窪田評釈 巻一
(4) 凡 例
一、本巻には万葉集巻第一、巻第二の二巻の評釈を収めた。
一、本文は西本願寺を底本とし、諸本をもって改めた個所もある。
一、題詞、歌、左注は仮名まじり文に書き改めた。なお、歌と左注とには白文を付した。
(5)序 本書は、その題名の元すが如く、万葉集の評釈を試みたもので、筆者の新たに稿を起したものである。
此の稿を起すについて、筆者はただ一つの事を期している。本書を手にされた人に対して、その事を簡単に記す。
我が国の古典を貫いている性格的なものの第一は、集団性の濃厚だということである。これは言いかえると、共同にもっている現実を尊重し、これに即して離れまいとすることである。此の性格の最も濃厚に現れているものは、抒情を旨としている和歌である。その形式の短小を便利とし、これに甘んじ満足して、益々短小に向わんとする傾向のあるのは、一にこの集団性の致すところである。詠み人の言わんとするところは共通の人間性で、そしてそれを現すには、聴く人と共に現に眼にしているところの現実に即し、それに依る心をもってするのである。聴く人もまた、詠み人と同じ心をもってし、その言うところと、この現実とを絡ませつつ聴くのである。和歌の形式の短小をもって足れりとするのは此の共同の現実を媒介とするが為であって、和歌にはそれを詠んだ時の環境即ち題が、必ず添うべきものとなっているのは、此の事を示しているものである。
今言ったことは和歌としては初期である上代に属することで、後期と目すべき中世より近世へ降ると、稍々《やや》趣を異にしているが、伝統を重んずる和歌にあっては、その推移は極めて緩慢であって、幾何《いくばく》の変化もないといえる。上代の和歌に属する万葉集は、すでに或る完成期に達しているが、此の趣を極めて濃厚にもっているものである。
以上は言うを要さないことで、絮説《じよせつ》に似たものであるが、最古の古典に属する万葉集の注釈を試みようとする筆者にとっては、今一応くり返し思わざるを得ないことなのである。
万葉集の歌を理会し味解するには、最初に必要なることは、その歌の取材となっているところの環境に対しての理会である。環境とは上代の或る時期であって、その時期は更に上代よりの繋がりをもちつつ急速なる推移をしていた時である。生活様式も、もとより現代とは遥かに異なっていて、その抱く信仰を初めとし、風俗習慣言語に至るまで、すべて研究にょって知られ得るものである。万葉集の歌は人間性の単純なる発露にすぎないものとはいえ、いずれも此の環境に即し、環境をとおして表現されているものなので、今日にしてそれを理会し味解しようとするには、先ずその環境を知らなければならない。その必要なることはいうまでもないことである。幸いなるかなわれわれは、多くの尊むべき先賢と、それを継承する現代諸家の研究とによって、たやすくもその大体を知り得るのである。そこにはまだ残されている幾多の問題があるのであるが、和歌に捉えられている取材という限られた範囲においては、不十分ながら略略《ほぼ》教えられたという状態に達そうとしていると言い得られる。
(6) 万葉集がわれわれにとって極めて貴重なる物とされているのは、言うまでもなく和歌として極めて優秀なるが為である。その優秀というのは、千古に亘って渝《かわ》るべくもあらぬ人間性が、豊かに強く深く湛えられてさながらに生きて居り、今日のわれわれの生命にも響き来たり、また明日にも響き得るものと信ぜられるからである。そこにはわれわれの遠き祖先の精神であるというなつかしさも伴っているが、それは此の優秀さに付随したものである。その優秀さは偶然な物ではなく、その当然の理由がなくてはならない。我が文芸とはいえ、個人性を容れ得るところの多い、稍々降っての代の散文の世界にあっては、この事はたやすくは窺い得ないものでもあろうが、集団性の濃厚である上代の和歌にあっては、比較的たやすく辿られ得べきことに属する。即ち万葉集の歌の詠み人が、集団人の一人として、如何なる信仰と信念に支持せられて、如何なる生活態度をとり、如何なる刺激と感動をもち、如何なる必然性に駆られて、如何なる手法をもってその歌を詠んでいるかということは、これを辿ろうとすれば必ずしも難事ではなく、或る程度までは辿り得られることである。これが即ち文芸としての和歌の価値批評であって、現在の筆者にとっては、万葉集に対して最も必要なことと信じているものである。
万葉集の注釈は、言ったがごとく、最初に必要なものは、その歌をして現に見るがごとき状態にあらしめた時代の研究であって、ついで必要なものは、これを文芸として観ての価値批評でなくてはならない。その必要の程度においては、後者は前者にまさるものである。然るに前者の研究の進展は著しきものがあるにも拘らず、後者の研究は立ち後れているがごとくに感ぜられる。その何故に立ち後れているかは、筆者自身の体験によれば、知り難くないことである。それは価値批評ということは、事としては相応の労を要することであるが、陥るところは単にその人一人の感想に終って、他と相渉《わた》るところの少く見えるが為である。価値批評の基準は、現在は定まるべくもなく、要するにその人その人のものである。そうした基準をもってする批評の空疎なるものに見えがちなのは、これは余儀なき次第である。しかしながら、貴重なる古典を単に架上のものにとどめず、これを胸中のものとしようとするには、この価値批評を通さなければならない。それをすることによって優秀なる和歌の詠み人にして、なつかしむべき上代の祖先とわれわれとの間に、密接なる関係を結ぶことが出来、その関係をとおして初めてわれわれの胸中の物となり得るのだと筆者は信じている。
本書は、そうした心をもって稿を起したものである。もとより古典のことであるから、語句の解釈に重きをおくべきは言うまでもないが、それは一に、先賢及び現代諸家の研究の恩賚《おんらい》を蒙ったもので、寡聞その足らざるをおそれているものである。極めていささかの私案を試みた場合もあるが、それは言うにも足りないものである。したがって此の方面は、その稍々特殊なものに限って、研究者の名を挙げて依るところを明らかにしたが、大体としては省路を旨とし、簡明ならんことを期した。
批評の方面は、筆者の理会し得ているもののみである。もと(7)より未熟にして空疎なものであることは覚悟しているが、臆するところなく私見の概路を述べたものである。それとても従来の尊ぶべき研究の恩賚を蒙るところ多いものであることは言うまでもない。しかしその中には、あるいは問題の芽となり得るもののいささかあり得はしないかと思って、それをもって慰めとしている。
万葉集の注釈は、筆者としては洵《まこと》に身に余るものであることは知っている。齢もすでに老いて気力の衰えを来たしているので、その果して成し遂げ得るものであるか否かも危ぶまれるものである。しかし努めて続行したいと期してはいる。事としてはあらずもがなのものとも思うが、時代に感激の情をもち、未熟ながらもなし得ることをしようとの一念に駆られてのことである。
昭和十八年二月
著者
(10) 萬葉葉 巻第一概説
万葉集の評釈をしようとする以上、先ず万葉集全体に亘っての概説をするのが当然である。しかし筆者はそれは見合わせ、一巻一巻について、部分的にしていくこととする。それは万葉集は全部二十巻、歌数として四千五百首を越える浩瀚なものである。加えて毎巻ほとんど趣を異にする極めて複雑なものである。これを取りまとめて一時にするということは、煩雑にすぎることで、筆者とともに読者も、得るよりも失うところの多いものだろうと思われるからである。それでここは巻第一だけに限って概説する。
万葉集巻第一について正確に知られていることは、極めていささかのことで、それもさしたる発見とは言えない程度のものである。今それを言うと、第一は、いかなる動機でこうした撰集が出来たかという事であるが、それは明らかにはわからない。それというのが、この点を明らかにすべき序が添ってはいず、また他にも、その事に触れての記録は全然ないからである。この事については、その動機の起り得る範囲を推定するにすぎない。第二は、撰者である。これもその動機と同じく、序がなく、またそれに触れての記録も全然ないので、明らかにする方法がない。これに触れての平安朝時代の言い伝えはあるが、これは単なる言い伝えで、明らかに根底のないものだと確かめられている。ただ知られている一事は、万葉集は何人かの編纂者によって、逐次編纂されていったもので、これは巻の異なるごとに、編纂の方針も用意も異なっているところから推定されるというのである。比較的明らかなことは、これら編纂者の中に、大伴家持が大きく働いており、万葉集のある部分は家持の手によってなされたものだろうということである。これを撰者といわず編纂者というのは、万葉集は巻第一と二とは精選された趣をもっていて、そこに撰者のあったことを思わせられるが、他の巻の多くは、資料を蒐集し、一とおりの整理を加えたというにすぎない趣のものだからである。その撰者の面目を具《そな》えている巻第一の撰者も、言うがごとく何びとであるかは全くわからず、わずかに想像し得られることは、その人は宮中に収められていたと思われる和歌を、資料として稍々自由に見るを得た人と思われること、次に巻第一と二とは、その編纂の上から、他の巻とは異なって有機的関係をもってい、万葉集の部立ての三大綱目たる、雑歌、相聞、挽歌の一わたりを、此の二巻に割り当てて完備させているところから見て、同一人でなくてはならないと推定されていることである。第二には、上の理由により、巻第一と二とは略々同時に撰定されたものと見て、そのときは何時であったかということであるが、これは年代順に排列した歌が、奈良遷都直後に終わっているのと、また歌の題詞の記し方によって、奈良遷都後|幾何《いくばく》も経たない時であったということだけが明らかである。
(11) 万葉集は、巻第一、二というごとき重要なる部分においても、その書史的方面は極めて不明で、ほとんど白紙と同様なのである。
巻第一と二との撰者が、いかなる動機から万葉集の撰定を思い立ったかということは、言うがごとく全く不明なことであるが、しかしその動機の範囲の推定も許されないような神秘なこととも思われない。それについての思い寄りを言う。
万葉集は左注の形において、当時存在していた多くの歌集の名を挙げている。最も多く出るのは柿本朝臣人麿歌集で笠朝臣金村歌集高橋蟲麿歌集田辺福麿歌集などがある。これらは家集である。また、古歌集というがあり、民謠集である巻第十三によると、そこには何部かの民謠集のあったことが知られるが、これらは得るがまにまに蒐集した集と思われる。最も注意されたのは、山上憶良の類聚歌林である。これは内容の不明なものであるが、その題名によって、多くの人の歌を類別した集であったろうと想像される。万葉集が撰定されまた編纂された当時、いかに多くの歌集が世に伝わっていたかということは、たやすく想像される。
需要のないところには供給はない。これらの歌集が供給されていたのは、そこにこれに相当する需要があったためと思われる。需要とは何ぞといえば、上代の生活にあっては、和歌は日常生活の上の必需品であって、生活の中に織り込まれている、生活のための歌だったのである。その※[目+者]《み》やすい例をいえば、上代の集団生活にあっては、賀の歌は必要欠くべからざるものであった。言霊《ことだま》信仰の深かった時代には、人の他に向っていう言には、言の中に霊《たま》が宿っていて、その霊はその言に応じての働きを現し、言わるる人の上に作用を及ぼすものだと信じられていた。すなわち善い言には善い霊が宿り、悪い言には反対に悪い霊が宿ってい、賀の心も詛《のろ》いの心も遂げ得るものだと信じていた。さらにまた、善い言という中、その麗わしく言い連ねたものは、最も効果的なものだとも信じられていた。麗わしい言とはすなわち歌である。賀の心は歌でなければならなかったのである。また、男女間の交渉も歌をもってする風となっていた。その心は賀の歌と通うところのものであったろうが、とにかくこれが風をなしていたことは、伊邪那岐《いざなぎ》、伊邪郡美《いざなみ》の二神が、国生みに先だっての婚儀に、双方の意志を歌謡の形式として相唱和されたとしていることは、この風の起源を最も畏き神につないだものであって、その風の動かすべくもないものになっていたことを裏書するものである。さらにまた、葬儀の時にも歌謡が必要であったと思われる。御大葬の際の歌謡の起源を、日本武尊の死の際につないでいるごときも、その風の根源の深いものであったことを示すものと思われる。だいたいこのような状態で和歌は日常生活の上に関係していたのである。それだと、他人の歌にして、取って範とすべきもの、また流用に堪えるものは、ある程度の生活を営んでいる家にあっては、まさに必需品であったことと思われる。類聚歌林が想像されるがごとき内容であったとすれば、おそらくこの利用に最も簡便なものであ(12)ったろうと思われる。
また、この和歌が、いかに広く流布していたかということも、たやすく想像される。例せば東歌、防人の歌のごときを見れば、今日のわれわれをもってすれば、驚き怪しまれるものである。中央都市の支配階級の作る和歌は、交通の極めて不便な世、遠き僻陬《へきすう》の庶民の、おそらく文字を解せざる者に、口承をとおして深くも親灸《しんしや》し、見るがごとき和歌を作らしめるに至っていたのである。さらにまた、柿本朝臣人麿の歌は、その部分部分に多くの異伝を含んでいる。その異伝は概していうと、本行のものよりも平明なものとなり、劣ったものとなっている。そしてこのことは、一人《ひとり》この人の歌に限られたことなのである。これはきわめて高名であり、また魅力のあった人麿の歌は、口承をとおして流布すること弘《ひろ》く、したがってその間に流動し変化させられて、たまたまその記録せられたものも、すでに何程かの異同を生じていたことを示しているものである。和歌の流布の速かにしてまた弘かったことは、想像に余りあるものがある。
万葉集の巻第一と二との撰者は、和歌のこうした状態であった世に生存し、そしてそれを眼前の事象として見ていたのである。その和歌の上において、この撰者なる人をして遺憾に感ぜしめ、むしろ心外を感ぜしめた一つの事があったろうと、筆者には想像される。
撰者は、何等かの経路によって、宮中に保存せられている高貴の御方々の和歌を知っていた。歴代の天皇の御製、皇后、皇子方の御歌の、いかに御気宇の高く豊かに、また御風格の高雅なものであるかを知っていた。またこれらの和歌は、臣民の間には伝わってはいないことも知っていた。一方、国運は隆々として高まりつつあって、皇室の限りなき尊貴を顕すべき古事記、また国家の権威を宣揚すべき日本書紀の撰進は、すでにされ、またされようともしている時代である。撰者は宮中に秘められたる形をもって保存せられている和歌を、この古事記、日本書紀と同じき態度をもって、臣民の世に顕わそうと思い立ったのではないか。これはもとより想像にすぎないものであるが、必ずしも許されがたいものではないように思われる。
この想像の下に、万葉集巻第一と二とを見ると、筆者には撰者の意図がかなりはっきりと窺えるように思われる。その第一は、巻中の歌の撰である。巻第一の巻首には雄略天皇、巻第二の巻首には磐姫皇后というように、古の天皇、皇后の、歌の上には盛名を保たせられている至上の御方々を、時代の甚しい飛躍をも顧みずに載せているのを初めとして、巻第一の歌は、だいたい高貴の御方々の御製御歌を連ねることをもって建前としている。その中には、身分低き者の歌、また詠み人知らずの歌もあるが、その身分低き者の歌は、すべて行幸の供奉《ぐぷ》という、皇室に関係せる特別の際に詠んだ歌で、それ以外の折のものは全くない。また詠み人知らずの歌は、すべて皇室に対しての賀の歌であって、これまたそれ以外のものではない。この撰は、意図するところがあってのものと思われる。第二には、雑歌、相聞、挽歌の三大都立の中、巻一は、充《あ》てるに雑歌をもってしていることである。この部立は、いずれを重しとすることもで(13)きないものであるが、万葉集全体を通じていえば、歌数の最も多く、したがって最も重く扱われているものは相聞である。かりにこれが巻第一に充てられていたとしても、万葉集を単なる歌集として選んだものとすれば、何等の不自然もないものである。然るに雑歌をもって巻第一に充てたのは、高貴な方の御歌にして、まず臣民の世に示すものとしては、雑歌の範囲のものをもってすることが至当だと考えたのではないかと思われる。その意識的であったのは、巻首の雄略天皇の御製のごとき、雑歌とはいえ、明らかに相聞で、しかも典型的なものである。また高貴な方の歌には、これと同じきものがある。これは強《し》いたことで、撰者は意識して行なっていることと思われる。第三には、万葉集という題名である。万葉とは万世の意であるということは、今では定論となっている。撰者からいえば、万葉集は私撰であって、しかも巻第一と二だけのものである。それにこのようないかめしい題を付したということは、高貴なる方々の歌を主にしての集に対し、賀の心をもって付けたもので、単なる歌集としての題ではなかろうと思われる。
以上は推測にすぎざることで、また長きにも失したが、巻第一の特色に触れるところがあると思って記した。
巻第一と二との撰者は、皇室を中心としての歌を蒐集し、これを一部二巻に編もうとするに当り、これを部立によって整理した。雑歌、相聞、挽歌がそれである。これは上にも触れたがように、生活のための歌であったこの当時の歌は、おのずからにこの三類になっていたのである。雑歌は、巻第一にあっては、だいたい、賀歌と行幸の供奉の際の歌である。相聞は、巻第二にあっては男女関係のみの歌である。また挽歌は、死者を慰めようとして、直接にその柩前で謡うもの、および死者を追慕して悲しむものである。すなわち雑歌と相聞とは、生を楽しもうとする心のもの、挽歌は生を楽しもうとする心の遂げ難きを悲しむものである。これらはいずれも自然発生的のもので、同時に生活の全部を網羅《もうら》し得るものである。これらの名称は、いずれも漢籍より取り来たったものであるが、それは便宜に従ったのみのことであるのは言うまでもない。そしてこの撰者の新たに捉へ来たったものか、あるいはすでに一部には行なわれていたものであったかも明らかならぬものである。この撰者の立てたこの部立は、時代の降るに伴って分岐して複雑なものとなったが、それは生活のための歌に、歌のための歌という文芸性を加味させようとする要求から来たもので、この部立は基本として動かし難いものとされ、最後まで踏襲されたのである。
この撰者はまた、撰定に当り、歌を排列するに、作歌の年代順に依ってしている。上代の歌は実際に即して作ったものであるところから、知名の人である限りはそれを確かめ得る可能性があったのである。それの明らかでないものは、出来得る限りを考証し、左注の形をもってそのことを言っている。中にはその甲斐の認められないものもあるが、そうしたものさえ、なお書き添える細心さをもってしているのである。また、年代の知(14)り難いものは、一括して別にしているという方法を取ってもいる。
歌の題詞の書式は一定していず、区々《まちまち》となっている。これは撰者の意志をもって書きかえるということはしまいとし、一に原形に依ったものと思われる。ここにも撰者の細心さが現れている。
こうした態度を、意識的に、徹底させていっているのは、巻第一と巻第二だけである。この二巻を完成したる精選本とする理由は、こうした点にもある。
この巻第一と巻第二との撰定された奈良遷都直後のころ、いかに歌が盛行していたかは上に言った。歌はおそらく、人が集団生活を営み始めるとともに生まれ来たったもので、その発生の古さと、したがってその作られた数の多さとは測り難いもので、今日に残っているものは、その優秀なるもののきわめてわずかが、偶然なる機会によって残されたものであろう。しかし今、巻第一と巻第二の皇室関係を主としてのわずかの歌を通じて観ても、明らかに一つの事が認められる。それは歌は積極的精神の所産だということである。雄路天皇、磐姫皇后はしばらく措《お》き、舒明天皇より元明天皇に至る約八十年間は、国運の著しく伸張しつつあった時代で、上下一致、前途にかがやかしい時代を望みつつ、眼前の実務に努力した時代である。男子の理想とするところは益荒夫ということであって、臣下はもとより高貴なる皇子さえもそれを念とされていた。この緊張した精神から日常生活は肯定され、楽しまれ、そしてそこから、明るく、強く、楽しい、いわゆる清《さや》かにしておもしろい歌は生まれ出たのである。すなわちこの当時は、歌が盛行したというだけでなく、歌が著しく向上し進歩したのである。
この歌の向上進歩の上に、漢文学が刺激をなしていたことは、否み難い事実である。それは外国の文芸である漢詩の作が、すでに天智天皇の御代より行なわれ、奈良遷都後には漢詩集である懐風藻の編まれるに至ったのでも察しられ、また遷都以前の万葉集の作者の、その作歌を記すに、自在に漢字を扱っているのでも察しられる。刺激の受け方には二様ある。受ける者に自信の足りない時には圧倒され、十分にあるときには、自主的態度をとってそれを利用する。古事記、日本書紀を撰ばしめられたわが皇室は、当時世界の文化を集めていたといわれる唐に対して、十分なる自信をもって対立し、彼の長を摂取して利用したが、それは一部にすぎなかったことを、歴代の御製、皇子の方々の御歌の上に明らかに元している。それは飽くまでも伝統を重んじて、現実性の上に立つことにおいては微動もされずに、しかも一面には、実用性の歌を文芸性の歌にと、一歩前進せしめられているのである。これをしている人は、当時代表的の教養をもっていられたと思われる高貴の御方に限られていることも、注意されることである。身分が低くしてしかもこれを実行し、保守と進取を大規模に行ない得たのは、一人柿本人麿があるのみである。
この当時、中国の道教が伝わって、その不老不死の神僊思想(15)が、少くともわが支配階級に信じられていたことは、藤原宮※[人偏+殳]民作歌、また持統天皇の御製の中に、明らかに現れているのでも察しられる。生活を肯定し楽しもうとする心の、たやすくもこれに繋がり得るもののあることは、※[目+者」《み》やすいことである。これは瑞祥を喜ぶ思想となって、次第に拡がり、長くもとどまった。この思想も、実用性の歌に文芸性を加味させる上には、間接ながらも影響するところのあったものと思われる。
以上を巻第一を主とし、巻第二にも及ぶ概説とする。概説にすぎるかの感があるが、それは本書の性質を斟酌《しんしやく》してのことである。
(20) 大行天皇、吉野宮に幸しし時の歌二首 一二六
或は云ふ、天皇の御製歌 一二六
長屋王の歌
和銅元年戊申 一二七
天皇の御製歌 一二七
御名部《みなぺ》皇女の和へ奉れる御歌 一二八
三年庚戌の春二月、藤原宮より寧楽宮に遷りましし時、御輿を長屋の原に停めて※[しんにょう+向]《はる》かに古郷を望みて御作歌《つくりませるうた》 一二九
一書の歌 一三〇
五年王子の夏四月、長田王を伊勢の斎宮に遣しし時、山辺の御井にて作れる歌三首 一三四
寧楽宮 一三七
長皇子、志貴皇子と佐紀《さきの》宮にて宴せる歌 一三七
長皇子の御歌 一三八
(21) 雑歌
【標目】 「雑歌」は、本集の歌をその性質によって三部に分填し、雑歌、相聞、挽歌と部立てをしてあるその一つで、相聞、挽歌以外のものを総括しての称である。詳しくは概説にある。
泊瀬朝倉宮御宇天皇代《はつせのあさくらのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ》 大泊瀬稚武天皇《おほはつせのわかたけのすめらみこと》
【標目】 泊瀬朝倉宮は、雄路天皇の皇居の称で、現在奈良県桜井市初瀬町の西の初瀬川に臨んだ地に、その名を存している。御宇は、「御」は統治。「宇」は、天の下の意で、本集には仮名書きで、「あめのしたしらしめしし」という例が多く、それに当てた語である。「馭宇」という語もあるので、「ぎょう」ともいったことが知られる。天皇は、「すめらみこと」と訓む。「すめ」は、統ぶの体言「すめ」。「ら」は、他語との接続をあらわす助詞。「みこと」は敬称。命・尊の文字を当てる語。「代」は、美称の接頭語「み」を添えて「みよ」と訓む。古くは、天皇御一代ごとに宮を改めたので、宮号をもって天皇を呼んだ。尊んでのことである。大泊瀬椎武天皇。雄略天皇の御名。「雄略」という漢風の謚号《しごう》を奉らない前の御称。天皇は、允恭天皇の第五皇子。御母は忍坂《おさか》の大中《おおなか》姫の皇后。皇兄安康天皇の三年、眉輪《まよわの》王を誅し、その後を承けて朝倉宮で即位された。治世二十三年であった。
天皇《すめらみこと》の御製歌《おほみうた》
【題意】 天皇の御製歌。天皇は、雄略天皇。御製歌は、漢文風に音で「ごせいか」と訓んだか、または国風に「おほみうた」と訓んだか不明である。それは、題詞は漢文で書いてあり、当時の文章はすべて漢文であったから、漢文風の訓みも存しうるからであって、「新訓」は「ごせいか」と訓んでいる。御製という語は漢語である。他方、古事記には、この天皇の歌に対して大御歌《おほみうた》と呼んでいるからである。「おほみうた」に従う。天皇の御製は、本条にはこの一首のみであるが、古事記には長歌五首、短歌四首、日本書紀には長歌一首がある。古事記のものは、すべて歌物語の詞章とみえるもので、それを天皇の伝記の一部のごとく(22)扱ったものと思われる。この一首もその範囲のものであろうと思われる。
l 籠《こ》もよ み籠《こ》持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡《をか》に 菜採《なつ》ます子 家告《いへの》らせ 名告《なの》らさね そらみつ 大和《やまと》の国《くに》は おしなべて 吾《われ》こそ居《を》れ しきなべて 吾《われ》こそ座《ま》せ 我《われ》こそは 告《の》らめ 家《いへ》をも名《な》をも
籠毛与 美籠母乳 布久思毛与 美夫君志持 此岳尓 菜摘須兒 家吉閑 名告紗根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曾居 師吉名倍手 吾己曾座 我許背歯 告目 家呼毛名雄母
【語釈】 ○籠もよみ籠持ち 「籠」は、かごの古語。竹製の、物を容れる器で、ここは摘菜の容れ物。「もよ」は、詠款の助詞、間投助詞である。「み」は美称の接頭語。○ふくしもよみぶくし持ち 「ふくし」は、土を掘る串で、金ふくしという語があるので、ここは木か竹で造ったへら。菜の根を掘るための物。「み」は、美称の接頭語。○この岡に 「岡」は本文は「岳」であるが、小高い所の意。○菜採ます子 「菜」は、副食物となる物の総称で、魚も「な」といい、野の雑草で食用になるものをも総括しての称。ここは疏菜ではなく、選ばれた雑草とみえる。「採ます」は、採むに敬語の助動詞「す」を添えて敬語としたもの。古語には自他に対して敬語が多く、なかばは慣用で、必ずしも意識的のものではなかろう。ここもそれに近く、親愛の情をもってのものだろうと『全註釈』はいっている。「子」は愛称で、男女を通じて用いている。呼びかけである。○家告らせ 本文は「家吉閑」で、旧訓は、「名」をここへ訓み付け、「いへきかな」となっていた。家聞くという語は、他に類例のない、意をなさない語であるとして、諸家さまざまの解を立てている。『考』は「吉」は「告」の誤写、「閑」は「閇」の誤写として、「家告らへ」と改めた。『古義』はまた、「吉閑」を「告勢」の誤写として「のらせ」としているが、この誤写説は承認されなかった。しかるに、『私注』は、「閑」はそのまま「せ」の借訓となりうる字である。現在は「閑」は「間」すなわち「ひま」の意にのみ用いられているが、本来は、門を木をもってさえぎった貌で、防、禦木の意があり、馬柵を「ませ」と訓むことからすれば、「閑」を「せ」に借りないとは言い難く、次の「なのらさね」に照応するためにも「いへのらせ」の訓は心ひかれるところ大きいといっている。『注釈』はさらにそれを確めている。従うべき解である。「告らせ」は、「告れ」に敬語の助動詞「す」を添えての命令形。○名告らさね 「ね」は他に対しての願望の助詞。「家告らせ名告らさね」は、当時の求婚の言葉で、「家」はその女の身分・所在を示すもの、「名」は、当時の女子は極秘にしていて、それを知らせる時は、その人に一身を委ねる時としていた。ここはその意味でのものである。以上一段である。男が求婚する場合には、女の家と名を問うだけではなく、それとともに自身の家と名も知らせるべきことになっていた。その証歌は多い。○そらみつ 大和にかかる枕詞。日本書紀の神武紀に、にぎはやひの命が天の磐船に乗って天降った時、大和の地を見下ろして来たのによる詞だという。それだと空の御津の意で、大和を讃えた意のものと思われる。古い枕詞とみえる。○おしなべて (23)押し靡かせてで、総じて従えて。○吾こそ居れ 吾が統治しているの意を、やさしくいったもの。○しきなべて吾こそ座せ 「しきなべて」は、「しき」は領有して、「なべて」は、従えてで、「座せ」は、「居れ」の敬語。この二句は、上の二句と対句となっている。口承時代の歌謡の繰り返しに近く、多くの変化を示してはいないが、前の二句には強さを含んでおり、後の二句には柔らかさと落ちつきがあって、気分としては漸層的に深まっている。○我こそは告らめ家をも名をも この訓みは、『注釈』によって『五十槻《いつきの》大人(荒木田|久老《ひさおゆ》)口授万葉集|聞書《ききがき》』のものだと知った。さらにこれは中世の『古葉略類聚鈔』(二)にも、すでに「われこそはつげめ」と訓まれているとのことである。『新考』も上の『聞書』の訓みと同じである。これに従う。文面から見ると天皇は、第二段の「そらみつ大和の国は」以下二句対の対句をもって、その御身分を告げていられる。これは「家をも名をも」告げたことである。さらに改めてこのようなことを繰り返される要がなく、一見無用なものに見える。しかしその際の情景を思うと、「菜採ます子」という言葉によって呼ばれている女は、初めて見かけた男性から突然求婚をされ、しかもその男性が天皇であることを知らされたので、羞恥と恐懼の感からものがいえず、ただ当惑していたことと思われる。天皇はその情を察して、やさしく、婉曲に、女の応諾を促した言葉と取れる。すなわち第一段の結末の「家告らせ名告らさね」に対応させて、「我こそは告らめ」と、対立の意の助詞「は」を用いていわれているのであって、言いかえると求婚の意を繰り返していわれたものと解せる。一首、一見素朴には似ているが、微旨を含んだ表現をしている歌であるから、この解はうがちすぎたものではなく、むしろ自然なものと思う。また、そう解することによって余意が生じるとも思う。
【釈】 まあいい籠を、いい籠を持ち、掘串よ、よい掘串を持って、この岡で菜を摘んでいられるかわいい娘さん。家をおっしゃい。名をおっしゃいね。この大和の国は、すべて従わせてわたしがいるのです。すべて領してわたしがいられるのです。わたしこそいいましょう。家も名も。
【評】 万葉集としてこの巻首にすえたこの御製歌は、時代的に見ても飛鳥朝をかけ離れた古いものであり、作者としても歴代の天皇中でも高名な雄路天皇であるから、まさにふさわしい歌というべきである。これを御製歌とするについては、なんらかのしかるべき拠り所のあったことと思われるが、その点は不明である。
これを取材の上から見れば、当時はいわゆる自由結婚時代で、少数の尊貴の人は例外で、他はすべて自身直接に求婚し、結婚していたので、求婚ということは万人ひとしく体験し、またしようとしていることである。同時に、生涯を通じて最も感銘深く、またあこがれの的ともなっている事柄である。歌材という上からいうと、これほど一般性をもった、また興味深いものは他にはないといえる。
表現の上から見ると、この御製歌は、口承時代の歌謡性のきわめて濃厚なものである。歌の基本は音律で、音律とは短長の組合わせである。口承時代も短長は動かず、記載時代に入ってそれが五七に定着するのであるが、この御製歌は、短長になっているが、五七はないという特殊なものである。音数から見ると、三四、五六、五五、五五。四七、五六、五六。五三七となっているのである。この不定は、歌謡としても稀れなものである。
しかるにこれを一首の歌として見ると、安定感の強い渾然たる作となっている。音数の不定は当然乱雑の感を起こさせるものであるが、この御製歌では反対に、力強さとなり、それが安(24)定感を生むものとなっているのである。
一首の内容は、「菜採ます子」というたぶん若い女性に対しての、天皇の求婚の意志表示という、きわめて簡単なものである。しかも天皇御一人の言葉だけで、相手の女性は黙して答えないという、何ら他奇なきものである。しかしこの御製歌は、その簡単な中に、比較的複雑味を含んでいて、それが一首の味わいをなしている。複雑味というのは、その際の天皇の心理、若い女性の心理を暗示して、いわゆる余情をかもし出していることである。
この御製歌は短いながらに三段の構成をもっている。
第一段は、起首より「名告らさね」までである。これが一首の主意である。「籠もよみ籠持ちふくしもよみぶくし持ち」は、「菜採ます子」の状態描写で、それが天皇に恋ごころを起こさせたのであるが、この状態描写は非凡なものである。当時の若菜つみは信仰も伴ってのことで、若い女性の行事となっていた。春の野山には珍しからず見られたことであろう。籠、ふくしは常凡な器具である。それに目を着け、それを讃えることによって、「菜採ます子」のもつ魅力を暗示し、同時に呼びかけとしているところ、いかにも特殊であり、また巧妙である。そしてそれがただちに進展して、「家告らせ名告らさね」の求婚の言葉に飛躍してゆくのである。事は求婚であるが、それをとおして善良にして闊達な、また多感な古代の帝王の面目がほうふつとしてくる。
第二段は、「そらみつ」より「吾こそ座せ」までである。これは求婚の条件として求婚者の家と名をいったものである。
この一段と二段との間には、あるギャップがあり、それがいわざる状態を語っている。状態とは求婚された若い女性のそれである。その女性は、岡で菜採みをしている所へ、ふと見知らぬ男性があらわれ、ふさわしからぬ世辞をいわれるとともに求婚されたのである。当然、驚きと当惑に捉えられて、いうところを知らなかったとみえる。その状態を見た天皇は、初めて気がついて、御自身の身分を告げたのである。これは迎えての解ではなく、第一段の軽快なるもの言いとは反対に、堂々たる口調をもって、この国の統治者であることを告げていられる、その表現技法によってギャップが感じられる。このギャップは余情の範囲のものである。
第三段は、「我こそは告らめ家をも名をも」の結末である。この結末は問題となっているもので、諸家の解がさまざまである。筆者には第二段とこの結末の間には、第一、第二段の間と同じくギャップがあると認める。求婚の相手とされた若い女性は、その男性が天皇であると知らされると、前の驚きと当惑の情は恐懼の情と一変し、ますます口をかたく閉じて何事もいえなかったとみえる。その状態がある程度続いたとみえる。天皇はそれを見られてもっともと思われ、あわれみの情をまじえて、重ねて求婚の意志表示をする心をもって、やさしく、婉曲にこのようにいわれたものと解される。したがってこの結末は、最も含蓄あり、余情あるもので、雄略天皇のお人柄の美を最も発揮したものと解される。
この一首は、形は素朴で、また簡潔なものであるが、内容は微細な味わいを含んだ比較的複雑なものである。その複雑味は、一見、平面描写に似ているが、ある程度、時間の推移を含み、立体感をもっているがゆえである。このことは、表面は純抒情(25)であるが、背後に散文味をもっているとも言いかえられるものである。読後、岡の上に相対して立っている天皇と菜採みの若い女性、双方の心理のおのずから想像されるものがあって、相聞の歌としては、類を絶した客観味のある歌であることが、以上のように解させる次第である。
結句の五三七、あるいは八七の形は、古事記の歌謡にもあるが、時代の明らかなのは本集の中大兄の三山の歌の「うつせみも妻を争ふらしき」(一三)、額田王の近江の国に下りし時作れる歌の「情《こころ》なく雲の隠さふべしや」(一七)その他であり、五七七に至る過程の一時期のものである。これは伝誦の間に起こった変化ともいえるが、この歌の成立時期につながりあるものとも解せることである。
高市岡本宮御宇天皇代《たけちのをかもとのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ》 息長足日広額天皇《おきながたらしひひろぬかのすめらみこと》
【標目】 高市岡本官は、奈良県高市郡明日香村|雷岡《いかづちのおか》の付近にあった舒明天皇の宮殿の称。天皇の二年に営まれたのである。その年の六月火災に罹り、田中宮に遷られたが、十一年百済川の側に大宮を御造営になり、十二年十月に遷られた。しかし天皇の御代の名としては「高市岡本宮天皇御代」と申したのである。
息長足日広額天皇は、舒明天皇の御名。天皇は敏達天皇の孫、彦人大兄皇子の御子である。推古天皇の二十九年に皇太子聖徳皇子が薨じ、三十六年天皇が崩じられた後即位されたのである。在位十三年の十月九日崩じた。御年四十九。皇后は斉明天皇で、御二万の間に天智、天武の両天皇がある。
天皇 香具山《かぐやま》に登りて望国《くにみ》したまひし時の御製歌《おほみうた》
【題意】 天皇は舒明天皇。香具山は、奈良県橿原市と桜井市とにわたり、平野に孤立している山で、畝火、耳梨とともに大和三山と称せられている山の一つ、標高一四八メートルの小山である。歌中では天《あめ》の香具山と称せられている。「天の」は神聖なるの意で、古代の神事には、この山の土をもって祭器を作り、この山の賢木を祭場に据え、またこの山の鹿の骨を焼いて神事の卜占をしたことが伝えられている。「かぐ」とは神霊の意で、卜占に使われる神聖なる鹿も同語であると『全註釈』はいっている。また、折口信夫氏は、この山は地勢がそれに適しているところから、古代斎場にしばしば用いられたことをいい、天あるいは高処から降臨すると信じられていた昔の神人《じんにん》の、里に来る足掛りに、格好な地であるともいっている。望国、国見は、高地に登って国状を視察することの称。元来は政治的の意味をもってのことであったが、後には風光観賞のためのこととなった。
(26)2 大和《やまと》には 群山《むらやま》あれど とりよろふ 天《あめ》の香具山《かぐやま》 登《のぼ》り立《た》ち 国見《くにみ》をすれば 国原《くにばら》は 煙《けぷり》立ち立つ 海原《うなばら》は かまめ立《た》ちたつ 怜※[立心偏+可]《おもしろ》き 国《くに》ぞ 蜻島《あきづしま》 やまとの国《くに》は
山常庭 村山有等 取与呂布 天乃香具山 騰立 國見乎爲者 國原波 煙立龍 海原波 加万目立多都 怜※[立心偏+可] 國曾 蜻嶋 八問跡能國者
【語釈】 ○大和には群山あれど 「大和には」の「は」は、他と対させた意のもの。「群山」は、多くの山で、大和を繞らしている山々はもとより、三山までも含めてのもの。大和の国には、多くの山々があるけれども。○とりよろふ天の香具山 「とりよろふ」の「とり」は、接頭語で、作用をあらわす語に冠して、その意を強めるもの。「よろふ」は、物の揃い足っていることをあらわす古語。ここは香具山の山の形を讃めたもの。香具山は、大和の三山の一で、三山とも平野に孤立していて印象的な山であるが、その中でも最も形の美しい山で、青香具山といわれ、樹木もほどよく茂っていたのである。「天の」は、香具山にのみ冠していう語で、この語は、広くは神聖なものという意をもっているが、香具山に冠しての場合は、上にいった神事に深いつながりをもっていたからである。○登り立ち 登って立ってであるが、この場合「立ち」は、強めの意で添えたもの。他にも類似の語がある。○国原は煙立ち立つ 「国原」の「国」は古くは単に一定の地域をさす称で、郡県制度以後の称とは趣を異にしている。「原」は、広く平らな所をいう。「は」は、他に対させる意のもの。「煙」は、炊煙。「立ち立つ」は、立ちに立つで、あちこちから立つ意のものである。国原の方では炊煙が、あちこちから多く立つ意。○海原はかまめ立ちたつ 「海原」は、香具山の上で、国原に対させて仰せになっているので、古く、香具山の北麓にあったという埴安の池と取れる。この池は今は涸《あ》せて、池尻、池内などという地名が残っていて、その存在を思わせているのみである。池を海原と仰せられたのは、池を海と呼び、池または川の岸を磯、中心を沖と呼ぶなど、いささかの水を海に関係させて呼んでいる例が多い。海のなく、また海を見る機会の少なか(97)った当時の大和の人の、海に対してのあこがれの心からの称ではないかといわれている。「海原」の「原」は、国原の原と同じ。「かまめ」は、現在の鴎。「立ちたつ」は、ここも、あちこちから多く立つ意。○怜※[立心偏+可]き国ぞ 「怜※[立心偏+可]」は、旧訓「おもしろき」。この字は、集中二様の語に当てて用いている。「あはれ」と「おもしろき」とである。『講義』によると、「あはれ」の例は、巻三(四一五)「此旅人※[立心偏+可]怜《このたぴとあはれ》」以下四か所、「おもしろき」の例は、巻四(七四六)「かく※[立心偏+可]怜《おもしろく》縫へる嚢は」のほか、いま一か所ある。すなわちいずれにも訓めるのである。『考』は、神代紀に「可怜小汀」の注として、「可怜此云2于麻師《うまし》1」とあるにより、「可怜」を、「可」を「怜」になぞらえて扁を加え、また書写の際顛倒させたものとして、「うまし」と訓んでおり、後、これに従った注が多い。「おもしろき」も「うまし」も、大和を讃えた意では同様であるが、御作意から察しると、大和の国柄を讃えるよりは大和の風景を讃えたもので、その上からは「おもしろき」の方が適切に思われるので、旧訓に従う。また、この句は、五三、あるいは八音の句と思われ、この当時行なわれた句作りに従われたものとも思われる。○蜻島やまとの国は 「蜻島」は、大和の讃え名で、古事記には「大倭豊秋津島」とあり、日本書紀には「大日本豊秋津島」とある。豊秋つ島は、豊年の収穫の豊かなる島の意で、ここは大和の枕詞として用いたものである。「やまとの国は」の「は」は、起首、「大和には」の「は」と同じ。
【釈】 大和の国には、山々が群がっているが、すべて足り整っている天の香具山よ。この山に登り立って国見をすると、国原には、炊煙があちこちから立っている。海原には、鴎が舞い立ち舞い立ちしている。よい国だなあ、この秋津島の大和の国は。
【評】 国見ということは、本来政治的の意味のものであったと思われる。この場合は、天皇の特に遊ばしているのであるから、その意味の濃厚なことが予想される。また、この御製の歌が、大和の国をお讃めになっているものであることは明らかである。上代には讃め歌が多く、神を讃め、国を讃め、人を讃め、家を讃め、物までも讃めている。すべて言霊《ことだま》の信仰の現われで、善い語をもって讃めると、語に宿る霊《たま》の神秘力が、讃められる物の上に作用して、その語どおりの事が現われて来ると信じてのことである。この意味においての歌は実用性のものであって、文芸性以前のものである。この御製の歌は、事は天皇の国見ということで、政治性のものであり、歌は国讃めの範疇のものであるが、その国讃めは、人民の生活の場として、その生活の安泰を賀するという性質のものではなく、それに触れたお語《ことば》としては「蜻島」という一語があるのみで、それとても「やまと」に枕詞として添えられたもので、従属的な軽いものと見なければならない。しかるに、風景を愛《め》でさせられるお心持は反対に濃厚で、国見を遊ばされる場所としての香具山を仰せられるにも、「とりよろふ天の香具山」と、山としてもつ好景に力を入れられ、一首の中心としての「国原」をいわれるにも、「煙立ち立つ」は、「海原」の「かまめ立ちたつ」と対句の関係においていわれているところから、炊煙の豊かなるを賀せられるのではなく、風景としてのおもしろさをいわれたものと思われる。結末のお語の「怜※[立心偏+可]」を、「おもしろき」であると思われるのも、この意味においてである。これを下に続けて、「怜※[立心偏+可]国《うましくに》ぞ」と訓めば、大和の国柄、すなわち人民の生活の場としての好さをいう意が濃厚となってきて、一首の御作意に分裂をきたすがごとく思われる。要するにこの御製の歌は、実用性の範疇に属すべき歌を、文芸性のものにまでお進めになったものであると思われる。
この御製の歌は、構成がきわめて自然で、整然たるものであ(28)る。中心となる対句の、遠く国原を遠望し、近く海原を見下ろして、鴨の状態を御覧になられたなど、その整然たるとともに、単純な語の中に豊かな心を具象したものである。一首全体の単純にして、明るく、豊かにして安定し、気品の高さのあるところ、まさに御製の歌と思わしめる。なお、雄略天皇の御製は特別のものとして、この集の編纂に近い時代のものとして、第一にこうした御製を選んでいるのは、和歌を実用性以後すなわち文芸性のものとした編纂者の意図の加わっていることを思わせる。
天皇 内野《うちのの》に遊猟《みかり》し給ひし時 中皇命《なかつすめらみこと》の間人連老《はしひとのむらじおゆ》をして献《たてまつ》らしめたまへる歌
【題意】 天皇は、舒明天皇。内野は、奈良県宇智郡にある原野。現在、字智、北宇智、南宇智の三村があり、五条市にかけての辺りかとされている。固有名詞。遊猟の猟は、いわゆる薬猟とみえる。薬猟は五月五日に行なわれる行事で、正陽の節目に採集した薬品は特効があるとして、男は猟をして鹿の袋角を採り、女は薬草を採るのである。遊薬を兼ねてのことである。中皇命は、解に諸説があるが、喜田貞吉氏の「中天皇考」の説が有力なものとなっている。要は、中皇命は「なかつすめらみこと」と訓むべく、中天皇《なかつすめらみこと》の意で、「中皇命とは先帝と後帝との中間を取りつぐ中間天皇の意か、もしくは中宮天皇の略称なるべし」といい、この場合は舒明天皇の皇后で、後に即位された皇極天皇だとしている。間人連老は、間人は氏、連は姓、老は名である。日本書紀の孝徳天皇紀に、遣唐使の判官となった中臣間人連老があるが、同人であろうとされている。献らしめたまへる歌は、この場合一つの目的をもってのものと解される。目的とは、猟の幸《さち》を祈る賀歌という意である。そのことは歌の内容から察せられる。猟人は猟に出るに先立って禁忌をまもり、潔斎したことが集中の歌で知られる。事の性質上ありうべきことで、ここも天皇の猟に出られるに先立って、弓弭《ゆはず》を鳴らすという呪法を行なわれるのに対して、歌をもって声援されたので、一種の賀歌であると解される。
3 やすみしし わが大王《おほきみ》の 朝《あした》には 取《と》り撫《な》でたまひ 夕《ゆふぺ》には いより立《た》たしし みとらしの 梓《あづさ》の弓《ゆみ》の なか弭《はず》の 音《おと》すなり 朝猟《あさかり》に 今《いま》立《た》たすらし 夕猟《ゆふかり》に 今《いま》立《た》たすらし みとらしの 梓《あづさ》の弓《ゆみ》の なか弭《はず》の 音《おと》すなり
八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之 御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音爲奈利 朝※[獣偏+葛]尓 今立須良思 慕※[獣偏+葛]尓 今他田渚良之 御執能 梓弓之 奈加弭乃 音爲奈里
(29)【語釈】 ○やすみしし 「八隅知之」「安見知之」と二様の文字が用いられており、したがって語義も二様に解されている。『全註釈』の解によると、「八隅」は、わが国土全体の意で、「知之」は、「知」は、日並皇子(持統天皇の皇太子で、摂政)を、日並|斯《し》皇子尊と称し、また、日並|所知《しらす》皇子尊とも称しているので、「斯」に所知の意があり、「知」はその意のもの、「之」は時の助動詞だというのである。また、「安見知之」は、「安」は形容詞。「見」は、上一段活用の動詞で、それに敬語の助動詞「し」を添え、時の助詞「し」を接続させたものだといっている。いずれがあたっているかは定まっていない。いずれにしても天皇の徳を讃えた語で、大王の修飾としたものである。古く宮廷歌謡に用いられた語で、この集の時代には解釈がまちまちになったものだというのである。○わが大王 「わが」は親しんで添えた語。○取り撫で給ひ 「取り」は、手に取る意であるが、接頭語に近い意となったもの。「撫で」は、愛する意よりのこと。○いより立たしし 「いより」は、「い」は接頭語。「より」は寄りで、近寄る意。「立たしし」は、「立たし」は、「立つ」に、敬語の助動詞「す」を添えたもの。「し」は時の助動詞。近寄ってお立ちになられたで、愛してのこと。この二句は、上二句と対句になっている。○みとらしの 「み」は敬語の接頭語。「とらし」は、執るに敬語の助動詞「す」が添ったもので、名詞形となったもの。御料というにあたる。○梓の弓 「梓」は、白井光太郎氏が現在の「よぐそみねばり」または「はんざ」であろうとしている。古くは弓材として最も多く用いられた木。○なか弭 「弭」は、弓に弦を掛ける所の称で、弓の一部である。したがって上下にあり、本弭末弭と呼ばれている。弦を引いて放すと高い音を発し、戦陣にあっては敵を威嚇するに足るものであったことが、「弓弭の騒」(一九九)という句でも知られる。「なか弭」は不明の句とされ、諸説がある。長弭であるとし、「なか」が誤写で上下したので、「かな」すなわち金阿須であるとし、その他にもある。『講義』は文字どおり中弭だとしている。本弭と末弭の中間にある弭の意である。実戦に用いる弓としては不自然であるが、遊猟用の弓で、呪法として高い弦声を発しさせるためとすれば、ありうるものと想像される。弦声によって悪精霊を追う呪法は、平安時代には宮中の滝口の衛士の行なったことであり、源氏物語にもある。それらは古法を伝えたものであり、古くまで溯りうるものではないかと思われる。この場合は猟の幸《さち》を防げる悪精霊を追うために、特に高い弦声を発しる中弭を取り付けた弓ではなかったかと想像される。○音すなり 「なり」は強く指定する意の助動詞。○朝猟に今立たすらし 「立たす」は「立つ」に敬語の助動詞「す」を添えたもの。お出ましになる。「らし」は根拠のある推量をあらわす助動詞。根拠はなか弭の音。○夕猟に 上の二句と対句になっているが、繰り返しに近いもので、古風なものである。なお、眼前のことをいうに朝猟・夕猟といっているのは、一見、不自然に感じられるが、猟は本来朝か夕にするものである。それは獲物とすべき鳥獣が夕方、草木の陰に潜んで眠った時、朝、目をさまさない時にすることなので、朝猟・夕猟ということは、単に猟ということと同意語で、修辞にすぎないものなのである。
【釈】 天下を知ろしめすわが天皇の、朝には御愛撫になられ、夕にはお近寄りになられた、御料の梓弓の、なか弭の鳴る音がすることです。朝猟に今お出ましになるとみえます。夕猟に今お出ましになるとみえます。御料の梓弓の、なか弭の鳴る音がすることです。
【評】 天皇と御一緒に、宇智野に近いわたりの行宮《あんぐう》にいらせられた中皇命が、天皇の行宮をお出ましになり、今や御猟場に向かわれようとして、猟に先立って、猟の幸《さち》を祈るための呪法として、弓の中弭を鳴らされる音をお聞きになり、同じく猟の幸《さち》(30)を祈る御心をもって献《たてまつ》られた賀の歌と解される。この歌を献るにつき、その御使が間人連老であることを特にいってあるのは、この御歌は口頭をもって謡わしめたもので、その方法はこの当時はすでに古風な特殊なことに属していたので、謡ったところの御使の名をもいってあるものと解せられる。こうしたことを思わせるのは、この御歌がきわめて古風なものだからである。単純な内容を二段に分けて、その結末は、長い四句をそのままに繰り返しにし、さらに単なる繰り返しのために、事としてはやや不自然な「朝晩に、夕猟に」の二句を添えてあるなど、謡い物の特色を極度にもったものである。これはこの当時にあってはすでに古風なものであったことは、上の(二)の天皇御製歌と比較すると、きわめて明白である。この古風ということは、中皇命の女性でいらせられるということよりも、呪法としての中弭の音に、さらに呪力を加えしめるために、歌をもってその音を賀せられるという、同じく呪法としての御歌であるところから、当然のこととして古風にお詠みになったものと思われる。なおまた、中皇命がそうした意味の御歌をお詠みになったということは、こうした場合には、その場におられる最も尊貴なる女性のされるということが定まっていたものかとも思われる。これは他にも例のあることである。作者はいうまでもなく中皇命である。上半の御料の弓に対する愛は、中皇命でないといえないことである。一首としても力量ある御歌である。
反歌
【釈】 反歌は、訓は、はんか。長歌の末に添えた短歌の称で、きわめて稀れに旋頭歌をもってしたものもある。古くはなかったもので、後より起こったものである。時代の明らかなのは、この時代あたりからのようである。本来は、長歌の結末の、多くは抒情性の高い部分を繰り返して謡ったのが、次第に独立の歌となってきたもので、自然発生的のものと思われる。それに漢詩文の影響もあったとみえる。それは荀子の反辞または小歌で、反辞は注に、「反辞(ハ)反覆叙説之辞(ナリ)、猶2楚詞(ノ)乱曰1」といい、小歌は、「(上略)※[手偏+總の旁]2論(スル)前意(ヲ)1也」とあるものである。反歌の古い物は、大体この注のごとく、長歌の意を反覆し、総論したとも取れるもので、上にいった結末の反覆と一致するのである。しかし反歌は、早くもその域を脱して、長歌の意を展開させ、別個の意をいうものとなり、双方を関係させることによって、全体に複雑な味わいをもたせるものとなってきた。ここにも、実用性の歌より文芸性のものへの進展が見える。このことは、早い時代からすでに行なわれてもいた。
4 たまきはる 内《うち》の大野《おほの》に 馬《うま》なめて 朝ふますらむ その草深野《くさふかの》
玉尅春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野
(31)【語釈】 ○たまきはる 「いのち」「代」「うち」などにかかる枕詞。意味は詳らかでない。○内の大野 上にいった宇智野。「大」は、称美して添えたもの。○馬なめて 「馬」は、天皇初め供奉の人の乗馬。「なめて」は並めて、並べ連ねてで、狩場における状態。○朝ふますらむ 「朝」は、「朝」に。「ふます」は「踏む」に敬語の助動詞「す」を添えたもの。「らむ」は現在推量の助動詞。天皇のお踏みになられる意。踏むは、「朝猟に鹿猪《しし》践《ぶ》み起し、暮猟《ゆふがり》に鶉雉《とり》履《ふ》み立て」(四七八)とあり、他にもこれに似たものが二か所ある。鳥獣を狩立てる意である。ここも猟の場合であるから、踏み立てさせられる意。○その草深野 「その」は、上を承けての繰り返しで、進展させての言いかえ、「草深野」は、草深き野で、「深」を語幹から名詞に続けて熟語としたもの。深は高い意で、草の高い野。大体猟は冬から春へかけてするのが普通であるが、この語によって、その薬猟であることをあらわしたもの。下に「を」の助詞を添えて解すべきである。
【釈】 宇智の大きな野に馬を並べて、朝、鳥獣を踏み立て起こして、いらせられるであろう。あの草の深い野よ。
【評】 長歌を進展させて、新境地を拓ききたった反歌で、早くも繰り返しの域を脱した新風の反歌である。初句より四句までは狩場の光景を想像したものであるが、あくまで具象的で、颯爽とした感がある。結句の「その草深野」は第二句の繰り返しであるが、常套を脱した、新意のあるもので、含蓄深く、響高い句である。この句によって、その遊猟が薬猟であることが明らかになり、「朝ふますらむ」が生きてきている。のみならず長歌のなか弭の呪が、いまや現われんとしていることを予想させるたのしさをもあらわしている。第二句の「内の大野に」が、この句によって一段と具象化され、一首が生動してくる。非凡な句というべきである。
讃岐国《さぬきのくに》安益郡《あやのこほり》に幸《いでま》しし時、軍王《いくさのおほきみ》の山を見て作れる歌
【題意】 讃岐国安益郡は、和名抄、郡名の条に、「阿野 綾」とある地である。現在は鵜足《うたり》郡と併合して綾歌郡という。高松市の西、丸亀市の東にある地で、昔の国府の遺址がある。幸《いでま》ししは舒明天皇であるが、天皇がこの地に行幸されたことは日本書紀には載っていない。天皇はその十一年、伊予の温湯の宮に行幸されているので、その帰途この地にお立寄りになったのではないかという。軍王は、他に所見がなく、伝不明である。
5 霞《かすみ》立《た》つ 長《なが》き春日《はるひ》の 晩《く》れにける わづきも知らず むら肝《ぎも》の 心《こころ》を痛《いた》み ぬえこ鳥《とり》 うら歎《な》きをれば 玉《たま》だすき かけのよろしく 遠《とほ》つ神《かみ》 吾《わ》が大君《おほきみ》の 行幸《いでまし》の 山《やま》越《こ》す風《かぜ》の 独《》居《ひとりを》る 吾《わ》が衣手《ころもで》に 朝夕《あさよひ》に かへらひぬれば ますら男《を》と 思《おも》へる我《われ》も 草枕《くさまくら》 旅《たび》にし(32)あれば 思《おも》ひやる たづきを知《し》らに 網《あみ》の浦《うら》の あま処女《をとめ》らが 焼《や》く塩《しほ》の 思《おも》ひぞ焼《や》くる 我《わ》が下ごころ
霞立 長春日乃 晩家流 和豆肝之良受 村肝乃 心乎痛見 奴要子鳥 卜歎居者 珠手次 懸乃宜久 遠神 吾大王乃 行幸能 山越風乃 獨居 吾衣手尓 朝夕尓 還比奴礼婆 大夫登 念有我母 草枕 客尓之有者 思遣 鶴寸乎白土 網能涌之 海處女等之 焼塩乃 念曾所焼 吾下情
【語釈】 ○霞立つ 春の枕詞。光景を捉えての修飾の枕詞となったもの。○わづきも知らず 「わづき」は、ここにあるのみで、他にはない語。この当時口語としては用いられていたが、文語とはならなかったものと思われる。嘆きにとらわれて、見さかいもつかなかった意の語だろうと旅の続きから推量される。かりに見さかいとみなす。未詳の語。○むら肝の 心の枕詞。「むら」は群らで、群らがっている肝、いわゆる五臓六腑の中に心がある意での枕詞。○心を痛み 心が嘆きのために痛くして。○ぬえこ鳥 「こ」は愛称。ぬえ鳥は現在の虎つぐみ。夜、哀切な声を出して鳴く。比喩として「泣き」にかかる枕詞。「歎」を「なき」と訓むのは、他に用例がある。○玉だすき 「玉」は美称。「たすき」は襷。古くは一種の礼装として肩に掛けた。掛詞として「かけ」にかかる枕詞。○かけのよろしく 「かけ」は心に掛け、言葉に掛ける意の語で、用例の多い語。「よろしく」は、好ましくで、口にするのも好ましく。これは下の「朝夕にかへらひぬれば」に続いて、副詞句となっている。「かへらひ」は、「翻《かえ》らひ」であるが、「還らひ」すなわち自身の家のある大和へ還ることにつながりをもっているからである。○遠つ神吾が大君の 「遠つ神」は、「つ」は「の」の意の助詞。この句は従来、天皇は凡人の境よりは遠い神の意で、大君を讃える枕詞と解されていた。『全註釈』はそれを誤りとして、違い日に神となられた天皇の意であると正し、用例として、「住吉《すみのえ》の野木の松原遠つ神わが大君の行幸《いでまし》処」(巻三、二九五)を引いている。したがって題詞の「幸讃岐国安益郡之時」は、この「遠つ神」を誤解した上で、歌によって設けたものではないかと疑っている。新見で、従うべきものである。「吾が大君の」は、「吾が」は親しんで添えた語で、「大君」は何天皇であるか不明である。舒明天皇も推測しての天皇であるが、かりにあたっているとしても、その行幸のあった時よりも、かなり後になって詠んだ歌ということになる。○行幸の山越す風の 行幸処の遺址の山を越して吹いてくる風ので、行在所址《あんざいしよあと》よりは距離のある地点にいたのである。○独居る吾が衣手に 「独居る」は、事実であるとともに、さびしさを暗示した語。「ころもで」は、衣の意にも用いるが、ここは袖。当時の窄袖は、長めの物で、風に翻りやすかつたのである。○朝夕にかへらひぬれば 「朝夕」は、朝に対しては夕を「よひ」と呼んだ。風の吹きやすい時刻としてである。「かへらひ」は、ひるがえるを古くは「かへる」といった。その「かへる」の未然形に、継続進行をあらわす助動詞を添えたもので、翻りつづける意。翻《かえ》りは還りに通じるので、上の「かけのよろしく」、家に還ることを連想させられて、旅愁が一段とつのるのである。○ますら男と思へる我も 勇気あり思慮ある男子と思っている我もで、用例の多い語。○草枕旅にしあれば 「草枕」は、旅の枕詞。草を枕とすることで、上代の旅の実状を捉えたもの。「旅にし」の「し」は強意の助詞。○思ひやるたづきを知らに 「思ひやる」は、嘆きを晴らすで、一語。「たづきを知らに」は、手段が知られずに。○網の浦の 所在不明。○(33)あま処女らが 「あま」は、海に関しての事を職業とする男女の称。「処女ら」は若い女の称で、既婚者にもいう。愛称といえる。○焼く塩の 「焼く塩」は、海水を濺《そそ》いだ藻草を焼いて塩を製すことを簡略にいったもので、焼いて造る塩。「の」は、のごとく。三句序詞で、下の「焼く」に同語の繰り返しで続く。○思ひぞ焼くる 嘆きに焼けることであるよで、「ぞ」は係、連体形で結んでいる。○我が下ごころ 網の浦の以下で、完全な短歌形式になっている。
【釈】 長い春の日の暮れていった、そのけじめも知られず、嘆きに心が痛く、ぬえ鳥のように心中で泣いていると、口にするのも好ましく、遠き時に神となられたわが大君の、行幸《いでまし》どころであった山を越して来る風が、独りでいるわが衣の袖に、翻《かえ》りつづけるので、その還るのに刺激されて、ますら男《お》であると思っている我も、旅にいるので、嘆きをまぎらす手段を知らないで、網の浦の海人《あま》の若い女が、焼く藻塩のように、嘆きに焼けることであるよ、わが心の底は。
【評】 『全註釈』の「遠つ神」の新解によって、この歌の舒明天皇時代のものでないことが、初めて明らかになった。いつの時代のものかはわからないが、大体奈良朝時代に入ってのものと思われる。誤りの原因は、編集者が「遠つ神」を正解し得なかったことにある。題詞は歌によって設けたものということになるが、「讃岐国安益郡」はよるところのあったもので、「幸《いでま》しし時」だけが設けたものと思われる。また、軍王という人を作者とすると、その人は一微臣で、何らかの官命を帯びて、国庁のあった安益郡に単身で赴いた人で、公務の性質上、やや長い期間の滞在を余義なくされたものとみえる。一首の作意は、単なる旅愁で、大和の家にいる妻恋しい情を、ひたすらに詠歎しているものである。作風は、相応に長いものであるにかかわらず、一首一文である。枕詞も相応に多い。この作風は特殊なもので、集中に類をもとめると柿本人麿の作風に近いものである。たぶん人麿の作風を模したものであろう。独自の工夫よりのものとは思われない。力量ある人とは思われないからである。
力量をいうのは、一首が平面的で、伴っていいはずの立体感が全くなく、平板で単調である。詠歎ではあるが、それとしても説明的で、冗長である。一首の頂点は、「玉だすきかけのよろしく」以下、「朝夕にかへらひぬれば」までであるが、「遠つ神吾が大君の行幸の山越す風の」は、行幸の供奉としてであればものをいうところもあるが、行在所の遺址のある山よりの風であっては、調子に乗り過ぎてのものとなり、適切性がなく、むしろ冗漫である。「かけのよろしく」のかかり具合も繊細に過ぎる。結末の「網の浦の」以下五句の完全に短歌形式になっているのも、柿本人麿の「従2石見国1別v妻上来時歌」(巻二、一三一)の手法と同一で、これも他に類例のないものである。摸したものと思える。
一首、全体に派手で、言葉が浮いていて、食い入る力をもっていないもので、ここにこの歌のあるのを怪しませたものであるが、『全註釈』によってその怪しみが解かれるに至った。
(34) 反歌
6 山越《やまご》しの 風《かぜ》を時《とき》じみ 寝《ぬ》る夜《よ》おちず 家《いへ》なる妹《いも》を 懸《か》けてしのひつ
山越乃 風乎時自見 寐夜不落 家在妹乎 懸而小竹※[木+貴]
【語釈】 ○風を時じみ 「時じみ」は、形容詞の語幹「時じ」に、「み」を添えて連用形としたもの。上の「心を痛み」と同じ。「時じ」は、集中「非時」「不時」の字をあてている。意は、その時でない意。一句の意は、風が春の時のものではない意で、すなわち春の風のようではなく寒い意でいったもの。この意は、下の続きで明らかである。○寝る夜おちず 「おちず」は、漏れずで、すなわち連夜の意。○家なる妹を懸けてしのひつ 「家なる」は、家にある。「懸けて」は、心に懸けて。「しのひ」は、思い慕う意。「ひ」は古くは清音であった。「つ」は、完了の助動詞。
【釈】 山越しに吹いて来る風が、その時のものではなく、すなわち季節はずれに寒いので、独り寝をする夜の漏れる夜もなく、肌寒さから、家にいる妻を心に懸けて思い慕った。
【評】 長歌は夕べの心であるが、反歌は時間的に展開をさせて夜の心とし、いっそう妻を思い慕う心の強さをいっている。一首の心は概括した言い方のものであるが、時間の経過を追っているので、ある日の夕暮につづく夜という、限られた感じを持ったものとも見うるところがある。これは余情とも称しうべきもので、技巧的なものである。
右、日本書紀を検ふるに、讃岐国に幸《いでま》しし事なし。また、軍王いまだ詳ならず。但し、山上憶良|大夫《まへつぎみ》の顆聚歌林に曰はく、記に曰はく、天皇十一年己亥の冬十二月己巳の朔にして壬午の日、伊予の温湯《ゆ》の宮に幸《いでま》しき云々。一書に、この時に宮の前に二つの樹木あり、この二つの樹に斑鳩《いかるが》、比米《ひめ》、二つの鳥|大《いた》く集れり。時に勅して多く稲穂を懸けて之を養ひたまふ。すなはち作れる歌云々。けだし疑はくはこの便《たより》より幸《いでま》ししか。
右、検2日本書紀1無v幸2於讃岐國1。亦軍三未v詳也。但、山上憶良大夫類聚歌林曰、記曰、天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午、幸2于伊豫温湯宮1云々。一書、是時宮前在2二樹木1。此之二樹斑鳩比米二鳥大集。時勅多挂2稻穗1而養v之。仍作歌云々。若疑從2此便1幸之歟。
【釈】 これは、この歌に対しての注で、この歌の成立について、編集者の添えたものである。大体、この巻を編纂、分類した際に加えたものと思われる。左注と称せられている。
第一節は、撰者が日本書紀によりて、この行幸の事を検して、行幸も、軍王の事もないことを確かめたのである。「但し」以下は、撰者がさらに、同じくこの歌の収められている類聚歌林によって検し、その注を引いたのである。「山上憶良」は、本集の代表的歌人の一人である。また「大夫」と呼んでいるのは、大夫は当時四位五位の者に対する称であって、憶良がそれに値したのは、和銅七年以後であったから、この注の記された時も、それ以後ということがわかる。類聚歌林は、憶良の編集したもので、それが平安朝末期まで存在していたことはわかるが、それ以後はわからない。名によって、和歌を分類して編纂したもので、本集に似たものということだけは察しられる。以下はすべて類聚歌林の注である。「記」とあるは日本書紀の己巳の朔にして、壬午は、十二月の朔日が己巳で、それから数えて、壬午は十四日。「伊予の温湯《ゆ》の宮」は、今日の道後温泉である。「一書」は、いかなる書であるかわからない。「斑鳩」は、今日「いかるが」とも「まめまはし」とも呼んでいる。「比米」は、今日も同じ名で呼んでいる。結末は、あるいはこの温湯《ゆ》の宮の行幸のついでをもって行幸になったかもしれぬというのである。
明日香川原宮御宇《あすかのかはらのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代 天豊財重日足姫天皇《あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと》
【標目】 明日香川原宮は、現在の奈良県高市郡明日吉村飛鳥川のあたりにあり、皇極天皇の宮である。天豊財重日足姫天皇は、後の御名は皇極天皇と申し、舒明天皇の皇后にましまし、天皇の後を受けて御即位、四年にして同母弟孝徳天皇に御譲位、天皇御在位五年にして崩御の後、重祚があって斉明天皇と申し上げる。川原宮にましましたのは斉明天皇の御代であるが、編集者はこの御代をも籠めたとみえるといわれている。
額田王《ぬかだのおほきみ》の歌 未だ詳ならず
【題意】 額田王は、日本書紀、天武巻に「天皇初娶2鏡王女額田姫王1生2十市皇女1」とある方で、鏡王は、宣化天皇四世の孫。額田王はその娘で、後、天智天皇の大津の宮に召され、壬申の乱後は大和に帰り、持統天皇の朝まで生存されたことが知られる。万葉集初期の代表的歌人である。未詳は、いまだあきらかならずと訓む。作者についての注で、この注は左注と関係のあるものである。
(36)7 秋《あき》の野《の》の み草《くさ》苅《か》り葺《ふ》き やどれりし 宇治《うぢ》のみやこの かりいほし思《おも》ほゆ
金野乃 美草苅茸 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百磯所念
【語釈》 ○秋の野の 秋に「金」の字を用いているのは、中国の五行説によったもので、集中に用例が少なくない。五行というのは宇宙間の万象を、木火土金水の五行に配して説明する方法で、四季は、春は木、夏は火、土用は土、秋は金、冬は水とするのである。○み葺苅り葺き 「み草」は、「み」は美称の接頭語で、ここは薄《すすき》をさしている。屋根を葺く材料に使う大切な草だったからである。木の中、杉、檜を「ま木」と称するのも同じ意味からである。「苅り葺き」は、刈り取って屋根を葺いて。○やどれりし 動詞「宿る」に、助動詞「り」の連用形「り」が接続し、それに助動詞「き」の連体形「し」が接続して、過去に宿ったことをあらわした語。○宇治のみやこの 「宇治」は、大和と近江をつなぐ街道にある地区。「みやこ」は、天皇の宮のある地の称で、たとい一夜でも行宮《あんぐう》のある所は、どこでも「みやこ」と呼んだ。これもその意味のもの。○かりいほし思ほゆ 仮廬で、かりそめに設けた小屋。廬がすでに小屋であるのに、かりそめの意の「仮」を冠して、その感を強めたもの。上代の旅行は、旅宿などはないので、行くさきざきで小屋がけをして宿るのが常で、ここもそれである。「し」は、強意の助詞。「思ほゆ」は、「思はる」で、受身の助動詞「る」「らる」は、上代は「ゆ」が多く、「思はゆ」が、「お」段の「お」、「も」の重なりを受けて「は」が「ほ」に転じた形である。この句は九音であるが、その中に単独母音節の「い、お」があるために、音調が自然なものになっている。
【釈】 秋の野の、尾花を苅って屋根を葺いて宿った、あの宇治のみやこのかりそめの小屋が思われる。
【評】 追憶の作であるが、印象がじつに鮮明である。それは上三句が、なつかしむ感情をとおしての細かい描写になっているためと、四、五句も、宇治のみやこという荘重な語と、九音の結句とによって、広々とした秋の野に対して、小さい仮廬を確保している気分が現われているためとである。声調ものびやかにして張っており、一首の気分を統一している。気品あるすぐれた歌である。
右、山上憶良大夫の類聚歌林を検ふるに、曰はく。一書に戊申の年、比良《ひら》宮に幸《いでま》しし大御歌《おほみうた》といへり。但し、紀に曰はく、五年春正月己卯の朔にして辛巳の日、天皇、紀の温湯《ゆ》より至りたまひき。三月戊寅の朝、天皇吉野宮に幸して肆宴《とよのあかり》きこしめしき。庚辰の日、天皇、近江の平《ひら》の浦に幸すといへり。
右、檢2山上憶良大夫類聚歌林1曰、一書戊申年幸2比良宮1大御歌。但、紀曰、五年春正月己(37)卯朔、辛巳、天皇、至v自2紀温湯1。三月戊寅朔、天皇幸2吉野宮1而肆宴焉。庚辰之日、天皇幸2近江之平浦1。
【釈】 類聚歌林の文は、「大御歌といへり」までである。その中の「一書」というは、何の書か不明である。戊申の年は、崇峻天皇の元年、孝徳天皇の大化四年、元明天皇の和銅四年である。額田王に関係しうる年は大化四年である。「比良宮」は近江の比良であろうが、行幸のことは他にはない。あったとすれば、「大御歌」は孝徳天皇の御製であるが、そうした歌ではない。「但し」以下は、編集者の注で、類聚歌林の参考のものである。「紀に曰はく」は、日本書紀の文の検出で、「五年」は斉明天皇の五年であり、以下、この歌に関係ありそうなものはない。
後岡本宮御宇《のちのをかもとのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代 天豊財重日足姫《あめとよたからいかしひたらしひめ》天皇、位《みくらゐ》の後、後の岡本宮に即位したまふ
【標目】 後の岡本宮は、斉明天皇の皇居である。岡本宮は舒明天皇の皇居であったが、天皇の八年火災に罹り、他に御遷りになられたが、斉明天皇は古を慕わせられ、再びそこに宮を御造営になられたので、前と差別するために後の岡本官と呼んだのである。「位の後云々」は、原文は「位後即位後岡本宮」とあるが、これでは意を成さない。『美夫君志』は、初めの「位」の上に「譲」を脱したものだろうと考証している。事としては、そうである。
額田王の歌
【題意】 額田王の歌。額田王も供奉の中に加わっていて詠んだのである。しかしこのことは、左注によって否定されている。
8 熟田津《にぎたづ》に 船乗《ふなの》りせむと 月《つき》待《ま》てば 潮《しほ》もかなひぬ 今《いま》はこぎ出《い》でな
※[就/火]田津尓 船乘世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
【語釈】 ○熟田津に 愛媛県の現在の松山市の中にあった港であるが、現在では地形が変わって港もなく、その名も残っていない。日本書紀の斉明紀に、「七年正月、庚戌、御船泊2于伊予熟田津|石湯《いはゆ》行宮1」とある時のことで、石湯は現在の道後温泉であろうから、当時はその辺まで海が湾入していたのである。「に」は、ここは「にて」の意の助詞。○船乗りせむと 「船乗り」は、乗船で、発航する意。この行幸は、当時、新羅が百(38)済を犯してきたので、朝廷は新羅討伐軍を派遣し、天皇の宮を筑前国朝倉郡朝倉宮に遷された際の行幸である。○月待てば 海潮は月と密接な関係をもっていて、月の状態によって潮ぐあいが知られるのである。『注釈』は、専門家の説をあげて、この際の月と湖の状態を立証している。大体をいうと、月の出と満潮とは伴うものであるが、瀬戸内海は事実として月より後れる。この船出は二十二、三日の午前二、三時頃で、月は下弦の月で、夜明けに間のある頃であったろう。潮も高潮を待ったのだろう、とのことである。すなわち月のそうした状態になるのを待っていれば。○潮もかなひぬ 月とともに潮もまた。「かなひぬ」は、船出に相応した状態となった。○今はこぎ出でな 「な」は、自身に対しての願望をあらわす助詞。
【釈】 熱田津で船出をしようとして、月を待っていると、潮もまた、相応してきた。今は漕ぎ出そうよ。
【評】 その場合の重大さにふさわしく、気魄のみなぎった、それに伴って調べの張った歌である。「熟田津に船乗りせむと月待てば」と、三句まで一気に、強く太く、事と心とを一つにして言いつづけ、四句「潮もかなひぬ」と、目に見る月の状態を躍り越えて、中核の潮の高まったことによってそれをあらわし、同時にその潮は船出に相応するものであることをいいきって結び、「今はこぎいでな」と、「船乗りせむと」と照応させて、我と我に確かめているところ、まことに磐石のようである。左注によると天皇の御製という伝もあって、伝は二様になっているが、重大な軍事の全責任を一身に負っているという気宇を感じさせるところ、供奉の額田王の作ではなく、まさに天皇の御製歌だと思われる。三句より四句への飛躍は、絶妙というべきである。
右、山上憶良大夫の類聚歌林を検ふるに、曰はく、飛鳥岡本宮に天《あめ》の下知《したし》らしめしし天皇の元年己丑、九年丁酉十二月己巳の朝にして壬午の日、天皇、大后《おほきさき》、伊予の湯の宮に幸《いでま》したまひき。後岡本宮に天の下知らしめしし天皇の七年辛酉の春正月丁酉の朔にして壬寅の日、御船西に征《ゆ》き、始めて海路に就く。庚戌、御船、伊予の熟田津の石湯《いはゆ》の行宮《かりみや》に泊《は》つ。天皇、昔日《むかし》よりなほ存《のこ》れる物を御覧《みそなは》して、当時《そのかみ》忽ちに感愛の情を起したまふ。このゆゑに歌詠を製《つく》りて哀傷したまふといへり。即ち此の歌は天皇の御製なり。但し、額田王の歌は別に四首あり。
右、検2山上憶良大夫類聚歌林1曰、飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑、九年丁酉十二月己巳朔壬午、天皇大后、幸2于伊豫湯宮1。後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅、御船西征、始就2于海路1。庚戌、御船、泊2于伊豫※[就/火]田津石湯行宮1。天皇、御2覽昔日猶存之物1、当時忽起2感愛之情1。所以因製2歌詠1爲2之哀傷1也。即此歌者天皇御製焉。但、額田王歌者別有2四首1。
(39)【釈】 右は類聚歌林を引いて、この歌に対する異説のあることをいったものである。「飛鳥岡本宮」以下、「伊予の湯の宮に幸《いでま》したまひき」までは、先帝舒明天皇の御代のことで、「大后」とあるは、今の斉明天皇である。日本書紀では、この行幸は「十二年」となっていて、干支はその方が合うのである。「後岡本宮」以下、「石湯《いはゆ》の行宮《かりみや》に泊《は》つ」までは、書紀と同じ。以下、「哀傷したまふ」までが類聚歌林の注である。「即ち」以下は左注者の案で、右によりてこの歌は御製の歌で、額田王の歌は別に四首あるというが、この歌には類聚歌林のいう感愛の心は認められない。そうした歌があって佚脱したと見るほかはない。額田王の四首の歌というのは、この際のものと取れるが、それは伝わっていない。
紀の温泉に幸《いでま》しし時、額田王の作れる歌
【題意】 斉明天皇の紀伊の国の温泉へ行幸になられた時、供奉した額田王の作った歌。
9 莫囂円隣之 大相七兄爪湯気 吾《わ》が背子《せこ》が 射立為兼《いたたせりけむ》 五可新《いつかし》が本《もと》
莫囂圓隣之 大相七見爪湯氣 吾瀬子之 射立爲兼 五可新何本
【語釈】 ○初二句は、古来訓み難くしている。多くの試訓があるが、定訓となっていない。◇三句は、問題でない。○四句は、粂川定一氏の訓である。○五句は、『代匠記』の訓である。
中皇命《なかつすめらみこと》、紀の温泉《ゆ》に往《い》でましし時の御歌
【題意】 中皇命は、上の(三)に出た。皇后にして即位をされた方の称。斉明天皇は(三)の場合と同じく、その称せられるべき方であるが、この時代には天智天皇の皇后倭姫命もあった。皇后は古人大兄《ふるひとおおえ》の皇子の御娘で、天皇の七年皇后となり、天皇の崩じられた後、政務を摂《と》られたのであろうとされている。『注釈』は、この時代の例を見ると、後の位置を溯らせていう例は見えないから、(三)の場合と同じく斉明天皇であろうという。倭姫命の御歌は巻二に出ているが、いずれも重厚の感のある歌風で、ここにある御歌の軽快なのとは距離あるものにみえる。斉明天皇との解に従う。紀の温泉は牟婁《むろ》の湯である。
10 君《きみ》が歯《よ》も 吾《わ》が代《よ》も知《し》るや 磐代《いはしろ》の 岡《をか》の草根《くさね》を いざ結《むす》びてな
(40) 君之齒母 吾代毛所知哉 磐代乃 岡之草根乎 去來結手名
【語釈】 ○君が歯も 「君」は、男性に対しての敬称。「歯」は、齢で、寿命。○吾が代も知るや 「代」は生涯で、齢と同義である。「知るや」は、「知る」は、支配する意で、用例の多い語。「や」は詠歎の助詞で、連体形へ接続する。○磐代の 和歌山県日高郡にある地名。神を祀ってあった所。有間の皇子の松の枝を結んだので、名高くなった所である。○岡の草根を 「草根」は、草で「根」は地に立っている意で添える接尾語。○いざ結びてな 「いざ」は、人を誘う語。「結び」は、古くは、重大なる呪術となっていた。事としては、草、木の枝、紐などを結ぶのであるが、一切の祈りを籠める心よりのことであった。「な」は、自身の言行に対しての願望をあらわす助詞。前出。
【釈】 君が寿命も、わが生涯も支配しているところの、この磐代の岡の草を、さあ祝って結びましょうよ。
【評】 君は御夫君舒明天皇ではないかという。磐代の岡は牟婁の湯への途中にある岡であって、次の歌で見ると、一夜をそこに宿られたのである。事は草の葉を結んで祈りをするという一般的のことであるが、場合は旅中であり、場所は磐代の岡であるから、それらと相俟って、「君が歯も吾が代も知る」という大きく深い心のものとなったと思われる。これは信心深いお心があればこそ出ることで、命のお人柄を思わせられる御歌である。一首全体としては明るい、こまやかな情味が感じられる。
11 吾《わ》が背子《せこ》は 借廬《かりほ》作《つく》らす 草《くさ》なくば 小松《こまつ》が下《した》の 草《くさ》を苅《か》らさね
吾勢子波 借廬作良須 草無者 小松下乃 草乎苅核
【語釈】 ○吾が背子は 「背」は、女より男を呼ぶ称であるが、男同士が親しんで呼ぶ時の称ともなっている。「吾」も「子」も、親しんで添える語。呼びかけての称で、上の歌の「君」である。○借廬作らす草なくば 「借廬」は、(七)に出た。仮の廬て、上代の旅行にあつては、やや身分の高い人は、夜の寝所として作ることになっていた。「作らす」は、「作る」の未然形に助動詞「す」を接しさせての敬語。連体形。「草」は屋根を葺く料としての草で薄と思われる。「なくば」は、ないならばで、それを捜していられるところを見ての注意ということを暗示している語。○小松が下の草を苅らさね 「小松」の「小」は、美称。他にも例がある。小さい意としては、意が通じかねる。「草」は、上と同じ。「苅らさね」は、「刈る」の敬語「刈らす」の未然形に、他に対しての希望の助詞「ね」の添ったもの。
【釈】 わが背子は、仮廬をお作りになる草がないならば、あの松の下の草をお刈りなさいましよ。
【評】 一つの用向きの言葉を、歌をもっていわれたものである。上代の風習として、改まってものをいう場合には、歌の形式をもってすることが普通となっていた。それが、次第に範囲が広がって、改まる必要のない日常の言葉も、歌の形式をもっ(41)てするようになってきたと思われる。すなわち日常生活の中に、芸術味を取り入れようとする要求の現われである。この御歌もその範囲のものである。「吾が背子は」と、呼びかけに近い形をもっていい出し、「借廬作らす草なくば」と、やや疑いを持った形で、目に認めることをいい、「小松が下の草《くさ》を苅らさね」と、初めて思うことをいわれているところ、実際に即して、心理的で、加うるにおおらかに品位をもちつつも、心の明敏さをあらわした御歌である。「背子」と呼ばれる御方が、親しくその労作に関係されること、女君も同じく関心をもたせられる点など、上代の風の思われるものがある。
12 吾《わ》が欲《ほ》りし 野島《のじま》は見《み》せつ 底深《そこふか》き 阿胡根《あこね》の浦《うら》の 珠《たま》ぞ拾《ひり》はぬ
吾欲之 野嶋波見世追 底深伎 阿胡根能浦乃 珠曾不拾
【語釈】 ○吾が欲りし野島は見せつ 「欲りし」は、欲したで、願っていたの意。「野島」、「阿胡根の浦」について、本居宣長は考証している。紀伊国日高郡塩屋の浦の南に、野島という里があり、その近くの海を阿胡根の浦と呼んでいるというのである。現在の、和歌山県御坊市名田町野島。野島は熊野街道にあたっている。「見せつ」は、見しめつで、「見せ」は、他動詞、下二段活用。○底深き阿胡根の浦の 「底深き」は、海の状態をいったもので、下の「珠」に関係している。○珠ぞ拾はぬ 「珠」は、真珠貝で、鮑玉であるが、美しい小石や貝をも称した。珠は上代では、呪力ある物として男女ともに身に着けたが、次第に、女の装身具となったものである。ここはその意味のものと取れる。「拾はぬ」は、上代はすべて「拾《ひり》ふ」といい、「拾《ひろ》ふ」は東歌にあるのみである。野島のあたりの海は、貝の多く寄る所だと、本居宣長が考証している。これも実際に即してのお心である。
【釈】 わが見たいと思っていた野島は見せて下さった。水底《みなそこ》の深い阿胡根の浦の珠の方は、拾わないことですよ。
【評】 野島から阿胡根の浦と、かねて心を寄せられていた地を遊覧された後、その感じられた興趣のなお尽きないものを胸にもってのお歌である。二つの地を一つづきのものとし、道行き風にそれぞれの地に対しての興趣をいわれたもので、野島に対しては、「吾が欲りし」と「見せつ」とで、興趣の満たされたことをいい、阿胡根の浦の方は、「底深き」でその浦の興趣を漂わし、「珠ぞ拾はぬ」で、あこがれの情の、なお残るもののあることをあらわしている。「底深き」「拾はぬ」とは関係があるが、いずれも興趣の上でのことで、因果関係をもったものではない。事としては比較的複雑であるが、安らかに、立体感をもったものとなっているのは、抒情気分で貫いているがためである。珠に興味の中心をおいていられるところ、女性のお心である。
(42) 或は頭に云ふ、わが欲りし子島は見しを
或頭云、吾欲子嶋羽見遠
【釈】 「頭」は、頭句の意で、初二句を意味していると取れる。「子島」は、いかなる土地かわからない。
右、山上憶良大夫の類聚歌林を検ふるに曰はく、天皇御製の歌云々。
右、検2山上憶良大夫類聚歌林1曰、天皇御製歌云々。
【評】 類聚歌林は、この歌を斉明天皇の御製の歌としているというのである。右というのは三首全部か、最後の一首だけを指すのか。異伝にもせよ、前二首は天皇の御製の歌としては、事としてふさわしくない感がある。不明であるが、歌材、歌風から見て全部と解せる。「中皇命」としたのは、資料とした本によったためと思われる。
中大兄《なかつおほえ》【近江宮御宇天皇】三山の歌一首
【題意】 三山は、大和の平野に鼎立している香具山、畝傍山、耳梨山の称で、最高の畝傍山でさえ一九九メートルの低いものであるが、その周囲と三山の状態などの関係から印象的に見える山である。香具山は前に出た。これは東にあたる。畝傍山は、橿原市畝傍町にあり、西にあたる。耳梨山は、橿原市北部にあり、北にあたる。この三山の伝説は、播磨国風土記に出ている。中大兄は、天智天皇の皇子としての御称で、舒明天皇の第一皇子。「中《なかつ》」は中心の意。大兄は敬称である。近江宮は、天皇は近江の国滋賀の大津に都されたからの称。この歌の歌材となっている古伝説は、播磨国風土記の揖保郡の条に載っている。それは「出雲国|阿菩《あぼ》大神、聞2大倭国畝火香山耳梨三山相闘1此欲2諌止1上来之時、到2於此処1、乃聞2闘止1、覆2其所v乗之船1而坐之。故号2神阜1阜形似v覆《ふね》1。」というのである。主としているところは、例の多い、地名の起源伝説で、三山の闘は背後のものである。三山の妻争いについて『全註釈』は、耳梨、畝傍は、古代の城塞であったとみえ、現在でも石鏃が多く発見される。妻争いはそれに脈を引いているのであろうと興味ある解をしていられる。
13 香具山《かぐやま》は 畝火《うねび》を愛《を》しと 耳梨《みみなし》と 相争《あひあらそ》ひき 神代《かみよ》より かくなるらし 古《いにしへ》も しかなれこそ うつせみも 妻《つま》を 争《あらそ》ふらしき
(43) 高山波 雲根火雄男志等 耳梨与 相諍競伎 神代從 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曾 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉
【語釈】 ○畝火を愛しと 「畝火」は、三山中最も男性的に見える山であるところから、「雄男志」を男々しの意に解いていたのを、木下|幸文《たかぶみ》と大神真潮《おおみわましお》とが「愛《を》し」と改めた。「愛し」は、愛すべき意の形容詞。畝火を女神とし、香具山と耳梨山とを男神としたのである。その解に従う。上代は、国土、山海川などの自然物を、神そのものとする信仰があった。本集でも、山では富士が根、筑波山などその適例であり、国では、四国の国々などがそれである。このことは現在でも、山の名にそれをとどめているものが少なくない。○耳梨と相争ひき 「相争ふ」は、妻に獲ようとして、争い合つたの意。○神代よりかくなるらし 「かくなる」の訓は、『略解』のもの。「かく」は、伝説を眼前のものと見てのもの。「らし」は、証拠をもっての推量で、その証拠は、伝統そのものである。神代からこのようにあるだろうの意。○古もしかなれこそ 「古」は、「神代」の繰り返し。「しかなれ」は、下に条件法で「ば」が添っていると同様な心をあらわす古格で、例が少なくない。古もそのようであったればこそ。○うつせみも妻を争ふらしき 「うつせみ」は、現し身で、現世に生きている人の意。幽世《かくりよ》にあると信じていた幽身《かくりみ》に対させたもの。「も」は、もまたの意のもの。今、世に生きている者もまたというにあたる。「妻を」は、三音一句のもの。「争ふらしき」の「らしき」は、上の「こそ」の係の結び、連体形。意は、上の「らし」と同じで、眼前に、妻争いをしているのを証としての助動詞。「らしき」の形は、早く亡びてしまった。
【釈】 男神の香具山は、女神の畝火山がかわゆいと思って、男神の耳梨山と、互いに争った。神代でもこのようであるらしい。昔もそのようであったればこそ、今現に生きてる身も眼前に妻を争うらしいことよ。
【評】 この歌を読むと、おのずから中大兄の皇子と、大海人の皇子とが、額田王を中にしての妻争いの事件が連想されてくる。その事件は前にも触れたように、額田王は初め大海人の皇子に召されて十市《とおち》の皇女を生んだのであるが、後、中大兄の皇子に召されてその妃となったのである。事の委曲は不明であるが、額田王は心ひそかに大海人の皇子を思っていたらしい消息が、後に出る歌によってうかがわれる。この作は、反歌によって播(44)磨の地において作られたもののように見えるが、それは皇子が、斉明天皇の筑紫に向かわれる行幸の供奉としての旅であって、額田王も同じく供奉に加わっていたのである。皇子は播磨に来られると、その国に伝わっている大和三山の妻争い古伝説を思われ、それが刺激となって、平常念頭にある御自身の妻争いのことを強く思い出し、尊むべき神代にしてなお妻争いをしている。人の世の自分がそれと同じ事をしたのは当然のことであると、御自身の行動を是認し、肯定しようとするのが作意であったと思われる。一首の中心が、結句の「うつせみも妻を争ふらしき」にあるのを見ても、そのことは明らかである。すなわち皇子の抒情歌で、古伝説はそれを具象化する手段にすぎない歌である。
表現は特色がある。全体として、素朴で、雄勁《ゆうけい》で、したがって簡潔で、太い線を直線的につづけて、その中心である結句に向かって、一気に詠み下したものである。「神代よりかくなるらし古もしかなれこそ」と、その重大な部分を操り返しを対句に近い形として用いられているところ、古風に新味を加えたもので、その時代を思わせるものである。まさに王者の気息というべき作である。
反歌
14 香具山《かぐやま》と 耳梨山《みみなしやま》と 会《あ》ひし時 立《ときた》ちて見《み》に来《こ》し 印南国原《いなみくにはら》
高山与 耳梨山与 相之時 立見尓來之 伊奈美國波良
【語釈】 会ひし時 「あふ」は、敵対する意。戦いも、たたきあいで、類似の語。日本書紀の神功巻の歌に、「うま人は、うま人どちや、いと子はも、いと子どち、いざ合はな吾は」とある「合はな」は、戦いの意で、ここの用法にあたる。○立ちて見に来し 「立ちて」は、旅立ちしてで、出雲より。「見に来し」の「し」は連体形。諌止しようとして来た意で、主格は、阿菩《あぼ》大神である。○印南国原 「印南」は、高砂市、加古川市から明石市にかけての平野。「国原」は、(二)の歌に出た。一区画の地の称。この歌では、阿菩大神の古跡は、印南郡となっていて、風土記とは一致しない。この伝説は揖保郡だけのものではなく、印南郡にもあったものだろうという。ありうべきことである。また、風土記では、阿菩大神は神阜《かむおか》にとどまられたので、上代の信仰により、神阜はすなわち阿菩大神なのであり、この御歌では、国原なのである。句の下に感歎が省かれている。
【釈】 香具山と耳梨山とが戦った時に、出雲より旅立ちをして、見て諌止しようとして来たところのこの印南国原よ。
【評】 この反歌は、長歌との関係からいうと、長歌の作因であるところの神代の妻争いということを具体的に立証しているものである。すなわち長歌を支えているもので、その際の皇子の主観を強力に立体的にする役を負っているものである。またこの時代には反歌がなくて、あっても長歌の結末の繰り返しに終わったのであるが、この反歌は、長歌とは別の観点に立っての取材で、したがって変化のあるもので、その意味では、後の柿本人麿によって開拓された手法のその先蹤をなしている趣のあるものである。
15 わたつみの 豊旗雲《とよはたぐも》に 入日《いりひ》さし 今夜《こよひ》の月夜《つくよ》 清明《あきらけく》こそ
渡津海乃 豐旗雲尓 伊理比紗之 今夜乃月夜 清明己曾
【語釈】 ○わたつみの 「わたつみ」は、海の神の意で、転じて海の意にも用いられたもの。ここは海。山祇《やまつみ》と対する意。○豊旗雲に 「豊」は美称であるが、豊かの意をもったもの。旗雲は、長く旗のごとき形をした雲の称。○入日さし 「さし」は、訓みがさまざまになっている語で、「さし」はその中の有力な一つ。眼前の光景を叙したものであるから、この訓みに従う。「さし」は中止形である。○今夜の月夜 「月夜」は、「夜」はここは接尾語で、月の意。○清明こそ 「清明」は、訓みがさまざまである。「あきらけく」は、『考』を初めとして諸家の取っている訓みである。「豊旗雲に入日さし」は、夕焼けである。夕焼けすると晴れるとは現在もいっていることで、こうしたことは古も同様で、思いも言いもしていたことであろう。ここは晴れを推量してのよろこびである。四句までの歌柄が大らかで、直截であるところから、この訓みが最も適切だと思われる。「こそ」は係で、下に「あらめ」が省略されている。例のある語であり、推量してのものであるから、これまた適切と思われる。
【釈】 海の上の豊かな旗雲に入り日がさしていて、今夜の月は真明るく照ることであろう。
【評】 編集者は左注で、「右の一首は、今案ふるに反歌に似ず。但し旧本この歌を以て反歌に載す」と断わっている。疑っているとおりの感がある。原本に、上の長歌、反歌とともにあったからのことで、その原形を重んじてのことと思われる。それだとこの歌は、長歌、上の反歌とともに播磨の海岸において詠まれたものだろうと想像するほかはないものである。また、それだとすると、時は、斉明天皇筑紫の筑前へ行幸の途中であって、途も海路を取られた際の歌である。そのことはこの歌の作因も語っていることである。作因は、海路の緊要事である天候の平穏を思われてのもので、月の清明を推量されたのは、一にそのためだということが察しられる。
「わたつみの豊旗雲に入日さし」という、眼前の大景を双されての表現は、その大らかにして美しく、声調の張っているところ、無類なものである。転じて、「今夜の月夜あきらけくこそ」と、一首の中心に入られるところも、上と調和をもったもので、いささかの弛みもないものである。「こそ」で結んで下を省路に付されたところも、その際の皇子には、心足るものであって、適切な技法であったろうと思われる。一首、絶唱というべきものである。
(46) 右一首の歌、今|案《かんが》ふるに反歌に似ず。但し、旧本この歌を以て反歌に載す。故《かれ》、今猶この次に載す。また紀に曰はく、天豊財重日足姫天皇《あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと》の先の四年乙巳に、天皇を立てて皇太子となすといへり。
右一首歌、今案不v似2反歌1也。但、舊本以2此歌1載2於反歌1。故、今猶載2此次1。亦紀曰、天豐財重日足姫天皇先四年乙巳、立2天皇1爲2皇太子1。
【評】 「紀に曰はく」の一節は、皇子の位置の考証である。「先の四年乙巳」は、斉明天皇の、先に皇極天皇にましました時の意である。
近江大津宮御宇《あふみのおほつのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代 天命開別《あめみことひらかすわけ》天皇、謚を天智天皇と曰す
【標目】 近江の大津の宮は、天智・弘文二代の宮室であるが、ここには天智天皇の御代として挙げてある。その址は、現に大津市の付近にあり、南滋賀町、滋賀町、錦織町など諸説がある。天命聞別天皇は、天智天皇の御称号である。その下の「謚」以下は元暦校本以後の古写本にある。
天皇、内大臣《うちのおはおみ》藤原|朝臣《あそみ》に詔《みことのり》して、春山の万花の艶、秋山の千葉の彩を競憐《あらそ》はしめ給ひし時、額田王、歌を以《も》ちて判《ことわ》れる歌
【題意】 内大臣は、宮廷奉仕の臣の首班で、藤原朝臣は、藤原鎌足。藤原の氏は、天智天皇の八年に賜わったもので、その前は中臣氏であった。名を書かないのは、敬意よりのことである。また朝臣は、天武天皇の御代に藤原氏に賜わった姓《かばね》で、すべて前へめぐらしての称である。万花の艶の艶は、美で、花の美しさ、千葉の彩の彩は色で、黄葉の美しさで、競隣はしめは、その優劣を争わしめられたのである。これはいわゆる春秋の争いで、文芸的な遊びである。漢文学の影響と見るべきものである。このことは、平安朝時代に盛行し、その後にも及んだものである。こうした遊びが天皇の詔により、鎌足を執行者として、朝廷において、廷臣の間に催されたのである。歌を以ちて判るは、その優劣を歌をもって定める意で、意見を歌としたのである。
(47)16 冬《ふゆ》ごもり 春《はる》さり来《く》れば 鳴《な》かざりし 鳥《とり》も来鳴《きな》きぬ 咲《さ》かざりし 花《はな》もさけれど 山を茂《しげ》み 入りても取らず 草深み 取《と》りても見《み》ず 秋山《あきやま》の 木《こ》の葉《は》を見《み》ては 黄葉《もみち》をば 取《と》りてぞしのふ 青《あを》きをば 置《お》きぞ歎《なげ》く そこし恨《うら》めし 秋山《あきやま》吾《われ》は
冬木成 春去來者 不喧有之 鳥毛來鳴奴 不開有之 花毛佐家礼抒 山乎茂 入而毛不取 草深 執手母不見 秋山乃 木葉乎見而者 黄葉乎婆 取而曾思努布 青乎者 置而曾歎久 曾許之恨之 秋山吾者
【語釈】 ○冬ごもり 語義は諸説があるが、冬の季節がまだ残っているという解に従う。意味で春にかかる枕詞。○春さり来れば 「さり」は進行移動を意味する語で、「し(後)さる」が後《し》りに動く、「居ざる」が居たままに動くと同じだという解に従う。春が移って来れば、すなわち春になればの意。○鳴かざりし鳥も来鳴きぬ 冬の間は鳴かなかった鳥で、鶯などを心に置いた語。「も」は、下の花と並べたもの。「来鳴きぬ」は、来て鳴いた。○咲かざりし花もさけれど 「さけれど」は、「さきあり」の約《つづ》まった咲けりの已然形。冬の間は咲かなかった花もまた咲いたけれどもで、花は梅、桜など、木に咲く花を心に置いていったもの。この二句は上の二句と対句になっている。○山を茂み入りても取らず 「山を茂み」は、山が茂くて。茂くは、春の草木が茂くの意。「入りても」は、山に立ち入ってもで、「も」は、下の「取りても」と並べたもの。山は大津の宮の辺りのもの。「取らず」は、折り取らずで、花を愛すれば、手に折り取らずにはいられない意でいったもの。○草深み取りても見ず 「草深み」は、草が茂くなっていて。「取りても見ず」は、花を折り取って、しみじみと見ることもしない。二句、上の二句と対句。これまでで一段。○黄葉をば取りてぞしのふ 「黄葉」は、草木の葉の紅にあるいは黄に変ずる意の動詞で、上二段活用の連用形を体言としたもの。「をば」は、下の「青きをば」に対させた意。「しのふ」は、當美する意のもの。しのふの「ふ」は古くは清音であった。○青きをば置きてぞ歎く 「青きをば」は、黄葉しない性質の青葉をば。「置きて」は、そのままにさし置いてで、すなわち折り取らずして。「歎く」は、その黄葉しないことをあきたらず感じて歎く意。二句は、上の「黄葉をば」の二句と対句。○そこし恨めし 「そこ」は、その点の意で、上の「青きをば」の二句を承けたもの。「し」は、強意の助詞で、秋のその点だけが。「恨めし」は、すなわちあきたらず、不足として、恨みにするの意。以上、一段。○秋山吾は 「秋山」は、下に詠歎がこもっている。秋山の方よ。秋山の方が優っているとする判定の語。「吾は」は主語。
【釈】 春が移って来ると、冬の間は鳴かなかった鳥も、来ては鳴いた。咲かなかった花もまた咲いたが、山の草木が茂くて、入り立ってその花を手に折り取りもしない。草が深いので折り取ってしみじみと見ることもしない。秋の山の木の葉を見る時には、黄葉したのを折り取って賞美をする。黄葉しない木の方は、そのままにさしおいて、嘆息する。その点だけが恨めしい。秋山の(48)方よ私は。
【評】 この歌の題詞である春秋の優劣論は、近江朝が文化の面で、時代的にいかに突端を行こうとしていたかを思わせるものである。農業国であるわが国では、自然現象は、信頼と畏怖とを一つにしたもので、万人の胸に、ひとしく重圧となってのしかかってきているものである。そうした自然現象を、距離を置いてみて、美と感ずるという余裕などなかつたと思われる。まして自然美の代表を春秋とし、美という観点からその優劣を論ずるなどいうことは自然発生としてはあるべからざることで、これは一に漢文学の模倣だったのである。すなわち漢文学の教義をもっている貴族が、文雅な遊戯として行なったにすぎないことだったのである。額田王は、女性ながらにその会に加わっていたとみえる。優劣の判定は、もとより口頭語をもってしたろうと思われるが、王がそれをいうことになった際、即座に長歌形式をもってそれを述べたのが、すなわちこの歌であろう。これは題詞そのものにも劣らぬ尖端的なことで、まさに話柄になったものであろうと思われる。
歌は三段より成っていて、春と秋の特色をあげて比較することに二段を与え、最後の一段でその判定をしているもので、まさに論理的である。しかし一篇を貫いているものは、作者の感情で、それもきわやかに個性を示した特色のあるものである。
個性というのは、額田王の女性としての心情である。春山の花、秋山の黄葉の美も、それを美と感ずるのは、距離を置いて、遠く眺めてのそれではなく、近寄って、手に折り取って、しみじみと賞美しうることを条件としてのもので、優劣の差は、一にその事のできるできないによって定まるのである。これは、名は自然であり、春秋であるが、実は愛玩に堪える美しいものということであって、男性の興味というよりは、女性の興味というべきである。しかも、手に折り取れるということを条件として、秋山の黄葉の方を優れりとしているのであるが、それにもまた条件を付して、「青きをば置きてぞ歎く」といって、全面的に優っているとはいわずにいる。これは婉曲を欲しての言い方という末梢的のものではなく、秋山の全面的に、一様に黄葉しないのをあきたらずとする心のもので、純粋を求めてやまない心の現われと見られ、ここに女性の心情の機微があると思われる。「歎く」といい「恨めし」といって、力強くいっているのは、その要求からと思われる。最後の判語は、「秋山吾は」の一語であるが、これは、簡潔というよりも、その場合の実情に即しての敏活な言い方で、生動を覚えるものである。なお、春山の方は、「鳥も」「花も」といい、「入りても」「取りても」といって、対句とともに、微細な点にも均斉を保たせ、秋山の方は、「黄葉をば」「青きをば」と、同じ心づかいをしている点も、細心のほどを思わせる。この個性的な微細な感受を、論理的な構成に溶かし、整然と、安らかに、抒情味を漂わせつつ詠んでいるのは、優れた手腕と称すべきである。
なお、この歌は、意としては議論で、それを歌をもって述べているのは、歌を実用性のものとする態度であるが結果から見ると、文芸性のものとなっている。この交錯は時代のさせているものである。
(49) 額田王、近江国に下りし時作れる歌。井戸《ゐのへの》王即ち和《こた》ふる歌
【題意】 「近江国に下りし」は、近江大津宮の天智天皇に召されてのことと解される。それだと「下りし」は異例な語で、都は近江にあったのだから、当然「上る」とあるべきだからである。諸説があるが、『全註釈』は、これは資料となったものにこのように書いてあったのを、そのままに写したもので、題詞を書いた人は天武天皇時代の人で、近江を地方とする気分があったためであろうといっている。それに従う。井戸王は、伝が未詳である。「即ち和ふる」は、額田王が歌を詠まれると、ただちに唱和した歌の意である。これも通常は別に書くべきであるのを、ただちに続けているのは異例である。資料にあったままを写したと解すべきであろう。その歌は次の歌と解される。それだと、歌によって女王と知られる。額田王に随行していたと解される。なお、一緒にいる人が歌をもってものをいった場合、傍らにいる人は、同じく歌をもって唱和することは当時の風習となっていたこととみえて、その例が多い。口承時代、歌は謡って表示をし、相手も同じく謡って表示をすることになっていた、その延長と解される。
17 味酒《うまざけ》 三輪《みわ》の山《やま》 あをによし 奈良《なら》の山《やま》の 山《やま》の際《ま》に い隠《かく》るまで 道《みち》の隈《くま》 い積《つも》るまでに つばらにも 見《み》つつ行《ゆ》かむを しばしばも 見放《みさ》けむ山《やま》を 情《こころ》なく 雲《くも》の 隠《かく》さふべしや
味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 伊隱万代 道隈 伊積流万代尓 委曲毛 見管行武雄 數々毛 見放武八万雄 情無 雲乃 隱障倍之也
【語釈】 ○味酒三輪の山 「味酒」は、うまき酒で、和名抄に「日本紀私記云、神酒和語云2美和1」とあって、古くは神酒《みき》をみわといったので、同意の語を畳む関係で、三輪の枕詞としたもの。「三輪の山」は、奈良県磯城郡三輪町の東方にあり、大和東方の連山中の最高の山で、大神《おほみわ》神社の神体としている山である。飛鳥地方では最も印象的な山である。「山」の下に詠歎の意の助詞のある意のもの。○あをによし奈良の山の 「あをによし」は、奈良を讃えた意の枕詞で、古いもの。語義は未詳であるが、青い土。「よし」は、呼びかけの「よ」に強意の、「し」の合したものとする解が有力である。「奈良の山」は、平城京の北方に横たわっている低い連山で、大和国より近江国に行くには、それを越して山城国の相楽《さがら》または木津へ出るのである。その道を今歌姫越という。○山の際にい隠るまで 「山の際」は、山の間で、奈良山の連山の間。「い隠る」は、「い」は、接頭語。「隠る」は、古くは四段活用で、隠れるまで。○道の隈い積るまでに 「隈」は道の曲がり角の所で、山道には当然あるものとしていっ(50)たもの。「い積る」は、「い」は接頭語。「積る」は、数多く重なる意。この二句は、上の二句と対句で、次第に距離の遠くなる意を具象的にいったもの。○つばらにも見つつ行かむを 「つばら」は、『考』の旧訓。例のあるもの。つまびらかに、すなわち十分にで、「も」は、感歎の助詞。「見つつ行かむを」は、見つつは、継続。「を」は詠歎の助詞で、ものをの意。○しばしばも見放けむ山を 「見放ける」は、遠く望む意。「を」は、上に同じ。この二句も上の二句と対句。○情なく雲の隠さふべしや 「情なく」は、無情にもで、雲に対しての恨み。「隠さふ」は、古くは四段活用で、その未然形に継続の助詞「ふ」の添ったもの。隠しつづけるの意をあらわすもの。「や」は、反語で、「やは」にあたる。
【釈】 三輪の山よ、その山を国境の奈良の山の、連山の間に隠れるまでに、山路の曲がり角の積もり重なるまで、十分に見つづけて行こうものを、しばしばも遠く見ようとする山であるものを、無情に雲が隠しつづけるべきであろうか、あるまい。
【評】 額田王が、近江大津宮の天智天皇に召され、住みなれた飛鳥の地を去って旅路に向かい、今、故郷の見納めとなるべき奈良山の上に立たれた際の感懐である。惜別の情の堪えないものがあって、普通だと短歌でも足るべきことを、長歌形式とし、しかも古風の謡い物風のものとして、その綿々の思いを叙したものである。しかし、謡い物風とはいえ、じつに文芸味の多いものとして、その哀感を尽くしている作である。
起首、突如、「味酒三輪の山」と呼びかけての表現は、非凡である。三輪山は飛鳥の里の目標となるもので、また、その里における一切の思いをも包容しうる山である。さらにまた、今も眼にしうるものはその山だけで、まさに視界から消えようとしている山でもあるのである。その山を呼びかけ、それによって哀感を統一づけて尽くそうとするのは、非凡なる表現技法というべきである。「山の際に」「道の隈」と、対句を用いて、その山に対する愛着を具象し、さらに、「つばらにも」「しばしばも」と、同じく対句を用いて、その愛着を深めた上で、一転して、「情なく雲の隠さふべしや」と、その深い愛着の裏切られたことを恨んでいるところ、余情の限りないものがある。優れた作と(51)いうべきである。
なお、表現技法についていえば、この長歌は短いものであるにかかわらず、対句を二つ重ねてあって、対句を主とした観のあるものである。その対句も、ほとんど繰り返しに近いもので、古風なものである。また、一首全体としても平明であって、その意味で謡い物に近いのである。しかし同時にそれらは、簡潔にして含蓄あるものとなっていて、その意味では文芸的のものとなっているのである。この時代を思わせる作風である。結句の五三七の形も、同じくこの時代の風である。
反歌
18 三輪山《みわやま》を しかも隠《かく》すか 雲《くも》だにも 情《こころ》あらなむ かくさふべしや
三輪山乎 然毛隱賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉
【語釈】 ○しかも隠すか 「しか」は、そのように。「も」は、詠歎の助詞。「か」は、ここは詠歎の助詞。そのようにまでも隠すのかなあ。○雲だにも情あらなむ 「だに」は、重きを言外に置き軽きをいう助詞。せめて雲だけなりとも。「なむ」は、未然形に接して希望をあらわす助詞。
【釈】 三輪山をそのようにまでも隠すのかなあ。雲だけなりとも情があってほしいものである。隠しつづけるということがあるべきだろうか、あるべきではない。
【評】 長歌の結末を反復した意の反歌で、反歌の本来のものである。結末と異なっているところは、「雲だにも」と「雲」に「だに」を添えていることである。これは雲という自然物を他と比較し、本来|情《こころ》なきものにそれを要求しているところから、情あるべきものにそれのないことを暗示しているものである。そうした者は王と関係の深い人でなくてはならない。そしてそれには直接に触れていないのである。一首三段に分かれていて、暗示にとどめてはいるが、昂奮した心をもっての恨みである。これも長歌と同じく、三輪山の雲を対象としたものではあるが、長歌のしめやかに静かであったのとは異なって、にわかに鋭さをあらわしきたって、長歌以上に抒情気分をあらわしたものとしている。叙事的なのを抒情的に、平面的なのを立体的にしているところ、長歌と短歌の特色を示しているといえる。
右二首の歌、山上憶良大夫の類聚歌林に曰はく、都を近江国に遷しし時、三輪山を御覧せる御歌なりといへり。日本書紀に曰はく、六年丙寅春三月辛酉の朔にして己卯の日、都を近江に遷しきといへり。
(52) 右二首歌、山上憶良大夫類聚歌林曰、遷2都近江國1時、御2覽三輪山1御歌焉。日本書紀曰、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、遷2都于近江1。
【釈】 「御歌なりといへり」までは、類聚歌林の説である。「御歌」は天皇御製の歌の意と取れる。そういう伝もあったのである。「日本書紀」以下は、撰者の注である。「丙寅」は五年で、「六年」とあるのとは一致しないというので、問題とされている。類聚歌林の説は尊重すべきであるが、遷都をされた天智天皇が、こうした哀感を有していられたとは思い難い。また作風は明らかに女性のもので、この敏感と繊細味は、男性といううち、英邁な天皇の作とは思い難い。
19 綜麻県《へそがた》の 林《はやし》の始《さき》の さ野榛《のはり》の 衣《きぬ》に着《つ》くなす 目《め》につくわが背《せ》
綜麻形乃 林始乃 狹野榛能 衣尓着成 自尓都久和我勢
【語釈】 ○綜麻県の 『代匠記』の訓みである。「綜麻」は地名で、「県」はあがた。所在は不明である。現在、滋賀県の栗東町付近という説もある。「綜麻」は、績《う》んだ麻を円く巻いたものの称で、それと何らかのつながりのある地名か。○林の始の 「始」は、先端の意で、現在用いている口語の、「とっつき」にあたる。○さ野榛の 「さ」は接頭語。「野榛」は、野にある榛の木。榛は、現在の「はん」の木にも萩にも用いる字であるが、「はん」の木とする解に従う。その皮や実は煮汁として染料に用いる物。「野榛」は野にある榛で、用の多い木であるから屋敷木にもしたとみえ、それに対する称と解される。○衣に着くなす 衣に着くは、染料としてよく染まる意。「なす」は、のごとく。以上四句は、結句の「目につく」の「つく」に同音の関係で掛かる序詞。五句の歌の四句までを序詞とするのは、他に例もあるが、珍しいものである。○目につくわが背 「目につく」は、現在の口語にあるもの。「つく」は連体形。「わが背」は、女性の男性を親しんで呼ぶ称で、下に詠歎が含まれている。
【釈】 綜麻県の林のとっつきに生えている野榛の、染料として衣に染みつくように、目につく吾が背よ。
【評】 この歌は題詞の「井戸王即ち和《こた》ふる歌」とあるにあたるものと取れる。和え歌にはふさわしくないから、何らかの誤りの伴っている歌であろうとして、諸説のあるものである。しかし必ずしも誤りとも思えない歌である。題詞の解でもいったように、人が歌をもって抒情をした際は、傍らにいる人は、それに和える心をもって同じく歌で抒情をすることが風習となっていた。これもそれで、「即ち」という語はその間の消息を示しているようにみえる。井戸王が額田王に親しく、その心の機微を感じうる女性であったとしたら、額田王の三輪山に対する深い惜別の情と、雲に対する強い恨みとの背後に、一人の男性のあることを感取したということも、ありうべからざることではない。しかしそのことは、口にのぼすべき性質のものではないので、顧みて他をいう態度を取って、自分も綜麻県の地に、同じく思う男性を残して来て、恋しく思っているという心を、額(53)田王の作風に似せて、謡い物風の作にして和えたのであろうと解せられる。親しい女性同士で、やや年齢をした者の間には、この種のことが、古も今と異ならず行なわれていたろうと思われる。それだと、この和え歌は、その際の額田王にはいい慰めとなったことと思われる。以上のように解して、この歌はさして不自然なものではないのみならず、むしろ巧妙な作と思う。一首の歌としても、四句の長序が、そうしたものの陥りやすい語戯とならず、「わが背」という人の住んでいた地を具体的に暗示する内容をもったものともなってき、力量ある作ともなってくる。
右、一首の歌、今案ふるに、和ふる歌に似ず。但し、旧本此の次に載す。故《かれ》、猶載す。
右一首歌、今案、不v似2和歌1。但、舊本載2于此次1。故以猶載v焉。
天皇、蒲生野《がまふの》に遊猟し給ひし時、額田王の作れる歌
【題意】 蒲生野は、滋賀県近江八幡市、武佐の東蒲生郡安土町、内野から八日市市蒲生野、野口、市辺にわたる野といい、古の名残りをとどめているという。遊猟のことは左注によると、天皇の七年五月五日のことである。額田王も盛儀に加わっていたのである。
20 茜草《あかね》さす 紫野|行《ゆ》き 標野《しめの》行《ゆ》き 野守《のもり》は見《み》ずや 君《きみ》が袖《そで》振《ふ》る
茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
【語釈】 ○茜草さす 茜いろのまじっている意。「茜」は、草の名であるとともに色の名ともなっている。ここは色である。草としての茜は、蔓性の茜草科の多年生植物で、根は赤く、それから赤色の染料を取る。古代紫の色は赤味を帯びているので、紫の修飾語から枕詞となったもの。○紫野行き 「紫野」は、紫草を作ってある野で、題詞の蒲生野の一部である。紫草は、紫草科の多年生植物で、その根が紫色をして、それから紫色の染料を取った。紫色は当時貴重な色としており、需要が多かったが、野生の物はすでに少なくて需要が満たせず、諸国に命じて栽培させていた。この紫野もその範囲のもので、紫草を作っている野の意。「行き」は、歩きで、主格は君。○標野行き 「標野」は、その野を占有しているしるしの繩張り、あるいは杙《くい》を立てて、他人の立ち入りを禁じた野で、上の紫草園を語を替えていったものである。「行き」は、上と同じ。○野守は見ずや 「野守」は、上の紫野すなわち標野の番人である。「見ずや」は、「や」は疑問の助詞で、見ないであろうかで、この句は独立した挿入句である。○君が袖振る 「君」は皇太子大海人皇子。袖振るは、やや遠くいて愛情表示のためにするしぐさで、例の多いものである。佐伯梅友氏は、本集には、「が」「の」の助詞を含んでいる句で、終止形で結んだものはなく、すべて連体形で結んでいる、といっていられる。すなわち(54)係のない結びになっていて、したがって詠歎を含んでいるというのである。ここはそれで、袖を振ることよの意である。
【釈】 紫草を作ってある野を歩き、その立ち入りを禁じられている野を君は歩いて、野守は見ないであろうか。君はわたしに袖を振っていることであるよ。
【評】 薬狩は、男は鹿の落し角を拾い、女は薬草を摘むことになっている行楽で、したがって自由行動の取れる場合である。この歌から想像すると、額田王は天皇の傍らを離れて、たぶん侍女とともに野を漫歩していられ、辺りに人目がなかったとみえる。前の夫君であられた大海人皇子は、やや遠くそのさまを認め、王に近づこうとして、立ち入り禁止の紫草園をもかまわず内に立ち入り、王に向かって、愛情表示のしぐさとなっていた袖を振ることをされたのである。それを認めた額田王は、その心をうれしく受け入れて、「茜さす紫野行き標野行き」という、事としては無法であるが、心としては一瞬うれしく感じたことを、「紫野」「標野」という異語同義の畳句の、華麗さを連想させる言葉をもって叙したが、つと心づいて、「野守は見ずや」という不安に襲われたのである。そしてはじめて事の主体を捉えて、「君が袖振る」と、うれしさと不安さの一つになった、歎息に近い心をもって結んだのである。これは迎えての解のようであるが、この歌は贈歌であって、作意は皇子の行動を制止するにあるはずと思われるのに、それとしては、制止の心も微弱であり、訴えの心もほとんど見えず、むしろ皇子の行動に陶酔し、中間に、つと不安を感じつつも、その行動を客観的に描写した趣の勝ったものとなっているのである。さらにいえば、皇子の行動を認めた際の王の一瞬時の主観の具象化という趣のある歌である。集中、額田王の歌は少なくないが、この歌ほど王の心境の端的をあらわしたものはない。一首の歌として見ても絶唱である。
皇太子の答へませる御歌 【明日香《あすか》宮御宇天皇 謚して天武天皇と曰す】
【題意】 皇太子は、日嗣の皇子《みこ》すなわち天皇の嫡嗣の称で、この時の皇太子は、皇弟大海人の皇子である。前の歌の「君」がこの御歌で明らかである。注は、皇太子に対してのもので、後に明日香宮に御宇《あめのしたしら》しめしし天皇の意である。天武の謚号は、奈良時代に入ってのもので、元暦校本以後の古写本に見える。
21 紫《むらさき》の にほへる妹《いも》を にくくあらば 人妻《ひとづま》ゆゑに われ恋《こ》ひめやも
紫草能 尓保敞類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方
(55)【語釈】 ○紫のにほへる妹を 「紫」は、ここでは色にしていったもの。「にほへる」は、色についていったもので、色の含みをもって美しい意をいう語。紫色のごとく、含みをもった美しい妹をの意。○にくくあらば いとわしく思うならば。○人妻ゆゑに 「人妻」は、他人の妻。「ゆゑ」は、理由、縁故をいう語。他人の妻であるのに。○われ恋ひめやも 「やも」は、「む」の已然形「め」を受ける時は反語となる。われは恋いようか、恋いはしないの意。
【釈】 紫のにおっているようなあなたをいとわしく思うのであったら、他人の妻であるのに、わたしは恋いようか、恋いはしない。
【評】 贈答の答歌には型があって、贈歌の用語を捉えて異なる意を盛り、反対な事をいうことになっている。この御歌もその範囲のもので、贈歌の紫は草であるのに、答歌では色としている。しかしそれは、尊重されている紫のように色うつくしいあなたと続けて、王の美貌を讃える語としている。そして、額田王の婉曲な制止を受けて、人妻に恋いすべきではないことは弁えているが、あなたを憎く思っていないからするしぐさだ、恋しいからのことだといっているのである。思慮あり勇気ある堂堂たる男子の、余裕をもっての歌で、しかも答歌の型に従ってされている御製である。額田王の陶酔と敏感と相俟った麗わしい歌に対させると、闊達、直截な御製で、その比類なき点においては劣らざるものである。
紀に曰はく、天皇の七年丁卯の夏五月五日、蒲生野に縦猟したまふ。時に大皇弟、諸王、内臣、及び群臣、悉《ことごとに》皆従ひきといへり。
紀曰、天皇七年丁卯夏五月五日、縱2※[獣偏+葛]於※[草がんむり/補]生野1。于v時大皇弟、諸王、内臣、及群臣、悉皆從焉。
【注】 「紀」は日本書紀。「縦猟」は、薬狩のことで、前出。「大皇弟」は、大海人の皇子。「諸王」は、皇族のうち、王と称せられる方々。「内臣」は、中臣の鎌足。「群臣」は、広く地方官をもふくめての称。
明日香清御原宮御宇《あすかのきよみはらのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代 【天渟中原瀛真人《あめのぬなはらおきのまひと》天皇謚して天武天皇と曰す】
【標目】 明日香は、奈良県高市郡の内で、今明日香村といっている地を中心に、その付近をも含んだ地方の総名である。清御原宮は、天武天皇の宮室で、天皇の元年の冬にお遷りになられた。その地は、現在の明日香村の小学校の付近だろうと喜田貞吉氏は考証している。雷岡の南である。
(56) 十市皇女《とをちのひめみこ》、伊勢の神宮《かむみや》に参赴《まゐむ》きし時、波多《はた》の横山《よこやま》の巌《いはほ》を見て、吹※[草がんむり/欠]刀自《ふぶきのとじ》の作れる歌
【題意】 十市皇女は、天武天皇の皇長女で、御母は額田王。弘文天皇の妃となって葛野王をお生み申したが、壬申の乱後は、御父天皇の許にいられた。この参宮は、左注にもあるように阿閉《あべの》皇女の御同行であったが、吹※[草がんむり/欠]刀自は十市皇女に奉仕していた者といふ関係上、阿閉皇女の方は省略したものと取れる。波多の横山は、伊勢への途中にある土地で、今の三重県松阪市から、伊勢への途中に波太村というがあり、そこだろうという。通路は波瀬《はぜ》川に沿っている。横山は、横に長く続いている山勢の称。吹※[草がんむり/欠]刀自は、伝未詳である。巻四にも歌がある。吹※[草がんむり/欠]は食用植物の蕗であるが、氏か名か不明である。刀自は、一家の主婦に対する称。
22 河《かは》の上《へ》の 斎《ゆ》つ巌群《いはむら》に 草《くさ》むさず 常《つね》にもがもな 常処女《とこをとめ》にて
河上乃 湯都盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女※[者/火]手
【語釈】 ○河の上の 「河の上」は、旧訓「かはかみ」を、『略解』の改めたもの。川のほとりの意。○斎つ巌群に 「斎」は、忌み斎《きよ》める意の名詞で、神聖というにあたる。「つ」は、「の」と同じ。「巌群」は、大きな岩石の群れで、古代信仰として巨石には神性を感じた、その意のもの。○草むさず 「むす」は、生える意。草が生えていなかったのである。寓目のその状態に永久を感じ、「常」の比喩としたので、三句「常」にかかる副詞句。○常にもがもな 「常」は永久。「がも」は願望の助詞。「な」は詠嘆の助詞。永久でありたいものであるなあ。○常処女にて 「常処女」は、永久に若い女子の意。処女は若い女子の意で用いられていた。「にて」は、であって。これは十市皇女を対象としてのものと思われる。
【釈】 川のほとりの神聖なる巌の群れに、草が生えていない。永久にあのようにありたいものです、永久の若い女子で。
【評】 巨石信仰を抱いている女性が、その巨石の草の生えない状態に永久の若さを感取し、それを供奉している十市皇女につないで、その常処女であられんことを願った心理は自然である。「常処女」という語はここにあるのみのものであるが、当時、不老不死の神仙思想が行なわれていたので、天女の存在を信じており、それを連想し、支えとしての語であろうと思われる。一首、表現が素朴で、声調が鋭く、女性の作としては珍しいものである。これはその際の皇女の状態につながりのあるものかもしれぬ。
吹※[草がんむり/欠]刀自、未だ詳ならず。但し、紀に曰はく、天皇四年乙亥、春二月乙亥の朝にして丁亥の日、(57)十市皇女、阿閉皇女、伊勢の神宮《かむみや》に參赴《まゐむ》き給ふといへり。
吹※[草がんむり/欠]刀自未v詳也。但、紀曰、天皇四年乙亥、春二月乙亥朔丁亥、十市皇女、阿閉皇女、參2赴於伊勢神宮1。
【注】 吹※[草がんむり/欠]刀自は前にいった。「但し」以下は日本書紀によって、この時を考証したもの。阿閉皇女は、天智天皇の皇女、草壁の皇太子の妃で、文武天皇の御母、即位して元明天皇と申す。
麻続王《をみのおほきみ》の伊勢国伊良虞《いせのくにいらご》の島《しま》に流《なが》されし時《とき》、人《ひと》の哀傷して作れる歌
【題意】 麻続王は、系譜が明らかでない。「続」は「績」と通用文字であった。伊良虞の島は、今は愛知県に属し、渥美町伊良湖崎で島ではなく崎である。古くは伊勢国に属せしめて呼んだとみえ、同様のことが、後にも出る。王のことは、なお(二四)の左注にある。
23 打麻《うちそ》を 麻続《をみ》の王《おほきみ》 白水郎《あま》なれや 伊艮虞《いらご》が島の 珠藻《たまも》苅《か》ります
打麻乎 麻績王 白水郎有哉 射等籠荷四間乃 殊藻苅麻須
【語釈】 ○打麻を 「打麻」は、打って和らげた麻《そ》。「を」は、詠歎の助詞で、「よ」にあたる。それを麻《を》に績《う》む意で、麻続にかかる枕詞。○白水郎なれや 「白水郎」は、漢語で、「あま」に当てたもの。「あま」は、漁人の意。「なれや」は、後世の「なればにや」にあたる語。「や」は疑問の助詞。○珠藻苅ります 「珠」は、美称。「藻」は、食料としての物。「ます」は、いる意の敬語。いらせられる。
【釈】 打麻を麻続王は海人《あま》なのであろうか。伊良虞が島の藻を、刈っていらせられる。
【評】 作者は「人」というだけで、誰ともわからない。また、王も知らない、無関係の第三者である。したがって民謡の条件を備えた歌である。歌そのものも内容は一般性をもっており、感傷的で、調べも柔らかいもので、まさしく民謡的である。たぶん一方、時の人の皇室に対する尊崇の情から王ともある方が、島に流されて、海人《あま》の中にまじっていらせられるということは、怪しくも悲しいことだったろうと思われる。「伊良虞が島の珠藻苅ります」というのは、王の状態を思いやって哀傷する心から、おのずからに生み出した具象化ではなかろうか。
(58) 麻続王、これを聞きて感傷して和ふる歌
24 うつせみの 命を惜しみ 浪に濡れ 伊良虞の島の 玉藻苅り食む
空蝉之 命乎惜美 浪尓所湿 伊良虞能鴫之 玉藻苅食
【語釈】○うつせみの 現し身の転で、生きている身の。(一三)に出た。○浪に濡れ 「濡れ」は原文「所湿」で、「所」は被役をあらわす字で、濡らされの意。○苅り食む 「食む」は「をす」と訓んでいる例もある。「食す」は敬語で、自身のことに用いた例がない。これも旧訓の一つである。
【釈】生きている身の命を惜しんで、浪に濡らされて、伊良虞の島の藻を刈って食べている。
【評】王の上の歌を聞いて和えられた歌は、同じく感傷ではあるが徴底している。「うつせみの命を惜しみ」は、時の人の哀傷は、王ともある身に対してのそれであるが、王はそぅした身分から離れ、一人の人間の立場に立ってのものである。「浪に濡れ」「苅り食む」は、労苦して命をつないでいる意であるが、具象化が巧みである。一首、事としては沈痛であるが、一脈の明るさと軽さがある。表現技法が上の歌と相通っている。この点から見てこの二首は、王の事件を捉えての歌物語ではなかったかと思われる。左注の疑いを挟んでいるのも、その点につながりあるものと解される。
右、日本紀を案ふるに曰はく、天皇の四年乙亥の夏四月戊戌の朔にして乙卯の日、三位麻続王ありて、因幡に流さる。一子は伊豆の島に流され、一子は血鹿の島に流されきといへり。ここに伊勢国伊良虞の島に流さるといへるは、若し疑はくは後人歌の辞に因りて誤り記せるか。
右、案日本紀曰、天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯、三位麻続王有罪、流于因幡。一子流伊豆鴫、一子流血鹿鴫也。是云配千伊勢國伊良虞鴫者 若疑後人緑歌辞而 誤記乎。
【注】撰者の日本書紀によっての考証と、題詞についての疑いである。血鹿の島は今の九州五島である。さらにまた、常陸国風土記には、その行方郡板来村の条に、麻続王がその地に流されて住んでいたといぅことを伝えている。因幡、伊勢、常陸と、諸国にその伝えのあるのは、流所を改(59)められたためともいえるが、むしろ事のあわれさから、そうした伝えを生み出したものかと思われる。
天皇の御製歌
25 み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間なくぞ 雨は降りける その雪の 時なきが如 その雨の 間なきが如 隅もおちず 思ひつつぞ来る その山道を
三吉野之 耳我嶺尓 時無曾 雪者落家留 問無曾 雨者零計類 其雪乃 時無如 其雨乃 問無如 隈毛不落 念乍叙来 其山道乎
【語釈】 ○み吉野の耳我の嶺に 「み吉野」の「み」は、美称。「耳我の嶺は」は、今いずれの峰とものからない。歌の上から見ると、吉野山の中の高蜂であることが知られる。不明なのは、名称の変わったためであろう。○時なくぞ 定まった時がなく。これは高山の常の状態である。○間なくぞ 「間」は、旧訓「ひま」。『古義』が改めた。間断もなくで、すなわち絶えずの意。これも高山の状態である。○隈もおちず 「隈」は、道の曲がり角。「も」は、詠歎の助詞。「おちず」は、漏らさずで、道の隈々の、その一隈さえも漏らさずにで、絶えずの意。○思ひつつぞ来る 「思ひ」は、妹を恋う心である。○その山道を 「その」は、「山道」を強くいうために添えたもの。
【釈】 吉野の耳我の嶺には、その時でもなく、雪が降ることであるよ。絶え間なく雨が降ることであるよ。その雪のいつということのないように、その雨の絶え間のないように、我も山道の曲がり角の多いその一と曲がり角をも漏らさずに、歎きをしつづけて来ることであるよ。その山道を。
【評】この御製歌は題詞がないので、いつ、いかなる際のものかは不明である。しかし御製そのものは、吉野の山中にあって甚しくもの思いをされた意のものであるから、自然、大津宮時代、皇太子を辞して吉野へ退隠された際のものではないかと推量される。
表現は甚だ古樸である。「み吉野の耳我の峰に、時なくぞ雪は降りける、間なくぞ雨は降りける」と、高山の常態として気象の変化がはげしく、雪と雨が襲いとおしにしている実況を叙している。ついでその実況を間断のない比喩として、「その雪の時なきが如、その雨の間なきが如」と、同じく対句としていい、さらに「隈もおちず」と、その間断なさを、身辺の実情を叙することによって深めて、「思ひつつぞ来る、その山道を」と結んでいるのである。これは隈多い山道を、間断なくもの思いをしつつ辿っていられる実情であって、その思いの何であるかには全然触れていない表現である。しかし吉野山の冬の暗い光景と、それを間断なきことの比愉とされての上のことなので、(60)それらが「思ひ」におのずから綜合されてきて、その思いの重大さと重量とが、おのずからに感じられるものとなってきている。その「思ひ」のいかなる範囲のものであるかにも触れていないところから見ると、この御製は全然対者を予想しての訴えではなく、独詠であったろうといぅことを思わせられる。
とにかく一首を読むと、天皇が陰鬱の情にとざされて、吉野山中の山道を辿られるさまが想像され、その全く説明をされざる「思ひ」が余情となって、魅力ある御製となっているのである。表現は上にいったがごとく甚だ古撲で、したがって反歌もないものである。これを皇太子の時期、額田王に和えられた上の歌と比較すると、全く別人の感がある。同じ天皇の心の両面の、その一面のあざやかに現われている御製歌である。
或本の歌
【題意】 「或る本」というのは、本集の資料とは別の資料といぅ意である。詞句の類似の多い歌、作者、作歌事情で伝えの異なっている歌を参考として載せている。
26 み芳野の 耳我の山に 時じくぞ 雪は降るといふ 間なくぞ 雨は降ると いふ その雪の 時じきが如 その雨の 間なきが如 隈もおちず 思ひつつぞ来る その山道を
三芳野之 耳我山尓 時自久曾 雪者落等言 無間曾 雨者落等言 其雪 不時如其雨 無間如 隈毛不堕 思乍叙来 其山道乎
右、句々相換れり。因りてここに重ねて載す。
右句々相換。因此重載焉。
【語釈】 ○時じく (六)に出た。その時ならずして。
【評】前の歌は、耳我の嶺の雪と雨とを、眼に見ているものとして扱っているのに、この歌は、それを話に開いたものとしていっている。すなわち耳我の峰よりは遠く離れた所で謡われた歌と思われる。「時なくぞ」を「時じくぞ」に換えたところにも、この心は現われている。この御製はなお巻十三に別伝があり、また、同巻に流動して民謡化したものもある。その巻に譲る。
天皇、吉野宮に幸しし時の御製歌
(61)【題意】 吉野宮は、吉野川沿岸宮滝がその旧址とされている。吉野上市町をさかのぽること一里ばかりの地である。吉野宮のことは、応神天皇十九年にはじめて見え、雄略天皇も二回行幸のことが見え、斉明天皇の二年、宮をお作りになったことが見えている。皇室に由緒深い地である。
27 淑き人の 良しと吉く見て よしといひし 芳野よく見よ よき人よくみつ
淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三
【語釈】 ○淑き人の 「淑き人」は、古の尊い人を尊んでの称。○良しと吉く見てよしといひし 良い所だと思って、よくよく見て、その上で好い所だといったで、上の「良し」は、良い所と思い、下の「よし」は、好い所と定めたといぅ意を含んでいる。○芳野よく見よ その芳野をよくよく見よと命じた意。命じられたものは供奉の廷臣である。○よき人よくみつ 良き人がよくよく見たことであるで、初二句の意を纏めて繰り返したもの。そぅすることによって三句「よしといひし」の意を認めよということを余意としたもの。
【釈】 古の尊い人が、良い所だと思ってよくよく見て、よい所だといったこの芳野を、人々よ、よくよく見よ。古の尊い人がよく見た所だ。
【評】 吉野宮へ行幸になった襟、供奉の廷臣に向かって、お言葉をもってなさる代りに、当時の風に従って歌をもって仰せになったものと取れる。主意は、この吉野の山水をよくよく見て、その好さを会得せよ。古の尊い人もそれをしたが、それにならってせよというのである。初句より四句まで一と続きに、一わたりのことを仰せられ、結句において繰り返して諭されたもので、心の細かく、自然なものである。「淑き人」と仰せになっている人は、どういう人であるかはわからない。しかし大体として、吉野の山水の美を鑑賞し得た、高い教養をもった人ということであろう。当時にあっては、自然の美の鑑賞ということは、中国文学の刺激を受けて進んできたもので、上流階級の中の少数者に限られたことであった。その趣は懐風藻で窺われる。その意味でこの「淑き人」は、さして古い人ではなく、またそう多くでもなく、仰せになる天皇にも、承る廷臣にも、はぼ見当のついていたことと思われる。この御製は特珠な技巧をもったもので、「よし」という一形容詞を捉え、「淑き」「良し」「吉く」と、音の同じで、意味の近い語を、一首の中に八回までも繰り返されている。これはむろん意図してのもので、頭韻、畳語を意図した歌の中でも代表的なもので、語戯の範囲のものといえる。しかしそうした歌の陥りやすいわざとらしさの感の少ないのは、一つには、山水の美の鑑賞を勧めるという思想的なものであるからだが、それよりも重いことは、仰せになっていることが理ではなくて気分であり、その気分がまた真摯なものであるからである。すなわち戯れの形で真摯な気分をお詠みに(62)なり、それが渾然としたものとなり得ているからである。歌を実用性のものとしていた時代にあっては、当然あるべき形の歌である。
紀に曰はく、八年己卯五月庚辰の朔にして甲申の日、吉野宮に幸しきといへり。
紀曰、八年己卯五月庚辰朔甲申、幸于吉野宮。
【注】 日本書紀によつて、行幸の時を考証しただけのものである。
藤原宮御宇天皇代 高天原広野姫天皇 元年丁亥の十一年位を軽太子に譲りたまふ。尊号を太上天皇と曰す
【標目】藤原宮は、持統天皇の八年十二月、飛鳥淨御原宮よりお遷りになり、文武天皇を経て、元明天皇の和銅三年、寧楽宮へお遷りになるまでの十六年間の宮である。宮址は、奈良県橿原市高殿町に、宮所、大宮、南京殿、北京殿、大君、宮の口などいう字があり、これらはいずれも皇居の敷地の一部であろうという。ここは畝傍、耳梨、香具の三山の間で、香具山を背後にした所である。高天原広野姫の天皇は、持統天皇の御謚号前の御号である。天皇、少名はう(漢字)野の讃良の皇女、天智天皇の第二皇女である。天武天皇の皇后となり、天皇の崩後御即位、在位十年で、草壁皇太子の皇子軽皇子に譲位された。それが文武天皇である。初めの謚号は高天原広野姫の天皇、後の謚が持統天皇である。万葉集からいうと,天皇の御代はその黄金時代で、柿本人麿を初めとしてすぐれた歌人の輩出した時期である。
天皇の御製歌
28 春過ぎて 夏来たるらし 白栲の 衣乾したり 天の香具山
春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
【語釈】 ○夏来たるらし 「来たる」は、「釆至る」の約。「らし」は、証拠を挙げての誰定をあらわす助動詞。証拠は、下の「衣乾したり」である。○白妙の衣乾したり 「白妙」は、白い妙で、妙は栲。本来楮(別字)が木その物の名であったが、その繊維で織った布の名に転じたもの。「白妙の衣」は、当時は上下とも、白い衣を常用していたのである。○天の香具山 (二)に出た。香具山にの意で、衣を乾してある場所としていわれたも(63)の。山の麓に住んでいる者が、日あたりの好い山裾を選んで衣を乾したのである。
