだ。さぞ兩親に逢ひたかつたであらう。この同情的想像を、直ちに熊凝意中の語として歌つた。人生如露の語は支那上代の詩や佛經にも見えて、珍しくもない。
 
筑前(の)國司《くにづかさ》、守《かみ》山(の)上(の)憶良(が)敬(しみて)和(ふる)d爲(に)2熊凝《くまごりの》1述(ぶる)2其志(を)歌(に)u六首
 
筑前國の國衙の役人である筑前守憶良が、麻田陽春の〔五字右○〕熊凝の爲に代つてその志を逃べた歌に、敬んで和した歌(1534)との意。六首は長短歌を合せての數。○筑前國司守 國司は國の官吏の意で、守介掾目を總稱する。守は、こゝでは筑前守。「國守」を見よ(一四〇一頁)。
 
大伴(ノ)君熊凝者肥後(ノ)國益城郡(ノ)人也。年十八歳、以(テ)2天平三年六月十七日(ヲ)1爲(リ)2相撲使《スマヒノツカヒ》某(ノ)國司官位姓名(ノ)從人《トモビトト》1、參2向《マヰノボル》京都《ミヤコニ》1。爲《ナルカモ》v天不幸(ニシテ)、在(リテ)v路(ニ)獲(タリ)v疾(ヲ)。即(チ)於(テ)2安藝(ノ)國|佐伯《サヘキノ》郡高庭(ノ)騨家《ウマヤニ》1身故《ミマカリヌ》也。臨終《シナムトスル》之時、長(ク)歎息《ナゲイテ》曰(フ)、傳(ヘ)聞(ク)假合之身易(ク)v滅(ビ)、泡沫之命難(シ)v駐《トヾメ》。所以(ニ)千聖己(ニ)去(リ)、百賢不v留(マラ)、况乎凡愚(ノ)微《イヤシキ》者、何(ゾ)能(ク)逃避《ノガレム》。但我(ガ)老親、並(ニ)在(リ)2奄室(ニ)1、待(チテ)v我(ヲ)過(グス)v日(ヲ)、自(ラ)有(リ)2傷(マシムル)v心(ヲ)之恨1、望(ミテ)v我(ヲ)違(フ)v時(ニ)、必(ズ)致(サム)2喪(フ)v明(ヲ)之泣(ヲ)1。哀(イ)哉我(ガ)父、痛(マシイ)哉我(ガ)母。不v患(ヘ)2一身(ノ)向v死《シナムトスル》之途(ヲ)1、唯悲(シム)2二親(ノ)在(ル)v生《ヨニ》之苦(ヲ)1。今日長(ク)別(レ)、何(ノ)世(カ)得(ム)v覲(ルコトヲ)。乃(チ)作(ミテ)2歌六首(ヲ)1而死(ニタリ)。其歌(ニ)曰(フ)、
○相撲使 相撲部領使《スマヒノコトリヅカヒ》を見よ(一五〇七頁)。○某國司官位姓名 國名及び官位姓名を明記すべきを略筆した。○從人 供の者。○京都 奈良京のこと。○爲天不幸 運命の不仕合せ。○高庭驛家 後世は佐伯郡に高庭の名がない。驛家はウマヤ。傳馬を置いて吏人の往來に傭へる。○身故 身|退《マカ》る。「故」は物故などの故で死すること。○假合之身 假《カリ》の身。佛經に五大本來空、四大假合などいひ、萬物はすべて地水火風が縁に依つて假に結合して成つたもの故、縁が盡くれば忽ち離散して、本來の一切空に歸すると説く。○泡沫之命 泡の結ぶかとすれば消えるに等しい、はかない命。金剛般若經に、一切(ノ)有爲法(ハ)如(ク)2夢幻泡沫(ノ)1、如(ク)v露(ノ)亦如(シ)v電(ノ)。○千聖已去(1535)百賢不留 千百の聖賢でも皆死んで、生きてゐる者はない。○凡愚之微者 愚な卑い身分の者。○在庵室 家に居る。○待我過日 自分の歸を待つて日を送り。○望我違時 自分を待ち望に、その歸郷の時期を違へた。戰國策に、王孫賈之母曰(フ)、汝朝(ニ)出(デ)晩(ニ)來(ル)、吾則(チ)倚(リテ)v門(ニ)望(ム)v汝(ヲ)。○喪明之泣 盲目になる程の泣きの涙。檀弓に、子夏喪(ウテ)2其子(ヲ)1、而喪(フ)v明(ヲ)。○在生之苦 世に在る苦。○何世得覲 何時父母の安否を問へよう。覲はまみゆ〔三字傍点〕の意。○作六首之歌而死 熊凝が六首の歌を詠んで死んだとの意。實は憶良の假作。
 
宇知比佐受《うちひさす》 宮弊能保留等《みやへのぼると》 多羅知斯夜《たらちしの》 波波何手波奈例《ははがてはなれ》 常斯良奴《つねしらぬ》 國乃意久迦袁《くにのおくがを》 百重山《ももへやま》 越弖須疑由使《こえてすぎゆき》 伊都斯可母《いつしかも》 京師乎美武等《みやこをみむと》 意母比都都《おもひつつ》 迦多良比袁禮騰《かたらひをれど》 意乃何身志《おのがみし》 伊多波斯計禮婆《いたはしければ》 玉桙乃《たまぼこの》 道乃久〔左○〕麻尾爾《みちのくまみに》 久佐太袁利《くさたをり》 志婆刀利志伎提《しばとりしきて》 等許〔左△〕自母能《とこじもの》 宇知許伊布志提《うちこいふして》 意母比都都《おもひつつ》 奈宜伎布勢良久《なげきふせらく》 國爾阿良波《くににあらば》 父刀利美麻之《ちちとりみまし》 家爾阿良婆《いへにあらば》 母刀利美麻志《ははとりみまし》 世間波《よのなかは》 (1536)迦久乃尾奈良志《かくのみならし》 伊奴時母能《いぬじもの》 道爾布斯弖夜《みちにふしてや》 伊能知周疑南《いのちすぎなむ》     886
   一(ニ)云(ク)、和何余須疑奈牟《ワガヨスギナム》。
 
〔釋〕 ○うちひさす 宮の枕詞。既出(一〇〇八頁)。○みやへのぼる 大宮に參る。京《ミヤコ》にのぼる意ではない。○たらちしの 母に係る枕詞。足る〔二字傍点〕の敬相足らし〔三字傍点〕にし〔傍点〕の親稱の添うた語。久老いふ、爲《シ》は知《チ》に通ふ言にて、手摩乳《テナヅチ》足摩乳《アシナヅチ》の乳《チ》に同じく、親み崇むる意と。「たらちねの」といふに同じい。同項を參照(九八四頁)。○つねしらぬ 平生知らぬ。○くにのおくが 國の奥處《オクガ》。國の極まる果をいふ。「奥處を」は「越えて」に係る。○ももへやま 幾重も重なつた山。五百重《イホヘ》山といふに同じい。○かたらひをれど 傍輩と〔三字右○〕語らひをれど。○おのがみし 己れが身。「し」は強辭。○いたはしければ 「いたはし」は勞《イタ》づくの形容詞格。病みつくをいふ。○たまぼこの 道の枕詞。既出(二七二頁)。○くまみ 曲り角。隈邊《クマベ》の轉。「くまわ」に略同じい。「久」原本にない。類本その他によつて補つた。○くさたをり 草手折り。○しばとりしきて 柴取敷きて。「しきて」は草をも承けてゐる。柴《シバ》は雜木の細條をいふ。○とこじもの 床その物の如く。「かもじもの」を見よ(一九三頁)。「許」原本に計〔右△〕とあるは誤。契沖略解等の説による。又箇許〔二字右△〕自物(カコジモノ)の誤とする説もある。○うちこいふし 「こいまろび」を見よ(一〇三一頁)。○ふせらく 臥せることには〔四字右○〕。○くにに この「くに」は郷土をいふ。○とりみまし 「とりみ」は世話すること。病人には看護するをいふ。○かくのみならし 「かく」は生者必滅の無常なるをさす。○いぬじもの 「道に伏し」に係る序。○わがよすぎなむ 「一云」のこの句は結句の一傳を註したもの。これを次の「たらちしの」の歌の下に移すべしといふ略解の言は、佛足石歌體説を成立させたい(1537)爲の強辯である。
【歌意】 熊凝自分は〔五字右○〕大宮へ參るというて、母の手許を離れ、平生知りもせぬ國の遠い處を、幾重もの山を打越えて通り過ぎ、何時まあ京都を見られようかと、心に思ひながら、傍輩と話をしてをるが、自分の身體がさ煩ひ付いたので、往來の片隅に草を折つたり、柴を折つたりして敷き、それを床のやうにして〔二字右○〕轉がり寢、歎き臥して思ひ思ひ、郷土《クニ》に居るなら父親が世話もしよう、家に居るなら母親が世話もしよう、嗟《アヽ》人世はかうはかないものらしい、犬その物のやうに道端に打伏して、死んで往くことであらうかなあ。
 
〔評〕 相撲部領使は卑官の者が勤める。平安時代では近衛舍人が諸國に出張して、相撲人を京都に引率して來るやうになつたが、奈良時代では地方地方の下級官吏が、管下の相撲人を取纏めて上京し、相撲の節が終ると、又引連れて歸國するのであつた。熊凝はその又從者といふのだから、身分は一向問題にならない。年はわづか十八の若造、それが旅先で只病死したのでは、何も骨折つて諷詠に上すほどの價値はありはしない。
 これは畢竟作らむが爲に作つたもので、麻田陽春に唱和する爲の文字三昧に過ぎない。乃ち陽春の作に倣つ(1538)て代作體を取り、熊凝が上京の目的を果さず、途中で客死しただけの貧窮な材料に、父母兩親を搦ませて、強ひてその趣向を構成したといつても過言ではあるまい。
 「内日刺す宮へのぼる」といひ「何時しかも京師を見む」といふ、田舍者が主都にあくがれる心理は、何時の世でも變りはない。「母が手はなれ」は慈愛の象徴として母を擧げたので、あとに「父取りみまし」とあるから、兩親揃つて居たものである。「國にあらば父――」「家にあらば母――」の排對は叙法上に姿致を取る爲で、國には父、家には母を分排したことは、大小輕重おのづから相協うて適實である。「家にあらば云々」は人麻呂の讃岐(ノ)狹岑(ノ)島(ニ)視(ル)2石中(ノ)死人(ヲ)1歌(卷二)の「妻もあらば摘みてたげまし」と同一揆で、特に若い客死者に取つては、、父母の看護を云々することは、極めて切寶な聯想である。が又隨つて平凡でもある。
 面白いのはその病臥状態の描寫、「玉桙の道の隈みに、草手折り柴取敷きて、床じもの打ちこい臥して」である。この光景を眼前に描いてみると、寶に慄然たらざるを得ない。當時の行路病者は、往來端に草や柴を藉き重ねて、そこに寢かされたものである。正に「犬じもの」である。流行病や熱病となると、行路病者でなくてもその式だが、草枕時代の旅では、こんな事は敢へて珍しい譯ではない。主人の相撲使は公程に期日があるから、病人をその儘置去りにして急いで出立してしまふ。從者は素より官吏ではないから、驛家《ウマヤ》の方では飛んだ厄介者として構つてくれない。勿論蓄への錢もあるまいから、癒る病人もこれでは參つてしまふ。茲に至つて、「國にあらば父取りみまし、家にあらば母取りみまし」が、力強く利いてくる。結末の「世の中はかくのみならし、云々」は熊凝の意中を藉りた作者の語である。世間法の無常を痛感したなどは、十八歳の田舍者にしては出來過ぎてゐる。
(1539) 抑も熊凝が相撲使の從者となつたことは、錢入らずに咲く花の匂ふが如き奈良の京見物をしたい念願であつたとしてよい。それがこんな事で、父母の顔さへ見ずに道端の松の肥しとなつては、當人も口惜しからうし、他の者も氣の毒になる。麻田陽春にも、憶良にもそんな氣持が動いての述作であることはいふまでもあるまい。
 大體完作であるが、「思ひつつ」の再出は、聊か不快である。
 
多良知斯〔左△〕能《たらちしの》 波波何目美受提《ははがめみずて》 意保々斯久《おほほしく》 伊豆知武伎提可《いづちむきてか》 阿我和可留良武《あがわかるらむ》     887
 
〔釋〕 ○たらちし 「斯」原本に遲〔右△〕とあるは誤。古義説による。○おほほしく 既出(四八五頁)○あがわかるらむ 「らむ」この句落著しかねる。下にも「阿我和加禮南《アガワカレナム》」とある例によつて、今はその意に解する。
【歌意】 母親の顔をも見ずして、心いぶせく、自分はどちらへ向いて、死に〔二字右○〕別れられようか。
 
〔評〕 母親の顔を見ないでは、死ぬにも死に切れぬは少年客死者の心理。「いづち向きてか」は擧措その處を失うた状態、兩つながら寫し得て可なりといつて置かう。
 以下五首は獨立した短歌で、長歌に、附帶した反歌ではない。
 
都禰斯良農《つねしらぬ》 道乃長手袁《みちのながてを》 久禮久禮等《くれぐれと》 伊可爾可由迦牟《いかにかゆかむ》 可利弖波奈斯爾《かりてはなしに》     888
    一(ニ)云(フ)、可例比波奈之爾《カレヒハナシニ》。
 
(1540)〔釋〕 ○つねしらぬみちのながて 平生通うたことのない路の長い路。上の「國遠き路の長手」と同じく、冥路《ヨミヂ》をいふ。○くれぐれと 卷十三にも「沖つ波來寄る波邊をくれぐれと〔五字傍点〕獨ぞわがくる妹が目をほり」とある。契沖説に、遙なる意、俗にクレハルカといふも是なりとあるが、クレの義が解かれてない。宣長いふ、クレは闇き意にて覺束なき態《サマ》なりと。これは契沖説よりは優つてゐる。○かりて、糧《カテ》。「かり」は乾飯《カレヒ》の約。「て」はその料の物をいふ語。酒手《サカテ》の語も酒造る料の米をいふ、酒の代りの値にいふは後世の轉用。乾飯《カレヒ》は干飯《ホシヒ》の事で、轉じては携帶の食糧の稱ともなつた。和名抄に、餉(ハ)以(テ)v食(ヲ)遺(クル)v人(ニ)也、加禮比於久留《カレヒオクル》、俗(ニ)云(フ)加禮比《カレヒ》、また糧(ハ)行(ニ)所(ノ)v賚(ス)米也、又儲食《マウケノケ》也、和名|加弖《カテ》とある。○かれひはなしに 以下「一云」は結句の異同を註したもの。
【歌意】 平生通つたことのない冥土の〔三字右○〕遠い路を、どうして、ボンヤリと行かれうか、食料は持たずにさ。
 
〔評〕 死出の旅路、これが構想の基點である。そこに「常知らぬ路の長手」での糧なしを想像した。
  諸國(ノ)役民還(ル)v郷(ニ)日、食糧絶乏(シ)、多饉(ヱ)2道路(ニ)1、轉2填(ス)溝壑(ニ)1、其類不v尠(カラ)、云々。(續紀卷五、和銅五年正月詔)
とある如く、旅行中に餓死することは現在の事實であつた。「かりてはなしに」では一歩も踏み出せる時代ではなかつた。で「いかにか行かむ」と、熊凝の西方十萬億土の長旅に同情を寄せた。その同情が直ちに熊凝意中の語となつて、こゝには歌はれてゐる。
 乾飯《カレヒ》即ちホシヒは携帶食糧の輕便なるものであつた。重量が輕くて湯水に浸せばすぐに食へる。で昔の旅行者は必ず携帶したものだ。伊勢物語に「乾飯の上に涙おとしてほとびにけり」、古今集に「夕さりの乾飯たうべけるに」など見え、在原業平でも藤原兼輔でも、旅では乾飯を舐つてゐたものである。
 
(1541)家爾阿利弖《いへにありて》 波波何刀利美婆《ははがとりみば》 奈具佐牟流《なぐさむる》 許許呂波阿良麻志《こころはあらまし》 斯奈婆斯農等母《しなばしぬとも》     889
  一(ニ)云(フ)、能知波志奴等母《ノチハシヌトモ》。
 
〔釋〕 ○なぐさむる 既出(五一八頁)。○あらまし あらましを〔右○〕の意。○のちはしぬとも 左註の句。後に〔右○〕は死ぬとも。
【歌意】 家に居て母親が看病しようなら、多少慰む氣持もあらうものを、どうせ死ぬなら死ぬとしてもさ。
 
〔評〕 長歌の一節「國にあらば父とり見まし、家にあらば母とり見まし」の意を敷演したやうなものだ。遠い異郷の空で客死する少年の氣持としてはさもあらう。熊本縣の肥後と廣島縣の安藝、つひ鼻の先だと考へる交通便利な現代とは違ふことを、牢記する必要がある。道麿は一云の「のちは死ぬとも」の方を採つた。
 
出弖由伎斯《いでてゆきし》 日乎可俗閉都都《ひをかぞへつつ》 家布家布等《けふけふと》 阿袁麻多周良武《あをまたすらむ》 知知波波良波母《ちちははらはも》     890
  一(ニ)云(フ)、波波我迦奈斯佐《ハハガカナシサ》。
 
〔釋〕 ○またす 待つ〔二字傍点〕の敬相。
【歌意】 私の旅立つた日を數へ/\して、けふは還る/\〔七字右○〕と、私をお待ちなさるであらう、その父母達はまあ。實にお氣の毒で〔七字右○〕。
 
(1542)〔評〕 待甲斐のない自分とも知らずに待つて居る「父母らはも」の詠歎的のいひさしは、その餘意も餘情もすべてあなた任せに、讀者の上に投げ懸けられてあるので、讀者の感受次第では、何處まで深入りしてゆくかわからない。「あを待たすらむ」の敬語を挿んだ親昵の情味が、愈よ拍車をかける。かくして悲痛酸楚に禁へなくなる。一云の「母が悲しさ」では、折角の味ひが索然としてしまふ。「けふ/\と」は萬葉人の慣用語で、
  けふけふと吾がまつ君は石川のかひにまじりてありといはずやも (卷二、依羅娘子――224)
  あまの川霧たちわたるけふけふと吾が待つ君が船出すらしも (卷九――1765)
  出でていなば天飛ぶ雁の鳴きぬべみけふけふといふに年ぞ經にける (卷十――2266)
  ※[さんずい+内]譚《イリブチ》にこやせる公をけふけふと來むと待つらむ妻しかなしも (卷十三――3343)
  宮人のやすいも寢ずてけふけふと待つらむものを見えぬ君かも (卷十六――3771)
  ――かもかくも御言《みこと》うけむと、けふけふと飛鳥に到り、――(同上――3886)
など使つたものだ。
 
一世爾波《ひとよには》 二遍美延農《ふたたびみえぬ》 知知波波袁《ちちははを》 意伎弖夜奈何久《おきてやながく》 阿我和加禮南《あがわかれなむ》     891
   一(ニ)云(フ)、相別南《アヒワカレナム》。
 
〔釋〕 ○ひとよには― 人一代の間には一遍死んだら二度は値《ア》はれぬの意。「みえぬ」は見られぬの意。○おきて (1543)さし置いて。
【歌意】 人一代に二度と値へない父母を、この世にさし置いて、自分が長く死に別れようことか。
 
〔評〕 孝子臨終の苦悩を描いて餘蘊がない。「一世」と「二遍」とは自然的對語を成してゐる。契沖は以上六首を總括的に批評して、左の如く推賞した。
  熊凝が意をよく得て、あはれに詠める憶良かな、憶良なるかな。
 右長歌一首短歌五首のうち「たらちしの」の歌を除いては、皆結句の下に「一云」として異句を記してある。これに就いて略解に、
  按ずるに、天平勝寶中に奈良の藥師寺に建てられたる佛足石の碑の歌、盡く結句を二樣によめり。右の反歌この體に同じ。この頃かゝる體もありしにや。されば長歌の終に和何余須疑奈牟とあるは、次の「たらちしの」の短歌に添ひたるが、誤つて長歌の終に入りしなるべし。
といつてゐる。抑も卷三「栲領巾《タクヒレ》のかけまくほしき」及び「行くさには二人わが見し」の二首も、結句の下に一云〔二字傍点〕として異句を註してある。夙く久老はそれをば佛足石歌體と見てゐるが、それは有意的に結句を反誦した辭樣とは受け取り難い。然るに茲に至つて又、略解の佛足石歌體の説が生じてゐる。
 抑も佛足石歌體は、57、577、7、の六句三十八字の構成で、三十一字の短歌の結句を、多少意詞を換へて復誦した體製である。第一の「たらちしの」の歌には、諸本とも一云〔二字傍点〕の註がないから論外に置く。第二の(1544)「常知らぬ」の歌の一云の「かれひ」は本行の「かりて」と全く同意で、獨立性が薄い。第三の「家にありて」の歌の一云「のちは死ぬとも」はまづ本行の「死なば死ぬとも」を反誦したものといへよう。第四の「出でゆきし」の歌の一云「母がかなしさ」は本行に既に「父母らはも」とあるから、徒らに重複するばかりでなく、五句との應接が完全でない。第五の「一世には」の歌の一云「相別れなむ」は獨立性が薄いが、かう復誦されぬこともあるまい。されば五首のうち第三第五の二首だけが歌意を完成してゐると見られるが、それは偶然の事で、他の三首が殆どその不十分さを證してゐる以上は、是等の諸作を通じて佛足石歌體と見ることは、速斷の謗を免かれまい。
 
貧窮問答(の)一首并短歌
 
貧乏生活に就いての問答の歌との意。問の歌と答の歌との前後二篇より成り、前後篇互に密接な關係にあるので、一首として數へてある。作者は末尾に「山上憶良頓首謹上」と見え、憶良であることは疑もない。
 
風雜〔左△〕《かぜまじり》 雨布流欲乃《あめふるよの》 雨雜《あめまじり》 雪布流欲波《ゆきふるよは》 爲部母奈久《すべもなく》 寒之安禮婆《さむくしあれば》 堅鹽乎《かたしほを》 取都豆之呂比《とりつづしろひ》 糟湯酒《かすゆさけ》 宇知須須呂比弖《うちすすろひて》 之波〔左△〕夫可比《しはぶかひ》 鼻※[田+比]之※[田+比]之(1545)爾《はなひしびしに》 志可登阿良農《しかとあらぬ》 比宜可伎撫而《ひげかきなでて》 安禮乎於伎弖《あれをおきて》 人者安良自等《ひとはあらじと》 富己呂倍騰《ほころへど》 寒之安禮波《さむくしあれば》 麻被《あさぶすま》 引可賀布利《ひきかがふり》 布可多衣《ぬのかたぎぬ》 安里能許等其等《ありのことごと》 伎曾倍騰毛《きそへども》 寒夜須良乎《さむきよすらを》 和禮欲利母《われよりも》 貧人乃《まづしきひとの》 父母波《ちちははは》 飢寒良牟《うゑさむからむ》 妻子等波《めこどもは》 乞弖〔左△〕泣良牟《こひてなくらむ》 此時者《このときは》 伊可爾之都都可《いかにしつつか》 汝代者和多流《ながよはわたる》     892
 
〔釋〕 ○かぜまじりあめふるよの 風がまじつて雨の降る夜で。この「の」の用法は、卷三の「朋神《フタガミ》の貴き山の〔二字傍点〕儕立《ナミタチ》の見がほし山と」(八七五頁)、及び「天地にくやしき事の〔二字傍点〕世の中のくやしき事は」(九三四頁)とあるのに同じい。その項を見よ。「雜」原本に離〔右△〕とあるは誤。神本その他による。○かたしほ 堅鹽。和名抄に、石鹽一名田鹽。又有2黒鹽1、今按(ズルニ)俗(ニ)呼(ンデ)2黒鹽(ヲ)1爲(ス)2堅鹽(ト)1、日本私記(ニ)、堅鹽(ハ)木多師《キタシ》是也(ト)。紀の欽明用明孝徳天皇の各條にキタシホあり、木多師《キタシ》はその略語。又江家次第に、下物《サカナモノ》――一枚炊交、一枚堅鹽〔二字傍点〕、一枚青茄物と見えた。或はいふ燒鹽の稱と。○とりつづしろひ 「つづしろひ」は少しづつ食ふこと。つづしり〔四字傍点〕の延言。文選司馬相如の大人賦の※[口+幾]《ツヾシル》2瓊華(ヲ)1の注に※[口+幾](ハ)食(フ)也、また説文、※[口+幾](ハ)小食也とある。今昔物語の「この鮭鯛(ノ)※[魚+逐]※[魚+夷]《シホカラ》などをつづしる程に」のつづしる〔四字傍点〕もこの意。(1546)源氏物語(末摘花)に、つゞしり歌〔五字傍点〕とあるはこの轉用。○かすゆさけ 糟湯酒。酒糟を湯煎にしたもの。○うちすすろひ 「すすろひ」は啜り〔二字傍点〕の延言。「うち」は接頭語。○しはぶかひ 咳嗽《シハブ》き〔傍点〕の延言。咳嗽きは屡吹《シバフキ》の義。和名抄に、※[亥+欠]嗽、肺寒(ケレバ)則成(ス)也、乏波不岐《シハブキ》とある。「波」原本に可〔右△〕とあるは誤。眞淵説に從つて改めた。○はなひしびしに 鼻がグス/\と。「ひし/”\」は涕の鼻につまつて鳴る擬聲語。略解及び古義に、嚔《ハナ》びし嚔びし〔五字傍点〕を約めたるなりとあるは非。新考同説。ヒシ/”\ト〔傍点〕といふべきを「ひし/”\に」とあるは、記(上)に、鹽こをろ/\〔傍点〕に〔六字傍点〕かき成してといふに同じい。○しかとあらぬ 確《シカ》ともない。存在のはか/”\しからぬをいふ。○ひげかきなでて 髯を撫でて。「かき」は接頭語。「ひげ」は髭(口ヒゲ)鬚(頬ヒゲ)髯(※[思+頁]ヒゲ)の總稱。○ひとはあらじと 人らしい者はあるまいと。○ほころへ 誇れ〔二字傍点〕の延言。誇ラヘともいふ。○あさぶすま 麻製の衾。○ひきかがふり 引き冠《カブ》り。「かがふり」は古言で、カブリはその約。「ひき」は接頭語。○ぬのかたきぬ 布の肩衣。肩衣は袖無しの服の稱。卷十六の竹取翁(ノ)歌に結經方衣《ユフカタギヌ》とあるも、木綿《ユフ》の肩衣をいふ。○ありのことごと 在の盡《コト/”\》。在るものゝ全部。○きそへども 著襲《キソ》へども。著襲《キカサ》ぬること。「そへ」はオソヘの上略。○よすらを 「すら」は夜の主語を強めていふ。○うゑさむからむ 飢ゑまた〔二字右○〕寒からむの意。眞淵の「飢」を肌〔右△〕の誤とする説、新考の動詞形容詞相熟すべからずといふ説は共に非。○こひて 衣食などを〔五字右○〕乞ひて。「弖」原本に乞〔右△〕とあるは誤。契沖説による。○いかにしつつ この「つつ」はて〔傍点〕の辭に近い。○ながよはわたる 汝の世を渡る。
【歌意】 風にまじつて雨の降る夜の、その雨にまじつて雪の降る夜は、凌ぎやうもなく寒くてこまるので、竪鹽をボツ/\舐り、糟湯酒を啜つて、咳をし鼻をグス/\と鳴らせ、碌にもない鬚を撫でて、自分を置いては〔右○〕世(1547)に人らしい者はあるまいと、高慢はするけれど、寒い事はやはり寒いので、麻の衾を引つ冠り、布の肩衣をありたけ著襲ねるが、それでも〔四字右○〕寒い夜であるものを、自分よりも貧しい人の父母は、飢ゑそして〔三字右○〕寒からう、妻子どもは物欲しさに泣くであらう。その時にはどうしてお前の世を過ごすのかえ。
 (以上問の歌)
 
天地者《あめつちは》 比呂之等伊倍杼《ひろしといへど》 安我多米波《あがためは》 狹也奈理奴流《さくやなりぬる》 日月波《ひつきは》 安可之等伊倍騰《あかしといへど》 安我多米波《あがためは》 照哉多麻波奴《てりやたまはぬ》 人皆可《ひとみなか》 吾耳也之可流《あのみやしかる》 和久良婆爾《わくらばに》 比等等波安流乎《ひととはあるを》 比等奈美爾《ひとなみに》 安禮母作乎《あれもなれるを》 綿毛奈伎《わたもなき》 布可多衣乃《ぬのかたぎぬの》 美留乃其等《みるのごと》 和和氣佐我禮流《わわけさがれる》 可可布能美《かかふのみ》 肩爾打懸《かたにうちかけ》 布勢伊保能《ふせいほの》 麻宜伊保乃内爾《まげいほのうちに》 直土爾《ひたつちに》 藁解敷而《わらときしきて》 父母波《ちちははは》 枕乃可多爾《まくらのかたに》 妻子等母波《めこどもは》 足乃方爾《あとのかたに》 圍居而《かくみゐて》 憂吟《うれひさまよひ》 可麻度柔播《かまどには》 火氣布伎多弖受《けぶりふきたてず》 許之伎爾波《こしきには》 久毛能須(1548)可伎弖《くものすがきて》 飯炊《いひかしぐ》 事毛和須禮提《こともわすれて》 奴延鳥乃《ぬえどりの》 能杼與比居爾《のどよびをるに》 伊等乃伎提《いとのきて》 短物乎《みじかきものを》 端伎流等《はしきると》 云之如《いへるがごとく》 楚取《しもととる》 五十戸長〔左△〕我許惠波《さとをさがこゑは》 寢屋度麻※[人偏+弖]《ねやとまで》 來立呼比奴《きたちよばひぬ》 可久婆可里《かくばかり》 須部奈伎物可《すべなきものか》 世間乃道《よのなかのみち》     892
 
〔釋〕 ○さくや 「さく」は狹《セ》(迫)くの古言で、祝詞(祈年祭に)「狹《サ》き國は廣く」と見え、單活用の形容詞。契沖訓による。舊訓セバクヤ〔四字傍線〕。○ひとみなか 人皆然〔二字右○〕るかの意。○あのみやしかる 舊訓ワレノミヤシカル〔八字傍線〕。○わくらばに 邂逅《タマサカ》に。○ひととはあるを 人間とは存在してゐるのを。○あれもなれるを 吾も人竝に生まれ付いたのを。「なれる」は作れるの意。卷九にも「人となる事は難きを、わくらばになれる吾が身は」とある。舊訓ワレモツクルヲ〔七字傍線〕に從つて、吾も田畠を作るをの意と解するは穩かでない。○みるのごと 海松の如く。「みる」は「ふかみる」を見よ(四〇〇頁)。○わわけ 加行下二段活の語で、ほつれ亂るゝ態にいふ。○かかふ 千切れた布帛をいふ。字鏡に※[巾+祭](ハ)殘帛、也不禮加々不《ヤブレカヽフ》と見え、又袖中抄に「きり/”\すは世俗に、襤褸させ、カヽは拾はむと鳴くといへり、カヽとは帛布の破れて何にもすべくもなきを云なり、云々」とある。カヽはかゝふ〔三字傍点〕の略であらう。襤褸が甚しき物をいふ。○ふせいほのまげいほ 伏廬で曲げ廬。この「の」の用法、上の「風ま(1549)じり雨ふる夜の」の項を見よ。「ふせいほ」は伏廬。伏屋《フセヤ》に同じい。平《ヘタ》張りたる家をいふ。「まげいほ」は曲廬。曲つた家をいふ。伏シ廬、曲リ廬といふべきを、伏せ曲げと他動にいふは、意を強くする爲の表現である。○ひたつち 直《ヂカ》の土。地《ヂ》ビタ(地ベタ)のこと。卷十三に、當土をヒタツチと訓んである。○まくらのかたに 頭の方。○あとのかた 足の方。頭を枕といひ、足を跡《アト》といふは、紀記の神代卷にも見えた。○かくみ カコミの古言。卷二十に「さはに可久實《カクミ》ゐ」とある。○うれひ 憂ふ〔二字傍点〕は古へは四段活、今は下二段括とす。○さまよひ 坤吟すること。○かまど 竈《カマド》。釜|處《ド》の義。和名抄に、竈(ハ)炊〓(ノ)處也、和名|加萬《カマ》とある。但カマ(釜)は韓語。○には 「柔」の次音ニユを略して、ニに充てた。○こしき 甑。炊《カシキ》の轉。周禮考工記によれば瓦製の釜で、底に七孔ある。但木製のもあつた。日本では皆木製で、底に穴をあけ簀を敷き、湯中に置いて飯を蒸す。和各抄木器類に、甑(ハ)炊(ク)v飯(ヲ)器也、和名|古之伎《コシキ》とある。蒸籠。○くも 蜘蛛。組むの義と。巣掻くによつて名づけた。節足動物。○すがき 巣掻き。巣を造るをいふ。○いひかしぐすべも 飯を焚く仕樣も。「かしぐ」は飯を焚くこと。○ぬえどりの ※[空+鳥]鳥の聲は咽に籠るので、「のどよび」に係る枕詞とした。既出(五一七頁)。○のどよび 咽喚び。咽聲に呻き歎くこと。○いとのきて 口語の取分けて〔四字傍点〕の意に近い。最《イト》除《ノ》きての義か。「いとのきて痛き瘡には鹹鹽を灌ぐちふ如」、(本卷)「いとのきて薄き眉根を徒らに掻かしめつつも」(卷十二)、「いとのきてかなしき背ろに」(卷十四)など見え、當時の俗語であらう。○みじかきものをはしきると 當時の諺。下の沈痾《ヤミテ》自(ラ)哀(ム)文にも、諺(ニ)曰(フ)、痛(キ)瘡(ニ)灌(ギ)v鹽(ヲ)、短(キ)材(ニ)截(ル)v端(ヲ)と見えた。○しもととる 笞《シモト》を執る。笞は刊具で、和名抄に、唐令(ニ)云(フ)笞(ハ)大頭二分、小頭一分半、和名|之毛度《シモト》とある。「しもと」は繁許《シモト》の義で、根株から叢生した若木。それが笞にもなるので、笞をもシモ(1550)トと呼ぶ。「楚」の字にもこの兩意がある。○さとをさ 里長。戸令に毎v里置(ク)2長一人(ヲ)1とある。「五十戸」をサトと訓むは、孝徳天皇紀及び戸令に、凡五十戸爲v里とあるによる。卷十にも「橘を守部の五十戸の門田早稻」とある。「長」原本に良〔右△〕とある。東滿説に從つて改めた。○こゑは 「來立ち呼ばひぬ」に係る辭法だが、意が不完である。但當時ではこのまゝで租税催促の事と領會されたものであらう。よつて歌意の譯には補足してみた。○ねやと 寢屋處《ネヤト》。「と」は外《ト》の意としても通ずる。○よのなかのみち 世に經る道。生活の道。
【歌意】 天地は廣いといふけれど、私の爲には狹くなつたのか、日月は明るいけれど、私の爲には照つて下さらぬのか。人は誰れでも同樣であるのか、私だけさうなのか。たまさかに人間とは生まれたのを、人並に私も生まれ付いたのを、綿も拔けてない布の袖無しの、海松のやうに裂けさがつてゐる、襤褸ばかり肩に打懸け、低い傾いた小屋のうちに、地ビタに藁をバラリと敷いて、父母は自分の頭の方に、妻子どもは足の方に、圍んで居て憂へ歎き、竈には烟も吹き立てず、甑には蜘蛛が巣を張つて、飯を炊くことも忘れて、鶉のやうに咽聲で泣いてをるのに、取分けて「短い物の端を切る」と諺にいふやうに、笞を持つ里長が聲は、租税を〔三字右○〕催促《ハタ》るとて〔三字右○〕、臥處まで通つて來て呼ばはつた。全體これ程手に乘らぬものか、世渡りの道はさ。
 (以上答の歌)
 
〔評〕 (問の歌)「風まじり雨ふる夜の、雨まじり雪ふる夜は」の叙法は祝詞から來た樣式で、その名詞の反復交錯に、又對偶的漸層的の辭樣によつて、寒夜雨雪の風に紛々亂々する光景を、如實に力強く描出し得た。蓋しこ(ノ)篇に取つて非常に大事な背景を成すものである。
(1551) 作者憶良は その寒さ凌ぎに、今でも人のよく遣る糟湯酒を啜つたものだ。それも砂糖でも混ぜれば旨い甘酒になるが、古代に生憎砂糖はない。一皿の堅鹽をボツ/\、間の手に嘗めるのであつた。流石に寒氣は嚴しいので、咳はコン/\出るし、鼻水は詰まつてグス/\する。カラ埒もないが、それでも多少は陶然と來るから、少しばかりの山羊髯か何か繁扱《シゴ》きながら、「天下におれ程の者はあるまい」と高く慢じた。枕草子に酒飲の容體を描いて、
  また酒飲みてあかき口を探り、髯ある者はそれを撫でて、云々。
とあるも同趣である。糟湯酒ぐらゐで、かう氣が太くなるやうでは、憶良の上戸でない事は略想像が出來る。「我れをおきて人はあらじ」は、すべてが假托の言と見ればそれまでだが、平生謹※[殻/心]小心なる憶良だけに、何だか今まで内訌してゐた自負心が、測らずこゝにその片鱗を露はしたやうな氣がする。實際彼れは自負してもよい。少壯入唐して、當時の先端的文化の瓣香を摘み、漢語はあやつるし、漢文も形の如く立派に書けた。全く當時における押しも押されもせぬ有用の俊才ではないか。
 だが現實は寒い。麻の衾も何枚かの綿入れの布肩衣も、この寒夜をどうにもならない。
 憶良といふと、酷く貧乏臭い老人のやうに思はれるのも、この貧窮問答を草した爲だ。素より彼れの生活は豪華ではない。が痩せても枯れても筑前の國守殿だ。國守は平安期の文書には、温官膏腴之官と書かれてある。奈良時代だつて相當實入りのよかつた事は、たしかに保證される。只彼れが學究肌で派手者でなく、そして相當の老人で※[魚+環の旁]夫で神經痛の持病者であるだけだ。麻衾や布肩衣は事實かも知れないが、或は又文飾上の假構かも知れない。「我れよりも貧しき人」と比較の叙法を取つた關係上、下層生活者の飢寒を強調させる前提として(1552)自身の生活程度を實際以上に低下させて敷陳する必要もある。
 抑も中層階級者は上下層に直接交渉をもつので、雙方の事情によく通達する。况や牧民の官たる國守としては、下層民の生活に深い注意を拂ひ、野に餓※[草冠/孚]なきやと、念々に思惟するは當然の職責である。果然憶良は下層貧民の生活に同情を寄せ、つぶさにその飢寒を察し、「いかにしつつか汝が世は渡る」の一問を提げて立つた。
 この篇は貧者に對つての憶良のなした質問である。初頭より「寒き夜すらを」までを前段、以下を後段と大別する。「寒き夜すらを」の一句は前後段の間に立つた扇※[金+交]である。
 
 (答の歌)一度不如意の悲境に立つと、天地も窄く、日月も闇い心地がする。もうかうなつては、廣く世間を見渡す餘裕がなくなる。自分だけこんな憂い目辛い目を見ることかと、繼つ子らしく他を羨望しつゝ、「わが爲は狹くやなりぬる、――わが爲は照りや給はぬ」と、自己中心に不滿の叫を投げ付ける。然し退一歩、一分の思案を廻らし、「人皆か吾のみや然る」と、自他の兩端を叩いたのは、「人皆か」はホンの客語で、實は「吾のみや然る」事情を、下文に具陳しよう爲の伏線である。
 偶ま人間世に生を亨け、而も人竝に生まれ付いて、片輪でもなければ白痴でもないのにと、肉體的精神的に立派な一箇の存在であることを主張し、間接にわが貧窮の運命に對しての抗議を含めてゐる。
 以下、その筆は一轉して、貧窮状態の描寫に入つた。
 前篇の初頭に敍べたさほどの寒夜に、その著物はどうか。綿もない布肩衣の著破《キヤレ》してぶち/\下がつた襤褸だけを、身に引懸けた。いかに寒いことであらう。「綿もなき」は始から綿がないのではない。著舊して綿が(1553)脱けたのである。「かゝふのみ」とあるので、さう推定される。實際この時代の貧乏には極端なのがあつて、諸國の牧場の牧子などの連中となると、素裸で暮してゐるのさへあつた。天平勝寶六年十一月の知牧事擬少領吉野百鴫の解に、
  一、給(ヒテ)2衣服(ヲ)1而欲(リスル)v令(メムト)2仕(ヘ)奉(ラ)1事
  右件(ノ)牧子等爲(リ)2貧乏(ノ)民1、其無(クシテ)2衣服1率(ヰテ)仕(ヘ)奉(ル)醜(シ)。(正倉院文書)
とある。牧子等は比較的無軌道の生活者だから、それでも我慢もならうが、百姓となると痩せても枯れでも一戸の主で、かゝふ〔三字傍点〕でも何でも引懸けなければならぬだけつらい。
 次にその住居はどうか。それは低い傾いた小屋だ。何れ透間の風の堪へられぬは勿論であらう。その内の土間に、往きなり藁を敷いての起き臥し、疊などいふ贅澤な物は嘗てない。父母妻子は自分の頭や足の處に寄り固まつて、お互の活氣でやつと寒さを凌ぐ。そして愚痴をこぼし/\坤つてゐる。
 次に食物はどうか。竈は煙の立つたことなし、甑は蜘蛛が巣を喰ふ始末で、恰も後漢の范冉の窮居を、「甑中、生(ズ)v塵(ヲ)范史蜘蛛、釜中生(ズ)v魚(ヲ)范莱蕪」と、世人が歌つたと同樣、餘り永いこと煮燒きをしないので、飯の焚方さへ忘れてしまふ。詰り食ふべき米鹽が全くないのだ。
 かう人間の生活に必須な衣食住とも缺乏しては、我れながらドン底の貧窮に愛想をつかして、「※[空+鳥]鳥の」のどよばざるを得なくなる。悲慘そのものである。
 この無一物の貧者に對して、天は飽くまで無情だ。そこに掛取が出現した。私債ならとにかく、それが公租だ。諺にいふ通り、「足らぬ物の端を切る」で、踏んだり蹴つたりである。かく貧者の生活が虐げられつゝあ(1554)る状態を敍するに、層々疊々倍加してゆく筆法は、その深刻味をより以上に強調する効果がある。
 當時の里長は自分が出張して、納租の催促をしたものと見える。支配下五十軒の納租は、里長の責任であつたらしい。縣吏の租を催すことは支那の詩にも一再ならず歌はれて、「虎よりも猛し」と歎息されてゐる。
  縣官急(リニ)索(ムレドモ)v租(ヲ)、租税縁(リテ)v何(ニ)出(デム)。(杜甫、兵車行)
  縣官(ハ)似(テ)v虎(ニ)、動(モスレバ)則害(フ)v人(ヲ)。(李義山雜纂)
何處の邦でも似たやうなもので、威かしかは知らぬが、笞杖などを持つて遣つて來られては、何と恐ろしい譯ではないか。だから正直者はその聲を聞くから縮みあがるのであつた。それを遠慮もなく寢屋處《ネヤト》まで這入り込んでわめく。まるで地獄の呵責だ。事茲に至つては徒らに「かくばかり術なきものか」と悲鳴を擧げて、世の中の道を痛歎するより外に手はない。實に極端なる貧者の生活苦を描いて餘蘊なしといふべきである。
 「里長が聲は」の聲は〔二字傍点〕の落着が何としても面白くない。白璧の微瑕として措くより外はあるまい。或は落句でもあらうか。
 「天地は」より「吾のみや然る」までを第一段、「わくらばに」より「來立ち呼ばひぬ」までを第二段、以下を第三段とする。第二段のうち「わくらばに――吾もなれるを」を第一節、「綿もなき――のどよびをるに」を第二節、「いとのきて――來立ち呼ばひぬ」を第三節とみる。
 この篇は前篇の「いかにしつつか汝が世は渡る」の質問に對した貧者の答辯で、その貧窮状態を極力縷述して、「かくばかり術なきものか世の中の道」と應酬したものだ。素より貧者の立場からものした憶良の假作である。
(1555) 憶良がこの問答歌製作の動機に關しては、既に上述の如くである。さては答歌が目的たる主要篇であることは勿論で、問歌はその序篇である。隨つて問歌の敍事は、答歌に比して稍輕く進行し、委しく見れば三樣の變化をもつが、概しては殆ど一意到底の觀がある。答歌に至つては、その全力を傾注した大手筆で、結構といひ布置といひ、變化といひ、全く理想的に組織結成されてゐる。
 又内容に於いては、問歌には中層級の憶良その人の生活の片隣を露出し、答歌には全面的に最下層級者の生活が赤裸々に投げ出されてある。假令それが片寄つた社會級にせよ、一千二百年前の生活状態を、現在の我々の眼前に如實に映寫し展開してくれたことは、全く憶良の賜である。
 殊に何より嬉しいのは、この作が唐の杜甫の人民生活を基調として戰役を歌つた潼關吏、石濠吏、新安吏、新婚別、垂老別、無家別、兵車行の如き諸大作より、三十年も前であることである。何時も支那詩人の足迹踏襲の譏を免れないわが歌壇に、彼れより一足早く、この種の法門を開いて、堂々と獅子吼してくれた憶良に對して、滿腔の感謝と敬意とを捧げる。
 小著「歌がたり」(明治卅八年刊)のうちに、自分はこの歌を擧げて、憶良を人道歌人〔四字傍点〕と稱揚したことがあつた。いはく
  日向臭き自然詩人よ、香水臭き戀愛詩人よ。汝等の詩材は餘に貧窮なり、狹少なり、單純なり、更に一隻眼を豁開して天地の間を洞觀せよ。宇宙の眞理を諦視せよ。人生の運命に民族の消長に、國家の興亡に、吟ずべき事咏ずべき事はた益す多からずや。その運命といひ消長といひ興亡といふ、大小輕重の差こそあれ、皆悉く社會觀に屬す。この種の歌の興隆は人道詩人の任なり。
(1556) 孔子は詩の效果を論じて、風を移し俗を易ふに歸し、アーノルドは詩の定義を説きて、人生の批判なりと斷ぜし、共にこれ、雪や氷と隔つれど、落つれば同じ溪川の水なるもの。(中略)
 飜つてわが國歌を檢し來れ、纔にこれらの傾向をだに有する作、果してありやなしや。江戸時代はいかに、室町時代はいかに、鎌倉時代はいかに、平安時代はいかに。あはれ皆無の一言を以て答ふるの外なからんとす。幸に青丹吉奈良の時代に遡つて、茲に四篇を得たり。一は山上憶良の貧窮問答、餘の三は大伴家持の防人の歌。
 貧窮問答は(中略)作意の深意を推測するに、恐らくは諷託寄興あるか。蓋しかくして、世間幾多の暖衣飽食者流の反省と同情を促し、且は爲政者の注意を乞はんと試みしものなるか。云々。
 又いふ、この問答體の樣式は、漢詩に於いては、唐以前に見たことがない。否唐以後でもあるまい。處が日本では可成りの昔から立派に行はれてゐた。かの日本式尊が甲斐の酒折の宮での
  新ばり、筑波を過きて、幾夜か寢つる。
と仰せられたのに對し奉つて御火燒の翁が、
  かゞなへて、夜にはこゝの夜、日には十日を。(記、中)
と御答へ申上げた。これが旋頭歌(混本歌)の濫觴といはれてゐる。爾來旋頭歌にはとかく問答體が襲用され、この集中にもその例歌を澤山に數へることが出來る。然し旋頭歌は、5、7、7、の三句十九音を一囘反復した小詩形だから、その問答は殆ど口頭の應酬に近いほど容易いものといつても差支ない。
 長歌の詩形による問答體は、實にこの貧窮問答を以て嚆矢とする。憶良は伺處からどうしてこの體を捉へ來つたか、全くその見當が付かない。恐らく旋頭歌の問答體を長歌に應用して試みた、憶良自身の新案ではある(1557)まいか。すると、かういふ新詩體を創造したといふ一點だけでも、國歌に對しての憶良の功績は大書特筆すべきものといはねばなるまい。
 貧窮問答はかくの如く形式に於いてはその獨創があり、内容に於いては特異相を把握してゐる。憶良が萬葉歌人中、山柿の二名家の外に別に一旗幟を樹て、鼎足の勢を以て古今に睥睨する所以は全くこゝにある。
 
世間乎《よのなかを》 宇之等夜佐之等《うしとやさしと》 於母倍杼母《おもへども》 飛立可禰都《とびたちかねつ》 鳥爾之安良禰婆《とりにしあらねば》     893
 
〔釋〕 ○やさし 羞かしの意。
【歌意】 貧乏が甚いので、この世の中を厭《イヤ》なと又恥かしいとさ思ふけれども、自分は鳥でもないから、さつと飛び立つて去りかねることよ。
 
〔評〕 諺に「錢のないのは首のないのより惡い」と。みじめな生活に世の侮を受けつゝも、生の執着に引摺られてゐる。そして徒らに鳥雀の自由な生活を羨望する。安價でも何でも諦めがないのだから、一倍苦痛は甚しい。下句は警拔。
 
富人能《とみびとの》 家能子等能《いへのこどもの》 伎留身奈美《きるみなみ》 久多志須都良牟《くたしすつらむ》 ※[糸+施の旁]〔左△〕綿良波母《きぬわたらはも》     894
 
(1558) この「富人の」及び次の「麁妙の」の二首は、原本には、下の老(ノ)身(ノ)重(キ)病(ニ)經(テ)v年(ヲ)辛苦《クルシミ》及《マタ》思(ヘル)2兒等《コドモ》1歌(憶良作)の反歌中に攝してある。然し先賢の所説の如くそれは錯簡で、必ずこの貧窮問答の反歌たるべきである。成るべく原本の面目を變更せぬのが本書の主旨であるが、元のまゝでは、折角のこの問答歌の體裁を損じ、又億良その人の生活と人生觀とに、大きな錯誤を生ずるので、斷じてこゝに引上げた。
 
〔釋〕 ○いへのこども 家の子供。○きるみなみ 著る身がなさに。身に著切れぬをいふ。○くたし 轉じてクサスといふ。腐《クサラ》しの意の古言。○きぬわたら 澤山なる絹綿。この「ら」は複數。「※[糸+施の旁]」原本に※[糸+包]〔右△〕とあるは誤。類本による。
【歌意】 富者の家の子供達が、澤山で體一つではとても著切れぬので、腐し棄てるであらう、その※[糸+施の旁]綿はまあ。せめてそれでも欲しいなあ〔十二字右○〕。
 
〔評〕 物その平を得ぬのがうき世だ。自分だけはさう諦めても、可愛い子供達の※[食+幾]寒は當面の問題で、親としては人情見るに堪へない。冨人の家の子供のあり餘る※[糸+施の旁]綿に想到したことも、この心持からで、羨望の極は、お餘りでも欲しいやうな口振も出るのである。「※[糸+施の旁]綿らはも」の※[立+曷]後の辭樣は、含蓄と感愴とを深からしめる。
 
麁妙能《あらたへの》 布衣遠※[こざと+施の旁]爾《ぬのぎぬをだに》 伎世難爾《きせかてに》 可久夜歎敢《かくやなげかむ》 世牟周弊遠奈美《せむすべをなみ》     895
 
〔釋〕 ○あらたへの 既出(一八九頁、四四七頁)。但こゝは枕詞ではない。○きせかてに 著せ敢へずに。○かく(1559)やなげかむ 「や」は疑辭。卷十七にも同句があり、「や」は反語ではない。「かむ」に敢の字音を當てた。
【歌意】 麁い布の衣をなりとも、妻子に〔三字右○〕著せたいが
 
〔評〕 既に※[糸+施の旁]綿をいひ、こゝに布衣をいふ、當然の順序である。
 
山上憶良 頓首謹(ミテ)上(ル)。
 
頓首謹上とあるから、何れ上官の高覽に供したのであらうが、製作年月の詳記がないので、その上官を誰れとも確言し難い。上の熊凝の歌が天平三年六月だから、これも大概その頃の作として考へると、憶良はこの歌を上の熊凝の歌と共に一括して、都まで郵送、知己旅人卿の覽に供したものと思はれぬ事もない。但旅人卿は同三年七月に薨去されたから、郵送の日時を數へると、この歌どもは或は旅人卿の目に觸れるに及ばなかつたかも知れない。旅人卿の後任者藤原武智麻呂は、全然宰府に下向した形迹がない。
 
好去好來(の)歌一首并短歌
 
幸く去き幸く來よの意を述べた歌との意。好去のことは「さきくや」の項を見よ(一二七〇頁)。これは多治比(ノ)眞人廣成が遣唐大使に任ぜられて出立する時に、憶良の詠んで贈つた歌である。續紀に、天平五年三月戊午、遣唐大使從四位上|多治比眞人《タヂヒノマヒト》廣成等拜朝、閏三月癸巳、廣成辭見授(ケラル)2節刀(ヲ)1、夏四月己亥、遣唐(ノ)四船自(リ)2難波(ノ)津1進發と見え、同七年に歸朝した。
 
(1560)神代欲理《かみよより》 云傳介良久《いひつてけらく》 虚見通《そらみつ》 倭國者《やまとのくには》 皇神能《すめかみの》 伊都久志吉國《いつくしきくに》 言靈能《ことだまの》 佐吉播布國等《さきはふくにと》 加多利繼《かたりつぎ》 伊比都賀比計理《いひつがひけり》 今世能《いまのよの》 人母許等許等《ひともことごと》 目前爾《めのまへに》 見在知在《みたりしりたり》 人佐播爾《ひとさはに》 滿弖播阿禮等母《みちてはあれども》 高光《たかひかる》 日御朝庭《ひのみかどには》 神奈我良《かむながら》 愛能盛爾《めでのさかりに》 天下《あめのした》 奏多麻比志《まをしたまひし》 家子等《いへのこと》 撰多麻比天《えらびたまひて》 勅旨《おほみこと》【反(ニ)云(フ)大命《オホミコト》】 戴〔左△〕持弖《いただきもちて》 唐能《もろこしの》 遠境爾《とほきさかひに》 都加播佐禮《つかはされ》 麻加利伊麻勢《まかりいませ》 宇奈原能《うなはらの》 邊爾母奥爾母《へにもおきにも》 神豆麻利《かむづまり》 宇志播吉伊麻須《うしはきいます》 諸能《もろもろの》 大御神等《おほみかみたち》 船舶爾《ふなのへに》 【反(ニ)云(フ)、布奈能閇爾《フナノヘニ》】 道引麻遠志〔二字左△〕《みちびきまをし》 天地能《あめつちの》 大御神等《おほみかみたち》 倭大國靈《やまとのおほくにみたま》 久堅能《ひさかたの》 阿麻能見虚喩《あまのみそらゆ》 阿麻賀氣利《あまがけり》 見渡多麻比《みわたしたまひ》 事了《ことをへて》 還日者《かへらむひには》 (1561)又更《またさらに》 大御神達《おほみかみたち》 船舳爾《ふなのへに》 御手打掛弖《みてうちかけて》 墨繩遠《すみなはを》 播倍多留期等久《はへたるごとく》 阿遲可遠志〔五字左△〕《とほつちか》 智可能岬〔左△〕欲利《ちかのさきより》 大件《おほともの》 御津濱備爾《みつのはまびに》 多大泊爾《ただはてに》 美船播將泊《みふねははてむ》 都都美無久《つつみなく》 佐伎久伊麻志弖《さきくいまして》 速歸坐勢《はやかへりませ》     896
 
〔釋〕 ○いひつてけらく 「つて」はツタ〔二字傍点〕への約言。○そらみつやまとのくに 既出(一一頁)。○すめがみの ここの皇神は廣義で、神代の尊い神達をさした。祝詞にもその例が多い。尚「すめがみ」を參照(二六五頁)。○いつくしきくに 「いつくし」はイカメシ、オゴソカなどの意。靈異記(卷十)に經色儼然の儼然をイツクシクシテと訓んである。儼はイカメシ、オゴソカなどの義である。さては「皇神のいつくしき國」と續くと詞意が不完になるが、假に神威の嚴かなる國と解して置かう。新考は「吉」を武〔右△〕の誤と見てイツクシムクニ〔七字傍点〕と訓んだ。○ことだま 言の靈動をいふ。すべて靈妙なる活きをなすその本體を、魂《タマ》といひ魂シヒといふ。神にも人にも物にもその魂ありとなす。○さきはふくに 幸く活く國。「さきはふ」のはふ〔二字傍点〕は動詞形の接尾語で、名詞にその活きを與へる。饒《ニギ》はふ、味はふも同例。○いひつがひ 「つがひ」は繼ぎ〔傍点〕の延言。○ひとさはに 卷四にも「人さはに國には滿ちて」とある。○みちてはあれども 世間に〔三字右○〕。○たかひかる 既出(四八〇頁)○ひのみかどには 天皇陛下には。「御朝庭」は借字。○めでのさかり 御寵任の餘りといふに同じい。績紀第二十二詔(天平寶字元年七月)に、又|愛盛爾《メデノサカリニ》、一二人等冠位上賜治賜久止宣《ヒトリフタリラカヽフリクラヰアゲタマヒテヲサメタマハクトノル》、又類聚國史天長四年の詔に、御意乃愛盛(1562)爾治賜人毛亦在《ミコヽロノメデノサカリニヲサメタマフヒトモアリ》、文徳實録(卷三)に御意乃愛盛爾治賜人毛一二在《ミコヽロノメデノサカリニヲサメタマフヒトモヒトリフタリアリ》など見える。○あめのしたまをしたまひし 「天の下申し給へば」を見よ(五三八頁)。○いへのこと 家の子として〔二字右○〕。大政を執つた名家の子たるをいふ。廣成は左大臣島の末子。○えらびたまひて 天皇が廣成を〔六字右○〕選び給ひて。○おほみこと 大御言。割註に「反(ニ)云(フ)大命」とあるは「勅旨」をオホミコトと訓むべく示したもので、反は翻に通じ、反譯の意である。韻學上の術語たる反〔傍点〕とは意が殊なる。○いただきもちて 古へその事を取扱ふことを持つ〔二字傍点〕といつた。神名などに多く見える。大御言戴き持ちを早くミコトモツといひ、名詞にミコトモチ(宰)といふ。「戴」原本に載〔右△〕とあるは誤。契沖説による。○もろこし 諸越。支那の唐の世を稱し、又支那全土の稱とする。諸越はもと支那で南越諸國をその本部より呼んだ總稱で、わが邦は始め南部の呉越地方との交渉が多かつた爲、それを直譯して呼んだものが、遂に支那全土の稱に及ぼして用ゐられるやうになつた。○つかはされ 被使相で敬相ではない。○まかりいませ 罷《マカ》り坐《イマ》せば〔右○〕の意。「ば」の接續辭を略くは古格。上の「おほみこと」からこの句までは、廣成が主格。童本は「伊」の下弖〔右△〕の脱として、マカリイデマセ〔七字傍線〕と訓んだ。○かむづまり 神|鎭《シヅマ》りの意。「つまり」(1563)は(1)シズマリの上略(宣長、高尚説)。(2)詰りの意にて留まること(古義説)。○うしはき 事や物を主《ウシ》として領ずること。「はく」は宣長いふ、佩《ハク》v刀(ヲ)著(ク)v沓(ヲ)のハクと同じくて、身に著けて持つ意ならむと。「いそはく」を參照(一五九頁)。○おほみかみたち 大御神は天照大御神に限らず。他の神々にも尊んでいふ語。○ふなのへに 船の舳先《ヘサキ》に。「へ」は和名抄に、船(ノ)前頭謂(フ)2之(ヲ)舳(ト)1、和語(ニ)云(フ)v閇《ヘト》とある。艫《トモ》に對する。○みちびきまをし 遣唐使は勅遣の使なれば敬つて「申す」といふ。宣長が神の人を導き給はむを申し〔二字傍点〕といひては事違へりと難じたのは非。「遠志」原本に志遠〔二字右△〕とあるは顛倒。○あめつちのおほみかみ 天神地祇をいふ。○やまとの 四言の句。大和山邊郡の倭をいふ。○おほくにみたま 國土を治むるより付いた神名。神名帳(延喜式)に、大和國山邊郡大和(ニ)坐(ス)大國魂(ノ)神三座、名神大と見え、記(上)によれば、速須佐之男《ハヤスサノヲノ》命の孫大國御魂(ノ)神となつてゐる。(大國主神とは別)崇神天皇紀に、天照大神とこの神とを天皇の大殿の内に祭られたのを、天照大神を笠縫邑に、大國魂神を大市(ノ)長岡(ノ)岬《サキ》(倭ノ地)に移し祀られたとある。蓋しこの兩神を天と地との神として崇められたものと思ふ。垂仁天皇紀の廿五年の條に、一(ニ)云(フ)、倭(ノ)大神|著《ツキテ》2穗積(ノ)臣(ノ)遠祖大水口宿禰(ニ)1而|誨《ヲシヘタマハク》之、大初之《カミヨノ》時|期曰《チギリタマハク》、天神大神(ハ)悉(ニ)2治天(ノ)原(ヲ)1、御孫(ノ)尊(ハ)專(ラ)2治(メ)葦原(ノ)中(ツ)國之|八十魂《ヤソタマノ》神(ヲ)1、我(ハ)親(ラ)2治(メムト)大地官《オホツチノツカサヲ》1者、言已訖焉《ハヤクコトサダメタリ》と見え、大國魂(ノ)神は國土の神たることが明かである。○あまのみそら 天の御空。天三空《アメノミソラ》(卷十)に同じい。○あまがけり 虚空を遊行すること。出雲(ノ)神賀(ノ)詞(延喜式)に「天(ノ)穗比《ホヒノ》命を國體《クニガタ》見に遣はしゝ時に、天の八重雲を押別けて、天翔國翔※[氏/一]《アマガケリクニガケリテ》天(ノ)下を見めぐらして」、記の景行天皇の條に、倭|健《タケノ》命の御魂が、然(モ)亦そこより更に翔天以《アマガケリテ》飛(ビ)行《イマシヌ》など見え、神佛仙人亡魂の類は天翔りするものとされた。○みわたしたまひ 見守らるゝをいふ。○ことをへて 「こと」は遣唐の使命をさす。○すみなは 墨繩。工匠の具。塵斗《スミレ》(墨壺)に繩即ち絲を通して、それを引張つて打つと、一直線の(1564)黒線が付く。○はへたる 延《ハ》へたる。○とほつちか 遠つ値嘉《チカ》。續紀に遠知駕《トホチカ》とあるに同じい。次句の値嘉の岬《サキ》に重ねていひ續けた。尚次の「ちかのさき」を見よ。「庭」阿野本その他に遲〔右△〕とある。さては「阿」は津〔右△〕の誤、「志」は衍字で、遠津遲可《トホツチカ》の顛倒であらう。古義はいふアヂガスム〔五字傍線〕の誤かと。○ちかのさき 値嘉《チカ》は肥前國松浦郡。今の五島列島及び平戸島の舊稱。血鹿、知※[言+可]、知駕とも書く。記(上)の二尊國生みの條に、次(ニ)生(マス)2知※[言+可](ノ)島(ヲ)1、亦(ノ)名(ヲ)謂(フ)2天之忍男《フメノオシヲト》1と見え、西蕃往來の門戸に當る。肥前風土記に大近小近、續紀に達知駕《トホチカ》の島名がある。知※[言+可]の稱は風土記に、景行天皇が平戸の志式《シシキ》島の行宮にいまして、西海中の島を望み給ひ、此島雖(モ)v遠(シト)、猶見(ユ)v如(ク)v近(キガ)、可(シト)v謂(フ)2近(ノ)島(ト)1と仰せられたのに起つたと記してある。地名辭書の著者が大近を中通島、小近を宇久島、遠知駕を福江島に充てたのは信じてよい。福江島の西北端|美彌良久《ミミラク》の崎は、遣唐使船の泊所である。「岬」原本に岫〔右△〕とあるは誤。契沖説による。○おほとものみつ 既出(二三五頁)。○はまび 濱|邊《ベ》の轉。海《うな》び、野びはこの類語。○ただはてに 直終《タヾハテ》に。直ちに行き著く意の副詞格。○つつみなく 恙《ツヽガ》なく。凶事なく。
【歌意】 神代からいひ傳へたことは、この日本《ヤマト》の國は皇神の嚴めしい國、言葉の神靈の幸する國と、語り繼ぎいひ繼いでをる。それは現代の人も悉く目前に見てをり、知つてゐる。さて世の中に人間は澤山居るけれども、天子樣には神とますまゝに、貴方をば〔四字右○〕御寵任の餘に、天下の大政を執られた家(多治比氏)の子として、特に選(1565)出遊ばされて、で貴方は〔四字右○〕大命を捧げ持つて、唐の遠い境に遣はされ、出張なさるので、大海の岸邊にも沖にも、留まつてそこを領してゐられる諸の神達は、船の舳先に立つて〔三字右○〕お導きなされ、天地の神達や倭の大國魂の神は、大空を翔つて、見渡してお護りなされ〔六字右○〕、使命が終つて還る日には、又更に大神達が船の舳に御手を掛けてお助けなされるので〔九字右○〕、恰も墨繩を引張つたやうに一直線に〔四字右○〕、値嘉《チカ》の岬から御津の濱邊に、一途に貴方の御船は到著するであらう。どうぞ恙なく機嫌よくいらつしやつて、速くお歸りなさいませ。
 
〔評〕 開口一番皇神と言靈との威靈を唱道した。神威のことは後段に神達の活躍を叙してゐるから、その前提であることは明かだ。言靈に至つては、漫然と讀過しては、その何に照應があるかわからないから、無用の冗語に聞える。
 抑も「言靈の幸はふ」は言葉が玄妙な意味をもつとだけの讃辭と思つては間違ふ。そんな學術的の見地からのものではなくて、信仰上の問題である。蓋し言語は一種靈活なる應驗の徳を具へたものとして、古代に信ぜられてゐたのである。或豫言にせよ、或誓約にせよ或願望にせよ、それらの詞は現在及び未來に於いて、必然的なる應現を如實に示すものと考へられたのである。こんな思想は當時のいはゆる外國即ち韓唐天竺にはない事なので、「言靈の幸はふ國」と特に揚言したのである。
  敷島のやまとの國は言靈の幸はふ國ぞ眞幸くありこそ (卷十三――3254)
もそれで、「眞幸くありこそ」と祝福すれば、その言靈が靈驗をあらはし、願望通りの眞幸が實現される。こゝに至つては言葉は咒物《マジモノ》的性質を帶ぶることになる。詰り結末の「恙なく幸くいまして早歸りませ」との祝(1566)福の詞は、即ち必ずその應驗あり實現せらるべき約束のもとに置かれたものであることを、確認させたい爲の前提である。
 さて更に、神と言との靈動は神代からの傳統的信仰であり、又現在にこの應果を目前に現代人は知悉してゐるといひ添へた。
 上の「いひ傳てけらく」を承けて、下に「いひ繼がひけり」と重ねていふは古文の格で、祝詞には多い。
 次に愈よ本題にに入つて遣唐便の事に及んだ。
 小野妹子が遣隋大使として、絢爛たる漢土の文化を目撃して歸朝してから、漢土崇拜の思潮は益す拍車を加へて來た。遣唐使は孝徳天皇朝から始まり、爾來天武持統元明の三朝を除いては、御代毎に發遣され、採長補短の意味で、唐風摸倣に必死であつた。
 使人はわが邦の代表者であるから、對手國への儀禮としても、その門地官等の相當高い人を選任するのが通例である。加之對手國の歴史を知り學問を識り言語文章も操れゝば、資格に於いて滿點である。この天平五年の遣唐大使には多治比(ノ)眞人廣成が選任された。
 廣成は宜化天皇の孫|多治比《タヂヒノ》王の子左大臣島の子で、兄に大納言池守、中約言縣守(本集歌人)がある。實に面正しい「天が下まをし給ひし家の子」である。そのうへ彼れは漢學者でもあつたから、まづ適任といふ事が出來よう。
 航海の安否、これが遣唐使人の最難關で、瀬戸内海の潮騷も相當に魂を消すが、日本海の風波は殊に生命の問題であつた。然し大切なる國家の使節たる以上は、神の擁護は必ずあるべきであつた。住吉(攝津)から始め(1567)て、市杵《イチキ》島(安藝、嚴島)豐浦(長門豐東上村、住吉荒御魂)志加(筑前博多)田心《タゴリ》姫(同、宗像)湍津《タギツ》姫(田心姫の別名か)の神々は、その航路の奥に邊にます大御神達である。されば第一に、これらの海の神達が代る/\船の舳艫に立つて、順送りに安全に勅使の船を「導き申す」のであつた。
 この「船の舳に導きまをし」は決して作者の創案ではない。かうした思想は古代からの傳承である。殊に住吉の神は海童《ワタツミノ》神で、(記紀所見)海路の守護神として、神功皇后征韓の際、その荒魂和魂を現じ給うて以來、尤もその崇敬を極めた。
  空みつ日本の國は、水の上は土ゆく如く、船の上は床にますごと、大神のしづむる國ぞ、――。(卷十九、遣唐使賜酒肴御歌――4264)
  かけまくもゆゆしかしこき、住の江のわが大御神、船の舳にうしはきいまし、船艫に御立ちいまして、さし寄らむ磯の崎々、漕ぎはてむ泊々に、荒き風浪にあはせず、平けく居て歸りませ、――。(卷六――1021)
  住の江にいつく祝部《ハフリ》が神ごとを行くとも來とも舟は早けむ(卷十九、多治眞人古――4243)
  懸けまくのゆゝし恐こき、墨の江のわが大御神、船のへにうしはきいまし、船どもに御《ミ》立たしまして、さし寄らむ磯のさき/”\、漕ぎはてむ泊々に、荒き風波に合はせず、平らけく率《ヰ》て歸りませ、本の國へに。(同卷、作者未詳――4245)
  皇御孫尊の御命もちて、住吉に稱辭竟へまつる。皇神等の前に申し賜はく、大唐《もろこし》に使遣はさむとするに、――皇神の命もちて、船|居《すゑ》は吾作らむと教へ悟し給ひき。――。(祝詞、遣唐使時奉幣)
  住吉の神の導を給ふまゝに、はや船出してこの浦を去りね。――(源氏、明石卷)
  (近世金比羅神の出現によつて説かれる靈異は、古へはすべて住吉神のものであつた。又この神は神功皇后の征韓役に軍神としても現じ、後世弘く外敵に對する守護神とも考へられた。古事談所載の漁翁と白樂天との唱和――謠(1568)曲白樂天――の如きもその意味での派生である。)
 海路は、故にかくの如く懇切なる海の大御神達の擁護が望まれるとしてからが、陸上はその支配外である。さては遣唐一行の唐土上陸後は何としたものか。
 これに對して作者はまづ「天地の大御神達」と弘く呼び掛けた。が主としては倭の大國魂(ノ)神に懇請したものだ。蓋しこの神は國土の主神であるから、遣唐一行の唐地に於ける行旅の無事平安を「天翔り見渡し給ひ」と祈祷し切願した。
 要するに海には住吉、陸には大國魂、この二神が萬葉人の信奉の對象であつた事が諾かれよう。
 事は再びその歸航に及んだが、内容は往路とその精神に於いて變るべくもない。よつてその、敍筆に面目を聊か革めた。即ち上には「船の軸に導きまをし」とあるを、更に一層の佑助を望んで「大神達船の舳に御手打掛けて」といひ、一直線にの意を「墨繩を迎へたる如く」と譬喩し、迅速にの意を地理的描寫を交へて「値嘉の岬より――三津の濱邊にただはてに」といふ、繁簡精粗その宜しきに適ひ、行筆實に變幻自在を極めてゐる。要するに、海陸共にわが大御神達の行き屆いた冥助のあらうことを強力主張して、その行旅を祝福した。
 末段「つゝみなく幸くいまして早歸りませ」は、冒頭の「言靈の幸はふ國」とあるを顧應した結語で、首尾整然として分寸のゆるぎもない。而もこの語は遠行者に餞する套語で、
  在根良對島のわたりわた中に幣取り向けて早歸り來ね (卷一、春日藏首老――62)
  ――とどまれる我は幣とり、いはひつつ君をばやらむ、早歸りませ、(卷八、笠金村――1453)
  荒津の海わが幣まつりいはひてむ早かへりませ面變りせず (卷十三――3217)
(1569)  大船をあるみにいだしいます君つつむ事なく早歸りませ  (卷十五――3582)
の類頗る多い。現代でも千萬言の送別の詞も、究竟はこの一語に盡きる。
 遣唐の往來は約三年の長日子、海陸の行旅難に加ふるに、天災あり人災あり病災あり、その無事に歸朝するは實に天佑であらねばならぬ。で徹頭徹尾神樣に縋り付いた。この時代は聖武天皇が三寶の奴と宜はせられた時(天平勝寶元年四月)より以前で、疑もない惟一神道であつた。一方に佛陀に歸敬し。「禮2拜(シ)三寶(ヲ)1無(シ)2日(トシテ)不1v勤(メ)」といふ憶良ではあるが、それは箇人の信仰で、かうした公式の遣唐使迭別の際の辭令としては、古神道を眞つ向に振翳すのが至當であつた。平安期になると、これが躊躇なく「佛神憐み給へ」(源氏明石卷)となるから面白い。
 この篇の構成は「神代より」より「見たり知りたり」までが第一段、「人さはに」より「まかりいませば」までが第二段、「海原の」より「三船ははてむ」までが第三段である。その第三段を更に區分すれば、「導きまをし」までを第一節、「見渡し給ひ」までを第二節、「三船ははてむ」までを第三節とする。以下「早歸りませ」までは第四段となる。
 更にいふ、この篇の中心は海陸行旅の平安を神達に要望する點にある。海の恐怖は固より甚大だから、海路を主に陸路を從としたのは當然の事である。不思議なことは、讀下してゆくうちに何となく、祝詞の精神と宜命の文辭とが、彷彿として眼前に投影することである。
 作者憶良は壯時遣唐使の隨員(少録)として、唐都長安に往來した人である。されば多少異國情景に渉つた餞の詞を、この序《ツイデ》に見たかつた。否この歌はこれで結構だ。別に絢爛を窮めた唐代文化を日本人として見聞し(1570)た製作を、憶良はなぜ遺さなかつたか。外國風景異國情調、もしそれらの諸作があるとしたら、憶良の歌人としての價値は、より以上に偉大なるものとなつたであらう。徒らに旅愁を諷詠に托する事のみを知つて、特異なる眼前の好題目を漫然看過、唖のやうに黙してしまつたことは不思議でならない。歌人としては餘に無能である。これは憶良のみならず、安倍(ノ)仲麻呂等にも通じていへる事である。
 
反歌
 
大伴《おほともの》 御津松原《みつのまつばら》 可吉掃弖《かきはきて》 和禮立待《われたちまたむ》 速歸坐勢《はやかへりませ》     897
 
〔釋〕 〇かきはきて 「かき」は接頭語。
【歌意】 貴方の御船の著く〔八字右○〕御津の松原を〔右○〕、よく掃除して、私が立ちつゝお待ちしませう。で早くお還りなさいませ。
 
〔評〕 難波の御津の松原は、當時にあつては著名な存在で、集中にも再三歌はれてある。その下蔭を掃除して待たうとの聲明は、その奉仕の勞働行爲に歸朝歡迎の懇情が極度に露出し、而も御津の松原の出迎は、その頃奈良京に居たと思はれる憶良としては、今日なら東京人が御歸朝の節は是非横濱までお迎に行きますといふのと、略同樣の親切味を想はせる。これが使船出發の際に當つての辭令であることを思ふと、そこに惜別の情味が津津として迸るを覺える。「早歸りませ」は套語ではあるものゝ、又よく落著して、一首の總意を締め括つてゐる。
 
(1571)難波津爾《なにはづに》 美船泊農等《みふねはてぬと》 吉許延許婆《きこえこば》 紐解佐氣弖《ひもときさけて》 多知婆志利勢武《たちばしりせむ》     898
 
〔釋〕 ○なにはづ 「大伴の御津」と同處。○みふね 遣唐の使船をさす。○ひもときさけて 紐|解放《トキサ》けて。紐も結ばぬ體をいふ。○たちばしり 景行天皇紀に、日本武(ノ)尊(ノ)望(ミマシテ)v海(ヲ)高言《コトアゲシタマハク》、是小(ナル)海|耳《ノミ》、可(シ)2立跳《タチハシリニモ》渡(リツ)1とある。
【歌意】 難波の津に貴方のお船が着いたと、私の〔二字右○〕耳に這入らうなら、着物の紐も解き放つたまゝで、飛び出しませう。お迎の爲にさ〔六字右○〕。
 
〔評〕 それと出迎の爲に、着物を著換へて騷け出すのである。その取る物も取り敢へぬ周章しさを、「紐解け放けて立ち走り」と、具象的に表現したのは面白い。世説に皇甫規の事を叙した、
  衣(ハ)不v及(バ)v帶(スルニ)、※[尸/徙](ハ)履(ンデ)出(ヅ)、云々。
の趣と全くその規を一にする。作者は漢學者だから、寧ろ世説の敍筆を運用したと見るのが至當かも知れない。現に旅人卿なども、世説の鄭泉の故事をその讃酒歌中に引用してゐる。新考に奴隷の如く奔走せんの意とあるは誤解で、又働の都合よきやうに紐を結ばずとするは、事實が反對してゐる。
 廣成の歸朝を一途に待望してゐる情意が、ひし/\と人の胸臆を打つ。實をいへば奈良京から難波津まで、「紐解きさけて立ち走り」される譯のものではない。そこに極度の誇張があるが、決して不自然に聞えぬ程に、眞劍なる緊張がある。作者の人間味に富んだ性格の發露であらう。
 
天平五年三月一日、良(ガ)宅(ニテ)對面、獻(ル)2三首〔左△〕(ヲ)1。山上憶良謹(ミテ)上(ル)。
 
(1572) 天干五年の三月一日に廣成が憶良の家で面會し、さてこの三首の歌を廣成に獻ずるとの意。○良宅 「良」は憶良の略。〇三首 原本に三日〔二字右△〕とあるが文理が快くない。舊註その他には、獻ることは三日なりの意に解してゐるが牽強で、日〔右△〕は「首」の誤である。
 右の註文によれば、大使廣成は憶良の宅を訪問したのである。廣成は上にも述べた如く名家の子で、憶良とは門地に格段の懸隔があるから、所用があるなら億良を自邸に招致してもよい筈。尤も廣成は兄の縣守が太宰大貮、憶良は筑前守で、筑紫時代に入懇の間柄であつた關係もあり、又憶良は例の立居不自由の病人でもあるので、廣成の方からわざ/\足を運んだものか。さてその所用は今囘の外遊に就いて、曾ての渡唐者憶良の經驗談や注意を聞かうが爲かと想はれる。
 「山上憶良謹上」の六字は書簡としての記署である。
 
大唐大使《もろこしにつかはさるゝ》卿(の) 記室
 
これは書簡の宛名である。○大使卿 遣唐大使多治比廣成卿のこと。○記室 前出(一四五三頁)。
 
※[さんずい+冗]痾〔左△〕《やもこやりて》自(ら)哀(む)文 山上(の)憶良(が)作(る)
 
永い病を自分で悲しんだとの意。○沈痾 チンアと音讀するもよい。年久しき病をいふ。「※[さんずい+冗]」は沈に同じい。「痾」は深く進んだ病をいふ。原本に荷〔右△〕とあるは誤。神本その他によつて改めた。
 
(1573)竊(ニ)以(フニ)、朝夕佃〔左△〕2食(スル)山野(ニ)1者(ハ)、猶無(クシテ)2※[うがんむり/火]害1而得v度(ルコトヲ)v世(ヲ)。【謂(フ)d常(ニ)執(リ)2弓箭(ヲ)1、不v避(ケ)2六齋(ヲ)1、所(ノ)v値(フ)禽獣、不v論(ゼ)2大小孕不孕(ヲ)1、竝(ニ)皆※[殺の異体字](シ)食(ヒ)、以(テ)v此(ヲ)爲(ス)v業(ト)者(ヲ)u也。】晝夜釣2漁(スル)河海(ニ)1者(ハ)、尚有(リテ)2慶福1而全(ク)經v俗(ヲ)。【謂(フ)d漁夫潜女、各有(リ)v所v勤(ムル)、男者手(ニ)把(リ)2竹竿(ヲ)1能釣(リ)2波浪之上(ニ)1、女音腰(ニ)帶(ビ)2鑿籠(ヲ)1採(ル)2深潭之底(ニ)1者(ヲ)u也。】况乎、我從(リ)2胎生1迄(リ)2于今日(ニ)1、自(ラ)有(ルモ)2修善之志1、曾(テ)無(シ)2作惡之心1。【謂(フ)v聞(クヲ)2諸惡莫作、諸善奉行之教(ヲ)1也。】所以(ニ)、禮2拜(シテ)三寶(ヲ)1、無(ク)2日(トシテ)不(ルコト)1v勤(メ)。【謂(フ)2毎日誦經(シ)、發露懺悔(スルヲ)1也。】敬2重(シテ)百神(ヲ)1、鮮(シ)2夜(トシテ)有(ル)1v闕(クルコト)。【謂(フ)3敬2拜(スルヲ)天地(ノ)諸神等(ヲ)1也。】嗟乎※[女+鬼](カシイ)哉、我犯(シテ)2何(ノ)罪(ヲ)1遭(ヘル)2此重疾(ニ)1。【謂(フ)d未v知(ラ)2過去所(ノ)v造(ル)之罪(ヲ)1、若(シクハ)是現前所v犯之過(ナラムト)u、無(クシテ)2犯(セル)罪過1、何(ゾ)獲(ンヤ)2此病(ヲ)l乎、】初(メ)沈痾《ヤミコヤリテ》已來《コノカタ》、年月稍多(シ)。【謂(フ)v經(ルヲ)2十餘年(ヲ)1也。】是時七十有四、鬢髪斑〔左△〕白、筋力※[兀+王]羸(ナリ)。不2但年(ノ)老(タルノミナラ)1、復加(フ)2斯(ノ)病(ヲ)1。諺(ニ)曰、痛(キ)瘡(ニ)灌(ギ)v鹽(ヲ)、短(キ)材(ニ)截(ル)v端(ヲ)。此(レ)之《ノ》謂(ヒ)也。四支不v動(カ)、百節皆疼(シ)、身體太(ダ)重(ク)、猶(シ)v負(フガ)2鈞石(ヲ)1。【二十四銖(ヲ)爲(シ)2一兩(ト)1、十六兩(ヲ)爲(シ)2一斤(ト)1、三十斤(ヲ)爲(シ)2一鈞(ト)1、四鈞(ヲ)爲(ス)2一石(ト)1、合(セテ)一百二十斤也。】懸(ケテ)v布(ヲ)欲(リスルモ)v立(タムト)、如(ク)2折翼之鳥(ノ)1、倚(リテ)v杖(ニ)且(ク)歩(メバ)、比(フ)2跛足之驢(ニ)1。吾以(フニ)身已(ニ)穿(チ)v俗(ヲ)、心亦〔左△〕累(ヌ)v塵(ヲ)。欲(リシ)v知(ラム)2禍之所v伏(ス)、祟之所1v隱(ルヽ)、龜卜之門、巫祝之室、無(シ)v不(ル)2往(キテ)問(ハ)1。若(クハ)實若(クハ)妄(ナルモ)、隨(ニ)2其(ノ)所1v教(フル)、奉(リテ)2幣〔左△〕帛(ヲ)1無(シ)v不(ル)2祈祷(セ)1。然而彌〔左△〕(ヨ)有(リテ)v増(スコト)v苦(ヲ)、曾(テ)無(シ)2滅差(スルコト)1。吾聞(ク)、前代多(ク)有(リテ)2良醫1、救2療(スト)蒼生(ノ)病患(ヲ)1。至(リテハ)v若(キニ)2楡※[木+付]、扁鵲、華侘〔左△〕、秦(ノ)和緩、葛〔左△〕稚川、陶隱居、張仲景等(ノ)1、皆是在(シリ)v世(ニ)良醫(ニシテ)、無(カリキ)v不(ルコト)2除癒(セ)1也。【扁鵲、姓(ハ)秦字越人、渤海郡(ノ)人也。割(キ)v※[匈/月](ヲ)採(リ)v心(ヲ)、傷(ケテ)而置(キ)v之(ヲ)、投(ズルニ)以(スレバ)2神藥(ヲ)1、即(チ)寤(メテ)如(シ)v平(ノ)也。華他、字元化、沛國※[言+焦](ノ)人也。】(1574)若(シ)有(レバ)2病(ノ)結積沈重(ナル)者1、在(ル)v内(ニ)者(ハ)、刳(リテ)v腸(ヲ)取(リ)v病(ヲ)、縫(ヒテ)v腹(ヲ)摩(ス)v膏(ヲ)、四五日(ニシテ)差(ス)v之(ヲ)。】追2望(スルモ)件(ノ)醫(ヲ)1、非(ズ)2敢(テ)所(ニ)1v及(ブ)。若(シ)逢(ハヾ2聖醫神藥(ニ)1者、仰(ギ)願(ハク)割2刳(シ)五藏(ヲ)1、抄2探(シ)百病(ヲ)1、尋(ネテ)達(シ)2膏肓之※[こざと+奥]處(ニ)1、【肓(ハ)鬲也、心下(ヲ)爲(ス)v膏(ト)、攻(ムルモ)v(ヲ)不v可(ナラ)、達(スルモ)v之(ニ)不v及(バ)、藥(モ)不v至(ラ)焉。】欲(リス)v顯(ハサムト)2二豎〔左△〕之逃匿(ヲ)1。【謂(フ)晉(ノ)景公疾(ム)、秦(ノ)醫緩視而還(リ)言(フ)、可(シト)v謂(フ)2爲(ノ)v鬼(ノ)所(ルト)1v※[殺の異体字]也。】命根既(ニ)盡(キ)、終(フルモ)2其天年(ヲ)1尚爲(ス)v哀(シト)。【聖人賢者一切含靈、誰(カ)免(レムヤ)2此道(ヲ)1乎。】何(ゾ)况(ヤ)、生録未v半(バナラ)、爲(ニ)v鬼(ノ)枉殺(セラ)、顔色壯年(ニシテ)、爲v病(ノ)横困(セラルヽ)者(ヲヤ)乎。在世(ノ)大患孰(レカ)甚(カラム)2于此(ヨリ)1。【志恠記(ニ)云(フ)、廣平(ノ)前(ノ)太守北海(ノ)徐玄方之女、年十八歳(ニシテ)死(ス)。其靈謂(ヒテ)2憑馬子(ニ)1曰(フ)、案(フルニ)2我(ガ)生録(ヲ)1、當(シ)2壽八十餘歳(ナル)1、今爲(ニ)2妖鬼(ノ)1所(レ)2枉殺(セ)1、已(ニ)經(タリ)2四年(ヲ)1、此(ニ)遇(ハヾ)2憑馬子1、乃(チ)得(ムトアル)2更《マタ》活(クルヲ)1是也。内教(ニ)云(フ)、瞻浮洲(ノ)人、壽百二十歳(ト)。謹(ミテ)案(フルニ)、此數非(ズ)2必(シモ)不(ルニ)1v得v過(グルヲ)v此(ニ)。故(ニ)延壽〔二字左△〕經(ニ)云(フ)、有(リ)2比丘1、名(ヲ)曰(フ)2難達(ト)1、臨(ミ)2命終(ノ)時(ニ)1、諸佛請(フ)v壽(ヲ)、則(チ)延(ブ)2十八年(ヲ)1。但爲(ス)v善(ヲ)者(ハ)天地(ト)相畢(ル)。其壽夭者業報(ノ)所v招(ク)、隨(ヒテ)2其脩〔左○〕短(ニ)1而爲(ス)v半(ヲ)也。未(シテ)v盈(タ)2斯※[竹/卞](ニ)1而※[しんにょう+瑞の旁](ニ)死去(ス)、故(ニ)曰(フ)未(ト)v半(ナラ)也。任徴君曰(フ)、病(フ)徒v口入、故(ニ)君子(ハ)節(ス)2其飲食(ヲ)1。由(リテ)v斯(ニ)言(ハヾ)v之(ヲ)、人(ノ)遇(フハ)2疾病(ニ)1、不2必(シモ)妖鬼(ナラ)1。夫醫方諸家之廣説、飲食禁忌之原訓、知(リ)易(ク)行(ヒ)難(キ)之鈍情、三者盈(チ)v目(ニ)滿(チ)v耳(ニ)、由來(スルコト)久(シ)矣。抱朴子(ニ)曰(フ)、人但不v知(ラ)2其當(キ)v死(ス)之日(ヲ)1、故(ニ)不(ル)v憂|耳《ノミ》。若(シ)誠(ニ)知(ラバ)2羽※[鬲+羽](ノ)可(キヲ)1v得v延(ブル)v期(ヲ)者、必(ズ)將(ニ)v爲(ムト)v之(ヲ)、以(テ)v此(ヲ)而觀(レバ)、乃(チ)知(ル)我(ガ)病(ハ)、蓋(シ)斯(レ)飲食(ノ)所(ニシテ)v招(ク)、而不(ル)v能(ハ)2自(ラ)治(ムル)1者|乎《カ》。】帛公略説(ニ)曰(フ)、伏(シテ)思(フ)自(ラ)※[礪の旁](ムニ)以(テス)2斯(ノ)長生(ヲ)1。生(ハ)可(キ)v貪(ル)也、死(ハ)可(キ)v畏(ル)也(ト)。天地之大徳(ヲ)曰(フ)v生(ト)。故(ニ)死人(ハ)不v及(バ)2生鼠(ニ)1。雖(モ)v爲(リト)2王侯1、一旦〔左△〕絶(テバ)v氣(ヲ)、積(ムコト)v金(ヲ)如(キモ)v山(ノ)、誰(カ)爲(ムヤ)v富(ト)哉。威勢如(キモ)v海(ノ)、誰(カ)爲(ムヤ)v貴(シト)哉。遊仙窟(ニ)曰(フ)、九泉下(ノ)人(ハ)一錢(ダニモ)不v直(セ)。孔子曰(フ)、受(ケ)2之(ヲ)於天(ニ)1不(ル)v可(カラ)2變易(ス)1者(ハ)形也、受(ケ)2之(ヲ)於命(ニ)1不(ル)v可(カラ)2請益(ス)1者(ハ)壽也(ト)。【見(ユ)2鬼谷先生(ノ)相人書1。】故(ニ)知(ル)生之極(メテ)貴(ク)、命之至(リテ)重(キヲ)。欲(リスレバ)v言(ハムト)言窮(ル)、何(ヲ)以(テ)言(ハム)v之(ヲ)、欲(リスレバ)v慮(ハカラムト)慮絶(ユ)、何(ニ)由(リテ)慮(カラム)v之(ヲ)。惟以(フ)、人無(ク)2賢愚(ト)1、世無(ク)2古今(ト)1、咸悉嗟歎(シ)、歳月競(ヒ)流(レ)、晝(1575)夜不v息(マ)。【曾子曰(フ)、往而不(ル)v反(ラ)者(ハ)年也(ト)。宣尼臨川之嘆、亦是(レ)矣也。】老疾相催(シ)、朝夕侵(シ)動(キ)、一代(ノ)歡樂未(ルニ)v盡(キ)2席前(ニ)1【魏文惜(ム)2時賢(ヲ)1詩(ニ)曰(フ)、未(ルニ)v盡(サ)2西苑(ノ)夜(ヲ)1、劇(カニ)作(ル)2北※[亡+おおざと](ノ)塵(ト)1也。】千年(ノ)愁苦更(ニ)繼(グ2坐後(ニ)1。【古詩(ニ)云(フ)人生不v滿(タ)v百(ニ)、何(ゾ)懷(ク)2千年(ノ)憂(ヲ)1矣。】若夫群生(ノ)品類、莫(シ)v不(ル)d皆以(テ)2有盡之身(ヲ)1、竝(ニ)求(メ)c無窮之命(ヲ)u。所以(ニ)道人方士、自(ラ)負(ヒテ)2丹經(ヲ)1入(リ)2於名山(ニ)1、而合(ハスル)v藥〔左△〕(ヲ)之〔左○〕者(ハ)、養(ヒ)v性(ヲ)怡(バシメ)v神(ヲ)、以(テ)求(ムル)2長生(ヲ)1。抱朴子(ニ)曰(フ)、神農云(フ)、百病不(シテ)v愈(エ)、安(ゾ)得(ムト)2長生(ヲ)1。帛公〔左△〕又曰(フ)、生(ハ)好物也、死(ハ)惡物也。若(シ)不幸(ニシテ)而不(バ)v得2長生(ヲ)1者、猶以(テ)d生涯無(キヲ)2病患1者(ヲ)u爲(ム)2福大(ト)1哉。今吾爲(ニ)v病(ノ)見(レ)v悩(マサ)、不v得2臥坐(スルヲ)1、向東向西、莫(シ)v知(ル)v所(ヲ)v爲(ス)。無福(ノ)至甚、惣(ベテ)集(ル)2于我(ニ)1。人願(ヒ)天從(フ)、如(シ)有(ラバ)v實者、仰(ギ)願(ハクハ)頓(カニ)除(カム)2此病(ヲ)1。頼(ヒニ)得(バ)v如(キヲ)v平(カナル)、以(テ)v鼠爲(シハ)v喩(ト)豈不(ラムヤ)v愧(ヂ)乎。【已(ニ)見(ユ)v上(ニ)也。】
 
〔釋〕 本文非常に割註が多い、依つて釋中、割注の句は◎の印を以て分つた。次の漢文もこの例による。
○朝夕 「夕」原本にない。次句の「晝夜」に對して夕のあるが正しい。西本その他によつて補つた。○佃食山野者 山野に獵をして生活する者が。「佃」は禽獣を狩り取ること。○無※[うがんむり/火]害而得度世 災禍を受けることなく、平穩に世を暮すことが出來る。「※[うがんむり/火]」は災の書寫字。◎六齋 六齋日の略。四天王經、増一阿含經にある。毎月八、十四、十五、二十三、二十九、三十日の六日を斥す。これ等の日は不吉な日であるから、殺生などはやめ、謹んで功徳を行はなければならぬという。◎所値 「値」は遇ふこと。以下割註の誤字は正字に改め、その説明を略いた。◎※[殺の異体字]食 ※[殺の異体字]は殺〔傍点〕の古宇。○慶福 さいはひ。○全經俗 生命を全うして浮世に永(1576)らへる。◎潜女 カヅキメ。海女。◎能釣 「能」字不用。◎※[既/金] 鑿の書寫字。◎深潭之底 深き淵の底。○我從胎生―― 自分がこの世に生を享けてこの方今曰まで。「胎生」は佛教にいふ四生の一で、卵生、濕生、化生に對して、人類、獣類の生まるゝ状相をいふ。◎諸惡莫作―― 七佛通戒の偈の一節。全文は、諸惡(ハ)莫(レ)v作(スコト)、衆善(ハ)奉行(セヨ)、自(ラ)淨(ムルハ)2其意(ヲ)1、是諸佛教の四句の偈。「諸惡莫作」は消極的に惡を止むるを示し、「衆善奉行」は積極的に善をなすことを示してゐる。○禮拜三寶―― 佛法僧の三つを禮拜して。「三寶」はこの世の三つの寶の意で、佛法僧の三者を斥す。天平勝寶元年の聖武天皇の詔勅にも、三寶|乃《ノ》奴《ヤツコ》の語がある。◎毎日誦經 この句の上、謂〔右○〕を補つた。○發露懺悔 誠心を露はして懺悔する。「懺悔」は過去の罪惡を悟つて後悔すること。○鮮夜有闕 一夜だつて缺かしたことはない。「夜」は前句の「無日不勤」の日〔傍点〕に對應したまで。○嗟乎※[女+鬼]哉 あゝ愧かしいことよ。「嗟乎」は歎辭。「※[女+鬼]」は愧〔傍点〕に同じい。〇七十有四―― 七十四で鬢髪の斑白なのは當り前で、悲傷するには當らない。年紀に必ず誤があらう。潘岳の二毛之歎は四十二歳だからである。○鬢髪斑白 毛髪が胡麻鹽になつて。「斑」原本に班〔右△〕とあるは誤。西本その他による。○筋力※[兀+王]羸 體力が弱くやつれ。※[兀+王]はつかれて弱々しいこと。羸は痩せた貌。「※[兀+王]」原本に※[瓦+壬]〔右△〕とあるは誤。○痛瘡灌鹽 ひどい傷に鹽を振りかける。當時の俗諺であらう。泣き面に蜂〔五字傍点〕などといふに同じい。○短材截端 痛瘡灌鹽と同意の俗諺。上に「みじかきものをはしきる」とある(一五四九頁)。○四支不動 手足は動かず。「支」は肢〔傍点〕と同じい。○百節皆疼 節々は悉く痛い。○身體太重 力が拔けて〔五字右○〕の語を補うて聞く。○猶負鈞石 甚く重い物を背負つたやうだ。鈞と石との解は割註にある。○懸布欲立 力布を引つ懸けてそれに縋つて立たうと思へば。○如折翼之鳥 翼を折つた鳥のやうに自由がきかず。○倚杖且歩 杖に身驅を托して一寸歩かうとすれば。○此跛足之(1577)驢 びつこの驢馬のやうな具合だ。○吾以 自分で考へるに。○身已穿俗 この身は早くから世俗に入り混り。○心亦累塵 心も亦浮世の塵が堆つて汚れてゐる。「亦」原本に思〔右△〕とある。神本その他によつて改めた。○禍之所伏 病の原因たる禍の潜んでゐる處。○祟之所隱 物の祟の隱れてゐる處。「祟」は物のけなどの所爲によりて災難をうけること。○龜卜之門 韓唐流の卜考の家。「龜卜」は龜の甲を燒いて、その罅《ヒヾ》のつき方に依つて吉凶を卜ふ支那の卜占法。○巫祝之室 日本流の祈祷者の家。「巫」は巫女《ミコ》のことで、神々に仕へて神樂を舞ひ、又は祈祷を行ひ、或は神意を伺ひなどする女。「祝」は神に仕へる職の稱。はふり、かんなぎ。○無不往問 詣つて尋ねぬことはない。○若實若妄 その教示の虚實にかゝはらず。○奉幣帛無不祈祷 神佛に幣《ヌサ》を捧げて祈祷しないことはない。「ぬさとりむけ」を見よ(二三二頁)。「幣」原本に弊とあるは誤。○然而彌有増苦 さうしても愈よ苦みを増して。「彌」原本に禰〔右△〕あるは誤。無※[にすい+咸]差 病氣が輕くはならぬ。「※[にすい+咸]」は減の俗字。「差」は病の癒ゆること。救療蒼生病患 萬民の病氣を救ひ癒す。「蒼生」は人民のこと。前出(一四二六頁)。○楡※[木+付] 兪※[示+付]、愈※[足+付]、曳※[足+付]とも作る。支那の上古、黄帝時代の名醫。史記の扁鵲傳に「上古ノ時、醫楡※[木+付]有リ、病ヲ治ムルニ湯液醴灑、※[金+纔の旁]石、※[手偏+喬]引、案机、毒熨ヲ以テセズ、一撥シテ病ノ應ヲ見、五藏之輸ニ因リテ、乃チ皮ヲ割キ、肌ヲ解キ、脈ヲ訣シ、筋ヲ結ビ、髄脳ヲ搦シ、荒ヲ※[手偏+渫の旁]し幕ヲ仇シ、腸胃ヲ※[さんずい+前]浣シ云々」とある。○扁鵲 春秋戰國の世の人。長桑君の禁方を得て名醫となつた。詳しくは本文の註及び史記の扁鵲倉公列傳を見よ。○華佗 三國時代の名醫で、魏の曹操の頭風を一度癒したが、再度召されても參候せず、竟に曹操の怒を買つて殺された。尚本文の註を見よ。「佗」原本に他〔右△〕とあるは誤。○秦和緩 秦人の名醫和と緩。○葛稚川 名は洪、稚仙は宇。句容の人。少時より神仙の道と醫術とを好んでこれを修め、晉時代(1578)の神醫と謳はれた。その著に抱朴子内外一百十六篇がある。「葛」原本に※[草冠/場の旁]〔右△〕とあるは誤。○陶隱居 梁の人。字は通明、名は弘景。秣陵に生まれ、十歳の時、葛洪の神仙傳を讀んで醫術に志し、青年に及んで名醫の名を博した。晩年、華陽洞に隱れ、華陽眞人と號したので、世人陶隱居と呼んだ。○張仲景 仲景は字、名は機。漢代の人で長沙大守となつた。時に惡疫流行し、仲景はこれを療して名醫の名聲を得た。その著に傷寒論、金匱方の二大名著がある。○無不除愈也 病の根原を除き癒さないことがない。◎割※[匈/月]採心−列子記載の寓話。魯公扈、趙齊嬰の兩患者が、扁鵲に治療を依頼したところ、扁は、公扈は志彊く氣弱く、齊嬰は志弱く氣彊きことが、その病因であることを知つて、兩名に毒酒を與へて迷死させ、その心腸を剖いて心を入れ換へた後、神樂を投じて蘇生させたところ、公扈は齊嬰の家へ、齊嬰は公扈の家に歸つて、その妻子を吃驚させたといふ。◎結積沈重者 病原が滯りつもるものが。◎在内者 内臓に在れば。○追望件醫 前述の名醫達を後から望んだところで。○非敢所及 どうしたつて追つ付くことではない。○仰願 割刳より逃匿までの語句にかゝる。○割刳五藏 腹中を割り刳つて。「五藏」は五臓のこと。即ち肝、心、脾、肺、腎の五つの臓腑をいふ。○抄探百病 種々な病をさぐり取り。○尋達膏肓之※[こざと+奥]處 膏肓の如き身體の奥深いところまでも尋ね達して、「膏肓」は身體の局部の名稱。病がこの二所に在れば全快し難いといふ窮所。尚ほ割註を見よ。「※[こざと+奥]處」は深きところ。※[こざと+奥]は澳《フカシ》に同じい。◎鬲 膈に同じい。心と脾との間即ち胸中をいふ。◎攻之不可 之を治療しようとしても不可能である。「攻」は整へ正すこと。◎達之不及 これに針を鍼たうとしても深くて屆かない。「達」は針を鍼つこと。◎藥不至 飲んだ藥もそこまで屆かない。○欲顯二豎之逃匿 病魔の潜み匿れてゐるのを見つけ出さうと思ふ。「二豎」は病魔のこと。轉じて疾病の義にもいふ。左傳に「晉侯疾病アリ、(1579)醫ヲ秦ニ求ム。秦伯醫緩ヲシテ之ヲ爲メシム。未ダ至ラズ。侯夢ム。疾二豎子トナリ、曰ク、彼ハ良醫ナリ、惧クハ我ヲ傷ケン、焉ゾ之ヲ逃レン。其一曰ク、肓ノ上膏ノ下ニ居ラバ、我ヲ若何セン。醫至リテ曰ク、疾爲ムベカラザル也。肓ノ上、膏ノ下ニ在リ、之ヲ攻ムルモ可ナラズ、之ニ達スルニ及バズ、藥モ至ラズ、爲ム可カラザルナリ。侯曰ク良醫ナリ。厚ク禮ヲナシテ之ヲ歸ス」とあるによる。「豎」原本に竪〔右△〕とあるは誤。○命根既盡 命のもとが既に盡きて。○終其天年尚爲哀 天より享けた壽命が終つて滿足に死んだのでも、尚哀しいものとする。◎聖人賢者一切含靈―― 聖人賢人を問はず、すべての生物が、誰れがこの死といふことを免れられるだらうか。「一切含靈」は佛教語。「含靈」は靈を抱くもの即ち生物を指す。○何况――乎 どうしてまあ……をさ。反語の形式を採つた強意の語法。○生録未半 天命がまだ半分も盡きないのに。「生録」は命數、天命に同じい。○爲鬼枉殺 疫鬼のために無理に殺され。○爲病横困者 病の爲に横さまに困められるもの。○在世大患孰甚于此 この世に在る大きな患で、これより大きなものがあらうか。◎志恠記 志怪録〔三字傍点〕の誤記か。志怪録は支那の陸勲の著。◎廣平前大守徐玄方女 前に廣平の刺史であつた徐玄方の娘。大守は刺史と同じで、今の縣知事の如き官。◎憑馬子 人名。◎案我生録當壽―― 自分の天壽を考へるに、壽命は八十餘歳となつてゐるのに。◎妖鬼 あやしき鬼。ものゝけ。「妖」原本に※[女+ノ/拔の旁]〔右△〕とあるは書寫字。◎内教 佛教のこと。佛道を内教、佛書を内典といひ、他を外道外典といふは佛者の言。◎瞻浮洲人―― 長阿含經に、閻浮提(ノ)人壽百二十歳、中夭者多(シ)とあり、又、阿※[田+比]曇論に、閻浮提(ノ)人、壽命不v定(マラ)、有(リ)2其三品1、上壽一百二十五歳、中壽一百歳、下壽六十歳、其間中夭者、不v可(カラ)2勝(ゲテ)數(フ)1とある。◎瞻浮洲 閻浮提のこと。古代印度の世界説において、須彌山の南方に位し、十六の大國、五百の中國、十萬の小國を有し、佛に遇ひ法を聞くこと本洲に過ぐるはな(1580)しとされたので、もともと印度國を名づけて言つたものであるが、轉じて、吾人の住む世界を弘くいふやうになつた。◎非必不得過此 強ひてこの壽命數を越えられないといふのではない。◎廷壽經 延壽妙門陀羅尼經の略稱。原本壽延〔二字右△〕とあるは顛倒。◎比丘 梵語。男の出家をいふ。◎但爲善者 およそ善を爲す者は。「爲善」原本に善爲〔二字傍点〕とある。契沖は、左傳杜預の註を引いて、爲ハ治ト同義と解し、ヨクヲサムルモノハ〔九字傍点〕と訓み、舊註はヨクタスクルモノハ〔九字傍点〕と訓んでゐる。◎天地相畢 その壽命が天地と終始する。天地の齡と一緒であるの意。◎其壽夭者 「壽」は長命、「夭」は若死に。◎業報所招 自分の、所業の報がその結果を招いたもので。「業報」は作行に應じて來たむくい。「業」は身口意の所作のすべてをいふ。轉じて惡業をもいふ。◎隨其脩短而―― その作行の長短に從つて壽命の長短の半をなすものである。「脩」は長と同義。◎未盈斯※[竹/卞] まだこの壽命數に滿たないで。「※[竹/卞]」は算〔傍点〕に同じく、數ふ又數の意。◎故曰未半也 それ故に壽命の半にもならぬといふのである。◎任徴君 梁の人で名は安、字は定祖。學を好み、名利を欲せず一生出仕しなかつた。時の人、號して任徴君といつた。◎由斯言之 この意味から病のことを言へば。◎不必妖鬼 あながち疫鬼の爲ばかりではない。◎飲食禁忌之原訓 飲食を忌み禁ずるといふ根本の誡。◎知易行難之鈍情 知ることは容易であるが、さてそれを實行することは難しいといふ愚な心。◎三者盈目滿耳―― 以上の三つの事柄は、耳目に飽きるほど見聞きして來たことは、久しいものである。◎抱朴子 先述した晉の葛稚川の著書の名。内外篇八卷あり、黄老を主とした、所謂道家の書である。◎若誠知羽※[鬲+羽]―― もしも實際に仙人となつて死期を延すことが出來ると知れば、きつとこれを實行しようとする。「羽※[鬲+羽]」は支那で仙人となることを羽化登仙といふので、仙人となるの意。「※[鬲+羽]」は羽の本のこと。(1581)○帛公略説 未詳。○自※[礪の旁]以斯長生 自ら勵むにこの長生を目的とし。「※[礪の旁]」は勵〔傍点〕に同じい。○天地の大徳曰生 自然の大きなめぐみを生といふ。○死人不及生鼠 萬物の靈長たる人でも、死んでは生きてゐる鼠にも及ばないほど價値がない。〇一旦絶氣―― 一度び息が絶えたら、金を山ほど積んだとて、誰れが富人となさうか。「一旦」原本に一日〔右△〕とあるは誤。○遊仙窟 唐の張文成が仙窟に遊んだことを記した支那最古の軟文小説。〇九泉下人―― 死人は一文の値打もない。「九泉下人」は地下の人に同じい。即ち死亡した人。「九泉」は地の底のこと。木虚の海賦の許に、地有(リ)2九重1、故(ニ)曰(フ)2九泉(ト)1とある。○受之於天―― 天から授つたもので易へることの出來ないものは形である。○受之於命―― 之を運から授つて勝手に求め益すことの出來ぬものは壽命である。「命」は天の智的の方面をいふ語で、天道の配剤、自然の暦數のこと。「請益」は求め益す。◎鬼谷先生 楚の人。その姓名は不明。たゞ鬼谷(地名)に隱遁してゐたので、自ら鬼谷先生と號したといふ。所謂鬼谷子はその著であるといはれる。縱横家張儀、蘇秦は共に之に師事した。◎相人書 人相を占ふ書。○欲言言窮 以上のことを言はうとしても、いひ表はす言葉に窮する。○欲慮慮絶 考へようとしても考へ切れない。○咸悉嗟歎―― みな悉く歳月の經過の早く、晝夜をやすまず過ぎ去つて行くのを歎く。「嗟」は歎聲。○晝夜 「晝」原本に書〔右△〕とあるは誤。◎曾子 名は參、字は子輿。南武城の人。孔子の弟子で、孔子より四十歳餘も若かつたが、その孝道に通じた故を以て業を授けられた。その著に孝經がある。◎宣尼臨川之嘆 孔子が流水を見て、逝くものが二度と返らぬを嘆いたこと。論語(子罕篇)に、子在(リテ)2川上(ニ)1曰(フ)、逝(ク)者(ハ)如(キカ)v斯(ノ)夫、不v舍(カ)2晝夜(ヲ)1と。「宣尼」は孔子の謚文宣王とその宇の仲尼とを撮み合せての略稱。○老疾相催 老と病とがお互に萌して。○朝夕侵動 朝となく夕となく身體を次第に侵しすゝむ。「動」はうつり進むの意。〇一代歡樂―― 一生の(1582)歡樂がまだ自分の前に殘つてゐるのに。「席前」自分の座席の前。◎魏文 魂の文帝のこと。◎時賢 その時代の賢人。◎未盡酉苑夜―― 帝宮の西の苑で樂しい夜を盡さぬうちに、忽ち死亡して北の方※[亡+おおざと]山の塵となつてしまふとの意。「※[亡+おおざと]」は河南省洛陽の北に横たはる山の名。こゝには貴人名士の墳墓が多い。○千年愁苦―― 死の手は自分のすぐ背後に迫つてゐるとの意。「千年愁苦」は永久の愁ひ苦しみ即ち死を斥す。「坐後」は背後に同じい。◎古詩 文選所載の支那漢代の古詩を斥す。◎人生不滿百―― 人の生涯は百歳にも滿たないものであるのに、人はその心の中に常に悠久永遠の憂を持つてゐる。文選には「人生」を生年〔二字右△〕、「何懷」を常〔右△〕懷とある。今は文選によつて解釋した。○若夫群生品類―― かのあらゆる生物の各階級の者は、悉く何れ終りある身體をもつて、すべて無窮永遠の命を求めない者はない。○道人 道家又は佛者の説を修めて得道した人。こゝは道家の説を修めた者をいふ。○方士 神仙の方術を修める者。○自負丹經―― 自身で靈藥の方書を身につけて深い山に入り。「名」は大の意。○丹經 丹砂を煉つて不老不死の藥となす術書。○合藥之者 仙藥を製するはの意。これは支那で仙術を修める者の所作である。「藥」原本に樂〔右△〕とあるは誤。「之」を衍とする。○養性怡神 生命を養ひ精神をやはらげる。「養性」は生命を養ふこと。孟子の養性とは異る。○神農 支那上古の三皇の一一人。姓は姜、炎帝ともいふ。始めて農耕を教へ、又醫藥を作つた。○帛公 「公」原本に出〔右△〕とあるは誤。○爲福大哉 幸福が大なるものとなさうか。○不得臥坐 身體の自由が利かない。「臥坐」は寢たり起きたりの意。○向東向西莫知所爲 どちらを向いても、どうすることも出來ない。「向東向西」はあちら向きこちら向き。○無福至甚―― 不幸の項點がすべて自分の上に集つてゐる。「惣」原本に※[手偏+忽]〔右△〕とあるは書寫字。古義に、上に脱語あるべしとあるは非。○人願天從 人が誠心から願へば、天はその願に從つて、願(1583)望を叶へてくれるとの意。周書の泰誓に、天矜(リ)2于民(ニ)1、民之所v欲(スル)、天必(ズ)從(フ)v之(ニ)。とある。○如有實者 もし周書の言が本當であれば。○頼得加平 幸に平癒するやうになつたならば、○以鼠爲喩 上に「死人は生鼠に及ばず」と喩へたやうな無躾さは。こゝの「以鼠爲喩」は詩經の※[庸+おおざと]風にいふ主意とは異る。○豈不愧乎 天に對して大いに愧ぢ入る次第だとの意。豈……乎は反語の形。
 
 沈痾自哀の題意の命ずるがまゝに、例の四六駢儷の筆致をもつて、布陳これ力めた。まづ佛教にいはゆる四苦のうち、老と病との二苦に虐げられてゐる自己の境涯を詳叙し、次いで病苦そのものに就いて、醫藥の殊方のないことを歎き、さて筆を轉じて生死の問題に突入した。病苦のはてに來るべきは即ち死苦である。憶良はその覺悟はもちながら、尚生の執着を飽くまで強調し、綿々密々に反復した。「死人不及生鼠」の語の如き、辛辣も亦甚しい。結局無病息災を切願してゐる。世の富貴利達の人達が不老長生の仙術方術を講ずるのとは違つて、只さし迫つた當面焦眉の問題、即ち病魔の手から遁れたいだけの小さな、而も緊切な欲望に過ぎない。如何に彼れがその苦痛に困惑してゐたかが窺はれる。
 堂々たる大文字ではあるが、概してやゝ雜駁の感がある。引據は頗る廣汎で、彼れが博識であつたらうことは否めないものゝ、雅俗雜糅、殆どその煩に禁へない。殊に小説遊仙窟の引用に至つては不倫の譏を免れ得まい。蓋し同書は當時舶載日なほ淺く、隨つてこれを引用することは、頗る尖端的の知識を誇り得るものであつたらう。
 文中憶良の生活状態の一部とその病質とがほゞ推知され、又その思想信仰の傾向を看取することが出來る。(1584)「當時七十有四、鬢髪斑白」、「生録未半爲鬼枉殺、顔色壯年爲病横困者乎」の諸句の如きは、憶良の年齡を推定する上に於いて、重要なる材料である。   △憶良傳及び憶良年紀考(雜考――21)參照。
 
悲2歎《なげく》俗道(は)假合即離(にして)、易(く)v去(り)難(きを)1v留(り)詩一首并序
 
人世は佛説にいふ假合即離で、はかなくなり易く住まり難いことを軟く詩一首と、その序文との意。○俗道 世俗の道の義。人間世の約束をいふ。○假合即離 會者定離といふに同じい。宇宙の萬物は、因縁が假に和合して成つたものであるから、その因縁が盡きれば遂に離散しなければならぬといふ佛説。「假合之身」を見よ(一五三四頁)。○易去難留 常住性のないこと、即ち無常なることをいふ。
 
竊(ニ)以(フニ)、釋慈之示教(ハ)、【謂(フ)2釋氏慈氏1、】先(ヅ)開(キテ)2三歸【謂(フ)3歸2依(スルヲ)佛法僧(ニ)1。】五戒(ヲ)1、【謂(フ)2一(ニ)不殺生、二(ニ)不偸盗、三(ニ)不邪淫、四(ニ)不妄語、五(ニ)不飲酒(ヲ)1也。】而普〔左○〕(ク)化(ス)2法界(ヲ)1。周孔之垂訓(ハ)、前(ニ)張2三綱【謂(フ)2君臣父子夫婦(ヲ)1】五教(ヲ)1、【謂(フ)2父義、母慈、兄友、弟順、子孝(ナルヲ)1。】以(テ)齊(シク)濟(フ)2郡國(ヲ)1。故(ニ)知(ル)引導(ハ)雖(モ)v二(ト)、得(ルハ)v悟(ヲ)惟一(ツ)也。但以(フニ)、世(ニ)旡〔左△〕(シ)2恒質1、所以(ニ)陵谷更(リ)變(ル)、人旡〔左△〕(シ)2定期1、所以(ニ)壽夭樣〔左△〕不v同(ジカラ)。撃目之間、百齡已(ニ)盡(キ)、申臂之頃〔左△〕、千代(モ)亦空(シ)。旦(ニ)作(ルモ)2席上之主1、夕(ニハ)爲(ル)2泉下之客〔左△〕(ト)1。白馬走(リ)來(ルトモ)、黄泉何(ゾ)及(バム)。隴上(ノ)青松、空(シク)懸(ケ)2信劔(ヲ)1、野中(ノ)白楊、但吹(カル)2悲風(ニ)1。是(ニ)知(ル)世俗本無(ク)2隱遁之室1、原野唯有(リ)2長夜之臺1。(1585)先聖已(ニ)去(リ)、後賢不v留(マラ)。如(シ)有(ラバ)2贖(ヒテ)而可(キコト)1v免(ル)者、古人誰(カ)無(カラムヤ)2價金1乎。未(ダ)v聞(カ)d獨存(リテ)遂(ニ)見(ル)2世(ノ)終(ヲ)1者u。所以(ニ)維摩大士、玉體(ヲ)疾(マシメ)于方丈(ニ)1、釋迦能仁、掩(フ)2金容(ヲ)乎雙樹(ニ)1。内教(ニ)曰(フ)、不(バ)v欲(リセ)2黒闇之後(ニ)來(ルヲ)1、莫(シト)v入(ルヽコト)2徳天之先(ヅ)至(ルヲ)1。【徳天者生也、黒闇者死也。】故(ニ)知(ル)生(ニハ)必(ズ)有(リ)v死。死若(シ)不(バ)v欲(リセ)不v如〔左△〕(カ)v不(ルニ)v生(マレ)。、况乎縱(ヒ)覺(ルモ)2始終之恒數(ヲ)1、何(ゾ)慮(ル)2存亡之大期(ヲ)1者(ナラムヤ)也。
 
〔釋〕 ○釋慈之示教 佛樣達が御教へなさるのに。「釋慈」は釋迦と彌勒と。現當二世の衆生濟度の佛者。故にこの二者で佛を代表させた。○釋氏 釋迦氏の略。「釋迦能仁」を見よ(一四〇三頁)。○慈氏 彌勒の譯。釋迦の後を追つて、この世に出現し衆生を濟度する菩薩。○先開三歸五戒 先づ第一に三つの歸すべき所と五つの守るべきことを示し。「三歸五戒」は佛道に入る者の最初に受ける戒。「三歸」は佛法僧の三寶を歸依の對象とするをいふ。「五戒」は五つの惡行の戒。その目は割注に出てゐる。○普化法界 總體に現世を教化する。「法界」は佛法の行はれてゐる世界即ち現在の世をいふ。「普」原本にない。下の「齊濟郡國」の齊に對する爲に補つた。○周孔之垂訓 周公と孔子とが示された訓。周公も孔子も共に儒教上の大聖。前に釋慈に佛教を代表させ、こゝには周孔に儒教を代表させた。○前張三綱五教 先づ三綱五教を布き。「張」は「三綱」の綱に對應して用ゐた語「三綱五教」は人間の守るべき大道を示したもの。儒教の根幹をなしてゐる教。詳しくは割注を見よ。○齊濟郡國 遍く國中を濟ふ。契沖がいふ、こゝに「齊」の字あれば「化法」の上、まさに普〔右○〕などの字脱ちしなるべしと。「郡國」の「郡」は行政區劃の一、「國」は郡の總合したる名稱。西本等に「郡」を邦〔右△〕に作つて(1586)あるが、これは國々の意。○引導雖二―― 人間を教導する教は儒佛の二つに分れても、悟を得るといふことは唯一つであるの意。「引導」は一定の方向を誘引し指導すること。轉じて死人を葬る時、冥土に行くしるべをなすとて、僧侶の行ふ誦經の式をもいふ。こゝは前者の意。○世旡恒質 世には永久不變なものはない。「恒質」は永久不變の實體。「旡」原本に元〔右△〕とあるは誤。○陵谷更變、陵は谷、谷は陵と變じ。世の變遷を稱する語。毛詩小雅に、高岸爲(リ)v谷(ト)、深谷爲(ル)v陵(ト)とある。○人旡定期 人には定つた生命といふものはない。「旡」原本に元〔右▲〕とあるは誤。○壽夭不同 生命の長短が等しくない。「夭」原本に※[ノ/跋の旁]とあるは書寫字。○撃目之間―― 目を瞬くほどの短い間に、百年の齡は早くも盡きてしまひの意。人生の儚さを悠久の自然に對比して、言つた語。○申臂之頃―― 臂を伸すほどの短時間に、千代も亦空しく過ぎ去るの意。「頃」は少時、しばらくの意。原本に項〔右△〕とあるは誤。○旦作席上之主―― 朝には座上の主人となつてゐるが、夕には地下の人となつてしまふの意。「泉下之客」は「九泉下」を見よ(一五八一頁)。「客」原本に容〔右△〕とあるは誤。○白馬去來―― 驅け出して往つても、地下にはどうして及ばうぞの意。「白馬」は「黄泉」の對語で、白に意はない。「黄泉」は九泉に同じい。土の色は黄色であるのでかくいふ。○隴上青松―― 墓陵の上の青松に、今は亡き人の爲に空しく心約束の劔を懸けの意。「陵」は土の盛りあがつた處の稱。ヲカと訓む。こゝの陵は墓處を指す。「懸信劔」は呉王壽夢の季子札が徐君の基に劔をかけた故事をいふ。史記呉世家に「春秋ノ時、呉ノ季札出デ使シテ徐ノ君ニ過ギル。徐ノ君季札ガ劔ヲ好ス。然レドモ敢テイハズ。季札心ニ之ヲ知ルト雖モ、上國ニ使スルガ爲ニ未ダ獻ゼズ。還リテ徐ニ至レバ、徐ノ君已ニ死セリ。乃チ其ノ寶劔ヲ解キ、之ヲ徐ノ君ノ冢樹ニ掛ケテ去ル。」とある。「劔」は劍の俗字。〇野中白楊―― 野中に立つてゐる墓側の白楊は、ただ悲風に吹かれて(1587)ゐるの意。支那の俗、白楊を墳墓に植ゑる。通志に、種(ウ)2墟墓(ノ)間(ニ)1、故(ニ)曰(フ)、白楊多(シ)2悲風1、蕭々(トシテ)愁2殺(ス)人(ヲ)1。とある。「白楊」は筥楊《ハコヤナギ》のこと。楊柳科に屬する木で、葉は圓形にして尖り、鋸齒をしてゐる。花はカハヤナギに似て、春の初、葉の出ぬ先に咲く。○世俗本無隱遁之室 現世には始めから死の魔手から遁れ隱れる部屋はなく。「世俗」は世の中といふほどの意。○原野唯有長夜之臺 荒涼たる野原に、只死の安息所があるばかりだ。「長夜之臺」は墓の意。「長夜」は死をいふ。人が一度び死して復活しないのを、何時までも明けぬ夜に喩へた。○先聖已去―― 先聖もすでにこの世を去り、後賢もこの世に留まらずに死んで行くの意。○如有贖而―― もしも死といふものが金で買へて、死を免れることが出來るならばの意。「免」原本に※[免の二画目なし〔右△〕とあるは誤。○古人誰無價金乎 古人誰れが死を贖ふ價の金がなからうかい。○維摩大士 前出(一四〇二頁)。○疾玉體于方丈 尊い身體をその方丈の居室に於て疾に犯され。「玉」は美稱。「方丈」は「在乎方丈」を見よ(一四〇二頁)。○釋迦能仁 前出(一四〇三頁)。○掩金容于雙樹 尊い身體を涅槃後、沙羅雙樹に掩はれた。「金」は美稱。「雙樹」は「坐於雙林」を見よ。(一四〇三頁)。○内教 前出(一五七九頁)。○不欲黒闇之後來―― 黒闇天が後から迫ることを嫌ふならば、功徳天の前に來たのを受け入れるな。即ち死を欲せざれば生るゝなかれの意。「黒闇」は死を掌る神。「徳天」は功徳天女即ち吉祥天女のこと。こゝには生を掌る神とした。○不如 「如」原本に知〔右△〕とあるは誤。○况乎縱―― まして縱ひ生必有死といふ自然の道理を覺つたとしても、どうして生死の大時機を考へられようか、とても人智の及ぶ所ではないの意。「况乎……者也」は反語の形。〇始終之恒數 始有る者は必ず終有るといふ自然の道理。「恒」はつね〔二字傍点〕。「數」は條理、道理の意。揚子法言に、有(ル)v生者(ハ)必(ズ)有(リ)v死、有(ル)v始者必(ズ)有(リ)v終、自然之道也とある。○存亡之大期 生死の大時機といふほどの意。
(1588) この文はまことに引締つて無駄なしによく書けてゐる。尤も主意は佛教の專ら提唱する假合即離にあるから、新味の缺けてゐるのも亦當然であらう。初頭儒佛を相對的に排敍したが、「所以維摩」以下無常變易の意を強調し、死生の理に渉るに及んでは、全然佛教の典故を根本としてゐる。中間無常不住の事相を叙したあたり、辭句精煉、決して文選の諸公の作に遜らないと思ふ。
 
俗道(ノ)變化猶(ク)2撃目(ノ)1。人事(ノ)經紀如(シ)2申臂(ノ)1。空(シク)與《ト》2浮雲1行(ル)2大※虍/丘](ヲ)1。心力共(ニ)盡(キ)無(シ)v所v寄(ル)。
 
 ○俗道變化―― 現世の變化は恰も目を瞬く如く速く。○人事經紀―― 人の一生は臂を伸ばすほどの短い間に經つてしまふ。「經紀」は常の道理。文選曹子建七啓の、耗(ラシ)2精神(ヲ)乎虚廓(ニ)1、廢(ス)2人事之經紀(ヲ)1の注に、劉良曰(フ)、經(ハ)紀常理也とある。○空與浮雲―― 浮雲と共にあてどもなく空にさ迷つての意。「大虚」は虚空のこと。○心力共盡―― 心身共に盡きた死後は、寄る所も無いのだわいの意。「心力」は精神と體力と。詩とはいへ、例の漢讃で、詩味は索莫たるものである。
 
老(いたる)身(の)重(き)病(に)、經(て)v年(を)辛苦《くるしみ》、及《また》思(へる)2子等《こどもを》1歌五〔左△〕首
 
年寄つた體で重い病に懸かり、歳月を重ねて苦み、又子供の事を思うて詠んだ歌との意。〇五首 原本七〔右△〕首とある。それはこゝに誤載した「富人の」「あら妙の」の二首を加へて數へたからで、今はそれを「貧窮問答歌」の條に移したので、減じて五首となつた。又原本、題詞の下に「長一首短六首」と割註がある。後人の記入だから略いた。
 
(1589)靈剋内限者《たまきはるうちのかぎりは》【謂(フ)2瞻浮洲(ノ)人(ハ)壽一百二十年(ト)1也 平氣久《たひらけく》 安久母阿良牟遠《やすくもあらむを》 事母無《こともなく》 喪無毎阿良牟遠《もなくもあらむを》 世間能《よのなかの》 宇計久都良計久《うけくつらけく》 伊等能伎提《いとのきて》 痛伎瘡爾波《いたききずには》 鹹鹽遠《からしほを》 灌知布何其等久《そそぐちふがごとく》 益益母《ますますも》 重馬荷爾《おもきうまにに》 表荷打等《うはにうつと》 伊布許等能其等《いふことのごと》 老爾弖阿留《おいにてある》 我身上爾《わがみのうへに》 病遠等《やまひをら》 加弖阿禮婆《くはへてあれば》 晝波母《ひるはも》 歎加比久良志《なげかひくらし》 夜波母《よるはも》 息豆伎阿可志《いきづきあかし》 年長久《としながく》 夜美志渡禮婆《やみしわたれば》 月累《つきかさね》 憂吟比《うれひさまよひ》 許等許等波《ことことは》 斯奈奈等思騰《しななともへど》 五月蠅奈周《さばへなす》 佐和久兒等遠《さわぐこどもを》 宇都弖弖波《うつてては》 死波不知《しにはしらず》 見乍阿禮婆《みつつあれば》 心波母延農《こころはもえぬ》 可爾可久爾《かにかくに》 思和豆良比《おもひわづらひ》 禰能尾志奈可由《ねのみしなかゆ》
 
〔釋〕 ○たまきはる 「うち」に係る枕詞。既出(三六頁)。「剋」は刻に通じ、キザムと讀む。○うちのかぎり 現《ウツ》の限。生きてある世の限の意。「うち」はウツの轉。○謂瞻浮洲人壽百二十年 これは割註の文。上に「う(1590)ちの限」とある人壽の定數を示したもので、瞻浮洲即ち須彌山の南にある大陸に生息する吾人の世界では、人壽が通例百二十歳だといふこと。○こともなき 無事なるをいふ。○もなく 「も」は凶事《マガゴト》の意。マガ(凶)の約マ〔傍点〕の音轉。喪をモと訓むも、喪は凶事だからである。この語集中にも二三見え、又伊勢物語、蜻蛉日記などにも出てゐる。宣長がマガゴトの約と説いたのは煩はしい。「裳」は借字。○うけく 憂く〔二字傍点〕の延言。中止格。○つらけく 惡《ツラ》く〔傍点〕の延言。中止格。神代紀に、其(ノ)中一兒、最《イヤ》惡《ツラク》不v須《モチヰ》2教養《ヲシヘヲ》1とある。○いとのきて 前出(一五四九頁)。○いたききずには―― 上の沈(ミテ)v痾(ニ)自(ラ)哀(ム)文に、諺(ニ)曰(フ)、痛(キ)瘡(ニ)灌(ギ)v鹽(ヲ)、短(キ)材(ニ)截(ル)v端(ヲ)とある。「は」は輕く添へた辭。○からしほ 辛鹽。利きのよい鹽のこと。延喜式に甘鹽、味鹽、煮鹽の目がある。○そそぐちふがごとく 「何」を衍としてソヽゲチフゴトクと訓んでもよい。○おもきうまに 荷の〔二字右○〕重き馬。語は不完であるが、意はこれで通じたもの。○うはにうつ 上荷を付くること。「うはに」は餘分に載する荷の稱。「うつ」は荷に付くること。重荷の馬に上荷打つ〔九字傍点〕とは當時の諺であらう。後撰集(賀)にも「重荷にはいとゞ小附を」とある。○おいにてある 年寄つて居る。「に」は去《イ》にの意。○やまひをら この「ら」は強辭。複數の意ではない。卷二十にも「子をら〔傍点〕妻をら〔傍点〕おきてら〔傍点〕も來ぬ」とある。○なげかひ 歎き〔二字傍点〕の延言。○うれひさまよひ 前出(一五四九頁)。○ことことは 他に所見のない語である。(1)悉《コト/”\》は(古説)。(2)異事《コトゴト》は(契沖説)。(3)かくの如くならばの意(中島廣足説)。以上のうち(1)が稍可なりと思ふ。「ことことは死なな」は全く死にたいと釋してよい。○しなな 死ななむ。「きかな」を見よ。(一一頁)。○さばへなす 「騷ぐ」の枕詞。既出(一〇三九頁)。○うつてては 打棄《ウチステ》てはの意。チスの約ツとなる(契沖説)。卷十一に「打棄乞《ウツテコソ》」とある。○しにはしらず 六言の句。死にはならず、死ぬ方角もない、などの意。「しに」は假體言。○みつつ 子どもを〔四字右○〕。古義に、生老病死の憂き事を見つゝの意(1591)としたのは誤。
【歌意】 この生きの限は、平らかで安穩にもあらうものを、無事で惡い事もなくあらうものを、世の中は憂いつらいもので、取分け、諺に傷手《イタデ》には鹽を撒《フ》りかけるといふやうに、重荷の馬に小附けをするといふやうに、年寄つてゐゐ自分の身の上に、病氣をさ加へてゐるから、晝はまあ歎いてくらし、夜はまあ溜息吐いて明かし、年久しく悩んでゐるので、月を累ねて憂へて呻《ウナ》り、全く死にたいと思ふけれど、うるさく立騷ぐ子供達を、打棄てゝは死ぬ方角もなく、それを見てゐると心は愛に燃え立つ。何のかのと思案に暮れて、聲を立てゝのみさ泣かれるわ。
 
〔評〕 「平けく安けく」、「事もなく喪なく」は人間生活の多難が齎す自然的欲求で、又究竟の理想であるから、その實現はとても何時の世でもむづかしい。そこに宗教も生まれ、信仰も生まれ、道徳も生まれる。
 佛者は人間界を苦界と説き、生老病死の四苦を主張した。作者は特に佛教信者であつたから、「世間《ヨノナカ》の憂けくつらけく」の厭世觀をもつのも亦當然の事である。
 作者は老苦に病苦を重ねて、長年月この濁世に喘いだ。堪へかねては時に死を思ふ。そこが人間の弱さだ。といつて屑よく死にもならぬのは、足※[手偏+峠の旁]手※[手偏+峠の旁]の子供故で、進退谷まつては音を擧げて泣くといふ。
 こんな事は世間にザラにある事だが、その當事者としては、自分ばかりが特別に非道の重壓を蒙つてゐるかに感じ、その不幸悲運を強調して、身を歎き世を恨むも亦人情の常である。殊更に高邁達識の醒語を著けぬ處に、凡人としての作者の正直な小心な性格が想望される。
(1592) 尚こゝに註脚を要することは、作者が死を思ふ際に、一言も妻君の上に言及してゐない事である。上の思(ブ)2子等(ヲ)1歌の評中に絮説した如く、その妻君は既に病歿してゐたので、作者ひとり老境に穉兒を抱いて、その慘《ミジ》めな生活を送つてゐた事を知らねばならぬ。
 本篇は多くの人が體驗し、又は體驗すべき悲痛な事相が骨子であるから、その感想と叙述とが常識的皮相的である割に、頗る大衆に共鳴をおこし易い。「痛き瘡には辛鹽をそそぐ」「重き馬荷に上荷打つ」の諺語を取入れた排對も、この卑近な歌柄にふさはしい措辭である。隨つてこの歌は、高渾雅馴な歌調を執する前代の歌聖人麻呂赤人の如き作家の、殆ど夢想だもせぬ範疇のもので、作者憶良が、かの大作家達の後を承けて、別に一旗幟を樹て得た所以もこゝにある。
 修辭の上から見ると、初頭から「年長く病みし渡れば」までは無難だが、「月累ね憂ひさまよひ」の句は、上の「歎ひくらし」「息づきあかし」にさし合ふので面白くない。寧ろこの一句は削つて、「年長く――」の句を單句とするがよい。「見つつあれば心は燃えぬ」の情語は、この篇中の警策である。
 篇法は一意到底で、別に段節を切る必要を認めない。
 
反歌
 
奈具佐牟留《なぐさむる》 心波奈之爾《こころはなしに》 雲隱《くもがくり》 鳴往鳥乃《なきゆくとりの》 禰能尾志奈可由《ねのみしなかゆ》     900
 
〔釋〕 ○こころはなしに 「に」はニテの意。○なきゆくとりの 鳴き往く鳥の如く〔二字右○〕。
(1593)【歌意】 慰む心は更にないので、雲の中に鳴いて往く鳥のやうに、音を立てゝさ泣かれるわ。
 
〔評〕 三四の句は譬喩で、序詞のやうな輕いもめではない。「雲がくり鳴きゆく鳥」、いかにも陰慘な背景を作すものではないか。
 
周弊母奈久《すべもなく》 苦志久阿禮婆《くるしくあれば》 出波之利《いではしり》 伊奈奈等思騰《いななともへど》 許良爾佐夜利奴《こらにさやりぬ》     901
 
〔釋〕 ○いなな 去《イ》なむの意。○さやり 障《サハ》りの古言。
【歌意】 せう事もなく苦しいので、家を驅け出して去なうと思ふけれど、子供に引つ懸かつてね。それも出來ない〔七字右○〕。
 
〔評〕 弱者の安息は逃避より外はない。西行のは理想に活き、子供の縋るのを蹴飛ばしても出家したといふが、わが人間憶良は何處までも子煩悩だから、屑くそんな逃避も出來得ない。八方からの矢柄責に喘いで、徒らに苦悶してゐる。「子らにさやりぬ」、何と慘ましい又温かい愛の叫であらう。
 
水沫奈須《みなわなす》 微命母《もろきいのちも》 栲繩能《たくなはの》 千尋爾母可等《ちひろにもがと》 慕久良志都《ねがひくらしつ》     902
 
〔釋〕 ○みなわなす 水沫の如き。「みなわ」は水《ミヅ》のあ〔二字傍点〕わの省約語。「なす」を見よ(九〇頁)。○もろきいのち 脆(1594)い生命。「徴」をモロキと讀むは意訓。○たくなはの 栲繩の如く〔二字右○〕。千尋《チヒロ》に係る枕詞。「たくなはの」は既出(五八九頁)○ちひろにもが 千尋は長く〔二字傍点〕の轉義。「ち」は多數の義。「ひろ」は尺度の稱。兩手を左右に伸ばした程の長さをいふ。約六尺。「もが」は願望辭。既出(七四七頁)。○ねがひ 「慕」をかく讀むは意訓。
【歌意】 水泡に似たはかない命を、栲繩の長いやうに、長くありたいと希うて、日を送ることよ。子供故にさ〔五字右○〕。
 
〔評〕 「水沫なすもろき命」は、金剛經の十喩に本づき、上の爲(ニ)2熊凝(ノ)1述(ブル)2其志(ヲ)1歌の序中にも、「泡沫之命難v駐」と、この作者は書いてゐる。卷二十の願壽歌の
  水ぼなす假れる身ぞとゝは知れゝどもなほし願ひつ千歳の命を (――4470)
と同想同型であるが、その長壽を願ふ動機に至つては、非常な複雜な感情をこれは包藏してゐる。作者は始から長壽を願つてゐない。寧ろ「死なな」と思つてゐた。只父性愛の強烈さに、自まゝな死の逃避を中止して、その老躯に鞭打つて強く生きようとするので、實に沈痛の聲酸楚の語である。初句三句の修飾語の相對、これも亦一體。
 
倭文手纏《しづたまき》 數母不在《かずにもあらぬ》 身爾波在等《みにはあれど》 千年爾母何等《ちとせにもがと》 意母保由留加母《おもほゆるかも》     903
 
去(ヌル)神龜二年作(ム)v之(ヲ)。但以(テノ)v類(ヲ)故(ニ)更(ニ)載(ス)2於茲(ニ)1。
 
 この一首は神龜二年の作だが、前の「水沫なす云々」の歌意に類してゐるから、茲に並べて載せたとの意。これは憶良の自註である。
 
(1595)〔釋〕○しづたまきかずにもあらぬ 既出(一二九三頁)
【歌意】 私は〔二字右○〕數へるに足らぬ、身ではあるけれど、壽命だけは千年でもありたいと、思はれることよな。
 
〔評〕 老境に臨んだ盛懷である。幼い子供の行末を想へば、是非とも長命をして、その面倒を出來るだけ見て遣らねばならぬ責任がある。長壽を願ふその動機を想ふと、そこに一段の哀愁が漂ふ。但尊貴の御方や何やは勿論、數ならぬわが身でもと、頗る分別に著した抑損の語を發した。生活に大した變調のない時期では、感情が隨つて平靜で、自然理に詰んだ作に墮ちるのは據ない。
 神龜二年には作者の妻君はまだ存命であつたことを記憶したい。
 
天平五年|六月丙申朔三日戊戌《ミナヅキヒノエサルノツキタチミカノヒノツチノエイヌ》作《ヨメリ》。
 
右の老病云々の長短歌は、天平五年の丙申が朔に當るその六月、戊戌の日に當るその三日に詠んだとの意。
 
戀(ふる)2男子《をのこを》1【名(ハ)古日《フルヒ》】歌三首
 
死んだ男の子を戀ひ思ふ歌との意。割註「名古日」は原本に本行に書き下してある。又原本題詞の下に「長一首短二首」との割注がある。無論後人の記入。
 
世人之《よのひとの》 貴慕《たふとみねがふ》 七種之《ななくさの》 寶毛我波《たからもわれは》 何爲《なにせむに》 慕欲世武〔四字左○〕《ねがひほりせむ》 和我(1596)中能《わがなかの》 産禮出有《うまれいでたる》 白玉之《しらたまの》 吾子古日者《わがこふるひは》 明星之《あかぼしの》 開朝者《あくるあしたは》 敷多倍乃《しきたへの》 登許能邊佐良受《とこのへさらず》 立禮杼毛《たてれども》 居禮杼毛登母爾《をれどもともに》 同胞等《はらからと》 遊戲〔五字左○〕禮《あそびたはぶれ》 夕星乃《ゆふづつの》 由布弊爾奈禮婆《ゆふべになれば》 伊射禰余登《いざねよと》 手乎多豆佐波里《てをたづさはり》 父母毛《ちちははも》 表者奈佐利《うへはなさかり》 三枝之《さきぐさの》 中爾乎禰牟登《なかにをねむと》 愛久《うつくしく》 志我可多良倍婆《しがかたらへば》 何時可毛《いつしかも》 比等等奈理伊弖天《ひととなりいでて》 安志家口毛《あしけくも》 與家久母見牟登《よけくもみむと》 大船乃《おほぶねの》 於毛比多能無爾《おもひたのむに》 於毛波奴爾《おもはぬに》 横風乃《よこしまかぜの》 爾母布敷可爾布敷可爾〔十字左△〕《にはかにも》 覆來禮婆《おほひきぬれば》 世武須便乃《せむすべの》 多杼伎乎之良爾《たどきをしらに》 志路多倍乃《しろたへの》 多須吉乎可氣《たすきをかけ》 麻蘇鏡《まそかがみ》 弖爾登利毛知弖《てにとりもちて》 天神《あまつかみ》 阿布藝許比乃美《あふぎこひのみ》 地祇《くにつかみ》 布之弖額拜《ふしてぬかづき》 可加良受毛《かからずも》 可賀利毛吉惠《かかりもよしゑ》 天地乃〔五字左○〕《あめつちの》 神乃末爾(1597)麻仁〔左△〕等《かみのまにまと》 立阿〔左△〕射里《たちあざり》 我例乞能米登《われこひのめど》 須臾毛《しましくも》 余家久波之爾《よけくはなしに》 多知久都〔二字左△〕保里《たちくづほり》 朝朝《あさなあさな》 伊布許登夜美《いふことやみ》 靈剋《たまきはる》 伊乃知多延奴禮《いのちたえぬれ》 立乎杼利《たちをどり》 足須里佐家婢《あしすりさけび》 伏仰《ふしあふぎ》 武禰宇知奈氣苦〔左△〕《むねうちなげく》 手爾持流《てにもたる》 安我古登婆之都《あがことばしつ》 世間之道《よのなかのみち》     904
 
〔釋〕 ○ななくさのたから 佛經に金《コム》、銀《ゴム》、瑠璃《ルリ》、※[石+車]※[石+渠]《シヤコ》、瑠璃《メナウ》、珊瑚、號珀《コハク》を七寶と稱する。○なにせむに の下、一句脱ちてゐる。古義は慕欲世武〔四字左○〕《ネガヒホリセム》と補ひ、考はかなしき妹〔五字右○〕と輔つた。○わがなかの わが夫婦〔二字右○〕中の。不完ながらかう解しておく。この句は下の「吾子《ワガコ》」に係る。新考は「能」を爾〔右△〕の誤としてワガナカニ〔五字傍線〕と訓んだ。これは解し易い。○しらたまの 白玉の如き〔二字右○〕。○あかぼしの 「あくる」に係る枕詞。アカ、アクの同意語の類音を疊んだ。六帖の「明星のあかぬ心に」も同例。古義に、朝《アシタ》の枕詞として説を立てたが煩はしい。金星を夜明には明《アカ》星、夕方には夕づつと稱する。○しきたへの 枕及び床の枕詞。既出(二五五頁)。○ともに の下、「戲禮」の上に句が落ちてゐる。同胞等遊〔四字左○〕《ハラカラトアソビ》タハブレとするか。古義は可伎奈※[泥/土]弖言問〔七字左○〕《カキナデテコトトヒ》タハレ、新考は父母等遊〔四字左○〕《チヽハヽトアソビ》タハブレと續けた。尚適當の語を何とでも補つてよい。○ゆふづつの 夕の枕詞。ユフの語を疊んでいふ。既出(1598)(五一七頁)を參照。○いざねよと 古日の詞。○てをたづさはり 手携ひと同意。「を」は強辭。「たづさはり」は携ひ〔二字傍点〕の延言。○うへはなさかり 側《ソバ》は離れるな。「うへ」はほとり〔三字傍点〕の意。眞淵は「表」を遠〔右△〕の誤としてトホクハナサカリ〔八字傍線〕と訓み、新考は「者」をも衍としてトホクナサカリ〔七字傍線〕と訓んだ。○さきぐさの 中に係る枕詞。「さきぐさ」は三枝草。莖が三叉に出て春花の咲く草。三つあるものは中ある故に中の枕詞となり、又「春さればまづさき草の」(卷十)とも詠まれた。但その物は不明。(1)※[草冠/易]。文字集略(ニ)云(フ)※[草冠/易]草(ハ)枝々相値(ヒテ)葉々相當(ル)也、和名|佐木久佐《サキグサ》(和名抄)とあるが、※[草冠/易]草は未詳。(2)山百合。山百合の古名|佐葦《サヰ》の轉(眞淵説)。これは令義解に、三枝祭、謂(フ)2率川(ノ)社(ノ)祭(ヲ)1、三枝華以(テ)飾(ル)2酒樽(ヲ)1とあつて、率川祭には山百合を用ゐてゐるから諾はわれさうだが、百合は夏季の花で、「春さればまづさき草の」とあるに協はぬ。(3)三又そはな(白井氏説)。この他靈芝、瑞香、蒼朮、三椏木《ミツマタ》、三葉芹、福壽草などの説は遠い。○なかにを 「を」は歎辭。○うつくしく 愛らしく。古義訓ウルハシク〔五字傍線〕は非。○しが 「し」は其れ〔二字傍点〕の意と古義は解した。其奴《ソヤツ》をシヤツといふ例もある。○いつしかも 何時かまあ。「か」の疑辭は「みむ」に係る。「し」は強辭。○ひととなりいでて 人と成り出でて。一人前になるをいふ。○あしけくもよけくもみむ 「あしけく」「よけく」の下、あらむ〔三二字右○〕の語を各補うて聞く。○おほぶねの 頼む〔二字傍点〕の枕詞。既出(五六九頁)。○よこしまかぜ 横樣なる風。契沖訓によつた。○にはかにも 「爾母布敷可爾布敷可爾」は訓み難い。契沖は改めて、爾波可爾母布敷爾《ニハカニモシクシクニ》と訓んだが、宣長が更に布敷爾を削つてニハカニモ〔五字傍線〕と訓んだのに從ふ。○おほひきぬれば 古義訓オホヒキタレバ〔七字傍線〕。○たどきをしらに 「たどき」は手著《タヅキ》の轉。「たづきをしらに」を見よ(四一頁)。○しろたへのたすき 白|栲《タヘ》の襷は即ち木綿《ユフ》襷のこと。神供を扱ふに木綿《ユフ》にて襷する。○たすきをかけ 六言の句。○まそかがみ 既出(六四二・一一九三頁)。○あまつかみ 天に(1599)ます神。○こひのみ 既出(九八三頁)。○くにつかみ 地にます神。○ぬかづき 額衝き。頭を地に著けて禮すること。故に「額拜」の字を充てた。○かからずもかかりも 神の惠に〔四字右○〕かからざらむ〔二字右○〕もかからむ〔二字右○〕もの意。契沖説による。さてこの句の下、落句があらう。古義は吉惠〔二字左○〕《ヨシヱ》、天地乃〔三字左○〕《アメツチノ》と補つた。假にこれに從つておく。「よしゑ」はまゝよ〔三字傍点〕の意。「ゑ」は歎辭。○まにまと 「まにま」はまに/\の意で、祝詞に用例が多い。古義にいふ、原本の「仁」は衍字と。○たちあざり 「あざり」は解し難い。(1)アセル〔三字傍点〕(焦心)と同じ(契沖説)。(2)アザル〔三字傍点〕(靡亂)と同語で、土佐日記に「いと怪しく鹽海のほとりにてアザレあへり」とある(古義説)。思ふに或は「阿」は居〔右△〕の誤で、ヰザリ(膝行)か。さらば立つたり居ざつたりの意。○よけくはなしに よき事はなくて。「に」はニテ〔二字傍点〕の意。○ややややに、稍《ヤヽ》を重ねた副詞。眞淵訓による。古義は稍《ヤヽ》は彌々《ヤヽ》の義だから、それを又重ねていふ理なしと難じて、ヤウ/\ニ〔五字傍線〕と訓んだが、既に成語としての稍《ヤヽ》の語が存在してゐる以上は、それを反復したとて差支ない。又ヤウヤウ〔四字傍線〕はやや〔二字傍点〕を音便で伸べた語で、平安期に初見の語である。舊訓ヤウヤクニ〔五字傍線〕。○かたち 容貌。○くづほり 壞るゝこと。くづをれ〔四字傍点〕と同じい。「久都」原本に都久〔二字右△〕とあるは顛倒。契沖説による。○いふことやみ 六言の句。○たえぬれ 絶えぬれば〔右○〕の意。古格。○あしすり 「すり」清んで讀む。○なげく 「苦」原本に吉〔右△〕とあるが、歎きと中止しては意が徹らない。○てにもたる、舊訓テニモテル〔五字傍線〕。○あがことばしつ 吾が子の白玉を〔三字右○〕飛ばしつの意。上の「白玉のわが古日は」に應ずる。掌中の物を失つた意を弘めて、「飛ばしつ」といつた。新考の解は牽強。○よのなかのみち 前出(一五五〇頁)。
【歌意】 世人の貴んで欲しがる七種の診寶も、私は何の爲に求め望まうぞ。私夫婦間に産まれて來た、白玉のやうな私の子古日は、明けの早朝は床のあたり退かず、立つてゐてもすわつてゐても、一緒に同胞達と遊び戲れ、(1600)夕方になるとさあ寢なされと手を引張つて、父母は側を離れるな、その眞中に私は〔二字右○〕寢ようと、可愛らしくそれがいふので、何時かまあ大人になつて、よかれ惡しかれあらう〔三字右○〕を見ようと、力頼みに思ふに、意外に横しまの風が、俄にも襲うて來るので、どう仕樣にもその手がかりを知らず、白栲の襷を肩に〔二字右○〕掛け、鏡を手に持つて、天の神を仰いで乞ひ祈り、地の祇を伏して禮拜し、神のお惠が〔五字右○〕懸からなからうが懸からうがまゝよ、只天地の神の御心のまゝにお任せ致しますと〔八字右○〕、立つたり居ざつたりして、私が乞ひ祈るけれど、一寸の間もその病状のよい事もなくて、段々に容貌が痩せ衰へて、毎朝いうた詞も止んで命は絶えたので、私は〔二字右○〕跳りあがり足を摺つて叫び、伏し仰いで胸を打つて歎く。あゝ到頭〔四字右○〕、手に持つてゐた私の子の白玉〔三字右○〕を飛ばしなくしたことよ。仕方のないものは人生の逕路さ。
 
〔評〕 七珍萬寶は世人の欲求する處、而もわが子古日のあるに及かず、上に
  白玉も黄金も玉もなにせむに勝れる寶子にしかめやも (憶良――803)
とその著想を同じうする。これこの作者に就いて憶良説のおこる一理由である。
 「明星のあくる朝は」以下、在世の古日の行動を丁寧に追憶し廻想した。朝は床のうちから起ち居して兄弟達と巫山戲《フザケ》まはり、夕は又さあ寢ようと兄弟と手を繋いで、兩親の眞中に自分は寢るのだと頑張つたといふ。頑是ない幼兒の痴態を遺憾なく描寫し盡したものだ。成人してどんな者になるかわからぬが、とまれかくまれ末長く面倒を見て遣らうと、それを又親は樂しみに待つのであつた。
 突然の病氣、横しま風が俄に吹いた。この風を風邪のことゝする説もあるが、さう拘はらぬ方がよいと思ふ。(1601)子供の病氣ぐらゐ親心の途方に暮れるものはない。勿論|醫師《クスシ》はゐるけれど、祈祷は更に醫師以上と一般に考へられてゐた時代だ。即ち自身木綿襷を懸け、手に鏡を執つた。鏡は榮樹《サカキ》に懸けて神體とも仰ぎ、又病魔退散の厭勝の具ともなるのであつた。かくしてあらゆる天神地祇を仰ぎ伏して禮拜し祈願する。ひたすら熱誠を輸して、御利益は一切あなた任せだ。然るに何事ぞ、病は少康さへなしに憔悴脱落、口も利き得ず遂に絶命してしまつた。實に神も何も世にないの餘意が搖曳する。
 敍筆は始めて本題に入り、亡き古日の哀悼に逆上した自分の状態を細かに描き、さてこの作を物する程に漸う落付きの出た即今の心境から、茲に批判の語を下して、「世間の道」と、稍あきらめに近い冷語を以て結收した。それが又却てその悲痛を反撥する。要するに、親子愛を基調とした悼亡の悲曲で、情眞語眞、人をして卒讀に堪へざらしめる。
 この篇惜しい事に本文にまゝ誤脱がある。「わが子飛ばしつ世間の道」の句の如き、奇拔ではあるが稍不完でもある。又既に「仰ぎ乞ひ祈み」「伏して額づき」とあるのに、更に「伏し仰ぎ胸打ち歎く」は、煩冗の感を免れない。
 
反歌
 
和可家禮婆《わかければ》 道行之良士《みちゆきしらじ》 末比波世武《まひはせむ》 之多敞乃使《したへのつかひ》 於比弖登保良世《おひてとほらせ》     905
 
〔釋〕 ○わかければ 「わかし」は古へは幼弱なるをいふ。穉兒を若子《ワクゴ》、若郎子《ワキイラツコ》といふはその證である。(腋子《ワキゴ》の説(1602)は附會)。○みちゆきしらじ 道を行くことを知るまい。「みち」は黄泉《ヨミ》の道。冥途。○まひ 賂《マヒナ》ひ。古へ、禮物を幣《マヒ》と稱する。惡い意味での賄賂ではない。○したへのつかひ 下方の使。冥途の使者といふこと。下方《シタヘ》は冥途をさす。佛説に、地獄餓鬼畜生人間天上の五道の世界に居りて、善惡を照鑑する神とす。菩薩處胎經に見える。冥官。○おひてとほらせ 古日を〔三字右○〕負うて通つて下さい。「とほらせ」は通る〔二字傍点〕の敬相たる通《トホ》らす〔二字傍点〕の命令格。
【歌意】 古日は〔三字右○〕年が往かぬから、冥途を行く方角もあるまい。依つてお禮物を上げませう、冥官樣よ、古日を背負つて連れて往つて下さいよ。
 
〔評〕 古日は背に乘るほどの幼兒であつた。親心はあはれなもので、佛説によつて、末遙なる冥途を子供の一人旅する光景を思像しては、矢も楯もたまらず、その保護を下方の使に依頼した。幽明境を殊にしてゐる以上は、この依頼が果してその使の耳に達するか否か、甚だ覺束ないものだが、そんな理性を一切なくしてゐる處に、一本氣の愛情が躍動する。下方の使を人間使ひにしての「まひはせむ」も面白く、「負ひて通らせ」もこの事態に極めてふさはしい。
 
(1603)布施於吉弖《ふせおきて》 吾波許比能武《われはこひのむ》 阿射無加受《あざむかず》 多太爾率去弖《ただにゐゆきて》 阿麻治思良之米《あまぢしらしめ》     906
 
〔釋〕 ○ふせおきて 布施《フセ》は梵語|檀那《ダーナ》の譯。施をセ〔傍点〕と讀むは呉音。布は普、施は捨又は散で、一切衆生を哀愍する故に、一切のものを普く惠施するをいふ。○あざむかず 欺かず。欺くは(1)出し拔くこと。(2)ダマスこと。こゝは(1)の意。○ただにゐゆきて 直ちに率《ヰ》て往つて。○あまぢ 天上界の路。佛經に修羅、人間、天人の三善道に地獄、餓鬼、畜生の三惡道を合はせて六道といひ、六道に生まるゝ者は何れも輪廻して成佛することがないとある。然し天人界は六道の最上位で、天上に住み歡樂を受けるもの。上の「方の天路は遠し」の天路とは異なる。○しらしめ 「しめ」は使相の命令格。
【歌意】 お布施を捧げて、私は佛樣〔二字右○〕に乞ひ祈ります。佛樣よ〔三字右○〕、子供だからとて馬鹿にせず、すぐに連れて往つて、天上の路を教へて遣つて下さいよ。
 
〔評〕 佛説に、親に先立つ子はその不孝の罪によつて、死後の成佛を得ないといふ。據なく極樂往生は締めて、六道の最上位たる天人果を要望し期待したのは、せめてもの親心の現れである。さてさうとしてからが、頑是ない幼兒が死出の初旅では、全く「道行き知らじ」だから、布施を奉つて、「ただに率ゆきて天路知らしめ」と佛の慈悲に縋り付く。聊か蟲のよい注文も、結局は親心の悲しい愛の叫びである。「あざむかず」は人間的の情緒から出た冷語で、覺者たる佛に對しては失禮極まるが、その際の作者としては、子を思ふ熱愛より外に、(1604)他を顧慮する遑もなかつた。神供には置く〔二字傍点〕といふがつねなので、それに倣つて佛供にも「布施おきて」といつた。布施の漢語而も佛語を躊躇なしに使つてゐるなど、萬葉人は大膽だ。
 前の歌には冥途を管する下方の使に、この歌には十界の最上位者たる佛陀に、死者古日の保護を分擔させてゐる。實に到れり盡せりの行き屆いた情合を見る。
 以上の長短歌三首は、左註によれば作者未詳であるのを、略解古義共に、この卷憶良の家集と見ゆれば、自らの名書かざりしもありしなるをやとて、憶良の作とし、左註は削るべしといつた。甚しい顛倒の論で、元來この卷を憶良の家集とすることからして謬見である。况や假にこの歌を憶良の作とする時は、憶良の妻は神龜五年に死んだのに、この長歌には「父母は表《ウヘ》はなさかり」とあつて、夫妻共に存在してゐる趣だから、そこに矛盾がある。或は憶良が後妻を迎へてゐたかの疑もあるが、契沖は神龜五年に六十九歳(異論がある)の憶良が後妻を迎へらるべうもなしといつてゐる。何處までも左註を信じて、詠者未詳と見るが穩かである。
 
右一首、作者未詳。但以(テスレバ)2裁歌之體(ヲ)1、似(タリ)2於山上之操(ニ)1載(ス)2此|次《ツイデニ》1焉。
 
 右は作者不明の歌である。但詠歌の體裁からすると、山上憶良の歌詞に似てゐる、よつて憶良の歌どもの次に書き添へたとの。○操 風調の義。
 この左註は上の長短歌三首をこゝに附載した所以を記したもので、何人の追記か。前人は家持の所爲とした。或はさうかも知れぬ、又そうでないかも知れぬ。斷言は早計である。
 
  2006年7月10日(月)午後1時25分、卷五入力終了、2008.9.4(木)巻五校正終了
 
 
(1611) 萬葉集卷六
 
この卷はまづ養老七年夏から神龜年中、次に天平十六年頃までの諸作が收載されてある。
 
雜歌《くさぐさのうた》
 
養老七年|癸亥《みづのとゐ》夏|五月《さつき》、幸《せる》2于|芳野離宮《よしぬのとつみやに》1時、笠(の)朝臣金村(が)作(める)歌一首并短歌
 
幸于吉野離宮 續紀に、元正天皇養老七年夏五月|癸酉《ミヅノトトリ》九日)、行2幸《イデマス》芳野(ノ)宮(ニ)1、丁丑《ニヒノトウシ》(十三日)車駕還(ラス)v宮(ニ)とある時のこと。「芳野離宮」のことは、「吉野官」(一四四頁)、人麻呂の幸2吉野宮1之時歌の第二の長歌の評語(一五六頁)、及「吉野宮址考」(雜考7)を參照。○金村 傳既出(八四二頁)。△地圖及寫眞 挿圖35(一一〇頁)40(一二三頁)47(一四五頁)49(一四七頁)50(一五一頁)を參照。
 
瀧上之《たぎのへの》 御舟乃山爾《みふねのやまに》 水枝指《みづえさし》 四時爾生有《しじにおひたる》 刀我乃樹能《つがのきの》 彌繼嗣爾《いやつぎつぎに》 萬代《よろづよに》 如是二二知三《かくししらさむ》 三芳野之《みよしぬの》 蜻蛉乃宮者《あきつのみやは》 神柄香《かみからか》 貴將有《たふとかるらむ》 (1612)國柄鹿《くにからか》 見欲將有《みがほしからむ》 山川乎《やまかはを》 清清《きよみさやけみ》 常宮等《とこみやと》 諾之神代從《うべしかみよゆ》 定家良思母《さだめけらしも》     907
 
〔釋〕 ○たぎのへのみふねのやま 既出(六四八頁)。○みづえ 瑞枝《ミヅエ》。うるはしい樹枝をいふ。「みづ」は美稱。「水」は借字。○しじに 既出(七八六頁)。「四時」は借字。○つがのきの 「繼ぎ」の枕詞。既出(一二三頁)。「瀧のへの」よりこの句までは序詞。「刀」にツの音がないが、漢音タウ呉音トウだから、ツに轉用した。正辭はいふ、呉の轉音なるべし、同轉の毛をム、抱をフと呼べる例ありと。略解に都《ツ》の旁の落ちたるを刀と書き誤れるかとあるが、寫字の心理上、都の字を書くに、者を落して※[おおざと]のみを書くことは諾ひ難い。舊訓トガノキ〔四字傍線〕。○かくししらさむ 「かく」は現在の事實をさしていふ。「し」は強辭。「二二」は算數的戲書。「三」は次句の頭の「三」と重ねて「二二」に對した「三三」の戲書。〇みよしぬ 既出(一一〇頁)。○あきつのみや 蜻蛉野《アキツヌ》の離宮。「あきつのぬべ」を見よ(一四六頁)。○かみからか――くにからか 「くにからか」を見よ(五九六頁)。○みがほし 既出(七八六頁)。○やまかはを ヤマカハと清む。「を」は歎辭。○きよみさやけみ 清さに亮《サヤ》けさに。「清清」を濱臣が※[山+青]〔右△〕清の誤としてフカミサヤケミ〔七字傍線〕と訓み、古義が淳〔右△〕清の誤としてアツミサヤケミ〔七字傍線〕と訓んだのは何れも非。※[山+青]は僻字に過ぎ、淳は卷十八に「山河を廣み安都美《アツミ》と」の例もあるが、アツミは天下の廣大なる趣を表した語で、こゝに必要とする景勝を讃する語ではない。○とこみやと 常置の宮として〔二字右○〕。この句原本には缺けてゐる。古義に大宮等〔三字右△〕を本文に立てたが、今はその一考たる常宮等〔三字右○〕の方を本文に立てた。尚「とこみ(1613)や」は下の「とこみやと」を見よ(一六二七頁)。○うべし 「うべ」は既出(七五二頁)。「し」は強辭。
 
【歌意】瀧の上方の御船の山に、瑞々しい枝を刺して、繁く生えてゐる栂《ツガ》の樹の名のやうに、彌よ繼ぎ/\に打續いて、萬代までに御門樣が〔四字右○〕、かうさお占めなさるであらうこの芳野の蜻蛉の宮は、こゝの神故に貴いのであらうか、こゝの國故に見たくあるのであらうか。こんなに山も川もまあ清く亮かさに、道理でさ常置の離宮を〔六字右○〕遠い神代から、此處に〔三字右○〕定められたのであるらしいわい。
 
〔評〕 「瀧の上の」から「刀我の樹の」までの五句は序詞で、この樣式は赤人の登2神岳1歌、
  三諸《ミモロ》の神南備《カムナヒ》山に、五百枝《イホエ》さし繁《シヾ》に生ひたる、栂《ツガ》の樹のいや繼ぎ/\に、云々。(卷一、――372)
と全く同じだ。赤人の歌は、神龜元年の聖武天皇芳野行事(ノ)御時の歌、の數首後に擧げてあるから、まづその頃の作と思はれる。これは元正天皇の御代の作だから、無論先出である。
 蜻蛉離宮の前面に百千の銀龍を跳らす瀧つ瀬と、行雲の去來する御船の山とは、この離宮の景勝を代表する大事な山川で、「瀧の上の御船の山」といふ所以もこゝにある。さあて栂の樹だ。いゝ具合に神名備山にも御船の山にもあつたものと思ふが、或は序詞を構成する爲の文飾かも知れない。詞人は時に無から有を生ぜしめる幻手段を弄する。「いや繼ぎ繼ぎに萬代にかくし知らさむ」は、離宮が永久に行幸の光榮に浴するであらう事を、眼前の事態から立證した讃辭である。
 「神からか――國からか――」は人麻呂も既に用ゐた套語ではあるものの、山川の景勝に對する時、萬葉人はかく神と自然との威力を痛感せざるを得ないのであつた。そして、「貴し」と仰ぎ、「見がほし」と慕ふのが(1614)常であつた。
 この兩行の對句から胚胎して、いひ換へればそれを結收して、「山川を清みさやけみ」と轉換し、遠く冒頭の「瀧の上の御船の山」に呼應して、以てこの離宮の存在に價値づけた。茲に至つて「うべし神代ゆ定めけらしも」の浮誇に近い言辭も、感情の昂揚に煽られて、眞實性をもつて受け取られる結果を將ち來した。實をいへば、芳野離宮は應神天皇朝にその端を發したもので、神代からあつた事は史に所見がない。神代を上《カミ》代の意に解して、この矛盾を彌縫してもよいが、歌なり詩なり藝術なりには、時に虚實の間をゆく變化があるから、一概には律せられない。
 この篇初頭より「見がほしからむ」までが第一段、以下が第二段で構成されてゐる。比較すると第一段の分量が多きに過ぎて、平衡が取れないやうだが、それは長い序詞を冠した爲である事を思へば、さのみ苦にならない。反面から見れば、一意到底の敍法が結末に一寸した變化を見せたともいへる。だが赤人の登2神岳1の作に比すると、數籌を輸する。概して着想が凡常で、敍事も新味が乏しい。
 吉野離宮の題詠は人麻呂の長短歌數首(卷一所載)がその先鞭を着けてから、萬葉歌人は各心血を傾注して雄を爭ひ巧を競ひ、互にその力作を發表したが、遂に歌聖の作の右に出づるはさておき、その壘を摩することさへ出來ず、徒らにその範疇の間に東西するに過ぎなかつた。これ詩仙李白が黄鶴樓に崔頴の題詩の上頭にあるを見て、去つて金陵の鳳凰臺に題した所以である。
 
反歌
 
(1615)毎年《としのはに》 如是裳見牡鹿《かくもみてしか》 三吉野乃《みよしぬの》 清河内之《きよきかふちの》 多藝津白波《たぎつしらなみ》     908
 
〔釋〕 ○みてしが 「しが」は願望辭。「牡鹿」の借字は戲意あるか。○かふち 既出(一四五頁)。○たぎつ 「たぎつかふち」を見よ(五三頁)。△寫眞 挿圖 50(一五一頁)を參照。
【歌意】 毎年このやうにまあ見たいがなあ、この芳野の美しい川曲《カハクマ》の、瀧の白波をさ。
 
〔評〕 「清き河内の瀧つ白波」は芳野離宮の全生命であつて、さればこそ人麻呂は「瀧の都」(卷一)と呼び懸けた。瀧は即ち宮瀧で、約數町に亘る河床の岩石に河水の激突して雪を噴く光景は、實に語言に絶した佳勝であつたらう。今はその岩盤が高く露出して河床でなくなり、水量は減少して別に平瀬を作つて流れてゐる。滄桑の變、古への風光は求むべくもないが、寛平御記(扶桑略記所載)の文と現在の地形とを湊合すれば、ほゞ萬葉時代の瀧つ河内の景象を思ひ浮べることが出來る。
 芳野行幸は持統天皇時代には頗る頻繁であつたが、元正天皇時代には漸くたまさかになつた。さてはこの瀧つ白波に對して、「年のはにかくも見てしか」と、年々の行樂を供奉者が希望するのも偶然でなくなる。尤もこの希望は單なる行人の所感としても聞えるが、題詞の言を重んじて、行幸時の感想として考へるのか至當ではあるまいか。
 この下句は萬葉時代には珍しい綺麗な造語で、かうした體製は平安人の渇仰したものだ。集中の類句としては、僅に「三吉野の瀧の白波」(卷三)の一例を見るに過ぎない。
 
(1616)山高三《やまたかみ》 白木綿花《しらゆふばなに》 落多藝追《おちたぎつ》 瀧之河内者《たぎのかふちは》 雖見不飽香聞《みれどあかぬかも》     909
 
〔釋〕 ○しらゆふばなに 白い木綿《ユフ》花の如く〔三字右○〕に。「ゆふはな」は既出(五三八頁)。なほ「栲の穗に」を見よ(二七四頁)。
【歌意】 山が高くて、恰も白木綿花のやうに、眞白に落ちたぎる、激流の川曲は、見ても/\飽かぬことよなあ。
 
〔評〕 瀧は瀑布でないから、「山高み」は急角度の傾斜を表現したもので、懸崖の意ではない。吉野川は矢治《ヤヂ》、菜摘、蜻蛉《アキツ》のあたり、河中に亂石が散在して激瑞を成し、その好風景は婁ば古代詩人の舌端に上つてゐる。
  山高み白木綿花に落ちたぎつ夏身《ナツミ》の河|門《ト》見れど飽かぬかも (卷九、式部大倭――1736)
は、四句が普通名詞と固有の地名と相違してあるだけである。その語調聲調を按ずると、「瀧の河内は」は穩雅に、「夏身の河門」は剛健に聞える。音數の排敍如何にもよるが、「は」の辭の有無が殊にこの關鍵を握つてゐる。「白木綿花に」の譬喩は、打聞くから皎潔鮮白の感じが與へられ、激湍雪を噴く光景が如實に看取される。
 但これは萬葉人の慣用語で、
  はつ瀬川白木綿花におちたぎつ瀬をさやけみと見に來しわれを(卷六――1107)
の他、なほ盛に疊見する。
 「見れど飽かぬ」は物の面白さを表現する套語で、端を人麻呂の吉野離宮の作に發した如くであるが、人麻呂とてもその創語者ではあるまい。集中餘にその使用が多い。必ずや當時の平語であらう。この歌の如き、四(1617)句までは、いかにも雄渾なる風姿と瑰麗なる詞藻とで只《ヒタ》押しに押して來たのに、惜しい事に結句で頓挫して、理路に流れ、卒易に墮してしまつた。
 更にいふ、この歌の作者金村と、卷九の歌の作者式部|大倭《ヤマト》とは同時代と思はれる。さては何れが先出か。
 
或本(ノ)反歌(ニ)曰(フ)。
 
神柄加《かみからか》 見欲賀藍《みがほしからむ》 三吉野乃《みよしぬの》 瀧河内者《たぎのかふちは》 雖見不飽鴨《みれどあかぬかも》     910
 
〔釋〕 ○たぎの タギツ〔三字傍線〕とも訓まれるが、類聚抄にも瀧之〔右△〕とある。
【歌意】 こゝの神故でかうも見たいのであらうか。この吉野の瀧の河内は、見ても/\見飽かぬことよ。
 
〔評〕 初二句は長歌中の語を拉し來つたものだが、二句の「見がほし」と、結句の「見れど」とがさし合つて、不快である。但集中に例は山ほどある。
 
三吉野之《みよしぬの》 秋津乃川之《あきつのかはの》 萬世爾《よろづよに》 斷事無《たゆることなく》 又還將見《またかへりみむ》     911
 
〔釋〕 ○あきつのかは 蜻蛉の川。秋津の川。吉野川が蜻蛉野を通過する時の稱。今も宮瀧の水の平淺に委した邊に、アキドの稱が殘つてゐる。アキツの訛であることは疑ふ餘地もない。又その南岸の小平地を御園と稱(1618)する。靈異記に、吉野郡桃花(ノ)里――同處(ニ)有v河、名(ヲ)曰(フ)2秋河(ト)1とある。桃花(ノ)里を御園に充てれば、秋河は即ち秋津川に當る。秋河は秋津〔右△〕河の落字であらう。○あきつのかはの 初句よりこゝまでは序詞。
【歌意】 吉野のこの秋津川のやうに、萬年も絶えることなしに、何遍となく來て見ようわい。
 
〔評〕 直接には吉野川の景勝の讃美、間接には吉野離宮の禮讃である。下句が套語なので、多少でも新味を欲して、秋津川の稱呼を點綴したのは作者の機轉である。こゝは激流宮瀧の景致とは反對に、水淺く沙濶く、左右の山がなだれて、水を挾んで相接した川曲である。
 この下句に就いては、
  見れど飽かぬ吉野の川の常滑《トコナメ》の絶ゆることなく又かへりみむ (卷一、人麻呂――37)
の評語(一五一頁)を參照。
 
(1619)泊瀬女《はつせめが》 造木綿花《つくるゆふばな》 三吉野《みよしぬの》 瀧乃水沫《たぎのみなわに》 開來受屋《さきにけらずや》     912
 
〔釋〕 ○はつせめ 初瀬に住む女の稱。河内|女《メ》、難波|男《ヲトコ》などの同例。「はつせ」を見よ(八頁)。○はつせめがつくるゆふばな 古へ初瀬女が專ら木綿花を作つたのでいふ。この句の下にが〔右○〕の辭を含んでゐる。○みなわに 水沫と。この「に」はノ如クの意ではない。トナツテ、トシテなどの意。○さきにけらずや 「けら」は過去詠歎の助動詞けり〔二字傍点〕の第一變化。「や」は反動辭。
 
【歌意】 初瀬女が作る木綿花が、不思議にも〔六字右○〕、この吉野の瀧の、飛沫となつて、咲いたことではないかい。
〔評〕 色相の聯憩から初瀬女の木綿花を拉へて、吉野の瀧の水沫に配合するに至つて一段の姿致が横生する。抑も木綿花が水沫に咲くことが既に不思議であり、その木綿花が初瀬女のであり、水沫が吉野の瀧のである事によつて、地理的に愈よ不思議である。かく取混ぜた不思議の念を強く表現し、讀者の注意を緊と引付けて脇目も振らせぬのは手際である。
 開きにけるかも〔七字傍点〕と平叙の詠歎で終る處を、殊更に曲折を求めて、「開きにけらずや」と反語の辭樣を用ゐたことは、上句の力強い調子に對應させる爲の手段でもあり、詠歎を強く永くする所以でもある。
 古義に瀧を吉野の西河の大瀧に充てたのは拘はつてゐる。又小川村の丹生川の瀑でもない。吉野川の激湍なら何處でもよい。が強ひていへば矢張宮瀧の瀬であらう。尚委しくは吉野離宮址考(雜考――7)を參照されたい。
 
(1620)車持《くらもちの》朝臣|千〔左△〕年《ちとせが》作歌一首并短歌
 
○車持朝臣千年 傳未詳。車持は氏。車《クルマ》は加行四段活の繰ル〔二字傍点〕輪《ワ》の轉。故にクラの略訓が生ずる 「千」原本に 于〔右△〕とある。元暦本その他に從つた。
 
味凍《うまごり》 綾丹乏敷《あやにともしき》 鳴神乃《なるかみの》 音耳聞師《おとのみききし》 三芳野之《みよしぬの》 眞木立山湯《まきたつやまゆ》 見降者《みくだせば》 川之瀬毎《かはのせごとに》 開來者《あけくれば》 朝霧立《あさぎりたち》 夕去者《ゆふされば》 川津鳴奈辨詳〔左△〕《かはづなくなべ》 紐不解《ひもとかぬ》 客爾之有者《たびにしあれば》 吾耳爲而《わのみして》 清川原乎《きよきかはらを》 見良久之惜〔左△〕蒙《みらくしをしも》     913
 
〔釋〕 ○うまごり 「あや」の枕詞。既出(四五五頁)。四言の句。童本訓ウマゴリノ〔五字傍線〕は非。○あやにともしき 奇《アヤ》しいまでに結構な。「ともしき」は既出(七二四頁)。この句「みよしぬ」に係る。舊訓アヤニトモシク〔七字傍線〕。○なるかみの 音に係る枕詞。「なるかみ」は雷。嚴槌《イカヅチ》のこと。○おとのみききし 音に聞くは噂に聞くの意。名詞に音聞《オトギキ》といふ。卷七に「動神《ナルカミ》の音のみ聞きし卷向の檜原の山を」とある。○まきたつ 既出(一七七頁)。○みくだせば 見おろすと。遊仙窟に「直下《ミオロセバ》則(チ)有(リ)2碧潭(ノ)千仞(ナル)1」とある。契沖初訓ミオロセバ〔五字傍線〕。○あけくれば 夜が〔二字右○〕。○ゆふされば 「ゆふさりくれば」を見よ(一七八頁)。○かはづ 既出(七八七頁)。○なくなべ 鳴くにつ(1621)け。「詳」は衍字、元暦校本その他にない。「辨」を眞淵は理〔右△〕の、古義は利〔右△〕の誤として、ナクトリ〔四字傍線〕と句を切つたが、切らずに末節にいひ續ける體もあるから、文字を改易する説には從ひ難い。○ひもとかぬ 衣の〔二字右○〕紐も解かぬ旅と續く。家にあれば衣の紐を解いて打解けもするが、旅ではその餘裕がないのでいふ。卷九、檢税使大件(ノ)卿(ガ)登(レル)2筑波山(ニ)1時(ノ)歌に「うれしみと紐の緒解きて、家のごと解けてぞ遊ぶ」とある。○みらくし 「みらく」は見る〔二字傍点〕の延言で、見ることが〔五字右○〕の意。「し」は強辭。○をしも 「惜」原本に情〔右△〕とあるは誤。
【歌意】 奇しい程に結構な、そして噂にばかり聞いて居たことであつた、この吉野の眞木の茂つてゐる山から、いま〔二字右○〕見|瞰《オロ》すと川の瀬毎に、夜が明けてくると朝霧が立ち、夕方になると蛙が鳴くにつけ、何にせよ、衣の紐さへ解かぬ旅中でさあるので、自分ばかりで以て、この奇麗な吉野の河原を見ることがさ、勿體ないことわい。思ふ人にも見せたいなあ〔十一字右○〕。
 
〔評〕 「三芳野の眞木立つ山」は吉野の何處か。反歌に「三船の山」が出てゐるから、やはり蜻蛉離宮附近の山として置かう。朝霧が立ち、蛙が鳴く、これらの景物はお約束のやうだが、吉野の行遊は大抵夏秋の季間が主だから據あるまい。况や作者は始めての吉野行だ。凡常の景物も尚感興を惹くに十分であつたらう。
 一寸赤人の登(ル)2神岳(ニ)1歌(卷三)の風調に似た處がある。吉野の詠としては、今少し輪郭の大きな描寫が欲しいが、景に依つて情を起し、つぶさに家人に寄懷したその兼愛の情味は、誠になつかしいものがある。この點他の吉野遊覽の諸作に發見し難い特徴と認められる。
 「蛙鳴くなべ」の句、は實に鳴くなり〔四字傍点〕と切つて、段節を劃然とさせたい處である。然しこの時代には一意到底(1622)の敍出が漸く多くなり、段節に就いての觀念が薄らいで來たやうである。下の赤人の玉津島の作の如きも、これと同軌である。
 
反歌一首
 
瀧上乃《たぎのへの》 三船之山者《みふねのやまは》 雖畏《かしこけど》 思忘《おもひわするる》 時毛日毛無《ときもひもなし》     914
 
〔釋〕 ○かしこけど 畏《カシコ》けれども。遠けども〔四字傍点〕と同語法。「とほけども」を見よ(九〇二頁)。宣長の「畏」は見〔右△〕の誤にてミツレドモ〔五字傍線〕なるべしとの考は無用。
【歌意】 瀧の上の三船の山は畏いけれど、私の心に思ひ忘れる、時とても日とてもないわ。
 
〔評〕 三船の山には白雲の下りゐることが集中に歌はれてもあるが、僅かの小山だから、「畏けど」は誇張に過ぎはしまいか。又離宮當面の山たるが故に、聯想的に畏いといはれぬこともないが、「思ひ忘るる時も日もなし」は、この山に對する感想としてはふさはしくない。必ず假托の言である。
 想ふに作者は或貴女に戀して居たのであらう。吉野客中の無聊は、愈よ奈良京裏の人戀しさに拍車を懸け、乃ちその人を當面の三船の山に準擬し、畏い事だが思ひ忘れる時とてはないと呻吟したものであらう。長歌の「吾のみして見らくし惜しも」も、さてこそ大いに有意味の切實感をもつ。
 「時も日も」の漸層は珍しい事ではいが、この場合いひ得てよい。
 
(1623)或本(ノ)歌
 
原本には或本反歌曰〔三字右△〕とある。又この題詞の無い本もある。次の二首の意を案ずるに反歌ではないらしい。左註にも只類を以て茲に連載したとある。よつて改めた。
 
千鳥鳴《ちどりなく》 三吉野川之《みよしぬがはの》 川〔左○〕音成《かはとなす》 止時梨二《やむときなしに》 所思公《おもほゆるきみ》     915
 
〔釋〕 ○ちどり 既出(六八七頁)。○みよしぬがはの 卷七にも「馬なめて三芳野河《ミヨシヌガハ》を見まく欲り」とある。○かはとなす 川音のやうに。「川」原本にない。活字本に依つて補つた。
【歌意】 千鳥が鳴く、吉野川の川音のやうに、止み間なしに、戀しく思はれる君樣よ。
 
〔評〕 客中人を憶ふは前首と同じい。主格の「公」を最後に据ゑて、層々積み上げた樣式も面白く、素直に暢びやかな作である。只「川音なす」は既に聽覺を主とした譬喩であるのに、初句の「千鳥鳴く」が又聽覺の語である事が不快である。それは單に吉野川の修飾に過ぎない、輕いあしらひの語であるにせよ、この重複は主感の統一を妨げ、混線の嫌を招く。但千鳥鳴く〔四字傍点〕佐保川、蛙鳴く〔三字傍点〕井手の儔、一首のうちに多少のさし合ひはあつても、古人はあながち拘泥しなかつた。
 古義に「面白き勝地の景色を本郷人に見せたくて」とあるは、上の反歌として強ひて曲解したもので蛇足。
 
(1624)茜刺《あかねさす》 日不並二《ひならべなくに》 吾戀《わがこひは》 吉野之河乃《よしぬのかはの》 霧丹立乍《きりにたちつつ》     916
 
〔釋〕 ○あかねさす 日の枕詞。既出(九二頁)。○ひならべなくに 日數を並べぬのに。日數經ぬをいふ。○わがこひは 「吾」の代名詞は大體において、上代はア、の獨行、奈良時代はア、ワ並行、平安時代以後はワの獨行で、三期にわかれてゐる。古義に集中の「吾」(我)を一律にアとのみ訓んだのは非。○きりにたち 霧と立ちの意。この「に」は上の「みなわに」のに〔傍点〕と同意。
【歌意】 別れて後〔四字右○〕、さう日數を重ねもせぬのに、私の戀の息吐《イキヅキ》は、この吉野の川の霧となつて、立ち/\するわ。
 
〔評〕 客中の感懷だが、別離の意はその實境に托されて、歌には言及してない。依つてその意を補足して聞かなければならぬ。
 「わが戀は――霧に立ちつつ」も簡略過ぎた表現である。委しくは戀の歎き(長息)が霧に立つとあるべきだが、歎きの霧〔四字傍点〕は古來からの套語となつてゐる以上、當時はこれで明かにその意が通じたものらしい。なほ卷五、「大野《オホヌ》山霧立ち渡る」の評語(一四一四頁)を參照されたい。
 
右年月不v審(カナラ)。但以(テ)2歌(ノ)類(ヲ)1載(ス)2於此|次《ツイデニ》1焉。ある本(ニ)云(フ)、養老七年五月幸(セル)2于芳野離宮(ニ)1之時(ニ)作(メリト)。
 
 右二首の歌はその製作年月が分明しない。但上の車持朝臣の長短歌の類だから、この次に載せたとの意。上の註語は右二首が反歌でないことを主張したもの。「或本云――」はその意が不完であるが、これは車持朝臣の(1625)長短歌及び或本歌を、上の笠金村の作と同じく、養老七年五月の吉野行幸時の作と見たものであらう。
 
神龜元年甲子冬十月五日、幸2于紀伊國1時、山部宿禰赤人作歌一首并短歌
 
○十月五日 は聖武天皇が紀州行幸のため、奈良京御發輦の日である。○幸于紀伊國 續紀に、神龜元年冬十月辛卯(五日)天皇幸(ス)2紀伊(ノ)國(ニ)1。癸巳(七日)行(イテ)至(リマス)2紀伊(ノ)國|那賀《ナカノ》郡玉垣|勾《マガリノ》頓宮(ニ)1。甲午(八日)至(リマシ)2海部《アマノ》郡玉津島(ノ)頓宮(ニ)1、留(ルコト)十有餘日。戊戌(十二日)造(ラシム)2離宮(ヲ)於岡(ノ)東(ニ)1、是日從(ヘル)v駕(ニ)百寮、六位已下至(ルマデ)2于使部(ニ)1、賜(フコト)v禄(ヲ)各有(リ)v差(シナ)。壬寅(十六日)云々。又詔(シテ)曰(ク)、登(リ)v山(ニ)望(ムニ)v海(ヲ)此間最(モ)好(シ)、不v勞(セ)2遠行(ヲ)1足(レリ)2以(テ)遊覽(スルニ)1、故改(メ)2弱《ワカノ》濱(ヲ)1名(ケテ)爲(セ)2明光《アカノ》浦(ト)1。宜(シ)d置(キ)2守戸《モリベヲ》1勿(シム)uv令(ムルコト)2荒(レ)穢(レ)1。春秋二時差2遣(ハシ)官人(ヲ)1、奠2祭《マツル》玉津島之神、明光浦之靈(ヲ)1。己酉(廿三日)奉駕至(リマス)v自(リ)2紀伊(ノ)國1。
 
安見知之《やすみしし》 和期大王之《わごおほきみ》 常宮等《とこみやと》 仕奉流《つかへまつれる》 左比鹿野由《さひがぬゆ》 背上爾所見《そかひにみゆる》 奥島《おきつしま》 清波瀲爾《きよきなぎさに》 風吹者《かぜふけば》 白波左和伎《しらなみさわぎ》 潮干者《しほひれば》 玉藻苅管《たまもかりつつ》 神代從《かみよより》 然曾尊吉《しかぞたふとき》 玉津島夜麻《たまづしまやま》     917
 
〔釋〕 ○やすみしし 既出(三〇頁)。○わごおほきみ 既出(二〇五頁)。○とこみやと 「とこみや」は常置の宮、又は常置さるベき宮をいふ。「常宮」を宜長の「トツミヤ〔四字傍線〕(外つ宮)と訓むべし、常は借字なり」との説が出てか(1626)らは、註家は絶對盲從してゐるが、如何にしても無理な訓である。卷二に「木の※[瓦+缶]《ヘ》の宮を常宮《トコミヤ》と定め給ひて」とあるのも、常住の宮の意である。尚評語を參照。○つかへまつれる 直ちに「左比鹿野」に續く。玉津島(ノ)離宮は左比鹿野(雜賀野)にあつた。○さひがぬ 紀伊(ノ)國|海部《アマ》郡|雜賀《サヒガ》野。(今海草郡)。雜賀山(突端は雜賀崎)下の今の和歌浦町より東南方へかけた野。○そかひ 既出(八三四頁)。○なぎさ 既出(八六六頁)。○しかぞたふとき かうも尊い。○たまづしまやま 玉津島といふに同じい。島中更に隆起ある島を島山といふ。○たまづしま 玉津島。後記及び紀略には玉出島と(1627)ある。津をヅと濁る證である。和歌の浦の入江にある小嶼で、後世|妹※[女+夫]山といつた。古へこゝに玉津島の神社があつた。今伽羅山の東麓にある玉津島明神は江戸時代の再興で、新玉津島と稱する。
【歌意】 わが天子樣の離宮としてお仕してゐる、雜賀野からそちらに見える、あの沖の島、その奇麗な波打際に、風が吹くと白波が立ち騷ぎ、潮が干ると玉藻を海人が〔三字右○〕刈り/\して、神代からさうも尊いわさ、あの玉津島山は。
 
〔評〕 聖武天皇はその神龜元年十月八日に弱《ワカ》(和歌)の浦玉津島に御到着、風光頗る叡慮に協ひ、十二日に至つて離宮造營の勅命が下つた。が實際は八日から十餘日間、黒木の柱に尾花刈り葺きの頓宮《カリミヤ》に御逗留あらせられたのであつた。後にその離宮が竣功してから守部を置かれた。
 「大君の常宮」は事實に於いては外つ宮即ち離宮の事であるが、語意は頓宮行宮の假宮に對しての永住の宮の義である。さればこの歌は離宮造營の事が發表になつた十二日以後の作であらう。
(1628) 抑も弱《ワカ》の浦は、雜賀野の北を局つて西走する雜賀山の岬端雜賀崎から、南方名草山の突端紀三井寺の崖下に至るまでの港灣の總稱で、今は北灣を新和歌(ノ)浦と稱してゐる。
 玉津島の頓宮(のちは離宮)は何處に置かれたか。玉津島は「雜賀野ゆそがひに見ゆる奥の島」とあるによれば海中の島嶼だつた。そして潮がさすと渚に白波が立ち、潮が引けば海人が玉藻を刈るやうな場所だとすると、雜賀(和歌)川河畔の後世妹※[女+夫]島と稱した小嶼がこれに當る。然し分内が甚だ狹いうへに離れ島だから、頓宮を置かうにも離宮を置かうにも間に合はない。
 茲に至つて雜賀野の一端妙見山附近に、當時の御座所を考へすばなるまい。離宮を造られた岡(ノ)東は即ち妙見山の東麓を斥すものらしい。この時の詔に、
  登(リ)v山(ニ)望(ムニ)v海(ヲ)此(ノ)間最(モ)好(シ)、不(シテ)v勞(セ)2遠行(ヲ)l足(レリ)2以遊覽(スルニ)1、故《カレ》改(メテ)2弱《ワカノ》濱(ヲ)1爲(ス)2明光《アカノ》浦(ト)1。(續紀卷九)
と見え、登臨眺望の便宜があつたこともその證である。稱徳天皇の天平神護元年十月の行幸に、
  御(シ)2南濱(ノ)望海樓(ニ)1、奏(ヅ)2雅樂及(ビ)雜技(ヲ)1。權(リニ)置(キ)2市※[纏の旁+おおざと]《イチグラヲ》、令(ム)d陪從及(ビ)當國(ノ)百姓等(ヲシテ)任(ニ)爲(サ)c交關(ヲ)u。(續紀卷廿六)
とある南濱は妙見山の南濱で、前面の玉津島を隔てゝ、近く紀三井《キミヰ》寺の名草山、遠く藤代山に沿うた和歌黒牛の海濱を望み、遙に大崎と相呼ぶ形勝の地である。况や周圍は流下する土砂と、海風の吹き上げる堆砂とで潟地洳沮地を出現し、そこに鶴などの遊息に適する薦荻の叢生を見るのであつた。西方は明け放しの大海であるが、餘り風の荒れない冬十月(舊暦)頃は、實に暢んびりした明媚な風光なので、桓武天皇の延暦廿三年冬十月の行幸の詔にも、
  此月(ハ)波|閑《シヅカナル》時|爾之弖《ニシテ》、國風御覽須《クニブリミソナハス》時|止奈毛常母聞所行須《トナモツネモキコシメス》、今|御坐所乎御覽爾《オマシドコロヲミソナハスニ》、礒島毛奇麗久《イソシマモウルハシク》、海瀲毛清晏之弖《ナギサモサタカニシテ》、御意(1629)母於多比爾御座《ミコヽロモオダヒニオハシマス》云々。(後紀卷十二)
と仰せられ、御船遊があつた程だ。この時以後、史に行幸の所見がない。
 この歌は雜賀野の頓宮邊から玉津島を眺望してのスケツチである。始に作者自身の立場を説明し、次に玉津島の海潮の干滿時の風景を自然と人事とに分つて對敍し、次に玉津島の禮讃に及んで筆を擱いた。この一結は冒頭の天皇をかけて歌ひ出した崇高莊重な意調と對應して均衡が保たれる。「しかぞ貴き玉津島山」、山岳の勝を讃へるに貴し〔二字傍点〕の語を以てすることは、萬葉人の感情から出た、否山嶽崇拜時代からの套語である。
反歌
 
奥島《をきつしま》 荒礒之玉藻《ありそのたまも》 潮〔左△〕干二滿《しほみちて》 伊隱去者《いかくろひなば》 所念武香聞《おもほえむかも》     918
 
〔釋〕 ○しほみちて 「潮干滿」は干〔右△〕を衍字としてかく訓む。但シホヒミチ〔五字傍線〕の古訓もある。○いかくろひなば 隱れなば。「い」は發語。イカクレユカバ〔七字傍線〕の訓は非。○おもほえむ 戀しく〔三字右○〕思はれよう。「宇陀の大野はおもほえむかも」(卷二)「筑紫の千島おもほえむかも」(卷六)など同例。
【歌意】 沖の島の荒磯の海藻が、潮が一杯にさして隱れようなら、定めし戀しく思はれよう事かいな。
 
〔評〕 潮干に露はれた磯つきの海藻に、新奇の物珍しさを感じたが、忽ち反射的にやがての滿潮には水の下であらうことに想到し、「おもほえむかも」と、強い執着を語つた。海珍しい都人士の口吻。
 
(1630)若浦爾《わかのうらに》 鹽滿來者《しほみちくれば》 滷乎無美《かたをなみ》 蘆〔左△〕邊乎指天《あしべをさして》 多頭鳴渡《たづなきわたる》     919
 
〔釋〕 ○わかのうらに 若の浦、弱の浦。和歌と書くは後世のあて字。又|眞若《マワカ》の浦(卷十一)ともいつた。續紀に弱《ワカノ》浦を改めて明光《アカノ》浦となされたとあるが、それはアワの音通により、詩文を作るに都合のよい好字面を擇ばれたもので、失張ワカノウラが泛稱であつた。○かたをなみ 「かた」は既出(三八六頁)。「を」は歎辭。○あしべ 「蘆」原本に※[竹/壽]〔右△〕とあるは誤。元本その他に從つた。
【歌意】 若の浦に潮がさしてくると、干潟がまあ無さに、蘆原のあたりをさして、鶴があれ鳴いて行くわ。
 
〔評〕 潟は潮の干滿に隨つて出頭没頭する鹵斥地である。干潮時そこに求食《アサリ》してゐた鶴も、滿潮となると渚附近の林※[木+越]をさして退去する。岩礁や沙洲に寄せ返る白波、滿々と湛へた遠淺の小波、青青と海風に靡く蘆原、それらのすべてが、沙頭から高鳴きして蘆邊に移動する白鶴の翼のもとに一括されてゐる。大なり小なりあらゆる物がその生命の躍動を感ずる景敦と清楚なる色彩と爽快なる氣分とが相俟つて、長け高い行敍か縹渺た(1631)たる高韻を傳へる。但その「潟をなみ」の一句は聊か理路に泥んだ痕迹を遺してゐる。白璧の微瑕。
 
右年月不v記(サレ)。但※[人偏+稱の旁](ス)d從2駕《ミトモスル》玉津島(ニ)1之時(ノ)作(ト)〔四字右○〕u也。因(リテ)今檢2注(シ)行幸(ノ)年月(ヲ)1以(テ)載(ス)v之(ニ)焉。
 
右の歌は年月が記されてない、但玉津島行幸從駕の作というてゐる、そこで今行幸年月を檢べ注して、こゝに載せたとの意。「※[人偏+稱の旁]」は稱の古字。「玉津島」の下、之時作〔三字右○〕の三字は原本にない、補つた。
 
神龜二年|乙丑《きのとうし》夏五月幸(せる)2于吉野(の)離宮(に)1時、笠(の)朝臣金村(が)作歌一首并短歌
 
○神龜二年云々 この行幸續紀に所載がない。紀の脱漏か。
 
足引之《あしひきの》 御山毛清《みやまもさやに》 落多藝都《おちたぎつ》 芳野河之《よしぬのかはの》 河瀬乃《かはのせの》 清乎見者《きよきをみれば》 上邊者《かみへには》 千鳥數鳴《ちどりしばなき》 下邊者《しもへには》 河津都麻喚《かはづつまよぶ》 百磯城乃《ももしきの》 大宮人毛《おほみやびとも》 越乞爾《をちこちに》 思自仁思有者《しじにしあれば》 毎見《みるごとに》 文丹〔左△〕乏《あやにともしみ》 玉葛《たまかづら》 絶事無《たゆることなく》 萬代爾《よろづよに》 如是霜願跡《かくしもがもと》 天地之《あめつちの》 神乎曾祷《かみをぞいのる》 恐有等毛《かしこかれども》     920
 
(1632)〔釋〕 ○あしひきの 山の枕詞、既出(三四三頁)。○みやまもさやに 「みやま」「さやに」は既出(三九七頁)。○かみへ 上の方。○しもへ 下の方。○ももしきの 宮の枕詞。既出(一二六頁)。○おほみやびと 既出(一三一頁)。○をちこち (1)あちこち。彼方此方。(2)遠近。「越乞」はその字音を充てたもの。○しじにしあれば 澤山居るので。「しじ」は繁の意。○あやに 「丹」原本に舟〔右△〕とあるは誤。元本その他に從つた。○たまかづら 「絶ゆることなく」に係る序。既出(七八六頁)。○かくしもがもと 契沖初訓による。舊訓カクシモガナト〔七字傍線〕。○かしこかれども 眞淵訓による。舊訓カシコケレドモ〔七字傍線〕。△寫眞挿圖103(三三〇頁)參照。
【歌意】 山も清く鳴り響いて、流れ落ちてたぎる吉野川の、川瀬の奇麗なのを見ると、川上の方では千鳥が繁く鳴き、川下の方では蛙が妻を喚んで鳴く、その上供奉の〔八字右○〕大宮人も、あちこちに一杯に居るので、それらを見る度にひどくめでたくて、絶間なしに萬年も、かうまあありたいと、天地の神をさお祈りするわい、恐れ多いけれども。
 
〔評〕 この篇離宮詞の常套たる冒頭句を置かず、突如としてまづ叙景に入つた。作者はこの三年前(養老七年五月)に、既に吉野離宮詞を賦した。樣に依つて胡蘆を描くのも快くないと見え、前度とその樣式を殊にして、かくの如き奇手を出した。
 第一段、まづ吉野離宮の象徴たる激湍の勝を高唱し、その「清きを見れば」の一句は、第二段を展開した。
 第二段、離宮四圍の景象を囘看して、上つ瀬の千息下つ瀬の蛙、その清亮たる聽覺美に耳を傾けた。これは夏の蛙に冬の千鳥を配した文飾ではなく、この五月行幸時における矚目の實景なのである。千鳥は夏も盛に鳴(1633)ものである。更に囘看すると、供奉の大宮人達が恰も點景人物の如く、その緋緑の袖を翻しつゝ所在に往來する。これは嘗て人麻呂の歌つた、
  百しきの大宮人は、船なめて旦川渡り、船きほひ夕川渡る。(卷一――36)
とあるもので、離宮附近の板屋草舍から、或は公務に或は逍遙に出入する人達である。山間の僻郷蜻蛉野も偏に離宮地たるが故に、臨幸のあるが故に、かゝる異風景を現出し、かゝる光榮を荷ふ。作者は驚異の眼を瞠つて、「見る毎にあやにともしみ」と讃歎した。而もこの句は上を承け下を起す扇ホの役目を果してゐる。その「見る毎に」は上の「見れば」に呼應したもので、かく反復するが古文の格である。
 第三段、吉野離宮地のかく自然と人事とに飽くまで惠まれた幸福を、未來永世まで持續させたいと渇望し、「畏かれども」と理性に教へられながらも、天地の神にその祈願を投げ懸けるのであつた。果然一篇の吉野離宮讃辭である。
反歌二首
 
萬代《よろづよに》 見友將飽八《みともあかめや》 三吉野乃《みよしぬの》 多藝都河内之《たぎつかふちの》 大宮所《おほみやどころ》     921
 
〔釋〕 ○みとも 見る〔右○〕とも。見る〔二字傍点〕の第二變化の「み」を「と」の接續辭が承けるのは古格。○たぎつかふち 既出(一五三頁)。「かふち」は(一四五頁)に既出。○おほみやどころ 既出(一二七頁)。
【歌意】 千萬年になるまで見るとも、飽かうことかい。吉野の瀧の川曲の、この大宮所即ち離宮地はさ。
 
(1634)〔評〕 長歌では大宮所の萬代の御榮を祈願したが、これは萬年見ても見飽きることではないと、その景勝を絶對に讃美した。物は馴るれば興味が減殺するといふ前提のもとに詠まれた作。
 
人皆乃《ひとみなの》 壽毛吾毛《いのちもわがも》 三吉野乃《みよしぬの》 多吉能床磐乃《たぎのときはの》 當有沼鴨《つねならぬかも》  922
 
〔釋〕 ○わがも 吾が命〔右○〕もの略。新考よろしい。○ときはの 古義訓による。眞淵訓トコハノ〔四字傍線〕、舊訓トコイハノ〔五字傍線〕。○つねならぬかも 「ぬ」は願望辭の「ね」の轉。「つねにあらぬか」を見よ(八〇〇頁)。「沼鴨」は戲書。
【歌意】 皆人の命も自分の命も、この吉野の瀧津瀬の平磐のやうに、變らずあつて欲しいなあ。
 
〔評〕 はかない命と不變の岩との對照から生ずる感愴は型の通りであるが、行幸時の折柄を考へると、吉野の勝を人達と一緒に末永く樂みたいの餘意があるやうだ。「三吉野の瀧のときはの」は尤も適切な實際的取材で、人麻呂が「吉野の川の常滑《トコナメ》の絶ゆることなく」(卷一)と歌つた如く、河床數町に亘る大磐石を斥したものだ。
 
山部(の)宿禰赤人(が)作歌二首并短歌
 
○作歌二首井短歌 この題詞は不完である。作歌二首は長歌の二篇をさし、短歌はその反歌四首をさす。この歌どもはその製作年時が判明しない。左註に不v審(カニセ)2先後(ヲ)1とある。その時季を勘へると、前篇の長歌は春秋に通じたものであるが、反歌の小鳥の聲は或は暮春の景象ではあるまいか。後篇の長歌に至つては狩獵の(1635)事が敍してあり、而も「春の茂野に」と歌つてあるから、仲春頃の作であることは疑ふ餘地もない。
 
八隅知之《やすみしし》 和期大王乃《わごおほきみの》 高知爲《たかしらす》 芳野離宮者《よしぬのみやは》 立名附《たたなづく》 青墻隱《あをがきこもり》 河次乃《かはなみの》 清河内曾《きよきかふちぞ》 春部者《はるべは》 花咲乎遠里《はなさきををり》 秋去者《あきされば》 霧立渡《きりたちわたる》 其山之《そのやまの》 彌益々爾《いやますますに》 此河之《このかはの》 絶事無《たゆることなく》 百石木能《ももしきの》 大宮人者《おほみやびとは》 常將通《つねにかよはむ》     923
 
〔釋〕 ○やすみししわごおほきみの 既出(二〇五頁)。○たかしらす 「たかしりまして」を見よ(一五三頁)。「しらす」はしる〔二字傍点〕(領)の敬相。○みやは 宮處〔二字傍点〕はの意。或は下にその場處は〔五字右○〕の語を補つて聞く。もと/\「は」の辭の落著がよくない。「宮は――河内ぞ」では意味を成さない。○たたなづく 既出(一五四頁)○あをがきこもり 山の〔二字右○〕の青垣に〔右○〕籠り。「青垣山」、を見よ(一五四頁)。○かはなみ 川並。河道の曲折状態をいふ。「次」は借字。○かふちぞ 河内なる〔二字右○〕ぞの略。○はるべは 既出(一五四頁)。○ををり 「ををれる」を見よ(五一四頁)。○たちわたる 舊訓タチワタリ〔五字傍線〕は非。○そのやまのいやますますに 意が聞えない。塵積つて山となる意か。「そ(1636)のやま」は「たたなづく青垣山」をさす。
【歌意】 わが天子樣の御領知なさる吉野離宮は、その場處が〔五字右○〕疊まつた青山の〔三字右○〕垣に籠り、そして河並の奇麗な川曲であるぞい。春になると花が咲いて靡き、秋になると霧が立ち渡る。されば〔三字右○〕その青垣なす山のやうにいやます〔四字右△〕/\に、その河のやうに絶える事なしに、大宮人は何時も/\來通ふであらう。
 
〔評〕 大體が人麻呂の吉野離宮作の第一第二篇の詞句を雜揉し撮合して、頗る平凡にお座なりに作り上げたものである。赤人は優に一代の作家であるのに、この作は實に不思議だ。襷掛けの句法も紀記以來のことで、さう珍しくもないが、只中間に二聯を隔てゝの使用は、直接でないだけ、餘裕味を存して宜しい。
 
反歌二首
 
三吉野乃《みよしぬの》 象山際乃《きさやまのまの》 木末爾波《こぬれには》 幾許毛散和口《ここだもさわぐ》 鳥之聲可聞《とりのこゑかも》     924
 
〔釋〕 ○きさやまのまの 「きさやま」は「きさのなかやま」を見よ(二五一頁)。西本温本訓のキサヤマノハノ〔七字傍線〕、奮訓のキサヤマキハノ〔七字傍線〕は共に非。○こぬれ 既出(六八九頁)。舊訓コズヱ〔三字傍線〕。○ここだ 既出(五九六頁)。○さわぐ 「口」は呉音ク。△寫眞 挿圖49(一四七頁)を參照。
【歌意】 吉野の象山の邊の梢には、外とは違つて〔六字右○〕、大層澤山にまあ鳴き立てる、鳥の聲かいな。
 
(1637)〔評〕 象谷あたりの山陰を行くと、春色既に老いて嫩緑の枝頭にのぼる梢から梢に、喧しく鳴き立てる小禽の聲は、處がら折から爽かな快い氣分である。都では聞き馴れぬ景趣たることを表現する爲に、「象山のまの木ぬれには〔二字傍点〕」と斷つた。そこに作者の生活の片鱗がほのめき、耳傾けてゐる赤人その人が想見される。
 
烏玉之《ぬばたまの》 夜乃深去者《よのふけぬれば》 久木生留《ひさぎおふる》 清河原爾《きよきかはらに》 知鳥數鳴《ちどりしばなく》     925
 
〔釋〕 ○ぬばたまの 夜の枕詞。既出(三〇四、四七六頁)。○ふけぬれば 古義訓による。舊訓フケユケバ〔五字傍線〕。○ひさぎ 楸。一名木さゝげ。紫※[くさがんむり/威]科の喬木。河邊に多く自生す。高さ二三丈に達し、葉は卵形、時に掌状を成す。夏尺餘の穗を出して花を著く。胡麻の花の如く淡黄に紫點あり、實は一尺餘の莢が幾條も下垂す。○ちどり 既出(六八七頁)。「知」は借字。
【歌意】 旅居の〔三字右○〕夜が更けたので、楸の生えてゐる清い吉野の〔三字右○〕川原に、千鳥が頻に鳴くことわ。
 
〔評〕 吉野の河原にその頃楸が叢生して居たと見える。風情のない樹だが、一度河原の景致に想到すると、自然にそれが心頭にのぼるのである。
 山間幽寂の境、瀬鳴の響が枕をゆすつて、圓かな夢は結びがたい深夜に、この悽凉たる千鳥の聲を聽くは、(1638)實に客愁を唆るに十分なものがあらう。「千鳥しば鳴く」とばかりいひ放して、表面は單なる叙景の如く見えながら、その内面に旅客としての窮りない感哀が流動し滂薄して止まぬ。風姿も潔く詞も簡淨で、聲響も亦流滑である。
 上の作には晝の小禽を歌ひ、この作には夜の千鳥を歌つた。必ず心あつての趣向であらう。
 尚いふ、千鳥の聲專ら冬季の景物と後世は定められてあるが、實際には四季を通じて鳴いてゐる。さればこの歌を上の反歌や下の長歌と同じく、暮春の作とするに支障はない。
 
安見知之《やすみしし》 和期大王波《わごおほきみは》 見芳野之《みよしぬの》 飽津之小野※[竹/矢]《あきつのをぬの》 野上者《ぬのへには》 跡見居置而《とみすゑおきて》 御山者《みやまには》 射目〔左△〕立渡《いめたてわたし》 朝獵爾《あさがりに》 十六履起之《ししふみおこし》 夕狩爾《ゆふがりに》 十里※[足+榻の旁]立《とりふみたて》 馬並而《うまなめて》 御※[獣偏+葛]曾立爲《みかりぞたたす》 春之茂野爾《はるのしげぬに》     926
 
〔釋〕 ○あきつのをぬの 「飽津」は蜻蛉の借字。「あきつのぬべ」を見よ(一四六頁)。「※[竹/矢]」は矢※[竹/幹]《ヤガラ》で、矢※[竹/幹]をノ〔傍点〕といふ。○ぬのへ 野邊。○とみすゑおきて 迹見《トミ》の人を立てゝ置き。「とみ」は字の如く、狩の爲に鳥獣の通ふ跡を尋ね求むる人の稱。或は鳥見《トミ》の義か。この句末の「て」の辭は餘つてゐゐ。○いめたてわたし 射手(1639)をあちこちに多く立たせ。「いめ」は射部《イベ》の轉。弓射る人達の稱。「目」原本に固〔右△〕とある。元本西本によつた。○しし 猪鹿を稱する。既出「ししじもの」を見よ(五三九頁)。「十六」は算數的戲書。○とり 「十里」も戲書。○みかり 「※[獣偏+葛]」は獵の俗字。○なめて なべて〔三字傍点〕の古言。既出(三六頁)。○みかりぞたたす 敍相の上から、ここは御獵を催すの意とする。「たたす」は立つ〔二字傍点〕の敬相で、上の助辭によつて意が變る。獵にたたす〔五字傍点〕は獵に出掛けること、獵をたたす〔五字傍点〕は獵を催すこと。○しげぬ 茂岡、茂山などの類語。△挿畫 挿圖11(三六頁)137(四九二頁)を參照。
【歌意】 わが天子樣は、吉野の蜻蛉の小野の、野邊には迹見の人を据ゑ置き、山には射手を立て揃へ、朝狩に猪鹿《シシ》を踏み立てゝ起し、夕狩に草伏の鳥を踏み立てゝ飛び上がらせ、そして侍臣達と〔七字右○〕馬を乘り並べて、御獵をお催しなる、蜻蛉のこの春の茂つた野でさ。
 
〔評〕狩獵は冬を主として春に終る。秋津野の小野を圍む群山は鳥獣の好棲息地であるから、聖武天皇は行幸の序、御獵を催されたのであらう。
 中間、野山に跡見据ゑ射目立てたことを、野と山とに分係して文飾とした。「朝獵に――夕獵に――」は家持の安積《アサカノ》皇子(ノ)薨(レマセル)之時(ニ)作歌(卷三)にも見えた句だが、この歌の方が先出である。
 結末は、從駕の人達と馬乘り並べて山野を馳驅遊ばされる光景で、
  玉きはる内の大野に馬なめて朝踏ますらむその草|深野《フカヌ》 (卷一、中皇女――36)
  日並《ヒナミ》の皇子《ミコ》の尊の馬なめて御狩立たしし時は來向ふ、(卷一、人麻呂――49)
(1640)などと同型の措辭である。
 全體に小じんまりと引緊まつた作で、迹見、射目の句に、狩獵の状態が稍つぶさに描出されてゐる。轉結の倒装、頗る調が勁健で嬉しい。「おきて」のて〔傍点〕は他にも例はあるが、何としても邪魔な棄石である。
 
反歌一首
 
足引之《あしひきの》 山毛野毛《やまにもぬにも》 御※[獣偏+葛]人《みかりびと》 得物先手挾〔左△〕《さつやたばさみ》 散動而有所見《さわぎたりみゆ》     927
 
〔釋〕 ○みかりびと 大君の御獵に奉仕する人。○さつや 既出(二二九頁)。○たばさみ 既出(二二九頁)。「挾」原本に狹〔右△〕とあるは誤。元本その他によつた。○さわぎたりみゆ 「さわぎ」は忙しく奔走すること。「たりみゆ」の續きは古格。良行變格系の動詞に限り、その終止態に動詞が接續する。それも見ゆ〔二字傍点〕の動詞に限つてある。集中に「かしこき海に船出|爲利所見《セリミユ》」(卷六)「海人のいざりはともし安敞里見由《アヘリミユ》」(卷十五)又記(下)に「志毘《シビ》がはたてにつま多弖理美由《タテリミユ》」などある。古義訓による。舊訓はミダレタルミユ〔七字傍線〕。
【歌意】 この吉野の〔五字右○〕山にも野にも、御狩の人達が、幸矢《サツヤ》を手に執つて、奔走するのが見えるわ。
 
〔評〕 狩場の光景状し得て遺憾がない。山野に充滿して御狩人が立騷ぐ、その豪勢さが想ひ遣られる。かくて間接に天威の畏さが彷彿する。「幸夫たばさみ」は、その携帶武器は弓は勿論、太刀もあらう鉾もあらうが、一(1641)番狩場にふさはしい象徴的描寫である。序にいふ幸矢は通例の征矢を狩獵の時にのみいふ稱。
 
右不v審(カニ)2先後(ヲ)1。但以(テノ)v便〔左△〕(ヲ)故(ニ)載(ス)2於此(ノ)次(ニ)1。
 
 右の赤人作歌の全部は詠出年代不明で、上の歌との前後がわからない、但同じ吉野行幸の時の歌だから、都合に任せてこゝに載せたとの意。「便」原本に使〔右△〕とある。略解説によつて改めた。これは當初の採録者か後の補入者かの筆で、文章こそ拙いが、製作年代に就いての大事の註語である。眞淵はこの注を削るべしといつたが從ひ難い。削ればこの歌は上の歌の題詞に係けたものとなつて、神龜二年の作と確定してしまふ。
 
冬十月幸(せる)2于難波(の)宮(に)1時、笠朝臣金村(が)作歌一首并短歌
 
○幸于難波宮 續記、神龜二年十月の條に、庚申(十日)天皇幸(ス)2難波(ノ)宮(ニ)1。とある。この時の難波(ノ)宮は歌によると難波の味生《アヂフノ》宮であつた。「難波(ノ)宮」を參照(二三七頁)。
 
忍照《おしてる》 難波乃國者《なにはのくには》 葦垣乃《あしがきの》 古郷跡《ふりにしさとと》 人皆之《ひとみなの》 念息而《おもひやすみて》 都禮母無《つれもなく》 有之間爾《ありしあひだに》 ※[糸+賣]麻成《うみをなす》 長柄之宮爾《ながらのみやに》 眞木柱《まきばしら》 太高敷而《ふとたかしきて》 食國(1642)乎《をすくにを》 收賜者《をさめたまへば》 奥鳥《おきつとり》 味經乃原爾《あぢふのはらに》 物部乃《もののふの》 八十伴雄者《やそとものをは》 廬爲而《いほりして》 都成有《みやこをなせり》 旅者安禮十方《たびにはあれども》     928
 
〔釋〕 ○おしてる 難波の枕詞。既出(九八五頁)。○なにはのくに 古へ難波國と稱した今の大阪附近一帶の稱。行政區劃の國ではない。吉野國、泊瀬國の類。○あしがきの 「ふり」に係る枕詞。葦を結うた垣は初めから舊び煤けて見ゆる故にいふ。なほ亂れ〔二字傍線〕、ほのか〔三字傍線〕、ま近〔二字傍線〕などに係る枕詞。○ふりにし 眞淵訓フリヌル〔四字傍線〕。○おもひやすみて 氣に懸けぬこと。注意せぬこと。「やすみ」は休の意。眞淵訓イコヒテ〔四字傍線〕は非。○つれもなく 縁もなく。交渉のないのをいふ。「つれもなき」を見よ(四六九頁)。○うみをなす 績麻《ウミヲ》のやうに。「長《ナガ》」に係る枕詞。績麻は長い物なので譬へていふ。績麻を「續麻」と書くことは「をみ」を見よ(一〇六頁)。○ながらのみや 難波宮のこと。長柄は難波丘陵一帶の呼稱。すべて連亙した山や岡をナガラといつた。○まきばしら 既出(五〇〇頁)。○ふとたかしきて 「みや柱ふとしきませば」を見よ(一四六頁)。「たか」は美稱。○をすくに 既出(一九〇頁)。○をさめ 「收」は借字。○おきつどり 沖の鳥。味鳧《アヂ》又は鴨に係る枕詞。鴨の類は多く河海の沖の方に棲む故にいふ。味鳧《アヂ》は「あぢさはふ」を見よ(五一六頁)。○あぢふのはら 「味經」は味生、味原なども書(1643)く。攝津國東成郡小橋。(今の大阪市東區味原町)。古へこゝに難波(ノ)宮の別宮が置かれ、味生(ノ)宮と稱した。續紀、天平勝寶八年二月の條に、難波の宮に至り東南の新宮に御すとある新宮はこゝの事である。三島郡の味生村ではない。○もののふのやそとものを 「もののふのやそうぢ」(六八三頁)及び「やそとものを」(一〇三七頁)を見よ。○いほり 既出(二二七頁)。○みやこをなせり 新考訓に從つた。眞淵訓ミヤコトナレリ〔七字傍線〕、舊訓ミヤコトナセリ〔七字傍線〕。契沖訓の一にミヤコナシタリ〔七字傍線〕は共に非。
【歌意】 難波の國は舊い京址だとして、誰れもが氣にも懸けずに、打遣つてゐた間に、天子樣〔三字右○〕はその長柄の宮に、眞木柱を立派に高く造り建てゝ、國家をお治めなさるので、その〔二字右○〕味生の原に、多くの役人達は庵任ひをして、都を形作つたよ、旅中ではあるけれどもさ。
 
〔評〕 難波の京は、孝徳天皇の朝以後廢絶したが、難波宮は離宮として存在し、天武天皇の十二年十二月の詔にも、
  凡(ソ)都城《ミヤコ》宮室《オホミヤ》非(ズ)2一處(ニ)1、必(ズ)造(レリ)2兩參《フタトコロニ》1、故《カレ》先(ヅ)欲(ス)v都(セムト)2難波(ニ)1、是(ヲ)以(テ)百(ノ)寮者《ツカサビト》、各(ノ)往之《マカリテ》請(ヘ)2家地(ヲ)1。(紀――卷二十九)
と見えた。天皇の末年(朱鳥元年)に、難波は大藏省から失火して宮室まで燒けたさうだが、持統文武元正の列聖相次いで屡行幸の事が史に見えるから、手狹ながら相當焚餘の宮殿は存在してゐたものと考へられる。然し朱鳥以來四十年の舊構である。
 元正天皇の養老元年二月以後約九年振で、今囘の聖武天皇の神龜二年十月の行幸があつた。歌に「古りにし郷と、人皆の思ひ息みて、つれもなくありし間に」とあるは、その中絶期間の長い爲に、難波宮に對する交渉(1644)を、一般人士が忘れてゐた感情と思はくとを打出したものである。然し今囘端なく行幸があり、「長柄の宮に眞木柱大高敷きて食國を治め」られたのであつた。この時はまだ數波を皇都とした布告はないが、(皇都と定めたのは天平十六年二月)現神とます大君のまします處は、即ち皇都であると考へることが、本來のわが國民精神の常識であつた。
 故に留意を要するは「眞木柱太高敷きて」の語である。人麻呂の幸2吉野宮1時の歌(卷一)に「秋津の野邊に宮柱太敷しませば」、又「瀧つ河内に高殿を高知りまして」とあるは、吉野離宮の新構を語つてゐる例から類推すると、こゝの長柄の宮も必ず新構の離宮であらねばならぬ。この新宮こそは孝徳天皇の難波|大郡《オホゴホリ》の味生(ノ)宮の故地に就いて建てられたものと斷ずる。
 孝徳天皇の味生宮は豐崎(ノ)宮の創建後自然廢頽に歸し、徒らに寒煙荒草の野原となつて、味生の原と稱せられた。聖武天皇はそこを再び開發して味生離宮を新建され、この十日から始めて約二十日ほど(翌月十日には天皇奈良の大安殿に御し給ふ)滯留あらせられた。供奉の官人即ち「物の部の八十伴緒」は、倉卒の際とて各黒木の柱に茅の軒、假廬造りして住むのであつた。皇居を中心として、野原の間に忽然と一團の聚落を出現したことは、一寸驚異でもあり面白くもある。その感じが昂揚した餘り、遂に「都をなせり」とまで測らず誇張されることになつた。
 「旅にはあれども」は折角感情の坩壺に溶け込んだ陶醉を一旦に冷却する嫌もあるが、何としても現實に即した一句で、行幸供奉の旅先ながら、かゝる異風景を見ることに興味をもつのであつた。
 この篇、「おし照る」「葺垣」「續麻なす」「おきつ鳥」の枕詞、「眞木柱」「物部の」の準枕詞を用ゐて敷陳こ(1645)れ力めてゐる。莊嚴典雅な氣分を出す必要からでもあらうが、かゝる短篇としては煩瑣な感が生ずるのを禁じ得ない。
 又いふ、長柄の稱は豐崎宮にも味生宮にも冠してゐる。兩宮共に方角こそ南北に違へ、難波の岡陵地にあるからである。ながら〔三字傍点〕の語は長らふ〔三字傍点〕の義を以て、連亙した一帶の山岡を呼ぶ名稱らしい。故に近江に長柄山あり、難波にこの長柄の岡があり、その他諸國にこの地稱が多い。
 聖武天皇はこの二年十月の行幸後、翌三年十月に藤原(ノ)宇合《ウマカヒ》を造難波宮事に任じ、更に四年に石川(ノ)牧夫《ヒラブ》を造難波宮長官に任じ、宮室から始めて二官八省の堂々たる大規模の建築を竣功された。正倉院文書に、天平勝寶二年七月に、右以(テ)2今月廿六日(ヲ)1大郡(ノ)宮(ニ)幸行(ス)、また續紀、同八年二月の條に、壬子、是日行(イテ)至(リ)2難波(ノ)宮(ニ)1御(ス)2東南(ノ)新宮(ニ)1とあるは、正に味生宮の事である。
 序にいふ喜田貞吉氏の『帝都』に、味生を三島郡江口附近としてこの歌を引いて證としたのは、甚しい誤認である。
                   △難波宮及び味生宮考(雜考――22)參照
 
反歌二首
 
荒野等丹《あらぬらに》 里者雖有《さとはあれども》 大王之《おほきみの》 敷座時者《しきますときは》 京師跡成宿《みやことなりぬ》     929
 
〔釋〕 ○あらぬらに 荒野らにて〔右○〕。「ら」は接尾語。和名抄に、曠野、阿良乃良《アラノラ》と見え、單に野ら〔二字傍点〕ともいふ。
(1646)【歌意】 この味生の〔五字右○〕里は、荒野ではあるけれども、天子樣の居らつしやる時は、都となることわ。
 
〔評〕 神とますわが大君には、世に不可能な事はない。この種の想は集中に多い。殊に
  大君は神にしませば赤駒のはらばふ田居を都となしつ (卷十九――4260)
  大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都となしつ (同――4261)
の二篇は殆ど符節を合はせた如く、何れも帝威の禮讃であるが、この歌は「里はあれども」と理路に著したゞけ、餘蘊が乏しいのは致し方ない。
 
海未通女《あまをとめ》 棚無小舟《たななしをぶね》 ※[手偏+旁]出良之《こきづらし》 客乃屋取爾《たびのやどりに》 梶音所聞《かぢのときこゆ》     930
 
〔釋〕 ○あまをとめ 既出(四一頁)。○たななしをぶね 既出(二二四頁)。〇かぢ 「かぢひきをり」を見よ(五九七頁)。
【歌意】 海人少女が〔右○〕棚無し舟を、漕ぎ出すらしい。この旅の宿舍に、あれ〔二字右○〕梶の音か聞えるわ。
 
〔評〕 時刻の指定が無いのは缺點である。想ふに味生の原の旅の庵に、朝明の枕を※[奇+支]てゝ梶の音を聞いたものであらう。但それだけで舟を棚無し小舟、漕手を海人少女と認定することは、頗る速斷で冒險に近いが、日頃海人少女が棚無し小舟を操るのを見て、深い感興を覺えた經驗から、測らずこの聯想が生つたのである。
 味生の原は大體崖地であり、東は低濕の地から入海に接してゐたらしい。卷末の難波宮(味生宮)の歌にも、(1647)盛に海邊の形象が歌はれてある。
 
車持(の)朝臣千年(の)作歌一首并短歌
 
排叙の次第によれば上の歌と同時で、難波から住吉に出遊した或日の作であらう。
 
鯨魚取《いさなとり》 濱邊乎清三《はまべをきよみ》 打靡《うちなびき》 生玉藻爾《おふるたまもに》 朝名寸二《あさなぎに》 千重浪縁《ちへになみよせ》 夕菜寸二《ゆふなぎに》 五百重波因《いほへなみよる》 奥津波《おきつなみ》 彌益升爾〔七字左○〕《いやますますに》 邊津浪之《へつなみの》 益敷布爾《いやしくしくに》 月二異二《つきにけに》 日日欲〔左△〕見《ひびにみがほし》 今耳二《いまのみに》 秋足目八方《あきたらめやも》 四良名美乃《しらなみの》 五十往〔左△〕囘有《いゆきめぐれる》 住吉能濱《すみのえのはま》     931
 
〔釋〕 ○いさなとり 海又は濱などの枕詞。既出(三八七頁、四一〇頁)。○へつなみのいやしくしくに 邊つ波をのみ擧げたのはいぶかしい。上の朝凪夕凪の聯對を思へば、こゝも對語を配すべきである。この句の前に古義が、奥つ波いやます/\に〔九字右○〕と補つたのに從つた。○ちへ――いほへ 何れも多數の轉義。○しくしくに 既出(五(1648)五九頁、一三一五頁)。○つきにけに 朝にけに〔四字傍点〕とも續けていふ。「け」は「けならべて」を見よ(六八二頁)。○ひびにみがほし 「欲」原本に雖〔右△〕とある。「雖見」はミルトモ〔四字傍線〕と訓まれるが、下への續きがわるい。略解に從つた。○いまのみに 現在見る〔二字右○〕のみで。○いゆきめぐれる 「い」は發語。「往」、原本に開〔右△〕とあるによつて、諸本皆イサキメグレル〔七字傍線〕と訓み、咲き〔二字傍点〕は波を花に擬へたものと解してあるが、詞が足らない。故に開を誤として假に往〔傍点〕を充てた。元本その他にイソザキメグレル〔八字傍線〕の訓がある。又、「囘有」を古義にモトヘル〔四字傍線〕と訓んだのは非。○すみのえのはま 「すみのえ」を見よ(二四〇頁)。この歌記録上に特徴がみる。それは數目の宇を盛に充用してゐる事である。△地圖 挿圖78(二四一頁)を參照。
【歌意】 濱邊が清くて、そこに靡いて生えてゐる藻草に、朝の凪に千重に浪が寄せ、夕の凪に五百重に波が寄る、その沖の波の禰よ益す/\に〔十二字右○〕、岸の波の彌よ頻に、月に何時もに、日々に見たいわ。今見るだけで飽き足らうことかい。白波が往き廻つてゐる、きれいな〔四字右○〕この住吉の濱は。
 
〔評〕 霰松原を後に打出て見ると、廣々と展開した住吉の濱、そこには崎もない磯もない。只沙濱に千重に五百重に寄せては返る白波ばかりである。乃ち波を中心にこの篇を成した。
 層々反復、徹頭徹尾一語一句も波の上を離れない。如何に作者が波に興味を傾倒し、深く強く諦視して居たかがわからう。然し詩思は甚だ平靜でその熱量を缺いてゐる。又造句に清新の點がない、極めて月並の文句を剪裁して始終してゐる。殊に常に見たい〔五字傍点〕とか見飽かぬ〔四字傍点〕とかいふのは一般の遊覽作の套語で、長短篇に拘はらず、これがその主想となつたものが多く、單調も亦甚しい。漢唐詩人のやうに多趣多樣に縱横無碍に、その詩想を(1649)發揮し得ないのは遺憾である。
 
反歌一首
 
白波之《しらなみの》 千重來縁流《ちへにきよする》 住吉能《すみのえの》 岸乃黄土粉《きしのはにふに》 二寶比天由香名《にほひてゆかな》     932
 
〔釋〕 ○はにふに 埴生に。埴は黄土であるので、「黄土」をハニと訓む。「ふに」に「粉」を充てたのは、音のフヌを特用したもの。「はにふ」は既出(二四八頁)。○にほひて 衣を〔二字右○〕匂はしての意。自他が違ふが、かういふ辭樣が當時成立してゐたのだ。下にも安倍(ノ)豐繼の歌に「住の江の岸の黄土に匂ひて行かむ」とある。尚「匂はさましを」を見よ(二四八頁)。○ゆかな 行かむ。「な」は「家きかな」を見よ(一一頁)。
【歌意】 白波が幾重にも打寄せる、この住吉の岸の黄土《ハニフ》に、衣を染めて往かうなう。
 
〔評〕 住吉の岸の黄土層のことは紀記時代に所見がない。平安朝以後また觸れたものがない。只この萬葉人のみの口頭語である事は妙だ。尤も平安朝からは染色法が一層進歩して、こんな原始的染法は廢れたせゐもあらう。當時としては只それを見るだけでも、莫大なる興味を惹いたらしく、
  めづらしき人を吾家《ワギヘ》にすみの江の岸の埴生を見むよしもがも (卷七――一一四六)
  馬なめてけふわが見つる住の江の岸の埴生をよろづ世に見む (同上――一一四八)
の如き感想をもつてゐた。さてこの歌、
(1650)  草まくら旅ゆく君と知らませば岸の埴生に匂はさましを (卷一、清江娘子――69)。
  馬のあゆみおしてとゞめよ住の江の岸の埴生に匂ひて行かむ (本卷、安倍豐繼――1002)
の同意の作があり、中でもこれは平坦で姿致曲折が乏しいものゝ、白波と黄土は色彩的配合の顯著なるものがあつて、爽かな感じが與へられる。
 集中住の江の岸〔五字傍点〕と續けたのが十四首もある。夙く難波乃吉士氏はこゝを本據として、吉士即ち岸を名告つた。かくも岸に重點が置かれる以上は、その岸に何等かの特徴がなくてはなるまい。抑も住吉の海岸は廣範圍に亘つてゐる。南部は平遠で濱には出見の濱、粉濱があり、浦にはなごの浦(又濱)があり、津には御津、敷津、榎名津の稱がある。然し北部は粘土層の切崖に海潮が去來してゐたらしい。そこには黄土があつて岸の埴生と騷がれ、崖地は榛の生えた野原があり、時にはその崖を崩して新田を闢き、老松矮松は濱から崖地へかけて叢生し、霰松原あり姫松あり、忘貝忘草は詞人の口頭に上るのであつた。實に岸に興趣の多い處であつたと想はれる。
 
山部(の)宿禰赤人(が)作歌一首并短歌
 
これも神龜二年十月の難波行幸時の作とおぼしい。とすると歌中の「難波宮」は味生(ノ)宮であゐ。
 
天地之《あめつちの》 遠我如《とほきがごと》 日月之《ひつきの》 長我如《ながきがごと》 臨照《おしてる》 難波乃宮爾《なにはのみやに》 和期大君《わごおほきみ》 國所知良之《くにしらすらし》 御食都國《みけつくに》 日之御調等《ひびのみつぎと》 淡路乃《あはぢの》 野島之海子乃《ぬじまのあまの》 海底《わたのそこ》 奥(1651)津伊久利二《おきついくりに》 鰒珠《あはびだま》 左盤爾潜出《さはにかづきで》 船並而《ふねなめて》 仕奉之《つかへまつるし》 貴見禮者《たふとしみれば》     933
 
〔釋〕 ○おしてる 既出(九八五頁)。「臨照」は日月の臨照をいふ。その光は世に押し並べて照る故に、意を以てオシテルと訓む。○みけつくに 御食《ミケ》(御饌)を奉仕する國又は處。「みけ」は神又は君に參らする供御をいふ。「つ」は連辭。古義に御饌調《ミケツキ》國の義と解したのは迂遠。○ひびのみつぎと 日々の御貢物として。○あはぢの 四言の句。○ぬじま 淡路國三原郡|沼《ヌ》島。古書に野島又武島と書く。津名郡の野島が崎と紛れ易い。周囘二里、村民悉く漁戸。○わたのそこ 既出(四〇〇頁)。○あはびだま 鰒のもつ珠。眞珠のこと。但こゝは鰒といふに同じい。珠は熟語的文飾である。○かづきで 水に〔二字右○〕潜つて取出し。○つかへまつるし 「し」は單に強辭。契沖訓による。略解訓はツカヘマツルガ〔七字傍線〕。○たふとしみれば 見れば貴し〔五字傍点〕の倒装。契沖訓による。略解訓はタフトキミレバ〔七字傍線〕。△地圖 卷二卷頭總圖を參照。
【歌意】 天地の永遠なるがやうに、日月の長久なるがやうに、難波(ノ)宮にわが大君が四方の國をお治めなさるらしい。そこで〔三字右○〕供御の物を奉仕する國の、日々の御貢物として、淡路の野島(沼島)の海人が、海底の石に附いてゐる鰒を、澤山に潜つて取出し、さてその貢舟を漕ぎ並べて、大君に〔三字右○〕お仕へ申すのをさ、見ると貴いことわい。
 
〔評〕 初頭より「國知らすらし」までが前段、以下が後段である。その前後段の間に關鍵の語がないので、一篇の總意に連絡を缺くが如き嫌を生じ、爲に略解は本文の訓法を變へ、仕ヘマツルガ貴キ見レバとして、「國知らすらし」といふへ返してその意を了すべし」と説いた。然し意解の如くソコデ〔三字傍点〕(乃ち)の語を補入すれば、(1652)訓を變へずに忽に前後の意が疏通する。
 前段は天地日月の悠久を引喩して、極めて莊重に天皇が難波(ノ)宮に天下を知し召す趣を述べた。これは上の笠金村の作中の「眞木柱太高知りて食國ををさめ給へば」とあるに合致する古代思想である。
 後段は筆が一轉して、國民がその熱誠を輸して王事に勤める一例を敍べて、前段に顧應を求めた。事は淡路の野島の海人が大御食に仕へ奉る状景に屬する。人麻呂はその吉野離宮の作に、
  遊副《ユフ》川の神も大御食に仕へまつると、上つ瀬に鵜川を立ち、下つ瀬に小網《サデ》さし渡し、山川も寄りて仕ふる、――。 (卷一――38)
と專ら神の攝理を高唱して、臣民奉仕の事實を言外に彷彿せしめ、これは直接に漁民の奉仕状態を描寫した。
 抑も難波宮と海を隔てゝ相對する海島淡路は、その地理的關係から、行事の際は特に大御食を供する「御食つ國」と定められ、その魚貝を、「日々の調」として奉らしめたらしい。その貢進の野島舟が眞楫しじ貫き、威勢よく難波津さして海上を漕ぎ列ねて行く。これが「船並めて仕へまつる」である。目のあたりこの光景に接した作者は、そこに深い感銘をおこし、さていはく「貴し見れば」と。奉公の行爲の貴さは即ち天威の貴さを反映する。
 かく考へると「野島の海人の」より「さはに潜き出」までの鰒採の行事は、作者の推想で實見ではない事になる。野島舟は實際種々の海産物を運んだであらうが、就中鰒はその海幸の尤なる物なので、作者は特更に鰒採の状况を擇んで叙事的に描出して、野島舟の修飾としたものと思はれる。
 鰒は深海の岩礁に附著してゐるので、「沖ついくりに」といつた。「鰒珠」は眞珠だから、さはに潜き出せる(1653)筈がない。又潜き出ても大御食にはならない、珠は熟語としての文飾である。であるが、それが大君への捧物としてふさはしい感じを齎すので面白い。
  東鰒、隱岐鰒、耽羅鰒、薄鰒、長鰒、短鰒、着耳鰒、放耳鰒、都々岐鰒、横鰒、細割鰒、蔭鰒、凡鰒、御取鰒、鳥子鰒、串鰒、醤鰒、蒸鰒、火燒鰒、鮨鰒、甘煮鰒、
などの目が延喜式に見える。
 結收の「貴し見れば」は見れば貴し〔五字傍点〕の倒装で、この43音の組織から成る促調は、長篇の結語として殆ど定則の觀がある。
 
反歌一首
 
朝名寸二《あさなぎに》 梶音所聞《かぢのときこゆ》 三食津國《みけつくに》 野島乃海子乃《ぬじまのあまの》 船二四有良信《ふねにしあるらし》     934
 
〔釋〕 ○かぢのと 「と」はオトの上略。「かぢひきをり」を見よ(五九九頁)。○みけつくにぬじま みけつ國淡路の野島の略。國を狹義に解すれば、直ちに野島に續けてもよい。
【歌意】 朝凪の海に櫓の音が聞えるわ。あれは〔三字右○〕御食つ國たる、野島の海人の舟でさ、あるらしい。
 
〔評〕 早朝難波の海を見渡しての作である。聽覺から視覺に移つて、想像的假定に終つた。前日その日の漁獲を整理して野島を出帆し、海上二十里餘を何丁櫓かで徹宵漕ぎ通すと、丁度朝凪の頃に難波に到着する。されば(1654)「野島の海人の舟にしあるらし」はまことに尤な推定である。
 首尾一字のたるみもない、爽かな海氣を破る楫の響、朝凪に點々たる舟の動的景致の上に立つて、而も御食つ國の野島舟を想像する作者の襟懷は、如何にも愉快さうである。
 
三年|丙寅《ひのえとら》秋九月十五日、幸(せる)2於播磨(の)國|印南野《いなみぬに》1時、笠(の)朝臣金村(が)作歌一首并短歌
 
〇三年 神龜三年。〇九月十五日 この月日は誤があらう。委しくは評文を參照。〇幸於播磨國印南野 續紀に、神龜三年九月壬寅(廿八日)装束司造頓宮司の任命があり、爲(メ)v幸(サム)2播磨(ノ)國印南野(ニ)1也とある。又冬十月辛酉(十七日)行幸(ノ)從駕(ノ)人、播磨(ノ)國(ノ)郡司百姓等、供2奉(セル)行在所(ニ)1者(ニ)、授(ケ)v位(ヲ)賜(フコト)v禄(ヲ)各有(リ)v差、云々。癸亥(十九日)行(イテ)還(リ)2至(タマフ)難波宮(ニ)1。○印南野 既出(六六五頁)。△地圖 挿圖183(六六五頁)を參照。
 
名寸隅乃《なきすみの》 船瀬從所見《ふなせゆみゆる》 淡路島《あはぢしま》 松帆乃浦爾《まつほのうらに》 朝名藝爾《あさなぎに》 去藻苅管《たまもかりつつ》 暮菜寸二《ゆふなぎに》 藻塵燒乍《もしほやきつつ》 海未通女《あまをとめ》 有跡老雖聞《ありとはきけど》 見爾將去《みにゆかむ》 餘四能無者《よしのなければ》 大夫之《ますらをの》 情者梨荷《こころはなしに》 手弱女乃《たわやめの》 念多和美手《おもひたわみて》 徘徊《たもとほり》 吾者衣戀流《われはぞこふる》 船梶雄名三《ふねかぢをなみ》     935
 
〔釋〕 ○なきすみ 播磨國明石郡江井島の地。今の魚住《ウヲズミ》村の東に隣る。魚住は魚來住《ナキスミ》の中略で、尚ナキスミと讀(1655)むべきを、後世ウヲズミと誤讀したのである。古へ明石|韓泊《からどまり》間の水驛として築港があつた。今は廢してしまつた。○ふなせ 船泊。船居の義で、船を泊め置く處をいふ。但築港に限つて稱するので船津とは異なる。「瀬」は借字。古義の地名と解したのは誤。○まつほのうら 松帆の浦は淡路國津名都松尾崎江崎の邊の稱。○もしほやき 「もしほ」は海藻の汐水より採る鹽。海藻を掻集め、その上に汐水を汲みかける。さて汐の滲み付いた海藻を燒いて水に入れ、その上澄を釜に煮て鹽とする。故に「藻汐燒く」といふ。○ますらを 既出(四〇頁)。○たわやめの か弱い女の如く〔二字右○〕。○おもひたわみて 思ひ撓みて。くよ/\案じ續くるをいふ。○たもとほり 「た」は接頭語。「もとほり」は「いはひもとほり」を見よ(五三九頁)。眞淵訓による。○ふねかぢ 船と楫とのこと。舊訓フナカヂ〔四字傍線〕は非。△寫眞 挿圖185(六七〇頁)を參照。
【歌意】 名寸隅の船瀬から見える淡路の松帆の浦で、朝凪に藻草を刈り刈り、夕凪に藻鹽を燒き/\して〔二字右○〕、海人の少女が居るとは聞くが、それを見に行かう便りがないので、男らしい心も失せて、女のやうにクヨ/\物案じして、ブラ/\あるき廻はり、自分はさ其方《ソチラ》を戀ふることよ、實は〔二字右○〕船と楫とが無さにさ。
 
〔評〕 今囘の印南野行幸は、本文の題詞には九月十五日の幸とあるが、續紀には九月二十八日に頓宮司が任ぜら(1656)れたとあるから、行幸はその以後の事である。又日本紀略には、
  神龜三年冬十月辛亥(七日)行幸(ス)2播磨(ノ)國印南野(ニ)1、甲寅(十日)至(リマス)2印南野(ノ)邑美《オホミノ》頓宮(ニ)1、癸亥(十九日)還2至(リマス)難波(ノ)宮(ニ)1。
とある。されば題詞の十五日の行幸は全く誤である。さて續紀と紀略とを併せて考へると、十月七日に奈良御發輦、同十日に印南野の邑美(ノ)頓宮に御著、それより六日間ほど御遊覽があつて歸路に向はせられ、同十七日に還幸の途中に奉仕者への賞賜があり、同十九日に難波宮に御歸著となる。
 頓宮の所在地邑美は明石郡邑美(ノ)郷(今の金崎附近)で、名寸隅の船瀬の北一里許に當る。然るに印南野(ノ)行幸といひ印南野(ノ)邑美(ノ)頓宮といふ。蓋し印南野は印南郡を中心として加古明石二郡の一部に亘つた汎稱である事が察せられる。
 さて船瀬に就いて一言したい。往古船瀬の稱が諸國にあつた。貞觀九年の官符に、
  則(チ)知(ル)海路之有(ルハ)2船瀬1、猶(シ)3陸道之有(ルガ)2逆旅1。(類聚三代格)
と見えて、船泊の事であるが、長柄(ノ)船瀬(佐吉神代紀) 金《カナガノ》埼船瀕(績紀)水兒《カコノ》船瀬(同上) 太輪田《オホワダノ》船瀬、和邇《ワニノ》船瀬(三代格)など、何れも築港したもので、故に船瀕を造(1657)るといつた。造船瀬料(ノ)田、船瀬(ノ)功徳田、(主税式)獻(ル)2稻(ヲ)船瀬(ニ)1(續紀)などの語、皆築造の工課を語るものである。又私に船瀬を造り又はその料稻を獻じて賞賜に與つた例が多々、紀及び續紀に出てゐる。祝詞に「船居《フナスヱ》作る」とある船居は船瀬の原語である。
  太唐《モロコシ》に遣さむとするに、船居《フナスヱ》なきによりて、播磨國より船乘して使は遣むと念ほしめす間に、皇神の命以ちて船居は吾作らむと教へ悟し給ひき。教へ悟し給ひながら、船居作り給へれば、悦びうれしみ、云々。(祝詞、遣唐使時奉幣)
 名寸隅の船瀬は、僅に斗出してゐる江井島の小懸崖が、その一部であつたことを、今日でも語つてゐる。素より人工を加へた小灣だから、岩礁が少なく水深の餘りない海と思つてよい。隨つて漁撈には全く不向なので、蜃戸蟹屋の影も乏しいとなると、都人士のゆかしがる海人の生活には接すべくもない。邑美(ノ)頓宮から半日の閑を偸んで、わざ/\海にあこがれて來た作者は、こゝに大きな失望を感じたであらう。乃ち一轉して、當面の明石海峽の對岸なる、松帆の浦の藻刈鹽燒を云爲するに至つた。
 淡路の岩屋松帆邊はその地形からいつても、關西方面での海人の本場であつたらう事は疑もない。現今でも鹽燒こそしないが、漁撈は盛んな土地だ。况やその藻刈鹽燒はおもに婦人の仕事だ。作者が往訪の便のないことを慨いて殘念がるのも、そこに一抹の色彩がある。
 抑も行幸供奉の身柄では、松帆までの出遊は不可能な事で、「見に往かむ由」は全く無い。「丈夫の情はなしに、手弱女の念ひたわみて」は勿論誇張で、意對が親貼に過ぎる。「たもとほり――戀ふる」の躊躇低囘は、或衝動に驅られた者の自然的動作である。「船梶をなみ」は假にも般瀬である以上は、舟楫が無いとはどうしても考へられぬ。多分はその際淡路行の船便がなかつたことの托言であらう。然し既に「見に行かむ由のなけ(1658)れば」の聲言があるので、この重複感を如何ともし難い。辯護すれば具象的にその理由を反復絮説したものともいへようが、矢張不快である。又「なしに」「なければ」「なみ」と同語の疊出は、甚しい蕪穢ではあるまいか。
 この篇遊行の作として一機軸を出したもので、遊覽の不能を主題としてゐる。小篇ながら詩情も動いて面白いが、修辭に難點の多いのは遺憾である。
 
反歌二首
 
玉藻苅流《たまもかる》 海未通女等《あまをとめども》 見爾將去《みにゆかむ》 船梶毛欲得《ふねかぢもがな》 浪高友《なみたかくとも》     936
 
〔釋〕 ○たまも 既出(一〇六頁)。○なみたかくとも 初句の上に廻して聞く格。
【歌意】 松帆の涌に〔二字右○〕藻刈する、海人の少女達を見に往かうよ。どうぞ船や楫がほしいな。よし波が高くともさ。
 
〔評〕 長歌の大意を摘んで、結末に至つて「波高くとも」の轉語を下した。海に波は附物だが、殊に明石海峽は潮流關係から風浪の高い處である。作者はそれを意識してゐるらしい。それでも「見に往かむ」といひ張つてゐる。いかに松帆の浦の海人少女に興味をもつて熱中してゐるかが知れよう。殆ど今の東京人が大島のアンコに憧憬をもつてゐるやうな具合である。
 
(1659)往囘《ゆきかへり》 雖見將飽八《みともあかめや》 名寸隅乃《なきすみの》 船瀬之濱爾《ふなせのはまに》 四寸流思良名美《しきるしらなみ》     937
 
〔釋〕 ○ゆきかへり ユキメグリ〔五字傍線〕とも訓まれるが、舊訓に從つた。○みとも 前出(一六三五頁)。○あかめや 「や」は反動辭。○しきる 頻《シキ》るの意。「しき」の動詞格。「しきなみ」を見よ(五九七頁)。
【歌意】 往つたり來たり何遍見るとも、飽かうことかい。この名寸隅の船瀬の濱に、折返しつゝ寄せる白波はさ。
 
〔評〕 希望が實現不可能ときまつては、現在に滿足するより外はない。即ち眼を船瀬の白波に轉じた。そして逍遙多時に及んだ。矢張惡い景色ではない。さては「見とも飽かめや」と、極めて平凡な處に落着してしまつたのも據あるまい。
 
山部(の)宿禰赤人(が)作歌一首并短歌
 
上とおなじ行幸時の作。
 
八隅知之《やすみしし》 吾大王乃《わがおほきみの》 神隨《かむながら》 高所知流《たかしらせる》 稻見野能《いなみぬの》 大海乃原※[竹/矢]《おほみのはらの》 荒妙《あらたへの》 藤江〔左△〕乃浦爾《ふぢえのうらに》 鮪釣等《しびつると》 海人船散動《あまぶねさわぎ》 鹽燒等《しほやくと》 人曾左波爾有《ひとぞさはなる》 浦乎吉(1660)美《うらをよみ》 宇倍毛釣者爲《うべもつりはす》 濱乎吉美《はまをよみ》 諾毛鹽燒《うべもしほやく》 蟻往來《ありがよひ》 御覽母知師《みますもしるし》 清白濱《きよきしらはま》     938
 
〔釋〕 ○やすみしし 既出(三〇頁)。○たかしらせる 六言の句。「たかしりまして」を見よ(一五三頁)。古義訓による。眞淵訓タカシラスル〔六字傍線〕、略解訓タカシラシヌル〔七字傍線〕。舊訓タカクシラスル〔七字傍線〕は非。○おほみのはら 邑美《オホミ》の原。邑美は播磨國明石郡邑美郷。今の金崎清水の附近。印南野は印南郡で郡は異るが、明石郡の平野まで延長して稱したむの。「大海」は邑美の原義か。「※[竹/矢]」は「きしの」の項を見よ(七二九頁)。○あらたへの 藤の枕詞。既出(一八九頁)。○ふぢえのうら 既出(六六三頁)。「江」原本に井〔右△〕とあるは誤。眞淵説に從つた。○しび 鮪。硬鰭類鯖料の魚。眞黒《マグロ》の大なるもの。○うべも 道理でまあ。「うべ」は諸ふ意。○ありがよひ 「ありがよふ」を見よ(七四四頁)。「蟻往來」は戲書。○みますも 眞淵訓によつた。「御覽」は訓み難い。舊訓ミラム〔三字傍線〕はいかゞであるが、古義の訓メサク〔三字傍線〕も僻してゐる。○しるし 證《シルシ》になるをいふ。○きよきしらはま 「しらはま」は白砂の濱の稱。新考訓キヨミシラハマ〔七字傍線〕は鑿。△地圖及寫眞 挿圖184(六六三頁)及び卷二の卷頭總圖參照。
【歌意】 わが天子樣が神樣であらせられるように、假宮造りして〔六字右○〕占めて入らせられる、稻見野の邑美の原のその〔二字右○〕藤江の浦に、鮪を釣るとて海人は立ち騷ぎ、鹽を燒くとて人が澤山出て〔二字右○〕てゐる。浦がまあよさに道理で釣はする(1661)わ、濱がよさに道理で鹽を燒くわ。現に入らしつて、天子樣が〔四字右○〕御覽なさるもその證據さ。いかにも〔四字右○〕きれいなこの白濱よ。
 
〔評〕 「大王の高知らせる」は頓宮造營の事を斥す。頓宮の所在地邑美の原は邑美(ノ)郷、藤江の浦は葛江《フヂエノ》郷で、郷は互に異なるが、頓宮は浦の西北僅に一里半の近距離にある。で大まかに邑美の原の藤江と續けた。歌人の眼には行政區劃などは、さのみ嚴しくは映じない。
 藤江の浦は嘗て人麻呂が、その鱸釣に興味を惹いた場所である。
  あら栲の藤江の浦に鱸釣るあまとか見らむ旅ゆくわれを (卷三――252)
然るをこゝではそれが大物の鮪に變つた。製鹽も亦相當に盛んであつたと見えた。海上では漁船が鮪釣に奮闘し、陸上では製鹽に人達が活躍すると、海陸に亙つて左右に顧眄し、その生き/\と緊張した海人の生活状態に驚異の眼を瞠つた。
 入興の餘、筆は遂に藤江の浦の讃美に進行し、鮪釣るのも鹽燒くのも、「浦をよみ」「濱をよみ」の故であると、力強く反復主張してみた。が作者の心にはまだ物足りない。乃ち天皇臨幸の事を援いて絶對の證左とした。
 藤江の浦はかくして、その清き白濱を天下に誇耀し得た。
 「清き白濱」、今の藤江の浦は沙崖が崩壞して露出し、濱も狹い。古へとてもさう大きな浦ではなささうだ。濱はまことに白砂で、淡路島を近く、小豆島を遠く見るだけでも風景がよい。
 この篇初頭より「藤江の浦に」までは冒頭だが、假に一段と立てゝ見よう。堂々たる敍筆、事は天威に關し(1662)て雄大な氣象が磅※[石+薄]してゐる。中間第二段の四聯對、その前聯の叙景を主とした實對、後聯の感想を主とした虚對、相俟つてそこに變化横生し、意詞共に力量が充實してゐる。而も前後聯の襷掛けの手法は、記紀時代からの古調であるが、奈良時代に入つては、只管敍事や説明の進行に急なるが爲、漸くこの種の手法を見る事が稀になつた。蓋し詩思の興奮を缺くことの多い結果かと思ふ。第三段「見ますもしるし」と初頭に呼應して、一篇の重心を「清き白濱」に歸した。
 聖武天皇がその邑美(ノ)頓宮から藤江の浦に御出遊なされた事は、この歌の示す如くである。作者はその際供奉して、この佳作を獲たものであらう。
 
反歌三首
 
奥浪《おきつなみ》 邊波安美《へつなみやすみ》 射去爲登《いさりすと》 藤江乃浦爾《ふぢえのうらに》 船曾動流《ふねぞとよめる》     939
 
〔釋〕 ○へつなみやすみ 「へつなみ」は既出(六五五頁)。「やすみ」は平穩なるをいふ。仙覺訓ヘナミヲヤスミ〔七字傍線〕。舊訓ヘナミシヅケミ〔七字傍線〕。○とよめる 略解及び古義訓はサワゲル〔四字傍線〕。
【歌意】 沖の波岸べの波が穩かさに、すなどりするとて、藤江の浦に海人〔二字右○〕船がさ、ワヤ/\してゐる。
 
〔評〕 海上は凪いだ。今こそと出動する漁船の呼聲や楫の音が浦波に響動する。まことに勇ましい光景である。「沖つ波邊つ波」と部分的相對的に表現した漸層は、主眼の語たる「やすみ」に力強い波動を與へ、海人の出(1663)動に對する背景を作してゐる。
 
不欲見野乃《いなみぬの》 淺茅押靡《あさぢおしなべ》 左宿夜之《さぬるよの》 氣長在者《けながくあれば》 家之小篠生《いへししぬばゆ》     940
 
〔釋〕 ○いなみぬ 「不欲」を意訓にイナと讀んだ。○あさぢ 「あさぢはら」を見よ(八〇一頁)。○おしなべ 既出(一二頁)。舊訓オシナミ〔四字傍線〕。○さぬる 寢る。「さ」は接頭語。○しぬばゆ 「小篠生」は戲書。
【歌意】 印南野の淺茅を、押靡けて寢る夜が、長く重《カサ〕なるので、郷里の家がさ、懷かしく思ひ出されるわ。
 
〔評〕 今囘の印南野行幸は全部で十二三日の往復に過ぎない。然るに「氣長くあれば」といひ、「家し慕《シヌ》ばゆ」といふ。誇張に過ぎるやうだが、古代人は概して多忙生活でないし、又情味も篤いしするから」かうした感情は早くつよく動き勝であらう。勿論行旅の艱苦は現代人の想像外で、輕(ノ)皇子(ノ)宿(リマセル)2于安騎野(ニ)1時(ノ)歌にも、
  ――御雪ふる阿騎の大野に、旗すゝきしのを押なべ、草枕旅やどりせす古へ思ひて。(卷一、人麻呂――45)
とるか如く、淺茅押靡べの草枕、それが重なつては、愈よ以てその郷愁を釀すに十分であらう。
 
明方《あかしがた》 潮干乃道乎《しほひのみちを》 從明日者《あすよりは》 下咲異六《したゑましけむ》 家近附者《いへちかづけば》     941
 
〔釋〕 ○あかしがた 明石潟。播磨國明石郡。明石の浦が總稱で、そのうちに港もあり、又潟地もあつた。「方」(1664)は潟の借字。○しほひのみち 潮干の時には通行の出來る處をいふ。海邊にはよく見る現象。○みちを 道にて〔二字傍点〕。「を」の辭、普通の用法とすると、をさまる處がない。古文法の一と見て、ニの意に通ふヲと解しておく。○あすよりは 結句に係る句。○したゑましけむ 下笑ましから〔二字傍点〕むの意。この「けむ」は現在完了の推量詞で、過去推量詞ではない。「したゑむ」は心に笑むこと。「した」は心の中をいふ。訓は契沖のによる。新考は「異」を往〔右△〕の誤としてシタヱミユカム〔七字傍線〕と訓んだ。意は明白になるが、改字には一寸躊躇される。○ちかづけば 讀古義にチカヅカバ〔五字傍線〕の訓を提出してゐる。
【歌意】 明石潟の潮干の道で、内々よろこばしからう、明日からは故郷の家が近づくのでさ。
 
〔評〕 明日御還幸ときまつた前日の作である。邑美から明石までは三里許、朝出立すれば滿潮時にならぬ前に潮干の砂路が行かれる。素より本街道ではあるまいが、風景は必ず面白かつたに相違ない。のみならず一足づつに故郷の家に近づく歡喜をさへ加へる。「氣長くあれば家し慕ばゆ」と既に呻吟してゐた作者は、飛び立つ思で、明日の旅程の樂し(1665)さの二重奏を細々密々にその心に描いた。
 
遇(ぐる)2辛荷《からにの》島(を)1時、山部(の)宿禰赤人(が)作歌一首并短歌
 
○過辛荷島時 辛荷島は播磨國揖保部室津の港口の西方に連つてゐる地(ノ)辛荷、中(ノ)辛荷、沖(ノ)辛荷の三箇の島嶼を稱する。播磨風土記に、韓荷(ノ)島(ハ)、韓人破(リ)v船(ヲ)所(ノ)v漂(フ)之物、漂(ヒ)2著(ク)於此島(ニ)1、故《カレ》云(フ)2韓荷(ノ)島(ト)1と見え、土人カラミと呼ぶはその訛。この歌は聖武天皇の播磨行幸供奉の時の作ではあるまい。淡路から一散に辛荷島へと航行してゐる尚また邑美頓宮御淹留の日子から考へると、天皇は恐らく室津邊まで御出遊の遑があらせられぬと思ふ。
 
味澤相《あぢさはふ》 妹目不數見而《いもがめかれて》 敷細乃《しきたへの》 枕毛不卷《まくらもまかず》 櫻皮纏《かにはまき》 作流舟二《つくれるふねに》 眞梶貫《まかぢぬき》 吾榜來者《わがこぎくれば》 淡路乃《あはぢの》 野島毛過《ぬしまもすぎ》 伊奈美嬬《いなみづま》 辛荷乃島之《からにのしまの》 島際從《しまのまゆ》 吾宅乎見者《わぎへをみれば》 青山乃《あをやまの》 曾許十方不見《そこともみえず》 白雲毛《しらくもも》 千重爾成來沼《ちへになりきぬ》 許伎多武流《こぎたむる》 浦乃盡《うらのことごと》 往隱《ゆきかくる》 島乃埼埼《しまのさきざき》 隅毛不置《くまもおかず》 憶曾吾來《おもひぞわがくる》 (1666)客乃氣長彌《たびのけながみ》     942
 
〔釋〕 ○あぢさはふ 目に係る枕詞。既出(五一六頁)。○めかれて 「めかれず」を見よ(七三八頁)。「不數見」を意訓にカレと讀む。(宣長説)「數」を衍字とすればミズテ〔三字傍線〕と訓む。○しきたへの 枕の枕詞。既出(二五五頁)。「數」はシキと訓まれるが、敷〔右△〕ならばなほよい。○まくらもまかず 枕も執らず。「まく」を見よ(三〇〇頁)。○かには 樺櫻(カニハザクラ、カバザクラ)。古名ハハカ、今名は白樺。殻斗の喬木、葉は桑に似て尖頭及び鋸齒を居し互生す、初夏淡緑の花をつけ、果實は十月頃成熟する。樹皮は柔軟靱強なるを以て、物を纏きとゝのふるに用ゐる。和名抄木具(ノ)類に、玉篇(ニ)云(フ)樺(ノ)木皮(ノ)名、可(キ)2以(テ)爲(ス)1v炬(ト)者也、和名|加波《カバ》、又云|加仁波《カニハ》、今櫻皮有(リ)v之とある。○かにはまきつくれるふね 樺の皮を纏いて作つた船。(1)板の繼《ツガ》ひ繼ひを離れぬ爲に樺皮にて綴ぢ付ける船なるべし(古義所引嚴水説)。(2)舳を飾の爲に樺皮にて卷きたるならむ(1667)(略解説)。(3)船底に卷きて腐触を防ぎしなるべし(新考説)。○まかぢ 既出(八四六頁)。○ぬじま この野島は沼《ヌ》島(前出、一六六四頁)でも、野島が崎(六五九頁)でも地理がかなふ。○いなみづま この語義は「いなびづま」を見よ(一一〇一頁)。それに從へば、辛荷島は印南郡とは間に飾磨の一郡を隔てた揖保郡に屬するから印南都麻《いなみづま》辛荷の島とは續けていひ難い。然し實際には種々の轉用がある。即ち航海者は印南の海(今の播磨灘)を本として、印南都麻は印南の海に瀕する沿岸の總稱にも用ゐたとすれば解決がつく。新考はこの句の下に脱句あるかと疑つたが無用であらう。○しまのまゆ 「やまのまゆ」を見よ(八五頁)。○わぎへ 契沖訓による。○こぎたむる 漕ぎめぐる「こぎたみ」(卷三)とも見え、麻行上二段活用。但四段にも活用の例、集中に「沖つ島漕ぎたむ舟は」(卷三)「武庫の浦を漕ぎたむ小舟」(卷三)など見える。○ゆきかくる 舟の〔二字右○〕往き隱るの意。○しまのさきざき 島の先々。古事記(上)に「打ち見る島のさき/”\」、集中に「付き賜はむ島の埼前《サキ/”\》依り賜はむ磯の埼前」(本卷)「八十島の崎邪岐」(卷十三)その他磯の崎々の語も數多見える。○くまもおかず 「くまもおちず」に同じい。同項を見よ(一一〇頁)。「隅」は隈〔右△〕の通用。○おもひぞわがくる 我が思ひぞくる〔七字傍点〕の轉倒。○たびのけながみ 旅中の日子が長さにの意。「け」は來經《キヘ》の約。△地圖 第二冊の卷頭總圖を參照。
【歌意】 思妻の見る目を離れて、その枕もせず、櫻皮《カニハ》を纏いて造つた船に、左右の楫を懸け貫き、自分が漕いで來ると、淡路の野島も通り過ぎ、印南都麻の辛荷の島のあひから、自分の故郷の家を見ると、遠くに靡く〔五字右○〕青山(1668)のその何處とも見えず、白雲も幾重にも重なつて來た。漕ぎめぐる浦の何れも/\に〔右○〕、船の漕ぎ隱れる島々の出崎出崎に〔右○〕、殘る隈なく妻のことを〔五字右○〕憶ひ續けてさ自分は來たよ、旅の日數の久しさによつてさ。
 
〔評〕 開口一番、妹が目の離れ、枕も卷かぬをいふ。信に正直な自白で、夫婦間の愛を高唱するに、古人は何の遠慮ももたず、頗る開けすけなものであつた。後世武人的洗禮を經た時代から、この種の公言を憚り、強ひて痩我慢を張るやうになつた。
 「櫻皮纏き造れる船」から本題に入つて、その航海苦を敍した。古代の船が皆樺を纏いたかは疑問である。恐らく遠海航路の船に限つて、堅牢の上にも堅牢なれと、樺を以てその急處々々を纏いたものか。正倉院の投壺の箭には樺が卷いてあり、今昔物語に樺卷きたる弓がある。古へは盛にこの物を使用したらしい。
 難波の浦から淡路の野島までは略筆した。さて野島から印南の海を漕ぎ進んで、室津の港口を僅に距る辛荷島まで船は來た。
 故郷の天を想望することは、旅人の悲しい又樂しい日課である。地、中、沖の三島嶼から成る辛荷島、作者はこの島の際を透して吾宅《ワギヘ》を回顧した。が海上は遙に播攝境の山から淡路の島山が、青垣なして瀬戸内海の東偏を局り、その視界を遮斷してゐる。即ち「青山のそことも見えず」である。天を仰げば「白雲も千重に」重なつて、徒らに茫漠たるばかりである。畢竟幾度廻顧しても、首の骨こそ痛くなれ、酬いる物は何もない。以上がこの篇の中腹を構成する敍事である。
 昔の航海は常に海岸線近くに聯繋をたもちつゝ行くので、此處彼處の浦傳ひ、磯崎島崎の往きめぐりであつ(1669)た。されば「漕ぎたむる――」「往きめぐる――」の一聯は、航海全程といふほどの意を具象的に表現した辭句となる。
 あはれ萬斛の旅愁はこの海水を傾けても洗ふべくもない。まさに「隈もおかず憶ひぞわがくる」である。奈良京から播磨の國府までの公程は、下三日上五日の規定(和名抄)だから、この航海とても長くて一週間か十日には過ぎまい。それを「旅のけ長み」は聊か大仰らしいが、當時としては矢張大旅行で、假令どんな享樂があつても、「一夜を明かす程だにも旅寢となれば悲しきに」(太平記)と嗟歎した古人の氣持は、現代人の心からは殆ど理解し難い處で、古人の情味の篤さと、一本氣な正直さとに、つく/”\感動させられる。
 結收はかくして冒頭に回顧しつゝ叙情を以て終つた。一寸天武天皇の吉野の御製(卷一)の末尾に似てゐる。「漕ぎくれば」「見れば」の同辭法の重複は矢張白璧の徴瑕であらう。「わが漕ぎくれば」を漕ぎくるなべに〔七字右○〕とでも改めたらば、或は無難であつたらうに。
 この歌は赤人西下の時の作である。その西下の事由は判明しない。卷三に伊豫(ノ)温泉(道後)での懷古の作が出てゐる。或はおなじ折の詠か。
 
反歌三首
 
玉藻苅《たまもかる》 辛荷島爾《からにのしまに》 島囘爲流《しまみする》 水烏二四毛有哉《うにしもあれや》 家不念有六《いへもはざらむ》     943     、
 
〔釋〕 ○しまみする 島めぐりする。「いそみ」を見よ(八五一頁)。○う 鵜。※[盧+鳥]※[茲+鳥]。既出(八三頁)。「水烏」は(1670)その羽色から陸の烏に對へた造語。集中に贈(レル)2水烏(ヲ)越前(ノ)判官大伴(ノ)宿禰池主(ニ)1歌(卷十九)とも見え、爾雅の注に、※[盧+鳥]※[茲+鳥](ハ)水烏也と見えた。○あれや この「あれ」は命令格。「や」は呼格の辭。アレバヤ〔四字傍点〕の意ではない。
【歌意】 あの辛荷島に、島あるきしてゐる鵜でもさ、自分が〔三字右○〕あればよいわさ。そしたらなまじ〔七字右○〕、家など思ふ苦勞もなからう。
 
〔評〕 着想寄拔。「家思はざらむ」は家思ひの念に懊悩してゐる人の歎の聲、無心に磯あさりする鵜の鳥の幸福を羨み、寧ろこの身が即鵜であらうことを希望するに至つた。さればその一旦奇拔と見えたものも、實は小心の餘に出た矯語に過ぎない。情に脆い人間の弱さが如實に暴霹されて悲しい。
 
島隱《しまがくり》 吾榜來者《わがこぎくれば》 乏毳《ともしかも》 倭邊上《やまとへのぼる》 眞熊野之船《まくまののふね》     944
 
〔釋〕 〇しまがくり 島崎の陰に入るをいふ。「かくり」は四段活用の古言。略解訓による。舊訓シマガクレ〔五字傍線〕。○ともしかも この「ともし」は羨ましの意。「ともしきろかも」(二一三頁)「ともしも」(二一七頁)を參照。尚「こごしかも」を見よ(七八〇頁)。○やまと 既出(一二頁、二〇頁、一七二頁)。○まくまぬのふね 「まくまぬ」の「ま」は美稱。「くまぬ」は熊野形の船の稱と假定する。その樣式は判然しない。神代紀(下)、隈野(ノ)諸手《モロテ》船の疏に、熊野(ハ)船(ノ)名、また伊豫風土記に、昔野間(ノ)郡(ニ)有(リ)2一(ノ)船1、名(ハ)熊野(ト)1、後|化2爲《ナレリ》石(ト)1、また同逸文(釋紀所引)に、野間(ノ)郡熊野(ノ)峯、所(ヲ)名(ヅクル)2熊野(ト)1由(ハ)、昔時《ムカシ》熊野|止《ト》云《イフ》船(ヲ)設(ク)v此(ニ)など見え、造船の樣式上から付けた名と考へられる。(1671)この下にも家持の伊勢行幸供奉の歌に「御食《ミケ》つ國志摩の海人《アマ》ならし眞《マ》熊野の小舟に乘りて沖へ漕ぐ見ゆ」とある。但神代紀の諸手船の熊野は、出雲風土記によれば意宇郡の地名で、そこに素盞嗚尊の靈が鎭座されてある。さてはクマヌは出雲族の用ゐた韓語で、語意はさし當つて解釋されてないが、その船は或は朝鮮式の船かも知れない。諸手は漕手の二人以上あるのだから、相當の大きさと速力とを持つた船らしい。舊訓ミクマヌ〔四字傍線〕、今は略解訓による。
【歌意】 島陰に往き隱れ/\して、自分が漕いでくると、羨ましいことよなあ、故郷倭の方へのぼつて行く、あの眞熊野船はさ。
 
〔評〕 作者は折柄西下の途にあつた。船は島隱りする度に故郷倭に遠ざかり、離愁は愈よ益す深く長じてゆく。この際反對の東の方向に針路を取る船を發見したとしたら、とても羨望の念に堪へぬであらう。况やそれが長航海に耐へる眞熊野船なので、更に一歩を進めて、その船をわが懷かしの「倭へのぼる」ものと認定し、力強い懷郷の情を寓せた。
  旅にして物こほしきに山したのあけのそほ船沖に漕ぐ息ゆ (卷二、黒人――270)
とその感想の性質を同じうするものである。
 
風吹者《かぜふけば》 浪可稱立跡《なみかたたむと》 伺候爾《さもらひに》 都多乃細江爾《つたのほそえに》 浦隱居〔左△〕《うらがくりをり》     945
 
〔釋〕 ○さもらひに 伺《ウカヾ》ひの爲〔二字右○〕に。尚「さもらへど」を見よ(四九四頁)。○つたのほそえ 津田の細江。播磨國飾(1672)磨郡。今の津田村これに當り、津田村に隣る飾磨町の内に細江町の稱がある。○うらがくりをり 「居」原本に往とあるは誤。元本その他によつた。
【歌意】 風が吹くので、海上には〔四字右○〕波が荒く〔二字右○〕立たうかと、その模樣見に、津田の細江に、浦隱れしてをるわ。
 
〔評〕 舟※[楫+戈]幼稚な時代とて、動もすれば神經を尖らせて、風まもり波まもり、島隱り浦隱り、海上をまるで忍びあるきのやうな状態で往來したものだ。「涌隱り」とはいつても、津田の細江は本當の港灣ではない。が折柄雲行がわるく風立つて來たので、これは危險と、臨時に手近のこの細江に避難したのである。この種の作はとかく單なる報告に流れ勝なのを、これは古代人の航海心理と感情とが如實に躍動してゐる。
 津田の細江は辛荷島より遙東方であるから、道順が逆になり、過幸荷島歌の反歌としては適切でないが、古人は大まかだから、途中の作をも反歌中に攝したのであらう。
 以上三首は赤人作中の異彩。他の諸作とその風格を殊にして、或は奇峭或は悽婉或は蒼凉、他人の容易に企及し難い佳處好處に富んでゐる。
 
過(ぐる)2敏馬《みぬめの》浦(を)1時、山部(の)宿禰赤人(が)作歌一首并短歌
 
○敏馬浦 既出。「みぬめ」を見よ(六五九頁)。
 
(1673)御食向《みけむかふ》 淡路乃島二《あはぢのしまに》 直向《ただむかふ》 三犬女乃浦能《みぬめのうらの》 奥部庭《おきへには》 深海松採《ふかみるとり》 浦囘庭《わには》 名告藻苅《なのりそかる》 深見流乃《ふかみるの》 見卷欲跡《みまくほしけど》 莫告藻之《なのりその》 己名惜三《おのがなをしみ》 間使裳《まづかひも》 不遣而吾者《やらずてわれは》 生友奈重二《いけりともなし》     946
 
〔釋〕 ○みけむかふ 既出(五一六頁)。こゝは御食《ミケ》に供ふる粟といふを淡路にいひかけた枕詞。○ただむかふ 直ちに對する。「ひなのくにべにただむかふ」を見よ(一一〇〇頁)。○みぬめ 「三犬女《ミイヌメ》」は戲書に近い。○うらわ 佐變動詞に接續する場合の「浦囘」は必ずウラミと訓む。○かる 略解訓によつた。舊訓カリ〔二字傍線〕。○ふかみるの みる〔二字傍点〕の音を疊んで「見まく」に續けた序。「ふかみる」は既出(四〇〇頁)。〇みまく 我妹子を〔四字右○〕見まく。○ほしけど この語態は「とほけども」を參照(九〇二頁)。○なのりその 名告るなといふ如く〔二字右○〕。「おのが名惜しみ」に係る序。「なのりそ」は既出(八四〇頁)。○おのがなをしみ 自分の評判に關はる惜しさに。○まづかひ 相手との間の使。○まづかひも 間使さへも。○いけりともなし 既出(五八二頁)。「重二」は四〔傍点〕の算數的戲書。並二〔二字傍点〕また二二〔二字傍点〕と同趣。△地圖 第二冊卷頭總圖を參照。
【歌意】 淡路島に眞ともに對つてゐる敏馬の浦の、沖合では深海松《フカミル》を採り、浦邊では莫告藻を刈る、その深梅松のミルといふやうに倭にゐる妻を〔六字右○〕見たいが、莫告藻の告《ノ》るなといふやうに自分の名が惜しさに、文通の〔三字右○〕使さへ(1674)も遣らないので、自分は生きてゐる氣もしない。
 
〔評〕 前半は詰まる處、眼前の取材によつた「見まく」「おのが名惜しみ」に對する修飾文字で、一篇の主意はその後牛にある。然し景に依つて情を興し情に依つて景を懷ふ。情景交互の絢ひ交ぜが相照映して、一段の風趣を生ずることを忘れてはならぬ。「おのが名惜み間使も遣らず」は負惜みだが、そこが男の切ない處さ。
 中間、深海松、莫告藻の交錯した襷付けは例の古調である。
 
反歌一首
 
處間乃海人之《すまのあまの》 鹽燒衣乃《しほやきぎぬの》 奈禮名者香《なれなばか》 一日母君乎《ひとひもきみを》 忘而將念《わすれておもはむ》     947
 
〔釋〕 ○すま 既出(九二二頁)。○しほやきぎぬ 既出(九二二頁)。○しほやきぎぬの 鹽燒衣の如く〔二字右○〕。海人の鹽燒衣は大抵著馴らした古着《フルギ》なので、「馴れ」と續けた。初二句は序詞。○なれなばか 「なれなば」は馴染んだなら。「か」は疑辭。○ひとひも 一日なりとも。片時もといふに同じい。○わすれておもはむ 念ひ忘れむの古格。「わすれてもへや」を參照。(二四六頁)。△地圖及寫眞 挿圖276(九二一頁)277(九二二頁)參照。
【歌意】 須磨の海人の鹽燒衣は、著馴れたものであるが、そのやうに狎れ馴染んだ上なら、假令一日でも貴女を、思ひ忘れる事もありませうかしら。
 
(1675)〔評〕 處がまだ馴染まぬうちに別れたので、思ひ忘れる時もないの餘意がある。表現が逆説的だから、一寸要領が握みにくいので、三句を略解及び古義は、近く居て〔四字傍点〕馴れなばと解し、新考はもし離隔に〔三字傍点〕馴れなばと解たが、何れも斜視である。
 作者は婚後間もなく旅に出たものと想像される。「馴れなばか――忘れて思はむ」はほんの物の喩で、本來は馴染むがまゝに愛は濃厚になるものだが、今のさし當つた離愁に感ずる纏綿の情緒を、力強く反映させる爲の善巧方便である。
 
 右(ノ)作歌(ノ)年月未(ル)v詳(カナラ)也。但以(テノ)v類(ヲ)故(ニ)載(ス)2於此(ノ)次《ツイデニ》1。
 
  右の歌は年月が不明だ。但同じ旅行類の作だからこの順に載せたとの意。「右」の語は過2敏馬浦1の作にのみ係けたものか、更に遡つて過2辛荷島1の作にまで及ぶものかは判明しない。
 
四年|丁卯《ひのとう》春正月、勅(りて)2諸王諸臣子等《おほきみたちおみたちに》1、散2禁《はなちいましめたまへる》於授刀寮(に)1時(に)作歌一首井短歌
 
〇四年 神龜四年。○勅諸王云々 王《オホキミ》達や臣《オミ》達に勅命が下つて、授刀寮に禁足せしめられた時に詠んだ歌との意。○散禁 大寶の獄令に、杖罪以下の罪は散禁す、但|巾《カブリ》を脱するに及ばずと見え、義解に謂(フ)d不v關(ラ)2木索(ニ)1唯禁(ズルヲ)c出入(ヲ)uとあつて、禁足に當る。散は放まなること。○授刀寮 續紀に、慶雲四年七月丙辰始(メテ)置(ク)2授刀舍人(ノ)寮(ヲ)1と見え、兵仗を帶し禁中を警衛する。督二人從四位上、佐一人正五位上、大尉一人從六位上、少尉一人正七位上、以下大志二人少志二人あり、舍人は四百人を限り、醫師兵衛衛士の目が見える。大官はその資人とし(1676)て授刀舍人を賜はる。後中衛府の支配を受け、天平神護元年二月近衛府に改められた。
 諸王諸臣子が散禁された事情は左註に委しい。
 
眞葛延《まくずはふ》 春日之山者《かすがのやまは》 打靡《うちなびく》 春去往跡《はるさりゆくと》 山上丹《やまのへに》 霞田名引《かすみたなびき》 高圓爾《たかまとに》 鶯鳴沼《うぐひすなきぬ》 物部乃《もののふの》 八十友能壯者《やそとものをは》 折木四哭之《かりがねの》 來繼比日〔二字左△〕《きつぐこのごろ》 如此續《かくつぎて》 常丹有脊者《つねにありせば》 友名目而《ともなめて》 遊物尾《あそばむものを》 馬名目而《うまなめて》 往益里乎《ゆかましさとを》 待難丹《まちかてに》 吾爲春乎《わがせしはるを》 決卷毛《かけまくも》 綾爾恐《あやにかしこく》 言卷毛《いはまくも》 湯湯敷有跡《ゆゆしくありと》 豫《あらかじめ》 兼而知者《かねてしりせば》 千鳥鳴《ちどりなく》 其佐保川丹《そのさほがはに》 石二生《いそにおふる》 菅根取而《すがのねとりて》 之努布草〔左△〕《しぬふまで》 解除而益乎《はらひてましを》 往水丹《ゆくみづに》 潔而益乎《みそぎてましを》 天皇之《すめろぎの》 御命恐《みことかしこみ》 百磯城之《ももしきの》 大宮〔左△〕人之《おほみやびとの》 玉桙之《たまほこの》 道毛不出《みちにもいでず》 戀比日《こふるこのごろ》     948
 
(1677)〔釋〕 ○まくずはふ 山に係る序詞。葛は山野に蔓ふ物なのでいふ。「ま」は美稱。「くず」は既出(九四六頁)。○かすがのやま 既出(八五九頁)。○うちなびく 春の枕詞。既出(六七七頁)。○はるさりゆくと 春になつてゆくと。「往」原本に住〔右△〕とあるは誤。元本神本等によつて改めた。○たかまと 「たかまとやま」を見よ(六一六頁)。○もののふのやそとものを 「やそとものを」を見よ(一〇三七頁)。「壯」は若盛りの男子をいふ。故にヲと訓む。○かりがねの 雁は秋冷に乘じてつぎ/\來るものなので、「來繼ぐ」に係る序とした。こゝは時季が正月即ち春だから、まことに雁の來繼ぐとしては當らない。梅(ノ)花歌(卷五)の序はおなじ正月に「空(ニハ)歸(ル)故雁(アリ)」と作つてある位だ。「かりがね」は雁と同意に用ゐた。本義は雁が音《ネ》で雁の聲をいふ。「折木四哭」は戲書。契沖がこれをカリガネと訓んだのはよいが、その解説は想像である。「折木四」はまた切木四(卷十)とあり。梅園日記(北靜廬著)に、和名抄雜藝部に、兼名苑(ニ)云(フ)樗蒲一名九采【内典(ニ)云(フ)樗蒲、賀利宇智《カリウチ》】又陸詞曰(フ)、※[木+鳥]【音軒、和名、加利《カリ》】※[木+鳥]子(ハ)樗蒲(ノ)采(ノ)名也とある。折木四は即|樗蒲子《サイ》の事にて、それは小木を薄く削り兩邊を尖らしめて、形杏仁を削ぎたる如し。その半面は白く、半面は黒く塗りて、白き方二に雉を畫き、黒き方二に犢を畫き、これを投じて其の采《メ》色によりて勝負をなす。西土(支那)にてはこれを四木といひ、又五子の采にてするを五木といへり。祈〔傍点〕又は切〔傍点〕の字を加へたるは長木ならぬをいふ。かゝれば折木四は樗蒲子の事にて、加利《カリ》の假字としたる也。云々。(卷三)
 又、狩谷※[木+夜]齋の箋註倭名抄、樗蒲の註に、
(1678)  喜多村氏節信曰(フ)、樗蒲用(ヰル)2四子(ヲ)1、云々。以(テ)v之(ヲ)反復互(ニ)換(フレバ)、則(チ)九變(シテ)而止(ム)。故(ニ)又名(ヅク)2九采(ト)1。
節信に折木考のある事は、その著嬉遊笑覽中にも明記してあり、正辭氏は梅園が節信の説を竊んだものとしてゐる。
○きつぐこのごろ 續いて來るこの頃。官人達の來集まるをいふ。「比日」原本に皆〔右△〕とあるは誤。宣長及び略解説によつて改めた。但その訓キツギコノゴロ〔七字傍線〕は非。○かくつぎて 原本に「石此續」とある。宣長及び略解の「石」を如〔右△〕の誤として、訓カクツギテとあるに從つた。○つねにありせば 何時もであるならば。この「つね」は平生の意。○ゆかましさとを 「さと」は春日の里。この「まし」は第四變化連體格。○まちかてにわがせしはるを わが待ち敢へず思ひし春をの意。「春を」はこの下の「戀ふる」に係る。尚「えかてにすとふ」を見よ(三一九頁)。訓は契沖のによる。○かけまくも 既出(五三〇頁)。「決」は挂《カケ》の意。宇鏡に、※[韋+蝶の旁](ハ)決也、弓加介《ユガケ》とあるカケである。缺〔右△〕の誤とするにも及ぶまい。○あやにかしこく 略解及び古義訓のカシコシ〔四字傍線〕は非。○ゆゆし 既出(五三〇頁)。○ちどりなく 佐保川に係る序詞。「ちどり」は既出(六八七頁)。○そのさほがはに その佐保川にて〔右○〕。「さほがは」は既出(二七三頁)。○すがのね 「やますげ」を見よ(七三六頁)。○しぬふまで 萎《シナ》へるまで。「しぬふ」は「心もしぬに」のしぬ〔二字傍点〕の動詞形で波行四段活の古語か。「眞木の葉のしなふ」(卷三)のしなふ〔三字傍点〕と相通の語と思はれる。「草」は二手《マテ》の二字の誤寫であらう。古義は原文のまゝで、春野を慕《シヌ》ぶ思ひ種《グサ》の意と解したのは當らぬ。次の「祓へてまし〔二字右△〕を」は禍を拂ふにて、思ひ種を拂ふのではない。新考に、この句は枕詞ならでは意通ぜすとあるも拘つてゐる。○はらひ 祓除。罪咎を拂ひ清むること。「解除」も同意。○みそぎ 既出(九三六頁)。○みことかしこみ 「みこと」(七三二頁)及び「かしこし」(五三〇頁)を見よ。○おほみやび(1679)との 「宮」原本に官〔右△〕とあるのは誤。元本その他による。△地圖及寫眞 挿圖170(六一七頁)169(六一四頁)87(二七三頁)を參照。
【歌意】 春日の山は春になつてくると、山邊に霞が靡き、高圓山に鶯が嶋くわ、數多の官人達は寄りに寄つてくるこの頃、何時もの事なら、友達を引連れて遊ばうものを、そして馬を乘り並べて行かう春日の〔三字右○〕里であるものを、その待ち敢へず焦がれた春を、ゆくりなく勅勘を蒙つて〔十一字右○〕、かけて思はうにも奇《アヤ》しく恐れ多く、口にいはうにも憚ありと、前以て知らうなら、千鳥嶋くその佐保川で、石間に生えてゐる山菅の根付きを取つて、そのしなしなになるまで罪を祓はうものを、逝く水に潔修《ミソ》いで穢を濺がうものを、悔しくも何もせずして〔十字右○〕、勅命を恐み畏れて、大宮人達が外出もせず立籠つて、徒らに餘所の春〔八字右○〕を戀ふるこの節であることよ。
 
〔評〕この篇は豫備知識として、まづ左註を讀んで、その大體の事情を知悉しておく必要がある。
 時は神龜四年の正月、春のしるしの霞幕は春日山に曳かれ、お隣の高圓山には鶯が新聲を奏でてゐる。祝ひ月の事とて、王子方や官人達が續々參朝や參陣やで繰り込んで、頗る賑やかだ。
 忽に侍從や授刀寮の人達の間で、打毬の催しが成り立つて、打揃つて春日野へ出掛けたのであつた。侍從はこの頃出身したばかりの若者が多いし、その他も相當血氣盛りの連中の事とて、お役目も忘れて見物の彌次馬まで飛び出したらしい。處が惡い事は出來ぬ。初春だといふに生憎の雷雨だ。その爲打毬の遊が潰れた位は何でもない。いとも大變な事件が出來してしまつた。 
 抑も天變地異は非常時の一つで、迷信深い古へは特に恐懼したものであつた。雷鳴の際には侍從の臣は玉體(1680)に近侍し奉り、武官は弓箭を帶して禁裏に侍衛する。令に明文こそないがこれが不文律であつた。平安期では雷鳴三度に及べば近衛の大將はじめ出陣して南殿に候し、さて襲芳舍に宿衛するので、襲芳舍を雷鳴の陣と稱したほどだ。
 珍しい雷雨で、主上は獨宸襟を悩ましてあらせられたのに、皆は春日野で濡佛、宮中に「侍從及び侍衛の臣なし」といふ涯りない失體を現じた。勅命忽に降下して、職務曠廢の廉《カド》により、その連中を授刀寮に禁足。
 「いやも、こんな掛けまくもいはまくも畏い忌々《ユゝ》しい禍つ日を前知したなら、早く佐保川に出て、岸の山菅を取つて、思ひ切りそのクタ/\になるまで、河水を晒いで潔修《ミソギ》して祓つて置けばよかつたに」と、今更悔んでも後の祭だ。
 川原に打出て祓除潔身、罪咎の穢を水に流して、遂に海から根の國へと順々に送り棄てる行事は、わが太古からの習俗で、大祓の詞(祝詞式出)の具さに示す如くである。
 愈よ禁足されてみると、日が經つに隨つて意地わるく、樣々な想念が頻に湧く。第一春といふ好もしい行樂時季、例年なら朋友三五輩を聯ね、白金の目貫の太刀を下げ佩いて、街頭への進出だ。或は新柳の枝を鞭に代へ轡を並べての新春の遊賞だ。次の反歌に見える如く、佐保の内の梅柳、春日高圓の山野や奈良山佐紀山の春日郊行、水上池(佐紀池)佐保川の舟遊など、尚澤山の行樂地もあつたらう。それを何ぞや、今は拘禁の身で、假にも大宮人たる者が、尺前一歩の道も日月の光を憚つて踏まず、待ち受けた希望の多い春を、空しく授刀寮の築土の陰から戀しがつて、不本意の日數を送る。實に心外なと慨歎した。然しその慨歎は根本に培はれてある享樂的氣分の反映であることが看破される。
(1681) 本事件は驕り切つた若者達の失敗であるが、面白いのは奈良人の心理も大して後世人と變らない事だ。近眼者は奈良時代は萬事が丈夫《マスラヲ》振で、剛健質實、勤勉素朴、誠意に充ち滿ちてゐるかのやうに幻想してゐる。令文の規程や續紀の法令や記事やを裏返して考察すると、矢張り御多分に洩れぬ同じ人間同じ世の中で、あらゆる醜怪な罪惡は横行してゐたのであつた。尤も國體觀念や敬神思想や氏族のもつ自尊精神や社會の傳統的慣習やに、往古からの竪實な思想が、半面に力強く流れてゐた事も確かだ。それが奈良人の特徴とでもいへよう。
 「眞葛はふ」より「鶯嶋きぬ」までの冒頭の一段は、この篇の全背景を構成してゐる。以下「わがせし春を」までが第二段の前節、以下「解除《ミソ》ぎてましを」までがその後節である。前節は「常にありせば」の假設的辭柄のもとに行樂の希望を布敍し、「待ちかてにわがせし春を」の句を關鍵として、第三段への跨續を求めた。後節は「かねて知りせば」の假設的辭柄のもとに、罪穢祓除の過怠を絮説し、前後兩節「まし」の語を大膽に疊用して、その散禁無聊中の閑想に耽つた。「おほきみの」以下は第三段で、一轉して散禁の現在状態を敍べて、前二段に反撥せしめた。「大宮人の」の一句は實に冷語骨に徹する思がある。但第二段前節の敍法に稍明晰を缺く憾もあるが、それも聞き樣による事である。
 王子諸臣子達の授刀寮の散禁、一寸注意の惹かれる題目だが、詠作の主想が春遊不可能の遺憾さにのみ置かれて、散禁そのものを輕く扱つた爲、極めて凡常な感想で終始してしまつた。それを逆にしたら定めて特色のある面白い作を見たことであらう。
 
反歌一首
 
(1682)梅柳《うめやなぎ》 過良久惜《すぐらくをしみ》 佐保乃内爾《さほのうちに》 遊事乎《あそびしことを》 宮動々爾《みやもとどろに》     949
 
〔釋〕 ○すぐらくをしみ 過ぐることを〔三字右○〕惜しみ。○さほのうち 佐保(ノ)郷の内。「さほ」を見よ(七三八頁)。○みやもとどろに 宮内も轟くほどに。この下、いひ騷ぐ〔四字右○〕の語が略かれてある。△地圖 挿圖170(六一七頁)を參照。
【歌意】 梅の盛りや柳の新緑の時過ぎることを勿體ながり、嘗ての春〔四字右○〕佐保の内で遊んだことを、宮内も轟くほどに、禁足の皆々がいひ立てたわい〔十三字右○〕。
 
〔評〕 佐保は奈良京の北郊で地域は狹いが、梅柳の春の景物に富み、又秋の風趣にも饒かであつた。
  我が門にもる田をみれば佐保の内のあき萩薄おもほゆるかも(卷十――2221)
 禁足連はその曾遊を憶ひ出して、實にあの時は面白かつたが、かうしてゐる間にもその梅も散り柳も伸び過ぎはしまいかと苦勞にして、盛に騷ぎ立てたといふ。「宮もとどろに」は素より大いなる誇張である。
 長歌の評中に、樂天氣分がその底に低迷してゐるといつた。茲にはそれが公々然と不謹愼と思はれる程に、表面的に打つて出てゐる。その暢氣さ加減には實に驚かされる。古義の説の
  佐保の内へ出で遊びし事を、宮中とよみていひ騷がれつゝ、散禁の罸にあひてをるがいぶせし、はまるで見當違ひで、散禁の因は長歌及び左註に見える如く、春日野の出遊で、佐保の遊には與らない。隨つて「宮もとどろに」は他人がお節介にさう騷ぐのではない、當人達が春を惜んで騷ぐのである。
 結句、その誇張と※[立+渇の旁]後の辭樣とによつて、頗る含蓄味を饒からしめた。
 
(1683)右神龜四年正月、數《モロ/\ノ》王子《オホキミ》及(ビ)諸《モロ/\ノ》臣等《オミタチ》、集(リテ)2於春日野(ニ)1、而作(ス)2打毬之樂(ヲ)1。其日忽(チ)天|陰《クモリテ》雨(フリ)雷電(ス)。此(ノ)時宮中(ニ)無(シ)2侍從及(ビ)侍衛1。勅(シテ)行(ヒ)2刑罰(ヲ)1、皆|散2禁《ハナチイマシメテ》於授刀寮(ニ)1而妄(ニ)不(ラシメタマフ)v得v出(ヅルコトヲ)2于道路(ニ)1。于時悒憤即(チ)作(ル)2斯歌(ヲ)1。作者未v詳(カナラ)。
 
 神龜四年正月、諸王子及び諸臣達が春日野に集まつて打毬の遊をした、その日急に空が曇つて雨が零り雷電かあつた。この時宮中には、侍從の文官も侍衛の武官も居ない、そこで勅命があつて刑罰の處斷があり、遊に往つた輩を皆授刀寮に禁足し、妄に外出を許されなかつた、時に憂欝して即ちこの歌を作つたとの意。○作者未詳 事が事、歌が歌だから、始から作者は不明にしてあつたものらしい。○打毬 毬杖をもつて毬を打つ遊戲。和名抄に、打毬、唐韻(ニ)云(フ)、毬(ハ)丸(メテ)v毛(ヲ)打(ツ)者也。劉向別録(ニ)云(フ)、打毬(ハ)昔黄帝(ノ)所v造(ル)、本因(リ)2兵勢(ニ)1而爲(ル)v之(ヲ)、云々。師説(ニ)云(フ)萬利宇知《マリウチ》。紀には打毬を蹴鞠と混同した。こゝの打毬之樂は打毬の遊樂の意で、雅樂の打毬樂ではあるまい。
 
五年|戊辰《つちのえたつ》、幸(せる)2于難波(の)宮(に)1時、作歌四首
 
〇五年戊辰幸于難波宮 神龜五年難波行幸のこと、續紀に所見がない。紀は誤漏が多いから、この題詞の如き(1684)事實はあつたと見てよからう。但、歌は難波行幸とは全く無關係なる相聞歌である。
 抑もこの卷は雜歌を採録するが本旨だから、相聞歌のあるべき筈がない。想ふに或人が、この四首を記した短籍(附箋)を卷三あたりの譬喩歌か相聞歌かの部に挿んで置いたのが、誤つて此處に紛れ込んだのを、そのまま後の筆者が本文に書き入れたものらしい。又いふ、この四首を※[手偏+(ク/内/比)]入として考へると、「五年云々」の題詞は直ちに下の「膳《カシハデノ》王(ノ)歌一首」とあるに係るものと見てよい。
 
大王之《おほきみの》 界賜跡《さかひたよふと》 山守居《やまもりすゑ》 守云山爾《もるとふやまに》 不入者不止《いらずはやまじ》     950
 
〔釋〕 ○さかひたまふと 界をなさるとて。「界ひ」は佐行四段活に古へは用ゐた。○やまもり 既出(九〇八頁)。○もるとふ モルチフ〔四字傍線〕の訓もよい。○やまに 山にも〔右○〕の意と見る。
【歌意】 假令天子樣が界を立て給ふとて、山番を置いて守るといふ山にも、界を犯して這入らずにはおくまい。――まして親の守る位の女を手に入れずにおくものか。
 
〔評〕 寄托の言であることは明かだが、文字上から見ると、事天威に關聯して甚だ不穩である。極端の誇張を志して、却て破綻を生じた。よつて意釋はその意を緩和して解して置いた。作者の本意とても恐らくその邊であつたのだらう。
 
(1685)見渡者《みわたせば》 近物可良《ちかきものから》 石隱《いそがくり》 加我欲布珠乎《かがよふたまを》 不取不已《とらずはやまじ》     951
 
〔釋〕 ○ちかきものから 近くにある〔二字右○〕もの故に。○いそ 磯。石處の義。○かがよふたま 耀く珠。
【歌意】 見渡すと、ごく手近にあるものを、その磯隱れに耀く珠を、手に取らずにはおくまい。――とても近くに住むものを、その箱入娘を、終には手に入れずにはおくまい。
 
〔評〕 磯隱れに耀ふ珠は鰒珠即ち眞珠である。眞珠ほど珠玉類の中で女性的の感じをもつ物はない。隨つて婦人に擬へるにふさはしい。而も今日よりもその産額が少くて、非常な高貴品であつた時代としたら、その譬喩は最大限度の敬慕を拂つたものといへよう。「磯隱りかがよふ」といつても、眞珠は貝中の珠で、剥き出しに光つては居ない位は作者も知つてゐようが、深閨中の美人を彷彿させるには、かういふより外はなからう。結句も類句が卷七に二首あるが、この際至當の下語である。但初句の「見渡せば」は浮泛で面白くない。この語は「見渡せば明石の浦にともす火の」(卷三)の如く用ゐて、始めて可なるものである。
 
韓衣《からごろも》 服楢乃里之《きならのさとの》 君〔左△〕待爾《きみまつに》 玉乎師付牟《たまをしつけむ》 好人欲得《よきひともがも》     952
 
〔釋〕 ○からごろも 韓衣。(1)朝鮮の衣、(2)朝鮮式の衣、(3)「から」を美稱として、單に衣のことゝする。こゝは(3)の意。○きならのさと 衣の著馴るの馴る〔二字傍点〕を奈良にいひ懸けた。「から衣著」までは奈良に係る序詞。○(1686)ならのさと 奈良京の一部にこの稱あるか、未考。上にも「奈良路なる島の木立も」と見えた。○きみまつに 君待つにより〔二字右○〕。待つ〔二字傍点〕に松をいひ懸けた。「君」原本に島〔右△〕とある。宜長いふ、下にも「吾宿の君まつの樹に」と詠めれば。こゝも島〔傍点〕は君〔傍点〕の誤と。○たまをしつけむ 玉を著けむ。「し」は強辭。○よきひと 優れた人。卷一には淑人〔二字傍点〕を訓んである。こゝでは物の辨へある人をいふ。新考は「人」を玉〔右△〕の誤とした。簡明であるが、わざと改める程の必要もない。
【歌意】 衣は著馴らす、その馴るといふ名の奈良の里のお方を待つによつて、その待つといふ名の松の樹に、玉をさ飾り付けう處の〔二字右○〕、譯のわかつた人も欲しいなあ。
 
〔評〕 待たれる人は京人で、殊にそれが壻の君であるとしたら、超特別の歡迎方法を考へねばならぬ。隨分宿に玉敷く手もあるが(本卷、及び卷十二、卷十八、卷十九に所見)、こゝには新手《シンテ》を出して、庭の松の樹に玉を飾つたらとの名案、然し深閨中の婦人とすると、それは心の内で思ふだけで、獨やきもきして、只もう氣特の利いたよき人の出現を待望した。
 初二句の辭樣は、卷三「をとめ等が袖ふる山の」の評中に詳説した。
 「きなら」「君まつ」のいひ懸け、こんな細瑣な技巧は集中に多分に疊見する。これに枕詞や序詞の有する類似の技巧を加へて見たなら、殆どその煩に堪へぬであらう。傳統は爭へないものだから、平安朝の技巧的修辭を論ずる前に、まづこの集の同じ方面を具に囘顧する必要があらう。
 
(1687)竿牡鹿之《さをしかの》 鳴奈流山乎《なくなるやまを》 越將去《こえゆかむ》 日谷八君《ひだにやきみに》 當不相將有《はたあはざらむ》     953
 
〔釋〕 ○さをしか 牡鹿。「さ」は美稱。「竿」は借字。尚「かなかむやまぞ」を見よ(二八七頁)。○ひだにや 「や」は反動辭。○きみに 新考はキミハ〔三字傍線〕と訓んだが不自然である。○はたあはざらむ 「はた」は「はたや」を見よ(二五八頁)。
【歌意】 平時はとにかく〔七字右○〕、牡鹿の鳴いてゐる山を、越えて行かうこの時なりとも、貴女にさし當つて、逢はずにあらうことかいな。
 
〔評〕 鹿の鳴くのは秋で、それは妻戀の爲である。その秋山を獨旅して行かうことを想像すると、男は鹿以上に妻戀ひの念に打たれて溜らなくなり、出立前に是非逢はうと思つたが、生憎や會合の機會がない。焦燥胸に迫つて、時もあらうに逢はずに別れ行くことか、いや行かれることではないと、男泣に泣いてゐる。
  み吉野の山のあらしの寒けくにはたや〔三字傍点〕今宵もわが獨寢む(卷一――74)
とその意趣風格が類似して、やゝ一籌を輪するが、而も聲響から生ずる凄酸味は同調である。
 
右、笠(ノ)朝臣金村之歌集〔左○〕中(ニ)出(ヅ)也。或(ハ)云(フ)車持(ノ)朝臣千年作(メリト)v之(ヲ)。
 
 金村歌集中にこの四首があつたのなら、金村作として差支へないやうだが、すべて左註に擧げた某歌集〔三字傍線〕といふものは甚だしどけない上に、第三首の如きは婦人の作らしいから、「右」の字は「さをしか」の一首にのみ係(1688)けて見るべきか。或人の車持千年作の説にも、同じ理由が共通する。「集」原本にない。補つた。
膳王歌《かしはでのおほきみの》一首
 
○膳王 膳部王、また膳夫王と書く。膳王は部〔右△〕の字或は脱か。既出(九八〇頁)。
 上の「五年戊辰幸2難波宮1時作歌四首」の題詞は、この条の始に置くべきものと思ふ。但この神龜五年の行幸は績紀には見えない。
 
朝波《あしたには》 海邊爾安左里爲《うなびにあさりし》 暮去者《ゆふされば》 倭部越《やまとへこゆる》 鴈四乏母《かりしともしも》    954
 
〔釋〕 ○うなび 海辺《ウミベ》の轉。山び、河び、岡び、濱びの續きと違つて、ウミの尾韻からビに續くので、ウナ〔二字傍点〕と轉じた。△地圖 第一冊 卷頭總圖參照。
【歌意】 朝方にはこの海邊に求食《アサリ》し、夕方になると、故郷倭へ山越えてゆく雁がさ、羨ましいなあ。
 
〔評〕 難波行幸の御供人としての膳部王を考へる。折々は人戀しさに故郷倭(奈良)へ歸りたいが、その自由は一切利かない。近くて遠い憾を抱いて、悄然として蘆邊の雁の行動を伺ふと、朝には難波の海に求食り、夕べには生駒連山を飛び越えて行く。山のあちらは即ち懷かしの倭である。はかない生物の雁も、圖らず人間羨望の的となるに至つて、旅情の凄慘、人をして酸鼻に禁へざらしめるものがある。
(1689) 初二句と三四句との排對、地理的に雄大な光景を想はしめ、屑々たる技巧に囚はれぬ点は推賞に値する。
 
右、作歌之年月不(ル)v審(ナラ)也。但以2歌(ノ)類(ヲ)1便載2此|次《ツイデニ》1。
 
 この左註は、歌を難波宮行幸時の題詞下の作とすれば、「但云々」は全然不用の文字となる。
 
太宰(の)少貮《すくないすけ》石川(の)朝臣|足人《たりひとが》歌一首
 
○太宰少貮 既出(七九三頁)。○石川朝臣足人 「石川足人朝臣」を見よ(一一六二頁)。以下また宰府の詠作が連載されてある。
 
刺竹之《さすだけの》 大宮人乃《おほみやびとが》 家跡住《いへとすむ》 佐保能山乎者《さほのやまをば》 思哉毛君《おもふやもきみ》     955
 
〔釋〕 ○さすだけの 君、皇子《ミコ》、大宮に係る枕詞。また舍人に冠するは大宮の〔三字右○〕舍人といふを略いたもの。刺《サ》し竹《ダケ》の轉。始より刺す竹の意ならばタの音は清む筈なるを、紀をはじめ古書皆濁音の陀、太などの字を充てゝあるから、複合名詞の刺し竹〔三字傍点〕を原語とする。大神宮儀式帳に五百枝利《イホエサス》竹田乃國ともある。(1)若竹の枝刺し葉刺し榮え行く意にて、君、大宮、皇子に續けていふか、「さす」は草木の生ひ殖《ハ》りて生榮えあるをいふ(守部説)。(2)狹虚《サス》竹の黍《キミ》を君にいひかけ、さて皇子とも大宮とも續く(古義説)。(3)立《タ》つ竹の轉(古説)。三説のうち(1)が勝つてゐる。○いへとすむ 家として〔二字右○〕住む。○さほのやま 既出(一〇〇八頁)。○おもふやも 「や」は疑辭。「も」は歎辭。△地圖及寫眞 挿圖170(六一七頁)87(二七三頁)を參照。
(1690)【歌意】 大宮人の貴方が〔三字右○〕、家として住まれた佐保の山をば、思ひ出しになりますかえ、貴方はよ。
 
〔評〕 大宮人は大伴旅人卿を斥した。旅人は門閥の名家で、この時從三位中約言兼太宰帥である以上は、堂々たる大宮人である。また奈良に於けるその佐保山の家は、父安麻呂卿以來の傳承で、音に聞えた名邸宅である。乃ちこの佐保山を拉へ來つて、今や鎭西の方伯となつて君は榮えて居られるが、時には故京戀し家戀しの念がお生《オコ》りでせうと、少貮さん足人は帥殿の急處を突いてみたものだ。「佐保の山をば思ふ」は歸家を念ふの暗喩である。
 こゝに一寸經緯がある。上の「五年幸于難波宮」の題詞の年代をこゝに係ければ、神龜五年の作と見られる。旅人の筑紫在任はこの時既に足掛け四年に及んでゐる。作者も卷四にこの年遷任上京の事が出てゐるから、旅人以上に長年在任して居たと見てよい。すると元々自分が持て餘してゐる懷土望郷の念から、同情的にこの質問を發したものと考へられる。更に今一層立入つて考へると、自分の抱いてゐる羈愁を、體裁よく旅人の口から吐かせようと試みた狡獪手段ともいへよう。
   藤なみの花はさかりになりにけり奈良の京《ミヤコ》をおもほすや君(卷三、大伴四綱――330)
と殆ど同調の作である。よつてその評語(七九七頁)を參照されたく、又卷五「雲に飛ぶ藥はむよは」の条の評語をも參考(一四八九頁)。
 
帥《かみ》大伴(の)卿《まへつぎみの》和《こたふる》歌一首
 
大宰帥の旅人卿の返歌との意。○帥 既出(七九八頁)。○大伴御 旅人の傳は既出(七三頁)。
 
(1691)八隅知之《やすみしし》 吾大王乃《わがおほきみの》 御食國者《をすくには》 日本毛此間毛《やまともここも》 同登曾念《おなじとぞおもふ》     956
 
〔釋〕 ○をすくには 新考に、食國なれば〔三字傍点〕といはでは辭足らずとあるは、迂に近い。「をすくに」は既出(五三三頁)。「御」は敬意を以て添へた。○やまともここも故郷の〔三字右○〕倭もこゝの筑紫〔三字右○〕も。
【歌意】 天子樣の御統治なされる日本國は、倭でも筑紫の此處でも、同じ事だとさ私は〔二字右○〕思ひます。――別に佐保の家の事も思ひません。
 
〔評〕 九寸五分で横腹に突つ懸つて來たのを、大段平でカツキと受け止めた貌である。足人は私人の立場から一場の情語を弄した。旅人は公人の立場から、詩の小雅北山篇の「普天之下、莫(シ)v非(ルハ)2王土(ニ)1」の意を主張して反撃した。實は表面的の理屈を楯とした強がりの痩我慢だから、その心中の葛藤に至つては、却て凄愴甚しきものがあらう。決して樂天的放語ではない。
 應歌が「刺竹の大宮人」と堂々と來たので「八隅ししわが大王」と應酬した。この邊の呼吸に息も吐かれぬ面白味がある。
 
冬十一月、太宰(の)官人等《つかさびとら》、奉(り)v拜《をろがみ》2香椎《かしひの》※[まだれ/苗](を)1訖《をへて》退歸《まかる》之時、馬(を)駐《とどめ》2于香椎(の)浦(に)1、各述(べて)v懷(を)作歌
 
神龜五年冬十一月に、太宰府の役人達が香椎の廟の參詣が濟んで歸る時に、香椎の浦に馬を駐めて、それ/”\心のうちを詠んだ歌との意。○太宰 太宰府を見よ(七九三頁)。○香椎廟 筑前國糟屋郡香椎村にある。香椎廟宮と称し、今官幣大社に列する。神功皇后を祀る。或は仲哀天皇を祀るとす。「香椎」はまた橿日、樫日と(1692)も書く。和名抄に加須比《カスヒ》とあるは平安期の訛称である。「※[まだれ/苗]」は廟の古文で靈屋をいふ。この社に限り神社といはずして廟といふは、制蕃の神として特に神靈を奉祀された爲か。社は古くよりあつたらしいが、本社古記に、養老七年造營、神龜元年に成就の記事がある。○香椎浦 香椎廟の西に接した博多灣の一部の称。△地圖挿圖217(七四四頁)を參照。
 
帥大伴(の)卿(の)歌一首
 
○大伴卿 旅人卿のこと。
 
去來見等《いざこども》 香椎乃滷爾《かしひのかたに》 白妙之《しろたへの》 袖左倍所沾而《そでさへぬれて》 朝菜採手六《あさなつみてむ》     957
 
〔釋〕 ○いざこども 既出。「いざ」及び「こども」を見よ(二三五頁)。○かしひのかた 香椎潟。香椎の涌は博多灣の奥部に屬し、遠淺で潟地を成してゐた。○かたに 潟にての意。「滷」は鹵水の合字。鹵は鹽土。鹽土の水に從ふは即ち潟である。○しろたへの 衣及び袖などの枕詞。既出(二八頁)。○そでさへ 裳裾は素より〔六字右○〕袖までも。○あさな 朝食《アサケ》の料の菜。菜はこゝでは海藻を称した。○ぬれて 既出(一五〇二頁)。
【歌意】 さあお前達よ、私も一緒に〔五字右○〕この香椎潟で、裾から〔三字右○〕袖までもビシヨ/\になつて、朝菜を摘まうぞ。
 
〔評〕 香椎廟は韓地制禦の神であり、太宰府は邊防の職であるから、神人不可分の關係に置かれてある。で帥卿を始め府の官人達は一同打揃つて賽詣した。宰府から香椎までは五里強、馬での遠乘なら朝詣に間に合はぬこ(1693)こともないが、多分前夜を一泊したものらしい。
 香椎參詣に必ず伴ふものは香椎潟の優賞だ。宰府の平野から出て來た人達の眼を悦ばしめるに足る風光であつた。參詣さへ濟めばもう用なし、あとは一時的解放の自由行動だ。
 帥卿は從者達に對つて「いざ子ども」と呼び懸け、香椎潟で一緒に朝菜摘をしようぞと、いかにも打解け切つたお詞だ。「袖さへ沾れて」は朝菜摘の状態の形容として適實である。この一句あるが爲に、朝菜摘が衣袂の沾れをも厭はぬ程興味深いものと受け取られ、隨つて「摘みてむ」に力強い示唆を與へる。
 「摘みてむ」は希望で、その實行に移らぬ間に有餘不盡の味ひがある。宰府の長官しかも御老體の帥卿が、本當に從者達と水なぶりをしてしまつたのでは埒はなくなる。
 閾を撤して衆と偕に樂しむ温雅な氣持、暢んびりした大樣な態度、流石に帥卿旅人の風格が想見される。
 
大貮|小野老《をぬのおゆの》朝臣(が)歌一首
 
○大貮 「太宰少貮」及び「太宰府」を見よ(七九三頁)。○小野老 既(1694)出(七九三頁)。老はこの時にはまだ少貮に任じたばかり。こゝに大貮とあるは、その極官を以て擧げたものだ。
 
時風《ときつかぜ》 應吹成奴《ふくべくなりぬ》 香椎潟《かしひがた》 潮干※[さんずい+内]爾《しほひのうらに》 玉藻苅而名《たまもかりてな》     958
 
〔釋〕 ○ときつかぜ 時に當つて吹く風。こゝはさし潮の時に吹く風をいつた。○しほひのうら 「※[さんずい+内]は水の廻り流るゝ内面をいふ。よつて浦に充てた。○かりてな 既出(三六七頁)。
【歌意】 さし潮時の風が、生《オコ》りさうになつた。香椎潟の潮干の浦で、はやく〔三字右○〕海藻を刈らうよ。
 
〔評〕 海潮滿干の差が著しい地方では潟地も忽ち海だ。香椎宮參拜を終へて浦邊に打出た頃は、大方晝の退潮の頂上で、一しきり遊ぶと、もう時つ風が吹き立つてさし潮時になる。そこで今の間遊べるだけ遊ばうといふ事を玉藻刈に托言した。
   時つ風吹かまく知らず阿胡《アコ》の海の朝明《アサケ》の潮に玉藻刈りてな (卷七――1157)
   ゆふされば潮滿ち來なむ住の江の淺香の浦に玉藻刈りてな(卷二、弓削皇子――121)
は同想同型の作。殊に前首は一心同體、何れを影とも形とも辨知し難い。
 
豐前(の)守|宇奴首男人《うぬのおびとをひとが》歌一首
 
○宇奴首男人 傳未詳。宇奴は氏 首は姓。政事要略(廿二)に、舊記(ニ)云(フ)、養老四年大隅日向兩國(ノ)隼人《ハヤト》發《オコス》v亂(ヲ)、勅(シテ)以(テ)豐前(ノ)守字奴(ノ)首男人(ヲ)1爲(シ)2將軍(ト)1、祈(リ)2八幡(ノ)大神(ニ)1伐(ツ)v之(ヲ)、多(ク)殺(ス)2隼人(ヲ)1大(ニ)勝(ツ)v之(ニ)、於是《コヽニ》爲(シ)2放生會(ヲ)1報(ズ)2神恩(ニ)1とある。(1695)姓氏録に宇奴(ノ)首(ハ)、百濟(ノ)國君(ノ)男、彌奈曾富意彌《ミナソホオミ》之後也と。但續紀を檢すると、養老四年二月に太宰府より隼人反亂の奏上があり、三月に正四位下大伴旅人が征隼人持節大將軍、從五位下笠(ノ)御室、同巨勢(ノ)眞人が副將軍に任ぜられたと見えて、字奴男人の將軍たる事がない。要略に、養老四年までは九年間になる。その間國守でゐたとしては法外の長期である。恐らく守は介の誤であらう。隼人反亂當時は豐前介(六位)であつたとすれば、位階が卑いから將軍たる筈も殆どあるまい。要略の記事は誤つてゐる。
 
往還《ゆきかへり》 常爾我見之《つねにわがみし》 香椎滷《かしひがた》 從明日後爾《あすゆのちには》 見縁母奈思《みむよしもなし》     959
 
【歌意】 豐前の國府から宰府へ往復の度に、何時も自分が見たことであつたこの香椎潟、明日から後には、二度と見ようすべもないわ。
 
〔評〕 香椎潟を再訪し難い遺憾の表明、間接にその風光の面白さが反映する。
 養老四年の隼人征伐の際、常時豐前介だつた男人は大將軍旅人の部將として働いた男だ。旅人が帥として再び筑紫に來てから又被管の關係を生じたのだから、公務以外に深い交情があつたと見てよい。
 九州及び二島は皆宰府の被管だ。豐前守たる作者も隨時宰府に參向して、帥卿の膝下に排跪の禮を怠らなかつたらう。香椎潟はその序に訪問した馴染み深い土地で、まことに「ゆき返り常にわが見し」であつた。然るに「明日ゆのち」なぜ見む由もないのか。
 男人は當時豐前守の秩が滿ちて、歸京の途に上る際であつたと考へられる。で帥卿に暇乞かた/”\宰府に參(1696)向したらしい。帥卿はこれを好機会に、少貮小野朝臣をはじめ作者等を同伴して、香椎に出動に及んだ。されば男人はこれが香椎の見納めなのであつた。
 「常にわが見し」「見む由もなし」の相反的應接、率直と正直さとはあるが、餘り親貼に過ぎるかと思ふ。
 
帥大伴(の)卿(の)遙(に)思《しぬびて》2芳野(の)離宮《とつみやを》1作歌一首
 
旅人卿が宰府から、遙に芳野離宮を戀ひ思うて詠んだ歌との意。
 
隼人乃《はやひとの》 湍門乃磐母《せとのいはほも》 年魚走《あゆはしる》 芳野之瀧爾《よしぬのたきに》 尚不及家里《なほしかずけり》     960
 
〔釋〕 ○はやひとの 既出(六五七頁)。○せと 薩摩の〔三字右○〕迫門の略。「さつまのせと」を見よ(六五七頁)。○いはほも 巖でさへも 。「磐」は盤〔右△〕とある本もある。二字は通用。○よしぬのたき 「たぎのみやこ」を見よ(一四八頁)。○なほ やはりの意。○しかずけり 既出(八二四頁)。△地圖及寫眞 挿圖177、178(六五六、六五七頁)。50(一五一頁)を參照。
【歌意】 いかに見事な〔六字右○〕薩摩の迫門の巖だつても、故郷倭の〔四字右○〕、鮎が走る吉野の瀧には、矢張かなはぬわい。
 
〔評〕 薩摩の迫門の岩壁岩礁の存在は、賞に雄大奇※[山+肖]を窮めたもので、とても規模の小さな吉野の瀧の比ではない。これが公論である。
 作者は心裏にそれを肯定しつゝも、「尚及かずけり」と斷言した。これは決してお國自慢の横車を押したの(1697)ではない。その實眞劍深刻な國|慕《シヌビ》の念がハンデキヤツプとなつて、吉野の瀧の價値が倍加されたからである。平然として迫門の巖を蹴落し得るほど、作者の胸中には國慕びの念が鉢切れさうになつてゐる。それが悲しい。「鮎走る」の形容はその特徴を擧げて、事實上からも吉野の瀧により多く價値づけようとの小努力である。すべて大きな聲の揚言ではなくて、悄然首を垂れて口の内につゞしつた趣の歌である。楚調凄然として窮りない感愴を内に藏し、表現は全く技巧外に超越して、一唱三歎の妙味がある。可笑しいのは古義に、
  薩摩は太宰の所部の國なれば、香椎廟より歸らるゝ序に往きて見られしなるべし。
とあるが、香椎から薩摩の迫門は百里も隔つてゐる。序などに往ける處ではない。この歌は上の香椎行とは全然關係をもたぬ別時の作である。
 
帥大伴(の)卿(の)宿(りて)2次田温泉《すきたのゆに》1、聞(きて)2鶴喧《たづがねを》1作歌一首
 
旅人卿が次田の温泉に泊つて、鶴の鳴く聲を聞いて詠んだ歌との意。○次田温泉 筑前國|御《ミ》笠郡次田(ノ)郷の湯。(今筑紫都二日市町武藏にあり、武藏温泉といふ)。竹取物語、空穗物語、古今集等に、筑紫の湯とあるはこゝの事。○鶴喧 「喧」はかまびすしの意で形容詞であるが、こゝは名詞とした。△地圖 挿圖217(七四四頁)を參照。
 
(1698)湯原爾《ゆのはらに》 鳴蘆多頭者《なくあしたづは》 如吾《わがごとく》 妹爾戀哉《いもにこふれや》 時不定鳴《ときわかずなく》     961
 
〔釋〕 ○ゆのはら 湯のある原野。○あしたづ 「あしたづの」を見よ(一〇〇二頁)。「頭」をヅと讀むは呉音。○こふれや 戀ふれば〔右○〕や。○わかず 「不定」を意訓に讀む。
【歌意】 次田の〔三字右○〕湯の原に鳴く鶴は、自分が吾妹子を戀ふるやうに、嬬戀るせゐかして、何時といふ事なしに鳴くわ。
 
〔評〕 次田の湯は太宰府の南郊にあり、天拜山下の平原で、まさに湯の原である。而も鶴も下り立つ※[さんずい+如]沮地であつたらうことは、疑もない地勢である。
 本年の暮春、旅人卿はその愛妻大伴郎女を喪はれた。(卷五、一三九七頁參照)。鶴の渡來は早くても十月であるし、上に「冬十一月云々」の題詞ある香椎行があるから、それから推せば、次田の湯治はまづ十一月十二月の交と(1699)見られる。郎女の逝後漸く半歳餘に過ぎない、
 温泉場の雰圍氣は孤獨感をいやが上にも唆るもの。况や老いて伉儷喪うた彼れである。追慕の暗涙は時に衣袂を湿すに堪へぬものがあつたらう。この時に當つて不斷の鶴唳を前面の湯の原に聞く。鶴も鳴き、我れも泣く。「なく」が兩者の連鎖となつて、「わが如く妹に戀ふれや」と、自身の情懷を鶴の上に寄托した。蓋し詞人の慣手段である。流石の醉客旅人も茲に至つては、酒の氣が全然醒めてゐる。「なく」の重複の如きは更に耳に障らない。
  打渡す竹田の原に鳴く鶴《タヅ》の間なく時なしわが戀ふらくは (卷四――760)
は妹君坂上郎女の作で同調に屬するが、此れは常々勁健、彼れは句々流麗、おのづから男女の色相を殊にしてゐる。尤も郎女のは遙 に後出である。
  
天平二年|庚午《かのえうま》、勅(りして)遣(したまへる)d擢駿馬使《こまえらびのつかひ》大伴(の)道足《みちたるの》宿禰(を)u時(の)歌一首
 
天平二年勅命で駿馬を探し求める使大伴(ノ)道足を筑紫に遣はされた時の歌との意。歌の作者は左註によれば葛井廣成《フヂヰノヒロナリ》である。○擢駿馬使 擢駿馬はコマエラビと訓む。この使は臨時に派遣される。「駿」は和名抄に、駿(ハ)馬之美称。漢語抄(ニ)、土岐字馬《トキウマ》、日本紀私記(ニ)、須久禮太留宇萬《スグレタルウマ》とある。○大伴道足 績紀に、慶雲元年正月從五位下、和銅元年三月從五位上讃岐守、同五年五月正五位下、同六年八月彈正(ノ)尹《カミ》となり、養老四年正月正五位上、同十月民部大輔となり、同七年從四位下、天平元年二月權參議となり、同三月正四位下、同九月兼右大辨となり、同三年八月諸司の擧に依つて擢んでられて參議となり兼官故の如く、同十一月南海道鎭撫使となる。天平十三(1700)年に薨逝。
 
奥山之《おくやまの》 磐爾蘿生《いはにこけむし》 恐毛《かしこくも》 問賜鴨《とひたまふかも》 念不堪國《おもひあへなくに》     962
 
〔釋〕 ○おくやま 既出(七三六眞)。○いはにこけむし 「こけむし」は「こけむす」を見よ(六一二頁)。初二句は「かしこく」に係る序詞。深山の岩に苔の生えたのは恐ろしく見えるのでいふ。○おもひあへなくに 歌を〔二字右○〕思ひつき得ぬのに。歌を考へることを歌思ひ〔三字傍点〕といふ。
【歌意】 奥山の岩に苔が生え、それが畏く見えるやうに〔八字右○〕畏くも、歌はどうかとお尋ねなさることよ、私には思ひ付きかねますのにさ。
 
〔評〕 一口に輿車といふが、奈良時代の乘物は輿の外は馬であつた。車は乘物として支那では馬車牛車羊車の類があり、わが邦では平安期に至つて牛車を用ゐるやうになつたが、その以前には車を用ゐなかつた。蓋し道路が不備で車行に適せぬせゐもあつたらう。力車は用ゐたが。
 で馬が頗る幅を利かせ、紀には諸臣の騎馬の行粧を叡覽された記事が再三掲載された。擢駿馬使を立てられる事も、それらの必要上からも起つたと見られる。然し筑紫に馬を求めることは異例であらう。馬は大抵日本中部以東の山國を産地としてゐる。但國守の職掌中には厩牧の事が規定されてゐたから、九州でもそれ/”\その飼育には力めてゐたものであらう。
(1701) 勅使道足は帥卿の一族で、当時權參議で在京大伴氏の代表者であつた。かた/”\歡迎の宴を帥の官邸で開き、官吏達を會同した。その中に葛井(ノ)連《ムラジ》廣成は勅使隨行の駅使で、下向して來た男であつた。乃ちこの男を捉まへて、須(シ)v作(ム)2歌詞(ヲ)1と責め立てたものだ。これには譯がある。廣成は養老三年に大外記で遣新羅使となつた程の漢學者で、(天平十五年に新羅使攝待に筑紫に下つた事もある)又詩作にも達成してゐる文雅の士である。されば國風の歌は彼れの畑《ハタケ》にあるまいとの豫想から、そこに興味をもつたものだらう。
 女牛に腹突かれたとはこの事、眞逆と思つたのが、聲に應じての「畏くも問ひ給ふかも思ひあへなくに」は、正にその實况に即した屬吐で、而も彼我を相對的に扱つた流活の妙は、時に取つて頗る面白い。主人帥卿、尊者道足を始め、一同唖然として驚歎したことであらう。
 但上句は全部、古い譬喩歌に、
  奥山のいはに蘿《コケ》蒸しかしこみと思ふこゝろをいかにかもせむ (卷七――1334)
 とあるを一寸拜借して融通したらしい。この來歴を知る者は、更に廣成の當意即妙の頓才に敬服したことであつたらう。尚卷七の本歌の評語を參照。
 
右、勅使《ミカドヅカヒ》大伴(ノ)道足(ノ)宿禰(ヲ)饗《アヘス》2于帥(ノ)家(ニ)1。此(ノ)日|會2集《アツム》衆諸《モロビトヲ》1。相2誘《イザナヒ》駅使《ハユマヅカヒ》葛井《フヂヰノ》連《ムラジ》廣成(ヲ)1、言(フ)v須《ベシト》v作(ル)2歌詞(ヲ)1。登《ソノ》時廣成應(ジテ)v聲(ニ)即(チ)吟《ウタヘリキ》2此歌(ヲ)1。
 
 擢駿馬の勅使大伴(ノ)道足を帥卿旅人の家で饗應した。この日諸人を寄せ集めた、駅使である葛井(ノ)廣成をその席に誘うて、歌を詠みなさいと慫めた、その時廣戌がその聲のもとに、すぐ樣この歌を朗吟したとの意。
 
(頭注に、奉和藤太政佳野之作 正五位下中宮少輔葛井廣成 という漢詩、たぶん懷風藻、があるが、省略)
 
(1702)○駅使 既出(一一八四頁)。○葛井連廣成 本姓|白猪史《シラヰノフヒト》。續紀に、養老三年閏七月大外記從六位下で遣新羅使となり、同四年 五月葛井連の氏姓を賜はる、天平三年正月正六位上から外從五位下、同十五年三月新羅の使來朝に就いて筑前に派遣、供給檢校のことを掌り、同六月備後守、同七月從五位下、同二十年二月從五位上、同八月天皇その宅に行幸留宿、廣成及びその室犬養(ノ)宿禰八重に正五位上を授けられ、勝寶元年八月中務少輔となる。下に天平八年十二月、歌※[人偏+舞]所の人達がその家に宴した事が出てゐる。音樂にも通じてゐたと見える。武智麻呂傳には文雅の士として擧げてある。卷四卷五卷六に筑後の守葛井大成の名が見える。廣成の兄弟か。
 
冬十一月、大伴(の)坂上(の)郎女《いらつめが》發《たち》2帥(の)家(を)1、上道《みちだちして》、超(ゆる)2筑前(の)國|宗像《むなかたの》郡|名兒《なご》山(を)1之時(に)作歌一首
 
天平二年冬十一月、大伴郎女が兄帥卿旅人の家を出立して、上京の途にのぼつて、筑前國宗像郡の名兒山を越える時に詠んだ歌との意。○大伴坂上郎女 既出(八六七頁)。○名兒山 宗像郡|荒自《アラジノ》郷(今の宮地村|在自《アラジ》)。勝浦村より田島村へ越える小山。有名なる宗像神社より西南に當り、今ナチゴ山といふ。筑前續風土記に、
  昔は勝浦より此處(名兒山)を過ぎ、田島より垂水越をして、内浦を通り蘆屋へ行くを大道としたり。
とある。
 
(1703)大汝《おほなむぢ》 小彦名能《すくなびこなの》 神社者《かみこそは》 名著始鷄目《なづけそめけめ》 名耳乎《なのみを》 名兒山跡負而《なごやまとおひて》 吾戀之《わがこひの》 千重之一重裳《ちへのひとへも》 奈具佐米七國《なぐさめなくに》     963
 
〔釋〕 ○おほなむぢ 既出(八三二頁)。○すくなびこな 既出(八三二頁)。〇かみこそ 「神社」を充てたのは、當時|神社《カミコソ》の氏もあるから、別に戲書ではなからう。○なづけそめけめ この山に〔四字右○〕名兒の名を附け初めたことであつたらう。この句の下に、然るに〔三字右○〕の語を挿入して聞く。○なのみを 「おひて」に係る。○なご 和《ナゴ》の義に取る。○ちへのひとへも 既出(五六五頁)。○なぐさめなくに 「米」原本に末〔右△〕とあるは誤。元本その他によつた。正辭は未〔右△〕の誤として、未にメの音ありと論じたが、迂遠である。
【歌意】 大汝少彦名の二神こそは、この山に〔四字右○〕心の和むといふ名兒の名を付けそめられたことであつたらう。然るに〔三字右○〕(1704)この山は、そんな結構な〔六字右○〕名ばかりを負ひ持つて、私の戀心の千分の一も、一向に慰めはせぬのにさ。
 
〔評〕 紀記に據れば、大汝少彦名の二神は相携へて國土を經營し、又稼穡の業を教へられたといふ。隨つて經營功成る毎に、その山川 國土に命名されたと想像することも、作者の自由であらう。
 「なご」は海邊に於いては風波の平穩を象徴した名称として、可なり廣區域に亘つて用ゐられてある。然し山の名には珍しい。作者はその自家の境遇から「なご」の名義に一不審を打ち、名のみあつてその實なしと喝破して、暗に名付け親たる大少二神に反問し怨訴してゐる。いかにも女らしい情緒の發露である。
 「吾戀」の對象は何か。これに(1)都を戀ふ(2)兄旅人を戀ふ(3)夫を戀ふの三つの考方がある。(1)は一般的でふさはず、(2)は兄の許を別れてまだ一日路位に過ぎぬとなると、(3)を取上げて見るより外はあるまい。
 郎女が藤原(ノ)麻呂(ノ)卿を夫として迎へたのは、前夫|宿奈《スクナ》麻呂の逝後暫くしての事であつた。二人の間に女の子までも擧げた程であるが、何かの事情から關係が疎遠になり、郎女は意を決して宰府の兄旅人卿の許に走つた。それも一時的興奮の餘で、居常戀々の情に耐へぬものとすれば、愈よ歸京の途に上つては火に油を濺いだやうな形で、その「吾戀」はまことに「千重」なるものがあつたらう。
 郎女は名兒のなだら坂を往きながら、山の名に※[夕/寅]縁して、こんな事を思ひ續けた。途上の口占として、小詩形ながらもかく完璧に仕上げた、その手腕には敬服する。
  名草《ナグサ》山事にしありけりわが戀の千重の一重もなぐさめなくに (卷七・1213)
は、長短の差こそあれ、この歌と着想も詞形も同じだ。後先何れか。
 
(1705)同、坂上(の)郎女(が)海(つ)路(にて)見(て)2濱(の)貝(を)1作歌一首
 
郎女が海辺の路で浜辺にある貝を見て詠んだ歌との意。これも上京の途上の事である。
 
吾背子爾《わがせこに》 戀者苦《こふればくるし》 暇有者《いとまあらば》 拾〔左△〕而將去《ひろひてゆかむ》 戀忘貝《こひわすれがひ》     964
 
〔釋〕 ○こふれば 旧訓コフルハ〔四字傍線〕。○ひろひて 古義訓ヒリヒテ〔四字傍線〕は古に泥み過ぎた。「拾」原本に捨〔右△〕とあるは誤。元本その他によつた。○こひわすれがひ 戀忘るに忘貝をかけた。○わすれがひ 既出(二四六頁)。
【歌意】 吾背子に戀すれば苦しいことわ。暇があるなら、濱邊で〔三字右○〕拾つて往かうよ、戀を忘れるといふ名の忘貝をさ。
 
〔評〕 今は征旅の途次、眼前咫尺の地にも逍遙の餘暇がない。「暇あらば」は暇のない反言である。
 「戀わすれ貝」の辭樣は、小手先の小技巧で、集中この外四首あり、別に「戀わすれ草」と詠んだのが一首ある。そのうち卷十五の歌は天平八年遣新羅使一行の人の作である。萬葉人も漸うこんな小技巧を悦ぶやうになつて來たことに注意を要する。中にも、
  いとまあらば拾ひに行かむ住の江の岸に寄るとふ戀わすれ貝 (卷七――1147)
はこの歌と全く同規で、形影相伴ふ觀がある。但「戀ふれば」といひ、又「戀わすれ貝」とあり、その他修辭の點に於いて此れは彼れに劣る。
 
(1706)冬十二月、太宰(の)帥大伴(の)卿(の)上(る)v京《みやこに》之〔左○〕時、娘子《をとめが》作歌
 
天平二年冬十二月、旅人卿が上京の時、兒島娘子《コジマヲトメ》が詠んだ歌との意。○兒島娘子 左註に遊行女婦とあり、その傳未詳。
 
凡有者《おほならば》 左毛右毛將爲乎《かもかもせむを》 恐跡《かしこみと》 振痛袖乎《ふりたきそでを》 忍而有香聞《しぬびてあるかも》     965 
 
〔釋〕 ○おほならば 大凡ならば。尋常ならば。○かもかもせむを 斯《カ》も如此《カク》もせむをの略。契沖訓による。旧訓サモトモセムヲ〔七字傍線〕。○ かしこみと 元本、類聚本の訓による。旧訓カシコシト〔五字傍線〕。○ふりたきそで 卷一「茜さす紫野ゆき」の歌の評語(九四頁)を參照。 ○しぬびて この「しぬび」は忍耐の意。
【歌意】 大抵ならば、あゝもかうもしませうものを、貴方樣の御身分柄〔九字右○〕恐れ入つた事として、今のお別に對し〔七字右○〕、振りたい袖を、振らずに〔四字右○〕我慢してをりますことかいな。
 
〔評〕 装束を脱いで、遊行婦兒島を相手に盃を擧げてゐる時は、その醉泣に手を燒かせる徒《タヾ》の老人に過ぎない。いざとなつて笏を執れば從三位太宰帥大伴旅人卿だ。今や卿は多年の蟄懷こゝに啓けて、新大納言としての都還り、晴の征途に上る門出でゝあつた。大少貮や守を始め、府庁國衙の官人は厮走の末に至るまで、その甘棠の徳を慕つて、我も/\と盛な見送りだ。 
(1707) 水城《ミヅキ》は府の正西約二十町許の處にある。その關門を出ればもう宰府の人でない。多くの人達は心ゆく限その袖を打振つて、我れも/\とその惜別の情意を表するのであつた。時にその人達の後ろに、じつと齒を喰ひしばつて涙を呑んでゐる女が一人あつた。それが兒島なのである。
 「遊び者の推參は世の常に候ふ」と、不斷は帥殿の官宅に出入して、特別な眷顧を蒙つてゐたとはいへ、失張陰の人である以上は、人目に露はれての袖振も恐こい。すれば出來ぬことはないが、卿の御身分の爲にさし控へて忍ぶのであつた。「振りたき袖を忍びてある」その態度の愼《ツヽ》ましさ、及び情理の葛藤から生ずる苦悩が※[酉+鰮の旁]釀する悲傷は、頗る同情に値する。「おほならばかもかもせむを」は一旦思索を經ての語だから、情熱の力の隨つて弱いのは止むを得まい。
  草まくら旅ゆく君を人目おほみ袖振らずして數多《アマタ》くやしも (卷十二――3148)
もこの同調である。
  大宰(ノ)帥大伴(ノ)卿(ノ)被《レ》v任(セ)2大納言(ニ)1臨v入《イラムトスル》v京(ニ)之時(ニ)、府(ノ)官人等餞(スル)2卿(ヲ)筑前(ノ)國|蘆城駅家《アシキノハユマヤ》1歌四首
といふ題詞が卷四にある。それは出發前の餞宴である。
 
倭道者《やまとぢは》 雪隱有《くもがくれたり》 雖然《しかれども》 余振袖乎《わがふるそでを》 無禮登母布奈《なめしともふな》     966
 
〔釋〕 ○やまとぢ 既出(一一六五頁)。○しかれども 「ふる袖」に係る。○なめし 無禮。蔑《ナミ》すの形容詞格。
【歌意】 貴方の旅立つた〔七字右○〕倭の方の路は、雲に隱れてゐる。それでも構はず、私の戀しさに振る袖を、失礼なと思(1708)つて下さるな。
 
〔評〕 帥卿訣別後の情景である。
 行々又行々、帥卿の影は遠離つてしまつた。その辿られた倭路を望めば、只愁雲が漠々と横たはるのみである。無論見送り人達は疾くの昔に退散して、何時までも自分一人がぼんやりとそこに佇立してゐる。もう誰れに氣兼ねもない、元來が情意表示の爲の袖振も、もうかうなつては對手の居る居ないは問題でなくなる、只抑へ怺えた自己の滿足が買へればよいのである。
 これは誰れも居ぬ處で振る袖である。それにさへ帥卿のお咎めを恐れて、「なめしと念ふな」の懇願は、飽くまでも自覺に富んだしほらしい謙虚な心根から出た詞で、實際貰ひ泣がされる。
 日蔭者は何時の世でもつらい。殊に門閥が喧ましく、階級制度の巖乎たる古代の社会状態を知悉すると、この作の哀婉さが深刻に受け取られて、更に悲痛なものとならう。その誠實さは名家大家の驕婦悍婦よりも遙に尊い遊行婦兒島である。
 
右、太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿、兼2任《メサレ》大納言(ニ)1、向《ノボル》v京(ニ)上道《ミチダチス》。此(ノ)日馬(ヲ)駐《トヾメ》2水城《ミヅキニ》1、顧《カヘリ》2望(ム)府(ノ)家(ヲ)1。于時《トキニ》送(ル)v卿(ヲ)府吏《ツカサビトノ》之中(ニ)、有(リ)2遊行女婦《ウカレメ》1、其(ノ)字《ナヲ》曰(フ)2兒島《コジマト》1也。於是《コヽニ》娘子傷(ミ)2此(ノ)易(キヲ)1v別(レ)、嘆(キ)2彼(ノ)難(キヲ)1v會(ヒ)、拭(ヒテ)v涕(ヲ)自(ラ)吟(フ)2振袖《ソデフル》之歌(ヲ)1。
 
 旅人卿が大納言に召し出され、京へと出發した、この日馬を水城に駐め、從來住んでゐた宰府の家を振返つて名殘を惜しんだ、その時卿を送る宰府の役人の間に、遊行婦でその名を兒島といふのが混つて居た、この兒島(1709)娘子が人間の別れ易く会い難いことを悲傷して、涕を拭ひつゝ、以上の袖振の二首の歌を吟つたとの意。○兼任 後任のきまるまで、一時的に太宰帥のまゝで大納言に任じたのだから、兼任と書いた。遷〔右△〕任の誤とする説は非。任大納言は天平二年十月一日。○此日 天平二年十二月某日。○水城 下の「ますらをと」の歌の条を見よ。○府家 宰府の帥の住宅。○遊行女婦 ウカレメ。アソビメ。遊女。卷一「草枕旅ゆく君と」の歌の評語中、遊女の條を參照(二五〇頁)。
 
大納言大伴(の)卿(の)和歌二首
 
日本道乃《やまとぢの》 吉備乃兒島乎《きびのこじまを》 過而行者《すぎてゆかば》 筑紫乃子島《つくしのこじま》 所念香裳《おもほえむかも》     967
 
〔釋〕 ○きびのこじま 「きび」は古ヘ吉備(ノ)國といひ、三備及び美作を總称した。「こじま」は備前國兒島郡兒島。古事記(上)に、生(ム)2吉備(ノ)兒島(ヲ)1、亦(ノ)名(ヲ)謂(フ)2建日方別《タケヒカタワケト》1と見えて、備前國南部の大島。○つくしのこじま 遊行婦の兒島をさす。「子」は兒に通用。
【歌意】 倭街道の吉備の兒島を、通り過ぎて行かうなら、定めし〔三字右○〕筑紫の兒島、即ちお前のことが、思ひ出されようかいなあ、同じ名なので〔六字右○〕。
 
〔評〕 上の兒島の贈歌を旅人卿は途上で入手したものであらう。これは「倭路は雲隱れたり」の作に唱和したもの(1710)の如くである。吉備の兒島は海路の要津、筑紫の兒島は人中の名妹、相封的の同称呼でこそあれ、この人と物との間には、從來何の交渉も更にもたなかつた。偶ま作者の纏綿たる離情が楔子となつて、端なくそこに聯繋が生じた。矚目のもの悉く感傷を催すは旅客の慣ひ、况やこの兒島にあつてかの兒島を懷ふは當然の歸結。
 極めて平易な口占ではあるが、輕い戲謔と率直なる眞情とが綯ひ交ぜになつて生動してゐる。
    
大夫跡《ますらをと》 念在吾哉《おもへるわれや》 水莖之《みづぐきの》 水城之上爾《みづきのうへに》 泣將拭《なみだのごはむ》     968
 
〔釋〕 ○ますらを 既出(四〇頁)。○われや 「や」は疑辭。○みづぐきの 水城《ミヅキ》に係る枕詞。ミヅキの類音を重用した。「みづぐき」は瑞瑞しき莖の意。宜長はいふ、莖といへば木の事にも草の事にもなれり、木の神を久々能知《クヽノチ》といふにて心得べし、水城と續けたるは、瑞瑞しき莖の瑞木《ミヅキ》と重ねたるなりと。但瑞木とまではいかゞ。○みずき(1711)のうへ 水城のほとり。水城は水を湛へた城の意。筑紫郡水城村にある。天智天皇の御代に始めて築造されたもので、天智天皇紀に、三年云々、又於(イテ)2筑紫(ニ)1築(キ)2大堤(ヲ)1貯(ヘシム)v水(ヲ)、名(ケテ)曰(フ)2水城(ト)1と見え、又續紀に、天平紳護元年二月辛丑云々、太宰(ノ)少貮從五位下釆女(ノ)朝臣淨庭(ヲ)爲(ス)d修2理《ツクロフ》水城(ヲ)1專知官(ト)uと見えた。水城村の國道に當る左傍即ち古への水城東關門にある、水城大堤の碑文によるに、
  東堤長さ百七十六間三尺、西堤三百八十四間三尺、最も高き處五間五尺、盤根最も廣き處十九間餘、中央缺堤の所九十六間、東西に關門あり、こゝは即ち東關門の址にして片礎をなす。西は吉松隧道の地なり。
とある。太宰府址からは道が平坦だから、東關門址が遙に望まれる。△地圖 357(一三九八頁)を參照。
【歌意】 ますらをだと自任してゐる自分がさ、この水城のほとりで、お前に別れ兼ねて〔八字右○〕、女々しく涙を拭はうことかえ。
 
(1712)〔評] 大伴氏は古來武弁の家で、ますらを中のますらをである。旅人卿も既に再三その武功を樹てゝゐる。「ますらをと思へる」は決して口頭の漫語でない。かく自覺しながらも一倡女兒島との別には、戀々として水城のうへに泣かざるを得ない。英雄も尚兒女の情あるに至つて、親しさも尊さも湧いてくる。旅人卿の作にはすべて矯飾の氣がない。彼れは開放的で正直である。
 著想は自己批判に墮する嫌もあるが、自分ながら高まる情趣をもて餘して途方に暮れた、その愚痴が有難い。都府樓を遠景にした水城の關門下に、宰府國衙の官人達が綺羅星の如く左右に居流れた間に、老帥旅人と若い遊行婦兒島との唱和の情景を描いてみると、亦一場の好悲劇を構成する。
 「水城のうへ」を、上の左註に馬(ヲ)駐(メ)2水城(ニ)1、顧(リ)2望(ム)府(ノ)家(ヲ)1とあるによつて、水城の堤防上とする或説の如きはおよそ愚論である。顧望はたゞ顧望で、あながち高い場處を必としない。元來が府と關門との間は昔でも野原で、眺望が利いたと思はれる。さればやむごとなき御老體を堤の上まで追ひ上げるにも及ぶまい。
 
三年|辛未《かのとひつじ》、大納言大伴(の)卿(の)在(りて)2寧樂《ならの》家(に)1思《しぬびて》2故郷《ふるさとを》1作歌
 
神龜三年大納言旅人卿が寧樂の家で、故郷を戀うて詠んだ歌との意。○寧樂家 奈良の佐保の宅をさす。○故郷 (1)飛鳥の故京をさす(古義)。(2)平群《ヘグリ》の神南備《カムナビ》山附近の大伴氏の故居をさす(六人部是香―龍田考)。但神南備と岩瀬杜《イハセノモリ》及び奈良思《ナラシノ》岡の三者の關係は兩説とも不完である。これに對する私考は、卷八「神名火《カムナビ》の磐瀬の杜の持鳥」の条で述べよう。こゝの故郷は必ず飛鳥の神南備を斥したものと思ふ。
 
(1713)須臾《しましくも》 去而見壯鹿《ゆきてみてしが》 神名火乃《かむなびの》 淵者毛淺而《ふちはもあせて》 瀬二香成良武《せにかなるらむ》     969
 
〔釋〕 ○しましくも 京本書入シバラクモ〔五字傍線〕。○かむなびのふち 神南備山下の淵。この神南備山は飛鳥の雷岳《イカヅチノヲカ》の一称である。「かみをか」(四四七頁)及び「雷岳」(六三五頁)を參照。○ふちはもあせて 「淵者」の下毛〔右△〕を脱したものとする。旧訓はフチハアサビテ〔七字傍線〕とあるが、アサブ〔三字傍点〕といふ語の存在はおぼつかない。古義訓アセニテ〔四字傍線〕も苦しい。△地圖及寫眞 挿圖105(三三四頁)144(五二三頁)を參照。
【歌意】 一寸の間でも往つて見たいな、多分故郷の〔五字右○〕神南備の淵はまあ淺く變つて、瀬になるであらうかしら。
 
〔評〕 旅人卿は宰府時代に、頻に飛鳥藤原の故京、吉野の勝を回想してその羈愁を寓せた。(卷三所見)。今年の正月からは再び奈良京の人となり、「ほと/\に奈良の京《ミヤコ》を見ずかなりなむ」の歎息も雲散霧消して、その佐保の第に納まつたが、殊に當時は知太政官事の外大臣なしで、大納言二名が政務を執つてゐた時代だから、枢機多端で、懷かしの故郷飛鳥も徒らに夢想するより外はなかつたらしい。
 飛鳥人の遊覽地は飛鳥川が中心であつた。神南備の淵は神南備(雷)の岡脚を繞つて流れる飛鳥川の淵で、河床の岩が小斷崖を成して、上下に淵が出來、その末は復平淺に歸してゐる。山には杉があり、栂があり、山吹が咲き、時鳥が鳴き、川には霧が立ち、蛙が鳴き、千鳥が鳴く。
 老人は過去の回想が永い。少壯時に馴染んだ場處は、凡山凡水でも深い執著がある。まして相當の景趣に富んだ神南備の淵をやだ。
(1714) 然し飛鳥は故京となつてから茲に三十三年、その荒廢は察するに餘りある。のみならず更に「往きて見てしが」の往訪の念に、拍車を懸けるものがある。それは飛鳥川が地勢上淵瀬の變化が甚しいことで、乃ち「淵はもあせて瀬にかなるらむ」の想像を描くに至つた。而もナリヌ〔右△〕ラムと普通にいふべき處を、「なるらむ」の現在叙法で、その變化の現實性を示したのは際利《キハド》い手ぎはである。
 改めて更にこの作を見直すと、その眞意は、おのが見ぬ間に飛鳥旧京はいかに變化したかといふにある。それでは抽象的で薩張り面白くないので、その代表的勝地神南備の淵のうへに、一切を寄託した。かくて現實味が強調され、公人の不自由さから愈よ燃え盛る故郷偲《クニシヌビ》の情に、「しましくも往きて見てしが」の希望が切實を極めてくる。
 旅人卿はかくいひながら、その年の七月に薨逝した。恐らく神南備の淵も訪ふに及ばなかつたらう。氣の毒な事である。又次の歌に連繋させて考へると、この歌は旅人病中の作とも見る事が出來る。
 
指進乃《さしずみの》 栗栖乃小野之《くるすのをぬの》 芽花《はぎがはな》 將落時爾之《ちらむときにし》 行而手向六《ゆきてたむけむ》     970
 
〔釋〕 ○さしずみの 栗栖に係る枕詞。刺墨《サシズミ》の黒《クロ》といふを栗《クリ》にいひかけたもの。刺墨は黥《イレズミ》のこと。「指進」は借字。「進」をスミと訓む例が古書にないと古義はいふが、スヽミのスミとなるは音韻上の約束である。前人の説は(1)指墨のくるゝを懸けたるにて、くるゝは墨斗《スミツボ》のくるめきをいふならむ(眞淵説)、(2)「指」は摺〔右△〕の誤にて摺《スル》墨(1715)の墨とのいひかけならむ(橘常樹説)。(3)「乃」は六〔傍点〕か武〔傍点〕の誤にてサシスヽム〔五字傍線〕と訓み、スヽムはスサムにて、毬《イガ》の刺荒《サシスサ》む栗と續けたるか(古義説)。(4)卷廿に「むらたまの枢《クル》るに釘さし」とあれば、「推進」は村玉〔二字右△〕の誤寫にて、群玉《ムラタマ》の轉《クル》めく意にて栗にいひ續けたるか(古義一説)。以上のうちでは(1)が優つてゐる。○くるすのをぬ 和名抄に大和國忍海郡栗栖とある。(今南葛城都忍海村柳原)。又記の雄略天皇御製の「ひき田の若栗栖原《ワカクルスハラ》」は泊瀬。○はぎがはな 「芽」原本に茅〔右△〕とあるは誤。○ちらむ 「落」を眞淵は咲〔右△〕の誤として、サカム〔三字傍線〕と訓んだ。○たむけむ 「はま松がえの手向草」を見よ(一三九頁)。
【歌意】 栗栖野の萩の花の散らう頃にさ、往つてお祭をしよう。
 
〔評〕 栗栖は飛鳥からは一里ばかりの西に當るから、尚故郷といひ得る範圍内であらう。但作者と栗栖野との關係がわからない。「手向けむ」とある以上は、そこに祭られる何者かがなくては協はぬ。大伴氏の祖先又は父母、又は愛妻大伴郎女の墳墓でも、そこにあつたのか。
 野に萩の花を聯想する事は當然だが、「散らむ時にし往きて」は妙な注文を付けたものだ。通例なら盛りの時を覘つて往く筈である。この事情を解決するには一つの鍵がある。
 それは作者の病中といふ事である。丁度それが萩の花の咲く頃なので、卿の資人金(ノ)明軍も、
  かくのみにありけるものを萩が花咲きてありやと問ひし君はも(卷三――455)
と病中萩の花の消息を問はれた事を歌つてゐる。秋とはいへ暑い盛りの七月、とても老病の身を起して、栗栖(1716)野に蘋藻の禮を執ることは不可能だ。まあ相當時候もよくならうこの萩の花の散る頃は、自分の病氣も癒らうから思ひ立つてと、卿は樂しい豫望を描いてみたものだ。これを見ても卿はまだ死ぬつもりはなかつたのである。然るにその月の廿五日に、遂に※[さんずい+盍]焉として隔世の人となつた。
  再案、作者の父安麻呂は和銅七年五月に奈良の佐保の第で薨じた。奈良京草創の際とて、從來の慣習のまゝに遠く忍海の栗栖邊へ歸葬したものか。今天平三年は恰も二十年目で、必ず祭典を修すべき祥月のその五月に當つたものゝ、生憎病氣の爲、孝子の情を申べる事が出來ぬ焦燥から、かく豫約して、聊か自慰の言としたのではあるまいか。
 これは只試にいふのみ。尚前説の如く見ておくが穩かであらう。
 
四年壬申、藤原(の)宇合《うまかひの》卿(の)遣(はさるる)2西海道節度使《にしのうみつみちのせどしに》1之時、高橋(の)連《むらじ》蟲麻呂(が)作歌一首并短歌
天平四年に藤原宇合卿が西海道の節度使として派遣された時、高橋(ノ)蟲麻呂が詠んだ歌との意。○宇合卿 傳既出(二五六頁)。○西海道節度使 既出(一三四頁)。○高橋連蟲麻呂 傳未詳。卷三富士山(ノ)歌(なまよみの)の左註に「高橋連蟲麻呂歌集集出」の語がある。集中常陸下總攝津における作が見え、又大伴旅人と交際があつた。
 
白雲乃《しらくもの》 龍田山乃《たつたのやまの》 露霜爾《つゆじもに》 色附時丹《いろづくときに》 打超而《うちこえて》 客行公者《たびゆくきみは》 五百隔山《いほへやま》 伊去割見《いゆきさくみ》 賊守《あたまもる》 筑紫爾至《つくしにいたり》 山乃曾伎《やまのそき》 野之衣寸見世常《ののそきみよと》 伴(1717)部乎《とものべを》 班遣之《あかちつかはし》 山彦之《やまひこの》 將應極《こたへむきはみ》 谷潜乃《たにぐくの》 狹渡極《さわたるきはみ》 國方乎《くにがたを》 見之賜而《めしたまひて》 冬木成《ふゆごもり》 春去行者《はるさりゆかば》 飛鳥乃《とぶとりの》 早御來《はやくきまさね》 龍田道之《たつたぢの》 岳邊乃路爾《をかべのみちに》 丹管士乃《につつじの》 將薫時能《にほはむときの》 櫻花《さくらはな》 將開時爾《ひらかむときに》 山多頭能《やまたづの》 迎參出六《むかへまゐでむ》 公之來益者《きみがきまさば》     971
                        
〔釋〕○しらくもの 白雲の發《タ》つをいひ係けた、立田山の枕詞。○たつたやま 既出(二八四頁)。○つゆじも 既出(三八八頁)。○いほへやま 五百重山。「隔」は借字。○いゆきさくみ 六言の句。「い」は接頭語。「さくみ」は「いはねさくみて」を見よ(五六七頁)。○あたまもる 寇守る。筑紫には太宰府を置いて邊防を掌り、水城を築き防人《サキモリ》をすゑて非常に備へた。卷二十、追《アトヨリ》痛(ム)2防人(ガ)悲(ム)v別之心(ヲ)1歌(家持)に「不知火筑紫の國はあた守るおさへの城《キ》ぞと」と見え、宜化天皇紀の詔に、夫筑紫(ノ)國者|遐々之《クニ/”\ノ》所2朝屆《マヰイタル》1、去來《ユキヽノ》之所2關門《セキトスル》1、天武天皇紀の栗隈王の對言に、筑紫(ノ)國者(ハ)元|戎《マモル》2邊賊之難(ヲ)1也とある。○つくし 既出(七四二頁)。○やまのそき 「そくへ」を見よ(九三四頁)。○みよと 古義訓メセト〔三字傍線〕は非。○とものべ 屬僚をいふ。「とも」は朋輩又は集團の義。「ベ」はその部屬者の称。○あかち わかつ(分)の古言。古義は、神代紀の廢渠槽の訓|秘波鵝都《ヒハガツ》を証としてカを濁るべしと主張したが、(1718)波鵝津はハナツ(放)の意で別語である。且清濁は時代により又慣習によつて異なる。この時代に班田をアガチタと讀むからとて、他の場合をまで同一に律する事は出來ない。舊訓ワカチ〔三字傍線〕。○やまひこ 山彦。山神、山靈の稱。又反響を山靈の應ふるものとして、谺《コダマ》(木靈)を稱する。山|響《ヒヾキ》の約とする説は本末顛倒。〇たにぐくのさわたる 前出(一四二〇頁)。○くにがた 國形。國の状况。節度使の職制に地形を案ずることはない。この形は象《カタ》又|状《スガタ》の意であらう。○めしたまひて 六言の句。宇合卿が〔四字右○〕見給ひて。「めしたまへば」を見よ(二〇六頁)。○ふゆごもり。既出(七八頁)。○はるさりゆけば 「はるさりくれば」を見よ(七九頁)。○とぶとりの 「早く」に係る序。○はやくきまさね 早くお歸り〔三字右○〕なされい。略解訓による。「御來」を意訓にかく讀む。古義訓は「御」を却〔右△〕の誤としてハヤカヘリコネ〔七字傍線〕。○たつたぢのをかべのみち 立田山の峠の道をいふ。「たつたぢ」は立田にある道。○につつじ 「に」は丹土の色をいふ。赤色。「つつじ」は「いはつつじ」を見よ(四九五頁)。「管士」は借字。○にほはむときの 匂はう時で。「ときの」の詞態は集中の長歌、又は祝詞などに例が多い。○やまたづの 「むか(1719)への枕詞。既出(三〇六頁)。○きまさば 元本その他の訓による。舊訓キマセバ〔四字傍線〕は非。△地圖及寫眞 挿圖329(一一九六頁)。90(二八五頁)を參照。
【歌意】 立田山が露霜に色づく頃しも、打越えて旅立たれる貴方は、澤山の山を踏みならして、來寇の敵を守る筑紫に往かれ、そして〔三字右○〕山の奥野の末をもよく視察せいと、部下の者共を分けて派遣し、谺の應へよう果、蝦蟇の行き渡る里まで〔二字右○〕、地方の状態を調査なされて、來春にでもなつたら、早くお歸りなさい。丁度その頃は都入の立田路の岡沿ひの道に、赤い躑躅の匂はう時で、櫻の花が咲くであらう時に、私はお迎に參上致しませう。貴方がお歸りならば。
 
〔評〕 節度使は唐制では諸道に置かれた武官で、各その幕府を樹てゝ道下を鎭撫し、これを藩鎭と稱した。わが邦のはさほど強力なものではなく、軍團の整理、武事の講習、輜重の充實などの爲め、臨時派遣の高級官吏に過ぎない。
 節度使設置は宇合の在ぜられた天平四年が、その最初の試であつた。績紀に、
  天平四年八月丁亥(十七日)、正三位藤原(ノ)朝臣房前(ヲ)爲(シ)2東海東山二道(ノ)節度使(ト)1、從三位多治比(ノ)眞人縣守(ヲ)爲(シ)2山陰道(ノ)節度使(ト)1從三位藤原(ノ)朝臣宇合(ヲ)爲(ス)2西海道(ノ)節度使(ト)1云々。(卷十一)
と見えた。辭令は八月に降つたが、出發準備や何やで、秋もはや末頃になつて漸う發足した。時はこれ一年の好季節、朝に奈良の帝都を辭して、「白雲の立田の山の露霜に色づく時」に、打越えて旅行くのであつた。山紅葉は一行の族装に映じて花やかに、その銀鞍に白馬を打たせた、當年卅九歳の節度使宇合卿の得意の面影が彷(1720)彿する。途中の旅况を「五百重山い往きさくみて」の二句に約めたのは、省筆その宜しきに適つてゐる。
 さて筑紫の任處に到着、管内諸國の隅々まで、下僚の判官主典等を分遺して、軍事の整理に著手せしめる。九州二島は本來太宰府の統治する處、多少目的に相違はあるとしても、一面から見れば、節度使の仕事は帥の權限を犯し勝であつたらう。幸にこの前年に帥大伴(ノ)旅人卿が中央政府に復歸してから、當時は藤原(ノ)武智麻呂の遙任であつた。そのうへ武智麻呂は宇合の長兄だから文句はない。仕事は遣りよい。
 茲に下僚等の復命事をはり、西海一圓の國状は整頓され始末がつく。つけばその歸還が問題になる。
 行人に向つてまづ歸期を問ふのは、送別の際の常情である。然るに作者はその程度に滿足せず、今一層突き進んで、此方からその時期に注文を付けていはく、「春さりゆかば――早歸り來ね」と。秋から春までは略半年になるが、節度使の仕事は多端で、さうは早く歸れさうもない。ないを承知で無理な要望をする處に、勝へ難い惜別の情味が躍動する。
 奈良京から西國への出入は、立田越を以て本道とした。希望が實現して果して宇合が春の歸京となるなら、立田路は勿論櫻躑躅の花盛りだ。乃ちその好風景を幻想にのぼせて、今度はその春の好季節に「迎へまゐでむ」と、懇情の限を傾倒した。
 立田山を舞臺として、秋の紅葉に送つたからは、春の櫻躑躅に又出迎へしようといふ、太だ風雅三昧の言辭のやうで、その實涯りない離恨を湛へてゐる。送別の作として、一種の新樣を裁出したこの作者の手腕には敬服する。また
  「山のそき野のそき見よと、伴の部をあかち遣はし」
(1721)  「山彦のこたへむ極み、谷※[虫+莫]のさわたる極み、國形をめし賜ひて」は自他兩樣の行敍が自然對を成してゐて面白い。
 
反歌一首
 
千萬乃《ちよろづの》 軍奈利友《いくさなりとも》 言擧不爲《ことあげせず》 取而可來《とりてきぬべき》 男常曾念《をとことぞおもふ》     972
 
〔釋〕 ○いくさ 「みいくさ」を見よ(五三三頁)。○ことあげ 言葉《コトバ》に出さず。いひ立てず。卷十三に「蜻《アキツ》島倭の國は神柄《カムガラ》と言擧《コトアゲ》せぬ國然れども吾《ワ》は言擧す」、神代紀に、遂(ニ)到(リテ)2出雲(ノ)國(ニ)1乃|興言《コトアゲシテ》曰(ハク)、云々。又|高言《コトアゲ》ともある。○とりて 殺して。捕へての意ではない。宜長いふ、記の景行天皇の條に、西(ノ)方有(リ)2熊襲建《クマソタケル》1、是不v伏《マツロハ》无(キ)v禮《イヤ》人|等《ナリ》、故(レ)取(レトノタマヒテ)2其人等(ヲ)1而遣(ハシキ)、また取(リテ)2伊服岐《イブキ》山之神(ヲ)1幸行《イデマシヌ》矣など、殺すをトルといふ例なりと。○をとこ 古義訓による。契沖訓ヲノコ〔三字傍線〕。
【歌意】 千萬人の軍勢であるとても、物をもいはず、安す/\取殺して來さうな男とさ、貴方を私は〔五字右○〕思ひます。
 
〔評〕 字合は藤原家の三郎、比較的雄武の材の持主とは思はれるが、百萬の大軍も物もいはずに皆殺しにしてくべき英雄とは、少し※[言+叟]言に過ぎはしまいか。これでは宇合の方が慙死してしまひさうだ。別に戰場に出陣するでもない節度使に贈る詞としては、又不似合であらう。宇合はその西海行に就いて左の感懷を洩らしてゐる。
(1722)     奉2西海道節度使1之作
  往歳東山(ニ)役(シ)、今年西海(ニ)行(ク)、行人一生(ノ)裏《ウチ》、幾(カ)度倦(ム)2邊兵(ニ)1。(懷風藻)
「東山役」は嘗て神龜二年に蝦夷征伐に出陣したことを斥した。僅一度の出征とこの兵馬統管の出張ぐらゐで、「倦邊兵」は餘り勇氣がなさ過ぎる。支那詩人の口吻を眞似て反戰的の言辭を弄したとも見られるが、奈良時代の上流人士は漸く太平に狃れて、武邊の事を疎んずるやうになつて來たことも、考慮のうちに置くべきであらう。
 當人はかく邊兵に倦んでゐるのに、「――とりて來ぬべき男とぞ思ふ」は、聊か滑稽だ。強ひて助けて、激勵の詞として聞くが一番ふさはしからう。聖武天皇もこの意味から、節度使を送る御製に「ますらをのとも」と仰せられた。
 然しそんな實際問題から離れて、歌のみを見ると、頗る豪快で氣持がいゝ。或は孟子(公孫丑章)の「雖(モ)2千萬人(ト)1我往(カン)焉」の意を、鹽梅よく點化したのではあるまいか。
 
右、檢(ルニ)補任(ノ)文(ヲ)1、八月十七日任(ズ)2東山山陰西海(ノ)節度使(ヲ)1。
 
 續紀の文(評中引用)によると、東海〔二字右○〕の二字が落ちてゐる。補任文は續紀の補任の條をさしたもの。
 
天皇《すめらみこと》賜(ふ)2酒(を)節度使等《せどしたちに》1御歌《おほみうた》一首并短歌
 
聖武天皇か酒を節度使等に下されるに就いての御製との意。宇合卿等の節度使として派遣せられた時の事。
 
(1723)食國《をすくにの》 遠乃朝庭爾《とほのみかどに》 汝等之《いましらが》 如是退去者《かくまかりなば》 平久《たひらけく》 吾者將遊《われはあそばむ》 手抱而《たうだきて》 我者將御在《われはいまさむ》 天皇朕《すめらわが》 宇頭乃御手以《うづのみてもち》 掻撫曾《かきなでぞ》 禰宜賜《ねぎたまひ》 打撫曾《うちなでぞ》 禰宜賜《ねぎたまふ》 將還來日《かへりこむひ》 相飲酒曾《あひのまむきぞ》 此豐酒者《このとよみきは》     973
 
〔釋〕 ○をすくにの 朕が〔二字右○〕食國の略。○とほのみかど 既出(七四四頁)。○いましらが 童本の訓による。元本その他の訓はナムヂラガ〔五字傍線〕。○まかりなば 京を本にして地方にゆくを退《マカ〕るといふ。眞淵訓による。○たうだきて 手を拱《コマヌ》いて。「た」は手、「うだき」は抱《イダキ》の古言。抱の字イダク、ウダク、ムダクと訓む。靈異記に、抱、于田伎《ウタキ》と見えた。古義に、卷十四の「かき武太伎《ムダキ》」とあるは、東人《アヅマビト》の訛語なるべしと。但訓のテウダキテ〔五字傍線〕はいかゞ。手の字語の上にある時は多くタと讀む。○すめらわが 契沖訓による。○うづのみて 珍《ウヅ》の御手。「うづ」は貴重の意。諸祝詞に、字頭乃幣帛《ウヅノミテグラ》の語がある。○かきなで――うちなで 「かき」「うち」は接頭語。○ねぎ 犒《ネギラ》ふこと。○かへりこむひ 六音の句。略解訓カヘラムヒ〔五字傍線〕。○あひのまむきぞ 「き」は酒。略解訓による。舊訓アヒノマムサケゾ〔八字傍線〕。○とよみき 「とよ」は美稱。「み」は敬稱。
【歌意】 朕《ワ》が統治する國の遠《トホ》の朝廷《ミカド》に、お前達がかうして往つてくれたなら、暢ん氣で朕《ワレ》は遊ばう、手を拱《コマヌ》いて朕は暮さう。で天皇《スメラギ》の朕《ワ》がこの珍の御手を以て、御前達を〔四字右○〕撫で/\して勞らひ申すわ。お前達が任務を果して〔十字右○〕(1724)還り來う時、再び〔二字右○〕一緒に飲まう酒であるぞえ、このよい酒は。
 
〔評〕 天皇は新任の節度使三人を朝に召されて、送別の賜盃があつた。遣唐使の場合と同一の扱で、その使命の重大性が看取される。
 令には明かに地方軍事の機構は規定されてあるが、令の制定發布された大寶三年からこの時まで、二十七の星霜を重ねた間に、可成り民心が廢頽し紀綱が紊亂してきたらしい。土着の豪族が漸く跋扈し、人民が疲弊し、國守の威令が十分に行はれないとなつては、更に有力なる望族の高級官吏を派遣し、その手によつて積弊を釐革し、發令當時の精神を復興徹底させるより外はない。
 節度使三人、藤原氏では淡海公(不比等)の息四人のうち、房前《フサヽキ》宇合の二人までがその選に入り、それに多治比《タヂヒ》氏の縣守《アガタモリ》を加へた。藤原氏は當時出頭第一の名家、多治比氏は近江朝以來の右族、官は縣守(六十五歳)が從三位中納言、房前(五十二歳)が正三位參議、宇合(三十九歳)が從三位參議であつた。舍人親王(知太政官事)藤原武智麻呂(大納言)二人を除けば、この人達が内閣の中軸を形造つてゐた當時だから、單にこの一點から觀察しても、叡慮が那邊にあるかが拜祭されよう。
 さればその出發に際しても、特別に優渥な勅諚を賜うたのである。いはく、お前達が赴任する以上は、もはや何の顧慮する處はない、氣樂に遊び兩手を拱いてゐようと、一切の責任をこの人達の雙肩にかづけられた。そこに帝王としての御態度がある。
 更に仰せられたお詞が頗る意義深いものである。「天皇《スメラ》朕《ワ》が珍の御手もち、掻撫でぞ勞ぎ給ひ、打撫でぞ勞ぎ(1725)給ひ」と、御親ら御自身の上に御動作の上に、敬語をお使ひなされてゐる。天下廣しと雖も、古往今來いかなる主宰者でも、かうした敬語法を用ゐた例を聞かない。これわが國柄の他邦と殊絶してゐる所以で、陛下御自身も祖宗の天位を御繼承なされたものだから、公の立場にある御自身をお眺めなさる時は、かうもいはれるのである。大殿祭(祝詞)の詞にも、「すめらわが珍の御子《ミコ》」の語が見える。太古から傳承し來つた、日本獨特のあやに畏い建國精神が、明白に認められる。
 さて大御手を伸べて優撫しその勞を犒はれると仰せられた。節度使達が遠隔の地に櫛風沐雨、王命を體して有終の美を成さうと努力すべき、その勞苦に對する同情仁慈の思召は、「掻撫で」「打撫で」の漸層、「勞ぎ給ひ」の反復によつて、著く強調され、印象深く燒き付けられる。
 次に轉一轉して、當面の光景に立返り、お前達が歸洛復命の日、相會して更めてこの豐御酒は再び酌むであらうと、更に將來の歡會を豫約された。君臣一體水魚の如き思召で、靄々たる和氣のうちに、涯ない温情を垂れ給ふに至つて、その恐れ多さに感激の涙を、節度使達もさぞ揮つたことであつたらう。
 口號的小詩篇のうちに、厖大なる内容を包藏し、一擒一縱活殺自在を極めた聖製で、恩威並び行はれた趣が拜祭される。天皇この時三十二歳の御壯年に渡らせられながら、かくの如く帝王の器度を備へられたことは、畏しと申すにも餘ある。
 後段「掻き撫でぞ」「打ち撫でぞ」の重疊反復、その音數が特に異樣で、55、55の對句を成し、更にそれを67の音數で承けた破調で、短句長句互に相※[手偏+丞]ふの手法は、面白い節奏を演出してゐる。
 
反歌一首
 
(1726)丈夫之《ますらをの》 去跡云道曾《ゆくとふみちぞ》 凡可爾《おほろかに》 念而行勿《おもひてゆくな》 丈夫之伴《ますらをのとも》     974
 
〔釋〕 ○ゆくとふ ユクチフ〔四字傍線〕の訓もある。○おほろかに 大凡《おほよそ》にといふに同じい。おほらかに〔五字傍点〕はこの轉語であらう。「おほに」を見よ(五九三頁)。
【歌意】 丈夫たる者が往くといふ、この度の道であるぞ。いゝ加減に思つて往くなよ、丈夫の輩よ。
 
〔評〕 節度使の職は丈夫にして初めて勤まる大任、それも油斷があつては成果を得難い。汝等は丈夫であるが故にその任にあるが、よくそこに注意してゆけと、論理的に噛んで含めるやうに、責任の重大性を指示せられた。「おほろかに思ひて行くな」が主眼である。
 一氣高く磐旋しして語々※[しんにょう+酋]拔豪健、おのづから尋常歌人の口吻でない。御製はこの外に、
  空みつ大和の國は神からしたふとかるらしこの舞見れば   (續紀、天平十五年夏五月の條)
  あまつ神みまの命の取り持ちてこの豐御酒をいみ奉る
  八隅ししわご大君は平らけく長くいまして豐御酒まつる
など、何れも堂々たる雄風四邊を拂ひ、おのづから帝王の御屬吐である。
 
右(ノ)御歌者、或云(フ)、太上天皇(ノ)御製也(ト)。
 
○太上天皇 元正天皇を申す。御歌の風格から申せば、無論本文の如く聖武天皇の御製であらう。
 
(1727)中納言|安倍廣庭《あべのひろにはの》卿(の)歌一首
 
○安倍廣庭 傳既出(七四〇頁)。○中納言 既出(七四〇頁)。
 
如是爲管《かくしつつ》 在久乎好叙《あらくをよみぞ》 靈剋《たまきはる》 短命乎《みじかきいのちを》 長欲爲流《ながくほりする》     975
 
〔釋〕 ○あらくをよみ あること〔二字右○〕がまあよさに。「あらく」はある〔二字傍点〕の延言。○たまきはる 命の枕詞。既出(三六頁)。
【歌意】 かうしつつある事がまあよさにさ、人間の短い命を、長くありたいと望むわい。
 
〔評〕 「かくしつつ」は何を斥したか判然しない。當面の事相がその説明を與へぬ限り、この歌の感興の握みやうがない。がとにかく現世の人慾に飽滿すると、次に不老長生を希ふが人情の常である。
 但聖天子の御代に逢うた喜を表したのだらうといふのが、古人の説である。
 
五年|癸酉《みづのととり》、超(ゆる)2草香《くさか》山(を)1時、神社忌寸老《かみこそのいみきおゆ》麻呂(が)作歌二首
 
天平五年に、草香山を超える時、神社老麻呂が詠んだ歌との意。○草香山 生駒山を河内にていふ稱。生駒山の西麓に今|日下《クサカ》村がある。神武天皇紀に、遡流而上《カハヨリサカノボリテ》、徑《タヾチニ》至(リマス)2河内(ノ)國|革香邑《クサカムラ》青雲(ノ)白眉(ノ)津(ニ)1とある。孔舍衙《クサカ》坂は生駒山北路の峠。草香の直越(暗《クラガリ》峠)、はその南路の峠、草香江はその低地の入江であつた。尚「いこま山」を見よ(一八二九頁)。○神社忌寸老麻呂 傳未詳。神社は氏。孝徳天皇紀に神社(ノ)福草《サギクサ》、續紀に神社(ノ)忌寸河内の名があ(1728)る。神社はカミコソと訓む。天武天皇紀に社戸を古曾倍《コソベ》と訓み、神名帳(式)に近江國淺井郡に上許曾《カミコソ》神社がある。社をコソと訓むは乞《コソ》の意で、神社は人の乞ひ祈《ノ》む故である。古義に社は杜の字ならむとあるは、却て不穿鑿である。○忌寸 は姓。△地圖 挿圖91(二八六頁)を參照。
 
難波方《なにはがた》 潮干乃奈凝《しほひのなごり》 委曲見《よくみてむ》 在家妹之《いへなるいもが》 待將問多米《まちとはむため》     976
 
〔釋〕 ○なにはがた 既出(一一三八頁)。「方」は借字。○なごり 既出(一一三八頁)。尚この語義に就いては諸説續出して煩しい。○よくみてむ 古義訓による。「委曲」はヨクと訓む。卷十「君が姿を曲不見而《ヨクミズテ》」の曲も同じい。△地圖 挿圖77(二三七頁)參照。
【歌意】 難波潟の潮干の餘波を、とくと見ようわ、家にゐる妻が自分の歸を持ち受けて、難波の景色〔五字右○〕を、尋ね問ふであらう爲にさ。
 
〔評〕 難波潟の景色は平安期になつても「心あらむ人に見せばや」(能因)と歌はれた程よかつた。それが潮干となると又面目が變つて、鹵斥と水との交錯は、所在に洲濱模樣を現じ、鷺鶴は白を飛ばして蘆叢に下り、棚無舟は黒を點じて泥沙に膠し、漁網日に光つて近く※[辰/虫]舍の軒に懸かり、貝掘る子は遠く白洲に霞んでゐる。すべて和やかな好風光は、「潮干のなごり飽くまでに」(卷四)と、大伴(ノ)宿奈麻呂も難波で歌つてゐる。
 「よく見てむ」は作者が既にこの風景に陶醉してゐることが看取される。されば家妻にもせめて語つて聞かせ(1729)たくもなるので、その情意が「妹が待ち問はむ爲」と、本末を轉倒して表現された。蓋し夫に對して外出中の出來事を問ふのは、留守居する妻の常情で、
  玉津島よく見ていませ青によし平城《ナラ》なる人の待ち問はばいかに (卷七――1215)
も只自他の立場が相違したまでゞ、この歌とその落想を同じうし、その濃厚なる人情味が嬉しい。
 
直超乃《ただこえの》 此徑爾師弖《このみちにして》 押照哉《おしてるや》 難波乃海跡《なにはのうみと》 名附家良思裳《なづけけらしも》     977
 
〔釋〕 ○ただこえのこのみち 草香の〔三字右○〕直越《タダコエ》の路。生駒山の暗《クラガリ》峠の道をいふ。直越は一直線に越えるの意。古事記にも日下《クサカノ》直超(ノ)道の稱が見える。宣長いふ、大和の平群より伊駒山の内南の方を超えて河内國に至り、若江郡を經て難波に下る道にして、今暗峠といふ。日下村はこの道よりは北方なれども、古へはこのあたりをも日下といへりけむと。○おし(1730)てるや 「おしてる」は難波の枕詞。既出(九八五頁)。「や〕は問投の歎辭。
【歌意】 外ならぬ〔四字右○〕日下のこの直越の路でもつて、古人が押照る難波の海と、名を付けたことであつたらうなあ。
 
〔評〕 生駒山を越えるに、直越路を河内方へおりると、忽ち眼界が豁然として開け、一望鏡の如く照り渡つた難波の海の全景が雙眸のもとに收まり、始めて「押照る」の語が虚稱でないことを發見し、そこで古人も多分、この路でもつて難波の海を押照ると形容し始めたらしいの一案を創造した。いかにも強くその押照る光景が作者の眼底に燒き付いたことであつたらう。
 上の歌は峠から見おろした趣でないから難波潟附近の作、これは峠路での作である。同じ道中での吟詠なので、一つ題下に攝したが、順序は前後してゐる。
 
山上(の)臣《おみ》憶良(が)沈痾《やみこやれる》之時(の)歌一首
 
○沈痾之時 卷五に憶良の沈痾(ニ)自(ラ)哀(ム)文がある。又老身重病經(テ)v年(ヲ)辛苦(シム)云々の歌が七首あり、その左註に「天平五年六月丙甲朔三日戊戌作」とある。この歌はその以後の作である。○憶良 傳既出(二三四頁)。
 
士也母《をとこやも》 空應有《むなしかるべき》 萬代爾《よろづよに》 語續可《かたりつぐべき》 名者不立之而《なはたてずして》     978
 
〔釋〕 ○をとこやも 「や」は反動辭。「も」は歎辭。攷及び古義の訓による。舊訓ヲノコ〔三字傍線〕。○むなしかる 何も爲(シ)(1731)出でぬをいふ。死するの意はない。○なは 名をば〔二字傍点〕の意。○たてずして 古葉神本の訓による。舊訓タヽズシテ〔五字傍線〕は非。
【歌意】 男兒たる者が、ボンヤリとあるべき事かい。萬世の後まで語り傳へるほどの名をば、世に樹てないでさ。
 
〔評〕 過去の囘願は死に近い病間に於いて殊に甚しからう。この世に印して來た足跡をつぶさに檢討し、その功過を清算してみると、或者は後悔し、或者は殘念がり、或者は+《ブラス》も−《マイナス》もなく、或者は零でもあらう。宗教はそこに刹那の滿足を教へ、更に永遠の正覺《サトリ》に導く。
 沈痾自哀文によると、憶良は正直者で、日夜神佛を深く崇敬したとある。彼れは信行二つは正しく守つたらうが、覺地には到達し得なかつた。自哀文は畢竟昧者の愚痴である。然しそれでこそ、憶良の僞らざる人間性が、炳乎として著く我等の眼に映じて面白いのである。
 卷五所載の諸作は憶良の全人格を表現し露出してゐる。漢學者で文章家で歌人で、憂國慨世の志に篤く、道徳親念に富み、神佛の信仰家で、子煩悩家で、勤※[殻/心]な地方官で、起居不自由な病人で、老來なほ仕進の志があつた。これがその大概である。
 處がこの一吟に逢着して、その意外に驚いた。抑も彼れの何處にかゝる雄志を包藏して居たのか。左註によると、藤原(ノ)八束(房前の三男、當時十九歳)が河邊(ノ)東人をその病氣見舞の代理として遣つた時に、涕を拭うてこの歌を口吟したとある。
 嗚呼彼れも亦一箇の有髯男兒であつた。志は大いに才もあつたが、仕進に必要な門閥がなく、且一生世故の(1732)桎梏に繁累されて頽齡に及んでしまつた。不本意千萬である。嘗て筑紫にゐて、帥旅人卿が歸京の際、「奈良の都にめさげ給はね」とその推挽を乞うたが、間もなく卿の薨去にあひ、自らも筑前守の任果てゝ歸京はしたものゝ、頼む樹蔭に雨が洩つた。乃ち卿の知人藤原房前の子八束等の學間の師で、纔に餘命を過して居たらしい。實に失意の境遇にあつた。
 この歌や氣魄雄偉にして而も悲壯、信に懦夫をして起たしむる概がある。失意と瀕死の病苦との板挾みに喘ぎながら、壯來の雄志なほ消磨し盡さず、一道の豪氣四邊を壓倒してゐる。憶良はかく歌つてその年に卒した。享年七十有四(?)。
 憶良は漢學者の建前として大いに濟世の志を抱き、功名富貴手に唾して取るべしと思つたこともあらう。功利は儒教の本旨ではないが、支那人本來の思想は功利主義で固まつてゐた。されば
  功成(リ)名立(チテ)而利附(ク)焉。   (史記、范※[目+隹]傳)
  功名有(リ)d著(ルヽ)2於當世(ニ)1者u。 (同、 張蒼傳)
  垂(ル)2功名(ヲ)於竹帛(ニ)1。     (後漢書、※[登+おおざと]禹傳)
  立(テ)v身(ヲ)行(ヒ)v道(ヲ)揚(ゲ)2名(ヲ)於後世(ニ)1以(テ)顯(ハスハ)2父母(ヲ)1孝之終也。         (孝經、開宗明誼章)
  功成(リ)名逐(ゲテ)身退(クハ)天之道(ナリ)。  (老子、第九章)
など見えてゐる。西晉以來その反動思想が勃興して來たが、多くは不成功者の矯語か、或は成功者の人前を糊塗する煙幕に過ぎない。されば憶良がその學問上から薫染されて、功名に對して特に強い執着をもつに至つた事は、當然であらうと思ふ。
(1733) 卷十九、家持の慕《シヌブ》v振(フヲ)2勇士之名(ヲ)1歌に、
  (上略)ますらをや空しかるべき、梓弓末振り起し、投矢《ナグヤ》もち千尋射わたし、劔太刀腰にとり佩き、足引の八つ峯《ヲ》踏み越え、さしまくる情《コヽロ》さやらず、後の世の語り繼ぐべく名を立つべしも。(――4164)
  ますらをは名をし立つべし後の世の聞く繼ぐ人も語り繼ぐかね(――4165)
と見え、その左註に「右二首、追(ヒテ)2和《ナゾラフ》山上(ノ)憶艮(ノ)臣(ノ)作歌(ニ)1」とある。文武その揆を殊にするが、功名を懷ふことは一つである。如何にこの歌が當時の人士に深い感銘を與へたかが窺はれよう。
 憶良よ、君はその生前に於いて失望し又歎息した。而もそれは無用の焦燥に過ぎなかつた。君は事志と違ふといふかは知らぬが、君がわが萬葉歌人として占めた地位は實に最高至上のもので、その大名は萬世のもとに語り繼がれる。乞ふ安んじて瞑せよである。
 
右一首、山上(ノ)憶良(ノ)臣《オミガ》沈痾之時、藤原(ノ)朝臣八束、使(テ)2河邊(ノ)朝臣|東人《アヅマヒトヲ》1、令(ム)v問(ハ)2所v疾(ム)之状(ヲ)1。於是、憶良(ノ)臣報(フル)語既(ニ)畢(リ)、有v頃〔左△〕《シバラクアリテ》拭(ヒテ)v涙(ヲ)悲嘆《ナゲカヒテ》口2吟《クチズサム》此歌(ヲ)1。
 
 憶良の病中に、藤原八束が自分の代理として、河邊東人を遣つて病氣見舞をさせた、そこで憶良がその返事の口状を述べ了つて、暫時して涙を拭きつゝ嘆いて、この歌を口ずさんだとの意。○有頃 「頃」原本に須〔右△〕とあるは誤。○藤原朝臣八束 既出(九〇四頁)。○河邊朝臣東人 續紀に、神護景雲元年正月從六位上より從五位下、寶龜元年十月石見守とある。
 
(1734) 大伴(の)坂上(の)郎女(が)與《おくれる》d姪《をひ》家持(が)從《より》2佐保1還2歸《かへるときに》西(の)宅《いへに》u歌一首
 
坂上郎女が甥の家持が佐保の家から西の宅に歸る時に遣つた歌との意。○姪 玉篇に昆弟(ノ)子之稱と見え、男女に通じて用ゐる。又區別していふと甥はヲヒ、姪はメヒ。○西宅 佐保の本邸から西方に當る大伴家の別宅。○坂上郎女 既出(八六七頁)。○家持 既出(九〇〇頁)。
 
吾背子我《わがせこが》 著衣薄《けるきぬうすし》 佐保風者《さほかぜは》 疾莫吹《いたくなふきそ》 及家左右《いへにいたるまで》     979
 
〔釋〕 ○ける 著たる〔三字傍点〕の古言。「けせる」を見よ(一一一〇頁)。○さほかぜ 佐保の地に吹く風。「あすか風」を見よ。(二〇一頁)。○さほ 既出(七三頁)。
【歌意】 あの人が着てある衣が薄いわ。こゝの佐保風は餘り強《ヒド》く吹くなよ、大事なあの人が〔七字右○〕、その西の宅に往き著くまでは。
 
〔評〕 兄旅人卿逝後は、郎女がその娘大孃達と共に佐保の本邸(今の興福院附近か)に起居し、旅人卿の息家持は却てその西宅に住んでゐた。西宅も尚佐保の内であることは、地名を別に冠してないのでも想定される。宮城の(1735)東方四五坊の地に當る處は今も佐保の稱がある。その邊に大伴氏の西宅があり、宮仕の都合か何かで家持は移居してゐたのであらう。西宅との距離は約十町位かと想像される。
 衣の薄きをいひ、風の寒きをいふ、時季は必ず暮秋から冬である。佐保の岡陵下の風は勿論大したものではあるまいが、枯林を振ふ長風は、やはり人の衣袂の薄きを覺えしめるに十分だ。歌には時刻が點出してないが、まづ夕暮頃から夜分へかけての事であらう、さもなくば朝だ。もし朝とすれば、郎女の娘坂上大孃と家持との關係が想及され、或はその後朝に、母郎女が娘の代作して贈つたものと見られぬこともない。然し今は題詞のままに素直に受け取つておく。
 郎女は家持の辭しゆく後影を見送り、その無心なる風に向つて、「いたくな吹きそ」と控目がちな命令、「家に至るまで」と最小限度の要求をした。多少でも可愛い甥子に辛い目をさせまいの濃到親切なる情味は、すべての理路に超越してゐる。「ける衣薄し」の印象がこの情味の由つておこる根本で、かうした細瑣な點に氣の付くのは流石に婦人である。家持はいゝ叔母さんを持つたものだ。然しその大孃との關係に至つては、又こはい叔母さんでもあつたらしい。
 
安倍(の)朝臣蟲麻呂(が)月(の)歌一首
 
○安倍朝臣蟲麻呂 既出(一二八五頁)。
 
雨隱《あまごもり》 三笠乃山乎《みかさのやまを》 高御香裳《たかみかも》 月乃不出來《つきのいでこぬ》 夜者更降管《よはくだちつつ》     980
 
(1736)〔釋〕 ○あまごもり 「みかさ」に係る枕詞。雨に隱《コモ》る笠と續く。○みかさのやま 「みかさやま」を見よ(六二一頁)○たかみかも 既出(一七二頁)。○よはくだちつつ 夜の更けゆくをいふ。卷十九に「夜くだち」ともある。「くだち」は前出(一四八八頁)。「更降」は更の闌くる意。舊訓フケニツツ〔五字傍線〕は非。△地圖及寫眞 挿圖170(六一七頁)196(六一五頁)參照。
【歌意】 三笠の山が高いせゐかまあ、月が一向出て來ないわ。夜は更けに更けてさ。
 
〔評〕遲く出る月を待遠に思つて、「山高みかも」の一不審を投げた。月待つ歌に「雨ごもり」の枕詞は聯想上妙でない。又構想は次の坂上(ノ)郎女の歌も、間人(ノ)大浦の初月歌(卷三)も、沙彌(ノ)女王の歌(卷九)も皆同じである。暗合か踏襲かは知らぬが、かう類想の多いことも、その優絶した作でないことを證する。但大浦の歌「椋橋《クラハシ》の山を高みか」(七二三頁)には、多少の姿致とそれに就いての注脚がある。參照されたい。
 
大伴(の)坂上(の)郎女(が)月(の)歌三首
 
※[獣偏+葛]高乃《かりたかの》 高圓山乎《たかまとやまを》 高彌鴨《たかみかも》 出來月乃《いでくるつきの》 遲將光《おそくてるらむ》     981
 
〔釋〕 ○かりたかの 「※[獣偏+葛]高」は地名。高圓山西魔の臺地の稱。※[獣偏+葛]高の野といふ。卷七に「借《カリ》高の野邊さへ清く照る月夜かも」とある。こゝは高圓山に係る序詞の如くに用ゐた。○たかまとやま 既出(六一六頁)。○いでくる 古義訓イデコム〔四字傍線〕は非。△地圖及寫眞 挿圖170(六一七頁)169(六一四頁)參照。
【歌意】 ※[獣偏+葛]高の高圓山の高いせゐかまあ、出て來る月が、かうも〔三字右○〕遲くさすのであらう。
 
(1737)〔評〕 これも月を待つ意である。評は上の歌の條に盡きてゐる。蟲麻呂と郎女とは、卷四「戀ひ/\てあひたるものを」の歌の左註によると、頗る親昵の關係であつたさうだが、何もおなじやうな歌まで詠むにも及ぶまいに。然しこの歌は別に高《タカ》の語を三疊した小技巧がある。
 尚「古郷の飛鳥はあれど」(一七四四頁)及び「ますらをが高圓山にせめたれば」(一八〇〇頁)の條下を參照。
 
烏玉乃《ぬばたまの》 夜霧立而《よぎりのたちて》 不清《おほほしく》 照有月夜乃《てれるつくよの》 見者悲沙《みればかなしさ》     982
 
〔釋〕 〇ぬばたまの 夜の枕詞。既出(三〇四頁)。○おほほしく 既出(四八五頁)。「不清」を意訓にかく訓む。不明〔二字傍点〕(卷十)をも訓んである。○みればかなしさ 「月夜の」は「見れば」を隔てゝ、「悲しさ」に續く。この「さ」を古義に、高さ廣さの名詞格なると同じやうに解したのは誤。誤字説も多少あるがが採らぬ。○かなし (1738)(1)悲し、(2)面白い、(3)愛するの三者がある。この歌では(1)の意。「まかなしみ」を參照(一一三七頁)。
【歌意】 夜露が立つて、ぼんやりと照つてゐる月夜が、見ると、ほんに悲しいことさ。
 
〔評〕 月はその光色の關係から、悲哀の感じを催し勝ちのもの、まして時が蒼茫たる夜の靜寂であり、而も或は悲涼或は凄其なる聯想を伴ふところの煙霧に包まれて朦朧たる光景に對しては、一段の哀愁を加へざるを得まい。さればこの歌は當然な感想を當然に述べたまでで、何の奇もない。が月に悲しと道破したことは、歌ではこれが抑もであらう。詩には例が多い。
 「かなしさ」を面白しの意としても通ずるが、上の「おほほしく」が憂欝の意をもつから、悲しの意とする方が自然でふさはしい。
 
山葉《やまのはの》 左左良榎壯子《ささらえをとこ》 天原《あまのはら》 戸〔左△〕度光《とわたるひかり》 見良久之好藻《みらくしよしも》     983
 
〔釋〕 ○やまのは 山の端。「葉」は借字。○ささらえをとこ 細《サヽ》ら愛男《エヲトコ》。月の異名。「ささ」は物の細やかなるをいひ、「ら」は接尾語。「え」は美しく愛《ハ》しきをいふ。記(上)に「あなにやし愛袁登古《エヲトコ》を」とある。尚「ささらの小野」を見よ(九三六頁)。○あまのはら 既出(四二二頁)。○あまのはらとわたる 二説ある。(1)天の岩屋戸の前を渡る(古義)。(2)天の川門《カハト》を渡る(新考)である。按ずるに(1)はやゝ牽強の感がある。(2)は更に迂遠で、古今集(秋)に「秋風に聲をほ(帆)にあげてくる舟は天の門渡る雁にぞありける」とあるが、それは天の川門と(1739)解すべき前提があり。又同集(雜)「わが上に露ぞおくなる天の川門渡る舟の櫂の雫か」は明かに天の川と斷つてある。案ずるに「戸」を佐〔右△〕の誤として、サワタル〔四字傍線〕とすれば意は頗る明瞭だと思ふ。○よしも 「よし」は宜しで、結構の意。「も」は歎辭。
【歌意】 山の端から出るさゝらえ男(月)が、大空を經わたる光を見ることがさ、嬉しいな。
 
〔評〕 すべて崇高な感じを出すに骨折つてゐる。「天の原さ渡る光」といひ、又月に「さゝらえ男」の異名を用ゐた。この半人半神の活喩も適實で面白い。往時美貌を形容するに、光る〔二字傍点〕、耀く〔二字傍点〕の語がある。「さ渡る光」の光は「ささらえ男」の美しい影である。隨つて山の端から天の原を經渡るまで、見ても見飽かぬので、「見らくよしも」が旨く落著する。さもなければこの結句は、平凡な報告に終つてしまふ。
 
右一首(ノ)歌、或云(フ)、月(ノ)別名(ヲ)曰(フ)2佐散良衣壯子《サヽラエヲトコ》1也。縁(リテ)2此辭(ニ)1作(メリト)2此歌(ヲ)1。
 
 或人がいふには、月の異名を「サヽラエヲトコ」といふので、その辭を使つてこの歌は詠んだのだとの意。
 
豐前(の)國(の)娘子《をとめが》月(の)歌一首【娘子|字《ナヲ》曰(フ)2大宅《オホヤケト》1、姓氏未詳也。】      
 
○豐前國娘子 註に名を大宅といふと見え、卷四に豐前(ノ)國(ノ)娘子|大宅女《オホヤケメノ》歌とある。同人であらう。傳既出(一三二三頁)。
 
(1740)雲隱《くもがくり》 去方乎無跡《ゆくへをなみと》 吾戀《わがこふる》 月哉君毛〔左△〕《つきをやきみも》 欲見爲流《みまくほりする》     984
 
〔釋〕 ○ゆくへをなみと 行方《ユクヘ》がまあわからなさによつて。「と」の辭輕く聞く。○きみも 「毛」原本に之〔右△〕とある。これはキミガ〔三字傍線〕と訓まれるが、一首の意が分明を缺く。新考に毛〔右△〕の誤と見たのは甚だよい。
【歌意】 雲に隱れてその行方がわからなさに、私が戀うてゐる月を、あの方も同じやうに〔五字右○〕、見たくお思ひかしら。
 
〔評〕 郎を懷うて月に對する時、端なく月の雲隱れにあひ、懇にこの際における郎君の擧措と心情とを想像し思惟してみた。一輪の月は兩地の情を繋ぐ、銷魂の極である。但表現がやゝ散漫。
 
湯原(の)王(の)月(の)歌二首
 
天爾座《あめにます》 月讀壯子《つくよみをとこ》 幣者將爲《まひはせむ》 今夜乃長者《こよひのながさ》 五百夜繼許曾《いほよつぎこそ》     985
 
〔釋〕 ○あめにます 天上に座《イマ》す。○つくよみをとこ 月夜見男。月の異名。また月人男ともいふ。「つくよ」は月のこと。「み」はビ(靈)の轉語で尊稱。記(上)に、次(ニ)洗(フ)2左(ノ)御目(ヲ)1時、所《マセル》v成(リ)神(ノ)名(ハ)月讀(ノ)命、神代紀に、次に生(ム)2月(ノ)神(ヲ)1。一書(ニ)月弓《ツキユミノ》尊、月《ツキ》夜見(ノ)尊、月《ツキ》讀(ノ)尊とある。「讀」は借宇。○まひ 前出(一六〇一頁)。○いほよ 「いほ」は五百の意であるか、多數の義とする。○つぎこそ 續けてくれい。「こそ」は願望辭。
(1741)【歌意】 天上に居らつしやる 月讀男よ、お禮物を差上ませう。どうぞ今夜の長さは、五百夜の長さに續けて下さい。
 
〔評〕 單なる天象語の月〔傍点〕とのみでは「まひはせむ」が襯密でないので、月讀男の人格的名稱を用ゐた。
  若ければ道ゆき知らじまひはせむ下部《シタベ》の使負ひてとほらせ(卷五、山上憶良――905)
も似た着想である。すべて神祭の幣物は神意を慰め奉るにある。代償の應報を餘り強要すると、交換行爲に似た結果になるが、歌ではその代償が物質的でないから、却て興味三昧の快語となる。主としては明月の夜を長かれと要求したもので、稍浮誇に流れた氣味はないでもない。
  あすのよひ照らむ月夜《ツクヨ》は片寄りにこよひに寄りて夜長からなむ(卷七――1072)
はこの亞流である。
 
愛也思《はしきやし》 不遠里乃《まぢかきさとの》 君來跡《きみこむと》 大能備爾鴨《おほのびにかも》 月之照有《つきのてりたる》     986
 
〔釋〕 ○はしきやし 既出(五一八頁)。この句「君」に係る。○まぢかき 「不遠」を意訓に讀む。○きみこむと 君來むとて〔右○〕。略解訓による。宣長はこの三四句に誤字説を提出したが、皆當らぬ。○おほのび 大野邊。「び」は「はまび」を見よ(一〇〇一頁)。尚「はるののに」を參照(一四八一頁)。○てりたる 舊訓テラセル〔四字傍線〕。
【歌意】 遠くもない處に居る、愛する貴方が來うといふので、この大野の邊に、月が照つたことかまあ。
 
(1742)〔評〕 王はその邸宅續きの野原に、皎々と照つた明月に對し、ま近き里の親友を憶ひ、その來遊を希ふのであつた。然し王の狡猾なる、自身をその圏外に置いて、すべてを月と親友との交渉に寄託し、月は意有つて君が來路を照してゐると報告した。この報告に接した親友は、來ねば月に辜負する没風流の譏を負ふ、否でも應でも出て來ねばならぬとなる。面白い陷穽だ。巧語言と評しておかう。
 
藤原(の)八束《やつかの》朝臣(が)月(の)歌一首
 
○藤原八束朝臣 傳既出(九〇四頁)。
 
待難爾《まちかてに》 余爲月者《わがするつきは》 妹之著《いもがきる》 三笠山爾《みかさのやまに》 隱而有來《こもりたりけり》     987
 
〔釋〕 ○まちかてにわがする わが待ちかてにする〔九字傍点〕の顛倒。○いもがきる 「みかさ」に係る序詞。「きる」を古義訓にケル〔二字傍線〕とあるは非。尚「けせる」を見よ(一一一〇頁)。○みかさのやま 「みかさやま」を見よ(六二一頁)。
【歌意】 私が待ちかねてゐる月は、あの三笠山に、何時までも〔五字右○〕、かけ籠つてゐることよ。
 
〔評〕 上代の婦人も、笠を冠つて歩いたと見える。さて「妹が著る」の修飾も、この歌の平淺を蔽ふに足らない。
 
市原(の)王(の)宴《うたげして》祷《ほぎたる》2父|安貴《あきの》王(を)歌一首
 
(1743)市原王が宴を開いて父の安貴王の壽を祝はれた歌との意。○市原王 傳既出(九二〇頁)。○安貴王 傳既出(七四七頁〉。△挿圖275(九二〇頁)を參照。
 
春草者《はるぐさは》 後波落易《のちはうつろふ》 巖〔左△〕成《いはほなす》 常磐爾座《ときはにいませ》 貴吾君《たふときわがきみ》     988
 
〔釋〕 ○はるぐさは 契沖いふ、「草」は花〔右△〕の誤かと。○うつろふ 「落易」は略解にかく訓んだのか比較的よい。易は音エキ、變る〔二字傍点〕の意を採る。舊訓カレヤスシ〔五字傍線〕、契沖及び古義訓チリヤスシ〔五字傍線〕。〇いはほなす 「巖」原本に嚴〔右△〕とあるは誤。西本その他によつた。○ときは 「ときはなす」を見よ(七五〇頁)。
【歌意】 春草は美しくめでたいが〔八字右○〕、後には枯れ衰へる。それよりも〔五字右○〕巖のやうに、常磐にあらつしやいませよ、わが父君は。
 
〔評〕 「弱草の夫《ツマ》」と呼び、「春草のいや珍しきわが大君」と愛ではやすのが常習的の時代だ。されば一旦は春草の瑞々しさを以て父君に擬へて、壽の語とすべく思つたが、待て暫しよく思へば「後は移ろふ」で、秋になれば忽ち凋萎するのであつた。そこで極めて凡常で舊套には墮するものゝ、完全に常磐である巖石を引いて、父君の萬歳を切願した。孝子の心情がそこに脈動する。春草との對照が腐を化して新とした。時は恰も若草の萌え盛る遲春の頃であつたらう。
 
湯原(の)王(の)打酒《さかほがひの》歌一首
 
(1744)○打酒 酒を行ふをいふ。即ち酒宴である。打はその事をなす意で、打飯打漁とも熟する。「打」を宣長は祈〔右△〕の誤とし、古義所引の嚴水説は、折〔右△〕の誤にて酒を釀す意としたが、何れも非。サカホガヒは酒|壽《ホ》ギ〔傍点〕の延言。酒を進むるに壽《ホ》ぐをいふ。
 
燒刀之《やきだちの》 加度打放《かどうちはなち》 大夫之《ますらをが》 祷〔左△〕豐御酒爾《ほぐとよみきに》 吾醉爾家里《われゑひにけり》     989
 
〔釋〕 ○やきだちの 既出(一二六二頁)。○かどうちはなち 刀を拔いて鎬《シノギ》を露はすをいふか。「かど」は刀の稜《カド》で、ムネ(背)通りの稜線の稱。この句「ほぐ」に係る。舊訓ウチハナツ〔五字傍線〕は三句の「ますらを」に係るので、意がたじろぐ。宣長訓による。○ほぐ 眞淵訓による。類本等の訓ノム〔二字傍線〕、西本等の訓ネグ〔二字傍線〕。「祷」原本に擣〔右△〕とあるは誤。
【歌意】 丈夫《マスラヲ》が太刀の稜を拔き放つて言壽《コトホ》ぐ、その結構なお酒に、私は醉つてしまうたわい。
 
〔評〕 酒壽《サカホガ》ひは古へ廣い意味では興宴の稱となつてゐた。されば漢語の「打酒」の字面を充てもしたのである。抑も酒の釀造はむづかしいもので、その成否は神業と考へられ、精進潔齋、洒神にその丹誠を抽でたものである。造酒司で祀る神六座、そのうち四座は竈神で、酒を釀すに竈を祀り、又井を祀る。隨つて釀した酒甕の口(1745)を始めて切る時、その釀成の功をこれらの神々に感謝する爲の信仰的儀礼、或は咒術の類の行爲があつたと考へられる。
  吉|野《ヌ》の國主《クズ》ども――吉野の白擣上《カシフ》に横臼《ヨコス》を作りて、その横臼に大御酒を釀《カ》みて、その大御酒を獻る時に、口鼓を撃ち〔五字傍点〕伎《ワザ》をなして歌ひけらく〔九字傍点〕。(記中、應神天皇の條)
と見え、茲には「燒太刀の稜うち放ち――壽ぐ」とある。殊に劍太刀は神靈の憑る器で、不淨の邪氣を拂ふ功力あるものと信ぜられてゐた。さてかく壽ぎ終へた後、その酒を酌み交して宴するのであつた。
 この「ますらを」は酒造の當事者か、或は宴席の主事者であらう。それらが太刀拔き放つて祝言したこの豐御酒と讃め稱へ、杯を擧げて赤土《アカニ》の秀《ホ》に聞し召した湯原王は、その歡に禁へぬ餘り、この一作を物した。
 應神天皇は百濟人|須々許理《スヽコリ》の釀した大御酒にうらげて、
  須々許理が釀みし御酒《ミキ》に、われ醉ひにけり。事なぐし笑《ヱ》ぐしに、われ醉ひにけり。(記中)
とお歌ひ遊ばされた。著想はその躇襲のやうであるが、これは更に空を斬る劍氣が横逸して、胸中の洒落と相俟つて、いとも豪快の調を成した。高品の人、その風格もおのづから高邁である。この外王の作は戀歌を除いては、總體に調子が高い。竹園中の作家である。
 
紀(の)朝臣|鹿人《かひとが》跡見茂岡《とみのしげをかの》松(の)樹(の)歌一首
 
○跡見 「跡見(ノ)庄」を見よ(一三三二頁)。この跡見を大和礒城郡の外山《トビ》村に當てる説は取らぬ。○茂岡 樹木の茂つた岡のこと。○紀朝臣鹿人 續紀に、天平十九年九月正六位上から外從五位下、同十二月主殿(ノ)頭、同十二年十(1746)一月外從五位上、同十三年八月大炊頭とある。△地圖及寫眞 挿圖350(一三三四頁)351(一三三五頁)を參照。
 
茂岡《しげをかに》 神佐備立而《かむさびたちて》 榮有《さかえたる》 千代松樹乃《ちよまつのきの》 歳之不知久《としのしらなく》     990
 
〔釋〕 ○かむさび 「かむさびせすと」を見よ(一五三頁)。○ちよまつのき 千代待つに松をいひかけた。○しらなく 既出(四四五頁)。
【歌意】 この茂岡に物舊りて生ひ立つて、そして榮えてゐる、千年を待つといふ名の松が、幾年經たかもわからぬことよ。
 
〔評〕 繊弱な調で甚だ面白くない。「千代まつの木」の洒落もその當時には出榮えもしたらうが、鼻に著いて感心しない。
 
同(じ)鹿人(が)至(りて)2泊瀬《はつせ》河(の)邊《ほとりに》1作歌
 
○泊瀬河 「はつせのかは」を見よ(二七二頁)。
 
石走《いははしり》 多藝千流留《たぎちながるる》 泊瀬河《はつせがは》 絶事無《たゆることなく》 亦毛來而將見《またもきてみむ》     991
 
(1747)〔釋〕 ○いははしり――はつせがは 上句は序詞。京本訓による。類本神本などの訓はイシハシリ〔五字傍線〕。△地圖 挿圖 61(一七六頁)を參照。
【歌意】 岩床を走つて、たぎつて流れる初瀬川のやうに、絶える事なしに、何遍もこの川の景色を來て見よう。
 
〔評〕 今の初瀬川はさういゝ景色ではない。初瀬町附近に至つて稍見られる。然し「流るゝ水尾《ミヲ》の瀬を早み」(卷七)といひ、又
  泊瀬川しら木綿花に落ちたぎつ瀬をさやけみと見に來し我れを(卷七――1107)
などあるので見ると、昔は水量も多く相當な激瑞も澤山あつたらしい。この下句に就いては、卷一、人麻呂の幸2吉野宮1之時の第一歌の反歌の評語(一五一頁)を參照されたい。
 
大伴(の)坂上(の)郎女(が)詠《よめる》2元興《ぐわんこう》寺之里(を)1歌一首
 
(1748)坂上郎女が元興寺の里を詠んだ歌との意。○元興寺之里 奈良の新元興寺所在の里をいふ。新元興寺の舊地域は奈良京の左京四條五條の間、六七坊を占め、その南限は今の京終《キヤウハテ》より紀寺に亘る。今の花園町はその燈油の料の椿を栽培した花園の一部といふ。この寺もと高市郡の飛鳥にあつて飛鳥寺と呼ばれた。蘇我(ノ)馬子の創建。類聚三代格に、元興寺、此寺(ハ)者、佛法元興之場、聖教最初之地也。去(ヌル)和銅三年帝都遷(ル)2平城(ニ)1之日、諸寺隨(ツテ)移(ル)、件(ノ)寺獨留(マル)、更(ニ)造(リ)2新寺(ヲ)1備(フ)2其不(ル)v移(ラ)間(ニ)1、所謂本元興寺是也と見え、甚だその文意が誤解し易いが、奈良京には新元興寺が出來たので飛鳥京のを本元興寺といふの意である。續紀に、靈龜二年五月辛卯、始(メテ)徙(シ)2建(ツ)元興寺(ヲ)于左京六條四坊(ニ)1と見え、又その二年後、養老二年八月の條に、甲寅移(ス)2法興寺(ヲ)於新京(ニ)1とある。これに就いて日本紀通釋及び東大紀要の平城考には、飛鳥の本寺は法興元興飛鳥など、一寺數稱あつたものとして、元興寺が更に六條四坊から四條六坊に移された意味に解した。△地圖 挿圖380(一五一一頁)を參照。
 
古郷之《ふるさとの》 飛鳥者雖有《あすかはあれど》 青丹吉《あをによし》 平城之明日香乎《ならのあすかを》 見樂思好〔左△〕裳《みらくしよしも》     992
 
〔釋〕 ○ふるさとのあすか 故京の飛鳥。高市郡の飛鳥(ノ)郷をいふ。○あをによし 奈良の枕詞。既出(八三頁)。○ならのあすか 新元興寺所在の里をいふ。もと元興寺に飛鳥寺の稱があつたので、奈良の新地にもその稱を移した。○よしも 「好」原本に奴〔右△〕とあるは誤。類本その他によつた。
【歌意】 舊い京の飛鳥は懷かしくも〔五字右○〕あるが、又この平城《ナラ》の飛鳥を見ることがさ、面白いな。
 
(1749)〔評〕 作者が「古郷の飛鳥」を絶對の懷かしい對象としたことは、その兄君旅人が「神無備の淵はもあせて瀬にかなるらむ」(本卷)と懷舊の情に浸つた如く、少壯時を飛鳥の淨見原の古京に送つたからである。
 さて「平城の飛鳥」は元興寺の一稱を應用した作者の造語とすれば、そこに機智がほの見える。歌は對照が餘り緊密に過ぎて餘蘊に乏しいが、これも亦一節あるものと見られる。
 作者が元興寺の里に興味をもつたのは、寺が作者の寓してゐた高圓山下の宅に近い爲と考へる。下に聖武天皇の高圓山の御獵の時、里中に走り入つた※[鼠+吾]鼠を獻る時、作者が歌を詠んだのも、元興寺邊に住んでゐた證で、上に「※[獣偏+葛]高の高圓山を高みかも」とある作者の歌も、その傍證とするに足りる。
 
同坂上(の)郎女(が)初月《みかづきの》歌一首
 
○初月 既出(七二二頁)。但初月の意は傍で、これは相聞の歌である。
 
月立而《つきたちて》 直三日月之《ただみかづきの》 眉根掻《まよねかき》 氣長戀之《けながくこひし》 君爾相有鴨《きみにあへるかも》     993
 
〔釋〕 〇ただみかづき すぐの三日目の月の如き〔二字右○〕。初二句は「まよね」に係る序詞。○まよね 既出(一一八〇頁)。
【歌意】 月が立つてからすぐ三日目の月のやうな眉の、かゆさを掻き、お蔭で〔三字右○〕長らく戀してゐた、貴方に逢うたことよ。
 
(1750)〔評〕 初二句、序中に序のある例は他にもあるが、これは粗末で面白くない。婦人の眉を新月に擬することは漢詩にも多い。眉根を掻くことは例の俗信である。この事卷四「いとまなく人のまよねを徒らに掻かしめつつも」の條參照(一一八〇頁)。
 
大伴(の)宿禰家持(が)初月(の)歌一首
 
振仰而《ふりさけて》 若月見者《みかづきみれば》 一目見之《ひとめみし》 人之眉引《ひとのまよびき》 所念可聞《おもほゆるかも》     994
 
〔釋〕 〇ふりさけて 「ふりさけみれば」を見よ(四二二頁)。○みかづき 「若月」を意訓によむ。○まよびき 前出(一四三四頁)。
【歌意】 振仰いで三日月を見ると、嘗て一目見た、美人の眉引が、思ひ見されることよ。
 
〔評〕 眉を初月に喩へることは漢詩に、
  映(シ)見(ル)蛾眉(ノ)月(何子郎、玉臺新詠)  雙蛾擬(ス)2初月(ニ)1(范靖婦、同上)
  眉間月出(ツ)(遊仙窟)  眉(ハ)如(シ)2月(ノ)欲(スル)1v消(エント)(同上)
など既に先例があり、唐代に至つては愈よ多い。かういふ聯想は凡常の事だから、和漢偶合としてもよからう。「一目見し兒」に戀をもつことは、よくある例で、
  み空ゆく月の光にただ一目あひみし人の夢にし見ゆる(卷四、扉娘子――710)
(1751)  はた薄ほには咲き出ぬ戀をわがする、かぎろひのただ一目のみ見し人故に(卷十――2311)
  一目見し人に戀ふらく天ぎらし降りくる雪の消ぬべく思ほゆ(卷十一――2340)
  あし引の山鳥の尾の一峯《ヒトヲ》越え一目見し兒に戀ふべきものか(卷十一――2694)
  花くはし芦垣ごしにただ一目あひみし子ゆゑ千たび嘆きつ(卷十一――2565)
  かくしてぞ人は死ぬとふ藤なみのただ一目のみ見し人ゆゑに(卷十二――3075)
など盛に歌はれてある。但目の見方に各色の相違があり、情に多少の淺深がある。中にこの歌は、三日月に依つて纔にその眉引を追憶する程度の、戀としては極めて淡いはかないものであるが、對手はまづ相當の美形ではあつたらう。
 序にいふ、よく美人の描寫に面わをいひ眉引をいふが、口程に物をいふ眼の美に就いて言及したものが、殆どないのは不思議である。
 
大伴(の)坂上(の)郎女(が)宴(せる)2親族《うからと》1歌一首
 
如是爲乍《かくしつつ》 遊飲與《あそびのみこそ》 草木尚《くさきすら》 春者生管《はるはさきつつ》 秋者落去《あきはちりゆく》     995
 
〔釋〕 ○のみこそ この「こそ」は乞の意で、願望辭。○さきつつ この「つつ」は輕い意で、てといふに近い。「生」を古義に「女郎花|生澤邊《サキサハノベ》の」(卷七)「七重花さく八重花|生跡《サクト》」(卷十六)の例を以て、サクと訓むべしとある。舊訓モエツツ〔四字傍線〕、略解訓オヒツツ〔四字傍線〕。○ちりゆく 略解訓カレユク〔四字傍線〕。古義訓チリヌル〔四字傍線〕は非。
(1752)【歌意】 お互に盛りのうち〔八字右○〕、かうしつゝ樂しく遊び飲みしてゐたい。あんな草木ですら春は花が咲いて、秋は散つてゆくわ。まして人間は明日をも知れぬからね〔十六字右○〕。
 
〔評〕 旅人卿なき後の大伴氏は、政治的勢力こそ稍下火の状態になつたが、依然たる古來の名族、その門葉は頗る廣く榮えてゐた。當主家持はまだ十四五歳の弱年、隨つて叔母さんの郎女が萬事家の釆配を揮つてゐたらしく、卷三にも、坂上(ノ)郎女(ガ)宴(スル)2親族(ヲ)1之時吟(メル)歌の題詞がある。郎女は折々懇親會を催して、一家の結合を固くしたものらしい。
 宴會に酒と歌舞は附物だ。それが即ち遊び飲むである。歡樂極(ツテ)兮哀情多(シ)(漢武帝)で、一門の老若が歡を※[聲の耳が缶]す間に、郎女は一寸繁華の裏を覗いた。榮枯盛衰は草木の非情なるすら遁れぬ、人生獨晏如たる筈がない、さればお互に榮昌の現在に於いて、飽くまで享樂を追求したいと、その感想を披瀝して、興宴の火に油を濺いだ。
  人生無(シ)2根蔕1、飄(トシテ)如(シ)2陌上(ノ)塵(ノ)1、分前逐(ヒテ)v風轉(ズ)、此(レ)已(ニ)非常(ノ)身、落地爲(ル)2兄弟(ト)1、何(ンゾ)必(シモ)肉(ノ)親(ノミナランヤ)、 得(テ)v歡(ヲ)常(ニ)作(シ)v樂(ヲ)、斗酒聚(ム)2比隣(ヲ)1、云々。(雜詩、陶潜)
  衰榮無(シ)2定住1、彼此更(ニ)共(ニス)v之(ヲ)、――寒暑有(リ)2代謝1、人道毎(ニ)如(シ)茲(ノ)、達人解(シ)2其會(ヲ)1、逝將不2復疑(ハ)1、忽(テ)與2一觴(ノ)酒1、日夕懽相持(ス)。 (飲酒、陶潜)
の思想と共通點が存する。郎女が是等の文獻を見ないと斷言は出來ぬが、かういふ傾向の感想はさのみ特異性のあるものではないから、恐らく偶合であらう。
  夫天地者萬物之逆旅、光陰者百代之過客而(モ)浮世如(シ)v夢(ノ)、爲(ス)v懽(ヲ)幾何(ゾヤ)、古人秉(リテ)v燭(ヲ)遊(ブ)、良(ニ)有(ル)v以(ユヱ)也。(春夜宴桃李園序、李白)
(1753)も郎女の作と殆ど同時代で、その先後を決し難い。
 郎女はその頃四十餘歳の分別盛りの老媼であつた。素より佛教信者の事でもあり、無常變易の哲理にその關心をもつのも當然であらう。然し當時の佛教は現世利益を強調してゐたから、淨土教盛行の後世とは違つて、欣求淨土の所願は餘り熱烈なものでなく、却てかくの如く凡人主義に近いものに轉用されたのが、歌として又面白いのである。
  
六年|甲戌《きのえいぬ》、海犬養《あまのいぬかひの》宿禰岡麻呂(が)應《うけたまはりて》v詔(を)作〔左○〕歌一首
 
〇六年 天平六年。○應詔作歌 仰言によつて詠んだとの意。「作」原本にない。眞淵説によつて補つた。○海犬養宿禰岡麻呂 傳未詳。海犬養は氏。姓氏録に海神|綿積《ワタツミノ》命之後也とある。
 
御民吾《みたみわれ》 生有驗在《いけるしるしあり》 天地之《あめつちの》 榮時爾《さかゆるときに》 相樂念者《あへらくおもへば》     996
 
〔釋〕 ○みたみわれ 「みたみ」は人民のこと。既出(一九二頁)。○しるし かひ〔二字傍点〕(詮)といふに近い。前出の同項を參照(一六六二頁)。○あへらく あへる〔三字傍点〕の延言。
【歌意】 大君の〔三字右○〕御民たる私は、この世に生きてゐる甲斐があります、かやうに天も地も榮えるめでたい時に、逢つたことを思ひますと。
 
(1754)〔評〕 岡麻呂は如何なる身分の人で、如何なる動機で應詔の歌を詠んだものか、一向その事情が判明しない。
 想ふに岡麻呂は在官者ではないが、何かの功績又は或技藝堪能の士か、さては珍しい長壽者かで、特に召し出されて破格の恩命に浴した人ではあるまいか。されど六位以下の叙任は國史に記載しない例なので、その事蹟が湮滅したのであらう。平安朝に及んで、仁明天皇の御時、尾張(ノ)濱主(外從五位下)が百十三歳の老年で清涼殿前に召され、長壽樂を奏して、
  翁とてわびやはをらむ草も木も榮ゆる時に出でて舞ひてむ
の歌を獻つたことが史(續日本後紀)に見える。岡麻呂も何かこれに似寄つた事情のもとに召し出され、而も歌詠むと聞し召されて歌獻らしめられたものか。
 「みたみ」を弘く日本臣民の意と解するのは、現代人の勝手な見方である。この語には階級意識が隨伴してゐた。卷一、藤原(ノ)宮(ノ)役民之歌に「そを取ると騷ぐ御民も」とあるも同じで、本來無位無禄の百姓以下を呼び、又その自稱する語である。されば岡麻呂は尋常なる百姓でもあるまいが、別に官職をもたぬ身分だつたので、かく謙稱したのであらう。
 天平六年は聖武天皇の御治世、奈良朝の最盛時で、文化の發展も一段の飛躍を示し、
  青丹よし奈良の京《ミヤコ》は咲く花の匂ふが如く今盛りなり(卷二、小野老――328)
の時代であつたとすれば、「天地の榮ゆる時」は、決して漫然たる諛言ではなからう。濱主も「草も木も榮ゆる時に」と歌つてゐる。この明時に際會し、幸に寵遇を得て望外の光榮に浴する。實に「生ける驗あり」と感謝するに足りる。岡麻呂の歡喜や實に察すべきである。
(1755) この歌はかくの如く、箇人的感情から出發した歡喜の聲と聞くが至當であらう。君國の讃美聖世の頌聲の如きは、何を苦んで卑賤微臣の岡麻呂などに徴求されることがあらうぞ。
 然し「御民われ」は日本臣民の意に擴充して現代意識に解釋すると、更により大きな感想となつて、聖代に生息する蒼生の偉大なる感謝を表し、その堂々たる雄渾の風格、和諧暢達なる聲調、相俟つて及び易からざる絶唱と見られてくる。尚「君が代」の歌が國歌となつて、その存在價値を高めたのと似てゐる。
 
春三月幸(せる)2于難波(の)宮(に)之時(の)歌六首
 
○春三月 續紀に、天平六年春三月、辛未(十日)行2幸(ス)難波(ノ)宮(ニ)1、戊寅(十七日)車駕還(ル)v宮(ニ)とある。
 以下六首、難波に就いて歌はれたものなく、住吉地方は三首までも詠まれてある。「從千沼囘《チスワヨリ》」の歌の左註にある如く、天皇は難波宮御滯在中、住吉方面に御出遊があつたのだ。
 
住吉乃《すみのえの》 粉濱之四時美《こはまのしじみ》 開藻不見《あけもみず》 隱耳哉《こもりてのみや》 戀度南《こひわたりなむ》     997
 
〔釋〕 ○こはま 住吉の粉濱は住吉神社の西北に當り、今は全部陸地となつてゐる。この時代でも蜆が棲む處を見ると、水淺く泥沙の堆積した入江であつたらしい。○しじみ 蜆。瓣鰓類中同柱類に屬する貝。初二句は「あけ」に係る序詞。○あけもみず 打開けてもみず。○こもりて 契沖訓による。略解訓コモリノミヤモ〔七字傍線〕、(1756)舊訓シノビテノミヤ〔七字傍線〕、新考カクレテノミヤ〔七字傍線〕。△地圖 挿圖78(二四一頁)を參照。
【歌意】 住吉の粉濱の蜆貝のやうに〔四字右○〕、打開けるといふことも自分は〔三字右○〕せず、心の内にばかり込めて戀うて、月日を重ねることであらうかえ。
 
〔評〕 蜆とは妙な物を序詞に使つたものだ。その頃難波附近では粉濱の蜆が名物であつたのであらう。作者の戀の相手は從駕の女房か。とすれば迂潤に冗談口も利けない。さりとてさらりと諦めもし得ない。で「あけも見ず隱りてのみや」と、稍自嘲氣味にその力ない歎息を洩した。
 
右一首、作者未詳。
 
 作者未詳とあつても、最初は分明してゐたのだらうが、人物の關係上わざと秘する場合もあり、又作者の意志によつて匿名にする場合もある。後世の勅撰集にも、往々これに似た事情の存するものがある。
 
如眉《まゆのごと》 雲居爾所見《くもゐにみゆる》 阿波乃山《あはのやま》 懸而※[手偏+旁]舟《かけてこぐふね》 泊不知毛《とまりしらずも》     998
 
〔釋〕 ○まゆのごと 眉の形の如く。遠山の細く靡いた状をいふ。○あはのやま 阿波の國の山。仙覺註に、讃岐の屋島の邊の粟島とあるは無稽。古義がこれに依つて、「山」を島〔右△〕の誤かと疑つたのは愈よ妄。○かけて 此方から向ひへと懸けて。古義に、目に懸けてとあるは非。○しらず 知られ〔右○〕ずの意。
【歌意】 眉のやうに細く、空遙に見える阿波の山、そちらへ懸けて漕ぐ船は、その泊り處がわからぬわい。
 
(1757)〔評〕 これは難波の海邊でもよいが、南に寄つた茅渟《チヌ》邊なら尚更ふさはしい。濱頭に立つて眺望すると、阿波國の方角に當つて雲山の影が模糊としてゐる。それは淡路島の南端である。「眉のごと雲居に見ゆる阿波の山」は作者の認識が既に誤つてゐた。然し今の我々が見ても、それが「阿波の山」と想像されざるを得ない地理的實状にある。
 天末一抹の山影に劃されたのみで、海は漫々として廣い。そこに一葉の舟が沖を臨んで駛走してやつてくる。作者は忽ち深い關心を以てその舟を諦視した。頼りなさ心細さ不安さ、あらゆる同情が次/\に湧き立つ。舟の安息處は泊である。然るにその泊さへ見當が付かぬ大海であつては、結局どうなるだらうと、傍觀者たる作者の胸を傷ましめる。さればその前提たる場處の指定は、事情の許すかぎり誇大である程、結果が強く反撥し、「泊知らずも」の詠歎の響が幅ひろく振動する。
 説明すれば右の如くだが、作者は只感情の動きのまゝに、大らかに一氣にいひ下したもので、流石御身分がら、他人の到底企及し能はぬ高渾の格調を具へてゐる。
 
右一首、船(ノ)王(ノ)作(メル)。
 
 ○船王 淳仁天皇の御弟で、舍人親王の子。續紀に、神龜四年正月無位より從四位下、天平十五年五月從四位上、同十八年四月彈正(ノ)尹、寶宇元年五月正四位下、同二年八月從三位、同三年六月、御父舍人親王に崇道盡敬皇帝の追尊があつた爲、隨つて親王となり三品にに敍せられ、同四年正月信部卿、同六年正月二品、同八年十月惠美(ノ)押勝の亂により、詔に依つて降して諸王となし、隱岐國に配流された。その詔に、船(ノ)親王《ミコ》は九月五日に仲(1758)麻呂(藤原)と二人謀りけらく、書《フミ》作りて朝廷《ミカド》の咎數へ奉らむと謀りけり、云々。
 
從千沼囘《ちぬわより》 雨曾零來《あめぞふりくる》 四八津之泉郎《しはつのあま》 網乎綱〔二字左△〕乾有《あみをほしたり》 沾將堪香聞《ぬれあへむかも》     999
 
〔釋〕 ○ちぬわ 茅渟《チヌ》の邊。「ちぬ」は和泉の海の稱から起つて地名ともなつた。記(中)に、五瀬(ノ)命が御手の血を洗はれたので、血沼《チヌ》之海といふとの傳説を載せた。續紀に、靈龜二年に河内國の和泉日根二郡を割いて珍努《チヌノ》宮に供せしむと見え、故に和泉國が立つた。今の濱寺高石の邊は茅渟(千沼)である。「わ」を古義にはミ〔傍線〕と訓んである。〇しはつ 「しはつやま」を見よ(六九六頁)。○あみをほしたり 「乎」原本に手〔右△〕とあるは誤か。「綱」は衍宇。新考も同説。古義所引の大町稻城説はツナデホシタリ〔七字傍線〕と訓み、「網」は綱の誤、「綱」はおなじく衍字とした。「綱手」は曳舟などの繩であるが、それよりも網の方が干して風情がある。○ぬれあへむかも 沾れるに堪へようかまあ。早くいへば、沾れずにあらうかの意。「か」は疑辭。△地圖及寫眞 挿圖78(二四一頁)79(二四三頁)を參照。
【歌意】 茅渟の海邊から、雨がさ降つてくるわ。そこに磯齒津《シハツ》の海人が網を干してあるわ。あれが沾れずにあらうかまあ。
 
〔評〕 左註にある如く、この日天皇は難波宮から住吉に御出遊であつた。生憎や遙か茅渟の方から海雲は春雨を運んで來たので、俄の御還幸だ。磯齒津路《シハツヂ》にかゝると、海人の家の軒にはまだ網が干し放しになつてゐる。であ(1759)れは沾れてしまふにと、作者は餘所ながら心配をしたものだ。
 左註によれば應詔の作であるさうなが、餘り出來榮のいゝものではない。
 
右一首、遊2覽《アソビテ》住吉《スミノエノ》濱(ニ)1、還(リタマヘル)v宮(ニ)之時(ノ)道上《ミチニテ》、守部《モリベ》王(ノ)王〔左△〕應《ウケタマハリ》v詔(ヲ)作歌。
 
 右は聖武天皇が住吉の濱を御遊覽、難波(ノ)宮にお還りなされる時の途上で、守部王が仰言によつて詠んだ歌との意。この時御兄船王と共に行幸供奉に仕へ奉つたらしい。○王 一字衍。削るがよい。○守部王 舍人親王の子(紹運録)。續紀に、天平十二年正月無位より從四位下、同十一月從四位上とある。
 
兒等之有者《こらがあらば》 二人將聞乎《ふたりきかむを》 奥渚爾《おきつすに》 鳴成鶴乃《なくなるたづの》 曉之聲《あかつきのこゑ》     1000
 
〔釋〕 〇こらがあらば 「あらば」は居らばの意。「こら」は既出(五八八頁)。新考訓コラシアラバ〔六字傍線〕。○おきつす 沖つ洲。沖合の浮洲をいふ。
【歌意】 思ふあの兒が居るならば、二人で聞かうものを、あの沖の洲に鳴いてゐる鶴の、夜明方の聲をさ。
 
〔評〕 文武天皇の難波(ノ)宮行幸の御時、忍坂部《オサカベノ》乙麻呂は、
  倭戀ひいの寢らえぬに心なくこの洲の崎に鶴鳴くべしや(卷一――71)
とその孤獨の旅情を歌つた。これも同じ景致同じ環境同じ感哀のもとに生まれた雙生兒であるが、彼れは焦燥(1760)の色濃く活動的であり、此れは沈欝で内攻的である。悽楚の響こそ「倭戀ひ」に劣るが、「曉の一語は下し得てよい。寢覺勝なる孤客の情が婉曲に映寫され、鶴の聲もこの背景によつて一段と凄涼味を加へる。「二人聞かむを」に、獨しては悲しくてとても聞くに堪へぬ意が暗示され、人戀ひしの情念がさびしく湧き立つて見える。これは住吉の、粉濱あたりの曉であらう。なほ「倭戀ひいの寢らえぬに」の條の評語を參照(二九四頁)。
 おなじ作者の詠でも上の應詔の歌とは段違ひの出來だ。内におのづから感興が動いて發したのと、與へられて作るのとは、かうも違ふものか。
 
右一首、守部《モリベノ》王(ノ)作(メル)。
 
大夫者《ますらをは》 御※[獣偏+葛]爾立之《みかりにたたし》 未通女等者《をとめらは》 赤裳須素引《あかもすそひく》 清濱備乎《きよきはまびを》     1001
 
〔釋〕 ○あかもすそ 赤色の裳の裾。「たまも」を見よ(一六二頁)。○はまび 前出(一五六四頁)。△寫眞 挿圖11(三六頁)54(一六三頁)參照。
【歌意】 男達は御獵のお供に立ちなされ、少女達は奇麗な濱邊を、赤裳の裾を引いて遊ぶよ。
 
〔評〕 「ますらを」は男の官人、「をとめ」は官女である。男官は陛下の御獵に仕へまつり、官女達は後宮椒房の御方の濱邊の逍遙に仕へまつる。この相對的事相に敏くも著眼し、只その事を記して作者自身の感想は一語も挿まない。而も間接に難波宮御出動の盛世の勝事を頌してゐる。高手。初二句と三四五句とが對蹠的に合拍して(1761)ゐる敍法も、型が變つて面白い。
 難波宮附近は水澤地で、狩獵に適する山林原野がない。又蘆荻の叢生はあつても「清き濱邊」ではない。住吉ならば「清き濱邊」があり、近く山林もあり原野もある。これも住吉での作と見られる。
 
右一首、山部(ノ)宿禰赤人(ガ)作(メル)。
 
○赤人 傳既出(七六三頁)。
 
馬之歩《うまのあゆみ》 押止駐余《をさへとどめよ》 住吉之《すみのえの》 岸乃黄土《きしのはにふに》 爾保比而將去《にほひてゆかむ》     1002
 
〔釋〕 ○おさへとどめよ 「おさへ」は卷三にも「大御馬《オホミマ》の口をさへとめ」とある。奮訓オシテトドメヨ〔七字傍線〕。○はにふ 既出(二四八頁)。「黄土」の下爾〔右△〕の字脱かとも思ふが、無い助辭を訓み付けるのも例の事である。○にほひて 既出(一六五一頁)。
【歌意】 これ皆の者〔五字右○〕、手綱を控へて、馬の歩みを抑へ止めなさい。この住吉の岸の黄土に、衣を染めて往かうぞ。
 
〔評〕 住吉の岸の黄土の事は、既に卷一「草枕旅ゆく君と」(清江娘子)の條で、委しく評中に解説した。
  白波の千重に來寄する住の江の岸の黄土に匂ひてゆかな(本卷、車持千年――932)
はこれと下句が全く同じい。只「馬の歩みをさへとどめよ」が一段の姿致を作り、黄土に強い愛着を感じた趣(1762)が、間接に表現されて面白い。但「匂ひて行かむ」はあながちその實行を強要するものではない。只眼前の好風光をつぶさに翫賞しようの意を強調し誇張したまでゝある。
  馬いたく打ちてな往きそけ並べて見てもわがゆく志賀にあらなくに(卷三、刑部垂麻呂――263)
の上句はこれに似てゐるが、下句は全く別趣のものである。
 
右一首、安倍《アベノ》朝臣|豐繼《トヨツグガ》作(メル)。
 
 ○安倍朝臣豐繼 續紀に、天平九年二月外從五位下より從五位下を授くとある。
 
筑後(の)守|外《げ》從五位〔左○〕(の)下|葛井連大成《ふぢゐのむらじおほなりが》、遙(に)見(て)2海人(の)釣船(を)1作歌
 
○外從五位下 外は外位《ゲヰ》といひ、もと地方官に賜ふ位で、内位よりは輕い。民部式に位田は内位の半を減ずとある。神龜の頃より内官をも外位に敍すること始まり、後には内外官の論なく、姓氏の凡卑なる者を外位に敍した。○萬井連大成 傳既出(一九七頁)。
 
海※[女+感]嬬《あまをとめ》 玉求良之《たまもとむらし》 奥浪《おきつなみ》 恐海爾《かしこきうみに》 船出爲利所見《ふなでせりみゆ》     1003
 
〔釋〕 ○たま 鰒珠《アハビタマ》。上出(一六五三頁)を參照。○ふなでせりみゆ 「せりみゆ」の續きは古格。上出「さわぎたりみゆ」を見よ(一六四二頁)。
(1763)【歌意】 海人の少女は珠を探すらしい。沖の浪の恐ろしい海に、船出して居るのが見える。
 
〔評〕 沖に浮いてゐる舟では、その乘手を海人少女とは認定し難い。又題詞には釣船とある。釣船なら鰒珠を採取する舟ではあるまい。理窟をいへばかうだが、實は海上に浮沈する海人舟を見遣つて、興趣の湧くがまゝに誇大に下した想像で、か弱い海人少女を拉して、恐こき海に配合したことが手なのである。
 
※[木+安]作村主益人《くらつくりのすくりますひとが》歌一首
 
○※[木+安]作村主益人 傳既出(七五三頁)。
 
不所念《おもほえず》 來座君乎《きいますきみを》 佐保川乃《さほがはの》 河蝦不令聞《かはづきかせず》 還都流香聞《かへしつるかも》     1004
 
〔釋〕 ○きいます 「座」をイマスと訓む。過去を現在法に叙するは「たわやめの袖吹きかへす飛鳥風」(卷二)の例。舊訓キマセル〔四字傍線〕は結句との打合がわるい。新考訓はキマシシ〔四字傍線〕。○きみを 君なる〔二字右○〕を。○さほがは 既出(二七三頁)。△地圖 挿圖85(二七〇頁)を參照。
【歌意】 ゆくりなく入らつしやいます御方なのを、この佐保川の蛙《カハヅ》(カジカ)を聞かせずにお歸ししたことよなあ。
 
〔評〕 益人の宅は佐保川のどの邊であつたかわからぬが、
(1764)  佐保川のきよき河原に鳴く千鳥かはづと二つ忘れかねつも(卷七――1023)
と歌はれる程、佐保の蛙は名物であつた。彼れは内匠寮の屬僚として長官|佐爲《サヰノ》王を招待し、一席の清宴を開いた。然るに、王は都合あつてか餘り長居せずに辭去されたので、止むなく佐保川の蛙にその感懷を寓せた。
 蛙は靜寂の幽境には晝も鳴く。が主としては夕暮からである。官吏の宅地などのある京内では猶更であらう。萬葉人は盛に蛙を愛賞したので、益人も自慢に、それを佐爲王款待の種目の一に加へてゐたらしい。「蛙聞かせず歸しつる」と、事實を逆に取做した他動的表現は、その熾烈な遺憾の情の發露である。又自分が招待して置きながら、「思ほえず來います」は矛盾のやうだが、高が從八位上の大屬、その家に從四位上の長官佐爲王の光來は、恰も掃溜に鶴の下りたやうなものだから、それを飽くまで珍しがり悦ぶ感情からの顛倒である。かくてこそ「かはづ聞かせず」の遺憾さが絶對に透徹する。
 すべて工を求めるに意なくして工に、清怨の辭氣が極めて永い。
 
(1765)右、内匠寮大屬《タクミヅカサノオホキフミト》※[木+安]作(ノ)村主益人(ガ)、聊(カ)設(ケテ)2飲饌《ヲシモノヲ》1、以|饗《ミアヘス》2長官《カミ》佐爲《サヰノ》王(ヲ)1、未(ダ)v及(バ)2日(ノ)斜(ナルニ)1、王既(ニ)還歸《カヘレリ》。於時《トキニ》益人|怜2惜《ヲシミ》不v厭《アカズ》之歸(レルヲ)1、仍(テ)作(メリ)2此歌(ヲ)1。
 
 内匠寮の大屬たる※[木+安]作益人が、聊か酒肴を具へて、寮の長官佐爲王を招いて馳走をした、然るに王は日暮にもならぬうちに早くも歸つた、時に益人が飽かずも歸られたことを名殘惜しく、そこでこの歌を詠んだとの意。○内匠寮大屬 内匠寮は中務省の被官で令外官である。巧匠技巧の事を掌り、公事の餔設等を兼ね行ふ。神龜五年始めて置かる。頭(長官)一人從五位上、助一人正六位下、大允一人正七位下、少允二人從七位上、大屬一人從八位上、少屬二人從八位下。その他史生寮掌使部難色匠手等がある。○佐爲(ノ)王 美努《ミヌノ》王の子、葛城《カヅラキノ》王(橘諸兄)の弟。續紀に、和銅七年正月に無位より從五位下、養老五年正月從五位上、退朝の後東宮に侍せしめらる。神龜元年二月正五位下、同四年正月從四位下、天平三年正月從四位上、同八年十一月、兄從三位葛城王と共に上表、詔に依つて橘(ノ)宿禰を賜はる。同九年二月正四位上、同八月中宮(ノ)大夫兼右兵衛(ノ)率《カミ》で卒した。
 
八年|丙子《ひのえね》夏六月、幸(せる)2于芳野(の)離宮《とつみやに》1之時、山部(の)宿禰赤人(が)應(たまはりて)v詔(を)作歌一首并短歌
 
○八年 續紀に、天平八年六月乙亥(廿七日)幸(ス)2于芳野(ニ)1、七月庚寅(十三日)車駕還(ル)v宮(ニ)とある。
 
八隅知之《やすみしし》 我大王之《わがおほきみの》 見給《めしたまふ》 芳野宮者《よしののみやは》 山高《やまたかみ》 雲曾輕引《くもぞたなびく》 河(1766)速彌《かははやみ》 湍之聲曾清寸《せのとぞきよき》 神佐備而《かむさびて》 見者貴久《みればたふとく》 宜名倍《よろしなべ》 見者清之《みればさやけし》 此山乃《このやまの》 盡者耳社《つきばのみこそ》 此河乃《このかはの》 絶者耳社《たえばのみこそ》 百師紀能《ももしきの》 大宮所《おほみやどころ》 止時裳有目《やむときもあらめ》     1005
 
〔釋〕 ○めしたまふ 「めしたまへば」を見よ(二〇六頁)。○かむさびて 山が〔二字右○〕。○よろしなべ 河が〔二字右○〕。解は既出(二〇七頁)。○つきばのみこそ――たえばのみこそ 二つの「こそ」は結句の「やむ時もあらめ」に係る。 △地圖及寫眞 挿圖35(一一〇頁)49(一四七頁)を參照。
【歌意】 わが天子樣の御覽なされる芳野の宮は、山が高さに雲がさ靡く、河が速さに瀬の音がさ清亮《サヤカ》だ、そして山は〔五字右○〕神々しくて見ると貴く、河は〔二字右○〕いゝ程に見ると奇麗だ。この山が盡きよう時ばかりこそ、この河が絶えよう時ばかりこそ、芳野のこの大宮所は無くなる時もあらう。――然し山河の絶えたり盡きたりする時はないから、この大宮所の無くなる時もない筈さ。
 
〔評〕 吉野離宮の讃美は、殆ど前人同人の美辭麗句で盡きたかの觀があり、作者自身も曩に一章を物してゐる。その山水の勝を主張するに、大抵樣に依つて胡蘆を描き、別に透徹した觀祭もなく新しい描寫もない。
(1767) この篇前半は離宮より見た山河の形勝を説き、後半は逆に山河を引證して離宮の隆昌不變を祝した。そこに結構の變化布置の妙を見る。一篇を貫通する骨子は何處までも山と河で、句々※[夕/寅]縁して離れない。而も總括された主意は離宮の讃美に歸著してゐる。應詔の作、折柄處柄その體を得たと稱すべきである。結末「こそ」の辭の運用に依つて餘意を遺した敍法は、含蓄の風味が極めて永い。
 「見れば」の反復は平板を避ける手段で、意響兩つながら脈打つて生動する。「こそ」の辭を疊用した對句を、一句に承けて結收した手法も、當然ながら又面白い。
 
反歌
 
自神代《かみよより》 芳野宮爾《よしぬのみやに》 蟻通《ありがよひ》 高所知者《たかしらするは》 山河乎吉三《やまかはをよみ》     1006
 
〔釋〕 ○かみよ 上つ代。神の世の意でない。○ありがよひ 「ありがよふ」を見よ(七四四頁)。○たかしらするは 「たかしりまして」を見よ(一五三頁)。契沖訓、古義訓はタカシラセルハ〔七字傍線〕。○よみ よさに。下になり〔二字右○〕の助動辭を略いた。
【歌意】 天子樣が〔四字右○〕昔からこの芳野の宮に、現に通うて御覽なさるのは、詰りこゝの山と河とがまあ、よいせゐですわい。
 
〔評〕 現在のみで事足らず、「かみ代より」の行幸を以て、その山河の勝を立證的に飽くまでも讃め稱へた。四句(1768)「高知らするは」は契沖訓もわるくはないが、現在格に訓んだ方が切實味が強い。
 尚吉野離宮の事は、卷一の幸(ス)2于吉野宮(ニ)1之時作歌(人麻呂)の條下の評語(一四八頁及一五六頁)に讓る。
 
市原王《いちはらのおほきみの》悲(しめる)2獨子《ひとりごを》1歌一首、
 
 市原王が自分が〔三字右○〕獨子であることを悲しまれた歌との意。○悲獨子 契沖以來誤つて、市原王が自身の子の獨子なるを悲む意(契沖、古義)とし、或は他人の子の一粒種なることを悲む意(略解)に解し、さま/”\牽強の考證をしてゐる。市原王は實に安貴《アキノ》王の只一人の御子である。傳既出(九二〇頁)。
 
不言問《こととはぬ》 木尚妹與兄《きすらいもとせ》 有云乎《ありとふを》 直獨子爾《ただひとりごに》 有之苦左《あるがくるしさ》     1007
 
〔釋〕 ○いもとせ 夫婦兄弟に通じていふ。こゝは兄弟。なほ既出の「妹」及び「背」を參照。
【歌意】 物もいはぬ非情の木ですら、兄弟はあるといふに、自分ばかりは〔六字右○〕、只獨子であることが切ないわ。
 
〔評〕 人間はわが境遇から森羅萬象を眺めて、その感傷を寓する。故におなじ樹木の列立を見ても、それに大小あれば親子と見、似合の程度なれば夫婦と呼び、兄弟と名づける。科學的に雌雄や系統を分けるのとは違つて、そこに感情の生ま/\しさがある。
 これは王がひどい孤獨感に打たれた或折の作である。人間として言問はぬ草木を見て、その幸福を羨むに至(1769)つては、傷心の極といはざるを得ない。それは君父もあり妻子朋友もありはするが、横に血の繋がりのないことは、いかにも頼りない心細さを感ずるものである。何等の粉飾も假らぬ眞情眞詩であるが、この間の情味は人に依つては時に風馬牛であらう。結句稍露骨に傷つくも、反對に考へればこの率直さが又貴い。
 
忌部《いみべの》首《おひと》黒麻呂(が)恨(むる)2友(の)※[貝+余]來《くることのおそきを》1歌一首
 
 忌部黒麻呂が約束した〔四字右○〕友達の來やうの遲いのを恨んだ歌との意。○忌部首黒麻呂 忌部は氏、首は姓。續紀に、寶字二年八月正六位上より外從五位下、同三年十二月|連《ムラジ》姓を賜ふ。同六年正月内史局(ノ)助(内史局(ハ)圖書也)となるとある。○※[貝+余]來 「※[貝+余]」に遲の義がある。
 
山之葉爾《やまのはに》 不知世經月乃《いさよふつきの》 將出香常《いでむかと》 我待君乎〔左△〕《わがまつきみを》 夜者更降管《よはくだちつつ》     1008
 
〔釋〕 ○いさよふ 既出(六八四頁)。○わがまつきみを 月の出でむかと待つ如く、わが待つ君なる〔二字右○〕をの意。上句は「待」つに係る序詞。「乎」原本に之〔右△〕とあるが、君ガ〔二字傍点〕でも君ノ〔二字傍点〕でも收まる處がない。依つて改めた。
【歌意】 山際にたゆたうてゐる月が、出て來うかと待つやうに、自分が待つてゐる君なのを、段々と夜は深けに深けるわ。お出のないうちに〔八字右○〕。
 
〔評〕 約束の時を違へて來ぬ友を待つその焦燥を歌つてゐる。上句は序詞ではあるが、折柄が月の出の遲い廿日(1770)過頃であつたらう。
  山の端にいさよふ月をいでむかと待ちつつ居るに夜ぞ降ちける(卷七、詠月――1071)
  山の端にいさよふ月をいつとかもわが待ちをらむ夜はふけにつつ(同卷――1084)
と類型的であるが、流石にこれは構意が稍複雜してゐるだけ、曲折の姿態はある。
 
冬十一月、左(の)大辨〔左△〕|葛城《かづらきの》王|等《たちに》賜(へる)2姓橘(の)氏《うぢを》1之時(に)、御製歌《よみたまへるおほみうた》一首
 
天平八年十一月に左大辨葛城王達に橘氏を賜うた時に御詠みなされた御製との意。聖武天皇の御製と聞える。「辨」原本に臣〔右△〕とある。葛城王は橘諸兄と姓名を改めてから、後に左大臣となつたのだから、左大臣葛城王とは書くべくもない。當時王は左大辨であつた。故に臣〔右△〕は誤である。○左大辨 辨(ノ)局は太政官中に置かれ、左右に分れて八省を分掌し、庶事を承りて下に達し、太政官内を糺判し、文案を署し、稽失を勾へ、被官の諸司の宿直を監す。左右各大中少の辨がある。大辨は從四位上、中辨は正五位上、少辨は正五位下相當。和名抄に、左右大辨(ハ)於保伊於保止毛比《オホイオホトモヒ》とある。○葛城王等賜姓橘氏 葛城王弟佐爲王達に橘氏を賜うたのをいふ。姓橘氏は正しくは姓と氏とは殊なるが、氏を姓と呼ぶことも常の事である。○葛城王 橘諸兄のこと。續紀に、和銅三年正月無位より從五位下、養老元年正月從五位上、同五年正月正五位下、同七年正月正五位上、神龜元年二月從四位下、天平元年三月正四位下、同九月左大辨とある、同二年九月催造司監兼任、同三年八月擢んでられて參議、同四年正月從三位、同八年十一月上表に依つて橘宿禰を賜ひ、名を諸兄《モロエ》と改む、同九年九月大納言、同十年正月正三位、右大臣、同十一年正月從二位、同十二年十一月正二位、同十五年五月從一位左大臣、同十八年四月(1771)太宰帥、勝寶元年四月正一位、同二年正月朝臣姓を賜ふ、同八年二月致仕、天平寶字元年正月薨ず。大臣は贈從二位|栗隈《クリクマノ》王(天武天皇紀には栗前王)の孫、從四位下|美努《ミヌノ》王の子と見えた。栗隈王は姓氏録、橘朝臣の條に、敏達天皇(ノ)皇子(タル)難波(ノ)皇子(ノ)男栗隈王とある。
 
橘花者《たちばなは》 實左倍花左倍《みさへはなさへ》 其葉左倍《そのはさへ》 枝爾霜雖降《えにしもふれど》 益常葉之樹《いやとこはのき》     1009
 
〔釋〕 ○たちばな 既出(三七二頁)。○そのはさへ の下、めでたくて〔五字右○〕の語を略した。○えにしもふれど 元本一訓及び古義訓による。舊訓エダニシモオケド〔八字傍線〕。○とこはのき 常磐なる樹。なる〔二字傍点〕の助動詞の代りにの〔傍点〕の辭を用ゐた。この例後世ほど多い。 △寫眞 挿圖110(三七三頁)を參照。
【歌意】 橘は實も花もその葉も見事で〔三字右○〕、枝に霜が降つても、愈よ榮えて變らぬ樹であるわい。
 
〔評〕 かういふ結構なめでたい樹ゆゑ、汝の氏として賜ふのであるぞの餘意がある。家門繁昌を御祝福の意は、もとより暗黙の間に存在するが、既に和銅元年、橘氏を縣《アガタノ》犬養(ノ)宿禰三千代(葛城王の母)に賜うた時の勅語にも、
  橘(ハ)者菓子(ノ)長上(ニシテ)、人(ノ)所v好(ム)、※[木+可]《エダハ》凌(ギテ)2霜(ヲ)1而繁茂(シ)、葉(ハ)經(テ)2寒暑(ヲ)1而不v凋(マ)、與2珠玉1共(ニ)競(ヒ)v光(ヲ)、交(リテ)2金銀(ニ)1以(テ)逾(ヨ)美(シ)、是(ヲ)以(テ)汝(ノ)姓(ニハ)者賜(フ)2橘(ノ)宿禰(ヲ)1也。(續紀、卷十二)
とある如く、表面は氏姓に賜ふ理由として、橘その物を讃美したにとゞまる。尚卷二「橘の蔭ふむ路の」の評語(三七三頁)を參照。
(1772) さて橘氏は曩に縣犬養三千代に賜うたものであるのに、今又その子葛城王達に賜ひ、同意味の勅語と國歌とが添へられた爲、甚だ混雜の感がある。委しくは左註の解説に讓らう。
 
右、冬十一月九日、從三位|葛城《カヅラキノ》王、從四位上|佐爲《サヰノ》王等、辭(シ)2皇族之高名(ヲ)1賜(フコト)2外家之橘(ノ)姓(ヲ)1已(ニ)訖(リ)。於時《トキニ》、 太上天〔二字左○〕皇皇后、共(ニ)在《マシ》2于皇后(ノ)宮(ニ)1、以(テ)爲(タマヒテ)2肆宴《トヨノアカリ》1、而|御2製《ミヨミマシ》賀(グ)v橘(ヲ)之歌(ヲ)1、并賜(フ)2御酒(ヲ)宿禰等(ニ)1也。
或(ハ)云(フ)、此歌一首、太上天皇(ノ)御製、但天皇皇后(ノ》御歌各有(リ)2一首1者《テヘレド》、其歌|遺落《ウセテ》未(ダ)v得2探(シ)求(ムルヲ)1焉。今檢(ルニ)2案内(ヲ)1、八年十一月九日、葛城(ノ)王等、願(ヒ)2橘(ノ)宿禰之姓(ヲ)1上(ル)v表(ヲ)、以(テ)2十七日(ヲ)1依(リ)2表(ノ)乞(ニ)1賜(フ)2橘(ノ)宿禰(ヲ)1。
 
 右の歌は天平八年の十一月九日に、葛城王佐爲王の兄弟達が、皇族たる王の稱號を辭して、外家即ち母方の橘姓を賜はつた事は既に濟んだ、その時太上天皇(元正)天皇(聖武)皇后(藤原光明子)の御三方共に、皇后の居殿にゐらせられ、宴會を開かれて橘を頌する歌を詠まれ、その御歌と共に御酒を橘宿禰達即ちもとの葛城王等に下されたとの意。〇九日 續紀には丙戌上表とあつて、丙戌は十一日に當る。○天皇 この二字原本にない。必ず脱字。契沖が「皇后」を天皇〔二字右△〕の誤としたのは不勘。○辭皇族之高名賜外家之橘姓 續紀に見えた、十七日の降勅の文に據つたもの。
 「或云」から以下は更に追記の左註で、上と同一人の手に成つたものか、或は他人の手に出たかゞ不明である。意は、或人がいふ、この歌一首は太上天皇(元正)の御製だ、但別に天皇(聖武)皇后の御歌が各一首あるといふが、その歌は逸せて探し出されない。今文案を檢べると、天平八年十月九日に葛城王等が橘宿禰を願うて上表し、その十七日に表の乞ふがまゝに橘宿禰を賜うたとのこと。
(1773) 抑も葛城(ノ)王佐爲(ノ)王の父は美努《ミヌノ》王、母は懸(ノ)犬養(ノ)宿禰三千代であつた。三千代は夫美努王逝後、藤原(ノ)不比等《フヒト》(淡海公)に再嫁し、光明子(聖武天皇の皇后)を生んだ。されば光明子は葛城王兄弟から見れば異父同母の妹であられた。聖武天皇天平八年十一月十一日葛城王等の上表に、
 (上略)葛城(ガ)親母贈一位縣(ノ)犬養(ノ)橘(ノ)宿禰(ハ)、上歴(テ)2淨御原(ノ)朝廷(ヲ)1、逮《オヨビ》2藤原(ノ)大宮(ニ)1、事(ヘ)v君(ニ)致(シ)v命(ヲ)、移(シ)v孝(ヲ)爲(ス)v忠(ヲ)、夙夜忘(レ)v勞(ヲ)、累代※[立+曷](ス)v力(ヲ)、和銅元年十一月廿一日供2奉(シ)擧國(ノ)大嘗(ニ)1、廿五日御宴(ス)、天皇譽(メ)2忠誠之至(ヲ)1、賜(ヒ)2浮(ベルノ)v杯(ニ)之橘(ヲ)1、云々。是以(テ)汝(ノ)姓(ハ)者賜(フ)2橘(ノ)宿禰(ヲ)1也。而今無(ク)2繼嗣1者《バ》、恐(ラクハ)失(ハム)2明詔(ヲ)1、云々。(續紀、卷十二)
とある如く、元明天皇の朝に、三千代はその功勞を賞せられ、特に橘氏を賜はつた。されど婦人の事で、前夫美努王の子は王族であり、後夫不比等の子は藤原氏だから、死後に橘氏を繼承する者がなかつた。それでは折角の叡旨を無にするに當る。で葛城王等は皇族籍から退き、王號を返上して母三千代の橘氏を繼ぎたいと上奏した。元來葛城王等は五世王で、その子供は當然皇族から除籍される運命にあつたのだから、こゝで橘氏を繼ぐことは誠に適宜の處置で、その十七日勅許の詔に、
  王等情深(ク)謙讓、志在(リ)v顯(ハスニ)v親(ヲ)、辭(シ)2皇族之高名(ヲ)1、請(フ)2外家之橘(ノ)姓(ヲ)1、尋思(スルニ)所v執(ル)誠(ニ)得(タリ)v時(ヲ)。(續紀、卷十二)
と叡賞された。この賜姓の祝宴は異父妹たる皇后の居殿に於いて行はれ、二聖一后御親臨でこの御製まで下賜せられた。かゝる無比の光榮も、要するに母三千代と妹光明子の餘光で、かくして葛城王等は母の橘氏を繼い(1774)だ爲に、藤原氏との關係を一層親密になし得たのである。而も葛城王の妻は不比等《フビト》の女で皇后の御姉だから、重縁であつた。後年藤原氏の兄弟達が相次いで疫死するに及び、代つて諸兄(葛城王)が政柄を執り、位人臣を極めるに至つたのも、茲に發源してゐると思ふ。
 
橘(の)宿禰|奈良《なら》麻呂(が)應(へまつる)v詔(に)歌一首
 
○橘宿禰奈良麻呂 左大臣橘諸兄の男。續紀に、天平十二年五月諸兄の相樂の別業に行幸の時無位より從五位上、同十三年七月大學(ノ)頭、同十五年五月正五位上、同十七年九月攝津(ノ)大夫、同十八年三月民部大輔、同十九年正月從四位下、勝寶元年四月從四位上、閏五月侍從、七月參議となる。同二年正月朝臣の姓を賜ふ。同四年十一月但馬因幡(ノ)按察使兼檢校伯耆出雲石見等國非違事となる。同六年正月四位下、寶字元年六月左大辨、その月山背王の反に坐して官位褫奪。(公卿補任には七月二日謀反伏誅、或説遠流者如何)とある。後仁明天皇の承和十年八月に詔して從三位を贈られ、更に同十四年に太政大臣正一位を追贈。蓋し天皇の御外曾祖父に當る故である。○應詔歌 「詔」の下或は作〔右△〕の字脱か。
 
奥山之《おくやまの》 眞木葉凌《まきのはしぬぎ》 零雪乃《ふるゆきの》 零者雖益《ふりはますとも》 地爾落目八方《つちにおちめやも》     1010
 
〔釋〕 ○まき 既出(七二五頁)。○ふりは 降り〔二字傍点〕に舊り〔二字傍点〕の意を兼けた。上句は序詞。○つちにおち 零落することの譬喩。
(1775)【歌意】 澤山の眞木の葉を押靡かして降る雪が、いかに降りまさつても、橘の實が〔四字右○〕土に落ちようかい。――いかに橘家が〔三字右○〕舊びまさつてゆくとも、零落する事がありませうかい。
 
〔評〕 この歌は上の左註に見えた皇后宮に行はれた、橘の賜姓の肆宴における應詔の作であらう。既に擧げた上表の初節に、
  普者《ムカシ》輕堺原《カルノサカヒバラノ》大宮(ニ)御宇天皇(ノ)(孝元)曾孫|建《タケシ》内(ノ)宿禰、盡(シテ)2事(フル)v君(ニ)之忠(ヲ)1、致(セリ)2人臣之節(ヲ)1、創(メテ)爲(リ)2八氏之祖(ト)1、永遺(セリ)2萬代之基(ヲ)1。云々。 (續紀、卷十二)
とある意を、わが橘氏の上に移して歌つたものである。橘は他の果實と殊なり、翌年花咲く頃までも梢にその金鈴の色を輝かしてゐる。故に「ふりはますとも士に落ちめやも」といつた。それは、暗に君寵の永久不變を豫期した詞であるが、作者の晩年は事により忽ち失脚して、重譴を蒙つてしまつた。運命はをかしなものである。
  奥山の菅の葉しぬぎふる雪の消なばをしけむ雨なふりそね(卷三、大伴卿――299)
の上句はこれと同態で、無論大伴卿の方が先出である。
 
冬十二月十二日、歌※[人偏+舞]所之諸王臣子等《うたまひどころのおほきみまへつぎみたちが》、集(ひて)2葛井《ふぢゐの》連《むらじ》廣成(の)家(に)1宴《うたげせる》歌二首
 
天平八年十二月十二日に、歌※[人偏+舞]所の諸王や諸臣等が葛井廣成の家に集つて、宴會をした時の〔二字右○〕歌との意。○歌※[人偏+舞]所 雅樂寮のこと。和名抄に、雅樂寮、宇多末比乃豆加左《ウタマヒノツカサ》とある。「※[人偏+舞]」は舞と同字。○葛井連廣成 傳前出(一六九八頁)。
 
(1776)比來《コノゴロ》古(キ)※[人偏+舞]盛(ニ)興(リ)、古(キ)歳漸(ク)晩(レヌ)、理宜(シク)d共(ニ)盡(シテ)2古情(ヲ)1同(ジク)唱(フ)c古歌(ヲ)u。故《カレ》擬(ヘ)2此趣(ニ)1、輙(チ)獻(ル)2古(キ)曲《フリ》二|節《フシヲ》1。風流意氣之士、儻《モシ》有(ラバ)2此|集《ツドヒノ》中(ニ)1、爭《イカデカ》不〔左○〕(ラム)d發《オコシテ》v念(ヲ)、心々(ニ)和《ナゾラヘ》c古體(ニ)u。
 
この頃古い舞が盛に流行り、而ももう十二月中旬で古い歳が漸う晩れた、道理上一緒に古い情を傾けて古い歌を唱ふべきである。そこでその趣に準じて、即ち古い風《フリ》二章をさし出した、みやびな意先のある者が、若しこの會集の中にあるなら、何で思ひ立つて古い風に和へて詠まずしてあらうぞとの意。「古」原本に此〔右△〕とある。元本書入に據つて改めた。蓋しこの文はわざと古〔傍点〕の字を疊用したのである。「有」は在〔傍点〕と通用、古文にまゝ例がある。「不」原本にない。必ず脱字。○故擬此趣輙獻古曲二節 此趣に擬してとは、上の宜共盡古情同唱古歌とある趣に準じての意で、獻古曲二節は古歌二首を唱うたの意である。されば下の二首は古歌である。
 廣成は漢學者で、武智麻呂傳によれば文雅を以て許された人、のみならず既に遣新羅使で韓國にも使した人だから、高麗百濟の樂律にも通曉してゐたのであらう。乃ち歌※[人偏+舞]所の人達がその家に集合し、遂に古風の朗唱に及んだものである。この歌序はまづ廣成の手に成つたものと見てよからう。
 
我屋戸之《わがやどの》 梅咲有跡《うめさきたりと》 告遣者《つげやらば》 來云似有《こちふににたり》 散去十方吉《ちりぬともよし》     1011
 
〔釋〕 ○やど 既出(八八○頁)。○つげやらば この將然態を「似たり」と現在完了辭で結んである。文章法の格。○こちふ 來《コ》といふ〔三字傍点〕の約。
(1777)【歌意】 私の庭の梅が咲いた、と知らせて遣らうなら、何だか〔三字右○〕その人に來いといふに似てゐる。まあ知らせずに置かう〔十字右○〕、散つたとてもよいわ。
 
〔評〕 この歌從來の解説は朋友間の交渉としてあるが、その當を得ない。朋友間なら「來ちふに似たり」とて、何の差支があらう。そこを遠慮せねばならぬ點に一番の留意を要する。既に歌序の釋文に述べた如く、これは古歌を諷唱したもので、その作者は婦人である。
 庭前の梅花がその芬芳を放つにつけ、一寸した事から張り合つて今は足踏せぬ男が、嘗ての折深く軒端の梅花を愛賞した事を追憶し、花の消息を傳へたくも思ふが、此方から口を切つては勝負は負で、未練らしく男を呼び出すやうにも見え甚だ殘念、そこで、えゝまゝよ「散りぬともよし」、辛抱して黙つてゐようと、やゝ棄鉢氣味の口氣を洩したものである。
 四五句間の轉折、頗る含蓄に富み、戀と意地との閑葛藤に累されて喘いでゐる樣子がそこに生動して、深く幽怨の情を藏する。古今集の
  月夜よし夜よしと人に告げやらば來てふに似たり待たずしもあらず(戀四)
はこの訛傳である。
 
春去者《はるさらば》 乎呼理爾乎呼里《ををりにををり》 ※[(貝+貝)/鳥]之《うぐひすの》 鳴吾島曾《なくわがしまぞ》 不息通爲《やまずかよはせ》     1012
 
(1778)〔釋〕 ○はるさらば 「はるさりくれば」を見よ(七九頁)。舊訓ハルサレバ〔五字傍線〕。○ををりにををり 花が〔二字右○〕。「ををり」は「ををれる」を見よ(五一四頁)。○なくわがしまぞ 「春さらば」の未然態を「なく」の現在格で收めた。「しま」は既出(四八八頁)。○かよはせ 使相の動詞を敬相に用ゐた。こゝはその命令格。
【歌意】 春にもならば、花が〔二字右○〕撓《シナ》ひに撓ひ、鶯が鳴く私の庭ですぞ。されば〔三字右○〕斷えず通つて來て下さい。
 
〔評〕 これは朋友間の情味が主題である。然し、女の人待つ處としても、その意は通ずる。春の花鳥は天下到る處盛なもの、それを自分の庭だけの事のやうに、理窟なしに自慢した。要は「やまず通はせ」の希望さへ達成されゝばよい。卷一、志貴皇子の御歌、
  秋さらば今もみる如《ゴト》妻戀に鹿《カ》鳴かむ山ぞ高野原のうへ(――84)
とその興趣が似てゐる。又單に「ををりにををり」とのみでは不完であるが、それは花の事と、この時代には慣習的に承知された。又さう承知してよい。
 以上の二首は流石に歌※[人偏+舞]所の人達の事とて、古い節付のある古歌を朗詠したものと思ふ。
 
九年|丁丑《ひのとうし》春正月、橘(の)少卿《おとまへつぎみ》并|諸大夫等《まへつぎみたちの》、集(ひて)2彈正(の)尹《かみ》門部《かどべの》王(の)家(に)1宴(せる)歌二首
 
天平九年正月、橘(ノ)佐爲《サヰノ》卿や諸官吏達が彈正(ノ)尹門部(ノ)王の家に集つて宴會をした歌との意。○橘少卿 橘(ノ)佐爲のこと。「少卿」は大卿の對語で、兄諸兄を大卿、弟佐爲を少卿と稱したもの。卿は三位以上の呼稱だが、時により尊敬の意から四位五位の人をも呼んだ。○橘佐爲 もとの佐爲(ノ)王。前出(一七六一頁)。○諸大夫 「大夫」は令に(1779)四五位の稱とある。○彈正尹 彈正臺の長官《カミ》を尹といふ。彈正臺は風俗を肅清し非違を糾彈する職。尹一人從四位上、大弼一人從四位下、少弼一人正五位下。○門部王 傳既出(七五二頁)。
 
豫《あらかじめ》 公來座武《きみきまさむと》 知麻世婆《しらませば》 門爾屋戸爾毛《かどにやどにも》 珠敷益乎《たましかましを》     1013
 
〔釋〕 ○かどにやどにも 門にも〔右○〕宿にもの意。「蟲に鳥にも」を參照(八二二頁)。この「やど」は庭をさす。
【歌意】 前以て貴方達が來られようと知らうなら、この門にも庭にも、珠を敷かうであつたものを。突然の御入來で何のもてなしもなくてね。
 
〔評〕 珠敷くことに來客款待の意を寓することは當時の套語で、
  おもふ人こむと知りせば八重葎おほへる庭に珠數かましを(卷十一――2824)
  堀江には珠敷かましを大|皇《キミ》の御船漕がむとかねて知りせば(卷十八、橘宿禰――4056)
  葎はふいやしき宿に大皇のまさむと知らば珠敷かましを(卷十九、橘卿――4270)
  松かげの清き濱邊に珠敷かば君きまさむか清き濱邊に(卷十九、藤原八束――4271)
など盛に散見し、何れを先出とも定め難いが、中にもこれは上下の均衡がよく取れ、修辭が簡淨である。「門に宿にも」の漸層に一段の姿致を生じ、主人門部王の厚意が張調される。王は兄櫻井王やこの時のお客佐爲王と共に、神龜中の風流侍從と謳はれ、つい三年前(天平六年二月)に歌垣の頭となつて、朱雀門頭に諸曲を唱和し、(1780)天皇の叡覽、京中士女の喝采を博した數寄者である。その家に佐爲王父子やその他の雲客達が押懸け客、さぞ面白い興宴であつたらう。
 庭に敷くといふ珠は寶は小石《サヾレ》である。但珠と美稱することに依つて、一層款待の意が強く印象される。後世の庭園に立砂盛砂敷砂などの式あるは、この珠敷きの遺法と思はれる。
 
右一首、主人《アロジ》門部(ノ)王。【後賜(フ)2姓大原(ノ)眞人(ノ)氏(ヲ)1也。】
 
 割註、正しくは氏は大原、姓は眞人を賜ふとあるべきである。門部王が大原(ノ)眞人を賜うたのは天平十一年四月のことで、兄高安王、櫻井王と共に臣籍に降つた。
 
前日毛《をとつひも》 昨日毛今日毛《きのふもけふも》 雖見《みつれども》 明日佐倍見卷《あすさへみまく》 欲寸君香聞《ほしききみかも》     1014
 
〔釋〕 ○をとつひ 遠《ヲチ》つ日の轉。一昨日をいふ。舊訓サキツヒ〔四字傍線〕。
【歌意】 一昨日昨日今日と、立て續けに見たけれど、見飽かず〔四字右○〕、明日も見たい貴方樣よ。
 
〔評〕 極めて平易率直な口頭語、日並を漸層的に重ねかけて往つたのが手である。下句は「飽かぬ君かな」といふも同じで、さう簡單な抽象的に片付けてしまはない處に味ひがある。
 
右一首、橘(ノ)宿禰|文成《アヤナリ》。【即(チ)少卿(ノ)子也。】
 
(1781) ○橘宿禰文成 割註によれば少卿橘(ノ)佐爲《サヰ》王の子。傳未詳。續紀に、天平寶字元年閏八月正六位上橘(ノ)朝臣綿裳、改(メテ)2本姓(ヲ)1賜(フ)2廣岡(ノ)朝臣(ヲ)1とある綿裳は、橘氏系圖に佐爲王の子としてある。この綿裳の前名が文成か。その子に春成高成がある。天平勝寶三年正月に賜(フ)2文成(ノ)王(ニ)甘南備(ノ)眞人(ヲ)1とある文成王は別人。佐爲の子孫は天平八年十二月以後は王籍にない。
 
櫻〔左△〕井《さくらゐの》王(の)後(に)追(ひて)和(ふる)歌一首
 
櫻井王があとから、主人門部王の作に和した歌との意。○櫻井王 天武天皇の皇孫で、長(ノ)親王の子。兄は高安(ノ)王、弟は門部(ノ)王である(紹運録)。續紀に、和銅七年正月無位より從五位下、養老五年五月從五位上、神龜元年二月正五位下、天平元年三月正五位上、同三年正月從四位下、同十一年四月兄高安王と共に大原(ノ)眞人を賜はる。同十六年二月諸人と共に恭仁(ノ)宮(ノ)留守。卷廿に行2佐保邊1時之歌がある。この「櫻井王」を諸本に榎〔右△〕井王とあるは必ず誤。その理由は次の項にいふ。○榎井王 元本類本等の註に志貴皇子の子とある。續紀によれば、天平寶字六年正月に無位より從五位に叙せられた。これは嫡孫王の定例で、その時大抵二十五歳以上と見てよい。何かの事情により叙位が後れたとして假に四十歳として逆算しても、この天平九年にはまだ十四歳である。とてもこんな辭令の歌を詠む年配でない。又十四歳では無位と思はれるから、詞書に「諸大夫等」とあるに出合はない。依つて他にその人を求めると、門部王の兄に櫻井王があつた。櫻〔傍点〕と榎〔傍点〕とは一寸見違へ易い字體だから誤記したので、この歌は櫻井王の作と考へられる。榎井王の歌はこの一首のみなので、萬葉集の作者中から榎井王が一人消滅することになるから特記しておく。
 
(1782)玉敷而《たましきて》 待益欲利者《まちますよりは》 多鷄蘇香仁《たけそかに》 來有今夜四《きたるこよひし》 樂所念《たぬしくおもほゆ》     1015
 
〔釋〕 ○まちます 讀古義の訓による。舊訓マタマシ〔四字傍線〕はわが待つ意にも聞えて、三句以下への打合が面白くない。「益」を古義は衣四〔二字右△〕の語としてマタエシ〔四字傍線〕と訓んだ。○たけそかに 他に用例を見ぬ難語である。(1)たまさかの意(舊説、宜長)、(2)おし凌いでの意(久老)、(3)たか/”\にの意(略解)、(4)不意の意(古義)など、皆臆説である。假に(4)の説に從つておく。
【歌意】 わざ/\珠を敷いてお待ち下さるよりは、不用意の處へ〔六字右○〕突然〔二字傍点〕に參つた今夜がさ、樂しく思はれますわい。
 
〔評〕 兼日の約束に依つて訪問するなどは公式の事で、王子猷が戴逵を山陰に訪うたやうに、興に乘じて往き興盡きて還る自由の訪問の方が、拘束のないだけ面白いのである。
 主人門部王の作に對する返歌で、御兄弟間の贈答である。題詞によると、その宴席上の即吟ではないのだから、聊か證文の出しおくれといふ形、風流才子櫻井王にも似合はぬ不手際である。
 
春二月、諸(の)大夫等集(ひて)2左少辨|巨勢宿奈《こせのすくな》麻呂(の)朝臣(の)家(に)1宴(せる)歌一首
 
○春二月 天平九年春二月。○左少辨 上の「左大辨」を見よ(一七六六頁)。○巨勢宿奈麻呂朝臣 續紀に、神龜五年五月正六位下より外從五位下、天平元年二月少納言、同三月從五位下、同五年三月從五位上とある。
 
(1783)海原之《うなばらの》 遠渡乎《とほきわたりを》 遊士之《みやびをの》 遊乎將見登《あそびをみむと》 莫津左比曾來之《なづさひぞこし》     1016
 
〔釋〕 ○うなばらのとほきわたりを 「わたりを」は渡りなる〔二字右○〕を。蓬莱國は東海中にあるのでいふ。○みやびを 既出(三七四頁)。○なづさひ 既出(九五八頁)。
【歌意】 大海の遠い渡津であるのを、そこに〔三字右○〕風流士達の遊ぶのを見ようと思うて、私はわざ/\〔六字右○〕、辛苦して來たことであつたよ。
 
〔評〕 諸大夫連はまだ官途の淺い若者が多い。隨分風流者もある。それ等が寄り合つての酒宴では、面白い出來事がありさうであり、又あり勝である。それを覗きに來る物好もある。これはその物好の詠んだ歌である。
 酒宴の會衆の誰れやらが、ふと屋の壁に白い紙に字を書いたものがぶら下がつてゐるのを發見した。讀んで見ると、前書に「蓬莱(ノ)仙媛(ノ)所v賚《タマフ》、※[言+曼](リニ)爲(ニス)2風流秀才之士(ノ)1矣、云々」として、この歌が書いてあつた。歌は蓬莱の仙女の作に假託して作つて置きながら、私達凡人は覗き見も出來ません、「所(ナラム)2望見《ミサクル》1哉」と知らぬ振をして、而も自分達か御苦勞にも、諸大夫達の酒宴の樣子を見に來たことを、暗に報告してゐる。
 歌は只それだけの事で面白くもないが、興味本位からすると、時に當つての御趣向である。契沖はいふ。
  主人の女房などの、物の隙より酒宴の席にある人をかいまみて、時の興に蓬莱仙媛など書き付けて懸けけるにや。
と。仙媛の語を強く聞けば、作者を婦人とするのも理由がある。然し漢文を書く女は、この時代には殆ど絶無(1784)といつてよい。尤も蓬莱仙女の神話は、藤原宮役民歌(卷一)松浦篇(卷五)にも見え、この時代の常識だが、やはり若い地下の者達の戲であらう。
 
右一首、書(キテ)2白(キ)紙(ニ)1懸(ケタリ)2著屋(ノ)壁(ニ)1也、題(シテ)云(フ)、蓬莱(ノ)仙媛(ノ)所v賚《タマフ》、※[言+曼]〔左△〕(リニ)爲(ニス)2風流秀才之士(ノ)1矣、斯《コノ》凡客《ハンカク》之〔左△〕所(ナラム)2望見《ミサクル》1哉《ヤ》
 