【釈】 春が過ぎて夏が来ていると思われる。白妙の衣が乾してある。天の香具山には。
【評】 香具山は、藤原宮の東にある、低い山である。天皇は宮の内から、香具山の上に白い衣の乾してあるのを望ませられ、それは夏になってすることであるところから、季節感を催されての御製である。歌に現われている季節は、大体春と秋で、圧倒的に多い。農業国であるわが国では、生活をとおして季節に関係する以上、これは当然のことである。生活に余裕のある階級の者は、わが国の風土と季節の美を味解することになり、文芸的の意味のいわゆる季節感をもつことになったが、そうなっても春と秋が依然として多い。この御製の季節は夏であって、この当時としては特異なものである。加ぅるに深い感激をもって、夏を肯定していられる。青い山に乾した白い衣は印象的のものと思われるが、衣に引きつけられていられるのは、女帝のためだと思われ、そこに個人性が感じられる。また、一首三段に切れ、強くさわやかにお詠みになっている点は、他の御製と較べても異色あるもので、感激のほどがうかがわれるものである。すなわち季節感に向かって、個性をとおして、文芸化の一歩を進めさせられた御製といえる。
近江の荒れたる都を過ぎし時、柿本朝臣人麿の作れる歌
【題意】 近江の荒れたる都は、天智、弘文二帝の大津宮の、壬申の乱後荒廃に帰していたのをいう。乱ょりこの歌の作られた持統天皇の御代までは、その末年までとしても二十五年である。そこを過ぎし時といぅは、他の事のついでをもってその地を通ったのである。柿本朝臣人麿の伝は明らかではない。柿本氏は孝昭天皇の皇子天押帯日子命ょり出、朝臣の姓は天武天皇の御代に賜わったのである。少壮の頃、舎人として出仕している。舎人は本来、上流貴族の子弟の任ぜられる職で、人麿がそれに加えられていた(64)のは、何らかの事情の伴つてのことと思われるが、その点はわからない。後、他の職に転じ、近江、山城、紀伊、四国、九州に旅をしたことはその作歌によって知られる。晩年、石見国の国司の一人となったこと、また、その任地で没したことも作歌によって知られる。時は奈良時代に入ってのことかと考証されて、位は六位以下であった。伝記の不明なのは、身分低く行績が記録されていないからである。歌人としての人麿は、この時代の代表者であるのみならず万葉集の代表者であり、和歌史上の第一人者でもある。人としての人麿は、皇室に対しての宗教的尊信の情を抱き、個人的には恋愛を生き甲斐としている。歌人としては、わが国古来の伝統の上に立ち、漢文学を摂取して、彼此を融合してわが有となし、古来の歌謡を新文芸に高めるとともに、それを大成したのである。本集にある人麿の作は、その作ということの明らかなものと、柿本人麿歌集と称する歌集にあるものとの二種類がある。歌集の歌の中には、他人の作を備忘のために記したものの、きわめて少数が混じているかに見えるが、他はすべて人麿の作と思われる。これはその取材、表現技法の上で、彼以外の何びとにもなし得ぬ特色をもっているからである。また、人麿の作には、他に例のないまでに別伝が多く、これは作者自身の再案と、伝誦者の誤伝とである。大体は、編集者の本文として伝えているものが正当なものとみられる。
29 玉襷《たまだすき》 畝火《うねび》の山《やま》の 橿原《かしはら》の 日知《ひじり》の御世《みよ》ゆ 【或は云ふ、宮ゆ】 生《あ》れましし 神《かみ》のことごと 樛《つが》の木の いやつぎつぎに 天《あめ》の下《した》 知らしめししを【或は云ふ、知らしめしける》 天《そら》に満《み》つ 大和《やまと》を置《お》きて 青丹《あをに》よし 奈良山《ならやま》を越え【或は云ふ、虚《そら》見つ大和を置き青丹よし奈良《なら》山越えて】 いかさまに 念《おも》ほしめせか【或は云ふ、念ほしけめか】 天離《あまざか》る 夷《ひな》にはあれど 石走《いはばし》る 近江《あふみ》の国《くに》の 楽浪《ささなみ》の 大津《おほつ》の宮《みや》に 天《あめ》の下《した》 知《し》らしめしけむ 天皇《すめろぎ》の 神《かみ》の尊の 大宮《おほみや》は 此処《ここ》と聞けども 大殿《おほとの》は 此処《ここ》といへども 春草《はるくさ》の 茂《しげ》く生《お》ひたる 霞《かすみ》立《た》つ 春日《はるび》の霧《き》れる【或は云ふ、霞立つ 春日か霧《き》れる、夏草か繁くなりぬる】 ももしきの 大宮処 見れば悲しも【或は云ふ、見ればさぶしも】
玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世從【或云、宮自】 阿礼座師 神之盡 樛木乃 弥繼嗣尓 天下 所知食之乎【或云、食來】 天尓滿 倭乎置而 青丹吉 平山乎超【或云、虚見倭乎置青丹吉平山越而】 何方 御念食可【或云、所念計米可】 天離 夷者雖有 石走 淡海國乃 樂浪乃 大津宮尓 天下 所知食兼 天皇之 神之御言能 大宮者此間(65)等雖聞 大殿者 此間等雖云 春草之 茂生有 霞立 春日之霧流【或云、霞立春日香霧流夏草香繁成奴留】 百磯城之 大宮處 見者悲毛【或云、見者左夫思毛】
【語釈】 ○玉襷畝火の山の 「玉だすき」の「玉」は、美称。襷を頂《うなじ》に掛けることをうなぐというので、そのうなを、音の近い畝《うね》に転じて枕詞としたもの。「畝火の山」は、下の「橿原」の位置をいったもの。○橿原の日知の御世ゆ 「橿原」は、畝傍山の東南の地で、神武天皇の宮の所在地。「日知」は、漢籍の「聖」の字の義訓で、聖帝として神武天皇を讃えた称。『全註釈』は「日知」は、農耕の上の暦日をわきまえている人を尊んでの称で、この用字は語源を示したものだといっている。「ゆ」は、よりの古語。以上、神武天皇の御世よりということを、讃えの心をもって、その宮を鄭重にいうことによってあらわしたもの。○「御世」が、一書には「宮」とある。「御世」この方が荘重味がある。○生れましし神のことごと 「生れ」は、現われの意で、人の上では、生まれる意。母を主としては生むで、子を主とすれば「生まる」である。神、天皇、皇子に対しての敬語。「まし」は、敬語の助動詞、下の「し」は助動詞、「生れましし」は、生まれ給いしの意。「神」は、天皇を現《あき》つ神としての称。「ことごと」は、ことごとくの意。○樛の木のいやつぎつぎに 「樛」は、今は栂《とが》という。樅《もみ》に似た木で、良材。音の似ているところから畳音の関係で「つぎ」にかかる枕詞。「いや」は、いよいよの意の接頭語。「つぎつぎに」は、次第次第に御代を継いでで、御歴代の意。○天の下知らしめししを 「天の下」は、天下で、わが国。「知らしめししを」は、「知らし」は知るの敬語、「めし」は敬語の助動詞。「し」は時の助動詞。「を」は逆転の助詞。「のに」にあたる。御統治になったのにの意。「天の下」の上に「大和において」という語があるべきだが、それは次の句にこもらせて省いてある。○一書には、「めししを」が、「めしける」とある。これは、下の「大和」の修飾になり、本文の屈折味を失わせる。 ○天に満つ大和を置きて 「天に満つ」は、大和の枕詞。他はいずれも「そらみつ」であって、「に」のあるのはここのみである。語義不明である。「大和を置きて」は、大和の国をさし置いての意。この「大和」には、歴代の宮のあったその大和の意がこもっている。○青丹よし奈良山を越え 「青丹よし奈良山」は、(一七)に出た。○一書には、「虚《そら》見つ大和を置き、青丹よし奈良山越えて」とある。これも、「て」のない本文の方が力がある。○いかさまに念ほしめせか 「いかさまに」は、どのように。「念ほし」は、「念ふ」の敬語で「念ふ」に、敬語の助動詞「す」の添った「念はす」。「めせ」は敬語の助動詞。「か」は、疑問の助詞。「めせか」は「めせばか」の古格。全体では、どのように思し召されたのであろうかの意。この二句は、神であらせられる天皇の御心は、下賤の者のうかがい知れないものであるとの意でいっているものである。なおこの二句は、独立した挿入句で、意味としては、上の「天に満つ大和を置きて」の前にあるべきものである。○一書には、「念ほしめせか」が、「念ほしけめか」とある。お思いになったであろうかで、心は同じである。○天離る夷にはあれど 「天離る」は、天のあなたに遠ざかっているで、離るは離れる意味で、「夷」にかかる枕詞。「夷」は、都以外の地方の総称。○石走る近江の国の 「石走」は「石走る」と訓み、石の上を走る「溢水《あふみ》」と続け、「近江《あふみ》」に転じたものという解に従う。「近江」の枕詞。○楽浪の大津の宮に 「楽浪」は、近江国の南方一帯の称。○天の下知らしめしけむ 「けむ」は、連体形で、天皇につづく。○天皇の神の尊の 「天皇」は、皇祖神を申し、転じて、当今の天皇までをも申す語。「神」は、天皇を現つ神としての称。「尊」は、尊称。今は天智天皇を申す語。○大宮は此処と聞けども 「大」は、美称。「宮」は、宮殿。「聞けども」は、人から聞くけれども。○大殿は此処といへども 「大」は、上に同じ。「殿」は、同じく宮殿。「いへども」は、人がいうけれども。二句、上と対句で、同じ意を、語を変えて繰(66)り返したもの。○春草の茂く生ひたる 春の草が茂く生えているで、下の「大宮処」へつづく。大宮として残る何物もないことを余情としたもの。○霞立つ春日の霧れる 「霞立つ」は、春の枕詞。実景の枕詞化したもの。「霧る」は霞む意で、霧はその名詞となったものである。春の日が、霞に霞んでいるで、下の「大官処」へ続く。この二句は、上の二句と対句となっており、いずれも大宮も、それに縁《ゆかり》ある何物も見えなくなっているということを余情にもっているものである。○或は云ふ、「霞立つ春日か霧れる、夏草か繁く成りぬる」 ある一書の伝えは、春の日が霞んでいるために何も見えないのか、または、夏草が茂くなっているために何も見えないのかである。何も見えないことを余情としている点は本行と同じであるが、こちらは春と夏との異なった季節を取合わせている点が異なる。本行の眼前を叙しているのとは態度を異にして、気分を主としていったものである。これは人麿のしなかったことと思われる。○ももしきの大宮処 「百磯城」で、百は多くで「磯城」は、石をもって固め成した一郭の所の称。多くの磯城をもったで、讃える意。宮にかかる枕詞。「大宮処」は、大宮の地域。○見れば悲しも 「も」は、詠款の助詞。目に見れば悲しいことであるよ。○或は云ふ、「見ればさぶしも」「さぶし」は、今のさびしである。本行の強さを採るべき所と思われる。
【釈】 畝火の山の橿原の宮の聖《ひじり》の帝《みかど》の御世よりこの方、お生まれになられた神にます帝のことごとくは、ますます御代を嗣ぎ嗣ぎして、大和の国において天下を御統治になられたのに(御統治になられて来たところの)、その大和の国をあとにして、奈良山を越えて、どのように思し召されたのか(どのように思し召されたのであろうか)、夷の国ではあるけれども、近江の国の楽浪の大津宮に、天下を御統治になったであろう、その天皇《すめろぎ》の神の尊の、大宮はここであると人から聞くけれども、大殿はここであると人はいうけれども、春の草が茂く生い立ち、春の日が霞んでぼんやりしている(春の日に霞んでいるのか、夏草が繁くなっているためか)大宮の処を見ると悲しいことであるよ(さみしいことであるよ)。
【評】 大和の藤原の宮に仕えていた人麿が、壬申の乱のあって以来二十五年以内のある年の春、何らかの用向きをもって近江の大津宮の址のある方面へ旅行したついでに、初めてその宮の址に立ち、荒廃しつくして、今は一物の残る物もないさまを目に見て、悲しみに堪えずして詠んだ歌である。
この歌は、前半と後半とは趣を異にしていて、前半は大津宮の由緒を思ったもの、後半はその荒廃を悲しんだものである。さらにいえば、前半は、大津宮の限りなく尊いことをいったもので、後半は、その尊い宮の跡かたもなくなったのを、尊いがゆえに限りなく悲しんだ心である。
前半の大津宮の尊さは、それが天智天皇の宮であるがゆえに限りなく尊いとするので、これは意《こころ》としてはあらわにはいわず、旨として語《ことば》の上であらわしている。天智天皇の尊さは、天皇が「高照らす日の皇子《みこ》」であらせられるというのみではなく、それとともに「八隅知し吾が大王《おほきみ》」でいらせられるがゆえとしている。「橿原の日知の御世」以来、「いやつぎつぎに天の下知らしめしし」「神」であるという讃え方をしているのは、すなわちこのためである。天智天皇を申す場合に、このすでにいった称を操り返して、「天の下知らしめしけむ天皇の神の尊」と改めて申しているのでも、そのいかに尊んでいるかが知られる。
しかし前半は、単に天智天皇の尊さを申すだけではなく、それに近江大津への遷都のことを絡ませて、これを重くいってい(67)る。今、大津宮の由緒を思う上では、これは当然いわなくてはならない事柄ではあるが、それにしてもその言い方には、かなりまで誇張が伴っていて、事実とは相違してさえいる。神武天皇以来、都はすべて大和の内であったというのは、明らかに強いたことである。都は難波にも河内にも近江などにも遷されているのは明らかなことで、知識人である人麿がそれを知らないはずはない。また、遷都ということを格別のことであるかのようにいってもいるが、歴代、御代の改まるごとに都を遷されることは普通のことで、旧都となった所が荒廃するということも自然のことで、これまた何ら格別のことではない。しかるに、遷都ということが格別なことで、ひとり天智天皇に限られたことであるかのようにいい、また遷都が荒廃の原因でであるかのような口気をもっていっているのは、解し難いこととしなくてはならない。これは、限りなく尊く思っている天智天皇の宮が、眼前にあわれなる荒廃を見せているところからくる、人麿個人の感傷のいわせることか、あるいはまた、その事柄の畏さに、思うを憚り、言うを得ずにはいるが、時の人の胸裏には、一般に言い難い悲しみの漂っているものがあって、それを人麿が代弁しているのかとも思われる。おそらくはあとのものが主でそれに前のものが伴って、前半の複雑した気分を成しているのではないかと思われる。
後半は、純粋な悲哀で、前半の複雑さがない。もしありとすれば、限りない尊い天皇の宮の址にふさわしく、そのあわれなる荒廃のさまを、余情として、婉曲に扱っているということだけである。
この歌は人麿の長歌としては、美しくはあるが力の弱いもので、若い頃の作かと思われる。彼は後にも近江の国へは行っているが、この時はその最初の時と思わせ、若い頃ということを思わせる。しかし一首一章で、前半は複雑した気分を、よく融合させることによって単純にし、また、句を前後させることによって、気分の進行を直線的にし、後半、眼前をいう時には、対句を二回まで操り返し、その中に季節までもあらわしているなど、至れる技巧をもっていたことを思わせる。
この歌には、「或は云ふ」という所が六か所まである。人麿自身のしたことか、あるいは伝唱されるうちに他人によってそうされたものかは定め難い。
反歌
30 楽浪《ささなみ》の 志賀《しが》の辛崎《からさき》 幸《さき》くあれど 大宮人《おほみやびと》の 船まちかねつ
楽浪之 思賀乃辛碕 雖幸有 大宮人之 般麻知兼津
【語釈】 ○志賀の辛崎 「志賀」は、滋賀の地。「辛崎」は、今も名高い所である。○幸くあれど 「幸く」は無事、幸福の意で、副詞。辛崎の地に人格を認めての語で、山や川が同時に神であるとした古信仰と同じ系統のものと取れる。今は古き都跡という関係においていっているので、こ(68)の信仰はもちやすいものであったと思われる。○大宮人の船まちかねつ 「大宮人」は、大宮に奉仕する人。「船」は、舟遊びのそれで、辛崎はそれに関係の深かった地であることが、後出の歌によって知られる。「まちかねつ」の「かね」は、難の意の動詞で、今も用いられている。「まちかねつ」は、待てど待ち得ずにいる意。
【釈】 楽浪の志賀の辛崎は、その昔に変わらずにいるけれども、大宮人の舟遊びの船を待って待ち得ずにいる。
【評】 不変な自然を人格化し、推移する人事と対照し、人事の推移の悲しみを詠んでいる態度である。悲しみの上では長歌に連なっているが、長歌では大宮の址に立って天皇を悲しんだのと角度を変え、ここでは、湖のほとりに来て、自然をして大宮人を悲しませているのである。態度としては高度の文芸性のものとすると同時に、反歌としては、長歌の繰り返しであったのを進展させ、それと対照的にし、双方を構成的にするという、従来にない変化をもったものとしている。この反歌の手法は、人麿の作にほぼ共通しているもので、彼によって文芸的に進展されたものである。「崎」と「幸」と同音を重ねているところに声調の美しさがあるが、技巧を感じさせない。
31 ささなみの 志賀《しが》の【一に云ふ、比良《ひら》の】 大《おほ》わだ淀むとも 昔《むかし》の人《ひと》に またも逢はめやも【一に云ふ、あはむともへや】
左散難弥乃 志我能【一云、比良乃】 大和太 与杼六友 昔人二 亦母相目八毛【一云、將會跡母戸八】
【語釈】 ○志賀の大わだ 「わだ」は、湾曲した水域の称で、湾。志賀の大きな湾で、現在の大津湾。○比良の 志賀のの別伝。比良は琵琶湖の西岸の地名で、大わだと称すべき地形ではない。本行の方がよい。○淀むとも 「淀む」は、水の停滞して動かずにいること。「とも」は、仮説をあらわす助詞で、事実を認めつつ仮定であらわす語法。たといそのように淀んでいようともの意。水の淀んでいるさまに、舟遊びの人を待っている気分を感取しての意。○昔の人に その昔の大津の宮の宮びとに。○またも逢はめやも 「や」は反語。「も」はいずれも詠歎の助(69)詞。また逢うことがあろうか、ありはしないことよ。○あはむともへや 本行の別伝。「もへ」は、「思へ」で、「お」の省略されたもの。「思ふ」の已然形。「や」は反語。今、思えようか、思わないの意。
【釈】 さざなみの志賀の大きな湾の水は、たといそのように人待ち顔に淀んでいようとも、昔ここで舟遊びをした大宮人にまたも逢おうか、逢いはしないことだ。
【評】 上の反歌の延長である。上では志賀の辛崎と狭く限っていったのを、これは志賀の大わだと漸層的に湖上を大観して、その水の静かに淀んでいるのに対し、人待ち顔のさまを感取して、さらに深い哀感を寄せたのである。湖に人格を感じているところも上の歌と同じである。反歌を二首重ねていることも、他に例のないことで、人麿によって創められたことと思える。二首明らかに連作となっており、これも注意されることである。
高市古人《たけちのふるひと》 近江の旧き堵《みやこ》を感傷して作れる歌 或る書にいふ、高市連黒人
【題意】 古人という人は、ほかに所見もなく、伝もわからない。資料とした書に従ったもの。堵は、垣の意であるが、都《と》と音が通じるために、通じて用いたもの。近江の旧き堵は、前の歌と同じく古の大津宮である。一書には、作者を高市連黒人ともしてある。黒人はこの時代の人で、集中に多くの佳作をとどめている人である。作風に個性的なところがあって、この歌にもそれがある。黒人の誤りではないかという想像は、理由のあるものである。
32 古りにし 人にわれあれや 楽浪《ささなみ》の 故《ふる》き都《みやこ》を 見れば悲しき
古 人尓和礼有哉 楽浪乃 故京乎 見者悲寸
【語釈】 ○古りにし人にわれあれや 「古りにし人」は、本文「古人」で、訓みがさまざまである。「古りにし人」という語は、集中に用例が幾つもあるので、それに従う。「に」は完了の助動詞で強意のもの。世に古くなってしまった人で、言いかえると、老いて感傷的になっている人の意。「われあれや」は、「や」は疑問の係助詞。我はなっているのか。○楽浪の古き都を 楽浪の地にある古い都で、大津宮。天智、弘文二帝の郡で、都は宮の在る所の意。○見れば悲しき 「見れば」は、目にすればで、初めて見たと思われる。「悲しき」は、連体形で、「や」の結び。
【釈】 古くなり去った人で自分はあるのか、楽浪の昔の都を見ると、悲しいことであるよ。
【評】 黒人が初めて大津宮の址を見た時の感と思われる。人麿の歌にあるように、大宮をはじめすべての建造物は、壬申の乱(70)の戦火によって焼失し、残る物とては何一つなかったのである。先代の古都のそうしたさまを見ると、哀感が胸に満ちて堪えられなかったとみえる。しかし人麿とは違って、その哀感を眼前の光景につなごうとはせず、眼を自身の心に向けて、哀感そのものの甚しいのを怪しむ感に捉えられたのである。「古りにし人にわれあれや」は、三句以下その説明である。自身を主としての感傷に終止しているのである。そこに特色がある。表現も、単純に、透きとおっていて、一種の味わいがあり、特色がある。
33 楽浪《ささなみ》の 国《くに》つみ神《かみ》の うらさびて 荒《あ》れたる都《みやこ》 見《み》れば悲《かな》しも
楽浪乃 國都美神乃 浦佐備而 荒有京 見者悲毛
【語釈】 ○国つみ神 「国」は、(二)に出た。一まとまりの地域の称で、今は楽浪。「み」は、美称。この神は、楽浪を護る神である。天つ神に対する神である。○うらさびて 「うらさび」は、一つの語。「うら」は、心で、表面に現われない時にいう。「さび」は、「不楽」の字をあてた場合もあって、その意の語。心が楽しまずして。○荒れたる都 大津宮で、楽浪の中のもの。
【釈】 楽浪を護り給う神の心が楽しまなくて、このように荒れた都を見ると、悲しいことであるよ。
【評】 その土地の吉凶禍福は、一にその土地を護り給う神意次第のもので、神の心が喜ぶ時には栄え、喜ばない時には衰えるものと信じてい、またその神の心は、測り難い怖るべきものとも信じられていた。今はこの信仰を心においての悲しみと取れる。大津の宮の荒れ果てたことを、人事のためではなく、不可抗の神意のためとしたのである。事、神である天皇にかかわるものなので、思議を越えたものとし、また、天皇の御事にもせよ、土地の上に行なわれている以上、その土地の神の影響は避け難いものとして、ひたすらに悲しんだ心と解される。この「国つみ神」のことは、当時としては一般に信じられていたことと思われるが、他人によっては言われていないものである。都の荒れた理由を求めて、ここに帰したところは、前の歌と関連があり、天つ神の直系である天皇にもまして、国つ神の威力をより大きく感じているところに、特色がある。庶民の心を代弁しているかの感がある。
紀伊国に幸しし時の川島皇子の御作歌《みうた》 或は云ふ、山上臣憶良の作れる
【題意】 川島の皇子は、天智天皇第二皇子で、持統天皇の御弟。行幸に供奉されたのである。「或は云ふ」は、この歌、山上憶良の作という伝えがあったので、巻九にこの歌が重ねて出て、それには今とは反対になっている。
(71)34 白浪《しらなみ》の 浜松《はままつ》が枝《え》の 手向草《たむけぐさ》 幾《いく》代までにか 年《とし》の経《へ》ぬらむ【一に云ふ、年は経にけむ】
白浪乃 濱松之枝乃 手向草 幾代左右二賀 年乃經去良武【一云、年者經尓計武】
【語釈】 ○白浪の浜松が枝の 「白浪の」は、意としては、白浪の寄せるところの意で、それを簡潔にいったもの。この言い方は、後になるにつれてふえてきている。「浜松」は、一つの語。浜に立っている松。「枝の」は、枝の上ので、下の「手向草」のある位置。神に物を供えるには、机に載せるか、または木の枝につけるのが古の風であった。○手向草 「手向」は、神を祭るために供える物の総称。「草」は、料の意の語で、手向の物の意。下に詠歎がある。古は行旅の際、途中の無事を祈るために、行くさきざきの神に幣物を供えて祭をするのが風で、その幣物は、主としては布であったが、木綿《ゆう》、糸、紙なども用いた。○幾代までにか年の経ぬらむ 「幾代」は、幾年。「か」は、疑問の助詞で、係の助詞。「らむ」は推量。幾年ほどの年を、今までに経ていることであろうか。○一に云ふ「年は経にけむ」 「けむ」は過去の推量。年を経て来たことであろうかと、過去にしての想像。
【釈】 白浪の寄せる浜べの松の枝に付けてある手向の幣《ぬさ》よ、どれほどの年を今までに経ているのであろうか。一に云う、どれほどの年の間を経たのであろうか。
【評】 行幸の供奉をしつつ、途中、浜辺の松の枝に付けてある手向草を見られての感である。「幾代までにか」といわれているので、比較的長く朽ちない布であったろうと思われる。行幸とはいえ、行旅の心の緊張しているのは自然である。いつの時にか、我より先に、同じ道を旅した者があって、途中の無事を祈った跡のあるのを認めては、旅愁に似たものを感じずにはいられない。この歌はそれである。しかし旅愁には触れず、「幾代までにか年の経ぬらむ」と、幣の古さに力点を置いていわれているのは、旅愁という実感からやや遊離させたものである。これはいわゆる文芸化で、この態度は「白浪の浜松」という、当時としては新味ある続け方をされたのとも調和するものである。当時の歌の文芸性に向かっていた跡を示している歌といえる。
「一に云ふ」の方は、手向草の古さの方に注意したもので、比較するとやや知的に見たものである。本行の方がまさっている。これは、山上憶良の作の結句である。
日本紀に曰はく、朱鳥四年庚寅の秋九月、天皇紀伊国に幸したまひきといへり
日本紀曰、朱島四年庚寅秋九月、天皇幸2紀伊國1也。
【注】 日本書紀によって、行幸の年月を考証したものである。
(72) 勢《せ》の山を越えましし時の阿閉皇女《あべのひめみこ》の御作歌《みうた》
【題意】 勢の山は、和歌山県伊都郡かつらぎ町背の山。吉野川の北岸にある山。大和国から紀伊国へ越えるには必ず通るべき地にある。阿閉皇女は、天智天皇の第四皇女で、持統天皇の御妹。草壁皇太子の妃で、文武天皇の御母。後に即位して元明天皇と申す。行幸の際供奉をされたのであるが、この行幸は持統天皇四年九月で、その前年、すなわち三年四月に夫君は没せられたのである。御歌は夫君を哀悼されたものである。
35 これやこの 大和《やまと》にしては 我《わ》が恋《こ》ふる 紀路《きぢ》にありとふ 名《な》に負《お》ふ勢《せ》の山《やま》
此也是能 倭尓四手者 我戀流 木路尓有云 名二負勢能山
【語釈】 ○これやこの 現に眼前にあるものをさして、これがあのと指示する語法のもので、「や」は、感動の助詞、下に何々なるかの結びのあるもの。○大和にしては我が恋ふる 「大和にして」は、大和に在って。「は」は、大和と現にいる紀伊とを対させる意のもの。「我が恋ふる」は、下の「勢」に続く意のもので、連体形。○紀路にありとふ 「紀路」は、紀州街道というにあたる。「ありとふ」は、あると人のいうで、上と同じく「勢」に続く。○名に負ふ勢の山 「名に負ふ」は、名を負いもっているで、その名は、「勢」すなわち夫を意味する「背」である。一句は、背という名を負いもつている勢の山なのかで、結びは省略されている。
【釈】 これがあの、大和にあってはわが恋い慕うている背の、紀州街道にあると人のいっている、その背という名を負いもっているところの勢の山なのか。
【評】 今、紀伊の山をお越しになる時、その山はかねがね、紀州街道にある山と人からお聞きになっていることを思い出されると同時に、その名に刺激せられて、大和に在って絶えず恋い慕っていられる亡き背の君をさらに恋いしく思われ、それとこれとを一つにして詠まれた御歌である。古は、名というものに対しては、今よりはうかがい難いまでの神秘性を認めていたので、ここも「勢」という名によって、深い感を発せられたものと思われる。複雑な、あらわしやすくはない気分を、屈折をもった言い方であらわしていられるが、混雑なく、安定をもって詠まれているのみならず、突然感を発せられた、その際の気息の強さをもあらわしていられるのは、手腕のほどが思われる御歌である。実感をあらわすだけを目的とされたものと思われるが、技巧の上には、文芸性の高度のものがある。
(73) 吉野《よしの》宮に幸しし時 柿本朝臣人麿の作れる歌
【題意】 持統天皇の吉野離宮への行幸は、史上に見えるものは三十度を越ゆるまで多いもので、この行幸はいつのこととも知れない。柿本人暦は供奉の中に加わっていて、賀歌を献じたのである。行幸の際はもとより、何らか特殊なことのあった際に、賀の詞を申し上げることは、自然なことに思われる。詞に代えるに歌をもってすることは、上代の風習としてこれまたきわめて自然なことである。もっとも漢文学の影響のあったことは、懐風藻の詩によっても知られることで、この当時は、事に堪える者はすべきことになっていたと思われる。
36 やすみしし 吾《わ》が大君《おほきみ》の 聞《きこ》し食《め》す 天《あめ》の下《した》に 国《くに》はしも 多《さは》にあれども 山川《やまかは》の 清《きよ》き 河内《かふち》と 御心《みこころ》を 吉野《よしの》の国《くに》の 花散《はなち》らふ 秋津《あきつ》の野辺《のべ》に 宮柱《みやはしら》 太敷《ふとし》き座《ま》せば 百磯城《ももしき》の 大宮人《おほみやひと》は 船《ふね》並《な》めて 朝川《あさかは》渡《わた》り 舟競《ふなぎほ》ひ 夕河《ゆふかは》渡《わた》る この川《かは》の 絶《た》ゆる事なく この山《やま》の いや高《たか》しらす 水激《みなぎ》らふ 滝《たき》のみやこは 見《み》れど飽《あ》かぬかも
八隅知之 吾大王之 所間食 天下尓 國者思毛 澤二雖有 山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃國之 花散相 秋津乃野邊尓 宮柱 太敷座波 百磯城乃 大宮人者 船並弖 旦川渡 舟競 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃 弥高思良珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡不飽可間
【語釈】 やすみしし吾が大君の (三)に出た。○聞し食す天の下に 「聞し食す」は、一語。「聞し」は、「聞く」に敬詞「す」がついて聞かすとなり、「か」が「こ」に転じたもの。「食す」は、「をす」とも「めす」とも訓んでいる。「めす」の方が用例が多い。「知らしめす」と同意で、御統治になられるの意。「天の下」は、既出。○国はしも多にあれども 「国」は、地理的に、一区域の地をさしていう、郡県制度以前のもの。ここでは、下の続きより見ると、景勝の地域の意でいっているもの。「しも」は、強意の助詞「し」に詠歎の助詞「も」の添ったもの。「多」は、数の多い意で沢山。○山川の清き河内と 「山川の」は、山と川との揃っている意。「河内」は、川の中心、川の行きめぐっている地をも称する語。今は後のものである。「と」は、として。宮滝の地は、吉野川が屈曲して、三方を繞《めぐ》らしている形となっていて、河内というにあたる地勢である。山川の揃っている、清き河内の地であるとしての意。○御心を吉野の国の 「御心を」は、御心を寄すと続き、寄すを音の近い吉に転じて、同音異義で続けた枕詞。「吉野の国」の「国」は、上の「国」と同意味のもの。○花散らふ秋津の野辺に 「花散らふ」は、散るに「ふ」を添えて継続(74)をあらわしたもの。花が散りつづけているで 下の秋津の野の状態をいったもの。この花は、折から眼に見る実景を捉えていったもので、花は桜と思われる。それは人麿の長歌には、何らかの形において、その季節をあらわすのが、手法となっている関係においてである。「秋津の野辺」は、吉野川を中にして、宮滝と、その対岸の野をこめて広い範囲の称であったとみえる。離宮を「あきつの宮」とも呼んでいるからである。現在、宮滝の対岸、吉野川岸に秋戸という名が残っている。○宮柱太敷き座せば 「宮柱」は、宮殿の柱。「太敷き」は、「太」は、柱は大きを貴しとする意で、柱を讃える詞。「敷き」は、「知り」と並び用いられた語で、領有する意。ここは営む意。「座せば」は、いらせらるれば。宮の柱を太く営んでいらせられればで、この二句は古来の成句である。○百磯城の大宮人は 既出。ここは供奉の臣下の意。○船並めて朝川渡り 「船並めて」は、船を連ねて。「朝川」は、川を朝夕に分けていったもので、朝の川。この朝夕は、終日を具象的にまた文芸的にいおうとしてのもの。伝統的な言い方である。○舟競ひ夕河渡る 「舟競ひ」は、舟をこぎ競わせることをして。「夕河渡る」は、夕の河を渡るで、この二句は、上の二句と対句となっていて、供奉の臣下の天皇にお仕えすることのたゆみなさを、離宮の風景に関係させ、また繰り返しとして、力強くいったもので、この状態がすなわち賀の一面である。以上で、一段落である。○この川の絶ゆる事なく 「この川の」は、この川のごとく。「絶ゆる事なく」は、永遠にで、二句、川に寄せての賀である。○この山のいや高しらす 「この山の」は、この山のごとく。「いや」は、ますます。「高しらす」は、諸本異同がある。『新訓万葉集』の訓に従う。これは成語で、「高」は讃え語で、高大に。「しらす」は、御支配になられるの意で、下の「みやこ」に続く。この二句は、山に寄せて永遠を賀したもので、上の二句と対句になっている。○水激らふ滝のみやこは 「水激らふ」は、旧訓「水はしる」を『私注』の改めたもの。「漲る」に、「ふ」を添えて継続をあらわした語。水のあふれほとばしる意。滝の修飾。「滝」は、「たぎつ」という動詞の名詞となったもので、激流をいう。滝の所の意。「みやこ」は、都で、宮の在り場所であるが、ここは宮を主としての意。○見れど飽かぬかも いくら見ても飽かぬことで、きわめて賞美する意。慣用語である。都を勝景を通して讃えた語で、それがやがて賀である。
【釈】 安らかに御支配になっていられるわが大君の御統治になられる天下に、国はたくさんあるけれども、山と川との揃った、清き河内であるとして、御心をお寄せになるこの吉野の国の花の散り継いでいる秋津の野に、宮柱を太く御営みになっていらせられるので、供奉の大宮人は、船を連ねて朝の川を渡って御仕え申し上げ、舟をこぎ競って夕の川を渡って御仕え申し上げる。この川のごとくに永遠に絶えることがなく、この山のごとくにますます高大に御支配になられる、水のあふれつづけている滝の宮は、いくら見ても飽かないことであるよなあ。
【評】 賀の歌は、いわゆる言霊《ことだま》信仰の上に立ったもので、賀の意を言葉短く述べるべきものであったろう。ことにそれが天皇に対しまつる場合にあっては、この用意はいっそう強かるべきである。漢文学を模倣した詩にあっては、これを懐風藻に見ても、帝徳を讃えることが主となっているが、中国の君臣間ではそれが妥当であっても、わが国の天皇と臣下との間にあっては、この事は妥当なのではなく、我にあっては、むしろ天皇の尊貴を涜す怖れあるに近いことである。天皇に対する賀の歌を作るとすれば、ただ天皇の尊貴を讃えまつる心を述べるほかには法がないのである。人麿のこの賀歌は、その態度でのものである。
(75) 長歌の形式を選んだのは、短歌よりも長歌の方が伝統が久しく、したがって今のような儀礼の歌にあっては、古きに従うべきだとして選んだと思える。また、純粋に、単純であるべき賀の歌にあっては、情を尽くすことによって初めて心が遂げられるので、その意味では長歌の形式を必要としたことと思われる。
この長歌は、二段から成っている。第一段は、天皇が吉野宮にいませば、供奉の臣下は、終日間断なくお仕え申し上げることをいって、天皇の尊貴を述べ、第二段は、吉野宮の永遠なるべきを、永遠なる川と山とに寄せて讃えまつっている。しかしこれは、この長歌を素材的に見てのことであって、人麿の態度は、この素材の扱い方の上にある。言いかえると、この素材の背後にある、語《ことば》とはせずにいるものの中に、正真の人麿の精神は漂っているのである。
この賀歌は天皇に献ずるものであり、天皇は現に吉野の離宮にましますにもかかわらず、この賀歌にはいずこにも、天皇御自身の面影を偲ばせるものは、一語とてない。天皇は臣下よりは遙かに遠い、眼の及ばないあたりにいられて、臣下はただ心の中に感ずるよりほかないものとしているのである。第一段の、臣下が天皇にお仕え申す状態を述べている部分についていえば、人麿も供奉の臣下の一人で、当然そのお仕え申す者の中に加わっているはずである。しかるに、それをいうにさえ、人麿は第三者として、単にその状態を傍観している者のごとき言い方をしているのである。これは、人麿自身もその中に加わっているようにいうのは、憚りあることとして、わざと避けてのことと思われる。臣下の専心お仕え申すことをいうに、単に「朝川渡り」「夕河渡る」という間接な、何を目的にしたのかが明らかでない言い方をしている関係においてもそう解せられる。この言い方は、文芸性を欲してのものとは逆で、もしそれが許されるものであったならば、全然趣の異なったものとしていようと思われる。
この扱い方は、第二段も同様である。第二段は宮の永遠と天皇の御威徳とを賀するもので、永遠を川に、御威徳を山に寄せて賀しているのである。言霊《ことだま》信仰の行なわれていた当時にあっては、力強い賀であったに相違ない。しかし賀歌を献ずるのは、天皇に対しまつってである。それを天皇と臣下との間に第一段と同じ隔てをつけ、誰の眼にも映ずるものである宮に言いかえ、しかもその宮を「みやこ」という語に言いかえ、さらにまた、「見れど飽かぬかも」という、勝景に対する讃え語をもって結末としているのは、意識し、用意している人麿の態度からのものと思われる。
この長歌で注意される今一つの事は、人麿は限られた範囲におき、許される程度において、文芸性を発揮しようとしていることである。ここに文芸性というは、美しさである。
第一段で、「御心を吉野の国の、花散らふ秋津の野辺」というのは、離宮の所在をいうに、合理的な範囲において、努めて美しさをいおうとしたものと思われる。ことに「花散らふ」は、桜の花の散り継いでいることで、眼前の実景であったろうと取れる。また、第二段の結末の、「水激らふ滝のみやこは見れど飽かぬかも」は、上にいったように、主としては事を間接にしたものと思われるが、同時に他方では、宮を「みやこ」とし、勝景として見る心も伴ったもので、双方が一つになった複雑な味わいをもったものとなっている。これも許される範囲において(76)文芸性を求めたものと思われる。
全篇単純な構成をつけ、直線的に進行させ、第一段、第二段の結末は、いずれも対句を用いてその事を強化しているなどの点は、事と相俟ってのもので、当然とすべきである。
反歌
37 見《み》れど飽《あ》かぬ 吉野《よしの》の河《かは》の 常滑《とこなめ》の 絶《た》ゆる事《こと》なく 復《また》かへり見《み》む
雖見飽奴 吉野乃河之 常滑乃 説事無久 復遠見牟
【語釈】 ○常滑の 「常滑」は、「とこ」は、床岩の略で、頂の平らな大岩、「なめ」は、滑《なめ》で、滑らの語幹。表面の滑らかな床のごとき大岩で、川岸の最も印象的なもの。頂の平らな岩の連なりの称だといっている。巻十一(二五一一)に、「隠口の豊泊瀬道《とよはつせぢ》は常滑《とこなめ》の恐《かしこ》き道ぞ」、その他にもある。「の」は、のごとく。
【釈】 いくら見ても飽くことのない吉野の川の、その岸にある常滑のごとくに、絶えることなく後もまた立ち還ってみょう。
【評】 永遠のものである常滑に寄せて、離宮を賀したものである。常滑は、吉野川の特色で、ことに離宮のあたりは代表的に多い。川と山に寄せた心を進め、物と場所を局限することによって妥当性を進めて、それに寄せて賀したのは適切である。その常滑をいうに、「見れど飽かぬ吉野の河の」を添えているのは、常滑の在り場所を具体的にいうとともに、その場所の美しさをも言い添えたもので、長歌と同じ用意をもったものである。
この反歌の初句「見れど飽かぬ」は、長歌の結句の繰り返しとなっている。人麿よりいささか古い時代の反歌は、長歌の繰(77)り返しのものが多い。反歌はそれから発生したものと思える。反歌に新生面を拓いた人麿であるが、今は立ちかえって、古い型によっている。これは賀歌という、伝統を重んずべきものであるから、意識して、わざとしたものと思われる。この反歌で人麿は、はじめて間接ながら自身をあらわしている。古い型をとおして、新意を出したのである。
【題意】 題は前の歌と同じである。前の歌と同時のものか、または別時のものかは明らかでない。しかし同時のものと思われなくはない。それは人麿は、明らかに長歌の連作をしている上に、前の歌は、大宮人の天皇に仕え奉ることをいったのに対し、この歌は、山の神、川の神が天皇に仕え奉るものなので、天皇の絶対の尊貴を讃えまつるために、観点を変えて、連作として作ったものとも見得られるからである。今は連作と見る。
38 やすみしし 吾《わ》が大王《おほきみ》 神《かむ》ながら 神《かむ》さびせすと 芳野川《よしのかは》 たぎつ河内《かふち》に 高殿《たかとの》を 高知《たかし》りまして 上《のぼ》り立《た》ち 国見《くにみ》を為《せ》せば 畳《たたな》はる 青垣山《あをがきやま》 山神《やまつみ》の 奉《まつ》る御調《みつぎ》と 春べは 花《はな》かざし持《も》ち 秋《あき》立《た》てば 黄葉《もみち》かざせり【一に云ふ、黄葉《もみちば》かざし】 逝《ゆ》き副《そ》ふ 川《かは》の神《かみ》も 大御食《おほみけ》に 仕《つか》へ奉《まつ》ると 上《かみ》つ瀬《せ》に 鵜川《うかは》を立《た》ち 下《しも》つ瀬《せ》に 小網《さで》さし渡《わた》す 山川《やまかは》も 依《よ》りてつかふる 神《かみ》の御代《みよ》かも
安見知之 吾大王 神長柄 神佐備世須登 芳野川 多藝津河内尓 高殿乎 高知座而 上立 国見乎爲勢婆 疊有 青垣山 々神乃 奉御調等 春部者 花挿頭持 秋立者 黄葉頭刺理【一云、黄葉加射之】 逝副 川之神母 大御食尓 仕奉等 上瀬尓 鵜川乎立 下瀬尓 小網刺渡 山川母 依弖奉流 神乃御代鴨
【語釈】 ○やすみしし吾が大王の 既出。○神ながら 「ながら」は、そのままにの意で、神にましますままに。この「神」は、天皇を現つ神《かむ》としてのもの。○神さびせすと 「さび」は、上二段の動詞で、ここは、その名詞形。そのものに相応した振舞いをする意をあらわす語。「せす」はサ行変格の未然形に敬語の助動詞「す」の添ったもの。「し給ふ」にあたる。「と」は、とて。神としての性をあらわし給うとての意。○たぎつ河内に 「たぎつ」は、水の激しく流れる意。「河内」は、前の歌のものと同じく、河の繞らしている地。○高殿を高知りまして 「高殿」は、高い(78)殿で、離宮には楼があったのである。「高知り」は、「高」は、讃え語で、前に出た。「知り」は、「太敷く」の「敷く」と同じ、全体では、高殿を高大にお営みになられて。○上り立ち国見を為せば 「国見」は(二)に既出。「為せ」は、上の、敬語「せす」の已然形。なされば。他に用例のない語。○畳はる青垣山 「畳はる」は、畳まり重なる意で、下の「山」の状態。「青垣山」は、青い垣のごとき山で、「青」は樹木の色。成語である。この垣は、単なる比喩ではなく、宮にあるべき物とする垣の意のもので、周囲の山。○山神の奉る御調と 「山神」の「み」は、神の意で、山の神。「奉る」は、献ずの古語。「御調」は、「御」は美称。「調」は租税であって、公の御料として、民のその土地に産する物を献じた、その物の称。「と」は、として。山の神の献ずる貢物として。山の神は山その物で、山にして同時に神であるとした、いわゆる自然神である。これは上代の信仰である。その神が、民と同じく天皇に貢物を献ずる意で、天皇を神を支配する絶対神としていっているもの。○春べは花かざし持ち 「春べ」の「べ」は、方の意で、時の上でいったもの。春の頃。「かざし」は、古くは、時の花を髪に挿すのが風となっていた。後の簪《かんざし》はその次第に転じたもの。山の上に咲く花を、山神《やまつみ》のかざしている物とし、それをすなわちその土地の貢物と見たのである。○秋立てば黄葉《もみち》かざせり 「秋立てば」は、秋になれば。「かざせり」は、かざしている。もみちの「ち」は清音である。○一に云ふ、黄葉かざし 一本には、「かざし」と連用形にして、切らずにあるのである。○逝き副ふ川の神も 「逝き副ふ」は、副って流れ逝くで、下の川の状態。「副う」のは高殿に副うので、宮を守る状態とみての語で、川は吉野川である。上の「青垣山」と対させてある。「川の神」は、山神《やまつみ》と同じ性質のもの。「も」は、並べてのもの。○大御食に仕へ奉ると 「大御食」は、天皇の御食饌。「仕へ奉る」は、天皇の御為にする一切をさす語。しようとの意。「と」は、とて。○上つ瀬に鵜川を立ち 「上つ瀬」は、「つ」は「の」。上流。「鵜川」は、鵜飼。「立ち」は、「狩猟に立つ」というと同じで、催す意。鵜飼を催させて。四段活用の他動詞。させるのは川の神である。○下つ瀬に小網さし渡す 「小網」は、小さな手綱で、魚をすくい上げて捕る物。「さす」は、小網《さで》を水にさし入れる意。「渡す」は、こちらの岸から、あちらの岸まで行く意で、魚を捕る状態。上と同じく、人のすることであるが、川の神がさせることとしていっている。○山川も依りてつかふる神の御代かも 「山川も」は、山の神も川の神もともに。「依りてつかふる」は、「依りて」は帰服して。「つかふる」は貢物を献上する意。「神の御代」は、天皇を神として、御代を限りなく讃えた意。「かも」は、感嘆の助詞。
【釈】 安らかに御支配になられるわが大君の、神そのままに、神にふさわしき行ないをなされるとて、吉野川のはげしく流れる河内に、高殿を高大に御営みなされて、その上に登り立って国見をなされると、畳まり重なって、宮を繞っている青垣のごとき山の、その山の神の献ずる貢物として、春の頃は花をかざしとしてもち、秋になると黄葉をかざしとしている。宮に副って流れて同じく守りをする川の神も御饌に献上するとて、上流には鵜飼のわざを催させ、下流には小網《さで》をさし入れてこの岸からかの岸まで行っている。山の神も川の神も帰服して、お仕え申している神の御代であることよ。
【評】 この歌は、天皇にして同時に神にましますところの天皇の、その神の方面を、吉野宮をとおして讃え、それによって賀の心をあらわしたものである。
天皇の神であることは、天皇があらゆる神々を帰服させていられることをあらわすよりほかに法はない。その帰服は、そのことを具体的にいうことによって、はじめて髣髴《はうふつ》させうるものである。その神々とは山にして同時に山神《やまつみ》である神、川にして同時に川の神であるいわゆる自然神で、帰服とは、それらの神(79)神が、天皇の御民と同じく、その土地で産する物を貢として献ずることである。これは信仰の異なって来た後世から、単に政治的の眼で見ると、何の奇もないことであるが、自然神に対して、その暴力の発揮を極度に畏怖していた上代の心より見れば、それらの神々を帰服せしめて、み民と異ならない従順な態度において貢を献じさせているということは、神々の神にしてはじめて可能なことだったのである。自然神に対する畏怖の情は、貴族にして同時に知識人であった階級によっては、多くの文辞とはなっていないのであるが、農業を生業とし、かたわら狩猟・漁撈をも兼ねていた一般民衆に取っては、根深い、抜き難いものであったろうと思われる。また貴族といってもその下階の者にあっては、その生活上、庶民の生業と密接な関係をもっていたところから、知識の有無にかかわらず、ほとんど庶民と選ぶところのない感情をもたされていたことだろうと思われる。人麿のこの歌によってあらわしている心は、広汎なる範囲にわたっての臣民の情を代弁したもので、ひとり彼のみの心ではなく、まして文芸性のものではないと思える。
しかし、この感情を表現するに際して取った人麿の態度は、高度の文芸性をもったものである。前の歌においては、天皇を統治者としての天皇の一面に限り、その尊貴を表現するに、天皇と臣下との間に遠い距離を付け、それをすることによって尊貴をあらわした。しかるに今は、その距離を徹底的に徹し去り、神《かむ》ながら神《かむ》さびしたまうとて、高殿に登って国見をする天皇の眼をとおして、山神《やまつみ》、川の神の買物を献ずる状態を御覧になるという、きわめて直接な、したがって主観的な方法を取っているものである。この方法によればこそ、山の春の花、秋の黄葉、川の鵜飼、小網《さで》によっての漁撈が、神の奉仕となりうるので、かりにこれを人の眼をもって見たこととしたならば、たとえいかにいおうとも、神秘性を髣髴しうるものとはならない事柄であろう。すなわち人麿は、神である天皇の神性を表現するには、それよりほかにはない、唯一の方法を選んでいるのである。しかもまた他方により見れば、この神と神との交渉という神秘性を帯びた事柄が、客観的に、印象の鮮明な、むしろ劇的とも感じられるものとなっていて、主観を客観に、神秘を平明にするという矛盾したことを、微妙に調和し得てもいる。この手腕は高度の文芸性のものというべきである。
この長歌は二段から成っていて、第一段は起首から、結末に近い「小網さし渡す」までで、第二段は、「山川も」以下である。第一段は、天皇自身の御覧になる事柄が、天皇の限りなき尊貴の現われである意で、天皇への賀となり、第二段は、それに密接な関連をもちつつ、臣下より奉る賀となっているのである。この即不即の状態にも、文芸性の凡ならざるものがある。表現技法で注意されることは、第一段の長対句である。すなわち「畳はる」より「黄葉かざせり」までの八句と、「逝き副ふ」以下「小網さし渡す」までの八句は、長対句で、これが一首の中心である。対句は抒情の高潮をあらわす技法で、操り返しの進展したものである。したがって大体は二句の対句である。八句という長対句は、人麿特有のもので、他には企及し得たものがないのである。その自然にして充実していることも独得で、ここに見るとおりである。
(80) 反歌
39 山川も よりて奉ふる 神ながら たぎつ河内に 船出せすかも
山川毛 因而奉流 神長柄 多藝津河内尓 船出為加母
【語釈】 ○山川もよりて奉ふる 長歌の結末を、前の歌の反歌の場合と同じく繰り返したもの。この二句は形容詞的修飾語で、下に修飾される名詞が続くべきであり、さらにまた一首の意味からいえば、それが一首の主格となるべき重いものである。しかるにその名詞か省かれた形になっている。「神ながら」は副詞であって、その資格はないというので、問題とされている。作意からいうと、「神」という語がなくてはならないところである。その上からいうと、長歌の結末の「山川も依りてつかふる神の御代かも」の「神」までをここ繰り返し、その「神」の「神ながら」と続く関係において、「神」を「神ながら」に籠めたものと見るよりほかはないものに思われる。「神ながら」は熟語であるから「神」の一語にの み掛けることは許されず、また例もないことである。籠めていると思われる。全体にこの長歌は措辞が簡勁であり,またこの反歌は、ことに精神の昂揚したものであるから、そうした飛躍を行なったものと解される。○神ながら 既出。神そのままにの意で、下の「船出せすす」に続く。○たぎつ河内に 「河内」は、意味の狭い方のもので、河の内。激しく流れる河の内への意。○船出せすかも 「船出」は、船に乗って出る意で、それをされるのは天皇である。「せすかも」は,長歌の語。なされることよなあ。
【釈】 山の神も川の神も帰服してお仕え申す神の神そのままに、激しく流れる河の内へ, 船出をなされることであるよ。
【評】 この長歌と反歌とは一貫して、天皇の神ながら神さびしたまう方面を申したものである。長歌は、この静的な方面をいったのに対し、反歌は、形においては繰り返しであるが、作意としては方面を変えて、その動的な方面をいったものである。この静的動的ということは和み魂、荒み魂と言いかえられるもので、神性の両面である。またたぎつ河内に船出するということは、すでに大宮人の行なっていることで、特殊な事柄ではない。それを神ながら神さびしたまうこととしているのは長歌の場合と同じく人麿の主観で、そこに賀の心があるのである。この反歌は長歌の延長で、心としては繰り返しに近いものであるが、上の反歌と同じく、人麿が自身の眼をもって見た状態で、その意妹を帯びさせたものである。
右、日本紀に曰はく、三年己丑の正月、天皇吉野宮に幸す。八月吉野宮に幸す。四年庚寅の二月吉野宮に幸す。五月、吉野宮に幸す。五年、辛卯正月、吉野宮に幸す。四月、吉野宮に幸すといへれば、いまだ詳に知らず、何れの月従駕にして作れる歌なるかを。
(81) 右、日本紀曰、三年己丑正月、天皇幸吉野官。八月幸吉野宮。四年庚寅二月、幸吉野宮。五月幸吉野宮。五年辛卯正月、幸吉野宮。四月、幸吉野宮者、未詳知、何月従駕作歌。
【注】 日本書紀より、吉野宮の行幸を抄出し、この歌のいつのものであるかが明らかでないことを考証したものである。ここには天皇の五年までを抄してあるが、六年以後十一年までの行幸を合わせると、二十九度に及んでいるのである。編集者の注である。
伊勢国に幸しし時 京に留まれる 柿本朝臣人暦の作れる歌
【題意】 この行幸は、左注によると天皇の六年三月である。この時は都は浄見原にあったのである。人麿は供奉に加わることができず、京に留まって、行幸先のさまを想像して作ったのである。
40 嗚呼見の浦に 船乗すらむ をとめらが 玉裳のすそに しほみつらむか
鳴呼見乃浦尓 船乗為良武 ※[女+感]嬬等之 珠裳乃須十二 四寶三都良武香
【語釈】 ○鳴呼見の浦に「嗚呼見の浦」は、日本書紀に、この年の五月、「御阿胡行宮時云云」という記事があるのにより、阿胡は三重県英虞郡にあり、当時の国府でもあった。その辺りの浦を「あこの滴」といい「こ」にあてた「児」を「見」と誤写したのではないかというのである。『注釈』は委しく考証し、鳥羽湾の西に突出している小浜の入海ではなかろうか、現にその地名が残っているという。従うべきである。○船乗すらむ 「船乗」は、熟語で、船に乗ること。ここは、舟遊びである。「らむ」は、現在推量の助動詞。○をとめらが 「をとめ」は、若き女の意。供奉の女官たちを親しんで呼んだもの。○玉裳のすそにしほみつらむか「玉裳」の「玉」は、美称。「すそ」は裾。「しほみつらむか」は、海の潮が満ちるであろうかで、「らむ」は上と同じ。舟中に坐している若い女と、その舟を繞り囲んでいる海の潮との関係(82)を、玉裳という感覚的なものを逢して想像しての状態である。
【釈】 鳴呼見の浦に今、舟遊びをするだろうおとめたちの、美しい裳の裾に、今、満潮が、寄せていることであろうか。
【評】 大和の平原にのみ生活していた大宮人は、海に対して強いあこがれをもち、また強い魅力を感じさせられていたことは集中の歌によって明らかである。また、天皇は女帝にましますところから、したがって供奉の女官は多かったことと思われる。行幸先を想像すると、第一に浮かんできたことは、「鳴呼見の浦」という土地で、そこは行幸の予定地となっており、また人麿の知っていた所でもあったろう。想像の中心は、満潮を待っての女官たちの舟遊びで、「玉裳のすそにしほみつらむか」はその想像の描写である。浦にある小さな舟に乗り、海の上に出ている若い女官たちの、印象的な裾を繞って、蒼い潮が近々と寄せている状態は感動的なものである。客観的に描写しているが、「らむ」の現在推量を二つまで重ね、「潮満つ」で、満潮時をもあらわしているところ、非凡な技倆である。
41 釧着く 手節の崎に 今もかも 大宮人の 玉藻苅るらむ
釼著 手節乃埼二 今毛可母 大宮人之 玉藻苅良武
【語釈】 ○釧着 「釧」は、古の装身具の一種で、臂へ巻いた物で、ひじまきという。釧を着ける手と続いて、手にかかる枕詞。○手節の崎 鳥羽港の海上に答志島があり、そこの崎。○今もかも 「も」は、上の「も」は強意、下の「も」は詠歎の助詞。「か」は、疑問の助詞で係。○玉藻苅るらむ 玉藻の「玉」は、芙称。「藻」は、海草で食料となるもの。藻を苅るのは海人としては生業の一部であるが、大宮人のするのはもとより遊びのためである。
【釈】 手節の崎で、現に今、大宮人は玉藻を苅って遊ぶであろうか。
【評】 行幸の路順を思うと、人麿も知っていたろうと思われる手節の崎が浮かんでくる。そこに想像されることは、大宮人の、海人の生業の一部である藻苅りをまねて興じている光景である。海に憧れている大宮人には、これはきわめて珍しく楽しい遊びで、人麿も、それを想像すると、心躍るものがあったとみえる。その心を、「今もかも」という急迫した語によってあらわし、現在推量の「らむ」で結んでいるのである。この一句が一首の眼目で、これによって一首を生動せしめている。自然と人事との交錯は、この歌に限らず、すベてに通じてのことであるが、「手節の崎」という土地をいうに「釧着く」という人事を配し、「玉藻」に「大宮人」を配している緊密さは、目だたぬものであるためにことに心を引く。作者としてはおそらく無意識なものであろうが、そこに文芸性の現われが感じられる。
(83)42 潮さゐに 伊良虞の島べ こぐ船に 妹乗るらむか 荒き島回を
潮左為二 五十等兄乃鴫邊 榜船荷 妹乗良六鹿 荒鴫廻乎
【語釈】 ○潮さゐに 「潮さゐ」は、潮の騒ぐ意。「さゐ」は「騒」の転じたものという。満潮、天侯などの関係よりのもの。潮さいの時に。○伊良虞の島べ 既出。現在は愛知県に属している。前の歌の答志島と伊良湖岬との間は三里で、いらごの渡りといい,途中に幾つもの島がある。『注釈』は、答志島の先、伊良胡崎寄りにある神島を、大まかにいっているのではないかとし、それでも遠過ぎるとしている。人麿の想像しての地であるから、ありうることである。○妹乗るらむか 「妹」は、男より女を親しんで呼ぶ称で,単に親しみの意味でも呼ぶ。前の歌で「をとめら」と呼んだその女官を呼びかえたものと取れる。同じく舟中の女官ではあるが、前の歌の平穏な光景であったのに較べ、これは女官としては不安を感ぜしめる想像であるところから、その気分から親しんで主観的な呼び方にかえさせたものと取れる。○荒き島回を 「島回」は、島辺り。「を」は、「であるものを」の意を含んだ感嘆の助詞。
【釈】 潮さいの時に、いらごが島の辺りをこぐ舟の上に、妹が乗っていることであろぅか。そこは浪の荒い島の辺りであるのに。
【評】 いらごが島における女官たちが想像に浮かんでくると、女官たちはそこの海でもまた舟遊びをすることだろうと思い、それと同時に、そこの海の浪の荒さを知っているところから、にわかに不安を感じてきて、前の二つの場所を想像した時のような平穏な気分ではいられず、その光景を、不安で暗くしたものである。その不安が、前にいった「妹」という特別な呼び方をさえさせているのである。
以上三首、一境一境気分が異なっているのであるが、いずれも既知の土地の上に大宮人を想像しての気分であって、その変化は一に土地その物が起こさせているものである。同一の人々が、環境の異なるに従って状態を異にしてくるものとし、それを想像の上に描いているところに、人暦の文芸性がみられる。一面連作の趣のみえるのは、それはおのずからなる結果とみるべきである。
当麻真人麿の妻の作れる歌
【題意】 上と同じ行幸の際、供奉に加わった夫の当麻磨を思って、京にいるその妻の作った歌である。当麻氏は用明天皇ょり出た。真人姓。麿の伝は明らかでない。
(84)43 吾がせこは 何所行くらむ おきつもの 隠の山を 今日か越ゆらむ
吾勢枯波 何所行良武 己津物 隠乃山乎 今日香越等六
【語釈】 ○吾がせこは何所行くらむ 「吾がせこ」は、既出。最愛の称。「何所行くらむ」は、「何所」は後世のいづこ。「行く」は都を中心としての語で、都へ向かって来る意。「らむ」は現在推量。供奉の帰程を思って自問したもの。○おきつもの隠の山を 「おきつも」は、沖の藻にあてた字。沖の藻は、浪に障れている物として、隠れるの古語「なばり」に続け、その「なばり」を,地名の名張に転じての枕詞。「隠の山」は、名張の駅家の辺りにある山。名張は三重県にある地で、現在も名張市がある。大和の飛鳥、藤原から伊勢へ行くには、必ず通るべき要地である。飛鳥から名張までは、二日あるいは三日の旅程だという。○今日か越ゆらむ 「か」は、疑問の係の助詞。今日は越えるだろうかで、第三句以下は自問に対して自答したもの。
【釈】 なつかしい夫は、どの辺を帰っていることであろうか。名張の山を今日は越えているであろうか。
【評】 供奉の夫の上を思いやっての心であるが、その心は落ち着いて、明るく、夫を気にかけてはいるが、不安をもってはいないことが注意される。表現は、二段とし、第一段で自問し、第二段で自答している。また、語の続け方は直線的で、平明である。これらは口承文学の特色で、ことにその自問自答の形は、旋頭歌の影響を思わせられるものである。この時代は、口承文学より記載文学に移りつついた時代で、これはその前期の系統を引くものである。
石上大臣の従駕にして作れる歌
【題意】 右上大臣は、右上朝臣麿。石上氏は餞速日命の子孫で物部氏の支族。麿が大臣となったのは、この時より後の慶雲元年に右大臣、さらにその後の和銅元年に左大臣となったのである。したがって大臣とあるのは、後の官位にょるものである。従駕は行幸の供奉で、行幸は、前と同じ時。
44 吾妹子を いざ見の山を 高みかも 大和の見えぬ 国遠みかも
吾妹子乎 去来見乃山乎 高三香裳 日本能不所見 國遠見可聞
【語釈】 ○吾妹子を 妻に対する最愛の称で、前の歌の「吾がせこ」に対するもの。吾妹子を、いざ見むといぅ意で「いざ見」にかけた枕詞。○(85)いざ見の山を高みかも 「いざ見の山」は、三重県飯南郡の西端と奈良県吉野郡との境にある高見山であろうという。この山はその付近の山の中で最も高く、また、吉野と伊勢神宮との交通要路にあるといぅ。「高み」は、「高」を動詞に化したもので、高き故にの意。「かも」の「か」は、疑問の係の助詞。○大和の見えぬ 「見えぬ」は、見られぬで、「か」の結びで、連体形。○国遠みかも 大和の国の遠いゆえなのか。
【釈】 吾妹子をいざ見ようという名をもったいざ見の山が高いゆえであろうか、なつかしい大和の国が見えないことよ。それとも大和の国が遠いゆえであろうか。
【評】 麿はこの当時も重職にいたのであるが、行幸の供奉をしていると旅愁を感じ、婉曲ながらそれをいっているのである。これは身分の低い者にはなく、高い者にだけ限られていたこととみえる。このことは言いかえると、身分高く、したがって教養も高い者は、文芸性を発揮しようと意識していたものとみえる。表現としては、口承文学の伝統の上に立ったもので、初句より四句まで直線的に続け、結句で多少の屈折を付けたもので、全体としても、明るく、軽く、浸透性の少ないものである。しかし同時に、記載文学としての細かい技巧をも伴わせていて、その点が注意させられる。「大和」といい、「国」と繰り返していっているのは、その家であり、家とは妻と同意語である。今は繰り返しによってその心を暗示している。これがすでに細かい技巧てある。しかしそれにとどめず、「いざ見の山」の枕詞として、「吾味子を」という語を据えきたり、それによってこの心を強めてもいる。これらはすべて記載文学の技巧で、しかも高度なものである。また、三句「高みかも」は、心としてはそこに休止はないが、調べとしては置いてある。それは、結句の「国遠みかも」と、調べの上で繰り返しの形を取らせょうとしているがためである。この技巧は、本来としては口承文学のものであるが、その技巧の用法の心細かさは、記載文学的なものといえる。口承文学と記載文学とが、極度の心細かさをもって交錯している歌で、時代を語っているものである。この歌も相聞である。ここに加えた理由は、前の歌と同じである。
右、日本紀に日はく、朱鳥六年壬辰の春三月丙寅の朔にして戊辰の日、浄広肆広瀬王等を以ちて留守の官となす。ここに中納言三輪朝臣高市麿、その冠位を脱ぎて朝に(敬と手)上げ、諌を重ねて曰さく、農作の前、車駕いまだ以ちて動きたまふべからずと。辛未の日、天皇諌に従はずして、遂に伊勢に幸したまふ。五月乙丑の朔にして庚午の日、阿胡の行に御しきといへり。
右、日本紀曰、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰、以浄廣肆廣瀬王等為留守官官。於是中納言三輪朝臣高市暦、脱其冠位撃(敬と手)上於朝、重諌曰、農作之前、車駕未可以動。辛未、天(86)皇不従諌、遂幸伊勢。五月乙丑朔庚午、御阿胡行宮。
【左注】 日本書紀によって、伊勢国への行幸のことを考証したものである。浄広肆は、天武天皇の十四年に定められた位階であり、広瀬王は、系譜は未詳。小治田の広瀬王として歌(巻八・一四六八)がある。養老六年正月、正四位下で卒す。留守官は、天皇の行幸の際、京にとどまって、諸司の鑰を管し、宮城を守る官。三輪朝臣高市暦は、三輪氏は大国主命の後。朝臣は天武天皇の十三年に賜わった姓。「冠位を脱ぎて朝に(敬と手)上げ」は、位階は冠によって順序が定められていたので、それを脱ぎて撃(敬と手)上げるのは、位階を返上する意。阿胡の行宮は上にいった。
軽皇子の安騎野に宿りたまひし時、柿本朝臣人麿の作れる歌
【歌意】 軽皇子は後の文武天皇。御父は皇太子草壁皇子(日並知皇子尊)の第二子で、持統天皇の十二年二月皇太子となり、その八月即位した。安騎野は奈良県宇陀郡で、今の松山町迫間付近の野である。この野は皇室の御狩場となっていた。「宿りたまひし」は、この行啓の時は、御父草壁皇子の薨去になられた後で、追慕の心をもって、生前、狩猟をなされた野に、その事のあった冬の季節に行啓になり、御宿りになった意である。草壁皇太子の薨去は、持統天皇の三年四月で、それから即位までの間である。人贋はその供奉の中に加わっていたのである。
45 やすみしし 吾が大王 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷か す 京を置きて 隠口の 泊瀬の山は 真木立つ 荒山道を 岩が根 禁樹押し靡べ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さり来れば み雪落る 阿騎の大野に 旗すすき しのを押し靡べ 草枕 たびやどりせす 古念ひて
八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 神長柄 神佐備世須登 太教為 京乎置而 隠口乃 泊瀬山者 真木立 荒山道乎 石根 禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 玉限 夕去来者 三雪落 阿騎乃大野尓 旗須為寸 四能乎押靡 草枕 多日夜取世須 古昔念而
【語釈】 ○やすみしし吾が大王 (三)に出た。○高照らす日の皇子 「高照らす」は、高く照らしているで、日の修飾。「日の皇子」は、日神の御末の意。以上、四句は、君主であるとともに神である意で、天皇、またはおもだった皇族に対する讃詞。ここは軽の皇子に対していったもの。(87)○神ながら紳さぴせすと (三八)に出た。○太敷かす京を置きて 「太敷かす」は、太敷くの敬語。(三六)に出た。高大に御支配になる。「京を
置きて」は、「大和を置きて」(二九)と同じ形で、京をさし置いて。京は、浄御原か藤原か不明である。○隠口の泊瀬の山は 「隠口」は、隠れる国の意で、その地勢をいぅ意で、泊瀬にかかる枕詞。大和国風土記残篇に、「長谷郷云々、古老伝云,此地両山潤水相夾而、谷間甚長、故云隠口長谷也」とある。「く」は「くに」。「泊瀬」は、今、桜井市、初瀬町といっている町を中心として、黒崎、出雲などをその一部としている旧、朝倉村をも含んだ地であったと思われる。「は」は、他と対させる意の助詞。○真木立つ荒山道を 「真木立つ」の「真木」は、檜、杉など立派な木の通称。「立つ」は、そうした木の生い立っている。「荒山道」は、人どおりの稀れな荒い山道。「を」は、感歎の助詞で、ものをの意のもの。○岩が根禁樹押し靡べ 「岩が根」は、岩で、「根」は、木根、垣根などの根と同じく、地に固定している物に添えていう語で、単に石というに同じ。「禁樹」は、訓み難くしているが、正宗敦夫氏の、「道をさえぎる木」の意に従い「さへき」とよむ。「押し靡べ」は押し伏せての意。岩が根と禁樹の双方に対してのこと。○坂鳥の朝越えまして 「坂鳥の」は、坂を飛び越える鳥のごとくの意で、鳥は習性として朝早く塒を出て、餌をあさるところから、「朝越え」の比喩としたもの。枕詞の一歩前のもの。「越えまし」は、「越え」の敬語。朝の間に、泊瀬の山をお越えになって。○玉かぎる夕さり来れば 「玉かぎる」の「玉」は、玉。石や貝で作ったもの。「かぎる」は、ほのかにかがやく意。夕、ほのか、はるかなどにかかる枕詞。「夕さり釆れば」は、夕ベと移り来れば。○み雪落る阿騎の大野に 「み雪」の「み」は、美称。「雪落る」は、眼前の景。鷹狩は冬の事と定まっていた。「大野」の「大」は、野をたたえて添えたもの。○旗すすきしのを押し靡 「旗すすき」の「旗」は、薄の穂の旗のように見えるところからの語で、熟語。眼前の物。「しの」は、小竹を初め、茅、荻など禾本科植物の総称。「押し靡べ」は、上と同じ。○草枕たぴやどりせす 「草枕」は、「たび」の枕詞。「せす」は、「す」の敬語。○古念ひて 「古」は、御父尊のこの野に狩をしたまいしこと。この二句は、この行啓の御趣意をいったもので、行啓は狩のためではなく、古を思ってのことで、そのために旅宿りをしたまうの意。当時は、近い過去も古といった。
【釈】 やすみししわが大王にして、高照らす日の皇子には、神とましますままに神の御行ないをなされようして、高大に御統治こなられる京をさし置いて、泊瀬の山は、真木の立ちつづく荒い山道であるのに,そこの岩をも遮り立っている木立をも押し伏せて、坂を越える鳥のごとくに朝の間にお越えになられて、夕ベと移り来ると、雪の降っている阿騎の大野に、旗のさまをしている薄と、小竹などを押し靡かせて、旅宿りをしたまう、古の父尊の御事をお思いになって。
【評】 日並皇子尊の殯宮の時、人麿の挽歌として作った長歌の反歌の一首に、
ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも(一六八)
といぅのがある。薨去になられた皇子尊に対しての忠誠は、いつまでも皇子を偲び奉りて忘れないといぅことが、残された唯一のものであり、また偲び奉るには、何らかの物または事を通さなければならないといぅのが当時の人の心であった。この歌は、その偲び奉るべき御門が、薨去とともに荒廃に委ねらるべきことを思って、その意味で悲しんだのである。軽皇子の安騎野への行啓は、それと心を同じくしたもので、父皇子の好んで鷹狩をなされた野へ、その事のあった季節において行啓になり、(88)父皇子を御追慕になろうとしたのである。当時は狩は、男子にとっては代表的の遊びであって、日並皇子尊の殯宮へ仕え奉っていた舎人《とねり》の一人は、
褻衣《けごろも》を時|片設《かたま》けて幸《いでま》しし宇陀の大野《おほの》は思ほえむかも(一九一)
と悲しんでいる。宇陀の大野とはすなわち安騎野である。父皇子追慕の場所としては、安騎野は絶好の場所だったのである。
この歌は、長歌と短歌と相対立した形になっているものである。長歌の方では皇子の上をのみ申し、短歌の方で臣下の心を述べる形となっている。今、長歌についていうと、心としては殯宮の歌に近いものであるが、事としてはそれとは別で、したがって言うことにも制限がなくてはならない。今は、皇子を通してその心をいおうとしているのであるから、一段と制限がある。皇子に対して捧げまつるべき尊敬の心は、なれなれしい物言い、すなわち立ち入つての物言いをするのは、あくまで遠慮すべきである。一首の眼目を結末に置き、「たびやどりせす古念ひて」という、距離を置いた、つつましい物言いにとどめているのは、こうした際の、臣下の態度として、当然なものと思われる。しかしこの「古念ひて」は、世の常のものではないことをいおうとし、それをいうにも、同じ用意から、婉曲に、余情的にいおうとして、その点には力をそそいでいる。起首の「太敷かす京を置きて」以下、結末の「草枕たびやどりせす」まで、すなわち一首のほとんど全部は、道中の容易ならぬことをいうことによって、追慕の情のいかに強きかを暗示したものなのである。この暗示的な、すなわち余情的な言い方が、皇子に対して臣下の言うを許される限度であるとしたのである。
藤原の都から、宇陀の安騎野までの道は、困難な道であるにもせよ一日路である。まして父皇子の狩のためにしばしば通われた道でもある。その困難にも程度がある。しかるに今は、「隠口の泊瀬の山は真木立つ荒山路を、岩が根|禁樹《さへき》押し靡べ」と、きわめて困難な道のようにいっている。また、鷹狩は冬季のもので、野に宿るのは普通のことであるのに、「み雪落る阿騎の大野に、旗すすきしのを押し靡べ」と、これまた、きわめて侘びしいことのようにいっている。楽しんですることと悲しんですることとは、同じことでも甚しく異なって感じられるのは当然であるが、今の場合は、意識的にその困難、佗びしさを強調したもので、その強調によって、皇子の追慕の深さを暗示しようとしたものと思われる。ここに人麿の表現技巧が認められる。
短歌
【題意】 長歌に添う短歌は、反歌と称してきたのが、ここにはじめて短歌とある。反歌と同じ意味で用いるようになったものと思われる。長歌の題に単に「歌」と記し、反歌が添うようになってから「并に反歌」と記しているのは、伝統の上からは比較的古い記し方と思われる。長歌は古い形式で、歌といえば長歌と定まっており、その長歌の結末を、短歌形式で繰り返したものが反歌だったと思われる。しかるに、長歌より後れて発達した短歌が、時代の要求に適しているところから勢力をもち、従来単なる繰り返しであった反歌が、長歌よりなかば独立した趣をもつようになってきたのであるが、その延長として、反歌を短歌と記(89)すようにさえなったものと思われる。反歌を長歌よりなかば独立させたのも、いったがように人麿によって創められたことである。今また、反歌を短歌と記すのも、同じく人麿の作において見るのである。この記し方は、人麿のしたものと思われる。
46 安騎《あき》の野《の》に 宿《やど》る旅人《たびびと》 うち靡《なび》き 寐《い》も宿《ぬ》らめやも 古《いにしへ》念《おも》ふに
阿騎乃野尓 宿旅人 打靡 寐毛宿良目八方 古部念尓
【語釈】 ○宿る旅人 宿っている旅の人で、供奉の臣下のみを指したものと取れる。皇子の御上は長歌の方で止め、こちらは臣下のみのことをいったことは、以下の歌でも察しられる。○うち靡き寐も宿らめやも 「うち靡き」は、安らかに寐る状態を、草などに喩えていつた語。「寐《い》」は、「寐る」の名詞形。「も」は、感歎。「宿らめや」の「や」は、已然形の「め」を受けた反語。「も」は、感歎。熟睡などできようかできないの意。
【釈】 安騎の野に宿っているわれわれ供奉の旅人は、身を横たえて熟睡などできようかできはしない、薨去になった皇子尊を思うので。
【評】 以下四首の短歌は、長歌で皇子の御事を申したのに対させて、供奉の臣下の事のみをいったものである。また、時間的にも対させて、皇子の方は、夕方までで止め、こちらは、宵から朝までへかけての心持をいっている。その上からいうと、この歌は宵の心持で、身を横たえて寐る気にもなれないことをいったものと取れる。しかし長歌とは繋がりをつけて、長歌の結句「古念ひて」と同じく、こちらも「古念ふに」といっている。
47 真草《まくさ》苅《か》る 荒野《あらの》にはあれど 黄葉《もみちば》の 過《す》ぎにし君《きみ》が 形見《かたみ》とぞ来《こ》し
眞草苅 荒野者雖有 黄葉 過去君之 形見跡曾來師
【語釈】 ○真草苅る荒野にはあれど 「真草」の「真」は、「真木」のそれと同じく、立派なという意で、「真草」は丈高い、荒野にふさわしい草。「荒野」は、「荒山」のそれと同じく、人跡の稀れな、すなわち荒涼たる野。○黄葉の過ぎにし君が 「葉」は、「黄葉の過ぎ」という語が集中に多いところから推して、「葉」の上に「黄」の脱したものと『代匠記』が考証した。黄葉のごとくで、その脆く散るところから「過ぎ」に意味で続く枕詞。「過ぎにし」は、命過ぎにしの意で、死にしの意。君は、日並知皇子尊。○形見とぞ来し 「形見」は、今もいう語。目に見ない人の記念として見る物の意で、今は安騎野である。「来し」の「し」は、「ぞ」の結び。
【釈】 丈高い草を苅るだけの、人跡稀れな野ではあるけれども、亡くなられた君の記念の野として来たことである。
(90)【評】 荒涼たる野の中に、思い出の悲しみに浸っていて、野の荒涼感の深まるとともに、悲哀も深まって来た時、われとわが状態を意識し、その状態の本意であることを強く思った心の表現である。時間のことはいってはいないが、全体が連作である関係上、そのことは前後の歌で暗示してい.ると取れる。それだとこの感を発したのは、真夜中と思われる。そう思うと、この心理は自然なものとなってくる。「真草苅る」と人事にからませ、また「黄葉の」と季節にからませての用法は、さりげないものであるが、緊密で、深い哀感にふさわしい。
48 東《ひむかし》の 野《の》に 炎《かげろひ》の 立《た》つ見《み》えて 反《かへ》り見《み》すれば 月西渡《つきかたぷ》きぬ
東 野炎 立所見而 反見爲者 月西渡
【語釈】 ○東の野に 「東」は、日向《ひむか》しの意で、東の古語。用例の少なくないもの。「野」は、安騎野。○炎の立つ見えて 「炎」は、火気でも日光でも、その気が大気に映ってゆらゆらする状態をいう語で、名詞。今は、日が出るに先立って、その気が野の大気に映っているもの。「立つ」は、現われるで、炎のゆらめく状態。○反り見すれば月西渡きぬ 「反り見すれば」は、振り返って反対の方すなわち西を見れば。「月西渡きぬ」は、月の入らんとして斜めになった意。
【釈】 東方の野には、日の出に先立つ陽炎のゆらめくのが見えて、振り返って見る西方の空には、夜の月が傾いた。
【評】 夜明け前の野の景の直写である。夜より明け方にと時が推移するに伴って、環境としての野の光景が変わってくる、その変化のために、浸りつづけていた悲哀から離れた状態である。現在ここと推定される安騎野は、さして広いものではないという。それだと、広漠たる野であるがごとく感じているところに、心理の自然があるといえ、またそこに人麿の文芸性があるともいえる。また、この歌は、東の炎と、傾ぶく月との対照には、皇子と父尊とが暗黙の間にからんでいるがごとき感を起こさせるものがある。人麿の気分のうちに、そうしたものがあったのではないかと思われる。
49 日並《ひなみし》の 皇子《みこ》の命《みこと》の 馬《うま》なめて 御猟《みかり》立《た》たしし 時《とき》は来向《きむか》ふ
日雙斯 皇子命乃 馬副而 御獵立師斯 時者來向
【語釈】 ○日並の皇子の命の 「日並」は、語意とすると、日に並んで統治する意で、いわゆる摂政の意で、普通名詞と解される。今は皇太子草壁皇子の尊称で、やがてこの皇子の御名のごとくなった語。「皇子の命」は皇太子を尊んでいう称。○馬なめて御猟立たしし 「馬なめて」は、馬を(91)並べて。「御猟立たしし」の「立たしし」は.「立つ」の敬語「立たす」の過去。御猟にお出かけになったことのあったの意。〇時は来向ふ 「時」は、意味の広い語で、今は時刻とも季節とも取れる。ここは季節である。「来向ふ」は、来て対している意で、その時刻となっているの意。
【釈】 日並皇子命が、馬を連ねて御猟にお出かけになられたことのあった、ちょうどその季節となっている。
【評】 第一首の結句「古念ふに」また第二首の結句「形見とぞ来し」という心の、その最高潮は、この歌の「御猟立たしし時は来向ふ」である。すなわちお偲びする皇子を、その形見の野において、ありありと眼の前に偲ぶことのできる時だからである。これが四首の連作の頂点で、前の三首はこの頂点の内容をなすためのものとも言いうるものである。長歌の題詞において「宿り給ひし」といって、その内容も宿られるに止め、短歌の方も、一|夜《よ》の宿りの推移をいい、思い出の頂点において止めている形のものである。それがこの行啓の趣意であったことが明らかである。歌の上では、猟ということには全然触れていないことが注意される。
藤原宮の※[人偏+殳]民《えだちのたみ》の作れる歌
【題意】 藤原宮の御造営の際、※[人偏+殳]《え》として仕え奉った民の作った歌である。「※[人偏+殳]」は「役」に同じ。藤原宮の御造営のことは、左注にある。「※[人偏+殳]」というのは、当時の制として、国民は租調のほかに、労力をも献ずべきこととなっていて、それを※[人偏+殳]と呼んだ。一年に十日間の労力である。※[人偏+殳]として出ることを「※[人偏+殳]に立つ」とも、「※[人偏+殳]立《えだ》ち」ともいった。「※[人偏+殳]民」の訓は定まっていない。「えだちの民」と訓む。この歌は、※[人偏+殳]民の作った歌となっているが、歌そのものは、天神地祇の心を合わせてこの事を助けたまうのに加えて、※[人偏+殳]民の専心に奉仕しているさまを、第三者として見ての心を述べたものである。その点から見るとこの題詞は、歌の内容を示そうとするよりも、歌そのものの性質を示そうとしているものである。こういう題詞の添え方は、宮中の歌※[人偏+舞]所《うたまひのつかさ》においてされたものではないかと思われる。それだとすれば、その題詞を、そのままにここに移したものと思われる。作者はもとより不明である。
50 やすみしし 吾《わ》が大王《おほきみ》 高照《たかて》らす 日《ひ》の皇子《みこ》 荒妙《あらたへ》の 藤原《ふぢはら》がうへに 食《を》す国《くに》を 見《め》し賜《たま》はむと 都宮《みあらか》は 高知《たかし》らさむと 神《かむ》ながら 念《おも》ほすなへに 天地《あめつち》も よりてあれこそ 磐走《いはばし》る 淡海《あふみ》の国《くに》の 衣手《ころもで》の 田上山《たなかみやま》の 真木《まき》さく 檜《ひ》の嬬手《つまで》を もののふの 八十氏河《やそうぢかは》に (92)玉藻《たまも》なす 浮《うか》べ流《なが》せれ 其《そ》を取《と》ると さわぐみ民《たみ》も 家《いへ》忘《わす》れ 身《み》もたな知《し》らず 鴨《かも》じもの 水《みづ》に浮《う》き居《ゐ》て 吾《わ》が作《つく》る 日《ひ》の御門《みかど》に 知《し》らぬ国《くに》 依《よ》し巨勢道《こせぢ》より 我《わ》が国《くに》は 常世《とこよ》に成《な》らむ 図《ふみ》負《お》へる 神《くす》しき亀《かめ》も 新代《あらたよ》と 泉《いづみ》の河《かは》に 持《も》ち越《こ》せる 真木《まき》のつま手《で》を 百《もも》足《た》らず いかだに作《つく》り 泝《のぼ》すらむ いそはく見《み》れば 神《かむ》ながらならし
八隅知之 吾大王 高照 日乃皇子 荒妙乃 藤原我宇倍尓 食國平 安之賜牟登 都宮者 高所知武等 神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曾 磐走 淡海乃國之 衣手能 田上山之 眞木佐苦 檜乃嬬手乎 物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼 其乎取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物 水尓浮居而 吾作 日之御門尓 不知國 依巨勢道従 我國者 常世尓成牟 圖負留 神龜毛 新代登 泉乃河尓 持越流 眞木乃都麻手乎 百不足 五十日太尓作 泝須良牟 伊蘇波久見者 神随尓有之
【語釈】 ○やすみしし吾が大王、高照らす日の皇子 既出。持統天皇を申している。○荒妙の藤原がうへに 「荒妙」の「妙」は、織布の総称。「荒」は、繊維の粗《あら》い意で、その反対の「和《にぎ》」に対した語。藤、葛などの繊維がすなわちそれで、意味で、「藤」にかかる枕詞。「藤原」は既出。古くは「藤井が原」と呼んだことが、次の歌で知られる。「が」は、「の」と似ているが、下の語を主とした場合に用いる。「うへ」は、上で、「野上《ののへ》のう萩」(二二一)、「高円《たかまと》の秋野《あきの》のうへの」(四三一九)などと同じく、そこにある物につき、その地域を指す語。○食す国を見し賜はむと 「食す国」の「食す」は、(三六)に出た。食すの古語で敬語。転じて、外部の物を身に取り入れる意から、統治の意となったもの。統治する国、「見し」は、「見る」の敬語で、「見」をサ行四段に転じたもの。これも、「食す」と同じく、転じて御統治の意となった語。○都宮は高知らさむと 「都宮」の訓は、『考』の訓で、古語拾遺にある語である。「み」は、美称。「あらか」の「あら」は、「現る」の語幹で、現われる処の意であろうと『講義』はいっている。宮殿の意。「高知らさむ」は、(三八)に出た。「高」は讃え詞。「知らさむ」は、知るの敬語で、ここは御造営になろうの意。○神ながら念ほすなへに 「神ながら」は、(三八)に出た。「念ほす」は、「念ふ」の敬語「思はす」の転じた語。「なへ」は、並みの転で、上のことに並んでで、同時に、それにつれての意。神ながら思し召されると同時に。○天地もよりてあれこそ 「天地」は、天つ神、地《くに》つ祇《かみ》の意。「も」は、並ぶ意のもので、下の「み民」に対するもの。この「天地」は、造営の檜材を、近江国の田上山が供給し、その運搬のことを宇治河より泉河がしていることをいったもので、下の続きがそれである。「よりてあれこそ」は、「よりてまつれる」と(三八)に出た。天皇に帰服してあ(93)ればこその意。「あれ」からただちに「こそ」に続くは古格で、後世だと間に「ば」とあるところである。「こそ」は係で、下の「浮べ流せれ」に続く。○磐走る淡海の国の (二九)に出た。○衣手の田上山の 「衣手の」は、衣手は袖で「手」を畳音の関係で「田」に続けて枕詞としたもの。「田上山」は、滋賀県栗太郡瀬田町、大戸川下流の南岸にある山。『講義』は正倉院の古文書に、「田上山作所」とあるところから、この山に、今日いう製材所のあったものだろうといっている。○真木さく檜の嬬手を 「真木さく」は、「真木」は檜、杉などの良材の称であるが、ここは続く「さく」との関係から檜と取れる。「さく」は、裂くである。檜は木理《もくめ》の関係から、これを縦に裂くには、楔《くさぴ》の類を打ち込み、裂け目を作ると、たやすく薄く裂くことができ、これは今日でも実行している方法である。「真木さく」は、檜を裂くところの「ひ」と続け、その「ひ」を同音の「檜」に転じたものと解される。「ひ」という語は、古典の上には見えないものであるが、長野県の松本地方では、口語として用いているのを耳にしている。それは建築の際、縦の柱と横の椽木《たるき》との間に、いささかの隙間のできたような場合には、そこを締めるために、隙間に合わせた楔を作って打ち込む、その楔を「ひ」といい、それを打ち込むことを「ひを打つ」ともいっているのである。「楔」という名称と「ひ」という名称とは関係のあるものに思われる。古典の上で、この「ひ」に関係のある語として、『講義』は、古事記上巻、八十神が大穴牟遅神を虐げる条に、大木の割れ目に矢という物を茹《は》めた、それを「氷目矢《ひめや》」といったのを引いている。「矢」というのは、楔が鏃《やじり》の形をしているからの称で、「氷目失」は、楔として用いる矢という意で、「ひの矢」の意と思われる。今は「ひ」をそれと解し、これが同音異義の関係で「檜」の枕詞となっていると解しておく。「嬬手」は、「嬬」は稜《つま》で、木造りした木のもっている角《かど》。「手」は、料で、檜の木造りをした物。○もののふの八十氏河に 「もののふ」は、物の部《ふ》で、「物」は、多くの物の意。「部」は、職業団体の称で、貢物をもって、また勤労をもって、朝廷に奉仕する多くの集団の意で、廷臣はその集団の長すなわち緒であった。「八十氏」は、そうした奉仕をする氏が多かったところから続けたもの。要するに朝廷の百官の意で、それが武臣を意味する語となったのは、やや後のことで、意味が転じたのである。「氏」を「宇治」に、同音異義で転じて、序詞としたもの。「宇治河」は、近江の海から発して、淀河に合流する河の、宇治を通過する時の名称で、上流は田上川、瀬田川、下流は泉川(木津川)である。○玉藻なす浮べ流せれ 「玉藻なす」は、「玉藻」は、(四二〉に出た。玉藻のごとく。「浮べ流せれ」は、上の「天地もよりてあれこそ」の結びで、天地の神、すなわち上代信仰による山にして同時に山つみであり、川にして同時に川の神である神々が、山つみはその貢物として檜の嬬手を献じ、川の神はその役として、それを浮かべて流したというのである。注意されることは、「天地」とはいうが、この山と川の神は、いずれも「地」の神であって、「天」と称すべきではないことである。以上、一段である。○其を取るとさわぐみ民も 「そ」は、檜の嬬手。「取る」は、流れるのを取り止める意。「と」は、とて。「さわぐ」は、忙しく立ち働く状態をいったもの。「み民」の「み」は、天皇の民とのゆえで、重んじて添えたもの。これは、民自身も、同じ意識からいう称。今は前者の意である。「も」は、上の「天地」に対させたもので、もまた。○家忘れ身もたな知らず 「家忘れ」は、公のために、私の家の事は忘れ去って。「身も」の「も」は、「家」に対させたもの。「たな知らず」の「たな」は、「たな曇り」など、例が少なくない。全くというにあたると、安藤正次氏はいっている。「知らず」は、知られずで、上の「忘れ」と同じ心を、強く繰り返したもの。○鴨じもの水に浮き居て 「鴨じもの」は、「じもの」は、のごときものの意で、「じ」は、シク活用の語幹で、体言を形容詞化するために添えたもの。名詞形で、連用修飾語。例の多いものである。「水に浮き居て」は、宇治川の流れの中に浮かぶ形で立っていてで、この語は、文意としては後の「泉の河」に続くものである。○吾が作る日の御門に 「吾が作る」は、御民われが造営する。「日の御門」は、日の御子の宮殿の御門で、(94)日の御子は天皇。御門は宮殿を代表させての語で、宮殿の意。天皇の宮殿にの意。○知らぬ国依し巨勢道より 「知らぬ国」は、未知の国で、わが国以外の異国。「依し巨勢」は上よりの続きは「依し来せ」で、その来せを「巨勢」に転じたもので、「吾が作る以下」は、その序詞である。「依し来せ」につき、『全註釈』は、「来せ」は、希望の助動詞「こす」の命令形で、寄ってほしいの意とし、証として「妻依来西尼《つまよしこせね》」(巻九、一六七九)、「許余比太尓郡麻余之許西祢《こよひだにつまよしこせね》」(巻十四・三四五四)を挙げている。しかし「依し」は「依り」と訓んでいたのを『注釈』は「依し」と訓むべきだとしている。上の二例だと同語だとしてのことである。「依し」はサ行下二段の他動詞で、したがって「依し来せ」は、天地の神がわが朝廷に、異国を帰服させ給えの意だとしている。これに従う。この序詞は特殊なもので、形としては同音異義でかかる普通のものであるが、心としては、天皇の御代の尊さを示している事実なのである。この御代に異国人の帰化したということは、際立った事実としては史上に現われていないがこの種の事は、すでに古い時代より始まっているもので、歴代、継続的に行なわれていた事と思われるので、この御代にも当然あった事と思われる。今は、御代を讃える心をまずもって、その事を取り立てて強調し、これを序詞の形をもっていっているのである。「巨勢」は、今の奈良県|御所《ごせ》市古瀬付近。巨勢山の東にある地。「巨勢道」は、その巨勢へ行く道。○我が国は常世に成らむ 「常世」は、恒久不変の国の意で、中国の道教でいう不老不死の国の意味である。「成らむ」は、変わらむで、これは「図《ふみ》」に続く。○図負へる神しき亀も 「図負へる」は、模様を背中にもっているで、その模様は、上の「我が国は常世に成らむ」という意味をもったものである。「神しき亀」は、「神しき」は、不思議の意。「図負へる亀」は瑞祥としての物で、その思想は中国から来たものである。中国でそれを瑞祥とするのは上代からで、尚書に禹《う》の時代からこれを尊信したことを伝えている。わが国では唐時代の制を伝えて、延喜式の瑞祥の中には、神亀を大瑞と定めている。今もそうした心をもっているのである。「亀も」の「も」は、並べる意のもので、これを田上山、宇治河の神々と並べて、天つ神のその意をお示しになったものとしたのである。すなわち上の「天地」といっている中の、山川の神の地《くに》つ祇《かみ》であるのに対させて、「天」すなわち天つ神の方にあてていっているのである。○新代と泉の河に 「新代」は、新しき御代で、『講義』はこの「新」は、「天(ノ)命維(レ)新(ナリ)」というそれで、御時世の一新をいったものだろうといっている。「と」は、としてで、新代の瑞祥としての意。さて形の上からは、「新代と出づ」と続き、その「出づ」を、地名の泉の河「いづ」に転じて、「吾が国は常代に成らむ」以下「新代と」までの長い語を、「泉」の序詞としているのである。しかしこれを意の上から見ると、巨勢道より神しき亀が出たという事実にもとづき、それを天意を示すところの大瑞なりとし、当時の信仰によって、これを天つ神の神意の現われであると解して、天皇の御代を讃えているものである。これを序詞の形としているのは、文芸上の技巧を喜ぶ心からのことで、意《こころ》としては、この一首の中の重大なる部分なのである。「泉の河」は、今の木津川である。山城国|相楽《さがら》郡にある川で、伊賀より来たり、男山の麓で淀川(宇治川)に合流する。『講義』は、木津という名は、古、流し来る材木を、そこで陸揚げをしたので、それにちなんで命じられた名であろういい、正倉院文書、天平十一年に、「泉木屋所」という語があると考証している。「泉の河に」は、泉河の方にで、宇治川を流れ下る嬬手の、淀まで流れて行ったのを、それに合流する泉河の河尻への意。○持ち越せる真木のつま手を 「持ち越せる」は、持ち運んで来たで、そうした檜のつま手をである。持ち運ぶのは、水の上においてである。〇百足らずいかだに作り 「百足らず」は、百には足らぬで、五十の古語「い」に、意味でかかる枕詞。「いかだに作り」は、筏に組み。〇泝すらむいそはく見れば 「泝すらむ」は、溯らせようとで、泉河の河尻から、陸揚げをする場所、すなわち木津に向かって溯らせる意。「いそはく」は、争うの意の「いそふ」を、ハ行四段に活かして、体言としたもので、争うことの意。争うのは、事を競い励む意である。泝らせようと(95)争って働く様を見ると。○神ながらならし 「らし」は、証拠を挙げての推量をあらわす助動詞で、ここは、天地と御民の仕えまつる状態がすなわち証拠である。天皇はまさしくも神そのままにいらせられることであろうの意。
【釈】 やみみししわが天皇にして、高く照る日神の御子《みこ》なる天皇が、藤原の地にして、御領有の国を御統治になられようと、おわします大宮をめでたく御造営になられようと、神としてお思いになられると同時に、天の神地の祇も、帰服してその事に奉仕しようとすればこそ、淡海の国の田上山の、檜の木の製材を宇治河の上に、玉藻のように浮かべて流すのであった。流れ来るその材を取り止めようと、忙しくも立働く天皇の御民は、奉仕のためにその家を忘れ、その身も全く忘れ去って、鴨のように水に浮かんでいて、(われらが作る日の御神の御子の大宮に、未知の異国の人を帰服させ給えと思う、その来《こ》せにゆかりある巨勢道から、わが国は恒久不変の国に変わってゆこうということをあらわす模様を、その甲背にもっている霊妙なる亀が、新たなる時の来たる瑞祥として現われ出でた、その出ずという名をもつ)泉の河の方にと、御民らの取り止めて持ち運んだ檜の製材を、ここでさらに筏に組み、それを陸揚げする場所まで溯らせようと競い励んでいる状態を見ると、天つ神|地《くに》つ祇《かみ》とともに御民の奉仕するところの天皇は、まさしくも神そのままにましますのであろう。
【評】 題は、藤原宮の※[人偏+殳]民の作れる歌とあるが、歌の内容から見ると、この歌を作った者は※[人偏+殳]民ではなく、※[人偏+殳]民の競い励んで立ち働いている状態を、第三者の立場に立って傍らから観ており、それを天皇の神ながらの御勢のしからしむるところだとして、天皇を讃えまつる料としている人である。それのみならずその人の、この讃え詞をいっている場所も明らかにしている。それは淡海の田上山から田上川に流し下す檜の嬬手が、勢田川、宇治川と一つ水流を流れ下り、その水流が山城において泉川と合流し、それともに淀川となろうとする地点に立っているのである。水流を利用して運んで来た檜の嬬手は、その地点で取り止め、今度は泉川を人力をもって溯らしめ、便宜な所で陸揚げをする方針なのである。運搬の上からいうと、宇治川と泉川との合流地点は、最も肝要な場所で、※[人偏+殳]民の第一に立ち働くのもそこである。この歌の作者の立っているのはその地点である。この人は、※[人偏+殳]民を監督している人でなくてはならない。藤原宮造営の事を奉行している、廷臣の一人と見るべきであろう。
歌は、藤原宮造営の事を通して、天皇の御稜威《みいつ》を讃えたものである。造営その事よりも、それによって現われる御稜威の方に力点を置いたものである。御稜威は、(三六)より(三九)にわたる「吉野宮に幸《いでま》しし時、柿本朝臣人麿の作れる歌」に現われているがごとく、天皇の御民のみならず、この国土につながる地《くに》つ祇《かみ》も、御民と同じく天皇に奉仕し、加えて天つ神も加護したまうということによってあらわされるのである。そしてこれは、眼前に展開している事実に即することによって、その意を全うするものである。
一首の構成は、起首において「神ながら念ほすなへに」といい、結末に「神ながらならし」といって、御稜威を讃うる心を一貫せしめ、その中間に、「天地」と「御民」の状態を、具象的に叙しているのである。
「玉藻なす浮べ流せれ」までは、一に地《くに》つ祇《かみ》の奉仕の状態であ(96)る。山であると同時に山つみである田上山は、そこから産する物として、檜の嬬手を貢物として天皇に献ずる。田上山に発して田上川となり、末は淀川になる川は、川であると同時に川の神であって、これは※[人偏+殳]として、檜の嬬手の運搬を、天皇のために奉仕する。いずれも地つ祇であるが、天皇に帰服して御民と同じく奉仕するのである。かくて檜の嬬手は、宇治川が泉川を合わせて淀川となろうとする地点まで運ばれゆくのである。
宇治川と泉川との合流地点において、檜の嬬手は、※[人偏+殳]の御民の手によって取り止められ、泉川を、いささか溯らしめて陸揚げをして、事としては一段落つくのである。流れの中に立ち、その嬬手を取り止め、これを筏に組んで泉川を溯らしめる段となって、はじめて御民の奉仕が現われる。
地つ祇と御民との奉仕を通しての天皇の御稜威は、以上の※[目+者]《み》やすいことによってあらわしているが、「天地《あめつち》も依りてあれこそ」というその「天」の方も、御稜威を徹底的にあらわす上では触れなくてはならないことである。また、それに触れるとすれば、具象的な事実を通してでなければならない。事実のそれに値するものはあった。それは史上に明記されるような際立ったものではないが、巨勢道から神しき亀が現われ出たということである。亀を瑞祥とすることは、先々帝である天智天皇の紀にも見え、この御代以後は著しくふえていることである。これは中国思想の影響を受けた信仰であるが、これを外形から見ると、「我が国は常世にならむ、図《ふみ》負へる神しき亀も、新代と出づ」というのは、道教の信仰と、天命説との混淆したものであって、影響というよりはむしろ模倣というべきものである。ことに「新代」という語《ことば》のもっている内容は、わが国には不適当なものである。しかしこのように語を尽くしていっている精神を思うと、これは中国でいうところの天意ではなく、天つ神の天皇の御代に対して暗示し給う加護である。その事は、「吾が作る日の御門に、知らぬ国依し巨勢」という、天皇の御代を讃える詞と、対句のごとき関係においていわれているのでも明らかである。すなわち本質としては、中国思想を摂取しているのみで、そのために変質させられているものではないのである。この事は、この歌の作者が、天皇の御稜威を徹底的にいうには、天つ神の加護をいわずにはやめられないとして、この歌の構成の上からは、加えるに困難なものであるにもかかわらず、「巨勢」と「泉の河」との序詞という形をもって、しいていっている点からも、明らかに看取できることである。この歌の作者の、作者としての技倆は、かかってこの一点にあるといえる。
天つ神の加護を具体的にいうことによって、「天地」「御民」のすべてを整えることができ、それが天皇の御稜威に帰することとなったので、結尾の「神ながらならし」が重い響のあるものとなったのである。
一首は、平明に、直線的に間《ま》が緩やかで、口承文学の色彩の濃厚なものである。「吾が作る日の御門」以下の、天つ神の加護をあらわそうとする点は、微細感をもったものであるが、しかし全体の調子を破るものではなく、調和を保ち得ているものである。こうした作をする作者が、誰であったとも伝えられていないのは、おそらく身分の低かったがためであろう。作の態度の上からみれば、上にいったがように、造営の奉行の一人である廷臣だとみえるが、これは当時の作風として、作者は実際に即している態度を取るべきものとしているところからされて(97)いることで、実際の作者は、当時の歌※[人偏+舞]所に仕えていたいわゆる歌人《うたぴと》の一人ではなかったかと思われる。それで歌としては優れているが、身分の関係上その名を省かれたのではないか。またこの歌の題詞の、上にいったがごとく不適切であるのも、それが歌※[人偏+舞]所のもので、他と紛れざるためにのみ添えたものであったためではないか。これは臆測にすぎないものであるが、これについで収められている「藤涼宮の御井の歌」も、これと怪しきまでに揆を一つにしていて、単にこの歌のみではないからである。
右、日本紀に曰はく、朱鳥七年癸巳の秋八月、藤原宮の地に幸す。八年甲午の春正月、藤原宮に幸す。冬十二月庚戊の朔乙卯の日、藤原宮に遷り給ふといへり。
右、日本紀曰、朱鳥七年癸巳秋八月、幸2藤原宮地1。八年甲午春正月、幸2藤原宮1。冬十二月庚戊朔乙卯、遷2居藤原宮1。
【左注】 日本書紀から、藤原宮造営に関する記事を抜いて列ねたものである。
明日香宮より藤原宮に遷居《うつ》りし後の志貴|皇子《みこ》の御作歌《みうた》
【題意】 明日香宮より藤原宮へ遷られたのは、七年十二月である。この歌は、その年以後の春に作られたものである。志貴皇子は、天智天皇の第七皇子で、持統天皇には御弟である。光仁天皇の御父であられるところから、その御代に追尊ありて春日宮御宇天皇と申し、世に田原天皇ともいう。歌の題によると、皇子は遷都の後も、旧都にとどまられたようである。
51 采女《うねめ》の 袖吹《そでふ》き反《かへ》す 明日香風《あすかかぜ》 都《みやこ》を遠《とほ》み いたづらにふく
※[女+采]女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用尓布久
【語釈】 ○采女の 「采女」は、後宮に仕える女官で、供奉、御饌の事を職とする、下級の官である。日本書紀、孝徳巻に採択の条件が載っている。「凡采女者、貢2郡少領以上姉妹及子女、形容端正者1」というのである。原文「妹※[女+采]」という文字は、中国六朝時代にもっぱら行なわれた文字で、それを採ったのだと『講義』は考証している。○袖吹き反す明日香風 「反す」は、翻す。「明日香風」は、明日香の風で、明日香の地に吹いている風をそう呼んだ。好んで用いられた言い方で、佐保《さほ》風、泊瀬《はつせ》風、伊香保《いかほ》風などの例がある。「吹き反す」は現在法であるが、事としては過去と(98)なったもので、感情の上でいっているのである。すなわち吹き反すべきの意である。下に、感歎の意の詞が省かれている形のもの。○都を遠みいたづらにふく 「都を遠み」は、都が遠きによりてで、都は藤原。遠きは、明日香より藤原をいうので、幾何《いくばく》の距離もないのである。が、それを「遠み」といって趣をもたせたのである。「いたづらに」は、甲斐なくで、吹いても作用しうる雅《みや》びた物がない意でいったもの。
【釈】 采女の袖を吹きひるがえすべき明日香風よ、都が遠いによって、今はその甲斐もなく吹いている。
【評】 明日香の都が旧都となって、さびれてきた中にとどまっていられた皇子が、そのさびしさを嘆かれた歌である。その感を誘ったものは風であるが、その風は、采女の袖ふき反すことを連想させるものであるから、春のことであったろうと思われる。春風に吹かれた旧都のさびしさを感じさせられたとすれば、心理の自然がある。歌は、春風を叙した形となっているが、春風はすなわち皇子の心で、美しい采女の雅びやかなさまを見せていた皇居が遷されたので、以前とは異なって、明日香には、心を寄せるべきものもないというのである。これを態度の上から見ると、この歌は我と心を遣られるためのものであるが、その主観を、季節のものという中にも、春の風という、捉えては言い難い物に託され、一見、風そのものを叙したがような隠約な詠み方をされているのは、純文芸性のもので、しかもその高度なるものといぅべきである。前後の歌の、技巧としては優れたものが多いが、態度としては大体実用性の範囲にとどまっている中に、純文芸性の作をしていられることは、時代的にみて注目させられることである。
藤原宮の御井《みゐ》の歌
【題意】 藤原宮の御井は、大宮に属した井の称であるが、藤原の地に皇居をお奠《さだ》めになったのは、その井がおもなる理由の一つ(99)をなしていたことと思われる。清列な飲用水は必ずしも獲やすくはなく、一方これは居を占むるには第一に考えなければならないものだからである。歌で見ると藤原は、藤井が原とも呼んでいたことがわかる。この藤井が原の方が旧名で、藤井というのは、飲用に適する水の、井と称すべきものが、叢生している藤の中にあり、その藤は、その井を保護する物として特別に扱われていたところから、自然その井の名となり、原の方も、その藤井のあるところから、藤井が原と呼ばれるに至ったものと思われる。題は、藤原宮の御井の歌とあって、御井その物を詠んだ形としてあるが、作意は、新たに遷られた藤原宮に対する賀歌であって、宮の永遠を賀する心を、湧いてやまない御井の清水に寄せたものである。
52 やすみしし わご大王《おほきみ》 高照《たかて》らす 日の皇子《みこ》 荒たへの 藤井《ふぢゐ》が原《はら》に 大御門《おほみかど》 始《はじ》めたまひて 埴安《はにやす》の堤《つつみ》の上《うへ》に 在《あ》り立《た》たし 見《め》したまへば 大和《やまと》の 青香具山《あをかぐやま》は 日《ひ》の経《たて》の大御門《おほみかど》に 春山《はるやま》と しみさび立《た》てり 畝火《うねび》の このみづ山《やま》は 日《ひ》の経《ぬき》の 大御門《おほみかど》に みづ山《やま》と 山《やま》さびいます 耳為《みみなし》の 青菅山《あをすがやま》は 背面《そとも》の 大御門《おほみかど》に 宜《よろ》しなへ 神《かむ》さび立《た》てり 名《な》ぐはし 吉野《よしの》の山《やま》は 影面《かげとも》の 大御門《おほみかと》ゆ 雲居《くもゐ》にぞ 遠《とほ》くありける 高知《たかし》るや 天《あま》の御陰《みかげ》 天知《あめし》るや 日《ひ》の御陰《みかげ》の 水《みづ》こそは 常《とこしへ》にあらめ 御井《みゐ》の清水《ましみづ》
八隅知之 和期大王 高照 日之皇子 麁妙乃 藤井我原尓 大御門 始賜而 埴安乃 堤上尓 在立之 見之賜者 日本乃 青香具山者 日経乃 大御門尓 春山跡 之美佐備立有 畝火乃 此美豆山者 日緯能 大御門尓 弥豆山跡 山佐備伊座 耳高之 青菅山者 背友乃 大御門尓 宜名倍 神佐備立有 名細 吉野乃山者 影友乃 大御門従 雲居尓曾 遠久有家留 高知也 天之御蔭 天知也 日之御影乃 水許曾婆 常尓有米 御井之清水
【語釈】 ○やすみしし 既出。○わご大王 「わご」の「ご」は、「わが」の「が」が、下に続く「大」の「お」に同化されて、「ご」と転じたものである。他にも例のあるもの。これは歌が謡い物、すなわち口承文学であった時期の名残りをとどめているものである。○高照らす日の皇子 (四五)に出た。○荒たへの (五〇)に出た。○藤井が原 題意にいった。○大御門始めたまひて 「大御門」は、言葉どおり皇居の御門の意に(100)も用い、また、皇居を代表させて、皇居の意でも用いている。ここは皇居の意のもの。「始めたまひて」は、造営をお始めになって。○埴安の堤の上に 「埴安」は、埴安の池。(二)に出た。○在り立たし見したまへば 「在り立たし」の「在り」は、動詞に冠することによって、その動詞の意の継続をあらわすためのもので、「あり通ふ」「あり待つ」「あり経る」「あり渡る」など、類例の多いものである。「立たし」は、立つの敬語。しばしばお立ちになってで、飛鳥浄見原宮より、行幸になられてのこと。「見し」は、見るの敬語で、見をサ行四段に活かしたもの。御覧になれば。○大和の青香具山は 大和を香具山に冠したのは、香具山を重んじていうがためで、讃え詞《ごと》である。「青」は、山の木立の繁っているさまをいったもので、賞美の意からである。「は」は、他と対させた意の助詞。○日の経の大御門に 「日の経」は、上代の方角の呼び方で、これについで、「日の緯《ぬき》」「背面《そとも》」「影面《かげとも》」と出ているので、一括していう。経緯は、本来織物の糸の名で、これを太陽の運行の道に配して、方位の名としたものである。起源は中国である。わが国のものとしては、日本書紀、成務巻に、「因《ニ》以2東西1為2日縦1、南北為2日横1、山陽曰2影面1。山陰曰2背面1」とある。これによると、朝日を基として、それに向かっての線、すなわち東西を日の経《たて》と呼び、これに対して日中の線、すなわち南北をもって日の横と呼んだのである。横というのは、経《たて》に対しての緯《ぬき》をいうのであるから、日の横は日の経とも呼びうるものである。中国では、日中の太陽を基としているので、南北を経とし、それに対して東西を緯としているのである。「影面《かげとも》」は、山を基としての名で、影面《かげつおも》すなわち光線の直射する面で、これは南であり、「背面《そとも》」は、背面《そつおも》で、影面に対して光線のあたらぬ面すなわち北である。前者は太陽その物を基としての称、後者は太陽に山を加えた物を基としたもので、基とするものを異にしており、したがって重複もしている。また、本朝月令に引く高橋氏文には、「日堅、日横、陰面、背面(乃)諸国人(乎)割移(天)」とある。これによると、日の竪は東、日の横は西、陰面、背面は南北である。この歌における日の縦、日の緯は、この双方と一致しているもので、当時は西を日の緯と呼んでいたことがわかる。『講義』はこの方位について精しい考証をしている。「大御門」は、ここは御門の意である。日の経の大御門は、東の御門である。○春山としみさび立てり 「春山と」は、春山のごとくで、春は山の木の繁る時として、下の「しみさび」の状態としていったもの。「しみさび」の「しみ」は、繁《しげり》の意の古語で、副詞。「さび」は、接尾語で、他の語に添って、それを上二段活用の動詞とするもの。それにふさわしい状態をする意。神《かむ》さび、翁《おきな》さび、処女《おとめ》さびなど、類例が多い。全体では、春の山のごとくに、青く繁ったさまをあらわして立っているの意。香具山を初め、これにつづく他の三つの山も、上代の信仰の、山にして同時に神であるとしていっているものである。○畝火のこのみづ山は 「みづ山」の「みづ」は、若くうるわしい意で瑞枝《みずえ》の瑞と同じである。うるわしく若木の繁っている山は。○日の緯《ぬき》の大御門に 「緯」は、旧訓「ぬき」で、『考』が「よこ」と改めている。藤原からは畝火山は西にあたるので、上の高橋氏文の西を「日の横」といっているのに恰当《こうとう》する。しかし、これを日の横と呼び、西を意味させる称は、この当時のことであって、同じく上の日本書紀、成務巻にある日の緯《ぬき》と呼び、日の経が東を意味するのに対し、南を意味させる称は、現在、口語として存している。長野県の南部の一半、埼玉県の三峰山の辺りでは、現に口語として用いていることを私は耳にしている。他でも用いられていよう。もっともそれは、太陽が南方に回った時刻をあらわす語に転じ、日の緯《のき》となっている。用字から見て旧訓があたっていようと思われる。「大御門」は、上と同じ。○みづ山と山さびいます 「みづ山と」は、瑞山のごとく。「山さび」の「さび」は、上の「しみさび」のそれと同じく、山としてふさわしきさまをあらわす意で、うるわしく若木の繁っているさまが、山にふさわしいまでである意。「います」は、敬語で、山を神としていっているもの。○耳為の青菅山は 「耳為」の為は原文「高」、『考』が「為《なし》」の誤写であろうとし、以後それに従っている。北にある山としては、耳梨以外にはないからである。「青菅(101)山」は、青々と山菅に蔽われている山の意。○背面の大御門に 「背面」は北方。○宜しなへ神さび立てり 「宜しなへ」は、「宜し」は、物の足り整っている意。「なへ」は、並べで、並んでいる意。一つの物の中に、宜しさが並んでいる意の語である。十二分に宜しくというほどの意。用例の少なくない語。「神さび立てり」は、神なる山が、神にふさわしきさまをあらわして立っている意。○名ぐはし吉野の山は 「名ぐはし」の「ぐはし」は、美しい意の古語で、香《カ》ぐはし、くはし妹《いも》、くはし女《め》など、類例が多い。名の美しいで、吉野に意味でかかる枕詞と取れる。○影面の大御門ゆ 「影面」は、南。「大御門ゆ」は、御門より。○雲居にぞ遠くありける 「雲居」は、雲の居る所で、すなわち空。「ける」は、上の「ぞ」の結び。以上の一段で、天皇の御眼をもって御覧になったものとして、皇居の四門を、山にして同時に神である山が、守護しまつっていることをいったもの。○高知るや天の御陰 「高知るや」は、「高知る」は、高く領する意。「や」は、間投の助詞。「天」にかかる枕詞。「天の御陰」は、天より隠れる陰で、宮殿の意。御は美称。○天知るや日の御陰の 「天知るや」は、天を領するで、意味で「日」にかかる枕詞。「曰の御陰」は、日より隠れるところの宮殿で、この二句は、上の二句と対句になっている。意味を強めるためである。「天の御陰、日の御陰」という語は、上代よりの成語であって、延喜式の祝詞の中にしばしば出ている。祈年祭の祝詞にも、「皇孫命(乃)瑞能御舎(乎)仕奉(※[氏/一])、天御陰日御陰(登)隠坐(※[氏/一])《すめみまのみことのみつのみあらかをつかへまつりてあまのみかげひのみかげとかくりまして》」とある。○水こそは常にあらめ 「水」は、天の御陰、日の御陰に、第一に必要なる飲用水で、「こそ」と「は」は、強めである。「常尓有米」は、訓みがさまざまである。注意される訓みは、『考』の「とこしへならめ」と、富士谷御杖の「つねにあらめ」とである。「常」は、常住不変の意で、「つね」という訓みは最も自然なものである。しかし、「常」の意を「とこしへ」というのも、集中に例の少なくないものである。その中のいずれであろうかというに就いては、(一)の雄略天皇の御製より初めて、この時代に先立つある期間には、長歌の結尾を、五三八、あるいは八七をもってすることが風となっていた。この結末もそれではないかと思われる。それだと、「常にあらめ」と、五三、あるいは八に訓むべきであろう。藤原宮をいうに、成語とはいえ、天の御陰、日の御陰と、天と日とに関係する語をもってあらわし、そこに湧き出ずる飲用水を、必ず常住不変のものであろうとするのは、すなわち宮殿の常住不変を、天つ神の加護を心に置いてお祝いする意である。○御井の清水 「清水」を、「ましみづ」と訓んだのは『考』で、調べのためだと断わっている。「ま」にあたる文字はなく、また「しみづ」に「ま」を添える例も、古文献の上には見あたらないものである。しかし調べの上では、この歌にふさわしいものであり、いったがように、結尾を五三七、あるいは八七とするのが風であったとすれば、この字によって誤りなく、そう訓んだのではないかと思われる。「清水」は、しみいずる水。「ま」は、物の十分なる意で、接頭語。下に、感歎が含まれている。
【釈】 やすみししわご大王《おおきみ》にして、高照らす曰の皇子《みこ》が、荒たえの藤井が原に宮殿の造営をお初めになられて、埴安の池の堤の上にしばしばお立ちになって御覧になると、大和の青々とした香具山は、東の御門にあたって、春の山として木立の繁ったさまをあらわして立っている。畝傍のかのうるわしく若々しい山は、西の御門にあたって、うるわしく若々しい山というにふさわしく、山の趣をあらわしていられる。耳為《みみなし》の青々と菅に蔽われた山は、北の御門にあたって、十二分に足り整って、神としてのさまをあらわして立っていられる。名のよい吉野の山は、南の御門から、空遠く立っていることである。空を領するところの天《あめ》より隠れる御陰としての宮殿、天《あめ》を領するところの日より隠れる御陰としての宮殿に湧き出る水こそは、この殿舎とともに常住不(102)変なことであろう、この御井に湧き出る清水よ。
【評】 藤原宮の御井の歌としてあるが、作意は、藤原宮の造営の当初、この宮の恒久不変を祝うことを目的とした、典型的な賀の歌である。御井そのものは、祝意をあらわす上では一部分にすぎない物で、御井の清水の湧いてやまぬところに恒久不変のさまを観じ、そこを捉え、それに寄せて、祝意を表するものとしたのである。
作者は、何びとであるかはわからない。これは撰集の当時すでに不明だったのである。しかし上代の歌風として、実際に即した形をもってものをいっているので、おのずからに作者の身分を暗示するものがある。それは、「大御門始めたまひて、埴安の堤の上に在り立たし見《め》したまへば」という言葉によってである。これによると藤原宮造営の当初、持統天皇はおりおりに、飛鳥浄見原宮より、藤原の地へ行幸になり、その事を御覧になられたことが知られる。この歌の作者は、供奉の中に加わっていた一人で、天皇のその御さまを、親しく眼をもって見ていたのである。「在り立たし」という言葉は、行幸の都度供奉していたことを示しているもので、おのずから身分の低い官人であったことを暗示している。しかもこの歌が、賀歌としての性質上、歌※[人偏+舞]所《うたまひのつかさ》に保存されていたものだろうと思われるのに、その名が伝えられていないということは、偶然のことではなく、伝えるに及ばないこととされたためかと思われるが、これは身分の低いというにほかならぬことである。さらにまたこの作者は、この歌の反歌において、その身が、不断に天皇に側近しうる采女でないことを嘆く心をもって、采女を羨んでいるのである。これは男女の差はあるが、身分としては、采女に匹敵するものであるところからの羨みと解せられる。以上の二つの点から、この歌の作者は、天皇に側近しうる機会をもっていた、身分の低い官人であったことを思わせられる。
歌は二段より構成されていて、第一段は、皇居の四門を、山にして同時に神である四つの山が守護しまつっていることをいって、天皇の御稜威とともに、皇居の安泰を賀したものである。第二段は、一転して、皇居の御井の清水の湧いてやまないことに寄せて、皇居の恒久不変を賀したものである。 第一段で注意されることは、上代信仰である山にして同時に神である四つの山が、天皇に対しては臣下として帰服し、武臣(103)となって四門を守護する役をしているという信仰を、作者自身の信仰としてはいわず、天皇の御眼をもって御覧になった自明な事実としていっていることである。これは(三八)の、吉野宮に幸《いでま》しし時、柿本人麿の作れる歌と、全く揆を一にしたものである。どちらが先に作られたものかはわからないが、後から作った方は、先の物の影響を受けていることだけは明らかである。
同じ系列の賀歌ではあるが、(五〇)の藤原宮の※[人偏+殳]《えだち》の作れる歌は、上代信仰によってのものであるが、その中に、中国思想の影響の著しいものがあり、瑞祥を説くことが多い。皇都を奠《さだ》めるには、政治上のこと、平生の生活上のことなど、さまざまのことが考慮に入ろうが、瑞祥を重んじた当時にあっては、地相ということも重大なることであったろうと思われる。しかるにこの歌は、全然地相というようなことには触れていない。これはこの時代としても古風なことと思われる。この古風は、方位をいう上にも及んで、漢文学の影響の深かった時代に、日の経、日の韓、影面、背面というような、他には例のない呼び方をしている点にも現われている。なお、列挙している四門の山を讃えるに、その風景の美については一言も触れず、山をただちに神として、耳為山には「神さびいます」といい、香具山には「繁さび立てり」、畝傍山には「山さびいます」といって、神である山の容《さま》の、それにふさわしさをいっているのである。また、遠く立つ吉野山に対しては差別をつけ、「名ぐはし」という枕詞を冠するにとどめている。これは作意が那辺にあったかを示していることとして注意される。
以上、第一段は、天皇の御眼をとおしての事実をいっているのであるが、第二段は一転して、臣下である作者自身の感想として、御井の清水に寄せて皇居を賀しているのである。第一段よりこの第二段への飛躍は、相応に際やかなもので、口承文学すなわち謡い物の系統のものとしては、追随するに注意を要するほどのものであるといえる。これは口承文学の上に立ちつつも、記載文学に向かって一歩前進したものといえる。なおこの点は、藤原宮の※[人偏+殳]民の作れる歌における、「吾が作る日の御門《みかど》に、知らぬ国依し巨勢道」以下の、記載文学的の部分の加わりきたっているのと、趣の通うものがあるといえる。しかしこの歌にあっては、古来の成語の、「天の御陰」「日の御陰」という語を捉えて、第一段と同じく、努めて古風を守ろうとしているところがあり、同時にその語によって、皇居と天上の世界との繋がりを、間接ながらにあらわして、皇居に対する天つ神の加護を暗示しようとしているのも、同じく古風といえるが、その言いあらわし方の婉曲なのは、記載文学的であって、ここにも記載文学への前進が認められる。
この歌と、藤原宮の※[人偏+殳]民の作れる歌との作者は、同一人かまたは別人かということは問題となるものである。作風を比較すると、かれは平面的で、事象を重んじる心が強く、したがって間《ま》が緩く、概していえば客観的である。これは趣を異にして、立体的で、当時の風としては事象は重んじてはいるが、かれほどには強くはなく、したがってかれほどの細心がなく、やや粗雑に、簡潔で、おのずから間《ま》が早くなっている。概していうと、かれよりは主観的である。この作風の相違は、別人であろうと思わせる。この歌の題詞の付け方は、※[人偏+殳]民の作れる歌についてもいったように、歌※[人偏+舞]所で付けたものと思われる。したがって(104)この歌の作者もまた、歌※[人偏+舞]所の歌人《うたびと》の一人と思わせられる。この事は、この時代の作歌の雰囲気のいかに濃厚であったか示しているもので、柿本人麿の出現の偶然でなかったことを語るものといえる。
短歌
【題意】 「短歌」は、反歌の心をもって、同じものとして書いた語である。これは(四六)にも出ているものである。
53 藤原《ふぢはら》の 大宮《おほみや》つかへ あれつぐや 処女《をとめ》がともは 乏《とも》しきろかも
藤原之 大宮都加倍 安礼衝哉 處女之友者 乏吉呂賀聞
右の歌、作者未だ詳かならず
右歌、作者未v詳。
【語釈】 ○藤原の大宮つかへ 「大宮つかへ」は、大宮への奉仕で、名詞。下への続きから見ると、「に」という助詞の添うべきものである。○あれつぐや処女がともは 「あれつぐや」は、「あれ」は現われで、生まれる意。「つぐや」は代々生まれ継ぐで、下の「処女」に続く。聖寿は限りないので、奉仕するには生まれ継がなくてはできない意の語。「処女」は、天皇に側近してお仕え申す采女。「とも」は、伴《とも》で、部属の意のもの。「は」は、他と対させたもの。○乏しきろかも 「乏」は、諸本「之」とあるので訓み難くしていたのを、田中道麿が「乏」の誤写として訓んだもの。「乏し」は、羨しの意の古語で、用例の多いものである。「きろ」の「ろ」は、音調のためのもので、用例が少なくない。「かも」は、感歎。
【釈】 藤原の大宮の奉仕のために、代々生まれ継ぐところの采女の伴は、天皇に御側近申すことができて、羨しいことではあるよ。
【評】 短歌は、長歌の賀の心から転じて、私情をいったものである。しかし「あれつぐや」は、賀の心よりのもので、それを「処女」の修飾として目立たず用いているところに、手腕がみえる。またこの羨望は、いったがように作者の身分を間接ながら語っているものでもある。短歌を長歌より飛躍させて、即しつつも離れたものとし、それによって個人的の感情をいうこの歌の風は、柿本人麿の好んで用いている手法である。ここにも人麿との関連が際やかにみえる。
大宝元年幸丑の秋九月 太上天皇の紀伊国に幸《いでま》しし時の歌
(105)【題意】 大宝元年は、文武天皇の即位第五年に改元された年号である。この集の巻一、二の編集体裁は、これ以前は宮号をもってしているのに、ここから、さらに年号をもって細別するようになっている。この事と、また作者を歌の後に記しているのとは、行幸という事の性質上、その記録があって、このようになっていた関係からのことと思われる。太上天皇は、譲位後の天皇を申す称で、中国に倣ったものである。これは持統天皇で、この称はこの天皇より始まったものである。この時の行幸のことは続紀に明記されているが、それは天皇のみで、上皇の御同列であったことは記してない。しかし巻九(一六六七)の題詞によると、御同列であったことが明らかである。
54 巨勢山《こせやま》の つらつら椿《つばき》 つらつらに 見《み》つつ思《しの》はな 巨勢《こせ》の春野《はるの》を
巨勢山乃 列々椿 都良々々尓 見乍思奈 許湍乃春野乎
右一首、坂門人足《さかとのひとたり》
右一首、坂門人足
【語釈】 ○巨勢山のつらつら棒 「巨勢山」は、(五〇)に「巨勢道」とあったその巨勢で、今の古瀬の西にある山である。大和より紀伊への街道は、その山の麓をとおっていたのである。「つらつら椿」は、『注釈』は熟合した名詞で、「つらつら」は花の連なっている状態をいったものだとしている。葉のてらてらした状態をいったものとする解に反対してである。従うべきである。○つらつらに見つつ思はな 「つらつらに」は、心をこめて事をする意の副詞で、つくづくというにあたる。今も用いられている。「見つつ」は、「見」の継続。「思はな」の「な」は、軽い願望の助詞。「よ」に近い。○巨勢の春野を 「春野」は、春の季節の野の様で、その華やかなおもしろさを暗示している語である。今は花のない秋である。○坂戸人足 伝が詳かでない。姓がないので、卑い氏であったとみえる。供奉の中の一人である。
【釈】 巨勢の山のつらつら椿をつくづくと見ながら思いやることであるよ。この巨勢の春の野のおもしろいさまを。
【評】 秋、紀伊への街道を、従駕の旅をしつつ、巨勢山の椿を見やっての感である。つらつら椿を称されてはいるが、季節柄花のないのを見て、花のつらつらに咲く春の季節を思いやってゆかしんだのである。「春野」といっているのは、巨勢山の麓の野に野遊びをし、つらつら椿を一望に収めたい心である。二句の「つらつら椿」を、三句で、同語異義の「つらつらに」と続けているところ、謡い物の明るくたのしい気が濃厚で、それがまたその時の作者の気分であったことが思われる。
(106)55 朝《あさ》もよし 紀人《きびと》乏《とも》しも 亦打山《まつちやま》 行《ゆ》き来《く》と見《み》らむ 紀人《きびと》ともしも
朝毛吉 木人乏母 亦打山 行來跡見良武 樹人友師母
右一首、調首淡海《つきのおひとあふみ》
右一首、調首淡海
【語釈】 ○朝もよし紀人乏しも 「朝もよし」の「朝も」は、麻裳で、麻をもって織った裳。「よし」は、「よ」は呼びかけ、「し」は、強めの助詞で、合して一語となったもの。「著」と続き、同音異義の「紀」に転じての枕詞。「紀人」は、紀伊国の人。紀伊は古くは紀とのみいった。「乏し」は、羨し。「も」は感歎の助詞。○亦打山行き来と見らむ 「亦打山」は、奈良県五条市|上野《こうずけ》町から、和歌山県橋本市|隅田《すだ》町|真土《まつち》へ越える間の峠で、紀州街道の要路である。下に「を」の助詞を添えて解すべきもの。「行き来と見らむ」の、「行き来と」は、あちらに行くとては、こちちに来るとては。「見らむ」は、連用形から「らむ」に続く、古い一つの格で、現在の「見るらむ」にあたるもの。「らむ」は、現在推量の助動詞で、連体形で、下へ続く。○調首淡海 日本書紀天武天皇の条にも、続日本紀、和銅二年、同六年、慶雲七年の条にも出ている。最後には正五位上となり、姓も連を賜わった人である。祖は百済よりの帰化人である。
【釈】 紀伊の国人《くにびと》は羨ましいことよ。この亦打山を、あちらへ行くとては、こちちへ来るとては、たびたび見るであろうところの紀伊の国人は羨ましいことであるよ。
【評】 供奉をして紀伊の国に入り、亦打山を越えながら、その好景に驚嘆しての心である。「行き来と見らむ」と羨しがっているところから、作者|淡海《おうみ》の初めてこの山を見たことが察しられる。実感に即して作ってはいるが、そこには知らぬ国に対する不安もなく、旅愁もなく、ただ明るい気分があるのみで、しかもその気分を生んでいるものは、好風景からである。前の歌と同じく風景歌。旧い時代にはなく新しい時代への過渡を示している歌である。表現は、二段とし、第二句を第五句で繰り返しているという、口承文学の典型的な方法をもっている。これは旧い時代の風に従ったものである。ここにも時代性が見える。
或本の歌
56 河上《かはかみ》の つらつら椿《つばき》 つらつらに 見《み》れどもあかず 巨勢《こせ》の春野《はるの》は
河上乃 列々椿 都良々々尓 雖見安可受 巨勢能春野者
(107) 右一首、春日蔵首老《かすがのくらひとおゆ》
右一首、春日蔵首老
【語釈】 ○河上のつらつら椿 「河上の」は、『講義』は、曾我川の上流の古瀬山の辺りのものを指してい、『注釈』は曾我川の上流としている。「つらつら椿」は、(五四)に出た。○つらつらに見れどもあかず 「つらつらに」は、(五四)に出た。「見れどもあかず」は、いくら見ても見飽かないで、絶賞の意をあらわしたもの。○巨勢の春野は 「巨勢の春野」は、(五四)に出た。「は」は、取り立てていう意の助詞。○春日蔵首老 続日本紀、大宝元年三月の条に、初め僧で、弁紀と称していたが、勅によって還俗し、名を賜わったことが出ている。それによると、春日は氏、蔵首は姓、老は名である。和銅七年には従五位下を授けられた。懐風藻には、「従五位下常陸介春日蔵首老、年五十二」とある。他にも歌のある人である。
【釈】 河の上流のつらつら椿を、つくづくと見ても、見飽かない。この巨勢の春野のさまは。
【評】 この歌は、「巨勢の春野」を親しく見て、その絶景を讃えたものである。この歌も、「つらつら椿」を捉えてはいるが、その在り場所は、(五四)の「巨勢山」よりも遙かに狭く、「河上」としている。すなわち具象を高めている。また、「河上のつらつら椿」は、眼前の景を捉えて「つらつら」の序詞としたもので、一首の中心は「巨勢の春野」で、春野の絶景に間接なつながりをもち、余情をなしているものである。さらにまた、「つらつらに見れどもあかず巨勢の春野は」というのは、直線的で、柔らかく、明るく、この当時にあっては新風といいうるものである。一首全体として(五四)に較べると、こちらの方が、遙かに才情が豊かで、新しい歌である。二首は、影響というよりはむしろ模倣の濃厚なものであるが、(五四)の作者人足とこの歌の作者老とは同時代の人であるから、どちらが後から模倣して作ったかは明らかにすることはできない。しかしそのできばえから見ると、人足の方が模倣したもののように思われる。模倣とはいえ、この当時の歌は、口承文学の域を脱しきらず、いかに創意ある句も、一たび発表すれば共有の物と化したのであるから、これは問題とならなかったことである。劣った人足の歌が正式に選ばれ、優れた老の歌が、単に参考として注の形で載せられているということは、人足の歌は行幸の供奉の際に作ったもので、記録として重んじられていたものだということが、強く関係していようと思われる。それだと、この集の撰者の意図もうかがわれることである。
二年壬寅 太上天皇の参河国に幸《いでま》しし時の歌
【題意】 釈日本紀に、この行幸のことが出ている。すなわち大宝二年十月の条に、「(乙未朔)甲辰(十日)太上天皇幸2参河国1」(108)とあり、また、尾張、美濃、伊勢、伊賀を経て、十一月(甲子朔)戊子(廿五日)京に還幸となった。以下五首はこの行幸の際の歌である。
57 引馬野《ひくまの》に にほふ榛原《はりはら》 入《い》り乱《みだ》れ 衣《ころも》にほはせ たびのしるしに
引馬野尓 仁保布榛原 入乱 衣尓保波勢 多鼻能知師尓
右一首、長忌寸奥暦《ながのいみきおきまろ》
右一首、長忌寸奧麿
【語釈】 ○引馬野に 「引馬野」は、遠江国浜松市の北にあった野の称で、今も曳馬《ひくま》という名をとどめている。国は遠江であるが、参河に接しているので、ついでのある所としていったのである。○にほふ榛原 「にほふ」は、色の艶やかなことをいう。「榛」のことは、(一九)に出た。萩とし、榛《はん》の木ともいうが、『注釈』の榛とするに従う。榛は当時、染料とした一般に用いられていた実用品で、観賞の萩よりも生活に密着していた物である。また、季節からいっても旧十月は萩には縁遠いからである。「榛原」の下に、「に」の助詞のある意のもの。○入り乱れ衣にほはせ 「乱れ」は、四段活用の時代はあったとみえるが、本集では下二段活用である。入り乱れての意で、自由に分け入って。「にほはせ」は、「にほはす」の命令形で、にほわせよ。これは上の「にほふ」と同じく、艶やかにせよの意。榛は染料であるところからの想像。○たびのしるしに 「しるし」は、記念の意である。その旅を思い出の深かるべきものとしてである。○長忌寸奥麿 伝が詳かでない。巻三にも歌があり、「意吉麿《おきまろ》」として、巻二、九、十六にもある。歌人として相応に注意されていた人と思われる。
【釈】 引馬野に色艶やかになっている榛原に入り乱れて、衣を艶やかにしたまえよ。行幸の供奉という思い出深かるべき旅の記念に。
【評】 作者奥麿は京にとどまっていたとすれば、この歌は、車駕の京を発する際、供奉をするほぼ相似た身分の者に対して、口頭をもって挨拶の辞を述べる代りに、上代の風のままに歌をもっていったものである。別れを惜しむ心に触れず、旅の無事を祈る心にも触れず、また、供奉その事にも触れず、ただ賑わしく楽しかるべき旅として思いやっているところに、事宜に適した詠み方ということを思わせられる。すなわち適当な方法によって賀の心を暗示しているといえるのである。想像される事は、旅の自然の美しさで、そこに文芸的な心がみえるが、しかしその自然は、「衣にほはせ、たびのしるしに」という、自身の生活に引き着けることを主としたものであって、文芸的とはいえ限度のあるもので、しかもその程度は低いものである。時代(109)が思わせられる。表現は、結句「たびのしるしに」は、意味からいえば四句にあるべきで、倒句となっているものであるが、初句より四句まで直線的に続いてい、倒句ということを思わせないものとなっている。これは口承文学の、耳に解しやすきことを旨としている風に従っての詠み方だからである。一首印象が明らかで、気分が豊かに、落ち着いていて、この時代を思わせるものである。
58 いづくにか 船泊《ふなは》てすらむ 安礼《あれ》の崎《さき》 こぎたみ行《ゆ》きし 棚無《たなな》し小舟《をぶね》
何所尓可 船泊爲良武 安礼乃埼 榜多味行之 棚無小舟
右一首、高市連黒人《たけちのむらじくろひと》
右一首、高市連黒人
【語釈】 ○いづくにか船泊てすらむ 「船泊て」は、熟語。「ふね」を「ふな」というのは、熟語をなすための音の変化。「泊つ」は、舟行して止まることをいう古語。「らむ」は、現在の状態を推量する助動詞。○安礼の崎こぎたみ行きし 「安礼の崎」は、久松潜一氏の得られた延享三年の古地図には、三河国宝飯郡|御津《みと》町御馬村の南に「安礼乃崎」の名が記されているという。「こぎたみ」は、熟語。「たみ」は、迂回する意の古語。漕ぎめぐるというにあたる。当時の舟行は、風の危険を怖れるところから、海岸に密接させて漕ぐのが風であった。ここも、安礼の崎の海岸に沿って漕ぎめぐって行つたの意である。○棚無し小舟 熟語。船棚《ふなだな》のない小さな舟の意。船の棚というのは、やや大きな船だと、舷の上に、舷を丈夫にし、またその上を渡り歩けるために付けた板の称で、それのないのはすなわち小さな舟である。この語は、小さな舟ということを力強くいおうがために、具体的にいったものである。今も単に小さな舟の意で用いている。用例の多い語である。下に詠歎が含まれている。○高市連黒人 伝が詳かでない。巻四にはこの人の羈旅歌八首があり、この時代の代表的歌人の一人である。
【釈】 どこに舟泊りをしているであろうか。安礼の崎の海岸に沿って漕ぎめぐって行った、あの棚無し小舟よ。
【評】 舟行のできなくなった夕暮れ時の想像である。頓宮《かりみや》はもとよりしかるべき地で、供奉の者もその同じ地に宿ることであるが、身分低い者の宿りは、侘びしく、旅愁を感ぜしめるようなものであったろう。加えて夕暮れ時は、その感の強い時でもある。安礼の崎は、その日供奉として通り過ぎた地で、こぎたみ行く棚無し小舟は、折から見かけたものである。大和国の京に住む作者には、海が珍しく、その棚無し小舟も、感を引く、印象的なものだったとみえる。夜の宿りにいる作者は、夕暮れ時が来ると、昼見たその棚無し小舟が思い出されてきたのである。思い出に浮かんできた棚無し小舟は、それがあわれな舟であるとともに、遠い行程をもっているものに思え、哀愁を帯びたものに感じられてきたのである。「いづくにか船泊てすらむ」(110)と、まず不安の情を打ち出し、「こぎたみ行きし」と、同じく不安を伴わせた語をもっているのは、すなわち哀愁の情の表現である。一首全体としてみると、太い線で、棚無し小舟の印象を鮮やかにいっているだけの歌であるが、それが哀愁を漂わし、双方が渾然として一つの世界をなしているのは、作者のその時の哀愁が、椰無し小舟に反映しているからである。これは言いかえると、作者のその時の哀愁を、棚無し小舟によって具象化しているとも言いうるものである。その意味では高い文芸性をもっている歌であるが、しかし作者自身は無意識にしていることと思われる。
与謝女王《よさのおほきみ》の作れる歌
【題意】同じ行幸の際の歌であるが、作者の名を初めに記してある点が異なっている。おそらく原拠となった記録がこのようになっており、その事柄を尊むところから、記録のままに書いたものであろう。与謝女王は、続日本紀、慶雲三年の条に、「六月癸酉朔丙申従四位下与謝女王卒」とあるほかは、父祖も、夫君も詳かでない。「背の君」と称される方の供奉に加わっておられるのを思い、京にあって作った歌と思われる。
59 流らふる 妻《つま》(雪)吹《ふ》く風《かぜ》の 寒き夜《さむよ》に 吾《わ》が背《せ》の君《きみ》は 独《ひとり》か宿《ぬ》らむ
流經 妻吹風之 寒夜尓 吾勢能君者 獨香宿良武
【語釈】 ○流らふる 「流らふ」は、流るに継続の意をあらわす助動詞「ふ」の添った語。連体形。この語は、雨、雪花びらなどの空より降り、移動してゆくのをあらわす語で、用例が少なくはない。○妻吹く風の「妻」は、女王自身、あるいは衣《ころも》の褄と解されていて、事としても、言葉続きとしても、唐突な難解なものとなっていた。『注釈』は、荒木田久老の『槻の落葉』に、この歌を引用した個所があり、それには「妻」が「雪」となっているのを見、誤写としてそれに従うべきだといっている。それだと、事としても、言葉続きとしても自然である。かなり不自然なものが甚だ自然なものになることであるから、久老がそうした原本に拠つてのことと信じて従う。○寒き夜に 寒い夜であるのに。○吾が背の君は 行幸に供奉している夫。○独か宿らむ 独寝をしていようかで、「か」は疑問の係。「らむ」は、現在推量の助動詞で結び、連体形。