 右一首は白紙に書いて屋の壁に懸けてあつた。その前書にいふ、これは蓬莱の仙女が賚うたもので、漫に風流秀才の士の爲に詠まれたもの、とても私達凡人の窺ひ見られる所であらうかいとの意。「賚」は原本に嚢〔右△〕、「※[言+曼]」は原本に※[草冠/縵]〔右△〕、「之」は原本に不〔右△〕とある。春海は「所」の下作〔右△〕の宇のある本に據つて、仙媛所作〔二字傍点〕焉、※[言+曼]爲風流秀才之士矣の誤とした。「斯凡客」以下多少誤があらう。
 
夏四月、大伴(の)坂上(の)郎女|奉v拜《をろがみまつりし》2賀茂神社《かものやしろを》1之時、便〔左△〕《ついでに》超(えて)2相坂《あふさか》山(を)1、望2見《みさけて》近江(の)海(を)1、而|晩頭《ゆふべに》還(り)來《きたりて》作歌。
 
(1785)天平九年四月、坂上郎女が山城の賀茂の社を參拜した時、その序に逢坂山を越えて、近江の湖水を眺めて、夕方に還つて來て詠んだ歌との意。○賀茂神社 式神名帳に、山城(ノ)國愛宕郡(ノ)賀茂別雷(ノ)神社、賀茂御祖(ノ)神社二座、名神大、とある(今京都市)。○便 宜長いふ、ツイデニと讀むべしと。原本使〔右△〕とあるは誤。元本神本等による。○相坂山 逢坂山、合坂山。山城近江國境の山隘(大津市の西南)。孝徳天皇紀大化二年の詔に、――北(ハ)自(リ)2近江(ノ)狹々波合坂《サヽナミノアフサカ》山1以來、爲(ス)2畿内國《ウチツクニト》1とある。桓武天皇の延暦十四年に逢坂(ノ)關を廢すと續紀にあるから、その以前には關が置かれてあつたので、その創置年代は不明。○近江海 琵琶湖のこと。○晩頭 夕方。「頭」は始又は緒の義。
 
木綿疊《ゆふだたみ》 手向乃山乎《たむけのやまを》 今日越而《けふこえて》 何野邊爾《いづれのぬべに》 廬將爲子等《いほりせむこら》     1017
 
〔釋〕 ○ゆふだたみ 木綿疊は神に手向ける物なので、手向《タムケ》の山にいひ續けた枕詞。既出(八七二頁)。○たむけのやま 峠をいふ。こゝは逢坂山の峠。なほ「ならのたむけ」の項の「たむけ」を見よ(七三八頁)。○いづれ 何處《イヅコ》といふ場合に、古へはかくいつた。○こら 從者等を稱した。「子ども」と呼んだこともある。「子」元本類本等に吾〔右△〕とある。攷古義などはこれに從つて、吾等をワレ〔二字傍線〕と訓んだ。訓方にも無理があり、又歌意の上からも(1786)面白くない。
【歌意】 逢坂の峠を今日越えて、今晩は〔三字右○〕何處の野邊に、泊りを取らうぞ。これ家來共よ。
 
〔評〕 郎女は賀茂から逢坂の峠を越して、近江の海の大觀を窮めた。さて「いづれの野邊に」と、今夜の泊りを思ふことは、既に夕方近くに時がなつてゐた證で、即ち「晩頭還來」である。歸路は山科の野を縱斷して宇治へ出る。これが順路だ。この間約五里、どうしても今夜は野中の泊りだ。松火を振り/\一行が泊りを求めて眞暗な大野を辿ることを想ふと、「――庵せむ」の心配が先に立つ。「子等」と從者への呼び懸けは、憶良が唐土にゐて、「いざ子ども」と、同輩や從者へ呼び懸けた情意と相似、心配やら不安やらがその胸中に嵩じて來て、とても獨では保ち切れなくなつた心状の表示で、一誦凄酸の氣に打たれる。
 
十年|戊寅《つちのえとら》、元興《ぐわんこう》寺之僧(が)自(ら)嘆(く)歌一首
 
天平十年、元興寺の法師が、自分で自分の身を嘆いた歌との意。〇元興寺 「元興寺之里」を見よ(一七四四頁)。(1787)○歌 これは旋頭歌である。
 
白殊者《しらたまは》 人爾不所知《ひとにしらえず》 不知友縱《しらずともよし》 不知《しらずとも》 吾之知有者《われししれらば》 不知友任意《しらずともよし》     1018
 
〔釋〕 ○しらたまは 己が身を譬へた。○しらえず 知られずの古言。「しらえぬ」を見よ(一四九六頁)。○よし まゝよの意。「縱」はユルスの意、「任意」は意訓で、共にヨシと訓む。
【歌意】 自分は結構な白珠だ〔九字右○〕、この白珠は他《ヒト》に知られない、えゝ他が〔二字右○〕知らずともまゝよ。假令他が〔二字右○〕知らずとも、自分がさ知つて居らうなら、他が〔二字右○〕知らずともまゝよ。
 
〔評〕 他の知る知らぬに關はらず、白珠はその本體のまゝに皎として光つてゐる。されば人間も「我れし知れらば知らずともよし」である。卞和が璞ははじめ石と卻けられたが、實は連城の璧であつた、無智共が何を知るかといつた調子で、白珠を以て自任し、聊か自ら慰めてゐる。だがその反面には、矢張不平や憤懣やが横はつてゐるのが「知らずともよし」の薄幕をとほして見え透く。不遇者の共鳴を禁じ得ぬ感慨である。
 今の元興寺に徑四寸餘の大白珠を藏し、この歌にいふ白珠はそれであると稱されてゐる。蓋し寺寶に有名な(1788)る大白珠のある處から、作者はこの譬喩を思ひ付いたらしい。但人の知不知にかく緊しくこだはつてゐるのは、決して大悟徹底したものではない。論語にも、人不(シテ)v知(ラ)而不v慍(ラ)、又不2君子(ナラ)1乎《ヤ》とある。されば左註にある「獨覺」も「多智」も、詰る處文字禅で、單なる經論上の學問的研究であらう。
 わが知ると人の知らぬとの對照、それが層々交錯して篇を成した。又旋頭(混本)歌の常體として、第三句は前後同句を反復した。同語の重疊がその煩を覺えぬばかりか、却て調の流滑暢達の素をなしてゐる。
 
右一首、或云(フ)元興寺之僧、獨|覺《サトリテ》多(シ)v智《シルコト》、未(ダ)v有(ラ)2顯《アラハニ》聞(ユルコト)1、衆諸《モロヒト》押侮《アナヅル》。因(リテ)此僧作(ミ)2此歌(ヲ)1、自(ラ)嘆(ク)2身(ノ)才(ヲ)1也。
 
 或人がいふ、元興寺の或法師が、獨力佛道の覺を得て知慧が多い、けれども世には未だ明かに知られてゐない、で人達が馬鹿にしてゐる、そこでこの法師がこの歌を詠んで、わが身のもつた才を嘆いたとの意。
 
石上《いそのかみの》乙《おと》麻呂(の)卿(の)配《はなたれし》2土左(の)國(に)1之時(の)歌三首并短歌
 
石上乙麻呂が土佐國に配流された時の歌との意。○石上乙麻呂 傳既出(二〇一頁)。○配土左國 續紀に、天平十一年三月、石上(ノ)朝臣乙麻呂坐(ハレ)v奸《タハクル》2久米(ノ)連|若賣《ワカメニ》1、配2流《ハナタレ》土左(ノ)國(ニ)1、若賣配(ル)2下總(ノ)國(ニ)1焉とある。久米若賣は采女で、乙麻呂はそれを犯した罪に依つて共に流罪。天平十三年九月の大赦には若賣のみ赦され、後に至つて乙麻呂も召還された。
 この第一歌及び第二歌は作者未詳であるが、第一歌初頭の「石上布留の尊は」、第二歌の「わが背の君は」の口氣を想ふと、必ず乙麻呂の近親者の作であらう。古義は乙麻呂の妻の作とした。
 
(1789)石上《いそのかみ》 振乃尊者《ふるのみことは》 弱女乃《たわやめの》 惑爾縁而《まどひによりて》 馬自物《うまじもの》 繩取付《なはとりつけ》 肉自物《ししじもの》 弓※[竹冠/矢]圍而《ゆみやかくみて》 王《おほきみの》 命恐《みことかしこみ》 天離《あまさかる》 夷部爾退《ひなべにまかる》 古衣《ふるごろも》 又打山從《まつちのやまゆ》 還來奴香聞《かへりこぬかも》     l019
 
〔釋〕 ○いそのかみふるのみこと 乙麻呂をさす。石上氏は大連物部(ノ)目の後裔で、その居宅石上の布留にあつたので、天武天皇時代に石上(ノ)朝臣を賜はり、かく「石上布留の命」ともいひ續けた。「尊」は尊稱。紀に至貴(ヲ)曰(ヒ)v尊(ト)、自餘(ヲ)曰(フ)v命(ト)、竝(ニ)訓(ム)2美擧等《ミコトト》1也とあるが、記はすべて命の字を用ゐた。私には臣下にも尊の字を用ゐたことが正倉院文書にも見える。尚「いそのかみ布留の山」を見よ(九四三頁)。○たわやめのまどひ 女色をいふ。「たわやめ」は既出(二〇一頁)。「まどひ」を古義にサドヒ〔三字傍線〕と訓んだのは非。卷十八に「左度波世流《サドハセル》」の語はあるが僻語で、例とし難い。○うまじもの 馬そのものなして。○ししじもの 猪鹿《シシ》そのものなして。「肉」は「しゝ」の本義であるが、こゝでは借字。○ゆみや 「※[竹冠/矢]」は矢〔傍点〕の俗字。集中また※[竹冠/幹]《ノ》の意にも慣用してある。○なはとりつけ――かくみて 繩取付けられ〔二字傍点〕、――圍まれてと被相態にいふべきを、かくいふは變則である。舊訓トリツケテ〔五字傍線〕は非。又舊訓カコミテ〔四字傍線〕は語が新しい。○ひなべ 田舍の方。鄙方《ヒナベ》の義。集中又、ひなの國べ〔五字傍点〕ともある。○まかる 略解訓による。奮訓マカリ〔三字傍線〕は非。○ふるごろも 又打《マタウチ》の約マツチをいひかけた眞土《マツチ》の枕詞。新衣は艶を出す爲に(1790)打つ。古くなると解き洗ひした上又打つ故に、約めて「古衣|又打《マツチ》」といひ、又「橡《ツルバミ》の解き洗ひ衣《ギヌ》又打《マツチ》山」(卷十)とも續けた。○まつちのやま 「まつち山」を見よ(二一七頁)。○かへりこぬかも 還り來てくれやいの意。「きしかぬかも」を見よ(一〇八頁)。△地圖 第一冊の卷頭總圖を參照。
【歌意】 石上布留の尊(乙麻呂殿)は女色の過ちに依つて、馬のやうに繩を懸け、猪鹿のやうに弓矢で圍んで、遠い田舍の方(土佐國)に流されてゆく。早くあの眞土山から、還つて來てくれゝばよいになあ。
 
〔評〕 從四位下左大辨といへば殿上人の錚々で、大した役人だ。上達部の候補者だ。而も親は左大臣だつた。かうした身分の石上布留の尊でも、釆女の犯奸は更に假借されない。乙麻呂は乃ち土佐(ノ)國に配流となつた。令によると、土佐國配流は罪の重い遠流である。身分罪状の如何に關はらず、既に勅勘の重罪人である以上は、官位を褫奪された平人だから、縛られも追ひ立てられもする。押送の小役人(衛府の尉志等)の呵責のもとに、馬か猪鹿《シシ》のやうに繩付となり、弓矢を携へた物部や使部に嚴重に護衛されて、配流の途に上るのであつた。契沖がいふ、
  さばかりの人の好色の過ちのみにて、實にさることはあるまじけれど、歌の勢にいふなり。心を付くべし。
とは飛んでもない誤認で、只多少文飾上の誇張もあらうといふに過ぎない。
 流人押送の光景の詳敍は、肥馬錦枹で揚々出入した乙麻呂の昨日の榮華を暗映するもので、榮枯盛衰一旦に處を易へた、その境遇に寄せた同情が著く見られる。されば結末の「眞土の山ゆ還り來ぬかも」は、篇法の上からは唐突の感があるが、情意の上からは綿々と連絡してゐる。所謂藕斷えて絲の斷えざる妙がある。
(1791) 惜別の歌に早くもその歸期を云爲することは、憶良の好去好來(ノ)歌(卷五)や、上の藤原(ノ)宇合が遣(ハサルヽ)2西海道(ノ)節度使(ニ)1之時の高橋蟲麻呂の歌にも見えたことで、人情その揆を一にするものである。殊にこれは勅勘の罪人たるに、尚も「還り來ぬかも」といふ。高潮した情味の前には一切の理窟は消えてなくなる。
 乙麻呂は奈良の囚獄を出て、立田の恐《カシコ》坂を越え河内を通過し、紀伊の大崎から舟出したらしい。それを「眞土の山ゆ還り來ぬかも」は矛盾のやうだが、紀伊路は眞土越が本道なので、かく詠まれたものであらう。
 
王《おほきみの》 命恐見《みことかしこみ》 刺並之《さしなみの》 土左〔二字左○〕國爾《とさのくにに》 出座耶《いでますや》 吾背乃公矣《わがせのきみを》 繋〔左△〕卷裳《かけまくも》 湯湯石恐石《ゆゆしかしこし》 住吉乃《すみのえの》 荒人神《あらひとがみ》 船舳爾《ふなのへに》 牛吐賜《うしはきたまひ》 付賜將《つきたまはむ》 島之埼前《しまのさきざき》 依賜將《よりたまはむ》 礒乃埼前《いそのさきざき》 荒波《あらきなみ》 風爾不令遇《かぜにあはせず》 莫管〔二字左○〕見《つつみなく》 身疾不有《やまひあらせず》 急《すみやけく》 令變賜根《かへしたまはね》 本國部爾《もとつくにべに》     1021
 
 舊本「おほきみの」より「わがせのきみを」までを一首の短歌として、別に掲げたのは大いなる誤。隨つて舊本に據つた國歌大觀の歌數も誤つてゐるので、便宜上、歌番號1020を除いた。
 
〔釋〕 ○さしなみの (1)「さし」は接頭語、「なみ」は並ぶの意にて、隣の序詞とす(舊説)。(2)閉し並ぶの意にて、(1792)閉し並ぶ戸といひ績けて、隣又は土佐などに係る枕詞とす(古義)。○とさのくにに 「土左」の二字原本にない。古義所引の吉田正雄の考により補つた。○いでますや 「や」は間投の歎辭。「をとめのさ鳴《ナ》すや〔傍点〕板戸を」(記上)、「畏きや〔傍点〕み墓仕ふる」(卷三)「囀るや〔傍点〕辛碓《カラウス》につき」(卷十六)の例なほ多い。○わがせのきみを 「きみを」は君なる〔二字右○〕をの意。「わがせ」の對稱は男にも女にも兄にも弟にもいへるが、多分は乙麻呂の妻妾より乙麻呂をさした詞であらう。○かけまくも 既出(五三〇頁)。「繋」原本に繁〔右△〕とあるは誤。元本神本等による。○すみのえのあらひとがみ 住吉の大神を稱する。記(上)に、伊邪那岐命が夜見國の穢を日向の橘の小門《ヲト》の檍《アハギ》原に禊祓し給うて、その時に成りませる底筒之男《ツコツヽノヲノ》命、中筒之男(ノ)命、上筒之男(ノ)命三柱の神は墨江之三前《スミノエノミサキノ》大神なりとある。社は攝津國西成郡住吉にあり、式内の大社である。(今大阪市住吉區)。○あらひとがみ 現人神。顯《アラハ》に形を現し給ふ神の意。住吉の神はより/\現れ出て幸へ護り給ふのでいふ。この語なほ景行天皇紀、雄略天皇紀、續紀などに見える。○ふなのへ 既出(一五六三頁)。○うしはき 既出(一五六三頁)。「牛吐」は戲書か。○たまはむ 「賜將」は漢文では將賜〔二字傍点〕だが、國文脈のまゝに字を充てた。こればかりではない。和漢混淆體の文字は集中に充滿してゐる。○あらきなみかぜにあはせず 荒い波風に遭はせず。荒き波に遭はせず〔四字右○〕、荒き〔二字右○〕風に遭はせずの略。○つつみなく 「莫」原本に草〔右△〕とあるは誤。宣長説による。「管」原本に菅〔右△〕とあるは誤。元本その他による。○やまひ 「身疾」を訓む。身〔傍点〕は衍宇ではない。契沖訓ミヤマヒ〔四字傍線〕は非。○すみやけく 略解訓による。舊訓スミヤカニ〔五字傍線〕。○かへしたまはね 「ね」は命令辭。「變」は反の字に假用した。○もとつくにべ 元の國の方に。本國に。大和の國をいふ。略解訓による。舊訓モトノクニベニ〔七字傍線〕。
【歌意】 大君の仰を畏こんで、土佐國にお出なさる私の背の君なのを、懸けて申さむも憚あり、恐れ多い住吉の(1793)現人神が、船の舳先にその働をお示しなされ、御到著なさらう島の出崎出崎、お立寄りなさらう磯の出崎出崎、荒い波や風に遭はせず、そして無事に病氣もさせず、歸して下さいませ、この本國の方に。
 
〔釋〕 全篇乙麻呂の爲に住吉の神に懸け奉つた祈願である。
 こゝの「大君の御言畏み」は、場合が場合だけに頗る巖重な意味のものである。土佐への流人船は、紀伊の大崎から出帆する。何れ沿海航路をたどる當時の事だから、風待日待にあちらの島こちらの磯、その崎々に寄泊しつゝ行く。内海航路と違ひ、外洋だから波も風も太だ高い。まづ第一に住吉の神に海路の無事平安を祈願した。さて愈よ土佐に着けば、何時歸るとも知れぬ流人生活、第二に煩はぬやうに守り給へと祈願した。そして第三に速に本國に歸し給へと祈願した。これは作者に直接交渉を生ずる緊要な事柄だから、詰まる處最後がその本來の心願であらう。
 以上層々疊みかけての切願、これ等の情味は作者が特別關係者である事を想はせるに十分である。况や最初に「わが背の君は」と呼び掛けてゐる。まづその夫人の作と見ておいてよからう。
 天平五年の贈(ル)2入唐使(ニ)1歌の
  虚見つ山跡の國は、青丹よし奈良の京師《ミヤコ》ゆ、押照る難波にくだり、住吉《スミノエ》の三津に船乘り、たゞ渡り日の入る國に、遣はさるゝわが背の君を、懸けまくのゆゆし恐こき、墨の江のわが大御神、船のへにうしはきいまし、船どもに御《み》立たしまして、さし寄らむ磯のさき/”\、漕ぎはてむ泊々に、荒き風波に合はせず、平らけく率《ヰ》て歸りませ、本の國べに(卷十九、作者未詳――4245)
(1794)と着想も辭句も殆ど類似してゐる。しかも後出である以上は、それを模倣したといはれても仕方がない。尚卷五「好去好來歌」の評語を參照(一五五九頁)。
 乙麻呂は天平十一年三月に土佐に配流、同十三年の大赦には洩れ、同十五年五月には既に復位して、更に從四位上を授けられた。とすればまづ十四年あたりの召還らしい。足掛け四年滿三年間、南海の蠻煙瘴雨にこの風流才子は暴されたのであつた。
 
右二首、作者未詳〔七字右○〕。
 
 假にこの左註を補つておく。古義は右二首石上卿(ノ)妻作〔八字右△〕としたが、前首と後首とは作者が違ふ疑もあるので一概に定め難い。
 
父公爾《ちちぎみに》 吾者眞名子叙《われはまなごぞ》 妣刀自爾《ははとじに》 吾者愛兒叙《われはまなごぞ》 參昇《まゐのぼる》 八十氏人乃《やそうぢひとの》 手向爲等〔左△〕《たむけする》 恐乃坂爾《かしこのさかに》 幣奉《ぬさまつり》 吾者叙退〔左△〕《われはぞまかる》 遠杵土佐道矣《とほきとさぢを》     1022
 
〔釋〕 ○まなご 愛兒。眞に懷かしき兒即ち眞懷兒《マナゴ》の義(古義説)。○ははとじ 古義はオモトジ〔四字傍線〕と訓み、舊訓のハハトジ〔四字傍線〕も存した。オモは母の古言。母父《オモチヽ》(卷十三)阿母刀自《アモトジ》(卷廿)おも刀自(曾丹集)の例がある。「妣」は禮記に(1795)は、生(ニ)曰(ヒ)2父母(ト)1、死(ニ)曰(フ)2考妣(ト)1とあるが、多く區別なしに用ゐられた。○まゐのぼる 奈良京に〔四字右○〕參り上るの意。舊訓マヰノボリ〔五字傍線〕。○やそうぢひと 「もののふのやそうぢ」を見よ(六八三頁)。○たむけする 「等」は衍字か。或は累〔右△〕、類〔右△〕などの誤であらう。○かしこのさか 懼《カシコ》坂。立田峠の東方の阪路、いま峠と稱する處。「たつたやま」を見よ(二八四頁)。○ぬさまつりわれはぞ 吾はぞ幣まつり〔七字傍点〕を句法の爲に倒置した。○まかる 「退」原本に追〔右△〕とある。眞淵の一考の方に從ふ。○とさぢを 土佐へ行く路なる〔二字右○〕を。△地圖 挿圖91(二八六頁)を參照。
【歌意】 父君に取つては私は愛兒である〔三字右○〕ぞ、母刀自に取つては私は愛兒であるぞ〔三字右○〕。然るに、京へ參りのぼる數多の官人達が、峠の神に手向けする恐《カシコ》坂に、私はさ幣を捧げて、反對に〔三字右○〕京を追はれて出て往きます。その道は〔四字右○〕遠い土佐路であるもの〔五字右○〕を。あゝ〔二字右○〕。
 
(1796)〔評〕 乙麻呂の父左大臣麻呂(ノ)卿は夙く養老元年に薨じてゐる。それからこの年まで二十三年も經つから、母君の存命とても覺束ない。然るになほ自分が父母の愛兒である事を、現在いますが如く反復誇稱した。蓋し門閥石上氏を支柱すべき大切なる身であることの自覺から發した語であらう。彼れは三男だが、その兄達に聞名のない處を見ると、多分早逝か何かで、彼れは跡取息子の一粒種であつたらしい。
  石上(ノ)中納言者左大臣(ノ)第三子也。地望清華、人才穎秀、雍容間雅、甚(ダ)善(シ)2風儀(ニ)1。雖(モ)v※[日/助](ムト)2典墳(ニ)1、亦頗(ル)愛(ス)篇翰(ヲ)1。嘗(テ)有(リテ)2朝譴1飄2寓(ス)南荒(ニ)1。臨(ミ)v淵(ニ)吟(ジ)v澤(ニ)、寫(ス)2心(ヲ)文藻(ニ)1、遂(ニ)有(リ)2銜悲藻兩卷1。今傳(フ)2於世(ニ)1、云々。(懷風藻)
と見え、略この朝臣の性行を察する事が出來よう。
 立田の恐坂はいふまでもなく、奈良京出入の公道で、上京の官人達は河内側から越えて、盛に峠の神に手向する。それは間もない着京の悦を感謝するのであつた。それに引換へ、自分は名家の愛兒でありながら流人として、逆に帝都を追はれて旅へ出る爲の悲しい幣奉りとすると、對照上その感慨は無量なものがあらう。况や行先は波濤萬里の土佐路である。同じ恐坂の手向に、かく一喜一憂相反する感想を取扱つて、自己の悲境に呻吟した。
 短篇ながらよく變化して、無限の感哀を藏してゐる。蓋し眞情流露の作。「われは愛兒ぞ」の對句の下に落句あるべしといふ略解古義などの説は無用。
 
反歌一首
 
(1797)大埼乃《おほさきの》 神之小濱者《かみのをはまは》 雖小《せばけれど》 百船純毛《ももふなびとも》 過迹云莫國《すぐといはなくに》     1023
 
〔釋〕 ○おほさき 紀伊國海部郡大崎(今海草都)。○かみのをはま 大崎の東に加茂村あり、カミ、カム、カモは神の意で同語。古へは大崎のあたりをもカミと稱したのであらう。○せばけれど 古義訓セバケドモ〔五字傍線〕。○ももふなびと 百船人。「純」の字、純一の意にてヒト又ヒタと訓む。人を一と書ける例は、卷九に「一《ヒト》知りぬべみ」とある。○すぐといはなくに 見〔右○〕過すといはぬのに。
【歌意】 大崎の神の小濱、それは狹いけれど、澤山の舟人も、徒らに見過すといふことはないのにさ。――自分は罪人でそを見る自由もないわい〔十七字右○〕。
 
〔評〕 以上の長短歌の趣によると、奈良京から立田峠にかゝり、河内路を通過して紀伊路に出、大崎から土佐行の船に乘つたのである。
(1798) 大崎の神の小濱は、藤白山脈が南方に斗出した荒崎の北にある灣で、東に向つて開き、土佐行の船は近世でも出た處である。
 百舟人の寄港するのは航海上の都合による。それを神の小濱の形勝に由るかのやうに寄興し、翫賞の遑もなしに、罪人として周章しく追ひ立てられる自分の境遇を嗟歎した。そこに感慨の含蓄がある。「せばけれど」の一抑「過ぐといはなくに」の一揚の如きは例の事で、大崎小濱の字對は有意無意の間にある。
 
右二首、石上(ノ)卿(ノ)作(メル)〔七字右○〕
 
 この左註を補つた。この二首は必ず乙麻呂の自作。
 
秋八月二十日、宴(せる)2右大臣《みぎのおほまへつぎみ》橘(の)家(にて)1歌四首
 
 天平十一年八月二十日、右大臣橘(ノ)諸兄《モロエ》の家で酒宴した歌との意。○右大臣 太政官の長官の一で、左大臣の次位。天子を輔佐し天下の大政を行ふ。皇極天皇の四年六月始めて左右大臣を置かれた。二位相當官。こゝの右大臣は橘諸兄のこと。諸兄は續紀に、天平十年正月授(ケ)2正三位(ヲ)1拜(ス)2右大臣(ニ)1とある。傳は「葛城《カヅラキノ》王」を見よ(一七六六頁)。○橘家 諸兄の京の家は所在未詳。別業は山城國相樂那井手に在つた。
 
(1799) 長門有《ながとなる》 奥津借島《おきつかりしま》 奥眞經而《おくまへて》 吾念君者《わがもふきみは》 千歳爾母我毛《ちとせにもがも》     1024
 
〔釋〕 ○かりしま 長門國阿武郡萩町松本の北、鶴江臺邊に雁《ガン》島の名がある。借島即ち雁《カリ》島を音讀したものか。但沖つ借島とあれば海中の孤島らしいから、地形が出合はないが、今の萩町は海灣中の堆洲なることは明かだから、雁島は古へは孤島であつたのではあるまいか。或はその西北角の指月山か。なほ大小の島々が沖合に散在してゐるから、何れとも判定し難い。初二句は借島の位置が沖合にある事を以て、「奥まへて」に係けた序詞。○おくまへて 奥あるやうにするをいふ。奥深く〔三字傍点〕に近い。古義に奥めて〔三字傍点〕の延言と解したが、奥め〔二字傍点〕といふ語はない。「奥まへて――念ふ」は「奥に思ふ」(卷三)に同じい。
【歌意】 長門にある沖の借島の、沖にあるやうに奥深く、私の思ふ君は、その齡が千年でまあ、あつてほしいことよ。
 
〔評〕 主人公諸兄は當時位は從三位、官は右大臣の一上、福禄兩つながら達し得て、世に不足といふは何物もない。遺す處は只年壽あるのみだ。當日宴席に陪した長門守|巨曾倍《コソベノ》對島は、機を見るに敏なる男で、今や五十六歳の老境にある主人公の意中を素早く洞察し、「千歳にがも」と祝福した。さうなれば福禄壽を一身に兼ね具へた長者だ。主人の滿悦想ふべしである。對島は恐らく橘家恩顧の人であらう。(1800)「長門なる沖つ借島」の序詞は任國の名處を使用して、對島自身の地歩を占めたもの。但
  淡海《アフミ》の海《ミ》おき津島やま奥まへて、わが念ふ妹が言《コト》の繋けく(卷十一、詠者未詳――2439)
と序態が酷似してゐる。
 
右(ノ)一歌、長門(ノ)守|巨曾倍對島《コソベノツシマノ》朝臣。
 
 ○巨曾倍對島朝臣 巨曾倍は氏。續紀に、天平四年八月、山陰道(ノ)節度使(ノ)判官巨曾部(ノ)津島に授(ク)2外從五位下(ヲ)1とある。その十一年には長門守だつたと見える。尚正倉院文書に、天平二年に正六位上大和介とある。
 
奥眞經而《おくまへて》 吾乎念流《われをおもへる》 吾背子者《わがせこは》 千年五百歳《ちとせいほとせ》 有巨勢奴香聞《ありこせぬかも》     1025
 
〔釋〕 ○わがせこ こゝは男性同士の親稱に用ゐた。なほ既出(一六九頁)及「わがせ」(九〇頁)を見よ。○ありこせぬ 既出(三六五頁)。「巨勢」は地名、戲書の意あるか。
【歌意】 奥深く私を思うてゐる貴方は、千年も五百年も、存らへてくれぬものかなあ。
 
〔評〕 對島の「千歳にがも」の詞に酬い、「千歳五百歳」を以て挨拶した。對島も相當の老人であつた事が察せられる。右大臣と長門守、身分こそ格段に違へ、「わが背子」と親稱を以て呼び懸けた處を似て見ると、餘程入懇の間柄と見える。
 
(1801)右一歌、右大臣(ノ)和(ヘタル)歌。
 
 右大臣は橘(ノ)諸兄のこと。
 
百磯城乃《ももしきの》 大宮人者《おほみやびとは》 今日毛鴨《けふもかも》 暇無跡《いとまをなみと》 里爾不去將有《さとにゆかざらむ》     1026
 
〔釋〕 ○なみと 無さにと〔右○〕て。「と」を輕い虚辭と見ても意が通ずる。○さと 宮城外をいふ。○ゆかざらむ 「去」を類本及び古葉に出〔右△〕とあるは、イデザラム〔五字傍線〕と訓む。この宴席の場合としては、「出」の方が剴切であるが、故人の歌を流用して誦したのであるから、容易く改め難い。
【歌意】 大宮人達は、今日さへもまあ暇が無いとて、里に退出しないのであらうか。
 
〔評〕 古義に「この歌今日の宴に誦したる意を知らず」とあるが、これ程理由の明白な事はない。その日は餘定より出席者が少くて寂しい宴會だつたと想はれる。主人公諸兄はその人達の不參の理由を、總べて公務の多端に取成して、故人豐島(ノ)釆女の歌を誦して、他の來客達に釋明したのである。そこに主人公の温容と雅量とが著く認められる。
 
右一首、右大臣傳(ヘテ)云(ハク)、故豐島《モトノテシマノ》采女(ガ)歌(ト)。
 
 諸兄は上の歌を誦してさて後、これは故人たる豐島(ノ)釆女の歌だと、來會の人達に語り傳へられたとの意。こ(1802)の「傳云」を家持に語つたのを記したのだと、古義にあるは速斷に過ぎる。○豐島釆女 豐島は訓にテシマ、トシマの二つある。即ち攝津國豐島郡|豐島(テシマ)、武藏國|豐島《トシマ》郡である。何れの出身の釆女か。「釆女」は既出(三一八頁)。
 
橘《たちばなの》 本爾道履《もとにみちふみ》 八衢爾《やちまたに》 物乎曾念《ものをぞおもふ》 人爾不所知《ひとにしらえず》     1027
 
〔釋〕 ○やちまたに 既出(三七三頁)。
【歌意】 橘の樹蔭にたどつて、その多い岐路《エダミチ》のやうに、いろ/\に物念ひをさするわい、人には知られずに。ええ益體《ヤクタイ》もない〔七字右○〕。
 
〔評〕 左註にある如く、卷二「三方(ノ)沙彌《サミガ》娶《アヒテ》2園(ノ)臣|生羽之女《イクハノメニ》1未幾時《イマダイクグモアラズ》臥(シテ)v病(ニ)作歌に、
  橘の蔭ふむ路の八ちまたに物をぞおもふ妹にあはずて(――125)
の誤傳で、高橋安麻呂の誦み違へであらう。總べては卷二の同歌の條下(三七二頁)に讓る。
 
右一歌、右大辨高橋(ノ)安麻呂(ノ)卿(ガ)語(リテ)云(フ)、故《モトノ》豐島(ノ)采女(ガ)之|作(メリト)也。但或本(ニ)云(フ)、三方(ノ)沙彌(ガ)戀(ヒテ)2妻|苑《ソノノ》臣(ヲ)1作《ヨメル》歌也(ト)。然(レバ)則(チ)豐島(ノ)采女(ガ)當時當所(ニ)口2吟《クチズサミシ》此歌(ヲ)1歟。
 
 この歌は高橋(ノ)安麻呂が故人豐島釆女が詠んだ歌だと語つたとの意。こゝまでが左註の原文である。さて何で(1803)安麻呂がこの歌を語つたかといふに、この橘家の宴席上、主人公諸兄が豐島釆女の歌を誦んじた處から、安麻呂はこれをも同じ釆女の作と誤認して、時の興に語り出したものか。「然則云々は何人かの追記で、豐島采女自身がその宴席の場で口吟したかの意であるが、釆女は既にその時故人になつてゐた。○右大辨 既出(一三六四頁)。○高橋安麻呂 續紀に、養老二年正月正六位上より從五位下、同四年十月宮内少輔、神龜元年二月從五位上、同四月宮内大輔で征海道蝦夷の副將軍となり、同二年閏正月正五位下勲五等、天平五年九月右中辨、同九年正五位上、同十年正月從四位下、同十二年太宰大武とある。右大辨だつたのは紀には洩れてゐるが、天平十年正月從四位に叙位してから、十二月大貮になるまでの間の事であらう。大辨は四位相當官だからである。
 茲に一言する。萬葉集卷二を斥して左註の追記に或本〔二字傍点〕と稱したことは頗る疑はしい。依つて思ふ、萬葉集の稱號はこの集全部二十卷を結集した際に附けた名稱で、その以前は卷々、或は同體裁のものを通じて、或は箇箇獨立して、適宜な名稱がそれ/”\別にあつたに相違ない。有由緒歌、東歌等の如き題目もその一であらう。委しくは雜考に讓る。       △萬葉集の結成(雜考――23)を參照。
 
十一年|己卯《つちのとう》、天皇|遊2獵《みかりしたまへる》高圓野《たかまとのぬに》1之時、小(き)獣《けだもの》泄《いで》2走(る)堵里《さと》之中(に)1。於是《ここに》適2値《あひて》勇士《ますらをに》1、生《いきながら》而|見《らる》v獲(え)、即(ち)以(て)2此獣(を)1獻2上《たてまつるに》御在所《みもとに》1副(ふる)歌一首 【獣(ノ)名(ハ)俗(ニ)曰(フ)2牟射佐妣《ムササビト》1。】
 
 天平十一年、聖武天皇が高圓の野に御獵をなされた時、小さな獣が人里の中に飛び出した、茲に勇士に出合つ(1804)て生擒にされた、乃ちこの獣を陛下の御在所に獻るに副へる歌との意。小獣は割註及び歌によると※[鼠+吾]鼠。○高圓野 「たかまとのぬべ」を見よ(六一九頁)。○堵里 人家ある處をいふ。○泄走 「泄」は漏の義。○俗曰 割註の「俗」は一般の通語の意。
 
大夫之《ますらをが》 高圓山爾《たかまとやまに》 追有者《せめたれば》 里爾下來流《さとにおりける》牟射佐妣曾此《むささびぞこれ》     1028
 
〔釋〕 ○せめたれば 迫めたれば。攻むること。○おりける 古義訓による。舊訓オリクル〔四字傍線〕。○むささびぞこれ ※[鼠+吾]鼠ぞこれなる〔二字右○〕の略。「むささび」は既出(六八九頁)。△地圖及寫眞 挿圖380(一五一一l頁)。196(六八九頁)を參照。
【歌意】 勢子《セゴ》の男達が、高圓山で追ひ詰めたので、溜らなくなつて〔七字右○〕、里中に下りて來た※[鼠+吾]鼠がさ、これで御座いますわ。御覽下さい〔五字右○〕。
 
〔評〕 高圓山は今は草山だが、古へは林木で蔽はれてゐたらしい。その山麓の臺地は※[獣偏+葛]高野で、御獵は山へとかけて行はれた。故に題詞には高圓の野といひ、歌には高圓山と詠んである。山の裾囘は奈良京、左京の五條から八九條の京極に接してゐる。されば野山を狩り立てられて戸惑ひした※[鼠+吾]鼠は、坊里の中に飛び込んだのである。※[鼠+吾]は一寸グロ味のある妙な恰好の動物だから、それを生擒にした人間は勇士かも知れない。この勇士は(1805)想ふに大伴家の家人であらう。高圓には大伴家の別墅があり、坂上郎女が偶ま來て居たので、この怪物を御獵に獻つて叡覽に供するに、詞がはりにこの歌を副へたものである。
 されば歌は事實を報告したまでの事に了つてゐる。
 
右一歌、大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)作(メル)之也。但未(ダ)v※[しんにょう+至]《イタラ》v奏(スルニ)、而小獣|斃死《タフル》、因(リ)v此(ニ)獻(ルコトハ)v歌停(ム)v之(ヲ)。
 
 「但」以下は、かく奉獻の歌も出來たが、まだ申し上げる間が無いうちに、小獣※[鼠+吾]鼠が死んだ、で歌を獻ることも止めたとの意。
 
十二年|庚辰《かのえたつ》冬十月、依(りて)2太宰少貮藤原(の)朝臣廣嗣(が)反謀《そむきて》發《おこせるに》1v軍(を)、幸(せる)2于伊勢(の)國(に)1之時、河口(の)行宮《かりみやにて》内舍人大伴(の)宿禰家持(が)作歌一首
 
天平十二年十月、太宰少貮の藤原廣嗣が謀反して兵を起したので、伊勢國に行幸なされた時、河口(ノ)行宮で家持が詠んだ歌との意。○太宰少貮 既出(七九三頁)。○藤原廣嗣 參議式部卿宇合の第一子。續紀に、天平九年九月從六位上より從五位下、同十年四月式部卿にて大養徳《ヤマトノ》守、同十二月太宰少貮、同十二年八月、上表して時政の得失を指し、天地の災異を陳べ、僧玄※[日+方]、下道(ノ)眞備等を除くことを奏し、同九月遂に兵を起して反した。勅して從四位上大野東人を大將軍として征伐、廣嗣敗れて、十月二十三日肥前國松浦郡|値嘉《チカノ》島長野村にて捕縛、十一月一日斬に處せらる。○幸于伊勢國 續紀に、十二年十月壬午(廿九日)行2幸(ス)伊勢(ノ)國(ニ)1とある。○河口行宮 (1806)伊勢國一志郡河口(今河口村)。〇内舍人 既出(一〇二九頁)。△地圖挿圖 33(一〇三頁)を參照。
 
河口之《かはぐちの》 野邊爾廬而《ぬべにいほりて》 夜乃歴者《よのふれば》 妹之手本師《いもがたもとし》 所念鴨《おもほゆるかも》     1029
 
〔釋〕 ○かはぐちのぬ 壹志郡河口村から大三村に亙る雲出川北岸の野の稱。○いほりて 庵しての意。「いほり」は庵入《イホイリ》の義で、ラ行四段活。〇よのふれば 夜の經れば。「歴」は借字。
【歌意】 河口の野邊に庵住して、幾夜も經るので、寒くはあるし〔六字右○〕、本郷《クニ》の家の妻の袂がさ、戀しく思はれることよ。
 
〔評〕 河口の稱は雲出川に起る。大和から伊勢に出るに、名張を經て安保《アホ》を過ぎ河口に來ると、始めて大きな河雲出川に接する。河に打出づる處だから河口といふ。南街道の家城《イヘキ》路もこゝに會し、卷一に「十市(ノ)皇女(ノ)參2赴《マイヅル》伊勢神宮(ニ)1時、見(テ)2波多(ノ)横山(ノ)巖(ヲ)1云々」の題詞ある歌に「河上のゆつ磐村に」とある、その下流に當る。野は河の南北に亙り、東西に長い山間の僻地だ。そして川筋一帶に寒さが嚴しい。
(1807) 抑も今囘の伊勢行幸は、勿論神宮に治平祈願の勅使も立てられたが、一時亂を避けて關東(不破の關の東)に幸することが主であつた。續紀、十二年十月十一月の條に、
  壬午(廿九日) 行2幸(ス)伊勢(ノ)國(ニ)1、是日到(ル)2山邊郡竹谿村堀越(ノ)頓宮(ニ)1。
  癸未(三十日) 車駕到(ル)2伊賀國名張郡(ニ)1、
  甲申(朔) 到(リテ)2伊賀國|安保《アホノ》頓宮(ニ)1宿(ル)。大(ニ)雨(フリ)泥(リテ)人馬疲頓(セリ)。
  乙酉(二日) 到(ル)2伊勢國壹志郡河口(ノ)頓宮(ニ)1謂(フ)2之(ヲ)關(ノ)宮(ト)1、
  丙戊(三日) 是日大將軍東人等(ス)、以2今月二十三日1捕(ヘ)2獲(ツ)廣嗣(ヲ)1云々。――停2御《トドマルコト》關(ノ)宮(ニ)1十箇日。
こんな次第で、河口に御到着の翌日反人廣嗣敗亡の吉報を得、旅疲れの休息や祝賀やで、河口に十日も長居されたのであるらしい。
 時が仲冬の十一月、山地が特に寒い場處とあつては、この思の外の長逗留に、野邊の庵に夜を經るのは辛い。ましてまだ廿三四歳の内舍人の若者家持だ。奈良京を出發してから十日以上も、愛する妹が手から離れてゐる。山風野風川風が夜床をゆする度毎に、「妹が袂」を思ふは自然の人情である。藤原(ノ)麻呂の「妹とし寢ねば肌し寒しも」(卷四)に比するに、婉曲味を以て勝つてゐる。
 
天皇御製歌《すめらみことのみよみませるおほみうた》一首
 
○天皇 聖武天皇。
 
(1808)妹爾戀《いもにこひ》 吾乃〔左△〕松原《あのまつばらゆ》 見渡者《みわたせば》 潮干乃潟爾《しほひのかたに》 多頭鳴渡《たづなきわたる》     1030
 
〔釋〕 ○いもにこひあのまつ 妹に戀して吾が待つを、吾の松原にいひかけた序詞。○あのまつばらゆ 吾《ア》は伊勢國安濃郡の地名。その津を安濃《アノ》津といふ。諸註誤る。ユは讀み添へた。略解、宣長説は「乃」を自〔右△〕の誤として、ワガマツバラユ〔七字傍線〕と訓み、古義ユをヨ〔傍線〕と訓んだ。舊訓ワガノマツバラ〔七字傍線〕。○かた 「潟」元本その他に滷とあるも同意。
【歌意】 妹に戀して吾《ア》の待つといふ名の、吾《ア》の松原から、見渡すと、汐の干潟に、あれ鶴が鳴いてゆくわ。
 
〔評〕 初句は必ず序詞たるべきで、妹と松原と特殊の關係のない限は、妹に戀したとて松原を見渡すことは、道理《スヂ》が立たない。
  わが背子を安我《アガ》まつ原|欲《ヨ》見わたせば海人少女ども玉藻刈る見ゆ(卷十七――3890)
の上句は殆ど聖作と同型である。
 今囘行幸の御道筋は、赤坂(ノ)頓宮から吾の津(安濃津)に出られたと考へられる。古義にいふ。
  大御歌何とはなけれど、誦し申す度毎に、その時の風景今も目に浮びて見るやうなるは、御調の高きが故なるべし。
 
丹比家〔左△〕主眞人《たぢひのいへぬしのまひとが》歌一首
 
○丹比家主眞人 「家」原本に屋〔右△〕とある。當時丹比氏に家主《イヘヌシ》と屋主《ヤヌシ》と二人居て、而も十二年には共に從五位下で(1809)あつた。古義はいふ、こゝは家主の歌と。續紀に今囘の伊勢行幸に赤坂頓宮に於いて隨從者に位一級を進められた事が見え、それに家主の名はあるが、屋主の名はない。屋主の從駕して居なかつた證とされよう。屋主の歌は卷八に見え、傳はその條にある。なほ左註參照。○家主 續紀に、養老七年九月出羽國司正六位上丹治比(ノ)眞人家主と見え、天平九年二月從五位下、同十二年十一月伊勢行幸の途赤坂頓宮に於いて從五位上、同十三年八月鑄錢司長官、天平勝寶三年正月正五位下、同六年正月天皇東院に御し五位已上を宴し給ふ時、特に家主と大伴宿禰麻呂二人を召し、四位の當色を賜ひ四位の列に在らしめ、即ち從四位下を授かる。天平寶宇四年三月散位にて卒すとする。尚天平九年の正倉院文書に、因幡守とある。
 
後爾之《おくれにし》 人乎思久《ひとをしぬばく》 四泥能埼《しでのさき》 木綿取之泥而《ゆふとりしでて》 將往〔左△〕跡其念《ゆかむとぞおもふ》     1031
 
〔釋〕 ○おくれにし 京に留つてゐる人をさす。妻などであらう。○しぬばく 慕ぶことよの意。この句は下に續けず切るがよい。「しらなく」を見よ(四四五頁)。訓は古義による。舊訓オモハク〔四字傍線〕。○しでのさき 志※[氏/一]の崎。神名帳に伊勢國朝明郡|志※[氏/一]《シデ》神社がある。御津の濱の西。(今三重郡)古へその邊は海に瀕してゐたと見え、埼の名がある。○ゆふ 既出(九二三頁)。○とりしでて 「しで」は懸け垂ることをいふ。宣長はいふ繁垂《シジタリ》の義と。○ゆかむ 「往」原本に住〔右△〕とあるは誤。童本説(1810)による。
【歌意】 京に殘り留つてゐる人を、慕はしく思ふことよ。幸ひ志※[氏/一]の神のます崎に、木綿を崎の名の垂《シ》で垂らして、旅路の平安を祈つて往かうと思ふ。――無事に再び逢はう爲に〔十字右○〕。
 
〔評〕 家主は前日の赤坂頓宮で位一階を昇進したのだから、この上の慾には、無事に從駕の旅を了つて、早く家人の顏を見たいが一杯である。「志※[氏/一]〔二字傍点〕の崎木綿取りしで〔二字傍点〕て」はその崎にます志※[氏/一]の神に幣奉ることで、表現上多少の婉味を寓し、シデの疊音も諧調を成してゐる。但それらは末節の事で、旅客の家郷を憶ふ情味が津々としてゐる。「往かむとぞ思ふ」の辭氣が頗る悠揚迫らざる態のあるのは、彼れが得意滿面の際であつたからであらう。
 
右案(ズルニ)、此歌|者《ハ》不v有(ラ)此行宮之作(ニ)1乎《カ》。所2以(ヲ)然(ル)1言(ハム)之。勅(リ)2大夫(ニ)1從(リ)2河口(ノ)行宮1還(リ)v京(ニ)、勿(レ)v令(ムル)2從駕(セ)1焉。何(ゾ)有(ランヤ)d詠(メル)2思沼《シヌノ》埼(ヲ)1作歌《ウタ》u哉。
 
この歌は河口(ノ)行宮の作ではないのかしら、その理由を言はう、勅命が大夫(屋主は五位なればいふ)に下つて、河(1811)口行宮からすぐ奈良京に還り、巡幸の供に立つなと、されば何で思沼(志※[氏/一])の崎を詠んだ歌があらうぞとの意。
 以上の左註はこの歌を屋主の作としての註である。屋主にはさうした勅命のあつたことは、或は事實かも知れない。何かの事情で追ひ歸されたものだらう。が家主の方には何の關係もないことである。
 
獨|殘《とゞまりて》2行宮(ニ)1大伴(の)宿禰家持(が)作歌
 
只一人行宮に殘り留つて家持が詠んだ歌との意。この行宮は志※[氏/一]の歌の次に序でたので考へると、續紀に、車駕は十一月十四日赤坂(ノ)頓宮から、廿三日朝明郡、廿五日桑名郡(ノ)石占《イシウラノ》頓宮、廿六日美濃國|當伎《タキ》郡に到りますとある。この歌の次に海邊眺望の「御食つ國」の歌があるから、これも同處の作と見る時は、こゝの行宮は桑名の石占(ノ)頓宮と見るより外はない。桑名を離れて北しては最早海はない。この頓宮は今の桑名町の内。家持は内舍人の役目上、頓宮に居殘りをしたのであらう。久老は「獨殘」を狹〔右△〕殘の誤としてサヾムと讀み、多氣(當伎)郡大淀村の佐々夫《サヽフ》江に頓宮ありしなるべしとの説を立てたが、煩はしい。又殘の音はザンでサムでない。
 
天皇之《おほきみの》 行幸之隨《いでましのまに》 吾妹子之《わぎもこが》 手枕不卷《たまくらまかず》 月曾歴去家留《つきぞへにける》     1032
 
〔釋〕 ○まに ままにの意。
【歌意】 天子樣の行幸のまゝに御供して、京の家の妻の手枕をもせず、月日をさ經たことであるわい。
 
〔評〕 十月廿九日に京を立ち、十一月廿五日桑名の頓宮に著、その日數廿七日間で、旅は二月に亘つた。まこと(1812)「手枕纏かず月ぞ經にける」である。公に殉ずるは官吏の心得ではあるものゝ、人情は又格別である。車駕遠く去つて寂寞たる行宮の内、獨膝を抱いて家妻を思ふも亦止むを得まい。初二句は公、以下は私で、兩者對照の間にその意中の葛藤を見る。
 
御食國《みけつくに》 志麻乃海部有之《しまのあまならし》 眞熊野之《まくまぬの》 小船爾乘而《をぶねにのりて》 奥部榜所見《おきべこぐみゆ》     1033
 
〔釋〕 ○みけつくに 前出(一六五三頁)。○しまのあま 志摩國の海人「海部」は海人部の略。○まくまぬのをぶね 「まくまぬのふね」を見よ(一六七二頁)。
【歌意】 御食を奉る國の、志摩の海人であるらしい。眞熊野の小舟に乘つて、沖の方を漕ぐのが見えるよ。
 
〔評〕 志摩の國は古事記(上)に「島之|速贄《はやにへ》獻(ル)v之(ヲ)時云々」と見えたのを始として、
  元慶六年十月、志摩(ノ)國年貢(ノ)御贄 四百三十一荷云々。(三代實録)諸國例貢御贄、志摩深海松(宮内式)
  志摩國調、御取(ノ)鰒、雜鰒、堅魚、敖海鼠《イリコ》、雜魚|楚割《ソワリ》、雜魚脯、雜鮨、漬v鹽雜魚、紫菜《ノリ》、梅松、鹿角菜《ヒジキモ》、海藻《メ》、海藻根《マナカシ》、小凝菜《ココロテイ》、角俣菜《ツマノマタ》、於期菜《オゴノリ》、滑海藻《アラメ》等々。(主計式)
  凡志摩國供2御贄1 潜女卅人、歩女一人、仕丁八人云々。(主税式)
など見え、海産物を豐富に貢する御食つ國である。
 海上遠く眞熊野舟が威勢よく漕ぎゆく。それが或は知多か伊良虞の海人かも知れないが、作者が猶豫なく志摩の海人と認定したことは、當時いかに志摩の海人が伊勢灣上の活動者であつたかを想はせる。而も眞熊野舟(1813)は志摩人の特に利用してゐた點もあらう。
 この歌は單なる海上の矚目で他意はない、然るに古義に、
  海人が徒は暇なく荒き波風を凌ぎ海面に漕ぎ出て、天皇の御爲に危き業するは、さても哀れにいとほしき事かな、これにて思へば天皇の御左右に仕へまつるは、旅とはいへど遙にまさりて有難く貴く嬉しく云々。
この位見當が違へば却て面白い。
 
美濃(の)國|多藝《たぎの》行宮(にて)、大伴(の)宿禰|東人《あづまひとが》作歌
 
○多藝行宮 多藝郡(今養老郡)白石村養老山(多度山)の山口に行宮神社と稱する小社ある處か。靈龜三年の元正天皇の行宮地に就いて、聖武天皇も今囘の行宮を建てられたと考へられる。續紀に、天平十二年十一月己酉到(リマス)2美濃國(ノ)當伎《タギノ》郡(ニ)1と見え、五日間御逗留、翌十二月朔日不破に幸された。○大伴宿禰東人 續紀に、寶字五年十月從五位下にて武部少輔、同七年正月少納言、寶龜元年六月散位(ノ)助、同八月周防守、同五年三月彈正(ノ)弼とある。
 
從古《いにしへゆ》 人之言來流《ひとのいひくる》 老人之《おいひとの》 變若云水曾《をつちふみづぞ》 名爾負瀧之瀬《なにをふたぎのせ》     1003
 
〔釋〕 ○いにしへゆ 古義訓イニシヘヨ〔五字傍線〕、舊訓ムカシヨリ〔五字傍線〕。○ひとのいひくる 人のいひ傳へる。古義訓イヒケル〔四字傍線〕。(1814)○をつちふみづぞ 若返るといふ水なる〔二字右○〕ぞ。「をつ」は「をちめやも」を見よ(七九八頁)。久老訓による。舊訓ワカユテフミヅゾ〔八字傍線〕。○なにおふ 養老の〔三字右○〕名に負ふの略。古義の此處の地名に負へるとの解は誤。○たぎのせ 多度の瀑布と多度川の瀧つ瀬と醴泉と三者が太だ分明でない。瀑布の末は川の瀧つ瀬である。萬葉の註者のすべては、その大瀑布及び川の瀧つ瀬を即醴泉のやうに釋してゐる。然し續紀には美泉また醴泉とある。大瀑布や河水をうち任せて泉とはいはれぬ。依つて考ふるに、多度川の岸邊から湧く小流に特殊の靈水を發見したので、それを美泉といひ、美泉の流末の奔湍を、瀧つ瀬と歌つたものか。現在は川の瀧つ瀬の右岸に養老神社あり、その下老杉の根もとから盛に湧出する數道の地下水を、醴泉と稱してゐる。
【歌意】 昔から人がいひ傳へる、老人が若返るといふいゝ水であるぞ、この養老の名に負うてゐる瀧の瀬はさ。
 
〔評〕 續紀養老元年九月の條に、
  丁未天皇(元正)行2幸(ス)美濃國(ニ)1。甲寅至(リマス)2美濃國(ニ)1、丙辰幸(ス)2當耆《タギノ》郡多度(ノ)山(ノ)美泉(ニ)1云々。甲子車駕還(リマス)v宮(ニ)。十一月癸丑、天皇臨(ミ)v軒(ニ)詔(シテ)曰(ハク)、朕(1815)以(テ)2今年九月(ヲ)1到(リ)2美濃國不破(ノ)行宮(ニ)1、留連《トヾマルコト》數日、因(リテ)覽(ル)2當耆(ノ)郡多度山(ノ)美泉(ヲ)1自(ラ)盥《ソヽグニ》2手面(ヲ)1皮膚如(シ)v滑(ナル)、亦洗(フニ)2痛處(ヲ)1無v不(ル)2除(キ)癒(エ)1、在(リテ)2朕之身(ニ)1其驗(アリ)、又就(イテ)飲(ミ)2浴(ム)之(ヲ)1者(ハ)、或白髪反(リ)v黒(ニ)、或(ハ)頽髪更(ニ)生(エ)、或(ハ)闇目如(シ)v明(カナル)、自餘病疾|咸皆《ミナ》平癒(ス)云々。改(メテ)2靈龜三年(ヲ)1爲(ス)2養老元年(ト)1。
かく改元までされた程の由緒深い美泉で、元正天皇は、手面を盥ぐと皮膚が滑かになり、飲浴すると白髪は黒くなり、禿げた頭に毛が生え、目くらも眠が見え、百病も癒ると仰せられた。全く「老人のをつちふ水」である。想ふに明礬質か何かを含んでゐた鑛泉であらう。
 それから聖武天皇の今囘の行幸の年までは二十三年經つ。これ「いにしへゆ」である。或はその以前の土俗傳説の時代をかけていつたと考へられぬこともないが、次の歌にも元正天皇の行宮創始をさして、「いにしへゆ」と詠んである。
 序にいふ、養老孝子の傳説は、續紀に、
(1816)  養老元年十二月丁亥、令(ム)d美濃國(ニ)立春(ノ)曉、※[手偏+邑]《クミ》2醴泉(ヲ)1而貢(ガ)c於京都(ニ)u、爲(ナリ)v醴《ツクル》v酒(ヲ)也。
と見え、酒造の水にこの美泉を取寄せられた事から、養老の瀑布の水が孝子の爲に酒に變じた、十訓抄、著聞集の小説が出來、養老寺縁起が出來、遂に謠曲の養老とまで發展したのである。
 
大伴(の)宿禰家持(が)作歌一首
 
田跡河之《たどがはの》 瀧乎清美香《たぎをきよみか》 從古《いにしへゆ》 宮仕兼《みやつかへけむ》 多藝乃野之上爾《たぎのぬのへに》     1035
 
〔釋〕 ○たどがは 養老山中養老瀑の下流の稱。白石川又養老川といひ、末は揖斐《イビ》河に入る。序にいふ、今は美濃の養老山と伊勢の多度山とは稱呼を別にしてゐるが、元來養老山は多度山脈の北端の一部だから、古へは廣く多度の山と呼ばれ、その川を多度川と稱した。○みやつかへけむ 宮を造り奉るを「宮つかへ」といふ。○たぎのぬのへに 多藝の野のあたりに。「たぎのぬ」は養老山下の平野の稱。略解訓による。舊訓タギノノノウヘニ〔八字傍線〕。多藝行宮址傳説地が平野の西端の山手にあるので、ウヘニ〔三字傍線〕の訓を執する説もあるが、拘はつてゐる。
【歌意】 多度川の瀧つ瀬がまあ奇麗なせゐで、昔からこの多藝の野の邊に、宮造を仕へまつつたことであらうか。
 
(1817)〔評〕 多藝行宮は多度山東麓の林木の間にあつた。蓋し醴泉に親まれる便宜上と考へられる。作者は全然それを素知らぬ顔に、かゝる荒凉たる野邊における、養老天平二代までもの行宮造りに一不審を投げ、そこに自己流の別解釋を下して、ひたすら瀧つ瀬の景勝に因ることだらうと、その山水を讃美した。平凡打開の猾手段、味ふべきものがある。
 
不破《ふはの》行宮(にて)、大伴(の)宿禰家持(が)作歌一首
 
○不破行宮 美濃國不破部。續紀に、天平十二年十二月癸丑朔、到(リマス)2不破郡不破(ノ)頓宮(ニ)1とある。天武天皇の行宮は和射見野《ワザミヌ》の野|上《ガミ》にあつた。持統上皇、元正天皇、聖武天皇三聖の行宮も、やはり天武天皇の故地に就いて立てられたことゝ思ふ。野上は和名抄に不破(ノ)野上郷と見え、その宿驛は中古有名であつた。△地圖 挿圖145(五三一頁)、參照。
 
(1818)關無者《せきなくば》 還爾谷藻《かへりにだにも》 打行而《うちゆきて》 妹之手枕《いもがたまくら》 卷手宿益乎《まきてねましを》     1036
 
〔釋〕 〇せきなくば 「せき」は不破の關。不破部松尾の大木戸坂その故址と稱する。伊勢の鈴鹿(ノ)關、越前の愛智《アラチノ》關と共に當時三關の稱があつた。(續紀、令義解)。○かへりにだにも 引返しになりとも。契沖いふ、俗に立ち歸りに〔五字傍点〕往きて來むといふが如しと。○うちゆきて 「うち」は接頭語。
【歌意】 不破に〔三字右○〕あの關さへないならば、引返しになりとも一寸往つて、思ふ妻の手枕を枕に寢ようものをさ。何分關があるのでねえ〔十字右○〕。
 
〔評〕 關には關守が居て出入を誰何する。從駕の官人が格別のお許もなしに、一寸京に往つて來ますでは通らない。無駄な事をねち/\考へるのは愚の骨頂だが、燃えあがる情炎は抑へ切れない。茲に「關なくば」の一案を創出し、極く控目の欲望を張つてみた(1819)が、それすら實現不能を自覺するに至つて、その遺恨は太だ永い。奈良京出發以來既に三十四日、嘗ては妹が袂を慕ひ、中頃は月ぞ經にける怨情を述べ、茲には遂に關を呪ふに至つて、その離愁は極まる。
 上出「河口の野べに」の歌の評中に、聖武天皇の天平十二年十月の伊勢行幸の十一月三日までの行程を示したが、更にそれ以後の行程を續紀から抽出すると、左の如くである。參考の爲にこゝに記す。
  十一月、丁亥(四 日) 遊2獵《ミカリス》于|和遲《ワヂ》野(ニ)1。
      乙未(十二日) 車駕從(リ)2河口1發(チ)、到(リ)2壹志郡(ニ)1宿(ル)。
      丁酉(十四日) 進(ミテ)至(ル)2鈴鹿郡(ノ)赤坂(ノ)頓宮(ニ)1。      丙午(廿三日) 從(リ)2赤坂1發(チ)、至(ル)2朝明郡(ニ)1。
      戌申(廿五日) 至(ル)2桑名郡|石占《イシウラノ》頓宮(ニ)1。
      己酉(廿六日) 到(ル)2美濃國|當伎《タギノ》郡(ニ)1。(多藝行宮)  十二月、癸丑( 朔 ) 到(ル)2不破郡不破(ノ)頓宮(ニ)1。
      甲寅(二 日) 幸(ス)2宮處寺及(ビ)曳常泉(ニ)1。
      丙辰(四 日) 皇帝巡2觀《メグリミル》國城(ヲ)1。
      戊午(六 日) 從(リ)2不破1發(チ)、至(ル)2坂田郡横川(ノ)頓宮(ニ)1。是日右大臣諸兄|在前《マヅ》而發(チ)、經2略(ス)山背(ノ)國相樂郡恭仁(ノ)郷(ヲ)1、以(テノ)v擬(フルヲ)2遷都(ニ)1故也。
      己未(七 日) 從(リ)2横川1發(チ)、至(ル)2犬上(ノ)頓宮(ニ)1。
      辛酉(九 日) 從(リ)2犬上1發(チ)、到(リ)2蒲生郡(ニ)1宿(ル)。
(1820)    壬戌(十 日) 從(リ)2蒲生郡1發(チ)、到(ル)2野洲(ノ)頓宮(ニ)1。
      癸亥(十一日) 從(ル)2野洲1發(チ)、到(ル)2志賀郡|禾津《アハヅノ》頓宮(ニ)1。
      乙丑(十三日) 幸(ス)2志賀山寺(ニ)1。
      丙寅(十四日) 從(リ)2禾津1發(チ)、到(ル)2山背(ノ)國相樂郡玉井(ノ)頓宮(ニ)1。
      丁卯(十五日) 皇帝在前幸(シ)2恭仁(ノ)宮(ニ)1、始(メテ)作(ル)2京都(ヲ)1矣。
 抑も今回の伊勢行幸は藤原廣嗣の亂に依つて、廷臣殊に藤原氏一門の動靜を察するにあつたと考へられる。廣嗣は既に誅に伏したが、神宮には御親拜なく、美濃近江を經て、山城の甕原(ノ)恭仁宮に入らせられ、遂に恭仁を帝京と定め、奈良京を見棄てらゎた。蓋し藤原氏の根據地を避けたものであらう。この行專ら右大臣橘諸兄を親任せられ、諸王他氏を以て前後を警衛し、四百の騎卒を從へ、藤原氏としては仲麻呂、清河、八束の外に陪隨者がなかつた。又奈良御發輦以來殆ど二閲月に垂んとし、殊更に淹留遲滯あらせられた形迹が著く見える。それは正に恭仁新宮の竣功を待たれたものと斷じて誤はあるまい。
 
十五年|癸未《みづのとひつじ》秋八月十六月、内舍人大伴(の)宿禰家持(が)讃《たゝへて》2久邇京《くにのみやこを》1作歌一首
 
○十五年 天平十五年。○讃久邇京 久邇京のことは「くにのみやこ」(一〇三一頁)及び下の「久邇新京歌」の條下を參照。△地圖及寫眞 269(一〇二九頁)297(一〇三二頁)。
 
今造《いまつくる》 久邇乃王都者《くにのみやこは》 山河之《やまかはの》 清見者《さやけきみれば》 宇倍所知良之《うべしらすらし》     1037
 
(1821)〔釋〕 ○いまつくる 「いま」は新にの意。○さやけきみれば 古義訓による。舊訓キヨクミユレバ〔七字傍線〕。○うべ 既出(七五二頁)。
【歌意】 この新造の久邇の京は、山や河の清く美しいのをみると、道理で天子樣が大宮所と、こゝを〔十一字右○〕お占めなさるらしい。
 
〔評〕 天平十年十二月に恭仁京遷都を布告されてから、もはや三年、帝都としての規模樣式もほゞ完備に近づいた事は、史の報ずる處、こゝに至つてその讃歌が生まれるのも必然の結果であらう。
 この歌には創造がない。また感激も淺い。殊に「は」の辭の落着が不快である。
 
高丘河内連《たかをかのかふちのむらじが》歌
 
○高丘河内連 高丘は氏、河内は名、連は姓。もと樂浪氏。續紀に、和銅五年七月播磨國(ノ)大目從八位上樂浪(ノ)河内位一階を進む、養老五年正月正六位下、退朝の後東宮に侍す、又文章某等と共に、※[糸+施の旁]十五疋麻十五絢、布三十端、鍬二十口を賜ふ。神龜元年五月高丘(ノ)連を賜ひ、天平三年正月外從五位下、同九月右京(ノ)亮、同十三年散位を以て人々と共に京都(久邇京)の百姓に宅地を班給し、同十四年八月、造宮(ノ)輔を以て近江の紫香樂《シガラキ》の造離宮司となり、同十七年外從五位上、同十八年五月從五位下、同九月伯耆守、勝寶三年正月從五位上、同六年正月正五位下とある。なほ神護景雲二年六月、内藏頭兼大外記從四位下高丘宿禰比良麻呂卒の條に、父樂浪(ノ)河内(ハ)正五位下大學(ノ)頭とある。武智麻呂傳には文雅の人として擧げられてある。(1822)この歌及び以下の歌は皆天平十二年中の作。
 
故郷者《ふるさとは》 遠毛不有《とほくもあらず》 一重山《ひとへやま》 越我可良爾《こゆるがからに》 念曾吾世思《おもひぞわがせし》     1038
 
〔釋〕 ○ふるさと 奈良の故京をさす。○こゆるがからに 越ゆるが故《カラ》に。
【歌意】 故郷(奈良)は遠くもありません。然し山一重を越すが故に、つひ出にくゝて〔七字右○〕、涯りもない物思を、私は致しましたわい。
 
〔評〕 これも次の歌も、久邇京から奈良の故京に殘つてゐる朋友を訪ねての作である。その意は
  一重山|隔《へ》なれるものを月夜よみ門にいでたち妹か待つらむ(卷四、家持――765)
と表裏する。兩京間の距離は二里弱、これ「遠くもあらず」である。そこに横たはる山は、多寡が一重山だから、さのみの事もないが、久濶の申譯や懇情の押賣には最も好都合で、その難路をも押切つて訪問したといふ事實を以て、暗に故人の前に誇耀してゐる。すべて「思ひぞわがせし」の過去的表現から、是等の餘意餘情を發生させたもので、巧手。
 或説に「奈良より久邇京に來る途にて詠みて、奈良なる友に寄せしなり」とあるは賛成し難い。
 
吾背子與《わがせこと》 二人之居者《ふたりしをれば》 山高《やまたかみ》 里爾者月波《さとにはつきは》 不曜十方余思《てらずともよし》     1039
 
(1823)〔釋〕 ○わがせこ こゝは友人をさした。○をれば 新考ヲラバ〔三字傍線〕。
【歌意】 かうして〔四字右○〕貴兄と二人さ居れば、假令山が高くて、この里には月は、さゝずともよいわ。
 
〔評〕 山に障へられて月のさゝぬ里は、久邇京よりは奈良京の方が、春日高圓の連山が接近してゐるだけ、餘計にふさはしい。恐らくこの友人の家は左京四坊筋あたりであらう。折角の光來におもてなしの夕月もさゝぬ蓬宅でと、主人の卑下するのを、いや/\貴方とかく對面してゐさへすればそれで滿足ですと挨拶したものだ。「照らずともよし」は絶對ではない、照るに越したことはないが、それ以上に友情を重んじた口吻である。
  玉數ける家も何せむ八重葎おほへる小屋も妹と居《ス》めれば(卷十一――2825)
とよく意が似てゐる。力ある「は」の辭の疊用、注意を要する。前後二首とも辭令の即吟で、勿論親友の間柄ではあらうが、又半面に情味深い作者の人格を想はせる。
 
安積親王《あさかのみこの》宴《うたげしたまふ》2左少辨藤原(の)八束(の)朝臣(が)家(に)1之日、内舍人大伴(の)宿禰家持(が)作歌一首
 
安積親王が左少辨藤原八束の家で宴會をなされた日、内舍人家持が詠んだ歌との意。〇安積親王 既出(一〇二九頁)。○藤原八束 「藤原朝臣八束」を見よ(九〇四頁)。
 
久堅乃《ひさかたの》 雨者零敷《あめはふりしけ》 念子之《おもふこが》 屋戸爾今夜者《やどにこよひは》 明而將去《あかしてゆかむ》     1040
 
(1824)〔釋〕 ○ひさかたの 「あめ」の枕詞。既出(二八二頁)。○ふりしけ は古義訓による。舊訓フリシク〔四字傍線〕。○おもふこが 略解訓による。舊訓オモフコノ〔五字傍線〕。
【歌意】 この雨は降りしきれよ、さらば〔三字右○〕可愛く思ふ兒の宿に、今夜は泊り明して往かうわ。
 
〔評〕 天平十五年は安積皇子薨去の前年で、皇子は十六歳であらせられた。家持は内舍人の役義上、皇子の御供に候うて、八束朝臣家の宴に臨んだらしい。さて攝待に出た婦人の中に、氣に入つた女房か童女などを發見したのだらう。
 だが泊り込まうにも口實がない。折柄降り懸かつたはら/\雨、旨い汐だ。降りさへ強ければ、この雨ではと主人側は引留める、渡りに舟でぬく/\と泊り込むとなる。で「雨はふりしけ」に全希望を繋けた。當時二十六歳の美男家持、この位の風流三昧は當然であつたらう。
 契沖以來「おもふ子」を主人八束としたのは甚だ不當。略解には又相聞の古歌を誦したるならむとあるが、題詞の「作歌」の字面を無視した説である。
 
十六年|甲申《きのえさる》春五日、諸卿大夫《まへつぎみたちが》集(ひて)2安倍《あべの》虫麻呂(の)朝臣(の)家(に)1宴(せる)歌一首
 
天平十六年正月五日に、上達部や四位五位の人達が、安倍(ノ)虫麻呂の家に集つて宴會した歌との意。○宴歌一首 の下、舊本「姓氏不審」の割註がある。主人蟲麻呂の作であることは明確だから削つた。
 
(1825)吾屋戸乃《わがやどの》 君松樹爾《きみまつのきに》 零雪乃《ふるゆきの》 行者不去《ゆきにはゆかじ》 待西將待《まちにしまたむ》     1041
 
〔釋〕 〇きみまつのき 君待つを松の木にいひかけた。○ふるゆきの 上句はゆき〔二字傍点〕の疊音によつて「ゆきには」に係けた序詞。
【歌意】 私の庭の、君方を待つといふ名の松の木に降る雪の、ゆきといふやうに、迎には〔三字右○〕ゆかれもしまい、まあ待ちにさ待ちませう。
 
〔評〕 主人蟲麻呂も當時正五位上で大夫仲間であつた。折節春初の事とて雪が降り、庭の松の木は眞白だ。定刻は過ぎても雪に障へられてか、客人共はまだ姿を見せない。蟲麻呂は居たり立つたり、餘り遲いが眞逆に迎にも往かれず、仕方がなしに運上して、とゞ待つ事に落著したもの。客來を待つ主人の焦燥を歌つた。
 二句のいひ掛け、三四句のゆき〔二字傍点〕の疊音、四五句のゆき〔二字傍点〕、及び二四五句のまつ〔二字傍点〕の反復、四五句の排對、誠にうるさい程音調上の技巧を弄してゐる。
  君がゆきけ長くなりぬ山たづね迎へかゆかむ待ちにか待たむ(卷二、磐媛――85・記中)
はこの粉本で、かうした特殊の表現の二番煎じは感心しない。
 
同十一日、登(り)2活道《いくぢの》岡(に)1集(ひて)2一株《ひときの》松(の)下《もとに》1飲《うたげする》歌二首
 
天平十六年正月十一日、活道岡に登つて、一本松の蔭に集つて酒宴した歌との意。○活道岡 「いくぢやま」を(1826)見よ(一〇三八頁)。〇一株松 一本松。「寒流石上一株松」(唐、盧同)。△地圖及寫眞 挿圖296(一〇二九頁)298(1038)を參照。
 
一松《ひとつまつ》 幾代可歴流《いくよかへぬる》 吹風乃《ふくかぜの》 聲之清者《こゑのすめるは》 年深香聞《としふかみかも》     1042
 
〔釋〕 ○としふかみ 既出(八六六頁)。
【歌意】 この一本松よ、幾年經つたものか。かう吹く風の音の清いのは、年の積んだせゐかまあ。
〔評〕 活道岡には安積皇子の御陵を占められたが、これはその薨去の前年だから、登臨はまだ自由の時であつた。布當川を溯つてその勝景の盡きた處、和束杣山を周圍に展望する好箇の高地である。久邇京から五位の市原王や内舍人の家持などの若者達が一日の閑を偸んでの出遊、亭々たる一本松の下にその行厨を開いた。
 野外の休息に人は樹蔭を求めて始めて安心する。青天井では具合がわるいらしい。日本武尊は尾津《ヲツ》の前《サキ》の一つの松に御食《ミケ》をお取りなされ(記中)、雄略天皇は長谷の百枝槻《モヽエツキ》の下で豐樂《トヨノアカリ》を聞し召し(記下)、家持も亦莊門の槻の下に宴し(卷廿)、嵯峨天皇は後庭の合歡樹の下に御宴をなされ(後紀)、在原業平は東下りに、木蔭に下りゐてその乾飯《カレイヒ》のほとびを歎いた(伊勢物語)。
 松聲の涼しさに「年深み」の推想は自然である。上に「幾代か經ぬる」の疑問を投げ懸け、下に「年深みかも」の暫定的解説を試みた。手段はあるが、句意が親貼に過ぎる。
 
(1827)右一首、市原(ノ)王
 
○市原(ノ)王 傳既出(九二〇頁)。
 
靈剋《たまきはる》 壽者不知《いのちはしらず》 松之枝《まつがえを》 結情者《むすぶこころは》 長等曾念《ながくとぞおもふ》     1043
 
〔釋〕 〇ながくと 命〔右○〕長くあれかし〔四字右○〕との略。
【歌意】 壽命は測られない。然し〔二字右○〕私がこの松の枝を結ぶ意味は、命〔右○〕長かれとさ、思ふのである。
 
〔評〕 古代人が松が枝や草を結んで呪術を行つた事は、既に卷一、有間(ノ)皇子の結松の歌(四一四頁)、及び卷一、中皇(ノ)命の紀伊温泉に往く時の草結の歌(六一頁)の證する處。
 作者家持はまだ二十代の若者、松が枝を結んで自ら祝するには早いが、何か他に特殊の事情のあつたものだらう。
 
右一首、大伴(ノ)宿禰家持。
 
傷2惜《をしみて》寧樂京荒墟《ならのみやこのあれたるを》1作歌三首 作者不v審(かなら)
 
○傷惜寧樂京荒墟 天平十二年十二月久邇京遷都が宣せられ、寧樂(奈良)京は舊き都となつた。「寧樂京」は(1828)「寧樂宮」を見よ(二七〇頁)。○以下の諸作に署名がない。隨つて作者未詳。△地圖 挿圖170(六一七頁)を參照。
 
紅爾《くれなゐに》 深染西《ふかくしみにし》 情可母《こころかも》 寧樂乃京師爾《ならのみやこに》 年之歴去倍吉《としのへぬべき》     1044
 
〔釋〕 ○くれなゐに 紅の如くに〔四字右○〕。「栲の穗に」を見よ(二七四頁)。「くれなゐ」は既出(一三〇一頁)。○こころかも 「か」は疑辭。
【歌意】 紅は物に深く染むが、その如くに深く染み込んだ私の心であるかして、この荒れた奈良の都に住んだまゝ〔五字右○〕、年の經ちさうなことよ。
 
〔評〕 住めば都で、人間の土地に對する愛着心は意想外に強烈なもの。况や今までは「咲く花の匂ふが如く」盛りであつた奈良京だ。創始以來茲に三十一年、容易な事でおいそれと動けるものではない、根が生えてゐる。五位以上の官吏は勅令に依つて、又百姓は宅地を賜うて、久邇新京の移住を奨勵されたが、「紅に深く染みにし心」では、矢張「年(1829)の經ぬべき」奈良京であつた。
  いざこゝに我が世は經なむ菅原や伏見の里の荒れまくも惜し(古今集、卷十九、雜體)
といふ程に意氣組んだ頑張もないが、さりとて進んで目に見えて荒れゆくこの舊京を住み棄てられもしない。猶豫逡巡の氣持がよく映つて出てゐる。作者は官吏ならば六位以下の人か、さなくば散官の人であらう。
 
世間乎《よのなかを》 常無物跡《つねなきものと》 今曾知《いまぞしる》 平城京師之《ならのみやこの》 移徙見者《うつろふみれば》     1045
 
〔釋〕 ○うつろふみれば この「うつろふ」は移轉の意。されば意を得て「移徙」の字を充てた。
【歌意】 人間世を無常なものと、今さ知つたわい、この奈良京が引越すのを見ると。
 
〔評〕 奈良京がなまじ皇都として殷賑繁華を極めてゐたゞけに、反比例に都遷しに伴ふその荒廢に、佛の説く有爲無常を痛感せざるを得ない。萬代不易の信念が忽ち裏切られた悲哀、「今ぞ知る」がこの歌の生命である。
 
石綱乃《いはつぬの》 又變若〔左△〕反《またをちかへり》 青丹吉《あをによし》 奈良乃都乎《ならのみやこを》 又將見鴨《またみなむかも》     1046
 
〔釋〕 ○いはつぬの 石蔦《イハツタ》の縱横に這ひ纏ふ状を以て「をちかへり」に係る枕詞に用ゐた。「いはつぬ」は石に付く蔦《ツタ》のこと。集中「絡石」をツヌと讀んである。ツヌはツタの古言。尚「つぬさはふ」を見よ(三九九頁)。○をちかへり 引返し、立戻りなどの意。「變若」の字面は使つてあるが、こゝは原義のまゝに解する。轉義の若返〔二字傍点〕(1830)り〔傍点〕の意に、契沖及び古義の解したのは非。尚「をちめやも」を見よ(七九八頁)。「若」原本に著〔右△〕とあるは誤。類本その他による。
【歌意】 又立戻つて、もとのやうな奈良の京を、何時〔二字右○〕又見よう事かいな。
 
〔評〕 奈良京の復活を希望した。東京遷都の際でも、京都人の多くはおなじ希望を抱いてゐた。人情然あるべきである。そして奈良人の希望は遂に實現した。久邇(ノ)京(天平十二年)から難波(ノ)京(同十六年)紫香樂《シガラキノ》宮(同十七年)と異動の結果、遂に又もとの奈良京(同年)に復歸され、一時的現象で浮動してゐた帝都も全く固定する事になり、東大寺の盧舍那佛(同十八年)も建立されるやうになつた。古義やその他に、
  吾が盛り又をちめやもほと/\に奈良の京を見ずかなりなむ(卷三、旅人――331)
の類想と解してゐるのは全くの見當違ひで、それは作者老境の感想、これは奈良京の變轉に就いての感想で、前掲の二首と同趣の作である。
 「また」の重複、餘り快いものではない。
 
悲(みて)2寧樂(の)故京〔左△〕《ふるさとを》1作歌一首竝短歌
 
○寧樂故京郷 「郷」の字は衍。「ふるさと」は既出(一二四九頁)。
 
八隅知之《やすみしし》 吾大王乃《わがおほきみの》 高敷爲《たかしかす》 日本國者《やまとのくには》 皇祖乃《すめろぎの》 神之御代自《かみのみよより》 敷(1831)座留《しきませる》 國爾之有者《くににしあれば》 阿禮將座《あれまさむ》 御子之嗣繼《みこのつぎつぎ》 天下《あめのした》 所知座跡《しらしめますと》 八百萬《やほよろづ》 千年矣兼而《ちとせをかねて》 定家牟《さだめけむ》 乎城京師者《ならのみやこは》 炎乃《かぎろひの》 春爾之成者《はるにしなれば》 春日山《かすがやま》 御笠之野邊爾《みかさのぬべに》 櫻花《さくらばな》 木晩※[穴/牛]《このくれがくり》 貌鳥者《かほどりは》 間無數鳴《まなくしばなき》 露霜乃《つゆじもの》 秋去來者《あきさりくれば》 射駒〔左△〕山《いこまやま》 飛火賀嵬〔左△〕丹《とぶひがたけに》 芽乃枝乎《はぎのえを》 石辛見散之《しがらみちらし》 狹男牡鹿者《さをしかは》 妻呼令動《つまよびとよめ》 山見者《やまみれば》 山裳見貌石《やまもみがほし》 里見者《さとみれば》 里裳住吉《さともすみよし》 物負之《もののふの》 八十件緒乃《やそとものをの》 打經而《うちはへて》 里〔左△〕並敷者《さとなみしけば》 天地乃《あめつちの》 依會限《よりあひのかぎり》 萬世丹《よろづよに》 榮將往迹《さかえゆかむと》 思煎石《おもひにし》 大宮尚矣《おほみやすらを》 恃有之《たのめりし》 名良乃京矣《ならのみやこを》 新世乃《あらたよの》 事爾之有者《ことにしあれば》 皇之《おほきみの》 引乃眞爾眞荷《ひきのまにまに》 春花乃《はるばなの》 遷日易《うつろひかはり》 村鳥乃《むらとりの》 且立往者《あさたちゆけば》 刺竹之《さすだけの》 大宮(1832)人能《おほみやひとの》 踏平之《ふみならし》 通之道者《かよひしみちは》 馬裳不行《うまもゆかず》 人裳徃莫者《ひともゆかねば》 荒爾異類香聞《あれにけるかも》     1047
 
〔釋〕 ○たかしかす 高敷く〔三字傍点〕の敬相。「太《フト》敷かす」を見よ(一七六頁)○やまとのくに 大和國。「日本國」は借字。○すめろぎ 既出(一二五頁)。○あれまさむ 「あれましし」を見よ(一二三頁)。○しらしめます この「しめ」は敬相である。○かぎろひの 陽炎の立つ春の意を以て、「春」に係る枕詞とした。「かぎろひ」を見よ(一八五頁)。○かすがやま 「かすがのやま」を見よ(八五八頁)。○みかさのぬべ 春日野のこと。「かすがぬ」(八五八頁)。及び「みかさのやま」(六二一頁)を見よ。○このくれがくり 「このくれ」は既出(六七三頁)。「がくり」、は眞淵の訓。或はコモリ〔三字傍線〕と訓むか。「※[穴/牛]」は籠也と字書にある。○かほどり 既出(一五九頁)。豐田氏説に、阿波の或山間地方にては川烏の事をカホドリといへり、大和の山間には今も棲息するより考ふれば、春日山の溪流にこの鳥多く昔は棲みしならむと。川烏は鶫科の小鳥。鶫より小さく、全身黒褐色なるよりこの名がある。○しばなき 舊訓シバナク〔四字傍線〕は非。こゝは切れる格でない。○つゆじも(1833)の 秋に係る枕詞。既出(三八八頁)。○いこまやま 生駒山。大和生駒郡。標高六四〇米突。大和河内の國境に盤踞する山塊で、南に延いて信貴山となり、更になだれて立田山に終る。河内に面して高見高安の小山塊がある。「駒」原本に鉤〔右△〕とある。元本その他によつて改めた。眞淵の八釣山、宣長の羽買《ハガヒ》山の誤とする説は非。○とぶひがたけ 烽《トブヒ》を置かれた山。伊駒山の烽《トブヒ》が嵬は高見山のこと。高見山は伊駒山嵬の一で、河内方に屬し、暗峠の北に當る。續紀に、和銅五年正月廢(シテ)2河内(ノ)國(ノ)高安(ノ)烽(ヲ)1、始(メテ)置(キ)2高見(ノ)烽及(ビ)大和國(ノ)春日(ノ)烽(ヲ)1、以(テ)通(ズ)2平城(ニ)1とある。「とぶひ」は飛火の義。和名抄に、説文(ニ)云(フ)、※[火+逢]燧(ハ)、邊(ニ)有(レバ)v警(メ)則(チ)擧(グ)v之(ヲ)、度布比《トブヒ》と見え、令義解に襲敵の警報として、約四十里(六町一里)毎に高い山岡の上に置き、順次相應じて晝は烟夜は炬火を擧げる。炬は乾いた葦を心に乾草を卷いて縛り、それに松の心を挿す。「嵬」原本に塊〔右△〕とある。一本によつた。訓タケは古義による。讀古義は塊を執してヲカ〔二字傍線〕と訓んだ。○しがらみちらし しがらんで散らしの意。古義は、或はしがらみ或は散らしの意とした。「しがらみ」は繁絡《シガラミ》の義。「石」をシと訓むはイシの上略。○とよめ 響動《トヨ》ませの意。○みがほし 既出(七八六頁)。○うちはへて 一帶に。打延への義。○さとなみしけば 里が布き並ぶので、この里は官吏の私邸をいふ。「里」原本に思〔右△〕とあるは誤。童本説による。○よりあひのかぎり 「あめつちのよりあひのきはみ」を見よ(四六七頁)。「限」、眞淵及び古義訓はキハミ〔三字傍線〕。○ならのみやこを 奈良の京なる〔二字右○〕を。○あらたよのことにしあれば 新規の世の事なれば。「あらたよと」を見よ(一九四頁)。○ひきのまにまに (1)引くがまゝに(契沖説)。(2)率ゐるまゝに(古義説)。こゝは大宮すらを引く〔七字傍点〕と續く意ゆゑ(1)を可とする。大宮を引くことは天平十五年十二月に、奈良宮の大極殿を恭仁京に移したのをいふ。その文は評語中に引用した。○はるばなの 「移ろひ」に係る枕詞。「さくはなの」を見よ(一四三四)。○むらとりの 群《ムラ》鳥の。「朝立ち」に係る枕詞。「あさと(1834)りの」を見よ(五一七頁)。○あさたちゆけば 「旦《アサ》」は村鳥に付き、「たちゆけば」が主意。○ふみならし 踏んで平にし。今も凸凹を平にするをナラスといふ。
【歌意】 わが天子樣が御領知遊ばされる大和國は、御先祖の神の御時代から、お占になつてゐる國でさあるから、御先代の陛下が〔七字右○〕、お生まれになつた御子孫の繼ぎ繼ぎ、天下をお統治なさらうと、萬々年の末かけて、定められたであらうこの奈良の京は、流石よい處で〔六字右○〕、春にさなれば、春日山の御笠の野邊に、櫻の花が木蔭籠りに咲き〔二字右○〕、貌鳥は絶え間なしに屡ば鳴き、秋になつて來ると、伊駒山の飛火の嵬《タケ》に、萩の枝をその身に〔四字右○〕絡んで花を散らして、牡鹿はおのれの妻を呼んで鳴き響かせ、山を見れば山も見てありたい、里を見れば里も住みよい。その里には〔五字右○〕、多くの官吏達の私第が一杯に立ち並ぶので、とても遠く久しく、萬代に榮え往かうと、思うた事であつた皇居それすらを、頼りにした奈良の京であるのを、物事新な世の事でさあるから、陛下の御心の向ふまゝに、里は皆移り變り人は皆久邇新京へと〔十六字右○〕出掛けて行くので、これまで大宮人が踏みならして通つた道は、馬も通らず人も歩かないので、荒れてしまつたことよ(1835)まあ。
 
〔評〕 遷都は人心を更新する政治上の一手段であるが、重代の帝京を廢棄することは、頗る重大事件であつた。第一住めば都の心理が保守氣分と結び付いて、一般人民にその移動が喜ばれない。まして國越えの遷都となると愈よ問題が大きくなる。されば先聖人麻呂はその過2近江荒都1時の歌(卷一)において、皇祖皇宗の倭京を奠められた因縁來歴を強調し、近江遷都に對して、「いかさまに思ほし召せか」との疑問の石を投じたのであつた。この歌の冒頭はその思想文字を躇襲して、「敷きませる國にしあれば」までは、大和國が帝都の地たるべき因縁を揚言し、さて「あれまさむ御子の繼ぎ繼ぎ」より「千年をかねて定めけむ平城の京は」までは、元明天皇の奈良奠都の畏い聖意を數陳して、結局奈良京の有力なる讃辭に用ゐた。これが第一段である。
 第二段は自然と人事とに亘つて、奈良京の優秀なることを力説した。第一節にまづその景勝を列擧し、春は春日の裾野に櫻の花が咲き、貌鳥が鳴き、秋は伊駒の飛火の嵬の咲いた萩の花を鹿が絡んで妻戀するなどの娯があると、京の限界たる東の春日山に西の伊駒山を配し、春日(1836)の野邊に飛火の嵬、櫻の花に萩の枝、貌鳥の聲に鹿の音を對せしめて、帝都としての形勢の壯偉をさいひ、風物の豐富さを稱へた。「山見れば山も見がほし」はその結收で、かねてその對句「里見れば里も住みよし」を喚び起し、それが第二節への過渡の役目をつとめてゐる。
 第二節は京地の繁華状態に及んだ。「八十伴男のうちはへて里並み布けば」がそれである。大内裏を中心として、上京邊には官吏の邸宅が櫛比するであらうことは自然の勢で、尚いへばのちの平安京と同じやうに、右京より左京が榮えたことも考へられる。叙事は早くも進行して、最後の目的たる皇居の上に及んで、「大宮すらを」と喝破し、更に漸層的に「奈良の京を」と、第二段全部を結束し、かねて疊み重ねた抑揚の辭法を以て、第三段に轉換すべき素地を作り、「大君の引きのまにまに」に跨續した。始に「奈良の京は」、終りに「奈良の京を」と相承けたのは、古文の格で重複ではない。
 かくて自然人事兩つながら間然する處もない奈良京は、その廢棄さるべき理由を、殆ど發見し難い所以が暗證されてゐる。
 第三段に至つては、專ら奈良京廢頽の現在状態を描寫して前二段に應接し、そこに影の濃い反映があらはれて、感慨をいとも深からしめた。
 聖武天皇は實に奈良朝七代九十年間に於ける、唯一の英主であらせられた。正倉院に傳ふる天皇の御杖御沓から想像し奉ると、背丈の高い大柄の御方であらせられたらしく、その豪邁濶達の御氣象に任せ、隨分果敢な行動を時にはお取りになつたやうに拜察する。既に上の歌にもある如く、天平十二年十月の伊勢行幸は約二箇月に及び、十二月に入つてその中旬に、右大臣橘諸兄をして山城の恭仁京を經略せしめ、すぐ十三年の正月に(1837)朝賀を恭仁京に受け給ひ、續いて遷都を宣し給うた。固より天意は凡下の者の窺ひ知るべき處でない。「新世の事にしあれば、大君の引きのまにまに」、周章しく官公吏は舊京を棄てゝ新京に移住すべく命ぜられ、のみならず、
  初(メ)壞(テ)2平城(ノ)大極殿并(ニ)歩廊(ヲ)1、遷(シ)2造(ル)於恭仁京(ニ)1、(續紀、天平十五年十二月辛卯)
に至つては、奈良舊京に取つて傷ましい限ではないか。實に「大宮すらを」破つて、新京に引かれたのであつた。
  自今以後五位以上不(レ)v得3任(セテ)v意(ニ)住(ムコトヲ)於平城(ニ)1、如(シ)有(リテ)2事故1應(クハ)2須(ラク)退(リ)歸(ルハ)1、被2賜(リ)官符(ヲ)1然(ル)後聽(ルセ)之、其見(ニ)在(ル)2平城(ニ)1者(ハ)、限(リ)2今日(ノ)内(ヲ)1悉(ク)皆催(シ)發《タヽセヨ》、自餘散2在(リボヘル)他所(ニ)1者(モ)亦宜(シ)2急(ニ)追《メス》1。(續紀、十三年閏三月乙丑)
  遷(ス)2平城(ノ)二市(ヲ)於恭仁(ノ)京(ニ)1。(同八月丙午)
など見えて、舊京に戀々として移住に躊躇してゐる官吏達を、いとも嚴重に催促し、東京二市をも遷して、市人の移住を餘儀なくせしめた。奈良京の荒廢實に想ふべしである。作者はこれ等の取毀し工作や官吏市人の移住やを目のあたり見たので、その生ま/\しい刺戟は、茲に無量の感愴を發し、遂にこの一大詩篇は成つたものと思はれる。
 當時乘物は輿の外は馬であつた。人の挽く力車はあるが、馬車も牛車もない時代の事とて、貴族でも凡卑の官吏でも、馬で往來した。時に依つては女も馬に騎り、天武天皇の御代に、女も男のやうに縱に乘れとの法令も出た程である。今は大宮人の常に通うた一番繁華な大通りも、その馬の影を絶ち、人の足を絶つた。その寂(1838)寞荒涼の状は憑弔の人をして止め度もない感傷に陷らしめる。一結「荒れにけるかも」は、正に下だるべくして下だつた詠歎である。
 
反歌二首
 
立易《たちかはり》 古京跡《ふるきみやこと》 成者《なりぬれば》 道之志婆草《みちのしばぐさ》 長生爾異梨《ながくおひにけり》     1048
 
〔釋〕 ○たちかはり 奈良京その者が變易しての意。都が移轉するのでも人が替るのでもない。「たち」は接頭語。建替りの意とするは非。○しばぐさ 「いちしば」を見よ(一一〇八頁)。○けり 「異」をケと讀むはその訓。
【歌意】 奈良京は〔四字右○〕移り變つて、舊い京となつたので、往來の莱草が、長く伸びたことであつたわい。
 
〔評〕 人の踏まぬ道は草が生える。愈よ踏まねばそれが長く伸びる。莱草は道の荒廢の物指しだ。大宮人が白銀の目貫の太刀を下げ佩いて練つたことであつた宮道も、「莱草長く生ひにけり」となつては、即ち奈良京全部の荒廢は、愈よ以て推して知るべしであらう。無量の感慨を技巧なしに率直に歌ひ得て、一誦傷心に禁へざらしめ、再誦落涙に禁へざらしめる。「長く」の一語は殊に印象的である。
 又いふ、奈良京は〔四字右○〕の主語を略いてあることに留意を要する。
 
(1839)名付西《なつきにし》 奈良乃都之《ならのみやこの》 荒行者《あれゆけば》 出立毎爾《いでたつごとに》 嘆思益《なげきしまさる》     1049
 
〔釋〕 ○なつきにし 懷いたことであつた。○いでたつ 道に〔二字右○〕出で立つ。
【歌意】 永く馴染んだことであつた奈良京が、荒れてゆくので、道に出掛ける度毎に、歎がさ増ることよ。
 
〔評〕 舊都に四年間も殘留する者の心地には、時代に取殘されたかのやうで、寂しい心細い感じが、ひし/\と胸に迫つて來るのは尤もである。「出で立つ毎に嘆しまさる」は、その度毎に矚目の光景が變つて彌よ荒れまさるからである。  
 
讃《たゝふる》2久邇新京《くにのあたらしきみやこを》1歌二首并短歌
 
○久邇新京 山城國相樂郡にあつた甕《ミカ》(御香、三香、御鹿、三日)の原久邇の新京。久邇の京地は、鹿背山を中心として甕原、加茂、泉(岡田)三郷に亙つた。甕原は泉河(木津川)の南北に亙る地稱であるが、内裏は河の北岸|布當《フタギ》川の西方たる海住山(三條山)下の平地布當(ノ)原の久邇に置かれた。故に甕原(ノ)京ともいひ、その宮を久邇(ノ)宮また布當(ノ)宮ともいふ、宮址は今の瓶原村登大路の國分寺址附近に當る。續紀天平十八年八月の條に、大極殿(ハ)施2入(ス)國分寺(ニ)1と見え、廢都の後この地に山城の國分寺を建てるに當つて〔廢都〜傍点〕、大極殿を在形のまゝ國分寺に寄附し、そ(1840)の金堂か講堂かに宛てられたらしい。抑も久邇京はその地域が頗る畸形で、泉河の北岸を宮地として、その正門前の朱雀大路は河岸に近く通じ、河の南岸は鹿背山の西麓に中央の大道を南北に通じ、その東を左京西を右京とした。宮地を河南とする説は山城名勝志に始まるが、本來久邇宮と甕原宮(また甕原離宮)とは別處である。尚「くにのみやこ」を見よ(一〇三一頁)。委しくは雜考參照。△地圖及寫眞 挿圖296(一〇二九頁)297(一〇三二頁)318(一一五九頁)參照。
 
明津神《あきつかみ》 吾皇之《わがおほきみの》 天下《あめのした》 八島之中爾《やしまのなかに》 國者霜《くにはしも》 多雖有《おほくあれども》 里者霜《さとはしも》 澤爾雖有《さはにあれども》 山並之《やまなみの》 宜國跡《よろしきくにと》 川次之《かはなみの》 立合郷跡《たちあふさとと》 山代乃《やましろの》 鹿脊山際爾《かせやまのまに》 宮柱《みやばしら》 太敷奉《ふとしきまつり》 高知爲《たかしらす》 布當乃宮者《ふたぎのみやは》 河近見《かはちかみ》 湍音叙清《せのとぞきよき》 山近見《やまちかみ》 鳥賀鳴慟《とりがねなきぬ》 秋去者《あきされば》 山裳動響爾《やまもとどろに》 左男鹿者《さをしかは》 妻呼令響《つまよびとよめ》 春去者《はるされば》 岡邊裳繋爾《をかべもしじに》 巖者《いはほには》 花開乎呼理《はなさきををり》 痛※[立心偏+可]怜《あなあはれ》 布當乃原《ふたぎのはら》 (1841)甚貴《いとたふと》 大宮處《おほみやどころ》 諾己曾《うべしこそ》 吾大王者《わがおほきみは》 君之〔二字左△〕隨《きみがまにま》 所聞賜而《きかしたまひて》 刺竹乃《さすたけの》 大宮此跡《おほみやここと》 定異等霜《サダメケラシモ》     1050
 
〔釋〕 ○あきつかみ 現つ神。萬づの神は幽界《カクリヨ》にます、只天皇のみは顯界《ウツシヨ》にます神なる故に、現つ神と稱する。「明神」と書くも同意。孝徳天皇紀に、詔(リテ)2於高麗(ノ)使(ニ)1曰(ク)、明神御宇《アキツカミトアメノシタシロシメス》日本(ノ)天皇(ノ)詔旨、また、現爲明神御八洲國《アキツカミトオホヤシマグニシロシメス》天皇、天武天皇紀に、詔曰(ク)、明神(ト)御八洲日本根子《オホヤシマグニシロシメスヤマトネコノ)天皇と見え、公式令には明神御宇日本天皇(ノ)詔書、明神御宇天皇(ノ)詔旨、明神御大八洲天皇(ノ)詔旨の三階級の詔書々式を擧げてある。○わがおほきみの わが大君の知ろし召す〔五二字右○〕の略。○やまなみのよろしきくに 山々のつらなりの宜しい場處。「國」は狹義の國で、山城國をいふのではない。古義の説非。○かはなみのたちあふさと 川々即ち泉河と布當《フタギ》川との二つか流れ合ふ郷。「たち」は接頭語。「次」は「並」と同意に用ゐた。「くにと」「さとと」の二つのと〔傍点〕はトテの意。「かはなみの」を見よ(一六三七頁)。○かせやま 泉河の南岸にある一座の岡陵の稱。南北二十町東西十五町に亘り、最高二〇三米突。○やまのまに――ふとしきまつり 鹿背山の山のあひ〔二字傍点〕に大宮柱を立派にお建て申し。「山の際《マ》」を狹義に、山の間、又は山|際《キハ》の意に解するは當らぬ。「ふとしき」は「みやばしらふとしきませば」を見よ(一四六頁)。「まつり」は舊訓タテテ〔三字傍線〕とある。○ふたぎのみや 海住山の南方、布當川の西方、泉川の北岸にある平野を特に布當の原といふ。久邇の宮はそこにあるので布當の宮ともいふ。「當」は香と同韻で、香をカグと讀む如く當はタグと讀まれるので、(1842)轉用してタギに充てた。○とりがねなきぬ 「ねなく」は聲を立てゝ鳴くをいふ。「慟」は哀哭の意故ナキヌと訓んでみた。略解及古義は、これを動〔右△〕の誤としてトヨムと訓んだが、次に「山も動響《トヾロ》に――妻よび令響《トヨメ》」とあるに差合つてうるさい。舊訓イタム〔三字傍線〕。○をかべもしじに 岡邊も繁くある程に。「しじに」は既出(七八六頁)。○ををり 「ををれる」を見よ(五一四頁)。○あなあはれ 「痛をアナと訓むは「痛醜《アナミニク》」(卷三)「痛足《アナシ》川」(卷十二)の例である。「※[立心偏+可]怜」をアハレと訓むは「この旅人※[立心偏+可]怜」(卷三)の例による。又タヌシ〔三字傍線〕、オモシロ〔四字傍線〕の訓もある。舊訓イトアハレ〔五字傍線〕。○ふたぎのはら 上の「ふたぎのみや」を見よ。○いとたふと 舊訓イトタカキ〔五字傍線〕。○うべしこそ 下の「定めけらし」に應ずる。○きみがまにま 君とあるがまゝに。古義はいふ、神|隨《ナガラ》といはむが如しと。この語初見で他にまた例がない。本來五音の句たるべき處でもあるから、或は誤があらう。神隨〔二字左△〕《カムナガラ》の誤とすれば簡明でもある。○おほみやここと 大宮を此處と。
【歌意】 現人神であらせられるわが天子樣が、御統治なさる天の下大八洲の中に、土地は多くあるけれども、郷(1843)は澤山あるけれども、山々の並び具合の面白い土地とて、川々の寄り合ふ郷とて〔右○〕、山城の鹿背山の山のあひに、天子樣〔三字右○〕が大宮の柱を結構にお建てなされ、立派にお占めなさる布當の宮は、河が近さに瀬の音がさやかである、山が近さに鳥が音を立てゝ鳴くわ。そして〔三字右○〕秋になると、山もとゞろくほどに鹿はその妻を呼んで鳴き響かせ、春になると、岡邊もむく/\と巖には花が咲き靡き、まあ面白いこの布當の原よ、甚く貴いこの大宮處よ。道理でこそ、天子樣は君とますがまゝに、早く〔二字右○〕着眼なされて、大宮處を此處とお定めなされたことらしいわい。
 
〔評〕 帝王の宸居、天下の首都として鼎を奠める所以を力説するに、まづその雄偉なる山河の形勢を形容し、佳氣の鬱蒼たる景象を布陳するは慣手段で、わが大八洲のうち國を擇び郷を點ずるに、優秀中の最優秀地はこの布當(久邇)であると聲明した。「山並の宜しき國」は「國はしも」に應じ、「川次の立ち合ふ郷」は「郷はしも」を承け、相錯綜して姿致を成した。
 抑も甕の原の京域は三面に山を帶びて西の一面が開け、まさに(1844)「山並の宜しき國」である。又布當の宮地たる布當の原は、泉河がその南を局り、布當川がその東方を廻つて泉河に合流する。まさに「川次の立ち合ふ郷」である。鹿背山は又恭仁京の中央に介在して東西京の分界をなし、その北偏の隘路は布當の宮への參道である。これ「鹿背山の際《マ》に宮柱太しきまつり」といふ所以である。「布當の宮は」以下はその自然の風物を絶讃して、布當遷都に理由づける素地を作した。
 「河近み湍の音ぞ清き」は「川次の立合ふ」から、「山近み鳥が音鳴きぬ」は「山並の宜しき」から胚胎して、布當の水はその二瀧の義の如く、時に岩石磊※[石+可]として激流奔湍を成し、泉の河は清流淺沙を噛んで白を噴き、深淵碧を湛へてゐる。又皇宮の背後や東西の山々は、まこと四時山禽の好音をあやつるよき演奏場である。
 更に觀察は季節の景觀に及び、秋は山の鹿の聲、春は岡邊を覆ふ巖根の躑躅などを推賞した。故に春秋の行叙を顛倒したのは、別に意あつての事とは思はれない。然し一考すると、矢張春を先にし秋を後にして、「妻呼びとよめ」の中止態を、妻呼びとよむ〔三字右△〕と訓んで斷定句とし(1845)た方が、上の「鳥が音鳴きぬ」の斷定句に相對してよいと考へられる。さてこの前後二節の斷定句を承けて、「あなあはれ布當の原」と結束すると、遒勁なる節奏に波瀾が伴うて面白くなる。
 結末、いとあはれに貴き布當の原なるかな、大宮處なるかな、と反復讃歎して、久邇新京を奠められた天意のある處を忖度し奉り、絶對の賛意を表して、遙に冒頭の長句に顧應した。
 大體齊整として、布敍その當を得、新味には乏しいが完作に近い。
 全篇布當(久邇)皇居の讃語で、一言も京の事には言及してゐないのに、題詞には「讃久邇新京」とある。辯護すれば皇居を以て京を代表したといはれもしようが、尚「新京」は新宮〔二字右△〕の誤か。次々の長短歌とも皆皇居の事のみを歌つてある。
 又いふ、こゝに提唱した山も河も岡も、悉く布當の原に存在したものであることは否まれない。即ち布當(久邇)皇居を中心とした景勝の描寫である。隨つて皇居が泉河河南の地でない有力の證據にもなる。
               △恭仁宮、甕原宮、及恭仁京考(雜考――24參照)
 
反歌二首
 
三日原《みかのはら》 布當乃野邊《ふたぎのぬべを》 清見社《きよみこそ》 大宮處《おほみやどころ》 定異等霜《さだめけらしも》     1051
 
〔釋〕 ○ふたぎのぬべ 「ふたぎのはら」に同じい。○さだめけらしも 元本その他に「一云、此跡標刺」とあるは、(1846)コヽトシメサセと訓む。○こことしめさせ 大宮處は〔四字右○〕こゝと標をお打ちなさる。「しめゆへ」を見よ(三五九頁)。
【歌意】 甕原の布當の野邊がまあ、奇麗なのでさ、大宮處は此處と、お定めになつたらしいわい。
 
〔評〕 長歌の末節をそのまゝ反復した。餘り變北がないから、一本の「こことしめさせ」を採りたい。意は上の家持の讃2久邇京1の歌意と同軌である。又いふ、泉河河南は鹿背山の東麓は皇居を置くに適しない卑濕の地、西麓はもと離宮もあつた地だが、河北に比するとあまり「清み」ではない。
 
山〔左△〕高來《やまたかく》 川乃湍清石《かはのせきよし》 百世左右《ももよまで》 神之味將往《かむしみゆかむ》 大宮所《おほみやどころ》     1052
 
〔釋〕 ○やまたかく 「山」原本に弓〔右△〕とあるは誤。加藤枝直はいふ、山の草書が弓と誤つたのだらうと。古來弓にヤマの訓が振つてある。「來」を未〔右△〕の誤としてヤマタカミ〔五字傍線〕と訓む説は鑿。○きよし 「清石」の石は添字。〇かむしみ 神さび〔三字傍点〕に同じい。物舊ること。しみ〔二字傍点〕、さび〔二字傍点〕は音通。
【歌意】 山は高く河の瀬は清い。二んな結構な地とて〔九字右○〕、萬代の末まで物舊りて行かう、この大宮處ではあるわ〔五字右○〕。
 
〔評〕 山河の形勝を讃へて百代不易を祝するは、この種の作の常套。次にも「百代にも變るべからぬ大宮處」とある。然るにそれが四年後には忽ち廢都となつたことを思へば、一種の皮肉を感ずる。
 
吾皇《わがおほきみ》 神乃命乃《かみのみことの》 高所知《たかしらす》 布當乃宮者《ふたぎのみやは》 百樹成《ももきもり》 山者木高之《やまはこだかし》 落(1847)多藝都《おちたぎつ》 湍音毛清之《せのともきよし》 ※[(貝+貝)/鳥]乃《うぐひすの》 來鳴春部者《きなくはるべは》 巖者《いはほには》 山下耀《やましたひかり》 錦成《にしきなす》 花咲乎呼里《はなさきををり》 左牡鹿乃《さをしかの》 妻呼秋者《つまよぶあきは》 天霧合《あまぎらふ》 之具禮乎疾《しぐれをいたみ》 狹丹頼《さにつらふ》 黄葉散乍《もみぢちりつつ》 八千年爾《やちとせに》 安禮衝之乍《あれつかしつつ》 天下《あめのした》 所知食跡《しろしめさむと》 百代爾母《ももよにも》 不可易《かはるべからぬ》 大宮處《おほみやどころ》     1053
 
〔釋〕 ○ももきもり 澤山の樹が茂り。「成」は盛と通用。宣長はモヽキモリ、モヽキモルの兩訓を擧げて、尚モリを執し、古義はモル〔二字傍線〕を執した。何れにしても次の「落ちたぎつ」に對する句だから、これを山の枕詞とする説は當らぬ。舊訓ナス〔二字傍線〕は非。○いはほには 「山した光り云々」を隔てゝ、「花咲きををり」に續く。○したひかり 耀き光るの意で、卷二の「したぶる」(五八八頁)。卷三の「やましたの」(六九三頁)を參照。「下」は借字。○にしき 錦。丹頻《ニシキ》或は丹數の義と。赤を本色とする高貴の織物で、初め支那朝鮮より輸入し、その織法を傳へてはわが邦でも製する。よつて唐《カラ》錦、高麗《コマ》錦、倭錦の目がある。○あまぎらふ 空のぼつと曇るをいふ。「きらふ」はきる〔二字傍点〕の延言。なほ「きれる」を見よ(一二六頁)。○しぐれ 既出(九四六頁)。○しぐれをいたみ 「いたみ」は太《イタ》きこと、甚しきこと。○さにつらふ 既出(九三三頁)。○ちりつつ の下、さばかりよき處なれば〔十字右○〕(1848)の語を補つて聞く。○あれつかしつつ 在り付きつつの意。「つかし」は付く〔二字傍点〕の敬相。「あれつくや」を見よ(二一三頁)。古義はいふ令2顯齋1乍《アレツカシツツ》の意と。○しろしめさむと の下、思へば〔三字右○〕の語を補つて聞く。或は「知らにと妹が待ちつつあらむ」(卷二)の虚辭のと〔傍点〕の如くも見えるが、文の構成が違ふ。
【歌意】 わが天子樣たる神の命が、お占めなさる布當の宮は、澤山な樹が繋り山は木高い、たぎり落ちる川瀬の音は清い。鶯が來て鳴く春の頃は、巖には山が光り輝いて、錦のやうな花が咲いて靡き、牡鹿が妻を呼ぶ秋は、空がぼつとする時雨がまあひどさに、色付いた黄葉が散り/\して、その景色の面白さに〔九字右○〕、萬年にまあ在り付かれて、天子樣は此處で〔七字右○〕、天下を御統治なさらうと思はれるので〔六字右○〕、何時までも變る筈のない、この大宮處であることよ。
 
〔評〕 前篇に布當宮點定の因縁を縷述したから、後篇はそれを略して、直ちに本題に入つた。
 山水の鑑賞景物の品題、以て奠都の理由を證することは、例に依つて例の如くである。この前後とも同人の作とすれば、愈よ今少し題材の新規を求め、趣向の轉換が望ましかつた。何時も山、河、鶯、鹿、花、萩、黄葉では、餘に手が無さ過ぎる。これはこの歌にのみいふ事ではない。同じこの新都の讃歌、
  山|背《シロ》の久邇のみやこは、春されば花咲きををり、秋さればもみぢ葉匂ひ、おばせる泉の河の、かみつ瀬にうち橋渡し、淀瀬には浮橋渡し、あり通ひ仕へまつらむ、萬代までに。
  楯《タヽ》なめて泉の河のみを絶えず仕へまつらむ大宮處 (卷十七、境部宿禰老麻呂――3908)
の如きは、就中稍異色をもつが、それさへ強ひて難ずれば、やはり成語の集積でしかない。
(1849) 腹尾兩段の間「黄葉散りつつ」の下、恐らく脱句があらう。「百代にも變るべからぬ」は新京祝讃の意で、萬年も變らぬの語意を反説的に強調した。語は文選の
  臣願(フ)王熟計(シテ)而身行(ハンコトヲ)v之(ヲ)、此(レ)百代不易之道也。(枚乘諫呉王書)
の百代不易から出てゐる。古義に
  かくて又程なく新京を遷し姶はむの御あらましあり、新京の造營未だ成らざるに遷都ありてば、いかに百姓の勞苦いみじからむと、いとほしく思ふより、返す/\も「百代にも易るべからぬ大宮處」と歌ひあげて、民情に方人したるに、云々。
とあるは、年代錯誤の横入り説で、これは新京再遷都の議の出ぬ以前の作である。
 
反歌五首
 
泉川《いづみがは》 往瀬乃水之《ゆくせのみづの》 絶者許曾《たえばこそ》 大宮地《おほみやどころ》 遷往目《うつろひゆかめ》     1054
 
〔釋〕 ○いづみがは 「いづみのかは」を見よ(一九四頁)。○たえばこそ この「こそ」は係辭として本格の重い辭法。隨つて反對の餘意を生ずる。○うつろひゆかめ 衰へ行かう。移轉の意とするは當らぬ。舊訓ウツリモユカメ〔七字傍線〕。
【歌意】 泉河の流れゆく瀬の水が、絶えようならばさ、この布當の大宮處は、衰へ變ることもあらう。――だが泉河の水は絶える時がないから、布當の大宮處は移ろふことはない。
 
(1850)〔評〕 漢の高祖が功臣を封じた誓語に、
  使(ムルモ)2河(ヲ)如(ク)v帶(ノ)、泰山(ヲ)如(クナラ)1v※[礪の旁](ノ)、國以(テ)永寧(ニシテ)、爰(ニ)及(ボサン)2苗裔(ニ)1。(史記、高祖功臣年表)
とある。この河如帶云々の意を源泉としてこの歌は成つた。「こそ」の辭法に依る逆説的表現は、直説するよりもその效果は倍加し、而も含蓄の妙旨が生ずる。
  泊瀬川ながる水沫《ミナワ》の絶えばこそ吾がおもふ心遂げじと思はめ(卷七――1382)
もおなじ筆法である。
 
布當山《ふたぎやま》 山並見者《やまなみみれば》 百代爾毛《ももよにも》 不可易《かはるべからぬ》 大宮處《おほみやどころ》     1055
 
〔釋〕 ○ふたぎやま 布當の原を圍んでゐる山々の總稱。次にも山並〔二字傍点〕といひ續けてある。新考に、鹿背山の別名かとあるは非。
【歌意】 布當の宜しい〔三字右○〕山並を見ると、末代までも變る筈のない、この大宮處であることよ。
 
〔評〕 前篇の長歌中の「山並の宜しき國」の一句を斷ち截つて、後篇の長歌の末節に繼ぎ合はせて、おのづから別趣を成した。これを見てもこの前後篇及び反歌が同一手に出たものであることは明かである。長歌の※[口+堯]舌を聽いた後に、簡明直截なるこの一聲を耳にするは、愉快であるのみならず、調子が毫釐のたるみもなく緊張してゐてよい。
 
(1851)※[女+感]嬬等之《をとめらが》 續麻繋云《うみをかくとふ》 鹿脊之山《かせのやま》 時之往者《ときしゆければ》 京師跡成宿《みやことなりぬ》     1056
 
〔釋〕 ○をとめら 既出(一六二頁)。○うみを 績《ウ》んだ苧《ヲ》。○かせのやま 處女等が績苧《ウミヲ》を懸ける※[手偏+峠の旁]《カセ》といふを、鹿背《カセ》の山にいひ懸けて序詞とした。「※[手偏+峠の旁]《カセ》」は績苧を卷き懸け絡ふ器具。兩端撞木の形を成す。カセヒ、カセギともいふ。延喜式大神宮注文に金銅(ノ)賀世比《カセヒ》二枚、同祝詞龍田風神祭詞に比賣《ヒメ》神|爾《ニ》御服備《ミソソナヘ》、金能麻笥《クガネノヲケ》、金|能《ノ》※[木+瑞の旁]《タヽリ》、金|能《ノ》※[手偏+峠の旁]《カセヒ》、古語拾遺に以(テ)2麻柄《アサガラヲ》1作(リ)v※[手偏+峠の旁]《カセキニ》云々とある。「かせのやま」は「かせやま」を見よ(一八三七頁)。○ときし 「し」は強辭。舊訓トキノ〔三字傍線〕。○ゆければ 往きたればの意。往きは來《ク》と同意。
【歌意】 處女達が績苧を卷き懸けるといふ※[手偏+峠の旁]《カセ》の稱《ナ》を負うたその鹿背山も、時節がさ來たので、京となつたわい。
 
〔評〕 鹿背山は恭仁京の中央に介在し、左右京をわかつ目印《メド》の山なので、甕の原の地の代表に用ゐた。片田舍が突如帝王の京となる。この現實に刺戟されては、誰れも意外の感慨に打たれるので、「眞木の立つ荒山中に海をなすかも」(卷三)「赤駒の腹ばふ田居を京となしつ」(卷十九)「水鳥のすだく水沼を京となしつ」(同上)など、荐に歌つてゐる。そこで、初二句は勿論鹿背山の序詞ではあるが、績苧を絡む※[手偏+峠の旁]は器具としては餘り高級品でないから、そんな卑しい物の名を負うた鹿背山でもと、下に抑損の意を含め、さて「京となりぬ」と稱揚の語を著けたものと考(1852)へられる。「時し往ければ」に至つては、作者獨白の感懷を見る。
 又いふ、この序詞の表現は、作者が男性であることを立證してゐる。
 
鹿脊之山《かせのやま》 樹立矣繁三《こだちをしげみ》 朝不去《あささらず》 寸鳴響爲《きなきとよもす》 ※[(貝+貝)/鳥]之音《うぐひすのこゑ》     1057
 
〔釋〕 ○あささらず 既出(八五九頁)。
【歌意】 鹿背の山の木立がまあ繁さに、朝毎に來て、鳴き響かせる鶯の聲よ。
 
〔評〕 矚目の叙景、きはめて和平に温雅に尋常に詠み去つた。聊か平安朝の風調を彷彿せしめる。
 
狛山爾《こまやまに》 鳴霍公《なくほととぎす》 泉河《いづみがは》 渡乎遠見《わたりをとほみ》 此間爾不通《ここにかよはず》     1058
    一(ニ)云(フ)、渡遠哉不通有武《ワタリトホミヤカヨハザルラム》。
 
〔釋〕 ○こまやま 山城國相樂部上狛村。山裔曳いて木津川の北岸に臨む。「狛」は高麗に同じい。○わたり 渡津。
 △地圖 挿圖296(一〇二九頁)を參照。
【歌意】 狛山に鳴く時鳥は、泉河の渡り瀬が遠いせゐかして、此處には通うて來ぬわい。
 
(1853)〔評〕 遠く狛山に時鳥の聲がしながら、作者のもとには來鳴かぬので、乃ちこゝに疑義を立て、その理由を究明して見ると、外でもない、「泉河わたりを遠み」であつた。それも狛山の時鳥のほのかに聞える程度の遠み〔二字傍点〕である。
 作者は泉河の南方鹿背山附近に居たと見える。されば人が狛山から通ふには泉河の渡津を經る。この事實のもとに、時鳥も渡津によつて來往するやうに取成した、その痴呆の想に詩味の搖曳を感ずる。
 泉河の渡津は狛山の一支神童子山下に接してあつたと思はれる。續紀天平十四年八月の條に、
  宮城以南大路(ノ)西頭(ト)、與《トノ》2甕原(ノ)宮(ノ)東1之間(ニ)、令(ム)v造(ラ)2大橋(ヲ)1。
とあるは、從來渡津であつた處に、便利の爲に大橋を架けたと斷じてよい。さればこの歌は天平十四年八月の架橋以前、渡津時代の作とすべきである。前の長短歌もすべて同一期と考へてよい。
 但「反歌五首」とあるが、末の二首は別時の作で、或は反歌ではないかも知れない。殊にこの「狛山」の作の如き、長歌の意とは頗る交渉が遠くて聯絡しない。若しこれを別時の作とすれば「鹿背の山」の作もそれに準(1854)ずべきである。古義に「長歌には春秋の事をのみいへるに、反歌に時鳥を詠めるは聊か心得難きにや」とあるは末梢的の事ながら、疑義の一つにはなる。
 
春(の)日《ころ》悲2傷《かなしみて》三香《みかの》原(の)荒(れたる)墟(を)1作歌一首并短歌
 
○春日 天平十六年以後の春日である。〇三香原 甕原。久邇新京のこと。(一八三五頁)を參照。
 
三香原《みかのはら》 久邇乃京師者《くにのみやこは》 山高《やまたかみ》 河之瀬清《かはのせきよみ》 住吉迹《すみよしと》 人者雖云《ひとはいへども》 在吉跡《ありよしと》 吾者雖念《われはおもへど》 故去之《ふりにし》 里爾四有者《さとにしあれば》 國見跡《くにみれど》 人毛不通《ひともかよはず》 里見者《さとみれば》 家裳荒有《いへもあれたり》 波之異耶《はしけや》 如此在家留可《かくありけるか》 三諸著《みもろつく》 鹿脊山際爾《かせやまのまに》 開花之《さくはなの》 色目列敷《いろめづらしき》 百鳥之《ももとりの》 音名束敷《こゑなつかしき》 在※[日/木]石《ありがほし》 住吉里乃《すみよきさとの》 荒樂苦借哭《あるらくをしも》     1059
 
〔釋〕 ○やまたかみ 元本訓ヤマタカシ〔五字傍線〕、眞淵訓ヤマタカク〔五字傍線〕。○かはのせきよみ 契沖訓及び古義訓による。舊訓カハノセキヨシ〔七字傍線〕。○すみよしと 住むによいと。「住」原本に在〔右△〕とある。類本により改めた。○ありよしと (1855)居るによいと。○ふりにし 四言の句。眞淵訓による。舊訓フルサレシ〔五字傍線〕。○くに 狹義の國。○はしけや はしけや〔四字傍点〕し〔右△〕の誤か。但次の「かくありけるか」に意が續かない。この間に必ず誤脱があらう。古義に落句にあらじとあるは非。○かよはず 「ず」を終止格とする。○みもろつく 鹿背山に係る詞。(1)「三」を天〔右△〕の誤として天降著《アモリツ》く鹿背山と續けた(眞淵説)。(2)生緒繋〔三字右△〕の誤として、績苧繋《ウミヲカ》く※[手偏+峠の旁]《カセ》を鹿背山に係けた(宣長説)。(3)三諸は糟交《カスゴメ》の酒の名、ミは酒の實モロはもろ/\と濁るをいふ、ツクは造るの意。實モロ造る食稻《ケシネ》のケをカに轉じて鹿背山に係けた(久老説)。(4)御室齋《ミモロイツク》の意(古義説)。以上のうち(4)の説が穩健である。但鹿背に御室を立てゝ齋かれた神は不明。古義は三輪の大物主(ノ)神にて、大和にて殊に崇められたれば鹿背山に遷し祀れるかといつてゐる。○めづらしき――なつかしき 何れも「里」に係る。訓は古義による。舊訓は二つともシク〔二字傍線〕。○ありがほし 在《アリ》が欲《ホ》し。在りたい、即ち居りたいの意。「在りが欲し里」は、見がほし山〔五字傍点〕の類語。○あるらく 「樂苦」は戲書。○をしも 「哭」は喪《モ》に哭は伴ふものなので、轉義してモに充てた。古義は喪〔右△〕の誤とした。
【歌意】 甕の原久邇の京は、山が高さに、河の瀬が清さに、住みよいと人はいふけれど、居よいと自分は思ふけ(1856)れど、もう舊い京となつてしまつた處だから、土地を見ても人も往來せず、里を見れば家も荒れてゐる、はしけや……かくありけるか〔十一字傍点〕、あの鹿背山の山の際に、咲く花の色が面白い、澤山の鳥の聲が懷かしい、この〔二字右○〕居りたい住みよい里の荒れることが、惜しいわい。
 
〔評〕 生ま/\しい舊京への執著を語るが主で、而も自然や土地への愛着の外に、住居への愛著を最も力強く號呼した。「住みよし」「在りよし」がそれである。
 聖武天皇が天平十二年十二月十五日に甕原(ノ)宮に入らせられ、翌正月に恭仁京の皇都を宣せられてから、皇宮の造營、都市の經營は一方ならぬものがあつた。然るに又近江に紫香樂《シガラキノ》宮を創められ、十五年十二月に至つては久邇京の造作を停められ、次いで難波遷都が計畫された。十六年閏正月、まづ久邇難波の兩地に就いて、百官の賛否を質された處、
  乙丑(朔)詔(リテ)喚(ビ)2會(メ)百官(ヲ)於朝堂(ニ)1問(ウテ)曰(ハク)、恭仁難波(ノ)二京、何(レヲ)定(メテ)爲(ン)v都(ト)、各言(ヘト)2其(ノ)志(ヲ)1。於是陳(ブル)2恭仁(ノ)京(ノ)便宜(ヲ)1者、五位已上二十三人、六位已下百五十七人、陳(ブル)2難波(ノ)京(ノ)便宜(ヲ)1者、五位已上二十三人、六位已下一百三十人。(續紀、卷十五)
と見え、丁度半々の結果を見た。又市人の意見を徴した處、
  同戌辰(四日)就(キ)v市(ニ)問(ハシム)2定(ムル)v京(ヲ)之事(ヲ)1、市人(ハ)皆願(フ)d以(テ)2恭仁京(ヲ)1爲(ント)uv都(ト)。但有(リ)d願(フ)2難波(ヲ)1者一人、願(フ)2平城(ヲ)1者一人u。(同上)
と見え、市人は殆ど絶對に久邇京の支持者であつた。「在りよし住みよし」と思ふのは、決して作者ばかりの事ではなかつた。
 けれども多くの官民の不賛成を押切つて、遂に難波に遷都が斷行された。
(1857)   二月甲寅(廿日)運(ブ)2恭仁(ノ)宮(ノ)高御座并(ニ)大楯(ヲ)於難波(ノ)宮(ニ)1、又遣(リ)v使(ヲ)取(リテ)2水路(ヲ)1、運2漕(ブ)兵庫(ノ)器仗(ヲ)1。
  乙卯(廿一日)恭仁京(ノ)百姓情3願(スル)遷(ラント)2難波(ノ)宮(ニ)1者(ハ)、恣(ニ)聽《ユルセ》之。
  庚申(廿六日)勅(ニ)云(ハク)、今以(テ)2難波(ノ)宮(ヲ)1定(メテ)爲(ス)2皇都(ト)1、宜(シ)d知(リテ)2此状(ヲ)1、京戸(ノ)百姓任意往來(ス)u。
 かくて恭仁京は日に益し廢頽の舊都即ち「ふりにし里」となつた。然し難波京とても久しからず、その十一月には紫香樂(ノ)宮に幸して、そこを皇都となされた。處が山火事と大地震との連續で居たゝまれず、翌十七年五月もとの平城京に還御。これまで恭仁京に頑張つて居殘つてゐた市人達も、爭つて平城に徙つてしまつた。
 題詞の「春日」は早目に見れば天平十六年の春としても事情に即する。皇居は移動し百官は轉住し、一部の市人も隨つて分散した故京は、まことに「國見れば人も通はず、里見れば家も荒れたり」で、滿目蕭條としで嵐の去つたあとの如く、空虚な感が強かつたらう。花の色鳥の鳴く音のみが、?に依然として去年に似てゐるのが恨めしい「荒るらく惜しも」は必然の下語である。
  國破(レテ)山河在(リ)、城春(ニシテ)草木深(シ)、感(ジテ)v時(ヲ)花濺(ギ)v涙(ヲ)、臨(ンデ)v別(ニ)鳥驚(ス)v心(ヲ)。(唐、杜甫)
と同調。殘念な事はこの歌、中間落句の爲に不完となつてゐる事である。
 
反歌二首
 
三香原《みかのはら》 久邇乃京者《くにのみやこは》 荒去家里《あれにけり》 大宮人乃《おほみやびとの》 遷去禮者《うつろひぬれば》     1060
 
(1858)〔釋〕 ○うつろひぬれば 古義訓による。舊訓ウツリイヌレバ〔七字傍線〕も意は同じだ。
【歌意】 甕の原久邇の京は、荒れてしまつたわい。第一官吏方が引移つたのでね。
 
〔評〕 遷都の際、必要上第一番に引越す者は政府の官吏である。勿論官僚萬能の時代だから、その人達が居なければ、土地は全く火の消えたやうなものである。江戸から東京になる際でも、侍《サムラヒ》達が引拂つたあとには畠が出來田が出來た。まして僅三四年閉の新建の皇都、朽木を碎くよりも無造作に解體したに相違ない。率直の味を以て勝る作。 
咲花乃《さくはなの》 色者不易《いろはかはらず》 百石城乃《ももしきの》 大宮人叙《おほみやびとぞ》 立易去流《たちかはりぬる》     1061
【歌意】 咲花の色は變らない、然も官吏方はさ、移り替つたことよ。
 
〔評〕 長歌にも「咲く花の色珍しき」とあり、折柄花盛りであつたと見える。「易らず」「たち易りぬる」は餘り露骨な對照過ぎる。さりとて修辭を顧慮する遑もないといつた程の、熾烈な感情の迸りと認め難い。古義に
  その花を愛づべき大宮人は住處の變りぬれば、昔のまゝに咲く花もかひなし。
とあるは、歌のうへに見えぬ事で、説き過ぎてゐる。
 
(1859)難波(の)宮(にて)作歌一首并短歌
 
○難波宮 歌には「味原《アヂフノ》宮」とあるから、この難波宮は味生の地で、豐崎の地ではない。
 
安見知之《やすみしし》 吾大王乃《わがおほきみの》 在通《ありがよふ》 名庭乃宮者《なにはのみやは》 不知魚取《いさなとり》 海片就而《うみかたつきて》 玉拾《たまひろふ》 濱邊乎近見《はまべをちかみ》 朝羽振《あさはふる》 浪之聲※[足+參]《なみのとさわぎ》 夕薙丹《ゆふなぎに》 櫂合之聲所※[耳+令]《かひのときこゆ》 曉之《あかつきの》 寐覺爾聞者《ねざめにきけば》 海若〔左△〕之《わたつみの》 鹽干乃共《しほひのむた》 納渚丹波《いりすには》 千鳥妻呼《ちどりつまよび》 葭部爾波《あしべには》 鶴鳴動《たづがねとよむ》 視人乃《みるひとの》 語丹爲者《かたりにすれば》 聞人之《きくひとの》 視卷欲爲《みまくほりする》 御食向《みけむかふ》 味原宮者《あぢふのみやは》 雖見不飽香聞《みれどあかぬかも》     1062
 
〔釋〕 ○いさなとり 海の枕詞。既出(三八七頁)。○かたつきて 片寄り付いて。山片付きて(卷十)谷片付きて(卷十九)なども用ゐる。○たまひろふ 濱に係る枕詞。「たま」は良き石をもいふ。古義訓ヒリフ〔三字傍線〕。○あさはふ(1860)る 既出(三八七頁)。○さわぎ 「※[足+參]」元本に躁〔右△〕とある。古義には干禄字書を引いて、※[足+參]躁、上俗(ニ)下正(シ)とある。○ゆふなぎ 「薙」は借字。○かひのと 「櫂」は本訓がカヒなので、更に「合」の字を接尾の添字に用ゐたものと思ふ。和名抄に加伊《カイ》とあるは、カヒの音便と見たい。尤も掻き〔二字傍点〕の義としてその音便カイと釋する説は、古來有力だが、この櫂合《カヒ》の書法によつて、本訓をカヒと定むべきである。語義は交《カヒ》で、船縁に交叉して使用する故の名であらう。古訓はサホノオト〔五字傍線〕、眞淵は「合」を衍としてカヂノト〔四字傍線〕と訓み、古義は櫂が※[金+丸]《ツク》に摺れ合ふ故に「合」の字を添へたとて「櫂合」をカヂと訓んだ。○きこゆ 「※[耳+令]」は説文に聽也とある。○わたつみの 「若」原本に石〔右△〕とあるは誤。略解説によつて改めた。眞淵は原之〔二字右△〕の誤としてウナバラノ〔五字傍線〕と訓んだ。宣長が近〔右△〕の誤としてウミチカミ〔五字傍線〕と訓んだのは甚だ非。既に「濱邊を近み」とある。○しほひのむた 潮干と共に。舊訓シホヒノムタニ〔七字傍線〕とあるが、ニは不用。○いりす 海から入り込んだ洲。略解は「納」を※[さんずい+内]〔右○〕の誤としてウラス〔三字傍線〕と訓み、古義なども賛してゐる。○たづがねとよむ 「鶴鳴」をタヅガネと訓むは、上の讃(フル)2久邇(ノ)新京(ヲ)1歌に「鳥賀鳴慟《トリガネナキヌ》」の例がある。トヨム〔三字傍線〕と終止に訓むは、上の「櫂の音きこゆ」に對する爲である。古義訓による。舊訓トヨミ〔三字傍線〕。○かたりにすれば 話にすれば。○みけむかふ 既出(五一六頁)。こゝは御食に供ふる味《アヂ》物の意を以て、味生《アヂフ》の枕詞とした。○あぢふのみや 「あぢふのはら」を見よ(一六四四頁)。○みれどあかぬ 味生(ノ)宮をさしていふ。風景を見れどの意ではない。古義誤る。
【歌意】 わが天子樣が、現在にお通ひなさる難波の宮(味生宮)は、海に寄り添うて濱邊が近さに、朝の煽る風に浪の音がざわ立ち、夕方の凪《ナギ》に櫂の音が聞える。そして〔三字右○〕曉の寢覺に聞くと、海の潮干と一緒に、水が淺せて〔五字右○〕、(1861)入洲には千鳥が妻を呼んで鳴き、蘆邊には鶴の聲が響く。この景色を〔五字右○〕見る人が話にすると、聞く人が忽ち見たく思ふこの味生(ノ)宮は、見ても/\飽かぬことかいな。
 
〔評〕 聖武天皇の神龜二年十月の難波行幸は味生(ノ)宮であつた。同四年以後はその本建築も落成してゐるから、打任せていふ難波宮は、愈よ以て味生宮であることが當然である。而も「これは味生の宮は」と詠んである。鶴の棲息時期が寒冷期だとすると、歌に「鶴が音とよみ」とあるから、神龜二年十月の笠(ノ)金村の歌と同時の作とも見られるし、又他に關係なしにその時季に、作者が味生(ノ)宮で詠んだものとも見られる。
 難波(ノ)宮は何時も「わが大王の在り通ふ」處で、而も味生の地たるや入海に臨んで濱が近いと、まづ地形の大體を説示し、次いで景勝の細叙に入つた。長柄の岡は豐崎の突端から外海の水が奥深く灣入して、洲渚が處々に點在し、蘆荻が叢生してゐたことは、既に再三絮説した。
 朝は風立つ時で浪が立ち、夕べは凪ぎ時で盛に小舟が去來する。勿論遠淺だから、外海の潮が退くと、景趣が忽ち一變して、あちこちに干潟が出來、そこに千鳥が走り、鶴が舞ひ下りる。これら水郷特有の好風光を、朝夕晩の三時に就いて、おもに聽覺の方面から描寫して、「浪の音さわぎ」「櫂合の音きこゆ」「千鳥妻よび」「鶴がねとよむ」と叙出した。但この内面には作者既往の實見體驗が含まれてゐる。でこれを承けた「見る人の」が、唐突の不自然さを免れ得る。
 「見る人の語りにすれば」と「聽く人の見まく欲りする」との快い節奏を打つた交錯の排對は、
  見る人の語り繼ぎでて、聞く人の鏡にせむを、(卷廿、喩族歌、家持――4465)
(1862)と似た叙法でその結果見る〔二字傍点〕の欲望が強調され、味生の勝景に重點を齎した。結局すべてを味生(ノ)宮に歸一して、「見れど飽かぬ」との讃美に筆を擱いた。
 抑も豐崎にせよ、味生にせよ、難波(ノ)宮が、再三皇都となり、代々特殊の關係のもとに、數次の行幸を羸ち得たのは、政治的經濟的交通的の便宜もあらうが、その水郷の風趣を愛でられたことが、大きな理由と思ふ。大和朝廷には海がない。故に大和人は海を渇望してゐる。手近に海の見える處は難波である。かくて難波(ノ)宮の存在價値が生ずる。天智天皇の近江大津宮の遷都も、同じ事情のもとに置かれたと思ふ。
 
反歌二首
 
有通《ありがよふ》 難波乃宮者《なにはのみやは》 海近見《うみちかみ》 漁童女等之《あまをとめらが》 乘船所見《のれるふねみゆ》     1063
【歌意】 天子樣が〔四字右○〕現在、お通ひなさる難波宮は、海が近さに、海人の少女どもが、乘つた舟が見えるわ。
 
〔評〕 海の見える皇居は珍しい。况やそこに海人少女の操る小舟の見えるに至つては、逸興窮りがない、事は平平であるけれど。「大宮のうちまで聞ゆ――海人の呼聲」(卷三)と同調の作。
 
鹽干者《しほひれば》 葺邊爾※[足+參]《あしべにさわぐ》 白鶴乃《しらたづの》 妻呼音者《つまよぶこゑは》 宮毛動響二《みやもとどろに》     1064
 
(1863)〔釋]○しらたづ 細本の訓による。他に例のない語で、源重之集の歌、「霜の白鶴《シラタヅ》」はこれに據るか。西本及舊訓は強ひてアシタヅ〔四字傍線〕と讀んだが、上の蘆邊〔二字傍点〕ともさし合ふ。
【歌意】 潮が干ると、蘆邊に騷ぐ白い鶴が、妻喚ぶその聲は、味生の宮も轟くほどでね。
 
〔評〕 おなじ聽覺のものでも、
  大宮の内まで聞ゆ網引すと網子ととのふる海人の呼聲(卷三、長意寸意吉麻呂――238)
は海人の匆忙なる生活が意識される快調であり、これは鶴唳の凄婉なる哀調である。鶴唳は高音だから、「宮もとゞろに」は誇張なしの眞實で、而もこの歇後の辭樣は、不盡の餘韻を搖曳させる。長高の體、下句頗る※[しんにょう+酋]勁である。古義はいふ、
  抑平城京の荒墟とならむ事は悲傷しき事なれども、かしこき大御心より出でたる事なれば、せむすべなくて、つひに久邇に都うつされしかば、平城(ノ)京の荒行ことを、ふかく惜みいたく歎きたる意を、初め長短六首(ノ)歌にいひのべ、さてその次に、久邇(ノ)新京を讃美《タヽ》へたる意を、長短九首の歌にいひ擧げたり、かくて又しも、程なく新京を遷し賜はむの御あらましありて、――難波に都せさせ給へれば、せむかたなくて久邇(ノ)京は荒墟となれゝば、在よしと願ひたる民情にもかなはず、住よしと思ひし吾素志にもたがひて、いとも悲しく傷ましく歎かしく惜しき事ぞ、とおもへる微意より出で、此の長短三首の歌を陳べたるにて、皆一人の作なるべし。
 
過(る)2敏馬《みぬめの》浦(を)1時作歌一首并短歌
 
(1864)〇敏馬浦 「みぬめ」を見よ(六五八頁)。△地圖 第二冊卷頭總圖を參照。
 
八千桙之《やちほこの》 神之御世自《かみのみよより》 百船之《ももふねの》 泊停跡《はつるとまりと》 八島國《やしまぐに》 百船純乃《ももふなびとの》 定而師《さだめてし》 三犬女乃浦者《みぬめのうらは》 朝風爾《あさかぜに》 浦波左和寸《うらなみさわぎ》 夕浪爾《ゆふなみに》 玉藻者來依《たまもはきよる》 白沙《しらまなご》 清濱部者《きよきはまべは》 去還《ゆきかへり》 雖見不飽《みれどもあかず》 諾石社《うべしこそ》 見人毎爾《みるひとごとに》 語嗣《かたりつぎ》 偲家良思吉《しぬびけらしき》 百世歴而《ももよへて》 所偲將往《しぬばえゆかむ》 清白濱《きよきしらはま》     1065
 
〔釋〕 ○やちほこのかみ 八千矛(ノ)神。大國主(ノ)神即ち大穴牟遲《オホナムチノ》命の一名。少名※[田+比]古那《スクナビコナノ》神と共に國土を經營された。「すくなびこな」を參照(八三二頁)。○とまりと 「と」はトシテの意。○ももふなびと 前出(一七九三頁)。○やしまぐに 八千矛神の御歌に「八島國妻まぎかねて」(記上)と見え、紀(神代の卷)に、淡路四國隱岐九州壹岐對島佐渡本州を總稱して大八島國といふとある。○しらまなご 卷十一に白細砂をも訓んである。「まなご」に愛子の字をこの集には假りもした。「ま」は美稱。「なご」は砂子《スナゴ》の上略。狩谷掖齋の和名抄箋註にいはく、マナゴはマスナゴの省、或はマサゴと謂ふも、マナゴの急呼。或はマイサゴの義と。或人これを本末顛倒として、記に地名に眞名子《マナゴ》谷(紀に繊沙谿)あり、イサゴ、スナゴより古しと。然し語の構成順序からすると、掖齋説に左袒(1865)せざるを得ない。抑もスナゴはす〔傍点〕(洲)な〔傍点〕(領格の辭ノの轉)、ご(細小なる物の稱)、イサゴは、いさ〔二字傍点〕(イソ即ち石の轉)、ご(細小なる物の稱)であるが、或は下略し、或は上略し、それにマの美稱を添へても用ゐたもの。○うべしこそ を「けらしき」と結ぶは古代文法。卷一、三山(ノ)御歌に「然れこそ――戀ふらしき」の例がある。○しぬびけらしき この「しぬび」は慕ふの意。愛づの意ではない。〇しぬばえ 慕はれの意。○しらはま 白砂の濱をいふ。
【歌意】 八千矛(ノ)神の御時代から、澤山の船の著く泊處として、八洲の國の澤山の船人が決めたことであつた、この敏馬の浦は、朝吹く風に浦の波が騷ぎ、夕方寄する浪に海藻は寄り來る。そして〔三字右○〕白砂の潔い濱邊は、往來して見ても/\飽かない。道理でさ、一遍見た人毎に見ぬ人に〔四字右○〕語り續け、慕はしうしたことであつたらしい。されば〔三字右○〕幾代も經て慕はれて往かう、この潔い白濱よ。
 
〔評〕 「八千矛の神の御世より」は、神代からといふにその意は同じやうだが、この神は國土經營の神である事は見遁せない。即ち都市村落の建設、道路港灣の整理など、皆この神業に竢つたものである。かう考へると、或は敏馬は般瀬といふ程ではなくとも、半築港の場處であつたかも知れない。
 で神のなしのまゝに、敏馬の浦は武庫海上の船泊として、日本中のあらゆる舟人即ち「百船人」が、寄港によき場處と定めたのであつたと、神意人意の總和がこの浦にあることを讃美した。
 次に筆は敏馬の浦矚目の光景に轉じ、朝風に波、夕波に海藻を湊合して、その動搖飄蕩の動的状態を叙し、(1866)更に一線彎を描いた靜的の地物「清き白濱」を配して、その地理的説明と間接なる色相の對照とを言外に黙會せしめた。白砂は武庫山脈一帶の花崗岩の崩砂から成るものであつた。かくて「往き還り見れども飽かず」が當然來るべき結論となるのである。
 次に餘響として、この好風光は「見る人毎に」語り繼ぎいひ繼ぎ、百世の下まで偲ばれようと、讃美の筆をとゞめた。
 三段組織の篇法、その旗幟鮮明である。
 
反歌二首
 
眞十鏡《まそかがみ》 見宿女乃浦者《みぬめのうらは》 百船《ももふねの》 過而可往《すぎてゆくべき》 濱有七國《はまならなくに》     1066
 
〔釋〕 ○まそかがみ 眞澄鏡《マソカガミ》見《ミ》を敏馬のみ〔傍点〕に係けた枕詞。既出(六四三頁)。○すぎて 通り過ぎて。
【歌意】 敏馬の浦はいゝ景色で〔五字右○〕、澤山の船が、餘所に見過して往かれよう、濱ではないのにさ。
 
〔評〕 百船の泊りするのは當然だとの餘意を含んでゐる。
  大崎の神の小濱はせばけれど百船人も過ぐといはなくに(本卷、石上卿――1023)
と同型ではあるが、これは專ら自然愛賞の意を陳べ、彼れは流謫の感傷を寓せたもので、おのづから異調であ(1867)る。
 
濱清《はまきよみ》 浦愛見《うらうるはしみ》 神世自《かみよより》 千船湊《ちふねのはつる》 大和太乃濱《おほわたのはま》     1067
 
〔釋〕 ○うるはしみ 麗しさに。古葉の訓ウツクシミ〔五字傍線〕、舊訓ナツカシミ〔五字傍線〕。○はつる 「湊」を意訓に讀む。○おほわたのはま 大曲《オホワタ》の濱。敏馬の浦の灣であらう。今は神戸に屬する古への和田の岬は、恐くその西の突端か。
【歌意】 濱が清さに浦が美しさに、神代から澤山の船が泊る、この大曲の濱であることよ。
 
〔評〕 長歌の第一段を截取して、敏馬の浦を「大曲の濱」といひ易へたやうな形式であるが、別に新生面を打開してゐる。敏馬に千舟の泊つるは、元來航海上の便宜に因る實務的の事である。作者はそれを萬々承知してゐながら、全くその風光の美に引付けられての事と斷言した。そこに詩家の手段がある。
 
右二十一首、田邊《タナベノ》福《サキ》麻呂之歌集中(ニ)出(ヅ)也。
 
 悲2寧樂京故郷1作歌より以下の廿一首は田邊福麻呂の歌集の中に出てゐるとの意。まことその風體格調は大抵相類して特異の點が少い。同一人の作と見ても差支は無ささうだ。但悲寧樂京故郷の歌は比較的大作で、他作を壓してゐる。○田邊福麻呂 傳未詳。卷十八に、天平二十年二十三日左大臣橘家(諸兄)之使者、造酒司令(1868)史田邊(ノ)福麻呂(ヲ)饗(ヘス)2于守大伴宿禰家持(ノ)館(ニ)1云々の題詞がある。契沖はいふ、左大臣の家禮だらうと。卷九にも福麻呂歌集の語が見える。續紀に、天平十年四月正六位上田邊(ノ)史《フヒト》難波に外從五位下を授くとある。福麻呂は或はこの難波の子どもか。 
               2006年11月17日(金)午後1時15分、入力終了
               2008年10月7日(火)正午、校正終了
(1869)萬葉集卷第七目録
 (注意)この卷七は頁數の都合上、假に上下の二分に別け、(上)はこの冊に、(下)は次に刊行すべき第四冊に收めることにした。
 
雜歌《クサグサノウタ》
                〔評釋頁〕
詠(メル)v天(ヲ)一首………………一八七三
詠(メル)v月(ヲ)十八首……………一八七五
詠(メル)v雲(ヲ)二首………………一八八七
詠(メル)v雨(ヲ)二首………………一八九〇
詠(メル)v山(ヲ)七首………………一八九二
詠(メル)v岳(ヲ)一首………………一八九九
詠(メル)v河(ヲ)十六首……………一九〇〇
詠(メル)v露(ヲ)一首………………一九一五
詠(メル)v花(ヲ)一首………………一九一六
   〔入力者注、1870、1871の目次は略〕
寄(ス)v月(ニ)四首…………………
寄(ス)2赤《ハニ》土(ニ)1一首…
寄(ス)v神(ニ)二首…………………
寄(ス)v河(ニ)七首…………………
寄(ス)2埋木《ウモレギニ》1一首…
寄(ス)v海(ニ)九首…………………
寄(ス)2浦(ノ)沙(ニ)1二首……
寄(ス)v藻(ニ)四首…………………
寄(ス)v船(ニ)五首…………………
旋頭歌一首
   挽《カナシミ》  歌
雜(ノ)挽十二首…………………………
 或本(ノ)歌一首………………………
覊旅(ノ)歌一首…………………………
 
 
(1873)萬葉集卷七(上)
 
七の卷は大抵作者未詳の歌で、題詠實詠相混じ、寄託歌あり旅行歌あり挽歌がある。體に於ては短歌の外に珍しく旋頭歌《セドウカ》があり、長歌を缺いてゐる。その風調より推せば、概して奈良朝中期の作と思はれる。但多少はその上期に溯るものも混つてゐるらしい。
 
雜《くさぐさの》歌
 
詠(める)v天(を)
 
以下何々を詠める〔六字傍点〕とある題詞の歌は、或は題詠の作ではないかと疑はしめるが、實は記録者が詠者不詳の歌を輯録するに當つて、かゝる題詞を作つたと見るのが至當と思ふ。稀には題詠らしい、實感に遠ざかつた作もないではないが、大部分は實詠と認められる。
 
天海丹《あめのうみに》 雲之波立《くものなみたち》 月船《つきのふね》 星之林丹《ほしのはやしに》 ※[手偏+旁]隱所見《こぎかくるみゆ》     1068
 
〔釋〕 ○あめのうみ――くものなみ――つきのふね――ほしのはやし 天を海に、雲を波に、月を舟に、星を林に直喩した。
(1874)【歌意】 天の海に雲の波が立ち、そこに月の舟が出て、星の森に漕ぎ隱れてゆくのが見えるわ。
 
〔評〕 技巧中心の作である。月舟の譬喩は文武天皇の御製、
  月舟移(リ)2霧渚(ニ)1、楓※[楫+戈]泛(ブ)2霞濱(ニ)1(懷風藻)
にはじまり、
  春日なる三笠の山に月の舟出づ、みやび男の飲む盃に影の見えつつ (本卷――1295)
など見え、敢へて作者の創語ではない。さてこの月舟から、天を海、雲を波に見立て、その聯想を逞うしたものであらう。「星の林」に至つては、物數の多いのを林に譬喩する例が漢語に多いから、單語としては非難はないが、陸上の物件たる林を、海上の景象に湊合したことが統一を破つてゐる。舟が林に漕ぎ隱れては可笑しなものになるではないか。もと/\空想の所産だから、勢ひ眞實味から遠ざかり、時には不用意の間に種々な手落も出來勝である。
  あめの海月の舶浮けかつら梶懸けてこぐ見ゆ月人壯夫《ツキヒトヲトコ》(卷十――2223)
はこの歌を母胎として、五體滿足に誕生した子供であらう。
 この歌世に人麻呂の作として傳へらわたのは、左註がその俑を作つたのである。
 
右一首、柿本(ノ)朝臣人麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
○人麻呂之歌集 既出。卷三(六五一)を見よ。
 
(1875)詠(める)v月(を)
 
常者曾《つねはかつて》 不念物乎《おもはぬものを》 此月之《このつきの》 過匿卷《すぎかくれまく》 惜夕香裳《をしきよひかも》     1069
 
〔釋〕 〇つねはかつて 平生は一向に。「曾」の字をカツテと詠むは、この集の例である。舊訓ソモ〔二字傍線〕は非。
【歌意】 何時もは一向に惜しいとも思はないものを、この月の更け過ぎて隱れようことか、惜しい今夜であることかまあ。
 
〔評〕 月に對する或夜の感想と素直に見ておかう。但珍しい人などに逢うた夜の作とも見られ、又月見の宴に呼ばれた客が主人の厚意に酬いる挨拶の詞とも見られる。詩境の分明しない憾もあるが、いかにも率直である。
 
大夫之《ますらをの》 弓上振起《ゆずゑふりおこし》 借高之《かりたかの》 野邊副清《ぬべさへきよく》 照月夜可聞《てるつくよかも》     1070
 
〔釋〕 ○ますらを 既出(四〇頁)。「大夫」も既出(四〇頁)。○ゆずゑふりおこし 既出(八四二頁)。「上」は意訓でスエと讀む。初二句は「獵り」の意を以て、三句の「借高」にかけた序詞。○かりたかのぬ 「かりたかの」を見よ(一七三六頁)。△地圖及寫眞 挿圖170(六一七頁)、417(一七三七頁)を參照。
【歌意】 丈夫が弓末を振り立てゝ獵るといふ名の、※[獣偏+葛]《カリ》高の野邊までも、光さやかに、照る月であることかまあ。
 
(1876)〔評〕 ※[獣偏+葛]高の野は高圓山の山下の臺地で、その頃の狩獵場であつた。でその狩獵状態を序詞に運用したことは、處がら當然の措辭といへよう。
 高圓山は勿論裾野の※[獣偏+葛]高の野邊さへもと、明月を仰いで極力その清かな光を稱へた。作者の顔の輝きさへも思ひ遣られる。
 以上は奈良京の東偏五條のあたりから仰ぎ望んだ趣としても聞える。作者の位置が不確定であることは聊か遺憾だ。
 
山末爾《やまのはに》 不知與歴月乎《いさよふつきを》 將出香登《いでむかと》 待乍居爾《まちつつをるに》 與曾降家類《よぞくだちける》     1071
 
〔釋〕 ○やまのは 山の端。「末」を意訓にハと讀む。〇いさよふ 既出(六八四頁)。○をるに 居るにつけて〔三字右○〕。○くだち 既出(一四八七頁)。
【歌意】 山の端にグヅ/\してゐる月を、今出ようかと、待ち/\して居るうちに、夜は段々と更けたわい。
 
〔評〕 別に特異性がない。隨つて類歌もある譯だ。下に
  山のはにいさよふ月をいつとかもわが待ちをらむ夜は深けにつつ(本卷――1084)
は即ちそれである。
  山のはにいさよふ月の出でむかとわが待つ君を夜はくだちつゝ (卷六、黒麻呂――1008)
に至つては、四句にこそ曲折をもつが、やはり等類である。
 
(1877)明日之夕《あすのよひ》 將照月夜者《てらむつくよは》 片因爾《かたよりに》 今夜爾因而《こよひによりて》 夜長有《よながからなむ》     1072
 
〔釋〕 ○よひ 夜の意に同じい。○かたよりに 「かたより」を見よ(三五六頁)。○こよひによりて 今宵に片〔右○〕寄つて。「因」は借字。
【歌意】 明日の晩も照るであらう月夜は、今夜の分に片寄りに寄つて、今夜は特に夜長くあつて欲しいわい。
 
〔評〕 當夜の明月を愛しむの餘、承知で無理な注文をつけた。奇警見るべく、風流欣ぶべきである。
  あめにます月讀をとこ幣《マヒ》はせむ今夜の月夜|五百夜《イホヨ》繼ぎこそ (卷六、湯原王――985)
は同趣で、更に誇大な欲求を構へたもの。餘り誇大が過ぎると、眞實味に遠ざかるから、本行の方が却て程のよい處であらうか、歌柄は劣る。
 「片寄りに――寄りて」と「今夜に――夜長からなむ」とは、何れも疊語式の錯綜的の表現で、而もその兩句が排對してゐるなど、その口吻の自在さに駕かされる。
 
玉垂之《たまだれの》 小簾之開通《をすのまとほし》 獨居而《ひとりゐて》 見驗無《みるしるしなき》 暮月夜鴨《ゆふづくよかも》     1073
 
〔釋〕 ○たまだれの 「をす」の「を」に係る枕詞。既出(五〇七頁)。○をすのまとほし (1)簾の間《アヒダ》を透し。(2)小簾の垂れたる間《マ》を透し。これは下に、波の岸に寄するを詠じて「この家とほし聞きつつをれば」とあるを證と(1878)する。以上何れでも意は通ずる。この句は「見る」に係る。トホシを六帖及び略解の訓にトホリ〔三字傍線〕とあるは非。舊訓による。○みるしるし 見る詮《カヒ》。
【歌意】 自分獨で、簾の透間を透して見るは〔三字右○〕、折角見る詮もない、この夕月であることよ。
 
〔評〕 簾影を透して見るは立ち昇つたばかりの月で、即ち夕月である。小簾垂れ籠めての獨坐無聊に、共に見はやす人もあらばと思ふは人情である。蓋し月が良ければ良いほど、その凄其を極めた光色が、人をして孤獨に耐へざらしめるからである。
 再案するに、小簾垂れ籠めて籠り居るは、必ず閨裏の婦人である。隨つてこの歌は、夕暮を時として來通ふ壻の君を、心待に待ちわたる情思が纏綿してゐると思ふ。
  月夜よし夜よしと人に告げやらば來ちふに似たり待たずしもあらず (古今集、戀四)
も同じ境地から出發したもので、これは「獨居て見るしるしなき」と、率直に道破してしまつた。そこに又限ない哀怨の氣味が漂うて、夕月夜のあはれさが一段と身にしみる。
 
春日山《かすがやま》 押而照有《おしててらせる》 此月者《このつきは》 妹之庭母《いもがにはにも》 清有家里《さやけかりけり》     1074
 
〔釋〕 ○かすがやま 「かすがのやま」を見よ(八五八頁)。○おしててらせる 押竝べて照らしてゐる。「わが宿に月押照れり」(卷八)「窓越しに月押照りて」(同上)などの例がある。○さやけかりけり 古義に「家里」を良(1879)思〔二字右△〕の誤としてサヤケカルラシ〔七字傍線〕と讀み、これに賛した人もあるが、誤解である。△地圖及寫眞 挿圖170(六一七頁)、169(六一四頁)を參照。
【歌意】 春日山を一帶に照してゐるあの月は、春日山ばかりか〔七字右○〕、吾妹子の家にも、同じ樣に清《サヤ》けく照つてゐるわい。
 
〔評〕 春日山に照り渡る月影を踏みつゝ、遂に妹が家に到つた男の作で、山麓の妹が家はまづ門内を見入れるからして、皎々たる月光に浮かび上がつて、玉の臺と輝くのであつた。これ「妹が庭にもさやけかりけり」との詠歎に耽つた所以である。月は一つだが、光は春日から妹が家にまで、作者と共に移動してゐる。
 
海原之《うなばらの》 道遠鴨《みちとほみかも》 月讀《つくよみの》 明少《ひかりすくなく》 夜者更下乍《よはくだちつつ》     1075
 
〔釋〕 ○つくよみ 既出(一二九〇頁)。○ひかりすくなく 照る間の少いのをいふ。契沖いふ、光輝の少きをいふにあらずと。「明」をヒカリと讀むは意訓。また諸訓ともスクナキヨ〔五字傍線〕と續けてあるが、さては初二句の意の應ずる處がない。○くだち 前出(一四八七頁)。「更下」は更即ち時刻の深けること故、クダチ〔三字傍線〕と訓む。
【歌意】 月はその出て來る海原の道の、速いせゐかなあ、こゝには〔四字右○〕碌に照る間もなく、夜は更けに更けてさ。
 
〔評〕 殘月の歌で、遲く出て忽ち隱れる、その夜の遺憾さを歌つた。「海原の道」を取出したのは、成るべく月の(1880)經渡る道程を遙なものにして、「光すくなく」に理由づけたものであるが、無論月は東海の天から上ることを承知してゐる作者の言である。
 
百師木之《ももしきの》 大宮人之《おほみやびとの》 退出而《まかりでて》 遊今夜之《あそぶこよひの》 月清左《つきのさやけさ》     1076
 
〔釋〕 ○ももしきの 「宮」の枕詞。既出(一二六頁)。△寫眞 挿圖332(一二〇〇頁)を參照。
【歌意】 大宮人達が、大宮から〔四字右○〕退出して遊ぶ、今夜の月のさやかなことよ。 
〔評〕 官吏が退廳後、鳥が籠を放たれたやうに、その遊樂に自由に羽を伸ばすは、現代でも同じ事である。「ももしきの大宮人のまかり出て遊ぶ船には梶棹も……」(卷三、鴨君足人)、といひ、又「大宮人の船待ちかねつ」(卷一、人麻呂)「佐保の内に遊びしことを」(卷六、作者未詳)「大宮人はいとまあれや梅をかざして」(卷十、赤人)といふ類、集中に多く疊見する。たまには公務の爲に「いとまをなみと里に往かざらむ」(卷六、諸兄)の如きこともあるが、元來當時の官衙は早朝の早退で、餘暇が頗る多かつたことも、その大いなる原因である。
 幾箇の官人相誘うての遊宴、身に閑暇あり、心に餘裕あり、隨つて興は酣に盡くることを知らない。而もそこに明月の背景があつた。さればそのうちの一人は、月に託して當夜の歡會を歌つた。線の優美な調の流麗な、爽かな響安易の感じのある作である。
 
(1881)夜干玉之《ぬばたまの》 夜渡月乎《よわたるつきを》 將留爾《とどめむに》 西山邊爾《にしのやまべに》 塞毛有糠毛《せきもあらぬかも》     1077
 
〔釋〕 ○ぬばたまの 「夜」の枕詞。既出(三〇四頁)。○あらぬかも 既出(一三二二頁)。
【歌意】 夜更け渡る月を、止めようと思ふに〔三字右○〕、西の山邊に、關もほしいものよなあ。
 
〔評〕 落月に對しての感想で、月の出入は關の有無にかゝはるものではないことを忘れる程の沒常識に陷つた處に、月を惜む情意が強く動いてゐる。關塞の事は國史に疊見し、又臨時の公私塞も相當に多かつた。
  境界之上、臨時置(キ)v關(ヲ)、應(キ)2守(リ)固(ム)1者(ハ)、並(ニ)置(キ)2配(リ)兵士(ヲ)1、分番上下(ス)。(軍防令義解)
と見え、古代人はその交通觀念に、必ず關塞の名詞を牢記してゐた。で「關もあらぬかも」は奇拔な着想のやうに今では思はれるが、當時では決してさう珍しいものではあるまい。穗積皇子も雪を見て「猪養の岡の關なさまくに」(卷一)と歌はれた。
 
此月之《このつきの》 此間來者《ここにきたれば》 且今跡香毛《いまとかも》 妹之出立《いもがいでたち》 待乍將有《まちつつあらむ》     1078
 
〔釋〕 ○ここに 作者の家の月影のさした處を斥す。○いまとかも 「且」は未定の意ゆゑ、句意に從つて「且今」と書いた。卷二に、ケフ/\トの本文が且今日且今日と書いてある。○いでたち 門邊〔二字右○〕に。
【歌意】 あの月が更けて〔三字右○〕、こゝにまで影がさして來たので、自分を〔三字右○〕もう來る〔二字右○〕と思うて〔三字右○〕まあ、吾妹子が門に〔二字右○〕出立つ(1882)て、待ち/\してゐるであらうか。
 
〔評〕 支障があつて妹が家を訪づれかねた男の作である。「我背子が來べきよひなり」(紀、衣通郎女)など、往時は男が夜毎に妻や情人の許に通ふ習俗であつた。さて月はいゝ加減に軒先を廻つた。夜の更けたことはいふまでもない。何も知らず我妹子はさぞ、自分を待ちあぐんでゐるであらうと、その焦燥の態度を懇に想像した。そこに作者自身の焦燥があり、妹を思ふ情味の深さが動く。門に倚る、門に立つは、人待つ態度として和漢共にその例が多い。
 「ここに來れば」を、妹が意中の語として解した新考説は、恐らく強辯であらう。
 
眞十鏡《まそかがみ》 可照月乎《てるべきつきを》 白妙乃《しろたへの》 雲香隱流《くもかかくせる》 天津霧鴨《あまつきりかも》     1079
 
〔釋〕 ○まそかがみ 「照る」の枕詞。既出(六四三頁)。○つきを 月なる〔二字右○〕を。○しろたへの 白の意に用ゐた枕詞。既出(一一八頁)。○あまつきりかも 天つ霧かも隱せる〔三字右○〕の略。「隱せる」は四句に讓つて略いた。「あまつきり」は空の霧。
【歌意】 元來〔二字右○〕照る筈の月なの〔二字右○〕を、照らぬのは〔五字右○〕、雲が隱したことか、それとも空の霧が隱したことか〔六字右○〕まあ。
 
〔評〕 「雲か隱せる」の響の強い詞の促つた表現から見れば、月は素より皆無なのであつた。されば「照るべき」は出づべき〔四字傍点〕といふ程の意で、そこに無中に有を生ぜしめた作者の幻化手段がある。そしてその無月を惡戲者の(1883)雲又は霧の所爲かと、はかなく疑つてゐる處に痴呆の味がある。
 この歌その構想において、下の「霜ぐもりすとにかあらむ」と一脉相通ずるものがある。 
久方乃《ひさかたの》 天照月者《あまてるつきは》 神代爾加《かみよにか》 出反等六《いでかへるらむ》 年者經去乍《としはへにつつ》     1080
 
〔釋〕 ○かみよにか 神代の光に〔二字右○〕かの略。「に」をユ(從)の意とする説もあるが、詞態を無視した強辯と思ふ。○いでかへる 立返つて出づるをいふ。「かへる」に屡する意をもつ。
【歌意】 あの空に照る月は、神代の光〔右○〕に幾度も立返つて〔七字右○〕、出るであらうか、年は永く〔二字右○〕經ちに經ちしてさ。
 
〔評〕 月には盈虚消長があるが、新月はやはりもとの光に立返つて照る。この事實を神代にまで延長させ、年經つゝもその度毎に神代の光に出で返るの想像を下した。表現が餘りハツキリしない點があつて面白くない。
 古義は年經て後神代に立返ると解し、三句を神代にも〔傍点〕の意とした。
 
烏玉之《ぬばたまの》 夜渡月乎《よわたるつきを》 ※[立心偏+可]怜《おもしろみ》 吾居袖爾《わがをるそでに》 露曾置爾鷄類《つゆぞおきにける》     1081
 
〔釋〕 ○ぬばたまの 夜の枕詞。既出(三〇四頁)。○わがをる わが見つつ〔三字右○〕をる。
【歌意】 夜を經ゆく月がまあ面白さに、何時の間にか〔六字右○〕、自分が見て〔二字右○〕ゐる袖に露がさ、置いたことであるわい。
 
(1884)〔評〕 袖の露によつて、夜更けの趣を言外に認識させた。されば略解などに、夜が更けて〔五字傍点〕を補語として解したのは、歌を釋き殺すもので、甚だ面白くない。詩境は平凡であるが、思はざる袖の露はやはり驚歎に値する。恐らく端近く打出て月に浮かれてゐた作者であらう。
 
水底之《みなそこの》 玉障清《たまさへきよく》 可見裳《みゆべくも》 照月夜鴨《てるつくよかも》 夜之深去者《よのふけゆけば》     1082
 
〔釋〕 〇みなそこのたまさへ 玉は石を褒めていふ。「障」は借字。○みゆべくも 略解訓による。舊訓ミツベクモ〔五字傍線〕。○ふけゆけば 古義訓フケヌレバ〔五字傍線〕。
【歌意】 水底にある玉までも、きれいに見えさうにまあ、照る月であることよ、夜が段々更けてゆくので。
 
〔評〕「水底の玉さへ――見ゆべく」は、月光の澄徹する趣を具象的に敍した。石を玉といふことは古代人の套語だが、こゝではそれが靈動してゐる。夜更けて愈よ澄みまさるは月の常態。結句置き得てよい。
 
霜雲入《しもぐもり》 爲登爾可將有《すとにかあらむ》 久堅之《ひさかたの》 夜度月乃《よわたるつきの》 不見念者《みえぬおもへば》     1083
 
〔釋〕 〇しもぐもり 霜曇。霜氣の催して空の曇るをいふ。「雲入」は假借。○ひさかたの 「夜わたる」を隔てて月に係る枕詞。既出(二八二頁)。
(1885)【歌意】 霜曇がするといふ譯かしら、夜を經行く月が、忽ち〔二字右○〕見えぬことを〔三字右○〕思へばさ。
 
〔評〕 寒夜の月の倏忽に變化した景象を歌つた。恐らくその月は上弦の月で、早くもその影を没したのであらう。
 それを霜曇の所爲かと疑つてゐる處に、痴呆の態が見えて面白い。
 
山未爾《やまのはに》 不知夜經月乎《いさよふつきを》 何時母《いつとかも》 吾待將座《わがまちをらむ》 夜者深去乍《よはふけにつつ》     1084
 
【歌意】 山際にグヅ/\してゐる月を、何時出て來る〔四字右○〕としてまあ、自分は待つて居らうか、夜は深けに深けてさ。とても待ち遠な〔七字右○〕。
 
〔評〕 半夜になつても月は出ぬ。待ち草臥れて、何時を當てに待つことかとの愚痴、焦れ切つた作者の樣子が眼前に彷彿する。月めでの極めて切なる情致がよく現れてゐる。
 五音七音の律動による結果として、結句の獨立は古調の本體である。後世では體言止めの體には常に見得るが、動詞や助辭で終るものには、やうやう稀になつた。
 
妹之當《いもがあたり》 吾袖將振《わがそでふらむ》 木間從《このまより》 出來月爾《いでくるつきに》 雲莫棚引《くもなたなびき》     1085
 
〔釋〕 ○いもがあたり 妹が家の邊を目當てに〔五字右○〕の意。○このまより この句は初句の上に廻して聞く。○なたな(1886)びき たなびくなの意。「なおもひと」を參照(四一一頁)。
【歌意】 木の間から、妹の家の邊目當てに〔四字右○〕、自分の袖を振つて見せうぞ。あの照り出した月に、雲が懸つてくれるなよ。
 
〔評〕 袖振の行事は額田王の「野守は見ずや君が袖振る」(卷一)又、人麻呂の
  石見のや高角山の木のまよりわが振る袖を妹見つらむか (卷二――395)
を參照されたい。さてこの歌は人麻呂のを飜轉したやうな作である。否それを本歌として、木の間の抽振を云爲したものである。新考は初二句を「木の間より」に係る序詞とし、古義は二句にて切り、「木の間より」を下に續けて解した。が共に無理があつて賛成が出來ない。
 
靭懸流《ゆきかくる》 件雄廣伎《とものをひろき》 大伴爾《おほともに》 國將榮常《くにさかえむと》 月者照良思《つきはてるらし》     1086
 
〔釋〕 ○ゆきかくるとものをひろき 靭を懸ける黨類の廣い大伴と續けた。大伴氏は古來の名家で、その一族は特に繋延してゐるのでいふ。尚「ゆき」(一〇三九頁)及「おほとものなにおふゆきおびて」(一〇四四頁)を參照。○おほともに 大伴等により〔二字右○〕の意。大伴を國名とする秋成説もあるが、他にその例を見ない。「おほともの」を參照(二三五頁)。△挿圖83(二六三頁)を參照。
【歌意】 靭を佩びる族類の廣い我等大伴により、この國は榮えようと、月は我等大伴の上に〔七字右○〕照るらしい。
 
(1887)〔評〕 御門衛りの大伴等が、月を仰いでの自讃の語であらう。大伴氏は上古から近衛兵として仕へ奉り、又征戰に從つては「草蒸す屍、水づく屍」の標語のもとに奮闘した。族類は廣い、威勢は強い、その心驕りから明月も只わが世の爲に照ると觀ずる。意氣頗る豪快である。初二句の修飾語は、祝詞に「靭負ふ件の男」(大祓)、又上にも家持の「大伴の名に負ふ靭帶びて」(卷三)など見え、來歴をもつた古語である。
 
詠(める)v雲(を)
 
痛足河《あなしがは》 河浪立奴《かはなみたちぬ》 卷目之《まきもくの》 由槻我高仁《ゆつきがたけに》 雲居立有〔左△〕良志《くもゐたつらし》     1087
 
〔釋〕 ○あなしがは また穴師川。「あなせのかは」を見よ(一二六五頁)。○まきもく マキムクの轉。古代の各稱には音轉で幾樣にも呼ぶ例が多い。故に「卷目」をなほマキムクと讀むべしといふ、考略解古義などの説には從ひ難い。○まきむく 大和磯城郡纏向村。山を卷向山、川を卷向川また穴師川といふ。○ゆ(1888)つきがたけ 弓槻、弓月、由槻の字を充てる。卷向山の最高峯。標高五百六十五米突。「高」をタケと讀むは意訓。○くもゐたつらし 有〔右△〕を衍字と見て、元本類本の訓による。さてこの「くもゐ」を紀の「わぎへの方ゆ久毛違多知久毛《クモヰタチクモ》」、(卷七、又記の景行天皇の條)及び集中「朝さらず雲居たなびき」(卷三)「有馬山雲居たなびき」(同上)の例により、雲と同義に解する。舊訓クモタテルラシ〔七字傍線〕は「居」を衍字と見たもの。△地圖及寫眞 挿圖338(一二六五頁)、338(一二六六頁)を參照。
【歌意】 穴師川の川の波が、盛に立つことわい。これでは奥山の〔七字右○〕卷目の弓槻が嶽に、雲が騷ぎ立つらしい。
 
〔評〕 鑑賞に先立つて地理的考察を下さう。まづ「あなし川」と道破したので見ると、作者は穴師の里の河邊に居たものである。川は弓槻の外山たる穴師山と三輪山との溪間を流れてくる。
 偶ま穴師の川波が何時よりも高く騷ぎ立つた。この景象を深く注視した作者は、端なく奥山弓槻が嶽の亂雲の生動を、想像に描くに至つた。唐詩の「山雨欲v來風滿v樓」(許渾)の趣にも似て、惡天候の前兆たる山風のあらびが、言外に躍如としてゐる。
 氣象雄大、格調高渾、平安朝以後には絶無の絶品である。が、實際はその歌柄に不似合なるほど川は狹く小さく、山も大した高山ではない。現代を標準にすれば、誇張の甚しさに喫驚される。もと/\大和の小天地にのみ跼蹐してゐた萬葉人だから、現代人の物の屑ともせぬ地的對象にも、比較的甚大な衝撃を感じ得たものであらうが、何としてもその感情の盛り上がりの絶大さには敬服させられる。
 「立つ」の語の重複は稍不快である。それは立つ〔二字傍点〕がこの歌の主命となつてゐるからと思ふ。結句或は多少の訛(1889)舛あるか。
 
足引之《あしひきの》 山河之瀬之《やまがはのせの》 響苗爾《なるなへに》 弓月高《ゆづきがたけに》 雲立渡《くもたちわたる》     1088
 
〔釋〕 ○あしひきの 山の枕詞。既出(三四三頁)。○なへに 既出(一九頁)。
【歌意】 穴師の〔三字右○〕山川の瀬の鳴るにつれ、弓槻が嶽に、あれ〔二字右○〕雲が立ち渡るわ。
 
〔評〕 上のと殆ど同趣同調。但おなじ山の雲を、上のは視覺から聯想し、これは聽覺から言及した。叙景の作として古來絶唱と稱へられた。二首とも多分は同一人の同時の作であらう。前首と同じく線の太い作で、左註は信を置くに足らぬが、まこと歌聖人麻呂の風格を想はしめる高調である。
 
右二首、柿本(ノ)朝臣人麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
大海爾《おほうみに》 島毛不在爾《しまもあらなくに》 海原《うなばらの》 絶塔波爾《たゆたふなみに》 立有白雲《たてるしらくも》     1089
 
〔釋〕 ○たゆたふ 「たゆたひに」を見よ(三六八頁)。「絶塔」は訓音まじりの借字。
【歌意】 大海に島もないのに、不思議や〔四字右○〕、廣い海のゆた/\と動く波のうへに、立つてゐる白雲であることよ。
 
〔評〕 天候不穩の折であらう、茫洋たる波の上にもや/\と雲が盛に湧き起つ。地上の山に立つ雲を見狎れた眼(1890)からは、島山でもあればとにかく、何を根にして立つか不思議の限だ。で「島もあらなくに」と疑問の石を投げた。詰り海邊の勝手を知らぬ大和人の作である。既に大海〔二字傍点〕をいひ更に海原〔二字傍点〕といふ、不用意の重複であらう。
 伊勢行幸供奉人の作だから、海は伊勢灣である。但作者は未詳。
 
右一首、伊勢(ノ)從駕(ガ)作(メル)。
 
詠(める)v雨(を)
 
吾妹子之《わぎもこが》 赤裳裾之《あかものすその》 將染※[泥/土]《ひづちなむ》 今日之※[雨/脉]※[雨/沐]爾《けふのこさめに》 吾共所沾名〔左△〕《われさへぬれな》     1090
 
〔釋〕 ○あかも 「あかもすそ」を見よ(一七六〇頁)。○ひづちなむ 「ひづち」は既出(五〇八頁)。訓は考による。古義訓ヒヅツラム〔五字傍線〕は鑿に近い。「※[泥/土]」は泥土の合字。○こさめ 「※[雨/脉]※[雨/沐]」は和名抄に、細雨、一名※[雨/脉]※[雨/沐]、小雨也、和名|古左女《コサメ》、とあり、毛詩の小雅北山の章、文選の呉都賦などにも見えた字面。○われさへぬれな 「な」は「きかな」(一一頁)のな〔傍点〕と同語。「名」原本に者〔右△〕とあるは誤。元本類本その他による。△寫眞 挿圖54(一六三頁)、69(二〇二頁)、158(五七五頁)を參照。
【歌意】 今日のこの小雨に、いとしいわが妻の赤裳の裾が、ビシヨ/\になることであらう。私も一緒に濡れたいな。
 
(1891)〔評〕 何かの所用で妻が外出した折、生憎小雨が降り出した。「赤裳のすそのひづちなむ」は、定めし出先で困難してゐるだらうとの意を、具象的に描寫したもので、その印象深さが、下句を引立てるに役立つてゐる。同じ雨に「われさへ濡れな」、一緒にその困苦も分つてみたいとは、何と情味の饒かな詞であらう。是等の柔心軟語は、直ちに近代的歌謠、即ち諸國盆踊歌以降の小唄に共鳴するものがある。
 
可融《とほるべく》 雨者莫零《あめはなふりそ》 吾妹子之《わぎもこが》 形見之服《かたみのころも》 吾下爾著有《われしたにけり》     1091
 
〔釋〕 ○とほるべく 「融」は借字。○けり 著たりの意。略解訓による。キタリ〔三字傍線〕と訓むも惡くない。尚「けせる」(一一一〇頁)。及び「ける」(一七三四頁)を參照。
【歌意】 濡れが〔三字右○〕透りさうに、雨は降るなよ。わが妻の形見の衣を、私は下に著込んでゐるわい。
 
〔評〕 上と同時の作と解せられぬこともないが、女の許から朝歸りする男の作と見た方が自然である。朝寒にお風召してはと貸してくれた女の下著、それが即ち「形見の衣」である。袍か何かの下にこれを著込んで出て來ると、丁度折柄が雨天だ。無論この時代の事とて車ではあるまい。馬でなければ徒歩だらうから、酷く降られてはとても溜らない。そこで「我妹子の形見の衣」に寄托して、「透るべく――な降りそ」、即ちお手柔にと、無心の雨に對してその同情を強ひた。かく形見の衣が如何に大切な物であるかのやうに揚言した處に、この作者の老獪を見る。
                                      
(1892) 詠(める)v山(を)
 
動神之《なるかみの》 音耳聞《おとのみききし》 卷向之《まきむくの》 檜原山乎《ひばらのやまを》 今日見鶴鴨《けふみつるかも》     1092
 
〔釋〕 ○なるかみの 音に係る枕詞。「なるかみ」は雷のこと。雷を神聖視して鳴神といふ。「動神」と書くは震動の意を取る。○おとのみききし 音にのみ聞きし〔七字傍点〕に同じい。「音」は噂をいふ。○ひばらのやま 檜林の山。地名ではない。○ひばら 檜原。檜の森林のこと。檜は松杉科の常緑喬木。すべて草木の叢生した處を何原といふ。藤原、杉原、橿原、竹原、萩原、藪原の類頗る多い。
【歌意】 これまで〔四字右○〕噂にばかり聞き及んでゐた、卷向の檜林の山を、今日見たことよなあ。
 
〔評〕 恐怖觀念から雷を神聖視することは、何れの國でも未開時代からの遺傳思想で、記紀の記載もその範疇に洩れない。まこと鳴神の音聞は、
  天雲の八重雲がくり鳴る神の音にのみやも聞き渡りなむ (卷十一――2658)
とも見えて、すばらしいものである。一體卷向山は三輪山の背後に聳立して、共に檜原を以て聞え、その黒々と繁つた特異の山相は、いとも懷かしい感じを以て迎へられたに相違ない。今は裸山だが――。隨つて穴師川も現在よりは水量が多少多かつたらうと思ふ。集中この山と川とに對する吟詠の多いことは、古人が深い關心をもつてゐた證據である。
(1893) されば作者がこの山を始めて仰視し得た歡喜は、推して知るべしである。「今日見つるかも」の措辭に就いては、卷三「隼人《ハヤヒト》の薩摩の瀬門を」の評語(六五七頁)に言及して置いた。尚集中
  隼人の薩摩の瀬門を雲居なす違くもわれはけふ見つるかも (卷三、長田王――248)
  今しくは見めやと念ひし三芳野の大川淀をけふ見つるかも (本卷――1103)
  音に開き目にはまだ見ぬ吉野河六田の淀をけふ見つるかも (同上――1105)
  眉根かき下いぶかしみ念へりし妹がすがたをけふ見つるかも (卷十一――2614ノ乙)
  水鳥の鴨のすむ池の下樋《シタヒ》なみいぶせき君をけふ見つかかも (同上――2720)
  きのふこそ船出はせしかいさな取ひぢきの灘をけふ見つるかも (卷十七――3893)
の如くに同じ結語が疊見し、それが萬葉人の套語であることを想はせる。殊に「音に聞き目にはまだ見ぬ」の歌は同想同趣であるが、この歌の方が簡淨で點の打處がない。
 再考すると、卷向山は飛鳥京からも奈良京からも手近の山で、大した高山でもなし、さう珍しがる程の事もない。上つ道中つ道を往來する者は熟面の山である。茲に至つてその寓意の作であることが考へられる。恐らく「卷向の檜原」はその外山の里たる穴師や三輪附近に居た遊女の類を托言したもので、噂に聞き及んでゐたそこの遊女に始めて逢ひ得た悦を歌うたものではあるまいか。後出の檜原の歌にもこの種の疑が濃厚である。
 
三毛呂之《みもろの》 其山奈美爾《そのやまなみに》 兒等手乎《こらがてを》 卷向山者《まきむくやまは》 繼之宜霜《つぎのよろしも》     1093
 
(1894)〔釋〕 ○みもろの 四言の句。「みもろ」の山は三輪山のこと。「みわのやま」を見よ(八三頁)。「みもろ」は御室《ミムロ》。の義で、神の座す處を專らいふ。大和では三輪に坐す大物主(ノ)神が最大の崇敬を得てゐたので、みもろ〔三字傍点〕の語が三輪山、三輪の神を斥す場合が多くなつた。○そのやまなみに 其山竝として〔三字傍点〕の意。こゝではみもろ(三輪)山に卷向山が連亘するのを「山竝に」といつた。「やまなみに」は「やまなみのよろしきくに」を見よ(一八四一頁)。○こらがてを 兒等が手を枕《マ》くといひかけた、卷向山の枕詞。「こら」は既出(五八八頁)。「まく」は「いはねしまきて」を見よ(三〇〇頁)。○つぎのよろしも 續きがよい。「よろし」はよろふ〔三字傍点〕の形容詞格。完全してよいの意。新考訓ツグガヨロシモ〔七字傍線〕は非。△地圖 挿圖338(一二六五頁)參照。
【歌意】 三諸のあの山竝びとして、卷向山は、續き合ひのよいことなあ。
 
〔評〕 神山三輪を主體として、お隣の卷向山を賛美した。共にこれ欝蒼たる檜原の山で、森嚴の氣が漲り、映り(1895)榮えがするといふのである。
 
我衣《わがころも》 色將〔左△〕染《いろにしめなむ》 味酒《うまざけ》 三室山《みむろのやまは》 黄葉爲在《もみぢしにけり》     1094
 
〔釋〕 ○いろにしめなむ 「將」原本に服〔右△〕とある。古義説によつて改めた。契沖宣長は「色服」を服色〔二字右△〕の顛倒として、服〔傍点〕を上句に屬せしめ、色染〔二字傍点〕を宣長はイロニソメナム〔七字傍線〕と訓んだ。ソメもシメも古代は共通の語。○うまざけ 四言の句。「味洒」はもと三輪に係る枕詞であるが、三輪山は即三諸の山なので、三諸山の枕詞に轉用した。既出(八三頁)。古義は別義を立てゝ、酒の實《ミ》は脆美《モロキ》ものなれば味酒|實脆《ミモロ》をみもろ又はみむろに係けたと解した。○みむろのやま みもろの山に同じい。○もみぢしにけり 童蒙抄その他の訓による。
【歌意】 私のこの衣を、あの赤い色にさ染めようぞ。見れば〔三字右○〕三室の山は、よく〔二字右○〕色付いたことであるわい。
 
〔評〕 黄土を見ては「岸の埴生に匂はさましを」(卷一)といひ、萩原には、「衣匂はせ」(同上)といふ。三諸山は大體は常磐木の林であるが、今でも秋は紅葉する雜木があつて美しい。それが「色に染めなむ」とあるので、いかにもその紅葉の爛たる光景が思ひ遣られる。當時染色法は非常に發達してゐたものゝ、一面には原始染法の慣習も多分に殘存してゐたので、かうした着想も浮かんでくるのである。
 
三諸就《みもろつく》 三輪山見者《みわやまみれば》 隱口乃《こもりくの》 始瀕之檜原《はつせのひばら》 所念鴨《おもほゆるかも》     1095
 
(1896)〔釋〕 ○みもろつく 既出(一八五五頁)。「就」は借字。○こもりくの 初瀬の枕詞。既出(一七六頁)。「始」に初《ハツ》の意がある。△地圖及寫眞 挿圖152(五五五頁)、24(八三頁)を參照。
【歌意】 この三輪山を見ると、あの初瀬の檜原山が、思はれることよ。
 
〔評〕 初瀬の稱は範圍が廣く、初潮川兩岸の山地に亙つてゐるけれど、尚初瀬町の初瀬山を本據とする。長谷(ニ)坐(ス)山口(ノ)神社もそこにある。往古材木の産地で、檜原があつたのであらう。祝詞(祈年祭、六月月次祭)にも山口の神として、飛鳥、石村、忍坂に並べて、長谷《ハツセ》(初瀬)を擧げてある。
 三輪の檜原から初瀬の檜原を聯想した。檜原が一首の主命である。そして三輪以上に初瀬の檜原が廣大な立派なものであることが暗證される。
 この歌も他に準擬したものがありはせぬか。三輪女を見て端なく初瀬女を慕ぶ、かうも考へられぬ事もない。
 するとその女も或は遊女の儔であらう。
 
昔者之《いにしへの》 事波不知乎《ことはしらぬを》 我見而毛《われみても》 久成奴《ひさしくなりぬ》 天之香具山《あめのかぐやま》     1096
 
〔釋〕 ○あめのかぐやま 既出(二一頁)。△地圖及び寫眞挿圖6(二二頁)、4(一九頁)を參照。
【歌意】 古代の事は知らぬものゝ、自分が見てまあ、既に永いことになつたよ、天の香久山は。
 
〔評〕 香久山が神代に高天の原から天降りました山との傳説は、古代から大和人の心に銘記されてをり、その久しいものである事は誰れも承知してゐるので、わざと反説的に「いにしへの事は知らぬを」といひ、それを前提として「われ見ても久しくなりぬ」と詠歎した。そこに作者自身の存在の久しい事が暗證される。飛鳥磐余邊に住んでゐた老人の感懷とおぼしい。古今集の
  われ見ても久しくなりぬ住の江の岸のひめ松いく代經ぬらむ (雜上)
は無論これから脱化したものである。
 
吾勢子乎《わがせこを》 乞許世山登《いでこせやまと》 人者雖云《ひとはいへど》 君毛不來益《きみもきまさず》 山之名爾有之《やまのなにあらし》     1097
 
〔釋〕 ○わがせこを 「を」は呼格の辭。○いでこせやま いで來《コ》を巨勢山にいひかけた。「いで」は(三八三頁)、「こせやま」は(二一五頁)に既出。舊訓コチコセヤマ〔六字傍線〕は非。○やまのなにあらし 眞淵訓ヤマノナナラシ〔七字傍線〕。△地圖及寫眞 挿圖7(二八頁)、76(「二一六頁)を參照。
(1898)【歌意】 わが背《セ》子よさあ來い、といふ名の巨勢山だと、人はいふけれど、一向その君もお出がない。コリヤ山の名だけの事であるらしい。
 
〔評〕 巨勢の名は來《コ》に通うて一寸面白いので、「知らぬ國寄りこせ路」(卷一)「さゝれ波磯こせ路」(卷三)の類の弄語が多い。「人はいへど」とあつても、實は人のいふは巨勢といふ地名だけなのだ。只作者が勝手に「わが背子をいで來《こ》」の注文を巨勢に冠して、全部を人言の如くに取成し、そこに聊の希望を置いてみたものだが、「君も來まさず」の現實に幻滅の悲哀を感じて、「山の名にあらし」有名無實だと罵倒した。その「君」は恐らく巨勢人であらう。拾遺集には、
  わがせこを來ませの山と人はいへど君も來まさぬ山の名ならし (戀三)
と變化して出てゐる。
 
木道爾社《きぢにこそ》 妹山在云《いもやまありといへ》 玉〔左〔右○〕櫛上《たまくしげ》 二上山母《ふたがみやまも》 妹許曾有來《いもこそありけれ》     1098
 
〔評〕 ○きぢ 「きぢにありとふ」を見よ(一四二頁)。○いもやま 「勢能《セノ》山」を見よ(一四一頁)。○たまくしげ 玉|櫛笥《クシゲ》、既出(三一四頁)。櫛笥には蓋《フタ》があるので、その蓋を「二上」に係けた枕詞。「玉」原本にない。眞淵説に依つて補つた。京本その他は三〔右○〕の落字として、ミクシゲ〔四字傍線〕と訓んだ。「上《アゲ》」をゲと讀む例は集中他にもあ(1899)る。○ふたがみやま 「二上山」を見よ(四六一頁)。△地圖及寫眞 挿圖131(四六一頁)、132(四六二頁)、99(三一四頁)を參照。
【歌意】 紀伊路にはさ、妹山があるといふ、だが大和の〔五字右○〕二上山も、連れ合の妹山がさ、あることわい。
 
〔評〕 紀の國の妹兄の山は古來有名である。今は大和の二上山にも、雄嶽の外に雌嶽即ち妹山あることを揚言した。これは山にもそれ/”\夫婦があるといふ、單なる報告ではない。實は恥かしながら、ある鰥男《ヤモメ》が孤獨感に打たれての妻戀ひの詞である。
 依つて思ふに、この歌は阿閉(ノ)皇女(元明天皇)が勢《セ》の山を越えられた時の御歌、
  これやこの大和にしてはわが戀ふる紀路にありといふ名に負ふ夫《セ》の山 (卷一−35)
から轉生したものではあるまいか。原歌は夫君草壁皇子を御追懷の作である。さればこれも、我妹子に先立たれた大和男が、妹山に寄懷してその追慕の情を敍べたものと見たい。
 「二《フタ》」の語に揃笥の蓋を湊合した弄語が多い。櫛笥は勿論「たわやめの櫛笥に載れる」(卷四)とある如く、紅閨中の物であるが、男と雖も古人は常に鏡に對して梳つたもので、櫛笥の御用は不斷にあつた。
 
詠(める)v岳《をかを》
 
片崗之《かたをかの》 此向峯《このむかつをに》 椎蒔者《しひまかば》 今年夏之《ことしのなつの》 陰爾將比擬〔左△〕《かげにたぐはむ》     1099
 
(1900)〔釋〕 ○かたをか 大和葛下郡。紀に「しなてる片岡山」と見えて、二上山東麓にある一座の岡陵。○むかつを 向うの峯。「を」は山の高い處の稱。峯又丘をいふ。時に山の頽れた邊をも稱する。○しひ 殻斗科の常緑木。既出(四一五頁)。○なつのかげ 夏の樹蔭。○たぐはむ 擬《マガ》ふをいふ。「擬」原本に疑〔右△〕とあつて、ナミムカと訓んであるが、これは必ず比擬〔二字傍線〕の熟語と考へられる。古義は「比」を化〔右△〕の誤としてナランカ〔四字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 片岡のあの向うの峯に、椎の實を蒔かうならば、それが生ひ立つて〔八字右○〕、今年の夏の樹蔭にたぐはうよ。
 
〔評〕 今蒔いた椎が今年の夏蔭にたぐふ程生ひ立つことは、事實あり得ない。誇張としても過ぎてゐる。これは何かの比喩であらう。
 
詠(める)v河(を)
 
卷向之《まきむくの》 病足之川由《あなしのかはゆ》 往水之《ゆくみづの》 絶事無《たゆることなく》 又反將見《またかへりみむ》     1100
 
〔釋〕 まきむくのあなしのかは 既出(一八八一頁)。○かはゆ この「ゆ」はヲの意に近い。○ゆくみづの 行水の如く〔二字右○〕。「絶ゆることなく」に係る序詞。
【歌意】 卷向の穴師川を、行く水のやうに、絶え間なしに、又立返つて見ようぞ。いかにもいゝ川の風景だ〔十一字右○〕。
 
(1901)〔評〕 「行く水の絶ゆる事なく」及び「又返り見む」は例の套語。上出の各條下を檢討されたい。
 
黒玉之《ぬばたまの》 夜去來者《よるさりくれば》 卷向之《まきむくの》 川音高之母《かはとたかしも》 荒足鴨疾《あらしかもとき》     1101
 
〔釋〕 ○ぬばたまの 既出(三〇四頁)。〇さりくれば 「はるさりくれば」を見よ(七九頁)。○まきむくのかは 穴師川と同じい。前出。○あらし 荒風。「し」は息《イキ》または風をいふ。「足」は借字。
【歌意】 夜になつてくると、卷向の川音が高いことよ、山の嵐が疾いせゐかまあ。
 
〔評〕 山は靜寂の夜、滿身の神經は悉く耳に集まる。これ川の瀬鳴の高さに強い衝撃を感ずる所以である。乃ち卷向おろしの烈しさに想到した。推移が自然である。上の弓槻が嵩の二首と詩境は相似て、被れは風を言外の含蓄にとゞめ、これは説破してゐるだけ、その點に於ての迫眞力は強い。「あらしかも疾き」の五音二音から成る促調と聲調の鋭さとは、激しい震動を全首に波及させる。
 
右二首、柿本(ノ)朝臣人麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
大王之《おほきみの》 三笠山之《みかさのやまの》 帶爾爲流《おびにせる》 細谷川之《ほそたにがはの》 音乃清也《おとのさやけさ》     1102
 
〔釋〕 ○おほきみの 大王の御蓋《ミカサ》を「みかさの山」に係けて枕詞とした。「みかさ」は「きぬがさ」を見よ(六四(1902)六頁)。○みかさのやま 「みかさやま」を見よ(六二一頁)。○おびにせる 帶としてゐる。○ほそたにがは 細い谷川。普通名詞。
【歌意】 三笠山がその腰に帶として佩びてゐる、細い谷川の水音が、清かなことよ。
 
〔評〕 山腰の溪流を、人の腰をめぐる帶に喩へることは、この他にも、
  みもろの神のおばせる泊瀬川…………………………(卷九――1770)
  甘南備のみもろの神の帶にせる明日香の河の………(卷十三――3227)
  神名火の山の帶にせる明日香の河の…………………(同上――3266)
の等類がある。古代から近古までの帶は幅の狹い物だつたから、細谷川を擬へるには尤もふさはしい。姿も調も聲響も亮かに爽かな歌である。これを承和の大嘗會には吉備歌に取成して、初二句を
  眞金ふく吉備の中山帶にせる細谷川のおとのさやけさ (古今集、雜體)
と歌ひ換へてある。
 さてこの細谷川は、「みかさの山」を春日の社後の御蓋山とすれば卒《イサ》川や吉城《ヨシキ》川であらうし、汎く春日山の事とすれば、高圓山との溪澗から流下する能登《ノト》川が當てはまるやうである。
 
今敷者《いましきは》 見目屋跡念之《みめやとおもひし》 三芳野之《みよしぬの》 大川餘杼乎《おほかはよどを》 今日見鶴鴨《けふみつるかも》     1013
 
(1903)〔釋〕 ○いましきは 今は〔二字傍点〕と同じで、その意が強い。續紀(卷廿五)天平寶字八年九月の宣命に、今|乃《ノ》間《マ》此|太子乎《ヒツギノミコヲ》定(メ)不v賜(ハ)在(ル)故《ユヱ》方《ハ》、――今|之紀乃間方念見《シキノマハオモヒミ》定(メ)牟(ム)仁《ニ》と見え、今の間〔三字傍点〕と、今しきの間〔五字傍点〕とを使ひ分けてある。宜長訓による。舊訓イマシクハ〔五字傍線〕。○おほかはよど 大きな河の淀み。△地圖挿圖35(一一〇頁)を參照。
【歌意】 今はもう見られようかい、と思つたことであつた、吉野の大河淀を、幸に今日見たことよなあ。
 
〔評〕 吉野の大河淀は六田《ムツタ》の淀あたりのことであらう。山遠く河原が濶けて、風景が明朗である。「今しきは見めや」は何の理由によるか不明であるが、奈良人は飛鳥人や藤原人と違つて、吉野が遠隔の地になるから、再三の往訪はとてもむづかしい。それを何かの都合で再遊し得た喜の情を歌つたものらしい。
 
馬竝而《うまなめて》 三芳野河乎《みよしぬがはを》 欲見《みまくほり》 打越來而曾《うちこえきてぞ》 瀧爾遊鶴《たきにあそびつる》     1104
 
〔釋〕 ○うまなめて 馬を竝べて。既出(三六頁)。この句は四句へ係る。○みよしぬがは 吉野《ヨシヌ》川のこと。○みまくほり 「みまくほりする」を見よ(九一○頁)。○うちこえて 野山を〔三字右○〕打越え來て。○たき 吉野離宮所在地の瀧で、吉野川の激湍である。卷一、人麻呂の幸2吉野宮1時歌の條下を參照(一四四頁)。△寫眞 挿圖47、48、50(一四五頁−一五一頁)を參照。
【歌意】 景色のいゝ吉野川を見たく思うて、人達と〔三字右○〕馬を乘り竝べて、野山を〔三字右○〕越えて來てさ、この河の瀧つ瀬に遊んだわい。
 
(1904)〔評〕 これも奈良人の作である。藤原宮時代には日もこれ足らずと出遊された吉野だ。京が奈良に遷つては、一遍に輿馬の影綺羅の香を絶つて、もとの寂寥に返つたものゝ、奈良人は歴史的に慣習的に、そのあくがれをもつてゐる。されば日頃の渇望を醫すべく思ひ立つて、朋友兩三輩、遠乘で出掛け、蜻蛉離宮を訪うて、その宮瀧に遊んだ。實に記念すべき勝遊である。「打越え來てぞ瀧に遊びつる」、率直極まつた表現に、その歡喜の情が躍動する。但「馬なめて」「打越えきて」の同詞態は一寸面白くない。
 「打越え來てぞ」は下の歌にも「何時か越え來て」とあり、高市都の岡から鹿路にかゝり、上市へと山越えしたものか。これが一番吉野への近道である。然し巨勢路から廻つたのでもさういはれる。
 
音聞《おとにきき》 目者未見《めにはまだみぬ》 吉野河《よしぬがは》 六田之與杼乎《むつだのよどを》 今日見鶴鴨《けふみつるかも》     1105
 
〔釋〕 ○むつだのよど 後世にはムタとも略しいふ。吉野都大淀村。吉野村への渡津あり、水邊楊柳が多いので、柳の渡しとも稱する。△寫眞 挿圖286(九五九頁)を參照。
【歌意】 噂に聞きながら、目にはまだ見ない、吉野河の六田の淀を、今日目の前に〔四字右○〕見たことよなあ。
 
〔評〕 「音に聞き目にはまだ見ぬ」のくどい叙法は、「今日見つる」の喜びを強く映出させよう爲の手段である。六田の淀は吉野山に入る渡津として、清き河原を隔てゝ前面は近く吉野山に對し、遠く山上金峯青根百戒の連峯を望み、蛙は鳴き、千鳥は飛び、柳は靡く、宮瀧地方の山峽とは、おのづから別趣の勝境である。
 
(1905)河豆鳴《かはづなく》 清川原乎《きよきかはらを》 今日見而者《けふみては》 何時可越來而《いつかこえきて》 見乍偲食《みつつしぬばむ》     1106
 
〔釋〕 ○きよきかはら 卷六にも「楸おふる清き河原」とある。○けふみては 今日見てさて〔二字右○〕は。○こえきて 野山を〔三字右○〕越え來て。○しぬばむ こゝは愛賞の意。
【歌意】 蛙の鳴く、この吉野の〔五字右○〕清い河原を、今日見てさては〔三字右○〕、何時又野山を〔四字右○〕越えて來て、この景色を見つゝ愛でようことか。
 
〔評〕 吉野の詠であることはいふまでもない。今でも上市邊では旅人の夢を妨げるほど蛙が鳴く。再遊はとても覺束なからうとは、作者だけの特別事情もあらうが、又當時の道途の不便も想ふべしである。上下句應接の間に又〔右○〕の意が包含されてゐる。表現はさううまいものでない。
 
泊瀬川《はつせがは》 白木綿花爾《しらゆふばなに》 墮多藝都《おちたぎつ》 瀬清跡《せをさやけみと》 見爾來之吾乎《みにこしわれを》     1107
 
〔釋〕 ○はつせがは 「はつせのかは」を見よ(二七二頁)。○しらゆふばなに 既出(一六一六頁)。○せをさやけみと 「と」は強辭。接屬辭のトでない。○われを 「を」は呼辭。△地圖及寫眞 挿圖152(五五五頁)、86(二七二頁)、419(一七四七頁)を參照。
(1906)【歌意】 初潮川の、白木綿花のやうに落ちたぎる、河瀬がまあきれいさに、見に來た自分よ。
 
〔評〕 それ故飽くまで愛賞せずにはおくまいの餘意がある。抑も萬葉人は初瀬を頻に口頭に上せてゐる。それは初瀬國が優秀であるばかりではない。地理的に大和南部の故京に近く、又伊勢路の街道にも當り、接觸の機會が多かつたことも因を成してゐると思ふ。
 卷六に「石走りたぎち流るゝ初瀬河」とあるは、即ちこゝにいふ「白木綿花に落ちたぎつ」である。かく川瀬の白波を白木綿花に擬することは卷六に二首、卷九に一首見え、格別珍しくはない。只白木綿花は初瀬女の作る物だから、處がら初瀬川に親切であるといふに過ぎない。尚「山高み白木綿花に落ちたぎつ」(卷六)の條下を參照。(一六一六頁)
 
泊瀬川《はつせがは》 流水尾之《ながるるみをの》 湍乎早《せをはやみ》 井提越浪之《ゐでこすなみの》 音之清久《おとのさやけく》     1108
 
〔釋〕 ○みを 水脈。水すぢ。○ゐで 飲料にせよ灌漑にせよ、用水をすべて井といふ。さてその水を塞く塘をも堰《ヰ》といふ。手はその料の意。古義に手を留《トメ》の約と解したのはいかゞ。「提」は音借字。○さやけく 清けくあるかな〔四字右○〕の省略格。
【歌意】 初瀬川は、流れる水筋の瀬がまあ速さに、その堰※[土+隷の旁]を打越す波の音が、清《サヤ》かであることよ。
 
〔評〕 初瀬川は大和では廣い川で、少しは河原もあり、隨つて「流るゝ水脈」もある。附近の水田の渠に引く爲、(1907)川中に堰坑を打ち柵を造つて、水を壅ぐ。湛へられた水は、堰※[土+隷の旁]を越えて淙々の響を立てる。
  さされ波磯こせ路なる能登瀬川音のさやけさ瀧つ瀬ごとに (卷三、波多少足――314)
と比較して、その規模が稍大きなことが想像されよう。但對象も感想も酷似したもので、何れも打越す波の美しさを見つゝ、その清かな響を讃歎してゐる。憾むらくは「瀬を速み」の一句、幾分の理路に著した。
 
佐檜乃熊《さひのくま》 檜隈川之《ひのくまがはの》 瀬乎早《せをはやみ》 君之手取者《きみがてとらば》 將縁言毳《よせいはむかも》     1109
 
〔釋〕 ○さひのくま 「さ」は美稱。「ひのくま」は大和高市都|檜前《ヒノクマ》郷。(今の阪合村)。「熊」は借字。○ひのくまがは 高取山より出で眞弓の岡の東を經、久米寺の西を過ぎて重坂《ヘサカ》川(能登瀬川)と合する。○よせいはむ 言寄せむの意。かこつけ言ふこと。略解訓による。眞淵及び古義は「縁言」を言縁〔二字右△]の顛倒として、コトヨセム〔五字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 この檜隈川の瀬がまあ速さに、貴女の手を取つてあげようなら、人が〔二字右○〕濡衣をいひかけませうかなあ。
 
〔評〕 檜隈川は小さな川だから、架橋の少ない時代では、石梁《イハハシ》即ち瀬の置石を踐んで徒渉したのであらう。けれど瀬は速し石はグラ/\する。危いから女の手を執つて扶けてやらうと思つたが、待て暫しと一寸躊躇した。う(1908)つかり親切氣を見せて、世間で譯でもあるやうにいひ立てられてはと、そこに理性が一寸頭を擡げた。
  秋の田の穗田の刈ばかかよりあはばそこもか人の吾を言《コト》なさむ (卷四、草孃――510)
と似た面白い情趣である。この「君」は見知り越しか或は行摺りの女であらう。
 「さ檜の隈檜の隈川」の疊語は、「み吉野の吉野の宮」(卷三)と同樣式で、古歌特有の歌謠的語調を成すもの、
  さ檜の隈檜の隈川に馬とめて馬に水飼へわれよそに見む (卷十二――3097)
の初二句もこれと同一軌である。又「瀬を速み」はこゝでは輕々に看過し難い主眼の語である。
 
湯種蒔《ゆだねまく》 荒木之小田矣《あらきのをたを》 求跡《もとめむと》 足結令〔左△〕所沾《あゆひぬらしつ》 此水之湍爾《このかはのせに》     1110
 
(1909)〔釋〕 ○ゆだねまく 「ゆだね」(1)齋種《ユダネ》の義。齋ひ潔めた稻種をいふ。等由氣《トユケノ》宮儀式帳に「二所(ノ)大神乃|御饌《ミケ》處乃御田尓下立弖先(ヅ)菅裁(チ)物忌(ミ)、湯鍬《ユスキ》持弓東(ニ)向(ヒ)耕佃《タガヘシ》、湯草湯種〔二字傍点〕下(シ)始(メ)云々」とある(古説、和訓栞説。(2)五百種《イホダネ》の義。五百をユ〔傍点〕といふ。(契沖説)(3)井種の義。井に漬け置ける稻種をいふ(宣長説)。(1)を可とする。「まく」を舊訓マキ〔二字傍線〕とあるは非。○あらき 新懇《ニヒバリ》をいふ。又その處。語義は古義にいふ新掻《アラカキ》の略かと。○あゆひぬらしつ 足結を沾らした。「令」原本出〔右△〕とあるは誤。今假にこの字を當てた。また者〔右△〕の誤として、拾本訓及び宣長訓にアユヒハユレヌ〔七字傍線〕とある。○あゆひ 足結《アシユヒ》の略。袴の裾を結ぶ紐。※[塞の土が衣]げる時は膝の邊に結ぶ。その足結に鈴を附けもしたと見え、記紀に足結の小鈴の語がある。○このかはのせに 「水」をカハと訓む。卷二に石水をイシカハ、卷三に水可良思をカハカラシとある。
【歌意】 齋種を蒔く新墾の田を、求めようとして、足結をつひ濡らしたわい、この川の瀬でね。
 
〔評〕 種蒔する新墾田《アラキダ》の場處さがしに出てあるいて、たま/\小川を横切つた處、思の外水が深くて、足結を濡らしてしまつた。ありさうな事である。古義に
  父母の守れるいつき娘を得むとてかにかくせしを、見顯はされて障へられしを、足結を沾せしに比へしにや。(1910)或はさうした譬喩の意があるかも知れない。とすれば「この川の瀬に」の現實性が強いから、山は女の家の近くのらしい。往時の田園風趣の味はれるのは嬉しい。
 
古毛《いにしへも》 如此聞乍哉《かくききつつや》 偲兼《しぬびけむ》 此古河之《このふるかはの》 清瀬之音矣《きよきせのとを》 1111
 
〔釋〕 ○しぬびけむ 愛賞の意を過去想像にいつた。○ふるかは 布留川。古川とも書く。大和山邊郡山邊村の溪間より發し、石上神宮の下を過ぎ、末は初瀬川に入る。尚「ふるやま」を參照(一〇八六頁)。△地圖 挿圖282(九四二頁)を參照。
【歌意】 昔でも今の私がやうに〔七字右○〕、かう聞き/\して、愛賞したことであらう、この布留川の清い瀬の音をさ。
 
〔評〕 石上《イソノカミ》布留《フル》の地は崇神天皇の御代に布都の御魂を齋き祀られてからこの方、仁賢安閑御二代の皇居があり、名族石上氏の故居でありなどして、往古は人出入の多い土地であつたらしい。布留の山が盛に吟詠に上るのを(1911)見てもさう點頭かれるであらう。然しその川の消息に至つては寥々たるもので、集中にも一二首に過ぎない。別に古人が愛賞した典故もない。蓋し微々たる小川である。多分古人に假托して、わが愛賞に理由づけたものであらうか。かうした幻手段を弄することも詞人の權利である。
 
波禰※[草冠/縵]《はねかづら》 今爲妹乎《いまするいもを》 浦若三《うらわかみ》 去來率去河之《いざいざがはの》 音之清左《おとのさやけさ》     1112
 
〔釋〕 ○はねかづらいまするいも 「はねかづら」及び「いまする」を見よ(一三二〇頁)。○うらわかみ 少《ワカ》さにの意。草木にいふ末《ウラ》若しの義より轉じた語。○いざ 誘ひ立てる意の副詞。「はねかづら」より「いざ」までは、疊音によつて率《イザ》川を呼び出した序詞。○いざがは 率川。春日山中に發源し、猿澤の池の南を※[しんにょう+堯](1912)つて、率川の社前を過ぎ、奈良の西に至つて奈良川に入る小川。「率去」の去は添字。
【歌意】 はね※[草冠/縵]を今する女がまあ年若さに、男達が誘ひ立てる詞の、いざ〔二字傍点〕といふ名の、率川の水音の清かなこ
 
〔評〕 四句の初語までを序詞とした體は、集中
  ますらをが幸矢たばさみ立ち向ひ射る圓方《マトカタ》は見るにさやけし (卷一、舍人娘子――61)
の外なほ數首を數へることが出來る。殊にこれはその序態が「宵にあひてあした面なみなばりにか」(卷一)と同じく、男女關係の艶語に依つたことが、姿致を求め過ぎて厭味に墮してゐる。奈良後期の萬葉人は、かうした弄技を漸く喜んで來た。又
  はねかづら今する妹を夢に見てこゝろのうちに戀ひ渡るかも (卷四、家持――705)
  はねかづら今する妹がうら若みゑみみ慍りみ著けし紐解く (卷十一――2627)
かくの如く、初二句は當時の套語となつてゐた。
 
此小川《このをかは》 白氣結《きりぞむすべる》 瀧至《たぎちゆく》 八信井上爾《はしゐのうへに》 事上下不爲友《ことあげせねども》     1113
 
〔釋〕 ○きり 「白氣」は霧の色が白いので充てた字面。○むすべる 古義に霧に結ぶといふ例なしとて、キリタナビケリ〔七字傍線〕と訓んだのは拘泥。○たぎちゆく 古義に「至」をユクと訓む例集中になしとて、落〔右△〕又は墮〔右△〕の誤としたのは不當。例ある宇ばかり用ゐる約束は始からない。○はしゐのうへに 走井《ハシリヰ》の邊に。走井は迸る泉をいふ。(1913)「走」をハシと訓むは石走《イハハシ》の語例による。これは古義説。舊訓のハシリヰノウヘニ〔八字傍線〕に從つて、或人の「信」をシリと讀むは平群の群をクリと讀むに同じとしたのは穿鑿。○ことあげせねども 言擧《コトアゲ》せねども。言擧する時は息吹《イブキ》の霧が立つのでいふ。「ことあげ」は既出(一七二一頁)。「上下」は熟語としてアゲと訓む。新考は「事上」を嗟〔右△〕の誤としてナゲキセネドモ〔七字傍線〕と訓んだ。意はよく徹るが姑くもとのまゝに從つた。
【歌意】 あの小川に霧がさ生つたわい、たぎつてゆくこの走井の邊で、自分は息吐いて〔四字右○〕言擧《コトアゲ》もしないけれど。
 
〔評〕 男らしい歌である。雄詰びにたけんで言擧したら、その息吹には霧も立たう。今は只何の事なしに混々と湧き立つ走井の水の行方を眺めると、一抹の霧がそこに靡いてゐるではないか。別に言擧した覺えもないにと、作者はそこに不思議を感じた。略解に、神代紀の
  天照大神、素戔嗚尊の十握劍を乞ひ取り、三|段《キダ》に打折り、天の眞名井に振りすゝぎて、吹き棄《ウ》つる息吹の狹霧に生《ナ》りませる神の御名を云々。(紀卷一)、
 故事を思ひて井の邊の霧を詠めるなりとある。この典故は有つてもよし無くても通ずる。
 歎きの霧に就いては、卷五「大野《オホヌ》山霧立ち渡る」の條下を參照。(一四一四頁)
 
吾紐乎《わがひもを》 妹手以而《いもがてもちて》 結八川《ゆふやがは》 又還見《またかへりみむ》 萬代左右荷《よろづよまでに》     1114
 
〔釋〕 ○わがひも わが衣の〔二字右○〕紐。○ゆふやがは 吉野にある川の名。或は吉野川の一部の稱か。卷一「ゆふのか(1914)はのかみも」を參照(一五四頁)。訓のユフヤは元本による。舊訓ユフハ。初二句は紐を結《ユ》ふを川の名にいひかけた序詞。○よろづよまでに 萬代までも〔右○〕といふに同じい。
【歌意】 自分の衣の紐を妹が手でもつて結ふ、その結ふといふ名の結八川よ、この面白い景色を〔八字右○〕、萬代の末までも、何遍となく立返つて來て見ようぞ。
 
〔評〕 男女の紐結びの事は、卷三「淡路の野島が崎の濱風に」の評語中にいつて置いた。下句は套語と套語との構成で、一向新味がない。僅に序詞の艶辭が多少の風情を點じてゐるが、例の厭味に墮する。
 
妹之紐《いもがひも》 結八川内乎《ゆふやかふちを》 古之《いにしへの》 并〔左△〕人見等〔左△〕《よきひとのみき》 此乎誰知《こをたれかしる》     1115
 
〔釋〕 ○いもがひもゆふ (1)妹がわが〔二字右○〕紐を〔右○〕結ふ。(2)妹が紐をわが〔三字右○〕結ふ(新考)。古へは夫婦互に衣の紐を結びあふ慣習もあつたから、どちらでもいへるが、打任せては矢張、男の紐を女が結ふと見たい。○かふち 既出(一四五頁)。○よきひとのみき 「并」は良〔右△〕「等」は幾〔右△〕の誤と見て、試にかく讀んだ。「よきひと」は既出(一一六頁)。略解は「并」を淑〔右△〕の誤としてヨキヒトミキト〔七字傍線〕と訓み、古義は「并人」を顛倒とし、「等」は管〔右△〕「誰知」は偲吉〔二字右△〕の誤として、ヒトサヘミキトココヲシヌビキ〔一四字傍線〕と訓んだ。○こを 此れを。
【歌意】 風景絶佳の〔五字右○〕結八川の河内を、古へのよい人が愛でて見たことわい。この〔二字右○〕意を誰れが知るかい。
 
(1915)〔評〕 自分より外に理解する者はあるまいの餘意がある。間接にかく結八河内を愛賞する自分は、そのよき人の儔であることを主張してゐる。吉野のよき人に就いては、懷風藻の詩や、天武天皇御製の
  よき人のよしとよく見てよしといひし吉野よく見よよき人よくみつ (卷一――27)
が最先出で、著名になつてをり、世間周知の事である。然るに「こを誰れか知る」は事實と矛盾する。そこがこの歌の山なので、わざと自分ばかり知つてゐるのだと、逆手を打つて力強く頑張つたものだ。
 尚卷一の「よき人の」の條下の評語を參照(一一六頁)。
 
詠(める)v露(を)
 
烏玉之《ぬばたまの》 吾黒髪爾《わがくろかみに》 落名積《ふりなづむ》 天之露霜《あめのつゆじも》 取者消乍《とればけにつつ》     1116
 
〔釋〕 ○ぬばたまの 黒の枕詞。既出(三〇四頁)。○ふりなづむ 降り滯り著くをいふ。「なづさふ」を參照(九五八頁)。○あめのつゆじも 既出(一二七三頁)。○けにつつ 「ふけにつつ」を見よ(七一二頁)。古義訓による。舊訓キエツツ〔四字傍線〕。
【歌意】 自分の黒髪に、落ちて附著する天の露霜を、手に〔二字右○〕取ると、消えに消えてしまつてさ。ほんにはかない〔七字右○〕。
 
〔評〕 「わが黒髪に霜のおくまでに」(卷二)など、男と違ひ婦人は全く無帽だから、大事の黒髪に、さて霜が置き(1916)露が置く。氣にせざるを得まい。チヨイと手を遣つて拂へば、指先はしとゞだ。「取れば消につゝ」は手にも溜らぬをいふ。婦人の態度と氣持がよく出てゐる。かく露霜のはかなさを主眼としてはゐるが、それは待つに來ぬ夜の閏怨の結果なので、
  君待つと庭にし居ればうち靡くわが黒髪に霜ぞ置ける (卷十二――3044)
の趣を本として、更に別樣を裁出したものである。幽怨の氣味が殊に深い。
 「あめの」の讃語はその崇高な聯憩を以て、上句の大まかな辭樣に均衡を取つたもので、かねて「とれば」の伏線を成してゐる。
 
詠(める)v花(を)
 
島廻爲等《しまみすと》 礒爾見之花《いそにみしはな》 風吹而《かぜふきて》 波者雖縁《なみはよすとも》 不取不止《とらずはやまじ》     1117
 
〔釋〕 ○しまみ 「しまみする」を見よ(一六七〇頁)。
【歌意】 島めぐりするとて、礒邊に見掛けた美しい花、假令風が吹いて波が寄せるとても、取らずにはおくまい。
 
〔評〕 單に花を愛翫する意としては、語氣が餘に強過ぎる。譬喩であることは間違ひもない。偶ま海村に遊んで美しい女を見かけ、如何なる邪魔があつても、手に入れずにはおくまいの意を、水邊の花に寓せて構成した。勿論一時の座興で、さう實行性をもつものではないと思ふ。
(1917)  わたの底しづく白玉風吹きて海は荒るとも取らずはやまじ (本卷、譬喩歌――1317)
と全くの雙生兒である。
 
詠(める)v葉(を)
 
古爾《いにしへに》 有險人母《ありけむひとも》 如吾等架《わがごとか》 彌和乃檜原爾《みわのひばらに》 挿頭折兼《かざしをりけむ》     1118
 
〔釋〕 〇ありけむ 「あり」は在りの意。○みわのひばら 三輪山の檜林。「三輪山」も「ひばら」も上出。○かざし 既出(一五四頁)。
【歌意】 いにしへ居たであらう人も、今の〔二字右○〕私のやうに、三輪の檜原で、髪挿を折つたことでありませうか。
 
〔評〕 檜原で折る髪挿は即ち檜葉である。檜葉などかざしたとて、何の風情もなささうだが、古代人は平群の山の熊橿の葉を髫華《ウズ》に挿し(記)たり、眞析葛《マサキヅラ》を鬘にし(紀)たりしたものだ。奈良時代でもこの歌の他に、
  あし引の山の木ぬれの穗よとりてかざしつらくは千年ほぐとぞ (卷十八、家持――4136)
と見え、あながち花紅葉の色物ばかりをしてはゐない。
 三輪は海石榴市《ツバイチ》かけて、往時は殷賑の地であつたと思はれる。作者はそこに於いて或遊女に出合つた。さて隨分ふるく馴染の男もあつたらうとの想像のもとに、いにしへの人も「わが如か」と、その好き業を思ひ寄せ(1918)たものらしい。乃ち遊女を檜原に譬へ、それに戲れたことを挿頭折るといひ成した。「いにしへにありけむ人」は斥す人のあるやうだか、こゝは輕く使用され、殆ど古への人〔四字傍点〕といふに同じい。
  いにしへにありけむ人もわがごとか妹に戀ひつついねがてにけむ (卷四――497)
と同型であるから、序にその條下の評語を參照されたい。
 
往川之《ゆくかはの》 過去人之《すぎにしひとの》 手不折者《たをらねば》 裏觸立《うらぶれたてり》 三和之檜原者《みわのひばらは》     1119
 
〔釋〕 ○ゆくかはの 「すぎにし」に係る序詞。○すぎにしひと 故人。舊訓スギユク〔四字傍線〕。○うらぶれ 既出(一五二五頁)。
【歌意】 いえ、いにしへ人が手折らぬので、それでかうしほ/\と立つてをりますのよ、三輪の檜原はさ。
 
〔評〕 上の返歌である。檜原はその遊女自稱の語で、これまで誰れも構つてくれ手が無かつたので、今にこんな思をして暮して居りますと、體のいゝお座成りをいつたものだ。すべて擬人仕立の表現に味がある。
 
右二首、柿本(ノ)朝臣人麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
詠(める)v蘿《こけを》
 
(1919)三芳野之《みよしぬの》 青根我峯之《あをねがたけの》 蘿席《こけむしろ》 誰將織《たれかおりけむ》 經緯無二《たてぬきなしに》     1120
 
〔釋〕 ○あをねがたけ 青根が嶽。いはゆる吉野山(子守山)の奥山で、安禅寺の上方の山。標高八五九米突。○こけむしろ 苔蘚の數いたやうに生えた状を筵《ムシロ》に譬へていふ。○たてぬき 經をタテ、緯をヌキといふ。織物の上では經は縱絲、緯は横絲である。○なしに 無しにて〔右○〕。
【歌意】 この吉野の青根が嶽の苔の筵は、誰れが織つたのであらうか、縱絲も横絲もなくつてさ。
〔評〕 織物である以上は、繩筵だとて失張經緯がある。然るにこの苔の筵にはそれがないと怪しみ、「誰れか」の疑問を投げて、人間業でないやうに讃美した。抑も筵に譬喩したことが、はじめから巧んだ係蹄である。青根が嶽は林木(1920)の少い草山で、まゝ苔蘚が山骨を覆うて美しい。
 
詠(める)v草(を)
 
歌には細竹が詠まれてある。竹は木でも草でもないが、假に草に攝したもの。
 
妹所等《いもがりと》 我通路《わがゆくみちの》 細竹爲酢寸《しぬすすき》 我通《われしかよはば》 靡細竹原《なびけしぬはら》     1121
 
〔釋〕 ○いもがり 妹が在りの約。妹の居る所をいふ。○わがゆくみち 卷八にも「妹許等吾去《イモガリトワガユク》道の」と見えた。舊訓ワガカヨヒヂ〔六字傍線〕とあるが、「ゆく」の動詞なくては初句に續きがわるい。○しぬすすき 篠のこと。「すすき」は芒《カヤ》類の總稱なので熟していふ。篠と薄との意ではない。○しぬはら 篠の原。
【歌意】 妹が許へと、私が行く路の篠|芒《ススキ》よ、私がさ通はうならば、その時は〔四字右○〕靡いてしまへ、篠芒の原よ。
 
〔評〕 田舍情調の濃厚なのが面白い。但作者を以て直ちに田舍人とするは早計である。奈良の京域外は直ちに山野であつた。奈良人が郊外に出るとすれば、河岸には柴もあり、道路には篠の叢生もあつた。否域内とても未開の荒地が隨分多かつたと考へられる。その篠原踏み分けて通ふことは、相當の厄介仕事だ。その癖愛する者には逢はずには居られぬ自家撞着に喘いでゐる。「われし通はば靡け」は困厄の餘に發した絶叫で、既に人麻呂は「妹が門見む靡けこの山」と歌つてゐる。
(1921) この歌上下二段に構成され、上句には事を敍べ、下句には情を陳べた。三句の「篠すすき」と結句の「篠原」とは音數の都合上字面の變更を餘儀なくされた反復格である。蓋し五七調の歌には、その第二句を結句において更に反誦する古體がある。これは七五調として試みられた變態の反復格で、歌謠的特質を備へた點に留意すべきである。
 
詠(める)v鳥(を)
 
山際爾《やまのまに》 渡秋沙乃《わたるあきさの》 往將居《ゆきてゐむ》 其河瀬爾《そのかはのせに》 浪立勿湯目《なみたつなゆめ》     1122
 
〔釋〕 ○やまのまに この「に」はヲといふに近い。○あきさ アイサ。※[刀のノが一画目の角に当たる]鴨。あひ鴨のこと。小鴨に似て頭と背とは灰色、腹は白い。嘴細く尖り脚と共に赤い。秋來り春去る。
【歌意】 山ぎはに飛び渡る※[刀のノが一画目の角に当たる]鴨《アイサ》が、往つて棲むであらう處の、その河の瀬に、波は立つなよ、決して。
 
〔評〕 山とはいつても卑い山の腰を縫うて※[※[刀のノが一画目の角に当たる]鴨は飛ぶのである。作者はそれを見て、落ち著く先の河波に、「立つなゆめ」と命令を發した。その效果の有無は、はじめから問題ではない。只自分の同情を十分に發揮さへすれば、それで滿足してゐる。この暖い情味が一首の生命である。
 
(1922)佐保河之《さほがはの》 清河原爾《きよきかはらに》 鳴知鳥《なくちどり》 河津跡二《かはづとふたつ》 忘金都毛《わすれかねつも》     1123
 
〔釋〕 ○さほがは 既出(二七三頁)。○かはづとふたつ 千鳥と〔右○〕蛙《カハヅ》と二つの意。上のと〔右○〕を略くは古格。「なまよみの甲斐の國うちよする駿河の國と」(卷三)はこの例。「かはづ」は河鹿のこと。これを河の津と解した宣長説は牽強も甚しい。△地圖及寫眞 挿圖85(二七〇頁)、87(二七三頁)を參照。
【歌意】 佐保川の清い河原に、鳴く千鳥と、鳴く〔二字右○〕蛙との二つを、自分は忘れかねたわい。
 
〔評〕 佐保川は千鳥の名所蛙の名所で、何れもその河原に鳴く。で「千鳥鳴く」は遂にその枕詞となり、蛙は又
  思ほえず來ませる君を佐保川のかはづ聞かせず歸しつるかも (卷六、益人――1004)
とまで名物視された。作者はたまさかに此處の清遊を試みた奈良人か、或は暫く佐保郷附近に滯留してゐた地方人であらう。忘れかねるものは多々あらうに、その風流の情懷想ふべしである。
 
佐保河爾《さほがはに》 小驟千鳥《さばしるちどり》 夜三更而《よくだちて》 爾音聞者《ながこゑきけば》 宿不難爾《いねかてなくに》     1124
 
〔釋〕 ○さばしる 千鳥は小走りに歩むのでいふ。「さ」は接頭辭。「驟」は字書に小(シ)疾(キヲ)曰(フ)v驟(ト)と見え、小走りにゆくこと。舊訓アソブチドリノ〔七字傍線〕、古義訓サヲドルチドリ〔七字傍線〕、その他の訓何れも牽強。○よくだちて 「よはくだちつつ」を見よ(一七三六頁)。「三更」は午前零時より二時までの子《ネ》の刻の稱。故に「夜三更而」をヨクダチテと(1923)訓む。○ながこゑ 汝が聲。
【歌意】 佐保川に小走りに走る千鳥よ、夜が更けて、お前の聲を聞くと、寢るに寢かねるのになあ。
 
〔評〕 作者は佐保川千鳥の小走りを見知つてゐる人で、その夜聲はとかく愁眠を妨げる處から、千鳥に向つて苦情を竝べた。「汝が」の一語は相對的位置に千鳥を引上げて、強ひて喧嘩相手としたものだ。それら痴呆の想に面白味を生ずる。
 
思《しぬぶ》2故郷(を)1
 
 〇故郷 古京の地をいふ。
 
清湍爾《きよきせに》 千鳥妻喚《ちどりつまよび》 山際爾《やまのまに》 霞立良武《かすみたつらむ》 甘南備乃里《かむなひのさと》     1125
 
〔釋〕 ○かむなひのさと 飛鳥の神南備の里。飛鳥川に瀕し、その雷山を又神南備山といふ。飛鳥(ノ)淨見原(ノ)京の一部。「甘」は神の訓に充てた借字。「雷岳《イカヅチノヲカ》」(六三五頁)。及び「かみなひやま」(七八六頁)を參照。△他圖及寫眞 挿圖105(三三四頁)、31(九九頁)を參照。
【歌意】 清い瀬には千鳥がおのれの妻を呼び立てゝ鳴き、山際には霞が立つであらうわ、あの故京の〔五字右○〕神無備の里では。
 
(1924)〔評〕 清き瀬は飛鳥川のであり、山は近くて豐浦雷、遠くて往來《ユキヽ》の岡を隔てた北山邊の事であらう。淨見原京の一部たる。ごく小規模な神南備の里だけの感想だから、多武音羽高取の諸峯は這入るまい。さて飛鳥川にも
  わがせこが古家《フルヘ》の里の飛鳥には千鳥鳴くなり君待ちかねて (卷三、長屋王――268)
  (上略)明日香の古き京は、山高み河遠じろし、春の日は山し見がほし、秋の夜は河しさやけし、且雲に鶴《タヅ》は亂れ、夕霧に蝦《カハヅ》はさわぐ、云々。
  明日香川河よどさらず立つ霧の思ひすぐべき戀にあらなくに (卷四、赤人――325)
と見えて千鳥が棲み、又北さがりの山手だから、霞や霧が多い。故京神南備の里の風物の象徴としては、清き瀬の蛙や千鳥、山の際の霞は逸することが出來ない。奈良京に移住した飛鳥人の國偲びの情緒が、殆ど平凡に近いほど、温雅な詞と調子とで表現され、やゝ平安期の體調を思はせる。大人しやかな性格の作者であらう。
 
年月毛《としつきも》 未經爾《いまだへなくに》 明日香河《あすかがは》 湍瀬由渡之《せぜゆわたりし》 石走無《いははしもなし》     1126
 
〔釋〕 ○せぜゆ 「せぜ」は瀬を重ねた語。この「ゆ」はヲに近い。○いははし 石梁。既出(五一四頁)。○わたりし 古義訓ワタシヽ〔四字傍線〕。△地圖及寫眞 挿圖105(三三四頁)、144(五二三頁)を參照。
【歌意】 年月もまださう經たぬのに、嘗て飛鳥川のあちこちの瀬を渡つた、その石梁もないわ。
 
〔評〕 古へは架橋が少ない、尤も飛鳥川などは淺瀬が多いから、河中に石梁即ち置石をして飛び渡る箇處も澤山(1925)あつた。
  飛ぶ鳥の明日香の河の、上つ瀬に石橋《イハヽシ》渡し、下つ瀬に打橋渡す、石橋に生ひ靡ける、玉藻ぞ絶ゆれば生ふる、打橋に生ひをゝれる川藻ぞ干るればはゆる、云々。 (卷二、人麻呂――196)
といふ状態だ。こんな打橋や石橋は一寸水が出ればすぐ流れてしまふ。若しも構ひ手がなければ、流れたまゝだ。でも短日月の間にこれは又ひど過ぎると、その迅速なる荒廢の迹を慨歎してゐる。これは間接に手の裏返す飛鳥京の荒廢を物語るもので、一隅を擧げて他の三隅を想はしめる筆法である。
 
詠(める)v井(を)
 
隕田寸津《おちたぎつ》 走井水之《はしゐのみづの》 清有者《きよくあれば》 度煮〔左△〕吾者《わたるにわれは》 去不勝可聞《ゆきかてぬかも》     1127
 
〔釋〕 ○はしゐのみづ 「はしゐ」は前出「はしゐのうへ」(一九一二頁)を見よ。古義訓による。略解訓ハシリヰノミヅノ〔八字傍線〕。○わたるに 「煮」原本に者〔右△〕とあるは誤寫であらう。舊訓に「度者」をワタリハ〔四字傍線〕と訓んであるが、意が通じにくい。古義は者を布〔右△〕の誤としてワタラフ〔四字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 たぎり落ちる走井の水が清いので、それを渡るに、自分は過ぎゆきかねることよなあ。
 
〔評〕 清冷の水の迸り流れる、それに見とれて佇立してしまふ。あり打の事で、渡りかけて藻の花のぞいた人も(1926)ある。いくら渡りたいとて、泥足などで踏み濁せるものでない。
 
安志妣成《あしびなす》 榮之君之《さかえしきみが》 穿之井之《ほりしゐの》 石井之水者《いはゐのみづは》 雖飲不飽鴨《のめどあかぬかも》     1128
 
〔釋〕 ○あしびなす あしびその物の如く。「あしび」は木瓜《ボケ》のこと。漢名櫨子。薔薇科の灌木。高さ六七尺、葉は長楕圓形をなし、花は春開き、紅白色の各種あり。あせみ〔三字傍点〕(馬醉木)と混ずべからず。「なす」は既出(九〇頁)。○いはゐ 歌に「掘りし井」とあれば、こゝは掘井の周圍を石で固めたのをいふ。
【歌意】 木瓜の花のやうに、榮えた君が掘つた井戸の、その石井の水は、幾ら飲んでも飲み飽かぬことよ。
 
〔評〕 井は全く生活の源泉で貴重なる存在である。神代既に、天の眞名《マナ》井ありて、天照大神は五百津御統《イホツミスマル》の玉を振り洒ぎ給ひ、湯津香木《ユツカツラ》の井ありて、豐玉姫は玉器《タマモヒ》に水酌まし給うた。井を中心としてその一團の聚落が形造られてゆく。故に井は公衆的の性質を帶び、多くは門井であつた。「あしびなす榮えし君」はその身分こそわか(1927)らぬが、相當の勢力家で、金を懸けてよい水の出るまで井を掘つたのであらう。「飲めど飽かぬ」はその水の清冽なことを稱讃した語で、かく稱讃することは、間接に故人の遺徳を慕ぶことになる。
   
詠(める)2和琴《やまとごとを》1
 
 ○和琴 日本《ヤマト》琴を見よ(一四四七頁)。△寫眞 挿圖372(一四四七頁)を參照。
 
琴取者《こととれば》 嘆先立《なげきさきだつ》 蓋毛《けだしくも》 琴之下樋爾《ことのしたひに》 嬬哉匿有《つまやこもれる》     1129
 
〔釋〕 ○こととれば 琴取るとは琴を彈くをいふ。○なげき 歎息。長息《ナガイキ》の義。○けだしくも 既出(五〇七頁)。○したひ 琴の胴は空洞で、裏面は上下に穴を穿ち、その絃の端を藏する。その形よりして下樋《シタヒ》と名づける。
【歌意】 琴を彈くと、彈くより先に吐息《トイキ》が吐《ツ》かれる、一體この琴の下樋《シタヒ》の中に、戀妻が籠つてゐるのかしら。
 
〔評〕 抑も音樂は神氣を道養し情意を宣和し、窮獨に處して悶えざる筈のものであるのに、これは又反對だ。蓋し作者は妻戀ひゆゑに萬斛の愁をもつ人である。琴の音に依つて聊か心の慰めを得ようとしても、それは徒らに心胸を撹亂するだけで、愁思は頑強に纏繞(1928)して去らない。でこの下樋に思ひ妻でも這入つてゐるかと、途轍もない突飛な想像を投げた。否突飛といふには割引を要する。下樋は元來音響が籠つて靈動をおこす空洞である。而も琴類は婦人も手馴らす樂器であるから、その聯想の經路は自然である。
 ※[(禾+尤)/山]庚の琴賦に、
  稱(スレバ)2其材幹(ヲ)1則以(テ)2危苦(ヲ)1爲(シ)v上(ト)、賦(スレバ)2其聲音(ヲ)1則以(テ)2悲哀(ヲ)1爲(シ)v主(ト)、美(スレバ)2其感化(ヲ)1則以(テ)2垂涕(ヲ)1爲(ス)v貴(ト)。(文選卷四)
とあるによれば、支那古代の琴音は感傷的の音質曲調を主としたものか。和琴は邦樂の物で彈法は違ふけれど、同じやうな優婉なる哀調を帶びてゐる。
 
芳野(にて)作(める)
 
神左振《かむさぶる》 磐根己凝《いはねこごしき》 三芳野之《みよしぬの》 水分山乎《みくまりやまを》 見者悲毛《みればかなしも》     1130
 
〔釋〕 ○かむさぶる 「かむさびせすと」を見よ(一五三頁)。○こごしき 既出(七四〇頁)。○みくまりやま 世にいふ吉野山。その最頂に水分《ミクマリ》の神を祀る。故に水分山ともいふ分《クマリ》は後世コモリと轉訛し、字に子守と書く。神名帳(式)に吉野水分神社(大)と見え、祈年祭祝詞中にも出、由來は古い。○かなしも 「かなし」は愛賞の意。 △地圖及寫眞 挿圖35(一一〇頁)、240(八二九頁)を參照。
【歌意】 あの神々しい、岩のごつ/\した、吉野の水分山を見れば、感に堪へるなあ。
 
〔評〕 吉野山は吉野川の對岸に聳え、その山相が特異の存在を示してゐる。これ古人がこゝに水分の神を祀つた所以、後來各種の歴史的因縁の生ずる所以であらう。歌は平々。
 
皆人之《みなひとの》 戀三吉野《こふるみよしぬ》 今日見者《けふみれば》 諾母戀來《うべもこひけり》 山川清見《やまかはきよみ》     1131
 
〔釋〕 ○やまかは 山と川と。
【歌意】 皆人が戀しがる吉野、それは今日見ると、道理でまあ、皆人が〔三字右○〕戀しがることわい、こんなに山や川が清いので。
 
〔評〕 「日光を見ぬうちは結構をいふな」の意を裏返したやうな作で、素朴にして穉拙といつて置かう。
 
夢乃和太《いめのわだ》 事西在來《ことにしありけり》 寤毛《うつつにも》 見而來物乎《みてこしものを》 念四念者《おもひしもへば》     1132
 
〔釋〕 ○いめのわだ 既出(八〇三頁)。○ことにしありけり 既出(一三三九頁)。○おもひしもへば 念ひに念へばの意。△地圖及寫眞 挿圖35(一一〇頁)、235(八〇五頁)を參照。
【歌意】 夢の囘《ワタ》、その夢といふ名は〔八字右○〕、言葉だけの事であつたわい。現實にも見て來たことであるものを、一途にさ思ひ込むとね。それが今は夢にも見えないから〔十四字右○〕。
 
(1930)〔評〕 夢の縁語から築き上げた空中樓閣、こんな低級な線上に彷徨してゐる構想も、既にこの時代にあるのだ。それはこの歌のみのことではない。
  わすれ草わが下紐につけたれど醜の醜草言にしありけり (卷四、家持――727)
  住の江にゆきにし道にきのふ見し戀忘貝言にしありけり (本卷――1149)
  手に取りしからに忘ると人のいひし戀忘貝言にしありけり (同上――1197)
  名草山言にしありけりわが戀の千重の一重もなぐさめなくに (同上――1213)
の儔、皆名詞の語意を著想の根元とした作意である。そして何れも「言にしありけり」と罵倒してゐる。而もこの歌は叙法が簡淨でないだけわるい。
 
皇祖神之《すめろぎの》 神宮人《かみのみやびと》 冬薯〔左△〕蕷葛《ところづら》 彌常敷爾《いやとこしくに》 立〔左△〕反將見《たちかへりみむ》     1133
 
〔釋〕 ○すめろぎのかみのみやびと 代々の天皇に奉仕する官人が。「祖」の字のあるによつて、かく解する。○ところづら 「ところ」は野老(山※[草冠/〓]※[草冠/解])をいふが、往時は薯蕷《ヤマノイモ》をも稱したのであらう。現に薯蕷の摺汁をトロヽといふはトコロの轉靴である。されば薯蕷をこゝではトコロと訓むべく、さて薯蕷類の地下莖を食料とするには、秋の葉落後を可とするので、「冬」字を冠したと見るべく、又薯蕷をトコロと訓ませる爲、トの音ある冬字を更に冠したとも見られる。薯蕷も野老もよく似た多年生草本で、山野に自生し、莖は纏繞性を有し、その葉は心臓型で、薯蕷は對生して狹く、野老は互生して廣い。記傳に引いた道麻呂説の、「野老は大方薯蕷と同じ頃(1931)枯るれども、物蔭などのは冬も葉青くて春まで殘るもある物なれば、冬薯蕷といふべし」は牽強であらう。さて「ところづら」は「とこしくに」にかゝる疊音の序詞。六帖訓マサキヅラ〔五字傍線〕、舊訓サネカヅラ〔五字傍線〕は共に無稽。「薯」原本に※[草冠/暑]〔右△〕とあるは誤。○とこしくに 永久に。常《トコ》を形容詞形に活用した副詞。○たちかへりみむ 「立」原本に吾〔右△〕とあるが、一首の意が通じない。試に改めた。
【歌意】 代々の御門樣の官人が、何時の何時までも、この吉野を〔五字右○〕、立返つて來て見ようぞ。
 
〔評〕 皇室と關係が深くて、行幸など不斷にあるべき意を以て、吉野を讃美した。「冬薯蕷」にその地方色を見る。但何を「立ち返り見む」といふのか、詞足らずで聞えない。實詠にはまゝあり勝な缺陷である。意解には試にこの吉野を〔五字右○〕の語を補つておいた。
 
能野川《よしぬがは》 石迹柏等《いはとかしはと》 時齒成《ときはなす》 吾者通《われはかよはむ》 萬世左右二《よろづよまでに》     1134
 
〔釋〕 ○いはとかしはと 岩と柏の木と。柏の葉は冬を經て若芽の出る春に落ちる、冬もその葉があるので、「松柏後凋」の語あり、磐と放べて「常磐なす」ものとした。これを一名詞として、契沖は岩門岩《イハトカシハ》の意とし、宣長(1932)は石常磐《イハトコシハ》の意と解した。迂遠でもあり、イハの同意語の重複など、甚だ妥當でない。この句は「常磐なす」に係る序詞。○ときはなす 既出(七五〇頁)。
【歌意】 吉野川、こゝの岩と柏の木とが、常磐そのものであるやうに、變ることなく、この風景を愛でに〔八字右○〕、私は千萬年も通はうよ。
 
〔評〕 吉野川は宮瀧から上流は岩石が多い。今は見當らないが、昔は柏樹も河邊に茂生してゐたのであらう。作者はその矚目の景象中から、この二つを提げて「常磐なす」の前提とし、「われは通はむ」と、その山水愛賞の意を高唱した。
 
山背《やましろにて》作(める)
 
 ○山背 山代とも書く。山城國のこと。延暦十三年桓武天皇遷都あり、續紀に、佳字を取り改めて山城となすとある。
 
氏河齒《うぢがはは》 與杼湍無有〔左○〕之《よどせなからし》 阿自呂人《あじろびと》 舟召音《ふねよばふこゑ》 越乞所聞《をちこちきこゆ》     1135
 
〔釋〕 ○うぢがは 宇治河のこと。既出(一九二頁)。○よどせなからし 一面に河水が深いので、淀の瀬のと差別のないのをいふ。卷十七に「上つ瀬に打橋渡し、余登瀬《ヨドセ》には浮橋渡し」と見えた淀瀬は淀のことで、こゝには與らない。「無」の下有〔右△〕を補ふ。契沖説による。○あじろびと 網代の漁業に從事する人。「あじろぎ」を見よ (1933)(六八三頁)。○をちこち 既出(一六三二頁)。「越乞」は呉音による音借字。△地圖及寫眞 挿圖66(一九二頁)、190、191(六八三、六八四頁)を參照。
【歌意】 宇治河は、一面に深くて〔六字右○〕、淀も瀬もないらしい。網代守の舟を呼ぶ聲が、あちこちに聞えるわ。
 
〔評〕 網代守は河中の網代小屋に、夜々篝を燒いて冰魚を寄せては掬ふ。隨つて夜通し舟は呼びつ呼ばれつ、淀瀬の頓着なく網代小屋と岸とを往來する。これ「淀瀬なからし」といひ、「をちこち聞ゆ」といふ所以であらう。なほ網代のことは「もののふの八十氏河の網代木に」の條下の評語(六八四頁)を參照。
 
氏河爾《うぢがはに》 生菅藻乎《おふるすがもを》 河早《かははやみ》 不取來爾家里《とらずきにけり》 裹爲益緒《つとにせましを》     1136
 
〔釋〕 ○すがも 菅藻は淡水産の緑色藻。葉状菅に似たるよりの名。出雲風土記島根郡の條に、法吉坡《ホキノイケ》、有2須賀毛《スガモ》1とあるを見れば、食用になる物らしい。○つと 「裹物《ツトモノ》」を見よ(一三八四頁)。
【歌意】 宇治河に生えてゐる菅藻を、河水が早さに、取らずに來てしまつたわい。無理にも取つて〔七字右○〕、土産《ミヤゲ》にせうものを。はて殘念な〔五字右○〕。
 
〔評〕 宇治河は名代の早川だが、處によつては菅藻の靡く瀬もあつたと見える。危ない思をして取るほどの事もないと、看過して來たが、勝地の記念としての裹物をもたぬ物足らなさを、今に至つて痛感し、後悔の念に打(1934)たれてゐる。我々のよく體驗することだ。
 
氏人之《うぢひとの》 貢〔左△〕乃足白《みつぎのあじろ》 君〔左△〕在者《きみしあらば》 今齒世〔左▲〕良増《いまはよらまし》 木積不成〔左▲〕友《こつみならずとも》     1137
 
〔釋〕 ○うぢひとの 「氏」は宇治の借字。○みつぎのあじろ 宇治人は河に網代を打つて氷魚を貢する故にいふ。「貢」原本に譬〔右△〕(タトヒ)とある。契沖はいふ、譬の網代とは、宇治に住む人は物の盛衰を所につけたる網代に譬へていふなるべしと。甚しい臆説で諾ひ難い。他にも諸説あれど皆非。譬〔右△〕は必ず「貢」の誤と斷ずる。「あじろぎ」を參照(六八三頁)。○きみし 「君」原本に吾とある。それでも通じないことはないが、宣長説に從つて改めた。○よらまし 「世」原本に王〔右△〕とあるが意が通じない。眞淵説に從つた。○こつみならずとも 「こつみ」は木屑をいふ。「成」原本に來〔右△〕とある。眞淵説によつた。古義は卷十四に「奈流世呂爾木都能余須奈須《ナルセロニコツノヨスナス》」とあるによつて、コツナラズトモ〔七字傍線〕と訓んだ。然し卷十一、同十九の木積は皆三音にコツミと讀むべく、又卷二十に許都美《コツミ》とあるから、コツと訓むは特別の場合である。
【歌意】 宇治人の貢物たる氷魚の網代、そこに〔三字右○〕もし貴女が居るならば、木積ではなくても、私が今は寄つてくるであらう。
 
〔評〕 網代は柵を結うて河水を堰くのだから、目的の氷魚の外に、木積や芥が澤山流れ寄る。作者はその状態から聯想を起して、彼の網代に君もしあらば、木積ならぬ自分も寄るであらうと、暗にその意中の人の來歸を思(1935)量した。「寄らまし」が關鍵の語であることは、
  あき風の千江の浦囘の木積なす心は寄りぬのちは知らねども (卷十一――2724)
  卯の花をくたす霖雨《ナガメ》のみづはなに寄る木積なす寄らむ兒もがも (卷十九――4217)
の儔を見ても知られよう。
 
氏河乎《うぢがはを》 船令渡呼跡《ふねわたせをと》 雖喚《よばへども》 不聞有之《きこえざるらし》 ※[楫+戈]音毛不爲《かぢのおともせず》     1138
 
〔釋〕 ○わたせを 「わたせ」は命令格。「を」は呼辭。○よばへ 呼べ〔二字傍点〕の延音。○せず 契沖はセヌの一訓をも提出した。
【歌意】 宇治河を、舟を渡せよと喚び立てるけれど、渡し守には〔五字右○〕聞えないらしい、漕いで來る〔五字右○〕※[楫+戈]の音もしないわ。
 
〔評〕 本街道の通過する宇治邊でも、平時は一艘の渡し舟で往復してゐたものらしい。向う河岸に舟のある際には、それを喚ぶのである。河幅が相當に廣いし瀬の音が激しいから、なか/\聲が徹らない。「※[楫+戈]の音もせず」で迎舟が來ない。不便なものだ。
  渡り守船わたせをと喚ぶ聲のいたらねばかも梶のおともせず (卷十――2072)
と全く同意同趣同型の作。
 當時宇治には橋があつた筈だ。孝徳天皇の朝に僧道登が造つたものである。但今の宇治橋よりは上流二町許(1936)の處であつたといはれる。されば船渡しは今の宇治橋邊に置かれたものか。後世|富家《フケ》の渡といつたのがそれであらう。
 
千早人《ちはやびと》 氏川浪乎《うぢかはなみを》 清可毛《きよみかも》 旅去人之《たびゆくひとの》 立難爲《たちかてにする》     1139
 
〔釋〕 〇ちはやびと 宇治に係る枕詞。「ちはやぶる」(三三〇頁)及び「もののふの八十氏河」(一九二頁)を參照。○たちかて 「たち」はその場を起つこと。
【歌意】 宇治河の川波がまあ、清いせゐかして、旅行く人が、立ち去りにくゝすることわ。
 
〔評〕 宇治は近江へ出る田上道と山城へ出る山科街道、伏見街道、淀八幡道とが縱横に交叉して、旅人の往來がはげしい處だ。これら輻輳した行旅の客が、明媚な山水美の爲には「立ちかてにする」と觀じた。實はそれは專ら自分の事なのを、「旅ゆく人」に寄懷したので、そこに作者の狡獪手段がある。
 宇治は山水共に美しい處だが、古代は專ら河に關する詠作が多い。蓋し大和人の小さな川ばかり見馴れた眼には、大河宇治はその網代と共に、特に大きな興味を惹いたものであらう。
 
攝津《つのくににて》作(める)
 
(1937) ○攝津 津の國のこと。難波の津あるによつて國名となつた。天武天皇六年、難波大宮あるを以て攝津職を置かれ、延暦十二年國司に改められ、職名の攝津を國名となされた。さればこの「攝津作」の題詞は延暦十二年以後の筆と見られる。世に萬葉編者の一人と想像されてゐる大伴家持は、延暦四年に薨じてゐるから、或は萬葉集は家持逝後に於て結集されたものかと疑はれぬでもない。が先づ家持以後に文辭を改易したものと見て彌縫しておく。
 
志長鳥《しながどり》 居名野乎來者《ゐなぬをくれば》 有間山《ありまやま》 夕霧立《ゆふぎりたちぬ》 宿者無爲《やどはなくして》     1140
 
一本(ニ)云(フ)、猪名乃浦囘乎《ヰナノウラワヲ》、※[手偏+旁]來者《コギクレバ》。
 
〔釋〕 ○しながどり 水鳥の名。常に水上に居るので、志長鳥居〔右○〕をいひ掛けて猪《ヰ》名の枕詞とした。さてこの志長鳥に就いて、(1)息長《シナガ》鳥の義。風をシといふ、故に息《イキ》(古言オキ)をもシといふ。鳩《ニホ》(ムグリ)は長く水中を潜行する息の長き島なればその一名とする(眞淵説)。(2)尻長《シナガ》鳥の義。尾長といふ鴨か。尻《シリ》をシと略くは常の事である(顯昭及び古義説)。尚「にほ」を參照(九八五頁)。○ゐなぬ 既出(七〇八頁)。○ありまやま 既出(一〇〇九頁)。○ゐなのう(1938)らわ 左註の語。猪名の湊の稱もある。往時武庫の海が北方に深く灣入してゐたことは「我妹子に猪名野は見せつ」(卷三)の評下(七〇九頁)に説明した。△寫眞及繪圖 挿圖294(一〇〇九頁)、290(九八五頁)を參照。
【歌意】 猪名野を來ると、向うの有馬山に、もう夕霧が立つたわい。泊る家もなくつてさ。
 
〔評〕 當時の猪各野は海岸線が近くて、そこに街道が通じてゐた。これ
  我妹子に猪名野は見せつ名次《ナスギ》山つぬの松原いつかしめさむ (卷三、黒人――279)
といふ所以である。西下の道中とすると、猪名野の正面に有馬山が連亙してゐる。まだ武庫河を渡らぬ先に暮色は漸く迫つて、西山有馬の山麓に薄霧が漂ふ。覊情はひし/\と哀愁を伴うて迫つてくる。况や定まる今宵の宿もない。心細さは一段と深刻だ。
  苦しくも降りくる雨か三輪が崎|佐野《サヌ》のあたりに家もあらなくに (卷三、奥麻呂――265)
  いづくにか我れは宿らむ高嶋の勝野の原にこの日暮れなば (卷三、黒人――275)
に似た旅情で、何れも人籟を超越した地籟である。
 「宿はなくして」の※[立+曷]後の辭樣と、その弱々しい語調とは、この際妥當な表現である。一本の句は、本行に比すると、詩境が漠として握みにくい。
 
武庫河《むこのかは》 水尾急嘉《みををはやみか》 赤駒《あかごまの》 足何久激《あがくたぎちに》 沾祁流鴨《ぬれにけるかも》     1141
 
(1939) ○むこのかは 武庫川。攝津有馬郡を經、武庫郡に入つて海に注ぐ。河口は時代により移動してゐる。舊訓ムコガハノ〔五字傍線〕。○みををはやみか 「みを」は水脈のこと。河海につけてその水筋をいふ。この句通例では意が下へ係る語勢となり、下句が落着しない。今は假にそれにて切れた格と見ておく。古義は「嘉」を三等〔二字右△〕の誤としてミヲヲハヤミト〔七字傍線〕と訓んだ。○あかごま 既出(一一三四頁)。○あがく 「あがき」を見よ(四〇七頁)。○たぎち 卷九に河《カハ》の瀬《セ》の激乎見者《タギツヲミレバ》とある。義訓に「激」をよむ。舊訓はソソギ〔三字傍線〕。
【歌意】 武庫の河は、水筋が速いことであるよなあ。赤駒の足掻で揚がる水に、衣も濡れてしまつたことよなあ。
 
〔評〕 武庫河はその下流は砂磧が多くて、平日は水が少ない。けれども駒打渡せば、その水脈は流石に速いので、飛沫は鐙にも鞍にも果は衣にも及ぶ。
  鵜坂川わたり瀬おほみこのあが馬《マ》の足掻きの水に衣濡れにけり (卷十七、家持――4022)
 
(1940)命《いのちを》 幸久在〔左△〕《さきくあらむと》 石流《いはばしる》 垂水水乎《たるみのみづを》 結飲都《むすびてのみつ》     1142
 
〔釋〕 ○いのちを 四言の句。○さきくあらむと 「在」原本に吉〔右△〕とある。宜長説により改めた。○いはばしる 「流」をハシルと意訓に讀む。古義はいふ、卷八に石激をイハハシルとあれば、「流」は激〔右△〕の誤かと。○たるみ 垂水。垂れ落ちる水をいふ。但こゝは地名。垂水の稱は諸方にあるが、攝津作の中に收めたので考へると、神名帳に攝(1941)津國豐島郡(今豐能郡豐津村)垂水神社(名神大)とある處で、社後の岡を垂水山といひ、社側に飛泉が今もある。○むすびて 手して掬ふをいふ。
【歌意】 命を長く無事にもたうとて〔右○〕、たぎつて流れる垂水の水を、自分は〔三字右○〕掬うて飲んだことわい。
 
〔評〕 天水と違ひ地下水は、種々雜多な鑛物質を含有するから、その成分如何によつては、科學的にも醫療に資することが證明される。が昔は實驗上からその效果を認めて、これを靈泉と稱して尊信した。養老泉の如きもその著しい一例である。而もその沸々湧出してやまぬ自然水といふことに、愈よ靈感が加るのである。
 然しそれだけではまだ長命する理由が薄弱である。抑も垂水神社は住吉の海童《ワタツミ》神を祀る。神功皇后紀に、
  神(住吉)有(リ)v誨(ニ)曰(ハク)、和《ニギミ》魂(ハ)服(キテ)2玉身(ニ)1而守(ラム)2壽命《ミイノチヲ》1、荒《アラミ》魂(ハ)爲(テ)2先鋒(ト)1而導(カム)2師船(ヲ)1、――因《カレ》以(テ)2依網《ヨサミノ》吾《ア》彦|垂見《タリミヲ》1爲(ス)2祭(ノ)神主(ト)1。(卷九)
と見え、垂見は垂水の義で、その居垂水の岡に因縁した名だらう。隨つて住吉神もその本郷たる垂水の地にも、分祀されたものだらう。するとその和魂もて壽命を守らせ給ふ住吉神のます處の石走る清水は、必ずや長壽の神驗があるべき筈で、又さう當時信ぜられてゐたと思はれる。
 茲に至つてわざ/\垂水の地を踏んで、この神水を「掬ひて飲みつ」と自慢らしく報告した所以が、明らかに諾かれるであらう。「命を幸くあらむ」の滿悦に浸つてゐる作者の情意が、率直に表現されてゐる。
 
作夜深而《さよふけて》 穿江水手鳴《ほりえこぐなる》 松浦船《まつらぶね》 梶音高之《かぢのとたかし》 水尾早見鴨《みをはやみかも》     1143
 
(1942)〔釋〕 ○ほりえ 難波の堀江。仁徳紀に、十一年冬十月、掘(リ)2宮北之郊原(ヲ)1、引(イテ)2南(ノ)水(ヲ)1以入(ル)2西海(ニ)1、因《カレ》以號(ケテ)2其水(ヲ)1曰(フ)2堀江(ト)1と見え、今の大阪臺地の東方の瀦水を一旦北へ導いて、淀の本流を西へと併せ流した堀川である。○こぐなる 「水手」は※[楫+戈]子《カコ》である。故に意訓にコグと讀む。戲意に近い。「鳴」は借字。○まつらぶね 筑前の松浦からのぼつて來た船の稱。
【歌意】 夜が更けて、堀江を漕いでゐる松浦船、その梶の音が高いわい、水脈《ミヲ》の流が速いせゐかまあ。
 
〔評〕 靜寂を破る夜深の櫓聲を水驛に聞く。その靜寂の景致想ふべしである。但松浦船との認定が一寸疑問だ。想ふに松浦船は風波の荒い外洋をも乘り切る大船だから、隨つてその※[楫+戈]も大型で、それを繁貫いて漕ぐとなると、※[楫+戈]の音だけで、見ないでも松浦船と推知されたのであらう。而もそれが夜深の空氣を震動する程の力漕、堀江の水脈の速さは想像に餘りある。
  松浦舟みだる堀江の水尾はやみ※[楫+戈]取るまなく念ほゆるかも (卷十二――3173)
  堀江こぐ伊豆手《イヅテ》の船の梶つくめ音しばだちぬ水脈はやみかも (卷廿――4460)
など頻にその水脈の急流なることを強調してゐる。然るに飜つて又、
  堀江より水脈びきしつゝみ舟さすしづ男《ヲ》の伴は河の瀬申せ (卷十八――4061)
    (七日、今日は川尻に船入り立ちて嬉し、川の水干て悩み煩ふ。船ののぼることいと難し。)
  きときては川の堀江の水を淺み舟もわが身もなづむけふかな (土佐日紀)
とあり、河瀬も分かぬ程に、水が干て舟がなづむ、それを強ひて綱手して曳きのぼるのであつた。これは河(1943)床の勾配が急なので、退潮時にかゝると、忽ち水脈速みとなつて上り船を悩まし、遂にはあちこちに瀬が露出して漸うに舟が通ずるのである。一千年前の難波堀江を今の淀河の河口状態に比べると、實に滄桑の感に禁へない。
 初句より四句までは事實を叙し、結句に一轉して感想に入つた。卷廿の「堀江こぐ伊豆手船」の詠はこの影法師である。
 
悔毛《くやしくも》 滿奴流鹽鹿《みちぬるしほか》 墨江之《すみのえの》 岸乃浦囘從《きしのうらわゆ》 行益物乎《ゆかましものを》     1144
 
〔釋〕 ○しほか 「か」は歎辭。○すみのえ 既出(七二九頁)。○きしのうらわゆ 古義訓キシノウラミヨ〔七字傍線〕。△地圖 挿圖78(二四一頁)參照。
【歌意】 殘念にも滿ちた潮であることよ、住吉の岸の浦べから行かうものをさ、退潮時だつたら〔七字右○〕。
 
〔評〕 崖下の波打際の風色は又遊覽に値する。然るに折柄の滿潮に妨げられて、つぶさに見能はぬ遺憾さを歌つた。初句と二句とで切つた促調が、よくその情意を表現してゐる。
 住吉の岸の事は卷一「草枕旅ゆく君と」。(二四九頁)、及び卷六「白波の千重に來寄する」(一六四九頁)の條の評語を參照。
 
(1944)爲妹《いもがため》 貝乎拾等《かひをひろふと》 陳奴乃海爾《ちぬのうみに》 所沾之袖者《ぬれにしそでは》 雖凉常不干《ほせどかわかず》     1145
 
〔釋〕 ○ちぬのうみ 和泉の海の稱。延長しては住吉邊の海をも稱する。尚「ちぬわ」を見よ(一七五八頁)。○ひろふ 古義はヒリフ〔三字傍線〕と訓んだが、古きに過ぎると思ふ。○ほせど 「凉」は曝凉《ホシサラス》の凉の意。「雖凉」はホセドと訓む。「常」は添字。下にも「雖干迹」と見え、迹の字を添へた。△地圖 卷一卷頭總圖參照。
【歌意】 妹が爲に、家裹の貝を拾ふとて〔右○〕、茅沼の海で濡れたことであつた袖は、幾ら干しても乾かぬわ。
 
〔評〕 「ほせど乾かず」と、その濡れを誇張したことは、即ち貝拾ひの辛苦を誇張したもので、間接には妹が爲の心盡しの尋常でないことの主張である。かうしてもしその貝を贈物としたとなると、假令それが鹽吹であらうと何であらうと、妹に取つては眞珠の價値を見出すであらう。
 
目頬敷《めづらしき》 人乎吾家爾《ひとをわぎへに》 住吉之《すみのえの》 岸乃黄土《きしのはにふを》 將見因毛欲得《みむよしもがも》     1146
 
〔釋〕 ○めづらしきひとをわぎへに 住の江の住み〔二字傍点〕にかけた序詞。人を住み〔四字傍点〕は自他が整はないが、いひ掛けの都合上、自他を混一に住ます〔三字傍点〕の意をもたせたもの。假にいひ掛の變態格と見る。或は「を」を歎辭とし、或は與〔左△〕《ト》の誤とする説もある。「わぎへ」は我《ワ》が家《イヘ》の約。○はにふ 既出(二四八頁)。
(1945)【歌意】 見ても見飽かぬあの人を、自分の家に棲ますといふ名の、その住の江の岸の埴生を、見ようすべもありたいな。
 
〔評〕 珍しき人を棲ますとは花婿を迎へることだ。この樣に手の込んだ序態は、例の低級な技巧の末に墮する嫌があつて妙でない。
 
暇有者《いとまあらば》 拾爾將往《ひろひにゆかむ》 住吉之《すみのえの》 岸因云《きしによるとふ》 戀忘貝《こひわすれがひ》     1147
 
〔釋〕 ○こひわすれがひ 既出(一七〇五頁)。
【歌意】 公用に〔三字右○〕暇もあるならば、拾ひにゆかうぞ、住の江の岸に寄るといふ、妻戀の心を忘れるといふ名の、忘貝をさ。
 
〔評〕 旅先での男の歌である。委しくは
  わがせこに戀ふれば苦しいとまあらば拾ひにゆかむ戀わすれ貝 (卷六、坂上郎女――964)
の評語を參照(一七〇五頁)。
 
馬雙而《うまなめて》 今日吾見鶴《けふわがみつる》 住吉之《すみのえの》 岸之黄土《きしのはにふを》 於萬世見《よろづよにみむ》     1148
 
(1946)〔釋〕 ○よろづよに 諸本諸註とも「於」を四句につけて讀んだのは誤。必ず五句につけて、「於萬世」の熟語體とし、ヨロヅヨニと訓むべきである。
【歌意】 人達と〔三字右○〕馬を乘り竝べて、今日自分が見た、この住の江の岸の埴生を、これから先も〔六字右○〕何時までも見よう。
 
〔評〕 好友兩三輩轡を竝べての勝遊、而も住吉情調のシンボルたる埴生を見得た大きな喜びからは、更に「萬代に見む」と希望するのは、大和人としてさもあらう。
 
住吉爾《すみのえに》 往云道爾《ゆくとふみちに》 昨日見之《きのふみし》 戀忘貝《こひわすれがひ》 事二四有家里《ことにしありけり》     1149
 
〔釋〕 ○ゆくとふみちに 住吉附近の濱邊の道であらう。契沖は「云」を去〔右△〕の誤とし、ユキニシミチニ〔七字傍線〕と訓み、古義もこれに從つた。○ことにしありけり 既出(一三三九頁)。
【歌意】 住の江に通ずるといふその道で、昨日見た、戀を忘れるといふ名の貝、それはたゞ〔五字右○〕名ばかりでさあつたわい。
 
〔評〕 今日になつてもやはり忘られぬの餘意が反映されてゐる。多分大和人の住の江行であらう。
  手に取りしからに忘ると人のいひし戀忘れ貝言にしありけり (本卷――1197)
はこれと同調。
 
(1947)墨吉之《すみのえの》 岸爾家欲得《きしにいへもが》 奥爾邊爾《おきにへに》 縁白波《よするしらなみ》 見乍將思《みつつしぬばむ》     1150
 
〔釋〕 ○いへもが 眞淵訓による。○おきにへに 「おきへなさかり」(六九八頁)及び「へには」(一三八四頁)を見よ。○しぬばむ 賞美しようの意。契沖は「思」を偲〔右△〕の誤としたが、二者通用である。舊訓オモハム〔四字傍線〕。
【歌意】 住の江の岸に、家が欲しいなあ。そして〔三字右○〕沖に岸邊に寄せる白波を、見い/\して愛賞しよう。
 
〔評〕 何人も思ひ寄る胸臆の語である。然し作者の先取權を如何ともし難い。
 
大伴之《おほともの》 三津之濱邊乎《みつのはまべを》 打曝《うちさらし》 因來浪之《よせくるなみの》 逝方不知毛《ゆくへしらずも》     1151
 
〔釋〕 ○おほとものみつ 既出(二三五頁)。○うちさらし 打洗ふをいふ。
【歌意】 御津の濱邊を洗つて、寄せて來る波の行方の、わからぬことよ。
 
〔評〕 一寸聞いては高渾の調をもつたよい歌らしいが、
  もののふの八十氏河のあじろ木にいさよふ波のゆくへ知らずも (卷三、人麻呂――264)
の二番煎じ、而も滔々と流れ去る河水の瞬間的の「いさよふ波」には、「行方知らずも」は適確な下語であるが、重竝《シキナミ》に寄せ返す海の波では、「ゆくへ」の感じが事實上不調和で落着しない。
 
(1948)梶之音曾《かぢのおとぞ》 髣髴爲鳴《ほのかにすなる》 海未通女《あまをとめ》 奥藻苅爾《おきつもかりに》 舟出爲等思母《ふなですらしも》     1152
    一(ニ)云(フ)、暮去者《ユフサレバ》、梶之音爲奈利《カヂノトスナリ》。
 
〔釋〕 〇おきつも 沖の藻。邊つ藻に對する。
【歌意】 ※[楫+戈]の音がほのかにすることわ。海士の少女が沖の藻を刈りに、舟出をするらしいわい。
 
〔評〕 おなじ※[楫+戈]の音でも「ほのかにすなる」は海人少女の所作と推定するにふさはしい。かくて沖つ藻刈りにまで想像は進展した。
  海人をとめ棚なし小舟漕ぎ出《ヅ》らし旅のやどりに楫の音《ト》聞ゆ (卷六――930)
と詩境は同じで、これは一層細々なる感情を弄んだ。
 左註の「ゆふされば」は藻刈舟の出る時刻でないと思ふ。
 
住吉之《すみのえの》 名兒之濱邊爾《なこのはまべに》 馬立而《うまたてて》 玉拾之久《たまひろひしく》 常不所忘《つねわすらえず》     1153
 
〔釋〕 ○なこのはま 住吉の北部の濱。今は埋没して滅びた。名兒は奈呉とも書く。○うまたてて 童本「立」を並〔右△〕の誤とするは非。○ひろひしく 「拾ひし」に「く」の接續體の辭の添うたもの。委しくは「おもへりしくし」を見よ(一三五八頁)。
(1949)【歌意】 住の江の名兒の濱邊に、馬をとめて、珠を拾うたことが、何時も忘れ得ない。
 
〔評〕 珠拾ふとは貝を拾ふことである。柔い波打際に馬を乘りすてゝの貝あさり、實に心ゆく面白い遊であつたらう。これぞ「常忘らえず」と落著する所以。但作者が男だけに、例の住吉情調に浸つたことの譬喩かも知れない。
 
雨者零《あめはふる》 借廬者作《かりほはつくる》 何暇爾《いつのまか》 吾兒之鹽干爾《あこのしほひに》 玉者將拾《たまはひろはむ》     1154
 
〔釋〕 ○あめはふる 初句を獨立句とし、次句に對せしめる。古義の中止態にフリ〔二字傍線〕と訓んだのは非。○いつのまか 「暇」に時間上の間《マ》の意がある。○あこ 下にも阿胡《アコ》の海とある。名兒の海の一名か。
【歌意】 雨は零るし、假廬は造るし、どんな暇《ヒマ》があつてか、吾兒の浦の潮干に、珠を拾はうぞ。
 
〔評〕 物蔭も無い濱邊での俄雨に、黒木や茅草を集めての假廬づくり、忙がしい事大變だ。樂しみにした潮干の貝拾ひなどは、けし飛んでしまつた。その殘念さに焦れ/\した氣持が如實に表硯されてゐる。初二句の漸層、而も「は」の辭を重用した聯對的句法に依つた促調に、あわたゞしく取込んでゐる光景が眼前に映寫され、「いつのまか」が有力に躍動する。
 
奈呉乃海之《なこのうみの》 朝開之奈凝《あさけのなごり》 今日毛鴨《けふもかも》 礒之浦囘爾《いそのうらわに》 亂而將有《みだれてあらむ》     1155
 
(1950)〔釋〕 ○あさけのなごり 朝潮の退《ヒ》いた餘波。詞が少し足らぬが、假にかく解しておく。「あさけ」は朝明《アサアケ》の略。○けふもかも 「かも」は疑辭。○うらわ 古義訓ウラミ〔三字傍線〕。〇みだれて 貝や海藻などが〔七字右○〕。
【歌意】 名兒の海の朝の引潮の餘波に、今日もまあ、磯の浦邊に貝や海藻などが〔七字右○〕、うち亂れてゐるかしらん。
 
〔評〕 前日に見た朝明のなごりの面白さを、今朝も想ひ出して、反芻して娯んでゐる。結句主語が無いが、下の
  今日もかも奥つ玉藻は白浪の八重祈るがうへに亂れてあらむ (1168)
の趣を移して、略その意が得られるであらう。
 
住吉之《すみのえの》 遠里小野之《とほさとをぬの》 眞榛以《まはりもち》 須禮流衣乃《すれるころもの》 盛過去《さかりすぎぬる》     1156
 
〔釋〕 ○とほさとをぬ 中世|瓜生《ウリフ》野といふ(今墨江村)。今の大和川の南偏の地。宣長いふ、ヲリノヲヌノ〔六字傍線〕と六言に訓むべし、今現に乎理乎野《ヲリヲノ》と呼べばなりと。但これは本末顛倒の説で、「遠里小野」を字に就いてヲリヲノと讀み、遂にウリフノと訛つたのである。新考同説。○まはりもち 眞萩を以て。「はり」をハンノ木と解するは當らぬ。「榛」は借字。「はりはら」(二二一頁)を參照。舊訓モテ〔二字傍線〕は中古以後の辭樣。○すれるころも 摺衣のこと。植物の花葉根などで衣に摺り付けて染める。○さかり 色の〔二字右○〕盛り。○すぎぬる 舊訓スギユク〔四字傍線〕。上のモチもこのヌルも古義訓による。△地圖78(二四一頁)を參照。
【歌意】 住の江の遠里小野の、萩の花をもつて摺つた衣の、その花々しい色〔五字右○〕盛りが、もう褪めて來たなあ。
 
(1951)〔評〕 前後皆住吉遊行の作である。これも遠里小野まで杖を曳き、例の萩が花摺など作つて、その興趣を※[習+元]んだものだ。摺りたては頗る鮮麗だが、一二日經つと段々褪色してくる。作者はそこに一抹の哀愁を感じ、前日の歡樂を思うて、愈よ寂寞の念に打たれるのであつた。餘韻縹緲。「はり」を必ず榛《ハン》の木と主張する人達は、この歌をどう説明しようとするか。まさか遠里小野の榛の木の皮や實で染めた衣がとは、この歌創作の動機が許すまい。
 なほ衣摺りの榛の事は、卷一「引馬野に匂ふ榛原」の條の評語及び榛原考(雜考5)を參照。
 
時風《ときつかぜ》 吹麻久不知《ふかまくしらず》 阿胡乃海之《あこのうみの》 朝明之鹽爾《あさけのしほに》 玉藻苅奈《たまもかりてな》     1157
 
〔釋〕 ○ときつかぜ 既出(五九七頁)。○ふかまくしらず 「まく」の下ことを〔三字右○〕の語を補うて聞く。「たらず」は知られ〔右○〕ずの意。略解及び古義訓シラニ〔三字傍線〕は非。○あさけのしほ こゝは朝明け時の退《ヒキ》潮をいふ。○かりてな 既出(三六七頁)。
【歌意】 さし潮時の風が、吹き出さうことも測られない。今のうち〔四字右○〕、この阿胡の海の朝明の退潮に、玉藻を刈らうよ。
 
〔評〕 玉藻を刈るは勿論海人の所作である。この作者は普通の住江遊覽の客であるが、その逸興の發するがまゝに、海人の藻刈に寄懷した。
(1952)  ゆふさらば潮みちきなむ住の江の淺香の浦に玉藻刈りてな (卷二、弓削皇子――121)
と歸趨を同じうするもの、又
  時つ風吹くべくなりぬ香椎潟しは干の浦に玉藻刈りてな (卷六、小野老――958)
に至つては、場處こそ違へ符節を合はせた如くである。
 
住吉之《すみのえの》 奥津白浪《おきつしらなみ》 風吹者《かぜふけば》 來依留濱乎《きよするはまを》 見者淨霜《みればきよしも》     1158
【歌意】 住の江の沖の白浪が、風が吹くと、來て寄せる濱邊を見ると、清いことよ。
 
〔評〕 落想平凡。又既に「吹けば」といひ、更に「見れば」といふ、同詞形の重複も甚だ不快である。
 
住吉之《すみのえの》 岸之松根《きしのまつがね》 打曝《うちさらし》 縁來浪之《よせくるなみの》 音之清羅〔左△〕《おとのさやけさ》     1159
 
〔釋〕 ○うちさらし この「さらし」は波の晒すをいふ。○よせくる 舊訓ヨリクル〔四字傍線〕。○さやけさ 舊訓にかくある。「羅」は必ず佐、紗、射などの誤。眞淵は霜〔右△〕の誤としてキヨシモ〔四字傍線〕と訓み、古義もこれに從つたが、音にきよし〔三字傍点〕といふは古調でない。
【歌意】 住の江の岸の、松の根を打洗ひ、寄せてくる波の、音のさやかなことよ。
 
(1953)〔評〕 爽かな光景と涼しい音響とが、眼耳を澄まして快い。但抽象的の感想語たる形容詞を結句に著下することは、萬葉人の口癖である。單調の率直、それはよい時もあり惡い時もありで、一定するものではないが、
  住の江の松をあき風吹くからに聲うちそふる沖つしら波 (古今集、賀、躬恒)
の如き複雜にして含蓄ある表現は、萬葉人の夢想だもせぬ處。
 
難波方《なにはがた》 鹽干丹立而《しほひにたちて》 見渡者《みわたせば》 淡路島爾《あはぢのしまに》 多豆渡所見《たづわたるみゆ》     1160
 
〔釋〕 ○なにはがた 既出(一一三八頁)。「方」は潟の借字。△地圖 卷二の卷頭總圖を參照。
【歌意】 難波潟の、潮干の折〔右△〕に立つて見渡すと、淡路島の方に、鶴の飛び渡るのが見えるわ。
 
〔評〕 往時の難波の浦は鹵潟の地だから、澪標を立てゝ、やつとその航路を示すほどで、「蘆漕ぎそけて御船來にけり」(土佐日紀)といふ状態であつた。されば潮干となると、求食する鶴は沖合遙にまで立舞ふ。それを淡路の島に去來するものと認定した。その認定が正しくなからうとどうあらうと構はない。只さし當つた眼前の風致に協へばよい。
 
羈旅《たびにて》作(める)
 
上掲の芳野山背攝津以外の旅行歌を一括して茲に收めた。但「眞野の榛原」の攝津作が一首混じてゐる。
 
(1954)離家《いへさかり》 旅西在者《たびにしあれば》 秋風《あきかぜの》 寒暮丹《さむきゆふべに》 鴈喧渡《かりなきわたる》     1161
 
〔釋〕 〇いへさかり 家を遠離り。○たびにしあれば 旅中に在ればとの意。
【歌意】 わが家を遠離つて、旅にさ居ると、秋風の寒い夕方に、雁が鳴いて通るわ。
 
〔評〕 蕭瑟たる秋風と、暮色のもたらす哀調とに、客心轉た凄然たる時、端なく悲雁の聲を天邊に聽く。雁も亦遠來の客である。かう二重三重に攻道具が揃つては、とても溜るものではあるまい。 
 
圓方之《まとかたの》 湊之渚鳥《みなとのすどり》 浪立也《なみたてや》 妻唱立而《つまよびたてて》 邊近著毛《へにちかづくも》     1162
 
〔釋〕 ○まとかた 既出(二三〇頁)。○すどり 洲にゐる鳥をいふ。集中、荒磯《アリソ》の渚《ス》鳥(卷十一)、入江の渚鳥(卷十五)、湊のすどり(卷十七)、渚鳥は騷ぐ(同上)、濱渚鳥(卷十四)など見える。○なみたてや 波立てば〔右○〕や。「也」を略解に巴〔右△〕の誤かとあるが、このまゝで通ずる。
【歌意】 圓方の湊の洲鳥は、沖に〔二字右○〕波が立てばかして、その妻を呼び立てゝ、岸邊に近づくことよ。
 
〔評〕 荒波を避けてか、沖の浮洲にゐる水鳥が、岸に段々と近寄つてくる。只それだけでは別に特色もないが、「妻よび立てゝ」に一抹の情味が漂ふ。
 
(1955)年魚市方《あゆちがた》 鹽干家良思《しほひにけらし》 知多乃浦爾《ちたのうらに》 朝※[手偏+旁]舟毛《あさこぐふねも》 奥爾依所見《おきによるみゆ》     1163
 
〔釋〕 ○あゆちがた 既出(六九五頁)。○ちたのうら 尾張國知多郡の海濱。年魚市潟の南方の衣が浦の邊をさして稱する。新考に年魚市潟は廣く云々とあるは大いなる誤。
【歌意】 年魚市潟は潮が干たらしい。知多の浦で朝漕ぐ舟さへも、岸から離れて〔六字右○〕、沖へ寄つて行くのが見える。
 
〔評〕 知多の浦の朝の退潮時の舟の動靜から、遠淺で鳴つた年魚市潟の潮干に想到した。蓋しこの兩地が隣接してゐる關係からである。「沖による」船をじつと見詰めてゐる作者の態度が面白い。
 
鹽干者《しほひれば》 干〔左△〕潟爾出《ひがたにいでて》 鳴鶴之《なくたづの》 音遠放《こゑとほざかる》 礒囘爲等霜《いそみすらしも》     1164
 
〔釋〕 ○ひがたにいでて 「干」原本に共〔右△〕とあるは誤。新考説による。○こゑとほざかる 鳥の聲をオトともいふ例もあれば、舊訓オトトホザカル〔七字傍線〕も捨てられない。
【歌意】 潮が干ると、その干潟に出て鳴く鶴の聲が、段々遠離ることよ。求食の爲に〔五字右○〕磯めぐりするらしいな。
 
(1956)〔評〕 專ら聽覺のうへから鶴の行動を描いてみた。おなじ鳥でも、前々首は近寄るをいひ、これは遠離るをいひ、おの/\風趣を殊にしてゐる。
 
暮各寸爾《ゆふなぎに》 求食爲鶴《あさりするたづ》 鹽滿者《しほみてば》 奥浪高三《おきなみたかみ》 己妻喚《おのがつまよぶ》     1165
 
〔釋〕 ○おのがつまよぶ 古義訓オノヅマヨブモ〔七字傍線〕。
【歌意】 夕凪の頃〔二字右○〕に、汀に餌をあさる鶴が、潮が段々滿ちてくると、沖の波の高さに、飛び立たうとして、〔八字右○〕、頻におのれの妻を喚ぶことわ。
 
〔評〕 上の「圓方の湊の渚鳥」と相似て、「おのが妻喚ぶ」の斷定のいひ棄てが、永い餘韻を搖曳させる。
 
古爾《いにしへに》 有監人之《ありけむひとの》 ※[不/見]乍《もとめつつ》 衣丹摺牟《きぬにすりけむ》 眞野之榛原《まぬのはりはら》     1166
 
〔釋〕 ○いにしへにありけむひとの 典故不明。或は人も〔二字傍点〕の意で、「之」は毛〔右△〕の誤か。○まぬ 既出(七一〇頁)。○もとめつつ わざわざの意に近い。物好みをするをいふ。○はりはら 「榛」は借字。既出(二二一頁)。
【歌意】 昔居たであらう人が、わざ/\、花を〔二字右○〕衣に摺り付けたであらう、この眞野の萩原よ。
 
〔評〕 卷三に高市(ノ)黒人夫妻の「眞野のはり原」の唱和があるが、それには衣摺のことは見えない。「いにしへにあ(1957)りけむ人」は別に斥す處があらう。古人の風流行爲を引證して、流石なる眞野のはり原よと讃美した。
 
朝入爲等《あさりすと》 磯爾吾見之《いそにわがみし》 莫告藻乎《なのりそを》 誰島之《いづれのしまの》 泉郎可將刈《あまかかるらむ》       1167
 
〔釋〕 ○あさりすと 求食すとて〔右○〕。「朝入」は借字。○なのりそ 既出(八四〇頁)。○いづれの 「誰」を意訓によむ。○かるらむ 新考に未來の事をいへるなればカリナム〔四字傍線〕と訓むべしとあるは非。△寫眞、挿圖244(八四〇頁)を參照。
【歌意】 自分があさりするとて、磯で見たことであつた莫告藻を、何處の島の海人が刈り取るであらうか。――濱あるきしてそこに見付けた娘を、何處の島人が手に入れることであらうか。
 
〔評〕 勿論譬喩の作である。田舍酒人を醉はしめる類で、潮風に吹かれてお色が眞黒な中に、一寸乙な女が目に留まり、「いづれの島の海人か刈るらむ」、結局は島人の妻だらうが勿體ないものだと、羨望の意を寓せた。
  島過すと磯に見し花風吹きて波はよすとも取らずはやまじ (本卷――1117)
と同調。これを古義に、
  物の便にわが見初めし女を誰がおの妻とすらむ、といふ意を譬へたる歌なるを、混れて羈旅の標内に入りしにや。
とあるが、これは客中の口占だから、羈旅の部に收めたもの。
 
今日毛可母《けふもかも》 奥津玉藻者《おきつたまもは》 白浪之《しらなみの》 八重折之於丹《やへをるがうへに》 亂而將有《みだれてあらむ》     1168
 
(1598)〔釋〕 〇けふもかも 「いまもかも」を參照(一六六頁)。○やへをるがうへに 幾重に折れ返るあたりに。卷二十にも、「白波の八重|乎流《ヲル》がうへに」とある。「をる」を古義に古今集の「沖にをれ波」のをれ〔二字傍点〕と同意と見たのは非。新考のタヽムの意に解したのも私見である。「於」の字に、上の意がある。○みだれてあらむ 舊訓ミダレタルラム〔七字傍線〕。
【歌意】 今日もまあ、沖の玉藻は、白波が幾重にも折れ返るあたりに、搖られて〔四字右○〕亂れてゐるであらうかまあ。
 
〔評〕 曾ての羈中の所見を回想した。「今もかも」は「けふもかも」の儔で套語であるが、過去想像に現實感を與へる手段として必要の語である。三句以下形容の妙を見る。
 
近江之海《あふみのみ》 湖者八十〔左△〕《みなとはやそぢ》 何爾加《いづくにか》 君之舟泊《きみがふねはて》 草結兼《くさむすびけむ》     1169
 
〔釋〕 ○あふみのみ 既出(六八七頁)。○みなとはやそぢ 下にあり〔二字右○〕の動詞を略いた。「十」原本に千〔右△〕とあるは誤。類本その他による。なほ略解は、「者」を有〔右△〕の誤とし、ミナトヤソアリ〔七字傍線〕と訓む松平康定説を可とした。姑く舊訓による。○くさむすびけむ 君が〔二字右○〕草結びけむの意を、四句の「君が舟はて」とあるに讓つて君が〔二字右○〕の語を略いた。「草結び」は無事平安を祈る咒術であつた。卷一「磐代の岡の草根をいざ結びてな」(六一頁)及び卷二の「磐代の濱松が枝を引き結ぶ」(四一四頁)の條下を參照。略解に「草を結ぶは旅行く道の標なり、いづくの道をか行くらむの意」とあるは當らない。又草枕の意を附會して、旅行する意と解する説もあるがいかゞ。
(1599)【歌意】 近江の湖水は、湊が澤山ある。その何處に君の船は泊つて、草を結んだことであらうぞ。
 
〔評〕 近江湖畔の港灣は、げにも澤山ある。然し旅行者の道筋は大抵が限定されてゐる。「いづくにか」といつた處で、その道筋以外の港灣ではない。さては「近江の海港は八十」は誇張の敍法で、「いづくにか云々」に對して、力強い前提を成すものである。尤もこの語は「近江の海八十の湊に」(卷二)「近江の海泊八十あり」(卷十三)など見え、當時襲用の套語と思はれるから、作者はさう深い用意なしに使つたものかも知れない。
 當時自身の平安無事を咒願して、物結び草結びの行事を修したことは、既に再三縷述した。これは旅行者に於いて、特に痛切に必要なる行爲であつた。又
  妹が門行きすぎかねて草結ぶ風吹き解くな又返り見む (卷十二――3056)
の如く、咒願して草を結んでもゐる。
 作者は今湖畔の道中にあつた。一足先に出帆した知人の船に思を馳せて、その旅况をつぶさに追想し、遂に草結びの行爲にまで想到した。濃到親切の情味が楮表に溢れてゐる。
                 △物結びの咒術に就いて (雜考――4參照)
 
左左浪乃《ささなみの》 連庫山爾《なみくらやまに》 雲居者《くもゐれば》 雨曾零智否《あめぞふるちふ》 反來吾背《かへりこわがせ》     1170
 
〔釋〕 ○ささなみ 既出(一三一頁、五五九頁)。○なみくらやま 近江の滋賀方面から見たる比叡山の古稱と思ふ。(1960)名は竝座《ナミクラ》の義か。○ちふ 「否」は呉音フ。△地圖 挿圖41(一二四頁)を參照。
【歌意】 連庫山に雲が出ると、吃度雨が降ると申します。早く〔二字右○〕歸つて來て下さい、わが夫《セ》の君よ。
 
〔評〕 後世「髪の毛三本動いたら舟に乘るな」と誡められ、「急がばまはれ」と教へられてある滋賀の湖邊は、早くも奈良時代において「連庫山に雲が出たら天氣が變る」との里諺があつたのだ。
 近江路の旅先で一寸外出した夫を留守居の妻が心配しての言で、歸つて來さへすれば、もう文句は無いのだ。その綢繆纏綿の情致思ふべしである。
 略解及び古義が、奈良の家にある妻が夫の旅先を想うての作としたのは、上句の強い現實感を見遁した説であるのみならず、結句の事情にも協はぬ。
 
大御船《おほみふね》 竟而佐守布《はててさもらふ》 高島之《たかしまの》 三尾勝野之《みをのかちぬの》 奈伎左思所念《なぎさしおもほゆ》     1171
 
〔評〕 ○おほみふね 天皇の〔三字右○〕。○はててさもらふ 大御船が泊てて自分達が〔四字右○〕御前に伺候するの意。古義にこの「さもらふ」を波間を伺ふ意としたのはいかゞ。卷六「風吹けば波か立たむのさもらひに」とあるとは場合が違ふ。上に「泊てて」とあるに注意するがよい。又「さもらふ」はさもらひし〔五字傍点〕と過去にいふべきを、音數に制限されて現在格に調へたもの。○たかしま 既出(七〇〇頁)。○みを 近江國高島都三尾郷のこと。今の三尾大溝の地を含む。三尾(ノ)崎あり。○かちぬのなぎさ 高島郡高島津の邊。今の大溝の地に當る。「かちぬのはら」を參照(七〇〇頁)。○おもほゆ 契沖訓による。奮訓ゾオモフ〔四字傍線〕。△地圖 挿圖202(七〇一頁)を參照。
【歌意】 天皇の〔三字右○〕大御船がとゞまつて、侍臣の自分等が〔七字右○〕伺候した、高島の三尾の勝野の波打際がさ、思ひ出されるわ。
 
〔評〕 三尾の勝野に大御船の泊てたのは何時の代のことか。卷一、明日香(ノ)川原(ノ)宮(ニ)御宇天皇(ノ)代の標下、「金《アキ》の野《ヌ》の尾花刈り葺き」の歌の左註に「一書(ニ)云(フ)、戊申(ノ)歳幸(セル)2比良(ノ)宮(ニ)1大御歌」とあれば、皇極天皇はその比良行幸の序を以て勝野にいでましのあつたものか。又は天智天皇の志賀(ノ)大津(ノ)宮の頃の御事か。
(1962) 勝野の津は小灣だけれど、滋賀地方と違ひ湖面が濶いし、且比良の明神崎(三尾崎)の餘波を南から受けるので比較的波が高く、隨つて渚の景色も惡くはないが、茲に「渚しおもほゆ」といふのは、その渚から打渡した湖水の全景を包容するもので、明媚な風光に魅せられた供奉の官人の一人が、後日になつても反芻的に、かく讃歎の語を放つたものであらう。
 古義に「近江國へ行幸ありし程、京にて思ひ遣りて詠めるなるべし」とあるは、甚しい誤解である。
 
何處可《いづくにか》 舟乘爲家牟《ふなのりしけむ》 高島之《たかしまの》 香取乃浦從《かとりのうらゆ》 己藝出來船《こきでくるふね》     1172
 
〔釋〕 ○ふなのり 「ふなのりせむと」を見よ(五二頁)。○かとりのうら 高島の香取の浦は、大船の香取の海(卷十一)と同じく、高島郡ではあるが所在不明。地形を案ずるに、水尾ノ崎から北舟木附近に及ぶ灣の稱であらう。眞長《マナガ》の浦も同處か。地名辭書に明神崎(三尾崎)附近に充てたのは諾はれない。○こきでくるふね 元本神本の訓コキデコシフネ〔七字傍線〕を古義の採つたのは非。△地圖 挿圖202(七〇一頁)を參照。
【歌意】 何處ではじめ〔三字右○〕、乘船したことであらうか、高島の香取の浦から、漕ぎ出してくるあの〔二字右○〕船はさ。
 
〔評〕 香取の浦から漕ぎ出す船なら、香取の浦で船乘したもので、何も「いづくにか」と疑ふに及ばないと斷じたら早計である。
 抑も湖水西岸の航路は、大津から北|海津《カイヅ》へかけて所謂若狹街道と竝行し、若狹越前等の北國に對する重要な(1963)る輸送幹線であつた。隨つて客船や荷船の往來が頻繁を極めたと想はれる。
 されば眼前の香取の浦から乘り出す船にしても、それは遠くて鹽津菅浦大崎邊から、近くて海津邊からでも出て來たのである筈、そこで「いづくにか」の疑問が描かれ、自分の描いたその係蹄に、作者はみづから出頭没頭してゐる。恐らく勝野の津か或は三尾の崎(明神崎)あたりの岸頭に立つて北望しての感想だらう。
 
斐太人之《ひだびとの》 眞本流云《まきなかすとふ》 爾布乃河《にふのかは》 事者雖通《ことはかよへど》 船曾不通《ふねぞかよはぬ》     1173
 
〔釋〕 ○ひだびと 飛騨人。飛騨は山國の事とて、國人多く杣を業とし、杣木を川に切り流す。又木工即ち大工を業とし、これを飛騨(ノ)工と稱すること、日本後紀、三代實録、延喜式(木工寮式)拾遺集、大和物語等に見える。但眞木流すは杣人の生業で、木工(1964)のする事でない。諸註こゝを木工の事と解してゐるのは誤である。「斐太人の打つ墨繩の」(卷十一)とあるは木工である。○まき 既出(七二五頁)。○にふのかは 飛騨國大野郡丹生川村。川を今は小八賀川と稱する。諸註大和の丹生川とするは當らぬ。○ことは 言《コト》は。
【歌意】 飛騨人が杣木を切り流すといふ、丹生の川は急流で、兩岸から〔七字右○〕お互に話は通ふが、舟は通はぬわい。――私とあの女との間もそんな形でね。
 
〔評〕 國衙の官人などの丹生川所見とし、偶ま杣人の「眞木流す」操作こそ見ないが、かねて話には聞いてゐたので、「とふ」といつたと解せられぬ事もないが、やはりこれを相聞の譬喩歌とし、使こそ通へ逢ひ難いの意と見たい。飛騨に取材したことは「相手が飛騨の國人だからであらう。言通ふほどの河幅でありながら舟が渡せぬは急流の故で、二人の戀にはきびしい邪魔のあるこどが暗示されてある。
 
霰零《あられふり》 鹿島之崎乎《かしまのさきを》 浪高《なみたかみ》 過而夜將行《すぎてやゆかむ》 戀敷物乎《こひしきものを》     1174
 
〔評〕 ○あられふり 鹿島に係る枕詞。霰降りその音の喧《カシマ》しといふを、鹿島にいひかけた。○かしまのさき 常陸國鹿島郡鹿島。卷九に「牡牛《コトヒウシ》の三宅の滷《カタ》にさし向ふ鹿島の崎に」とあり、三宅の滷は下總國海上都三宅郷の(1965)の北邊に沿へる鹵潟地(今利根川の河道)で、その對岸の有名なる鹿島の砂山は即ち鹿島の崎である。○すぎて 空しく〔三字右○〕過ぎて。古義に、その崎に留り居ること協はずして漕ぎ放れてやと解したのは非。
【歌意】 あの鹿島の崎を、波が高さに、只通り〔二字右○〕過ぎて行かうことか、戀しくて立寄りたい〔五字右○〕ものをさ。
 
〔評〕 常陸の内海は到る處現在よりはもつと廣々としてゐた。今の三宅の臺下の低地は、古代は遠淺の潟地で三宅滷といつたが、對岸鹿島の崎の邊は、東|安是《アゼ》の湊からくる海水の逆流で、風向により波が荒かつたらしい。作者はその船が風浪に妨げられて寄泊にも及ばず、鹿島の崎を空しく通過する遺憾さを歌つてゐる。「戀しきものを」の※[立+曷]後の辭樣、含蓄の餘味が搖曳する。
 鹿島の崎は昔でも何の風情もない砂山の出崎に相違ない。それに戀々たる執著を寄せるとは不思議の限だ。或はその邊の水驛に意中の人を想望してゐるのではあるまいか。當時も所在の水驛灣港には遊女の類が棲んで居たことは事實である。
 
足柄乃《あしがらの》 筥根飛超《はこねとびこえ》 行鶴乃《ゆくたづの》 乏見者《ともしきみれば》 日本之所念《やまとしおもほゆ》     1175
 
〔釋〕 ○あしがら 卷十四には「あしがり」と詠んだ歌が數首ある。「あしがらやま」を見よ(八九六頁)。○はこ(1966)ね 箱根山。相模駿河の國界をなし、峰巒重疊し山頂に蘆の湖あり、最高峯神山は標高約一四四〇米突。山中又温泉に富んでゐる。○ともしき 既出(七二四頁)の(1)の意。△地圖 挿圖267(八九五頁)を參照。
【歌意】 足柄の箱根の山を、飛び越えてゆく鶴の、珍しくて飽かぬのを見ると、故郷の倭がさ、偲ばれるわ。
 
〔評〕 作者は箱根の東方に居て瞻望したのである。今の小田原邊は昔は沮洳地で蘆原だつたから、鶴も相當その附近に棲んで居たらう。その鶴が青雲に一片の白を點じて、足柄亂山を飛び越えてゆく。實に目覺ましい雄大な景色である。これにつけても亦故郷人に見せたらばと、倭偲びの念に打たれて止まない。
  あしたには海びにあさりし夕べには倭へ越ゆる雁しともしも (卷六、膳王――954)
と同趣同調の作で、而もこの鶴の飛びゆく方角は常に願望して止まぬ故郷の空の方であることを考へると、一段と凄愴の感に打たれる。
 
(1967)夏麻引《なつそひき》 海上滷乃《うなかみがたの》 奥津洲爾《おきつすに》 鳥者簀竹跡《とりはすだけど》 君者音文不爲《きみはおともせず》     1176
 
〔釋〕 ○なつそひき 夏麻引き績《ウ》みの績み〔二字傍点〕を轉音で海上《ウナカミ》にいひかけた枕詞と思ふ。夏季麻の皮を苧に引く、故に夏麻といふ。さてその苧を絲に績《ウ》むのである。隨つて舊訓ナツソヒク〔五字傍線〕とあるは非。又(1)夏麻引く畝《ウネ》を海上に係けた(冠辭考、古義)。(2)「なつそ」は魚釣緡《ナツリソ》の略にて釣絲を引く海と續けた(古義説)の二説あるが不用。○(1968)うなかみがた、海上潟。上總國海上郡(今市原郡)。東京灣の東北偏に當る。海上の地名は古事記に上莵上《カミツウナカミノ》國、下(ツ)菟上(ノ)國(國造本記にも)と見え、上菟上は上總の海上郡、下菟上は下總の海上都に當る。卷十四の上總歌にも、「夏麻ひき海上潟の沖つ洲に舟はとどめむ小夜更けにけり」、とあれば、こゝの海上潟も上總國と見るが穩かである。○おきつす 沖合の洲。○とりはすだけど 鳥は〔二字右○〕鳴き騷げど。「すだく」は聚まる意だが、こゝは鳴くことをも籠めてある。「簀竹」は戲書。○おともせず 音づれもせずの意。
【歌意】 この海上潟の沖合の洲に、水鳥は鳴き騷ぐが、それに引換へ〔六字右○〕、あの人は音もしないわ。
 
〔評〕 上總の八幡姉が崎邊を舟行した人の作である。海上郡の西濱は、現在は無論だが、昔といへども遠淺の鹵潟地なので、海上潟と呼ばれた。泥沙の作る浮洲流れ洲は浦遠く出没し、そこには水鳥等の求食の聲が喧しく響く。この聽覺から起つた聯想は、忽ちその正反面に走つて、音づれもない故郷人に想到した。「鳥はすだけど君は音もせず」と、極めて露骨なる對比的敍法を以て、その合拍の間にきびしい感傷の情緒を寓せた。君は必ず家妻である。
 
(1969)若狹在《わかさなる》 三方之海之《みかたのうみの》 濱清美《はまきよみ》 伊往變良比《いゆきかへらひ》 見跡不飽可聞《みれどあかぬかも》     1177
 
〔釋〕 ○みかたのうみ 若狹國三方都の三方湖。東西一里南北その半。北に山を隔てゝ水月湖あり、三方より大なり、又その北に久々子、日向の二湖あり、その水相通ず。○いゆきかへらひ 「い」は發語、「かへらひ」は反り〔二字傍点〕の延音。
【歌意】 若狹にある、三方の湖の濱がきれいさに、往き返りして見ても/\、飽かないことよなあ。
 
〔評〕 三方の湖は極めてやはらかい和やかな感じのする小風景である。「い往き返らひ」清き汀を逍遙すれば、結局は套語ながら「見れど飽かぬかも」と落着せざるを得ない。
 
(1970)印南野者《いなみぬは》 往過奴良之《ゆきすぎぬらし》 天傳《あまづたふ》 日笠浦《ひかさのうらに》 波立見《なみたてりみゆ》     1178
  一(ニ)云(フ)、思賀麻江者《シカマエハ》、許藝須疑奴良之《コギスギヌラシ》。
 
〔釋〕 ○いなみぬ 既出(六六五頁)。○あまづたふ 日に係る枕詞。日は天を傳うて出没すればいふ。○ひかさのうら 播磨國印南郡大鹽と曾根との間の岡山を日笠山といふ。その山下の海の稱。推古天皇紀に、十一年――舍人(ノ)姫王薨(リヌ)2於赤石《アカシニ》1仍(テ)葬(ル)2赤石(ノ)檜笠《ヒカサノ》岡上(ニ)1とあるに據れば明石郡らしいが、郡中にその地名がない。蓋し古への明石は加古、印南、美嚢三郡に亙つた總稱で、明石國といつたのだから、赤石の檜笠と記されたものであらう。紀の文は誤と見てもよい。○たてりみゆ 古文の格、古義訓による。舊訓タテルミユ〔五字傍線〕。○しかまえ 飾(1971)磨江。古への飾磨津か。今の播磨國飾磨郡飾磨町飾磨川の河口。
【歌意】 印南野は早〔右○〕行き過ぎたらしい。日笠の浦に波が立つてゐるのが、あれ〔二字右○〕見えるわ。
 
〔評〕 日笠山はいはゞ南北に延長した一座の岡陵に過ぎないが、その山下の廣い鹽田は古代においては、無論遠淺の浦に波の立つてゐたことを物語つてゐる。
 この旅行者は、長い間倦怠極まる播磨平野を横斷して、茲に始めて海に接し得た、その珍しさ嬉しさを氣持よく歌つた。當時端的に眼に映じたものは、只波の白さであつた。乃ち「波立てり見ゆ」は必然的の下語である。さて一呼吸の餘裕を生じて、「印南野は行き過ぎぬらし」と廻顧し思惟したのである。
 左註の飾磨江は日笠の浦まで舟行三里、波には既に見飽きてゐるから、下句の印象がよく躍らない。本行のは西行の作、左註のは東行の作。
 
家爾之※[氏/一]《いへにして》 吾者將戀名《われはこひむな》 印南野乃《いなみぬの》 淺茅之上爾《あさぢがうへに》 照之月夜乎《てりしつくよを》     1179
 
〔釋〕 ○いへにして 家に於いて。○こひむな 「な」は歎辭。○あさぢ 「あさぢはら」を見よ(八〇一頁)。
【歌意】 歸つたら〔四字右○〕家において、さぞ自分は戀しく思はうな、あの印南野の淺茅の上に照つた、面白い〔三字右○〕月をね。
 
〔評〕 印南野を月夜に通過しての面白さを、追憶した旅中の作である。過去の印象が餘に歴然たる處から、未來(1972)も同樣と豫想して、その甚しい執着に我ながら首をかしげてゐる。「淺茅がうへ」の一語下し得てよい。荒涼たる曠野に、凄其衣に薄る夜氣の搖曳を思はせる。
 
荒礒超《ありそこす》 浪乎恐見《なみをかしこみ》 淡路島《あはぢしま》 不見哉將過《みずやすぎなむ》 幾許近乎《ここだちかきを》     1180
 
〔釋〕 ○あはぢしま 既出(六六二頁)。○みずやすぎなむ 略解訓による。舊訓ミズテヤスギム〔七字傍線〕。○ここだ 大層に、甚だなどの意。
【歌意】 荒磯を越す波がまあ恐しさに、あの淡路島を見ないで、通り過ぎようことかえ、大層近いものをさ。
 
〔評〕 名勝淡路島を目前にしなから、餘所に見過す殘念さを歌つた。結句はいひ過ぎたやうだ。
 
朝霞《あさがすみ》 不止輕引《やまずたなびく》 龍田山《たつたやま》 船出將爲日者《ふなでせむひは》 吾將戀香聞《われこひむかも》     1181
 
〔釋〕 ○やまず 不斷に。何時も。○たつたやま 既出(二八四頁)。○ふなでせむひ 難波の浦を〔五字右○〕。△地圖及寫眞 挿圖91(二八六頁)、90(二八五頁)を參照。
【歌意】 朝の霞が何時も靡く、あの〔二字右○〕立田山を、愈よ難波を〔五字右○〕船出しよう日は、自分は懷かしがらうなあ。
 
〔評〕 どの方面にゐて立田山を眺めたかは不明だが、近日西國に旅立つ大和人の作であらう。さては立田山は必ず來往すべき要路であるので、毎朝霞たなびく光景に殊更注意が惹かれたのである。この前提のもとに、難波(1973)出發の際は、如何にこの山の名殘が惜しまれることだらうと、豫め懷土望郷の念に打たれてゐる。古義が「さても見飽かぬ龍田山ぞ」と餘意をいひ添へたのは斜視である。
 
海人小船《あまをぶね》 帆毳張流登《ほかもはれると》 見左右荷《みるまでに》 鞆之浦囘二《とものうらわに》 浪立有所見《なみたてりみゆ》     1182
 
〔釋〕 ○とものうら 既出(九九一頁)。○うちわに 古義訓ウラミニ〔四字傍線〕。△地圖及寫眞 挿圖291(九五二頁)、292(九九二頁)を參照。
【歌意】 海人の小舟に、帆を張つたかと思ふ位に、鞆の浦囘に波が立つてゐるのが、あれ〔二字右○〕見えるわ。
 
〔評〕 鞆の浦は風光の和やかな海で、今は風があつても、沖にちら/\と白いものが見える程度の波なのだ。これ海人小舟の帆影に紛ふ所以である。つまり白の一語を囘護して道破せぬ處に味がある。「見るまでに」「見ゆ」の重複、例は多いが面白くはない。
 
好去而《まさきくて》 亦還見六《またかへりみむ》 大夫乃《ますらをの》 手二卷持在《てにまきもたる》 鞆之浦囘乎《とものうらわを》     1183
 
〔評〕 ○まさきくて 眞幸《マサキ》くて。「好去而」をかく訓むことは、卷五「好去好來」を見よ(一五五九頁)。○ますらをのてにまきもたる 鞆に係る序詞。鞆は弓射る時|丈夫《マスラヲ》が手に纏く物なればいふ。「ますらを」(四〇頁)及び「とも」(二六三頁)を見よ。○うらわを 古義訓ウラミヲ〔四字傍線〕。△繪圖、挿圖83(二六三頁)を參照。
(1974)【歌意】 まあ/\無事で、後にも亦立ち返つて見ようぞ、丈夫が手に纏いて持つてゐる鞆といふ名の、この鞆の浦囘をさ。
 
〔評〕 鞆の修飾としての三四句など、當時では尚平語であらう。「また返り見む」はこの主想であるが、これも屡ばいつた如く、萬葉人の套語である。但鞆の浦は、この對語を繰り返さゞるを得ぬほどに好風光である。
 初句の「まさきくて」は生命に危惧の念をもつ人の發する詞である。されば作者は長旅か何かで、容易に歸還の望のない人であらう。或は西國方面に赴任する老年の官吏でゝもあらうか。なほ、
  わが命まさきくあらば又も見む志賀の大津によする白波 (卷三、穗積老――288)
の評語を參照(七二一頁)。
 
鳥自物《とりじもの》 海二浮居而《うみにうきゐて》 奥津浪《おきつなみ》 ※[馬+參]〔左△〕乎聞者《さわぐをきけば》 數悲哭《あまたかなしも》     1184
 
〔釋〕 ○とりじもの 鳥そのまゝでの意。「うきゐて」に係る序詞。「かもじもの」を見よ(一九三頁)。○さわぐ 「※[馬+參]」は副馬の三頭なるをいひ、騷ぐの義がない。意訓か。或は驟〔右△〕の誤か。姑く疑を存する。○あまたかなしも 舊訓ココラカナシモ〔七字傍線〕。「哭」は喪《モ》には哭するが禮であつたから、意訓にモと訓む。
【歌意】 水鳥そのまゝで海に浮いてゐて、沖の波の騷ぐのを聞くと、ひどく悲しいことわい。
 
〔評〕 船中の作である。全然船を道破せず、直ちに「海に浮きゐて」と飛躍的の叙法を用ゐた。かくてその頼よ(1975)りなさ心細さが力強く表現される。その上に恐ろしい波の騷ぎが轟いては、愈よ情けなく思つて、その場合「あまた悲しも」、かういふより外はあるまい。
 
朝菜寸二《あさなぎに》 眞梶※[手偏+旁]出而《まかぢこぎいでて》 見乍來之《みつつこし》 三津乃松原《みつのまつばら》 浪越似所見《なみごしにみゆ》     1185
 
〔釋〕 ○まかぢこぎいでて 楫(梶)には貫く〔二字傍点〕といひ、取る〔二字傍点〕といふ。漕ぐ〔二字傍点〕といふのは正しくない。集中この歌の外に見えぬことで、さりとて「榜」は外に訓みやうもない。恐らく「眞梶」の二字に誤があらう。「まかぢ」は既出(八四六頁)。○みつのまつばら 松原のある御津は、打任せては難波の御津である。卷五に「大伴の御津の松原」とあると同處。「みつのはま」を見よ(二三五頁)。
【歌意】 朝凪ぎを時として、諸楫立てゝ〔三字右○〕漕ぎ出して、見ながら來た、あの御津の松原が、もう浪越しに遠く〔二字右○〕見えるわ。
 
〔評〕 無技巧の描寫であるが、時間と空間との推移が交錯して面白い。二句は稍穩當でない。「眞梶」も大袈裟だが、事實なら仕方がない。
 
朝入爲流《あさりする》 海未通女等之《あまをとめらが》 袖通《そでとほり》 沾西衣《ぬれにしころも》 雖干跡不乾《ほせどかわかず》     1186
 
〔釋〕 ○ほせど 「跡」は添字。
(1976)【歌意】 漁《スナド》りする海人少女達が、袖をとほして濡れたことであつた衣は〔右○〕、幾ら干しても乾かぬわ。
 
〔評〕 海人少女達の生活の辛苦を歌うた。上の
  妹がため貝をひろふと茅沼の海に濡れにし袖はほせど乾かず (本卷−−1145)
と同型同調であるが、その歸趨を殊にしてゐる。
 
網引爲《あびきする》 海子哉見《あまとやみらむ》 飽浦《あくうらの》 清荒磯《きよきありそを》 見來吾《みにこしわれを》     1187
 
〔釋〕 ○みらむ 「見」の上に將〔右△〕を、或は下に覽〔右△〕を脱したものか。○あくうらの 紀伊國海士都(今海草都)の田倉崎の灣か。卷十一に「木《キ》の國の飽等《アクラ》の濱」と見え、飽等は飽浦《アクウラ》の急語と思はれる。宜長いふ、加太《カダ》の浦の南なる田倉《タクラ》これなるべし(玉勝間)と。古義はアクラノ〔四字傍線〕と四言に訓んだ。
【歌意】 網を引く海人と、他人は〔三字右○〕見るであらうか、飽浦のきれいな荒磯を、見に來た自分をさ。
 
〔評〕 飽浦の好風光に見惚れて、何時までも荒磯に佇立してゐたが、ふと氣が付いて我れに返つた時の感懷である。かう長居しては定めし他所目には浦の海人と思はれようかと、その逸興を歌つた。但集中に類款(1977)が多い。なほ卷三「荒栲の藤江の浦に」の條の評語を參照(六六三頁)。
 
右一首、柿本朝臣人麻之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
山越《やまこえて》 遠津之濱之《とほつのはまの》 石管自《いはつつじ》 迄吾來《わがきたるまで》 含而有待《ふふみてありまて》     1188
 
〔釋〕 ○やまこえて 山越えて遠しを達津に係けた序詞。狂言詞にも「山一つあなたの里に」など見え、山のあちらは遠いとの觀念は昔ほど強い。で「山越えて」が遠津の序詞に用ゐられた。この句を古義に四句へ係けて見るべしとあるは非。○とほつのはま 場所不明。宣長が考に卷十一に「霰ふり遠津大浦に」の次に「木の國の名高の浦」の歌を擧げたれば、遠津は紀伊國なるべしとあるが、確定的ではない。○いはつつじ 既出(四九五頁)。古義訓イソツツジ〔五字傍線〕。○わがきたるまで 卷廿にも「わが伎多流麻弖《キタルマデ》とある。古義に「吾」を返〔右△〕の誤としてカヘリコムマデ〔七字傍線〕と訓み、下の「足代《アテ》過ぎて」の歌の結句、及び卷九の長歌の結句の「還り來むまで」を證に引いたが、そ(1978)れはそれこれはこれである。讀萬葉古義の訓ワガクルマデニ〔七字傍線〕。○ふふみてありまて 含んでゐて待て。
【歌意】 遠津の濱の岩躑躅よ、自分がまた來るまでは、咲かずに莟んで待つてゐなさい。
 
〔評〕 濱邊の岩山などに躑躅は赤々とその莟を著けてゐるが、今は逗留の出來ぬ場合なので、また出直してくるまで、莟のまゝで待つてをれと注文した。不可能と知りつゝも無理をいふ、その花を愛賞したい念願の如何に強いかゞ窺はれる。風流三昧。
 
大海爾《おほうみに》 荒莫吹《あらしなふきそ》 四長鳥《しながどり》 居名之湖爾《ゐなのみなとに》 舟泊左右手《ふねはつるまで》     1189
 
〔釋〕 ○しながどり 前出(一九三七頁)。○ゐなのみなと 「ゐなぬ」(七〇八頁)及び「むこのとまり」(七一四頁)を見よ。△地圖 挿圖207(七〇九頁)を參照。
【歌意】 大海に荒風は吹くなよ、猪名の湊に、この船が行き著くまでは。
 
〔評〕 高が攝津内海でも、一葉舟の昔の航海では恐怖すべき大海だ。武庫山おろしでもくれば忽ち船は寂滅だ。されば「あらしな吹きそ」はやはり眞劍の叫である。
 猪名の湊は武庫の海の深く灣入した奥區(挿圖二〇七の假想海岸線參照)だから、啻に風波の安全なるのみならず、この時の豫定航路がその湊入にあつたと思はれる。是非に泊までは安全にと祈念する航海者の緊張が、確かに受け取られる
 
(1979)舟盡《ふねはてて》 可志振立而《かしふりたてて》 廬利爲《いほりせむ》 名子江乃濱邊《なこえのはまべ》 過不勝鳧《すぎかてぬかも》     1190
 
〔釋〕 ○かしふりたてて 船※[木+戈]を突き立てゝ。般を繋ぐの意を含む。「かし」は和名抄に、※[爿+戈]※[爿+可](ハ)所2以繋(ク)1v舟(ヲ)、漢語抄(ニ)云(フ)加之《カシ》と見えて、舟繋ぐ※[木+戈]をいふ。○いほりせむ 「いほり」を見よ(二二七頁)。○なこえのはま 攝津國住吉の北濱に奈呉(名兒)の海がある。又越中國射水都に奈呉乃《ナゴノ》江、奈呉江、奈呉の海の稱がある。この前後は悉く近畿方面の詠作で、而も左註に見れば藤原(ノ)卿一人の歌である。さてはこの歌のみ飛び離れた越中の詠とすることも如何であるから、尚攝津の奈呉の海と假定する。但攝津の奈呉は江と續けた例はない。古義は「名」を三句につけてイホリセナ〔五字傍線〕と訓み、「江」を潟〔右△〕の誤として四句をコカタノハマベ〔七字傍線〕と訓んだ。○すぎかてぬ 「入りかてぬ」を見よ(四九六頁)。
【歌意】 船が著いて、船※[木+戈]を突き立てゝ艤《モヤ》つて〔二字右○〕、宿らうぞ。この奈呉江の濱邊は、いゝ景色で〔五字右○〕、とても通り過ぎかねることよ。
 
〔評〕 全然上句は希望で、「過ぎかてぬ」心から出た空想なのだ。それを「かし振り立てゝ」など現實的描寫を用ゐて、さも實現しさうに放言した處に、詩味が發酵されるのである。
 
妹門《いもがかど》 出入乃河之《いでいりのがはの》 瀬速見《せをはやみ》 吾馬爪衝《わがまつまづく》 家思良下《いへもふらしも》     1191
 
(1980)〔釋〕 ○いもがかどいでいり 妹が門出で入りを入野《イリノ》河に係けた序。略解は「出入」は入出〔二字右△〕の顛倒、「乃」は水〔右△〕の誤としてイリイヅミガハ〔七字傍線〕と訓み、妹が門を入り出づを泉河に係けたりと解した。○いりのがは 入野川。山城國乙訓都の入野の川。今|善雄《ヨシヲ》川といふ。野《ノ》は古言ヌなれど、當時またノともいつたことは春の能《ノ》に(卷五)すがのあら能《ノ》(卷十四)夏の能《ノ》の(卷十八)などの例がある。又大和吉野|國※[木+巣]《クズ》村に入野といふ處がある。こゝの入野も或は國※[木+巣]村の入野か。○わがま 舊訓ワガウマ〔四字傍点〕。○いへもふ 「いへこふ」を見よ(八四四頁)。眞淵訓による。舊訓イヘコフ〔四字傍点〕。
【歌意】 妹が門を出入する、その入りといふ名の、入野川の水瀬がまあ早さに、自分の馬が躓くわ。コリヤ家人が自分を念ふらしいわい。
 
〔評〕 家人の思へば乘馬が躓くといふ俗信のことは、
  鹽津山うち越えゆけばわが乘れる馬ぞつまづく家戀ふらしも (卷三、笠金村――365)
の條において既に述べた。尚この次の「白栲に匂ふ眞土の山川に」の歌も等類で、その中鹽津山が一番高調である。
 初二句の辭樣は卷九に「妹が門入りいづみ河の床なめに」の類例が見え、人麻呂の「をとめ子が袖ふる山」(卷四)の顰に倣つたものらしい。尚同歌の評語を參照(一〇八七頁)。
 
(1981) 白栲爾《しろたへに》 丹保布信土之《にほふまつちの》 山川爾《やまがはに》 吾馬難《わがうまなづむ》 家戀良下《いへこふらしも》     1192
 
〔釋〕 ○しろたへににほふ 川瀬が〔三字右○〕白色に美しく映える。「しろたへ」を參照(一一八頁)。○まつちのやまがは 眞土峠の西麓に切崖高くなつた小川を待乳川(堺川)といひ、今ある橋を兩國橋と稱する。大和紀伊の國界である。「信」に眞《マ》の義があるので充てた。「まつちやま」を見よ(一二七頁)。○なづむ 「難」を意訓によむ。△地圖及寫眞 挿圖46(一四三頁)、73(二一八頁)を參照。
【歌意】 眞白に瀬々が美〔三字右○〕しく映える、眞土の山川に、それを渡る自分の馬が行き悩むわ。さては家人が戀しく思ふらしいわい。
 
〔評〕 「白たへに匂ふ」は白波の立つ婉辭である。さほどの早瀬では、打入れて渡るに駒の足掻の泥む筈だ。
 上の歌とこれとは、その詞態と地名こそ相違すれ、主意は同一である。恐らく何れかゞ本文で、一つはその異傳を注したのが、いつか本行に混れ込んだむのだらう。
 
(1982)勢能山爾《せのやまに》 直向《ただにむかへる》 妹之山《いものやま》 事聽屋毛《ことゆるせやも》 打橋渡《うちはしわたす》     1193
 
〔釋〕 ○せのやま 「勢能山」を見よ(一四一頁)。○ただに 一圖に、一直線に。○いものやま 「勢能山」を見よ(一四一頁)。○ことゆるせやも 言葉に承知したせゐかして。言聽せば〔右○〕やのバの接續辭を用ゐぬは古文法。「も」は歎辭。○うちはし 既出(五一四頁)。△地圖及寫眞挿圖46(一四三頁)、45(一四二頁)を參照。
【歌意】 背の山にまともに向つてゐる妹の山、それが、男の背山の乞をウンと承知したせゐかしてまあ、間の川瀬に〔五字右○〕橋を架け渡すわ。
 
〔評〕 打橋渡す河は妹背の山の間を流れる紀の川である。古今集(雜)にも「ながれては妹背の山の中に落つる吉野の川(紀の川)」と詠まれ、その地理は明確である。然るに「打橋渡す」は紀の川ほどの大川にはふさはぬといふ前提のもとに、宜長は
  妹山といふは兄山あるにつきて只設けていへる名にて、實に然いふ山あるにはあらじ。
の一説を提出した。が妹山の存在は事實で、この歌の外卷六卷七卷十三に數首の明證を擧げ得る。又他の説に、妹山を背山と同じ紀の川の北岸に獨立する山とし、その間の小川に打橋渡すと解した。臆説も亦甚しい。
 これは紀の川の北岸の背山の下から川の中洲までの淺瀬に、ヘナ/\の板橋を架け、中洲から船で、南岸妹山の邊に渡つてゐたのであらう。かうした交通状態は、河原の廣い田舍の川によく見受ける。
(1983) 作者はこの打橋を見て、所柄忽ち男女間の關係に想到し、平生盈々たる一水を隔てゝ、有意無意の間に永く相望んでゐた、他人行儀の妹背の山も、今や雙方の情意が疎通し投合した結果、女山は男山の來訪を承諾し、さてその打橋を渡して壻君歡迎の道を闢くものと觀じた。神秘的の香氣を帶びた巧緻の構想、容易に及び易からざるものがある。詞辭又分寸の弛緩もなく緊張してゐる。「打橋渡す」の現在描寫は殊に克明な印象を與へ、洵に恰當な表現である。
 
木國之《きのくにの》 狹日鹿乃浦爾《さひかのうらに》 出見者《いでてみれば》 海人之燈火《あまのともしび》 波間從所見《なみのまゆみゆ》     1194
 
〔釋〕 ○さひかのうら 雜賀の浦。紀伊國海士郡(今海草郡)。浦の東端は雜賀崎を以て若の浦を隔てる。その野を雜賀野といふ。○あまのともしび 漁火《イザリビ》をいふ。○なみのまゆ この「ゆ」はニ〔傍点〕の意に近い。古義訓による。舊訓ナミマヨリミユ〔七字傍線〕。△地圖 挿圖391(一六二六頁)を參照。
【歌意】 紀伊の國の、雜賀の浦に出て見ると、海人のいざりの火が、波の間に見えるわ
 
〔評〕 門部王も難波の浦で「見渡せば明石の浦にもゆる火の」(卷三)と詠まれ、海上の漁火ほど、海なき他郷人の眼を驚かすものはない。或時は美しく花やかに勇壯に、或時は心細げに寂しげに不安に感ずる。矚目の景を大まかに敍した處に、技巧を離れたよさがある。
 
(1984)麻衣《あさごろも》 著者夏樫《きればなつかし》 木國之《きのくにの》 妹背之山二《いもせのやまに》 麻蒔吾妹《あさまくわぎも》     1195
 
〔釋〕 〇きれば 古義訓ケレバ〔三字傍線〕。〇なつかしきのくにの 「夏樫木」は戲書だらう。〇あさ 既出(一一一九頁)。〇あさまく 麻蒔きし〔四字傍点〕と過去にいふべきを現在格に叙した。訓は略解による。舊訓アサマケ〔四字傍線〕は非。〇わぎも 「わぎもこ」を參照(一七一頁)。△寫眞 挿圖313(一一二〇頁)を參照。
【歌意】 麻衣を著ると、懷かしいわ。あの紀の國の妹背の山に、麻種〔右○〕を蒔いてゐた、吾妹が思ひ出されてね〔八字右○〕。
 
〔評〕 作者は大和人であらう。偶ま麻衣を著ると、嘗て紀路に往つた折、妹背の山あたりで行き摺りに見た、麻種を蒔いてゐた田舍娘を思ひ出した。一寸可愛らしい樣子をしてゐたので、「吾妹」とまで親稱を用ゐて、「なつかし」の情意を強調した。實は麻衣を著るまでは、忘れてゐた程の淡い戀心に過ぎないのだが、物に觸れては流石に死灰がまた燃える。而もその麻蒔く場處が外ならぬ妹背の山であつたとすると、愈よ好奇の情炎を煽るにふさはしいではないか。
 序にいふ、「麻裳よし紀人ともしも」(卷一)の枕詞の詞意を、この歌に湊合させて考へると、麻は當時紀州の名産であつたことが、確に斷言し得る。
 
右七首(ハ)藤原(ノ)卿(ノ)作。未(ダ)v審(カニセ)2年月(ヲ)1。
 
(1985) ○七首藤原卿作 「山越えて」以下を數ふれば八首となる。然し「妹が門出で入野川の」と「白栲に匂ふ眞土の」は、その何れかゞ異傳を註記したものと思はれるから、その一首を除くと數が合ふ。○藤原卿 誰れか。契沖はいふ、藤原(ノ)北卿にて房前なるべきを、北〔右△〕の字落ちたるにや、南卿武智麻呂は和歌に不堪なりけるか、集中一首もなければなり。もし大織冠ならば内大臣藤原卿とあるべしと。
 
欲得※[果/衣]登《つともがと》 乞者令取《こはばとらせむ》 貝拾《かひひろふ》 吾乎沾莫《われをぬらすな》 奥津白波《おきつしらなみ》     1196
 
〔釋〕 ○つともが 「つと」は土産の苞《ツツミ》物。「はなにもが」を參照(七四七頁)。略解訓による。○こはば 家人が〔三字右○〕。古義は二句にて切り、波の乞はゞの意に解したが、構思が不自然になる。○とらせむ 呉れよう。
【歌意】 土産物が欲しいと、家人が〔三字右○〕ねだつたら、呉れてやらうその〔二字右○〕貝を拾ふ、私を濡らすなよ、沖の白波よ。
 
〔評〕 自分めは洒落や道樂ではない、眞劍な家人の爲の貝拾ひだ、少しは察してさう邪魔立てするなと、底を割つて、沖つ白浪に同情を求めた。求めたとて非情の波には何の效果もないが、そこに痴呆の詩味がある。いかに波に濡れ/\貝拾ひに浮身を窶してゐたかゞ窺はれ、人情の温さに打たれる。
 
手取之《てにとりし》 柄二忘跡《からにわすると》 礒人之曰師《あまのいひし》 戀忘貝《こひわすれがひ》 言二師有來《ことにしありけり》     1197
 
(1986)〔釋〕 ○てにとりしからに 手に取るからに〔七字傍点〕と同じい。「し」の過去が殆ど現在完了格に近い。「咲之柄爾《エマシシカラニ》(卷四)「隔之可良爾《ヘダテシカラニ》」(同上)「相見之柄二《アヒミシカラニ》」(卷十一)など同例である。又「越我可良爾斷《コユルガカラニ》」(卷六)と現在にいふは素よりの事である。尚「し」の過去助動詞は、古代文法ではその結語を現在格で收める例がまゝある。古義訓テニトルガカラニ〔八字傍線〕も惡くない。○こひわすれがひ 既出(一七〇頁)。○ことにしありけり 既出(一三三九頁)。
【歌意】 手に取るまゝにすぐ忘れると、海人が效能をいつた戀忘貝、何のそれは〔五字右○〕、名ばかりでさあつたわい。
 
〔評〕 戀の煉獄から逃がれたい爲に、忘貝を拾つたことが曲敍されてゐる。上の
  住の江に行きにし道にきのふ見し戀わすれ貝言にしありけり (――1149)
と同趣であるが、海人の宣傳を引用した點は、一層現實的で、印象が力強い。「手に取りしからに忘る」の表現も一寸面白い。尚前出「夢のわたことにしありけり」の評語を參照(一九三〇頁)。
 
求食爲跡《あさりすと》 礒二住鶴《いそにすむたづ》 曉去者《あけゆけば》 濱風寒彌《はまかぜさむみ》 自妻喚毛《おのづまよぶも》     1198
 
〔釋〕 〇おのづま おのれの妻《メ》。
【歌意】 求食するとて〔右○〕、磯に棲む鶴が〔右○〕、夜が明けてゆくと、濱風の寒さに、おのれの妻を喚び立てるわい。
 
〔評〕 前出の
(1987)  夕なぎに求食する鶴しほみてば沖なみ高みおのが妻喚ぶ (――1164)
と殆ど相似た作。「あけゆけば」は鶴の鳴き出す時刻、「濱風寒み」は鶴の來て棲む時季なのである。「おの妻喚ぶ」は、想像を斷定にいつたもので、現實性が強調される。
 
藻苅舟《もかりぶね》 奥※[手偏+旁]來良之《おきこぎくらし》 妹之島《いもがしま》 形見浦爾《かたみのうらに》 鶴翔所見《たづかけるみゆ》     1199
 
〔釋〕 ○もかりぶね 玉藻など刈る舟。○いもがしま 紀州名所圖繪に、友が島の古名とあるに從ふ。友が島は紀伊國名草郡(今海草郡)加太《カダ》の海中にあり、西は淡路島と一水を隔てゝゐる。島の北に牛が首の瀬戸(中ノ瀬戸)あり、その邊を形見の浦と稱する。○かたみのうら 妹が島の形見の浦と續く。妹が島と形見の浦とは異地ではない。△地圖及繪圖 挿圖 477(一九七六頁)、478(一九七七頁)を參照。
【歌意】 藻刈舟が沖の方から〔四字右○〕、漕いでくるらしいわ。妹が島の形見の浦に、鶴が飛び翔けるのが見える。
 
〔評〕 形見の浦附近での所見である。卷二にも「玉藻刈る沖邊は漕がじ」とある如く、あの邊の沖は波荒く岩礁が多く、隨つて磯付の海藻が豐富で、藻刈舟の活躍場だ。鳴門若布の産地だ。偶ま近くの磯邊に求食してゐた鶴が、俄に物に驚いて飛び立つのを見て、その藻刈舟が沖から寄つてくると推定するのは自然である。
 
吾舟者《わがふねは》 從奥莫離《おきゆなさかり》 向舟《むかへぶね》 片待香光《かたまちがてり》 從浦※[手偏+旁]將會《うらゆこぎあはむ》     1200
 
(1988)〔釋〕 ○おきゆなさかり 稍無理だが、「ゆ」はニ〔傍点〕に近い意と見て、沖の方〔二字右○〕に遠離《トホザカ》るなと解する。實は沖へ〔右○〕とありたい處だ。卷三にも「沖へなさかり」とある。○むかへぶね 迎舟。古義訓ムカヒブネ〔五字傍線〕は非。○かたまちがてら 「かたまち]は一方のみ待つこと。「がてり」は既出(八五四頁)。ガテラ〔三字傍線〕も當時通用の語だが、「香光」はガテリと訓むがよい。
【歌意】 自分のこの舟は、沖の方に遠離るな。迎舟のくるのを、心待にしながら、浦邊から漕いで往つて出合はうよ。
 
〔評〕 約束こそないが、迎舟が來さうな場合だつたと見える。そこで餘り沖へは出るなと、船頭に聲を懸けたものだ。何れ迎舟は浦出してくるから、「浦ゆ漕ぎ合はむ」といつた。人的關係を主題にした舟行の作で、その情致に掬すべき面白味はある。奈良朝中期以後の風調が露出してゐる。「ゆ」の再出など苦にならない。
 
大海之《おほうみの》 水底豐三《みなそことよみ》 立浪之《たつなみの》 將依思有《よらむともへる》 礒之清左《いそのさやけさ》     1201
 
〔釋〕 ○みなそことよみ 波の音は海の底に鳴り響くのでいふ。上句は序詞。○よらむ 古義はヨセム〔三字傍線〕と訓み、船を〔二字右○〕寄せむの意に解した。
【歌意】 大海の底が鳴り響いて立つ波が、打寄るやうに、自分が立寄らうと思うてゐる、その磯の清けくあることよ。
 
(1989)〔評〕 事實は磯が清かなので寄りたくなつたのを、かう本末巓倒の逆敍を用ゐたことは、頗る効果的に「磯のさやけさ」を引立てる。この下に、
  大海の磯もとゆすり立つ波の寄らむともへる濱のさやけく (――1239)
といふのがある。一つ歌が二樣に傳誦されたものであることはいふまでもなからう。
 
自荒磯毛《ありそゆも》 益而思哉《ましておもへや》 玉之浦《たまのうら》 離小島《さかるこじまの》 夢石見《いめにしみゆる》     1202
 
〔釋〕 ○ありそゆもまして 荒磯よりも勝つて。○おもへや 思へば〔右○〕や。○たまのうら 紀伊國東牟婁郡浦神灣の稱。灣口は南に開いて岩礁多く、水は山岡の間を細長く西へ深く灣入して風波靜穩である。灣の北部に粉白濱がある。○さかるこじまの 離れた小島が。舊訓ハナレコジマノ〔七字傍線〕、神(1990)本訓サカレルコジマ〔七字傍線〕。
【歌意】 荒磯よりも以上に、よく〔二字右○〕思ふせゐかして、珠の浦の離れた小島が、夢にさ見えるわい。
 
〔評〕 荒磯の景も惡くはないがの前提のもとになされた作である。
 抑も紀路の海岸は大抵荒磯で終始してゐる。獨この珠の浦が恰も湖水の如き靜穩な碧を湛へて明媚である。その風光は又別段であることを、離れ小島によつて象徴させ、夢寐にも忘れかねるといつた。
 
礒上爾《いそのうへに》 爪不折燒《つまぎをりたき》 爲汝等《ながためと》 吾潜來之《わがかづきこし》 奥津白玉《おきつしらたま》     1203
 
〔釋〕 ○つまぎ 抓木《ツマギ》の義。薪の細小なるをいふ。○かづき 潜き。○おきつしらたま 沖の白玉は鰒珠即ち眞珠のこと。
【歌意】 冷えた總身を煖める〔九字右○〕爲、磯の上に妻木を折り燒きなど辛苦して〔四字右○〕、貴方の爲とて〔右○〕、私が海に〔二字右○〕潜つて採つて來た、この沖の白珠ですよ。
 
〔評〕 眞珠を人に贈つた時の作であらう。例の贈物に價値づける筆法で、恰も海女のするやうに、自分が苦辛し(1991)て採取した眞珠だと揚言した。
 鰒取の海女など、海からあがると、夏の炎天でも磯に焚火して身體を煖める。都人の眼からは頗る奇異の感に打たれ、海人の生活の辛苦さが、つく/”\看取される。但「婁木折り焚き」が「わが潜きこし」に跨續するので、事件が前後して矛盾を感ずる。蓋し表現の失敗である。作者の胸裏に眼底にへ張りついてゐる實感が、物をいひ過ぎた結果であらう。
 
濱清美《はまきよみ》 磯爾吾居者《いそにわがをれば》 見者《みむひとは》 白水郎可將見《あまとかみらむ》 釣不爲爾《つりもせなくに》     1204
 
〔釋〕 ○みむひとは 略解に「見」の下人〔右△〕脱ちたるかと。但このまゝでも訓まれぬこともない。
【歌意】 濱が美しさに、愛でて〔三字右○〕磯に自分が出て居ると、餘所から見る人は、自分を〔三字右○〕海人と見るであらうか、釣などはしもせぬのに。
 
〔評〕 結句あまりにいひ詰め過ぎて面白くない。なほ卷二「荒栲の藤江の浦に」(六六三頁)、及び上出「網引する海人とや見らむ」(一九七六頁)の評語を見よ。
 
奥津梶《おきつかぢ》 漸々志夫乎〔五字左△〕《しましくなこぎ》 欲見《みまくほり》 吾爲里乃《わがするさとの》 隱久惜毛《かくらくをしも》     1205
 
〔釋〕 ○おきつかぢ 沖に漕ぐ楫をいふ。「おきつかい」を見よ(四三四頁)。○しましくなこぎ 暫く漕ぐな。「漸(1992)々志夫乎」を新考に暫奈水手〔四字右△〕の誤として、かく訓んだのに、假に從つた。宣長はこれを漸々爾水手〔三字右△〕の誤として、ヤヤヤヤニコゲ〔七字傍線〕と訓み、古義は漸々莫水手〔三字右△〕の誤として、ヤウヤウナコギと〔七字傍線〕訓んだ。
【歌意】 沖の楫取よ、暫く控へて漕ぐな。見たく私が思ふ里が、隱れてゆくことが惜しいわい。
 
〔評〕 沖かけて楫取るまゝに隔つて、相知る懷かしの地も影を沒してゆくのを惜しんだ。
 
奥津浪《おきつなみ》 部都藻纏持《へつもまきもち》 依來十方《ヨセクトモ》 君爾益有《きみにまされる》 玉將縁八方《たまよせめやも》     1206
 
〔釋〕 ○へつも 岸邊の藻。沖つ藻に對する。○とも――やも「十方」「八方」は戲書。
【歌意】 沖の波は岸邊の藻を卷き込んで、打寄せてくるとも、貴方に優る程のよい珠を、寄せようことかいな。
〔評〕 荒涼たる海邊の獨居、美人を天の一方に望むの情や愈よ切なるものがあらう。偶ま眼前に波の弄ぶ藻草を見るに及んて藻草から深淵の名珠を想ひ、層々聯々、その名珠に依つて更にかの君を思惟し、また比較し、遂にいかに波の力でも君に勝れる珠は寄せないと斷じた、その情味の濃厚さに打たれる。畢竟これは美人に寄せた戀歌である。
 
粟島爾《あはしまに》 許枳將渡等《こぎわたらむと》 思鞆《おもへども》 赤石門浪《あかしのとなみ》 未佐和來《いまださわげり》     1207
 
(1993)〔釋〕 〇あはしま 既出(八三五頁)。〇あかし あかしのうらを見よ(七九〇頁)。○となみ 門波。迫〔右○〕門の浪の略語。明石の迫門を略して明石の門といふことは當時の通用語で、人麻呂の歌にも見えてゐる。△地圖及寫眞第二冊卷頭總圖および挿圖184(六六八頁)を參照。
【歌意】 粟島に、今〔右○〕漕ぎ渡らうと思ふけれども、明石の迫門の浪が、まだ立ち騷いでゐるわい。
 
〔評〕 行旅者が屡ば體驗する處、目的地を眼前咫尺の間に望みながら、その迫門の潮さゐは、小舟の交通を遮斷する。殊に明石の門は落潮時には潮流が急に駛り、その名殘が容易に收まらない。潮待に待ちあぐんだ作者は、呪ふやうに「いまだ騷げり」の冷語を放つた。「いまだ」は畫龍點睛の妙語で、これに依つて全鱗悉く振ふ。この歌の粟島は、必ず明石の對岸に當る淡路の北邊の地稱である。
 
妹爾戀《いもにこひ》 余越去者《わがこえゆけば》 勢能山之《せのやまの》 妹爾不戀而《いもにこひずて》 有之乏左《あるがともしさ》     1208
 
〔釋〕 ○いもにこひ 戀ふ〔二字傍点〕の語に續く時は、妹に〔傍点〕・我妹子に〔傍点〕といひて、妹を〔二字傍点〕・我妹子を〔四字傍点〕といはぬが萬葉人の通語。〇せのやま 既出(一四一頁)。○ともしさ 羨ましさの意。
【歌意】 吾妹子に戀ひつゝ、自分が背の山を〔四字右○〕越えてゆくと、背の山が別に妹山にも戀ひずに、平氣で〔三字右○〕ゐることが羨ましいことよ。
 
〔評〕 背の山の妹山のと、名こそ人らしいが、山の事だから本來無情だ。乃ち「妹に戀ひずてある」の活喩を用(1994)ゐて、この一案を提げて自己の遣る瀬ない煩悶に對比し、その平然たる態度を感心してゐる。例の地名に※[夕/寅]縁した構想はうるさいが、腐を化して新とした手腕は買へる。既に「妹に戀ひ」といひ、更に「妹に戀ひずて」といふ、この率直で露骨に過ぎる反言が、相反撥して、この歌では頗る效果的の表現となつてゐる。 
人在者《ひとならば》 母之最愛子曾《ははのまなごぞ》 麻毛吉《あさもよし》 木川邊之《きのかはのべの》 妹與背之山《いもとせのやま》     1209
 
〔釋〕 ○まなご 既出(一二一八頁)。○あさもよし 紀の枕詞。既出(二一七頁)。○きのかは 紀の川。大和の吉野川が紀伊國伊都郡に入つてからの稱。東流十三里那賀海草二郡を貫流し、和歌山市の西北に至つて海に入る。○いもとせのやま 妹と兄の山。
【歌意】 人であるならば、丁度母親の愛子であるぞ〔三字右○〕、紀の川の邊に竝んでゐる、あの〔二字右○〕妹山と兄の山は。
 
〔評〕 背山妹山が紀の川縁に對立してゐる態を、擬人して兄妹の兒と見なし、それを母の眞愛子に譬喩した。さ程にこの二山は可愛らしげな小山である。
 
吾妹子爾《わぎもこに》 吾戀行者《わがこひゆけば》 乏雲《ともしくも》 竝居鴨《ならびをるかも》 妹與勢能山《いもとせのやま》     1210
〔釋〕 ○ならびをるかも 「竝居鴨」は戲書。
【歌意】 吾妹子に自分が戀ひつゝ行くと、羨ましくも、中よく〔三字右○〕竝んでゐる、妹山と背山よ。
 
(1995)〔評〕 この種の構想は、當時としては常識的で陳腐に近い。體調の温雅を以て勝る。
 
妹當《いもがあたり》 今曾吾行《いまぞわがゆく》 目耳谷《めのみだに》 吾耳見乞《われにみえこそ》 事不問侶《こととはずとも》     1211
 
〔釋〕 ○めのみだに 面影だけなりとも。「め」は見え〔二字傍点〕の約。「めをほり」を見よ(一三七二頁)。○みえこそ この「こそ」は願望辭。○こととはず 「こととはぬ」を見よ(一〇四七頁)。
【歌意】 妹の住むあたりを、今さ私が通るわ。せめてその面影だけでも、自分に見えてほしい、口は利かずともね。
 
〔評〕 恐らくこの作者は戀の焦燥にあこがれ出て、妹が家のあたりを徘徊したのであらう。無論直接に話の出來るに越した事はないが、退一歩實現可能の程度にその要望を置いた。戀は何かと苦勞なものだ。
 これは普通の戀歌であるのに、こゝに排次されたのは、「妹」とあるを妹山の事と誤認した爲である。
 
足代過而《あてすぎて》 絲鹿乃山之《いとかのやまの》 櫻花《さくらばな》 不散在南《ちらずあらなむ》 還來萬代《かへりくるまで》     1212
 
〔釋〕 ○あて 紀伊國在田都はもと安諦《アテ》郡といひ、持統天皇紀及び績紀大寶三年の條に阿提《アテ》、績紀天平三年の條に阿※[氏/一]《アテ》、こゝには足代《アテ》とある。日本後紀に大同元年改(メテ)2紀伊(ノ)國安諦郡(ヲ)1爲(ス)2在田郡(ト)1、以(テ)3詞渉(ルヲ)2天皇(ノ)諱(ニ)1也と見え、平城天皇の御名は安殿《アテ》であつた。但こゝは絲鹿の山に對した地名だから、郡名では不倫である。必ず安諦と稱(1996)する小地名でなければならぬ。案ずるに今の在田川は安諦郡時代には安諦川と呼ばれたことと考へられる。その中流に中古|當《アテ》川(ノ)莊の名が見え、上流は今も安諦川といつてゐる。往古、安諦川(在田川)以南の地を廣く安諦といひ、以北の地を安太《アタ》(英多)と稱したのであらう。古義いふ、安諦はもと一郷一邑の名なりけむが、後に廣く郡名となれるなるべしと。諸家、安太《アタ》と混同して無用の辯を費してゐる。「代」は漢音テイ。○あてすぎて 絲鹿山も安諦の地には屬するけれど、安諦の最北端にあるので、大まかにかくいつた。古義がこの句を結句に係けて解したのは句法を亂すもので感心しないが、この句の下實に詞が足らない。越ゆる〔三字右○〕の語を「絲鹿の山」の上に添へて聞くべきである。○いとかのやま 在田郡絲鹿村。在田川の南の山。古への熊野街道この山の峠を通過し、湯淺へ出る。○ちらずあらなむ 舊訓チラズモアラナム〔八字傍線〕。○かへりくるまで 古義訓カヘリコムマデ〔七字傍線〕とあるが、コム〔二字傍点〕と將然にする(1997)必要がない。卷十五にも「可敝里久流末低《カヘリクルマデ》」とある。
【歌意】 安諦を通り過ぎて、今越える〔四字右○〕絲鹿の山の櫻の花よ、散らずにあつて欲しいな、引返して來う時までに。
 
〔評〕 これは東又は南の方面から來て、安諦の地を大部分を通過して絲鹿峠に懸つた人の作であらう。今は在田川河畔に道路が通じて、峠を越さない。
 絲鹿山は中將姫で名代の雲雀山の南隣に蟠屈した小山だが、坂路は可なり嶮峻で、林木が叢生してゐる。その間に櫻花の點綴を面白しと興じた旅人は、散り易いこの花に對つて、一言歸路の再會を契らざるを得まい。
  山越えて遠津の濱の石つゝじわが來たるまでふゝみてあり待て(本卷――1188)
  わが行きは七日を過ぎじ立田彦ゆめこの花を風に散らすな(卷九――1748)
などの興趣に、一脈相通ずるものがある。
 
名草山《なぐさやま》 事西在來《ことにしありけり》 吾戀《わがこひの》 千重一重《ちへのひとへも》 名草目名國《なぐさめなくに》     1213
 
〔釋〕 ○なぐさやま 名草山は紀伊國名草郡(今海草郡)の小嶺。その最南の突端海に瀕んだ處に紀三井寺がある。○ことにしありけり 既出(七二七頁)。○わがこひの 古義訓ワガコフル〔五字傍線〕。何れも千重の一重〔五字傍点〕と續く、その例卷四、卷三、卷六にある。○ちへのひとへも 既出(五六五頁)。△地圖 挿圖391(一六二六頁)を參照。
(1998)【歌意】 名草山がなぐさといふも〔七字右○〕、名のみのことでさあつたわい。私の戀の千の一つも、慰めはせぬにさ。
 
〔評〕 溺る者は藁でも攫む、はかない地名や物名などにせよ、自分に都合のいゝやうに解釋しては縋りつき、さてその效果がないとて失望する。
 ――名のみを名兒《ナゴ》山とおひてわが戀ふる千重の一重も慰さめなくに(卷六、坂上郎女――963)
もそれである。そしてこれは失望の果、翻つて「言にしありけり」と毒口を吐いてゐる。
 
安太部去《あたへゆく》 小爲手《をすて・サヰデ》乃山之《のやまの》 眞木葉毛《まきのはも》 久不見者《ひさしくみねば》 蘿生爾家里《こけむしにけり》     1214
 
〔釋〕 ○あた 安太は紀伊國在田郡(古へ安諦郡)英多《アタ》のこと。和名抄に在田郡英多と見え、郷名である。安諦《アテ》の北に接する。上の「あて」を參照。○あたへ 英多の方〔二字右○〕へ。○をすてのやま 所在不明。今在田郡に推手《オシテ》村あ(1999)り、或はそこの山か。地名辭書は、小爲手をサヰデ〔三字傍線〕と訓み、海草郡加茂村沓掛の蕪坂の南に竝べる才坂《サイザカ》に充てた。在田郡の郡界に當る。○まき 既出(七二五頁)。○こけむし 「こけむす」を見よ(六一二頁)。
【歌意】 安太へ出る、小爲手の山の眞木の葉さへも、永いこと見ないので、蘚が生えたことわい。
 
〔評〕 小爲手の山は安太へゆく往還の山だ。大した深山でもなささうだが、今度通つて見ると、眞木の枝葉に猿尾かせ(下り苔)が著いてゐたので、烏兎の怱々たるに驚いたものだ。「久しく見ねば」は底を割つたいひ方で面白くない。が或は暫く逢はぬうち情人の變心したのを比擬したものか。
 
玉津島《たまづしま》 能見而伊座《よくみていませ》 青丹吉《あをによし》 平城有人之《ならなるひとの》 待問者如何《まちとはばいかに》     1215
 
〔釋〕 ○たまづしま 既出(一六二六頁)。○あをによしなら 「あをによし」を見よ(八三頁)。「平城」の字面は續紀元明天皇和銅元年秋九月の條に始出。「平」はナラスの義を取つて奈良に充て、「城」は支那の洛陽城長安城の例に倣つて稱したもの。△地圖及繪圖 挿圖391(一六二六頁)、392(一六二六頁)を參照。
【歌意】 この玉津島の景を、君よ〔二字右○〕とくと見てお出なさい。奈良の京にゐる方が、君のお歸を〔五字右○〕待ち受けて、こゝの樣子を〔六字右○〕お尋ねなされたら、何と返辭をなさいますかえ。  
 
〔評〕 玉津島遊覽の口占である。同伴者に對してさも親切らしい警告も、その實は自分がこの勝景に陶醉の餘り(2000)に發したもので、奈良なる人を倩ひ來つて、「待ち問はば」の一案を叩き付け、同伴者に抗議の餘地を無からしめた。かくしてゆるりとその好風光を愛賞しようとの企らみである。狡獪も亦甚しい。
  難波潟しほ干のなごりよく見てな家なる妹が待ち問はむ爲(卷六、神社老麻呂――976)
と相似た興趣で、これは他人を卷き添へにしただけ、一層複雜性を帶びて面白い。老手。
鹽滿者《しほみたば》 如何將爲跡香《いかにせむとか》 方丈〔左△〕海之《むろのうみの》 神我戸〔左△〕渡《かみがとわたる》 海部未通女等《あまをとめども》     1216
 
〔釋〕 〇むろのうみ 紀伊國牟婁郡の海。今の熊野灘に當る。「丈」原本に便〔右△〕とある。新考にいふ、方便〔二字傍点〕海は方丈〔二字傍点〕海の誤、方丈は維摩の室の大きさより出でたる語にて僧堂の稱となれり、されば方丈はムロ(室)と訓むべしと。信によき發見である。舊訓、方便海をワタツミと讀み、これによつて契沖は、海龍王は衆生を利便する方便にて龍宮城を占めて住めば、その意にて書けるにやといつたが、糊塗の説である。○かみがと 恐ろしい水門《ミト》の意。原本に「神我手《カミガテ》」とあるは解し難い。古義に「手」を戸〔右△〕の誤としてカミガトと訓み、神之門《カミガト》の意にて、卷十六怕(シキ)物(ノ)歌の「神之門渡《カミガトワタル》」に同じとあるに從つた。但神武天皇紀に、遂(ニ)越(エ)2狹野(ヲ)1到(リマス)2熊野(ノ)神(ノ)邑(ニ)1と見えたるそこの崎なりとの説はいかゞ。神邑は熊野地方の總稱だから、甚だ漠然としてゐる。こゝはやはり怕物歌の神之門と同じく、地名と見ぬ方がよい。【歌意】 たゞでも〔四字右○〕荒いのに、潮が滿ちたなら、どうしようとて、この牟婁の海の恐ろしい水門を渡るのか、あの海人少女どもは〔右○〕。
 
(2001)〔評〕 水門《ミト》を構成してゐる向ひ島などには、退潮時を利して海藻採取に、海女等は小舟を操つて渡るのであつた。その心細い頼りなげな有樣に同情して、作者は「潮滿たば」と心配した。牟婁の海は素より荒海だ。それを強調して表現した「神が門」の一語は、この心配を如實に裏づけるものであつた。海馴れぬ都人の作。
 
玉津島《たまづしま》 見之善雲《みてしよけくも》 吾無《われはなし》 京往而《みやこにゆきて》 戀幕思者《こひまくもへば》     1217
 
〔釋〕 ○みてしよけくも 見てしことは〔三字右○〕良けくもの略。「よけく」はよく〔二字傍点〕の延言。○こひまく 「まく」は推量辭のむ〔傍点〕の延言。いはまく〔四字傍点〕、かけまく〔四字傍点〕と同詞態。
【歌意】 評判の景色のいゝ〔八字右○〕、玉津島を見たことであつたのも、自分は一向良くもないわ、京に歸つて、それが思ひ出され〔八字右○〕、戀ひられようことを思へばさ。
 
〔評〕 逆説的筆法での玉津島讃美である。詞人は讃美の語に窮すると、時にこの猾手段を弄する。
  人よりは妹ぞもあしき戀もなくあらましものを思はしめつつ(卷十五、中臣宅守――3737)
  いみじき盗人かな、尚えこそ棄つまじけれ(枕草子)
などその類例がまゝある。もと/\機智の産物だから、決して上乘なる作とはいへないが一寸面白い。
 
黒牛乃海《くろうしのうみ》 紅丹穗經《くれゐなにほふ》 百礒城乃《ももしきの》 大宮人四《おほみやびとし》 朝入爲良霜《あさりすらしも》     1218
 
(2002)〔釋〕 ○くろうしのみ 黒牛の海は黒牛潟ともいひ、今の黒江灣に當る。和歌山市の南三里、黒江町の海で、和歌の浦に隣接する。名草都(今の海草郡)。○くれなゐにほふ 「にほへる」を見よ(一〇七九頁)。○ももしきの 宮の枕詞。既出(一二六頁)。△地圖 挿圖391(一六二六頁)を參照。
【歌意】 黒牛の海に、紅の色が映つて美しい。多分大宮人がさ、求食《アサリ》するらしいわい。
 
〔評〕 黒牛の海は潟ともいひ、遠淺の小波勝の處であつた。――今の黒江町はその堆砂の上に出來た市街――その漸※[瀲の右端が欠]※[さんずい+艶]たる波上に、赤裳の裾を映ぜしめた大宮人は、男官ではなくて、必ず從駕の女房であらねばならぬ。大寶元年辛巳冬十月太上天皇(持統)大行天皇(文武)幸(ス)2紀伊(ノ)國(ニ)1時(ノ)歌の中に、
  黒牛潟しほ干の浦をくれなゐの玉裳据ひきゆくは誰が妻(卷九、――1672)
とも見え、この前後の紀路の歌は、皆同時の詠と推定してよい。
 抑も太上天皇は女帝にましますから、流石に多人數の女官が扈從したらう。赤裳は婦人の服ながら、海波(2003)に紅の匂ふは大きな誇張で、色彩の配合太だ鮮明である。何れおなじ從駕の男官達の作であらう。
 
若浦爾《わかのうらに》 白波立而《しらなみたちて》 奥風《おきつかぜ》 寒暮者《さむきゆふべは》 山跡之所念《やまとしおもほゆ》     1219
 
〔釋〕○やまと 既出(二三八頁)。△地圖及挿圖 挿圖391(一六二六頁)、392(同上)を參照。
【歌意】 若の浦に白い波が立つて、沖吹く風が寒い夕方は、故郷の倭がさ、思はれてね。
 
〔評〕 文武天皇の慶雲三年の難波行幸の時の歌、
  蘆邊ゆく鴨の羽がひに霜ふりて寒きゆふべは倭しおもほゆ(卷一、志貴皇子――64)
は同趣の作である。若しこれを大寶元年の紀伊行幸の時のとすれば、この歌の方が先出となる。尚卷一「蘆邊ゆく鴨の羽がひに」の歌の評語を參照(二三九頁)。
 
爲妹《いもがため》 玉乎拾跡《たまをひろふと》 木國之《きのくにの》 湯等乃三崎二《ゆらのみさきに》 此日鞍四通《このひくらしつ》     1220
 
〔釋〕 ○ゆらのみさき 紀伊國日高都白崎村の東南に由良《ユラ》の港あり、その北の岬角を稱するか。
【歌意】 思ふ兒の爲、土産の〔三字右○〕珠を拾ふとて、處もあらうに〔六字右○〕、紀伊の國の由良の岬に、思ひがけず〔五字右○〕、今日のこの日を暮したわい。
 
(2004)〔評〕 「紀の國の由良の岬に」との事々しいいひ立ては、その邊鄙の荒濱であることを説示し、そこの珠拾ひがいかに苦辛なものであるかを婉曲に物語つた。而も妹が爲には一所懸命で時の移るのも知らず努力した趣を、「この日暮しつ」と力強い他動的詞態を取つて誇張した。そこに妹思ひの情味が津々と湧くのである。總べて「この日暮しつ」の句には必ず意外とする趣が伴うてゐる。
  妹が爲菅の實つみにゆけるわれ山路まどひてこの日暮しつ(本卷――1250)
  春の雨にありけるものを立隱れ妹が家路にこの日暮しつ (卷十――1877)
  飛鳥川ゆく瀬を速みはや見むと待つらむ妹をこの日暮しつ(卷十一――2713)
の例を見ても明かであらう。
(2005) 大寶元年の行幸時の作にも湯等《ユラ》の前《サキ》の名が見える。この歌も同時の作か。
 
吾舟乃《わがふねに》 梶者莫引《かぢをばなひき》 自山跡《やまとより》 戀來之心《こひこしこころ》 未飽九二《いまだあかなくに》     1221
 
〔釋〕 ○かぢをばなひき 梶をば引くな。梶引くは艪を押すをいふ。「かぢひきをり」を參照(五九七頁)。
【歌意】 わがこの船の艪を、さう〔二字右○〕押すなよ、倭から見たいと思ひ戀うて來た心が、まだ滿足しないのにさ。
 
〔評〕 勝地に出會つて見ても見飽かぬ心から、さう取急いで「梶をばな引き」と、船頭に小言をいつてゐる。「倭より戀ひこし」は、その景望の念を極度に表現した語で面白い。
 
玉津島《たまづしま》 雖見不飽《みれどもあかず》 何爲而《いかにして》 ※[果/衣]持將去《つつみもちゆかむ》 不見人之爲《みぬひとのため》     1222
 
〔釋〕 ○つつみもち ツトニモチ〔五字傍線〕と訓むも惡くない。舊訓ツツミモテ〔五字傍線〕は非。
【歌意】 玉津島は幾ら見ても見飽きない。どうしてこれを土産に〔六字右○〕、※[果/衣]んでもつて往かうかえ、まだ見ない人の爲にさ。
 
〔評〕 不可能を承知で、尚未見の人の爲にその娯を頒つて遣らうと碎心する、その情味が嬉しい。「玉津鳥を――裹(2006)みもち」は頗る奇拔で大膽な下語のやうであかが、島が元々小さな島であり、又島の名の玉から、法華經の衣裏の珠即ち玉を包むことを聯想しての作と考へると、頗る細心な巧緻が認められる。
  をぐろ崎みつの小島の人ならば都の苞にいざといはましを(古今集、大歌所歌)
とは似而非なる行き方である。
 
綿之底《わたのそこ》 奥己具舟乎《おきこぐふねを》 於邊將因《へによせむ》 風毛吹額《かぜもふかぬか》 波不立而《なみたてずして》     1223
 
〔釋〕 ○わたのそこ 沖の枕詞。既出(二八四頁)。
【歌意】 この沖を漕ぐ船を、あの岸邊に寄せよう。丁度都合のいゝ〔七字右○〕風も吹いてくれないかなあ、波は立てないでね。
 
〔評〕 さも面白い沿岸の景色を海上から見渡しての作。成るたけ近寄つて、つぶさに愛賞したいの念から、好便の風は吹け、但波は立てるなと、矛盾を平氣に、勝手な注文をいつてゐる處に、幾分の詩味を生ずる。
 
大葉山《おほはやま》 霞蒙《かすみたなびき》 狹夜深而《さよふけて》 吾船將泊《わがふねはてむ》 停不知文《とまりしらずも》     1224
 
〔釋〕 ○おほはやま 所在不明。八雲御抄に紀伊とあるは、この卷の排次上からの推定に過ぎない。○かすみた(2007)なびき この霞は霧をいつた。○しらずも 「不知文」は戲書のやうに見える。
【歌意】 大葉山に霧が靡き、夜が更けて、わが乘船の、著かう湊もわからぬことよなあ。
 
〔評〕 目じるしの山には霧が懸かり、夜は積水の上に更ける。而も一望微茫として孤舟寄る處がないのである。かう心細い頼りない悲觀的材料が堆積しては、その重壓に堪へぬ作者の悲鳴を、目のあたり聞くやうである。卷九
  母山霞たなびき小夜ふけてわが舟はてむ泊しらずも(碁師――1732)
の初句は、「母」の上、大〔右○〕字の脱で、オホバヤマと訓むべく、さては全くこれと同歌。
 
狹夜深而《さよふけて》 度〔左△〕中乃方爾《となかのかたに》 欝之苦《おほほしく》 呼之舟人《よびしふなびと》 泊兼鴨《はてにけむかも》     1225
 
〔釋〕 ○となかのかた 門中の方の意。門中は記の仁徳天皇の條に、「由良《ユラ》の門の門中《トナカ》のいくり」と見え、こゝは單に海上をいふ。「度」原本に夜〔右△〕とある。宣長説によつて改めた。守部が近江の地名として、夜中の潟と解し、卷九「客《タビ》なれば三更《ヨナカ》をさして照る月の高島山に隱らくをしも」を證としたのは採らない。
【歌意】 夜が更けて、海上の方で氣の滅入《メイ》るやうに、湊を〔二字右○〕呼び立てゝゐた舟人は〔右○〕、もう泊に著いたらうかしらなあ。
 
〔評〕 夜聲は耳について忌まはしい。さればいかにおほゝしい呼聲であつたらう。その行方を何時までも覺束な(2008)がつて同情してゐる。卷一
  いづくにか船泊《フナハテ》すらむあれの崎漕ぎたみゆきし棚なし小舟(高市黒人――58)
とその景致も心境も似てゐゐ。
 
神前《みわのさき》 荒石毛不所見《ありそもみえず》 浪立奴《なみたちぬ》 從何處將行《いづくゆゆかむ》 與寄道者無荷《よきぢはなしに》     1226
 
〔釋〕 ○みわのさき 「みわがさき」を見よ(六八五頁)。古義訓カミノサキ〔五字傍線〕。○よきぢ 避《ヨ》ける路。「よき」は加行四段の活用。ヨギと濁るは誤。△地圖及寫眞 挿圖192(六八五頁)、194(六八七頁)を參照。
【歌意】 三輪が崎は、その荒磯さへ〔二字右○〕も見えぬ程に、浪が立つたわ。何處から通つて往かうぞ、外に避ける路は無くてさ。
 
〔評〕 海岸の一本道、そこには岩礁が亂立して沖遠く斗出してゐる、これが三輪が崎の實景である。折柄狂瀾怒濤はその荒磯を壓して凄まじかつたとすれば、物馴れぬ旅人は一遍に畏縮して、「いづくゆ行かむ」と當惑せざるを得まい。而も「よき路」はないのである。進退谷まつて途方に暮れてゐる作者その人を想見する。句法も變化があり、表現にも分寸の隙がない。
 
礒立《いそにたち》 奥邊乎見者《おきへをみれば》 海藻苅舟《めかりぶね》 海人※[手偏+旁]出良之《あまこぎづらし》 鴨翔所見《かもかけるみゆ》     1227
 
(2009)〔釋〕 ○めかりぶね 契沖訓による。舊訓モカリブネ〔五字傍線〕。元來藻類の稱呼としてはモもメも同語で、モは汎稱。メは食料の意義をもつ特稱。○かもかける 「鴨」を鶴〔右△〕の誤とする説は獨斷。
【歌意】 磯に立つて、沖や岸邊を見ると、今しも〔三字右○〕藻刈舟を〔右○〕、岸邊から〔四字右○〕海人が漕ぎ出すらしい、鴨が騷いで沖へ〔二字右○〕飛び渡るのが見える。
 
〔評〕 藻刈舟が漕ぎ出すのは岸邊である。鴨の翔るは沖へである。その間に亙つた動的景致が、磯に立つ作者の眸中から映寫されてゐる。
  藻刈り舟沖漕ぎくらし妹が島かたみの浦に鶴翔ける見ゆ(本卷――1199)
と同調ながら、これは稍猥雜の感がある。
 
風早之《かざはやの》 三穗浦廻乎《みほのうらわを》 ※[手偏+旁]舟之《こぐふねの》 船人動《ふなびとさわぐ》 浪立良下《なみたつらしも》     1228
 
〔釋〕 ○かざはやのみほ 「かざはやの」(九六八頁)及び「みほのうら」(九六八頁)を見よ。○うらわ 古義訓ウラミ〔三字傍線〕。○さわぐ 新考のトヨム〔三字傍線〕の訓は非。△地圖及寫眞 挿圖219(七四八頁)、289(九六九頁)を參照。
【歌意】 三穗の浦邊を漕ぐ船の、船頭があれ騷ぐわ。大分波が立つらしいわい。
 
〔評〕 海邊ではこんな事は不斷で、一向珍しい景象ではない。それを都人は好奇の眼を瞠つて、一途に深く見入(2010)つた。そこにこの作のよさがある。
  かつしかの眞間のうらみを漕ぐ舟の船人さわぐ浪立つらしも(卷十四――3349)
はこの一傳であらう。眞間の浦は靜穩な入江だから、荒濱の三穗の浦のやうに、「舟人騷ぐ」も、「波立つ」もよく利かない。
 
吾舟者《わがふねは》 明旦〔左△〕石之浦〔左△〕爾《あかしのうらに》 ※[手偏+旁]泊牟《こぎはてむ》 奥方莫放《おきへなさかり》 狹夜深去來《さよふけにけり》     1229
 
〔釋〕 ○あかしのうら 既出(七九〇頁)。「明旦」は意訓にアカシと讀まれる。さて「石」を添字とした。「旦」原本に且〔右△〕とあるは誤。又元本にはこの字がない。「浦」原本に潮〔右△〕とあるを、宣長説によつて改めた。眞淵は滷《カタ》の誤、童本は湖《ミナト》の誤とした。舊訓は潮をハマ〔二字傍線〕と訓んである。
【歌意】 私のこの船は、明石の浦に漕ぎつけようぞ。船頭よ〔三字右○〕、さう沖の方へ出てくれるなよ、大分夜が更けてしまつたわい。 
 
〔評〕 この歌は卷三、高市黒人の覊旅歌八首中の
  わが船は比良のみなとに漕ぎはてむ沖へなさかり小夜更けにけり (――274)
と第二句に相違あるのみ。恐らく流傳の誤であらう、委しくは同歌の條(六九八頁)を見よ。
 
(2011)千磐破《ちはやぶる》 金之三崎乎《かねのみさきを》 過鞆《すぎぬとも》 吾者不忘《われはわすれじ》 牡鹿之須賣神《しかのすめがみ》     1230
 
〔釋〕 ○ちはやぶる 神の枕詞。既出(三三〇頁)。但こゝは金の御《ミ》崎に續けた。これに就いて、(1)は千早ぶる神の〔二字右○〕金の御崎の略言とし、(2)は千早ぶるを枕詞と見ず、その本義のまゝに、荒ぶる恐ろしき金の御崎と解した。元來この語は猛く荒い神人の形容として用ゐられ、(2)の解の如きはその變例と見られる。○かねのみさき 鐘の岬。筑前國宗像郡鐘が崎町の北の出崎。○われはわすれじ 古義に「吾者」をアヲバ〔三字傍線〕と訓んだのは、話は面しろくなるが附會である。○しかのすめがみ 志賀の皇神。志賀島の綿津見《ワタツミ》の神のこと。神名帳に、筑前(ノ)國糟屋(ノ)郡、志賀海《シカノワタツミノ》神社三座(名神大)と見え、景行天皇紀に志我(ノ)神の名出づ。志賀島地方は古への綿津見の國(2012)で、その祖神を子孫が祀つたのが志賀島の海神の社である。皇神は何れの神にもいふ尊稱。祝詞にその例が多い。「しか」は既出(七〇六頁)。
【歌意】 假令〔二字右○〕あの鐘の岬を過ぎたとしても、私は忘れはすまい、海上安全にお守り下さつた 有難い〔十五字右○〕志賀の皇神樣をさ。
 
〔評〕 鐘の岬は南に玄海灘、北に響灘を振分ける岬角である。志賀島から鐘の岬までは海上十餘里、鳥も通はぬ玄海の荒浪に畏怖恐縮して、一途に海の神樣志賀の皇神の擁護を祈念するより外はなかつた。やつと無事に鐘の岬を船頭に望み得たその瞬間の嬉しさは、どんなであつたらう。全くこれも志賀の皇神の御利益だ、この御恩はよしやあの鐘の岬を過ぎても忘却することではないと、未來までを懸けて最大限度の感謝の詞を志賀の皇神に捧げた。一葉舟に五尺の身命を托する往古の航海情調が、如實に躍動してゐる。
 
天霧相《あまぎらひ》 日方吹羅之《ひかたふくらし》 水莖之《みづぐきの》 崗水門爾《をかのみなとに》 波立渡《なみたちわたる》     1231
 
〔釋〕 ○あまぎらひ 空がぼうとすること。曇ること。「あまぎらふ」を見よ(一八四七頁)。○ひかた 袖中抄(顯昭著)に坤《ヒツジサルノ》風なりとある。眞淵の考に、土佐の俗、日中の南風を日方《ヒカタ》といふとあるを、古義は諾つて、それは六月の頃にいふといひ添へた。○みづぐきの 岡に係る枕詞。瑞々しい莖は若々しい。故に瑞莖《ミヅグキ》の若《ワカ》を轉音で岡《ヲカ》にいひかけて枕詞とした(宣長説)。○をかのみなと 筑前國遠賀郡遠賀川の河口港。その地形水を夾んで東(2013)西に岡あり。故に岡の湊といふ。河口の西岸に蘆屋町あり。「崗」は岡と同じい。
【歌意】 空が曇り立ち、日方の風が吹くらしい、岡の湊に、あの通り〔四字右○〕波が立ち渡るわ。
 
〔評〕 當時の岡の湊の地形を案ずるに、現在遠賀川の流れてゐる東西の岡根一杯に、海水が深く浸入して、細長い灣を成してゐたと想はれる。風波の平穩なことはいふまでもあるまい。まこと往古における最良港と見えた。筑前風土記に、
  塢※[舟+可]《ヲカノ》縣(ノ)之東側、近(ク)有(リ)2大江口1、名(ケテ)曰(フ)2塢※[舟+可](ノ)水門《ミナトト》1、堪(ヘタリ)v容(ルヽニ)2大船(ヲ)1焉。
と見え、大江は遠賀川の事である。神武天皇は東征の蹕をこゝに止め姶ひ、仲哀天皇も御船を泊め給うた。
 今見ればこの平和な湊に思ひ寄らず波が立つてゐる。その異常な景象に、作者は衝動を感じた。折柄天候も惡く雲行が荒い。さては此の地の禁物たる日方の風が吹くらしいとの想定を下して、作者はその覊情を傷めた。
 作者は多少岡の湊の地理的消息に通じてゐる旅人であらう。日方〔二字傍点〕の方言まで使つてゐる。體調雄渾にして情景兼ね到つた佳作
 
大海之《おほうみの》 波者畏《なみはかしこし》 然有十方《しかれども》 神乎齊禮而《かみをいのりて》 船出爲者如何《ふなでせばいかに》     1232
 
(2014)〔釋〕 ○かみを こゝの神は海神。○いのりて 卷九に「わたつみの何れの神を齊祈者《イノラバ》か」とあるにより、「禮」は祈〔右△〕の誤かといふ説もあるが拘泥。神本訓による。眞淵訓イハヒテ〔四字傍線〕。
 
【歌意】 大海の波は、ソリヤア恐ろしい。けれども海の神樣を齋き祭つて、船出せうならどうかい。
 
〔評〕 海は折柄|時氣《シケ》てゐる。船頭は大事を取つて風候《カゼマモリ》よくして、容易に船を出さない。作者は波のかしこさを百も承知しながら、餘りの退屈さに氣短になり、やゝ棄鉢的に反抗氣味に、海上守護の海神樣にお願して出帆したらと、理窟詰に船頭に強要した。「しかれども」の露骨な抑揚は、この場合にふさはしい表現であり、「いかに」といひ棄てたその強い鋭い口吻に、餘情が永く深く含蓄される。海路の不安風待の倦怠に焦燥し切つてゐる旅客の情致と、その周圍の混雜した空氣とが、眼前に彷彿して面白い。
 
未通女等之《をとめらが》 織機上乎《おるはたのへを》 眞櫛用《まぐしもち》 掻上栲島《かかげたくしま》 波間從所見《なみのまゆみゆ》     1233
 
〔釋〕 ○はたのへを 舊訓のハタノウヘヲ〔六字傍線〕も宜しい。○まぐし 「ま」は美稱。○かかげたく 掻上繰《カヽゲク》るの意。口語のタクシアゲル〔六字傍点〕のタクシもこのたく〔二字傍点〕の變形。尚「たけば」を見よ(三七〇頁)。さて初句よりこゝまでは、栲島にいひ懸けた序詞。○たくしま 出雲國島根郡多久島、今|大根《ダイコ》島と呼ぶ。中《ナカ》の海の海中にあり、方二十町許。尚「おうのうみ」を見よ(八五五頁)。新考に、肥前平戸の度《タク》島を充てたのは、この歌の趣にも合はない。○なみのまゆみゆ 古義訓による。舊訓ナミマヨリミユ〔七字傍線〕。
(2015)【歌意】 少女達が、織る機の上を、櫛でもつて掻き上げてたくといふ名の栲島が、波間からあれ〔二字右○〕見えるわ。
 
〔評〕 機の上を「櫛で掻上げたく」のは、その縱絲を整理する爲で、今も機織は櫛を使つてゐる。少女のすなるこの優しい工技に、眞櫛もち掻上げたく細かな動作をまで織り込んで、序詞に運用したことは、矢張作者の氣持が暢んびりした遊のある境涯に置かれた時のことで、中の海の平和な風景中に栲島を認め得た感想として極めてふさはしい。
 
鹽早三《しほはやみ》 礒囘荷居者《いそわにをれば》 入潮爲《あさりする》 海人鳥屋見濫《あまとやみらむ》 多比由久和禮乎《たびゆくわれを》     1234
 
(2016)〔釋〕 ○あさり 「入潮」は意を以て充てた語。○いそわ 古義訓イソミ。
【歌意】 潮の流が速さに、磯邊に舟を寄せて〔五字右○〕ためらうてゐると、餘所からは、この土地の漁する海人と思ふであらうか、實際は旅ゆく自分であるものをさ。
 
〔評〕 すべては卷三「荒栲の藤江の浦に」(六六三頁)及び上出「網引する海人とや見らむ」(一九七七頁)の條の評語に讓る。
 
浪高之《なみたかし》 奈何梶取《いかにかぢとり》 水鳥之《みづとりの》 浮宿也應爲《うきねやすべき》 猶哉可※[手偏+旁]《なほやこぐべき》     1235
 
〔釋〕 ○みづとりの 水鳥の如く〔二字右○〕。浮寢《ウキネ》に係る枕詞。○うきね 水上に浮いてゐて寢ること。
【歌意】 浪は高いわ。何と船頭よ、いつそ〔三字右○〕船を泊めて、今晩は波の上の浮寢にしようか、それとも〔四字右○〕やはり續けて漕ぎ行くことにしようか。
 
〔評〕 初句の「波高し」は上の歌の「大海の波はかしこし」と同じ破題の句で、次にその感懷を申べんとする前提である。船の進退は船頭の知ることで、一切彼方任せであるべきだが、作者は早く「波高し」に膽を潰してしまつたので、不安と恐怖とに辛棒しかねて、遂に口を切つて「浮寢やすべき」「なほや漕ぐべき」と、兩端を敲いて、船頭にその解決を迫つた。まことあぶなければ船は出さない、だから素人はうるさいと、船頭は小(2017)言をいふかも知れないが、そんな理窟はこゝにはない。而もかく兩端を持してはゐるものゝ、「なほや漕ぐ」は漕ぐが現在事實だから、假にそれを認容したまでゝ、作者の眞意は一刻も早く船を岸に寄せて浮寢の安きに就きたいのである。浮寢とても望むべきことではないが、命には換へられぬといつた調子である。
 四段切れの曲折往復に波瀾重疊し、多樣な句法の變化と、それに伴ふ促調とが、あわたゞしい心の動搖を如實に示して、當時の航海苦が深刻に吾人の眼前に展開されてゐる。會話的傾向の作として、稍風骨に乏しい憾はある。
 
夢耳《いめにのみ》 繼而所見爾〔左△〕《つぎてみゆるに》 竹島之《たかしまの》 越礒波之《いそこすなみの》 敷布所念《しくしくおもほゆ》     1236
 
〔釋〕 ○みゆるに 見ゆるによりて〔三字右○〕。「爾」原本に小〔右△〕とある。爾の略體の尓〔右△〕の誤寫と斷ずる。宣長は八〔右△〕の誤、古義は乍〔右△〕(ツツ)の誤とした。○たかしまのいそ 高島の磯。近江國高島郡の大溝邊の湖岸をさした。「竹島」は高島に同じ。○いそこすなみの 磯越す波の如く〔二字右○〕。三四の句は「しくしく」に係る序詞。○しくしく 「しくしくに」を見よ(一三一五頁)。
【歌意】 その人の面影が〔七字右○〕、夢にばかり續いて見えるので、恰も高島の磯を越して寄る波の頻《シキ》るやうに、頻に思はれるわ。 
 
〔評〕 着想も表現の樣式も常套的のもので、新味はない。主格を略いた表現に注意を要する。
  あかときの夢に見えつつ梶島のいそ越す波の敷《シ》きておもほゆ (卷九、宇合卿――1729)
(2018)は意姿共に最もよく相似してゐる。尚卷四「やまとぢの」の條の評語を參照(一一六五頁)。
 
靜母《しづけくも》 岸者波者《きしにはなみは》 縁家留香《よりけるか》 此屋通《このいへとほし》 聞乍居者《ききつつをれば》     1237
 
〔釋〕 ○よりけるか 「か」は歎辭。古義訓ヨセケルカ〔五字傍線〕とあるが、他動にいふよりは自動の方、この歌の趣に協ふ。○このいへとほし 「をすの間とほし」を見よ(一八七七頁)。
【歌意】 靜にも岸には波は、寄つたことよなあ、この家の内を打通して、聞き/\して居ると。
 
〔評〕 作者は今岸邊の宿の奥の間(母屋)に靜坐してゐた。するとひた/\波の砂を噛む響が、かすかに間拍子よく、家の内まで徹つて聞えて來る。作者はそれにじつと耳を傾けて、胸中の琴線が共鳴する感觸を味つてゐる。靜韻靜坐靜聽、それらを一貫した幽邃深沈の感じ、靜遠の態度、そこに凡胎を脱した一道の清氣が流動する。
 
竹島之《たかしまの》 阿戸〔左△〕伯波者《あどかはなみは》 動友《とよめども》 吾家思《われはいへおもふ》 五百入鉋〔左△〕染《いほりかなしみ》     1238
 
〔釋〕 ○あどかは 近江國高島郡|安曇《アド》川。朽木谷の奥より發源して、船木港に入る。船木港は古への足迹《アド》の水門《ミナト》(又は湖)である。「伯」原本に白〔右△〕とあるは誤。伯は河伯の略で川に充てたものか。古義は直ちに河〔右△〕の誤とした。○とよめども 童本以下サワゲドモ〔五字傍線〕と訓んでゐる。○いほりかなしみ 庵住ひが悲しくての意。「いほり」は(2019)宿りと同意。「鉋」原本に※[金+施の旁]〔右△〕とある。※[金+施の旁]は鉈《ナタ》の俗字であるが、書寫字として鉋に充て用ゐたもの。△地圖挿圖202(七〇一頁)。
【歌意】 高島の安曇川の波は、響き渡るけれども、それにも紛れず〔七字右○〕、私は國の家を思ふわい、この宿りの悲しさに。
 
〔評〕 安曇川は西近江における最大の河だから、その波の騷は相應であらう。が冲々たる憂思は一向に紛れない。覊愁と離愁の綯ひ交ぜに、作者は憔悴脱落してゐる。
  ささの葉はみ山もさやに亂れどもわれは妹おもふ別れ來ぬれば (卷二、人麻呂――135)
と同趣同型で、結句の説明に墮した缺點まで共通してゐる。これといふも、三句に理路の語を著けたのが、重なる原因であると思ふ。卷九の高島(ニテ)作(メル)歌、
  高島のあど河波はさわげどもわれは家思ふ宿りかなしみ (――1690)
はこの遺傳に過ぎない。
 
(2020)大海之《おほうみの》 礒本由須理《いそもとゆすり》 立波之《たつなみの》 將依念有《よらむともへる》 濱之淨奚久《はまのさやけく》     1239
 
〔釋〕 ○いそもと 磯根と同じい。
上の「おほ海のみなそことよみ立つ波の」と、第二句の變つたゞけで全く同歌である。すべては同歌の條(一九八八頁)を見よ。
 
珠匣《たまくしげ》 見諸戸山矣《みもろとやまを》 行之鹿齒《ゆきしかば》 面白四手《おもしろくして》 古昔所念《いにしへおもほゆ》     1240
 
〔釋〕 ○たまくしげ 玉櫛笥の實《ミ》(身)をいひかけての三室戸山の枕詞。既出(三一六頁)。○みもろとやま 「みむろとやま」を見よ(三一六頁)。○ゆきしかば 行きつればといふに同じい。「し」の過去助動詞が、現在完了に輕く使はれてゐる。古文法。
【歌意】 三室戸山を通過したので、その山が〔四字右○〕面白くて、しかも昔が思ひ出されるわ。
 
(2021)〔評〕「古へ思ほゆ」とあれば、懷舊の作に違ひないが、その事情が判明しない。三室戸山に關係した或故事などがあつたのだらう。さう高くもないがその山容は秀麗だから、まこと面白いといへる。「行きしかば」の過去叙法を現在格で收めたのは、この外にも、
  かすみ立つ野のへの方に行きしかば鶯鳴きつ春になるべし (卷八、圓比眞人乙麻呂――1443)
がある。
 
黒玉之《ぬばたまの》 玄髪山乎《くろかみやまを》 朝越而《あさこえて》 山下露爾《やましたつゆに》 沾來鴨《ぬれにけるかも》     1241
 
〔釋〕 ○ぬばたまの 黒の枕詞。既出(三〇四頁)。○くろかみやま 大和添下郡。奈良山の一部で那富《ナホ》山の北隣。下野又は備中説は更に不用。
【歌意】 黒髪山を朝方越えて、山陰の露に、濡れてしまつたことよなあ。
 
(2022)〔評〕 この黒髪山は佐保田から般若寺坂通りへ出る山路で、北に元明元正御二代の山陵を望み、南は那冨山陵(聖武天皇第一皇子)に對し、欝蒼たる森林地帶である。而も朝は露の多い時だから、袖も袂もびしよ濡れの筈だ。だが作者は一向豫期しなかつた辛苦なので、「沾れにけるかな」の驚嘆となつた。平淡のうちに滋味を藏してゐる。
 
足引之《あしひきの》 山行暮《やまゆきくらし》 宿借者《やどからば》 妹立待而《いもたちまちて》 宿將借鴨《やどかさむかも》     1242
 
(2023)〔釋〕 ○かさむかも 「か」は疑辭と解する。
【歌意】 山路を行つて日を暮し、そして宿を借らうなら、美人が出て待つて、宿を借してくれようかまあ。
 
〔評〕 夕暮近くまで山路を歩き草臥れて、早く今宵の宿を心に描いた。倦怠の氣持から出た途上口占の閑想像、これに似た咄は、膝栗毛にも一再ならず書かれてある。この妹は家妻ではない。さりとて必しも遊女|傀儡《クヾツ》とも限らない。只漫然とそこに美しい女性を想像したまでゝある。「宿借さむかも」と、自分ながら不確實な事を考へて、首を傾けてゐる處に面白味がある。
 「宿借らば」「宿借さむかも」の重複は頗る重苦しい。
 
視渡者《みわたせば》 近里廻乎《ちかきさとわを》 田本欲《たもとほり》 今衣吾來《いまぞわがくる》 領〔左△〕巾振之野爾《ひれふりしぬに》    1243
 
〔釋〕 ○さとわを 里わなる〔二字右○〕を。古義訓サトミヲ〔四字傍線〕。○たもとほり 既出(一六五五頁)。○わがくる 童本の訓に從つた。略解以來ワガコシ〔四字傍線〕と訓んであるのは非。○ひれふりし 「領」原本に禮〔右△〕とあるは誤。△寫眞 挿圖158(五七五頁)を參照。
【歌意】 見渡すと、つひ近い里であるものを、ぐる/\廻り道をして、今さやつと來ることよ、嘗ての別に我妹子が〔九字右○〕、領巾を振つたその野に。
 
〔評〕 久し振で歸郷し、早く妹に逢はむの心急ぎにいら/\して居る、作者の氣持がよく出てゐる。
(2024) 田舍道は迂囘してゐるから、割合に近くて遠い。だから我妹子の領巾振りし野に到着し得たことは、何よりも喜ばしい。口占體の作として、格調の卑いのは止むを得ない。新考の「領巾振りし」を現在の事と解したのは非。
  見わたせば近きわたりをたもとほり今や來ますと戀ひつつぞをる (卷十一――2379)
は上句相似て風調も同じで、殆ど贈答の作の如き觀がある。
 
未通女等之《をとめらが》 放髪乎《はなりのかみを》 木綿山《ゆふのやま》 雲莫蒙《くもなたなびき》 家當將見《いへのあたりみむ》     1244
 
〔釋〕 ○をとめらがはなりのかみを 少女等が放髪《ハナリノカミ》を結ふを、木綿《ユフ》の山にいひかけた序詞。○はなりのかみ 「放髪」の字面の如く、ばら/\なる髪をいふ。古代は婦人の十四五歳までは髪を結ひ上げず、その程を過ぎ、又は夫を持てば、髪を結ひ上げる習慣であつた。○ゆふのやま 豐後國速見郡の由布《ユフ》嶽のこと。今豐後富士とも稱する。標高千四百七十米突。豐後風土記に、速水郡|柚富《ユフノ》郷、此郷之中|栲《カヂノ》樹多(ニ)生(ヒタリ)、常(ニ)取(リ)2栲(ノ)皮(ヲ)1以(テ)造(ル)2木綿《ユフヲ》1、因(リテ)謂(フ)2柚富(ノ)郷(ト)1とある。○なたなびき 「莫蒙」を意訓にかく讀む。舊訓(2025)ナカクシソ〔五字傍線〕は蒙の字義にはよく當るが、古調でない。
【歌意】 少女達が放(ノ)髪を結ふといふ名の由布の山に、雲が靡くなよ、懷かしい家のあたりを見ように。
 
〔評〕 家郷の空の見當も付かぬと、由布嶽の雲に小言をくれた。題材が大きいだけに、「家のあたり」は近距離ではあるまい。高峻なる荒山由布嶽の序詞としては、「少女等が放髪を結ふ」は綺麗に過ぎる嫌がある。この序詞を信じてさて由布嶽を見ると、聊か豫想が裏切られる。抑も序詞は歌意には交渉は無いものゝ、一首の風趣の上には切り離し難い關係があると思ふ。
 
四可能白水郎乃《しかのあまの》 釣船之綱《つりふねのつな》 不勝〔左○〕堪《たへかてに》 情念而《こころにもひて》 出而來家里《いでてきにけり》     1245
 
〔釋〕 ○しか 既出(七〇六頁)。○たへかてに 初二句は「たへ」に係る序詞。釣船の綱は丈夫なれば永く耐へる。されば「かてに」とまでは係らぬ。「勝」原本にない。古義説によつて補つた。舊訓タヘズシテ〔五字傍線〕。△地(2026)圖及寫眞 挿圖217(七四四頁)、205(七〇六頁)を參照。
【歌意】 志賀の海人の釣舟の綱はよく堪へる、が自分は〔三字右○〕堪へかねる程、人を〔二字右○〕心に思うて、出掛けて來たことわい。
 
〔評〕 居たゝまれなくなつて、ふら/\と的もなく出てくる。これは戀する人の常態である。まして客中ではさぞである。結句率直でよろしい。
 
之加乃白水郎之《しかのあまの》 燒鹽煙《しほやくけぶり》 風乎疾《かぜをいたみ》 立者不上《たちはのぼらず》 山爾輕引《やまにたなびく》     1246
 
〔釋〕 ○かぜをいたみ 既出(七二八頁)。
【歌意】 志賀の海人が鹽を燒く煙〔右○〕が、風がまあひどさに、上へは昇らず、山にかけて靡くわい。
 
〔評〕 海邊によく見る風景である。煙の風に靡く山は、志賀ではやはり志賀の島山であらう。
  繩の浦の鹽燒くけぶり夕されば立ちはのぼらで山にたなびく (卷三、日置少老――354)
と相似してゐる。なほ同歌の評語を參照(八三一頁)。
 
右件(ノ)歌(ハ)者古集中(ニ)出(ヅ)。
 
古集は古歌集であらう。左註の意は、上の「四可能白水郎乃《シカノアマノ》」の歌の序《ツイデ》に、古歌集中におなじこの「之加乃白(2027)水郎之」の歌があつたから、書き入れたとの意と考へられる。處でこの歌が卷三の「繩の浦の鹽燒く煙」の異傳だとすると、註者のいはゆる古歌集〔三字傍点〕は多分は獨立した別箇の存在らしいが、或は直ちに本集の卷二をさしたものかとも疑はれる。萬葉集の名稱が後に至つて總括的に家持などの手で輿へられたものと假定すれば、本集の卷一より卷四までは、古歌集と呼ぶより外はあるまい。
 
大穴道《おほなむち》 少御神《すくなみかみの》 作《つくらしし》 妹勢能山《いもせのやまは》 見吉《みらくしよしも》     1247
 
〔釋〕 ○おほなむち 「道」をムチに充てた。既出(八三二頁)。○すくなみかみ 「すくな」は少彦名《スクナビコナ》の略言。「すくなびこな」を見よ(八三二頁)。○いもせのやま 妹山と背山。「勢能《セノ》山」を見よ(一四一頁)。
【歌意】 大穴道の神と少名彦の神とがお作りなされた、妹背(夫婦)の山は、見ることがさ、面白いなあ。
 
〔評〕 妹山背山は平た張つた小さな岡で、決して景色のよい山ではない。然るに尚「見らくしよしも」といふ。これはその名稱に就いての聯想を翫んだもので、わが國土を經營されたとの傳説をもつ、大少二神のこの夫婦二山を作られた譯《ワケ》知りの御心を想ふと、その神業に感銘しつゝ樂んで見られるのである。
 
吾妹子《わぎもこと》 見偲《みつつしぬばむ》 奥藻《おきつもの》 花聞在《はなさきたらば》 我告與《われにつげこそ》     1248
 
(2028)〔釋〕 ○わぎもこと 我妹子として〔二字右○〕。我妹子と共に〔六字傍点〕の意ではない。○しぬばむ めでよう。○おきつものはな 「おきつもの」(一六九頁)、「いつものはな」(一〇七五頁)を參照。○つげこそ 「こそ」は願望辭。△寫眞 挿圖304(一〇七五頁)を參照。
【歌意】 可愛い我妹子として、見い/\して愛でようと思ふ〔三字右○〕、あの沖の藻の花が咲いたらば、私に知らせて下さいね。
 
〔評〕 この沖つ藻は河や沼の沖の藻である。さて咲いたら知らせよと、人に注文する程、藻の花に深い執心を留めたことは、その清楚な白色の見るから可憐な細々の花が、家なる妻の風姿を想起させるからであつた。乃ち我妹子として見つゝ慕ばうの一案を提げて、せめてこのはかない希望なりとも滿たさうと努めてゐる。根強い離愁に因はれた人の作である。
 
君爲《きみがため》 浮沼〔左△〕池《うきぬのいけの》 菱採《ひしとると》 我染袖《わがしめしそで》 沾在哉《ぬれにけるかも》     1249
 
〔釋〕 ○うきぬのいけ 浮沼の池は八雲御抄に石見と見え、その安濃郡三瓶山の半腹にある。「沼」原本に沾〔右△〕とあるは誤。○ひしとると (2029)菱の賓〔三字右○〕を採るとて〔右○〕。菱は菱科の水草、葉柄は中部ふくらみ、葉は四角にして水面に叢生す。花は白色にして四瓣、實は黒色にて角状の突起を有し、極めて堅い。種子は白色にして食用に供する。古義訓ヒシツムト〔五字傍線〕。○わがしめしそで 自分が染めたことである袖。古義は「袖」を衣〔右△〕の誤としてシメゴロモ〔五字傍線〕と訓んだ。舊訓ワガソメシソデ〔七字傍線〕。○ぬれにけるかも 契沖、眞淵共にヌレニタルカモ〔七字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 貴方の爲に、浮沼の池の菱の實を取るとて〔右○〕、私の折角染めたことであつた袖が、濡れてしまつたことよ。
 
〔評〕 婦人の作である。思ふ人に食べさせたいばかりに、山中の恐ろしい池に菱の實を採取する。その苦勞だけでも澤山なのに、命から二番目の大事の著物が、その爲びしよ濡れになつたと、大仰に歎息した。而もその著物は自分の丹誠して染めた物だといひ添へてゐる。いかにも女らしい。要するに入手の勞苦を強調して贈物に價値づ(2030)け、人に深く思を著せようとする例の筆法である。
  豐國の企救《キク》の池なる菱のうれを採むとや妹が御《ミ》袖|沾《ヌ》れけむ (卷十六、豐前國白水郎――3876)
と表裏して、恰も男女應酬の作たる感がある。
 菱子は盛に食料として昔は採取された。伊勢駿河の風土記に菱を貢する事が見え、延喜式には、貢進果子に丹波國菱子二棒の目がある。又同式に見れば、公事節會の料に盛に供用されてゐる。
 
妹爲《いもがため》 菅實採《すがのみつみに》 行吾《ゆけるわれ》 山路惑《やまぢにまどひ》 此日暮《このひくらしつ》     1250
 
〔釋〕 ○すがのみつみに 「やますげ」を見よ(七三六頁)。又の訓スガノミトリニ〔七字傍線〕。○ゆけるわれ 假にかう訓んでみた。古義訓ユキシアレ〔五字傍線〕はシの過去が落ち著かない。舊訓ユクワレヲ〔五字傍線〕は愈よ非。○やまぢにまどひ 古義訓による。舊訓ヤマヂマドヒテ〔七字傍線〕。△寫眞 挿圖215(七三七頁)を參照。
【歌意】 我妹子の爲に、菅の實を採りに往つた自分がさ、つひ〔二字右○〕山路に踏み迷つて、意外にも今日のこの日を暮したよ。
 
(2031)〔評〕 山菅は山野到る處ふんだんにある草で、その實を先から先へ採り廻つてゐるうちに方角を見失ひ、山中にまご/\して暇を潰した。「この日暮しつ」は妹に揚言する爲の誇張であらう。「ゆけるわれ」は稍冗漫の感がある。
 菅の實採が何で「妹が爲」であるか。その葉は神事に、その根は藥料に用ゐられたが、その實は想ふに染料としたものであらう。秋冬の交よく熟すると濃碧色となるので、摺衣など作るに最も適當だ。さて妻君に頼まれてその實を摘みに山へ往く、簡素な古人の生活を味ふと、種々の意味からして面白い。上出の
  妹が爲玉をひろふと紀の國の湯等《ユラ》の御崎にこの日暮しつ (――1220)
と同趣の作で、題材はこの歌の方が新鮮で面白い。結句この「日暮しつ」に就いては、「妹が爲玉をひろふと」の條の評語を參照(二〇〇三頁)。
 
右四首、柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)歌集(ニ)出(ヅ)。
 
四首のうち、人麻呂の歌詞に稍近いのは「大穴道少御《オホナムチスクナミ》神」の歌である。他はみな風調が違ふ。殊に「君が爲浮沼の池の」の歌は婦人の作である。
 
(1)おくがき (第三)
 
 私は職として時に丹※[土+犀]に上り、官局に出入することもあるが、元來が野人で、書齋から講堂へが、殆どその生活の全部である。隨つて、專攻の學問上いふべきこと、いひたいこと、爲べきこと、爲たいことは山ほどあるが、私の仕事は大抵が獨自の考索に屬し、他の編纂物や何かのやうに人手を※[人偏+就]りる譯にゆかぬから、その成果は實に牛の歩だ。然しこれも生來の鈍根によることと諦めてはゐる。
 只心外なのは出版の長引いたことである。この評釋の第三冊の如き、去年の暮春に選字に着手してから一年半餘を費してゐる。徒然草に、足許から鳥がたつやうに渡邊の聖のもとに物學びに出掛けた登蓮法師の話が出てゐる。全く何時死ぬか分らぬ生身をかゝへてゐる私だ。日暮れ道遠し、思へば氣が狂ひさうになる。
 それは勿論時局の影響でもある。私は應仁の亂を知らずにゐたといふ叡山の學徒とは違ふから、相當に非常時を認識し、何時でも筆を投じて戎軒を事とする位の氣慨は持ち合せてゐる。
 現代を確に認識することは、即ち過去を如實に認識する階梯である。さては文學の批評鑑賞者は、新古を通じて各の時代相を的確に把握し、そこに比較研究の基礎を作らぬばならぬ。
 だから、萬葉集の研究は、歌としての批評鑑賞が本體であることは勿論だが、一面に全國文の研究であり、更に(2)全國史の研究である。又、單にわが國粹文化の研究のみではなく、外來文化の研究でもある。而もそれらを一括し、すべては結集された歌その者のうへに歸一せしめねばならぬ。
 かくの如き綜合研究は實に煩々瑣々を極めたものだ。搗てゝ加へて出版、それは組織、樣式、挿圖、校正などの勞苦だ。今漸く出來上がつてまだ糊の香の失せぬこの第三冊目の新しい装釘に對して、私は暮夜人知らぬ涙の涌くを覺えるものがある。
 
 昭和十五年秋九月
                        元 臣 し る す
 
〔入力者注、索引は省略〕
 
萬葉集評釋 第四冊  明治書院 1945.1.10  14円50銭
 
〔入力者注、總目次は省略〕
 
(1)      緒言
 評は釋の上に立たなければ確實性がない。釋はいはゆる訓詁で、前人幾多の研究は專らその方面にのみ全力を濺いでゐたものだ。
 私も私の批評の基礎として、決して訓詁を疎かにするものでない。只その紛々たる是非當否を絮説してゐては、目的たる批評の時間がなくなる。依つて學的常識に訴へて讓られるものは、時にその結論ばかり提示しておいたものもある。
 或はこの僅な省略に對して遺憾の意を表した者がないでもない。私は失禮にも、その人達はまだ學的常識が出來てゐないからだとはいはない。それは歌意や批評の項を眞に味讀してくれれば解ることだとは斷言する。
 評は猿の人眞似で、誰れにでも出來る。然しよく評することは誰れにもむづかしい。我々は原作者とは赤の他人だ。而もこの古文學の相手は、千年以上の昔の空氣を呼吸してゐた人達だ。神樣でない以上は見通しといふ譯にはゆかない。そこで種々の角度からの研究が必要となる。さうして出來得るだけ原作者の眞感情を捉まうとする。單なる自分の第一印象で一寸片付けてしまふのや、自己陶醉に終るものなどは、いかに多言を費しても眞の批評ではない。
(2) 私は私の批評に立體的研究、これを榜標してゐる。石を敲けば火が走る。歌に對した瞬間の感受性がそれである。然それだけでは學問にはならない。それを説明し、更にその説明に各方面からの的確なる立證を要する。かうなると現代の流行語でいへば科學的だ。一歩進んでいふと、私の理想とする立體研究の結果として現れた批評は、一種の創作である。考へてみれば、私は萬葉二十卷四千數百首の上に、一々創作を試みつゝあるのである。
 私はこの萬葉集評釋の批評が、立體的研究の上に立つた創作であるといふことをいひたい爲に、この一文を草する。
 世間に評釋を以てなほ訓詁視してゐる者がある。彼等は訓詁といふ字義すら本當に知らないのであらう。尤も多數の淺薄な輕浮な著書が評釋の美名を冒涜した結果、そんな錯覺を招いたともいへる。迷惑な話だ。私の既刊書「枕草子評釋」及び「古今集評釋」などを本書に併せ見たら、恐らく前言の非を曉るであらう。
 
 昭和十九年一月、第四卷の校を了しつゝ
            金 子 元 臣 し る す
 
〔入力者注、凡例、卷七、八、九の目次は省いた。〕
 
(2037)萬葉集卷七(下)
 
問答《トヒコタヘ》
 
短歌の前首と後首とで問答の意が構成されたもの。この體はその始旋頭歌においてなされたものだが、漸く短歌の方に移行して來たのである。尚委しくは「雜考」に讓る。
 
佐保河爾《さほがはに》 鳴成智鳥《なくなるちどり》 何師鴨《なにしかも》 川原乎思努比《かはらをしぬび》 益河上《いやかはのぼる》     1251
 
〔釋〕 ○さほがは 既出(二七三頁)。○ちどり 既出(六八七頁)。○かはらをしぬび 河原を愛でて。「しぬびつ」を見よ(四五頁)。△地圖及寫眞 挿圖170(六一七頁)195(六八八頁)を參照。
【歌意】 佐保川に鳴いてゐる千鳥よ、何でまあ、こんな〔三字右○〕磧を愛で慕うて、無闇と川を溯ることかい。
 
〔評〕 千鳥が遂にその修飾語になつた程、佐保川には千鳥が多く居たのであつた。卷七にも「佐保川の清き河原に鳴く千鳥」とある。磧の砂礫を踐み/\流をのぼるのは千鳥の習性だ。それを千鳥が磧を愛好するものゝ如く觀じ、「何しかも」の疑問を投げかけて、一寸千鳥を揶揄してみたものだ。
(2038) 「川」の語が重複してゐるが、更にその煩を覺えぬばかりか、却て節奏を拍つて語調を齎してゐる。 △問答體歌考(雜考――25)を參照。
 
人社者《ひとこそは》 意保爾毛言目《おほにもいはめ》 我幾許《わがここだ》 師奴布川原乎《しぬぶかはらを》 標結勿謹《しめゆふなゆめ》     1252
〔釋〕 ○おほにも 大凡にも。○いはめ 新考に「云」は思〔右△〕の誤かとあるは不用。○ここだ 既出(五九六頁)。○かはらを 磧なる〔二字右○〕を。○しめゆふ 「しめゆへ」を見よ(三五九頁)。○ゆめ 禁止の辭。「謹」を讀むは意訓。
【歌意】 人間こそはさ、佐保の磧を何でもなくまあ云ひもせう。然し〔二字右○〕自分等千鳥〔二字右○〕は大層に愛好する磧なのを、標など結うて邪魔して〔四字右○〕下さるなよ、きつと。
 
〔評〕 上の歌の詰問に答へた千鳥の語として作つた。抑も佐保川の奈良京を貫流するあたりは、全くの里川状態で、附近の人家では勝手にその河岸や河原を使用してゐたらしい。されば懸想人の通ふ爲には、
  千鳥鳴く佐保の川門の瀬をひろみ打橋渡す汝《ナ》が來と思へば(卷四、坂上郎女――528)
の如く打橋を架けもする。又都合次第ではその磧に圍ひをしたり、仕切をしたりする。これが磧傳ひに溯る千鳥に取つては、甚だ迷惑な通行妨害である。人間はいざ知らず、千鳥の方では「ここだしぬぶ」結構な磧なのにと、人間等に向つて抗議を申し込んだ。
 以上二首の問答が突飛なる遊戲文字の如く見えるのは、その實寓意の作だからである。(2039) 想ふに、前首は女の作で、懸想にあくがれて頻繁にかの女の家を訪問に及んだ男を、鳴きつゝ川のぼりする佐保川千鳥に擬へ、「何しかも」と設問の辭を下して、どうした料簡で御苦勞にもかうお通ひ下さるのかと空とぼけた。恐らく女の側近者の調戲であらう。後首は男の答で、おそばの人達は、自分の態度をまだ眞劍でないやうにお疑ひなさるかも知れぬが、どうして一所懸命の熱愛です、かの女を決して「標結ふな」、邪魔立てして隔てゝ下さるなと、側近の人達に懇願したものと思はれる。
 歌としては前首の方が懸け歌だけに完璧で、風調も高邁勁健である。後首は相當巧思を弄したものゝ、事理を陳べるに急がしく追はれてゐる觀がある。
 
右二首、詠(メル)v鳥(ヲ)。
 
神樂浪之《ささなみの》 思我津乃白水郎者《しがつのあまは》 吾無二《われなしに》 潜者莫爲《かづきはなせそ》 浪雖不立《なみたたずとも》     1253
 
〔釋〕 ○しがつ 卷二に「ささ波の志我津の子ら」とある。既出(五九二頁)。○われなしに 我れなしにて〔右○〕。「なし」は不在の意。○かづき 潜《カヅ》き業。舊訓イサリ〔三字傍線〕。△地圖及寫眞41(一二四頁)44(一三二頁)を參照。
【歌意】 志賀の海女は、この私の居ぬのに、無闇に〔三字右○〕潜るなよ。假令凪ぎがよくて〔八字右○〕波が立たずとも。
 
〔評〕 潜きするは通例海女である。女だてらの危險な過ぎはひを思ふと、それへの同情は愈よ以て強い。でおれが見張つてゐない時には、如何な凪ぎの場合でも潜きするなと、懇切な警戒を與へた。然し作者は海女に何の(2040)交渉もないほんの行摺りの赤の他人だ。
 又場處が志賀津では困つた。抑も淡水《アフミ》の海はいふまでもなく淡水であり、而も滋賀附近は昔でも遠淺であつたと考へられるから、舟浮けて魚貝を求食る海人はあつても、潜きする海女のあらう筈もない。海人〔二字傍点〕の聯想によつて潜き業を思ひ寄せたまでだとすると、この歌の眞實味は稀薄になる。
 稀薄になつても仕方がない。この歌はもと/\比興の作で、海人を以てわが思ふ兒に擬へ、自分の後見なしに輕はづみの事をしてはならぬの意を、「われなしに潜きなせそ」といひ、「波立たずとも」といひ添へ、すべて海人の所作によつて終始して、豫め女の輕擧盲動を訓戒したものだ。新考に、
  海人のかづきを見て面白く思ふ餘に、そをわが物と領ぜむと思ふ心なり、今も幼兒には屡ば見る心理状態なり。
とあるは何事ぞ。面白いと見るは以ての外、人情でもない。
 
大船爾《おほふねに》 梶之母有奈牟《かぢしもあらなむ》 君無爾《きみなしに》 潜爲八方《かづきせめやも》 波雖不起《なみたただずとも》     1254
 
〔釋〕 ○かぢしも 「し」は強辭、「も」は歎辭。
【歌意】 大船には楫がさ、まああつてほしいわ。いはば私の楫は貴方ですから〔十三字右○〕、貴方なしに何で潜きをしませうかい、よしや波は穩やかであるともさ。
 
〔評〕 懸歌に對して、大船の梶を例に引いて、自分勝手の行動はせぬことを誓つた、女の返歌である。鸚鵡返しに「波たゝずとも」の句を結末に反復した。これも一格である。この贈答を一連に復誦すると、その反射的呼應によつて語調を感ずる。
 
右二首、詠(メル)2白水郎《アマヲ》1
 
臨《ツケテヨメル》v時(ニ)
 
折に觸れて詠んだ歌との意。
 
月草爾《つきぐさに》 衣曾染流《ころもぞそむる》 君之爲《きみがため》 綵色衣《いろへのころも》 將摺跡念而《すらむとおもひて》     1255
 
〔釋〕 ○つきぐさ 既出(一二〇六頁)。○そむる 古義訓ソメル〔三字傍線〕は非。○いろへのころも 彩色ある衣。「綵」は彩〔右△〕に通じ、玉篇に五綵備(ル)也とある。彩色を動詞にイロフといひ、名詞にイロヘといふ。即ち色取ること。されど舊訓イロドルコロモ〔七字傍線〕は非。こゝ及び「紫の綵色之※[草冠/縵]《イロヘノカヅラ》」(卷十二)、「紅の綵色《イロヘ》に見ゆる秋の山かも」(卷十)の綵色は皆イロヘと訓む。眞淵はマダラ〔三字傍線〕と訓んだが、同じ臨時の作中に綵衣と斑衣とを竝べて出してある以上は、各その訓を殊にするが當然だから、綵はマダラでない反證になる。紀には綵をシミ、綵色をシミノモノと訓んだ例によれば、こゝをシミノコロモヲと訓むもよいが、他の場合の通用を思うて、イロヘノコロモと訓んでみた。(2042)○すらむ 「すれるころも」を見よ(一九五〇頁)。△寫眞 挿圖333(一二〇六頁)を參照。
【歌意】 結局〔二字右○〕月草に衣をさ染めましたわ、貴方の爲、彩色美しい衣を〔右○〕、摺らうと思うて。
 
〔評〕 婦人の作である。郎君の爲綵衣を作るに、紅もあり紫もあるが、月草の花色を染めたといふ。一體何の爲に、月草に染めたことをかく報告したのか。そこに紆餘曲折した情思がある。紅もいゝがけば/\しい、紫もいゝが花やか過ぎる、いろ/\散々苦勞した擧句が、月竝の月草染になつてしまつたのである。餘り考へ過ぎて平凡に落ち著く。世間によくある事で、その間に潜行してゐる情味の饒かさを汲むべきであらう。
 
春霞《はるがすみ》 井上從直爾《ゐのへゆただに》 道者雖有《みちはあれど》 君爾將相登《きみにあはむと》 他囘來毛《たもとほりくも》     1256
 
〔釋〕 ○はるがすみ 井に係る枕詞。春霞の居る〔二字傍点〕を井にいひかけたもの。○ゐのへゆただに 井のほとりへ眞直に。「ゐ」を田舍の略とし、又地名とする説は當らぬ。この「ゆ」はニ〔傍点〕の意に近い。古義訓ヰノヘヨタダニ〔七字傍線〕。○たもとほり 既出。(2043)一六五五頁。
【歌意】 井戸の邊に、眞直に路は付いてゐるけれど、貴女に逢はうと思うて、わざと〔六字右○〕うろ/\來ることよ。
 
〔評〕 神代綿津見(ノ)神の宮の門脇には井のあつた如く、井を中心として部落も成立する。されば井の邊には必ず道路が通じでゐた。こゝに「井の邊ゆ路はあれど」といふは即ちそれである。
 然し埴瓮や何かを捧げて彼女が井戸端に出て來るのを待つには、その直路を目の前に控へながら、餘計にあちこちぶら/\して手間取らねばならぬ。戀する者の焦慮と痴呆の行爲とを、率直にさらりと白状してゐる。
 
道邊之《みちのべの》 草深由利乃《くさふかゆりの》 花※[口+笑]爾《はなゑみに》 ※[口+笑]之柄二《ゑみしがからに》 妻常可云也《つまといふべしや》     1257
 
〔釋〕 ○くさふかゆり 草の茂つた中の百合。この百合は鬼百合でも山百合でもよい。略解訓クサフケユリ〔六字傍線〕は非。○はなゑみに 花の笑みの如く〔三字右○〕に。花の咲くを人の顔の綻ぶに譬へて笑むといふ。「に」は(1)の如く〔三字傍点〕の意(舊説、略解、古義)。(2)花の如き笑みに(新考)。以上何れも初二句を譬喩と見た。○ゑみしがからに 「ゑまししからに」を見よ(一二四六頁)。舊訓ヱミセシカラニ〔七字傍線〕、契沖一訓ヱマシシカラニ〔七字傍線〕。○いふべしや 「や」は反動辭。宣長の歎辭と解したのは非。
【歌意】 路端の草むらの中の、百合の花の笑みのやうに、あの女が自分に向つて〔十字右○〕ニコリとしたからとて〔右○〕、それで〔三字右○〕妻といはれようかい。
 
(2044)〔評〕 測らず途中で邂逅した婦人が好意の艶笑をおくつた。すると傍人達が岡燒半分、ワイ/\騷いだのに對しての辯明か。更に立入つて「妻といふべしや」の口吻から推すると、その婦人は實は情人であるのを、人前を繕ふ爲の強辯とも聞き取られる。卷四、聖武天皇の思《シヌブ》2酒人(ノ)女王(ヲ)1御製に、
  道にあひて笑まししからにふる雪の消なば消ぬかに戀ひ思《モ》ふ我妹《ワギモ》(――624)
とも見え」美人の盻兮たる巧笑には、何のかのとうるさい問題が發生し勝である。又この上句を家持が踏襲して、
  夏の野のさゆりの花の、花ゑみににふぶに笑みて、逢はしたる――(卷十八長歌――4116)
と作つた。げに大樣に咲いた百合の風姿は、その花笑みをいふに尤もふさはしいものである。
 尚行き合ひの戀に就いては、卷十一「玉桙の道ゆかずして」の歌の條下にいはう。
 
黙然不有跡《もだあらじと》 事之名種爾《ことのなぐさに》 云事乎《いふことを》 聞知良久波《ききしれらくは》 苛曾〔二字左△〕有來《からくぞありける》     1258
 
〔釋〕 ○もだあらじと 黙して居られ〔二字右○〕じとて〔右○〕。○ことのなぐさ「ことのなぐさぞ」を見よ(一二七七頁)。○いふことを 云ふことなる〔二字右○〕を。○ききしれらくは 聞き知れること〔二字右○〕は。「知れらく」は知れる〔傍点〕の延音。〇からくぞありける 「苛」原本に小可〔二字右△〕、「曾」原本に者〔右△〕とあるは誤。古義所引の嚴水説による。略解所引の宣長説は少可〔二字右△〕を奇〔右△〕の誤として、訓アヤシカリケリ〔七字傍線〕である。但者〔右△〕を衍字とすればスクナカリケリ〔七字傍線〕と訓まれ、この歌の意は通ずるが、卷十一「ますらをと思へる吾を」の歌の結句も、「小可者在來」とあり、矢張カラクゾアリケルでなくては意(2045)が通じない。【歌意】 黙つては居られないとて〔右○〕、ほんの口草にいふことなのを、その眞實を人の〔七字右○〕聞き知つてゐることは、辛いものでさあつたわい。
 
〔評〕 交際場裏にはこんな事はよくある。一座の空氣を亂すまいとして、口から出放題に跋を合はせて、お茶を濁す。もしそこに虚心平氣、その放言の眞意如何を打診し得る人が居たら、こんなきまりの惡い事はあるまい。作者は或時かうした場合に測らず遭遇しての實感である。
 
佐伯山《さへきやま》 于花以之《うのはなもたし》 哀我《かなしきが》 手〔左△〕鴛取而者《てをしとりてば》 花散鞆《はなはちるとも》     1259
 
〔釋〕 ○さへきやま 佐伯山は攝津國池田市の東北方にあり、標高二百米突。仁徳天皇紀に、猪名(ノ)縣(ノ)佐伯部《サヘキベヲ》移(ス)2于安藝(ニ)1と見え、地名辭書はその佐伯部の遺墟とした。寶龜勘録、西大寺資材帳にも、「一卷、豐島郡佐伯村……………等獻」とある。眞淵は「伯」を附〔右△〕の誤としてサツキヤマ〔五字傍線〕と訓み、卷十に「五月山卯の花月夜時鳥」、また「五月山花たち花に時鳥」などある(2046)を例に引いた。但本文のまゝで聞える以上は、改字の必要を認めない。○うのはな 卯つ木の花をいふ。卯つ木は虎耳草科の灌木。高さ五六尺以上、葉は對生し、橢圓形にて尖り、周邊に細鋸齒あり。四五月頃白色の細花を聞く。幹枝中空なる故に空木《ウツギ》の稱がある。○もたし 持ち〔二字傍点〕の敬相で、こゝは中止態である。訓は西本矢本京本による。契沖及び略解古義の訓にモチシ〔三字傍線〕とあるが、そのシは過去辭だから妥當でない。○かなしきが 愛《カナ》しき妹〔右○〕がの略。卷十四の東歌に「鳰鳥の葛飾早稻を贄《ニエ》すともそのかなしきを外《ト》に立てめやも」はこれと同例。又同卷に「かなしき背《セ》ろが我《ワ》がり通はむ」とも見えた。「かなし」は既出(一七三七頁)。○てを 「手」原本に子〔右△〕とある。契沖説によつて改めた。○はなはちるとも の下、よし〔二字右○〕の語が略かれた。
【歌意】 佐伯山、そこの〔三字右○〕卯の花を持たれ、いかにも〔四字右○〕愛らしい娘の、その手をさ執つたらば、持つてゐる〔五字右○〕卯の花は散るとてもよいわ〔三字右○〕。
 
〔評〕 作者は夏山のそゞろ歩きに、端なく卯の花を手中に弄しつつくる一少女に邂逅した。少女も卯の花も共に美しかつた。彼(2047)れは一瞥のもとその少女に持前の好色《スキ》心を動かし、一寸その柔手を握つてみたくなつた。若い者の言動は何時の代でも大抵同じだ。
 人はよく萬葉人は徹頭徹尾、眞實と素朴の凝り固まりのやうに考へてゐる。でほんの戲謔に過ぎないものまでも、眞劍に重々しいものに扱つて感心してしまふ。可笑しな事だ。これなども只行摺りの風流三昧で、まづわざと卯の花と少女とを同價値に扱つて比興し、更に英斷らしく、「花は散るとも」と、卯の花を蹴落して、少女の一握手を絶對のものにした。これら餘裕と遊のある點に、一番の留意を要する。
  はし立の倉梯山をさかしみと岩掻きかねてわが手取らすも(記、隼別王)
おなじ手を取るにしても、その境地は西と東である。
 
不時《ときじきに》 斑衣《まだらのころも》 服欲香《きほしきか》 嶋〔左△〕針原《しまのはりはら》 時二不有鞆《ときにあらねども》     1260
 
〔釋〕 ○ときじきに 時ならぬをいふが本義で、不斷に、何時も/\などの意が生じた。こゝは後者の意。「かぜをときじみ」を見よ(四五頁)。新考訓トキジクノ〔五字傍線〕は歌意たじろぐ。舊訓トキナラヌ〔五字傍線〕。○まだらのころも むらに染めた衣。こゝは萩の花摺の斑衣。卷十の[はだれ」を參照。○きほしきか 「きほし」は著まほしと同意。(2048)「か」は歎辭。○しまのはりはら 嶋の萩原。「しま」は大和高市郡嶋の庄の地。「奈良路なる島の木立」の島は別處。「しまのみや」を見よ(四八○頁)。「はりはら」は既出(二二一頁)。「嶋」原本に衣服〔二字右△〕とあるは解し難い。元本にこの二字なく、嶋〔右△〕の字が補つてあるのに從つた。袖中抄、童蒙抄の句もシマノハリハラとある。「針」は榛の借字。○ときにあらねども 一訓は時ナラズトモ〔六字傍線〕。
【歌意】 何時でも斑の摺衣が著たいなあ、嶋の萩原は、今花咲く季節ではないけれどもさ。
 
〔評〕 嶋は遠く蘇我馬子が豪華を窮めた第宅地であり、又近くは日竝皇子の島の宮の遺址である。西は橘寺や川原寺に隣接し、南は飛鳥川に局られて餘地はないが、東飛鳥の岡から北へかけては、萩原もありさうな平地を存してゐる。但作者はその萩原に花のない時分、偶まこの島の故地を訪問し、萩の花摺に紫の斑の衣を作つて、その逸興を遣る風流三昧の所作を、つぶ/\と念頭に描いた。
 「衣匂はせ旅のしるしに」(卷一)、「岸の埴生に匂ひて行かな」(卷六)など、もと/\旅人の心胸を拍つた觸目の感興から發したものではあるものゝ、古人は有髯男子でも、服色に相當の關心をもち、大きな興味を感じてゐたことが認められる。而も萩の花は紫色(古代の)で、それが古代人の特に懷かしんだ色相であることを、考慮に置くべきだ。
 生憎や今は萩の花の時季でなかつた。けれども「著ほしきか」であつた。こんな出來ない相談の愚痴に拘泥してゐるのも、結局嘗て花摺衣に感じた深い愛著に起因してゐる。
 修辭の上から見ると、初句と結句は語性が同じで、語意も近似してゐるので、重複感が強い。卷十の
(2049)  思ふ子がころもに摺らむ匂へこそ島の榛原秋たゝずとも(――1965)
は頗る相似してゐるものゝ、おのづから別趣の作。
△榛原考(雜考――5)參照。
 
山守之《やまもりの》 里邊通《さとへかよひし》 山道曾《やまみちぞ》 茂成來《しげくなりける》 忘來下《わすれけらしも》     1261
 
〔釋〕 ○かよひし 略解訓による。古葉及び神本訓サトベニカヨフ〔七字傍線〕。
【歌意】 山番が不斷、私の〔四字右○〕里へと通うた山路がさ、草木が路を塞ぐまで〔九字右○〕、茂くなつた。さてはこの私を山番は〔十字右○〕、忘れたことらしいわい。
 
〔評〕 里住ひしてゐる婦人の作で、山守を以てその男に譬へたことは、男が里近い山莊に住んで居たからだ。今日は明日はとその來訪を待ち呆けてゐるうちに、遂にその通路に草木が茂つたといふ。そこには多少の誇張もあらうが、いかに長い間の勘忍であつたかが想像される。けれど尚露骨な怨恨の語を著けない。只惆悵として自分にいひ聞かせるかのやうに、「忘れけらしも」と、いとも力なげに呟いてゐる。作者のしほらしい人格がにじみ出てゐる。結句の一轉囘不言の妙を存する。
 
足病之《あしひきの》 山海石榴開《やまつばきさく》 八峯越《やつをこえ》 鹿待君之《ししまつきみが》 伊波比嬬可聞《いはひづまかも》     1262
 
(2050)〔釋〕 ○あしひき 「足病」は脚病の人の足を引くからの戲書。○つばき 艶葉木《ツヤハキ》の義。山茶科の常緑喬木。山地に自生し、又庭園に翫賞せらる。その實より油を製する。「海石榴」はその本字。唐代專らこの字を用ゐ、天武天皇紀にも、白海石榴を貢すと見えた。又山茶花とも書く。世にいふサヾンクワは茶梅の誤稱である。又椿の字を充てるのは、わが邦の作意。○やつを 彌津岑《ヤツヲ》。澤山な峯や岡をいふ。○ししまつ 初句より「しゝ」までは「まつ」に係る序詞。「しゝ」は古義訓による。宣長訓シヽマチギミ〔六字傍線〕。舊訓シカマツ〔四字傍線〕。○いはひづま 齋き妻。大切にする妻のこと。
【歌意】 獵師が〔三字右○〕山椿の咲く八丘《ヤヲカ》を越えて、鹿を待つ如く、貴方が一途に〔三字右○〕待つ、いとも大切な妻であるかいまあ。
 
〔評〕 昔の大和では鹿の出るやうな山谷にも、椿が澤山咲いてゐたと見える。いや椿を播種した山谷にまで鹿は出没したのである。(この事「巨勢山の列々椿」(二一五頁)の條の評語を參照。)
 この歌は山莊住ひの人の思ひ妻を詠んだのであらう。「足引の」から「鹿まつ」までは待つ〔二字傍点〕を形容した最大の修飾だが、そこに一心不亂に待つ趣が見える。これを眞淵は遠路を通ふ勞苦に譬へたといひ、宣長は狩人の鹿を窺ひ待つ如く大切にするの意の比喩と説いたのは、一寸的が外れてゐる。
 男が女の來るのを待つは、當時の常習慣からは違例だ。違例だからこそ「いはひ妻かも」と冷かしもしたものだ。
 
曉跡《あかときと》 夜烏雖鳴《よがらすなけど》 此山上之《このをかの》 本末之於者《こぬれのうへは》 未靜之《いまだしづけし》     1263
 
(2051)〔釋〕○あかとき 「あかときづゆ」を見よ(三三八頁)。○からす 燕雀類に屬する鳥。鳴管を有せず、只叫聲を發する。○よがらす 烏を夜にていふ。○をかの 「をか」は岑所の義で、地面の高い處又は高くなつてゐるものをいふ。故に「山上」を允てた。略解訓コノミネノ〔五字傍線〕。○こぬれのうへ 「こぬれ」は既出(一四七四頁)。「うへ」はあたりの意。○いまだ なほの意。この語の本義には協はぬが、既にこの時代にかく副意の發生を見た。
【歌意】 もう明けたと、夜烏は啼くけれど、あの岡の梢のあたりは、まだ夜のまゝで靜なことよ。
 
〔評〕 岡邊の宿に住んでゐる人の或日の曉の所見である。
 夜明烏の聲に驚いて、外の方を見渡すと、薄暗い空を局つた向うの岡の梢は、一層黒々と夜の靜寂を殘して、シンとしてゐる。半明半暗の早曉の光景が如實に描寫されてゐる。景致の中心たる「岡の木ぬれ」を把握したことは、作者の才意を語るものである。尤もこれらの光景は我々が不斷實見する處のものであるが、夙くこの作者に道破されてしまつた。
 但この歌は見樣によつては根本的に立場を殊にし、頗る別趣のものとなる。即ち曉方に歸らうとする男を、女が引きとめて、「烏が啼いたつて、御覽なさい、まだ夜深ですよ、岡の梢はシンとしてゐます」といつたものとすると、軟心柔語、その津々たる情味は汲めども盡きぬといつた形である。恐らくこの方が眞相を捉んだ見方であらう。
 
西市爾《にしのいちに》 但獨出而《ただひとりいでて》 眼不並《めならばず》 買師絹之《かへりしきぬの》 商自許里鴨《あきじこりかも》     1264
 
(2052)〔釋〕 ○にしのいち 奈良京の右京にあつた西の市。東の市に對する。(今大和添上郡九條村)。郡山町の北に市田と稱する處その故地であらう。「詠2東市之樹1」を參照(七五二頁)。○めならばず 目並ばずは見並ばずの意で、こゝは相目利《アヒメキヽ》の人のないのをいふ。「め」は見《ミ》の轉。古今集にも「花がたみ目並ぶ〔三字傍点〕人のあまたあれば」とある。古義訓メナラベズ〔五字傍線〕は鑿であらう。○かへりしきぬの 買ひたりし絹が。略解は「買」の下有〔右△〕を補ふべきかといひ、又一訓にカヒニシキヌシ〔七字傍線〕ともある。○あきじこり 商ひの不埒な賣り付け。商醜賣《アキシコウリ》の義。シコウリの約はシコリとなる。(1)俗の押つ覆《カブ》せにて、買ひ被りのこと(彦麻呂説)。(2)シコリは頻りの意(契沖説)。(3)シコリは染み凝るにて物に執著する意(略解説)。(4)シコリは仕損ふをいふ。源氏若紫に、しゝこらかし〔六字傍点〕とあるも、シコルの類語にて、卷十二に「しゑや更々しこりこめやも」のしこり〔三字傍点〕に同じ(古義説)。以上のうち(1)が尤も穩かでよい。卷十二のしこり〔三字傍点〕はこゝとは別意で、交渉がない。「自」は漢音シ、呉音ジ、ここは音便でアキジコリと濁る。
【歌意】 西の市に只ひとり出掛けて、目利の相手なしに、買つた絹が、飛(2053)んだ押つ被せであることかいなあ。
 
〔評〕 奈良平安の東西市は何れも公設であつた。それでも品物に目が利かぬと、商醜賣《アキジコリ》をされたものと見える。昔も商人は腕があつた。
 さて絹布に對しては、婦人は何時の世でも敏感と思はれるから、この商醜賣に引つ掛つたのは男だらう。男なら目利の相談對手が入用な筈だ。それを獨斷で遣つて失策《シクジ》つたといふ。然し只それだけでは、詩味の頗る稀薄なことは免れまい。
 そこで、これは裏面に譬喩の意をもつものと考へたくなる。即ち獨ぎめで縁を組んだ女が、飛んだ喰はせ者であつたと、後悔と憤懣との念が綯ひ交ぜになつて、かう歌はれたらしい。但これは臨時の題下に攝られてある歌であり、下に譬喩歌は別に掲出されてあるから、そこに撞著を見る。或はこの卷の記録者が分類の際の手落であらう。
 
今年去《ことしゆく》 新島守之《にひさきもりが》 麻衣《あさごろも》 肩乃間亂者《かたのまよひは》 許誰取見《たれかとりみむ》     1265
 
〔釋〕 ○ことしゆく 今年徴發されて〔五字右○〕ゆく。○にひさきもり 新|防人《サキモリ》。○さきもり 埼守の義。防人と書くは唐六典による。邊防の爲、島又は海岸の岬角を守る兵士の稱。孝徳天皇紀に、「初(メテ)修(メ)2京師《ミサトヲ》1、置(ク)2畿内(ノ)國司、郡司、關塞《セキ》、斥候《ウカミ》、防人《サキモリ》、驛馬《ハユマ》、傳馬(ヲ)1云々」とあるが防人の語の初見で、天智天皇紀にも「是歳(三年)於(イテ)2對馬(ノ)島、(2054)壹岐(ノ)島、筑紫(ノ)國等(ニ)1、置(ク)2防《サキモリ》與《ト》1v烽《スヽミトヲ》」と見えた。なほ奈良時代のことは「防人司(ノ)佐」の條を參照(七九五頁)。さて「島守」の訓、古來サキモリ、シマモリの兩樣が存してゐる。但打任せて防人をシマモリといつた例はない。故になほ意訓でサキモリと訓むがよい。○まよひ 布帛の經緯の亂るゝをいふ。即ち地の縒れ/\になること、ほつるゝこと、平張ること。和名抄に「唐韻(ニ)云(フ)、※[糸+比](ハ)繪(ノ)欲(スル)v壞(レムト)、萬與布《マヨフ》、一(ニ)云、與流《ヨル》」とある。「間亂」は、布帛の上では「亂」の一字でマヨヒと訓まれるが、尚その訓を確かにする爲に「間」の字を冠した。契沖以來「間」を衍としたのは以ての外である。○たれか 「許誰」はコノタレ〔四字傍点〕の意で、タレと訓む。隋唐頃の俗語である。契沖が「許」は阿〔右△〕の誤か、さらずば衍なるべしといひ、諸註皆衍字説を取つたのは却て誤つてゐる。「か」は訓み添へた疑辭。○とりみむ 「とりみ」は世話すること。衣の上では繕ふこと。
【歌意】 今年徴發されてゆく、新防人が著てある麻の衣、それがこれから先、著舊されて〔十字右○〕の肩のほつれは、誰れが世話しようかえ。
 
〔評〕 當時諸國の軍團に籍を有つ兵士は、國衙の差定によつて一家に一人、防人に徴發され、遠く筑紫の邊防に赴く。それが三年交替であつた。こゝにいふ新防人は何處の國のでもよいやうなものゝ、その勞苦に同情する上に於ては、成るべく遠戌の兵士である方が、餘計にふさはしく感ぜられる。依つて東男の防人に出で立つたものとして考へる。
 天平二年九月に停(ム)2諸國(ノ)防人(ヲ)1とあつて、それは專ら東國の兵士を差遣されたことを意味する。それから八年を經た天平九年九月に至つて、是日、停(メテ)2筑紫(ノ)防人(ヲ)1、歸(ラシメ)2本郷(ニ)1、差(シテ)2筑紫人(ヲ)1令(ム)v戌(ラ)2壹岐對馬(ヲ)1、とあるは、東國の(2055)防人の駐屯を停められたことで、天平寶字三年太宰府の上言に、自(リ)v罷(メシ)2東國(ノ)防人1、邊戌日(ニ)以(テ)荒散(セリ)、如(シ)不慮之表(ニ)、萬一有(ラバ)v變、何(ヲ)以(テカ)應(ジ)v卒(ニ)、何(ヲ)以(テカ)示(サン)v威(ヲ)とあつたが、奥羽の動亂の爲にその處分が延引して、同六年四月になつて、一時東國の兵士を差遣して填補した。されば天平九年から同寶字六年まで、廿六年間中絶してゐた。さてはこの歌は前度の天平年間の作か、又は後度の天平寶字年間の作かは判明しない。とにかく「今年ゆく新防人」に對しての感懷である。
 彼等は麻衣を著てゐた。麻は上下總の國常陸下野を始として東國の名産で、佳人眞間の手兒奈も、麻衣に青衿を付けてゐた。すべて著物は肩から綻び或はへばる。この遠戌する防人の妻は、まづ麻衣の肩のまよひを豫想して「誰れか取りみむ」と取越苦勞をした。
 それは軍團に居る時だつて、著物の肩は同じやうにまよふであらうが、軍團は四郡に一箇處の規定だから、故郷に距離がさう遠くもないから、著物の仕立替位は、家庭に連絡を取つて世話もして貰へる。それが不知火筑紫への駐屯となつては、家庭とは絶縁だ。「肩のまよひ」は些細な事柄ながら、而も生活上切實な問題で、男手ではどうにもなるまい。「誰れかとりみむ」は取り見る人のないといふ答案を豫期しての設問である。そこに無限の婉微なる感愴が※[酉+鰮の旁]釀し波動してくる。このよい世話女房と、「額には矢は立つともそびらには矢は立てじ」と揚言して、君國の爲に遠く去る東男との生別離に對して、何人も斷腸の涙を濺がずには居られまい。而もこの下句はその一隅を抑へて三隅を揚ぐる警策で、更に/\防人の向後の孤獨生活の勞苦全部に對しての、絶大なる同情なのであつた。古樂府の※[豐+盍]歌行に、
  兄弟兩三人、流宕(シテ)在(リ)2他縣(ニ)1、故衣誰(カ)當(キ)v補(フ)、新衣誰(カ)當(キ)v縫(フ)。
(2056)に比するに、更に一段の精彩を加へた作で、聲響の和諧、風調の優越、それが情緒の切實さと相俟つて、一唱三歎せざるを得ない。
 
太舟乎《おほふねを》 荒海爾※[手偏+旁]出《あるみにこぎいで》 八船多氣《やふねたき》 吾見之兒等之《わがみしこらが》 目見者知之母《まみはしるしも》     1266
 
〔釋〕 〇あるみ 荒海《アラウミ》の略のアラミの轉。卷十五にも「大船を安流美《アルミ》にいだし」とある。神本以下アラウミ〔四字傍線〕の訓も存してゐる。○やふねたき 彌《イヤ》船漕ぎの意。「や」は彌《イヤ》の意にて「たき」に係る副詞。「たき」は漕ぐ意の加行四段の動詞。土佐日記に「たけども/\しりへ退《ソゾ》きに退きて」とあるたけ〔二字傍点〕と同語。新考に「多氣」はたけど〔三字傍点〕の意にて、杼〔左△〕《ド》の落字なるべしとあるは、私に過ぎる。○まみ 目付き。契沖訓による。
【歌意】 大船を荒海に乘り出し、而も船を盛に漕いで、やつとの事で〔六字右○〕私が逢うた女の、その目付は眼に著いてねえ。
 
〔評〕 航海の途次、立寄つた湊か島で、ふと馴染んだ女の情が、何時までも忘れかねた趣である。勿論浮草の女でもあらうが、頻に航海苦を漸層的に強調して、さも/\心盡しのはてに逢ひ得たものゝ如くにいひ做した。かくて「まみはしるしも」が切實に印象づけられ、その盻たる美目が我々の前に彷彿する。
 宣長は上句を譬喩と見て、
  親のまもりの強くして逢ひ難き女に、色々と心を盡して逢ひ見たるを喩へたるなり。
(2057)といひ、古義もこれに同じた。一往尤な見方だが、こゝが譬喩歌の部でないのと、上句に實在性が強いのとの二つの理由によつて、別箇の見解を下した。
 
就《ツケテ》v所(ニ)發《ノブ》v思(ヲ) 旋頭歌
 
○就所發思 これは懷古の作である。
○旋頭歌 セドウカ。又|混本《コンポン》歌といふ。旋頭は頭をめぐらすの意。この歌體は577を前聯とし、更に577の後聯を復唱した樣式で、大凡問答體、復唱體、一意到底體の三者に分類される。問答又は復唱の際において、前聯の第三句を後聯の第三句にそのまゝ襲用する場合が多かつた處から、初二句即ち頭が振り替るの意で旋頭《セトウ》と名づけ、又反對に第三句即ち本を同じうする意で、雙本又は混本《コンホン》と名づけた。雙本混本の稱は平安期になつての文獻に出てゐる。
 又第三句を復唱するに、全く同句を用ゐたものと、多少辭樣の變化を求めたものとがある。今假に同句のものに正格、變化したものに變格の稱を與へた。
 抑も問答體の歌は紀に見えた大久米《オホクメノ》命と神武天皇との高佐士野《タカサシヌ》の唱和がその嚆矢であるが、同時に伊須氣餘理比賣《イスケヨリヒメメノ》命と大久米命との唱和に至つては、全く旋頭歌の定型に近づいた問答體である。日本式尊が甲斐の酒折《サカヲリノ》宮における火焚の翁との問答歌は、愈よ旋頭歌の樣式を完全ならしめたもので、記にはこれを片歌と稱した。蓋し問歌と答歌とを各分立させて與へた稱呼であらう。(既出の補遺)。
 
(2058)百師木乃《ももしきの》 大宮人之《おほみやびとの》 蹈跡所《ふみしあとどころ》 奥浪《おきつなみ》 來不依有勢婆《きよらざりせば》 不失有麻思乎《うせざらましを》     1267
 
〔釋〕 ○あとどころ 迹である處。佛足石(ノ)歌に「三十《ミソヂ》あまり二つのかたと八十《ヤソ》ぐさとそだれる人の踏みしあと處〔三字傍点〕、稀にもあるかも」とある。「蹈」は踏〔右△〕が正しいが、書寫上の通用である。以下一々にいはない。△地圖及寫眞 挿圖41(一二四頁)44(一三二頁)を參照。
【歌意】 こゝは〔三字右○〕大宮人が甞て踏んだ、その迹處よ。あの沖の波が、寄せて來なからうならば、昔の迹はもとのままで〔十字右○〕、亡《ナ》くなりはしなからうものをさ。
 
〔評〕 近江(ノ)大津(ノ)宮を遷されし後に、志賀辛崎などのさまを詠めるなるべしといふに、衆口が一致してゐる。
 志賀の辛崎の船遊などに出立つた大宮人達の蹤迹は、素より何時まで殘らう筈がない。それは沖つ波の來去に關するものでは決してない。この明かな事實に目をつぶり、さも沖つ波の無情なる所爲の如くに慨歎してゐる。これはこれ無中に有を生ぜしむる筆法で、他に懷古の種《クサ》はひとなるべき何物もないので、昔ながらに寄せ返る眼前の沖つ波に、すべての感愴が集中し、昂奮の極遂に痴呆に墮したものである。そこに無窮不盡の怨意が搖曳する。
 調は行雲流水の痕なきが如く、姿は清楚で繊塵もとめない。詞は又平易簡淨を極めてゐる。憑弔の作の上乘。歌聖人麻呂の志賀宮址の短詠二首(卷一所載)に比するに、彼れは人籟の大なるもので線が太く、此れは天籟(2059)の小なるもので線が細い。
 然し旋頭歌の本體からは遠い。全く短歌の延長でしかない。この點旋頭歌の後期に屬する所産である事を想はせる。恐らく人麻呂以後のものであらう。
 
右十七首〔左○〕、古歌集(ニ)出(ヅ)。
 
上の問答歌の「佐保河爾」より以下の十七首をいふ。「首」の字原本にない。補つた。
 
兒等手乎《こらがてを》 卷向山者《まきむくやまは》 常在常《つねにあれど》 過往人爾《すぎにしひとに》 往相目八方《ゆきあはめやも》     1268
 
〔釋〕 ○こらがてを 既出(一八九四頁)。この句は普通には卷向の枕詞であるが、こゝは歌意に交渉をもつので枕詞ではない。○まきむくやま 「まきむく」及び「ゆづきがたけ」を見よ(一八八七頁)。○つねにあれど 何時も存在してゐるがの意。ツネナレド〔五字傍線〕の訓は非。○すぎにし 既出(一八四頁)。○ゆきあはめやも 往き合はれようかい。「相」原本に卷〔右△〕とある。人に往き卷く〔六字傍点〕は語を成さない。新考に相〔右△〕の誤とあるに從つた。彦麻呂は「爾往」を乎復〔二字右△〕の誤として、スギニシヒトヲマタマカメヤモ〔十四字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 兒等が手を纏《マ》く、といふ名の卷向山は、何時もありはするが、死んでしまつたその人に、往き逢ふことがならうかいまあ。 
 
(2060)〔評〕 相反的事相の撮合を基調としての著想、そこに一片の理路を存するが、鍾情の極に墮した愚痴だから、却て聽者の感傷を唆る。「過ぎにし人」はその亡妻などであらう。
  さゝ波の志賀のから崎さきくあれど大宮人の船待ちかねつ(卷一、人麿――30)
に巧緻の點は及ばないが、その手法は同じい。
 
卷向之《まきむくの》 山邊響而《やまべとよみて》 往水之《ゆくみづの》 三名沫如《みなわのごとし》 世人吾等者《よひとわれらは》     1269
 
〔釋〕 ○やまべとよみて 山邊に〔右○〕とよんで。「とよみて」は一訓ヒヾキテ。○みなわ 「みなわなす」を見よ(一五九三頁)。○よひとわれらは 現世の人なる〔二字右○〕我々は。
【歌意】 卷向の山邊に〔右○〕響動《トヨ》んで、流れゆく水の上の、あの泡のやうであるわい、現世の人である〔三字右○〕我々は。
 
〔評〕 「卷向の山邊とよみてゆく水」は即ち穴師川である。卷五「水沫なすもろき命も」の條で評した如く、これも無常思想の所産で、内容には一向新味を見ないが、格調高渾、措辭暢達である。「とよみて」は、トヨモシ〔四字傍点〕といふ方が力強いかと思ふ。略解に、上三句は序なりとあるは從ひ難い。
 
右二首、柿本(ノ)朝臣人麻呂(ノ)集(ニ)出(ヅ)。
 
(2061)寄(セテ)v物(ニ)發《ノブ》v思(ヲ)
 
隱口乃《こもりくの》 泊瀬之山丹《はつせのやまに》 照月者《てるつきは》 盛※[呉の口が日]爲烏《みちかけするを》 人之常無《ひとのつねなき》     1270
 
〔釋〕 ○こもりく 既出(一七六頁)。○みちかけするを 「を」は歎辭。「※[呉の口が日]」は※[日/失]の失畫で書寫字だらう。※[日/失]は※[日+失]と同字で、日の傾く意なので、缺《カケ》の意に借りた。類聚名義抄にはクルと讀んである。「烏」にはヲの音がある。類本、元本一訓、眞淵訓などに從つた。古義は「烏」を焉〔右△〕の通用と見て、ミチカケシケリ〔七字傍線〕と訓み、卷十九の「天の原ふりさけ見れば照る月|毛《モ》盈※[呉の口が日]之家利《ミチカケシケリ》を例とした。舊訓ミチカケシテゾ〔七字傍線〕。
【歌意】 あの初瀬山に照る月は、滿ちたり缺けたりするよ。ほんに〔三字右○〕人生が、全く不定でね。
 
〔評〕 月の盈缺は人間に無邊な聯想と神秘な暗示とを與へる。その多くは人生の消長に關聯して考へてゐる。印度や希臘あたりの昔にもこの種の思想が夙く發生し、支那でも易にある「日中(スレバ)則昃(キ)、月盈(テバ)則食(ク)」は人生に即しての譬喩である。詰り原始時代から人類が自然にもつた觀念であらう。今も初瀬山の月に對して、その盈てば缺け、有と見れば無である現象に想到して、人生の逝いて反らぬはかなさを歎じた。
 特に初瀬山の月を云爲したことは、作者を初瀬人とすればそれまでだが、或は初瀬の新域《アラキ》に送葬又は賽詣した人の感懷ではあるまいか。古義は斷然、下の挽歌の部にこれを編入した。
 
右一首、古歌集(ニ)出(ヅ)。
 
(2062)行路《ミチニテヨメル》
 
遠有而《とほくありて》 雲居爾所見《くもゐにみゆる》 妹家爾《いもがいへに》 早將至《はやくいたらむ》 歩黒駒《あゆめくろこま》     1271
 
〔釋〕 ○くもゐに 空にの意。
【歌意】 遠くつて、天末に見える妹の家に、早く往き著かうよ、さつさと歩け、この黒駒よ。
 
〔評〕 馬に乘つて思ひ妻の許に通ふ、面白い詩境だ。
  黒駒のあがきを早み雲居にぞ妹があたりを過ぎて來にける(卷二、人麻呂――136)
に類似し、彼れには人麻呂ならではなし得ぬ技巧があるが、此れは極めて率直に感想をさらけ出し、人の思はくなど一向にお構ひなしといつた一本氣の調子、眞摯の點において、きびしく人の胸臆を打つ。「遠くありて雲居に見ゆる」は大分丁寧な表現だが、これは「早く到らむ」の素地を作すものである。黒駒は調子にまかせたもので、黒に深い意味はない。
  等保久之※[氏/一]《トホクシテ》雲居に見ゆる妹が敞《ヘ》に伊都可《イツカ》いたらむ歩め黒駒(卷十四――3441)
は初句三四句に異同がある。傳誦の際にかく轉訛したものだらう。
 
右一首、柿本(ノ)朝臣人麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
(2063)人麻呂の作に類似點があるので、後人これを人麻呂作と認定し、その歌集に編入したものらしい。
 
旋頭歌
 
古義は「寄物發思」といふ題詞を作り、「旋頭歌」を注に引き下した。
 
釼後《たちのしり》 鞘納野爾《さやにいりぬに》 葛引吾妹《くずひくわぎも》 眞袖以《まそでもち》 著點等鴨《きせてむとかも》 夏葛引〔二字左△〕母《なつくずひくも》     1272
 
〔釋〕 ○たちのしりさやに 大刀の鋒《サキ》が鞘に入るを入野にいひかけた序詞。鋒をシリといふは柄頭に對しての稱。○いりぬ 「いりのがは」と同處か(一九八〇頁)。○くずひく 葛の蔓を引取るをいふ。「くず」は既出(九四六頁)。○まそでもち 兩袖を持つて。「まそで」は兩袖をいふ。「ま」は眞手、眞梶の眞《マ》の意に同じく、數の揃ふをいふ。「もち」は持ちの意で、「以」は借字。これを作るの意とする説は牽強。○なつくずひくも 「葛引」原本に草苅〔二字右△〕とあるは誤。宣長説による。
【歌意】 大刀の鋒が鞘に納《イ》る。その納るといふ名の入野に、葛蔓を引く、あの兒よ。兩袖を持つて、わが男に〔四字右○〕著せようとするのかまあ。夏野の葛蔓を引くはまあ。
 
〔評〕 葛は山野に自生してゐゐ蔓草、その蔓の皮を剥いで作つた絲で葛布を織る。葛布は當時賤卑の服であつた。作者は今入野を通りかゝつて、若い女が一心になつて葛の蔓を引く作業を見た。聯想はその葛から葛布、葛布(2064)から葛衣、葛衣からその葛衣を著る男の上にまで進展し、遂にその男と葛引の女とを關係づけ、更に「眞袖もち著せてむとかも」と、男の背なに兩袖を引張つて著せかけて遣る、いとも親切な婦人の態度にまでその想像は馳せて往つて、無中に有を生じ、空中に樓閣を現じた。かうして葛引の女の勞動の眞劍さが自然と映出されてくる。前聯の第三句を反復する際、一寸字句を變易して、後聯は「夏葛引くも」と歌ひをさめた。「夏」は葛の最も繁茂する時季を表した。
 雙本體の變格で、前聯と後聯の句末に、モ〔傍点〕の脚韻を踐んでゐる。
 
住吉《すみのえの》 波志〔左○〕豆麻君之《はしづまきみが》 馬乘衣《うまのりごろも》 雜豆臘《さひづらふ》 漢女乎座而《あやめをませて》 縫衣叙《ぬへるころもぞ》     1273
 
〔釋〕 〇はしづまきみ 愛夫君《ハシヅマキミ》。可愛い夫の君といふこと。「志」原本にない。補つてみた。古義に、波豆麻《ナミヅマ》は地名などにてそこに住む人をいふかとあるは、甚だ窮した臆説である。宣長が波里摩著〔四字右○〕の誤としてハリスリツケシ〔七字傍線〕と訓み、次の第三句の「乘」をも垂〔右△〕の誤として、マダラノコロモ〔七字傍線〕と訓んだのも私斷に過ぎる。舊訓のハヅマノキミ〔六字傍線〕。ナミヅマキミ〔六字傍線〕などの訓は義を成さぬ。○うまのりごろも 乘馬の時の衣。○さひづらふ さひづる〔四字傍点〕の延言。卷十七に「佐比豆留夜《サヒヅルヤ》から確《ウス》に舂《ツ》き」ともある。さひづる〔四字傍点〕はさへづる〔四字傍点〕の古言。外國人の物言ひが鳥の囀に似て聞えるので、韓《カラ》、漢《アヤ》などの枕詞とした。傭字例にいふ、「雜は音サフなれば、サハ、サヒなど轉用したる例あれど、サニとは轉用すべからず、されば茲はサニヅラフとは訓までサヒヅラフと訓むべし」と。舊訓サニツラフ〔五字傍線〕。○あやめをませて 「あやめ」は字の如く漢國《カラクニ》の女のこと。漢をアヤと訓むは漢織《アヤハトリ》漢直《アヤノアタヘ》の訓例による。(2065)もと朝鮮で支那を呼んだ稱。「ませて」は記傳の訓による。舊訓はヲトメヲスヱテ〔七字傍線〕。契沖は毛詩にも漢有2游女1といひて美女ある處なれば彼處に准じて書けりとて、ヲトメ〔三字傍線〕の訓に從つたが、三句の「さひづらふ」には意が連續しない。△挿畫 挿圖11(三六頁)69(二〇二頁)及び158(五七五頁)を參照。
【歌意】 この住吉における、愛する夫の君の乘馬服よ。これは特別に〔三字右○〕漢女を家へ招んで、縫つた衣ですぞ。
 
〔評〕 乘馬姿はおよそ颯爽として頗る意氣なものである。何れの邦でも騎乘には輕捷なる動作の必要上、特種の服装が要求された。馬乘衣や馬乘袴がそれで、その樣子が又一段と派出なものに見られる。
 今は愛夫の君が馬上凛々しく扮装《イデタ》つて、わが家を出て行くのであつた。それを見送つた作者は、我ながらその風采に見惚れて、あの氣の利いた馬乘衣は、自分が丹精して、特に漢女を招請して仕立てたものだと、自慢かた/”\その滿足の笑みを洩らした。漢女を座せたことは、その馬乘衣が漢風の製裁樣式であつたことを想はせる。
 この頃の漢女は漢呉國からの歸化人の後裔で、一部は住吉附近にその聚落を形作つて住んでゐたのではあるまいか。雄畧天皇紀に
  十四年春正月、身狹村主《ムサノスクリ》青等、共(ニ)2呉國(ノ)使(ト)1、將(ヰテ)2呉(ノ)所v獻(レル)手末|才伎《テビト》、漢織《アヤハトリ》呉織《クレハトリ》、及《マタ》衣縫《キヌヌヒ》兄媛弟媛等(ヲ)1、泊(ツ)2住吉(ノ)津(ニ)1。(紀卷四十四)
と見え、漢呉の織女や衣縫女を概稱して漢女といつたらしい。住吉は素より船舶の集散した殷賑地だから、それらの工女は相當生活してゐられる。
(2066) その本職の漢女をわざ/\傭ひ上げての舶來仕立、惡からう筈がない。それは愛夫の君への最大なる心盡しであつた。婦人の繊細なる情緒が下に閃いて、面白い作である。
 舊訓サニヅラフ〔五字傍線〕は「雜」の發音上からも無理であるが、漢女の冠語としては事實上からも諾ひ難い。この語義の通り、わが古代には婦人達が小丹《サニ》即ち赤土を化粧品として顔面や身體に塗りつけたものだ。出土品の埴輪の土偶がそれを證する。陳壽の三國志の魏志の倭傳に、
  女人以(テ)2朱丹(ヲ)1、塗(ル)2其身體(ヲ)1、如(シ)2中國(ノ)用(ヰルガ1v粉(ヲ)也。
と見え、白粉を使ふやうになつたのは、漢風を學んでからである。假令この語が只容顔の赤みばしつた美しさの形容に過ぎない時代となつたとはいへ、唐人《モロコシビト》の漢女《アヤメ》に冠して用ゐることは不當ではあるまいか。
      △唐風模倣考(雜考―― 26參照)
 
住吉《すみのえの》 出見濱《いでみのはまの》 柴莫苅曾尼《しばなかりそね》 未通女等《をとめらが》 赤裳下《あかものすその》 ※[門/壬]將往見《ぬれてゆかむみむ》     1274
 
〔釋〕 ○いでみのはま 住吉の高燈籠の邊の濱と、地名辭書にある。略解には訓イヅミノハマ〔六字傍線〕かとある。○かりそね 「尼」をネに充てるのは呉音のニ〔傍点〕の轉。卷九に「つぎて漕がさ尼《ネ》」、「吾に尼保波尼《ニホハネ》」などの例がある。古義訓カラサネ〔四字傍線〕は非。○あかものすそのぬれてゆかむみむ 古義はアカモスソヒヂユカマクモミム〔十四字傍線〕と訓んだ。「※[門/壬]」は潤と同意義に用ゐた。誤ではない。
【歌意】 この住吉の出見の濱の、柴を刈りなさるなよ、處女達の赤裳の裾が波に〔二字右○〕沾れて、行かうのを見ようわ。
 
(2067)〔評〕 住吉の濱邊は陸地が延長して新田が段々と開發されたほど、もと/\遠淺で、隨つて濱が平遠だつた。だから處によつては波打際まで柴が茂生するといふ状態だ。それでは濱傳ひの交通が不便なので、その通路を開く爲、里人等が柴を刈り拂つてゐるのを見かけた作者は、そこにゆくりなく感興を發し、これ/\柴を刈つて通路などつけてはならぬ、處女達が柴に妨げられて據なく波打際を通ると、その赤裳裾が寄る波に弄ばれてビシヨ濡れになる、その風情は格別だからと、妙な抗議を申し立てた。實際から遊離した趣味一方の閑問題。里人がそれを聽かうが聽くまいがとんと構はない。そこにいひ知らぬ面白さがある。
 この歌、古説も新註も、盡く見當違ひの解釋を下し、誤字の何のと私議して、正鵠を得たものがない。
 
住吉《すみのえの》 小田苅爲子《をたをからすこ》 賤鴨無《やつこかもなき》 奴雖在《やつこあれど》 妹御爲《いもがみためと》 私田苅《わがたをかるも》     1275
 
〔釋〕 ○からすこ 「からす」は刈る〔二字傍点〕の敬相。この「こ」は男をさしていつた。〇やつこ 家《ヤ》つ子《コ》の義。支屬の者をいふが本にて、卑賤階級に屬する者の稱となり、男を奴《ヤツコ》、女を婢《メヤツコ》といつた。「賤」をヤツコとよむは意訓。○わがたをかるも 「私田」をワガタと訓むは神谷氏説による。略解は「私」を秋〔右△〕の誤とし、古義もこれに從つてアキノタカルモ〔七字傍線〕と詠んだ。略解訓はアキノタカラス〔七字傍線〕。
【歌意】 住吉の小田を、自身〔二字右○〕刈つて入らつしやる貴方よ、下男がないのですかね。(女)いえ下男はあるが、外ならぬ貴女のお爲とて、自身で私の田を刈りますわい。(男)
 
(2068)〔評〕 前聯は女の問で、後聯は男の答である。當時奴婢は一種の賤民階級で、箇人又は寺社などに隷屬して使用された、姓も何もない奴隷であつた。大寶令の規定を見ても、良賤の別は非常に嚴唆なものであつた。百姓即ち大ミタカラは良民階級で、奴婢を使用し得る權利者だ。
 秋は收穫時で忙がしい。農家の主人も、自身鋭鎌を揮つて稻刈をする。素より知合の中だらうが、或女が行摺りにこれを見て、頗る同情して、「奴かもなき」御苦勞な事といひかけた。するとその男が「いえ人手はあるが、特に貴女に獻じようと思うて、自身にかう私の田の稻刈をするのです」との返答、落花既に情あり流水豈に意なからんやで、同情の詞に甘えて、更に有情の語を酬いたものだ。蓋し一場の戲謔である。
 
池邊《いけのべの》 小槻下《をつきがもとの》 細竹莫〔左○〕苅嫌《しぬなかりそね》 其谷《それをだに》 君形見爾《きみがかたみに》 監乍將偲《みつつしぬばむ》     1276
 
〔釋〕 ○いけのべ 地名か。和名抄に大和國十市郡池上(ノ)郷。(今磯城郡、香具山の北麓)とある處。磐余《イハレノ》池邊の意。磐余(ノ)池はまた埴安《ハニヤスノ》池、市磯《イチシノ》池ともいふ。用明天皇紀に「天皇即位、館《ミヤヅクル》2於磐余(ニ)1、名(ヲ)曰(フ)2池邊雙槻《イケノベノナミツキ》宮(ト)1、云々。〇をつき 小《ヲ》は美稱。「つき」は「つきのき」を見よ(五七三頁)。○なかりそね 次の歌に「莫苅嫌」とあるによれば、莫〔右△〕の字を補ふがよい。「嫌」に猜《ソネ》み厭ふ意があるので、ソネに充てた。〇みつつ 「監」に見る意がある。覽〔右△〕の誤とするまでもない。
【歌意】 池の邊の、この槻の木の蔭の小竹を刈りなさるな。せめてそれなりとも、貴方の形見にして〔二字右○〕、見い/\(2069)お慕ひ致しませう。
 
〔評〕 磐余の池邊に、古代の雙槻の遺蘖が、尚存在して居たのかも知れない。その槻の本の小竹原で、男は女に出逢うて、一場の情話を語つたものだ。處でまたも逢へるかのよもやに惹かれて、以前の場處を再訪したが、女の影は見るべくない。空しく小竹原がさら/\と鳴るのみだ。逢うた記念と思へば詰らぬ小竹でも懷かしい。悵然として誰にいふともなく、「小竹な刈りそね」とその獨言を洩した。
 
天在《あめなる》 日賣菅原《ひめすがはらの》 菅〔左△〕莫苅嫌《すげなかりそね》 彌那綿《みなのわた》 香烏髪《かくろきかみに》 飽田志付勿《あくたしつくも》     1277
 
〔釋〕 ○あめなる 四言の句。天にある〔三字傍点〕日を姫《ヒメ》にいひかけた枕詞。古義の「在」を傳〔右○〕と改め、アマヅタフ〔五字傍線〕と訓む説は無用。○ひめすがはら 姫菅の生えてゐる原。姫菅はやさしい一種の菅の稱。すべて姫何と稱するは、特に細小なる美しい物をいふ。「すが」を見よ(七三六頁)。「ひめ」を地名とする契沖説は採らぬ。○すげなかりそね 「菅」原本に草〔右△〕とある。古義説により改めた。○みなのわたかぐろき 既出(一四三四頁)。○あくた 塵芥。粗腐《アラクタ》の義と。
【歌意】 茂つてゐる姫菅の原の、その菅を刈りなさるなよ。お前の〔三字右○〕の眞黒な髪に、芥がたかるわ。
 
〔評〕 菅刈に勞働してゐる婦人への同情である。多分その女は結ひ立ての綺麗な髪をしでゐたのだらう。女の伊(2070)達は何時の世でも黒髪である。で菅の芥が舞ひ立つて取付くのをいとほしがつた。
 前聯と後聯との初句に各枕詞を配して、相對的姿致を取つた。而も「あめなる」の廣大無邊の崇高なる語に、「蜷の腸」の卑小なる微物を取合せたことは、極端と極端との對照で、作者の有意的戲意があつたと見てよからう。
 前聯の初二句を、宣長は天上の菅原なりといつたのに對して、古義が、さるうつけたる事なしと難じたのは、當然のことである。
 
夏影《なつかげの》 房之下邇〔左△〕《ねやのもとに》 衣裁吾味《きぬたつわぎも》 金〔左△〕儲《あきまけて》 吾爲裁者《わがためたたば》 差大裁《ややおほにたて》     1278
 
〔釋〕 ○なつかげ 夏の日の遮へられた處をいふ。但こゝの「かげ」は樹蔭であらう。「影」は借字。○ねやのもとに 六言の句。閨の處で。「邇」原本に庭〔右△〕とあるは誤。元本その他による。「下」舊訓、古義訓はシタ〔二字傍線〕とある。○あきまけて 秋の設けをして。「冬かたまけて」を見よ(五○一頁)。「金」原本に裏〔右△〕とある。「裏儲」はウラマケテ〔五字傍線〕と訓むより外はないので、從來裏を附けて〔五字傍点〕の意とした。然し裏を付けて裁つは意味を成さない。新考に「裏」を金〔右△〕の誤として義訓にアキと訓んだのは賛成である。○ややおほにたて 少し大振に裁てよ。童本訓ヤヽヒロクタテ〔七字傍線〕、古義訓イヤヒロニタテ〔七字傍線〕。
【歌意】 夏蔭の涼しい部屋のもとで、衣を裁つわが妻よ。秋支度として自分の爲に裁つてくれるなら、少し大振に裁つてくれい。
 
(2071)〔評〕 夏の着物は涼しいのを主とするから、ツンツルテンでも構はないが、秋袷の頃からは少し寛潤でなければ困る。肉體的にも夏痩が囘復してくるからである。處で茲に留意すべき事柄がある。上古の衣服は肢體そのままの形を露骨に現はした、實用的の物に過ぎなかつた。文化が發達して美意識が向上するに隨ひ、装飾の意匠が盛に施されて來た上に、衣服の構成上にも變化を來し、段々寛濶を尚ぶやうになつた。袖は長く廣くなり、筒のやうであつた袴は、幅廣の太い物に變つた。尤も當時の政府の方針も社會の趨勢に押されて、容儀帶佩を重んずるやうになり、狹※[衣+僊の旁]細領を嫌ひ(和銅元年制)一般下層民まで脛裳を禁じて白袴を穿かせ、(慶雲三年の制)袵の淺いのを嚴禁し(和銅五年)などした。さればこの歌は、寛濶な服が新流行の時代であつたことを考慮に入れてよからう。
 家庭的の打解けた情味が漂うて、いかにも懷かしい作である。
 
梓弓《あづさゆみ》 引津邊在《ひきつのへなる》 莫謂花《なのりそのはな》 及採《つむまでに》 不相有目八方《あはざらめやも》 勿謂花《なのりそのはな》     1279
 
〔釋〕 ○あづさゆみ 梓弓引くといふを引津にかけた枕詞。「あつさゆみ」は既出(三一頁)。○ひきつのへ 引津のほとり。引津は筑前國志麻郡(今絲島郡)可也村。なほ卷十五の「引津(ノ)亭(ノ)船泊之作」の條を參照。○なのりそのはな これを神馬藻《ホンダワラ》とすると、花らしい花は咲かない。「なのりその」を見よ(一六七三頁)。「莫謂」「勿謂」は意を以て充てた。○つむまでに 神馬藻を〔四字右○〕摘むまでにの意。前聯から續けて、花を摘むことのやうに解した(2072)諸註は誤つてゐる。○あはざらめやも 輕く聞くと、逢はれずに〔五字傍点〕あらうかいの意、重く聞くと、逢はずに〔四字傍点〕あらうことかいの意となる。こゝは約束の詞だから、強く重い方がふさはしい。
【歌意】 引津の浦邊に生えてゐる、わが名を告《ノ》るなといふ名をもつ、莫告藻《ナノリソ》の花よ、その莫告藻〔三字右○〕を探る頃までに、何で逢はずにあらうかい。決してわが名を人に告《ノ》つてはなりませんぞ、莫告藻の花よ。
 
〔評〕 或男が引津の浦の女に係り合つて、更に再會を豫約した情話である。女を莫告藻に擬して、頻に「な告りそ」と噛んで含めるやうに反復した點から見ると、恐らく男は相當身分をもつた者らしく、而も莫告藻を摘む頃まで待たせねばならぬのは、さう容易く會合の機のない境地にあることを證する。まづ他郷人と見てよからう。身柄のある他郷人、かう考へると、男はまあ宰府あたりの官吏でゝもあらうか。
 さて神馬藻の花は、下にも詠んだのが一首あるが、詰り詞の花で、その實あるものではない。解者は盡く眩惑されてゐる。但莫告藻を摘むことは盛で、それは食料に供した(2073)ものだ。平安期にも
  民部下交易雜物、伊勢國|那乃利曾《ナノリソ》五十斤、參河國那乃利曾五十斤、播磨國那乃利曾三十斤、紀伊國那能利曾五十斤、伊豫國那乃利會五十斤。(延喜式 卷廿三)
と見え、それを摘むには時期がきまつてゐた。即ち寒中で莫告藻のまだ弱く軟いうちのことであつた。
 雙本體の正格で、おのづからナ〔傍点〕韻を踐んでゐる。
 
撃日刺《うちひさす》 宮路行丹《みやぢをゆくに》 吾裳破《わがもはやれぬ》 玉緒《たまのをの》 念亂〔左△〕《おもひみだれて》 家在矣《いへにあらましを》     1280
 
〔釋〕 ○うちひさす 既出(一五三六頁)。○たまのをの こゝは「亂れて」にかゝる枕詞。既出(一〇四六頁)。○おもひみだれて 「亂」原本に委〔右△〕とあるは誤。古葉及び神本その他にも、既にオモヒミダレテの訓がある。
【歌意】 もしやあの兒に逢ふかと〔十一字右○〕、御所通りの路を行くに、自分の裳は摺り切れたわ。こんな事ならいつそ〔九字右○〕、只思ひ煩うて、家に引つ込んで居らうものを。馬鹿らしい〔五字右○〕。
 
〔評〕 作者は男であるから、裳は普通の袴である。宮前通りの賑かな人中で、ふと氣に入つた女を見懸けた。
(2074)  燒津へわがゆきしかば駿河なる阿倍《アベ》の市路にあひし兒等はも(卷三、春日老――284)
は輕い思慕の念に覆はれた回想だが、これは強い愛著の情に打たれ、更にそれを行動にまで移したもので、再度遭逢の機會を窺ふとては、株を守つて兔を待つ愚を繰り返し、嘗ての宮路を彷徨うたのである。若い男のよく遣ることだ。然しそれは全くの骨折損で、羸けたものは「わが裳は被れぬ」だけであつた。多少の誇張はあらうが、この具象的表現が、非常に力強い印象を與へる。そこでやゝ悔恨氣味に「思ひ亂れて家にあらましを」といふは、失望の餘の歎息の聲である。
 「宮路をゆく」とあるので、その女を必ず宮人とするのは早計であらう。宮路は宮城通りの繁華な往來で、「内日刺す宮路を人は滿ちゆけど」(卷十一)といふ光景を想ふがよい。されば「白金の目貫《メヌキ》の太刀をさげ佩きて」通る若者もあり、娘も通れば人妻も通る。
  うちひざす宮路にあひし人妻ゆゑに、玉の緒の念ひ亂れてぬる夜しぞ多き(卷十一――2365)
はこの歌に酷似してゐるものゝ、傳誦の訛とは覺えぬ。各別箇の存在である。或は同時一聯の作か。
 
君爲《きみがため》 手力勞《たぢからつかれ》 織劑衣服斜《おりたるきぬぞ》 春去《はるさらば》 何色〔左△〕《いかなるいろに》 摺者吉《すりてばよけむ》1281
 
〔釋〕 ○たぢから 手の力。タはテの轉。勞力、勤務などの意。○きぬぞ 「衣服」を意訓にキヌとよむ。「斜」をゾと讀むは呉音のセの轉。宣長が料〔右△〕の誤とし、キヌヲ〔三字傍線〕と訓んだのは非。他に誤字説も多いが何れも無用。○いかなるいろに 「色」原本に何〔右△〕とある。宣長説によつて改めた。○すりてばよけむ 摺つたらばよからうの意。
(2075)【歌意】 これは著料として〔八字右○〕夫《セノ》君の爲に、自分の手力を勞らせ、そして〔三字右○〕織り上げた帛《キヌ》ですぞ。さて春になつたら、何の色に染めたらよからうか。――それが又一苦勞で〔八字右○〕。
 
〔評〕 織り上がつてほうと一息安心した處で、又「いかなる色に」と、その帛を眺めながら暫し思案に耽つた作者の態度が、目に見えて面白い。况やそれら重疊した苦勞が、盡くこれ「君が爲」なのだから、實に嬉しい。婦人のやさしい情合のあからさまに出た作である。
 「春さらば」は、新春の料に早く夫君に著せてみたい心持を表してゐる。論語にも「暮春(ニハ)春服已(ニ)成(ル)」とある。蓋し秋蠶の絲を紡いでから、機を立てはじめる。それも家事の合間に織るのだから、年内一杯にやつと織り上がつたのであらう。「すりてば」は摺衣を作るのだが、草摺には時季が餘りにおくれ、花摺は多く夏以後の即興的の物である。常の染料としては藍か月草の移しか紅花などでなくてはならぬ。然しどれが本當に夫君に似合ふか氣に入るかゞ、又苦勞の種なのである。上の「月草に衣ぞ染むる」と、一脉相通ずる情趣を見る。
 
橋立《はしだての》 倉椅山《くらはしやまに》 立白雲《たてるしらくも》 見欲《みまくほり》 我爲苗《わがするなへに》 立白雲《たてるしらくも》     1282
 
〔釋〕 ○はしだての 梯立《ハシダテ》の倉と續けて、倉椅山に係る枕詞。「はしだて」は今の梯子《ハシゴ》のこと。古への倉庫は床が高く造られ、出入の爲梯子が掛けられてあるのでいふ。垂仁天皇紀に「故曰(フ)2神之|神庫隨樹《ホクラモハシダテノマニマト》1」とある。○くらはしやま 倉椅また椋橋など書く。「くらはしのやま」を見よ(七二三頁)。○たてる 新考にタツヤ〔三字傍線〕と訓ん(2076)だのは非。
【歌意】 倉椅山に立つてゐる白雲よ。その山を〔四字右○〕私が見たく思ふにつれて、意地わるく〔五字右○〕立つてゐる白雪よ。
 
〔評〕 倉椅山を見ようとすると、何時でも雲が邪魔してゐるので、作者は少し焦れ込んだ。
  三輪山をしかも隱すか雲だにも心あらなむ隱さふべしや(卷一、額田王――18)
とその歸趨を同じうし、この歌の方が「隱さふべしや」といひ詰めぬだけ、含蓄味は深い。
 倉椅山(今音羽山)は大和中央の高山で、根張りの大きな山である。その北山陰即ち大和平原から眺望の利く方は、平地から聳立して、雲霧が特に聚散し、氣候が寒い。
 雙本體の正格で、モ〔傍点〕韻を踐んでゐる。
 
橋立《はしたての》 倉椅川《くらはしがはの》 石走者裳《いはのはしはも》 壯子時《をざかりに》 我度爲《わがわたりせし》 石走者裳《いはのはしはも》     1283
 
〔釋〕 ○くらはしがは 倉橋山、多武《タムノ》峯の澗水が相合うて、椋橋の里に至つて倉椅川といはれる。櫻井の邊にて忍坂《オサカ》川といひ、更に磐余《イハレ》川を入れて寺川となる。「くらはしのやま」を參照(七二三頁)。○いはのはし 石梁《イハハシ》のこと。「いははし」を見よ(五一四頁)。舊訓イシノハシ〔五字傍線〕。「走」は借字。○をざかり 男盛り。○わたりせし 「度」は渡〔右△〕の通用。古訓多くはワタシ〔三字傍線〕と訓み、古義訓はワタセリシ〔五字傍線〕である。今は新考訓に從つた。
【歌意】 倉椅川の渡り石はまあ。自分が男盛り時代に、よく渡つたことであつた渡り石はまあ。迹形もないわ〔六字右○〕。
 
(2077)〔評〕 作者は老境に臨んで、久し振りに故郷椋橋の里を訪ねたものと見える。その「男盛りに」渡つた覺のある石梁、何れ思ふ兒の許にでも通つたであらう思出の多い石梁は、何時の出水に押流されたものか、懷舊の種はひは何もないとなつては感慨無量だ。「石の橋はも」の詠歎の反復は悲愴の情を煽揚して止まない。古義に「昔契をかけし人の今は絶えぬるを譬へたるならむ」とあるは、よしない蛇足と思はれる。
 これも雙本體の正格で、モ〔傍点〕韻を踐んでゐる。
 
橋立《はしたての》 倉椅川《くらはしがはの》 河靜菅《かはのしづすげ》 余苅《わがかりて》 笠裳不編《かさにもあまず》 川靜菅《かはのしづすげ》     1284
 
〔釋〕 ○しづすげ いはゆる小菅であらう。この菅は莎本科の草本。(1)下《シヅ》菅の意にて、菅の小きをいふか(略解)。(2)石著菅《シヅスゲ》にて、卷六に「佐保川に石に生ふる菅の根取りて」とあり(古義)。(3)倭《シヅ》菅にて、倭文《シヅ》の如く縞ある菅ならむ(新考)。(1)の説が穩かである。「靜」は借字。○かさにもあまず 笠にも編まずは笠に製らぬをいふ。
【歌意】 倉橋川の川原の〔三字右○〕しづ菅よ。自分が刈り取つて笠にも作らない、川原のしづ菅よ。
 
〔評〕 倉橋人の詠であらう。笠に編む菅は笠菅ともいひ、葉廣の菅である。これは細小な川原の下菅を童女に譬へ、刈り取つて笠にも編まぬに、手に入れて妻ともされぬの意を寓し、その幼立ちに心は惹かれるものゝ、餘所に見るより外はない遺憾さを自歎した。好色三昧。
(2078) これも雙本の正格で、ケ〔傍点〕韻を踐んでゐる。
 
春日尚《はるびすら》 田立羸《たにたちつかる》 公哀《きみはかなしも》 若草《わかぐさの》 ※[女+麗]無公《つまなききみが》 田立羸《たにたちつかる》     1285
 
〔釋〕 ○つま 「※[女+麗]」は伉儷の儷と通用。
【歌意】 長閑な春〔四字右○〕の日でさへも、田に出て働いて〔三字右○〕立ち勞れる、その貴方は可愛相よ。手助けをする〔六字右○〕妻もない貴方が、獨で働いて〔五字右○〕立ち勞れることわ。
 
〔評〕 人が皆花や蝶やと遊ぶ春の日、それを而も若い男が、畑打か田返しか、田の面に立つて長時間働いてゐる。同情せざるを得まい。「たちつかる」は想像から起つた現在描寫で、印象強い表現である。作者の同情は更に拍車を加へて「妻なき君が」と、その家庭状態にまで立入つた。作者は同里の女人であらうが、かうなると、あぶなく同情から愛情に移りさうである。
 前聯の第二句を後聯の第三句で反復した。旋頭歌中の變體である。
 
開木代《やましろの》 來背社《くせのやしろの》 草勿手折《くさなたをりそ》 己時《おのがときと》 立雖榮《たちさかゆとも》 草勿手折《くさなたをりそ》     1286
 
〔釋〕 ○やましろ 山背國(延暦中、山城と改む)。「開木」を山に充てた。契沖はいふ、諸木山より開き出すが故か(2079)と。大和本記に、總べて材木を採る所を、杣人の諺に山開《ヤマシロ》といへり、山城も材木を採りし所かと。何れも適解と思はれない。○くせのやしろ 久世の社。山城國久世郡。延喜式に水主《ミヌシ》神社、十座竝大とあるはこれか。中世同郡龜這(もと樺井)の樺井社の一境に移され、故地は不明となつた。後出「さぎ坂山」を參照。○おのが 「己之」を眞淵、宣長はワガ〔二字傍線〕と訓むべしと主張した。だが我《ワガ》または吾《ワガ》と區別する爲に、特に己之または己の字を用ゐたとも思はれるから、己之はオノガ、己はオノと訓むが至當と考へられる。卷十六「己妻《オノヅマ》すらを」はオノの例である。古義はシガ〔二字傍線〕と訓んだが、シガは其《ソ》がの意だから、己之の字義によく協はない。別に己之をナガと訓む場合もある。○おのがときと 草自身が得た時と。△地圖 挿圖204(七〇四頁)を參照。
【歌意】 山城の久世の社の、草をば折りなさるな。よし草が〔四字右○〕自分の時として榮え茂るとも、草をば折りなさるな。
 