【釈】 降り続いている、雪を吹く風の寒い夜だのに、わが夫《せ》の君は、寒さを侘びしんで独寝をしているであろうか。
【評】 陰暦十月より十一月にかけての風の寒い夜、供奉に加わっている夫君を思って、京にある女王の作ったものである。寒い夜、夫の独寝を隣れむのは、寒さの侘びしさを隣れむ心で、夫婦間では常識ともなっているものである。第二句「妻吹く風の」は妻を女王自身としても、衣の褄としても、事としても、また言葉続きとしても、唐突な不熟なものとなるが、「妻」を(111)「雪」の誤写とするとその反対に、事としては自然な、言葉としては順直なものとなり、女王にふさわしく、おおどかな、その意味で品位ある作となる。荒木田久老は学殖深く、歌才ある信ずべき国学者である。拠るところあってのこととして、『注釈』の解に従う。歌としては相聞であるが、行幸につながりがあるとして、原本のままに収めたものと解せる。
長皇子《ながのみこ》の御歌《みうた》
【題意】 同じ行幸の供奉の中の女性を思って、京にある長皇子のお作りになられた歌である。皇子は、続紀、霊亀元年六月の条に、「甲寅一品長親王薨、天武天皇第四皇子也」とある。なお目録には、この題の下に続けて、「従駕作歌」とある。歌は従駕のものではなく、また、「御歌」という語づかいと、「作歌」という語づかいとは明らかに矛盾するので、他より誤っての竄入《ざんにゆう》であろうとされ、おそらく次の舎人娘子の歌に添っている語を、こちらへも添えたのではないかとされている。
60 暮《よひ》にあひて 朝《あした》面《おも》無《な》み なばりにか け長《なが》く妹《いも》が 廬《いほり》せりけむ
暮相而 朝面無美 隱尓加 氣長妹之 廬利爲里計武
【語釈】 ○暮にあひて朝面無み 「暮」は、夜。「あひて」は、男女共寐をしての意。「朝」は、「暮」に対させたもので、その翌朝。「面無み」の「無み」は、形容詞「無し」の語幹に「み」を添えて、連用修飾語としたもの。面無くしての意。「面無し」は後世も用いた語で、面目なしというにあたり、顔が合わせられずして恥ずかしい意を具象的にいった語。これは若い女の立場に立っての語である。この二句は、「隠れる」の古語「なばり」へ、意味で続く序詞で、そのなばりを、(四三)と同じく、地名の名張に転じたものである。 ○なばりにか 「なばり」は、名張で、(四三)に出た。三重県伊賀郡にあって、参河国への順路でもある。「か」は疑問の助詞。○け長く妹が廬せりけむ 「け」は来経《きへ》という動詞の約言で、それが名詞となったもの。日時の経過をあらわす語。「け長く」は、幾日も久しくの意。「廬せり」は、「廬」はかりそめの家の意で、旅中の仮屋。「せり」は、している。「けむ」は、過去の想像。
【釈】 夜を共寐して、明くる朝は恥ずかしくて隠れる、それに因みある名張の地に、日久しく妹は、仮屋住まいをしていたのであろうか。
【評】 妹といっている女性は、行幸の供奉をしている女官の一人で、天皇の駕が、今日かあるいは明日か還幸になるということを聞いた際の独詠である。「け長く」というのは、還幸の日取りは大体わかっていたのに、予期よりも連れたためでまた、「なばりにか」というのは、そこは都に最も近い地で、還幸の日取りから推測したものと解される。一首としては、待ちわびた(112)妹の帰ることを知り得えてのよろこびであり、表現として初二句の序詞の巧みさである。これは「妹」につながりをもったもので、その年若さと、関係を結んで幾ほどもないことをおのずから暗示しているものである。文芸性をもっている歌である。またそのことは独詠ということとも関係をもっているといえる。
舎人《とねり》の娘子《をとめ》従駕にして作れる歌
【題意】 舎人娘子は、舎人は氏で、娘子は娘の意であろう。舎人氏は百済よりの帰化人の末だという。巻二に、この娘子の舎人親王と詠みかわした歌があるところから、親王の傅《ふ》であった舎人氏の娘ではないかと想像されている。巻八にも歌がある。
61 大夫《ますらを》が 得物矢《さつや》手挿《たばさ》み 立《た》ち向《むか》ひ 射《い》る円方《まとかた》は 見《み》るに清潔《さやけ》し
大夫之 得物矢手插 立向 射流圓方波 見尓清潔之
【語釈】 ○大夫が得物矢手挿み 「大夫」は、(五)に出た。勇気ある男の意で、尊んでの称。「得物矢」の「得物」は、山幸海幸《やまさちうみさち》の幸で、熟語の場合には「さつ」に転じている例が多い。得物矢は幸矢で、その矢を用いれば幸が多い意で、神の加護の加わっている矢の意である。転じて、普通の矢にも用いたと解せる。ここは、転じての意の矢。「手挿み」は、手に挿み持ち。○立ち向ひ射る 立ち向かって射るで、下の「円《まと》」すなわち的《まと》に意味で続き、その「円」を、地名の「円方」の「円」に転じたもので、初句よりここまでは、「円」の序詞である。○円方は見るに清潔し 「円方」は伊勢国の浦の名である。この浦のことは伊勢風土記に、「的形者、此浦地形似v的故為v名、今已跡絶成2江湖1也」とある松阪市、東方、東黒部一帯かといわれている。「は」は、取り立てていう助詞。「清潔し」は、今も用いている。清くさわやかな意。
【釈】 益荒夫がさつ矢を手に挿み持ち、立ち向かって射る的の、その的を名としている的形《まとかた》の浦は、見るとさやかである。
【評】 的形の浦を讃えた歌である。讃えるのは、その風光をさやかなりとしてである。口承文学時代、土地を讃えるのは、その土地に住んでいる人が、そこに幸いをきたらせようとして、祝いの心をもって讃えるのが風であった。その場合には、その土地を修飾するための枕詞、時には序詞を用い、さらにその土地の愛《め》でたさを言い添えるのを型としていた。この歌も、形としてはそれで、円方をいうに三句以上の長い序詞を用い、讃える語も添えているので、まさに典型的なものである。しかしその讃える心は、幸いをきたらせようとして祝うのではなく、単に風光の美を讃えてのものである。すなわち口承文学時代の実用性の歌が、その内容の上からは、記載文学としての文芸性のものへと推移しているのである。この歌は明らかにそれを示している。上に引いた伊勢風土記には、それに続いて、その的形においての景行天皇の御製の歌というのを伝えている。歌は、
(113) ますらをの得物矢《さつや》手挿み向ひ立ち射るや円方浜のさやけさ
というので、異なるところいささかである。単に風光を讃える、いわゆる叙景の歌は、大体この時代頃から始まったものだろうと思われるから、御製の歌と伝えるものの方が、舎人娘子の歌よりも後のものであったかもしれない。それはとにかく、この二首を比較すると、舎人娘子の歌には、調べに強さがあり、したがって立体味が醸し出されているが、御製と伝える歌は、調べが柔らかく、したがって平面的な感をもったものである。記載文学としての娘子の歌が、口承文学として謡われていると、御製と伝える歌のように変じてゆくのは例の多い一般的のことで、ここも、たまたまこの歌の性質を語っているものである。
三野連《みののむらじ》名闕く 入唐《につたう》の時、春日蔵首老《かすがのくらひとおゆ》の作れる歌
【題意】 三野連名闕くとあるのは、原拠となった記録に名がなかったためと取れる。『講義』はこれについて詳しく考証している。その名は岡麿といい、続紀、元正天皇霊亀二年正月の条に、「授2正六位上美努連岡麿従五位下1」とある人である。遣唐使の一行に加わったことは、明治五年大和国平群郡から発掘された墓誌によって明らかとなった。入唐というのは、その遣唐使に加わった時のことで、時は文武天皇の大宝元年、大使は粟田真人であった。入唐という語は、唐を主としたもので、妥当を欠くが、当時の用法であったとみえる。春日蔵首老のことは、(五六)に出た。
62 在根《ありね》よし 対馬《つしま》の渡《わたり》 海中《わたなか》に 幣《ぬさ》取《と》り向《む》けて 早《はや》還《かへ》りこね
在根良 對馬乃渡 々中尓 幣取向而 早還許年
【語釈】 ○在根よし対馬の渡 「在根よし」は、品田太吉氏は、「在」は高く現われている所の称で、在原・在尾などはその例だといい、「根」は、伊豆の小島、岩礁などにその語を添えたものがあるといっている。民俗学では、神の現われる地の称だという。「根」は峰の「ね」である。「よし」は、青丹よし、麻裳よしなどのよしと同じで、「よ」は詠歎、「し」は強意の助詞である。後の解に従う。海上から見る対馬の状態をいって、対馬の枕詞としたもの。「対馬の渡」の「渡」は、川でも海でも、往来の道筋として渡って行く所の称。壱岐と対馬の間の渡りであろうという。今の朝鮮海峡で、風波の荒い、危険な所である。○海中に幣取り向けて 「海中」は海の中にで、そこには海を領《うしは》く神がいられ、風波の荒いのは、すなわちその神の心が荒ぶるためであると信じていたのである。「幣」は、神に手向け、または祓に出す物の総称。「取り向け」は、手に取って手向けてで、捧げる意。○早還り来ね 「ね」は、願望の助詞。早く帰朝したまえよの意。
【釈】 神の現われたまう山のある対馬の渡りの、そこの海の中にいます荒ぶる神に、幣を捧げて御心を和らげて、荒い風波に障らずに、早く帰朝したまえよ。
(114)【評】 当時の航海は危険の多いものであったが、ことに中国への航海は危険で、現にこの際も、一年に余る間を筑紫にとどまっていたほどである。歌は送別のもので、一に無事を祝う心をもって作ったものである。それをいうに、対馬の渡りの海中《わたなか》にいます荒ぶる神の御心を和《やわ》せということを心をこめていっている。これはいうまでもなく実際に行なっていたことであろうが、それを改めていうということが、すなわち無事を祝う方法だったのである。一首の心は儀礼的なものであるが、調べに、しみじみしたものがある。
山上臣憶良《やまのうへのおみおくら》大唐《もろこし》に在りし時、本郷《もとつくに》を恋ひて作れる歌
【題意】 山上臣憶良の、臣は姓。その唐に在ったのは、前の歌の粟田真人が大使となって遣わされた時、少録として随行したので、続記の遣唐使任命の記事に、「无位山於憶艮為2少録1」とある。学才によって抜擢されたものとみえる。遣唐使の出発は、いったがように大宝元年であったが、途中筑紫に一年余りを滞在、翌二年六月に渡航、翌々年慶雲元年七月に帰朝した。歌は在唐中に詠んだものである。大唐という語は、前の歌の入唐と同じく、彼を主としたもので、当時の慣用である。本郷は日本である。憶良の歌は集中に五十余首あり、本集代表歌人の一人である。
63 いざ子《こ》ども 早《はや》く日本《やまと》へ 大伴《おほとも》の 御津《みつ》の浜松《はままつ》 待《ま》ち恋《こ》ひぬらむ
去來子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武
【語釈】 ○いざ子ども早く日本へ 「いざ」は、人を誘う意の副詞。さあ、というにあたる。「子ども」の「子」は、わが子はもとより、従者などを親しんで呼ぶ称。「ども」は、複数をあらわすもの。今は従者に対しての呼びかけである。「早く日本へ」は早く本国へ還ろうの意の言いさしで、ここで一段である。○大伴の 「大伴」は、難波の辺一帯の地名である。下の(六六)に、「大伴の高師《たかし》の浜」とあり、巻七(一〇八六)に、「靭《ゆぎ》懸《か》くる伴《とも》の雄《を》広き大伴に国栄えむと月は照るらし」ともあるので知られる。古く大伴氏の領地であった所から、地名ともなったろうといわれている。○御津の浜松 「御津」は、大御船の発着する津であるところから、「御」の美称の添えられたもので、大津というのと同じである。固定して地名となったもの。難波の中にあったのである。遣唐使の船の発着もここである。現在の大阪市の三津寺町は、その名の名残りだといわれている。「浜松」は、浜辺に立っている松。二句「大伴の御津の浜松」は、家人《いへびと》の隠喩となっている。唐にあって従者どもと共通に本国を恋しむと、第一に思われてくるのは家人すなわち妻であるが、それを婉曲にいおうとして、御津の浜松をかりたのである。これは大御船の本国を出発する時に見た印象深いもので、また帰朝を思うと、大御船の泊《は》つる所のものとして思われてくるもので、譬喩として心理的妥当性のあるものである。また、この「松」は、下の「待ち」と畳語的な関係をもっているので、二句、序詞に近いものといえる。○待ち恋ひぬらむ 「待ち恋ふ」は、一つ(115)の語。用例の少なくないものであるが、巻四(六五一)「宅《いへ》なる人も待ち恋ひぬらむ」のように、いずれも旅にある夫の、その妻に対しての心をいう語である。ここもそれである。この語によって、上の隠喩の心は明らかにされている。「ぬらむ」は、確かにそれと推量する意の助動詞。
【釈】 さあ、皆の者ども、早く本国へ還ろうよ。大伴の御津の浜松もきっと待ち恋うていることであろう。
【評】 当時の代に、使して遠く唐に在った者が、本国を恋しむ情は共通のもので、事に触れ、折に触れて口頭にのぼったことであろう。この歌はそうした際に、憶良が従者のような人に対して、語の代りに歌に詠んで、たぶんは謡ったものであろう。本国を思うと、第一に思われてくるものは、ひとしくその妻であるが、それをいうに「大伴の御津の浜松」という譬喩を用いている。これは勅命を帯びて発船した場所と、船中より見納めとして見た浜松とを一つにしたもので、畏さとなつかしさをこめた、複雑したものである。その松を待ちに続けて序詞的な、趣をもたせたのは、口承文学的なすぐれた技巧である。一首として、調べが強く、情理を流し込んでいるところ、憶良の特質の現われている作である。
慶雲《きやううん》三年丙午 難波宮に幸《いでま》しし時
【題意】 目録には、この標題の下に「歌二首」とある。こちらは脱したものとみえる。行幸のことは、続紀、同年九月の条に、「丙寅行2幸難波1」とあり、十月の条に、「冬十月壬午還宮」とある。難波宮の所在は明らかではない。長柄豊崎宮だろうともいうが、明らかとはいえない。
志貴皇子の御作歌《みうた》
【題意】 志貴皇子のことは、(五一)に出た。
64 葦辺《あしべ》行《ゆ》く 鴨《かも》の羽《は》がひに 霜《しも》ふりて 寒《さむ》き暮夕《ゆふべ》は 大和《やまと》し念《おも》ほゆ
葦邊行 鴨乃羽我比尓 霜零而 寒暮夕 倭之所念
【語釈】 ○葦辺行く鴨の羽がひに 「葦辺」は、葦の生い繁っている辺り。葦は水辺の物で、難波は古来葦の多い所とされていたその葦である。供奉として居られる所が水近かったのである。「行く」は、水鳥の鴨の動きであるから、泳いでいるのをいったもの。「羽がひ」は、「羽交《はが》ひ」で、(116)羽根の重なり合っていることで、畳まっていること。ここは背中で、それを具体的にいったもの。○霜ふりて 霜がふり置いての意。時は晩秋初冬だから、霜の置く季節ではあるが、しかし霜の置くのは暁のことである。今は夕べであるから、鴨の背中の寒げに光っているのを日喩的にいったもの。○寒き暮夕は 「は」は、取り立てた意のもので、夕べはことにの意。○大和し念ほゆ 原文「倭」は、「和」となっている本もある。通じて用いていた。家の意で、家とは家人《いへびと》すなわち妻を意味させた語で、今も妻ということを婉曲にいったもの。「し」は、強め、「念ほゆ」は、思われる。
【釈】 水辺の葦の叢生している辺りを泳いでいる鴨の、その背の上に霜がふり置いて、ことに寒さを感じる夕べには、大和の家の妹がおのずから思われてくる。
【評】 旅愁を詠まれたものである。旅にあって、心さみしい時、ことに、寒い夜の独寝の床に、家にいる妻が思われるというのは、当時すでに常識ともなって繰り返されている心である。この御歌もそれである。しかしこの御歌は、その表現技巧の上に高度の文芸性をもったものである。初句より三句までは、「寒き暮夕」の具象化であって、水辺の枯葦の辺りを泳いでいる鴨の、その背の寒げに光っているという一事を捉えて、難波の旅の宿りの夕幕の寒さをあらわされたのは、優れたる技巧というべきである。鴨の背中を「羽がい」といひ、寒げに光るのを「霜ふりて」と誇張して、具象を感覚的なものにまで高めていられるのは、技巧というよりも感性の豊かさを思うべきである。この寒さは、やがて旅の侘びしさである。結句の「大和し念ほゆ」も、婉曲にして心のとおった、品位ある言い方である。高貴の方々の、文芸性の上で時代の尖端を行かれるところ、おおらかに、気品のあるところが注意される。相聞の範囲の御歌である。
長皇子の御歌
【題意】 長皇子のことは、(六〇)に出た。
65 霞打《あられう》つ あられ松原《まつばら》 住吉《すみのえ》の 弟日娘《おとひをとめ》と 見《み》れど飽《あ》かぬかも
霞打 安良礼松原 住吉乃 弟日娘与 見礼常不飽香聞
【語釈】 ○零打つ 霰が打っているの意で、打つのは下の松原である。眼前の光景である。晩秋初冬のことであるから、ありうべき事柄である。この「霞」は、下の「あられ」と畳語の形になっているところから、枕詞のごとくにもみえる。しかしそれは、期せずしてそうなった特殊の趣とみるべきである。○あられ松原 「あられ」は地名で、そこにある松原ゆえの称。「あられ」は大坂市住吉区住吉神社の付近一帯の称。下に詠歎が(117)ある。○住吉の弟日娘と 「住吉」は、今大阪市の住吉神社のある地。この地は古は、大和の京と、西国、三韓とをつなぐ船の発着する地で、交通上の要衝だったのである。「弟日娘」は、「弟日」は、兄姉に対しての弟妹の称で、普通名詞。ここは、それがその人の名となったもの。「娘」は女であるがゆえに添えていった語。この女は、いわゆる遊行女婦であろうという。遊行女婦は十分明らかにされていないが、集中に見えるところでは、旅客の多い地に住み、その旅情を慰めることをしている者であることが知られる。「と」は、とともに、の意のもの。○見れど飽かぬかも 見ても見ても見飽かないことよの意。慣用成句。
【釈】 霰が降って来て打っているあられ松原よ。住吉の弟日娘とともに見ても見ても見飽かないことであるよ。
【評】 旅情を慰めるために、住吉の弟日娘というを侍らしめ、あられ松原を眺めていられての歌である。あられ松原という名から推して、その松原はその辺りでも目にたつ、相当に大きなものに思われる。それに対しての「霞打つ」という状態は、さわやかな、動的なもので、壮快な感をもったものである。その景を愛すべき遊行婦を侍らせてともに見ていると、興趣が一段と加わって、見れど飽かぬというのである。自然観賞が主となっている作で、高度な文芸性をもった作である。一首の調べが強くさわやかで、皇子の面目を思わせられる。
太上天皇、難波宮に幸しし時の歌
【題意】 太上天皇は持統天皇である。持統天皇の難波宮に行幸のことは、史上には見えないので、続紀、文武天皇の三年正月、難波宮に行幸のあった際、御同列で行幸になったのではないかという。また、持統天皇は大宝二年十二月崩御になられたので、慶雲三年以後のここに載せるということは不審であるが、それはこの集の原拠となった記録に、行幸の年月が記してなかったため、差別して最後に回したのではないかという。なおその事は、これだけではなく、以下四項の和銅年間に至るまで同様であると考証されている。題詞の下に、目録の方には、「四首」とある。ここにもあるべきものである。
66 大伴《おほとも》の 高師《たかし》の浜《はま》の 松《まつ》が根《ね》を 枕《まくら》き宿《ぬ》れど 家《いへ》し偲《しの》はゆ
大伴乃 高師能濱乃 松之根乎 枕宿杼 家之所偲由
右一首、置始東人《おきそめのあづまびと》
右一首、置始東人
(113)【語釈】 ○大伴の高師の浜の 「大伴」は、(六三)に出た。難波辺り一帯の地の総名。「高師の浜」は、今の堺市の南の高石町にその名をとどめており、浜寺の海岸をそれと見てよいと、『注釈』はいっている。○松が根を 松の根をで、浜松の根は地上に現われがちなものである。「松が」は、松の方を主としての語である。○枕き宿れど 「枕」の訓は諸注さまざまである。上の「を」を受ける関係上、これは動詞であることは明らかであり、『講義』は「枕《まくら》く」と訓んでいる。用例は、巻五(八一〇)「いかにあらむ日の時にかも声知らむ人の膝の上《へ》我がまくらかむ」、巻十九(四一六三)「妹が袖われまくらかむ」、巻三、(四三九)「京師《みやこ》にて誰が手もとをか吾が将枕《まくらかむ》」である。四段活用の語である。この訓に従う。枕として一夜を寝たけれども。○家し偲はゆ 「家」は、大和の家で、妻のいる所。妻の意でいったもの。「し」は、強め。「偲はゆ」は、慕い思われる意。○置始東人 伝が詳かでない。姓《かばね》のないところから卑しい人と思われる。
【釈】 大伴の高師の浜の浜松の根を枕として寝たけれども、それにもかかわらず、家にいる妻ばかりが恋しく思われる。
【評】 太上天皇の難波宮の行幸に供奉した人々の、海を恋うる心から住吉の海岸に遊んでの感である。「大伴の高師の浜の松が根を」と単に一|夜《よ》を枕とした物に対して、一首のなかば以上を費していっているのは、その物を尊んでのことである。尊さをいうに説明的の語をもってせず、鄭重にいうことによってその心をあらわそうとするのは、具象を重んじた上代の心で、ここもそれである。何ゆえに尊んだかというと、高師の浜の松を風景としてすぐれたものとしたためで、言いかえると文芸性を重じんたがためである。しかし一首の中心は、「枕き宿れど家し偲はゆ」で、それにもかかわらず、やはり妻のみが思われるというのでこれは実感である。上流貴族のする自然観賞を慕う心はあるが、それに徹し得ぬところ、階級性を示している作といえる。
67 旅《たび》にして 物恋《ものこひ》しきに 鶴《たづ》が音《ね》も 聞《きこ》えざりせば 恋ひて死なまし
旅尓之而 物戀之□鳴毛 不所聞有世者 孤悲而死万思
右一首、高安大島《たかやすのおほしま》
右一首、高安大嶋
【語釈】 ○旅にして 旅にあって。旅は上の語と同じく、行幸の供奉をしての難波。○物恋しきに鶴が音も 現行の寛永本は、「物恋之伎乃鳴事毛《ものこふしきのなくことも》」とあり、形容詞の語尾「しき」を鴫《しぎ》の掛詞と解している。『全註釈』は、こういう形の掛詞は、集中に例のないものであり、不熟なものとし、また「鳴事」という言葉続きも、同じく不熟のものとして、諸本を検討して訂正している。簡単にいうと、元暦校本、類聚古集などには、本文は「物恋之鳴毛」とあるのみで、古来数字が脱落していたことが明らかだとし、それでは訓み難いところから、後人が諸本を参照して、訓みうるよ(119)うに字を補ったものとしたのである。「物恋之」は、下に「伎迩《きに》」とあったろうとして、「物恋しきに」としている。これは巻三(二七〇)に「客為而物恋敷尓《たびにしてものこひしきに》」の例があるので、それによったのである。意は、何事となしに恋しいのにで、旅のさびしさから家恋しい心を婉曲にいったもの。「鳴毛」は、「鳴」は「音《ね》」にあてて用いられている字で、ここもそれであるとし、それだと上に鳥が脱落していると見、「鶴」か「雁」であろうとし、「鶴」とし、「鶴《たづ》が」と「が」を訓み添えている。所は難波で、そこの海岸には鶴が多かったとみえ、鶴の歌が他にも少なくないから、これは妥当の解である。○聞えざりせば もし聞こえなかったならばで、仮設。○恋ひて死なまし 「まし」は、仮設の推量の助動詞。恋い死にに死ぬことだろう。○高安大島 伝未詳。
【釈】 旅にいて何となく家恋しい気がしているのに、もし鶴の声が聞こえなかったならば、恋い死にに死ぬことであろう。
【評】 上の歌とおなじく難波の海岸で、寒夜、野宿に近いわびしい状態で宿って、家恋しい気分のつのっていた時、たまたま聞いた鶴の声が珍しくたのしくて、ほっとした時の実感であろう。「物恋しきに」といい、さらに「恋ひて死なまし」と強調しているのは、寒夜のわびしさを思わせるものがある。鶴の声は哀愁をそそるものとされていたが、水辺の鳥である鶴は、水の乏しい大和には少なかったろうから、甚だ珍しく、したがって楽しかったことと思われる。実感に即して素朴に詠んだ歌である。
68 大伴《おほとも》の 御津《みつ》の浜《はま》なる 忘貝《わすれがひ》 家《いへ》なる妹《いも》を 忘《わす》れて念《おも》へや
大伴乃 美津能濱尓有 忘貝 家尓有妹乎 忘而念哉
右一首、身入部王《むとべのおほきみ》
右一首、身入部王
【語釈】 ○大伴の御津の浜なる 「大伴の御津の浜」は、前に出た。「なる」は、「にある」の約言。○忘貝 身無し貝すなわち殻のみとなった貝の、海浜にうち寄せられた物。また、忘貝と称する一種の貝があるが、これはそれではない。集中、忘貝に関する歌は十首の多きに及んでいるが、いずれも忘貝という名のためである。言霊《ことだま》信仰の強いものをもっていた上代人は、語はその語どおりの力をもってい、それを人の身に及ぼすものだと信じていた。忘貝も、また忘草《わすれぐさ》も、その名のとおり、忘れたいと思う嘆きを忘れさせる力があると信じ、それを身に近く置き、また身に着けることによって、主として恋いの嘆きを忘れようとした心のものである。今もその範囲のことを心に置いたものである。○家なる妹を 家にある妹をで、家は大和の京である。○忘れて念へや 「忘れて念ふ」は、後世の「思ひ忘る」と同じ意味の古語である。「や」は、上の已然形を受けて反語の助詞。忘れようか忘れないの意。○身入部王 系譜は詳かでない。読紀、神亀二年二月に正四位上、天平元年正月に卒せられた。
(120)【釈】 大伴の御津の浜にある忘貝よ、大和の家にいる妹を、我は思い忘れようか、忘れはしない。
【評】 難波宮の行幸に供奉の身となって、旅愁を抱きつつ、そこの御津の浜の忘貝を見ての感として詠んだものである。中心は、大和の家にある妹を深くも思い慕っているということであるが、その心的態度も、表現も、この当時としてはきわめて新しいものである。心としては、呪力ありと信じられてき、また一股には信じられている忘貝というものを斥けて、単に一つの物として見ていることである。この「忘貝」には、何ら信仰的なものはない。表現としては、御津の浜にある忘具と、家にある妹とを対立させ、忘れるという一語で双方を繋いでいるもので、これは知的な方法である。双方とも、この当時としては新しいものというべきである。技巧としては、忘貝をいうに三句を費して、それに呼びかけに近い感歎をこめて、力強くいっているのは、それを反映させることによって、中心の「忘れて念へや」を力強くさせようためである。また、知的ではあるが、調べが張っているので、強い情感を思わせるものとなっていて、いずれも技巧のすぐれた歌といえる。
69 草枕《くさまくら》 旅《たび》行《ゆ》く君《きみ》と 知《し》らませは 岸《きし》の埴生《はにふ》に にほはさましを
草枕 客去君跡 知麻世波 崖之埴布尓 仁寶播散麻思乎
右一首、清江娘子《すみのえのをとめ》、長皇子《ながのみこ》に進《たてまつ》れる 【姓氏いまだ詳かならず】
右一首、清江娘子、進2長皇子1 【姓氏未v詳】
【語釈】 ○草枕旅行く君と 「草枕」は、(四)に出た。「旅行く」は、旅を行くで定住しないの意。「君」は、左注によって長皇子に呼びかけたもの。○知らませば 「ませ」は、「まし」の未然形で、仮想した条件をいうもの。もし前から知っていたならばの意。○岸の埴生に 「岸」は、海の岸、山の崖にもいう。住吉にある岸で、埴の産地として聞こえていた。「埴生」の埴は、黄色または赤色の粘土。それを白い衣に摺りつけることが行なわれていた。「生」は、産する所の意。「埴生」は、埴の産する所の意の語であるが、埴その物の意に用いている。○にほはさましを 「にほふ」は、色のうるわしい意で、(五七)に出た。「にほはさす」は、その他動で、色うるわしくさせる。すなわち旅衣《たぴごろも》に摺りつけようの意。「を」は、ものをの意の詠歎の助詞。○清江娘子 住吉に住んでいる娘子の意で、姓氏いまだ詳かならずといわれている者である。多くいた遊行女婦の一人と思われる。それが別れに臨んで、長皇子に進《たてまつ》つた歌である。
【釈】 旅を行く君であるともし知っていたならば、ここの岸の埴をもって、君が旅衣を色うるわしく摺っておこうものを。
【評】 住吉娘子が、長皇子との別れを惜しんだ歌で、口頭によって歌ったものと思われる。行幸の供奉の皇子を「旅ゆく君と(121)知らませば」というのは、娘子には口なれている言い方で、自然であるが、皇子には不自然である。要するに挨拶程度の歌で才情は汲めるが、いうほどのものではない。
太上天皇、吉野宮に幸《いでま》しし時、高市連黒人の作れる歌
【題意】 太上天皇は持統天皇。太上天皇として吉野宮へ行幸になったことは史に見えない。したがっていつの事とも明らかではない。高市連黒人は(三二)に出た。
70 大和《やまと》には 鳴《な》きてか来《く》らむ 呼子鳥《よぶこどり》 象《きさ》の中山《なかやま》 呼《よ》びぞ越《こ》ゆなる
倭尓者 鳴而歟來良武 呼兒鳥 象乃中山 呼曾越奈流
【語釈】 ○大和には 「大和」は、旅をして他国にある時、その妻の待っている家を「大和」と呼んでいる例は、(六四)にある。今もそれで、吉野も同じく大和であるが、藤原の京をさしていったもの。「には」は、「に」は狭く限った範囲をさし、「は」は取り立てていう助詞であるから、妻のいる家の意でいっているものである。○鳴きてか来らむ 「来らむ」は、今だと「行くらむ」というところである。この集には「行く」を「来」といっている場合が相応にある。『代匠記』は、本来の住所をわが方《かた》としていうのだといい、『燈』は、こちらに心を置くと「行く」といい、あちらに置くと「来」というのが、古い用法だといっている。『講義』『注釈』も同様である。鳴いて行くのであろうか、と疑問の形でいったもの。○呼子鳥 この名は、時代とともに変わって、「喚子鳥」と書いた字面から閑古鳥《かんこどり》といわれ、郭公《かつこう》といわれ、「かつぽう」ともいわれている。形はほととぎすに似て、やや(122)大きく、春より夏にかけて来る渡鳥で、鳴き声は、「かっこう」とも「かっぽう」とも聞こえ、一つ所にとどまって、繰り返して鳴くのである。それを聞いていると、親しい人を呼んでいるように感じられるので、呼子鳥という名が付けられたものと思われる。その繰り返し呼んでいる声には一種の哀調があって、恋の心を連想させるところから、恋に関係させた歌が多い。○象の中山 「象」は、地名。吉野離宮のあった宮滝の南の地で、巻三(三一六)に「象《きさ》の小河《をがは》」を詠んだ歌があり、今も喜佐谷《きさだに》と呼ぶ谷がある。「中山」は、そこにある山。○呼びぞ越ゆなる 「呼び」は、呼子鳥の鳴くのを、その感じから言いかえたものであるが、今は、明らかに呼んでの意でいったもの。「ぞ」は、係。「越ゆなる」の「なる」は、連体形で、上の「ぞ」の結び。
【釈】 都の妻のいる家にと、旅のここから鳴いていくのであろうか。呼子鳥は、ここの象の中山を、呼び立てて越えてゆくことであるよ。
【評】 黒人が持統天皇の吉野離宮への行幸の供奉をしている時、心中郷愁を感じている折から、呼子鳥が妻のいる藤原の京の方角へ鳴きながら飛んでゆくのを見て、その鳥にわが郷愁を伝えさせる心をもって詠んだ作である。「大和には鳴きてか来らむ」は、妻のもとへ鳴いて行くだろうかであるが、場合柄あらわにいうことを憚って、「大和には」と甚だ婉曲な言い方をし、さらに「か」の疑問を添えていったのである。しかし「来らむ」は、その心を徹しさせたものである。「呼子鳥」以下は、上の感を発しさせた情景を具象的にいったものである。古くから鳥は、わが思いを遠方にいる人に伝えさせうるものだとしていた。黒人はその時、その心を起こしたとみえる。「呼びぞ越ゆなる」の「呼び」は、ここでは妻を呼ぶのである。呼ぶのは伝えるべきことがあるからである。この「呼び」は「呼子鳥」の呼びの畳語という程度のものではなく、含蓄をもったものである。一首、表面にはいささかも郷愁の趣を見せていないが、実質は純郷愁で、婉曲を極めたものである。技法としては、この当時すでに象徴に近い表現をしていたのである。
大行天皇、難波宮に幸しし時の歌
【題意】 大行天皇は、ここでは文武天皇。本来大行天皇という尊号は、中国にならったもので、天皇崩御後、御謚号《ごしごう》を奉らない間の称である。しかるにこの頃には、先帝をいう意味で用いるようになっていた。この事は、『講義』が詳しく考証している。その点から、この題詞は、次の御代、元明天皇の時に記録したものを、そのままに用いたものと思われる。行幸の年月は明らかでない。
71 大和《やまと》恋《こ》ひ 寐《い》の宿《ね》らえぬに 情《こころ》なく この渚崎廻《すさきみ》に たづ鳴《な》くべしや
(123) 倭戀 寐之不所宿尓 情無 此渚埼未尓 多津鳴倍思哉
右一首、忍坂部乙麿《おさかべのおとまろ》
右一首、忍坂部乙麿
【語釈】 ○大和恋ひ寐の宿らえぬに 「大和」は、大和国であるが、旅にあって家を意味させているもの。「い」は、眠りの意で、名詞。「宿らえ」の「らえ」は、「られ」の古語。眠ろうとしても眠られないのに。○情なく 思いやりなく。○この渚崎廻に 「廻」は、『新訓』による。渚の崎の、水中に差し出ている辺りにで、そうした所は鶴などの、餌を漁ろうとして好んでいる所である。○たづ鳴くべしや 「たづ」は、当時は、鶴を始め鶴類を広く呼んだ称。「や」は、今は反語。鳴くべきであろうか、鳴くべきでないの意で、夜の「たづ」の鳴き声に刺激されて、ますます旅愁がつのるゆえの心。○忍坂部乙麿 伝が詳かでない。
【釈】 大和の家を恋って、眠ろうとして眠れずにいるのに、思いやりなく、ここの洲崎の辺りに、鶴が鳴くべきであろうか、鳴くべきではない。
【評】 旅愁を、我と慰めるための歌であるが、調べに迫るものがあって、その平淡なのを救っている。この歌に限らず、この種の歌のすべてに通じてのことであるが、旅愁の大半は旅の侘びしさより起こるものである。行幸の供奉としての旅は、侘びしさにも限度があって、その家居の時とさして異なったものではなかろうと思われる。異なるのは、妹の添っていないことだけである。すなわち旅愁は、いわゆる旅愁とは異なって、妹と別れていることによって起こってくるものなのである。ここに当時の人の、いかに善意に富んでいたかを思わせるものがある。この歌ではまた、「情なく、たづ鳴くべしや」の「情なく」が注意される。これは必ずしも特殊なものではなく、(一七)にも、「情なく雲の隠きふべしや」というのがあった。これらは後世の詩的技巧とは趣を異にして、作者は自然にいっているものであろうと思われる。これらの語の自然さは、自然そのものに対して善意を期待しているところがあり、その反映として、期待に添わないのに恨み怒りを感じてきてのものと思われる。この歌には、そうした善意が、やや際やかに現われている。
72 玉藻《たまも》刈《か》る 沖《おき》辺はこがじ しきたへの 枕《まくら》辺の人《ひと》 忘《わす》れかねつも
玉藻苅 奧敞波不榜 敷妙乃 枕邊之人 忘可祢津藻
右一首、式部卿藤原|宇合《うまかひ》
(124) 右一首、式部卿藤原宇合
【語釈】 ○玉藻苅る 既出。藻を苅り取るで、「沖」の状態としてかかる枕詞。○沖辺はこがじ 「沖辺」は、沖の方。「へ」は助詞ではない。沖の方へはこぎ出すまい。遠い遊びはしまいの意。○しきたへの 織目の繁い、すなわち細かい織物。衣、家、床、枕など多くの物へかかる枕詞。枕へかかるのは、床の延長と思われる。 ○枕辺の人 この句は細井本以外の古写本は「枕辺之人」とあるに従い『注釈』も『私注』も「枕辺の人」と訓んでいる。枕を並べている床上の女である。『注釈』は、難波の遊行婦としている。従うべきである。○忘れかねつも 忘れることができないなあ。「かね」は、現在も用いられている。「も」は、詠歎。○式部卿藤原宇合 目録の方には、「作主《つくりぬし》いまだ詳かならざる歌」とあり、「式部卿」以下は、細字となっている。宇合は天平九年に薨じた人で、懐風藻、公卿補任によると、年は三十四、四十四、または五十四で、不定である。持統天皇七年の出生であるから、この時は十六歳であったろうという。『注釈』は詳しく考証している。
【釈】 藻を苅り取る沖の方へは、わが船は漕ぎ出すまい。夜床の枕のほとりにいた人が、忘れられないことだなあ。
【評】 作者は岸近い辺りで舟遊びをしていて、沖の方へ漕ぎ出さないかと勧められたのに対し、この歌をもって答えたものと思われる。明るく軽い作で、独詠とはみえないものである。挨拶の歌としても、相手は遠慮のいらない、親しい部下かと思われる。手放しな物言いである。「沖辺」「枕辺」と対させて、突きはなして客観的な言い方をしているところ、初心ではあるが、文芸的の才能の閃きがあるといえる。
長皇子の御歌
【題意】 長皇子は、(六〇)に出た。
73 吾妹子《わぎもこ》を 早見浜風《はやみはまかぜ》 大和《やまと》なる 吾《わ》を松《まつ》椿《つばき》 吹《ふ》かざるなゆめ
吾妹子乎 早見濱風 倭有 吾松椿 不吹有勿勤
【語釈】 ○吾妹子を早見浜風 「吾妹子」は、妻をきわめて親しんで呼ぶ称。「早見浜風」の「早見」は、掛詞となっていて、上よりの続きは、早く見るとなり、同時に、「浜風」を形容する意をもっていて、そちらは「早み」で、これは形容詞の連体形で、浄見原《きよみはら》、朱鳥《あかみどり》などと同じ例である。「浜風」は、海より浜に吹いてくる風で、その烈しいのを「早み」といっているので、早きというにあたる。「早見浜風」は一つの語で、今は呼びかけていっているもの。○大和なる 大和にあるで、その大和は旅にあってわが家《や》を意味させる語であるから、わが家にあるの意。○吾を松椿 (125)「吾《わ》を松」は『考』の訓み。「松」は掛詞で、吾を待つ、すなわちわが帰京を待つと、松の木と椿とをかけたもの。わが帰りを待つ松の木や椿を。○吹かざるなゆめ 「吹かざるな」は、吹かずはあるなで、吹けということを、不安をもって消極的にいったもの。「ゆめ」は、「忌む」の古語「斎《ゆ》む」の命令形で、慣用より副詞となり、強く命令する意でいう語。今は、きっとというにあたる。
【釈】 吾妹子を早く見るという名をもっている早み浜風よ。大和のわが家にあるわが帰京を待つ松の木や椿を、吹かないということはするなよ、きっと。
【評】 行幸の供奉をして難波にあって、旅愁を感じられていた皇子が、いうところの早み浜風に吹かれていると、大和の家にいて、皇子の帰京を待っている妻を思慕する心が起こり、その心をその浜風に託したのである。第一に託されたのは、「早見浜風」という語である。(五) の長歌に、「玉襷懸けのよろしく、朝夕《あさよひ》に還らひぬれば」という語がある。言霊《ことだま》信仰は、今日いうところの縁起のよい語で、それを信じ頼む心の、きわめて深いものである。「早見」という語は、「吾妹子を早見」という意味をもちうるもので、その名をもった「早見浜風」は、この際の皇子としては、貴くも懐かしいものだったのである。「早見」を掛詞にして、「浜風」に呼びかけたのは、この伝統久しい信仰からで、技巧はそれに付随したものである。第二に託されたのは、風はその本性として遠く行きうるものであるから、この風が大和のわが家まで至り得ないものではなく、またそれだと、今わが身に触れている風が、同じく妹が身にも触れ得ないものでもないと思われた。一つの物が相思う二人の身に触れるということは、それを通して魂の交流をもなしうるものだという信仰は、何首かの歌となっている。巻十(二三二〇)「わが袖に降りつる雪も流れゆきて妹が袂にい行き触れぬか」はその一例である。皇子はその風にこの信仰を託されようとしたのである。しかしそれについては、皇子の心は合理的に働かれ、風の最も触れやすい松と椿の木とを思われ、しかもこの風が、はたして遠いわが家まで至りうるかどうかという不安をも思われ、「吹かざるなゆめ」という、消極的な、しかし力をこめた訴え方をしているのである。「吾を松椿」は無論「吾妹子」を言いかえたもので、この言いかえは、その事を合理的にする必要からのもので、技巧は付随したものである。古い信仰と、新しい合理的な心との交錯した歌である。心の複雑なのに比して、調べの強さとさわやかさを失っていないのは、皇子の手腕である。
大行天皇、吉野宮に幸しし時の歌
【題意】 大行天皇は、文武天皇。天皇の吉野官への行幸は、続日本紀、大宝二年七月にあったことが記されているが、歌によると寒い季節であったことが知られるので、その時ではない。
(126)74 み吉野《よしの》の 山《やま》の下風《あらし》の 寒《さむ》けくに はたや今夜《こよひ》も 我《わ》が独《ひとり》宿《ね》む
見吉野乃 山下風之 寒久尓 爲當也今夜毛 我獨宿牟
右一首、或は云ふ、天皇の御製歌
右一首、或云、天皇御製歌
【語釈】 ○み吉野の山の下風の 「み吉野」は、既出。「下風」は、「あらし」にあてた文字。「山下出風」の意。○寒けくに 「寒けく」は、形容詞「寒し」の未然形に、古くは「寒け」の形があり、それに「く」を添えて、名詞のごとくしたもの。寒きことなるにの意。○はたや今夜も 「はた」は、またに、嘆きの意の添ったもので、またも詮なくの意。「や」は、疑問の係の助詞。○我が独宿む ひとり寐は、共寐に較べて寒いものとの意でいった語。○この歌は作者の明らかでないものである。天皇すなわち元明天皇の御製とも伝えているというのである。
【釈】 み吉野の山の嵐は、寒いことであるのに、またも詮なく、ただ独りで今夜も寐るのであろうか。
【評】 吉野に幾夜かを宿った後、その夜も寐ようとして、折からの嵐の寒さに、夜々を肌寒くて眠り難いところから、妻との共寐の凌ぎやすかったことを思い出していたので、今夜もまた、あのとおりであろうかと予感しての嘆きである。寒夜の旅愁で、墳憩の多いものであるが、表現が物静かで、旅愁が婉曲なため、品位ある歌となっている。大行天皇すなわち文武天皇の御製はこの一首のみであるが、異説もあったのである。
75 宇治間山《うぢまやま》 朝風《あさかぜ》寒《さむ》し 旅《たび》にして 衣《ころも》貸《か》すべき 妹《いも》もあらなくに
宇治間山 朝風寒之 旅尓師手 衣應倍 妹毛有勿久尓
右一首、長屋王《ながやのおほきみ》
右一首、長屋王
【語釈】 ○宇治間山 吉野町、上市の東方にある山で、飛鳥から吉野へ行く近路にあたっている。現在千股とある地。○朝風寒し 朝、山越えしての感である。○旅にして 旅にあって。○衣貸すべき妹もあらなくに 「衣貸すべき妹」は、衣を貸してくれるような妻。古くは下の衣は、女(127)の物も男に用いられたので、この意の歌が少なくない。別居生活の関係からである。妻は、京にいる妻である。「も」は、詠歎。「あらなくに」は「なく」は、打消の助動詞の未然形「な」に「く」を添えて名詞形としたもの。「に」は、詠歎の助詞。○長屋王 高市皇子の御子で、天武天皇の御孫である。慶雲元年に正四位上、後、宮内卿、式部卿、大納言、右大臣を経て、神亀元年、正二位左大臣となり、天平元年讒にあって、四十六あるいは五十四をもって自尽された。
【釈】 宇治間山は朝風が寒い。旅にあって、衣を貸してくれるような妹もいないことであるのになあ。
【評】 吉野宮へ供奉の往復に、秋か冬の朝風の寒い頃、宇治間山を越えながらの歌で、旅愁の作である。妻を訪い、朝別れるおり、寒い時には、妻が下着を貸すのが風となっていたので、それを思い出しての嘆きで、類想の作の少なくないものである。軽い心よりの作であるが、実感に即しつつ落ちついて豊かに詠まれているところに、風格があり、味がある。
和銅元年戊申
天皇の御製歌《おほみうた》
【題意】 元明天皇は、慶雲四年即位されたので、和銅元年はその翌年である。天皇は、御諱は阿閉皇女、文武天皇の御母である。天皇崩御の後即位され、和銅三年までは藤原宮にいられた。
なお和銅二年には、蝦夷が叛いたので、征伐の軍を送っている。その前年である元年には、準備のための訓練が行なわれていたことと思われる。
76 大夫《ますらを》の 鞆《とも》の音《と》すなり もののふの 大臣《おはまへつぎみ》 楯《たて》立《た》つらしも
大夫之 鞆乃音爲奈利 物部乃 大臣 楯立良思母
【語釈】 ○大夫の 「大夫」は、(五)に出た。猛き武夫の意である。○鞆の音すなり 「鞆」は、武具、弓を射る時、左の手の手首に付けて、矢を射る時弓弦が反ってあたり高い音を立てるようにした物で獣革で袋を作り、中に獣毛を入れた物である。「すなり」は、「す」に「なり」を添えて強くいったもの。○もののふの (五〇)に出た。本来は文武百官の総称であるが、ここは意味が狭くて、武官の意でいっていられる。○大臣 「臣《まへつぎみ》」は、前つ君の意で、天皇の御前近く侍う臣を尊んでの称。「大」は、その中に特に貴い人として添えた語。上の句を待って将軍というにあたる。○楯立つらしも 「楯」は、戦争の際、敵の矢、鉾《ほこ》を防ぐための武器。延喜式に載っている大甞祭の神楯は、長さ一丈二尺余、濶《ひろ》さ四尺余、(128)厚さ二寸。その表に黒の牛皮の、長さ八尺、広さ六尺の物を張り、さらに鉄の、長さ四尺、広さ五寸、厚さ一分の物を打ち付けたものである。「立つ」は、立てるで、楯を立てるのは陣容を整える意である。「らし」は、証を挙げての推定をあらわす助動詞。「も」は、詠歎。
【釈】 猛き武夫どもの、弓を射る鞆の音がするよ。将軍は、軍容を整えている様子だなあ。
【評】 宮に間近い辺りで、将軍が出征のための調練としての弓を射る鞆の音をお聞きになり、その全体を想像されての御製である。事相を叙されたのみで、内容には触れてはいないが、これは他に聞く者があるとしても、側近の人のみで、それらの人たちは、その内容の何であるかは、天皇と同じく心得ているのであるから、その必要はなかったのである。しかし一首の調べは、明らかにその事相に対してのお心持をうかがわさせるものがある。卒然と、初二句その事の中核を成すことをいって、言いきられ、ついで、「もののふの大臣楯立つらしも」と、全貌を想像され、感歎を添えていっていられるのである。事の全貌を捉え、素朴な、強い声調をもって、食い入るがごとく詠まれているので、表現が気分そのものとなり、迫りくるものがある。女帝ながら天皇の責任を痛感されての御製である。
御名部皇女《みなべのひめみこ》、和《こた》へ奉《まつ》れる御歌
【題意】 御名部皇女は、天智天皇の御女で、元明天皇の、同母の御姉である。
77 吾《わ》が大王《おほきみ》 物《もの》な思《おも》ほし 皇神《すめがみ》の 嗣《つ》ぎて賜《たま》へる 吾《わ》がなけなくに
吾大王 物莫御念 須賣神乃 嗣而賜流 吾莫勿久尓
【語釈】 ○吾が大王物な思ほし 「吾が大王」は、臣下として天皇を呼びかけての称。御姉ではいられるが、天皇の位にある方に対しては当然臣下なのである。「な」は、禁止の意をもった助詞。「思ほし」は、「思ふ」の敬語「思ほす」の連用形。これに「な」が添って、お思いたもうなの意を成す古語。「物思ふ」は、嘆く意をあらわす語で、御心配なさいますなの意となる。○皇神の 「すめ」は、統《す》めで、統治の意がある。皇祖神を称する語で、また一般に神をも崇めてもいう称。『講義』は、ここは皇産霊神の意であると解している。わが国は、国土そのものを初め一切のものは、神々の産霊の御力より生まれたものであるということは、上代の信仰で、深く広かったものである。○嗣ぎて賜へる これは「吾」の修飾語で、天皇につぐものとして神のお下しなされたところの。すなわち天皇をお下しなされ、ついで、輔佐する者としてお下しなされたところの。○吾がなけなくに 「吾が」は、従来|吾《われ》と訓んできたのを、『注釈』が改めたもの。「なけなく」に続く場合、「が」を訓み添えるのが例となっている。「なけなく」は前出。「なく」はないことであるの意。「に」は詠歎。卑の形をもって強くいう語法。
(129)【釈】 吾が大君よ、御心配はなさいますな。皇祖神の天皇につぐ者としてお下しになったところのわたくしがなくはないのでございますのに。
【評】 天皇の御製は、直接に皇女に対してのものとは思われないが、皇女は側近していてそれを伺ったところから、同じく歌をもって和《こた》へ奉ったものとみえる。これは古くからの風で、後世になると必ずそうすべきものとなっていた風である。皇女は天皇の御心を十分に察し、東北地方の国情不安を御心配になってのこととし、それを御慰めしたのである。「吾が大王物な思ほし」と、まず総括して、力強く言いきられ、ついで、「皇神の嗣ぎて賜へる吾がなけなくに」と、その理由をいわれたのである。これはきわめて深い信仰の上に立ってのお語《ことば》である。皇祖神より押し進めて他の神々をも「皇神」と申すのは、国土を統治なさる神の意であって、わが国土は神の物と信じられてのことである。天皇はその皇神の御身代りとして下された方、御自分も天皇につぐ者として、かく添い奉っていないのではないのに、というのは〔五字傍点〕、深い信仰をもっての言である。すなわち、いささかの国情の不安などには微動をもなさらないお心である。これはまさに御信念の端的なる披瀝であると思われる。天皇の女帝ながら、国家を任となされる御心に対し、皇女の雄々しくいられるこの唱和も、共に強い責任感の現われである。
和銅三年庚戌の春二月 藤原宮より寧楽宮に遣りましし時 御輿《みこし》を長屋《ながや》の原に停《とど》めて※[しんにょう+向]《はる》かに古郷《ふるさと》を望みて作りませる御歌 一書に云ふ、太上天皇の御製
【題意】 寧楽宮の遺址は、今の奈良市の西から郡山町の北にあたる一帯の地である。宮の造営は、和銅元年に始まり、遷都は同三年三月に終わった。今はその二月である。御輿は高貴の御方の乘物。長屋の原は、今はその名が伝わっていない。天理市永原町、長柄町一帯であろうという。それだと藤原宮からは三里ばかりの地である。古郷は、藤原である。ここに作主の名があるべきであるが、ない。他は詳しく敍しているところからみると、原拠となった記録のままに記したもので、その記録は遷都に供奉した者の手に成った関係上、改めて記すには及ばないものとしたためかもしれぬ。とにかく、このままでは不明である。「作りませる御歌」という書きようも、御製としては妥当なものとはいえない。しかし上と同じ関係のものかもしれぬ。「一書に云ふ、太上天皇の御製」という語は、目録の方にはないもので、後からのものと思われる。この御代には、「太上天皇」と申されるべき御方はない。
(130)78 飛《と》ぶ鳥《とり》の 明日香《あすか》の里《さと》を 置《お》きていなば 君《きみ》があたりは見えずかもあらむ【一に云ふ、君があたりを見ずてかもあらむ】
飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之當者 不所見香聞安良武【一云ふ、君之當乎不見而香毛安良牟】
【語釈】 ○飛ぶ鳥の明日香の里を 「飛ぶ鳥の」は、明日香の枕詞として用いられているが、これは天武天皇の十五年、大和の国から赤雉を献上したのを瑞祥として、朱鳥《あかみどり》と改元されたのと、藤原宮が明日香の地域にあるのとで、明日香を讃える意で枕詞となったもの。「明日香」は、飛鳥《あすか》地方一帯の名で、現在の明日香村一帯が、それにあたる。○置きていなば すて置いて離れて行ったならば。○君があたりは 「君」は、皇族などの親しくお思いになられる方。「あたりは」は、家のあたりはで、「は」は取り立てる意の助詞。○見えずかもあらむ 「か」は、疑い、「も」は感歎の意の助詞。見られなくなるのであろうか。○一に云ふ、君があたりを見ずてかもあらむ 君が家のあたりを、見なくていることであろうか。
【釈】 飛ぶ鳥の明日香の里をすて置いて行ったならば、そこにいる君が家のあたりは、見られなくなることであろうか。一にいう。君の家のあたりを見なくていることであろうか。
【評】 京は新しい寧楽に遷つても、従来どおり明日香の里にとどまっていられる親しい方に対して、別れを惜しまれたお心である。一首、おおらかな中に情感のこもったもので、四、五句はことにその感が深い。気品の高いものである。
或る本 藤原京より寧楽宮に遷りし時の歌
【題意】 或本というのは、上にある歌に対して、別本には小異のある場合、参考として添える場合にのみ用いる語である。これはそれと異なり、上の歌と、時を同じゅうしている意でいっているもので、後より追加した歌ということを示しているものである。歌は、遷都とともに一皇族が藤原より奈良へ邸を移した時、その工事にあたった工匠の、家主に贈ったものである。
79 天皇《おほきみ》の 御命畏《みことかしこ》み 柔《にき》びにし 家《いへ》をおき 隠口《こもりく》の 泊瀬《はつせ》の川《かは》に 舟《ふね》浮《う》けて 吾《わ》が行《ゆ》く川《かは》の 川隈《かはくま》の 八十隈《やそくま》おちず 万度《よろづたび》 顧《かへり》みしつつ 玉桙《たまぼこ》の 道《みち》行《ゆ》き暮らし 青丹《あをに》よし 奈良《なら》の京《みやこ》の 佐保川《さほかは》に い行《ゆ》き至《いた》りて 我《わ》がねたる 衣《ころも》の上《うへ》ゆ 朝月夜《あさづくよ》 清《さや》かに見《み》れば 栲《たへ》の穂《ほ》に 夜《よる》の霜《しも》ふり 磐床《いはどこ》と 川《かは》の氷《ひ》凝《こご》り 寒《さむ》き夜《よ》を いこふことなく 通《かよ》ひつつ 作《つく》れる家《いへ》に (131)千代《ちよ》までに 座《いま》せ大君《きみ》よ 吾《われ》も通《かよ》はむ
天皇乃 御命畏美 柔備尓之 家乎擇 隱國乃 泊瀬乃川尓 ※[舟+共]浮而 吾行河乃 河隈之 八十阿不落 万段 顧爲乍 玉桙乃 道行娩 青丹吉 楢乃京師乃 佐保川尓 伊去至而 我宿有 衣乃上從 朝月夜 清尓見者 栲乃穗尓 夜之霜落 磐床等 川之氷凝 冷夜乎 息言無久 通乍 作家尓 千代二手 來座多公与 吾毛通武
【語釈】 ○天皇の御命畏み 「天皇」を「おほきみ」と訓むにつき、荒木田久老は、「おほきみ」は当代の天皇より皇子諸王までの称であり、「すめらぎ」は遠祖の天皇の称であるが、皇祖より受け継がれた大御位についていう上では、当代の天皇をも申すことのある称だといっている。その意味で今も、普通の称に従って「おほきみ」と訓んでいる。「御命畏み」は、勅を畏み承りて。これは成句となっていたものである。事としては一宮人から工匠が依頼を受けたことであるが、それに最高の語を転用したものである。○柔びにし家をおきて 「柔び」は「荒《すさ》び」に対した語で、和らぎ睦ぶ意。家人との関係をいったもの。原文「擇」は、「釈」に通ずる字で、「捨」の意、「置」の意とをもっている。『講義』は、用例の多きに従って「置」を取っている。その家をさし置いて。○隠口の泊瀬の川に 「隠口の」は、(四五)に出た。泊瀬の枕詞。「泊瀬の川」は、大和川の上流で、その支流の一つである佐保川と合流するまでの間の称である。この川は、三輪山の麓をめぐり、国中《くんなか》の平野を流れて、佐保川に合する。○舟浮けて吾が行く川の 原文「※[舟+共]」は、小さく深い舟を意味する字。わが国の高瀬舟にあたる。この川は大船は用い難いためである。「浮けて」は、浮かべて。「吾が行く川」は、水路の便のある限り、それを利用するのが上代の風であった。荷物も共に運び得たものと思える。舟に乗る地点は、藤原方面からだと、三輪の辺りであろうと『講義』はいっている。○川隈の八十隈おちず 「川隈」は、川の曲がり目で、「隈」は(一七)に出た。「八十隈」は、多くの隈。「落ちず」は、(二五)に出た。「漏れず」の意。○万度顧みしつつ 「万度」は、何回となくの意。「顧みしつつ」は、後を振り返って見い見いしてで、遠ざかり、見えなくなる家を、限りなく思い慕いつつの意をあらわしたもの。○玉桙の道行き暮らし 「玉桙の」は、主として「道」にかかる枕詞(132)である。『注釈』は、新解釈をしている。「玉」は霊。「桙」は男根。古代の農村は里の入口、あるいは三叉路に、道祖神を祀っていた。これは他より入り来る邪霊を追い払うもので、また男根もともに祀ってあったといぅのである。したがって、道あるいは里の修飾語としてのもので、男根にはたぶん、農作物繁殖の呪力があるとしてのことと思われる。「道」は、ここは舟路。「行き暮らし」は、行くに暮らしてで、行くに暮れてというと異ならない。以上は泊瀬川の行路で、舟は下りである。○青丹よし奈良の京の 「青丹よし」は、(一七)に出た。「奈良の京」は、前に出た。○佐保川に 「佐保川」は、上にいった大和川の支流の一つで、春日山中から発し、今の奈良市の北を流れ、古の奈良の京の間を流れて、初瀬川と合して大和川となるのである。「奈良の京の佐保川」という続きは、この川が奈良の京に通じているところからの言い方である。 ○い行き至りて 「い」は、接頭語。「行き至り」は、行き着くで、舟が佐保川に移ってからは、川上に向かって溯るのである。○我がねたる衣の上ゆ 「我がねたる衣」は、夜を舟の中に寝て、寝るに被《かず》いているところの衣である。「上ゆ」は、上より。寝ているままで、その被いている衣の上から。○朝月夜清かに見れば 「朝月夜」は、朝月で朝になってもある月。在明月の意。朝月夜の光にの意。「清やかに見れば」は、はっきりと見ると。○栲の穂に 「栲」は、今の楮《こうぞ》の古名で、「たく」ともいった。その繊維をもって織った布も、同じく「たへ」といった。これはいずれも白色のものである。「穂」は、物の現われて見え、目に着くことをいう意の語。その物の光沢にもいう。「栲の穂」は、白い楮の特に白い所の意で、真っ白なことを具体的にいったもの。真っ白に。○夜の霜ふリ 夜の物の霜が降り。○磐床と 「磐床」は、磐が床のようになっているものの称で、磐の広く平らになっているもの。「と」は、のごとくに。○川の氷凝り 佐保川の氷が凝って。○寒き夜をいこふことなく 「いこふ」は、休息の意で、励み努めての意。○通ひつつ作れる家に 「通ひつつ」は、藤原より奈良へと通いつづけて。「作れる家に」は、わが建築したところの家に。○千代までに 「千代」は、原文「千代二手来」の「来」は、次の句に属させていたのを、『考』は「尓」の誤写として、今のごとくにし、それ以来の注は従っている。千年で、いついつまでも長く。○座せ大君よ 原文「座多公与」とある。「多公」を「おほきみ」と訓むのは、不自然の感があるが『注釈』は、「多」を「大」にあてた例を挙げて、万葉後期にはありうる用字だとしている。家主を「大君」と呼ぶのは、すでに起首に出ていることで、呼びうる人であったとみえる。「よ」は呼びかけである。○吾も通はむ 「吾も」は、我もまたこの家に。「通はむ」は、出入りをする意で恩顧をこうむらそうとしてである。
【釈】 大君の仰せを畏み承って、和《なご》み睦んできた家族のいるわが家をさし置いて、泊瀬の川に小舟を浮かべて、わが通い行く川の、その川の曲がり角の多くある曲がり角の一角をも漏らさず、幾たびも幾たびもわが家を振り返って見い見いして、舟路に日を暮らして、奈良の京を流れている佐保川にまで行き着いて、わが寝て引被《ひきかず》いている衣の上から、照る朝の月の光に、はっきりと見ると、着ている白い栲より白く霜が降り、床を成している磐のようにごつごつと川の氷は凝っている寒い夜を、休息することもなく、通い通いして建築したこの家に、いついつまでもお住まいなさいませ大君。我もまた今後御恩顧をこうむるために、通ってまいりましょう。
【評】 藤原より奈良へ遷都の勅命が下り、大宮の造営が始まると、大宮に奉仕すべき大宮人は、それとともに各自の邸宅を建築しなければならないことになった。一人の大宮人から、そのことの依頼を受けた藤原に住んでいた工匠は、依願のままに、(133)藤原から奈良へと通って、建築にあたったのである。遷都は和銅三年三月で、天皇は二月にすでに御移りになられたことが、前の歌でわかる。この大宮人の家は、それに先立って完成しなければならない。「栲の穂に夜の霜ふり、磐床と川の氷凝り」といっているのは、冬の酷寒の季節の状態で、遷都に先立っていたことがわかる。その工匠のこの歌を作った心は、依頼主である大君という大宮人に、その工事を引き受けたことを縁として、今後の恩顧を乞おうとしてのものである。それをいうには、このために、いかに心身を労したかということを具《つぶ》さに訴えて、まず依頼主の同情を得ようとしたのである。起首から結末に近い「作れる家に」までのほとんど全部は、そのためのものである。結末に至って、そのいわんとする要点を初めていっているが、それは「吾も通はむ」という婉曲なもので、しかもそれをいうには、その作れる家に「千代までに座せ大君よ」という、その家と家主《いえあるじ》に対する賀の詞を述べ、それに付随していうという、用意深い態度を取っているのである。一首の主意は、明らかなものといえる。
表現も、その態度にふさわしい用意をもったものである。起首の「天皇の御命畏み」は、意としては結末に近い「通ひつつ作れる家に」に続くものである。ここで「天皇」といっているのは邸宅の建築を命じた人で、その人に対する敬称である。この称は広く、皇族にも用いたものであり、またいう者は工匠であるから、皇族の一人であれば、不自然ではない。また、結尾にも繰り返しているから、そうした人と解される。また起首より「寒き夜を」までは、一日一夜の労苦を叔して訴えたものである。これは事を具象的にすることによって強め、それによって訴えを強めているもので、この歌に限ったことではないが、要を得たものである。さらに部分的にいえば、「柔びにし家をおき」より「万度顧みしつつ」までは、工匠がその家と離れることを悲しむ心である。距離は藤原より奈良までの間で、しかも「通ひつつ」といい「通はむ」といっている間である。これは明らかに誇張で、訴えんがためのものである。「川隈の」以下「顧みしつつ」までの四句は、巻二(一三一)柿木人麿の歌にほとんど同様のものがあって、当時にあっては成句に近いものである。この影響の受け方は口承文学的である。しかし、「吾がねたる衣の上ゆ、朝月夜清かに見れば」は、相応に簡潔で、まさに記載文学のものである。「寒き夜を」より転じて、「いこふことなく、通ひつつ作れる家に」の間《ま》の早さも、同じく記載文学のものである。総括して、大小の用意をもっているもので、おのずから口承文学と記載文学の交錯も示している、相応に高い技巧をもった歌といえるものである。
これを全体として見ると、一工匠の、一人の大宮人の恩顧を得ようとして室寿《むろほ》ぎの際謡った形のもので、実用性のものであり、したがって文芸的の気品を欠いた歌である。
反歌
80 青丹《あをに》よし 奈良《なら》の家《いへ》には 万代《よろづよ》に 吾《われ》も通《かよ》はむ 忘《わす》ると念《おも》ふな
(134) 青丹吉 寧樂乃家尓者 万代尓 吾母將通 忘跡念勿
右の歌、作主いまだ詳なからず
右歌、作主未v詳
【語釈】 ○青丹よし 既出。○奈良の家には 長歌の「通ひつつ作りし家」。○万代に 万年にで、いつまでもの意。長歌の「千代に」に照応させたもの。○吾も通はむ 長歌の結句。○忘ると念ふな われがこの家を忘れることがあるとは思いたもうなの意。○作主 作者であるが、その名は不明の意。
【釈】 このわれが作った奈良の家へは、万年と末長く通ってこよう。われがこの家を忘れることがあるとは思いたもうな。
【評】 長歌の結句の心を、繰り返して強めたものである。「忘ると念ふな」は、訴えとしては執拗な感をもったものである。
和銅五年壬子の夏四月、長田王《ながたのおほきみ》を伊勢の斎宮《いつきのみや》に遣しし時、山辺《やまのべ》の御井《みゐ》にて作れる歌
【題意】 長田王は、続日本紀、和銅四年夏四月、正五位下に叙され、近江守、衛門督、摂津大夫らに歴任し、天平九年六月に、「散位正四位下長田王卒」と見えている人。父祖は詳かでない。斎宮は、伊勢神宮に奉仕される斎王の、お住まいになる宮の称である。また神宮をも称した例がある。斎王とは、歴代天皇の御|手代《てしろ》として神宮に奉仕せらるる内親王の称である。その宮は、伊勢国多気郡にあった。山辺の御井については、『講義』は精細な考証をしている。簡単にいうと、本居宣長が『玉勝間』で、河曲郡(鈴鹿郡)といっているのは誤りか、もしくは郡域の変更かであろう。山辺だと論じ、爾来信じられているが、これは誤りである。続紀、聖武天皇の天平十三年十月壬午の神宮への行幸の順路、また、『江家次第』の、斎王が任解けて、難波に解除《はらい》に赴か(135)れる日取り、順路を見ると、古来、大和から伊勢神宮への順路は一定している。河曲郡山辺は、この順路よりは約十里を隔ててい、往復では二十里である。公務を帯びた者が、遊覧のために二十里の迂路をするということはあるべくもない。これは誤りである。一方、御鎮座本紀に、豊受大神の伊勢にうつりませる順路をいった中に、「次山辺行宮御一宿 【今号壱志郡新家村也是】とある。この書は偽造だとの定評があるが、地名までは偽造ができない。山辺行宮というものの人に知られていた頃の偽造であろう。三重県一志郡桃園村|新家《にのみ》とすると順路と一致する。巻十三(三二三四)に、「山辺」に行宮または離宮のあったように詠まれている歌とも一致する。その遺址は今は考えられないというのである。しかし、定解とはなっていない。『注釈』は、御井の跡と主張する地の三か所を踏査したが、確証は得られなかったといっている。「御井」という称で、行宮、離宮、あるいは神宮に付属した井と知られる。
81 山辺《やまのぺ》の 御井を兄がてり 神風の 伊勢|処女《をとめ》ども 相見つるかも
山邊乃 御井乎見我弖利 神風乃 伊勢處女等 相見鶴鴨
【語釈】 ○山辺の御井を見がてり 「がてり」は「がてら」ともいっている。一つの事を主とし、他の事をも兼ねてする意をいう語で、「がてら」は現在も用いている。○神風の伊勢処女ども 「神風の」は、伊勢の枕詞で、古いものである。『注釈』の伊勢は風の荒い国で、現在も日常語として用いられている。修飾語だという解に従う。古い枕詞は感性によって捉えたものが多く、これもそれと思われるからである。「伊勢処女」は、伊勢に住んでいる女の意で、意味の広いもの。「処女」は、女を尊ぶ意で用いている例が多い。「御井」との関係から、宮に奉仕している宮女と思われる。それだと水部の女嬬である。「ども」は、複数を示したもの。○相見つるかも 「相」は、一緒にのい意と、互いにの意とがある。ここは、互いにもの。「かも」は、詠歎。互いに見たことであるよ。
【釈】 山辺の御井を見るついでに、その水を汲む何人かの伊勢処女と見合ったことであるよ。
【評】 上代では、飲用水に充てる水のある井は、一般に尊重されたのであるが、この歌では、見物のためにわざわざ立寄ったとみえるから、御井の由緒を重んじてのこととみえる。井の水を汲むのは、女のすることとなっていたので、そこに女のいる ことは特別のことではないのに、三句以下は、強い感動をもっていっているものである。すなわち御井その物よりも、伊勢処女を主としたものである。旅中、思いがけずも多くの処女を見た楽しさである。「相見つる」は、処女どももこちらと同じくゆかしんで見たとしてのもので、迎えての解である。しかしそこに情味がある。
(136)82 うらさぶる 情《こころ》さまねし ひさかたの 天《あめ》のしぐれの 流《なが》らふ見《み》れば
浦佐夫流 情佐麻祢之 久堅乃 天之四具礼能 流相見者
【語釈】○うらさぶる情さまねし 「うらさぶる」は、たのしくない意の動詞。連体形で「情」に続いている。たのしくない気持。「さまねし」の「さ」は、按頭語。「まねし」は、あまねしと同じ。腹いっぱいであるの意。○ひさかたの天のしぐれの 「ひさかたの」は、「天」を初め、「日」「月」などにかかる枕詞であるが、定説はない。瓠形《ひさかた》の意というのが最も妥当に聞こえる。瓠《ひさご》は上代には、井の水を汲むに常用していた物で、その形をしたの意で、意味で「天」にかかる枕詞。「天の」は、「しぐれ」を天から降るものとして添えた詞で、強めのためのもの。「しぐれ」は、暮秋の頃、降りみ降らずみの状態で続く小雨。○流らふ見れば 「流らふ」は、「流る」の継続を示す意の語。流るは降るの意の古語。
【釈】 荒《すさ》みごころがまことに深い。天からのしぐれが降り続くを見ると、たのしくない気持が腹いっぱいである。
【評】 暮秋の頃、降りみ降らずみの状態で打続いているしぐれに対しての心持である。しぐれの降るという自然現象はきわめて普通のもので、取り立てていうほどのものではない。しかるに今はそれを取り立てて、三句以下、語を尽くして、重大なこととしていっている。これを重大視するのは、そのわが心に及ぼす影響という関係においてである。すなわち自然と人間心理との関係を問題としての歌である。これはまさしく文芸性のもので、奈良遷都以後に至ってはじめて起こってきた歌風である。抒情を先として、初二句で言いきり、三句以下その情を起こさしめた事をいうという、反転法を用いているのは、必ずしも珍しい法ではないが、これは次の時代に入って盛行した風で、この当時としては新しい法に属するものである。しかし語の続きは直線的で、思い入って、懇ろにいったもので、明らかに古風を伝えたものである。上の歌は、四月の歌であるのに、これはしぐれの季節の作で、同時のものではない。長田王自身が記録したものであろう。旅情を叙した作と思われる。三句以下、大景を対象としてのものである。
83 海《わた》の底《そこ》 沖《おき》つ白浪《しらなみ》 立田山《たつたやま》 何時《いつ》か越《こ》えなむ 妹《いも》があたり見《み》む
海底 奧津白浪 立田山 何時鹿越奈武 妹之當見武
【語釈】 ○海の底 「底」には、奥の意があり、奥は沖に通じるので、「沖」にかかる枕詞。○沖つ白浪 「沖」は、「辺」に対する語。沖の方から寄せて来る白波。波が立つと続き、その立つを、地名の立田の立つに転じて、初句とつづけて序詞としたもの。○立田山 生駒山中の一峰で、大和川の北岸に近い山。大和と摂津の御津とをつなぐ要路にあたっており、古は関も置かれた山。ここは、御津から大和へ向かう場合。○何時か越(137)えなむ いつになったら越えられようかで、待ち遠い意の語。○妹があたり見む 妹が家の辺りが見られよう。
【釈】 海の沖に白波が立つのにゆかりある名の立田山よ、いつ越えられるだろうか。そして妹が家のあたりが見られよう。
【評】 遠い旅に出ている男が、古里にいる妻を恋って、いつになったら逢えようかと、待ち遠しく思っての心である。心としてはありふれたものであるが、表現には特殊なものがある。古里はどこともいっていないが、大和の京で、男は官人としての旅をしていることを思わせる。妻を思うと、妻のいる地への路が眼に浮かび、立田山が現われてくる。それとともに、現在いる海上の景が、「海の底沖つ白浪」という序詞として浮かんできたのである。しかもこの序詞は、その中に枕詞をも含み、複雑なものである。一首、心は単純であるが、表現は、眼前を捉えて美化しつつ、連想を具象化している、文芸性のゆたかなものである。この表現は、前の歌と同じく、奈良遷都以後のものである。
右二首、今案ふるに、御井にして作れるに似ず。けだし疑はくは、當時誦めりし古歌か。
右二首、今案、不v似2御井所1作。若疑、當時誦之古歌歟。
【左注】 右の二首の歌は、御井で作ったもののようではないというのは、もっともである。前の歌は秋の歌で、季節が異なっており、後の歌も、境を異にしたものである。しかし、古歌かという疑いはあたらないもので、同じく長田王の作で、ついでをもってここに載せたのだろうという解に従うべきである。
寧楽宮
長皇子、志貴皇子と佐紀《さき》宮にて倶《とも》に宴《うたげ》せる歌
【題意】 寧楽宮は、前に出たように、和銅三年三月の遷都であるから、この前の歌、すなわち和銅五年の前にあるべきであり、場所も誤っている。何らかの経路によっての誤りである。長皇子と志貴皇子のことは前に出た。従兄弟の間柄である。佐紀は、現在奈良市の西方にあたり、大極殿址の北方の地である。成務天皇、神功皇后、新しくは孝謙天皇の高野《たかぬ》御陵がある。佐紀宮は、長皇子の宮である。志貴皇子の宮は、巻二(二三〇)によると、高円《たかまと》にあったからである。歌は宴《うたげ》の際に、主人長皇子の即興として作られたものである。
(138)84 秋《あき》さらば 今《いま》も見《み》る如《ごと》 妻恋《つまご》ひに 鹿《か》鳴《な》かむ山《やま》ぞ 高野原《たかのはら》のうへ
秋去者 今毛見如 妻戀尓 鹿將鳴山曾 高野原之宇倍
右一首、長皇子
右一首、長皇子
【語釈】 ○秋さらば 秋が来たならばの意。これは秋を未来としていっている形であるが、二句「今も見る如」とのつづきから、現在をいっているものである。毎年、秋になると、の意である。○今も見る如 今も見ているごとくにで、現に見ているものをさしての語で、三句以下の景である。思うに客の志貴皇子が、佐紀宮より見える高野原の山を見つつ愛でられたのに対して、主《あるじ》の長皇子も、同じく目をやって、誇りをもっていわれた意の語である。○妻恋ひに鹿鳴かむ山ぞ 妻恋いのために鹿が鳴くであろうところの山ぞの意。牡鹿の妻恋いをするのは秋である。本来鳴く声の悲しくあわれな鹿を、妻恋いのためのものに聞きなし、それを秋の趣の代表的なものとしたのは、この時代に入って愛された詩情で、ここもそれである。「ぞ」は、強く指し示す意の語で、その趣を、誇りをもって強めたのである。○高野原のうへ 「高野原」は、佐紀の地勢をいったもの。「うへ」は、野を野の上というそれで、強意のためのもの。
【釈】 秋が来たならば、今も御覧になっているとおりに、妻恋いのために牡鹿があわれに鳴くことですよ、この高野原は。
【評】 この歌は、長皇子の佐紀宮へ、志貴皇子がはじめて訪問された時の作である。時は秋で、宮の付近には、牡鹿が妻恋いをしてあわれに鳴く時だったのである。主の皇子は歓待の心より、挨拶代りに、佐紀宮の秋の情趣を誇りをもって詠んだ歌と解される。両皇子とも作歌に長《た》けていられたので、この当時としては普通のことであったろうと思われる。文芸趣味を愛される兩皇子の打寛いだ風貌の偲ばれる作である。この歌は、「秋さらば」「鹿鳴かむ」「今も見る如」とが、時の関係上解しやすくないために、解がまちまちになっていた。この解は『注解』に負うものである。
「右一首、長皇子」とあり、また、こうした場合は、和え歌のあるのが普通である。元暦校本、冷泉本、神田本の目録には、この次に、「志貴皇子御歌」とあるので、本来は和え歌のあったのを、逸したのであろうといわれている。
萬葉集評釋 卷第二
(140) 序
本集の巻第一が刊行されて以来、久しく巻第二の刊行を見ないので、どうしたのだ、待っているのだがと、年若い知人の何人かから、屡々《しばしば》尋ねられた。引続いて刊行されるものと予期してのことである。
刊行書肆はそのつもりで、事を進捗させ、巻第二はすでに紙型となり、印刷にかかろうとしていた折から、戦火はその紙型を灰燼としてしまったのである。終戦後の出版事情は、相当の量のある物を、新たに版とすることが困難であり、用紙の関係も伴って、事の荏苒《じんぜん》している由を書肆から断られ、機を待つより外ないと思わせられたのである。今度漸くその機を得た次第である。
本集二十巻の原稿は、終戦後間もない頃に書き終っている。特別の事情の起らない限り、次第に刊本となるものと思っている。
本集の稿を草しつつあった間の感は、筆者には、猶《な》お新たなるものがある。稿を起したのは戦時下であったが、巻第四を終った時には、明らかに根気の衰えを感じ、中絶させようかと思った。然るにその頃は、次第に戦局の容易ならざるものとなり来ったことが、報道の如何にかかわらず、おのずからにして感じられるものとなって来た。親近している若き学徒、親戚の若い人、筆者の次男など、相次いで兵とされ、何処とも分らぬ戦線に送られた。それらの人々の研学の精神は、筆者には極めてなつかしいものである。あの人々に代って書物に親しもう、他に用いるなき老国民で、その業にいそしむことによって、あの人々に酬いるより外はない。筆者はその一念に駆られ、その人人の顔を目睫の間に浮べつつ、筆を続けたのである。筆者は本書の成果を思うの遑《いとま》もなく、稿本の存在をも期し得なかったのが実情であった。
本集の稿を成さしめた、それら若き学徒の中には、永久に帰還せざる者が少くない。筆者の次男もその中にある。
巻第一の読者に対しては、本巻は久濶のものである。私情を述べて序とする。
昭和二十二年九月
著者
(141) 萬葉集 巻第二概説
巻第二の概説として云うべきことは、巻第一の概説を云う際に既に云っている。それは撰者の意図を察しると、この両巻は連続したもので、この兩巻をもってその意図を遂げさせ、完結させようとしたものであることが明らかに推量され、切り離して観ることが出来ないからである。簡単に繰返して云うと、この両巻は、天皇、太后、皇族の方々の御作歌が、いかに優秀なものであるかを顕揚しようとして、それらの御作歌を、何らかの関係事情によって、比較的たやすく眼にすることの許されていた撰者が、意図してのものだといぅことである。随って作者の大部分は、上に云った尊貴の方々であるが、一部分臣下の歌が例外の形をもって取り入れられている。しかしそれには条件が付いていた如くである。巻第一について云えば、それら例外の作者の大部分は、行幸の供奉をした人々であって、行幸の記事の一部として保管されていた歌が、資料として取り入れられたのであって、それらは作者より歌材に重きを置き、撰者の意図と齟齬《そご》しない物として取り入れたのだと見られる。それ以外の作者には、柿本人麿、高市古人、山上憶良、不明の一人の四人があるが、前二人の作は、近江の荒都を見て感傷した作、憶良のは、遣唐使の随員として唐にあってのもの、不明の一人は、京が藤原より奈良に遷される際、一官人の邸宅造営に当った工匠の、その邸宅を賀する意で作ったもので、間接ではあるが、歌材としては皇室に繋がりを持っているもので、撰者の意図の範囲に属するものだと、観れば観られるもののみである。
この集の三部立の第一である雑歌を、巻第一に充《あ》てた撰者は、巻第二は、相聞と挽歌とに充てて、首尾完結したものとしたのである。
相聞は、大体は恋愛の歌であるが、血族友人間などの消息往来の歌をも含ませての称である。後者は比較にならない程の少数である。恋の歌は、憧れての求婚に始まり、関係の結ばれての後の、思うがままに逢い難きを嘆きつつ、その中の永続を希うのが頂点をなしていて、後世の歌に多い、離れ去っての怨み、或は思い出してのあわれさは、殆《ほとん》ど無い。その中最も特色をなしているものは、本巻の歌には著しくはないが、男女互にその貞実を誓い合う歌である。これは恐らくは信仰の伴っているもので、歌という形式をもってその事をするのがやがてその事を顕わしているのではないかと思われる。本集の恋の歌の、代表的に力強いものは、この範囲に属するものであるが、この心は直接には顕われなくても、何時も恋の歌の底流をなしており、それが重量感、立体感をもたせるものとなっている。本集の恋の歌で更に重要なことは、その最大部分が、いずれも必要があって、直接相手に贈り、又答えたものだということである。即《すなわ》ち実際の効果を目標として、それを遂げしめようとして作ったものなのである。実用性のものである。その豊かに持っている(142)文芸性は、その実用を有効に遂げしめようとしての方便にすぎないものである。実用性が主であり目的であって、文芸性は従であり方便であるということが、本条の恋歌の特色である。これは後世にも続くことであるが、後世では、文芸性その物が魅力となって、それが効果をもたらし得るものとなったのであるが、本集では真実そのものが魅力をなしていて、文芸性はそれに較べては比較にならない軽いものであったと観られる。今日より観ると、この主たる実用性と、従たる文芸性の、絡みもつれて渾然たる趣をなしているところに、深い興味があるのである。以上はこの巻に限ったことではないが、続く巻々にも関係のあることであるから、絮説《じよせつ》を敢えてしたのである。
この巻の相聞歌は、歌数としては五十六首(「国歌大観」八五−一四〇)にすぎない。雑歌の八十四首に較べてもかなり少い。これは巻第一、二に限ったことであって、本集全体より観ると、相聞歌は圧倒的に多く、雑歌は比較にならないまでに少いのであるから、まさにこの巻の特色である。これは尊貴の方々は、その日常生活の状態として、相聞の歌を作る必要を感じられることが少かった為かと思われる。雑歌の多いのは、行幸に関係したものが多い為で、賀歌の奉献の許されていた場合ということも、大きく影響していたのである。賀歌が信仰より発するものであることは云うまでもなく、それとの関係は、漠然と想像されるよりも案外に大きいものであったろう。
相聞の起首は、「磐姫皇后天皇を思ひたてまつる御作歌」四首の連作をもってしている。これは巻第一の起首を、「天皇御製歌」をもってしたのと相対させたもので、巻第一、二の撰された奈良朝時代よりは、遙に飛び離れた時代の、しかも極めて著明な天皇と皇后とを巻首に据えまつったもので、しかも雄略天皇の御製歌は、雑歌ではなく相聞であるのを、強いて充てているなど、撰者の意図を最も明瞭に示しているものである。仁徳天皇の時代に、短歌の連作として極めて典型的なものの存在したとすることも、十分問題となるべきものである。
相聞の作者の主体をなしている人は、皇子皇女であって、その点は、巻第一の雑歌と同じであって、少くとも他の巻には決して見られないまでに多く、撰者の意図は一貫していると云える。しかしこの部にあっては、例外がかなりに多く、殆ど例外とは云えないまでである。中臣鎌足の鏡王女に対しての歌はもとより、采女安見児についての歌は、皇室につながりのあるものと云える。石川郎女(女郎ともある)は、日並皇子、大津皇子にも関係を結んでいる、藤原宮時代の最も魅惑的な女であったと見える。皇子との贈答の歌は、皇室に関係のあるものとして問題にならないのであるが、大伴田主との贈答の歌は、まさしく撰者の最初の意図以外のものである。これに左注を加えて、その歌の背景を委しく云っているのは、それ程の魅惑的な女が、進んで挑み寄ったにもかかわらず、田主がこれを拒み斥けたのを、心憎い所行であるとして、その風流を讃えているのである。然るにその歌は、何れもさしたるものではない。相聞歌が風流ということと絡み合い、風流なるが故にさしたる点もない歌をも採るということは、明らかに撰者の意図に動揺のあったこと(143)を示しているものである。撰者は奈良朝の初期に生存していた人であることは、挽歌に聊《いささか》ながら奈良朝の歌を取っていることで知られる。時代の影響は、明確なる意図を持っていた撰者をも動揺させたものと思われる。この事は、単にこれにとどまらず、「三方沙弥、園臣生羽の女に娶《あ》ひて未だ幾時も経ず病に臥して作れる歌」と題する三首の贈答歌を取っている。作者は何れも皇室には何のつながりもない臣下である。何故にそうした歌が取られているかは明らかでない。その歌は事としては場合が哀れであり、又歌は、取材が小さく、調べが細くて、この時期の他の歌に較べると、著しく奈良朝の歌風に近いものである。その点より観ると、上の田主の風流を讃えると同じく、さうした歌風がこの時期に、新風として暗然の間に迎えられており、少くとも撰者は、それに心を引かれるところが多く、最初の意図より逸脱して、取るに至ったことと思われる。大伴宿禰と巨勢郎女との贈答の歌は、同じく作者は圏外のものであり、歌も単なる求婚のものであるが、恐らく郎女の歌が、柔らかく美しい点で、上の歌と同系統の物として取られたのではないかと思われる。作者も歌も、皇室とは何の繋りもなくて取られているのは、柿本人麿の、「石見国より妻に別れて上り来る時の歌」と題する、長歌二首の連作と、反歌の五首を持った大作である。これは入麿としても代表的の作であるから、撰者としては、人麿の歌人としての位置よりも取らざるを得なかったものと思われる。撰者が歌その物のみにとどまれず、それに関係しての事にまで及ぼして行った心は、人麿の歌の対象となっている「妻」をも閑却できず、それに添えて、「人麿の妻依羅娘子、人麿と相別るる歌」をもって、それを相聞の結尾としていることでも窺われる。
挽歌は、信仰より生れ来ったもので、その由る所は深く強いものであったろうと思われるが、現在ではその輪郭は推量するより外ないものである。上代では死を穢れとして、これを怖れることの極めて深かったことは、皇居はもとより皇子などの場合では、その主人である方が他界されると、その住居は住み棄てて荒廃に委ねたのでも察しられる。しかし生と死の境は極めて近く、日並皇子尊の薨去の後など、その舎人等は、殯宮に移した皇子に、一年間、生者に仕えると同じ態度をもって奉仕したことが、歌に依って知られる。概して身分ある人は、死ぬと共に地中に埋葬することはせず、或る期間は生者と同じ扱いをした事が明らかにされてもいる。この事が単に、儀礼よりのものでなかったことは、柿本人麿の、「妻死せし後、泣血哀慟して作れる歌二首」の一首は、妻を葬った後、その妻をも知っている人が、人麿に、汝の妻は羽易《はがい》の山に居られたと、見懸けて来て教えると、人麿は云われるままに、死んだ妻に逢おうとしてその山に行き、見えなかったことを歎息しているのである。教える人も人麿も、何ら異常の事ではないように云っているのを見ると、人麿時代の信仰は、現在の心より窺いかねるものである。死者を穢れとして深く怖れると共に、その厳存を信じているのであるから、勢いその死者を尊み、悲しむことによって、その心を慰め、穏やかにあらしめる事は、自身の生存上必要な(144)重大なことだったのである。挽歌は、死者の心を慰める上には、最も適当な方法で、時期としても有効なものだったのである。この巻における挽歌は、死者との関係の直接間接の差によって、おのずから云い方は異っているが、何れもこの線に沿ってのものである。
本巻に収められている挽歌の数は、九十四首(一四一−二三四)であって、何れも作者の明らかなものである。一巻の中にこれだけの歌数を持ち、又作者も明らかな巻は他には無いことで、挽歌の上では、本巻は万葉集中の代表的のものである。
挽歌を供えられる人と、供える人との関係は、余程厳しい条件の付いていたものと思われる。本巻について観ても、天智天皇に挽歌を作っている人は倭の太后御一方であり、額田王のものは稍々《やや》間接なものとなっており、天武天皇に対しては、太后にして後の持統天皇御一方である。皇子皇女の場合だと、御夫婦、御兄弟の方々であり、然らざれば側近に仕えていた舎人のみであり、その関係の明らかでない者は、柿本人麿のみである。しかしその人麿も、皇族なるが故に、何方にも同じような心をもって作っているとは見えず、同じく皇女ではあるが、明日香皇女に対しては、心を尽して悲しみを申しているのであるが、泊瀬部皇女に対しては、直接なる何事をも云わず、妻としての皇女を悲む夫君忍坂部皇子に対して、その悲まれるのを悲むという間接な云い方をしているのである。これは他にも例のあるもので死者と自身の関係の親疎ということが、このようにさせたので、そうせざるを得なかったものと観られる。此の点から観ると、人麿の日並皇子尊、高市皇子尊に対しての挽歌は、彼がこれら二人の皇子に対して、舎人として奉仕していたという親しい関係を通じてのものか、然らずんば、舎人の依頼を受けて代作したかの孰《いず》れかでなければならないものに見える。代作ということは例のあることであり、又挽歌はその性質上、出来得る限り整った物でなければならなかったのであるから、藤原宮時代にあっては、人麿が選ばれてその任に当ったということも想像され得ることである。それは現在だと、一つの集団を代表しての弔詞を、達文の人として代作させられたということと異らないことだからである。
挽歌の形式は長歌であることを本格としていたと観られる。本来挽歌は、抒情を旨とすれば、事の性質上、単純に云い得るものであって、短歌で事が足るのであるが、飽くまで心を尽しきろうとすれば、死者その人の経歴に即せざるを得ず、即すれば叙事とならざるを得ないのであるから、死者の魂を慰めることを目的とする挽歌は、長歌形式でなければならなかったことと思われる。又この当時は、「歌」といえば長歌を意味し、短歌は「短歌」と断る必要のあった時代であるから、葬祭など古風を守って変えようとしないものにあっては、本格の挽歌は、長歌形式でなくては事が足りないと感じられていたものと見える。
本巻の挽歌は、殆ど皇室関係の方々のもので、撰者の意図の行われているものであるが、柿本人麿だけは、その歌人的位置から例外扱いをされ、河辺宮人は、奈良宮時代の者として、時代的に例外扱いされている。人麿のその種の歌としては、「妻(145)死せし時」、「吉備津采女の死せし時」、「讃岐の狭岑の島に石中の死人を見て」であり、宮人の作は、「姫島の松原に嬢子の屍を見て」であって、何れも皇室とは何の繋がるところもないものである。
人麿の、その妻の死を泣血哀慟しての作は、夫としてであるから当然のものであるが、吉備津采女と、狭岑の島の石中の死人とは、彼と直接繋がりの何もない人々であって、当時の風習から思うと、何故に力を籠めての力作をして弔ったかを怪しませるものである。然るに、これら弔われている人々の死には、共通の事情がある。吉備津采女は、その反歌に依って見ると、尋常の死ではなく、水死をしている人である。その事情には触れて云わず、云うところは若くして美しかった人の、はかない死を痛歎するのみで、熱意をもって美しいものの亡び去ったことを云っているのに魅せられるのであるが、その水死ということが作因ではなかったかと思われる。狭岑島の死人は、水死者である。又、姫島の嬢子も同じく水死者である。これら異常の死をした人で、殊にその死を弔う者もない人に対しては、直接には何の繋がるところもない人にもせよ、その魂を慰めようとして挽歌を供えることが、一方には行われており、又その事をするのは、死者に対して持つ一種の信仰から発したことではな
いかと思われるが、さし当ってはこれを明らかにする事が出来ない。路上の行き斃れに対しての挽歌は、他にも例のあるものなので、この事を思わせられるのである。
万葉集の歌の価値は、巻第一、二が最も優れたものであるということは、現在は定説の如くなっている。両巻を通じての頂点は、藤原宮時代で、云いかえると柿本人麿を中心とした時代である。これを時代的にいえば、皇室の勢威の、一路高まりつつあった時代で、大津宮時代より、浄見原宮時代を経、前方に、奈良宮時代を望んでいた時代なのである。勢威は文化と並行してのものであって、皇室が絶えず文化の指導者であられたことは、巻第一、二に収められている御製歌、御作歌によっても窺われる。巻第一の雑歌にあっても、作者を柿本人麿に擬せられもする無名作者の「藤原宮の※[人偏+殳]民の作れる歌」、「藤原宮の御井の歌」がある。本巻の挽歌の中にも「皇子尊の宮の舎人等|慟傷《かなし》みて作れる歌二十三首」があって、これまたその名を記されずにいる身分の者である。藤原宮時代の文化が如何に高く、その雰囲気の如何に濃密なものであったかは、これらに依っても窺われる。人麿はこの雰囲気の中に人となり、それに支持されつつ、時代を代弁したのである。彼ひとりが卓越していたのではない。
巻第一、二の撰者は何びとであるか分らないが、皇室の歌風を顕揚しようとの意図をもって編んだ此の両巻はいみじくもその意図を果すと共に、此の両巻が基本となり、基準となって、異った方面の作者の歌、異った時代の作者の歌を積み重ねて、現在見るが如き二十巻となったのである。一人の心に宿した意図の結果と云うべき本巻は、巻第一と共に、万葉集中でも最も重んずべき由緒を持ったものである。
(152) 相聞《さうもん》
【標目】 相聞は漢語で、相問往復の意をもった語である。今はそれを取って、男女間の恋愛関係の歌をはじめ、近親者間、友人間の消息の歌の全部を含めた名としたのである。巻一と二とを、雑歌、相聞、挽歌の三部門に分かっているが、これはその一部門である。この分項は、懐風藻も同様である。訓は、『考』は「あひぎこえ」、『古義』は「したしみ歌」と訓んでいるが、間宮永好の『鶏犬随筆』、『美夫君志』が、「さうもん」と音に訓むべきことをいい、山田孝雄氏も『相聞考』で詳しく論じて、それを強化している。本集の撰ばれた奈良時代は、漢文学のきわめて重んじられた時代であるから、語とともに音をも用いたものと思われる。相聞の出典は文選の「常子建与2呉季重1書」に、「口授不v悉、往来数相聞」とあり、その注に「聞問也」とあるによったものである。しかし本集の相聞は、それより遙かに意味の重いものである。わが国は上代から、男の求婚の意志表示、女のそれに対する諾否は、すべて歌による風習があり、さらに夫婦別居しているところから消息を交わす要が多かったが、それも作歌をもってする風習であった。すなわち実生活と歌とのつながりは、きわめて緊密だったのである。その点からいうと、わが国の歌の主体は相聞だったのである。本集でも相聞の占める位置は最も重いのである。なお相聞は範囲が広がり、後世の恋の歌と同意語となり、独詠の歌を含むようになつてもいる。
難波高津宮御宇天皇代《なにはのたかつのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのみよ》 大鷦鷯天皇《おほさざきのすめらみこと》、謚を仁徳天皇と曰す
【標目】 難波は、古の難波国で、後の摂津国の西生郡及び東生郡の西辺にかけての地域で、さらにいえば今の大阪市を主とする地域の旧名である。古の京は、今の大阪城より南方へかけて、東高津味原池の辺(東区法円阪町)の台地であり、皇居は高地の海岸であったろうという。大鷦鷯は、御|謚号《しごう》仁徳天皇の御諱であって、元暦校本以後の古写本にはその注記がある。
磐姫皇后《いはのひめのおほきさき》、天皇を思《しの》ひたてまつる御作歌《みうた》四首
【題意】 磐姫皇后は、天皇の二年皇后となられた方で、葛城曾都毘古《かずらきのそつひこ》の娘である。曾都毘古は孝元天皇の曾孫にあたる武内宿禰の子で、皇后は天皇の六世の孫である。聖武天皇以前は、皇后は皇族に限られていた。後世は皇親は五世までに限られたが、古くはそれにこだわらなかったのである。皇后は、履仲、反正、允恭の三天皇の御母である。皇后は御名を記さないのが普通であ(153)るのに、ここにそれのあるのは、仁徳天皇には前後二人の皇后がいられたためである。すなわち磐姫皇后は、天皇の三十五年六月に崩じ、三十八年に八田皇女《やたのひめみこ》が皇后となられたからである。御歌は、天皇がある山地に行幸になり、久しく還幸になられないので、皇后として思慕の情に堪えず、その情の起伏を連作の形式をもって作られたものである。
85 君《きみ》が行《ゆき》 け長《なが》くなりぬ 山《やま》たづね 迎《むか》へか行《ゆ》かむ 待《ま》ちにか待《ま》たむ
君之行 氣長成奴 山多都祢 迎加將行 待命可將待
【語釈】 ○君が行け長くなりぬ 「君」は、天皇。「行」は、「行く」の名詞形で、行幸の意。「け長く」の「け」は「日」と同意で、時日という意の古語で、集中にきわめて用例が多い。天皇の行幸は、滞在の時日が久しくなったの意。○山たづね迎へか行かむ 「山」は、行幸先、すなわち行宮のある所の意。「たづね」は、尋ねで、現在口語でもいっている。「迎へか」は、迎えにかで、「か」は、疑問の係助詞。行宮のある山を尋ねてお迎えに行ったものであろうかで、還幸を待ちわびての心。○待ちにか待たむ このように同語を重ねていうのは、用例の多い一つの語法である。その場合、上の「待ち」は連用形で、それに「に」を添えて、下の「待たむ」の修飾語とし、下の「待たむ」の意味を強めるのが定まりである。「か」は、上に同じ。ただひたすらにお待ち申そうかの意。
【釈】 君が行幸は、御滞在の時日がすでに久しくなった。還幸を待つに堪えないので、その行宮のあるという山を尋ねて、お迎えに行こうか。それとも堪えてただひたすらにお待ち申そうか。
【評】 この御歌は、以下三首とともにいわゆる連作を成しているものである。連作というのは、ここでは、天皇の還幸の遅いのを、皇后として待ち侘び給う心情を、その起伏の方面に力点を置き、時間的推移を追って展開し、一つの物語の趣をもつものとしてあるということである。連作といぅ形は集中に例の少なくないものではあるが、上代のものであるところから、問題を含んでいるものである。その事については後に総括していうこととする。
この御歌を独立した一首とみると、「君が行け長くなりぬ」は、事の全体を総叙したもので、客観的な趣のあるものである。「迎へか行かむ待ちにか待たむ」は、心の動揺をいったものであるが、「待ちにか待たむ」は、いったがように、待つというその事を強めていったもので、焦燥に向かわんとする心を、その一歩手前で引き止めた趣をもったもので、微細感を含んだものである。三句「山たづね」は、問題となるべきものである。それは、単に「山」というだけでは、その事に合わせて、内容が漠然としすぎるからである。行幸といぅ事は改まったことであって、その事に対する礼として、必ず地名を挙げるべき事柄である。また、実際に即する歌風から見ても、それのあるのが自然だからである。さらにまた、行幸の事は史上に載るのが普通であるのに、天皇が山地へ行幸になられた事は記録にないので、かたがた疑わしいという理由においてである。この第三句に深(154)く立ち入らず、文字どおりに見ると、広い心をもって事の全体を捉え、穏やかな態度をもって、余裕をもち、距離を置いて、静かに詠ませられた御歌というべきで、しかもそこには、「待ちにか待たむ」という、微細な心も織り込まれているものである。一首、まさしく独立した御歌である。
右の一首の歌は、山上憶良の臣の類聚歌林に載す
右一首歌、山上憶良臣類聚歌林載焉
【釈】 「山上憶良の臣の類聚歌林」は、巻一に出た。その書は、巻一、二の撰ばれた和銅年間よりは後の書であるから、この注は後人の加えたものである。注の意は、右の一首の歌は、類聚歌林にも、同じく磐姫皇后の御歌として載っているものであるということを考証したものである。
86 かくばかり 恋《こ》ひつつあらずは 高山《たかやま》の 磐根《いはね》しまきて 死《し》なましものを
如此許 戀乍不有者 高山之 磐根四卷手 死奈麻死物呼
【語釈】 ○かくばかり恋ひつつあらずは 「かくばかり」は、このようにのみで、「ばかり」は強めの意のもの。「恋ひつつあらずは」の「あらずは」は、集中に例の少なくない古語。本居宣長は、「あらんよりは」の意だといつたのを、橋本進吉氏は、「ず」は連用形で、「は」は軽く添った係助詞で、意は「ず」と同じだとしている。今はこの解に従う。このようにばかり恋いつづけていずに。○高山の盤根しまきて 「高山」は、下の続きで陵墓を営む地であることがわかる。巻三(四一七)「河内王《かふちのおほきみ》を豊前国鏡山に葬れる時」、また(四二〇)「石田王《いはたのおほきみ》の卒せし時」などの歌により、奈良遷都前後は、陵墓は山の上を選んだことが知られる。「高」は誇張を伴った語と取れる。「磐根」は、磐で、「根」は添えていった語。「し」は、強め。「まきて」は、枕とする意の動詞。磐を枕としてで、下の「死」の状態をいったもの。古くは貴人の墓は、石槨を構え、内に石棺を据え、石の枕を備えて亡骸《なきがら》を納めるのが定めであったので、その状態をいったもの。○死なましものを 「まし」は、仮想の意の助動詞で、上の「あらず」の仮想の帰結。「を」は、詠歎。
【釈】 このようにばかり恋いつづけていずに、高山の磐を枕にして、死んでしまおうものを。
【評】 「かくばかり恋ひつつあらずは」と、憧れの情の苦しいものを、堪え忍び続けられていることをいい、「高山の磐根しまきて死なましものを」は、その苦しさの極まりを、具象的にいわれたものである。全体としては、堪え忍ぶことの極まった瞬間に起こる感傷的の心であって、心理的に自然さをもったものである。それも、「死」ということを思うと、「高山の磐根しまき(155)て」と、ある余裕をもって、その状態を思い浮かべ、また感傷の心よりの誇張もまじえられたもので、美しさを失われないものである。激情には似ているが、感傷よりの瞬間の心であり、女性の思慕の心の、いわゆる甘え心をもったもので、教養を保ち得ている趣のあるものである。前の御歌との関係から見ると、温藉なる心の、焦燥を含んでいたものが、ついに焦燥そのものに陥られた状態のもので、時間的推移の明らかに見えるものである。
87 ありつつも 君《きみ》をば待《ま》たむ 打《う》ち靡《なび》く 吾《わ》が黒髪《くろかみ》に 霜《しも》の置《お》くまでに
在管裳 君乎者將待 打靡 吾黒髪尓 霜乃置万代日
【語釈】 ○ありつつも君をば待たむ 「ありつつも」の「あり」は、下の続きによって、生きながらえの意のもの。「つつ」は、継続。「も」は、詠歎。生きながらえ続けて。「君」は、天皇。「待たむ」は、還幸を待ち奉らむ。○打ち靡く吾が黒髪に 「打ち靡く」は、垂髪にしていた黒髪のなよなよと靡く状態をいったもの。「黒髪」は、若い人の髪。○霜の置くまでに 「霜」は、ここは、白髪の譬喩としたもの。巻五(八〇四)山上憶良、「みなのわたか黒《ぐろ》き髪に、いつの間《ま》か霜の降りけむ」とあって、例のあるものである。白髪となるまで、いつまでもの意。
【釈】 生きながらえ続けていて、天皇の還幸を待ち奉ろう。打靡いているわが若き黒髪に、老いの白髪のまじるまでいつまでも。
【評】 この歌は、一首を独立したものと見ると、やや不自然の感の起こるものである。一首とすると、帰る時の全く測り難い夫を、限りなく待っていようという妻の心情で、事としてはもとよりありうるものであるが、これを一首の歌とすると、背後の特殊の事情に全く触れたところがないために、唐突の感のするものだからである。左注として引いてある(八九)の歌は、この歌の類歌としてのもので、それは一首の歌としてきわめて自然であり、また一般性の多いものであって、おそらく誰にも記憶されていたろうと思われるものである。この歌はそれと関係のあるものではないかと思われる。その関係というのは、この歌は、連作ということに力点を置き、そちらの一般性のある歌にいささかの変化を与えて、この連作の組織にかなうものとしたのではないかということである。これは(八九)と対照すると明らかに感じられることである。「霜」を白髪の隠喩とすることは、いったがように例のあるものであるが、その例は山上憶良の歌のもので、高い文芸性をもっているもので、この歌としては、時代的に疑いのあるものである。これを連作の上から見ると、一たびは「死なましものを」という焦燥の情をもたされたが、それは瞬間のことで、その心を抑えると、きわめて貞淑なる本性に復《かえ》られたことをあらわしているものである。
88 秋《あき》の田《た》の 穂《ほ》の上《へ》に霧《き》らふ 朝霞《あさがすみ》 いつへの方《かた》に 我《わ》が恋《こひ》息《や》まむ
(156) 秋田之 穂上尓霧相 朝霞 何時邊乃方二 我戀將息
【語釈】 ○秋の田の穂の上に霧らふ「秋の田」は、「秋」を添えることによって、稲の熟していることをあらわす語。晩秋の霧の多い季節を暗示している。「穂の上」は、稲穂の上で、下の「霞」の位置をあらわしているもの。霞すなわち現在の霧が、低く、したがって深くかかっていることをあらわしたもの。「霧らふ」は、「霧る」という動詞の継続の意をもつ語。「霧る」は、霧のかかることをあらわす古語で、今は廃語となったもの。その名詞となった霧だけが残っている。霧が時間的にかかりつづけている意で、深く籠めているにあたる。○朝霞 朝に立つ霞。古くは、霧と霞との区別がなく、一様に霞と呼び、秋の物は秋霞と呼んでいた。この称は和歌の上では平安朝にも及んでいる。初句から三句までは一つづきで、眼前に見た風景をいったもので、下に詠歎の意がある。○いつへの方に我が恋息まむ 「いつへの方」の「いつ」は、不明をあらわす語。「へ」は方で、いずれの方。「方」は、方角。いずれの方角にの意であって、下の「方」は重語の形となっている。これは下の「息まむ」への続きで、霧としては、その霽《は》れゆく方角のあるものとし、霧に似たわが悩みは、それを忘れ去る方がないというところから、その「方」を強めるために重ねたものである。すなわち嘆きをあらわす必要よりの重語である。「我が恋息まむ」は、わがこの憧れの心はやむであろうかと疑った意で、疑いは上の「いつへ」によってあらわされている。
【釈】秋の熟《みの》り田の、その稲穂の上に、低く深くもかかり続けている朝の霧よ。その霧は霽れゆく方角があろうが、いずれの方に、わが憧れの心はやむのであろうか、おぼつかないことである。
【評】 この御歌は、表現の上に注意すべき問題をもっているものである。全体としていうと、「秋の田の穂の上に霧らふ朝霞」が、皇后の懊悩せられる心象そのものであり、「いつへの方に我が恋息まむ」は、その朝霞の状態から連想される嘆きである。すなわち「朝霞」は譬喩ではなく、それ以前の原始的なものであって、そうした光景に対されたがゆえに、漠然とした心象がはじめてはっきりと捉えられ、また捉えたがゆえに嘆きが深まって、ここに具象化を得たという形のものである。この方法は、恋の悩みという形のないものを表現する上には、最も自然な方法で、したがって原始的なもので、東歌《あずまうた》などに多い形のものである。その意味ではこの御歌は、原始的な、古い形を取ったものである。しかし部分的に見ると、この御歌は、尖鋭な感性をもって、細かい注意をしたものである。「秋の田の穂の上」は、「朝霞」の位置をあらわしたものであるが、「秋の田」によってその朝霞の深いものであること、また広範囲にわたってのものであることをあらわし、「穂の上」によって、その朝霞の重く、また低く降っていることをあらわしているものである。これらのことは状態描写よりくる自然の結果だといえる範囲のものではあるが、意識して暗示的にいったものと取れる。さらにまた、「いつ辺の方に我が恋息まむ」は、上よりの語《ことば》続きから見れば、明らかに飛躍をもったものである。しかし心としては、深い朝霞の霽れそうにも見えない状態に、御自身の心象を感じられて、嘆いていわれているものであることは明らかである。飛躍はあるが心は感じられるといぅことは、まさしく暗示で、しかもその大きなものである。「いつへの方に」は重語であって、重語は感を強めるものであることはいった。要するに細部にわたっ(157)ての技巧は、高度の文芸性をもったもので、その大体の捉え方の原始的なのとは反対に、後世的のものである。この御歌が譬喩というよりもそれ以上な、いわゆる象徴的のもののような感を起こさせるのはそのためで、表現の上では問題を含んでいるものといわなくてはならない。さてこれを一首の歌として見ると、中心が「我が恋息まむ」という、時間的推移を目標としたものであるところから、独立性の薄い趣がある。しかし連作の一首として見ると、前の歌では、「吾が黒髪に霜の置くまでに」と思われたが、それは御意志よりのことで、時が経つと憧れの心が復《かへ》ってき、懊悩の情に鎖されたというので、この動揺はきわめて自然なものと思われる。また、一連の上からいうと、第一首の「待ちにか待たむ」の焦燥を含んだ御気分が、今は鬱した、静かなものとなってきていて、そこにも同じく自然の趣のあるものとなっている。
【評 又】 この四首の御歌は、多くの問題をもったものである。まず注意されることは、磐姫皇后は、本集を通じての最古の方だといぅことである。それはこの御歌につぐ歌は、天智天皇の御製であるが、その間じつに二十二代を隔てているのである。すなわちひとりかけ離れて古い方なのである。これは巻一、巻首の雄路天皇の御製についてもいったように、巻一、二の撰者の意図よりきていることで、巻一、雑歌の最初を、古の名高い天皇であり、また御製も多い雄略天皇とするとともに、巻二、相聞の歌の最初も、同じく古の名高い皇后であり、御歌も多い磐姫皇后にしようとしたからのことと思われる。そしてこの事は、皇室の和歌の、いかに愛《め》でたくも尊いものであるかということを宣揚しようとする撰者の意図からのことと思われる。
次にはこの四首の御歌はいわゆる連作だということで、これは注意されることである。そのいかに整った連作であるかということは、各首の評ですでにいったから、改めては繰り返さないことにする。由来連作は、本集には比較的少ないものであるが、古事記・日本書紀の歌謡にあってはきわめて多いもので、その大半は連作だといいうるまでである。それには理由がある。古事記・日本書紀の物語は、そのやや興味的なものにあっては、必ず歌謡が織り込まれており、物語が長いものである場合には、何首かの歌謡がまじっており、しかもそれが興味の頂点頂点をあらわすものともなっているのである。したがって歌謡は、前後相関連をもち、連続したもののごとき趣をもっているのである。時代が降ると、この傾向は濃厚となり、中には歌謡そのものが物語の主体をなして、いわゆる歌物語となっているものさえもある。しかしそれらの歌謡は、これを形式からいうと、長歌の方が多く、短歌は少ない状態である。その中にただ一つ、短歌形式をもってした歌物語が、日本書紀の中にあるのであるが、それはじつに仁徳天皇と磐姫皇后とのものなのである。本集には、いったがごとく連作は少なく、ことに古い時代のものには全くなく、初めて意図的に試みたのは柿本人麿である。長歌の完成者である人麿は、同時に一方では連作の創始者であって、巻一(四六)より(四九)に至る、「軽皇子《かるのみこ》安騎野《あきのの》に宿りませる時」の長歌の反歌四首は、いったがごとく典型的な連作である。しかしこれは反歌であって、長歌に対立させる程度のものである。独立した短歌の連作は、本集にあっては、巻五(八五三)より(八六三)に至る、大伴旅人の「松浦河に遊ぶ」と題するものなどが代表的なものである。これは興味本位の、純(158)文芸的なものなのである。
これを要するに、連作は、歌謡または短歌という、抒情を旨とするものを連ねることによって、時間的推移を旨とする物語の代用をさせようとするものであって、和歌としては、その本来の実用性を離れて文芸性を展開させた形のものである。この御歌四首は、その範囲のものである。日本書紀における仁徳天皇と磐姫皇后との短歌の連作は、その制作年代については問題をもっているから、しばらくおくこととすると、この御歌の連作は、その制作年代に疑いを挾ましめるものである。
疑いというのは、この連作は、その取材が恋であるとはいえ、そこには表面に現われての事件というべきものがなく、一に気分の起伏にすぎないものであって、その意味ではあくまでも文芸的なものである。これは降っての時代を思わせることである。さらにまた、その作風を見ると、四首一貫したものではなく、同一の作者のものではないのみならず、連作としての組織をもたせるために、かなりまで無理を行なっている跡を、明らかに示しているものでもある。その点がこの連作の制作年代を疑わしめるのである。
これを簡単にいうと、第一首は、左注の形をもって類歌を引いている。それは(九〇)「君が行《ゆき》け長くなりぬやまたづの迎へをゆかむ待つには待たじ」である。これは允恭天皇の御代、木梨軽皇子《きなしかるのみこ》と軽太郎女《かるのおおいらつめ》との事件のあった時、太郎女の詠まれた歌の一首である。この事件に関しての歌謡は多くあるが、いずれも宮中の歌※[人偏+舞]所《うたまいづかさ》に保存せられ、宮中において謡われた証を残しているものであって、一股化されていたものである。この歌の第三句「やまたづの」は、これを古事記に記録する際、すでに不明な、注を要する語《ことば》となっていた。それは「ここに山たづといへるは、これ今の造木《みやつこぎ》といふ者なり」というのである。しかるに、その「造木」が再び不明となり、近世に至って今の接骨木《にわとこ》の古名であるとわかり、その葉の対生しているところから「迎へ」の枕詞として用いているものであることもわかったのである。第一首の第三句「山たづね」が、不自然なものであることはその所でいったが、その不自然は、この歌謡を謡い物として謡った庶民が、文字によっての注を見ず、単に耳から聞くだけなので、その意味が解せられず、臆測によって「山たづね」と、解しやすい語《ことば》に変えたのである。これは謡い物としてはきわめて普通なことである。また、「迎へをゆかむ待つには待たじ」という屈折のある語《ことば》も、同じく解しやすいところの「迎へか行かむ待ちにか持たむ」と変えたのである。この連作の組織者は、その庶民の謡っている歌謡に、尊い起源を与えて、これを磐姫皇后の御歌としたとみえる。眼前に行なわれているものに、能う限りの尊い起源を与えることは、すでに古事記、日本書紀において行なわれていることで、躊躇を要さないことだったのである。この歌の作者とされている軽太郎女は、磐姫皇后には孫にあたる方である。第二首目の歌は、類歌の見えないものである。第一首と同じく民謡であったか、またはこの連作の組織者の作であるかはわからない。皇后が嫉妬の情の烈しくいらせられたことは、史上に明記されていることである。「高山の磐根しまきて」ということは、想像し難いまでのことではない。第三首目の御歌は、左注に類歌として、(八九)「居明《ゐあ》かして君をば待たむぬばたまの吾が黒髪に霜は零《ふ》るとも」を引いているが、これと関係のあるものと取れる。この「居明かして」(159)の歌は、きわめて一般性をもったものである。夫婦別居していた時代とて、妻としては夫の通って来るのを待つよりほかには法はない。しかるに夫は妻の期待にそうことができず、妻を嘆かしめがちであった。この歌もそれで、秋の夜寒の人なつかしい頃、妻は夫を待って待ち迎え得ず、終夜を待ち明かそう、髪に霜が降ろうとも、戸外に出ても待とうというので、世の妻という妻の嘆きを代弁している歌で、広く謡われていたものとみえる。連作の組織者は、この周知の歌謡を取って組織の中に入れようとしたのであるが、それには一夜ということをあらわしている「居明かして」では適さないところから、長期を意味する「ありつつも」に変え、またその関係から、実際の夜霜をあらわしている「霜」を、白髪の隠喩である「霜」としたのである。この隠喩は、いったがように集中に例のあるものであるが、その例は山上憶良の歌であるところからも、その一般に通じうるものとなった時期が思われる。第四首目の歌についてはすでにいった。第一首より第三首までは、これを形の上から見ると、口承文学の色彩の濃厚なものである。心は平明で、語《ことば》は直線的に続いており、含蓄、屈折の趣がなく、耳に聞けばただちに胸に感じ得られる性質のものである。第四首はいったがようなもので、記載文学としても典型的なもので、後代の趣の深いものである。感性を主としているものなので、耳に聞いて感じ難いというものではなかったと思われるが、とにかく高度の文芸性をもった人によって作られたものであることは明らかである。この歌は、この連作を組織するにあたって作られたもので、その意味で連作組織者の作ではないかと思わせる。
以上は、この連作が、和歌史的に見て後世の物ではないかとの疑いを、本集が歌書であるがゆえに許されることとしていったものであるが、この歌が、巻一、二の撰ばれる当時、磐姫皇后の御歌であると信じられていたことは確実な、疑うべくもないことと思われる。それは古事記、日本書紀という尊むべき官撰の史書の中に収められている歌謡が、ほとんど全部といっていいほどまで作者が明らかに定められており、またその作者は、概して高貴の方であるのを見ても、これらの歌が磐姫皇后の御歌と定められていたとしても、少しも怪しむにはあたらない。巻一、二の撰者は、しかるべき書物によって編纂したので、そこには私意は挟まれてはいなかったのである。第一首目の御歌の、山上憶良の類聚歌林にも同様になっているという考証も、この事を語るものである。しかしこれらの御歌については、前後に例のないまでに考証をし、左注の形をもって添えていることは、古も、それを必要とする心のあったことを思わせる。
或本の歌に曰はく
【題意】 この題詞は、目録には一字下げて、「或本の歌一首」とあるもので、後人の参考のために添えたものである。
89 居明《ゐあ》かして 君《きみ》をば待《ま》たむ ぬばたまの 吾《わ》が黒髪《くろかみ》に 霜《しも》は零《ふ》るとも
(160) 居明而 君乎者將待 奴婆珠能 吾黒髪尓 霜者零騰文
【語釈】 ○居明かして 「居明かす」は、熟語。「居」は起きている意で、夜を起きて明かす意。○君をば待たむ 上代の風習によって、妻の家へ夜《よる》通って来る夫の、その来るのを待とうの意。○ぬばたまの吾が黒髪に 「ぬばたまの」は、意味で「黒」にかかる枕詞。「黒髪」は、身体を代表させていっているもの。○霜は零るとも 「霜」は、秋の夜降るものとしてのそれで、戸外にいることを示しているもの。「零るとも」は、降ろうとも。夜寒をもいとわず、久しく戸外に立って.いようとすることを示したもの。
【釈】 夜を寝ずに起き明かして、通ってこられる君を待とう。戸外に立って待っている吾が黒髪の上に、霜が降って来ようとも。
【評】 これは第三首の類歌として挙げたものである。歌は、秋の夜、通って来ることときめて待っている夫の、夜更けても来ないのを、どこまでも待っていようとする妻の心を詠んだものである。こうしたことは上代の夫婦生活にあってはきわめて多いことで、ことに妻としては味わわされがちな苦しさであったろうと思われる。歌は、一、二句で心の全体をいい、三句以下で実際に即して細かい心をいったもので、内容も形式も平明な、謡い物の特色を濃厚にもったものである。注意されるのは、上代のこの種の歌に共通のこととして、いささかの怨みの情もまじえず、あくまでも従順なことである。これを第三首と比較すると、第三首は一句が「ありつつも」となっている。「あり」は意味の広い語で、世に生きながらえているという長い時間の意もあらわすが、単に「ある」という意で、時間に関係させない語ともなりうる。後の意とすると、「ありつつも」は「居明かして」と異ならない心を漠然といったものとも取りうる。また五句の「霜は零るとも」と、第三首の「霜の置くまでに」とは、「ありつつも」を上のように解すると、これまた意味としては異ならないものとなり、第三首の「霜」も白髪の譬喩とするには及ばず、実際の霜となりうるのである。すなわち第三首は、連作という関係においてそこにいったような意味となるのであるが、一首の独立した歌とすると、この類歌と同じものとなりうるものである。短歌といううち、ことに恋の歌は意味の広いもので、迎えて味わえばやや異なった内容のものと取りうるところのあるもので、それが短歌の性格なのである。ここに連作というものの成り立ちうる一つの根拠があるのである。
右一首、古歌集の中に出づ
右一首、古歌集中出
【釈】 「古歌集」というのは、集中にしばしば引かれるもので、一種の歌集の名である。題詞の「或本」というのはすなわちそれである。この集は今は伝わっていないものである。
(161) 古事記に曰はく、軽太子《かるのひつぎのみこ》、軽太郎女《かるのおほいらつめ》と※[(女/女)+干]《たは》けぬ。故《かれ》その太子は伊予の湯に流されき。この時|衣通王《そとほりのひめみこ》、恋慕に堪へずして追ひ往く時の歌に曰はく
古事記曰、輕太子※[(女/女)+干]2輕太郎女1。故其太子流2於伊豫湯1也。此時衣通王、不v堪2戀慕1而追徃時歌曰
【題意】 これは後人の注で、第一首の類歌を古事記に認め、それを挙げようとして、古事記のその歌の在り場所の文を節略して引いたものである。「軽太子」は、允恭天皇の皇太子|木梨《きなし》軽皇子、「軽太郎女」は、その同母妹である。上代は同母兄妹の結婚は重い穢れであるとして禁じられていたのを、太子は破ったので、罪として伊予の湯へ流されたのである。「衣通王」は太郎女のまたの名である。
90 君《きみ》が行《ゆき》 け長《なが》くなりぬ やまたづの 迎《むか》へをゆかむ 待つには待たじ【ここにやまたづと云へるは、今の造木なり】
君之行 氣長久成奴 山多豆乃 迎乎將往 待尓者不徃【此云2山多豆1者、是今造木者也】
【語釈】 ○君が行け長くなりぬ 第一首と同じ。○やまたづの これについては、古事記撰述者が注を加えている。やまたづはその当時すでに不明になりかかっていたのである。注の「造木」がまた解しやすくなくなっていたのを、加納諸平が「みやつこ木」と訓み、和名抄に「接骨木和名美夜都古岐」とあるのだとしたのである。接骨木は「にわとこ」である。これは枝も葉も対生して相向かっているところから、意味で「迎へ」につづけ、その枕詞としたのである。○迎へをゆかむ 「を」は、連用形につく詠歎の助詞で、意味を強めるためのもの。どうでも迎えに行こうという意。○待つには待たじ 待つということは、待ちきれまい。
【釈】 君が旅行きは時が久しくなった。どうでも迎えに行こう。待つというのは待ちきれない。
【評】 第一首と異なるのは、三句以下である。三句「やまたづの」は、一首の中心である四句「迎へをゆかむ」を強めるものであって、「迎へを」の「を」と相俟って、きわめて妥当なものである。五句「待つには待たじ」は、四句「迎へをゆかむ」の決意の突発的なのを、合理化するために、釈明する心をもって添えた趣をもつものである。すなわち三句以下は、感情の屈折と抑揚とを含んだ複雑なものである。それにもかかわらず、内容にも表現にもいささかの強いるところのないものである。これに較べると第一首の「山たづね」は、内容としては不備であり、表現としては突飛にすぎるものである。四、五句は、三句に伴(162)っての平明なものであるが、こちらの歌の微妙な味わいはもち得ないものである。双方の関係は、「評又」でいった。
右一首の歌は、古事記と類聚歌林と説く所同じからず。歌主亦異なり。因りて曰本紀を検《かんが》ふるに曰く、難波高津宮御宇大鷦鷯《おほさざきの》天皇の二十二年春正月、天皇、皇后に語りて八田《やた》皇女を納《い》れて妃となさむとす。時に皇后|聴《ゆる》さず。ここに天皇歌もて皇后に乞ひたまふ云々。三十年秋九月乙卯朔乙丑の日、皇后紀伊国に遊行《いでま》して熊野岬に到り、その他の御鋼葉《みつながしは》を取りて還りたまふ。ここに天皇、皇后の在《いま》さざるを伺ひて、八田皇女に娶《あ》ひて宮中に納《い》れたまふ。時に皇后難波の済《わたり》に到りて、天皇八田皇女を召《め》しつと聞きて、大《いた》く恨みたまふ云々。亦曰はく、遠飛鳥《とほつあすか》宮御宇雄朝嬬稚子宿禰《をあさづまわくごのすくね》天皇二十三年の春正月甲午の朔にして庚子の日、木梨軽《きなしかるの》皇子を、太子と為す。容姿佳麗にして見る者|自《おのづか》ら感《め》づ。同母妹軽太娘皇女また艶妙なり云々。遂に竊《ひそか》に通じぬ。乃《すなは》ち悒懐少しく息《や》む。二十四年夏六月、御羮《おもの》の汁凝りて氷《ひ》と作《な》れり。天皇|異《あやし》みてそのゆゑを卜はす。卜ふ者曰はく、内の乱あり。蓋し親々相|姦《たは》くるかと云々。仍りて太娘皇女を伊与に移すといへり。今案ずるに、二代二時この歌を見ざるなり。
右一首歌、古事記与2類聚歌林1所v説不v同。歌主亦異焉。因検2日本紀1曰、難波高津宮御宇鷦鷯天皇廿二年春正月、天皇、語2皇后1納2八田皇女1将v爲v妃。時皇后不v聽。爰天皇歌以乞2於皇后云々。三十年秋九月乙卯朔乙丑、皇后遊2行紀伊國1、到2熊野岬1、取2其處之御綱葉1而還。於v是天皇、伺2皇后不1v在、而娶2八田皇女1納2於宮中1。時皇后到2難波濟1、聞3天皇合2八田皇女1、大恨v之云々。亦曰、違飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇廿三年春正月甲午朔庚子、木梨輕皇子爲2太子1。容姿佳麗、見者自感。同母妹輕太娘皇女亦艶妙也云々。遂竊通。乃悒懐少息。廿四年夏六月、御羮汁凝以作v氷。天皇異v之卜2其所由1。卜者曰、有2内乱1。盖親々相※[(女/女)+干]乎云々、仍移2太娘皇女於伊与1者、今案二代二時不v見2此歌1也。
(163)【釈】 この注は、撰者が、第一首につき、この歌は、この書の原本としたものも、類聚歌林も、歌も歌主も同様で異同がないと注したのにつき、後人がさらに検討の範囲を広め、それはそれであっても、古事記には類歌があるといってそれを引くにつき、最初にいったがように古事記のその在り場所をいった上に、さらに日本書紀をも検討し、この歌の類歌のあるべき部分を引いたのである。すなわち第一には、磐姫皇后の御歌のあるべき部分を引き、第二には、同じく日本書紀、允恭紀の、古事記と関係のあるべき部分を引いたのである。そして結論として、どちらにもこの歌に関係するものはないと断定したものである。
近江大津宮御宇《あふみのおほつのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代 天命開別《あめみことひらかすわけ》天皇、謚を天智天皇と曰す
【標目】 巻一に出た。
天皇、鏡王女《かがみのおほきみ》に賜へる御歌一首
【題意】 天皇は天智天皇。鏡王女は、伝が明瞭を欠いていたが、『注釈』は中島光風氏の研究により、舒明天皇の皇女または皇孫だろうとしている。それは『諸陵式』に、鏡王女の墓が、舒明天皇陵の域内にあると記されていることからの推定である。それだと、年齢的に見て皇孫ではなく皇女だとしている。皇女と王女とは通じて用いられていたことも考証している。すなわち王女は、天智、天武両帝と御姉妹である。王女が藤原鎌足の正妻であったことは興福寺縁起で明らかであり、また、日本書紀、天武紀十二年七月の条に「己丑(四日)、天皇幸2鏡姫王之家1訊v病」とあり、これは王女薨去の前日のことである。この待遇は格別のもので、御血縁であるからのことだろうとしている。しかしなお問題が残されている。
91 妹《いも》が家《いへ》も 継《つ》ぎて見《み》ましを 大和《やまと》なる 大島《おほしま》の嶺《ね》に 家《いへ》もあらましを【一に云ふ、妹があたり継《つ》ぎても見《み》むに。一に云ふ、家《いへ居《を》らましを】
妹之家毛 継而見麻思乎 山跡有 大嶋嶺尓 家母有猿尾【一云、妹之當継而毛見武尓・一云、家居麻之乎】
【語釈】 ○妹が家も 「妹が家」は、王女の家で、下の大島の嶺の裾のあたりにあったのである。「も」は、をもの意のもので、大島の嶺と並べていったもの。○継ぎて見ましを 「継ぎて」は、継続してで、すなわち常にの意。「見ましを」の「まし」は、仮想の意をあらわす助動詞。「を」は、ものを。見ようものを。○大和なる大島の嶺に 「大和なる」は、大和にあるで、下の大島の嶺の所在をいったもの。「大島の嶺」は、大和国(164)内の山という以上にはわからない。王女の領地のあった所の山で、その裾に王女の家のあった関係から御製に捉えられているので、『注釈』は生駒郡生駒山の南につづく信貴山の東麓という。また大和郡山市額田部町の山、または大阪府中河内郡との境にある高安山など諸説がある。「嶺」は、峰《みね》で、峰《みね》は嶺《ね》に「み」の接頭語の添ったものである。「嶺に」は峰にで、山の高所で、遠望のできる所としていわれたもの。大和にある大島の山の頂にの意。このように、一つの土地をいうに、その在る所の国名を冠していうのには、二つの場合がある。一つは、その土地を明らかにいおうとする場合で、他国にあっていうには、その必要のあることである。今一つは、その土地を懇ろにいおうとする場合で、意味の上からはその必要がないのであるが、その土地に情を寄せて、強くいおうとする場合に用いるのである。今は後の場合のものと解される。○家もあらましを 「家」は、初句の「妹が家」。「も」は並べる意味のもので、嶺《ね》とともに家もまたの意。○一に云ふ、妹があたり継ぎても見むに 一書には、初二句がこうなっているというのである。意味は、妹が家のあたりを常に見ようと思うに。○一に云ふ、家居らましを一書には、結句がこうなっているというのである。「家居《いへゐ》る」は、家居している意である。
【釈】 妹が家もまた、大島の嶺《ね》とともに見ようものを。大和にある大島の嶺の上に、妹が家もまたあったならば、見えようものを。
【評】 歌意は、天皇が王女の家のあたりに立っている大島の嶺《ね》を望ませられ、王女に逢い難き嘆きから、せめてその家なりとも見たいと思わせられ、家が嶺の上にあったならば、嶺とともに見えようものをと、繰り返して仰せになっているもので、思慕の情を詠ませられたものである。天皇と王女との関係を思わせるものは他にはなく、ただこの贈答の歌のみである。この贈答の歌のあった時代は、興福寺縁起によると、天皇の即位二年には、王女はすでに鎌足の嫡室となっていられるのであるから、常識よりいえば、王女も鎌足とともに大津の京にいられたことと思われる。たとい大和にとどまっていられたとしても、すでにそうした関係となっていられる王女に、天皇からこうした御製を賜わるということは想像し難いことである。それでこの御製のあったのは、近江遷都以前、天皇も王女も大和にいられ、また王女と鎌足との関係も成立しなかった頃のものと思われる。したがって御製は、天皇が大島の嶺をさやかに御覧になってのものと思われる。王女の和歌《こたえ》によると、その季節は秋であるから、大島の嶺《ね》の上に、王女の家を想像されるということも、不自然ではなく思われる。一首二段より成り、第一段では、「妹が家も継ぎて見ましを」と、思慕の情をこめて、おおらかに豊かに仰せられ、第二段では、綴り返して、具象的に仰せになっていられるのであるが、「大和なる大島の嶺に」と、王女を思う上で、ただ一つの御覧になりうるものに、懇ろに心を寄せた言い方をなされているので、思慕の情の言外に溢れきたるものとなり、またこれによって、「妹が家も」の「も」にこもらせた、豊かにして細かい御心も生きてくるのである。実際に即した、おおらかにして豊かに細かい御情愛をもった御製と思われる。この一首を、二段として採り返しにされる形は、口承文学の典型的なもので、当時としても古い形のものである。一書の伝えは、御製を平明にしようとして、合理的に、平面的にならしめたもので、後よりのものと思われる。
(165) 鏡王女《かがみのおほきみ》、御歌《みうた》に和《こた》へ奉《まつ》れる一首 【鏡王女は又額田姫王といふなり】
【題意】 注は、鏡女王と額田姫王とを同一人としてのもので、これは誤りである。これのない本もある。後人の加えたものである。
92 秋山《あきやま》の 樹《こ》の下《した》隠《がく》り 逝《ゆ》く水《みづ》の 吾《われ》こそ益《ま》さめ 御念《みおもひ》よりは
秋山之 樹下隱 逝水乃 吾許曾益目 御念従者
【語釈】 ○秋山の樹の下隠り 「秋山」は、当時の風として眼前を捉えたものと思われる。それだと御製の大島の嶺である。「隠る」は、古くは四段活用であった。秋山の樹立の下を、見えない状態でで、下へ続く。○逝く水の 流れゆく水で、山に湧く水の流れである。初句よりこれまでは、秋山の流れは、水涸れの夏山に較べると、水嵩が増す意で、四句の「益さめ」に続く序詞である。○吾こそ益さめ 「こそ」は、取り立てて強くいう助詞。「益さめ」の「め」は、「こそ」の結び。益すは、量の多いことをあらわす語。全体では、吾の方こそは、君を思いまつる思いが多いことであろうで、水嵩の増すを、思いの多い意に転じたものである。○御念よりは 吾を思いたもう御思いよりは。
【釈】 秋山の樹の下を見えない状態で流れてゆく水の流れの、夏山に較べては水嵩が増しているので思われるが、吾の方こそは君を思いまつる思いが多いことであろう。君の吾を思おしたもう御思いよりは。
【評】 男女間の相聞の歌は、贈歌に対して答歌は言い返しをするのが型のようになっている。言い返しは、ほとんど全部、善意よりのもので、結果から見ると、語の遊戯のごとくに見える(166)ものである。王女のこの答歌にはその趣が全くなく、天皇の情愛深い御製にすがって、思慕の情を訴えているものである。王女も高貴の御身分でいらせられるので、身分の上の憚りとは思えない。天皇と王女との関係の実情が、王女にこうした態度をとらせたものと思われる。歌はもとより当時者の間だけの実用性のもので、他よりはその機微はうかがえないものである。初句より三句までの序詞は、譬喩と見れば見られうるほどそれに近いもので、比較的序詞に近い程度のものである。一首の調子の控えめに、素樸に感じられるのは、一つはそのためである。
内大臣藤原卿、鏡王女を娉《つまど》ひし時、鏡王女の内大臣に贈れる歌一首
【題意】 「内大臣藤原卿」は、藤原鎌足で、卿は高位の人に対する尊称である。尊称として大夫というがあり、巻一に出ているが、「卿」は大夫以上の人に対してのものである。「娉ふ」は、結婚の申込みをすることである。「鏡王女」は前にもいったように、藤原鎌足の嫡室となられた人で、それは少なくとも天智天皇の即位二年よりも以前のことであるから、この歌の作られた時は、それよりもさらに以前でなくてはならない。近江への遷都は天皇の五年であるから、大和国においてのことである。
93 玉《たま》くしげ 覆《おほ》ふを安《やす》み あけて行《ゆ》かば 君《きみ》が名《な》はあれど 吾《わ》が名《な》し惜《を》しも
玉※[しんにょう+更] 覆乎安美 開而行者 君名者雖有 吾名之惜裳
【語釈】 ○玉くしげ 「玉」は、美称、「くしげ」は「匣」、櫛笥《くしげ》にあてた字である。笥《け》は古くは容器の総称で、櫛笥は櫛を容れる箱すなわち櫛箱の意である。櫛は厳粧具《けしようぐ》の代表としての名で、この箱は鏡をも容れた物とみえる。玉匣を枕詞として、「身《み》」「ふた」「開《あ》け」「開《ひら》く」とも続けているところから、その箱の状態が想像される。ここは、意味で下へ続けている。○覆ふを安み 蓋を覆うのがたやすくしての意。これは蓋の開閉がたやすいところから、したがって注意をせず、開けても置く意で、下の「あけ」へ続けたもので、「玉くしげ」以下二句は「あけ」の序詞である。これは、「玉くしげあけ」という続けがあるところから、その「あけ」に、「覆ふを安み」という説明を加えて、今のように二句のものとし、序詞という形式としたものである。「覆ふを安み」の解には諸説があるが、『講義』の解が最も妥当に思われるので、それに従った。○あけて行かば 「あけ」は、明けで、夜が明けての意。「あけ」を同音異義で転じたのである。夜が明けてここから帰って行ったならばの意。下の続きで見ると、鎌足が王女の許へ求婚の意で訪ねて来、王女は拒んだにもかかわらず帰ろうとせず、夜明けまでも居そうなので、帰りを促す心でいわれたものである。○君が名はあれど 「名」は、名誉。「あれど」は、傷つかないけれどもの意。男女関係では、男はいかなる噂が立っても名誉にはさわらないものとしての言。○吾が名し惜しも 「し」は、強め。「惜し」は、名誉が傷つくので、それが惜しいの意。「も」は、詠歎。女の身は反対に、名誉がすたるので、それがいかにも惜しいの意。
(167)【釈】 櫛笥の蓋の、覆うのもたやすいところから開けてもおく、その開けという夜が明けてに帰って行ったならば、必ず人目につこうが、君は男のこととて名誉はそのままであるが、われは女とて、名誉がなくなってしまう、それがいかにも惜しいことだ。
【評】 求婚に対しての拒絶であるが、実際に即しつつ、いわゆる情理を尽くして、訴えの心をもってされているところに、上代の特色が現われている。事としてはすでに拒絶の意を示されていたものと思われるが、歌としていわれているところは、三句以下、「あけて行かば君が名はあれど吾が名し惜しも」という、さしあたっての迷惑で、ただ帰りを促していられるのみのものである。「君が名」と「吾が名」とを対照的に扱い、「吾が名」に力点を置いているのは、訴えの心をもってのものである。男女の立場の相違は、常識ともいうべきものであるが、保身の上から強調していわれているところに、知性が見えて、情理を兼ねている趣がある。「あけ」をいうのに、身辺の「玉くしげ」を捉え、さらに心を強めるがために「覆ふを安み」を添えていられるところにも、同じく情理を兼ねた趣が見られる。落ちついた、豊かな心をもった、思慮ある人柄の思われる歌である。序詞を用いているのは、求婚の際の歌には、口承文学の面影をとどめたものが多いので、その関係からと思われる。
内大臣藤原脚、鏡王女に報《こた》へ贈れる歌一首
94 玉《たま》くしげ みもろの山《やま》の さな葛《かづら》 さ寐《ね》ずはつひに ありかつましじ【或本の歌に曰く、王匣|三室戸山《みむろとやま》の】
玉※[しんにょう+更] 將見圓山乃 狹名葛 佐不寐者遂尓 有勝麻之自【或本歌曰、王匣三室戸山乃】
【語釈】 ○玉くしげ 蓋に対する身を「みもろ」の「み」に転じて枕詞としたもの。○みもろの山の 「みもろ」とも「みむろ」ともいう。御室、すなわち神を斎《いつ》き奉《まつ》る室《むろ》の意である。御室は山の上にあるべきものと信じられていたところから、御室の山と呼ばれる山は諸所にある。その中でも、大三輪の神が最も名高かつた関係から、三輪山のまたの名のごとくになってきた。すなわち普通名詞が固有名詞のごとくなってきたのである。今も三輪山を意味したものと思われる。これは重い響をもつていた山と思われる。○さな葛 さね葛ともいっている。さな葛の方が古語である。普通|美男葛《びなんかずら》といっている木質蔓性の植物である。その茎から粘液がとれるが、古くはそれを頭髪に塗る料としていた。初句からこれまでは、この「さな」を四句「さ寐」に、畳音で関係させるための序詞である。○さ寐ずはつひに 「さ寐」の「さ」は、接頭語。「寐」は、男女共寐をする意で用いている。「つひに」は、結局の意で、次の語を修飾している。○ありかつましじ 「あり」は、存在する、すなわち生きている意。「かつ」は、下二段活用の動詞で、得る、堪える意の語。「ましじ」は、後には「まじ」となる助動詞で、奈良朝時代を通じて用いられた。橋本進吉氏によって明らかにされた語である。否定の推量をあらわしている。生きてありうることはできなかろうの意。○一書には、第二句が「三室戸山の」とある。これは山城国宇治(京都府宇治市)にある山という説がある。伝唱されてその土地で謡われていたのを記録したものと取れる。
(168)【釈】 三室の山に生えているさな葛よ、そのさなのさ寐ることをしなかったならば、われは結局生きていることはできなかろう。
【評】 王女の歌は、いったがように、求婚ということは拒み、それに関連しての迷惑をも避けられようとしたものであるが、この歌は男の立場に立ち、さらに求婚の心をあらわし、のみならず積極的にさえいったものである。中心は四、五句の「さ寐ずはつひにありかつましじ」であるが、この「さ寐」という語は、上代にあっては結婚という語と同意語であって、後世とは語感を異にしていたものであろうと思われる。この二句は命をかけて求婚している意を伝え得ていたものであろう。このことは、初句より三句までの「さ寐」の序詞として用いている「玉くしげみもろの山のさな葛」にも現われている。序詞を用いたのは王女の歌と同じく、この種の歌には口承文学的のこうしたものがあるべきだとしたためと思われ、また「玉くしげ」を捉えたのも王女の序詞に従ったのであるが、「さな葛」を捉えたのは、それが塗料の原料で、「玉くしげ」に属した物としてである。しかしその「さな葛」の産地として「みもろの山」を捉えたのは、明らかに鎌足の創意と思われる。本来さな葛は山野に自生する物で、みもろの山と特別の関係のある物ではない。もしありとすれば、そこにもあるというほどの関係である。それをみもろの山に限っているもののごとき言い方をしているのは、古より最も畏い神と信じてきた大三輪の神を、この歌をもってあらわす心に関係を付け、取り入れてこようとしたためと思われる。もとより序詞の中でのことではあるが、中心の「ありかつましじ」に響ききたるところのあるものとして、生命をかけて思っているという気分をあらわすためにしたことと思われる。直接に王女に対して訴える語としての「さ寐ずは」というごとき語が、軽からぬものとなって感じられるのは、そのためと思われる。一首、熱意の強い男性的のもので、王女の歌と相俟って全幅を傾けてものをいいあっていることを感じさせる。