〔評〕 「おのが時と」榮ゆる草は、彌珍しく彌懷かしい。草ばかりではない、樹木でもさうだ。けれど神の占めます社の物であつて見れば、うつかり手でも指せば神罰覿面だ。現代人でもこれはいふことで、無論當時の常識であつた。常識だけでは歌にならない。
 そこでこの歌が譬喩であることに氣付くであらう。乃ち主ある女に懸想して煩悶する男への諷諫となるのだ。假令その女が美しい女盛りであつても、主ある以上は手出しをするな、崇りがこはいと諷諫した。この種の構想は集中にまゝ散見する。
 雙本の正格で、ソ〔傍点〕韻を踐んでゐる。
 
(2080)青角髪《あをみづら》 依網原《よさみのはらに》 人相鴨《ひともあはぬかも》 石走《いははしる》 淡海縣《あふみあがたの》 物語爲《ものがたりせむ》     1287
 
〔釋〕 ○あをみづら (1)青は黒色の意に用ゐる。「みづら」は字に「角髪」とある如く、古代の結髪の樣式で、髪を分けて左右の耳の上に角のやうに綰ねて結ぶをいふ。記の神代卷に御|美豆良《ミヅラ》と見え、崇唆天皇紀に「古俗年少(ノ)兒、年十五六(ノ)間、束(ヌ)2髪(ヲ)於額(ニ)1、十七八(ノ)間分(ケテ)爲(ス)2角子(ト)1《ミヅラ》、今亦然(リ)之」とある。髻、鬘、※[髪/衆]などの字を充てる。(2)青角髪は美しくよしとの意にて、依網《ヨサミ》の地名にいひかけたる枕詞(古説)。(3)碧海面《アヲミヅラ》の義、三河國碧海郡の海邊の意。碧海郡に依網《ヨサミノ》郷ありて海邊なり。淡海縣の淡海は遠つ淡海即ち遠江の事にて取合せたり。(古義一説)。(4)アヲカヅラ〔五字傍線〕と訓むべく、角髪は鬘の義にて、カヅラとも訓むべし(契沖)。思ふに、青角髪|寄《ヲ》せ編《ア》むの約ヨサミ〔三字傍点〕を、地名にいひかけた枕詞と見るがよい。○よさみのはら (1)河内國|丹比《タヂヒ》郡(今中河内郡)依網(ノ)郷、また攝津國住吉郡依網郷とす(古説)。(2)和名抄に、三河國碧海郡|與佐美《ヨサミ》とある處なり(宣長、古義一説)。(2)の解は地理的に異見があつて採り難い。○あはぬかも 逢つてくれゝばよいになあの意。「常にあらぬか」を參照(八〇〇頁)。八七〇頁の「あはぬかも」とは、その意が異なる。○いははしる 既出(一二五頁)。○あふみあがた 「あふみ」は(1)近江國のこと(古説)。(2)遠江をさしていへり。古へは遠江《トホツアフミ》も近江《チカツアフミ》も共に淡海《アフミ》なるべけ(2081)ればなり(古義)。自分はこれを近江國のうち滋賀郡の古稱と考定した。少し長文なので評の項に讓る。○あがた 上《アガ》り田の義。朝廷に輸租する土地の稱。中古以來國司の任國をもいつた。
【歌意】 この依網の原で、人も出會つてくれゝばよいになあ。會つたら〔四字右○〕あの淡海縣のお話をしようぞ。
 
〔評〕 「あがた」は收穫の朝廷に納まる田をいふ。かくて村邑を總べた一地方の名稱となり、その支配者を縣主《アガタヌシ》といひ、後にはその名稱が姓《カバネ》となつて某|縣主《アガタヌシ》と呼ばれた。成務天皇紀に定(メ)2賜(フ)大縣、小縣之縣主(ヲ)1と見えて、その大きいのは、地域が郡治の大きさに等しいのもあつた。平安期には國司の任國を呼ぶやうになり、地方官叙任を縣召といひ、土佐日記に「縣の四年五年はてゝ」、古今集に「縣見にはえ出で立たじや」などあるものそれである。然し廣い意義の國をさして直ちに某縣といつた例は、絶對に見ない。さればこゝも、狹い意味であるところの古稱の縣と解するが、至當と考へられる。故に淡海縣は淡海の湖水の周邊の一地方の名稱とすべきだ。古今集に
  あふみより朝立ちくればうねの野にたづぞ鳴くなる明けぬこの夜は(卷廿、大歌所歌)
とあるは萬葉時代の古歌と思はれるが、このあふみ〔三字傍点〕もそれで、うね野に相對した、近江の國内のある地稱であらねばならぬ。
 抑も淡海縣は滋賀郡を本據とし、淡海湖畔南部の古名であらう。そしてうね野は蒲生郡蒲生野の一稱といはれるから、古今集の歌も地理的に立派に解決がつく。いや更にこの推定を裏書するものがある。それは下出の
  霰ふりとほつあふみ〔四字傍点〕の吾跡川楊《アドカハヤナギ》、刈れれどもまたも生ふとふ吾跡川楊 (――1293)
(2082)のとほつあふみ〔六字傍点〕である。吾迹川(安曇川)は高島郡の地で、そこを遠つ淡海と稱したとなると、高島郡の南方に當る滋賀郡の地は單に淡海と稱し、或は近つ淡海と稱したと考へて然るべきである。但記にいふ近《チカツ》淡海(ノ)國は、或時は廣義の近江國、或時は狹義の湖畔南部の地稱の如く見られて、一定し難い。
 とにかく「淡海縣の物語」は滋賀都地方の物語といふ事になる。のみならず「近江の國の物語」では餘に大ザツパで、一向纏まりが付かない。さて「淡海縣の物語」とは何か。滋賀は湖山を控へた山水秀麗の勝地、その上人文發達上交通上の要地、歴史的の故蹟として、近江の宮地、志賀の大津、同じく辛崎、大|曲《ワタ》、勢多の橋、勢多の川、逢坂の手向、いや話の種はいひ盡すべくもない。
 處で依網の原だ。諸説多くは三河國の依網として、近江國より東下、或は遠江國より西下の時の作としてある。が自分は河内攝津に分系してゐる依網郷の地と思ふ。こゝは近江にも相當近く、又奈良京にも近いからふさはしい。作者は依網の里人で、たま/\淡海の縣見物をした歸路、わが家近くの依網の原にさしかゝつての感想であらう。
 草枕時代の事とて、多くの人は滅多にその郷土から踏み出さない。然るに作者は近江の縣見物をして來た。皆人がゆかしがる土産話を、山と仕込んできた。その嬉しさに一刻も早く自慢がしたい。故郷の依網に近づくに隨ひ、話してやりたい話したいで一杯だ。その逸り切つた氣持から、こゝは碌々人の通らぬ原中なことも忘れて、さあ誰れでもよい、たつた今出會ひたいものだ、「人もあらぬかも」と口走られたのであつた。時代人の氣持が如實に表現されて面白い。
 
(2083)水門《みなとの》 葦末葉《あしのうらはを》 誰手折《たれかたをりし》 我背子《わがせこが》 振手見《ふるてをみむと》 我手折《われぞたをりし》     1288
 
〔釋〕 ○みなとの 四音の句。「みなと」は水之門《ミナト》の義。河海に拘はらずいふ。○あし 蘆、葦、同物で、禾本科の宿根草本。アシの音を忌んで、又ヨシと呼ぶは後世の事で、それに葭の字を充てるに至つた。○うらは 葉先の方をいふ。「うら」は「うれ」と同じい。○ふるてを 略解はいふ「振」の下衣〔右△〕の脱にて、フルソデ〔四字傍線〕と訓むべしと。
【歌意】 湊の蘆の葉先を、誰れが手折つたのかえ。實は〔二字右○〕私の郎《ヲトコ》が、船出の別にその〔七字右○〕振る手を見ようとて〔右○〕、私がさ手折つたのさ。
 
〔評〕 湊情調水郷情調の濃かな作である。既に名殘を惜んで渡頭に手を分つた。それでも足らず郎は顧みしながら、舟から荐に手や袖を振つて見せる。女も亦その後影を見送りつゝ立ち盡したが、漸う郎の舟が蘆叢の陰に没れさうになるので、周章てゝ邪魔になる蘆の葉を手折つた。但これは獨波頭に取殘された作者が、その折り拉かれた蘆の末葉に目を瞠つて、自分の行爲を反芻的に追想したものである。情景兼ね到つた作で面白い。振る袖よりは振る手の方が一層直接的で、こんな田舍情調にはふさはしい。前聯は問で、後聯は答である。この問者は漠然とぼかしてあるが、詰りは自問自答なのである。
 雙本體の變格で、シ〔傍点〕韻を踐んでゐる。
 
(2084)垣越《かきごしに》 犬召越《いぬをよびこせ》 鳥獵爲公《とがりするきみ》 青山《あをやまの》 葉茂山邊《はしげきやまべ》 馬安君《うまやすめきみ》     1289
 
〔釋〕 ○いぬをよびこせ 犬を呼び來させ。「こせ」は來《コ》シメの約語。古義訓イヌヨビコセテ〔七字傍線〕は調が緩い。舊訓イヌヨビコシテ〔七字傍線〕は非。○とがり 鳥獵《トリガリ》の略。○やまべ 山邊に〔右○〕。新考は「邊」を爾〔右△〕の誤としてヤマニ〔三字傍線〕と訓んだ。○やすめ 二段活の命令格だのに、ヨの命令辭がない。古格。△挿圖137(四九二頁)を參照。
【歌意】 私の〔二字右○〕垣根越に犬を呼び立てゝ、鳥狩をする君よ。青山の青葉の茂つた山邊に〔右○〕、馬を休ませなさい、君よ。
 
〔評〕 前聯は垣根行く鳥狩人を見て、その男の颯爽たる風姿を叙した。快活な狩犬は道端の垣根を潜つたり出たりして走り廻る。それを呼び立てつゝ馬乘り立てゝ行く。背景が心地よい濃緑の山邊だ。作者は又垣越しに、丁寧に男の行動を注視し、更に親切にも「葉しげき山邊馬やすめ」と、その勞苦を犒ふと見せて、その實は男の顔を暫時なりとも見て居たいの本願であつた。
  さひの隈檜隈川に駒とゞめ駒に水かへわれよそに見む(卷十二、――3097)
とその情意に一脈相通ずるものがある。
 雙本體の變格で、ミ〔傍点〕韻を踐んでゐる。
 
海底《わたのそこ》 奥玉藻之《おきつたまもの》 名乘曾花《なのりそのはな》 妹與吾《いもとわれ》 此何有跡《ここにしありと》 莫語之花《なのりそのはな》     1290
 
(2085)〔釋〕 ○わたのそこ 「おき」の枕詞。既出(二八四頁)。○いもとわれ 下にあるべきと〔傍点〕の辭を略した例は多い。舊訓その他の訓イモトワレト〔六字傍線〕。○ここにしありと 「し」は語調のまゝに訓み添へた。これを新考は無理としたが、外にも例がある。この訓大抵はコヽニアリト〔六字傍線〕と六言に訓んである。「何」は荷〔右△〕の通用。
【歌意】 沖の藻である處の、莫告藻の花よ。思ふ兒と私が、こゝに忍んで〔三字右○〕ゐると、人に告げてはならぬぞ、その名の通りの莫告藻の花よ。
 
〔評〕 上の引津の神馬藻に比べると、表現がはつきりしてゐる。桑中の音、君子の謗る處だが、人情の趨くところ、如何ともし難い。
 雙本體の正格で、ナ〔傍点〕韻を踐んでゐる。
 
此崗《このをかに》 草苅小子《くさかるわらは》 然苅《しかなかりそね》 有乍《ありつつも》 君來座《きみがきまさむ》 御馬草爲《みまぐさにせむ》     1291
 
〔釋〕 ○わらは 古義訓コドモ〔三字傍線〕。○ありつつも 既出(一一三二頁)。○みまぐさ 御秣「まぐさ」はもと眞草《マグサ》の意から出て、今は馬草の意に用ゐられた。「まぐさ」を參照(一八四頁)。
【歌意】 この岡に草を刈る子供よ、そんなに刈り取るなよ。そのまゝでまあ、思ふお方のお出でなさらう折の〔二字右○〕、馬の飼葉《カヒバ》にしようわ。
 
(2086)〔評〕 盛に子供達が岡邊の夏草を刈るのを見て詠んだ婦人の作。「ありつつも」といつても、短日月の間である。さもないなら、古今集に
  大あらきの森の下草おいぬれば駒もすさめず刈る人もなし (雜上)
となつて、飼葉にしたくも、馬が承知しない。
 お供が、侍の男に馬と馬丁である、古代の通勤壻さんを想像する。妻君の家では、壻さんの一切の世話をした上、侍や馬丁の仕著せを春秋に出す。御入來の節は毎日であらうとも、その人數に飯も食はせなければならない。馬にまで秣の世話だ。然しこゝはそんな經濟的の話ではなく、君の「みま草」にまで行き屆く、その妻君の懇切な情意のあらはれが嬉しい。
 
江林《えばやしに》 次完也物《やどるししやも》 求吉《もとむるによき》 白栲《しろたへの》 袖纏上《そでまきあげて》 完待我背《ししまつわがせ》     1292
 
〔釋〕 ○えばやし 江に沿うた林。地名でも誤字でもない。○やどる 「次」は字書に舍也と見え、ヤドルと訓む。○しし その肉《シヽ》について猪鹿の稱となつた。こゝは鹿をいふ。「完」は宍《シヽ》の通用。○ししやも 「やも」のやは疑辭。○もとむるに 捉へる。
【歌意】 江林に宿つてをる鹿は、捉へるに都合がよいかまあ。捲り手をして、鹿が出てくるのを待つ、吾が夫《セ》の君よ。
(2087)〔評〕 鹿は山に棲むとばかり思ふのは、開墾の行き屆いた時代の後世人の考で、少し人氣がなければ里にも出て來、山續きの流江の岸の林などには、無論幾らも出没した。湊に鹿の取合はせられた可兒の湊の話もある。江林はまこと、地形的にも鹿の逃げ場がない。林が遮るので、反對にこちらが近寄るには都合がよい。兩袖を捲り上げて、出て來たら一打と、固唾を呑んで息を凝してゐるわが背の一瞬息の樣子を歌つた。勇ましい事だ。が下には女の心地に、あんな無謀な事をして怪我でもせねばと危ぶんで、はら/\してゐるらしい情意が潜在してゐる。
 
丸雪降《あられふり》 遠江《とほつあふみの》 吾跡川楊《あどかはやなぎ》 雖苅《かれれども》 亦生云《またもおふちふ》 餘跡川楊《あどかはやなぎ》     1293
 
〔釋〕 ○あられふり 霰降りトホといふをいひ係けた、遠《トホ》の枕詞。トホは霰の音の擬聲語。現代人のトホの發音は妥協的で響が弱いので、霰の音の擬聲にならない。以て古代人の發音の表現が明確であり、多行發音が、特に今日と相違してゐた事が窺はれる。なほ(1)霰降る音《オト》の上略のトを遠にいひかけたり(契沖説)。(2)霰降り飛び打つの意に續けたり。トビウツを約めてトブツとなるをトホツに轉じて遠津《トホツ》にかけたり(古義説)の二説あるが、(2)は殊に牽強である。「丸雪」は霰のこと。戀水《ナミダ》、火氣《ケブリ》、重石《イカリ》、白氣《キリ》、青頭鷄《カモ》の類の表意語。○とほつあふみ 遠つ淡海。近江國高島郡の古稱。また江北坂田郡にもいふ(靈異記)。「遠江」とあつても遠江國のことではない。風俗の謠物には、トホタアフミ〔六字傍点〕と訛る。○あどかはやなぎ 吾跡《アド》(安曇)川の川楊の略。「あどかは」は既出(二〇一八頁)。そこの川楊は挿圖495(二〇一九頁)の寫眞中の木叢がそれである。○かはやなぎ 川邊の楊の意。(2088)それが筥楊でも猫楊でも、特に川楊と稱する物でも何でもよい。但植物學的には川楊は水邊に多く自生し、高さ丈許に達する落葉木。葉は桃葉に似て、四五月頃有緑色の穗状花を出す。○かれれども 苅りてあ〔四字傍点〕れどもの約。○またもおふちふ 「ちふ」はトフと訓むもよい。
【歌意】 遠つ淡海の安曇川の川楊よ。かう苅つてあつても、又生えるといふ、この安曇川の川楊よ。
 
〔評〕 面白い事には、現在も安曇川の河畔に川楊が茂生してゐる。この歌にいふ川楊の遺蘖であらう。素より灌木状の樹だから、所用の時は鋭鎌でもつて苅り取つて使ふ。作者は安曇の里人ではあるまい。「かれれども又も生ふちふ」は、初めて川楊の樣子を聞いた人の語としか考へられない。
 作者は今眼前に苅り渡した川楊の木叢を見て、こんなに切つても亦その切株から生える、發芽性の強いものとの安曇の里人の話に感心し、我等が中もこの川楊の如く、一旦は邪魔が這入つて中絶こそしたれ、再び本意を徹すその時期のあらうことを豫期し、未來の希望をどこまでも持たうとの譬喩歌で、安曇川楊を反復呼び懸けて詠歎する間に、おのづからその寓意が隱然として躍動する。
  楊こそ切れば生えすれ世の人の戀に死なむをいかにせよとか (卷十四――3191)
も同じ取材で兩意に岐れたものだ。が安曇川楊の婉曲にして含蓄味の深いのにはとても及ばない。
 雙本體の正格で、キ〔傍点〕韻を踐んでゐる。
 
朝月日《あさづくひ》 向山《むかひのやまに》 月立所見《つきたてりみゆ》 遠妻《とほづまを》 持在人《もちたるひとし》 看乍偲《みつつしぬばむ》     1294
 
〔釋〕 ○あさづくひ 朝|就《ヅク》日。朝方になる日の意。「向ひ」に係る枕詞。○たてりみゆ 「たてり」は現れてゐるの意。たつ〔二字傍点〕は總べてその氣の發ち、その物の現るゝをいふ。古義訓によつた。略解訓タテルミエ〔五字傍線〕。○とほづま 遠くゐる妻。妻は本妻でも情人でもよい。○もちたる 童本訓によつた。舊訓モタラム〔四字傍線〕。
【歌意】 あれ〔二字右○〕向うの山に、月の出たのが見えるわ。遠方に思妻を持つた人達がさ、定めしこの月を〔七字右○〕見ながら、思ひ慕ふことであらう。
 
〔評〕 月に對して遠つ人を憶ふ。漢土の詩作にはその例が多い。但大抵征婦の作である。これは月によつて湧きあがつた自分の哀感を、遠妻を持つ人の胸中にまで押擴めて、同情の涙を濺いだ。たまさかにも逢ひ得ぬ遠妻故に思ひ焦がれてゐる人は、必ず旅の子であらう。「朝づく日」の枕詞は「月」にさし合つて、聯想の混線を招くので、面白くない。
 
右二十三首、柿本(ノ)朝臣人麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
春日在《かすがなる》 三笠乃山二《みかさのやまに》 月船出《つきのふねいづ》 遊士之《みやびをの》 飲酒杯爾《のむさかづきに》 陰爾所見管《かげにみえつつ》     1295
 
(2090)○つきのふね 月を船に譬へた。○みやびを 既出(三七四頁)。○かげに 影に立つて〔三字右○〕。
【歌意】 春日にある三笠山に、月の船が出たわ。風流男の飲む盃に、影に立つて〔三字右○〕見え/\して、さて面白いなあ。
 
〔評〕 奈良京で三笠山は判で捺したやうな月の出處だ。その月に對して玉杯を執る。まさに風流男の所作だ。况やその杯に月光が玲瓏と映つて、緑のさゝ波に浮ぶのであつた。興味滿點。奈良人士はかうした愉快な瀟洒な心の方面を、我々に見せてくれる。但「月の船」は、そのはじめ弦月を舟に譬へたのであらうが、慣用が久しくなつては、單に月といふと同意に輕く使はれたと思はれる。
 
譬喩歌
 
 茲にいふ譬喩に三つの樣式がある。(一)は一首全部が譬喩を構成する體で、全く諷託の作に屬するから、自ら婉曲の妙含蓄の味を存する。(二)は一首の半部即ち上句又は下句が譬喩を構成する體で、(一)に比し稍婉味の減殺を見るが、時にその雋永な寄興に、覺えず膝を打つて感歎されるものがある。(三)は見聞の事物にその感興を托したもので、この種の作は尠いが、自由奔放の特徴がある。
 但概していへば、譬喩といふ鑄型に詰め込まれた爲、技巧の見るべきはあつても、精神迫力の充實した作に乏しい憾を生ずる。
 譬喩歌の多くは戀愛に關しでゐる。戀愛は世間を憚る爲に、感想を直接に表現することを避ける場合が多い(2091)ので、勢ひ譬喩によつてその懷抱を叙べるやうな結果になる。
 以下、寄何〔二字傍点〕といふ題詞を掲げてあるが、頗る重出してゐる。これは原本の錯簡から來たもので、その分斷したものに、後人が更に一々題詞を與へた結果と思ふ。一つ題詞のもとに纏めて整理したいが、さては原本の體裁順序を變更する爲に、原歌の檢索に支障を來すを恐れ、すべて原本のまゝに從つた。
 
寄(ス)v衣(ニ)
 
衣に托して詠んだ歌。
 
今造《いまつくる》 斑衣《まだらのころも》 服面就《めにつきて》 吾爾所思《われにおもほゆ》 未服友《いまだきねども》    1296
 
〔釋〕 ○いまつくる 舊訓イマヌヘル〔五字傍線〕。○めにつきて 「面」は音借字。略解、宣長訓のオモヅキテ〔五字傍線〕は非。○われに 「に」はニハの意。眞淵は「爾」を者〔右△〕の誤としてワレハ〔三字傍線〕と訓み、古義は「吾」を常〔右△〕》の誤としてトハニ〔三字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 今新しく製る斑の衣は、人は知らず〔五字右○〕、自分には目に付いて、思はれるわ、まだ手を通して著はせぬけれども。
 
〔評〕 斑の衣は派手なものだ。而も今つくる裁ちおろしだ。それに喩へた新しい女の美しさは思ひ遣られる。愈よ以て目に付く。「いまだ著ねども」は稍いひ詰め過ぎた憾はあるが、婚約期間の樂しげな情合がよく出てゐ(2092)る。
 
紅《くれなゐに》 衣染《ころもしめまく》 雖欲《ほしけども》 著丹穗哉《きてにほばや》 人可知《ひとのしるべく》     1297
 
〔釋〕 ○しめまく 契沖訓による。○ほしけども 「遠けども」を見よ(九〇二頁)。○きてにほはばや 「や」は疑辭。
【歌意】 紅色に衣は、染めたく思ふけれども、著てぱつとしたら、人が氣付くであらうか。
 
〔評〕 前の歌から心理的には一段進行した境致だ。その女は手に入れたし、さりとて逢つたことが人に知れてはと、情と理とが葛藤して躊躇してゐる。これは美しい私妻《シノビヅマ》を設けようとして、本妻の耳に入ることを恐れたことらしい。
 この時代、紅は位色の外の色だから、禮朝服以外の私服には、誰れが著てもよかつた。下著なら無論。
 
干各〔二字左△〕《かにかくに》 人雖云《ひとはいふとも》 織次《おりつがむ》 我二十物《わがはたものの》 白麻衣《しろあさごろも》     1298
 
〔釋〕 ○かにかくに 「干各」原本に千名〔二字右△〕とある。元本類本西本古葉等の訓はトニカクニ〔五字傍線〕と訓み、神本古葉は「名」を各〔右△〕とある。これに依つて古義は「千」も干〔右△〕の誤とし、干各〔二字傍点〕をカニカクニ〔五字傍線〕と訓むべしといつた。舊訓チナニハモ〔五字傍線〕(2093)も惡くはない。千名は卷四に「千名《チナ》の五百名《イホナ》」の語例がある。然しハモ〔二字傍線〕の訓に當る字がない。○おりつがむ 續けて織らう。○はたもの 機物。機に懸けて織る物の稱。轉じては直ちに「機物の踏木もちゆきて」(卷十)の如く機を斥すことがある。「二十」は借字。○しろあさごろも 「ころも」は布といふ程の意。
【歌意】 何のかのと、人はよしいふとも、續けて織らうぞ、自分の機物である、この白麻の布は。
 
〔評〕 織りかけの機を見て、出來がいゝの惡いのと、女どもが寄つてたかつて噂するのは常の事。それにも拘はらず、作者はどこまでも織り續けてゆかうと、その決意の程を示した。他人が幾ら間に水をさしたからとて、自分のこの戀は堅く仕續けて末まで遂げようとの譬喩だ。一本氣の眞實さに打たれる。
  かにかくに人はいふとも若狹路の後瀬《ノチセ》の山の後もあはむ君(卷四、坂上大孃――737)
とほゞ似た心持で、「わが機物」に當時の女人の生活さへ偲ばれて懷かしい。
 
右三首、柿本(ノ)朝臣人麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
寄(ス)v玉(ニ)
 
安治村《あぢむらの》 十依海《とをよるうみに》 船浮《ふねうけて》 白玉採《しらたまとると》 人所知勿《ひとにしらゆな》     1299
 
(2094)〔釋〕 ○とをよる 既出(五八八頁)。「十」は借字。○とると 契沖訓による。舊訓トラム〔三字傍線〕。○しらゆな 略解訓による。舊訓シラスナ〔四字傍線〕。
【歌意】 味鴨の群が、靡き寄つてゐる海に、船を浮べて、白珠を採ると、人に知られるなよ。
 
〔評〕 主意は下句にある。上句はその形容に過ぎないが、強ひて全部を譬喩とすれば、古義の
  人多く群れゐる中を、かゆきかくゆき懸想のさまをなして、世に知らるゝなかれと、見る人の諫むるなるべし。
といふのが近からう。
 
遠近《をちこちの》 礒中在《いそのなかなる》 白玉《しらたまを》 人不知《ひとにしらえず》 見依鴨《みむよしもがも》     1300
 
〔釋〕 ○をちこちの この遠近は輕く使はれてある。
【歌意】 あちこちの磯の間にある白珠を、人に知られずに、手に取らう術もありたいなあ。
 
〔評〕 磯に秘められた珠の如き秘藏娘を、竊に手に入れたいといふのである。白玉は鰒珠即ち眞珠がふさはしい。磯の中から出る小石だなどいふは、こだはつた議論である。
 
海神《わたつみの》 手纏持在《てにまきもたる》 玉故《たまゆゑに》 石浦廻《いそのうらわに》 潜爲鴨《かづきするかも》     1301
 
(2095)〔釋〕 ○たまゆゑに 玉なる〔二字右○〕にの意。委しくは、玉なるが故に、思ひ懸けてはならぬのに〔思ひ〜右○〕の意。この類の省略法は「人妻ゆゑに」(卷一)「人の兒故に」(卷二)その他卷十一、十二などに例が多い。○うらわ 古義訓ウラミ〔三字傍線〕。舊訓ウラマ〔三字傍線〕は非。○かづき 水を潜ること。
【歌意】 海神が、御手に纏いて持たれる玉なのに、自分はそれを採らうとて〔自分〜字右○〕、磯の浦囘に潜きすることかまあ。
 
〔評〕 海神はその嚴父かその夫か、それともある貴紳を譬へたかは判然しない。とにかくその女に取つての權力者である。然るにその眼を偸んで逢はうと苦勞することを譬へて、みづからその愚を嘲つてゐる。初二句は既に、卷三に「海つみの手に纏かしたる珠|手次《タスキ》」の語例がある。
 
海神《わたつみの》 持在白玉《もたるしらたま》 見欲《みまくほり》 干遍曾告《ちたびぞつげし》 潜爲海子《かづきするあま》     1302
 
〔釋〕 ○ちたびぞつげし 何遍もその意を通じた。○あま 海人に〔右○〕の略。「海子」の字は珍しい。海士、海人と書くは通例。
【歌意】 海神の持つてゐる白玉を〔右○〕、手に取りたく思ひ、何遍もその意を通じたことよ。潜き業をする海人即ち媒の貴方に〔七字右○〕。
 
〔評〕 人の秘藏する娘を得たく思うて、媒人に再三催促したことの譬喩だ。次の答歌の趣によると、「あま」は媒(2096)人を擬へたものとなる。くどい程に折角頼んでも色よい返辭を得ぬので、媒人に對して「千たびぞ告げし」と、その不滿を訴へた。
 下に初二句が「底清みしづける玉を」と換つただけの同歌がある。
 
潜爲《かづきする》 海子雖告《あまはつぐれど》 海神《わたつみの》 心不得《こころしえねば》 所見不云《みゆといはなく》     1303
 
〔釋〕 ○こころしえねば 眞淵訓による。○みゆといはなく 玉〔二字右○〕が見ゆといはぬ。「見ゆ」は逢ふこと。○いはなく 「しらなく」を見よ(四四五頁)。新考訓による。
【歌意】 へえ、媒人のこの海人は、申し入れはしましたが、海神即ち親の同意を得ないので、白玉〔二字右○〕即ち娘さんが、逢はうとは申しませんこと〔二字右○〕よ。
 
〔評〕 上のと一聯の贈答歌で、これは媒人の詞である。贈歌に讓つて珠は〔二字右○〕の主語を略いた。珠は即ち本尊の婦人を擬へた。親が不承知では昔でも結婚は成立しなかつた。尤も非常手段で竊に通つたり、盗み出したりもするが。
 
 この二首、諸注の解多く正鵠を得ない。
 
寄(ス)v木(ニ)
 
(2097)天雲《あまぐもの》 棚引山《たなびくやまの》 隱在《こもりたる》 吾下心〔二字左△〕《わがしたごころ》 木葉知《このはしるらむ》     1304
 
〔釋〕 ○やまの 山の如く〔二字右○〕の意で、初二句は「隱り」に係る序詞。○したごころ 「下心」。原本に忘〔右△〕とあるは誤。宣長説によつて改めた。○しるらむ 古註皆かうある。古義訓シリケム〔四字傍線〕は非。
【歌意】 空の雲が靡く山のやうに、籠つてゐる私の内心を、山の〔二字右○〕木の葉即ち彼女は〔五字右○〕知るであらう。
 
〔評〕 木の葉を思ふ兒に譬へた。落花流水、わづかに情意の通ずるであらうことを心頼みにした自慰の詞だ。「松は知るらむ」(卷二)、「木の葉知りけむ」(卷三)、「草さへ思ひうら枯れにけり」(卷十一)の類、草木を擬人していふことは珍しくない。が山の木の葉を思ふ兒に擬へた例は少ない。尚この歌の景致は、眼前に雲烟の去來する雜木山が想見される。
 
雖見不飽《みれどあかぬ》 人國山《ひとくにやまの》 木葉《このはをし》 己心《おのがこころに》 名著念《なつかしみもふ》     1305
 
〔釋〕 ○ひとくにやま 下の「人國山の秋津野」の條を見よ(二一三〇頁)。○このはをし 眞淵訓による。舊訓コノハヲゾ〔五字傍線〕。〇おのがこころ 宣長は「己」を下〔右△〕の誤としてシタノコヽロ〔六字傍線〕と訓んだ。○なつかしみもふ 契沖訓ナツカシミオモフ〔八字傍線〕。
(2098)【歌意】 見ても見飽かぬ、人國山の木の葉をさ、自分の心、懷かしがり思ふわ。
 
〔評〕 これも木の葉を思ふ兒に擬へた。木の葉は全體的の木の葉で、梢の繁つた状態をいつた。「見れど飽かぬ」は吉野の事物に冠する套語となつてゐたから、こゝもその意で人國山にいひ續けたのであらう。蜻蛉野あたりの女に心懸けての作か。
 
寄(ス)v花(ニ)
 
是山《このやまの》 黄葉下《もみぢのしたの》 花矣我《はなをわが》 小端見《はつはつにみて》 反戀《かへりてこひし》     1306
 
〔釋〕 ○はつはつに 既出(一三一七頁)。「小端」をハツ/\と訓む。○かへりてこひし 契沖訓による。舊訓カヘルコヒシモ〔七字傍線〕。宣長が「花矣」を咲花〔二字右△〕、「反」を乍〔右△〕の誤として、サクハナヲアレハツハツニミツヽコフルモ〔十九字傍線〕と訓み、古義もそれに據つたのは非。
【歌意】 この山の紅葉の蔭の花を私が、なまじ〔三字右○〕一寸見て、反つて戀しいわい。
 
〔評〕 紅葉の蔭の花に親の守る女を譬へ、それに首尾して僅に逢ひ得た後の感想を歌つた。なまじ逢うたが爲に入らぬ苦勞を求めたやうに、表面は悔んでゐる。「かへりて」が眼目である。
 
(2099)寄(ス)v川(ニ)
 
從此川《このかはゆ》 船可行《ふねはゆくべく》 雖在《ありといへど》 渡瀬別《わたりせごとに》 守人有《まもるひとあり》     1307
 
〔釋〕 ○かはゆ この「ゆ」はヲといふに近い。○ゆくべく 渡り〔二字右○〕ゆくべく。○わたりせ 舟にても徒歩にても渡らるゝ河瀬をいふ。又ワタセともいふ。渡津、渡し場。○まもるひとあり 渡守がゐる。「まもる」は目守《マモル》の義。略解にモルヒトアルヲ〔七字傍線〕と訓み、古義もこれに從つたのは非。
【歌意】 この川に舟は通られるといふが、どうして〔四字右○〕、その渡り瀬/\には、チャンとその番人がゐるわ。――仕樣がない〔五字右○〕。
 
〔評〕 女の教へてくれた戀の通ひ路にも、嚴しい人目の關のあることを歎いた。往時の渡守はたゞ舟渡しをするだけではなく、山守、橋守、國守の如く、警戒監視の任を帶びてゐた。されば譬喩甚だ適確。而も一意到底に調べおろして、底力がある。「あり」の語が重複してゐる。
 
寄(ス)v海(ニ)
 
大海《おほうみを》 候水門《まもるみなとに》 事有《ことしあらば》 從何方君《いづくゆきみが》 吾率隱《わをゐかくさむ》     1308
 
(2100)〔釋〕 ○おほうみをまもるみなと 大海の風潮を伺ふ湊の意。船は湊にありて航海の安否を伺ふ。「風候《カゼマモリ》」を參照(八七三頁)。諸註無用の説が多い。○いづくゆ どこにの意。○ゐかくさむ 「隱」原本に陵〔右△〕とあるは誤。この訓、評語を參照。古義訓はカクレム〔四字傍線〕。
【歌意】 航海の大事を見計らふこの湊に、もしもの事がさあるならば、どこに貴方が、私を連れて隱して下さらうぞ。
 
〔評〕 逃げ込んだ安全地帶を湊に喩へ、もしこゝに危險が起つたらと、杞憂に囚はれた。こんな事をいひ出して心配をかけるのは、男のする事でない。作者は必ず女だ。道行をした女が、居常何かと不安らしく、小さな胸を痛めて、おど/\してゐる樣子が眼に見える。
 
風吹《かぜふきて》 海荒《うみはあるとも》 明日言《あすといはば》 應久《ひさしかるべし》 君隨《きみがまにまに》     1309
 
〔釋〕 ○かぜふきてうみはあるとも 「風吹」「海荒」はわざと對語に書いたもの。
【歌意】 よし〔二字右○〕風が吹いて海は荒れるとしても、船出は〔三字右○〕明日の事といはうなら、待ち遠いでせう。何時でもそれは貴女の御意次第さ。
 
〔評〕 此處が不安心といふならば、たつた今でも、危ない橋を渡つても、思召次第立退きませうと、女の心を迎(2101)へた譬喩だ。前の歌の答歌で、男の作である。
 
雲隱《くもがくる》 小島神之《こじまのかみの》 恐者《かしこけば》 目間《めはへだてども》 心間哉《こころへだつや》     1310
 
〔評〕 ○くもがくる 小島に續けたのは、海上の小島の、雲に隱り勝なのから出た形容。○こじまのかみ 式の神名帳にない。備前國兒島郡兒島の田土浦(ニ)坐(ス)神社のことか。○かしこけば 畏けれ〔右○〕ばの意。古格。○めはへだてどもこころへだつや この「へだて」「へだつ」は四段活用の古格。「め」は見え〔二字傍点〕の意の目で、逢ふの意。「や」は反動辭。契沖訓、古義訓のメハヘダツレド〔七字傍線〕は、下のヘダツヤと自他が齟齬する。新考訓はメハヘナルトモコヽロヘナレヤ〔十四字傍線〕で、或はこの方が素直であらう。
【歌意】 小島の神の畏いので、逢ふことは隔たるが、心は隔たることがあるかい。
 
〔評〕 小島の神は守り嚴しい親を譬へた。女から、さう/\逢へはせぬが、心には決して變りはないと、男にその誠意を内通して安心させたものだ。下句「隔つ」の語を相反的に打重ねた表現は、わざと露骨を求めた辭法で、そこに固い強い決意のほどが受け取られる。
 
右十五首、柿本(ノ)朝臣人麻呂之歌集中(ニ)出(ヅ)。
 
(2102)寄(ス)v衣(ニ)
 
橡《つるばみの》 衣人者《ころものひとは》 事無跡《ことなしと》 曰師時從《いひしときより》 欲服所念《きほしくおもほゆ》     1311
 
〔釋〕 ○つるばみ 櫟《クヌギ》の實をいふ。その穀を鼠色の染料とする。櫟は殻斗科の落葉喬木。○つるばみのころものひと 橡衣を著る人をいふ。賤者のこと。舊訓キヌキルヒトハ〔七字傍線〕は無理である。又舊訓に從つて「衣」の下に著〔右△〕の字を補ふ説も蛇足である。而もキル〔二字傍線〕は下のキホシにさし合ふ。宣長は「人者」を者人〔二字右△〕の轉倒と見て、コロモハヒトノ〔七字傍線〕と訓み、古義もそれに同じたが、牽強を免れない。○いひしとき 聞きし時といふに同じい。○きほしく 契沖訓による。舊訓キマホシク〔五字傍線〕。
【歌意】 橡の衣を著る人は、いつそ〔三字右○〕無事だと、聞いた時から、その橡の衣が〔六字右○〕着たく思はれるわい。
 
〔評〕 漢土では支配者が時々變るから、「患(フ)2人(ノ)家國(ヲ)1兩鬢(ノ)霜」などいつて、宰相の重責を馬鹿らしく感じ、その印綬を解いては「臥(シテ)聽(ク)宰相(ノ)去(ツテ)朝(スルヲ)v天(ニ)」なぞ、隱者生活の安樂を吹聽したりする。信に貴人はその尊榮は羨むべきだが、隨つて責任が重いから、心配氣苦勞は一通りでない。これを奈良時代に見るに、尊貴の權臣等の榮枯盛衰が實に甚しかつた。威勢あれば或は讒構が入つて貶謫の憂き目に遭ひ、或は諂諛の輩のおだてに増長して非望を企てて滅亡したり、それら史實の頁が眼まぐるしい程繰り返された。大津(ノ)皇子、長屋(ノ)王、船(ノ)王、黄文(ノ)王、(2103)道祖(ノ)王、和氣(ノ)王、氷上(ノ)鹽燒、藤原(ノ)豐成、同仲成、橘(ノ)奈良麻呂、大伴(ノ)古慈斐、大伴(ノ)家持など、その人である。かうした世相に幾囘となく直面した貴人は、喬木風多し、寧ろ身分の無い者は幸福だとの逆觀念を懷くに至るも、無理からぬ事であらう。かくて橡の衣が著欲しく羨ましくなるのである。
 およそ禮服朝服以外は、當色以下なら何色を著てもよい當時の規定であつた。令に、
  凡服色(ハ)、白、黄、丹、紫、云々、楷衣、蓁、紫、橡、黒、如v此之屬、當色以下各兼(ネテ)得v服(ルヲ)v之(ヲ)。(衣服令)
とある。然しこゝは始から賤者で橡衣を服する者をさした。即ち、
  無位(ハ)皆|皀《クロノ》縵頭巾、黄袍、云々、家人奴婢(ハ)橡墨衣〔七字右○〕。(同上)
と見えた家人奴婢がそれである。主人自身は富貴榮華にこそ傲つてをれ、多寡が八九百束の稻で買はれた奴婢どもの、身分が輕ければ氣も輕い暢ん氣さは微塵もない。
 初二句の「橡の衣の人は事無し」は當時行はれてゐた諺であらう。然し橡の衣は淨衣として、神佛に賽詣する人奉仕する人は著る。(正倉院文書中及びその他)潔齋の著物だから著てゐれば禍事《マガゴト》はない筈、で賽詣や奉仕の場合でなくても著欲しいとの意に解せられぬこともない。又思ふに淨衣の橡の衣を平民の橡の衣に聯繋させて、兩意をかねて「事無し」といつたとしてもよい。
 
凡爾《おほろかに》 吾之念者《われしおもはば》 下服而《したにきて》 穢爾師衣乎《なれにしきぬを》 取而將著八方《とりてきめやも》     1312
 
〔釋〕 ○おほろかに 大凡に。契沖訓による。舊訓オホヨソニ〔五字傍線〕。○きめやも 上に〔二字右○〕著めやもの意。○なれにしき(2104)ぬ 著馴らした衣。それはよれ/\に汚《ヨゴ》れるから「穢」の字を充てた。
【歌意】 竝大抵に、私がさ思はうなら、これまで〔四字右○〕下に着て、きたなくなつた衣を、何で〔二字右○〕取り上げて上に〔二字右○〕著ようかい。
 
〔評〕 これまで妾などでゐた女を本妻に直さうとする折、女の遠慮するのを抑へて、その再考を促した。比喩は恰當。
 衣食住は生活の基本だから無理はないが、集中衣服に關聯した作は殆ど全面的といつてよい程だ。萬葉人がそれに深い關心をもつてゐたことが知られる。そして下に著る〔四字傍点〕を事實にも譬喩にも歌つた作が七首もある。
 
紅之《くれなゐの》 深染之衣《こそめのころも》 下著而《したにきて》 上取著者《うへにとりきば》 事將成鴨《ことなさむかも》     1313
 
〔釋〕 ○こそめ 濃染。「深」は意を以て充てた。○ことなさむ 「わをことなさむ」を見よ(一一〇七頁)。
【歌意】 紅の濃染の衣〔右○〕を、下に着て、今更〔二字右○〕上に著ようなら、世間がうるさく〔七字右○〕いひ做さうかまあ。
 
〔評〕 この深紅は無論下著の掻練などであらう。下著を上著にしたら、何時だつて氣違ひ扱にされる。でそれに譬へて元の身分が身分だから、本妻となされたら世間の口の端がと、女は躊躇した。貴賤門地の喧しい時代だからではあるが、作者の僭上心のない、つゝましさが奥ゆかしい。「下に著て上に取り著ば」は稍御丁寧の感があるが、これはわざと印象強い表現を求めたものである。
 
(2105)橡《つるばみの》 解濯衣之《ときあらひきぬの》 恠《あやしくも》 殊欲服《ことにきほしき》 此暮可聞《このゆふべかも》     1314
 
〔釋〕 ○ときあらひきぬの 引解いて洗つて拵へた〔三字右○〕衣の。八言の句。○あやしくも 「きほしき」に係る。
【歌意】 橡の解いて洗濯した衣が、不思議にまあ、著たく思はれる、この夕方であることかまあ。
 
〔評〕 橡は賤卑の服、その色は鼠色に屬して、見る影もない。而もその洗濯したものとなつては、取得がない。わざとかう層々いひ詰めて來たのは、「殊に著ほしき」に強い反映を與へて、その印象を深からしめる。「ゆふべ」は人戀しい感情の昂揚する折柄で、又男女會合の時間に向つてゐる。「あやしくも」の批判的形容は稍詩味を減殺しはせぬか。身分の卑い女を戀して作者は懊悩してゐる。
 
橘之《たちばなの》 島爾之居者《シマニシヲレバ》 河遠《かはとほみ》 不曝縫之《さらさずぬひし》 吾下衣《わがしたごろも》     1315
 
(2106)〔釋〕 ○たちばなのしま 「たちばな」(四八九頁)。及び「しまのみや」(四八〇頁)を見よ。○さらさず 洗はず。○したごろも 下著の衣。
【歌意】 橘の島にさ、私は〔二字右○〕居るので、河が遠さに、洗はずに縫つた、私のこの〔二字右○〕下衣さ。
 
〔評〕 洗濯は流れ川が便利だ。廣くいへば島の地は飛鳥川の附近であるが、洗濯などに出掛けるには一寸遠いのでつい無精をして洗濯せずに下著を仕立てたといふ。土地が離れて居たので、よく身元調もせずに召抱へた妾などに不埒があつて、自分の輕率を後悔しての作であらう。「下衣」とあるから、女を妻のこととする契沖説はどうかと思ふ。
 
寄(ス)v絲(ニ)
 
河内女之《かはちめの》 手染之絲乎《てぞめのいとを》 絡反《くりかへし》 片絲爾雖有《かたいとにあれど》 將絶跡念也《たえむともへや》     1316
 
〔釋〕 ○かはちめ 河内國の女。泊瀬女《ハツセメ》、難波女《ナニハメ》の類語。卷十四には大和女《ヤマトメ》があり、記の歌には山代女《ヤマシロメ》がある。○てぞめ 手づから染むるをいふ。○てぞめのいとを 初二句は「くり返し」に係る序詞。○かたいと 一本縒《イツポンヨリ》の絲。縒り合はせぬ絲のこと。
【歌意】 河内女が、その手染の糸を繰り返しするやうに〔五字右○〕、繰り返し思うて〔三字右○〕、それは片絲の片思〔三字右○〕ではあるが、絶えようと思ふかい。
(2107) 〔評〕 片思ながら諦めようとは思はぬといふことを、絲の縁語で「片絲の」「絶えむと」と鎖り續けた。河内女の絲がすべて片絲なのではない。河内は當時染織の技が盛だつたと見える。
 
寄(ス)v玉(ニ)
 
海底《わたのそこ》 沈白玉《しづくしらたま》 風吹而《かぜふきて》 海者雖荒《うみはあるとも》 不取者不止《とらずばやまじ》     1317
 
〔釋〕 ○しづく 下著《シタツ》くの略。落つる露をシヅク〔三字傍線〕といふも、この變態名詞である。古義はいふ、石著《シツク》の義と。下にも「石著玉」と見え、靈異記には「白玉|礒著《シヅキ》や」と見えるから、さもと思はれるが、石、礒は玉に就いての假借字で、この語の本義ではない。
【歌意】 海の底〔右○〕に沈んでゐる白玉よ〔右○〕。よし〔二字右○〕風が吹いて海は荒れるとも、採らないではおくまい。
 
〔評〕 深窓の娘を玉に譬へ、その兩親などが不同意で、堰き留めるやうな事があつても、手に入れずには置くまいの意を擬へた。古義が父母などが諫めて逢ひ難き女なれどと解したのは、語に分寸の相違がある。下の「秋風はつぎてな吹きそ」の熱意の一歩進んだ境地。
 なほ卷六「見渡せば近きものから」(951)、卷七「島廻すと礒に見し花」(1117)の評語を參照。
 
底清《そこきよみ》 沈有玉乎《しづけるたまを》 欲見《みまくほり》 千遍曾告之《ちたびぞつげし》 潜爲白水郎《かづきするあま》     1318
 
(2108)〔釋〕 ○かづきするあま 下にに〔右○〕の辭を補うて聞く。
【歌意】 水底が清くて、沈んでゐる珠を、見たく思うて、何遍となくさ、潜きする海人に、採つてくれと〔七字右○〕、告げたことよ。
 
〔評〕 三句以下は上の「わたつみのもたる白玉」の歌と同じい。但初二句は甚しく劣つてゐる。「清み」は不用。海《ワタ》の底〔二字傍点〕とする方がよい。
 
大海之《おほうみの》 水底照之《みなそこてらし》 石著玉《しづくたま》 齊而將採《いはひてとらむ》 風莫吹所〔左△〕年《かぜなふきそね》     1319
 
〔釋〕 ○いはひ 「齊」は齋の通用。○ふきそね 「所」原本に行〔右△〕とあるは誤。【歌意】 大海の水底を照らし、沈んでゐる珠を、齋み清まはつて採らうぞ、風は吹いてくれるなよ。
 
〔評〕 珠玉の尤れたものは車何乘を照らすと、支那では號してゐる。「大海の水底照らす」もそれに近い想像で、眞珠などは光の鈍い物であるが、今の場合「いはひてとらむ」の前提として、出來るだけ大袈裟な布衍を必要とするので、「水底照らし」とまで誇張したのである。「いはひて」は太切に扱つてといふ程の意。古義に、玉に疵つけぬやうにとあるは、穿ち過ぎだ。風は海での厄介物なので事の障害に譬へた。詰りは玉の如き頗るの美人を無事に手に入れたいとの意で、譬喩としては完作である。
 
(2109)水底《みなそこに》 沈白玉《しづくしらたま》 誰故《タレユヱニ》 心盡而《こころつくして》 吾不念爾《わがもはなくに》     1320
 
〔釋〕 ○たがゆゑに ダガユヱニ、タレユエニ、昔から兩訓が存し、歌經標式には「他我由惠爾《タガユヱニ》」と出てゐる。上に誰ガ〔二字傍点〕とあれば下も吾ガ〔二字傍点〕と應じ、上に誰レ〔二字傍点〕とあれば下も我レ〔二字傍点〕と應ずるのが正格で、これを交錯した訓もあるが、誤である。
【歌意】 水底に沈んでゐる、白珠の貴女よ〔三字右○〕、誰れが爲に私が心を碎いて、思ひはしませんに。すべて貴女の爲さ〔八字右○〕。
 
〔評〕 この種の反説的筆法は、非常に効果的の表現である。が譬喩歌としては、玉の活用が稀薄に過ぎる。
 
世間《よのなかは》 常如是耳加《つねかくのみか》 結大王《むすびてし》 白玉之緒〔左△〕《しらたまのをの》 絶樂思者《たゆらくもへば》     1321
 
〔釋〕 ○つねかくのみか 何時もかくばかりある〔二字右○〕事か。○むすびてし 「大王」をテシと訓む。「わがさだめ羲之《テシ》」を見よ(八九九頁)。○を 「緒」、原本に結〔右△〕とあるは誤。○たゆらく たゆる〔傍点〕の延言。
【歌意】 世間は何時も、かうばかりある〔二字右○〕事か、折角〔二字右○〕結んだことであつた白珠の緒が、斷れることを〔三字右○〕思へばさ。
 
〔評〕 白玉は緒を通して、頸に飾り手に纏く装身具であつた。切れまいと思ふその緒が意外にも切れる。玉はそ(2110)こでばら/\だ。それを固く契りかはした中が絶えたのに譬へ、世間法が不定であることを知つてゐながら、戀の迷妄からこればかりは例外と信じた事が、矢張例外でなかつた事に悔恨して、「世間は常かくのみか」と深い感傷に浸つた。
 
伊勢海之《いせのうみの》 島津之白水郎我〔七字左△〕《しまつのあまが》 蝮玉《あはびだま》 取而後毛可《とりてのちもか》 戀之將繁《こひのしげけむ》     1322
 
〔釋〕 ○しまつのあまが 原本に、白水郎之島津我〔七字右△〕とあるは顛倒。「さゝ波の志賀津のあま」(卷七)の辭樣を思ひ合はせるがよい。「島」は志麻《シマ》の國のことで、半島なればいふ。「津」は船著きのこと。舊事本記に、成務天皇の御代に島津(ノ)國造〔四字傍点〕を定められた事が見える。この考偶ま新考説と符合する。○あはびだま 既出(一六五一頁)。
【歌意】 伊勢の海の志摩の海人は、鰒珠を取るが、その如く〔四字右○〕思ふ人を手に入れて後も、かうも戀の心地の繁くあらうことか。
 
〔評〕 人慾には際限がない。抱かるれば負はれようだ。逢ひ見ての後、却て愈よ燃えあがる情炎を、我ながら怪んでゐる。
 
海之底《わたのそこ》 奥津白玉《おきつしらたま》 縁乎無三《よしをなみ》 常如此耳也《つねかくのみや》 戀度味試《こひわたりなむ》     1323
 
(2111)○わたのそこおきつしらたま 「わたのそこおきつしらなみ」を見よ(二八四頁)。○よしをなみ 縁がなさに。○かくのみ 「かく」は効もなく戀ひ渡るをさす。○なむ 「味試」は嘗ムの意で充てた戲書。
【歌意】 海底の深いところの白珠、即ち深窓のかの女は、近寄る手蔓がなさに、私は〔二字右○〕何時もこんなにばかりして、徒らに〔三字右○〕戀うて月日を經ることであらうか。
 
〔評〕 斧のない木は伐れない。手蔓がなくては玉も手に這入らない。と知つても諦められないのは戀の愚痴だ。何時を限とこんな苦悩を續けるのしらと、自己批判をして歎息してゐる。
 
葦根之《あしのねの》 懃〔左△〕念而《ねもごろもひて》 結義〔左△〕之《むすびてし》 玉緒云者《たまのをといはば》 人將解八方《ひととかめやも》     1324
 
〔釋〕 ○あしのねの ネの音を疊んで「ねもごろ」に係る枕詞とした。○ねもごろ 「懃」原本に※[動/心]〔右△〕とあるは誤。○むすびてし 「義之」にテシを充てたことは「わがさだめてし」の條を見よ(八九九頁)。「義」は羲〔右△〕の書寫字。○たまのをといはば 「いはば」は聞かうならの意。
【歌意】 私が懇に考へ込んで結んだ、この玉の緒〔右○〕だと聞かうなら、他人が解かれうことかい。
 
〔評〕 思ふ中に邪魔が這入つて別れ話の持ち上がつた時の作で、深く思ひ込んで結んだ縁と知つたら、人が中を割くことはとても出來まいとの譬喩だ。まこと玉の緒には種々の結方があり、器用に上手に結んだものは、他(2112)人には容易に解き難い。
 
白玉乎《しらたまを》 手者不纏爾《てにはまかずに》 匣耳《はこのみに》 置有之人曾《おけりしひとぞ》 玉令泳流《たまおぼれする》     1325
 
〔釋〕 〇まかずに ずに〔二字傍点〕の用法口語のに同じい。集中例が多い。略解が「爾」を底〔右△〕の誤としたのは、これを雅言ならずと見た爲であらう。○おけりしひと 嘗て置いた人。新考訓オキタルヒト〔六字傍線〕は歌意を誤解してゐる。○たまおぼれする 「玉おぼれ」は玉に惑溺するをいふ合名詞。舊訓による。契沖以來オボラスル〔五字傍線〕と動詞に訓む人もあるが、それは二句の意に杆格を生ずる。
【歌意】 白玉を手には纏きもせずに、匣の内にばかりに、放《ホ》つて置いたことであつた人がさ、今更玉に夢中騷ぎをすることわ。
 
〔評〕 玉は装飾品だから、匣の中に放置したのでは意味を成さない。故に女を巣守にして置いた男が、この頃更に新しい女に熱中するのを譬へて、その前後の行爲の矛盾を諷※[言+※[氏/一]]した。
照左豆我《てりさつが》 手爾纏古須《てにまきふるす》 玉毛欲得《たまもがも》 其緒者替而《そのをはかへて》 吾玉爾將爲《わがたまにせむ》     1326
 
〔釋〕 ○てりさつが 「照左豆我」は意不明。眞淵は、照幸《テリサチ》の義にて玉商人の名なるべしといひ、古義は、ワタツ(2113)ミとあるべき處といつた。二句は人間臭が強いから、眞淵説が面白さうだ。
【歌意】 照左豆が、手に卷いて持ち舊す、玉でも欲しいなあ。その緒を取換へて、自分の玉にせうぞ。
 
〔評〕 或人の持ち飽いた女を懸想し、その縁を切換へて、自分の物にしたいとの譬喩だ。卷十六に、
  眞珠《シラタマ》は緒絶えしにきと聞きし故にその緒また貫きわが玉にせむ(――3814)
   右傳(ニ)云(ク)、時《ムカシ》有(リキ)2娘子1、夫君(ニ)見(レ)v棄(テ)、改(メ)2適《ユケリ》他氏《ヒトノイヘニ》1也、于v時有(リ)2壯士《ヲトコ》1、不v知(ラ)2改(メ)適(ケルヲ)1、此歌(ヲ)贈《オクリテ》、請2誂《コヒキ》女之|父母《オヤニ》1、云々。
の歌と同趣。古い玉を新しい緒に貫くは常ある事で、引喩いかにも巧緻。
 
秋風者《あきかぜは》 繼而莫吹《つぎてなふきそ》 海底《わたのそこ》 奥在玉乎《おきなるたまを》 手纏左右二《てにまくまでに》     1327
 
〔釋〕 〇までに までは〔右○〕の意をかくいふは古代の詞態。
【歌意】 秋風は、打續いて吹いてくれるなよ、海の底の深みにある珠を、自分の手に入れるまでは。
 
〔評〕 秋は風立つ時季、風が立てば海が荒れて潜けない。隨つて玉は採れない。「得がてなる女を珠に比へ、父母などの呵責《コロビ》を風に譬へたり」と古義にある。その通り。
 
寄(ス)2日本琴《ヤマトゴトニ》1
 
(2114)○日本琴 既出(一四四七頁)。
 
伏膝《ひざにふす》 玉之小琴之《たまのをごとの》 事無者《ことなくば》 甚幾許《いとここばくに》 吾將戀也毛《わがこひむやも》
     1328
 
〔釋〕 ○ひざにふす 膝上に横はるを伏す〔二字傍点〕と擬人した。○ひざにふすたまのをごとの コト〔二字傍点〕の疊音により「ことなく」に續けた序詞。○たまのをごとの 「たまの」は譬喩の美稱。「を」も美稱。○ことなくば 無事ならば、障なくばの意。○いとここばくに 略解訓による。古義訓のハナハダコヽダは事を好んだ。
【歌意】 膝に横へる琴の、コト〔二字傍点〕といふ〔三字右○〕障り事がないならば、思ふまゝに逢へるから、こんなに〔十四字右○〕酷く澤山に、私が戀ひようことかい。
 
〔評〕 玉の小琴は序詞として使はれたまでだから、實は譬喩の體にはならない。感想は凡常であるが、反説的表現によつて多少の曲折を生じた。「膝に伏す」は卷五にも「聲知らむ人の膝のへわが枕《マクラ》かむ」とある。
 
寄(ス)v弓(ニ)
 
陸奥之《みちのくの》 吾田多良眞弓《あだたらまゆみ》 著絃〔左△〕而《つらはげて》
引者香人之《ひかばかひとの》 吾乎事將成《わをことなさむ》     1329
〔釋〕 〇あだたら 岩代國|安達《アダチ》郡の古名。そこの山の名に安達太郎と書いて、今もアダタラと呼んでゐる。地名辭(2115)書の説は、ラ〔傍点〕は接尾語にて本名アタタ〔三字傍点〕なるべしと。和銅二年の制にて、國郡の名を二字と定めた時、安達の字を充て、遂にアダチ〔三字傍点〕と呼ぶやうになつた。奈良時代には安達の郡名なく、安積郡の管内であつた。○まゆみ よき弓。「ま」は美稱。檀《マユミ》の木をいふのではない。○つらはげて 「つら」は絃《ツル》の古語、「はげ」は弓絃を懸くるをいふ。又矢を作るにいふ。「著絃」は絃をかけること。「絃」原本に絲〔右△〕とある。上三句は「ひかば」に係る序詞。○ことなさむ 「わをことなさむ」を見よ(一一〇七頁)。
【歌意】 陸奥の安達の弓に、絃を張つて引くやうに、彼の女を〔四字右○〕引かうなら、人が、私を彼れこれいひ騷がうかしら。
 
(2116)〔評〕 當時岩代國中では、安達太郎山の周邊たる安達安積の兩郡が、北地往來の要衝に當り、四道將軍も會津に合した程で、隨つてその原野も早く開拓され、即ち安積郡では安積山、安積沼、安達郡ではそこの山や弓材が、再三吟咏に上るやうになつた。
 弓は往時最必要の武器で、兵部の貯藏、京師の禁衛、王卿諸僚の自家用を始として、諸國の軍團に貯藏するその數は、無量であつた。されば山國からは貢物として盛に獻つたものだ。特に寒國の材は木質が堅緻だから、「あだたら眞弓」は弓材中の王者であつたらう。それで譬喩に引用されたのだから、作者と陸奥との關係はないと見てもよからう。
 彼の女を引き試みたい念は山々。然しそれが知れゝば「わを言なさむ」で、世間の非難が囂々と集まつて、自分の社會的地位も何も失はれてしまふ結果が必然といつたやうな、餘程面倒な身分の相手と見える。想ふに權門の貴女か、或は既に婚約のある女か、或は有夫の婦かであらう。まことに作者の心状は甚だ危險な頂點に立つてゐる。わづかに多少の理性の存在が躊躇させてゐるに過ぎない。このハラ/\させる處が、この歌の利き處である。
 
南淵之《みなぶちの》 細川山《ほそかはやまに》 立檀《たつまゆみ》 弓束纏及〔二字左△〕《ゆづかまくまで》 人二不所知《ひとにしらえじ》     1330
 
〔釋〕 ○みなぶち 大和高市郡坂田村稻淵。稻淵は南淵の訛である 飛鳥川の水源地。皇極天皇紀に、葛城(ノ)皇子(天智天皇)の師事なされたと見えた、南淵請安先生の墓がある。○ほそかはやま 南淵山の北隣の山。天武(2117)天皇紀に「五年夏四月、是月勅(シテ)禁(ジテ)2南淵山、細川山(ヲ)1、並(ニ)莫(カラシム)2蒭薪(スルコト)1」と見えた。○まゆみ 木の名。和名抄に、檀、萬由三《マユミ》と見え、山錦木といふもの。落葉の亞喬木。その葉大にして桃葉の如く、夏花を開くこと衛矛に似てゐる。毛詩鄭風の樹檀の註に強靱之木とある。和漢共に昔は弓材に用ゐた。普通錦木(衛矛)をいふが、それは木質が軟脆で弓には作らない。○ゆづか 弓の中央部の稱。和名抄に「釋名云、弓(ノ)末(ヲ)曰(フ)v※[弓+肅](ト)、中央(ヲ)曰(フ)v※[弓+付](ト)、和名|由美都加《ユミヅカ》」とある。○まくまで 「纏」原本及び諸本ともない。古葉により補つた。「及」原本に級〔右△〕とある。改めた。○しらえじ 略解訓による。契沖訓シラレジ〔四字傍線〕。
【歌意】 南淵の細川山に立つ檀の木、それが弓となつて、その弓束が纏かれるまでは、どうぞ〔三字右○〕人に知られまいと(2118)思ふ。
 
〔釋〕 「弓束纏く」は、延喜式に「造(リ)2※[弓+付](ノ)角(ヲ)1裁(チ)v革(ヲ)纏(ク)v※[弓+付](ヲ)」(兵庫式)と見え、所謂握革を付ける事だから、これが濟めば完全な弓として使用されるのである。即ち一切の手順が整うて、その人を手に入れて持つまでは、この事を他人に知られまいとの譬喩で、寸前尺魔、意外の故障の起るのを恐れたからである、さても戀は苦勞なものだ。或男が偶ま細川山の檀の木を見て弓に寄せた感想で、出遊には常に弓箭を帶する、相應の身分柄の作者であらう。
 
寄(ス)v山(ニ)
 
磐疊《いはたたむ》 恐山常《かしこきやまと》 知管〔左△〕毛《しりつつも》 吾者戀香《われはこふるか》 同等不有爾《ひとしからなくに》     1331
 
〔釋〕 ○いはたたむ 古義訓による。舊訓イハダタミ〔五字傍線〕は非。○こふるか 「か」は歎辭。○ひとしからなくに 「同等」に古來ヒトシ、トモ、の二訓あり、眞淵はナゾヘ〔三字傍線〕、新考はナミ〔二字傍線〕と訓んだ。藤原(ノ)史(淡海公)が用ゐた不比等の字面は等しからず〔五字傍点〕の意で、謙稱たることは疑もないから、こゝもヒトシと訓ませる筈で「同等」の字を充てたものと考へられる。
【歌意】 岩石が重なる、恐ろしい山、即ち高貴な身柄の者と知りながらも、私はそれを戀ひ慕ふことよ、とても等し並みの者でも〔四字右○〕ないのにさ。
 
(2119)〔評〕 或貴女を戀して、自分の身分の凡下を自覺しつゝ、尚諦めの付かぬ趣を譬へた。なまじ階級理性のあるだけいぢらしい。初二句は下の「奥山の岩に苔蒸し畏けど」の類想。
 
石金之《いはがねの》 凝木數山爾《こごしきやまに》 入始而《いりそめて》 山名付染《やまなつかしみ》 出不勝鴨《いでかてかかも》     1332
 
〔釋〕 ○いはがね 岩が根。「石金」は戲意あるか。○こごしき 既出(七四〇頁)。「凝」にコヾの訓がある。「木」は添字。古義訓による。○いでかてぬ 出で敢へぬ。「いりかてぬかも」を見よ(四九六頁)。
【歌意】 岩根のごつ/\した山に、這入りはじめて、もう〔二字右○〕山が懷かしさに、山から出かねたことかまあ。
 
〔評〕 前の歌の趣から推すと、これもむづかしい立場の女に逢ひそめて、ついその情合にほだされ、金縛りになつたことの譬喩らしい。内心に事の露顯を恐れて怖ぢ切つてゐる。
 
佐保山乎《さほやまを》 於凡爾見之鹿跡《おほにみしかど》 今見者《いまみれば》 山夏香思母《やまなつかしも》 風吹莫勤《かぜふくなゆめ》     1333
 
〔釋〕 ○さほやま 「さほのやま」を見よ(一〇〇八頁)。○おほに 既出(五六三頁)。
【歌意】 佐保山を、いゝ加減にこれまで〔四字右○〕見たけれど、今よく見ると、こゝの山は懷かしいわい。風は吹き荒らすな(2120)よ、きつと。
 
〔釋〕 平凡な女だが、馴れ染めるまゝに、人情のいゝ處がわかつて來たので、餘所から邪魔の入らないやうにとの譬喩だ。「佐保山をおほに見し」は、佐保山は平凡な岡山で、何の特徴とてもないからである。然し山踏み分けてよく見れば、春の花秋の紅葉など、遊賞にも適してわるくはないので、風などで荒したくない。
 
奥山之《おくやまの》 於石蘿生《いはにこけむし》 恐常《かしこけど》 思情乎《おもふこころを》 何如裳勢武《いかにかもせむ》     1334
 
〔評〕 ○おくやまのいはにこけむし 既出(一七〇〇頁)。「於石」は漢文的に書いた。初二句は「恐《カシコ》」に係る序詞。○かしこけど 略解訓による。
【歌意】 奥山の岩に苔が生え、その樣がいかにも畏いやうに、彼の人は〔四字右○〕畏いけれど、思ひ慕ふ心を、どうせうかまあ。
 
〔評〕 貴人を思ひ染めて、手も出せず諦めもえせずして懊悩し、途方に暮れてゐる。この初二句は既に卷六に葛井(ノ)廣成の利用する處となつた。萬葉人のいはゆる奥山は、現代人の考へるやうな物凄い深山幽谷ではないが、それでも尚その磊※[石+可]たる岩石を見ては、相當の脅威と畏怖とを感じたのであつた。
 
(2121)思※[騰の馬が貝]《おもひあまり》 痛文爲便無《いたもすべなみ》 玉手次《たまだすき》 雲飛山仁《うねびのやまに》 吾印結《われぞしめゆふ》     1335
 
〔釋〕 ○おもひあまり 「※[騰の馬が貝]」は字書に「餘《アマリ》也」とある。古義は、眞淵の「※[騰の馬が貝]」を勝〔右△〕の誤としたのに從つて、オモヒカテ〔五字傍線〕と訓んだが、詞足らずである。○うねびのやま 「雲」をウネに充てたのはウムの音轉。○われぞしめゆふ 「しめゆへ」を見よ(三五九頁)。類本神本等の訓による。略解訓ワガシメユヒツ〔七字傍線〕。
【歌意】 思ひ餘つて、酷くまあ仕樣がなさに、とうとう畏い〔六字傍線〕畝傍山に、私はさ標を立てたよ。
 
〔評〕 貴女を戀して、分に過ぎた事と知りつゝ遂にわが手中の物としたとの譬喩だ。下句、契沖の「高く大きなる山を榜示して」との解に、諸註異議のないのはをかしい。畝傍は小さな山である。想ふに作者は、畏き山の意を以て畝傍山を拉し來り、さて貴女に擬へたのであらう。まこと「橿原の日知の御世ゆ、玉襷畝傍の山の」(卷一)とある如く、小山ながらも畝傍山は神聖な畏い山で、三山傳説の對象となる程、仰高された山である。三句の枕詞の使用は特別に莊重な詩味を助成してゐる。
 
寄(ス)v草(ニ)
 
冬隱《ふゆごもり》 春乃大野乎《はるのおほぬを》 燒人者《やくひとは》 燒不足香文《やきたらねかも》 吾情熾《わがこころやく》     1336
 
(2122)〔釋〕 〇やきたらねかも 燒き足らねば〔右○〕かもの意。古義訓による。舊訓ヤキタラヌカモ〔七字傍線〕。
【歌意】 あの春の大野を燒く人は、その大きな野だけでは〔十字右○〕、燒き足らねば〔右○〕かして、私の心まで〔二字右○〕燒くわ。
 
〔評〕 春の野を燒くのはその枯草を拂ふが重な目的である。今情炎の燃えあがりを如何ともし難い作者は、姑くその光景を眺めてたたが、遂に溜らなくなつて、これは野燒の人がその大野でも足らずに、自分の心にまで火を付けたかと揚言した。素より「燒く」の語が聯想の關鍵となつてはゐるものゝ、奇拔の落想、その愚やその痴や及ぶべからずで、戀する者の苦衷から生じた一種異樣の苦笑である。「大野」の語は、「燒き足らね」に密接な伏線をもつ緊語で、下し得てよい。「燒く」の三疊はその印象を深からしめ、且諧調を成してゐる。
 
葛城乃《かづらきの》 高間草野《たかまのかやぬ》 早知而《はやしりて》 標〔左△〕指益乎《しめささましを》 今悔拭《いまぞくやしき》     1337
 
〔釋〕 ○かづらき 「かづらきやま」を見よ(一一〇〇頁)。○たかま 葛城山の東面の鞍部の地。(今大和南葛都高間村)。○かやぬ 契沖訓による。舊訓クサノ〔三字傍線〕。○はやしりて 早く領して。○しめささましを 「標」原本に※[手偏+票]〔右△〕とあるは書寫字。○いまぞくやしき 「拭」は次音シキである。眞淵は拭〔右△〕を茂〔傍点〕の誤としてイマシクヤシモ〔七字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 葛城山の高間の草野、それを〔三字右○〕早く占領して、標を立てようであつたものを、手後れになつて〔七字右○〕、今さ殘念な。
 
(2123)〔評〕 手に入るべき女を油斷して人の物にしたことを譬へて、後悔の臍を噛んでゐる。當時高間の草野は廣漠たるもので、勝手に人の標さすに任せたものと見える。それもその筈、高間は葛城山嶺の葛城神社に賽詣する者の爲の足溜りに過ぎぬ寒村で、その周邊の畠や田は、昔は草野であつたに相違ない。今も高間から南方は廣々とした草原小竹原が展開してゐる。そんな處でも自分に魁けて、いざ他人が標さしたとなると、人情は變なもので殘念と感ずるのである。
 
(2124)吾屋前爾《わがやどに》 生土針《をふるつちばり》 從心毛《こころゆも》 不想人之《おもはぬひとの》 衣爾須良由奈《きぬにすらゆな》     1338
 
〔釋〕 〇つちばり 土針。和名抄に「王孫、一名黄孫、沼波利久佐《ヌハリグサ》、此間(ニ)云(フ)都知波利《ツチハリ》」と見え、植物學者はこれをツクバネ草に充てゝゐる。ツクバネ草は多年草本で百合科に屬し、莖高さ一尺内外、莖の上部に尖端の※[木+隋]圓形をした四葉輪生し、華は五六月頃、莖頂に一筒の淡黄緑色の四瓣花を開く。又延齡草、一名アカネヌヌハリの事ともいふ。○こころゆも 古義訓コヽロヨモ〔五字傍線〕。○すらゆな 摺らるゝなの意。「すらゆ」は也行下二段活。
【歌意】 私の宿に生えた土針よ、心からまあ思うてくれない人の、衣に摺り付けられるなよ。
 
〔評〕 膝許で育つた眞娘《マナムスメ》に、心からお前を思はぬ男などに引つ懸かるなよと、兩親などがその輕はづみを戒めた情味のゆたかな歌である。はかなげな王孫草は、生ぶな筥入娘には洵によく當て嵌つた見立てだ。その花は衣に摺るほどの濃い色でもなく、又一莖に只−輪だから數もない。譬喩の構成上、「衣に摺らゆな」といひ做したのみで、決して月草や萩などのやうに、一般的に摺られる花ではないからだ。後出の
  白菅の眞野の榛原こころゆも思はぬ君がころもに摺りぬ(――1354)
(2125)と意は表裏する。
 
鴨頭草丹《つきぐさに》 服色取《ころもいろどり》 摺目伴《すらめども》 移變色登《うつろふいろと》 ※[人偏+爾]之苦沙《いふがくるしさ》     1339
 
〔釋〕 ○ども 「伴」は借字。○いふが 「※[人偏+爾]」は稱の古宇。
【歌意】 月草に衣を彩つて摺らうけれど、生憎〔二字右○〕移り易い色だ〔右○〕、と聞くのが心配さ。
 
〔評〕 結婚しようとは思ふが、男の浮氣な性分なことを噂に聞いて、苦にされるとの譬喩だ。男が情事關係において、比較的奔放だつた往時では、この點は最も女の悩む處だつた。「といふが苦しさ」に、女のとかうの思案に暮れて躊躇してゐる樣子が、よく出てゐる。月草に移ろひ易いことを詠んだ例は、集中に疊見する。
 
紫《むらさきの》 絲乎曾吾搓〔左△〕《いとをぞわがよる》 足檜之《あしひきの》 山橘乎《やまたちばなを》 將貫跡念而《ぬかむとおもひて》     1340
【歌意】 紫の絲をさ、私が搓りますわ、山橘の實を、貫き通さうと思うて。
 
〔評〕 女を得ようとして、最善の手段を盡すことの譬喩だ。紫の絲に山橘の朱實、色彩は鮮明。但花橘を貫くことは例の事ながら、山橘即ち藪柑子は實が小さくて脆弱で、絲に貫くには足らない。單に橘の語からのふとし(2126)た聯想とすれば、そこに浮誇の難がある。或はその無理を承知しつゝ紫の絲を縒つてゐるのではあるまいか。さては山橘はまだ片なりの少女を擬へたものとなる。
 山橘即ち藪柑子を草のうちに攝した。
 
眞珠付《まだまつく》 越能管原《をちのすがはら》 吾不苅《わがからず》 人之苅卷《ひとのからまく》 惜菅原《をしきすがはら》     1341
 
〔釋〕 ○まだまつく 眞珠付く緒《ヲ》をいひ係けた。「越《ヲチ》」の枕詞。○をち 近江國坂田郡の越智《ヲチ》。卷十三にも「息長《オキナガ》の遠智《ヲチ》の小菅」とあり、そこの息長川の河畔には小菅が叢生してゐたと見える。大和にも高市郡に越智《ヲチ》があるが、小菅の生える場處でない。舊訓コシ〔二字傍線〕は非。○すがはら 菅茅の叢生した處をいふ。〇わがからず 略解訓による。舊訓ワレカラデ〔五字傍線〕。
【歌意】 越《ヲチ》の菅原よ。自分が苅らずに〔右○〕、人の苅らうことが〔三字右○〕、惜しい菅原よ。
 
〔評〕 自分の懸想した女が人の物とならうとする殘念さを譬へた。上の「葛城の高間のかや野早しりて」にほゞ似通つた感慨で、何れも比興の作であることが、その婉曲味を※[酉+鰮の旁]釀する。
 二句五句の「菅原」の反復は、律調的古體の遺風である。「わが苅らず」「ひとの苅らまく」の相反的排對の技巧、「苅る」の疊音による語調など、太だ見るべきものはあるが、それだけ格調は下つて、如實に奈良時代中葉以後の色相を現じてゐる。
 
(2127)山高《やまたかみ》 夕日隱奴《ゆふひかくりぬ》 淺茅原《あさぢはら》 後見多米爾《のちみむために》 標結申尾《しめゆはましを》     1342
 
〔釋〕 ○見むため 世話することを見る〔二字傍点〕といふ。
【歌意】 山が高さに、夕日がもう隱れたわ。この淺茅の原を、あとで又手掛けよう爲に、標を立てゝ置かうものを。それがならぬので殘念な〔十一字右○〕。
 
〔評〕 日は早くも山頂に没して淺茅が原を苅りさした趣、それを親などの邪魔が入つての、あわたゞしい女との別に譬へ、後日の逢瀬を約束する遑もなかつたことを悔んで、「標結はましを」と擬へて、その大きな溜息を吐いた。比喩允當、風調も高い。
 
事病者《こちたくば》 左右將爲乎《かもかもせむを》 石代之《いはしろの》 野邊之下草《のべのしたぐさ》 吾之刈而者《われしかりてば》     1343
 一(ニ)云(フ)、紅之寫心哉《クレナヰノウツシゴコロヤ》、於妹不相將有《イモノアハザラム》。
 
〔釋〕 〇こちたくば 言痛くあらばの意。○かもかもせむを 「かもかくもせむ」を參照(九〇六頁)。「を」は歎辭。古義訓による。舊訓カニカクセムヲ〔七字傍線〕。○いはしろ 既出(六一頁)。○したぐさ 物かげの草。○くれなゐのうつし心や妹にあはざらむ この左註はこの歌に用がない。何かの錯入である。
(2128)【歌意】 世間の噂が煩さかつたら、どうともかうともせうよ。この磐代の野邊の下草を、私がさ苅つたならば、嬉しからうに〔六字右○〕。
 
〔釋〕 あの筥入娘を自分の手に入れたら嬉しからうとの譬喩だ。「こちたくばかもかもせむを」は當座の揚言で、もとより未來の成算があつていふのではない。
 
眞鳥住《まとりすむ》 卯名手之神社之《うなてのもりの》 菅實乎《すがのみを》 衣爾書付《きぬにかきつけ》 令服兒欲得《きせむこもがも》     1344
 
〔釋〕 ○まとり 眞鳥は鷲の稱とするに、衆口が略一致してゐる。獨契沖は鵜の事として、鵜は海に住めば海《ウナ》といひかく、或は木を眞木といふ如く、よろづの鳥をいふべしともいつた。○まとりすむ 雲梯《ウナテ》の序詞。千鳥なく佐保、蛙《カハヅ》鳴く井手の類語。○うなてのもり 雲梯の森。大和高市郡金橋村曾我川の東岸にあり、大穴持(ノ)命の子|加夜奈留美《カヤナルミノ》命を祀る。雲梯はもと郷名で、今の金橋村眞菅村を含む。式の出雲國造(ノ)神賀(ノ)詞、和名抄などにも見えた地。「神社」をモリと訓む。森には社あり社には森があるのでいふ。或は社をモリといふは韓語と。○すがのみ 山菅の實。(2129)「やますげ」を見よ(七三六頁)。「實」原本に根〔右△〕とあるは解し難い。山菅の根は物に染みつく色がない。よつて、改めた。○かきつけ 描き付け。菅の實を描き付けるは、即ち摺り付けることになる。
【歌意】 雲梯の森の菅の實を、衣に摺り付けて著せう、若い兒も欲しいなあ。
 
〔評〕 作者は雲梯の森蔭に、山菅の實が碧玉を綴つて、人待顔に立並んでゐるのを見た。卷七に「妹が爲菅の實つみに」とある如く、その菅の實から菅の實摺の衣を想ひ、次にそれを著た若い女の瀟洒な姿に想到し、さてその女を欲しいとまで發展した。自然から人事に、人事から人物に、人物から情緒にと、層々に移行してくるその聯想が自然である。遊閑男の情痴に過ぎないとけなせば〔四字傍点〕それまでだが、人情は決してさうしたものではない。潤ひのある懷かしい作と思ふ。
 この歌には譬喩の意はない。又「眞鳥住む」の序詞は、嘗て雲梯の森に鷲の居た事があつて以來、鷲の在不(2130)在に拘はらず、慣習的に雲梯に冠して用ゐた語であらう。卷十二にも「眞鳥すむ雲梯の杜の神」とある。今でも曾我川の河畔に雲梯の一座の森林が欝蒼としてゐる。
 
常不知《つねしらぬ》 人國山乃《ひとくにやまの》 秋津野乃《あきつぬの》 垣津幡鴛《かきつばたをし》 夢見鴨《いめにみるかも》     1345
 
〔釋〕 ○つねしらぬ 常知らぬ他《ヒト》國といひかけた「人國山」の序。「常知らぬ」は平生知らぬの意。卷五に「常知らぬ道の長手」(一五四〇頁)の例がある。「知」原本にない。契沖説によつて補つた。尤も元のまゝでツネナラヌ〔五字傍線〕と訓んで、無常な人世といふ意を人國にいひかけたとしても解せられるが、意趣がこの歌にふさはしくない。○ひとくにやま 蜻蛉野に續けたので見ると、吉野の宮瀧の地(2131)にある山だ。多分は吉野離宮地の背後に當る菜摘の山がそれであらう。○かきつばた 燕子花。鳶尾科の濕地に自生する宿根草。高さ二尺許。葉は菖蒲の如くで中肋状の脈がない。夏花莖を出し、紫、碧、白色等の鳶尾状の花を著く。普通に杜若の字を充てるが、杜若は別種の物で、燕子花ではない。○をし 「し」は強辭。「鴛鴦」は下の「みる鴨」の鴨に對した戲書。○みるかも 古義訓ミシカモ〔四字傍点〕とあるが、こゝは現在格でよい。
【歌意】 人國山の、蜻蛉野の美しい〔三字右○〕燕子花をさ、夢にみることかまあ。
 
〔評〕 蜻蛉野の北山の山根は、全く溜り水が澤を成す地形である。昔そこに燕子花が自生してゐた事と思はれる。さてその燕子花を夢に見るとは、その邊で瞥見した美人が居常念頭に懸かることを譬へたものらしい。紫に咲き誇る優婉なる燕子花は、まこと美人に比擬するにふさはしい。上の
  見れど飽かぬ人國山の木の葉をしおのが心になつかしみ思ふ (――1305)
(2132)と同一人の作か。
 
姫押《をみなへし》 生澤邊之《さきさはのへの》 眞田葛原《まくずはら》 何時鴨絡而《いつかもくりて》 我衣將服《わがきぬにきむ》     1346
 
〔釋〕 ○をみなへし 「姫」は婦人の汎稱に用ゐる。「押」は壓《ヘ》スの意によつての借字。○をみなへしさきさは 既出(一二九四頁)。舊訓オフルサハベノ〔七字傍線〕とあるが、古義の訓に從つた。「生」は開〔傍点〕と書くも同じで、サクと訓んだ例が、卷六、卷十六に見える。○まくず 「ま」は美稱。「くず」を見よ(九四六頁)。○くりて 絲に〔二字右○〕繰りて。古義などに、蔓を繰り寄せることに解いたのはいかゞ。繰り寄せることは、この時代には引く〔二字傍点〕といつた。
【歌意】 佐紀澤の邊に、生えてゐる葛の原、その葛を〔四字右○〕何時まあ絲に〔二字右○〕繰つて、私の衣に著ようかえ。
 
〔評〕 あの女を手順よく、何時晴れて自分の物とされようかとの譬喩で、その時機の到來を待ちかねてゐる意が明白だ。「絡りて――きむ」といふに、織り成すことはおのづから含まれるのである。但「眞葛原――絡《ク》りて」は聯想の跳躍で、粗いいひ方ではある。
 
於君似《きみににる》 草登見從《くさとみしより》 我標之《わがしめし》 野上之淺茅《ぬのへのあさぢ》 人莫苅根《ひとなかりそね》     1347
 
〔釋〕 ○ぬのべの 「上」原本に山とある。古義説によつて改めた。野山〔二字傍点〕と續いては、餘り場處を廣く指し過ぎる。
(2133)○あさぢ 「あさぢはら」を見よ(八〇一頁)。
【歌意】 君に似る美しい〔三字右○〕草と見た時〔右○〕から、自分が占めておいた、野邊の淺茅を〔右○〕、人は苅つてくれるなよ。
 
〔評〕 童女の時分から思ひ込んでゐた女を、今の娘盛りに、他人には手を觸れさせまいとの譬喩だ。淺茅を苅る頃は秋のことで、その葉が柔く靡いて茅花の出るのは春だ。古代の漢詩にも、
  手如(シ)2柔(カナル)※[草冠/夷](ノ)1(詩衛風) 出(ヅ)2其※[門/〓]※[門/者](ヲ)1、有(リ)v女如(シ)v荼(ノ)。(註に荼(ハ)茅華、――詩鄭風)
など見えて、若々しい女を茅花の白く靡くに喩へた。
  妹に似る草と見しよりわが占めし野《ヌ》べの山吹誰れか手折りし(卷十九、――4197)
と殆ど相似た構想であるものゝ、結果は各別で、山吹は既に裏切られた失望であり、この淺茅は先取權を主張して、横合ひからの苅手を警戒してゐる。多情また多恨。
 
三島江之《みしまえの》 玉江之薦乎《たまえのこもを》 從標之《しめしより》 己我跡曾念《おのがとぞおもふ》 雖未苅《いまだからねど》     1348
 
〔釋〕 ○みしまえのたまえ 三島の玉江。又三島江の入江ともいふ。攝津國島上郡。(今の三島郡三箇牧の地)。古へ淀川の瀦水が灣(2134)を成してゐた處の稱。○こも 眞菰。「わかごもを」の條の「薦」を見よ(六四二頁)。○おのがと 己が物〔右○〕との略。
【歌意】 三島の玉江の眞菰を、占めたその時から、自分の物とさ思ふわ、まだ苅りはせぬけれど。
 
〔評〕 婚約した以上は自分の物だ、まだまことの契は結ばないがとの譬喩だ。所有慾の歴然たる作。
 
加是爲而也《かくしてや》 尚哉將老《なほやおいなむ》 三雪零《みゆきふる》 大荒木野之《おほあらきぬの》 小竹爾不有九二《しぬにあらなくに》     1349
 
〔釋〕 ○かくしてやなほや 「や」の辭が重なつてゐる。上のを疑辭とすれば下のを歎辭、上のを歎辭とすれば下のを疑辭と見るか。又は「哉」は茂〔右△〕の誤でナホモと訓むべきか。但卷三「馬な〔傍点〕いたく打ちてな〔傍点〕行きそ」(六八一頁)のな〔傍点〕の重複に就いて、上の「な」を冗字として解しては置いたが、或は古代におなじ係詞を重複させて使ふ變格が存在したのではあるまいか。こゝに姑く疑を存する。○みゆきふる 既出(一七八頁)。○おほあらきぬ 大和宇智郡宇智の荒木神社のある地か。その社は式の神名帳に見える。○おほあらき 大荒城。荒城は殯處をいひ又墳墓をいふ。諸國にアラキの名あるは、皆古墳に就いての稱である。△地圖 前出の挿圖522(二一二三頁)を見よ。
【歌意】 かうしてまあ、やはり老い朽ちようことか。自分は〔三字右○〕雪の降る冬枯の〔三字右○〕大荒木野の、小竹でもないのにさ。
 
(2135)〔釋〕 字智郡の大荒木野ならば葛城山下の荒野で、この歌として場所がふさはしい。細竹などは幾らもその頃は生えてゐたらう。「みゆきふる」に、あたりの野草は既に苅り取られて、空しく素枯れ渡つた細竹のみが山風に荒んで叢生してゐる冬季の光景が現前する。かくて初二句に對し、親貼なる聯繋と對映とをたもつ。「小竹にあらなくに」の抑揚の辭法も、こゝにはふさはしい表現である。草木非情、小竹はこの衰殘の境地に或は無關心かも知れないが、有情の人間としてはとても耐へ得る處でないのだ。世に後れて、無用の長物の如く寂しい存在となつた老人の感懷と思しい。「なほや老いなむ」は一段の感傷を唆る悲哀の語、斷腸の聲。
  かくして也《ヤ》猶八《ナホヤ》なりなむ大あら木の浮田の杜《モリ》の標《シメ》にあらなくに (卷十二――2839)
はこの歌の轉訛であらう。
 小竹を草のうちに攝してある。
 
淡海之哉《あふみのや》 八橋乃小竹乎《やばせのしぬを》 不造矢而《やはがずて》 信有得哉《さねありえむや》 戀敷鬼乎《こひしきものを》     1350
 
(2136)〔釋〕 ○あふみのや 近江の矢橋といふ續きで、「や」は間投の歎辭。足柄や箱根〔五字傍点〕などのや〔傍点〕と同じい。但萬葉集中「の」の助辭を承けたヤの語例が他にない。○やばせ 近江國栗太郡(今老上村)。勢田の北一里。ヤバシ〔三字傍線〕の訓もある。○やはがず 「不造」を矢の縁で意訓にハガズとよむ。古葉訓による。○さねありえむや、本《ホン》に居られようかい。「や」は反動辭。「あり」は存在の意。「信」を眞淵はサネ〔二字傍線〕と訓んだ。卷九に「核《サネ》忘らえず」、「左禰《サネ》見えなくに」、卷十五に「人は左禰あらじ」、「佐禰なきものを」、卷十八に「夜しも左禰なし」、卷廿に「時は左禰なし」など見え、何れもまこと〔三字傍点〕の意である。舊訓マコトアリエムヤ〔八字傍線〕。○こひしき 古義訓コホシキ〔四字傍線〕。
【歌意】 近江の矢橋の小竹を矢に作らずして、即ちその女を自分の物とせずして、本《ホン》に居られようかい、戀しくて溜らぬものを。
 
〔評〕 野路の篠原は有名だが、矢橋も野路に隣つた土地で、今でも篠原がある。近江朝廷時代は勿論、奈良時代となつても、近江人はその小竹を採つて、失に矧いだものと見える。こゝは矢に矧ぐを、女をわが物と領するに譬へた。「や」の反語と「ものを」の抑揚辭との疊用は、その熾烈なる情意を最も有力に表現する。
 但かうした半譬喩の形式を取つた作は、一連に讀み下すと、時に條理が齟齬したり、曖昧になつたりする。(2137)この歌とてもそうで、矢橋の篠を矢に矧ぐことは、「さねあり得むや」とか「戀しきものを」とかいふ程の事柄でもない。譬喩の適實性を缺く爲に、更に再誦して思索する必要を生ずる。直覺的に人の肺腑を打つを第一義とする詩作の上においては、上乘のものでない。
 
月草爾《つきぐさに》 衣者將摺《ころもはすらむ》 朝露爾《あさつゆに》 所沾而後者《ぬれてのちには》 徙去友《うつろひぬとも》     1351
 
〔釋〕 ○ぬれてのちには 古今集(卷五)に「ぬれてののちは」とあるは非。
【歌意】 月草に衣は摺らうぞ、朝の露に沾れたそのあとには、色が變るともまゝよ〔三字右○〕。
 
〔評〕 花色摺は全く美しい。然し移り易い。朝などの露の多い時、沾れると忽ち斑紋《ブチ》が出來てしまふ。恰も事に觸れて心の變る女のやうだ。でも後の事はともかく、達てその美人に逢はうとの譬喩だ。甚だ輕佻な淫蕩的な作で、血の氣の漲つた作者の若さが想像される。
 
吾情《わがこころ》 湯谷絶谷《ゆたにたゆたに》 浮蓴《うきぬなは》 邊毛奥毛《へにもおきにも》 依勝益士《よりかつましじ》     1352
 
〔釋〕 ○ゆたにたゆたに ゆた/\すること。ゆたに〔三字傍点〕の重言で、「た」の接頭語を加へて「たゆたに」といふ。古今集に「ゆたのたゆたに」とあるは、この轉じたもの。卷二「大船のたゆたふ」はこの語の動詞格。○うきぬな(2138)は 浮蓴菜の如く〔三字右○〕。「ぬなは」は沼繩《ヌナハ》の義で、蓴菜のこと。睡蓮科の宿根草本。葉は楕圓形で、莖葉の背面に寒天樣の粘液がある。夏日暗紅色の花を開く。水中に浮いてゐるので浮蓴菜といつた。○よりかつましじ 寄り敢へまいの意。「ましじ」はまじ〔二字傍点〕の原語。「ありかつましじ」を見よ(三一七頁)。
【歌意】 私の心は、ゆた/\として、恰も池に〔四字右○〕浮いてゐる蓴菜のやうに、岸の方にも沖の方にも、よう〔二字右○〕寄り付き敢へまいて。
 
〔評〕 心がぐら/\して、この分ではどちらにも決着しまいとの譬喩だ。作者が或時或事に當つた折の述懷で、優柔不斷の境地に居ずくまつて、途方に暮れてゐる樣子が、よく表現されてゐる。
 
寄(ス)v稻(ニ)
 
石上《いそのかみ》 振之早田乎《ふるのわさたを》 雖不秀《ひでずとも》 繩谷延弖〔左△〕《しめだにはへて》 守乍將居《もりつつをらむ》     1353
 
〔釋〕 ○わさたを この「を」は「もりつつ」に係る。○ひでず 秀でず。穗が出ずの意。秀《ヒイデ》は冲《ヒイル》の正反だが、 (2139)結局出で〔二字傍点〕も、入る〔二字傍点〕も同意に落ちる。○しめだに 「しめ」は標繩をいふ。「繩」を古訓にはナハ〔二字傍線〕、ツナ〔二字傍線〕など訓んである。○はえて 「弖」は原本に與〔右△〕とあるが、意が通じにくいので改めた。新考も同説。△地圖 挿圖282(九四二頁)を參照。
【歌意】 布留の早稻田を、その稻がまだ〔六字右○〕穗に出ずとも、標繩なりとも張つて、番をしつゝ居らう。
 
〔評〕 まだ生ぶの少女で、一人前にはならずとも、今から自分の物と領じて、嚴しく見張つて居らうとの譬喩だ。氣の永い話だが、それに堪へようとする熱意に、甚しい戀の執着を見る。紫上を引取つた源氏の君の先鞭を著けたやうなもの。
  あしひきの山田つくる子ひでずとも標だにはへよもると知るがね(卷十――2219)
と同調の異趣。或は一つ歌が二樣に傳誦されたものか。
 
寄(ス)v木(ニ)
 
白菅之《しらすげの》 眞野乃榛原《まぬのはりはら》 心從毛《こころゆも》 不念君之《おもはぬきみが》 衣爾摺《ころもにすりつ》     1354
 
〔釋〕 ○しらすげのまぬのはりはら 既出(七一一頁)。○こころゆも 古義訓コヽロヨモ〔五字傍線〕。○すりつ 摺られ〔二字傍点〕つの意。古義訓による。眞淵訓スリヌ〔三字傍線〕。
(2140)【歌意】 眞野の萩原の萩は〔二字右○〕、心からまあ思うてもくれぬ、貴方の衣に摺られたわい。
 
〔評〕 實情のない男に契を結んだ女が、その後悔氣味の感傷を衣摺の所作に託した。これを女の獨言としても聞えるが、思はぬ人の〔二字傍点〕といはず、「君が」の敬稱を用ゐたので見ると、かう詠んでその男に贈つて遣つたものと考へられる。曲折情を生じ、憂思筆端に※[糸+ォ]繞する。
 「心ゆも思はぬ」は女の心としても解せられ、古義もその説であるが、全體から見て不當である。而も上出の
  我が宿に生ふる土針こころゆも思はぬ人の衣に摺らゆな(――1338)
も、事件に未然と既然との相違こそあれ、「心ゆも思はぬ」は男の上に就いていつてゐる。  △自他交錯の種々相(雜考――27參照)
 
眞木柱《まきばしら》 作蘇麻人《つくるそまびと》 伊左佐目丹《いささめに》 借廬之爲跡《かりほのためと》 造計米八方《つくりけめやも》     1355
 
〔釋〕 ○まきばしら 眞木の柱はよい柱である。「まきたつ」を見よ(一七七頁)。○そまびと 杣木を扱ふ人の稱。「そま」は建築材料としての木をいふ。○いささめに 卒爾にも、一寸してもの意。「いささ」のい〔傍点〕は發語、ささ〔二字傍点〕は細小の義、「め」は見え〔二字傍点〕の約。されば聊なる時間をいふ。集中「率」又は「率爾」を訓ませてある。この句を契沖や古義は四句に係けて、聊なる借廬にと解したのは非。
【歌意】 眞木柱を作る杣人は〔右○〕、一寸しても〔右○〕、假廬の柱など〔三字右○〕の爲として、その眞木柱を〔八字右○〕作つたことであらうかいまあ。
 
〔評〕 杣木を抓《ツ》ま取つて眞木柱を作り上げる杣人は、三つ端《バ》四つ端の殿造りを豫想して斧を揮つてゐる。尾花刈り葺く借廬などは、黒木の柱だ。さればその杣人の念頭には借廬などは始からない。この事實を引證して、眞實一途に縁を結んだ自分は、貴女を一時の慰物にしようといふ意思は甞てなかつたとの譬喩だ。
 近頃餘所に通ふ女が出來てとかく男の足が遠退くので、その薄情を怨んで來たのに對して、あれは一時的の借廬同然のもの、お前は私の家の大黒柱にする積りなのだから、もつと長い目で見なさいの意を含んでゐる。果して眞劍の詞か、或は口巧者の辯解か。それは當人の作者でなければわからない。
 
向峯爾《むかつをに》 立有桃樹《たてるもものき》 成哉等《なりぬやと》 人曾耳言爲《ひとぞささめきし》 汝情勤《ながこころゆめ》     1356
 
〔釋〕 ○もものき 薔薇科の落葉木。仲春淡紅色又白色の花を發く。實は外面に毛を有する。○なりぬ 結實《ナ》るに事の成るをかけた。初二句は序詞。○ささめきし 「ささめく」は※[口+耳]《サヽヤ》くに同じい。「耳言」の意訓。○ながこ(2142)ころゆめ 汝が心に愼めの意。
【歌意】 向うの峯に立つてある桃の木、あれが結實《ナ》るやうに、二人の中はもう出來たかしらと、人がさ※[口+耳]いたことであつた。お前の心にきつと氣を付けなさい、知られぬやうに〔七字右○〕。
 
〔評〕 人の目は高い、岡燒半分もう二人の間に噂を立てる。男は喫驚して、今露顯しては大變だと周章てゝ、「汝が心ゆめ」と、女に固い警戒を與へたものだ。
 土臭い若い者同士の桃色の※[口+耳]、又一種特異な響を傳へる。
 
足乳根乃《たらちねの》 母之其業《ははのそのなる》 桑尚《くはすらも》 願者衣爾《ねがへばきぬに》 著常云物乎《きるといふものを》     1357
 
〔釋〕 ○ははのそのなる 母の園にある。「其」は園〔傍点〕の借字。「業」は助動詞のナル〔二字傍点〕に充てた借字。舊訓竝に類本の訓による。元本古本神本等にソノフノ〔四字傍線〕と訓んであるのも、「其」を園の意に取るべき證である。「業」を業はひの意に、古義は解したが、其《ソ》の業《ナル》は語が不熟である。○くはすらも 契沖は「桑」の下子〔右○〕の脱字として、クハコスラ〔五字傍線〕と訓んだ。舊訓クハモナホ〔五字傍線〕。○くは 桑。桑科の落葉喬木。○ねがへば 希《コヒネガ》へばの意。かうしようと希望するをいふ。○きぬにきる 衣に著らる〔二字傍点〕の意。能動詞の著らる〔三字傍点〕を他動詞に著る〔二字傍点〕といふは正格ではないが、被動の摺られ〔三字傍点〕を他動に摺り〔二字傍点〕といふ如く、慣用による變格であらう。これを絶對に認めないとすれば、「著」は誤字となる。新考は變〔右△〕の字などの誤にて、キヌニナル〔五字傍線〕と訓むべしといつた。
(2143)【歌意】 母の園にあるあの桑でさへも、思ひ立ち次第で、遂には衣にして著られるといふものを。――二人の中も、何で願うて成らぬ事があらうぞ。
 
〔評〕 母親は先に立つて飼蠶の業にいそしむ。故に「母の園なる桑」といふ。さてその桑が飼蠶によつて絲となり、遂に織られて衣となるのだから、結果からは桑が衣に著られるといへる。この聯想の飛躍は可能な事も不可能らしい錯覺を與へる。さうしておいて、その實現されてゐる事實を以て證據として、およそ心に願へば世に成らぬ事はないと托言した。周圍の故障の多い爲に二の足を踏んで躊躇してゐる男を、女の激勵した詞として聞かう。古義に母に願へば〔五字傍点〕とあるは條理が立たない。
 
波之吉也思《はしきやし》 吾家乃毛桃《わぎへのけもも》 本繋《もとしげく》 花耳開而《はなのみさきて》 不成在目八毛《ならざらめやも》     1358
 
〔釋〕 ○はしきやし この句「毛桃」に係る。既出(五一八頁)。○わぎへ 既出(一五〇〇頁)。○けもも 桃の木のこと。桃の實は外面に毛があるのでいふ。○もとしげく 「もと」は幹をいふ。元本訓モトシゲミ〔五字傍線〕は有意的になり過ぎる。
【歌意】 私の家のいゝ毛桃の木よ〔三字右○〕、幹が茂くて花ばかり咲いて、そして實の〔五字右○〕結らぬことがあらうかい。
 
〔評〕 契沖いふ「約する言のみありて、實《ジツ》のなからむやと譬ふる也」と。上の「向つをに立てる桃の木」もこれ(2144)も野趣味が漂うて、毛詩の桃夭の章を一寸聯想させる。彼れは周召の雅言、これは鄭衛の靡音と郤けるかも知れないが、それは風教上の論議である。但何れも格調が高いとはいはれない。
  見まくほり戀ひつつ待ちし秋萩は花のみ咲きて成らずかもあらむ(本卷――1364)
  吾妹子がかたみの合歡花《ネブ》は花のみに咲きて蓋しく實はならじかも(卷八――1463)
などはこの類想。
 
向岡之《むかつをの》 若楓木《わかかつらのき》 下枝取《しづえとり》 花待伊間爾《はなまついまに》 嘆鶴鴨《なげきつるかも》     1359
 
〔釋〕 ○わかかつら 「楓」は女桂《メカツラ》。槭樹《カヘデ》ではない。楓、桂二字、通はせて充てたと思はれる。桂は北部の山地に自生する桂科の落葉喬木。葉は心臓形で對生し、早春葉より先に紅色の花を着ける。俗に賀茂がつらといふ。○しづえとり 下枝を手に持つの意。○はなまついまに 花待つ間にの意。「い」は接頭語。卷十にも「春風に亂れぬい〔傍点〕まに見せむ子もがも」とある。
【歌意】 向うの峯の、若かつらの樹の下枝を取持つて、この花咲くは何時と〔三字右○〕待つその間を、もどかしく〔五字右○〕歎いたことよ。
 
(2145)〔評〕 契沖いふ、童女に契りてその盛を待つに譬へたりと。若楓では秋の色盛りまでは久しい。これ下枝を執つて惆悵する所以である。好色《スキ》者なるかなだ。
 
寄(ス)v花(ニ)
 
氣緒爾《いきのをに》 念有吾乎《おもへるわれを》 山治左能《やまぢさの》 花爾香君之《はなにかきみが》 移奴良武《うつろひぬらむ》     1360
 
〔釋〕 〇いきのを 既出(一二六七頁)。○われを 吾なる〔二字右○〕をの意。○やまぢさ ちさの木、又エゴノ木。和名抄に「賣子木、和名|賀波知佐乃《カハチサノ》木」とあるもこれか。山野に自生し、高さ丈餘、葉卵形にして尖る。初夏葉の間に五瓣の白花を開く。香氣あり。實は赤橿の如くにて、長さ三分許。秋熟して褐色の種子を噴く。傘の轆轤に作るので、俗にロクロ木と稱する。○やまぢさの 花に係る序。古義に、山ぢさの移ろふやうに心變り云々と解いたのは非。○はなに アダに。花は散り易いので、浮華または空の意に代用された。卷八に「梅の花花に訪はむとわが思はなくに」「わぎへの梅を花に散らすな」、古今集の序に「人の心花になりけるより」などの花〔傍点〕もこの意。
(2146)【歌意】 懸命に、貴方を思つてゐる私なのを、あだに貴方が、心の〔五字右○〕移つたであらうかしら。
 
〔評〕 自分の立場を中心として、男の煮え切らぬ態度に、怨恨の情を叙べた。下句「か」の疑辭を挿んで一分の餘裕を遺し、哀婉窮りがない。すべて譬喩の意は稀薄であるが、「花に」「移ろひ」などの縁語に修飾されてゐる。
 「山ぢさ」は、卷十一に「山ぢさの白露おもみ]、卷十八に「ちさの花咲ける盛りに」なども見えて、その花の鈴成りに梢頭が白了した趣は格別であり、且その清香は馥郁たるものなので、屡ば詞人の口頭に上つたものだらう。
 
墨吉之《すみのえの》 淺澤小野之《あさざはをぬの》 垣津幡《かきつばた》 衣爾摺著《きぬにすりつけ》 將衣日不知毛《きむひしらずも》     1361
 
〔釋〕 ○あさざはをぬ 淺澤小野。攝津國東成|墨江《スミノエ》村。地名辭書に、「住吉社の南に一條の窪地あり、東南|依網《ヨサミノ》池に連る。今闢きて田となし細流存す」とある。その沼に燕子花の外、千載集には、花かつみを詠み合はせた歌がある。○きむひ 日は時といふに同じい。○しらず 知られ〔右○〕ずの意。
【歌意】 住吉の淺澤小野の燕子花を〔右○〕、衣に摺り付けて、着よう時は、何時ともわからぬわい。
 
〔評〕 燕子花の摺衣は初夏を象徴する派手衣で、野駈けの藥獵に草の露や物の汚れを防ぐ爲に、古人は上襲《ウオソ》ひ即ち上つ張として羽織つたものと想はれる。
(2147)  かきつばた衣に摺り付けますらをの著襲《キソ》ひ獵する時は來にけり(卷十七、家持――3921)
がそれである。まことこの花は紫の色が濃く瓣が大きく汁も多いから、染料には持つて來いであらう。果然造紙にも、胡桃染、比佐宜《ヒサギ》染、木芙蓉染に並べて垣津幡染がある。
 藥獵は推古天皇紀や天智天皇紀では五月五日の行事である。然るにこの歌には「著む日知らずも」とある。蓋し奈良時代に入つては日を一定せず、初夏の間都合次第で行はれたらしい。卷十六に「四月《ウヅキ》と五月《サツキ》のほどに藥獵仕ふる時に」と見え、前掲の卷十七の家持の歌の端書には「四月五日」と記してある。
 作者は今住吉の里で、燕子花に擬へる程の美人を獲た。獲たといつても、まだ懸想程度かもしくは稍それが進展した位の處であらう。全く手に入れてわが物と領ずる時期は、何時の事やらわからない。されば「衣に摺りつけ著む日知らずも」と、事の成る日の待遠なことを寄托して歎思した。意詞渾成、天衣無縫の觀がある。
 
秋去者《あきさらば》 影毛將爲跡《うつしもせむと》 吾蒔之《わがまきし》 韓藍之花乎《からゐのはなを》 誰採家牟《たれかつみけむ》     1362
 
〔釋〕 ○うつしもせむと 染め移しもせうと。「影」は影寫の意でウツシに充てた借字。宣長が移〔右△〕の誤とし、古義もそれに同じたのは却て非。古義は「毛」も爾〔右△〕の誤とし、ウツシニセムト〔七字傍線〕と訓む説を提出したが穿鑿である。○からゐ 既出(八八〇頁)。
【歌意】 秋になつたら、その花を〔四字右○〕染め移しもせうと、私が蒔いたことであつた韓藍の花を、誰れが摘み取つたのであらうか。
 
(2148)〔評〕 時期が來たら吾が物にすべく、心に占めておいた童女を、何人にか取られて殘念との譬喩だ。上にも「葛城の高間のかや野早しりて」の同意の作が見え、まだ/\と油斷してゐる間に、他の懸想人の手中に歸してしまふ。かうした哀話は昔の結婚道中にはよくあつた事だ。幽怨の意に富んでゐる。
 
春日野爾《かすがぬに》 咲有芽子者《さきたるはぎは》 片枝者《かたつえは》 未含有《いまだふふめり》 言勿絶所〔左△〕年《ことなたえそね》     1363
 
〔釋〕 ○かたつえは 略解訓による。○ふふめり 含んでゐる。蕾なるをいふ。
【歌意】 春日野に咲いた萩は、まだ片枝は蕾である。それに似て〔五字右○〕、成人に近い童女のことだ。音づれは絶やすなよ〔右○〕。
 
〔評〕 結婚適齡期に近く、一廉の情趣を解する女では、風前の花で脇見もされない。監視かた/”\注意を此方に惹き付けておく必要がある。「言《コト》な絶えそね」は尤もな忠告といはう。この忠告者はその尊長か或は媒人か。
 
欲見《みまくほり》 戀管待之《こひつつまちし》 秋芽子者《あきはぎは》 花耳開而《はなのみさきて》 不成可毛將有《ならずかもあらむ》     1364
 
〔釋〕 ○ならず 實の〔二字右○〕結《ナ》らず。
(2149)【歌意】 見たく思うて、戀ひ/\して待つた萩は、花ばかり咲いて、實が〔二字右○〕結《ナ》らずにあらうことかまあ。
 
〔評〕 童の時分からわが物にしたく待ち焦れてゐた女は、今は成人したものゝ、この戀は成就しかねようかしらとの譬喩だ。何だかそんな面白からぬ豫感があつての作だらう。萩の實は即ち芽子で、問題にする程の物ではない。只事の成るの縁語として撮合したまでである。
 
吾妹子之《わぎもこが》 屋前之秋芽子《やどのあきはぎ》 自花者《はなよりは》 實成而許曾《みになりてこそ》 戀益家禮《こひまさりけれ》     1365
 
【歌意】 私の思ふ兒の庭の萩、それは〔三字右○〕花の間〔二字右○〕よりは、實になつてさ、戀しい思がまさるわい。
 
〔評〕 萩は花のうちこそ風趣はあるが、實になつてからは詰らないもの。それに引換へ自分の戀は、實になつて即ち逢つてからが餘計に戀しくて溜らぬと、驚訝した。實はそれが戀の常態であるのを、わざと我妹子の宿の萩に寄托して一波瀾を描き、その熱意のほどを我妹子に示したのである。
 以上三首を、略解に「同一人の作なるべし」とある。いかにも戀の行程は次第を逐うてゐるものゝ、第一首は春日野の萩、この首は我妹子の宿の萩で、場處がまち/\である。作者は違ふが、おなじ取材での同逕路の作だから、一括して順序に記載したものと見てよからう。
 
(2150)寄(ス)v鳥(ニ)
 
明日香川《あすかがは》 七瀬之不行爾《ななせのよどに》 住鳥毛《すむとりも》 意有社《こころあれこそ》 波不立目《なみたてざらめ》     1366
 
〔釋〕 ○ななせのよど 既出(一五〇一頁)。「不行」をヨドと訓むは、「七瀬の」を承けた意訓である。○こころあれこそ 心あれば〔右○〕こその意。古格。訓は拾穗抄、代匠記による。舊訓コヽロアレバコツ〔八字傍線〕は非。
【歌意】 飛鳥川の、幾瀬もの淀に棲む水鳥も、料見があれば〔右○〕さ、波も立てないのであらう。
 
〔評〕 「心あれこそ波立てざらめ」は種々の場合に應用が利くが、情的問題の範圍でのみ考へると、男の不實を怨みながらも尚辛抱して、冷靜な態度で居ようと力めてゐる作者が、折柄飛鳥川の幾つもの淀瀬に、水鳥が事もなげに長閑に浮いてゐるのを見て、自己の境遇に比擬しての感想であらう。されば「住む鳥も」といつてゐる。欝積した情怨の發露で、その波立てぬ處に、女人の温順な尊さがある。飛鳥川に七瀬をいふのは、土地が急勾配なので、自然的にも人工的にも、淀瀬の數が多いからである。
 こゝの歌の譬喩の意、代匠記、略解、古義、新考等の解は、皆的が外れてゐる。
 
寄(ス)v獣(ニ)
 
(2151)三國山《みくにやま》 木末爾住歴《こぬれにすまふ》 武佐左妣乃《むささびの》 此〔左△〕待鳥如《とりまつがごと》 吾俟將痩《わがまちやせむ》     1367
 
〔釋〕 ○みくにやま 越前、伊賀、若狹、上野等にあるが、尚越前國坂井郡三國神社のある三國山か。有名な北陸の要津たる三國湊の附近なので、吟詠に上つたのだらう。山は岡山に近いもので、高くはない。○こぬれ 「こぬれがくりて」を見よ(一四七四頁)。○とりまつがごと 「鳥」の上の此〔右△〕は衍字。○わがまちやせむ 「わが」を略解にワヲ〔二字傍線〕、古義にワレ〔二字傍線〕と訓んだ。舊訓によつた。
【歌意】 三國山の梢に住んでゐる※[鼠+吾]鼠が、獲物の〔三字右○〕鳥を待つやうに、私が貴方のお出を〔六字右○〕、待ちつゝ痩せかへるでせう。
 
(2152)〔評〕 ※[鼠+吾]鼠は夜獣で、宿鳥《ネトリ》を襲ふ。作者は※[鼠+吾]鼠の生活状態を知らず、その晝のうち樹間に閉息してゐる状を見て、餌鳥を待つものと解し、それを待ち久しき譬喩とした。
 
寄(ス)v雲(ニ)
 
石倉之《いはくらの》 小野從秋津爾《をぬゆあきつに》 發渡《たちわたる》 雲西裳在哉《くもにしもあれや》 時乎思將待《ときをしまたむ》     1368
 
〔釋〕 ○いはくらのをぬ 岩倉の小野。秋津にいひ續けたのでみると、必ず吉野離宮の所在地秋津野の附近であらねばならぬ。秋津野の北邊を局つてゐる人國山の山裔が西へと延びた平夷な岡が、吉野川の北岸に迫り、その岡根沿ひの小平地を土人は岩戸《イハド》と稱してゐる。即ち石倉の訛であらう。秋津野の西偏に當る。岡の彼方は楢井の里である。○くもにしもあれや 雲であれよの意。「あれや」を見よ(一六七〇頁)。△地圖 前出挿圖527(二一三〇頁)を見よ。
【歌意】 石倉の小野から、秋津野に立ち渡る雲でさまあ、自分が〔三字右○〕あればよいわ。そして〔三字右○〕時期の到來をさ待たうよ。
 
〔評〕 川向の御船の山には雲が常に去來するが、卷四に「秋津野にたなびく雲のすぐといはなくに」ともあつて、岩倉秋津邊の山野にも時により雲靄の搖曳を見るのである。元來が日受けの野だから、それも極めて稀にしか立たない。作者は今珍しく岩倉から秋津へと野を走る雲を見て、時が來ればこんな現象もある、自分の戀もさ(2153)うあせらずに、成るべきその時を待たうと、分別した趣である。「雲にしあれや」は卷六の「鵜にしもあれや」と同詞態で、雲の如く〔四字傍点〕にあれといふべき處を「雲にしあれ」と直言したので、そこに切迫した感情が現れてゐる。さて「し」の強辭の重疊、一寸耳障りになるが、一面には諧調の得もあつて、一概に難としにくい。
 この歌の解、諸註悉く要領を得ない。
 
寄(ス)v雷(ニ)
 
天雲《あまぐもに》 近光而《ちかくひかりて》 響神之《なるかみの》 見者恐《みればかしこく》 不見者悲毛《みねばかなしも》     1369
 
〔釋〕 ○あまぐもに 空にといふに同じい。○かしこく 新考訓に從つた。舊訓カシコシ〔四字傍線〕。○なるかみの 鳴る神の如く〔二字右○〕。鳴るは動詞に用ゐた。以上三句は「見れば畏し」に係る序詞。
【歌意】 大空に近く光つて鳴る神(雷)のやうに、貴女樣を〔四字右○〕、見れば畏縮されて〔五字右○〕こはいし、見なければ又戀しくて〔五字右○〕悲しいわい。
 
〔評〕 對手は餘程身分の高い婦人と見えた。或は反對に作者の方が餘程身分の卑いのかも知れない。戀に上下の隔がないとはいへ、理性と慣習とは、作者の感情に「見れば畏し」を強ひた。さりとて逢はずに居れば涙の溢れる程戀しい。この矛盾した二つの感情を漸層的に竝叙して、情理の岐路に彷徨ふ憐れな小羊を點出した。
(2154) 「天雲に近く光りて鳴る神」は頗る跌宕を極めた豪句である。下句はその反説的漸層の辭樣に依つて、纔に力の均衡を保ち得た。
 
寄(ス)v雨(ニ)
 
甚多毛《はなはだも》 不零雨故《ふらぬあめゆゑ》 庭立水《にはたづみ》 大莫逝《いたくなゆきそ》 人之應知《ひとのしるべく》     1370
 
〔釋〕 ○はなはだも 「多」は「甚」をハナハダと訓ませる爲の添字。但字のまゝに、この句をイトサハモと訓まれぬ事もない。古義はコヽダクモ〔五字傍点〕と訓んだ。○にはたづみ 既出(四八八頁)。○いたくなゆきそ 水の逝くは流るゝこと。「大」は太〔二字右○〕と通用。誤ではない。
【歌意】 さう酷くも降らぬ雨なのに、この潦水よ、餘り多くは流れるなよ、人が變だと氣付きさうなことで〔四字右○〕。
 
〔評〕 略解に「逢ひ見ることの少なきに、人の知るばかり色に出づなといふを添へたり」とある。偶ま雨水が聚つて、思の外に庭潦が多量に流れるのを見て起つた感想で、さう旨い譬喩でもない。
 
久堅之《ひさかたの》 雨爾波不著乎《あめにはきぬを》 恠毛《あやしくも》 吾袖者《わがころもでは》 干時無香《ひるときなきか》     1371
 
(2155)【歌意】 雨降には著もせぬもの〔二字右○〕を、不思議にまあ、私の袖は、乾く時がないのかえ。
 
〔評〕 打任せての袖の涙は、戀の故と大抵相場はきまつてゐる。初二句は三句以下の爲の襯染で、矛盾を扱つた小技巧に墮し、「あやしくも」も婉味を殺ぐが、涙の語を道破せぬ處はこの作の特徴でもあらう。「なきか」の疑問で餘韻を搖曳させた表現もよい。古義に「人の知るばかりに忍びなる思にこぼるゝ涙は、いたくな流れそ」とあるは、見當違ひに解き過ぎだ。
 
寄(ス)v月(ニ)
 
三空往《みそらゆく》 月讀壯士《つくよみをとこ》 夕不去《ゆふさらず》 目庭雖見《めにはみれども》 因縁毛無《よるよしもなし》     1372
 
〔釋〕 ○つくよみをとこ 既出(一七四〇頁)。尚「つくよみ」(一二九〇頁)を參照。○ゆふさらず 既出(八三四頁)。○よるよし 近寄る手段。
【歌意】 大空をゆく月讀男よ、夕方缺かさず目には見るけれども、そばに寄り付く手だてもないわ。
 
〔評〕 婦人が月に寄せての詠歎で、餘所にのみ男の姿を何時も/\見るが、近づくすべもないとの譬喩だ。「月讀男」の擬人はその戀男を特別なよい人の如く聯想せしめる。然し早まつて必ず貴人だと斷定してはならぬ。端(2156)から見ては可笑しい程の相手でも、太陽が御光を刺してゐるかのやうに感ずるのが戀である。
  目には見て手には取らえぬ月のうちの楓《カツラ》の如き妹をいかにせむ(卷四、湯原王――632)
はこの類想で、更に高處を行くもの。
 
春日山《かすがやま》 山高有良之《やまたかからし》 石上《いそのうへの》 菅根將見爾《すがのねみむに》 月待難《つきまちかてぬ》     1373
 
〔釋〕 ○いそのうへの 石のほとりの。この「石上」をイソノカミ〔五字傍線〕と地名に訓む宣長説は、地理的にも不當。舊訓イハノウヘノ〔五字傍線〕。○すがのね 「ね」は輕くいひ添へた語で、單に菅といふに同じい。眞淵は「根」を實〔右△〕の誤とし、又宣長は「菅根」を舊郷〔二字右△〕の誤として、三句よりイソノカミフルサトミム〔十一字傍線〕ニと訓み續けた。何れも牽強を免れない。○つきまちかてぬ 眞淵訓による。古義訓ツキマチガタシ〔七字傍線〕。
【歌意】 春日山は、山が高くあるらしい。そのせゐかして〔七字右○〕、岩間の菅を見よう爲〔右○〕に、月を待ちかねたわい。
 
〔評〕 懇に話したい事もあるのに、今宵はどうした事か、待ちあぐむ程男が姿を見せぬ、さては何か大きな故障があるらしいとの譬喩だ。但單なる月待つ歌としても十分に面白い。「石の上の菅の根見むに」は繊細ながら、流石に奈良人らしい著想。
 諸註、この譬喩の意を解し忘れてゐる。
 
(2157)闇夜者《やみのよは》 辛苦物乎《くるしきものを》 何時跡《いつしかと》 吾待月之〔左△〕《わがまつつきの》 早毛照奴賀《はやもてらぬか》     1374
 
〔釋〕 ○いつしかと 何時かと。早晩の意ではない。「し」は強辭。○つきの 「之」原本に毛〔右△〕とある。眞淵説によつて改めた。
【歌意】 闇夜は厭《イヤ》なものを、何時か/\と、私の待つ〔二字右○〕月が、早くまあさし出ぬことかえ。
 
〔評〕 夕暮に來通ふ男を下待つ婦人の作で、月を男に擬へ、獨居は切ないものを、あの待つ君は早く來ぬことかとの譬喩だ。
 一考するに、この歌は譬喩歌の條下に攝したのが誤で、男のある女が月の出を待つ感懷かも知れない。とすれば本文のまゝ「月毛」で歌意は通ずる。然し譬喩と見て「月之」とした方が歌は面白い。
 
朝霜之《あさしもの》 消安命《けやすきいのち》 爲誰《たがために》 千歳毛欲得跡《ちとせもがもと》 吾念莫國《わがもはなくに》     1375
 
〔釋〕 ○あさしもの 朝霜の如く〔二字右○〕。
【歌意】 朝霜のやうに消え易い生命、それを誰れの爲に千年もありたいと、私は思ひはしませんによ。――皆貴方の爲にですよ〔八字右○〕。
 
(2158)〔評〕 「人生如(シ)2朝露(ノ)1」(漢書、文選)は、ソロモンの言にも見えたことで、洋の東西を問はず、この人生觀は古代から持續されたもの。况や佛教全盛時代の當時では、尋常茶飯語であつた。霜でも同じ事だ。然しこの定理に背いてまで長生を願ふは、愛の恒久を欲するが爲、君が爲だといふ。この人情は比翼連理を天地の間に契るのに同じい。盲目的戀愛の一歩手前にある作で、幾分の分別に著してゐるが、逆説的表現に姿致があり、歇後の辭樣に餘情を殘してゐる。卷十一に
  ちはやぶる神のたもてる命をも誰れが爲にか長く欲りする(――2416)
と同意同調の作だが、「けやすき命」は稍露骨でもあり、又對映が親貼に過ぎて、「神のたもてる命」の蘊含の味あるに及ばない。
 
右一首者、不(ル)v有(ラ)2譬喩歌(ノ)類(ニ)1也。但闇(ノ)夜(ノ)歌(ノ)人|所心之《オモヒアリテノ》故(ニ)、並《マタ》作(メリ)2此歌(ヲ)1。因(リテ)以(テ)2此歌(ヲ)1、載(ス)2於此|次《ツイデニ》1。
 
右の「朝霧」の一首は譬喩歌の類ではない。但上の「闇の夜は」の作者が思ふ所があつたので、序に又此歌を詠んだ。因つて此歌をこの順に書き載せたとの意。○所心 所思と同じい。集中卷十七「於v是悲2傷覊〔馬が奇〕旅1各陳2所心1作歌」の外、處々に見える。
 
寄(ス)2赤土《ハニニ》1
 
○赤土 ハニと訓む。黄土もハニと訓む。ハニは映土《ハニニ》の略だから、赤黄いづれの土にも通用する語。但區別を(2159)要する場合には、赤土はアカハニと呼ぶ。尚「はにふ」の條の「はに」の項を參照(二四八頁)。
 
山跡之《やまとの》 宇※[こざと+施の旁]乃眞赤土《うだのまはにの》 左丹著《さにつかば》 曾許裳香人之《そこもかひとの》 吾乎言將成《わをことなさむ》     1376
 
〔釋〕 ○やまとの 四言の句。○うだのまはに 今大和宇陀郡内牧村に大字|赤埴《アカバネ》がある。八瀧の東北にある山。アカバネはアカハニの轉語。こゝにいふ眞赤土の産地。○まはに 「ま」は美稱。○さにつかば 赤土の染み著くを、さにつく〔四字傍点〕といふ。それに似着く〔三字傍点〕をいいかけて、初二句を序詞とした。似著くは似寄ること。「さ」は美稱。「に」は丹土即ち赤土のこと。○そこもか 既出(一一〇七頁)。
【歌意】 倭の宇陀の眞赤土が、衣に丹著《ニツ》くといふやうに、似附《ニツ》かうなら、それをも餘所の人達が、何か譯のあるやうに、私をいひなさうかしら。
 
〔評〕 婦人の作だらう。好きな人には夫婦らしく似合つて見られたい。がさう似合つたら、人が彼れこれいふだらうかとの心配。
  秋の田の穗田の刈りばかかよりあはばそこもか人の吾《ワ》を言《コト》なさむ(卷四、草孃歌――512)
(2160)と下句は全く同一だが、こゝは譬喩歌の條下なので、上句を序詞としてかう解する事にした。もし「秋の田の」の歌の如く、上句を實事として見ると、或男が、宇陀處女達が土産の赤土摺《ハニズリ》布を製造してゐる處に往き合ひ、その赤土が一寸でも自分の著物に附いたら、何かその女達と譯のあつたやうに人に噂されるだらうの意となつて、愈よ面白からうと思ふ。尚「秋の田の」の歌の評語を參照(一一〇七頁)。
 
寄(ス)v神《カミニ》
 
木綿懸而《ゆふかけて》 祭三諸乃《まつるみもろの》 神佐備而《かむさびて》 齋爾波不在《いむにはあらず》 人目多見許曾《ひとめおほみこそ》     1377
 
〔釋〕 ○ゆふ 「やまべまそゆふ」を見よ(四四二頁)。○まつる 古義訓イハフ〔三字傍線〕は鑿。○みもろ 「みもろの」を見よ(一八九四頁)。○かむさびて 「かむさびせすと」を見よ(一五三頁)。以上三句は「齋む」に係る序詞。この句を下に續けて、古びて即ち年寄つての意に、略解古義などに解してあるのは、詞も調はず、實状にも打合はない。○いむ (1)齋ひ清まはる。(2)忌み嫌ふ。こゝは上句の神につけては(1)の義、下句につけては(2)の義を用ゐていひ續けた。
【歌意】 木綿を取懸けて祭する、御室の神の神すさびて、清まはり忌むやうに、貴方を忌み嫌ふのではありません。人目が多さにさ、よう逢はぬのであります〔十一字右○〕。 
(2161)〔評〕 親などの許さぬ中だらう。男と違つて女は家に居るのだから、竊び逢ふには一層苦勞する。時により場合により、折角來た男を追ひ返すことがある。それで女に異心があるやうに男が怨んで來たのに對しての辯解である。一切はこれ「人目多みこそ」で、決して貴方を嫌ふのではありません、私の苦衷を少しは察して下さいといひたげな口振である。
 
木綿懸而《ゆふかけて》 齋此神社《いはふこのもり》 可超《こえぬべく》 所念可毛《おもほゆるかも》 戀之繁爾《こひのしげきに》     1378
 
〔釋〕 ○いはふこのもり 「神社」又は社をモリと訓むことは上出。訓は類本神本古葉等による。契沖訓イムコノモリモ〔七字傍線〕はモ〔右・〕の辭によつて意は明晰になるが、無くてもその意は聞かれる。
【歌意】 木綿かけて齋き祀つた社さへも〔三字右○〕、超えて往きさうに、思はれることよ、この〔二字右○〕戀心のはげしさにさ。
 
〔評〕 上と一聯の贈答で、贈歌に「人目多み」でといつて來たのに對して、自分はそんな人目などは頓著しません、逢はうが爲には神の社の忌垣でも乘り越しますと、女の心を淺いやうにいひ腐した。贈答の體の常格である。
  千早ぶる神の忌垣も越えぬべし今はわが名のをしけくもなし(卷十二、――2663)
と同想で、これは下句の説明的表現が、稍その熱度の低さを感ぜしめる。なほ
  千早ぶる神の社しなかりせば春日の野べに粟蒔かましを(卷三、娘子――404)
(2162)  春日野に粟蒔けりせば鹿待につぎてゆかましを社しるとも(同上赤麻呂――405)
など、皆萬葉人の敬神の念が基本となつての構想である。
 新考に、贈歌の意を承けずして辭を承けたる例なりとあるはいかゞ。立派に辭も意も承けての趣向である。
 
寄(ス)v河(ニ)
 
不絶逝《たえずゆく》 明日香川之《あすかのかはの》 不逝有者《よどめらば》 故霜有如《ゆゑしもあるごと》 人之見國《ひとのみまくに》     1379
 
〔釋〕 〇よどめらば 「不逝有者」の意訓。元本訓による。古今集(戀四)にこの歌を載せて、ヨドミナバ〔五字傍線〕とあり、類本古葉神本元本一訓はユカズアラバ〔六字傍線〕とある。契沖は後の訓を採つた。○みまくに 古義訓による。舊訓ミラクニ〔四字傍線〕。
【歌意】 經えず流れて行く、あの〔二字右○〕飛鳥川が、もし〔二字右○〕滯らうなら、何か仔細のあるやうに、人が見ようにさ。
 
〔評〕 常に行き通ふのを、もし途絶えしたら、異心でもあるやうに、女は思ふだらうとの譬喩だ。何かの事情によつて夜離《ヨガレ》を餘儀なくされる男の述懷で、作者はかう心配する程の眞實男なのだ。
 
明日香川《あすかがは》 湍瀬爾玉藻者《せぜにたまもは》 雖生有《おひたれど》 四賀良美有者《しがらみあれば》 靡不相《なびきあはなく》     1380
 
(2163)〔釋〕 ○しがらみ 「しがらみわたし」を見よ(五二三頁)。○なびきあはなく 新考訓による。古本の訓多くはナビキアハナクニ〔八字傍線〕とある。奮訓ナビキモアハズ〔七字傍線〕。
【歌意】 飛鳥川の瀬毎に、藻は生えてゐるけれど、間に柵があるので、瀬毎の〔三字右○〕藻が靡き合ひもしないことよ〔三字右○〕。
 
〔評〕 飛鳥川は上流こそ「昨日の淵ぞ今日は瀬になる」(古今集)で急流だが、雷岳を過ぎて飛騨邊にくると、玉藻のある平瀬になる。されば處々に柵を懸けて水を堰いて使用してゐたと見える。その趣の作が集中に幾らも見える。だから上つ瀬の藻と下つ瀬の藻とは柵に隔てられて、一緒に靡き合ふことはない。その如く我等二人の間には嚴しい邪魔があつて、一緒になり得ないと歎息した譬喩だ。意詞渾成して哀怨の味ひが永い。
 但卷二の「明日香の河の、上つ瀬に生ふる玉藻は、下つ瀬に流れ經らばへ」は、本文の事實の正反對を語つてゐるが、そねは間に柵のない瀬々なのである。
 
(2164)廣瀬川《ひろせがは》 袖衝許《そでつくばかり》 淺乎也《あさきをや》 心深目手《こころふかめて》 吾念有良武《わがおもへらむ》     1381
 
〔釋〕 ○ひろせがは 大和廣瀬郡川會(今北葛城郡箸尾村)。佐保川、百濟川、葛城川の諸水會湊して廣瀬となれる處の稱。川合には有名な廣瀬神社がある。○そでつくばかり 「つく」は漬《ツ》くにて、漬《ツ》かること。「衝」は借字。初二句は「淺き」に係る序詞。○あさきをや 淺き人〔右○〕をや。○こころふかめて 心を深くして。熱心に。○おもへらむ 思ひてある〔五字傍点〕らむの約略。
【歌意】 廣瀬川が、徒渡りすれば、やつと〔三字右○〕袖が漬かる位淺いやうに、淺い心の人を、深く思ひ込んで、自分は戀うて居るのであらうか。
 
〔評〕 馬鹿なことゝ聊か自省してゐる。「淺き」に「深めて」の懸け合はせなど、小細工の感はあるが、愛の均衡を欲求するはこの道の常情だから、そこに作者の眞實がある。
 「袖漬くばかり」は、催馬樂にも「澤田川袖漬くばかり淺けれど」と歌はれてある。古代の衣の袖たけは、今の金尺の七八寸位に當るから、現代人の袖で考へると可成開きがある。がこゝは徒渉に堪へる程度の淺さを叙べたに過ぎない。
(2165) 又廣瀬川を廣瀬に注ぐ葛城川の一稱とする説もある。それは廣瀬川が衆水の會湊する爲水量が多いので、「袖漬くばかり淺き」に適確でないとした考方から來たものと思ふ。すぐそばに本當の廣瀬があるのに、支流たる葛城川を廣瀬と稱する筈もなく、また廣瀬川とて、さう水量の多い處ばかりはない。瀬によつて淺い處も出來よう。
 本集中河川の徒渉に言及した作が折々ある。これは當時橋梁の少なかつたことを語るもので、或は衣を※[塞の土が衣]げて渡り、或は馬を乘り入れて渡る。平安京となつても鴨川を徒渉したり、牛車を乘り入れたりしたものだ。金葉集の連歌に「鴨川を鶴脛にして渉るかな」の句がある。
 
泊瀬川《はつせがは》 流水脈〔左△〕之《ながるるみをの》 絶者許曾《たえばこそ》 吾念心《わがもふこころ》 不遂登思齒目《とげじとおもはめ》     1382
 
〔釋〕 ○みをの 「脈」原本に沫〔右△〕とあるは誤。古義説による。△寫眞 挿圖419(一七四七頁)を參照。
【歌意】 初瀬川の流れる水筋が、絶えたらばさ、私の戀する心(2166)は、末〔二字右○〕遂げまいと思はう。――だが初瀬川の水脈の絶えることは無いから、この戀は末の遂げることであらうぞ〔だが〜右○〕。
 
〔評〕 自慰の詞である。かうした反説的の表現は、含蓄味を強要するもので、蘊藉の味は稍乏しくなる恐れもあるが、一節面白い處はある。
  泉河ゆく瀬の水の絶えばこそ大宮どころうつろひゆかめ(卷六――1054)
  あめ地といふ名のたえてあらばこそ汝《イマシ》とわれとあふ事やまめ(卷十一――2419)
又は上宮法皇帝説の「いかるかや富の小川の絶えばこそ」、古今集の「君をおきて仇し心をわがもたば」の類、詞人の慣用手段である。そのもと盟誓的の意旨から出發して、時に一種の禁呪《マジナヒ》に近い性質のものにまで移行してゐる。
 
名毛伎世婆《なげきせば》 人可知見《ひとしりぬべみ》 山川之《やまがはの》 瀧情乎《たぎつこころを》 塞敢而有鴨《せかへたるかも》     1383
 
〔釋〕 ○しりぬべみ 知りぬべくて〔二字傍点〕。この「み」は輕い意の用法。○やまがはの 「たぎつ」に係る序。○たぎつこころ 沸き立つ心。逸《ハヤ》る心。○せかへたる 「せかへ」は堰き〔二字傍点〕の延言。「敢」は借字。字によつて敢へ〔二字傍点〕の意に解くは非。
【歌意】 溜息を吐かうなら、人が知りさうなので、沸き立つ心を、自分で〔三字右○〕堰き止めたことかいな。
 
(2167)〔評〕 人目をつゝむ戀の切なさを歌つた。縁語の取成しだけで、譬喩歌といふには不當である。
  言《コト》にいでていはばゆゝしみ山川のたぎつ心をせかへたりけり(卷十一、――2432)
と同趣で、殆ど甲乙がないといひたいが、簡淨の點に於いて、これは彼れに劣る。
 
水隱爾《みこもりに》 氣衝餘《いきづきあまり》 早川之《はやかはの》 瀬者立友《せにはたつとも》 人二將言八方《ひとにいはめやも》     1384
 
〔釋〕 ○みこもりに 水中に籠るをいふ。○いきづきあまり 息吐き足らぬこと。息吐きあへぬこと。初二句の解は新考説に從つた。○せにはたつとも 川瀬には立つとも。その場合には立つともの意を寓せた。
【歌意】 水もぐりに、息も吐きあへず、早川の瀬に立つやうな、苦しい〔三字右○〕立場には臨むとも、人にこの戀を話さうかい。
 
〔評〕 これも忍戀の歌で、譬喩やゝ奇僻である。然し萬葉人がよく現實を諦視し、詩材を廣範圍に求めることに努力した點に敬服する。
 
寄(ス)2埋木《ウモレギニ》1
 
○埋木 木幹の半石化したもの、水底の土中より出る。
 
(2168)眞※[金+施の旁]持《まがなもち》 弓削河原之《ゆげのかはらの》 埋木之《うもれぎの》 不可顯《あらはるまじき》 事等不有君《こととあらなくに》     1385
 
〔釋〕 ○まがなもち 弓削《ユゲ》に係る枕詞。昔の弓は丸木弓だから、無論眞※[金+施の旁]で削つて製つたので、弓削にいひ續けたもの。この枕詞の弓削に係る理由を古來解説したものがない。訓は細本京本によつた。舊訓マカナモテ〔五字傍線〕は枕詞の詞態でない。○まがな 「ま」は美稱。「かな」は材木の表面を削る道具で、今音便にカンナといふ。然しこの時代の鉋は鑓カンナといふ物で、今の鉋とは全く形が違ふ。「※[金+施の旁]」は鉋の書寫字。○ゆげのかはら 河内國若江郡弓削(ノ)郷(今中河内郡曙川村弓削)。弓削川は弓削(ノ)郷にての舊大和川の一稱、今纔に河道を存し、長瀬川又|曙《アケ》川といふ。○うもれぎの 埋木の如く〔二字右○〕。埋木は埋れてゐても、何時か掘り出されて世に出るので、「顯はる」に係けた。以上三句は序詞。○あらはるまじき 「不可顯」を舊訓にかく讀んである。垂仁天皇紀に忽(チ)積(ミテ)v稻(ヲ)作(ル)v城(ヲ)、其堅(キコト)不可破《ヤブルマジ》とある不可破の訓に同じい。古訓にアラハレザラム〔七字傍線〕ともある。○こととあらなくに 事にあらぬにの意。ニといふべき處にトといふ例は珍しくない。「等」古本多くは爾〔右△〕とある。これはコトニアラナクニ〔八字傍線〕と訓む。
 
(2169)【歌意】 この隱し事は〔六字右○〕、弓削の川原の埋木のやうに、世に顯はれまい事ではないのにさ。――もし顯はれたらどうせうぞ〔十二字右○〕。
 
〔評〕 作者のおど/\してゐる態度が眼に見える。さ程露顯を怖れるのは、不正か不當かの戀だらうが、戀の本質から見れば、素より眞實だ。そこに他の同情を引付るだけの力がある。
 この歌の譬喩は假に戀愛問題として扱つておいたが、他の場合にも適應される。政治的陰謀の多かつた時代だから、それ等の關係者の作かも知れない。「弓削の河原」を擧げたので想像すると、或は例の道鏡一派の陰謀に危惧をもつた者の作か、などとも考へられる。
寄(ス)v海(ニ)
 
大船爾《おほふねに》 眞梶繁貫《まかぢしじぬき》 水手出去之《こぎでにし》 奥將深《おきはふかけむ》 潮者干去友《しほはひぬとも》     1386
 
〔釋〕 ○こぎ 「水手」は楫子《カコ》であるが、楫子は船漕ぐ業を旨とする故に、意を以て漕ぎ〔二字傍点〕に充てた。○ふかけむ 深くあらむの約轉。
【歌意】 大船に楫を揃へて、漕ぎ出したことであつた、その沖は深からうよ、よし潮は干たとても。
 
(2170)〔評〕 「船は大船、楫は眞楫、汐は引汐、すべて好條件のもとに出發したとはいへ、沖の深さはやはり心配だ。事の前途を餘所ながら危倶しての作である。戀の上でも同じ事だ。
 
伏超從《ふしごえゆ》 去益物乎《ゆかましものを》 間守爾《まもらふに》 所打沾《うちぬらされぬ》 浪不數爲而《なみよまずして》     1387
 
〔釋〕 ○ふしごえ 土佐國安藝郡野根村。伏越は伏して越ゆるの意で、立ちては歩き難い程の嶮路の稱。今の野根町より西、小港の磯山道がそれで、僅四五町の上りだが頗る嶮峻である。その崖下の波打際も通路で平坦であるが、時に波濤の襲來に遭ふ。丁度越後の親不知子不知に似た處と見えた。現今は兩路とも廢して別に國道が開通してゐる。○まもらふに 「間守《マモ》らふ」とは相間《アヒマ》を伺ふこと。間《マ》で切つて讀む。目守《マモ》るとは異なる。「守らふ」は守る〔二字傍点〕の延言。古義訓による。眞淵訓ヒマモルニ〔五字傍線〕。○よまずして 數《ヲ》みそこね〔三字右○〕ての意。全く數まぬのではない。「よむ」は數へること。契沖訓による。舊訓カゾヘズテ〔五字傍線〕。
【歌意】 よしや嶮路でも〔七字右○〕、伏越から行かうものを、平らな海際を行くとて、波の〔十二字右○〕相間をはかるのに、衣を濡らされたわい。波の拍子を數へそこねてさ。
 
(2171)〔評〕 荒磯荒濱をゆき、一二三で波の合間を驅け拔けるのに、つい拍子を取違へて波をかぶる、あり打の事である。寧ろ嶮岨な峠でも「急がばまはれ」で、伏越の本道を行けばよかつたとの後悔である。
 もしこれを相聞の作とすれば、面倒で手數が懸つても、然るべき仲人を頼んで、順序立てゝ懸想の意を通ずべきであつたのを、氣短に直接の申込か訪問などして、すげなく拒絶された趣の譬喩であらう。僻地の地形を旨く湊合して使用し得たことは、土地人か或は準土他人の作であらねばならぬ。
 
石灑《いはそそぎ》 岸之浦廻爾《きしのうらわに》 縁浪《よするなみ》 邊爾來依者香《へにきよらばか》 言之將繁《ことのしげけむ》     1388
 
〔釋〕 ○いはそそぎ 岩に打ちかけ。三句に跨續する。契沖訓による。考に「灑」を隱〔右△〕の誤として、イハガクリ〔五字傍線〕と訓み、古義はこれによつてイソガクリ〔五字傍線〕と訓んだ。舊訓イハソヽグ〔五字傍線〕は非。○うらわ 浦邊の意。○よするなみ 以上三句は「邊に來寄らば」に係る序詞。○へにきよらばか 古義訓による。舊訓ヘニキヨレバカ〔七字傍線〕は非。
【歌意】 岸の浦邊に、岩に打掛けて寄せる波、それは〔三字右○〕邊近く寄せて來るが、そのやうに男が〔七字右○〕近く寄つて來うなら、人の噂は煩さからうかえ。
 
〔評〕 思ふ男が身近く出這入したら、又人の物言ひがと、苦勞した婦人の作である。古義に、思ふ人の邊に寄り近づきたらばと解して男の歌とし、それに就いて新考が來る〔二字傍点〕と往く〔二字傍点〕とは通用なりなど彌縫したが、女の歌とすれば何でもない。
 
(2172)礒之浦爾《いそのうらに》 來依白波《きよるしらなみ》 反乍《かへりつつ》 過不勝者《すぎもかてずば》 雉爾絶多倍《きしにたゆたへ》     1389
 
〔釋〕 ○すぎもかてずば 去りもかねるならばの意。歎辭の「も」を補つてかく訓む。略解訓はスギカテナクバ〔七字傍線〕、新考は略解訓を非として、スギシアヘネバ〔七字傍線〕と訓んだ。○きしに 「雉」は岸の借字。雉は記に岐藝斯《キヾシ》、紀に枳藝矢《キヾシ》、本集十四に吉藝志《キヾシ》と見え、濁つて呼ぶが正しい。今もキジと濁る。但本集の用字は清濁通用の場合が多い。宣長が「雉」を涯〔右△〕の誤としたのは無用。
【歌意】磯の浦邊に寄せて來る波が、立返り/\して、さうこゝを立去りかねるなら、いつそ〔三字右○〕この岸に滯つて居れよ。
 
〔評〕 引いては返りして、二六時中おなじ操作を繰り反してゐる波を見ると、ほんにこんな事もいひたくなる。さて譬喩の意は、古義に「思ひかはしたる男の、女の家のあたりに來て、人目憚りつゝえ逢ふこともせず、過ぎ行きがてにするを見て、寧ろこの邊にゆらへていませと、女の詠めるなるべし」とある。それでよい。
 この歌「來よる」「過ぎもかてず」「たゆたへ」など、波を擬人しての仕立、縁語を操縱して十分に修辭の巧を弄してあるうへに、譬喩の意を添へたから、繁褥らしいが、下句の調は勁健である。
 
淡海之海《あふみのみ》 浪恐登《なみかしこみと》 風守《かぜまもり》 年者也將經去《としはやへなむ》 ※[手偏+旁]者無二《こぐとはなしに》     1390
 
(2173)〔釋〕 ○なみかしこみと 古義訓による。管見訓ナミカシコシト〔七字傍線〕。○かぜまもり 風を守つて。風間を伺ふこと。こゝは名詞ではない。「かざまもり」を見よ(八七三頁)。○としはやへなむ 年は經なむかの意。○こぐとはなしに 漕ぐといふ事はなしで。
【歌意】 近江の海は波が恐ろしいとて、湊に〔三字右○〕風を伺うてばかりゐて、空しく〔三字右○〕年は經たうことかえ、船〔右○〕漕ぐこととてはなくてさ。
 
〔評〕 女の親達の警戒が嚴しいので、機會を伺うてゐるうちに、徒らに時日が移つてしまふ事か、進んで手段も講じないでとの譬喩だ。みづから因循に過ぎたことを悔恨してゐる。「年はや經なむ」を古義に、多くの年〔四字傍点〕と解したのは過ぎてゐる。近江の海の浪のかしこさは、
  さゞ波の連庫《ナミクラ》山に雲ゐれば雨ぞふるちふかへりこ吾が背(卷七、――1170)
の條を參照(一九五九頁)。
 
朝奈藝爾《あさなぎに》 來依白波《きよるしらなみ》 欲見《みまくほり》 吾雖爲《われはすれども》 風許増不令依《かぜこそよせね》     1391
 
〔釋〕 ○あさなぎに この句を三句の上に移して聞くべしとある古義説は非。
【歌意】 朝風に寄つてくる白波を〔右○〕、見たく自分は思ふけれど、風がさ邪魔して、こちらへは〔五字右○〕寄せつけぬわ。
 
(2174)〔評〕 凪のよい時は、波が沖に見えても岸は穩かだ。「朝」に深い意はない。都合を見計らつて訪ねてくるその人を、見たく思ふけれど、邪魔立する者が寄せつけぬとの譬喩だ。
 
寄(ス)2浦(ノ)沙(ニ)1
 
紫之《むらさきの》 名高浦之《なだかのうらの》 愛子西〔左△〕《まなごにし》 袖耳觸而《そでのみふれて》 不寐香將成《ねずかなりなむ》     1392
 
〔釋〕 ○むらさきの 「むらさき〕は群崎《ムラサキ》の義で地名か。卷十六にも「紫の粉滷《コカタ》の海に」と見えた。名高の浦に續けたので考へると、今の黒江灣の海邊は沙嘴が澤山斗出し、長汀短汀が連續して、これに黒牛潟、日方の浦、名高の浦、粉滷などの名稱が與へられたと思はれる。その澤山の沙嘴が即ち群崎なのであらう。宣長の玉勝間に、紀伊人の話とて、紫川といふ川のあることをいひ、地名にて村崎の意かとあるが、紫川のことは或はこの歌によつた後人の僞稱かも知れない。彦麿説は、紫の階高《シナタカ》の略を名高に續けたり、紫は上階の服色なればなりといつたが、「紫の粉滷」の續きは解けない。○なだかのうら 黒牛の海の一部で、今の黒江の南隣日方町の一部。「くろうしの海」を見よ(二〇〇二頁)。この邊の現在の海濱は地形甚しく變化したと認められる。「名高の浦の」までは「まなご」に係る序詞。〇まなごにし 眞妙《マナゴ》に愛子《マナゴ》をいひかけた。「眞砂《マナゴ》」は「しらまなご」を見よ(一八六四頁)。「愛子《マナゴ》」は既出(一七九四頁)。「西」原本に地〔右△〕とあるので、古義訓はマナゴツチ〔五字傍線〕、舊訓はマサゴヂニ〔五字傍線〕」とあり、例はあるが地〔傍点〕又は路〔傍点〕が邪魔になつて、「袖のみふれて」への續きが面白くない。新考説(2175)の「地」を西〔右△〕の誤としたのに賛成した。△地圖及び寫眞挿圖391(一六二六頁)487(二〇〇二頁)を參照。
【歌意】 群崎の名高の浦の、眞砂子《マナゴ》の稱《ナ》に通ふ人の愛子《マナゴ》にさ、徒らに〔三字右○〕袖ばかり觸れて、即ち出會うたばかりで〔十字右○〕、共寢もせずになつてしまふことかしら。
 
〔評〕 紀伊は古く開けた國で、而も山海の物資に富んでゐるので、空穗物語に見える、牟婁郡の神南備(ノ)種松のやうな寶の王が多かつたらしい。
 紀州の名所見物か何かの他郷人が、名高の浦の相當の豪家の箱入娘を、濱邊あたりの行き摺りに見たので、眞砂から愛子に想及し「袖のみ觸れて」といひ、そのまゝ行き別るゝ遺恨さを「寢ずかなりなむ」といつたらしい。
 さて思ふに、あの有名な道成寺縁起も紀伊の日高郡の事で、主人の名がこの歌の第三句と同じ眞愛子《マナゴノ》庄司とある。その娘の清姫と安珍との説話も、結局は丁度「袖のみ觸れて寢ずかなりなむ」であつた。或はこの歌の内容から説話を發生し、それが時代と共に段々變形して往つて、遂に平安期には手の込んだ縁起物語となつたのではあるまいか。
 
豐國之《とよくにの》 聞〔左△〕之濱邊之《きくのはまべの》 愛子地《まなごづち》 眞直之有者《まなほにしあらば》 如何將嘆《なにかなげかむ》     1393
 
〔釋〕 ○とよくに 豐前豐後二國の古稱。○きくのはま 豐前國企救《キク》郡企救の濱。今の小倉市より東方の海濱の(2176)稱。長濱浦の大字がある。「聞」原本に間〔右△〕とあるは誤。卷十二に「豐|州《クニ》の聞《キクノ》濱松」、また「豐國の聞《キクノ》之長濱」、卷十三に「豐國の聞の高濱」など見えた。○まなごづち 眞砂土の意。古義訓による。舊訓はマナゴヂノ〔五字傍点〕。以上三句は類音を疊んで「まなほ」にいひ續けた序詞。○まなほ 眞直はマツスグ、スナホなどの意。又正直の意。○なにか 古義訓イカデ〔三字傍線〕は非。
【歌意】 豐國の企救《キク》の濱邊の、眞砂土《マナゴヅチ》の稱《ナ》のやうに、お前の心が〔五字右○〕眞直に即ち素直にあるならば、何で歎かうかい。
 
〔評〕 戀中がもつれて、事が面倒になつた折の述懷か。濱邊のマナゴを見ても、人の心のマナホでないのに感傷せざるを得ない作者の胸中は、同情に餘ある。體も長高で意も切實である。前後の歌、皆戀の意を寄託してゐるから、こゝもその趣で見るがよい。
 
寄(ス)v藻(ニ)
 
鹽滿者《しほみてば》 入流礒之《いりぬるいその》 草有哉《くさなれや》 見良久少久《みらくすくなく》 戀良久乃太寸《こふらくのおほき》     1394
 
〔釋〕 ○いりぬる 波に〔二字右○〕入りぬる。「入りぬる」は没するをいふ。○いそのくさ 藻をいふ。○くさなれや 草な(2177)れば〔右○〕や。○みらく 「みらくし」を見よ(一六二一頁)。○こふらく 既出(七九一頁)。
【歌意】 自分の戀は〔五字右○〕、汐が滿ちると波に〔二字右○〕潜つてしまふ、磯の草であればかして、見る即ち逢ふことが〔三字右○〕少なくて、見ないで戀しく思ふことが〔三字右○〕多いわい。
 
〔評〕 比喩が巧緻なので、古來著名になつてゐる。下句の説明は相反的事相の對比で、含蓄味こそ乏しいが、直感の力強さはある。漸層による「らく」の反復、舌頭甚だ流滑である。
 
奥浪《おきつなみ》 依流荒礒之《よするありその》 名告藻者《なのりそは》 心中爾《こころのうちに》 疾跡〔左△〕成有《とくなりにけり》     1395
 
〔釋〕 ○なのりそは 神馬藻に名告るなの意をかけた。「なのりそ」は既出(八四〇頁)。古義に「者」を之〔右△〕の誤としたのは、結句の改字に合はせる爲で非。○とくなりにけり 早く決心のついたことをいふか。「なり」は成就の意。「跡」を衍字として省く。眞淵が「疾跡」は靡〔右△〕の誤にてナビクナリケリ〔七字傍線〕と訓んでから、古義は嚴水のナビキタリケリ〔七字傍線〕を更にナビキアヒニケリ〔八字傍線〕と改め、字をさま/”\に改竄した。新考は「疾」を念〔右△〕の誤としてモヘトナリケリ〔七字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 沖の波の寄せくる、荒磯の莫告藻《ナノリソ》の、名告るなといふことは、自分の〔十三字右○〕心のうちに、疾く決心が出來たことであるわい。
 
(2178)〔評〕 公然名告つてわが物に、と考へたのを思ひ返して、何處までも秘密の關係におかうと決心した譬喩か。
 
紫之《むらさきの》 名高浦乃《なだかのうらの》 名告藻之《なのりその》 於磯將靡《いそになびかむ》 時待吾乎《ときまつわれを》     1396
 
〔釋〕 ○なのりそのいそに 初句からこゝまでは「靡かむ」に係る序詞。○われを 「を」は歎辭。
【歌意】 名高の浦の莫告藻が、磯に靡くやうに、思ふ兒が〔七字右○〕自分に靡き寄らう時を〔右○〕待つ私よ。
 
〔評〕 單なる自遣の語としても聞えるが、かう詠んでその人に贈つたものとすれば、この悠揚迫らざる素直な態度は、相手の好意を把握するに十分である。
 
荒礒超《ありそこす》 浪者恐《なみはかしこし》 然爲蟹《しかすがに》 海之玉藻之《うみのたまもの》 憎者不有手《にくくはあらずて》     1397
 
〔釋〕 ○しかすがに 既出(一一五三頁)。「蟹」は下の「海」に對へた戲書か。○あらずて 眞淵は「手」を乎〔右△〕の誤として、アラヌヲ〔四字傍線〕と訓んだが、元のまゝで意は聞える。
【歌意】 荒磯を打越える波は、恐ろしいわ。それなのに、その海にある〔六字右○〕珠藻が、憎くはなくてね。
 
〔評〕 さてどうせうぞの餘意がある。磯浪のやうな親達の怒は恐ろしいし、流石に珠藻のやうに靡き寄るその娘(2179)は可愛いと、とかうの思案に餘つた體だ。「憎くはあらずて」の歇後の辭樣、餘情を煽つて頗る妙である。契沖説は、初二句は人言のこちたさを譬へたる也とあるが、人言では稍切實を缺く憾がある。
 「しかすがに」の接續詞を用ゐた歌は、その語意上、表現の樣式が大抵同型に墮ちる。その中でこれは多少變化を求めた。
 
寄(ス)v船(ニ)
 
神樂聲乃《ささなみの》 四賀津之浦能《しがつのうらの》 船乘爾《ふなのりに》 乘西意《のりにしこころ》 常不所念《つねわすらえず》     1398
 
〔釋〕 ○ふなのりに 船乘の如く。「に」は「たへの穗に」を見よ(二七四頁)。以上三句は序詞。○のりにしこころ 「妹が心にのりにけるかも」を見よ(三二七頁)。
【歌意】 志賀津の浦での船乘するやうに、貴女の心に〔五字右○〕、乘つてしまつた私の〔二字右○〕心は、何時も貴女を忘れられない。
 
〔評〕 かう詠んで贈つたものだちう。志賀津即ち大津の船出は、古代の交通上では常の事であつた。
 「心に乘る」は自他を通じて使つた萬葉人の套語。なほ卷三「東人の荷向のはこの荷の緒にも」の條の評語(三二八頁)及び卷十「春さればしだる柳のとををにも」(1896)の條の評語を參照。
 
百傳《ももづたふ》 八十之島廻乎《やそのしまわを》 ※[手偏+旁]船爾《こぐふねに》 乘西情《のりにしこころ》 忘不得裳《わすれかねつも》     1399
 
(2180)〔釋〕○ももづたふ 譯山に傳はる。「八十《ヤソ》の島」に續けた枕詞。「傳ふ」は船の島々を傳つて係り行くをいふ。○こぐふねに 漕ぐ船に乘る如く〔四字右○〕。上三句は序詞。
【歌意】 澤山の島囘を漕ぐ船に乘るやうに〔五字右○〕、乘り移つてしまつた私の〔二字右○〕心は、貴女を〔三字右○〕忘れかねたまあ。
 
〔評〕 上の歌と初二句こそ違へ、同意同調の作である。
 
島傳《しまづたふ》 足速乃小舟《あはやのをぶね》 風守《かぜまもり》 年者也經南《としはやへなむ》 相常齒無二《あふとはなしに》     1400
 
〔釋〕 〇しまづたふ 島から島を傳つて行くをいふ。○あはやのをぶね 船足の速い舟。「あ」は足《アシ》の下略。
【歌意】 島傳ひする速《ハヤ》舟が、風間を伺うて、時日が經つやうに、周圍の氣を兼ねて、徒らに〔時日〜右○〕年は經たうことかえ、貴女に〔三字右○〕逢ふといふことはなくてさ。
 
〔評〕 上の「あふみの海浪かしこみと」の歌と同型の同調。但「足速の小舟」に別樣の意趣を寓してゐる。
 
水霧《みなぎらふ》 奥津小島爾《おきつをじまに》 風乎疾見《かぜをいたみ》 船縁金都《ふねよせかねつ》 心者念杼《こころはもへど》     1401
 
〔釋〕 ○みなぎらふ みなぎる〔二字傍点〕の延言。「みなぎる」は水之霧《ミナキ》るの義で、水煙の發つをいふ。契沖訓による。舊訓(2181)ミナギラヒ〔五字傍線〕。○かぜをいたみ 既出(七二八頁)。○こころはもへど 「もへど」は小島を思ふので、寄せたいと思ふのではない。
【歌意】 水煙が發つ沖の小島に、風がまあひどさに、この船を寄せかねたわい、心はその小島を〔五字右○〕思ふけれど。
 
〔評〕 心にはその女を思ひながらも、親達などの怒を恐れて、いひ寄りかねたとの譬喩だ。舟行における景趣と海客の感情とが如實に描出され、譬喩の意も親密である。
 
殊放者《ことさけば》 奥從酒嘗《おきゆさけなむ》 湊自《みなとより》 邊著經時爾《へつかふときに》 可放鬼香《さくべきものか》     1402
 
〔釋〕 ○ことさけば かくの如く遠|離《ザ》くるならばの意。「こと」は如《コト》の意で、この語何々の如〔四字傍点〕と下につく時は、ゴトと音便で濁るのが通例。「許等《コト》めでは」(允恭天皇紀)、「殊《コト》ならば」(卷十)、「琴《コト》さけば」「別《コト》さけば」、(卷十三)、「ことならば」(古今集、後撰集)、「ことは降らなむ」(古今集)などのコト〔二字傍点〕は、皆|如《コト》の意である。古義訓コトサカバ〔五字傍線〕は非。○おきゆ この「ゆ」はニ〔傍点〕に通ふ意。○さけなむ 「なむ」は願望辭。「酒嘗」は戲書。○みなとより 水之門《ミナト》より。こゝは湊口からの意。○へつかふとき 岸邊に寄り付く時。「へつかふ」を參照(一二六三頁)。○さくべきものか 「か」は反動辭。
【歌意】 かう遠ざけるのなら、まだ沖にゐるうちに、遠ざけてほしい。もう湊口から岸邊に著く時に、遠ざけてよいものかい。
 
(2182)〔評〕 曲折した表現である。おなじ撥ねつけるなら、かう深入せぬうちに撥ねつけてほしい、今となつての背負投は餘り酷いとの譬喩だ。氣乘薄の爲に長引いて、結局謝絶に決したのであらうが、時には半分遊戲的の氣持で、男の心を綱引いて翻弄する、性《タチ》の惡い女のあることは、源氏物語にも書いてある。
 
寄〔左△〕(ス)v神〔左△〕(ニ)一首 旋頭歌
 
○寄神 原本は旋頭歌〔三字右△〕とあり、上來の體裁に一致しない。よつて假にこの題目を設けて、「旋頭歌」を題下の註に引下した。古義も同見。
 
三幣帛取《みぬさとり》 神之祝我《みわのはふりが》 鎭齋杉原《いはふすぎはら》 燎木伐《たきぎきり》 殆之國《ほとほとしくに》 手斧所取奴《てをのとらえぬ》     1403
 
〔釋〕 ○みぬさとり 「ぬさとりむけ」を見よ(二三二頁)。「み」は敬稱。古義訓による。舊訓ミヌサトル〔五字傍線〕。○みわのはふり 三輪山の神に奉仕する祝。「みわのやま」(八三頁)及び「はふり」(一三二五頁)を見よ。「神」を舊訓のまゝにミワとよむ。古義はカミ〔二字傍線〕と訓み、ミワとよむは大神に限りたる事と思ゆとあるが、卷四に、「三輪《ミワ》の祝がいはふ杉」とある如く、杉を詠み合はせてあるから、ミワの訓がよい。○すぎはら 杉林のこと。檜原、松原、萩原などの類語。○たきぎきり 「燎」は明を採る爲に燒く火。釋文に在(ルヲ)v地(ニ)曰(ヒ)v燎(ト)、執(ルヲ)v之(ヲ)曰(フ)v燭(ト)と見え、又玉篇に放(ツ)v火(ヲ)也とも見えた。茲は焚くの意に用ゐた。略解訓による。舊訓タキヾコリ。○ほとほとしくに (2183)殆と。アブナク。この語ほと/\〔四字傍点〕の形容詞格の副詞で、他に用例を見ない。又ほと/\、ほと/\しくには、その語の本質上、推量辭を以て承けるのが常格であるが、又かくの如く現在格で應ずる例も、なほ二三ある。○てをの 小振《コブリ》の斧をいふ。大工の使ふテウナ(手斧の訛)とはその製が異なる。○とらえぬ 略解訓による。△挿圖 前出、533(二一四一頁)を參照。
【歌意】 幣を取つて三輪の神に仕へる祝が、忌み清めた杉林、そこに〔三字右○〕薪木を切つて、あぶなく手斧を取られたよ。
 
〔評〕 大胆にも神の森に這入つて盗伐をしたのを、監視の祝に見付かつて、危く手斧を取り上げられる處だつたといふ。古義に
  父母などの固く守る女を犯し、殆ど辛き目を見むとせしといふ譬なるべし。又はやむごとなき人を犯して、殆ど罪にかからむとせしをいふにもあるべし。
まづその邊でよからう。
 盗伐は何時の世でも盛で、景行天皇紀に、俘囚の蝦夷を御諸山(三輪山)の傍に住ませたら、忽ち神山の樹を丸坊主にしたことが見え、續紀にもこれに關する法令が出てゐる。宇治拾遺にも、山守によき(斧)を取られた咄がある。そして盗伐の罰に斧を取上げることは、おのが田に水を引く爲に畔を切る者の鍬を没收するのと同じ意味である。
 さてこの歌は景行天皇紀の記事などに※[夕/寅]縁して、三輪の神山の杉原に取材し、これを盗伐することは、大胆この上なしの所業である事を暗示した。すべて神木は畏敬の極、手を觸れても崇るとまでいはれ、
(2184)  味酒を三輪のはふりかいはふ杉手触りし罪か君にあひがたき(卷四、丹波大娘子――712)
  神樹にも手は觸るとふなうつたへに人妻といへば觸れぬものかも(同上、大伴卿――517)
など詠まれた。
 
   挽歌《バンカ・カナシミウタ》
 
雜(ノ)挽
 
○雜挽 四季に關係のない挽歌の意。挽歌は既出(四一二頁)。
 
鏡成《かがみなす》 吾見之君乎《わがみしきみを》 阿婆乃野之《あばのぬの》 花橘之《はなたちばなの》 珠爾拾都《たまにひろひつ》     1404
 
〔釋〕 ○かがみなす 鏡のやうに。「見し」に係る。「なす」は既出(九○頁)。○あばのぬ 大和添上郡春日か。皇極天皇紀の童謠に、「をち方の阿婆努《アバヌ》のきゞし」と見え、神名帳(延喜式)に、大和添上郡に率《イサ》川(ノ)阿波(ノ)神社を擧げてある。坊目考には、西(ノ)城戸にその舊蹟あり、天文の兵亂に廢亡して、今知る人なしと。城戸は中世木戸(ノ)郷といひ、南方の極限で、率川阿波神社とその地を殊にする。○はなたちばな 既出(九四五頁)。○たまに 玉としての意。橘から續けてはその實をいつた。
【歌意】 鏡見るやうに私が見た、即ち逢うたその人を、阿婆の野の橘の實の〔二字右○〕、玉として拾つたわえ。
 
〔評〕 持統上皇が荼毘の烟と騰られてから、火葬は愈よ盛つて、當時の公卿士大夫の最期は、續々霞や霧や雲に紛れることゝなつた。これは佛教隆昌の影響で、印度式の葬法を採用したのであつた。而も釋尊は勿論、名僧高僧輩のは、その灰中から舍利珠を拾ふことがあつた。これ「玉に拾ひつ」の聯想の生るゝ所以である。但こゝは「わが見し君」の事だから、本物の舍利珠は希求すべくもない。即ちその葬處たる阿婆野の橘の實の玉として、大切にその遺骨を拾ひ上げたといふ。君を玉に拾ふは聯想の跳躍で、不吉の語を忌避した爲であらう。
 橘を果實之長上として珍重することは、垂仁天皇以來の通念で、(「橘の蔭ふむ路」の評語(三七三頁)を參照)。五月の節にはそれを玉に貫いて翫んだ事を思へば、「花橘の玉に拾ふ」とは、最大級の愛惜の情意を托したことになる。
 
蜻野※[口+立刀]《あきつぬを》 人之懸者《ひとのかくれば》 朝蒔《あさまきし》 君之所思而《きみがおもほえて》 嗟齒不病《なげきはやまず》     1405
 
〔釋〕 ○あきつぬを 「※[口+立刀]」は叫〔右△〕の俗字。○かくれば いひ及べば。懸けていへばの意。○あさまきし 朝火葬の灰を〔五字右○〕撒《マ》いた。火葬の執行は夜中で、翌朝その骨灰を四方に撒布する。○なげきはやまず 「齒不病」は戲書。
【歌意】 秋津野の事を、人がいひ出すと、朝火葬の灰を撒き散らした事であつた、その人の事が偲ばれて、歎はとまらないわ。
 
〔評〕 吉野の蜻蛉野で、知人を火葬に附した人の作である。素朴で嬉しい點もあるが、「朝まきし君」は、骨灰撒(2186)布の風習を意識しつゝも、尚粗笨の感があつて面白くない。
 
秋津野爾《あきつぬに》 朝居雲之《あさゐるくもの》 失去者《うせゆけば》 前裳今裳《むかしもいまも》 無人所念《なきひとおもほゆ》     1406
 
〔釋〕 ○うせゆけば 眞淵訓ウセヌレバ〔五字傍線〕。○むかしもいまも 何時でもの意。この「むかし」は大きな過去を指すのではない。「今」に對して今ならざるをいふのだ。詰り契沖訓のキノフモケフモ〔七字傍線〕とほゞ近い意だから、隨つて改訓の必要もない。
【歌意】 秋津野に、朝靡いてゐる雲が消えてゆくと、あんな風にその火葬の烟も消えたのだと〔十三字右○〕、以前でも今でも即ち何時も、亡人の事が思ひ出されるわ。
 
〔評〕 雲に火葬の烟の聯想はいひ舊してゐるが、年月が經つても尚その悲の新しいとある情味に、掬すべきものがある。
 
隱口乃《こもりくの》 泊瀬山爾《はつせのやまに》 霞立《かすみたち》 棚引雲者《たなびくくもは》 妹爾鴨在武《いもにかもあらむ》     1407
 
〔釋〕 ○かすみたち 赤氣の立つをいふ。水蒸氣のカスミではない。「霞」の字の本義に當る。
【歌意】 初瀬山に赤い氣が立つて、靡く雲は、吾妹子の火葬の烟〔四字右○〕でまああらうか。
 
〔評〕 卷三の人麻呂の
  こもりくの初瀬の山の山のまにいざよふ雲は妹にかもあらむ(―428)
の訛傳と思はれる。
 
枉言香《たはことか》 逆言哉《およづれごとか》 隱口乃《こもりくの》 泊瀬山爾《はつせのやまに》 廬爲去《いほりせりとふ》     1408
 
〔釋〕 ○たはこと 既出(九三四頁)。舊訓マガゴト〔四字傍線〕。○およづれごと 「およづれ」を見よ(九三三頁)。○いほりせりとふ 假廬造りをするといふ。眞淵訓による。舊訓イホリストイフ〔七字傍線〕。
【歌意】 戲《タハ》言か、それとも僞り言か。初瀬の山に、吾妹子が〔四字右○〕廬造りしたといふわ。
 
〔評〕 當時の初瀬山は荒山で、さう無造作に人の住む處ではない。そこに、「廬りせり」は葬られたことの婉辭である。初二句は套語で、
  さにつらふ吾大王は、こもりくのはつ瀬の山に、神《カム》さびにいつきいますと、玉梓の人ぞいひつる、およづれか吾が聞きつる、たは言か我が聞きつるも――(卷三、丹生王――120)
の一節を抄出したに過ぎないが、句の短く節の促つた漸層が、「か」の疑辭の疊用によつて、左顧右眄、その意外に驚惑してゐる作者の心情をよく露出し、全體的に引締つて無駄がない。
 
(2188)秋山《あきやまに》 黄葉※[立心偏+可]怜《もみぢあはれみ》 浦觸而《うらぶれて》 入西妹者《いりにしいもは》 待不來《まてどきまさず》     1409
 
〔釋〕 ○もみぢあはれみ 「あはれみ」は傷はしく思ふ意に用ゐた。略解訓による。○うらぶれて 「うらぶれ」を見よ(一五二五頁)。古義に、この句を第四句の下にめぐらして聞くべしとあるは、無理も甚しい。これは「あはれ」を「※[立心偏+可]怜」の字義に拘はつて面白シの意とのみ解したので、「うらぶれて」に打合はぬ爲に、彌縫したらしい。
【歌意】 秋山に、もみぢがいとほしいとて〔右○〕、愁へ歎いて分け入づた吾妹子は、幾ら待つても、歸つて來なさらない。
 
〔評〕 暮秋の時分、思ふ兒を山邊に葬送して後の作である。その兒は山の黄葉の凋落を傷んで山入したまゝ消息を絶つたと、死者をなほ生者としての哀悼である。
  秋山のもみぢを茂みまよはせる妹をもとめむ山路知らずも(卷二、人麻呂――208)  豐国のかゞみの山のいは戸たて隱《コモ》りにけらし待てど來まさぬ(卷三、手持女王――418)
の二首を擣きまぜて出來たやうな作だが、おのづから又一生面を打開して、縹渺たる悲意が漂ふ。
 
世間者《よのなかは》 信二代者《まことふたよは》 不往有之《ゆかざらし》 過妹爾《すぎにしいもに》 不相念者《あはぬおもへば》     1410
 
(2189)〔釋〕 ○まことふたよはゆかざらし 眞に二つの世は來ぬらしい。「よやもふたゆく」を參照(一三四三頁)。古義訓のユカザリシ〔五字傍線〕と過去にしたのは非。○あはぬおもへば 古義訓アハナクモヘバ〔七字傍線〕も可。
【歌意】 人間世は、眞に二度とは來ないらしい。死んでしまつた吾妹子に、それ切り〔四字右○〕出合はぬことを思へばさ。
 
〔評〕 二度と來られる現世《コノヨ》ではないとは、古往今來一定した常理である。然るに追慕の極はその常理をも疑つて、或は活き返るかも知れぬとのはかない頼をかけて見たものゝ時日の經過がその無効さを立證したので、「まこと二世は往かざらし」と、漸く痴呆の夢から還つて、悲しい現實を肯定せねばならなくなつた。そこに無限の哀愁が動く。「まこと」の一語下し得て妙。
 
福《さきはひの》 何有人香《いかなるひとか》 黒髪之《くろかみの》 白成左右《しろくなるまで》 妹之音乎聞《いもがこゑをきく》     1411
 
〔釋〕 ○いもがこゑをきく 契沖訓による。舊訓イモガオトヲキク〔八字傍線〕。コエもオトも古代では通用してゐるが、人の上では、コエの方が穩かである。
【歌意】 どんな幸福な人が、黒髪が白髪と變るまでも、妻の聲を聞くことかえ。
 
〔評〕 共白髪で添ひ遂げる人もあるのに、作者の今の境遇はその正反對なので、且疑ひ且羨んだ。壯年で妻を喪つた悲哀が、いかにも鮮明に反映されて、慟哭以上に人の心胸を打つ。「黒髪の白くなるまで」は歳月永くの(2190)轉義で、この具象的の表現に、色相の對照を加へて、印象が愈よ鮮明に力強い。「妹が聲を聞く」も連れ添ふなどいふ抽象語と違つて、極めて深切な情味を煽揚する。まことに千古不磨の眞情眞詩。
 
吾背子乎《わがせこを》 何處行目跡《いづくゆかめと》 辟竹之《さきたけの》 背向爾宿之久《そがひにねしく》 今思悔裳《いましくやしも》     1412
 
〔釋〕 ○いづくゆかめと 何處へ往かうぞ、何處へも往きはすまいの意。早くいへば、イヅクユカメヤハ〔八字傍点〕の意となる。○さきたけの 背合《ソガヒ》に係る枕詞。割つた竹は背中合せになる故にいふ。「辟」は裂の借字。○そがひにねしく 背中合せに寢たことが。「おもへりしくし」を參照(一三五八頁)。
【歌意】 わが夫が自分を離れて〔六字右○〕何處へ往くものぞと、腹立紛れに〔五字右○〕、後ろ向に寢たことが、死んだ〔三字右○〕今さ、悔しいわい。
 
〔釋〕 死なれて見ると、流石に生前の事々に悔恨の念をゆする。遂にははかない痴話喧嘩まで想ひ出しては、背中合せの自分の我儘だつたのに泣くのである。「吾背子をいづくゆかめと」の多寡を括つた不貞腐れの口調、餘ほど氣の強い妻君らしい。隨つてさう信用される程、その旦那さんは氣の良い働のない人かも知れない、當時の夫妻關係の一般的慣習を基礎として考へると。とにかく
  ある時はありのすさびに憎かりき亡くてぞ人は戀しかりける(源語引歌)
で、後悔先に立たず、鰥夫寡婦の一度は必ず體驗する眞心の聲である。
 
(2191)庭津鳥《にはつどり》 可鷄乃垂尾乃《かけのたりをの》 亂尾乃《みだりをの》 長心毛《ながきこころも》 不所念鴨《おもほえぬかも》     1413
 
〔釋〕 ○にはつどり 庭《ニハ》にゐる鳥、即ち家に畜はれる鳥の意で、鷄《カケ》に係けた枕詞。記(上)八千矛神の御歌に「小野《サヌ》つ鳥|雉子《キヾシ》はとよむ、庭つ鳥|鷄《カケ》は鳴く」とある。この語略してニハトリ〔四字傍点〕といひ、遂に枕詞の本質を失して、直ちに鷄を呼ぶ稱となつた。○かけ 鷄。その鳴き聲から付いた稱。神樂歌に「庭鳥はかけろ〔三字傍点〕と鳴きぬ」とある。雉科の家鳥。○たりを 鷄の尾の彎曲して垂れたもの。○みだりをの 亂尾の如く〔二字右○〕。鷄の垂り尾の而も亂れ尾は長い。以上三句は「長き」に係る序詞。古義訓シダリヲノ〔五字傍点〕。○ながきこころ ここは長閑《ノドカ》な心といふに近い。
【歌意】 鷄の垂れ尾のその亂れ尾の、長いやうに、暢んびりした氣持は、自分には〔四字右○〕持たれぬことかまあ。
 
〔評〕 死後の當座は誰れもこんな心持である。時が經つと「去者(ハ)日(ニ)以(テ)疎(シ)」(文選)となるのである。この序體は人も知る、
  足引の山鳥の尾のしたり尾の長き長夜を獨かもねむ(卷十一、或本歌)
に吻合して、下句やゝ力量が劣るが、「垂尾の亂り尾の」と漸層的行叙によつて、いかにも長々しい感じを寫出した手際はやはり侮り難い。
 
薦枕《こもまくら》 相卷之兒毛《あひまきしこも》 在者社《あらばこそ》 夜乃深良久毛《よのふくらくも》 吾惜責《わがをしみせめ》     1414
 
(2192)〔釋〕 ○こもまくら 薦枕して〔二字右○〕。薦枕は薦を束ねて作つた枕。紀の卷十六の影媛の歌にも「薦枕高橋過ぎ」とある。「わかごもを」を參照(六四二頁)。○あひまきしこ 共寢した女。○ふくらく 更くる〔三字傍点〕の延言。○をしみせめ 「をしみ」は假體言。
【歌意】 枕を一緒にして寢た、我妹子も居るならばさ、夜の更けること〔二字右○〕も、自分は惜がることもせう。――今は失せて、居らぬから、夜の深けるのが何だ〔今は〜右○〕。
 
〔評〕 長恨歌のいはゆる「孤燈挑(ゲ)盡(シテ)未v成(サ)v眠(ヲ)」で、半夜壁に映るは煢然たるわが影のみ。ありし世には長夜も短きを歎いたが、今は却て疾く明けよと願ふのである。今昔の感哀は深くその胸を打つてゐる。「こそ」の辭、その運用の妙を見る。
 
玉梓能《たまづさの》 妹者珠氈《いもはたまかも》 足氷木乃《あしひきの》 清山邊《きよきやまべに》 蒔散染《まきてちらしむ》     1415
 
〔釋〕 ○たまづさの 玉梓の如き〔二字右○〕。玉梓は玉齊※[土+敦]《タマチサ》樹で、その花時は白く美しく清香を放つので、美し殊に譬へた枕詞。玉梓を梓弓の事として、射るの意によりて妹にいひかけたとする契沖説は、前提が薄弱である。なほ「たまづさの」を參照(五六四頁)。○まきてちらしむ 契沖訓による。「染」を漆〔右△〕の誤としてマケバチリヌル〔七字傍線〕と訓む契沖の一説は從ひ難い。
【歌意】 吾妹子の遺骨〔三字右○〕は、珠であるかしてまあ、清い山邊に撒いて、ばら/\散らさせるわい。
 
(2193)〔評〕 思へば勿體ないの餘意がある。僧共が散骨の式を行ふのを見ての感想である。火葬の遺灰を玉に擬へたのは、愛惜の念に因縁してゐる。上の歌にも「珠に拾ひつ」といつた。さてその珠は、束ね緒を斷つて散らすやうに、高みから骨灰を撒布するのであつた。「清き山邊」は、荼毘所の處柄である。
 續後紀卷九に、
  承和七年五月辛巳、後(ノ)太上天皇(淳和)顧2命(シテ)皇太子(ニ)1曰(ク)云々、予聞(ク)人歿(シテ)精魂歸(ス)v天(ニ)、而空(シク)存(スレバ)2冢墓(ヲ)1、鬼物憑(キテ)v焉(ニ)、終(ニ)乃(ニ)爲(シ)v祟(ヲ)、長(ク)貽(ス)2後累(ヲ)1、今宜(シ)3碎(キ)v骨(ヲ)爲(テ)v紛(ト)、散(ゼム)2之(ヲ)山中(ニ)1。於是中納言藤原(ノ)朝臣吉野奏(シテ)言(フ)、昔字治(ノ)稚彦(ノ)皇子|者《ハ》、我朝之賢明也、此(ノ)皇子遺教(シ)、自使v散(ラ)v骨(ヲ)、後世效(ヘリ)v之(ニ)、然(ドモ)是(ハ)親王之事(ニテ)、而非(ス)2帝王(ノ)迹(ニ)1、我國自(リ)2上古1、不(ルハ)v起(サ)2山陵(ヲ)1、所v未(ダ)v聞(カ)也、山陵(ハ)猶(シ)2宗廟(ノ)1也、縱《モシ》無(クバ)2宗廟1者、臣子何(ノ)處(ニカ)仰(ガム)。云々。
と見え、これに就いて宣長は、
  これ火葬にあらずしては骨を散すべき由なし。然るに宇治皇子の頃火葬なきなり。されば宇治稚彦(ノ)皇子云々は世の誤り傳へなり。然れどもかくいひ傳ふることは、世中に洽く火葬する事の弘まりて、骨を散すならはしの有るによりて、しかいひ傳へたるなるべし。然れば後世效之といふにて、骨を散すことのありしを知るべきなり。
と説明した。
 
或本(ノ)歌(ニ)曰(フ)
 
(2194)玉梓之《たまづさの》 妹者花可毛《いもははなかも》 足日木乃《あしひきの》 此山影爾《このやまかげに》 麻氣者失留《まけばうせぬる》
 
〔評〕 落花の行方も知らずなるやうに、「撒けば失せぬる」といふ。花を撒くは佛式の散華からの聯想かとも思はれるが、それに拘はる必要もあるまい。
 この歌は上の歌の異傳たる事はいふまでもない。
 
 覊旅《タヒノ》歌
 
名兒乃海乎《なごのうみを》 朝榜來者《あさこぎくれば》 海中爾《わたなかに》 鹿子曾呼〔左△〕成《かこぞよぶなる》 ※[立心偏+可]怜其水手《あはれそのかこ》     1417
 
〔釋〕 ○なごのうみ 攝津住吉に名兒の浦、名兒の濱あり、又越中國射水都に名兒《ナゴ》の海あり、その他諸國にこの地稱があり、何れとむ定め難い。○わたなかに 海中にて〔右○〕。○かこぞよぶなる 水手《カコ》が呼聲を立つるよ。呼聲は水手同士呼び交はす聲で、「海人の呼聲」の呼聲に同じい。「かこ」は既出(一一〇〇頁)。「鹿」は借字。「呼」原本に鳴〔右△〕とあるは誤。眞淵説による。○あはれそのかこ 「あはれ」は歎辭。
【歌意】 名兒の海を、朝に漕いでくると、向うの〔三字右○〕沖合で、水手がさ聲立てゝ呼ばはつてをるわ。あゝ面白いあの水手よ。
 
(2195)〔評〕 名兒の海、風波の和やかさはその稱の通りである。漕ぎ出して見ると、沖行く船から揚がる水手等の張り切つた呼聲の豪快振に、土の上ばかり這ひ廻つてゐた作者は度膽を拔かれて、殊に激しい衝動を受けたらしい。乃ち反復強調、「その水手」を指斥し讃歎した。而も是等の景氣が「朝」の一語に統括されて、いかにも爽快である。
 「あはれその水手」の辭樣は、卷九にも「あはれその鳥」と見え、殆ど型のきまつた嫌はあるものゝ、頗る力強い效果的の表現である。
 
 
〔卷八の目次省略〕
 
(2209) 萬葉集卷八
 
本卷は春夏秋冬の四季に關した雜歌と相聞歌とを收めた。所載年代は上は志貴皇子より、下は大伴一家の所作に至り、編次が整然としてゐる。
 
春雜《ハルノクサグサノ》歌
 
志貴《シキノ》皇子(ノ)懽《ヨロコビノ》歌
 
志貴皇子が喜の御心を詠まれた歌との意。○志貴皇子 既出(二〇〇頁)。
 
石激《いははしる》 垂見之上乃《たるみのうへの》 左和良妣乃《さわらびの》 毛要出春爾《もえいづるはるに》 成來鴨《なりにけるかも》     1418
 
〔釋〕 ○いははしる 垂水《タルミ》の枕詞。○たるみ 垂水。垂れ落つる水をいふ。瀑布は大小に關はらず皆垂水である。これを攝津國豐島都(今豐能郡)の垂水神社の地稱とする諸説は諾へない。攝津の垂水は既出(一九四〇頁)。○た(2210)るみのうへ 垂水のほとり。垂水の山の上と解するは非。○さわらび 「さ」は美稱。「わらび」は水龍骨科の植物。山野の陰地に自生する。
【歌意】 冬籠つてゐた〔六字右○〕垂水の邊の早蕨が、漸く〔二字右○〕萌え出す春に、なつたことであつたよなあ。
 
〔評〕 天智天皇の御直系の皇族方は、淨見原朝廷時代には、總體に沈滯して不振の境遇であらせられたらしい。志貴皇子は藤原宮時代の大寶三年に至つて、漸く無品から四品に昇叙、更にその九月には賜(フ)2四品志紀(ノ)王(ニ)近江國(ノ)鐵穴《カナアナヲ》1と文武天皇紀に見えた。永年雌伏状態にゐたものが、引續いて皇恩に浴し、榮位と富源とを兩つながら獲得された。運が向いて來た。「懽」とは恐らくこの際の事だらう。
 「石はしる垂水のうへ」は寒む/\として冷たい場處だ。そこにも春は到來して、蕨がそのしほらしげな小さな拳を持ち上げてゐた。皇子はこの光景に直面して、忽ち自家の開運の時節の到來したことに想到され、感慨の起らざるを得なかつた。微小の野物もなほ生々の欣びに萌える、これも時節だ。まこと嬉しい時節だ。めでたさの象徴だ。「萌えいづる春になりにけるかも」の詠歎は表面單純な一本氣の行叙と見えて、裏面には複雜した無窮の悦喜の情を包藏してゐる。格は高邁、調は清爽、意は幽婉である。
(2211) 略解に、慶雲元年に封一百戸、和銅七年には三品で二百戸を賜はり、靈龜元年に二品になり賜ふことを見れば是等の時の御歌かとあり、諸註も雷同してゐるが、それは見方が甚だ淺薄なので、さう順調の榮進時代となつては、もう「石はしる垂水のうへの早蕨」ではなく、「萌えいづる春に云々」の比興の利目が淺い。
 
鏡女王《カヾミノヒメミコノ》歌
 
○鏡女王 既出(三〇九頁)。
 
神奈備乃《かむなびの》 伊波瀬乃杜乃《いはせのもりの》 喚子鳥《よぶこどり》 痛莫鳴《いたくななきそ》 吾戀益《あがこひまさる》     1419
 
〔釋〕 ○かむなび この神奈備は大和平群都(今生駒都)の神南《カミナヒ・ジンナム》山即ち大島の嶺の事であらう。「おほしまのね」を見よ(三〇九頁)。○いはせのもり 神南山の北麓の車瀬にある。故に「神奈備の磐瀬」と續けた。奈良志野中の一林で、龍田村に屬する。「杜」の字、(2212)モリと訓むことに就いては、既出のその項(二七八頁)を見よ。○よぶこどり 既出(二五一頁)。△地圖 挿圖96を參照(三〇九頁)。
【歌意】 磐瀬の森の喚子鳥よ、さうひどく鳴いてくれるな。私の戀心が増るわ。
 
〔評〕 喚子鳥が鳴く、その聲は寂しい。背景が磐瀬の杜だ。いよ/\寂しい。この寂しさは思ふ事がなくても人戀しさの念を助長する。まして意中の人があつては尚溜らない。で、「いたくな鳴きそ」と、喚子鳥に命令した。その効果の有無は全然忘れてゐる。説明すればかう長くなるが、これだけの心理經過は一轉瞬の間に行はれての感傷である。表現か簡素で、痴呆の想を伴ひ、調が高古である。女王はその額田部の本居から逍遙して、磐瀬の杜に喚子鳥の聲を聞かれたのであらう。兩地の距離はわづか一里に過ぎない。
 卷二「妹が家も繼ぎて見ましを」の條の評語を參照(三〇九頁)。
 
駿河(ノ)采女(ガ)歌一首
 
○駿河采女 既出(一〇九六頁)。
 
沫雪香《あわゆきか》 薄太禮爾零登《はだれにふると》 見左右二《みるまでに》 流倍散波《ながらへちるは》 何物花其毛《なにのはなぞも》     1420
 
〔釋〕 ○あわゆき 泡雪。水分の多い雪の稱。○はだれ 又はハダラ。梵語|曼陀羅《マダラ》の轉語か。曼陀羅は雜色の義。(2213)その色々の交錯するのが斑《ブチ》に見えるので、物の斑《ブチ》なるをマダラといつた。久老や古義が離《ハナ》レと同語のやうにいへるはいかゞ。又はだれ雪〔四字傍点〕を略してハダレとのみもいふ。○ながらへちる 「ながらへ」は流れ〔二字傍点〕の延言。「ながらふる」を見よ(二二六頁)。○なにのはなぞも 何の花なる〔二字右○〕ぞよ。疑問の何《ナニ》、如何《イカ》に、誰が、などの辭に應じて結尾に「そも」を置いた格は、すべて問ひ懸けの意となる。卷四「何のしるしぞも」(一二二三頁)、同卷「何ぞもいもに」(一三七八頁)など皆その意。
【歌意】 沫雪が斑に降るかと見るほどに、續けて降るのは、一體〔二字右○〕何の花であるぞいまあ。
 
〔評〕 白い花が散るのなら何でもかういはれるが、矢張梅の花がふさはしい。
  わが國に梅のはな散るひさ方のあめより雪の流れくるかも(卷五、大伴卿――822)
とも既に見え、落梅を目撃しながら、餘に雪のやうなので、その梅たるを忘れた趣である。而もそれを人に問ふに至つては、その痴や及ぶべからずである。
 
尾張(ノ)連《ムラジガ》歌二首
 
○尾張連 尾張は氏、連は姓、名を逸してある。
 
春山之《はるやまの》 開乃乎爲〔左△〕黒爾《さきのをぐろに》 春菜採《わかなつむ》 妹之白紐《いもがしらひも》 見九四與四門《みらくしよし》     1421
 
(2214)〇さきのをぐろ 崎の小畔《ヲグロ》。山の出崎の田畔をいふ。「を」は美稱。「乎黒」をヲグロと訓む。「爲」は衍字で削るがよい。「爲」の衍字たることに心付かず、眞淵は乎烏里〔二字右△〕の誤として、サキノヲヽリ〔六字傍線〕と訓み、隨つて「開」を咲き〔二字傍点〕の意と解し、花が咲き撓む意とした。正辭はこれに依つて、「爲」にヲ〔傍点〕の古音ありしなるべしと彌縫した。宣長は手烏里〔三字右△〕の誤としてサキノタヲリ〔六字傍線〕と訓み、岬《サキ》の緩《タルミ》(平夷)の意に解し、略解、古義はこれに同じた。○わかな 早春の菜蔬。芹、薺、うはぎ等の野生の物を主として稱する。「春」を意訓にワカとよむ。古義訓はハルナ〔三字傍線〕で、止由氣《トユケ》宮儀式帳に、奉2進(ル)春菜|漬(ノ)料(ノ)鹽二斛(ヲ)1とあるを引いたが、儀式帳のもハルナと讀む證にはならない。而もこの歌では春の語が重複となる。○しらひも 著物の紐である。△寫眞 挿圖54(一六三頁)367(一四三三頁)を參照。
【歌意】 春の山の出崎の田の畔に、若菜を摘む、あの兒の白紐は、それを〔四字右○〕見ることがさ面白いわい。
 
〔評〕 當時の婦人は白い上衣の領紐を右脇に長く結び垂れた。又赤裳の上に纏うた褶《シビラ》の白紐もあらう。
 黒い田の土、青い若菜、美人の赤裳に映ずる白紐、その色彩は鮮明だ。就中作者は特に白紐にその興味を惹(2215)かれた。白色は目立つからでもあらうが、只だらりと下がつた紐では、遠くから見ては何の衝撃も齎さない。これは山の春風に煽られてひら/\と動いた白紐であらねばならぬ。その動的風情が、閑靜なその環境を破つて面白いのである。
 
打靡《うちなびく》 春來良之《はるきたるらし》 山際《やまのまの》 遠木末乃《とほきこぬれの》 開徃見者《さきゆくみれば》     1422
 
〔釋〕 ○うちなびく 春の枕詞。既出(六七七頁)。○やまのま 山際の字義の通りで、山間の意ではない。○さきゆく 咲いてゆく。「咲く」の活きを強めていふ。咲き續くの意ではない。
【歌意】 あゝ〔二字右○〕春は來たらしいわ。あの山際の遠くの梢が、花を〔二字右○〕著けてゆくのを見ればさ。
 
〔評〕 「らし」の想像辭は、それを裏付ける事相の如何によつて、詩味の高下、歌の優劣は定まる。この下句の如き、「春きたるらし」を立證する景象としては、少し平凡ではないか。
  うちなびき春さりくらし山のまの遠き木ぬれの咲きゆくみれば(卷十、――1865)
と同歌、第二句に一語の相違あるのみ。
 
中納言|阿倍《アベノ》廣庭(ノ)卿(ノ)歌一首
 
○中納言 既出(七四一頁)。○阿倍廣庭 既出(八五四頁)。
 
(2216)去年春《こぞのはる》 伊許自而植之《いこじてうゑし》 吾屋外之《わがやどの》 若樹梅者《わかきのうめは》 花咲爾家里《はなさきにけり》     1423
 
〔釋〕 〇いこじて 「い」は發語。「こじ」は神代紀に「根2掘《ネコジニ》五百箇眞榊《イホツマサカキヲ》1掘《コジテ》而」と見え、掘り出すことをいふ。戸をコジ開けるなどのコジはこの語の轉意。
【歌意】 去年の春掘り取つて植ゑた、私の庭の若木の梅は、もう〔二字右○〕花が咲いたわい。
 
〔評〕 移植したことと、若木であることとは、咲くを危ぶまれる理由であつた。しかし氣遣はれたその梅が咲いたので、望外の懽びを歌つたものだ。「にけり」の詞がその意外な趣を表現してある。
 
山部(ノ)宿禰赤人(ガ)歌四首
 
春野爾《はるのぬに》 須美禮採爾等《すみれつみにと》 來師吾曾《こしわれぞ》 野乎奈都可之美《ぬをなつかしみ》 一夜宿二來《ひとよねにける》     1424
 
〔釋〕 ○すみれ 菫菜科の野生植物。高さ三四寸。葉は柳より廣き劍状をなし、仲晩春墨斗状の可憐なる濃紫色の花を著く。尚種類が多い。スモフ取草。香川景樹は菫に紫雲英説を立てたが、準據のない獨斷である。菫は墨入《スミイレ》、即ち墨斗の義。その花の形状によつて名づけた。○ひとよねにける  「一夜」「二來」は戲書。
【歌意】 春の野に、菫の花摘みにと、來た私がさ、餘り野がまあ懷かしさに、とう/\一夜泊つてしまつたわい。
 
(2217)〔評〕 古來「菫摘みに」を春の行樂に花摘することだとばかり思つてゐる。古義は、衣を摺らむ料、又たゞ花を愛しみて摘むにもあるべし、などいつて、矢張遊樂本位に考へてゐる。菫は衣に摺るほど澤山もないので、景樹は古へいふ菫は今の紫雲英のことだと主張した。是等の説は、皆菫摘の眞目的を知らないのである。菫は、
  菫菜、和名|須美禮《スミレ》、(中略)※[さんずい+勺](シテ)食(ヘバ)v之(ヲ)滑疏(ニシテ)可(キ)v食(フ)之菜也、(和名抄、野菜部)
  菫萱、※[木+分]楡云々、以滑(ニス)v之(ヲ)、(禮記内則)
  菫茶如(シ)v飴(ノ)。(詩經、大雅緜章)
  蓼蟲避(ク)2葵菫(ヲ)1。註(ニ)云(フ)、菫有(リ)2二種1、此即(チ)内則(ニ)所謂菫萱之菫、根(ハ)如(ク)v薺(ノ)、葉(ハ)細(シ)v於v柳、味甘(ク)可(シ)2蒸(シテ)食(フ)1。(選詩補註)
  野菜云々、楡、註曰、啖(フニ)v之(ヲ)最(モ)滑(カニ)、如(シ)2梨頭草《スミレノ》1。(物理小識)
など見え、古へは和漢ともその葉や根を蒸したり茄でたりして食つたものである。されば菫摘は若菜摘と同じく、もと實生活の必要から出て、傍ら野遊を兼ねた陽春の行事と考へられる。そして、和名抄時代の平安期にも尚食料としたことは明らかであらう。
 さて菫摘も若菜摘も專ら婦人の所作だが、男も同伴して、その春興を滿喫したらしい。古今集に
  春日野はけふはな燒きそ若草のつまも籠れりわれも籠れり(春上)
(2218)といふもそれで、夫婦出動のピクニツク、人情は昔も今も變りはない。
 今作者も御多分に洩れず、夫婦して郊外の菫摘に來た。然し鳥啼き蝶は舞ふ芳草の野、當面の興に耽つて、霞立つ長き春日の暮れるのも忘れ、遂に野外の家に一泊した。考へて見れば菫摘に二日がかり、そんな事はあるものでない。そして、食料の菫摘は從となり、野遊の方が主となつてしまつた。我ながら苦笑して、「野をなつかしみ一夜寢にける」と、結果の意外を驚歎した。
 この歌は赤人の代表作の一つである。自然にして平淡明朗、風調優美に、語路暢達にして流滑、更に險奇の語を著けない。一氣に三句までいひ下して、七五の調に近づいてゐる。人麻呂に比して、稍後れた頃の時代調に因るのでもあらうが、作者のもつ温雅な人格の反映であることは爭へない。
 以上の如きこの歌の全輪廓を古來解し得たものがない。で「一夜寢にける」をもわざとらしい誇張と見たり、佳作とは思はぬなどいふ濫言を弄したりする。赤人が聞いたらその短見に愕くであらう。
 
足比奇乃《あしひきの》 山櫻花《やまさくらばな》 日竝而《ひならべて》 如是開有者《かくしさけらば》 甚戀目夜裳《いとこひめやも》     1425
 
〔釋〕 ○やまさくらばな 山の櫻の花。山櫻と特に稱する櫻の事ではない。○ひならべて 日數を竝べて。「ひならべなくに」を參照(一六二四頁)。○いとこひめやも 略解訓イタコヒメヤモ〔七字傍線〕。
【歌意】 山の櫻の花が、幾日もかけて、かうさ今のやうに〔五字右○〕咲いてゐるならば、ひどく花を戀はうことかいな。
 
(2219)〔評〕 櫻の花は生命が短い。
  わが行きは七日は過ぎじ立田彦ゆめこの花を風に散らすな(卷九、――1748)
と詠まれたのも櫻であらう。蓼太は更にこの意を強調して「世の中は三日見ぬまの」と詠んだ。蓼太の句は世相に比擬したその巧緻の爲に、自然味が遊離し、この歌は又その立意は首肯されるものゝ、説明に墮して餘韻が乏しい。
 
吾勢子爾《わがせこに》 令見常念之《みせむともひし》 梅花《うめのはな》 其十方不所見《それともみえず》 雪乃零有者《ゆきのふれれば》     1426
 
〔釋〕 ○わがせこ こゝは男性間の呼稱と見よう。既出(三三七・四三頁)。○ふれれば 積りたればの意。
【歌意】 わが友その人に見せうと思つた、私の庭の梅の花が、それぞ〔右○〕とも見えないわ、雪が降り積つてあるのでさ。
 
〔評〕 仔細に見れば梅は三分の白を雪に遜るが、概觀的には一般に白了して辨じ難い。作者は乃ち、「わが背子に見せむ」の情的事相を結び付けて、愈よ雪に壓せられた梅花を惜愛してゐる。その「わが背子」は必ずや色をも香をも知る人でなければならぬ。古今集の
  梅の花それとも見えず久方のあまきる雪のなべて降れゝば(冬、作者未詳)
と同套の作であつて、格調の高渾さに於いては稍劣るかも知れぬが、情景相俟つ點に於いてはこれが優つてゐ(2220)る。この作者の歌風は大方素醇清爽で、複雜性のものでも、尚單調に近づく事を忘れない。
 
從明日者《あすよりは》 春菜將採跡《わかなつまむと》 標之野爾《しめしぬに》 咋日毛今日毛《きのふもけふも》 雪波布利管《ゆきはふりつつ》     1427
 
〔釋〕 ○あすよりは 新古今集(春)、及び類本訓アスカラハ〔五字傍線〕。
【歌意】 明日からは若菜を摘まうと、占め置いた野に、昨日も今日も雪は降り/\して、摘みに行かれぬことの殘念な〔摘み〜右○〕。
 
〔評〕 山野に標を立てる事は、集中に再三歌はれてゐる。標は動詞としては占領《シメ》の意である。さては「しめし野」は野の一部に、恰も今の松茸山のやうに繩張でもして置いたものか。若菜摘もさうなつては頗る殺風景な氣がする。これは心中に場處の豫定をして置くをいふのであらう。
 初春の情景で、雪勝な天候に、待ちわびたその行遊の妨げられる、輕い遺憾さを扱つた。姿がさはやかで、平淡ながら棄て難い滋味がある。既に「明日」といひ、次いで「昨日も」「今日も」と節を拍つて日並の語を並べたのは、有意的であらうが、自然を失ふまでには至らない。「雪は降りつつ」も現在感が強くて面白い。
 
草香《クサカ》山(ノ)歌一首
 
〇草香山 既出(一七二七頁)。
 
(2221)忍照《おしてる》 難波乎過而《なにはをすぎて》 打靡《うちなびく》 草香乃山乎《くさかのやまを》 暮晩爾《ゆふぐれに》 吾越來者《わがこえくれば》 山毛世爾《やまもせに》 咲有馬醉木乃《さけるあせみの》 不惡《にくからぬ》 君乎何時《きみをいつしか》 往而早將見《ゆきてはやみむ》     1428
 
〔釋〕 ○おしてる 難波の枕詞。既出(九八五頁)。○うちなびく 打靡く草と續けて、草香の枕詞とした。○くさかのやま 「草香山」を見よ(一七二七頁)。○やまもせに 山も狹《セ》きほど〔二字右○〕に。○あせみ 既出(一九二六頁)。○あせみの 「あせみ」の如く〔二字傍点〕。「にくからぬ」の序とした。○にくからぬ 可愛いの逆語。古義訓アシカラヌ〔五字傍線〕は非。△地圖及寫眞 第一卷の卷頭挿圖、及挿圖415(一七二九頁)を參照。
【歌意】 既に〔二字右○〕難波を打過ぎ、草香山を夕方に、私が越えてくると、山も狹いほどに、咲いてゐる馬醉木《アセミ》の、その花の〔四字右○〕やうに愛らしいあの兒を、何時さ往つて、早く見ようことか。
 
〔評〕 難波を通過して奈良京へ歸る人の作である。意中の人に早く逢ひたいの念は、難波に來著と同時に、愈よ燃え盛る。草香の直越《タヾコエ》にかゝると、黄昏の光に、馬醉木《アセミ》の鈴成の花が、山一杯に白く匂うてゐる。あゝ「憎からぬ」花だと見惚れた瞬間、再び「憎からぬ」人の上に聯想は立戻つて、もう一二時間で京入とはなるものゝ、然しそれは夜分だ。愈よ氣が急いて「往きて早見む」と焦立つた。
 短篇ながら變化が横生してゐる。中間自然の景象を配した情景の對映も面白く、心的轉換の状歴々として、(2222)印象鮮明である。
 殊に主要の情語を最後に配して、全首にその反撥力を波及せしめた篇法も面白い。
 
右一首(ハ)、依(リテ)2作者|徴《イヤシキニ》1不v顯(ハサ)2名字(ヲ)1。
 
右の一首の歌は詠人の身分が卑いので、その名をあらはして書かぬとの意。本集には遊行婦即ち娼女などさへ、その名の明記されたのがある。古代の社會通念では、彼等の階級は現代ほど輕蔑されてゐなかつた。それ以下の微者とすると、乞食者を別としては奴婢階級の外はない。奴婢は即ち奴隷で、稻何百束で賣買された賤民であつた。當時良民と賤民との差別は非常に嚴格で、その事は國史や令に示されてある。想ふにこの作者は奴婢階級の人であらう。もし遊行婦の作なら、本卷、夏雜歌の「橘歌」の題下に遊行女婦と注してある如く、この題下にもその注記のあるべきだ。
 
櫻花(ノ)歌一首并短歌
 
※[女+感]嬬等之《をとめらが》 頭挿乃多米爾《かざしのために》 遊士之《みやびをが》 ※[草冠/縵]之多米等《かづらのためと》 敷座流《しきませる》 國乃波多弖爾《くにのはたてに》 開爾鷄類《さきにける》 櫻花能《さくらのはなの》 丹穗日波母安奈何《にほひはもあなに》     1429
 
(2223)〔釋〕 ○かざし 既出(一五四頁)。○かづら 既出(九四六頁)。○ためと 上に「ために」とあるので、助辭を「と」といひ換えた。に〔傍点〕もと〔傍点〕もこゝは同意。さてこの句は「さきにける」に跨續する。○しきませる 大君の〔三字右○〕の語を補うて聞く。既出(七九五頁)。○はたて 果手《ハタテ》の義。果て〔二字傍点〕と同意。「て」は行手の手に同じい。○にほひはもあなに 八言の句「にほひ」は色澤をいふ。「はも」は歎辭。○あなに まあ美しい。「に」は和《ニギ》びて美しいの意。神代紀に、妍哉をアナニヱヤと訓んである。アナもヱヤも歎辭。ニに充てた「妍」の字は匂やか〔三字傍点〕、たをやか〔四字傍点〕の意。「何」は荷〔右△〕の通用で、誤字ではない。類本神本その他に爾〔右△〕とあるは愈よ明白である。△挿圖377(一四六九頁)を參照。
【歌意】 處女達が髪挿の爲に、風流男達が※[草冠/縵]の爲に、大君の〔三字右○〕統治なされる國のはてまで〔二字右○〕に、咲いてゐる櫻の花の色艶はまあ、あゝ美しい。
 
〔評〕 事實からいへば、當時の櫻は專ら山櫻だから、枝が剛くて※[草冠/縵]にはしにくいが、髪挿に對しての文飾で、「※[草冠/縵・の爲」といつた。そして櫻を只、若い男女達の陽春行樂の爲に日本中に咲き渡るものゝやうに一氣に主張した。こんな勝手な解釋は、全く櫻に狂する者の言葉であるが、又事實昔から櫻の國日本であつたのだ。結局「匂はもあなに」の讃美が、この製作の本意である。
 中間「敷きませる國」は大君のの主語を要する格なので、上に八隅しゝわが大王の〔九字右○〕の二句の落句ありとする契沖説が、一般に認められてゐる。然し大王の敷きます〔六字傍点〕はその當時では判で押したやうな慣習語なので、わざと省筆したと見ても差支はあるまい。まして小型の長歌としては、その位の自由は與へられてもよい。この歌(2224)はわが皇國を櫻に結び付けて考へる思想の最先驅をなした作である。
 
  反歌
 
去年之春《こぞのはる》 相有之君爾《あへりしきみに》 戀爾師乎〔二字左△〕《こひにしを》 櫻花者《さくらのはなは》 迎來良之母《むかひくらしも》     1430
 
〔釋〕 ○こひにしを 「師乎」原本に手師〔二字右△〕とあり、コヒニテシ〔五字傍線〕と訓まれるが、意が明晰を缺き、辭法も不穩である。新考いふ、師乎を顛倒して而も乎を手に誤れるならむと。さもあらう。○むかひくらしも、「むかひく」は來向〔二字傍点〕ふに同じい。古義訓ムカヘケラシモ〔七字傍線〕。
【歌意】 去年の春逢つた人に、戀したことであつたのを、今や〔二字右○〕櫻の花は、その時季に〔五字右○〕向つて來るらしいまあ。
 
〔評〕 花下に不圖出會つた人に輕い戀心を覺えたのであつたが、又もや春が立返つて櫻花の季節となつたので、懷舊の情がむら/\と起り、死灰が再び燃えた。花見に往つたら若しか又逢へもせうの意を言外に遺して、單に「櫻の花は向ひ來らしも」といひ棄てた婉曲な手法は、その含蓄味を深からしめる。
 
右二首(ハ)、若宮《ワカミヤノ》年魚《アユ》麻呂誦(ム)v之(ヲ)。
 
この長短歌二首は、年魚麻呂が讀んで聞かせたとの意。○若宮年魚麻呂 既出(八八七頁)。
 
山部(ノ)宿禰赤人(ガ)歌一首
 
(2225)百濟野乃《くだらぬの》 芽古枝爾《はぎのふるえに》 待春跡《はるまつと》 居之※[(貝+貝)/鳥]《をりしうぐひす》 鳴爾鷄鵡鴨《なきにけむかも》     1431
 
〔釋〕 ○くだらぬ 百濟野は「くだらのはら」に同じい。既出(五四〇頁)。○はぎ 既出(一〇〇一頁)。○ふるえ 枯れ殘る枝をいふ。○をりし 類本神本の訓による。古義は「居」の上に來〔右△〕を補うてキヰシ〔三字傍線〕と訓んだ。舊訓スミシ〔三字傍線〕。○けむかも 「鷄鵡鴨」は戲書。△地圖 挿圖141(五一二頁)を參照。
【歌意】 百濟野の萩の枯枝に、春を待つとて〔右○〕、居たことであつた鶯は、もうとうに〔五字右○〕鳴いたであらうかいまあ。
 
〔評〕 作者は冬の頃百濟野を通過し、偶ま枯れ殘つた野萩の枝潜りしで飛ぶ鶯を瞥見した。陽春の今、四邊鶯の流音を聞くにつけ、嘗ての百濟野の鶯を想起し、つぶさにその可憐の状態を思ひ、延いては萩の古枝の野情を偲んだ。「啼きにけむかも」の落句、その黙々として飛んで居た趣を反映し、野生の微物に、なほその愛著を禁じ得ない、作者の情意の温さがほの見える。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ノ)柳(ノ)歌二首
 
○坂上郎女 既出(八六七頁)。
 
吾背兒我《わがせこが》 見良牟佐保道乃《みらむさほぢの》 青柳乎《あをやぎを》 手折而谷裳《たをりてだにも》 見縁〔左△〕欲得《みむよしもがも》     1432
 
(2226)〔釋〕 ○みらむ 既出(二一七頁)。○さほぢ 佐保路。奈良京の佐保川添ひの路の稱。なほ「さほ」(七三八頁)及び次の歌の「うちのぼる」を見よ。○みむよしもがも 「縁」原本に綵〔右△〕とあるは解し難い。契沖説によつて改めた。△地圖 挿圖170(六一七頁)を參照。
【歌意】 わが背子の君が、愛でてお覽なさるであらう處の、佐保路の青柳を、せめて一枝〔五字右○〕手折りてなりともして、見よう術《スベ》もありたいなあ。
 
〔評〕 佐保路の柳は次の歌にも「打上る佐保の川原の青柳は」と詠まれ、佐保の川沿道即ち佐保路が柳竝木になつて居たらしい。青々たる河畔の柳、佐保路の春色は必ず奈良京唯一の名勝だつたに相違なく、參退の官人達のこの路にかゝる者は、蔭立ちならして、幾瀬かの春水に影を曳く麹塵の絲に、その朝服の袖を拂はせたことであらう。作者のいはゆる「我背子」もやはりその一人であつたのだ。「我背子」は或は郎女の後の夫藤原麻呂卿かも知れない。
 郎女は麻呂卿との間に、何か面白からぬ經緯があつたと見え、遠く宰府の兄旅人卿の許に投じてゐた。異境に春を迎へた覊人の愁は殊に婦人に於いて甚しからう。油然として起る國偲びの念は、花と榮ゆる奈良京を思ひ、士女の春遊を思ひ、遂に佐保路の柳を思ふ。而もその柳は更に無情の故人我背子を聯想せしめる媒たるに至つて、その感傷は極まる。
 實に「我背子が見らむ佐保路の青柳」は、郷愁に更に離愁を加ふるもので、一枝なりとも手折つてまのあたりに見たいとの切なる情願に裏書するものであつた。情緒纏綿。
 
(2227)打上《うちのぼる》 佐保能河原之《さほのかはらの》 青柳者《あをやぎは》 今者春部登《いまははるべと》 成爾鷄類鴨《なりにけるかも》     1433
 
〔釋〕 〇うちのぼる 「うち」は接頭語。佐保路は奈良皇居の正面、二條通に面した朱雀門から羅城門に至る朱雀大路の一部で、佐保川に沿うた四條から九條間の稱であらう。すべて京中の路は皇居のある北へ向ふをノボルといふ。中にもこの重要なる朱雀大路の南半部を保有する佐保路だから、「うちのぼる」の詞を冠するは至當である。久邇京の登大路も同意味からの命名であらう。訓は古本による。嘗訓ウチアグル〔五字傍線〕。なほ他説では(1)佐保路は打|上《ノボ》りつゝ行く處ならむからにいへるにや(眞淵説)。(2)打登る眞穗《マホ》を佐保にいひかけたるなるべし、登《ノボル》は穗の張り出づるまゝにすく/\と立登る由なり(古義)。(3)舊訓に依つて、打|上《ア》ぐる眞帆《マホ》を佐保にいひかけたり(古義一説)。○さほのかはら 「さほがは」を見よ(二七三頁)。○なりにけるかも 新考はナリニケムカモ〔七字傍線〕と訓んで「類」を誤とした。
【歌意】 佐保川の河原の青柳は、只今はもう、春めく時となつたことであるかまあ。
 
〔評〕 佐保川路の柳竝木は、多分宮城や道路に楊柳を栽ゑた漢土の都城の趣を移したものだらう。されば陽春の候となると、その※[參+毛]々たる麹塵の絲が時に朝紳參退の袖を拂ひ、時に行人の肩や馬背を撫でて、懷かしい京名物となつてゐたと想はれる。
 さて「河原の青柳」は珍しい。嚴しくいへば柳は岸にこそあれ河原の物ではないが、大まかに打任せての措(2228)辭と見ておかう。作者は有名な柳原に緑が囘つて來たのを見て、その新春の色に目を瞠つて詠歎しつゝ、裏面には日月の經過の迅速なことを驚歎してゐる。「今は」の一語が眼目である。
 前の歌と同時の作ではない。然し新考説の如く結句を「なりにけむかも」とすれば、他郷又は異地にありての想像となるから、同時の作と見られる。
 
大伴(ノ)宿禰|三林《ミヨリガ》梅(ノ)歌一首
 
○大伴宿禰三林 「林」は或は依〔右△〕の誤で、大伴三依のことか。尚思ふにこれは誤ではなくて、音訓入り交りではあるが、三依《ミヨリ》の音に因んだ文雅上の作名らしい。三依の傳は既出(一一六六頁)。
 
霜雪毛《しもゆきも》 未過者《いまだすぎねば》 不思爾《おもはぬに》 春日里爾《かすがのさとに》 梅花見都《うめのはなみつ》     1434
 
〔釋〕 ○いまだすぎねば まだ霜雪の降るをいふ。○かすがのさと 既出(九一五頁)。
【歌意】 霜や雪もまだ、その時が過ぎないのに、意外に春日の里に、梅の花を見たわい。
 
〔評〕 平凡な所見で、梅花の霜雪を凌ぐも新意がない。全體が理路に著してゐる。
 春日の里わは奈良京の東郊で、その頃多少の梅が閭間に點在してゐたと見える。日受けもよい地勢だから、他處よりは花が早く咲くのであつた。
 
(2229)厚見《アツミノ》王(カ)歌一首
 
○厚見王 傳既出(一二八八頁)。
 
河津鳴《かはづなく》 甘南備河爾《かむなひがはに》 陰所見《かげみえて》 今哉開良武《いまやさくらむ》 山振乃花《やまぶきのはな》     1435
 
〔釋〕 ○かはづなく 神南備川の序語。「千鳥啼く佐保川」の類で、單なる修飾語である。「かはづ」は既出(七八七頁)。○かむなひがは 大和國に二箇處ある。(1)は平群郡の神南山即ち三室山(大島の嶺)をめぐる寺川の稱。(2)は高市郡の神南備山即ち雷の岡をめぐる飛鳥川の一稱。以上のうちこゝは(2)を可とする。○かげみえて 「咲くらむ」に跨續する。「陰」は影の借字。○いまや 古本多くイマカ〔三字傍線〕と訓んである。○やまぶき 薔薇科の灌木。既出(四四四頁)。「振」を充てたのは、振り〔二字傍点〕は古言に振《フ》きと加行四段に活用したからで、羽振《ハブキ》の語もその一例。△地圖及寫眞 挿圖――105(三三四頁)144(五二三頁)を參照。
【歌意】 あの神南備川に影が映つて、今頃咲くであらうか、山吹の花が。
 
〔評〕 蛙の噂く神南備川は飛鳥である。赤人、古麻呂、金村その他の諸家の作にも、蛙が歌つてある。
 この歌は表面は神南備川の山吹は今咲くだらうかとの單純な想像に過ぎない。然しその根柢に過去がある。作者は嘗てその河水に映じた山吹の陸離たる光彩をなつかしんだ。時今や季春、忽ち當時の光景を想起し、そ(2230)の印象を反芻して、「影見えて今や咲くらむ」とその詩思を馳せた。自然への憧憬、そこに美しい情感がある。これを空想の所産らしく考へるのは近眼者の妄見である。
 體格典雅、風調優艶、節奏の微妙と相俟つて、後代の歌人殊に元久歌人の渇仰する所であつた。それだけ格調は平安期に近いものであつて、貫之はこれに私淑して、
  逢坂の關のしみづに影見えていまや引くらむ望月の駒(拾遺集、秋)
と歌つた。
 
大伴(ノ)宿禰|村上《ムラカミガ》梅(ノ)歌二首
 
○大伴宿禰村上 續紀の神護景雲二年七月の條に、日向國宮崎郡の人大伴(ノ)人益が、肥後國葦北郡の人刑部(ノ)廣瀬女と共に、白龜の赤眼なのと青馬の白髪毛なのを獻り、各從八位下を授けられ、※[糸+施の旁]十匹綿廿屯布卅端、正税一千束を賜はり、又人益が父村上に、父子之際同(ウスルハ)v心(ヲ)天性也、恩賞(ノ)所v被(ムル)、事須(シ)2同(ジク)沐(ス)1とあつて、その縁黨の罪を恕して入京を赦された事が見え、村上は寶龜二年四月正六位上から從五位下に叙せられ、その十一月肥後介となり、同三年四月從五位上で阿波守となつた。
 
含有常《ふふめりと》 言之梅我枝《いひしうめがえ》 今旦零四《けさふりし》 沫雪二相而《あわゆきにあひて》 將開可聞《さきぬらむかも》     1436
 
〔釋〕 ○あひて 立ち合うて。
(2231)【歌意】 まだ蕾んでゐると聞いた梅の枝は〔右○〕、今朝降つた泡雪に張り合つて、咲いたらうかまあ。
 
〔評〕 雪中に梅の芬芳を放つ美しい潔い風致を想像した。梅の霜雪を凌ぐは支那傳來の極まり文句だが、それが事實だから仕方がない。下の
  けふふりし雪にきほひてわが宿の冬木の梅は花咲きにけり(家持――1649)
は現在描寫になつてゐるが、畢竟は同趣。なほ
  しはすには沫雪降るとしらねかも梅が花咲く含めらずして(少鹿女郎――1648)
はこの歌と表裏してゐる。
 
霞立《かすみたつ》 春日之里《かすがのさとの》 梅花《うめのはな》 山下風爾《やまのあらしに》 落許須莫湯目《ちりこすなゆめ》     1437
 
〔釋〕 ○かすみたつ 春日に係る序語。春日山附近は雲烟が常に立つのでいひ續けた。霞は古代には春季以外にも詠んでゐる。「千鳥鳴く佐保」「蛙鳴く井手」など類例が多い。略解はカスミタチ〔五字傍線〕と訓んで枕詞とした。○やまのあらしに 「やまのあらしの」を見よ(二五八頁)。○ちりこすな 「ききこすな」を參照(一二八○頁)。
【歌意】 春日の里の梅の花よ、山の嵐に散つてくれるなよ、きつと。
 
〔評〕 風に散るは花の常態、それを「山のあらし」にも必ず散るなとは、隨分無理な注文だが、その無理たるを(2232)忘れる程、まこと美しい梅だつたのだ。山は春日山である。 
大伴(ノ)宿禰駿河麻呂(ガ)歌一首
 
○駿河麻呂 傳既出(九〇六頁)。
 
霞立《かすみたつ》 春日里之《かすがのさとの》 梅花《うめのはな》 波奈爾將問常《はなにとはむと》 吾念奈久爾《わがもはなくに》     1438
 
〔釋〕 ○うめのはな 以上三句は花の疊音によつた序詞。○はなにとはむと あだに訪はうとは。「はなに」は前出(二一四五頁)。
【歌意】 春日の里の梅の花の、花といふあだ事に、貴女を訪はうと、私は思ひませんのにね。――それを浮いた事のやうにお取りなさるのは酷い〔それ〜右○〕。
〔評〕 これは探梅の作ではない。懸想人としての辭令で、
  まひしつゝ君がおほせる撫子の花のみとはむ君ならなくに(卷廿、左大臣――4447)
と同意の作である。表現はこの歌の方が明晰で洗練されてゐる。
 卷三にもこの作者の梅の歌があり、同じく戀歌である。
 
中臣《ナカトミノ》朝臣|武良自《ムラジガ》歌一首
 
(2233)○中臣朝臣武良自 傳未詳。武郎自は連《ムラジ》の義で、こゝは名である。
 
時者今者《ときはいまは》 春爾成跡《はるになりぬと》 三雪零《みゆきふる》 遠山邊爾《とほやまのへに》 霞多奈婢久《かすみたなびく》     1439
 
〔釋〕 ○ときはいまは 六言の句。○みゆきふる 雪の積つてあるをいふ。集中その例が多い。「み」は美稱。○とほやまのへに 舊訓トホキヤマベニ〔七字傍線〕。
【歌意】 時節はもう、春になつたと、あの雪のつもる遠山の邊に、霞が靡くわ。
〔評〕 天地の春を知つて靡くと、霞の所作を有意的に取成した。遠山の鋭い雪白に映射した、長閑けくやはらかい紫の霞の搖曳は、初春の景氣が著しくそこに生動する。體は長高、調は優雅である。
 
河邊(ノ)朝臣|東人《アヅマヒトガ》歌一首
 
○河邊朝臣東人 續紀に、神護景雲六年正月正六位上から從五位下、寶龜元年十月石見守となるとある。
 
春雨乃《はるさめの》 敷布零爾《しくしくふるに》 高圓《たかまとの》 山能櫻者《やまのさくらは》 何如有良武《いかにかあるらむ》     1440
 
〔釋〕 ○しくしくふる 「しく/\」は重々《シキ/\》の意。繁きこと。頻なること。眞淵訓による。奮訓シキ/\フルニ〔七字傍線〕。(2234)○たかまとのやま 既出(六一六頁)。○いかにか 西本にこの訓あり。舊訓イカニ〔三字傍線〕は非。
【歌意】 春雨が頻つて降るにつけ〔二字右○〕。高圓の山の櫻は、どんなであらうかしら。
 
〔評〕 大方咲いたらうと、雨中に花を想ふ、その風流情緒が輕く流れ出てゐる。隣の春日山と違つて、高圓山は常磐木が少いし、裾野は草野だから、花でも咲けば人目に著く。
 
大伴(ノ)宿禰家持(ガ)※[(貝+貝)/鳥](ノ)歌一首
 
○大伴宿禰家持 既出(九〇〇頁)。
 
打霧之《うちさらし》 雪者零乍《ゆきはふりつゝ》 然爲我二《しかすがに》 吾宅乃苑爾《わぎへのそのに》 ※[(貝+貝)/鳥]鳴裳《うぐひすなくも》     1441
 
〔釋〕 〇うちきらし 「きらし」は霧《キ》るの佐行四段に活用された語。「きれる」(一二六頁)及び「きらふ」(三〇三頁)を見よ。○わぎへ 「わぎへのあたり」を見よ(一二八三頁)。
【歌意】 掻きくらし雪は降り/\するが、流石に自分の家の園に、鶯があれ鳴くわい。 
〔評〕 矛盾した景趣に對し、驚異の眼を瞠つて、「しかすがに」の語を轉捩の楔子とした。その内實は、鶯聲によつて陽氣の催すのを欣んでゐる。(2235)結句に「鶯鳴くも」と置いた例を集中に求めると、この歌の外に八首算する。特殊語でないからそれも無理はない。さてかやうに動詞形容詞に歎辭のも〔傍点〕を添へて結收する體は、平安以降漸く廢れてきた。
 
大藏(ノ)少輔丹比屋主眞人《スナイスケタヂヒノヤヌシノマヒトガ》歌一首
 
○大藏少輔 大藏省の次官。大藏省は主として出納を掌る官司で、卿《カミ》一人(正四位下相當)、大輔一人(正五位相當)、少輔一人(從五位相當)と令に見える。○丹比屋主眞人 丹比は氏、屋主は名、眞人は姓。屋主は續紀によれば神龜元年二月正六位上から從五位下、天平十七年正月從五位上、同十八年九月備前守、同二十年二月正五位下、天平勝寶元年閏五月左大舍人頭となつた。卷六に丹比|家主《イヘヌシ》の名が見える。原本にそれを屋主とするは誤。同條參看(一八〇八頁)。
 
難波邊爾《なにはべに》 人之行禮波《ひとのゆければ》 後居而《おくれゐて》 春菜採兒乎《わかなつむこを》 見之悲也《みるがかなしさ》     1442
 
〔釋〕 ○なにはべ 難波の方。「みつのはま」を見よ(二三五頁)。○ゆければ 行きければ。「ゆけ」は加行四段活の第五變化、「れ」は現在完了の助動詞。○おくれゐて 跡に殘つてゐて。○かなしさ この「かなし」は可愛さうの意。
【歌意】 難波の方に、その想ふ〔四字右○〕人が往つたので、跡に殘つてゐて、獨〔右○〕若菜を摘む兒を見ること〔二字右○〕が、可愛さうなことよ。
 
(2236)〔評〕 愛する男は難波へ往つた。只獨悶々の情を抱いて、せめてもの心遣りに近郊の若菜摘に出てゐる兒、他の幾群かの綺羅の中は夫婦連れの遊行もあることを思ふと、まこと氣の毒にも可愛さうにもなる。さうした對映的景致のある事實を忘れては、この歌の滋味は半減する。「人の」といつて、夫とも何とも説破せぬのも、含みの多い味のある表現である。
 
丹比(ノ)眞人|乙麻呂《オトマロガ》歌一首
 
○丹比眞人乙麻呂 目録の註に、屋主(ノ)眞人(ノ)第二之子也とある。續紀に、天平神護元年正月正六位上から從五位下に、同十月の紀伊行幸に爲(ス)2御前次第司(ノ)次官(ト)1と見えた。
 
霞立《かすみたつ》 野上乃方爾《ぬのへのかたに》 行之可波《ゆきしかば》 ※[(貝+貝)/鳥]鳴都《うぐひすなきつ》 春爾成良思《はるになるらし》     1443
 
〔釋〕 ○ぬのへ 野邊。〇ゆきしかば 既出(二〇二〇頁)。
【歌意】 霞の立つ野邊の方に往つたので、鶯が嶋いたわ。もう春になるらしい。
 
〔評〕 霞の立つ春の景象、野邊に出遊するのは春候に促された行動、それでもう春の趣は十分だ。けれども春の象徴たる鶯の聲を聞くに至つて、始めて躊躇せずに「春になるらし」といひ得る。圖らず春信の第一聲を聞き(2237)得た歡の情が動いてゐる。
 
高由女王《タカタノヒメミコノ》歌一首
 
○高田(ノ)女王 既出(一一四六頁)。
 
山振之《やまぶきの》 咲有野邊乃《さきたるぬべの》 都保須美禮《つぼすみれ》 此春之雨爾《このはるのあめに》 盛奈里鷄利《さかりなりけり》     1444
 
〔釋〕 ○つぼすみれ 菫の花はそのつぼんだ形状から、また壺菫とも呼ぶ。「菫」を見よ(二二一六頁)。○さきたるぬべの 新考訓サケルヌノヘノ〔七字傍線〕。
【歌意】 山吹の咲いてゐる、野邊の壺菫が〔右○〕、この春雨に、眞盛りであることわい。
 
〔評〕 「この」と強く春雨を提擧して、濡れて咲く菫の可憐な情趣を映出させた。「盛りなりけり」は菫の状景の描寫位に輕く看過され勝だが、そこに詠歎がある。摘んでもゆきたいがこの雨ではといふ、菫に對するあこがれが内面に動いてゐる。まこと婦人らしい作である。「山吹の咲きたる」は實景であらうが、焦點たる菫への注意を分散させる恐がある、黄紫の配色も美しいが。但かうした體は集中に可成り多い。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)歌一首
 
(2238)風交《かぜまじり》 雪者雖零《ゆきはふるとも》 實爾將〔左△〕成《みにならむ》 吾宅之梅乎《わぎへのうめを》 花爾令落莫《はなにちらすな》     1445
 
〔釋〕 ○みにならむ 「將」原本に不〔右△〕とあり、ミニナラヌ〔五字傍線〕と訓まれてある。新考に將の誤としたのは宜しい。
【歌意】 假令風まじりに雪は降るとしても、追つ付け〔四字右○〕實にならうところの〔四字右○〕、私の宅の梅を、あだに散らすなよ。
 
〔評〕 「わぎへの梅」はわが娘を擬へ、風まじりに風のふるやうな、えらい故障があつても、未來は夫婦とならう筈の私の内の娘との縁を、中途であだにしてはならぬぞとの譬喩である。下の
  わぎもこが形見の合歡木《ネブ》は花のみに咲きてけだしく實にならぬかも(卷八――1463)
は事は正反してゐるが、花實のあしらひが相似てゐる。
 郎女の娘は、坂上大孃、坂上二孃の二人である。その中の誰れかへの懸想人に與へた歌であらう。
 
大伴(ノ)宿禰家持(ガ)春〔左△〕※[矢+鳥]《ハルノキヾシノ》歌一首
 
○※[矢+鳥] キヾシ、後には約めてキジといふ。平安期以後は專らキヾスと呼んだ。「※[矢+鳥]」は雉〔右△〕と同字。鶉鷄類の野鳥。春※[矢+鳥]は春その雌を戀うて鳴く雉をいふ。古義に二字をキヾシとのみ訓んだのは不完。「春」原本に養〔右△〕とあるは誤。
 
(2239)春野爾《はるのぬに》 安佐留※[矢+鳥]乃《あさるきぎしの》 妻戀爾《つまごひに》 己我當乎《おのがあたりを》 人爾令知管《ひとにしれつつ》     1446
 
〔釋〕 ○あさる 「あさり」を參照(一四九六頁)。○おのがあたりを 拾遺集(春)にはオノガアリカヲ〔七字傍線〕とある。○しれつつ 知ら〔右○〕れつゝの意。られ〔二字傍点〕の約はレ。「令知」はシラシメでシラレではないが、卷十三の長歌の中にも「人不令知」をヒトシレズと訓んである。
【歌意】 春の野に求食《アサリ》する雉子が、妻戀しさに鳴いて〔三字右○〕、自身の在處を、人に知られ/\してさ。愚しいことよ〔六字右○〕。
 
〔評〕 春の雉子は萋々たる芳草の間に伏してゐるが、折々妻戀にその鋭い聲を立てるので、この野に雉子が居るなと、すぐ人に知られてしまふ。そのやうに自分も妻戀の思を我から外面に露はして、人に感付かれることよとの譬喩だ。雉子に對しては同情であるが、自身に對しては、戀の爲に世間の耳目をも忘れた愚さを批判した嘲笑の言葉で、そこに悔恨の情が動いてゐる。すべて自己批判は歌としては結果が面白くなくなるが、これは譬喩の表現でもつて、その缺點を援護してゐる。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)歌一首
 
尋常《よのつねに》 聞者苦寸《きくはくるしき》 喚子鳥《よぶこどり》 音奈都炊《こゑなつかしき》 時庭成奴《ときにはなりぬ》     1447
 
(2240)〔釋〕 ○よのつねにきく、平常に聞くは。○よぶこどり 既出(二五一頁)。
【歌意】 平生聞くこと〔二字右○〕はわびしい呼子鳥、それが〔三字右○〕聲の懷かしい、時節にはなつたわい。
 
〔評〕「懷かしき時」は春を斥した。春の暢んびりした氣持で聞くと、愁はしげなボヤケたやうな呼子鳥の聲も、却て和やかな聞いてもみたい聲となるのである。萬法は一心だ。大方佐保の山齋續きの山邊に鳴く呼子鳥を聽いたのであらう。
 この歌は呼子鳥が春季を主と鳴くことの證左となつてゐる。
 
右一首、天平四年三月一日、佐保《サホノ》宅(ニテ)作(メル)。
 
○佐保宅 大伴家の本邸。郎女の父安麻呂は佐保(ノ)大納言と呼ばれた。子息旅人卿傳承して、その妹坂上邸女も住んでゐた。
 
  春(ノ)相聞《サウモン》
 
○相聞 既出(二九七頁)。
 
大伴(ノ)宿禰家持(ガ)贈(レル)2坂上(ノ)家(ノ)之|大孃《オホイラツメニ》1歌
 
○坂上家之大孃 既出(九一〇頁)。
 
(2241)吾屋外爾《わがやどに》 蒔之瞿麥《まきしなでしこ》 何時毛《いつしかも》 花爾咲奈武《はなにさきなむ》 名蘇經乍見武《なぞへつつみむ》     1448
 
〔釋〕 ○やど 「屋外」は意を以て充てた。○いつしかも 既出(八八八頁)。○さきなむ 「なむ」は現在完了の推量の助動詞。契沖訓による。舊訓サカナム〔四字傍線〕は非。○なでしこ 既出(一〇一六頁)。○なぞへつつ  擬《ナゾラ》へつゝ。古語。
【歌意】 私の庭に蒔いた撫子よ、何時まあ花と咲き出るであらうか。咲いたら貴女に〔七字右○〕擬へ/\して見ようわ。――多分この戀心が慰まうも知れぬ〔多分〜右○〕。
 
〔評〕 戀する人の眼では、あらゆる事物が愛の對象と映ずる。まして可憐そのものである撫子だ。今その種を蒔きつゝ「擬へつゝ見む」と、早くも開花の節を待ちわびる心持は讀めた。さてこの歌をその本人に贈つた所以は、わが愛情を表明して、相手の歡心を獲むが爲である。この撫子が咲いた頃だらう、作者は又、
  撫子のそのはなにもが朝な/\手に取りもちて戀ひぬ日なけむ(卷三――408)
と詠んで大孃に贈つてゐる。何れも柔腸の情語。
 
大伴(ノ)田村(ノ)家(ノ)之|大孃《イラツメガ》與《オクレル》2妹坂(ノ)上(ノ)大孃(ニ)1歌一首
 
〇大伴田村家之大孃 既出(一三六〇頁)。
 
(2242)茅花拔《ちばなぬく》 淺茅之原乃《あさぢのはらの》 都保須美禮《つぼすみれ》 今盛有《いまさかりなり》 吾戀苦波《わがこふらくは》     1449
 
〔釋〕 ○ちばなぬく 茅花は後にツバナ〔三字傍線〕と轉じた。淺茅《アサヂ》の春の穗をいふ。白くして絮《ワタ》の如く柔で喰はれる。この穗は引けげ拔ける。故に茅花拔くといふ。尚「あさぢはら」を參照(八〇一頁)。訓は神本による。○つぼすみれ 壺菫の盛なる如く〔五字右○〕。以上三句は「盛なり」に係る序詞。前出(二二一六頁)を參照。
【敬意】 茅花を拔く淺茅の原の、壺菫の盛なやうに、今が燃えさかる頂上ですわ、私が貴女を〔三字右○〕戀ふること〔二字右○〕は。
 
〔評〕 春先の淺茅原には茅花も崩え、菫も咲く。それを抽いたり摘んだりするのは婦人の仕事だ。上にも高田(ノ)女王は
  山吹の咲きたる野べの壺菫この春雨にさかりなりけり(本卷――1444)
と歌はれ、種々の點において相似してゐるが、これは更に一歩を進めて、そこに妹大孃を思ふ感懷を托した。蓋し田村大孃は、妹大孃とこの野遊の興を倶にせぬ事を深く遺憾としたのである。田村大孃の妹思ひは、卷三所載の「よそにゐて」以下の四首の歌及び左の
  わが宿の萩がはな咲く夕かげに今も見てしが妹がすがたを(卷八――1622)
  わが宿にもみづるかへで見る毎に妹をかけつゝ戀ひぬ日はなし(同――1623)
  あわ雪の消ぬべきものを今までに長らへぬるは妹にあはむとぞ(卷九――1662)
(2243)の三首に、本文の歌どもを湊合して一連に考へると、尋常一樣でなかつた事が諾かれ、その優れたやさしい人情美に打たれる。
 なほこれに就いて餘説がある。本卷の末、田村大孃の「あは雪の消ぬべきものを」(1662)の條の評語を參照。
 