内大臣藤原卿、采女|安見児《うねめやすみこ》に娶《あ》ひし時作れる歌一首
【題意】 「采女」のことは、巻一(五一)に出た。采女は天皇の御饌に奉仕する職で、神聖なる職とした。これを犯す者は、重き罪科に処せられた。鎌足がこれを得たのは、私としてならば前《さき》の采女であり、公にならば勅許があって前の采女としてのことであろうと『講義』はいっている。安見児はその采女の名。伝は知れない。
95 吾《われ》はもや 安見児《やすみこ》得《え》たり 皆人《みなひと》の 得《え》かてにすとふ 安見児《やすみこ》得《え》たり
吾者毛也 安見見得有 皆人乃 得難尓爲云 安見兒衣多利
【語釈】 ○吾はもや 「も」も「や」も詠歎の助詞で、一語をなしているもの。○安見児得たり 「安見児」は、采女の名。女子の名に「児」の付(169)いている例は集中に多い。「得」は、娶る意に用いられたもの。○皆人の得かてにすとふ 「皆人」は、すべての人。「かて」は、上の歌の「かつ」と同じく、できる意。「に」は、否定の助動詞の連用語。「すとふ」は、するというので下へ続く。
【釈】 吾こそは安見児を娶った。すべての人が娶り得ないものとしているという、その安見児を娶った。
【評】 歓喜した心をそのままに、即興として詠んだものである。安見児という采女の名を繰り返していっているのは、その采女は評判の者であったことを思わせる。それをわが物としたのが喜びの一半である。また、采女は娶り難いものとなっているのに、それを特に娶り得たという優越感が、喜びの他の一半で、「得」という語を三たびまで繰り返しているのはそのためである。二句で言いきり、三句以下で繰り返して、結句は二句と同様にするのは、口承文学としても典型的なものである。口頭の語を歌の形をもっていったもので、歌が日常生活の中のものであった時代をあらわしているものである。一つの実感を尽くし得ているので、おのずから魅力のあるものとなっている。
久米禅師《くめのぜんじ》、石川郎女《いしかはのいらつめ》を娉《つまど》ひし時の歌五首
【題意】 「久米禅師」は、久米は氏。禅師は名であるか、あるいは法師としての称であるかが不明である。当時、これに類した名が行なわれていたからである。伝はわからない。「石川郎女」も、石川は氏。郎女は、身分ある女性の敬称で、伝はこれまたわからないが、この当時京にあって、貴族階級の何人かの男に関係した、評判の高い女であったことは、以下の歌で知られる。
96 水薦《みこも》苅《か》る 信濃《しなの》の真弓《まゆみ》 吾《わ》が引《ひ》かば うま人さびて いなと言《い》はむかも 禅師
水薦苅 信濃乃眞弓 吾引者 宇眞人佐備而 不欲常將言可聞 禅師
【語釈】 ○水薦苅る 信濃の枕詞。「水」は美称。「薦」は水辺に生える草。『童蒙抄』以来ミスズカルと読まれてきて、『講義』はミススカルと読み詳しく考証しているが、今は諸古写本の訓に従う。○信濃の真弓 「真」は、美称。信濃国は貢物として梓弓を献じたことが、続日本紀、延喜式に出ている。溯つた時代にもその事があったとみえる。この二句は、「引かば」と続き、その序詞となっているもの。○吾が引かば 「引かば」は、心を引いたならばで、われに靡くか否かを試みたならばの意。弓の引くを同音異義で転じている。○うま人さびて 「うま人」は、貴人。「さびて」は、そのようにふるまう意で、翁さび、乙女《おとめ》さびなどの類。「うま人さび」は一語で、動詞。貴人ぶるというにあたる。○いなと言はむかも 「いな」は、否で、否といって、拒む意。「かも」の「か」は、疑問、「も」は詠歎。
(170)【釈】 水薦を苅る信濃國より出る弓を引くという、その心を引くことをしたならば、あなたは貴人にふさわしいふるまいをして、私をいやしめて否ということであろうか。
【評】 娉《つまどい》の訴えである。歌で見ると、禅師と郎女とは、社会的に見てある程度の身分の隔りがあったと思われるが、この歌はそれを極度に気にしたものである。こうした際には、男性は身分の隔りなどいうことは超えて、全幅的に訴え、少なくとも全幅的であるかのように装うのが常識であったのに、禅師は全くそれとは異に、強い自意識をもち、したがって臆病さをもち、しかも郎女を批評的に見ている心をあからさまにあらわして、「うま人さびていなと言はむかも」といっている。これは恋愛に対する態度としては、明らかに個人的になり、遊戯的に傾いてきていることで、時代的に見れば、従来にはない新味のあるものである。あくまで実際に即している点、序詞を用いている点は伝統的である。「水薦苅る信濃の真弓」という序詞は、この一連の最後の(一〇〇)の歌で見ると、折から諸国からの貢物の京へ集まって來る時であったことがわかり、眼前を捉えたものであることが知られる。
97 三薦《みこも》苅《か》る 信濃《しなの》の真弓《まゆみ》 引《ひ》かずして 弦《を》はくる行事《わざ》を 知《し》るといはなくに 郎女
三薦苅 信濃乃眞弓 不引爲而 弦作留行事乎 知跡言莫君二 郎女
【語釈】 ○三薦苅る信濃の真弓 贈歌の序詞をそのままに取って、同じく「引く」の序詞としたもの。○引かずして 贈歌の「吾が引かば」に対させたもの。意味も同じく、靡くか否かを試みずして。贈歌は「引かば」と、引く一歩前のことをいっているのを、非難の心をもって強めて、てんで引いてもみないこととしたもの。○弦はくる行事を 「弦」は、諸本「強」となっている。『代匠記』が誤写として今のように改め、定説となっているもの。「はくる」は、下二段活用の動詞で、「佩く」をあてる語である。「弦はくる」は弓に弦をかけるの意である。(九九)「つら弦《を》取りはけ」、卷十六(三八八六)「牛にこそ鼻繩《はななわ》はくれ」とある。「行事《わざ》」は、事の意である。一句、弓に弦を取りつけることの意。弓は弦をかけてはおかず、用いるに先立ってかける物である。これを弓からいうと、弦をかけられることによって、はじめて弓たるの資格を得るものである。これは郎女が自身の譬喩としていっているもので、我を我たらしめること、進めていえば御身の物とならしめることの意である。この譬喩は、「三薦苅る信濃の真弓」との繋がりにおいて設けたものである。○知るといはなくに 「なく」は、打消の「ぬ」の未然形の「な」に「く」を添えて名詞形としたもの。「に」は、詠歎。知っているとはいえないことであるものをの意。
【釈】 三薦苅る信濃の真弓を引くという、その引き試みることを御身はてんでしないので、それでは、真弓の縁でいえば、真弓に弦をかけて、真弓たらしめること、すなわち我を我たらしめることを知っている人とはいえないことであるものを。
(171)【評】 一首の心は、こうした場合の女に共通な態度として、男の心情にある程度の不安を感じ、危惧をもち、それを非難しつつも、同時に一方ではそれを嘆きとして、結局承諾を与えようとする心のものである。心が複雜しているので、譬喩をもってあらわすことの方を便利とし、その法を取っているので、したがって解しやすからぬものとなっている。しかしそれとして見ると、比較的解しやすいものである。初句より三句までの「三鷹苅る信濃の真弓引かずして」は、贈歌にそのままによったものと思われる。「引かずして」は、いったがように贈歌の「吾が引かば」を非難してのものである。求婚をしようとならば、熱意をもった打ち込んだ態度をもって引くべきであるとするのは、女の立場にあっては当然の要求で、非難せずにはいられないことと思われる。その非難があるならば、本來としては拒むべきであるのに、郎女は拒んではいず、婉曲に承諾の意をあらわしてもいる。そこに四、五句の隱喩の婉曲さがある。「弦はくる行事《わざ》」は、いったがように初二句の真弓のつながりで新たに設けた譬喩と思われる。これは含蓄の多いものである。求婚される以前の自身を弦をはけざる弓とし、されることを弦をはけられることとして言っているのであるが、それだと求婚されることを待ち望んでいる心のものである。「知るといはなくに」は、それを徹底的にしないことを、嘆きをもっていっているものである。この四、五句は、初句より三句までの「引かずして」に、譲歩をし、妥協の心をもって説明を付けたもので、要するところは、非難をしつつも、嘆きをもって承諾を与えた心である。四句「弦はくる行事を」は、前との関係では、自然な、そのものとしては巧妙な譬喩で、郎女の歌才を思わせるものである。
98 梓弓《あづさゆみ》 引《ひ》かばまにまに 依《よ》らめども 後《のち》の心《こころ》を 知《し》りかてぬかも 郎女
梓弓 引者隨意 依目友 後心乎 知勝奴鴨 郎女
【語釈】 ○梓弓 梓をもって造った弓。古く信濃國から貢物としたのは梓弓であった。「信濃の真弓」を言いかえたもの。○引かばまにまに 弓を引いたならば、引くがまにまにの意。「まにまに」につき『講義』は、後世この語は、上に「の」または「が」の助詞を伴い、また用言の連体形についた、付属的のもののみのようであるが、古くはここのように全く独立の副詞として用いられており、これはその著しい例であると注意している。初二句は、弓を引くと、その本末《もとすえ》が寄り合う意で、下の「依る」の序詞としたもの。○依らめども 「依る」は、靡く意で、同音異義で転じさせてある。靡こうけれども。『講義』は、「め」の已然形に、「ども」を續けるのは古格だと注意している。○後の心を 将来の御身の情愛を。○知りかてぬかも 「かて」は、(九四)の「ありかつましじ」の「かつ」と同じく、堪えきる意。「ぬ」は、否定。「かも」は、詠歎。知りきれないことである。
【釈】 梓弓の、引いたならば、引くがまにまに本末《もとすえ》の寄る、それのように、我も君が心のままに寄り添い靡こうけれども、後になっての君の情愛の渝《かわ》らずにいるということは、知りきれないことであるよ。
(172)【評】 前の歌と一緒に答えたものであることは、これに続く禅師の歌が、この二首に対して詠んだものであることによって知られる。前の歌は、文芸的の巧みを念としたもので、したがって解しやすくないところももったものであるが、これは平明な、きわめてわかりやすいものである。同じ心を、一歩進めて繰り返しているのである。しかしこの歌でも技巧は捨てず、「信濃の真弓」を「梓弓」と合理的に言いかえ、「引かばまにまに」を添えて序詞とし、しかもその序詞にも感情をもたせるという、細心の注意を払っているのである。一首の心は、こうした際の女性に共通な、型のようになっているものである。
99 梓弓《あづさゆみ》 つら絃《を》取《と》りはけ 引《ひ》く人《ひと》は 後《のち》の心《こころ》を 知《し》る人ぞ引《ひ》く 禅師
梓弓 都良絃取波氣 引人者 後心乎 知人曾引 禅師
【語釈】 ○梓弓 郎女の前の歌の語を取ったもの。○つら絃取りはけ 「つら絃」は、「つら」も絃で、「轡《くつわ》づら」などの例もある。「絃」は、弦で、同意の語を重ねたもの。弦《ゆずる》をこのように呼んでいたと取れる。「取りはけ」は、取りかけて。弓に弦をかけてで、弓を弓たらしめての意。これは郎女の前の歌に対させたもので、郎女のいかなる人であるかを十分に知ってという意を下に置いたもの。○引く人は 「人」は、自身を客観的に言いかえたもの。弓を引く者はで、「引く」に、娉《つまどい》の心をもたせてある。○後の心を知る人ぞ引く 「後の心」は、郎女の前の歌に対してのもの。後も情愛の渝らないという意。「知る人ぞ引く」は、知っているわが引くで、引くは、三句の繰り返しである。
【釈】 梓弓に弦《ゆずる》を取りかけて、弓を弓たらしめて引く人は、後にも渝らない情愛をもつということを知っている人が引くことである。
【評】 郎女の二首の歌に対して、一首で答えた形のものである。梓弓を郎女に譬え、引くに二様の意をもたせてあるのは前よりの引続きである。一首は誓言の心をもったものである。我を「人」と言いかえ、「人は」「人ぞ」と力をこめていい、また、「引く」を繰り返しているのも、その心からである。当事者の間のもので、双方の実際を超えかねる趣をもっている。
100 東人《あづまど》の 荷向《のさき》の箱の 荷《に》の緒《を》にも 妹《いも》は情《こころ》に 乗《の》りにけるかも 禅師
東人之 荷向〓乃 荷之緒尓毛 妹情尓 乘尓家留香聞 禅師
【語釈】 ○東人の 訓は『考』のもの。「東人」は、東国人を指す称であるが、広く地方人の意でも用いられた。ここは後の意のもの。○荷向の箱の 「荷向」は、毎年地方より朝廷に奉る調物の初《はつ》ほをいう。「箱」はその調物の絹などを納めたもので、韓櫃《からびつ》を用いたようである。○荷の緒に(173)も 「荷の緒」は、調物の箱を、馬に負わせるために、鞍に結びつける緒の意。祈年祭の祝詞に、「自v陸往道荷緒縛堅 ※[氏/一]」とあって、この緒は、事を鄭重にするために、堅く結えたことがわかる。「に」は、形容の意を示すもので、「にも」は、ごとくにもの意。○妹は情に乗りにけるかも 「妹」は、主格。「情に」は、わが心の上に。「情に乗る」は、心を占領する意で、「乗りにける」は、占領してしまっているの意。これは当時慣用されていた成語である。「かも」は、詠歎。
【釈】 諸の地方の人の、調物の初《はつ》ほを納めた箱の、それを馬の背に負わせて結いつけてある緒のごとくにも、しっかりと妹はわが心にかかって占領してしまっていることであるよ。
【評】 これは禅師が郎女と婚を結び、その家に通うようになった頃の歌である。四、五句は成句に近いもので、創意は、初句より三句までの譬喩にある。これは奇抜の感のあるものであるが、上にもいったように、その頃は諸国から毎年の例のとおり、京に調物を奉る頃だったので、眼の前に見る荷の緒の状態を、心から離れない妹の状態に連想してのものと取れる。それには、祈年祭の祝詞の語も関係していよう。実際に即しての歌である。
【評 又】 以上、禅師と郎女との贈答四首で、事の起こりからその推移を示し、最後の禅師の歌で、その事の結末を示して、一つの纏まった事件をあらわしている。これは明らかに歌物語である。天智天皇の御代に、歌をもって物語を展開することが喜ばれ、また行なわれていたことが知られる。この物語の伝わったのには、石川郎女なる女性がこの時代に注目され、注意される存在であって、その人に関する物語だというので、特に保存されていたためではないかと思われる。この点は、この後に現われる郎女の歌と行動とによって思わせられることである。
大伴宿禰《おほとものすくね》、巨勢郎女《こせのいらつめ》を娉《つまど》ひし時の歌一首 【大伴宿禰は諱を安麿と曰ふ。難波朝の右大臣大紫大伴長徳卿の第六子、平城朝に大納言兼大将軍に任じて薨りき】
【題意】 「大伴宿禰」は、金沢本、元暦本などには注があって、「大伴宿禰諱曰2安麻呂1也、難波朝右大臣大紫大伴長徳卿之第六子、平城朝任2大納言兼大将軍1薨也」とある。薨じた時は、続日本紀に「和銅七年五月朔日薨」とある。この朝には安麿は公卿にはならなかったので、姓の宿禰だけをいったと見える。大伴氏の姓はもとは連であったのを、天武天皇の十年に宿禰となったので、これは後よりの称である。「巨勢郎女」は、同じく金沢本、元暦本などの注に、「即近江朝大納言巨勢人卿之女也」とある。
101 玉葛《たまかづら》 実《み》ならぬ樹《き》には ちはやぶる 神《かみ》ぞつくとふ ならぬ樹《き》ごとに
玉葛 實不成樹尓波 千磐破 神曾著常云 不成樹別尓
(174)【語釈】 ○玉葛実ならぬ樹には 「玉葛」は明らかでない。次の歌にも出ていて、花だけ咲いて実のならない物とわかる。その点から「玉」は美称で、「葛《かづら》は葛《くず》ではないかといはれている。それだとその繊維を布の原料とするなど、生活に親しい物である。葛《くす》の花は印象的なもので、実はなっても目だたないので、実ならぬといいうるものである。「玉葛」は「実ならぬ」の譬喩とされているもので、下に「のごとく」の意の「の」が省かれて、下へ続くものと取れる。「実《み》ならぬ樹」は、実のならない樹の意であるが、この語は、恋に実意のない、すなわち口頭のみのものの意で慣用されている語である。巻七(一三六五)「吾妹子のやどの秋萩花よりは実になりてこそ恋ひまさりけれ」など例が多い。ここもその意をもたせてある。「樹」は、樹木で、広く指していったもの。○ちはやぶる 最速《いちはや》ぶるの約で、勢の鋭い意。怖るべきの意で、下の「神」の性質をいったもので、(一九九)「ちはやぶる人を和《やは》せと」とある類である。○神ぞつくとふ 神が依り憑《つ》くと世間でいっているの意で、これは当時の信仰である。○ならぬ樹ごとに 実のならない樹という樹にはで、二句を繰り返して強めたもの。
【釈】 玉葛のごとく実のならない樹には、怖るべき神が依り憑くと世間でいっている。実のならない樹という樹には。
【評】 歌は「花」と「実」に二様の意味をもたせ、表面は木草《きぐさ》のこととしているが、心は恋の上の譬喩としたもので、「花」は美しい語《ことば》、「実」は実際に相逢うこととしているのである。宿禰のこれを贈ったのは、郎女が宿禰の求婚に対して、語《ことば》としては優しくしかるべきことをいっているが、実際に相逢おうとはいわないので、それをもどかしく感じ、男性にありがちな威嚇を試みたものである。すなわち上手事ばかりをいっていて、実際に相逢おうとしない人には、邪神が憑くということである。そういう人々にはとの心である。樹と人の双方にわたって同じような信仰があったので、それを利用したものであるが、歌としてできあがった上から見ると、樹の方だけをいって人の方を感じさせているもので、全部が隠喩になっており、したがって文芸的なものとなっている。歌因は、郎女を威嚇してその目的を遂げようとする実用性のものに、これだけの文芸性をもたせたもので、高次のものとすべきである。歌因から見ると、玉葛を葛とすると、その花が過ぎて、樹には実のなる頃であったろうと思われる。
巨勢郎女、報《こた》へ贈れる歌一首 即ち近江朝の大納言巨勢人卿の女なり
102 玉葛《たまかづら》 花《はな》のみ咲きて ならざるは 誰《た》が恋《こひ》ならめ 吾《わ》は恋ひ思《も》ふを
玉葛 花耳開而 不成有者 誰戀尓有目 吾孤悲念乎
【語釈】 ○玉葛 贈歌では「ならぬ樹」の譬喩にしているのを、今は玉葛その物に限っている。言い返しの意で変えたのである。○花のみ咲きてならざるは 花が咲くだけで実のならないのはの意。初句よりこれまでの三句は、贈歌の「玉葛実ならぬ樹には」の二句を、委しく言いかえたも(175)の。○誰が恋ならめ 誰の恋であろうかの意で、「誰」を宿禰にあてて、御身こそそれではないかの意味でいったもの。『講義』は、ここのように、「誰」「何」と係って「め」で結ぶのは古言の一格で、この「め」は後世の「めや」にあたるもので、反語をなしていると注意している。○吾恋ひ思ふを われは御身を恋い慕うているものをの意。
【釈】 玉葛のごとく花ばかり咲いて、実のならない、すなわち口頭のやさしさだけで真意のないのは、誰の恋なのであろうか。われの方は恋しく思っているものを。
【評】 贈歌の語に縋っての歌であるが、贈歌の「玉葛」の内容を、いったがごとくに変え、しかも贈歌ではこちらを暗示したものであるのに、全然先方の譬喩とし、「花のみ咲きてならざる」と、贈歌にはない「花」を添えて「実」を省くなど、やさしいながらに言い返しの意を徹底させている。答歌の型に従ったのである。しかし心としては、余裕のもてない、哀切さを含んだものである。当時の教養ある、上流の女性を思わせられる作である。
明日香清御原宮御宇《あすかのきよみはらのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代 天渟名原瀛真人天皇《あめのぬなはらおきのまひとのすめらみこと》、謚を天武天皇と曰す
【標目】 巻一に出ている。天武天皇の御代である。
天皇、藤原夫人《ふぢはらのぷにん》に賜へる御歌一首
【題意】 「天皇」は天武天皇。「藤原夫人」の「夫人」は、後宮の職名で、藤原氏の出の夫人の意である。夫人は中国の名称で、漢では皇帝の妃、先秦では諸侯の妻、漢以後には常人の正妻をいい、また婦人の尊称ともなったものである。わが国では、令の制に、皇后のほかに、後宮の職員に、「妃三員、夫人三員、嬪四員」とある。妃は皇族に限られたので、臣族の出は、最高が夫人であった。ここもその意のものである。天武紀に「又夫人藤原大臣女氷上娘生2但馬皇女1、次夫人氷上娘弟五百重娘生2新田部皇子1」とある。すなわち藤原鎌足の娘で、藤原夫人と称せられる人が二人あったのである。この夫人は大原に住んでいたことが歌でわかる。巻八、夏雑歌に藤原夫人の歌があり、注に「明日香清御原宮御宇天皇夫人也、字曰2大原大刀自1、即新田部皇子之母也」とあるのにより、この夫人は五百重娘と知られる。「御歌」は、「御製歌」とあるべきである。
103 吾《わ》が里《さと》に 大雪《おほゆき》ふれり 大原《おほはら》の 古《ふ》りにし里《さと》に ふらまくは後《のち》
(176) 吾里尓 大雪落有 大原乃 古尓之郷尓 落卷者後
【語釈】 ○吾が里に大雪ふれり 「吾が里」は、天皇のいらせられる清御原の京。「大原」に対してわざとそう仰せられたもの。「大雪」は、今も用いる語。ここで切れている。○大原の 「大原」は、現在夫人のいられる地。今明日香村の東南に小原という地があり、その名をとどめている。藤原鎌足の生誕の地といわれる。夫人が大原大刀自と称せられたのも、そこに住んでいたからである。大原は清御原から幾何《いくばく》の距離もない所である。○古りにし里に 「古りにし里」は、古いものとなってしまった里で、以前住んでいた里をもいい、また、人の住むことの稀れになった、荒れた里のことをもいう。集中には両方がある。ここは後者で、大原を戯れの心をもって貶《おと》しめていわれたもの。○ふらまくは後 「ふらまく」は、「く」を添えて名詞形としたもので、降ろうことはの意。「後」は、わが里よりも後れた時の意。
【釈】 わが住む里には、大雪がおもしろくも降った。そなたの住んでいる大原の、さみしく荒れてしまった里に、降ることは後であるよ。
【評】 大雪の降った後に、天皇が夫人を思われて賜わった御製である。天皇は大雪のおもしろさを御覧になりながら、夫人がともに見られないのを飽き足らず感じられ、それをいってやろうと御思いになったのであるが、それを歌となされる際には、すっかり変形なされ、御情愛を内に包んで、表面は揶揄の形のものとなされたのである。清御原と大原とは幾何も離れてはいない地なので、清御原に降った大雪の、同じく大原にも降っていることは自明なことである。それをわざと両地を差別あるもののようにいわれ、「吾が里」「大原の古りにし里」と、いずれにも誇張を加えた言い方をなされたうえ、さらに双方に、「ふれり」「ふらまくは」と、同じ語を繰り返されたのは、一に対照を際立たせようがためである。「古りにし」という語にも、同音の興を絡ませてあるかに思える。一首、しいても羨ませようとなさつているのは、表面は揶揄であるが、御心としては、と(177)もに大雪を見ないのを夫人にも飽き足らず思わせようとの御心で、その御情愛が、おおらかに、太く緩やかに御詠みになっている一首の中に、明らかに感じられる。御製としてふさわしいものである。
藤原夫人、和《こた》へ奉《まつ》れる歌一首
104 吾《わ》が岡《をか》の おかみに言《い》ひて ふらしめし 雪《ゆき》の摧《くだ》けし そこに散《ち》りけむ
吾岡之 於可美尓言而 令落 雪之摧之 彼所尓塵家武
【語釈】 ○吾が岡の わが大原の岡ので、大原は丘陵の地である。この岡は、下の「おかみ」の鎮まる所としていっている。神はその地の高い所に降《くだ》り、また鎮まるともされていた。○おかみに言ひて 「おかみ」は、日本書紀巻一に、「竜此云2於箇美1」という注がある。また日本書紀には高〓神《たかおかみ》があり、古事記には闇於箇美神《くらおかみのかみ》がある。竜神で、雨をつかさどる神とされていた。現在も雨を請うのはこの神である。今は、雪のことをいっているが、雨の延長として、雪をつかさどるのもこの神としたものとみえる。「言ひて」は、命じてである。天神地祇はすべて天皇に奉仕するとされていたので、天皇に対して申すには、このようなこともいえたのだと取れる。○ふらしめし 降らせたで、過去のこととしていっている。「ふらまくは後」に対して、こちらの方がすでに先に降ったの意でいったもの。○雪の摧けし 「摧け」は、名詞で、一部分。「し」は、強め。○そこに散りけむ そちらすなわち清御原にこぼれたのであろう。
【釈】 わが大原の岡に鎮まる竜神に命じて、こちらへ降らせた雪の、その摧けの一部分だけが、そちらへもこぼれたのでございましょう。
【評】 御製に対して、劣らじとして言い返した形のもので、和え歌の型に従ったものである。御製の「ふらまくは後」を中心として、「おかみに言ひてふらしめし」といって、こちらにはすでにそちらよりも先に降っているといい、さらに進めて、御製の「大雪ふれり」に対して、「摧けしそこに散りけむ」と、あくまでも言い返したものである。「おかみに言ひてふらしめし」は、当時としては思いやすいものであったろうと思われる。したがって語としては突飛ではあるが、御製の、清御原と大原とに地理的差別を立てたような諧謔味はないものである。御製は余裕があり、綜合的であって、御情愛の漂うものがあるが、和え歌は、いうところは諧謔であるが、分解的で、迫った趣をもったものである。しかし矜恃と才気の認められるものといえる。
藤原宮|御宇《あめのしたしらしめしし》高天原広野姫天皇代 【天皇諱を持統天皇と曰す、元年丁亥の十一年位を軽太子に譲り、尊号を太上天皇と曰す】
(178)【標目】 高天原広野姫天皇は持統天皇である。この標目は諸本に異同がある。
大津皇子《おほつのみこ》、竊《ひそ》かに伊勢《いせ》の神宮《かむみや》に下《くだ》りて上《のぼ》り来《き》ましし時の大伯皇女《おほくのひめみこ》の御作歌《みうた》二首
【題意】 大津皇子は天武天皇の第三皇子である。天智天皇の皇女|大田皇女《おおたのひめみこ》と※[盧+鳥]野讃艮《うのさらら》皇女とは、ともに天武天皇の後宮に入り、讃良皇女は皇后となり、後に即位して持統天皇となられた。大田皇女は、大伯《おおく》皇女と大津皇子を生んで早世されたのである。大津皇子は天武紀十二年の条に「二月己未朔、大津皇子始聴2朝政1」とある。朱鳥元年九月九日、天武天皇が崩じられると、大津皇子は、御姉大伯皇女の斎宮として赴いていられる伊勢の神宮に下ったが、帰り来られての十月二日、謀反の罪に問われて死を賜わった。持統前紀に「庚午(三日)賜2死皇子於|訳語田舎《ヲサダノイヘニ》1。時年廿四。妃皇女山辺被v髪徒跣、奔赴殉焉。見者皆歔欷。皇子大津天渟中原瀛真人天皇第三子也。容止墻岸、音辞俊朗。為2天命開別(天智)天皇1所v愛。及v長弁有2才学1、尤愛2文筆1。詩賦之興自2大津1始也」とある。また、懐風藻には「……及v壮愛v武、多力而能撃v剣。性頗放蕩、不v拘2法度1。陸v節礼v士。由v是人多付託。時有2新羅僧行心1。解2天文卜筮1。詔2皇子1曰、太子骨法、不2是人臣之相1、以v此久在2下位1、恐不v全v身。因進2逆謀1。迷2此※[言+圭]誤1。嗚呼惜哉云々」とある。
大伯皇女の事は、斉明記七年正月の条(左注参照)に、「甲辰。御船到2于|大伯《オホクノ》海1。時大田姫皇女産v女焉。仍名2是女1曰2大伯皇女1」とある。大伯は岡山県|邑久《おく》郡の地で、吉井川河口の東のあたりかといわれている。天武二年伊勢の斎宮と定められ、翌三年十月伊勢へ下られた。時に年十四であった。弟大津皇子に訪問された時は二十六である。「竊かに」は、皇子としては微行だったのである。時は秋で、事の発覚の直前である。
105 吾《わ》が背子《せこ》を 大和《やまと》へ遣《や》ると さ夜《よ》ふけて 暁露《あかときつゆ》に 吾《わ》が立《た》ち濡《ぬ》れし
吾勢※[示+古]乎 倭邊遣登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之
【語釈】 ○吾が背子を 「背」は、女から男の兄弟を呼ぶ称で、長幼にかかわらない称である。これは男より女の兄弟を妹と称するに対した語である。「子」は、親しんで添える語。「吾が」も同様である。今は皇女の弟皇子をきわめて親しまれての称である。○大和へ遣ると 「大和」は京。「遣る」は、京へ還られるのを、このようにいったもので、御姉として、幼い弟を扱うがごとき語をもっていわれているのである。「と」は、とて。○さ夜ふけて 「さ」は、接頭語。夜が更けてで、ただ時間の経過をいってあるだけであるが、上よりの続きで、弟皇子との別れを惜しんでのためであることは明らかである。○暁露に 「暁」は原文「鶏鳴《あかとき》」で、明時すなわち夜の明るくなりかかる時でまだ暗い午前四時の時刻。「暁露」は、熟語で、明時の露の意である。明時は露の最も繁く結ぶ時である。この熟語は集中に用例のあるものである。○吾が立ち濡れし 「し」は助(179)動詞「き」の連体形。『講義』は、主格に「が」を添え、連体形で結ぶのは、古格の一格だと注意している。われは立って濡れたで、下に詠歎を含んでいる。上の句より続いて、弟皇子を戸外に立って見送っていたことをいったものであるが、そのいかに久しく立っていられたかを思わせるものである。
【釈】 なつかしい弟を大和国へ立たせてやるとて、夜が更けて、明け方の露に私は立っていて濡れたことであるよ。
【評】 秋の夜深く、微行の形で大和へ帰る弟皇子を見送って、久しくも戸外に立っていられた姉皇女の、闇に見えない弟皇子から心を離して、我にかえられた時の心で、我にかえるとともに、その夜の全体を大観されて、哀愁をもって詠まれた御歌である。いったがように、単に「さ夜ふけて」といい、「吾が立ち濡れし」といって、一|夜《や》の輪郭をいっているだけで、内部へは全く触れていない。それにもかかわらず、その一夜の皇女の哀愁が、余情の形をとって直接に感じられてくる御歌である。これは一に調べの力である。一首の調べが皇女の哀愁をあみ出させているといえる。その哀愁は、これにつぐ御歌でほぼ察しられるが、兄弟の間の単純なる情愛のもつおのずからなる哀愁で、それ以外のものとは思われない。
106 二人《ふたり》行《ゆ》けど 行《ゆ》き過《す》ぎ難《がた》き 秋山《あきやま》を いかにか君《きみ》が 独《ひと》り越《こ》ゆらむ
二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武
【語釈】 ○二人行けど 「二人」は、この場合、皇女と皇子。「行けど」は、行ったけれどもで、行ったのは下の「秋山」である。皇子の滞在中、兄弟で、近いあたりの秋の山を遊覧されたことのあつたのを思い出してのもの。○行き過ぎ難き秋山を 「行き過ぎ難き」は、進んで行き難いで、下の「秋山」の状態をいったもの。その状態は下で知られるが、秋山のもつ寂しさに堪えられなかったのである。その「秋山」の位置は、斎宮に近く、京へ行くには越えなければならない所にあることが、下で知られる。○いかにか君が独り越ゆらむ 「いかに」は、どんなに寂しい気持がしてで、「行き過ぎ難き」に照応させてあるもの。「か」は、疑問。「君が」の「が」は皇子の気分の方を主としていったもの。「独り越ゆらむ」は、一人で越えるだろうかで、「独り」は初句の「二人」に照応させてある。
【釈】 二人で遊覧に行ったけれども、それでも行きかねたあの秋山を、どんなにして君は一人で越えていることであろうか。
【評】 弟皇子の見送りを終った姉皇女が、一たびその一夜の自分の状態を顧みられると、今度は転じて、弟皇子の旅を思われての心である。弟皇子の旅を思うと、第一に浮かんでくるのは、斎宮に遠くないあたりの秋山であるが、その浮かんで来たのは、近く御一緒に行かれたことのあるためと思われる。「二人」は、「君が独り」に対させてある関係上、「二人」は御兄弟を意味させたものと取れる。その記憶にある山を中心に、二人でいらした時の気分と、想像に浮かんでくる独りでお越しになっている(180)気分とを対照したのが、一首の心である。皇女の御歌は、ここ以外にもあるが、すべて実際に即した詠み口であって、気分に乗って想像を詠まれたものはないところから、ここもそれであろうと思われる。二句の「行き過ぎ難き」の「き」音の重なり、四句の「いかにか君が」の「か」音の重なりは、自然のことではあるが、皇女の御気分の細かい刻みをあらわし得ているものと思われる。
大津皇子、石川郎女に贈れる御歌一首
【題意】 「石川郎女」は(九六)に出た、久米禅師と結婚した女性とは別人であろうとされている。この郎女は既婚の人とはみえないからである。石川は氏。郎女は女子を尊んでの称であり、適用の範囲の広い称で、一人とは定め難いからである。この名の人の歌が集中に短歌八首あり、この郎女は日並皇子の侍女である。
407 あしひきの 山《やま》のしづくに 妹《いも》待《ま》つと 吾《われ》立《た》ち濡れぬ 山《やま》のしづくに
足日木乃 山之四付二 妹待跡 吾立所沾 山之四附二
【語釈】 ○あしひきの山のしづくに 「あしひきの」の意味は諸説があるが不明である。山にかかる枕詞。「山のしづくに」は、山の木や草に宿る雫のために。○妹待つと吾立ち濡れぬ 「妹待つと」は、「妹」は郎女。「待つ」は、かねて約束がしてあって、その来るのを待つ意。古くは男女ひそかに逢うに、人目に遠い野や山においてするのは、特別のことではなかった。ここもそれである。「吾立ち濡れぬ」は、われは沾れたの意で、「立ち」は、事実ではあるが、感を強めるために添える意のあるもので、当時慣用された語。○山のしづくに 感を強めるために、第二句を繰り返したもの。型となっている法である。
【釈】 山の雫に、そなたの来るのを待つとて、われは立ち濡れた、山の雫に。
【評】 山の中で密会しようと約束をしたので、行って待っていたが、ついに来なかった嘆きをいってやられたものである。山は近い辺りのもので、時は草木《くさき》の雫の多い、夏から秋へかけてのこととわかる。嘆きをいうに、直接には何もいわれず、「山のしづくに立ち濡れぬ」とのみいい、しかしその侘びしさをあらわすために、「山のしづくに」を結句で綴り返しにしているのは、男としてこうした範囲の歌には、怨みはもとより嘆きもいうまいとするのが本意だが、さすがに侘びしさだけはいおうとされたものと取れる。その侘びしさをあらわす山の雫も、「山の雫」という組合わせの際やかな語をもってして、その繁さをあらわすとともに、美しさもあらわしている点が注意される。一首、地歩を占めておおらかに、余裕をもちつつ、しかも心を(181)尽くしていて、その調べの清いところなど、高貴の風貌と、文才のほどを思わせる御歌である。
石川郎女、和《こた》へ奉《まつ》れる歌一首
108 吾《あ》を待《ま》つと 君《きみ》が濡《ぬ》れけむ あしひきの 山《やま》のしづくに ならましものを
吾乎待跡 君之沾計武 足日木能 山之四附二 成益物乎
【語釈】 ○吾を待つと君が濡れけむ 「吾《あ》」は、「あ」「わ」のいずれも仮名書きのあるものである。「吾《あ》」は最も古い形である。吾を待つとて君が濡れたであろうところの。○ならましものを 「なる」は、変化する意。「まし」は仮設の意をあらわす助動詞。わが身を変えようものをの意。古くは、その人の身に添い、あるいは身に着いている物は、やがてその人の一部だという心持が濃厚であった。その意味で、君を濡らしたという雫になりたいということは、君の物になりたいという意をあらわしたものである。
【釈】 吾を待つとて君が濡れられたという、その山の雫に、なれるものであったらなったろうに。
【評】 違約をしたいいわけはせず、侘びしかったといわれた山の雫を捉え、その雫にわが身を変えて、君に添い、君の物となりたかったというので、機才のあるとともに、媚態の濃厚なものである。これにつぐ歌で見ると、郎女はこの当時、日並皇子の侍女となっていたことが知られる。この和え歌に弁明のないのは、その理由はおのずから明らかだったからと思われる。皇子への和え歌として恥じない歌才のある作である。気品、重厚味のないのは、人柄の差である。
大津皇子、竊かに石川女郎に婚《あ》ひし時、津守連通《つもりのむらじとほる》其事を占《うら》へ露《あら》はししかば皇子の作りませる御歌一首 未だ詳かならず
【題意】 「石川女郎」は、前の歌に出ている女である。この女は、次の歌によると、皇太子日並崇子に召されていたのであった。大津皇子がこの女に婚《あ》うのは許されないことだったのである。「津守違通」は、新撰姓氏録に天香山命の後とある。和銅七年には従五位下美作守となった人で、この当時甚だ重んじられていた陰陽道の達人で、その道において朝廷より賞賜のあった人である。「占へ露はす」というは、不明な事を神意を伺って明らかにすることで、上代より信じられていたことである。
(182)109 大船《おほふね》の 津守《つもり》が占《うら》に 告《の》らむとは まさしに知《し》りて 我《わ》が二人《ふたり》寐《ね》し
大船之 津守之占尓 將告登波 益爲尓知而 我二人宿之
【語釈】 ○大船の津守が占に 「大船の」は、大きな船で、その出入りする津の意で津にかけた枕詞。「津守」は、津守通。「占」は、卜占。○告らむとは 占によってあらわれようとは。○まさしに知りて我が二人寐し 「まさし」は、形容詞「正《まさ》しく」の語幹で、それに「に」を続けて副詞としたもの。「我が二人寐し」は、我は二人で共寐をしたことであるよの意。「が」と「し」の係結びは(一〇五)に出た。
【釈】 津守が占いによっていいあらわれようということは、正《まさ》しくも知っていて、我は二人共寐をしたことよ。
【評】 題詞にある、憚りあることが占え露わされた直後の御歌である。一首、心としては単純であるが、声調をとおして複雑な気分を感じさせる歌である。心としては、事が露われて、不首尾をきたすことは十分承知していながらも、やむにやまれぬあわれさより起こった事だということに取れる。当時男女間は、上代の風として寛やかであった。また、女は皇太子のものとはいえ、単なる召人《めしびと》であって、何らの位地も与えられていたものとは思われない。大津皇子の位地からいえば、憚るべきことには相違ないが、それも限度のあることであったと思える。「大船の津守が占」と力強くいわれているのは、当時陰陽道の盛行していたその影響よりのことで、一首の心よりいえば、さして重いものとは思われないから、これは除外のできるものである。心がそれであり、それが一首の全部であるとすると、皇子に同情し得られるものがあるといえるが、しかしこの御歌の声調には、鋭く強いものがあり、それが熱意の迸りというよりは、むしろ反対に、ある冷たさを感じさせるものである。「まさしに知りて我が二人寐し」という声調は、しっかりと地歩を占めた上で、強く言い放った趣を感じさせるのである。これはあわれの範囲のものではなく、それを超えてのものと思われる。ここにある複雑さを感じさせられるのである。これはやがて皇子の伝記につながりをもつものに思える。いつの時のことかは明らかにわからないが、二十四歳にして罪を得られた皇子の高邁さを感じさせられる御歌である。すなわち朝廷がこのようなことを問題にしたことに対する反抗気分の現われとも取れる。
日並皇子尊《ひなみしのみこのみこと》、石川女郎に贈り賜へる御歌一首 【女郎、字を大名児といふ】
【題意】 「日並皇子」のことは、巻一(四五)に出た。持統天皇の皇太子草壁皇子で、日並皇子尊は、摂政の皇子としての尊称で、やがて御名のごとくなったものである。「贈り賜へる」の「贈り」という文字は、目録にはなく、またない本も少なくない。「石川女郎」は前の歌に出ている人とみえる。そちらに郎女とあったのを、ここでは女郎と書いている。用例によると、郎女は敬称(183)であるが、女郎は女性をあらわすにすぎない称と取れる。ここの場合は、資料に従ってのものだろうと『全註釈』は解している。注の「字」は、本名のほかに、世に称する名である。女の名に「児」の添うのは、前に「安見児」があり、後にも「桜児」「鬘児」などがある。
110 大名児《おほなこ》 彼方野辺《をちかたのべ》に 苅《か》る草《かや》の 束《つか》の間《あひだ》も 吾《われ》忘《わす》れめや
大名兒 彼方野邊尓 苅草乃 束之間毛 吾忘目八
【語釈】 ○大名児 原文にしたがって四音に訓む。従来「大名児を」と「を」を訓み添えたのを、『新訓』が四音にし、『注釈』が考証を加えている。直接に呼びかけたもので、字《あざな》をもってしたのである。「よ」の意がある。○彼方野辺に苅る草の 「彼方」は、こちらに対してのあちらである。遠近の遠ではない。あちらの野辺にある。「草」は「かや」で薄、萱などの総称。苅つて束《つか》ねる意で、「束」にかかる序詞。○束の間も 「束」は、古く尺度の単位をあらわす語で、一|握《つか》み、すなわち四本の指の並んだ長さである。八握髯《やつかひげ》、十握剣《とつかのつるき》などその例である。これは短いものであるところから、その意で時の方にも用いた。「束の間も」は、しばらくの間も。○吾忘れめや 吾は忘れようか、忘れはしないの意。「や」は反語。
【釈】 大名児よ、あちらの野辺に苅る草の、苅れば束ねることをする、その一束の短い間も我は忘れようか、忘れはしない。
【評】 高貴の方が、身分の低い者に対して、情愛を示されたものという感の深い御歌である。心としてはその児に呼びかけて、深い情愛を直截にいわれているものであるが、一首の調べがおおらかに、和やかなものであるために、その直截さが溶かされて、ただ温かなものとなっている。「彼方野辺に苅る草の」という、素撲な感を起こさせる序詞が、一首の感味の上に大きな働きをしている。
【評 又】 (一〇七)からこの歌に至るまでの四首は、いずれも石川女郎の重く関係している歌のみである。この(一一〇)によって見ると、女郎は当時日並皇子尊の召人《めしびと》となり、命の愛をこうむっていたのであるが、その間にあって女郎は、他の三首によると、大津皇子と密会しようとし、ついにひそかに相逢うという関係となり、それが問題となって、津守通の占いを俟つまでに至ったのである。この占いのことは、日並皇子尊によってなされたことと思われる。これは一人の女郎を中にして最も尊貴なる二皇子の愛の争いをなされたということで、この四首を、単に歌という上から見ると、まさしく歌物語である。歌数は四首にすぎないのであるが、その歌はすべて実際に即したものであり、また歌そのものはいずれも優れたものなので、これを連ねて読むと複雑した味わいをもった歌物語となってくる。この四首を一括して撰者のここに収めたのは、年次としても、事としても、そうするのが自然であったためとも取れるが、上の久米禅師の場合と同じく、石川女郎に関する歌物語的興味も伴ってのことではないかとも思われる。なおこの意味のものは(一二六)より(二一八)にわたってのものにもある。
(184) 吉野宮に幸《いでま》しし時、弓削《ゆげの》皇子の額田《ぬかたの》王に贈与《おくり》たまへる歌一首
【題意】 持統天皇の吉野宮への行幸の事は巻一に出た。前後三十回以上に及んでいるので、いつのことともわからない。歌にほととぎすが出ていることから推して、四年五月か、五年四月かであろうといわれている。「弓削皇子」は、天武紀に、「次妃大江皇女生3長皇子与2弓削皇子1」とあり、天皇の第六皇子である。持統天皇七年に、位、浄広弐を授けられ、続日本紀に文武天皇三年七月薨去の事が出ている。額田王は、京にいられたのである。
111 古《いにしへ》に 恋《こ》ふる鳥《とり》かも 弓絃葉《ゆづるは》の み井《ゐ》の上《うへ》より 鳴《な》き渡《わた》りゆく
古尓 戀流鳥鴨 弓絃葉乃 三井能上從 鳴濟遊久
【語釈】 ○古に恋ふる鳥かも 「古に」の「に」につき、『講義』は、「に対して」の意で、「恋ふる」の対象としている。なお「を」との区別は、「に」は静的な目標をさし、「を」は動的の目標をさす語だと注意している。「かも」は、詠歎の助詞。古を恋う鳥なのかの意。この烏は次の和《こた》え歌によって、ほととぎすということが明らかである。ほととぎすは古を恋う鳥だということは中国の伝説で、蜀王が死んでその魂からなった鳥といわれ、古を恋って鳴くといい、蜀魂という文字をあててもいる。こうした伝説が、当時の有識階級には行なわれて興味をもたれていたのである。○弓絃葉のみ井の上より 「弓絃葉のみ井」は、井の名。「弓絃葉」は、今は交譲木《ゆずりは》と呼び、新年の供え物に用いている植物である。「み井」の「み」は、美称で、「井」は山中のこととて、自然に湧き出す清水を湛えたものと思われる。古くは、井のほとりにはしかるべき植物を立たせて、井の水を保護させるのを常とした。その関係から、その植物をその井の目標とし、井の名ともした。桜井、藤井、櫟井《いちいい》などそれである。弓絃葉のみ井も同じく井の名である。み井というのは、この井は吉野宮の御用の物だったからであろう。したがって宮の付近にあった物と思われる。今は所在がわからない。「上」は、ほとり。「より」は、経過する地点の意をあらわす助詞で、を通って。○鳴き渡りゆく 「渡り」は、行動の、一つの地点から他の地点に及ぶのをあらわす語。「ゆく」は連体形。
【釈】 古に対して恋うる鳥なのであろうか。吉野宮の弓絃葉のみ井のほとりをとおって、鳴き渡って行くことよ。
【評】 弓削皇子が、行幸の供奉として吉野宮におられ、所柄として父帝の事を思わせられていた際、ほととぎすの、宮に近いほとりを、鳴きながら飛びゆくのを御覧になっての心である。ほととぎすは古を恋って鳴く鳥だということは、中国の伝説の伝わつてのものであるが、道教の信仰の深かった当時とて、その神秘的な点が、有識階級に興味をもたれていたものとみえる。皇子は眼前にほととぎすの飛びつつ鳴くのを御覧になると、自身の感情をその鳥に結びつけて、我と同じ心をもっているのかと見られたのである。しかしその心情には限度をつけられて、「古に恋ふる鳥かも」と、疑いを残した態度で言い出され、つい(185)で、それと感じられるほととぎすの状態を描き出されているのである。弓絃葉のみ井は、宮に関係深いものであり、父帝の御代からの物であるので、そこにほととぎすの思慕の心を認め、また鳴き渡りゆく状態に、その心深さを認めたのである。一首の心は感傷であり、抒情であるのに、それに適当な客観性をもたせ、余裕のある態度を持していられるために、おのずからに余情をもったものとなっている点は、まさしく文芸性の歌である。京にある額田王に贈られたものであるが、歌はそのために詠まれたものというより、むしろ皇子自身のためのもので、できての上で、王に示そうとの心から贈られたもののように見える。それは王が同感されようと思ってのことであろう。
額田王、和《こた》へ奉《まつ》れる歌一首 倭の京より進入《たてま》つれる
112 古《いにしへ》に 恋《こ》ふらむ鳥《とり》は ほととぎす けだしや鳴《な》きし 吾《わ》が念《も》へるごと
古尓 戀良武鳥者 霍公鳥 盖哉鳴之 吾念流碁騰
【語釈】 ○古に恋ふらむ鳥は 「らむ」は、現在の推量をあらわす助動詞。「は」は、取り立てていう意の助詞。古に対して恋うであろうと推量する鳥はで、皇子の「古に恋ふる鳥かも」に対して、一歩を進めていったもの。○ほととぎす 下に詠歎がある。○けだしや鳴きし 「けだし」は、疑って推測する意の副詞。もしというに近い。「や」は、疑問で、係となっている。「鳴きし」の「し」は、「や」の結び。もしくは鳴いたのであろうか。○吾が念へるごと 「念へる」は、古に対して。「ごと」は、如で、「如し」の語幹。吾が古を思っているがように思って。
【釈】 古に対して恋うるのであろうと御推量なさる鳥は、ほととぎすであるよ。たぶん鳴いたのであろうか、私が古を思っているがように思って。
【評】 皇子の贈歌に和《こた》えたもので、贈歌の心を十分に察し、また、皇子の贈られた心をも察して、それをうべない喜ぶ心をあらわした歌である。贈歌の「古に恋ふる鳥かも」と、疑いを残していっていられるのに対して、それはほかではなくほととぎすであろうといい、皇子がそうした鳥を見も聞きもして、古を恋うる心を刺激されながら、それとはいわれずにいるのを、王はただちにわが事として、我が古を思うがように思って、同じように鳴いたのであろうと、あからさまな、強いものに進めたのである。皇子の歌は文芸性をもった新風のものであるが、王の和え歌は、実用性の古風なものである。和え歌に伴う語のおもしろさをもたせようとしていないのは、事が事であるためもあるが、一つには、皇子のやさしさに対しての感謝の念が伴っているからだろうと取れる。
(186) 吉野より蘿《こけ》生《む》せる松が柯《え》を折り取りて遣しし時、額田王の奉入《たてまつ》れる歌一首
【題意】 「蘿」は、松蘿とも女蘿ともあて、「松のこけ」とも「さるおがせ」ともいった。今も「さるおがせ」といい、あるいは「さがりごけ」ともいっている。深山の松杉などの樹枝にかかって長く垂れている植物である。歌は、さるおがせの生えた松の枝を贈られた額田王の、それに対しての喜びを詠んだものである。贈ったのは、弓削皇子と思われる。その松の枝は、歌で見ると、御言《みこと》をもっての使と見て愛《め》でているものである。
113 み吉野《よしの》の 玉松《たままつ》が枝《え》は はしきかも 君《きみ》が御言《みこと》を 持《も》ちて通《かよ》はく
三吉野乃 玉松之枝者 波思吉香聞 者之御言乎 持而加欲波久
【語釈】 ○み吉野の玉松が枝は 「み吉野」の「み」は、美称。「玉松」の「玉」も、同じく美称。その物を愛《め》でる意から、珍重した玉を添える例は、植物の上でも、「玉葛」「玉藻」がある。これもそれである。蘿《こけ》の生《む》しているという特別の松であるから、ふさわしい愛《め》で方である。「松が枝」という言い方は、仮名書きがある。○はしきかも 「はし」は、愛《は》しをあてる語で、愛する意をいう古語で、形容詞。「かも」は、詠歎の助詞。可愛いことかなで、松の枝が消息をもって、使の役をしている意で、使その者に擬して愛した意の語。○君が御言を 「御言」は皇子の歌。○持ちて通はく 「通はく」は、「通ふ」に「く」を添えて名詞形としたもので、通うことよの意。通うは往来する意で使のていである。これは松が枝を使と見ることによって言いうる語である。
【釈】 み吉野の玉松が枝は、可愛ゆくもあることかな。君が御言《みこと》をもって、使として通うことよ。
【評】 消息を木の枝に付けるのは当時の風で、特別なことではなかったと思われる。しかしこの場合は、その木の枝は単なる儀式のものではなく、蘿《こけ》の生《む》している松が枝という特別な物で、それは王の心を喜ばせようという皇子のやさしい心からのものだったのである。王としては、皇子の心を喜んだ意をあらわさなくてはならない場合である。この歌はその心のものである。歌は松が枝その物に多く興じたことはいわず、そちらは「玉松」という一語にとどめ、中心は、そういうことをされた皇子の方に置き、この松が枝は、皇子の消息の使をする可愛ゆいものだという言い方をしたのである。すなわち松が枝のおもしろさと、皇子の消息をされた有難さを一つにして、松が枝を愛すべき使といったのである。巧みにして品位ある挨拶というべきである。額田王としては、年代的に見て、これが最後の歌だろうと注意されている。若い頃の艶《つや》やかさの豊かに流れ出ずるような趣はないが、頭脳の明らかに、余裕をもった、冴えた物言いをされる趣は、十分に感じられる。
(187) 但馬皇女《たぢまのひめみこ》、高市皇子《たけちのみこ》の宮に在《いま》しし時、穂積皇子《ほづみのみこ》を思ふ御歌一首
【題意】 「但馬皇女」は、天武天皇の皇女で、御母は、藤原鎌足の女氷上|娘《いらつめ》である。天武紀のこの記事は、(一〇三)に引いてある。続日本紀に、「和銅元年六月丙戌三品但馬内親王薨、天武天皇之皇女也」とある。「高市皇子」は、天武天皇の皇子で、御母は、胸形君徳善の女尼子娘である。この事は日本書紀、天武紀二年に見える。すなわち皇子と皇女は異母兄妹である。日本書紀、持統紀四年に、この皇子が太政大臣になった記があり、同じく十年七月に薨去の記がある。その際の記事に、「後皇子命」と記してある。また、懐風藻の吉野王の伝の中に、「高市皇子薨後、皇太后引2王公卿士於禁中1謀立2日嗣1」とあるところなどから察すると、皇太子草壁皇子の薨後皇太子となられたこととみえる。しかし立太子の事は史上に見えない。但馬皇女がこの皇子の宮にあられたのは、妃であったとみえる。「穂積皇子」は天武天皇の第五皇子で、御母は蘇我|赤兄《あかえ》の女|大〓娘《おおぬのいらつめ》である。続日本紀、霊亀元年正月一品に叙せられ、同七月薨ぜられた。当時は異母兄妹の結婚は普通のことであった。
114 秋《あき》の田《た》の 穂向《ほむき》のよれる かたよりに 君《きみ》によりなな こちたかりとも
秋田之 穗向乃所縁 異所縁 君尓因奈名 事痛有登母
【語釈】 ○秋の田の穂向のよれる 「秋の田」は、秋の、稲の熟した田の意。「穂向」は、穂の傾いた向きで、穂は熟して重くなると、自然に傾くし、折からの風で、同じ方角に向かうものである。「よれる」は、傾いている状態。秋の田の熟した稲穂の傾いているのを譬喩として、下の「かたより」にかかる序詞。○かたよりに 旧訓。「異」を「かた」と訓むのは義訓であるが、拠は明らかでない。巻十(二二四七)「秋の田の穂向きの依れる片よりに吾は物念ふつれなきものを」があり、皇女のこの歌より出たものと思われるので、これが訓の拠とされている。『注釈』は原文「異所」を「かた」と訓み、考証している。「かたより」は体言。風などのために、すべて同じ方向に傾いて、そのまま立ちなおらずにいる状態をいう。「に」は、状態の形容で、のごとくにあたる。○君によりなな 「君」は、穂積皇子。「より」は、靡《なび》き従う意。「なな」は、上の「な」は完了の助動詞「ぬ」の未然形で、この場合は強意のためのもの。下の「な」は、みずから冀《ねが》う意をあらわす語。君に必ず靡き従おうと思うの意。○こちたかりとも 「こちたし」は、言甚《こといた》しを約《つづ》めた語で、人の物言いのうるさい意。たとい、うるさく言い騒がれようともの意。
【釈】 秋の熟した稲田の、穂の傾いた向きのように、ただ一かたに君に靡き寄りたいものだ。たとい煩《うるさ》く言い騒がれようとも。
【評】 高市皇子の妃となるべき但馬皇女の、穂積皇子に情を寄せられ、ある程度まで心を通わし合っていられた頃の述懐の歌と取れる。結句の「こちたかりとも」は、事としてはまだ現われない前に、その事を予想されたもので、その予想は、そうした事があろうとも、それを乗り越えようという心を固められるためのものだからである。初二句の序詞は、序詞ではあるが譬(188)喩の意をもったもので、眼前の実景と思われる。目に捉えた「縁る」という語を「かたより」で繰り返し、さらに心中の冀いである「よりなな」によって強めているところ、譬喩というよりも、むしろ抒情そのものという感をもったものである。一首熱意の表現で、形が素樸なため、事の不合理を、沈痛味のあるものにしている、すぐれた御歌である。
穂積皇子に勅して近江の志賀《しが》の山寺《やまでら》に遣しし時、但馬皇女の御作歌《みうた》一首
【題意】 「志賀の山寺」は、天智天皇の建立にかかる寺で、志我山《しがやま》の上にあるところから志賀寺と呼んだ。本名は崇福《すうふく》寺といい、古は名高い大寺であった。中世の歌に、志賀山越とあるは、京都方面から叡山を越えてこの寺に詣でることで、一つの行事となっていたからの称である。後、園城寺に遷されてしまった。遺址と伝えられるものが大津市(南滋賀町西方)にある。穂積皇子をこの寺に遣わされたことは、史には見えない。したがっていかなる御用であったかもわからない。
115 おくれゐて 恋《こ》ひつつあらずは 追《お》ひ及《し》かむ 道《みち》の隈回《くまみ》に 標《しめ》結《ゆ》へ吾《わ》が背《せ》
遺居而 戀管不有者 追及武 道之阿廻尓 標結吾勢
【語釈】 ○おくれゐて恋ひつつあらずは 「おくれ」は、親しい人の旅などに行って、後に残っている意をいう古語。「恋ひつつあらずは」は、恋いつづけていずに。(八六)にも出た。○追ひ及かむ 「及く」は及ぶで、「追ひ及く」は、今の追いつくにあたる。○道の隈回に 「隈回」は、一語で、「隈」は、道の曲がり角、「回」は、辺りの意で、曲がり角。道の迷いやすい所としていっている。○標結へ吾が背 「標」は、本来は、人の所有を示すしるしで、場所、物などに対して、立ち入り、触れることを禁ずるために結ぶしめ繩などの称。いわゆる禁忌のしるしである。転じて、目じるしの意にも用いた。ここはそれである。「結へ」は、「標結ふ」と慣用しているところからの語で、今は、しるしをする意である。後世の栞をするにあたる。「結へ」は、命令形である。「吾が背」は、「背」は女より男を呼ぶ称。「吾が」も、親しんで添えた語。呼びかけである。
【釈】 後に残っていて、恋いつづけていずに、後を追って追いつこう。道の曲がり角の迷いやすい所に、迷わぬための目じるしをしたまえよ、わが背よ。
【評】 皇子に贈った歌である。思慕の情の極まった、突き詰めた熱意をあらわしたものであるが、それとともに他面には落着いた心細かいものをもっている歌である。皇女の人柄の現われと思える。全体としてはおおらかなので、おのずから一首に沈痛な響がある。この歌は三句切、名詞止の形になっている。この三句切は、昂奮した感情の自然に取った形である。
(189) 但馬皇女、高市皇子の宮に在《いま》しし時、竊《ひそ》かに穂積皇子に接《あ》ひて、事既に形《あらは》れて作りませる御歌一首
116 人言《ひとごと》を 繁《しげ》みこちたみ 己《おの》が世《よ》に いまだ渡《わた》らぬ 朝川《あさかは》渡《わた》る
人事乎 繁美許知痛美 己世尓 未渡 朝川渡
【語釈】 ○人言を 「人言」は、他人の我に対しての物言いであるが、事の性質上、人は宮に仕えていた人々であろう。○繁みこちたみ 「繁み」は、形容詞「繁し」の語幹「繁」に「み」を添えて、動詞のごとくしたもの。繁くして。「こちたみ」も、同様で、こちたくすなわちうるさくして。ほぼ同じ事を繰り返して、その強さをあらわしたもの。繁く、うるさくして。○己が世に 原文、流布本には「己」と「世」との間に「母」があるが、元暦本を初め、類聚古集、西本願寺本などにはない。何らかの誤りで加わったものと見える。「己が世」は、わが生涯で、生まれて以来というにあたる。○いまだ渡らぬ朝川渡る 「朝川」は、夕川に対した語で、朝の川の意。熟語として用いられていた。「渡る」は、徒渉する意。かつてしたことのない朝の川を徒渉するの意。古くは、橋の設備が十分ではなく、したがって徒渉ということは特別なことではなかったが、しかししかるべき道には無論橋があったのである。ここは、それほどではない道で、川にも橋はなかったとみえる。すなわち皇女の御身分としては、平生は通るべくもない路であったと見える。題詞との関係上、高市皇子の宮から、夜明けに脱出されてのことと思われる。
【釈】 人の我に対する物言いを、繁くうるさく思うによって、わが生まれて以来、まだ一度もしたことのない朝の川の徒渉をする。
【評】 この歌につき『考』は、「事あらはれしにつけて朝明に道行給ふよし有て皇女の慣れぬわびしき事にあひたまふをのたまふか」といっている。題詞を合わせてみると、そうした際の歌とみえる。感を発しられたのは、朝川を徒渉される際で、かつて経験のないそうしたわびしい事をなされると、それに刺激されて身世を大観させられ、「己が世にいまだ渡らぬ朝川渡る」と、大きく、思い入っていわれたのである。しかしそれをなさる理由は、「人言を繁みこちたみ」ということで、全く身外の、周囲の者によってしいられて、余儀なくもさせられることになっている。これは、こうした状態における女性の当然の心理ともいえるが、皇女としては、これを当然ならしめるものがあったかもしれぬ。三句以下、「渡る」を繰り返した、沈痛な響をもった表現は、おのずからそういうことを思わせるものがある。
【評 又】 以上三首の歌は、一つの事件の中にあって、時の推移に従ってその時々の心を詠まれたもので、他意あるものではない。歌が実際生活に即したものであることも当時の風で、これまた他意のないことである。しかし結果からみると、おのずからにして歌物語の趣をもつものとなってきて、意図をもって(190)の連作と同様なものとなっている。これは本集に少なくない連作、歌物語の発生と密接な関係をもつこととして注意される。
舎人皇子《とねりのみこ》の御歌一首
【題意】 「舎人皇子」は、天武天皇の第三皇子で、御母は新田部皇女である。日本書紀の撰者である。養老四年知太政官事となられ、天平七年に薨ぜられた。御子の大炊王はすなわち淳仁天皇である。「御歌」は、他の例によると「御作歌」とあるべきである。この歌は、和え歌によると舎人娘子に賜わったものである。皇子の御名は、乳母が舎人氏であったところから称せられたものではないかという。これは他の例によっての推測である。
117 大夫《ますらを》や 片恋《かたこひ》せむと 嘆《なげ》けども 醜《しこ》のますらを なほ恋ひにけり
大夫哉 片戀將爲跡 嘆友 鬼乃益卜雄 尚戀二家里
【語釈】 ○大夫や片恋せむと 「大夫」は猛く強き男。ここは、みずからそれをもって任じ、誇つての称。「や」は疑問の係助詞で、反語を起こしているもの。「片恋」は、思う相手に知られず、独りで恋している意。「せむ」は、上の「や」の結びで、大夫たる者が、片恋などすべきであろうか、ないの意。○嘆けども 嘆きをするけれども。○醜のますらを 「醜」は、集中に用例の多い語で「にくむべき」の意で、他に対しては物を罵り、自らに対しては、あるいは自ら卑下し、あるいは自ら嘲っていう語である。ここは自ら嘲る意で、其のますらおではなく、悪むべきますらおの意。○なほ恋ひにけり 「なほ」は、やはり。「恋ひにけり」は、恋ったことであるよの意。
【釈】 大丈夫たる者が、片恋などをすべきであろうか、すべきではないと思って嘆いたけれども、この悪《にく》むべきますらおは、やはり片恋をしたことであるよ。
【評】 歌は恋の訴えである。しかしそれとしてはきわめて余裕をもったものである。男子が丈夫をもって自任し、また丈夫たる者は女々《めめ》しき振舞いをしないものとし、それをするのを恥としたのは、当時の通念で、例の少なくないものである。この歌は、一にその通念の上に立って、それだけをいわれたものである。すなわち我は丈夫で、女々しき心をもつまいと思っているが、それをもたされてしまったと、ただそれだけをいわれたのみで、相手に対しては、直接の訴えは一語もまじえていないものである。これは相手に対して、高く地歩を占め、また親しみをもっていての上の訴えだからである。しかし訴えの気持は、おのずからに滲み出している。実際に即しての歌で、実用性の濃厚なものである。堂々とした、気品ある歌である。
(191) 舎人娘子《とねりのをとめ》、和《こた》へ奉《まつ》れる歌一首
【題意】 「舎人娘子」は、巻一(六一)に出た。
118 嘆《なげ》きつつ 大夫《ますらをのこ》の 恋《こ》ふれこそ 吾《わ》が結《ゆ》ふ髪《かみ》の 漬《ひ》ぢてぬれけれ
嘆管 大夫之 戀礼許曾 吾髪結乃 漬而奴礼計礼
【語釈】 ○歎きつつ 「つつ」は、継続の意。贈歌の語を受けたもので、そちらは恋の上ではなく、片恋をすることの嘆きであるのに、これはすなおに、恋の嘆きとしたもの。○大夫の恋ふれこそ 「ますらをのこ」は、ますらおを鄭重にいったもの。巻九(一八〇一)に「古《いにしへ》の益荒丁子《ますらをのこ》の各《あひ》競ひ」とある。「恋ふれこそ」は、後世の「恋ふればこそ」にあたる古格の語で、用例の多いものである。○吾が結ふ髪の 「結ふ髪」は原文「髪結」であり、「もとゆひ」と訓まれていたが、下の続きから見ると、「もとゆひ」ではなく、髪そのものと解される。『全註釈』『注釈』は元暦本の旧訓に従っている。従うべきである。○漬ぢてぬれけれ 「漬づ」は、湿める意。「ぬれ」は集中に例の少なくない語で、ぬるぬるとすべって、解ける意である。これは当時の俗信で、男に思われると、それが女の髪に感応して、髪が湿って、ぬるぬると解けると信じられていたのである。「けれ」は「こそ」の結び。
【釈】 嘆きながら、ますらおのこが我を恋うていればこそ、私の髪は湿りを帯びて、ぬるぬるとすべって解けていたことでございます。
【評】 皇子の歌に対する和え歌である。その歌は片恋をしてこられたことについての現在の嘆きであるが、娘子の歌は、その片恋ということを巧妙に否定し、皇子の恋の心は、それと同時にわが身に感応し、我は以前から、髪が漬じてぬれていたことだというのである。この先方の心がこちらの身に感応していたということは、当時の女性にあっては大きなことで、このことをいっているのは、すなわち皇子の御心を受け入れるということを、婉曲にあらわしているものといえる。語の上に贈歌を受けているものは、「嘆きつつ」だけで、わずかに内容を変えたにとどまり、他は一切、すなおに受け入れており、のみならず贈歌よりもはるかに踏み入った心をいっているのである。相聞の和え歌としては珍しいものである。おそらく身分の懸隔がこうした態度を取らせたもので、実際に即したものと思われる。一首、つつましく用意深いが、さわやかさを失ってはいないものである。
弓削皇子《ゆげのみこ》、紀皇女《きのひめみこ》を思ふ御歌四首
(192)【題意】 「弓削皇子」は、上の(一一一)に出た。「紀皇女」は、天武天皇の皇女で、上の(一一四)の穂積皇子と御同腹で、御母は蘇我|大〓娘《おおぬのいらつめ》である。すなわち異母兄弟である。
119 吉野河《よしのがは》 逝《ゆ》く瀬《せ》の早《はや》み しましくも よどむことなく ありこせぬかも
芳野河 逝瀬之早見 須臾毛 不通事無 有巨勢濃香問
【語釈】 ○吉野河 山河の急流としていったものであるが、風景の愛《め》でたい所としての意ももたせたもの。○逝く瀬の早み 「逝く瀬」は、流れゆく河瀬。「早み」は、早くして。○しましくも 「しましく」は、御世のしばらくの意の古語。「しまらく」ともいった。○よどむことなく 「よどむ」は、水の流れ行かずに滞ってある意で、現在も用いている。初句よりこれまでは、吉野河の流れの状態をいったものである。しかしそれをいうには、わが恋の上のよどみないことを心に思いつついつているもので、心としては譬喩に近いものである。それを讐喩とまでの差別をせず、双方を一つにした関係においていっているものである。また、吉野河は眼前のものではなく、記憶の中のものである。○ありこせぬかも 「こせ」は、希望の助動詞「こす」の未然形。「ぬか」の「ぬ」は、打消の助動詞。「か」は疑問の助詞で、反語の意をもっている。「ぬか」は、願望をあらわし、巻五(八一六)「梅の花今咲ける如散り過ぎず吾家《わがへ》の苑《その》にありこせぬかも」、巻六(一〇二五)「千年五百歳《ちとせいほとせ》ありこせぬかも」などがある。「も」は、詠歎の助詞。全体では、あってくれぬか、あってくれよの意。
【釈】 吉野河の流れゆく河瀬の、しばらくもよどむことがない、それにゆかりある、わが恋も障ることなくあってくれぬか、あってくれよ。
【評】 求婚の不成功に終わるということはありがちなことで、当事者にとっては第一に思われ、強くも思われることである。この歌は、それのないことを念じていると、その心に繋がって、記憶の中にある吉野河の河瀬の水の澱むことのない状態が、その風景の愛《め》でたさとともに心に浮かんでき、それが現にいだいている不安な気分とは反対ななつかしいものに感じられたのである。それで、現在の気分を心に置いて吉野河の河瀬の状態を初句より四句まで言いつづけ、結句に至って現在の気分を言い添えたのである。この二つの気分を一つにしていうということは純粋な気分でされたことで、そこに知的な思議がはいつていないことがこの歌の特色である。この吉野河は、心としては当然譬喩であるが、譬喩には知的なものが加わるのに、ここにはそれがない。すなわち譬喩より一歩手前のもの、または、譬喩を超えてのものである。さらにまた、初句より三句までを、「よどむ」の序詞とすることも可能で、しいていえば、その趣がないともいえないが、序詞は語の変化を際やかにすることによって初めて興味のあるもので、これは同じく知的なものをまじえなければできないものである。この歌はそれでもない。要するに、この歌は純粋な気分のものである。気分を主として、記憶にある風景を捉えきたって、それによって一つの心象をあら(193)わすということは、後世に喜ばれた法であって、この時代としてはきわめて新しいことである。一方には実用性の素樸な力強さを旨とした歌が行なわれている際に、同時に一方には、あくまでも文芸性のものにしようとする風もすでに萌していたのである。これはこの皇子の歌の風で、続いての歌にも見えているものである。なお、風景を四句まで思うままに言い続け、一首の歌としての統一をももち得ているということは、作歌の修練の結果、一首の形が十分にわがものとなっていたがためである。
120 吾妹子《わぎもこ》に 恋《こ》ひつつあらずは 秋萩《あきはぎ》の 咲きて散《ち》りぬる 花にあらましを
吾味兒尓 戀乍不有者 秋芽之 咲而散去流 花尓有猿尾
【語釈】 ○恋ひつつあらずは (一一五)に出た。○秋萩の 原文「芽」の漢字をはぎにあてたにつき、『講義』は詳しく考証している。わが国で始めた字だろうという。「秋萩」と「秋」を添えていうのは、花を連想させようとしてである。○咲きて散りぬる 咲いて散って行くところので、「散り」に中心を置いての言い方。「散り」は死ということを暗示したものである。○花にあらましを 花のごとくあろうものをで、「まし」は仮定の推量で、上の「あらずは」の帰結。
【釈】 吾妹子に、このように恋いつづけて悩んでいず、できることならわが身は秋萩の、咲いて散って行くところの花であろうものを。
【評】 恋の懊悩より死を連想するということは、一種の常識のようになりきたっていたものである。この歌もその範囲のものである。この歌は、しみじみとした、消極的な気分の流れているものである。その上から見ると、萩は眼前のものではなく、上の歌と同じく、懊悩されている気分の中に思ひ浮かべられたものと思われる。「秋萩の咲きて散りぬる」という語は、語としては慣用されている範囲のものばかりであるが、「秋萩」と、「秋」の添った語を選び、「咲きて散りぬる」と、その脆さを暗示する語を選んで、それによって死を暗示させているのは、一つの気分に浸っていての上のことと思われる。作歌の態度としては、上の歌と同一なものである。
121 暮《ゆふ》さらば 塩《しほ》満《み》ち来《き》なむ 住吉《すみのえ》の 浅香《あさか》の浦《うら》に 玉藻《たまも》刈《か》りてな
暮去者 塩滿來奈武 住吉乃 淺鹿乃浦尓 玉藻苅手名
【語釈】 ○暮さらば塩満ち来なむ 「暮さらば」は、夕方と時が移り来たならば。「塩」は、潮。上からの続きで、夕方の満潮。「な」は完了「ぬ」(194)の未然形で強意、「む」は未来の推量。○住吉の浅香の浦に 「住吉」は、今の大阪市の住吉神社のある地。「浅香の浦」は、住吉神社の南方の浦。堺市に現在浅香山町がある。○玉藻刈りてな 「玉藻」の「玉」は、美称。「刈りてな」の「て」は、完了「つ」の未然形。強める意をもったもの。「な」は、我に対しての希望をあらわす助詞。
【釈】 夕方となってきたならば、定まっている潮が満ちてくることであろう。今の中に、住吉の浅香の浦の藻を刈り取りたいものだ。
【評】 この歌は、題詞が添っていなければ、単に行楽の歌と見られうるもので、題詞と合わせてみて、はじめて恋の焦燥を詠んだものとわかる歌である。前二首の歌と同じく、相逢うことにあこがれつつ、その機会の逸しやすいことを嘆いていられた折、住吉の浅香の浦の藻刈りのことを思い浮かべ、それをいうことによって現在の心をあらわしたものである。難波の海は、当時の人の憧れの対象となっていた所で、皇子も知られ、また、そこでの藻刈りの行楽は、よく記憶されていたことと思われる。それの思い浮かべられたのは、現在の心と相通うものがあるからである。それをいうことによって妨げの起こらないうちに相逢おうという心をあらわそうとしたのは、前二首の歌と同じく、気分を主とし、それを、自然をかりて具象しようとしたので、その上ではこの歌は、全部が自然に対する心とされている点で、最も文芸性の多いものである。これは譬喩というよりも、譬喩を超えた暗示的なものといえるものである。
122 大船《おほふね》の 泊《は》つるとまりの たゆたひに 物《もの》思《も》ひ痩《や》せぬ 人《ひと》の子《こ》ゆゑに
大船之 泊流登麻里能 絶多日二 物念痩奴 人能兒故尓
【語釈】 ○大船の泊つるとまりの 「大船の」は、大きな船が。「泊つるとまり」は、「泊つる」は、碇泊するで、予定の航程を終えて碇泊する意の動詞。「とまり」は、船着き場。以上、「たゆたひ」にかかる序詞。○たゆたひに 「たゆたひ」は、「たゆたふ」の名詞形。動揺する意。大船は小舟と違って、たやすく岸に着けられず、水上に動揺する意で、それを恋の上で、事が進捗せず、心の動揺をつづけている意に転じている。○物思ひ痩せぬ 「物思ひ」は熟語。嘆きに。「痩せぬ」は、身も衰えて痩せた。○人の子ゆゑに 「人の子」は、「子」は愛称で、愛する人の意。人の子は、人妻の意にも用いる。ここは紀皇女を、客観的にいったもの。「ゆゑに」は、根拠、理由をあらわす語。人のゆえで。
【釈】 大船が碇泊する船着き場で、水上に動揺している、それにゆかりのある心の動揺をつづけて、嘆きに身も衰えて痩せた。愛する人のゆえで。
【評】 片恋の嘆きをつづけてきた成りゆきとして、自身を反省し大観しての強い嘆きの独詠である。嘆きの中心は事の成否の(195)見とおしのつかない動揺の苦しみである。「大船の泊つるとまりのたゆたひに」は、そうした気分の具象化としては、適切な、強力なものである。「大船の泊つるとまりの」は序詞であるが、譬喩的なもので、したがって眼前の景を捉えての実感と思わせるところがある。結句の「人の子ゆゑに」の、愛しつつも客観視しての言い方も、序詞に照応して統一あり調和あるものとなっている。この種の歌としては、響の高い、すぐれた作である。
【評 又】 四首、皇子の皇女を思われて、ある期間、事の成否もわからずにいられた間に、その時々に詠まれたものを、事件が一つ事であるために並べ記してあったものと思われる。すなわち(八五)より(八八)に至る磐姫皇后の御歌の連作であるのとは異なって、心の動揺があるのみで、展開をもったものではない。第一首は、事の滞りなく進まん願い、第二首は、恋の疲れよりの悲哀、第三首は、機会を得ようとしての焦燥、第四首は、恋の疲れの深まってきた結果、恋そのものを反撥しようとする積極的な心の動きで、一貫した心理の推移の認められないものである。その意味でこの四首は、連作の意図があったものではないが、結果から見ると、おのずからその趣をもつようになったものである。
三方沙弥《みかたのさみ》の園臣生羽《そののおみいくは》の女に娶《あ》ひて、未《いま》だ幾時《いくだ》も経ず病に臥して作れる歌三首
【題意】 「三方沙弥」は、三方は氏であるが、沙弥は名であるか、または出家としての称であるかわからない。(九五)に禅師という名のあったところから、ありうべきものだからである。出家としての称であろうという。それだと、沙弥は、十戒は受けたが、比丘となるまでの修行は積まないための称だという。伝は不明である。「園臣生羽の女」は、園は氏、臣は姓、生羽は名で、その女である。古の結婚は、その当座は、男が女の家へ通うのが普通であったが、これは結婚後間もなく男は病臥して通えなくなった際の歌である。
123 たけばぬれ たかねば長《なが》き 妹《いも》が髪《かみ》 この頃《ごろ》見《み》ぬに 掻きれつらむか 三方沙弥
多氣婆奴礼 多香根者長寸 妹之髪 比來不見尓 掻入津良武香 三方沙弥
【語釈】 ○たけばぬれ 「たけば」は、「たく」は四段活用の動詞で、たぐるというに近い意をもった古語。集中に例が少なくない。ここと同じく垂れている髪を、結うために上げる意にも用い、また、女が機《はた》を織る時、筬《おさ》を使って緯糸《よこいと》を織り込むために、掻上《かか》げる作用をもいい、また馬上で手綱を掻いぐることをも「たく」といっている。『講義』は「たぐる」という語は、「たぎ、くる」の約と考えられると注意している。ここの「たけば」は、生羽の女が、結婚はしたが、まだ少女の時のままに、髪を結わず、後ろに垂らしているが、それが上げて結うだけの長さに達していない状態を対象としていっているもので、髪を上げるの意。「ぬれ」は、(一一八)に出た。ここは、髪が短いために、結うと、ずるずるとずりさが(196)る意。○たかねば長き妹が髪 「たかねば」は、髪を上げずにおけば。「長き」はさすがに長きにすぎる意。「妹が髪」は、感歎をこめていったもの。女の髪は、童女期には四方に垂らして現在のおかっぱのようにしていた。これを目ざしと呼んだ。やや長じると、後ろへ垂らした。これを放髪《はなりがみ》とも童放《うないはなり》とも呼んだ。十四、五歳となり、婚期に達しると、髪を上げて結った。この髪を上げるのが女の成年式である。『講義』は、後世はこれを鬢そぎと称し、女に許婚の男があれば、その男が事にあたり、なければ、父兄などが代ってしたといっている。こうした式は、古風を墨守するものであるから、古もそうした風があり、女が放髪《はなりがみ》のまま結婚したとすると、髪上げをするのは、夫たる男のすることであったとみえる。今もその状態の下で、妹の髪を問題としているものと思われる。○この頃見ぬに この頃じゅう、病臥して見ずにいる間に。○掻きれつらむか 「掻きれ」は『代匠記』の訓で「みだり」を正したものである。束ねた髪の短く垂れるのを櫛で掻き入れる意。「つ」は完了の助動詞。「らむ」は現在を推量する助動詞。「か」は、疑問。○三方沙弥 贈主を明らかにするための注。
【釈】 結おうとして上げれば、ずるずるとほどけ、上げずにおけば、さすがに長きにすぎるところの妹が髪よ、この頃じゅう病臥して見ずにいる間に、きっと伸びて乱れていることであろうか。
【評】 題詞のごとき事情の下にある沙弥には、その妻の放髪《はなりがみ》にしている髪の形が、しきりに気になったのである。これは当時の風習からいうと、当然のことに思える。当時の結婚は、男はもとより女も自由であって、その母にさえ謀らず、自分の意志だけでしたものである。ある期間が過ぎて、はじめて親に打ち明けるというのが風で、これは後世へまでも続いたことである。これは夫たる男より見れば、その妻に対する不安の起こらざるをえないことである。まして妻は親の許にあって、自分とは離れて暮らしているのであるから、この不安はいっそうのはずである。この不安から脱れる第一方法は、女はすでに夫をもっている者だということを、その周囲の者に示すために、髪上げをすることである。男よりいえば髪上げは、妻たる女に対して標《しめ》を結ったのと同様なのである。この髪上げは、第一に夫たる男のする事で、後の歌で見ると、沙弥もすでにそれを試みたのであるが、妻はまだ幼くて、それをするだけに髪が伸びきっていず、したがって十分にはできなかったのである。それだと放髪でいると同様で、不安が起こらざるを得ず、その不安は同時に思慕の情を募らせるものとなるのである。この歌の一に髪のことのみをいっているのはそのためで、「たけばぬれたかねば長き妹が髪」と、委曲を尽くしていっているのは、夫たる自分の手で、髪上げをしてやろうと試みたことも背後に置き、それの十分にできなかった、すなわちわが物との標《しめ》を結いきれなかった不安をこめての語である。「この頃見ぬに掻きれつらむか」は、放髪の状態がふさわしくなくなり、それとともに妙齢な、まだ夫のない女という状態が、人の目にたつ者となったろうかというので、思慕というよりは、それを内にこめた、不安の情の方を主としての語である。病臥の間はどれほどであるか、歌ではわからないが、さして久しい間とは思われない。それを「掻きれつらむか」と力を入れていっている。しばらくの間に髪の毛は著しく伸びるものではないから、この語には誇張がある。この誇張はその不安をいうに必要なものだったのである。一首、気分が集中してい、調べがとおって、微細な事柄を溶か(197)し込み得ているのは、実情の強いものがあるからである。
124 人《ひと》皆《みな》は 今《いま》は長《なが》しと たけと言《い》へど 君《きみ》が見《み》し髪《かみ》 乱《みだ》れたりとも 娘子
人皆者 今波長跡 多計登雖言 君之見師髪 乱有等母 娘子
【語釈】 ○人皆は今は長しと 「人皆」は、周囲の人のすべてはで、「は」は、他に対させた意のもの。「今は」は、過去に対させたもの。「長し」は、放と《はなりがみ》としては長すぎる意。「と」は、といってで、いうは、次の句に譲ったもの。○たけと言へど 髪を上げよというけれども。○君が見し髪乱れたりとも 「君が見し髪」は、君が結婚の時見た髪で、放髪。「乱れたりとも」は、それとしては伸びすぎて、乱れていようともで、そのままにしているのを省いている。○娘子 作者としての注で、前の歌の答の意をあらわしたもの。
【釈】 周囲の人はすべて、今は髪が長くなったといって、上げて結えよというけれども、君が結婚の時に見た放髪は、伸びすぎて乱れていようとも、そのままにしておこう。
【評】 娘子の和え歌は、単純と純情そのもので、沙弥の「掻きれつらむか」ということの真意を汲み取ることができず、ただの髪の状態として受け取っているのである。しかし、それによって満腔の純情を披瀝しているのである。「人皆は」は、家族をはじめ周囲の人全部であろうが、それらの人は娘子と沙弥の婚事を知らずにいっているとみえる。その中にいて娘は、「君が見し髪乱れたりとも」と思い入って、それに応ぜずにいるのである。「乱れたりとも」の言いさしも、この場合適切な表現である。一首全体としては、むしろたどたどしさをもっているが、それがかえって内容を生かしている。成女期に入ったばかりの女性が、事細かに叙事をして、それをただちに抒情にする技法をもっていたことは、その時代を思わせられることである。
125 橘《たちばな》の 蔭《かげ》履《ふ》む路《みち》の 八衢《やちまた》に 物《もの》をぞ念《おも》ふ 妹《いも》にあはずて 三方沙弥
橘之 蔭履路乃 八衢尓 物乎曾念 妹尓不相而 三方沙弥
【語釈】 ○橘の蔭履む路の 「橘」は、田道間守が垂仁天皇の勅を奉じて、常世の国から将来したという果樹で、常緑の小喬木。「蔭履む路」は、その葉の落している蔭を踏んで歩く路で、藤原の京の大路のさまをいったもの。橘を街路樹として、京の大路に植えることは、この御代よりも古い頃からのことで、勅令によって行なわれたことである。これは暑い時にはその蔭に憩い、渇いた者はその果によって、医させようとする御心よりのことであった。後には僧侶の手によって地方にまでも及んだ。以上、序詞。○八衢に 「八」は、数の多い意。「衢」は、道股《ちまた》で、道の岐《わか》れ(198)ている意。多くの岐れ路の意で、幾筋かの路の交叉している所の称。上からの続きは路の状態で、それを「さまざま」の意の譬喩に転じて下に続けている。「に」は、状態を形容した語で、のごとくの意のもの。八衢のごとく、さまざまに。○物をぞ念ふ 嘆きをすることであるの意。○妹にあはずて 終止形の「ず」からただちに「て」に続けるのは、古語の一つの格であって、あわずしてと意は同じである。妹に逢わなくていてで、病のために違えない意をいったもの。○三方沙弥 作主としての注。
【釈】 橘の木蔭を踏んで歩く路の、その八衢のごとくに、さまざまに嘆きをすることであるよ。妹に逢わずにいて。
【評】 この歌は、娘子に訴えた歌ではなく、沙弥自身の心やりのために詠んだ趣のあるものである。病臥して妻の許へ通えずにいるところから起こる思慕と不安の情を直叙したもので、心としては第一首の、娘子に贈ったものと同じものである。今は贈歌としての新釈なく、思うままに詠んだものと取れる。初句より三句までの清新さも調べの強さも、そこからきているものとみえる。この歌は伝唱されるものとなって、天平十年秋、橘諸兄の家の宴で、人によって歌われたことが、巻六(一〇二七)で知られる。それは、「橘の本《もと》に道|履《ふ》み八衢に物をぞ念ふ人に知らえず」というので、第二句、三句、五句ともかわっているが、これは伝唱の常である。一般性とともに魅力のある歌だったことが知られる。
【評 又】 三首、一つの特殊の状態の下における夫婦生活を、微細にあらわしているもので、歌物語の趣をもったものである。しかし、事としての展開のないもので、それとしては足りないものというべきである。
石川|女郎《いらつめ》、大伴宿禰|田主《たぬし》に贈れる歌一首 【即ち佐保大納言大伴卿の第二子なり。母を巨勢朝臣と曰ふ。】
【題意】 「石川女郎」は(一〇七)以後しばしば出た。「大伴宿禰田主」については、題詞の下に注があって「即佐保大納言大伴卿之第二子。母曰2巨勢朝臣1也」とある。大納言大伴卿は、(一〇一)に出た安麿である。したがって母巨勢朝臣は、(一〇二)巨勢郎女であり、安麿の妻となったことと取れる。田主の事は史上には見えない。
126 遊士《みやぴを》と 吾《われ》は聞《き》けるを 屋戸《やど》貸《か》さず 吾《われ》を還《かへ》せり おその風流士《みやびを》
遊士跡 吾者聞流乎 屋戸不借 吾乎還利 於曾能風流士
【語釈】 ○遊士と 「遊士」を「みやびを」と訓んだのは、本居宣長である。下には「風流士」の字もあてている。これにつき『講義』は、巻六(一〇一六)「海原の遠き渡《わたり》を遊士の遊ぶを見むとなづさひぞ来し」に、同じく「遊士」とあり、その左注に、「右の一首は、白紙に書きて星の壁に懸け著けたり。題して曰はく、蓬莱の仙媛の化《な》れる嚢蘰《ふくろかづら》は、風流秀才の士の為なり。これ凡客の望み見る所にあらざらむか」とある。この(199)「遊士」は注の「風流秀才の士」であり、したがって「風流士」も、同じく風流秀才の士を略したものだろうといっている。「遊士」は、宮びた人すなわち大宮人の趣をもった人の意であるが、ここでは転じて、教養よりくる物わかりの好さと、情《なさけ》に対して敏感な人という意になっているのである。○吾は聞けるを 吾は聞いているものをで、それなのにの余意のある語。○屋戸貸さず吾を遠せり 「屋戸」は、ここは宿の意のもの。宿を貸して寝させようとせず吾を還したで、この事は左注に詳しい。○おその風流士 心鈍き風流士よの意。
【釈】 君はみやびおだとわれは聞いていたものを、それなのに宿を貸して寝させずにわれを還した。まことは心鈍いみやびおであるよ。
【評】 事情に即しての歌で、事情を離しては解し難いほどの歌である。心は、女郎の方から田主に挑んだのを、素気なく扱われたそのいまいましさから、田主を嘲った歌である。歌としてはいうほどのものではなく、しいていえば、こうした極度の私事《わたくしごと》を根にしての嘲りを歌にしたものは、珍しいという程度のものである。撰者がここに収めたのは、その背後にある事柄の興味に引かれてのことと思われる。すなわち歌物語としての興味である。みやびおという語は、漢語の風流秀才之士をあててはいるが、いったがように、物わかりの好く、情《なさけ》に敏感な意のものであったことは、田主の情《なさけ》に敏感でなかったのを見て女郎が「おその風流士」と嘲っているのでも明らかである。一方には「大夫《ますらを》」を讃えつつ、同時に他方には、こうした意味の「みやびを」をも讃えていたことがわかる。この「みやびを」は、後の平安朝時代には理想的の人物とされたのであるが、その傾向はすでにこの時代に萌していたものであることが知られる。
大伴田主、字を仲郎と曰へり。容姿佳艶にして、風流秀絶なり。見る人聞く者歎息せざることなし。時に石川女郎というものあり。自《みづか》ら雙栖《さうせい》の感を成し、恒に独守の難きを悲しむ。意に書を寄せむと欲して未だ良信に逢はず。爰に方便を作《な》して、賤しき嫗に似せて、己《おのれ》堝子《なべ》を提げて寝側に到り、哽音※[足+滴の旁]足して戸を叩きて諮《い》ひて曰はく、東隣の貧女火を取らむとして来れりといふ。ここに仲郎暗き裏《うち》に冒隠の形を識らず。慮の外に拘接の計に堪へず。念《おもひ》の任《まま》に火を取り、跡に就き帰り去りぬ。明けて後、女郎既に自媒の愧づべきを恥ぢ、復《また》心契の果さざるを恨む。因りて斯の歌を作り、以て贈り謔戯《たはぶれ》としき。
大伴田主、字曰2仲郎1。容姿佳艶、風流秀絶。見人聞者靡v不2歎息1也。時有2石川女郎1。自成2雙栖之感1、恒悲2獨守之難1。意欲v寄v書未v逢2良信1。爰作2方便1而似2賤嫗1己提2堝子1而(200)到2寝側1、※[口+更]音※[足+滴の旁]足叩v戸諮曰、東隣貧女將v取v火來矣。於v是仲郎暗裏非v識2冒隱之形1。慮外不v堪2拘接之計1。任v念取v火、就v跡歸去也。明後、女郎既恥2自媒之可1v愧、復恨2心契之弗1v果。因作2斯歌1以贈2謔戯1焉。
【釈】 「字」は、実名のほかにもっている名。「仲郎」は二郎の意で、旅人《たびと》の弟。「秀絶」は、類を絶って秀でている意。「雙栖」は共に栖むで、夫婦生活。「独守」は、女性の独身生活。「良信」は、適当な使。「賤しき嫗に似せ」は、下賤の老女の様を装い。「堝子を提げ」は、「堝」は、土鍋《どなべ》、「子」は、中国で名詞の下に添えて用いる字。堝子は、火を容れるための器。「※[口+更]音」は、声の咽《むせ》ぶ意で、老女の物言い。「※[足+滴の旁]足」は、足の進まない意で、同じく老女の歩みぶり。「諮ひ」は、謀《はか》りて。「火を取らむとして来れり」は、火種を貰おうとして来たで、これは当時普通に行なわれていたこと。「冒隠の形を識らず」は、「冒」は覆うで、覆い隠している形、すなわち老女を装っている姿を、よくは認めず。「慮の外に」は、思いも寄らぬ事なので。「拘接の計に堪へず」は、同寝しようとするたくらみを空しくしたの意。「跡に就き」は、入って来た所をとおって、帰って行った。「明けて後」は、翌朝。「自媒」は、媒《なかだち》のない情事。「心契」は、心に予期したこと。「謔戯」は、戯れる意。
大伴宿禰田主、報《こた》へ贈れる歌一首
127 遊士《みやびを》に 吾《われ》はありけり 屋戸《やど》貸《か》さず 還《かへ》しし吾《われ》ぞ 風流士《みやびを》にはある
遊士尓 吾者有家里 屋戸不借 令還吾曾 風流士者有
【語釈】 ○屋戸貸さず 泊めて共寝をせず。
【釈】 遊士でわれはあったことであるよ。宿を貸さずに還したわれこそは、まことの風流士であることだ。
【評】 女郎の「おその風流士」と嘲ったのに対して、「吾ぞ風流士にはある」と嘲り返したのである。女郎の嘲るのは、いったがように、風流士の資格として情《なさけ》に敏感であるべきを、その反対であったと嘲るのであるが、田主の嘲り返すのは、同じく風流士の資格としての礼儀正しさという一面を強調し、女郎のような恥ずべき振舞いをする者は、それと知っても、わざと知らぬさまを装ったのだということを言外にもたせていっているのである。これはもとより実際とは異なっているが、わざとそういったところに嘲りの心があるのである。
(201) 同じ石川女郎、更に大伴田主中郡に贈れる歌一首
128 吾《わ》が聞《き》きし 耳《みみ》によく似《に》る 葦《あし》の若末《うれ》の 足《あし》痛《ひ》く吾《わ》が背 勤《つと》めたぶべし
吾聞之 耳尓好似 葦若末乃 足痛吾勢 勤多扶倍思
【語釈】 ○耳によく似る 「耳」は、聞きということをあらわす古語。「似る」は、ごときで、「吾が背」に続く。噂のごとく。○葦の若末の 「若未」は、植物の生きて伸びてゆく先端をさす名詞。ここでは、次の「足」へ、畳音の関係でかかる枕詞。○足痛く吾が背 「足痛」は、訓がいろいろある。『講義』はその中の「足|痛《ひ》く」を取り、これは左注の田主の「足疾」をいったもので、訓についての類例として、券四(六七〇)「月読の光に来ませ足疾《あしひき》の山を隔てて遠からなくに」、巻七(一二六二)「岸病《あしひき》の山椿さく八岑《やつを》越え」を引いている。これに従う。「吾が背」は呼びかけ。○勤めたぶべし 「勤め」は、自愛の意。「たぶ」は、「賜ふ」の古語で、先方を主にしての敬語。自愛したまうべきであるの意。
【釈】 わが前から噂に聞いていたごとく、足を引いて歩く君よ、自愛したまうべきである。
【評】 田主の報《こた》えての嘲り返しに対し、女郎はそれに相当したことをいわなくてはならないこととして、局面を転じて、表面は好意のありそうに見えて、実は嘲り返しを含んだ歌をもってしたのである。「葦の若未の」という枕詞は工夫してのもので、この際のものとしては心の利いたものといえる。
【評 又】 以上の三首は、いったがように歌物語としての興味を主としたものである。歌としては三首とも優れたものではなく、背後の事件の方は、精細なる注を要するほどの特殊なものであることによって、そのことは明らかである。なおこの歌物語の興味の大半は、前よりの関係から見ると、石川女郎が主となっているところにあったと見える。また、ここにある歌はすべて善意をもってのものではなく、反対にある程度の悪意をもったものである。作歌態度として、生活の実際に即するとすると、そこにはおのずから悪意のものもありうるわけである。しかし本集の歌を見ると、悪意をもってのものはきわめて稀れで、例外と称する程度にすぎない。これは歌というものはそのようにあるべきものとして、歌の性格とさえしていたことと思われる。例外となる悪意のものは、上代の歌垣の贈答の中に見える。それはいわゆる言葉争いで、歌をもって相手をいい負かそうとする刺激に駆られてのものである。その言葉争いは、善意をもってする相聞の贈答の中に伝わっていて、型のごとくにさえなっている。ここの三首は、その言葉争いが、たまたま悪意を含んでいるということが特色となっている。もっとも悪意とはいっても淡泊な、諧謔といえば言いうる程度のものである。『全註釈』はこれを虚構の作品とし、作者は田主の兄旅人ではないかといっている。興味は注を主としたもので、歌はそれに付随した趣があり、また歌も同一人の手に成った趣をもっているからである。うなずける新見である。
(202) 右は仲郎の足疾によりて、この歌を贈りて問ひ訊《とぶら》へるなり。
右、依2中郎足疾1、贈2此歌1問訊也。
大津皇子の宮の侍《まかたち》石川女郎、大伴宿禰|宿奈麿《すくなまろ》に贈れる歌一首 【女郎、字を山田郎女といふ、宿奈麿宿禰は、大納言兼大将軍卿の第三子なり】
【題意】 「侍」は、侍婢従女をあらわす古語である。石川女郎には、元暦本以下多くの本には注があって、「女郎字曰2山田郎女1也」とある。それだと、(一一〇)の石川女郎の、「女郎字曰2大名児1也」とは別人である。大伴宿禰宿奈麿は同じく元暦本などには注があって、「宿奈暦宿祢者、大納言兼大将軍卿之第三子也」とある。大納言兼大将軍卿は、大伴安麿である。その第三子だと、上の田主の弟である。続日本紀によると、和銅元年従六位下から従五位下に叙せられ、左衛士督、安芸周防二国の按察使を歴任し、神亀元年従四位下を授けられている。没年は知れない。
129 古《ふ》りにし 嫗《おみな》にしてや かくばかり 恋《こひ》に沈《しづ》まむ 手童《たわらは》の如《ごと》【一に云ふ、恋をだに忍びかねてむたわらはの如】
古之 嫗尓爲而也 如此許 戀尓將沈 如手童兒【一云、戀乎太尓忍金手武多和良波乃如】
【語釈】 ○古りにし嫗にしてや 「古りにし」は、年寄ってしまったの意。「嫗」は、老女の称。「にして」は、にあって。「や」は、疑問の助詞。係となって、反語を成すもの。○恋に沈まむ 「沈まむ」は、捉われ尽くす意を具象的にいったもの。現在の溺れるというにあたる。○手童の如 「手童」は「手」は、「た」で、接頭語。童と同じ。○一に云ふ、恋をだに忍びかねてむ 恋だけでもこらえ難くすることであろうかの意。
【釈】 年寄った老女であって、このように恋に溺れるべきであろうか、あるまじきことだ。ただ泣くだけの童のように。一にいうは、恋だけでもこらえ難くすることだろうか。
【評】 女郎の方から宿奈麿に言い寄った歌である。歌の性質としては訴えであるが、この歌は、我とわが恋情を訝り咎めて独語しているごとき趣をもったもので、訴えの方は間接にしたものである。「古りにし」という語が、その意味を最もよくあらわしている。古りにしといってはいるが、実はそれほど年をしていたのではなく、誇張した語と取れる。女の方から言い寄るという、不自然なことをしている状態から、そういわずにはいられなかったであろうが、一つには、早婚であった当時の習慣がいわせているところもあろう。しかしそれらよりも力強いものは、女郎と宿奈麿との身分の隔りで、それを意識し、自省している態度を取ることが、訴えんとするこの場合、第一に必要なものと思われる。「かくばかり」は、具象性の強い語で、こ(203)れによってそれ以下を生動させている。一首、痛切な情を抒《の》べたものであるが、用意をもったもので、力量のある作である。
長皇子《ながのみこ》、皇弟《いろとのみこ》に与ふる御歌一首
【題意】 「長皇子」は、巻一(六〇)に出た。「皇弟」はどなたであるか明らかでない。この語は本来天皇の御弟をあらわす語で、また「弟」という語は男女を通じて用いていたからである。もし皇子の御弟の意で用いてあるとすれば、日本書紀天武紀に、「妃大江皇女、生2長皇子与2弓削皇子1」とあるので、同母弟弓削皇子が最も近いことになる。
130 丹生《にふ》の河《かは》 瀬《せ》は渡《わた》らずて ゆくゆくと 恋痛《こひた》き吾弟《わおと》 こち通《かよ》ひ来《こ》ね
丹生乃河 瀬者不渡而 由久遊久登 戀痛吾弟 乞通來祢
【語釈】 ○丹生の河 吉野川の支流。吉野郡黒滝村赤滝から発し、霊安寺村(五条市)で吉野川に合する。この川の川上に、官幣大社丹生川上神社下社があり、また吉野川への合流地点に近く、宇智野もある。古来皇室に縁故深い地である。○瀬は渡らずて 「渡らずて」は、「ず」よりただちに「て」に続けたもので、その中間の「あり」または「し」を略したもの。用例の少なくないもの。「渡る」は、河に橋がないので徒渉をする意で、それをせずして。渡り難い事情があってのことと思われる。○ゆくゆくと 「ゆくゆく」は、思う心が遂げられずに、猶予《たゆた》っている意。巻十九(四二二〇)「大船のゆくらゆくらに、面影にもとな見えつつ、かく恋ひば」の「ゆくらゆくら」と同意。この例は少なくない。○恋痛き吾弟 「恋痛き」は、「恋ひ痛き」の約で、甚しく恋しい意。「吾弟」は、呼びかけ。○こち通ひ来ね 「こち」は、「此方《こち》」にもあて、また発語の「いで」にもあてている。ここは「此方《こち》」の意と取れる。此方は、長皇子の邸のある方。「通ひ来ね」は、「来《こ》」の命令形に、希望の助詞「ね」を添えたもの。
【釈】 丹生の河の、瀬の徒渉をわれはせずして、こころ動揺して、甚しく恋うているわが弟よ。こちらの方へ通って来て下さい。
【評】 豊かな、落着いた趣をもった御歌である。この趣は、丹生の河に緊密に関係を付け、したがって客観的に扱っているところから生まれてきているものである。長皇子には、当時河を徒渉することのできない事情があられたのかもしれぬが、それがないにしても、年長者としていわれているのであるから、当然のこととも見られる。とにかく、双方が等しく見ている、そして大きくはない丹生の河を、このように客観的に扱われるのは、歌を日常生活の具としていたところから、自然に馴致された風であろうと思われる。それがまた、当時の歌風ともなっていたのである。時を隔てた後世から見ると、その態度が文芸的に見えるものとなったのである。この御歌の趣はそこにある。
(204) 柿本朝臣人麿、石見国《いはみのくに》より妻に別れて上り来し時の歌二首 并に短歌
【題意】 柿本朝臣人麿のことは、巻一(二九)に出た。人麿が晩年石見国に在ったことは、この歌によって知られ、また(二二三)によって、石見国で死んだことも知られる。在住は、国司の一人としてであろうと推測され、また官は、守、介などよりも低く、掾、目、史生の程度であったろうとも推測されている。任地で妻のあったことはこの歌によって知られる。その妻は、この歌に続いての歌を作っている依羅娘子《よさみのおとめ》であったろうといわれる。それだと後妻で、石見で娶った人と思われる。娘子の住居は、国府から一里余り隔つた角の里であった。「上る」は、京に上るのであるが、妻を置いてのことであるから、公用を帯びて国庁より遣わされたものと取れる。また、その季節は、これにつぐ長歌によって、黄葉の盛んに散る時であったことが知られる。それこれより見て、この使は、国庁より朝廷に対して一年四度の使を出すその一つの朝集使《ちようしゆうし》ではないかとされている。これは諸国の介、掾、目などの一人が、朝集帳を持って京に上り、遠国は十一月一日を期として、弁官、式部省、兵部省について、その国の行政全般の事を申す使である。なお延喜式によると、石見国より調を貢する行程は、上り二十九日、下り十五日であるので、日取りの上からもほぼそれにあたるからである。
131 石見《いはみ》の海《うみ》 角《つの》の浦廻《うらみ》を 浦《うら》なしと 人《ひと》こそ見《み》らめ 潟《かた》なしと【一に云ふ、礒なしと】 人《ひと》こそ見《み》らめ よしゑやし 浦《うら》はなくとも よしゑやし 潟は【一に云ふ、礒は】なくとも 鯨魚《いさな》取《と》り 海辺《うみべ》を指《さ》して 和多豆《わたづ》の 荒磯《ありそ》の上《うへ》に か青《あを》なる 玉藻《たまも》沖つ藻《も》 朝羽振《あさは ふ》る 風《かぜ》こそ寄らめ 夕羽振《ゆふはふ》る 浪《なみ》こそ来寄《きよ》れ 浪《なみ》の共《むた》 か寄りかく寄る 玉藻《たまも》なす 依《よ》り寝し妹《いも》を【一に云ふ、はしきよし妹がたもとを】 露霜《つゆしも》の 置《お》きてし来《く》れば この道《みち》の 八十隈《やそくま》毎《ごと》に 万《よろづ》たび 顧《かへり》みすれど いや遠《とほ》に 里《さと》は放《さか》りぬ いや高《たか》に 山《やま》も越《こ》え来《き》ぬ 夏草《なつくさ》の 念《おも》ひしなえて 偲《しの》ふらむ 妹《いも》が門《かど》 見《み》む 靡《なび》けこの山《やま》
石見乃海 角乃浦廻乎 浦無等 人社見良目 滷無等【一云、礒無登】 人社見良目 能咲八師 浦者無友 縱畫屋師 滷者【一云、礒者】無鞆 鯨魚取 海邊乎指而 和多豆乃 荒礒乃上尓 香青生 玉藻息津藻 朝羽振 風社依米 夕羽振流 浪社來縁 浪之共 彼縁此依 玉藻成 依宿之妹乎【一云、波之伎余思妹之手本乎】 露霜乃 置而(205)之來者 此道乃 八十隈毎 万段 顧爲騰 弥遠尓 里者放奴 益高尓 山毛越來奴 夏草之 念思奈要而 志怒布良武 妹之門將見 靡此山
【語釈】 ○石見の海角の浦廻を 「石見の海」は、緊張をもっていおうとするところから、客観的に大きく捉えたもの。「角」は和名抄に「石見国那賀郡都農【都乃】」とある地で、今は都野津町(江津市)。「浦廻」は、「浦」は、入江、「廻」は、辺。で、浦の辺りの意で、その辺一帯をさしたもの。ここは石見国の国府(今、浜田の東に、下府《しもかふ》、国分などいう地のある辺りかという)から、東方四、五里の所である。ここは人麿の妻の家のある地。○浦なしと人こそ見らめ 「浦なしと」は、浦がないといつてで、浦は風景のおもしろい所としていったもの。日本海の海岸には、事実浦が少ない。「人こそ見らめ」は、他人は見ることであろう。○潟なしと人こそ見らめ 「潟」につき『講義』は、普通干潟の意であるが、日本海岸では異なっていて、現在、砂洲によって海と界している一種の鹹湖の称として用いている。古くも同じであったろうといっている。この潟も、この浦と同じく、風景のおもしろい所としていっているもの。○一に云ふ、礒なしと 「礒」は、岩石の多い海岸。風景としては潟の方が妥当である。潟を親しく感じない人の謡い替えたものと取れる。○よしゑやし浦はなくとも 「よしゑやし」は、「よし」は、そのままに任す意で、よしやというにあたる。「ゑやし」は詠歎の助詞で、「よしゑ」とだけの用例もある。「浦はなくとも」は、おもしろい風景の浦はなかろうとも。○よしゑやし潟はなくとも 上と同じ。○一に云ふ、礒は 「礒」については、前と同じ。以上四句の対句は、我には浦、潟にまさる物があるという意を、余意としたもの。○鯨魚取り海辺を指して 「鯨魚取り」は、「鯨」は鯨、「魚」は魚の古語。「取り」は獲《と》りで、意味で海にかかる枕詞。「海辺を指して」は、海辺を目指しての意。○和多豆の 「和多豆」は、今、渡津(江津市)と呼び、江川《ごうのかわ》を越した所にある。渡津は、船で渡る港の意で、河口に因《ちな》んでのものと思われる。ここは都野津よりもさらに東にあたっている。すなわち道は、海寄りを東へ東へと向かって行くのである。(一三八)の歌により、ここを「ニキタヅ」と訓む説もある。○荒礒の上に 「荒礒」は、荒ら磯の約。「礒」は岩石の意で、海岸に現われている大きな岩群をいったもの。「上に」は、「野の上」などのそれと同じく意味の軽いもの。下の藻の所在。○か青なる玉藻沖つ藻 「か青」の「か」は、接頭語。「玉藻」の「玉」は、美称。この「玉藻」は、荒礒の上に生えている物。次の長歌の、「荒礒には玉藻ぞ生ふる」とあるにあたる物。「沖つ藻」は、沖の藻で、同じく次の長歌の「いくりにぞ深海松《ふかみる》生ふる」にあたる物で、文字どおり沖の物である。「玉藻沖つ藻」と重ねているのは、その多いことをあらわしたので、「か青なる」は、この双方にかかっていて、荒礒の一面に真青な感をいったもの。「沖つ藻」の下に、感歎の語がある意のもの。○朝羽振る風こそ寄らめ 「朝」は、次の「夕」に対させたもので、終日すなわち絶えずという意を、具象的にいおうとしたもの。朝川、夕川というと同じ類のもの。「羽振る」は、鳥の羽を振る、すなわち羽ばたきをする意の語で、羽ぶくともいう。海上の風や浪が、岸の方へ寄せようとして、音を立てて来るのを譬喩的にいったもの。「寄らめ」は、『考』『講義』の訓で、風その物が寄せて来ようの意である。○夕羽振る浪こそ来寄れ 夕べに鳥の羽ばたきのごとき音を立てて浪が寄せて来るの意で、これも上と同じく、浪その物が寄せて来る意である。「和多豆の荒礒」以下ここまでは、起首「浦なしと」「潟なしと」の他人の思わくに対し、「よしゑやし浦はなくとも」「潟はなくとも」と、対句を続けて力強く反撥した、その実証としていっているものであって、人麿の心としては、「浦」「潟」はないが、和多豆の海岸は、「か青なる玉藻沖つ藻」と「朝羽振る風」と「夕羽振る浪」との絶えざるものがあって、それにも勝る風景であるといって、徹底的に風景として叙しているものであ(206)る。この風景に刺激されて、妹思う感を発し、次いで「浪の共か寄りかく寄る」と、風景と妻とを一つにして言っているのである。「風こそ寄せめ」と訓むと、景によって感を発するというこの歌の特色である道行きの心が失われて、静的なものとなって来る。作意との関係から、「寄らめ」の訓は、この歌にとっては重大なものである。○浪の共か寄りかく寄る 「浪の共」は、浪と共にの意。用例の多い古語。「か寄りかく寄る」は、「か」「かく」は相対した語で、あちらに寄りこちらに寄るで、浪のままに靡く意。「寄る」は連体形で、下の「玉藻」に続く。○玉藻なす依り寝し妹を 「玉藻なす」は、玉藻のごとくで、柔らかな状態を捉えての譬喩。「依り寝し妹」は、寄り添って共寝をした妹。○一に云ふ、はしきよし妹がたもとを 「はしきよし」は、愛《は》しき、すなわち愛すべきに、感歎の助詞「よ」と「し」の一語となったものを添えた語。「たもと」は、手元で、腕で、手枕の意でいったもの。この二句は、上よりの続きが不明である。本行に従うべきである。○露霜の置きてし来れば 「露霜の」は、露と霜との意で、いずれも置く物であるところから、置くと続けて、その枕詞としたもの。「置き」は、残して置く意で、同音異義で転じたもの。「し」は、強め。○この道の八十隈毎に 「この道」は、人麿の今歩みつついる道で、山道。すなわち国府より都農、和多豆と経て、今は山にかかっている道。「八十隈」は、多くの曲がり目で、道を曲がると、後ろが見えなくなる意でいっていたもの。○万たび顧みすれど 「万たび」は、限りなく何度も。「顧みすれど」は、顧みれどを強めていったもの。妻の恋しさに振り返って見たがの意。○いや遠に里は放りぬ 「いや遠に」は、ますます遠くに。「里は放りぬ」は、妻の家のある角の里は離れたの意。「放る」は遠ざかるの基をなしている語。○いや高に山も越え来ぬ 「いや高に」は、ますます高くで、下の「山」の状態。道は、海寄りより山道へ移って来て、その山道は次第に高くなってゆくことをあらわしたもの。「山も越え来ぬ」は、山もまた越えて来たで、妻より遠ざかることを旨としていったもの。○夏草の 夏草は烈しい日光に照らされて、萎《しな》えるのを特色として、下の「しなえ」へ意味でかかる枕詞。○念ひしなえて 「念ひ」は、嘆き。「しなえ」は、思いに弱る状態。○偲ふらむ 我を恋い思うらむで、これは連体格で、下の「妹」に続く。○妹が門見む 妻が住んでいる家の門を目に見よう。○靡けこの山 「靡け」は、命令形で、靡けよ。「この山」は、眼前に眼を遮って高く立っている山に、低く、横になって、わが視界を展かせよの意で呼びかけた形。
【釈】 石見の海の角の浦の辺りを、風景のおもしろい浦がないと思って、他人は見ていよう。風景のおもしろい潟がないと思って、他人は見ていよう。よしやそうした浦はなくても、よしやそうした潟はなくても、沖より海べを指して、この和多豆の荒礒に生えている、真青な玉藻、沖の藻の美しさよ、それに朝は音立てて風が寄って来よう、夕は音立てて浪が寄って来ることである。その浪と一緒になって、あちらへ寄りこちらへ寄っている玉藻のように、我に寄り添って共寝をした妻を、あとに残して置いて来たので、わが行く山道の、そこに限りなくある曲がり角ごとに、限りなく何度となく振り返って見るけれども、妻の住む角の里はますます遠ざかって来た、山もまたますます高い方へと越えて来た。夏草のように我を思ってしおれているだろう妻の、その家の門を見よう、靡き片寄って我に見せしめよ、この眼の前の山よ。
【評】 この歌はいったがように、公用を帯びて京へ上るしばらくの期間を、その妻との別れを惜しむ情を抒べたものである。その期間は、延喜式にある調《みつぎ》を貢する日程でさえも、上り二十九日、下り十五日というのである。人麿の旅はおそらく、その下りの日程ほどをも要さないものであったろうから、短い期間のことであったろう。その期間の別れを惜しむ情を抒べるため(207)に、長歌二首、そのおのおのに二首の反歌の添ったという大連作をしているのである。人麿は連作を好んだ人であるが、これほどまでに際やかな連作を試みているのは、巻一(三六)より(四八)にわたる吉野宮行幸の際に献った賀歌以外にはないので、この歌は人麿にとっても力作というべきである。それほどのことにこれだけの力作を試みたということは、常識的に見て異常なことであって、人麿独自の内部生活に深い根ざしをもってのことで、そこから必然的に発したものと思わざるを得ない。その内部生活とは何かというと、人麿は現実生活に対してきわめて強い執着をもっていたが、その執着の中心を夫婦生活に置いていた。これは人間の一般性であって、ひとり人麿に限ったことではないが、彼の執着は特に強いものであって、執着の半面として必ずそれに伴うところの、それの遂げ難い悲哀を満喫したところの人で、そこに人麿の特色があるのである。これをその歌で見ると、人麿には夫婦関係の喜びを詠んだ歌といっては全くなく、あればすべてその満たされざる悲しみである。言いかえれば憧れを通しての悲しみである。その委細はしばらくおき、今この連作についてみても、彼はしばらくを妻と離れていなければならないということになると、そのいささかの不如意を通して、ただちに夫婦関係の全幅を思い返させられてき、その妻の価値をもかつて感じなかったまでに痛感してき、同時に永久に再びは逢えない別れででもあるかのごとき悲哀を感じるとともに強い憧れをも抱いてきている。これはおそらくは人麿に限ったことであって、その間の消息をこれらの歌はつぶさに語っているのである。
この長歌は、二首の連作のその第一首であるが、二首は一貫した手法の下に詠まれている。手法というのはいわゆる道行き体である。道行き体の歌は上代の歌謡に少なくないものであるが、ことに民謡集である巻十三には多いもので、夫の妻問いを道行き体をもって詠んだものは、この当時の庶民にはきわめて愛好されたと思われる。この二首はその体に倣ったもので、国庁より京への使として国府を発し、角《つの》、和多豆《わたず》と海べ寄りの道を経て、高角山《たかつのやま》渡《わたり》の山、屋上《やかみ》の山と山道に移って、京の方へと向かって行く道行きである。この体は、行く行く景によって情を発し、景と情とを渾融させつつ、変化と統一とをもたせることを型としているものであるが、これらの歌もそれに倣ったも(208)ので、景は海と山、情は別れきたった恋を悲しむものである。この第一首は、海の景と、それが刺激となって思慕されてくる妻と、山の景と、山によって遮られて妻の里が見えなくなり、見えないのが刺激となって思慕が最高潮に高められ、言い難い悲哀となってくるのをもって打ち切ったものである。景としては山と海との対照、情としては思慕よりその高まりの哀情に至るのが、この第一首の大体である。
表現の上から見ると、一首、小さな切れ目はあるが、心としては一と続きとなっていて、一句一文と異ならないものである。また、海と山とを対照的に扱っているところから、心としてはおのずから二段となっている。第一段は起首より、妻の住む角の里の海岸の美景を叙した「夕羽振る浪こそ来寄れ」までである。一に海の景である。一段二節になっており、前節は「よしゑやし潟はなくとも」までで、単調な、何の慰めもないことをいい、後節は、「鯨魚取り海辺を指して」以下で、和多豆の荒磯の玉藻沖つ藻の、風浪にゆらぐ美観があり、自身はそれによって独り慰められていることをいっているのである。この一段は、人には荒涼たる僻地の石見にも、我には妻があって慰められているという余意をあらわすとともに、さらに自体としては、第二段の序詞としたもので、玉藻は妻の譬喩となっている。その点、古歌謡の構成、また短歌の序詞と同様である。なお、第一段での「角」の捉え方は甚だ巧妙である。「石見の海角の浦廻を」と卒然と歌い出しているが、しかもそれは「浦なし」「潟なし」という平凡な景としてである。しかし事は妻の住地で、そこから発足したごとくである。すなわちこの歌としては重大な場所である。しかるに直接には妻に触れていわず、前進して和多豆に到り、浪に揺らぐ玉藻を見て連想し回想する、その直前において第一段を打ち切っているのである。これは道行き風の、情によって情を起こす型に従ってのもので、その起状はじつに巧妙である。
第一段から第二段への移りも微妙である。第一段は叙景でとどめ、第二段はその叙景を承けて妻の譬喩として、「玉藻なす依り寝し妹を、露霜の置きてし来れば」と、全篇を貫く思慕の情の第一声を、思い出の形においてここでいい、上の角と隠約ではあるが緊密に照応させるところから、角が妻の里であるということは明らかにしているのである。
なおついでにいへば、人麿は国司の一人として国府に住んでいなければならないのに、角はその国府からは四、五里も離れているので、妻の里としては遠きにすぎるという感が起きる。しかし上代にあってはこれは珍しくなかったことで、巻十三には、大和に住む男が近江の妻の家へ楽しんで通っている歌があり、なおその類のものが限りなくある上からも察しられる。またこれにつぐ(一四〇)の人麿の妻の歌により、人麿は発足前妻と逢っていることがわかるのである。
第二段は、「浪の共か寄りかく寄る」以下結末までで、山を取材とした部分である。こちらは道行き体とはいえ、風景に触れるところはほとんどなく、惜別の情のみを主として一本調子に進め、最後に「靡けこの山」の高潮に至らせているものである。これは第一段との対照において、心理的に見ても自然なことであり、また技巧的に見ても変化あらしめていることで、これまた妥当を思わしめるものである。量としては全体の三分の一で、やや少なきにすぎる感があるが、これにつぐ反歌こそは、山の(209)風景の多いものであるから、それを連続せしめると、優に均衡を保ち得ているものとなる。
なお細部的にいぅと、結末の五句が注意される。「夏草の念ひしなえて偲ふらむ妹が門見む靡けこの山」は独立した短歌に近いものである。反歌は長歌を要約しての繰り返しだということは、定説となっている。しかるに長歌の中心は普通結末にある。長歌を要約するということは、おのずから結末の繰り返しとなるのである。この結末は、それ自体が独立の短歌となりうるものなので、反歌の性質を知る上には、格好なる参考となるものである。また、「靡けこの山」という句は、その異常にして同時に心理的自然をもっている点で、人麿の歌にあっても名句のごとくいわれているものである。しかるにこの句に似たものが、しばしばいった巻十三(三二四二)にある。それは、「靡けと人は踏めども、かく依れと人は衝けども、心なき山の奥礒山《おきそやま》三野《みの》の山」というので、この歌はこの当時流行していたと思われるものである。伝統を重んじた人麿のこの結句が、その歌の影響を受けていないとは言い難いことで、また受けても怪しむに足りないことである。
全篇を総括して、技巧の上から見れば、最も注意される一つの事がある。それは詠み方の際立って立体的だということである。本来道行き体は平面的になるべきものである。この体は、景によって情を発し、それを連続させることによって事の進行をあらわしてゆくものだからで、魅力もそこにかかっているのである。しかるにこの歌には平面的に事を叙そうとする心が少なく、最も肝腎なその妻との別れにさえも、いったがごとくきわめて隠約な間に、余情としてあらわす態度を取っているのである。全篇を貫いているのは惜別の情で、風景はその情を起こさしめる刺激として捉えているにすぎないものに見える。その意味においては、風景は惜別の情を具象化する方便であるかのごとくにさえみえる。和多豆の海岸の風景のごときは、明らかにそれを思わせている。この立体的なのはすなわち人麿の人柄の現実生活に執着の強かったということであるが、さらにいえば主情的であり、理想家肌であったということである。その歌の実際に即することの強いのは、一つは現実生活に執着することのためであるが、今一つは当時の歌風のいたさしめることである。またそのことの力強く輝かしいのは、人麿の詩情のいたさせることで、本質的にいえば理想家肌であったがためである。この事は、これにつぐ長歌についても同様である。
反歌
132 石見《いはみ》のや 高角山《たかつのやま》の 木《こ》の間《ま》より わが振《ふ》る袖《そで》を 妹《いも》見《み》つらむか
石見乃也 高角山之 木際從 我振袖乎 妹見都良武香
【語釈】 ○石見のや 「や」は、詠歎の助詞。国名をいっているのは、長歌の起首と同じく、その土地を重んじる心よりのことである。○高角山(210)の木の間より 「高角山」の名は今は明らかには伝わっていないが、江津市の島星山かといわれている。石見の国府から京へ上る道にある山で、国府から東にあたる都野、渡津の海寄りを経て、ただちに入り行く山で、しかも妻の里を見下ろす可能性のある山の中の高峯とだけは知られる。「木の間より」は、山の木の間を通してで、その山は木のある山だったのである。○我が振る袖を妹見つらむか 「振る袖」は、やや遠く離れていて語《ことば》の通じ難い場合、心を通わすためにするしぐさである。多くは女のすることで、女はまた領巾《ひれ》をも振ったので、集中にその例がきわめて多い。「妹見つらむか」の「つ」は完了、「らむ」は現在推量、「か」は、疑問の助詞で、妹は見ていたであろうか。
【釈】 石見の高角山の木立の間を通して、名残を惜しんでわが振る袖を、妻は見ていたであろうか。
【評】 高角山は、その名によって角の里にある山と想像される。それを越すと、妻の住んでいる里の見えなくなる、いわゆる見おさめをする山であったとみえる。その山を下ろうとして、見おさめをしつつ、遠くいて心を通わすしぐさとしての袖を振ることをしたのは、心理的には自然である。時は十月の末の初冬のことであるから、空が晴れていて、「妹見つらむか」という想像も起こりうる状態であったろうと思われる。しかし、常識からいえば、木の間隠れの人麿が妻に見えるはずはない。それを可能のことのように想像したのは、妻に対する憧れの情の極まつての妄念というよりほかはない。長歌の「妹が門見む」より、この「妹見つらむか」は、さらに昂奮の度の高いもので、異常な情熱である。道行き体の歌としての時間の推移に関係させてのことである。表現としては歌柄が大きく、堂々としていて、声調の高いものである。これは事の可能を信じて、当然の推量としていっているからである。
133 小竹《ささ》の葉《は》は み山《やま》もさやに さやげども われは妹《いも》思《おも》ふ 別《わか》れ来《き》ぬれば
小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 吾者妹思 別來礼婆
【語釈】 ○小竹の葉は 「小竹」は、笹で、風に音を立てやすい物。『新考』は、石見の山には現在も笹の多いことを注意している。○み山もさやに 「み」は、美称。「山」は、高角山。「さや」は、動詞さやぐの語幹で、「さやに」は、さやぐさまの副詞。山がその葉ずれの音でさやさやとの意。「路も狭《せ》に」、「岩もとどろに」などと同じ語格で、「も……に」という形をもって、次の語の修飾句となっているもの。○さやげども 「乱」の訓は、諸説があって一定していない。旧訓は、「みだれ」、『代匠記』は「まがへ」、『考』は「さわげ」、『攷証』は「まがへ」で『代匠記』と同じく、『檜嬬手』は「さやげ」である。『講義』は、「乱」を「さやげ」と訓むべき例は古来一つもないとし、「まがへ」は成立し難く、「みだれ」の旧訓が最もあたっているものとしてそれに従っている。しかし、『講義』の引いている古事記、神武の巻の「畝火山|木《こ》の葉さやぎぬ」、巻十(二一三四)、「葦べなる荻の葉さやぎ秋風の吹き来るなべに」を初め、木の葉の風に鳴る音をさやぐという例は限りなくある。「乱」を「さやげ」に用いた例はなくても、ここは義をもってそう訓ませようとしたものと解したい。それは「乱」を「みだれ」と訓むと、視覚も加わって来る感が起こ(211)るが、ここは聴覚のみのものである方が、一首の心理として適当だと思われるからである。さらにいうと、一首の中心は「吾は妹思ふ」の一点に集中した気分にあり、それとの対照として捉えてあるものであるから、反対でありながらも相通うところのものでありたいからである。疑問を残して「さやげ」とする。意味は、鳴るけれども。○われは妹思ふ別れ来ぬれば 「われは妹思ふ」は、昂奮した気分が反動的に打沈んできた状態での心持である。「別れ来ぬれば」は、別れて来てしまったのでの意で、妻との距離の遠い見難いものであることを、上の句に注釈的に添えたもので、形からいえば上の句と倒句となっているもの。
【釈】 笹の葉は、山全体をもさやさやという音にしているけれども、我はただ妻を思っている。別れて来てしまったので。
【評】 高角山は、その高い所には木立があるが、その他は笹であったとみえる。今は高い所を去って、笹原の中の道を歩きつづけている時の心で、道行きとしての時間的進行を示している歌である。心理としても、袖を振った時の昂奮は鎮まって、今は全く見られないものとして、憧れの心を抱いて歩んでいるのである。すなわち時間に伴う心理の推移も示しているのである。技巧は、全山を占めている笹の葉の葉ずれの音と、わが沈んだ心との対照であって、その対照によって打ち沈んだ心を暗示しているのである。「乱友」を「みだれども」と訓んでも、同じく聴覚を主としてのものではあるが、初冬の風に、全山の笹の葉がさやかに鳴るということは、おのずから情を催させられるものであるから、この場合、その音の騒がしい中に、同時に一種のさみしさを感じたものと思われて、その点からいうと、視覚もまじる趣のある「乱友《みだれども》」よりも、純粋に聴覚のみの「さやげども」の方に心を引かれる。なお、「さやにさやげども」と、頭韻を踏んだと見ることが、その感情にふさわしく思われて、これまた心を引かれる点である。初句より三句までは平面的に環境を叙し、四、五句は反対に、その環境の中にある自身を立体的に捉えているところ、対照法の際やかに用いられている作である。上の歌とともに、浪漫的であると同時に、現実的であった人麿を端的に示している作である。
或本の反歌
134 石見《いはみ》なる 高角山《たかつのやま》の 木《こ》の間《ま》ゆも わが袖《そで》振《ふ》るを 妹《いも》見《み》けむかも
石見尓有 高角山乃 木間從文 吾袂振乎 妹見監鴨
【語釈】 ○石見なる 石見にあるで、下の「高角山」の位置を断わったもの。「石見のや」の強い感激のものに較べると、これは説明にしたものである。○木の間ゆも 「ゆ」は、より。「も」は、詠歎の助詞。○わが袖振るを われの袖を振ることの方を主としたもの。「わが振る袖を」は、「袖」が中心となっており、感動を主としたものであるが、これは事を主としたものである。○妹見けむかも 「か」は、疑問で、それに「も」(212)の詠歎の添ったもの。「妹見つらむか」は、「らむ」によって現在の疑問としてあるが、これは「けむ」によって過去の疑問としたもので、思い出の形である。
【釈】 石見にある高角山の木立の間から、わが袖を振ることをしたのを、妹は見たことであったろうか。
【評】 本行の方は、昂奮した感を、事をとおして詠んだもので、したがって訴えるものであるのに、これは事そのものの方を主として詠んだもので、事を説明したにすぎないものである。抒情の歌としては、内容が全く異なっている。これは人麿の作風ではない。思うに、この歌が伝唱されてゆくうちに、次第にわかりやすいものとされてゆき、ついにここまで来たのであろう。こうした現象は、口承文学としては普通のことである。
135 つのさはふ 石見《いはみ》の海《うみ》の 言《こと》さへく 韓《から》の崎《さき》なる いくりにぞ 深海松《ふかみる》生《お》ふる 荒礒《ありそ》にぞ 玉藻《たまも》は生《お》ふる 玉藻《たまも》なす 靡《なび》き寐《ね》し児《こ》を 深海松《ふかみる》の 深《ふか》めて思《も》へど さ宿《ね》し夜《よ》は いくだもあらず 這《は》ふつたの 別《わか》れし来《く》れば 肝向《きもむか》ふ 心を痛《こころいた》み 念《おも》ひつつ 顧《かへり》みすれど 大船《おほふね》の 渡《わたり》の山《やま》の 黄葉《もみちば》の 散《ち》りの乱《まが》ひに 妹《いも》が袖《そで》 清《さや》にも見《み》えず 嬬隠《つまごも》る 屋上《やかみ》の【一に云ふ、室上山】山《やま》の 雲間《くもま》より 渡《わた》らふ月《つき》の 惜《を》しけども 隠《かく》ろひ来《く》れば 天伝《あまづた》ふ 入日《いりひ》さしぬれ 大夫《ますらを》と 念《おも》へる吾《われ》も 敷《しき》たへの 衣《ころも》の袖《そで》は 通《とほ》りて濡《ぬ》れぬ
角障經 石見之海乃 言佐敞久 辛乃埼有 伊久里尓曾 深海松生流 荒礒尓曾 玉藻者生流 玉藻成 靡寐之兒乎 深海松乃 深目手思騰 左宿夜者 幾毛不有 延都多乃 別之來者 肝向 心乎痛 念乍 顧爲騰 大舟之 渡乃山之 黄葉乃 散之乱尓 妹袖 清尓毛不見 嬬隱有 屋上乃【一云、室上山】山乃 自雲間 渡相月乃 雖惜 隱比來者 天傳 入日刺奴礼 大夫跡 念有吾毛 敷妙乃 衣袖者 通而沾奴
【語釈】 ○つのさはふ石見の海の 「つの」は、今の蔦《つた》。『考』は、綱《つた》、蘿《つた》と通じて用いる字で、葛《つた》の意だとし、「さはふ」は、荒木田久老は『日(213)本紀歌之解槻落葉』で、「さ」は接頭語で「這ふ」か、または「多延《さはふ》」の意かとしている。蔦は石に多く這い纏わる意で、石にかかる枕詞。古くからあるものである。○言さへく韓の崎なる 「言さへく」の「さへく」は、「障ふ」と同様の語で、言葉が通ぜず、隔りある意で、「韓」にかかる枕詞。「韓の崎」は、『新講』は、石見風土記逸文に、「可良島秀2海中1、因v之可良埼云、度半里」とある地だという。それだと、渡津から東方十里ばかり、邇摩郡仁摩町宅野の海上にある韓島の、その海への出鼻である。『注釈』は、それでは道行き風の構成の上からみて、妻のいる角の里に遠過ぎるとして、文献と実地踏査の上から新解を試みている。それは渡津、江川、嘉久志、都野津、高田と道を進むと、高田の北の海岸に波子《はし》町があり、その東北に山があり、その海への出鼻の大崎鼻は、その辺の唯一の崎である。その山は今は名をとどめていないが、唐山と文献にある山で、その崎がここにある「韓の崎」だろうというのである。○いくりにぞ深海松生ふる 「いくり」は『講義』が詳しく考証している。『袖中抄』では「船路には石をくりともいへり」といい、『仙覚抄』では「山陰道の風俗、石をばくりと云也」といい、それ以外にもある。日本海の海岸で、航海の上で、暗礁を称する語である。「深海松」は、海松の一種。海松は海藻で食用とする物。形は松に似て、葉がない。深海松は、海の深い所の石に生えるからの称で、上の長歌の「沖つ藻」にあたる物と思われる。○荒礒にぞ玉藻は生ふる 「荒礒」も「玉藻」も、上の長歌に出た。この二句は、上の二句と対させたもので、海の叙景である。またこの海は、下の山と対させたもので、その対照は、上の長歌と同様である。○玉藻なす靡き寐し児を 「玉藻なす」は、上の玉藻をうけて、その玉藻のごとくの意。「靡き寐し」は、「靡き」は、靡き寄って。「寐し」は共寝をした。「児」は、愛称で、妻の意。○深海松の深めて思へど 「深海松の」は、同じく上の深海松をうけたもので、「の」は、上の「玉藻なす」に対させてある関係上、のごとくの意のものと取れる。その藻は海の深い所に生えるところから、心深くの意の深めの譬喩としたもの。心深く妹を思うけれどもの意。「玉藻なす」以下四句は、景によって情を起こしたもので、その関係は、上の長歌と同様である。○さ宿し夜はいくだもあらず 「さ宿し」の「さ」は、接頭語。「宿し」は、共寐をした。「いくだ」は、「幾ら」の古語。「あらず」は、連用形で、あらずしての意で、下の「別れ」に続く。○這ふつたの別れし来れば 「這ふつたの」は、這う蔦ので、蔦は這うまにまに蔓が別れるところから、意味で「別れ」の枕詞。「別れし来れば」は、「し」は、強意の助詞。別れて来たので。○肝向ふ心を痛み 「肝向ふ」は、肝は体内の五臓。「向ふ」は、それらが相対している意で、群がると同じである。心というものは、その間にあるものとして意味で心にかかる枕詞。「痛み」は、形容詞「痛し」の動詞化したものの連用形で、痛くしての意。心が悲しみのために痛くして。○念ひつつ顧みすれど 「念ひつつ」は嘆きつつで、「つつ」は継続。「顧みすれど」は、妻の里の方を顧みするけれども。○大船の渡の山の 「大船の」は、それの渡るところでの意で、渡《わたり》にかかる枕詞。「渡の山」は、所在は明らかでないが、江津市渡津付近の山、江川河口の渡り場近くの山かという。とにかく高角山より東方へ向かって進んで来るある地点の山である。この山と次の屋上の山とは、上の海としての韓の埼に対照させたものである。○黄葉の散りの乱ひに 「黄葉」は、実景として眼前にあるものである。「散りの乱ひ」は、「散り」も「乱ひ」もいずれも名詞である。「に」は、によって。黄葉の散り乱れて見分けのつかないために。「大船の」以下これまでの四句は、道行き体として山の風景を捉えていったものである。○妹が袖清にも見えず 「妹が袖」は、妻が我を慕って心通えと思って振っている袖の意である。「清にも見えず」は、「清に」はここは明らかには。「も」は詠歎。「見えず」は見られずで、明らかにも見られないの意。この二句は風景に刺激されて起こって来た感としていったものである。渡の山の位置はいったがようにわからないが、これ以下の続きによって、その日の夕方に近い頃に越えた山だということはわかる。その山から「妹が袖」の見えようはずのないことは当然のことであ(214)る。また妻も、その時まで袖を振りつづけていようとは、人麿も想像しなかったであろう。それなのに、そうしたことがあり得るように言っているのは、折から散っている黄葉の状態が、妻の振る袖の状態に似ていて、それを連想せずにはいられなかったものと思われる。今一つは、この黄葉の散っている場所は渡《わたり》の山の頂上で、そこからは上の高角山と同じように妻の里が見られうる所で、妹の袖の連想を支持するものがあったためと思われる。この頂上ということは迎えての感ではなく、この山と対させている次の屋上の山では、路が下りになっていることをいっているので、それとの対照として頂上ということが想像し得られることとしていっているものと思われるからである。「妹が袖清にも見えず」が連想としていっているものとすると、この二句は道行き体の型としているところの、風景の刺激によって起こってきた思慕をいおうとしてのものである。上の「黄葉の散りの乱ひに」とこの二句との続きがあまりにも緊密なので、一と続きのことをいっているがごとく感じられ、単に昂奮した思慕の情のいわせていたもののごとく取られるのであるが、それは作意ではなく解される。それで、上の二句と下の二句との間に、散る黄葉より連想されるところのという意を補って解すべきである。○嬬隠る屋上の山の 「嬬隠る」は、嬬が籠って住むの意で、屋と続き、いわゆる嬬星《つまや》をあらわす語で、屋の枕詞としてのもの。「屋上の山」は、所在は十分に明らかにはなっていない。『講義』は『日本地誌提要』に「高仙《たかせん》【又屋上山ト云、那賀郡浅利村ヨリ十三町五間】」とあるを引き、この浅利(江津市)は渡津からは東方で、山陰道の要路にあたっている。高仙山の辺りに屋上の山というがあればそれであろうといっている。また『新考』は、豊田八十代の実地踏査を引いているが、それは『講義』と同様である。大体高仙山がそれであろうと思われる。○一に云ふ、室上山 むろがみ山と訓むのであろうが、屋上の山の訓みの相違かと思われる。○雲間より渡らふ月の 「雲間」は、雲の絶え間。「より」は、進行の地点をあらわす語で、現在だと「を」であらわすもの。「渡らふ」は、「渡る」の未然形に「ふ」を添えて、その継続をあらわす語。渡り渡りするの意。「月の」は、月のごとくにの意のもの。雲の絶え間を渡り渡りする月のごとくにで、そうした月はしばらくより見えない意で「惜し」に続け、惜しを転義しての序詞。晴れた空に見る月よりもいっそう惜しまれるものであるところから、下の「惜し」の譬喩としていっているもの。「嬬隠る」以下これまでの四句は、道行き体の風景としていっているもので、屋上の山の実景である。○惜しけども隠ろひ来れば「惜しけども」は、後世の「惜しけれども」に相当する古格のもの。惜しいけれどもで、その惜しいのは、妻の里の全く見えなくなるのを惜しむ意である。「隠ろひ」は、隠るの継続をあらわす。「来れば」は、「来れ」は現在だと行けばというところで、前途に重点を置いていうところから、差別を付けていっているもの。次第に隠れ隠れして行くのに。この二句は、道行き体として、上の風景に刺激されて起こってくる思慕の情をいったものである。なお、「大船の」より「清にも見えず」までの六句と、「嬬隠る」以下「隠ろひ来れば」までの六句とは、その組立を一にした対句で、風景とそれより起こる感とを緊密に関係させたものであって、それとともに、道の進行をあらわし、時の推移をもあらわそうとしているものである。時の推移の方は、「入日さしぬれ」に至って明らかになっている。○天伝ふ入日さしぬれ 「天伝ふ」は、空を伝うで、日の状態をいってその枕詞としたもの。「入日さしぬれ」の「ぬれ」は、已然形のままで条件をあらわす古い語格であって、後世の「ぬれば」に相当するものである。なお、月が出ているとともに入日がさしているということは、矛盾するがごとくに感じられるが、初月に近い頃には普通に見られる珍しからぬことである。十一月一日には京にある予定をもって、調貢には二十九日を要する旅の第一日の夕べであるから、山上にあって冬空に出る細い月と入日とを見得たことは当然のことである。○大夫と念へる吾も 大夫すなわち立派な男子と自任している自分もで、思慕の情のさみしさに加えて、入日時の特殊なさみしさを感じさせられての余意をもったもの。○敷たへの衣の袖は通りて濡れぬ 「敷たへの」は、「敷」は、織目の繁(215)くあるすなわち良い物の意。「たへ」は、織物の総称で、讃える意で衣にかかる枕詞。衣、その他にも用いる。「衣の袖」は、涙を拭う物としていったもの。「通りて濡れぬ」は、涙が繁くして、濡れとおったの意で、上の大夫との関係上、涙を暗示的にいったもの。
【釈】 葛の多く這っている石《いわ》にちなみある石見国の、言葉に隔りある韓人《からびと》にちなみある韓の崎にある暗礁には、深海松が生えている。そこの荒磯には玉藻が生えている。その玉藻のごとくに我に罪き寄って共寝をしたかわゆい妻を、深海松のごとく心深く思ってはいるけれども、共寝をした夜とてはいくらもなくて、這う葛のように別れて来たので、悲しみのために心は痛くて、嘆き嘆き顧みをするけれども、大船の渡るにちなみある渡の山の、折からの黄葉の繁くも散り乱れるのに見分けがつかず、名残りを惜しんで妻が振っている袖が、はっきりとは見えない。妻が籠もって住む屋にちなみある屋上の【一にいう、室上山の】山の、折から雲の絶え間を移り移りして見える月のように惜しいけれども、妻の袖が隠れ続けて行くと、折しもさみしい入日が射して来たので、大夫《ますらお》と思っている我ではあるが、涙がしげくも流れて、それを拭う衣の袖は濡れとおってしまった。
【評】 この長歌も、その作意においても、その表現技法においても、前の長歌と全く揆を一にしたものである。すなわち作意としては、惜別の情の全幅を出そうとしているものであり、構成としては、海と山とを組合わせたものである。その上からいうと、全くの繰り返しである。異なるところは、道行き体として、場所と時間とを進展させ推移させてあることである。すなわち場所は、前の歌は、角、和多豆より高角山までであったのを、この歌ではそれより東方の韓《から》の崎より後、屋上の山までとし、時としては、前の歌では朝より昼のある時までであったのを、この歌では昼より夕べまでとしてあるのである。すなわち一日を二分したその後半の午後なのである。また構成の上にも異なるものがあって、前の歌では海の部分を多く、山の部分を少なくしているのに、この歌はそれとは正反対に、海の部分は少なく軽くし、山の部分を多く重くしているのである。これは二首を一連とする関係上、全体としての均衡を保たせようと用意しての結果と思われる。
この歌も二段になっていて、第一段は海の部分で、起首より「別れし来れば」までである。「玉藻は生ふる」までは海としての風景で、それ以下はその風景によって起こさせられてくる思慕惜別の情で、道行き体の型に従ったものである。海の風景としての韓の崎は、何ら創意の認められないもので、人麿のものとしては平凡を極めたものである。情の方では、「寐し」「さ宿《ね》し」を重ねてそのことを強調しているが、これは当時の一般性であるとはいうものの、特に人麿の好んでいっていることで、その意味において注意されるものである。
第二段は、「肝向ふ心を痛み」以下結末までで、これは山の部分である。一篇の中心はこの二段にあるが、表現技法はこの部分において極まっており、第一段と比較して勝っているという程度のものではなく、おそらくは人麿の生涯の頂点を示しているものであろうと思われる。その技巧の頂点というは、「大船の渡の山の、黄葉の散りの乱《まが》ひに、妹が袖|清《さや》にも見えず、嬬|隠《ごも》る屋上の山の、雲間より渡らふ月の、惜しけども隠ろひ来れば」の六句の長対である。ここの意義はすでに「語釈」でいったが、さらに総括していうと、人麿が渡の山で、「黄葉の散り」に「妹(216)が袖」を連想し、「その乱ひに」「清にも見えず」と嘆いたのは、時は初冬の晴れた日であり、距離は馬での山道の一日|路《じ》以内のことであるから、おそらくその里は清《さや》かに見えて、見えなかったのは妹が袖だけだったのであろう。六句を費やしていっているこのことは架空のことではなく、のみならず思慕の頂点たらしめたことだったのである。この六句は高らかにまた華やかに言い続けているが、これに対する次の六句とともに、その含蓄と余情においては限度以上を示しているもので、まさに驚歎すべきものである。なおまたこれは、問題は異なってくるが、人麿の創めたと思われる長歌の連作ということとも関係をもつことである。人麿の長歌の連作としては、これ以外には、巻一(三六)以下の「吉野宮に幸せる時、柿本朝臣人麿の作れる歌」と題するものがあるだけである。その歌は連作にせざるを得ぬ必要に駆られてのものである。すなわち(三六)は、天皇を一国の君主として仰いで賀したもの、(三八)は、天皇を現人神と仰いで讃えたものであって、この両面をいわないと、天皇に対しての賀の心は徹底し難いとして作ったものである。今のこの連作は、妻に対する思慕惜別といういささかの私情であって、長歌の連作というがごとき規模は要さないものとみえるが、しかしその情を按瀝し尽くそうとすると、長歌とせざるを得なかったのである。それは別れたる妻を思慕せしめらるる頂点は、再び見るを得ないと定めたその妻の里が、地勢の関係上、偶然な形において、今一たび視野に入りきたった時で、これは想像しやすいことである。人麿はこの旅においてそれを二度まで繰り返したのである。すなわち一度は高角山、一度は今の渡の山であって、しかも渡の山の方は、路の距離は加わり、時は夕べ近くなっていて、その最後の遠望であることは既定のことだったのである。この場合の人麿としては、それを中心としての歌を詠まずにはいられず、この要求は長歌の連作とせざるを得なかったのである。「大船の」以下の六句は、長歌の連作ということにもおのずからに触れているものである。さて、「嬬隠る」以下の六句は、形においては上の六句と長対をなしているが、心としては、対句の普通とする、意味を強めるための繰り返しのものとは全然別趣のもので、これは対立的なものである。すなわち渡の山ではいったがように山の頂上に立っての喜びであるが、この屋上の山では、それとは反対に山を下り行く悲しみなのである。すなわち高められたる思慕から、深められゆく惜別への推移を、道行きを通してあらわしているものなのである。その深められゆく惜別の情が、「天伝ふ入日さしぬれ」に極まって、ここに連作の長歌の結末となる。妙はいうべからざるものである。
反歌二首
136 青駒《あをごま》の 足掻《あがき》を速《はや》み 雲居《くもゐ》にぞ 妹《いも》があたりを 過《す》ぎて来《き》にける【一に云ふ、あたりは隠り来にける】
青駒之 足掻乎速 雲居曾 妹之當乎 過而來計類【一云、當者隱來計留】
(217)【語釈】 ○青駒の足掻を速み 「青駒」は、青毛と白毛とのまじった午の称である。青馬を貴ぶことは、中国から伝わったことで、青を陽の色として、それにあやかろうがためである。当時の道教の信仰からきているものと思われる。「足掻」は、馬の歩むことで、今もいっている。歩む様を具体的にいった語。「速み」は、速くして。○雲居にぞ妹があたりを 「雲居」は、雲の居る所、すなわち空であるが、転じて遙かなことの意にもした。ここはそれである。「妹があたり」は、妹の家のあるあたりを。○過ぎて来にける 「過ぎ」は、眼前の物でなくなる意で、遠く見えなくなることをあらわす語。「ける」は、「ぞ」の結び。○一に云ふ、あたりは隠り来にける 「隠り」は、「過ぎ」と心は同じである。
【釈】 わが乗る青駒の足掻が速くして、遙かにも、妻の家のあたりを、離れてきたことであるよ。
【評】 前の長歌もその反歌も、またこの長歌も、いったがように、道行きとして構成したものであるが、ここに至って、その道行きの進転に結末を付けた反歌を添えている。その結末も、駒の足掻が速いので、遠ざかってしまったと、一に駒に責めを負わせた言い方をしているのは、あくまでも感傷に終始したのである。「雲居にぞ」という語は、創意とまではいえないものであろうが、強い感をもったものである。一日の行程の隔たりを、こうした語でいっているのも、同じく感傷で、感はむしろこちらにあるといえる。長歌とのつながりは、「惜しけども隠ろひ来れば」の繰り返しとなっている。しかし哀感は長歌に譲り、叙事を主としたものにして、変化をつけている。この技法は人麿の創意である。
137 秋山《あきやま》に 落《お》つる黄葉《もみちば》 しましくは な散《ち》りまがひそ 妹《いも》があたり見《み》む【一に云ふ、散りなまがひそ】
秋山尓 落黄葉 須臾者 勿散乱曾 妹之當將見【一云、知里勿乱曾】
【語釈】 ○秋山に落つる黄葉 「秋山に」は、長歌の渡の山を言いかえたもの。「黄葉」は、呼びかけ。○しましくはな散りまがひそ しばらくの間は、散り乱れずにいよで、上に続けて同じく命令したもの。○妹があたり見む 妻の家のあたりを見よう。○一に云ふ、散りなまがひそ 四句、一本にはこうあるというのである。意味は同じである。本行に較べると、感動より一歩説明に近づいたので、劣っている。人麿の加筆と思われる。
【釈】 秋山に落ちている黄葉よ。しばらくの間は、そのように散り乱れずにいよ。妻の家のあたりを見よう。
【評】 長歌の「大船の渡の山」以下六句の心を繰り返したものである。その六句はいったがように、妻に対する思慕の情の頂点をなしているものなので、この長歌を連作の形においてみず、一首の独立したものとしてみれば、この反歌は型どおりのものである。人麿以前の反歌はしばしばいったがように、長歌を要約して繰り返すということがほとんど型となっていたのを、人麿はその型を破り新生面を拓《ひら》いたのである。その上からいうと、この反歌は逆戻りをさせた形のものである。しかし長歌そのままではなく、新しい趣を加えてはいる。長歌では「妹が袖|清《さや》にも見えず」といって、単に見えない嘆きにしていたのを、これ(218)は「妹が袖」を「妹があたり」として範囲を広めている。長歌で察すると、妹が里は見えている。したがって「妹があたり」も見得られるはずである。ここにいっていることは、その見える妹があたりをあくまでも見ようとする心で、そしてそれとともに、そのことを妨げている黄葉の散りの繁さをも暗示しているのである。長歌の昂奮につぐやや沈静した気分で、落着きとともに美しさをもった、客観性の豊かな作である。すなわち繰り返しとはいえ、進展と新味とのあるものである。
或本の歌一首并に短歌
138 石見《いはみ》の海《み》 津《つ》の浦《うら》を無《な》み 浦なしと 人《ひと》こそ見《み》らめ 潟《かた》なしと 人《ひと》こそ見《み》らめ よしゑやし 浦《うら》はなくとも よしゑやし 潟《かた》はなくとも 勇魚《いさな》取《と》り 海辺《うみべ》を指《さ》して 柔田津《にぎたづ》の 荒礒《あり》の上《うへ》に か青《あを》なる 玉藻《たまも》沖つ藻《も》 明《あ》けくれは 浪《なみ》こそ来よれ 夕《ゆふ》されば 風《かぜ》こそ来よれ 浪《なみ》の共《むた》 か寄りかく寄り 玉藻《たまも》なす 靡《なび》き吾《わ》が宿《ね》し 敷《しき》たへの 妹《いも》がたもとを 露霜《つゆしも》の 置《お》きてし来《く》れば この道《みち》の 八十隈《やそくま》毎《ごと》に 万度《よろづたび》 顧《かへり》みすれど いや遠《とほ》に 里《さと》放《さか》り来《き》ぬ いや高《たか》に 山《やま》も越《こ》え来《き》ぬ はしきやし 吾《わ》が嬬《つま》の児《こ》が 夏草《なつくさ》の 思《おも》ひしなえて 嘆《なげ》くらむ 角《つの》の里《さと》見《み》む 靡《なび》けこの山《やま》
石見之海 津乃浦乎無美 浦無跡 人社見良米 滷無跡 人社見良目 吉咲八師 浦者離無 縱惠夜思 滷者雖無 勇魚取 海邊乎指而 柔田津乃 荒礒之上尓 蚊青生 玉藻息都藻 明來者 浪己曾來依 夕去者 風己曾來依 浪之共 彼依此依 玉藻成 靡吾宿之 敷妙之 妹之手本乎 露霜乃 置而之來者 此道之 八十隈毎 万段 顧離爲 弥遠尓 里放來奴 益高尓 山毛起來奴 早敷屋師 吾嬬乃兒我 夏草乃 思志萎而 將嘆 角里將見 靡此山
【語釈】 ○津の浦を無み 「津」は、船の発着所の称で、「浦」は、入江。津となるべき浦がなくしてで、意としては通るが、下への続きが不自然である。「角の浦廻」のその「角」という地名を、この歌では結末に加えた関係上、ここにもあっては重複するとして、このような説明的な事柄(219)に歌い替えたと思われる。○柔田津の 「柔田津」という地名はないという。「和多豆」の「和」を、「にぎ」と訓んだところからのことと思われる。これも和多豆を知らない人のしたことと思われる。○明けくれば浪こそ来よれ 「朝羽振る風こそ寄らめ」を、「朝羽振る」の含蓄ある、したがってやや解し難き語を、「明け来れば」と平明なものに替えたのである。それとともに、「風」とあるのを、それよりも浪の方を印象的に思い、「浪」に替えたのである。いずれも伝承に伴って起こる普通な現象である。○夕されば風こそ来よれ 「夕羽振る浪こそ来寄れ」を替えたもので、理由は上と同じである。(一三一)は藻の浪に動揺することを暗示した、序詞としての叙景であったのを、単なる叙景としたのである。風と浪との順序の変わっているのも、そのためである。○靡き吾が宿し 「靡き」は、人麿が妻に寄った意。「依り寝し妹を」を替えたもので、人麿自身のこととした方が、哀感が深いものとして替えたと思われる。この替え方は、不自然で、甚だ平俗である。○敷たへの妹がたもとを 「敷たへの」は、上の長歌に出た。たもとへかかる枕詞。「たもと」は、ここは袖の意で、ここは妹そのものを言いかえたもの。この二句は(一三一)にはなくて、新たに加えられたものである。哀感を深めるためのものであることは、上に同じである。○里放り来ぬ 「里は」を、「里」と替えている。「里は」として、里に力を入れ、次の「山も」に照応させた微細さを失っている。○はしきやし吾が嬬の児が 「はしきやし」は、「愛しき」に「やし」の詠歎の添ったもので、「やし」は「よしゑやし」のそれと同様である。「嬬の児」の「児」は親しんで添えたもの。この二句は(一三一)にはないもので、本行のこれに続く「妹が門」がこちらにはないため、その補いとしてここに加えたものである。(一三一)の、昂奮し、それとともに飛躍をもって、わざと省いてあるものを、事柄を平明にしようがためにここに加えたのである。すなわち気分を主として、飛躍をもっていってあるのを、事柄を主として、細かく説明したのである。伝承の結果として極度に平明化したのである。○嘆くらむ角の里見む 「偲ふらむ妹が門見む」を替えたものである。(一三一)の、気分より描き出した、感覚的な「妹が門」という語を、常識的に、事件的に「角の里」に替えたので、それにつれられて、「偲ふらむ」よりも「嘆くらむ」という一般的の語に替えたものと思われる。
【釈】 (一三一)の歌との相違は「語釈」にゆずって、省く。
【評】 「或本」というのは、人麿の長歌が、時の人に愛唱され、また伝承されて、「和多豆」という地名を、「柔田津」と訓むような地方、すなわち石見の土地を知らず、文字によってのみ訓んで知るという、いわゆる国境を越えたものとなった時に、何びとかによって記録せられたのが、この「或本」である。その時には、人麿の感情そのものよりもその感情を生み出した事件、環境の方が主となり、それを理解しやすい、すなわち合理的なものにしようとして、人麿が「靡けこの山」と命令した、それがそのとおりになれば、角の里が見えることでなければならないとして、「妹が門」を「角の里」と替えたのである。したがって起首の「角の浦廻」は重複するものとなるので、平明ではあるがきわめて拙い説明に改められたのである。その他もすべて、理解しやすいために平明な説明にし、また感傷的にするために余分な句までも添加していることは、「語釈」でいったごとくである。これは口承文学としては共通な運命であって、ひとりこの作にとどまったものではない。このようなことの起こった経路はもとより不明であるが、人麿がこの作をした時と、本巻の編集された時とは幾ばくの時間的距離のない点から想うと、彼はこの京への途上の作を、京に逗留中、多くあったろうと思われる詞友に示し、その歌稿が、詞友より他の人々に示されて、(220)半解の人によって誤写され、口承されているうちに、ついにこ のような形のものとなったのであろうと推測される。
反歌一首
139 石見《いはみ》の海《うみ》 打歌《うつた》の山《やま》の 木《こ》の間《ま》より 吾《わ》が振《ふ》る袖《そで》を 妹《いも》見《み》つらむか
石見之海 打歌山乃 木原從 吾振袖乎 妹將見香
【語釈】 ○石見の海 本行の「石見のや」を変えたものである。下の「山」の所在をあらわすものとしていったものなので、「海」というのは通らないものである。○打歌の山の 旧訓「うつたのやまの」としてある。「打歌」を「高角」の「高」にあてたものという解もあるが、それも誤脱の経路を想像したにすぎないものである。文字は諸本すべてこのとおりである。記録の際にすでにこうなっていたものと思われる。
【釈】 本行との相違は初二句だけで、それはわからないので、釈すべきでない。
右、歌の体同じと雖も、句句相替れり。此《これ》に因りて重ねて載す。
右、歌躰雖v同、句々相替。因v此重載。
柿本朝臣人麿の妻|依羅娘子《よさみのをとめ》、人麿と相別るる歌一首
【題意】 依羅娘子は、依羅は氏、娘子は女子を敬愛しての称で、妻にもいった。この氏につき、『講義』は詳しく考証している。依羅氏は摂津、河内などに住んで、それが地名ともなっている。この氏には、新撰姓氏録によると宿禰の姓のものと連の姓のものとあり、宿禰姓の方は開化天皇より出で、連姓の方は饒速日命と、百済国人より出ている。娘子はその中のいずれとも知れない。娘子は石見国に住んでいた人で、上の長歌にある妻と思われる。それはこの歌の排列順もそう思われるとともに、人麿が石見国で死に臨んで作った歌についで、「柿本朝臣人麿死せし時、妻依羅娘子の作れる歌二首」(二二四−二二五)とあって、それによると人麿の墓所の見られる辺りに住んでいたことがわかるからである。(一三五)は「さ宿し夜はいくだもあらず」とあり、結婚後、時久しくはなかったことが知られる。
140 な念《おも》ひと 君《きみ》は言《い》へども あはむ時《とき》 いつと知《し》りてか 吾《わ》が恋《こ》ひざらむ
(221) 勿念跡 君者雖言 相時 何時跡知而加 吾不戀有牟
【語釈】 ○な念ひと君は言へども 「な」は、「なそ」と対させる語法で、禁止の意をあらわす語。嘆くなと君はいわれるけれどもで、別れに臨んで妻の嘆くのを見て、人麿が慰めたのに対して、それを押し返していったもの。○あはむ時いつと知りてか 「あはむ時」は、人麿が任を果たして、石見国へ帰って来る時で、その時をの意、「いつと知りてか」は、いつとあてを付けてかで、「か」は、疑問の助詞。○吾が恋ひざらむ 吾が恋いずにいられようかで、遠路の旅の不安さから、帰期も知れないもののように感じ、嘆かずにはいられないと、理由をあげて反語風にいったもの。
【釈】 嘆くなと君はいわれるけれども、君と再び逢う時を、いつとあてを付けて、恋いずにいられようか、いられはしない。
【評】 京へ上る前に、人麿が妻と逢って別れを告げた際、妻の詠んだ歌である。「な念ひと君は言へども」というので、人麿の慰めの言葉に対して詠んだものであることがわかる。こうしたやや久しい別れをする際などに、悲しみ慰めを言いかわすに、歌の形式をもってするということは、当時にあっては普通のことであった。妻が歌をもって答えている以上、人麿も歌をもっていったと思われる。その歌の伝わらないのは、逸してしまったのであろう。しかし歌のなかったということもありうることであるから、どちらともいえない。この歌は、女性らしい感傷を含んだものではあるが、全体として見ると、心の落着いた、意志の勝ったものである。感傷は「いつと知りてか」というに現われている。人麿の旅は国司の一人として公用を帯びてのもので、復命の必要上、帰期も定められていたものと思われる。もとよりいつと知られないようなものではない。それをこのような語をもってしているのは、夫の長途の旅に対する不安をこめて、妻にふさわしい嘆きを言いかえたものである。ここに感傷が見える。しかしこの感傷は、人麿の「な念ひ」というのを押し返して、その押し返しを合理化するためのものである。しかも人麿の「な念ひ」という心も、十分汲取っての上のものでもある。当時は言霊信仰の保たれていた時代で、このような長途の旅立ちの際には、不安、不吉な言葉をいわないのが風となっていた。この歌の三、四句は、その意味ではふさわしくないものである。直情的な、信仰を顧慮し得ない人であったともみえる。教養の程度も関係していたかもしれぬ。
挽歌《ばんか》
【標目】 挽歌は、巻一、二を通じて三部に分類し、雑歌、相聞、挽歌としてあるその挽歌である。これは死者を哭する歌であって、後の勅撰集の哀傷の部にあたるものである。挽歌は漢語で、本来は中国で、柩を挽く時の歌の称であったが、次第に意味が汎《ひろ》くなり、葬儀に用いる歌の称となり、さらに死者を哭する歌の称ともなって、文選には、その最後の意味で一つの部立となっ(222)ている。わが国にもこの種の歌はきわめて古くから存在していたので、それをあらわすにこの語を採り用いたのである。
後岡本宮御宇《のちのをかもとのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代 天豊財重日足姫天皇《あめのとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと》、譲位の後、即ち後岡本宮なり
【標目】 斉明天皇の御代で、巻一に出た。
有間皇子《ありまのみこ》、自《みづか》ら傷《かなし》みて松《まつ》が枝《え》を結《むす》べる歌二首
【題意】 有間皇子は、孝徳天皇の皇子で、御母は、阿倍倉梯麻呂大臣の女小足媛で、斉明天皇には御甥である。皇子はこの御代に不軌を図り、病を療するためと偽って紀伊の牟婁《むろ》の温湯に往き、帰り来たってその国体勢《くにがた》を讃め、天皇の御心を動かして行幸の事をあらせようとした。斉明天皇には、四年十月十五日その地に行幸になった。皇子はその留守中に事を企てたが、十一月五日、発覚して捕えられ、その九日、行宮に送られ、中大兄皇太子の訊問を受け、同じき十一日送り帰され、途中、紀伊の藤白の坂において死に処せられた。御年十九である。歌は行宮へ送られる途中でのもので、事の容易ならぬを察し、みずから傷《かな》しんで詠んだものである。歌は当時、身の無事を祈る呪《まじな》いとして草の葉または木の枝を結ぶことをしていたが、これは自身の魂を結びこめて置き、再び無事で見ようという心よりのものである。ここもそれで、磐代にある松の枝を結び、歌はその呪いの心を強めるために詠まれたものである。この結びのことは巻一(一〇)に出た。
141 磐代《いはしろ》の 浜松《はままつ》が枝《え》を 引《ひ》き結《むす》び 真幸《まさき》くあらば また還《かへ》り見む
磐白乃 濱松之枝乎 引結 眞幸有者 亦遠見武
【語釈】 ○磐代の浜松が枝を 「磐代」は、紀伊国日高郡南部町西磐代。牟婁温湯(白浜町湯崎)に行く要路にあたっている。巻一(一〇)に出た。「浜松」は、浜辺にある松。○引き結び 「引き結び」は、巻一(一〇)に出た。幸いを祈ってする呪い。○真幸くあらば 「真」は、真の意のもの。「幸く」は、幸いにで、無事という意をいったもの。○また還り見む 再び立ち還って来てこれを見ようの意で、牟婁の湯へ行かれる途中でのことと取れる。
【釈】 磐代のこの浜辺の松の枝を引き寄せ結んで呪いをし、その呪いがかなって無事であることを得たならば、また立ち帰って来てその松を見よう。
(223)【評】 生命の危険を痛感されていての作である。皇子の感情は、無事を得るための呪いとしての木の枝を結ぶことに集中している。「磐代の浜松が枝を引き結び」は、今、松が枝を結ぼうとする心である。この結びは木の枝でも草の葉でもよく、何をと限ったものではない。それを「磐代の浜松が枝」と、その地名をいい、木の名をいい、その在り場所までも添えていっているのは、当時の歌風として実際に即した言い方をしようがためばかりではなく、また美しくいおうとするためでもなく、呪いそのものを鄭重にいおうがためであって、少なくともそれが主となっているのである。これは呪いを尊重し、その霊力によって救われようとする心からのことである。「真幸くあらば」は、それほどに信じ頼む呪いでも、はたしてわが生命を救いうるかどうかとの疑いを抱いた心からのものである。これは呪いのもつ霊力に対する疑いではなく、危険の必至を怖れる情のいわせたものである。結句「また還り見む」は、四句のようには感じるが、思いかえして、またその呪いの霊力に縋《すが》り頼もうとする心を、今より引き寄せ結ぼうとする浜松が枝そのものに寄せてあらわしたのである。一首、生命の危険を痛感させられている皇子の心情の、結びをしようとする直前の現われで、そのゆらぎをさながらにとどめているものである。しかし皇子は、送還の途上、磐代を過ぎ藤白の坂で絞首されたのである。
142 家《いへ》にあれば 笥《け》に盛《も》る飯《いひ》を 草枕《くさまくら》 旅《たび》にしあれば 椎《しひ》の葉《は》に盛《も》る
家有者 笥尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉尓盛
【語釈】 ○家にあれば笥に盛る飯を 「家」は、下の「旅」に対させたもので、皇子の京にある邸。「笥」は、ここは飯を盛る器で、飯笥《ものけ》といった。この当時は、高貴の方の飯笥は、すでに銀器であったろうと『講義』は考証している。 ○草枕旅にしあれば 「草枕」は、既出。「旅にし」の「し」は、強め。○椎の葉に盛る 「椎の葉」は、笥の代用としての物。当時の飯は強飯であるから、椎の葉を重ねた上にならば盛り得られる物(224)である。椎の葉はその辺りに有り合わせた物で、便宜に任せての物と取れる。木の葉に食物を盛ることは、上代には普通のことであって、この当時も庶民のためには格別のことではなかったろうが、皇子としては思いもよらぬことだったのである。
【釈】 家にいれば、笥《け》に盛る飯であるのに、こうした旅のことなので、椎の葉に盛っている。
【評】 食事の際、椎の葉の上に盛った飯をすすめられたのを見られて、ふと京の邸における日の笥と対比されての感慨である。皇子とはいえ今は大罪の嫌疑者であるから、取扱いがすべて疎路であって、笥としての椎の葉はその一つと思われる。この歌は事としては旅にあって家を恋うという、いわゆる旅愁の範囲のものである。しかしこの歌には、家を恋うということは、語としてはもとより気分としても認められず、心の全体が眼前の笥としての椎の葉に集中されているのである。また一首の調べも、前の歌の烈しいながらに華やかさを失わず、強さを含んでいるのとは違って、ただ素撲に、落着いて、緩やかにいっているものである。皇子は笥としての椎の葉に自身を大観し、過去、現在、未来をその上に観ずる心となっていられたことが、その表現によって直接に感じられる。一首の歌として見るとさしたる所のないものであるにかかわらず、読む者に沁み入る力を怪しきまでにもった歌である。前の歌と同じく、牟婁へ送られる途上においてのものと思われる。
長忌寸意吉麿《ながのいみきおきまろ》、結《むす》び松《まつ》を見て哀咽《あいえつ》せる歌二首
【題意】 「長忌寸意吉麿」は、巻一(五七)に出た。伝は詳かでないが、大体藤原宮時代の人で、後岡本宮時代よりは五十年ばかりも後の人である。その人の歌がここにあるのは、類によって載せたのか、あるいは人の加えたのであろう。「結び松」は、有間皇子の結ばれた松のことであるが、皇子は無事で磐代は過ぎられたのであるから、その結びは自身解かれたのであろうから、結び松はすでに口碑のものとなっていたとみえる。
143 磐代《いはしろ》の 岸《きし》の松《まつ》が枝《え》 結《むす》びけむ 人《ひと》はかへりて また見《み》けむかも
磐代乃 崖之松枝 將結 人者反而 復將見鴨
【語釈】 ○磐代の岸の松が枝 「磐代」は、皇子の歌と同じ。「岸の松が枝」は、皇子の「浜松が枝」を言いかえたもの。下に「を」の略されているもの。○結びけむ人はかへりて 「結びけむ」は、皇子の「引き結び」を婉曲に言いかえたもので、婉曲にしたのは敬意からのことである。「けむ」は連体形で、下に続く。「人」は、皇子で、これまた婉曲にしたもの。その心は上と同じ。「かへりて」は、皇子の「還り見む」といったその「還り」によったもの。○また見けむかも 皇子の「また還り見む」により、それに疑問の「か」に、詠歎の「も」の添った「かも」を加えた(225)もの。
【釈】 磐代の岸の松が枝を結んで呪いをされたであろうところの人は、その時の歌のごとくに、立ち還って来てまたその松を見られたことであろうか。
【評】 何らかの官命を帯びて紀伊に行き、話にだけ聞いていた結び松をはじめて眼にして詠んだ歌とみえる。題詞の「哀咽せる」はおそらく意吉麿自身の添えたものであろう。とにかく歌はこの題詞にふさわしいものである。有間皇子の事件は五十年前にすぎないことであるから、歴史上の事実とはいってもさして古いことではない。しかるにこの歌には、皇子その人に対する批評の心は全然なく、あるのはただ皇子の残した歌のあわれさだけである。それは一首全体が皇子の歌に取縋ってのものであり、のみならずそのあわれさを敬意をもって見、皇子の歌で明らかなこともいうに忍びないこととして、わざと婉曲に言いかえていることで明らかである。古歌のもつあわれさに溺れ尽くして他意のないというこの態度は、まさに文芸心であって、時代のもたせたものと取れる。松という自然物に対して人事を悲しむという態度も、同じく文芸心のなさせることである。
144 磐代《いはしろ》の 野中《のなか》に立《た》てる 結《むす》び松《まつ》 情《こころ》も解《と》けず いにしへ思《おも》ほゆ【未だ詳かならず】
磐代之 野中尓立有 結松 情毛不解 古所念 未v詳
【語釈】 ○磐代の野中に立てる 「野中」は、前の歌では「岸」といったのを、言いかえてある。地勢が岸ともいえ野中とも言いうる所であったと取れる。実際に即そうとする心からのことと思われる。○結び松 題詞に出た。その松の名とされていたことがわかる。○情も解けず 「情解く」は、情の伸びやかに、快い状態をいった語。これはその反対で、心結ばる、すなわち鬱屈した状態をあらわす語である。皇子のことを思って悲しむ心である。「情も」の「も」は、わが心もまたで、松に並べていったもの。「解けず」は、「結び松」の結びと対させたものである。○いにしへ思ほゆ 昔の事が思われるで、皇子の最期のあわれさを総括的にいったもの。○未だ詳かならず この注は、後人の加えたものだろうとされている。題詞に「二首」とあるその一首で、歌風も前の歌と同じだからである。『講義』は、この歌は拾遺集に取られてい、それには作者を人麿としていることを注意し、作者の動揺の証としている。
【釈】 磐代の野中に立っている結び松よ。これを見ると、わが心もまた、松と同じく悲しみのために結ぼれて、古のあわれであったことが思われる。
【評】 前の歌は古のあわれさに迫るものがあり、したがって動きをもっていたが、この歌は甚しく距離を付け、したがって余裕をもったもので、静かな感傷にすぎないものとなっている。「結び」と「解け」という語の照応をねらっているのは、その態(226)度から出たもので、この歌を低調なものとしている。こうした語そのものの興味は、口承文学にあっては伝統的な、根深いものとなっていたが、すでに個人的な作風に移ったこの歌にあっては、文芸性の末梢的なものにすぎなくなり、作風とは矛盾するものとなったのである。
山上臣憶良《やまのうへのおみおくら》、追《お》ひて和《こた》ふる歌一首
【題意】 山上臣憶良は、巻一(六三)に出た。「追ひて和ふる」は、後より追って唱和する意である。上の意吉麿の最初の歌に対してである。憶良も続日本紀の大宝元年の条に名が出ているので、意吉麿と同時の人であるが、意吉麿の歌が先に成立していたので、それを見て追加したものと思われる。
145 あまがけり あり通《がよ》ひつつ 見《み》らめども 人《ひと》こそ知《し》らね 松《まつ》は知《し》るらむ
鳥翔成 有我欲比管 見良目杼母 人社不知 松者知良武
【語釈】 ○あまがけり 「鳥翔成」は、諸訓があり定まっていない。『考』は「つばさ」と訓んだのを『攷証』は「かける」と改めた。「かける」は集中に用例があり、最も妥当だとして『全註釈』も従っている。「成」は「なす」で、のようにの意の語で、動詞の連体形へ接している用例がある。「鳥翔」は、鳥の翔《か》けるがようにの意で、これは有間皇子の魂の状態をいったものである。上代の信仰として、死んだ人の魂は鳥の形となって、生きていた時心を寄せていた所へ自在に翔《と》びゆきうるものとしていた。日本武尊の魂が、白鳥となって、伊勢より大和へ翔んだというのは、最も有名な例で、ここもその心のものである。しかし『注釈』は、佐伯梅友氏の「あまがけり」と義訓しているのに従っている。神霊の行動を叙する語としては、最も妥当なものであり、現に憶良の巻五(八九四)にも用いている例がある。一首のさわやかな上から見ても、「かけるなす」の小刻みなのは不調和である。従うべき訓と思われる。○あり通ひつつ見らめども 「あり通ふ」は、一つの語。「あり」は継続をあらわす語で、継(227)続して通うの意である。思いつづけてというにあたる。「見らめども」は、結び松を見ているであろうけれども。○人こそ知らね 人は知らないが、すなわち、魂の行動は人には認められないけれども、しかしの意。「ね」は打消の助動詞で、「こそ」の結びであるが、「人こそ」「松は」というように対照した場合は、人は知らないが、松はの意を成す。○松は知るらむ 松の方は知っていようの意。
【釈】 皇子の魂は空を飛んで、生前心を寄せた結び松に通いつづけて見ていられるであろうけれども、それを人は知らない、しかし松の方は知っていよう。
【評】 意吉麿が、「人はかへりてまた見けむかも」と、皇子の心の遂げられなかったのを思って悲しんでいるのに和して、憶良はそれを否定して、皇子の魂は生前の心を遂げつついる。その事は人間は知らないが松は知っていようとしたのである。憶良はわが古代よりの信仰の、この当時次第にやや推移しつつあった中に立って、人麿と同じく堅く古風を守っていた人であることは、その歌によっても明らかである。この歌にいっているとろも、その信仰より発したものと思われる。そのことを最も直接にあらわしているのは、この歌のもつ調べの、粘り強く屈折をもっていることである。こうした調べは、その胸臆の直接の披瀝ということからのみ現われるもので、それをほかにしては見られないものである。この歌には、皇子を悲しむ心はなく、慰めまつろうとする心が現われている。慰めることは挽歌の精神で、悲しみもその中のものである。
右の件の歌|等《ども》は、柩を挽く時に作れるにはあらざれども、歌の意に准擬《なぞら》へて、故《かれ》挽歌の類に載す。
右件謌等、雖v不2挽v柩之時所1v作、准2擬歌意1、故以載2于挽哥類1焉。
【釈】 「右の件の歌等」は、皇子の歌、意吉麿、憶良の歌のすべてをさした語。「柩を挽く時に作れる」は挽歌ということを言いかえた語である。これは後人の注である。なお以下にも、この類の歌が載せられている。
大宝元年辛丑紀伊国に幸しし時結び松を見る歌一首 【柿本朝臣人麻呂歌集の中に出づ】
【題意】 文武天皇の大宝元年の紀伊国への行幸は、続日本紀に出ている。この歌、元暦本、金沢本などほとんどの本に、「柿本朝臣人麿歌集の中に出づ」とある。
146 後《のち》見《み》むと 君《きみ》が結《むす》べる 磐代《いはしろ》の 子松《こまつ》がうれを 又《また》見《み》けむかも
(228) 後將見跡 君之結有 磐代乃 子松之宇礼乎 又將見香聞
【語釈】 ○後見むと君が結べる 「後見むと」は、後に還って来て見ようと思つてで、有間皇子の「また還り見む」(一四一)という語によっていったもの。「君」は、有間皇子。○子松がうれを 「子松」の「子」は、小で、愛称。小さいものは愛らしいというつながりはあるが、小さい意ではない。巻一(一一)に出た。皇子が松を結ばれた時から大宝元年までだけでもすでに四十三年を経ている。相応な松でなければならぬ。「うれ」は、草木の生長盛りの物の末の部分の称。○又見けむかも 意吉麿の(一四三)の結句と同じ。
【釈】 後に見ようと思って皇子が結んだ、磐代のこの松の梢を、またも見られたであろうか。
【評】 結び松を見て有間皇子を思い、その呪いのかなわなかったことを通して皇子を憐れんだ心のものである。憐れみという一事だけを捉え、落着いた、緩やかな調べをもっていっているので、美しさの添ったものとなっていて、そこに魅力がある。(一四三)の意吉麿の歌以後のものと同じく、結び松にちなみのあるものとして、時代にかかわらずに添えたものである。一応完結させて注を添えた後に、さらに同じ性質のものを続けているのは、前例にならって後人のここに書き入れたものであることを語っている。
近江大津宮御宇《あふみのおほつのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代 天命開別《あめみことひらかすわけ》天皇、謚を天智天皇と曰す
【標目】 巻一に出た。
天皇 聖躬不予の時 太后《おほきさき》の奉れる御歌一首
【題意】 天皇は、天智天皇。聖躬は天皇御一人にのみ使う語。不予は天皇の病いにかからせ給う意。この事は日本書紀に、天皇の十年九月と十月の条に出ている。その間のことである。太后は、当時皇后を称した国語で、他の妃嬪と区別しての称。皇后は倭姫皇后で、天皇の庶兄|古人大兄《ふるひとのおおえ》の御娘。天皇の皇太子の時よりの妃で、皇后となられた方である。
147 天《あま》の原《はら》 振《ふ》り放《さ》け見《み》れば 大王《おほきみ》の 御寿《みいのち》は長《なが》く 天足《あまた》らしたり
天原 振放見者 大王乃 御壽者長久 天足有
(229)【語釈】 ○天の原 「天の原」は、広い天の意。天は空とは別なもので、上代信仰では儼たる霊界とし、聖寿も一にそこにあるものとしてのもの。○振り放け見れば 「振り」は、動詞に冠する強意の語。「放け」は、距離をつけることで、ふり仰いで見れば。祈りの状態である。○大王の御寿は長く 「大王」は、天皇。「御寿は長く」は、聖寿は長久に。○天足らしたり 「天足らす」は、一語で、「足らす」は足るの敬語、「たり」は「てあり」の約で、天に充足していらせられるの意である。
【釈】 広い天をふり仰いで見ますと、天皇の御寿《みいのち》は、天に充足していらせられます。
【評】 御作歌の事情は、題詞で明らかである。天皇御不予にて、御大事に見えた時、皇后が信仰の対象となっていた広い天を仰ぎ、聖寿の万歳を祈った際の直覚で、祝いの心をもって天皇に奉った御歌である。一首、熱意をもってただちに信仰の中核を詠まれたもので、心と調べとが渾然と溶け合って、高い響となっているものである。王者のみのもちうる堂々たる貫禄のある御歌である。
一書に曰はく 近江天皇の聖体不予 御病|急《すみやか》なりし時 太后の奉献《たてまつ》れる御歌一首
【釈】 これは、別の資料にあった歌で、類をもってここに収めたものである。
148 青旗《あをはた》の 木旗《こはた》の上《うへ》を 通《かよ》ふとは 目《め》には見《み》れども 直《ただ》にあはぬかも
青旗乃 木旗能上乎 賀欲布跡羽 目尓者雖視 直尓不相香裳
【語釈】 ○青旗の木旗の上を 「青旗」は、青い色をした旗で、これは旗布の色をいったもの。青い色というのは、麻布《あさぬの》の色だろうと『全註釈』はいっている。「の」は、同意義の名詞を連続させる意の助詞。「木旗」は、木すなわち棹にたらした旗である。これは現在でも祭礼の時に立てる幟《のぼり》と同じ性質の物である。幟は天降《あまくだ》る神霊の宿られる物として祭場に立てる物である。この場合もその意味の物で、神々の加護を乞うために幟を立ててあつたと解される。したがって一本とは限らない。「上を」は、その幟の上辺を。○通ふとは 過ぎてゆくとは。上代の人は肉体と魂とは別箇のもので、肉体に魂が鎮まっている時は健康な時、魂が離れ去る時がすなわち死だと信じていた。この「通ふ」は天皇の御魂が聖躬を離れて神上《かんあが》りされる状態である。したがって「御病急なりし時」は崩御の直前の意で、ここは崩御の際のことである。○目には見れども直にあはぬかも 「目には見れども」は、天皇の御魂の過ぎゆくことを目には見るけれども。「直にあはぬ」は、御魂と直接には逢い得ない意で、「かも」は詠歎である。これは御魂の過ぎゆくことを、木旗のその時の状態で感じ得られるが、御魂そのものを直接に認めることはできない嘆きである。この二句(230)は信仰の上に立つての一瞬時の精神状態の叙述で、隠微な消息である。
【釈】 青い旗布で、棹にたらした旗の上を、天皇の御身を離れた霊は通ってゆくとは、目には見るけれども、直接にはお逢い申せないことであるよ。
【評】 倭姫皇后が、近江天皇の御病いが切迫された際、「青旗の木旗」に御目を注いでいられたというのは、宮廷の庭上を祭場として神々へ祈願を立て、天降《あまくだ》る神々を待っていられたためであろう。しかるにその立て並べてある旗がこちらからそちらへかけて揺らぎ渡るというような状態を認め、天皇の御魂が神上《かんあが》られたということを意識された際の御心境の表現である。中核はその際の皇后の悲しみであろうが、その悲しみは崩御そのことに対してのものではなく、神上ります御魂を直接目に見ることのできない悲しみなのである。死生は一に天の原にまします神々の意志によることとし、また御魂は不滅のものであると徹底的に信じていられるところから、このような悲しみ方をしたものと察しられる。その徹底の程度は、「青旗の木旗の上を通ふとは」と、印象的に、細かく旗の状態を叙し、「通ふとは」の一句によって、天皇の御魂の神上られたことをあらわしているのは、その事自体はくわしくはいうにも及ばないとされている表現、また、「目には見れども直にあはぬかも」と、御魂そのものを直接には認め難いことをもって、悲しみの頂点とされている表現、さらにまた、一首全体を貫いている沈静なる美しさは、その信仰の徹底した深さはもとより、皇后の人柄のゆかしさをも十分にうかがわせる御歌である。上の作と相並んで珍重すべき御歌である。
天皇|崩《かむあが》り給ひし時 倭太后の作りませる御歌一首
149 人《ひと》はよし 念《おも》ひ息《や》むとも 玉蘰《たまかづら》 影《かげ》に見《み》えつつ 忘《わす》らえぬかも
人者縱 念息登母 玉蘰 影令所見乍 不所忘鴨
【語釈】 ○人はよし念ひ息むとも 「人は」は、我以外の者はで、御自身に対させたもの。「よし」は、そのままに許す意で、よしやというにあたる。「念ひ息むとも」は、「息む」は止むで、慕い止める、すなわち忘れるともで、崩御せられた天皇に対する悲哀の情に対していわれたもの。○玉蘰 『講義』は、日本書紀、持統天皇元年三月の条に、「以2花縵1進2于殯宮1此曰2御蔭1」とあり、また翌二年三月の条にも「以2花縵1進2于殯宮1」とあるを引いている。これは天武天皇の殯宮の時で、ここもそれと同じ花縵である。「玉」は美称で、「蘰」は蔓を編んで花環のようにした物である。「蔭」とも呼んだので、同音の語の「影」につづけ枕詞とする。○影に見えつつ 「影」は、蔭を同音異義で転じたもので、面影の意。「つつ」は、継続。○忘らえぬかも 「忘らえぬ」は、忘られぬ、すなわち忘れられぬ。「かも」は、詠歎。
(231)【釈】 他人はよしや崩御の天皇を思いやむことがあろうとも、我はこの玉かずらの蔭につながりある御面影に見えつづけていて、忘れられないことであるよ。
【評】 題詞と、枕詞としての玉かずらとによって、殯宮においての御歌と思われる。一首、御思慕の深きものを胸に湛えて、静かに、しかし張った調べをもって詠ませられているもので、御気息をも感じうる感のあるものである。「人はよし念ひ息むとも」の仮設は、御自身の深い御嘆きに対照させるための技巧と思われるが、全体の上から見ると、それだけにとどまらず、こうした際もひとり高所に立っていらせられる高貴な方の御心を思わせるもので、余情の形において御人柄を偲ばせる御歌である。
天皇|崩《かむあが》り給ひし時 婦人《をみなめ》の作れる歌一首 【姓氏いまだ詳かならず】
【題意】 婦人は、「後宮職員令」の義解に、「宮人謂2婦人仕官者1之惣号」とある。その何びとであったかはわからない。注はそのことをいったものである。
150 うつせみし 神《かみ》にあへねば 離《はな》れ居《ゐ》て 朝《あさ》嘆《なげ》く君《きみ》 放《さか》り居《ゐ》て 吾《わ》が恋《こ》ふる君《きみ》 玉《たま》ならば 手《て》に巻《ま》き持《も》ちて 衣《きぬ》ならば 脱《ぬ》ぐ時《とき》もなく 吾《わ》が恋《こ》ふる 君《きみ》ぞきぞの夜《よ》 夢《いめ》に見《み》えつる
空蝉師 神尓不勝者 離居而 朝嘆君 放居而 吾戀君 玉有者 手尓卷持而 衣有者 脱時毛無 吾戀 君曾伎賊乃夜 夢所見鶴
【語釈】 ○うつせみし神にあへねば 「うつせみ」は、現身《うつせみ》で、現《うつ》し身《み》の転。この世に生きている身の意で、幽《かく》り身すなわち幽界に存在している身に対させた語。婦人自身をいったもの。「し」は、強め。「神にあへねば」は、「神」は、今は幽り身とならせられた天皇を申したもの。「あへねば」は、「あへ」は堪えの意のもので、御供をするに堪えねば、すなわち御供を仕えることができないのでの意。○離れ居て朝嘆く君 「離れ居て」は、現《うつ》し世と幽《かく》り世と相離れていて。「朝嘆く」の「朝」は、下の「嘆く」時をいったもの。「嘆く」は、悲しんでため息をつく意。「君」は、(232)天皇。○放り居て吾が恋ふる君 「放り居て」は、上の「離れ居て」を語を換えていったもの。すなわち謡い物の対句の意のものである。「恋ふる」は、あこがれているの意で、これも「嘆く」と内容を同じゅうしたもの。「君」は、上と同じ。○玉ならば手に巻き持ちて 「玉」は、上代の人はそれを緒に貫いて、頸、手、足に着けて、きわめて貴んでいたものである。「玉ならば」は、天皇がもし玉にましましたならばで、天皇を尊んでの譬喩である。「手に巻き持ちて」は、手玉として、手に巻いて持って。上代の人は、その物をわが肌身《はだみ》に着けているということは、その物と我との間に深い交流のあることとして、特殊な親しさを感じたのである。ここはその親しさの方をいったのである。○衣ならば脱ぐ時もなく 「衣ならば」は、天皇がもし衣にましましたならばで、上の「玉」の連想からいいっづけたもの。この「衣」は、上の「玉」の、貴さを主とした譬喩に較べると、親しさの方を主としたものである。「脱ぐ時もなく」は、わが肌身より離す時もなくで、親しさを強調したもの。「も」は、詠歎の助詞。「玉ならば」以下四句は、下の「恋ふる」に、それのごとくの意をもって、修飾格として続くもの。○吾が恋ふる君ぞきぞの夜夢に見えつる 「吾が恋ふる君」は、わが恋いまつる天皇が。「きぞの夜」は、昨夜の意の古語。「夢」は、上代は精神の感応より見えるもので、その感応は思い思われるところから起こるものと信じていた。この信仰は次第に薄らいだが、遠く後世にも及んでいる。これはその信仰の強い頃のものである。「つる」は、上の 「ぞ」の結びで、君が昨夜夢に見えられたことであるよの意。
【釈】 現し世にある身の我は、幽り世に移らせられた神の御供をすることはできないので、離れていてこの朝を嘆きまつるわが大君よ。遠ざかっていてわがあこがれまつる大君よ。大君がもし玉ならば、わが手に巻き持っていて、大君がもし衣ならば、脱ぐ時もなく身に着けていようと、そのようにもわがあこがれまつる大君が、此夜《よべ》は、わが夢にお見えになられたことであるよ。
【評】 後宮に仕えていた一婦人の挽歌で、その氏の逸せられているのはおそらく身分の高くなかったためと思われる。歌は当時すでに古風となっていた長歌の形式を選び、いうことは、一夜天皇を夢に見まつったということに即し、実感をそのままに素樸に述べたものである。後宮の女官としての立場にあって挽歌を詠むのに、天皇に対しまつっての思慕の情を述べるということは、事としては怪しむに足りないが、しかしその思慕は、太后の仰せられるのと同じ範囲のもので、異なるところはやや控えめにしているというだけである。これは後より見ると狎近しすぎたことという感がないでもないが、これは当時夢というものに対する神秘感が深く、ことにそれの深い女性の、実感に駆られるがままに、当時型となって行なわれていた挽歌の様式によって詠み出したものであろうと思われる。その技巧の熟さないのは、「離れ居て朝嘆く君、放《さか》り居て吾が恋ふる君」という、一首の中の重なる技巧である対句の、上二句にあっては「朝」が唐突で熟さず、下二句は単なる繰り返しで、謡い物の繰り返しの型を踏襲するにすぎないのでも知られる。「玉ならば」「衣ならば」の対句は、きわめて常套的なもので、おそらく型となっていたものの踏襲で、その狎近にすぎるものであることも思い得なかったのではないかと取られる。一首、この際の他の挽歌に比して甚しく見劣りのするのは、これが当時の教養の水準であって、そうした者の天皇に奉る挽歌であるからというゆえをもって採録されたものかと思われる。
(233) 天皇の大殯《おほあらき》の時の歌二首
【題意】 殯《あらき》は新城《あらき》の意で、大は尊んで添えた語である。天皇崩御の後、大葬までの間は、新たに構えた別宮に安置するのが定めで、その別宮がすなわち大殯である。日本書紀、天智天皇十年十二月に「癸亥朔乙丑(三日)天皇崩2于近江宮1、癸酉(十一日)殯2于新宮1」とあるはすなわちこの時である。
151 かからむと 予《かね》て知《し》りせば 大御船《おほみふね》泊《は》てしとまりに 標《しめ》結《ゆ》はましを 額田王
如是有刀 豫知勢婆 大御船 泊之登万里人 標結麻思乎 額田王
【語釈】 ○かからむと予て知りせば 「かからむと」は、「と」に諸本「乃」とあるのを『代匠記』が「刀」の誤字として正したものである。上代仮名遣いで「刀」は甲類で、ここは乙類の「跡」であるべきだとの異見が出ているが、『注釈』は「刀」と「跡」とは古くから混乱していると例を引いて否定している。かくあらむとで、かくは、殯宮に移らせられた聖体を、眼の前に拝しての語。「予て知りせば」は、前もって知っていたならば。○大御船泊てしとまりに 「大御船」は、大も、御も尊んでの語で、天皇の御船をいったもの。皇居に近い湖上に御遊びになられるためのもの。「泊て」は、船の行き着いて止まる意で、(五八)に出た。「とまり」は、とどまる所で、船着き場をいう。この「とまり」は次の歌によって、辛埼であることがわかる。また、(三〇)の「楽浪《ささなみ》の志賀《しが》の辛崎|幸《さき》くあれど大宮人の船待ちかねつ」でも明らかである。○標結はましを 「標」は、禁忌の意をあらわす物で、それを施してある土地あるいは物は絶対に犯すことができないということが上代の信仰であった。代表的な例は、古事記上巻、天岩戸の段の、天照大神を天岩戸よりお出し申した続きに、「布刀玉命以2尻久米繩1控2度其御後方1白言、従v此以内不v得2還入1」というのがそれである。ここもその意の標である。「結はましを」は、結おうものをで、標繩を結いめぐらして、何物をも入れなくしようの意である。古代には病気は、目に見えぬ悪い精霊の身に憑《つ》くから起こることと信じていた。天皇の御病気は湖上の御舟遊の直後から起こったものとみえる。標は悪精霊を防ぐためのことと解せる。○額田王 作者の名としてのもので、原拠となった本がこの書式になっていたゆえの書き方と思われる。これは前にも例のあったものである。次の歌も同様である。
【釈】 このような御事があろうと、前もって知っていたならば、湖上に御舟遊のあった際、大御船の行き着いてとどまった所に、お憑《つ》き申そうとする悪精霊を防ぐ標を結おうものを。
【評】 天皇の殯宮の歌は、この歌を初めとして、これに続く二首ともいずれも、近江の湖を捉えて天皇を偲びまつる料としたもののみである。天皇を偲ぶ刺激としては、さまざまの物があったろうと思われるのに、一に湖に限っているのは、思うに天皇御不予の前の、最も印象的なこととして舟遊のことがあったので、それとこれとを関係づけ、御不予は湖上にいる悪霊の業(234)だと解し、そのことは信仰上、自明のこととし、また、恐れ多いとする心から、わざと直接な触れ方はしなかったことと思われる。この歌は深い嘆きと愚痴をいったものであるが、それとしては中核の一点だけを捉え、しかも婉曲にいい、一切はしみじみした声調に托しているものである。王にふさわしい歌である。今一つは、殯宮が湖水を展望できる位置に営まれており、そこに侍していて挽歌を詠もうと思うと、実際に即して歌作していた関係上、勢い天皇を湖に結びつけるようになったためであろう。「かからむと」と言い起こし、「標結はましを」と結んだこの歌は、この際のものとしてはややもの遠く、上のように解せざるを得ないところのあるものである。崩御を天皇の御意志よりのこととする思想は、後の柿本人麿の挽歌にも現われているもので、天皇を絶対の神と仰ぐ心より出ているものである。さかのぼっての上代より伝わっているものと思われる。
152 やすみしし わご大王《おほきみ》の 大御船《おほみふね》 待《ま》ちか恋《こ》ふらむ 志賀《しが》の辛崎《からさき》 舎人吉年《とねりのきね》
八隅知之 吾期大王乃 大御船 待可將戀 四賀乃辛埼 舎人吉年
【語釈】 ○やすみししあご大王の 「やすみしし」は、既出。「わご」は、(五二)に出た。「ご」は「吾が大王」の「が」と「お」の約まったもので、謡い物の系統の語である。○大御船待ちか恋ふらむ 「か」は、疑問。待ち恋っているであろうか。○志賀の辛崎 (三〇)に出た。現在の滋賀の唐崎で、上の歌の「泊てしとまり」とある所である。そちらは船の着く所としていっているが、こちらは船の発する所としていっている。辛崎を有情の物としていっているが、これは(三〇)でもいったがように、上代には土地を、土地であると同時に神であるとする信仰があったので、その意味で有情としていたと解せる。すなわち文芸性の上から擬人したのではなく、信仰の上から当然のこととして有情の物としたのである。しかし、この神性には程度があって、(235)天皇の崩御のことは知り得ず「待ちか恋ふらむ」と疑わしめる程度の神性だったのである。○舎人吉年 「舎人」は氏、「吉年」は名で、「きね」と訓むだろうとされている。女官の一人である。
【釈】 安らかに天下をお治めになられるわが天皇の、湖上御遊覧の大御船の発するのを、崩御の事は知らずに、待ち恋っているであろうか、志賀の辛埼は。
【評】 殯宮に侍して、志賀の辛崎を望み、天皇の湖上御遊覧の時のことを思い浮かべて、眼前の御状態を悲しんだ心のものである。その点は上の額田王の歌とすべて同一で、異なるところは、王は「標結はましを」と、しようとすれば自身できることをしなかったとして嘆いているのに、吉年は自身には直接関係させず、「志賀の辛崎」に関係させ、辛埼のもつあわれさをいうことによって、わが嘆きをあらわしているのである。すなわち間接な方法によって嘆いているのである。この間接な方法を取っていることは、これを歌の上から見れば、一見文芸性のさせていることのごとくに見えるが、額田王の歌と比較して見ると、文芸性よりのことではなく、自身の身分の低さを意識し、王と同じ態度をもって悲しみを抒べるのは憚りありとして、卑下の心からわざと間接にしたものと解される。すなわち実用性の上より、そうせざるを得ずしてした結果が、たまたま文芸性のもののごとき形となったのだと解せる。この歌は「わご」という謡い物の語を用いている点、「志賀の辛崎」を有情のものと見ている点など、いずれも古風を旨とした歌であるということがわかる。なお上に引いた(三〇)の柿本人麿の反歌「楽浪《ささなみ》の志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ」は、この歌の影響のあるものだということが注意される。
太后《おほきさき》の御歌《みうた》一首
【題意】 太后は、倭姫皇后である。御歌は上の二首と同じく、大殯の間のものである。
153 鯨魚取《いさなと》り 淡海《あふみ》の海《うみ》を 沖《おき》放《さ》けて こぎ来《く》る船《ふね》 辺附《へつ》きて こぎ来《く》る船《ふね》 沖《おき》つかい いたくなはねそ 辺《へ》つかい いたくなはねそ 若草《わかくさ》の 夫《つま》の 念《おも》ふ鳥《とり》立《た》つ
鯨魚取 淡海乃海乎 奧放而 榜來船 邊附而 栲來船 奧津加伊 痛勿波祢曾 邊津加伊 痛莫波祢曾 若草乃 嬬之 念鳥立
【語釈】 ○鯨魚取り淡海の海を 「鯨魚取り」は、(一三一)に出た。「鯨《いさ》」は、鯨《くじら》の古語。鯨を取ることをする意で、海の枕詞。「海」に続く。(236)「淡海の海」は、琵琶湖。○沖放けてこぎ来る船 「放けて」は、離れさせてで、岸より沖の方に離れさせて。これは下の「辺附きて」に対させたもの。「こぎ来る船」は、こちらへ向かって漕いで来る船よの意で、こちらというのは太后のいらせられる所で、殯宮と取れる。○辺附きてこぎ来る船 「辺」は、海の陸に近い所。「附きて」は、寄りついて。○沖つかいいたくなはねそ 「沖」は、下との続きで、沖の方の船の意。「つ」は、の。「かい」は、現在と同じく櫂《かい》で、水を掻いて船を進める具。「かい」の用例は、集中に少なくない。「いたくなはねそ」は、「いたく」は、甚だの意の形容詞で、現在も行なわれている。「な……そ」は、その中問に動詞の連用形を置いて、禁止をあらわす格。「はね」は、撥《は》ねで、水を撥ねさせる意。現在も行なわれている語。○若草の夫の念ふ鳥立つ 「若草の」は、春の若い草の意で、その愛らしい意味で、夫にかかる枕詞。「夫の」は、上代は、夫婦のどちらもその相手を「つま」と呼んだ。ここは太后の天皇を申したもので、夫の意のもの。三音一句。「念ふ鳥立つ」は、「念ふ烏」は、愛している鳥で、湖上に棲む水鳥を、叡覧され愛でさせられたところからの語。「立つ」は、水の撥ねるのに驚いて、飛び立つ意。結末の五三七の形は、この時代の長歌に共通なもので、時代の特色をなしているものである。
【釈】 近江の海を、岸より沖の方に離れさせて、こちらへ向かって漕いで来る船よ。岸の方について、こちらへ向かって漕いで来る船よ。沖の方の船の櫂よ、甚しくは水を撥ねさせるなよ。岸の方の船の櫂よ、甚しくは水を撥ねさせるなよ。夫《つま》の君の、叡覧され愛《め》でさせられたその水鳥が驚いては飛び立つ。
【評】 太后が殯宮にて湖上をひろく展望され、沖の方をこなたへ向かって来る船、岸寄りの方をこなたへ向かって来る船の、その来るがままに、水面に浮かんでいる鳥の、驚いて飛び立つさまを御覧になられ、それに関連して、それらの水鳥は、天皇御在世のみぎり、御覧になり愛でられた水鳥だと思われ、遺愛に堪えられずにお詠みになったものである。時は十二月であったから、湖上のそうした状態は、さやかに御眼にとまって、「沖つかいいたくなはねそ、辺つかいいたくなはねそ」というような微細なこともいわれたものと思われる。一首は、事としても、また心としても単純なもので、作歌に長《た》けさせられた太后にあっては、これを短歌形式にお詠みになろうとすれば、必ずしも困難なものとは思われない。それをわざと長歌形式になされたということは、場合がら、当時としてはまだ新風の趣のある短歌形式よりも、伝統的な、古風な長歌形式の方が適当だと思われてのことと思われる。長歌形式ということは、言いかえると謡い物ということで、この御歌はその趣を濃厚にもっているものである。
一首の語《ことば》続きは直線的で、したがって意味は明晰で、一首の味わいとしては平面的である。加えてこの短い長歌に、二句対が二回まで用いられているのは、謡い物の特質を濃厚にもったものといえる。上代は、一般の風として、人の死後、葬送をするまでの期間は、その人の死を悲しむことをするとともに、その人を慰める心をもって歌舞をする風のあったことが文献に見えている。この御歌の長歌形式は、その意味の歌ということに関連をもったものではないかと思われる。一首の感味の上からいうと、眼前の湖水を、「鯨魚取り淡海の海を」と、客観的に、荘重に言い起こされ、続く二句対二回の畳用は、あくまで事象に即して、しかも感覚的の細かさを交へ、結末、「若草の夫の念(237)ふ鳥立つ」と、太后以外の者にはいうを許されない親愛の情を、余情をもって言いおさめられて、一首を渾然としたものにしているところ、長歌の方面にも手腕の秀でていられたことを示すものである。なおこの御歌には、「沖放けて」「辺附きて」と、船のこぎ場所を注目していられる。これは実際の印象で、陥るところは多くの水鳥ということを暗示されようがためである。海上をこぐ船は、余儀ない場合を除くのほか、できうる限り辺に付けてこぐのが当時の風であったと思われる。今は湖上で、水のはねるのさえも見えるような静穏な日なので、そうした時には「沖放けて」こぐことも行なわれていたことが注意される。
石川夫人《いしかはのぶにん》の歌一首
【題意】 夫人は、後宮の職名で、妃の次、嬪の上の位地で、臣下の出としては最上級の職である。(一〇三)の「題意」参照。『講義』は、日本書紀によると、天皇には妃の外四嬪があったが、夫人はなかった。その四嬪の中に、蘇我山田石川麿の大臣の女である越智娘と姪娘の二人がある。そのいずれかであろうといっている。
154 ささ浪《なみ》の 大山守《おほやまもり》は 誰《た》がためか 山《やま》に標《しめ》結《ゆ》ふ 君《きみ》もあらなくに
神樂浪乃 大山守者 爲誰可 山尓標結 君毛不有國
【語釈】 ○ささ浪の大山守は 「ささ浪」は、近江国南方一帯の地名で、皇居はその内にあった。「大山守」は、「大」は、美称。「山守」は、山を守る者すなわち山番で、所有の山の竹木の盗伐されるのを番をして防ぐ者の称である。「大山守」は、御料の山の山番をする官。○誰がためか山に標結ふ 「誰がためか」は、「か」は疑問で、誰のためにかの意。「標結ふ」は、(一五一)に出た。「山」に入るを禁じるための標で、繩の類を結ったものと取れる。○君もあらなくに 「君」は、山を領したまう天皇。「も」は、詠歎。「なく」は、打消の助動詞「ず」の未然形「な」に、接尾語の「く」を添えて、名詞としたもの。「に」は詠歎。「あらなくに」は、あらぬことだのにの意。
【釈】 このささなみにある御料の山を守る大山守は、誰のために山に標を結って置くのであろうか。今は領したまう大君もないことであるのに。
【評】 殯宮の御事の折、何かの機会に、御料の山に以前のままに標の結われてあるのを見て、強い感傷を発しての作である。人の死後、その人に属した物を見ると感傷させられるのは、共通の人情で、生前は無関心で過ぎた小さな物に対して、ことに(238)この感の強く起こるのは常のことである。今も当然のことに対して、「誰がためか山に標結ふ」と強くも疑っているのである。この点は(一五三)の太后の御歌の水鳥も同様である。
山科《やましな》の御陵《みはか》より退散《あらけまか》りし時 額田王の作れる歌一首
【題意】 山科の御陵は、天智天皇の山陵である。延喜式、諸陵寮式の注に、「近江大津宮御宇天智天皇、在2山城国宇治郡1、兆域東西十四町、南北十四町、陵戸六烟」とある。京都市東山区御陵町にある。御陵は、歌の方では「みはか」と訓ませている。『新撰字鏡』には「弥佐々木」の訓がある。それにつき『講義』は、その物についていう時には「みささき」といい、その主についていう時は「みはか」といったもののようだといっている。「退散りし時」というのは、殯宮に奉仕する事が終わった時である。奉仕する者は、皇族の御方々、大臣、下って側近に奉仕していた者で、昼夜に分けて交代に奉仕するのである。その期間は明らかにされていないが、持統天皇の皇太子日並皇子尊の殯宮の期間は、歌によって一年間であったことが知られる。『考』はそれによって一年間としている。
155 やすみしし わご大君《おほきみ》の 恐《かしこ》きや 御陵《みはか》仕《つか》ふる 山科《やましな》の 鏡《かがみ》の山《やま》に 夜《よる》はも 夜《よ》のことごと 昼《ひる》はも 日《ひ》のことごと 哭《ね》のみを 泣《な》きつつありてや ももしきの 大宮人《おほみやびと》は 行《ゆ》き別《わか》れなむ
八隅知之 和期大王之 恐也 御陵奉仕流 山科乃 鏡山尓 夜者毛 夜之盡 晝者母 日之盡 哭耳呼 泣乍在而哉 百磯城乃 大宮人者 去別南
【語釈】 ○やすみししわご大君 既出。○恐きや御陵仕ふる 「恐き」の訓は、集中の仮名書きの例によるもので、本居宣長の訓。「恐き」は連体格で、「御陵」に続き「や」は間投の助詞である。申すも恐れ多いの意。「御陵仕ふる」は、御陵の奉仕をするで、御陵に関する一切の事をいう。ここは殯宮へ侍する意、御陵にの意。○山科の鏡の山に 「山科」は、上にいった。今は京都市東山区である。「鏡の山」は、御陵のある山の名で旧名である。○夜はも夜のことごと 「はも」の「も」は、軽い詠歎。「ことごと」は、ことごとくの語幹で、意味はことごとくと同じ。夜は夜どおし。○昼はも日のことごと 上の二句と対句としたもの。○哭のみを泣きつつありてや 「哭」は、泣き声で、「のみ」は、ばかりの意。「泣きつつ」は、泣き続ける。「や」は、疑問の助詞で、結句へつづく。音《ね》泣くは悲しみの深い時にすることで、そうした悲しみばかりをしつづけての(239)意。○ももしきの大宮人 既出。巻一(二九)参照。○行き別れなむ ここを去って、散り散りに別れ行くであろう。
【釈】 やすみししわご大君の、恐れ多い御陵《みはか》の奉仕をするとて、山科の鏡の山に夜は夜《よる》どおし、昼は一日じゆう声を立てて泣くことばかりしつづけていた大宮人は、散り散りに別れて行くであろうか。
【評】 題詞のように、山科の殯宮に奉仕していた大宮人が、その期間が過ぎて退散した際に、額田王の作った歌で、額田王はその奉仕の中に加わっていてのことである。殯宮の奉仕は期間の定まっていてのことであるが、今はその事が終わるとなると、悲哀の新たなるものがあったことは察しやすいことで、その悲哀を歌にあらわすということはやがて奉仕であって、またしなくてはならないことではなかったかと思われる。歌は事柄としては取り立てていうほどのものはなく、短歌でも足りるものである。これを古風な長歌とし、しかも口承時代の風の濃厚なものとしているのは、その場合としてその必要があったためではないかと思われる。部分的に見ても、「わご大君」といい、「夜はも」「昼はも」と、成句となっている簡素な語を用い、また一方では、殯宮ということを「恐きや御陵仕ふる山科の鏡の山」という荘重な言い方をしているのも、すべて必要に応じてのことと思われる。一首、語がきわめて少なく、また間《ま》がきわめて静かなのは、その悲哀の情をあらわすに適切なものである。この時宜に適させているところに手腕がうかがわれるものである。
明日香清御原宮御宇《あすかのきよみはらのみやにあめのしたしらしめしし》天皇代 天渟中原瀛真人《あめのぬなはらおきのまひと》天皇、謚を天武天皇と曰す
【標目】 巻一(二二)、上の(一〇三)に出た。
十市皇女《とをちのひめみこ》薨《かむあが》り給ひし時の高市皇子尊《たけちのみこのみこと》の御作歌《みうた》三首
【題意】 十市皇女のことは、巻一(二二)に出た。天武天皇の皇長女で、御母は額田王。弘文天皇の妃となられ、葛野王を生まれた。壬申の乱の後は、天武天皇の許に帰っておられたが、天皇の七年、卒然として薨去になられたことが、日本書紀、天武紀に載っている。それは、七年「夏四月丁亥朔、欲v幸2斎宮1(斎宮は倉梯河上に立てられたもの)卜v之、癸巳食v卜。仍取2平旦時1警蹕既動、百寮成v列、乗輿命v蓋。以未v及2出行1、十市皇女卒然病発、薨2於宮中1。由v此鹵簿既停、不v得2幸行1、遂不v祭2神祇1矣」というのである。また、同じく、「庚子葬2十市皇女於赤穂1。天皇臨v之、降v恩以発v哀」ともあって、その不慮の薨去であったこと、天皇の深く哀悼し給うたことが知られる。高市皇子は、(一一四)に出た。十市皇女の異母弟で、尊称を添えてあるのは、次の持統天皇の御代、皇太子草壁皇子尊の薨去の後、皇太子に立たれたがためで、その事は、天皇の十年七月の条に、皇(240)子の薨去を、「後皇子尊薨」と、皇太子に限った尊の尊称をもってしているので知られる。この題詞の記しざまは、皇太子になられた後のものである。
156 三諸《みもろ》の 神《かみ》の神杉《かむすぎ》 已具耳矣 自得見監乍共 いねぬ夜《よ》ぞ多《おほ》き
三諸之 神之神須疑 已具耳矣 自得見監乍共 不寝夜叙多
【語釈】 ○三諸の神の神杉 「三諸の」は、四音一句で、下の「神」に続くもの。「三諸」は、御室にあてた字で、普通名詞であるが、この当時は三輪山を意味するものとなっていた。ここはそれである。「神の神杉」は、「神」は三輪の神で、皇居が大和にあった時代は、特に皇室の崇敬した神である。「神杉」は、特に神に関係の深い杉の意。関係というのは、神霊は清浄なる木に降下されるものと信じ、それにあたる木としていた意である。そうした木は斎い清めて神聖なる物としていた。これは三輪の社にだけ限ったことではなく、社という社にあるもので、社の本質はそうした木で、この時代より一時代溯ると、この木が社その物だったのである。巻四(七一二)「味酒《うまざけ》を三輪の祝《はふり》が忌《い》はふ杉手触りし罪か君に逢ひ難き」は、その木の神聖視されていたことを示すもので、他にも例がある。以上二句、序詞の形となっているが、皇女の暗喩と取れる。皇子にとって皇女は貴く気高く感じられたのである。思慕の心よりのことである。○已具耳矣 自得見監乍共 三、四句にあたる部分であるが、古来訓み難くしている。諸注試訓を施しており、誤写としての改字も試みているが、徹しかねる感がある。○いねぬ夜ぞ多き 眠らない夜が多いことであるよで、悲しみを具象的にいわれたもの。
【釈】 上の理由で釈が付けられず、したがって評もできない。
157 三輪山《みわやま》の 山辺其蘇木綿《やまべまそゆふ》 短木綿《みじかゆふ》 かくのみ故《から》に 長《なが》くと思《おも》ひき
神山之 山邊眞蘇木綿 短木綿 如此耳故尓 長等思伎
【語釈】 ○三輪山の 原文「神」は、三輪山の神を代表的の神としたところから、「三輸」にあてて用いていた。ここはそれだという古事記伝の解に従う。○山辺真蘇木綿 「山辺」は、山のあたりで、下の「真蘇」のある場所をいったもの。「真蘇」は、「真」は美称。「蘇」は、麻の意。麻苧《あさお》が上略されて麻苧《さお》と呼ばれ、それが約《つ》まって「蘇」と呼ばれたのである。すなわち「蘇」は製品の名であるが、それを素材である麻の方にまで及ぼしての称である。「木綿」は、衣服その他にも用いる繊維の総称である。上の麻、また藤、葛、楮《こうぞ》、栲《たく》、などの甘皮《あまかわ》から取るのである。この「木綿」も、心としては、木綿の素材の一つとしての麻であるが、製品の方に力点を置いた言い方をしたものである。一句、山のあたりに生えている、其蘇木綿となるところの麻の意である。麻は神前へ幣《ぬさ》として捧げる物で、そのつながりにおいて捉えている物。この句は、下の「短木綿」(241)と繰り返しの関係にあるもので、意味からいうと、下に「の」のあるべきところを、省いている形のものである。○短木綿 短い木綿の意と取れる。「短」は、木綿としての丈の短い意。「木綿」は、上の句のそれと同じく、製品としての称で、「短木綿」とはすなわち麻である。『仙覚抄』には、筑紫風土記に、長木綿、短木綿ということがあるといっている。それには説明はないが、そういう称があったとすれば、麻から取る木綿は、素材としての麻の茎が、他の素材に較べては短く、したがって木綿も短いので、たぶん麻から取った木綿の称であったろうと思われる。初句からこれまでの三句は、三輪山に鎮まります神の加護の下にある、短い物という意を具象的にいおうとされたもので、皇女の御命の短さの譬喩としてのものである。○かくのみ故に 「かくのみ」は、「かく」は、これほど、「のみ」は、ばかりで、「かく」を限ることによって強めたもの。これほどばかりにで、上の「短」をうけて、きわめて短いことをいったもの。「故に」は、巻一(二一)「入嬬故」に出た。理由をあらわす語で、「であるのに」というにあたる。一句、これほどまでに短い命をもっているものであるのに。○長くと思ひき 命長くあれと思ってきたことであったの意。
【釈】 三輪山の山のあたりに生えている麻の、その真麻木綿《まそゆう》の短木綿《みじかゆう》よ、これほどまでに短い命をもっているものなのに、命長くあれと思っていたことであった。
【評】 この歌は皇女の短命を悲しんだ心のもので、その短命は題意でいったがようにまさに悲しむべきものだったのである。皇子の悲しみは深いものであったと思われるが、事の性質上、それをあらわす語《ことば》は婉曲なものとなって、したがって真意の捉えやすくない感のあるものとなっている。問題は初句の「三輪山」にある。これは「語釈」でいったがように大和の京に住まれた皇女にとっては守護神であって、皇女の運命はこの神の御心にあるとされていたのである。皇女はついにこの神の加護を受けることができなかったのであるが、しかし事は畏い神に関するものであるから、それに対して怨みをいうべきではなく、いえば悲しみだけで、しかもその悲しみも婉曲な言い方のものでなければならないのである。初句より三句までは、三輪山の山辺の、大神に最も近く生えている、また、大神の御料の物である真蘇木綿のその短木綿というので、形としては短いという意の譬喩であるが、心としては皇女その人を暗示しているもので、いわゆる象徴の形のものである。「木綿」を畳んで繰り返しているのは、その短さを強くいうことによって、皇女の生命の短さを嘆いているのである。「かくのみ故に長くと思ひき」は、直接に皇女の薨去を嘆いたもので、意味からいうと、かくも短い生命と定まった方《かた》によって、我は愚かにも命《いのち》長かれと思って来たといって、事の一切を神意として、黙従して静かに悲しんでいられるものである。すなわち一首を貫いている心は、三輪山に鎮まる神を中心として、大神もいかんともし難い皇女の運命であったとして、それを悟り得ざる人間の愚かさを嘆かれたものである。これを歌を形の上から見ると、初句より三句までは象徴的な一つの纏まった心のものであるにかかわらず、「短木綿」の「短」は「長くと」の「長く」と対照するためのものとなっていて、その意味では単なる譬喩と見ざるを得ないものである。しかし、「三輪山の短木綿」は、一首の骨子で、それあるがゆえに一首の心は成り立っているきわめて重いものなの(242)である。ここにこの歌の複雑さがあり、解しやすくなさがある。それは事柄の性質上、そうせざるを得ずしてしたものであって、文芸的にしようとの要求から起こったことではない。文芸的となったのは必要に駆られてしたことの自然の結果なのである。この歌は表現の上からみると、高度の文芸性をもったものである。初句から三句までのもつ知的な具象力は上にいった。それを「短」の譬喩として「長く」に対照させたこともいったが、これも知的なものである。「かくのみ」の現在と、「思ひき」の過去との対照も知的なものである。一首知性が多分に働いているが、同時に初句より三句までは感性的で、全体として渾然とした豊かな趣をもったものとなっている。高度な文芸性をもったものというべきである。
158 山振《やまぶき》の 立《た》ち儀《よそ》ひたる 山清水《やましみづ》 酌《く》みに《ゆ》行かめど 道《みち》のしらなく
山振之 立儀足 山清水 酌尓雖行 道之白鳴
【語釈】 ○山振の立ち儀ひたる 「山振」の「振」は、「振《ふ》る」を古語では「振く」といっていたので、それによってあてた字である。後世の山吹である。皇女の薨去は四月であったから、折から山吹は咲いていたとみえる。「立ち儀ひたる」は、「立ち」は接頭語。「儀」を「よそふ」と訓んだのは『代匠記』である、儀容と熟する文字で、古く「よそふ」にあてていた。二句、下の「山清水」の修飾である。○山清水 山の清水の意で、清水は、湧き出ずる水の意である。山清水は、山には共通のものであるが、ここは「山」に意味をもたせてある。この山は、皇女の御墓のある所としてのものである。古くは墓は丘陵など小高い所を選んで設けるのが普通だったからである。初句からこれまでは、山吹が、その黄色な花をもって装っているところの山清水よというので、心としては、皇女の御墓であるが、それをあらわす方法としては、御墓を間接なものとし、御墓のある山にありうる清らかに美しい光景を思い浮かべ、それの第一を山清水とし、ついで折から水辺には山吹の花が黄に咲いているところから、その山清水をも黄色にするまでに装っているものとしたのである。すなわち御墓を、実際に即しつつ極度に美化したのである。○酌みに行かめど 清水を酌みに行こうと思うけれどもで、心としては、御墓に詣に行こうと思うけれどもということを、「山清水」との関係において言いかえたものである。これも上の延長として、御墓詣ということを美化したものである。○道のしらなく 「しらなく」は知らなくで、打消の「ぬ」に「く」を添えて名詞形にしたもの。知らぬことよ、の意である。一句は、皇女の御墓に行くべき道を知らないということを、嘆きをもっていわれたものである。初句より四句まで、美化したものではあるが、実際に即して離れないものである。この結句は、一首の眼目であるのに、皇子が御姉皇女の御墓の道を知らないということは、実際としてはありうべきことではないことで、この「道のしらなく」も、上と同じく実際でなくてはならないこととなる。それだと、行こうとしても行き得ない所ということを、上と同じく美化していわれたものということになる。橘守部は、この結句から見て、これは幽冥界に対してのことであるとし、そこから推して、「山振の立ち儀ひたる山清水」というのは幽冥界を意味する漢語の黄泉という文字によっての想像だとし、「酌みに行かめど」も、いったがように、詣でようと思うけれどもの意だと解した。『講義』はさらにこれを精細にし、黄泉の黄は五行説では、黄色は地に属したものなので、地中を意味させた語で、黄泉は地中の泉の意であったが、それが転じて墓穴の意とな(243)った。墓は深く地を掘って泉に達せしめる意からである。それがまた転じて幽冥界の意となった。日本書紀の「泉」を冥界《よみ》にあて、「泉津醜女《よもつしこめ》」「泉津平坂《よもつひらさか》」などの文字は、黄泉の黄を略したもので、使用の由来の久しさからの略字だといっている。これに従う。
【釈】 山吹がそのほとりに咲き盛る花をもて黄に装っている、御墓のある山の清水を思わせる、その黄泉よ。我は姉皇女のなつかしさに、その泉を酌みに行こうと思うけれども、幽現、界《よ》を異にしているので、行く道を知らないことであるよ。
【評】 前の御歌と同じく、一方では実際に即しつつ、同時に他方では極度にまで文芸性を発揮し、双方を微妙に調和されたものである。作意は、御姉皇女のなつかしさに、幽冥界にまでもおとずれたいということである。高貴の御方には殯宮の事があり、一般の者も昼はもとより、夜も墓側に過ごす風が行なわれていて、幽冥界と現実界との隔たりは、後世よりははるかに近いものであった。したがって作意は実際に即したものであるといえる。幽冥界を思われると、黄泉ということが連想されたのであるが、この語はいったがように当時は一般化されていたもので、「泉《よみ》」という一字で幽冥界ということをあらわし得ていたのであるから、これまた実際に即しているといえる。その黄泉を思うと、御墓のある赤穂の山に、いずれの山にもある山清水と、折から眼前に咲いている山吹の花の、好んで水辺に咲いていることとを思われ、その花の水に映って、水をも黄に染めていることによって、一躍、黄泉のさまを連想されたのである。この飛躍は飛び離れたものであるが、状態としての自然があるとともに、御姉皇女のなつかしさに引かれての美化という心理的自然も伴っているものなので、さして飛躍を感じさせないものである。一首、気分に終始したものであるが、静かな態度をもって十分に具象化を遂げているために、無理を自然としているものである。時代的に見て、極度の文芸性をもった御歌である。高市皇子の御歌は以上の三首以外には残っていない。歌才の豊かであったことが想われる。
紀に曰はく、七年戊寅の夏四月丁亥の朝にして癸巳の日、十市皇女、卒然《にはか》に病|発《おこ》りて宮の中に薨《かむあが》り給ひきといへり。
紀曰、七年戊寅夏四月丁亥朔癸巳、十市皇女卒然病發薨2於宮中1。
【解】 上に引いたことの要約である。丁亥の朔にして癸巳の日は七日。
天皇|崩《かむあが》り給ひし時の太后《おほきさき》の御作歌《みうた》一首
【題意】 「天皇」は天武天皇。「崩り給ひし時」は、日本書紀、朱鳥元年九月の条に、「丙午天皇病遂不v差、崩2于正宮1。戊申始(244)発v哭。則起2殯宮於南庭1」とある時である。太后は、皇后の意で、後の持統天皇である。皇后初めの名は、※[盧+鳥]野讃艮《うのさらら》皇女。天智天皇の第二皇女。天武天皇の二年皇后となられた。
159 やすみしし 我《わ》が大王《おほきみ》の 夕《ゆふ》されば 見《め》したまふらし 明《あ》けくれば 問《と》ひたまふらし 神岳《かみをか》の 山《やま》の黄葉《もみち》を 今日《けふ》もかも 問《と》ひたまはまし 明日《あす》もかも 見《め》したまはまし その山《やま》を 振《ふ》り放《さ》け見《み》つつ 夕《ゆふ》されば あやに哀《かな》しみ 明《あ》けくれば うらさびくらし 荒《あら》たへの 衣《ころも》の袖《そで》は 乾《ふ》る時《とき》もなし
八隅知之 我大王之 暮去者 召賜良之 明來者 間賜良志 神岳乃 山之黄葉乎 今日毛鴨 問給麻思 明日毛鴨 召賜万旨 其山乎 振放見乍 暮去者 綾哀 明来者 裏佐備挽 荒妙乃 衣之袖者 乾時文無
【語釈】 ○やすみしし我が大王の 既出。○夕されば 夕暮と時が移って来ればの意で、夕暮となれば。○見したまふらし 「見し」は、「見る」に敬語の「す」がつづき、「み」が「め」に転じたもの。「らし」は、現実の事をよりどころとしての推量をあらわす助動詞で、今は連体形であり、下の「神岳の山の黄葉」を生前御覧になったことである。一句、御覧になるであろうところのという意で、神霊として御覧になることと推量したのである。○明けくれば問ひたまふらし 「明けくれば」は、夜が明けて来れば。「問ひたまふらし」は、「問ひ」は訪《おとな》いの意で、上の「めし」に対させたもの。「らし」は、上と同じ。夜が明ければ訪って御覧になるであろうところの意で、これまた神霊としてのことである。○神岳の 神岳は、高市郡明日香村大字|雷《いかずち》にある雷丘《いかずちのおか》で、この丘は飛鳥浄見原の皇居より遠からぬ所にある。この丘は、三諸《みもろ》の神南備山《かむなびやま》とも、神南備の三諸の山とも、単に神南備山とも呼び、また神岳とも呼んでいたので、それについては『講義』は詳しい考証をしている。○山の黄葉を 神岳は黄葉の名所であったとみえる。天皇の崩御は九月であるから、黄葉の時季だったのである。○今日もかも問ひたまはまし 「今日も」は、今日もまた。「か」は、疑問、「も」は、詠歎の助詞。「問ひたまはまし」は、「問ひ」は、上の「問ひ」と同じく、訪って御覧になる意。「まし」は、条件付の仮想をあらわす助動詞で、今は条件は、天皇世にましまさばということである。上より続けて、今日もまた、天皇の世にましまさば、訪って御覧になることであろうか。○明日もかも見したまはまし 「明日もかも」は、上の「今日もかも」に対させたもの。「見したまはまし」の「見し」は、上のそれと同じ。二句、上の二句と対句としたもの。○その山を振り放け見つつ 「山」は、神岳で、上をうけて、天皇の御愛着の深いその山を。「振り放け見つつ」は、「振り」は接頭語。「放け」は距離をつける意で、遠くより見やる意をあらわす語。「つつ」は、継続。○夕さればあやに哀しみ 「あやに哀しみ」は、「あやに」は、いおうようもなく深くの意の副詞。○明けくればうらさびくらし 「うらさびくらし」は、「うらさび」(245)は、心の楽しまない意で、連用形。「くらし」は、日をすごし。○荒たへの 「荒たへ」は、和《にぎ》たえに対したもので、荒々しい織物、すなわち粗末なもの。喪服を意味させたもの。○衣の袖は乾る時もなし 「袖」は、涙を拭う物としていったもの。「乾る時もなし」は、涙に濡れとおして、その乾る時とてもないの意。
【釈】 やすみししわが大君の、今は神霊として、夕暮になると御覧になられるであろうところの、夜が明けてくれば訪《おとな》って御覧になられるであろうところの、神岳の山の黄葉を、もし世にましましたならば、今日もまた御覧になられることであろうか、明日《あす》もまた訪って御覧になられることであろうか。大君の御愛着の深いその山を、ひとり遠く見やりつづけ、夕暮になると、言おうようもなく深く悲しくて、夜が明けてくると、心楽しまずに終日をすごして、荒妙の喪服の袖は、涙に濡れとおして乾る時とてもない。
【評】 天皇の殯宮にいられた時、皇后が、「神岳の黄葉」を天皇の御形見と見て、天皇に対するごとき哀情を感じられての御歌である。形見の物を、さながらその人自体のごとく感じるのは、この時代の共通の信仰であって、また根深いものでもあった。この場合もそれで、皇后から見ると、「神岳の黄葉」はその際の第一の御形見だったのである。
天皇の崩御は九月で、陰暦暮秋である。当時の風物で、秋より冬にかけての代表的なものは萩と黄葉で、その黄葉が色づこうとする時である。神岳は当時黄葉の名所だったとみえる上に、浄見原の皇居からほど近い所だったので、天皇の御関心が深く、朝に夕に、その黄葉の深まる程度を望まれ、またお訊ねにもなったのである。その御関心の深さがすなわち御形見になる理由で、また、その間《かん》の消息を誰よりも最もよく知っていたのは皇后であられるところから、皇后は、神岳の黄葉を、今も天皇の神霊の通いつづけていられることと信じ、天皇に対する心をもって「神岳の黄葉」を御覧になっているのである。すなわちこの場合の神岳の黄葉は、皇后には風物ではないのである。
(246) 一首二段より成り、前段は、「明日もかも見したまはまし」までで、一に天皇と神岳の黄葉とのつながりを叙したものである。「見したまふらし」「問ひたまふらし」の「らし」の助動詞は、根拠ある推量をあらわすもので、根拠とはこの場合、天皇の神霊のそれをなさるのを皇后の確認されたことである。これは信仰をとおしてのことである。「問ひたまはまし」「見したまはまし」の「まし」の助動詞は、仮設を条件としたもので、もし御在世であればとしてのものである。これは神去り給うた天皇としての嘆きである。いずれも「神岳の黄葉」を御形見と見ての範囲のことであるが、そこに皇后のお心の動揺が現われていて、しっかりと現実の上に立ってのお嘆きなのである。
後段は、一転して、皇后御自身の哀傷である。「神岳の黄葉」にお心をつなぎ言葉少く、叙されているのは、それが礼儀であったと取れる。「あやに哀しみ」「うらさびくらし」は、徹底した現実味というべきである。
表現形式から見ると、長歌形式はすでに古風な、特殊なものになっていたろうと思われる。その形式を選ばれているのは、儀礼としてのことと解される。その長歌も、さらに心して古樸な風を選ばれている。この長くない一首の中に、二句|対《つい》の対句を三つまで用いられている。しかしその対句は、古い歌謡に用いられている繰り返しに近いもので、文芸性を加えようとするものではなく、感を強めようとするだけのものである。これも皇后にそのお心があって、特に意図してなされたことであろうと思われる。
また、長歌には反歌が添うこととなっていた時代であるのに、この長歌にはそれがない。これも一に古風に従ってと思われてのことと解される。
一首全体として見ると、古風を念とされて、古樸に、簡潔に作られてはいるが、その信仰方面を除外すると、徹底した現実味をもち、また微細な気分をも盛られているところは、まさにこの時代のものである。優れた挽歌である。
一書に曰はく、天皇の崩《かむあが》りましし時の、太上天皇の御製歌《おほみうた》二首
【題意】 「太上天皇」は、持統天皇で、この称をもってお呼びしたのは、文武天皇の御代である。「御製歌」というのも、その称に従っての語である。この題詞は、文武天皇の御代に記録せられた書にあるままをここに移したものと思われる。しかるに目録の方には、「一書の歌二首」とあるのみで、こことは異なっている。もとより太上天皇の御作歌としてのことで、内容としては同一である。一書というのが同一の物であったか、あるいは異なっていたのかはわかりかねる。
160 燃《も》ゆる火《ひ》も 取《と》りてつつみて ふくろには 入《い》ると言《い》はずや あはむ日《ひ》招《を》くも
燃火物 取而※[果/衣のなべぶたなし]而 幅路庭 入澄不言八 面智男雲
(247)【語釈】 ○燃ゆる火も 燃え立っているところの火さえも。○取りてつつみて 手に取って、物に包んで。○ふくろには入ると言はずや 「ふくろ」は嚢。「は」は、強めの意のもの。「入ると言はずや」は、入れるというではないか、言っているで、「や」は反語。○あはむ日招くも 「面智男雲」は訓み無くして、さまざまの訓が試みられている。比較的穏やかなのは、『考』と『檜嬬手』とである。『考』は、「面」を「も」の助詞とし、上句に属するものとして、「入るといはずやも」と八音にし、「智」を、「知曰」の二字の誤写によって一字となったものだろうとし、「知曰男雲《しるといはなくも》」すなわち「知ると云は然くも」としている。意は、「知ると」は、天皇にお逢い申す術で、「曰はなくも」は、知っているという者のあるといわないことよである。『檜嬬手』は、面を第五句のものとし、「智」を「知曰」の二字の誤写として、「面知」を「逢ふ」の義訓としている。「日男雲」を「日なくも」とし、「逢はむ日なくも」としている。これが従来の試訓のうち、比較的に最もうなずきうる訓みであった。しかるに『注釈』は、「面智」は『檜嬬手』の誤写説を認めて「逢はむ日」に従い、「男雲」については、従来とは全く異なった訓みと解をしている。約言すると打消の助動詞「ず」の名詞形「なく」を用いた「なくに」の結びは夥《おびただ》しくあるが、「なくも」と、「も」の詠歎を添えた結びは、集中一例もない。これは他の語でなくてはならない、というのが第一である。次に「男」は仮名としては、「男為鳥《ヲシドリ》」(巻十一、二四九一)、「片思男責《カタモヒヲセム》」(巻四、七一九)、「海部尓有益男《アマニアラマシヲ》」(巻十一、二七四三)など、男は「ヲ」であるから、ここも「をくも」と訓むべきだとし、招く意の「をく」は古語で、大伴家持の用いている例二首(巻十七、四〇一一)、(巻十九、四一九六)を引き、さらに古事記上巻、天孫降臨の条の「遠岐斯八尺之勾※[王+總の旁]《ヲキシヤサカノマガタマ》、神代紀上、天石窟《あまのいわや》の第一の一書の「奉招祷也《ヲキタテマツラム》」を引いて、古事記伝(一五)の、「凡て遠岐《ヲキ》とは、物を招き寄せむとすることにて」という本居宣長の注をも引いている。それだとこの句は、我は天皇にお逢い申す日を招き祷ることであるよの意となり、御製の作意が釈然としたものとなる。前人未踏の創見とすべきである。
【釈】 燃え立っている火さえも、手に取って、物に包んで、嚢の中に入れるという、不可能のことも行なっているというではないか。我は天皇にお逢い申せる日を招き祷《いの》っていることであるよ。
【評】 天皇崩御の後、やや日を経ての御心と思われる。この当時、道教が信じ行なわれていて、瑞祥が勢力あるものとなっていたことは上に出た。中国より伝わった散楽が、幻術を行なってみせてもいた。初句より四句までのようなことが行なわれていて、太后がそれをお聞きになったということはありうべきことである。それを現在の悲しみにつないで、「あはむ日招くも」といわれたのは、上代信仰として、皇祖神に祈ればいかなる事もなろうと信じていられた太上天皇の心持にきわめて自然なものである。加えてこの御製には太上天皇の御風格も現われている。初句より四句まで世に不可能としていることも、現に行なっているではないかと、陰陽道の人のすることを、事細かに力強く叙して言いきられ、一転して結句では、御信念を披瀝していられる。一首の構成、それを貫く熱意のこもった声調は、まさに帝王の風格というべきで、堂々たる御製である。
161 北山《きたやま》に たなびく雲《くも》の 青雲《あをぐも》の 星《ほし》離《はな》れ去《ゆ》き 月《つき》を離《はな》れて
(248) 向南山 陳雲之 青雲之 星離去 月矣離而
【語釈】 ○北山に 旧訓で、義訓。北方の山の意と取れる。『全註釈』は、天武天皇の明日香の浄見原の山陵としている。○たなびく雲の 「陳」は、文字どおり「つらなる」という訓と、用例の多きに従って「たなびく」とした訓と二た通りある。ここは、北山の上に、たなびいている雲の。「の」は、同じ趣の体言を重ねる時に用いる意のもので、「その」の意で下につづく。○青雲の 「青雲」は、上代の人は、白雲と対して青雲というものが感覚的に認められたと見え、用例が多い。高空にある淡青の雲であったろうと想像される。上の雲と畳語になっており、主格をなしている。青雲が。○星離れ去き 空の星を離れて高く昇りゆき。○月を離れて 星よりも高くいる月をも離れてさらに高く昇ってゆくで、昇りゆくを省略した形。
【釈】 北山の上にたなびいている雲のその青雲が、星を離れて昇ってゆき、さらに月を離れて昇ってゆく。
【評】 天皇の尊骸を明日香の浄見原の山陵におさめた後、幾ばくもない頃のある夜の太上天皇の、感覚的印象をとおしての御製と思われる。天皇をはじめ尊貴なる皇族の方々は、高天が原より降られ、また高天が原に還られるというのが古来からの信仰で、その還られるのがいわゆる神上りますことである。太上天皇はこの信念を強くもたれ、星あり月ある夜、山陵に対していられると、山上に青雲を認められ、その青雲が行動を起こして、みるみる星を越えて上昇し、さらに月をも越えて上昇したのである。雲に神秘性を感じていたのは当時の一般の信仰で、太上天皇はその青雲の行動に天皇の神霊の神上りますのを感覚をとおして認められての御製と解せられる。一に御心境の表現で、信仰状態である。しかしそれとすると、可能な限り具象化され、第一に「北山に」と含蓄をもたせて位置を明示し、ついで「たなびく雲の青雲の」と、畳語を用いて青雲なるものを強調し、最後に「星離れ去《ゆ》き月を離れて」と、一首の中核である青雲の上昇を叙されているところ、具象化として機構の整然たるものである。信仰とこの具象と相俟って、神秘性をもった、力ある御製とされているのである。上とは異なった趣をもった優れた御製である。
天皇|崩《かむあが》りましし後、八年九月九日|奉為《おほみため》の御斎会《ごさいゑ》の夜、夢《いめ》の裏《うち》に習ひ賜へる御歌一首 【古歌集の中に出づ】
【題意】 「天皇」は、天武天皇で、崩御は、朱鳥元年九月九日である。その後の八年は、持統天皇御宇七年である。「九月九日」は、天武天皇の御忌日である。「奉為」は、漢語で、「奉」は敬語とするために加えたもの、「おほみ為」にあてた文字である。「御斎会《ごさいえ》」は、天皇御冥福を祈るため、斎《とき》を設けて三宝を供養する会《え》である。宮中における御斎会の、史に見える最初のものは、日本書紀、天武紀四年四月、「戊寅、請2僧尼二千四百余1而大設v斎焉」とあるものである。「夢の裏に習ひ賜へる」は、「習ふ」はしばしば繰り返す意で、みずからお作りになるともなく、自然に得られたことをあらわす語であって、近世の御夢想の歌とい(249)うのと同じ趣のものである。題詞の下に小字をもって「古歌集の中に出づ」と注した本は七種まである。
162 明日香《あすか》の 清御原《きよみはら》の宮《みや》に 天《あめ》の下《した》 知《し》らしめしし やすみしし わが大王《おはきみ》 高照《たかて》らす 日《ひ》の皇子《みこ》 いかさまに 念《おも》ほしめせか 神風《かむかぜ》の 伊勢《いせ》の国《くに》は 沖《おき》つ藻《も》も 靡《な》みたる波《なみ》に 潮気《しほけ》のみ かをれる国《くに》に うまごり あやにともしき 高照《たかて》らす 日《ひ》の御子《みこ》
明日香能 清御原乃宮尓 天下 所知食之 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 何方尓 所念食可 神風乃 伊勢能國者 奧津藻毛 靡足波尓 塩氣能味 香乎礼流國尓 味凝 文尓乏寸 高照 日之御子
【語釈】 ○明日香の清御原の宮に 既出。天武天皇より持統天皇にわたっての皇居。ここは、天武天皇の皇居としていわれている。○天の下知らしめしし 「天の下」は、既出。天下の意で、日本全国。「知らし」は、「知る」の敬語で、支配の意。「めしし」の下の「し」は過去の助動詞「き」の連体形。○やすみししわが大王 既出。○高照らす日の皇子 高照らすは、高く照りたもう。「日の皇子」は、日の神の御末。○いかさまに念ほしめせか 巻一(二九)に出た。「いかさまに」は、どのように。「念ほしめせか」は、「念す」は、「念ふ」の敬語。「めせ」は、上の「めし」と同じで、その已然形。「か」は、疑問で、係辞。どのように思しめされてのことであったろうかで、神にます天皇または皇太子の御上は畏くしてうかがい難いとして、その御行動に対して敬って添えていう語で、成句となっている独立句。○神風の伊勢の国は 「神風の」は、巻一(八一)に出た。神風を息吹《いぶき》とし、その古語「息《い》」に、繰り返しの意でかかる伊勢の枕詞。○沖つ藻も 「沖つ藻」は、沖の方にある藻で、沖は辺《へ》に対させたもの。「も」は、もまたの意のもの。○靡みたる波に 「靡みたる」は原文「靡足」で、『講義』は、「なびきし」と訓んだのを、『全註釈』『注釈』の改めたもの。「足」を仮名の「し」に用いた例は、上にア段の語のある時に限られていて他に用例がなく、「たる」の例は多いとしてである。靡いている波に。○潮気のみかをれる国に 「潮気のみ」は、潮の気ばかり。「かをれる国に」は、「かをる」は古くは、火の状態にも、霧の状態にもいった。ここは潮気の状態をいったもので、烟っている意。潮気ばかりが烟っているところの国にで、上の二句と同じく、伊勢の国の状態をいったもので、対句である。○うまごり 「味《うま》」は、味酒《うまざけ》のそれと同じく、賞美しての語。「凝《ごり》」は、織物の織の意で、名詞。味《うま》き織《おり》の意。意味で綾と続き、その綾を、同音の副詞の「あや」に転じて、その枕詞としたもの。○あやにともしき 「あやに」は(一五九)に出た。いおうようもなく。「ともしき」は、「ともし」は、羨ましい意にも、乏しくして愛すべき意にも用いていた語。ここは後の意のもので、下への続きから見ると、慕わしの意と取れる。
【釈】 明日香の清御原の宮に、天下を御支配遊ばされた、やすみししわが大君の、天に照らしたまう日の神の御子よ。どのよう(250)に思《おば》し召されてのことであったろうか。神風の伊勢の国は、海の沖の方の藻の靡いている波とともに、潮気ばかりが烟っている国に、いおうようもなく慕わしき、天に照らしたまう日の神の御子よ。
【評】 「明日香の」より「日の皇子」までの八句は、天武天皇を讃えた辞《ことば》であるが、これは天皇に対しても最大の讃え辞である。夢のうちに歌を習った方も、その時は同じく天皇であられたのである。結末の「うまごり」以下の四句も、同じく讃え辞で、こちらは「やすみししわが大王」という、支配者としての方面は省き、その代りに、天皇の神性の方面を強調したもので、うるおい深く、感情をこめたものである。中間は天武天皇と伊勢国との関係を思われ、何事かをあらわそうとされたものであることはわかるが、伊勢国の状態を精細に叙されているにもかかわらず、肝腎の事柄には触れられないので、臆測をも許されないものである。壬申の乱の際、天皇には皇后とともに伊勢の桑名にいられたことがあるので、その事ではなかろうかという解がある。伊勢の状態をいわれる語《ことば》は、単なる一つの国としてのみのものに見えるから、その意味ではよりどころのないものではないが、想像にすぎないものである。語句の脱漏があるのではないかという解もあるが、題詞によって見れば、おぼつかない想像といわざるを得ない。小字ながら「古歌集中に出づ」とあり、諸本異同がないのであるから、これが原形で、いずれかの経路で宮中外に伝わって、重んじられていた御製と思われる。この御製の重んじられたのは、題詞にあるように、「御斎会の夜、夢の裏《うち》に習ひ賜へる」というところにあって、御製そのものよりも、御製の成った神秘性の方にあったのではないかと思われる。すなわち仏教に対する神秘性と、上代の夢と、夢に近い無意識の中に詠む歌とに、神のお告げを感じていた風との相俟ってのことと取れる。それとともに注意されることは、一方にそういう風があったにもかかわらず、御製そのものは、純然たる伝統的のもので、そこにはいささかも仏教的色彩を帯びていないことである。そこに天皇の御人柄の偲ばれるものがある。
(251) 藤原宮|御宇《あめのしたしらしめしし》天皇代 【高天原広野姫《たかまのはらひろのひめ》天皇、天皇の元年丁亥、十一年、位を軽太子に譲りたまひ、尊号を太上天皇と曰す】
【標目】 上に出た。「天皇の元年」以下の注記は金沢本、紀州本など多くの古写本にある。
大津皇子《おほつのみこ》薨《かむあが》り給ひし後、大来皇女《おほくのひめみこ》伊勢の斎宮《いつきのみや》より京《みやこ》に上りし時の御作歌《みうた》二首
【題意】 「大津皇子」と「大来皇女」のことは、(一〇五)(一〇六)に出た。天武天皇の皇子皇女で、御同腹であり、皇女は御姉である。大津皇子の薨じたのは、朱鳥元年十月戊辰朔庚午(三日)で、皇太子草壁皇子尊に謀叛の事が露《あらわ》れて誅せられたのである。大来皇女は、天武天皇の御代の伊勢の斎王で、伊勢斎宮にいられたが、天皇崩御となり、御代がかわったので、任が解けて、朱鳥元年十一月丁酉朔壬子(十六日)京へ還られた。これらの事は日本書紀に出ている。皇子薨去より四十日ばかり後のことである。
163 神風《かむかぜ》の 伊勢《いせ》の国《くに》にも あらましを いかにか来《き》けむ 君《きみ》もあらなくに
神風之 伊勢能國尓母 有益乎 奈何可來計武 君毛不有尓
【語釈】 ○神風の伊勢の国にも 上の歌に出た。「も」は、詠歎。○あらましを 居ろうものをの意。「まし」は、不可能の希望の、それの結びとする語であるから、このような事があったと知ったならばの意が含められている。その事は、皇子の薨去のことである。「を」は詠歎。○いかにか来けむ 「いかにか」は旧訓で、「なににか」「なにしか」の訓みもあるが、この字は「いかに」の用例しかないといって『全註釈』は改めている。「か」は、疑問。「来けむ」は、「けむ」は過去の推量。京へ上《のぼ》って来たのであろうかの意。○君もあらなくに 「君」は、大津皇子。「も」は、詠歎。「あらなくに」は、「く」を添えて名詞形とし「に」の詠歎を添えたもの。なつかしい君もいまさぬことであるのに。
【釈】 伊勢国に、こうと知ったならば、そのままにとどまっていようものを。どうして京へ上って来たのであろうか。なつかしい君もいまさぬことであるのに。
【評】 皇子薨去のことは、斎宮の皇女は御存じがなく、京へ還られてはじめてそれと知られ、深い悲しみをもってお詠みになったものである。深い悲しみは、皇子の薨去については何事もいわれず、御自身も皇子と一体となって打ち砕かれ、あるにもあられぬお心を、しめやかにいっていられるところに現われている。すなわち言うにまさる悲しみである。皇子と一体になっ(252)ていられるとはいうが、この御歌は、皇子の方に力点を置いてのものである。結句の「君もあらなくに」は、いったがように、世にいまさぬことであるのにで、上よりの続きでは、京にいまさぬという意味をもったものとなってくる。実感としてはその方が先で、それに、世にいまさぬ意味が伴ったものと取れる。実感をそのままにお詠みになったところから、おのずから綜合された複雑な味わいである。場合がら当然のことである。しめやかながら引き締まった、言葉少なの表現は、おのずから気品あるものとなっている。
164 見《み》まく欲《ほ》り 吾《わ》がする君《きみ》も あらなくに いかにか来《き》けむ 馬《うま》疲《つか》らしに
欲見 吾爲君毛 不有尓 奈何可來計武 居疲尓
【語釈】 ○見まく欲り 「見まく」は、見ることの意で、「く」を添えて名詞形としたもの。「欲り」は、「欲す」の古語で、動詞、連用形。○吾がする君もあらなくに 「する」は、上の「欲り」に続けて、その意を強める働きをさせているもの。「君も」も、「あらなくに」も、上の歌と同じ。○馬疲らしに 「馬」は、斎王の供奉の官人の乗馬、駄馬。「疲らし」は、それを労する意で、馬を疲らせることであるにの意。『講義』はこれについて、斎王の御旅は群行と称し、一部隊の旅であった。斎王は御輿であるが、その駕輿丁は、左右の衛府より各十六人ずつを出す定めであり、官人は乗馬、それに駄馬が添うが、『朝野群載』の四、「伊勢斎王帰京国々所課」のうち、近江国の下に、「馬百匹、夫百人」とあり、なおその他も引いている。後世もこれであるから、この当時のさまは想われるといっている。
【釈】 わが逢い見たいことだと思っている君もまさないことであるのに、どうして京へは上《のぼ》って来たのであったろうか。ただ馬を疲らせることであるのに。
【評】一首の形も心も、前の御歌の繰り返しであるが、これは、力点をやや御自身の方へ引きつけられ、弟皇子に逢われることを楽しみとしていた、伊勢から京までの道中の労苦を顧みられたものである。御自身の労苦をいわれず、供奉の者のそれとし、さらに馬とされているところに、お人柄が感ぜられる。これも実感よりおのずからそうなったので、「馬疲らしに」という単純な中に、複雑なるものが綜合されている。一つの心を、やや角度を変えて繰り返すことによって、その心を尽くそうとするのは、謡い物系統の古い型である。(一〇五)(一〇六)の御作歌と型を同じゅうしている。この気品と、具象化の手腕とは、まさに皇女のものである。
大津皇子の屍《かばね》を葛城《かづらき》の二上《ふたがみ》山に移《うつ》し葬《はふ》りし時、大来皇女の哀傷《かなしみいた》む御作歌《みうた》二首
(253)【題意】 屍を移し葬るにつき、『講義』は、『攷証』の解を進めて、委しく考証している。この「移し葬る」は、後世の一たび葬った屍を他に改葬するのとは異なって、殯宮または殯屋にある屍を墓所に移して葬る意で、いわゆる殯葬というものであるとし、古く墓所より出土した墓誌をあげて、その期間は、長いことを確かめている。「葛城の二上山」は、大和国北葛城郡当麻村にある山で、今は葛城山と二上山とは別としているが、古くは葛城山の一部とされていたのである。山は二峰相対しており、一を男嶽、他を女嶽と称している。二上《ふたがみ》はそこから起こった称である。皇子の墓は男嶽にあり、現在も保存されている。
165 うつそみの 人《ひと》なる吾《われ》や 明日《あす》よりは 二上山《ふたがみやま》を 弟世《なせ》と吾《わ》が見《み》む
宇都曾見乃 人尓有吾哉 從明日者 二上山乎 弟世登吾將見
【語釈】 ○うつそみの人なる吾や 「うつそみ」は、現《うつ》し身の義で、「し」が「そ」に転音した語である。「うつせみ」とも転音している。幽冥界にいる幽《かく》り身に対し、現実界にある身の意。「人なる」は、人にてある。「や」は、詠歎の助詞で疑問の意ももっている。○弟世と吾が見む 「弟世」の訓は、従来さまざまであった。『注釈』は、「世」は「弟」の訓みをあらわしたもので、「せ」すなわち、男性の総称としての語である。一句の音調上、「せ」の一音では足らず、何らかの訓み添えを必要とする。用例としては「いろせ」と「汝《な》せ」とある。「いろ」も「汝」も愛称で用例としては「汝」が多いとして「汝」をとっている。これに従う。「吾が見む」は、見ることであろうかで、「見む」は連体形。
【釈】 現し身の人であるところのわれは、なあ、明日からは、二上山を、弟として見ることであろうか。
【評】 上代にあっては現し身と幽り身の距離は近いものであっ(254)た。ことに殯宮の間は.ほとんど現し身に対すると異ならないものと見なしたのである。皇女の哀傷されたのは、移し葬ることによって新たに加わりくる距離に対しての嘆きである。なお二上山は御墓所を具象的にいったものであるが、この当時にあっては、山は神の意が明らかで、したがって皇子の神霊界に属するものだという感を刺激するところがあり、それも距離を際立たせたのではないかと思われる。結句の「なせ」の愛称、それに「吾が」を添えたのは、いずれも深い哀感の表現で、初二句と相俟って、しめやかながら高い響をなしている。純情とともに皇女の内に蔵された強さを偲ぶに足りる御作である。
166 礒《いそ》のうへに 生《お》ふる馬酔木《あしび》を 手折《たを》らめど 見《み》すべき君《きみ》が ありと言《い》はなくに
礒之於尓 生流馬醉木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓
【語釈】 ○礒のうへに 「礒」は、石の古語で、古くは石上《いそのかみ》など、石を「いそ」と呼んでいた例がある。「於」は、上の意で、典拠のある文字であえう。ほとりの意のもの。○生ふる馬酔木を手折りめど 「生ふる」は、自生している意。「馬酔木」は、その実を食えば馬が酔う木の意で、わが国で造った文字である。これにあたる木は、現在「あせぼ」と称する木で、その葉の煮汁を飲ませると、馬は脚が痺れ、葉を食わせると鹿は角を落すという。集中仮名書きで「あしび」といっているのが、この馬酔木にあたる。山城大和の山野に多く自生する木で、春、穂を垂れて小壺状の白い花がむらがつて咲く。「手折らめど」は、手折ろうけれども。○見すべき君がありと言はなくに その花を見せて喜ばせるべき君が、世に存していると人がいわないことであるのに。
【釈】 石のほとりに生えている馬酔木の、その愛すべき花を手折りもしようけれども、しかし見せて喜ばせるべき君が、世に存していると人がいわないことであるのに。
【評】 馬酔木を、「礒のうへに生ふる」といわれ、また「見すべき君」ともいわれているので、皇女がそのお住まいになられる邸以外において、たまたま見かけられたも(255)のと取れる。移し葬ることをされた時のことと思われる。事は、愛すべき物を見て、親しい人とともに見ないのをあきたらず思い、それを見せてやろうと思う共通の人情のものである。「ありと言はなくに」は、語としては誇張に似ているが、事としては、皇子の薨去はただ話に聞くだけのもので、全く夢のようにお思いになっていたことと察せられるから、明らかに実感であったろうと思われる。その意味で、含蓄のあるものである。
右一首、今|案《かむが》ふるに、移し葬《はふ》る歌に似ず。蓋し疑はくは、伊勢の神宮より京に還りし時、路上に花を見て、感傷哀咽してこの歌を作りませるか
右一首、今案、不v似2移葬之歌1。蓋疑、從2伊勢神宮1還v京之時、路上見v花、感傷哀咽作2此歌1乎。
【解】 撰者の注か、その後のものかはわからぬ。伊勢より御帰京の際の歌だろうというのである。これは誤りである。御帰京は十一月で、春咲く馬酔木の花のあるべくもない。またその時は、皇子の薨去を知られなかったことが、上の御作歌でわかる。かたがた誤りであることは明らかである。
日並皇子尊《ひなみしのみこのみこと》の殯宮の時 柿本朝臣人麿の作れる歌一首井に短歌
【題意】 日並皇子尊のことは、巻一(四五)に出た。皇太子として薨去になったのは、日本書紀、持統紀に、「三年四月乙未皇太子草壁皇子尊薨」とある。「日並皇子尊」は、草壁皇子の皇太子としての尊称で、「日並」は、日を天皇に喩え、それに並びます意の語で、本来普通名詞である。「尊」は、皇太子に限っての敬称である。「殯宮」は、葬所の傍らに設けて、臣下の者の侍する宮である。これに続く舎人の歌によって、皇太子に対する殯宮奉仕の期間は一年間であったことが知られる。
167 天地《あめつち》の 初《はじ》めの時《とき》 ひさかたの 天《あま》の河原《かはら》に 八百万《やほよろづ》 千万神《ちよろづがみ》の 神集《かむつと》ひ 集《つと》ひいまして 神分《かむはか》り 分《はか》りし時《とき》に 天照《あまて》らす 日女《ひるめ》の命《みこと》【一に云ふ、さし上《のぼ》る日女《ひるめ》の命《みこと》】 天《あめ》をば 知《し》らしめすと 葦原《あしはら》の 瑞穂《みづほ》の国《くに》を 天地《あめつち》の 寄《よ》り合《あ》ひの極《きはみ》 知《し》らしめす 神《かみ》の命《みこと》と 天雲《あまぐも》の 八重《やへ》かき別《わ》きて【一に(256)云ふ、天雲《あまぐも》の八重雲《やへぐも》別きて】 神下《かむくだ》し いませ奉《まつ》りし 高照《たかて》らす 日《ひ》の皇子《みこ》は 飛《と》ぶ鳥《とり》の 浄《きよみ》の宮《みや》に 神《かむ》ながら 大敷《ふとし》きまして 天皇《すめろぎ》の 敷《し》きます国《くに》と 天《あま》の原《はら》 石門《いはと》を開《ひら》き 神上《かむあが》り 上《あが》りいましぬ【一に云ふ、神登《かむのぼ》りいましにしかば】 吾《わ》が王《おほきみ》 皇子《みこ》の命《みこと》の 天《あめ》の下《した》 知《し》らしめしせば 春花《はるばな》の 貴《たふと》からむと 望月《もちづき》の 満《たた》はしけむと 天《あめ》の下《した》【一に云ふ、食《を》す国《くに》】 四方《よも》の人《ひと》の 大船《おほふね》の 思《おも》ひ憑《たの》みて 天《あま》つ水 《みづ》仰《あふ》ぎて待《ま》つに いかさまに 念《おも》ほしめせか 由縁《つれ》もなき 真弓《まゆみ》の岡《をか》に 宮柱《みやばしら》 太敷《ふとし》きいまし 御殿《みあらか》を 高知《たかし》りまして 朝《あさ》ごとに 御言《みこと》問《と》はさず 日月《ひつき》の 数多《まね》くなりぬる そこ故《ゆゑ》に 皇子《みこ》の宮人《みやびと》 行方《ゆくへ》知《し》らずも【一に云ふ、刺竹《さすたけ》の皇子《みこ》の宮人ゆくへ知《し》らにす】
天地之 初時 久堅之 天河原尓 八百萬 千萬神之 神集 々座而 神分 々之時尓 天照 日女之命【一云、指上日女之命】 天平婆 所知食登 葦原乃 水穏之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 天雲之 八重掻別而【一云、天雲之八重雲別而】 神下 座奉之 高照 日之皇子波 飛鳥之 淨之宮尓 神随 太布座而 天皇之 敷座國等 天原 石門乎開 神上 々座奴【一云、神登座尓之可婆】 吾王 皇子之命乃 天下 所知食世者 春花之 貴在等 望月乃 滿波之計武跡 天下【一云、食國】 四方之人乃 大船之 思馮憑而天水 仰而待尓 何方尓 御念食可 由縁母無 眞弓乃岡尓 宮柱 太布座 御在香乎 高知座而 明言尓 御言不御問 日月之 數多成塗 其故 皇子之宮人 行方不知毛【一云、刺竹之皇子宮人歸邊不知尓爲】
【語釈】 ○天地の初めの時 「天地の初めの時」は、いわゆる天地開闢の時で、天と地とが分かれた時のことである。しかし下の続きから見ると、これは天孫降臨の時ということを意味させたものであって、天地開闢ということと、天孫降臨ということ、言いかえればわが国の国土開発という政治上のこととを、同意義のこととしていっているものである。○ひさかたの天の河原に 「ひさかたの」は、天にかかる枕詞。巻一(八二)に出た。「天の河原」は、古事記上巻に、「是以八百万神於|天安《あめのやす》之河原神集神集而」とある、その天の安の河原である。○八百万千万神の 「八百万」「千万」は、きわめて数の多いことをあらわす語で、重ねていうことによって感を強めたものである。多くの神々のの意である。○神集ひ集ひい(257)まして 「神集ひ」の「神」は、事、神のしわざであるがゆえに添える語で、用例の多いものである。「集」は、古事記の注に、「訓v集云2都度比1」とある。「神集ひ」は、下の「集ひ」に対して修飾格に立っているもので、こうした続け方は古語に例の多いもので、一つの格をなしているものである。「いまして」は、敬語とするために添えたもの。二句、お集まりになられての意で、事としては、上に引いた古事記の文と同じ事柄である。○神分り分りし時に 「分」を、「はかり」と訓むのは旧訓である。他に「わかち」「くばり」「あがち」の訓もある。『講義』は「はかり」に従い、『字鏡集』には「分」に「はかる」の訓がある。事物を判別する意に用いたと思われる。大祓詞に、ここと同じ事柄を、「神議議賜※[氏/一]」とあるその議《はか》りと同じだというのである。「神分り分り」は、上と同じ続き方である。「久堅の」以下、この「分りし時」までは、最初の「天地の初めの時」に、同じ趣の事を体言の形をもって重ねたもので、天地の初めの時にして、すなわち神々の神分りし時にの意である。○天照らす日女の命 「天照らす」は、天に照りたまうの意。「日女の命」は、日本書紀第一に、「生2日神1号2大日〓貴1」とあり、注に「大日〓貴云2於保比屡※[口+羊]能武智《おほひるめのむち》1」とあるそれで、日神の御名である。「ひる」は「日」の古語である。御名をもっていっているのは、その際の事が政治的の事柄であるので、その面を強調しようとしてのことと思われる。○一に云ふ、さし上る日女の命 「さし上る」は、朝日の昇る状態をいったもので、日の枕詞である。本行の方が力がある。○天をば知らしめすと 「天」は、高天原で、この国土に対する世界。「知らしめす」は、巻一(二九)に出た。この訓は仮名書きによってのもの。「知らす」は、「知る」すなわち支配するの敬語。「めす」は、「見る」すなわち支配するの敬語で、助動詞風に重ねたもの。「と」は、とて。二句、高夫原を御支配になるとて。○葦原の瑞穂の国を わが国の古名。「葦原」は、葦は水分の多い所に生える物で、その生えつづいて原をなしている所の。原文「水穂」の「水」は、「瑞《みづ》」で、「穂」は、稲の穂。稲のみずみずしく熟する国の意。主食物の米の豊かにみのる国としてこの国土を讃えての称。○天地の寄り合ひの極 天と地とが寄り合って一つになる、その最後までの意。天地の開闢に対させた思想で、混沌が分かれて天地となった、それがまた合して混沌にかえる意で、未来の無窮ということをあらわすために、ありうべからざることを想像して具象的にいった語。○知らしめす神の命と 「知らしめす」は、御支配になるところの、の意で、連体形。「神の命」の「命」は、尊称。「と」は、として。すなわち皇位に即《つ》かれるべき神としての意。○天雲の八重かき別きて 天の雲の幾重にも重なっているのを分けてで、天孫の降臨をいったものである。古事記、日本書紀、大祓詞にも出ているきわめて重大なる事柄である。○一に云ふ、天雲の八重雲別きて いささかの相違であるが、本行の方が力がある。○神下しいませ奉りし 「神下し」の「神」は、「神集ひ」のそれに同じ。「いませ奉りし」は、敬語とするために添えたもの。二句、御下し申し上げたところので、「奉りし」は連体形。○高照らす日の皇子は 天に照りたまう日神の皇子はで、上の「神の命」の繰り返しの形となっているものである。「皇子は」の「は」は、文意としては、七句を隔てて、「石門を開き」に続き、皇太子日並皇子尊であることの明らかなものである。ここに注意されることは、この「日の皇子」は、上よりの続きでいえば、当然皇孫彦火瓊々杵尊であらせられるのが、下への続きから見ると、日並皇子尊に転じていることである。このことは、天照大神の命をこうむっての皇位の継承という上からいうと、彦火瓊々杵尊と皇太子日並皇子尊とは、ひとしく同格にあらせられるという意よりのことである。これはまた歴代の天皇、皇太子にも通じてのことであって、この歌は私的なものではなく、皇子尊の殯宮において誦した公的なものであるから、既定のこととなっており、人麿はそれを代弁しているものである。○飛ぶ鳥の浄の宮に 上に出た。天武天皇より持統天皇にかけての宮であるが、ここは持統天皇の宮としてのもの。○神ながら太敷きまして 「神ながら」は、神そのままにの意。巻一(三八)(三九)に出た。「太敷きまして」は、「太」は、「敷き」にかかる讃(258)え詞。「敷き」は、広く天皇のなされることをあらわす語で、ここは御支配の意。「まして」は、敬語にするために添えたもの。○天皇の敷きます国と 「天皇」は、皇祖をはじめ、当代の天皇までをこめて申す称。ここは、当代の持統天皇。「敷きます」は、上の「敷きます」と同じ。「国と」は、国として。「飛ぶ鳥の」以下六句は、日並皇子尊のお思いになったこととしていっているもので、すなわちこの国土は、天皇の御支配になられる所であるとしての意。○天の原石門を開き 「天の原」は(一四七)に出た。ここは天の意で、地《つち》に対する世界で、神にまします尊貴なる方々の、幽《かく》り身として永遠にいますべき世界。「石門」は、堅固な門の意、「開き」は、その門を開いてで、天の原に人らせられるには、そうしたことをなされるものと信じての語である。○神上り上りいましぬ 「神上り」の「神」は、「神集ひ」のそれと同じ。天の原に幽り身として上《あが》りたまうことで、すなわち薨去の意である。古く、天皇の崩御を「神上り」と申しているので、それに準じてのものである。「いましぬ」は、「上り」を敬語とするために添えたもの。○一に云ふ、神登りいましにしかば 「神登り」は、意は神上りと同じ。「いまし」は、敬語としてのもの。これは、下へ続く形となっているもので、文意が整わない。本行に従うべきである。以上、第一段である。○吾が王皇子の命の 「吾が王」は、親しんでの称。「皇子の命」は「命」は敬称で皇子である限り、どなたにも添えて申す称で、皇太子には「尊」の文字をもって差別しているのである。ここは普通の敬称である。○天の下知らしめしせば 「せば」は、仮設条件を示す語。皇太子にましましたので、御即位は当然あるべきものだったのである。○春花の貴からむと 「春花の」は、春の花のごとくに。「貴と」は、「太」に、「た」の接頭語の添った語で、その太は、豊かさ、美しきなどの意をもった語。「と」は、と思って。○望月の満《たた》はしけむと 「望月の」は、十五夜の満月のごとく。「満はし」という訓は、『代匠記』がしたもので、巻十三(三三二四)、「十五夜月《もちづき》のたたはしけむと」と仮名書きがあるのによったのである。『講義』は、この語につき委しい考証をし、「たたはし」は本来、「湛ふ」という動詞の形容詞に化したもので、その「湛ふ」は、事物の満ち足りたことをあらわす語で、ここの「満」にあたっているといっている。「満はしけむ」は、「たたはしからむ」を約《つ》めた語である。「と」は、と思って。二句、上の二句と対句としてある。○天の下 天下の者すべてが。○一に云ふ、食す国 「食す国」は、御支配になる国で、天下と同じ。本行に従う。 ○四方の人の 「四方」は、四方で、すなわち全部。○大船の思ひ憑みて 「大船の」は、大船に乗ったごとく。「大船の」は、集中の例は枕詞としてのみ用いているが、ここは、前後と同じく、譬喩として用いてあると解される。本来、響喩から枕詞となった語なので、枕詞以前の用法のもの。「思ひ憑みて」は、信頼して。○天つ水仰ぎて待つに 「天つ水」は、天の水ですなわち雨。「仰ぎて待つ」は、空を仰いで待つ意と、尊い物に対して待つ意とがある。空を仰いで待つのは、大旱の時の状態で、これを尊き物を待つ響喩としたのである。二句、大旱の時、雨の来るのを仰いで待つごとくに、皇子尊の御即位を仰いで待っているのにの意。二句、上の二句と対句。○いかさまに念ほしめせか 巻一(二九)、本巻(一六二)に出た。どのようにお思いなされたのであろうかで、薨去のことを、御自身の意志よりなされたものとし、尊貴の御方のお心は畏くしてうかがい難いという意でいったもの。○由縁もなき真弓の岡に 「由縁」を「つれ」と訓むのは、『玉の小琴』の訓で、下には同じ趣を「所由」とも書いてある。『講義』はこれと同じ場合をいった仮名書きを、集中から二か所引き、この訓を確かめている。「由縁もなき」は、ゆかりもない、すなわちもの淋しいの意。「真弓の岡」は、現高市郡明日香村真弓から高取町佐田にわたる地といわれ、延喜式の諸陵寮式に、「真弓丘陵、岡宮御宇天皇、在2大和国高市郡1、兆域東西二町、南北二町、陵戸六烟」とある所である。岡宮御宇天皇とは日並皇子尊の追贈の号である。○宮柱太敷きいまし 「宮柱」は、宮の柱。「太」は、讃え詞。「敷き」は、ここは営む意。「いまし」は、敬語とするためのもの。宮をお宮みなされての意。なお「太」は、讃え詞では(259)あるが、「柱」に関係をもちうる語で、響き合うところがある。○御殿を高知りまして 「御殿」は、現人神なる天皇の宮の称で、ここはそれに准じていったもの。巻一(五〇)に出た。「高知りまして」は、「高」は、讃え詞。「知り」は、「しき」と同じく、ここは営む意のもの。「まして」は、敬語とするためのもの。四句、御墓の傍らに営む殯宮をいったものである。○朝ごとに御言問はさず 「朝ごとに」は、日ごとにの意で、朝をもって日を代表させた語。これにつき、『講義』は、古の公に仕え奉る時刻のことを、種々の古文献によって詳しく考証し、それによると、朝廷の百官の伺候は、大体卯の刻(午前六時)で、退朝は巳の刻(午前十時)であった。月によって相異はあるが、退朝は巳の二剋(午前十時)を越えることはなかった。朝をもって日をあらわすのはこのためだといっている。これによってこの語は明らかになった。「御言問はさず」は、「言問ふ」はものをいうことで、「さ」は尊敬の助動詞「す」の未然形。二句、いつの日も御用を仰せになられないの意。○日月の数多くなりぬる 「日月」は、日や月の意。「数多く」は、物事の多くしげき意をいう形容詞で、ここは多くの意。「なりぬる」は、ここは重なって来たの意で、「ぬる」は、上の「何方に念ほしめせか」の「か」の疑問の結びで、連体形。以上、第二段である。○そこ故に 「そこ」は、その点。上の状態のゆえに。○皇子の宮人行方知らずも 「皇子の宮人」は、皇子の東宮としての宮に仕えている人で、これは朝廷より付けられる職員である。春宮傅より舎人に及んでいる。「行方知らず」は、行くべき方向が知られない意で、途方にくれる意。仕えまつるべき君が薨じられたので、よるべきところがないの意。「も」は、詠歎。○一に云ふ、刺竹の皇子の宮人ゆくへ知らにす 「刺竹の」は、意味が定まっていない。ここは「皇子」にかかる枕詞。「ゆくへ知らにす」は、「行方知らずも」と意味は同じである。本行の方が力がある。
【釈】 天地《あめつち》の初めの開闢の時、すなわちひさかたの天の安の河原に、八百万千万の多くの神が集いに集って、議《はか》りに議ったその時に、天照らす日女の命は高天原を御支配になることとして、葦原の瑞穂の国をば、天地《あめつち》が再び寄り合う未来の無窮の時までも、御支配になるべき神の命として、天雲の幾重に重なるのを別けて、お下し申し上げた、その高照らす日の神の皇子《みこ》には、この国は飛ぶ鳥の浄《きよみ》の宮に、神そのままに貴くも御支配になって、天皇の御支配になるべき国であるとして、御みずからは、天の原の堅固なる門《と》を開いて、そこへと上《あがか》りに上らせられた。我らの大君の皇子の命が、定まっているとおりに、もし天下を御支配になったならば、春の花のごとくに豊かに美しくあろうと思い、十五夜の月のごとくに満ち足ることであろうと思って、天下の全体の人々は、大船に乘ったがように思い頼み、大旱に天より降る雨を仰ぎ待つように仰ぎ見て待っているのに、畏くもどのようにお思いなされたのであろうか、何の関係もないもの淋しい真弓の岡に、御自分の宮を御営みなされて、大宮を御営みなされて、いつの日にも御用を仰せられず、そうした日や月が多くも重なって来たことである。そうした次第ゆえに、皇子に御仕え申している宮人すべては、将来の方向も知られず、途方にくれていることであるよ。
【評】 真弓の岡にある日並皇子尊の殯宮に奉仕している宮人が、皇子尊を御慰めする心をもって詠んだ挽歌である。挽歌は現し世を去られた人を慰めることを本旨とするもので、慰める方法は、その人を尊むこと、死を悲しむこと、後永く忘れまいとすることで、そのほかには方法はない。そうした時の歌は、神を祭る際の詞と同じく、できる限り麗わしくして、神霊の嘉《よみ》したまうようにすることを条件としていた。この歌が長歌という、それをなしうる形式を選んでいるのも、また作者がその事に最(260)も堪能なる人麿であることもそのためである。人麿はこの宮の舎人《とねり》の一人として選ばれたのか、あるいは作歌に長《た》けている者として他より選ばれたのかは明らかでないが、おそらく舎人の一人としてのことと思われる。この歌を詠んだ時は、「朝ごとに御言問はさず、日月の数多《まね》くなりぬる」という時で、薨去後ある期間が経って、驚きは鎮まり、反対に悲しみは深まってきて、「皇子《みこ》の宮人|行方《ゆくへ》知らずも」というように、自分どもの今後の身の処置も思われてくるようになった時、振り返って見て事の全体を捉えて詠んだものである。
一首、宮人という立場に立って詠んだものである。宮人は朝廷より皇太子に賜わった職員で、その狎《な》れ親しみ奉っている上よりいえば、おそらく何びとよりも深い者であるが、身分の上よりいえば、最も遠い階級にある者である。したがってこうした際にその心を歌うとしても、最も深い悲しみを通して、最も深い尊みの心を歌わなければならないものである。実際に即して離れまいとする当時の歌であるから、このことは固く守られてこの一首は詠まれている。
一首、三段から成っている。第一段は、起首から「神上り上りいましぬ」までである。ここは皇子尊を限りなく尊き神として讃えたものである。この段で特に注意されることは、「語釈」でもいったがように、「天地の初めの時」すなわち天地の開闢の時が、「天の河原に、神分り分りし時」すなわち彦火瓊々杵尊のこの国に降臨された時と同時になっていることである。今一つは、「神下しいませ奉りし」というその瓊々杵尊が、日並皇子尊となり、御同体となっていることである。これは歴史的にいうと事実ではないのであるが、国民の信念としては儼たる事実だったのである。その事はこの挽歌が、人麿個人のものではなく、舎人全部を代弁しているものであることでも明らかなことである。天孫と皇太子と御同体であるということは、皇位の万世一系ということであって、この当時にあっては、ここに見るがごとく、全く知性を含まない感性のものであり、きわめて直接なものとなっていたのである。これらは皇子尊を尊み讃えるためにいっているものであることはいうまでもない。また、神上りますのに理由を求めて、「飛ぶ鳥の浄の宮に、神ながら太敷きまして、天皇の敷きます国」としているのは、神上りは自分の御意志よりのこととしたので、これは人としての事ではなく、神のみのなされる事である。これも皇子尊を讃えてのことである。この一段の言葉は荘重を極めたものであるが、これは古事記、日本書紀などの成書を待つまでもなく、祝詞により、また語り継ぐことによって一般化していた言葉を取ったものと思われる。「高照らす日の皇子」という言葉のもつ含蓄は、同じく一般化していたものと思われるが、表現としての簡潔は、作者人麿のものと思われる。
第二段は、「日月の数多くなりぬる」までである。この一段は、上に対して、人としての皇子尊の御薨去をいったもので、そのいかに惜しむべきことであるかを極力いうことによって、皇子尊を御慰めしようとしているのである。前半は、皇子尊の御即位を、天下の者がいかに待ち望んでいたかを、二句対を二回まで用いることによって華やかにいい、後半の御薨去の悲哀と対照させている。御薨去をいうに「いかさまに念ほしめせか」といっているのは、薨去を自分の意志よりのこととしたので、皇子尊を、人ならぬ神としていっていることである。「朝ごとに(261)御言問はさず、日月の数多くなりぬる」は、時間的に、次第に御薨去のさまをあらわし給うことをいっているもので、宮人の深い悲哀を事実に即していったものである。味わいの深い部分である。
第三段は、結末の三句である。形の上から見るとこれが一首の力点のある所で、またこの歌の作られた一つの動因でもあるが、それがこのように短く、深い悲哀をこめてのものとなっているのは、実際に即して、虔《つつ》ましい物言いにとどめたがためである。すなわち宮人としての低い身分を意識して、多くをいうことを恐れ多しとして差し控えたのである。一首、挽歌の本旨は十分に尽くしたものであるが、構成が整然とし、言葉の繁簡が適当に、深い用意をもったものとなっているのは、一に作者人麿の力量である。
なおこの歌で、第一段では明らかに御薨去のことをいい、第二段は、「朝ごとに御言問はさず」と、現し身に対しまつるごとき期待をかけ、そのかなわぬのを悲しんでいるのは、一種の矛盾を感じさせられることである。これを単なる感傷よりのことと見れば、古今に通じての人情で、格別怪しむには足りないものとなる。しかし前後の続きより見れば、あくまでも皇子尊を尊んで、狎れまつるような態度はとるまいとしているので、ここだけが感傷をほしいままにしているものとは思われない。したがってこの期待はある合理性をもったものと思われる。悠久な古にあっては、死生の距離はさして遠くはないものであったと思われる。死ということは幽《かく》り身の状態において存在を続けることと信じられてい、その信念は、多少の推移はあっても保ち続けられていたのである。死者を死後にわかには埋葬しないという風の保たれていたのも、身と魂とを二元的に考えている心からは、自然なことと取れる。まして天皇皇太子など、尊貴を極めた、現人神と仰いでいた御方に対しては、殯宮奉仕の一年間は、神霊は天の原に上られても、御体は地にとどまっており、しかも神霊はきわめて神秘な自在な力をもっていられるので、超自然なことの現われうる可能性は、強くも恃《たの》みうることとしたのであろう。「朝ごとに御言問はさず」ということが、重大なこととして扱われ、またきわめて悲しいこととしていわれているのは、この意味からであって、いわゆる感傷よりの言ではなく、合理性のあったものと解される。これに類することは、他にもある程度まではある。
反歌二首
168 ひさかたの 天《あめ》見《み》る如《ごと》く 仰《あふ》ぎ見《み》し 皇子《みこ》の御門《みかど》の 荒《あ》れまく惜《を》しも
久堅乃 天見如久 仰見之 皇子乃御門之 荒卷惜毛
【語釈】 ○ひさかたの天見る如く仰ぎ見し 「ひさかたの」は、上に出た。「天見る如く」は、仰ぐことの譬喩。「天」は、天上の世界としてのも(262)の。「仰ぎ見し」は、事の実際でもあるが、尊んで見ることの方を主としてのもの。○皇子の御門の 「御門」は、宮の意のもので、一部をもって全部を代表させての称。皇居に対してと同じ言い方のものである。この宮は、高市郡明日香村橘の島の宮で、以下の歌に出て来る。○荒れまく惜しも 「荒れまく」は、「く」を添えて名詞形としたもので、荒れんことの意。「惜しも」の「も」は、詠歎。上代の信仰として、死の穢れを忌むことが甚しく、人が死ぬとただちにその家より出してほかに移した。天皇の大殯《おおあらき》宮もそれである。それのみではなく、ついでその宮を住み棄てられもしたのである。天皇の崩御についで遷都のことのあったのもそのためである。日並皇子尊の宮も、住み棄てられるべきものであったので、その荒れてゆくことを宮人として惜しんだのである。
【釈】 ひさかたの天を見るごとくにも仰いで、尊んで見てきたところの皇子尊の宮の、これからは荒れてゆくだろうことのその惜しさよ。
【評】 長歌の方は、殯宮における皇子尊の、今は現《うつ》し身でないことを認めざるを得ないのをいっているが、ここではそれを進めて、幽《かく》り身としての扱いをしている。また、長歌は殯宮のことのみをいっていたのに、ここでは転じて、御生前の宮をいっている。長歌の操り返しではなく、変化をつけたものである。皇子尊が、現し身であり幽り身であるにしても、御慰めする心は同一である。御薨去になられた以上、お慰めするのは皇子尊を忘れないという一事だけである。忘れないということは、心の中に思うだけでは足らず、皇子尊に直接に関係のある現実の物品を通してお思い申すというのが上代の通念で、形見の重んじられたのはそのためである。皇子尊の形見のうち、その最も重大なる物は御門である。その御門《みかど》は荒れゆかざるを得ないものである。この歌は、それらのすべてを心に置いてのものである。素朴なる形に強い気息をこめ、重い調べをもっていっているのは、お慰めしようにもしかねるような悲哀をもってのものだからである。
169 あかねさす 日《ひ》は照《て》らせれど ぬばたまの 夜《よ》渡《わた》る月《つき》の 隠《かく》らく惜《を》しも
茜刺 日者雖照有 烏玉之 夜渡月之 隱良久惜毛
【語釈】 ○あかねさす 「あかね」は、草としての名であるとともに、その根から赤色の染料を取る関係上、赤色を意味する語ともなっていた。ここは赤色の意である。この関係は、紫が草の名であり、色の名であると同様である。「さす」は、発する意。赤色を発するで、日の状態をいうことによって、その枕詞としたもの。○日は照らせれど 「日」は、天皇に喩えたもの。「照らせれど」は、照らしあれどで、天皇の儼然とましませどの譬喩。○ぬばたまの夜渡る月の 「ぬばたまの」は、夜にかかる枕詞。(八九)に出た。「夜渡る月」は、夜空を端《はし》から端へと運行するの意で、「月」を「日」に並ぶ尊いものとして、皇太子に喩えたもの。○隠らく惜しも 「隠らく」は、名詞形で、隠れることの意。すなわち幽り身とならせられたことの喩え。「惜しも」の「も」は、詠歎。
(263)【釈】 日は照っているけれども、すなわち天皇は儼然とましますけれども、しかし夜空を運行する月の隠れたこと、すなわち天皇につぎたまふ皇太子の幽り身となられることの惜しさよ。
【評】 この歌は、さらに転じて、皇子尊を、国家との関係においてお思い申したものである。心としては長歌に繋がりをもったもので、その意味では繰り返しに近いものである。日を天皇にお喩えするのは、日の皇子という讃え詞との関係上、喩えとは言い難いものである。月を皇太子にお喩えするのは、その延長であって、これまた心としては喩え以上のものである。日と月のそれぞれに枕詞を添えているのは、修飾というよりも、尊んで重くいおうとする必要のもので、ここにも修飾以上のものがある。形を素樸に、調べをもって情をあらわしているところは、上の歌と同様である。
或本、件の歌を以て後の皇子尊の殯宮の時の歌の反となせり
或本、以2件歌1爲2後皇子尊殯宮之時歌反1也
【解】 この注記は右の歌(一六九)の下に二行に記されている。西本願寺本には、「或本云」とあるが、「云」は、金沢本などにはない。「後の皇子尊」は、高市皇子尊のことで、後の(一九九)に出る。「歌の反」は、『講義』は、後の琴歌譜によって「歌ひ返し」と訓むべきもので、反歌の国語であり、二様の名が存していたとしている。
或本の歌一首
【題意】 「或本」には、次の歌が、この長歌の反歌の一首となっているところから、撰者がここに収めたものとみえる。しかしこの歌は、その性質上、これに続く一連の歌の中に属すべきものとみえる。
170 島《しま》の宮《みや》 勾《まがり》の池《いけ》の 放《はな》ち鳥《どり》 人目《ひとめ》に恋《こ》ひて 池《いけ》に潜《かづ》かず
嶋宮 勾乃池之 放鳥 人目尓戀而 池尓不潜
【語釈】 ○島の宮 日並皇子尊の宮殿の名。宮の所在は、今の明日香村島の庄であろうという。この宮については『講義』が詳しく考証している。ここは推古天皇の御代、蘇我馬子が邸を営んだ旧地らしく、後、天武天皇の離宮となり、皇太子に賜わったものだという。島の宮というのは、宮殿内に島があったからの称で、島とは庭園を称する名である。この島ははやく馬子時代からあって、馬子もそれによって島大臣《しまのおとど》と呼ばれていたの(264)であった。○勾の池の 「勾の池」は、池の名である。この池は庭園の一部を成しているもので、いわゆる山水《せんすい》である。○放ち鳥 「放ち鳥」は、放ち飼にしてある鳥にもいわれうる語であり、仏教でいう放生《ほうじよう》のために放つ鳥にもいっている称である。ここはそのいずれかであるが、歌で見ると、鳥が池に住みついている状態をいっているところから推して、放ち飼の鳥とみえる。鳥は水禽である。○人目に恋ひて 「人目」は、人の目で、見ること、見ゆること、見らるることに通じていう語。ここは人に見らるることである。「に」は、(一一一)に出た。「恋ひ」の対象をあらわす語で、に対しての意であり、動的の目標をさした場合のものであると『講義』は説明している。今だと「を」というところである。人を恋しがっての意。○池に潜かず 水の中に潜り入らないの意で、潜るのは小魚を獲りなどするためである。
【釈】 島の宮の勾の池にいる放ち飼の水禽は、人を恋しがって、池水の中に潜り入らない。
【評】 皇子尊の屍は真弓の岡の殯宮へ移らせられ、宮人は殯宮に奉仕していたのであるが、その一部は交替にて島の宮の宿衛もしたことが、後に続く歌で知られる。作者とされている人麿は、その殯宮の期間のある日、島の宮の宿衛の番にあたってこちらへ来、皇子のいらせられた時とは打って変わり、寂然としているさまを見て、悲しくもの寂しい感に堪えなかったとみえる。その時たまたま目に着いたのは、水禽の放ち鳥で、これに向かっていると、折から水禽は水を潜《かず》かないのであったが、これがいつもの習性とは異なっているような気がして、そこに一つの気分が湧いてきたのである。それは水禽も自分と同じく、悲しくもの淋しい気がしていて、今見ている人が恋しくて潜《くぐ》らないのだと感じたのである。それがこの歌の作因である。「島の宮勾の池」と、馴れた宮で、しかも眼前にある池を、固有名詞を二つまで重ねていっているのは、事を鄭重にいうことによって感を尽くそうとしたのである。感とは、皇子尊の近くまでいられて、常に御覧になった物ということにまつわる哀感である。「放ち鳥人目に恋ひて池に潜かず」は、事としては、折から水禽は小魚を漁ろうとしなかったというにすぎないことであるが、それに自分の哀感を移入して、水禽も我と同じく哀感に堪えずにいるとしたのである。自然物にわが感情を移入するということは、この時代にあっては少数の人よりほかは、十分にはできなかったのであるが、この歌はそれを高度にまで果たし得ているものである。これを果たしたがために、作者のその際の感情は、美しさを帯びたものとなってあらわされ、のみならずその折の島の宮全体のもつ哀感をも漂わしくるという広がりをもったものとなったのである。これは無意識なものでなく意識してのものであることは、「島の宮勾の池の」と重くいっているので明らかである。これは人麿の好んで用いた手法である。この歌によって見ると、人麿は、日並皇子尊の舎人の一人であったようにみえる。