大伴(ノ)宿禰家持(ガ)贈〔三字右○〕(レル)2坂上(ノ)郎女(ニ)1歌一首
 
○家持贈 この三字原本にない。諸説かく補ふを可とした。この前後家持の歌が多いから、假にそれに隨つて置いた。
 
情具伎《こころぐき》 物爾曾有鷄類《ものにぞありける》 春霞《はるがすみ》 多奈引時爾《たなびくときに》 戀乃繁者《こひのしげきは》     1450
 
〔釋〕 ○こころぐき 「こころぐく」を見よ(一三四四頁)。
【歌意】 悩ましいものでさ、あつたわい、春霞の靡く時分に、戀心のしげく燃えるのは。 
〔評〕 作者を必ず家持とすれば、坂上郎女は叔母に當り、その娘大孃が自分の妻だから、この戀は廣い意味の戀と見ねばならぬ。郎女は佐保の本邸に住み、家持は佐保の西宅に居た。春のもや/\した氣分は人懷かしく悩ましいものである。但
(2244)  春日山かすみたなびき情ぐく照れる月夜にひとりかも寢む(卷四、坂上大孃――735)
は相似た境地。曲はないが贈答としても聞える。さては題詞の「贈坂上郎女」は「贈坂上大孃〔二字右△〕の誤か。
 
笠(ノ)女郎(ガ)贈(レル)2大伴(ノ)家持(ニ)1歌一首
 
○笠女郎 既出(九〇〇頁)。
 
水鳥之《みづとりの》 鴨乃羽色乃《かものはいろの》 春山乃《はるやまの》 於保束無毛《おぼつかなくも》 所念可聞《おもほゆるかも》     1451
 
〔釋〕 ○みづとりのかものはいろの 水鳥の鴨の羽の色の如き〔二字右○〕。春山に續けた序詞。春の山は草木が青み渡るので譬へた。鴨には翠の色羽があるので、青首の稱さへある。○かも 鴨。水禽類中扁嘴類に屬し、種類が多い。〇はるやまの 春山の如く〔二字右○〕。春の山は霞んでぼつとしてゐるので、「おぼつかなくも」に續けた。以上三句は「おぼつかなく」に係る序詞。○おぼつかなく 不分明なる貌。ハキとせぬ貌。
【歌意】 水鳥の鴨の羽色のやうに青い〔三字右○〕、春の山のボウとしてゐるやうに〔十字右○〕、私の胸は薄惚けてまあ、思はれることよ。――それも貴方故さ〔七字右○〕。
 
〔評〕 上句は序に序を重ねて、層々に積上げた尖塔形の歌だ。それは主要語の「おぼつかなくも」を強調する手段に外ならない。平凡を修飾し、腐を化して新としたもの。
 
(2245)紀(ノ)女郎(ガ)歌一首
 
○紀女郎 既出(一二六四頁)。
 
闇夜有者《やみならば》 宇倍毛不來座《うべもきまさじ》 梅花《うめのはな》 開月夜爾《さけるつくよに》 伊而麻左自常屋《いでまさじとや》     1452
 
〔釋〕 ○うべも 諾《ウベ》も。道理にまあの意。○いでまさじとや 出でます〔四字傍点〕の語が天皇の行幸以外に用ゐられる例は、天智天皇紀の童謠などにも見えた。この事、古事記傳に委しい。「とや」はトイフコトカ、否カの意。「や」は疑辭。「伊而」の而〔傍点〕の訓はテだが濁音に流用した。古義は耐〔右△〕(漢音タイ)の省文とし、略解は耐〔右△〕の誤字としたが、それにも及ぶまい。
【歌意】 闇夜なら御尤にまあ、來なさるまいさ。今〔右○〕梅の花が咲いてゐるこの〔二字右○〕月夜に、お出でなさるまいといふことかえ。
 
〔評〕 女郎の居宅には折しも淡月が梅花を照してゐた。こんな面白い風情を見遁がして來ぬといふ法はないと、自然の景象を絶對の身方に取つて、飽くまでも男の無情を追究した怨歌である。その男は花月に辜負する風流罪過と、女郎の訪問を怠つた情的罪過とを、二重に責め付けられた譯である。
 二句と三句以下との合拍、餘に緊密に過ぎるが、作者は素より承知の上で、理窟詰にぎう/\いはせた處に、(2246)その熱愛の情味が迸つて面白い。
 女郎は安貴《アキノ》王の妻だし、また家持との關係がその以前にあつたらしくもあるから、相手の男は何れとも判然しない。
  われこそは僧くもあらめわが宿の花橘を見には來じとや(十卷――1990)
はこの範疇に屬する作。
 
天平五年|癸酉《ミヅノトトリノ》、春|閏《ウルフノ》三月《ヤヨヒ》、笠(ノ)朝臣金村(ガ)贈(レル)2入唐使(ニ)1歌一首并短歌
 
○天平五年の閏の三月に、笠金村が遣唐使に贈つた歌との意。○笠朝臣金村 既出(八四二頁)。○入唐使 唐に往く使、即ち遣唐使《モロコシニツカハサルヽツカヒ》。この時の遣唐使は續紀に、天平四年八月以(テ)2從四位下|多治比《タヂヒノ》眞人廣成(ヲ)1爲(ス)2遣唐大使(ト)1と見え、委しくは同時の作たる卷五の山上憶良の「好去好來」の歌の條下に注した。卷九、卷十九にも同時の歌が出てゐる。
 
玉手次《たまだすき》 不懸時無《かけぬときなく》 氣緒爾《いきのをに》 吾念公者《わがおもふきみは》 虚蝉之《うつせみの》 世人有者〔四字左○〕《よのひとなれば》 大王之〔三字左○〕《おほきみの》 命恐《みことかしこみ》 夕去者《ゆふされば》 鶴之妻喚《たづのつまよぶ》 難波方《なにはがた》 三津埼從《みつのさきより》 大船爾《おほふねに》 二梶繁貫《まかぢしじぬき》 白浪乃《しらなみの》 (2247)高荒海乎《たかきあるみを》 島傳《しまづたひ》 伊別往者《いわかれゆけば》 留有《とどまれる》 吾者幣取〔左△〕《われはぬさとり》 齊乍《いはひつつ》 公乎者將待〔左△〕《きみをばまたむ》 早還萬世《はやかへりませ》     1453
 
〔釋〕 ○たまだすき 「懸け」の枕詞。既出(三九頁)。○かけぬときなく 心に〔二字右○〕係けぬ時なく。○いきのをに 既出(一二六七頁)。○うつせみの 世の枕詞。既出(九八六頁)。「うつせみも」を見よ(六九頁)。○よのひとなればおほきみの この二句原本にない。契沖説によつて補つた。いはく、卷九の長歌に、「人となる事は難きを――虚蝉乃代人有者大王之御命恐美《ウツセミノヨノヒトナレバオホキミノミコトカシコミ》、またその續きの長歌に「虚蝉乃世人有者大王之御命恐美《ウツセミノヨノヒトナレバオホキミノミコトカシコミ》」とありて、こゝもかの例に依るに、二句脱したるなるべしと。○ゆふされば 既出(一六二〇頁)。〇なにはがた 難波潟。既出(一一三八頁)。○みつのさき 御津の濱と同處。「みつのはま」を見よ(二三五頁)。○まかぢしじぬき 「まかぢ」(八四六頁)、及び「しじぬき」(八五一頁)を見よ。○あるみ 前出(二〇五六頁)。○いわかれゆけば 「い」は發語。○ぬさとり 「ぬさとりむけ」を見よ(二三二頁)。「取〔右△〕」原本に引とある。眞淵説によつて改めた。○またむ 「待」原本に往〔右△〕とあるは誤。契沖説による。
【歌意】 私が心に懸けぬ時なく、命にかけて念ふ貴方は、流石〔二字右○〕この世の人だから、天皇の仰を畏んで、夕方になると鶴がその雌を喚ぶ、難波潟の御津の崎から、大船に諸楫《モロカヂ》を澤山たてゝ、白浪の高い荒海を、鳥傳ひして別れて往かれようなら、あとに留まつてゐる私は、幣を取持つて、御無事の〔四字右○〕祓をしつゝ、貴方をばお待ち致しま(2248)せう、どうぞ〔三字右○〕早くお歸りなさいませ。
 
〔評〕 金村は凡下の卑官、多治比廣成は名家の大官、身分に大きな逕庭のあつた事はいふまでもない。然し「玉襷懸けぬ事なく、息の緒に念ふ」所以は、特別な入懇の間柄にあつたと見える。
 「空蝉の世の人なれば、大王の命恐み」は官吏の公命を奉ずるをいふ套語で、間接に遣唐の使命に觸れてゐる。「夕されば鶴の妻喚ぶ」はその景物を※[人偏+就]りた難波潟の修飾に過ぎない。
 難波津から遣唐使の船の出發することは定例で、この時も
  夏四月己亥(三日)遣唐四船自(リ)2難波(ノ)津1進發(ス)、(續紀、天平五年の條)
と見えた。
 以下廣成が航海苦を豫想に描いての行叙も、せい/”\瀬戸内海を範圍とした想像で、極めて常識的である。結末、送別者たる立場から、神に祈つて無事の歸朝を待ち、「早歸りませ」で收束したのも例の套語である。
(2249) 全篇よく纏つて整つて、一點の疵瑕もない完作である。然し單なる私情の縷述で、それもこの時代人の口頭語で終始し、警拔の點が乏しく又精彩がない。かうなると、憶良の「好去好來歌」は、結構雄偉な大作であることが確實に認知される。彼れのは天地の神祇を縱横に驅使して、世界は日本と漢土とに亘り、言靈の幸をまで織り込んで、有力に「早歸りませ」の套語に新しい生命を吹き込んでゐる。
 こ篇の特徴としては、一意到底なることと、徹頭徹尾對句法を用ゐないこととである。 
反歌
 
波上從《なみのうへゆ》 所見兒島之《みゆるこじまの》 雲隱《くもがくり》 穴氣衝之《あないきづかし》 相別去者《あひわかるれば》     1454
 
〔釋〕 ○なみのうへゆ この「ゆ」はニ〔傍点〕に近い用法。○こじま 小さな島。備前の兒島ではない。「兒」は借字。○こじまのくもがくり 小島の海雲に隱るゝ如く〔二字右○〕。上句は譬喩。古義や新考説はむづかしく考へ過ぎて牽強である。○いきづかし 息吐《イキヅ》くの形容詞格。但これは終止言のみで活用はない。○あひわかるれば 童本訓による。舊訓、古義訓アヒワカレナバ〔七字傍線〕は非。新考訓アヒワカレユケバ〔八字傍線〕。
【歌意】 波の上に見える、小さな島が雲隱れするやうに、胸が塞がつて〔九字右○〕、それはまあ吐息がつかれるわ、遣唐の貴方と〔六字右○〕お別れすればさ。
 
〔評〕 古への難波の浦は八十島が列布してゐた。折柄低迷する海雲にその島影が隱蔽されてゐるのを見て、今の(2250)別離の悲に塞がる心の状態を思ひ寄せた。「あな息づかし」は、この際この時に尤もよく當て嵌つた胸臆の語である。
 
玉切《たまきはる》 命向《いのちにむかひ》 戀從者《こひむよは》 公之三舶乃《きみがみふねの》 梶柄母我《かぢがらにもが》     1455
 
〔釋〕 ○たまきはる 命の枕詞。既出(三六頁)。「切」をキハルに充つるは借字。○いのちにむかひ 「いのちにむかふ」を見よ(一二九七頁)。○こひむよは 「よ」はより〔二字傍点〕の意。略解訓コヒムユハ〔五字傍線〕。舊訓のムカフコヒヨリハ〔八字傍線〕は非。○かぢがら 舵《カヂ》の取木《トリギ》のこと。和訓栞に、明律考に舵牙をカヂガラと訓めりと。すべて物の體及び柄をカラといふ。和名抄に、※[竹/矢](ハ)其體(ヲ)曰(フ)v※[竹/幹](ト)、夜加良《ヤカラ》と見え、又卷十四にみる可良加治《カラカヂ》は柄楫の義と思はれる。(契沖はカヂヅカ〔四字傍線〕の一訓を呈出したが、古來からのカヂガラの訓を變へる程の必要もない。
【歌意】 取殘されて〔五字右○〕、命がけに戀ひようよりは、貴方の御船の、舵の取木にもなりたいなあ〔右○〕。――さすればお供が出來るのにさ〔さす〜右○〕。
 
〔評〕 金村と廣成との親交程度は、どれ程だかわからぬが、男女間の戀愛と違ひ、「命にむかひ戀ひむよは」は普通の交遊程度なら、殆ど諛言に近いほどの誇張である。玉となつて太刀となつて纏かれたいとは、戀愛情事にはよく歌はれるが、流石にこれは遣唐使の送別だけに「梶柄にもが」といつた。取材が頗る新しく、又自分の身分を顧みて謙遜の意を寓した處、その體を得てよろしい。
(2251) 以上の長短歌は送別の作であるが、編者はなほこれを相聞の部中に收めた。
 
藤原(ノ)朝臣|廣嗣《ヒロツグガ》櫻(ノ)花(ヲ)贈(レル)2娘子《ヲトメニ》1歌一首
 
○藤原(ノ)廣嗣が櫻の花を娘子に贈つた歌との意。○藤原朝臣廣嗣 既出(一八〇五頁)。 
此花乃《このはなの》 一與能内爾《ひとよのうちに》 百種乃《ももぐさの》 言曾隱有《ことぞこもれる》 於保呂可爾爲莫《おほろかにすな》     1456
 
〔釋〕 〇ひとよ 「よ」は竹の節と節との間を稱する如く、花の一部分即ち瓣をも、古へはよ〔傍点〕といつたのであらう。他に語例がない。契沖は葩《ハナ》かといひ、略解は瓣かといつた。○ももぐさ 「ももぐさに」を見よ(一四三二頁)。○おほろかに 既出(一七二六頁)。
【歌意】 この花の一瓣のうちに、私のいひたい〔六字右○〕澤山の言葉がさ、籠つてゐるわ。いゝ加減に扱ふなよ。
 
〔評〕 題詞を除けて見ると、何の花だかわからないが、實詠ではこれでよい。一よに籠る無量の詞。その性質や内容が何であるかも、兩者暗黙の間に了解されるのだから面白い。詰り戀人同士の合詞といつた形だ。「おほろかにすな」は表面は櫻の花の事と見せて、内實は自分の熱意を粗畧に思ふなと主張してゐる。初二句と三四句とが流水對を成してゐる。情緒纏綿、聽者をして耳の痒きを覺えしめる。
 廣嗣は藤原四家のうち、獨武邊を立てた式家の子として、後には遂に反亂を起した程の驕兒だが、こんな優(2252)しい一面を有してゐたと思ふと、なか/\味のある人間らしい。 
娘子(ガ)和(フル)歌一首
 
此花乃《このはなの》 一與能裏波《ひとよのうちは》 百種乃《ももぐさの》 言持不勝而《こともちかねて》 所折家良受也《をられけらずや》     1457
 
〔釋〕 ○うちは うちに〔右○〕はの意。○もちかねて 保ちかねて。○をられけらずや 「折られ」を敬相と見る。古義訓ヲラエケラズヤ〔七字傍線〕。
【歌意】 お察しすると、とても〔三字右○〕花の一瓣ぐらゐの中には、數の言葉は持たせかねて、それでわざ/\〔七字右○〕お折りなされて、下されたのでは〔七字右○〕ないかい。
 
〔評〕 とても瓣ぐらゐには盛り切れぬお情と存じて居ります、何でいゝ加減に思ひませうかいの餘意がある。より以上に相手の好意を買つて見せたのは、おほろかにせぬ〔七字傍点〕意を囘護した巧語言である。
 
厚見(ノ)王(ガ)贈(レル)2久米(ノ)女郎(ニ)1歌一首
 
○厚見王 既出(一二八八頁)。○久米女郎 傳未詳。古義は久米(ノ)連|若賣《ワカメ》かといつた。その若賣は績紀に、天平十一年三月、石上朝臣乙麿と奸けた罪により、乙麿は土佐に、若賣は下總に配流され、翌年六月大赦に遇うて召されて入京したとある。この久米連若賣の外に、當時同名の婦人が今一人あつた。古義がそれをも一傳のう(2253)ちに收めたのは、誤である。それを序にいはう。
 久米連|若女《ワカメ》(若賣と書かぬ)は續紀に、景雲元年十月無位から從五位下となり、同二年十月從五位上、寶龜三年正月正五位上、同七年正月從四位下、同十一年六月卒した。贈右大臣從二位藤原朝臣百川の母と見えた人である。百川は參議式部卿藤原宇合の子で、寶龜十年七月に四十八歳で薨じた。逆算すると、その生年は神龜四年に當るから、母たる若女はその以前に於いて、既に宇合の妻か妾かであつた人であらねばならぬ。石上(ノ)麻呂の奸けた若賣は采女で、百川の生年よりは八年も後の天平十一年に、その犯奸沙汰が起つた。もし同一人としたら、乙麿より先に宇合が采女犯奸の罪に問はるべきではないか。又既に人の妻妾だつた人が、改めて采女に奉仕する事は絶對ない。
 
屋戸在《やどにある》 櫻花者《さくらのはなは》 今毛香聞《いまもかも》 松風疾《まつかぜはやみ》 地爾落良武《つちにちるらむ》     1458
 
〔釋〕 ○やどにある  次の返歌に屋戸爾有《ヤドニアル》とあるから、爾〔右△〕の字がなくても、訓み添へてよい。新考訓はヤドナル〔四字傍線〕。○まつかぜはやみ 童本訓マツカゼイタミ〔七字傍線〕に古義は從つた。○つちにちるらむ 「落」、古本にはチルとオツ〔二字傍線〕と兩樣の訓がある。
【歌意】 貴方の〔三字右○〕宿にある櫻の花は、今まあ松風の烈しさに、あたら〔三字右○〕土に散るであらうかまあ。
 
〔評〕 久米女郎の家の櫻花を詠んだには相違ないが、眞意は外にある。櫻を女郎に譬へ、今は評判の美貌も、世(2254)の荒波に揉まれて、定めて衰殘したらうかと、聊か調戲の意を含めた作である。必ず女郎を久米若賣とすれば、彼れは采女出身だからいふまでもなく美人だ。石上麻呂卿との大艶事を演じたのもそれが爲だ。その大赦歸京後どう生活してゐたか。無論采女の二度勤めは出來まい。が一旦京洛の華風に染み込み、而も刑餘の身では、その貢進の故國に歸る氣もせず、奈良京住居をしてゐたものだらう。厚見王の官歴から推すと、若賣と殆ど同年輩と思はれる。偶ま若賣の門前を通りかゝると、櫻の花が咲いてゐた。もう彼れ若賣も四十近い姥櫻、一つどんな返辭をするかとの好奇心から、この歌をいひ入れられたものだらう。
 この歌は前後の記載順を考へると、大抵寶字年代の作と想像される。
 
久米(ノ)女郎(ガ)報贈(フル)歌一首
 
世間毛《よのなかも》 當爾師不有者《つねにしあらねば》 屋戸爾有《やどにある》 櫻花乃《さくらのはなの》 不所比日可聞《ちれるころかも》     1459
 
〔釋〕 ○ちれるころかも 「不所」は契沖いふ、もとの所にあらぬは、花にては散るなれば、義を以て書ける也と。新考はチレルとはいひ難いやうに難じた。
【歌意】 人間世も常住でさないから、仰しやる通り〔六字右○〕宿にある櫻の花が、はや〔二字右○〕散つてゐる時分ですわよ。
 
〔評〕「櫻の花の散れる頃かも」は自分の美貌の衰へたことを比擬して、懸歌の「地に散るらむ」を肯定し、「世の中も常にしあらねば」と愚痴ちつぽく答へた。女として誠に堪へ難い哀愁が漂うてゐる。なまじ美人の評判を(2255)取つただけに。
 
紀(ノ)女郎(ガ)贈(レル)2大伴(ノ)宿禰家持(ニ)1歌二首
 
○紀女郎 既出(一二六四頁)。
 
戲奴【變(ニ)云(フ)和氣《ワケ》】之爲《わけがため》 吾手母須麻爾《わがてもすまに》 春野爾《はるのぬに》 拔流茅花曾《ぬけるちばなぞ》 御食而肥座《めしてこえませ》     1460
 
〔釋〕 〇わけ 「わけをば」を見よ(一一六七頁)。「戲奴」はタハレタ奴といふ意。宣長が戲に奴の如しと解したのは非。割註の「變」は翻譯の意。○てもすまに 手も數《シバ》にの轉。「すまに」は數々すること。○ぬけるちばなぞ 抽《ヌ》ける茅花なるぞ〔三字右○〕。「ちばなぬく」を見よ(二二四二頁)。○めしてこえませ 茅花を喰うて肥えることは、當時の俗信であらう。本草綱目に、白茅(ノ)根、有(リ)2補(ヒ)v中(ヲ)益(ス)v氣(ヲ)之功1、茅針及(ビ)茅花(ハ)無(シ)2益(ス)v氣(ヲ)之蘇1、蘇頌曰(フ)、俗(ニ)謂(フ)2之(ヲ)茅針1、甚(ダ)益(アリ)2小兒(ニ)1、とあつて、喰うて肥えるとは見えない。
【歌意】 お前の爲に、私が取る手もせはしく、春の野で抽き取つた茅花ですぞ、召しあがつてお肥りなさいませ。
 
〔評〕 「手もすまに――抽ける」、に、その懇情の限を表した。
  石麻呂にわれ物申す夏痩によしといふなるむなぎ取り召せ(卷十六、家持――3853)と石麻呂の痩躯を嘲つた家持が、又紀女郎からその痩躯を揶揄されてゐるのだから可笑しい。家持は美男系の(2256)家の人で、華奢な優男であつた事がわかる。紀女郎はその姉氣分の思ひ遣りもあらうが、實は一旦關係もあつた憎くもない男なので、藥物の茅花をわざ/\贈つたものと見える。
 この歌「わけ」の卑稱と「召して肥えませ」の敬稱とが統一してゐない。その統一を缺いてゐる虞に、おどけた滑稽味を感ずる。集中この「わけ」の語は家持時代の歌に多い。 
晝者咲《ひるはさき》 夜者戀宿《よるはこひぬる》 合歡木花《ねぶのはな》 吾〔左△〕耳將見哉《われのみみめや》 和氣佐倍爾見代《わけさへにみよ》     1461
 
〔釋〕 ○よるはこひぬる 夜は戀ひ寢《ヌ》る。合歡木の花葉が、夜になると、閉ぢつぼみするのを擬人して寢るといつた。○ねぶ 合歡木。※[草冠/豆]科の野生落葉樹。高さ丈餘に達し、葉は羽状複葉で、小葉は夜間閉合する。故に眠《ネム》の木といふ。夏は梢頭に眉刷毛状の花を著け紅色を呈す。莢のうちに豆状の實を結ぶ。○われのみ 「吾」原本に君〔右△〕とあるは誤。
【歌意】 晝は咲いて夜は戀ひつゝねむる、合歡木の花よ。私ばかり見ようかえ、貴方もさ御覽なさい。
 
〔評〕 晝は紛れて體裁も取繕つて居られるが、夜の靜寂は溜らなく物思に囚はれる。合歡花の晝夜により開閉するに、それを譬へた。さて自(2257)分の愛著の苦悩をそこに暗示して、家持にもこれ見給へと贈つたものだ。詰りは同情の強要である。「わけさへに見よ」、こんな親褻の語を交換するほど、女郎と家持とは互に戀ひつ戀はれつしてゐた中だつた。卷四の「神さぶといなにはあらず」(紀女郎)、「玉の緒を沫緒によりて」(同上)及び「百年に老舌いでて」(家持)の兩者間の贈答を見れば、おのづからこの間の消息がわかるであらう。然し運命の惡戲にこの二人は、今は別々の道を辿るべき最中なのであつたらしい。「晝は咲き夜は戀ひ寢る」は半活喩で、修辭上から嚴しくいへば不完であるが、音數に制限をもつ詩歌では時に許容される。
 
右、折(リ)2攀(ヂテ)合歡《ネブノ》花(ト)并茅花(トヲ)1贈(レル)也。
 
上二首の説明で、合歡花を攀ぢ、茅花を折りて贈つたとの意。樹木の枝を採るを、攀といつた。下にも攀2橘花1とある。
 この二首は同時の作でなく、茅花は春、合歡花は夏贈つたもので、記録者はこれを一括して、この左註を添へたものか。然し茅花は夏でも穗を出すから、確たる斷定は出來ない。
 
大伴(ノ)家持(ガ)贈和《コタフル》歌二首
 
〇贈和歌 答ふる歌を贈るの意。
 
吾君爾《わがきみに》 戲奴者戀良思《わけはこふらし》 給有《たばりたる》 茅花乎雖喫《ちはなをはめど》 彌痩爾夜須《いややせにやす》     1462
 
(2258)〔釋〕 ○たばり 賜《タマ》はり。○はめど 古義訓による。神本訓、舊訓はクヘド〔三字傍線〕。
【歌意】 わが君樣に私は戀してゐるらしい。下された茅花を食へど、肥えるどころか〔七字右○〕、彌よ痩せる上に痩せますわい。
 
〔評〕 戀の思に身の細ることは、詩に衣帶の緩きを覺えるといひ、歌に影となり陽炎の如くなるといふ。流石の茅花も効果がなく痩せ細る以上は、「わけは戀ふらし」の結論に到着するのは當然である。况やその贈主たる紀女郎は流石に年嵩だけに、夜晝の使ひ分けをする程、漸うあきらめをもつたらしいが、家持の方は若いだけ未練がまだ強い。
 
吾妹子之《わぎもこが》 形見乃合歡木者《かたみのねぶは》 花耳爾《はなのみに》 咲而蓋《さきてけだしく》 實爾不成鴨《みにならぬかも》     1463
 
〔釋〕 ○かたみ 既出(一二一一頁)。卷十六に「商變領爲爲跡之御法あらば」の歌の左註に寵薄(ルヽ)之後還(シ)2賜(フ)寄物(ヲ)1云云とあつて、寄物の註に、俗(ニ)云(フ)2可多美《カタミト》1とあるが、それは意訓で本義ではない。○はなのみにさきて 花にのみ咲きての意。○けだしく 「けだしくも」を見よ(五〇七頁)。舊訓ケダシモ〔四字傍線〕。
【歌意】 吾妹子が思出種として贈られた〔四字右○〕合歡木は、花にばかり咲いて、その癖一向〔五字右○〕實のらねことよ。
 
〔評〕 合歡花は結實する。こゝに「實にならぬ」といふは、贈物たる眼前の合歡花の折枝に對しての言葉である。(2259)何時も渝らぬ女郎の親切には屡々感佩するものゝ、今は矢張他人である事を比擬して、その感傷を女郎に訴へた。女郎の耳は痛い。「實にならぬ」所以は、上の歌評中に一言觸れて置いた如き事情である。想ふに女郎は既に安貴王の妻となつて居たのであらう。さては何と思つたとて仕方がない。全く實には成らない。
 
大伴(ノ)家持(ガ)贈(レル)2坂上(ノ)大孃(ニ)1歌一首
 
卷四に、家持が久邇《クニ》京から寧樂《ナラ》にゐる大孃の許に贈つた歌が十數首あり、又紀(ノ)女郎との贈答數首もその間に雜載してある。共に參照してその意を了すべきである。
 
春霞《はるがすみ》 輕引山乃《たなびくやまの》 隔者《へなれれば》 妹爾不相而《いもにあはずて》 月曾經爾來《つきぞへにける》     1464
 
〔釋〕 ○へなれれば 「へなる」は隔《ヘダタ》るの古言。
【歌意】 春霞の靡く山が、私のゐる久邇京と貴女のゐる奈良との間に〔私の〜右○〕、隔たつてゐるから、貴女に逢はないで、月を重ねてしまつたわい。
 
〔評〕 月越しに亘つて往訪の出來ぬのには、種々の事情も伏在して居らうが、面倒なしに一切を山の隔たりに托したのは狡猾である。なほすべては
  ひとへ山へなれるものを月夜《ツクヨ》よみ門にいで立ち妹か待つらむ(卷四、家持――765)
(2260)の評語を參照(一三七〇頁)。
 
右、從(リ)2久邇《クニノ》京1贈(レルナリ)2寧樂《ナラノ》宅(ニ)1。
 
○從久邇京云々 久邇京は家持の居處、寧樂宅は大孃の居處。
 
夏(ノ)雜(ノ)歌
 
藤原(ノ)夫人《オホトジノ》歌一首【淨見原御宇天皇之夫人也。字曰2氷上大刀自《ヒガミノオホトジト》1也、即(チ)新田部《ニタベノ》皇子之母也。】
 
○藤原夫人 註に氷上大刀自とある。藤原鎌足の女で、大原大刀自即ち五百重媛の姉。天武天皇の夫人。但新田部皇子の御母は五百重媛である。註誤る。既出「藤原夫人」を見よ(三三二頁)。
 
霍公鳥《ほととぎす》 痛莫鳴《いたくななきそ》 汝音乎《ながこゑを》 五月玉爾《さつきのたまに》 相貫左右二《あへぬくまでに》     1465
 
〔釋〕 ○ほととぎす 既出(三五二頁)。○さつきのたま 五月の玉は五月五日の端午の節の料として作る藥玉が主で、遂にはその餘興として橘の實、菖蒲の根などを玉のやうに綴つた物にまで及んだ總稱である。諸註悉く不完。藥玉は、續命縷また長命縷ともいふ。麝香、沈香、丁子などの藥物を調合して丸香に造り、錦嚢に納れて、その周圍を、躑躅、菖蒲、艾などを以て球形に飾り、五色の太き絲を八尺程に飾り下げたるもの。端午の(2261)節には王卿はこれを賜はりて左の臂に佩び、また室内に懸ける。人命を益し、邪氣を避ける効ありとする。○たまにあへぬく 玉と一緒に貫く。この場合の「たまに」は玉トシテ〔四字傍点〕の意でないことは、評中に引用した卷十七、卷十八の歌にもある、この辭樣の構成を見たらわかる筈である。「あへぬく」は相貫《アヒヌ》くで、一緒にとほすこと。契沖訓による。舊訓はアヒヌク〔四字傍線〕。○までに まではの意に用ゐた。古格。
【歌意】 時鳥よ、さう〔二字右○〕餘計に鳴くなよ、お前の聲を、五月の玉即ち藥玉に、一緒に貫きとほすまでは。
 
〔評〕 端午の節供はもと支那の民間習俗から起り、それがわが邦にも早くから傳來して、菖蒲※[草冠/縵]など翫んだものだ。大寶令の兵部省式がこれを證する。その後公式には一時中絶したが、天平十九年の端午の節會には再び復活され、而も菖蒲※[草冠/縵]をつけぬ者は宮門を通さぬといふ凝り方で、そして公庭において王卿は藥玉を賜はり、これを佩びて退出するのであつた。一般人においては婦人達の遊閑的行事として、菖蒲※[草冠/縵]を作り藥玉を作つて互に贈遺し合つて娯んだものだ。さてこの藥玉の丸香を製ることが根源となつて、玉に大きな趣味を感じ、「花橘を玉に貫く」は季節の娯遊として最も興味深いものであつた。おなじ節物の菖蒲の根までも玉に貫き、
  白玉をつゝみて遣らな菖蒲草花たちばなにあへぬくまでに(卷十八――4102)
と歌はれた。遂にはその香氣を以て邪氣濕氣を拂ふといふ本來の目的から離れて、香氣もない山橘を貫き、更に玉の聯想は益々横走りをして、
  わが背子は玉にもがな時鳥聲にあへぬき手に纏きてゆかむ(卷十七――4007)
と、わが背子の玉に時鳥の聲あへ貫くとなつては、餘に奇矯に流れるが、それも本行の歌などがその俑を作(2262)つたのではあるまいか。
 今は四月中に鳴き頻る時鳥に向ひ、端午の節に鳴き合はせてこその意を婉曲に奇拔に、「五月の玉にあへぬくまでに」といひ、今さう嶋いては勿體ないと時期尚早の抗議を投げた。畢竟時鳥の聲の愛賞が中心である。
 
志貴《シキノ》皇子(ノ)御歌
 
神名火乃《かむなびの》 磐瀬乃杜之《いはせのもりの》 霍公鳥《ほととぎす》 毛無乃岳爾《ならしのをかに》 何時來將鳴《いつかきなかむ》     1466
 
〔釋〕 〇かむなびのいはせのもり 前出(二二一一頁)。○ならしのをか 奈良志《ナラシ》の岡。大和平群都。磐瀬の杜の東北に方つて低い岡が連り、南東は闢けた平野である。「ならし」は踏み平《ナラ》すの義。「毛無」は、無毛を書き下したもので、毛は土に生ずる植物をいふ。左傳に食(ム)2土之毛(ヲ)1と見え、その生ぜぬ土を不毛といふ。人の踏み平す處は草の生ぜぬ意から、毛無をナラシと訓ませた。
【歌意】 神南火の磐瀬の杜の時鳥は、この〔二字右○〕奈良志の岡に、何時來て鳴かうかしら。
 
〔評〕 磐瀬は平野の杜で、奈良志は岡ながら草木がない。時鳥の鳴きおくれるのは當然である。で心待に待ち戀ふる意を詠んだ。奈良志の岡は皇子のか或は誰かの別墅ででもあらう。
 この皇子の御作は、全體に高古の響があつて感銘が深い。稀に「たわやめの袖吹き返す」(卷一)の如き温藉な姿、巧緻の手法を見せたものもあるが、大抵は一本調子で終始してゐる。
 
(2263)弓削《ユゲノ》皇子(ノ)御歌一首
 
〇弓削皇子 既出(三五〇頁)。
 
霍公鳥《ほととぎす》 無流國爾毛《なかるくににも》 去而師香《ゆきてしが》 其鳴声乎《そのなくこゑを》 聞者辛苦母《きけばくるしも》     1467
 
〔釋〕 ○なかるくに 無い土地といふに同じい。
【歌意】 時鳥の居ない土地にも、往きたいな。その時鳥の〔三字右○〕鳴く聲を聞くと、溜らなく〔四字右○〕切ないわい。
 
〔評〕 抑々時鳥は渡り鳥で日本にも支那にも棲んでゐる。支那ではその聲の哀切な處から、蜀の望帝の魂の化身などいふ傳説が附會され、怨鳥と呼ばれ、不如歸と血を吐くまで鳴いて故郷を偲ぶといはれ、その異名さへ澤山生ずるやうになつた。これを吟詠に上せることは六朝時代からの事で、大部分が悲哀な感情を歌つてゐる。
 わが邦で時鳥に注意を拂ふやうになつたのは、無論支那文化の影響で、奈良の中葉から、その賦詠が一遍に盛になつた。不思議なことに、時鳥が夜鳥であり、その音質が哀調を帶びてゐるにも關はらず、これを他の環境に結び付けて愛賞する意が、わが邦では盛に發生した。蓋し文藝遊戲に扱つた結果と考へられる。
 作者は漢籍の素養は積まれたであらうが、この歌は漢詩文の直接影響と見るよりも、衷心憂悶に禁へぬ事があつての吟咏と見るが穩當であらう。哀切の衝撃から遂に嫌忌の域にまで進んだ。「なかる國にも往きてしが」(2264)は頗る警拔豪宕の落想である。
 
小治田廣瀬王《ヲハリダノヒロセノオホキミノ》霍公鳥(ノ)歌一首
 
〇小治田 小墾田とも書く。廣瀬王の住んで居られた地名であらう。大和高市郡豐浦の岡にある。○廣瀬王 紀に(天武天皇)十年三月廣瀬王等に詔して帝紀及び上古の諸事を記さしめ、同十三年二月淨廣肆廣瀬王等を畿内に遣はし、都たるべき地を視占せしめ、同十四年九月廣瀬王を京及び畿内に遣はし、各人夫の兵を校せしめたと見え、續紀に(持統天皇)六年三月の伊勢行幸に留守官となり、大寶二年に從四位下にて造大殿垣司となり、同三年十月太上天皇の御葬司に任じ、和銅元年三月從四位上にて大藏卿、養老二年正月正四位下、同六年正月卒すと見えた。
 
霍公鳥《ほととぎす》 音聞小野乃《こゑきくをぬの》 秋風《あきかぜに》 芽開禮也《はぎさきぬれや》 聲之乏寸《こゑのともしき》     1468
 
〔釋〕 ○こゑきくをぬ 卷一「たわやめの袖吹き返す飛鳥風」の辭法と同じい。「そでふきかへす」を見よ(二〇一頁)。○をぬの 小野が。小野の秋風と續くのではない。○さきぬれや 咲きぬれば〔右○〕や。
【歌意】 時鳥の聲聞く處即ち鳴く處の小野が、秋の風に萩の花の咲いたせゐかして、聲が餘りしないわ。
 
〔評〕 いかにも當り前の事をいひ並べたやうだが、何時も時鳥を聞き馴れた小野に、その聲の乏しくなつたこと(2265)は、眼前胡枝花が秋色を弄してはゐるものゝ一抹の寂寥と哀愁とに打たれざるを得ない。而も節物風光の須臾に改つた感傷を伴つてゐる。
 
沙彌《サミガ》霍公鳥(ノ)歌一首
 
○沙彌 沙彌とのみで名がない。集中三方(御形)沙彌、沙彌滿誓、沙彌女王の三沙彌がある。歌は男の作だから、三方沙彌と滿誓沙彌とのうちか。或は全く別人の沙彌かも知れない。
 
足引之《あしひきの》 山霍公鳥《やまほととぎす》 汝鳴者《ながなけば》 家有妹《いへなるいもし》 常所思《つねにおもほゆ》     1469
【歌意】 山時鳥よ、お前が鳴くと、家にある吾妹子がさ、何時も思ひ出されてね。
 
〔評〕 時鳥に家郷の天を憶ふのは、支那流の著想で、敢て珍しくない。作者がもし三方(ノ)沙彌だとすると、續紀に前(ニ)爲(リ)2沙門(ト)學2問《モノマナブ》新羅(ニ)1と見えて、漢學者だから、この位の事はいひさうな事である。次の歌の作者刀理宣令も漢學者だ。
 
刀理宣令《トリノセンリヤウガ》歌一首
 
○刀理宣令 「土理宣令」を見よ(七五七頁)。
 
(2266)物部乃《もののふの》 石瀬之杜乃《いはせのもりの》 霍公鳥《ほととぎす》 今毛鳴奴香〔左○〕《いまもなかぬか》 山之常影爾《やまのとかげに》     1470
 
〔釋〕 ○もののふの 磐瀬に掛る枕詞。武夫の屯聚《イハ》むといふを磐《ィハ》にいひかけた。イハムは紀に滿また屯聚を訓んである。古語。○なかぬか 「か」は歎辭。「つねにあらぬか」を參照(八〇〇頁)。「香」原本にない。補つた。○とかげ 常陰《トコカゲ》の略。何時も陰である處をいふ。陰はカゲトモ(陰背面《カゲソトモ》の義)の陰である。「影」は陰の借字。宣長説の、タオ陰にて、山の撓みたる處をタヲともタワともいふとの説はまはりくどい。
【歌意】 磐瀬の杜の時鳥、たつた今まあ鳴けばよいな、あの山の常陰にさ。
 
〔評〕 常陰は山では日のさゝぬ北裏である。神南山の北裏は斷崖状をなして、垢離取場《コリトリバ》の水に臨み、榛莽が欝蒼として、磐瀬の杜と相望んでゐる。奈良志野中の唯一の林※[木+越]なので、時鳥の集湊する處である。然るにどうした事か、何時まで待つても彼れは鳴かない。焦れ切つて「今も鳴かぬか」と切望の音を揚げた。四五句の倒装、その促迫した情緒にふさはしい表現である。この卷の時鳥の作中では優秀の部であらう。
 
山部(ノ)宿禰赤人(ガ)歌一首
 
戀之家婆《こひしけば》 形見爾將爲跡《かたみにせむと》 吾屋戸爾《わがやどに》 殖之藤波《うゑしふぢなみ》 今開爾家里《いまさきにけり》     1471
 
(2267)〔釋〕 ○こひしけば 戀しくばの轉。「家」細本には久〔右○〕とある。○ふぢなみ 既出(七九六頁)。
【歌意】 戀しからう時には、その〔二字右○〕形見にせうとて〔右○〕、自分の庭に栽ゑた藤の花が、今咲き出したことわい。
 
〔評〕 何が「戀しけば」だか要領を得ない。打任せては思ふ人の筈だが、編次の上からは時鳥か。餘り不完なので、新考は長歌の反歌ででもあらうの説を立てた。
 時鳥の歌として見ると、去年藤の花咲く頃に初時鳥を聞き合はせ、その記念にせうと藤の樹を庭前に栽ゑた。それは來年もこれを媒として聞かうの心構であつた。今やその藤が咲き出した。鳴かねばならぬ時鳥である。藤の花の咲いた報告ではなくて、暗に時鳥を下待つ意が含まつてゐる。然し、
  戀しくば形見にせよと我背子がうゑし秋はぎ花咲きにけり(卷十――2119)
の歌を引合はせて考へると、矢張戀歌で、何かの事情で暫くその人の來ぬことの豫定されてゐる際、記念として栽ゑた庭上の藤が今しも咲き出したので、感傷の餘に詠んだものであらう。作者が赤人とあるから、藤を栽ゑた當人はその朋友などであらうか。
 
式部大輔石上堅魚《ノリノツカサノオホキスケイソノカミノカツヲノ》朝臣(ノ)歌一首 
○式部大輔 式部省の次官。式部省は内外文官名帳、考課、選叙、禮儀等及び學校、策試、禄賜などの事を掌る。職員は卿《カミ》(正四位相當)、大輔(正五位相當)、少輔(從五位相當)以下、大丞、少丞、各二人その他がある。○石上堅魚朝臣 續紀に、(元正天皇)養老三年正月從六位下より從五位下、神龜三年正月從五位上、天平三年正月(2268)正五位下、同八年正月正五位上と見えた。
 
霍公鳥《ほととぎす》 來鳴令響《きなきとよもす》 宇乃花能《うのはなの》 共也來之登《ともにやこしと》 問麻思物乎《とはましものを》     1472
 
〔釋〕 ○うのはなのともにやこし 卯の花と共に來たか。「の」はトの轉語。「あめ地の共に久しく」を見よ(一四六〇頁)。宣長は「來」を成〔右△〕の誤としてムタヤナリシ〔六字傍線〕と訓んだのは無稽。
【歌意】 時鳥が鳴いて來て、あたりを響かすわ、お前は〔三字右○〕卯の花と一緒に來たのかと、問ひ尋ねようものを。相手が時鳥ではねえ。
 
〔評〕 支那では時鳥に躑躅を取合はせて杜鵑花とまで呼び、こちらでは躑躅をおいて藤の花や卯の花や橘を配合して詠んでゐる。風土などの關係もあらうが、その相違が面白い。
 作者は今記の城に登ると、山路には早くも卯の花が咲いてゐた。さては時鳥は鳴くべきだが、一向にその聲がない。乃ち「來鳴きとよもせ」と時鳥に強請して、その理由を「卯の花のともにや來し」と問ひたい爲だと聲言した。その實は卯花に假托して時鳥を鳴かせようとの魂膽である。時鳥の縁で、卯の花の咲いたのを「來し」と活喩に表現したのは聊か無理だが、即興の作だ、その位の放膽さはあつてもよい。
 堅魚朝臣は左註にある如く、太宰(ノ)帥旅人(ノ)卿の妻大伴(ノ)郎女の逝去に際し、その職分がら勅使として弔問の爲に筑紫に下つた人で、公命を果した後、宰府の役人達と、宰府の南郊大野の果にある記《キ》の城に登臨して、この詠(2269)を得たので、單なる遊覽の作である。大伴郎女の追憶の意を寓せて解説するのは附會と思ふ。
 
右、神龜五年戊辰、太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿之妻大伴(ノ)郎女、遇(ウテ)v病(ニ)長逝《ミマカリヌ》焉。于時(ニ)勅使式部(ノ)大輔石上(ノ)朝臣堅魚(ヲ)遣(リ)2太宰府(ニ)1、弔(ヒ)v喪(ヲ)并贈(ル)2物色(ヲ)1。其事既(ニ)畢(ル)。驛使及府(ノ)諸卿大夫等、共登(リ)2記夷城《キイノキニ》1、而望遊之日、乃(チ)作(メリ)2此歌(ヲ)1。
 
 神龜五年戊辰に太宰府の長官大伴(ノ)旅人(ノ)卿の妻たる大伴(ノ)郎女が病に罹つて逝去した。時に勅使式部(ノ)大輔石上(ノ)堅魚の朝臣を宰府に遣はされ、喪中見舞や物品を贈られた。堅魚は公用が全く濟んだので、驛使及び宰府の大少貮の諸卿や五位の守等と一緒に、記夷の城に登つて遊覽した日、そこでこの歌を詠んだとの意。大貮は四位、少貮は五位相當官で卿とは稱せられぬが、筑紫の田舍では貴紳だから、諸卿と打任せて書いたらしい。○記夷城 夷《イ》は紀《キ》の音を伸べて添へた語で、正しくは記城《キノキ》である。古義に水城と混じて説明してあるのには失笑する。「きのやまみち」を見よ(一一九八頁)。○物色 いろ/\の物。「色」は種目の義。也〔右△〕の誤とする説は非。
 郎女の長逝に就いては、卷三に、「神龜五年戊辰、太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿(ノ)思2戀《シヌブ》故人(ヲ)1歌」、卷五に、「帥大伴(ノ)卿(ノ)報(フル)2凶問(ニ)1歌」あり、委くはその條に就いて見よ。
 
太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿《マヘツギミノ》和(フル)歌一首
 
○大伴卿 旅人のこと。既出(七三六頁)。
 
(2270)橘之《たちばなの》 花散里乃《はなちるさとの》 霍公烏《ほととぎす》 片戀爲乍《かたごひしつつ》 鳴日四曾多寸《なくひしぞおほき》     1473
 
〔釋〕 ○たちばなの云々 上句は「片戀しつつなく」に係る序詞。○かたごひ 一方的の戀。
【歌意】 橘の花が散る、この〔二字右○〕里の時鳥は〔右○〕、片戀しながら鳴く日がさ多いわ。――自分も妻を失うて、矢張片戀に泣く時が多い〔自分〜右○〕。
 
〔評〕 時鳥の鳴くのはその雌を呼ぶので、即ち片戀に鳴くのである。然し一般的には漫然と只その鳴く音を愛づるのみだが、作者は自己の斷絃の悲から、直覺的にその片戀に想及し、時鳥を假りて、その悲悼の感懷を寄せた。「橘の花散る」は眼前の景象を直叙したに過ぎない。それを郎女の逝去に譬へたと有意的に見ることは穿鑿であらう。
 さてこの「橘の花散る里」は何處か。堅魚朝臣の記夷城登臨の作の返歌だから、これも同時同處の作と考へるのは速斷である。左註に「驛使及府諸卿云々」とあるは、宰府の長官たる帥卿を別にした書方で、もし旅人卿が同行したのなら、帥卿云々〔四字傍点〕と特筆すべきである。况や記の城は山城で里とはいはれず、橘も栽ゑさうな場處でない。されば「橘の花散る里」は宰府における帥卿の居宅であることは疑もあるまい。乃ち堅魚朝臣の歸府後、その作を聞いて、帥卿の私懷を申べた唱和と斷ずる。
 
(2271)大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)思《シヌブ》2筑紫大城《ツクシノオホキノ》山(ヲ)1歌一首
 
○大城山 筑前國三笠郡。太宰府背後の正北に聳立する山。後世四天王寺山と稱する。天智天皇紀に、四年八月遣(シ)2百濟(ノ)達率憶禮福智――(ヲ)筑紫(ノ)國(ニ)1、築(ク)2大野及|椽《キノ》二城(ヲ)1、文武天皇紀に、二年三月令(シテ)2太宰府(ヲ)1、繕(ヒ)2治(メシム)大|野《ヌ》、基肄《キイ》、鞠智《トクチノ》三城(ヲ)1とある大|野《ヌ》の城の所在の山である。元暦本の卷十「大城(ノ)山者色付爾家里」の註に、謂(フ)2大城(ト)1者在(リ)2筑前國御笠郡之大野山(ノ)頂(ニ)1とあるは記夷の城と誤つて混じたもの。△地圖及寫眞 挿圖357(一三九八頁) 358(一三九九頁)を參照。
 
今毛可聞《いまもかも》 大城乃山爾《おほきのやまに》 霍公鳥《ほととぎす》 鳴令響良武《なきとよむらむ》 吾無禮杼毛《われなけれども》     1474
 
【歌意】 今も大城の山に、時鳥が鳴き響かすであらうかまあ、自分はそこに〔三字右○〕居ないけれどもね。
 
〔釋〕 郎女が兄の帥卿旅人の許に投じたことは、卷二、大伴(ノ)坂上郎女(ガ)祭v神歌の評中(八七二頁)に説明した。その歸京は天平二年十一月と思はれるから、この歌はその翌年の天平三年の五月時分の作であらう。
 宰府の帥卿の官舍は、何れ都府樓附近であらうと想像される。さては大城山に近いから、山の林木の間に鳴きとよむ時鳥の聲は、馴染み深いもので、而も郷愁を唆る無情の聲であつたに違ひない。今や奈良の京地に在つて筑紫の去年を回想すると、物として追憶の種ならざるものはない。况や時まさに五月、翻つて大城の山の時鳥にあこがれの情を寄せて、「今もかも――鳴きとよむらむ」との想像を馳せた。これらの辭句は、この場(2272)合誰れでも或はいひ得るかも知れないが、「われなけれども」の一結に至つては、容易に下し難い遒勁な轉語である。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)霍公鳥(ノ)歌一首
 
何哥毛《なにしかも》 幾許戀流《ここだくこふる》 霍公鳥《ほととぎす》 鳴音聞者《なくこゑきけば》 戀許曾盛禮《こひこそまされ》     1475
 
〔釋〕 ○ここだく 「こきだく」に同じい。同項を見よ(六二一頁)。
【歌意】 時鳥は何でさ、澤山にさう〔二字右○〕戀ふるのであるかまあ、その〔二字右○〕鳴く聲を聞くと、つい誘はれて〔六字右○〕、自分の人戀しさがさ、まさるわい。
 
〔評〕 作者は全く情海に沈溺してゐる。その桃色の眼からはあらゆる物が戀の罔象である。そこへ時鳥があの引切聲でせはしなく鳴くしお前もさうなのかと愈々戀心がはずむので、「何もかも」と時鳥に抗議をいひ立てた。痴呆の想が下に動いて流れてゐる。古今集の
  時鳥はつ聲きけばあぢきなく主さだまらぬ戀せらるはた(夏部、素性)
は殆どこれから轉生したものらしい。
 郎女の戀まさる相手は誰れか。或は藤原(ノ)麻呂(ノ)卿か。
 
(2273)小治田《ヲハリタノ》朝臣|廣耳《ヒロミヽガ》歌一首
 
○小治田朝臣廣耳 傳未詳。續紀の天平五年、十一年、十三年の條に、正六位上から外從五位、從五位下となり、尾張守に任じた小治田(ノ)廣千の名が見えるが、同人とは斷じ難い。契沖は廣千を廣耳〔右△〕の誤としたが疑問である。
 
獨居而《ひとりゐて》 物念夕爾《ものもふよひに》 霍公鳥《ほととぎす》 從此間鳴渡《こゆなきわたる》 心四有良思《こころしあるらし》     1476
 
〔釋〕 ○こゆ 直譯すれば此處より〔四字傍点〕だが、集中の用例は、此處を〔三字傍点〕、又は此處に〔三字傍点〕の意である。古義訓はコヨ〔二字傍線〕。○こころしある この心は同情の意。
【歌意】 獨居て物案じする夕方に、時鳥がわざと〔三字右○〕こゝを鳴いて通るわ。思ひ遣りがあるらしい。
 
〔評〕 夕方が背景で獨居がその環境であつて見れば、恐らく寂寥感に打たれぬ者はあるまい。その寂寥を破つて而も目近く「こゆ」鳴き渡る時鳥である。いひ知らぬ慰藉を覺えた作者は、時鳥に對して感謝せざるを得ない。「心しあるらし」の讃語は當然の歸結。
 
大伴(ノ)家持(ガ)霍公鳥(ノ)歌一首
 
宇能花毛《うのはなも》 未開者《いまださかねば》 霍公鳥《ほととぎす》 佐保乃山邊《さほのやまべを》 來鳴令響《きなきとよもす》     1477
 
(2274)〔釋〕 ○いまださかねば 未だ咲かぬのにの意。この用例上に疊出。○やまべを 類本細本温本等、及び古義の訓ヤマベニ〔四字傍線〕。
【歌意】 卯の花もまだ咲かぬのに、時鳥は佐保の山邊を、來て鳴き響かすことよ。
 
〔評〕 季節より早い時鳥を詠んだ。佐保山は大伴氏邸の山齋續きの山である。卯の花の配合は常識的の感があるが、下句力強くひた推しにいひ捨てた點は、この歌の風調を高からしめてゐる。
 
大伴(ノ)家持(ガ)橘(ノ)歌一首
 
吾屋前之《わがやどの》 花橘乃《はなたちばなの》 何時毛《いつしかも》 珠貫倍久《たまにぬくべく》 其實成奈武《そのみなりなむ》     1478
 
〔釋〕 ○そのみ 今年の新しい實をさす。○いつしかも 既出(一五九八頁)。
【歌意】 自分の庭の花橘が、何時さ玉として貫かれるやうに、その實がなることだらうかまあ。
 
〔評〕 橘を玉に貫くは例の端午の行事だ。家持宅の橘は晩手《オクテ》と見えて、花は咲いたが實にはまだならない。然るに端午の節は近い。さあ節日までに實が玉に貫かれようかどうかと、氣が揉めて待遠な趣で、興味中心の作である。この邊の家持の作は大抵即興即吟の口號的小品である。
 
(2275)大伴(ノ)家持(ガ)晩蝉《ヒグラシノ》歌一首
 
〇晩蝉 歌にヒグラシと詠んである。されば夕方に鳴く蝉の意で、茅蜩のこと。
 
隱耳《こもりのみ》 居者欝悒《をればいぶせみ》 奈具左武登《なぐさむと》 出立而者《いでたちきけば》 來鳴日晩《きなくひぐらし》     1479
 
〔釋〕 〇ひぐらし 下になり〔二字右○〕の助動詞を含む。「ひぐらし」は有吻類中蝉科に屬する昆蟲。早朝も鳴くが日暮を主として鳴く。カナ/\蝉。茅蜩。
【歌意】 家内に〔三字右○〕籠つてばかりゐると、氣が塞ぐので、その氣晴しをするとて、外に出掛けて聞くと、丁度來て鳴く蜩であることよ〔六字右○〕。
 
〔評〕 愁思を懷いて門に倚るは、誰れでもすることである。突如前林に鳴いた蜩に心の和みを覺えて、その蜩を詠歎した。「いで立ち聞けば」に作者の態度が想見される。
 
大伴(ノ)書持《フミモチガ》歌二首
 
(2276)〇大伴書持 既出(一〇一五頁)。
 
我屋戸爾《わがやどに》 月押照有《つきおしてれり》 霍公鳥《ほととぎす》 心有今夜《こころあるこよひ》 來鳴令響《きなきとよもせ》     1480
 
〔釋〕 ○おしてれり 「おしてる」を見よ(九八五頁)。○こころあるこよひ 興のある今夜。眞淵はコヽロアラバコヨヒ〔九字傍線〕と八言に訓んだ。
【歌意】 自分の庭に、一杯に月が照り渡つてゐる。時鳥よ、かう〔二字右○〕趣のある今夜ぞ、こゝに〔三字右○〕來て鳴き響かせい。
 
〔評〕 杜鵑の一聲を水の如き月夜に所望して、更に一段の興會を追求してゐる。風流三昧。古義に、又思ふ友人も訪ひきたり、といひ添へたのは蛇足。
 
我屋前乃《わがやどの》 花橘爾《はなたちばなに》 霍公鳥《ほととぎす》 今社鳴米《いまこそなかめ》 友爾相流時《ともにあへるとき》     1481
 
【歌意】 自分の庭の花橘に、時鳥よ、鳴くなら〔四字右○〕今さ鳴かうぜ。思ふ〔二字右○〕友に出會つた時だよ。
 
〔評〕 上と同時の作か。良夜にして良友に逢ふ、その歡が思ひ遣られる。さてはこの佳客に對して、何等かの方法を講じて※[疑の左+欠]待の意を表せざるを得ない。即ち庭前の橘を介して時鳥に「今こそ鳴かめ」の注文を著けた。そ(2277)の無理性が面白い。書持の詠み口はなか/\縱横自在で、兄家持に優るとも劣らぬ。
 
大伴(ノ)清繩《キヨツナガ》歌一首
 
○大伴清繩 傳未詳。古義に「繩」一本に綱〔右△〕に作るとある。卷十九に大伴(ノ)清繼の名があるが、その誤字とは定め難い。
 
皆人之《みなひとの》 待師宇能花《まちしうのはな》 雖落《ちりぬとも》 奈久霍公鳥《なくほととぎす》 吾將忘哉《われわすれめや》     1482
 
【歌意】 皆の人が咲くを〔三字右○〕待つた卯の花が、散つたとても、それは構はぬ〔六字右○〕、鳴く時鳥を、自分は忘れようことかい。
 
〔評〕 橘や卯花と時鳥、共に季節の風物として、その關係は不可分のやうに、奈良人は考へてゐた。そして卯花が散る頃は時鳥の盛りはもう過ぎて、誰れも珍重する者がない。獨作者は時鳥を愛賞する餘り、世間の通念に反抗して、「われ忘れめや」と揚言し、時鳥に滿腔の渇仰を捧げた。その點に新意を認める。
 
庵《イホリノ》君|諸立《モロタチガ》歌一首
 
○庵君諸立 庵は氏、君は姓、諸立は名、傳未詳。
 
吾背子之《わがせこが》 屋戸乃橘《やどのたちばな》 花乎吉美《はなをよみ》 鳴霍公鳥《なくほととぎす》 見曾吾來之《みにぞわがこし》     1483
 
(2278)〔釋〕 〇わがせこ こゝは兄弟か朋友をさしたらしい。
【歌意】 貴君の庭の橘の花がまあよさに、來て鳴く時鳥を、見にさ私は參つたことでしたよ。
 
〔評〕 多分は閑談の爲に「わがせこ」を訪問したのだらう。但その辭柄として、事を時鳥愛賞の風流に託した。お庭の橘は花がよいのでと、時鳥が特別に鳴きもするやうに、出來るだけのお世辭。その取成し柄と口達者とに頗る興味を感ずる。時鳥を聞きに〔六字傍点〕といはず、「見に來し」とあるは、變つて珍しい。奈良京では、時鳥が庭樹を傳つて鳴いてゐたものだ。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)歌一首
 
霍公鳥《ほととぎす》 痛莫鳴《いたくななきそ》 獨居而《ひとりゐて》 寐乃不所宿《いのねらえぬに》 聞者苦毛《きけばくるしも》     1484
 
〔釋〕 ○いのねらえぬに 既出(二五三頁)。
【歌意】 時鳥よ、さう〔二字右○〕劇しく鳴くなよ、自分は只獨居て、眠りもようされぬのに、その上お前の聲を聞くと、溜らなく〔四字右○〕切ないわ。
 
〔評〕 作者は既に「鳴く聲聞けば戀こそまされ」と詠んだ。その人戀しさの繼續であらう。孤獨の枕を欹てゝその哀切な聲を聽くに至つては、斷腸の極だ。「聞けば苦しも」とは上に弓削皇子も歌はれた。
 
(2279)大伴(ノ)家持(ガ)唐棣《ハネズ》花(ノ)歌一首
 
○唐棣花 「はねずいろの」を見よ(三七八頁)。
 
夏儲而《なつまけて》 開有波禰受《さきたるはねず》 久方乃《ひさかたの》 雨打零者《あめうちふらば》 將移香《うつろひなむか》     1485
 
〔釋〕 〇なつまけて 「ふゆかたまけて」を見よ(五〇一頁)。〇はねず 「はねずいろの」を見よ(一二七八頁)。
【歌意】 夏を時として咲いた唐棣花、雨がかう〔二字右○〕降るならば、花が〔二字右○〕衰へようかしら。
 
〔評〕 唐棣花はいかにもはかなげな花と見える。折柄が初夏雨勝ちな天候に、その衰殘を懸念する情意は認められるが、平凡に過ぎる。
 
大伴(ノ)家持(ガ)恨(ム)2霍公鳥(ノ)晩喧《オソクナクヲ》1歌二首
 
吾屋前之《わがやどの》 花橘乎《はなたちばなを》 霍公鳥《ほととぎす》 來不喧地爾《きなかずつちに》 令落常香《ちらしなむとか》     1486
 
〔釋〕 〇はなたちばなを 「ちらしなむ」に跨續する。○ちらし オトシ〔三字傍線〕の訓もあるが、花や雪などには、「落」を多くはチルと訓ませるのが本集の例である。
(2280)【歌意】 自分の庭の花橘を、時鳥は來てまあ嶋かずに、むだに〔三字右○〕地上に散らしてしまはうことかえ、あんまりな〔五字右○〕。
 
〔評〕 橘の花は結構なもの、それを土に汚すに勿體ない極み。この責道具で來鳴かぬ時鳥に詰め寄つた。否應なしにこれでは鳴かずはなるまい。
 落花委地は詩では套語であるが、歌では「地に散らし」とまで、くどくいふことは奈良人の口癖で、平安以後には少ない。「來鳴かず土に」は句が分裂して獨立しないが、構想に變化を求める必要上、第四句第五句には大目に許容される。「とか」の疑問に餘情を搖曳させてゐる。
 
霍公鳥《ほととぎす》 不念有寸《おもはずありき》 木晩乃《このくれの》 如此成左右爾《かくなるまでに》 奈何不來喧《などかきなかぬ》     1487
 
〔釋〕 ○おもはずありき 鳴かぬとは〔五字右○〕思はなかつたの意。相念はずの意ではない。○このくれ 「このくれしげに」の項の「このくれ」を見よ(六七三頁)。
【歌意】 時鳥よ、今に鳴かぬとは〔七字右○〕思の外であつた。木の下闇のかう茂く〔二字右○〕なるまでに、何で來て鳴かぬのかえ。
 
〔評〕 「卯花の共に來る」といはれる時鳥、それが緑蔭濃やかになるまでも音せぬのは、まさに「思はずありき」だ。「などか」の一語は置かるべくして置かれた必然の語である。作者は待ち草臥れて焦れ込んだ。
 
(2281)大伴(ノ)家持(ガ)懽(ベル)2霍公鳥(ヲ)1歌一首
 
何處者《いづくには》 鳴毛思仁家武《なきもしにけむ》 霍公鳥《ほととぎす》 吾家乃里爾《わぎへのさとに》 今日耳曾鳴《けふのみぞなく》     1488
 
〔釋〕 ○いづくには 何處《ドコ》ぞ〔右○〕には。○わぎへ 既出(一五〇〇頁)。
【歌意】 時鳥は、何處ぞでは、鳴きもしたことであつたらう。が私のある里には〔右○〕、今日ばかりさ、はじめて〔四字右○〕鳴くわ。
 
〔評〕 時鳥の初聲を歡んだ。「今日のみ」は、鳴かなかつた過去の時日に對していつた。 
大伴(ノ)家持(ガ)惜(ム)2橘花(ヲ)1歌一首
 
吾屋前之《わがやどの》 花橘者《はなたちばなは》 落過而《ちりすぎて》 珠爾可貫《たまにぬくべく》 實爾成二家利《みになりにけり》     1489
 
【歌意】 自分の庭の、橘の花は散り切つて、玉と貫けよう程に、實になつてしまつたわい。
 
〔評〕 曩には「いつしかも玉に貫くべくその實なりなむ」と待ち遠しかつた橘が、もう「實になりにけり」で、光陰の移り換りは早い。この歌實の育つたのを「玉に貫くべく」といつた爲に、そこに珍重する趣が生じて、(2282)花を惜む意の方が稍輕くなつた。題詞を單に橘歌〔二字右△〕とすればよい。
 
大伴(ノ)家持(ガ)霍公鳥(ノ)歌一首
 
霍公鳥《ほととぎす》 雖待不來喧《まてどきなかず》 菖蒲草《あやめぐさ》 玉爾貫日乎《たまにぬくひを》 未遠美香《いまだとほみかも》     1490
 
〔釋〕 ○あやめぐさ 菖蒲草。池沼の水邊に自生する多年生草本。地下に長い根莖を有し、年々それより劍状の平行脈葉を簇生し、大なるは長け四五尺に達する。初夏葉間に花軸を抽いて肉穗花序をなし、淡黄色の小花を數多付く。葉根とも香氣が高い。五月艾と共に邪氣を拂ふ物として珍重された。「菖〔右○〕」原本にない。補つた。○ぬくひを 「を」は歎辭。
【歌意】 時鳥がいくら〔三字右○〕待つても、來て鳴かない。菖蒲を〔右○〕玉と貫く日はまあ、まだ遠いせゐかまあ。
 
〔評〕 菖蒲を玉に貫くはその根莖の節々を切り離して緒に綴るので、その日は端午の日である。時鳥は「おのが(2283)五月」といふ如く、五月の節物だ。作者はあこがれの餘り、そんな理窟なしに早くから時鳥を待ちかけた。が餘り鳴かぬので、ふと端午の日のまだ遠いことに想到し、そのせゐかしらと一寸首を捻つた、その穉氣に面白味がある。
 
大伴(ノ)家持(ガ)雨(ノ)日(ニ)聞(ク)2霍公鳥(ノ)喧(クヲ)1歌一首
 
宇乃花能《うのはなの》 過者惜香《すぎばをしみか》 霍公鳥《ほととぎす》 雨間毛不置《あままもおかず》 從此間喧渡《こゆなきわたる》     1491
 
〔釋〕 〇すぎばをしみか 散らうならそれが惜しさにか。「み」は助辭。サニ又クテと譯す。さればこゝの「をしみ」は惜シムの動詞の第二變化ではない。「すぎば」の將然をかく現在に承けるのは古格の一つである。○あままもおかず 雨の降る間もさし控へずの意。「雨間」は雨の晴れ間をいふが普通だが、この時代には雨の降る間を專らいつた。下にも「久かたの雨間もおかず雲隱り鳴きぞ行くなる早稻田かりがね」、卷十に「雨間あけて」などある。
【歌意】 卯花が散らうならその〔二字右○〕惜しさにか、時鳥が雨の降る間もさし控へず、此處から鳴いて往くわ。
 
〔評〕 雨に卯花の摧殘するを惜んでゐる際、時鳥の耳近に鳴くを聞いての作である。そして自分の心境を時鳥に托して歌つた。「こゆ」とあるからは、その卯花は作者庭前の物である。奈良京は山野に接近してゐるから、平安人士のやうにわざ/\卯花垣を訪うたり、時鳥を尋ねたりするに及ばない。
 
(2284)橘(ノ)歌一首 遊行女婦《ウカレメ》
 
○遊行女婦 客の聘に應じて東西する故に遊行といふ。和名抄に、揚氏漢語抄(ニ)云(フ)、遊行女兒、和名|宇加禮女《ウカレメ》、又云(フ)阿曾比《アソビ》。
 
君家乃《きみがいへの》 花橘者《はなたちばなは》 成爾家利《なりにけり》 花乃有時爾《はなのあるときに》 相益物乎《あはましものを》     1492
 
〔釋〕 ○はなのあるときに 八言の句。契沖訓ハナナルトキニ〔七字傍線〕。○なりにけり 實に〔二字右○〕。
【歌意】 貴方のお宅の花橘は、實《ミ》になつてしまひましたわい、まだ花のある時に、出會はうものをさ。時節が後れて殘念な〔九字右○〕。
 
〔評〕 橘の結りたての實は小さくて青い。五月の玉には貫けるけれど、樹にあつては賞翫するに足らぬ。「花ある時」はその乳白の花と※[草冠/分]芳とが際立つて美しく又快い。惟ふに或は寓意の作か。御主人はもう妻定めして身を固めてしまはれたが、その前の仇めいた時代にお目に懸かればよかつたにとの艶情を寄せたものらしい。
 「君が家」は、このあたり大伴一家關係の作ばかりだから、或は家持の宅かも知れない。招かれて、酒席などに侍した遊行婦の口吟であらう。
  かはづ鳴く井手の山吹散りにけり花の盛に逢はましものを(古今集、春、詠人不知――或は橘清友)
(2285)と同調の作ながら、風韻の點は山吹に遙に及ばない。
 
大伴(ノ)村上《ムラカミガ》霍公鳥(ノ)歌一首
 
〇大伴村上 前出(二二三〇頁)。
 
吾屋前乃《わがやどの》 花橘乎《はなたちばなを》 霍公鳥《ほととぎす》 來鳴令動而《きなきとよめて》 本爾令散都《もとにちらしつ》     1493
 
〔釋〕 〇もとに 樹の〔二字右○〕もとにの略。古義は「本」を地〔右△〕の誤としてツチニ〔三字傍線〕と訓んだが、本文のまゝで意が通ずる。改める必要もない。
【歌意】 自分の家の橘の花を〔二字右○〕、時鳥が來て鳴き響かせて、樹の〔二字右○〕下に散らしたわい。
 
〔評〕 丁度橘の花散る頃、時鳥が木傳うて鳴いた。それを時鳥が「來鳴きとよめて」散らしたと、時鳥に冤罪を被せた。その顛倒の見に穉氣があつてよい。
 諸家擧つて頻に宿の橘をいふことは、橘のもつ傳説と、その當時の流行とで、軒前に缺くべからざる殖樹として栽ゑた爲である。この事委しくは卷二「橘の蔭ふむ路の」の評語(三七三頁)、及び卷六「橘は實さへ花さへ」の評語(一七七一頁)を參照。
 
(2286)大伴(ノ)家持(ガ)霍公鳥(ノ)歌二首
 
夏山之《なつやまの》 木末乃繋爾《こぬれのしげに》 霍公鳥《ほととぎす》 鳴響奈流《なきとよむなる》 聲之遙佐《こゑのはるけさ》     1494
 
〔釋〕 ○こぬれのしげに 木末の繁みに。「こぬれ」は既出(六八九頁)。「しげ」は繋しの語根の名詞となつたもの。訓は細本による。契沖訓シヾニ〔三字傍線〕。
【歌意】 夏の山の梢の繁つた邊に、時鳥が鳴き響かせてゐる聲の、遙かであることよ〔五字右○〕。
 
〔評〕 時鳥が夏山の梢を出没しつゝ鳴くその遠音が聞えた。聞えた〔三字傍点〕といつては實感は既に逃げてゐる。只「遙けさ」の形容によつて、有餘不盡の味ひを寓せた。古今集に
  音羽山けさ越えくれば時鳥こずゑはるかに今ぞ鳴くなる(夏部、友則)
もおなじ遙かな聲であるが、作の焦點は違つてゐる。
 
足引乃《あしひきの》 許乃間立八一《このまたちくく》 霍公鳥《ほととぎす》 如此聞始而《かくききそめて》 後將戀可聞《のちこひむかも》     1495
 
〔釋〕 ○あしひきの 山の枕詞であるのを、こゝは直ちに山の意に轉用した。既出(九二三頁)。○たちくく 「たち」は接頭語。「くく」は潜《クヾ》ること。漏る〔二字傍点〕の古言。「八十一」は算數的戲書。
 
(2287)【歌意】 山の木の間を〔右○〕潜る時鳥、それを〔三字右○〕かう一旦聞き初めては、今から〔三字右○〕後は、定めし〔三字右○〕戀ひようことかまあ。
 
〔釋〕 當面の面白さから、後引きの癖が付きさうだと心配した。間接の賞翫、その構想に曲折の味がある。「後戀ひむかも」の句に就いては、卷十「春霞山にたなびき」の條下の評語を參照。
 萬葉人は時鳥を身邊近く見詰めてをり、平安人となると、多く空間と時間とを結び付けて大まかに歌つてゐる。平安人が舊套を避けようとした意思も手傳つて居らうが、主としては奈良平安兩京の地勢と殷賑の度との相違によつて、時鳥の多少と、その接觸程度の密不密に原因するものと思ふ。
 
大伴(ノ)家持(ガ)石竹花《ナデシコノ》歌一首
 
〇石竹花 瞿麥花《ナデシコ》を見よ(一〇一六頁)。
 
吾屋前之《わがやどの》 瞿麥乃花《なでしこのはな》 盛有《さかりなり》 手折而一目《たをりてひとめ》 令見兒毛我母《みせむこもがも》     1496
 
〔釋〕 ○もみせむこ 「こ」は例の若い女の愛稱。
【歌意】 自分の宅の撫子の花が〔右○〕、今〔右○〕盛りであるわ。−枝〔二字右○〕手折つて、一目見せうその兒もありたいなあ。
 
〔評〕 家持の周圍は女だらけだ。「見せむ兒」に困ることはあるまい。但こゝは撫子に對しての興趣に遊んでゐる(2288)のである。
  いゆきあひの坂の麓に咲きをゝる櫻の花を見せむ子もがな(卷九――1752)
  青柳のいとの細しさはる風に亂れぬいまに見せむ子もがな(卷十――1851)
など皆同趣であることを思ふがよい。こゝに「一目」といひ、卷十の歌は「まに」といふ、情念を強調して象を深める手段である。
 
惜(ム)v不(ルヲ)v登(ラ)2筑波《ツクバノ》山(ニ)1歌一首
 
筑波山に登らなかつたことを遺憾とするとの意。○筑波山 筑波岳《ツクバノタケ》を見よ(八七四頁)。
 
筑波根爾《つくばねに》 吾行利世波《わがゆけりせば》 霍公鳥《ほととぎす》 山妣兒令響《やまひことよめ》 鳴麻志也其《なかましやそれ》     1497
 
〔釋〕 ○ゆけりせば 往つた事であるなら。「り」は現在完了詞。○やまひこ 既出(一七一八頁)。○なかましやそれ 「や」は反動辭。「それ」は其れを〔右○〕の略。下に、往きて數多聲聞かれしは羨まし〔往き〜右○〕の意を補足して聞く。
【歌意】 もし筑波山に、私が往つたことであるなら、貴方の聞かれたやうに〔貴方〜右○〕、時鳥がさう〔二字右○〕木魂を響かせて〔右○〕、鳴きませうかい。それをねえ〔三字右○〕。
 
〔評〕 お羨ましい事よの餘意がある。筑波に登つた人が、山では盛に時鳥が鳴いてゐたと、自慢さうに語るのを(2289)聞いての返事で、それは貴方だからこそ御馳走に鳴いてくれたのでと、山登りに同行しなかつた遺憾さを婉曲に表明した。「それ」の反撥は實に全局を覆して更に別乾坤を闢くもので、屈折の妙を見る。
 
右一首、高橋連蟲麻呂之歌集中(ニ)出(ヅ)。
 
〇高橋連蟲麻呂 既出(一七一六頁)。
 
   夏(ノ)相聞
 
○夏相聞 夏の李をもつた戀の歌といふこと。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(カ)歌一首
 
無暇《いとまなみ》 不來之君爾《こざりしきみに》 霍公鳥《ほととぎす》 吾如此戀常《われかくこふと》 往而告社《ゆきてつげこそ》     1498
 
〔釋〕 ○こざりし 略解は「之」を座〔右△〕の誤としてキマサヌ〔四字傍線〕と訓んだ。○つげこそ 「こそ」は願望辭。
【歌意】 暇が無さに、お出で下されなかつた貴方に、時鳥よ、私がこのやうに戀しがると、往つて告げ知らせてくれい。
 
〔評〕 昔の男は夕方から妻君の許に通勤したものだ。妻君の方では今日は今日はと毎晩待つが、男の方は雨が降(2290)つた風が吹いたで差支へ、又所用や事故やで、さう/\は往かれない。たまにはそれらにかこつけて、餘所の女の處に往きもする。だから待つ方では氣が揉める。
 この歌も、男の方から、目下非常に多忙でと、不沙汰の挨拶をして來たのに對しての返事で、折柄軒端渡りする時鳥に、その止み難い戀心の通達を托した。時鳥の有心無心は、この際作者の念頭に無い。雁書の故事は古いが、時鳥の言傳はこれが先鞭である。
 
大伴(ノ)四繩(ガ)宴吟《ウタゲニウタヘル》歌一首
 
○宴吟歌 宴席で歌つた歌との意。これは四繩の自作ではあるまい。
 
事繁《ことしげみ》 君者不來益《きみはきまさず》 霍公鳥《ほととぎす》 汝太爾來鳴《なれだにきなけ》 朝戸將開《あさとひらかむ》     1499
 
【歌意】 事多さに、待つ〔二字右○〕お方はお出でなさらぬ。時鳥よ、お前なりともせめて、來て鳴けよ。そしたら〔四字右○〕この朝戸を開けうに。
 
〔評〕 平常はその君の來ました後朝に、別を惜みつゝ開ける朝戸である。が今は「來まさぬ」夜だ。開ける氣力もない。乃ち「汝れだに來鳴け」と時鳥に注文をつけ、さらばそれを機會にこの朝戸を開けもせうといふ。空閨を守る婦人の打萎れた樣子が見るやうで、怨望の意が歴然としてゐる。「來まさず」「來鳴け」は語意の密貼(2291)に過ぎる憾はあるが、「汝れだに來鳴け」は實に斷腸の語。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)歌一首
 
夏野乃《なつのぬの》 繁見丹開有《しげみにさける》 姫由理乃《ひめゆりの》 不所知戀者《しらえぬこひは》 苦物乎《くるしきものを》     1500
 
〔釋〕 ○なつのぬの――ひめゆりの 上三句は「知らえ」に係る序詞。○ひめゆり 山野に自生する多年草本。大なるは二尺餘、小なるは一尺餘。花瓣狹くして展開せず、黄赤二種ある。○しらえぬ 知られぬの古語。
【歌意】 夏の野の、草の〔二字右○〕茂みに咲いてゐる姫百合は、人に知られぬ〔六字右○〕が、その如く人に〔二字右○〕知られぬ戀は切ないものをさ。察して貰ひたい〔七字右○〕。
 
〔評〕 「知らえぬ戀」は片戀である。その愚を自覺しながらもどうにもならず、「苦しきものを」と、誰に訴へるともなく他に同情を要求してゐる。序詞がまことに妥當で而も優腕で、印象が深い。
 
小治田(ノ)朝臣廣耳(ガ)歌一首
 
(2292)霍公鳥《ほととぎす》 鳴峯乃上能《なくをのうへの》 宇乃花之《うのはなの》 ※[厭のがんだれなし]事有哉《うきことあれや》 君之不來益《きみがきまさぬ》     1501
 
〔釋〕 ○をのうへ 岡の上。「を」を參照(一九〇〇頁)。○うのはなの 上句はウ音を疊んで、「うき」に係けた序詞。○あれや あれば〔右○〕や。
【歌意】 時鳥が鳴く岡の上の卯の花の、う〔傍点〕といふ憂《う》い事があるせゐかして、君はお出でなさらないわ。
 
〔評〕 親しい朋友などが近頃足を拔いたのを訝つて、何か面白くない事でもあつてかと心配してゐる。序詞は時節の風物を以て層塔式に積み上げた。かう詠んでその人に贈つたものだらう。
  うぐひすの通ふ垣根の卯の花のうき事あれや君が來まさぬ(卷十――1988)
と同型の同調。この卯の花の口合は古今集時代に至つて愈よ流行つた。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)歌一首
 
五月之《さつきの》 花橘乎《はなたちばなを》 爲君《きみがため》 珠爾社〔左○〕貫《たまにこそぬけ》 零卷惜美《ちらまくをしみ》     1502
 
〔釋〕 ○さつきの 四言の句。古義は「之」を山〔右△〕の誤として、サツキヤマ〔五字傍線〕と訓んだのは非。○たまにこそ 「社」の字、原本にない。契沖説によつて補つた。
(2293)【歌意】 五月の花橘を、貴方の爲に、玉としてさ貫きますわ、徒らに〔三字右○〕散らうことが惜しさに。
 
〔評〕 地に散るが勿體なさに、その花を採つて玉に貫く、それを「君が爲」と稱した。端午の贈物と見ればそれまでだが、今少し深長な意味がありさうだ。蓋し橘の花の咲き初めてから散り方になるまでも、その君は來なかつたので、しびれを切らして、橘花の花輪を綴つて贈物とし、そこに幽怨の情を寓せたものと考へられる。
 
紀(ノ)朝臣|豐河《トヨカハガ》歌一首
 
○紀朝臣豐河 續紀に、天平十一年正月、正六位上より外從五位下となるとある。
 
吾妹兒之《わぎもこが》 家乃垣内乃《やどのかきつの》 佐由理花《さゆりばな》 由利登云者《ゆりといへるは》 不許〔左○〕云二似《いなちふににる》     1503
 
〔釋〕 ○かきつ 垣内《カキウチ》。ウチの約はツ。○さゆりばな 「さ」は美稱。○ゆりといへるは 「ゆり」はヨリ(從)の古言。こゝはこれより〔四字傍点〕の略語と考へられる。結局後に〔二字傍点〕の意に通ふ。卷十八に「さゆり花ゆり〔二字傍点〕もあはむと思へこそ今のまさかもうるはしみすれ」、同卷「さゆり花ゆり〔二字傍点〕もあはむと下《シタ》はふる心しなくば今日も經めやも」などのゆり〔二字傍点〕、何れも後ニ〔二字傍点〕と譯してよい。宣長は夙くこの用例を發見したが、語義の解説がなかつた。訓は新考に從つた。舊訓ユリトシイヘバ〔七字傍線〕。○いなちふににる 否《イヤ》だといふに似てゐる。「許」原本に謌〔右△〕とあるは誤。「不許」をイナとよむは意訓。下にも、不許者不有をイナニハアラズと訓んである。これは宣長説。
(2294)【歌意】 あの兒の宅の垣根内の、百合の花の名のやうに〔五字右○〕、ゆり〔二字傍点〕(後ニ)逢ひませう〔五字右○〕と、あの兒がいつたのは、何だか〔三字右○〕否だといふのに、似てゐるわ。
 
〔評〕 情痴の世界は別天地だが、まこと解頤の語で、打聞くから、何人もほゝ笑まずには居られまい。「似る」の一語尤も含蓄に富んで、餘韻を搖曳する。
 
高安《タカヤスノ》歌一首
 
○高安 こゝに氏姓のないのは、脱字。卷一に高安(ノ)大島あり、卷四に高安(ノ)王がある。この二人のうちか、又別人か。
 
暇無《いとまなみ》 五月乎尚爾《さつきをすらに》 吾味兒我《わぎもこが》 花橘乎《はなたちばなを》 不見可將過《みずかすぎなむ》     1504
 
〔釋〕 ○わぎもこが 我妹子が宅の〔二字右○〕。
【歌意】 自分は〔三字右○〕寸暇が無さに、この物節の〔五字右○〕五月をすら、彼の女の宅の〔二字右○〕、花橘を見ずに、過してしまふことか。
 
〔評〕 五月は端午の節供があり、徃來贈遺の頻繁な時である。それが爲却て公私多用で、我妹子往訪の餘閑を得ない。乃ち花橘に寄託して、相見の期を愆つことを嗟歎した。そこに含蓄の餘味を見る。
 
(2295)大神女郎《オホミワノイラツメガ》贈(レル)2大伴(ノ)家持(二)1歌一首
 
○大神女郎 既出(一二三六頁)。
 
霍公鳥《ほととぎす》 鳴之登時《なきしすなはち》 君之家爾《きみがいへに》 往跡追者《ゆけとおひしは》 將至鴨《いたりけむかも》     1505
 
〔釋〕 〇すなはち 「登時」をスナハチと訓む。紀及び捕亡令に登、續紀に登時を、かく訓んである。
【歌意】 時鳥が鳴いた時すぐ貴方の宅に往けと追ひ遣つたのは、往きましたことでせうかまあ。
 
〔評〕 懷かしい時鳥の聲を庭前に聞いた。滿悦この上もない。忽ち獨占のあたらしさを感じ、同じ事なら彼の人家持にも樂ませたいの一念から、早く往つて鳴けと追ひ立てた。その親昵の情味に伴ふ穉氣痴態想ふべしである。けれども相手が鳥だ。果して命令通りに往つてくれたかどうかと照會したものだ。作者の意圖は只自分の親切の情意を相手に通せばよいので、實はその到不到は問題でないのだ。
 
大伴(ノ)田村(ノ)大孃(ガ)與(フル)2妹坂上(ノ)大孃(二)1歌一首
 
古郷之《ふるさとの》 奈良思之岳能《ならしのをかの》 霍公鳥《ほととぎす》 言告遣之《ことつげやりし》 何如告寸八《いかにつげきや》     1506
 
(2296)〔釋〕 〇いかにつげきや 「いかに」で切る。「つげきや」は告げたかどうかの意。
【歌意】 故里の奈良志の岡の時鳥に、言傳してやりましたが〔右○〕、貴女〔二字右○〕に申しましたかどうですか。
 
〔評〕 上の大伴郎女の、「いとまなみ來ざりし君に」の作と同趣で、更に一歩前進し、その効果如何と問訊した。それだけ少し遊戲氣分に傾いた嫌はあるものゝ、姉妹間の打解け切つた情味がそこに出てゐる。
 田村大孃は、奈良の田村の邸の外に、奈良志の岡にも住んでゐたと見える。
 
大伴(ノ)家持(ガ)攀(ヂテ)2橘花(ヲ)1贈(レル)2坂上(ノ)大孃(二)1歌一首并短歌
 
○攀橘花 橘を折るをいふ。
 
伊加登伊可等《いかといかと》 待吾屋前爾《まつわがやどに》 百〔左△〕枝刺《ももえさし》 於布流橘《をふるたちばな》 玉爾貫《たまにぬく》 五月乎近美《さつきをちかみ》 安要奴我爾《あえぬかに》 花咲爾家里《はなさきにけり》 朝爾食爾《あさにけに》 出見毎《いでみるごとに》 氣緒爾《いきのをに》 吾念株爾《わがおもふいもに》 銅鏡《まそかがみ》 清月夜爾《きよきつくよに》 直一眠《ただひとめ》 (2297)令覩而爾波《みせむまでには》 落許須奈《ちりこすな》 由米登云管《ゆめといひつつ》 幾許《ここだくも》 吾守物乎《わがもるものを》 宇禮多伎也《うれたきや》 志許霍公鳥《しこほととぎす》 曉之《あかつきの》 裏悲爾《うらがなしきに》 雖追雖追《おへどおへど》 尚來鳴而《なほしきなきて》 徒爾《いたづらに》 地爾令散者《つちにちらせば》 爲便乎奈美《すべをなみ》 攀而手折都《よぢてたをりつ》 見末世吾味兒《みませわぎもこ》     1507
 
〔釋〕 ○いかといかと 如何《イカ》と如何《イカ》と。「いか」は如何〔二字傍点〕にの意だらう。如何にを只イカとのみいふは他に例を見ぬが、イカニ、イカデ、イカガとも用ゐる以上は、イカがその本體の語であることを證する。さては「いかと」の語態がイカニトの意をもつことも怪むに足らない。○まつわがやどに 「待」原本に有〔右△〕とあるは誤。大平説によつて改めた。○ももえさし 既出(五八四頁)。○あえぬかに 落つるばかりにの意。「あえ」は也行下二段の動詞で、落つることをいふ。方言にこの語あること、信濃浸録、山彦草子、橿の落葉等に論じてある。「ぬ」は現在完了詞。「かに」はカノヤウニと譯する。「に」は如くの意のニ〔傍点〕である。「かたりつぐかね」を參照(八四二頁)。○けに 既出(八六五頁)。〇いきのをに 既出(一二六七頁)。○まそかがみ 眞澄鏡の如く〔三字右○〕の意。既出(六四三頁)。「銅鏡」を意訓にマソカヾミと讀む。神代紀に白銅鏡あり、又青銅鏡も行はれた。とにかく質(2298)は銅鏡なので充てたと考へられる。○ちりこすな 散つてくれるな。「ききこすな」を見よ(一二八〇頁)。○ここだく 澤山に、許多になどの意。こきだく〔四字傍点〕とも轉じいふ。○うれたきや 慨かはしいまあ。「や」は間投の歎辭。○しこほととぎす 「しこ」は罵る詞。「しこのしこぐさ」を見よ(一三三九頁)。○なほし 「なほ」は矢張の意。「し」は強辭。
【歌意】 どうか/\と貴女のお出で〔六字右○〕を待つ私の宿に、澤山枝をさして生える橘〔右○〕は、その花を玉として貫く五月の節がまあ近さに、殆ど〔二字右○〕落ちるかのやうに花が咲いたことわい。朝毎に何時も出て見る度に、命懸けて私の思ふ貴女に、「この頃の〔二字右○〕いゝ月の夜に、只一眼なりとも〔四字右○〕お見せしようまでには、散つてくれるなよ、必ず」といひながら、私が大事に〔三字右○〕守るものを、情けないなあ厭《イヤ》な時鳥奴〔右○〕が、曉の只でも心悲しい時〔右○〕に、追つても/\矢張さ來て鳴いて、むだにこの花を〔四字右○〕地に散らすので、仕方がまあなさに、攀ぢて折り取りました。どうぞ御覽下さい、吾妹子の貴女〔三字右○〕よ。
 
〔評〕 起手突如として情語を下し、漸く叙事に移行した。この種の樣式による長歌の次代的のものであることは既に上に屡ば説明した。
 「いかといかと待つ」は大孃の來訪を待つのである。但婦人が男の宅に來るのは、當時の常習には悖つてゐる。二人の間には既に戀は成立してゐたか、それともまだ作者家持だけの片戀時代かは判明しない。大孃はおなじ大伴氏でも、分系たる宿奈麻呂の子で、母親坂上郎女の佐保の宅で育つた。郎女は即ち家持の叔母だから、家持と大孃とは從兄弟同士の幼馴染だ。かうした關係からして、家持の佐保の西宅へも、時たま出入すること(2299)があつたと考へられる。
 相思の人は矚目の物悉く感傷の種ならざるはない。庭上の橘、それは萬葉人の齊しく渇仰を極めた橘は、今が花の眞つ盛であつた。それを「たゞ一眼」なりとも思ふ君に見せたいは人情だが、その實は一眼なりとも會ひたいの寄懷である。而も「清き月夜」を拈出したことは、艶々しい緑葉の間に點綴する乳白の細花の、時恰も仲夏の爽涼たる月影に反射する、その光色の美が絶對だからである。「五月を近み」とある月夜は、必ずその五月の前月、即ち四月中旬、晩くとも下句の殘月まださやかな頃であらねばなるまい。とするとこの歌もその頃ほひの製作となる。かくして作者は殘月の夜を遂に起き明して、「曉のうら悲しき」思に、大孃を戀ひ偲ぶのであつた。
 そこへ惡戲者としての時鳥を點出した。上にも
  わが宿の花たちばなを時鳥來鳴きとよめて本に散らしつ(大伴村上――1493)
とあり、花は盛り過ぎなむとして散るのを時鳥の所爲に寄托し、常は愛賞措かざる時鳥をば「醜」と罵り、遂には「追へども」といふに至る。素よりそれも假構で、さばかりの橘を勿體なくも折らねばならぬ理由を無理にも作成したものである。これとても大孃の來訪の遲いからで、愈よ待ちかねて、橘を折り取つて贈るの意が隱約の間に歴々としてゐる。畢竟は最後の「よぢて手折りつ見ませ吾妹子」が一篇の主命である。
 この歌は冒頭から「花咲きにけり」までが第一段、「朝にけに」から「よぢて手折りつ」までが第二段、以下が第三段で、中間縱横にその懷抱を揮灑し去つた。頗る常識的ではあるものゝ、こんな輕い小さな題目でこれ程の大手筆を揮つた家持は、矢張立派な歌人である。
 
(2300)反歌
 
望降《もちくだち》 清月夜爾《きよきつくよに》 吾妹兒爾《わぎもこに》 令覩常念之《みせむともひし》 屋前之橘《やどのたちばな》     1508
 
〔釋〕 ○もちくだち 十六夜より三四日間をかけていふ。「もち」は、ミチ(滿)の轉語で、十五夜の滿月をいひ、又その日その夜をもいふ。「望」は支那で、日と月と相對し望む意にて、十五夜の稱とした。「くだち」は降《クダ》りの古言。
【歌意】 望の夜が過ぎて、まだいゝ月夜の頃に、貴女に見せうと思うた、私の宅の橘ですよ、これは〔三字右○〕。
 
〔評〕 その節お出がないのでわざとお目に懸けますの餘意がある。大體長歌の意を要約して歌つた。
 
妹之見而《いもがみて》 後毛將鳴《のちもなかなむ》 霍公鳥《ほととぎす》 花橘乎《はなたちばなを》 地爾落津《つちにちちしつ》     1509
 
〔釋〕 ○のちも この語の「も」は大抵歎辭。
【歌意】 貴女が花橘〔二字右○〕を見てから〔二字右○〕、後でまあ時鳥は〔右○〕鳴いてほしい。然るに貴女より先に來て鳴いて、折角の〔然る〜右○〕花橘を土に散らしましたわい。
 
(2301)〔評〕 時鳥の鈍馬さ加減を罵つた。かやうに時鳥に浴びせる罵聲も歎聲も、すべては大孃思慕の情の投影である。即ち大孃の來訪がその期を過してあることを、間接に怨嗟したもので、蘊合の味が永い。
 
大伴(ノ)家持(ガ)贈(レル)2紀(ノ)女郎〔二字左△〕(ニ)1歌一首
 
○紀女郎 原本、紀郎女〔二字右△〕とあるは顛倒。○歌の下、原本「作」の字あるは不用。
 
瞿麥者《なでしこは》 咲而落去常《さきてちりぬと》 人者雖言《ひとはいへど》 吾標之野乃《わがしめしぬの》 花爾有目八《はなにあらめやも》     1510
 
〔釋〕 ○さきてちりぬ 既出(九〇七頁)。○はなにあらめやも 神本訓ハナヽラメヤモ〔七字傍線〕。
【歌意】 撫子は咲き散つたと、人はいふが、それは私の標《シメ》結うた野の、花であらうことかい。――貴方にそんなことはない筈さ〔貴方〜右○〕。
 
〔評〕 撫子の「咲きて散る」は女の心變りを譬へた。噂には聞いたが、多分他人の事だらうとぼかした婉辭である。或は紀女郎が安貴王の妻となつた頃の作ではあるまいか。
  梅の花咲きて散りぬと人はいへどわがしめゆひし枝ならめやも(卷三、駿河麻呂――400)
と同意同調、駿河麻呂は家持よりは稍先輩だから、歩驟の謗は免れ難い。
 
(2302) 秋(ノ)雜歌
 
崗本天皇御製歌《ヲカモトノスメラミコトノミヨミマセルオホミウタ》一首
 
○崗本天皇 舒明天皇の御事。なほ「崗本宮」を見よ(一八頁)。
 
暮去者《ゆふされば》 小倉乃山爾《をぐらのやまに》 鳴鹿之《なくしかの》 今夜波不鳴《こよひはなかず》 寐宿家良思母《いねにけらしも》     1511
 
〔釋〕 〇をぐらのやま また小鞍の嶺。小椋とも書く。立田山中の一峯で、卷九に「龍田の山の瀧のへの小鞍の嶺」とあれば、大和平群郡(今生駒郡)立田の龜の瀬の上方の山である。大和志に小倉(ノ)峯(ニ)有(リ)v二、一(ハ)在2立野村(ノ)西(ニ)1、一(ハ)在(リ)2小倉寺村(ノ)上方(ニ)1とあるが、小倉寺村の上方は鬼取山の事で、瀧の上とあるに協はぬ。無論今一説の方に從ふべきだ。△地圖及瀉眞 後出挿圖605(二五五九頁)604(二五五八頁)を見よ。
【歌意】 夕方になると、きまつて〔四字右○〕小倉の山に鳴く鹿が、今夜は鳴かない。もう寐てしまつたらしいわい。
 
〔釋〕 「鳴く鹿の――鳴かず」、この異常の現象は一寸聖慮を動かし奉つた。仁徳天皇の御憂慮あらせられた兎餓野《ウガヌ》の鹿は、狩人に捕られて今夜は鳴かぬ〔六字傍点〕のであつた。がこれはそんなむづかしい因縁話も何もない、極めて單純な御推想で、「いねにけらしも」の無造作な下語は穉氣滿幅、容易く企及し難い高古の調である。
(2303) 契沖や古義などの、今宵鳴かぬは偶《ツマ》を得て心安く寢入りたるならむと解したのは、穿鑿に過ぎる。
 紀に天皇の立田邊に掩留された記事がない。難波、有馬、伊豫の湯などへ行幸の途次か。 
大津(ノ)皇子(ノ)御歌一首
 
○大津皇子 既出(三三七頁)。
 
經毛無《たてもなく》 緯毛不定《ぬきもさだめず》 未通女等之《をとめらが》 織黄葉爾《おれるもみぢに》 霜莫零《しもなふりそね》     1512
 
〔釋〕 ○たて――ぬき 「たてぬき」を見よ(一九一九頁)。○しもなふりそね 「ね」は懇辭。
【歌意】 經絲もなく緯糸もきまりなく、處女等が織つた錦の〔二字右○〕もみぢに、霜が降るなよ。
 
〔評〕 黄葉を錦に譬へることは漢詩には珍しくない。然も作者御自身も、
  天紙風筆畫(キ)2雲鶴(ヲ)1、山棧霜杼織(ル)2葉錦(ヲ)1。(懷風藻)
と作られてゐる。葉錦はまことに完句と見受けられる。が「をとめらが織れるもみぢ」は稍疎に失しはしまいが、錦〔右○〕の語がない爲、聯想が跳躍してゐる。又「をとめら」は錦織部《ニシゴリヘ》の織女等を斥したのであらうが、或はまた天女の伴《トモ》を想うたと考へられぬこともない。
  みよし野の青根がたけの苔むしろ誰れか織りけむ經緯《タテヌキ》なしに(卷七――1120)
(2304)も暗に神仙を織女に指斥してゐる。
 
穗積(ノ)皇子(ノ)御歌二首
 
○穗積皇子 既出(三五六頁)。
 
今朝之旦開《けさのあさけ》 鴈之鳴聞都《かりがねききつ》 春日山《かすがやま》 黄葉家良思《もみぢにけらし》 吾情痛之《わがこころいたし》     1513
 
【歌意】 今朝のこの朝明け、雁の聲を聞いた。さて〔二字右○〕は春日山は色付いたらしい。かう秋氣が深く催しては〔九字右○〕、自分の胸は悲しくて痛いわ。
 
〔評〕 漢土では悲秋といふ語の生ずる程、金風商聲に悲哀を感じ、離騷の詩賦から始めて歴代の製作に、その種のものが充滿してゐる。皇子の御作には漢文學の影響が認められるものがあるから、これもその儔かも知れない。然し人情は和漢とも一途だ。しか感ずべくして感じられたと見てよからう。おなじ主觀の表現でも、悲し〔二字傍点〕を通り越した「痛し」に至つては、その凄愴の氣に打たれる。
 三段切れの手法、意調急迫して、語々勁健である。殊に結句の應接、藕斷えて絲斷えざる妙味を存する。古義が結句を三句の上に廻はして釋したのは曲解。
 
(2305)秋芽者《あきはぎは》 可咲有良之《さきぬべからし》 吾屋戸之《わがやどの》 淺茅之花乃《あさぢがはなの》 散去見者《ちりぬるみれば》     1514
 
〔釋〕 ○あさぢがはな 「あさぢはら」(八〇一頁)及び「ちばな」(二二四二頁)を見よ。
【歌意】 秋萩は、花が〔二字右○〕咲きさうであるらしい、自分の宿の淺茅の花が、散つたのを見ると。
 
〔評〕 茅花は春の季物となつてゐるが、遲い種類のは夏でも、殊によると秋でも、その白い穗を抽いてゐる。これは夏の半ば過ぎ、作者は庭上の茅花のほゝけて散るのを見て、秋色の野邊に催すを卜した。そこに節物風光の素早い變轉を感じて悵然たる、作者その人を見る。
 季節の上のみでいへば、この歌は上の歌と前後すべきである。
 
但馬(ノ)皇女〔左△〕(ノ)御歌一首 【一書(二)云(フ)、子部(ノ)王(の)作(メル)】
 
○但馬皇女 既出(三五六頁)。「女」原本に子〔右△〕とあるは誤。西本温本等による。〇子部王 傳未詳。子部は小子部《チヒサコベ》の畧か。
 
事繁《ことしげき》 里爾不〔左△〕住者《さとにすまずは》 今朝鳴之《けさなきし》 鴈爾副而《かりにたぐひて》 去益物乎《いなましものを》     1515
 
(2306)一(ニ)云(フ)、國爾不有者《クニニアラズハ》。
 
〔釋〕 ○ことしげき 言《コト》繁き。「事」は借字。○すまずは 住まむより〔三字右○〕はの意。「不」原本に下〔右△〕とあるは誤。類本神本その他による。○いなましものを 類本神本の訓による。舊訓ユカマシモノヲ〔七字傍線〕。○くににあらずは 二句の一傳を註した。國は處といふに同じい。
【歌意】 人言のうるさい里に住まうよりは、今朝聽いた雁に連れ立つて、何處ぞへ〔四字右○〕去なうものを。殘念な〔三字右○〕。
 
〔評〕 作者は既に「君によりなな言痛《コチタ》かりとも」(卷二)と覺悟の前で、穗積皇子との危い戀の道を歩んだ。なれども人言が深刻になつてくると、はじめの廣言にも似ず、流石に小さい胸は動搖した。絶體絶命、この面倒な世界から逃避するより外の思案はなくなつた。「雁にたぐひていなまし」は、幾ら殘念がつても、實行不能な空想だが、然し單なる空想ではなく、その眞實の所産であつた。遂には「おのも世にいまだ渡らぬ朝川」(卷二)まで渡られたのも、人言を繁みこちたみの故であつた。その事件が如何に當時の大問題になつてゐたかが想像されよう。一云の「國にあらずは」は本行より事が廣くて面白い。
 なほ委しくは卷二「但馬(ノ)皇女(ノ)在(セル)2高市皇子(ノ)宮(ニ)1時、思(シテ)2穗積皇子(ヲ)1御作歌」以下の三首、及びその評語を參照(三五六頁――三六一頁)。
 再考するにこの秘密の露顯は秋であつた。さればこそ皇女は既に「秋の田の穗向《ホムキ》のよれる片寄りに」(卷二)と歌はれ、今又こゝに「今朝鳴きし雁」に寄懷されたのである。すると、上出の穗積皇子の御歌の「今朝の朝(2307)け雁が音聞きつ」に何かの因縁があるやうに想像される。或は皇子の御作にこれは唱和されたものか。果してさうとすれば、皇子の御作も單なる悲秋の情思を叙べたのに畢るのではなくて、その「わがこころ痛し」には更に一段悲痛な複雜な感愴を伴うてをることを、考慮に置かねばならなくなる。
 
門〔左△〕部《カドヘノ》王(ノ)惜(メル)2秋葉《モミヂヲ》1歌一首
 
○門部王 既出(七五二頁)。「門」原本諸本とも山〔右△〕とあるは誤。今改めた。その理由は次を見よ。○山部王 山部王に二人ある。一人は天武天皇紀に見える山部王で、近江方の將として、犬上川で身方の爲に殺された人、今一人は桓武天皇がまだ諸王にましける時の御名で、稱徳天皇紀に、天平神護二年十一月無位山邊(ノ)王(ニ)授(ク)2從五位下(ヲ)1とある。
 このあたりの編次を年代から勘へると、穗積皇子、但馬皇女の御歌と、長屋王の御歌との間だから、無論はじめの山部王ではない。桓武天皇の山部王は長屋王の薨ぜられた天平元年よりは、遙か後の同八年の御降誕だから、これも當らない。古義にはなほ同名別人なるべしとある。別人に異議はないが、同名との想像は不稽である。これは必ず門〔左△〕部王の誤寫と思はれる。門部王は、元明、元正、聖武の三天皇に歴任された人で、丁度この前後の年代に順應する。○秋葉 意訓にモミヂと讀む。
 
秋山爾《あきやまに》 黄反木葉乃《もみつこのはの》 移去者《うつりなば》 更哉秋乎《さらにやあきを》 欲見世武《みまくほりせむ》     1516
 
(2308)〔釋〕 ○もみつ 「もみつ」は草木の色付くをおもにいふ、多行四段の動詞、古言。その第二變化がモミチで、名詞には紅葉の事とする。又延言にはモミタヒとなる。「黄反」の反は變の通用で、黄變は草木の色付くをいふ。眞淵訓ニホフ〔三字傍線〕、舊訓キバム〔三字傍線〕。○うつりなば 古義訓による。舊訓ウツロヘバ〔五字傍線〕は非。
【歌意】 秋の山に、美しく色づく木の葉が散るならば、もう一遍紅葉する〔四字右○〕秋を見たく思はうことか。
 
〔評〕 眼前の秋色の見ても飽かざる趣を、秋の再來が希望せられることによつて反語した。
 
長屋(ノ)王(ノ)歌一首
 
○長屋王 既出(二六二頁)。
 
味酒《うまさけ》 三輪乃社〔左△〕之《みわのやしろの》 山照《やまてらす》 秋乃黄葉《あきのもみぢば》 散莫惜毛《ちらまくをしも》     1517
 
〔釋〕 ○うまさけみわ 「うまさけ」「みわ」何れも既出(八三頁)。○やしろの 「社」原本に祝〔右△〕とある。類聚古葉により改めた。元のまゝ祝《ハフリ》の山でも、祝の住む〔二字右○〕山の意とすれば通ぜぬことはないが、不完である。○やまてらす 宣長訓ヤマヒカル〔五字傍線〕は却て非。
【歌意】 三輪の社の山を耀す、秋の色付いた葉は〔右○〕、散らうことが惜しいわい。
(2309)〔評〕 平淡の感想を平淡に叙べた。作者の氣品が何處やらに想望される。三輪の社の山は即ち三輪山である。
 
山上(ノ)臣憶良(ガ)七夕《ナヌカノヨノ》歌|十二首《トヲアマリフタツ》
 
〇七夕 七月七日の夕の略稱。この題詞には專ら七夕傳説の事蹟を詠じ、時に同夜の月などをも詠じてゐる。支那に於ける陰陽説に、奇數を陽として尚び、偶數を陰として卑しめた。月と日にも奇數の相重なるを欣び、一月一日には歳旦を祝し、三月三日には上巳の禊修に伴ふ曲水宴を催し(後世は雛祭)、五月五日は衆病悉除の香草や藥玉を翫び、楚臣の靈を弔し、七月七日は星祭を行ひ、九月九日は高きに登つて災禍を祓へ、菊花を弄んで老を辟けるなど、いはゆる五節を生ずるに至つた。
〇七夕傳説 支那古代の民間傳説に、七月七日の夜は、夫の牽牛星(彦星)と妻の織女星(棚機つ女)とが、年に一度天の河を渡つて相逢ふといふ艶話がある。呉均が續齊諧記に、桂陽(ノ)成武丁、有(リ)2仙道1、忽(チ)謂(ツテ)2其弟(ニ)1曰(ク)、七月七日織女當(シ)3渡(リテ)v河(ヲ)、暫(ク)詣(ル)2牽牛(ニ)1、至(リテ)v今(ニ)云(ク)、織女嫁(スト)2牽牛(ニ)1。云々。又荊楚歳時記に、天河之東(ニ)有(リ)2織女1、天帝之子也、年々織杼(ニ)勞役(シ)、織(リ)2成(ス)雲錦(ノ)天衣(ヲ)1、天帝憐(ミ)2其獨處(ヲ)1、許(ス)v嫁(グヲ)2河西(ノ)牽牛(ニ)1、即(チ)嫁(ギテ)遂(ニ)廢(ス)2織袵(ヲ)1、天帝怒(リ)責(メテ)令(シム)v歸(ラ)2河東(ニ)1、但使(ム)2其(ニ)一年一度相會(ハ)1とある。これを祭ることは、周處が風土記に、七夕灑2掃(シ)於庭(ヲ)1、施(シ)2几筵(ヲ)1、設(ク)2酒果(ヲ)於河鼓織女(ニ)1、言(フ)二星(ノ)神會(ニ)、乞(フ)2富壽及(ビ)子(ヲ)1、また歳時記に、七夕婦人以(テ)2綵縷(ヲ)1穿(チ)2七孔針(ヲ)1、陳(ベ)2瓜花(ヲ)1、以(テ)乞(フ)v巧(ヲ)とある。星家の説では河鼓と牽牛とを別座の星としてゐる。
 
(2310)天漢《あまのがは》 相向立而《あひむきたちて》 吾戀之《わがこひし》 君來益奈利《きみきますなり》 紐解設奈《ひもときまけな》     1518
 
一《アルヒハ》云(フ)、向河《カハニムカヒテ》。
 
〔釋〕 ○あまのがは 天河、銀河のこと。秋小星の聚群が天半に白く靡いて見えるのを稱する。天漢、河漢などもいふ。「漢」は河の意。○むきたちて 織女星が。○ひもときまけな 「ひも」は衣の紐。「まけ」は設《マウ》くること。即ち支度すること。「な」は「いへきかな」の項の「な」を見よ(一一頁)。
【歌意】 天の河を隔てゝ、そちらに〔八字右○〕向いて立つて、私が戀ひ焦れたその〔二字右○〕君(彦星)が、今夜〔二字右○〕お出でなさるわ。さあ〔二字右○〕衣の紐を解いて待ち設けようぞ。
 
〔評〕 牽牛、織女の二星のことは、既に詩經の小雅(大東篇)に、
  維天(ニ)有(リ)v漢、監(カニ)赤(ク)有(リ)v光、跂(タル)彼(ノ)織女、終曰七襄、雖(モ)2則七襄(スト)1、不v成(サ)2報章(ヲ)1、v(タル)彼(ノ)牽牛、不2以服1v箱(ニ)、云々。
と見え、史記天官書にも、二星の名が出てゐる。淮南子に、
  七夕、烏鵲填(メテ)v河(ヲ)成(シ)v橋(ヲ)渡(ス)2織女(ヲ)1。(今本ニナシ)
(2311)といひ、文選の古詩に、
  迢々(タリ)牽牛星、皎々(タリ)河漢(ノ)女、盈々(タル)一水(ノ)間、脉々(トシテ)不v得v語《ルコトヲ》。
とあるを見れば、夙く周末以前から七夕傳説が發生してゐたことを證する。齊諧記の成武丁の話説の如きは、それに蛇足を添へたに過ぎない。張華の博物志も亦牛女の事に及んでゐる。かくて魏晉以降牛女の賦詠が益す盛行し、王鑒(晉)、范雲(宋)、謝惠連(宋)、王僧達(宋)、顔延之(宋)、何遜(梁)、徐※[立心偏+非]妻(染)等の諸作家、各々その巧思を運らし奇手を弄して、六朝を經、唐代に及んだ。
 わが邦では正史には孝謙天皇の天平勝賓三年七月七日に賜宴のあつた事が出てゐる。素より節供の賀宴に相違ないが、牛女の事も必ずその日の品題に上つた事と考へられる。然しそれより以前の養老七年の七月七日に、 東宮(聖武天皇)の令旨によつて、憶良がこの作を物したと、この歌の左註にあるから、わが邦における七夕の勝事の、これが抑もの最初であらう。いや/\これはまだ早計な推定であつた。懷風藻に右大臣藤原不比等の七夕の詩が載せてある。いはく、
  雲衣兩(ナガラ)觀v夕(ニ)、月鏡一(ニ)逢(フ)v秋(ニ)、機下非(ズ)2曾故(ニ)1、援息是威猷、鳳蓋隨(ヒテ)v風(ニ)轉(ジ)、散影逐(ヒテ)v波(ヲ)浮(ブ)、面前開(キ)2短業(ヲ)1、別後悲(ム)2長愁(ヲ)1。
不比等は養老四年三月に薨逝された人だから、この詩作は遲くともその前年の七夕の詠であらう。さては憶良の作よりは四年前の養老五年に、既に七夕の行事は始まつてゐたと斷言される。但以上は文獻上での考説で、實際は支那の俗間行事までも盛に取入れたと思はれる近江朝廷前後から、ぼつ/\と行はれて來たものであらう。(卷十、七夕の歌の左註に、此歌一首庚辰年作v之とある庚辰を、天武天皇九年に當てる説は誤)
 とにかく七夕傳説は支那文化の將來したものであるから、これに興味を感じ、これを賦することも、まづ漢(2312)學者又は詩人の手になされるのが至當の順序で、由つて最初は詩作のみであつたものが、次いでは漢學者詩人中の歌人が、これを國歌に吟詠するやうになり、憶良はその第一人者として、こゝに登場したのだ。
 支那の婚儀は幾多の文獻が示す如く、古代から夫の家にその婦を迎へるのであつた。故に七夕傳説も、織女が天河を渡つて牽牛に歸ぐことになつてゐる。處がわが古代習慣はその反對であつたから、作者は牽牛が天河を渡つて織女を訪ふ趣に取成した。恐らく作者の味噌もそこにあらう。「紐解き」は漫然と釋すれば、衣の紐を解いてその容與の姿態を示すものといつて濟むが、突き詰めると下裳の紐即ち下紐である。およそ萬葉人ぐらゐ紐を氣にした者は恐らくあるまい。殊に戀愛問題に觸れると、盛んに紐を取扱つて歌つてゐる。それは大抵下紐である。或註者は下紐では卑猥だと郤けたが、そんな潔癖家は萬葉人には一人もない。篤とこの集の全部を通讀して見るがよい。
 この歌はすべて織女の意中から構思した作で、上句から四句までは一氣に牽牛の來由を叙し、結句一轉換して織女自身の※[疑の旁が欠]待の熱意を叙べた。長句と短句との應接の姿致にその妙を見る。
 
右、養老七年七月七日、應v令作〔左○〕《オホセゴトニテヨメリ》。
 
養老七年の七夕に皇太子の令旨によつて、この歌を詠んだとの意。〇七年 原本に八〔右△〕年とあるは誤。養老八年は聖武天皇御即位の年で、その二月に神龜と改元。皇太子たる方はその頃まだなかつた。その前年の養老七年の七夕とすれば、元正天皇の御在位中で、皇太子は即ちのちの聖武天皇であらせられた。憶良は當時皇太子の御學問の事で奉仕したと見え、續紀に「養老五年庚午、詔(シテ)云々、從五位下山上憶良等退朝之後、令(ム)v侍(ラハ)2東宮(ニ)1(2313)焉」とある。さてこそ七夕の日、皇太子は侍講の憶良に命じて、その詠作を獻らしめられたのである。○「應令」は應令作之〔二字右○〕の略。ほんの心覺えの註記と見えて、文は不完である。以下の左註もこの例に準じて作〔右○〕の字を補つた。
      △懷風藻の作者に就いて(雜考――28參照)
久方之《ひさかたの》 漢瀬爾《あまのかはせに》 船泛而《ふねうけて》 今夜可君之《こよひかきみが》 我許來益武《わがりきまさむ》     1519
 
〔釋〕 〇あまのかはせ 天の河の河瀬の略言。天の河原、天の河路、天の河津、天の河|門《ト》など皆この辭例。「漢」の一宇をアマノガハと訓む。下にもアマノガハラに漢原を充てゝある。○こよひか 「か」は疑辭。○わがり わが許《モト》に。妹許《イモガリ》の類語。
【歌意】 天の河の川瀬に、舟を浮べて、今夜君樣(彦星)が、私の許に御出でなさらうかいな。
 
〔評〕 上のと同じ立場に織女を置いて詠んでゐる。牽牛の川渡りを想像して、その擧動を丁寧に思惟した處に、その戀々の情緒が漂ふ。「君」と「わ」との對比も、親昵な情味を強調する。
 
右、神龜元年七月七日(ノ)夜、左大臣(ノ)家(ニテ)作〔左○〕(メリ)。                    
〇神龜元年云々 聖武天皇即位の御年で、左大臣は長屋(ノ)王である。「左大臣家」の下作〔右○〕の字を補ふ。
 長屋王は非常に文詩を愛好された方で、その佐保の宅に在朝の文人墨客を屡ば招請して作らせられた詩は、(2314)懷風藻に多く載つててゐる。憶良がこの歌を詠んだ時も、他に七夕の詩作があつたらうと想像される。
 
牽牛者《ひこぼしは》 織女等《たなばたつめと》 天地之《あめつちの》 別時由《わかれしときゆ》 伊奈牟〔左△〕之呂《いなむしろ》 河向立《かはにむきたち》 意空《おもふそら》 不安久爾《やすからなくに》 嘆空《なげくそら》 不安久爾《やすからなくに》 青浪爾《あをなみに》 望者多要奴《のぞみはたえぬ》 白雲爾《しらくもに》 H者盡奴《なみだはつきぬ》 如是耳也《かくのみや》 伊伎都枳乎良牟《いきづきをらむ》 如是耳也《かくのみや》 戀都追安良牟《こひつつあらむ》 佐丹塗之《さにぬりの》 小船毛賀茂《をぶねもがも》 玉纏之《たままきの》 眞可伊毛我母《まかいもがも》【一云(フ)、小棹毛何毛《ヲサヲモガモ》】 朝奈藝爾《あさなぎに》 伊可伎渡《いかきわたり》 夕鹽爾《ゆふしほに》【一云(フ)、夕倍尓毛《ユフベニモ》】 伊許藝渡《いこぎわたり》 久方之《ひさかたの》 天河原爾《あまのかはらに》 天飛也《あまとぶや》 領巾可多思吉《ひれかたしき》 眞玉手之《またまでの》 玉手指更《たまでさしかへ》 餘多〔左○〕《あまたたび》 宿毛寐而師可聞《いもねてしがも》【一云(フ)、伊毛左祢而師加《イモサネテシガ》】 (2315)秋爾安良受登母《あきにあらずとも》【一云(フ)、秋不待登毛《アキマタズトモ》】     1520
 
〔釋〕 ○ひこぼし 彦星。牽牛星のこと。彦は日子《ヒコ》の義で日女《ヒメ》に對し、男子の尊稱となつてゐたから、彦星は即ち男の星の意で、牽牛星の譯語に充てた。和名抄に、牽牛(ハ)、爾雅(ノ)註(ニ)云(ク)、一名河鼓、和名|比古保之《ヒコボシ》、又|以奴加比保之《イヌカヒボシ》と見えた。○たなばたつめ 棚機つ女。織女星のこと。棚機は高造りの機で、上等の物を織る。その機織をつとむる女を棚機つ女といふので、神代紀に天(ノ)棚機姫《タナバタヒメノ》神(記には、天(ノ)衣織女《ミソオリメ》)の名が見える。今は織女星の譯語に應用した。○いなむしろ 川に係る枕詞。顯宗天皇紀にも「伊儺武斯廬川傍柳《イナムシロカハゾヒヤナギ》」とある。語義に就いて、(1)寢莚《イネムシロ》の轉。夫婦寢るに用ゐる二枚つなぎの莚。二枚を刺し交《カハ》すによりてカハ(川)にいひ懸け、又敷くにいひ續けて共に枕詞としたり(守部説)。(2)稻莚《イナムシロ》の義。稻の莚は強《コハ》き物なればその強《コハ》を川《カハ》にいひ懸けたるならむ(古義説)の二説ある。(1)は面白さうだが、二枚|繋《ツナ》ぎ云々は臆説で、肯定しにくい。(2)はいひ懸けの音態は稍不快だが、簡單なだけよいと思ふ。「牟」原本に字〔右△〕とあるは誤。釋日本紀廿八にもこの歌を引いて、伊奈牟之呂《イナムシロ》とある。○かはにむきたち 隔ての河に向つて立ち。○おもふそら――なげくそら 既出(一一四〇頁)。○あをなみ 蒼波〔二字傍点〕の直譯語か。用例を他に見ない。青海《アヲウナ》原、青海《アヲミ》の原はあるけれど。○あをなみに 青波に向つて〔三字右○〕。○のぞみはたえぬ 眺望の屆かぬをいふ。漢語の望斷〔二字傍点〕といふに同じい。「のぞみ」を希望の意とする説は當らぬ。○なみだ 「H」は字書に滴水の一解もあるから、意訓で涙《ナミダ》と讀まれぬこともない。○かくのみやいきづきをらむ 既出(一五二九頁)。○さにぬり 丹塗《ニヌリ》即ち朱塗のこと。「さ」は美稱。「さにつろふ」を見よ(九三三(2316)頁)。○たままきのまかひ 玉で飾つた櫂。「ま」は美稱。○いかきわたり 楫櫂などにて水を掻きゆくこと。「い」は接頭語。○いこぎわたり この「い」も接頭語。○あまとぶやひれ 空を飛ぶ爲の〔二字右○〕領巾の意。「や」は間投の歎辭。「ひれ」は既出(五七四頁)。領巾で天を飛ぶは人間業でない。これは佛畫や佛像などから來た形象で、その天女は領巾を翼として雲中を飛翔してゐる。織女星は系統は違ふが、矢張天女の儔なので、その領巾に「天飛ぶ」の枕を冠した。○かたしき 片敷く〔三字傍点〕とは獨寢の態で、おのが衣の片身を下に敷くをいふ。但こゝは單に敷くの意に用ゐた。特例と見るべきである。○またまでのたまでさしかへ 既出(一四三五頁)。○あまたたび 眞淵説によつて「餘」の下に多〔右○〕を補つてかく讀む。新考は夜毛〔二字右○〕の二字を加へてアマタヨモ〔五字傍線〕と訓んだ。卷十五に「あまた夜も〔五字傍点〕ゐねて來ましを」とあれば、それもよい。○をさをもがも ○いもさねてしが ○あきまたずとも 以上割註の句、本文と格別の優劣もない。
【歌意】 彦星樣は棚機つ女と、天地の闢け始めから、夫婦ながら〔五字右○〕天の河を間に向き合つて住まれ、それ故〔三字右○〕戀ひ思ふ心地が落ち著きかねるのに、思ひ歎く心地が落ち著きかねるのに、青々と遙かな波に見渡しは屆かず、白い空の雲に詠《ナガ》めする涙は盡きてしまつた、えゝ何でかうしてばかり吐息ついて居らうかい、かうしてばかり戀ひ戀ひして居らうかい、どうぞ朱塗の小船もほしいものよ、玉飾した眞櫂もほしいものよ、それがあらば〔六字右○〕、朝凪に櫂を〔二字右○〕掻き撥ねて渡り、夕汐に船を〔二字右○〕漕いで渡り、そして天の川の磧に、棚機つ女の領巾を打敷いて、綺麗なその手をさし交はして、何遍もゆるりと寢てさみたいことかまあ、何も〔二字右○〕秋でなくともさ。
 
(2317)〔評〕 二星會合の傳説は七月七日の秋の一夜と限られた、そのあはれな宿命故に同情が惹かれ、興味深くも感ずるのであつた。もと/\現實を離れての遊技氣分で、古來からこれを賞翫してゐる。されば天の河は牽牛が越さうが、織女が越さうが、鳥鵲の橋を渡らうが船で漕がうが、車で越さうが徒渉りしようが、それは空想の所産で作者の勝手であつた。
 餘り勝手過ぎて、この歌は天の河を廣大に誇張した結果が、測らず海になつてしまひ、朝凪がしたり夕汐がさしたりして、聊か腑に落ちない。「さ丹塗の船」は即ち赤《アケ》のそほ船で、實際にもあつた特別仕立の官船であるが、「玉纏の眞櫂」は空想であらう。そんな櫂は實用にならぬ。只二星の身邊を飾るにふさはしいやうに、漢詩にいはゆる蘭橈桂舟の豪華の文字を移したものと思はれる。同時代の詩にも、
  ――窈窕鳴(シ)2衣玉(ヲ)1、玲瓏映(ズ)2彩舟(ニ)1、所(ハ)v悲(ム)明日(ノ)夜、誰(カ)慰(メム)2別離(ノ)憂(ヲ)1(懷風藻、七夕、小田史)
など作つてゐる。「青浪に望は斷えぬ、白雲に涙は盡きぬ」は望斷、涙盡の直譯であるばかりか、全體の句調が漢文的であるのは、作者憶良の地金が歴々と露出したものと見られて面白い。
 領巾は大抵婦人の持物となつてゐた。祝詞に「領巾掛くる伴の男」と見え、紀に膳夫《カシハデ》の掛けたこともあるが、それは特殊の場合だ。長いのは一丈餘もあるから、天飛ぶ翼の代りともなり、又[領巾片敷き」も出來さうな事である。さてこの領巾といひ、又「眞玉手の玉手さし交へ」も、記の沼河比賣《ヌナカハヒメ》の歌中の語であるとすると、「天飛ぶや」以下は織女星の意中を叙したやうに聞えるが、全體の主格は冒頭に「牽牛は」とあるから、不快ながらもなほ牽牛の意中として見ねばならぬ。
(2318) 結句「秋にあらずとも」は洵に置き得て妙で、よくその情意を盡してゐる。
 
反歌
 
風雲者《かぜくもは》 二岸爾《ふたつのきしに》 可欲倍杼母《かよへども》 吾遠嬬之《わがとほづまの》【一云(フ)、波之嬬乃《ハシヅマノ》】 事曾不通《ことぞかよはぬ》     1521
 
〔釋〕 ○かぜくも 風と雲と。○ふたつのきし 天の河の兩岸。○とほづまのこと 遠妻の言《コト》。「事」は借字。「とほづま」は既出(一一四〇頁)。○はしづま 愛《ハ》し妻の意。
【歌意】 風や雲は、天の河の〔四字右○〕兩方の岸に通ひもするが、河の向ふ〔四字右○〕にゐる〔二字右○〕、私の嬬棚機の言傳はさ、一向に〔三字右○〕通はぬことよ。秋でないので〔六字右○〕。
 
〔評〕 これも牽牛星の意中を揣摩して作つたもの。「通ふ」「通はぬ」の反叙、印象は鮮明だが、餘に親貼に過ぎる。然しこの體、集中に多い。契沖が
  風雲は兩岸に往來すれども實の使ならねば、織女の言を傳へず。
と解したのは曲解である。果してその意ならば、結句言ぞもてこぬ〔六字傍点〕とでもいはねばならぬ。
 
多夫手二毛《たぶてにも》 投越都倍伎《なげこしつべき》 天漢《あまのがは》 敞太而禮婆可母《へだてればかも》 安麻多須辨奈吉《あまたすべなき》     1522
 
(2319)〔釋〕 たぶてにも 礫《ツブテ》にて〔右○〕もの意。「たぶて」は手棄《タウテ》の義で、手して擲つことから、、遂に飛石《ツブテ》の事に用ゐた。古義のたぶて乎〔左△〕〔四字傍点〕(ヲ)も〔傍点〕の説は非。○あまたすべなき この「あまた」は甚しくの意。
【歌意】 一寸礫でも投げて屆きさうな、河幅のない天の河、それでも〔四字右○〕隔たつてゐるせゐかまあ、酷く仕樣もないことわ。――言傳も出來ず逢へもせぬのでねえ〔言傳〜右○〕。
 
〔評〕 牽牛の感情がよく出てゐる。初二句、河幅の狹い形容を、男性のよく遣る飛石打によつて表現した。これは或は諺の如くにいひ馴らされてゐた語かも知れないが、もし作者の獨創とすれば警拔で面白い。左註によると地上から見上げた天の河で、實に「たぶてにも投げ越しつべき」といひたく狹く見える。
 
右、天平元年七月七日夜、憶良(ガ)仰(イデ)觀(テ)2天(ノ)河(ヲ)1作(メリ)。【一云(フ)、帥(ノ)家(ニテ)作(メル)。】
 
〇一云、帥家作 帥家は太宰帥大伴旅人卿の家である。憶良が風月の佳會毎に宰府の旅人卿の家に出入して、吟賞を共にした事が窺はれる。
 
秋風之《あきかぜの》 吹爾之日從《ふきにしひより》 何時可登《いつしかと》 吾待戀之《わがまちこひし》 君曾來座流《きみぞきませる》     1523
 
【歌意】 秋風が吹きはじめたその日から、何時か/\と、私が待ち焦れた、君(彦星)がさ、今〔右○〕入らつしやいましたわ。
 
(2320)〔評〕 織女の意中を詠んだ。「秋風の吹きにし日より」は即ち七月立秋の日からの意、それが七日になつて、愈よ「君ぞ來ませる」と、牽牛に逢ひ得た喜を叙べた。
  秋風の吹きにし日より天の川瀬に出で立ちて待つと告げこそ(卷十、――2083)
  秋風の吹きにし日より久方の天の川原に立たぬ日はなし(古今集、秋)
の直後の趣である。
 
天漢《あまのがは》 伊刀河浪者《いとかはなみは》 多多禰杼母《たたねども》 伺候難之《さもらひがたし》 近此瀬乎《ちかきこのせを》     1524
 
〔釋〕 〇いと 「いと」は三句の「立たねども」に係る。但この副詞は形容詞に係るを常格とし、かくの如く動詞に係るは變格である。○さもらひがたし 牽牛星の許に〔六字右○〕侍ひ難しの意。こゝの「さもらひ」は、卷六の「風吹けば波か立たむと伺候《サモラヒ》に」の「さもらひ」(一六七一頁)の意ではない。○この瀬を この瀬なる〔二字右○〕を。
【歌意】 天の河は、河浪はさうも立たないけれども、彦星のお側に〔六字右○〕、侍りかねることよ。しかも〔三字右○〕近いこの渡り瀬であるもの〔五字右○〕をさ。
 
〔評〕 これは七夕の詠ではない。平日の織女の感想を歌つた。まづ「いと河浪は立たねども」といひ、更に「近きこの瀬を」といひ添へた。そんな天の河なら無造作に何時でも渡れる筈だ。然るに事實は「さもらひ難し」である。作者はこの矛盾だけを報告して、そのよつて來る原因は、すべて他の推測に打任せて、知らぬ顔をし(2321)てゐる。この點甚だ狡猾である。七夕ならねば逢はせぬ、天の河傳説の鐵則が構想の基礎である。
 
袖振者《そでふらば》 見毛可波之都倍久《みもかはしつべく》 雖近《ちかけども》 度爲便無《わたるすべなし》 秋西安良禰波《あきにしあらねば》     1525
 
〔釋〕 ○そでふらば 「そでふる」及びその評語を見よ(九四頁)。○みもかはしつべく 八言の句。「も」は歎辭。○ちかけども 「とほけども」を見よ(九〇二頁)。舊訓チカケレド〔五字傍線〕。
【歌意】 天の河はその兩岸が〔天の〜右○〕、袖を振らうならば、氣が付いて〔五字右○〕見交はしもしさうに、近いけれど、渡る手立もないわ、秋でさないから。
 
〔評〕 盈々たる一水に咫尺もこれ萬里、二星平生の焦燥が思ひ遣られる。初二句は上の「たぶてにも投げ越しつべき」と同じく、天の河の狹さの形容で、而も情趣を含んだ態度が見えて面白いが、「近けども」は底を割つた。見もかはしつべき天の河〔見も〜傍点〕といつた方が、含みもあり簡淨でよからう。
 
玉蜻※[虫+廷]《たまかぎる》 髣髴所見而《ほのかにみえて》 別去者《わかれなば》 毛等奈也戀牟《もとなやこひむ》 相時麻而波《あふときまでは》     1526
 
〔釋〕 ○たまかぎる 既出(一七七頁)。こゝは玉の落ちついた光澤を譬へて、「ほのか」の枕詞に用ゐた。「蜻※[虫+廷]」は單に蜻とのみも書かれ、カギロヒの訓があるからの借字。○ほのかにみえて 一寸逢つての意。○もとなや (2322)「もとな」は既出(六一六頁)。「や」は疑辭。
【歌意】 なまじ〔三字右○〕一寸逢つたばかりで、別れようならば、却て〔二字右○〕無茶に戀はれうことか、又來年の秋の〔五字右○〕逢ふ時まではさ。
 
〔評〕 二星會合後の感想を歌つた。享樂の陶醉から醒めると、情けない現實が待ち受け、別愁と離愁とは永く來年まで持ち越されることに同情した。結句逢はむ時まで〔六字傍点〕といつた方が、表現がはつきりする。
 
右、天平二年七月八日(ノ)夜、帥(ノ)家(ノ)集會《ツドヒニテ》作〔左○〕(メリ)。 
○右云々 右の歌は天平二年の七夕の翌夜、太宰帥旅人卿の家の會合で詠んだとの意。「右」はこの歌一首にのみ係けた語。「作」原本にない。補つた。
 
牽牛之《ひこぼしの》 迎嬬船《つまむかへぶね》 己藝出良之《こぎづらし》 漢原爾《あまのがはらに》 霧之立波《きりのたてるは》     1527
 
〔釋〕 ○つまむかへぶね 妻の織女星を迎への船。○あまのがはら 天の河の河原の略言。○たてるは 眞淵訓による。舊訓タテレバ〔四字傍線〕。
【歌意】 彦星の、妻棚機を迎へ取る船が、今〔右○〕漕ぎ出るらしい。あれあの通り〔六字右○〕、天の河原に霧の立つてゐるのは。
 
(2323)〔評〕櫓櫂に船を操ると、雫が散つたり、波のしぶきが立つたりする。で天の河の狹霧を、牽牛の妻迎船の水霧と見た。憶良のこの一詠が出てから、
  天の川霧たちわたるけふ/\とわが待つ君が船出すらしも(卷九――1765)
  君が船いま漕ぎくらし天の川霧たちわたるこの河の瀬に(卷十――2045)
  天の川八十瀬きらひぬ彦星の時まつ船は今し漕ぐらし(同卷――2053)
など、後人が荐に踏襲した。又この種の作中には下界人の立場からとも聞え、又天上界に作者が遊離しての言とも聞えて、曖昧なのがまゝある。
 
霞立《かすみたつ》 天河原爾《あまのがはらに》 待君登《きみまつと》 伊往還程爾《いかよふほどに》 裳襴所沾《ものすそぬれぬ》     1528
 
〔釋〕 ○かすみたつ この霞は霧をいふ。卷二「秋の田の穗のへにきらふ朝霞」の條(三〇三頁)を參照。○いかよふ 「い」は接頭の發語。
【歌意】 天の河原に、お出でなさる〔六字右○〕君(彦星)を待つとて〔右○〕、あちこちするうちに、私〔右○〕(棚機)の〔右○〕裳の裾は、びしよびしよになりましたわ。
〔評〕 おなじ戀人を待つ焦燥でも、これは一年一度の事だから、勿論大變であらう。裳裾を濡らしての「い通ふ」が、その態度を適確に説明してゐる。「裳の裾沾れぬ」の句は集中他に五首を數へるが、風情の似たのでは、
(2324)  君が爲山田の澤にゑぐ摘むと雪解の水に裳の裾ぬれぬ(卷十――1839)
であらう。而もこれは毫も瑣屑の點のないのが嬉しい。
 
天河《あまのがは》 浮洲〔左△〕之浪音《うきすのなみと》 佐和久奈里《さわぐなり》 吾待君思《わがまつきみし》 舟出爲良之母《ふなですらしも》     1529
 
〔釋〕 ○うきすのなみと 「うきす」は水中に浮くが如く見ゆる洲をいふ。「洲」原本に津〔右△〕とあるが、浮津は妥當でないので改めた。眞淵は「浮」を御〔右△〕の誤としてミツノナミノト〔七字傍線〕と訓み、新考は「浮」を渡〔右△〕の誤としてワタツノナミト〔七字傍線〕と訓んだ。○なり 詠歎の助動詞。
【歌意】 天の河の浮洲の浪の音が、何時もより〔五字右○〕ざわ/\することよ。私の待つ君(彦星)がさ、今〔右○〕船出をなさるらしいわい。
 
〔評〕 これは織女の聽覺から構思して、牽牛歡迎の情緒を叙べた。浮洲にせよ、御津、渡津にせよ、何れ空想だから、どうでもよいのだが、浮洲の方が地勢的に趣があり、浪の音も餘計に耳立つて聞えるであらう。
  天の川霧たち渡るけふ/\とわが待つ君が船出すらしも(卷九、藤原北卿――1765)は三句以下同一である。北卿は藤原房前のことだから、憶良と同時の人で、歌の後先は判然しない。但憶良の方が年長である。
 以上憶良の十二首、一時の作でこそないが、一つの題目を隨分と多量に詠んだものだ。もと/\架空的話説(2325)に立脚したものだから、盛にその巧思を運らした點には感服するものゝ、結局遊戲文字に墮して、實感の人に迫るものを見出し得ないのも當然である。なほ卷十所載の七夕の歌百首を參照して見たら、思半ばに過ぎるものがあらう。
 
太宰(ノ)諸卿大夫《マヘツギミタチ》并|官人等《ツカサビトタチガ》、宴《ウタゲスル》2筑前(ノ)國|蘆城驛家《アシキノハユマヤニ》1歌二首
 
太宰府の高級官吏達や下役人達が、蘆城の驛で宴會した時の歌の意。○蘆城驛家 既出(一一六二頁)。
 
娘部思《をみなへし》 秋芽子交《あきはぎまじる》 蘆城野《あしきのぬ》 今日乎始而《けふをはじめて》 萬代爾將見《よろづよにみむ》     1530
 
〔釋〕 ○あしきのぬ 野は蘆城川の兩岸に展開してゐる。「蘆城(ノ)驛家《ウマヤ》」を見よ(一一六二頁)。
【歌意】 女郎花に秋萩がまじつて咲く、この蘆城の野は〔右○〕、今日を手始めにして、何時までも來て見ようぞ。
 
〔評〕 宰府の諸官吏中、宴會にこの野を訪うた人の作である。高くはないが山相の和やかな蘆城山あり、その裾をめぐつて清流蘆城川が流れ、そこに蘆城野が展開し、遠く竈山大城(ノ)山を北に望み、南に國境城の山を見はるかす。麻田(ノ)陽春は「野に立つ鹿」を詠じ、大伴(ノ)四綱は「河音さやけし」と歌つた。更に女郎花や秋萩の景物を加へたとなつては、全く忘られない面白い野であらう。この面白さの忘れ難い趣を、「萬代に見む」と誇張した。がこれは少し平凡な妥協的の下語である。「けふを始めて」はこの興宴に對する挨拶の辭。
 
(2326)珠※[匣の甲を臾]《たまくしげ》 葦木乃河乎《あしきのかはを》 今日見者《けふみては》 迄萬代《よろづよまでに》 將忘八方《わすらえめやも》     1531
 
〔釋〕 ○たまくしげ 既出(三一四・三一六頁)。こゝは「あしき」の枕詞と思はれるが、その詞意が餘り明瞭でない。
 (1)玉匣|明《ア》くを蘆城《アシキ》のアの一字に係けたり(契沖説)。(2)玉匣は淺き櫛笥なれば、玉匣|淺笥《アサケ》といふを蘆城《アシキ》にいひ懸けたり(古義説)。「※[匣の甲を臾]」は匣の書寫字。○あしきのかは、水源は御笠郡の寶滿山なので、下流では寶滿川といふ。筑後に入つて筑後河に合流する。○みてば 見てあらば。古義訓による。舊訓、ミレバ〔三字傍線〕は非。
  △寫眞 挿圖328(一一九二頁)を參照。
【歌意】 この蘆城川を今日見たらば、萬代の後までも、忘られうかいな。面白い景色なので〔八字右○〕。
 
〔評〕 川が蘆城の景勝の中心を成してゐる。畢竟上の歌と共に蘆城の驛家の讃辭である。 
右二首(ハ)、作者未詳。
 
笠(ノ)朝臣金村(ガ)伊香《イカグ》山(ニテ)作歌二首
 
○笠朝臣金村 既出(八四二頁)。○伊香山 イカグヤマ。又イカゴヤマ。近江國伊香郡。賤が嶽(鹽津山の一部)の南部の山。式の神名帳に、伊香郡|伊香具《イカグノ》神社がある。「鹽津山」を參照(八四二頁)。
(2327) △地圖 挿圖247(八四四頁)を參照。
 
草枕《くさまくら》 客行人毛《たびゆくひとも》 往觸者《ゆきふれば》 爾保比奴倍久毛《にほひぬべくも》 開流芽子香聞《さけるはぎかも》     1532
 
〔釋〕 ○ゆきふれば 道行く際に觸るゝをいふ。名詞には行觸《ユキブリ》といふ。
【歌意】 旅する人さへも、行きがかりに一寸障るを衣も色に染まりさうにまあ、美しく咲いてゐる、萩であることかまあ。
 
〔評〕 金村は任國越前への往來に、鹽津山附近を通過したと見える。卷二に鹽津山の歌が二首載つてゐる。伊香山の野は即ち鹽津山の南麓の野である。「弓末振りおこし」て矢立の響を轟かした勇士金村にも、行き摺りの美しい野萩の花に愛著をもつほどの風流な半面がある。「旅ゆく人も」は落ち著いて賞翫し得る土地人に對しての語で、倉卒に通り過ぎる旅人の袖すら匂ひさうなと、萩の花の咲きの盛りを強調した優雅(2328)な作である。
 
伊香山《いかぐやま》 野邊爾開有《ぬべにさきたる》 芽子見者《はぎみれば》 公之家有《きみがいへなる》 尾花之所念《をばなしおもほゆ》     1532
 
〔釋〕 ○をばな 既出(四九頁)。
【歌意】 伊香山の裾野べに咲いた、萩の花を見ると、貴方のお宅にある尾花がさ、思ひ出されますよ。
 
〔評〕 萩が匂へば尾花は靡く。伊香野の萩は端なく人の家の尾花を想起せしめた。「君」は恐らく故郷なる奈良京の知人であらう。茲に至つて「尾花し思ほゆ」は即ちその家主たる君を思ふの託言となる事に氣が付くであらう。
 表現極めて婉微で、無邊の情趣が隱然と動く。怱々の旅中なほかく慇懃の懇情を寄せたので見ると、君は意中の情人かも知れない。
 
石川(ノ)朝臣|老夫《オキナガ》歌一首
 
○石川朝臣老夫 傳未詳。續紀、文武天皇二年七月の條に、直廣肆石川朝臣|小老《ヲオユヲ》爲(ス)2美濃守(ト)1とある。少老の改名でもあるまい。或は血縁者か。
 
娘部志《をみなへし》 秋芽子折那〔左△〕《あきはぎをらな》 玉桙乃《たまほこの》 道去※[果/衣]跡《みちゆきづとと》 爲乞兒《こはむこのため》     1534
 
(2329)〔釋〕 ○をらな 折らむの意に近い。「きかな」を見よ(一一頁)。「那」原本に禮〔右△〕とある。宣長説によつて改めた。○みちゆきづとと 途中で得た家苞として〔二字右○〕。○こはむこのため 「こ」は若い婦人の愛稱。「爲乞兒」は漢文めかして書いた。
【歌意】 女郎花や秋萩をさあ〔二字右○〕折らうぞ。途中で得た土産をと、乞ひせがむであらう、あの兒の爲にさ。
 
〔評〕 昔だとて家人の望む本當の土産は、頗る物質的の物であつたに違ひあるまい。然るに歌には、波の花だの藻の花だの藤の花だの草木の花だの貝殻だのを家苞にするやうな事を、荐に歌つてある。これは作者が自然の美趣または興趣に打たれての感激から出た矯語で、そこに詩趣が動いてくるのである。
 
藤原(ノ)宇合《ウマカヒノ》卿(ノ)歌一首
 
○宇合 既出(二五六頁)。
 
我背兒乎《わがせこを》 何時曾且〔左△〕今登《いつぞいまかと》 待苗爾《まつなべに》 於毛也背〔左△〕將見《おもやせみえむ》 秋風吹《あきのかぜふけ》     1535
 
〔釋〕 ○いまかと 「且今」をイマと訓む。その例卷七に「且今《イマ》とかも」とあり、又卷二には「且今日」をケフと訓んである。「か」は訓み添へた語。「且」原本に旦〔右△〕とあるは誤。○おもやせみえむ 面痩《オモヤセ》見えむ。「背」原本に者〔右△〕とあるは誤。この考測らず童本の訓と暗合したのも面白い。然るに舊訓に「於毛也者」をオモヤハ〔四字傍線〕とある(2330)に從つて、略解にオモヤは面輪《オモワ》にてヤとワを通ふなりと解し、古義も賛成したが、面輪をオモヤといふこと他に例もなく、東歌などの方言なら知らぬこと、普通の語としては如何と思ふ。宣長は「於」を聲〔右△〕、「也」を世〔右△〕の誤として、オトモセバミムと〔七字傍線〕訓んだが、牽強らしい。新考は「見」を痩〔右△〕の誤として、オモヤハヤセム〔七字傍線〕と訓み、ヤは疑辭として面や痩せむの意に解した。○あきのかぜふけ 宣長訓を用ゐた。舊訓アキカゼノフク〔七字傍線〕。
【歌意】 わが夫《ツマ》(彦星)を、そのお出でが〔六字右○〕何時ぞ今かと待つにつれて、顔の痩が人目に著かうぞ。早く〔二字右○〕秋の風が吹けよ。――七月の七日が待ち遠しい〔七月〜右○〕。
 
〔評〕 これは七夕前の織女の氣持を詠じたものだから、題詞はもと、藤原(ノ)宇合卿(ノ)詠(メル)2織女(ヲ)〔三字右○〕1歌とあつたものだらう。「何時ぞ今か」はいかにも急き切つた情趣にふさはしい表現だ。人の子故に痩せ細ることは弓削皇子も歌はれたが(卷二)、これを織女の上に移した趣向は、新機軸を出したもので、よく婦女の情を穿つたものといはれよう。「秋の風吹け」の一轉語、下し得て恰當。
 
縁達師《エンタツシガ》謌一首
 
○縁達師 法師の縁達か。「師」の上、或は脱字があらう。傳未詳。
 
暮相而《よひにあひて》 朝面羞《あしたおもなみ》 隱野乃《なばりぬの》 芽子者散去寸《はぎはちりにき》 黄葉早續也《もみぢはやつげ》     1536
 
(2331)〔釋〕 ○よひにあひてあしたおもなみ 「なばり」に係る序詞。既出(二二七頁)。○なばりぬ 名張野。今の伊賀の名張町の附近の平野か。「なばりのやま」を參照(一六九頁)。○はやつげ 「續也」の也は添字。
【歌意】 殘念な事に〔五字右○〕、この名張野の萩の花は、疾うに〔三字右○〕散つてしまつた。黄葉が色づいて、萩の花のあとを早く繼げよ。
 
〔評〕 萩は散り紅葉は未しき中間季節、作者は偶ま勢州街道の名張野を通過し、野は一點の紅もとゞめない落莫たる光景に接しての即興で、諸木早く黄變して野趣を絶たしめるなと絶叫した。
 この序詞は、卷一、長皇子の歌「なばりにかけ長き妹がいほりせりけむ」(60――二二七頁)の序詞と同一である。委しくはその評語を參照。
 
山(ノ)上(ノ)臣憶良(ガ)詠(メル)2秋野《アキヌノ》花(ヲ)1歌〔左○〕二首
 
秋野爾《あきのぬに》 咲有花乎《さきたるはなを》 指折《およびをり》 可伎數者《かきかぞふれば》 七種花《ななくさのはな》 其一     1537
 
〔釋〕 ○およびをり 指を屈げること。「および」は和名抄に「指、手指也、和名|由比《ユビ》、俗云|於與比《オヨビ》」とある。但俗とは通常の意で、俗語の意ではない。○かきかぞふれば 「かき」は接頭語。○ななくさ 七種。七草ではない。
【歌意】 秋の野に咲いてゐる優れた〔三字右○〕花を、指折り數へると、七色の花となつたわい〔六字右○〕。
 
(2332)〔評〕 もとが風流の閑事で、詩味の乏しいことは作者自身も承知して居らう。七種と七の數を限つたのは、太古からの東洋的の數字觀念が、そこに考へられる。
 これは次の歌との聯作で、嘗て貧窮問答歌に用ゐた手法の如く、みづから提唱して、みづから答へてゐる。
 そしてこれは短歌、次のは旋頭歌で、問答おの/\その體を殊にしてゐるのは珍しい。「其一」「其二」の註記は前後一連の作であることを示した。作者の所爲か、後人の所爲か。
 
芽之花《はぎのはな》 乎花葛花《をばなくずばな》 瞿麥之花《なでしこのはな》 姫部志《をみなへし》 又藤袴《またふぢばかま》 朝貌之花《あさがほのはな》     其二 1538
 
〔釋〕 ○はぎのはな云々 これは旋頭歌である。○をばな 既出(四九頁)。○くずばな 既出(九四六頁)。○なでしこのはな 「瞿麥花《ナデシコ》」を見よ(一〇一六頁)。○をみなへし 既出(一二九四頁)。○ふぢばかま 和名抄に「蘭、和名本草云、布知波賀萬《フヂバカマ》」、源氏物語(藤袴の卷)には字音にラニとある。菊科の多年生草本。莖は圓形に強直して、高さ三四尺、葉は通常三出複葉の觀あり、一種の佳香がある。秋淡紫紅色を呈する頭状花を繖形に著く。○あさがほのはな 不明。(1)今の朝顔とする説。和名抄に「牽牛子《ケニゴシ》、和名、阿佐加保《アサガホ》」と見え、平安以來は一般に承認されてゐるが、牽牛子は野生の(2333)花でない。(2)桔梗とする説。新撰字鏡に「桔梗、阿佐加保《アサガホ》、又云岡(カ)止々支《トヽキ》とある。(3)蕣花即ち木槿とする説。朗詠集に、木槿の題下に牽牛子即ち朝顔の歌を攝し、明月記などにも見えるが、木槿は草でない。(4)旋花如ち晝顔とする説。狩谷※[手偏+夜]齋、岡村尚謙等はこれを主張したが、臆説で文獻上の根據はない。以上を通約すると、(2)の桔梗説が稍有力となるが、他に旁證はない。
【歌意】 その七種の花は〔七字右○〕、萩、尾花、葛の花、瞿麥の花、女郎花と藤袴、朝顔の花だ。
 
〔評〕 七種の花の解説で、花の名を列擧したに過ぎないが、殊に多數なる秋草野花の中から、かく優秀なものばかりを公平に選擇し來つた作者の鑑識に敬服する。憶良は草花に餘ほど深い關心をもつてゐたらしい。但藤袴は花としては詰らないが、昔はその芳香を併せて愛賞したものだ。類聚國史、大同二年九月の條に、皇太弟(嵯峨)の御歌に「皆人のその香をめづる布智波賀麻《フヂバカマ》」と詠まれ、古今集には「主知らぬ香」を詠んである。
 旋頭歌體を用ゐたのは他意あるのではない。短歌では内容が包容し切れないからである。上句「なでしこの花」、下句「あさがほの花」と、同じ詞態を反復した混本の體格は旋頭歌の正調で、而も七種の花名を自在に按排して、いかにも流滑暢達、朗唱に値する。然し結局は遊戲文字である。
 
天皇(ノ)御製歌《ミヨミマセルオホミウタ》二首
 
○天皇 聖武天皇。すべて記録者はその記録當時の天子を天皇とのみ書く。故にこゝの天皇は聖武天皇の御事となり、卷三の天皇は持統天皇の御事となる。
 
(2334)秋田乃《あきのたの》 穗田乎鴈之鳴《ほたをかりがね》 闇爾《くらけくに》 夜之穗杼呂爾毛《よのほどろにも》 噂渡可聞《なきわたるかも》     1539
 
〔釋〕 〇ほたをかりがね 穗田を刈るに雁《カリ》をいひかけた。穗田は稻穗の出た田。○かりがね 雁が音の義であるが、雁と同意に用ゐた。○くらけくに 暗けくある〔二字右○〕にの意。「暗けく」は寒けく〔三字傍点〕の類語。略解訓クラケキ〔四字傍線〕は非。○よのほどろ 既出(一三五八頁)。
【歌意】 秋の穗田を刈る、そのカリといふ稱《ナ》の雁が、眞暗なのに、夜中のうちからまあ、鳴いて通ることよ。
 
〔評〕 「穗田をかりがね」の秀句は、下にも「早稻田かりがね」(家持)、古今集にも「夜を寒み衣かりがね」(詠人不知)の等類があり、何れも雁の來る季節の景物が修飾に使はれてゐる。抑も暗夜の物の聲は、何となく寂しい神秘な響を傳へる。而もそれが寒雁の聲であつて、穗田を刈り收める暮秋の候だとすると、その凄まじい夜氣がひし/\と身に迫る。まして青丹よし奈良の大宮の大殿の内で、明王はその闇天の聽を驚かさせ給うた情景を想像すると、更に一段の凄氣の縱横するを感じよう。
 
今朝乃旦〔左△〕開《けさのあさけ》 鴈之鳴寒《かりがねさむく》 聞之奈倍《ききしなべ》 野邊能淺茅曾《ぬべのあさぢぞ》 色付丹來《いろづきにける》     1540
 
〔釋〕 ○けさのあさけ かくいひ重ねるのは當時行はわた詞態である。「旦」原本に且〔右△〕とあるは誤。○あさぢ 既(2335)出(一九七一頁)
【歌意】 今朝の夜明けに、雁の鳴く音を、寒く聞いたのにつれて、さても〔三字右○〕野邊の淺茅はさ、色づいたことであるよ。
 
〔評〕 野邊の淺茅生は珍しく點々と紅を潮した。乃ち雁聲を聽いた朝床の寒さを想起して、さればこそと、滿天滿地、秋暮れ方の凄涼たる風露の侵すを感じた。情景自然。
  今朝鳴きてゆきし雁がね寒みかもこの野の淺茅色づきにける(卷八――1578)
は同趣同型であるが、聖製に比べると稍洗煉が足らないやうだ。
 
太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿(ノ)歌二首
 
○大伴卿 旅人卿のこと。既出(七三六頁)。
 
吾岳爾《わがをかに》 棹牡鹿來鳴《さをしかきなく》 先芽之《さきはぎの》 花嬬問爾《はなづまとひに》 來鳴棹牡鹿《きなくさをしか》     1541
 
〔釋〕 〇さきはぎの 初萩の花を花妻にいひ續けた序詞。訓は略解に從つた。いはく「サキハギは初芽子《ハツハギ》なり、神樂歌の先張《サイバリ》もサキハリの音便にて、サキは先、ハリは萩の古言」と。○はなづま 花めく妻の意。新考いふ「新妻なり。花は花嫁花婿の花なり」と。○はなづまとひに (1)萩を鹿の妻と見ていふ(舊説)。(2)舊説と同説(2336)で、こゝは萩の花を〔右○〕妻問ひにの意と見る(古義)。(3)「さき萩の」は枕詞にて、新妻問ひにの意(新考)。以上のうち(3)が比較的優れてゐる。
【歌意】 自分の占めた岡に、男鹿が來て鳴くわ。その〔二字右○〕花めく妻を問ひに、來て鳴くわ、男鹿が。
 
〔評〕 鹿と萩との縁は深い。共に山野の物で、萩の花盛の頃から、鹿も妻戀して鳴く。で、三、四の句を誤解して、萩を鹿の妻と考へるやうな舊説も生じ、平安時代の歌には專らその意でもつて「萩の花妻」と詠んである。もと/\動物と植物とは非倫だから、結局無理な技巧に終始する。
 これは第二句を結句に反復する古格を學びながら、結句に變化を求めて、詞の構成を顛倒せしめた。されば來鳴ク棹鹿〔五字傍点〕ヨと續く平叙ではなくて、棹鹿ガ來鳴クの倒装と見ねばならぬ。
 
吾岳之《わがをかの》 秋芽花《あきはぎのはな》 風乎痛《かぜをいたみ》 可落成《ちるべくなりぬ》 將見人裳欲得《みむひともがも》     1542
 
〔釋〕 ○かぜをいたみ 風が甚しさに。「を」は歎辭。
【歌意】 自分の岡の秋萩の花が、風がまあひどさに、散りさうになつたわい〔二字右○〕、早く見よう人もありたいがなあ。
 
〔評〕 「見む人もがも」「見せむ人もが」「見せむ兒もがも」「見せましものを」の類、誰れも愛惜の餘には自然に發する情味で、素より新味は見られないが、
(2337)  わが岡にさかりに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも(卷五、旅人卿――851)
と作者自身からして、同じ事を繰り返してゐる。尤も只梅が萩に取換つただけのものゝやうだが、洗煉が行屆いて、表現が煩冗でないだけ、梅の歌の方が優つてゐる。
 
三原《ミハラノ》王(ノ)歌一首
 
〇三原王 續紀に、天平十二年八月治部卿從四位上三原王等を遣はし、伊勢に奉幣、同十八年三月大藏卿、同十九年正月正四位上、同二十年二月從三位とある。
 
秋露者《あきのつゆは》 移爾有家里《うつしなりけり》 水鳥乃《みづとりの》 青羽乃山能《あをばなおやまの》 色付見者《いろづくみれば》     1543
 
〔釋〕 ○うつし 染料の義。色を染め移すよりいふ。卷七に「秋さらば移しもせむと」とある。後には月草の花汁を紙に染めて置いたのを、專ら移し花〔三字傍点〕、又移し〔二字傍点〕といふやうになつた。○みづとりのあをば この水鳥は主に鴨をさした。正しくは水鳥者の鴨の青羽といふべきを略して、それを青葉の山に懸けた序詞。なほ、本卷「水鳥の鴨の羽色の春山の」の條の解を見よ(二二四四頁)。
【歌意】 秋の露はまるで、染汁であつたわい。水鳥の鴨の青羽のやうな、青葉の山が、露のおくまゝに〔七字右○〕、紅くなつてゆくのを見ると。
 
〔評〕 露霜に草木の黄變するに、露を移し〔二字傍点〕と見立てたのが新趣向だ。古代人は男子と雖も服飾觀念に富んではゐ(2338)るものゝ、この作者がもし婦人だと、更に一段の光彩が煥發するだらう。
 
湯原(ノ)王(ノ)七夕《タナバタノ》歌二首、
 
〇湯原王 傳既出(八六二頁)。
 
牽牛之《ひこぼしの》 念座良武《おもひますらむ》 從情《こころより》 見吾辛苦《みるわれくるし》 夜之更降去者《よのふけゆけば》     1544
 
〔釋〕 ○こころより 心よりも〔右○〕。新考訓による。舊訓コヽロユ〔五字傍線〕。○ふけゆけば 「更降」は夜の時刻の降《クダ》つこと。故にフケと訓む。
【歌意】 牽牛星が心配なさるであらうお心以上に、餘所から〔四字右○〕見てゐる、私が心苦しいわ、七日の〔三字右○〕夜が更けてゆくので。
 
〔評〕 年に一度の逢ふ瀬、その夜の更けて行くのは、即ち起き別れゆくきぬ/\の迫るので、當事者以上に、見てゐる自分の方が苦しいと、二星に切なる同情をさゝげた。これも一つの趣向。
 
織女之《たなばたの》 袖纏〔左△〕三更之《そでまくよひの》 五更者《あかときは》 河瀬之鶴者《かはせのたづは》 不鳴友吉《なかずともよし》     1545
 
(2339)〔釋〕 ○そでまく 「纏」原本に續〔右△〕とある。「袖續」は袖を接する意で、詰り袖を交はすことだらうが、穩やかでない。古義の説に從つて改めた。○よひ 夜と同意。「三更」を訓んだ。卷十にも「初瀬風かく吹く三更《ヨヒ》は」とある。「更」は時刻の更《カハ》る義。一夜午後八時より午前六時までを五つに分つて五夜といふ。漢官舊儀に「五夜者、甲夜(今の午後八時)、乙夜(同十時)、丙夜(同十二時)、丁夜(午前二時)、戊夜(同四時)、衛土甲乙相傳盡2五更1」と見え、甲夜を初更、乙夜を二更、丙夜を三更、丁夜を四更、戊夜を五更とも稱する。○あかとき 「あかときづゆ」を見よ(三三八頁)。「五更」、は午前四時だから、曉に充てた。「三更之五更」は戲書か。
【歌意】 織女の袖を枕として、牽牛の寢る七夕の曉方は、天の川の〔四字右○〕河瀬の鶴は、催促顔に〔四字右○〕夜が明けたと、鳴かなくてもよいわ。
 
〔評〕 「鶴は早起だ。隨分夜中にも鳴く。されば
  暗き夜に鳴くなるたづの(卷四――592)
  明け暮れのあさ霧がくり鳴くたづの(卷四、笠麻呂――509)
  この夜らのあかときくだち鳴くたづの(卷十――2269)
  あふみより朝立ちくれはうねの野にたづぞ鳴くなる明けぬこの夜は(古今集卷二十、大歌所歌)
など詠まれてゐる。鶴は本來暮秋の候を期しての渡り鳥で、七夕には間に合はぬが、もと/\架空的の幻想だから、こゝは夜明烏の格で使はれたものだ。場處が天の川で而も七夕樣の後朝では、鶴でなくてはふさはしからぬ。例の二星への同情である。
 
(2340)市原(ノ)王(ノ)七夕(ノ)歌
 
○市原王 既出(九二〇頁)。
 
妹許登《いもがりと》 吾去道乃《わがゆくみちの》 河有者《かはしあれば》 脚〔左△〕緘結跡《あゆひむすぶと》 夜更降家類《よぞくだちける》     1546
 
〔釋〕 ○かはしあれば 「し」は訓み添へた。舊訓カハノアレ〔五字傍線〕バ。○あゆひむすぶと 「脚」原本に附目〔二字右△〕とある。眞淵いふ、附目は脚〔右△〕の誤にて、「脚緘結」をアユヒムスブと訓むべしと。これを宣長がアヒナダス〔五字傍線〕と訓んだのは鑿に近い。略解は附目を脚固〔二字右△〕の誤として、アユヒツクル〔六字傍線〕と訓んだ。皇極天皇紀に「あよひたづくり」、卷十七に「足結たづくり」とあるを例にしての訓であらうが、それは作るの意にて、著くることではないから、こゝの例にならない。「あゆひ」は既出(一九〇九頁)。○くだちける 「よはくだちつゝ」を見よ(−七三六頁)。舊訓フケニケル〔五字傍線〕。
【歌意】 思ふ妹(棚機)の許にと、自分(彦星)の行く路が、河がさあるので、足結の紐を結ぶというて、思の外〔三字右○〕、夜がさ更けたわい。
 
〔評〕 河があるので足結を結ぶとは、天の河を徒渉りの支度で、袴を脛高に上げて、足結を括るのであらう。その位の事で、「夜ぞくだちける」は誇張に違ひないが、戀に走る者の焦燥は、又かうも周章するのである。
 
(2341)藤原(ノ)朝臣八|束《ツカノ》歌一首
 
○藤原朝臣八束 既出(九〇四頁)。
 
棹四香能《さをしかの》 芽二貫置有《はぎにぬきおける》 露之白珠《つゆのしらたま》 相佐和仁《あふさわに》 誰人可毛《たれのひとかも》 手爾將卷知市《てにまかむちふ》     1547
 
〔釋〕 ○さをしかの云々 これは旋頭歌。○あふさわに 本集難語の一つで、意はおほけなく〔五字傍点〕、非分などに當る。卷十一にも「山城の久世のわく子が欲しといふわを、あふさわに〔五字傍点〕わを欲しといふ山城の久世」がある。
【歌意】 鹿が萩の枝に貫いて置いた、この美しい〔五字右○〕露の白玉、それを大それて〔七字右○〕、何者がまあ取つて〔三字右○〕、手に纏かうといふのかい。
 
〔評〕 いはゆる狂言綺語に屬する。白玉を纏く習慣のあつた古代では、秋野の逍遙に萩の枝の露を見ては、緒に綴つた玉を聯想し、手に纏いてみたい位の事は、誰れも思ひもし言ひもする。それをわざと大仰に咎めて、「たれの人かも」と叱咤し、あれは鹿の秘藏してゐる露の玉だぞと宣言した。萩の露を鹿の所爲とした構思も面白く、而も人間よりは鹿の意志を尊重した顛倒の見に、詩味を發揚し、「あふさわに」の戲謔、人をして失笑せしめる。
 旋頭歌としては異體で、短歌の延長である。
 
(2342)大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)晩芽子《オクテノハギノ》歌一首
 
○大伴坂上郎女 既出(八六七・一一二二頁)。○晩芽子 遲咲の萩。
 
咲花毛《さくはなも》 宇都呂布〔左○〕波※[厭の雁だれなし]《うつろふはうし》 奥手有《おくてなる》 長意爾《ながきこころに》 尚不如家里《なほしかずけり》     1548
 
〔釋〕 ○うつろふ 「呂」の下、原本布〔右○〕の字がない。補つた。○おくて 奥手。草木の花實に、時期に遲れるものをさしていふ。されば晩稻をもオクテといふ。○ながきこころ 氣の長いこと。
【歌意】 咲く花で〔右○〕も、急いで咲いて早く〔八字右○〕散り衰へるのはいやだ。そんなのは〔五字右○〕遲咲であるこの萩の、ゆるりとした心に、矢張及ばないわい。
 
〔評〕 輕卒に移り易い人心を擬へて詠んだ。季節はづれに遲く咲く花は、割合に早く衰へるものだが、こゝはそんな理窟は無用だ。
 
典鑄《テンジユノ・イモノシノ》正《カミ》妃(ノ)朝臣|鹿人《カヒトガ》至(リテ)2衛門大尉《エモンノダイジヨウ・ユゲヒノオホキマツリゴトビト》大伴(ノ)宿禰|稻公《イナギミノ》跡見庄《トミノタドコロニ》作歌一首
 
○紀鹿人が大伴(ノ)稻公の迹見の別莊に往つて詠んだ歌との意。○典鑄正 鑄物師の長官、正六位相當。職員令に、典鑄司、正《カミ》一人、掌(ル)d造(リ)2鑄金銀銅鐵(ヲ)1塗(リ)2二飾瑠璃(ヲ)1、玉作及工戸(ノ)戸口名籍(ノ)事(ヲ)u、と見え、佐一人、太令史少令史各一(2343)人、雜工使部等がある。○紀朝臣鹿人 既出(一七四五頁)。○衛門大尉 衛門府の三等官。正六位相當。職員令に、衛門府、督一人、掌(ル)2諸門(ノ)禁衛、出入(ノ)禮儀、以(テ)v時(ヲ)巡檢(シ)、及(ビ)隼人(ノ)門籍、門※[片+旁](ノ)事(ヲ)1と見え、佐一人、大尉二人、少尉二人、大少志各二人等がある。○大伴稻公 既出(一二〇九頁)。○迹見庄 既出(一三三二頁)。
 
射目立而《いめたてて》 跡見乃岳邊之《とみのをかべの》 瞿麥花《なでしこのはな》 聰手折《ふさたをり》 吾者持〔左○〕將去《われはもていなむ》 寧樂人之爲《ならびとのため》     1549
 
〔釋〕 これは旋頭歌。○いめたてゝ 射部《イベ》を立てゝ鳥獣の跡《ト》を見る意を、「とみ」に係けた枕詞。「いめたてわたし」及び「とみすゑおきて」を見よ(一六三八頁)。古義訓イメタチテ〔五字傍線〕は誤。○とみのをか 跡見庄の岡。○ふさたをり ふさに〔右○〕手折り。「ふさ」は總の義。ふすさに〔四字傍点〕又ふさに〔三字傍点〕ともいひ、フサ/\ト、フサヤカニなどの意の副詞。○もていなむ 「持」の字、原本にない。「將去」とのみでもさう訓まれるが、上に持〔右○〕の字を補へば愈よ確かである。
【歌意】 迹見の岡邊の美しい瞿麥の花、これを澤山に手折つて、私は持つて往かうぞ、奈良の京人の爲の土産にさ〔五字右○〕。
 
〔評〕 鹿人は稻公の迹見の別莊に遊びに往つた。岡は秋は萩が咲き鹿が鳴く面白い處である。今は岡邊の撫子にその目を惹かれ、澤山に手折つて故郷人の贈遺にしようといふは、美しい情味だ。又それ程に岡邊の撫子は盛に美しかつた。但「奈良人の爲」とぼかしてはゐるが、鹿人には暗に斥す人があるのかも知れない。(2344)この迹見庄は稻公が早く卒去したので、姉の坂上郎女が傳承したらしい。卷四に郎女が此處に居て、娘坂上大孃に贈つた歌が出てゐる。
 
湯原(ノ)王(ノ)鳴鹿《シカノ》歌一首
 
○湯原王 傳既出(八六二頁)。
 
秋萩之《あきはぎの》 落乃亂爾《ちりのみだりに》 呼立而《よびたてて》 鳴奈流鹿之《なくなるしかの》 音遙者《こゑのはろけさ》     1550
 
〔釋〕 ○ちりのみだりに 既出(四〇一頁)。舊訓はチリノマガヒニ〔七字傍線〕。○こゑの 神本訓はオトノ〔三字傍線〕。
【歌意】 秋萩の散り亂れる折節に、その雌を〔七字右○〕呼び立てゝ、鳴くことである鹿の音の、遙かであることよ。
 
〔評〕 萩の花の亂れ散るは仲秋以後の景致、鹿もその頃盛に妻戀して鳴く。乃ち湊合して、萩の花の亂れ散るを鹿の音の前景に使ひ、「聲のはろけさ」と、その縹渺たる哀音に秋思の動く趣を歌つた。上句巧意を覘つて少しぼやけたせゐもあらうが、諸註、萩の花の散るに紛れて見えぬ雌鹿を呼び立てるやうに解し、中には字句の脱落にまで言及したのは、いみじき誤である。
 
市原(ノ)王(ノ)歌一首
 
(2345)待時而《ときまちて》 落鐘禮能《ふれるしぐれの》 雨令〔左△〕零收《あめやみぬ》 朝香山之《あさかのやまの》 將黄變《うつろひぬらむ》     1551
 
〔釋〕 ○ときまちて その季節を待つて。○しぐれ 既出(九四六頁)。「鐘禮」をシグレと訓む。鐘をシゲに充てた。鐘は二冬の韻で、shong(シヨング)を中略すればシグとなる。卷十二に鍾禮を充てたも同韻の同例。○ふれる 舊訓オツル〔三字傍線〕。○あめやみぬ 令〔右△〕を衍字として訓んだ。或はハレヌと訓むもよい。眞淵は「雨令」を零〔右△〕、「收」を低〔右△〕の誤としてフリフリテ〔五字傍線〕と訓み、その他の諸説も改竄が甚しい。○あさかのやまの 類本神本西本細本温本等に「朝」の上に開〔右○〕の字あり、これによる契沖訓ケサカグヤマノ〔七字傍線〕は面白いと思ふが、姑く本文のまゝに從つた。○あさかのやま 攝津國住吉郡(今は和泉國泉北部)に淺香山と稱する小さな丘陵がある。又陸奥國(今岩代)安積郡に安積山がある。何れか。○うつろひぬらむ この「うつろひ」は色付くの意。衰殘の意ではない。
【歌意】 時季を待つて降つた、時雨の雨が止んだわい。定めし〔三字右○〕朝香の山が、色付いたらうよ。
 
〔評〕 「移ろひぬらむ」と想像することに、往つても見たいの希望が包藏されてゐる。 
湯原(ノ)王(ノ)蟋蟀《コホロギノ》歌一首
 
○蟋蟀 コホロギ。今の名稱と同じい。直翅類中蟋蟀科の昆蟲。全體黒褐色にして、尾端に二箇の刺あり。陰(2346)濕を好み土石の間などに潜む。大小二種あり。秋に入つて鳴く。その音肩刺セ裾刺セの如く聞える。平安京以後、古今集(秋)に「つゞりさせてふキリ/”\ス鳴く」とあるによつて、蟋蟀をキリ/”\スとするは誤。
 
暮月夜《ゆふづくよ》 心毛思努爾《こころもしぬに》 白露乃《しらつゆの》 置此庭爾《おくこのにはに》 蟋蟀鳴毛《こほろぎなくも》     1552
 
〔釋〕 ○ゆふづくよ (1)夕月夜、(2)夕熟夜の兩説あるが、なほ夕月の晩の意として、(1)に從つた。○しぬに 既出(六八八頁)。
【歌意】 夕月の頃、氣も滅入《メイ》る程〔右○〕に、白露のおくこの庭で、蟋蟀の鳴くことはまあ。
 
〔評〕 夕月ながら秋の光はさやかだ。夜氣は早くも催して、露は庭草の葉末に、その凄其の影を宿してゐる。秋のあはれさはこれだけでもう十分だ。この道具を背景として蟋蟀が切々と鳴く。まこと愁人ならぬ湯原王も斷腸せられざるを得まい。句法に曲折があり、情景相兼ねた幽玄の作で、
  秋風のさむく吹くなべわが宿の淺茅がもとに蟋蟀鳴くも(卷十――2158)
と對照するに、これは一層字々句々※[糸+眞]密に分寸の弛みもない、實にあざやかな手際で、巧に磨き出された美玉(2347)の觀がある。
 
衛門(ノ)大尉大伴(ノ)宿禰|稻公《イナキミガ》歌一首
 
鐘禮能雨《しぐれのあめ》 無間零者《まなくしふれば》 三笠山《みかさやま》 木末歴《こぬれあまねく》 色附爾家里《いろづきにけり》     1553
 
〔釋〕 ○こぬれ 既出(六八九頁)。舊訓コズヱ〔三字傍線〕。○あまねく 「歴」を意によつて訓んだ。
【歌意】 時雨の雨が、間なしにさ降るので、三笠山は〔右○〕、梢が殘らず、色付いたことわい。
 
〔評〕 平滑のうちに自然味を藏する。よく見ると、漸く平安期の相貌が髣髴する。後撰集冬部に、
  はつ時雨降るほどもなく佐保山の木末あまねく色づきにけり(――讀人しらず)
とあるは、或はこの歌の轉訛か。
  なが月のしぐれの雨に沾れとほり春日の山は色づきにけり(卷十――2180)
  しぐれの雨間なくし降れば眞木の葉も爭ひかねて色づきにけり(卷十――2196)
などはこの等類である。眞木の葉は尤も印象が深い。
 
大伴(ノ)家持(ガ)和(フル)歌一首
 
(2348)皇之《をほきみの》 御笠乃山能《みかさのやまの》 黄葉者〔左○〕《もみぢばは》 今日之鐘禮爾《けふのしぐれに》 散香過奈牟《ちりかすぎなむ》     1554
 
〔釋〕 ○おほきみの 御笠の枕詞。既出(一九〇一頁)。○もみぢばは 「者」原本にない。尤もなくてもかう訓むより外はない。
【歌意】 貴方は、三笠山の梢が遍く色付いたと仰つしやるが、いや/\〔貴方〜右○〕、この今日の時雨に、散り衰へてしまふことか、と私は心配します〔八字右○〕。
 
〔評〕 おなじ時雨でも懸歌は色付くといひ、返歌は散り過ぐといふ。そこは作者の感じ次第、取成し次第である。これが叔姪の贈答だと思ふと、その親昵の情味が伴奏の役目をつとめる。
 
安貴《アキノ》王(ノ)歌一首
 
○安貴王 既出(七四七頁)。
 
秋立而《あきたちて》 幾日毛不有者《いくかもあらねば》 此宿流《このねぬる》 朝開之風者《あさけのかぜは》 手本寒母《たもとさむしも》     1555
 
〔釋〕 ○いくかもあらねば 幾日もあらぬにの意。○このねぬる 「ねぬる」は寢てゐるの意。「この」は四句の「あさけ」に係る。
(2349)【歌意】 秋が立つてまだ幾日もないのに、寢てゐるこの朝明の風は、袂がうそ寒いことはまあ。
 
〔評〕 三句の「この寢ぬる」は從來餘り輕く見られ過ぎた。「秋來ぬと合點させたる嚔かな」(蕪村)の類想とすれば、この句がなくても意は徹るので、「朝開《アサケ》」の序詞ぐらゐに見た説もある。處がどうして大いに重要な役目を擔任してゐる句で、作者の擧動がそこに表現されてゐる。夜床にまだ寢たまゝ、明方の風の冷えを、強く衣袂に感じ、早くも秋凉の侵すに驚いた趣だ。「幾日もあらねば」は單に字餘りであるばかりでなく、その詞意の複雜性と聲響の力強さとによつて、下句との均衡が旨く保たれる。又「寒しも」は凉しい感じを強調した語で、而も誇張の感を抱かせない。實況實詩。
 
忌部首《イミベノオヒト》黒麻呂(ガ)歌一首
 
○忌部首黒麻呂 忌部は氏。續紀に、孝謙天皇寶字二年八月に、正六位上より外從五位下、淳仁天皇寶字三年十二月に、同族七十四人と共に連姓を賜はり、同六月正月内史(ノ)局(ノ)助となるとある。
 
秋田苅《あきたかる》 借廬毛未《かりほもいまだ》 壞〔左△〕者《こぼたねば》 鴈鳴寒《かりがねさむし》 霜毛置奴我二《しももおきぬがに》     1556
 
〔釋〕 ○かりほ 假廬《カリイホ》の略。○こぼたねば 壞たぬにの意。「壞」原本に壤〔右△〕とあるは誤。○おきぬがに 置くがやうに。「けぬがに」を見よ(一二一六頁)。
(2350)【歌意】 秋の田を刈る爲の假廬も、まだ取りこはさぬのに、雁の鳴く音が寒く聞えるわ、而も霜も置くほどにさ。
 
〔評〕 暮秋に近い田舍の情景である。古へは農事に愈よ取懸る頃から、田畝の間に掘立の假小屋を作り、農人はそこにゐて或は鳥獣の來襲を警め、或は農事に使用した。收穫が濟めば取毀してしまふ。「いまだ壞たねば」はまだ農事の終らぬをいつた。然るに風霜の氣は既に侵して「雁が音寒し」である。すべて季節上の矛盾の景趣を撮合して、そこに驚歎の感慨を寓せる手法は、詞人の弄する常套手段で、上の安貴王の作とても同型である。只感じの喰ひ入り方の淺深に依つて、歌の優劣が生ずるのみ。
 「秋田かるかり〔四字傍点〕ほ」は疊音の語調をもつ。それが有意か無意かは、作者の外に知るべくもない。
 
故郷《フルサトノ》豐浦《トヨラノ》寺之尼(ガ)私房《イヘニテ》宴《ウタゲスル》歌二首
 
故き京の豐浦寺の尼の家で、宴會した歌との意。○故郷 推古天皇は一時この豐浦(ノ)宮にまし/\、後|小墾田《ヲハリダノ》宮に遷り給うたので、豐浦は故郷となつた。「故郷」を見よ(六九〇・一二四九頁)。○豐浦寺 大和高市郡豐浦村。豐浦の岡の北面にあり、もと向原《ムコハラノ》寺といひ、後にその音に充てゝ廣嚴寺と稱した。欽明天皇の十三年十月、百濟から佛像經論を獻つた時、群臣の抗議に依つて、佛像を大臣蘇我(ノ)稻目に賜ひ、稻目はその向原の家を喜捨して寺とした。然るに國内に疫病の流行を見たので、國つ神の怒と解して、寺を燒き拂ひ、佛像を難波(ノ)堀江に投じた。その後再興されたものと見え、天武天皇の御時には、飛鳥寺、川原寺などに並んで、五大寺の一つに數へられた。こゝに「豐浦寺之尼」とあるので、諸家、豐浦寺を尼寺であると解したのは速斷で、この寺は平安(2351)時代までも僧寺であつた。續紀及び催馬樂に「葛城の寺の前なるや、豐浦の寺の西なるや、榎の葉井に白玉しづくや、眞白玉しづくや。をしとんど/\」と謠はれた寺である。なほ次項を見よ。○尼私房 本寺附屬の建物で、尼の住む坊をいふ。この時代には既に僧寺尼寺の別は立てられながら、又僧寺の坊中に尼を置くこともあつた。天武天皇紀に、八年夏四月乙卯、橘寺尼房失v火、以焚2十房1と見えた。僧侶でも生活上婦人の手を俟つ事が多いから、將來比丘尼たるべき婦人を沙彌尼として寺中の坊に住ませ、勞役に從事させたものだ。下の左註の「沙彌尼」を參照。「私房」は本寺附屬の建物で、尼の住む坊を稱した。
 
(2352)明日香河《あすかがは》 逝囘岳之《ゆきたむをかの》 秋芽子者《あきはぎは》 今日零雨爾《けふふるあめに》 落香過奈牟《ちりかすぎなむ》     1557
 
〔釋〕 〇ゆきたむをか 川の逝きめぐれる岡の意。「こぎたむ」を參照(一六六七頁)。宣長訓による。舊訓ユキヽノヲカ〔六字傍線〕。
【歌意】 飛鳥川が行きめぐる、岡の秋萩は、今日降るこの雨に、散り衰へてしまふであらうか。
 
〔評〕 飛鳥川は豐浦の岡の東崖下を過ぎて西折し、雷の丘の南麓を流れて行く。その東崖は榛莽地で、秋は萩の花盛りだ。作者は多分奈良京からの遠遊であらうが、生憎の雨天に、尼の私房を※[人偏+就]りて一酌を催したものゝ、この雨に遭つてはと、ひたすら萩の花の摧殘を惜んだ。
 
右、一首、丹比眞人國人《タヂヒノマヒトクニヒト》。
 
○丹比眞人國人 丹比は氏、眞人は姓、國人はその名。續紀に、天平八年正月正六位上から從五位下、同十年閏七月民部少輔とある。丹比氏の名族たることは、丹比(ノ)縣守の傳を參照(一一七〇頁)。
 
鶉鳴《うづらなく》 古郷之《ふりにしさとの》 秋芽子乎《あきはぎを》 思人共《おもふひとどち》 相見都流可聞《あひみつるかも》     1558
 
(2353)〔釋〕 ○うづらなく 既出(一三七八頁)。○ふりにしさと こゝは豐浦寺の地をさす。
【歌意】 鶉の鳴く、それ程荒廢した古京の萩の花を、思ふ人同士、一緒に賞翫したことよ。
 
〔評〕 飛鳥地方は帝都の地では既になく、故京中の故京豐浦の岡は、寺地の外は、秋は鶉が鳴き萩の咲く、實に荒涼たるものであつたらう。何等の悟道もなく善智識でもない沙彌尼共は、常にその寂寞感に禁へ得なかつたに違ひない。偶ま珍客國人の來訪に接し、萩の花見の道案内、不躾ながら「思ふ人どちあひ見つる」と、その歡喜の聲を擧げた。
 
秋芽子者《あきはぎは》 盛過乎《さかりすぐるを》 徒爾《いたづらに》 頭刺不挿〔左△〕《かざしにささず》 還去牟跡哉《かへりなむとや》     1559
 
〔釋〕 ○かざし 既出(一五四頁)。○ささず 「挿」原本に搖〔右△〕とあるは誤。
【歌意】 萩の花は、もう盛りが過ぎるのを、いたづらに貴方は〔三字右○〕、挿頭にも刺さずに〔右○〕、お歸りになつてしまふといふことかえ。
 
(2354)〔評〕 初二句は國人の「けふ降る雨に散りか過ぎなむ」の語を承けた。「挿頭にささず」はゆるりと賞翫せずにの婉語だ。興に乘じて草木の花葉を挿頭すことは古代の慣習だからである。而も國人の周章しく歸る理由は、ゆくりなく雨が降り出したからであるが、そんな現實の問題には全く目を塞いで、國人の態度を偏に殺風景な振舞であるかのやうに詰め寄つた。この取成しは當意即妙で面白い。
 
右二首(ハ)、沙彌尼等《サミニドモ》。
 
○沙彌尼 七衆の一。沙彌を勤息男といふ對して、勤息女と譯す。始めて十戒を受け、未だ俗にある女をいふ。後具足戒を受けて比丘尼となる。戒は受けても俗體の女だから、その私房で酒宴も出來、その給仕をもしたもので、もしそれが本寺本坊であり、本當の僧尼であつたら、絶對に許される筈のものではない。新考に「比丘尼が男子を引きて私房にて宴せしめ、云々」と、その墮落を憤慨したのは失考である。
 
大伴(ノ)坂(ノ)上(ノ)郎女(ガ)跡見田庄《トミノタドコロニテ》作歌
○跡見田庄 既出(一三三二頁)。
 
妹目乎《いもがめを》 跡〔左△〕見之埼有〔左△〕《とみのさきなる》 秋芽子者《あきはぎは》 此月〔左△〕其呂波《このつきごろは》 落許須莫湯目《ちりこすなゆめ》     1560
 
〔釋〕 〇いもがめを 妹が目を疾|見《ミ》といふをいけかけた跡見《トミ》の枕詞。疾見《トミ》は疾く見むの意。新考は一寸見むの意(2355)とした。○とみのさきなる 「跡」原本に始とあるは誤。「有」原本に乃〔右△〕とあり、サキノ〔三字傍線〕と訓まれる。第二句の定音數を缺く例は少ないから、改字の上ナルと訓んだ。○とみのさき この「さき」は岡山の根の出崎をいつた。○つきごろ 「月」原本に目〔右△〕とある誤。○ちりこすな 「聞きこすな」を見よ(一二八〇頁)。
【歌意】 跡見の岡崎にある萩の花は、この月頃かけては、散つてくれるなよ、きつと。
 
〔評〕 郎女は跡見の別莊に、月を亘つて滯在の豫定と見えた。故に岡崎の萩の花にも、月頃はゆめ散るなと、氣長に愛賞すべく希望した。これを誤解して、「この月頃」を古義や新考には、この月ばかりの意とした。
 
吉〔左○〕名張乃《よなばりの》 猪養山爾《ゐかひのやまに》 伏鹿之《ふすしかの》 嬬呼音乎《つまよぶこゑを》 聞之登聞思佐《きくがともしさ》     1561
 
〔釋〕 ○よなばり 既出(五五五頁)。「吉」原本に古〔右○〕とあるは誤。○ゐかひのやま 「ゐかひの岡」を見よ(五五五頁)。○ともし 既出(七二四頁)。
【歌意】 猪養の山に、隱れ〔二字右○〕伏す鹿が、妻呼び立てゝ鳴く聲を聞くの〔右○〕が、飽かず面白いことよ。
 
〔評〕 跡見の崎、吉隱、猪養の岡、皆郎女の別莊附近の地名だ。雄大なる跡見(鳥見)山麓、猪養の岡の榛莽の奥から、妻戀する鹿の※[口+幼]々たる哀音が、秋風に和して峽谷に瀰漫する。郎女はこの時の感想を只「ともしさ」の一言で表現したが、少し物足らない。新考に「跡見の田庄に居ながら猪養の鹿の聲を聞きしにはあらで」とあ(2356)るは、跡見の田庄の所在の誤認から來た彌縫説である。
 
巫部麻蘇娘子《カムコベノマソヲトメガ》鴈(ノ)歌一首
 
○巫部麻蘇娘子 既出(一三一八頁)。
 
誰聞都《たれききつ》 從此間鳴渡《こゆなきわたる》 鴈鳴乃《かりがねの》 嬬呼音乃《つまよぶこゑの》 乏蜘在可〔四字左△〕《ともしくもあるか》     1562
 
〔釋〕 ○たれききつ 誰れが聞いたらうの意。下にらむ〔二字右○〕の意を含む。古義は伊勢物語(塗籠本)の「いづこまで送りはしつと人問はば飽かぬ別の涙川まで」を例證に引いて、この格を詳説し、眞淵の「都」を跡〔右△〕の誤として、タレキケト〔五字傍線〕と訓んだのを破してゐる。○ともしくもあるか 原本の「之知左寸」は解し難い。宣長は乏蜘在可〔四字右△〕の誤としてかく訓んだ。古義は乏左右爾〔四字左△〕《トモシキマデニ》の誤としたが少し迂遠。
【歌意】 誰れが聞いたらう。私の處を鳴いてゆく雁の、頻に〔二字右○〕妻呼ぶ聲が、珍しくもあることよ。
 
〔評〕 群飛する雁の鳴くのは妻戀に鳴くともいへまい。それに「こゆ鳴き渡る」とある趣で見ると、これは軒近に鳴き過ぎた孤雁である。愛人家持の疎濶を怨んで、※[糸+卷]戀の情に囚はれてゐた折柄とて、その孤雁も自分とおなじ境遇、おなじ情思のもとに鳴くものゝ如く想斷した。そして「誰れ聞きつ」、多分は貴方もお聞きでせうねと、その無情さを諷刺したもので、曲折の妙がある。初句の獨立は七五調の傾向の強烈になつた結果で、この頃の新體に屬する。
 
(2357)大伴(ノ)家持(ガ)和(フル)歌一首
 
聞津哉登《ききつやと》 妹之問勢流《いもがとはせる》 鴈鳴者《かりがねは》 眞毛遠《まこともとほく》 雲隱奈利《くもがくるなり》     1563
 
〔釋〕 ○ききつや 聞きつや否や〔二字右○〕と。○とはせる 問ふ〔二字傍点〕の敬相。
【歌意】 聞いたかと、貴女がお尋の雁が音は、こちらではほんにまあ遠く、雲隱れて聞え〔二字右○〕ましたわい。
 
〔評〕 麻蘇娘子の「こゆ鳴き渡る」に對して、「まことも遠く雲隱る」で、仰の通り永い不沙汰になりましたと、陳謝の意を寓せた。
 
日置長枝娘子《ヘキノナガエヲトメガ》歌一首
 
○日置長枝娘子 傳未詳。日置は氏。記の應神天皇の條に「大山守(ノ)命者、土形(ノ)君、弊伎《ヘキノ》君、榛原(ノ)君等之|祖《オヤ》也」とあるから、ヘキと訓む。和名抄の地名にはヒオキ又ヒキと訓んである。
 
秋付者《あきづけば》 尾花我上爾《をばながうへに》 置露乃《おくつゆの》 應消毛吾者《けぬべくもわは》 所念香聞《おもほゆるかも》     1564
 
〔釋〕 ○あきづけば 「あきづく」は秋の景氣に成るをいふ。つく〔二字傍点〕は朝|附日《ヅクヒ》、夕|熟日《ヅクヒ》のつく〔二字傍点〕と同意。○おくつゆ(2358)の おく露の如く〔二字右○〕。以上三句は「消ぬ」に係る序詞。
【歌意】 秋めいてくると、尾花の上におく露の、はかなく消えるやうに〔はか〜右○〕、消え入りさうにまあ、私は思はれることかまあ。
 
〔評〕 當季の景物を序詞に使つた。その繊細幽婉な情景と流麗な調子とが、「消ぬべく思ほゆる」まで、傷心の天地に彷徨してゐる戀愛情緒に渾然融合して、いかにも物優しく女らしい作者その人の風貌を想見する。四句の促調、突如平地に波を起してゐる。
 
大伴(ノ)家持(ガ)歌一首
 
○家持歌 原本に「家持和歌」とあるは和〔右△〕の字は衍。新考に和は秋〔右△〕の誤かとある。
 
吾屋戸乃《わがやどの》 一村芽子乎《ひとむらはぎを》 念兒爾《おもふこに》 不令見殆《みせずほとほと》 令散都類香聞《ちらしつるかも》     1565
 
〔釋〕 ○ひとむら 「村」は叢の借字。○みせず 略解訓による。舊訓ミセデ〔三字傍線〕。○ほとほと こゝは普通の用例。
【歌意】 私の庭の一叢の萩の花を、思ふ人に見せずに、殆ど散らしたことわい。
 
〔評〕 格別に思ふ兒の賞翫を經れば、萩の花も一段の光彩を増す筈だが、それが「見せず」に殆ど摧殘となつて(2359)は萬事休すだ。「散らしつる」の使相の表現は散る〔二字傍点〕を強諷して、遺憾の意を深刻たらしめる手段である。かくして萩の花の散るまでも來訪せぬ、思ふ兒の無情を間接に映出した。まことに怨意縹渺たるもの。
 
大伴(ノ)家持(ガ)秋(ノ)歌四首
 
久堅之《ひさかたの》 雨間毛不置《あままもおかず》 雲隱《くもがくり》 鳴曾去奈流《なきぞゆくなる》 早田鴈之哭《わさたかりがね》     1566
 
〔釋〕 ○あままもおかず 前出(二二八三頁)。○わさたかりがね 早稻田を刈る〔二字傍点〕を雁《カリ》にいひ懸けた。「わさ」は早稻《ワセ》の轉語だから、ワサタは早稻〔右○〕田と書くべきを「早田」と書いたのは、この時代既に稻に限らず季節に早い物を汎くワサといつたからで、卷十に早芳子《ワサハギ》の語がある。「わせ」は早く成熟する稻の稱。中稻《ナカテ》晩稻《オクテ》に對していふ。大抵初秋の頃に收穫を終へる。
【歌意】 雨の降る間も止めず、雲隱れしつゝ鳴いてさ往くことわ。丁度〔二字右○〕早稻田を刈る、その刈るといふ名の雁がさ。
 
〔釋〕 農人は、稻の苅りしほを外すまいと、雨を冒しても小田に立つ。この主觀の上に成つた序詞で、少しくどいが、巧緻喜ぶべきものがある。「早稻田かりがね」の造語は初見で、「戀忘れ貝」(卷六・卷七・卷十五)の類型である。「早稻田刈り」を句中の枕詞とする説もあるが、これはもつと有意味のもので、當季の節物を湊合した準序詞ともいふべきものだ。
(2360) 要するに老手の作で、少年家持の所爲とはとても思はれない。
 
雲隱《くもがくり》 鳴奈流鴈乃《なくなるかりの》 去而將居《ゆきてゐむ》 秋田之穗立《あきたのほだち》 繁之所念《しげくしおもほゆ》     1567
 
〔釋〕 ○ほだち 稻の穗の立つのをいふ。初句より四句までは「しげく」に係る序詞。
【歌意】 雲隱れして鳴いてゐる雁が、往つて棲むであらうところの〔四字右○〕、秋の田の穗立は繁きものだが、その如く〔四字右○〕繁くさ、人が〔二字右○〕戀ひ思はれるわ。
 
〔評〕 雁の鳴く音によつて田家の秋の闌なる光景を想像し、その穗立の繁さから聯想して、おのれの繁き秋思を寓せた。雁の行方を何時までも見送つて、物思に耽つてゐる作者の態度が、如實に現れてゐる。
 全四句を序詞として、結一句にその主意を置いたこの體は、集中でも少い。
 
雨隱《あまごもり》 情欝悒《こころいぶせみ》 出見者《いでてみれば》 春日山者《かすがのやまは》 色付二家利《いろづきにけり》     1568
 
〔釋〕 ○いぶせみ 「いぶせし」を見よ(一三七四頁)。
【歌意】 雨に閉ぢ籠つて、氣が塞ぐので、外に〔二字右○〕出て見ると、春日の山は、早くも〔三字右○〕赤くなつたわい。
 
(2361)雨晴而《あめはれて》 清照有《きよくてりたる》 此月夜《このつくよ》 夜〔左△〕更而《よくだちにして》 雲勿田菜引《くもなたなびき》     1569
 
〔釋〕 〇よくだちにして 「よはくだちつゝ」を見よ(一七三六頁)。「夜更」の更を深《フ》くる意に取つて、クダチと訓む。「夜」原本に又〔右△〕とあり、舊訓はマタサラニシテ〔七字傍線〕である。今は古義説によつて改めた。○たなびき 「田菜引」は戲書。
【歌意】 雨が晴れて、さやかに照つたこの月夜、夜更けになつて、雲が出てくれるなよ。
 
〔評〕 上句は現前の光景、下句はそれから生まれた感動で、夜降ちにして尚月に叢雲の妨を恐る。即ち終夜その清光を愛でようの意で、興會想ふべしである。豪快の氣味、放膽の句法、この作者の他作に類しない。
 この四首は聯作體で、雨中から遂に雨上りの月明に及んだ。
 
右四首、天平八年(ノ)丙子《ヒノエネノ》秋(ノ)九月作(メリ)。
 
家持が十七八歳頃の作だらう。(公卿補任に寶龜十一年に五十二歳とあるは誤)
 
藤原(ノ)朝臣|八束《ヤツカガ》歌二首
 
(2362)〇藤原八束 既出(九〇四頁)。
 
此間在而《ここにありて》 春日也何處《かすがやいづく》 雨障《あまざはり》 出而不行者《いでてゆかねば》 戀乍曾乎流《こひつつぞをる》     1570
 
〔釋〕 ○ここにありて 「ここにして」を見よ(七一九頁)。○かすが 大和添下郡春日郷、山あり野あり里がある。各項を見よ。○いづく 既出(七一九頁)。○あまざはり 既出(一一一七頁)。古義訓アマヅツミ〔五字傍線〕は非。△地圖 296(一〇二九頁)を參照。
【歌意】 此處に居つて見れば、あの懷かしい〔九字右○〕春日は何處だかなあ〔四字右○〕、雨に遠慮して、出て行かぬので、徒らに貴女を〔六字右○〕戀ひ/\してさ、をるわい。
 
〔評〕 初二句は遠方を想望する詞態である。
  こゝにして家やもいづく白雲のたなびく山を越えて來にけり(卷三、石上卿――287)
  こゝにありて筑紫やいづく白雲のたなびく山の方にしあるらし(卷四、大伴卿――574)
の先出二首の如きは、最もよく置き得てある。
 この歌の「こゝ」は何處か。歌の趣によれば晴天なら「出でて行か」れる距離の場處である。さては春日から程遠からぬ久邇京であらう。久邇京當時、奈良への往復を主題にした作が、集中に澤山見える。久邇京とすると間近過ぎて、初二句が稍浮泛のやうだが、これは雨日の感想だから差支ない。
(2363) 作者は奈良の春日にその愛人を置いた。然し當時の法令は、然るべき官吏に新京久邇の移住を強ひた。で作者も久邇に居て奈良へ通はねばならなかつた。近いといつても一里半強、雨天の往訪は一寸難儀なので、心ならずも雨障りとなる。空しく雲烟去來のうちに春日の方を瞻望して、その愛人を「戀ひつつぞをる」より仕方がなかつた。この歌は八束の廿七八歳頃の作か。
 なほ卷四、「雨ざはり常する君は」の評語を參照(一一一七頁)。
 
春日野爾《かすがぬに》 鐘禮零所見《しぐれふるみゆ》 明日從者《あすよりは》 黄葉頭刺牟《もみぢかざさむ》 高圓乃山《たかまとのやま》     1571
 
【歌意】 春日野に時雨の降るのが見える、明日からは紅葉を髪挿して遊ばうぞ、高圓の山で。
 
〔評〕 委しくいへば春日野と高圓の野とは別だが、打任せては春日野は兩山麓に廣被した名稱である。今は春日高圓の山影は模糊として、その裾野に時雨のかゝるのが見えたので、いざ高圓山に紅葉見をしようと、明日の日和を樂んだ。高雅な貴紳を見るやうな作品である。紅葉髪挿すは例の古代人の遊樂的行爲だ。
 新考に下句を高圓山が紅葉かざさむの意に釋した。面白い見方で、既に卷一、人麻呂の長歌に、
  山つみの奉《マツ》る御調と、春部は花かざしもち、秋立てばもみぢかざせり(――38)
とある。然しそれは山を神格視して、「山つみの奉る御調と」の句を前提においての聯想で、打任せては山が花を挿頭すの、紅葉を挿頭すのといへば突飛である。
 
(2364)大伴(ノ)家持(ガ)白露(ノ)歌一首
 
吾屋戸乃《わがやどの》 草花上之《をばながうへの》 白露乎《しらつゆを》 不令消而玉爾《けたずてたまに》 貫物爾毛我《ぬくものにもが》     1572
 
〔釋〕 〇をばな 尾花を「草花」と書く例は、卷十、卷十六にも見えた。古義にいふ、草を集中にカヤ〔二字傍点〕と訓む、カヤは薄にて、薄の花は尾花なれば、草花と書きてヲバナと讀まするなりと。
【歌意】 自分の宿の、尾花のうへにおく白露を、そのまゝに〔五字右○〕消さずに、玉として通すものでまあ、ありたいな。
 
〔評〕 尾花の露は一再ならず歌はれて、秋の風情の象徴の如く見られた。その露は手に取れば忽ち消えることを承知しながら、尚玉に貫きたいの痴想を描いてゐる。さ程に露は美しい玉であることが反映されて面白い。「玉に貫く」は極めで套語だが。
 
大伴(ノ)利〔左△〕上《トカミガ》歌一首
 
○大伴利上 契沖はいふ、「利」は村〔右△〕の誤なるべしと。但必ず誤と斷定は出來ない。古代に似寄の人名は幾らもある。「村上」の傳は前出(二二三〇頁)。
 
秋之雨爾《あきのあめに》 所沾乍居者《ぬれつつをれば》 雖賤《いやしけど》 吾妹之屋戸志《わぎもがやどし》 所念香聞《おもほゆるかも》     1573
 
(2365)〔釋〕 ○いやしけど この「いやし」は卑陋の意。「遠けども」を參照(九〇二頁)。
【歌意】 秋の雨に濡れ/\してゐると、餘り辛氣なので、むさくるしくても、吾が妻のゐる宿がさ、戀しく〔三字右○〕思はれることかまあ。
 
〔評〕 旅中などの作か。假令それが花時錦帳のもとであつても、矢張わが家の好きに及かない。ましてや秋雨蕭蕭としてその破窓を打つ時、愈よこの感は深からう。一抑一揚、實情が率直に出てゐる。「賤しけど」は一片の理路をもつが、この歌に取つての眼目である。
 
右大臣橘(ノ)家(ニテ)宴(スル)歌七首
 
○右大臣 既出(一七九八頁)。○橘家 橘諸兄の家。既出(一七九八頁)。諸兄の傳は「葛城(ノ)王」を見よ(一七七〇頁)。
 
雲上爾《くものうへに》 鳴奈流鴈之《なくなるかりの》 雖遠《とほけども》 君將相跡《きみにあはむと》 手囘來津《たもとほりきつ》     1574
 
〔釋〕 ○くものうへになくなるかりの 「遠けども」に係る序詞。○とほけども 既出(九〇二頁)。舊訓トホケレド〔五字傍線〕。○たもとほり 既出(一六五五頁)。「手」は借字。
【歌意】 雲のあたりに鳴いてゐる雁の遠いやうに、お宅は〔三字右○〕遠いけれど、貴方樣に逢はうとばかり、道を〔五字右○〕廻り囘は(2366)つて來ましたわい。
 
〔評〕 丁度時が八月下旬なので、秋の景物を序詞に用ゐた。「遠けども」はどの程度なのか。橘家の本邸が奈良山に在つた事は下にも見え、又その子が奈良麻呂と名づけられたのでも思ひ合はせられるが、この序の詞態といひ、次ぎ/\の歌の趣といひ、この橘家は必ず山城相樂郡の諸兄公の井手の別墅であらねばならぬ。すると、奈良の京から北へ二里有餘の距離があるから、宴會のお客になるには實に遠い。その遠路而も熟路でない田舍道を、くね/\と探し廻つて來たのだから、全く「たもとほり來つ」である。その萬千の勞苦も只君に逢ひたい一心でと、おのれの誠意を誇張氣味に披瀝した。
  春がすみ井のへゆたゞに道はあれど君に逢はむとたもとほりくも(卷七――1256)
  女郎花咲きたる野べをゆきめぐり君を思ひ出たもとほり來ぬ(卷十七、池主――3944)
(2367)下句が相似てゐる。
 
雪上爾《くものうへに》 鳴都流鴈乃《なきつるかりの》 寒苗《さむきなべ》 芽子乃下葉者《はぎのしたばは》 黄變可毛《うつろへるかも》     1575
 
〔釋〕 ○なべ 「よろしなべ」を見よ(七一七頁)。○うつろへるかも 「黄變」はさま/”\に訓まれる。契沖一訓にモミヂツルカモ〔七字傍線〕とある。
【歌意】 雲のあたりに鳴いた、雁の聲の寒いにつれて、萩の本の方の葉は、色が變つたことかまあ。
 
〔評〕 宴會當日の寫景、「寒き」を寫眼として、悲秋風露の氣がそこに動く。をなじ雁聲を上の歌は序に用ゐ、これは實景に扱つた。
 
右二首、
 
この下、官名と姓名とが脱ちた。次に長門(ノ)守巨曾倍(ノ)朝臣津島の作が置かれてあるから、津島より稍上位の官吏の作であらう。
 
(2368)此岳爾《このをかに》 小牡鹿履起《をじかふみおこし》 宇加※[泥/土]良比《うかねらひ》 可聞〔左△〕可聞爲良久《かもかもすらく》 君故爾許曾《きみゆゑにこそ》     1576
 
〔釋〕 ○をじかふみおこし 物陰に潜んでゐる鹿を踏み立てゝ驚かすをいふ。卷三、卷六に「朝獵にしし踏みおこし」とある。○うかねらひ 窺《ウカヾ》ひ覘《ネラ》ひの意。「うか」はウカヾヒの略。○かもかもすらく あゝもかうもする。下にことも〔三字右○〕の語を補つて聞く格。「らく」はる〔傍点〕の延言。「可聞可聞」の下の聞、原本に開〔右△〕とある。契沖、魚彦等の説によつて改めた。○きみゆゑにこそ の下、あれ〔二字右○〕の語を略した。△圖畫 挿圖11(三六頁)を參照。
【歌意】 この岡に鹿を踏み立てゝ、射留める爲に〔六字右○〕窺ひ覘ひ、何のかのすることも、外ならぬ〔七字右○〕貴方樣故でさ、ありますわい〔六字右○〕。
 
〔評〕 橘家の井手の邸は岡野の取付にあり、それから東の山手までよい狩場で、そこに鹿獵を催したと見える。お客さん達も一緒になつて、「うかねらひ」した。もと/\宴會の餘興で、來客※[疑の左+欠]待の目的であるのは明らかだが、作者はこれを飜轉して、こんな辛苦を盡すのも、皆貴方樣への奉公だと、主人右大臣殿へ追從した。巧語言と謂ふべしだ。
 略解、古義などに上句を序詞と見て、獵師達が「うかねらひかもかもする」如く、自分が彼れ是れするのもの意に解した。それでもいゝが、「この岡に云々」とある現在性の強さに、序詞説を棄てた。又
  戀の歌なるを、この時誦せしなるべし。(略解)
(2369)  夙く詠める、又は聞き保てる歌なるを、辭の折にあひたれば、誦して主人に聞えしならむ。(新考)
の如きは臆斷に過ぎると思ふ。
 作者津島と主人諸兄公とは、格別入懇の間柄であつた事は、卷六所載のこの日に詠んだ津島の歌が證する。
 
右一首、長門(ノ)守|巨〔左△〕曾倍《コソベノ》朝臣|津島《ツシマ》。
 
○巨曾倍朝臣津島 「津島」は對馬に同じい。傳既出(一八〇〇頁)。「巨」原本に臣〔右△〕とあるは誤。
 
秋野之《あきのぬの》 草花我末乎《をばながうれを》 押靡而《おしなべて》 來之久毛知久《こしくもしるく》 相流君可聞《あへるきみかも》     1577
 
〔釋〕 ○こしくも 來たことがまあ。「しく」の語、委しくは「おもへりしくし」を見よ(一三五八頁)。○しるく 語意は著《シル》くであるが、こゝはその驗《シルシ》のあるをいふ。
【歌意】 秋の野の尾花の穗先を押靡けて、來たまあその甲斐あつて、嬉しくも〔四字右○〕逢へた、貴方樣であるかいまあ。
 
〔評〕 橘家の井手の岡邊の家に行く路旁には、無論野草が深かつたらう。その尾花を押分けて來た詮があつてと、君を訪ふ爲には勞苦をも辭せぬ意氣組を誇示し、その招宴に列し得た喜を歌つた。實にその辭令の巧さに敬服する。總體にこの作者の什には才氣の器用さが纏はつてゐる。「來しくもしるく」はこの他に
  見まくほり來しくもしるく吉野川音のさやけさ見るにともしく(卷九――1724) 
(2370)  天の河わたり瀬毎におもひつゝ來しくもしるし逢へらく思へば(卷十――2074)
の二首がある。殊に後首はこの歌の趣に相似してゐる。
 
今朝鳴而《けさなきて》 行之鴈鳴《ゆきしかりがね》 寒可聞《さむみかも》 此野乃淺茅《このぬのあさぢ》 色付爾家類《いろづきにける》     1578
 
〔釋〕 ○さむみかも この「かも」は疑辭の係辭。
【歌意】 今朝のほど、鳴いて往つた雁の聲、寒いせゐかしてまあ、この野の淺茅生は、紅く色付いてしまうたことわい。
 
〔評〕 「この野」は井手の岡邊の野である。さて寒雁の聲に色付く淺茅原を配合した。秋の景氣は耳から眼からひし/\と身に迫つてくる。
  今朝のあさけ雁がね寒く聞きしなべ野邊の淺茅ぞいろづきにける(聖武天皇、――卷八――1540)
  雲のうへに鳴きつる雁の寒きなへ萩の下葉はうつろへるかも(卷八――1575)
は同趣同型で、聖製が尤も優れてゐる。
 
右二首、阿倍(ノ)朝臣蟲麻呂。
 
○阿倍朝臣蟲麻呂 既出(一二八五頁)。
 
(2371)朝扉開而《あさとあけて》 物念時爾《ものもふときに》 白露乃《しらつゆの》 置有秋芽子《おけるあきはぎ》 所見喚鷄本名《みえつつもとな》     1579
 
〔釋〕 ○あさと 朝の戸。夕戸《ユフト》の語はない。「扉」は戸片《トビラ》のことだが、戸に通用。○見えつつ 「つゝ」に「喚鷄」を充てたのは戲書。鷄を喚ぶに、昔はツヽといつたと見える。今はトヽと呼ぶ。
【歌意】 朝戸を開けて、ぼんやり物思してゐる時、白露のおいた萩の花が、見え/\してそのあはれさに〔七字右○〕、愈よ無茶に物思がされてね〔七字右○〕。
 
〔評〕 この宴會は歸路が遠いので、客は一泊したらしい。されば「朝戸開けて」ともいふのである。野邊の家の秋の朝、旅心地に淡い哀愁が感じられ、露置く萩が見るとはなしに眼に見える。その哀れさ寂しさは、物思に愈よ拍車をかける。遂に溜らなくなつて、「もとな」とその音を揚げた。
 
棹牡鹿之《さをしかの》 來立鳴野之《きたちなくぬの》 秋芽子者《あきはぎは》 露霜負而《つゆじもおひて》 落去之物乎《ちりにしものを》     1580
 
〔釋〕 〇つゆじもおひて 露霜に置かれたのを「負ひて」と活喩した。「つゆじも」は既出(三八八頁)。
【歌意】 鹿の來て立ち鳴く、この〔二字右○〕野の萩の花は、露霜を負つて、散つてしまうたものを。さて今から何を愛賞しようぞい〔さて〜右○〕。
 
(2372)〔評〕 秋やゝ更け方の光景、流石に鹿が來往して哀を添へた野べの萩も、今は露霜に摧殘して、次いで來るべき何物もない。傷心の曲、絶望の聲だ。
  秋さらば妹に見せむとうゑし萩露霜おひて散りにけるかも(卷十――2127)
と同巧異曲。
 
右二首(ハ)、文忌寸馬養《フミノイミキウマカヒ》。
 
○文忌寸馬養 文は氏。忌寸は姓、馬養は續紀に、靈龜二年四月(ノ)詔に、壬申(ノ)年の功臣贈正四位上文忌寸禰麻呂(ノ)息、正七位下馬養等十人に田を賜ふこと各差ありと見え、天平九年九月正六位上より外從五位下、同十二月に外從五位上を授けられ、同十年閏七月に主税頭、同十七年九月に筑後守、寶字元年六月に鑄錢司長官となり、同二年八月に從五位下を授くとある。文氏は始め首姓、のち連姓より忌寸姓となる。文首を紀に書《フミノ》首とあれば、文はフミと訓むべく、諸註アヤ〔二字傍線〕とあるは非。
 
天平十年|戊寅《ツチノエトラノ》秋八月二十日
 
まづ橘家の宴の歌を擧げ、さてその年月日を記した。卷六に「秋八月二十日、宴2右大臣橘家1歌四首」とあるも、同時の作である。  △橘家所在考(雜考――29)參照。
 
橘(ノ)朝臣|奈良《ナラ》麻呂(ノ)結集宴《ウタゲスルトキノ》歌十一首
 
(2373)○橘朝臣奈良麻呂 「橘(ノ)宿禰奈良麻呂」を見よ(一七七四頁)。續紀に、天平勝寶二年、橘(ノ)宿禰諸兄(ニ)賜(フ)2朝臣(ノ)姓(ヲ)1と見え、橘氏はこの天平十年にはまだ宿禰姓だつた。記録者が溯らせて朝臣と記したものだ。○結集宴 多人數寄り集つての宴會の意。結集は集結に同じい。
 
不手折而《たをらずて》 落者惜常《ちりなばをしと》 我念之《わがもひし》 秋黄葉乎《あきのもみぢを》 挿頭鶴鴨《かざしつるかも》     1581
 
〔釋〕 ○ちりなばをしと 未然態の詞形を現在態に承けた格。「と」はトテの意。古義訓チラバヲシミト〔七字傍線〕。○わがもひし 我が大切に〔三字右○〕念うた。古義に初二句を直ちに「念ひし」に續けて解したのは非。
【歌意】 手折らずに散らうなら惜しいとて〔右○〕、私が大事に思うた處の、秋の紅葉を、思ひ切つて〔五字右○〕折り挿頭したことかまあ。
 
〔評〕 時は冬十月(今の十一月)、わが山莊の紅葉も散る頃である。その散らぬ間に挿頭し得た喜を歌つて、紅葉を飽くまで賞翫した。
 
希〔左△〕將見《めづらしき》 人爾令見跡《ひとにみせむと》 黄葉乎《もみぢばを》 手折曾我來師《たをりぞわがこし》 雨零久仁《あめのふらくに》     1582
 
〔釋〕 ○めづらしき 「希將見」をメヅラシと訓む。將字が無用であるが、集中卷十、卷十一、卷十二の書例、皆(2374)同じい。「希」原本に布〔右△〕とあるは誤。宣長説によつて改めた。希は稀と同意。○めづらしきひと 稀人《マレビト》といふに同じい。客人をいふ。○ふらく 降る〔二字傍点〕の延言。
【歌意】 客人《マラウド》方に見せうと思うて、紅葉を手折つてさ、私が來ましたわい、しかも〔三字右○〕雨の降るのにさ。
 
〔評〕 この作者は、前首とおなじく、今日の主人公である。客人※[疑の左+欠]待の心盡し、紅葉をわざ/\手折つて來ただけでも厚意は既に十分だ。ましてやそれが雨を冒してとなつては、客人は謝する詞もあるまい。かう恩に著せるのも、逸與に任せた所爲くれだ。その實は家隷共に命じて手折つて來させたものだらう、今日の人々の挿頭の料として。
 
右二首、橘(ノ)朝臣奈良麻呂。
 
黄葉乎《もみぢばを》 令落鐘禮爾《ちらすしぐれに》 所沾而來而《ぬれてきて》 君之黄葉乎《きみがもみぢを》 挿頭鶴鴨《かざしつるかも》     1583
 
〔釋〕 ○きみがもみぢを 君が手折られた〔五字右○〕紅葉を。
【歌意】 私は此方に參るとて〔九字右○〕、紅葉を散らす時雨に沾れて來て、貴方樣のお折りなされた〔七字右○〕紅葉を、今〔右○〕挿頭しましたことかまあ。
 
〔評〕 時雨の散らすのも紅葉、挿頭すのも紅葉、到る處紅葉ならざるはない。「君が黄葉を挿頭す」といふに、感謝の意を寓した。
(2375) 主人公がひどく熱心にその手折つた紅葉を誇稱したので、來客は以下つぎ/\、紅葉を主題として唱和したものだ。
 
右一首、久米《クメノ》女王。
 
○久米女王 續紀に、天平十七年正月、無位久米(ノ)女王(ニ)授(ク)2從五位下(ヲ)1とある。
 
希將見跡《めづらしと》 吾念君者《わがもふきみは》 秋山《あきやまの》 始黄葉爾《はつもみぢばに》 似許曾有家禮《にてこそありけれ》     1584
 
【歌意】 あゝ愛《メヅラ》と思ふ貴方樣は、この秋山の見事な〔三字右○〕初紅葉に、似てさ、おありなさるわい。
 
〔評〕 美しい品のよい初紅葉を以て主人公奈良麻呂に擬へて、一番のお世辭を呈した。茲に於いて奈良麻呂の人柄を想像せざるを得ない。奈良麻呂の父君はもとの葛城王、今の右大臣諸兄公、母君は淡海公藤原不比等の女で、生れ立ちからの貴公子である。隨つて何れ人品も氣高く立派であつたらう。そして父諸兄公はこの天平十年には五十五歳だから、奈良麻呂は三十歳位か或は今少し若いかも知れない。初紅葉は決して不倫の比喩ではあるまい。
 
右一首、長(ノ)忌寸(ガ)娘《ムスメ》。
 
〇長忌寸娘 傳未詳。長は氏、忌寸姓。「娘」は或は娘子〔右○〕の脱か。
 
(2376)平山乃《ならやまの》 峯之黄葉《みねのもみぢば》 取者落《とればちる》 鐘禮能雨師《しぐれのあめし》 無間零良志《まなくふるらし》     1585
 
〔釋〕 〇ならやま 「平」をナラと訓む。事は崇神天皇紀に、官軍が山の草木を踏み平《ナラ》したので、平《ナラ》山の名が付いたとある。委しくは「ならのやま」を見よ(八四頁)。
【歌意】 この〔二字右○〕奈良山の峯の紅葉は、取るとすぐ散るわ。かう脆《モロ》いのは〔六字右○〕、時雨の雨がさ、絶えず降るのらしい。
 
〔評〕 時雨には紅葉が散るといふ考が著想の基調で、今日ばかりでなく、前々から時雨が降りかゝつてゐるのであるらしいと、その紅葉の脆さはかなさを強調した。「取れば散る」の端的な表現はよい。
 奈良山は、下の人名《ヒトナ》の歌にも見えて、今日の集宴の場處即ち橘邸の所在地である。
 
右一首、内舍人縣犬養《ウトネリアガタノイヌカヒノ》宿禰|吉男《ヨシヲ》。
 
○内舍人 既出(一〇二九頁)。○縣犬養宿禰吉男 續紀に、寶字二年八月正六位より從五位下、同五月肥前守、寶字八年十月伊豫介とある。勝寶二年には但馬掾であつた(但馬國司牒)。縣(ノ)犬養氏は橘諸兄公の母が(美努王の妻、奈良麻呂の祖母)縣(ノ)犬養(ノ)三千代であるから、この吉男や持男は橘家の親戚であらう。
 
黄葉乎《もみぢばを》 落卷惜見《ちらまくをしみ》 手折來而《たをりきて》 今夜挿頭津《こよひかざしつ》 何物可將念《なにかおもはむ》     1586
 
(2377)〔釋〕 ○なにかおもはむ 「何物」をナニと訓んだ。もし何可物〔二字左△〕將念の顛倒とすれば、ナニカモノモハム〔八字傍線〕と訓まれる。
【歌意】 紅葉を、その散らうことが〔三字右○〕惜しさに、手折つて來て、今夜頭挿に挿しました。今はもう何を思はうかい。思ふ事もないわ〔七字右○〕。
 
〔評〕 今夜の招宴にその滿足を表したもの。初句より四句までは、主人公奈良麻呂の二首の作意を承けた。
 
右一首、縣《アガタノ》犬養(ノ)宿禰(ノ)持男《モチヲ》。
 
○縣(ノ)犬養(ノ)宿禰持男 傳未詳。吉男の身内であらう。
 
足引乃《あしひきの》 山之黄葉《やまのもみぢば》 今夜毛加《こよひもか》 浮去良武《うかびいぬらむ》 山河之瀬爾《やまがはのせに》     1587
 
〔釋〕 ○うかびいぬらむ 舊訓ウキテイヌラム〔七字傍線〕。古義訓ウカビユクラム〔七字傍線〕。
【歌意】 山の紅葉は、今夜まあ、浮かんで流れゆくであらうか、山川の瀬に。
 
〔評〕 夜宴の間にも紅葉の散るのが惜まれ、懇にその光景を思惟した。もしこの山川が橘邸附近のものなら、尤も適切であらう。但奈良山中に川らしい川はない。雨が降れば谿谷を水が走つて川を成す位のものだ。こゝは(2378)それでも澤山と思ふ。この歌は背景に時雨の雨がある。
 契沖説に「山の紅葉は見る人なしに、谷川の水に散り浮きてや」とあるは横入である。
 
右一首、大伴(ノ)宿禰|書持《フミモチ》。
 
○大伴宿禰書持 既出(一〇一五頁)。
 
平山乎《ならやまを》 令丹黄葉《にほすもみぢば》 手折來而《たをりきて》 今夜挿頭都《こよひかざしつ》 落者雖落《ちらばちるとも》     1588
 
〔釋〕 ○にほす 匂はす〔三字傍点〕の急言。卷十六にも「墨《スミノ》江の遠里小野の眞榛《マハリ》もち丹穗《ニホ》しし衣に」とある。「令丹」は赤からしむることで、色付くる意を以て、ニホスに充てた。
【歌意】 奈良山を色付かした紅葉を、手折つて來て、今夜頭挿したわい。もうあとは〔五字右○〕散るなら散つても構はぬ〔三字右○〕わ。
 
〔評〕 紅葉を頭挿し得た歡を誇稱して、暗に今夜の招宴を讃美した。
 
右一首、三〔左△〕手代人名《ミテシロノヒトナ》。
 
〇三手代人名 傳未詳。續紀に、天平二十年七月に從五位下大倭(ノ)御手代《ミテシロノ》連|麻呂女《マロメ》に宿禰姓を賜ふとある。麻呂女の一族か。「三」原本に之〔右△〕とあるは誤。細本等によつて改めた。
 
(2379)露箱爾《つゆじもに》 逢有黄葉乎《あへるもみぢを》 手折來而《たをりきて》 妹挿頭都《いもとかざしつ》 後者落十方《のちはちるとも》     1589
 
【歌意】 露霜に遭うた紅葉を、手折つて來て、かの女と挿頭したわい。もう〔二字右○〕あとは散るとも勝手さ〔三字右○〕。
 
〔評〕 上のと同趣同型。只「妹と」の一語が、稍複雜性と色彩とを添へてゐる。この「妹」は誰れを斥したものか。新考は久米(ノ)女王や長忌寸(ノ)娘とし、古義は宴席に出會うた侍女などかといつた。
 
右一首、秦《ハタノ》許遍《コヘ》麻呂。
 
○秦許遍麻呂 續紀に、勝寶三年正月正六位上秦(ノ)忌寸首麻呂に從五位下を授くとある。首(カウヘ)を許遍《コヘ》と短呼したものか。
 
十月《かみなづき》 鐘禮爾相有《しぐれにあへる》 黄葉乃《もみぢばの》 吹者將落《ふかばちりなむ》 風之隨《かぜのまにまに》     1590
 
〔釋〕 ○かみなづき 十月の異稱。(1)神之《カミノ》月の轉。なほ水|之《ノ》月をミナツキといふに同じい。十月は神事を行はれるので神の月といふ(甲説)。(2)釀成《カミナシ》月の略。九月に新穀を刈り入れ、十月の新甞に酒に釀み成す故にいふ。集中十六に「味飯《ウマイヒ》を水に釀み成し」とある。(古義、景井説)。(3)雷無《カミナ》月の意。この月より冬に入り雷は蟄する故に(2380)いふ(乙説)。(4)神無《カミナシ》月の意。十月諸神集(ル)2出雲大社(ニ)1故にいふ、曾丹集に「何事も行きて折らんと思ひしを社はありて神無月かな」(下學集説)。以上のうち(4)は俗説。
【歌意】 十月の時雨に遭うた紅葉が、風が吹かうなら、その風のまゝに散つてしまはうよ。
 
〔評〕 雨中の紅葉の脆さを叙べたに過ぎない。契沖が説に、
  下句はともかくも君に從はむの意なり。げにも奈良麻呂、寶字元年に謀反のやうの事ありし時、この歌主も方人をせられける、云々。
とは飛んでもない鑿説である。
 
右一首、大伴(ノ)宿禰|池主《イケヌシ》。
 
○大伴宿禰池主 家持の一族。詩文に長じ歌を善くす。天平十年十月の橘家舊宅の會、同十八年八月家持が館の宴に陪し、同二十年三四五月家持の越中守たるに贈答し、その五月には越中丞となりて家持の部下として赴任し、勝寶五年には既に歸京して、諸大夫と高圓の野に遊び、同六年正月家持宅の宴に陪した。續紀に天平寶字元年七月の條に、安宿王、黄文王、橘奈良麻呂の謀反に與した事が見え、その處罰の事が洩れてゐる。又正倉院文書、天平十年の駿河國正税帳に、※[不/見]《モトムル》2珠玉(ヲ)1使、春宮坊少屬從七位下大伴宿禰池主【上一口・從十二口】云々と見えた。
 
黄葉乃《もみぢばの》 過麻久惜美《すぎまくをしみ》 思共《おもふどち》 遊今夜者《あそぶこよひは》 不開毛有奴香《あけずもあらぬか》     1591
 
(2381)〔釋〕 ○すぎまく 「すぎ」は紅葉には散り衰へるをいふ。○あらぬか 「つねにあらぬか」を見よ(八〇〇頁)。
【歌意】 紅葉の散らうことが〔三字右○〕惜しさに、思ひ合つた同士、遊ぶこの夜は、明けないでまあ、あつてくれゝばよいになあ。
 
〔評〕 燭を秉つての紅葉の宴、席にある者は皆これ睦魂あへる同士であつて見れば、その樂は盡きる期もあるまい。この夜永かれと望むのも尤もだ。殆ど李太白の春夜宴桃李園の文を想はせる。
 
右一首、内舍人《ウトネリ》大伴(ノ)家持。
 
以前(ハ)冬十月十七日集(ヒテ)2於右大臣橘(ノ)卿之舊宅《マヘツギミノモトノイヘニ》1宴飲《ウタゲス》也。
 
以上は天平十年の冬十月十七日に、右大臣橘諸兄公の舊の邸に集まつて宴會したとの意。○以前 以上の意。○舊宅 新しい山城綴喜郡井手の宅に對していつた。歌に奈良(平)山を反復してゐるので考へると、橘家の舊宅は奈良山にあつたものと斷ずる。
 當時の來賓の顔觸を見渡すと、大伴氏はその宗家たる家持書持兄弟及び旁族池主が參會し、藤原氏の人は一人も居ない。縣(ノ)犬養氏は二人居るが、これは橘氏の親類だ。奈良麻呂にこの時既に藤原氏を傾ける意圖があつたとは考へられないが、藤原氏を疎んじ、大伴氏を近づけて居た形迹は顯著といはねばなるまい。
 抑も奈良麻呂の父諸兄は、その母顯犬養(ノ)三千代が藤原不比等(淡海公)に再※[草冠/(酉+隹)/れつか]したので、まづ藤原氏に※[夕/寅]縁して出世の緒口を握み、次いで母三千代の力に依つて宮中に信任を贏ち得、(三千代は聖武天皇の皇后藤原光明子の(2382)御生母)天平九年七月後、右大臣藤原武智麻呂はじめその兄弟達が疫病の爲續々薨逝した機會に、一躍參議から大納言、翌年は右大臣と飛躍した。この橘氏の新興振には、藤原氏一門は目を剥かざるを得まい。自然兩者の間に面白からぬ感情が横はつたと見られる。
 奈良麻呂は夙くも自家勢力擁護の爲、永年藤原氏に世を狹められてゐた、武人大伴氏の舊勢力利用を思ひ寄つたのではあるまいか。その證は十數年後、勝寶九年(寶字元年)七月の變を記した續紀の奈良麻呂の語中に見え、又大伴氏は古麻呂、古慈悲、池主その他も、その謀叛に參加してゐた。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)竹田(ノ)庄《タドコロニテ》作歌二首
 
〇竹田庄 既出(一三六五頁)。
 
黙〔左○〕然不有《もだあらず》 五百代小田乎《いほしろをだを》 苅亂《かりみだる》 田廬爾居者《たぶせにをれば》 京師所念《みやこしおもほゆ》     1592
 
〔釋〕 ○もだあらず 平然として居られずの意。黙《モダ》して居られずの轉意。「黙」原本にない。眞淵説を參酌して補つた。眞淵は「然」を直ちに黙〔右△〕の誤としたが、集中モダには黙然の二字を充てゝゐる。さてこの句を古義に枕詞としたのは非。○いほしろをだ 「いほしろ」の「いほ」は五百のことであるが、こゝは多數の轉義。「しろ」は田地を測る名稱で、拾芥抄に、方六尺(ヲ)爲(ス)2一歩(ト)1、積(ミテ)2七十二歩(ヲ)1爲2十代(ト)1――五十代(ヲ)爲(ス)2一段(ト)1とあるから、まことの五百代は十段に當る。「をだ」の「を」は美稱。○かりみだる 「亂る」は亂す〔二字傍点〕の古言。○たぶせ 田|伏《フゼ》(2383)の庵〔二字右○〕の略。田を守る伏屋をいふ。「田庵」をタブセと訓むは、卷十六「かる臼は田廬のもとに」の歌註に、田廬者|多夫世《タブセ》也とあるによる。
【歌意】 とても〔三字右○〕平氣では居られないわ。廣い秋の田を農夫等が〔四字右○〕刈り亂してゐる、その〔二字右○〕田伏の庵に住んでゐると、京がさ戀しく思はれるわ。 
〔評〕 竹田の地は漠々たる平田で、それに接した別莊だから田廬《タブセ》と稱した。時は娩秋、色付き渡つた稻田を苅り騷ぐ光景は、いかにも賑やかなものゝ、肅殺の氣に伴ふ一抹の哀愁に、孤獨の寂寥をひし/\と感じ、京|偲《シヌ》びの念に嚴しく打たれるのである。尚この京偲びには一層の情思が搦んでゐることを忘れてはならぬ。それは奈良京に遺して來た愛兒坂上(ノ)大孃を「間なく時なしわが戀ふらくは」(卷四)だからである。されば劈頭、「もだあらず」の喝破は、思ひ迫つた感情の爆發を示すものである。
 左註に「秋九月作」とあり、「間なく時なし」の詠の上句は、「打ち渡す竹田の原に鳴く鶴の」とあつて、節物が略一致するから、それも恐らく同年の秋冬の交の作であらう。尚「打ち渡す竹田の原の」の條の評語を參照(一三六六頁)。
 
隱口乃《こもりくの》 始瀬山者《はつせのやまは》 色附奴《いろづきぬ》 鐘禮乃雨者《しぐれのあめは》 零爾家良思母《ふりにけらしも》     1593
 
〔釋〕 〇こもりくの 初瀬の枕詞。既出(一七六頁)。○はつせのやま 既出(一七七頁)。
(2384)【歌意】 見渡すと〔四字右○〕初瀬山は、色づいて紅葉した。時雨の雨は、降つたことであるらしいなあ。
 
〔評〕 竹田から東を望めば、近い三輪山は常緑木を主とした山だが、初瀬山の見渡しは雜木が多くて色付いたものと見える。雨に色付くの常套を翻轉した逆想像は、腐を化して新となしたものゝ如くであつて、失張大した内容はもたない。
 
右、天平十一年|己卯《ツチノトウノ》秋九月作(メル)。
 
佛前唱《ホトケノミマヘニテウタヘル》歌一首
 
本尊佛の前で唱つた歌との意。これは奈良の興福寺(法相宗)の本尊で、藤原鎌足が奉じた銀造長け二寸の釋迦佛を、後に丈六佛の首に納めたもの。なほ左註「維摩講」の項を見よ(二三八六頁)。
 
思具禮能雨《しぐれのあめ》 無間莫零《まなくなふりそ》 紅爾《くれなゐに》 丹保敝流山之《にほへるやまの》 落卷惜毛《ちらまくをしも》     1594
 
〔釋〕 ○やまのちらまく 山の木葉の〔三字右○〕散らまくの略。卷九に「山城の久世の鷺坂神代より春は發《ハ》りつゝ秋は散りけり」と見え、今も山ガ茂ル、山ガ枯レルなど、常にいふ。
【歌意】 時雨の雨は、さう〔二字右○〕絶え間なしに降るなよ。折角眞赤に色付いた山が、その紅の葉の〔六字右○〕散らうことが惜しいわい。
 
(3285)〔評〕 着想に新奇の點こそなけれ、風調が幽婉で、朗唱に適する。維摩會は十月なので、時節柄、時雨をいひ紅葉をいつたのだが、その當日生憎の雨天であつた事は疑ひもない。「紅に匂へる山」には、暗に春日の周圍の山々の秋景が意識されてゐるらしい。
 左註によると皇后藤原光明子は父祖の遺志を紹いで、その氏寺興福寺の維摩會の願主に立たれたと見える。問講の間まづ雅樂などの演奏があり、次に邦樂の演奏に移つた。後世邦樂を雅樂寮から分つて大歌所を置かれたが、その職員には別當、琴師、歌師の名稱あるのみ(西宮記)。即ち左註にある如く、彈琴者と歌人とがあるばかりで、歌人《ウタビト》中の歌|長《ヲサ》が笏拍子を拍つて歌ふといふ、極めて簡單な仕組である。さて歌人が十餘人も居て、合唱したので見ると、當時既に短歌朗詠の曲調が製定されてゐたと考へられる。
 さてこの佛前唱歌はどんな輪廓のものであつたらうか。矢張佛者の諷誦する梵唄の音質と曲調とに準據したものと見るのが、一番理由ある穩當の考方であると思ふ。佛教音樂、これが後來のわがあらゆる音樂上に、偉大な影響を與へたことは説明するまでもない。
(2386) なほ卷六「冬十月十二日歌※[人偏+舞]所之諸王臣子等(ガ)集(リテ)2葛井(ノ)連諸成(ノ)家(ニ)1宴(スル)歌二首」の題下を參照(一七七六頁)。
 
右冬十月、皇后宮之維摩講《キサキノミヤノユヰマコウニ》、終日《ヒネモス》供2養(ス)大唐高麗等種種音樂《モロコシコマラノクサ/”\ノウタマヒヲ》1。爾乃《スナハチ》唱《ウタフ》2此歌詞(ヲ)1。彈琴者市原(ノ)王、忍坂(ノ)王【後賜2姓大原眞人赤麻呂1也、】歌人者《ウタヒトハ》田口(ノ)朝臣|家守《ヤカモリ》、河邊(ノ)朝臣|東人《アヅマヒト》、置始連長谷等十數《オキソメノムラジハツセラトタリアマリノ》人也。
 
天平十年の冬十月に、皇后宮が行はせられた維摩會に、終日唐や高麗などの種々の音樂を佛に手向け、そこでこの歌を朗詠した。歌に合はせての琴彈きは市原王、忍坂王、歌ひ手は田口家守、河邊東人、置始長谷等十餘人であるとの意。○皇后宮 聖武天皇の皇后。「藤原皇后」を見よ(二四四八頁)。○維摩講 維摩經を講説する法會。維摩會に同じい。維摩のことは「維摩大士」を見よ(一四〇二頁)。元享釋書に、齊明天皇(ノ)三年十月、鎌子(藤原鎌足の前名)於(イテ)2山州陶原(ノ)家(ニ)1、創(メ)2山階(ノ)精舍《テラヲ》1、設(ク)2維摩會(ヲ)1、維摩會自v此始(ル)と見え、この山階寺を天武天皇元年大和飛鳥の厩坂に移し、元明天皇都を奈良に移すに及び、和銅三年又寺を奈良に移し、興福寺と改稱した。續紀の藤原仲滿の上奏によれば、鎌足薨後三十年維摩會は中絶してゐたのを、鎌足の子不比等が再興した。毎年冬十月十日に擧行、十六日に終る大法會。○供養 物を供へて佛法僧の三寶を祭ること。○大唐高麗等種々音樂 支那朝鮮その他の音樂や舞。いはゆる雅樂のこと。「歌※[人偏+舞]《ウタマヒ》所」を見よ(一七七五頁)。「等」とあるは菩薩舞や他の雜樂も一緒に演奏されるからいふ。○爾乃 二字で乃《スナハ》ちの意。文選に屡ば見える字面。○此歌詞 「時雨の雨」の歌を斥す。○彈琴者 琴の彈き手。琴は六絃の倭琴。○市原王 既出(九二〇頁)。忍坂王 續紀に、寶字五年正月授(ク)2無位忍坂(ノ)王(ニ)從五位下(ヲ)1とある人。○歌人 歌ひ手。紀をはじめ諸書に見える歌男、歌(2387)子、歌女、歌者の稱は皆歌謠ふ者をいふ。作歌者ではない。作歌者を歌人《ウタヒト》といふは平安中期からのこと。○田口朝臣家守 傳未詳。古義は、續紀に、神龜三年正月、授(ク)2正六位上田口朝臣家主(ニ)從五位下(ヲ)1とある、この家主の子などにやといつた。○河邊朝臣東人 既出(一七三三頁)。○置始連長谷 傳未詳。
 
大伴(ノ)宿禰|像見《カタミガ》歌一首
 
秋芽子乃《あきはぎの》 枝毛十尾二《えだもとををに》 降露乃《ふるつゆの》 消者雖消《けなばけぬとも》 色出目八方《いろにいでめやも》     1595
 
〔釋〕 ○とをを 撓むこと。たわゝ〔三字傍点〕の轉。○ふるつゆの 以上三句は「けなば」に係る序詞。舊訓オクツユノ〔五字傍線〕は妥當でない。○けなば 命の〔二字右○〕消なばの意。
【歌意】 萩の枝も撓むほど〔二字右○〕に、降る露が消えるやうに〔三字右○〕、自分の命が消えるなら消えても、決して樣子に顯はさうことかい。
 
〔評〕 世に憚る戀、強ひて隱さうとする努力位つらい忍苦はあるまい。
  磐がねのこゞしき山を超えかねて音には鳴くとも色にいでめやも(卷三、長屋王――301)
  しぬびには戀ひて死ぬともみそのふの鷄冠草《カラアヰノハナ》の色にいでめや(卷十一――2984)
など、一死に換へてもとまで口にはいふが、ついその口の下から色に出勝ちだ。そこに大きな苦痛と危險が待ち受けてゐる。
 
(2388)大伴(ノ)宿禰家持(ガ)到(リテ)2娘子門《ヲトメノカドニ》1作歌一首
 
○到娘子門 娘子の名は不明。
 
妹家之《いもがいへの》 門田乎見跡《かどたをみむと》 打出來之《うちでこし》 情毛知久《こころもしるく》 照月夜鴨《てるつくよかも》     1596
 
〔釋〕 ○かどた 門前の田。○うちでこし 出掛けて來た。「うち」は接頭語。
【歌意】 吾妹の家の門前の田を見ようと、出掛けて來た、その思のまあ甲斐があつて、さやかに照る月夜であることかまあ。
 
〔評〕 「門田を見む」は寄託の言で、その實はあはよくば妹を見ようと出掛けたのである。幸にも好月は前程を照して、得意滿面だ。然し何處までも表面は門田の上で終始し、月心ありとその清光を讃美してゐる。含蓄味の深い巧思の作である。
 
大伴(ノ)宿禰家持(ガ)秋(ノ)歌三首
 
秋野爾《あきのぬに》 開流秋芽子《さけるあきはぎ》 秋風爾《あきかぜに》 靡流上爾《なびけるうへに》 秋露置有《あきのつゆおけり》     1597
 
【歌意】 秋の野に咲いてゐる秋萩が、秋の風に靡いてゐるうへに、秋の露がおくわ。
 
(2389)〔評〕 風に靡く野萩のうへに露が溜つたのを詠んだ。わざと「秋」の語を四囘までも累層し、景象が秋に統一されてゐる事をくどく語つた。かうした同語の反復體は、集中、天武天皇の御製や坂上郎女の歌をはじめ、その他にも散見し、素より遊戲氣分に墮するものである。
 