皇子尊の宮の舎人等、慟傷《かなし》みて作れる歌二十三首
【題意】 「皇子尊」は、上に続いて、日並皇子尊。舎人は東宮の舎人である。令の制によると、定員六百人である。舎人の職務は、宮中にあつては内舎人、大舎人に分かたれ、内舎人の職務は、「掌2帯刀、宿衛、供奉、雑使1、若駕行分2衛前後1」とあり、大舎(265)人の方は、「分v番宿直仮使」とある。これに准じたものと思われる。慟傷は、いずれの字もいたむの意あるものである。
171 高光《たかひか》る 我《わ》が日《ひ》の皇子《みこ》の 万代《よろづよ》に 国《くに》知《し》らさまし 島《しま》の宮《みや》はも
高光 我日皇子乃 万代尓 國所知麻之 嶋宮波母
【語釈】 ○高光る我が日の皇子の 「高光る」の「高」は、天。天に光るで、「日」にかかる枕詞。「我が」は、親しみ尊んで添えた語。○万代に 万年にで、永久の意でいうもの。○国知らさまし 「国」は、わが国、「知らさまし」は、「知る」に尊敬の助動詞「す」の未然形「さ」のついた「知らさ」に、仮想の「まし」の続いたもので、「まし」は連体形である。御支配になるであろうところの意。○島の宮はも 「島の宮」は、上に出た。「はも」は、「は」は、上の体言のあらわそうとするものをさし、余情をこめて言いさしとしたもの。「も」は、その余情に対しての詠歎で、それをもって終止としたものである。ここは、主《あるじ》なき島の宮の荒れ行こうとするのを見て嘆いたものである。
【釈】 高光るわが日の皇子が世にいましたならば、永久にわたってこの国を御支配になるであろうところの島の宮は、ああ。
【評】 二十三首のうち、最も多数を占めているのは、島の宮の荒廃に帰そうとするのを悲しんだ歌である。皇子尊の御薨去からやや時日が立ち、悲哀の情が鎮まって来た時、舎人という身分の者に取っては、最も直接に、また最も痛切に哀感を誘ったのは、平常奉仕のために出入りしていた宮の状態であったろう。この歌は、島の宮の荒廃しつつある状態を目前に見て、今さらに返らぬ嘆きの強いものに衝《つ》き動かされ、それを一気に詠んだもののであることは、一首の調べによって感じられる。しかしそれをいうにも、皇子尊に対する畏さから語に細心の注意をし、御薨去のことは「国知らさまし」の「まし」の仮想によってあらわし、また、宮の荒廃の悲しさは、「島の宮はも」の「はも」によって、一に余情によってあらわすという方法を取っているのである。これらは技巧というべきではなく、真心の現われと見るべきである。一舎人の作としては優れたものである。
172 島《しま》の宮《みや》 上《うへ》の池《いけ》なる 放《はな》ち鳥《どり》 荒《あら》びな行《ゆ》きそ 君《きみ》まさずとも
嶋宮 上池有 放鳥 荒備勿行 君不座十万
【語釈】 ○島の宮上の池なる放ち鳥 「島の宮」「放ち鳥」は、(一七〇)に出た。「上の池」は、池の名と取れるが、(一七〇)の勾の池との関係はわからない。「なる」は、にあるで、に居るの意。○荒びな行きそ 「荒び」は、疎く遠ざかる意である。今は、放ち鳥がそこを住み捨てる意である。住み捨てることはするなと命じた意。○君まさずとも 「君」は、主の皇子尊。「まさずとも」は、この宮におわさずとも。
(266)【釈】 島の宮の上の池に住んでいる放ち鳥よ、ここを疎く遠ざかること、すなわち住み捨てることはするなよ。主《あるじ》なる皇子尊はこの宮にはおわさずとも。
【評】 これも島の宮に詰める番に当たった舎人の、宮の荒廃しようとしている状態を悲しんでいる折から、上の、池に住んでいる水禽を見て、自身の情を投げかけたものである。「荒びな行きそ君まさずとも」は、単純に似て複雑である。放ち鳥は池に小魚のいる限りは住みついていようから、荒びゆく怖れは少ないものである。しかし舎人は主《あるじ》なき宮にはいられず、荒び行く形とならざるを得ないものである。その自身の怖れを放ち鳥に移し、哀願する心をもっていっているもので、心は舎人自身のものだからである。咄嗟《とつさ》に発した感で、深く意識していたものとはみえないが、実感であるがゆえにおのずから複雑味を含んでいるのである。境地は(一七〇)と酷似しているが、文芸性のはるかに劣ったものである。
173 高光《たかひか》る 吾《わ》が日《ひ》の皇子《みこ》の いましせば 島《しま》の御門《みかど》は 荒《あ》れざらましを
高光 吾日皇子乃 伊座世者 嶋御門者 不荒有益乎
【語釈】 ○高光る吾が日の皇子の (一七一)に出た。○いましせば 「いまし」は、御在世の意。「せば」は、仮設の条件のもので、下の「まし」に対するもの。もしも御在世であったならば。○島の御門は 「御門」は、御殿を、その一部の御門で代表させたもので、島の宮はの意。○荒れざらましを 荒れずにあろうものをで、上の「いましせば」に対する帰結。
【釈】 高光るわが日の皇子がもし御在世であったならば、島の御殿はこのように荒れずにいようものを。
【評】 島の宮に詰めての嘆きである。荒廃するよりほかない島の宮の、すでにその兆をあらわしているのに対し、皇子尊を中に置いて、以前と現在とを対照しての嘆きである。心としては(一七一)と全く同じものである。(一七一)の方は感動そのものを主とし、宮の方は客として詠んでいるのに、これは宮の方を主として詠んだものである。感動に即したものの方が、感の強いものとなっている。
174 外《よそ》に見《み》し 檀《まゆみ》の岡《をか》も 君《きみ》ませば 常《とこ》つ御門《みかど》と 侍宿《とのゐ》するかも
外尓見之 檀乃岡毛 君座者 常都御門跡 侍宿爲鴨
【語釈】 ○外に見し 「外」は、現在も口語にまで用いている語で、関係のない、ひいては疎いものの意である。『講義』は、仏典のよその国語化(267)したもので、古くよりそうなった語だと注意している。関係なく見てきた。○檀の岡も 「檀」は、上の真弓。「も」は、詠歎。○君ませば 「君」は、皇子尊。「ませば」は、いますので。○常つ御門と 「常」は、永久。「つ」は、の。「御門」は、御殿。「と」は、として。永久の御殿として。事としては殯宮である。○侍宿するかも 「侍宿」は、殿居《とのい》で、宿直。守衛の役としてである。「かも」は、詠歎。
【釈】 関係なく見てきたところの真弓の岡も、君がそこにましますので、永久の御殿として、守衛のための侍宿をすることであるよ。
【評】 これは、真弓の岡の殯宮に侍宿をしていての悲しみである。悲しみを抒《の》べるに、自分の現在の状態を、客観的に、大きく捉え、しかも「外に見し檀の岡」を、「常つ御門」としていると、際やかなる対照をして、それによって悲しみをあらわしているのである。目だたないものであるが、当時の歌風に従ったもので、要を得た歌である。殯宮を檀の岡と言いかえたのは、感傷の心よりである。
175 夢《いめ》にだに 見《み》ざりしものを おほほしく 宮出《みやで》もするか 佐日《さひ》の隈廻《くまみ》を
夢尓谷 不見在之物乎 欝悒 宮出毛 爲鹿 佐日之隈廻乎
【語釈】 ○夢にだに見ざりしものを 「だに」は、軽きをあげ重きを言外に置く意の助詞。夢にさえも見なかったものをで、全く思いもかけなかったのにと嘆いた意。○おほほしく 「欝悒」は、集中に多い語で、『講義』は「おぼろ」の語根に基づいた語で、その「おぼ」を重ねておぼおぼしくとした意であろうという。多くの用例から見ると清音であるらしく、事のはっきりしない意、また、心結ぼれる意をもあらわす語である。ここは、はっきりしない意に取れる。形容詞。○宮出もするか 「宮出」は宮門を出入することで、ここは宮に向かって行く意と取れる。「も」も「か」も詠歎。宮への出仕をすることよの意。○佐日の隈廻を 「佐」は接頭語。「日の隈」は檜隈《ひのくま》の文字を用いたものが多い。高市郡明日香村檜前。現在は真弓の岡の南方にある(268)一地名となっているが、古くは広い地域の大名で、真弓の岡もその中であったかもしれぬと『講義』は考証している。「廻」は、あたり。
【釈】 夢にさえも見なかったことであるのに。事のはっきりしない、すなわち現実とも思われない状態で、宮への出仕をすることであるよ、この檜隈のあたりを。
【評】 一舎人の、真弓の岡の殯宮への出仕の途中、檜隈のあたりを歩きながら、出仕といえば橘の島の宮とばかりきまっていて、それに馴れている心から、打って変わった今の状態を、現実のことではないような感がして、嘆いての歌である。「おほほしく」という語は、ありふれた語であるが、事の全体を大きく捉え、事実に即していおうとする態度に支持されて、含蓄の多い、その際の悲哀の情を微妙にあらわし得たものとなっている。
176 天地《あめつち》と 共《とも》に終《を》へむと 念《おも》ひつつ 仕《つか》へ奉《まつ》りし 情《こころ》違《たが》ひぬ
天地与 共將終登 念乍 奉仕之 情違奴
【語釈】 ○天地と共に終へむと 「天地」は、窮りなきものの代表としてのもの。「と共に」は、それと一緒にで、永遠にということを具象的にいったもの。天壌無窮というと同じ意で、例の多い語である。「終へむと」は、終わらせようとで、その終わらせるのは、下の「仕へ奉る」ことである。○念ひつつ 「つつ」は、継続。○仕へ奉りし情違ひぬ 「仕へ奉りし情」は、皇子尊に御仕え申して来た情《こころ》。「違ひぬ」は、期待に反したの意。
【釈】 天地と一緒に、永久にお仕え申しきろうと思い思いして、今までお仕え申してきたところのわが情は、期待に反してしまった。
【評】 皇子尊の御薨去に対しての深い悲哀を、一気に、太く強く訴えた歌である。その悲哀の深さは、一首の調べによって十分に具象化されている。「天地と共に終へむと」は、舎人として仕えまつる情をいったものであるが、この語は、皇子尊を君と仰ぐがゆえにはじめて言いうるもので、すなわち皇子尊を讃えるとともに、臣下としてお仕えする矜りをも一つに溶かし込んだ、複雑味のある語である。また、「情違ひぬ」と、我に即した言い方をして、皇子尊の御薨去をあらわしているところも、その延長で、同じく複雑味をもったものである。一気に詠んではいるが、行届いた用意をもったものである。
177 朝日《あさひ》てる 佐太《さだ》の岡辺《をかべ》に 群《む》れ居《ゐ》つつ わがなく涙《なみだ》 やむ時《とき》もなし
朝日弖流 佐太乃岡邊尓 群居乍 吾等哭涙 息時毛無
(269)【語釈】 ○朝日てる 「佐太の岡」を修飾しているもの。日のあたることは、古くから愛《め》でたいこととしており、岡はその最もよくあたる所だから、捉えて修飾としたのである。「朝日」を選んだのは、具象化を尊ぶ心から、日の感の最も強い時として選んだのである。○佐太の岡辺に 下の続きから、殯宮の在り場所であることは明らかだが、それは上に引いたように、正式には真弓の岡とされている。『講義』も、佐太の岡は真弓の岡の西南にあって、相対して一と続きとなっていて、その区別は明瞭ではない。古くはその一帯を真弓の岡と称し、一部を佐太の岡と称していたのだろうといっている。○群れ居つつ 春宮の舎人は上にいったように六百人というので、分番宿衛する者も多人数で、したがって群れ居る状態であったとわかる。○わがなく涙 「吾等」は、「わが」にあてた文字で、国語にあっては単数も複数も同じであるところから、文字によってその複数をあらわしたものである。これは他にも例のあるものである。歌が文字によって読む物になっていたことを明らかに示しているものである。○やむ時もなし 「やむ」は、止む。「も」は、詠歎。
【釈】 朝日の照る佐太の岡に群れて居つつ、我らの悲しんで流す涙は、やむ時とてもない。
【評】 「朝日てる」という修飾は、他にもあるもので、創意のものではないが、これは実際に即したもので、宿衛の夜が明けて、朝日が岡の上に射してくると、その華やかさに刺激されて、哀感を深められたので、それに即していったものと取れる。心理の自然がある。また、殯宮を佐太の岡辺としているのも、この歌がはじめてである。大名よりも小名を選んだことも、上と同じく実際に即したことがわかる。「吾等」がこの作者の用字であったとすれば、そこにも同じ心が見えることである。悲哀の強く感じられるところを捉え、全体の状態としていっているので、感の強いものとなっている。状態を通し、全体を通して悲哀をあらわしているところに、特色がある。
178 み立《た》たしの 島《しま》を見《み》る時《とき》 にはたづみ 流《なが》るる涙《なみだ》 止《と》めぞかねつる
御立爲之 嶋乎見時 庭多泉 流涙 止曾金鶴
【語釈】 ○み立たしの 訓が定まっていない。『代匠記』は「みたたせし」、『考』は「みたたしの」、『新考』は旧訓のごとく「みたちせし」、『新訓』も同様である。『考』に従う。「み立たし」は、立つの敬語。その連用形が、体言化し、それに「御」を添えたもの。皇子尊の下り立たせられたところの意。○島を見る時 「島」は、広く庭園の意。○にはたづみ 「庭」は、「俄」にあてた字で、その意のもの。「多泉」「立水《たつみ》」の意。『仙覚抄』は、水にはたて水、ふし水とあり、ふし水は地下にあって地面に現われない水、たて水は、地面に現われて流れる水だといい、『古義』も、辺鄙の語に、夕立などで庭に流れる水を、「たづみ」が走るといっているのは、古言が残っているのだといっている。それらのたて水が、「たづみ」である。すなわちにわかに現われて流れる水の称。涙の譬喩としてのもの。○流るる涙止めぞかねつる 「止めぞかねつる」は、「かね」は難の意の動詞で、現在口語にも用いている。とめかねることであるよと、嘆きをこめていったもの。「つる」は「ぞ」の結び。
(270)【釈】 皇子尊の下り立たせられたところの庭園を見る時、御在世の折のことが眼に浮かんできて、「にはたずみ」のごとくにも流れる涙が、止めようにも止めかねることであるよ。
【評】 これは島の宮に詰めての歌である。島の宮に詰めることとなった舎人の、その島を眼にすると同時に、その島に下り立たせられた時の皇子尊が面影に立って、悲しさがこみ上げてきた、その瞬間の心持を詠んだものである。「島を見る時」と限っていい、一転して「流るる涙」と続けているところは、その瞬間の烈しい悲哀をさながらにあらわしている。きわめて実際に即した歌である。「にはたずみ」は、後には愛用されて枕詞のごとくなっているが、この歌では譬喩と見るべきである。誇張したものではあるが、適切なためにそれを感じさせない、感の深いものである。
179 橘《たちばな》の 島《しま》の宮《みや》には 飽《あ》かねかも 佐田《さだ》の岡辺《をかべ》に 侍宿《とのゐ》しに往《ゆ》く
橘之 嶋宮尓者 不飽鴨 佐田乃岡邊尓 侍宿爲尓徃
【語釈】 ○橘の島の宮には 「橘」は、明日香村橘。そこにある島の宮には。「島の宮」のあった所と伝える現在の島の庄は、橘の地域内であったと思われる。○飽かねかも 「飽かね」の「ね」は、打消の「ず」の已然形で、已然形をもって下に接続させ、条件を示すものとすることは、当時の語法であって、後世「ば」の接続助詞をもって続ける「飽かねば」と同じである。これは例の多いものである。「かも」は、疑問で、飽き足らないによってかの意。○佐田の岡辺に侍宿しに往く 「佐田の岡辺」は、(一七七)に、「侍宿」は、(一七四)に出た。
【釈】 橘の島の宮に侍宿《とのい》をすることに飽き足りないによってなのか、我は佐田の岡辺の方に侍宿をしには往くよ。
【評】 佐田の岡辺の殯宮に侍宿をしようとして、そちら(271)への道を歩いていての感である。客観的にいえば、その事はきわめて明らかなことであるが、主観的に、舎人の身に即し、その気分に即してくると、同じく皇子尊の宮とはいえ、橘の島の宮の華やかだったのに較べて、佐田の岡辺という名をもって呼ばれるさみしい宮へ侍宿に往く自分を、何だってこのようなことをするのだろうと、ふと疑うような気が起り、あちらの宮での侍宿は飽き足りないによってのことなのかと、最も手近な、最もありうべき理由を、疑いを残して答としたのである。すなわち自分の気分に即して、きわめて明らかな事にさえ惑おうとした心である。大きな悲哀に心の打ち砕かれた際に起こることのある実感である。「橘の島の宮」という華やかな言い方と、「佐田の岡辺」という侘びしい言い方との対照は、このふとした惑いを表現する上で働きのあるものとはなっているが、一首、微旨をいおうとしたもので、力強いものではない。
180 み立《た》たしの 島《しま》をも家《いへ》と 住《す》む鳥《とり》も 荒《あら》びな行《ゆ》きそ 年《とし》替《かは》るまで
御立爲之 嶋乎母家跡 住鳥毛 荒備勿行 年替左右
【語釈】 ○み立たしの島をも家と 「み立たしの」は、(一七八)に出た。「島をも」は、庭園をさえもの意で、上より続いて、皇子尊の御立たしになられたところのその貴い庭園をさえもの意。「家と」は、家としてで、水禽が池に住みついているところから、その池を家と見立てていったものである。「家」という言い方は、水禽に舎人と同じ情を要求しようとして、人に引きつけていったもので、技巧としてのものではない。○住む鳥も 「鳥も」の「も」は、もまたで、鳥もまた舎人と同じくの意のもの。○荒びな行きそ 「荒び」は、(一七二)に出た。疎く遠ざかる意。疎く遠ざかるなというのは、ここを捨てて、他へ移り住むようなことはするなの意。○年替るまで 「年替る」は、年改まるで、この舎人の歌を通じて見ると、殯宮の事は一周年を期間としたのである。年替るは、その一周年を意味させたものであることが、舎人を標準としていっているところからわかる。全体では、一周年の来るまではの意。
【釈】 皇子のお下り立ちになったところの貴い庭園をさえも、その家として住んでいる水禽もまた、ここを捨てて他へ移り住むようなことはするな、我らと同じく一周年の来るまでは。
【評】 天皇、皇太子のごとききわめて尊貴な御方には、臣民はもとよりのこと、上は天神地祇より、下は山野の鳥獣まで、一切がお仕えすべきだということは、一般の通念となっていた。「み立たしの島をも家と住む鳥」は、当然特別なる奉仕をしなければならないものである。この舎人は、その心から、水禽に対して、我ら舎人と同じく一周年までの間は奉仕せよと命じたのである。これは特別な感傷からではなく、当然のこととして要求し、諭して聞かせたものである。初句より三句までは、水禽が皇子尊に対して従来もってきた深い関係をいって聞かせているもので、自明なことを改めていって聞かせているものである。(272)しかしその奉仕にも限度をつけて、我ら舎人と同じく一周年間をといっているのは、行き届いた心である。水禽に対してある不安を感じていっているところはまさしく実感である。
181 み立《た》たしの 島《しま》の荒礒《ありそ》を 今《いま》見《み》れば 生《お》ひざりし草《くさ》 生《お》ひにけるかも
御立爲之 嶋之荒礒乎 今見者 不生有之草 生尓來鴨
【語釈】 ○み立たしの島の荒礒を 「み立たしの島」は、上に出た。「荒礒」は、「荒」は、巻一(五〇)「都宮《みあらか》」の「あら」と同じく現われる意。「礒」は、石の古語で、地上に現われている石。池のほとりにある石を称したもの。また、石のあるあたりは、草の生えやすく伸び立ちやすい所である。○今見れば 「今」は、絶えず詰めていた島の宮から離れていて、今、こちらへ立ち帰って来た時をあらわしたもの。○生ひざりし草 生えなかった草で、皇子尊の御在世の時は、生えるとすぐに抜いて生い立たせなかった草を言いかえたもの。○生ひにけるかも 「生ひにける」は、生えて伸び立ってしまっている意で、これはその係の者がいなくなったからの自然の成りゆきである。「かも」は、詠歎。
【釈】 皇子尊の下り立たせられたところの庭園を、今見ると、以前には生えなかった草が、生えて伸び立ってしまっていることではあるよ。
【評】 島の荒礒に草の生えているのを眼にして、甚しくも嘆いた心である。島の宮は、その主《あるじ》である皇子尊が御薨去になったので、当時の風に従って住み捨てられ荒廃に委ねらるべきものとなっていた。皇子尊の第一の御形見である宮が、そのようになってゆくということは、舎人にとっては思うにだに堪え難い悲しみだったのである。しかるに今、しばらく島の宮を離れていて立帰って見ると、すでに荒廃の兆を示している。見るものは「草生ひに」であるが、それは「生ひざりし」草なのである。語を尽くし、強い調べに託して嘆いているのは、まさに実感と思われる。
182 鳥〓《とぐら》立《た》て 飼《か》ひし鴈《かり》の子《こ》 巣立《すだ》ちなば まゆみの岡《をか》に 飛《と》びかへり来《こ》ね
鳥〓立 飼之鴈乃兒 栖立去者 檀岡尓 飛反來年
【語釈】 ○鳥〓立て 「〓」は、『美夫君志』が考証して、「栖」の俗字だとしている。「鳥〓」は、鳥座《とぐら》で、鳥座《とりくら》の約《つ》まった語。鳥の宿りすわる所の意。「立て」は、構えて。鳥を巣飼いする状態を、具象的にいったもの。○飼ひし鴈の子 「鴈」は、今日よりは意味の広い語で、雁《がん》、鴨の類を総称していった。「子」は、雛。呼びかけていったもの。○巣立ちなば 「巣立ち」は、現在も口語に用いている。雛が自活に堪えるまで育つと、(273)巣立ちをするところからいっている語で、独立ができるようになったならばの意。○まゆみの岡 上に出た。○飛びかへり来ね 「飛びかへり」の原文「反」は、「翻《かへ》り」の意で、鳥の飛ぶ状態をいったもの。『新考』は、巻九(一七五五)、霍公鳥《ほととぎす》の歌の「卯の花の咲きたる野辺ゆ、飛翻《とびかへ》り来鳴きとよもし」を例としている。「来ね」は、来よと懇ろに誂えたもの。
【釈】 鳥栖《とぐら》を構えて飼って来た鴈の雛よ、お前が巣立ちができるようになったならば、皇子尊のまします真弓の岡へ翻り飛んで来てお仕え申し上げよ。
【評】 (一八〇)と同じく、皇子尊の御恩をこうむった鳥は、当然、舎人と同じように、殯宮の御奉仕をするべき者であるとして、それを諭す心のものである。「鳥〓立て飼ひし鴈の子」と、皇子尊の御恵みの深かったことをいい、御恩返しをするべきこととして、「まゆみの岡に飛び反り来ね」といっているところは、全く同一である。異なるのは、彼は独立している水禽で、どこへでも移ろうとすれば移って住める鳥であるところから、その不安を抱いて諭しているのに、これは独立のできない雛であるところからその不安はなく、また、皇子尊の御恵みも、教えることによってはじめて知りうるものとして、諭すというよりは、教える態度をもっていっている点である。おそらく(一八〇)の歌を見て、それにならって詠んだものではないかと思われる。この方が作者の心が単純である。
183 吾《わ》が御門《みかど》 千代常《ちよとこ》とばに 栄《さか》えむと 念《おも》ひてありし われし悲《かな》しも
吾御門 千代常登婆尓 將榮等 念而有之 吾志悲毛
【語釈】 ○吾が御門 「吾が」は、親しんで添える語。「御門」は、ここは宮を代表させてのもので、島の宮の意。○千代常とはに 「千代」は、千年で、永久の意。「常とば」は「常とば」は永久、不変。「婆」は濁音、仏足石歌その他に用例がある。どちらも同じ意の副詞で、強めるために畳んだもの。○栄えむと 栄えて行こうとで、皇子尊の栄えを宮に寄せていったもの。○念ひてありしわれし悲しも 「われし」の「し」は、強め、「も」は、詠歎。念つて来たところの我は悲しいことよの意。
【釈】 吾が皇子尊の宮は、まことに永久に栄えて行くことであろうとばかり思って来たところの我は、深く悲しいことであるよ。
【評】 皇子尊の思いがけぬ薨去に逢って、その悲しみに打ち砕かれた心を直写したものである。直線的に、強い調べをもって詠んであるがために、その深い悲しみがさながらに現われている。「念ひてありし」と過去にし、「悲しも」を添えることによって薨去をあらわしているのは、実際に即したがためであるが、それだけで不足を感じさせないのは、強い調べが補いをなしているからである。
(274)184 東《ひむかし》の たぎの御門《みかど》に 伺侍《さもら》へど 昨日《きのふ》も今日《けふ》も 召《め》す言《こと》もなし
東乃 多藝能御門尓 雖伺侍 昨日毛今日毛 召言毛無
【語釈】 ○東のたぎの御門に 東方の御門にしてで、たぎのある御門にの意。「東」は、巻一(五二)に出たように、わが国では中国とは反対に、東西を経とし、南北を経とするところから、宮殿の御門も、東方のものを正門とした。この「東」はその意のものである。「たぎ」は、巻一(三六)に出たように、急流のたぎる水をさす語で、「たぎる」の語幹「たぎ」の名詞となったものである。この「たぎ」は、勾の池の水である。その落ち口か取入れ口かについて、『講義』は詳しい考証をしている。要は、島の宮の故地は、東は多武蜂または細川山の麓で、傾斜が急であるから、落ち口ではなく取入れ口でなくてはならない。思うに古は、飛鳥川の本流か、または支流である細川が、島の宮の東を流れていたのだろうといっている。○伺侍へど 伺候し、詰めているけれどもで、東の御門に舎人の詰所があったとわかる。○昨日も今日も召す言もなし 「召す言」の「言」は、事とも、文字どおり言《こと》とも取れる。『講義』の「言」の意としたのに従う。
【釈】 東のたぎの御門に伺候して詰めているけれども、昨日も今日も、皇子尊のお召しになるお言葉がない。
【評】 多くの舎人らが、番を定めて、真弓の岡と島の宮とへ分かれて詰めることにしていて、この舎人は今、島の宮へ詰めていたのである。詰め馴れた島の宮の、東のたぎの御門の詰所に伺侍《さむら》っていると、宮には皇子尊がいらせられ、今にも御用でお召しになるような気がしつづけているのであるが、待ちに待ってもそのお声がないと嘆いているのである。永い間の習慣に引かれるところからくるこうした惑いは、心理的にきわめて自然なもので、感傷ともいえないものである。したがって誇張は含んでいない実感とみるべきである。「東のたぎの御門に伺侍へど」と、事を懇ろにいい、「昨日も今日も」とさらに言を重ねているのは、その永い習慣に引かれることを具象したもので、用意をもった表現というべきである。
185 水《きづ》伝《つた》ふ 礒《いそ》の浦廻《うらみ》の 石《いは》つつじ もく開《さ》く道《みち》を また見《み》なむかも
水傳 礒乃浦廻乃 石上乍自 木丘開道乎 又將見鴨
【語釈】 ○水伝ふ 水が伝って動いて行く意で、下の「礒の浦廻」の状態をいったもの。勾の池の水が、落ち口の方へ向かって動いているのが、汀では感じられるのをいったもの。風景のおもしろさとしてのものである。○礒の浦廻の 「礒」は、石。ここは、勾の池の岸が石で固めてあったとみえる。「浦廻」は、浦のあたりで、池の岸の入り込んだ所を、海の浦になぞらえて呼んだ称。池や川などに、海の名称を移して用いるのは当時の風で、これもそれである。○石つつじ 躑躅の名。岩のある地に自生するところからの名であろうという。○もく開く道を 「木丘」は、(275)日本書紀を初め、古典に用例の多い語で、繁く盛んな意をあらわす古語である。諸注、多くの例を引いている。顕宗紀に、来目部小楯の事をいって、「厥功茂《そのこうもし》焉」とあり、応神紀に、「芳草薈蔚《もくしげし》」とあり、「薈」は玉篇に「草盛貌」とある。『講義』は、『古語拾遺』『将門記』『朗詠』『毛詩』『尚書』『文選』『遊仙窟』などから例を引いている。「もく、もし、もき」と働く形容詞である。一句、繁く盛んに咲いている道をで、風景の愛《め》でたさをいったものである。○また見なむかも 「かも」は、反語として用いている。またも見ることがあろうか、ないの意。
【釈】 水が伝って移ってゆく池辺の礒の、その浦回にある石つつじよ。この繁く盛んに咲いている愛《め》でたい道をまたも見ることがあろうか、ありはしない。
【評】 島の宮の、その島の内の勾の池のほとりの、折から咲き盛っている石躑躅の間の道をそぞろ歩きしながら、悲しみに駆られて詠んだ歌である。皇子尊の薨去は四月の十三日なので、一年間の殯宮の期間を、舎人らは窺宮に奉仕し、島の宮も守衛をしていたのであるが、その期間が終ると退散しなくてはならないのであるから、石つつじの花をいっているのは、その退散の期の迫った頃とみえる。一たび退散すれば、島の宮との関係は絶えてしまうので来年のこの石つつじの咲くのは見ることができず、まさに「又見なむかも」である。嘆かざるを得ないはずである。歌は石つつじの間の道を中心としたものであるが、その石つつじのある所を「礒の浦廻」といい、さらにその「礒の浦廻」をいうに「水伝ふ」という新しい修飾を加えている。『講義』の説くところによれば、島の宮の所在地は傾斜地である。それだと勾の池の水は落ち口に向かって移動をし、礒のあたりではそれが露《あら》わに感じられたと思われる。石つつじだけではなく、その咲いている場所も特殊なる愛《め》でたさをもっているものとして、心をこめてそれをあらわしているのはそのためである。これらはすべて愛惜の心からのことで、その愛惜はやがて悲哀なのである。あわれの深い、しかし実際に即した、落着いた心をもって詠んだ歌である。
186 一日《ひとひ》には 千遍《ちたび》參入《まゐ》りし 東《ひむかし》の 大《おほ》き御門《みかど》を 入《い》りかてぬかも
一日者 千遍參入之 東乃 大寸御門乎 入不勝鴨
【語釈】 ○一日には 「一日」は、短い間の意でいった、譬喩的なもの。「は」は、皇子等の御生前を、御薨去の今に対させた意で用いたもの。○千遍参入りし 「千遍」は、千回で、多い意でいった、譬喩的のもの。「参入る」は、尊い所へ伺う意。○東の大き御門を 「大寸」は、『考』の訓。「大」を「た」とし、また「太」の誤りとして、「たぎの」との訓もある。『考』に従う。「大寸」は尊んで添えた語。正門であったので、それにあたってもいる。○入りかてぬかも 「かて」は、(九四)「有りかつましじ」の「かつ」と同じく、堪える意の古語。「ぬ」は打消。「かも」は、詠歎。入るに入りかねることよの意で、仕えまつるべき皇子尊の、宮におわさぬ悲しみをいったもの。
(276)【釈】 御生前には、一日に千回もお伺いをした、この東の大き御門を、御薨去の今は、悲しみのために入りかねることであるよ。
【評】 島の宮の守衛の番のまわってきた舎人が、その詰所のある東の御門の内に入ろうとして、皇子尊の御生前と御薨去後の今とが今さらのごとくに比較されて、悲しさに立ち入りかねるような感のしたことを詠んだものである。「一日には千遍参入りし」と、「入りかてぬかも」とを対照させて、際やかにいっているのはそのためである。殯宮の期間は、御生前と同じく島の宮の守衛をもしていた、その間の心である。御生前を強くいい、現在をその対照によって暗示的にいっているところに、その際の感が現われている。
187 つれもなき 佐太《さだ》の岡辺《をかべ》に かへり居《ゐ》ば 島《しま》の御橋《みはし》に 誰《たれ》か住《す》まはむ
所由無 佐太乃岡邊尓 反居者 嶋御橋尓 誰加住※[人偏+舞]無
【語釈】 ○つれもなき 本居宣長の訓。(一六七)に出た。○佐太の岡辺に 上に出た。○かへり居ば 『考』の訓。立ち帰って居たならば。佐太の岡辺の殯宮を、主として奉仕するべき所とし、島の宮へは、たまたまに宿衛に来たものとして、あちらへ立ち帰って居たならばの意でいったもの。殯宮の期間は、御生前と同じく奉仕したのであるから、主《あるじ》のまさぬ島の宮ではあるが、こなたもそれに准ずる扱いをして、その期間は宿衛したものであろうと、歌によって取れる。そうしたことは、よるべき証のないことだとしても、(一八四)「昨日も今日も召す言もなし」によって、二日にわたっての宿衛をしたことも明らかである。ここもその意のものと解される。○島の御橋に 「島」は、庭園。「御橋」は、池に架けた橋で、中島に架けたものかと思われる。庭園の中の最も眺めの好い所としていっているものと思われる。○誰か住まはむ 「誰」は、舎人をさしたもの。「か」は、疑問。「住まふ」は、「住む」の継続の意をあらわすもの。誰がとどまることであろうか。
【釈】 もの淋しいあの佐太の岡辺へ、自分が立ち帰っていたならば、この眺めの好い島の御橋の上に、誰がとどまるのであらうか、とどまる者もない。
【評】 この舎人は、仕え馴れた島の宮の、その島の中でも最も眺めの好い池の御橋の上に立って、主として奉仕するべき殯宮のことを思いやりつつ、御橋を去り難くしている嘆きを詠んだのである。殯宮をそれとしていわず、「つれもなき佐太の岡辺」という侘びしい名をもって呼んでいるのは、「島の御橋」のなつかしさをあらわそうがための対照であって、力点を眺めに置いたからである。「島の御橋」をなつかしむのは、御生前の皇子尊を慕っているからで、そこにいわざる深い悲しみがある。「誰か住まはむ」は、誇張のあるもので、島の宮にも宿衛していたことは前後の歌で知られる。この誇張は御生前との対照で、悲哀を新たにしたところから自然に出ているものである。眼前の眺めを惜しむ形とはなっているが、それは皇子尊を悲しむ心(277)から発しているものなのであって、あわれ深いものがある。
188 朝曇《あさぐも》り 日《ひ》の入《い》りゆけば み立《た》たしの 島《しま》に下《お》りゐて 嘆《なげ》きつるかも
旦覆 日之入去者 御立之 嶋尓下座而 嘆鶴鴨
【語釈】 ○朝曇り 「旦《たん》」は朝。「覆」は覆う意で、「くもり」にあてたものだと、『攷証』が考証している。下の「日の入り」の状態をいったもの。○日の入りゆけば 日が入ったのでで、悲哀の深い時としてのもの。○み立たしの島に下りゐて 「み立たし」は、名詞。皇子尊の下り立たせられたところの庭園に、自分も下りていてで、皇子尊に接近しうるかのごとき感のしてのこと。○嘆きつるかも 「かも」は、詠歎。嘆いたことであるよ。
【釈】 朝の空が曇って、日が入ったので、その状態に刺激されて悲しみが深くなってき、皇子尊の下り立たせられたところの庭園に我も下りていて、嘆きをしたことであるよ。
【評】 島の宮にあって、日が雲にかくれた時に感じた気分を具象したものである。そのさびしさは特殊なものであるが、今はそのさびしさが悲しさとなり、悲しさは皇子等の慕わしさとなって、「み立たしの島に下りゐて」となったのである。あらわしやすくない気分を、的確に具象し得ている歌である。「旦覆」も、実景として捉えたものと思われるが、これも気分に溶け入って、具象の上に少なからぬ働きをしている。単純な気分を十分に具象している点で注意される歌である。
189 朝日《あさひ》照《て》る 島《しま》の御門《みかど》に おほほしく 人音《ひとおと》もせねば まうらがなしも
旦日照 嶋乃御門尓 欝悒 人音毛不爲者 眞浦悲毛
【語釈】 ○朝日照る島の御門に 「朝日照る」は、(一七七)「朝日照る佐太の岡辺に」に出た。本来は宮を讃える成句で、「朝日照り夕日照る」と続けてもいう語である。ここもその心をもって「島の御門」を讃えているのであるが、それだけではなく、同時に眼前の実景としてもいっているものである。そのことは下の続きの「人音もせねば」によって解せられる。皇子の御生前は、「朝日照る」時刻は、舎人のすべてが出仕している時刻だったのである。「島の御門」は、(一七三)に出た。島の宮である。○おほほしく (一七五)に出た。おぼつかなく、心細い意。「まうらがなしも」に続く。○人音もせねば 「人音」は、人の声、人の立てる物音を総括したもので、「人」とは多くの舎人である。「も」は、詠歎。当時の出仕。勤務が早朝と定まっていたことは、(一六七)でいった。「朝日照る」という時刻は、一日を通じて島の宮の最も活気づき、賑わしい時刻だ(278)ったのである。この舎人は、皇子御生前の時と同じく、夜を島の宮の詰所に宿衛して、朝を迎えたのであるが、今は朝を出仕する一人の舎人もなく、宮は寂然としているので、これとそれとが対照されてき、続いて将来の宮のさまが思われてきて、そのおぼつかなくも心細さが今さらのごとく感じられてきたのである。○まうらがなしも 「まうらがなし」は、熟語で、「うらがなし」に「ま」の接頭語の添った形のものである。「うら」は、心裏。「かなし」は、悲しである。「まうらがなし」という語は他に用例の見えないものであるが、「ま悲し」という語は例の多いものであるから、当然ありうる自然な語である。「ま」の接頭語を添えることによって、語感を強めたものである。「も」は、詠歎。
【釈】 朝日の照っている島の御門《みかど》に、ありし日の華やかに賑わしかったのとは引きかえて、おぼつかなく心細くも舎人らの出仕勤労の人音もしないので、まことに心悲しいことであるよ。
【評】 この舎人は、「島の御門」の最も華やかに賑わしかるべき朝日の照る時刻において、反対に、寂しさの極みを感じて、その哀感を詠んだので、心理の自然さがある。また前の舎人は、自身の哀感を主としているのに、この舎人は宮そのものの哀感を主としているので、その点も異なっている。しかしその綜合力と感性の細かさは同じであって、「朝日照る」という宮の讃え詞に、一首にとって最も大切な哀感の土台を捉えて、それをこの一句に具象させており、また「おほほしく」の一語によって、遠からず荒廃に委ねられるべき宮そのものの哀感をも、暗示的にあらわしているのは、非凡というべきである。一首の調べにおいて、前の歌ほどの張りはもっていず、その点ではいささか劣っているが、これは取材との関係もあることで、一概にはいえないものである。なおこれら舎人の挽歌は、慟哭《どうこく》の声のまさに破れんとするものが、脈々として迫ってくる感がある。舎人は宮中より賜わるもので、廷臣としての一つの職であり、また挽歌には儀礼の面があるのであるが、これらの挽歌は君臣関係を超え、後世の主従関係のごとき切情となっているのである。この情は天皇に対してももっているもので、あらわすのを恐れ多しとしているものを、皇子尊であるがゆえに許されるとして、赤裸々にあらわしているものと解される。
190 真木柱《まきばしら》 太《ふと》き心《こころ》は ありしかど この吾《わ》が心《こころ》 鎮《しづ》めかねつも
眞木柱 太心者 有之香杼 此吾心 鎭目金津毛
【語釈】 ○真木柱太き心は 「其木柱」は、檜をもって作った柱で、柱の中でも中心的な貴重なもの。日本書紀、神代紀に、「造宮之制者《みやつくるさまは》、柱者高太《はしらはたかくふとく》」とあり、他にもある。宮の柱はもとより、しかるべき家だと、中心となる柱はこれに准じたものであったと思われる。これは下の「太」に意味で続く枕詞。「太き心」の「太き」は、細きに対した語で、ここは男々しいの意。○ありしかど 以前はあったけれども。○この吾が心 「この」は、間近いものをさしていう語で、「吾が心」をさしている。これは上の過去の心に対させたもので、現に今ある心。その心は悲しみに砕(279)かれている心で、それを説明せずに綜合的にいったもの。○鎮めかねつも 「鎮め」は、平静を保つ意。「かね」は、難しの意の動詞。「も」は、詠歎。平静を保たせ難いことよの意。上代は、体と魂とは別なもので、心を甚しく動揺させると、魂は体から離れて、生命を危険にすると信じられていた。そういう際に、魂を鎮めるのがいわゆる鎮魂で、これは重大なる神事としていた。家の中心となっている柱を、身近にある、鎮まっている物の代表とし、心をそれにあやからせようとする心は、室寿詞《むろほぎのことば》にもあって、常識となっていた。「鎮めかねつも」という嘆きは、それを心に置いていっているものである。
【釈】 真木柱の、我も太く男々しい心があったのであるが、皇子尊の御薨去に逢って打ち砕かれた。現在の悲しい心は、平静を保たせようとしても保たせ難いことであるよ。
【評】 皇子尊の御薨去に遭って、打ち砕かれた心が保ちきれず、不安を感ずるまでに至ったのを、その心の方に力点を置いて詠んだ歌である。「この吾が心」という綜合的な言い方をし、「真木柱太き心」と対照することによって、言い難い悲哀をあらわしているのは、その目的の上から見るときわめて要を得たものである。「真木柱太き心」という誇りは、他にも例のあるものであるが、皇子尊の舎人としてもっていた心をいったものなので、宮を誘える語の「真木柱」が、単に枕詞というにとどまらず、室寿詞にあるごとく、一般性のあり、自身にも繋がりのあるものとなってきている。一首、技巧のないもののごとくに見えて、実は用意のあるものである。力量ある作というべきである。あらわしやすくない気分を捉えて、力強いものとしているのは、一首を貫いている調べのためで、太くうねりをもった調べである。(一八三)の「吾が御門千代常とばに」というと境地を同じくしているが、それよりはかなり勝れた歌である。
191 毛《け》ごろもを とき片設《かたま》けて 幸《いでま》しし 宇陀《うだ》の大野《おほの》は 思《おも》ほえむかも
毛許呂裳遠 春冬片設而 幸之 宇陀乃大野者 所念武鴨
【語釈】 ○毛ごろもを 『講義』が詳しく考証している。獣皮をもって拵えた衣で、毛衣《けごろも》とも皮衣《かわごろも》とも呼んでいた。上代に用いていた証は、日本書紀、応神紀に、日向諸県君牛が、その女を朝廷に奉ろうとして従者を連れて上る時、それらが皆「著v角鹿皮」を衣服としていたのを、天皇は途中で御覧になり、鹿の群れかとあやしまれたのを証としている。また後の『嵯峨野物語』に、鷹狩の装束は、皮ごろも、皮袴だとあるので、狩の時には毛ごろもを用いたことがわかるというのである。衣《ころも》は解くことをする物なので、その意で枕詞としたもの。今は猟のことをいおうとしているところから、新たに工夫した語。○とき片設けて 原文の「冬」は、衍字で、一本に「春」の傍らに書いてあったものが、本文に入ったのではないかと『新考』は疑っている。しかし諸本皆同じである。『全註釈』が「春冬」を季節の意の「とき」と訓んだのに従う。春と冬は、野の草木の枯れている時なので、猟の季節とされていた。ここもそれとしてである。「片設け」は、『講義』が詳しく考証している。時の上にのみいう語で、(280)自動詞。時自身が用意する意で、近づこうとしてそのしるしの見え初める意であろうという。『万葉辞典』は、「片」は不完全の意。「設け」は整える意だと解している。一句、春と冬とがその様子をどうやらあらわしてきての意。○幸しし 皇子尊のお出ましになったで、下の続きで、御猟とわかる。○宇陀の大野は 大和の宇陀郡の野で、巻一(四五)の安騎野と同じ。御猟の野。○思ほえむかも 「思ほえむ」は、偲ばれるであろうで、なつかしく思い出されようの意。「かも」は、詠歎。
【釈】 毛ごろもを張るというその春や冬が、その様子をどうやらあらわしてくると、皇子尊の御猟にとお出ましになった、あの宇陀の野は、なつかしくも思い出されることであろうよ。
【評】 皇子尊に対する悲哀が鎮まって、なつかしい思い出に転じてきた頃の歌である。最もなつかしい思い出は宇陀の野の御猟の時だったのである。上代にあっては猟は楽しみの代表的なものだったので、心理として当然なものである。歌は、末永く思い出されようというのであるが、これは皇子尊を忘れないということであって、この場合に適した心である。「毛ごろもを」という枕詞は、この歌としてはきわめて適切なものである。他に用例のないもので、この舎人の創出したものかと思われる。
192 朝日《あさひ》照《て》る 佐太《さだ》の岡辺《をかべ》に 鳴《な》く鳥《とり》の 夜鳴《よな》き変《かは》らふ この年《とし》ごろを
朝日照 佐太乃岡邊尓 鳴鳥之 夜鳴變布 此年己呂乎
【語釈】 ○朝日照る 上に出た。○佐太の岡辺に これは御陵の意ではなく、御陵のある地としていっているもの。○鳴く鳥の夜鳴き変らふ 「鳴く鳥」は、何鳥かわからないが、下の続きで、夜鳴きをする鳥である。ここで夜鳴きを聞くのは、殯宮に奉仕するようになってからのことである。「夜鳴き」は、夜の鳴き声。「変らふ」は、「変る」をは行四段に再活用した語で、変わることの継続をあらわすもの。鳥の鳴き声の平生と異なるのは、凶兆だとする信仰は、現在も保たれているものであるが、おそらくきわめて古いものと思われる。この信仰は、鳥を霊異あるものとしたところから起こったものである。ここは、凶兆としてではなく、霊異ある鳥の舎人とともに悲しむ意でいっているものと取れる。山川の神はもとより、鳥獣も、天皇に仕えまつるという信仰は一般性をもっていたもので、特殊なものではない。ここもそれと解される。○この年ごろを 「この」は、さしあたっての意をあらわしたもので、現在のこと。「年ごろ」は、『考』は、殯宮の一周年の間をさしているものだといっている。従うべきである。それだと年より年へわたってのことで、殯宮の期間も終りに近い頃の歌と取れる。
【釈】 朝日の照る佐太の岡あたりに鳴く鳥の、その夜鳴きの声が、平生とは変わりつづけている。この年の間を。
【評】 殯宮の奉仕の終り近い頃、悲哀に浸って過ごした一周年の間を顧みる心をもって詠んだ歌である。殯宮にあっては、悲哀を尽くすということがすなわち奉仕であって、その深さが奉仕の大きさであり、また舎人自身の心やりでもあったのである。(281)「夜鳴き変らふこの年ごろを」ということは、鳥もまた皇子尊に対して悲哀をつづけたということで、これは当時一般にもっていた信念であるが、舎人から見ると、皇子尊に最も関係深い自分らと悲哀をともにする者があるということで、心やりを深めうるものなのでもある。この歌は悲哀に浸りながらも、鎮まった、静かな気分をもって、思い返し、見渡して詠んだ歌である。
193 八多籠《はたこ》らが 夜昼《よるひる》といはず 行《ゆ》く路《みち》を 吾《われ》はことごと 宮路《みやぢ》にぞする
八多籠良我 夜晝登不云 行路乎 吾者皆悉 宮道叙爲
【語釈】 ○八多籠らが 「八多籠」という語は、他に例のないもので、諸注訓み難くしている。誤字があろうとして、字を改めての訓を試みたものが多いが、諸本一致していて、誤字説は認められない。『古義』は、一説として和名抄によっての解を引いている。それは同書、行旅(ノ)具に、「〓……漢語抄云、波太古《ハタゴ》、俗(ニ)用(フ)2旅寵(ノ)二字(ヲ)1、飼(フ)v馬(ヲ)籠也」とあり、昔は行旅の具として馬に飼う籠を備えたところから、それをつけて行く馬、馬を引く馬子をもハタゴと呼んだが、ここはその馬子の意だというのである。用字の上からいうと、無理の少ない解である。『講義』はこれを取っている。賤しい者の意である。また橋本四郎氏は田子に対して畠子という語があったかとし、『注釈』『大系本』が採っている。○夜昼といはず行く路を 昼夜の別ちもなく往来する路をで、普通の、何の憚るところもない路の意。○吾はことごと 「ことごと」につき、『講義』は、このような数量を示す語が、それに対する本体としての語に付く「は」の助詞の下にあることは、同語であることをあらわす一つの現象であって、意は、我らことごとくは、であると説いている。○宮路にぞする 宮への通路《かよいじ》とすることよの意。
【釈】 賤しいはたこなどが、昼夜の別ちもなく往来する普通の路を、我らことごとくは、畏い宮の通路としていることであるよ。
【評】 舎人のともがらが打ち揃って、奉仕のため殯宮へ通う途上、その中の一人が嘆いて詠んだものである。島の宮への宮路は、尊いものとして、相当の警戒があり、賤しい者がみだりに通行することはできなかったとみえる。それに較べると、真弓の岡の殯宮への路は、奉仕する舎人の心より見れば同じく宮路ではあるが、実際は甚しく趣がちがって、はたこらが憚るところなく行く路なのである。この変化は舎人らにとっては、嘆かざるを得ないもので、その嘆きはやがて皇子尊に対しての悲しみなのである。その時の舎人にのみ限った実感で、実感に即しているがゆえにうなずかれる歌となっている。
右、日本紀に曰はく、三年己丑の夏四月癸未朔にして乙未の日|薨《かむあが》りましぬといへり。
右、日本紀曰、三年己丑夏四月癸未朔乙未薨。
(282)【解】 撰者の、日並皇子尊の薨去の時を、日本書紀巻三十から引いたものである。
柿本朝臣人麿、泊瀬部皇女《はつせべのひめみこ》、忍坂部皇子《おさかべのみこ》に献れる歌一首井に短歌
【題意】 泊瀬部皇女と忍坂部皇子とは、同腹の御兄弟である。日本書紀、天武紀に、「次宍人臣大麻呂女|※[木+疑]《かぢ》媛娘生2二男二女1。其一曰2忍壁《おさかべ》皇子1、其二曰2磯城《しき》皇子1、其三曰2泊瀬部皇女1、其四曰2託基《たき》皇女1。」とあり、皇女は皇子の御妹である。皇女については、続日本紀、霊亀元年正月に、四品長谷部内親王に、封一百戸を益さるとあり、同天平九年二月に、三品を授けらるとあり、天平十三年三月に、「己酉、三品長谷部内親王薨、天武天皇之皇女也」とある。忍坂部皇子については、日本書紀、天武紀、十年三月に、勅して帝紀および上古の諸事を記し定めしめられたる諸員の中に御名があり、同十四年正月に、浄大参の位を授けられ、同朱鳥元年八月に、封百戸を加えしめるとある。続日本紀、文武の条四年六月に、勅して、親王を首として藤原不比等以下十七名に、律令を撰定せしめるとあり、大宝元年八月に、その成ったことがあり、同三年正月に、「詔三品刑部親王知2太政官事1」とあり、慶雲元年正月に、封二百戸を益され、同二年四月に、越前国野一百町を賜うとあり、「五月丙戊、三品忍壁親王薨、遣v使監2護喪事1、天武天皇之第九皇子也」とあって、重きをなしていた皇子である。歌で見ると、柿本人麿が、泊瀬部皇女が夫君に御死別なされた後、皇女を御慰めしようとして献ったものである。左注によると、夫君は、河島皇子であられる。題詞とすると、河島皇子薨去の時ということがあるべきであり、また、歌としては泊瀬部皇女に献ったものと見えるのに、忍坂部皇子の御名をも連ねているのは、題詞の例に異なっているとして、諸注私案を試みている。しかしここの文句は諸本一致していて異同のないものである。思うに原拠となった本にこのように記してあったものと思われる。歌で見ると人麿は、直接には、河島皇子の薨去を悲しむ語をまじえず、薨去によって起こる泊瀬部皇女の悲しみを痛んでいるのみである。その点から見ると、人麿は河島皇子には直接な関係がなく、第三者として献ったものと思われる。またそれをするにも、泊瀬部皇女には直接には献れず、何らかの関係のあった、御同腹の御兄忍坂部皇子にまで献ったということもありうろことである。それだと、その時としては、事を省いたこうした題詞もありうることであり、それを原拠として改めまいとすれば、今見るごときものとなってくる。大体そうした範囲の題詞かと想像される。
194 飛《と》ぶ鳥《とり》の 明日香《あすか》の河《かは》の 上《かみ》つ瀬《せ》に 生《お》ふる玉藻《たまも》は 下《しも》つ瀬《せ》に 流《なが》れ触《ふ》らばふ 玉藻《たまも》なす か寄《よ》りかく寄《よ》り 靡《なび》かひし 嬬《つま》の命《みこと》の たたなづく 柔膚《にぎはだ》すらを 剣刀《つるぎたち》 身《み》に副《そ》へ寝《ね》ねば(283) ぬばたまの 夜床《よどこ》も荒《あ》るらむ【一に云ふ、あれなむ】 そこ故《ゆゑ》に なぐさめかねて けだしくも あふやと念ひて【一に云ふ、君《きみ》もあふやと】 玉垂《たまだれ》の 越智《をち》の大野《おほの》の 朝露《あさつゆ》に 玉裳《たまも》はひづち 夕霧《ゆふぎり》に 衣《ころも》は濡《ぬ》れて 草枕《くさまくら》 旅宿《たびね》かもする あはぬ君《きみ》ゆゑ
飛鳥 明日香乃河之 上瀬尓 生玉藻者 下瀬尓 流觸經 玉藻成 彼依此依 靡相之 嬬乃命乃 多田名附 柔膚尚乎 劔刀 於身副不寐者 烏玉乃 夜床母荒良無【一云、阿礼奈牟】 所虚故 名具鮫兼天 氣田敷藻 相屋常念而【一云、公毛相哉登】 玉垂乃 越能大野之 旦露尓 玉裳者※[泥/土]打 夕霧尓 衣者沾而 草枕 旅宿鴨爲留 不相君故
【語釈】 ○飛ぶ鳥の明日香の河の 「飛ぶ鳥の」は、巻一(七八)に出た。明日香へかかる枕詞であるが、その関係は不明。「明日香の河」は、上代の皇居に近い川であったところから、古典に現われる機会の多い川である。水源は二か所あり、一は、竜門、高取の山々に発し、一は多武峰に発して、明日香村祝戸で合流し、藤原の京を西北に横ぎり、大和川に入る。今は水量の多くない川であるが、古はかなりな川であったと察せられる。○上つ瀬に生ふる玉藻は 「上つ瀬」は、上の瀬で、今の上流。「玉藻」は、「玉」は、美称。「藻」は、水中に生える草の総称で、海の物にも川の物にもいう。ここは川の物。清らかな水でないと生えない物で、細い葉が長く伸びて、水流のまにまに靡く、印象的なものである。○下つ瀬に流れ触らばふ 「下つ瀬」は、下流。「流れ」は、流れの中に靡いている状態を形容したもの。根のある物であるから流れるはずはなく、したがって語としては譬喩であるが、感じとしてはさながら流れているがように見えるので、感じを主としてのもの。「触らばふ」は、「触る」の古語。宣長、春日政治氏の説を『注釈』が注意している。上の「流れ」に重ねる形で、同じく藻の状態をいったものである。二句、下流に流れて、触れあっていることよの意。○玉藻なすか寄りかく寄り 「玉藻なす」は、玉藻のごとくで、巻一(五〇)に出た。「か寄りかく寄り」は、ああも寄りこうも寄りで、すなおに寄り添う状態をいったもの。(一三一)に出た。○靡かひし嬬の命の 「靡かひし」は、「靡く」をハ行四段に再活用して継続をあらわす「靡かふ」とした、その過去。「靡く」は、従う意で、従いつづけてきた。「嬬」は、「夫《つま》」にあてた字。「命」は、敬称。○たたなづく柔膚すらを 「たたなづく」は、畳なわり付く意で、重なり畳まっている状態をあらわす語。古事記、景行の巻、「たたなづく青墻山隠《あをがきやまごも》れる大和しうるはし」の「たたなづく」が、山の青墻のごとく重なっている状態をいっているのがその例である。ここは下の「柔膚」の状態をいっているもので、肉の重なり合い、盛りあがっている意で、肉の肥えていることを具体的にいったものと取れる。「柔膚」は、柔らかな膚。「すら」は、一事をあげて他を類推させる意の語。二句、重なり合い、盛りあがっている柔かい膚だけをもの意。○剣刀身に副へ寝ねば 「剣刀」は、下の「身に副へ」に、意味でかかる枕詞。「身に副へ寝ねば」は、わが身に添えて寝ないのでで、共寐をしないのでの意。○ぬばたまの夜床も荒るらむ 「ぬばたまの」は、(八九)に出た。「夜」にかかる枕詞。「夜床」は、夜寝る床。「も」は、詠歎。「荒るらむ」の「荒る」は、古人は夫の床はきわ(284)めて貴い物として、その妻は、夫の通って来ない時、旅をしている時、また死後も一周年の間は、これを斎《い》んで、過ちをしまいとして、積もる塵なども払わないようにするのが風であった。その手を触れずにいるところからくる状態を「荒る」といっている。「らむ」は、現在の想像。○一に云ふ、あれなむ 心は異ならないが、本行の方が力がある。以上、一段。○そこ故に (一六七)に出た。その点のために。○なぐさめかねて 「兼」は原文「魚」で、諸本皆一致している字で、訓み難くし、したがってさまざまに訓まれていたものである。『略解』は、荒木田久老の説として、「魚」は「兼」の、また、次の句の「田」も原文は「留」であるが、「田」の誤字だとする説を引いて、それに従って以来、ほとんど定説のごとくなっている。誤字説ではあるが、それに従えば訓み得、また難のないものとなるからである。従うべきである。慰めようとして慰め難くして。○けだしくもあふやと念ひて 「けだし」は、万一にもの意で、現在も用いている。「けだしく」という形につき『講義』は、「もし」を「もしくは」というと趣が似ていると注意している。夫君に逢うこともあろうかと思って。〇一に云ふ、君もあふやと 本行の方が直線的で、力がある。○玉垂の越智の大野の 「玉垂の」は、「緒《を》」と続き、「を」の一音にかかる枕詞。「玉垂の小簾《をす》」という例は、集中三か所にある。玉垂がどういうものであるかは今は不明である。「緒」というところから、玉を緒をもって貫いたものだろうと想像されているだけである。「越智の大野」は、今の高市郡高取町|越智《おち》である。皇極天皇の山陵のある地である。「大」は、たたえて添えた語。○朝露に玉裳はひづち 「朝露」は、朝置く露。「玉裳」は、「玉」は、美称。「裳」は女性の礼装として、袴の上に着けるもの。「ひづち」は、濡れてである。「講義』は、この「ひづち」と「ひぢ」とは、従来同じ語のように解かれているが、本来別語で、「ひづち」は、泥濘《ぬかるみ》を歩くとはねが上がって、それで濡れる意の語だと、詳しく考証している。○夕霧に衣は濡れて 「夕霧」は、夕に立つ霧。「濡れて」は、湿っての意。左注によると、河島皇子の薨去は秋九月なので、「露」も「霧」も晩秋のものと取れる。この二句は、上の二句と対句にしたもの。○草枕旅宿かもする 「草枕」は、旅の枕詞。巻一(五)に出た。「かも」は「か」は疑問、「も」は詠歎の助詞。二句、旅寝をすることであろうかで、古は新喪の時には、高貴の方に対しては、墓所のほとりに廬を結んで、一周年の問、墓主に関係のある者は、近く侍っていることを風としていた。(一六七)日並皇子尊の殯宮は、すなわちそれである。今の場合もそれと同じき殯宮があって、皇女も時々そこへ行って宿らせられたのである。旅宿というのはそれである。○あはぬ君ゆゑ 「ゆゑ」は、理由をあらわす語で、ここは、によっての意。一句、逢うことのない君によって。
【釈】 明日香河の上流に生えているところの玉藻は、下流に向かって流れるさまをして振り振りしている。その玉藻のごとくに、ああも寄りこうも寄りして、すなおに寄り添って、従いつづけてきたところの夫の命の、その畳まり合い盛りあがっている柔らかい膚だけをも、剣刀のごとく身に添えての共寝をしないので、夜の床も荒れたさまとなっていることであろう。その点のために、慰めようにも心が慰め難くて、万一にも逢い見ることがあろうかと思って、御墓所のある越智の大野の、折からの朝露に裳は濡れ、夕霧に衣は湿って、殯宮に旅寝をすることであろうか、逢うことのない君によって。
【評】 この歌は人麿が、泊瀬部皇女の御心中の悲哀を、人麿自身の立場に立ち、自身の心持よりお察しして詠んだもので、人麿の推察によっての悲哀をもって皇女を御慰め申したものである。皇子皇女という方に対しての挽歌とすると、人麿としては特殊なものである。自身の気分には即するが、しかし実際からは離れない人麿が、こうした高貴な御方に対して、自身の気分(285)を極度といいうるまでに発揮した詠み方をしているのは、それに相当した理由があってのことと思われる。
自身の気分というのは、この歌にいっていることはすべて想像であって、人麿が親しく眼に見たことは一句も入っていないからである。また、自身の心持というのは、この歌を貫いていることは、極度に現実生活に執着する心であって、悲哀は、その心の裏切られることで、そのほかには何ものもないのであるが、これは人麿のすべての歌に通じて現われているものだからである。
この歌は二段から成っていて、第一段は、「夜床も荒るらむ」までであるが、起首よりここまでにいっていることは、夫妻共寝の歓びで、それを力をこめて、ありありと想像したものである。明日香河の玉藻の状態を捉えて、それを皇女に関係させているのは、おそらくは宮がその河に近いというような関係からのことで、人麿の文芸性がさせていることであるが、その玉藻は、皇女の夜床における状態を連想しているだけのもので、それ以外のものではない。それをさらに進めて、「たたなづく柔膚すらを、剣刀身に副へ寝ねば」といっているのは、まさしくも人麿自身の興味といわざるを得ないものである。夫婦共寝ということを生き甲斐としている人麿にとっては、これはいうを憚らないことで、今当然いうべきこととしたであろうが、今の場合は皇女に対しての挽歌である。これはおそらく人麿以外の何びともいわないことと思われる。
第二段は、「そこ故に」より結末までであるが、ここにいっていることは、皇女の殯宮へ行って宿られるのは、万一にも御夫君に逢い得ようかとのお心よりのこととし、結局それのかなわないことの悲哀を思って、それを皇女に対しての御慰めとしている。殯宮に奉仕するということは、古くは殯宮の期間は、生者と異ならないとする心をもって、傍らにあろうとすることであり、また、すでに墓に葬められて神霊となられたものとしても、同じく神霊とともにいようとする心よりのことと取られる。あるいは現し身の御方として逢えるかもしれぬというような想像は、この当時としても、特殊な想像であったろうと思われる。それを人麿は普通のことのごとくにいい、そのかなわないことをもって大いなる悲哀としているのである。これもまた人麿独(286)自の心持で、人麿をしてこのように思わせているのは、その現実に執着する心の強さが、おのずから特殊を普通とならしめているからだと思われる。
すなわち一首を貫いている心持は、全く人麿自身のもので、それがはたして皇女に直接なものであったかどうかを疑わせるものである。しかしこれを単に一首の歌として見れば、人麿のもつこの極度に現実に執着する心は、わが上代よりの思想で、それを人麿は代表的に保持していたのである。この当時仏教が上流の階級に勢力をもっていたことは、(一六二)の宮中における御斎会の盛んなのによっても察せられる。知識人である人麿が、その雰囲気の中にいて、この歌に見られるような心持をもっていたということは、そのいかに保守的であったかが思われて、注意されることである。またこの歌を技巧の上から見ると、全部人麿の気分であるにもかかわらず、その具象の力はあざやかなもので、さながらに目に見ている様を描いているがようである。しかも艶《つや》とうるおいとを帯びていて、挽歌たるを忘れさせようとするまでである。挽歌にして挽歌たるを忘れさせようとし、結局特殊な、すぐれた挽歌だと思わせるのは、人麿の技巧のもつ魅力のさせることである。長歌としては短い方であるが、人麿の心をほしいままにした、特色のあるものである。
反歌一首
195 敷《しき》たへの 《そで》袖かへし君《きみ》 玉垂《たまだれ》の 越野《をちの》に過《す》ぎぬ 亦《また》もあはめやも
敷妙乃 袖易之君 玉垂之 越野過去 亦毛將相八方【一に云ふ、乎知野尓過奴】
【語釈】 ○敷たへの袖かへし君 「敷たへの」は、巻一(七二)に出た。織目のしげくある布で、ここは意味で「袖」にかかる枕詞。「袖かへし君」は、袖を交わした君で、共寝をした君、すなわち夫の君。○玉垂の越野に過ぎぬ 「過ぎ」は巻一(四七)に出た。死去する意。○亦もあはめやも 「めや」は、推量の「む」の已然形「め」に、疑問の「や」の添って反語を成すもの。「も」は、詠歎。また逢うことがあろうか、ありはしないの意。○一に云ふ、乎知野に過ぎぬ 三句字面の異なったものがあるために引いたもの。
【釈】 袖を交わして共寝をした夫の君は、越野におかくれになった。また逢うことがあろうか、ありはしない。
【評】 形としては、長歌の結句「あはぬ君ゆゑ」をうけて、長歌の第二段の心を要約して繰り返した趣をもったものであるが、心としては、繰り返しにとどまらず、進展させたものである。すなわち長歌では、皇女の御心中を思いやって、ともに悲しんでいる趣にとどめていたのを、反歌はその主観的な態度から離れて、全体を客観的に見た態度のものとしているのである。そのために、皇女に対する同感は内にこもるものとなり、悲しみというよりは愍《あわれ》みに近い感じをもったものとなっている。反歌を繰り返しのものとするのは古風な方法であるが、今はそうした形を取りつつも、変化のある、すなわち新意あるものとして(287)いる。重厚な、沈痛味のあるところ、長歌とは対蹠的である。
右、或る本に曰はく、河島皇子を越智野に葬りし時、泊瀬部皇女に献りし歌なりといへり。日本紀に曰はく、朱鳥五年辛卯の秋九月己巳の朝にして丁丑の日、浄大参皇子川島|薨《かむあが》りましきといへり。
右、或本曰、葬2河嶋皇子越智野1之時、獻2泊瀬部皇女1歌也。日本紀曰、朱鳥五年辛卯、秋九月己巳朔丁丑、淨大參皇子川嶋薨。
明日香皇女《あすかのひめみこ》の木〓《きのへ》の殯宮の時、柿本朝臣人麿の作れる歌一首 并に短歌
【題意】 「明日香皇女」は、天智天皇の皇女である。日本書紀、天智紀に、「遂納2四嬪1。……次有2阿倍倉梯麿大臣女1。曰2橘娘1。生3飛鳥皇女与2新田部皇女1」とある。また薨去のことは、続日本紀、文武天皇四年夏四月の条に、「癸未、浄広肆明日香皇女薨。遣v使弔2賻之1。天智天皇之皇女也」とある。皇女には御夫君のあったことが歌でわかり、また御夫君の殿を、「朝宮」「夕宮」といっているところから、皇子であったこともわかるが、そのどなたであったかはわからない。「木〓の殯宮」につき、『美夫君志』『講義』が詳しく考証している。〓は字書にない字だが、※[缶+瓦]と同字であって、※[缶+瓦]は土器の総称で、同じ意のわが古語「へ」にあてたものだというのである。「きのへ」の訓は、『考』のしたものである。殯宮のあった地で、その地は今の北葛城郡広陵町大塚だという。人麿の作歌態度から見ると、人麿は明日香皇女と御夫君である皇子とに、親しい関係をもち得ていて、皇女の薨去を重大なることとして作歌していることがわかる。上の日並皇子尊、またこの歌につぐ高市皇子尊の挽歌では、人麿は兩皇子に舎人の一人として仕えていたがように見える。この前の泊瀬部皇女に対しては、第三者であったらしいことは上にいった。しかるにこの皇女に対しては、日並皇子尊、高市皇子尊に准ずる態度を取って、悲しみを尽くしての挽歌を作っており、また歌で見ると、皇女の殯宮へも奉仕したかのようである。こうした歌は、実際の関係に即した態度をもって作るものであろうから、作歌態度はおのずから相互の関係を示しているものと解される。しかしどういう関係であったかまではわからない。
196 飛《と》ぶ鳥《とり》の 明日香《あすか》の河《かは》の 上《かみ》つ瀬《せ》に 石橋《いしばし》渡《わた》し【一に云ふ、石《いし》なみ】 下《しも》つ瀬《せ》に 打橋《うちはし》渡《わた》す 石橋《いしばし》に【一に云ふ、石なみに】 生《お》ひ靡《なび》ける 玉藻《たまも》もぞ 絶《た》ゆれば生《お》ふる 打橋《うちはし》に 生《お》ひををれる 川藻《かはも》もぞ 枯《か》る(288)れば生《は》ゆる 何《なに》しかも 吾《わ》が王《おほきみ》の 立《た》たせば 玉藻《たまも》のもころ 臥《こや》せば 川藻《かはも》の如《ごと》く 靡《なび》かひし 宜《よろ》しき君《きみ》が 朝宮《あさみや》を 忘《わす》れたまふや 夕宮《ゆふみや》を 背《そむ》きたまふや うつそみと 念《おも》ひし時《とき》 春《はる》べは 花《はな》折《を》りかざし 秋立《あきた》てば 黄葉《もみちば》かざし 敷《しき》たへの 袖携《そでたづさ》はり 鏡《かがみ》なす 見《み》れども 飽《あ》かず 望月《もちづき》の いやめ.づらしみ 思《おも》ほしし 君《きみ》と時時《ときどき》 幸《いでま》して 遊《あそ》びたまひし 御食向《みけむか》ふ 城上《きのへ》の宮《みや》を 常宮《とこみや》と 定《さだ》めたまひて あぢさはふ 日言《めこと》も絶《た》えぬ 然《しか》れかも【一に云ふ、そこをしも】 あやに悲《かな》しみ ぬえ鳥《どり》の 片恋嬬《かたこひづま》【一に云ふ、しつつ】 朝鳥《あさとり》の【一に云ふ、朝霧の】 通《かよ》はす君《きみ》が 夏草《なつくさ》の 思《おも》ひ萎《しな》えて 夕星《ゆふづつ》の か行《ゆ》きかく行《ゆ》き 大船《おほふね》の たゆたふ見《み》れば おもひやる 情《こころ》もあらず そこ故《ゆゑ》に すべ知らましや 音《おと》のみも 名《な》のみも絶《た》えず 天地《あめつち》の いや遠長《とほなが》く 偲ひ行《ゆ》かむ 御名《みな》に懸《か》かせる 明日香河《あすかがは》 万代《よろづよ》までに はしきやし 吾《わ》が王《おほきみ》の 形見《かたみ》にここを
飛鳥 明日香乃河之 上瀬 石橋渡【一云、石浪】 下瀬 打橋渡 石橋【一云、石浪】 生靡留 玉藻毛叙 絶者生流 打橋 生乎烏礼流 川藻毛叙 干者波由流 何然毛 吾王能 立者 玉藻之母許呂 臥者 川藻之如久 靡相之 宜君之 朝宮乎 忘賜哉 夕宮乎 背賜哉 宇都曾臣跡 念之時 春部者 花祈插頭 秋立者 黄葉插頭 敷妙之 袖携 鏡成 雖見不※[厭のがんだれなし] 三五月之 益目頬染 所念之 君与時々 幸而 遊賜之 御食向 木〓之宮乎 常宮跡 定賜 味澤相 目辞毛絶奴 然有鴨【一云、所己乎之毛】 綾尓憐 宿兄鳥之 片戀嬬【一云、爲乍】 朝鳥【一云、朝霧】 徃來爲君之 夏草乃 念之萎而 夕星之 彼徃此去 大船 猶預不定見者 遣悶流 情毛不在 其故 爲便知之也 音耳母 名耳毛不絶 天地之 弥遠長久 思將徃 御名尓懸世流 明日香河 及万代 早布屋師 吾王乃 形見何此焉
【語釈】 ○飛ぶ鳥の明日香の河の上つ瀬に 上の歌に出た。○石橋渡し 「石橋」は、川の流れの中に、石を庭の飛石のように据え、石から石へ(289)踏んで渡る橋。○一に云々ふ、石なみ 「石浪」は、「浪」は「並」にあてた字で、石の並んでいる状態からの称で、石橋と同じである。二様によんでいたのである。○下つ瀬に 前の歌に出た。○打橋渡す 「打橋」は、橋の一種。高くない岸から岸へと、板の類を架けた橋。巻十(二〇六二)に、「機《はたもの》の※[足+搨の旁]木《ふみき》持《も》ち往きて天の河打橋渡す公が来む為」があり、これによると打橋なる物の大体が想像できる。橋には、集中に、高橋、浮橋、舟橋などがある。高橋は、岸が高いところから高く架っている橋。浮橋は、流れに浮いている橋で、舟、筏などを利用した橋。舟橋は、舟を橋にしたもので、浮橋に似た物であったろう。これらは川の性質に応じてのものと思われる。○石橋に生ひ靡ける 「石橋に」は、石橋の間々に。「生ひ靡ける」は、生えて、靡いている。○一に云ふ、石なみに 石なみも、石の並んでいる間々に。○玉藻もぞ絶ゆれば生ふる 「玉藻」は、前の歌に出た。「も」は、「玉藻」を次の「川藻」の一類のものとし、その一つをあげてのもの。「ぞ」は「も」を強めたもの。「絶ゆれば生ふる」は、無くなるとまた生えてくるで、その生命の永く続くことをいったもの。○打橋に生ひををれる 「打橋に」は、打橋の下の意でいっているものと取れる。「生ひ」は、生え。「ををれる」は、『考』が「為」を「烏」の誤字としての訓である。『美夫君志』は、「字音弁証」にこれを問題として、「乎為里」「乎為流」の例は、集中にこのほか四か所あるが、いずれも「為」となっていて、誤字とはし難い、「為」には「を」の音があるといって詳論している。「ををる」という語は、集中に仮名書きの例が多く、これら五例も、そう訓むことによってはじめて意の通じるものである。今は『美夫君志』に従うよりほかはない。「ををれる」は、「ををる」と「あり」との熟した語である。その意味につき、『考』は、「とをを」は「たわわ」と同語で、「とをを」の「と」を省いて活《はたら》かせた語であるといっている。たわたわとするほど茂る意で、ラ行四段の動詞。○川藻もぞ枯るれば生ゆる 「川藻」は、川に生える藻で、藻は海にも生えるところから差別しての名。「枯るれば生ゆる」は、枯れてしまうと、また新たに生えてくるで、上の「絶ゆれば生ふる」を繰り返したもの。思うに明日香河には全面的に藻が生えていて、「石橋に」「打橋に」というように局部的のものではなかろう。それをこのようにいっているのは、橋を渡る際に見える藻が、最も印象的なところから、技巧上、それだけを限っていっているものと思われる。○何しかも吾が王の 「何しかも」は、「し」は強め、「かも」は疑問で、なぜなればと疑ったもの。「吾が」は、親しんで添えたもの。「王」は、明日香皇女。○立たせば玉藻のもころ 「立たせば」は、四音一句。下の「臥せば」に対させたもので、「起臥」の「起」にあたる意の敬語。起きていらっしゃると。「もころ」は、ごとしという意の古語で、集中に例のあるものである。○臥せば川藻の如く 「臥せば」は、敬語。お臥しになると。二句、上の二句とともに、下の「靡かひし」の譬喩。○靡かひし宜しき君が 「靡かひし」は、前の歌に出たものと同じで、「靡かふ」の過去、従いつづけてきたの意。「宜しき」は、十分に良い意。「君」は、皇女の御夫君。○朝宮を忘れたまふや 「朝宮」は、下の「夕宮」に対させた語で、絶えず居られる宮を時間的に分けていったもの。宮は、皇子の御殿の称であるから、上の「君」は皇子であることがわかる。「朝宮を」は、巻十三(三二三〇)「朝宮に仕へ奉《まつ》りて」によると、朝宮の奉仕をの意と取れる。「忘れたまふや」は、上の「何しかも」の「かも」を「たまふ」で結んだのである。したがって「や」は、疑問の助詞として解し難くなる。『新考』は、この「や」は常のものより軽い一種の助辞だといい、『講義』は、いうところの間投助詞だといって、それに賛している。「忘れたまふ」は、上の奉仕の不能なのを、お忘れになったのだろうかと疑った形でいったもので、薨去を間接にいったものである。○夕宮を背きたまふや 「夕宮を」は、上に対させたもので、夕宮の奉仕を。「背きたまふや」は、なさるまいとするのであろうかで、「忘れたまふや」を語を変えて繰り返したものである。以上第一段。○うつそみと念ひし時 「うつそみ」は、現し身で、幽《かく》り身すなわち神霊界の身に対した語。「念ひし時」は、人が思っていた時で、二句、心としては、御在世の時(290)にはということである。こうした特殊な言い方をしているのは、人は現し身より幽り身にわたって存在しているものである上に、現在は皇女は殯宮にましまし、現し身に准じての特殊な状態にあらせられるので、それにふさわしい言い方をしようとしてのものである。○春べは花折りかざし 「春べ」は、春ころ。「折りかざし」は、折って挿頭《かざし》として挿しで、春の行楽を花に代表させたもの。○秋立てば黄葉かざし 「秋立てば」は、立秋を訳した語で、秋が来れば。「黄葉かざし」は、黄葉を挿頭《かざし》として挿しで、秋の行楽を代表させたもの。○敷たへの袖携はり 「敷たへの」は、前の歌に出た。ここは袖にかかる枕詞。「袖携はり」は、お二人の袖と袖とを連ねてで、御一緒に睦まじくの意を具象的にいったもの。○鏡なす見れども飽かず 「鏡なす」は、鏡のごとくで、意味で「見る」にかかる枕詞。「見れども飽かず」は、幾ら見ても飽かないの意で、きわめて好い物を讃える成語。ここは下の「君」を讃えたもの。○望月のいやめづらしみ 原文「三五月」は、十五夜の月、すなわち満月のごとくで、意味で「めづらし」にかかる枕詞。「いや」は、ますます。「めづらしみ」は、動詞「めづ」より形容詞に転じ、接尾語「み」のついた語。珍しく思っての意。二句、ますます珍しく思つてで、上の「見れども飽かず」を進めたもの。同じく、下の「君」を讃えたもの。○思ほしし君と時時 お思いになっていたところのその御夫君と時々にの意。○幸して遊びたまひし お出ましになって御遊覧なさつた所の。○御食向ふ城上の宮を 「御食向ふ」は、「食」は食物の総称。「御」は敬って添えたもので、御食物として向かう葱《き》と続き、それを「城」に転じての枕詞。「城上の宮」は、城上の御墓所に造った殯宮。○常宮と定めたまひて 「常宮」の「常」は、常《とこ》しえの意で、宮を讃えて添えたもの。ここは殯宮をさしたもの。「定めたまひて」は、お定めになられてで、御自身の意志としてなされた意のもの。これはきわめて尊んでの言い方である。○あぢさはふ目言も絶えぬ 「あぢさはふ」は、旧訓。『古義』は「うまさはふ」と訓んでいる。集中の用例によると、「め」にかかる枕詞であるが、訓も意味も定まらず、不明である。「目言」は、「目」は、目に見上げること。「言」は、口にして申し上げる語。「絶えぬ」は、終った意。二句、見上げ物申すことも終ったで、御薨去になったことを、具体的にいったもの。これは上の「うつしみと念ひし時」に対させた語で、現し身ならぬ幽《かく》り身となられたとの意である。以上第二段。○然れかも 「然れ」は、「しかあれ」で、「かも」は、疑問。後世だと、「れ」の下に「ば」のある格である。上の次第、すなわち薨去の状態であればかで、「か」は、係となっている。この係は、十句を隔てて、「たゆたふ」で結ばれた形となっていることを、『講義』は詳しく論じている。○一に云ふ、そこをしも 「そこ」は、その点で、同じく薨去の状態。「しも」は、強め。「然れかも」よりもこちらが解しやすいところから、諸注ほとんどこちらを取っている。「一に云ふ」は、ほとんど全部、本行より解しやすくなっているものである。その点から見て、あるいは後より改めたものかとの疑いのあるもので、つとめて本行に従うべきである。○あやに悲しみ 「あやに」は、譬えようもなく。「悲しみ」は、哀《かな》しみで、これは皇女の御夫君のことである。○ぬえ鳥の片恋嬬 「ぬえ鳥の」は、巻一(五)に、「ぬえ子鳥」と出た物と同じで、今は虎つぐみとよんでいる。夜、悲しい声をして鳴くところから、片恋をする鳥だとされている。意味で、「片恋」にかかる枕詞。「片恋嬬」の「嬬」は、「夫《つま》」にあてた字。片恋する夫となっての意。○一に云ふ、しつつ 「片恋しつつ」とあるというのである。この方が意味は平明である。○朝鳥の通はす君が 「朝鳥の」は、鳥は夙《はや》く塒《ねぐら》を離れ、餌のあるところへと飛ぶ習性をもっているもので、その時も餌のあるところも定まっていると見て、意味で「通ふ」に続けた枕詞。○一に云ふ、朝霧の通はす君が 枕詞としては下へ続きかねるものである。この二句は、前の二句と対句となっている関係上、ここは枕詞と取れるものである。「通はす君」は、「通はす」は、「通ふ」に尊敬の助動詞「す」のついたの敬語。「君」は、御夫君で、二句御自分の宮より殯宮へと頻繁に通わされる意である。○夏草の思ひ萎えて 「夏草の」は(一三一)に出た。夏草の烈日に照らされ(291)て萎えると続き、「萎え」の枕詞。「思ひ萎えて」は、嘆きしおれて。○夕星のか行きかく行き 「夕星」は、今いう金星で、宵の明星ともよんでいる。時刻によって在り場所が異なり、宵には西、明けには東に見える。「の」は、のごとくの意のもので、意味で「か行きかく行き」にかかる枕詞。「か行きかく行き」は、集中に例のある語で、あちらへ行き、こちらへ行きで、悲しみのために心が乱れた結果、足取りも定まらない状態で、甚しい悲哀を具象的にいったもの。○大船のたゆたふ見れば 「大船の」は、(一二二)に出た。大船は岸へ着けようとする時、すぐには着かず、たゆたいがちにするところから、「たゆたふ」へ意味でかかる枕詞。「たゆたふ見れば」は、行きつ戻りつしている状態を見ればで、上の「か行きかく行き」を語をかえて繰り返したもの。心を強めるためである。上の「然れかも」の「か」の係は、この「たゆたふ」で結ばれた形となっている。○おもひやる情もあらず 「おもひやる」は、用例の少なくない語。嘆きをまぎらす意。「情もあらず」は、そうする心さえもないで、人麿自身の心をいったもの。上の御夫君の恋しみ悲しんでいらせられる状態を見ると、それに刺激されて、もとよりの嘆きが一段と深まってきて、その嘆きをまぎらそうとする気力までも失せ、全く嘆きに鎖《とざ》されてしまう意。なぐさもる、なぐさむるの訓もある。○そこ故にすべ知らましや 「そこ故に」は、(一六七)に出た。その点ゆえにで、悲しみに鎖されてしまうゆえに。「すべ知らましや」は、「すべ」は、せん術《すべ》で、いかにせば嘆きをまぎらしうるかという術《すべ》。「しらましや」は、『考』の訓。「せむすべ知れや」と訓む説もあるが、『考』に従っておく。「や」は、反語で、知られようか、知られないの意。以上、第三段。○音のみも名のみも絶えず 「音のみも」は、音、すなわち評判だけなりとも。「名のみも」は、名、すなわち名声だけなりともで、ほとんど同意味のことを、強めるために重ねたもの。「絶えず」は、絶やさず、無くならせずで、二句を隔てて「偲ひ行かむ」に続く。○天地のいや遠長く 天地のいよいよ遠く長いがごとくの意で、永遠という意の響喩。○偲ひ行かむ御名に懸かせる 「偲ひ行かむ」は、慕って行こうとするで、「行かむ」は連体格で、「御名」に続いている。「音」も「名」も、「御名」が主体となって、それによって偲ばれるからである。「御名に懸かせる」の「懸かせる」は、「懸く」に尊敬の助動詞「す」と完了の助動詞「り」がついた語。御名すなわち、明日香皇女としてもっていらせられるで、下の「明日香河」に続く。○明日香河万代までに 「明日香河」は、呼びかけた形のもの。「万代までに」は、万年の末までにで、すなわち永遠に。○はしきやし吾が王の形見にここを 「はしきやし」は、「はしき」は、愛すべき。「やし」は、「や」は詠歎、「し」は強めで、調べのために添えたもの。「吾が王の」は、皇女を親しみ尊んでの称。「形見」は、見ることのかなわない人を思う種となる物の総称で、現在もいっている語。上代は、人を思うには、必ず物によらなければならないとする念がきわめて強かった。ここもその意である。「にここを」の「に」の原文「何」は、本居宣長が「荷」の誤字だとしたものである。『訓義弁証』は「何」のままで「に」と訓み得ることを例をあげて述べている。「ここを」は、明日香河を強めるために、繰り返す意で指し示したもの。「に」は、下に動詞があるべき詞で、ここは「せむ」の意が略かれている形である。
【釈】 明日香河の上流には、石橋を渡してい、下流には打橋を渡している。石橋の間に生えて靡いている藻は、なくなればまた生えてくる。打橋の下に生えてたわたわとして茂っている河藻は、枯れるとまた生えてくる。なぜなれば、わが王《おおきみ》は、起きていられると、靡く藻のように、お臥しになると、靡く河藻のように、やさしくも従い続けてきた誠に愛《め》でたい御夫君の、朝宮の奉仕をお忘れになったのであろうか、夕宮の奉仕をなさらなくなったのであろうか。現し身とお思い申した時は、春の頃には花を折って挿頭《かざし》とし、秋が来ると黄葉《もみじば》を挿頭とし、袖と袖とを連ねて、鏡のようにいかに繁く見ても厭かず、望月《もちづき》のようにますます(292)珍しくお思いになった御夫君と時々に、お出ましになってご覧になった、その城上の宮を、永久の宮とお定めになって、今はお見上げすることも、物を申し上げることもできなくなってしまった。そうした次第であるからであろうか(そうした状態であればこそ)譬えようもなく悲しんで、ぬえ鳥のように片恋をする夫《つま》となり、しげしげと殯宮へとお通いになられる御夫君の、嘆きしおれて、あちらへ行きこちらへ行って、足取りも定まらず、行きつ戻りつしていられるさまをお見上げすると、それに刺激されて嘆きをまぎらそうとする心とてもなく、それゆえにまたどうすればよいかの方法とても知られようか。知られないことである。今はせめて御評判だけなりとも、御名声だけなりともなくならせずに、天地《あめつち》の遠く永いがごとく永遠にお慕い申してゆこうとする、その主体なる御名としてもっていらせられる明日香河よ、万年の後までも、愛すべきわが王の御形見とこれをしょう。
【評】 この挽歌は、いずれも技巧のそれぞれの面を尽くしている人麿の挽歌の中でも、一首の構成の上に、細心な用意をしている点が、特に注意される作である。
一首四段から成っている。第一段は、起首から「夕宮を背きたまふや」までである。この段はさらに二小段となっている。第一小段は、「枯るれば生ゆる」までで、明日香河の河藻を捉えていっている部分である。主意とするところは、人間は推移を免れず、生きているものは必ず死んで常のないものであるが、自然はそれに反して永久で、河藻のごとき物でさえも、滅したと見ると同時に生えてくることをいったもので、それを尊貴なる皇女の薨去と対比して、皇女を悲しむ心の基調としたのである。この対比よりくる悲しみは、一首全体を貫いているものである。すなわち総叙というべきである。この自然と人間とを対比する悲哀は、後世では常識となったものであるが、この時代には新鮮味のあるものだったのである。漢詩の影響は否み難いものである。この河藻を明日香河の物として捉えたのは、明日香皇女との関係においてのことで、これはまた、終末において照応させているのである。河藻を、石橋と打橋との関係において捉えているのは、藻は河に全面的に生えていたものであろうが、橋を渡る際に特に印象的に見えるところから来たもので、「絶ゆれば生ふる」「枯るれば生ゆる」の微細なことも、またそれがために生きてくるのである。これらは皆実際に即そうとしたがためである。しかるに、第二小段に移ると、この「玉藻」と「河藻」とは内容を異にしてきて、それらは皇女の御夫君に靡いていられたことの譬喩となっているのである。すなわち皇女にのみ即したものとなるのである。この関係は序詞と同様である。さて、そう変化させての上で、皇女の従来の状態とは異なり、「朝宮を忘れたまふや」「夕宮を背きたまふや」という、推移した状態をいっているので、その対比の上から、その状態を、疑いをもっていえることとなったのである。人麿の位地としては、皇女の薨去ということは距離を置いていう必要のあったことと思われるが、その必要を、藻と人との対比によってあらわすという、文芸的な方法をもって充たしているので、この一段はきわめて細心な、また巧緻なものとなり、したがって露《あら》わでないものとなっている。
第二段は、「目言も絶えぬ」までである。この一段は、前の段を受けて、それを進めて、皇女の薨去のことのみをいったものである。薨去ということの内容は、「語釈」でいったがように、(293)現し身が幽り身となられたということで、これは伝統の久しくまた深い信念となっているものである。御生前をいうに「うつそみと念ひし時」といい、御薨去をいうに「目言も絶えぬ」という語をもってしているのは、この時代の信念がさせていることで、文芸的にいったものではない。この一段は、人間を常なきものとして、推移の一線に沿って、それを具体的に、また簡単にいっているものであるが、それをいうに、常に自然と絡ませ、自然の永久性と対比する心をもっていっていることが注意される。さらにまた注意されることは、その対比は、単に人間の無常のさみしさというためのものではないことである。対比の意味で捉えられている自然はいずれも美しい物ばかりであり、人間もまた、人生の楽しさにおいて湛えられていて、そうした物と物とが対比されているので、そこにいわゆるさみしさはない。この点はここだけではなく、第一段の河藻と皇女の御生活との対比も同様であって、これは人麿が意識してしていることである。すなわち徹底的に人間を主体とし、生活はあくまでも明るく、楽しいものとし、薨去ということは、現し世のその生活が幽り世に移されるという意味で、ある齟齬《そご》があるものとして悲しむのである。これは消極的な諦めではなく、積極的な悲しみである。これも独り人麿の心ではなく、時代の心である。この一段はその心を背後に置き、皇女が限りなく生活を楽しまれたその御夫君とともに、時に行楽の場所としてお出ましになった城上という土地すなわち自然を、独りいますべき常宮になされたと、人間と自然とを際やかに対比しているのであるが、これは上にいったがごとき条件をもったものなのである。この対比によって一段は立体味をもったものとなり、したがって簡潔な叙事となったのである。またこの段に御夫君を強くあらわしているのは、この段としての必要もあるが、後段の伏線をも兼ねているのである。
第三段は、「すべ知らましや」までである。この段は、皇女に対しての御夫君の悲歎を、力をきわめて叙している。悲歎は御夫君のみならず、人麿とてももつているのであるが、それはわざといわず、結末の「おもひやる情《こころ》もあらず」以下で間接にあらわしているのは、人麿の位地としては皇女に対して直接なあらわし方をするのは恐れ多いとして控えているためと取れる。御夫君の悲歎を力をきわめて叙しているのは、それによって自身の心をもあらわそうとしたものと思える。結末の「おもひやる」以下は、御夫君の悲軟に刺激されて、何としても堪えられなくなって、はじめて悲歎をいうという形のもので、そこには心理的自然があり、また悲歎の合理的なところもあって、巧妙な一段といえる。この御夫君の状態は、親しく目にしなくてはいえない形のものであるところから、人麿が殯宮に奉仕していたことを思わせるものである。この御夫君を初め関係者の悲歎は、皇女に対しての御慰めであって、殯宮奉仕の心をあらわしたものである。
第四段は、結末までである。ここは、皇女を永遠に忘れまいということで、殯宮よりそれ以後にもわたっての心である。これは皇女に何らかの関係のある者の、共通に思う心のもので、一般性をもったものといえる。現し世になき人を思うには形見によらなければならないとする当時の心より見れば、明日香河は、明日香皇女にとっては、最上の形見である。最上というのは、それが永遠なる自然その物だからである。これは今日感ず(294)るよりは力強いものであったと思われる。これはまた、第一段に照応し、それを高調しているものでもある。
以上は構成の上のことで、この構成の上に立っての詠み方にも、この歌には特色がある。それは二句対を頻繁に用いていることで、ほとんどそれを建前としているかの観がある。対句は人麿の長歌の特色をなしているものであるが、この歌のごとく二句対に限って、それを頻繁に用いているものは他にはない。そのために結末の第四段を除くと、全体に柔らかく美しい感じをもったものとなっている。題材次第で、自在に変化しうる人麿である。明日香皇女に対しては、柔らかく美しい表現を適当とする理由があったものかと思われるが、その辺はうかがい難い。
短歌二首
197 明日香川《あすかがは》 しがらみ渡《わた》し 塞《せ》かませば 流《なが》るる水《みづ》も のどにかあらまし【一に云ふ、水のよどにかあらまし】
明日香川 四我良美渡之 塞益者 進留水母 能杼尓賀有万思【一云、水乃与杼尓加有益】
【語釈】 ○明日香川しがらみ渡し 「明日香川」は、明日香川にの意。長歌で、明日香川を明日香皇女の形見と見ようといったそれを承けてのもの。「しがらみ」は、木や竹を杭などに絡ませたもので、今も用いているもの。「渡し」は、岸から岸へと構える意。○塞かませば 「塞く」は、今日もいっている語で、水をとめる意。「ませ」は、下の「まし」の未然形で、それと照応させた語で、仮設の条件をあらわしたもの。○流るる水も 訓は旧訓。流れることを自然としている水でも。○のどにかあらまし 「のど」は、のどかで、ここはゆっくりする意。「まし」は、上にいった。ゆっくりすることであろうか。○一に云ふ、水のよどにかあらまし 水が、澱《よど》となることであろうかで、意味としてはさして異ならない。本行の方が全体との調和が濃い。
【釈】 明日香川に、岸より岸へ柵《しらがみ》を構えて塞きとめたならば、流れるのを自然とする水でも、ゆっくりとす
(295)ることであろうか。
【評】 長歌をうけて、立ちかえって、皇女の薨去を悲しむ心をもって詠んだものである。長歌と同じく、薨去のことをいうにきわめて間接な方法を取って、暗示的な言い方をしている。いっているところは、明日香川の水流に対しての一つの想像である。流れることを自然としている水ではあるが、柵を構えて塞いたならば、少しは水流を緩やかにすることもできたろうといって、何らかの方法を取ったならば、皇女の御命も、あるいは今少し長くすることができたろうかと、悲しみというよりはむしろ愚痴をいっているのである。間接とはいえ、ここには、皇女も生死は免れ難い心をもっていっているので、その意味では長歌よりは進展のあるものである。明日香川は自然その物ではあるが、長歌ですでに明日香皇女の形見であることを力強くいっているので、皇女を暗示しうるものとなっているのである。これは譬喩以上のものである。人事の上の一つの心持を、直接にはそれに何の触れるところもなく、一に自然をいうのみによってあらわすということは、この当時にあっては、きわめて文芸的な方法である。この歌はそれを成し遂げているのである。しかしそれは長歌に依存することによって成し遂げているもので、単にこの歌だけでは遂げられないのである。そこに限度がある。一首、単純なものではあるが、人麿の手腕を示している点では、注意されるものである。
198 明日香川《あすかがは》 明日《あす》だに【一に云ふ、さへ】見《み》むと 念《おも》へやも【一に云ふ、念へかも】 吾《わ》が王《おほきみ》の 御名《みな》忘《わす》れせぬ【一に云ふ、御名忘らえぬ】
明日香川 明日谷【一云、佐倍】、將見等 念八方【一云、念香毛】 吾王 御名忘世奴【一云、御名不所忘】
【語釈】 ○明日香川 皇女のその御名を負っている川として、皇女を暗示するものとしていい、それとともに、畳音の関係で、下の「明日」の枕詞の意ももたせたものである。枕詞の方は付随的なものである。皇女との関係は前の歌と同じ。○明日だに見むと 「だに」は、あげている点を主として、他は問題としない意の助詞。口語の「でも」というにあたる。「見むと」は、見られようとの意で、皇女との関係の上では、お目にかかれようという意のもの。今はかなわないが、明日にでもお目にかかれようとの意。○一に云ふ、さへ 「さへ」は、ある上に、さらに加わる意をいう助詞。口語の「まで」にあたる。この場合にはあたらないものである。○念へやも 「や」は、疑問。「も」は、詠歎。「念へ」の已然形から続いているので、後世の「念へばや」にあたる語。○一に云ふ、念へかも 「か」は、疑問で、意味は同じ。○吾が王の御名忘れせぬ 「吾が王」は、皇女を親しみ尊んでの称。「御名」は、皇女御自身と御名とは同一とする信念からいっているもので、御上というに近い。「ぬ」は、上の「や」の結びで、連体形。御上を忘れはせぬことよの意。○一に云ふ、御名志らえぬ 「忘らえぬ」は、忘れられないことよで、同じく連体形。
【釈】 明日香川を、明日にでも見られようと思っているせいであろうか、その名を負いたまえるわが王の御上を忘れはせぬことよ。
(296)【評】 これは薨去後の心をいったもので、前の歌より時間的進展をさせたものである。心としては、長歌の結末の第四段と同じものであるが、そちらは一般的な、公式の追慕であるのに、こちらは、私的な、したがって感傷的なものであって、範囲は同じであるが趣は異なっている。「明日香川」は皇女御自身を暗示するものとするとともに、枕詞的の意も絡ませてあるところは、自在な技巧である。上の歌と、心においても形においても緊密な関係をもっていて、人麿の好む連作となっている。
高市皇子尊《たけちのみこのみこと》の城上《きのへ》の殯宮の時、柿本朝臣人麿の作れる歌一首 并に短歌
【題意】 「高市皇子尊」のことは(一五六)に出た。皇子尊という称は、皇太子にましましたがゆえである。皇太子に立たせられた年月は、日本書紀に明記がない。しかし、持統天皇三年四月草壁皇太子薨去の後、同四年七月、この皇子は太政大臣に任ぜられ、また、同月の詔勅の中に「皇太子」の語があるので、その頃皇太子に立たれたことと思われる。持統天皇十年七月の条に、「庚戌(十日)後皇子尊薨」とあるは、すなわち高市皇子尊のことである。城上《きのえ》は、前の明日香皇女の殯宮のあった地と同じである。延喜式に、「三立岡墓【高市皇子、在大和国広瀬郡、兆域東西六町、南北四町、無守戸】」とある。現在は北葛城郡広陵町である。人麿は、歌で見ると舎人の立場に立って作っている。皇太子の舎人の一人であったのか、または舎人に代ってのことであるかは不明である。舎人の一人としての歌かと思われる。
199 かけまくも ゆゆしきかも【一に云ふ、ゆゆしけれども】 言《い》はまくも あやに畏《かしこ》き 明日香《あすか》の 真神《まがみ》の原《はら》に ひさかたの 天《あま》つ御門《みかど》を かしこくも 定《さだ》めたまひて 神《かむ》さぶと 磐隠《いはがく》ります やすみしし 吾《わ》が大王《おほきみ》の 聞《き》こしめす 背面《そとも》の国《くに》の 真木《まき》立《た》つ 不破山《ふはやま》越《こ》えて 高麗剣《こまつるぎ》 和射見《わざみ》が原《はら》の 行宮《かりみや》に あもりいまして 天《あめ》の下《した》 治《をさ》めたまひ【一に云ふ、掃《はら》ひたまひて】 食《を》す国《くに》を 定《さだ》めたまふと 鶏《とり》が鳴《な》く 吾妻《あづま》の国《くに》の 御軍士《みいくさ》を 召《め》したまひて ちはやぶる 人《ひと》を和《やは》せと まつろはぬ 国《くに》を治《をさ》めと【一に云ふ、掃《はら》へと】 皇子《みこ》ながら 任《よさ》したまへば 大御身《おほみみ》に 大刀《たち》取帯《とりは》かし 大御手《おほみて》に 弓《ゆみ》取持《とりも》たし 御軍士《みいくさ》を あどもひたまひ 斉《ととの》ふる 鼓《つづみ》の音《おと》は 雷《いかづち》の 声《こゑ》と聞《き》くまで 吹《ふ》き響《な》せる 小角《くだ》の音《おと》も【一に云ふ、笛《ふえ》の音《おと》は】 敵《あた》みたる 虎《とら》かほゆると 諸人《もろびと》の おびゆるまでに【一に云ふ、聞き惑ふまで】(297) ささげたる 幡《はた》の靡《なび》きは 冬《ふゆ》ごもり 春《はる》さり来《く》れば 野《の》ごとに つきてある火《ひ》の【一に云ふ、冬《ふゆ》ごもり春野《はるの》焼《や》く火の】 風《かぜ》の共《むた》 靡《なび》くが如《ごと》く 取《と》り持《も》てる 弓弭《ゆはず》の騒《さわき》 み雪《ゆき》ふる 冬《ふゆ》の林《はやし》に【一に云ふ、ゆふの林に】 飄《つむじ》かも い巻《ま》き渡《わた》ると 思《おも》ふまで 聞《き》きの恐《かしこ》く【一に云ふ、諸人の見惑ふまでに】 引《ひ》き放《はな》つ 箭《や》の繁《しげ》けく 大雪《おほゆき》の 乱《みだ》れて来《きた》れ【一に云ふ、霰なすそちよりくれば】 まつろはず 立《た》ち向《むか》ひしも 露霜《つゆしも》の 消《け》なば消《け》ぬべく 行《ゆ》く鳥《とり》の あらそふはしに【一に云ふ、朝霜《あさじも》の消《け》なば消《け》ぬとふにうつせみとあらそふはしに】 度会《わたらひ》の 斎《いつき》の宮《みや》ゆ 神風《かむかぜ》に い吹《ふ》き惑《まと》はし 天雲《あまぐも》を 日《ひ》の目《め》も見《み》せず 常闇《とこやみ》に 覆《おほ》ひたまひて 定《さだ》めてし 瑞穂《みづほ》の国《くに》を 神《かむ》ながら 太敷《ふとし》きまして やすみしし 吾《わ》が大王《おほきみ》の 天《あめ》の下《した》 申《まを》したまへば 万代《よろづよ》に 然しもあらむと【一に云ふ、かくもあらむと】 木綿花《ゆふばな》の 栄《さか》ゆる時《とき》に 吾《わ》が大王《おほきみ》 皇子《みこ》の御門《みかど》を【一に云ふ、刺竹《さすたけ》の皇子《みこ》の御門《みかど》を】 神宮《かむみや》に 装《よそ》ひまつりて つかはしし 御門《みかど》の人《ひと》も 白《しろ》たへの 麻衣《あさごろも》著《き》て 埴安《はにやす》の 御門《みかど》の原《はら》に あかねさす 日《ひ》のことごと 鹿《しし》じもの いはひ伏《ふ》しつつ ぬばたまの 夕《ゆふ》べになれば 大殿《おほとの》を ふり放《さ》け見《み》つつ 鶉《うづら》なす いはひもとほり さもらへど さもらひ得《え》ねば 春鳥《はるとり》の さまよひぬれば 嘆《なげ》きも いまだ過《す》ぎぬに 憶《おも》ひも いまだ尽《つ》きねば 言《こと》さへく 百済《くだら》の原《はら》ゆ 神葬《かむはふ》り 葬《はふ》りいまして あさもよし 城上《きのへ》の宮《みや》を 常宮《とこみや》と 高《たか》くしまつりて 神《かむ》ながら 鎮《しづ》まりましぬ 然《しか》れども 吾《わ》が大王《おほきみ》の 万代《よろづよ》と 念《おも》ほしめして 作《つく》らしし 香具山《かぐやま》の宮《みや》 万代《よろづよ》に 過《す》ぎむと思《おも》へや 天《あめ》の如《ごと》 ふり放《さ》け見《み》つつ 玉《たま》だすき かけて偲《しの》はむ 恐《かしこ》かれども
挂文 忌之伎鴨【一云、由遊志計礼杼母】 言久母 綾尓畏伎 明日香乃 眞神之原尓 久堅能 天都御門乎 懼母(298)定賜而 神佐扶跡 磐隱座 八隅知之 吾大王乃 所聞見爲 背友乃國之 眞木立 不破山越而 狛釼 和射見我原乃 行宮尓 安母理座而 天下 治賜【一云、掃賜而】 食國乎 定賜等 ※[奚+隹]之鳴 吾妻乃國之 御軍士乎 喚賜而 千磐破 人乎和爲跡 不奉仕 國乎治跡【一云、掃部等】 皇子隨 任賜者 大御身尓 大刀取帶之 大御手尓 弓取持之 御軍士乎 安騰毛比賜 齊流 鼓之音者 雷之 聲登聞麻※[人偏+弖] 吹響流 小角乃音母【一云、笛之音波】 敵見有 虎可※[口+立刀]吼登 諸人之 恊流麻※[人偏+弖]尓【一云、聞或麻泥】 指擧有 幡之靡者 冬木成 春去來者 野毎 著而有火之【一云、冬木成春野燒火乃】 風之共 靡如久 取持流 弓波受乃驟 三雪落 冬乃林尓【一云、由布乃林】 飃可毛 伊卷渡等 念麻※[人偏+弖] 聞之恐久【一云、諸人見或麻※[人偏+弖]尓】 引放 箭之繁計久 大雪乃 亂而來礼【一云、霰成曾知余里久礼婆】 不奉仕 立向之毛 露霜之 消者消倍久 去鳥乃 相競端尓【一云、朝霜之消者消言尓打蝉等安良蘇布波之尓】 渡會乃 齊宮從 神風尓 伊吹或之 天雲乎 日之目毛不令見 常闇尓 覆賜而 定之 水穗之國乎 神隨 太敷座而 八隅知之 吾大王之 天下 申賜者 萬代尓 然之毛將有登【一云、如是毛安良無等】 木綿花乃 榮時尓 吾大王 皇子之御門乎【一云、刺竹皇子御門乎】 神宮尓 装束奉而 遣使 御門之人毛 白妙乃 麻衣著 埴安乃 御門之原尓 赤根刺 日之盡 鹿自物 伊波比伏管 烏玉能 暮爾至者 大殿乎 振放見乍 鶉成 伊波比廻 雖侍候 佐母良比不得者 春鳥之 佐麻欲比奴礼者 嘆毛 未過尓 憶毛 未不盡者 言左敝久 百濟之原從 神葬 々伊座而 朝毛吉 木上宮乎 常宮等 高之奉而 神隨 安定座奴 雖然 吾大王之 万代跡 所念食而 作良志之 香來山之宮 万代尓 過牟登念哉 天之如 振放見乍 玉手次 懸而將偲 恐有騰文
【語釈】 ○かけまくも 「かけまく」は、「かく」の未然形「かけ」と「む」の未然形に「く」を添えて名詞形としたもの。口にかけていうにも、心にかけて思うにもいう。ここは、下の「言はまく」の対となっていて、心にかける意のもの。心にかけることもの意。○ゆゆしきかも 「ゆゆし」は、「ゆ」は忌《い》み清まわる意で、それを重ねて形容詞としたもの。忌み憚るべきの意。恐れ多いというにあたる。「かも」は、詠歎。○一に云ふ、ゆゆしけれども 恐れ多くあるけれども。これは下への続きが自然ではない。○言はまくもあやに畏き 「言はまくも」は、口にしていうことも。「あやに」は、いいようもなく。「畏き」は、恐れ多いで、連体形。下の「真神」へ続く。○明日香の真神の原に 「明日香」は、現在の高市郡明日香村。「真神の原」は、最も確かな文献としては、日本書紀、崇峻紀に、「元年……壊2飛鳥衣縫造祖樹葉之家1始作2法興寺1。此地名2飛鳥(299)真神原1、亦名2飛鳥苫田1」とあるものである。法興寺は飛鳥寺ともいった。現在、飛鳥大仏のある安居院はその跡であり、古く真神の原とよばれた所だったのである。○ひさかたの天つ御門を 「ひさかたの」は、天の枕詞。「天つ御門」は、「天つ」は御門を尊んで添えた語。「御門」は、宮殿の義にも用い、(一六八)(一七四)にもあるように、御陵墓の義にも用いている。したがってここは両様に取れる。従来、御陵墓の地と解されていたが、喜田貞吉、『講義』などの考証によって、宮殿の地と解されるに至った。天武天皇の御陵は、延喜式に、檜隈大内陵とあり、そこは現在、明日香村大字野口であって、飛鳥とは離れていて、明らかに別である。したがって御門は宮殿であって、真神が原に浄御原宮はあったというのである。従うべきである。○かしこくも定めたまひて 恐れ多くもお定めになって。○神さぶと磐隠ります 「神さぶと」は、神としてのお振舞いをせられるとての意。「磐隠ります」は、磐の内に隠れていらせられるで、御陵墓は磐をもって構えるので、その内に入らせられる意で、二句、崩御後の御状態を申したもの。○やすみしし吾が大王の 字義は前に出た。天武天皇の御事。○聞こしめす背面の国の 「聞こしめす」は、巻一(三六)に出た。「聞こす」は「聞く」の、「めす」は「見る」の敬語で、天下を御支配になる意。「背面の国」は、「背面」は巻一(五二)に出た。北方の意で、大和国よりいうのである。「国」は下の続きで美濃国とわかる。○真木立つ不破山越えて 「真木立つ」は、巻一(四五)に出た。杉檜などの生い立っているで、深山の状態。「不破山」は、岐阜県不破郡と滋賀県坂田郡との境にある山と解される。『講義』は、現在この名をもった山はない。不破の関のある山をそう称したのではないかといっている。「越えて」は、大和国を中心としての語。この時天皇は伊勢の桑名にいられ、美濃を本営とするために、そちらへ行幸されたのである。○高麗剣 高麗の剣の意。※[木+覇]《つか》の頭に環を着ける特殊な作りであったところから、輪と続けて、「わざみ」の「わ」に転じた枕詞。○和射見が原の この名は今は伝わっていない。したがって諸説がある。『講義』は、『長等《ながら》の山風《やまかぜ》』の所説に基づき、今の青野が原(赤坂町青野)であろうといっている。また、不破郡関が原町関が原の説もある。○行宮に 「行宮」は、天皇の行幸の際とどまりたもう宮である。日本書紀によると、和射見が原は、高市皇子の本営のあった所で、行宮は野上(関が原町大字野上)にあった。そこは青野が原の西方にある所である。天皇は野上の行宮よりしばしば和射見が原に行幸になり、軍事を検校されたので、このようにいったのであろうという。○あもりいまして 「あもり」は、「天降り」の字をあてる。「天降《あめお》り」の約で、行幸を神としての御行動としていったもの。「いまして」は、ましまして。○天の下治めたまひ 天下の乱れをお治めになり。○一に云ふ、掃ひたまひて 一掃なさつてで、事の終った後の意となって、事実に合わない。○食す国を定めたまふと 「食す国」は、巻一(五〇)に出た。御支配になる国で、すなわち天下。「定めたまふと」は、安定させようとなさって。○鶏が鳴く吾妻の国の 「鶏が鳴く」は、「吾妻」にかかる枕詞。その関係は明らかでない。「吾妻」は、東方の意の古語と取れる。大和よりの称である。○御軍士を召したまひて 「軍士」は、軍将士卒を総称する古語。「御」は、天皇のものであるゆえに尊んで添えたもの。主として尾張の軍士で、信濃の軍士も加わったという。「召したまひて」は、召集なされて。○ちはやぶる人を和せと 「ちはやぶる」は、「いちはやぶる」の意で、『講義』は、形容詞「いちはやし」の語幹に「ぶる」を連ねて連詞としたものだといい、「いちはやし」の例はこの当時の文献には見えないが、平安朝にはあると説いている。「いちはやし」は、稜威すなわち勢いの速く、強い意。「ぶる」は、その性質を発揮する意で、勢いの強い意である。これは善悪に通じていう。ここは悪い方で、強暴なるにあたる。「人」は、敵となっている人で、大津宮の御軍士を、天皇の立場からさしていったもの。「和せ」は、和らげよで、命令形。これは天武天皇の高市皇子に命ぜられた御語《みことば》。○まつろはぬ国を治めと 天皇に従わない国を治めよとの意で、上の二句の意を対句の形において繰り返したもので、「治め」は命令形。○一に云ふ、掃へと (300)一掃せよというので、意味は異ならない。本行の方が、心が穏やかである。○皇子ながら任したまへば 「皇子ながら」は『考』の訓。原文「随」は、「神随」のそれと同じく、皇子にましますままにの意。兵馬の大権は天皇のみのものであるのを、皇子にますがゆえに代らしめた意。「任したまへば」は、諸注、訓がさまざまである。「任《よさ》す」と訓んだのは『代匠記』である。『講義』は、「よす」は古くは四段活用で、これはその敬語である。意は任じたまうであると、詳しく考証している。○大御身に大刀取帯かし 「大御」は、至尊の御方に関するものに、尊んでかぶせる語。「取帯かし」は、大刀は佩《は》くという、それを敬語としたもの。○大御手に弓取持たし 「持たし」は、「持つ」の敬語。○御軍士をあどもひたまひ 「あどもふ」は、集中用例の多い語である。日本書紀には「誘」の字をあてている。誘い率いる意で、部下の軍将士卒を誘い率いさせられてである。○斉ふる鼓の音は 「斉ふる」は、軍隊を斉えるで、共同の進退をさせる意。「鼓の音は」は、太鼓の音はで、号令する音はである。二句、軍隊に共同の進退を号令するところの太鼓の音はの意。○雷の声と聞くまで 雷鳴の音かと聞くまでにもの凄く。○吹き響せる小角の音も 「響す」は、鳴らすの古語。「小角」は、竹筒で作ったもの。二句、号令をするために吹き鳴らす竹筒の音もまた。○一に云ふ、笛の音は 「笛」は、範囲の広い名で、小角もその中のものである。本行の方が前後に調和がある。○敵みたる虎かほゆると 「あたみたる」は、「あたむ」は一つの動詞。怨み憎みの情をあらわす語。「虎かほゆると」は、虎が吼《ほ》えるのであるかと。○諸人のおびゆるまでに 「諸人」は、人々であるが、敵のすべての人の意。「おびゆるまでに」は、恐れて失神するほどに。○一に云ふ、聞き惑ふまで 惑って聞くまで。本行の方が力がある。○ささげたる幡の靡きは 「ささげ」は、「指し挙げ」の約。「幡の靡きは」は、幡の風に靡くさまは。「靡き」は、名詞形。この幡はすべて赤旗であったことが、日本書紀に出ている。○冬ごもり春さり来れば 巻一(一六)に出た。冬が尽きて春が来ればの意。○野ごとにつきてある火の 野という野に一時についている火がで、この火は、いわゆる焼畑《やきばた》を作るために、去年の枯草を灰として肥料とならせるために焼くところの火で、大体大規模のものである。○一に云ふ、冬ごもり春野焼く火の これは、上の「冬ごもり」以下四句を二句としたものである。これはここの「幡」の状態と、これに続く「弓弭」の状態を、八句対としてある関係上、本行に従うべきである。○風の共靡くが如く 「風の共」は、風と共に。「靡くが如く」は、その火の靡くがごとくにで、幡の赤色であったことを暗示している。○取り持てる弓弭の騒 「取り持てる」は、将卒の手に持っている。「弓弭」は、弓の両端の、弦をかけるところの称。今は弦の意で用いている。「さわき」は、『代匠記』の訓。集中に例のある字である。騒がしく鳴る音は。○み雪ふる冬の林に 「み雪」の「み」は、接頭語。雪の降る冬の林に。○一に云ふ、ゆふの林に 「由布」は、「布由」の誤字で、文字の相異だけで引いたものと取れる。○飄かもい巻き渡ると 「瓢」は、つむじ風。「かも」は、疑問。「い巻き」は、「い」は接頭語。二句、つむじ風が巻きつつ渡って行くかとの意。○思ふまで聞きの恐く 「聞き」は、名詞。弓弭の騒ぎの聞こえ。「恐く」は、畏るべく。○一に云ふ、諸人の見惑ふまでに 敵の人々が惑って見るほどに。弓弭の音をいっている場合なので、これは不合理である。○引き放つ箭の繁けく 「繁けく」は、「繁き」に、「く」を添えて名詞形としたもので、繁きことはの意。○大雪の乱れて来れ 「大雪の」は、大雪のごとく。「乱れて来れ」の「来れ」は、已然形のままで条件をあらわすもので、後世の「来れば」と同じ意をあらわすものである。例はすでに出た。二句、大雪のごとくに乱れてくるのでの意で、この「来れ」は、受身となっている大津宮の軍の感じをいったものである。すなわちこの一語で、主客を転じさせている形である。○一に云ふ、霰なすそちよりくれば 「霞なす」は、霞のごとくに。「そち」は、大津宮の軍の立場に立ち、高市皇子の軍の方をさしているもの。上の二句を平明に解しやすくしたもので、「来れ」のもつ巧みさを失ったものである。○まつろはず立ち向ひしも 「まつろはず」は、従わずに。(301)「立ち向ひしも」は、「立ち向ふ」は熟語で、敵対すること。『講義』は「立ち向ひし」は準体言だと注意している。「も」は、もまたの意のもの。二句、従わずして敵対した大津宮の将卒もまた。○露霜の消なば消ぬべく 「露霜の」は、露や霜ので、消《け》と続き、その消《け》を死の意に転じた枕詞。「消なば消ぬべく」は、死ぬならば死のうというので、死を決して戦う態度をいったもの。これは上に続いて大津宮の将卒の上である。○行く鳥のあらそふはしに 「行く鳥の」は、群れをなして飛びゆく鳥のごとくで、下の「あらそふ」の譬喩。「あらそふ」は、先頭を争うで、勇敢なる状態をいったもの。「はし」は、『新考』は口語の「とたん」にあたるといっている。『講義』は、その際にといっている。時の急迫をあらわした語。○一に云ふ、朝霜の消なば消ぬとふに、うつせみとあらそふはしに 上四句が、一本にはこうあるというのである。「朝霜の」は、「消」の枕詞で、他にも例のあるもの。「消ぬとふに」は原文「消言尓」、諸本一致しているもので、諸注訓み難くして誤字説を出している。『講義』は「消ぬとふに」と訓むべきかといっている。それに従うと、ここで死ぬならば、いずれは死ぬという命であるのにの意。「うつせみと」は、現し身の死ぬべき命と思つての意で、四句、決死の態度と状態をいったもの。本行の方が前後に調和する。○渡会の斎の宮ゆ 「渡会」は、伊勢の皇大神宮の鎮まります地の郡名。現在伊勢市内。「斎の宮」は、「斎」は「いつき」「いはひ」両様の訓がある。「いつき」の訓の方が多いので、諸注多くはそれに従っている。「斎の宮」は二様に用いられている。皇大神を斎く宮すなわち神宮の意と、天皇の大御手代としての斎の内親王のいます宮である。内親王の斎の宮は多気郡にあり、これは渡会郡であるから、皇大神宮である。「ゆ」は、より。○神風にい吹き惑はし 「神風」は、神の吹かせたまう風の意であるが、上代には、神の呼吸がすなわち風であるという信仰があり、その意でいっているものである。すなわち神の息である風の意である。「に」は、をもっての意。「い吹き」は、大祓詞に、「気吹」を「いぶき」と訓ませてあって、呼吸をする意の古語で、動詞である。「惑はし」は、大津宮の軍を昏迷させの意。二句は、神の気《いき》である風をもって、その呼吸《いき》をすることによって困惑させてで、さらにいうと、神意をもって大風を吹かせて、敵を困惑させての意である。この神風のことは、日本書紀にも古事記の序にも見えず、ただここにあるのみのものである。したがって事実か、単なる伝えかを疑わせている。○天雲を日の目も見せず 「天雲を」は、雲をで、その雲は、大風に伴って起こったものである。「日の目」の「目」は、「見え」の約で、日の顔。「見せず」は、見せしめず。○常闇に覆ひたまひて 「常闇」は、常《とこ》しえの闇で、真闇《まつくら》な意をいったもの。「覆ひたまひて」は、大津宮の軍隊をお覆いになってで、「天雲を」以下、神助としていっているものである。○定めてし瑞穂の国を 「定めてし」は、「て」は完了。平定させおわったで、上の「食す国を定めたまふと」に照応させたものである。主格は高市皇子である。「瑞穂の国」は、(一六七)に出た、わが日本国を。○神ながら太敷きまして 「神ながら」は、巻一(三八)に、「太敷きます」は、同じく(三六)に出た。神とましますままに御支配になってで、主格は上の「定めてし」に続いて高市皇子である。これは下に続いて繰り返されている。○やすみしし吾が大王の 二句、皇子を尊んで申したもので、当代の天皇は持統天皇。○天の下申したまへば 「天の下申し」は、国家の大政を執《と》り申しで、太政大臣の事をする意である。高市皇子が太政大臣であられたことは上にいった。これは、「神ながら太敷きまして」の内容を繰り返していったものである。○万代に然しもあらむと 「万代に」は、万年にで、永久に。「然しも」は、「然」は上のことをさした語。「しも」は、強め。そのようにばかり。二句、永久にそのようにばかりあろうと思つてで、天下の者の心をいったもの。○ーに云ふ、かくもあらむと このようであろうと。心は異ならないが、本行の方が、上との続きが緊密である。○木綿花の栄ゆる時に 「木綿花」は、集中に例が少なくないものだが、よくはわからない。木綿は楮《こうぞ》の繊誰で、それをもって造った花と取れる。白波の譬喩に用いているところから、白く美しい物だったと察しられる。しか(302)し何に用いたものかは明らかではない。「春花の栄ゆる」とあるのと同じく、「木綿花の」は、意味で栄ゆにかかる枕詞と思われる。「栄ゆる」は、『古義』は、「酒漬《さかみづ》き栄ゆる」「咲《ゑ》み栄ゆる」と同じく、うるわしく、はなばなしい意だとしている。『新考』は、世の人の思う心をいったものだと注意している。楽しみにしているという意に取れる。○吾が大王皇子の御門を 「御門」は、宮殿。後の続きで、宮殿は香具山にあったことが知られる。○一に云ふ、刺竹の皇子の御門を 「刺竹の」は、用例の多い枕詞であるが、意味は不明。○神宮に装ひまつりて 「神宮」は、神のまします宮で、皇子を、天《あめ》にます神と同じにお扱い申しての語である。それは天皇、皇子のみまかられることを神去《かむさ》るという語であらわしているのでも知られるように、尊貴な御方はみまかられるとともに神となられるという信仰からいうものである。今は皇子が薨去になられたので、殯宮へお移し申したその殯宮を神宮といっているのだと取れる。「装ひまつりて」は、神宮としての装おいをして。すなわち設けをして。○つかはしし御門の人も 原文「遣使」は、諸注、訓がさまざまである。これは『古事記伝』の訓である。お召使いになられた。「御門の人」は、御宮に属した人で、朝廷より賜わっていた舎人。「も」は、もまた。○白たへの麻衣著て 「白たへ」は、巻一(二八)に出た。ここは白という意のもの。「麻衣」は、麻の衣で、身分の低い者の常服であったが、ここはそれではなく、神事の衣は白色と定まっていた、その意のものである。服装は黒染、またはそれに近い鼠色、鈍色《にびいろ》であったが、礼服としては白を着ることに定まっていたのである。○埴安の御門の原に 「埴安」は、香具山の麓、藤原宮の東方の地で、橿原市南浦町あたりか。「御門の原」は、御門の前にある原すなわち広場で、御門は皇子の宮のものと取れる。○あかねさす日のことごと 「あかねさす」は、赤色を放つで、意味で日にかかる枕詞。「日のことごと」は、一日じゆう。○鹿じものいはひ伏しつつ 「鹿じもの」は、これと同じ形の「鴨じもの」が、巻一(五〇)に出た。『講義』は、「じ」は体言に続いて形容詞を構成し、「ししじ」で「しく、しき」の活用の語幹をなさせ、それに「もの」を続けて熟語としたものであり、意は、鹿のごとき物というほどのことだといっている。「鹿《しし》」は、宍《しし》すなわち肉にあてた字で、肉を食料とする獣の総称である。ここは「鹿」をその代表としたもの。獣の足を曲げて地に伏している習性を捉えて譬喩としたもの。「いはひ伏しつつ」は、「い」は接頭語。「はひ伏す」は礼の形で、後世の平伏、土下座《どげざ》と同じ形のものである。日本書紀、天武紀に、跪礼、匍匐礼をやめるという勅があり、さらに続日本紀、文武天皇、慶雲年間にも、同じ勅が出ているので、当時それの行なわれていたことがわかる。「つつ」は、継続。二句、獣のごときさまに平伏しつづけて。○ぬばたまの夕べになれば 「ぬばたまの」は、(八九)に出た。射千《ひおうぎ》の実で、色の黒いところから黒の枕詞となり、夜、夕などにも及んでいるもの。今は夕べの枕詞。「夕べになれば」は、夜に移れば。○大殿をふり放け見つつ 「大殿」は、皇子の宮殿。「ふり放け見」は、(一四七)に出た。仰いで遠くの物を見ること。「つつ」は、継続。事としては近く見るのであるが、尊む意から、遠く見るように言いかえたもの。○鶉なすいはひもとほり 「鶉なす」は、鶉のごとくで、鶉は、草原を這い回っているので、そのさまを捉えて譬喩としたもの。「いはひもとほり」は、「いはひ」は上と同じく、「もとほり」は同じ所を回って歩く意の古語。二句、平伏しつつも、悲しみに堪えずして動き回る意で、上の二句と対句とし、一歩心を進めたもの。○さもらへどさもらひ得ねば 「さもらへど」は、伺候しているけれども。「さもらひ得ねば」は、伺候の意が遂げられないのでの意で、伺候していてもお召しになることもなく、その詮がないので。○春鳥のさまよひぬれば 「春鳥の」は、春の鳥のごとくで、その高音《たかね》に、また繁く鳴く点を捉えて、譬喩の意で枕詞としたもの。「さまよひぬれば」は、「さまよふ」は懊悩して呻き声を発する意の動詞で、巻二十(四四〇八)「若草のつまも子どもも、をちこちに沢《さは》に囲《かく》みゐ、春鳥の声のさまよひ、白妙の袖泣き濡らし」とあると同じ意のものである。この語は『講義』が詳しく考証している。二句、上の二句に続いて、(303)伺候していてもその詮がないので、懊悩して呻き声を発していればの意。○嘆きもいまだ過ぎぬに 「嘆き」は、御薨去の嘆き。「過ぎぬに」は、過去のものとはならないのに。○憶ひもいまだ尽きねば 「憶ひ」は、嘆き。「尽きねば」の「ねば」は、「ぬに」と同じ心で用いられている古語である。○言さへく百済の原ゆ 「言さへく」は(一三五)に出た。「韓《から》」、または百済へかかる枕詞。「百済の原」は、今は北葛城郡広陵町字百済。「ゆ」は、「より」の古語で、経過する地点を示す語。二句、百済の原を過ぎて。○神葬り葬りいまして 「神葬り」の「神」は、その事が神に関する場合に添えていう語で、(一六七)「神集《かむつど》ひ集ひいまして」と同じ形のものである。「葬り」は、放《ほう》りの意で、平生の住まいより出して遠くやる意の語で、野辺送りというにあたる。「座而《いまして》」は旧訓で、「座而《いませて》」の訓もあり、諸注二つに分かれている。『講義』は旧訓に従い、その理由を明らかにしている。「座而《いまして》」は、「葬り」という用言に添えたもので、単なる形式的の敬語である。「座而《いませて》」は、巻十二(三〇〇五)「高々《たかだか》に君を座せて」というように実質を含んだもので、ここにはあたらない。事としては、皇太子としての皇子を葬ることで、これを行なうのはむろん朝廷である。「座而《いまして》」は朝廷に対して添えたところの形式的の敬語だというのである。○あさもよし城上の宮を 「あさもよし」は、巻一(五五)に出た。「麻裳よし」で、「よし」は詠歎。著《き》と続け、城に転じての枕詞。「城上の宮」は、上にいった。○常宮と高くしまつりて 「常宮」は、(一九六)に出た。永久の宮で、ここは殯宮を讃えていつたもの。「高之奉而」は、訓がさまざまである。多くは誤字があるとして改めてのものである。しかし文字は諸本一様である。『講義』は、「高くしまつりて」と訓むほかはないとしている。高く作り奉りての意である。○神ながら鎮まりましぬ 神とあるままにお鎮まりなされたの意。起首よりこれまでで一段。○然れども吾が大王の そうした御状態ではあるけれども、わが皇子尊の。○万代と念ほしめして 「万代と」は、万年にわたって変わらなくあれとの意。「念ほしめす」は、「念ふ」の敬語「念ほす」に、「見」の敬語「めす」の続いたもの。○作らしし香具山の宮 お作りになられた香具山の宮で、皇子の宮である。上の「埴安の御門の原」を門前とし、香具山寄りにあった宮と取れる。この宮は皇子御薨去の後は、荒廃に任せられるべきものである。○万代に過ぎむと思へや 「万代に」は、上の「万代と」に照応させたもので、お思いなされたがごとく、万年にわたっての意のもの。「過ぎむと思へや」は、「過ぎむと」は過去のものとなろうと。「思へや」は「思ふ」の己然形「思へ」に、「や」の添ったもので、反語。思おうか思いはしない。二句、万年にわたって、過去のものとならせるようなことは、思おうか思わないの意。○天の如ふり放け見つつ 「天の如」は、天を見るごとくに。「ふり放け見つつ」は、遠く望みつづけてで、宮を尊みなつかしむ心からいったもの。○玉だすきかけて偲はむ 「玉だすき」は、巻一(二九)に出た。襷《たすき》に玉の美称を添えたもの。「かけ」の枕詞。「かけて偲はむ」は、心にかけて深くお思い申そうで、宮を皇子のお形見として、皇子同様にお思い申そうの意。○恐かれども 恐れ多くはあるけれどもで、身分の低い者としては憚るべきことであるけれどもの意。この句は起首に照応させてのもの。
【釈】 口にして申すことは恐れ多いことであるよ。言葉とすることはいおうようなく恐れ多いことであるけれども、明日香の真神の原に、神としての宮殿をお定めになられて、今は神のお振舞いをなさって御陵に岩隠れていらせられるやすみししわが大王なる天武天皇の、御支配になられる北方の国美濃の、不破の山を越えて、わざみが原の行宮に行幸にならせられて、天下の乱れをお治めになろうとて、御支配になる国を安定おさせになろうとて、東国の軍将士卒を御召集になられて、強暴なる人を和らげよ、お従い申さぬ国を治めよと、皇子とましますままにお任じなされると、皇子尊には御身に太刀《たち》をお佩きになり、御手に弓を(304)お持ちになり、軍将士卒を誘い率いさせられ、軍隊の進退を号令する太鼓の音は、雷のとどろき鳴る声かと聞くまでに、同じく吹き鳴らす竹筒の音も、怨み憎みを起こしている虎が吼えるのであるかと思って、敵の人々が恐れて失神するほどに(惑って聞くまでに)、捧げている幡の風に靡《なび》くさまは、春が来ると、野という野に燃えついている火が(春の野を焼く火が)、吹く風につれて靡くがように赤く熾《さか》んに、手に持っている弓の弦の騒ぎは、冬の林に飄《つむじ》かぜが捲き渡っているのかと思うまでに音が恐ろしく(敵のすべてが見惑うほどに)、引放つ箭の繁さは、大雪のごとくに乱れて飛び来るので(霞のようにあちらから来るので)、従わずして敵対していた敵軍も、今は死ぬならば死ねよと先頭を争って向かって来るとたんに(ここで死ぬならば、いずれは死ぬという命であるのに、死ぬべき現し身であるのにと思って、先頭を争って向かって来るとたんに)、伊勢の渡会の皇大神宮から、神の気《いき》である大風をもって、吹いて敵軍を困惑させ、天《あめ》の雲を、日の影も見せず真の闇になるまでにお覆いになられて、それによって安定になされたところの瑞穂の国を、皇子尊は神とましますままに御支配になられて、持統天皇も御代の大政を執り申されるので、万年にわたってそのようにばかりあろうと、天下が楽しみにしている時に、わが大王皇子の宮を、神宮《かむみや》に更《か》えて装い申し上げ、お召使いになっていた宮の舎人《とねり》も、神事の服である白色の麻衣を着て、埴安の御門の原に、昼は一日じゅう、さながら鹿のようなさまに平伏しつづけ、夜に移って来ると、宮を仰ぎ望みながら、鶉《うずら》のように平伏して居ざり回って、伺候はしているがその詮もないので、懊悩して呻き声を立てていると、その嘆きもまだ過去のものとはならないのに、悲しみもまだ尽きないのに、百済の原を過ぎて、神葬りに葬り申されて、城上《きのえ》の宮を永久の宮として高く作り奉って、皇子尊には神とましますままにお鎮まりになられた。そうではあるけれども、わが大王皇子尊の、万年にわたって変わらずもあれとお思い遊ばして、お作りなにられたところの香具山の宮は、お心のとおりに万年にわたって過去の物とならせようと思おうか思いはしない。畏き天のごとくにも仰ぎ望みつづけて、お形見のそれによって皇子尊を心にかけて深くお思い申そう、恐れ多くはあるけれども。
【評】 この挽歌は、その量においても百四十九句という、本集を通じての最長篇であるとともに、その質においてもまた、人麿の手腕の最も発揮されているものとして、その代表作と目されているものである。
作歌の意図は単純で、したがってまた明瞭である。事は皇太子高市皇子尊の薨去に対しての挽歌であって、神となられて殯宮にいらせられる皇子尊に対して、その御薨去の悲しみを述べ、その延長として、皇子尊を永遠にお慕い申そうと述べて、神霊を慰めまつるものである。これは挽歌の型となっていることである。しかるに対象となられている皇子尊は、天皇につぐ尊貴な御方でいらせられ、これをいう人麿はきわめて身分の低い者である関係上、悲しみの情をほしいままにするということは、身分の距離を忘れた狎《な》れすぎたこととして控えねばならぬことであり、したがってつとめて距離をおいての物言いをしなければならない。すなわち御薨去のことに直接触れていうことは恐れ多いこととし、間接に、言葉少なにいわなくてはならないことになる。作歌の用意の第一は、この事であったと思われる。次に人麿は、皇子尊に対し、いかなる関係の者としてこの歌を(305)作っているかということである。皇太子である皇子尊の御薨去に対する悲しみは天下のものであるのに、この歌でそれを悲しんでいる者は、神宮《かむみや》すなわち殯宮となった香具山の宮の御門前に、神事の服である白妙の麻衣を着て、昼夜を分かたず、平伏して伺候している者だけに限ってあって、そのほかの者には触れていない。それらは香具山の宮の舎人である。また人麿は手法として、長歌を作る場合には、その反歌によって私情を述べる場合が多い。しかるにこの長歌の反歌二首は、いずれも舎人の悲しみを述べているものである。それらから見るとこの挽歌は、皇子尊に対して、舎人という立場に立って作ったものである。こうした歌は、神霊の喜ばれるものでなくてはならぬ関係から、歌人人麿が作らせられたものと思われる。人麿が高市皇子尊の舎人であってもまたなくても、そのことはありうることである。そのいずれであったにもせよ、皇子尊の舎人という立場に立ち、その用意をもって作ったものであることは明らかである。これが用意の第二である。第一の用意と第二の用意とは緊密に関連しているもので、皇子尊に対して、舎人という身分低い者の態度をもって述べようと意識し、その用意をもって作っているものである。この長歌のもつ構成と技巧とは、この用意の下になされているものである。
構成から見ると、第一段は起首より、百三十六句目の「鎮《しづ》まりましぬ」までであり、第二段はそれより結末までである。
第一段は、三つの事を連ねたもので、第一は皇子尊が壬申の乱に将軍となられた事、第二は持統天皇の太政大臣として、また皇太子として大政を執られた事、第三は御薨去の事である。これら三つの事に対して費やしている言葉の量は、舎人として皇子尊に対して抱きまつっていた尊崇の情を尽くしているものといえる。第一の壬申の乱の事は、起首より「定めてし瑞穂の国を」の「定めてし」までで、じつに八十七句である。第二の大政を執られたことは、「瑞穂の国を」より「栄ゆる時に」までで、十一句。第三の御薨去の事は、「吾が大王皇子の御門を」以下で、三十八句である。御生前のことを叙した第一第二におい(306)て、第二は十一句であるのに、第一に対して八十七句を費やしていることは、全体の上から見て、均衡を失しているがごとくみえる。しかし挽歌でいわんとしていることは、皇子尊の生涯の御事績そのものではなく、神霊を慰め奉ろうとする目的をもって、功業をお讃え申すことにある。その上よりいうと、この御代における壬申の乱の位置は、他に較べるもののない重大なもので、その乱に将軍として偉功を樹てられたということは、皇子尊の御生涯の上でも際立って輝かしい、きわめて特殊なことだったのである。加うるにこの時代は、国家が盛運に向かう時で、男子の本懐は大夫《ますらお》たるにあった時勢であるから、皇子尊のこの軍功は、きわめて魅力の多いものであったことは明らかである。第二の、大政を執られた事の方は軽く扱うにとどめたのは、事実としてもその期間は長いものではなく、また第一との比較においても、そう扱うことが自然であったであろう。第三の、御薨去の事をいうにあたり、御薨去その事については直接にいうところがなく、御薨去という状態において扱われたまう皇子尊を、第三者として見ているがごとき態度をとり、その立場に立っての悲歎の情を叙《の》べているのは、舎人という低い身分の者としては、明らかに距離をつけてのそうした態度を取ることが、すなわち皇子尊に対する敬意であるとして、それを当然のこととしたためと取れる。しかしこの第三は、事をつぶさに叙すことによって悲歎の情を具体化しているものである上に、第一の大夫としての華やかな事象とおのずから対照されるところがあるために、その悲軟に深みと重みとが添うものとなり、その態度の間接であるにもかかわらず、その情としては、不足を感ぜしめないものとなっているのである。
以上は第一段の構成である。この段のきわめて異彩のあるのは、その構成を貫いて流れている人麿の抒情の方法である。これを形から見ると、起首の第二句にきわめて軽い読点《とうてん》があるが、それを除外すると、百三十六句、三つの事項が、ただ一文の中に収められていて、その間に一読点をももっていないのである。これは人麿の手法の特色であるが、この歌において極まっているものである。この一句にしてきわめて長い一文は、人麿の全体的の熱情の、送り流れてとどまるところを知らない結果であることは明らかである。しかるに、優れたる文芸性をもっている人麿にあつては、その熱情を起こさしめた事象と起こした熱情と相溶け合って、その間に差別のつけられない一つのものとなっているのである。ここに人麿の面目がある。同時にまた人麿には、その全体的の熱情にして同時に事象であるところのものに溺れ入ることがなく、反対に、冷静に、余裕をもち、それを支配しきる一面があるのである。この矛盾したる両面が、微妙に働き、微妙に現われているものが、すなわちこの一段である。一句一文が百三十六句であり、熱情の流れであるとともに事象の展開となり、しかも三つの事項を含んだものとなり、各事項が適当な重量をもちつつ連続しているのはこの特殊な力のためである。またその連続のさせ方は、巧妙を極めたもので、第一と第二の連続は、「定めてし瑞穂の国を」であるが、「瑞穂の国」までは第一に属するもので、同時にこれはまた、第二に属するものである。その連続は、「を」の一助詞によってされているのである。第二と第三の連続は、「木綿花の栄ゆる時に」であって、これはきわやかな巧妙さは見せないものであるが、第三の事項の重大なるものへの移り目という上からは、そのきわ(307)やかでないところに同じく巧妙さがあるといえる。この連続のさせ方が、三つの事項という変化に統一をつけて一つの事象としているのである。
さらに細部的にいえば、この一段は飛躍のきわやかなものを示している。第一の起首、天武天皇を申している、「ひさかたの天つ御門を、かしこくも定めたまひて、神さぶと磐隠ります」の、「神さぶ」への移りも、今日から見ると飛躍があるといえる。神は永遠にましますという上からは、飛躍とはいえないともみられるが、文字の続きからいえば、それを感じさせられるものである。また、戦争の結末近く、「引き放つ箭の繁けく、大雪の乱れて来れ」の「来れ」の一語によって、主客を一転せしめた飛躍は、「語釈」でいったがように巧妙を極めたものである。また、第二の、「天の下申したまへば」は、天武天皇に嗣ぐ持統天皇の
御代のことで、甚しき飛躍のあるものである。これらの飛躍は、全体的の熱情の方を主とし、事象はそれに溶かしこみつつも、しかも客観的に扱っているところからくるものである。そこに破綻《はたん》を見せず、かえって妙味を感ぜしめるのは、冷静なる心の働きといわなければならない。第一の、五種の軍器を扱う上にも、鼓に四句、小角《くだ》に六句、幡と弓とに各八句、箭に四句を用いているなども、細心に、適当な分量を与えるものとみられる。
第二段は、皇子尊の神霊を慰めまつる心をもって、永久に御追慕しようということをいったものである。これは天下の者の等しく思うべきものであるが、今はその代表者として、御生前皇子尊に親近してお仕えした舎人としていっているものである。これは挽歌としては全く型となっている部分で、特別の言い方のない性質のものである。
しかしこの段も、特色がないとはいえない。それは第一段の第一、すなわち壬申の乱をいう時には、むしろ叙事的に、事象の方を主としていっているのに、この段はそれとは正反対に、抒情をもって終始しているのであるが、それが長篇の首尾という関係において、おのずから対照される位置に立つものとなり、際立つものとなっているところに特色がある。上代の思慕は、単に心だけをもってするものではなく、形見となるべき物品に寄せてするのが普通となっていた。これは集中にあげるに堪えないまで例のあるものである。高市皇子尊の御形見としては、万人等しく見られるものは香具山の宮である。人麿はそれを捉えていっている。その心はきわめて深いものであるが、言葉は短いもので、短い言葉の中に深い心をこめている。「万代と念ほしめして、作らしし香具山の宮、万代に過ぎむと思へや」はすなわちそれである。この「万代」は、含蓄の多い、根深い語である。しかも同時に、「天の如ふり放け見つつ」といって、きわめて深い尊崇の情をもこもらせているのである。この言葉の短く、心の深い、すなわち純抒情的なのは、意識して、第一段の第一に照応させたものと思われる。結句の「恐《かしこ》かれども」も、起首と照応させてあるもので、細心の用意のほどを感じさせられる。
短歌二首
200 ひさかたの 天《あめ》しらしぬる 君《きみ》ゆゑに 日月《ひつき》も知《し》らに 恋《こ》ひ渡《わた》るかも
(308) 久堅之 天所知流 君故尓 日月毛不知 戀渡鴨
【語釈】 ○ひさかたの天しらしぬる 「ひさかたの」は、天にかかる枕詞。「しらしぬる」は、『考』の訓である。「天」は、天上。「しらす」は、支配の意の「知る」の敬語。御支配になられているところの、の意。皇子尊の如き尊貴な御方は、御薨去になると、神として天上に帰られると信じていて、御薨去を神上《かむあが》りといっている。ここはその神上りを、天を御支配になる為のこととしたのである。○君ゆゑに 「ゆゑ」は、理由をあらわす語。君の故にで、君によりての意。○日月も知らに 原文「不知」は、「知らず」「知らに」の両様の訓がある。「知らに」に従う。「に」は打消「ぬ」の連用形で、意味は知らずであり、下に続く。事の理由をあらわす時に用いる。事は「恋ひ」の理由。月日の経過をも覚えず、長い間を、悲歎のために心を奪われている状態をいったもの。○恋ひ渡るかも 「恋ひ」は、思うを強くいったもので、憧れるというに近い。「渡る」は、継続をあらわしたもの。「かも」は、詠歎。
【釈】 神として天上を御支配になられているところの君によって、月日の経過をも覚えず、憧れつづけていることであるよ。
【評】 「日月も知らに」というので、一周年を殯宮に奉仕しつづけている舎人としていっているものであることがわかる。長歌の方は、舎人としての心が濃厚に加わってはいるが、必ずしもそれと限ったものではない。ここでは純粋に舎人としていっているのである。また、長歌は、皇子尊を城上《きのえ》の殯宮にお移ししたことで終っているが、これはその後相応な期間を経過しての心でもある。長歌とは明らかに変化のあるもので、人麿の反歌の面目をもっている。歌は、悲歎に鎖されて過ごしてきた長い期間の心を総括していっているもので、純粋な抒情的なものである。したがって歌柄が大きく、調べが強く、重量をもったものである。「天」「日月」という用語は、尊崇の気分を醸し出すものとなっている。無意識のものとは思われない。
201 埴安《はにやす》の 池《いけ》の堤《つつみ》の 隠沼《こもりぬ》の 去方《ゆくへ》を知《し》らに 舎人《とねり》は惑《まと》ふ
埴安乃 池之堤之 隱沼乃 去方乎不知 舎人者迷惑
【語釈】 ○埴安の池の堤の 巻一(五二)に出て、「埴安の堤の上に、在り立たし見《め》したまへば」とあった。堤はやや小高いものであったとみえる。「堤の」の「の」は、堤の内にあるの意のもの。○隠沼の 「こもりぬ」は『代匠記』の訓。「ぬ」は、沼の古語である。隠沼は、堤に籠もっている沼の意。この沼は潅漑用の貯水池であったと思われる。「隠沼の」の「の」は、の如くの意のもの。水は流れるものを普通とするところから、この沼の水の流れない点を捉へて、それを譬喩としたもの。意は隠沼の水の如く。○去方を知らに 「去方」は、将来の身を処する方法。「知らに」は、上に出た。知らずで、下の「惑ふ」の理由。将来をどうしたものかわからずして。○舎人は惑ふ 舎人は途方にくれているの意。
【釈】 埴安の池の堤のうちにあるその隠沼の水の、流れゆく所がないごとく、将来をどうしたものかわからず、舎人は途方にく(309)れている。