棹牡鹿之《さをしかの》 朝立野邊乃《あさたつぬべの》 秋芽子爾《あきはぎに》 玉跡見左右《たまとみるまで》 置有白露《おけるしらつゆ》     1598
 
〔釋〕 ○あさたつ 朝立つてゐること。「たつ」を立行く意としてアサダツ〔四字傍線〕と濁るべしといふ新考説は諾へない。
【歌意】 鹿が朝立つてゐる、野邊の秋萩に、玉と思れるまで、美しく〔三字右○〕おいてある白露よ。
 
〔評〕 野に立つ鹿を背景としての、萩の花におく露の白玉、さながら倭繪で、さはやかな朝の風趣が彷彿する。この幽艶繊細な景致は、奈良人の悦ぶ所で、又平安人の好む所でもあつた。それが爲踏襲また踏襲、遂にこの原作まで舊臭くしてしまつたが、
  秋萩における白露さながらに珠とぞ見ゆるおける白露(卷十――2168)
に比すれば稍高處を歩んでゐる。
 この歌の風格といひ聲調といひ、殆ど平安期のもので、古今集中に置いたら辨別しかねるであらう。
 
(2390)狹尾牡鹿乃《さをしかの》 ※[匈/月]別爾可毛《むなわけにかも》 秋芽子乃《あきはぎの》 散過鷄類《ちりすぎにける》 盛可毛行流《さかりかもいぬる》     1599
 
〔釋〕 ○さをしか 「狹尾」と書くは戲意あるか、鹿の尾は短小である。○むなわけ 胸で押分けること。卷廿にも「さを鹿の胸分けゆかむ秋の萩原」とある。
【歌意】 鹿が胸分けしたせゐ〔二字右○〕かまあ、萩の花が散り衰へてしまつたわい。いやそれとも〔六字右○〕、花の盛りがもう過ぎたせゐ〔二字右○〕かまあ。
 
〔評〕 摧殘した萩を見て、兩端を叩いて首をかしげてゐる。事實をいへば花盛りが過ぎたまでだが、作者はわざと平地に波瀾を起して、鹿の胸分けを想像に描いた。鹿の胸分けは卷二十の歌にも見えて、何人の創語かはわからぬが、これはその動作がよく活用されてゐる。とにかくこんな閑想像に焦慮することも、萩の花に對する強い愛著を語るものである。
 結句、同詞態の單句による漸層的反復は、接續辭の省略と相俟つて、頗る勁健の調を成すものである。家持作中の異色あるもの。
 
右、天平十五年|癸未《ミヅノトヒツジノ》秋八月見(テ)2物色(ヲ)1作(ル)。
 
○見物色 景物を見ての意。卷八「時鳥來鳴きとよもす卯の花の」の左註中の「贈物色」の物色とは意が違ふ。
 
(2391)内舍人《ウトネリ》石川(ノ)朝臣廣成(ガ)歌二首
 
○内舍人 既出(一〇二九頁)。○石川朝臣廣成 續紀に、寶字二年八月從六位上から從五位下、同四年二月姓|高圓《タカマトノ》朝臣を賜はり、文部少輔となるとある。別に續紀には、高圓朝臣廣世あり、寶字五年五月從五位下にて攝津亮、同八年正月從五位上、播摩守、景雲二年二月周防守、同六月伊豫守に轉じ、寶龜元年十月正五位下とある。寶字四五年間の官位の次第が接續するので、古義は廣成が廣世と改名したものとしてゐる。
 
妻戀爾《つまごひに》 鹿鳴山邊之《かなくやまべの》 秋芽子者《あきはぎは》 露霜寒《つゆじもさむみ》 盛須疑由君《さかりすぎゆく》     1600
 
〔釋〕 ○かなく 「かなかむやまぞ」を見よ(二八七頁)。○つゆじも 既出(三八八頁)。
【歌意】 妻戀して鹿が鳴く山邊に、咲く萩の花は、この頃の〔四字右○〕露霜が寒さに、盛りが過ぎてゆくわ。
 
〔評〕 率直平淡、特異性には乏しいが、仲秋暮秋の交の山野の景氣はかうである。
 
目頬布《めづらしき》 君之家有《きみがいへなる》 波奈須爲寸《はなすすき》 穗出秋乃《ほにいづるあきの》 過良久惜母《すぐらくをしも》     1601
 
〔釋〕 ○めづらしき 「君」に係る。上に「めづらしき人に」とあるに同じい。略解訓メヅラシク〔五字傍線〕は非。○はなす(2392)すき 花薄。薄の穗に出たもの、即ち尾花である。集中他にこの語の所見がない。神功皇后紀に幡荻穗出吾也《ハタスヽキホニイヅルアレヤ》と見え、古くから旗(幡)薄とはいつた。略解は「奈」は太〔右△〕の誤字か、なほ新撰萬葉に花薄の語あれば、奈良時代の末にはさもいひしにやといつて斷言せず、古義は誤字説を取つた。正辭は「奈」にダ、ナの兩音あれば「奈」をタと讀むべしといつたが、これは奈をナと讀む時代的通則を無視した空論である。本文に「奈」とある以上は、ハナスヽキと讀んで、略解の一説を許容して、記の雄略天皇の條の「草香江の入江のはちす花はちす〔四字傍点〕」(赤猪子)の例に倣つた新語としておかう。
【歌意】 愛する處の、君の家にある花薄が、穗に出て美しい〔三字右○〕秋の、過ぎることが惜しいなあ。
 
〔評〕 野では平凡に看過する薄も、君が家に靡く銀の穗には、秋の更けゆくことが惜しまれるとは、詰り來客としての主人公への挨拶の詞である。
 
大伴宿禰家持(ガ)鹿鳴《シカノネノ》歌二首
 
○鹿鳴 契沖はいふ、上に聞〔右○〕の字を脱せるかと。
 
山妣姑乃《やまひこの》 相響左右《あひとよむまで》 妻戀爾《つまごひに》 鹿鳴山邊爾《かなくやまべに》 獨耳爲手《ひとりのみして》    1602
 
〔釋〕 ○やまひこ 既出(一七一八頁)。「妣姑」は戲書。
(2393)【歌意】 山彦が響きあふまで、妻戀して鹿の鳴く山邊に、自分獨ばかりで、聞いて居ることよ〔八字右○〕。
 
〔評〕 何れ奈良京附近の山の鹿であらう。初二句はその尻あがりの高音を誇張し、さばかりに鳴くのも妻戀の爲であることに想到しては、寂しい山邊に獨ある作者は、おのづから妹戀しの念が、油然として湧かざるを得まい。結句の一轉語、全幅に活きた生命を吹き込むもの。
 
頃者之《このごろの》 朝開爾聞者《あさけにきけば》 足日木※[竹冠/昆]《あしひきの》 山乎令響《やまをとよもし》 狹尾牡鹿鳴哭《さをしかなくも》     1603
 
〔釋〕 ○あしひきの 「※[竹冠/昆]」は借字。もと箆〔右△〕の書寫字で、箆は竹器の稱、故に矢の笶《ノ》に充てた。○なくも 「哭」をモと訓むことは既出(一八五五頁)。
【歌意】 この節の朝明に聞くと、山を鳴り響かせて、鹿が鳴くわい。
 
〔評〕 大伴家の佐保邸などでの即興か。淡々たること湯の如しだ。これと同じ結句が卷十に三首、卷十五に二首ある。中に
  夜を長みいのねらえねに足引の山ひことよめさをしか鳴くも(卷十――2680)
は三句以下殆ど同意だ。
 
右二首、天平十五年|癸未《ミヅノエヒツジノ》八月十六日作(メル)。
 
(2394)大原(ノ)眞人《マヒト》今城《イマキガ》傷2惜《ヲシム》寧樂故郷《ナラノフルサトヲ》1歌一首
 
〇大原眞人今 續紀に、寶字元年五月正六位上大原眞人今木に從五位下を授く、同六月治部少輔、同七年正月左少辨、四月上野守、同八年正月從五位上、寶龜三年閏三月無位大原眞人今城を本位從五位上に復す、七月兵部少輔、同三年九月駿河守とある。寶字八年正月には從五位上で、寶龜二年には無位とあるのは、多分寶字八年惠美(ノ)押勝反逆の連坐で、官位を褫奪されて居たものであらう。尚天平廿年には兵部少丞正七位下、勝寶七年には上總國朝集使大掾であつた。「今城(ノ)王」を參照(一一四六頁)。○寧樂故郷 卷六「傷2惜(ム)寧樂(ノ)京(ノ)荒墟1」を見よ(一八二七頁)。
 
秋去者《あきされば》 春日山之《かすがのやまの》 黄葉見流《もみぢみる》 寧樂乃京師乃《ならのみやこの》 荒良久惜毛《あるらくをしも》     1604
 
〔釋〕 ○あきされば 「はるさりくれば」を見よ(七九頁)。
【歌意】 秋になると、春日山の紅葉を〔右○〕見る、面白い〔三字右○〕奈良の京の、荒れることが惜しいわい。
 
〔評〕 奈良京の思出種としては多々あらう。それを作者は一本槍に春日山の紅葉を取上げ、以てその傷惜の情を託した。風流の情懷が想ひ遣られる。新京の久邇とても花紅葉は無論あるが、今はそんな穿鑿をしてゐる遑はないのだ。なほ奈良京荒廢の委しいことは、卷六「悲2寧樂故郷1作歌」の長歌の評語を參照(一八三五頁)。
 
今城(ノ)王が天平十一年に一族の高安(ノ)王と同時に、大原(ノ)眞人となつたとすると、奈良京の故里と化したのは、そ(2395)の翌年の事だから、こゝの大原(ノ)眞人今城の署名も矛盾がない。そして寶字七年には從五位の國守で活躍してゐたから、その頃を五十歳と假定して逆算すると、天平の十一二年は廿五六歳に當る。この歌は今城の若い頃の作と考へられる。
 
大伴(ノ)宿禰家持(ガ)歌一首
 
高圓之《たかまとの》 野邊乃秋芽子《ぬべのあきはぎ》 比日之《このごろの》 曉露爾《あかときづゆに》 開兼〔左△〕可聞《さきにけむかも》     1605
 
〔釋〕 ○さきにけむ 「兼」原本に葉〔右○〕とあるは誤。類本神本その他によつて改めた。
【歌意】 高圓山の裾野邊の萩の花は〔右○〕、この節の曉方の露に、咲いたことであらうかまあ。
 
〔評〕 高圓の※[獣偏+葛]高野あたりは、盛な萩原であつたらしい。
  あき風は日にけに吹きぬ高圓の野べの秋萩散らまくをしも(卷十――2121)
  宮人の袖つけごろも秋萩ににほひよろしき高圓の宮(卷廿、家持――4315)
など詠まれた。而も後首は矢張家持の作であつて見れば、家持は高圓の野萩に深い愛著を感じてゐたものと考へられる。肌寒いこの頃の曉露に萩の花、しかも高圓の野萩のうへを聯想する風懷は、いかにも情趣の饒に盡きぬものがある。もしこれが上の今城の歌と同じく、久邇京に在つての追憶とすれば、その旅情まで加はつて愈よ味ひの永いものとならう。風調も凡でない。(2396)序にいふ、「高圓の宮」の歌は勝寶六年の作だから、これよりは十一年も後の詠である。
 
秋(ノ)相聞
 
額田王《ヌカタノオホキミノ》思《シヌビテ》2近江(ノ)天皇(ヲ)1作(メル)歌一首
 
君待跡《きみまつと》 吾戀居者《あがこひをれば》 我屋戸乃《あがやどの》 簾令動《すだれうごかし》 秋之風吹《あきのかぜふく》      1606
 
鏡(ノ)王女(ノ)作歌一首
 
風乎谷《かぜをだに》 戀者乏《こふるはともし》 風乎谷《かぜをだに》 將來常思待者《こむとしまたば》 何如將嘆《なにかなげかむ》      1607
 
以上二首は卷四に既出(一〇七一、一〇七二頁)。
 
弓削《ユゲノ》皇子(ノ)御歌一首
 
秋芽子之《あきはぎの》 上爾置有《うへにおきたる》 白露乃《しらつゆの》 消可毛思奈萬思《けかもしなまし》 戀管不有者《こひつつあらずば》     1608
 
(2397)〔釋〕 ○あきはぎの――しらつゆの 上三句は「消」に係る序詞。〇こひつつあらずば 既出(三〇〇頁)。
【歌意】 萩の花のうへに、置いた露の消えるやうに、消えも即ち死にもせうかいな、かう戀ひ/\して苦しんで〔四字右○〕をらうよりはさ。
 
〔評〕 戀には色々ある。水上の泡のやうにはかないのもあれば、巖石をも滲み透すやうな強烈なのもある。その苦患から逃避したさに、おなじ死を思ふにしても、
  かくばかり戀ひつゝあらずば奥山のいは根しまきて死なましものを(卷二、磐之媛――86)
の如く、熱情的の深刻なのもあれば、この歌の如く落ち着いて瞑想的なのもある。
  我妹子に戀ひつゝあらずば秋萩の咲きて散りぬる花にあらましを(卷二、弓削皇子――120)
は殆どこれと兄弟のやうな作で、幽婉味の豐かなだけ、萩は露より優つてゐる。但卷二の題詞には「弓削皇子(ノ)思(ビテ)2紀(ノ)皇女(ヲ)1御作歌」とある。或はこの歌もをなじ時の御作か。
 
丹比《タヂヒノ》眞人(ガ)歌一首
 
○丹比眞人 傳未詳。この氏姓の人が集中に多いので、誰れとも判定し難い。原本、題下の割注に「名闕」とある。卷二、卷九にもかうあるので、古義は同人かと疑つてゐる。
 
宇陀乃野之《うだのぬの》 秋芽子師弩藝《あきはぎしぬぎ》 鳴鹿毛《なくしかも》 妻爾戀樂苦《つまにこふらく》 我者不益《われにはまさじ》     1609
 
(2398)〔釋〕 ○しぬぎ 既出(七三七頁)。○こふらく 「樂苦」は戲書。
【歌意】 宇陀野の萩の花を、押分けて鳴く鹿〔右○〕でも、妻を戀ふることは〔三字右○〕、自分にはよも勝りはすまい。
 
〔評〕 氣疎い宇陀の大野の萩押分けて鳴くは、鹿が妻戀に熱中して辛苦する状態の描寫だ。さて自分の戀愛苦はそれ以上と斷言したい處を、「われにはまさじ」と聊か控へ目にした主張に、蘊含の味があつて面白い。
 偶ま作者が宇陀野を通過しての口吟か。
 
丹生女王《ニフノオホキミノ》贈(レル)2太宰(ノ)帥《カミ》大伴(ノ)卿《マヘツギミニ》1歌一首
 
○丹生女王 既出(一一六八頁)。
 
高圓之《たかまとの》 秋野上乃《あきぬのうへの》 瞿麥之花《なでしこのはな》 卜〔左△〕壯香見《うらわかみ》 人之挿頭師《ひとのかざしし》 瞿麥之花《なでしこのはな》     1610
 
〔釋〕 これは旋頭歌。○うらわかみ 末若さに。草木の莖立の弱《ワカ》いのを末《ウラ》若しといふ。「卜」原本に于〔右△〕とあるは誤。契沖以來、于の下に良〔右○〕を補つてウラと訓ませた。「壯」はワカと訓む。「香」は添字。
【歌意】 高圓の秋野のほとりの、撫子の花よ。それは嘗ては〔三字右○〕」末若さに、人が頭挿したことであつた、撫子の花よ。
 
〔評〕 咲き初めた頃は人がチヤホヤしたが、今は盛り過ぎて挿頭されもしないと、自己の身上を撫子に托して歎(2399)息した。さてこの歌を贈られたとすると、大伴卿即ち旅人卿は嘗てその撫子を挿頭した人となる。今こそ縁は切れたれ、丹生女王の末若みの頃、卿はその情人關係にあつたと推定してもよからう。
 卷四にこゝと同じ題詞で載つてゐる女王の歌(一一六八頁)で見ると、お互に以來潔い交際を續けてゐたらしい。然るに女王は今更らしく、何でこんな歌を贈つたものか。蓋し女王は流石に女だけに、なほ幾分の未練が遺つて居る。いや死灰を再び燃さうとまでは考へもすまい、もう盛り過ぎた自覺がある。が折につけ節につけ、自分は棄てられたのだといふ感傷の起るのも亦止むを得まい。幽怨の意が言外に動いて、音節また妙。
 
笠縫女王《カサヌヒノオホキミノ》歌一首
 
〇笠縫女王 目録に、六人部《ムトベノ》王之女、母(ヲ)曰(フ)2田形《タカタノ》皇女と注した。六人部王は卷一に身人部《ムトベノ》王と見え、傳はその項に擧げた(二四八頁)。田形皇女は天武天皇の皇女で、續紀によれば、慶雲三年三品で伊勢(ノ)齋宮に立ち、神龜元年二品、同五年三月薨じた。
 
足日木乃《あしひきの》 山下響《やましたとよみ》 鳴鹿之《なくしかの》 事乏可母《ことともしかも》 吾情都末《わがこころづま》     1611
 
〔釋〕 ○やましたとよみ 山陰が響き渡つて。○なくしかの 「言《コト》ともし」に係る序。鹿の聲を言《コト》といつた。無理なやうでも作者がさう詠んだのなら、後人の意見で變へるべきでない。○ことともしかも 「言ともし」はその聲の愛《イツク》しきをいふ。「事」は借字。古義は「事」を聲〔右△〕の誤とした。新考に「事」を如〔右△〕の借字と斷じたが、用(2400)字上穩かでない。○こころづま 思ひ夫《ヅマ》(妻の意にも)。契沖訓オモヒヅマ〔五字傍線〕。
【歌意】 山陰がとよむほど〔二字右○〕、鳴く鹿の聲のやうに、その聲が愛しいことよ。私の思ひ夫《ヅマ》は。
 
〔評〕 思ふ人の聲は優しい、その言葉は甘い。それを鹿の音に聯想して懷かしがるに至つては、奈良人でなければ出來ない、いへない。
 
右川(ノ)賀係女郎《カケノイラツメガ》歌一首
 
○石川賀係女郎 傳未詳。
 
神佐夫等《かむさぶと》 不許者不有《いなにはあらず》 秋草乃《あきぐさの》 結之紐乎《むすびしひもを》 解者悲哭《とくはかなしも》     1612
 
〔釋〕 ○かむさぶといなにはあらず 既出(一三六七頁)。○あきぐさの 秋草の如く〔二字右○〕。「結び」に係る序語。秋の草の繁り亂れたる態を、結ほる〔三字傍点〕と見てのいひ懸けであらう。古義は咒術の草結を例としたが、それは一般的の事柄ではない。況や新考にこれを「紐を解く」に係けた枕詞と解したのは、語勢も辭樣も無視したもの。
【歌意】 私が〔二字右○〕年寄つたとて〔右○〕、否むのではありません。只一旦もう男はもつまいと〔只も〜右○〕結んだ紐を、二度と〔三字右○〕解くことは、情けないわい。
 
(2401)〔評〕 結婚の申し込みがある位だから、「神さぶ」といつた處が、さう年寄ではない。只娘盛りでない年配の誇張だ。「結びし紐」と特に提唱したことは、甞ては解いたことを暗示してゐる。「結ぶ」と「解く」との闘はせ、一寸弄語の遊戲めくが、この歌では事實に即した頗る眞實の語である。
 「結し云々」を簡單に解すれば、新しい懸想の男に對しての拒否、複雜に解すれば、甞て別れた男の復|縒《ヨリ》を戻さうとの申込に對しての拒否となる。何れにしても寡居してゐる賀係女郎は、情理二つの葛藤の結局、理性に落着したものだ。
 
加茂女王《カモノオホキミノ》歌一首
 
○加茂女王 既出(一一七二頁)。原本題下の割注に、長屋(ノ)王之女、母(ヲ)曰(フ)2阿倍(ノ)朝臣(ト)1也とある。
 
秋野乎《あきのぬを》 旦〔左△〕往鹿乃《あさゆくしかの》 跡毛奈久《あともなく》 念之君爾《おもひしきみに》 相有今夜香《あへるこよひか》     1613
 
〔釋〕 ○あきのぬをあさゆくしかの 「あともなく」に係る序詞。略解に「あと」にのみ係るとしたのは非。○あともなく 跡形もなく。○こよひか 「か」は歎辭。
【歌意】 秋の野を朝たちゆく鹿の、影を没して〔五字右○〕跡形もないやうに、名殘もないと思うた貴方樣に、久し振にお逢ひした、今夜であることわ。
 
(2402)〔評〕 男の久しい中絶えを怨みず、只逢ひ得た喜をのみ歌つてゐる。何といゝ氣質の人だらう。覺えず同情される。
 
右(ノ)歌、或《アルヒト》云(フ)椋橋部《クラハシベノ》女王(ト)。或(ハ)云(フ)笠縫(ノ)女王(ノ)作(メリト)。
 
○椋橋部女王 既出(九七八頁)。○笠縫女王 前出(二三九九頁)
 
天皇(ノ)賜(ヘル)2遠江(ノ)守櫻井(ノ)王(ニ)1御製《オホミ》歌〔天皇〜左○〕一首
 
○天皇 聖武天皇。○櫻井王 既出(一七八一頁)。王が遠江守となつたのは、神龜から天平の初年の間であらう。
 この題詞は、原本に「遠江(ノ)守櫻井(ノ)王(ガ)獻(レル)2天皇(ニ)1歌」とある。これに就いて、新考はまことによい發見をした。それは次の歌と作者が入り換つてゐるといふことだ。この「九月の」の歌は天皇に奉る作としては、餘に諾けばつて敬意を失する嫌がある。又次の答歌に遠江の僻遠な地方の「大乃《オホノ》浦のその長濱」を用ゐたのも、御製としては縁が遠く、その地に住む人の口號ならふさはしい。よつて「九月の」歌を天皇御製の贈歌とし、次の歌を櫻井王の答歌とする。隨つてこゝの題詞を假にかく改めた。
 
九月之《ながつきの》 其始鴈乃《そのはつかりの》 使爾毛《つかひにも》 念心者《おもふこころは》 所〔左△〕聞來奴鴨《きこえこぬかも》     1614
 
(2403)〔釋〕 〇ながつき 既出(九四六頁)。○はつかりのつかひ 雁使即ち雁信のこと。前漢の蘇武が匈奴に使してそのまゝ囚はれ、消息を絶つた時の事で、漢書蘇武傳に「教《シム》3使者(ヲシテ)謂(ハ)2單于(ニ)1、言《ハク》天子射(テ)2上林中(ニ)1得(タリ)v雁(ヲ)、足(ニ)有(リ)v係(ケタル)v帛(ヲ)、書(ス)3武等在(リト)2某(ノ)澤中(ニ)1」とあるに本づく。○おもふこころ 古義舊訓はオボスコヽロ〔六字傍線〕。○きこえこぬかも 「つねにあらぬか」を參照(八〇〇頁)。「所」原本に可〔右△〕とある。契沖説に從つた。
【歌意】 書信を齎すといふ〔八字右○〕、長月の初雁の使にて〔右○〕も、我を思ふ心は、聞えて來ないかなあ。
 
〔評〕 地方官は赴任早々は非常に忙しい。まづ前司との事務引繼ぎから始め、種々雜多な地方的交渉に携はつたりで、櫻井王もその爲、遠江に赴任の年、その晩秋になつても、尚天機奉伺に及ばなかつたと見える。天皇の櫻井王に對する御私交は、御製の御口氣から拜察すると、餘程親昵であつたらしい。
 抑も櫻井王は、六人部(ノ)王や長田(ノ)王等と共に風流侍從(武智麻呂傳)と許された人だ。さては遠江守ならぬ以前は侍從であつたに相違ない。侍從は天子の御近習役だから、日常龍顔に咫尺し奉つてゐたので、王が外官となつて暫く消息の打絶えたのを御憂慮あらせられ、かくの如き優渥なお詞が下されたのであらう。かう考へると、匈奴から上林苑に來た雁信を以て、遠江から奈良京への消息に擬せられたことは、その故事の運用に於いて極めて適切である。そして上苑の雁は蘇武の信書を齎し、奈良京の雁は櫻井王の何物をも齎さない。誠意の有無がそこに對映されるので、櫻井王に取つては、とても嚴しい諷刺である。
 なほ考ふるに「九月のその初雁の使」は毎年國守より京に派遣する朝集使のことを思ひ寄せて、その便りにも音沙汰が無いと仰せられたのではあるまいか。朝集使は孝徳天皇紀の大化元年二月の條に見え、平安期には(2404)毎年十一月一日の朝集となつた。が奈良時代には九月の朝集であつたのだらう。
 
櫻井(ノ)王(ノ)奉報和《コタヘマツレル》歌〔七字左○〕一首
 
原本の題詞は「天皇(ノ)賜報和《コタヘタマヘル》御製歌」とあるが、上述の如くこの歌を櫻井王の奉和として、假にかく改めた。
 
大乃浦之《おほのうらの》 其長濱爾《そのながはまに》 縁流浪《よするなみ》 寛公乎《ゆたけくきみを》 念比日《おもふこのごろ》     1615
 
〔釋〕 ○おほのうら 今存在しない。和名抄に遠江國磐田郡|飫寶《オホノ》郷あり、現在中泉驛の正南一里餘に於保《オホ》村の名が殘つてゐる。於保から東の福島町を東偏として、西は天龍川の東一里の袖浦の邊まで、當時は一續きの海濱で、まことに長濱であつたと見える。後世天龍川の沙嘴の延長に伴ひ、その流砂が砂丘となつて一時は江灣の形を成し、更に海口が閉塞されては湖水となつたらしい。現在福島と袖浦との中間にある小湖は、その名殘である。地名辭書はいふ「於保村并に福島村の南に湛へたる一江にして、沙丘によりて外海と隔離し、東西一里半南北十餘町にも及びしが如し」と。○よするなみ 寄する波の〔右○〕。以上三句は、「ゆたけく」に係る序飼。
(2405)【歌意】 大《オホ》の浦の、その長い濱邊に打ち寄せる波〔右○〕の、ゆつたりしたやうに、氣長くゆつたりと、陛下を思ひまつる、この節でありますわい。
 
〔評〕 大の浦が湖沼であつたとすれば、清見潟の波でさへ 「ゆたけき」といはれるから、それ以上にゆるやかな波が寄つてゐたらう。櫻井王は任國のこの景勝を序詞として、勅諚では「念ふ心」も持たないやうですが、どう致しまして、かう念々に氣長く思ひ奉つてをりますと奉答した。契沖は、おほの浦、長濱の地名が「ゆたけく」に響き合つて聞ゆると評した。さもあらう。
 
笠(ノ)女郎《イラツメガ》贈〔左△〕(レル)2大伴(ノ)宿禰家持(ニ)1歌一首
 
○笠女郎 既出(九〇〇頁)。○贈 原本に賜〔右△〕とある。この集は贈賜通用である。 
毎朝《あさごとに》 吾見屋戸乃《わがみるやどの》 瞿麥之《なでしこの》 花爾毛君波《はなにもきみは》 有許世奴香裳《ありこせぬかも》     1616
 
〔釋〕 ○ありこせぬかも 既出(三六五頁)。
【歌意】 毎朝私が見る庭の、撫子の花でまあ、貴方はあつて下さらぬかなあ。
 
〔評〕 さらば毎日のやうに逢へようにの餘意がある。何時も君が來ぬ夜の朝が明けるので、「朝毎に」は輕々に看過し難い有意味の措辭である。見れば庭前の撫子はこの無情の人にも似ず、朝毎に優しい笑みを捧げてゐる。(2406)この正反對の現象が撮合されると、「花にも君は」の願望が自然と生まれてくる。そしてこの碎けた句法と促調とは肯綮を得た表現で、一首の平調を破してゐる。概しては女らしい優しい味のある作。
 
山口(ノ)女王《オホキミノ》贈〔左△〕(レル)2大伴宿禰家持(ニ)1歌一首
 
○山口女王 既出(一二三二頁)。○贈 原本に賜〔右△〕とある。
 
秋芽子爾《あきはぎに》 置有露乃《おきたるつゆの》 風吹而《かぜふきて》 落涙者《おつるなみだは》 留不勝都毛《とどめかねつも》     1617
 
〔釋〕 ○かぜふきておつる 上句よりこゝまでは一種の序詞。○とどめかね 古義訓トヾミカネ〔五字傍線〕は非。
【歌意】 萩においた露に風が吹いて、露が〔二字右○〕落ちるが、その如く落ちる涙は、とめかねましたことよ。
 
〔評〕 一陣の秋風に萩の露は溜らずほろ/\と散る。この傷ましい秋思と中懷にある深い感傷とは、忽ち連繋して、とゞめかねつる涙となつた。いかにも嫋々とした線のほそい歌である。元來山口(ノ)女王は泣き蟲である。既に卷四に家持に贈つた五首の歌がある(一二三二頁)。それも泣き切れない戀の悲を訴へてゐる。如何なる事情か、兩つながら家持の返歌がない。
 
湯原(ノ)王(ノ)贈〔左△〕(レル)2娘子《ヲトメニ》1歌一首
 
(2407)○ 湯原王 既出(八六二頁)。○贈 原本に賜〔右△〕とある。
 
玉爾貫《たまにぬき》 不令消賜良牟《けたずたばらむ》 秋芽子乃《あきはぎの》 宇禮和和良葉爾《うれわわらはに》 置有白露《おけるしらつゆ》     1618
 
〔釋〕 ○うれわわらはに 末《ウレ》が〔右○〕わわらはにの意。さて「わわらはに」は難語である。卷五に「海松《ミル》の如《ゴト》わわけさがれる」とあるわわけ〔三字傍点〕が副詞格の構成になつたものか。さては「うれ」に續く副詞で、萩の末《ウレ》がそゝけ亂れた樣であらう。もし「おける」の副詞とすれば末《ウレ》ノ〔傍点〕となくては意が通じにくい。「葉」は借字と見る。契沖は末葉のそゝけたるなりといひ、古義も末のわゝけたる葉の意と解したが、詞續きに無理がある。
【歌意】 どうぞ〔三字右○〕玉として貫いて、消さずに頂きたい。あの萩の末がそゝけ亂れて、置いてある白露をさ。
 
〔評〕 およそ露の玉ぐらゐあり觸れた陳語はない。作者はその腐を化して新となし、
  わが宿の尾花がうへの白露を消たずて玉に貫くものにもが(家持――1572)
の著想とおなじ基礎上に立つて、百尺竿頭更に一歩を進めた。素より出來ない事を所望したもので、娘子に對しての調戲である。
 
大伴(ノ)家持(ガ)至(リテ)2姑《ヲバ》坂(ノ)上(ノ)郎女(ガ)竹田(ノ)庄《タドコロニ》1作(メル)歌
 
○姑 ヲバともシウトメとも訓んでよい。郎女は家持の叔母で、また姑に當る。郎女の娘坂上(ノ)大孃は家持の妻(2408)である。○竹由庄 既出(一三六五頁)。
 
玉梓乃《たまほこの》 道者雖遠《みちはとほけど》 愛哉師《はしきやし》 妹乎相見爾《いもをあひみに》 出而曾吾來之《いでてぞわがこし》     1619
 
〔釋〕 ○はしきやし 既出(四一〇・五一八頁)。〇いも 婦人の愛稱として用ゐ、こゝは郎女を斥す。古義に郎女を戲れてさしたるかとあるは非。卷三にも、坂上(ノ)二孃の夫大伴駿河麻呂が、「吾妹子が宿の橘」と詠んで、郎女を吾妹子と呼んでゐる。戲れではない。
【歌意】 奈良から〔四字右○〕竹田庄は、道は遠いが、只貴女を見る爲に、出掛けてさ、私は參つたことです。
 
〔評〕 竹田までは奈良京から七里もある。馬で飛ばすにしてからが、一寸骨が折れる。それもお目に懸かりたさの一心でと、自分の親切氣を誇燿した。この「妹」を略解に「郎女の娘(坂上大孃)を斥したるか」とあるは事實相違。郎女は竹田庄、迹見庄出遊の時は、何時も娘達を京に遺して來てゐる。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)和(フル)歌一首
 
荒玉之《あらたまの》 月立左右二《つきたつまでに》 來不益者《きまさねば》 夢西見乍《いめにしみつつ》 思曾吾勢思《おもひぞわがせし》     1620
 
〔釋〕 〇あらたまの 月に係る枕詞。もと年に係る枕詞なので、轉用して月にも係けたものか。又、疎玉の磨《ト》ぎ(2409)を、音通で月《ツキ》に係けたとも考へられる。なほ既出の同項を參照(九八六頁)。○つきたつ 月の更り立つをいふ。月の經《タ》つ意とするは後世のこと。
【歌意】 月が更《カハ》つて立つまでに、お出でなさらぬので、貴方を〔三字右○〕夢にさ、見い/\して、切ない〔三字右○〕思をさ、私が致しましたよ。
 
〔評〕 言外に暫く振に逢へた喜を寓せた挨拶の詞である。
 この贈答二首、左註によれば秋に詠んだものだが、歌には秋季の景物がない。契沖はいふ、
  この贈答、ひたぶるの雜歌なれば、左註の年月によらば第六卷(雜歌を收む)に入るべく、相聞によらば第四卷(相聞を收む)に入るべし。
と。誠にさもあらう。
 
右二首、天平十一年|己卯《ツチノトウノ》秋八月作(メル)。
 
巫部麻蘇娘子《カムコベノマソヲトメガ》歌一首
 
○巫部麻蘇娘子 既出(一三一八頁)。
 
吾屋前乃《わがやどの》 芽子花咲有《はぎのはなさけり》 見來益《みにきませ》 今二日許《いまふつかばかり》 有者將落《あらばちりなむ》     1621
 
(2410)〔釋〕 ○はぎのはなさけり 略解訓ハギハナサケリ〔七字傍線〕もよい。
【歌意】私の宿の萩の花が咲いたわい、貴方よ〔三字右○〕、見にお出で下さい。もう二日も經たうならば、散つてしまひませう。
 
〔評〕 散る一歩手前だから早く來ませといふ。畢竟萩の花に寄托して夫子の來訪を強く促したもの。この娘子甚だ狡獪である。「今二日ばかり」、かやうな數量的の語は、時に取つて非常な効果を奏するので、詞人の慣用する處。三段切れの促調、その情意の焦燥を見る。
 
大伴(ノ)田村(ノ)大孃《オホイラツメガ》贈《オクレル》2坂上(ノ)大孃(ニ)1歌二首
 
○大伴田村大孃 既出(一三六〇頁)。
 
吾屋戸乃《わがやどの》 秋之芽子開《あきのはぎさく》 夕影爾《ゆふかげに》 今毛見師香《いまもみてしか》 妹之光儀乎《いもがすがたを》     1622
 
〔釋〕 ○ゆふかげ 夕日の餘光の匂ふをいふ。○いまも 今まあ。この語の用例を見るに「も」はすべて歎辭。以下これに準ずる、古義の含むる意の助辭と見たのは非。
【歌意】 私の宿の秋の萩が咲くわ。その夕影、今まあ見たいことですよ、貴女の美しい〔三字右○〕お姿をさ。
 
(2411)〔評〕 萩の花が咲く庭上の夕明り、この幽婉な景致を背景として、妹大孃の匂やかな姿を、ぼつと浮き上がらせて見たいと、いひ遣つた。下心は只田村の家に來て貰ひたさの一念で、先方が氣の乘りさうな似つこらしい理由を提示したものだ。情味津々。
 
吾屋戸爾《わがやどに》 黄變蝦手《もみつかへるで》 毎見《みるごとに》 妹乎懸管《いもをかけつつ》 不戀日者無《こひぬひはなし》     1623
 
〔釋〕 ○もみつ 前出(二三〇八頁)。「黄變」も同項を見よ。古義訓はニホフ〔三字傍線〕。○かへるで カヘデと略しいふは後世の語。鷄冠木即ち槭樹のこと。その葉形蛙の手に似たので名づけた。○いもをかけつつ 「かけのよろしく」を見よ(四〇頁)。
【歌意】 私の宿に色付いた、鷄冠木《カヘデ》を見る度毎に、美しい〔三字右○〕貴女の上を懸けて、戀しく思はぬ時とてはないわ。
 
〔評〕 鷄冠木の紅葉に、左丹《サニ》つらふ妹を聯想した。古代人はかういふ考が強かつた、集中「紫の匂へる妹」(卷一)「秋山のしたべる妹」(卷三)「杜若匂へる妹」(卷十)「山吹の匂へる妹」「躑躅花匂へるをとめ、櫻花さかゆるをとめ」(卷十三)「紅匂ふをとめ」(卷十七)など見え、花木の美觀に深く留意した習性からと思ふ。尤も漢詩にも隨分この種の比興は多いが。
 處で紅楓は庭上の物だから、「見る毎に」といつても不斷に眼に觸れるので、結局は何時も戀してゐる事に落著し、姉妹愛の優しい情緒がよく流動してゐる。
 
(2412)坂上(ノ)大娘《オホイラツメガ》秋稻※[草冠/縵]《イナカヅラヲ》贈(レル)2大伴(ノ)家持(ニ)1歌一首
 
○秋稻※[草冠/縵] 穗の著いた稻で作つた※[草冠/縵]。「※[草冠/縵]」は既出(九四六頁)。
 
吾之蒔有《わがまける》 早田之穗立《わさたのほだち》 造有《つくりたる》 ※[草冠/縵]曾見乍《かつらぞみつつ》 師弩波世吾背《しぬばせあがせ》     1624
 
〔釋〕 ○わがまける 「蒔」神本に業〔右△〕とある。業有はナレル〔三字傍線〕と訓む。これは業《ナリ》はひとしたるをいふ。○ほだちつくりたる 穗立にて〔二字右○〕作りたるの意。穗立は生ひ立つた穗をいふ。新考は「立」を用〔右△〕又は以〔右△〕の誤としてホモチ〔三字傍線〕と訓んだ。理りはよく立つが、このまゝでもよい。
【歌意】 私が蒔いて作つた、早稻田の立穗で、拵へた※[草冠/縵]ですぞ。これを〔三字右○〕見い/\して、私のことを思つて下さい、夫《セ》の君よ。
 
〔評〕 種蒔から※[草冠/縵]になるまで、一切の辛苦をわが手にかけた物ですぞと、贈物に價値づけた。稻穗を※[草冠/縵]く即ち頭飾に使ふことは、思へば舊い習慣である。今も婦人が稻穗の簪を挿すことがある。四句上下に分離し、結句は倒装でやゝ窮屈の感がある。一種の拗體。
 新考に、竹田庄より贈れる歌としたのは無稽。
 
(2413)大伴(ノ)宿禰家持(ガ)報贈《コタフル》歌一首
 
吾妹兒之《わぎもこが》 業跡造有《なりとつくれる》 秋田《あきのたの》 早穗乃※[草冠/縵]《わさほのかづら》 雖見不飽可聞《みれどあかぬかも》     1625
 
〔釋〕 ○なりと 産業《ナリハヒ》として〔二字右○〕。○わさは 早稻《ワセ》の穗。
【歌意】 吾妹子貴女〔二字右○〕が、その業はひとして作られた、秋の田の早稻の※[草冠/縵]は〔右○〕、見ても見ても飽かぬことかまあ。
 
〔評〕 來意を承けて、その熱心に拵へた趣を、「業とつくれる」と大仰に取成し、結構な物と感謝した。
 
又|報《コタフル》d脱2著身衣〔左△〕《ヌギテキタルコロモヲ》1贈(レルニ)c家持(ニ)u歌
 
○脱著身衣 著馴らした衣を脱いでの意。「衣」原本に夜〔右△〕とあるは誤。
 
秋風之《あきかぜの》 寒比日《さむきこのごろ》 下爾將服《したにきむ》 妹之形見跡《いもがかたみと》 可都毛思努播武《かつもしぬばむ》     1626
 
〔釋〕 ○したに 上衣《ウヘノキヌ》の下に。○かつも 「かつ」は既出(一〇二六頁)。「も」は歎辭。
【歌意】 秋風の寒いこの節、幸に下された衣を〔八字右○〕、下に著込みませう。そして貴女の形見として〔二字右○〕、一面にはまあ、お情を思ひ出しませう。
 
(2414)〔評〕 稻※[草冠/縵]は遊樂、著身衣は實用で、何れも秋につけた夫思ひの情思の籠つた贈物だ。どうせ女の著身衣だから上には著らねもせぬから、「下に」といつた。その體臭の移り香に衣の主を思ひ出すなどは古代人の特權。歌は率直に實情を※[聲の耳が缶]してゐる。
 この著身衣には大孃の贈歌がない。家持の歌に返歌らしいこびた構思や斧鑿の痕の見えぬ點から推すと、元から贈歌はなかつたかも知れない。姑く疑を存する。
 
右三首、天平十一年|己卯《ミヅノトウノ》秋九月(ノ)往來。
 
○往來 應答の意。
 
大伴(ノ)宿禰家持(ガ)攀《ヲリテ》2非時《トキジキ》藤(ノ)花并|芽子黄葉《ハギノモミヂ》二物《フタモノヲ》1、贈(レル)2坂上(ノ)大孃(ニ)1歌二首
 
○攀非時(ノ)藤花云々 時ならぬ六月に藤の花の咲いたのと、萩の葉の早くも黄ばんだのとの二種を折つてとの意。「非時」は藤花と芽子とに係る。訓は連體格にはトキジキ、假體言として下に續ける時はトキジクと讀む。尚「ときじみ」を見よ(四五頁)。
 
吾屋戸之《わがやどの》 非時藤之《ときじきふぢの》 目頬布《めづらしき》 今毛見牡鹿《いまもみてしが》 妹之咲容乎《いもがゑまひを》     1627
 
〔釋〕 ○ときじきふぢの 以上初二句は「めづらしき」に係る序詞。眞淵訓による。○めづらしき 「いもが咲ま(2415)ひ」に係る。藤の花にては珍しいの意、人にかけては愛《メデ》たいの意。舊訓古義訓にメヅラシク〔五字傍線〕とあるは非。
【歌意】 私の宿の、時ならぬ時分に咲いた藤の花の珍しいやうに、愛《メヅ》らしい貴女の笑まひを、たつた今まあ見たいことです。
 
〔評〕 もとより即興的の作で深いことはないが、非時の藤を序詞に用ゐたその才慧を取る。
 
吾屋前之《わがやどの》 芽子乃下葉者《はぎのしたばは》 秋風毛《あきかぜも》 未吹者《いまだふかねば》 如此曾毛美照《かくぞもみでる》     1628
 
〔釋〕 ○したば 本の方の葉をいふ。○ふかねば 吹かぬのにの意。○もみでる もみぢてあ〔三字傍点〕るの約略。古義いふ、咲有《サキテアル》をさける〔三字傍点〕、持有《モチテアル》をもてる〔三字傍点〕と同格と。「照」は借字。
【歌意】 私の宿の萩の下葉は、秋風もまだ吹かぬのに、かうさ色付きましたわい。私の戀心の色に出るやうにさ〔私の〜右○〕。
 
〔評〕 これも萩の葉の早くも色付いた報告ではない。自分の抑へ切れぬ戀心を下に擬へて歌つたものだ。六月の藤の花と萩の黄葉、季節に遲れた物と早まつた物とを取合はせて贈る。戀愛遊戲の片鱗。
 
右二首、天平十二年|庚辰《カノエタツノ》夏|六月《ミナツキノ》往來。
 
大伴(ノ)宿禰家持(ガ)贈(レル)2坂上(ノ)大孃(ニ)1歌一首井短歌
 
(2416)叩々《ねもごろに》 物乎念者《ものをおもへば》 將言爲便《いはむすべ》 將爲爲使毛奈之《せむすべもなし》 妹與吾《いもとわれ》 手携沸而《てたづさはりて》 旦者《あしたには》 庭爾出立《にはにいでたち》 夕者《ゆふべには》 床打拂《とこうちはらひ》 白細乃《しろたへの》 袖指代而《そでさしかへて》 佐寐之夜也《さねしよや》 常爾有家類《つねにありける》 足日木能《あしひきの》 山鳥許曾婆《やまどりこそは》 峯向爾《をむかひに》 嬬問爲云《つまどひすといへ》 打蝉之《うつせみの》 人有我哉《ひとなるわれや》 如何爲跡《なにせむと》 一日一夜毛《ひとひひとよも》 離居而《はなれゐて》 嘆戀良武《なげきこふらむ》 許己念者《ここおもへば》 胸許曾痛《むねこそいため》 其故爾《そこゆゑに》 情奈具夜登《こころなぐやと》 高圓乃《たかまとの》 山爾毛野爾毎《やまにもぬにも》 打行而《うちゆきて》 遊往杼《あそびあるけど》 花耳《はなのみし》 丹穗日手有者《にほひてあれば》 毎見《みるごとに》 益而所思《ましておもほゆ》 奈何爲而《いかにして》 忘物曾《わするるものぞ》 戀云物乎《こひといふものを》     1629
 
(2417)〔釋〕 ○ねもごろに 「叩々」は正辭いふ、懇々と同義にて、字書に誠也(爾雅釋訓、同疏證)とあれば、素よりネモゴロと訓むべき文字なり、靈異記(高野本)にも叩《ネンゴロニ》求(ム)v之(ヲ)と振假名ありと。思ふに「叩」の本義は撃ち又は敲くことであるが、論語に我|叩《タヽイテ》2其兩端(ヲ)1而竭(ス)とあるは懇なる趣なので、遂に叩に懇の意が派生したのだらう。〇てたづさはり 手を取り合つて。○しろたへの 枕詞。「細」をタヘと訓む。細に精《クハ》しの義があり、精しい物は妙《タヘ》なので、タヘに細を充てた。但何れも栲《タヘ》の借訓である。「しろたへ」を見よ(一一八頁)。○そでさしかへて 袖を交して。卷五に「玉手さし交へ」とある。○さねしよ 既出(一四三五頁)。○やまどり 山雉。鶉鷄類の鳥、形雉子に似、雌雄毛色を異にす。雄は赤黄色にして赤黒の斑あり、尾長し。雌は赤黒色にして尾短し。○をむかひにつまどひす 谷を隔てゝ峯向ひに居て、妻戀して呼ぶをいふ。出典未詳。枕草子、及び奥儀抄にも「山鳥は夜になれば、雌雄は山の岑を隔てゝ別々にぬる」と見えた。「つまどひ」は既出(九六二頁)。○うつせみの 「人」の枕詞。既出(一〇七頁)。○われや 「や」は疑辭。○なにせむと 原本に「如何爲跡可」とあり、ナニストカ〔五字傍線〕と訓まれる。「か」は疑辭なれば、上の「われや」のや〔傍点〕の疑辭とさし合ふ。この疑辭の重複を、古義は古歌には例ある事なりと、輕く片付けてゐる。それは自分も既に認めてゐる事であるが、今は京本に「可」の字のないのに從つて、ナニセムトと訓だ。新考に上の「や」を歎辭と解したのは窮してゐる。○そこゆゑに 古義訓による。舊訓ソノユヱニ〔五字傍線〕。○こころなぐやと 欝氣が和《ナゴ》むかと。○あそびあるけど 「往杼」をアルケドと訓むは、卷六に「雖行往」をアルケドモと訓んだ例による。なほ「あるく」を見よ(九五一頁)。舊訓ア(2418)ソビテユケド〔七字傍線〕、略解訓アソバヒユケド〔七字傍線〕。〇はなのみし 古義訓による。眞淵はハナノミ〔四字傍線〕と四言に訓んだ。○おもほゆ 古義訓シヌバユ〔四字傍線〕。
【歌意】 つく/”\と物念ひをすると、言はうやうもなく、どう仕樣もないわ。貴女と私が親しく手を取り合つて、朝方には庭に立ち出で、夕方には寐床の塵を〔二字右○〕打拂つて、お互に袖をさし交はして、寐た夜が何時かあつた事かい。あの山鳥はさ、雄が〔二字右○〕峯向うでその雌を呼ぶとはいふ。然し山鳥でもない〔八字右○〕人間である私が、何せうとて〔右○〕一日でも一夜でも、夫婦離れ居て歎き戀ふのであらうか。こゝを思ふとこの胸がさ痛むわ。それ故に私は〔二字右○〕氣が晴れるかと思うて〔三字右○〕、高圓の山にも野にも、出掛けて往つて遊びあるくが、只花ばかりがさ咲き匂うてゐるので、それを見る夜毎に花のやうな貴女の事が〔花の〜右○〕、一層|慕《シノ》ばれて溜らない。どうして忘れられるものぞい、この〔二字右○〕戀といふものをさ。
 
〔評〕 冒頭はまづ胸中の欝積を訴へた一篇の總叙で、集中他に例を見ない手法である、大抵はかやうな句は篇中適宜な場處に按排されてある。
 家持は既に述べた如く、美男であつたと思はれる。彼をめぐる女は無數であつた。なれども、獨大孃に向つて家持はその熱愛を捧げてゐたらしい。大孃も亦稻※[草冠/縵]を作るやら針袋や著身衣を贈るやらして、その誠意の限を披瀝してゐた。
 然るに何ぞや、「袖さし交へて」さ寐し夜や常にありける」で、たまさかには逢ひもしたらうが、大抵は山鳥の如く離れ居て、妻戀に苦しんでゐる。二人の中は公然たる夫婦だつたと思はれるのに、實に不思議だ。尤(2419)も戀愛遊戲の間には、隨分口先だけの甘いことを白々といひもするが、この歌にはそんな浮氣つ氣は微塵もない。「心和ぐや」と高圓の野山を彷徨ふほど焦燥してゐる。
 家持が關係の婦人を數へてみると、新舊取混ぜて、山口(ノ)女王、紀(ノ)女郎、笠(ノ)女郎、大神(ノ)女郎、巫部(ノ)麻蘇娘子、日置(ノ)長枝娘子、安倍(ノ)女郎、中臣(ノ)女郎、河内(ノ)百枝娘子、粟田(ノ)娘子の外、名の知れぬ娘子や童女があり、先妻(第十八)まである。これでは絶對信用は置けなくなる。そこへ色々な中言《ナカゴト》即ち中傷がはひる。こんな事から大孃との間が疎隔してゐるのではあるまいか。或は又かうした婦人關係から、姑大伴(ノ)郎女の御機嫌を損ねて、逢ふ瀬を堰かれて居たのかも知れない。
  念ひ絶えわびにしものを中々になにか苦しくあひ見そめけむ(卷四、家持――750)  人眼おほみ逢はざるのみぞ情《コヽロ》さへ妹を忘れてわが念はなくに(同上――770)
  かにかくに人はいふとも若狹|道《ヂ》の後瀬《ノチセ》の山ののちも逢はむ君(同上 大孃――737)
など、この二人の戀愛行路は、甚だ難艱であつた。
 中間山鳥の傳説を引用して、その相似た孤獨の境遇に、「打蝉の人なる我や」と力強く抗議を申し込んだ一段は、意中の波瀾、篇中の變化で、頗る精彩がある。憂悶の餘、高圓の野山に屡ば出あるく、人麻呂も吾が戀の千重の一重も、なぐさもる情《コヽロ》もありやと、吾妹子が止まず出で見し、輕の市に吾が立ち聞けば――。
 (卷二、妻死之後泣血哀慟歌)
と同じ行動に出てゐる。そして人麻呂は似た人にも出會はぬので、遂に妹が名を呼んで袖を振つたが、家持は(2420)野花ばかり見て全く人影を見なかつた。生憎やその野花は何時も大孃の艶姿を聯想させ、一層身骨も蕩けるやうな戀の※[陷の旁+炎]に溜息を吐いた。「いかにして忘るゝものぞ戀といふものを」、辭句甚だ凄絶である。この末段は作者の現在の境地と感想を叙べ、一篇の枢軸を成してゐる。
 この一篇は洵に佳作である。多少の陳語もあり、人麻呂や憶良の口吻に似た箇處もあるので、踏襲呼ばりをする人もあるが、それは皮相の見で、すべて情熱の新しい息吹によつて煉成されてある。但冒頭の四句は除いて、「妹とわれ手携はり」を起首とした方が、繁縟でなくてよいかとも思ふ。
 
反歌
高圓之《たかまとの》 野邊乃容花《ぬべのかほばな》 面影爾《おもかげに》 所見乍妹者《みえつついもは》 忘不勝裳《わすれかねつも》     1630
 
〔釋〕 ○たかまとのぬべのかほばな 以上二句は序詞で、下にの如く〔三字右○〕を補つて聞く。○かほばな 未詳。集中、容花、貌花、可保花、可保我花とあり、
  いはばしの間々《マヽ》にさきたる貌花《カホバナ》の花にしありけり在りつゝ見れば(卷十――2288)
 うちひさつ宮のせ川の可保婆奈《カホバナ》の戀ひてかぬらむきそも今宵も(卷十四――3505)
  みやしろの岡べにたてる可保我波奈《カホガハナ》な咲きいでそ根こめてしぬばむ(同上――3575)
と見え、崖下にも川原にも岡べにも咲くもの。前人の説は(1)オモダカ又はムクゲ(舊説)。(2)晝顔(略解、古義、小野博などの説)。(3)美しき花をいふ、一草の名にあらず(契沖、伴信友説)。以上何れも論據の不碓實な臆斷で賛(2421)成し難い。恐らくこれは永久の謎であらう。
【歌意】 高圓の野邊の容花が、美しくて面影に立つて見えるやうに、吾妹子は面影に立つて見え/\して、忘れかねたまあ。
 
〔評〕 長歌にいはゆる「花のみし匂ひてあれば、見る毎にまして思ほゆ」に、更に詳細なる説明を與へたもの。既に「容花」といひ、次いで「面影」といふ、そこに縁語の技巧がある。
 
大伴(ノ)宿禰家持(ガ)贈(レル)2安倍女郎《アベノイラツメニ》1歌一首
 
○安倍女郎 既出(六九一・一〇九四頁)。
 
今造《いまつくる》 久邇能京爾《くにのみやこに》 秋夜乃《あきのよの》 長爾獨《ながきにひとり》 宿之苦左《ぬるがくるしさ》     1631
 
〔釋〕 ○くにのみやこに 久邇の京にて。
【歌意】 この新造の久邇の京で、秋の夜の長いのに、獨寢ることがつらいことよ。
 
〔評〕 この邊の編次は大抵天平十二三年代と覺しいから、久邇京は遷都の布告が出てからまだ二三年位に過ぎず、在官の人と商人だけが率先して移住した程度の、まだ寂しい新京であつた。その頃の作者はまだ若盛りだ。そこに秋思の促すに堪へない秋の長夜を獨寢するに至つては、その物苦しさに、平生疎い人さへ悲しくなる。ま(2422)して情人をやである。なほ卷四「一重山へなれるものを」の歌の評語の末章を參照(一三七一頁)。
 作者は天平十五年に、又こゝと同じ初二句の歌(卷六)を詠んでゐる。
 
大伴(ノ)宿禰家持(ガ)、從《ヨリ》2久邇《クニノ》京1、贈(レル)d留(レル)2寧樂宅《ナラノイヘニ》1坂上(ノ)大孃《オホイラツメニ》u歌一首
 
家持が久邇京から、奈良の舊京に留まつてゐる坂上大孃に贈つた歌との意。
 
足日木乃《あしひきの》 山邊爾居而《やまべにをりて》 秋風之《あきかぜの》 日異吹者《ひにけにふけば》 妹乎之曾念《いもをしぞおもふ》     1632
 
〔釋〕 ○ひにけに 「朝にけに」の「けに」と同じい。「け」は「けならべて」を見よ(六八二頁)。
【歌意】 私は久邇京の〔六字右○〕、山邊に住んでをつて、秋風が毎日も不斷も吹くので、悲しくなつて〔六字右○〕、貴女をさ思ひますよ。
 
〔評〕 家持の久邇京の新宅は山際で、この外にも
  久堅の雨のふる日を只ひとり山邊にをればいぶせかりけり(卷四――769)
  板葺の黒木の屋根は山ちかし明日の日取りて持ちまゐりこむ(同上――779)
など詠み、秋は林木を振ふ長風が、不斷に軒端を鳴らす處であつた。とすれば、その寂寥感からは、まづ「妹」の笑顔を思ひ浮べざるを得まい。眞率の作。
 
(2423)或者《アルヒト》贈(レル)v尼(ニ)歌二首
 
○或者 次の歌に「衣手に水澁《ミシブ》つくまで植ゑし田を」とあるのと、その次の家持との連句の尼の句に、「佐保川の水をせきあげて植ゑし田を」とあるのを湊合して考へると、田は佐保田で、即ち大伴家の佐保第の門田であらう。すると、この或者はやはり家持ではあるまいか。なぜ匿名にしたかといふに、聊か出家者を※[女+曼]※[執/衣]する嫌がある爲、わざとぼかしたのらしい。
 
手母須麻爾《てもすまに》 殖之芽子爾也《うゑしはぎにや》 還者《かへりては》 雖見不飽《みれどもあかず》 情將盡《こころつくさむ》     1633
 
〔釋〕 ○てもすまに 前出(二二五五頁)。
【歌意】 自分が甞て〔五字右○〕、手も忙がしく、栽ゑ育てた萩に、花が咲いて〔五字右○〕、却ては、見ても見飽かず、心盡しをせうことかえ。
 
〔評〕 この時代、貴紳の家には持佛が奉安され、常住の尼などを置いて供養したもので、大伴家に寄食してゐた新羅の理願尼の如きは、その主なる者であつた。そしてその手から僧尼を得度せしめることも、信仰を誇耀する貴人等の手段であつた。されば家に置いて育てた童女を、持佛に奉仕させる爲に、その情願によつて尼ともしたので、年配は十七歳を限るのであつた(僧尼令による)。
(2424) 年の十七歳は女盛りだ。尼にしてからが、勿體ないやうな艶やかさだ。だが禁斷の木の實で手が出ない。全く「見れども飽かず心盡さむ」である。なまじ尼にしてと後悔氣味な口氣で、庭上の萩に擬へて尼に調戲《カラカ》つたものだ。
 古義の解説は煩はしくて、正鵠を得ない。
 
衣手爾《ころもでに》 水澁付左右みしぶつくまで《》 殖之田乎《うゑしたを》 引板吾波倍《ひたわれはへ》 眞守有栗子《まもれるくるし》     1634
 
〔評〕 ○みしぶ 水澁。濁水に浮ぶ錆の如きもの。また水銹《ミサビ》といふ。○たを 田なる〔二字右○〕を。○ひたわれはへ 六言の句。○ひた 引板《ヒキイタ》の略。板二枚を並べて、それに繩を付けて引鳴らして、鳥獣の田畝に寄るを驚かし逐ふ。○はへ 引板の繩を引延ぶるをいふ。○くるし 「栗子」は戲書。
【歌意】 衣に水澁の付くまで、骨折つて〔四字右○〕植ゑた田なのを、その上に〔四字右○〕引板の繩を引張つて守つてゐるのが、私は苦しいわい。
 
(2425)〔評〕 童女の時分から育て上げて佛樣の奉仕者とし、飛んだ疎相が出來てはと、又見張番をする。さりとはつらい役廻りだと愚痴をこぼした。暗に一脈の風流情緒が動いてゐる。作者はその門田などを見て、農事に比喩したものだらう。
 
尼(ガ)作《ヨミ》2頭(ノ)句(ヲ)1、大伴(ノ)宿禰家持(ガ)所《ラレテ》v誂《アトラヘ》v尼(ニ)、續(ギテ)2末(ノ)句(ヲ)1等〔左△〕和(フル)歌一首
 
○尼作頭句云々 尼が上句を詠み、家持が尼に誂へられて、その下句を續いで、前の歌に應へた歌との意。上句をこゝに頭句と稱した。「等」は衍字。
 
佐保河之《さほがはの》 水乎塞上而《みづをせきあげて》 殖之田乎《うゑしたを》【尼作】 苅流早飯者《かれるはつひは》 獨奈武〔左△〕倍思《ひとりなむべし》【家持續】     1635
 
〔釋〕 ○みづをせきあげて 堰をすゑて川水を湛へて引くをいふ。○かれるはつひは 刈つて作つた初飯は。「はつひ」は初飯《ハツイヒ》の略。「早」をハツと訓む。卷十にも「梅の早花《ハツハナ》散りぬともよし」とある。略解訓カルハツイヒハ〔七字傍線〕は詞足らず。新考訓に從つた。舊訓、古義訓カルワサイヒハ〔七字傍線〕。○ひとりなむべし 「なむ」は嘗むの意。食ふことをいふ。「武」原本に流〔右△〕とあるは意が通じない。古義説により改めた。
【歌意】 骨折つて〔四字右○〕、佐保川の水を堰きためて引いて、植ゑ付けをした田を、(尼作)刈り取つてはじめて炊いだ〔三字右○〕飯は、貴方が獨おあがりなさいませ(家持代作)。
 
(2426)〔評〕 尼は上の「衣手に」の歌の返歌をすべく、上の句だけは作つたものゝ、その實挨拶の仕樣に當惑した。で肝腎の下句が出來ない。到頭投げ出して家持に拵へてくれと誂へた。そこで家持は、尼の立場から詠んだ。すべて火を水に逆襲法を執ることは、返歌の慣手段である。懸歌の色めいた下心には、全然耳を潰して、さやうに辛苦された佐保田の稻なら、その早飯はお一人で召上がつて然るべしでせうと、たゞ事に外らしたものだ。そこに贈答の妙味が存する。
 この歌に就いての諸家の説皆見當違ひである。
 三十一字歌の上句下句を二人して作ることは、物に見えたこれが最初であらう。蓋し當時の眞實の歌調は七五調になり切つて、五七五を上切、七七を下句と截然區分される時代となつたので、その結果上句と下句との音數が略平均して力量が相當する處から、問答體にせよ、一意到底體にせよ、二人打寄つての附合即ち聯作に最も都合のよい歌體となつた。そこで必然的に既存の旋頭歌における各種の問答體が短歌に應用されることゝなり、これを連《ツラネ》歌と稱した。然るに旋頭歌は却て廂を貸して主屋(2427)を取られた貌となつて、漸く衰滅の一路をたどる状態となつてしまつたのも、奇しき現象といはねばなるまい。
 
冬(ノ)雜歌
 
舍人娘子《トネリノイラツメガ》雪(ノ)歌
 
○舍人娘子 既出(二二九頁)。
 
大口能《おほくちの》 眞神之原爾《まかみのはらに》 零雪者《ふるゆきは》 甚莫零《いたくなふりそ》 家母不有國《いへもあらなくに》     1636
 
〔釋〕 ○おほくちの 「眞神」に係る枕詞。狼を眞神とも大神《オホカミ》ともいつた。すべて恐るべき物、例へば狼虎蛇の如きを神と稱したことが紀に見える。狼は口が大きいので、大口の眞神とも稱したので、「大口の」を地名の眞神の原にいひ續けたものだ。風土記には、明日香の邊に狼のゐて人食ひしより、そこを大口の眞神の原といふとある。○まがみのはら 既出(五三○頁)。△地圖 前出(2428)(二三五一頁)を見よ。
【歌意】 眞神の原に降る雪は、餘りひどく降るなよ。宿るべき〔四字右○〕家とてもないのにさ。
 
〔評〕 明日香の淨見原宮のあつた時代は、眞神の原も相當榮えてゐただらう。まだ藤原宮に遷りたての時分は、
  たわやめの袖ふき反す明日香風みやこを遠みいたづらに吹く(卷一、志貴皇子――51)
  わが背子が古家の里の飛鳥には千鳥鳴くなり君まちかねて(卷三、長屋王――268)
位の寂れ方であつたが、再び奈良に遷都されてからは、愈よ故里さびて荒廢し、
  しましくもゆきて見てしか神南備の淵はもあせて瀬にかなるらむ(卷六、大伴卿――969)
といふ有樣、それが奈良も中頃となると、もう「家もあらなくに」となつて、全くの昔の眞神の原に立ち返つてゐた。
 偶まこゝを通過した舍人娘子は、この寂寞荒涼たる野原の雪に出會つて、その進退を失した。抑も眞神の原の地理的全貌を考察すると、多武、高鞭の連山の北麓の裾野で、東は幾多の岡陵を隔てゝ欝然たる倉橋山あり、西は豐浦、雷の小岡を隔てゝ地盤は稍急峻に低下し、遠く葛城連山を望み、北は廣濶にひらけて、近く藤原宮址から遠く大和平原に續いて、次第に平夷に歸してゐる。北受け西受けの高地の冬、山に吹き當つた返しの風に卍字巴と降る雪、雪馴れぬ大和人而も京住居のか弱い婦人の心地には、どんなにか心細くも佗しくもあつたらう。「いたくな降りそ、家もあらなくに」は、決して誇張の言ではあるまい。但
  苦しくもふりくる雨か三輪の崎佐野のあたりに家もあらなくに(卷三、奥麻呂――265)
(2429)の一詠が頗るの絶唱なので、この歌の價値を半減するのは氣の毒だ。
 
太上天皇御製歌《オホキスメラミコトノミヨミマセルオホミウタ》一首
 
○太上天皇 こゝは元正天皇を申す。神龜元年二月、皇太子(聖武天皇)に御受禅あり、天平廿年四月崩御、太上天皇として廿五年まし/\た。
 
波太須珠寸《はたすすき》 尾花逆葺《をばなさかふき》 黒木用《くろぎもち》 造有室戸〔左○〕者《つくれるやどは》 迄萬代《よろづよまでに》     1637
 
〔釋〕 ○はたすすき 既出(一七八頁)。○さかふき 逆に葺くこと。略解に穗の方を下にして葺くをいふとある。現在の茅葺は穗を上にする。○くろぎ 既出(一三八一頁)。○やどは 舊訓「室」の字のみにてヤドと詠んだ。次の歌にも「室戸」とあるから戸〔右○〕を補ふ方がよい。
【歌意】 旗薄や尾花を逆葺にし、黒木を以て柱として造つたこの家は、萬代までに榮えてあれよ〔六字右○〕。
 
〔評〕 黒木の柱に茅の軒、すべて假廬の趣である。左註によると、左大臣長屋(ノ)王の宅に行幸、その饗宴の席上の御製とある。長屋王の主殿は檜の柱で瓦葺、又は板屋であつたに相違ない。がこれは天皇、太上天皇兩陛下の御臨幸を仰ぐ爲、特に臨時の假庵式の別棟を新造したものだ。勿論古例に倣つたものと覺しい。別に儉約の爲(契沖)でも、王の家作りの古へ樣(略解)なのでもない。金殿玉樓の御住居から、この目先の變つた假廬式の建(2430)物に入らせられて、大いに興味を唆られての御感想と拜察する。素より御還幸後はすぐに取毀してしまふ。それを御存知での上の「萬代までに」だとすると、大いに意味深長で面白いのみならず、主人長屋(ノ)王の款待に對する感謝の聖意まで暗に流動してゐる。
 體格風調、ともに蒼古にして雄渾である。初二句を旗薄の尾花と、新考に解したのはむづかしい。これは薄やその尾花になつたのやといふ意である。
 
天皇(ノ)御製歌《ミヨミマセルウタ》一首
 
○天皇 聖武天皇。
 
青丹吉《あをによし》 奈良乃山有《ならのやまなる》 黒木用《くろぎもち》 造有室戸者《つくれるやどは》 雖居座不飽可聞《ませどあかぬかも》     1638
 
〔釋〕 ○ませど 天皇は御自身の事に、かく敬語を用ゐられる例は多い。古義訓による。舊訓ヲレド〔三字傍線〕。
【歌意】 外ならぬ〔四字右○〕奈良山にある、黒木を以て造つたこの宿は、幾ら居ても、居飽かぬことかまあ。
 
〔評〕 上のと大同小異の御製で、これも堂々たる風格が具はつてゐる。特に奈良山の黒木もち造れると仰せられたのは、長屋(ノ)王の第が奈良山に接する佐保だからである。懷風藻にこの王の宅を寶宅、作寶《サホ》樓など書いてある。
 
右聞(ク)v之(ヲ)、御2在《イデマシテ》左大臣|長屋《ナガヤノ》王(ノ)佐保(ノ)宅《イヘニ》1肆宴《トヨノアカリキコシメシテ》、御製《ミヨミマセルオホミウタト》。
 
(2431)右二首は承るに、長屋王の佐保の宅に臨幸あらせられて、宴會あらせられて詠み給へる御製であるとの意。
 
○長屋王 既出(二六二頁)。○肆宴 酒食を設けて宴すること。肆は列ぬること。詩の大雅に肆(ネ)v莚(ヲ)設(ク)v席(ヲ)と見えた。
 
太宰(ノ)帥《カミ》大伴(ノ)卿《マヘツギミノ》冬(ノ)日見(テ)v雪(ヲ)憶《シヌベル》v京《ミヤコヲ》歌一首
 
〇大伴卿 旅人卿のこと。既出(七三六頁)。
 
沫雪《あわゆきの》 保杼呂保杼呂爾《ほどろほどろに》 零敷者《ふりしけば》 平城京師《ならのみやこし》 所念可聞《おもほゆるかも》     1639
 
〔釋〕 ○ほどろ/\に マバラに。「ほどろ」ははだれ〔三字傍点〕と同語。卷十に「庭も決太良《ハダラ》にみ雪降りたり」とある左註に、「庭も保杼呂《ホドロ》に雪ぞ降りたる」と見えた。「はだれ」を見よ。前出(二二一二頁)。
【歌意】 沫雪がまばらに/\降り敷くので、故郷の〔三字右○〕奈良の京がさ、偲ばれることかまあ。
 
〔評〕 筑紫は大和よりは雪が少い。たまに牡丹雪が散り布くと、故郷ではよく見たものだがと、測らず奈良京を偲ぶ種《クサ》はひとなり、溜らず戀しい。邊土にある羈客の離愁が眞實に動いて見える。古義に「京はいかに面白からむ」など、遊閑的に解いたのは聞違ひである。
 
(2432)太宰(ノ)帥大伴(ノ)卿(ノ)梅(ノ)歌一首
 
吾岳爾《わがをかに》 盛開有《さかりにさける》 梅花《うめのはな》 遣有雪乎《のこれるゆきを》 亂鶴鴨《まがへつるかも》     1640
 
〔釋〕 ○のこれるゆきを 新考に「を」をと〔右△〕の誤としたのは却て誤。
【歌意】 自分の住む處の岡に、盛に咲いた梅の花〔右○〕に、消え殘つた雪を、つい見|混《マガ》へたことかまあ。
 
〔評〕 消え殘つた雪を梅の花に見間違へたといふだけで、新意はない。雪に詠み合はせたので冬季の部に入れた。「殘れる雪」とあつても、春の殘雪をいふのではない。卿はまた反對に梅花の散るのを「天より雪の流れくるかも」(卷五)と詠んでゐる。卿は又屡ば「わが岳」を繰り返して、鹿や萩を詠んでゐる。宰府の周邊には岡がある。
 
角《ツヌノ》朝臣|廣辨《ヒロベガ》雪梅(ノ)歌一首
 
○角朝臣廣辨 傳未詳。雄略天皇紀に、大伴(ノ)小鹿火《ヲカヒノ》宿禰が角《ツヌノ》國に留つて、角(ノ)臣の祖となつた事が見え、天武天皇紀に、十三年十一月に朝臣姓を賜はつた。角(ノ)國は和名抄に、周防(ノ)國都濃(ノ)郡とある地。
 
沫雪爾《あわゆきに》 所落開有《ふらえてさける》 梅花《うめのはな》 君之許遣者《きみがりやらば》 與曾倍弖牟可聞《よそへてむかも》     1641
 
(2433)〔釋〕 ○ふらえ 降られ〔二字傍点〕の古言。
【歌意】 沫雪に降り催されて咲いた、この〔二字右○〕梅の花、貴女の許へ贈らうなら、人が〔二字右○〕擬《ナゾ》らへて、彼是〔二字右○〕いはうかいな。
 
〔評〕 有意か無意かは知らぬが、梅花の面白さに、それを贈らうとして、さて又世間の口が、何か譯のあるやうにいひ付けはせぬかと躊躇してゐる。この「君」は必ず婦人である。
 
安倍《アベノ》朝臣|奥道《オキミチガ》雪(ノ)歌一首
 
〇安倍朝臣奥道 續紀には、息道《オキミチ》と見え、天平寶字六年正月正六位上から從五位下、若狹守となり、同七年正月大和介、同八年九月正五位上、その十月攝津大夫となり、天平神護元年正月勲六等、二月左衛士督、同二年十一月從四位下、神護景雲元年三月中務大輔、同二年左兵衛督となる。寶龜二年閏三月無位から本位從四位下に復せられ、その九月内藏頭、同二年四月但馬守、その八月|息部《オキベノ》息道を本姓安倍朝臣に復し、同五年三月卒すとある。
 
棚霧合《たなぎらひ》 雪毛零奴可《ゆきもふらぬか》 梅花《うめのはな》 不開之代爾《さかぬがしろに》 曾倍而谷將見《そへてだにみむ》     1642
 
〔釋〕 ○たなぎらひ た靡き霧《キ》り合ひの約。雨雪などの降つてぼつとなるをいふ。あまぎらふ(卷六、卷七)あまきらし(下出)かききらし(卷九)うちきらし(前出)など、皆同意の語。「たな曇り」「との曇る」は空の曇るが主で、(2434)意が異なる。新考にすべて同意と見たのは疎い。○さかぬがしろに 「しろに」は代りにの意。○そへて 擬《ヨソ》へての意。
【歌意】 烟り渡つて、雪がまあ降つてくれぬかなあ。そしたら〔四字右○〕梅の花の咲かぬ代りに、擬《ヨソ》へてなりとも見ように。
 
〔評〕 旅人卿は「天より雪の流れくるかも」と落梅を形容したが、これは逆に一奇手を弄し、梅花を下待つ心から、それに似た雪でも思ひ切り降れと熱望した。「そへてだにみむ」の退一歩の口氣に、梅花を愛好する意が著しい。實感は稀薄である。
 
若櫻部《ワカサクラベノ》朝臣|君足《キミタルガ》雪(ノ)歌一首
 
○若櫻部朝臣君足 傳未詳。この氏は履仲天皇紀に、三年冬十一月、是日改(メ)2長眞膽連《ナガノマキモノムラジ》之本姓(ヲ)1、曰(フ)2稚櫻部(ノ)造《ミヤツコト》1と見えた。
 
天霧之《あまぎらひ》 雪毛零奴可《ゆきもふらぬか》 灼〔左△〕然《いちじろく》 此五柴爾《このいつしばに》 零卷乎將見《ふらまくをみむ》     1643
 
〔釋〕 ○いちじろく 「灼」原本に炊〔右△〕とあるは誤。○いつしば 「いちしば」を見よ(一一〇八頁)。
【歌意】 空が曇り合ひ、雪が降つてくれぬかなあ、あざやかに、この繁つた莱《シバ》草に、降らう有樣〔二字右○〕を見よう。
(2435)〔評〕 五十津莱に翫賞されるやうな雪は、底の知れた薄雪だ。隨つて景氣も面白く、翫賞の餘裕もあるといふものだ。上の「棚ぎらひ」の歌よりは遙に眞率でよい。「いち」「いつ」の疊音は有意か無意か。「降らぬか」「降らまく」は重複感が強い。
 
三野連石守《ミヌノムラジイソモリガ》梅(ノ)歌
 
〇三野連石守 傳未詳。卷十七に、天平二年冬十二月太宰(ノ)帥大伴卿(ガ)被《ラレテ》v任(ケ)2大納言(ニ)1上(レル)v京(ニ)之時、陪從(ノ)人等別(ニ)取(リテ)2海路《ヲ》1入《ル》v京《ニ》、於是悲2傷《ミ》覊旅(ヲ)1各陳《ベテ》2所心(ヲ)1作(メル)歌十首とある中に、石守の作が一首ある。
 
引攀而《ひきよぢて》 折者可落《をらばちるべく》 梅花《うめのはな》 袖爾古寸入津《そでにこきれつ》 染者雖染《しまばしむとも》
 
〔釋〕 ○ひきよぢて 引寄せ取付いて。○ちるべく 散るべくて〔右○〕。契沖訓チルベミ〔四字傍線〕。○こきれつ 扱《コ》き入《イ》れつの略。集中例の多い語である。「こき」はすごく〔三字傍点〕こと。○しむとも 下に、構はぬ、まゝよなどの語を補うて聞く。
【歌意】 枝を引張つて、折らうなら散りさうなので、その梅の花を素扱いて、袖の中に入れたことよ、よし袖が花の色に、染むなら染むとも、構はぬ〔三字右○〕。
 
〔評〕 「玉を扱き敷く」ことは、橘諸兄(ノ)卿も詠んだが、梅花を愛する餘に袖に扱き入れたのは、この作者の新案で(2436)ある。家持は父旅人卿の從人たる、先輩石守のこの語が、大層氣に入つたと見えて、
  (橘の)――初花を枝に手折りて處女等に裹にもやりみ白妙の袖にも扱きれ(卷十八、長歌――4111)
  藤浪の花なつかしみ引きよぢて袖にこきれつ染まば染むとも(卷十九、長歌――4192)
  時鳥なく羽ぶりにも散りぬべみ袖に扱きれつ藤なみの花(同反歌――4193)
  池水にかげさへ見えて咲き匂ふあしびの花を袖に扱きれな(卷廿――4512)
など、橘の花や藤の花やあしびの花を、皆袖に扱きれた。中にも卷十九の長歌は、その末章が全くこの歌の借用であるのはひどい。
 「染まば染むとも」は、家持が藤の花に應用した如く、色ある花がふさはしい、さてはこの歌の梅は紅梅であらう。
 
巨勢《コセノ》朝臣|宿奈《スクナ》麻呂(ガ)雪(ノ)歌一首
 
○巨勢朝臣宿奈麻呂 「巨勢(ノ)宿奈麻呂(ノ)朝臣」を見よ(一七八二頁)。
 
吾屋前之《わがやどの》 冬木乃上爾《ふゆぎのうへに》 零雪乎《ふるゆきを》 梅花香常《うめのはなかと》 打見都流香裳《うちみつるかも》     1645
 
〔釋〕 ○ふゆき 冬木は冬枯の木。○ふるゆき 降り溜つた雪をいふ。今降るのではない。
【歌意】 自分の宿の、冬木のうへに積る雪を、つい間違へて、梅の木〔二字右○〕の花かと見たことかまあ。
 
(2437)〔評〕 冬枯の梢の雪を見て、梅の花が咲いたと思つた錯覺、例の愛梅家の言である。
 
小治田《ヲハリダノ》朝臣|束《アヅマ》麻呂(ガ)雪(ノ)歌一首
 
○小治田朝臣東麻呂 傳未詳。
 
夜干玉乃《ぬばたまの》 今夜之雪爾《こよひのゆきに》 率所沾名《いざぬれな》 將開朝爾《あけむあしたに》 消者惜家牟《けなばをしけむ》     1646
 
〔釋〕 ○ぬばたまの 「よひ」に係る枕詞。○ぬれな 濡れむの意。「いへきかな」を見よ(一一頁)。○をしけむ 惜しから〔二字傍点〕むの約轉。
【歌意】 今夜の雪に、さあ濡れて愛でよう〔四字右○〕、この夜の明けう朝には、消えたら惜しからうぞ。
 
〔評〕 「いざぬれな」は、自分に自分がいひ聞かせた詞である。古義に、家の内の人をいざと誘ふと解したのは迂遠である。「ぬれな」は濡れるのが希望なのではない。濡れなければ見られぬからの事である。雪珍しい國の薄雪の夜の感想である。
 
忌部首《イミベノオヒト》黒麻呂(ガ)雪(ノ)歌一首
 
○忌部首黒麻呂 既出(一七六九頁)。
 
(2438)梅花《うめのはな》 枝爾可散登《えだにかちると》 見左右二《みるまでに》 風爾亂而《かぜにみだれて》 雪曾落久類《ゆきぞふりくる》     1647
 
〔釋〕 ○えだにか この「に」はユ〔傍点〕に通ふ意と見ると解し易い。
【歌意】 梅の花が、その枝から散るかと、見違へる程に、風に亂れて、雪がさ降つてくるわい。
 
〔評〕 梅雪の擬似は例の事だが、さらりとした素直な表現はよい。
 
紀(ノ)少鹿女郎《ヲジカノイラツメガ》梅(ノ)歌一首
 
○紀少鹿女郎 「紀女郎」を見よ(一二六四頁)。
 
十二月爾者《しはすには》 沫雪零跡《あわゆきふると》 不知可毛《しらねかも》 梅花開《うめのはなさく》 含不有而《ふふめらずして》     1648
 
〔釋〕 ○しはす 年竟《トシハツ》の略轉。十二月の異名。○しらねかも 知らね〔右○〕ばかもの意。○ふふめらず 「ふふむ」は含《フク》むの古言。
【歌意】 十二月には沫雪が降ると、知らぬせゐかしてまあ、梅の花が咲くわ、蕾に含んでゐないでさ。
 
〔評〕 早梅の意である。「知らねかも」の活喩は一趣向。「ふふめらずして」はいひ過ぎて餘蘊がない。
 
(2439)大伴(ノ)宿禰家持(ガ)雪梅(ノ)歌一首
 
今日零之《けふふりし》 雪爾競而《ゆきにきほひて》 我屋前之《わがやどの》 冬木梅者《ふゆきのうめは》 花開二家里《はなさきにけり》     1649
 
【歌意】 今日降つた雪に張り合つて、自分の宿の冬枯の梅は、花が咲いたことであるわい。
 
〔評〕 姿のすらりとして、調子の流滑な點を取るのみ。尚上の「ふふめりといひし梅が枝」の評語を參照(二二三〇頁)。
 
御2在《マシマシテ》西(ノ)池(ノ)邊《ベニ》1、肆宴《トヨノアカリシタマヘルトキノ》歌一首
 
聖武天皇が〔五字右○〕西の池(ノ)宮に出御があつて、饗宴し給へる時の歌との意。○西池邊 續紀に、天平十年秋七月癸酉、天皇御(シ)2大藏省(ニ)1覽《ミソナハス》2相撲(ヲ)1、晩頭御(ス)2西(ノ)池(ノ)宮(ニ)1云々、又、天平寶字六年三月壬午、於(テ)2宮(ノ)西南(ニ)1新(ニ)造(リ)2池亭(ヲ)1、設(ク)2曲水(ノ)宴(ヲ)1、と見え、奈良の内裏の西邊に池があり、その池に臨んでの宮殿や亭舍があつたと見える。宮城内の西南隅に谷田と稱する窪地あり、或はその遺址か。○歌 これは天皇の御製歌であらう。評語を見よ。
 
池邊乃《いけのべの》 松之末葉爾《まつのうらはに》 零雪者《ふるゆきは》 五百重零敷《いほへふりしけ》 明日左倍母將見《あすさへもみむ》     1650
 
(2440)【歌意】 この池の邊の、松の末葉に降る雪は、急には消えぬやうに〔九字右○〕、幾重にも一杯に降れよ。今ばかりではない〔八字右○〕、明日さへも見ようわ。
 
〔評〕 池があり、水に臨んで松がある。造庭のお約束である。その松に降る雪、色彩の配合はあざやかだ。餘りの面白さに、明日の再見を契つて、「五百重降りしけ」とまで極度の誇張がなされた。その放膽さは語言の末に屑々たる凡手の企及される處でない。
 これは必ず、聖武天皇の御製である。聖作は風格高邁にして雄渾、列聖中希に覯る歌仙であらせられる。而も内裏の池の宮の景色をわが物の如く、「明日さへも見む」と諾け張つていひ得る人は、陛下の外にある筈がない。左註には「作者未詳」と記し、殿上童の阿倍(ノ)蟲麻呂が傳誦したとの附註がある。想ふに公然たる御發表でなかつた爲に、傳誦のまゝをかうした形式で記録されたものだらう。
 阿倍蟲麻呂は天平九年九月には既に正七位上であつた。彼れがまだ内豎の童時代とすれば、これは必ず天平九年以前の聖作でなければならぬ。
 
(2441)右(ノ)一首(ハ)、作者未詳。【但、豎子阿倍(ノ)朝臣蟲麻呂(ガ)傳2誦(ス)之(ヲ)1。
 
割註は豎子の役を勤めてゐた阿倍蟲麻呂が聞き傳へて口誦んだとの意。○豎子 童で殿上に奉仕する者。卷廿の題詞にも、「寶字二年春正月三日、召(シ)2侍從豎子〔二字傍点〕王臣等(ヲ)1云々」と見えた。和名抄に、内豎三百人、俗(ニ)云(フ)、知比佐和良波《チヒサワラハ》。「豎」は周禮の内豎の注に、未(ル)v冠者之官(ノ)名とある。○阿倍朝臣蟲麻呂 既出(一二八五頁)。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)歌一首
 
○郎女歌 前後の例によれば、郎女雪梅〔二字右○〕(ノ)歌とあるべきだ。
 
沫雪乃《あわゆきの》 比日續而《このごろつぎて》 如此落者《かくふれば》 梅始花《うめのはつはな》 散香過南《ちりかすぎなむ》     1651
 
〔釋〕 ○かくふれば 「かく」を新考に「つぎて」の上に置き換へて心得べしとあるは誤。類本訓カクフラバ〔五字傍線〕に略解の從つたのは非。
【歌意】 沫雪がこの節續いて、こんなに降るので、折角の〔三字右○〕梅の初咲の花は、傷められて〔五字右○〕、散り失せてしまふかしら。  
 
〔評〕 二三輪の初花を壓する多量の雪、「散りか過ぎなむ」は梅に對する同情の語である。
 
(2442)池田(ノ)廣津娘子《ヒロツヲトメガ》梅(ノ)歌一首
 
○池田廣津娘子 傳未詳。池田は氏。卷十六にも池田(ノ)朝臣がある。廣津を雄略天皇紀の訓に此廬岐頭《ヒロキヅ》とあるに從つて、古義がこゝをもさう訓んだのは拘はつてゐる。
 
梅花《うめのはな》 折毛不折毛《をりもをらずも》 見都禮杼母《みつれども》 今夜能花爾《こよひのはなに》 尚不如家利《なほしかずけり》     1652
 
【歌意】 私はこれまで〔六字右○〕、梅の花を〔右○〕折りもして見〔二字右○〕、折らずにも見たけれど、今夜の梅の〔二字右○〕花のよさ〔三字右○〕には、矢張及ばないのでしたわ。
 
〔評〕 何の花にでも通用され、梅花に對する適實性はない。想ふに梅花宴に招かれての主人に對する辭令の語であらう。「折りも折らずも見つ」は仔細《ツブサ》に見た趣である。
 
縣犬養娘子《アガタノイヌカヒノイラツメガ》依《ヨセテ》v梅(ニ)發《ノブル》v思(ヲ)歌一首
 
〇縣犬養娘子 傳未詳。○依梅發思歌 梅にその感慨を寄せた歌との意。
 
如今《いまのごと》 心乎常爾《こころをつねに》 念有者《おもへらば》 先咲花乃《まづさくはなの》 地爾將落八方《つちにおちめやも》     1653
 
(2443)〔釋〕 〇おもへらば 思ひてあらば。○まづさくはな 春の一番驅けの花。梅のこと。
【歌意】 只今のやうに深い心を、何時もあの人が〔四字右○〕もつてをらうならば、梅の花が土に落ちるやうに、私が〔二字右○〕打棄てられることがあらうかいな。
 
〔評〕 現在が幸福だと、將來を心配する。梅花を以て自ら况へ、梅花の凋落を思うて、わが身の上の取越苦勞をし、且又今の分なら大丈夫らしいと安心の喜を歌つた。とつおひつその小さな胸を痛めて、ひたすら男の心一つにもたれ懸つてゐるのだから可憐である。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ガ)雪(ノ)歌一首
 
松影乃《まつかげの》 淺芽之上乃《あさぢのうへの》 白雪乎《しらゆきを》 不令消將置《けたずておかむ》 由毛〔二字左△〕可聞奈吉《よしもかもなき》     1654
 
〔釋〕 ○よしもかもなき 「由毛」原本に言者〔二字右△〕とあるは、何としても訓み難い。宣長は「言」を由〔右△〕の誤とした。新考が「者」をも毛〔右△〕の誤としヨシモカモナキ〔七字傍線〕と訓んだのに從つた。
【歌意】 松蔭の淺茅のうへに、降つてゐる雪を、そのまゝ消さずにおかう、手段もないことかまあ。
 
〔評〕 松の下の淺茅の枯生にちら/\とある雪景色に、作者の心は惹かれた。だが薄雪だから、融けはじめたら一遍になくなる。「消たずて」の工夫を求めたのは、當然の希望。
 
(2444)冬(ノ)相聞
 
三國眞人人足《ミクニノマヒトヒトタリガ》歌一首
 
○三國眞人人足 續紀に、慶雲二年十二月從六位上から從五位下、靈龜元年四月從五位上、養老四年正月正五位下とある。
 
高山之《たかやまの》 菅葉之努藝《すがのはしぬぎ》 零雪之《ふるゆきの》 消跡可曰毛《けぬとかいはも》 戀乃繁鷄鳩《こひのしげけく》     1655
 
〔釋〕 ○たかやまの――ふるゆきの 上三句は「けぬ」に係る序詞。○すが 既出(七三六頁)。○いはも いはむ。「も」はむ〔傍点〕の轉訛。「なかも」を見よ(一二三四頁)。○しげけく 繁くて、或は繁くあるになどの意。なほ既出(五三六頁)を見よ。「鷄」はその漢音ケイを短音として用ゐ、「鳩」はその呉音クを用ゐた。「鷄鳩」と書いたのは戲書。
【歌意】 高山の菅の葉を押靡けて降る雪の、消えるやうに、もう自分は命が消えると、いうて遣らうかえ、戀心が餘り頻るので。
 
〔評〕 雪から消《ケ》と續ける序文は序體の歌は例が多い中に、
(2445)  道にあひてゑましゝからに降る雪の消なば消ぬかに戀ひ思ふ吾妹(卷四、聖武天皇――624)
は内容まで近い。又この歌の上句は、
  奥山の菅の葉しぬぎふる雪の消なばをしけむ雨な降りそね(卷三、大伴卿――299)
とおなじである。旅人卿と人足とは同時の人で、殆ど同年配かと思はれるので、その後先は決定し難い。然し戀歌としては立派な作で、辭句に寸分のたるみもない。但「高山」はなほ奥山〔二字傍点〕とある方が菅の葉をいふにふさはしからう。この歌、古今集(戀一)には、
  奥山の菅の葉しのぎ降る雪の消ぬとかいはむ戀のしげきに
となつて、再出してゐる。
 
大伴(ノ)坂上(ノ)郎女(ノ)宴〔左○〕《ウタゲスル》歌
 
○「宴」の字、原本にない。補つた。
 
酒杯爾《さかづきに》 梅花浮《うめのはなうけ》 念共《おもふどち》 飲而後者《のみてのちには》 落去登母與之《ちりぬともよし》     1656
 
〔釋〕 ○うけ 舊訓ウケテ。古義訓ウカベ〔三字傍線〕。○のみてのちには 古義訓による、舊訓ノミテノノチハ〔七字傍線〕。
【歌意】 酒杯に梅の花を浮かせ、思ひ合つた同士、飲んでのあとは、もう散つたとても構はぬさ。
 
(2446)〔評〕 梅花を杯中に浮べるのは、時に當つての風流行爲である。
  春柳かづらにをりつ梅の花たれが浮べし酒杯のへに(卷五、彼方――840)
  梅の花ゆめに語らくみやびたる花とあれもふ酒に浮べこそ(卷五、大伴卿――852)
など見え、杯中の黄に、梅花の白の點在する風情も面白いが、美酒と梅花との芬香が相交錯するのも惡くあるまい。
 但これには來歴があるのではなからうか。支那では芳花香草を酒に浸す習慣が昔からあつた。蘭陵美酒欝金香(李白)は欝金の根を浸して酒の香味を添へたものである。椒酒(屠蘇洒)、黄柑酒、菖蒲酒、梨花酒、蘭酒等々と數へ來ると、梅花酒も亦あるべき筈、いやあつたのである。抑も梅花宴は唐めいた清遊であつた。(この事は卷五の大伴卿の梅花宴の歌の各處に於いて言及)でそれらの香酒から聯想して、杯中の梅花を云爲するに至つたものと考へられる。
  青やぎと梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし(卷五、笠沙彌――821)
は殆ど同趣意の作であるが、「おもふどち」に、殊に興宴の全貌が描き出され、和やかな情味の交流がいち著く露はれて面白く、上下句また均衡を得て、辭句は一挺の玉の如く洗煉されてゐる。
 
○(ガ)和(フル)歌一首
 
○和歌 誰れが和へたのか。必ずこの語の上に姓名があるべきだ。左註によれば、郎女の親類内だけの酒宴だから、或は作者は家持かも知れない。
 
(2447)官爾毛《つかさにも》 縱賜有《ゆるしたまへり》 今夜耳《こよひのみ》 將飲酒可毛《のまむさけかも》 散許須奈由米《ちりこすなゆめ》     1657
 
〔釋〕 ○つかさ 官司をいふ。○ゆるしたまへり 集宴することを〔七字右○〕。○のまむさけかも この「かも」は反辭。かは〔二字傍点〕に同じい。○ちりこすな 前出(二二九八頁)。
【歌意】 お上《カミ》でも親類の酒宴は〔六字右○〕、お許しなさつてゐる。だから今夜ばかり飲まう酒かいな。梅の花よ〔四字右○〕、散つてくれるなよ、きつと。
 
〔評〕 左註に見える酒宴の禁制は、續紀の天平から寶字年代までには、その記載こそないが、事實だつたに相違ない。郎女が「飲みて後には散りぬともよし」と梅花の零落を許容したのに對し、わざと法令の但書を逆用して、大聲に抗議したその態度が面白い。そして暗に留連の酒宴を希望し、その時にも杯に浮べたい梅花だ、「散りこすな」と要望した。相手の梅が非情である事は、すつかり忘れてゐる、その痴氣が又面白い。
 
右、酒(ハ)者、官禁(シメ)制《トヾム》。※[人偏+稱の旁]《イハク》、京中(ノ)閭里不(レ)v得2集宴(スルコトヲ)1、但|親親《ハラカラドモノ》一二、飲(ミ)樂(シムコトヲ)許《ユルス》者《テヘレバ》、縁(リテ)此(ニ)和《コタフル》人、作(メリ)2此發句(ヲ)1焉。
 
酒は官司から飲むことを禁制した。いふ、京《ミヤコ》の中の里々で宴會することはならぬ、但身内の者が少々寄つて飲んで慰むことは許可するといふので、それに依つて、この返歌した人は、この發句を「官にも許し給へり」と詠んだとの意。○發句 初二句を斥した。
 
(2448)藤原(ノ)皇后《オホキサイノ》奉(レル)2天皇(ニ)1御《ミ》歌一首
 
○藤原皇后 藤原(ノ)光明子。續紀、天平寶字四年六月の條に、乙丑、天平應眞仁正皇太后崩じ給ふ。姓は藤原氏、近江朝の大織冠内大臣鎌足の孫、平城朝の贈正一位太政大臣不比等の女なり。母を贈正一位縣(ノ)犬養(ノ)橘(ノ)宿禰三千代といふ。聖武皇帝儲貮となり給ひし日、納れて妃とし給ふ。時に年十六。聖武皇帝即位し給ひ、正一位を授け大夫人となす。高野(ノ)天皇及び皇太子を生ませ給ふ。天平元年大夫人を尊びて皇后となし給ふ。勝寶元年高野(ノ)天皇受禅あり、皇后職を改めて紫薇中臺と曰ふ。云々。春秋六十。と見ゆ。
 
吾背兒與《わがせこと》 二有見麻世波《ふたりみませば》 幾許香《いくばくか》 此零雪之《このふるゆきの》 懽有麻思《うれしからまし》     1658
 
〔釋〕 ○みませば この「ませ」は假設法の助動詞マシの活用。
【歌意】 わが背子と二人して見ようならば、どれ程か、この降る雪が面白く嬉しからうに。
 
〔評〕 只嬉しからうとの想像に了るのではなくて、反面に今一人して見るは寂寞に堪へぬとの情意が反映されて、(2449)訴へられてある。どんな面白いものでも一人で賞翫してゐるのは物足らぬ。同好の相手がほしい。況やその相手が我背子なら申分はない。「ふたり」と數へた處に幾許の怨意が隱然としてゐる。眞實そのものと拜承する。
 
池田(ノ)廣津娘子《ヒロツヲトメガ》歌一首
 
眞木乃於上《まきのうへに》 零置有雪乃《ふりおけるゆきの》 敷布毛《しくしくも》 所念可聞《おもほゆるかも》 佐夜問吾背《さよとへわがせ》     1659
 
〔評〕 ○まきのうへにふりおけるゆきの 「しくしく」に係る序詞。「まき」は既出(七二五頁)。「ふりおける」は既出(七七七頁)。○しくしくも 「しくしくに」を見よ(一三一五頁)。○さよ 「さ」は美稱。
【歌意】 常磐木の上にある雪が、頻つて降つたやうに〔九字右○〕、打頻つてまあ、貴方の事が思はれることよ、今夜是非に來て下さい、吾背の君よ。
 
〔評〕 「降りおける雪」は積つてゐる雪で、靜止状態だから、「しくしくも」への續きが面白くない。降りくる雪の〔六字傍点〕とあれば穩やかだ。初二句とも字餘りなのは珍しい。結句「さよとへ」を、諸註、聊か平穩ならず誤あるべしなど難じてゐるが、この方は別に申す旨なしだ。
 
大伴(ノ)宿禰|駿河《スルガ》麻呂(ガ)歌一首
 
梅花《うめのはな》 令落冬風《ちらすあらしの》 音耳《おとのみに》 聞之吾味乎《ききしわぎもを》 見良久志吉裳《みらくしよしも》     1660
 
(2450)〔釋〕 ○うめのはなちらすあらしの 「音《オト》」に係る序詞。「冬風」をアラシと讀むは意訓。○おとのみに 音沙汰ばかりに。音は噂の意。○みらくし 既出(一六二一頁)。
【歌意】 梅の花を散らす嵐が音する、その音沙汰即ち噂ばかりに聞いてゐた貴女を、今〔右○〕見ることがさ、結構なことよ。
 
〔評〕 懸想し渡つてゐた女に、始めて逢ひ得た喜を歌つた。「わぎも」を契沖は坂上(ノ)二孃をいへるなるべし(卷三、「山守のありける知らに」の條參照)といつた。或はさうかも知れない。又さうでないかも知れない。
 
紀(ノ)少|鹿《シカノ》女郎(ガ)歌一首
 
久方乃《ひさかたの》 月夜乎清美《つくよをきよみ》 梅花《うめのはな》 心開而《こころひらけて》 吾念有公《わがもへるきみ》     1661
 
〔釋〕 ○ひさかたの――うめのはな 上三句は「心開けて」に係る序詞。○つくよ 既出(五八一頁)。○こころひらけて 心の快活なるをいふ。梅の花の上では、花心まで一パイに開いた状をいふ。古義訓コゝロニサキテ〔七字傍線〕は無理。新考はコヽロヒラキテ〔七字傍線〕。○わがもへるきみ ワハモヘリキミ〔七字傍線〕とも訓まれる。
【歌意】 月がまあ清さに、梅の花が。パツと開くやうに、心がカラリとして嬉しく〔三字右○〕、私が思うてをります貴方樣よ〔右○〕。
 
〔評〕 月下に見る梅花の風情は爽快そのものである。乃ちその梅花の花輪の咲き切つた状態を借り來つて、自分(2451)の喜悦の情を形容した。時代は後先だが、白樂天の長相思に「草拆(ケテ)心開(ク)」とある句を想はせる。さて一轉、私がこんな風に思うてゐる君樣よと、その思慕の情を披瀝して、情人の上に重きを歸した。作者は順調の戀の歡喜に浸つてゐる。
 
大伴(ノ)田村(ノ)大孃《オホイラツメガ》與《オクレル》2妹坂上(ノ)大孃(ニ)1歌一首
 
沫雪之《あわゆきの》 可消物乎《けぬべきものを》 至今《いままでに》 流經者《ながらへぬるは》 妹爾相曾《いもにあはむとぞ》     1662
 
〔釋〕 ○あわゆきの 「け」に係る序語。○ながらへぬるは 存命してゐるをいふ。「ながらへ」は雪の縁語。雪の降るを「ながる」といひ、又「ながらふ」といふ。細本略解の訓による。「流經」は卷一にナガラフルと訓んである。されば古義訓ナガラヘフル〔六字傍線〕は當らない。○あはむとぞ 逢はむとての事ぞ〔三字右○〕の略。略解訓による。
【歌意】 私の命は〔四字右○〕、沫雪のやうに消える筈なのを、今までに存在《ナガラ》へてゐるのは、只〔右○〕貴妹に逢はう爲とばかりです〔六字右○〕ぞ。
 
〔評〕 雪の縁語の鎖り續けは平安期に多い手法で、一寸氣がさすが、それも内容の眞摯さに壓倒されて、苦にならない。「今までに長らへぬるは妹に逢はむとぞ」は、實に悲痛を極めた血を吐く詞である。茲に至つて前提たる「沫雪のけぬべきものを」に就いて一考察せざるを得ない。
(2452) 男女間の戀愛では、動もすれば死を云爲する。それは同情を強要する爲の誇張も含まれる。眞の姉妹の愛情には更にその必要がない。ないのに尚、作者は死の問題に觸れた。想ふに田村(ノ)大孃は折しも重病に罹つてゐたのだらう。
 男親大伴宿奈麻呂は疾うに歿し、妹坂上大孃はその母坂上郎女と共に坂上の宅に別居し、獨田村の宅に取殘されてゐる作者の境遇を思ひ遣るがよい。うら若い身空で、この孤獨の寂寞に鎖され、ひたすら人戀しさに煩悶してゐる。誠に妹大孃に贈つた八首の歌(卷四に四首、本卷に四首)を通觀せよ、言々句々、悉くこれ姉妹愛の結晶でないものはない。然るに自分から訪問する意向を叙べた作は一首もなく、一途にその來訪ばかり望んでゐる。そしてその作には神經質的な繊細な感覺の匂が何時も流れてゐる。かう考へて見ると、田村大孃は不斷ぶら/\病で藥餌に親しんでゐたのではあるまいか。
 又この田村大孃に、母坂上郎女を懷ふ作は、ありさうで一首もない。又郎女は達者な歌人で、集中七十餘首を算する程の作家でありながら、田村の娘に關する作は一首もない。互に不人情のやうだが、田村大孃は宿奈麻呂の前妻の子で、郎女とは繼の親子關係だつたからである。これが一切の疑問を解く唯一の鍵である。
 だが母こそ異なれ同父の姉妹間の情味は又格別で、田村の姉と坂上の妹とは交通はして居るが、田村大孃のこれらの贈歌に對する、坂上大孃の返歌は一首もない。大孃は夫家持には贈歌も返歌もあるから、詠めぬ人ではないとすると何だか變だ。田村大孃の歌に貰ひ泣をする評者は、この點に於いて聊か憤懣を禁じ得ない。
 
大伴(ノ)宿禰家持(ガ)歌一首
 
(2453)沫雪乃《あわゆきの》 庭爾零敷《にはにふりしき》寒夜乎《さむきよを》 手枕不纏《たまくらまかず》 一香聞將宿《ひとりかもねむ》     1663
 
〔釋〕 ○たまくら 妹が〔二字右○〕手枕の略。○まかず 「いはねしまきて」を見よ(三〇〇頁)。○ひとりかもねむ 「か」は疑辭、「も」は歎辭。
【歌意】 沫雪が庭上に降り敷いて、寒いこの夜を、愛する妹の〔五字右○〕手枕もせずして、獨寢ようことかまあ。
 
〔評〕 引手數多の作者の事だから、この妹は誰れやらわからぬ。
  ながらふる雪ふく風の寒き夜にわが背の君はひとりかぬらむ(卷一。譽謝女王――591)
と表裏して、新味はないが實感的の眞率さがある。
 
 2007年8月3日(金)午後4時25分、卷八入力終了、2008年12月17日(水)午後1時13分、卷八校正終了、
 
〔2455〜2460、目録省略〕
 
(2461)萬葉集卷九
 
本卷は雜歌、相聞、挽歌の三部に分たれ、雜歌には旅行歌及び地方的の人物や出來事を諷詠した諸篇を收め、まゝ皇子に獻進の作をも混へた。中に作者の氏又は名のみを題詞とした異樣な部分は、この卷に採録した原本の形式をそのまゝ遺したものと思はれる。相聞歌は留送別の作を主として收めた。挽歌には地方的の哀歌や憑弔の諸作を收めた。
要するに、三三の作を除く外は、全部地方色を以て蔽はれた卷である。
 
雜《ザフノ・クサ/”\ノ》歌
 
泊瀕朝倉《ハツセノアサクラノ》宮(ニ)御宇天皇御製歌《アメガシタシロシメススメラミコトノミヨミマセルオホミウタ》一首 大泊瀬稚武《オホハツセワケタケノ》天皇
 
○泊瀬朝倉宮御宇天皇 雄略天皇。なほ既出の同項を見よ(七頁)。
 
暮去者《ゆふされば》 小椋山爾《をぐらのやまに》 臥鹿之《ふすしかの》 今夜者不鳴《こよひはなかず》 寐家良霜《いねにけらしも》     1664
 
〔評〕 この歌、左註にある如く、卷八、秋雜歌の部に、崗本《ヲカモトノ》天皇(ノ)御製歌として擧げ、第三句「なく鹿の」とある。(2462)鳴く〔二字傍点〕の語の重複を厭つて、「臥す」と直したらしいが、前後の關係から見て、矢張「鳴く」の方が穩當。總べては卷八の同歌の條(二三〇二頁)を見よ。
 
右、或本云崗本天皇御製。不v審(カニセ)2正指(ヲ)1因(ツテ)以(テ)累(ネテ)載(ス)。
 
或本には舒明天皇の御製といふ。何れを指して正しいとみてよいかわからぬ。因つて又載せたとの意。
 
崗本(ノ)宮(ノ)御宇天皇(ノ)幸《イデマセル》2紀伊(ノ)國(ニ)1時(ノ)歌二首
 
舒明天皇が紀伊園に行幸せられた時の歌との意。契沖いふ、舒明天皇の紀伊行幸のこと紀に見えず、崗本宮の上後〔右○〕の字脱ちしなるべしと。後《ノチノ》崗本宮は齊明天皇。その紀伊行幸のことは、卷一の「紀温泉」を見よ(五六頁)。
 
○崗本宮 既出(一八頁)。
 
爲妹《いもがため》 吾玉拾《あれたまひろふ》 奥邊有《おきべなる》 玉縁持來《たまよせもちこ》 奥津白浪《おきつしらなみ》     1665
 
〔釋〕 ○たまひろふ 玉は鰒珠は勿論、美しい石をもいふ。○もちこ 古義訓による。舊訓モテコ〔三字傍線〕。
【歌意】 吾妹子の爲に、私は今〔右○〕玉を拾ふわ。沖の方にある玉を寄せて來いよ、沖の白波よ。
 
〔評〕 著想には一節ある。既に「沖つ白波」といへば、「沖べなる」は無用の疊語となる。そこが古歌の素朴な處といへばいはれる。次の次にこの歌再出。
 
(2463)朝霧爾《あさぎりに》 沾爾之衣《ぬれにしころも》 不干而《ほさずして》 一哉君之《ひとりやきみが》 山道將越《やまぢこゆらむ》     1666
 
〔釋〕 ○ほさずして 略解訓カワカズテ〔五字傍線〕は非。
【歌意】 朝霧に潜れてしまつた衣を、干しもせずして、只一人貴方が、山路をお越えなさらうことか。
 
〔評〕 山路の旅、朝は雲霧が多い。濕つた著物もそのまゝで、妻なしで一人行くことかと、家にある妻などが、懇にその辛苦な旅況を心に描いて同情した。「ぬれにし衣干さずして」は頗る實感的だが、惜しい事に調子が甚だ弛緩してゐる。
  二人ゆけどゆき過ぎがたき秋山をいかでか君がひとり越ゆらむ(卷二、大伯皇女――106)
  玉かつま熊しま山のゆふぐれにひとりか君が山路越ゆらむ(卷十二、――3193)
などは全く一つ鑄型から打出されたもの。なほ
  わが背子はいづくゆくらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ(卷一、當麻眞人麿妻――43)
  おくれゐて戀ひつゝをれば白雲のたなびく山を今日か越ゆらむ(卷九、――1681)
  氣《イキ》の緒にわがもふ君は、鷄がなくあづまの坂を今日か越ゆらむ(卷十二、――3194)
など等類が多い。是等は決して剽竊や模擬ではない。いはゆる「花時門を出づれば、期せざるに車轍を同じうす」とあるもので、止むを得ない。
 
右二首、作者未詳。
 
(2464)大寶(ノ)元年|辛丑《カノトノウシノ》冬十月、太上天皇《オホキスメラミコト》、大行《サキノ》天皇(ノ)、幸《イデマセル》2紀伊(ノ)國(ニ)1時歌十三首
 
大寶元年十月に、持統上皇と文武天皇とが、御一緒に紀伊國にみゆきせられた時の歌との意。○大行天皇 既出(二五三頁)。
 この題詞は元明天皇の御治世のはじめ、文武天皇は崩御後まだ稱へ名の御謚號を奉らぬ時分の記録で、文武天皇を大行天皇と書き、持統上皇はまだ榮えていらせれたので、太上天皇と書いた。
 卷一の大寶元年辛丑秋九月太上天皇幸(ス)2于紀伊(ノ)國(ニ)1時(ノ)歌、及び續紀に、大寶元年九月丁亥天皇幸(ス)2紀伊國(ニ)1、冬十月丁未車駕至(リマス)武漏《ムロノ》温泉(ニ)1、戊午車駕自(リ)2紀伊1至(リマス)とあると同時の事。
 
爲妹《いもがため》 我玉求《わがたまもとむ》 於伎邊有《おきへなる》 白玉依來《しらたまよせこ》 於岐都白浪《おきつしらなみ》     1667
 
右一首、上(ニ)既(ニ)見(エ)畢《ヲハンヌ》〔二字左△〕。但歌(ノ)辭《コトバ》小《スコシ》換(リ)、年代相違(フ)、因(リテ)以(テ)累(ネテ)載(ス)。
 
 この一首は既に上に見えてゐる、但歌の詞が少し換り、年代も違ふ、因つて又記載したとの意。「玉求む」が「玉拾ふ」、「白玉よせこ」が「玉よせもちこ」と上の歌にはあり、上のは崗本(ノ)宮(舒明天皇)の御代の作、これは文武天皇の御代の作となつてゐる。○上既見畢 原本に上見既畢〔二字右△〕とあるは誤。
 
(2465)白崎者《しらさきは》 幸在待《さきくありまて》 大船爾《おほふねに》 眞梶繋貫《まかぢしじぬき》 又將顧《またかへりみむ》     1668
 
〔釋〕 ○しらさき 白崎。紀伊國日高郡白崎村。北田邊灣と南由良港との間の地峽の突端の岬角で、雪白の巨巖が群立して奇觀を極めてゐる。又白神の磯をこゝに充てる説もある。○さきくありまて 恙なく存在して待て。「さきくあれど」を參照(一三一頁)。○まかぢしじぬき 既出「まかぢ」(八四六頁)「しじぬき」(八五一頁)を見よ。△地圖 挿圖489(二〇〇四頁)を參照。
【歌意】 白崎は、變らずに在つて待てよ。大船に兩楫を澤山たてゝ、又も立返つて見ようわ。
 
〔評〕 折柄白崎を通過しての作である。「大船に眞梶繁貫く」は大海を渡る支度だ。そんな臆劫な手數とそれに伴ふ危險とを冒してゐる途中でも、その勝景には目を瞠らずには居られないばかりか、一見飽かず、更にその再遊を契る。愈よその勝地たることが言外に彷彿する。そして「さきく在り待て」の活喩によつて、戀々の情を白崎に寄せたのも、甚だ効果的である。「さき」「さきく」の疊音の手法は、夙く人麻呂の志賀の辛崎の作(卷一)やその他にも見えるが、これは(2466)頗る自然的で、一向に斧鑿の痕がない。
 
三名部乃浦《みなべのうら》 鹽莫滿《しほなみちそね》 鹿島在《かしまなる》 釣爲海人乎《つりするあまを》 見變來六《みてかへりこむ》     1669
 
〔釋〕 ○みなべのうら 南部《ミナベ》の浦。紀伊國日高郡南部灣。○かしま 南部灣の東南の岬角より六丁ほどの海中にある小島。○かへりこむ 「變」は反に通用させた。
【歌意】 南部の浦に、汐がさしてくるなよ。あの鹿島にゐる、釣する海人を、見て返つて來うね。
 
〔評〕 鹿島は小島ながら、小舟の往來に便利な漁場だ。海人の生活は山國の人には物珍し(2467)い。逸興に乘じて「見てかへりこむ」といふほど鹿島は岸近だが、滿潮時には波が立つので、びく/\してゐる。いかにも紀の路めぐりの京人らしい。
 
朝開《あさびらき》 榜出而我者《こぎいでてわれは》 湯羅前《ゆらのさき》 釣爲海人乎《つりするあまを》 見變將來《みてかへりこむ》     1670
 
〔釋〕 ○あさびらき 既出(八二六頁)。〇ゆらのさき 「ゆらのみさき」を見よ(二〇〇三頁)。
【歌意】 朝船出に漕ぎ出して、由良の崎に〔右○〕、釣する海人を、見て返つて來うわ。
 
〔評〕 上のに比べると曲折は乏しいが、著想は同じで、海人生活をゆかしがつてゐる。朝は海人の活動開始の時刻である。
 
湯羅乃前《ゆらのさき》 鹽乾爾祁良志《しほひにけらし》 白神之《しらかみの》 礒浦箕乎《いそのうらみを》 敢而※[手偏+旁]動《あへてこぎとよむ》     1671
 
〔釋〕 ○しらかみのいそ 白崎よりその東南に亘る磯の稱か。由良の崎の北半里。地名辭書に、有田郡の白上を充てた説は、由良の崎とは餘に距離があり過ぎて問題にならぬ。○うらみ 既出(一一〇一頁)。○あへて 敢へて。
【歌意】 由良の崎邊は、汐干になつたらしい。白神の磯の浦邊を、推して船が漕ぎ騷くことわ。
 
(2468)〔評〕 行幸供奉の一行中、或は白崎の奇景を探勝の舟どもかも知れないが、白神の磯波を凌いで漕ぎ競ふを見ての作だらう。そして逆に湯羅の崎の汐干を推想した。
 「あへて」の一語、その荒磯波を征服しつゝある趣がいち著く、點睛の妙を見る。地名の湊合は珍しくないが、すべて勁健の調で終始してゐる。
 
黒牛方《くろうしがた》 鹽干乃浦乎《しほひのうらを》 紅《くれなゐの》 玉裙須蘇延《たまもすそひき》 往者誰妻《ゆくはたがつま》     1672
 
〔釋〕 ○くろうしがた 「くろうしのうみ」を見よ(二〇〇二頁)。○たがつま 下になるぞ〔三字右○〕の語を含む。
【歌意】 黒牛潟の、汐干の浦を、紅色の裳裾を引いて行くのは、一體〔二字右○〕何人の妻であるぞい〔五字右○〕。
 
〔評〕 紅の玉裳裾ひくは、吹上の長者(空穗物語に出づ)のやうな土豪、或は國衙の高級官吏といつたやうな身分柄の家の婦人が汐干狩する趣で、色彩の鮮明さが、美しく人目にも立つので、「誰が妻」と問ひ懸けたい好奇心もおこる。「紅」に對する黒牛潟の、「黒」は單に字面上の對映で、却て實感の統一を混線に導く。輕く看過するがよい。なほ
  黒牛の海くれなゐ匂ふもゝしきの大宮人しあさりすらしも(卷七――1218)
の條の評語を參照(二〇〇二頁)。
 
(2469)風早〔左△〕乃《かざはやの》 濱之白浪《はまのしらなみ》 徒《いたづらに》 於斯依久流《ここによりくる》 見人無《みるひとなしに》 一(ニ)云(フ)、於斯依久藻《コヽニヨリクモ》。     1673
 
〔釋〕 ○かざはやのはま 風早の三穗の浦におなじい。「かざはやの」「みほのうら」を見よ(九六八頁)。「早」原本に莫〔右△〕とあるは誤。○よりくる 下に歎辭を含む。○ここによりくも 四句はこの一云の方が本文より優つてゐる。
【歌意】 風速《カザハヤ》の三穗の濱の白波は、無駄にこゝに寄つてくるわ、見はやす人とてもなしにさ。
 
〔評〕 この風早は熊野灘に臨んだ突角地で、素より偏僻の荒濱だ。偶ま此處に來合はせた作者は、その好風光といふよりは、その狂瀾怒濤の壯觀に打たれたのだ。感歎の餘、千重しく/\に寄りくる波の徒勞に同情した。そこに詩味の横溢を見る。實際この風速の三穗では、一にも波、二にも波で、「見る人なしに」のいひ棄て、荒涼寂寞たる光景を寫出して、餘韻縹渺たる感がある。古義に、「家妻など率て來て共に見はやさば樂しからむに、さる人もなくて云々」とあるは、甚しい横入である。
 
右一首、山上(ノ)憶良(ガ)類聚歌林(ニ)曰(フ)、長忌寸意吉《ナガノイミキオキ》麻呂(ガ)應《ヨリテ》v詔(ニ)作(メリト)2此歌(ヲ)1。
 
類聚歌林には、意吉麻呂が仰言によつてこの歌は詠んだとあるとの意。かやうな御遊幸の途次に供奉の歌人に作歌を召されることは、例の多いことである。○長忌寸意吉麻呂 「長忌寸興麻呂」を見よ(二二三頁)。
 
(2470)我背兒我《わがせこが》 使將來歟跡《つかひこむかと》 出立之《いでたちの》 此松原乎《このまつばらを》 今日香過南《けふかすぎなむ》     1674
 
〔釋〕 〇わがせこがつかひこむかと この初二句は出立《イデタチ》の序詞。我背子の使が來うかと思うて門に〔二字右○〕出立つをいひ懸けた。○いでたちの 「いでたち」は一寸出で立つた處をいふ。「走出《ワシリデ》の堤」(卷二)の走り出〔三字傍点〕に近い。卷十三に「大船の思ひたのみて出立の〔三字傍点〕清き瀲《ナギサ》に」とあるも同意。古義に、その地の體勢の海濱などに自ら出立ちたる如く見ゆるをいふとあるは斜視。これによつて新考が地名と見たのも附會。
【歌意】 吾背子の使が來うかとて、門に〔三字右○〕出で立つ、その出立ちの處〔二字右○〕にあるこの松原を、今日行き過ぎてしまふことか。
 
〔評〕 暫く逗留した旅宿を去るとて、見馴れたその附近の松原に名殘を惜んだ。序詞が繁褥で紆曲してゐるので、主意が散漫に流れる嫌がある。
 
藤白之《ふぢしろの》 三坂乎越跡《みさかをこゆと》 白栲之《しろたへの》 我衣手者《わがころもでは》 所沾香裳《ぬれにけるかも》     1675
 
〔釋〕 ○ふぢしろのみさか 紀伊國海士郡(今海草郡)藤白山の坂路。藤代の鳥居(北口)より登り冷水《シミヅ》(南口)に降る、その間廿町ほど。「みさか」の「み」は美稱。○ぬれにける 涙に〔二字右○〕を略した。△地圖 挿圖427(一七九八頁)を參照。
(2471)【歌意】 藤白の坂を越えるとて〔右○〕、私の袖は、涙に〔二字右○〕沾れてしまつたことかまあ。
 
〔評〕 衣手の沾れはすぐ草木の露を思はせる。無論榛莽に埋まつた山路だが、實は藤白坂には悲傷に禁へぬ來歴があつた。それは磐白の岡の結松と關聯した、有馬(ノ)皇子の御事蹟である。
  四年十一月庚寅、遣(シム)3丹比(ノ)小澤(ノ)連|國襲《クニソヲシテ》絞(ラ)2有間皇子(ヲ)於藤白坂(ニ)1。(齊明天皇紀)
と見え、皇子は此處でお果てなされた。而もそれが冤罪と思はれるのだから、餘計に後人の同情する所以で、藤白坂で衣手が沾れたといへば、有馬皇子の御追悼だと承知するのが時代意識であつたと思ふ。
 尚この委しい事は、卷三、「磐白《イハシロ》の濱松が枝を引結び」の條の評語を參照(四一四頁)。
 
勢能山爾《せのやまに》 黄葉常敷《もみぢとこしく》 神岳之《かみをかの》 山黄葉者《やまのもみぢは》 今日散濫《けふかちるらむ》     1676
 
(2472)〔釋〕 ○とこしく 「常」は借字で、床敷か。床のやうに平らかに敷くこと。床次《トコナミ》の床も平らなる意である。宣長は「常」を落〔右△〕又は散〔右△〕の誤としてチリシク〔四字傍線〕と訓み、古義はそれに隨つて、「しく」は頻りの意とした。○かみをか 既出(四四七頁)及び「雷岳」(六三五頁)を見よ。
【歌意】 背(兄)の山に、紅葉が一パイに散り敷いたわい。あの神岳の紅葉は、今日さ散るであらうか。
 
〔評〕 紀伊行幸の往返何れでもいへるが、まづ往路として考へたい。藤原京附近では飛鳥の神岳が紅葉山で聞え、天武天皇はその淨見(ノ)宮から朝夕御愛賞なされた趣が、この十五年前の秋の太上天皇(持統)の御製にも見えてゐる。今次の行幸も、この神岳の紅葉を眺めつゝ御通過遊ばされた事であらう。既に紀路に入り立ち、背の山を越ゆるに及んで、その山路は紅葉の茵だ。從駕者たる作者が、茲に至つて昨日の神岳の紅葉を追憶し、その凋落を聯想して、それを愛惜するのも亦自然である。「今日か散るらむ」の端的な表現は、眼前の背の山の落葉に對映して、強い切實感を與へる。
 
山跡庭《やまとには》 聞徃歟《きこえもゆくか》 大屋〔左△〕野之《おほやぬの》 竹葉苅敷《たかばかりしき》 廬爲有跡者《いほりせりとは》     1677
 
〔釋〕 ○やまと 「やまとには」を見よ(二〇頁)。こゝはその(2)の意。○きこえもゆくか 「か」は疑辭。○おほやぬ 和名抄に、紀伊國名草郡(今海草郡)大|屋《ヤノ》郷が見え、紀の川の北岸で、山口村の南に當る。そこの野であらう。「屋」原本に我〔右△〕とあるので、舊訓はオホガヌ〔四字傍線〕であるが、紀伊にその地名がない。宣長は宅〔右△〕の誤とした。(2473)いかにも同じ、名草郡に大宅《オホヤケノ》郷もあるが、大家《オホヤノ》郷と區別の必要上、必ずそれはオホヤケと呼ぶのである。○たかば 契沖は、「竹」の上、小〔右△〕の脱としてサヽバ〔三字傍線〕と訓んだ。○いほりせり 「いほりす」を見よ(六六一頁)。
【歌意】 京の方には、知られてまあ行くことかしら、自分が今、この〔六字右○〕大宅野の竹の葉を刈つて床と〔二字右○〕敷いて、假屋泊りをしてゐるとは。
 
〔評〕 今囘の紀伊行幸歌中に現れた地名を綜合して、その通過の道順を考へると、まづ國境の眞土山を越えてから、紀の川の北岸の大和街道を西へ、大屋(ノ)郷から南下して平尾の妻の杜を過ぎ、始めて南紀の海岸黒牛の海(黒江)に出、藤白坂を經て由良、白崎、白神、南部(三名部)、風早を往復いづれかに訪問したのである。大屋から黒牛への道は即ち熊野街道である。
 大屋野は紀の川の北岸で、南北一里餘、東西は一寸見渡しの付かぬ平野だ。普通でも家郷を憶ひ家人を思ふのは旅客の常情、而も時はこれ冬十月(陰暦)の日の暮方、北山(雄山峠の山)おろしの遠慮なく吹き晒す曠野の假廬のやどり、直土に「竹葉刈り敷く」わびしの假寢では、愈よ蒸衾なごやが下を思はざるを得まい。その極、大和の家人、懷かしの妻らは、恐らくこの苦患は知るまいの愚痴の一つも溢したくなる。「聞えもゆくか」の疑問態の婉微なる辭樣が面白い表現であるばかりか、「竹葉刈り敷く」は凄酸の旅況を描き得てよい。
 
(2474)木國之《きのくにの》 昔弓雄之《むかしゆみをが》 響矢用《かぶらもち》 鹿取靡《かとりなびけし》 坂上爾曾安留《さかのへにぞある》     1678
 
〔釋〕 ○きのくにの 四句の「坂のへ」に係る語。「ゆみを」に係るのではない。諸註は誤つてある。直に「弓雄」に續くとすると、「むかし」が邪魔になつて、二句のとゝのひが惡い。で弓雄ノムカシ〔六字傍線〕と顛倒すべしといふ新考説もおこる。○ゆみを 弓をよく射る者の稱。古義に刀雄《タチヲ》、矛雄《ホコヲ》などの例なければ、「弓」は幸〔右△〕の誤にて、サツヲ〔三字傍線〕と訓むべしとあるは却て非。すべて言語には特殊の慣用がある。他の語に例がないからとて、存在してゐる語を抹消するのは、本末轉倒である、この反對に、例があるからとて、存在しない語を作るのも無法である。○かぶら 鏑矢のこと。箭の先に、木にて蕪根に似たる物を作り、中を空にして三孔を穿ち、雁股の鏃をすぐ、射れば空氣を通じて鳴る。和名抄に、鳴箭、漢書音義(ニ)云(フ)鳴鏑(ハ)如(シ)2今(ノ)鳴箭(ノ)1也、日本私記(ニ)八目鏑(ハ)|夜豆女加布良《ヤツメカブラ》とある。記の神武天皇の條に鳴鏑を※[言+可]夫良《カブラ》と見え、又卷十六にも「ひめ如夫良《カブラ》八つ手挾み」と見えた。但「響(2475)矢」を藍本、類本等にナルヤ〔三字傍線〕と訓み、又略解はナリヤ〔三字傍線〕と訓んだ。○かとりなびけし 鹿を取り伏せたの意。古義訓による。眞淵訓シカトリナメシ〔七字傍線〕。○さかのへにぞある 「紀の國の――坂の上にぞある」と初句から續く。「ある」は居るの意。ナルの意ではない。「ある」は古言多くの場合居る〔二字傍点〕の意に用ゐる。さてこの紀(ノ)國の坂はどこか。一旦は大和紀伊の國境の坂で、「紀の關守いとゞめてむかも」(卷四)と詠まれた處かとも考へてみたが、これは妻の杜のある平尾から約三十町ほどの東、吉禮《キレ》、小手穗《コテホ》の中間の山陰にある弓取坂の事であらう。三方が岡陵の袋地で一方だけ開け、一筋道が岡の上にまで通じてゐる。鹿など追ひ込まれゝば逃げ端のない場處である。△地圖 二四七三頁を參照。
【歌意】 昔弓取が鏑矢をもつて、鹿を射て取つた、紀の國の坂の上にさ、私は〔二字右○〕今居ることよ。
 
〔評〕 この時の一行中の或者は、平尾で妻の杜の賽詣も無論すましたらうが、つい近くの弓取坂の因縁を聽いて、好奇心からそこへ立寄つたものと思はれる。その因縁といふは、昔弓の上手な人物が居て、その袋地の坂下に來る程の鹿を一匹殘さず射止めたとかいふ、半英雄的傳説が存在してゐたのであらう。
 「坂の上にぞある」は坂の上に自分が立つて居るといふだけの報告ではない。此處に來ぬ他の同人達に向つての、稍誇耀的氣分の感懷である。
(2476) 「靡けし」はまことに上手な表現である。ある程の鹿が鏖殺された趣がこの一語に盡された。
 
城國爾《きのくにに》 不止將往來《やまずかよはむ》 妻社《つまのもり》 妻依來西尼《つまよしこせね》 妻常言長柄《つまといひながら》     1679
 一(ニ)云(フ)、嬬賜南〔左△〕《ツマタマハナム》、嬬云長柄《ツマトイヒナガラ》。 
〔釋〕 ○きのくに 紀の國。「城」も紀も借字。もと木の國の義。○つまのもり 紀伊國名草郡(今海草郡)東山東村平尾にある都麻都比賣《ツマツヒメノ》神社のことで、神名式に名神大とある。和名抄に、紀伊國名草郡津麻郷あり、郷名は神名による。もと名草郡の西山東村|伊太祁曾《イタケソノ》社より大寶二年の分祀といふ。祭神都麻都比賣は伊太祁曾(ノ)社の主神|五十猛《イタケルノ》命の妹神。妻の宮、妻の御前などもいつた。現在の社地より北一町の小丘がその元地である。○つまよしこせね 妻を〔右○〕依《ヨ》し來せ。「よしこせ」は略して俗にヨコセといふ。「依し」は依せの古言。佐行四段活。「來せ」は命令格。「ね」は懇命の辭。○つまといひながら 妻といふまゝにの意。この「ながら」は神ながら〔四字傍点〕のナガラと同じ意。○つまたまはなむ 一云の「南」(2477)原本に爾〔右△〕とあるは誤。略解説による。△地圖 二四七三頁。
【歌意】 願懸けに、妻の社のある〔十字右○〕紀の國に絶えず通はうぞ。妻の社《モリ》よ、私に妻をよこして與へて下さい。社の名が妻といふまゝに、お願します〔五字右○〕。
 
〔評〕 神の森の名の妻の語から幻出した空中樓閣で、よき思ひ妻を持たぬ獨身者の即興である。
 
 右一首、或云(フ)、坂上忌寸人長《サカノヘノイミキヒトヲサガ》作(メリト)。
 
○坂上忌寸人長 傳未詳。
 
後(レタル)人(ノ)歌二首
 
京に後れ居たる人の歌との意。從駕の人の妻であらう。
 
朝裳吉《あさもよし》 木方往君我《きへゆくきみが》 信士山《まつちやま》 越濫今日曾《こゆらむけふぞ》 雨莫零根《あめなふりそね》     1680
 
〔釋〕 ○あさもよし 紀の枕詞。既出(二一七頁)。「信」をマに充てたのは、マコトの意を取つた。
【歌意】 紀の國へ行く背の君が、眞土山をお越えなさらう今日ですぞ〔三字右○〕。雨が降つてくれるなよ。
 
〔評〕 眞土山は小さな峠で、降りると大和紀伊國界の境川の小溪谷、それからすぐ登つて長々と岡道を行く。さ(2478)のみ大した嶮路でもないが、國境といふ感じが、大きなハンデキヤツブを與へてゐる。尤も昔から木茂き山であつたらしい。山の雫に沾れ/\して、眞土の泥滑々に困難することは、雨の日に於いて甚しい。旅ゆく人を思ひ遣つて「越ゆらむ今日ぞ」と日取を數へ、「雨な降りそね」と行路の平安を祈る。正に家人の所作であり、情懷である。結句の一轉化、萬葉人の得意な句法であるが、これは殊に一首の司命で、全幅に有力な振動を與へる。
 
後居而《おくれゐて》 吾戀居者《わがこひをれば》 白雲《しらくもの》 棚引山乎《たなびくやまを》 今日香越濫《けふかこゆらむ》     1681
 
〔釋〕 ○わがこひをれば 下に、かくとも知らず〔七字右○〕の意を含む。
【歌意】 あとに殘つてゐて、旅立つた夫を〔六字右○〕、自分が戀ひ/\してをると、夫はさうとも知らず〔九字右○〕、雲の打靡く高山を、今日越えるであらうかしら。
 
〔釋〕 離人を憶ふ情味を盡してゐる。この一首だけ出せば相當なものだ。只類想が多い。この事、上の「朝霧にぬれにし」の條の評語を參照(二四六三頁)。
 
獻(レル)2忍壁皇子《オサカベノミコニ》1歌一首 詠(メリ)2仙人形《ヤマビトノカタヲ》1
 
○忍壁皇子 既出(六三七頁)。○詠仙人形 仙人の圖樣を詠んだとの意。これは題下の註になつてゐるが、(2479)正しくは題詞中に攝してよい。但この卷の題詞は極めて簡單で、ほんの聞書式の體裁である。
 
常之倍爾《とこしへに》 夏冬往哉《なつふゆゆけや》 裘《かはごろも》 扇不放《あふぎはなたぬ》 山住人《やまにすむひと》     1682
 
〔釋〕 ○なつふゆゆけや 夏と冬とが並び〔二字右○〕行けば〔右○〕やの意。○かはごろも 毛衣《ケゴロモ》に同じい。獣の毛皮を衣に製した物。○やまにすむひと 仙人は語では外にいひやうがないから、仙字の字義に從つて、山人、山に住む人などいつた。
【歌意】 何時も/\、夏と冬とが並行して往くせゐかして、皮衣と〔右○〕扇と〔右○〕を離さぬわい。山に住む人即ち仙人は〔右○〕。
 
〔評〕 仙人が夏の扇を持つて冬の皮衣を着てゐるその矛盾を捉へて、一寸した穴を穿つた頓才の作だ。契沖が、忍壁皇子家の屏風の繪、或は繪にかける仙人を見て詠んだと見たのはよい。但「それに寄せて皇子を祝ひ奉りて」とあるは穿鑿である。
 漢文化の影響から神仙思想がわが國民思想に浸潤し、仙人道が行はれたことは、卷三の柘枝《ツミノエ》仙の歌(八八四頁)や、卷五の反惑情歌(一四一七頁)の歌、及びその條の評語に盡した。尚懷風藻や、靈異記や元亨釋書を參考してよい。
 
獻(レル)2舍人(ノ)皇子(ニ)1歌二首
 
(2480)〇舍人皇子 傳既出(三六一頁)。
 
妹手《いもがてを》 取而引與治《とりてひきよぢ》 ※[手偏+求]手折《うちたをり》 君〔左△〕頭〔左○〕刺可《きみかざすべき》 花開鴨《はなさけるかも》     1683
 
〔釋〕 〇いもがてをとりて 「ひき」に係る序詞。○うちたをり 「※[手偏+求]」に採の義あり、意を似てウチと訓む。○きみかざすべき 「君」は原本に吾〔右△〕とあり。宣長がいふ、「君」となくては「獻」といふに當らずと。げに次の歌にも[君待ちかてに」とある。「頭」原本にない。眞淵説によつて補つた。
【歌意】 妹が手を取つて引く、その如く引つ張つて手折つて、皇子樣がお挿頭しなさるべき、花が咲いたことであるわい。
 
〔評〕 花の折枝を添へて獻つた歌であらう。例のうるさい序體、萬葉人の惡趣味である。 
香〔左△〕山者《かぐやまは》 散過去鞆《ちりすぐれども》 三和山者《みわやまは》 未含《いまだふふめり》 君待勝爾《きみまちかてに》     1684
 
〔釋〕 ○かぐやまは 香山の花は〔三字右○〕。「香」原本に春〔右△〕とある。春山でも意は通るが、三輪山と相對するには、地名を充てるのが妥當だから改めた。新考は、春日山の日〔右△〕の脱とした。春日と三輪は懸け離れ過ぎて面白くない。○みわやまは 三輪山の花は〔二字右○〕。
(2481)【歌意】 香山の花は〔二字右○〕、散り過ぎたれども、三輪山の花は〔二字右○〕、まだ蕾んでをるわ。貴方樣のお出でを、待ちかねさうにして。
 
〔評〕 この歌は和銅三年の奈良遷都以前で、舍人親王がまだ藤原京に居られた頃、三輪人の獻つたものであらう。わが里の花の消息を申し上げて、暗にその御遊覽を促した。咲くのを控へて「君待ちかてに」と花に待ちかけられては、否應なしだ。自然を愛好する人情の急處を捉まへた點、作者なか/\狡猾である。花〔右○〕の語を著下せず、直ちに香山は散り三輪山はふくめりとある省略法は、當時の歌に多い。尚下の
  山しろの久世の鷺坂神代より春ははりつゝ秋は散りつゝ(―1707)
の條(二五〇一頁)を參照。
 
泉《イヅミ》河(ノ)邊(ニテ)間人《ハシヒトノ》宿禰(ガ)作(メル)歌二首
 
○泉河 「いづみのかは」を見よ(一九四頁)。○間人宿禰 傳未詳。卷三に、間人(ノ)宿禰大浦がある(七二二頁)。同人か。△地圖及寫眞 挿圖 204(七〇四頁)65(一九一頁)444(一八五三頁)を參照。
 
河瀬《かはのせの》 激乎見者《たぎつをみれば》 玉藻鴨《たまもかも》 散亂而在《ちりみだれたる》 此河常鴨《このかはとかも》     1685
 
〔釋〕 ○たまも 「も」は歎辭。「藻」は借字。但この「藻」も、上下の「鴨」も、河の縁語によつた戲書。○ち(2482)りみだれたる 上の「かも」の係辭を一旦「たる」と承けて結び、兼ねて下の名詞「この河門」にいひ續けた變格。例は多い。○かはと 河門。既出(一一三〇頁)。「常」をトに充てるは、この集の書例。
【歌意】 河の瀬のたぎるを見ると、まるで玉がまあ散り亂れたのかと思はれる〔五字右○〕、この河門であることよまあ。
 
〔評〕 今の木津川(泉河)は總體に平淺で、こゝにいふやうな風景は餘り見られないが、下にも泉河の「床なめ」が歌はれてある。思ふにこれは久邇京の泉の大橋邊あたりの所見であらう。瀧の水玉は例に依つて例の如しだ。
 
彦星《ひこぼしの》 頭刺玉之《かざしのたまの》 嬬戀《つまごひに》 亂祁良志《みだれにけらし》 此河瀬爾《このかはのせに》     1686
 
【歌意】 彦星の挿頭の玉が、その妻戀ゆゑに、亂れ墮ちたのらしい、この河の瀬にさ。きら/\と玉が飛び散るわ〔きら〜右○〕。
 
〔評〕 七夕の日たま/\泉河に臨んでの作で、激湍の飛沫の美しさから、彦星の挿頭の玉の亂れを聯想して寄興した天外の落想、水珠の賛美も茲に至つて極まる。而も水珠〔二字傍点〕の語を道被せぬ處に蘊含の妙がある。上來の空想を突如現實に引返した結一句。そこに作者の技巧を見る。「妻戀ひに亂れにけらし」は、彦星がその妻織女に逢ひたいの一心から夢中で、その簪の玉の外れ落ちるのも知らぬ趣である。
 
(2483)鷺《サギ》坂(ニテ)作歌一首
 
鷺坂 山城國久世都久世町。下にも{山城の久世の鷺坂」と見え、山を鷺坂山ともいふ。寺田|富野《トノ》の邊より望めば一大高丘で、古へは林木が茂つて、鷺の群棲してゐた處であらう。坂は岡側に通じ、道傍の林間に久世神社がある。大倭本紀に、倭武尊薨去の時白鳥に化り給ひ、天を翔り久世の鷺坂小笹が上にとゞまりますといふはこの地を稱する。△地圖挿圖 204(七〇四頁)を參照。
 
白鳥《しらとりの》 鷺坂山《さぎさかやまの》 松影《まつかげに》 宿而徃奈《やどりてゆかな》 夜毛深往乎《よもふけゆくを》     1687
 
〔釋〕 ○しらとりの 鷺に係る枕詞。紀記の倭武(ノ)尊の條の白鳥も鷺とおぼしい。○さぎさかやま 「鷺坂」の項を見よ。○まつかげ 「影」は蔭の借字。○ふけゆくを 更けゆくもの〔二字右○〕を。
(2484)【歌意】 この〔二字右○〕鷺坂山の松の蔭に、泊つてゆかうわ、夜がまあ更けてゆくもの〔二字右○〕を。
 
〔評〕 何處から來たかは知らぬが、奈良京へはまだ三里強あるのに、夜ははや更けたのである。歩いてもだめと諦めて、此處に野宿をして往かう、鷺坂山の松蔭を頼んだ。古代の旅情がまざ/\と窺はれて、凄酸そのものである。といつても本當に野宿をしたと考へるのは早い。事實はその邊の人家に泊を求めたのかも知れない。旅行苦を強調する手段として、かく比興して歌つたのだ。一首の司命たる「夜の更けゆく」を最後に置いて、上には反射的效果を與へ、下には餘情を搖曳せしめたその句法も面白い。
 
名木河《ナキカハニテ》作(メル)歌一〔左△〕首
 
名木河で詠んだ歌との意。「一首」は原本二首〔二字右△〕とあるが、次の歌は海邊の作だから、こゝは一首とあるべきだ。次の歌の題詞が書寫の際脱ちた本に就いて、後人が一連に數へて二首と改めたらしい。それといふも、このあたり編次が混亂したからで、下にも名木河作歌三首が見え、この「あぶり干す」の類歌が出てゐる點から推すと、この歌は宜しく下の「名木河作歌」の題下に還元して、そこを四首と數へて然るべきだ。○名木河 和名抄に、山城國久世郡|那紀《ナキノ》郷あり、那紀郷は同郡大久保、富野《トノノ》莊邊に亘る舊名であらう。河は地名辭書には栗隈溝《クリクマノウナテ》を充てたが覺束ない。思ふに那紀の西偏を局る泉河(木津川)の一名ではあるまいか。山城の淀道はこゝに通じてゐる。序にいふ、那紀、名木は水葱《ナギ》の借字であらう。抑もこの郷は泉河の河曲に當る卑濕の地で、北は巨浸小倉(巨椋)の地に接してゐる。土地柄その水田に水葱《ナギ》を作つて、奈良人の好物たる羮に、その食膳を(2485)賑はしたものだらう。△地圖 挿圖 204(七〇四頁)を參照。
 
※[火三つ]干《あぶりほす》 人母在八方《ひともあれやも》 沾衣乎《ぬれぎぬを》 家者夜良奈《いへにはやらな》 ※[羈の馬が奇]印《たびのしるしに》     1688
 
〔釋〕 ○あぶりほす 火にて〔三字右○〕※[火三つ]り干す。○ひともあれやも この「やも」は、やは〔二字傍点〕と同意の反動辭。○いへには 「には」に差別の意がある。
【歌意】 火で焙《アブ》り干してくれる、人がまああることかい。この濡れた衣をこのまゝ、特に〔六字右○〕家には送らうぞ、自分の旅の記念にさ。
 
〔評〕 名木河邊を通過する折の春雨だ。あたりに掩蔽物のない吹き晒しだから、定めてよく濡れたらう。無論その濡衣の始末に困つた。でいつそ家に送つてわが家人には見せうといふ。蓋し苦難のあとを示してその同情を要求したいのである。抑も「旅のしるし」には、萩が花に衣匂はす風流韻事もあり、玉を拾ひ藻を採つての家苞もあるが、濡衣を送るに至つては甚だ實際的で、情味中心の作である。
 
杏人《カラヒトノ》濱(ニテ)作(メル)歌一首〔七字左○〕
 
茲にこの題詞を補つた。理由は上の名木河作歌の題詞の處で述べた。
 
(2486)在衣邊《ありそべに》 著而榜尼《つきてこがさね》 杏人〔左△〕《からひとの》 濱過者《はまをすぐるは》 戀布在奈利《こほしくあるなり》     1689
 
〔釋〕 ○ありそべ 荒磯《アリソ》邊。「在衣」卷一には有衣と書き、何れも借字。○こがさね 宣長訓による。「尼」は呉音ニ、一音ナイ、通音ではネの音を生ずる。○からひとのはま 所在未詳。舊訓にかくあるが、杏をカラとのみ訓むは不當である。或は杏林の人の略で、クスヒトノか。或は「杏」は吉〔右△〕の誤でヨキヒトノか。或は「人」は之〔右△〕の誤か又は衍字で、カラモヽノか。○はまをすぐるは 舊訓その他の訓はハマヲスグレバ〔七字傍線〕。
【歌意】 船頭よ、成るたけ〔七字右○〕磯際に近づいて漕ぎなさいよ。名からして面白い〔八字右○〕唐人の濱を通るのは、戀しいことであるわい。
 
〔評〕 船君かその左右の人かは知らぬが、その人が舟子等にいひかけた歌である。景色も勿論佳かつたらうが、第一に濱のが大いなる興味を惹いて、漠然と看過し切れなかつたのだらう。必ず唐人の濱とすれば、「から」の稱呼が特別の崇拜に値した時代人の意識からは、さやうに「戀しくある」のも當然であらう。或は又、その濱の人か物か事かに、何か懷かしい因縁があつての事であらう。
 
高島《タカシマニテ》作(メル)歌二首
 
○高島 近江國高島郡。
 
(2487)高島之《たかしまの》 阿渡河波者《あどかはなみは》 驟鞆《さわげども》 吾者家思《われはいへおもふ》 宿加奈之彌《やどりかなしみ》     1690
 
卷七「竹島《タカシマ》の阿戸《アド》かは波はとよめども〔五字右○〕、(一訓サワゲドモ)われは家おもふやどりかなしみ」の再出。同歌の條(二〇一八頁)を見よ。
 
客在者《たびにあれば》 三更刺而《よなかをさして》 照月《てるつきの》 高島山《たかしまやまに》 隱惜毛《かくらくをしも》     1691
 
〔釋〕 ○よなかをさして 「よなか」は夜中潟のこと。卷七「さ夜ふけて夜中のかたに」を見よ(二〇〇七頁)。「三更」は午後十二時より午前二時の稱なので、夜中に充てた。○たかしまやま 近江國高島郡の山。琵琶湖畔から見える西方の山を稱した。尚「たかしまのかちぬ」を參照。 △地圖及寫眞 挿圖 202(七〇一頁)201(七〇〇頁)を參照。
【歌意】 自分は〔三字右○〕旅中にあるので、夜中の潟〔二字右○〕をさして照る月が、早くも〔三字右○〕高島山に、隱れることが惜しいわい。
 
〔評〕 北近江の湖畔に、道を貪つて宿を取りをくれた旅人の作か。東夜中潟あたりは遙に月の斜光が反射して、きら/\と光つてゐる。これを「夜中をさして照る」といつた。月明りを便りに心細くも獨曠野の路を辿るうち、早その月も西の方高島山に没せんとするに至つて、前途は絶望だ。「隱らくをしも」はその焦燥の聲である。月は多分七八日頃の上弦の月であらう。(2488)新考に「三更をさして」といへる、もし地名とせば、高島山より西方にありとせざるべからず」とあるは誤認である。
 
紀伊《キノ》國(ニテ)作(メル)歌
 
吾戀《わがこふる》 妹相佐受《いもはあはさず》 玉浦丹《たまのうらに》 衣片敷《ころもかたしき》 一鴨將寐《ひとりかもねむ》     1692
 
〔釋〕 ○いもはあはさす 「あはさず」はあはずの延言。人の上に就いていふ語。故にイモニ〔三字傍線〕と舊訓にあるは非。略解訓による。○ころもかたしき 片寢して衣や袖を下に敷くこと。獨寢の状態。
【歌意】 自分が戀しく思ふ、吾妹子は逢うてくれず、珠の浦に、衣を片敷いて、空しく讀寢ようことかまあ。
 
〔評〕 旅中の事だから、故里の妹に逢ひやうもない。それを故意に逢うてくれぬものゝやうに表裏にいひ成した、その幽怨の情致は人の胸を拍つ。さてそれが襯染となりて、衣片敷く獨寢の遺憾さが強く映出されてくる。旅先での浮氣のやうに新考が見たのは淺い。下句は次の歌も相似し、また卷十には同句がある。
 
玉※[匣の甲が臾]《たまくしげ》 開卷惜《あけまくをしき》 ※[立心偏+(又/宏の下)]夜矣《あたらよを》 妹〔左○〕袖可禮而〔左△〕《いもがそでかれ》 一鴨將寐《ひとりかもねむ》     1693
 
〔釋〕 〇あたらよを 「※[立心偏+(又/宏の下)]は※[立心偏+(メ/宏の下)]の書寫字、※[立心偏+(メ/宏の下)は悋の俗字、悋は吝と同意。吝は惜しむの意ゆゑ、アタラに充て(2489)た。○いもがそでかれ 新考が「袖」の上に妹〔右△〕を補つてイモガソデカレテと訓んだのを助けて、「而」を衍字として訓まぬ。「かれ」は離《カ》れの意。舊訓「袖」をコロモデ〔四字傍線〕と讀んであるのは非。意も亦不完。
【歌意】 明けようことの惜しい、勿體ないこの〔二字右○〕夜を、吾妹子の袖から遠放つて、獨寢ようことかまあ。
 
〔釋〕 これも家人を懷ふ旅情を歌つたもので、一途に夜を禮讃して、「ひとりかも寢む」の歎意を永からしめた。もし「紀伊國作歌」の題詞のもとになければ、普通の相聞歌となる。
 
鷺坂(ニテ)作(メル)歌一首
 
細比禮乃《ほそひれの》 鷺坂山《さぎさかやまの》 白管自《しらつつじ》 吾爾尼保波尼〔左△〕《われににほはね》 妹爾示《いもにしめさむ》     1694
 
〔釋〕 ○ほそひれの 鷺の頭毛が細い領巾《ヒレ》を懸けた状に似るので、鷺の枕詞とする。「ひれ」を見よ(五七四頁)。京本も仙覺も契沖も古義も、皆この訓である。舊訓タクヒレノ〔五字傍線〕とあるが、契沖のいふ如く、「細」はタク(栲)とは讀み難い。栲の色は白い處から、鷺に續ける爲に強ひて訓み付けたものだ。又思ふに「乃」は衍字で、クハシヒレと訓むべきか。さらば精妙なる領巾の意となり、鷺の頭毛の美しさに稱ふ。○しらつつじ 「いはつつじ」を見よ(四九五頁)。○われににほはね 我が衣に〔二字右○〕その色が移れの意。衣に〔二字傍点〕となくてもその意に聞くのが奈良人の通念である。契沖説によつて、原本に※[氏/一]〔右△〕とあるを「尼」に改めた。
【歌意】 鷺坂山の白躑躅よ、わが衣に〔四字右○〕匂うてくれよ、家苞にして〔五字右○〕、吾妹子に示さうわ。
 
(2490)〔評〕 萩を見ては「衣匂はせ旅のしるしに」(卷二)、黄土を見ては「岸の埴生に匂はさましを」(卷一)、「岸の埴生に匂ひて行かな」(卷六)など、皆萬葉人の套語である。但白躑躅ではその色が衣に句ひさうもない。「白」或は誤字かと思へど、萬葉人は聯想的に平氣でかうもいつてゐる。
 
泉河(ニテ)作(メル)歌一首
 
妹門《いもがかど》 入出見河乃《いりいづみがはの》 床奈馬爾《とこなめに》 三雪遺《みゆきのこれり》 未冬鴨《いまだふゆかも》     1695
 
〔釋〕 〇いもがかどいりいづ 妹が家の門を入り又出づの意にて、泉《イヅミ》河に懸けた序詞。○いづみがは 「いづみのかは」を見よ(一九四頁)。○とこなめ 床列《トコナミ》の意。既出(一五〇頁)。新考に石梁《イハハシ》と同樣に解したのは非。
【歌意】 泉河の床列に、雪が殘つてゐるわ。まだ冬かなあ。春だと思つたのに〔八字右○〕。
 
〔評〕 平地や草木の上こそ融けたれ、岩石殊に河原の床列《トコナメ》などには、白々と殘雪が溜つてゐる。作者はこれに寒氣立つて冬の名殘を感じた。すべて早春の趣である。契沖が
  雪といふは實の雪にあらじ、白沫の巖のもとに積れるをいろへて云へるなるべし。
とは何事ぞ。新考もその尾に附いて、白沫にあらず打掛くる波なりなどいつてゐる。
 古へは妻君の家に毎夜通ふ慣習だつたから、「妹が門入り出づ」は格別奇手を弄した措辭ではない。卷七に(2491)も「妹が門|出入《イデイリ》の川の瀬を早み」とある。が再三いふやうに、かゝる序態は技巧過ぎて、好ましいものとは思はない。
 
名木《ナギ》河(ニテ)作(メル)歌三〔右△〕首
 
○三首 四〔右△〕首とあるべき理由は、上の名木河二首とある題下に説明した。
 
衣手乃《ころもでの》 名木之河邊乎《なぎのかはべを》 春雨《はるさめに》 吾立沾等《わがたちぬると》 家知〔左△〕良武可《いへしるらむか》     1696
 
〔釋〕 ○ころもでのなぎ 「ころもでの」は枕詞に違ひないが、名木に係る意は不明。或は衣手の靡キをナギと約めて、名木に係けたものか。略解に衣手の「沾る」といふ續〔四字傍点〕きといひ、又古義は衣手の裁ちを第四句の「たち」に續けたものと見た。餘り離れ過ぎた跨續で無理であらう。○なぎのかはべを この「を」は、ニ〔傍点〕に通ふ意。宣長が「乎」を之〔右△〕の誤としたのは却て非。○いへしるらむか 「いへ」は家人の意、「知」原本に念〔右△〕とある。「家念ふらむか」では意が明晰を缺く。よつて改めた。
【歌意】 名木河の河邊に、私が今〔右○〕、春雨に立ち沾れしてゐると、家人は知るであらうか。
 
〔評〕 苦につけ樂につけ、家を懷ひ家人を戀ひ、その所思を訴へるのは行人の常情である。「たち沾る」にその困憊の状態が歴然としてゐる。
 
(2492)家人《いへびとの》 使在之《つかひなるらし》 春雨乃《はるさめの》 與久列杼吾乎《よくれどわれを》 沾念者《ぬらすおもへば》     1697
 
〔釋〕 ○いへびと 家にある人、おもに妻をいふ。○よくれど 避《ヨ》けても。
【歌意】 この春雨は、家人のよこした使であるらしい。いくら〔三字右○〕避けても/\、自分を沾らすことを思ふとさ。
 
〔評〕 家人の使は先から先と、何でもかでも自分に尋ね合はなければ納まらない。春雨が餘りしつこく附き纏うて沾らすので、まるで家人の使だと思つた。戲謔の語、本筋ではないが、時に取つて面白い。
 
※[火三つ]干《あぶりほす》 人母在八方《ひともあれやも》 家人《いへびとの》 春雨須良乎《はるさめすらを》 間使爾爲《まづかひにする》     1698
 
〔釋〕 ○まづかひ 既出(一六七三頁)。
【歌意】 外に〔二字右○〕焙り干してくれる人がまあ、あることかい。然るに〔三字右○〕家人が、こんな厄介な〔六字右○〕春雨をすら、使にしてよこすわ。沾れて仕樣がない〔八字右○〕。
 
〔評〕 上に「使なるらし」といひ、これは更に一歩を進めて「間使にする」と斷定した。かくして聯作は進行する。
 上にある名木河の「あぶり干す」の歌は、聯作の順序上、この歌の次に置くべきである。 
(2493)宇治河(ニテ)作(メル)歌
 
歌に巨椋の入江と伏見の田居とが詠み合はせてある。宇治河は兩地の中間を流れてゐる。○宇治河 既出(一九二頁)
 
巨椋乃《をほくらの》 入江響奈理《いりえとよむなり》 射目人乃《いめびとの》 伏見何田井爾《ふしみがたゐに》 鴈渡良之《かりわたるらし》     1699
 
〔釋〕 ○おほくらのいりえ 巨椋(ノ)入江。巨椋(ノ)池のこと。今訛つて小倉《ヲグラ》の池といふ。山城國久世郡にあり、東西五十町南北四十町に亘る宇治川の曲江である。故に巨椋の入江と稱する。湖の東岸小倉町に巨椋神社あり。神名式に出てゐる。近年排水して盡く水田となつた。○いめびとの 伏見に係る枕詞。「いめびと」は射目《イメ》人で、射目は射部《イベ》の轉。射部人は叢に打伏して鹿など伺ひ見るので、伏見《フシミ》に續けた。尚「いめたてわたし」を見よ(一六三八頁)。○ふしみ 今の山城國京都市伏見(2494)區の地。北に丘陵を負ひ、南は低地で宇治川に臨む。その低地は古への伏見の田居に當る。○たゐ 田居。田のある居處をいふ。「井」は借字。
【歌意】 巨椋の入江が、響き渡ることよ、さては伏見の田面に、雁が飛び渡つてくるらしい。
 
〔評〕 叙景の作に地名を湊合することは、詞人の慣手段で珍しくはない。が巨椋の池と伏見の田居といへば、そこに平遠なる大水郷の景致が彷彿し、必然的に秋冬の候は寒雁の來往を見る。これ入江に響く雁聲に、その伏見の田居に渡ることを推定する所以である。「聲」の一字を著けずして」そのさやかな聲が虚空に遍滿する。體格は高渾に、風調は清爽に、措辭は潔淨である。
 
金風《あきかぜに》 山吹瀬乃《やまぶきのせの》 響苗《とよむなべ》 天雲翔《あまぐもかけり》 鴈亘〔左△〕鴨《かりわたるかも》     1700
 
〔釋〕 〇あきかぜに 「金風」は秋風のこと。金は五行説では西に配し、秋に充てる。略解訓による。舊訓アキカゼノ〔五字傍線〕は、秋風が山を吹くを山吹の瀬にいひ懸けたと見た爲で、甚だ迂拙である。古義はこれに同じてゐる。○やまぶきのせ 山吹の瀬。山城國字治郡宇治川の北岸。稚郎子《ワカイラツコ》の御陵のある邊をいふ。これに朝日山(離宮山)(2495)の山下とする説と、宇治橋の下手とする説とがある。歌の趣から見て、前説がふさはしい。○あまぐも 天の雲。雨雲ではない。○かりわたるかも 「亘」は原本に相〔右△〕とある。宣長説によつて改めた。△地圖及寫眞 挿圖 496(二〇二○頁)190(六八三頁)を參照。
【歌意】 秋風に、宇治川の〔四字右○〕山吹の瀬の音が、響き鳴るにつれて、天雲を翔つて、雁が飛び渡ることよ。
 
〔評〕 秋の河風は烈しく吹いて、瀬鳴りの音が常よりも高い。雲行は從つて荒い。
  あし引の山川の瀬の鳴るなへに弓月が嶽に雲たち渡る(卷七―1088)
と似た景趣で、更に天空を破つて鳴き渡る一行の雁が點加された。引締つて深刻な點は弓月が嶽に稍及ばないが、複雜な取材を旨く統一して、悲秋肅殺の氣が全面的に漲つてゐる。
獻(レル)2弓削《ユゲノ》皇子(ニ)1歌三首
 
○弓削皇子 既出(三五〇頁)。
 
佐宵中等《さよなかと》 夜者深去良斯《よはふけぬらし》 鴈音《かりがねの》 所聞空《きこゆるそらに》 月渡見《つきわたるみゆ》     1701
 
〔釋〕 〇さよなか 眞夜中。「さ」は美稱。○つきわたる 月が空を經行くをいふ。
【歌意】 あれ雁の鳴く空に、月がもう廻つて見えることよ。もはや眞夜中と、この夜は更けたらしい。
 
(2496)〔評〕 天地の靜寂を破つて、過雁の聲が端なく落ち來るに、ふと見上げると、その中空に一輪の明月の滿ちたのを見て、さて/\夜の更けた事よと愕いた。總べての物音は夜が更けると、愈よ澄みまさるから、「雁が音の聞ゆる空に」に、深夜の靜寂の景氣が隱然としてゐる。身外何物もなく、只耳に雁聲、眼に明月のみあるこの間の感愴は、隈なく歌ひ盡されてある。格調は高古莊重で、修辭は天衣無縫である。人口に昔から膾炙されたと見えて、古今集(秋)にも再出した。作者は凡常の歌人ではない。
 
妹當《いもがあたり》 茂苅音《しげきかりがね》 夕霧《ゆふぎりと》 來鳴而過去《きなきてすぎぬ》 及乏《ともしきまでに》     1702
 
〔釋〕 ○いもがあたり 妹が家の〔二字右○〕あたり。四句の「來鳴きて過ぎぬ」に係る。○しげきかりがね 茂木《シゲキ》を刈るを雁にいひかけた。茂木は榛莽《モサ》である。シゲミカリガネと訓むもよい。宣長は「茂」を衣〔右△〕の誤としてコロモカリガネ〔七字傍線〕と訓んだ。衣を借るは妹に縁はあるが、こゝは雁の修飾語であればよいのだから、あながち妹に關係を要しない。とすれば成るべく本文のまゝでありたい。
【歌意】 妹が家の〔二字右○〕あたりを、茂木《シゲキ》を刈るといふ稱の雁が、夕霧に來て鳴いて通つたわい。羨ましいほどに。
 
〔評〕 夕かけて妹が家を訪はうとしての途上の作か。さてこそ霧もた靡き、雁もよく移動する時刻である。その聲を妹があたりに聞く、懷かしいものゝ重ね/\で、作者の心緒は掻き亂されるのである。二句の小技巧「亭(2497)主の好きな赤帽子」だが、妹が住む村落の暮秋らしい物寂びた肯綮が、茂木を刈るに點出されてゐる。
 
雲隱《くもがくり》 鴈鳴時《かりなくときは》 秋山《あきやまの》 黄葉片待《もみぢかたまつ》 時者雖過《ときはすぐれど》     1703
 
〔釋〕 ○かりなくときは 略解訓による。舊訓も古義もカリナクトキニ〔七字傍線〕。○かたまつ 「かたまちがてり」を見よ(一九八八頁)。但こゝは偏に待つの意。○ときはすぐれど 古訓トキハスグトモ〔七字傍線〕。宣長は「雖」の下不〔右△〕の脱としてスギネド〔四字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 雲隱れに雁の鳴く時〔右○〕は、秋の山の紅葉を、偏に待つことぞ〔三字右○〕、時季は過ぎたけれど。
 
〔評〕 鴈聲を聞く時は時季でなくても紅葉が戀しくなるの意である。結句は過ぐれど〔三字傍点〕でも過ぐとも〔四字傍点〕でも、過ぎねど〔四字傍点〕でもよく落著しない。はじめから不出來な歌で、稚拙な點は蔽ひ難い。
 以上三首に就いて契沖は、
  右の三首ともに皇子に獻る歌なれば含める意あるか。又別意を含まず、皇子より秋の歌を召し給ふに讀みて奉れる歟。
との兩説を立てゝ決定しない。古義はその前説に從つて、三首に皆寓意ありとし、新考は三首ながら寓意なしとして、後説に從つた。
 抑も「さ夜中と」「妹があたり」の二首の如きは、寓意などあるべき趣の歌でない。殊に「さ夜中と」の歌に寓意を説くは佛頭糞を塗るに等しい。末の「雲隱り」の歌は或はあるかも知れない。古義は
(2498) 「今は身のなり出づべき時は過ぎゆくとも、御惠澤の下りてなり出でむを、偏に待ちつゝ居るぞ」の意を寓せたものとした。
 總べてよき人に歌獻る場合、私意をまじへぬ表向の歌を上るのが禮儀である。多作の時は、その中に或は身分の愁訴などいひ添へもしよう。故に三首のうち、最後の歌だけは寓意ありと見てもよい。
 再考するに、この三首、始のと終のとの巧拙の軒輊が餘りにも甚しい。或は一人の作ではないが、何れも獻弓削皇子の歌なので一つ題下に一括して掲げたのであるまいか。
 
獻(レル)2舍人《トネリノ》皇子(ニ)1歌
 
○舍人皇子 既出(三六一頁)。
 
※[木+求]手折《うちたをり》 多武山霧《たむのやまぎり》 茂鴨《しげみかも》 細川瀬《ほそかはのせに》 波聚祁留《なみのさわげる》     1704
 
〔釋〕 ○うちたをり 多武《タム》に係る枕詞。(1)「うち」は接頭語にて、手折り撓《タワ》むを多武にいひかけたり(舊説)。(2)打手折る手《タ》と續けたり。手は肱を屈伸するものなれば、それを打手折るとはいへり(契沖説)。(3)折は道の前《クマ》を折り曲るをいふ。多武は手廻《タモトホ》る意にて、折手廻《ヲリタモトホル》といふにいひかけたり(古義説)。○たむのやま 多武の嶺、又|談峯《タムミネ》、いま塔《タフノ》峯といふ。大和國高市都多武峯村。(今磯城郡)。東は吉野郡の山に接し、西は高市郡に接する。(2499)(標高六一九米突)。齊明天皇紀に、二年九月云々、於(テ)2田身《タムノ》嶺(ニ)1冠《カヾフラシム》2以|周《メグレル》垣(ヲ)1、(田身山(ノ)名、此(ニ)云(フ)2太務《タムト》1)と見えた。峯上に藤原鎌足の廟あり、談山神社と稱す。○しげみかも 繁さにかの意。「も」は歎辭。○ほそかは 山を細川山といひ、その溪澗を細川といふ。南は南淵山に對し、多武の西隣に接する。(標高五二三米突)。天武天皇紀に、白鳳五年、勅(シテ)禁(メ)2南淵山細川山(ヲ)1莫(カラシム)2蒭薪(スル)1とある。△地圖及寫眞 前出(二一一七頁)を參照。
【歌意】 多武の山の霧が繁いせゐかして、細川の川瀬に、波が立騷いでゐることわ。
 
〔評〕 山霧は即ち小雨である。多武の西側面と細川の南側面は殆ど吃立してゐる。隨つて小雨でも溪澗の細川は、忽に水嵩が増して波が激揚する。まことに實況に即した實詩である。
 
冬木成《ふゆごもり》 春部戀而《はるべをこひて》 殖木《うゑしきの》 實成時《みになるときを》 片待吾等叙《かたまつわれぞ》     1705
 
〔釋〕 ふゆごもり 春の枕詞。既出(七八頁)。
【歌意】 花の咲かう春の頃を、待ち戀うて植ゑた木が、花の咲くは勿論〔七字右○〕、それが實になる時を、偏に待つ私ですぞ。
 
〔評〕 無論寓意の作だ。古義は、身の榮花を仰ぎて詠みて奉れるならむと解いた。然し又普通の戀歌として見れば、幼女を置いて育てゝゐるうち立派な花のやうな娘となつたので、戀心を感じ、實になる即ち成婚の時を獨(2500)心待にするの意ともなる。花の實になるをかうした意味に用ゐた例は、集中に數へ切れない。どうもかう見る方が自然のやうに考へられる。
 
舍人(ノ)皇子(ノ)御歌一首
 
黒玉《ぬばたまの》 夜霧立《よぎりはたちぬ》 衣手《ころもでの》 高屋於《たかやのうへに》 霏※[雨/微]麻天爾《たなびくまでに》     1706
 
〔釋〕 ○よぎりはたちぬ 略解馴ヨギリゾタテル〔七字傍線〕。○ころもでの 高屋に係る枕詞。衣手の栲《タク》を高屋《タカヤ》にいひかけた。栲《タク》はタヘに同じい。「しろたへ」を見よ(一一八頁)。古義に、衣手の布明《タヘアカ》を高屋にいひかけたりとあるは迂遠。又略解はコロモデヲ〔五字傍線〕と訓み、衣手を※[塞の土が衣]《タ》クを高屋にいひ續けた意とした。※[塞の土が衣]ぐることを古言にタクといふ。「たけば」を參照(三七〇頁)。○たかやのうへ 高屋のほとり。「たかや」は大和國城上郡八釣の高屋(家)といふ地。尤も地名でなく、高き家とも解されるが、枕詞の「衣手の」からの續きには地名(2501)が多い。「於」にウヘの意がある。△地圖及び寫眞 挿圖 188(六七八頁)189(六八〇頁)を參照。
【歌意】 あゝ〔二字右○〕夜霧は立つたことわ。あの高屋の邊に打靡くほどに。
 
〔評〕 藤原京時代における皇子の御作であらう。藤原から東南に當る八釣の高屋あたりは高陵地なので、一里弱の距離はあるが見通しの場處だ。皇子は偶まその方角の野末に當つて、大きな夜霧の搖曳するのに深い興味を牽かれ、餘念なく諦視しつゝあるうち、段々と霧は上昇してゆくのであつた。でその動向と盛な景象とを一括して「高屋のうへにた靡くまでに」と稍誇張氣味に描出された。星の零るやうな暗夜であつたらうことが言外に彷彿する。叙景の上乘で風調もけ高い。「高屋」を高き家と解する説は紙上の空論に過ぎない。
 
鷺坂(ノ)歌一首
 
山代《やましろの》 久世乃鷺坂《くせのさざさか》 自神代《かみよより》 春者張乍《はるははりつつ》 秋者散來《あきはちりけり》     1707
 
〔釋〕 ○さぎさか 前出(二四八三頁)。○はり 芽の出ること。發すること。
【歌意】 山城の久世の鷺坂山〔右○〕は、神代の昔から、今にその木草が〔七字右○〕、春は芽を吐き、秋は散ることわい。
 
〔評〕 鷺坂山は作者が見はじめた昔から、今に春榮秋落、おなじ事を反復して止まない。人生の倏忽なるに比べ(2502)れば、實に自然は悠久である。「神代より」の誇張はこの意を強調するにふさはしい措辭である。「はり」「ちる」は山の草木のうへであるが、直ちに鷺坂山が發《ハ》り又散るといふも、往時の修辭上の慣習で、頗る簡淨な感じを與へる。尤も山ガ紅葉シタ〔六字傍点〕などは今でもいふことである。
 
泉河(ノ)邊《ホトリニテ》作(メル)歌
 
○泉河 今の木津川の事であるが、咋《クヒ》山を詠み合はせてあるから、久邇甕原よりは遙か下流の泉河である。
 
春草《はるぐさを》 馬咋山自《うまくひやまゆ》 越來奈流《こえくなる》 鴈使者《かりのつかひは》 宿過奈利《やどをすぐなり》     1708
 
〔釋〕 ○はるぐさをうまくひやま 春草を馬喰ひといふを咋《クヒ》山に懸けた序詞。○くひやま 咋山。山城國綴喜郡の飯岡か。木津川(泉河)の西岸平田間にある高さ百尺ほどの岡にて、岡上の社を式内の咋岡神社と稱する。○くひやまゆ この「ゆ」はヲ〔傍点〕に近い。○かりのつかひ 「はつ雁の使」を見(2503)よ(二四〇三頁)。○すぐなり 「なり」は詠歎の助動詞。△地圖 前出564(二三六六頁)を見よ。
【歌意】 あの咋山を越えて來ることである、雁の使は、自分の宿を、只通り過ぐるわ。
 
〔評〕 仮に咋岡附近の三山木邊に宿を取つた地方人として考へる。折しも北方の咋山からその宿の上空をかけて、飛び過ぎる雁の聲を聞いた。忽ち例の蘇武の故事を思ひ寄せて、この雁は餘所への信使と見えて、自分の宿へは立寄らぬよと、その失望の聲を洩らした。時代的に見て、作者は漢學に親みのある人であらうと想像される。下句太だ率直で歎意が永い。
 「春草を馬くひ山」の小技巧は、「處女らが袖ふる山の」(巻四、―人麻呂)の顰に倣うたもの。
 
獻(レル)2弓削(ノ)皇子(ニ)1歌一首
 
御食向《みけむかふ》 南淵山之《みなぶちやまの》 巖者《いはほには》 落波太列可《ふれるはだれか》 消〔左△〕遺有《きえのこりたる》     1709
 
〔釋〕 ○みけむかふ 既出(五一六頁)。こゝは南淵に係る枕詞。御食向《ミケムカ》ふ蜷《ミナ》を南《ミナ》淵にいひ懸けた。ミナは蜷(ニナ)の古言で、古へは蜷を食料としたので、「御食向ふ蜷」と續けた。なほ「みなのわた」を見よ(一四三四頁)。○みなぶちやま 南淵山。前出「みなぶち」を見よ(二一一六頁)。○はだれ はだれ雪〔右○〕の略。前出(二二一二頁)。
【歌意】 あの南淵山の巖には、積つた斑雪が消え殘つてあるのかしら。眞白に見える〔六字右○〕。
 
(2504)〔評〕 上にも「妹が門いりいづみ河のとこなめにみ雪殘れり」とある趣を移して、一應は斑雪が岩上に消え殘つてゐる趣に解するか、又何かを斑雪に見立てた意とも解される。見立てたとすれば山の落花でゝもあらう。恐ろしい雄勁な調子の作である。
 
右、柿(ノ)本(ノ)朝臣人麻呂之歌集(ニ)所v出(ヅル)。
 
○右云々 この「右」はこの獻2弓削皇子1歌一首のみを指した狹い意か。又溯つて獻2忍壁皇子1歌以下二十八首を指した廣い意か。二十八首中作者の名を署したものが三首(舍人皇子一首、間人宿禰二首)ある事を思ふと、その外にも他の作家の歌が多分存在してゐることが考へられる。故に「右」を狹範圍に限定して、最後の「みけむかふ」の歌の左註とのみ見るのが危險が尠い。
又いふ、左註の「右」は下に「何首」と歌數を記してある時の外は、必ず前掲の一首をのみ斥したものと見ることを、本評釋の通則とする。
 
倉無《クラナシノ》濱及(ビ)粟(ノ)小島(ノ)歌二首〔全部左○〕
 
(2505)この題詞は假に設けた。抑もこゝの二首を、上の「獻弓削皇子歌」の題詞のもとに攝ねて、その「一首」とあるを三〔左△〕首と改めるのが順當らしいが、上の左註には「柿本朝臣人麻呂之歌集所出」、この二首の左註には「或云柿本朝臣人麻呂作」とあり、明かに歌の出自の相違を示してをり、又彼れは大和の名所、此れは瀬戸内海筋に屬した名處を扱つてゐるから、この三首を同列には認め難い。恐らく「獻弓削皇子歌一首」とあるは原形のまゝを傳へたもので、こゝの二首には題詞の脱ちたものらしい。
 
吾妹兒之《わぎもこが》 赤裳泥塗而《あかもひづちて》 殖之田乎《うゑしたを》 苅將藏《かりてをさめむ》 倉無之濱《くらなしのはま》     1710
 
〔釋〕 ○ひづちて ひたと沾れるをいふ。○うゑしたを 植ゑし田なる〔二字右○〕を。〇くらなしのはま 豐前國中津の龍王濱のことゝいふ。
【歌意】 我妹子が赤裳の裾をびしよ沾れにして、植ゑた田なのを、殘念ながら、その稻を〔九字右○〕刈つて納めおく倉が無いといふ名の、倉無の濱さ。
 
〔評〕 濱の名から案出した口頭の弄語で、四句から五句の名詞へのいひかけ、後世の狂歌にこの體が多い。句中にいひかけのある「戀忘れ貝」「誰れ呼子鳥」と、一脈の共通點が認められる。上句、我妹子の稼穡の勞を縷述したので、倉無しを遺憾とする意が自然に映出されてくる。
 この歌、風調から看れば、決して歌聖人麻呂の口吻でなく、時代も遙に後れてゐる。さては愈よ弓削皇子に(2506)獻つた歌でなくなる。弓削皇子は文武天皇の大寶三年に薨去された方である。
 
百傳《ももづたふ》 八十之島廻乎《やそのしまわを》 榜雖來《こぎくれど》 粟小島者《あはのこじまは》 雖見不足可聞《みれどあかぬかも》     1711
 
〔釋〕 ○ももづたふ 枕詞。既出(九二六頁)。「傳」の下、原本に之〔右△〕の字がある。藍本、類本、古本、神本等にないのに從つた。○しまわ 古義訓シマミ〔三字傍線〕。○こぎくれど 古義訓コギキケド〔五字傍線〕は牽強。○あはのこじま 「あはしま」を見よ(八三五頁)。
【歌意】 これまで〔四字右○〕澤山な島邊を、漕ぎ渡つて來たが、この粟島は、いくら見ても/\、見飽かぬことかまあ。
 
〔評〕 一片の理路が搦んでゐるから、いゝ歌ではない。「こぎくれど」「みれど」の同詞態の重複も面白くない。
 
右二首、或云(フ)、梯本(ノ)朝臣人麻呂(ガ)作(メリト)。
 
人麻呂と雖も咳唾悉く珠を成す譯ではなからう。けれどもこの二首、前のは人麻呂以後のもので、後の歌は評の如く餘り芳ばしくない。或人の言俄に信じ難い。
 
登(リテ)2筑波(ノ)山(ニ)1詠(メル)v月(ヲ)歌〔左○〕一首
 
○筑波山 「筑波岳《ツクバノタケ》」を見よ(八七四頁)。○詠月歌 「歌」原本にない。補つた。
 
(2507)天原《あまのはら》 雲無夕爾《くもなきよひに》 烏玉乃《ぬばたまの》 宵度月乃《よわたるつきの》 入卷※[立心偏+(又/玄)]毛《いらまくをしも》     1712
 
【歌意】 大空に雲もない夜に、その夜を經行く月の、山際に〔三字右○〕隱れることが惜しいわい。
 
〔評〕 筑波山上に見た月の特徴とては格別に出てゐないが、半天半地の高處における明月を想はせぬ事もない。「よひに」とあつて、又「夜わたる」は、なほ一推敲が欲しかつた。
  茜さす日は照らせれどぬば玉の夜わたる月の隱らくをしも(卷三、人麻呂―169)
は三句以下同じであつて、立意は全く別途。
 
幸《イデマセル》2芳野離宮《ヨシヌノトツミヤニ》1時歌二首
 
○幸芳野離宮時 何時とも決定し難い。「芳野離宮」は「吉野宮」を見よ(一四四頁)。△地圖及寫眞 挿圖 35(一一〇頁)47.48.49(一四五頁―一四七頁)を参照。
 
瀧上乃《たぎのへの》 三船山從《みふねのやまゆ》 秋津邊《あきつべに》 來鳴度者《きなきわたるは》 誰喚兒鳥《たれよぶこどり》     1713
 
〔釋〕 ○たぎのへのみふねのやま 「たぎのへ」及び「みふねのやま」を見よ(六四八頁)。○あきつ 「あきつのぬべ」を見よ(一四六頁)。○たれよぶこどり 誰れを喚ぶを呼子鳥にかけた。「よぶことり」は既出(二五一(2508)頁)。
【歌意】 宮瀧上方の、あの三船の山から、秋津野の方に、鳴いて來て飛び渡るは、そも〔二字右○〕誰れを喚ぶ、呼子鳥であるぞ〔四字右○〕。
 
〔評〕 芳野離宮の山野には呼子鳥が多かつたと見え、この外
  やまとには鳴きてか來らむ呼子鳥象の中山呼びそ越ゆなる(卷一、―70)。
  朝霧にしぬゝに沾れて呼子鳥三船の山ゆ鳴き渡る見ゆ(卷十―1831)
などの作がある。秋津野は離宮の所在地で、折しも行幸時とすれば、従駕の官人や雜卒が往來出入してゐたであらう。そこへ三船の山奥から飛んで來て、呼子鳥が鳴く。名稱からの聯想で、誰れを呼ぶのかしらと一不審を打つのも亦當然の歸結であらう。隨つてこれはさう寂しい環境の呼子鳥ではなからう。
  春日なる羽買の山ゆ佐保のうちへ鳴きゆくなるは誰れ呼子鳥(卷十―1827)。
來ると往くとの相違こそあれ、結構は全く同一。
 
落多藝知《おちたぎち》 流水之《ながるるみづの》 磐觸《いはにふり》 與杼賣類與杼爾《よどめるよどに》 月影所見《つきのかげみゆ》     1714
 
〔釋〕 ○いはにふり 舊訓イハニフレ〔五字傍線〕。
【歌意】 落ちたぎつて流れる水が、岩に觸れ障へられて〔五字右○〕、淀んでゐるその〔二字右○〕淀に、月の影がさして見えるわ。
 
(2509)〔評〕 宮瀧の激湍即ち「落ちたぎち流るゝ水」は、急に迫つた兩岸の岩壁に狹められ、河身は屈曲して、暫く深淵を成してゐる、それが「よどめる淀」である。されば岩壁の上流と下流とでは全く別天地の景觀に接する。急瀬激湍の間は月光が徒らに反射されたばかりであつたが、この河淀には圓月がその影を亂さずぼかんと浮んでゐる。清爽の感、幽寂の情、得意想ふべしである。上の動的景象は下の靜的景象を引立て、「よどめる淀」の疊言は、死の如き水の状態を力強く印象づける。
 この歌は作者の自力に任せて自然をこなして寫出したもので、人籟の優れたものと稱へてよい。
 
右三首、作者未詳。
 
〇三首 上の筑波山の歌にまでかけて數へた。契沖以來、二〔右△〕首の誤としたのは誤認。
 
槐〔左△〕本《ヱニスノモトガ》歌一首
 
○槐本 この次々の歌、題詞に氏をのみ記してあるから、これも氏であらう。が槐本氏は物に所見がない。本の誤か。柿本氏の人は數名續紀にも出てゐるが、人麻呂の外に歌人はない。次の歌の「山上」が憶良作であるので推すると、これは人麿作であるらしい。
 
樂波之《ささなみの》 平山風之《ひらやまかぜの》 海吹者《うみふけば》 釣爲海人之《つりするあまの》 袂變所見《そでかへるみゆ》     1715
 
〔釋〕 ○ささなみの 「ささなみ」を見よ(一二五頁)。「樂浪」も同項を見よ。○ひらやま 比良山。近江國滋賀(2510)郡、北滋賀の木戸小松兩村に亘り、琵琶湖の西岸に屹立する。標高九六〇來突。山下の出崎は明神崎(小松崎)である。なほ「ひらのみなと」を參照(六九八頁)。○うみふけば 海は淡海の海即ち琵琶湖のこと。○そでかへる 袖が飜る。「袂」は袖に借りた。「變」は借字。△地圖及寫眞挿圖 199(六九九頁)200(同上)を參照。
【歌意】 比良の山風が湖上を吹くと、釣舟の海人の、袖の飜るのが見えるわ。
 
〔評〕 蒼茫として涯もない大湖の波上、そこには只一葉の釣舟が浮流してゐるのみであつた。作者は暫く諦視してこの大自然の懷に抱擁され、殆ど呆然たる状態にゐたらしい。忽ちその靜寂を破る比良山風の吹きおろしに、湖面は颯と鱗々の波を生じ、釣する海人の子の袖が吹き煽られてはためく。靜中の動致、作者は自然に從順して、極めて正直にありのまゝを歌ひ、風調清絶、一點の塵垢もとめない。歌聖人麻呂ならではと思はれる神品である。
 
山(ノ)上(ノ)歌一首
 
○山上 憶良のこと。この歌卷一に出て、題詞に幸(セル)2于紀伊國(ニ)1時、川島(ノ)皇子(ノ)御作歌、或云(フ)、山上(ノ)臣憶良(ガ)作(メリ)とある。同條を見よ(一三九頁)。
 
白那彌之《しらなみの》 濱松之木乃《はままつのきの》 手酬草《たむけぐさ》 幾世左右二箇《いくよまでにか》 年薄經濫《としはへぬらむ》     1716
 
〔釋〕 ○まつのきの 卷一には「まつが枝〔二字右△]の」とある。○としは 卷一には、「年乃〔右△〕」とある。「薄」本音ハを用ゐ(2511)てク韻を略した。
 
右一首、或云(フ)、河島(ノ)皇子(ノ)御作(ト)。
 
春日《カスガガ》歌一首
 
○春日 春日(ノ)藏首《クラヒト》老のことか。既出(二三一頁)。
 
三河之《みつかはの》 淵瀬物不落《ふちせもおちず》 左提刺爾《さでさすに》 衣手沾〔左△〕《ころもでぬれぬ》 干兒波無爾《ほすこはなしに》     1717
 
〔釋〕 ○みつかは 近江國滋賀郡南坂本|穴太《アナホ》にある今の四谷川のことか。穴太は成務天皇の志賀(ノ)高|穴穗《アナホノ》宮の故地で、そこに接した湖津を御津《ミツ》といひ、そこに流れ入る川を御津川と呼んだ。保元物語、渡平盛衰記にも三河尻《ミツカハジリ》の名稱がある。○ふちせもおちず 「ぬるよおちず」を見よ(四五頁)。○さでさすに 小網刺すによつて〔三字右○〕。「さでさしわたし」を見よ(一五五頁)。○ぬれぬ 「沾」原本に湖〔右△〕とあるは誤。契沖説による。眞淵は潤〔右△〕、千蔭は濕〔右△〕の誤とした。
【歌意】 御津川の淵も瀬も、一つ殘さず小網《サデ》刺すので、衣は沾れたわ、乾してくれるかの女とてもないのにさ。
 
(2512)〔評〕 作者と御津川との因縁はわからない。旅に居て御津川に川狩をした感興か。その濡れ衣から忽ち故郷の「乾す兒」に聯想は飛んで、離愁に耽つた。「淵瀬もおちず小網さす」は誇張もあらうが、三津川の小川に過ぎないことが知られる。
 
高市《タケチガ》歌一首
 
○高市 高市連黒人か.。既出(二二五頁)。
 
足利思代《あともひて》 ※[手偏+旁]行舟薄《こぎゆくふねは》 高島之《たかしまの》 足速之水門爾《あどのみなとに》 極爾監〔左△〕鴨《はてにけむかも》     1718
 
〔釋〕 ○あともひて 既出(五三四頁)。○こぎゆくふねは 漕ぎにし船は〔六字傍点〕と過去にいふべきを現在叙法にした變格。○あどのみなと 安曇の湊。船木《フナキノ》港のこと。「あどかは」を見よ(二〇一八頁)。○はてにけむ 「監」原本に濫〔右△〕とあるは誤。類本、神本等による。古義は「爾」を去〔右△〕の誤とし、濫を元のまゝとして、ハテヌラムの一訓を提出した。△地圖 挿(2513)圖 202(七〇一頁)を参照。
【歌意】 連れ立つて漕ぎ出した船は、高島の安曇《アド》の湊に、著いてしまつたことであらうかまあ。
 
〔評〕 それともまた後れたのか知らの餘意がある。大津から北上したのか、鹽津菅浦又は海津邊から南下したのか。とにかく安曇の湊の假泊が豫定だつたと見える。この邊は漫々たる大湖で、後れ先立つて何時か友船の影を見失つた寂寥感と恐怖感とは綯ひ交ぜになつて、ひたすらその行方を心配してゐる。舟旅の作として上乘。
 
春日(ノ)藏首〔左○〕《クラヒトガ》歌一首
 
○春日藏首歌 「首」の字原本にない、補つた。上の例によれば藏首の姓は記さぬ筈だが、古記には、こゝには姓が書かれてあつたので、左註にその辯明がある。下出の題詞もすべて統一がないから、こゝをのみ改むべきでない。
 
(2514)照月遠《てるつきを》 雲莫隱《くもなかくしそ》 島陰爾《しまかげに》 吾船將極《わがふねはてむ》 留不知毛《とまりしらずも》     1719
 
【歌意】 この照る月を、雪は隱すなよ。島の陰に、わが船の著かうとする〔三字右○〕、泊がわからぬわい。
 
〔評〕 一葉舟に托して、風浪の穩かな島陰を求めては假泊してゆく。現今と違ひ、目標になる漁村の燈火も尠からうから、月明りが唯一の頼りだ。隨つてわづか一片の雲も、舟航者をして生命の不安を感ぜしめる。
  大葉山かすみたなびき小夜ふけてわが船はてむとまり知らずも(卷七、―1224)
と同趣の作。
 以上山上(ノ)歌の「白浪の濱松の木」を除けば、皆近江歌である。さてはこの春日(ノ)藏首の歌も、淡海湖上の作かも知れない。湖上にはその南北に島嶼が相當散在してゐる。
 
右一首、或本(ニ)云(フ)、小辯(ガ)作(メリト)也。或(ハ)記(シテ)2姓氏(ヲ)1無(ク)v記(スコト)2名字(ヲ)1、或(ハ)※[人偏+稱の旁](ヘテ)2名號(ヲ)1、不v※[人偏+稱の旁](ヘ)2姓氏(ヲ)1。然(モ)依(リテ)2古記(ニ)1便(チ)以(テ)v次《ツイデヲ》載(ス)、凡如(キ)v此(ノ)類、下皆效(フ)v焉(ニ)。
 
右の一首の歌は或本には小辯が作だとある。さてこの邊の題詞、或は槐〔右△〕本歌、山上歌、春日藏首の如く氏姓を記してその名を書かず、或は元仁歌、絹歌の如く、名號を記して姓氏を書かない。甚だ亂雜だが、古記のまゝに順序を遂うて書き載せた。すべてこのやうな類は、下記の題詞もこれに準じてゐるとの意。○小辯 少辨の誤か。傳不明。
 
(2515)元仁《グワンニンガ》歌三首
 
○元仁 傳未詳。或は僧侶か。
 
馬屯而《うまなめて》 打集越來《うちむれこえき》 今日見鶴《けふみつる》 芳野之川乎《よしぬのかはを》 何時將顧《いつかへりみむ》     1720
 
〔釋〕 ○うまなめて 既出(三六頁)。眞淵訓による。童本訓コマナベテ〔五字傍線〕。「屯」をナメテ〔三字傍線〕と讀むは聚の意訓。△地圖 挿圖 35(一一〇頁)を參照。
【歌意】 友人等と〔四字右○〕、馬を乘り並べて、一團となつて野山を〔三字右○〕越えて來て、今日見たこの〔二字右○〕吉野の川を、何時また立返つて見ようぞ。
 
〔評〕 吉野の瀧の景勝には萬葉人は陶醉し、「又返り見む」とか「見れど飽かぬ」とか、極り文句を反復してゐる。そしてこれは、
  馬並めて吉野の川を見まくほり打越え來てぞ瀧にあそびつる(卷七―1104)
  かはづ鳴く清き川原を今日見ては何時か越え來て見つゝしぬばむ(同上―1105)
の二首を搗き交ぜて一首に纏めたやうな作である。
 この打群れて馬並めた人達は、下の歌の作者島足や麻呂等であらう。なほ卷七「馬並めて吉野の川を」の條の評語を參照(一九〇三頁)。
 
(2516)辛苦《くるしくも》 晩去日鴨《くれゆくひかも》 吉野川《よしぬがは》 清河腹乎《きよきかはらを》 雖見不飽君《みれどあかなくに》     1721
 
【歌意】 わびしくもまあ、暮れてゆく、今日の日かまあ、吉野川の清い河原を、見ても/\飽かぬのにさ。
 
〔評〕 行楽に日もこれ足らぬ趣で、平凡な感想ながら、集中にこの種の作は殆どない。不思議といふべしだ。但おなじ「苦しくも」でも、卷三の「三輪が埼」の詠には到底匹敵すべぐもない。もと/\これは遊賞の樂事だから、輕い氣分のものである。
 
吉野川《よしぬがは》 河浪高見《かはなみたかみ》 多寸能瀬〔左△〕乎《たぎのせを》 不視歟成嘗《みずかなりなむ》 戀布眞國《こほしけまくに》     1722
 
〔釋〕 ○たぎのせ 「たぎ」は吉野の瀧即ち蜻蛉の瀧つ瀬のこと。「たぎのみやこ」を見よ(一四八頁)。「瀬」原本に浦〔右△〕とあるに就いて、契沖は、瀧のあたりの入江のやうなる處といひ、略解は、浦は裏なりといひ、古義は、大瀧の裏なりといつた。抑も蜻蛉《アキツ》の瀧に入江を詠んだ歌は一つもないし、よしあつたとしても、「戀しけまくに」は矢張主景たる瀧でなければなるまい。又瀧の裏は實際を知らぬ妄説で、蜻蛉の瀧でも大瀧(西河の瀧)でも、激瑞であつて瀑布ではないから、裏などありはしない。これは全く浦は瀬〔右△〕の誤である。〇こほしけまくに 戀しからむにの意。「こほしけむ」を見よ(七五四頁)。眞淵訓コヒシケマクニ〔七字傍線〕。
【歌意】 吉野川の河波が高さに、面白い瀧の瀬を、見ずになるであらうか、さらば後々までも〔八字右○〕、戀しからうにな(2517)あ。
 
〔評〕 吉野川の水嵩が生憎に増し、河波が高いので、例の數丁に亘る岩床の水簾が、波下に浸入して見られない。吉野に來てこの瀧つ瀬の美觀に接しないのは來ぬのと同じだ。萬千の遺憾は將來までも「戀しけまくに」といふに至つて極まる。
 
絹《キヌガ》歌一首
 
〇絹 人名であらう。或は婦人か。
 
河蝦鳴《かはづなく》 六田乃河之《むつだのかはの》 川楊乃《かはやぎの》 根毛居侶雖見《ねもごろみねど》 不飽君鴨《あかぬきみかも》     1723
 
〔釋〕 ○かはづなく 六田を修飾した序。今でも六田邊は河鹿が盛んに鳴く。「かはづ」は既出(七八七頁)。○むつだのかは 六田の淀ともいふ。吉野川を六田《ムタ》にて稱する。六田は吉野郡に屬し、大淀村から吉野村に入る渡津のある處。今は楊柳があつて、俗に柳の渡しといふ。○かはやぎの 「かはやぎ」は川ヤナギの略。「かはやなぎ」は前出(二〇八七頁)。以上三句は四句の「ねもごろ」の「ね」にいひ懸けた序。 △寫眞挿圖 286(九五九頁)を參照。
【歌意】 六田の淀の川楊の根といふ、ねんごろに見ても/\飽かぬ貴方樣かまあ。
 
〔評〕 作者は六田人であらう。吉野探勝の爲に來た都人達へ呈した歡迎の詞である。おなじ「ねもごろ」でも、川(2518)楊の根は土地人の口吻である。初二句と三四句とは排對してゐる。尚「ねもごろ」に就いては、巻四「足引の山におひたる菅の根の」の條の評語を參照(一二〇四頁)。
 
島足《シマタリガ》歌一首
 
○島足 傳未詳。
 
欲見《みまくほり》 來之久毛知久《こしくもしるく》 吉野川《よしぬがは》 音清左《おとのさやけさ》 見二友敷《みるにともしく》     1724
 
〔釋〕 〇ともしく 契沖訓による。舊訓、古義訓トモシキ〔四字傍線〕。
【歌意】 見たく思うて、來たまあその甲斐があつて、吉野川は、水音が亮かであることわ、又見るに面白くてさ。
 
〔評〕 耳に眼に、どの感覺からもよい處だと賞讃した。二句と結句とが、形容詞の同詞態で中止されてゐるのは、不快を免れない。
 
麻呂(ガ)歌一首
 
○麻呂 傳未詳。
 
古之《いにしへの》 賢人之《さかしきひとの》 遊兼《あそびけむ》 吉野川原《よしぬのかはら》 雖見不飽鴨《みれどあかぬかも》     1725
 
(2519)【歌意】 昔の賢い人が、好んで遊んだであらう、この〔二字右○〕吉野の河原は、見ても/\飽きないことかまあ。
 
〔評〕 吉野の名義は古言|曳之努《エシヌ》(紀記)、轉じて吉野《ヨシヌ》で、よき野といふ地稱である。何人がさういひ初めたかは分明でないが、天武天皇の御製には、
  よき人のよしとよく見てよしといひし吉野よく見よよき人よくみつ(卷一―27)
と遊ばされ、その頃仙道僧道を修する者の巣窟であつたことは、既に再三縷述した。役(ノ)小角、柘之枝《ツミノエ》仙、大伴仙、安曇仙、久米仙の類、皆いはゆる賢き人で、何れも吉野に住み、又は出入したのだから、この河原に遊んだであらうことは、想像に餘ある。で懷古の情を勝景に寓せて、「見れど飽かぬ」の意を肯諾せしめようと強ひた。
 
右、梯本(ノ)朝臣人麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
丹比眞人《タヂヒノマヒトガ》歌一首
 
○丹比眞人 誰れとも定め難い。
 
難波方《なにはがた》 座干爾出而《しほひにいでて》 玉藻苅《たまもかる》 海未通等《あまのをとめら》 汝名左禰《ながなのらさね》     1726
 
〔釋〕 ○をとめ 「末通」の下女〔右○〕の脱。或はわざとの略書か。○ながなのらさね 「なのらさね」を見よ(一一頁)。
(2520)【歌意】 難波潟の汐干に打出て、藻草を刈る、海人の處女達よ、お前の名を名|告《ノ》んなさいよ。
 
〔評〕 男に對して女が自らその名を教へることは、その懸想を肯諾した意味になる。この習俗に就いては、卷一、雄略天皇の御製の「名告らさね、家聞かな」の條の評語(一六頁)にいひ盡した。
 「玉藻刈る海人の處女」は次の返歌によつて見れば、難波の浦で見懸けた良家の娘を、戯に海人に比擬して挑んでみたものと見られる。だからその戀は眞劍なものではなく、ほんの旅の慰さのからかひ半分の小當りに過ぎない。
 
和(スル)歌一首
 
○和歌 海人の〔三字右○〕和ふる歌である。
 
朝入爲流《あさりする》 海〔左○〕人跡乎見座《あまとをみませ》 草枕《くさまくら》 客〔左○〕去人爾《たびゆくひとに》 妻者不教〔左△〕《つまとはのらじ》     1727
 
〔釋〕○あまとを 「を」は強辭。「海」原本にない、補つた。○つまとはのらじ 「教」原本に敷〔右△〕とあるは誤。略解説による。
【歌意】 私をたゞの〔五字右○〕、漁する海人とまあ、御覽なさいませ。行摺りの旅の人など〔二字右○〕に、妻としては名を〔二字右○〕申しますまい。
 
〔評〕 「求食する海人とを見ませ」の口振は、この作者が求食りする海人でないことを反證する。難波人の良家の(2521)娘らしい。
 當時旅行く人に妻と名告る者は、この難波から住吉邊に澤山住んで居たものだ。暗裏にそれを對象として、既に御覽の通りに私を海人の子と看過されたがよい、そんなお詞はお門違ひでせう、と皮肉つた。「旅ゆく人に妻とは告らじ」は頗るハツキリした拒絶である。この娘なか/\しつかり者だ。
 
石河(ノ)卿《マヘツギミノ》歌一首
 
○石河卿 石川氏の公卿を求めると、この時代には年足《トシタル》の外にない。續紀、寶字六年の條に、年足は後(ノ)岡本(ノ)朝の大臣大紫蘇我(ノ)臣|牟羅志《ムラシ》が曾孫、平城(ノ)朝の左大辨從三位|石足《イハタル》の長子なり。率性廉勤治體に習ふ。家より起ち少判事に補し、頻に外任を歴、天平七年從五位出雲守にて事を視ること數年、百姓これに安んず。同九年從四位兼左中辨に至り、參議に拜す。勝寶五年從三位、遷つて中納言兼文部(ノ)卿、神祇(ノ)伯に至る。公務の間唯書を悦ぶ。寶字二年正三位、御史大夫に轉ず。別式二十卷を作る。寶字六年九月薨ず。年七十四。その墓誌は攝津國|島上郡|眞上《マガミノ》郷(ノ)光徳寺村より發掘された。
 
(2522)名草目而《なぐさめて》 今夜者寐南《こよひはねなむ》 從明日波《あすよりは》 戀鴨行武《こひかもゆかむ》 從此間別者《こゆわかれなば》     1728
 
〔釋〕 ○こゆ 此處にの意。前出(二二七三頁)。
【歌意】 相慰めて、今夜はとにかく寐ようぞ。明日からは定めし〔三字右○〕、戀ひ想ひつゝ旅〔右○〕行くであらうかまあ、此處で別れようならば。
 
〔評〕 任地を去るに臨んでその寵妾との別離か、或は客遊の間一時的に聘した或女との別離か、詳しいことはわからぬ。初二句の柔腸軟語、耳の痒きを覺ゆる。
 
宇合《ウマカヒノ》卿(ノ)歌三首
 
○宇合卿 「式部(ノ)卿藤原(ノ)宇合」を見よ(二五六頁)。
 
暁之《あかときの》 夢所見乍《いめにみえつつ》 梶島乃《かぢしまの》 石越浪乃《いそこすなみの》 敷弖志所念《しきてしおもほゆ》     1729
 
〔釋〕 〇かぢしま 場處不明。竹〔右△〕島、高〔右△〕島などの誤寫か。この歌は、
  夢にのみづきてみゆるに竹島の磯越す波のしく/\念ほゆ(卷七―12136)
(2523)と處々字句は變つてゐるが、畢竟同歌である。卷七の同歌の條を見よ(二〇一七頁)。
 
山品之《やましなの》 石田乃小野之《いはたのをぬの》 母蘇原《ははそはら》 見乍哉公之《みつつやきみが》 山道越良武《やまぢこゆらむ》     1730
 
〔釋〕 ○いはた 山城国字治郡醍醐村石田。今イシダといふ。石田神社あり、今田中明神といひ、天(ノ)穂日《ホヒノ》命を祀る。神名式に久世郡石田神社とあるが、郡界は時によつて出入があるから、拘泥するに及ばぬ。山科の野の最南部に當る。○ははそはら 柞の林をいふ。「ははそ」はハウソと訛つてもいふ。これに二説ある。一は小楢の種類で、秋薄く紅葉するものとし、一は柏《カシハ》のことゝする。柏は山地に自生する殻斗科の落葉喬木で、葉は柏餅に用ゐられ、樹皮は染料に用ゐる。
【歌意】 山科の石田の小野の、柞林を〔右○〕見い/\して、貴方が山路を、お越えなさらうことか。
 
〔評〕 石田神社の社後は日野の丘陵地で、短い急坂を登れば、道傍は今でも林叢を處々に見る位だから、昔は柞が林立してゐたであらう。この道は宇治から木幡を左に見て山科の野を縦斷し、逢坂を經て近江に出る本道で(2524)ある。それだけおなじ山路でも幾分安易な氣分で、旅人の征途をつぶさに思念してゐる。
 作者を必ず宇合卿とすれば、その知人の旅情を思ひ遣つたものとなるが、この下句に含んだ情緒は、家妻の征夫を思ふ場合に多く歌はれてゐる。次の歌には、宇合卿自身が現にその石田の森を踏破してゐる。この二つを湊合して考へると、この歌は宇合卿の作ではなくて、宇合卿の妻たる人の作であることは疑ふ餘地がない。されば題詞は委しくは、この歌には宇合卿〔三字右○〕(ノ)妻(ノ)歌、次のには宇合卿(ノ)和(フル)歌〔五字左○〕とあるべきだ。但この卷は總べての題詞が簡略に記録されたので、宇合卿關係の作を一括して、「宇合卿(ノ)歌三首」と題したらしい。
 
山科乃《やましなの》 石田社爾《いはたのもりに》 布靡越者《ふみこえば》 蓋吾妹爾《けだしわぎもに》 直相鴨《ただにあはむかも》     1731
 
〔釋〕 ○いはたのもりに 石田の森にて〔右○〕の意。○ふみこえば 手向もせずに只通り過ぎるをいふ。舊訓による。眞淵は「越」を勢〔右△〕の誤とし、略解は「靡越」を麻勢〔二字右△〕の誤とし、(2525)共にタムケセバ〔五字傍線〕と訓んだ。古義も同訓。
【歌意】 山科の石田の森で、そのまゝ踏み越えて行くならば、さやうさ、吾妹子に、すぐに逢へようかまあ。
 
〔評〕 眞の神意は別として、凡人の心に映る神には凡人らしい心證が與へられ、半神半人にまで下落する。で色色な語り草が發生するのは世界的である。石田の神もそんな事から、戀愛をお嫌ひなさる神樣と信ぜられてゐたのだらう。さればうつかり參拜すると、
  山しろのいは田の杜に心おぞく手向けしたれや妹に逢ひがたき(卷十二―2856)
といふやうな次第になる。その代り反對に、委細構はず遮二無二に踏み越えて行けば、逆効果で或は逢はれもせうか、との途方もない一案を立てた。それ程に戀の試練は苦しい。
 
碁師《ゴシガ》歌二首
 
○碁師 碁打のこと。三代實録(卷十三)紀(ノ)夏井傳中にもこの語あり、書家を手師、僧を法師といふに同じい。名は不明。
 
祖母山《おほばやま》 霞棚引《かすみたなびき》 左夜深而《さよふけて》 吾舟將泊《わがふねはてむ》 等萬里不知母《とまりしらずも》     1732
 
〔釋〕 ○おほばやま 近江國高島郡の西偏に、今|饗庭《アヒバ》野と稱する臺地がある。アヒバはオホバの訛か。「祖」の字(2526)原本にない。宣長説によつて補つた。又大〔右△〕の落字と見てもよい。
 この歌卷七には、初句「大葉山」とあつて、既出(二〇〇六頁)。
 
思乍《おもひつつ》 雖來來不勝而《くれどきかねて》 水尾崎《みをがさき》 眞長乃浦乎《まながのうらを》 又顧津《またかへりみつ》     1733
 
〔釋〕 ○おもひつつ 古義訓シヌビツヽ〔五字傍線〕。○みをがさき 「みを」は水脈の義で、今高島郡に三尾の里あり、その南偏を流れて湖水に入る川を鴨川と稱する。この川の砂洲の出崎が三尾の崎である。地名辭書に明神崎の事とするはその理由がない。この出崎から南勝野の湊(今の大溝)に至る長濱が眞長の浦か。尚「みを」を見よ(一九六一頁)。○まながのうら 上項を見よ。○かへりみつ 強い意では立返り見る。輕い意では顧るとなる。本文「顧」の字を充てたのは、その輕い意であることを證する。△地圖1挿圖 202(七〇一頁)を參照。
【歌意】 心に面白く思ひ浮べつゝ來れど、景色のよさに〔六字右○〕過ぎ來かねて、水尾が崎の〔右○〕眞長の浦を、又振返つて見たわい。
 
〔評〕 大體は湖上の舟行らしいが、陸上での作と見えぬこともない。又遊覽の意ではなく、眞長の浦に人を懷ふの作とも見られる。
 
小辯(ガ)歌一首
 
(2527) ○小辯 この名再三既出。少辨〔右△〕の誤か。
 
高島之《たかしまの》 足利湖乎《あどのみなとを》 ※[手偏+旁]過而《こぎすぎて》 鹽津菅浦《しほづすがうら》 今香〔左△〕將※[手偏+旁]《いまかこぐらむ》     1734
 
〔釋〕 ○しほづ 近江國淺井郡鹽津村。鹽津山(賤が嶽)の西麓の湖邊の小港。なほ「鹽津山」を見よ(八四二頁)。○すがうら 近江國伊香具郡朝日村。葛尾《カツラヲ》崎の西側にあり、鹽津の東南二里半、船木港を北へ距ること五里。○いまか 「香」原本に者〔右△〕とある。藍本古葉本神本等による。△地圖 挿圖 202(七〇一頁)247(八四四頁)を參照。
【歌意】 自分の知る人の舟は〔自分〜右○〕、高島の安曇の湊を漕ぎ通つて、鹽津菅浦あたりを、今漕ぎ渡るであらうかしら。
 
〔評〕 「安曇の湊を漕ぎ過ぎて」の口吻から推すと、安曇の南方からその船の出發した事は明らかで、或は勝野《カチヌ》(大溝)あたりからの解纜であらう。一直線に行けば鹽津までは約八里、和船一日の航程としては、少し手張る。順風で船足が速ければ鹽津まで乘り込めるし、遲ければ菅浦泊りだ。作者はその日の夕暮方湖水に臨んで、懇に故人の船の行手を追想し、近い安曇の湊から、遠く水雲蒼茫の間に菅浦鹽津を望んで、その旅情を悲しんだ。かくて「今か」が印象深い下語となる。その深切な情味の響は飽くまで聽者の胸を搖り動かす。主語の略かれたのも簡淨でよい。
 鹽津菅浦は地理的順序が前後してゐる。が、語調の整理上止むを得ない。これに類する措辭が、他にもまゝある。
 
(2528)伊保《イホ》麻呂(ガ)歌一首
 
○伊保麻呂 傳未詳。
 
菅〔左△〕疊《すがだたみ》 三重乃河原之《みへのかはらの》 礒裏爾《いそのうらに》 如是雁〔左○〕鴨跡《かばかりかもと》 鳴河蝦可物《なくかはづかも》     1735
 
〔釋〕 ○すがだたみ 菅疊。すべて疊は編《ヘ》て造る、故に菅疊は三重《ミヘ》の重《ヘ》にかけた枕詞。記の神武天皇の御製にも「菅疊いやさや敷きて」と見えた。この疊にする菅は山菅ではない。莎草科の沼菅などの類であらう。「菅」原本に吾〔右△〕とある。誤と見て改めた。○みへのかはら 三重の河原。伊勢國三重郡三重川の河原。三重川は今|内部《ウツベ》川といふ。采女《ウネメ》川の訛である。鎌岳、入道岳より發源し、葦田、采女二郷を過ぎ、潮濱にて海に入る。今采女町の附近に河原田の稱がある。大安寺資財帳に「三重郡采女(ノ)郷十四町、四至、東公田、南岡山、西百姓宅、北三重河之限」とある。○いそのうら 磯の浦。亂石のある入江をいふ。磯は石處《イソ》の義で、池、川、海、(2529)何處にてもいふ語。古義に磯の内《ウチ》と解したのは當らぬ。○かばかりかもと 舊訓は本文のまゝでかく訓み、契沖は「是」の下に雁〔右○〕を補つた。古義の訓はカクシモガモ〔二字傍線〕。抑もこの句が唐突で、何をさして「かばかり」或は「かくしも」といつたのかわからない。わからないのが當然、「如是雁鴨」は河蝦《カジカ》のカラ/\コロ/\カラ/\と鳴くその擬聲に意味を與へた獨立語で、丁度時鳥の聲を程時スギヌ〔五字傍点〕または天邊掛ケタカ〔六字傍点〕と聞くと同樣なものだ。然るに新考に旋頭歌の訛傳として云々したのは論外とし、古來の注者また全然氣が付かなかつた。「雁鴨」は戯書。△地圖 挿圖 89(二八一頁)を參照。
【歌意】 三重の河原の磯の浦に、から/\ころ/\「コレダケノ事ヨ」と鳴く、河蝦《カジカ》であることよ。
 
〔評〕 奈良人は常習的に河蝦の聲を、戯にはさうと聞き做したのであらう。
 
式部大倭《ノリノツカサノオホヤマトガ》芳野(ニテ)作(メル)歌一首
○式部大倭 式部省の官吏大倭(ノ)某のこと。大倭は氏か。傳未詳。
 
山高見《やまたかみ》 白木綿花爾《しらゆふばなに》 落多藝津《おちたぎつ》 夏身之河門《なつみのかはと》 雖見不飽香聞《みれどあかぬかも》     1736
 
〔釋〕 ○なつみのかはと 「なつみのかは」(八六二頁)及び「かはと」(一一三〇頁)を見よ。
 この歌、四句の外は、卷六、笠金村の長歌の反歌に同じい。同歌の條の評繹(一六三頁)を見よ。
 
(2530)兵部川原《ツハモノヽツカサノカハラガ》歌一首
 
○兵部川原 兵部省の官吏川原(ノ)某のこと。川原は氏か。傳未詳。
 
大瀧乎《おほだきを》 過而夏箕爾《すぎてなつみに》 傍居〔左△〕而《そひをりて》 淨河瀬《きよきかはせを》 見河明沙《みるがさやけさ》     1737
 
〔釋〕 ○おほだき 大和國吉野郡西河の瀧のこと。河床の岩が迫つて河水が激湍を成して流下してゐる。西河は吉野川の本流で、東河の高見川に對しての稱。○なつみにそひをりて 夏箕(菜摘)の岸に寄り傍うてゐて。「なつみ」は「なつみのかは」を見よ(八六二頁)。「居」は原本に爲〔右△〕とある。宣長説によつて改めた。○あるがさやけさ 「さやけさ」は氣持のさはやかな意に用ゐた。景色の上ではない。「河明沙」は戯書の意あるか。△地圖 挿圖 35(一一〇頁)を参照。
(2531)【歌意】 大瀧を通り過ぎて、川下の夏箕の岸に寄り傍うてゐて、清いこの河原を見ることが、氣持のよい事さ。
 
〔評〕 大瀧の邊は兩山相迫つて日光を遮蔽し、河幅は挾まつて一大瀑となる。それから流に沿うて下ること五里。夏箕の里に入ると、風光は濶然として聞け、曩の大瀧とは打つて變つた、まことに親み易い清き河瀬となる。されば作者は「傍ひ居りて」、低回去りかねるのである。大瀧と夏箕との明暗兩景の對照、「見るがさやけさ」と、夏箕に膠著してしまつた作者の態度、吉野情調が面白くいひ盡されてある。
 
詠(メル)2上總末珠名娘子《カミツフサノスエノタマナヲトメヲ》1歌〔左○〕一首并短歌
 
上總(ノ)國|周淮《スヱ》郡の珠名娘子を詠んだ歌との意。○末 普通は周淮と書く。本義は陶《スヱ》であらう。國造本紀に須惠《スエノ》國と出てゐる。この郡今は君津都となる。その飯野村に二間《フタマ》塚と稱する前方後圓の約一町に亙る古墳が一基ある。(地名辭書に二基とあるは誤)。里人或は珠名の墓とするは無稽で、これは必ず周淮の國造の墓と思はれる。但その邊、大塚、美人塚など古墳が無數だから、その中に珠名の墓があらうも知れぬが、今は辨へ難い。○珠名娘子 傳未詳。珠《タマ》が女の名で、名《ナ》は親稱であらう。眞間の手古奈の奈も同意。
 
水長鳥《しながどり》 安房爾繼有《あはにつぎたる》 梓弓《あづさゆみ》 末乃珠名者《すゑのたまなは》 胸別之《むなわけの》 (2532)廣吾妹《ひろきわぎも》 腰細之《こしぼその》 須輕娘〔左△〕子之《すがるをとめ》 其姿之《そのかほの》 端正爾《きらきらしきに》 如花《はなのごと》 咲而立者《ゑみてたてれば》 玉桙乃《たまほこの》 道行人者《みちゆきびとは》 己行《おのがゆく》 道者不去而《みちはゆかずて》 不召爾《よばなくに》 門至奴《かどにいたりぬ》 指並《さしなみの》 隣之君者《となりのきみは》 預《あらかじめ》 己妻離而《おのづまかれて》 不乞爾《こはなくに》 鎰左倍奉《かぎさへまだす》 人乃皆《ひとのみな》 如是迷有者《かくまどへれば》 容艶《かほよきに》 縁而曾妹者《よりてぞいもは》 多波禮弖有家留《たはれてありける》     1738
 
〔釋〕 ○しながどり 既出(一九三七頁)。こゝは安房《アハ》に係る枕詞。「しながどり」(鳩《ニホ》)は、常に水面に出没して人目に立つので、「しなが鳥|彼者《アハ》」を安房《アハ》の地名にいひ懸けた。古義に尻長《シナガ》鳥|表羽《ウハハ》をいひ懸けたるかとあるは牽強である。「水」をシと讀むは字音。本音はスヰであるが、式イの切で紙韻に屬する。○あはにつぎたる 安房郡に續いた。周淮《スヱ》の郡名に對したのだから國名の安房ではない。○あづさゆみ 弓には常に本末をいふ。その末をいひ懸けて周淮《スヱ》の枕詞とした。「あづさゆみ」は既出(三二四頁)。○むなわけのひろき 胸の間の廣い。この胸別は鹿の胸分《ムナワケ》とはその意を殊にする。眞淵訓による。舊訓ヒロケキ〔四字傍線〕はその語例がない。○こしぼそのすがるをとめの 腰の細い※[虫+果]羸《スガル》のやうな〔四右○〕處女。※[虫+果]羸なす腰細《コシボソ》處女といふに同じい。六言の句。「之」は(2533)衍字。○すがる ※[虫+果]羸。膜翅類の昆蟲。細小なる蜂で、その色赤黒色。よく筆管や戸※[片+(戸/甫)]などの小さい穴に卵を産し、その食料として蜘蛛などの小蟲を一緒に封じておく。古人はその孵化した蜂を見て蜘蛛が蜂になつたものと速了し、似我《ジガ》蜂の稱を與へ、毛詩には螟蛉有v子など作られた。○そのかほ 「姿」をカホと讀むは意訓。○きら/\しきに 美しくて光あるにいふ。「端」は正しの意であるが、容姿の上では整つて美しいこと。故に端正、端麗なぞを紀にはキラ/\シと訓み、靈異記にも、端正は岐良岐良之《キラキラシ》とある。童本訓による。舊訓ウツクシケサニ〔七字傍線〕は非。○みちゆきびと 「道行人」は次に「おのが行く道」とあるから、避けて熟語に訓むがよい。略解及び古義訓はミチユクヒト〔六字傍線〕。○さしなみの 「隣」の枕詞。既出(一七九一頁)。舊訓及び古義訓はサシナラブ〔五字傍線〕。○あらかじめ 「預」は豫と同意。略解訓による。舊訓カネテヨリ〔五字傍線〕は非。古義は頓〔右△〕の誤字としてタチマチニ〔五字傍線〕と訓んだ。○かれて 離《カ》れて。「かれ」は離るゝこと、疎遠になること。○かぎ 「鎰」は鑰〔右△〕の書寫字。鑰は外から挿し込んで内の締りを開けるカギ。和名抄に鑰匙(ハ)門乃加岐《カドノカギ》、今案(ズルニ)、俗人印鑰之處(ニ)用(ヰルハ)2鎰(ノ)字(ヲ)1非也。楊氏漢語抄(ニ)云(フ)》、鉤匙(ハ)戸乃加岐《トノカギ》、※[金+巣]子(ハ)藏乃賀岐《クラノカギ》と。○まだす 献る、さしあぐるの意。たてまだす〔五字傍点〕の上略。たてまだす〔五字傍点〕は奉《タテマツ》り出《ダ》すの略語。類聚國史、告2柏原(ノ)山陵(ニ)1詞に奉出須止《タテマダスト》、續後紀の宣命に奉出須|此状《コノサマ》、三代實録、太政官(ノ)宣詞に奉出世利《タテマダセリ》と見え、その外、奉出、奉進、奉遣等の字を、荐にタテマダスと古史に訓んである。又タテを略したマツリダスは集中に「麻都里太須《マツリダス》形見の物を(卷十五)とあり、更に略したマダスは集中の古訓に「わが衣形見に奉《マダス》」(マツル)(卷四)、「心さへ奉有《マダセル》君に」(卷十一)など見える。舊訓マダシと中止形にしたのは非。古義はマダス〔三字傍線〕を全然卻けて、奉をマツル〔三字傍線〕とのみ訓んだ。○ひとのみな 古義はいふ、人皆乃〔二字左△〕《ヒトミナノ》とありしかと。○まどへれば 神本京本等の訓による。舊訓マドヘルハ〔五字傍線〕。○いもは 珠名をさす。○かほよきに 顔よき男〔右○〕に(2534)の略。上の「その姿《カホ》のきら/\しきに」は珠名の上、この「顔良き」は訪ひ寄る男の上だから重複しない。諸註これを見誤つて、宣長はウチシナヒ〔五字傍線〕、嚴水はトリヨソヒ〔五字傍線〕など訓んだのは、「容艶」の字義にも遠い。無用の辯である。○たはれ 戯れ、遊蕩などの意。
【歌意】 安房に續いた末(周淮)の珠名は、胸先のふつくりした吾妹で、※[虫+果]羸のやうな腰細の娘で、その容姿が光つて美しいので、恰も花の如く莞爾《ニコリ》として立つて居ると、往來する人は、自分のゆく道は忘れて、召びもせぬにその門に立ち寄つた。又その近處の者は、前以て自分の女房を振棄てゝ、頼みもせぬのに、大切の鑰をさへ珠名〔二字右○〕にさし出して、機嫌を取つた〔六字右○〕。皆の人がかうも夢中に騷ぐので、その中の〔四字右○〕器量のいゝ男に〔二字右○〕凭れ添うてさ、吾妹珠名はたはけて居つたことであるわい。
 
〔評〕 まづ雙頭的に地名に枕詞を冠しての一意行進だ。然し「安房に繼ぎたる――周淮《スヱ》」は、地理的には餘に大ザツパな叙述である。一體安房國は古來上總の分國みたやうな状態で、併合したり分離したりしてゐる。高橋氏(ノ)文に、景行天皇の行宮を上總(ノ)國安房(ノ)浮島(ノ)宮と書かれてある。養老二年、上總の平群、安房、長狹、朝夷四郡を割いて安房國を立て、天平十三年もとの如く上總に併合、寶字二年に又分置された。この歌は何時の作だか分らぬが、安房郡に周淮郡の直接に隣續することは決してない。間に長狹(安房國)天羽(上總國)の二郡が介在してゐる。或は安房を國名として「安房に繼ぎたる――上總國の〔四字右○〕周淮」の意を、周淮の地の著名なのに任せて、上總國の〔四字右○〕をいひおとしたものか、否周淮が昔から國名を稱してゐた習慣上、觀念的にかくいひ續けたものであらう。
(2535) 「胸別のひろき吾味、腰細のすがる娘子」は純然たる對偶だ。古代人は婦人の肉體美の一つとして、胸の美を擧げることを忘れなかつた。出雲風土記國引の文には「童女《ヲトメ》の胸鋤《ムナスキ》取らして」と見え、そのゆたかな胸形を愛でた。鈿女《ウズメノ》命が猿田彦(ノ)神に會つて胸乳《ムナヂ》を露はして見せたのも、流石の目勝《マカツ》神も挑發される程、ムツチリしてゐたものであつたらう。楚辭の大招に「滂心《ヒロキムネ》、綽態《タヲヤカナルスガタ》、※[女+交]麗《カホヨニ》、小腰《ホソキコシ》、秀(デタル)頭若(シ)2鮮卑(ノ)1只」とあり、支那の昔でも廣い胸細い腰を推賞した。腰細は又盛に婦人の姿態美の隨一に數へられ、遂に楚王宮中の餓死、梁冀が妻の折腰歩に至つて極まり、「歩く姿は百合の花」と諺にもいはれる。
 珠名はもと/\田舍娘だ。青丹吉奈良の京の姫君達と違つて、深窓の内に引込んでは居ない。即ち「その姿《カホ》のきら/\しきに、花の如咲みて立てれば」で、蕣花のやうな輝かしい顔を莞爾《ニコ》つかせて門に出て張つてゐる。さて上の排對をこの單句で一旦結束して、更に次節の展開を待つた。
 かうなると、おなじ里中は勿論、噂が遠近に廣がる。つい通り懸かりの人達までも、一寸拜んでといふ娑婆氣を出す。それを「おのが行く道は行かずて」といひ、「召ばなくに門に到りぬ」といふ。措辭甚だ皮肉に又辛辣である。況や近處合壁の男共の騷ぎは輪を懸けての大變だ。甚しいのは、前以ておの妻に愛想盡かしをしておいて、呉れともいはぬ鑰などを恭しく捧げて、何時でも戸を開けて來るやうにとの狂氣沙汰だ。「奉《マダス》」の尊敬語は、嘲弄の微意が反撥されて、この際尤も妙である。この鑰は藏のではない、門戸の鑰だ。
 かく「玉桙の道ゆき人」と「指竝の隣の君」との懸想行爲を、長句の排對によつて描出した。こゝが本篇の最大重心である。
 筆は愈よ結收に移つた。「人の皆かく迷へれば」は決前生後の句である。そこで本尊珠名の態度はといふと、(2536)寄り集まるたはれ男の中のいゝ男に打靡いて、巫山戯散らして居たことであつたと、一意到底の長句を以て結んだ。事は甚だ平凡である。
 畢竟珠名は地方的美人であつたらうが、取るにも足らぬ一婬婦に過ぎない。わざ/\詞人がその叙筆を費すほどの價値を見ない。この末節恐らく譏刺の意を寓してゐるのではあるまいか。いや必ずさうであらう。
 この篇、對句と單句とを交錯して層々累々叙し去つた。筆路頗る流滑で、些の澁滯もない。實に老手の錬成である。
 婦人の行迹を題目として賦詠する體は、支那では漢代に漸く起り、六朝殊に蕭梁の代から盛になつた。大抵綺靡艶治を以て勝を取る。故にこれを艶體と稱した。その比較的小篇の作を左に、
  束飛伯勞歌
  東(ノ)飛伯勞西飛(ノ)燕、黄姑織女時(ニ)相見(ユ)、誰(カ)家(ノ)兒女(カ)對(シテ)v門(ニ)居(ル)、開(キ)v顔(ヲ)發(シテ)v艶(ヲ)照(ス)2里閭(ヲ)1、南※[窗/心]北※[片+(戸/甫)]挂(ケ)2明光(ヲ)1、羅※[巾+韋]綺帳脂粉香(シ)、女兒(ノ)年紀十五六、窈窕無(ク)v雙顏如(シ)v玉(ノ)、三春已(ニ)暮(レ)花從(フ)v風(ニ)、空(シク)留(メテ)2可憐(ヲ)1誰(ト)與(ニカ)同(ゼン)。(染武帝、玉臺新詠)
わが邦の詞人もこの風に感染したと見え、集中この種の長篇が疊出してゐる。但支那のはその主人公が專ら京住居の婦人であるが、こちらのは多く田舍娘が主題となつてゐる。尤も田舍とはいつても、大抵地方における股盛な部落地である。珠名の周淮は國造の舊地、手兒奈の眞間は葛飾の中心部落の湊地、蘆屋處女の菟日は西國街道の要衝で、何れも海に瀕した交通路に當り、魚鹽の利に富んだ場處である。想ふにそれ等の作者は國衙の官人などで、當時下命の風土記編纂の材料採取の爲、部内の舊事異聞を探尋する際に得た副産物であらうか。
                 △三女考(雜考―30參照)
 
(2537)反歌
 
金門爾之《かなとにし》 人乃來立者《ひとのきたてば》 夜中母《よなかにも》 身者田菜不知《みはたなしらず》 出曾相來《いでてぞあひける》     1739
 
〔釋〕 ○かなと 「をかなと」を見よ(一三三三頁)。○みはたなしらず 「みもたなしらず」を見よ(一九三頁)。「田菜」は戯書。○いでてぞ 舊訓イデゾ〔三字傍線〕。
【歌意】 金戸にさ、男が來て立つと、仮令眞夜中でも、わが身の事は一切構はず、出てさ逢つたことわい。
 
〔評〕 男が訪れると、よる夜中でも閨から飛び出して逢ふといふ。そんな女は田舍だつて凡そあるものでない。常習に反逆し常軌を逸脱してゐるからこそ、地方特種としてかく歌はれたものだ。
 
詠(メル)2水(ノ)江(ノ)浦島(ノ)子(ヲ)1歌一首、
 
○水江浦島子、水(ノ)江は氏、浦島は名、子は親稱としておく。浦島子の事蹟の初見は、雄略天皇紀に、「二十二年秋七月、丹波(ノ)國餘社《ヨサノ》郡|管川《ツヽガハノ》人、水(ノ)江(ノ)浦島(ノ)子、乘(リテ)v船(ニ)而釣(ス)、遂(ニ)得(タリ)2大龜(ヲ)1、便(チ)化2爲《ナリキ》女(ト)1、於是浦島(ノ)子、感《メデテ》以(テ)爲(ス)v婦(ト)、相|逐《シタガヒテ》(2538)入(レリ)v海(ニ)、到(リテ)2蓬莱山《トコヨノクニニ》1歴2覩《ミル》仙家(ヲ)1、語(ハ)在(リ)2別卷(ニ)1」とある。和銅六年に丹波國五郡を割きて丹後をおかれて後は、與謝(餘社)郡は丹後國に屬した。管(筒)川は、今本庄、筒川の二村に分れ、筒川浦は新井崎より北、經が崎に至る海濱を稱する。尚丹後風土記及び浦島子傳は、紀の本文を更に委細に紹述してゐる。紀にいふ別卷は多分この二書の本づいた處であらう。
 
春日之《はるびの》 霞時爾《かすめるときに》 墨吉之《すみのえの》 岸爾出居而《きしにいでゐて》 釣船之《つりぶねの》 得乎良布見者《とをらふみれば》 古之《いにしへの》 事曾所念《ことぞおもほゆる》 水江之《みづのえの》 浦島兒之《うらしまのこが》 堅魚釣《かつをつり》 鯛釣矜《たひつりほこり》 及七日《なぬかまで》 家爾毛不來而《いへにもこずて》 海界乎《うなさかを》 過而榜行爾《すぎてこぎゆくに》 海若《わたつみの》 神之女爾《かみのをとめに》 邂爾《たまさかに》 伊許藝※[走+多]《いこぎおもむき》 相誂良比《あひとぶらひ》 言成之賀婆《ことなりしかば》 加吉結《かきむすび》 常代爾至《とこよにいたり》 海若《わたつみの》 神之宮乃《かみのみやの》 内隔之《なかのへの》 細有殿爾《たへなるとのに》 携《たづさはり》 二人入居而《ふたりいりゐて》 (2539)老目不爲《おいもせず》 死不爲而《しにもせずして》 永世爾《ながきよに》 有家留物乎《ありけるものを》 世間之《よのなかの》 愚人之《かたくなびとの》 吾妹兒爾《わぎもこに》 告而語久《つげてかたらく》 須臾者《しまらくは》 家歸而《いへにかへりて》 父母爾《ちちははに》 事毛告良比《ことものらひ》 如明日《あすのごと》 吾者來南登《われはきなむと》 言家禮婆《いひければ》 妹之答久《いもがいへらく》 常世邊爾《とこよへに》 復變來而《またかへりきて》 如今《いまのごと》 將相跡奈良婆《あはむとならば》 此篋《このくしげ》 開勿勤常《ひらくなゆめと》 曾己良久爾《そこらくに》 堅目師事乎《かためしことを》 墨吉爾《すみのえに》 還來而《かへりきたりて》 家見跡《いへみれど》 宅毛見金手《いへもみかねて》 里見跡《さとみれど》 里毛見金手《さともみかねて》 恠常《あやしみと》 所許爾念久《そこにおもはく》 從家出而《いへゆでて》 三歳之間爾《みとせのほどに》 墻毛無《かきもなく》 家滅目八裳〔左△〕《いへうせめやも》 此筥乎《このはこを》 開而見手齒《ひらきてみてば》 如本來〔二字左△〕《もとのごと》 家者將有登《いへはあらむと》 (2540)玉篋《たまくしげ》 小披爾《すこしひらくに》 白雲之《しらくもの》 自箱出而《はこよりいでて》 常世邊《とこよへに》 棚引去者《たなびきぬれば》 立走《たちはしり》 ※[口+斗]袖振《さけびそでふり》 反側《こいまろび》 足受利四管《あしずりしつつ》 頓《たちまちに》 情消失奴《こころけうせぬ》 若有之《わかかりし》 皮毛皺奴《はだもしわみぬ》 黒有之《くろかりし》 髪毛白班奴《かみもしらけぬ》 由李〔左△〕由李〔左△〕波《ゆりゆりは》 氣左倍絶而《いきさへたえて》 後遂《のちつひに》 壽死祁流《いのちしにける》 水江之《みづのえの》 浦島子之《うらしまのこが》 家地見《いへどころみゆ》     1740
 
〔釋〕 ○はるびの 四言の句。諸訓ハルノヒノ〔五字傍線〕とあるは、古調のこの歌に調和しない。○すみのえのきし 打任せて墨吉《スミノエ》の岸といへば攝津國の住吉の岸の事になるが、浦島は紀にもある如く、丹波(のち丹後)の與謝郡の人だから、この墨吉は與謝郡|管《ツヽ》川の墨吉と見るより外はない。扶桑略記、浦島子續傳の末にも、忽(ニ)到(リヌ)2故郷澄江(ノ)浦(ニ)1とあるから、管川の里に墨吉(澄江)といふ地稱があつたとする。○とをらふ 撓むことをタワともトヲともいふ、そのトヲにラフの接尾詞の屬した語か。影ラフ、安ラフの類語。意は撓むに同じい。「釣船のとをらふ」は釣船が波にゆら/\する貌にいふ。大平はクユタフ〔四字傍線〕の誤として手湯多布〔四字右△〕と改字し、古義も追從した。(2541)○いにしへのごと 浦島子の事を斥す。○かつをつり 鰹を釣り矜り〔二字右○〕。矜り〔二字傍点〕は次の「鯛つり矜り」に讓つて略いた。鰹は硬鰭類の魚。その肉を干せば堅くなるので堅魚《カタウヲ》と稱し、轉じてカツヲとなつた。○たひつりほこり 「たひ」は硬鰭類の魚。「つりほこり」は釣り得て得意になるをいふ。○うなさか 「海界」の字義のとほり。記(上)の塞《フタギテ》2海坂《ウナサカヲ》1而返(リ)入(リヌ)の海坂も、坂は借字にて界の意。記傳に、海神の國とこの上國との間の隔ある處をいふ也と。○わたつみ 海神。既出(七四頁)。○かみのをとめ 神本カミノムスメニ〔七字傍線〕と訓んだ。○いこぎおもむき 「※[走+多]」は趨〔右△〕の俗字。字義の通りにオモムキと訓めば事もない。然るを略解及び古義はムカヒ〔三字傍線〕と訓み、舊訓は「相」までを句としてワシラヒ〔四字傍線〕と讀んだ。○あひとぶらひ 互に挑み合つて。「誂」は挑むの意。男女間にはこれを問ふ〔二字傍点〕といふ。即ち妻問《ツマドヒ》の間《トヒ》である。下の歌にも「垣穂なす人の誂時《トフトキ》」と見えた。問ふ〔二字傍点〕がトブラヒと活くのは通則。「誂」は又カタラヒとも訓むから、舊訓のアヒカタラヒ〔六字傍線〕も惡くはない。眞淵訓のカヾラヒ〔四字傍線〕は※[女+耀の旁]《カガ》ふの語に本づいたのだが、その活用が無理である。○ことなりしかば 「言」は事〔右△〕の借字で、事成るは夫婦となつたのをいふ。○かきむすび 一緒にの意。古義に夫婦の約《ムスビ》をなすことと解したが、既に上に「事成りしかば」とあるから、意が重複する。舊訓カキツラネ〔五字傍線〕は穩かでないが、その意は得てゐる。○とこよ 「わがくにはとこよにならむと」を見よ(一九三頁)。○わたつみのかみのみや 神代紀に、(彦火々出見尊)於是|棄《ウテヽ》v籠《カタマヲ》遊行《イデマシ》、忽(チ)至(リマシヌ)2海神之《ワタツミノ》宮(ニ)1、其宮、雉※[土+蝶の旁]整頓《タカガキヒメガキトヽノホリ》、臺宇《タカドノノヤカズヲ》玲瓏《カヾヤケリ》云々。こゝはカミノミヤノ〔六字傍線〕と訓んで六言の句。ミヤコノ〔四字傍線〕、ミヤヰノ〔四字傍線〕など、強ひて七言に訓むに及ばぬ。○なかのへ 中(ノ)重。宮城内即ち大内裏中に更に一區劃を成した地域。即ち禁中即ち内裏を稱する。こゝは天皇の御居處に擬へていふ。○たへなる 精妙なる。「細」は精《クハ》しの意。○おいも 「老目」は耆〔右△〕の誤か。耆は老ゆの意、また老人の意。禮記には六十歳、周禮には八十(2542)歳をいふとある。○ながきよに 略解、古義共にトコシヘニ〔五字傍線〕と訓んだ。○かたくなびとの 浦島子を斥す。古義に紀また續紀を引いて、「かたくな」、を「愚」の古言としたのはよい。舊訓シレタルヒトノ〔七字傍線〕。○しまらくは シマシクハ〔五字傍線〕と訓むもよい。舊訓はシバラクハ〔五字傍線〕。○ことものらひ 六言の句。古義訓コトヲモノラヒ〔七字傍線〕。○あすのごと 時日の經たぬことの譬喩。○このくしげ 「くしげ」は「たまくしげ」を見よ(三一四頁)。「篋」はハコ〔二字傍線〕とも訓まれるが、後に「玉|篋《クシゲ》」とあれば、こゝもクシゲと訓む。○そこらくに 其處に〔三字傍点〕に同じい。○かためしことを いひ〔二字右○〕固めしことなる〔二字右○〕を。○みかねて 見付け敢へずして。○あやしみと 拾穗抄のこの訓よろしい。○いへうせめやも 「裳」原本〔右△〕に跡とある。こゝは意の續く處だから「と」と切れては調はない。古義説によつて改めた。○みてば 見たらば。○もとのごと 「本來」原本に來本〔二字右△〕とあるは顛倒。○こいまろび 既出(一〇三一頁)。「反側」は詩の周南關雎(ノ)篇に輾転反側と見えて、寐反りすることをいふ。○こころけうせぬ 正氣の失せたるをいふ。「消」原本に清〔右△〕とあるは誤。藍本その他による。○はだも 舊訓カハモ〔三字傍線〕は非。○ゆりゆりは 後々《ノチ/\》は。卷八「ゆり〔二字傍点〕といへるは」を見よ(二二九三頁)。「李」原本に奈〔右△〕とあるは誤。古義説による。彦麻呂は由奈由奈を奈由奈由〔四字左△〕《ナユナユ》の顛倒とした。○いへどころ 家の在つた處。今はその家はないのだ。
【歌意】 春の日の霞んでゐる時に、自分が〔三字右○〕墨吉《スミノエ》の岸に出て居て、沖に釣船のゆた/\してゐるのを見ると、ふと昔の話がさ思ひ出される。昔あの水江の浦島の子が、鰹や鯛釣に乘氣になつて、七日まで家にも歸らないで、海の果を越えて漕いで行くと、海神の姫に、ゆくりもなく漕ぎ行き會つて、互に話が出來て夫婦となつたので、連れ立つて常世(蓬莱)に到著し、海神の宮城内の又その奥(中の重)の立派な御殿に、手を取り合つて二人で(2543)棲んで、永い間年も寄らず死にもせずに、居たことであつたものを、世の中での大馬鹿者(浦島)が、わが妻の姫に語ること〔二字右○〕には、「暫時の間故郷の家に歸つて、兩親に出來事を話し、ほん明日のやうに、早く〔二字右○〕私は立歸つて來ませう」というたので、妻の姫のいふこと〔二字右○〕には「この常世の方に復返つて來て、只今のやうに連れ添はうと思召すなら、この差上げます〔五字右○〕櫛匣を決して開けてはなりませんぞ」と、固く約束をしたことなの〔二字右○〕を。浦島は〔三字右○〕愈よ故郷墨吉に歸つて來て、もとの〔三字右○〕わが家を見れど見付けかねて、もとの〔三字右○〕里を見れど見付けかねてそこで思案するに、家を出てわづか三年の間に、かう垣根もなく家もなくならう事かい、もし〔二字右○〕この筥を開けて見ようならば、元のやうに家はあらうも知れぬ〔四字右○〕と、この櫛匣を少し開けると、白雲が筥から出て、常世の方に靡いて行くので、それを呼び返すとて〔九字右○〕、驅け出して大聲學げ、袖を振り、辷つたり轉んだり、足摺しつゝ悔しがつたが〔六字右○〕、忽に一時の〔三字右○〕正氣を失つた。そして〔三字右○〕若かつた膚も皺だらけになつた、黒かつた髪も白髪になつた。後々は息さへ止まつて、とう/\命も盡きて死んでしまつた、その〔二字右○〕水江の浦島の子の住んで居た土地が、あれ〔二字右○〕見えるわ。
 