【評】 前の歌と同じく、皇子尊の御薨去の後、相応な期間を経た時に、舎人としての心をいったものである。悲歌が多少鎮まると、仕えまつるべき主君を失った、自身の将来を思わずにはいられなくなるのは自然である。この歌はその心のものである。前の歌は殯宮に在つてのものであるが、これは香具山の宮でのものである。日並皇子尊の時と同様に、殯宮の期間は、舎人は、御生前の宮である香具山の宮へも宿衛したものと思われる。宮からは埴安の池は眼下に見下ろされたものと思われる。高い堤に囲まれて流れずにいる水の状態を見ると、仕えまつる君のなく、したがって行くところのない舎人の状態が連想されてき、その悲しみを訴えたものである。長歌に香具山の宮を重く扱っている関係上、それに関しての反歌があってしかるべきである。この歌はその用意のあったものと思われる。
或書の反歌一首
202 哭沢《なきさは》の 神社《もり》に神酒《みわ》すゑ 祈《いの》れども 我《わ》が大王《おほきみ》は 高日《たかひ》知《し》らしぬ
哭澤之 神社尓三輪須惠 雖祷祈 我王者 高日所知奴
【語釈】 ○哭沢の神社に 「哭沢」は、神の御名で、古事記、日本書紀ともに出ている。伊邪那美命のおかくれになった時、伊邪那岐命の嘆きの御涙から成った神である。古事記には「故《かれ》爾《ここ》に伊邪那岐命|詔《の》りたまはく、愛《うつく》しき我《わ》が那邇妹命《なにものみこと》や、子の一木《ひとつけ》に易《か》へつるかもと謂《の》りたまひて、乃ち御枕方《みまくらべ》に匍匐《はらば》ひ、御足方《みあとべ》に匍匐《はらば》ひて哭《な》きたまふ時に、御涙《みなみだ》に成りませる神は、香山《かぐやま》の畝尾《うねを》の木本《このもと》に坐《ま》す、名《みな》は泣沢女神《なきさはめのかみ》」とあり、日本書紀の方も同様である。「神社」は、集中、「杜《もり》」をあててもいる。上代は、神の社のないのが普通で、神は斎《い》み清めた大木に降りたまうこととして、杜を社としていたのである。大和の大三輪神社、信濃の諏訪神社は、今もその風を伝えている。この社は延喜式には、高市郡の条に、「畝尾坐|健土安神《たけはにやす》社」「畝尾|都多本《つたもと》神社」とあり、今は、健土安神社は下八釣村、都多本神社は橿原市木之本町哭沢森にあるが、両地は続いていて、ともに香具山の西麓である。○神酒すゑ 原文「三輪」は、御酒《みき》の古名。巻一(一七)に出た。「すゑ」は、上代の甕《みか》は、底の丸い物で、据わりの悪い物であったところから、土を掘って供えたのである。「すゑ」は、供えの意である。○祈れども 御平癒を祈ったけれども。○我が大王は 高市皇子尊。○高日知らしぬ 「高」は、天の意。巻一(四五)に「高照らす日の御子」とあるそれである。「高日」は、天の日で、高天原を言いかえたもの。「知らす」は、「知る」の敬語で、御支配になる意。高天原に上りましたで、御薨去のことをいったもの。(二〇〇)にも出た。
【釈】 哭沢の杜《もり》の神に、御酒《みき》を供えてお祈り申したけれども、わが大王皇子尊には、高天原を御支配になられた。
【評】 皇子尊の御薨去を悲しんでの心のものであるが、しかし一首に沁み入っているものは、悲しみよりもむしろ皇子尊の神(310)性に対する畏敬の情である。中心は、「我が大王は高日知らしぬ」で、「哭沢の神社に神酒すゑ祈れども」という、畏き神への懇ろなる祈りも、何の甲斐もなかったということが、やがて皇子尊の神性をあらわすこととなっているのである。悲しみが畏敬となっているという特殊な気分をもった歌で、皇室に対する感情の深く沁み入っている歌である。哭沢の神社は香具山の西麓にあり、また『古事記伝』が注意しているように、人の命を祈るには由のある神としてのことと思われる。反歌という上より見ると、上の二首は長歌と緊密に関連し、有機的な関係をなしていて、それだけで完備しているものとみえる。その点から見るとこの歌は遊離している。おそらく事の方を主として、同じ場合の歌として書き連ねられていたものではないかと思われる。それについてのことを左注もいっている。
右一首、類聚歌林に曰はく、檜隈女王《ひのくまのひめみこ》の泣沢神社を怨むる歌なりといへり。日本紀を案ふるに曰はく、十年丙申の秋七月辛丑朔にして庚戌の日後の皇子尊薨りましぬといへり。
右一首、類聚歌林曰、檜隈女王、怨2泣澤神社1之歌也。案2日本紀1曰、十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、後皇子尊薨。
【解】 注は二段から成っていて、第一段は、類聚歌林にこの歌が載っていて、作者と題詞とを異にしているというのである。「檜隈女王」は伝が明らかでない。『講義』は、続日本紀、天平九年二月の叙位に、従四位下檜隈王を従四位上に叙せられる記事のあることを注意し、同じ方《かた》ではないかといっている。題詞の「泣沢神社を怨むる」ということはどうかと思われる。それだと皇子尊が無力のごとくなって、作意にかなわないものとなるからである。第二段は、日本書紀から引いたものである。
但馬皇女薨り給ひし後、穂積皇子、冬の日雪|落《ふ》るに、遙に御墓を望み、悲傷流涕して作りませる御歌一首
【題意】 「但馬皇女」のことは、(一一四)に出た。薨じられた時は、続日本紀、和銅元年の条に、「六月、丙戌(二十五日)三品但馬内親王薨。天武天皇之皇女也」とある。「穂積皇子」のことも、(一一四)に出た。元明天皇霊亀元年薨去された。この頃は知太政官事であった。但馬皇女とは妹背の御仲であった。冬の日は、皇女御薨去の年の冬と取れる。御墓は、歌によって吉隠《よなばり》とわかる。「遙に望み」は、藤原の京からであろう。「悲傷流涕」は、歌の内容がそれである。
(311)203 ふる雪《ゆき》は あはにな落《ふ》りそ 吉隠《よなばり》の 猪養《ゐかひ》の岡《をか》の 塞《せき》にならまくに
零雪者 安播尓勿落 吉隱之 猪養乃岡之 塞有卷尓
【語釈】 ○ふる雪は 今、眼前に降っているこの雪は。○あはにな落りそ 「あは」は、集中ここだけにある語である。それは近江の浅井郡では、大雪のことを「あは」といっており、これもそれであろうと本居宣長の説を『略解』が引いている。『講義』は徳川時代の随筆の中から、これに関する諸家の説を集めている。伴蒿蹊の『関田耕筆』に、近江の山村では、大雪の積もって崩れるのをいうといい、村田春海の『織錦舎随筆』には二説を挙げ、一説は近江と越前境の山村で、大雪のことをいい、いま一説は、美濃の広瀬の山中では、古い雪の上へ新しい雪が積み、凍み合わない中に風に吹かれて崩れるのをいうというのである。山地で、大雪の崩れやすい状態のものをいう称と取れる。それだと今の場合にもかなうものとなる。「なそ」は、禁止。○吉隠の猪養の岡の 「吉隠」は、桜井市初瀬町に属している。諸説がある。当時は、藤原の京から伊賀の名張へ出る街道の中にあって、長谷、吉隠と経て行ったのである。「猪養の岡」は、今は名が残ってはいず、明らかでないが、吉隠の東北方かという。その岡に皇女の御墓があったのである。○塞にならまくに 『童蒙抄』の訓。この一句、訓に諸説があって定まらない。「塞」は、「塞く」の名詞形で、関と同じ。道を遮るものとしていっている。「に」は、訓添《よみそ》えで、「なる」に続く場合は「に」であるのが古語の常である。「ならまく」は、「ならむ」に「く」を添えて名詞形としたもので、なろうとすることであるの意。「なる」は、化成の意である。「に」は、詠歎。
【釈】 今降っている雪は、「あは」といわれるまでには降るな。「あは」に降ると、吉臆の猪養の岡の妹が墓への道の関と化することであろうに。
【評】 皇女の薨去になったのは六月であるから、この冬の日は、その年の冬と思われる。尊貴の御方には殯宮一年の儀があり、その間は御生前に准じた奉仕をした。皇女に対してもそれに准じた事が行なわれていたろうと思われる。それだとここにいう冬の日は、その殯宮の期間ではなかったかと思われる。「あは」に降る雪となるならば、御墓への道が閉ざされようと思われ、それを思うことによって悲傷流涕されたということは、そうした事情が背後にあってはじめて自然となることである。御作歌は実際に即した、おおらかな、皇子の風貌《ふうぼう》を偲ばせるものである。
弓削《ゆげ》皇子薨り給ひし時、置始東人《おきそめのあづまひと》の作れる歌一首 并に短歌
【題意】 「弓削皇子」のことは、(一一一)に出た。天武天皇第六皇子で、薨去は、続日本紀によると、文武天皇三年七月である。「置始末人」は、巻一、(六六)に出た。
(312)204 やすみしし 吾《わ》が王《おほきみ》 高光《たかひか》る 日《ひ》の皇子《みこ》 ひさかたの 天《あま》つ宮《みや》に 神《かむ》ながら 神《かみ》と座《いま》せば そこをしも あやに恐《かしこ》み 昼《ひる》はも 日《ひ》のことごと 夜《よる》はも 夜《よ》のことごと 臥《ふ》し居《ゐ》嘆《なげ》けど 飽《あ》き足《た》らぬかも
安見知之 吾王 高光 日之皇子 久堅乃 天宮尓 神随 神等座者 其乎霜 文尓恐美 晝波毛 日之盡 夜羽毛 夜之盡 臥居雖嘆 飽不足香裳
【語釈】 ○やすみしし吾が王 上に出た。弓削皇子を申したもの。○高光る日の皇子 「高光る」は、(一七一)に出た。空に光る意で、日の枕詞。「日の皇子」は、上の「王」を言いかえたもの。二句、上の二句と同格で、重くいうがために繰り返したもの。○ひさかたの天つ宮に 「ひさかたの」は、天の枕詞。「天つ宮」は、天上にある宮で、尊貴な方の現し世を去るとともに移られる宮の意。高天原というと同じで、それを具体化したもの。○神ながら神と座せば 「神ながら」は、神とましますままに。「神と座せば」は、神として天上にましますのでで、二句、皇子としての御他界になった後の状態をいったもの。○そこをしもあやに恐み 「そこ」は、その点で、御他界になったこと。「しも」は、強め。「あやに恐み」は、いおうようなく恐れ多しとして。○昼はも日のことごと、夜はも夜のことごと 昼は終日、夜は終夜。○臥し居嘆けど 「臥し居」は、臥していて、また起きていてで、さまざまの状態での意。○飽き足らぬかも 「飽き足らぬ」は、満足せぬで、悲款の尽くし難い意。「かも」は、詠歎。
【釈】 やすみししわが王の天に光る日の皇子には、天上の宮に、神にますままに神として座《ま》しますこととなったので、その点がいおうようなく恐れ多くて、昼は終日、夜は終夜、臥していて、また起きていてさまざまの状態で悲しみ泣くけれども、それにもかかわらず悲しみは尽くせず、満足できないことではあるよ。
【評】 置始東人は、弓削皇子に何らか特別の関係をもち得ていたところから、この挽歌を献ったものと思われる。挽歌はいちめん儀礼のものであって、その上からは古風の長歌形式によるべきであるとして、つとめて作った歌であろうと思われる。本来長歌は短歌よりは手腕を要するものであり、この歌には作者の手腕と認めらるべきものがないところから、しいて作ったものだろうと取れるからである。この歌はほとんど全部成句より成っていて、作者によって作り出された特殊なものは見えない。実際に即する当時の歌風からいって、作者に手腕があれば、皇子に関しての何らかの特殊なことに言い及び得られたろうと思われるのに、それが全くないのである。しかし皇子に対しての尊崇の精神は十分にあって、言葉をつつしみ、多くをいうまいとしている態度は感じられる。「ひさかたの天つ宮に、神ながら神と座せば」という四句が、この歌にあってはきわめて自然なものとなっているのは、尊崇の精神から流れ出したものだからである。
(313) 反歌一首
205 王《おほきみ》は 神《かみ》にし座《ま》せば 天雲《あまぐも》の 五百重《いほへ》が下《した》に 隠《かく》りたまひぬ
王者 神西座者 天雲之 五百重之下尓 隱賜奴
【語釈】 ○王は神にし座せば 「王」は、天皇を初め皇族に対しての讃え詞で、皇子は現人神にましますのでの意である。これは上の長歌の「やすみしし吾が王、高光る日の皇子」と全く内容を同じゅうするものである。○天雲の五百重が下に 「天雲」は、天の雲。「五百重」は、限りなく深く重なっていることを具体的にいったもの。「下」は、『攷証』は、(二四一三)「吾が裏紐《したひも》を」、(二四四一)「裏《した》ゆ恋ふれば」などの「裏《した》」と同じく裏《うら》の意だといっている。中《うち》といっても同じである。二句、天上の、人間の眼の及ばぬ所ということを、具体的にいったもの。○隠りたまひぬ お隠れになったで、神上《かむあが》られたということを、同じく具体的にいったもの。
【釈】 王は神にましますので、天上の雲の限りなくも深く重なった中の、人間の眼の及ばぬ境にお隠れにならせられた。
【評】 長歌の「ひさかたの天つ宮に、神ながら神と座せば」を、言葉をかえて繰り返したもので、反歌としても古風なものである。皇子の尊貴な一面だけをいって、他に及ぼしていないところは、長歌と態度を同じくしたものである。「王は神にしませば」は成句となっているもので、「天雲の五百重が下に」というだけが作者のものである。「天つ宮」を具体化しようとしたもので、遂げ得ているものというべきである。
又短歌一首
【題意】 これは、前の長歌および反歌とは関連のない別な歌であるが、事の範囲は同じで、また作者も同じだという意味のものである。
206 ささなみの 志賀《しが》さざれ浪《なみ》 しくしくに 常《つね》にと君《きみ》が 思《おも》ほせりける
神樂浪之 志賀左射礼浪 敷布尓 常丹跡君之 所念有計類
【語釈】 ○ささなみの 「ささなみ」は、滋賀県滋賀郡および大津市にわたる湖岸一帯をいった。○志賀さざれ浪 「志賀」は、地名。湖水に接した地で、辛埼などのあるところ。「さざれ浪」は、ささ波。湖水に立つ浪である。志賀のさざれ浪の意で、「の」をはぶいたもの。二句「しくし(314)く」へかかる序詞。○しくしくに 「しく」は、「頻《しき》る」と同じ意の動詞で、上よりの続きは、浪の打続いて寄ってくる意。「しくしく」はその「しく」を重ねて副詞とし、しきりにの意に転じたものである。「しくしくに」は、「思ほす」へ続くものである。○常にと君が 「常にと」は、「常」は、永久の意で、永く世にあるの意。「に」は、にありたいの意で、動詞のはぶかれている形のもの。○思ほせりける 訓は本居宣長の付けたもの。「思ほせり」は、「思ほす」と完了の助動詞「り」との熟した語で、「思ほす」は、「思ふ」の敬語。「ける」は、連体形で、上に係がなく、これを終止としたものである。これは詠歎を含ませたものである。お思いになっていられたことであるよの意。
【釈】 ささなみの志賀にさざれ浪がしきりに寄る、そのしきりにも、永く世にありたいものだと君は、お思いになっていたことであるよ。
【評】 弓削皇子の薨去になった後のある時に、東人《あずまひと》が皇子を思い出し、しみじみと悲しんだ心のものである。思い出したことは、「常にと君が思ほせり」ということで、皇子には生命の保ち難い不安を感じられ、常々東人にいわれていたそれである。「ささなみの志賀さざれ浪」という序詞は、歌の上で見ると、東人がその境に立って目睹したものと見られるものである。語としては「しくしくに」の序詞にすぎないものであり、また類例の少なくないものでもあって、想像でも捉え得られる範囲のものであるが、しかし歌の上で見ると、この序詞は全体ときわめて好く調和していて、近江の湖辺の美しく穏やかな風光に対していて、それと対照的に人事のはかなさが思い出されてきたという感を起こさせるものである。そうした感を起こさせるのは、「しくしくに」以下の悲歎の、一般性をもっている深いものであるとともに、それが静かにしみじみといわれているがためである。部分的に見ても、「志賀さざれ浪」は簡浄であり、「しくしくに」以下も屈折をもっていて、形の上からも手腕の見えるものである。これを長歌と較べると別人のごとき観がある。この差は、長歌の衰えをも語っているものといえる。
柿本朝臣人麿、妻|死《みまか》りし後、泣血哀慟して作れる歌二首 并に短歌
【題意】 この題詞の下に、長歌二首と、そのそれぞれに、短歌二首ずつの添ったものを、一と続きとして収めてある。これは同じ作者の、巻一(三六)より(三九)にわたる「吉野宮に幸せる時作れる歌」と題する連作と同じ形式のものである。さらにまた、「妻死りし後」と、一人の妻であるがごとく記しているところから、いっそう連作であるかの感を深めさせられる。しかし歌を見ると、同じく「妻」といってい、また若くして死ぬという特別な運命を等しく負ってはいるが、別人と取れる。それは、初めの軽の妻は、その死んだのは秋であり、人麿がその事を聞かされて軽の地へ行った時は、すでに葬儀が終った後で、妻は折から黄葉している山へ葬られていた時であることがわかる。後の、子のある妻の死んだ時には、人麿はその葬儀に立ち合っており、少なくともその柩《ひつぎ》の野辺送りされるのを目にしているのである。さらにまたその時から、妻の遺して行った乳呑児を、妻に代っ(315)て見なくてはならないという状態であり、また、妻の死後、人麿とその周囲の人との交渉の深いもののあるところより見ると、この妻は軽の妻の人目を憚っていたのとは異なって、同棲をしていたものと取れる。「妻」は明らかに二人で、別人であったと思われる。一夫多妻の時代であったから、この二人の妻は同時にもっていたものとしても怪《あや》しむには足りないが、前後していたものかもしれぬ。その辺は全く不明である。この曖昧《あいまい》さは、題詞の簡略にすぎるところから起こるものであるが、歌は尊貴な御方に対してのものではなく、単に人麿自身の心やりのための私的なものであるところから、したがって題詞の記し方がきわめて簡略であったか、あるいはなかったかのいずれかであったろうと思われる。撰者は原拠とした本を重んじて私意を加えまいとする風があるから、これも原拠を重んじてのものと思われる。
207 天飛《あまと》ぶや 軽《かる》の路《みち》は 吾妹子《わぎもこ》が 里《さと》にしあれば ねもころに 見《み》まく欲《ほ》しけど 止《や》まず行《ゆ》かば 人目《ひとめ》を多《おほ》み まねく行《ゆ》かば 人知《ひとし》りぬべみ さね葛《かづら》 後《のち》もあはむと 大船《おほぶね》の 思《おも》ひ憑《たの》みて 玉《たま》かぎる 磐垣淵《いはがきふち》の 隠《こも》りのみ 恋《こ》ひつつあるに 渡《わた》る日《ひ》の 暮《く》れゆくが如《ごと》 照《て》る月《つき》の 雪隠《くもがく》る如《ごと》 沖《おき》つ藻《も》の 靡《なぴ》きし妹《いも》は 黄葉《もみちば》の 過《す》ぎていにきと 玉梓《たまづさ》の 使《つかひ》の言《い》へば 梓弓《あづさゆみ》 声《おと》に聞《き》きて【一に云ふ、声のみ聞きて】 言《い》はむ術《すべ》 為《せ》むすべ知《し》らに 声《おと》のみを 聞《き》きてあり得《え》ねば 吾《わ》が恋《こ》ふる 千重《ちへ》の一重《ひとへ》も おもひやる 情《こころ》もありやと 吾妹子《わぎもこ》が 止《や》まず出《い》で見《み》し 軽《かる》の市《いち》に 吾《わ》が立《た》ち聞《き》けば 玉《たま》だすき 畝火《うねび》の山《やま》に 鳴《な》く鳥《とり》の 声《こゑ》も聞《きこ》えず 玉桙《たまほこ》の 道《みち》行《ゆ》く人《ひと》も ひとりだに 似《に》てし行《ゆ》かねば すべを無《な》み 妹《いも》が名《な》喚《よ》びて 袖《そで》ぞ振《ふ》りつる【或本、名のみを聞きてあり得ねばといへる句あり】
天飛也 輕路者 吾味兒之 里尓思有者 懃 欲見騰 不已行者 人目乎多見 眞根久徃者 人應知見 狹板葛 後毛將相等 大船之 思憑而 玉蜻 磐垣淵之 隱耳 戀管在尓 度日乃 晩去之如 照月乃 雲隱如 奥津藻之 名延之妹者 黄葉乃 過伊去等 玉梓之 使之言者 梓弓 聲尓聞而【一云、(316)聲耳聞而】 將言爲便 世武爲便不知尓 聲耳乎 聞而有不得者 吾戀 千重之一隔毛 遣悶流 情毛有八等 吾妹子之 不止出見之 輕市尓 吾立聞者 玉手次 畝火乃山尓 喧鳥之 音母不所聞 玉桙 道行人毛 獨谷 似之不去者 爲便乎無見 妹之名喚而 袖曾振鶴【或本、有d謂2之名耳聞而有不v得者1句u】
【語釈】 ○天飛ぶや軽の路は 「天飛ぶや」は、天を翔り飛ぶで、「や」は詠歎の意のもの。意味で、雁《かり》の転音で、同じ意で用いられていた軽にかかる枕詞。これは用例のあるものである。「軽」は、橿原市大軽・見瀬・石川・五条野の辺という。懿徳《いとく》、孝元、応神の三朝の皇居の地のあった所であり、また軽の市もあって、上代は名高い地であった。「軽の路」は、軽へ行く路の意にも、また軽の地域間の路の意にもいわれる語である。ここは前者で、藤原の京より軽へ行く路はの意。○吾妹子が里にしあれば 「吾妹子」は、妹を親しんでの称。「里」は、家のある地としてのもの。「し」は、強め。以上四句は、軽は吾妹子の里であるが、そこへ行く路はという意で、今は路の方を主としていおうとするところから、わざと前後させた続け方をしたものである。○ねもころに見まく欲しけど 「ねもころに」は、後世の「ねんごろに」の原形にあたる語であるが、当時の用法を見ると、内容の広い語であるといって、『講義』は詳しく考証している。帰するところは十分にという意であるといっている。これに従う。「見まく欲しけど」は、「見まく」は「く」を添えることによって名詞形としたもので、見ること。「欲しけど」は欲しくあれどの約《つづ》まった語。見ることをしたいけれどもの意。○止まず行かば人目を多み 「止まず行かば」は、絶えずその路をかよって行ったならば。「人目を多み」は、人の目にかかることが多いによりで、この妻はその生家にいたものであることがわかる。○まねく行かば人知りぬべみ 「まねく」は、繁く。「行かば」は、その路をかよって行ったならば。「人知りぬべみ」は、他人が知ってしまうべきによって。○さね葛後もあはむと 「さね葛」は、(九四)に「さな葛」とあった物と同じく、今日の美男葛《びなんかずら》と称するもの。蔓が分かれても、延びて行った末でまた合うという意で、男女別れていてもまた逢うの譬喩として捉えられ、固定して枕詞となったもの。「後もあはむと」は後にも逢おうと思って。○大船の思ひ憑みて 「大船の」は、意味で「憑む」にかかる枕詞。「思ひ憑みて」は、思って、あてにして。二句、(一六七)に出た。○玉かぎる磐垣淵の 「玉かぎる」は、『古義』の訓。巻一(四五)に出た。意味は、玉のR《かがや》くで、ほのかなRきをいったもの。「磐垣淵」にかかる関係は、玉は磐の中にまじっているところから磐にだけかかるか、または、珠の主なるものは真珠で、淵に在るものなので、淵にかかるかともいわれている。前の解に従う。「磐垣淵」は、磐の垣のごとくに繞らしている淵で、山川の状態をいったもの。二句、淵の水は籠もって流れない意で、下の「隠《こも》る」と続け、その序詞としたもの。○隠りのみ恋ひつつあるに 「隠り」は、心の中にこめてひそかにの意。心の中でばかり恋いつづけているに。人目を憚って通わずにいる心の状態。○渡る日の暮れゆくが如 天を渡って移ってゆく日の暮れてゆくがようにで、いかんともし難い状態での意。○照る月の雪隠る如 天に照る月が、雲に隠れるがようにで、上の二句と対句。心は同じであるが、思いかけずもという意が添っている。○沖つ藻の靡きし妹は 「沖つ藻の」は、海の沖に生えている藻のごとくで、その波に靡いている意で、「靡き」にかかる枕詞。「靡きし」は、従っていたの意であるが、夫婦間にあっては、共寐をしたの意に慣用されている。ここはそれである。○黄葉の過ぎていにきと この続きは、巻一(四七)に出た。「黄葉の」は、その黄変するのを推移と見、推移の意の「過ぎ」に続けて、その枕詞としたもの。「過ぎていにきと」の「過ぎ」は、死ぬの意。「いにき」は、行っ(317)たで、終止形。死んで行ってしまったと。○玉梓の使の言へば 「玉梓の」は、主として「使」にかかる枕詞で、転じて使そのものにも用いられている。また「妹」の枕詞ともしている。意は諸説があるが定まらない。『講義』は、「玉」は美称。「梓」は、梓の木をもって造った杖で、古、使は、そのしるしとして梓の杖をついていたところから出た語であろう。それは、使を職とする者を「馳使部《はせつかいべ》」といい、これを「丈部」とも書いているが、「丈」は「杖」の略字だから、使は杖をついていたことは明らかだからというのである。「妹」にかかる関係は不明である。従うべき解である。「使の言へば」は、使が来て知らせるので。○梓弓声に聞きて 「梓弓」は、弦が高い音を立てる意で、「声《おと》」にかかる枕詞。「声《おと》」は、声《こえ》と通じて用いていた。言葉の意である。二句、話に聞いてで、これは目に見るに対させていっている語《ことば》である。○一に云ふ、声のみ聞きて 話にだけ聞いてで、これは、前からの続きは自然に聞こえるが、後への続きは不自然となる。本行の方が自然である。○言はむ術為むすべ知らに 「に」は、打消として用いられていた古語で、連用形。いうこともすることもわからずしての意。驚きのために自失した心を具象化したもので、成句である。○声のみを聞きてあり得ねば 話だけを聞いて、そのままには居るに居かねるので。○吾が恋ふる千重の一重も 「吾が恋ふる」は、吾が恋うる心の。「千重の一重」は、千重ある中の一重で、千分の一もの意。○おもひやる情もありやと 「おもひやる」は、嘆きを散らす意。(一九六)に出た。「情もありやと」の「や」は、疑問の助詞で、二句、嘆きを紛らすところもあろうかと思っての意。○吾妹子が止まず出で見し 妻が常に出て見ていた。○軽の市に吾が立ち聞けば 「軽の市」は、軽に設けられていた市で、固有名詞。市は物を交易し売買する所で、地域も定まってい、時も午時から日の入り前までと定まっていて、官の管督の下にあったもの。人々の群がる場所である。「吾が立ち聞けば」は、その中に立って耳を澄ます意で、これは上の「出で見し」に対させたものである。「吾妹子が」以下四句は、死者を偲ぶには、その形見によらなければならないとする心から、軽の市を妻に関係のあるところとし、間接ながら形見と見てのことである。○玉だすき畝火の山に 巻一(二九)に出た。「玉だすき」は、うなぐの意で「畝」にかかる枕詞。「畝火の山」は、軽の市からは近く、目につく山である。○鳴く鳥の声も聞えず 「鳴く鳥の」は、「声」に続けるためのもので、「玉だすき」よりこれまでの三句は、「声」の序詞である。「声も聞えず」は、「声」を鳥より妻に転じたもの。「も」は、次の「人も」と並べたもの。妻の声も聞こえないの意。○玉梓の道行く人も 「玉梓の」は、「道」にかかる枕詞。巻一(七九)に出た。「道行く人も」は、「道」は、軽の路で、市は路を挟んで設けられるので、その市の間の路の意。「行く人も」は、市の路を行く人、すなわち市へ集まってくるところの人もまた。○ひとりだに似てし行かねば 「ひとりだに」は、ただ一人でも。「似てし行かねば」は、「し」は強めで、妻に似たような形をした者は歩いて行かないので。○すべを無み せむ術がなくしてで、これは上の「おもひやる情《こころ》もありやと」に照応させたもので、その願いのかなわないのみか、かえって恋うる心を深めさせられての意をいったもの。○妹が名喚びて袖ぞ振りつる 「妹が名喚びて」は、そこにはいず、遠くにいるものと思って、それを喚ぶ意である。「袖ぞ振りつる」は、袖を振ることは、距離があって声の届かない所にいる者に、心を通わせようとする業《わざ》で、男女間の風習。巻一(二〇)に出た。袖を振ったことであるよと、心をこめての言い方のもの。○或本、名のみを聞きてあり得ねば 「声のみを聞きてあり得ねば」が、ある本には上のようにあるとの注である。「名」では意が通じなくなるので、明らかに誤りである。
【釈】 天《あめ》を飛ぶ雁《かる》の、その名をもっている軽への路は、わが妻の住んでいるなつかしい里であるので、十分に心ゆくまで見たいものだと思っているけれども、京よりそこへ行く街道を、絶えずかよって行ったならば、人目に着くことが多いにより、繁くか(318)よって行ったならば人が事情を知ってしまうべきにより、離れてはいても後にも逢おうと、深くも思い憑《たの》んで、磐垣淵の水の籠もっているそれの、心の中でだけ恋い恋いしているのに、空を移ってゆく日の暮れるがように余儀なくも、照る月の雲に隠れるがように思いがけなくも、われに靡いて共寝をしたところの妻は死んで行ってしまったと、妻の里よりの使が来て知らせていうので、その話を聞いて、(その話だけを聞いて)いおうようも、なすべきこともわからずに、話に聞いただけでは居るにも居かねるので、わが恋しい心の千分の一だけでも紛れる心もあろうかと思って、わが妻が常に出て行って見ていた軽の市に、われは立ちまじって耳を澄ましていたが、近く見る畝火山に鳴く鳥の声の、その妻の声も聞こえてはこず、市の路を歩いて行く人もまた、一人だけでも妻に似たような形をしては行かないので、紛れようとしたそれも詮がなくて、遠くにいるであろう妻の名を喚《よ》んで、心通えとわが袖を振ったことであるよ。
【評】 同じく挽歌ではあるが、この歌は、上の尊貴なる皇族の方々に対してのものとは趣を異にしているものである。上の歌は、御薨去になった神霊に対し、それを慰めまつることを目的として、御生前を讃え、御薨去を悲しみ、加えて永久に忘るまじきことを誓う形のものである。しかるにこの歌は、死者その人に対して直接に訴えようとするところは全然なく、いっていることはすべて、死によって惹き起こされた自身の悲しみと、その人に対しての見果てぬ夢よりくる憧れのみである。自身のことのみで終始している。この心も死者に対しての慰めとはなりうるもので、その心をもってのものとは思われるが、いちめん、わが心やり、わが慰めという心の濃厚なものであることは否み難いものである。すなわち作歌態度の上に著しい相違がある。思うに尊貴の御方に対しての場合は、儀礼という意が大きく、また事の性質上、伝統を守らなければならないところが多く、要するに実用性の範囲のものであったろう。妻という私的な関係の者に対しての場合は、同じく上の心を離れることはで(319)きなかったにもせよ、その程度に著しい差が許されて、いきおい個人的なものとなり得たのであろう。個人的になりうるということは、言いかえると文芸性が許されるということである。この挽歌の、上の挽歌と異なるところは、実用性より文芸性に移っているものだということである。これは時代のしからしめたことと思われるが、むしろ人麿の歌才のさせたことと思われる。この歌は、一句一文であって、切れ目をもっていない。しかし事としては、三つの事柄を連ねていて、その上では三段より成っているといえる。
第一段は、起首から「隠《こも》りのみ恋ひつつあるに」までで、当時の風習に従って、夫婦関係を秘密にし、人に知られまいとするために、おのずから憧れ心をもたされる状態であったことを叙したものである。初めの事を叔した部分は二句ずつで調子を取り、終りの憧れ心を叙した部分は四句ずつの調子として、感情の高調をあらわしている。起首の「天飛ぶや軽の路は」の「路」は、意味としては「里」であると『新考』が注意しているが、気分としては、「止まず行かば」「まねく行かば」が主となっているところから、その関係上、意識して「路」に変えたもので、部分的にも、いかに細心の用意をもっていたかを示しているものである。
第二段は、「渡る日の」以下、「おもひやる情もありやと」までで、妻の死を知ること、悲しみを紛らす方法として、その死を直接に眼にしたい心を起こし、その方法のないところから、妻の形見となるものなりを見ようとする心である。比較的複雑した心理を、単純な形において叙した一段である。しかし死の知らせを受けた部分は、「渡る日の暮れゆくが如、照る月の雲隠る如」と、妻の死の譬喩としては荘重にすぎるものを、しかも対句として用いているが、これは妻の死の余儀なさ、思いがけなさをあらわすとともに、それに対する感傷を暗示しようがためで、使の言葉と聞く心とを一つにしたものと解される。また、「沖つ藻の」「黄葉の」「玉梓の」「梓弓」と、一語ごとに枕詞を添えて語感を重くしているのは、一に感傷の心よりのことであ(320)る。転じて、「声《おと》のみを聞きてあり得ねば」より、「おもひやる情もありやと」までの心理は、語《ことば》は少ないが心は複雑なものである。この部分は他と比較すると粘り強い言い方をしているものであるが、この転回は、一首の上で重大なもので、これまた適当な方法と思われる。この第二段を貫いている心は、第一段と同じく憧れの心で、第一段のそれを合理的に、また漸層的に高めたものである。
第三段は、「吾妹子が止まず出で見し」以下で、妻の死を確認せざるを得ない状態におかれて、憧れの心の極度に昂揚したことを一段としたものである。第二段で注意されることは、人麿が軽の市へ立ったことをいっている第二段より第三段への移り目が、他の部分に較べると甚しく飛躍的に感じられることである。この飛躍は作意からいえば妥当のものと思われる。それはいったがように、当時の風習として、死者を偲ぶには形見の物によらなければならない。しかるにこの妻は、形見と目すべき何物も遺してはいず、しいて求めれば、「止まず出で見し軽の市」があるという状態だったのである。それは間接な、形見とも言い難いものであるが、「吾が恋ふる千|重《へ》の一重もおもひやる情《こころ》もありや」と物色した果てに思い得たものとすれば、心理的には妥当性のあるものといえる。その心理的妥当性がこの飛躍をさせているのである。飛躍はこれだけにとどまっていず、さらに大きなものがある。それは「軽の市に吾が立ち聞けば」という人麿は、「玉だすき畝火の山に、鳴く鳥の声も聞えず」といって、一方ではその死を知っている妻の声を、市の群集の中において聞き取ろうとし、その聞こえないことを嘆いているのであるが、これはきわめて大きい飛躍といわなければならない。
これは一見突飛なる飛躍のごとく見えるが、ここにも妥当性はある。それはすでに軽の市を妻の形見として見ている人麿には、すべての形見が示すと同じく、その市に、何らかの形において妻の面影がとどまっていると想像されたのである。その想像したものは妻の声だったのである。しかもその声は、「玉だすき畝火の山に鳴く鳥の」という序詞を用いて、その微《かす》かさを暗示している程度の声なのである。この心理は不自然なものとはいえない。まして軽の市は、妻の死を聞かない前と異ならない状態を示していて、それが感覚に映じているのであるから、それに支持されて、この心理は自然なものともなるのである。ここは大きな飛躍をもっているがごとくで、じつは合理的な、妥当なものといえるのである。結末の、「すべを無み、妹が名喚びて袖ぞ振りつる」は、形見も甲斐なき物とされ、在るがままの現実に引戻され、その人麿が、更に遠い世界へ向かってつなぐ悲しい憧れであって、ここに時代とともにもつ人麿の面目がある。
以上観てきたことは、技巧上の用意の細心さで、その技巧は事実に即したものである。しかるにこの事実を貫いているものは人麿の憧れの心で、それが主となって、一句一文、三段の形を取って層々高まっているもので、事実はその具象化のためのもの、細心な技巧はその徹底のためのものなのである。事実をとおしての憧れという、質としては異なっているその二つのものが、渾然と一体となっているのは、一に人麿の手腕で、そこに人麿の秘密がある。この事はこの歌に限ったものではないが、それを自由に安易に現わしている点で、特別なものである。
(321) 短歌二首
208 秋山《あきやま》の 黄葉《もみち》を茂《しげ》み 迷《まど》ひぬる 妹《いも》を求《もと》めむ 山道《やまぢ》知《し》らずも【一に云ふ、路知らずして】
秋山之 黄葉乎茂 迷流 妹乎將求 山道不知母【一云、路不知而】
【語釈】 ○秋山の黄葉を茂み 「茂み」は、茂きによりて。秋の山の黄葉が茂くあるによってで、「山」は妻の葬られた所としてのもの。ここに妻の死んだ季節が現われてゐる。○迷ひぬる 妻が秋山に葬られたのを、自身黄葉を見に入ったものとし、その帰らないのを、道を迷っているためとしてのもの。○妹を求めむ山道知らずも 「求めむ」は、捜し出そう、の意。連体形。「も」は、詠歎。さうした状態の妻を捜し出そうとするその山の道を我も知らないことよの意。○一に云ふ、路知らずして 道を知らなくしてと言いさした形にしたものである。本行の、嘆きをもって強く言いきったものの方が、上と調和する。
【釈】 秋山の黄葉が茂くあるによって、道を迷って帰れずにいる妻を捜し出そうにも、その山の道の我に知られないことよ。
【評】 死んだ妻に対する憧れの心を詠んだものである。当時墓は山地を選ぶのが普通であったから、人麿の妻も折からの秋山に葬られたものと見える。歌はその秋山を望んでのものである。心としては長歌の結末の、「妹が名喚びて袖ぞ振りつる」を延長させたもので、軽の市に失望した心を、転じてその墓所のある山につないだのである。当時の信仰として、死者は幽《かく》り身とはなるが、異なった状態において依然存在しているものと思ったので、山に葬られたのを、自身の心をもって山に入ったものとし、また帰ろうとすればそれもできると信じたのである。この歌はそれが根本となっているのである。「黄葉を茂み迷《まと》ひぬる」といっているのは、時は秋で、折から黄葉が美しい時だったので、人麿の美に対する感覚と、妹を思う心とが一つになって、その帰らないことの理由を案出したのである。この憧れは、人麿には特に強かったもので、これはその一つの現われである。
209 黄葉《もみちば》の 散《ち》りゆくなべに 玉梓《たまづさ》の 使《つかひ》を見《み》れば あひし日《ひ》思《おも》ほゆ
黄葉之 落去奈倍尓 玉梓之 使乎見者 相日所念
【語釈】 ○黄葉の散りゆくなべに 「なべに」は、とともにの意で、黄葉の散ってゆくのを見ているその折からにという意。○玉梓の使を見れば 「玉梓の使」は、長歌に出ているもの。訃報を伝えてきた使を見るとの意で、「見」が黄葉と両方につながっている。○あひし日思ほゆ 「あひし(322)日」は、旧訓。妻と相逢った日で、夫婦間にあっては意味の広い、漠然とした語であるが、上の「黄葉の散りゆく」との関係で、少なくとも去年の今頃ということは明らかで、またその時はきわめて印象的な、忘れられない時ということも暗示しているので、はじめて相逢った日と解される。今、妻の死に遭って、その関係の全体を思いかえしたのである。「思ほゆ」は、思われる。
【釈】 黄葉の散ってゆくのを見ているその折からに、妻の訃報を伝えてきた使を見ると、はじめて妻と相逢った、今日に似た日のことが思われる。
【評】 これは、長歌にある心に立ち戻っていう形のものであるが、訃報を聞いて驚き呆れ、軽の市へ立って憧れ、昂奮した心が鎮まっての後、改めて事の全体を思い返した心で、その意味で心の進展をもったものである。すなわちはじめて訃報を聞いた時には思い及べずにいたことを、思い返すことによってはじめて捉え、「黄葉の散りゆく」という折からの自然の風景を縁として妻とはじめて相逢った日と、その死の知らせとをつなぎ合わせ、妻との関係の全体をしみじみと思ったのである。自然と人事を対照的に扱った形とはなっているが、そこには観念的のものはいささかもなく、ただ事実に即していっているものなので、自然と人事との交錯がきわめて味わいの深いものとなっている。すぐれた反歌である。また長歌との関係において見れば、人麿の限りなく昂奮するとともに、深い沈静をもっていた、その両面を同時に示しているもので、その意味での味わいもある。
210 うつせみと 思《おも》ひし時《とき》に【一に云ふ、うつそみと思ひし】 取《と》り持《も》ちて 吾《わ》が二人《ふたり》見《み》し 走出《はしりで》の 堤《つつみ》に立《た》てる 槻《つき》の木《き》の こちごちの枝《え》の 春《はる》の葉《は》の 茂《しげ》きが如《ごと》く 思《おも》へりし 妹《いも》にはあれど たのめりし 児《こ》らにはあれど 世《よ》の中《なか》を 背《そむ》きし得《え》ねば かぎろひの 燃《も》ゆる荒野《あらの》に 白《しろ》たへの 天領巾隠《あまひれがく》り 鳥《とり》じもの 朝立《あさた》ちいまして 入日《いりひ》なす 隠《かく》りにしかば 吾妹子《わぎもこ》が 形見《かたみ》に置《お》ける みどり児《こ》の 乞《こ》ひ泣《な》くごとに 取《と》り与《あた》ふ 物《もの》しなければ 男《をとこ》じもの 販《わき》ばさみ持《も》ち 吾妹子《わぎもこ》と 二人《ふたり》吾《わ》が宿《ね》し 枕《まくら》づく 嬬屋《つまや》の内《うち》に 昼《ひる》はも うらさび暮《く》らし 夜《よる》はも 息《いき》づき明《あ》かし 嘆《なげ》けども せむすべ知《し》らに 恋《こ》ふれども 相《あ》ふよしを無《な》み 大鳥《おほとり》の 羽易《はかひ》の山《やま》に 吾《わ》が恋《こ》ふる 妹《いも》はいますと 人《ひと》の言《い》へば 石根《いはね》さくみて なづみ来《こ》し よけくもぞなき(323) うつせみと 思《おも》ひし妹《いも》が 玉《たま》かぎる ほのかにだにも 見《み》えぬ思《おも》へば
打蝉等 念之時尓【一云、宇都曾臣等念之】 取持而 吾二人見之 ※[走+多]出之 堤尓立有 槻木之 己知碁知乃枝之 春葉之 茂之如久 念有之 妹者雖有 憑有之 兒等尓者雖有 世間乎 背之不得者 蜻火之 燎流荒野尓 白妙之 天領巾隱 鳥自物 朝立伊麻之弖 入日成 隱去之鹿齒 吾妹子之 形見尓置有 若兒乃 乞泣毎 取与 物之無者 烏徳自物 腋扶持 吾妹子与 二人吾宿之 枕付 嬬屋之内尓 晝羽裳 浦不樂晩之 夜者裳 氣衝明之 嘆友 世武爲便不知尓 戀友 相因乎無見 大鳥乃 羽貝乃山尓 吾戀流 妹者伊座等 人云者 石根左久見手 名積來之 吉雲曾無寸 打蝉等 念之妹之 珠蜻 髣髴谷裳 不見思者
【語釈】 ○うつせみと思ひし時に 「うつせみ」は、巻一(一三)(二四)、巻二(一九六)に出た。現し身の転で、現し世にある身。これは幽《かく》り世に幽《かく》り身として存在するのに対する語《ことば》。「思ひし時」は、わが思っていた時で、これは同じ人に幽り身ということも思えるところから添えていったもの。二句、妻を現し身と思っていた時にで、こうした言い方をしているのは、この歌の結末に幽り身のことをいっているので、それに対させるためである。○一に云ふ、うつそみと思ひし これは、「打蝉」が「宇都曾臣《うつそみ》」と仮名書きになってい、また一音が異なっているだけの相違である。○取り持ちて吾が二人見し 「取り持ちて」は、手に取り持ってで、そうしたのは下の「槻の木のこちごちの枝」である。「吾が二人」は、我ら二人、すなわち夫妻の意。○走出の堤に立てる 「走出」は、門《かど》に近い所で、ちょっと走り出れば見える所をいった古語。「堤」は、池を繞《めく》らしている土手。「立てる」は、立ちてある。○槻の木のこちごちの枝の 「槻の木」は、堤に植えてある木。当時は池の堤に種々の木を植えて、その池の堰《いせき》の用に充てることが定めとなっていた。これもそれである。「こちごち」は、『講義』が考証して明らかにしている。要は、当時「こち」という語はあったが、「そち」という語は見えず、「あ」「あち」という語は発生しなかった。方向を示す語としてはただ「こち」があったのみだから、現在の「あちら、こちら」ということをあらわすに「こち」を重ねて「こちごち」といったのだというのである。「こちごちの枝」は、あちらこちらの枝であるが、多くの枝という意をいったものと取れる。○春の葉の茂きが如く 春の若葉の茂きがようにで、槻の若葉は、にわかに茂ってくる感のするものである。起首よりこれまでは、下の「思へりし」「たのめりし」の譬喩である。しかしこれは、実境を思い出の形において捉えたものなので、叙事と異ならぬ趣をもったものである。○思へりし妹にはあれど 「思へりし」の「り」は完了、「し」は過去の助動詞。二句、思っていた妻ではあるけれども。○たのめりし児らにはあれど 「たのめりし」の「り」と「し」とは上と同じ。たのんでいた。「児ら」は、「児」は妻を愛しての称、「ら」は音調のために添えたもの。二句、上二句の繰り返しで、心を強めるためのもの。○世の中を背きし得ねば 「世の中を」は、世間の理法をで、生きている者は死ぬという掟を。「背きし得ねば」は、「し」は強め。背くことはできないので。二句、妻の死をいった(324)もので、そのことを観念的に受け入れた形のもの。○かぎろひの燃ゆる荒野に 「かぎろひ」は、陽炎《かげろう》。日光、火気の大気に映ってゆらめく状態の称。「荒野」は、人跡の稀れな野。「に」は、に向かって。二句、陽炎の立っている人跡の稀れな野にで、妻の葬られる場所をいったもの。この「かぎろひ」は、四季を通じて夜明けに見られるものであることが、下の続きで知られる。○白たへの天領巾隠り 「白たへの」は、白い布であるが、ここは、白の意のもの。「天領巾」は、「天」は、「領巾」に修飾として添えた語と取れる。「領巾」は、上代の婦人が飾りとして領《えり》、頂《うなじ》、肩にかけた巾である。その幅、丈《たけ》は、皇大神宮儀式帳に、「生絹御比礼八端【須蘇長各五尺弘二幅】」、また豊受大神宮儀式帳には、「生※[糸+施の旁]比礼四具【長各二尺五寸広随幅】」とある。その大体が想像される。『講義』は、現在朝鮮人は、長さ六尺ばかり、幅一幅の布巾を常に携えていて、手拭いのごとくにもし、また頭を包みなどもする。わが古の領巾もそうした物であったろうといっている。「隠り」は、上代の四段活用のもので、連用形。身を隠しての意。二句、死者としての妻の、葬られる際の装おいを叙したもので、「白たへの」は、葬式の際の衣服は白色と定まっていたので、その意のもの。「天」は、死者は尊ぶのを礼としてい、また尊き死者は幽《かく》り世として天へ昇るとしていたので、ここも広く尊む意をもって、死者の装いとしての領巾に添えたものと思われる。「領巾」は、死者が女であるがゆえに、礼装の一つとしてもつ領巾を、その礼装の代表としていったものと思われる。「隠り」は、誇張を伴わしめた語と取れる。二句、白い布の、尊い領巾をもって、その身を包んでの意。○鳥じもの朝立ちいまして 「鳥じもの」は、巻一(五〇)の「鴨じもの」と同じで、「鳥」に「じ」を添えた形容詞の語幹に、「もの」を続けて熟語としたもの。鳥というもののごとくの意で、鳥が朝早く塒《ねぐら》を立つ意での譬喩。「朝立ちいまして」は、「います」は、行くの敬語。朝、家を立って行かれてで、朝、柩の野に送られるのを、尊む意から、妻自身の意志のごとくにいったもの。○入日なす隠りにしかば 「入日なす」は、入日のごとくで、意味で「隠り」にかかる枕詞。「隠りにしかば」は、「に」は、完了。隠れてしまったのでで、葬ったことを、尊む意から妻自身の意としていったもの。○吾妹子が形見に置ける 妻がその形見として残して行ったところの。○みどり児の乞ひ泣くごとに 「みどり児」は、原文「若児」「わかきこ」とも訓める。いずれも例があるからである。「みどり児」に従う。幼い児の意である。「乞ひ泣くごとに」は、物を乞うて泣くごとにで、物をほしがってたえず泣く意をいったもの。○取り与ふ物しなければ 「取り与ふ」の「与ふ」は、古くは四段活用であったと『講義』は注意している。下二段活用として「与ふる」と訓む説もある。「し」は、強め。手に取って与える物がないので。以上四句の言い方は強いもので、「乞ひ泣く」物は若き児に抜ききしのならぬ物、「物しなければ」は母でなくてはないところの乳と取れる。○男じもの腋ばさみ持ち 原文「烏徳」は諸本「鳥穂」で、諸注訓み難くし、私案を試みているが、通じ難いものばかりである。『考』は「烏徳」の誤りとし、「をとこじもの」と訓んでいる。巻三(四八一)に、「男じもの負ひみ抱《うだ》きみ」という似た例がある。またこの歌のある本の伝えは、ここが「男じもの」となっている。『考』の誤字説に従うこととする。「男じもの」は、上の「鳥じもの」と同じく、男とあるものがの意。「腋ばさみ持ち」は、抱きかかえての意。○吾妹子と二人吾が宿し 妻と二人で共寐をした。○枕づく嬬屋の内に 「枕づく」は、夫妻の枕を並べ付けるで、意味で嬬屋にかかる枕詞。「嬬屋」は、閨。○昼はもうらさび暮らし 「昼はも」は、「も」は意の軽いもので、昼はというとほぼ同じである。「うらさび」は、「うら」は心、「さび」はさびしき状態をいう動詞で、心さびしく。「暮らし」は、日を暮らし。○夜はも息づき明かし 「夜はも」は、「昼はも」に対させたもの。「息づき」は、ため息をつくで、嘆きの状態。「明かし」は、眠らずに夜を明かして、四句、幼児を扱いかねて、昼夜悩んでいる状態をいったもの。○嘆けどもせむすべ知らに 嘆くけれども、どうすべき方法も知られずして。○恋ふれども相ふよしを無み 妻を恋うけれども、逢うべき方法がないによって。○大鳥の羽易の山に(325) 「大鳥の」は、「羽」とつづいて、「羽易」の「羽」の枕詞。「羽易の山」は、巻十(一八二七)に、「春日《かすが》なる羽買《はかひ》の山ゆ」とあるので、奈良市春日にあった山と知られる。当時の春日は今よりは広い地域であったが、この山の名は伝わっておらず、したがっていずれともわからない。○吾が恋ふる妹はいますと 自分の恋っているところの妻がいられるとで、「います」は、敬語。○人の言へば石根さくみて 「人の言へば」は、他人が教えていうので。「大鳥の」以下五句は、死んだので葬った妻を、羽易の山で見かけたといって人が教えた意である。「石根さくみて」は、「石根」は岩で、「根」は地に固定するものとして添えた語。「さくみて」の「さく」は裂くで、「さくむ」とマ行に活用した語。裂き分ける意で、岩を踏み分けて。○なづみ来しよけくもぞなき 「なづみ来し」は、「なづみ」は行き悩む、難儀する意。「来し」は、「来《こ》」は未然形で、それに「し」の続くのは古語の形。「よけくもぞなき」は、「よけく」は、「く」を添えて名詞形としたもので、好いことの意。「なき」は、「ぞ」の結び。二句、なずんできたが、よいこともないことよの意。○うつせみと思ひし妹が 現し身でいると思っていた妻がで、人に教えられたままに信じていたことをいったもの。教える人も尋常の事としてい、人麿もまた尋常の事としていたことが注意される。○玉かぎるほのかにだにも 「玉かぎる」は、上の(二〇七)と同じく、玉のかがやく意。ここは意味でほのかにかかる枕詞。「ほのかにだにも」は、ほのかな程度にでも。○見えぬ思へば 妻の姿の見えないことを思えばで、上の「よけくもぞなき」は、意味の上からいえばこれに続くべきものを、倒句としたのである。
【釈】 わが妻を現し身と思っていた時に、手に取り持って我ら二人が見た、走出《はしりで》の池の堤の上に立っているところの槻《つき》の木の、そちこちの多くの枝の、春の若葉の茂きがように、多くも思っていた妻ではあったが、多くも思い憑《たの》んでいた愛する者ではあったが、人の世の理法というものはけっして背くことができないので、その妻は陽炎の燃えている荒野へ、死者の着る白色の、尊い領巾に身を包んで、鳥というもののごとくに朝に家を立たれて、入日のごとくに隠れていってしまったので、わが妻がその形見として残して行った幼児の、物を乞うて泣くごとに、取って与える物もないので、男とある者がその児を抱きかかえて、わが妻と二人で共寐をした、枕の並びついている閨の内で、昼は心さびしく日を暮らし、夜はため息をついて夜を明かし、嘆くけれどもするべき方法も知られず、妻を恋うけれども逢うべき方法もないによって、羽易の山に、わが恋っている妻がいられたのを見たと人が教えていうので、岩を踏みわけて、難儀して歩いて来たが、よいことでもないことよ。現し身でいると思ってきた妻の、ほのかな程度にでも見ることのできないのを思うと。
【評】 この歌は、内容が特殊のものであるから、まず部分的に見てゆくことにする。この歌もほとんど一句一文であるが、事としては四つの部分をまとめたものである。第一は妻の生時、第二は死、第三は死後の当惑と悲しみ、第四は死んだ妻の姿をあらわしていることを聞き、見に行って失望したことで、全体はやや長い期間にわたってのことであるが、それを抒情を旨としつつ、叙事的に構成したものである。抒情の頂点をなしているのは、第四の失望である。
第一段は、起首から、「たのめりし児らにはあれど」までである。「うつせみと思ひし時」以下「春の葉の」までの九句は、それに続く「茂きが如く」をいうための譬喩である。これは譬喩としては実に長いもので、その意味で特殊なものであるが、(326)この長さは他の意味も含んでいるからである。その一つは、「うつせみと思ひし時」というのは、いったがように幽《かく》り身に対させての語《ことば》で、今の場合も、後に幽り身を再び現し世にあらわすということを照応させていっているものである。その二つは、「槻の木」である。これは「春の葉の茂きが如く」をいうためのものであるが、その在り場所として「走出《はしりで》の堤に立てる」といっているので、人麿の家の門前のものと知られる。そうした木に対して「春の葉の茂き」ということは、冬木の槻の小枝がちにさみしいのが、春の若葉でにわかに茂ってくるという時の推移を思わせる語で、またそれに対して「吾が二人見し」というのは、人麿がその家に久しく妻と同棲していたことを思わせる語でもある。実際に即してものをいうのは当時の風で、人麿もそれをしていた人である。譬喩として異常に長い語《ことば》を用いているのは、これらのことをもそれに含めていおうとする要求よりのことで、必要を感じてのものと思われる。なおその三つには、「春の葉の茂きが如く」という譬喩は、生時の情愛をいうためのものであって、この生時は、今は死後との対照においていっているものである関係上、その捉えた生時は、死の前久しからざる時ではなかったかと思われる。人麿の長歌は、そのどこかに、作歌の季節に触れた語《ことば》を用いていることが多い。実際に即するということは、おのずからそうなることでもあるが、このことは意識しての場合が多いようである。今も、死の久しからぬ前ということを意識してのものではないかと思われる。このことは妻を葬送する野を、「かぎろひの燃ゆる荒野」といっているのにも関係する。「かぎろひ」は今は夜明けの景で、春としての景ではないが、「春の葉」との関係から見ると、春のものとしていっているのではないかと思われる。それこれで「春の葉」は、単に文芸的の意味だけのものではなく、妻の死んだ季節をもあらわしているものと思われるのである。
第二段は、「世の中を背きし得ねば」以下、「入日なす隱りにしかば」までである。この「世の中を」の二句は、仏説によったがごとく思われるものであるが、心としてはそれは全くないものであることは、後の続きで明らかである。この二句が際立って目だつものとなっているのは、一首の眼目が生死であり、死後の消息であるから、それにふさわしく強い響きをもたせようがためのものと取れる。次に、「かぎろひの燃ゆる荒野に」は、「隠りにしかば」に続くもので、これによると墓地は荒野であったこととなる。その荒野は「鳥じもの朝立ち」をして、「入日なす隠り」といわれる所で、「鳥じもの」「入日なす」はいずれも枕詞であるが、譬喩の意をもったものであるから、実際にも絡んだものとすると、そこは、人麿の住んでいた所からはかなり遠い地と思われる。後に、妻の幽り身をあらわしたといわれる所は、春日の羽易の山である。また、短歌によると、墓地は「引手《ひきて》の山」という山である。それだと「荒野」は文芸的にいったもので、実際と関係をつけると、山地に続く荒野ということでなければならない。これは抒情を旨としたために、事の精しさは念としなかったことの思われるものである。
第三段は、「吾妹子が形見に置ける」より、「恋ふれども相ふよしを無み」までである。この一段は、はじめて悲歎を言い出してきたもので、しかも実際に即して叙しているものである。由来死者の「形見」は、その人を偲ぶ唯一のよすがとなるもので、そこに悲しみがあるとともに慰めもあるものである。しか(327)るに人麿の残された形見は、ただもてあまし、悩まされるだけの若児で、ない乳を乞うて泣く、如何《いかん》ともしようのないものだったのである。この悩みは、妻を恋う刺激とならざるを得ないものである。「嘆けどもせむすべ知らに、恋ふれども相ふよしを無み」は、対句の形にはなっているが、それはその心理の推移を暗示しているもので、その間の飛躍は含蓄のあるものである。同時にこの「恋ふれども相ふよしを無み」は、次の一段の背景をもなすのである。
第四段は、「大鳥の羽易の山に」以下である。この一段は、今日より思うときわめて異常なことである。しかし歌の上で見ると、一首全体のうち最も平坦に、ほとんど昂奮を帯びず、尋常の事として叙している部分である。「大鳥の羽易の山に、吾が恋ふる妹はいますと、人の言へば」と、言ふ人はさながら世間話のように告げるのである。それを聞く人麿も、ただちに「石根《いはね》さくみて」と、何の躊躇するところもなく出かけるのである。これは死者は単に幽《かく》り身となっただけで、依然として存在し、時あって地上に現われきたるものであるということを、疑いを挟む余地のない、平凡なこととする信念が、言う者にも聞く者にも共通になければ起こり得ないことである。この死生観は、上代より伝統しきたったもので、庶民の間には根強く保たれていたものとみえる。この死生観に類した歌が、集中に他に二、三あるが、いずれも作者不明の、民謡に近いものの中にあるにすぎず、上流の知識階級の歌の中にはない。それらも、この歌ほど直接に、明らかにいったものはなく、これはその顎《たぐい》の中の代表的なものである。この信念はしだいに仏教的のものと変わり、後には仏教と混じた形において伝わるものとなったと思われる。ここでは、人麿がそうした信念をもっていたということにとどめておく。次に、こういうことを人麿に教えた「人」は、人麿の妻とも親しい間でなくてはならない。これは同棲をしている嫡妻ということを裏書しているものと取れる。次に、妻の現われたという春日の羽易の山である。そこは幽《かく》り身の者が姿をあらわすに自然なところということが、告げる「人」にも、聞く人麿にも思われていた所かと取れる。そこに何らかの理由があったに相違ないが、知りかねる。単に墓所に近い山だとすると、墓所はこれに続く短歌によって「引手《ひきて》の山」ということが明らかであるから、そこでなくてはならないことになる。思うに羽易の山は、何らかの特殊性があって、死者の現われる山と信じられていたのであろう。その理由は今は辿りようがない。起首、生前のことをいうにも「うつせみと思ひし時」といって幽《かく》り身の存在を信じ、現に今も「うつせみと思ひし妹」と信じ、逢いに来た人麿も、結局は、「なづみ来しよけくもぞなき」と、失望に終ってしまった。そしてこれが妻に対する最後の直接交渉となったのである。
以上を総括していうと、前の軽の妻に対した場合には、人麿の心は憧れに終っている。人目を憚るために逢う瀬もまれであった妻の、急死のような状態での死に逢うと、愛着は見果てぬ夢となり、強い憧れとなった。今はそれとは異なって、同棲していた嫡妻の、乳呑児を残しての死に逢うと、悲歎よりもまず苦悩に打ち負かされ、苦悩を通しての悲歎となり、それに刺激されるところもあって、たまたま死んだ妻を羽易の山で見たと告げる人があると、同じ信念を抱いているところから、躊躇なくその山へ出かけて行ったが、事は失望に終って、結局諦めざ(328)るを得ない心となったという、軽の妻に対したとは正反対な、諦めを強いられたのである。憧れと諦めという、同じく死者に対してのことであるが、恋の初めと終りのごとき心的状態を味わわされたのである。軽の妻に対する心は明るく、この妻に対する心は暗いものである。
作歌態度からいうと、この歌は性質は挽歌であるが、死者の霊を慰めようとする心は全然もっていず、ただ自身の心やりのものである。その点は軽の妻に対するよりもさらに徹底したものである。その個人的な心をほしいままにしている点は、純粋な文芸的なものである。人麿は生活価値の一半を夫婦生活に認めていたように思われる人である。その人麿ではあるが、死という大事に遭った場合にも、妻に対して儀礼的な言は一言も発していないところに、その人の思われるところがある。
短歌二首
211 去年《こぞ》見《み》てし 秋《あき》の月夜《つくよ》は 照《て》らせども 相見《あひみ》し妹《いも》は いや年《とし》さかる
去年見而之 秋乃月夜者 雖照 相見之妹者 弥年放
【語釈】 ○去年見てし秋の月夜は照らせども 去年見た秋の月は照っているけれどもで、「去年」というのは、妻の死後、はじめて逢った秋から顧みていったもので、死んだのは春と思われるから、その年の秋である。○相見し妹は ともにその月を見た妻は。○いや年さかる ますます年が遠ざかって行く。
【釈】 去年見た秋の月は、今年も同じように照っているけれども、この月をともに見た妻は故人となって、しかもその年は増すます遠ざかって行く。
【評】 秋の澄んだ月に対していると、昔を思わせられるのは、古も今も渝《かわ》らない人情である。人麿の月に対して思わせられた昔は、死んだ妻であって、しかもその妻とともに見た同じ月だったのである。いっぽう自然の年々に同じ状態であるのを見ると、その悠久を思わせられ、それに比して人間の無常を思わせられるのも、同じく古も今も渝らない人情である。悠久なる自然と無常なる人間とを対比させて、人間を悲しむという心は、後世では歌の上の常識となったものであるが、この当時はまだ新鮮味のあったものと思われる。命長い巌、あるいは松などを見て、命をそれにあやからせようとする心の歌は、これ以前にもあったので、それを一歩進めるとこうした心となるのであるが、この歌はその進め方の際やかなるものである。一首の調べが高く強く、その思い入れの深さの思われるものである。長歌との関係からいうと、妻の死の直後、苦悩と悲歌のために昂奮(329)し、人のいうがままに羽易の山に妻に逢いに行って失望をした頃の心持とは違い、「世間」を深く心に沁《し》ましめての上の感慨である。そこに心理の推移がある。また時としても、春より秋への推移があって、長歌と対照をなしているものである。
212 衾道《ふすまぢ》を 引手《ひきて》の山《やま》に 妹《いも》を置《お》きて 山路《やまぢ》を行《ゆ》けば 生《い》けりともなし
衾道乎 引手乃山尓 妹乎置而 山徑徃者 生跡毛無
【語釈】 ○衾道を 「引手の山」に続く関係から見て、その枕詞とはみえるが、意味は不明である。「衾道」を、衾という地へ行く道との解があるが、そうした地名は見えない。また、襖《ふすま》の乳《ち》の意で、「引き」へかかる意だともいうが、当時襖障子があり、それに乳《ち》があって開閉に用いたということも想像し難いので、これまた不明である。要するにわからないものである。○引手の山に 『講義』は、『大和志』により、その山辺郡に、「在2中村東1呼曰2竜王1高聳人以為v望」といい、この竜王山は天理市萱生と藤井の間にある。これが古の引手の山かどうかを疑っている。下の続きで、引手の山が墓地であったとわかる。長歌では「荒野」といっているが、それは広い意味でいったのである。○妹を置きて 妻を残してで、葬って立ち去った時の心である。○山路を行けば生けりともなし 「山路を行けば」は、家に帰ろうとしてその山の路を行けばの意。「生けりともなし」の、「り」は完了の助動詞の終止形、「と」は助詞。生きているという気もしないの意。
【釈】 引手の山に、妻を残して置いて、家へ帰ろうとしてその山の路を行くと、我は生きているという気もしない。
【評】 これは妻を墓地に葬って、帰る途中の心持である。事としてはやや以前に属するものであるが、今、秋の月に対してしみじみと妻のことを思うと、最も強く思われることはその時のことで、それがまた妻の最後のことともなっているのである。前の歌に続けて、これをいっているのは、心理的に見て不自然ではない。過去の思い出という形にせず、眼前のことのように詠んでいるのは、感情の強さがさせることで、そこに人麿の手法があるものとみられる。
或本の歌に曰はく
213 うつそみと 思《おも》ひし時《とき》に 携《たづさ》はり 吾《わ》が二人《ふたり》見《み》し 出立《いでたち》の 百枝《ももえ》槻《つき》の木《き》 こちごちに 枝《えだ》させる如《ごと》 春《はる》の葉《は》の 茂《しげ》きが如《ごと》く 思《おも》へりし 妹《いも》にはあれど たのめりし 妹《いも》にはあれど 世《よ》の中《なか》を 背《そむ》きし得《え》ねば かぎろひの 燃《も》ゆる荒野《あらの》に 白《しろ》たへの 天領巾隠《あまひれがく》り 鳥《とり》じもの (330)朝立《あさた》ちい行《ゆ》きて 入日《いりひ》なす 隠《かく》りにしかば 吾妹子《わぎもこ》が 形見《かたみ》に置《お》ける 縁児《みどりご》の 乞《こ》ひ泣《な》くごとに 取《と》り委《まか》す 物《もの》しなければ 男《をとこ》じもの 腋《わき》ばさみ持《も》ち 吾妹子《わぎもこ》と 二人《ふたり》吾《わ》が宿《ね》し 枕《まくら》づく 嬬屋《つまや》の内《うち》に 昼《ひる》は うらさび暮《く》らし 夜《よる》は 息《いき》づき明《あ》かし 嘆《なげ》けども せむすべ知《し》らに 恋《こ》ふれども あふよしをなみ 大鳥《おほとり》の 羽易《はかひ》の山《やま》に 汝《な》が恋《こ》ふる 妹《いも》はいますと 人《ひと》のいへば 石根《いはね》さくみて なづみ来《こ》し よけくもぞなき うつそみと 思《おも》ひし妹《いも》が 灰《はひ》にてませば
字都曾臣等 念之時 携手 吾二見之 出立 百兄槻木 虚知期知尓 枝刺有如 春葉 茂如 念有之 妹庭雖在 恃有之 妹庭雖有 世中 背不得者 香切火之 燎流荒野尓 白栲 天領巾隱 鳥自物 朝立伊行而 入日成 隱西加婆 吾妹子之 形見尓置有 緑兒之 乞哭別 取委 物之無者 男自物 腋挟持 吾妹子与 二吾宿之 枕附 嬬屋内尓 日者 浦不怜晩之 夜者 息衝明之 雖嘆 爲便不知 雖戀 相縁無 大鳥 羽易山尓 汝戀 妹座等 人云者 石根割見而 奈積來之 好雲叙無 宇都曾臣 念之妹我 灰而座者
【語釈】 前の歌と異なっている部分だけをあげる。○携はり 手と手を携える意で、親しんださま。下の「二人」へ続く。前の歌では「取り持ちて」とあり、「こちごちの枝《え》」に続いた。前の歌の活躍を没して平明としたもの。○出立の百枝槻の木 「出立」は、前の歌の「走出《はしりで》」と意味は同じで、並び行なわれていた語。「百枝槻の木」は、百の枝、すなわち多くの枝をもっている槻の木で、伝来の熟語。槻は枝の多い木である。○枝させる如 枝を張っているごとくで、「百枝」を説明したもの。前の歌では、妻に対しての思いの繁さの譬喩として、「春の葉」だけを捉えていたのを、これは「枝」までをも捉えて、並べていっている。前の歌は感じの方を主として、単純にいっているのを、これは事柄を重んじて、複雑にしたのである。譬喩としては、前の歌の方が効果的である。○取委す物しなければ 「委す」は旧訓で四段活用。『代匠記』は、児に持たせて、その心に任せる意だとしている。下二段活用として「委する」と訓む説もある。○汝が恋ふる 前の歌は「吾が恋ふる」である。今の方は他人の言葉をそのままに用いた形である。すなわち事を主とした言い方にしたもので、前の歌の心を主としたものの方が、全体の上に調和する。○灰にてませば 「灰」は、亡骸《なきがら》を火葬にして、残った灰。「ませば」は、女性に慣用した敬語。上からの続きで、現し身と思ってきた妻は、すでに灰と(331)なっていられるのでの意である。火葬のことの正史に現われているのは、続日本紀、文武四年の条に、「三月己未道昭和尚物化、……火葬於栗原、天下火葬従此而始也」とあるのが初めで、それより四年後の大宝三年十二月には、持統天皇の尊骸をさえ飛鳥岡で火葬し奉るまでとなった。巻三(四二八)「土形娘子《ひぢかたのをとめ》を泊瀬山にて火葬せし時、柿本朝臣人麿の作れる歌一首」、同じく、(四二九)「溺死せし出雲娘子《いづものをとめ》を吉野山に火葬せし時、柿本朝臣人麿の作れる歌二首」があるので、人麿の妻も時代的に見て火葬されたということもありうることである。この「灰にてませば」は、前の歌の「たまかぎるほのかにだにも見えぬ思へば」の三句にあたる部分である。どちらも心は同じで、信じていたことの裏切られ、失望に終わる嘆きをいったものである。幽り世の者となった死者が、現し身であった時と同じ姿をもって再び現われることがあるというのは、前の歌でいったように伝統の信仰であって、人麿の周囲の者の教えたのも、人麿が教えられるがままに行動に移したのも、その信仰に導かれてのことである。「ほのかにだにも見えぬ思へば」は、同じく失望ではあっても、その信仰に繋がりをもち得ているもので、自然なところがある。「灰にてませば」は、その繋がりをもち得ないもので、すでに火葬をしたものであれば、現し身の姿をあらわすという信仰も繋ぎ難いものに思われる。この点から見て、人麿の妻は前の歌にあるように、現し身をあらわす可能性のある葬られ方、すなわち火葬ではない旧来の葬られ方をしたのであって、「灰にてませば」は、火葬が一般化した後、前の歌を伝唱した人によって改作されたのではないかと思われる。
【釈】 略す。
【評】 この「或本の歌」は、いったがように、人麿の前の歌が伝唱されているうちに、伝唱者によって部分的に改められていったものを、何びとかによって記録されたものと思われる。それは「語釈」でいったように、その改まっている部分は、前の歌よりもすべて劣ったものとなっていることが察しられる。劣っているというのは、前の歌では感を主とし、単純にして含蓄のある形となっているが、改まった方は、事を主とし、複雑にして平明なものとしてい、また前の歌では、具象的ではあるが、同時に間接な言い方をして、ある美しさを保たせているものが、改めているものは抽象的な、単に平明を旨としたものとしている意味においてである。これは伝唱された歌のすべてに通じて起こっていることで、この歌もそれに漏れないのである。その甚しいのは結末の「灰にてませば」である。これは一首の頂点をなしている部分で、前の歌のようにあってこそ、はじめて悲歌の情が生きるのであるが、この歌のようだと、浅薄なものと化し、人麿の周囲の者も、またそのいうがままに羽易の山へ出かけて行った人麿も、本来不可能なるべきことを、空想または幻想に駆られて言いもし、行ないもしたこととなってくる。実際を重んじた当時の社会の生活においては、これは極度に個人的な心情である。大体人麿の歌は、当時の庶民の信仰または感情を代弁した趣の濃厚なもので、それが技巧の卓絶したのと相俟つて大を成しているものである。そうした個人的の空想、幻想が、この歌に限って基調をなしているものとは思われない。その意味でも、火葬ということが一般化した雰囲気の中にあって、伝唱者の改めたものと思われる。
(332) 短歌三首
214 去年《こぞ》見《み》てし 秋《あき》の月夜《つくよ》は 渡《わた》れども 相見《あひみ》し妹《いも》は いや年《とし》離《さか》る
去年見而之 秋月夜者 雖度 相見之妹者 益年離
【語釈】 ○渡れども 空を渡るけれどもで、前の反歌の「照らせども」と異なっている。「照らせども」の方が印象的で、感が深い。時間的にして平明にしているものである。
215 衾路《ふすまぢ》を 引出《ひきで》の山《やま》に 妹《いも》を置《お》きて 山路《やまぢ》思《おも》ふに 生《い》けりともなし
衾路 引出山 妹置 山路念迩 生刀毛無
【語釈】 ○山路思ふに 「山路」は、山の意でいっているもの。その山を思うにで、山よりある距離を置いて、墓所を中心として山を思いやる心をいったもの。前の反歌の「山路《やまぢ》を行けば」とは、これだけが異なっているのである。これもまた、前の歌の、墓所を離れた直後の心の方が感が深い。
216 家《いへ》に来《き》て 吾《わ》が家《や》を見《み》れば 玉床《たまどこ》の 外《ほか》に向《む》きけり 妹《いも》が木枕《こまくら》
家來而 吾屋乎見者 玉床之 外向來 妹木枕
【語釈】 ○家に来て 家に帰って来ての意で、妻の墓所から帰ったことが、下でわかる。○吾が家を見れば 「吾が」は、親しみの意から添えたもの。その親しみは、妻と同棲した家として感じたものであることは、下の続きでわかる。○玉床の外に向きけり 「玉床」の「玉」は、妻と共寐をした床として、愛《め》でて添えた語。巻十(二〇五〇)、「明日よりは吾が玉床を打払ひ公《きみ》と宿ねずてひとりかも寐む」という用例がある。「外に向きけり」は、下の「木枕」が、平生とは異なった状態になっていることを、具体的にいったものである。上代は、その人の身に付いた物は、その人の魂が宿っているものとして重んじたが、ことに床や枕を重んじて、その人の余所へ行っていない時、また死後も一周年の間は、大切にして手を触れないことにし、粗末にすると、その人に災いが起こると信ずる風習があった。「外に向きけり」ということは、木枕におのずからに異常なことが起こっていたことをいったものと取れる。その異常は、妻の死と関連した不吉な状態を暗示していることと取れる。言葉の上で見ると、床の外へ出かかっているということと思えるが、それ以上はわからない。○妹が木枕 「木枕」は、木で作った枕で、当時の普通のものであったとみえる。
(333)【釈】 墓所から家に帰って来て、妻と同棲したなつかしい家を見ると、共寐をした床から、不吉にも外へ出かかっているよ、妻の木枕は。
【評】 妻を墓所に葬って宿に帰り、今さらのごとく悲しみを新たにして、嬬屋を見、妻の木枕に不吉な状態の現われていることを発見し、その死のまぬかれ難いものであったことを思わせられた心である。信仰心の深い上代の生活から生まれている感である。前の歌は墓所より家に帰るまでの途中の感であるから、二首は時間的に関係させてあって、連作となっている。これは前の長歌の反歌の異伝ではなく、新たに加えられているものである。また、歌そのものからいうと、人麿の歌であるかどうかを疑わせるところのあるものである。人麿の歌は取材の如何にかかわらず、内から盛り上がってくる豊かなものと艶やかなものをもっていて、ある華やかさを帯びてい、それが魅力となっている。この歌にはそうした趣はない。単に取材の上からいえば、こうした挽歌は、当時の生活からいえば得難いものではない。この長歌の伝唱者が、前の反歌との関係において、その連作とすればできるところから、新たにここに加えたものではないかと疑わせるところのある歌である。
吉備《きび》の津《つ》の采女《うねめ》の死《みまか》りし時、柿本朝臣人麿の作れる歌一首 并に短歌
【題意】 「吉備の津の采女」は、吉備国の津から貢した采女である。采女のことは巻一(五一)に出た。後宮に仕える身分の低い女官で、天皇の供奉、御饌のことを職とするものである。諸国の郡の少領以上の者の姉妹子女にして、形容の端正なる者を選ばれた。後宮においては、その出身地名をもって呼名《よびな》とされた。大体は国をもってし、時には郡をも添えられ、さらにまた里の名をもってすることもあった。「吉備」は、後の備前、備中、備後である。「津」は、『講義』は、後の備中国に都宇郡というのがある。この都宇は、本来一字をもって呼んだ地は、和銅の頃勅により、好字二字に改めさせられたので、それに従って、一字の韻にあたる字を加えたものだと考証している。吉備の津の采女は後の備中国都宇郡を出身地とする采女だったのである。采女は在職中は、結婚は堅く禁じられてい、犯す者は重き刑に処せられる制であった。しかるにこの采女は夫をもっているので、采女としての任の解けた、前《さきの》采女だということがわかる。また、短歌によると、近江国の志賀に住んでいたこともわかる。自由な身として、かつてそこに居住していたのである。人麿はこの采女を見かけたことがあって、いわゆる見知りこしであった。たぶんは後宮に仕えていた頃のことであろう。この采女は次で見ると水死をしている。しかも自殺であったと見える。その事情はわからない。人麿はその死後|幾時《いくばく》もない頃、何らかの事情で志賀へ行き、その噂《うわさ》を聞き、その若き生命を我と殺したのに驚き、訝《いぷか》り、悲しんで、強い衝撃のままにこの歌を作ったのである。
(334)217 秋山《あきやま》の 下《した》へる妹《いも》 なよ竹《たけ》の とをよる子《こ》らは いかさまに 思《おも》ひ居《を》れか 栲繩《たくなは》の 長《なが》き 命《いのち》を 露《つゆ》こそは 朝に置《あしたお》きて 夕《ゆふべ》は 消《き》ゆと言《い》へ 霧《きり》こそは 夕《ゆふべ》に立《た》ちて 朝《あした》は 失《う》すと言《い》へ 梓弓《あづさゆみ》 音《おと》聞《き》く吾《われ》も おほに見《み》し 事《こと》悔《くや》しきを しきたへの 手枕《たまくら》まきて 剣刀《つるぎたち》 身《み》に副《そ》へ寐《ね》けむ 若草《わかくさ》の その嬬《つま》の子《こ》は さぶしみか 思《おも》ひて寐《ぬ》らむ 悔《くや》しみか 思ひ恋ふらむ 時《とき》ならず 過《す》ぎにし 子《こ》らが 朝露《あさつゆ》のごと 夕霧《ゆふぎり》のごと
秋山 下部留妹 奈用竹乃 騰遠依子等者 何方尓 念居可 栲紲之 長命乎 露己曾婆 朝尓置而 夕者 消等言 霧己曾婆 夕立而 明者 失等言 梓弓 言聞吾母 髣髴見之 事悔敷乎 布栲乃 手枕纏而 釼刀 身二副寐價牟 若草 其嬬子者 不怜弥可 念而寐良武 悔弥可 念戀良武 時不在 過去子等我 朝露乃如也 夕霧乃如也
【語釈】 ○秋山の下へる妹 「秋山の」は、黄葉を秋山の特色として、その意を含めての言い方で、「炎《かぎろひ》の春」、「※[(貝+貝)/鳥]《うぐひす》の春」などと同じ言い方の語。「下へる」は、『略解』以来「下ぶる」と訓まれてきたが、「したふ」は四段活用で、完了の助動詞「り」の連体形がついた形。紅《くれない》に色づいている意。紅顔《にほへるかほ》を称美していつたもの。「妹」は、采女を親しんでの称。二句、秋山の紅葉《もみじ》の紅ににおっているがごとき妹の意で、顔の美しさを讃えたもの。○なよ竹のとをよる子らは 「なよ竹」は、なよなよとした竹で、今の女竹。「とをよる」は、「とを」は「撓《たわ》」と同意の語で、撓み寄る意。「子ら」の「ら」は、音調のために添えた語で、「子」は、上の「妹」と同じく親しんでの称。二句、なよ竹のごとく撓みよる子はで、上に続けて、姿の可憐さを讃えたもの。○いかさまに思ひ居れか 「いかさまに」は、どのように。「思ひ居れか」は、「か」は疑問で、「居れか」は後世の「居ればか」にあたる古格。思っていたのであろうかの意。その心持の解し難いのを、怪しみ訝った意。○栲繩の長き命を 「栲繩の」は、栲すなわち楮の類の織維をもって作った繩。その長い物であったところから、譬喩の意で長きの枕詞となったもの。「長き命を」は、本来長かるべき命をの意。「いかさまに」以下四句は、長かるべき命を、どのような心持がしていたのかと、若き命を我と殺したことを、それと言いきるのは忍び難いこととして、怪しみ訝りの形にして、言いさしにとどめたもの。○露こそは朝に置きて夕は消ゆと言へ 命の短い露こそは、朝、木草の上に置いて、その夕べには消えるとはいえの意で、世に最も命の短いものを、采女との対比としてあげたもの。○霧こそは夕に立ちて朝は失すと言へ 上の四句と対句にしたもの。この対句は、世に最も命の短いものを、強くいおうとして繰り返したもので、「露」と「霧」、「朝」と「夕」といささかの変化はつけているが、心は全く同じである。この八句は、その前の「長き命を」とは、語《ことば》としては直接には続いていないが、心としては連絡をもっていて、采女の命短く、またあまりにもはかなく死んだことを、自然の現象をかりて暗示したもので、下に、人はそうしたものではないも(335)のをということを含ませたものである。なお、ここに「露」と「霧」とを捉えてきたのは、心としては代表的に命の短いものとしてではあるが、作意からいうと、人麿の采女のことを聞いてこの歌を作った時は、折から露や霧の多い秋であったためと思われる。以上、心としては一段落である。○梓弓音聞く吾も 「梓弓」は、梓の弓で、単に弓の代表としていったもの。弦の音が印象的なところから、音と続き、音の意を転じての枕詞。「音」は、噂の意のもの。「吾も」は、吾さえも。○おほに見し事悔しきを 「おほ」は「おぼつかなし」「おぼろ」などのおほで、不十分にの意。よそ目に一目《ひとめ》というにあたる。「悔しきを」は、残り惜しいものをの意。○しきたへの手枕まきて 「しきたへの」は、(一三五)に出た。ここは「枕」の枕詞。「手枕まきて」は、手枕を枕としてで、手枕は采女の手。枕とするはその夫。○剣刀身に副へ寐けむ 「剣刀」は、刀身すなわち身を主とするところから、「身」と続けて、その身を転じての枕詞。「身に副へ寐けむ」は、その身に添わしめて共寐をしたであろうところので、夫の立場からいったもの。○若草のその嬬の子は 「若草の」は、(一五三)に出た。嬬にかかる枕詞。「その嬬の子は」は、「その」は、嬬をさした語。「嬬」は、夫の意のもの。「子」は、親しんでの称。二句、その夫はで、采女に夫のあったことをいったもの。このことは題意でいった。○さぶしみか思ひて寐らむ 「さぶしみ」は、さみしくして。「か」は、疑問。「思ひて寐らむ」は、嘆いて寐ていようで、二句、さみしくして、嘆いて寐ているのであろうかと、自身と比較して思いやったので、人麿と采女の夫との関係の親しくはないことを思わせる口気である。○悔しみか思ひ恋ふらむ 残念なことにして、嘆いて恋っているであろうか。この二句、流布本にはなく、類聚古集、紀州本、西本願寺本ほか二本にはある。この二句が、原形としてあったかなかったかは問題となる。上の二句についていったように、この歌は挽歌とはいえ、夫たる人に贈ったものとは思われないので、したがって夫に対しての思いやりは、多きを必要としないものに思われるからである。ない方が原形ではないかと思われる。○時ならず過ぎにし子らが 「時ならず」は、その時すなわち天寿ではなくして。「過ぎにし」は、死んで行ってしまった。「子ら」は、起首の「とをよる子ら」のそれと同じ。「が」は、「子ら」の主格であることをあらわしているもの。二句、天寿ならずして死んでしまった子はの意。この句は、上の「いかさまに思ひ居れか」と、作意としては繰り返しの意で緊密に関係しているもので、あらわには言いきっていないが、自殺したことをいっているものである。言いきらないのは、「何方に」の場合と同じく、言いきるに忍びないものとしてのためと取れる。しかし、それよりも一歩を進めて、自殺ということをやや強く暗示したものである。○朝露のごと夕霧のごと 第一段の結末を、いま一たび繰り返して、その生命の短く、あまりにもはかないことをいったもの。この結末は、七七七で、七を三回重ねている。これは謡い物系統のものの上には現われていることで、古風な形である。謡い物では、最後の七は、音調を主としての繰り返しとなっている趣が多いが、この歌では、心としての必要をもったものとなっている。すなわち古い形を一歩前進させたものである。
【釈】 秋山の紅葉の紅ににおっているごとき顔の妹、なよ竹のごとくに撓み寄る姿をした子は、どのような心持をもっていたのであろうか、その長かるべき命を。世にはかないものの露こそは、朝に草木《くさき》に置いて、夕べには消えるとはいえ、同じく霧こそは、夕べに空に立って朝には失せるとはいえ、人はそうしたものではないものを。ただ噂に聞く自分でさえも、生前よそ目に一目見ただけなのが残り惜しいものを。その手枕を枕として、身に添わしめて共寐をしたその夫は、さびしい心に嘆いて寐ているのであろうか。残念なことにして嘆いて恋っているであろうか。天寿ではなくして死んで行ってしまった子は、朝露のように、夕霧のようにもあるよ。
(336)【評】 人麿がたまたま近江の大津へ行った時、前采女《さきのうねめ》で、美しくして若く、以前一度見かけたことのあった人の、今は人妻となってそこに住んでいる人が、河に身を投げて自殺をしたという訪を聞き、強い衝動を受けて作った歌である。その事は誰にしても衝撃を受けずにはいられないものであるが、本来生命への執着の強いものをもっている上に、時代性によってその感を強めさせられていた人麿であり、くわえてまた、夫婦生活を生活価値の大部分とし、したがって女性の美しさを尊重する情の強かった人麿としては、きわめて強い衝撃を受けたのであった。その心とその衝撃とは、この歌の表現を通して如実に現われている。
大体挽歌は、第一には死者その人の霊を慰めることを目的とし、第二には死者の近親者と、ともに悲しむことによって慰めるを目的とするものである。そのほかには、挽歌を作ることによって自分自身を慰めようとするもので、例せばこの歌に先立つ自身の妻の死に対してのようなものである。最後のものは実用上の目的をもたない、純然たる文芸的のものである。人麿のこの歌はいかなる立場に立ってのものかというと、第一の、死者その人に対して言いかけているところは全然ない。第二の、死者の近親者に対してということも、「さぶしみか思ひて寐らむ」という思いやりの句があるだけで、それも自身の心残りの比較においていっているにすぎないもので、采女の夫に対して、直接に言いかけているものとは思われない。この歌で人麿のいっているものは、単に自身の感懐のみである。すなわち「秋山の下へる妹」「なよ竹のとをよる子ら」と讃うべき美しく若い女性の、「いかさまに思ひ居れか」「時ならず過ぎにし子ら」となったことに対する怪しみ訝りであって、その怪しみ訝りを通しての愛情をいうことに終始しているのである。これは人麿の文芸心を充たすのみの挽歌である。しかもそれを、深い関係はなく、単に見知りごしというにすぎない女性に対してしているのは、美しく若くして、当然生命の執着の限りなく強かるべき人が、意識的にそれを棄て去ったという衝動に駆られてしているので、そこにいっそう人麿の文芸心が見られるのである。
この歌の表現は、人麿の他の長歌の手法とは異なった特殊なものである。人麿の長歌は、事の全体を腹に収め、十分に支配しきり、盛り上がる情熱の力をもって緩やかに展開させたもののみである。一首が整然たる構成をもちほとんど句絶というものがなく、一首一句のごとき有様をなしているのは、一にそのためである。しかるにこの歌は、躍る心のまにまに、反射的に、思うことをぶちつけぶちつけしているごとき趣をもっている。しかし、さすがに乱れを見せず、一首を二段とし、第一段では死に対する怪しみをいい、第二段では怪しみを通しての悲しみをいって、繰り返しの形をもって漸層的に高めているのは、その卓絶した手腕のいたすところで、全体としては他に例のない昂奮そのままを示しているものである。人麿の感懐は、この表現の形式の中に如実に現われているといえる。
なお人麿の長歌は、その抒情の中に、何らかの形で季節感をあらわしているのが風である。この歌の「露」と「霧」とは、いったがように、この事は秋であったことをあらわしているものと思われる。「秋山の下へる」という、やや特殊な譬喩も、同じく季節感をあらわしているものと見られる。結末の七音三句を重ねたものであることは、上にいった。
(337) 短歌二首
218 ささなみの 志賀津《しがつ》の子らが【一に云ふ、志賀《しが》の津《つ》の子が】 罷道《まかりぢ》の 川瀬《かはせ》の道《みち》を 見《み》ればさぶしも
樂浪之 志我津子等何【一云、志我乃津之子我】 罷道之 川瀬道 見者不怜毛
【語釈】 ○ささなみの志賀津の子らが 「ささなみ」は、琵琶湖の西一帯の地名。「志賀津」は、志賀にある津で、他にも用例のあるものである。志賀にある津は大津と取れる。「子ら」は、長歌の方に出ているもので、「子」は采女を親しんでの称。「ら」は音調のためのもの。この采女は、題意でいったように、任が解けて、前《さきの》采女として、人妻となって志賀津に住んでいたものと解される。○罷道の 「罷道」は、一つの語で、死出の旅の道の意。続日本紀、巻三十一、藤原永手の薨去を悼《いた》ませられた宣命に、「美麻之大臣乃罷道母宇之呂軽久心母意太比爾念而《みましおほおみのまかりぢもうしろがろくこころもおだひにおもひて》」という用例がある。「の」は、同じ趣の語を重ねていう意のもの。死出の旅への道にして、それとともにの意。○川瀬の道を 「川瀬の道」は、特殊な語である。川瀬には道というものがあるべきでないからである。これは上の「罷道」を言いかえた語で、道ならぬ道、すなわち不自然な道で、長歌では暗示にとどめていた自殺ということを、一歩進展させて、投身ということを婉曲《えんきよく》にいったものと取れる。『代匠記』は、「川瀬の道は身を投むとて行しを云なるべし」といっているが、身を投げて溺れ死んだ所とすべきである。『新考』は、「川瀬を渡りてゆく道なり」といって、葬地に行く道としているが、それだと「道」とはいわず「渡り」というべきであり、また人麿が采女の死を聞いたのは、死後ある期間を隔てた時ということが長歌で察しられるから、いま葬送のさまを見ているとするのは、事としても不自然に思われる。○見ればさぶしも その所を目に見ると、さびしいことであるよ。
【釈】 ささなみの志賀津の子が、死出の旅の路にして、それとともに川瀬の中の道という、不自然な、道ならぬ道を、ここぞと目に見ると、さびしいことであるよ。
【評】 この歌は、長歌を進展させて、采女の投身して死んだ跡に立って見ての感である。「罷道の川瀬の道」という語は、投身ということをかなり明らかにあらわしたものであるが、長歌と同じく、婉曲に、言いきらずにいったものである。「川瀬の道」は、いったがようにやや無理な言い方をした語であるが、婉曲にいおうとするところから生み出した語と取れる。「川瀬の遺」の「道」は、上の「罷道」の「道」を繰り返した形となっているので、無理とはいっても自然さを保っているもので、無理でいて無理ではないものとなっている。すなわち無理を遂げているもので、むしろ、天才的というべきものである。この二句の婉曲は、一首の形の上からも自然なものとなっている。それはこれに先行する「楽油の志賀津の子らが」という、重く、また親しみ深くいっている語との照応によっても支持されているからである。初句より四句までの続きは、采女に対する愛惜と悲哀を、不信のうちに具象しているものである。結句「見ればさぶしも」は一転、感覚となっているので、上を結ぶ力の十(338)分にあるものとなっている。手腕の現われた作というべきである。
219 天数《あまかぞ》ふ 大津《おほつ》の子《こ》が あひし日《ひ》に おほに見《み》しかば 今《いま》ぞ悔《くや》しき
天數 凡津子之 相日 於保尓見敷者 今叙悔
【語釈】 ○天数ふ この語はここに用いられているだけのもので、他には用例のないものである。訓も解も不定のものである。旧訓は「あまかぞふ」で、爾来諸説があるが、「凡」か「津」のいずれかにかかる枕詞として、その関係を通して迎えて施しているものである。比較的穏やかに聞こえるのは『講義』の解で、訓は旧訓に従い、「天」は、山といってそこに生えている草木をも含めていう例により、天の星をも含めたものとし、その数の多いところから「多《おほ》」と続けて、同音の「凡」の枕詞としたものだろうといっている。しばらくこれに従う。○大津の子が 「大津」は、前の歌の志賀津と同じで、それを言いかえたもの。「子」は、采女を親しんでの称。○あひし日におほに見しかば 「あひし日に」は、逢ったことのあった時にで、たぶんは、かつて采女として後宮にあり、供奉として外出した折などであろう。「おほに見しかば」は、長歌に出た。一目、よそながら見ただけなので。○今ぞ悔しき その人の亡くなった今は、再び見難いので残念なことであるの意。
【釈】 天数う大津の子の、逢った時に、ただ一目よそながら見ただけなので、亡い今は、再び見難く残念なことであるよ。
【評】 これは長歌の繰り返しである。反歌は長歌を繰り返すのが人麿以前の風で、今はそれに従ったものである。繰り返しは、長歌の要点に対してするのが風で、それは心理的にも当然なことである。ここに繰り返していることは、死んだ采女を慰めるものでもなく、また最も悲しんでいるはずのその夫を慰めるものでもなく、単に見知りごしという関係にすぎない人麿自身の心で、挽歌の性質からいうと最も軽かるべき部分である。それを反歌として繰り返していることは、やがてこの挽歌の性質を語っていることで、この挽歌は人麿自身の思いをやることを主眼としたものなのである。采女に対してきわめて関係の薄い人麿が、何ゆえにこのような情熱をもって挽歌を作ったかというと、それは亡び去った若く美しい采女を惜しむ心からだろうと思われる。采女は形容の端正ということを一つの資格としているものである。この采女も美しい人であったろうと察しられる。その美しさを愛惜し尊重する心が、こうした情熱となったのであろう。長歌の起首の、新意をもった美貌《ぴぼう》を讃える語、また反歌の「ささなみの志賀津の子ら」「天数ふ大津の子」などいう、讃え詞に近い呼び方も、すべてその心よりのものと思われる。根本は人麿の人生を愛する心からのものであるが、それに加うるに美を愛する心があって、後のものの方が強く働いている歌と取れる。
(339) 讃岐の狭岑島《さみねのしま》に石中に死《みまか》れる人を視て、柿本朝臣人麿の作れる歌一首 并に短歌
【題意】 人麿が瀬戸内海を航海中、風浪を避けるために、船を讃岐の狭岑島に着けて上陸すると、はからずも浜辺に屍体を発見しての感傷を詠んだものである。「狭岑島」は、香川県坂出市港外にある島。狭岑島は反歌では佐美《さみ》の山といっているので、狭岑とも佐美とも呼ばれていたことがわかる。これは島を島根ともまた島山ともいうが、根と山とは同意語で、海の上から見ると、島は山の感をもっているからの称で、狭岑とは佐美根、すなわち佐美の島と思われる。歌で見ると、そこは普通の航路にあたっていたところと思われる。なお路順から見ると、この航海は、西方より東方へ向かってのものとわかる。「石中」は、屍体のあった場所で、屍体は行き倒れと解されたようなので、浜辺の小石の中と取れる。
220 玉藻《たまも》よし 讃岐《さぬき》の国《くに》は 国柄《くにから》か 見《み》れども飽《あ》かぬ 神柄《かむから》か ここだ貴《たふと》き 天地《あめつち》 日月《ひつき》と共《とも》に 満《た》り行《ゆ》かむ 神《かみ》の御面《みおも》と つぎて来《く》る 中《なか》の水門《みなと》ゆ 船《ふね》浮《う》けて 吾《わ》がこぎ来《く》れば 時《とき》つ風《かぜ》 雲居《くもゐ》に吹《ふ》くに 沖《おき》見《み》れば とゐ浪《なみ》立《た》ち 辺《へ》見《み》れば 白浪《しらなみ》さわく 鯨魚取《いさなと》り 海を恐《うみかしこ》み 行《ゆ》く船《ふね》の 梶《かぢ》引《ひ》き折《を》りて をちこちの 島《しま》は多《おは》けど 名《な》ぐはし 狭岑《さみね》の島《しま》の 荒磯面《ありそも》に 廬《いほ》りて見《み》れば 浪《なみ》の音《と》の 繁《しげ》き浜辺《はまべ》を しきたへの 枕《まくら》になして 荒床《あらどこ》に ころふす君《きみ》が 家《いへ》知《し》らば 行《ゆ》きても告《つ》げむ 妻《つま》知《し》らば 来《き》も問《と》はましを 玉桙《たまぼこ》の 道《みち》だに知《し》らず おほほしく 待《ま》ちか恋《こ》ふらむ 愛《は》しき妻《つま》らは
玉藻吉 讃岐國者 國柄加 雖見不飽 神柄加 幾許貿寸 天地 日月与共 満將行 神乃御面跡 次來 中乃水門從 船浮而 吾榜來者 時風 雲居尓吹尓 奧見者 跡位浪立 邊見者 白浪散動 鯨魚取 海乎恐 行船乃 梶引折而 彼此之 嶋者雖多 名細之 狭岑之嶋乃 荒礒面尓 廬作而見者 浪音乃 茂濱邊乎 敷妙乃 枕尓爲而 荒床 自伏君之 家知者 徃而毛將告 妻知者 來毛問益乎 玉桙之 道大尓不知 欝悒久 待加戀良武 愛伎妻等者
(340)【語釈】 ○玉藻よし讃岐の国は 「玉藻よし」は、「玉藻」は(一三一)に出た。藻を讃えての称。「よし」は「青丹《あをに》よし」と同類で、「よ」の詠歎に「し」の強めの添ったもの。讃岐の枕詞としてある。他には例のないもので、人麿が海上より讃岐を見て、その国の讃え詞として造ったものと思われる。○国柄か見れども飽かぬ 「国柄」は、熟語。「柄」は、故《から》の意で、国が良きゆえの意。「か」は、疑問。「見れども飽かぬ」は、しばしば出た。いくら見ても飽かないで、きわめて賞美する意。二句、国が良いゆえか、いくら見ても飽かないことよ。○神柄かここだ貴き 「神柄か」は、上の「国柄か」を語をかえて繰り返したもの。国はすべて諾冊二神の生ませたもうたもので、神の分身であり、神であるということは、上代の信仰である。ここもそれである。古事記、上巻に、「次生2伊予之二名島1此島者身一而有2面四1毎v面有v名、故伊予国謂2愛比売1、讃岐国謂2飯依比古1云々」とあり、伊予は四国の総名で、讃岐の神であることは明記されてもいる。「ここだ」は、「ここば」ともいい、後には転じて「ここら」となった語で、多いという意の古語。「貴き」は、讃えてのもの。二句、神にますゆえか、はなはだ貴きことよで、二句、上の二句と対句。以上第一段。○天地日月と共に 「天地日月」は、いずれも欠くるところのない完全なものとして、下の「満《た》る」の譬喩としたもの。「共に」は、それらと同じくの意。○満り行かむ神の御面と 「満り行かむ」は、満ち足りて行こうとする、すなわち完全なるものとなろうとするで、下の「御面」につづく。「神の御面」は、「神」は国にして同時に神である意のその神。「御面」は国の有様の眼に映るところを、神との関係で御面といったもの。「と」は、と思っての意。四句、天地月日の完全なると同じく、完全なるものとなって行くであろうところの神の御面すなわち国の有様であると思ってというので、上を承けて、讃岐の国の海岸寄りを航行しつつ、子細にその国を讃えた意。○つぎて来る中の水門ゆ 「つぎて来る」は、「つぎて」は、続きての意のもの。「来る」は、こいで来る意で、人麿の航行のさまをいったもの。主格は作者である。「中の水門」は、「中」は、古の那珂郡。香川県丸亀市下金倉町金倉川河口。「水門」は、港。那珂の港は丸亀の近くにある中津であろうといわれている。「ゆ」は、より。○船浮けて吾がこぎ来れば 船を浮かべてこいで来るとで、舟子《かこ》のこぐのを自身のするようにいったもの。そのこいで来るのは、狭岑の島すなわち今の砂弥島で、中津からは北東にあたっている。人麿の航海の西方より東方に向かっていたものであることが知れる。以上、意味の上では第二段となっている。○時つ風雲居に吹くに 「時つ風」は、潮の満ちて来る時に吹く風で、時にあたって吹く風の称であろうという。巻六(九五八)に、「時つ風吹くべくなりぬ香椎《かしひ》潟潮干のうらに玉藻苅りてな」とあるので知られる。相応に強い風と取れる。「雲居」は、空の意のもの。海上に見る空で、水平線に沿っている空をいっている。○沖見ればとゐ浪立ち 「奥」は、沖。海の遠方。「跡位浪」の「跡位」は、『考』以来「しき」にあてた文字で、重浪《しきなみ》と訓まれてきたが、北条忠雄氏の訓と解に従い、うねり撓み立つ浪の意とする。なお重浪《しきなみ》とすれば頻繁に寄せて来る浪の意で、『講義』が委しい考証をしている。○辺見れば白浪さわく 「辺」は、海岸寄りの所。船中から見ての状態で、船は陸寄りを航行することになっているから、その折から添っていたところの陸の状態。○鯨魚取り海を恐み 「鯨魚取り」は、(一五三)に出た。海の枕詞。「海を恐み」は、海を恐れて。○行く船の梶引き祈りて 「行く船」は、前方へこいでゆく船。「梶」は、今の※[舟+虜]《ろ》にあたるもの。「引き折り」は、引き撓めてで、強くこぐ状態をいったもの。二句、風浪の危険から脱れるために、避難場所へ着けようと、こぎゆく船の※[舟+虜]を、撓むまで強く使って。○をちこちの島は多けど 「をちこち」は、あちらにもこちらにも。「多けど」は、後世の多けれどと同意の古語。○名ぐはし狭岑の島の 「名ぐはし」は、巻一(五二)に出た。名のよろしきの意で、土地を讃える意で添えたもの。「狭岑の島」は、題意でいった。○荒磯面に廬りて見れば 「荒磯面」は、海辺の水上に現われている石の上。「廬りて」は、航海中、陸寄りの場合は、危険を避けるために上陸するのが風で、その場合、(341)廬を作って入るのも風であった。無事な時でも、夜寐るためにはすることであった。以上、意味の上では、第三段となっている。○浪の音の繁き浜辺を 「浪の音」の「音」は、仮名書きによってのもの。「浜辺」は、磯辺と差別して、磯辺が石ころ続きの所であるのに、砂原になっている所をいう。二句、時つ風のために浪の音がたえず立っている侘びしい砂原をの意。○しきたへの枕になして 「しきたへの」は、しばしば出た。ここは「枕」の枕詞。「枕になして」は、枕としてで、枕とはすべくもない物をそれとしての意で、死人のさまを美しくいったもの。○荒床にころふす君が 「荒床に」は、荒ららかな床にで、床とはすべくもない浜辺をそれとしている意。「ころふす君が」の「ころ」は独り、または自分自身を意味する語で、古くから用例がある。みずから横たわるの意。これも死人のさまを美しくいったもの。以上四句、直接に死人といわず、不自然な所に寐ているといって、美しくそのことをあらわしているのは、死者を敬う心からのことと取れる。「君」という代名詞も、敬意をもってのもので、それと一致している。○家知らば行きても告げむ 死人の家を自分が知っているならば、そこへ行って家人に知らせようで、死者その人を思うよりも、思いを死者の家人に寄せたもの。○妻知らば来も間はましを 「妻知らば」は、死人に妻があるとして、その妻が夫がここにいると知ったならば。「来も問はましを」は、来て問おうものをで、「も」は軽く、「を」は重い詠歎。ここも死人を、死人とまではしきらず、生きている者であるかのようにいっている。○玉桙の道だに知らず 「玉桙の」は、道の枕詞。夫のいる所へ行く道だけも知らず。○おほほしく待ちか恋ふらむ 「おほほしく」は、(一七五)に出た。心が晴れずに。「待ちか恋ふらむ」は、夫の帰りを待って恋っているであろうか。○愛しき妻らは 「ら」は、音調のためのもの。この人の愛している妻は。
【釈】 玉藻よし讃岐国は、その国の良いがゆえか、いくら見ても飽かないことよ、その国の神にましますゆえか、甚しくも貴いことよ。完全なるものの天地日月と同じく、完全になってゆく神の御面とみえる国の有様であると愛でたく思って、航路の次第を追って次から次と続けてきた中の港から、船を浮かべて前方へとこいでくると、満潮に伴う時つ風が、水平線上の空に吹き起こって、沖の方を見ると、うねり盛りあがる浪が立ち、沿ってゆく陸の海岸寄りのところには白浪が騒いでいる。海の危険を恐れて、前方に向かってゆく船の※[舟+虜]《ろ》を、撓《たわ》むまでに強くこいで、あちらこちらに島は多くあるけれども、名の良い狭岑の島にこぎ寄せて避難をし、荒磯の上に廬を作って周囲を見ると、浪の音のたえずも立っている浜辺を、不自然にも枕となし、またそこを荒ららかな床としてみずから伏している君の、その家を我が知っているならば、往っても家人に告げ知らせよう、この君の妻がここにいると知るならば、来て様子を尋ねもしようものを、夫のいるあたりの道だけでも知らずに、心晴れずその帰りを待って恋っているであろうか、この君の愛している妻は。
【評】 この歌は人麿が、瀬戸内海を西方より東方に向かって航海しているうち、讃岐《さぬき》の狭岑の島ではからずも死人を見て、それに対しての感懐を詠んだもので、歌の体からいうといわゆる道行きである。この体は伝統の久しいもので、また人麿の好んで用いた体でもある。
一首の中心となっているものは死者に対する感懐なので、その意味では挽歌と称すべきものである。しかし歌を見ると、死者その者に対しては多く触れるところがなく、死者の状態を、(342)生者とさして異ならないような間接な、また美しい語《ことば》をもって叙することによって、一種の敬意をあらわしているだけで、人麿の心はただちに死者の妻に馳せ、夫の死を知らずして、その帰りを待ち恋っているだろう妻を憐れむものとなり、それを中心としているのである。しかも人麿は、その死者に妻の有る無しも知らないので、その憐れみは妻があると想像の上で定めてのものである。これは挽歌としては特殊なもので、取材の上からは、挽歌の範囲のものであるが、心としては、人麿の人生に対する心持の方が主となっているものである。一首の味わいもまたそこにあるものである。この事は、この歌の構成も示しているところである。
第一段は、「語釈」でいったように、起首より「ここだ貴き」までで、讃岐国を大観して讃えたものである。この讃え詞は、いったがように古事記上巻の諾冊二神の国生みに脈を引いているもので、重く力強いものである。第二段は、いったがように意味の上からのもので、「船浮けて吾がこぎ来れば」までで、第一段をうけて、讃岐国を子細に讃えてい、これまた、第一段に劣らず、重く力強いものとなっている。第一段と第二段、すなわちこの歌の前半は、国であるとともに神にまします讃岐国を、舟行の旅人の心と眼を通して讃えたもので、強く人間生活を肯定する、明るい心の現われである。一首の一半を人間生活の肯定にあてるということは、単なる挽歌を詠もうとする心からはおそらくはしないことである。この歌を人麿の人生に対する心持をいおうとしたものだということは、ここにも現われている。
第三段は、いったがように、心の上でのもので、「荒磯面に廬りて見れば」までである。当時の航海は、その船の脆弱な物であった関係上、多少なりとも風浪の惧《おそ》れのある時は、安全な島蔭に避けて、その鎮まるのを待つのが普通であった。人麿のこの時に遭った風は、いわゆる時つ風で、特異なものではない。狭岑の島の廬は、むしろ普通なことであったと思われる。第四段は、それより結末までで、第三段を承けて、そこではからずも死人を発見したことである。当時の旅行は、不便でもありまた困難でもあって、旅人の行路病者として行き倒れとなる者、また餓死する者さえもあって、まれなことではなかったのであ(343)る。人麿の見た者もその範囲の者である。しかしそれが、いたくも人麿の胸を打ったことは、この長歌の中心を、その行き倒れにしていることによって明らかである。しかるに人麿の心は、死者そのものを隣れむことには向けられず、そこには死者を隣れむ語《ことば》も、また慰めようとする語もない。そこにあるのは、死者なるがゆえに敬って、死者をいうにも、死ということは暗示にとどめる程度の間接なまた美しい語をもっているだけである。死者をいうことを中心とした歌で、しかもその死者はこうした特殊な状態のものであるにもかかわらず、その惨《いた》ましい状態には触れまいとしているところに、人麿の心があるといえる。なお人麿は、目にしている死者についてはいうまいとしているが、目に見ざるその妻には深い隣れみをよせている。死者に妻の有る無しはいったがように人麿の知らない所であるのに、それを有ると定め、しかも死者に取っては「愛《は》しき妻ら」であると定め、そしてその妻は「おほほしく待ちか恋ふらむ」と定めているのは、人麿の他の歌にも示しているように、人間生活の価値、興味を夫婦生活にありとし、それを通して強く人間生活を肯定しようとする心の現われであって、それのかなわなくなった死者はつとめて見ぬさまをし、死者を超えたあなたの、その有る無しもわからぬ妻にその心を繋いで、そこに深い隣れみを感じているのである。この死者に対する人麿の態度は、挽歌の心ではなく、死者を通して新たに感じさせられてきた、人間生活に対する心持にほかならぬものに見える。
さらに前半の、讃岐国の国土に対し、その生成発展に対しての礼讃と、この後半の、死者を軽く、生者を重く見ている心とは、緊密に関連しているもので、前半によって後半の心が明らかに、後半によって前半の心が明らかにされることが見られる。一首は要するに死者という人間生活肯定の心を裏切るものを縁とし、刺激として、人間生活に属する強い肯定と執着とを示したものである。一首、事を叙することを主としているごとく見えるが、その事は人麿の主観を表現するためのものにすぎないものである。人麿の豊かな詩情を、散文的な方法をもって、微妙にあらわし得ている歌である。
反歌二首
221 妻《つま》もあらば 採《つ》みてたげまし 佐美《さみ》の山《やま》 野《の》の《へ》上のうはぎ 過《す》ぎにけらずや
妻毛有者 採而多宜麻之 作美乃山 野上乃宇波疑 過去計良受也
【語釈】 ○妻もあらば 「妻」は、死人の妻。「も」は、詠歎。「あらば」は、ここに居たならばと想像したもの。妻がもしここに居たらば。○採みてたげまし 「採む」は、下の「うはぎ」を採み取ること。「たぐ」は、飲食する意の古語で、下二段活用の動詞。「たげまし」は食べさせようで、「まし」は上の「あらば」と照応させたもの。○佐美の山 上の狭岑の島を言いかえたもの。そのことは題意でいった。○野の上のうはぎ (344)「野の上」は、「上」は、広く物のある位置をあらわす語で、単に野というと異ならない。「うはぎ」は、「おはぎ」ともいっている。今の嫁菜《よめな》である。古は一般に食料としたものである。○過ぎにけらずや 「過ぐ」は、食料とする時節が過ぎる意。嫁菜は春季の物なので、それが過ぎて食べられなくなるのは夏季である。「けらずや」は、後世は用いられなくなった語で、「や」は、反語。過ぎ去らなかったか、過ぎ去つたの意。
【釈】 妻がもしここに居たならば、採み取って茹《ゆ》でて食べさせたであろう。この佐美の山の野に生えている嫁菜は、食べる時節が過ぎ去ってしまったではないか。
【評】 反歌は、死人その人を中心として、隣れみの情をよせている。すなわち長歌に新たな展開を与えたのである。人麿は、死人を発見した驚きと、広い意味の感懐を味わわされると、心が静まって、死人の死因を思わせられ、餓死と判じたとみえる。さらにあたりを見ると、そこにはどこにでも生え、また茂りもする野草の嫁菜のあるのに心づき、これでも食べたならばと感じたのである。しかし、それを食べられるようにするには、妻の手がいるものとしたのは、妻思いの人麿の感傷である。たとい妻が居ても、すでに時節を過ぎた嫁菜では如何《いかん》ともし難かったのであろう。事の如何は顧みず、隣れみの気分を主として、心をこめていっているところに人麿の面目がある。
222 沖《おき》つ波《なみ》 来《き》よる荒磯《ありそ》を しきたへの 枕《まくら》とまきて 寝《な》せる君《きみ》かも
奧波 來依荒磯乎 色妙乃 枕等卷而 奈世流君香聞
【語釈】 ○沖つ波来よる荒磯を 「沖つ波」は、沖の波のの意。「来よる」は、寄り来るの意の当時の言い方。「荒磯」は、上に出た。○しきたへの枕とまきて 「しきたへの」は、ここは「枕」の枕詞。「まきて」は、枕としての意。二句、大切なる物である枕とはしての意をいつたもの。○寝せる君かも 「寝せる」は、「寝《ぬ》」に敬語「す」がつき、「なす」となり、完了の助動詞「り」の連体形の接続したもの。寐ていられるの意。「君」は、死人を尊んでの称。「かも」は、詠歎。
【釈】 沖の波の寄って来る荒磯を、それとはすべくもない枕にはして、寐られているところの君ではあるよ。
【評】 これは長歌の一節を繰り返したもので、人麿以前の反歌の手法に立ち戻って詠んだものである。心としては、前の歌と同じく隣れみの情を主としたものである。死ということを直接にいうのを避けているのは、隣れみの情よりしていることとみえるが、必ずしもそればかりではなく、それに触れることを厭う心の伴っているためと思われる。それは前の歌も同様で、長歌もまた同様である。これは詩情というようなものではないことは長歌でいった。しかし一面には人麿の人柄よりきているところもあろうと思われる。
(345) 柿本朝臣人麿、石見国に在りて臨死《みまから》むとせし時、自ら傷みて作れる歌一首
【題意】 「石見国に在りて」というので、人麿が京より遣わされて、石見国の国司の一人として、国庁に在任中であったことが知られる。また、「死」とあるので、人麿の位の低かったことが知られる。それは喪葬令に、「凡百官身亡、親王及三位以上称v薨、五位以上及皇親称v卒、六位以下達2於庶人1称v死」と定められていた、それに従っての用字だからである。すなわち人麿は六位以下だったのである。『講義』は、石見国は中国で、守でも六位以下であったから、人麿が守以下であったとすれば当然のことであるといっている。人麿の死んだ年月は記されたものがないが、年次に従って編している本巻によって、この一類の歌の次は「寧楽宮」となっているところから、藤原宮時代のことで、遷都のあった和銅三年三月以前で、おそらくはその直前のことであったろうと想像される。斎藤茂吉氏は『柿本人麿』で慶雲四年説を立てている。
223 鴨山《かもやま》の 磐根《いはね》しまける われをかも 知《し》らにと妹《いも》が 待《ま》ちつつあらむ
鴨山之 磐根之卷有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍將有
【語釈】 ○鴨山の磐根しまける 「鴨山」は、題詞によつて、石見国にある山とは知れるが、今はその名が伝わってはいず、したがってどの辺にある山ともわからないが、高角山と同じとするもの、江津市神村、浜田市旧城山の亀山、邑智郡邑智町亀、湯抱温泉付近の山、奈良県葛城山などの諸説が多い。しかし下の続きによって、その山の性格は知ることができる。「磐根しまける」は、「磐根」は、磐で、「根」は添えていった語。「し」は、強め。「まける」は、「巻き」「ある」の熟合した語で、「巻き」は枕とする意。磐を枕としているで、下の「吾」の状態としていっているもの。磐根をまくは、成句に近いもので、本巻(八六)磐姫皇后の御作歌「かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根しまきて死なましものを」のそれと同意で、死して石槨の内に葬られている状態をいう語《ことば》である。この語は他にも用例の少なくないもので、古くは普通の語だったのである。ここは人麿が生者としていっているものなので、不自然なごとくに見えるが、その時は「死に臨みし時」で、死を覚悟し、またそれに関連して妻を憫《あわれ》む心で感傷している時でもあったので、近くあるべき状態を、すでにあったことのごとく強調していっているものと取れる。○われをかも 「かも」は、「か」の疑問に、「も」の詠歎の添ったもの。これは結句「待ちつつあらむ」にかかるものである。○知らにと妹が 「知らにと」は、『玉の小琴』の訓。古事記、崇神の巻、「うかがはく、しらにと」を証としてである。「知らに」の「に」は、打消「ず」の連用形で、古語。「知らず」を「知らに」というのは、下に続く事柄の理由をあらわす時のことで、ここはその事柄は「待ちつつ」である。「と」は、「知らに」を一つの状態として、修飾格とならせるためのもの。「妹」は、これに続く歌によって依羅娘子《よさみのおとめ》と知られ、また上の(一三一)「石見国より妻に別れて上り来し時」とあるその妻と知られる。それだとこの妻は人麿と同棲してはいず、人麿の住んでいたと思われる国府よりは、四、五里を隔てた角《つの》の里に住んでいたことが、同じく(一三一)以下の歌で知られる。○待ちつつあらむ 「待ち」は、人麿のその家より通って行くことを待つ意で、「つつ」は、(346)その継続。「らむ」は、現在の推量。三句の「かも」がこれに添ってくる。
【釈】 鴨山の石槨の内に、磐を枕として葬られている吾をそれとも知らずして、妻は平生のとおり、わが通ってゆくのを今も待ち待ちしていることであろうか。
【評】 年代順に歌を排列した本巻に、「臨死むとせし時」とあり、その後には歌がないので、これが人麿の最後の歌となったと思われ、感慨の深いものがある。当時の夫妻の関係は、これを人麿の歌について見ても、本巻(一三五)に、「さ寐し夜はいくだもあらず」という状態で、それがここにいう「妹」すなわち依羅娘子なのである。また、上の(二〇七)軽の妻も、その死は、葬儀も済んだ後、使の報告によってはじめて知るという状態であったことが知られる。これは特殊なことではなく、普通のことであったとみえる。それから推すとこの歌の場合も同様に、人麿はその国府にある家に病んで、いま命終えんとしているのであるが、それを妻の依羅娘子には知らさず、したがって娘子は知らずにいるという状態だったと見える。そうした状態にあって、人麿の最後の心は、その妻に対する憫みとなって現われたのである。「待ちつつあらむ」というこの単純な憫みが、その生に対する最後の執着だったのである。人麿の人柄が思いやられる。「鴨山の磐根しまける」は、その憫みの深さを具象化させるためのもので、そのほかのものではない。したがって「鴨山」は、死せば葬られる所と定まっていた山とみえる。墓所は山上を選ぶ当時の風習から国府からさして遠くなく、またさして高くない山であったろうと思われる。また人麿の想像した「磐根しまける」は、古風の土葬であるが、これに続く歌で見ると、事実は新風の火葬だったことがわかる。死に臨んだ時の想像が、古風な葬儀であったということも、人麿を思わせるものがある。
柿本朝臣人麿の死《みまか》りし時 妻|依羅《よさみの》娘子の作れる歌二首
【題意】 依羅娘子は、(一四〇)に出た。(一三一)の、人麿が石見国から京に上る時に別れを惜しんだところの妻である。歌で見ると、人麿の墓所となった山を遠望しうるところに住んでいたことがわかる。
224 今日今日《けふけふ》と 吾《わ》が待《ま》つ君《きみ》は 石川《いしかは》の 峡《かひ》に【一に云ふ、谷に】まじりて ありと言《い》はずやも
且今日々々々 吾待君者 石水之 貝尓【一云、谷尓】交而 有登不言八方
【語釈】 ○今日今日と 原文「今日」に「且」を添えているのにつき、『講義』は詳しく説明している。「且」は漢字の助字で、疑問の意の「か」(347)の意をあらわすために添えたのだという。今日か、今日かと思って。○吾が待つ君は 通い来るのを吾が待っているところの君はで、人麿をさしたもの。○石川の峡にまじりて 「石川」は、鴨山と考えられている諸地域の川で、江の川上流、女良谷川、葛城連山の西麓を流れる石川(大和川の支流)などの諸説がある。「峡」は原文「貝」、近藤芳樹は『註疏』で、「峡《かひ》」にあてた借字だといっている。斎藤茂吉氏も「鴨山考」で、同じく谿谷としている。人麿のいう鴨山の範囲を広げていったものと思える。「まじりて」は、同じく『註疏』は、古今集などに野山に入って遊ぶのをまじりてといっているその意のものだといっている。古今集春下に、「いざ今日は春の山べにまじりなむ暮れなばなげの花の蔭かは」などがある。入り込む意である。○一に云、ふ、谷に 「峡」が、一本には「谷」とあるというのである。意味は同じで、谷の方がさらに一般的である。伝唱されて変化したのであろう。○ありと言はずやも 「やも」は、反語。あるといっているではないか、いっている、というので、驚き呆れた心をあらわしたもの。
【釈】 今日だろうか、今日だろうかと思って、吾が、通い来るのを待っている君は、石川の峡《かい》に入り込んでいると人がいっているではないか、いっている。
【評】 人麿の使がその変事を知らせに来た時の依羅娘子の心である。歌は事の意外なのに驚き呆れて、なかばは使の知らせを繰り返していい、その事を我と確かめようとするごときものである。賀茂真淵の考証によると、その時人麿は五十歳前後だったろうという。使の知らせのきわめて意外なものであったことは察しられる。依羅娘子は(一四〇)の、人麿の京に上る際の別れを惜しむ歌を見ると、気性のしっかりした、感情の強い、どちらかというと理知的な人に見えるが、この時はただ驚き呆れるのみだったのである。しかし詠み方には、その人柄を思わせるものがある。
225 直《ただ》のあひは あひかつましじ 石川《いしかは》に 雲《くも》立《た》ち渡《わた》れ 見《み》つつ偲《しの》はむ
直相者 相不勝 石川尓 雲立渡礼 見乍將偲
【語釈】 ○直のあひはあひかつましじ 「直のあひは」は、旧訓「直にあはば」である。『玉の小琴』は、「相」を名詞として、今のように改めた。巻四(七四一)「夢のあひは苦しかりけり」を例としている。意味は、直接に逢うことはで、直接にというのは生前どおりにである。これに従う。「あひかつましじ」の「かつましじ」は(九四)に出た。逢い得なくなるであろうの意。○石川に雲立ち渡れ 「石川」は、上の歌と同じで、人麿の死んだ場所。「雲」は、火葬の煙で、当時の風に従って火葬にされたものと取れる。「立ち渡れ」は、立ちて広がれよと命令したもの。「立ち渡れ」と、「渡れ」を添えていっているのは、依羅娘子の住んでいる所からは、それでないと見えない意からの命令と取れる。○見つつ偲はむ その雲を見つつ夫を偲ぼうというので、これは初句の「直のあひ」に対照させ、死後の今となつては、唯一の、せめてもの慰めとしてのものである。
(348)【釈】 生前のごとく直接に逢うことは、できないであろう。火葬をされるというその石川の峡《かい》に、火葬の煙の雲と立って広がれよ。今はせめてそれを見つつも夫を偲ぼう。
【評】 妻として夫に対する挽歌である。深く悲しんではいるが、その悲しみを抑えて、おちついて、思い得られる限りのことを思って、昂奮のさまを見せていないことは、その歌の二つの句絶をもち、強く、素樸に詠んでいる所にも現われている。このことは単に挽歌として見ても珍しいまでのものである。これを人麿と比較すると、まさに正反対の感がある。人麿の妻を思う歌は、こうした性格の妻を対象としていたものであることが注意される。
丹比真人《たぢひのまひと》名闕く柿本朝臣人麿の意《こころ》に擬《なずら》へて報《こた》ふる歌一首
【題意】 「丹比真人」は、丹比は氏、真人は姓《かばね》。「名闕く」は、原拠とした本に名が記してない意で、その誰であるかはわからない。『講義』は、集中に、この氏で名の異なる者が七人あるといってあげている。「意に擬へて報ふる歌」は、人麿の意中を推しはかつて、その心をもって、依羅娘子の歌に答える歌との意である。すなわち試みに人麿に代って詠む意のものである。おそらく人麿夫妻の歌が京に伝えられ、それに刺激されて、そうした文芸的な遊びをしたものであろう。これは奈良宮時代になると珍しくないこととなったものである。
226 荒浪《あらなみ》に 寄《よ》り来《く》る玉《たま》を 枕《まくら》に置《お》き 吾《われ》ここにありと 誰《たれ》か告《つ》げけむ
荒浪尓 縁來玉乎 枕尓置 吾此間有跡 誰將告
【語釈】 ○荒浪に寄り来る玉を 「荒浪に」は、荒い浪によって。「寄り来る玉を」は、「寄り来る」は打寄せられて来る。「玉」は、貝の中にある玉にもいい、小石にもいっている。ここは多くの小石の意と取れる。○枕に置き 枕もとに置いて。○吾ここにありと誰か告げけむ 自分がここにいるということを、誰がそなたに告げ知らせたのであろうかで、その侘びしいさまを妻に知らせたことを、不本意に思う心をいったもの。
【釈】 荒い浪によって打ち寄せられて来る沖の小石を枕もとに置いて、自分がここにいるということを、誰がそなたに告げ知らせたのであろうか。
【評】 この「報ふる」というのは、(二二四)の「今日今日と吾が待つ君は石川《いしかは》の峡《かひ》にまじりてありと言はずやも」に対してのものと取れる。妻のその歌が人麿に伝えられ、人麿はそれに対して詠んだとしたのである。初句より三句までは、人麿が海べ(349)に倒れて寐ているものとして、その状態を想像で描いたものである。なぜに海べとしたかは、「石川の峡にまじりて」というのを、文字どおりに貝の多くある所に身を横たえたと取ったところからのことと思われる。これは誤りである。しかし結句「誰か告げけむ」と、告げたことを不本意としている心は、「鴨山の」の心に通うものがあって、技巧があるといえる。事件の関係で取られた歌とみえる。
或本の歌に曰はく
227 天離《あまさか》る 夷《ひな》の荒野《あらの》に 君《きみ》を置《お》きて 思《おも》ひつつあれば 生《い》けりともなし
天離 夷之荒野尓 君乎置而 念乍有者 生刀毛無
【語釈】 ○天離る夷の荒野に 「天離る」は、天とともに遠く離れているで、意味で夷にかかる枕詞。巻一(二九)に出た。「夷の荒野」は、地方の人げの稀れなさみしい野。○君を置きて 君を葬って、一人残しておいて。○思ひつつあれば生けりともなし 「思ひつつあれば」は、偲びつづけていれば。「生けりともなし」は、(二一二)に出た。生きているという気もしないの意。
【釈】 市より遠い地方の、人げの稀れな野に君を葬って、一人残しておいて、偲びつづけていると、生きているという気もしない。
【評】 これは(二一二)、「衾道を引手の山に妹を置きて山路《やまぢ》を行けば生けりともなし」を模倣し、それを概念化したものである。そのことは挽歌に例の多いことである。歌は、依羅娘子の心を詠んだものと取れ、左注にいう古本も、この巻の撰者もまた、その心をもってここに載せたものと取れる。作者が詳かでないというが、古本の方では前の歌に関係のあるものとし、作者は同じく丹比真人で、依羅娘子の(二二五)「直のあひは」の後の心を推しはかって、人麿にしたと同じ心をもって詠んだものとしたのであろう。そう想像するよりほかない歌に思われる。
右の一首の歌、作者未だ詳かならず。但古本この歌を以てこの次《ついで》に載す。
右一首歌、作者未v詳。但、古本以2此歌1載2於此次1也。
【解】 撰者の添えたもので、この歌は作者が詳かでない。ただし、古本がこの次《ついで》に載せているので、同じく載せるというのであ(350)る。
寧楽宮
【標目】 寧楽宮は、元明天皇の和銅三年三月より、光仁天皇に至るまでの七代の宮である。本巻は、元正天皇の霊亀元年までで終っているから、当代の宮としていっているものである。
和銅四年歳次辛亥、河辺宮人《かはべのみやひと》、姫島の松原に嬢子《をとめ》の屍を見て悲歎して作れる歌二首
【題目】 「河辺宮人」は、河辺は氏、宮人は名。河辺氏は新撰姓氏録によると、武内宿禰より出、宗我宿禰の後で、天武天皇の御代に朝臣の姓を賜わった氏である。しかるに宮人には姓がないところから、『講義』は考証して、河辺氏には他の一族があって、それは帰化人の一種の称であった勝《かち》の一族であり、宮人はそれであろう。またこの歌の趣から見ると、この河辺の氏は、摂津国川辺郡に因《ちな》みがあるのではないかといっている。「姫島」は摂津の地名で、古史の上に折々出ている地である。所在については諸説があって明らかではない。が、大阪市難波区勘助町、西淀川区姫島町などの説がある。「嬢子の屍を見て」は、歌によると投身して死んだ嬢子のあったことを聞いて知っただけで、屍を目にしているのではない。題詞は文章を主としたものと取れる。嬢子が何ゆえに自殺したかはわからない。美しい嬢子の何らかのあわれさからのこととして、作者はその大体を知っての上の作と思われる。
228 妹《いも》が名《な》は 千代《ちよ》に流《なが》れむ 姫島《ひめしま》の 子松《こまつ》が末《うれ》に 蘿《こけ》生《む》すまでに
妹之名者 千代尓將流 姫嶋之 子松之末尓 蘿生万代尓
【語釈】 ○妹が名は千代に流れむ 「妹」は、男より女を親しんで呼ぶ称で、ここは死者であるがゆえに懇ろに呼んでいるものと取れる。「名」は、呼名で、その土地の者にはよく知られてい、作者宮人もむろん知っていたものと取れる。「千代に流れむ」は、千年の後までも、すなわち永く言い継ぐことによって伝わろうの意。これは死者を忘れずに永く記憶することが、その霊を慰める第一の方法だったからである。○姫島の子松が末に 「子松」は、文字どおりに若松。そこは姫島の松原で、松は多いのであるが、その中の小松を選んでいったもの。「末」は、梢。○蘿生すまでに 「蘿」は、松のこけとも、さるおがせともいう。これは老松の梢に生える物としていっている。「姫島の」以下は、「千代」ということを強めるために、具象的に言い添えたものである。
(351)【釈】 妹の名前は、千年の後までも、人が言い継ぐことによって伝わってゆこう。ここにある小松が老松となって、その梢にさるおがせが生える遠い後までも。
【評】 いったがように投身して死んだ若い女の霊を慰める心をもって詠んだ挽歌で、「名は千代に流れむ」というのがすなわち慰めである。いかに挽歌とはいえ、その人に合わせてはその言葉が大げさで、不釣合の感のするものである。生活価値の大部分を夫婦関係に置いたところから、若い女の自殺ということは甚だ感傷を誘うものであったことは、人麿の歌でもわかる。この歌の心もその範囲のもので、作者宮人は、『講義』の注意しているようにその任地の関係から、嬢子の死因を聞き知って、そのためにこうした強い感傷を起こしたものと思われる。歌の調べは、細く弱いところをもち、遷都以後の風をもっている。
229 難波潟《なにはがた》 潮《しほ》干《ひ》なありそね 沈《しづ》みにし 妹《いも》が光儀《すがた》を 見《み》まく苦《くる》しも
難波方 塩干勿有曾祢 沈之 妹之光儀乎 見卷苦流思母
【語釈】 ○難波潟 「潟」は干潟のそれで、干潮の時は底をあらわす所。難波の海にはそうした所があって、集中に限りなく出ている。一句、呼びかけたもの。○潮干なありそね 「潮干」は、干潮。「な……そ」は、禁止。「ね」は、他に対して頼み望む意のもの。干潮があってくれるな。○沈みにし妹が光儀を 「沈みにし」は、「に」は、完了。投身した。「妹」は、上の歌と同じ。「光儀」は、姿にあてた漢語。○見まく苦しも 「見まく」は、「見む」に「く」を添えて名詞形としたもので、見るであろうこと。「苦しも」は、心苦しに、「も」の詠歎の添ったもの。
【釈】 難波潟よ、干潮があってくれるな。投身をした妹の姿の現われるのを見るであろうことは、心苦しいことであるに。
【評】 前の歌と同じく、強い感傷をもって死者を隣れんだもので、隣れみは挽歌の心である。憐れみというのは、当時は死穢に触れることを忌む風が甚しかったが、この歌は死穢というようなことは遠く超えて、ただいたましさに堪えられない心から、屍体の現われんことを怖れているものだからである。潮の干満のある難波潟に対して、干潮のなからんことを願い、また干潮があれば必ず屍体の現われることとしているところは、感傷のさせることである。調べは前の歌と同じである。しかし溺れた感傷をあらわし得ているものである。
霊亀元年歳次乙卯の秋九月 志貴親王《しきのみこ》の薨り給ひし時作れる歌一首 并に短歌
【題意】 「志貴親王」は、巻一(五一)およびその後にも出ている志貴皇子で、親王とあるのは大宝令継嗣令の制に、「凡皇兄弟(352)皇子皆為2親王1」とあるによったものと取れる。それだと親王は、天智天皇の第七皇子、光仁天皇の御父で、追尊して田原天皇と申した方である。しかるに、親王の薨去の事は続日本紀に明記されており、霊亀二年八月の条に「甲寅二品志貴親王薨云々」とあって、年も月も異なっているので、そこに問題が起こってくる。『攷証』は、本集の薨去の年月の方が真であるとして、理由として、元年九月は元正天皇御即位の事のあった時で、薨去のことは、事の性質上忌み憚るべきだとして、薨奏を翌年八月まで延ばしたのであろう。続日本紀に記されている時はすなわち薨奏のあった時で、本集の方が真であるといっている。『代匠記』は、薨去の年月の齟齬《そご》しているところから、志貴皇子であるかどうかに疑いを挾み、『古義』はそれをうけて、日本書紀天武紀に、天武天皇の皇子に磯城《しきの》皇子と申す同名の皇子があられる。この皇子の薨去のことは記載から漏れている。志貴親王の薨去の年月をこれほどまでに誤るべくもないから、これは磯城皇子であろうというのである。『講義』は、本集中にある志貴皇子の御歌六首は、その五まで後の勅撰集に入っているが、いずれも田原天皇御製としている。古来そう認めていたことが知られる。しかし『攷証』のいうがごとく、薨奏が一年も後れるということが当時行なわれていたかどうかすこぶる疑わしい。決定的のことはいえないと、疑いを存している。歌から見ると『攷証』の解に従うよりほかなく思われる。今はそれに従う。作者は左注によって、笠朝臣金村とわかる。
230 梓弓《あづさゆみ》 手《て》に取《と》り持《も》ちて 大夫《ますらを》の 得物矢《さつや》手《た》ばさみ 立《た》ち向《むか》ふ 高円山《たかまとやま》に 春野《はるの》焼《や》く 野火《のび》と見《み》るまで 燃《も》ゆる火《ひ》を いかにと問《と》へば 玉桙《たまほこ》の 道《みち》来《く》る人《ひと》の 泣《な》く涙《なみだ》 ※[雨冠/泳]※[雨冠/沐]《こさめ》にふれば 白《しろ》たへの 衣《ころも》ひづちて 立《た》ち留《とま》り 吾《われ》に語《かた》らく 何《なに》しかも もとなとぶらふ 聞《き》けば 泣《ね》のみし哭《な》かゆ 語《かた》れば 心《こころ》ぞ痛《いた》き 天皇《すめろぎ》の 神《かみ》の御子《みこ》の 御駕《いでまし》の 手火《たび》の光《ひかり》ぞ ここだ照《て》りたる
梓弓 手取持而 大夫之 得物矢手挾 立向 高圓山尓 春野焼 野火登見左右 燎火乎 何如問者 玉桙之 道來人乃 泣涙 ※[雨冠/泳]※[雨冠/沐]尓落 白妙之 衣※[泥/土]漬而 立留 吾尓語久 何鴨 本名※[口+言] 聞者 泣耳師所哭 語者 心曾痛 天皇之 神之御子之 御駕之 手火之光曾 幾許照而有
【語釈】 ○梓弓手に取り持ちて 梓弓を手に持つてで、弓を射る時の状態。○大夫の得物矢手ばさみ 「得物矢」は、幸矢《さちや》すなわち獲物の幸《さち》のあ(353)るべき矢の、その音の転じたもの。「手ばさみ」は、手の指に挟むこと。強い男子が矢を手の指に挟んで。○立ち向ふ 立って向かうで、連体形「向ふ」で的と続ける、その的を、下の高円の円に転じたのである。初句からこれまでの五句は、円《まと》の序詞。この序詞は、巻一(六一)「大夫《ますらを》の得物矢《さつや》手挿《たばさ》み立ち向ひ射る円方《まとかた》は見るに清《さや》けし」にならつたものと思われる。○高円山に 「高円山」は、奈良市の東にあり、春日山の南に、谷を隔てて立っている山で、聖武天皇の御代、ここに離宮を営まれたことが巻二十(四三一六)によって知られる。今の場合の高円山につき、『講義』は委しい考証をしている。志貴親王の宮は春日にあった。それは光仁天皇の宝亀元年十一月、この親王を追尊して天皇と称し奉った時の宣命に、「御2春日宮1皇子奉v称2天皇1」とあるので明らかである。また親王の御陵は田原西陵と称し、延喜式に「春日宮御宇天皇在2大和国添上郡1」とあり、現在は田原村字東金坊の東矢田原である。さて春日の地から田原西陵への順路は、春日から南へ向かい、高円山の中腹をめぐり、漸次東に転じ、東へと鉢伏峠を越えて行くのだという。すなわち高円山は親王の葬列の経過地点として捉えてあるものなのである。『攷証』もはやくこの事に触れ、「春日にをさめ奉らんとして、葬送のこの高円山をすぎしなるべし」といっている。○春野焼く野火と見るまで 「春野焼く野火」は、いわゆる焼畑をつくるために、春先、枯草を焼き払うことで、熾《さか》んな火だったのである。○燃ゆる火をいかにと問へば 燃えている火を何の火かと怪しみ訊ねるとで、問うたのは作者、問われたのは下の「道来る人」である。○玉桙の道来る人の 「玉桙の」は、道にかかる枕詞。巻一(七九)に出た。「道来る人」は、折から道をこちらへ来る人。○泣く涙※[雨冠/泳]※[雨冠/沐]にふれば 「※[雨冠/泳]※[雨冠/沐]」は中国の熟字で、小雨《こさめ》にあてたもの。諸本、文字が幾様にもなっている。「に」は、のごとく。泣く涙が小雨のごとくに落ちればで、道来る人の、作者の問いのために、悲しみを新たにして、はげしく泣き出した状態。○白たへの衣ひづちて 「白たへの」は、白いの意。「衣ひづちて」は、衣が涙のために濡れての意。「ひづち」につき『講義』は、この語の本義は、雨や露のために、衣の下部の泥土に濡れる意で、ここも涙を雨に譬えた関係から、その心をもたせたものだといっている。二句、上に続けて、道行く人の状態。○立ち留り吾に語らく 「立ち留り」は、問いを受けて、答えるために立ちどまった意。「語らく」は、「く」を添えて名詞形としたもので、語ることには。○何しかももとなとぶらふ 「何しかも」は、「し」は強め、「か」は疑問。なんだってまあというほどの意。「もとな」は、ここは、由もなくというにあたる。「とぶらふ」は尋ねるの意。原文「※[口+言]」は京大本の書入れにあり、吉永登氏の訓による。なんだつてまあ由もないことを尋ねるのかの意。○聞けば泣のみし哭かゆ 「聞けば」は、そういう問いを聞くと。「泣のみし」は、「泣」は、泣き声。「のみ」は、ばかり。「し」は、強めで、声を立ててばかりで、悲しみの甚しい意。「哭かゆ」は、泣かれる。○語れば心ぞ痛き 「語れば」は、問われることのわけを語れば。「心ぞ痛き」は、悲しみの甚しさに、心が痛くなることであるよ。○天皇の神の御子の 「天皇」は、皇祖より歴代の天皇をこめ奉った広い意のもの。「神」は、そうした御方々は神に坐《いま》す意のもの。「御子」は、親王で、天皇の神の御子にまします御方と、志貴親王を讃えての称。○御駕の手火の光ぞここだ照りたる 「御駕」は、尊貴の御方の他行の意で、ここは親王の御葬送を婉曲にいったもの。「手火」は、松明《たいまつ》で、御葬送の夜は、松明を照らしてすることとなっていた。「ここだ」は、多く。「たる」は、連体形で、「ぞ」の結び、照っていることであるよの意。
【釈】 梓弓を手に持ち、強い男子が幸矢《さつや》を指に挾んで、立ち向かうところの的の、その的という高円山に、焼畑をつくるために春先の野の枯草を焼く野火かと見るまでに熾んに燃えている火は、一体何の火なのか訝とって訊ねると、道を来かかる人の、我に問われるままに、泣く涙を小雨のように降らせるので、その白い衣も濡れて、立ちどまって我に答えることには、なんだって(354)まあ由もないことを尋ねるのであるか、そういうことを聞くと、悲しさに声ばかり立てて泣かれる、わけを語れば悲しさに心までも痛くなることであるよ。あれは天皇《すめろぎ》の神の御子なる畏い御方の悲しい御駕《いでまし》の松明の光が、あのように多く照っていることであるよ。
【評】 挽歌は世を去った人に対して、その事を悲しみ、その人を忘れまいといって、霊を慰めることを目的とするものである。直接にその霊に訴えるか、あるいは間接にわが心としていうかの差はあるが、いずれにもせよ慰めを旨とした抒情のものである。しかるにこの歌は、それらとは類を異にしているものである。ここに扱っているものも、志貴親王に対する悲しみの範囲のものではあるが、親王に訴えるものでもなく、自身の悲しみでもなく、単に他人の悲しみを見せられ聞かされているというきわめて間接なもので、挽歌の本旨からは甚しく遊離したものである。表現もまた、挽歌の唯一の方法であるべき抒情ではなく、叙事の範囲のもので、叙事という中にも、むしろ劇的なものでさえある。それは、暗夜の路上に、高円山に怪しくも燃えている火を望んで、何の火だろうと訝る一人と、折から来かかって、その人の疑問に対して、その火の性質を泣きながら説明する他の一人との対話という構成にしているものだからである。志貴親王の薨去という、当時にあっては大きな事件を、暗夜の山上の手火という一些事に集中してあらわそうとし、またその山上は、『講義』の考証によって知られるように、葬列の経過する一地点にすぎないので、いかに印象を主としたものであるかが知られる。これは劇的な構成と称し得られるものである。最も抒情的であるべき挽歌を、最も散文的にし、同時に、最も宮廷的であるべき事件を、庶民的な扱いをしたもので、挽歌としては際やかな推移を示しているものというべきである。
短歌二首
(355)231 高円《たかまと》の 野辺《のべ》の秋萩《あきはぎ》 いたづらに 咲《さ》きか散《ち》るらむ 見《み》る人《ひと》なしに
高圓之 野邊秋芽子 徒 開香將散 見人無尓