〔評〕 春日うら/\と霞んで、膏のやうにとろんとしてゐる海上、そこにたゆたふ漁船から、この浦に居た昔の浦島の夢への繋がりを念ふ。まことに推移が自然である。
 浦島は堅魚釣り鯛釣りほこる片田舍の漁師である。獲物があるので調子に乘つて、幾日經つても歸つて來ぬ。そんな事は漁師にはあり打の事だ。その内沖合で神女に出會つたといふ。紀も丹後風土記も龜の子を釣り上げ、それが神女に化つたとあつて、神女の名が風土記には龜姫とある。動物が人化する話例は和漢とも澤山あり、別に奇とするに足らぬが、それに全く凡人生活をするものと半神半人生活をするものとの二者に別れ(2544)る。龜姫はその後者の方だ。「神のをとめ」はカミノムスメの訓を採りたいが、俗間この龜姫を乙姫といつてゐる。それはこのヲトメの語の訛稱であらうことは疑を容れない。よつて姑く舊訓を存しておいた。
 楚壬は高唐に遊んだ爲に巫山の神女に會うた。然し話はそれ切だ。浦島の方は龜姫と夫婦となつて、その本郷の蓬莱國まで出掛けて行き、主權者の花壻樣といふので、管川の貧乏漁師は一躍金殿玉樓の主人として、三年の間、富貴榮耀を極めて暮した。
 胡馬朔風に嘶き越鳥南枝に巣喰ふ。まして人間に於いてをやだ。今でも永年外國に生活してゐた者が、晩年になると故郷戀しさに、造つた財産を引纏めて歸つてくる。
 然し蓬莱國は仙界で、老もなく死もない常若の極樂だ。それでも浦島は國が戀しい兩親が戀しい、歸心矢の如しで溜息を吐く。素性が素性だから仕方がない。それを作者は「世間の愚人」と扱きおろした。
 浦島と龜姫との一場の對話は、その筋書通りを運んだものだ。別れに與へた形見の櫛匣、只開けるなとだけでは不親切のやうだが、その結果を何とも豫言しない處に神秘性があつて面白い。
 天上仙界の日月は長い。その三年は人間の百年(神仙傳による。風土記は三百年)、故郷墨吉の山河は依然たりだが、不思議や、物も人も變り果てゝ、自分の噂を遠い昔話として聞かされたのみだ。途方に暮れてかねての訓言も忘れ、櫛匣の蓋を一寸開けると、白雲がふは/\と立昇つて常世の方へ去つた。雲が出たからとて、何も「立走り叫び袖振りこい轉び、足摺しつゝ」するには及ばない。そこに叙述の不完がある。風土記には
  忽(チ)開(キ)2玉匣(ヲ)1、即(チ)未(ル)v※[目+譽](ノ)之間、芳蘭之體、乘(リ)2風雲(ニ)1翩(リ)2飛(ブ)蒼天1、云々。
と見えて、その匣の中から龜姫の姿がすつと現れ、雲に乘つて天に飛んで往つたのである。これでは立走りも(2545)しよう、袖も振らう、こい轉び足摺もしよう。「若かりし膚も皺みぬ、黒かりし髪もしらけぬ」は老で、「のち遂にいのち死にける」は死だ。即ち上の「老いもせず、死にもせずして、云々」の反應で、人間界の見じめさを如實に示した。浦島は心からかく榮枯盛衰手の裏を反した境遇に陷り、一場の悲劇の主人公に了つた。
 作者はかく浦島傳説を語り納めて、茲に冒頭を囘顧し、「水の江の浦島の子が家地見ゆ」で筆を擱いた。現實から瞑想に入り、瞑想から又現實に返つた。この歌の詠まれた頃は、まだ浦島の宅址と傳へられた土地が墨吉にあつたと見える。とにかく堂々たる大手筆で、わが邦叙事詩中の大作として、古今に雄たるものゝ一つである。
 この傳説は思想的に見れば、支那から來た神仙思想の所産である。蓬莱の語は楚辭に初出し、神仙の居處を海に※[不/見]めることは、
  蓬莱、方丈、瀛洲(ノ)三神山(ハ)在(リ)v海(ニ)、金銀(ヲ)爲(ス)2宮闕(ト)1。(漢書郊祀志)
  蓬莱隔(ツルコト)2弱水(ヲ)1三十萬里、非(ズバ)2飛仙(ニ)1、無(シ)2以(テ)到(ル)1。(列仙傳、大平廣記)
など見えた。又常世は漫然と海外の國を斥していふ場合が多く、又事實としては、外國たるその頃の支那朝鮮の文化程度が、われより進んで居たから、理想の國として常世を羨望して居た。さては蓬莱を常世に充てることも偶然であるまい。而もこの歌は綿津見の宮を以て蓬莱に充てた。海の縁は離れないが、本筋は歪曲されてゐる。それが嵩じては後世佛説も加味され、龍宮城となり、龍王の女乙姫となり、浦島太郎となつて、話が派手になつた。
 浦島傳説は何時頃發生したものか。事は雄略天皇紀中に出てみても、不確定である。神仙道は推古天皇以後(2546)隋唐文化の輸入に伴つて流行し出したものであることは明瞭だから、それ以後か或時代に於いて成立したであらうことは疑を容れない。只雄略天皇頃の昔話として傳へた爲に、紀の編者が、その御代の條に繋けたに過ぎない。序にいふ、紀にはこの種の紀事は他に絶對ない。必ず衍文であらうと。
 又教訓的に考へると、仙凡二者の間に大きな隔りのあることを諷諭し、世の仙術者に非望の行爲に耽溺する愚を暗示したものとも見られる。かの憶良の「令反惑情歌」の主意と、その言を異にして歸趨を同じうするものか。而して約束を輕親し禁戒を破ることの重大なる非違であることを痛切に教へてゐる。
 又話説として考へると、紀記所載の彦火々出見尊(火遠理命)の綿津見の國訪問の一段が、餘にもよく相似してゐる。またこの話説の結果は述異記、水經注の爛柯山の王質の故事に同じい。今この三者を表に作つて見る
 
         世界 目的  媒者   往路(乘物) 到著地    神仙の宅    對手     生活
(彦火々出見尊) 海 鉤を求む 鹽土ノ神 無間勝間之船 綿津見之國  鱗の如造れる宮 綿津見の女   夫婦歡樂
(浦島)     〃 漁獵   龜(姫) 龜(姫)   蓬莱國    妙なる殿    仙女(龜姫) 夫婦歡樂
(王質)     山 采樵   ○    ○      少室山    石室      仙童     圍棋又絃歌の歡樂
       滞留年限     歸郷動機 形見   歸路(乘物) 離郷以來の年限 現實   終局
彦火々出見尊 三歳      大歎息  干珠滿珠 鰐      ○       勝利   盛榮
浦島     三歳      嗟歎   櫛匣   船      百年餘     家郷滅亡 老死
(王質)   一局又一關の間 爛柯   ○    ○      數十年     家郷滅亡 不明
 
と、まづかうなる。尠くとも浦島傳説はわが古代神話を神仙思想によつて變形させた物語ではあるまいか。
(2547) 又事實として考へると、これは一種の漂流奇譚である。丹後は宮津の崎の最突端管川のあたりは、日本海に直面した荒海だ。漁師がよく出漁中、暴風の爲東西も知らぬ外國に漂著し、そこに多年土著して運よく土地の酋長の壻になり、相應の生活を營むが、故郷戀しさに白髪頭のヨボ/\老爺で歸國したなどいふ話は實に山ほどある。浦島もおなじ漂流者の一人か。それに尾鰭が付き彩色されて、浦島太郎が出來上つたものだらう。
 
反歌
 
常世邊《とこよへに》 可住物乎《すむべきものを》 釼刀《つるぎたち》 己之心柄《ながこころから》 於曾也是君《おそやこのきみ》     1741
 
〔釋〕 ○つるぎたち 「なが」のなに係る枕詞。既出(五〇六頁)。○なが 汝が。「己」をナと訓むことは大己貴《オホナムチノ》命の讀例による。童本訓によつた。略解訓シガ〔二字傍線〕、古義訓ワガ〔二字傍線〕、何れも不當。○心から の下、住まずして〔五字右○〕を補うて聞く。○おそや 鈍や。「や」は歎辭。
【歌意】 永久に蓬莱に〔三字右○〕蓬莱《トコヨ》に、往まう筈であるものを、自身の心から、飛び出してさ〔六字右○〕、馬鹿だよ、この君は。
 
〔評〕 情状の酌量なしに、浦島に手嚴しい批判を下した。蓋し浦島の仙人になり損ねたのを惜む餘りの一本氣の激語である。常識の批判などは歌にならぬ。
 
見(テ)2河内《カフチノ》大橋(ヲ)獨去娘子《ヒトリユクヲトメヲ》1作〔左○〕歌一首并短歌
 
(2548)○見河内大橋獨去娘子作歌 河内の大橋を獨渡つてゆく娘を見て詠んだ歌との意。「河内の大橋」は河内の片足羽《カタシハ》河に架つた大橋。
 
級照《しなてる》 片足羽河之《かたしはがはの》 左丹塗《さにぬりの》 大橋之上從《おほはしのへゆ》 紅《くれなゐの》 赤裳數十引《あかもすそひき》 山藍用《やまゐもち》 摺衣服而《すれるきぬきて》 直獨《ただひとり》 伊渡爲兒者《いわたらすこは》 若草乃《わかぐさの》 夫香有良武《つまかあるらむ》 橿實之《かしのみの》 獨歟將宿《ひとりかぬらむ》 問卷乃《とはまくの》 欲我妹之《ほしきわぎもが》 家乃不知《いへのしらなく》     1742
 
〔釋〕 ○しなてる 小竹《シヌ》の轉語シナに、立てる〔三字傍点〕の約語テルの熟したもので、篠の立つてゐる土地にかけて使つた序語。尚「千鳥鳴く佐保川」「蛙鳴く吉野の川」の類で、されば「しなてる片岡山」(紀)とも續くのである。片鹽は河畔、片岡は丘陵地で、共に篠が叢生してゐたと想はれる。卷十三の「師名《シナ》立つ都久麻《ツクマ》さぬかた」の師(2549)名立つも篠立つである。「級照」は借字。舊説は(1)級《シナ》立てる(冠辭考)。(2)地形|階級《シナ》ありて片上り片下りなる所のさまに冠らす(紀通釋)。(3)シナは嫋《シナ》の意。テルは佐比豆流《サヒヅル》のヅルと同語にて形容の語、カタは肩にて、嫋々《シナ/\》したる肩といふ續きにて「かた」に係る枕詞(古義)。○かたしはがは 堅鹽《カタシハ》川。片足羽川は借字で、「片足」はカタシと訓む。堅鹽は堅磐《カタシハ》の義で、その地は、續紀に養老四年、河内國堅下上二郡、更(ニ)號(ス)2大縣郡(ト)1とある處。今は堅下堅上は村名に存し、大縣郡は廢して中河内那に入る。この堅下竪上即ち堅鹽の地を流れてゐる大和川を堅鹽川と稱した。もとより街道筋で大橋あるべき地形である。河内志に、石川の舊名とあるは據がない。大和國にも片鹽の地名はあるが、こゝは河内の堅鹽である。○さにぬり 既出(二三一五頁)。○おほはしのへゆ この「ゆ」はヲ〔傍点〕に近い。○やまゐ 山藍の約。大戟科の山草。葉は橢圓形にて對生し、一種の液汁を有す。これを以て青色の染料とす。初夏淡黄緑色の花被を有する小花を穂状に綴る。○すれるきぬ 草木の花葉や根を染料として、直接に布帛に摺り付けて染めた衣をいふ。「ころもにほはせ」を参照(二二一頁)。○いわたらすこ 「い」は接頭語。「わた(2550)らす」は渡る〔二字傍点〕の敬相。「こ」は若い女の親稱。○かしのみの 「ひとり」に係る枕詞。橿の實はその穀斗《カサ》の中に實は一つのみであるのでいふ。○とはまくの 問はむこと〔二字右○〕の。
 △地圖 後出挿圖 605(二五五九頁)を參照。
【歌意】 片鹽川の朱塗の大橋の上を、紅の赤裳の裾を曳いて、山藍をもつて摺染にした衣を著て、只一人で、渡つてゆくあの娘《コ》は、夫があるであらうか、それとも〔四字右○〕夫がなくて獨寐であらうか。問うてみたく思ふ吾妹兒が、家の知られぬことわい。殘念にも〔四字右○〕。
 
〔評〕 小スケツチの小即興である。然し詩歌は大小に關はらず深みが大切だ。
 西國出入の關門たる難波から奈良京に入る本街道、堅鹽川(大和川)には朱塗の大橋が架けてあつた。丹縁彩色を建築物に施すことは支那人の慣習、それに倣つての、唐土人高麗人が來朝にも、愧かしくない用意と見えた。そこを青摺衣に赤裳裾の若い兒が渡つてゆく、極めて絢爛な美しい光景だ。
 かう相當の風采をした娘であつては、何としても好奇の心を動かさざるを得まい。何れその近處の良家の者であらう。
 さあ一人者か二人者かが心配になる。好奇心は漸く好色心と進展し、名が知りたい、家が知りたいとまでなつた。けれども作者は押が弱い。徒らに「家の知らなく」と慨歎するのみで、網の魚を逃がした。
 こんな事實は古代人に取つては尋常茶飯事だ。だが前半の客觀的叙筆に頗る精彩があり、後半の主觀的叙情も極めて自然で、「知らなく」と歇後の辭樣を以て餘意餘情をいひ遺した。かくて一篇劃然と前後二樣に變化し、對映の妙容易に企及し難いものがある。まあ高級のダツトサンだ。
 
(2551)反歌
 
大橋之《おほはしの》 頭爾家有者《つめにいへあらば》 心悲久《まがなしく》 獨去兒爾《ひとりゆくこに》 屋戸借申尾《やどかさましを》     1743
 
〔釋〕 ○つめに 「頭」をツメと訓む。橋のもとをいふ。天智天皇紀に「于智《ウチ》橋の都梅《ツメ》のあそびに」と見え、催馬樂にも、「橋の詰《ツメ》」とある。略解訓による。○まがなしく 可愛さうに。「ま」は美稱。「かなし」は愛すること。略解訓による。舊訓コヽロイタク〔六字傍線〕、契沖訓ウラカナシク〔六字傍線〕。○ましを 「申」は十二支の猿で、梵語に猿を麻斯叱《マシタ》といふを、略してマシといふ。「申尾」は戯書。卷四には「猿尾」がある。
【歌意】 大橋の橋詰に自分の〔三字右○〕家があるならば、可愛さうにも獨往くあの兒〔三字右○〕に、宿を借さうものをさ。生憎家もないのでねえ〔十字右○〕。
 
〔評〕 折しも夕暮頃と見えた。男でさへ夜道のあぶない時代だ。獨往く兒に同情の餘り、「家あらば――宿借さましを」と、懇情の屆かぬ遺憾さを表明した。この表明は結局獨言だが、向うが知る知らぬを問題にせぬ處に、その迸る熱意を見る。
 
見(テ)2武藏(ノ)小埼《ヲサキノ》沼(ノ)鴨(ヲ)1作(メル)歌一首
 
○小崎(ノ)沼 歌に前玉之《サキタマノ》小崎乃沼とある。前玉は埼玉で、和名抄に武藏國埼玉(ノ)郡、佐伊太末《サイタマ》とある。小崎の沼は(2552)江戸時代に、北埼玉都に今の井泉村尾崎をその故地と定めて、碑石を建てた。北埼玉は利根川會川その他の水流が縱横に交錯し、地形到る處に變化し、到底沼の故地は求められない。
 
前玉之《さきたまの》 小埼乃沼爾《をさきのぬまに》 鴨曾翼霧《かもぞはねきる》 己尾爾《おのがをに》 零置流霜乎《ふりおけるしもを》 掃等爾有斯《はらふとならし》     1744
 
〔釋〕 これは旋頭歌。○さきたまのをさきのぬま 前項を見よ。○はねきる 羽叩きするをいふ。「霧」は借字。○ふりおける 既出(七七七頁)。
【歌意】 埼玉の小崎の沼で、鴨がさ羽叩きをするわ。自分の尾に降り積つた霜を、うち拂ふとの事で〔三字右○〕あるらしい。
 
〔評〕 鴨の羽叩きは物を打拂ふに似た状態である。霜を拂ふ動作を連想したのは、時が冬の朝か寒夜だからであらう。多く水鳥類は寒中をおのが時として群棲し、活躍する。こゝに「おのが尾」といひ、卷十五にも「鴨すらも――わが尾には霜な降りそ」と見え、頻に尾に降る霜を云々したので、古義に、鴨は尾を大切にする由にてと説明したのは、當推量も甚しい。彼等はすべて尻尾を盛に振る習性がある。それが眼に著いて、おのが身〔四字傍点〕といふべき處に、尾を擧げたまでだ。
 前聯は聽覺を伴うた叙景、後聯は作者の想像を交へた説明で、相呼應してゐる。造句遒勁で調に弛緩の痕がない。委しくいへば、前句の地名の剪裁からはじめて、後句の調も力強く終つてゐる。叙情の語は弱くなり勝なので、後句は字餘りを用ゐ、音數顛倒の促調を用ゐなどしてその弊を救ひ、上下の均衡を保たしめた。さり(2553)とて技巧的に終始した作と思つてはいけない。鴨の羽切る音が廣い小埼の沼を響動し、聽者の膚にその霜氣がひし/\と刺し透る思がある。
 體は旋頭歌としては變調で、短歌の延長の如き觀がある。
 
那賀郡曝井《ナカノコホリノサラシヰノ》歌一首
 
○那賀郡曝井 諸國ともその中央部に、那賀(中)郡が立てられてある。がこれは常陸國の那珂郡(今は茨城郡)で、その郡珂(ノ)郷の曝井である。常陸風土記に
  那賀郡云々、自(リ)v郡東北(ニ)、挾(ンデ)2栗河(ヲ)1而置(ク)2驛家(ヲ)1、(本近(ク)2栗河(ニ)謂(ヘリ)2河内(ノ)驛家(ト)1)。當(リ)2其以南(ニ)1、泉出(デ)2坂中(ニ)1、水多(ク)流(レ)尤(モ)清(シ)、謂2之(ヲ)曝井(ト)1。縁(ヒテ)v泉(ニ)所(ノ)v居(ル)村落(ノ)婦女、夏月會(ヒ)集(リ)、浣(ヒテ)v布(ヲ)曝乾《サラセリ》。
と見え、この栗河は那珂川の古名で、今も茨城郡袴塚村瀧坂の半ばに清泉が盛に涌出し、その附近を曝臺、その裾田を曝田と呼んでゐる。武藏國那賀郡とする説は非。
 
三栗乃《みつぐりの》 中爾向有《なかにむかへる》 曝井之《さらしゐの》 不絶將通《たえずかよはむ》 彼所爾妻毛我《そこにつまもが》     1745
 
〔釋〕 ○みつぐりの 中に係る枕詞。栗の實はその毬《イガ》の中に大抵三つあり、故に三つ栗といふ。三つある物は必(2554)ず中のあるにより、三つ栗の中(那賀)と續けた。○なかにむかへる 那珂川を中心として、河内《カフチ》、臺《ダイ》渡りの那珂(ノ)郷の低地を廣く見おろす曝井の所在地瀧坂は、「那珂に向へる」といひ得る。宣長の「向」を回〔右△〕と改めてメグレル〔四字傍線〕と訓む説や、その他の改字説は机上の空論である。○さらしゐの 曝井の如く〔二字右○〕。上句は曝井の水の絶えぬを以て、「絶えず」に係けた序詞。「さらしゐ」は題詞の解を見よ。○そこにつまもが  「そこ」は曝井の地を斥す。
【歌意】 那珂の地に臨んでゐる、この曝井の水の絶えぬやうに、絶えず通はうぞ、それには〔四字右○〕其處に、氣に入つた〔五字右○〕妻がまあ欲しいわ。
 
〔評〕 曝井に對して「絶えず通はむ」とは、泉の水のさやかさを愛でて、絶えず來て見むの婉語だといふ。然し既に「通はむ」といつた以上は、別に本尊樣がある筈だ。
井は生活の源泉で、聚落を作り社會を作る基本だ(この事は卷一、藤原(ノ)宮(ノ)御井(ノ)歌の評語に(二一二頁)既に※[聲の耳が缶]した)。而も井に聚る者は大抵婦人だ。風土記にも、この曝井に村落の婦人達が夏は洗濯に出動するとある。隨つて神代の綿津見の宮の井から始めて、井の本にはとかく艶種が發生し、平安時代の小野宮(ノ)右大臣實資は墻外の井に來る婦人連を透(2555)き見して、その好色心を滿足させたとある。作者も曝井の那珂女に幾分の風流心を動かして、「そこに妻もが」との戯謔一番、流石に洒落れたものだ。古義の何時までも曝井の水に拘泥してゐる解説は、田舍親爺の談義に近い。
 
手綱《タヅナノ》濱(ノ)歌一首
 
○手綱濱 常陸國|多珂《タカ》郡手綱濱。今の多賀都高萩より北、赤濱邊までの海濱の總稱であらう。一里餘西に今も手綱《テヅナ》町がある。古へこの郡は高(ノ)國といひ、國造を置かれた。上の那珂の曝井と同じく常陸歌である。
 
速妻四《とほづまし》 高爾有世婆《たかにありせば》 不知十方《しらずとも》 手綱乃濱能《たづなのはまの》 尋來名益《たづねきなまし》     1746
 
〔釋〕 ○とほづまし 「とほづま」は既出(一一四〇頁)。「し」は強辭。○たかに 「たか」は高即ち多珂で、地名である。略解に「高」を其〔右△〕の誤としてソコと訓んだのは非。○しらずとも 道を〔二字右○〕知らずとも。○たづなのはまの 手綱の濱の稱《ナ》の如く〔二字右○〕。タヅナを同音の「尋ね」の序語とした。○たづねきなまし この「き」は行くの意。「まし」はましを〔右○〕の意。
【歌意】 遠方にゐる妻がさ、もし〔二字右○〕この高(多珂)に居るならば、よし道は〔四字右○〕知らずとも、手綱の濱の稱《ナ》のやうに、(2556)尋ねゆかうものをさ。
 
〔評〕 始めて多珂郡に出張か在任かした小官吏の作であらう。故郷に置いた妻か愛人かを念ふ餘り、この多珂にそれが居りさへすれば、どんな處でも尋ねて訪はうにと、參商空しく相隔てゝ怨望する悲傷の情を叙べた。「手綱の濱のたづね」の口合は小技巧に墮するものだが、當時としては耳新しく聞えたらう。平安期の歌人達も、却て喜んで隣女の醜を重ねてゐる。
 前人の諸説、結句の解が不當であつた爲、皆正鵠を外してゐる。殊に古義の、「我を尋ね來て共に風景を愛づべきを、さもなきは他の男に心移りして吾を思はぬにや」などは、迂愚も亦甚しい。
 尚いふ、手綱の濱は口合に借りたまでとすればそれまでだが、退いて考へると相當理由ある事と思はれる。この濱の全體は荒濱だが、その南端關川の河口は入江をなしてゐた形迹を有し、筥庭式の小風景が想像される。多珂郡中の勝地として當時の人達に記憶されてゐたことが、この歌の素地を成してゐると思ふ。
 
(2557)慶雲《キヤウウンノ》三年|丙午《ヒノエウマ》〔六字右○〕、春|三月《ヤヨヒ》、諸卿大夫等《モロ/\ノマヘツギミタチガ》下(レル)2難波《ナニハニ》1時(ノ)歌二首并短歌〔三字右○〕
 
〇慶雲三年丙午云々 續紀に、慶雲三年九月丙寅行2幸(ス)難波(ニ)1、十月壬午還(リマス)v宮(ニ)と見えたその年の春の事で、次の長歌に「君が三行《ミユキ》は今にしあるべし」とあるに思ひ合はせれば、行幸準備の爲に春三月卿大夫達を難波へ遣はされ、その時に人々の詠んだ歌である。「卿」は(三一三頁)、大夫は(六五五頁)に既出。「難波」も既出(二九七頁)。「慶雲三年丙午」は原本にない。目録によつて補つた。「并短歌」も補つた。
 
白雲之《しらくもの》 龍田山之《たつたのやまの》 瀧上之《たきのへの》 小鞍嶺爾《をぐらのみねに》 開乎烏〔左△〕流《さきををる》 櫻花者《さくらのはなは》 山高《やまたかみ》 風之不息者《かぜしやまねば》 春雨之《はるさめし》 繼而零者《つぎてしふれば》 最末枝者《ほつえは》 落過去祁利《ちりすぎにけり》 下枝爾《しづえに》 遺有花者《のこれるはなは》 須臾者《しまらくは》 落莫亂《なちりみだれそ》 草枕《くさまくら》 客去君之《たびゆくきみが》 及※[しんにょう+(横目/衣)]來《かへりこむまで》     1747
 
〔釋〕 ○しらくもの 雲の立つを龍田山にかけた枕詞。○たつたやま 既出(二八四頁)。○たぎのへ 「たぎ」は立田山下に當る大和川の激湍をさす。今龜(ノ)瀬と稱する處。○をぐらのみね 前出「をぐらのやま」を見よ(二(2558)三〇二頁)。○さきををる 「ををれる」を見よ(五一四頁)。「烏」字、原本に爲〔右△〕とあるは誤。以下この字の誤は一々註しない。○かぜし 舊訓による。古義訓カゼノ〔三字傍線〕。○はるさめし 上と相對して「之」をシと訓む。諸訓ハルサメノ〔五字傍線〕。○ほつえ 秀《ホ》つ枝の義。上の枝をいふ。「つ」は連辭。○しづえ 下《シ》つ枝。「し」は末《スエ》の義。枝垂柳のシダリ〔三字傍点〕も末垂《シダリ》である。古義に石著《シヅク》を例として、土に著く枝と解したのは牽強。○しまらくは 古義訓シマシクハ〔五字傍線〕。○なちりみだれそ 古義訓ナチリミダリソ〔七字傍線〕。○きみが 契沖、略解、「君」を吾〔右△〕の誤としたのは却て非。○かへりこむまで 略解訓カヘリクマデニ〔七字傍線〕はいかゞ。 △地圖及寫眞 挿圖 91(二八六頁)90(二八五頁)を參照。
【歌意】 龍田山の瀧つ瀬のきはの小鞍の嶺に、ふさ/\と咲く櫻の花は、山が高さに風がさ止まないので、春雨が續いてさ降るので、上の枝はもう散り過ぎてしまつたわい。せめて〔三字右○〕下の枝に殘つてゐる花は、どうぞ〔三字右○〕暫時は散り亂れてくれるなよ。この旅に出立つた人達が、歸つて來(2559)うまではさ。
 
〔評〕 春日立田峠を東口から打越す折の矚目と感興である。峠の細徑を傳つて往くと、右は聳立してゐる山崖であるが、左は溪谷で、丁度麓を流れ廻る大和川が激湍を成す、龜の瀬の上を通る。その龜の瀬の西に更に屹立してゐる小山が小鞍の峯である。折しも櫻が咲いてゐた。それも處柄の風や折柄の雨に曝されて、上枝はもう坊主、下枝ばかりが白い。かく上枝の零落に言及したのは、下枝の殘花に重心をおく爲の手段である。その殘花に向つて、反歌に「七日は過ぎじ」とある如く、短時日の旅だから、難波から歸るまでは散らずに待てと、無理を承知での難題だ。畢竟花を熱愛する情語である。風流三昧だ。「君」は一行中の諸卿を漫然と指斥したもの、作者は必ず同行の大夫(四五位)等の一人であらう。
 
反歌
 
吾去者《わがゆきは》 七日不過《なぬかはすぎじ》 龍田彦《たつたびこ》 勤此花乎《ゆめこのはなを》 風爾莫落《かぜにちらすな》     1748
 
〔釋〕 ○わがゆき わが旅程。「きみがゆき」を參照(二九八頁)。○たつたびこ 龍(立)田彦。式の神名帳に、大和國平群郡龍田(ニ)坐(ス)天(ノ)御柱、國(ノ)御柱(ノ)神社、二座、名神大、また龍田比古、龍田比賣(ノ)神社二座と見え、伊弉諾尊の息(2560)吹《イブキ》になりませる風神、級長《シナ》(志那)津《ツ》比古(記)、級長邊《シナトベノ》命(紀)の彦神姫神を祀る。龍田に坐す故に龍田彦龍田姫とも申す。社は今生駒都立野村、立田山の東山口にある。○ちらすな 略解訓 ナチラシ〔四字傍線〕。
【歌意】 自分の旅行は、長くて〔三字右○〕七日は過ぎまい。龍田神よ、きつとこの櫻の花を、風に散らしなさるな。
 
〔評〕 長歌では歸るまでは散るなと花に強要した。けれども花の心のまゝにもならぬは、風といふ惡戯者だ。幸ひ龍田は風の本家本元龍田彦の神がまします處、で反歌では一歩進んで、龍田彦に切願してその風を封じた。下にも「名に負へる杜に風祭せな」とある。これでは、否でも神はその面目にかけて花の保護をせざるを得まい。
 「七日は過ぎじ」は日程にさうした豫定があつたのではない。「七日」は多日または數日などの轉義である。下の歌の題詞に、「難波經宿、明日還來之時」とあるから、事實は一晩掛けの旅だが、逗留の最大限度を指示したものだ。すべて數量語は使ひ方によつて感情に面白い微妙な躍動を與へる。この「七日」なども實に旨く坪にはまつたもの(2561)で、その聲響も快的である。もしこれを假に五日〔二字傍点〕としたらどうか、數的觀念のみ先だつて、蘊含の味ひは※[しんにょう+外]げてしまふ。七《ナヽ》の數量に就いては別に所説がある。
 句々遒勁字々洗煉を極め、風調また高邁にして朗唱に適する。
 
白雲乃《しらくもの》 立田山乎《たつたのやまを》 夕晩爾《ゆふぐれに》 打越去者《うちこえゆけば》 瀧上之《たきのへの》 櫻花者《さくらのはなは》 開有者《さきたるは》 落過祁里《ちりすぎにけり》 含有者《ふふめるは》 可開繼《さきつぎぬべし》 許智期智乃《こちごちの》 花之盛爾《はなのさかりに》 紐解而《ひもときて》 吾者〔五字左○〕雖不見《われはみねども》 左右〔二字左○〕《かにかくに》 君之三行者《きみがみゆきは》 今西應有《いまにしあるべし》     1749
 
〔釋〕 ○うちこえゆけば 「うち」は接頭語。古義に、馬に鞭を打つてとあるは非。○こちごち 既出(五七三頁)。○ひもときてわれは――かにかくに 原本「雖不見左右」とのみあり、上の「花の盛に」に續かない。上下に必ず誤字と脱句がある。宣長は又モ來ム〔四字傍線〕左右《マデ》散リコスナ〔五字傍線〕とあるべき處といつたが、句法が亂れて面白くない。古義は「雖不見」の下落莫亂〔三字右○〕の脱としてミセズトモ散リナ亂リソ〔ミセ〜傍線〕と讀み、新考は「見」を相〔右△〕の誤として、アハネドモ〔五字傍線〕とし、下にナホシタヌシモ〔七字傍線〕を補ふべしとした。然し花盛りの趣だから、ミセズトモ〔五字傍線〕やアハネドモ〔五字傍線〕は絶對(2562)に不可である。假に「盛爾」の下、紐解而吾者〔五字右○〕の五字脱、「左右」を干各〔二字右△〕の誤字として、ヒモトキテワレハ〔八字傍線〕雖不見《ミネドモ》カニカクニ〔五字傍線〕と訓まう。紐解くは衣の領紐を解くので、打解けてゆるりとした貌。○きみが 天皇陛下が。○いま 追つ付けの意。
【歌意】 立田山を夕暮方に、越えてゆくと、瀧の邊の櫻の花は、咲いたのは盛り過ぎてしまつたわい。莟んでゐるのは、その後から續いて咲くであらう。このあちこちの花の盛に、ゆつくりと自分達は賞翫しないけれど〔ゆつ〜右○〕、とにかくに天皇陛下の行幸は、追つ付けさ、近くに〔三字右○〕あるらしいわ。――花よ喜びなさい〔七字右○〕。
 
〔評〕 奈良京を立つて立田越を夕暮にする、餘程の急御用だ。龜の瀬邊の山々の櫻は、咲くもあり散るもあり莟むもありで、今が眞盛りだ。けれども生憎時刻が夕暮ではあり、而も難波への公用を帶びてゐる。袍衣か狩衣かの紐を外してお花見といふ暢氣な沙汰どころでない。だがまあ山の櫻よ、落膽するに當らぬ。叡覽にそなはるのも近いうちだぞ、と花に好信を洩らして喜ばせた。
 「今にしあるらし」の語をよく翫味すると、この今を事實上の秋九月の行幸にかけて解するは謬つてゐる。抑も難波宮は古來からお控の京で、何時でも行幸に間に合ふやうな準備がある。委しい事は、卷六「冬十月幸2于難波宮1時笠朝臣金村作歌」の評語中(一六四三頁)に言及してある。されば九月の行幸に、半年も前の三月から準備の官吏を派遣する要を見ない。これは必ず三月中か四月ならば早々、まだ花のある頃に、難波宮へ御動座の御豫定であつたと斷ずべきだ。さてこそ「君がみゆきは今にしあるらし」は花に對しての慰めの詞ともなり得るのだ。九月の行幸では花には何等の交渉もない。
(2563) 然しこの御豫定は事情があつて實行されず、九月に至つて愈よ御發輦になつたのも事實である。
 
反歌
 
暇有者《いとまあらば》 魚津柴比渡《なづさひわたり》 向峯之《むかつをの》 櫻花毛《さくらのはなも》 折末思物緒《をらましものを》     1750
 
〔釋〕 ○なづさひわたり 泥んで歩きまはるをいふ。「なづざふ」を見よ(九五八頁)。「柴」は音サイ、その短音サを用ゐた。
【歌意】 暇がもしあるならば、あちこち〔四字右○〕ぶらついて、こゝのばかりか〔七字右○〕、向うの峯の櫻の花をも折らうものを。さて今は急御用の出張なので殘念な〔さて〜右○〕。
 
〔評〕 「只見(テ)2公程(ヲ)1不v見v春(ヲ)」(唐、熊嬬登)と同意に落著する。夕暮かけて嶮岨を以て聞えた立田越をするを思へば、その大至急の公用たることは言はずして明らかだ。で十分賞春の遑なさを歎息した。
  わが背子に戀ふれば苦しいとまあらば拾ひにゆかむ戀わすれ貝(卷六、坂上郎女―964)
  いとまあらば拾ひにゆかむ住のえの岸によるとふ戀わすれ貝(卷七―1147)
すべて「暇あらば」は暇ない反言である。古義に、今見るのみならず折取つて本郷人の苞にもせまはしく思ふ由なりとあるは蛇足。
 
難波(ニ)經宿《ヤドリテ》、明日還來《アクルヒカヘル》之時(ノ)歌一首并短歌
 
(2564)○難波經宿云々 難波に一晩泊つて明くる日還つて來る時、立田山で〔四字右○〕詠んだ歌との意。「經宿」は一夜泊りしての意。信の二夜泊りに對する。上の長短歌は往路、これはその歸路で、同じ折の作。
 
島山乎《しまやまを》 射往廻流《いゆきめぐれる》 河副乃《かはぞひの》 丘邊道從《をかべのみちゆ》 昨己曾《きのふこそ》 吾越來牡鹿《わがこえこしか》 一夜耳《ひとよのみ》 宿有之柄二《ねたりしからに》 岑上之《をのうへの》 櫻花者《さくらのはなは》瀧之瀬從《たきのせゆ》 落墮而流《ちらひてながる》 君之將見《きみがみむ》 其日左右庭《そのひまでには》 山下之《あらしの》 風莫吹登《かぜなふきそと》 打越而《うちこえて》 名二負有杜爾《なにおへるもりに》 風祭爲奈《かざまつりせな》     1751
 
〔釋〕 ○しまやまを 岩山などの半島形に河中に斗出したのを島山といつた。序に島に就いていふと、(1)海中の島嶼または沙洲、(2)湖海に治うた半島、(3)河水の※[榮の木が糸]廻した地、(4)作庭。以上四種類がある。○いゆきめぐれる 神本及び細本の一註にかくある。舊訓イユキモトホル〔七字傍線〕。古へより二様の訓が存してゐた。奈良人の時代常識では混線なしに訓み得たであらうが、後世では判定し難い。〇かはぞひの 正しくは「いゆきめぐれる河の〔二字右○〕河ぞひの」とあるべきを略言した。この省略法は例が多い。○ねたりしからに 寢たりしものをの意。委しくは、寢たりし故《カラ》に、そんな筈はないのに〔そん〜右○〕の意。○をのうへの 岑上《ヲノヘ》に同じい。○ちらひてながる 「落墮」は同意(2565)語の重疊だから、チラヒと訓んでみた。舊訓オチテナガレヌ〔七字傍線〕。眞淵訓はタギチテナガル〔七字傍線〕とあり、略解、古義共にそれに追從したが、牽強の感がある。○きみが 天皇を斥して申す。○あらしの 四言の句。古義訓によつた。卷八にも「山下風《アラシノカゼ》に」とある。舊訓ヤマオロシノは古語でない。○うちこえて 立田山を〔四字右○〕。○なにおへるもり 風の神と〔四字右○〕名に負うてゐる社。龍田彦の社をさす。○かざまつり 風神の祭。龍田の風神祭は延喜式(祝詞式)によれば、四月七月の兩度、五穀成熟の爲に風雨の荒びなかれと行はれる定例の公事。但こゝは花の爲の臨時の祭である。
【歌意】 島山の裾を行き廻つて流れる、河の縁の岡邊の道を〔傍点〕、ほん昨日さ自分は越えて往つたことであつた。難波に著いても只一晩泊つたに過ぎぬ〔四字右○〕ものを、今見れば〔四字右○〕岑の上の櫻の花は、河の瀧つ瀬に散りに散つて流れるわ。近々行幸あつて〔七字右○〕、大君の見そなはすであらうその日までは、嵐の風など吹くなと、早く〔二字右○〕この峠路を打越して、風の神と〔四字右○〕名に立つてゐる龍田の社に、風祭をせうね。
 
〔評〕 起筆いかにも簡淨にその地勢を形状し得た。
 大和川は、實際龜の瀬のあたりに岩山が突き出し、その根を行き廻る水は岩床を走つての瀧つ流だ。その上の岡道を昨日の夕方に越えて、公用地難波に一泊、すぐ引返して今日またもとの道を辿る。只の一夜だが、山の櫻は早くも瀧の水泡だと、山と瀧の瀬とを映對させて、そこに甚しい倏忽の變化を叙した。さて近く迫つた難波行幸を思ふと、同じ事ならこの花を叡覽にと思ひ寄らぬ者はあるまい。然し花の命は短い。こゝに「昨日こそ――一夜のみ――」の前二句が顧應してくる。その大敵嵐を左右するのは、風の神より外はない。「打越(2566)えて」は峠から京口に出ることで、幸そこの立野の杜に龍田彦が嚴としてまします。「苦しい時の神頼み」で、乃ち「風祭せな」と落著するは、想の進行が自然である。
 以上三首の長歌、最初のは枕詞が二箇處、中のは一箇處、最後のは全然使用しない。素より沈思黙考した苦心の作ではなく、輕い即興的の安易な作で、概して輕妙を以て勝るもの。古人の花に對する風流情緒をしみじみと味得する。
 
反歌
 
射行相乃《いゆきあひの》 坂上之蹈本爾《さかのふもとに》 開乎鳥〔左△〕流《さきををる》 櫻花乎《さくらのはなを》 令見兒毛欲得《みせむこもがな》     1752
 
〔釋〕 〇いゆきあひ 「い」は例の發語、「ゆきあひ」は兩方から出會ふこと。○さか 「上」の字は添字。○ふもと 麓。蹈本《フモト》はこの語の本義。
【歌意】 往來の人のぶつかりあふ坂の麓に、ふつさり咲いてゐる櫻の花を、見せうあの兒もありたいなあ。
 
〔評〕 およそ坂でも何でも、人の行き合はぬ路とてはない。それを特にかくいふのは、餘に路が狹くて、出會つたまゝ互に身をかはすことの出來ぬからだ。立田路は神武天皇紀に、
  皇師|勒《トヽノヘ》v兵(ヲ)、歩《カチヨリ》趣《イデマス》2龍田(ニ)1、而其(ノ)路|狹嶮《サカシクテ》不2得《エ》並(ビ)行(カ)1。
と見え、今でも向うから人が來ると立ち止まつて除けなければならぬ難處がある。そんな山岨の上から見おろ(2567)すと、麓には櫻が滿開だ。あゝいゝ景色だ。獨見ては勿體ない、人にも見せたい。さては懷かしい吾妹子に第一に見せたくなる。
 長歌には公情を叙べて大君の叡覽を思ひ、反歌には私情を叙べて見せむ兒を懷うた。かくて叙事に變化を生ずる。
 以上の立田路往返の諸作は、一人の手に成つたものではない。同行の誰れ彼れが思ひ/\の作だ。されば花の遲速の描寫もちぐはぐで一致もない。かと思ふと、花と風の神とを喰ひ合はせた落想が搗ち合つてゐたりする。それでよいのだ。
 新考は、下の筑波嶺の※[女+耀の旁]歌會の歌の左註に、「右件(ノ)歌者高橋(ノ)連蟲麻呂(ノ)集中(ニ)出(ヅ)」とあるを、こゝまで引上げて、この立田の諸篇から始めて※[女+耀の旁]歌會の歌まで、全部を蟲麻呂の作と斷じたが、私にはその辯駁の勇氣がない。
 
檢税使《ケムゼイシ》大伴(ノ)卿(ノ)登(レル)2筑波《ツクバ》山(ニ)1時(ノ)歌一首并短歌
 
○檢税使 税はチカラと訓む。民庶の手力を盡した所得を年貢として官に納むるもの。檢は檢校《シラ》ベることで、檢税使は諸國の國衙に出張してその納税状態を勘考する役。○大伴卿 この大伴卿は誰れか。この卷は古歌の雜載で、家持の手に成つた大伴家の歌集とは違ふから、大伴卿とあつても、その父祖安麻呂、及び旅人の事とは定めかねる。又安麻呂、旅人の傳中に檢税使を勤めたことも見えない。その他天平から寶字までの間に、大伴氏で公卿に昇つた人は道足、牛養、兄麻呂、古慈悲の四人だが、この人達の事蹟にも檢税使の事が見えない。檢税使はさのみ重職でないから、國守(五位相當)より少し上級の官吏ならよい譯で、當時四位現任の大伴(2568)氏の人だつたらう。○筑波山 既出(八七四頁)。△地圖及寫眞 挿圖257(八七五頁)258(八七六頁)259(八七八頁)を參照。
 
衣手《ころもで》 常陸國《ひたちのくにの》 二竝《ふたなみ》 筑波乃山乎《つくばのやまを》 欲見《みまくほり》 君來座登《きみがきますと》 熱爾《あつけくに》 汗可伎奈氣伎《あせかきなげき》 木根取《このねとり》 嘯鳴登《うそむきのぼり》 岑上乎《みねのうへを》 君爾令見者《きみにみすれば》 男神毛《をのかみも》 許賜《ゆるしたまひ》 女神毛《めのかみも》 千羽日給而《ちはひたまひて》 時登無《ときとなく》 雲居雨零《くもゐあめふる》 筑波嶺乎《つくばねを》 清照《さやにてらして》 言借石《いぶかりし》 國之眞保良乎《くにのまほらを》 委曲爾《つばらかに》 示賜者《しめしたまへば》 歡登《うれしみと》 紐之緒解而《ひものをときて》 家如《いへのごと》 解而曾遊《とけてぞあそぶ》 打靡《うちなびく》 春見麻之從者《はるみましゆは》 夏草之《なつくさの》 茂者雖在《しげくはあれど》 今日之樂者《けふのたぬしさ》     1753
 
(2569)〔釋〕 〇ころもで 常陸《ヒタチ》に係る枕詞。四言の句。意は(1)衣袖には襞《ヒダ》の出來るものなれば、衣手の襞《ヒダ》をいひかけた(地名辭書)。(2)衣手を漬《ヒタ》しを常陸にかけた。倭武(ノ)尊|巡2狩《ユキメグリマシテ》東夷之國(ヲ)1幸2過《イデマス》新治《ニヒバリ》之縣(ニ)1、所《サルヽ》v遣(ハ)國(ノ)造《ミヤツコ》毘那良珠《ヒナラタマノ》命(ニ)新(ニ)令(ム)v掘(ラ)v井(ヲ)、流泉淨澄、最(モ)有(リ)2好愛(キ)1、時(ニ)停(メ)2乘輿(ヲ)1、翫(ビ)v水(ヲ)洗(フ)v手(ヲ)、御衣《ミゾ》之袖垂(レテ)v泉(ニ)而沾(レヌ)、依(リ)2潰《ヒタス》v袖(ヲ)之義(ニ)1以(テ)爲(ス)2此國之名(ト)1、國俗(ノ)諺(ニ)云、筑波(ノ)岳(ニ)雲掛(ル)衣袖漬《コロモデヒタシノ》國(ト)(常陸風土記)。假に(1)の説を採る。(2)はこの枕詞あつて後に出來た説らしいと古義も難じた。さりとて古義に擧げた衣手|端揚《ハタタギ》の説は餘りに迂遠。舊訓コロモデノ〔五字傍線〕。○ひたち 常陸。(1)直土《ヒタツチ》の義。陸地續きに交通し得る處なればなり(常陸郡郷考、地理志料)。(2)日高道《ヒタカヂ》の約。日高又は高見は蝦夷の住居せる奥羽地方の稱、常陸はそこに通ふ路なれば日高道といふ(古今顯昭註、伴信友説)。(2)の説宜しきか。○ふたなみ 筑波山の頂は雌雄二峯竝んでゐるのでいふ。卷三にも「儕立《ナミタチ》の見がほし山」とある。「ふたがみの」を見よ(八七五頁)。舊訓はフタナミノ〔五字傍線〕。上に「衣手常陸」と續けたのに對へてはノ〔傍点〕の助辭のない方がよい。古義訓フタナラブ〔五字傍線〕は語に來歴がない。○きみがきますと 眞淵訓キミキマセリト〔七字傍線〕。○あつけくに 熱けくある〔二字右○〕に。「あつけく」は寒けく〔三字傍点〕の類語。古義訓によつた。○あせかきなげき 「なげき」は大息吐くをいふ。「氣」の下、落字あり。伎〔右○〕を補ふ。○このねとり 木の根をつかみ。卷三の「草取りかねて妹が手を取る」の取り〔二字傍点〕と同意。木は語の頭にある時はコといふ場合が古代に多い。記の雄略天皇の條、三重采女の歌に「竹の根の根だる宮、許能泥能《コノネノ》根はふ宮」と見え、その他、木花《コノハナ》開耶姫、木立《コダチ》、樹種《コダネ》、菓《コノミ》、木蔭《コカゲ》、木工《コダクミ》、木钁《コクハ》、木幡《コハタ》など、紀記に例がある。魚彦訓による。○うそむき 嘯吹《ウソフ》くこと。嘯は玉篇に蹙《シヾメテ》v口(ヲ)而出(ス)v聲(ヲ)とあり、意識的に出せば口笛で、無意識的に出るは、俗に海女の囀と稱する音の類である。こゝは後の方の意。嘯を字鏡に宇曾牟久《ウソムク》とある。本義はウソフクだが、古くから牟久《ムク》と轉じていつた。「嘯鳴」の鳴は添字。○ちはひ 幸《サチハ》ひの上略。(2570)幸《サチ》にハヒの接尾詞の添うて動詞となつた語。○いぶかりし 明かでなかつた、疑はしかつたの意。古義に欝《イブ》せかりしと解したのは非。宣長は「石」の下に木〔右△〕を補うてイブカシキ〔五字傍線〕と訓んだ。○まほら 「まほらぞ」を見よ(一四二〇頁)。○つばらかにしめしたまへば 男女二神が〔五字右○〕。○うれしみと 嬉しいとて〔右○〕。この「み」は高み卑みのみ〔傍点〕で、サニの意ではない。○ひものをときて 衣の紐の緒を解いて。すべて紐を解き帶を緩ぶるは、打解けた時の所作である。○いへのごと 家にある如く〔四字右○〕。
【歌意】 この常陸國の筑波山を見たく思うて、君(大伴卿)が御出でなされたとて、御案内の爲に〔六字右○〕、この夏の暑いのに、汗を掻き/\ハア/\息を吐いて、木の根に取付き、ヒユウ/\音を擧げて登り、頂上を卿に御覽に入れると、筑波の男神もその志を許しなされ、女神もお惠を下され、平生は〔三字右○〕何時を何時ともなく雲が立ち雨が零る、この筑波山をあざやかに照らしての晴天で、ハツキリしなかつたこの筑波地方の結構な國形を、つまびらかに御見せなさるので、嬉しいとて一行の人達は〔六字右○〕、衣の紐をも解いてゆつくりと〔五字右○〕、わが家にあるやうに打解けて遊ぶわい。全く春見ようよりは、夏草が茂くはあるが、今日見ることの〔五字右○〕樂しいことよ。
 
〔評〕 當時の常陸の國府は石岡にあつた。石岡の西には筑波がその翠色を天に挿んでゐる。檢税使大伴卿は來府の序を以ての山登りだ。作者は國衙の下僚で、使の卿が常陸を離國されるまでは、道案内を仕るのであつた。下に見える「鹿島都苅野橋別2大伴卿1歌」の作者も、左註によれば同一人(高橋連蟲麻呂か)らしく、遂に國境近い苅野橋まで送つたのであつた。
 筑波は名山だ。歴史も古い。筑波を見なければ常陸に來たとはいわない。されば丹比(ノ)國人は冬の雪道を冒し(2571)ても登つた(卷三所載)。今はその反對の夏だ。
 登りは今の筑波町から一里、急峻だから暑くてはさぞこたへたであらう。評者が三十餘年前登つた頃は、正にこゝにいふやうに、處々岩につかまり、木の根に取付いたものだ。「歎き」と「嘯き」とは事は稍違ふが、多少親貼の嫌がある。今少し變つた措辭がありたかつた。愈よ登り切つて、こゝが頂上と大伴卿に披露する。平生は尊嚴を維持する爲に山を神化する雲雨も、今日は男女二神のお許しとお蔭とで、有り難い事にお山は晴天、新治筑波國の優秀なる全貌を、殘る隈なく鳥瞰し得た。と筑波神に感謝の詞を捧げることを忘れなかつた。頂上の雄岳と雌岳との間に平地が若干ある。この一行が打解けて家の如娯み遊んだのも、恐らくその邊であらう。 さて結收の筆は一轉して、季節の對照に及び、春を抑へ夏を揚げた。春は何といつても寒い。三月(今の四月)にも樹氷を見るほどだ。今は「あつけきに汗かき歎き」の夏で、草深い時ではあるが、それでも春よりはと、眼前の行樂を飽くまで亨受した。一意到底の敍筆だが、波瀾疊出して變化に富んでゐる。
 なほ筑波山に關しては、卷三「登(リ)2筑波(ノ)岳(ニ)1丹比(ノ)眞人國人(ガ)作歌」の條の評語中(八七七頁)に詳説した。參照されたい。
 
反歌
 
今日爾《けふのひに》 何如將及《いかにかしかむ》 筑波嶺《つくばねに》 昔人之《むかしのひとの》 將來其日毛《きけむそのひも》     1754
 
(2572)〔釋〕 〇いかにかしかむ 「か」は反動辭。新考訓による。舊訓イカヾオヨバム〔七字傍線〕は古訓でない。古義訓イカデシカメヤ〔七字傍線〕は語理が徹らない。
【歌意】 今日のこの日に、どうして及ばうかい。筑波山に昔の人の來たであつたらうその日も、楽しさにおいては〔八字右○〕。
 
〔評〕 長歌の「今日の楽しさ」の結語を承けて、今日にも勝る日は昔にもなからうと、「日」の語を反復して頻に力んだ。「昔の人」とは誰れか。風土記の伊邪那岐(ノ)命の筑波神御訪問から以來、幾千萬人が來て楽しんだであらうが、就中卿の先人の來たことがあるので、それを斥したものか、或はまた當時話柄となつてゐた或人の絶代の勝事があつて、それを思うての事か。略解は、漫然と下した語で斥す所なしといつた。以前の檢税使を斥したとする新考説は愈よおぼつかない。
 
詠(メル)2霍公鳥《ホトヽギスヲ》1歌〔左○〕一首并短歌
 
○霍公鳥 「ほとゝぎす」を見よ(三五二頁)。
 
(貝+貝)/鳥之《うぐひすの》 生卵〔左△〕乃中爾《かひこのなかに》 霍公鳥《ほととぎす》 獨所生而《ひとりうまれて》 己父爾《ながちちに》 似而者不鳴《にてはなかず》 己母爾《ながははに》 似而者不鳴《にてはなかず》 宇能花乃《うのはなの》 開有野邊從《さきたるぬべゆ》(2573) 飛飜《とびかへり》 來鳴令響《きなきとよもし》 橘之《たちばなの》 花乎居令散《はなをゐちらし》 終日《ひねもすに》 雖喧聞吉《なけどききよし》 幣〔左△〕者將爲《まひはせむ》 遐莫去《とほくなゆきそ》 吾屋戸之《わがやどの》 花橘爾《はなたちばなに》 住度鳴〔左△〕《すみわたりなけ》     1755
 
〔釋〕 ○かひこ 養卵《カヒコ》。玉子のこと。コは卵の本名。タマはその形玉に似てゐるので名づけた。「卵」原本に卯〔右△〕に誤る。〇なが 「己」を汝《ナ》と訓むこと前出(二五四七頁)。略解訓シガ〔二字傍線〕。○とびかへり 飛んで翻る。卷二の「眞弓の岡に飛びかへりこね」の飛びかへりは〔六字傍点〕飛んで立返るの意。語は同じで意は異なる。舊訓による。○まひ 既出(一六〇二頁)。「幣」原本弊〔右△〕に誤る。○すみわたりなけ 「嶋」原本に鳥〔右△〕とある。古義説に從つて改めた。
【歌意】 鶯の育てゝゐる卵の中に、時鳥が混つて獨生まれて、お前の父親や母親たる鶯〔右○〕に似ては鳴かず、卯の花の咲いた野邊から、飛び翻り軒近く來て鳴き響かし、橘の花を止まつてゐて散らし、日一日鳴いても聞き飽かずよろしい。お前に〔三字右○〕お禮を上げようわ、遠くに飛んで行くなよ。私の庭の花橘に、何時までも住みついて鳴きなさい。
 
(2574)〔評〕 時鳥/\と詩人騷客はチヤホヤするが、實は怪しからぬ奴で、他鳥の巣の中に自分の卵を産み落し、宿主の卵は蹴出してしまふ。氣のいゝ宿主はそのまゝ巣籠りして、變な卵だと思ひ/\一所懸命に孵すと時鳥に化け、挨拶なしに飛び出して行く。
  生(ム)v子(ヲ)百鳥(ノ)巣(ニ)、百鳥不2敢(テ)瞋(ラ)1、仍爲(ニ)《ヤシナフ》2其子(ヲ)1、禮(シキコト)若(シ)v奉《ツカフル》2至尊(ニ)1。(唐、杜甫)
  四月《ウヅキ》したてば、夜ごもりに鳴く時鳥、昔より語り繼ぎつる、鶯のうまし眞子《マコ》かも、云々。(卷十九、家持―4166)
など見え、恰も鶯の子のやうだ。されば鶯を「なが父――なが母」といつた。聲は鶯とは似ても著かぬが、面白いと聞けば面白い。時は野邊に卯花の咲く頃飛んでくる。林木の間を出没して横腹を見せ/\する。それが「飛び翻り」である。やがて里中を鳴き渡り、庭の橘の花を散らして終日鳴く。野、里、庭、と段々に接近して來て、遂には作者と一つになつてしまつた。それが「日ねもすに鳴けど聞きよし」である。
 どんな御馳走でも續いては降參だ。それ故平安時代にはその初音を賞翫し、或は稀なる聲を尋ねて聞くのもあつた。「いつも初音の心地」は口頭の頓作に過ぎない。江戸時代の俳句でも、大抵はその一聲の瞬間的興會を覘つた。然るに萬葉人は不思議だ。軒の橘に居續けて鳴けと極言してゐる。
 集中時鳥の作は實に無數だ。それらは「鳴く音空なる」(古今集)といふやうな遠距離の聲ではなくて、大抵はもつと里近い家近い、人間と接觸の近い聲であり、又姿でもあつた。蓋し古代の奈良はこの鳥が盛に棲息してゐた故であらう。
 この篇初頭より「似ては鳴かず」までが第一段で、その來歴を叙し、「鳴けど聞きよし」までが第二段で、その動作と鳴聲との優秀さを叙し、以下が第三段で、時鳥への熱愛的希望を叙べた。「鳴く」の重聲反復、い(2575)かにその聲をめでたしと感じたかが知られよう。
 
反歌
 
掻霧之《かききらし》 雨零夜乎《あめのふるよを》 霍公鳥《ほととぎす》 鳴而去成《なきてゆくなり》 何怜其鳥《あはれそのとり》     1756
 
〔釋〕 ○かききらし 前出「うちきらし」(二二三四頁)及び「たなぎらひ」(二四三三頁)を見よ。
【歌意】 烟り渡つて雨の降る夜であるものを〔六字右○〕、時鳥が鳴いて通ることわ。まあ可愛さうなあの鳥よ。
 
〔評〕 雨夜の時鳥、濡れシヨボ垂れたその状を想像すると、愛賞の心からは、「あはれその鳥」と、同情の語が覺えず發せられる。
  名兒《ナゴ》の海を朝こぎくればわた中に水手《カコ》ぞ呼ぶなるあはれその水手(卷七、―1417)
とその姿も調子も似てゐる。
 
登(ル)2筑波《ツクバ》山(ニ)1歌一首并短歌
 
草枕《くさまくら》 客之憂乎《たびのうれひを》 名草漏《なぐさもる》 事毛有武跡《こともあらむと》 筑波嶺爾《つくばねに》 登而見者《のぼりてみれば》 尾花落《をばなちる》 師付之田井爾《しづくのたゐに》 鴈泣毛《かりがねも》 寒來喧奴《さむくきなきぬ》 (2576)新治乃《にひばりの》 鳥羽能淡海毛《とばのあふみも》 秋風爾《あきかぜに》 白浪立奴《しらなみたちぬ》 筑波嶺乃《つくばねの》 吉久乎見者《よけくをみれば》 長氣爾《ながきけに》 念積來之《おもひつみこし》 憂者息沼《うれひはやみぬ》     1757
 
〔釋〕 ○うれひ 古義訓はウケク〔三字傍線〕。○なぐさもる 既出(一〇九九頁)。○あらむと 古義は「武」を哉〔右△〕の誤としてアレヤト〔四字傍線〕と訓んだ。○しづくのたゐ 「しづく」は常陸國茨城郡(今新治都)志筑《シヅク》村。東鑑には志筑(ノ)郷とある。筑波山の南麓より東に走つて志筑の山岡は起伏し、その北部に沿うて志筑川が流れてゐる。古風土記に、從(リ)v郡西南(ニ)近(ク)有(リ)v河、謂(フ)2信筑《シヅク》之川(ト)1、源(ハ)出(デ)v自(リ)2筑波之山1、從(リ)v西流(レ)、東歴(テ)2郡中(ヲ)1、入(ル)2高濱之海(ニ)1(霞が浦)とある川。志筑の南部は一面の平田、これが志筑の田居である。「たゐ」は田家のこと。「井」は借字。○にひばりの 新治郡の。「にひばり」は新墾の義。倭建(ノ)命の御歌に「新治《ニヒバリ》筑波を過ぎて」(記)と見えた。○とばのあふみ 鳥羽の湖水。古風土記に、新治郡(ノ)、郡(ノ)西一里有2騰波《トバノ》江1、長(サ)二千九百歩、廣(サ)一千五百歩、東(ハ)筑波郡、南(ハ)毛野河(絹川の古道)、西北(ハ)新治郡、艮(ハ)白壁郡、と見え、大抵南北四十九町、東西三十二町ほどの大澤である。今はすべて水田。これを大寶沼に充てる説は採らない。「あふみ」は淡水《アハミ》の轉。淡水の湖をいふ。○よけく よく〔二字傍点〕の延言。○ながきけに 長い月日に。「け長く」を見よ(二九八頁)。△地圖 挿圖 257(八七五頁)を參照。
【歌意】 長旅の愁を慰めることもあらうかと、筑波山に登つて見ると、麓の尾花がほゝけて散る士筑の田家に、雁の音も寒さうに來て鳴いた。鳥羽の湖水も秋風に白浪が立つた。かう筑波山の結構さを見ると、永い月日に、くよ/\と思ひつゝ積んで來た愁は、一遍に晴れた。
 
(2577)〔評〕 國衙に赴任してゐる官吏の作であらう。客遊の人は姑く旅愁の囚となるのが通例だ。氣晴しにならうかと、わざ/\筑波の山登り、時秋にして南麓を見おろせば、志筑の田居には尾花が打散り、雁も寒聲を伴うて鳴き落ちる。西方を見渡すと、鳥羽の湖も秋風に白浪立つて光つてゐる。まことに秋興盡きる處を知らない。眼前の好風景に我れを忘れて叫んだ快哉の聲である。
 こゝに東北二面の風景が叙してない。ない筈、東は低く志筑山の岡陵が蜿蜒とし、北は高く葦尾加波の山が連亙して大した眺望にならないからだ。然し大規模の作なら、無論その叙筆に上せる價値があり、更に遠く北に日光山彙の蜿蜒たる大嶽峻峯を控へ、西は上信國境の山脈を望み、西南には富士山の晴容を瞥見し、東には霞が浦の水光手に取る如く、南方の平田は無邊にして直ちに武相の野に連る。この雄大廣濶な眺望と感興とは、別に大歌人の詩筆を※[人偏+就]りるより外はない。今は覊人の小手筆だ。
 中間の叙景は相當に詩味を包容してよい。只結收は冒頭を囘顧したとはいひながら、餘に變化がない。「見れば」の轉換語が重複してゐるのも、疵瑕として數へられよう。
 
反歌
 
筑波嶺乃《つくばねの》 須蘇廻乃田井爾《すそわのたゐに》 秋田苅《あきたかる》 妹許將遣《いもがりやらむ》 黄葉手折奈《もみぢたをらな》     1758
 
〔釋〕 ○すそわ 山裾のめぐり。古義訓スソミ〔三字傍線〕。
【歌意】 筑波嶺の山麓のめぐりの田家に、秋の田を苅るあの兒の許に遣らうわ。いざ〔二字右○〕山の紅葉を手折らうよ。
 
(2578)〔評〕 憂欝も煩悶も登臨のお蔭でけし飛んで、紅葉を愛賞する餘裕も出來、ついこんな陽気な詞も出る程の勇氣も付いた。「秋田苅る妹」を、新考に、山の上から麓田の農婦は見えない、これは登りしなに見た農婦達だと説明した。重箱の隅を楊枝でせゝるやうな論議は、こゝには無用だ。尾花が散り寒雁が鳴く、秋風は湖上の波を揚げる、正に晩秋の光景、その頃は収穫の農繁期で、男も女も田に立つてゐる。今目の前に見ようと見まいとそれには關らない。
 
登(リ)2筑波|嶺《ネニ》1爲《スル》2※[女+耀の旁]歌會《カヾヒヲ》1日(ニ)、作歌一首并短歌
 
○※[女+耀の旁]歌會 ※[女+耀の旁]歌の集《ツド》ひ。※[女+耀の旁]歌は文選左太冲の魏都(ノ)賦に、明發而※[女+耀の旁]歌(ス)とあり、注に蠻人之歌也とある。※[女+耀の旁]歌をカガヒと訓むことは、集の左註に、※[女+耀の旁]歌者、東《アヅマノ》俗語(ニ)曰(フ)2賀我比《カガヒト》1とあるによる。歌中の語に「かがふかがひに」とあれば、カヾフといふ動詞が本で、名詞にカヾヒとなつたのは明かである。攝津國風土記の※[女+耀の旁]歌之會の註に、俗(ニ)云(ヒ)2宇多我岐《ウタガキト》1、又云(フ)2加我毘《カガヒト》1也と見え、歌垣も※[女+耀の旁]歌會も同一である。歌垣の歌は互に歌を詠みあふ故にいひ、カキもカヾヒも同語で、カヒを約めればキとなる。清濁は違ふが音便で變化したのである。さてカヾヒの意は(1)掛け合ひの約か(言海)。(2)力グレアヒの約。カグルは婚を成すこと。(宣長)。(3)久那賀比《クナカヒ》の約にて婚會《クナカヒ》の義(古義説)。(4)カヾは擬聲にて、それを活用してカヾフといふ。即ち聲揚《ウタアゲ》すること(樂章類語抄)。四説とも穩當とは思はれない。或はウタガキが原語で、歌窺《ウタウカヾ》ひの約略か。歌を以て對手の意を探り察《ミ》る意であらう。それを東國では歌を略し、窺《ウカヾヒ》のウを上略してカヾヒとのみいつたと考へられる。垣はもとより借字。
 
(2579)鷲住《わしのすむ》 筑波乃山之《つくばのやまの》 裳羽服津乃《もはきつの》 其津乃上爾《そのつのうへに》 率而《あともひて》 未通女壯士之《をとめをとこの》 徃集《ゆきつどひ》 加賀布※[女+耀の旁]歌爾《かがふかがひに》 他妻爾《ひとづまに》 吾毛交牟《われもあはむ》 吾妻爾《わがつまに》 他毛言問《ひともこととへ》 此山乎《このやまを》 牛掃神之《うしはくかみの》 從來《むかしより》 不禁行事叙《いさめぬわざぞ》 今日耳者《けふのみは》 目串跡〔左△〕勿見《めぐしとなみそ》 事毛咎莫《こともとがむな》     1759
 
  ※[女+耀の旁]歌者、東《アヅマノ》俗(ノ)語(ニ)曰(フ)2賀我比《カガヒト》1。
 
〔釋〕 ○わし 猛禽類中鷹料に屬する大鳥。○もはきつ 裳羽服津。不明。今は筑波山麓に接近した湖沼はない。鳥羽の淡海は一里も西に距つてゐる。恐らく地形の變化して瀦水が無くなつたのだらう。試にいへば、大増山から發源して、筑波の東麓に沿ひ、更に東折して柿岡と志筑の間の低地を流れる志筑川、それが古へは途中の或高地に障へられ、一旦瀦溜して小瀞か湖沼状態を成してゐたので、石岡の國府から行く者は、山路を辿るよりは樂なので、船で通ふ。その發著地が裳羽服津なのではあるまいか。○あともひて 既出(五三四頁)。○かがふかがひ 上の※[女+耀の旁]歌會《カヾヒ》の項を見よ。○われもあはむ 六言の句。舊訓ワレモカヨハム〔七字傍線〕。古義訓による。○こととへ 言問《コトト》ひの命令格。「こととはぬ」を見よ(一〇四七頁)。○うしはく 「牛掃」は借字。既出(一五六三(2580)頁)。○むかしより 略解訓ハジメヨリ、古義訓イニシヘヨ。○いさめぬ 禁ぜぬ。誡めぬ。○めぐしと わが妻をめぐしと。「めぐし」は愛《メデ》たく懷かしむ意。「跡」原本に毛〔右△〕とあるは誤。「めぐしとな見そ」となくては意不通。古今の諸家荐にに膠柱の説を立てゝ、結局諾ひ難い。○こともとがむな 上に妻の上を「めぐしとなみそ」とあるに對し、次に自身の事に及んだ。さればこの「こと」は事柄の意で、言の意ではあるまい。古義は言|咎《トガメ》をと解した。
【歌意】 鷲が棲む筑波の山の裳羽服津《モハキツ》の、その津の邊に連れ立つて、若い女や若者が出掛けて集まり、互に〔二字右○〕挑み合ふ※[女+耀の旁]歌《カヾヒ》會で、他人の妻に自分も逢はう、自分の妻に、他人も懸想をいひ懸けろ。この山を支配する神樣が、昔から禁じない業であるぞ〔三字右○〕。今日ばかりは、自分の妻を〔五字右○〕可愛いと思ふな、その代り自分のする〔その〜右○〕事も、人は咎めるなよ。
 
〔評〕 筑波は此面彼面に蔭のある樹繁き山だ。昔は一般に人間が少なくて雲梯《ウナテ》の杜にさへ眞鳥が棲む程だから、筑波に鷲の棲むのは當然だ。卷十四にも「筑波嶺にかが鳴く鷲の音をのみか」とある。
 往古の人文の上から考察すると、筑波は東方の登口が表參道だつたと思はれる。――近時の南口の表參道は甚しい急峻だから、交通路にはならぬ――國府(石岡)からの順路は、柿岡を經るとも、志筑山の北路から、志筑川の小靜を舟で溯つて、裳羽服津に著くともして、其處から登り出して十三峠路を、今の筑波町の小平地に出る。※[女+耀の旁]歌會の庭は必ずその邊であらう。
 紀記に見える椿市の歌垣に、影媛を中に挾んでの稚鷦鷯《ワカサヽギノ》太子と鮪《シビノ》臣との行動や歌の再三の贈答やは、上古の(2581)歌垣即ち※[女+耀の旁]歌會の状を如實に示すものである。なほ
  雄伴郷|波比具利《ハヒグリノ》岡、此岡(ノ)西(ニ)有(リ)2歌垣山1、昔男女集(リ)2登(リ)此山(ニ)1、常(ニ)爲(ス)2歌垣(ヲ)1、因(リテ)以(テ)爲(ス)v名(ト)。(攝津國風土記)
  香島郡|童子女《ヲトメノ》松原、古有(リ)2年少(キ)僮子1、男(ヲ)稱《イヒ》2那賀寒田《ナカノサムタ》之|郎子《イラツコト》1、女(ヲ)曰(フ)2海上(ノ)安是之孃子《アゼノヲトメ》1、並(ニ)貌容端正、光透(ル)2郷里(ニ)1、相2聞(キ)名聲(ヲ)1、同(ジク)存(ス)2望念(ヲ)1、自愛心滅、經v月(ヲ)累(ス)v日(ヲ)、※[女+耀の旁]歌之會、邂逅《タマサカニ》相遇(フ)、于時郎子歌(ヒテ)曰(フ)云々。孃子歌(ヒテ)曰(フ)云々。(常陸國風土紀)
  杵島郡、縣(ノ)南二里(ニ)有(リ)2一孤山1、從(リ)v坤指(シテ)v艮(ヲ)、三峯相連(ル)、是(ヲ)名(ク)2杵島(ト)1、坤(ハ)者曰(ヒ)2比古神(ト)1、中(ハ)者曰(ヒ)2比賣神(ト)1、艮(ハ)者曰(フ)2御子神(ト)1、郷閭(ノ)士女、提(ゲ)v酒(ヲ)抱(キテ)v琴(ヲ)、毎歳春秋、携(ヘテ)v手(ヲ)登(リ)望(ミ)、樂飲歌舞(シ)、曲盡(キテ)而歸(ル)。(肥前風土紀)
などの記事から察すると、年に一度か二度日を定めて、地方/\の山野の勝地に男女が集合して歌舞遊冥し、歌意を以て相挑み相應じ、各その偶を得るに畢る。抑もこれは太古から人類生々の必要上、その本能を縱まにした遺習で、節操の解放時であつた。後世の盆踊はその又遺風だが、これは爲政者の手に依つて、風紀肅正の大鉈を地方的に施されたものだ。
 茲にこの※[女+耀の旁]歌會を斥して、「この山を主人《ウシ》はく神の、昔より禁《イサ》めぬ行業《ワザ》」と稱してゐる。それもその筈、筑波神は雌雄の二神にまします。肥前の杵島の神も亦さうである。昔からその社頭での歡娯だから、神意を楯に取つて威張るのも尤もだ。めぐしい妻も人任せ、その代り自分も勝手な眞似をしようとの放言は、頗る亂淫に渉つて厭はしくもあるが、理窟は拔きだ。されば常陸風土記に、
  筑波|峯《ネ》之會(ニ)、不(ル)v得2聘財(ヲ)1者(ハ)、兒女(ト)不v爲《セ》矣。
とある如く、※[女+耀の旁]歌會に相手の出來ないやうな者は、女でないとした。
 清の趙翼(※[區+瓦]北と號す)の※[竹/瞻の旁]曝雜記の邊郡風俗の條に、
(2582)  粤《エツ》西(廣西)ノ土民及ビ※[さんずい+眞]※[黒+今](雲南貴州)ノ苗※[獣偏+果]ノ風俗大概淳朴ナリ。惟男女ノ事ハ甚ダ別アラズ。春日毎ニ墟ヲ※[走+珍の旁]ヒテ、歌ヲ唱ヘ男女各一邊ニ坐ス。其歌ハ皆男女相悦ブ詞ナリ。ソノ合ハザル者モ亦歌アリテ之ヲ拒ム。※[人偏+爾]ハ我ヲ愛スレドモ我ハ※[人偏+爾]ヲ愛セズノ類ノ如シ。若シ兩ナガラ相悦ベバ、則歌畢リテ手ヲ携ヘテ酒棚ニ就キ、並坐シテ飲ミ、彼此各物ヲ贈リテ以テ情ヲ定メ、期ヲ訂リテ相會ス。甚シキハ酒後即チ潜ニ山洞ニ入リテ相昵ル。歌ヲ唱フル時ニ當リテ諸婦女雜坐ス。凡遊客素ヨリ相識ラザル者モ皆之ト嘲弄スベシ。甚シクテ相※[人偏+畏]レ抱クモ亦禁ゼズ。并夫妻アリテ同ジク墟端ニアランニ、ソノ妻ノ人ノ爲ニ調笑セラルヽヲ見テモ夫ハ瞋ラズ、反リテ喜ブハ妻美ニシテ能ク人ヲ悦バシムト謂ヘルナリ。否ラザレバ或ハ歸リテ相※[言+后]ル。云々。
とあるは、わが※[女+耀の旁]歌會の爲に註脚を與へたものといへよう。
 とにかく※[女+耀の旁]歌會はかくの如く樂しい行事だ。筑波は隨つて樂しい山だ。それを措いても登臨の快があり、奇巖怪石の磊※[石+可]、林※[木+越]の森々、雲烟の去來は、人をして心神を往かしめるに足りる。伊弉諾尊が筑波神に豫約せられたお詞(風土記所出)は、全く茲に實現してゐる。これぞ上代人が筑波を口を極めて椎賞する所以。
 續紀に歌垣の事が載せてある。いはく、
  天平六年二月天皇御(シ)2朱雀門(ニ)1覽(ス)2歌垣(ヲ)1、男女二百四十餘人、五品以上有(レバ)2風流者1皆交2雜(ル)其中(ニ)1、――等(ヲ)、爲(ス)v頭(ト)、以(テ)2本末(ヲ)1唱和(ス)、爲(ス)2難波曲《ナニハブリ》、倭部《ヤマトヘ》曲、茅原《チハラ》曲、廣瀬《ヒロセ》曲、八裳刺《ヤツモサス》曲之音1、令(ム)2都中(ノ)土女(ニ)縱(マニ)觀1。(卷十一)
  寶龜元年三月、車駕行)2幸(ス)由義《ユゲノ》宮(ニ)1云々、男女二百三十人、供2奉(ル)歌垣(ヲ)1、其服並(ニ)著2青摺(ノ)細布《サヨミノ》衣(ヲ)1、垂(レ)2紅(ノ)長紐(ヲ)1、男女相並(ビテ)分(テ)行(ク)、途《ミチニテノ》進歌云々、其歌垣(ノ)歌云々。毎(ニ)2歌(ノ)曲折1擧(ゲテ)v袖(ヲ)爲(ス)v節(ヲ)。(卷三十)
この歌垣は古代の歌垣や※[女+耀の旁]歌會とは性質が違ひ、集團的の歌舞である。京師ではかく歌垣が變形して、後世の(2583)踏歌の元始をなしてゐる。が地方ではまだ古習が存して、筑波の※[女+耀の旁]歌會の如きが行はれてゐたのだ。
 なほ「他妻に云々」に就いては、卷十「朱羅《アカラ》ひく色妙《シキタヘ》の子」の條を參照。
 
反歌
 
男神爾《をのかみに》 雲立登《くもたちのぼり》 斯具禮零《しぐれふり》 沾通友《ぬれとほるとも》 吾將反哉《われかへらめや》     1760
 
〔釋〕 ○をのかみ 筑波の雄神のまします雄嶽即ち男體山をいふ。
【歌意】 雄嶽に雲が立昇つて、一村雨がかゝり、この衣がよし〔二字右○〕沾れ透るとも、自分は歸らうかい。
 
〔評〕 「雄の神」はこゝは山頂の易名に過ぎないやうだが、崇高味を呼ぶ點に於いて必須な措辭である。その神の降らす雨に遭つても、づぶ濡れになつても、なぜ歸らぬと強情をいひ張るか。それは※[女+耀の旁]歌會が滅法面白いからである。そこに十分なる含蓄の餘意が見られる。多分作者が「かがふかがひ」に浮かれ切つて居た時、天候が俄然變つて沛然と雨が來たのであらう。「雲たちのぼり時雨降り」と中止態の漸層に、「われ反らめや」の反語、一往一返、勁健の調子で終始してゐる。
 左註に、右件(ノ)歌は高橋(ノ)連蟲麻呂(ノ)歌集(ニ)出(ヅ)とあるから、この長短歌二首は或は蟲麻呂の作かも知れない。なほ下の「鹿島郡|苅野《カルヌノ》橋(ニテ)別(ルヽ)2大伴卿(ニ)1歌」の條下に、その餘説を述べよう。
 
右、件(ノ)歌者(ハ) 高橋(ノ)連蟲麻呂(ノ)歌集中(ニ)出(ヅ)。
 
(2584)詠(メル)2鳴鹿《シカヲ》1歌一首并短歌
 
三諸之《みもろの》 神邊山爾《かみなびやまに》 立向《たちむかふ》 三垣乃山爾《みかきのやまに》 秋芽子之《あきはぎの》 咲乃盛爾〔四字左○〕《さきのさかりに》 棹鹿乃〔三字左○〕《さをしかの》 妻卷六跡《つまをまかむと》 朝月夜《あさづくよ》 明卷鴦視《あけまくをしみ》 足日木乃《あしひきの》  山響令動《やまひことよめ》 喚立鳴毛《よびたてなくも》     1761
 
〔釋〕 ○みもろの 既出(七八六頁)。○かみなびやま 既出(七八六頁)。こゝは飛鳥の雷岳《イカヅチノヲカ》と假定する。「雷岳」を見よ(六三五頁)。○たちむかふ 打向ふに同じい。○みかきのやま 御《ミ》垣の山。神なび山は神山だから、傍なる山を忌《イ》垣に譬へていつた。こゝは豐浦の岡をさした。なほ前出「豐浦寺」を參照(二三五〇頁)。契沖は、立向へる山あるなるべしと漫然たることをいひ、諸註また言及してゐない。○あきはぎのつまをまかむと 鹿の妻が萩の花であるやうに聞える。平安期の歌心はこの意で專ら詠まれてある。然し甚しい不倫な取合せなので、契沖は秋芽子の如く珍しき妻をの意に解し、「あきはぎの」を比喩とした。修辭上の理窟は立つが、矢張受け取りにくい。卷八に
  わが岳にさを鹿來鳴くさき萩の花妻とひ〔八字傍線〕にきなくさを鹿(太宰師大伴卿、―1541)
とあるも、さき〔二字傍点〕萩のは花妻〔二字傍点〕の花を形容したので、妻にまでは係らぬから、こゝの證にはならぬ。新考に「あき(2585)はぎの」と「つまをまかむと」との間に、咲キノ盛リニ棹鹿ノ〔九字右○〕などいふ二句の落句あるべしと斷じたのは警眼である。今はこの二句の落脱あるものとして解釋する。「まかむ」は既出(九二五頁)。○あさづくよ 夜明頃の月をいふ。夕月夜の對語。○よびたて 元本藍本類本の訓による。舊訓ヨビタチ〔四字傍線〕。△地圖及寫眞 188(六七八頁)130(四四八頁)を參照。
【歌意】 神南備山に向き合ふ、あの御垣の山で、萩の花の咲き盛る時に〔六字右○〕、妻戀する鹿が〔四字右○〕、朝月夜の明けうことが惜しさに、谺《コダマ》を響かせて、その妻を〔四字右○〕喚び立てゝ鳴くわい。
 
〔評〕 雷岳の畏こさは今更いふまでもない。その御垣と候ふ山は、南方飛鳥川を挾んで立ち向ふ豐浦の岡の外にはない。萩が多かつたと見え、卷八に、故郷(ノ)豐浦寺(ノ)尼(ノ)私房(ニ)宴(スル)歌と題して、
  あすか川ゆきたむ岡の秋萩は今日降る雨に散りかすぎなむ(國人―1557)
の外二首、萩をもてはやした歌が出てゐる。淨見原京の榮えた時代でも、豐浦の岡は皇宮を俯瞰するから、無論採樵を禁ぜられ、豐浦寺へ參詣の外は登攀も許されぬ場處と思はれるから、何れ萩も茂り鹿も出没してゐただらう。ましてや遷都後なら無論のことである。
 作者は今雷の岳附近の家で、測らず殘月に尻聲を引いて哀れ氣に鳴く豐浦の岡の鹿の音を聽いた。鹿の鳴くは秋の妻戀ひ時季である。さてはその妻を求めかねた鹿が、一夜の空しく明けることを悲しみ、山とよむまで聲を揚げて啼くよと、躊躇なしにいひ切つた。
 この歌、原本のまゝだと、古義に鹿といはずしておのづから鹿の事と聞かせたりとある通りである。新考に(2586)長歌には主格を擧ぐるが至當と難じたのは當らない。それは作歌上自由の問題である。
 
反歌
 
明日之夕《あすのよに》 不相有八方《あはざらめやも》 足日木之《あしひきの》 山彦令動《やまひことよめ》 呼立哭毛《よびたてなくも》     1762
 
【歌意】 明日の晩には〔右○〕、逢はれずにあらうかい。それをこの夜ばかりのやうに〔それ〜右○〕、谺を響かして、鹿は妻を〔四字右○〕呼び立てゝ鳴くことよ。
 
〔評〕 鹿の妻戀に頻に同情し、明日の晩もあるではないかと慰めた。蓋し鹿の音に哀感を唆られて溜まらぬ人の作である。主格の鹿の語が略かれてある。
 
右、件(ノ)歌、或云、柿本(ノ)朝臣人麻呂(ガ)作(メリト)。
 
作者と場處との關係を考へると、或は淨見原宮時代か若しくは藤原宮時代の初期の作かとも思はれる。これ或人の人麻呂作の説の生ずる所以であらう。
 
沙彌《サミノ》女王(ノ)歌一首
 
○沙彌女王 傳未詳。
 
(2587)倉橋之《くらはしの》 山乎高歟《やまをたかみか》 夜※[穴/牛]爾《よごもりに》 出來月之《いでくるつきの》 片待難《かたまちがたき》     1763
 
〔釋〕 ○よごもり 「※[穴/牛]」は牢の俗字。こゝは動詞で籠圍するの意を用ゐ、コモリに充てた。○かたまちがたき 「かたまちがてり」を見よ(一九八八頁)。この歌左註にいふ如く、卷三の
  椋橋の山を高みか夜ごもりに出でくる月の光ともしき(大浦―290)
の結句が變つたのみだから、再説を略く。
 
右一首、間人《ハシヒトノ》宿禰大浦(ノ)歌中(ニ)既(ニ)見(ユ)、但末(ノ)一句相換(ル)、亦作歌(ノ)兩主不2敢(ヘテ)正指(セ)1。因(リテ)以累(ネテ)載(ス)。
 
○作歌兩主不敢正指 歌主が沙彌女王と大浦との二人あつて、何れとも正しく斷定が出來ないとの意。
 
七夕《ナヌカノヨノ》歌一首并短歌
 
久堅乃《ひさかたの》 天漢爾《あまのかはらに》 上瀬爾《かみつせに》 殊橋渡之《たまはしわたし》 下湍爾《しもつせに》 船浮居《ふねをうけすう》 雨零而《あめふりて》 風者〔左△〕吹登毛《かぜはふくとも》 風吹而《かぜふきて》 雨者〔左△〕落等物《あめはふるとも》 裳不令濕《もぬらさず》 不息來益常《やまずきませと》 玉橋渡須《たまはしわたす》     1764
 
(2588)〔釋〕 ○あまのかはら こゝは天の河といふに同じい。「天漢」は天の川のこと故、正しくは原〔右○〕の字なくてはカハラとは訓まれない。上にも漢原〔二字傍点〕と書いた處がある。然し天の川、天の川原はその頃同意に通用した語で、原に深い意はない。○たまはし 「たま」は美稱。○ふねをうけすう 船を浮べて置くの意。この句で切れないと一篇の意が齟齬して通じにくい。略解訓による。舊訓フネウケスヱテ〔七字傍線〕、契沖訓フネヲウケスヱ〔七字傍線〕、古義訓フネウケスヱ〔六字傍線〕。○かぜはふくとも――あめはふるとも 原本「不吹登毛《フカズトモ》」「不落等物《フラズトモ》」とある。二つの「不」略解に引用した宣長の或人説に、者〔右△〕の誤ならむとあるに從つた。
【歌意】 天の河に上の瀬には美しい橋を架け、下の瀬には船を浮べて置く。船と違つて、假令〔七字右○〕雨が降つて風は吹くとも、風が吹いて雨が降るとも、その裳裾を濡らさずに、絶えずお出でなされよとて〔右○〕、天の河に美しい橋を架けた。
 
〔評〕 橋を架けるのは男の仕事、裳裾を曳いて雨などに濡れるのは女の姿態である。されば牽牛星の意中として、この歌は詠まれたと見る。可愛い織女星ゆゑの心盡し、却ては牽牛自身の爲の工作であつた。その理由は「七夕に雨が降ると、二星の會合がお流れになる」といふ話説が生じてゐるからである。でどんなに雨風が荒くてもの意を強調して、「雨降りて風は吹くとも、風吹きて雨は降るとも」と丁寧反復して印象を深からしめ、結局「玉橋渡す」にその重點を歸した。
 「船をうけ据う」は一篇の大意から見れば、「珠橋わたし」に對を求めた修辭上の文飾に終るやうだが、天の河の船渡しは殆ど通則の如くになつてゐるから、作者としては言及せざるを得なかつた。幸にもそれが爲船渡(2589)しの風雨の困難さが暗映されて、架橋の企畫に必要性を帶びてくる。要するに架空の誕語、文章遊戯として見れば面白い處もある。
 
反歌
 
天漢《あまのがは》 霧立渡《きりたちわたる》 且今日且今日《けふけふと》 吾待君之《わがまつきみが》 船出爲等霜《ふなですらしも》     1765
 
【歌意】 天の河に水霧が立ち渡るわ。今日か今日かと、私の待つ君(彦星)が、今船出をなさるらしいよ。
 
〔評〕 これは織女の立場から作つた。霧は船を遣る爲に發つ水烟をいつた。
  ひこ星の嬬《ツマ》むかへ船漕ぎ出《ヅ》らし天のかはらに霧の立てるは(卷八、―1527)に似た着想で、そこに分寸の差違がある。卷十その他にも類歌がある。尚卷八の「ひこ星の嬬むかへ船」の條の評語を參照(二三二二頁)。
 
右、件(ノ)歌、或云(フ)、中衛(ノ)大將《カミ》藤原(ノ)北卿(ノ)宅(ニテ)作(メル)也。
 
これは何人かが藤原北郷の宅で詠んだとの意。○中衛大將藤原北卿 藤原|房前《フササキ》のこと。兄武智麻呂の宅は南に在つたので南卿と稱し、房前を北卿と稱した。房前の傳は既出(一四四六頁)。中衛大將は中衛府を見よ(一四四五頁)。
 
相聞
 
(2590)振田向《フルノタムケノ》宿禰(ガ)退《マカル》2筑紫(ノ)國(ニ)1時(ノ)歌
 
○振田向宿禰 傳未詳。振は布留《フル》の借字で、布留は氏。姓氏録に布留(ノ)宿禰とある。田向はその名。但古代には複姓がまゝあるから、振田向が氏かも知れない。○退筑紫國 京を退りて筑紫に行くをいふ。筑紫國は今筑前筑後の稱。
 
吾妹兒者《わぎもこは》 久志呂爾有奈武《くしろにあらなむ》 左手乃《ひだりての》 吾奥手爾《わがおくのてに》 纏而去麻師乎《まきていなましを》     1766
 
〔釋〕 ○くしろ 「くしろつく」を見よ(一六五頁)。○おくのて 臂より奥を稱する。二の腕に當る。眞淵の説を宣長が敷演して以來、右の手を邊《ヘ》の手、左手を奥《オク》の手とする説が行はれてゐる。委しくは「雜考」に讓る。
【歌意】 我妹子お前は、釧であつてほしいな、さらば〔三字右○〕私の左手の、その奥の腕にはめて往かうものをさ。それが出來ないので殘念な〔それが〜右○〕。
 
〔評〕 作者が京で馴染んだ女に別れ行く折の作である。成る事なら連れても行きたいが、事情はそれが不可能である。となると、遂には實現性のない空想まで描くやうになる。
 釧を實物として扱つたのは、集中この歌の外にない。萬葉時代には手纏のみ流行してゐて、釧は餘りはやらなかつたと見える。服制の改正などその因を成したのではあるまいか。玉も釧も装身具だから美しい。さては愛人を以てそれに比擬するのは、聯想が自然である。比擬した上で、その玉その釧の如く、手に纏きたいの身(2591)に著けたいのと欲求するのも人情で、この趣向は萬葉人の殆ど通念となつてゐる。家持などは再三反復この意を詠じた。
  わが背子は玉にもがもな時鳥聲にあへぬき手にまきて行かむ(卷十七、家持―4007)  あも刀自は玉にもがもや載きてみづらのなかにあへまかまくも(卷廿、津守小栗栖―4377)
なほこの事は卷三「人言のしげきこの頃」の條の評語を見られたい(九七一頁)。
 この歌の特色は漫然たる手に纏〔三字傍点〕くの套語を避けて、「左手のその奥の手に」と描寫に委曲を盡した點にある。而も漸層法で現實性を強めて來た、その表現の手際は全く警拔である。總べて餘計な装身具などは、滿艦飾の場合は別として、餘り活動せぬ左手にするのが便利であり、現今の人達も實行してゐることである。又釧はもとより肱纏《ヒヂマキ》で、その奥の手にあるべき物だ。
 「去なましものを」は百尺竿頭に一歩を進めたもので、「その奥の手」即ち内緒にでも女をも連れてと思うたことも、一旦理性に反ると、一切實現不能の空想に過ぎないことを覺悟するに至つて、永久の別離を悲傷する餘意が搖曳して盡きない。
            △釧考、奥の手考(雜考―31參照)
 
拔氣大首《ヌカゲノオホビトガ》任《マケラルヽ》2筑紫(ニ)1時、娶《アヒテ》2豐前(ノ)國(ノ)娘子《ヲトメ》紐兒《ヒモノコニ》1作(メル)歌三首
 
牧氣大首が筑紫(筑前又は筑後)に赴任する時、豐前(ノ)國の紐(ノ)兒といふ娘子に逢つて作んだ歌との意。○拔氣大首 傳未詳。拔氣はヌカゲと訓む。古義に、神代紀に鏡作部(ノ)遠祖|天糠戸《アマノヌカト》を、一書には天(ノ)拔戸と作れるを思ひ合はすべしとあるに從ふ。大首は首《オビト》の姓もあるが、こゝは子首《コビト》に對した大首で、名であらう。○紐兒 傳未詳。
 
(2592)豐國乃《とよくにの》 加波流吾宅《かはるはわぎへ》 紐兒爾《ひものこに》 伊都我里座者《いつがりをれば》 革流波吾家《かはるはわぎへ》     1767
 
〔釋〕 ○とよくに 既出(七五四頁)。○かはる 豐前國田川郡香春村。鏡山の東南麓の村。和名抄に香春(ノ)郷と出てゐる。豐前風土記に、田河郡香春(ノ)郷、此郷之中(ニ)有(リ)v河、此河瀬清淨(シ)、因(テ)號(ク)2清(ミ)河原《カハラ》村(ト)1、今謂(フハ)2鹿春郷(ト)1誤と。ハラをハルと發音するは昔からの九州訛と見えた。今は濁つてバルと發音してゐる處もある。○わぎへ 我家《ワガイヘ》の約。下になり〔二字右○〕の助動詞を略いた。○いつがり 「い」は發語。「つがり」は繋《ツナガ》りの約。良行四段の動詞。※[金+巣]は金《カネ》の鎖《クサリ》のことだが、和名抄には加奈都賀利《カナツガリ》と訓んである。掖齋の箋註に、ツガリ、連鎖之謂、舞人(ノ)摺袴(ニ)有(リ)2ツガリ組1、今(ノ)俗、茶入(ノ)袋(ニ)有(リ)2スガリ1、又以(テ)v絲(ヲ)造(ルヲ)v嚢(ヲ)亦謂(フ)2之スガリ(ト)1、竝(ニ)※[言+爲](レル)2ツガリ(ヲ)1也。と△地圖及寫眞 222(七五五頁)221(七五四頁)を參照。
【歌意】 豐前の國の香春は私の宅〔右○〕よ。紐の兒に引つかゝつてをるので、香春は私の宅〔右○〕よ。
 
〔評〕 今筑紫に赴任して行く人が、途中の香春の宿で、香春は私の宅だは、とても合點のゆかぬ詞である。こんな不合理な前提をおいて、更にその解説を與へて成程と諾かせるのは、詞人のよく用ゐる猾手段である。こゝも「紐の兒にいつがりをれば」の説明を聞くや、覺えず膝を拍つて何人もほゝ笑まざるを得まい。「わぎへの如し」といへば常識的だが、それを「わぎへ」と斷定してしまつた逸脱の氣味が面白い。それ程に紐の兒は作者をして旅を忘れ公程を忘れて、餘念なく耽溺せしめる愛の力をもつてゐたことが想像される。「紐」の縁語の「いつがり」の如きは、一寸した聯想上の道樂で、そんな調戯を弄する程度の、輕い身柄の女で紐の兒はあつ(2593)た。
 二句を結句に反復するは古體である。(なほ卷一、「麻裳よし紀人ともしも」の評語(二一九頁)を參照)。
 
石上《いそのかみ》 振乃早田乃《ふるのわさたの》 穂爾波不出《ほにはいでず》 心中爾《こころのうちに》 戀流比〔左△〕日《こふるこのごろ》     1768
 
〔釋〕 ○ほにはいでず 穂には出づ〔二字傍点〕を「いでず」のいで〔二字傍点〕にいひ續けて、初句より「いで」までを序詞とした。「ほにはいでず」は「ほにいづる」を見よ(七九一頁)。○このごろ 「比」原本に此〔右△〕とあるは誤。
【歌意】 石上の布留の早稻田が、穂には出るが、そのやうに表面《ホ》には顯はさず、自分は〔三字右○〕心の内ばかりで戀うてゐる、この節であることよ。
 
〔評〕 九州のあたりで、なほ石上布留の早稻田を抽出した。作者大首は大和人の而も布留人なのであらう。「戀ふるこの頃」の結句は、平安人なら戀ふる頃かな〔六字傍点〕といふ處で、集中、長歌一首の外にこの歌を入れて六首まである。就中
  人言をしげみと妹にあはずして心のうちに戀ふるこの頃(卷十二、―2944)
は下句が全く同じだ。然し、「人言を繁みと妹にあはずして」は説明的で、この序詞を運用して大樣に調べおろした風格には遠く及ばない。
 
(2594)如是耳志《かくのみし》 戀思渡者《こひしわたれば》 靈刻《たまきはる》 命毛吾波《いのちもわれは》 惜雲奈師《をしけくもなし》     1769
 
〔釋〕 ○かくのみしこひし 二つの「し」は強辭。○たまきはる 命の枕詞。既出(三六頁)。
【歌意】 こんなにばかりさ、戀してさをると、もう〔二字右○〕命も、私は惜しいこともないわい。
 
〔評〕 戀愛は人間の本能だ。隨つて命を抛ち死をかけて狂する。この種の諷詠は人間が存在する間は盡きまい。まことに平凡で陳腐で、而も眞實なのだ。
 以上二首は大首が香春を發足してから後の詠であらう。對手は無論紐の兒だ。
 
大神大夫《オホミワノマヘツギミガ》任《マケラルヽ》2長門(ノ)守(ニ)1時、集(ヒテ)2三輪河(ノ)邊(ニ)1宴《ウタゲスル》歌二首
 
大三輪の大夫が長門守に任ぜられた時、人達が〔三字右○〕三輪河の邊に集まつて、送別の宴を開いた時の歌との意。○大神大夫 大神は氏、大三輪の意。單に三輪ともいふ。姓はもと君であつた。この大夫は三輪朝臣高市麻呂のこと。紀に、天武天皇元年六月大伴吹負を將軍に拜した時、吹負の麾下に會し、七月箸(ノ)陵に戰つて近江の軍を破り、同十三年朝臣姓を賜はつた。持統天皇六(諸本、七トアルハ誤)年二月の伊勢行幸に、是日、中納言直大貮三輪朝臣高市麻呂上(リ)v表(ヲ)敢(テ)直言(シテ)、諫(ム)d爭天皇(ノ)欲(シテ)v幸(サムト)2伊勢(ニ)1妨(グルコトヲ)c於農時(ヲ)u、云々。續紀に、大寶二年正月從四位上にて長門守となり、三年六月左京(ノ)大夫となる。慶雲三年二月卒し、壬申の功により從三位を贈らる。大花上利金(2595)の子なりとある。懷風藻に年五十と見えた。〇三輪河 初瀬川を三輪にて稱する名。川は三輪山の南麓|金谷《カナヤ》を通過して西北流する。「初瀬川」を見よ(二七二頁)。
 
三諸乃《みもろの》 神能於姿勢流《かみのおばせる》 泊瀬河《はつせがは》 水尾之不斷者《みをしたえずば》 吾忘禮米也《われわすれめや》     1770
 
〔釋〕 ○みもろのかみ 三輪山の神。三輪山を三諸山とも稱する。「みわのやま」を見よ(八三頁)。○おばせる 帶び給ふ心の意。佩ばす〔三字傍点〕は佩《オ》(帶)ぶの敬相。○みを 既出(一九〇六頁)。
【歌意】 三輪の神が、帶にしていらつしやる初瀬河、その水脈《ミヲ》がさ絶えないならば、貴方達を〔四字右○〕私が忘れませうかい。
 
〔評〕 作者は三諸の神の神裔として三輪の地に蟠踞してゐた三輪(ノ)君の棟梁で、壬申の役飛鳥方に馳せ參じて忠勤を抽んで、途に三位中納言にまで陛つた英雄である。旁ら文事にも渉り、その所作は懷風藻にも出てゐる。今外官となつて行長門守で赴任する。その送別の宴は三輪川の勝地に張られた。神人たる三輪の一族は同族の名譽として擧つて參會したらう。
 彼等族人が口を開けば三諸の神を云々するのは、蓋し當然過ぎる當然だ。時は正月、仰げば神のます三諸山はその氏人を愛護するかのやうに和やかに春日に霞み、俯せば初潮川は昔ながらに滾々として山裾に御帶として流れてゐる。作者は乃ち三諸神の神意を借りて暗に初瀬川の常住性を證し、更にその初瀬川を借りて、參會(2596)の族人達に向つて、永久にわが交情の渝らぬことを證した。一任四五年の別離には過ぎないが、文選の「去者(ハ)日以(テ)疎(シ)」の輕薄な人情はもたぬと斷言する處、この際この時、尤もその當を得た留別の詞であらう。作者は當時四十六歳。
 著想は例の山※[礪の旁]河帶の誓語に類し、而もその反説的手法は、
  いかるがの富の緒川の絶えばこそわが大君の御名忘らえめ(上宮聖徳法王帝説、拾遺集、今昔物語、日本靈異記)
に發源して、類歌はこの他に二三、集中に數へられる。
 なほ卷六「いづみ河ゆく瀬の水のたえばこそ」の條(一八四九頁)、及び「大王の御笠の山の帶にせる」の條(一九〇一頁)の評語を參照。
 
右一首、大神(ノ)大夫(ガ)作(メル)〔八字右○〕。
 
此處にこの左註を補ふがよい。理由は評語が説明してゐる。
 
於久禮居而《オクレヰテ》 吾波也將戀《われはやこひむ》 春霞《はるがすみ》 多奈妣久山乎《たなびくやまを》 君之越去者《きみがこえなば》     1771
 
〔釋〕 ○われはや 「や」は歎辭。
【歌意】 あとに殘つてゐて、私はまあ戀しく思はうわ。あの春霞の靡く山を、貴方が越えて往かれうならばさ。
 
〔評〕 これは上の送別宴に參會した或者の作である。「春霞たなびく山」は漫然たる旅中の山ではなく、眼前に霞(2597)んで見える生駒葛城の連山、主としては高市麻呂の行路に當る、國境の二上越あたりを指斥してゐるのである。そこを越せば高市麻呂はもはや大和の人ではない。で「後れゐて――戀ひむ」と、「來るべき別恨を豫想して、眼前の別離を悲しんだ。
 
右一首、宴(ニ)集(レル)人(ノ)作(メル)〔七字右○〕。
 
こゝにこの左註を補ふ。
 
右二首、古集中(ニ)出(ヅ)。
 
○古集 他の書例によれば古歌〔右○〕集とあるべき處。
 
大神(ノ)大夫(ガ)任(ケラルヽ》筑紫(ノ)國(ニ)1時、阿倍《アベノ》大夫〔二字左△〕(ガ)作歌
 
○大神大夫 上と同じく高市麻呂のこと。但筑紫赴任の事はその傳にない。新考はいふ、初二句が上の歌と同じなので、その題詞「大神大夫」をこゝに誤記したのだらうと。これも一説である。○任筑紫國 筑前か又は筑後の守かになされたのをいふ。○阿倍大夫 古義に阿倍(ノ)廣庭を充てたが、高市麻呂は慶雲三年に、廣庭は天平四年に薨じ、その間廿六年の開きがあつて、廣庭は遙か後輩であるから、「子ゆゑに」とある歌の趣に合はない。抑も「子」は男同士では、同等の身分よりは卑い對手に專ら使ふ詞である。四五位相當の大夫を「子」と呼ぶからは、作者は必ず三位以上の公卿であらう。されば「大夫」は卿〔右△〕の誤。但、阿|倍《ベノ》卿は高市麻呂時代に二人ある。一人は廣庭の父右大臣阿倍(ノ)御主人《ミウシ》で、大寶三年に六十九歳で薨じ、高市麻呂よりは廿二歳も長じた人(2598)だ。高市麻呂を「子」と呼ぶに、門地閲歴年齡共にふさはしい。今一人は中納言阿倍(ノ)宿奈《スクナ》麻呂(比羅夫の子)だが、これは官位も年齡も稍卑い。なほ勘考の餘地がある。○阿倍卿 名は御主人《ミウシ》。本姓は阿部(ノ)(倍)布施《フセ》(普勢)(ノ)臣。壬申の功臣。紀に、持統天皇元年正月中納言、同五年正月直大壹、同八年正月氏(ノ)上、大納言となり、同十年資人八十人を賜ふと見え、續紀に、大寶元年三月從二位右大臣、同三年閏四月薨ずとある。
 
於久禮居而《おくれゐて》 吾者哉將戀《われはやこひむ》 稻見野乃《いなみぬの》 秋芽子見都津《あきはぎみつつ》 去奈武子故爾《いなむこゆゑに》     1772
 
〔釋〕 ○こゆゑに 男をさして「子」とも呼ぶ。但必ず同輩以下の者に稱する。「子ども」(二三五頁)を參照。
【歌意】 あとに殘つてゐて、私はまあ戀しからうわ。面白さうに〔五字右○〕稻見野の萩の花を見ながら、行くであらうお前なのにさ。
 
〔評〕 行人には愁が多い。客愁があり離愁があり郷愁がある。なか/\以てさう暢氣なものではない、と知りつつ、西國街道を下る序には播磨では「稻見野の秋萩見つゝ」などして、何の物思もないやうに、高市麻呂の旅を推想した。これはその反映を借りて、自分の抱く別愁を力強く映出させようの魂膽である。初二句は前の歌のと同じい。
 
獻(レル)2弓削《ユゲノ》皇子(ニ)1歌一首
 
(2599)○獻弓削皇子 作者が自分の詠歌を弓削皇子に獻つて御覽に入れたとの意で、歌意が皇子と作者との間に關するものか否かは確定しない。單に持歌を御覽に供へた位に輕く見られぬこともない。次の「獻舍人皇子歌」も同樣である。弓削皇子の傳は既出(三五〇頁)。
 
神南備《かむなびの》 神依板爾《かむよりいたに》 爲杉乃《するすぎの》 念母不過《おもひもすぎず》 戀之茂爾《こひのしげきに》     1773
 
〔釋〕 ○かむなびの――するすぎの 神南備の神の〔二字右○〕神依板にする杉の略。上三句は疊音によつて「過ぎず」のすぎ〔二字傍点〕に係けた序詞。この神南備は杉を詠み合はせてあるので、三諸《ミモロ》山即ち三輪山と假定する。○かむよりいた 神の憑《ヨ》ります板。古へ杉の板を敲いて神を招ぎ奉る神事があり、その板を神憑《カミヨリ》板と稱したもの。
 古く占をするに、琴を彈きて神をおろし奉り御教を乞ひし事は記紀に見え、又琴の代りに板を叩きて神をおろし奉る業もあり、これを神憑板といふ。伊勢の内宮にて琴板とて、凡二尺五寸ばかり幅一尺餘厚さ一寸餘なる檜板を用ゐ、笏にて叩く態をなすことあり。參勤の人の淨不淨を占ふ。(以上、略解所載宣長説、足代弘訓の神依板、伴信友の正卜考の説を參取)○おもひもすぎず 「おもひすぐべき」を見よ(七八九頁)。
【歌意】 神依板にする神南備の杉の、すぎ〔二字傍点〕といふやうに〔六字右○〕、思ひがまあ過ぎてなくならぬことわ。戀心の繁きによつてさ〔四字右○〕。
 
〔評〕 序詞はどう使はうと作者の自由だ。然るに「過ぎ」の口合に杉を用ゐる場合に、多く神の杉を※[人偏+就]りてゐる。(2600)この歌、及び
  石の上布留の山なる杉村のおもひ過ぐべき君にあらなくに(巻三、丹生王―422)
  神名備のみもろの山にいはふ杉おもひ過ぎめや蘿《コケ》蒸すまでに(卷十三、―3228)
などがそれである。思ふに神威を背景として過ぎざる〔四字傍点〕の意を無理からにも肯定させようとした手段で、頗る効果的であるといひ得る。特に神依板はその物柄からくる特殊の聯想もあつて、印象が深い。
 なほ卷三「石上布留の山なる」の條の評語を參照(九四三頁)。
 
獻(レル)2舍人(ノ)皇子(ニ)1歌二首
 
○舍人皇子 傳既出(三六一頁)。
 
垂乳根乃《たらちねの》 母之命乃《ははのみことの》 言爾有者《ことにあらば》 年緒長《としのをながく》 憑過武也《たのめすぎむや》     1774
 
〔釋〕 ○ははのみこと 「みこと」は既出(九八四頁)。○ことにあらば コトナラバ〔五字傍線〕と訓むもよい。略解訓コトナレバ〔五字傍線〕は非。○としのを 既出(一〇〇八頁)。○たのめ 頼ませの意。
【歌意】 これがもし、母上のお詞であるならば、こんなに年月永く、頼ませ甲斐のないことがあらうかい。
 
〔評〕 次のと同じ戀歌である。男の心を試す爲か、それとも變心したのか、女は一旦旨い返事をして置きながら、何時までもその言を實行しない。焦れ切つた男は苦悶の餘、慈愛の權化たる母親を引張り出して、反映的に強(2601)く女の無情を咎めた。怨意恨情、人の肺腑を刺すものがある。切ない時の縋り付き處は神佛であり、また親である。人情は昔も今も變らない。
 
泊瀬河《はつせがは》 夕渡來而《ゆふわたりきて》 我妹兒何《わぎもこが》 家門《いへのかなとに》 近舂〔左△〕二家里《ちかづきにけり》     1775
 
〔釋〕 ○かなど 「をかなと」を見よ(一三三三頁)。略解訓による。舊訓イヘノミカドハ〔七字傍線〕。
【歌意】 初瀬川を夕方渡つて來て、とう/\〔四字右○〕吾妹子の家の門に、近づいたことであるわい。
 
〔評〕 思ふ兒訪問の途上口占である。
 左註に「人麻呂之歌集出」とある。假にこれを人麻呂作として考察してみよう。人麻呂が大和時代の戀の煉行を地域によつて求めると、墨坂の女、輕の女、それに「吾妹子と二人出で見し」(卷二)と詠んだ櫟本の女との三人が出現するであらう。人麻呂が藤原京(又は飛鳥京)から出掛けたとすれば、墨坂へ行くにも初瀬川を渡りはするが、まづ櫟本の方が概して尋常であらう。
 初瀬川を夕方に越えて櫟本へは三里、無論馬上だから譯もあるまいが、「家の金門に近づきにけり」と、ほつと息吐いて、やれ/\と安心した輕い喜の情を率直に歌つた。そこに一道の生氣がある。よしこれが人麻呂作でないとしても、この歌の氣分はこんな處だ。
 
右三首、柿本(ノ)朝臣人麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
(2602)石河(ノ)大夫《マヘツギミガ》遷任《ツカサウツサレテ》上(レル)v京(ニ)時、播磨娘子《ハリマヲトメガ》贈(レル)歌二首
 
〇石河大夫 名は君子《キミコ》。續紀に、和銅六年正月正七位より從五位下、靈龜元年五月播磨守、養老四年正月從五位上、同十月兵部大輔、同五年六月侍從、神龜元年二月正五位下、同三年正月從四位下となると見えた。○遷任上京 こゝは播磨守の任滿ち、京官となつて上京したのである。○播磨娘子 傳未詳。
 
絶等寸※[竹/矢]《たゆらぎの》 山之岑上乃《やまのをのへの》 櫻花《さくらばな》 將開春部者《さかむはるべは》 君乎將思《きみをしぬばむ》     1776
 
〔釋〕 ○たゆらぎのやま 播磨の國衙附近の山であるらしい。國衙は今の姫路市の東方に接近した地點にあつたと思はれるが、今の姫路城の地即ち日女路《ヒメヂノ》丘の丘陵を除いては外に山はない。さては「絶等木の山」は日女路(ノ)丘の古名か。「※[竹/矢]」は「きしの」を見よ(七二九頁)。○きみをしぬばむ 略解訓による。舊訓キミヲオモハム〔七字傍線〕。
(2603)【歌意】 絶等寸の山の、岑の櫻の花が〔右○〕、咲かう春頃には、いよ/\貴方樣を戀ひ慕ふでせうよ。
 
〔評〕 君子の播磨の離任は何月であつたか分明しないが、とにかく櫻咲く春ではなかつたと見える。「咲かむ春べは」と提唱したのがそれを證する。而もそれは、嘗て一緒に春を享樂した歡會を、今別離に憶ひ出しての言葉であらうが、少し主觀がぼつとしてゐる。
  然《シカ》の海人は布《メ》刈り鹽燒きいとまなみ櫛笥のをぐし取りも見なくに(卷三、石川女郎―278)
を石河大夫即ち君子の作として新考はこゝに引用したが、その誤であることは、既にその歌の條下に辯明しておいた。
 
君無者《きみなくば》 奈何身將装※[食+芳]《なぞみよそはむ》 匣有《くしげなる》 黄楊之小梳毛《つげのをぐしも》 將取跡毛〔左△〕不念《とらむとおもはず》     1777
 
〔釋〕 ○くしげ 既出(三一四頁)。○つげのをぐし 「つげ」は黄楊木。常緑の小喬木で高さ一丈餘に達する。葉は細かい卵形で、春淡黄色の小花を簇生する。材は黄色で緻密にして堅く、印材、櫛などに製する。「を」は美稱。「梳」は疏櫛《アラグシ》である。○とらむとおもはず 「毛」は衍字。契沖訓トラムトモモハズ。
【歌意】貴方樣が無いならば、何で身じまひもしませうぞ。櫛笥にある黄楊の櫛さへも、手に〔五字右○〕取らうと思ひません。
 
〔評〕 女の本來の性癖であり、又生命であるのは化はひ化粧である。それも「誰れに見しよとて紅《ベニ》繊漿《カネ》附けう」(2604)で、肝腎の見せる人がなくては畢竟無用だ。この歌は
  自(リ)2伯之東(セシ)1、首如(シ)2飛蓬(ノ)1、豈無(カランヤ)2膏沐1、誰適爲(ム)v容《カタチヅクリヲ》。(毛詩衛風伯兮篇)
  女(ハ)爲(ニ)2説《ヨロコブ》v己(ヲ)者(ノ)1容(リシ)、士(ハ)爲(ニ)2知(ル)v己(ヲ)者(ノ)1死(ス)。(史紀豫讓傳)
の意を紹述したやうだが、播磨娘子が、こんなむづかしい書物を讀まう筈もあるまいから、眞情の發露は和漢同轍と見てよい。石川大夫の別離に對して捧げた滿腔の悲意、惻々として人の肺腑を打ち、實に凄また酸なるものがある。而もこの石の如き眞心は、讀者の同情を飽くまで要求して止まない。香匳中の黄楊の小梳は、いかにも脂粉の香が四圍に放散する。要するに千古不磨の名品である。
 初二句の意を三句以下に具象的に再説して強調した。この種の手法は集中にその例が多い。
 國守が任中に蓄妾することは、既に卷二「藤原宇合(ノ)大夫(ガ)還任上京(ノ)時、常陸娘子(ノ)贈(レル)歌」の評語(一一二一頁)に言及して置いた。又卷四に、門部王がその出雲守の時、部内の娘子を聘られた事が見えた。ましてや君子は六人部王などと共に、風流侍從を以て世に許された男だ(武智麻呂傳)。その任中の艶話は相當なものがあつたらう。
 
藤井(ノ)連《ムラジガ》遷任(サレテ)上(レル)v京(ニ)時、豐後|娘子《ヲトメガ》贈(レル)歌一首
 
○藤井連 藤井は葛井と同じい。連は姓、葛井連は集中に、廣成《ヒロナリ》、大成《オホナリ》、諸會《モロアヒ》、子老《コオユ》の四人の名が見える。その傳に九州に往つたことの見えるのは、廣成一人である。續紀に、天平十五年三月、筑前國司言(ス)、新羅(ノ)使等來朝(スト)、於是遣(シ)2――葛井連廣成(ヲ)於築前(ニ)1檢2校(ス)供給(ノ)之事(ヲ)1とある。新羅の使の供給の檢校などは、臨時の所役で出張するだけの事で、その御用が濟んで他の官職に任ぜられたとしても、遷任はどうか。遷任上京は國司であつた(2605)人の京官に轉任した場合にふさはしい用語と思ふ。契沖は廣成の事とした。文獻の不備で誰れとも決定し難い。○豐後娘子 「豐後」の二字、原本にない。補つた。この脱字の爲、古義は上の播磨娘子と同人説を立てたが、それは無理である。
 
從明日者《あすよりは》 吾波孤悲牟奈《われはこひむな》 名欲山《なほりやま》 石踏平之《いはふみならし》 君我越去者《きみがこえいなば》     1778
 
〔釋〕 ○こひむな 「な」は歎辭。○なほりやま 豐後國|直入《ナホリ》郡の山。朽網《クタミ》山(久住山)をいふか。この山は巖石が多い。なほ卷十一の「くたみやま」を見よ。古義は作者を播磨娘子と決めた爲「欲」を次〔右△〕と改め、名次《ナスギ》山の事とした。されど播磨から上京するのに、名欲山を越えることは絶對ない。○ふみならし 「踏平」の字義の通り、踏んで高びくを平にする意であるが、こゝは踏み立て〔四字傍点〕といふ程の輕い意に用ゐた。「踏」原本に蹈〔右△〕とあるは通用か。
【歌意】 明日《アシタ》からは、私は獨殘つて、定め〔六字右○〕て戀ひしがることでありませうなあ、あの名欲山の岩が根を踏み立てて、貴方樣が越えて去なれうならば。
 
(2606)〔評〕 「君が去つたら戀しからう」、この立意は極めて常識的だから、
  大船のおもひたのみし君がいなば吾は戀ひむなたゞに逢ふまでに(卷四、―550)
  ――朝鳥の朝立ちしつゝ、群鳥のむら立ち行けば、留まりゐてわれは戀ひな、見ず久ならば。(本卷、金村歌集―1785)
  朝がすみ棚引く山を越えていなば吾は戀ひむな逢はむ日までに (卷十二、―3188)  雲ゐなる海山越えていましなば吾は戀ひむなのちは逢ひぬとも (同卷、―3190)
など類歌の多いのも止むを得まい。但これらの數首は皆再會の豫望があるだけに、幾分の餘裕と曲折とがあつて、別離の情がさう突き詰めてゐない。この歌に至つては、全く處女心の一本氣に、その再會の期もない生別の悲哀が、力強く歌はれてゐる。「名欲山岩踏みならし」の具象的表現に至つては、離人の行手に横はる名欲山路の險岨に、その艱苦を同情しつゝ、一別萬里の自分の離情の前景を描いてゐる。
 
藤井(ノ)連(ガ)和(フル)歌一首
 
(2607)命乎志《いのちをし》 麻幸〔左△〕久母〔左△〕願《まさきくもがも》 名欲山《なほりやま》 石踐平之《いはふみならし》 復變〔左△〕來武《またかへりこむ》     1779
 
〔釋〕 ○いのちをし 「し」は強辭。○まさきくもがも 「幸」原本に勢〔右△〕とある。古義説によつて改めた。「願」は一字にてもガモと訓まれるから、原本に可〔右△〕とあるを「母」に改めてモガモと續けた。新考は「勢」を多〔右△〕、「可」を母〔右△〕と改め、名〔右○〕を補うてマタクモガモナ〔七字傍線〕と訓んだ。他にも改字の訓もあるが省く。○またかへりこむ 「變」原本には亦毛〔二字右△〕とあり、舊訓はマタ/\モコム〔七字傍線〕である。眞淵は「復」を後〔右△〕の誤としてノチマタモコム〔七字傍線〕と訓んだ。今は古義の亦毛〔二字右△〕を「變」の誤とする説に從つた。
【歌意】 命をさ、無事でまあありたいなあ、さらばお前のいふ〔八字右○〕名欲山の岩踏み立てゝ、復立ち返つて來うは。
 
〔評〕 卷三「わが命眞辛くあらば又も見む」(七二〇頁)の條の評語に「生命に不安を感ずる人の發する詞だ」といつた。日本武尊の「命のまたけむ人は」(記、中)と詠まれたのも、御命の危殆に瀕まれた際の御作である。さてはこゝの初二句も、作者が既に命に懸念のある老境にあつたことが窺はれる。乃ち懸歌の「岩踏みならし」を再用して、「復反りこむ」とはいつてゐるが、これは當座の慰めの詞に過ぎない。その實は弦を離れた矢だ。假令命があつても二度とは來ない。眞實の事情は歌の意とは矛盾してゐる。その矛盾を知りつゝ、この場合はかういはねばならぬ處に、作者の耐へ難い苦衷が存して哀れである。
 藤井連は大夫と書いてないから、六位以下の人であらう。さては國衙の橡か何かで、名欲山を朝夕に望む竹田あたりの分廳に姑く在住した人か。
 
(2608)鹿島《カシマノ》郡|苅野《カルヌノ》橋(ニテ)、別(ルヽ)2大伴(ノ)卿(ニ)1歌一首并短歌
 
○鹿島郡 常陸風土記によれば、香島(鹿島)郡は、古老の言に、難波(ノ)長柄|豐前大朝御宇《トヨサキニミヨシロシメシヽ》天皇(孝徳)の御世、己酉の年に、下總國海上部(ノ)造(ノ)部内輕野以南一里、那珂(ノ)國(ノ)(常陸)造(ノ)部内寒田以北五里を割き、別に神(ノ)郡を置き、そこに坐す天之大神(ノ)社坂戸(ノ)社沼尾(ノ)社を併せ、香島(ノ)天之大神と惣稱し、因つて郡の名としたとある。○苅野橋 和名抄に、常陸國鹿島都|輕野《カルヌノ》郷とある、その輕野に在る橋。神《カウノ》池から流れ出して利根川に注ぐ一條の小川に架した。後世一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋の稱があつて混亂するが、今は輕野の村落を貫通する國道の橋に、輕野橋の名が與へられてある。○別大伴卿 上の題詞に、「檢税使大伴卿登2筑波山1時歌」と見えたその大伴(ノ)卿である。別とは大伴卿が常陸の檢視を終へて下總國海上郡に渡る時に、ここまで送つて來た常陸の國衙の官吏が別れるのをさしたものである。その人は何人だかわからない。左註に「高橋連蟲麻呂之歌集中(ニ)出(ヅ)」とある。
 
(2609)牡〔左△〕牛乃《ことひうしの》 三宅之滷〔左△〕爾《みやけのかたに》 指向《さしむかふ》 鹿島之崎爾《かしまのさきに》 挾丹塗之《さにぬりの》 小船儲《をぶねまけ》 玉纏之《たままきの》 小梶繁貫《をかぢしじぬき》 夕鹽之《ゆふしほの》 滿之登等美爾《みちのとどみに》 三舩子呼《みふなこを》 阿騰母比立而《あともひたてて》 喚立而《よびたてて》 三船出者《みふねいでなば》 濱毛勢爾《はまもせに》 後奈美〔左○〕居而《おくれなみゐて》 反側《こうまろび》 戀香裳將居《こひかもをらむ》 足摩〔左△〕之《あしずりし》 泣耳八將哭《ねのみやなかむ》 海上之《うなかみの》 其津乎指而《そのつをさして》 君之己藝歸者《きみがこぎいなば》     1780
 
〔釋〕 ○ことひうしの 「みやけ」に係〔右△〕る枕詞。「ことひうし」は和名抄に「特牛、頭大(ナル)牛也、俗語(ニ)云(フ)古度比《コトヒ》」と(2610)ある。大牛の牡牛をいふは、特負《コトオヒ》牛即ち特に物を負ふ牛の義である。物を〔二字傍点〕の語なくても牛の負ふは物だから、意はとほる。卷十六には事負乃《コトオヒノ》牛とある。事は特の借字。古義説の許刀多物負《コヽタモノオヒ》牛の約などは迂遠極まる。「みやけ」の枕詞とするは、(1)寮飼《ミヤケ》の意にてかけたるか、大牛は多く官にて飼養すればなり(眞淵説)。(2)嚴毛《ミカゲ》をいひかけたるなるべし、牛は毛を尚べばなり(古義説)。の兩説中、(1)を穩當とする。「牡」原本に牝とある。元本藍本神本等によつて改めた。○みやけのかた 三宅潟。「みやけ」は和名抄に、下總國海上郡三宅(ノ)郷と見え、今海上村に字三宅の稱が存してゐる。三宅潟に沿うた丘陵地で、古へ屯倉《ミヤケ》を置いた處であらう。北の崖下は今は平野で利根川に瀕み、その間は田畠だが、古へは崖下近くから遠淺の滷潟地であつたと見えて、この名がある。「滷」原本に酒〔右△〕とあるは誤。古義は浦〔右△〕の誤としてミヤケノウラ〔六字傍線〕と訓んだ。○をぶねまけ 「を」は美稱。「まけ」は設《マウ》けの原語。支度すること。○をかぢ 「を」は美稱。「かぢ」は船の漕具の總稱。○みちのとどみ 滿ちの最頂點。「とどみ」は止《トヾ》まり〔二字傍点〕の約。土佐の方言では、潮の湛へたことをトヾとといふ由。○みふなこ 「み」は敬稱。「ふなこ」は、和名抄に舟子を訓んであり、舟を操る人、即ち※[楫+戈]子《カコ》のこと。○あともひ 既出(五三四頁)。○はまもせに 「せに」は狹《セ》きほどにの意。○な(2611)みゐて「美」字、原本にない。補つた。眞淵は或は「奈」は竝〔右△〕の誤かともいつた。○こいまろび 既出(一〇三一頁)。「反側」は毛詩の周南關雎篇に「※[足+展]轉反側」とある。○あしずりし 「摩」原本に垂とある。宣長説によつて改めた。○うなかみのそのつ 海上の津。下總國海上郡三宅潟の内に屬する。「その」の指示代名詞は音數を調へる程度の輕い使ひ方である。〇そのつを 「乎」原本に於〔右△〕とあるは誤。 △地圖 挿圖470。(一九六五頁)を參照。
【歌意】 三宅の滷に、かけ向つてゐる鹿島の崎に、朱塗の船を支度し、玉を飾つた楫を澤山懸けて、夕方の最滿潮に、船人どもを連れ立てゝ、喚び騷いで貴方樣の〔四字右○〕船が漕ぎ出さうならば、其處まで送つたわが常陸の國人達は〔其處〜右○〕、濱邊も狹い程に大勢竝んで居て、伏し轉びして戀ひ慕うてあらうかまあ、足摺して聲をひたすら立てゝ泣くであらうか。愈よ下總岸〔五字右○〕の海上のあの津を指して、貴方樣が漕ぎ出してお行きなさらばさ。
 
〔評〕 この歌は地理的説明が非常にむづかしい。題詞には輕野橋とあつて、歌はその場處が鹿島の崎の濱である。船出の人ならその波頭に送別するのが當然なのに、橋で別れるのも變だ。鹿島の崎は古へ輕野郷の内だから、輕野(ノ)橋は輕野(ノ)濱〔右△〕の誤か。
 然し再考すると、物には例外がある。作者は何か止むない事情があつて、輕野の橋までは見送つて來たが、それから引返したとも考へられる。歌の趣を檢ると、その船出の光景は一切想像から成立してゐるのが、何よりの證據である。
 そこで、今度は鹿島の崎の濱と、三宅の滷と海上の津との三角關係だ。鹿島の崎は廣い長い。息栖《オキス》あたりか(2612)ら銚子口までに及んでゐるが」歌に「三宅の滷にさし向ふ」とあるから、海上郡の三宅(ノ)郷に近寄つた地點でなければならぬ。或は輕野橋より東南四里の川尻、矢田部邊(今の利根川の北岸の濱)ではあるまいか。前面は即ち上總の海上郡三宅郷の海即ち三宅滷である。海上の津は海上郡の津といふことで、三宅滷の西部に當る今の小船木邊が船の發著處であつたのだらう、といふ所以は、此處から上總の中央部に國道が通じてゐる。昔からの官道であらう。すると、三宅滷は今の海上村字三宅を東限として、西は小船木邊に及んだ流海の稱となる。(現今はこの流海が利根川の河道となつてゐるが、それは慶長以來の事である)。
 大伴卿は檢税の事了へて筑波山に登つたが、方向轉換して鹿島へ來た。そして輕野を通過して、三宅潟を横斷し、海上の津に渡るのであつた。常陸の國内はその國守の責任上、この貴人に對する※[疑の左+欠]待をば力めねばならぬ。で追從して來た國衙の吏員中の一人が、何かの理由で、輕野橋でお別れする時にこの歌を詠んだ。
 三宅の潟と鹿島の崎、これは常陸と下總との國境である。よつて開口一番、これから展開すべき詩境を地理的に限定した。海上の津は當時の官津だから、備へ付けの朱《アケ》のそぼ船、即ち「狹丹塗の小船」があり、官人達の送迎に便した事はいふまでもない。然し「玉纏の小梶」は事實ではあるまい。七夕の歌に「さ丹塗の小船もがも、玉纏の眞かいもがも」(卷八)とあるは、空想の所産だから何とでもいへよう。本當に船道具に玉など鏤めたら、實用にならない。只狹丹塗の船に對して立派な梶といふ程の形容である。
「夕汐の滿ちのとゞみ」、今でも利根川は潮の干滿があるが、この川の流れ込まぬ内の海の昔は、海潮の來往が、もつと著しかつたと思はれる。尤も流海の事だから、滿潮時には流下する水とさし汐とが衝突して波は立つが、渡航には最適の時機であつたらう。すはやと掛りの役人達が船支度、船子どもを引連れ、騷ぎ立てゝ漕(2613)ぎ出すとなる。こゝまでの叙事は實に想像であるが、現在法を用ゐて、その印象を鮮明に的確にした。御船といひ御船子といふものは、大伴卿に對しての敬意である。
「御船いでなば」から筆を一轉して叙情に入り、露はにその想像を逞しうした。見送りの常陸人は濱邊に押凝り、名殘惜しさに五體を大地に擲つて戀しがり、或は置き去りにされる事を悲しんで泣き喚くであらうと、その別離の光景を細やかに想像に描いた。蓋しこれは公人たる卿の國境を去るを惜む常陸人の公情を叙して、作者箇人の輕野橋に於ける現在の悲別を、陰に映帶させたものであつて、言外の餘味ゆたかに、その含蓄が極めて深い。末節「海上のその津をさして、君が漕ぎいなば」は、初頭より「御船出でなば」までを、更に總括的に反復したもので、重複ではない。
 大伴卿が筑波山に登つた歌の左註に「高橋連蟲麻呂之歌集中出」と見え、こゝにも同じ左註があるので、諸家、蟲麻呂が大伴卿を輕野まで案内して、これを詠んだと説明してゐる。なほ、上の「大伴卿(ノ)登(ル)2筑波山(ニ)1時(ノ)歌」の評語を參照(二五七〇頁)。
 
反歌
 
海津路乃《うみつぢの》 名木名六時毛《なぎなむときも》 渡七六《わたらなむ》 加九多都波二《かくたつなみに》 船出可爲八《ふなですべしや》     1781
 
〔釋〕 〇うみつぢ 海の路。船路、航路。○ときも 「も」は歎辭。古義は「毛」を爾〔右△〕の誤とした。○なむ――なむ 上の「なむ」は現在完了の推量辭、下の「なむ」は願望辭。○すべしや この歌、六、七、六、九、二、(2614)八と數字澤山に記録した。戯書の一。
【歌意】 海路の和ぐであらう時まあ、渡つてほしい。こんなに立つ波に、船出をなさるべきことかい。
 
〔評〕 滿潮時に波の立つのを見て、何もこんな時に渡らないでもの意を強調して歌つた。幾ら古代人でも、三宅潟の波ぐらゐに大した恐怖はもつまいが、かく誇張する事によつて、何かと辭柄を設けてこの賓客を引留めようとする、惜別の情味が煽揚される。李白の詩に、
  横江館前津吏迎(フ)、向(ツテ)v余(ニ)東指(ス)2海雲(ノ)生(ズルヲ)、郎今欲(スル)v渡(ラムト)縁(ル)2何事(ニ)1、如(キ)v此(ノ)風波不v可(カラ)v行(ク)。(横江詞)
と全く符節を合はせたやうな作である。
 
 右二首、高橋(ノ)連蟲麻呂之歌集中(ニ)出(ヅ)。
 
與《オクレル》v妻《メニ》歌一首
 
雪己曾波《ゆきこそは》 春日消良米《はるひきゆらめ》 心佐閉《こころさへ》 消失多列夜《きえうせたれや》 言母不往來《こともかよはぬ》     1782
 
〔釋〕 〇きえうせたれや 消え失せたれば〔右○〕や。
【歌意】 雪はさ、春の日消えもせう。お前の〔三字右○〕心まで消えてなくなつたせゐかして、薩張〔二字右○〕音づれもこぬことよ。
 
〔評〕 初春の頃、暫く音信を怠つた妻に贈つたもので、理窟詰めにギウといはせた。
 
(2615)妻《メガ》和(フル)歌一首
 
松反《まつがへり》 四臂而有羽八〔二字左△〕《しひてあるはや》 三栗《みつぐりの》 中止〔左△〕不來《なかたえてこず》 麻追〔左△〕等言八子《まつといへやこ》     1783
 
〔釋〕 〇まつがへり 待反《マツガヘ》り。待ち反《カヘ》りの訛語。待つことの甚しいにいふ。消えかへり、死にかへり〔十字傍点〕の類語。卷十七にも「麻追我弊里之比爾底《マツガヘリシヒニテ》あれかも」(家持)とある。古來難語として、多くは不明ながら枕詞ならむといひ、その他種々の臆説を立てゝあるが、一笑に附すべしだ。○しひてあるはや 強ひて居ることよの意。「はや」は歎辭。「羽八」原本に八羽〔二字右△〕とあるは顛倒。略解、古義その他も、「有八羽」の羽を某字の誤として、アレヤモ〔四字傍線〕と訓んだ。○みつぐりの 中の枕詞。前出(二五五三頁)。○なかたえてこず 中絶して來ないの意。「止」原本に上〔右△〕とある。補考により改めた。眞淵は「中上」をナカスギテコズ〔七字傍線〕と訓み、卷十二に「戀ひつゝあらずは死上有《シヌルマサレリ》」と見え、「上」に勝る意あればスギテの義あるべしといつた。○まつと 「追」原本に呂〔右△〕とある。眞淵説によつて改めた。○いへやこ 「や」は「いへ」の四段活の既然態に附いた命令辭。集中まゝその例を見る。「こ」は文使ひの童などをさしていつた語。
【歌意】 私は待ちに待つて我慢して居ることですわよ。それを〔三字右○〕貴方は中絶して、薩張御出でがない。「待つてゐます」と、さう申し上げよ、お使ひの〔四字右○〕兒よ。
 
(2616)〔評〕 男は春の雪など引合ひに出して、勝手な事をいつて來た。でその文使の兒に托して、まづ自分の仕打を反省せよと逆襲した。
 
右二首、柿本(ノ)朝臣人麻呂之歌集中(ニ)出(ヅ)。
 
贈(レル)2入唐《モロコシニツカハサルヽ・ニツタウ》使(ニ)1歌一首
 
○入唐使 遣唐使のこと。「入」はその國都に造《イタ》るをいふ。このあたりの編次、天平の初年頃の作を※[糸+輯の旁]めてあるから、この入唐使は天平五年の遣唐大使多治比(ノ)廣成か。廣成が遣唐大使として出發したことは、卷五、山上憶良の「好去好來歌」の條(一五五九頁)において詳述した。この下にも同時の歌が出てゐる。〇一首 原本にない。目録によつて補つた。
 
海若之《わたつみの》 何神乎《いづれのかみを》 齊祈者歟《いのらばか》 往方毛來方毛《ゆくさもくさも》舶之早兼《ふねのはやけむ》     1784
 
〔釋〕 ○いのらばか 古義訓による。眞淵訓イハハヾカ〔五字傍線〕、童本訓マツラバカ〔五字傍線〕、舊訓タムケバカ〔五字傍線〕。○はやけむ 早から〔二字傍点〕むの約轉。
【歌意】 一體、海の神樣のうち、どの神樣を折らうならば、貴方の〔三字右○〕往きしなも歸りしなも、船がお早からうかしら。
(2617)〔評〕 かういふのは、往復とも船が早くないことを反證する。遣唐使の航路は瀬戸内海からはじめて日本海、黄海、東支那海横斷に終り、その往復は幾ら眞梶繁貫かうが、海神に祈らうが、風待日待まで加はつて日子が懸かる。その上難船に次ぐ難船で、危險率が非常に多い。
 海の神樣は住吉の大神、安曇連《アヅミノムラジ》が祀る海神《ワタツミ》、なほ細かくいふと澤山の神樣がある。どの神樣が一番御利益があらうかしらとは、甚だ勿體ない申分だが、情熱の前に理窟はない。下總の埴生郡から筑紫の防人《サキモリ》に差された男も、
  あめつしの何れの神を祈らばかうつくし母にまた言問はむ  (卷廿、大伴麻輿佐―4392)
と歌つた。この作者に至つては遣唐の當事者でもないのに、さもわが事のやうに心配し、危倶の念に驅られてゐる。蓋し強い同情の露れである。これより後の勝寶三四年の遣唐使藤原清河の爲の餞別の歌、
  住の江にいつく祝《ハフリ》が神言《カムゴト》と行くとも來《ク》とも船は早けむ  (卷十九、多治比(ノ)古―4243)
は一本槍にその信心を捧げただけに安心がある。下句はこの歌を學んだものか、それとも暗合か。
 
右一首、渡海(ノ)年紀未詳。
 
「年紀未詳」に就いてはこの題詞下の解説を見よ。
 
神龜五年|戊辰《ツチノエタツ》秋|八月《ハツキニ》作〔左○〕歌一首并短歌
 
この題詞は不完である。歌の趣は親友が越(ノ)國(前、中、後)に國守となつて赴任の時に詠んだもの。
 
(2618)人跡成《ひととなる》 事者難乎《ことはかたきを》 和久良婆爾《わくらばに》 成吾身者《なれるわがみは》 死毛生毛《しにもいきも》 君之随意常《きみがまにまと》 念乍《おもひつつ》 有之間爾《ありしあひだに》 虚蝉乃《うつせみの》 代人有者《よのひとなれば》 大王之《おほきみの》 御命恐美《みことかしこみ》 天離《あまざかる》 夷治爾登《ひなをさめにと》 朝鳥之《あさとりの》 朝立爲管《あさだちしつつ》 羣鳥之《むらとりの》 群立行者《むらだちゆけば》 留居而《とまりゐて》 吾者將戀奈《われはこひむな》 不見久有者《ミズヒサナラバ》     1785
 
〔釋〕 ○ひととなることはかたきを 人間に生を受けることは難いのを。四十二章經に、「佛言(ハク)、人離(レテ)2惡道(ヲ)1得(ルコト)v爲(リ)v人(ト)難(シ)」と見えた。○なれるわがみ 人と〔二字右○〕成れるわが身。○きみが 今旅行く人を斥す。○ひなをさめに 地方を治めに。國守に赴任するをいふ。「ひな」は既出(一二五頁)○あさとりの 朝の序語。既出(五一七頁)。○むらとりの むら立の序語。群鳥の如く群立つの意。兼ねてムラの疊音を利用した。○むらだち 古義訓ムレタチ〔四字傍線〕。○こひむな 「な」は歎辭。
【歌意】 人と生まれることはむづかしいものを、たまさかに幸にも〔三字右○〕人と生まれた自分の身は、生き死にも貴方の(2619)まゝにと、思ひく/\してゐたうちに、浮世の人の事だから、天子様の仰言を惶んで、地方を治めに貴方は〔三字右○〕朝方打立つて、供人をつれて〔六字右○〕群立つて行くので、あとに止まつて居て、私は定めし戀しがらうなあ、逢はずに久しくあるならばさ。
 
〔評〕 「人と成ることは難き」」こんな人生觀をもてば、當時の有識人であつた。憶良も「わくらばに人とはあるを」(卷五)と歌つた。人死して、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六趣に輪廻する、天上果は最上だが、次の人間果でも、生前の功徳が積らねば得られない、大抵は三惡道に墮すと、佛教は説く。今は偶ま人間に生まれたその貴重な生命をさへ捧げて、「君がまにま」といふ。作者とこの旅立つ人との關係は、
  死にも生きもおなじ心とむすびてし友やたがはむわれもよりなむ (卷十六、仙女―3797)
などの如く、いはゆる刎頸の交といふにrしい間柄と見える。
 千里王命に趨るは臣子の任だ。友は今牧民の官となつて、越の地に赴く。國司の下向は盛儀を繕うたもので、平安時代にはその罷申《マカリマヲシ》の儀を、主上の御覽なされた程だ。屬僚使人の外に眷屬から始めて、家隷下人の同勢あまた、行粧派手やかに朝立に群行するのであつた。作者はつぶさにそれを見送つて居たのであらう。
 末段は初段を承けて、この親友に對する別後の愁緒を叙べたのだが、「吾は戀ひむな見ず久ならば」は稍無力な結收で、初段の悲壮な内容をもつ特異な體調に、十分の均衡が取れない。
  あづさ弓ひき豐国の鏡山見ず久ならば戀《コホ》しけむかも  (卷三、益人―311)
おなじ「見ず久」でも、それは完作である。然しこの長歌の方が先出である。
 
(2620)反歌
 
三越道之《みこしぢの》 雪零山乎《ゆきふるやまを》 將越日者《こえむひは》 留有吾乎《とまれるわれを》 懸而小竹葉背《かけてしぬばせ》     1786
 
〔釋〕 ○みこしぢ 「み」は美稱。「三」は借字。越道は越をゆく路の意。○ゆきふるやま 雪の降つてある山。題詞にも「秋八月」とあつて、今雪が降るのではない。○しぬばせ 慕ぶ〔二字傍点〕の敬相の命令格。「小竹葉」は戯書。
【歌意】 越路の雪のある山を、貴方が〔三字右○〕越えるであらうその時は、京に獨〔三字右○〕留まつて歎いてゐる〔五字右○〕私を懸けて、思ひ出して下さいよ。
 
〔評〕 越の雪山を踏破する日は、行客が愈よ北地の異境に足を踏み込んだことを意識する時で、隨つて遠く故郷の空を囘望して、胡馬越鳥の感に打たれる時である。その時は京に獨親友を失うて寂莫に禁へぬ自分の一人居ることを、忘れずに憶ひ出してくれと訴へた。送別の作として一別手を出したもので、その濃到深切の情味は掬んで盡きぬものがある。新古の諸家の解説は悉く斜視である。
 
天平元年|己巳《ツチノトミ》冬|十二月《シハスニ》作〔左○〕歌一首并短歌
 
續紀に、天平元年十一月癸巳任(ズ)2京及畿内(ノ)斑田司(ヲ)1云々とあるので、古義説に班田使に出た人の作だらうと。
 
虚蝉乃《うつせのみ》 世人有者《よのひとなれば》 大王之《おほきみの》 御命恐彌《みことかしこみ》 礒城島能《しきしまの》 (2621)日本國乃《やまとのくにの》 石上《いそのかみ》 振里爾《ふるのさとに》 紐不解《ひもとかず》 丸寐乎爲者《まろねをすれば》 吾衣有《わがきたる》 服者奈禮奴《ころもはなれぬ》 毎見《みるごとに》 戀者雖益《こひはまされど》 色二山上復有山者《いろにいでば》 一可知美《ひとしりぬべみ》 冬夜之《ふゆのよの》 明毛不得呼《あかしもえぬを》 五十母不宿二《いもねずに》 吾齒曾戀流《われはぞこふる》 妹之直香仁《いもがただかに》     1787
 
〔釋〕 ○しきしまの 大和に係る枕詞。「しきしま」はその語意用法が幾樣にも釋かれ、(1)大和國磯城郡磯城島(今城|島《シマ》村)。欽明天皇|師木《シキ》島の大宮に坐し(紀記〉、金刺《カナサシノ》宮と號け給うた(紀)。(2)磯城島が大和の首都たる關係から、大和一國の稱となり、又その枕詞として用ゐられた。(3)大和の號が日本全國の稱となつた關係から、磯城島も亦、日本の總稱として用ゐられ、又その枕詞として用ゐられたと。然るに日本紀通證は地名根據説を非として、枕詞に「皇神之敷坐《スメガミノシキマス》島の八十島」とある意により、敷島の稱が起つたとした。この方が學的根據があつて面白いが、思ふに兩系統の意が混淆して慣用された詞であらう。○やまとのくに こゝは大和國をさした。「日本國」は借字。「やまとには」を參照(二〇頁)。○まろね 衣帶のまゝにて寢ること。俗にいふゴロネ。○わがきたる 古義訓ケセル〔三字傍線〕は敬語だから、こゝでは當らぬ。○なれぬ 衣に馴る〔二字傍点〕といふは、著舊るされるこ(2622)と。穢るゝを馴るといふは第二義の用法。○みるごとに その衣を〔四字右○〕。○いろにいでば 「いろに出でめやも」を見よ(七四〇頁)。「山上復有山」をイデと訓む。これは漢代の古樂府の詞で、「藁砧今|何在《イヅクニカアル》、山上復有(リ)v山、云々」の句がある。藁砧は※[石+夫]にて夫の隱語、山上復有山は出の字の隱語。こゝはそれを借用した。○あかしもえぬを 上に、永くて〔三字右○〕の語を補うて解する。「呼」をヲの音に用ゐた例は卷四にもある。宣長はアケモカネツヽ〔七字傍線〕と訓み、或人の説を引いて、鷄〔右△〕字落ちたるにて「呼鷄」をツヽと訓むべしといつた。卷八、卷十三にも、喚鷄をツヽと訓ませてある。眞淵は「呼」を啼〔右△〕の誤としてアカシモカネテ〔七字傍線〕と訓んだ。今は舊訓に從つた。○いもねずに 「五十」をイと訓むは例のこと。○ただか 既出(一三一四頁)。
【歌意】 我々は〔三字右○〕この世にある人の事だから、天子樣の仰を惶み奉つて、大和の國の石上《イソノカミ》布留の里に出張して〔四字右○〕、上衣の紐も解かず丸寢をするので、この自分の著た衣は萎えてくた/\だ。それを見る度に、平生それらの世話をしてくれた妻を思ひ出して〔平生〜右○〕、戀心はまさるが、素振にあらはれては人が氣が付きさうなので、冬の長夜の明かしもかねる程なのを、よう眠りもせずに、自分はさ戀ひ思ふことよ、妻の事一點張にさ。
 
〔評〕 出張先の官吏が懷いた夫婦愛を歌つた。旅で第一に困るのは著物の窶れだ。肩のまよひから裾褄の汚れ、それらにつけて不斷不自由なく世話をしてくれた妻が、しみ/”\有難く思ひ出される。弱氣を見せまいと、人前は空元氣を繕うてはゐるものゝ、孤衾冷やかな冬の長夜の徒然には、妻戀の念が一途に込み上げてくる。全く生活に即した嘘も僞もない告白である。但格調はさう高いものでない。
 二段編制の體、截然として旗幟鮮明である。
 
(2623)反歌
 
振山從《ふるやまに》 直見渡《ただにみわたす》 京二曾《みやこにぞ》 寐不宿戀流《いをねずこふる》 遠不有爾《とほからなくに》     1788
 
〔釋〕 ○ふるやまに 布留山にて〔右○〕。○ただに こゝは直ちに〔三字傍点〕といふに同じい。既出(四二五頁)參照。○みやこ 奈良京をさす。○いをねずこふる 古義訓によつた。舊訓イネズテコフル〔七字傍線〕、契沖訓イモネズコフル〔七字傍線〕。
【歌意】 布留の山で、まともに見渡される京にさ、寢もせずに戀ふることわ。そんな〔三字右○〕遠方でもないのにさ。
 
〔評〕 布留から奈良京の外れまでは、大概一里半強、高い處から望めば只一目だ。でも御用の都合では飛んで歸れない。咫尺も萬里、その矛盾を捉へての詠歎だ。「遠からなくに」は萬葉人の口拍子で、既に「ただに見渡す」とあるから、少しいひ過ぎの憾もあるが、さうくどく云はずには居られぬのであらう。
 
吾妹兒之《わぎもこが》 結手師紐乎《ゆひてしひもを》 將解八方《とかめやも》 絶者絶十方《たえばたゆとも》 直二相左右二《ただにあふまでに》     1789
 
〔釋〕 ○ただにあふまでに 普通では、逢ふまでは〔右○〕といふ處。古格。
【歌意】 我妹子が結んでくれたのであつた衣の紐を、解かうことかい。よし切れるならば切れるとも構はぬ〔三字右○〕、ぢかに我妹子に〔四字右○〕逢ふまではさ。
 
〔評〕 長歌の「紐解かず丸寢をすれば」の意を敷演した。我妹子の眞心を思ふと、この紐は千切れても解かぬと、(2624)執拗に頑張つた。そこには、他の女の爲に紐解くことは決してすまいの意が暗示されてゐる。想ふにこの長短歌とも、その我妹子に贈つたものであらう。「絶えば絶ゆとも」の假設的疊言は、この場合最もよく當て嵌つた有力な表現である。
 この歌、結句を三句の上にまはして見れば解りが早い。
 
右、件《クダリノ》五首、笠(ノ)朝臣金村之歌集〔左○〕(ニ)出(ヅ)。
 
天平〔二字左○〕五年|癸酉《ミヅノトトリ》、遣唐使(ノ)舶《フネ》發《ヨリ》2難波1入海《イヅル》之時、親母《ハヽガ》贈(レル)v子(ニ)歌一首并短歌
 
○天平 目録によつて補つた。○發難波入海云々 この度の遣唐使は、續紀に、天平四年八月、以(テ)2從四位上多治比(ノ)眞人廣成(ヲ)1爲(シ)2遣唐大使(ト)1、從五位下中臣(ノ)朝臣名代(ヲ)爲(ス)2副使(ト)1、判官四人録事四人云々、同五年閏三月授(ク)2節刀(ヲ)1、夏四月、遣唐(ノ)四船、自(リ)2難波(ノ)津1進發《イデタツ》と見えた。その時の隨員の母がその子に贈つた歌である。
 
秋芽子爾〔左△〕《あきはぎに》 妻問鹿許曾《つまとふかこそ》 一子二《ひとつごに》 子持有跡五十戸《こもたりといへ》 鹿兒自物《かこじもの》 吾獨子之《わがひとりこの》 草枕《くさまくら》 客二師往者《たびにしゆけば》 竹珠乎《たかだまを》 密貫垂《しじにぬきたり》 齋戸爾《いはひべに》 木綿取四手而《ゆふとりしでて》 忌日管《いはひつつ》 神爾乞祈〔四字左○〕《かみにこひのむ》 眞悲久〔三字左○〕《まがなしく》(2625) 吾思吾子《わがおもふわご》 眞好去有欲得《まさきくありこそ》     1790
 
〔釋〕 ○あきはぎに 「爾」原本に乎〔右△〕とある。秋萩を〔三字傍点〕だと、以下萩を鹿の妻とする意となつて惡い。この事、卷八「さき萩の花妻問ひに」の條(二三三五頁)を參照。○ひとつごにこもたりといへ 孤《ヒト》つ子にて〔右○〕子を有《モ》つてゐるとはいへ。犬猫と違ひ、鹿は一回に一匹より産まぬ。眞淵訓による。古義は「二子」を乎〔右△〕の誤として、ヒトリゴヲモタリトイヘ〔ヒト〜傍線〕と訓み、ヒトツをヒトリといふ例として、新古今集の「濡れてやひとり鹿の鳴くらむ」を引いた。けれども禽獣の上にヒトリといふは、孤獨の意を強調する爲の文飾で、普通ではない。矢張ヒトツゴと訓むが穩かである。「五十戸」は戯意あるか。○かこじもの 鹿の兒そのまゝの。「かもじもの」を見よ(一九三頁)。○いはひべ 「戸」は借字。既出(八六九頁)。○ゆふ 「まそゆふ」を見よ(四四二頁)。○とりしでて 既出(一八〇九頁)。○かみにこひのむまがなしく 原本「いはひつつ」から直ちに「吾が思ふ吾子」に續けてあるが、甚だ意が不完だ。古今の註家は漫然看過してゐるが、必ず落句のあるものと考へられる。よつてこの二句を間に補足した。「こひのむ」は「こひのみ」を見よ(九八五頁)。「まがなしく」は「まがなしみ」を見よ(一一三七頁)。○わご 童本訓による。略解訓アゴ〔二字傍線〕、舊訓ワカゴ〔三字傍線〕。○まさきく 「好去」は、旅行く時では幸くあるをいふ。卷五の好去好來、卷七の好去而《マサキクテ》など、皆この例である。「去」は衍字ではない。○ありこそ 「こそ」は願望辭。
 原本こゝに「奴者多本奴去、古本」の八字あり、訓讀し難い。今は元本藍本神本その他によつて削つた。古(2626)義はいふ、仙覺が校合せし時書き入れたるものなるべしと。
【歌意】 萩の咲くに妻問ひする鹿はさ、只一つ子でその子をもつてゐるといふ、丁度〔二字右○〕鹿そのまゝの私の獨子が、旅にさ立つて行くので、竹珠を澤山絲に通して垂らし、祝甕に木綿《ユフ》を取掛けて垂れて、忌み清まはりつゝ神樣にお願ひします。極《ゴク》可愛く〔神樣〜右○〕私が思ふ吾子よ、どうぞ〔三字右○〕無事であつてほしいわ。
 
〔評〕 市原王はわが獨子にある事を歎いたが、獨子の親の心持に至つては更に又格別だ。ましてその獨子を危險の多い遣唐の旅に手放す母親の心中は、どうであらう。その獨子たることを強調するに、鹿の兒を引合に出した。素より奈良の郊外は鹿澤山で、その兒が獨子であることは、誰れも見知つて居るからでもあるが、もつと事實に即した理由がある。
 この時の便船の出發は夏の四月であつた。特に三月に閏のあつた歳だから、鹿の兒は既に生まれて小犬ほどに育ち、母鹿のそばに纏ひ付いて、よち/\してゐる愛らしい盛りであることを忘れてはならぬ。
 人事を盡しての果は神の御力に縋るより外はない。齋庭を立てゝ型の如くの神祭だ。千念萬願も結局わが子が「眞幸くありこそ」の一點に落著する。「齋戸に木綿取りしで」は、神酒を釀す祝瓮の周圍に木綿を結び下げて、潔齋したのである。
 この歌「いはひつつ」と「吾が思ふ吾子」との續きが、釋にいふ通り不完である。神爾乞祈《カミニコヒノム》、眞悲久〔七字左○〕《マガナシク》の二句が補はれて、始めて意詞格ともに完全する。(2627)
 
反歌
 
客人之《たびびとの》 宿將爲野爾《やどりせむぬに》 霜降者《しもふらば》 吾子羽※[果/衣]《わがこはぐくめ》 天乃鶴群《あめのたづむら》     1791
 
〔釋〕 ○はぐぐめ はぐくむ〔四字傍点〕の命令格。はぐくむは羽含《ハクヽ》むの義。羽交に覆ふをいふ。轉じては育つることにも用ゐる。○あめのたづむら 鶴は天高く群れ舞ふのでいふ。この「あめ」は天上の意。高天が原のあめ〔二字傍点〕ではない。古義訓による。眞淵訓アメノツルムラ〔七字傍線〕。
【歌意】 旅人が宿らう野に、もし〔二字右○〕霜が降らうならば、その霜を遮るやうに、特に〔二字右○〕わが子を羽ぐくんでやつてくれい、空飛ぶ群鶴よ。
 
〔評〕 唐の都長安まではまことに雲山萬里、遣唐の一行は、夏のはじめに出發しても、時により秋の頃はまだ旅の途中にあるかも知れない。その間長驛短亭相次いで、この東海日本の國使を迎へたであらうが、時には人無き曠野に日を暮すこともあらう。これ旅の野宿に凛乎たる嚴霜を思ひ寄せ、「霜降らば」といふ所以である。
 鶴は既に再三縷述した如く、雁に後れてくる渡鳥だ。「瑶臺霜滿(テリ)、一聲之玄鶴唳(ク)v天(ニ)」(梁、謝觀)で、鶴と霜とは不可分の關係にある。今は遙に唐土の曠野、その暮天の霜に舞ひ舞ふ鶴群を幻想に描き、愛兒の旅状を悲しむ一點に熱狂した作者は、禽鳥と人との差別も忘れて、汝が兒ばかりか「わが子はぐくめ」と絶叫した。
 子を愛しむはあながち鶴に限るまいが、その羽翩が大きい關係から、雛兒を羽ぐぐむ状態が、特に人目に立(2628)ち易い。のみならず易經の、
  鳴鶴在(リ)v陰(ニ)、其子和(ス)v之(ニ)。(風澤中孚)
 これは上下の間誠心の相通ずるの比喩だが、思へば思はるゝ親子愛がそこに象徴されてあるから、鶴の子を思ふ出典の最先のものとして考へられる。然し作者は漢學者の母ではあるものゝ、婦人の事だから、こんなむづかしい典據を知つて詠んだといふのではない。漢文學盛行の結果、當時既に「子を思ふ鶴」といふ詞が、一般的通念となつてゐたのであらう。
 以上はこの歌の聯想の經路に就いて絮説してみたに過ぎない。その無理性にまで昂揚した母性愛の深さは、到底蠡測の言の及ぶ處でない。金磬一打、響は盡きても餘韻はなほ盡きない趣がある。「天の」は、鶴の冠語ではあるが、一面にその雄大なる景致を支配する最も緊切なる好辭である。歌格高渾、措辭また雄健、風調は元久の幽玄體の先驅を成すものである。
 山上憶良は子煩悩にかけての魁首で、その種の名作保持者である。だがとかく理智にこだはる傾向があつて、この作の如き天籟の線に達したのがない。この作者は口占的な短歌ばかりではない、その組織構成に知識と技術とを要する長歌をも詠出してゐる。すると相應の教養をもつた婦人と推測される。遣唐の大使や副使でこそあるまいが、判官級の、官吏か留學生留學僧などの母親かと思ふ。
 
思《シヌビテ》2娘子《ヲトメヲ》1作(メル)歌一首并短歌
 
(2629)白玉之《しらたまの》 人乃其名矣《ひとのそのなを》 中々二《なかなかに》 辭緒不延《ことをのばへず》 不遇日之《あはぬひの》 數多過者《まねくすぐれば》 戀日之《こふるひの》 累行者《かさなりゆけば》 思遣《おもひやる》 田時乎白土《たどきをしらに》 肝向《きもむかふ》 心摧而《こころくだけて》 珠手次《たまだすき》 不懸時無《かけぬときなく》 口不息《くちやまず》 吾戀兒矣《わがこふるこを》 玉※[金+爪]《たまくしろ》 手爾纏〔左△〕持而〔左△〕《てにまきもち》 眞十鏡《まそかがみ》 直目爾不視者《ただめにみずば》 下檜山《したひやま》 下逝水乃《したゆくみづの》 上丹不出《うへにいでず》 吾念情《わがおもふこころ》 安不在〔二字左△〕歟毛《やすからめかも》     1792
 
〔釋〕 ○しらたまの 白玉の如き〔二字右○〕。○しらたまのひとのそのなを この二句は、飛んで「玉だすき懸けぬ時なく、口息まずわが戀ふる兒を」の句に跨續させて解する。直續させては意が通じない。多分落句がこの下にあらうと考へられる。○なかなかに なまなかに。○ことをのばへず 言《コト》を述べずの意。言葉や消息を交《カハ》さぬをいふ。「のばへ」は述べ〔二字傍点〕の延言で、波行下二段活。「緒」はヲの助辭に借りた。「延」は借字。これを辭の緒|延《ノ》ベズ(舊訓)又は辭ノ緒|延《ハ》エズ(契沖)など訓んで、緒を譬喩と見た諸家の解は鑿説である。「不」元本藍本類本には下〔右△〕とある。これはシタハエ〔四字傍線〕と訓む。下|延《ハエ》の語例は、この卷末及び卷十四に二箇處、卷十八、卷二十などに(2630)見えるが、皆心の内に思ひ定める意だから、辭を下延え〔五字傍点〕では理りが立たない。○まねく 「さまねし」を見よ(二八二頁)。略解訓による。舊訓アマタ〔三字傍線〕。○おもひやる 既出(四一頁)。○たどき たづき〔三字傍点〕の轉語。同項を見よ(四一頁)。○しらに 既出(四一頁)。○くちやまず 口にいひ止まず。○わがこふるこを 「こを」は兒なる〔二字右○〕をの意。○たまくしろ 手に纏《マ》きに係る枕詞。「くしろつく」を見よ(一六五頁)。「※[金+爪」は釧の書寫字。○てにまきもち 六言の句とする。こゝは手に纏き持たずの意で、打消の不〔右○〕を要する處だが、次句に「不視者」とあるに讓つて略した。原本に「而」の字あるので、諸訓モチテ〔三字傍線〕と讀んでゐるが、「て」の辭が文理を阻んで面白くない。よつて「而」は衍字と見た。「纏」原本に取〔右△〕とあるが、釧は取持つ物ではないから、取を纏〔右△〕の誤として、眞淵考によつてマキモチ〔四字傍線〕と訓んだ。○まそかがみ 既出(六四三頁)。こゝは見え〔二字傍点〕の約め〔傍点〕を、「たゞ目に」の目にいひかけた枕詞。○ただめにみずば ぢかに目に見ぬならば。舊訓がよろしい。古義訓タダメニミネバ〔七字傍線〕。○したひやま 下樋山。攝津國能勢郡(今豐能郡西郷村)。今劍尾山と稱する。池田市を北へ距ること十里許。標高七八四米突。攝津国風土記に、昔有(リ)2大神1、曰(フ)2天津鰐(ト)1、化2爲《ナリテ》鷲(ト)l而下2止《ヲリキ》此山(ニ)1、十人往(ケバ)者、五人去(リ)五人留(リキ)、有(リ)2久波乎《ハハヲト》云(フ)者1、來(リ)2此山(ニ)1、伏(セテ)2下樋(ヲ)1而|屆《イタル》2神(ノ)許(ニ)1、從《ヨリ》2此樋(ノ)内1通(ヒテ)而祷祭(リキ)、由(リテ)v是(ニ)曰(フ)2下樋山(ト)1とある。但下樋は伏樋《フセドヒ》の事で、水を通はす爲の設だから、こゝは下樋山を「したゆくみづ」の枕詞として用ゐた。「檜」は樋の借字。○したゆくみづの 下行く水の如く〔二字右○〕。下樋山よりこの句までは、「上に出でず」の序詞。○やすからめかも 「不在」原本に虚〔右△〕とある。古義説によつて改め、訓は新考によつた。古義訓はヤスカラヌカモ〔七字傍線〕。
【歌意】 自分は思ふ兒〔六字右○〕に、なまなかに言葉もようかはさず、逢はぬ日が數多く經つてゆけば、空しく〔三字右○〕戀ふる日が重つてゆけば、その〔二字右○〕憂欝を晴らす術を知らないので、心は千々に碎けて、白玉のやうなその兒の名を、心に〔二字右○〕懸(2631)けぬ時なく、口に絶やさずいひ馴らして、このやうに〔五字右○〕私が戀ひ思ふあの兒なのを、何時までも〔五字右○〕この手に纏き持たず、ぢかに目に見ないならば、山の名の下樋の水のやうに表面《ウハベ》に出ず、下にばかり〔五字右○〕思ふ自分の心は、安からうことかいな。
 
〔評〕 「有女如v玉」、苟も珠玉の存する以上は、これを麗人に譬へ、愛子に喩へることは、和漢偶然の一致であらう。思ひ迫つてはその兒の名を口に呼ぶ、戀する人のせめてもの心やりである。
  春の野に草はむ駒のくちやまず吾《ワ》をしぬぶらむ家の兒ろはも(卷十四−3532)
は公然だが、これは人聞きを避けるだけいぢらしい。
 「思ひやるたどきを知らに」以下の一節は、卷一、軍王の長歌の一部の踏襲に墮ちた。隱り沼《ヌ》や池の水を下戀の例に引くことは珍しくないが、「下樋山下ゆく水の」の序詞は新案である。こんな邊鄙の地名傳説を知つて使用したことから考へると、この作者は津國の國衙の官人か、或は津國人であらう。
 起手「白玉の人の名を」と突如に歌ひ出した筆法は頗る妙であるが、その跨續に距離のあり過ぎるのが難點である。結收の二句も上來の語勢にあはせて稍不振で、反撥力が足りない。但古語や古風の枕詞を剪裁して構成した爲に、一寸異色を感ぜしめる。
 又この歌、前半に似ず、後半に至つて句毎に枕詞を冠して感情の興奮を訴へ、劃然と前後その面目を別にしてゐるのは、長歌中の異體と稱すべく、下の挽歌に見える「哀(ミテ)2弟(ノ)死去《マカレルヲ》1作歌」の末節も、稍この手法に類似してゐる。
 
(2632)反歌
 
垣保成《かきほなす》 人之横辭《ひとのよこごと》 繁香裳《しげみかも》 不遭日數多《あはぬひまねく》 月乃經良武《つきのへぬらむ》     1793
 
〔釋〕 ○かきほなす この句は三句の「しげみ」に係る。既出(一三二六頁)。○よこごと 横しまな人言。讒言。
【歌意】 垣のやうに、人の讒訴が繁くうるさいせゐかまあ、貴方に〔三字右○〕逢はない日が多く、かう月の經つたのであらう。
 
〔評〕 古代夫妻同棲でない時期が多いから、男は盛にあちこちに發展する自由がある。その代り、女の方でも氣に入らなければ、折角尋ねて來ても追つ拂ふ權利があつた。時には他の男を引入れるのもないではない。だから別居してゐる以上は、兎角種々な中口が這入り勝で、互に氣まづくなるのも自然の勢だ。そこで怨意恨情を歌つた作が、古代に多い。
  垣穂なす人言聞きてわが背子がこゝろたゆたひ逢はぬこの頃(卷四、丹波大娘子―713)
も同意同趣であつて、それは女の立場から歌つた。
 
立易《たちかはる》 月重而《つきかさなりて》 雖不遇《あはねども》 核不所忘《さねわすらえず》 面影思天《おもかげにして》     1794
 
〔評〕 ○たちかはるつき 一月が經つて次の月になるをいふ。○さね 「さねありえむや」を見よ(二一三六頁)。
(2633)【歌意】 經かはる月が重なつて、今に〔二字右○〕逢はぬけれど、まこと忘られないわい。あの兒が〔四字右○〕面影に立つてさ。
 
〔評〕 理路には著してゐるが、嘘はない。初二句の日子の經過を語る叙法に一節ある。
 
右三首、田邊(ノ)福麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
挽歌
 
○挽歌 既出(四一二頁)。
 
宇治(ノ)若郎子宮所《ワカイラツコノミヤドコロノ》歌一首
 
○宇治若郎子 應神天皇の皇太子にて山城の宇治にまし/\、位を大鷦鷯《オホサヽキノ》尊に讓り給うた。「若」の字、稚とも書く。○宮所 こゝは宮址をいつた。若郎子の宮址に就いて、
  この皇子宇治に宮造りさせ給へることは仁徳天皇紀に見えたれど、今木の宮のこと考ふる處なし。これは應神天皇、輕島(ノ)豐明(ノ)宮に天の下如しめしける時、この皇子、今木(大和)におはしけるなるべし。(契沖)
 山城志に、今木(ノ)嶺、在(リ)2宇治(ノ)彼方町(ノ)東岸(ニ)1、今曰(フ)2離宮山(ト)1とあるは、この萬葉の歌に依れる押當て説なるべし。(宜長)
 歌は「妹らがり今來」といふを紀の嶺にいひ懸けたるなり、紀の嶺は紀伊郡の嶺なり。(新考)
三説ながら皆當らぬ。却て山城志に離宮山とあるが宜しい。
 
(2634)妹等許《いもらがり》 今木乃嶺《いまきのみねに》 茂立《しみたてる》 嬬待木者《つままつのきは》 古人見祁牟《ふるひとみけむ》     1795
 
〔釋〕 〇いもらがり 妹許《イモガリ》におなじい。「ら」は複數語だが、單數に接尾辭の如く用ゐた例が、この下にも、卷五、卷十三などにもある。古義は集中のイモガリトの例を引いて、「等許」を許等《ガリト》の顛倒とした。さてこの句は「今|來《キ》」に係る序語。○いまきのみね 山城國宇治郡宇治郷。宇治川の北岸にあり、中世朝日山と呼ぶ。興聖寺その中腹にある。應神天皇の時より離宮を置かれ、稚郎子太子もまし/\た。姓氏録に山城國の神別に今來(ノ)連がある。古く歸化人を宇治邊に置かれたので、今來の地稱があつたと見える。○しみたてる、「しみさびたてり」を見よ(二〇六頁)。○つままつの木 夫《ツマ》待つを松にいひかけた序語。「君まつの木」(卷六)の類例。○ふるひと 古への人。故人。又老者をもいふ。古義は「ふるひと」を老者の意にのみ見て當らずとし、「古」を吉〔右△〕と改め、ヨキヒト〔四字傍線〕と訓んだ。 △地圖及寫眞496(二〇二〇頁)190(六八三頁)を參照。
【歌意】 吾妹子の許に今來る、その今來といふ稱の嶺に茂つて立つてゐる、夫を待つといふ稱の松の木は、昔の人が見たことであつたらう。
 
〔評〕 初句の「妹等がり今來」と四句の「夫待つ」とは相互的交渉をもつた修飾語である。枕詞や序詞を一首中上下に置いて對揚せしめることは珍しくもないが、その詞意は大抵無關係な存在である。とすると、この歌はそこに新手を出したものといへよう。好惡の問題は別として。但その詞態が上下ともいひ懸けなのは藝がない。
 内容は極めて單純で、松樹に懷古の情を寄せた通念的のものだ。
 
(2635)紀伊《キノ》國(ニテ)作歌四首
 
この作者は紀伊國|雜賀《サイガ》、名草邊を逍遙して、既に故人となつた愛妻との曾遊を想ひ、その斷絃の悲を叙べた。
 
黄葉之《もみぢばの》 過去子等《すぎにしこらと》 携《たづさひて》 遊礒麻《あそびしいそを》 見者悲裳《みればかなしも》     1796
 
〔釋〕 ○もみぢばのすぎにし 「もみぢばの」及び「すぎにし」を見よ(一八四頁)。○いそを 舊訓イソマ〔三字傍線〕とあるを、古義は「麻」はヲと訓むべし、磯ま、浦まの語は古へになしといつた。
【歌意】 紅葉の散り過ぎるやうに、失せた兒等と、手を取合つて遊んだことであつた、その磯を見ると、昔が思ひ出〔五字右○〕されて悲しいわい。
 
〔評〕 磯の巖も寄る波も曾遊のまゝに依然たりだが、愛賞を共にしたその人は今や亡い。この今昔の轉變を扱つた作は和漢を通じて山の如くで、新味はない。初二句は成語、結句は平語。只三四の句が夫妻和樂の状態を描出して、その哀傷の度を深めた。
 
鹽氣立《しほけたつ》 荒礒丹者雖在《ありそにはあれど》 往水之《ゆくみづの》 過去妹之《すぎにしいもが》 方見等曾來《かたみとぞこし》     1797
 
(2636)〔釋〕 ○しほけたつ 卷二の「鹽氣のみかをれる」(四五五頁)の意と同じい。○ゆくみづの 往く水は流れて返らぬので、「過ぎ」の序とした。卷七に「往く川の過ぎにし」ともある。
【歌意】 鹽烟りの立つ荒磯ではあるが、逝く水のやうに往つてしまつた、吾妹子の形見の處〔二字右○〕だと思うて〔三字右○〕さ、再び訪ねて來たのであつたよ。
 
〔評〕 場處が海邊だから「塵氣たつ荒磯」といつたゞけで、すべては
  眞草刈る荒野にはあれどもみぢ葉の過ぎにし妹が形見とぞ來し (卷一、人麻呂―47)
の再演に過ぎない。「ゆく水の」は序語ではあるものゝ、「鹽氣たつ荒磯」にふさはず、抵觸感がおこる。なほ「眞草刈る」の評語を參照(一八四頁)。
 
古家丹《いにしへに》 妹等吾見《いもとわがみし》 黒玉之《ぬばたまの》 久漏牛方乎《くろうしがたを》 見佐府下《みればさぶしも》     1798
 
〔釋〕 ○くろうしがた 「くろうしの海」を見よ(二〇〇二頁)。○さぶし 樂しからぬこと。集中、不樂、不怜などの字面を充てゝある。
【歌意】 その昔に、我妹子と一緒に〔三字右○〕、自分が見た黒牛潟を、今ひとりして〔五字右○〕見ると、詰らないわい。
 
〔評〕 往時の黒牛潟は遠淺の海で、萬頃の漣が平和な風光を浮べてゐた。然るに「見ればさぶしも」といふ。蓋(2637)し過ぎにし日の樂しさを思へばである。嘗ては我妹子と二人して見た黒牛潟だ。それを獨して見るとなつては、對映的にひし/\と寂寥感が迫つて、今昔の感が愈よ深い。而もそれが再び逢ふべくもない死別によるとすれば、斷腸の極だ。「獨」の語を著下せぬ處に、蘊合の味が遠永く搖曳する。
 上の「もみぢ葉の過ぎにし妹と携ひて」と全く同趣の作で、これは一層引締つて力量も優つてゐる。
 
玉津島《たまづしま》 礒之裏未〔左△〕之《いそのうらみの》 眞名兒〔左○〕仁文《まなごにも》 爾保比弖〔左○〕去名《にほひてゆかな》 妹觸險《いもがふれけむ》     1799
 
〔釋〕 ○うらみ 既出(一一〇一頁)。「未」原本に末〔右△〕とあり、訓はウラマ〔三字傍線〕である。○まなごにも 眞砂にさへ〔二字右○〕も。「まなご」は「しらまなご」を見よ(一八六四頁)。契沖眞淵の説により、「名」の下に兒〔右○〕を補つた。○にほひて 「弖」原本にない。眞淵説によつて補つた。○いもがふりけむ 古義訓による。
【歌意】 玉津島の磯の浦邊の眞砂にさへも、衣を〔二字右○〕染めて行かうな、嘗て〔二字右○〕吾妹子がさはつたことであつたらうわ。
 
〔評〕 眼前に展開する玉津島の百明千媚も、故人が嘗ての蹴上げの砂にも及かない。せめてその懷かしの眞砂になりとも衣匂はせ、戀々の情を慰めようといふ。實は花に匂はせ埴生に匂はせする事はあつても、砂では匂はせやうがない。が作者にはそんな小理窟は疾うにないのだ。縁さへあれば何にでも喰ひ付いて行かうといふ愛著のあらはれだ。
 
右五首、柿本(ノ)朝臣人麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
(2638)五首とは「宇治(ノ)若郎子(ノ)宮所歌」以下を籠めて數へたもの。
 
過(グルトキ)2足柄《アシガラノ》坂(ヲ)1見(テ)2死(ニタル)人(ヲ)1作歌一首
 
○足柄坂 足柄の御坂、足柄の神の御坂など稱した。足柄山彙中、足柄路の峠である。京方より來れば、駿河國駿東郡の竹(ノ)下より登り、相模國足柄上郡關本に降る。足柄の關は東坂の相模分にあつた。「あしがらやま」を見よ(八九六頁)。
 
小垣内之《をかきつの》 麻矣引干《あさをひきほし》 妹名根之《いもなねが》 作服異六《つくりきせけむ》 白細乃《しろたへの》 紐緒毛不解《ひもをもとかず》 一重結《ひとへゆふ》 帶矣三重結《おびをみへゆひ》 苦侍伎爾《くるしきに》 仕奉而《つかへまつりて》 今谷裳《いまだにも》 國爾退而《くににまかりて》 (2639)父妣毛《ちちははも》 妻矣毛將見跡《つまをもみむと》 思乍《おもひつつ》 往祁牟君者《ゆきけむきみは》 鳥鳴《とりがなく》 東國能《あづまのくにの》 恐耶《かしこきや》 神之三坂爾《かみのみさかに》 和細〔左△〕乃《にぎたへの》 服寒等丹《ころもさむらに》 烏玉乃《ぬばたまの》 髪者亂而《かみはみだれて》 郡問跡《くにとへど》 國矣毛不告《くにをものらず》 家問跡《いへとへど》 家矣毛不云《いへをもいはず》 益荒夫乃《ますらをの》 去能進爾《ゆきのすすみに》 此間偃有《ここにこやせる》     1800
 
〔釋〕 ○をかきつ 「を」は美稱。「かきつ」は垣内《カキウチ》の約。屋敷内をいふ。○あさをひきほし 麻を引き又は干し。(2640)卷四に「麻を刈り干し」ともある。「あさ」は既出(一一一九頁)。○いもなね 妹汝《イモナ》ね。「なね」を見よ(一三三六頁)。○しろたへの 既出(一一八頁)。こゝは紐に係けた枕詞。この語はもと庶民の服が白色だつたので、衣の枕詞として用ゐられ、次いで衣の一部分たる袖、帶、紐などにまで係けての枕詞となつた。「細」に精しの意あれば妙字の意に通ずる。栲の借字。○くるしきに 苦しき公役〔二字右○〕に、「侍」は漢音シ。○ゆきけむ 來けむといふに同じい。○かみのみさか 足柄坂のこと。「かみの」はすべて畏き物に冠する語。「み」は敬稱。「三」は借字。○にぎたへの 服《コロモ》に係る枕詞であらう。「にぎたへ」は柔栲《ニギタヘ》の義。荒栲に對する。「細」原本に靈〔右△〕とある。和靈《ニギタマ》では如何にしても服《コロモ》に續かない。上の「白細」の書例によつて「和細」と改めた。眞淵は靈を細布〔二字右△〕の誤とした。○さむらに 「さむら」は寒し〔二字傍点〕の形容詞の語根に「ら」の接尾辭を添へた語。うまら〔三字傍点〕、わびしら〔四字傍点〕の類語。○ぬばたまの 髪の枕詞。既出(三〇四頁)。○くにとへど 「くに」は漢語の郡の字音に通ふので、「郡」を充てた。○のらず 眞淵訓による。舊訓ツゲズ〔三字傍線〕。○ゆきのすすみ 行くことに逸るをいふ。「こぎのすすみ」(一一七四頁)の類語。○こやせる 下に歎辭を含む。訓は略解による。舊訓フシタリ〔四字傍線〕。
【歌意】 屋敷内の麻を拔いて干し、骨折つて〔四字右○〕女房さんが作つて著せたであらう衣の〔二字右○〕紐をも解かず、痩せ細つて〔五字右○〕、一重まはりの帶を三重まはし、實に苦しい勞働〔二字右○〕に奉仕し、やつと解放になつた〔やつ〜右○〕今なりともせめて〔三字右○〕故郷《クニ》に歸つて、父母も見よう〔三字右○〕妻をも見ようと、思ひ思ひして來たことであらう其方《ソナタ》は、東《アヅマ》の國のこの恐しい足柄の神の御坂で、衣も寒げに髪は亂れて、故郷を尋ねても故郷をも告げず、家を尋ねても家をもいはず、流石の益荒雄が、道行くまゝに此處に仆れてゐることよ右○〕。
 
(2641)〔評〕 東男の京師の人夫に徴發されてゐたもの、即ち役民が、歸國の途中、足柄坂で行き倒れとなつてゐたのを見て、同情しての弔歌である。
 著物とては、國を出る時に女房が丹精して拵へてくれた一張羅、その紐を解いて息む間もない激しい勞役の爲に、遂には一重の帶が三重まはる、骨と皮ばかりに衰弱した。恐らく病氣にも罹つてゐたのであらう。全く牛馬の如く使役されたらしいが、これは決して事實を誣ひた誇大の言辭ではなく、役民達はその勞役を厭うて盛に逃亡した程である。
 出立の際は國衙の官人が役民を一團として引率したらうが、歸る時には銘々ばら/\の手錢旅行だ。携帶食糧として幾日間かの乾飯の用意位は與へられたとしてからが、不時の災禍や病氣などで旅の日數が延びるとなると、もうお仕舞だ。當時でも流通貨幣の錢はあつた。泉津(木津)から奈良までの車力が三十三文だつた時世だが、役民達は國家義務で働くのだから、賃銀はくれない。隨つて彼等は錢をもたない。※[人偏+果]で道中のならぬ世の中、錢がなく物がなくては仕樣がない。
  諸國(ノ)役民(ノ)還(ル)v郷(ニ)日、食糧|缺乏《トモシク》、多(クハ)餓2死(シ)道路(ニ)1、轉2填(ス)溝壑(ニ)1、其類不v少(ナカラ)、云々。(續紀、和銅五年正月詔)
がそれである。この東男は只懷かしの父母や妻子やの顔が見たいの一心に、辿る/\も漸う足柄の御坂まで來は來たのだ。
 當時の官道は足柄道であつた。阪路の全長は上下六七里にも及ぶが、神の御阪即ち峠となつては、正味登り二里降り二里、その險峻に彼れの精根はこゝに盡きはてゝしまつた。行き倒れ、摩り切れた麻衣はその肌も覆はず寒らに、髪は蓬々と亂れて酸鼻の極だ。故郷《クニ》を問ひ家を問へど返事がない。流石の益荒男も空しく望郷(2642)の深い恨を抱いて、黙々たる一塊の土となつた。
 この篇劃然と前後二段にその意が分截されてゐる。初頭から「ゆきけむ」までの前半截は、路傍の死人の素性を役民と認定して、それを基礎としての想像から成り立つた叙筆で、後半截は、眼前の事相に即した描寫となり、その斃死状態を深刻に叙して、滿腔の同情を捧げた。大體は完作に近いが、欲をいへば後半において少しあせり過ぎ、その背景を回顧することを忘れた憾がある。人麻呂は「狹岑島《サミネノシマニ》視(ル)2石中(ノ)死人(ヲ)1」の歌に、
  ――波の音のしげき濱邊を、敷妙の枕となして、荒床により臥す君が、云々 (卷二―220)
と些少ながらもそこに言及してゐる。險怪なる足柄山、その林木に草茅に巖石に、幾らでもその周邊を顧れば詩材を採取し得たであらうに。
 
過(グル)2葦屋處女《アシノヤヲトメノ》墓(ヲ)1時(ニ)作歌一首并短歌
 
○葦屋 攝津國|菟原《ウバラ》郡葦(ノ)屋(今|蘆屋《アシヤ》市)。和名抄に菟原郡蘆屋(ノ)郷とある。古への葦屋は武庫山下地方に廣被した稱で、その沿海を葦屋(ノ)海と呼び、今にその稱を存してゐる。この歌にも下の同題目を詠んだ歌にも、葦(ノ)屋(ノ)菟名日《ウナヒ》處女とある。菟名日も地名だから、序に次に解説して置かう。○菟名日 ウナヒ。海邊《ウナヒ》の義。邊をヒと(2643)いふことは神南備《カムナヒ》が神|之邊《ノヘ》の意であるのと同じい。葦屋の海に沿うた小地帶である。古來の註者、これを郡名の菟原《ウバラ》と混一にして、種々の説を立てゝゐる。或は原にフの訓があるから菟原はウナヒだといふ。稍迂遠ではあるがまだよい。或は菟名日は海邊だから海原《ウナバラ》が轉じて菟原となつたといふが、陸地を海原といふことは理窟にない。この二語はおの/\語性の殊なるもので、菟原はもとより茨(ウバラ)の義で、伊勢物語にも「津の國むばら〔三字傍点〕の郡」とある。○葦(ノ)屋處女 葦屋の菟名日《ウナヒ》の里に住んでゐた或處女。故に歌に「葦の屋の菟名日處女」と詠んである。傳説中の婦人で、歌に詠まれた事の外には何もない。○處女墓 菟原郡(今武庫郡)住吉川の西、生田川の東との間、西國街道に沿うて瓢形の古墳が三箇あり、東のは御田《ゴデン》に、中のは東明《トウミヤウ》に、西のは味泥《ミドロ》にあり、中央のは南面し、東西のは各中央のに向つて造られた。その距離は互に十五六町を隔てゝゐる。西の味泥塚は明治年間に破壞された。古來中央のを菟名日處女の墓とし、東のを智奴《チヌ》男の墓、西のを菟名日男の墓と稱した。下の歌では東西のを壯士《ヲトコ》冢と概稱した。中央の處女塚は後世|求女《モトメ》塚と訛り、太平記にも、求女(2644)塚に小山田高家討死の事が出てゐる。
○處女冢傳説 この歌及び下の「見2莵原處女墓1歌」、又卷十九の家持の「追和歌」を知るには、まづその傳説を心得ておく必要があるから左に、
  昔津の國の葦(ノ)屋の莵名日(莵原)處女を、同じ里の莵名日(宇奈比)壯士《ヲトコ》と和泉の智奴(茅渟、茅沼、血奴)壯士《ヲトコ》、一名|小竹田《シヌダ》(信太)丁子《ヲトコ》とが、競争して妻問ひして來たので、處女は何れにも靡きかねて、入水して死んだ。そこで二人の壯子も跡を追つて海に投身したのを、親族達が寄つて、處女冢を中に壯士家を東西に、三つの墓を造つたといふ。この傳説を大和物語には、大いに劇的に數演して、二人の男が競争して處女の望むまゝに、生田川の水鳥を射ることゝし、處女は二人共射當てたので板挾みとなつて、據なく入水すると、二人の男も跡を追つて入水したとあつて、その後が怪談咄となつてゐる。
 
古之《いにしへの》 益荒丁子《ますらをとこの》 各競《あひきほひ》 妻問爲祁牟《つまどひしけむ》 葦屋乃《あしのやの》 莵名日處女乃《うなひをとめの》 奥城矣《おくつきを》 吾立見者《わがたちみれば》 永世乃《ながきよの》 語爾爲乍《かたりにしつつ》 後人《のちのひと》 偲爾世武等《しぬびにせむと》 玉桙乃《たまぼこの》 道邊近《みちのへちかく》 磐構《いはかまへ》 作冢矣《つくれるつかを》 天雲乃《あまぐもの》 退部乃限《そぐへのかぎり》 此道矣《このみちを》 去人毎《ゆくひとごとに》 (2645)行因《ゆきよりて》 射立嘆日《いたちなげかひ》 域〔左△〕人者《あるひとは》 啼爾毛哭乍《ねにもなきつつ》 語嗣《かたりつぎ》 偲繼來《しぬびつぎこし》 處女等賀《をとめらが》 奥城所《おくつきどころ》 吾并《われさへに》 見者悲裳《みればかなしも》 古思煮《いにしへおもふに》     1801
 
〔釋〕 ○ますらをとこ 「ますらを」に同じい。同項を見よ(四〇頁)。「丁子」の丁は當るの義で、強壯の時に當るをいふ。舊唐書食貨志に、「男女始(メテ)生(ルヽヲ)爲(シ)v黄(ト)、四歳(ヲ)爲(シ)v小(ト)、十六(ヲ)爲(シ)v中(ト)、二十一(ヲ)爲(シ)v丁(ト)、六十(ヲ)爲(シ)v老(ト)」と見え、この唐制に倣つて、大寶の戸令にも「其男(ハ)廿一(ヲ)爲(シ)v丁(ト)、六十一(ヲ)爲(ス)v老(ト)」とあり、廿一より六十までを正丁と稱して、兵役の義務があつた。「丁子」と熟すると、莊子天下篇に「丁子有(リ)v尾」と見え、蛙の子の事であるが、ここは丁年の男子の意に用ゐた。訓は神本西本細本による。舊訓はマスラヲノコ〔六字傍線〕。あひきほひ 「各」を意訓にアヒ(相)と讀む。略解訓アヒキソヒ〔五字傍線〕は古語でない。○つまどひ 「聘」(ツマドフ)を見よ(三一三頁)。○かたり 物がたりを古へは談《カタリ》とのみいつた。○のちのひとしぬびにせむと 後《アト》の人が思出種にしようと〔右○〕て。類本ノチヒトニ〔五字傍線〕、元本ノチヒトシ〔五字傍線〕と訓み、略解古義の訓にノチヒトノ〔五字傍線〕とあるも妥當でない。○いはかまへ 磐を〔右○〕構へ。石槨を疊み成すこと。即ち磐城を作ること。イハガマヘと合名詞に訓む新考説はいかゞ。○つか 古義訓ハカ〔二字傍線〕。○つかを 冢なる〔二字右○〕を。○そくへのかぎり 「そくへのきはみ」に同じい。同項を見よ(九三四頁)。契(2646)沖訓はソクヘをソキヘ〔三字傍線〕と訓んだ。同時代語であるから、何れでも宜しい。○いたち 「い」は發語。○なげかひ 歎き〔二字傍点〕の延言。○あるひと 里に〔二字右○〕ある人。「或」は在の借字。「或」を又は他本原本に惑〔右△〕とあるによつて、舊訓ワビビト〔四字傍線〕、契沖訓サトビト〔四字傍線〕、宣長訓サドビト〔四字傍線〕などあるが穩かでない。元本藍本類本神本等に從つた。○をとめらが この「ら」は單數に用ゐた。その例集中に多い。○われさへに 契沖訓による。○いにしへおもふに 「煮」原本に者〔右△〕とある。既に「見れば」とあるに、又「思へば」と重なるは拙い。正辭説によつて改めた。
【歌意】 その昔の益荒男、智沼男(信太男)と莵名日男とが、互に競爭して挑んだことであらう、葦屋の莵名日處女の墓處を、自分が佇立んで見ると、里人が〔三字右○〕末代の語草にしい/\し、後人の思出種にせうとて〔右○〕、街道近く石槨を構へて拵へた塚なのを、遠方までこの街道を行く人毎に、塚の許に立ち寄つて、佇立んで溜息を吐き、土地に居る者は聲を擧げても泣き/\して、果して〔三字右○〕世に語り傳へ、思出種に何時も/\して來た、莵名日處女の墓處を、自分までも見ると悲しいことよ。その昔を思ふによつてさ。
 
〔評〕 男女性が相對して存する以上、一人の女性を二人の男性が爭ふやうな三角事件は、何時の世でも絶える筈がない。假令それが神でも人間でも同じ事だ。この篇の傳説も、かの三山傳説と同一系統に屬するものである。只この傳説が頗る悲劇を極めただけ、餘計に時人に同情されたのである。
 現有の處女冢は前方後圓のいはゆる瓢箪塚で、周囘八十餘歩に亙る、一寸大きなものだ。多寡が變死した庶民の子女のものとしては、立派過ぎる。然し群衆心理は別だ、時に常識以外の飛躍を遣る。この事件に同情し興奮した、地元の莵名日や小竹田(信太)の里人が、お祭騷ぎに騷ぎ立つて、計畫的に處女冢を眞中に、二つ(2647)の壯士冢を各それに向き合はせて造る。さもありさうな事である。處女冢と莵名日壯士との冢はおのれの生地に就いて築かれ、小竹田男は和泉人なので、その冢は同距離をたもつて東方に築かれたのだ。抑も奥津城は荒山中と大抵相場のきまつたものを、西國往還の街道筋の平地に並べて築いた。大いに宣傳の意味があらう。これ「永き世のかたりにしつゝ後人のしぬびにせむと――道の邊近く磐構へ作れる冢」といふ所以である。
 孝徳天皇大化二年の詔に、諸王諸臣の墳墓の制を定めて、庶人は平地に埋收せしめられ、文武天皇の大寶の令に至り、更に縮少の方針を執られた。とするとこれは大化の制前後の業くれと考へられる。そしてこんな破格な事をするからこそ、更に大寶の墓制も發布されたのであらう。
 創設者の目的は達した。「この道をゆく人毎に行き寄りて立ち歎かひ」、「ある人は音にも泣きつつ」であつた。そして果して豫期の如く「語り繼ぎ偲びつぎくる」のであつた。
 この歌、造冢の主意とその目的が達成された事とを叙説するに終つて、作者自身の憑弔の感想は極めて輕い。「吾さへに見れば悲しも」だけでは、ほんのお附合の棄言葉のやうだ。而もそれに重複感があつて繁縟に墮してゐる。「天雲のそくへの限」の句も置き得たものとは思はれない。
 
反歌
 
古乃《いにしへの》 小竹田丁子乃《しぬだをとこの》 妻問石《つまどひし》 莵會處女乃《うなひをとめの》 奥城叙此《おくつきぞこれ》     1802
 
〔釋〕 ○しぬだをとこ 信太男。「しぬだ」は和名抄に、和泉國和泉都信太(ノ)郷(今の泉北郡信太村)。今シノダとい(2648)ふ。信太の森で有名なる處。和泉の古名は茅渟《チヌ》(血沼)なので、又|智奴《チス》男とも呼んである。
【歌意】 昔の小竹田男が妻問ひをした、莵名日處女の墓處がさ、これであるわ。
 
〔評〕 音に聞えた處女冢を目のあたり見得ての詠歎であらうが、報告的に堕してゐる。
 
語繼《かたりつぐ》 可良仁文幾許《からにもここだ》 戀布矣《こほしきを》 直目爾見兼《ただめにみけむ》 古丁子《いにしへをとこ》     1803
 
〔釋〕 ○かたりつぐからにも 語り繼ぐ故にさへ〔二字右○〕も。「手に取りしからに」を見よ(一九八六頁)。○ただめに ぢかに目に。「ただ」は直ちにの意。
【歌意】 語り繼ぐさへまあ、聞いて莵名比處女〔八字右○〕は戀しいのを、ぢかに目に見たであつたらう、昔の莵名比男や小竹田男よ、どんなにか戀しかつたらう〔どん〜右○〕。
 
〔評〕 傳聞に血を湧かす自分を題に出して、昔男の戀の焦燥を想像した。そこにいひ知らぬ同情がある。二句は碎けてゐる。「からに」の語の使用上止むを得ぬことであらう。  △三女考(雜考―32參照)
 
哀《カナシミテ》2弟(ノ)死去《ミマカレルヲ》1作(メル)歌一首并短歌
 
(2649)父母賀《ちちははが》 成乃任爾《なしのまにまに》 箸向《はしむかふ》 弟乃命者《おとのみことは》 朝露乃《あさつゆの》 銷易杵壽《けやすきいのち》 神之共《かみのむた》 荒競不勝而《あらそひかねて》 葦原乃《あしはらの》 水穂之國爾《みづほのくにに》 家無哉《いへなみや》 又還不來《またかへりこぬ》 遠津國《とほつくに》 黄泉乃界丹《よみのさかひに》 蔓都多乃《はふつたの》 各各向向《おのがむきむき》 天雲乃《あまぐもの》 別石往者《わかれしゆけば》 闇夜成《やみよなす》 思迷匍匐《おもひまどはひ》 所射十六乃《いゆししの》 意矣痛《こころをいたみ》 葦垣之《あしがきの》 思亂而《おもひみだれて》 春鳥能《はるとりの》 啼耳鳴乍《ねのみなきつつ》 味澤相《あぢさはふ》 宵畫不云《よるひるとはず》 蜻※[虫+廷]火之《かぎろひの》 心所燎管《こころもえつつ》 悲悽別焉《いたむわかれを》     1804
 
〔釋〕 ○ちちははがなしのまにまに 父母が生み成すまゝに。この句は「箸向ふ」に係る。さう見ないと下に續かぬから、脱句説がおこる。○はしむかふ (1)箸は二つさし向へる物なれば箸向ふといふ(契沖説)。(2)はし〔二字傍点〕は物二つ相對ふをいふ言なるべし。橋も此方と彼方との岸の相對するよりいひ、箸も二つ對ふよりの稱ならむ(古義説))。(2)は懸け向ふ、相向ふなどの意で、これは事が廣くて説明には都合がよいが、恐らく作者の時代は(2650)(1)の箸の如く向ふの意で使つたのであらうと思ふ。○おとのみこと 弟を尊敬していふ。「おと」は乙の義。「かみのみこと」を見よ(八六八頁)。○あさつゆの こゝは枕詞。○かみのむたあらそひかねて 神と共には〔右○〕爭ひ難くて。生死は神の心ゆゑ、死と定められたのを死ぬまいと抵抗し得ないの意。○いへなみや 住む家がなさにか。略解訓による。舊訓ナシヤ〔三字傍線〕。○またかへりこぬ この「ぬ」は上の「や」の係に應じた否定の結節で、かねて下の「遠つ国黄泉の界に」の句に接續する文法上の一格。さう見ないと前後の詞意が齟齬する。○とほつくに 速い國。黄泉《ヨミ》は遠方なのでいふ。○よみのさかひ 夜見の界。夜見の國といふに同じで、又よもつ國といひ、單に夜見ともいふ。古來死者の赴く所と信ぜられ、その路を夜見路《ヨミヂ》といふ。夜見を史的地稱としては、紀記(神代の卷)の伊邪那美命の御葬送の段を初見とし、出雲伯耆の間にこれを求めた。委しい事はこゝに不用だから略する。なほ黄泉を見よ(一五八六頁)。○はふつたの 「おのがむきむき」に係る枕詞。卷二には「別れ」の枕詞に用ゐた例がある。蔦は先から先へ枝をさして分岐してゆくので、おのが向き/\〔七字傍点〕でもあり、別れ〔二字傍点〕でもある。○おのがむきむき おのが〔三字右○〕向きおのが〔三字右○〕向きを略した語。されば各向各向と書くべきを、「各々向々」と書いたのは、敬服敬服を敬々服々と書くと同じ書式だ。古義はオノモオノモ〔六字傍線〕と六言に讀んで、「向」を面〔右△〕の誤かといつた。○あまぐもの 雲は集つても分散するので、「別れ」に係けた枕詞。既出(六三六頁)を參照。○やみよなす 「まどはひ」に係る序詞。「なす」は似す〔二字傍点〕の轉語。○まどはひ 惑ひ〔二字傍点〕の延言。「はひ」に「匍匐」を充てたのも戯書らしい。契沖訓による。○いゆしし 所v射猪鹿《イユシヽ》。「いゆ」は射らる〔三字傍点〕の古言であるが、終止言のみあつて、他の活用をもたぬので、連體格に假りて「しゝ」に續けた變格。「しゝ」は「しゝじもの」を見よ(五三九頁、「十六」は四四の算數的戯書。イユは契沖訓である。舊訓はイル〔二字傍線〕。○いゆししの 「痛み」に係る(2651)枕詞。射られた猪鹿は疵に痛む意で續けた。○あしがきの 葦の垣は粗末な不揃の物なので、「亂れ」に係る枕詞とした。○はるとりの 春は百千鳥の囀るより、「音のみ鳴く」の序とした。舊訓ウグヒスノ〔五字傍線〕。○あぢさはふ 既出(五一六頁)。こゝは味鴨の多《サハ》に寄る〔二字傍点〕の意をいひ懸けて、夜《ヨル》の枕詞とした。古義は、この語釋の自説(味粟生)を固守する餘り、この下に「目辭《メコト》も絶えて、ぬば玉の夜晝いはず〔も絶〜右○〕」などの落句あるものとした。○かぎろひの 「もえ」に係る枕詞。「かぎろひ」は地より物より立つ水蒸氣で、そのさま白い炎の如くなるより、燃ゆといひ、影といひ、さては夕、春などに續けて枕詞に用ゐた。なほ既出(一八五頁)を參照。「蜻※[虫+廷]」は借字。「火」は添字。○いたむわかれを 「悲悽」を西本細本はイタム〔三字傍線〕と訓み、舊訓はナゲク〔三字傍線〕と訓んだ。古義が「別焉」を我爲〔二字右△〕の誤としてナゲキゾアガスル〔八字傍線〕と訓んだのは、上の「別れし」との重複を厭うたらしい。
【歌意】 兩親が生み成してくれたまゝに、箸のやうに向ひ連れた弟の命は、その消え易い命を〔右○〕、神の思召には逆らひかねて、この廣い〔二字右○〕瑞穂の國には、その住む〔四字右○〕家が無いせゐかして、復と歸つてこぬ夜見の國に彼れは往き、自分は〔六字右○〕とゞまつて、銘々別々にさなるので、闇夜のやうに思にくれ惑ひ、心がまあ痛むので思に亂れて、音に擧げて泣きつゝ、夜晝構はず心が燃えて別を悼むことよ。
 
 
〔評〕 全篇情語を以て終始してゐる。父母は子を生み付けるが、その生命は初生から死の最後まで神の支配だと考へるのが、わが古代思想であつて、世界中の大抵の民族も、結局そんな風な又はそれに近いやうな觀念をもつてゐる。記(上卷)の黄泉津平坂における陽神陰神の二神應答の條に、
  伊那那美(ノ)命まをし給はく「うつくしきあが那勢(ノ)命かくし給はば、汝《イマシ》の國の人草、一日に千|頭《カシラ》絞り殺さむと申し給ひ(2652)き」。こゝに伊邪那岐(ノ)命詔り給はく、「うつくしきあが那邇妹《ナニモノ》命、汝しかし給はば、あれは一日彌|千五百《チイホ》産屋立てゝむ」と詔り給ひき。こゝを以て一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人なも生る。故《カレ》伊邪那美命を黄泉津《ヨモツ》大神と申す。(紀も大同小異)
と見え、分擔的に陽神は生々の道を、陰神は死滅を掌るのであつた。これ「神のむたあらそひかねて」といひ、又「うつせみし神にあへねば」(卷二)と歎じた所以である。
 現し世の水穂の國に「家無みや又還り來ぬ」は一寸奇警な構思で、さて隱り世の黄泉の國への道行を對蹠的に行叙した。「遠つ國黄泉の界に」は「天雲の別れしゆけば」に跨續する句だが、中間の「はふ蔦のおのが向き向き」は詞意までおのが向き/\で、文理の疏通を妨げる癌となつてゐる。
 悼意を陳べた末章は、通念的の文字の羅列だが、その疊々層々の排叙に、縷々反復なほ盡きぬ悲痛の情意が認められる。但枕詞や序詞の連用で平凡を糊塗した嫌があり、同意同語の重複もあり、繁縟と錯雜との弊にたへぬ。
 
反歌
 
別而裳《わかれても》 復毛可遭《またもあふべく》 所念者《おもほえば》 心亂《こころみだれて》 吾戀目八方《われこひめやも》     1805
 一(ニ)云(フ)、意盡而《コヽロツクシテ》。
 
〔釋〕 ○わかれても 「も」は歎辭。口語にいふテモ〔二字傍点〕の意ではない。○こころつくして 四句の一傳を擧げたもの。
【歌意】 別れてまあ、復も逢はれさうに思はれるならば、こんなに心を取亂して、自分が弟を戀しがらうかい。
 
(2653)〔評〕 死別に對して誰れも一番に思ひ寄る感傷である。この御尤な知れ切つた理窟を、尚くどくいはざるを得ない處に、盡きて盡きない遺恨がある。
 
蘆檜木※[竹/矢]《あしひきの》 荒山中爾《あらやまなかに》 送置而《おくりおきて》 還良布見者《かへらふみれば》 情苦裳《こころくるしも》     1806
 
〔釋〕 ○あしひきの 「蘆」「檜木」の草木を並べて書いたのは戯意があるらしい。○かへらふ 還る〔二字傍点〕の延言。
【歌意】 こんな〔三字右○〕荒い山中に、弟を葬つて置いて、外の人達が〔五字右○〕還るのを見ると、いかにも心が切ないわい。
 
〔評〕 何の構思もない率直の表現と見えて、その實「見れば」の一語に、散り/\に行き別れる送葬の人を點出し、親身の情にかまけ、只一人悵然としてその墓前に佇立する自分を對比して、無限の感愴をそこに寓した。
 
右七首、田邊(ノ)福麻呂之歌集(ニ)出(ヅ)。
 
 ○田邊福麻呂 既出(一八六七頁)。
 
詠(メル)2勝鹿眞間娘子《カツシカノママヲトメヲ》1歌一首并短歌 
 
〇勝鹿眞間娘子 「勝鹿」及び「眞間娘子」を見よ(九六〇頁)。
 
鷄鳴《とりがなく》 吾妻乃國爾《あづまのくにに》 古昔爾《いにしへに》 有家留事登《ありけることと》 至今《いままでに》 (2654)不絶言來《たえずいひくる》 勝牡鹿乃《かつしかの》 眞間乃手兒奈我《ままのてこなが》 麻衣爾《あさぎぬに》 青衿著《あをくびつけて》 直佐麻乎《ひたさをを》 裳者織服而《もにはおりきて》 髪谷母《かみだにも》 掻者不梳《かきはけづらず》 履乎谷《くつをだに》 不著〔左△〕雖行《はかずありけど》 錦綾之《にしきあやの》 中丹※[果/衣]有《なかにつつめる》 齊兒毛《いはひごも》 妹爾將及哉《いもにしかめや》 望月之《もちづきの》 滿有面輪二《たれるおもわに》 如花《はなのごと》 咲而立有者《ゑみてたてれば》 夏蟲乃《なつむしの》 入火之如《ひにいるがごと》 水門入爾《みなといりに》 船己具如久《ふねこぐごとく》 歸香具禮《ゆきかくれ》 人乃言時《ひとのいふとき》 幾時毛《いくばくも》 不生物乎《いけらじものを》 何爲〔左△〕跡歟〔左△〕《なにせむと》 身乎田名知而《みをたなしりて》 浪音乃《なみのとの》 驟湊之《さわぐみなとの》 奥津城爾《おくつきに》 妹之臥勢流《いもがこやせる》 遠代爾《とほきよに》 有家類事乎《ありけることを》 昨日霜《きのふしも》 將見我其登毛《みけむがごとも》 所念可聞《おもほゆるかも》     1807
 
(2655)〔釋〕 ○あをくび 青色の襟。「衿」は毛詩(子衿の章)「青々(タル)子(ガ)衿」の註に、衿、音金、領《エリ》也、また和名抄に、釋名云、衿、古呂毛乃久比《コロモノクビ》、頸也と見えた。「くび」は衣の縁領《エリ》をいふ。卷十六にも「くびつけしうなゐが身には」、大和物語に「衣のくびに書きつけ」、元輔集に「衣のくびに」などある。エリは後出の語で、縁領の音訛である。和名抄は又、衿を比岐於比《ヒキオビ》と訓んである。漢書の楊雄傳に「衿2※[草冠/支]茄之縁衣1」の註に、衿(ハ)帶也、説文にも、衿の註に衣(ノ)小帶也とも見え、衿は始めから襟にも小帶にも使はれた字である。されば略解にアヲオビ〔四字傍線〕と訓んだのも一理あるが、「青衿」と續けた字面は毛詩に據つたと思はれるから、その詩意のまゝに、クビ即ちエリの事と見るのが宜しい。訓は元本神本による。○ひたさを 直小麻。混りのない麻絲をいふ。「ひた」はひたすらの意。「さ」は美稱。「を」は麻。○はかずありけど 古義訓による。舊訓ハカデユケドモ〔七字傍線〕。○にしきあやの 六言の句。「にしき」は既出(一八四七頁)。「あや」は文《アヤ》ある帛《キヌ》をいふ。○つつめる 「裹」は玉篇に包也とある。古義訓はクヽム〔三字傍線〕であるが、クヽムは口含むの義で、紀に※[行の間に缶]を訓み、その意を殊にする。○いはひご 大事にする子。かしづく子。平安時代にはイツキ娘といつた(空穗、源語)。古義に、良家《ウマヒト》の女と解したのは誤。「齊」は齋と通用。○もちづきの 「足る」の枕詞。既出(四六九頁)。○たれるおもわ 十分に整つた顔付。「滿」を足《タ》るに充てた。古義にいふ、神名の面足(ノ)尊も御面の滿足《タリトヽノ》へるをいふ、卷二にも「滿《タ》りゆかむ神の御面」とあり、續紀廿七の宣命に「大御|形【毛】《カタチモ》圓滿【天】《テ》」とあるを、宣長のタラハシと訓める、よく叶へりと。○なつむし これと斥した蟲はない。○みなといり 入港。○ゆきかくれ 行き隱れ。あらはに往き、竊《シノビ》に通ふをいふ。「具」は清音に用ゐた。濁ればカグレと讀まれるが、他に語例を見ない。宣長は「かぐれ」は婚をする古言なりといつたが、おぼつかない。古義には.「具禮」を賀比〔二字右△〕の誤として、ユキカヾヒ〔五字傍線〕と訓み、カヾヒは(2656)久那賀比《クナガヒ》の約にて、婚《トツ》ぎ合ふをいふより起れる古言なりとあるが、甚だ迂遠である。○ひとのいふとき 古義は「言」を誂〔右△〕の誤として、ヒトノトフトキ〔七字傍線〕と訓んだ。○いくばくも 西本温本の訓による。略解に「時」を許〔右△〕の誤としたが、このまゝでよい。○いけらじものを 古義訓による。卷十二に「幾不生有命」をイクバクモイケラジイノチ〔イク〜傍線〕と訓んである。舊訓イケラヌモノヲ〔七字傍線〕。○なにせむと 「歟」は衍字。渚註この衍字に心付かず、ナニストカ〔五字傍線〕と讀んで、種々牽強の説を立て、新考は落句説にまで及んだ。○みをたなしりて わが身の運命《サダメ》を一途に知つての意。「みもたなしらず」を見よ(一九三頁)。○こやせる 「こやす」は臥す〔二字傍点〕の敬語。○みけむがごとも 契沖訓による。
【歌意】 東の國に、昔にあつた事とて、現今までに絶えずいひ傳へて來る、葛飾の眞間の里の〔二字右○〕手兒奈《テコナ》が、麻衣に青い襟を著け、純麻を裳には織り立てて著て、髪さへも掻いては櫛けづらず、穿《ハキ》物さへ穿かずに歩けど、錦や綾の中に埋まつてゐる、秘藏|娘《コ》もお前にかなはうかい。滿月のやうに十分に整つた顔貌で、花のやうに打笑んで立つてゐるので、恰も夏蟲が火に飛び込むやうに、湊入に百船が漕ぎ集るやうに、多くの〔三字右○〕人がそのそばに行き寄つたり忍んだりして、何のかのと〔五字右○〕いひ懸ける時、手兒奈は、人間は〔七字右○〕幾らも生きてあるまいものを、そんな色戀沙汰〔八字右○〕は何にしようぞと、わが身をはかないものと、一途に思ひ知つて、入水して〔四字右○〕、浪の音の騷ぐ葛飾〔二字右○〕湊の墓處に、お前が横たはつた。その古い時代にあつた出來事を、つい昨日さまあ、見たであらう事のやうにまあ、思はれることかいな。
 
〔評〕 手兒奈はその頃庶民の著る麻の衣裳で、その上髪も梳らず徒跣であるく、土臭い田舍娘だ。それで居て、(2657)粉黛にうき身を窶し、綾羅錦繍に時勢粧を競ふ上流社會の筥入娘も、この兒の前には光を失ふといふのだから、本當の天の成せる麗質である。尤もこれには文飾もあらうが、美人であつた事は疑ひもない。そんな女に愛嬌笑ひをして立つて居られては、男共が魂を消して妻問ひに慕ひ寄るのは、磁石が鐵を吸ふと同じ理窟だ。その際、上總の末の珠名はおのが器量自慢から、誰れ彼れなしに金門を叩く男に「出でてあひける」であつたが、手兒奈はその反對で、いとも冷靜の態度を維持した。
 無教養な筈のこの若い田舍娘は、案外に老成な一種の人生觀を懷いてゐた。それは佛教の薫化から來た無常思想であらうが、朝に生まれ夕べに死ぬる蜉蝣の身を觀じ、多くの熱烈なる愛の要求も、地雷のうへの火遊に等しと郤け、遂に眞間の入江の藻屑となつた。一死孤貞を守つて終つた、殆ど奇矯に近いほどの高潔な思想と行爲とは、まづ眞間の里人に眼を瞠らせ、次いでは四方傳聞者の耳を愕かしめ、更に後人追慕の的となつた。但菟名日處女の如きどぎつい衝撃を受けたなら知らず、この歌だけでは、死を必要とする程の條件を見出し得ない。手兒奈には氣の毒な想像であるが、或は戀愛恐怖症で、何かの缺陷者だつたのではあるまいか。いやこんな事はいふまい。何處までも純な處女心から、その主持する思想の爲に殉じたと見るべきである。
 起筆に「いにしへにありける事と」といひ、末筆に「速き世にありける事を」といふ。かく首尾に反復するは古文の格で、殊に祝詞などに屡ば見る形式である。中間手兒奈の風釆を描寫した一節は精彩ある文字で、手兒奈その人を想見せしめる。「綾綿の中の齋ひ兒も」の客叙は、波瀾がそこに横生する。火取蟲の譬喩も相當であるが、湊入の船は眞間の入江の實景を利用したと思はれる。「幾ばくも――たな知りて」の數句には複雜な内容が盛られてあるらしいが、頗る簡要を盡してゐる。「浪の音の騷ぐ湊の奥津城に妹がこやせる」に至つては、(2658)その水死した事を暗示した含蓄の多い表現で、筆力跌宕を極めた。「昨日しも見けむが如も」は、「遠き世にありける」にわざと親貼なる對照を取つて、懷古の情憑弔の意を強く反撥せしめた手法である。かう見て來ると、まづは集中における叙事歌中の完作の一つとして推賞してよからう。
 なほ卷三、赤人の「過2勝鹿眞間娘子墓1時作歌」の評語を參照されたい(九六三頁)。
 
反歌
 
勝牡鹿之《かつしかの》 眞間之井見者《ままのゐみれば》 立平之《たちならし》 水※[手偏+邑]家牟《みづくましけむ》 手兒名之所念《てこなしおもほゆ》     1808
 
〔釋〕 ○ままのゐ 眞間の里の井。清水を溜めた石井か、はた堀井かは判然しない。古代の井を必ず溜井とのみ考へるのは固陋の見である。又或説にこの井を眞間の入江の水の事としたのは論外。○くましけむ 「くまし」は汲む〔二字傍点〕の敬相。「※[手偏+邑]」は廣韻に酌也とある。
【歌意】 葛飾の眞間の井を見ると、その邊を〔四字右○〕踏みならして、水を汲まれたであらう手古奈がさ、思ひ浮べられるわ。
 
〔評〕 眞間の井は共同井戸で、其處に寄つてたかつて汲む連中は、何れも麻衣に徒跣の田舍女だ。中に獨光つて後人の追慕にのぼるのは、薄命佳人手古奈只一人だ。作者はこの井の許に佇立んで、「水汲ましけむ」その生前の生活状態を眸中に描いて、滿腔の同情を寄せた。赤人の
(2659)  かつしかの眞間の入江にうち靡く玉藻刈りけむ手古奈しおもほゆ(卷二―433)
は同調の作である。
 
見(テ)2菟原處女《ウハラヲトメガ》墓(ヲ)1作〔左○〕歌一首并短歌
 
○蒐原處女 上の「葦屋處女」の項を見よ(二六四三頁)。
 
葦屋之《あしのやの》 菟名負處女之《うなひをとめの》 八年兒之《やとせこの》 片生乃時從《かたおひのときゆ》 小放乃〔左△〕鵠《をはなりの》 髪多久麻庭爾《かみたくまでに》 並居《ならびをる》 家爾毛不所見《いへにもみえず》 虚木綿乃《うつゆふの》 ※[穴/牛]而座在者《こもりてをれば》 見而師香跡《みてしがと》 悒憤時之《いぶせむときの》 垣廬成《かきほなす》 人之誂時《ひとのとふとき》 智奴壯士《ちぬをとこ》 宇奈比壯士乃《うなひをとこの》 蘆火〔二字左△〕燎《あしびたく》 須酒師競《すすしきほひて》 相結婚《あひよばひ》 爲家類時者《せりけるときは》 燒太刀乃《やきたちの》 手穎押禰利《たかひおしねり》 白檀弓《しらまゆみ》 靱取負而《ゆきとりおひて》 水入《みづにいり》 火爾毛將入跡《ひにもいらむと》 立向《たちむかひ》 競時爾《きそへるときに》 吾妹子之《わぎもこが》 母爾語久《ははにかたらく》 (2660)倭文〔左△〕手纏《しづたまき》 賤吾之故《いやしわがゆゑ》 大夫之《ますらをの》 荒爭見者《あらそふみれば》 雖生《いけりとも》 應合有哉《あふべくあれや》 完串呂《しじくしろ》 黄泉爾將待跡《よみにまたむと》 隱沼乃《こもりぬの》 下延置而《したはえおきて》 打嘆《うちなげき》 妹之去者《いもがゆければ》 血沼壯士《ちぬをとこ》 其夜夢見《そのよいめにみ》 取次寸《とりつづき》 追去祁禮婆《おひゆきければ》 後有《おくれたる》 菟原壯士伊《うなひをとこい》 仰天《あめあふぎ》 叫於良妣《さけばひおらび》 ※[足+昆]地〔左△〕《つちをふみ》 牙喫建而《きかみたけびて》 如已男爾《もころをに》 負而者不有跡《まけてはあらじと》 懸佩之《かきはきの》 小釼取佩《をだちとりはき》 冬※[草冠/叙]蕷都良《ところづら》 尋去祁禮婆《とめゆきければ》 親族共《やからどち》 射歸集《いゆきつどひて》 永代爾《ながきよに》 標〔左△〕將爲跡《しるしにせむと》 遐代爾《とほきよに》 語將繼常《かたりつがむと》 處女墓《をとめづか》 中爾造置《なかにつくりおき》 壯士墓《をとこづか》 此方彼方二《こなたかなたに》 造置有《つくりおける》 故縁聞而《ゆゑよしききて》(2661) 雖不知《しらねども》 新裳之如毛《にひものことも》 哭泣鶴鴨《ねなきつるかも》     1809
 
〔釋〕 ○かたおひ 生ひ出てまだ全く整はぬ年配をいふ。かたなり〔四字傍点〕に同じい。○をはなり 「を」は美稱。「はなり」は故《ハナリ》の髪ともいふ。「はなりのかみ」を見よ(二〇二四頁)。○をはなりの 「乃」原本に爾〔右△〕とあるは必ず誤。○かみたくまでに 「たく」は「たけばぬれ」を見よ(三七〇頁)。○ならびをるいへにもみえず 近隣の家にも姿を見せず。○うつゆふの 「こもり」に係る枕詞。穀《カヂ》は木の名で、その用をいふ時には木綿《ユフ》と稱する。さてその木膚に縱線を切り入れて皮を剥ぐと、くる/\と剥げる。その丸剥げの皮は中が空虚なので、虚(内)木綿の稱がある。これを拆いて繊維として栲を製する。かく拆くが故に虚木綿の眞拆《マサキ》國、略して直※[しんにょう+乍]《マサキ》國と續け、こゝには中心の空虚が隱《コモ》れる貌なので、虚木綿の籠り〔二字傍点〕と續けた。古義に苧毛卷《ヲダマキ》の事としたのは臆説である。舊訓ソラユフ〔四字傍線〕は非。○をれば 略解訓による。舊訓マセバ〔三字傍線〕。○いぶせむときの 「の」は卷六「につつじの匂はむ時の」(一七一八頁)の時の〔二字傍点〕と同格。訓は元本神本による。舊訓はトキシ〔三字傍線〕。「いぶせむ」は「いぶせし」の動詞格。(一三七四頁)を見よ。○かきほなす 垣穗の如く繁く〔二字右○〕の意。既出(一三二六頁)。○とふとき 「誂」をトフと訓むは略解による。説文に「誂(ハ)相呼(ビ)誘(フ)也」とある。○あしびたく 蘆火燒く煤《スヽ》を、「すすし」に係けた枕詞。「蘆火」、原本に廬火〔二字右△〕とあるは誤。古義に引いた景井の説によつて改めた。○すすし 進みの意とおぼしい。「師」を誤として、スヽミ〔三字傍線〕と訓めば何でもないが、當時スヽシの語が存在してゐたかも知れない。猥に改め難い。○あひよばひ 互に求婚するをいふ。「よばひ」は呼ぶ〔二字傍点〕の延言で、互に呼び懸けて婚意を通ずる意。(2662)「結婚」の字面は不當である。訓は西本細本温本京本等による。舊訓アヒタハケ〔五字傍線〕。○せりけるときは 「爲」をセリと訓んでみた。略解に「者」を※[者/火]〔右△〕に改め、シケルトキニ〔六字傍線〕と訓み、古義もこれに從つたが、この改字は甚だ非。舊訓シケルトキハ〔六字傍線〕。○やきだちの 「燒太刀」は燒鎌〔二字傍点〕の類語で、火で鍛冶するからの名である。○たかひ 劍の柄を古言に手上《タカミ》といつた。轉じてタカヒといふ。神代紀に急(ニ)握(リ)2劍柄《タチカヒヲ》1と轉じてある。釋日本紀に引く日向風土記に、劍柄《タカミ》村を後人が高日《タカヒ》村と改めたと出てゐる。これはこの風土記の出來た奈良時代には、既に劍柄《タカミ》をタカヒといつてゐた證左である。「穎」原本に預〔右△〕とあるは誤。頴は祝詞にも千頴八百頴《チカヒヤホカヒ》と見え、禾《ノギ》付の稻の稱だから、素より借字である。眞淵は頭〔右△〕の誤としてタカミ〔三字傍線〕と訓み、古義もそれに從つた。○おしねり おし撚《ヒネ》りの意。撚りは引練《ヒキネリ》の義だから、押練りと同意。○しらまゆみゆきとりおびて 白眞弓と〔右○〕靫とを〔二字右○〕執り又〔右○〕佩びて。「執り」は弓を、「佩び」は靫を承けた。諸註「とり」を接頭語として輕く解してゐるが、こゝは語勢の短促を要する處だかち、上の如く有意の語として見るがよい。「しらまゆみ」は既出(七二二頁)。「ゆき」は既出(一〇三九頁)。なほ「おほともの名におふ靫おびて」を參照(一〇四三頁)。「檀」をマユミと訓む。○みづにいり 水にも入らむ〔二字右○〕の意。次の「火にも入らむ」とあるに讓つて、現在の中止態を用ゐた。新考訓ミヅニイラバヒニモイラムト〔ミヅ〜傍線〕は穿鑿が過ぎた。○いやしわがゆゑ 「賤し吾《ワ》」と熟する。「賤し」の終止態を吾《ワ》に連ねて合名詞としたもの。諸訓イヤシキワガユヱ〔八字傍線〕。○あらそふ 「爭」をアラソフと確に訓ませる爲に、「荒」の字を上に添へた。○あふべくあれや 逢ふべくあらむやの意。「や」は反動辭。上に「あぶりほす人もあれやも」(二四八五頁)とあると同詞態。○しじくしろ 思ふに、「しじ」はスヾの轉で、鈴釧《スヾクシロ》であらう。鈴釧は釧《クシロ》の周邊に數箇の鈴又は鈴形を鑄出した物。そのはじめ、手首にはめて舞踊の時に鳴らしたもの。今も南洋土人の踊に花輪(2663)を手首にはめて調子を取るのがある。形状が好もしいので、好《ヨミ》の意を以つて黄泉《ヨミ》にいひ懸け、又、美《ウマシ》の意を以て旨寢《ウマイ》に續けて枕詞とした。繼體天皇紀に、矢自矩矢廬于魔伊禰矢度爾《シジクシロウマイネシトニ》とある。「完」は宍〔右△〕の書寫字。「くしろつく」を見よ(一六五頁)。他説は(1)繁櫛《シヾクシ》ろ黄泉《ヨミ》の意にて、伊奘諾尊が黄泉にて五百箇爪櫛《ユツツマグシ》を投げ給ひし故事による(契沖説)。(2)繁釧好《シヾクシロヨミ》の意(眞淵説)。(3)繁酒甘美《シヾクシロヨミ》の意。クシロは藥なるべし。藥は酒のことなり(古義)。(4)啜酒美水《スヽクシロヨミ》(通釋)。(5)繁串《シヾクシ》ろ數《ヨミ》の意。串は矢なり(新考)と。○よみに 夜見の國〔二字右○〕にて〔右○〕。「よみのさかひ」を見よ(二六五〇頁)。○こもりぬの 「した」に係る枕詞。浮草の蔽うた沼水は下に隱《コモ》るが故に、隱沼の下と續けた。○したはえおきて 内緒にその意を洩して置いて。○ゆければ 逝つてしまつたので。死を逝くといつた。○とりつづき 引續きといふに同じい。「とり」は接頭語。○おひゆきければ 後を追つて死んだので。○うばらをとこい 「うばらをとこ」は「うなひをとこ」に同じい。菟原の菟日に居た男。「い」は名詞の接尾辭。「しひい」を見よ(六三九頁)。○あめあふぎ 古義訓による。舊訓「伊」を下に續けて」イアフギテ〔五字傍線〕とあるは非。○さけばひおらび 「おらび」は神代紀(下)に哭聲《オラブルコヱ》、清寧天皇紀に哀號《オラブ》、記(垂仁天皇)に叫哭《オラビ》と見え、聲を擧げて泣くこと。九州四國の方言にも殘つてゐるといふ。眞淵訓による。古義訓はサケビオラビテ〔七字傍線〕。○つちをふみ 「※[足+昆]」は漢字典にない字。新選字鏡に、※[足+昆](ハ)後《アト》也、跟(ハ)上字(ニ)同(ジ)、平踵也、久比々須《クヒヒス》とあればクビスのことである。地《ツチ》に踵をつくるは即ち踏むことだからツチヲフミと訓むか。濱臣はアシズリシ〔五字傍線〕、正辭はタチヲドリ〔五字傍線〕と訓み、「※[足+昆]」を眞淵は※[足+榻の旁]の誤としてツチヲフミ〔五字傍線〕と訓み、古義は※[足+場の旁]〔右△〕の誤としてツチニフシ〔五字傍線〕と訓んだ。誤字とすれば眞淵説が穩當だらう。「地」原本に他〔右△〕とあるは誤。○きかみ 牙齒を噛み。字鏡に、咆勃(ハ)勇猛(ノ)※[白/ハ]、和奈之《ワナシ》、又|支可牟《キカム》と見えた。○たけびて 猛く荒ぶるをいふ。雄詰を神代紀にヲタケビ、神武天皇紀に(2664)ヲタケルと訓み、記に伊都《イツ》の男建《ヲタケビ》に踏建而《フミタケビテ》、祝詞に、荒備給比建備給事無志弖《アラビタマヒタケビタマフコトナクシテ》など見えた。○もころをに おのれ(我)如き男に、同輩の男になどの意。「もころ」は既出(五一五頁)。○かきはきの 取佩く處の。「かき」は接頭語。「懸」(掛)は古へ四段に活用し、記に掛《カキ》出とある。○をだち 「小」は美稱でなく、字の如く、小さなる太刀《タチ》であらう。○ところづら こゝは「とめ」の枕詞。(1)薯蕷《トコロ》はその蔓の岐の分れて延びゆく形が物を求め行くに似たれば、とめといふか。又食料にはその冬季の芋を可とするが、落葉後の事とて、林叢の間を尋ね求むるより起れる意か。「※[草冠/叙]字、字書にない。薯蕷をジヨシヨと呼ぶ故に、同音の叙に草冠をつけた造字だらう。既出(一九三〇頁)。○とめゆきければ 後を追つて逝つたので。略解訓による。東滿、契沖及び古義の訓はタヅネユケレバ〔七字傍線〕、舊訓はツギテユケレバ〔七字傍線〕とあるが、上の「追ひゆきければ」に對へて、同じ詞態に整ふべきである。○やからどち 「やから」は家從の義。古義訓による。舊訓ヤカラドモ〔五字傍線〕。○いゆきつどひ 「い」は發語。舊訓イユキアツマリ〔七字傍線〕。○つくりおける 眞淵訓による。舊訓ツクリオケリ〔六字傍線〕は非。○にひも 新しい思ひ。「裳」は喪の借字。
【歌意】 葦屋の菟名比處女が、まだ八歳兒の片成りの時から、振分けの髪をたくし上げる頃まで、並んで住む近處の家にも婆を見られず、奥深く籠つてばかり居るので、どうぞ〔三字右○〕見たいと人達が〔三字右○〕氣を揉む時で、うるさく男達が懸想に寄つてくる時、その中でも〔五字右○〕智奴壯士と菟名比壯士とが、勢ひ込んで競爭し、互に求婚をした時に、而も〔二字右○〕太刀の柄を押撚り、弓や靫を携へて、處女の爲には〔六字右○〕水にも入らう〔二字右○〕火にも入らうと、相手取つて競爭する時に、我妹子(處女)がその〔二字右○〕母に語らふことには、「何でもない(賤しい)私故に、立派な男達が爭ふのを見ると、假令私が〔四字右○〕生きてゐたとても、どちらの男にも〔七字右○〕逢はれうことかい、いつそ死んで〔六字右○〕夜見路で意中の人を〔五字右○〕待たう」(2665)と、内意を洩らして置いて、大いに歎いて處女が死んだので、智奴壯士は丁度〔二字右○〕その晩、處女の死を〔五字右○〕夢に見て、打續いて後を追つて死んだので、殘つた菟名比壯士は、天を仰いで叫び泣き、地を踏み立てゝ牙齒を噛んで猛く荒びて、おのれ如き男に負けては居るまいと、常用の小劍を帶び、處女の後〔四字右○〕を求め尋ねてこれも〔三字右○〕死んだので、この三人の〔五字右○〕身内達が來集まつて、この事蹟を〔五字右○〕永代に知らせようと、末代に語り繼がせようとて、處女冢を眞中に築き、二人の〔三字右○〕壯士冢をその此方と彼方とに築いて置いた、いはれ話を〔二字右○〕聞いて、何も〔二字右○〕見知りはせぬけれども、それが只今の新しい喪であるかのやうに、聲を擧げて泣いたことであるよ。
 
〔評〕 菟名比處女は「八歳兒の片生の時ゆ――髪たくまでに」、近處にも姿を見せぬ程の秘藏娘だ。かく年齡を提擧して佳人の生立を描くは、魏晉以降の※[盍+色]體の詩にはよく見る筆法である。處女は素より、眞間の手古奈のやうに、跣足で共同井戸に水汲に出る階級の女ではなかつた。けれども幾ら伏せても光は洩れる。懸想の若者達が自然門前に市を成すのは、古代の極まり切つた現象だ。竹取物語に
  世界のをのこ、あてなるも賤しきも、いかでこの赫※[亦/火]姫を得てしがな、見てしがなと、音に聞きめでて惑ふ。そのあたりの垣にも家の外にも、をる人だにたは易く見るまじきものを、よるは安き寢もねず、闇の夜に出でても、穴をくじり此處かしこ覗きかい間見、惑ひあへり。
と見え、果は五人の貴紳が盛に競爭した事が、面白をかしく書かれてゐる。處女には果して二人の激しい熱愛者が出現した。一人は同里の菟名比男、今一人は他國者の智奴男で、互に「すすしきほひ相よばひ」であつた。貴紳達の物柔かな懸想と違ひ、田舍氣質の一本氣、段々睨み合ひが激甚となつて來ては、仕事が荒い。衝(2666)突また衝突、互に太刀の柄に手を懸けたり、弓や靫を背負つて來たりして角目立ち、「火にも水にも」と命懸けの戀爭であつた。
 恐ろしい事だ。かう双方が逆上しての刃物三昧となつては、何方へ靡いてもたゞは濟まない。飛沫は何處にくるかわからぬ。勿論當の相手のみか、處女自身もあぶない。延いてはその父母の上さへ覺束ない。處女は板挾みの苦痛と恐怖との頂點に達した。ごく簡單なこの解決法としては、焦點たる自身をこの世から抹殺するより外はない。
 かう兩親の迷惑を想像する理由は、歌に「吾妹子が母に語らく」、家持追和の作に「父母に申し別れて」などあるを思ひ合せてである。死の決意を母に打明け兩親に暇乞するのに、慈愛の權化たるべき兩親が、承知で死なせてしまつた。暗黙の裏にその合意が認められるやうだ。
 處女は困惑の餘り、死に對して勇敢であつたが、それだけ餘計に情にも脆かつた筈で、彼れの小さな胸を密に焦がした意中の人は、智奴男であつたのだ。この反歌に
  墓のへの木《コ》の枝靡けり聞きしごとちぬ壯士にし依りにけらしも
と見え、その母親に心底を「下延へ置い」た中にも、恐らくその邊の事情は告白されてゐたことだらう。さればこそ彼れの亡魂は、その夜のうちに懷かしの智奴男の夢枕に立つたのだ。
 嗚呼、處女はその身を犠牲にして、敬愛する父母の爲と、心愛する智奴男の爲とに殉じた。そこに後人をして哀憐措く能はざらしめる、尊い献身的精神を見る。
 抑も處女が何れにも靡きかねて、却つて二人の抗爭を高めたのにも、深い理由が潜在してゐると思ふ。菟名(2667)比男はおなじ里人だが、智奴男は和泉の他國人だ。結婚に就いて他國他郷の人を排斥する習慣は、地方に依つては、現今でも相應に強く根張つてゐる。況や古代では尚更であつたらう。大和物語に出てゐる處女塚の話は、勿論後人の歪曲や誇張が加へられてあるものゝ、その冢造の一節が、こゝの心理を如實に暴露してゐる。    時に津の國の男(菟名比男)の親のいふやう、「同國の男をこそ同處にはせめ、別《コト》國の人の、いかでこの國の土をば犯すべき」といひ妨ぐる。時に和泉國の親(智奴男の)、和泉國の土を舟にて運びて、此處に持ち來てなむ、終に埋みてける。
こんな譯で、里人は土地の名代娘を他國人の智奴男に遣つてはと、皆が菟名比男の後援者だ。然るに處女の眞意は智奴男にあるのでは、圓い穴に角な栓をするやうなもので、始末が付かない。この一點だけでも、處女は躊躇逡巡してゐるうちに、騷ぎは大袈裟になつて來たらしい。
 智奴男の「取續き追ひゆきければ」は當然で、始から處女との情意の投合があり、「その夜夢に見」てさへあるので、自分故の死と思へば、一人死なせては義理が立たない、二世の契を目ざして決然と後を追つた。
 立ち後れた菟名比男の憤懣激昂の態度や行動を叙したあたりは、實に出色の文字である。滿身これ嫉妬の權化、惡魔の化身で、天地に俯仰して怒號し、牙齒を剥いて躍りあがつて悔しがる、高天が原か極樂かは知らぬが、かの二人をして自由には樂しませぬ、「もころ男に負けてはあらじ」と、出會ひ次第刺し違への覺悟で、小刀を手挾んで、又しても後を追つた。金剛夜叉か藏王權現が荒れ出したやうな容體、その背後から極度の嫉妬に逆上した心火が炎々と投影されて、描寫深刻を極め、鬼氣人に薄る。物凄しとも亦恐ろしい。その節短く音促つた短語の重疊、この際最も有效な險奇的表現である。
(2668)「妹がゆければ」「追ひゆきければ」「とめゆきければ」は何れも死の暗示で、死の方法は明示してない。がこれは菟名比の海即ち葦屋の灘に投身したのだ。家持の追和の歌に「家離り海邊に出で立ち、朝よひに満ちくる潮の、八重浪に靡く玉藻の、節の間も惜しき命を、露霜の過ぎましにけれ」とあるのが、これを證する。
 以上が昔津の國の片田舍菟名比の里に起つた悲劇物語の全部である。
 末章は三人冢成立の因縁に入り、この出來事に刺戟された里人達が、永久の記念たるべく冢造りをしたとの説明、そこに作者は自己の感想を附加して、一轉化、「故よし聞きて、新喪の如も音泣きつるかも」と簡單に響を收めた。結收にかく作者の感想を置くことは、爲焦中卿妻作の長篇を始め、支那の叙事詩にその例が多い。
 眞間の手古奈、末の珠名はおの/\その本名が傳へられた。この處女のみは、か程の悲劇の主人公、薄命佳人の標本でありながら、只生地の稱を冠するのみで、本名の傳はらぬのは頗る遺憾である。
 この篇本集の叙事歌中の大作で、その規模は壯大に、叙筆は縦横にして而も精細、措辭また老健で豪宕で、上の同題の作は勿論、眞間娘子の作をも一層凌駕した名什である。なほ卷十九の家持の追和の作を、參照の爲こゝに附記しておく。
  いにしへありけるわざの、奇《クス》はしき事といひ繼ぐ、知努をとこ、宇奈比をとこの、現つせみの名を爭ふと、玉きはる命も棄てゝ、爭ひに嬬問しける、※[女+感]嬬《ヲトメ》らが聞けば悲しき、春花の匂ひ榮えて、秋の葉の匂に照れる、あたら身の盛りをすらに、ますらをの言《コト》いとほしみ、父母に啓《マヲ》し別れて、家|離《サカ》り海邊《ウナビ》に出で立ち、朝よひに滿ちくる潮の、八重浪に靡く玉藻の、節《フシ》の間も惜しき命を、露霜の過ぎましにけれ、奥津城をこゝと定めて、後の世の聞き繼ぐ人も、彌遠にしぬびにせよと、黄楊の小櫛しがさしけらし、生ひて靡けり。
(2669)  をとめ等が後のしるしと黄楊小櫛生ひかはり生ひて靡きけらしも(卷十九、家持―4211)
 
反歌
 
葦屋之《あしのやの》 宇奈比處女之《うなひをとめの》 奥槨乎《おくつきを》 往來跡見者《ゆきくとみれば》 哭耳之所泣《ねのみしなかゆ》     1810
 
〔釋〕 ○なかゆ 眞淵訓による。舊訓ナカル〔三字傍線〕。
【歌意】 葦屋の菟名比處女の冢處を、往きに返りにと見ると、聲を立てゝさ、泣かれるわ。
 
〔評〕 往來に見る毎に泣かれるとは、その悲しみの何時までも盡きぬをいふ同情である。馴れゝば感度の薄くなる人情を基調としての作。
 
墓上之《つかのへの》 木枝靡有《このえなびけり》 如聞《きくがごと》 陳努壯士爾之《ちぬをとこにし》 依倍〔左△〕家良信母《よらへけらしも》     1811
 
〔釋〕 ○きくがごと 舊訓による。古義訓はキヽシゴト〔五字傍線〕であるが、長歌に「故よし聞きて」とあるから、現在格がよい。○よらへ 「よらへ」は依り〔二字傍点〕の延言。古義は「倍」を仁〔右△〕の誤として、ヨリニケラシモ〔七字傍線〕と訓んだ。
【歌意】 冢の上の木の枝が、智奴男の墓の方へと靡いてゐる。成程〔二字右○〕話のやうに、智奴男に菟名比處女は、心を寄せてゐたらしいわい。
 
(2670)〔評〕 處女塚は現今は老松が林立してゐるが、當時黄楊の木があつて、その枝が東にある智奴男の冢の方へさしてゐたのであつた。本文は只「木の枝」とのみあるが、家持の追和の歌によれば、それは黄楊の木で、處女が記念の爲にその黄楊の小櫛を土に刺した處が、根をおろして樹となりて繁茂したとある。土に刺した杖が樹になつた話はよくあり、それさへ奇蹟として語られるが、製造した櫛が樹となるのは奇蹟中の奇蹟といはねばならぬ。これだけの悲劇にこの位の奇蹟はあつてもよささうな事で、しかもその枝が意中の人智奴男の墓をさして靡くに至つては、愈よ話は怪奇である。高崎の駿河大納言の墓の松が江戸の方へは枝が刺さないなどいふ話もあるが。
 冢は後から築いたのだから、處女のはじめ櫛を刺した場處は、その宅地内であらう。或はその投身の場處か。いやそんな穿鑿は不用だ。もと/\こんな話は同情の芽から出た枝葉の繁りに過ぎない。
 
右、五首、高橋(ノ)連蟲麻呂之歌集中(ニ)出(ヅ)。
 
〔語釋索引、評文索引は省略。〕
 
萬葉集評釋(第四冊)、拾四圓五拾錢
金子元臣著、明治書院、1945年1月10日初版発行
 
 2007年11月10日(土)午前9時55分、入力終了
 2008年12月28日(日)午後1時52分、校正終了