【語釈】 ○高円の野辺の秋萩 「高円の野辺」は、高円山の西麓の緩やかな傾斜であろうと『講義』はいっている。萩の花の名所であったとみえ、集中の歌に多く出ている。「秋萩」は、四季を通じてある萩であるから、花を意味させるために「秋」を添えたもの。○いたづらに咲きか散るらむ 「いたづらに」は、甲斐なくで、その意は下にいっている。「咲きか散る」は、「か」は疑問で、咲きまた散るであろうかで、咲くも散るも趣のあるものとしていっている。○見る人なしに 「見る人」は、鑑賞する人で、ここは志貴親王をさしている。そのことは長歌との関係であらわしている。親王の宮が高円の野に近かつたのである。
【釈】 高円の野辺の秋萩の花は、甲斐なくも咲きまた散るであろうか。今はその趣を愛《め》でたもう人すなわち親王もなくて。
【評】 親王の薨去は「秋九月」であるから、萩の花の季節である。また「見る人なしに」は親王をさしているもので、それでないと足りない語《ことば》であるから、上の長歌の反歌であることは確かである。しかし長歌との関係から見ると、親王の宮が高円にあることは長歌に明らかに出てはいないので、その上から見ても飛躍がありすぎ、したがって関係の稀薄になっているものである。長歌と反歌とが緊密な関係を保っているのは、人麿時代までで、それ以後になると、憶良、赤人などの歌でも、この歌のような状態を示している。思うに短歌が盛んになり、反対に長歌は衰えて、短歌が時代的に中心となってきたことの反映であろう。この歌も、長歌との繋がりはもっているとはいえ、作者の心を第一に動かしたのは、高円の野辺の秋萩であって、自然の美観である。親王は、その美観のいたずらなるものとなるを惜しむ心から、その繋がりとなられているにすぎないものとなっている。挽歌が、自然の美観のいたずらになるのを惜しむ心から詠まれるということは、歌が生活実感から遊離したことを示すことで、時代的に見て注意されることである。
232 御笠山《みかさやま》 野辺《のべ》往《ゆ》く道《みち》は こきだくも 繁《しげ》く荒《あ》れたるか 久《ひさ》にあらなくに
御笠山 野邊徃道者 己伎太雲 繁荒有可 久尓有勿國
【語釈】 ○御笠山野辺往く道は 「御笠山」は、春日神社の裏にある山で、上の高円山の北にあたっている。「野辺」は、御笠山の野辺で、御笠山が春日の内であるから、野は春日野である。「往く道」は、野の中を行く道で、この道は志貴親王の宮へ続く道とわかる。○こきだくも繁く荒れ(356)たるか 「こきだく」は、数の多いことをいう語であるが、今は甚しくの意で用いている。「繁く」は、「繁《しじ》に」「しげり」とも訓める。草の繁っている状態をいったもの。「か」は、詠歎。○久にあらなくに 「久に」は、久しいことではの意で、親王薨去以後の時をいったもの。「あらなく」は、名詞形としたもの。「に」は、詠歎。
【釈】 御笠山の麓の野を行く道は、甚しくも、草が繁って荒れていることであるかな、親王の薨去後久しいことでもないことなのに。
【評】 志貴親王の春日の宮への通路に立って、薨去後たちまちにして、その路に草の繁ってきたことを嘆いた心である。親王薨去とともに宮は住み棄てられ、したがって往来も絶え、野の路はたちまちにして荒れてきたとみえる。上の歌と同じく、長歌との関係において解される歌で、反歌の性格をもったものである。この歌は、宮の荒廃することを悲しむ心のもので、前の歌に較べると挽歌の心が直接で、したがって濃厚である。しかしその心は個人的の感傷で、親王に及ぼしてゆこうとするまでの心はないものである。挽歌を作る態度の上の推移が思われる。
右の歌は、笠朝臣金村の歌集に出づ。
右歌、笠朝臣金村歌集出。
【解】 「右の歌は、笠朝臣金村の歌集に出づ」という注につき、『講義』は注意すべき問題を提出している。要をいうと、巻一、二を通じて、ここに見るような注をしてあるのは、まず本《もと》として立てた歌があり、他にもそれに類似のあった場合に、「或本に」、あるいは「一本に」として、参照のためにあげたもののみである。しかるにこれは、本説として立てたものがなくして添えてある注である。一方、笠朝臣金村の歌集の歌は、集中に何首かあり、年代の明らかにして最後のものは、「天平五年春閏三月入唐使に贈れる歌」(巻八)があり、結集はその後のこととみなければならない。この注が原《もと》より存していたものとすると、巻二の撰定は天平五年以後ということにならざるを得ない。ここに三つの問題が起こる。一は、この歌は原より存し、左注だけが後人の加えたものとする考え。二は、歌も左注も原本にはなくてすべて後人の加えたものとする考え。三は、歌も左注も原より存したものとする考えだというのである。これは急には定められない問題である。最も想像されやすいことは、三つの中の最初の一で、本巻の撰者がこの歌を取った時には、歌が志貴親王の挽歌であるという、皇室に関係のあるものということを理由として取ったのであって、作者は不明だったのではないかと思われる。題詞にも目録にも作者名のないことがこれを思わせる。また、これに続く「或本の歌」のごとく、反歌に異伝があり、その異伝の原歌よりわかりやすいものになっているところから見て、この歌は口承され流布していたもので、撰者はそれによったのではないかということも思わせられる。すなわちこの歌は、歌の性質によ(357)つて取られたもので、作者の何びとかということは問題にされなかったのではないかと思われるのである。しかるに後年、笠朝臣金村歌集が結集され、それによると金村の作であることがわかったので、発見の興味と、その必要をも感じたところから、いま見るごとき左注を加えたのではないかと想像される。そう想像するのが自然に思われるが、これを証明することは困難である。
或本の歌に曰はく
233 高円《たかまと》の 野辺《のべ》の秋萩《あきはぎ》 な散《ち》りそね 君《きみ》が形見《かたみ》に 見《み》つつしのはむ
高圓之 野邊乃秋芽子 勿散称 君之形見尓 兄管思奴播武
【釈】 高円の野の秋萩よ、散ることはするなよ。親王《みこ》の形見として、いつまでも見つつ親王を偲びまつろう。
【評】 (二三一)を詠みかえたものであるが、三句以下は、対象が萩の花であるために、甚しく感傷的なものに感じられる。こうした感傷は、春日の宮に仕えていた人で、しかも女性ででもなければしないものに思われる。とにかく長歌との関係は、全然顧みないものである。(二三一)の歌が口承されているうちに起こった変化と思われる。
234 三笠山《みかさやま》 野辺《のべ》ゆ行《ゆ》く道《みち》 こきだくも 荒《あ》れにけるかも 久《ひさ》にあらなくに
三笠山 野邊從遊久道 己伎太久母 荒尓計類鴨 久尓有名國
【釈】 三笠山の野から春日の宮にと往く道は、甚しくも荒れてしまったことかな。親王《みこ》薨去の後久しいことでもないのに。
【評】 (二三二)とは、二句「野辺往く道は」が、「野辺ゆ行く道」となり、四句「繁く荒れたるか」が、「荒れにけるかも」となって、いずれもわかりやすいものになっている。この変化は上の歌と同じく、口承された結果、平明化してきたためと思われる。
窪田空穗全集 第十三卷 萬葉集評釋T
昭和四十一年一月十五日 初版發行
定價二〇〇〇圓
著作者 窪 田 空 穗
發行者 角 川 源 義
印刷者 中内 あ き子
發行所 【株式會社】角 川 書 店
東京都千代田區富士見町二ノ七
振替 東京一九五二〇八
電話東京(【265】)七一一一(大代表)
(6)萬葉集 巻第三概説
本巻に収められている歌は、その数からいうと二百五十二首という相応の量に上るものである。『国歌大観』の番号によると(二三五)より(四八三)にあたるのである。
歌形からいうと、長歌と短歌とであって、旋頭歌は一首も含まれていない。その割当てからいうと、長歌は二十三首であって、他はすべて短歌である。これをこの巻に先行する巻第一、二に較べると、長歌が減って短歌が著しく増しているのである。これは本巻の歌の詠まれた時代の影響であって、言いかえると巻第一、二よりも時代が降っていることを語っているものである。
なお、この歌数については言い添えるべきことがある。それは本巻には明らかに重出歌が一首あり、また、一つの歌の伝《つたえ》を異にして、部分的に幾分かの相異のあるにすぎないものの若干がある。これらも上の歌数の中に加わっているのである。重出歌は明らかに誤りであるが、異伝の歌は、独立した歌と見る方がむしろ自然である。それというが、いずれは記載されて伝わった歌で、その意味では記載時代といえるが、同時に一方には口承の風が加わっており、口承歌はそれの行なわれる時と処の相異によって、当事者にふさわしいように改作されるのが普通である。これは一種の創作であって、その当時者はおそらくは誇りをもってしていたことでもある。本来、口承歌は、たえず流動していて定形を保ち難いということがその性格であるから、いずれを真、いずれを偽とは定められないものだからである。
本巻撰修の方針は、本巻とこれにつぐ巻第四とを一纏《ひとまと》めとし、巻第一と二とを規模とし、一にそれにならい襲おうとしているものである。これを部立の上でいうと、巻第一と二が、両卷を通じて「雑歌」「挽歌」「相聞」に当てているのと同じく、巻第三と四もそれをし、また、巻第一、二が歌の排列は年代順によっているのにならい、これも同じくそれにより、さらにまた、巻第一、二が、作者はその名の明らかなる者に限ろうとし、それも高貴の御方を主としようとしたのに、これも同じくそれによろうとしているのである。しかし時代の相異と、蒐集《しゆうしゆう》しうる資料の相異とは、その結果において、ある程度の相異はきたさしめているのである。
部立の上で対比させると、巻第一は、全部を雑歌に当てているのに、こちらは、「雑歌」「挽歌」、それに加うるに、「相聞」の一部の「譬喩歌」を当てて、細かく分類している。これだけでは相通うところがない形であるが、それの代わりとして、巻第二の「相聞」「挽歌」に当てているのに対し、巻第四は、全部を「相聞」に当てて、その埋合わせをしているのである。すなわち両卷を三部に当てているという建前は同様であって、こちらは新たに「譬愉歌」という部を設けている点が異なるのみである。
(7) 「譬喩歌」という名称は、新しい部立であるがゆえに説明を要するものであるが、単にそれのみではなく、万葉集時代としては最盛の時期である奈良京時代の歌風を語る上には、重大なる関係をもつものであるから、かたがたここで概説をする。
「譬喩歌」の譬喩という語は、おそらく本卷の撰者の初めて用いたところのものであり、その譬喩は、広く万事にわたっていうものではなく、恋愛の感情を、自然の形象あるいは器物などに寄せていうに限られた名称なのである。この譬喩ということは、これを発生的に見ると、きわめて自然なものであり、したがってきわめて古いものでもある。本来恋愛の感情は、男女互いにもち合う漠然たる憧れの気分であり、その強いものであるにもかかわらず、とらえて語《ことば》とするには最も困難なものである。しかし上代の結婚にあっては、男女互いにこれを詠出する必要があって、せずにはいられなかったのである。その緊張した気分で、自然の風光、身辺の器物に対していると、その上にわが気分と通うもののあることを発見し、その対象にわが気分を絡ませていうことによって、初めてその気分を具象し得たのである。上代の相聞の歌には、その跡をありありと示しているものが少なくはない。この結果に名づけて譬喩というのは、後世の文芸意識よりのことであって、当時者によってはその譬喩は、文芸的のものではないのみならず、方便でもなく、ただちに目的であって、心と物と相一致したものであり、実際であるとともに心でもあったのである。これがいうところの譬喩の発生的に見た輪郭である。さらにこれを実際の成行きについて観《み》ると、「譬喩歌」という部は後の巻第七にもあり、そこには柿本人麿の歌が、この部立の中に取られて多くある。さらにまた巻第十一には、「物に寄せて思を陳ぶる歌」という、「譬喩歌」ということを更に説明的にした部分けがあり、そこには、同じく柿本人麿の歌がじつに多くその中に取られているのである。「譬愉歌」という名称は後のものであるが、事実としては奈良京以前にすでに盛行してさえいたのである。それらの譬喩は、人麿の偉大なる文芸性によって扱われ、美しく微妙なものになっているが、しかしそれを用いている人麿の態度は、発生的の意味でいう譬喩に即したもので、いささかの揺《ゆる》ぎもないものである。すなわち人麿は譬喩に即して自身の恋愛感情をあらわしており、譬喩がすなわち恋愛感情であり、その譬喩をいいおおせることが目的となっているのである。以上のごとき譬喩が、「譬喩歌」という名称のない以前の譬喩であり、これを文芸意識の上からいうと、無意識なものであり、譬喩以前のものだったのである。
時代が降って奈良京に入ると、当時の人、あるいはそれを繞っている人々の生活気分は著しく変わってきた。飛鳥京、近江朝以来、憧憬し翹望《ぎようぼう》していた時代は現実として眼前に現われ、人々の実生活は、以前に較べるとはるかに物資豊かに、また容易に遂行されるものとなってきた。国家的の不安も解消し、人人は泰平を保証されるに至った。こういう状態の下にあると、国家に対し、また自身の生活に対して、緊張した精神をもって協力する必要は薄らいでき、弛緩してくる。これは具体的にいうと、集団精神が衰え、個人精神が昂まってくることである。(8)さらに一方には、仏教の興隆は、寺院の荘厳をとおして人々の耽美心《たんぴしん》を刺激する上に、漢文学の盛行は、わが国人をして、外国の詩形である漢詩を自由に作り、多くの名手を出すまでに至ったのである。和歌がそれら諸情勢の影響をこうむり、個人性を重んじ、耽美性を尊むものとなってきたのは当然の成行きというべきである。これを具体的にいえば、従来は生活態度の延長として、実際を重んじ、それに即して詠むことを性格としていた和歌は、同じく実際とはしつつも、それの醸し出す美的気分のみを偏愛し、それをわが心内に引きつけ、わがものとし、そこから和歌を詠み出すように変化しきたったのである。恋愛は人間本能の中の最も普遍性をもったものであり、また享楽を目的としているものである。これは美化するということは、心の諸相のうち、最も願わしく望ましいことである。恋愛気分を四季の風物の中の最も美しく、また最もあわれなるものによせ、また身辺の愛用している器物によせていうことは、美化するのみならず朧化《ろうか》し、一般化することである。従来あったものにしてその名のなかった譬喩に、漢詩文と等しなみに譬喩の名を与え、「譬喩歌」という部を特に設けるということは、時代性の反映であり、また得意としたところであろうと思われる。
さて、以上の三部立と、歌の割当てを見ると、「雑歌」は百五十八首、「譬喩歌」は二十五首、「挽歌」は六十九首である。「譬喩歌」は少数であるが、これは巻第四の全部が「相聞」であることを背後に置いての数である。「挽歌」は、衰えてはいるけれども、相応の数というべきである。
撰者は、誰かということは、重大な問題であるが、本巻は、大伴家持であることが定説となっている。その根拠となることは、本巻はいったがごとく巻第四と不可分の関係にあるのであるが、その巻第四には、大伴家持が数多の女性より贈られた恋の歌が、集を通じて他の誰にも見られないまでに多く採録されている事実である。相聞といううち、恋の歌は、その当事者が知っているのみで、第三者にはうかがい知り難い性質のものである。それをきわめて多く採録するということは、当事者にして、また歌を文芸として酷愛する人でなければできないことである。また、巻第三、四の撰修された時期と、それらの女性の作歌をした時期とは、さして隔たってはいないとみえるので、それが世間に流布《るふ》する暇もなかったろうと思われる点も加わって、撰修者は家持以外の人ではなかろうと推定されているのである。今はこれに従うのほかはない。
歌の排列は、いったがごとく巻第一にならって年代順とし、また巻首、部立の最初は、いずれも巻第一にならって、最も古くして、高貴なる御方としようとしている。しかし本巻の撰修にあたって家持の獲た資料は、「挽歌」の首位に据えたのは、(四一五)「上宮聖徳皇子、竹原井《たかはらのゐ》に出遊《いでま》しし時、竜田山の死人を見て悲み傷みて御作《つくりませる》歌一首」と題した、「家にあらば妹が手纏かむ草枕旅に臥《こや》せるこの旅人《たびと》あはれ」である。これは日本書紀、推古紀二十一年の条に出ている、皇子が片岡に出でまし、道側に飢え伏している人を御覧になって詠ませられた長歌と歌因を同じゅうしているものと思われ、一事二伝ではないかといわれている。それとすると、歌形を異にしているという事は、その距離の甚しいものである。撰者としての家持がこれを探ったのは、もとよりしかるべき伝本によってのことと思われる。いつの代にできた異伝であるかはわからないが、永い時代がそれを承認しきたっていたという上からは、これを歴史的事実と認めたとしても、訝《いぷか》るにはあたらないことである。とにかく、古くして新しいものは得難かったのである。これをほかにすれば、「雑歌」の首位の、(二三五)「天皇、雷岳に遊びましし時、柿本朝臣人暦の作れる歌一首」であり、「天皇」は持統天皇にましますと推定されている。これを時代の確実なるものの初めとすれば、以下しだいに降って、「雑歌」にあっては、その年紀の明らかなものは、終わりに近く、(三七九)「大伴坂上郎女」の「祭神の歌」の天平五年十一月、「譬喩歌」は、天平初期のものと思われるだけで年代は不明、「挽歌」では、(四八一)「死せる妻を悲傷《かなし》みて、高橋朝臣の作れる歌」の、天平十六年七月に至っている。
本巻はいったがごとく、作者の明らかな歌を取ることを建前としているが、その作者は七十余名である。代表的な作者は、柿本人暦、高市黒人、長奥暦、大伴旅人、山部赤人、大伴家持などであり、女流としては、持統天皇を初め、大伴坂上郎女である。本巻は皇族の御歌が少ないのであるが、これは撰者家持の手の及ばず、得難かったためと思われる。なおこれらの作者を年代的に大別すると、奈良遷都以前の人、遷都前後にまたがった人、遷都後の人であるが、遷都以前の人はその二割にすぎず、他の八割は遷都後の人なのである。これは巻第四にも通じてのことで、この両巻の歌風をも暗示しているものである。
最後に、本巻に現われている歌風について概言すべきであるが、それは上の「譬喩歌」の解でほぼ尽くしているがごとく思われるから、ここでは繰り返さないこととする。要するに本巻の歌風は、奈良遷都前の二割の作者の歌風と、遷都後の八割の作者の比較であって、その二割の歌の八割の歌に推移しきたった跡が、すなわち本巻の歌風なのである。撰者家持は、敏感にその推移の中心をとらえ、これに「譬喩歌」と命名したのである。しかしいったがごとく、それに恰当《こうとう》する数は少なく、「譬喩歌」は新たなる憧憬の目標だったのである。そのいかに進展したかは、本巻以下の立証することである。
なお、歌風の上で、特に注意される一事がある。それは連作の歌の、意識的に、強力に開展してこようとしていることである。その著しい例は、(三三八――三五〇)「大宰帥大伴卿、酒を讃《ほ》むる歌十三首」と題する連作である。十三首というがごとき多数の連作は、従前にはなく、ここに初めて見るものである。
連作の歴史は、文献的には古事記、日本書紀の歌謡にまで溯りうるもので、索《もと》め難くはないまでのものである。それらはかりに制作年代に疑いがあるとしても、記紀撰述以前のものであることは確実である。短歌という形式が抒情に通するものとして愛用されるに至った時代、一首の短歌ではその情が尽くせずとしてあきたらず思い、いま一首をそれに連関して詠むということはきわめて自然なことであり、さらにいま一首を詠み添え(10)るということもありうることである。この連作を意識的に試みたのは柿本人麿である。そういう場合には人麿は、抒情的叙事ということを念頭に置き、叙事的進展を試みたので、長歌に代用させようとしたごとく見える。それにしても、その最大量は、巻一(四六−−四九)の四首である。しかるに、上にいう大伴旅人の十三首は、旅人が欝情《うつじょう》に堪えきれず、それにより脱れる術《すべ》として飲酒をした際の、その酔中の心情の起伏を叙したもので、純粋な抒情的なものであり、またあくまでも個性的なものでもあって、文芸ということは全く思料に上せていないかのごとく見えるものである。こうした歌は、歌は集団的のものであり、集団に通じなければならないものとしていた時代にはあり得ないものであって、集団から解放され、個人性をほしいままにすることが是認された時代に入って、初めて存在するものである。これは「譬喩歌」とは全然傾向を異にしているものであるが、その母胎は個人性の確保されての上のことであって、同腹の関係にあるものというべきである。この傾向は、さしたる展開は遂げなかったが、しかしある程度までは継承されるものとなっている。これも明らかに奈良京の歌風の一面である。なおこの傾向は、反面から観れば、短歌の叙事化であって、言いかえれば散文化である。それとしての展開は、本巻には見られないが、後の巻には有力に現われるものとなっている。
(11)萬葉集巻第三 目次
雑 歌 20
天皇、雷岳に遊びましし時、柿本朝臣人麿の作れる歌一首 20
天皇、志斐嫗に賜へる御歌一首 23
志斐嫗の和へ奉れる歌一首 24
長忌寸意吾暦、詔に応ずる歌一首 25
長皇子、猟路池に遊び給へる時、柿本朝臣人暦の作れる歌二首
井に短歌 26
或本の反歌一首 29
弓削皇子、吉野に遊び給へる時の御歌一首 30
春日王の和へ奉れる歌一首 31
或本の歌一首 32
長田王、筑紫に遺され、水島に渡る時の歌二首 33
石川大夫、和ふる歌一首 名闕く 34
又、長田王の作れる歌一首 35
柿本朝臣人麿の覊〔馬が奇〕旅の歌八首 36
(20) 雑歌
天皇、雷岳《いかづちのをか》に遊びましし時、柿本朝臣人麿の作れる歌一首
255 皇《おほきみ》は 神《かみ》にしませば 天雲《あまぐも》の 雷《いかづち》の上《うへ》に 廬為《いほりせ》るかも
皇者 神二四座者 天雲之 雷之上尓 廬爲流鴨
【題意】 「天皇」は御称号がないので、いずれの天皇にましますかがわからない。思うにこれは、原拠となった記録にこのようにあったのを、そのままに採録したもので、その原拠のものは、事、当代であるがゆえに詳しく記すに及ばないとしたのであろう。それだとその記録は、作者人麿の生存した時代でなくてはならない。人麿は持統、文武両朝の人であるのと、またこの巻は大体年次を逐って排列してあり、これにつぐ歌は女帝でましますところから推して、天皇は持統天皇であろうとされている。「雷岳《いかづちのをか》」は、訓は『考』によるものである。この岳は、いま高市郡明日香村|字《あざ》雷にあり、それについては、日本書紀、雄略紀七年に記録があって、初め三諸岳《みもろのおか》と呼んでいたのを、名を賜わって雷岳としたとあるので明らかである。そこは浄見原宮からも藤原宮からも幾何《いくばく》の距離もない地である。歌は天皇がその岳に行幸になられた時、そうした際の風として人麿が作ったところの賀の歌である。
【語釈】 ○皇は神にしませば 「皇《おほきみ》」は、『考』の訓。旧訓「すめろぎ」。これは当代の天皇を称し奉った語であり、一国の治者、すなわち政治上の君主の意で申したものである。「神」は、天皇を皇祖天照大神の御子として、大神と同じく神にましますとしての称である。「し」は、強め。「ませば」は、敬語である。大君はまさしくも神にましますのでというので、二句、天皇に対しての讃え詞であって、この当時すでに成句となっていたものである。巻一、二の長歌にしばしば出た「八隅知し吾が大王、高照らす日の御子」という讃え詞と、内容としては全く同じものである。短歌が時代の下るとともに盛行し、従来の讃え詞は形式として用い難くなった関係上案出されたものと思われる。なおこの系統の詞として、「現つ神」「現人神」がある。○天雲の雪の上に 「天雲の」は、天の雲のの意であるが、下の「雷」の居場所としていったもので、天の雲の中にいるの意で、雷の枕詞としたもの。「雷」は、上よりの続きは鳴神《なるかみ》ともいわれている雷であるが、それを雷岳としての雷に転義したもの。「上に」は、雷岳の頂上にの意。二句、天の雲の中にいる雷の、その雷という名を負っている雷岳の頂上にの意。「雷」は、転義させてあり、またそれであればこそ、「天雲の」は枕詞という形のものとなっているのであるが、作意から見ると、その転義がなく、文字どおり「天雲の雷」そのものなのである。(21)形としては転義したごとくにし、心としてはしていないという、その微妙な点が人麿の志したところであり、それがまた一首の眼目ともなっているのである。しかしこのことは、この当時にあっては、必ずしも技巧と称すべきものではなく、むしろ常識であったと思われる。それは上にいった雄略の巻によると、雷岳に坐《いま》す神は怖るべき蛇《おろち》であり、鳴神《なるかみ》もまた蛇だったのである。また神の坐す山は、山そのものも神であると信じられていたので、「天雲の雷」と、雷岳としての「雷」とは、信仰の上からはほとんど差別のないもののごとく感じていたことと思われる。もっとも時代的にいうと、信仰そのものも推移をまぬかれず、上代信仰はしだいに衰える傾向を取っていたとはみえるが、この場合、事としては天皇の行幸の際であり、歌はそれに対する賀歌であり、詠む者は上代信仰の保持者である人麿であるから、この二句の心は、厳存の事実として、安んじて言いえたものと思われる。○庵為るかも 「廬」は、かりそめの家に宿ることをあらわす名詞。「為《せ》る」は、『槻落葉』の訓。旧訓「する」。「せる」は、「しある」の約で、事の継続している状態をあらわすもの。「かも」は詠歎。ここは、かりの御座所を設けて、そこにいさせられることよの意で、お慰みの意をもって国見をしていらせられることを、距離をおいて申した語。
【釈】 大君はまさしく神にましますので、天雲《あまぐも》の中にいる雷《いかずち》の、その雷岳《いかずちのおか》の上に、かりそめの御座所を設けて、その内にいさせられることであるよ。
【評】 天皇を賀する心をもって、御稜威《みいつ》を誘えた歌である。上代にあっては、天皇の御稜威の最も際《きわ》やかに現われているのは、この国土に鎮まるあらゆる神々が、天皇に対しては臣としての礼をとり、その貢《みつぎ》を献じ、その力を奉るところにあるとした。巻一(三八)「吉野宮に幸しし時、柿本朝臣人麿の作れる歌」、また(五〇)「藤原宮の※[人偏+殳]民の作れる歌」は、いずれも山の神、河の神のこの事をするさまをいっているものである。更にまた、巻五(八九四)「好去好来の歌」は、ひとりこの国土の内のみならず、遠き海原をうしはく神々も、天皇の御使の乗る船を、みずから力を労して護ることをいっているのである。神は無上の力をもっているものと信じていた時代に、天皇はその神々を帰服せしめていらせられるということは、まさに絶対の尊さだっ(22)たのである。この歌はその信仰を下に踏んでのものである。「天雲の雷」は、「語釈」でいったがように、上代にあっては怖るべき神であった。しかるに天皇は今、その「雷の上に廬為る」という状態を示していらせられるのである。これは御稜威の積極的な現われというべきであるとし、それを捉え、それを中心として一首を成しているのである。「天雲の雷の上」という言い方は、形式から見れば文芸的のものとみえるが、精神としては文芸以前のもので、神の神たる天皇の御稜威をあらわそうとしていっているものであり、その文芸的の方面は、付属にすぎないのである。この、形式としては文芸であるが、精神としては文芸以前のものであり、しかもその関係は微妙であって、一見分かち難いものとなっているところに、人麿の国民としての態度はしばらくおき、歌人としての技倆が現われているのである。「皇は神にしませば」は成句であるが、この場合、その下に対しての繋がりは緊密を極めたものであり、また、お慰みの心をもっての国見を「廬為るかも」と、尊崇の心より距離をつけ、温藉《おんしや》の心をもって具象している技倆も、いずれも秀抜とすべきである。
右、或本に云ふ、忍壁皇子《おさかべのみこ》に献れるなり。その歌に曰はく、王《おほきみ》は 神《かみ》にしませば 雲隠《くもかく》る いかづち山《やま》に 宮敷《みやし》きいます
右、或本云、獻2忍壁皇子1也。其歌曰、王 神座者 雲隱 伊加土山尓 宮敷座
【語釈】 ○右、或本に云ふ一本は伝を異にして、忍壁皇子に献ったものとなっているというのである。○忍壁皇子 巻二(一九四)に出ており、天武天皇の皇子である。○王は神にしませば 当時成句となっており、天皇より皇子にも及ぼしたものと取れる。○雲隠る 「雲隠る」は、「隠る」は古くは四段活用であって、これは連体形である。雲に隠れているところのの意で、下の「雷」の状態をいったものである。上の歌の「天雲の」と内容は同じであるが、それを説明的にしたものである。○いかづち山に 「雷」を山の名としてのそれに転義したもので、この点も上の歌と同様である。したがって「雲隠る」は、形としては枕詞であるが、心としては必要な修飾であって、この関係もまた上の歌と同様である。○宮敷きいます 「宮」は、天皇、皇子など、神とます方《かた》のいます所の称で、上の歌の「廬せる」という御座所も宮である。「敷き」は、「知り」と同義で、ここはお営みになること。「います」は、いる意の敬語。
【釈】 大君はまさしく神にましますので、雲の中に隠れている雷、その雷という名の山に、宮を営んでいさせられる。
【評】 この歌は、上の歌とは題詞を異にしており、歌の語もかなりまで異なっているので、伝を異にしたものというよりも、むしろ別の歌と見るべきものである。これを伝の異なったものとのみ見たのは、一首の内容の近似していることを理由としてのことと思われる。忍壁皇子は持統天皇の御代の方であるから、上の歌と何らかの関係のあるものと見てのことかもしれぬが、(23)それはわからないことである。内容が近似しているとはいうが、それは単に素材のみのことで、双方のもつ抒情味の上には大きな相違がある。上の歌は精神力の緊張をもち、したがって躍動があり、全体として立体感の深いものであるが、この歌は抒情味より叙事性の勝ったもので、平面的な感をもったものである。その上より見ると、異伝というより本質の異なったものである。これを異伝と見たのは撰者の見である。『国歌大観』は番号を付していない。
天皇、志斐嫗《しひのおみな》に賜へる御歌一首
【題意】 「天皇」は、上の歌に時代的に続けていると思われる点、また御製が女帝にましますと思われる点、さらにこれに続く歌が文武天皇の御代と思われる点などから、持統天皇であろうとされている。「志斐嫗」は、いかなる人であるかわからない。志斐は氏で、嫗は老女の通称であるとわかっているだけである。その氏というのは、『新撰|姓氏録《しようじろく》』に、天武天皇の御代、大彦命の後である阿部名代が、阿倍志斐連なる氏姓を天皇より賜わったことが載っているので、それによって知られるのである。御歌は御製とあるべきである。
236 不聴《いな》といへど 強《し》ふる志斐《しひ》のが 強語《しひがたり》 このごろ聞《き》かずて 朕《われ》恋《こ》ひにけり
不聽跡雖云 強流志斐能我 強語 比者不聞而 朕戀尓家里
【語釈】 ○不聴といへど 「不聴」の「聴」は、聴許と熟するそれで、ゆるすの意のもの。義訓である。否《いな》の意で、用例の多い語。否、聞かずというけれどもの意。○強ふる志斐のが 「強ふる」は、強いて聞かせようとする意。「志斐の」の「の」は、東歌にだけ例のあるもので、巻十四(三四〇二)「背なのが袖もさやに振らしつ」、同(三五二八)「妹のらに物いはず来にて」を見ると、親しんでいう際に添えて用いる詞であろうという。○強語 強いて聞かせようとしてする物語の意と取れる。こうした語《ことば》の存在するのは、一方には聞かせなくてはならないこととして物語をする人があり、同時に一方には、そうした物語を聞くことを好まない人とがあって、そのために成立った語と思われる。またそうした物語は、単なる興味のものではなく、何らかの必要をもったものでなくてはならない。その上からいうと「語《かたり》」という語は語部《かたりべ》の語《かたり》を連想させるものである。語部の語ったことは、日常生活の上で心得ておかなければならない事柄の根幹をなすもので、古事記、日本書紀の資料となったものと範囲を同じゅうするものと思われる。志斐嫗はそうした物語をすることを職としていた者ではないかと想像される。○このごろ聞かずて しばらくのあいだ聞かないので。嫗が宮に参らなかったためと取れ、したがって嫗は直接に宮にお仕え申してはいなかった者と取れる。○朕恋ひにけり 「朕」は、天皇の御自称に限った文字。「恋ひにけり」は、「に」は完了。恋しがっていたことであるよの意で、恋しがられたのはその「強語」である。
【釈】 否、聞くまいというけれども、しいて聞かせるところの志斐のが強語よ。この頃は開かずにいるので、朕《われ》は恋しがってい(24)たことであるよ。
【評】 この御製を嫗に賜わったのは、嫗の和《こた》え奉る歌とあわせてみると、嫗がしばらく間《あいだ》をおいて宮に参り、天皇に謁を賜わった時であったと思われる。口頭をもってする言葉の代わりに歌をもってするというのは上代の風で、これもその範囲のものであるが、歌をもってするのは、何らかの意味において、そうする必要のある場合に限られたことと思われる。この御製は、必要というほどのものは認められず、善意をもってのお戯れで、興味よりのものと思われる。これは歌が文芸的となってき、時代とともにそれがしだいに濃厚になってきていたためと取れる。お戯れというのは、嫗を前にした、「不聴といへど強ふる志斐のが強語」と、揶揄《やゆ》なさったところにある。しかし一首の中心は、結句の「朕《われ》恋ひにけり」にあって、「恋ひ」というのは、表面は「強語」であるが、裏面は嫗その人に対しての御心もこもっているものと思われる。すなわち上の揶揄はこの好意をお示しになるためのものなのである。これはいわゆる語の機知に属するものであるが、それによって好意の限度をお示しになり、そうした際にも御身分の隔りをおつけになっているもので、含蓄をもったものである。「強ふる志斐のが強語」と、「し」の頭韻を踏んでいられるのは、おのずからにそうなったものと思われるが、無意識のものとは思われない。全体がおおらかに、温かく、客観性を十分にもたせていらせられるところは、尊貴の御歌風で、それに上の微細感を溶かし込まれているものである。
志斐嫗の和《こた》へ奉れる歌一首 嫗の名未だ詳ならず
237 不聴《いな》といへど 話《かた》れ話《かた》れと 詔《の》らせこそ 志斐《しひ》いは奏《まを》せ 強話と言《しひがたりの》る
不聽雖謂 話礼々々常 詔許曾 志斐伊波奏 強話登言
【語釈】 ○不聴といへど 上の歌と同じ。○話れ話れと詔らせこそ 「話」は、かたるの意をもった字で、典故のあるもの。「詔らせ」は、「のる」の敬語で、「のる」は告ぐる。「詔らせこそ」は、已然形よりただちに下に接続する古格のもので、後世の詔らせばこそにあたるもの。○志斐いは奏せ 「志斐い」の「い」は、主格に添えていう助詞で、平安朝以後は廃ったもの。「奏せ」は、上のこその結。○強話と言る 「話」は、上の「話れ」と同じ。強語だというで、上に「詔らせ」の敬語があるので、ここはそれで足りたとしたものである。
【釈】 否《いや》と申すけれども、語れよ語れよと仰せになればこそ、志斐は奏《もう》すのである。それを強語だと仰せられる。
【評】 この歌は、御製の心に縋り語に縋りつつ、ただ弁明をしたのみのものである。結句の「強話《しひがたり》と言《の》る」は、明らかに恨みを帯びたものである。この嫗の歌の生《き》一|本《ぽん》なところから見ると、事の真相は嫗のいうがごとくであって、天皇には「強語」と仰(25)せられるところのものをお好みになっており、同時にまた古い物語は、「強語」をもすべき大切なものであることをもお認めになっておられてのことと思われる。それだと御製の揶揄と機知とはますます加わりきたることとなる。和え歌は「朕《われ》恋ひにけり」には全く触れていないが、この生一本の歌は、その思し召に感動してのものと取れる。君臣の和気を眼に親しく感じさせられるような御製と和え歌である。
長忌寸意吉麿《ながのいみきおきまろ》、詔《みことのり》に応ずる歌一首
【題意】 「長忌寸奥麿」とあるのと同じ人と思われる。この人の歌は巻一(五七)「二年(大宝)壬寅、太上天皇の参河国に幸しし時の歌」と題する中に一首あり、文武天皇大宝年代に生存した人とわかる。また巻九、「大宝元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇の紀伊国に幸《いでま》しし時の歌十三首」の中、(一六七三)はこの人の歌であり、時代は上と同様である。「詔」とあるは、年代的に見て文武天皇の詔であろうとされている。また、所は、歌で見ると海に近い離宮であるとわかるところから、孝徳天皇の坐しました難波豊崎宮で、時は、続日本紀に、文武天皇三年正月「幸2難波宮1」とある時であろうとされている。歌は、詔をこうむって作ったものである。
238 大宮《おほみや》の 内《うち》まで聞《きこ》ゆ 網引《あびき》すと 網子《あご》調《ととの》ふる 海人《あま》の呼《よ》び声《ごゑ》
大宮之 内二手所聞 網引爲跡 網子調流 海人之呼聲
【語釈】 ○大宮の内まで聞ゆ 「大宮」は、皇居を尊んでの称。大宮の内までも聞こえてくるというので、大宮は尊く畏く、庶民の声などは聞こえるべくもない所であるとし、それがいま聞こえてくると、詠歎をこめていったもの。○網引すと 「網引」は、漁りをしようとして海に張ってあった網を、魚を捕えるために陸の方に引き寄せることをあらわす語で、名詞。「すと」は、その網引をするとて。○網子調ふる 「網子」は、網に従事する者の総称で、田を作る者を田子というと同じである。「調ふる」は、巻二(一九九)「斉《ととの》ふる 鼓《つづみ》の音《おと》は」につき、『講義』が詳細に研究し、軍隊の進退の節度を示すために、鼓を鳴らすことをいっている語だとした。ここも同様で、網引をするにあたり、網子の調子を合わせさせる意である。○海人の呼び声 「海人」は、本来は部族の名であったのが、その部族が海業をするところから、転じて海業をする者の意となった。ここはそれで、網子の頭《かしら》であることがわかる。「呼び声」の「呼ぶ」は、高声を発することにもいう語で、ここはそれである。上よりの続きで、調子を取らせるための高声で、今の音頭を取る、あるいは号令をかけるというにあたる。
【釈】 尊く畏い大宮の内までも聞こえてくる。今、網引《あびき》をするとて、それをする網子《あご》に、調子を合わせさせるためにするところの海人の懸声《かけごえ》の高声は。
(26)【評】 大和《やまと》の藤原宮にまします天皇には、海の光景が珍しく、したがって面白いものに思し召され、供奉の意吉麿にこれを歌に作れと仰せられたものと思われる。意吉麿は詔を畏んで、大宮と海人の呼び声をつないで一首の歌とし、表面は海の光景に興じ、それを客観的に叙したものとし、裏面には、畏き皇居と賤しき庶民とを「呼び声」を通して接近せしめ、天皇にはその声に興じられ、庶民はその声をたよりに勤労を続けている状態を暗示して、それによって国家を賀する情を抒《の》べたのである。海の光景の中「海人の呼び声」だけを選び、それを過不足なく扱い、太く、明るく、朗らかな調べに溶かし込んで、賀の心を徹底させているところ、まさに手腕と称すべきである。
右一首
【解】 「題意」に引いた巻一、「二年壬寅云々」の行幸の際の歌にも、これと同じき左注がある。行幸の際の歌は、行幸その事を中心として、何人かの歌を集めるところから、このような注のあるのが型となっていたと思われる。それだとこの注は原拠となった本にあったままを記したものと取れる。
長皇子《ながのみこ》、猟路池《かりぢのいけ》に遊び給へる時、柿本朝臣人麿の作れる歌一首 并に短歌
【題意】 「長皇子」は、巻一(六〇)に出た。天武天皇の第四皇子である。「猟路地」は、『大和志』に、「十市郡猟路小野、鹿路《ろくろ》村、旧属2高市郡1」とあり、今の桜井市鹿路で、多武峰より吉野に行く道にあたっている山中である。『講義』は、鹿路《ろくろ》というのは鹿路《かじ》を音読したもので、鹿路は猟路《かりじ》の約であろうといっている。そこには今は池はないが、涸《か》らせたのであろうという。
239 八隅知《やすみし》し 吾《わ》が大王《おほきみ》 高光《たかひか》る 吾《わ》が日《ひ》の皇子《みこ》の 馬《うま》並《な》めて み猟《かり》立《た》たせる 弱薦《わかごも》を 猟路《かりぢ》の小野《をの》に ししこそは いはひ拝《をろが》め 鶉《うづら》こそ いはひ廻《もとほ》れ ししじもの いはひ拝《をろが》み 鶉《うづら》なす いはひもとはり 恐《かしこ》みと 仕《つか》へ奉《まつ》りて 久堅《ひさかた》の 天《あめ》見《み》る如《ごと》く まそ鏡《かがみ》 仰《あふ》ぎて見《み》れど 春草《はるくさ》の いやめづらしき 吾《わ》がおほきみかも
八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而 三※[獣偏+葛]立流 弱薦乎 ※[獣偏+葛]路乃小野尓 十六社者 伊(27)波比拜目 鶉己曾 伊波比廻礼 四時自物 伊波比拜 鶉成 伊波比毛等保理 恐等 仕奉而 久竪乃 天見如久 眞十鏡 仰而雖見 春草之 益目頬四寸 吾於富吉美可聞
【語釈】 ○八隅知し吾が大王高光る吾が日の皇子の 巻一以来しばしば出た。天皇に対しまつる讃え詞で、皇子にも適用したものである。今は長皇子に対してのもの。○馬並めてみ猟立たせる 「馬並めて」は、乗馬を並べ連ねて。「立たせる」は、猟をする意の「立つ」を敬語「立たす」にし、それと完了の「り」との熟合した語。なさるというにあたる。○弱薦を猟路の小野に 「弱薦」は、若い菰《こも》で、それを苅ると続けて「猟」に転じさせた枕詞。「猟路の小野」は、「小」は美称。「猟路」は地名で、「野」も「池」もそれにちなんでの称と取れ、野の中に池があり、池を繞《めぐ》った辺《あた》りで、猟をされたものとみえる。○ししこそはいはひ拝め 「しし」は、原文「十六」、四々十六という算術の九々より出た字であろうという。「しし」は肉《しし》で、その肉を食料とするものの総称であり、主として猪鹿をいう。これは猟の獲物として代表的のものである。猪鹿はその習性として、膝を折って腹這いになるものである。今は主としてその点を捉えていっている。「いはひ」の「い」は、接頭語。「はひ」は、「這ひ」。「拝《おろが》め」は、「拝《おが》む」の古語で、「こそ」の結である。続けては、這って拝んでいるの意である。日本書紀、天武天皇十一年九月の詔に、「勅自v今以後、脆礼《きれい》、匍匐礼《ほふくれい》並止之、吏用2難波朝廷之立礼1」とある。今はそれより幾何もたたない時であるから、公式の場合は立礼となったであろうが、普通の場合には跪礼、匍匐礼を行なっていたことと思われる。猪鹿の膝を折って腹這いになっている状態は、当時の礼の状態さながらだったのである。この状態を単に儀礼のものと見ず、臣民の天皇、皇子に対すると同じく、猪鹿の奉仕を誓っている状態と見たのである。奉仕とはこの場合、皇子の獲物となって身を捧げることである。二句、この心を具象化させ、暗示的にいったものである。○鶉こそいはひ廻れ 「鶉」は、猪鹿についで猟の獲物となるものである。この鳥は、その習性として、めぐり回っていたものである。「いはひ廻《もとほ》れ」は、「いはひ」は上と同じく、「廻れ」はめぐり回る意で、「れ」は「こそ」の結である。「いはひ廻る」は匍匐礼の状態で、その心は、上と同様である。なお、巻二(一九九)に「いはひ廻り 侍候へど」と出ていて、そこでもいった。この二句は上の二句と対句で、獣に対して鳥をいったもので、これによって獲物として皇子に獲らるべきものを網羅したのである。○ししじものいはひ拝み 「ししじもの」の「じ」は、名詞について形容詞化する辞で、それを「しし」に添え、「もの」に続けて熟語としたもの。ししのごときものの意。巻二(一九九)に出た。「いはひ拝み」は、上に同じ。猪鹿のごとくに腹這いとなって拝みで、これは供奉の臣下の皇子に奉仕する心を、御猟の野の状態を通してあらわしたもの。○鶉なすいはひもとほり 「鶉なす」は、鶉のごとく。「いはひもとほり」は、上と同じ。二句、上の二句と対句となっている。以上四句は、臣下の者の皇子に対する絶対の奉仕をいったもので、上の四句の獣、鳥の奉仕を展開させたものである。しかし形としては、獣鳥と不離の関係においてし、しかも対句としたものである。○恐みと仕へ奉りて 「恐《かしこ》み」は、『玉の小琴』の訓。旧訓「かしこし」。「と」は、として。○久堅の天見る如く 「久堅の」は、天にかかる枕詞。「天見る如く」は、下の「仰ぎ」に続き、その譬喩。○まそ鏡仰ぎて見れど 「まそ鏡」は、真澄《ますみ》鏡の意とされている。『講義』は、それだと「ます鏡」の転であろうが、「ます鏡」という語は当時のものには見えないと注意している。飽かず見る意で、「見」にかかる枕詞。「仰ぎ見れども」は、尊きものに対する心を具象的にいったもの。そのようにしているけれども。○春草のいやめづらしき 「春草の」は、春の草のごとくで、意味で「めづらし」にかかる枕詞。「いやめづらしき」は、ますます愛《め》でたいところの。○吾がおほきみかも 「おほきみ」は、長皇子。「かも」は詠歎。
(28)【釈】 安らかに天下をお治めになるわが大君にして、天《あめ》に光る日の神の皇子《みこ》の、乗馬を並べ連ねて御猟をなされるところの、若菰を苅るという、その猟路の野に、猪鹿《しし》こそはまず膝を折って腹這いの拝礼をして、皇子への奉仕を誓いまつっている。鶉こそ腹這いの拝礼をしてめぐり廻って、皇子の奉仕を誓いまつっている。その猪鹿のごとく腹這つての拝礼をし、その鶉のごとく腹這いめぐり廻っての拝礼をして、供奉の臣下も恐《かしこ》しとしてお仕え申し上げて、久堅の天《あめ》を見るごとくに仰ぎ、まそ鏡のごとく飽かずも見るけれども、春草のごとくますます愛でたくいらせられるわが皇子にましますことよ。
【評】 天皇の行幸の際、皇子の行啓の際などは、それをしかるべき機会として、供奉の臣下より賀歌を献じるのが上代の風であった。これは言霊《ことだま》の信仰から、賀歌そのものに御稜威を加えうる力がありとしてのことで、俵礼としてではなかったと思われる。漢土の風の影響もあったろうとは思うが、それは刺激にすぎなかったろうと思われる。当時の歌風として、実際に即し、具体的に詠まなければならない関係上、その場合の光景は叙してはいるが、それは賀の精神を徹底させるための方便で、目的ではなかったのである。この歌もその範囲のもので、「八隅知し吾が大王、高光る吾が日の皇子の」に始まり、「吾がおほきみかも」に終わって、皇子を讃えることに終始しているのはそのためである。一首二段から成っており、第一段は、「鶉こそいはひ廻れ」までである。これは野に棲む猪鹿《しし》、鶉のごとき禽獣までも、歓び進んで、身を捧げて大君に奉仕しようとしている心を、状態を通して具体的にいったものである。修辞が巧妙であるがために、一見文芸的のものに感じられるが、意とするところは、この国土の内にある一切のものは、その大君のものであることを意識し、それを歓びとしていることをいっているものである。第二段はそれより結末までで、こちらは供奉の臣下の奉仕の心をいったものである。御猟場そのものを主としたものとすれば臣下のことはいうを要さないものともなるのであるが、皇子に対しまつっての讃え詞とすると、これは何にも増して重いものでなくてはならないので、重く、終末に据えていっているのである。したがってこの供奉の臣下は、国民全体を代表する意をもつものであるが、その意は、上の禽獣との対照によって暗示し得ているといえる。「ししじもの」「鶉なす」は、形としては枕詞であるが、意としては重いもので、その場合に即し、事と心とを緊密に関係させ、簡潔に言いあらわす役をしているもので、文芸的のものではない。甚しく文芸的に見えもするのは、上の場合と同じく人麿の修辞力のいたすところである。次に、一首全体の上からいうと、対句が多く、枕詞が多く、まさに口承文学の系統のものである。しかしそれとすると、簡潔にして含蓄をもち、また部分部分に細心の用意をもっていて、記載文学としても優れたものである。部分的の方をいうと、「猟路の小野」をいふに、「弱薦《わかごも》の」という枕詞を用い、「いやめづらしき」をいうに「春草の」という枕詞を用いている。狩猟は冬から春までに限られた遊びである。これらの枕詞は、眼前を捉えてのもので、その時が春の、若草の萌え出した時であったことを暗示しているものである。文芸性の豊かさを思わせられる。
(29) 反歌一首
240 久堅《ひさかた》の 天《あめ》ゆく月《つき》を 網《あみ》に刺《さ》し 我《わ》が大王《おほきみ》は 蓋《きぬがさ》にせり
久堅乃 天歸月乎 網尓刺 我大王者 盖尓爲有
【語釈】○久堅の天ゆく月を 「久堅の」は、天の枕詞。「帰」は、行くに当てた字で、典故のある、集中に用例のあるものである。「天ゆく月を」は、天を行くところの月をで、下の「蓋《きぬがさ》」に続くもの。○網に刺し 「網」は、諸本同様で、旧訓「あみ」である。『考』は「綱」の誤写とした。『攷証』を除いての諸注すべてそれに従っている。『講義』は『攷証』に従い、解釈の上で補正を加えている。要は、誤写説は証のないもので従いかねる。「刺す」は、集中に用例のある語で、渡り鳥を捕えるために網を張る、その張る意で、ひいて、烏を網の内にとどめておくにもいっている。しかるに「綱」には「刺す」という語は縁のないものである。ここは、空を渡る月を、おりから遊猟の場合である連想として、空を行く渡り鳥を網で掃え、またその内にとどめておくこととし、皇子がその事をなされているとしたのである。したがってこれは月の状態をいったもので、下の「蓋」にまでは及んでいないのだという。従うべきである。○我が大王は蓋にせり 「我が大王」は、長皇子。「蓋」は、絹張の長柄のついている傘。天皇、親王、公卿など外出の時、後ろより差し翳《かざ》すものである。
【釈】 久堅の天《あめ》を渡ってゆく月を、網を張ってとどめて、わが大君は蓋《きぬがさ》にしている。
【評】 長皇子の猟の御帰途は夜に入り、おりから月のある頃で、月が皇子の頭上に現われたのを見ての歌である。作意は、月を蓋と見立てたことであるが、この見立ては、単に興味よりした文芸的のものではなく、意図をもってのものである。意図というのは、月が蓋となったのではなく、皇子が蓋となされたので、そこに人麿の心があるのである。長歌の方はいったがように、第一には野に棲む禽獣、第二には供奉の臣下が、心より皇子に奉仕しようとしていることをいったのであるが、反歌に至るとさらに進展させて、皇子の御稜威は天上の月をもわが用具とし給うということをいおうとしたのである。そうしたことは、皇子といえども不可能なことなので、それをつとめて合理的に、また妥当のことにしようとして、今の猟の場合に関係させて、「網に刺し」といったのである。これが作意である。月を蓋と見、また網に刺すというようなことは、単に文芸的のもののように見えるのであるが、これは人麿の豊かなる詩情のさせていることで、作意の上からいえば従属的のものにすぎず、技巧と称すべきである。また、昼の猟に対して夜の帰途を捉えた点も、時間的進展を与えたことで、同じく技巧とすべきである。
或本の反歌一首
【解】 「或本」には、上の長歌の反歌として、次の一首があるの意と取れる。
(30)241 皇《おほきみ》は 神《かみ》にしませは 真木《まき》の立《た》つ 荒山中《あらやまなか》に 海《うみ》を成《な》すかも
皇者 神尓之生者 眞木乃立 荒山中尓 海成可聞
【語釈】 ○皇は神にしませば (二三五)に同じ。○真木の立つ荒山中に 「真木の立つ」は、「真木」は良材の意で、杉檜など深山の木。それの立つで、下の「荒山」の状態をいつたもの。「荒山」は、人げの疎い山。 ○海を成すかも 「海」は、当時の人は、湖も、広い池をも称していた称。「成す」は、つくる意。「かも」は、詠歎。
【釈】 大君はまさしく神にましますので、御稜威が限りなく、海などとは思いもよらない真木の立つている荒山の中に、その海をつくることであるよ。
【評】 「題意」でいつたように、猟路の小野は「荒山中」と称しうる所であり、また当時の称によれば「猟路地」は「海」と言いうるものである。また、この歌の作意は、大君の御稜威の限りなさを讃えたものである。猟路地の掘られたのはいつのことかはわからないが、これを大君|御業《みわざ》として見る上では、現在のこととしても妥当を欠かない。さてこの歌を上の長歌の反歌として見ると、長歌はいったがように皇子を大君に准じて、その御稜威を讃えることを作意としたものであるから、同じく御稜威を讃えるこの歌を、その反歌として見ても不自然ではない。歌も熱意と魄力《はくりよく》のあるもので、人麿の作と思われるものである。これを反歌とした本のあるのも偶然とは思われない。しかしこの歌を前の歌に較べると、長歌との關係が稀薄になり、有機的な微妙な味わいが減つてくる。あるいはこの歌が初稿であって、後に改められたというような事情のあるものではないかと思われる。
弓削皇子《ゆげのみこ》、吉野に遊び給へる時の御歌一首
【題意】 「弓削皇子」は、巻二(一一一)に出た。天武天皇第六皇子で、上の長皇子の同母弟である。文武天皇の三年秋七月薨去された。
242 滝《たぎ》の上《うへ》の 三船《みふね》の山《やま》に 居《ゐ》る雲《くも》の 常《つね》にあらむと わが念《おも》はなくに
瀧上之 三船乃山尓 居雲乃 常將有等 和我不念久尓
【語釈】 ○滝の上の三船の山に 「滝」は、吉野宮のあったあたり、すなわち吉野川の水がそのあたりの岩石に激している所。「上」は、ここは、(31)上方の意のもの。「三船の山」は、「大和志」に、「吉野郡御船山、在2菜摘山東南1、望v之如v船、坂路甚險」とあるもの。○居る雲の 「居る雲」は、かかっている雲で、「の」は、のごとくの意のもの。雲の早くも散って消えることを捉えて、譬喩としたもの。○常にあらむと 「常」は、常住不変の意。「あらむ」は、生きていようとは。○わが念はなくに 「なくに」は、「な」は打消の助動詞。「く」は「な」を名詞形とするために添えたもの。「に」は詠歎。巻一(七五)に既出。我は念わないことであるを。
【釈】 滝《たぎ》の上方の三船の山にかかっている雲のごとくに、久しく生きていようとは、我は思わないことであるを。
【評】 吉野に遊び、大宮のある滝《たぎ》の辺りから、三船の山にかかっている雲を眺められ、その雲の散って消えやすいことに思い及ぶと、一転してわが生命の短かきことが連想され、感傷して嘆かれた御歌である。実際に即し、心理の自然を追ったものであるところから、感のあるものとなっている。初句より三句までは、形としては四、五句の譬喩であるが、心としてはむしろそちらが主で、四、五句は、この景よりの連想であって、その意味で譬喩以上のものである。恋の懊悩《おうのう》などの場合は知らず、単に自然の佳景に対して、生命の短かさを嘆くというのは、この時代にあっては文芸性の多いもので、例も少ないものである。この感傷は、資性よりのものではないかと思われる。それは巻二(一一九)以下の四首は、場合は違うが、この時代としては感傷性の強く、繊細を極めたものであるところから類推されるのである。
春日王《かすがのおほきみ》の和へ奉れる歌一首
【題意】 「春日王」は、伝が明らかでない。続日本紀に、「文武天皇三年六月庚成、浄大肆春日王卒」とある方で、志貴皇子の御子の春日王とは別人であろうとされている。
243 王《おほきみ》は 千歳《ちとせ》にまさむ 白雲《しらくも》も 三船《みふね》の山《やま》に 絶《た》ゆる日《ひ》あらめや
王者 千歳二麻佐武 白雲毛 三船乃山尓 絶日安良米也
【語釈】 ○王は千歳にまさむ 「王」は、弓削皇子。「千歳に」は、永久に。「まさむ」は、世にとどまり給わんで、皇子の嘆きを打消したもの。『講義』は「まさむ」につき、これは普通には「いまさむ」とあるべき場合で、他の用言に続く関係でなくて「ます」とあるは稀れな例だと注意している。○白雲も 「白雲」は、「居る雲」の「雲」を印象的に言いかえたもの。「も」は、もまたで、はかない雲もまたの意。○三船の山に絶ゆる日あらめや 「あらめや」は、推量の助動詞「む」の已然形「め」に疑問の「や」の添つて反語となつているもの。三船の山に絶える日があろうか、ありはしないの意。これは吉野の山中であり、吉野川のほとりのこととて、雲がかかりがちであり、その時もかかっていたのに即しての言と取れる。
(32)【釈】 王《おおきみ》は永久に世にましますことであろう。はかない白雲もまた、三船の山になくなる日があろうか、ありはしない。
【評】 春日王は傍らにあって、弓削皇子の嘆きを言い消して、慰めたものである。三句以下は実際に即してのものと取れるが、さらにまた、はかない白雲も、皇子に引かれて永遠にあろうと言いなし、「白雲も」と、「も」の一音によって言い直しているのは、機知というよりも才情を思わせるものである。
或本の歌一首
【解】 これは、弓削皇子の歌に対して、類歌として挙げたものである。
244 み吉野《よしの》の 御船《みふね》の山《やま》に 立《た》つ雲《くも》の 常《つね》にあらむと 我《わ》が思《おも》はなくに
三吉野之 御船乃山尓 立雲之 常將在跡 我思莫苦二
【語釈】 ○立つ雲の 「立つ」は、湧き出ずる意で、居るに対する語である。「の」は、のごとく。
【評】 皇子の御歌と較べると、初句と三句とが異なっているのみである。双方を比較すると、「滝の上の」は、叙景が細かいとともに、作者がその時立っていた場所をも暗示しているもので、実際的である。「み吉野の」は、その微細感を捨てて、概念的に、調子を高くしたものである。また、「居る雲の」は、山にかかっている雲の状態に見入ることが主で、その消えることは暗示となっているが、「立つ雲の」は反対に、消えることの方が主となっていて、これまた概念的である。二首、別な歌とはみえず、皇子の御歌からこの歌は出たものとみえる。それだと皇子の歌が伝わって唱えられている間に、平明化してきたものと思われる。この平明化は伝承には宿命的なことである。
右の一首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
右一首、柿本朝臣人麿之哥集出。
【解】 この歌の性質は、評にいったがようである。これが人麿歌集にあった歌とすると、人麿は弓削皇子の御歌として伝承されているものを聞き、そのままに記録したものと思われる。これは人麿歌集の一面を語っていることである。
(33) 長田王《ながたのおほきみ》、筑紫《つくし》に遣され、水島に渡る時の歌二首
【題意】 「長田王」は、巻一(八一)に出た。和銅四年正五位下に叙され、近江守、衛門督、摂津大夫を歴任した人であろうという。筑紫へ遣わされたのは、何のためとも明らかではないが、肥後まで行っているので、大宰府管内巡察のためではなかったかと『講義』はいっている。「水島」は、『講義』は、肥後国(熊本県)葦北郡と八代郡との境にある海上の小島で、今は八代郡に属している。島は周囲五、六間、大方は岩石で、高さ五、六丈、その岩石の海に向かった方から一体に水が湧き出し、その水にはほとんど塩気がないという。島は今は陸に近いが、それは地形が変わったためで、古くはかなり離れていたことが以下の歌で知られるといっている。この島の所在については諸説があって、明らかには定め難い。この島につき、日本書紀、景行紀に、十八年筑紫を巡狩、夏四月熊の県に到りました条に、「自2海路1而泊2於葦北小島1而進食。時召2山部阿弭古之祖小左1、令v進2冷水1、適是時島中旡v水。不v知2所為1。則仰之祈2于天神地祇1、忽寒泉従2崖傍1湧出、乃酌以献焉。故号2其島1曰2水島1也。其泉猶今在2水島崖1也」とある。
245 聞《き》きし如《ごと》 真《まこと》貴《たふと》く 奇《くす》しくも 神《かむ》さび居《を》るか これの水島《みづしま》
如聞 眞貴久 奇母 神左備居賀 許礼能水嶋
【語釈】 ○聞きし如真貴く 「聞きし如」は、聞いていたとおりでで、「題意」でいった水島の伝説をさしたもの。「真」はいかにも実際にの意で、現在も同じ意で用いている。「貴く」も、現在と同じである。○奇しくも神さび居るか 「奇し」は、霊妙不思議の意をあらわす語で、神異というにあたる。「も」は「貴く」に並べた意のもの。「神さび」は、神の神らしき状態をあらわしている意で、水島の水の湧出を、天神地祇のなすところとし、進んで水島を神そのものと見ていったもの。「か」は、詠歎。○これの水島 「これの」は、「この」の古形で、その意の強いもの。「水島」は、水島はで、一首の主格。
【釈】 前々より聞いていたとおりに、いかにも実際、貴く、神異にも、神としての状態をあらわしていることであるよ。この水島は。
【評】 水島の水の湧出を、景行天皇に奉仕するために現われた神と見、ひいては島そのものをも神と見る心を背後においての歌である。当時の信仰を、感動をもって詠んだものである。
246 葦北《あしきた》の 野坂《のさか》の浦《うら》ゆ 船出《ふなで》して 水島《みづしま》に去《ゆ》かむ 浪《なみ》立《た》つなゆめ
(34) 葦北乃 野坂乃浦從 船出爲而 水嶋尓將去 浪立莫勤
【語釈】 ○葦北の野坂の浦ゆ 「葦北」は、「題意」にいった葦北郡で、日本書紀によると水島はそちらに属していたのである。「野坂の浦」は、今はその名が伝わっていず、どこともわからない。「ゆ」は、より。○船出して水島に去かむ 海路を取って水島に行こう。○浪立つなゆめ 「ゆめ」は、「な」を伴って強い禁止。浪よ立つな、ゆめゆめと命令したもの。
【釈】 葦北の野坂の浦から船出をして、水島に渡って行こう。浪よ立つな、ゆめゆめ。
【評】 船出をする際、海上の無事を祈る心をもってする呪《まじな》いであって、信仰よりのものである。この歌は水島を見ない前の歌で、前の歌と順序が入れかわっているかのように見える。それにつき『講義』は、『新考』に引く中島広足の説にもとづき、再度水島を見ようとした時の歌だろうといっている。広足は、野坂の浦は、今の佐敷の津の辺りだろうといい、そこから水島まで海上五里ばかりだともいっている。『講義』は、それだと大宰府方面から下って一たび水島を見た後、さらに下って野坂の浦まで行き、あるいは薩摩までも行って、その帰途、海路を取って再び水島を見ようとしたのだろうといっている。
石川大夫、和ふる歌一首 名闕く
【題意】 「石川大夫」は、「名闕く」とあって誰ともわからない。左注がこの事に触れている。「大夫」という称は、集中の例から推すと、四位五位に対してのものであるといい、『講義』は詳しい考証をしている。この人は大宰府の官人で、王の巡視に伴っていたのである。
247 奥《おき》つ浪《なみ》 辺波《へなみ》立《た》つとも わがせこが み船《ふね》のとまり なみ立《た》ためやも
奧浪 邊波雖立 和我世故我 三船乃登麻里 瀾立目八方
【語釈】 ○奥つ浪辺波立つとも 「奥つ浪」は、沖の浪。「辺波」は、岸寄りの方の波で、沖の波が立ち辺の波が立とうとも。○わがせこがみ船のとまり 「わがせこ」は、「吾が背子」で、本来女より男を親しんでの称であるが、男同志も用いた。ここは長田王に対していっているもの。「み船」の「み」は、尊んで添えたもの。「とまり」は、船の着く所の称。○なみ立ためやも 「立ためやも」は、「む」の已然形「め」に「や」の添って反語をなし、それに詠歎の「も」の添ったもの。浪が立とうか、立ちはしないと強くいったもの。
【釈】 沖の浪が立ち、辺の波が立とうとも、わが背子の御船の着く所に、浪が立とうか、立ちはしない。
(35)【評】 上の王の歌の、浪を懸念するのに対して、歌をもって祝ったのである。上代の航海では、船が行き着いて泊《と》まる時が、最も困難な時であったとみえる。王の船は大きなものであったろうから、その困難はいっそうである。この歌は、その困難な時を中心として、その時の平穏を祝ったものである。王の歌もこの歌も、実用性のもので、語って時宜に適することを旨としたものである。
右、今案ずるに、従四位下石川宮麿朝臣慶雲年中大弐に任ぜらる。又正五位下石川朝臣吉美侯、神亀年中少弐に任ぜらる。両人の誰《いづ》れこの歌を作れるかを知らず。
右、今案、從四位下石川宮麿朝臣慶雲年中任2大貳1。又正五位下石川朝臣吉美侯、神龜年中任2小貳1。不v知3兩人誰作2此歌1焉。
【解】 撰者の注である。宮麿、吉美侯(君子とも書く)は四位と五位であるから大夫と称さるべき人で、したがって不明だとするのである。そのいずれであるかについては諸説があるが、定説は得られずにある。沢瀉久孝氏は、この歌を和銅以前のものと見、慶雲以前、宮麿がまだ少弐であった頃の作であろうとしている。
又、長田王の作れる歌一首
248 隼人《はやひと》の 薩摩《さつま》の迫門《せと》を 雲居《くもゐ》なす 遠《とほ》くも吾《われ》は 今日《けふ》見《み》つるかも
隼人乃 薩麻乃迫門乎 雲居奈須 遠毛吾者 今日見鶴鴨
【語釈】 ○隼人の 「隼人」は、薩摩、大隅を統べての旧名。『古事記伝』は、古この二国を隼人の国と呼んだ、その国人がすぐれて敏捷《はや》く猛勇《たけ》きところからの名である、薩摩という名が国名となったのは、大宝から霊亀の頃だろうといっている。『講義』は、そのことは文武天皇の四年六月まで溯れると考証している。○薩摩の迫門を 「迫門」は、後世瀬戸の字を当てている。海が陸と陸とによって狭められている所で、航海の上よりいわれている称。「薩摩の迫門」は、古くは隼人の迫門とも呼んだ。今は黒の瀬戸という。鹿児島県出水郡西長島村と阿久根市との間の海峡。○雲居なす遠くも吾は 「雲居」は、空。「なす」は、のごとくで、意味で「遠く」にかかる枕詞。「遠くも」の「も」は、詠歎。○今日見つるかも 「今日」は、今日初めての意で、強める意でいっているもの。「見つるかも」は、「かも」は詠歎。見たことであるよ。
【釈】 隼人の国の薩摩の迫門という音に聞こえた所を、空見るごとく遠くも吾は、今日という日に初めて目に見たことであるよ。
(36)【評】 船中にあって、海上遠く薩摩の迫門を望んでの感である。古の隼人の国は、皇化の及ぶことの少ない所で、したがって問題の多い所であった。またその国への旅は船によったのであろうから、薩摩の迫門は京の人にとって重い響をもった名であったろうと思われる。その迫門を、遠くよりながら親しく目をもって見られたのであるから、感慨が深かったろうと思われる。歌は感慨を抒《の》べようとして、しかもその境をいうにとどまるものであるが、一首の調べの強さがその感慨の深さをあらわし得ているものである。
柿本朝臣人麿の※[羈の馬が奇]旅の歌八首
249 三津《みつ》の埼《さき》 浪《なみ》を恐《かしこ》み 隠江《こもりえ》の 舟公宣奴嶋尓
三津埼 浪矣恐 隱江乃 舟公宣奴嶋尓
【語釈】 ○三津の埼浪を恐み 「三津」は、巻一(六三)に出た。難波の津で、御用の津であるところから、尊んで「三」すなわち「み」を添えたもの。「埼」は、岬。「恐み」は、恐《かしこ》くしてで、御津の埼の浪を恐くして。 ○隠江の 「隠江」は、熟語で、「隠沼《こもりぬ》」と同系のもの。「隠《こも》る」は、物に蔽われて見えなくなっている状態。「江」は、海のみでなく、池、川などにもいった。『講義』は、淀川の河口内をいったものではないかという。語としても無理ではなく、地形としても自然な解である。○舟公宜 四句より五句へかけてのものと取れるが、訓み難いものである。旧訓は「ふねこぐきみがゆくか」と訓んでいるが、強いたものである。諸注それぞれに訓を試みているが、定訓とはなり得ないものである。文字の誤脱があるものと思われる。問題として残すべきである。
【釈】 釈《あら》わし難い。
250 珠藻《たまも》苅《か》る 敏馬《みぬめ》を過《す》ぎて 夏草《なつくさ》の 野島《のじま》が埼《さき》に 舟《ふね》近《ちか》づきぬ
珠藻苅 敏馬乎過 夏草之 野嶋之埼尓 舟近著奴
【語釈】 ○珠藻苅る敏馬を過ぎて 「珠藻」の「珠」は美称で、しばしば出た。藻を苅るのは海辺の者の常態なので、敏馬の枕詞としたもの。「敏馬」は、その名としては伝わっていない。今の神戸市灘区の辺の海岸の称であろうという。難波より西への航路の最初の泊《とまり》とされていた地である。「過ぎて」は、航路として通り過ぎて。○夏草の野島が埼に 「夏草の」は、意味で「野」にかかる枕詞。「野島が埼」は、今、淡路の北西部にある北淡町野島の内と取れる。○舟近づきぬ 船が明石海峡を横切って近づいたの意。
(37)【釈】 珠藻を苅る敏馬の泊を過ぎて、夏草の野という、その野島が崎にわが船は近づいた。
【評】 いっていることは事柄だけであるが、一首の味では、明るく躍る気分そのものである。当時の航海は不安の多いものであったが、今は全くそれがなく、順風を得て深く航行したことを、具体的にいおうとして言いえたものだからである。「敏馬」と「野島が埼」にそれぞれ枕詞を添えていっているのは、その地を重んじてのことであって、重んじたのは航行の上の目標地となっているからである。この心が一首の気分に重く響いている。
一本に云ふ、処女《をとめ》を過《す》ぎて 夏草《なつくさ》の 野島《のじま》が埼《さき》に いほりす吾等《われ》は
一本云、處女乎過而 夏草乃 野嶋我埼尓 伊保里爲吾等者
【語釈】 一本にある類歌として引いたものである。初句は同じなために略したので、異なるのは二句と結句である。○処女を過ぎて 「敏馬」が「処女」となっている。『代匠記』は、「処女を過ぎてとは第九に、葦屋処女墓をよめる歌(一八〇九)あり、彼由緒にてよりて菟原郡葦屋浦を処女とのみいへるなり」といっている。○いほりす吾等は 「いほりす」は、廬を作って宿る意。「吾等《われ》」は、文字によって複数をあらわしたもので、巻二(一七七)「吾等《わ》が哭《な》く涙|息《や》む時もなし」と同じである。航行中、夜は陸に上って廬を結んで寐るのが当時の風で、「吾等」は同船の人々を意味させたのである。この歌は巻十五(三六〇六)に出ていて、左注に、「柿本朝臣人麿歌、敏馬を過ぎて、又曰く、ふねちかづきぬ」とある。すなわち左に注とし合っているものである。
251 粟路《あはぢ》の 野島《のじま》が前《さき》の 浜風《はまかぜ》に 妹《いも》が結びし 紐《ひも》吹《ふ》きかへす
(38) 粟路之 野嶋之前乃 濱風尓 妹之結 ※[糸+刃]吹返
【語釈】 ○粟路の 粟路は、今の淡路。粟すなわち阿波の国へ渡る路にある国の意。四音一句。○野島が前の浜風に 「野島が前」は、前の歌に出た。当時の航海は、普通の場合でも、夜は上陸して宿るのを風としていた。ここもそれで、野島が埼に宿ろうとして上陸したので、したがって海上にある時よりも安静な気分になり得ていた時と思われる。「浜風」は、海より浜に向かって吹く風。「に」は、浜風の中に立てばという心をもったもので、下への続きからは、その浜風のという心をももっている。それは、この歌は抒情を旨としてのもので、その具象化としての叙事であるために、おのずから余情的な言い方となっているからである。 ○妹が結びし 原文は「妹之結」で「妹が結びし」とも「妹が結べる」とも訓みうるもので、二様の訓がある。双方を比較すると、「妹が結びし」と過去のこととした方は、妹の方に力点があり、「妹が結べる」と現在にすると、紐の方に力点があるものとなり、相違が起こってくる。この歌は旅愁を旨としたものであるから、「結びし」と訓み、妹に力点を置くべきものである。夫が旅立の際、妹が旅の無事を祈って紐を結ぶということは、集中に例の多いことであるから、これもそれと思われる。 ○紐吹きかへす 「紐」は、衣のすなわち旅衣の紐である。そのいかなる物であったかは明らかにし難い。『講義』は、今のボタンの役をするもので、襟に着いていたものであろうといっている。衣の性質上、実用の物であったろうと思われるから、穏やかな解である。「吹きかへす」は、吹き翻すで、浜風が吹き翻すのである。
【釈】 粟路の野島が埼で浜風の中に立っていると、その浜風が、旅立の際、妹がわが無事を祝って結んだ旅衣の紐を吹いて翻す。
【評】 難波の三津から船出をして、敏馬《みぬめ》、明石と寄港しての航海をする目標地の一つである野島が埼へ上陸し、一|夜《よ》をそこで過ごそうとした時の感である。そこは海を越しての国であって、旅という感は濃厚である上に、妹と別れた際の印象はまだ新しいので、海上での不安が去って、心が安静になるとともに、いわゆる旅愁を感じてきたのは自然なことである。しかしこの旅愁は、何といっても淡いものであったろうと思われる。この歌は、そうした旅愁を、さながらにあらわそうとしたものである。「粟路の野島が前の浜風に」と、浜風をいうに地名を二つまで重ねていっているのは、旅という気分を具象的にあらわそうがためであり、また下の「妹」に対照させようがためでもある。
「紐」は特殊なものである。風に翻る物というと、普通で袖あるのに、紐はそれよりも小さく、したがって翻り方もはげしいだろうと思われて、印象的に感じられる。加えてその紐は、いったがように「妹が結びし」によって妹を連想させ、また妹を主としてのもので、この場合妹を象徴している物である。その「紐」が「粟路の野島が前」という大きな景と対照されているので、それに助けられて感の深いものとなっている。一首、作者としては多くの用意をもって詠んだものとは思われないが、心理の自然があり、感覚的に具象しているので、おのずから含蓄のある広がりをもったものとなっているのである。この歌、「浜風に」と、「吹きかへす」とが打合わないという論がある。かりに「浜風の」とあるとすれば、いわゆる打合ってその論はなくなる訳である。しかしそれであれば、浜風が紐を吹き翻すという、事象そのものの方に中心が移って、旅愁の方は間接な、稀薄なものとなってき、一首の感は著しく浅いものとなってく(39)る。作意は、旅愁にあって、その具象化と取れるので、その上では「に」の一助詞は重い役をしているものであり、「語釈」でいったがような余情をもっているものと見なければならない。人麿の技倆を示している一首である。
252 荒栲《あらたへ》の 藤江《ふぢえ》の浦《うら》に すずき釣《つ》る 泉郎《あま》とか見《み》らむ 旅《たび》去《ゆ》く吾《われ》を
荒栲 藤江之浦尓 鈴寸釣 泉郎跡香將見 放去吾乎
【語釈】 ○荒栲の藤江の浦に 「荒栲の」は、織目の荒い栲ので、その材料は藤の繊維であるところから、意味で藤にかかる枕詞。「藤江の浦」は播磨《はりま》国|明石《あかし》郡で、今、明石市西の浜に藤江の名が伝わっている。淡路に向かった地なので、野島が埼からそこをさして航行したとみえる。 ○すずき釣る泉郎とか見らむ 「すずき」は、鱸《すずき》。「泉郎とか見らむ」は、「か」は疑問、海人《あま》と人は我を見るであろうかで、鱸を釣る海人の釣舟の中に、人麿の乗っている船もまじって、釣舟と同じく動かないさまでいるのを、第三者から見たならば、同じく釣舟の一つと見るであろうかと想像したのである。○旅去く吾を 海人ではなく、旅路を行く吾なるをの意で、「を」は詠歎。自身の現在を意識したことをあらわしたもの。
【釈】 藤江の浦に、釣舟を停めて鱸を釣っている海人と、第三者はわが船を、吾《われ》を見るであろうか。旅路を行く吾であるを。
【評】 野島が埼から、海を横切って、陸近い藤江の浦まで来、穏やかな海の上に鱸を釣っている舟を見ると、京びとのこととて釣のさまが面白く、船を停めて挑め、我を忘れていたのであるが、我にかえって、立ち去ろうとした時の心である。その時の心は、「旅去く吾を」という、現在の境遇の意識であって、「を」の詠歎を添えていうべき心なのである。詠歎は、語としては軽くいっているにすぎないが、初句から四句までの鱸を釣るさまの平穏なのとの対照で、余情をもった強いものとなっている。この詠歎は旅愁である。漠然とした旅愁を、実境に即して具象化して、十分にあらわしているもので、上の歌と同じく技倆を示している一首である。
一本に云ふ、白栲《しろたへ》の 藤江の浦に いざりする
一本云、白栲乃 藤江能浦尓 伊射利爲流
【解】 これは、(二五〇)と同じく、巻十五(三六〇七)に出ているもので、四、五句は同様である。「白栲の」は、白い栲を織る材料としての藤の意で、「藤」にかかる枕詞。「いざりする」は、「いざり」は、「漁《いさ》り」で、名詞。「する」はそれをするの意。「すずき釣る」という特殊な、印象的なことが、「いざりする」という一般的な、平明なものに転じたものである。
(40)253 稲日野《いなびの》も 去《ゆ》き過《す》ぎかてに 思《おも》へれば 心《こころ》恋《こ》ほしき 可古《かこ》の島《しま》見《み》ゆ【一に云ふ、湖《みなと》見ゆ】
稻日野毛 去過勝尓 思有者 心戀敷 可古能嶋所見【一云、湖見】
【語釈】 ○稲日野も 「稲日野」は、播磨国印南郡にある野で、本来は「いなみ」であるが、「み」が「び」に音通で転じて、古くから「いなび」といっている。「も」は相対する意をあらわすもので、下の「可古の島」に対している。○去き過ぎかてに思へれば 「かてに」の「かて」は、下二段活用の動詞で、終止形「かつ」の未然形。可能の意をあらわす語とされている。これに打消の意の「に」「ぬ」が結んで、「かてに」「かてぬ」となって用いられている。行き過ぎ難くの意。「思へれば」の「ば」は、この場合のごとく已然形に接続する時は、理由をあらわすものではなく、「思へるに」というと異ならないものになるのは、当時の格である。思っている。○心恋ほしき可古の島見ゆ 「恋」は「こほし」とも「こひし」とも訓みうる字である。「こほし」の方が古い形で、ここは古い方に思える。心に恋しと思うところの。「可古」は、兵庫県加古郡。「島」は、『攷証』は、島というべきではない。広い国も、海上から望み見ると、島のごとくに見えるところからの称だといい、「倭島《やまとじま》」などを例としている。また、陸上の一地方を某島と呼んでもいる。ここは可古の辺りの意と取れる。『新考』は、今、高砂と呼んでいる地は加古川の河口のデルタである。これは古の可古の島の変形したものであろうといっているが、高砂市の辺りがすなわち可古の島と見るべきであろう。○一に云ふ、湖見ゆ 港が見える意。集中に「湖」を「みなと」に当てた例は多い。
【釈】 稲日野の風光もまた面白くて、行き過ぎ難く思っているのに、海の向こうには、心に恋しく思っているところの可古の島もまた見える。
【評】 航路の方面からいうと、稲日野は、可古の島より西にあたっている。その上からいうと、この航路は、西より東に向かっているもので、すなわち京への帰途である。上の歌はすべて京より西へ向かってのものであるが、ここに至って反対になっていることを『講義』は注意している。一首の作意は、「稲日野も去き過ぎかてに思へれば」は、明らかに風光の面白さをいったものである。しかしそれに対させてある「心恋はしき可古の島見ゆ」の「心恋ほしき」は、何を内容としているのか明らかではない。「去き過ぎかてに」というと同じく、風光に対しての憧れと見られなくもないが、この八首の中最初の一首を除く七首とも、風光の面白さのみを作意としたものは一首もなく、風光は抒情の方便として用いているのみである。そのことはここのみではなく、人麿の歌全体に通じても言いうるのである。それから推すと、可古の島は、航海の常とする船着きの島であって、したがって「心恋ほしき」は、そこで上陸して安静を得ることに対しての憧れと思われる。「一に云ふ」の「湖見ゆ」によると、このことはさらに明らかである。またこのことは、この当時にあっては自明なこととなっていたものと察せられる。
254 留火《ともしび》の 明石大門《あかしおほと》に 入《い》らむ日《ひ》や 榜《こ》ぎ別《わか》れなむ 家《いへ》のあたり見《み》ず
(41) 留火之 明大門尓 入日哉 榜將別 家當不見
【語釈】 ○留火の明石大門に 「留火の」は、「燭」を誤って、「蜀火」とし、さらに「蜀」を「留」に誤ったのではないかと『講義』はいっている。燭《ともしび》の明しと続けて、「明石」の枕詞としたもの。「明石大門」は「明石」は播磨国の明石、「大門」は、「大」はその港の名高いところから讃えて添えたものと取れる。「門」は水《み》な門《と》(港)の門で、明石の名高い港に。○入らむ日や 「入らむ日」は、乗っている船の榜ぎ入るであろう日。「や」は疑問。○榜ぎ別れなむ家のあたり見ず 「榜ぎ別れ」は、海上の別れであるところからの語。陸上の行き別れにあたる。「む」は、上の「や」の結、連体形。「家のあたり見ず」は、家のある辺りで、明石の港に入るまでは、家のある大和の青山が遠く望み得られるところからの語。「見ず」の「ず」は連用形で、「ずして」というにあたる。
【釈】 明石の名高い港にわが船の榜ぎ入るであろう日には、榜ぎ別れをすることであろうか。今まで眼にしてきた、妹のいるその家の辺りをも見なくなって。
【評】 この歌は、瀬戸内海を西に向かっての航行の際のもので、地理的にいうと、「粟路の野島が前《さき》」に向かう以前のものである。詠んだのは、船が明石の港に入る前で、その入った時を想像してのものである。一首の中心は、結句「家のあたり見ず」にある。この句は形の上からいうと、四句「榜ぎ別れなむ」と倒句になっていて、意味からいうと「家のあたり見ず榜ぎ別れなむ」である。それを倒句にしたのは、結句に力点を置いたがためで、なぜにそこに力点を置いたかは、現在の事実として家のあたりを遠望しつづけていて、その望めなくなることを思うと、思うさえも悲しくなってきて、その悲しみをいうことを作意としたからである。「家」とは妹のいるところで、それ以外のものではなく、「妹」と言いかえ得られるものである。それを「家」とし、「あたり」を添えて、現在眼にしている大和国の山をあらわすものとしたのである。
(42)255 天離《あまざか》る 夷《ひな》の長道《ながぢ》ゆ 恋《こ》ひ来《く》れば 明石《あかし》の門《と》より 倭島見《やまとしまみ》ゆ
天離 夷之長道從 戀來者 自明門 倭嶋所見
【語釈】 ○天離る夷の長道ゆ 「天離る」は、天と離れているで、意味で夷にかかる枕詞。離れるは、京を中心としてのもの。「夷の長道ゆ」は、「夷」は、京以外の地、すなわち地方の総名。「長道」は、長い道中。「ゆ」は、よりで、後世の「を」にあたる語。遠い地方から京へ向かっての長い道中を。○恋ひ来れば 憧れくればで、恋うのは、家にいる妹。○明石の門より倭島見ゆ 「明石の門」は、前に出た。ここは明石に属する海をいうほどの広い意のものに取れる。「倭島」は、倭の国の意で、「島」は上の「可古の島」の島と同じである。すなわち遠く海上に現われて見える畿内の山々に対しての称である。倭の称は、大和国一国とは限らず、狭く大和の一地域にも、また日本全国にも用いた。ここは畿内の称と取れる。「倭島」は我を待つ妹のいる所としてのものである。
【釈】 遠い地方から京へ向かっての長い道中を、妹を憧れてくると、明石の門《と》のあたりから、海上遙かに、我を待つ妹のいる大和国が見える。
【評】 西国での任が終わって、瀬戸内海を船で京に向かい、明石の海峡まで来て、遠く大和の山々の、海上遙かに島のごとくに浮かぶのを、初めて見た瞬間の心である。道中、心を占めつくしていたのは、妹を恋う思いであるが、それをただ「恋ひ来れば」といい、「倭島見ゆ」という、余情のある言い方であらわしたものである。この余情は技巧としてではなく、実際に即した言いあらわしをしたところから、おのずからに添ってきたものと思われる。実際というのは、妹恋しさの情に馴らされてしまっていて、それ以上をいう必要のないものとなっていたためと思われる。すなわちこの余情的になっているところに、かえって実感の深いものが現われているのである。一首の調べの強く張っているところに、その情の深さが直接に現われている。
一本に云ふ、家門《いへ》のあたり見ゆ
一本云、家門當見由
【解】 一本の結句である。「家門」は、多くの注は「やと」「やど」と訓んでいるが、『攷証』は家に当てた熟語として「いへの」と訓んでいる。一首の意味の続きから本行の方が自然である。平明にしようとしたためのものと思われる。
(43)256 飼飯《けひ》の海《うみ》の 庭好《にはよ》くあらし 苅薦《かりこも》の 乱《みだ》れ出《い》づ見《み》ゆ 海人《あま》の釣船《つりぶね》
飼飯海乃 庭好有之 苅薦乃 乱出所見 海人釣船
【語釈】 ○飼飯の海の 「飼飯」という地名は諸国にあって、どこと定め難い。『槻落葉』は、淡路に飼飯野という地名があるといい、『講義』はさらに、淡路国(兵庫県三原郡)の西海岸、松帆の浦の付近に、今「笥飯野《けひの》」と書く地がある。「飼飯の海」は、松帆の浦のようだといっている。他はすべて瀬戸内海に関係した歌であるから、そこと思われる。○庭好くあらし 「庭」は、方言研究家によって、漁夫、農民などのその生業を営む場所を称する語だといわれている。農民の上でいうと、秋、田畑より取入れた穀物を、その家の周囲で始末をする時、それをする場所のことを秋庭《あきにわ》と呼んでいる。これは庭園の意味の庭とは関係のない語である。これは分布の広い語だという。ここは海人の漁場の意と取れる。「好く」は、工合の好い意、すなわち平穏の意である。「あらし」は、「あるらし」の約で、「らし」は、眼前のものを証としての推測をあらわす語。証は下の「釣船」である。漁物の工合が好いらしいの意。○苅薦の乱れ出づ見ゆ 「苅薦の」は、苅った薦ので、乱れやすい物であるところから、意味で乱れにかかる枕詞。「出づ見ゆ」は、「出づ」の終止形から「見ゆ」に続けるのは、古格である。
【釈】 飼飯の海の漁場の工合が好いらしい。その証拠には、乱れて出ているのが見える、海人《あま》の釣船が。
【評】 この歌は、形からいうと、一、二句は、それ以下と倒句になっている。すなわち眼に見た事象の与える感動の方を先にいい、事象の方は後からいった形となっている。しかも「らし」によって原因結果の関係を緊密にあらわしているものである。この倒句は、強い感動をもって言ったことをあらわしているものである。これほどの事象に対して、なぜにそうした強い感動を与えられたかというと、おりから人麿は海路によっての旅をしており、海に対して深い関心をもっていたからと思われる。「庭好く」ということは、安心して航海ができるということを確め得たことで、感動はそこから起こってきたのである。したがってこの歌は、いっていることは風光そのものであるが、心としては安心の喜びをいおうとしたもので、風光はその具象化の方法としてのものである。この歌は、現に航海をしている際の心か、または船出をしようとして、海の様子をうかがっていた際の心かは明らかではないが、瞬間的な心をいっているところから見ると、旅の場合であったろうと思われる。
一本に云ふ、武庫《むこ》の海《うみ》の 庭好くあらし いざりする 海部《あま》の釣船《つりぶね》 浪《なみ》の《へ》上ゆ見《み》ゆ
一本云、武庫乃海能 尓波好有之 伊射里爲流 海部乃釣船 浪上從所見
【解】 一本には、上の歌をこのように作つてもあるとして引いたものである。
(44)【語釈】 ○武庫の海の庭好くあらし 「武庫の海」は、摂津国武庫郡の海。「の庭好くあらし」の原文「能尓波好有之」は、後述のように、吉沢氏および紀州本の一本に従ったもの。他の諸本は「舶(舳)尓波有之」とあって、訓がさまざまである。『略解』は、本居宣長の訓によって「ふなにはならし」と訓んでいる。「ふなには」は、船庭の意であろう。他に例のない語であるが、「庭」を上の歌のように解すると、船によってする漁場という意に取れなくはなく、成立たない語ともいえない。この一、二句は一段をなしているもので、意味が纏まらなくてはならない。これを前後との関係において見ると、解し難いものとなってくる。『古義』は、一、二句を、「武庫の海の舶《ふね》にはあらし」と訓んでいる。これは解しやすくは見えるが、現に武庫の海で見る船をこのようにいうということは、不自然なことである。しかも、その「舶」を「釣船」といって再び繰り返していっているのも、妥当を欠いた、同じく不自然なことである。吉沢義則氏は、紀州本に、「一本云」として、「武庫乃海能尓時好有之」とあるのに注意し、「時」の草体は「波」の草体とよく似ているところから紛れたもので、「時」は「波」であり、「尓波」すなわち「には」であったろうといっている。なおこの歌とただ第二句の異なったものが、巻十五(三六〇九)に出ており、それは第二句が「尓波余久安艮之《にはよくあらし》」となっているのを参考としている。その巻十五の歌は、左注に、「柿本朝臣人麿の歌に曰はく」として、上の(二五六)の歌を引き、第四句を「乱れて出づ見ゆ」としてある。この歌は巻十五の歌と関係の深いものに見えるので、誤字説ではあるが、氏の解に従うべきものである。○浪の上ゆ見ゆ 「上ゆ」は、上よりの意であるが、後の上にというにあたる。
【釈】 武庫の海の漁場は平穏であるようだ。漁りをする船が浪の上に見える。
【評】 前の歌と較べてみて、捉えている境は異なっているが、心は同じであるかのように見える。しかし心の上ではかなり隔たりのあるものである。前の歌はいったがように、航海者として海上の模様を懸念しており、その懸念の打消されたのを喜んでの心で、いわゆる生活に即した歌である。そこに心の躍りがある。この歌にはその心の躍りがない。作者としてはもったかもしれぬが、とにかく歌の上には現われていない。歌の上に見えているものは、海上の光景に心を寄せたというだけのもので、しかも事象に一つの判断を下しただけのものに見える。すなわち形は似ているが、心は遠く隔たったものである。これを前の歌と同じく人麿の作であるかのように扱っているのは怪しむべきである。
鴨君足人《かものきみたりひと》、香具山の歌一首 并に短歌
【題意】 「鴨」は氏、「君」は姓、「足人」は名である。この人のことは他に所見がなく、何事もわからない。『新撰姓氏録』によると、鴨君は摂津国の皇別の中にあって、「鴨君日下部宿禰同祖、彦坐神之後也。続日本紀合」とある。「香具山」は、大和国で、高市皇子尊の宮のあった山である。
257 天降《あも》り付《つ》く 天《あめ》の香具山《かぐやま》 霞立《かすみた》つ 春《はる》に至《いた》れば 松風《まつかぜ》に 池浪《いけなみ》立《た》ちて 桜花《さくらばな》 木《こ》の晩《くれ》茂《しげ》に (45)奥《おき》へは 鴨《かも》妻《つま》喚《よ》ばひ 辺《へ》つ方《へ》に 味《あぢ》むらさわき 百礒城《ももしき》の 大宮人《おほみやびと》の 退《まか》り出《いで》て 遊《あそ》ぶ船《ふね》には 梶《かぢ》棹《さを》も なくてさぶしも こぐ人《ひと》なしに
天降付 天之芳來山 霞立 春尓至婆 松風尓 池浪立而 櫻花 木乃晩茂尓 奧邊波 鴨妻喚 邊津方尓 味村左和伎 百礒城之 大宮人乃 退出而 遊船尓波 梶棹毛 無而不樂毛 己具人奈四二
【語釈】 ○天降り付く天の香具山 「天降り付く」の「天降り」は、「あまおり」の約だといい、天より降りる意。「付く」は、地上に付着している意で、天より降りて地に付いているところの意。「天の香具山」の「天の」は、香具山はもと天上のものであったとするところから添えた語。これは釈日本紀に引く伊予国風土記に、「倭在2天加具山1自v天天降時、二分而以2片端1者天2降於倭国1、以2片端1者天2降於此土1、因謂2天山《あまやま》1、本也。」とある、その伝説によってのものである。香具山は、しばしば出た。○霞立つ春に至れば 「霞立つ」は、意味で春にかかる枕詞。「春に至れば」は、春になったので。○松風に池浪立ちて 「松風に」は、松風によって。「池浪」は、池の浪の意で、熟語となったもの。池は、香具山の下にある埴安の池。松風の吹くによって池浪が立って。○桜花木の晩茂に 「桜花」は、桜の花が。「木の晩茂に」は、「木の晩」は、木が繁って、下蔭が小暗くなる意で、名詞。「茂に」は、茂くで、木の晩の状態。桜の花が、その下蔭を、小暗さの深くなるまでに咲いている意。○奥へは鴨妻喚ばひ 「奥へ」は、沖の方で、埴安の池についてのこと。「鴨」は、雌雄離れずにいる習性をもつ鳥。「喚ばひ」は、「喚ぶ」をハ行四段に再活用して、継続をあらわす語としたもの。沖の方には鴨がその妻を喚びつづけており。○辺つ方に味むらさわき 「辺つ方」は、岸寄りの方。「味」は、味鳧《あじかも》と称する、鴨よりやや小さい鳥。「むら」は、群れ。この鳥は群棲する習性をもっている。「さわき」は、群棲するところからしたがって騒がしく鳴く意。○百礒城の大宮人の 「百礒城の」は、百と多くの礒城のあるで、讃える意で宮にかかる枕詞。「大宮人」は、朝廷に仕える百官。ここは香具山をいっているところから、そこに宮のあった皇太子高市皇子尊の宮人を、朝廷に準じていったのであろうという。○退り出て遊ぶ船には 「退り出て」は、「退り」は、貴い所から賤しい所へ退く意で、一日の公務を終えて、追出して。「遊ぶ船」は、埴安の池で船遊びをしたその船。「遊ぶ」は、事としては過去であるが、感を強めるために現在にしたもの。○梶棹もなくてさぶしも 「梶棹も」は、船を漕ぐための梶も棹もで、梶は今の櫓。棹は竹竿である。「なくて」は、失せてしまって。「さぶしも」は、「さぶし」は、心楽しまない意。「も」は、詠歎。○こぐ人なしに 「こぐ人」は、漕いで遊ぶ人、すなわち大宮人。「なしに」は、なくて。
【釈】 天より降りて地についた、天のものである香具山よ、霞立つ春になったので、山に吹く松風によって、その下の埴安の池には池浪が立ち、また山に咲く桜の花は、その下蔭の小暗さが深いまでに咲き、池の沖の方には、雌雄《めお》離れぬ鴨がその妻を喚びつづけており、岸寄りの方には、群棲する味鳧《あじかも》の群れが鳴き騒いでおって、すべて愛《め》でたい風景であるが、香具山の宮の大宮人が、公務を終えて退出して、舟遊びをした船には、それを漕ぐ櫓も棹も失せてしまっていて、心楽しまぬことであるよ、漕ぎ遊ぶ大宮人もなくて。
(46)【評】 足人《たりひと》の伝は全くわからないが、歌から見て高市皇子尊を偲びまつったものだろうと察しられる。尊の香具山の宮は、尊の薨去の後は、上代の風に従って荒廃に委ねられたものと思われる。尊を偲びまつる上で、最も直接な、第一のものは、その宮でなくてはならない。足人は現にその宮のある香具山に立っているのであるから、このことはいっそうである。しかるにこの歌はそのことにはほとんど触れず、触れている点は、皇子尊に仕えた大宮人が、宮より退出の後、埴安の池で楽しげに舟遊びをした、間接な触れ方をしているにすぎないのである。また、それをするに一年のうち最も華やかなる春の季節の桜の花盛りの時を選び、さらにまた、それほどの限られたことをいうのに、香具山と埴安の池という山と水という対照的なものを選び、それに絡ませていうという、限った、特殊な言い方をもしているのである。これは生活実感からある遊離をもたせ、間接に、自然の風景に絡ませていうという手法であって、まさしく文芸的のものである。この歌の作られた年代は明らかではないが、これを人麿の同じ皇子尊の挽歌として作った巻二(一九九)に較べると、生活実感より文芸的のものへと移った跡が際やかに見られる。この点が第一に注意される。表現の態度もそれとともに異なっている。この歌は、その心との相関もあるが、きわめて静かな態度をもって詠んだもので、また神経もきわめて細かに働いている。「松風に池浪立ちて、桜花木の晩茂に」のごとき、上二句は、香具山の上より埴安の池を見下ろした作者の位置がはっきり現われ、下二句は咲き満ちている桜の下蔭に立っていることをあらわしている。客観的なのは当時の作風で、いわんとしているのは山と水との好景で、作者のその際の位置のごときは意図にないものと思われるのであるが、それをもこのようにあらわし得ているのは、その神経の細かく働いているがためで、これは作者の人柄ばかりではなく、時代も関係していることと思われる。この心細かさは、廃船をいうに、「遊ぶ船」と現在法を用い、また「梶棹もなくて」と具象しているところにも、同じく現われている。結句の「こぐ人なしに」によって、「大宮人」を繰り返し強めているところにも、同じく現われているといえる。一首要するに巧緻な作であるが、長歌によって巧緻を尽くしているところに特色があり、時代性の認められるものである。
反歌二首
258 人《ひと》榜《こ》がず あらくもしるし 潜《かづ》きする
鴦《をし》とたかべと 船《ふね》の上《うへ》に住《す》む
人不榜 有雲知之 潜爲 鴦与高部共 船上住
【語釈】 ○人榜がずあらくもしるし 「人榜がず」は、長歌の結句を繰り返したもの。「あらく」は、「ある」に「く」を添えて名詞形としたもの。「も」は、詠歎。「しるし」は、「著《しる》し」で、明らかだの意。 ○潜きする 水禽の習性をいったもの。 ○鴦とたかべと 「鴦」は、延応《おしどり》。「たか(47)べ」は、小鴨。○船の上に住む 船の上をその巣として住んでいる。
【釈】 人が漕がずにいることは明らかである。潜きをする水禽の鴛鴦と小鴨とが、そこを巣として船の上に住んでいる。
【評】 長歌の結句を承けて、それを延長させ、廃船を具象することによって、長歌の作意である、香具山の宮に対する悲しみを徹底させたものである。これは反歌の型となっている手法である。三句以下、実際に即しての捉え方で、調子は低いが、哀愁の情をあらわし得ているものである。
259 何時《いつ》の間《ま》も 神《かむ》さびけるか 香具山《かぐやま》の 鉾杉《ほこすぎ》が本《もと》に 薛《こけ》生《む》すまでに
何時間毛 神左備祁留鹿 香山之 鉾※[木+褞の旁]之本尓 薛生左右二
【語釈】 ○何時の間も 「も」は、詠歎。いつの間にの意である。○神さびけるか 「神さび」は、物の古くなって神々しく見える意。
「か」は、疑問。○鉾杉が本に「鉾杉」の「鉾」は、杉の立っているさまが、鉾を立てたのに似ているところから添えたもの。「鉾杉」は集中ここにあるのみである。「本」は、幹。○薛生すまでに 「薛生す」は、老木でなくてはないこととしてのもの。
【釈】 いつの間にこのように神々《こうごう》しいさまとなってしまったのであろうか。香具山の鉾杉の幹に薛の生えるまでに。
【評】 上の歌は埴安の池についていったので、これは転じて、それと対照的に扱っている香具山についていったのである。長歌でいった香具山は、「松風」と「桜花」という興趣のものであったのに、ここでは進展させて、皇子尊に対する追慕の悲しみを、時の推移を通してあらわしているのである。その手法の間接なのは長歌と同様である。
或本の歌に云ふ
260 天降《あも》りつく 神《かみ》の香具山《かぐやま》 打靡《うちなび》く 春さり来《く》れば 桜花《さくらばな》 木《こ》の晩《くれ》茂《しげ》に松風《まつかぜ》に池浪《いけなみ》※[風+火三つ]《た》ち 辺《へ》つへには あぢむら動《さわ》き 奥《おき》つへは 鴨《かも》妻《つま》喚《よ》ばひ 百《もも》しきの 大宮人《おほみやびと》の まかり出《いで》て 榜《こ》ぎける舟《ふね》は 竿《さを》梶《かぢ》も なくてさぶしも 榜《こ》がむと思へど
天降就 神乃香山 打靡 春去來者 櫻花 木暗茂 松風丹 池浪※[風+火三つ]邊都遍者 阿遅村動 奧邊者(48) 鴨妻喚 百式乃 大宮人乃 去出 榜來舟者 竿梶母 無而佐夫之毛 榜与雖思
【語釈】 ○神の香具山 「神の」は、他に例のないものである。山を神とする信仰のあった上に、香具山はもと天上のものであったところからいったものと思える。○打靡く春さり来れば 「打靡く」は、春の木草は柔らかに靡くところから、意味で春にかかる枕詞。「春さり来れば」は、春になって来ると。○池浪※[風+火三つ]ち 「※[風+火三つ]」を、「たつ」と訓むにつき、『講義』は考証をしている。○榜ぎける舟は 榜いだところの舟はで、過去としていつたもの。○竿梶も 上の歌とは順序を反対にしている。
【釈】 路す。
【評】 この歌は、一本のものとはいうが、そうしたものに例の多い、伝承の結果異伝を生じたという範囲のものではなく、同じ作者によって異なる時に作られたものと思われる。それは一本の歌が劣ったものではないのみならず、むしろ優ったものだからである。双方を比較して、その最も異なっているのは、第一は、「桜花木の晩茂に、松風に池浪※[風+火三つ]ち」である。これは前の歌では、「桜花」と「松風」との順序がこの歌とは反対になっているのである。いずれが全体との関係から見て優っているかというと、この歌の方が明らかに優っている。こちらは華やかな桜花の下蔭を過ぎ、心深い松風の音を聞き、それを池浪に関係させるとともに、ただちに池の状態に移っていて、心理の推移が自然だからである。第二は、結句の「榜がむと思へど」である。香具山の宮人の榜いだ船を、懐古の情に浸っている足人が、自身をその宮人になぞらえて、榜いでみようとする心は、自然といえる。「竿梶」もなくてそのかなわないところから「さぶしも」と感じるのは、実感的であって、前の歌の「こぐ人なしに」と、ただに懐古の情のみとしているのよりも、力強さがある。総じていうと、前の歌は沈静のみであるが、この歌はそれに躍動が加わっているのである。これはさらにいうと、前の歌はかなりまで距離をつけて作ったものであるのに、この歌はその距離を近づけて作っているのである。同じく間接的な扱い方ながらも、あまり多くの距離をつけまいとしたことは時代的に見て妥当なことと思える。こうした巧緻な作風にあっては、改作はなされやすいことである。この歌は、前の歌を作った後、作者自身それに加筆をしたものではないかと思われる。
右、今案ずるに、都を寧楽に遷しし後、旧《ふる》きを怜《かなし》みてこの歌を作れるか。
右、今案、遷2都寧樂1之後、怜v舊作2此歌1歟。
【解】 この注は、奈良遷都の後、故京藤原宮を悲しんでの作と解したものである。しかるにこの歌の作因は、いったがように香具山の宮に対してのものと思われる。また、歌の排列の上から見ても、この歌は和銅三年遷都以前のものと思われる。それらの(49)点からこの注は、撰者より後の人の加えたものではないかとされている。
柿本朝臣人麿、新田部《にひたべの》皇子に献《たてまつ》れる歌一首 并に短歌
【題意】 「新田部皇子」は、天武天皇の第七皇子であり、御母は、藤原鎌足の女《むすめ》五百重娘である。元正天皇の養老三年、優詔を賜わって、二品新田部親王は、舎人《とねり》親王とともに国家の柱石であるとして、舎人、衛士を賜わり、また封五百戸を益して一千五百戸を賜わっている。聖武天皇の神亀元年には一品を授けられ、天平三年、初めて畿内惣管、諸道鎮撫使を置かれた時には、親王には大惣管とせられた。天平七年に薨じられた。この歌は賀の心のもので、歌から見ると、人麿は親王の宮に親しく出入りしていた者のようである。
261 八隅《やすみ》知《し》し 吾《わ》が大王《おほきみ》 高輝《たかてら》す 日《ひ》の皇子《みこ》 茂座《さかえます》 大殿《おほとの》のうへに 久方《ひさかた》の 天伝《あまづた》ひ来《く》る 白雪《ゆき》じもの 往来《ゆきかよ》ひつつ 益《いや》常世《とこよ》まで
八隅知之 吾大王 高輝 日之皇子 茂座 大殿於 久万 天傳來 白雪仕物 徃來乍 益及常世
【語釈】 ○八隅知し吾が大王 既出。○高輝す日の皇子 「高輝す」は、天に光るで、四句、天皇、皇子に対しての讃え詞。○茂座 旧訓「しげくます」、『代匠記』「しきませる」、『童蒙抄』「さかえます」、『略解』「しきます」であり、『攷証』は「茂」は「敷」の借字で、知り領しますの意だとしている。『講義』は『童蒙抄』の「さかえます」に従い、その理由をいっている。要は「茂」は「しく」と訓みうる字ではなく、また「茂り」「茂る」「栄ゆ」という意で「しく」という語もない。『類聚名義抄』には、「茂」に「さかゆ、もし、つとむ、もつ、さかり」の訓がある。また、『説文』『広韻』にも「さかゆ」の意がある。『童蒙抄』の「さかえます」が当たっているというのである。これに従う。意は、今いう「栄ゆ」と同じで、集中に用例の多い語である。栄えていらせられると、皇子を賀したもの。○大殿のうへに 「大殿」は、皇子の殿を讃えての称。この殿は、反歌で見ると「八釣山《やつりやま》」にあったものである。八釣山は高市郡明日香村字八釣の上方にある山で、顕宗天皇の近飛鳥八釣宮《ちかつあすかのやつりのみや》のあった地である。皇子の殿は藤原京にあり、そちらには別殿があって、おりふしそちらへいらせられたものと、歌の上から察しられる。今はそうした場合である。 ○久方の天伝ひ来る 「久方の」は、天にかかる枕詞。既出。「天伝ひ来る」は、天を伝って降ってくるで、下の「雪」の状態をいったもの。 ○白雪じもの往来ひつつ 「白雪じもの」は、上の(二三九)「十六《しし》じもの」と同系の語で、他にも出た。雪のごとき物の意の形容で、ここは、雪のごとくにの意である。「往来ひつつ」は、八釣山の大殿に、藤原京から通い行きつつで、「つつ」は継続。この往来う者は新田部皇子で、主格は「日の皇子」である。 ○益常世まで 「益」は、集中に用例の少なくない字。ますます。「常世」は、ここは永久の意のもの。ますます永久にわたつてで、言いさしの形のもの。下に栄えませの意が省かれている。
(50)【釈】 八隅知し吾が大王の、高|輝《てら》す日の皇子《みこ》よ。めでたくも御機嫌うるわしくいらせられる大殿の上に、おりから、久方の天を伝って降ってくる雪のごとくに、藤原京よりこの大殿へと通い来ることを続けて、ますます永久にわたって栄えいませよ。
【評】 反歌と合わせてみると、この歌の作意は明らかである。人麿がこの歌を献った時には、皇子は藤原京から八釣山の別殿へ来ていらせられた。そのおりから大雪が降ったので、皇子の宮に親しく出入りしていた人麿は、当時も風《ふう》となっていたとみえる、大風、大雪など天変に近いことのあった際には御見舞いを申し上げる、その風に従って御見舞いに伺って、それを機会として献った、皇子に対する賀の歌である。賀の歌は、天皇に対し奉っては、行幸の際には必ず献るもののようになっていた。今は皇子の別殿にいらせられている際で、それに准じうる機会である。加えて大雪の降ったという特殊な際でもあるので、それをするにはいっそう妥当な機《おり》であるとして献ったものとみえる。さて、改まって賀の歌を献るとすると、そのおりからの大雪を捉えていうよりほかにはより所がないところから、この歌はその雪を力点としたのである。「茂座大殿のうへに、久方の天伝ひ来る白雪じもの」はすなわちそれである。これは形の上からいうと、下の「往来ひ」の「ゆき」に畳音《じようおん》の関係で続いているので、序詞と見るべきであるが、作意の上からいうと、一首の力点で、きわめて重いものである。大体としては、おりからの眼前の大雪を捉えて、「往来ひつつ」の譬喩としたもので、今降っている雪のごとくにしげしげと京よりこの大殿へと往《ゆ》き来《かよ》いたまいての意と取れる。同時に、その雪をいうに、「久方の天伝ひ来る」と、雪を天上のものとし、その伝い来る所を「茂座大殿のうへに」と大殿の上に限ったもののごとくいっているのは、ここに賀の心をもたせようとしたものと取れる。すなわち譬喩とはいうが、その時の状態と心とを一つにした複雑なものである。加えて「白雪じもの往」と序詞の形をももたせているのは、一に人麿の優れた技倆というべきである。なおいえば、実際に即して、乏しい資料を、十二分に働かせたもので、高度の文芸性をもったものである。
反歌一首
262 矢釣山《やつりやま》 木立《こだち》も見《み》えず 落《ふ》り乱《まが》ふ 雪《ゆき》に驟《うくづ》き 朝楽《まゐりくらく》も
失釣山 木立不見 落乱 雪驟 朝樂毛
【語釈】 ○矢釣山木立も見えず 「矢釣山」は、前頁にいった。「木立も見えず」は、山の木立も見えずにの意で、雪の降る状態。「見えず」は連用形で、「落り」につづく。○落り乱ふ雪に驟き 「落り乱ふ」は、降るために、物の紛れて見えない状態をいったもの。「乱ふ」は連体形で、「雪」につづく。「驟」は、諸本、文字に異同があり、したがって訓もさまざまで、定説がない。この字は、『類聚古集』のものである。この字を原形で(51)あろうとしたものは、古くは『古義』で、訓を「さわぎて」としている。ついで、これに従って考証をしたのは生田耕一氏で、『日本文学論纂』で、「うくづき」と訓んでいる。これをさらに詳しく考証したのは『講義』で、要は、「うくづく」は、日本書紀、『文選』の古訓に用例のある語である。意義は、『新撰字鏡』に「駆」とあり、なお『説文』には「馬疾歩也」、『玉篇』には「奔也」ともあり、馬を走らすことの古語だといっている。今はこれに従う。二句、物のまぎれるような大雪の中を、お見舞いにと路を急ぐことを、具象的にいったもの。○朝楽も 「朝」は、漢語の「朝す」の意の字。訓は、旧訓、『考』のものである。「まゐり来」は、尊い所へ伺う意を、そちらを主としていった語で、今だとまいり行くという意である。「らく」は、「く」を添えることによって、「来」を名詞形としたもので、「も」は、詠歎。お伺いすることであるかの意。
【釈】 矢釣山の木立も見えないまでにまがえて降っている大雪の中を、お見舞いのために、馬を走らせて路を急いでお伺いすることであるよ。
【評】 長歌は、おりからの大雪に寄せて皇子を賀しまつったのであるが、反歌は転じて、人麿自身のことをいったもので、その大雪の中を、臣下として、鞠躬加《きつきゆうじよ》として奉仕する心をいったものである。一首、大雪の光景の明るく、面白さを連想させるものがあるが、長歌との関係において見る時は、上のごとく解するほかはないものと取れ、それが作意であると思われる。
近江国より上り来る時、刑部垂麿の作れる歌一首
【題意】 「刑部垂麿」の伝は不明である。この人の歌は、なお本巻に一首ある。
263 馬《うま》な疾《いた》く 打《う》ちてな行《ゆ》きそ 日並《けなら》べて 見《み》てもわが帰《ゆ》く 志賀《しが》にあらなくに
馬莫疾 打莫行 氣並而 見弖毛和我歸 志賀尓安良七國
【語釈】 ○馬な疾く打ちてな行きそ 「馬な」は、「馬」は、乗馬。「な」は、禁止の意をあらわす助詞で、二句にもあるものである。一句に二つの禁止があるので、一つは誤りであろうというが、諸本皆同様である。宣命にはその例があるが、歌にはないものである。一つの事に二つの禁止を用いていったものと見るよりほかはない。「疾く」は、甚しくで、下の「打ち」へつづく。「打ちてな行きそ」は、「な……そ」は禁止。馬を鞭打つのは、路を急がせようとするためで、それを禁止したのは、そのように急いでは行くなの意を具体的にいったもの。同行者の、その乗馬を扱う状態を見ての言で、先立って行く者に対しての言である。○日並べて見てもわが帰く 「日並べて」は、日を並べて、すなわち幾日もの間、ゆっくりとの意。「見ても」の「も」は、詠歎。○志賀にあらなくに 「志賀」は、近江琵琶湖の西岸の、天智、弘文二帝の京のあった地。「あらなく」の「なく」は、打消の「な」に、「く」を添えて名詞形としたもの。
【釈】 乗馬を、そのように甚しく鞭打って、路を急がせて行くな。日を重ねて、ゆっくりと見て行くところのこの志賀ではない(52)ことなのに。
【評】 題詞によって、近江国から藤原京へ帰る時のこととわかる。何ゆえに近江国へ行ったのかは明らかにはわからないが、これにつぐ人麿の歌によって見ると、遊覧のためではなかったかと思われる。海のない大和国に住んでいた人に取っては、海は珍しく、むしろ憧れとなっていたがようであるから、近江の湖は強く心を引かれるものであったとみえる。また、近江の大津宮のことは、この当時にあっては近い過去のことであったから、その意味の懐かしさも伴っていたものと思われる。歌は、口頭の言をもってしても心の足るほどのものであるのを、上代の口承文学の風に従って、歌の形式としたものである。いわんとしているところは、湖辺の風光に心が引かれて、帰路を急ぐ同行者に、少しくゆっくりとするように訴えたものである。「馬な」の「な」の重複も、当座の歌で、訴えの心を主として、語に屈折をもたせようとしたところから、なかば無意識に重ねてしまったのではないかと思われるが、もとより疑問を残すべきものである。
柿本朝臣人麿、近江国より上り来る時、宇治河の辺《ほとり》に至りて作れる歌一首
【題意】 「宇治河の辺」というのは、山城国字治郡の宇治河で、大和国から近江国への往復には、必ず通るべき路筋となっていた。僧道登が宇治橋を作ったのは、大化年中のことであるから、いずれは橋があったのである。
264 物《もの》の部《ふ》の 八十氏河《やそうぢがは》の あじろ木《ぎ》に いさよふ浪《なみ》の 去辺《ゆくへ》しらずも
物乃部能 八十氏河乃 阿白木尓 不知代經浪乃 去邊白不母
【語釈】 ○物の部の八十氏河の この語は、巻一(五〇)に出た。「物の部」の「物」は、多くの物。「部」は朝廷に奉仕するための職業団体を意味する語。「八十氏」は、「八十」は多数ということを具体的にいった語。「氏」は現在のそれと同じ。その「氏」を、河の名の「宇治」に、同音異義で転じたもの。全体では、朝廷に奉仕する多くの氏の、その氏という宇治河のの意で、「物の部の八十」は、宇治の序詞である。なお「物の部の八十氏」は、各部の氏が朝廷の臣として奉仕していたところから、百官の意である。○あじろ木に 「あじろ」は、網代《あじろ》で、鮎、氷魚《ひお》などの川魚を獲るための物で、川の流れに、竹木をもって網の形の物を作ってしかけた物である。すなわち水中に、左右に杙《くい》を打ち、上を広く、下を狭く、竹木をしがらませ、最後の所に簀を設け、水中の魚の流れとともに網代に入り、簀に入るのを捕える法である。「網代木」は、その網代の杙であるが、ここは網代そのものの意で用いたもの。○いさよふ浪の 「いさよふ」は、たゆたう意で、網代に流れ入る水の小さな浪となって、しばらくそこにたゆたうような状態をするのをいったもの。○去辺しらずも 「去辺」は、浪の行方。「しらず」は、知られず。「も」は、詠歎。波は立ちつ消えつして、ほとんど間断なく同じ状態を繰り返しているのであるが、その消え失せる浪に対して、感傷の心をもっていったもの。
(53)【釈】 物の部《ふ》の八十氏という、その宇治河の網代に、立ってはたゆたっている浪の、つぎつぎに消え失せて行って、その行方の知られないことよ。
【評】 宇治川という広く豊かな大河の上に、網代の上にいさよう浪といういささかなものに眼をとめ、思い入った心を抒《の》べた歌である。「近江国」とある以上、むろん大津の荒都も見たことであろうが、それについては何事もいわず、帰途宇治河まで来てこの一事を選んだというのは、人麿の主観に触れきたるものがあったためであろう。人麿のいわんとしていることは、「いさよふ浪の去辺しらずも」ということで、初句より三句までは「いさよふ浪」に客観性を与えるにすぎぬもので、また光景としては、そうしたさまは、状態は異なるが、どこの川にもあることで、何ら特殊なものでもないのである。「いさよふ浪の去辺しらずも」と、詠歎を添えていっているのは、ものの推移を悲しむ心で、推移の跡のあまりにもはかないのを悲しむ心である。推移を悲しむのは、現実生活に愛着する心の現われで、生命に対する執着と言いかえうるものである。これは人麿の歌のすべてにわたってその基調をなしているもので、その強さが人麿の特色をなしているものである。この歌にあらわしているのも、その平生の心で、その心が、この平凡な事象に刺激され
たのである。この歌で問題となるのは、これを詠んだ際人麿は、単にこうした事象によって平生の心を刺激されたがために詠んだのか、または、題詞の「近江国より上り来る時」という条件の下にあって、平生の心が大津の荒都を見ることによって刺激され、深化されていた際、幾ほどもなくしてこうした光景を眼にしたために、重ねてそれに刺激されて、大津宮の跡を悲しむ心をそれに寄せて詠んだものかということである。この一首は、人麿の歌としては、沈潜の趣の深いものである。この沈潜は近江の荒都を連想させるものがある。「物の部の八十氏河」は、成句となっていたと思われるものであるが、これは天皇の宮廷を思わせるもので、偶然なものではなく、「いさよふ浪の去辺しらずも」は、最も適切に大津の荒都の成行きを思わせるものである。それにその事は、事柄の性質上、この当時にあっては、露骨なる抒情を許さないものでもある。人麿平生の心と、大津の荒都に対する悲哀とを一丸とし、象徴ともいうべき文芸的な方法をもって詠んだのが、この一首だと思われる。この際の人麿の感の強さは、一首の調べにいみじくもあらわされているが、それは言い得られないものである。
長忌寸奥麿の歌一首
【題意】 「長忌寸奥麿」は、上の(二三八)に出ている。
265 苦《くる》しくも 零《ふ》り来《く》る雨《あめ》か 神《みわ》の埼《さき》 狭野《さの》の渡《わたり》に 家《いへ》もあらなくに
(54) 苦毛 零來雨可 神之埼 狹野乃渡尓 家裳不有國
【語釈】 ○苦しくも零り来る雨か 「苦しくも」の「も」は、詠歎。旅路を行きながらの感。「零り来る雨か」の「か」は、詠歎。○神の埼狭野の渡に この二つの地は、和歌山県新宮市の南に三輪崎というがあり、その字《あざ》に佐野というがあり、そこだとされている。「渡」は佐野の南に川があるので、そこの徒渉地であろうという。上代は特別な路でない限り川に橋がなく、徒渉するのが普通であった。○家もあらなくに 「家」は、宿を借るべき家。「も」は、詠歎。「なく」は、打消「な」に、「く」の添って名詞形となったもの。
【釈】 苦しくも降って来る雨であるよ。神《みわ》の埼の狭野《さの》の渡り場に、宿を借るべき家もないことであるのに。
【評】 廷臣として、何らかの命を帯びて紀伊へ旅した際の歌とみえる。歌は、実感を実際に即して、素朴に詠んだものである。人に告げようとしてのものではなく、我とわが心を紛らすために詠んだものとみえる。すなわち文芸性の範囲のものである。この歌のもつ迫真性は人を打つものがあり、他奇のないものであるにかかわらず、後世に影響を与えているものである。
柿本朝臣人麿の歌一首
266 淡海《あふみ》の海《み》 夕浪千鳥《ゆふなみちどり》 汝《な》が鳴《な》けば 情《こころ》もしのに 古《いにしへ》念《おも》ほゆ
淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尓 古所念
【語釈】 ○淡海の海 「海」は、旧訓「うみ」。仮名書きによつてのものである。琵琶湖のこと。その湖辺に天智、弘文両帝の大津宮があったのである。○夕浪千鳥 夕浪の上に飛んでいる千鳥の意で、呼びかけたもの。千鳥は、川原、海岸など、水辺に棲み、小魚を食としている小鳥である。今もこの名で呼んでいる。この簡潔な続け方は、人麿の創意とみえる。○汝が鳴けば 「汝」は、呼びかけていっているもの。「鳴けば」は、鳴くので。千鳥の鳴き声は、低く、さみしいもので、聞くと哀愁をそそられるものである。今その声を取立てていっているので、夕浪も音が低く、あたりもひっそりとしていることが、余情として感じられる。○心もしのに古念ほゆ 「しの」は、しほる、しなえるの意をもった語で、「情もしのに」は、心がしおれた状態となってで、「念ほゆ」に続く。「古《いにしへ》」は、大津宮の荒都となった古の事蹟で、それを婉曲《えんきよく》にあらわしたもの。「念ほゆ」は、思われる。
【釈】 近江の海の夕浪の上に飛んでいる千鳥よ。お前がそのように鳴くので、我は心もしおれた状態となって、ここにあった古の悲しい事蹟が思われる。
【評】 歌によって見ると、人麿がこの歌を詠んだ時には、古の大津宮に近く、湖辺にいたことがわかる。また、夕暮れになる(55)までそこにいたこともわかる。思うに懐古の情に捉われて、そこを立ち去りかねていたのであろう。千鳥が夕浪の上を乱れ飛んで、低くさみしい鳴き声をたてるのは、その時の実景で、感傷を催しやすい夕暮れ時、旅人として自然の大景の中にいて、その鳴き声を聞くと、胸中に湛えられていた古を思う感がいっそう深まってきて、「心もしのに」という状態にならされたものと思われる。一首、比較的複雑した気分を、「千鳥」という一生物に集中させて、単純に、余情を多くあらわしているものである。細部についていうと、「淡海の海夕浪」における「み」音、「千鳥……心もしのに古」における「い」韻の反覆は、徹妙なものとして注意されている。これは無意識にしたことを、結果から見ていうことと思われるが、とにかく、この同音同韻の反覆は、一首に沈静の味わいをもたせるものとなっている。この歌は人麿の作中でも文芸性の豊かなもので、加えていわゆる小手《こて》の利いたものであるところから、人麿の代表作であるかのごとくいわれているが、それはむしろ後世の好尚のいわしめることで、人麿の一面をあらわしている作とすべきであろう。
志貴《しきの》皇子の御歌一首
【題意】 「志貴皇子」は、巻一(五一)(六四)に出た。天智天皇の皇子、光仁天皇の御父である。
267 むささびは 木末《こぬれ》求《もと》むと 足日木《あしひき》の 山《やま》のさつ雄《を》に あひにけるかも
牟佐々婢波 木末求跡 足日木乃 山能佐都雄尓 相尓來鴨
【語釈】 ○むささびは 「むささび」は、※[鼠+吾]鼠。俗に「ももんが」とも「のぶすま」ともいう小獣である。『和名抄』に、「状如v※[獣偏+爰]、而肉翼如2蝙蝠1、能従v高而下、不v能2従v下而上1、常食2火烟1、声如2小児1者也」とある。巻七(一三六七)「三国山《みくにやま》木末《こぬれ》に住まふむささびの鳥待つが如われ俟《ま》ち痩せむ」とあって、小鳥を食とする獣で、そのために梢に住んでいるのである。○木末求むと 「木末」は、木の若く栄え立っている部分の称。梢にあたる。小鳥の止まる所としていったもの。「求むと」は、捜すとしてで、小鳥の止まりそうな所を捜そうとして。○山のさつ雄にあひにけるかも 「山のきつ雄」は、「さつ」は幸で、鳥獣を獲る意。「雄」は男で、山の幸を得ようとする男、すなわち猟師。「あひにけるかも」の「あひ」は、※[鼠+吾]鼠と猟師の関係を、※[鼠+吾]鼠の方を主としていった語で、猟師の方を主とすると、発見したことである。出逢ってしまったことであるよの意。
【釈】 ※[鼠+吾]鼠《むささび》は、小鳥の止まりそうな梢を捜そうとして、山の猟師に出違ってしまったことであるよ。
【評】 ※[鼠+吾]鼠の歌は、集中にこのほかにもあって、当時は比較的目に触れやすい獣であったとみえる。したがってその習性とし(56)て、小鳥の止まりそうな山の梢を捜し廻って住むことも知られていたとみえる。御歌はそれを背後に置き、 窮鼠が梢より梢へと渡って歩いていたために、その姿を山の猟師に発見されてしまったことを、 窮鼠の方を主とし詠歎の情をもって詠まれたものである。作意は、 窮鼠が猟師に獲られてしまったのを見られ、それを隣む心をいわれたもので、その事は余意としたものと思える。歌としては境が特殊であり、また余意をもたせて扱われているところは、皇子の詩情のさせていることと思われる。
長屋王《ながやのおほきみ》の故郷の歌一首
【題意】 「長屋王」は、巻一(七五)に出た。高市皇子の子で、天武天皇の御孫である。国家の柱石であったが、天平元年、四十六歳のあるいは五十四歳をもって、讒にあって自尽された。「故郷」というのは明日香で、それについては左注がある。
268 吾《わ》が背子《せこ》が 古家《ふるへ》の里《さと》の 明日香《あすか》には 千鳥《ちどり》鳴《な》くなり 島《しま》待《ま》ちかねて
吾背子我 古家乃里之 明日香庭 乳鳥鳴成 嶋待不得而
【語釈】 ○吾が背子が 「背」は、本来女より男を呼ぶ称であるが、男同志の問にも用いられるものとなった。ここはそれである。「吾が」と「子」とを添えてあるのは、いずれも親愛の情を示しているものである。○古家の里の明日香には 「古家」は、古里と同じく、以前住んでいたところの家。「古家の里」は、古家のあるところの里で、「明日香」は、それを繰り返したもので、そうした里である飛鳥の意。○千鳥鳴くなり 「千鳥」は、水辺に棲む鳥。「鳴くなり」の「なり」は、終止形に続いて、上の意を強めるもの。○島待ちかねて 「嶋」は、諸本皆同様である。『講義』は、巻二(一七一)以下の「島の宮」「み立たしの島」などの島と同じく、庭園を意味する語で、その庭園は、山水《せんすい》を掘り、中に中島を築くのが風となっていたので、「島」という語で、そうした庭園を代表させたものだといっている。その島はこの場合、水辺の島である千鳥の棲むところとしてのものである。「待ちかねて」は、待ち得ずしてで、千鳥が棲みつこうとして、それに適する状態となるのを待っているが、棲めない状態のままで、すなわち荒れて、水が涸《か》れ涸れになつたままで続いているのでの意。
【釈】 吾が背子が、住み棄てた古い家のある里のその飛鳥では、千鳥が嘆いて鳴いていることである。棲みつこうとする島の、そうした状態に復するのを待ち得ずして。
【評】 王が故郷の飛鳥の里を訪い、その荒廃したさみしさを、京にある親しい人に報じた歌で、歌としては実用性のものである。しかしその荒廃の状をいうには、一に千鳥に寄せていうという文芸的のものである。庭園の荒れて山水《せんすい》はあるが、水の涸れ涸れになったのと、飛鳥川に多い千鳥とを取合わせ、双方を緊密に関係させて、その千鳥は山水に棲みつこうとして、山水のその状態に復するのを待って、待ち得ずしてさみしく鳴いているのだと、千鳥に情《こころ》あらしめて、それによって古家の里の荒(57)廃しているさまを暗示しているのである。「島待ちかねて」の含蓄はもとより、「古家の里の明日香」も、巧みな言い方で、技倆の歌である。
右、今案ずるに、明日香より藤原宮に還りましし後、此歌を作れるか。
右、今案、從2明日香1遷2藤原宮1之後、作2此謌1歟。
【解】 この歌の作られた時についての注であるが、このことにつき『講義』は、長屋王の生まれたのは天武天皇十二年で、藤原宮遷都の時は十一歳であった。また、藤原宮より奈良宮へ遷都の時は二十七歳であった。したがってそのいずれの時かわからない。それで藤原宮遷都に続いてのこととすると、六、七年後のことでなくてはなるまいといっている。
阿倍女郎《あべのいらつめ》の屋部坂の歌一首
【題意】 「阿倍女郎」は、父祖も伝記も明らかではない。阿倍氏は『新撰姓氏録』に「阿倍朝臣孝元天皇皇子大彦命之後也」とあり、その一族の人と思われる。集中に歌が五首ある。それによると、中臣朝臣東人と贈答をしているが、東人は和銅四年従五位下を授けられ、天平四年兵部大輔に任ぜられた人であるから、女郎の壮年期の時代が察しられる。また、大伴家持より女郎に贈った歌〔巻八(一六三一)〕があるが、歌の中に「今造る久邇《くに》の京《みやこ》に」とあり、その時は奈良遷都後三十年を経てのことであるから、女郎は五十歳もしくはそれ以上の老年でなくてはならないと『講義』は考証している。「屋部坂」は、『代匠記』は、「三代実録十七云、高市郡夜部村云々、此処歟」といってい、『講義』は詳しく考証して、高市郡明日香村小山の辺りであろうといっているが、他に説が多い。
269 人《ひと》見《み》ずは 我《わ》が袖《そで》もちて 隠《かく》さむを 焼《や》けつつかあらむ 服《き》ずて来《き》にけり
人不見者 我袖用手 將隱乎 所焼乍可將有 不服而來來
【語釈】 ○人見ずは 見る人がないならばで、そこは人目のある所で、また次のことは、人の見る所でするのははばかるべきことであるという余意をもっての語。○我が袖ももて隠さむを わが袖をもって隠してやろうものをで、「を」は詠歎。対象となっている物の有様が、見るに忍びない心をもってのもの。初句よりこれまでは、対象から与えられる感と、その感に対して動いた心である。○焼けつつかあらむ 焼かれ続けているのであろうかというので、対象の状態に対しての理由づけである。対象は夜部坂であって、眼前のものであるから省いているのである。「焼け」(58)は、「焼かれ」の約で、事柄としては、坂が赤くなって、すなわち草木が生えず、赤土の地肌を露出していることと取れる。また「袖もちて隠さむ」といっているので、その範囲は広くはない、一部分のことと取れる。赤土がちな大和国であるから、坂の一部に地辷りができ、草木が生えずにいると、赤く焼けているように感じられよう。これは珍しくない事柄である。心持としては、恋の思いに胸を焦すことを胸を焼くというのは例の少なくない語で、巻十三(三二七一)「吾が情《こころ》焼くも吾なり」などがある。胸を焼くのは女にありがちなことである所から、今も坂に女性を連想していると取れる。この連想は上代にあつては自然なものである。○服ずて来にけり 「服ずて」は、衣を着ずしてで、上の句を承《う》けてのもの。事柄としては、坂の一部に草木の生えず、地肌の露出していることをいったものであるが、その草木を坂の衣と見、「焼け」に関係させて、焼かれたので衣がなく、したがって、衣を着ずして、すなわち裸での意。「来にけり」は、過ぎて来たことであるよと、時間を主としていったもの。これは上の句の「焼けつつ」の「つつ」に照応させてある。心持としては、上の句を承けて、坂を女性と見ることに力点を置いたものである。
【釈】 見る人がなかったならば、わが袖をもって隠してもやろうものを。この坂の一部の、地辷りのために草木が生えず、赤土の地肌を露出させているところを見ると、恋の思いに焼かれつづけて、衣は燃えてしまったのであろうか、衣を着ずに過ぎて来ていることであるよ。
【評】 この歌は、『代匠記』が、「意得がたき歌なり」といって、推測の解を試みているのを初めとして、諸説まちまちである。上の解は、大体『考』の解によって下したものである。夜部坂にあった地辷りのために赤土の地肌が現われ、草木が生えずにいる部分というのは、丘陵地だとどこにも見られる相で、けっして珍しいものではない。それが印象的なものにされていたのは、その場所が往来の道筋にあたっていた、人目に着きやすいためであったろう。歌は、女郎がその坂を通って、たまたま目にしたところからのものと思われる。作意は、坂に自分と同性の女性を連想して、そのさまをかつ恥じかつ隣れんでのものである。一首、ほとんど抒情に終始していて、直接状態に触れるところのないのは、その坂を通る人の等しく見ているところであるとともに、女郎としてはいうに忍びないとしたためであろう。解に異説の多いのは、抒情を旨としたものだからである。作歌態度としては、実際に即して、扱いにくい対象を、文芸的に扱い得ているものである。
高市連黒人《たけちのむらじくろひと》の※[羈の馬が奇]旅の歌八首
【題意】 「高市連黒人」は、巻一(三二)に出、そこでいった。父祖も官位も徴すべきものがなく、伝は不明である。ただ知られるのは、(五八)の題詞によって、大宝二年、太上(持統)天皇、参河国に幸《いでま》された時に供奉し、また同じ天皇の吉野宮の行幸に供奉して歌(七〇)を作っているので、大体その生存年代が知られ、また、ここに見るごとく東国地方に関する歌が多いところから、国庁に仕えていた身分高からざる人かと想像されるのみである。歌は、集中十八首をとどめているが、全部旅の歌で、主として自然を対象としたもので、独自の歌風を示しているものである。時代としては人麿とほぼ同時であるが、人麿の人事のみ(59)を扱ったのに対し、黒人はほとんど自然のみであり、また人麿の一般性を代弁したごとき観があるのに対し、黒人は叙景という、その当時にはほとんど先蹤《せんしよう》のない方面を拓き、また人麿の一面保守的で、その風の華麗であったのに対し、黒人は進取的で、その風は素朴であるなど、要するに対蹠的の歌人であったことを示している。集中の代表歌人の一人である。ここの八首は、黒人の歌としては最も纏まっているものである。
270 旅《たび》にして 物恋《ものこ》ほしきに 山下《やました》の 赤《あけ》のそほ船《ぶね》 奥《おき》へ榜《こ》ぐ見《み》ゆ
客爲而 物戀敷尓 山下 赤乃曾保船 奧傍所見
【語釈】 ○旅にして物恋ほしきに 「旅にして」は、旅にありての意。「恋ほし」は、「恋ひし」よりは古い形で、この時代は「恋ほし」といったのであろうと『講義』が考証している。「物恋ほしきに」は、憧れ心の起こることであるのにの意で、その憧れ心は、古里に対してのものである。○山下の 山の下で、続きより見ると、そこはただちに海となっているのである。黒人は山の上にいたので、間接に、その位置をあらわしているもの。○赤のそほ船 「赤《あけ》」は、「赤《あか》」の古語。「そほ船」は、そほをもって塗った船の意。そほは赤土を称する語で、その純粋なものを真《ま》そほといった。赤《あか》に、そほをもって塗った船。そほをもって船を塗るのは、船材の腐朽するのを防ごうがためで、上代より現在に及んでいる方法であり、現在も漁船は赤土を塗っていると『講義』はいっている。これは外国のセメント、コールタをもって塗るのと同様である。集中に「さ丹塗《にぬり》の小船《をぶね》」、「赤ら小船《をぶね》」とあるのも同じ意よりのものである。この赤土をもって塗ることは、大船であれば、それを重んずる心から必ずしたことと取れる。なお、『槻落葉別記』は、『令義解』につき、船舶に関する部分を調べ、『講義』はそれを補足している。○奥へ榜ぐ見ゆ 沖の方に向かって漕いで行くのが見える。
【釈】 旅にあっては、古里に対する憧れ心が起こることであるのに、ここの山の下にある海にいる赤のそほ船が、沖の方へ向かって漕いで行くのが見える。
【評】 「旅にして物恋ほしきに」というのは、旅行をしていての心ではなくて、旅の一定の場所に泊まっていての心と取れる。すなわち国庁にいてのものであろう。これは下の続きから思われることである。「山下の赤のそほ船」はその続き方がやや隠約で、曖昧だともいえる。これは実際に即しての写生で、一般性の足りないものだからである。ここに黒人の個人性が見え、特色が見える。「奥へ榜ぐ見ゆ」は、ただちに京へ向かっての航路を取っていると解する必要のないものである。当時の旅行は、陸路は困難が多かったところから、つとめて海路によろうとしていた。ここもそれで、ただ旅程に上っているものと見ただけである。京ということは、連想の中にはあったろうが、表面にあらわそうとまでは思わなかったものと取れる。この余情がまた、黒人の特色となっている。なお旅程ということは、上の「赤のそほ船」につながりがあって、その相応な大船だと思(60)われるところからくるものである。一首あくまで実際に即してはいるが、同時に他方では、情趣を重んじ、余情を重んじているもので、これを人麿に較べると、作歌態度としては、新しく、進歩的なものである。
271 桜田《さくらだ》へ 鶴《たづ》鳴《な》き渡《わた》る 年魚市《あゆち》がた 塩《しほ》干《ひ》にけらし 鶴《たづ》鳴《な》き渡《わた》る
櫻田部 鶴鳴渡 年魚市方 塩干二家良之 鶴鳴渡
【語釈】 ○桜田へ鶴鳴き渡る 「桜田」は、尾張国愛知郡(現在名古屋市)作良《さくら》の郷の田と取れる。そこは今は明らかではないが、熱田と鳴海との間、笠寺の東に、桜という字を付した町名があるのは、その跡ではないかという。「鶴鳴き渡る」は、鶴が鳴きつつ移ってゆく。○年魚市がた塩干にけらし 「年魚市がた」は、「がた」は、潟。これは今、熱田神宮の西南、熱田新田と呼ぶ辺は、古は海で、その辺の称ではないかという。「塩干にけらし」は、「塩」は潮。「らし」は眼前を証拠としての推測で、その証拠は鶴。たしかに潮が干てしまったらしいというので、渚《なぎさ》にいて餌をあさる鶴の、空を鳴き渡ることによって、そのさまを推量したのである。
【釈】 桜田の方へ鶴が鳴きながら移ってゆく。たしかに年魚市渇は潮が干てしまったらしい。鶴が鳴きながら移ってゆく。
【評】 この歌は、形からいうと、第二句で切り、第四句で切り、第五句で第二句を繰り返しているものであって、口承文学時代の形をそのままに伝えているものである。語《ことば》つづきも単純であり、地名を二つまでも用いているところも、それにふさわしいものである。しかし捉えていっていることは、自然に対する興趣であって、これは口承文学とは遠い文芸性のものである。自然の興趣とはいうが、それは「鶴鳴き渡る」というだけのもので、鶴を目馴れていたこの時代にあっては、平凡なものにすぎない。それに理由づけはしているが、これまた平凡なものである。この平凡に興趣を感じ、それに甘んじ、躍動をもった調べによって生かしているのは、黒人の文芸性で、個性的と言いうるものである。
272 四極山《しはつやま》 打越《うちこ》え見《み》れば 笠縫《かさぬひ》の 島《しま》榜《こ》ぎ隠《かく》る 棚無《たなな》し小舟《をぶね》
四極山 打越見者 笠縫之 嶋榜隱 棚無小船
【語釈】 ○四極山 『代匠記』は、「和名抄云、参河国|幡豆《はづの》郡磯泊【之波止】、是今の四極と同じき歟」といい、第一に参河とし、次に、「又住吉にも磯歯津《しはつ》あり。第六巻に見ゆべし」といっている。諸注、この二つの中のいずれかを取っている。すなわち二か所の内のいずれとも定められずにいるのである。それだと、『代匠記』がいい、『攷証』が支持しているように、前後の歌がすべて東国の地である関係上、参河とする方が穏やかに思える。(61)黒人のこの際の歌としては、史上に有名である方ということは、証とはならない。○打越え見れば 越えて見渡せばで、山の頂に登り切り、眼界の改まった瞬間を捉えたもの。○笠縫の島榜ぎ隱る 「笠縫の島」は、参河としても摂津としても、その名をとどめている島はない。本来笠縫は、菅笠を編むことで、それを業とする人の住んでいたところから地名となったものと思われる。上代の生活にあってはこの業をする人が多く、したがって笠縫という地名は少なくないが、生活状態の推移したため、地名も亡びたものと思われる。この島は、下の「棚無し小舟」との関係より見て、四極山の頂からは、眼下に近く見えたものと思われる。「榜ぎ隠る」は、棚無し小舟といわれるような舟は、航海の危険を避けるため、岸に添って繞るようにして榜ぐのが普通であったから、久しからずして島蔭になったものと思われる。これは島の小ささも暗示している語である。○棚無し小舟 「棚」は、船の舷側にとりつけた棚板の称で、それのない小さな舟の意で、小舟を印象的にいった語。
【釈】 四極山を越えて、その頂から見渡すと、眼界は一変して、眼下近い笠縫の島の、岸寄りを繞って漕いで、見ていると島蔭に隠れてゆく、棚無し小舟よ。
《評》 「四極山打越え見れば」と、山の登りの極まって、限界の遙かに一変したことを暗示する語をもって切り、「笠縫の島榜ぎ隠る棚無し小舟」と展開させ、そこに展けきたのは、山とは対抗的に広い海であり、海には陸近く島があり、その島には、今しも岸よりを漕ぎめぐっている一艘の小舟のあることをいっている。この変化は鮮やかで、また華やかなものである。しかしこの華やかな光景の中で、黒人の心を寄せたのは、最も小さな物である「棚無し小舟」で、それに心を集めて熟視していたのである。そのことは、「島榜ぎ隠る」と時間的にいい、また、それを結句に重く据えているのでもわかる。この「榜ぎ隠る」には、上とは反対な、静かな変化があり、それが一首の中心ともなっている。全体として、調べが華やかで、地名を二つまで用いていっているところは、前の歌と同じく口承文学の色合いの濃厚なものであるが、捉えているところは、自然そのものの興趣であって、「棚無し小舟」という人事的な物をも、全く自然の景象化としていっているもので、その意味では高度の文芸性のものである。すべて前の歌と同様で、異なるところは、事相も気分もそれよりは遙かに複雑なものだということだけである。この歌が古今集の大歌所の謡い物の中に取られているのも、ゆえあることである。
273 礒《いそ》の前《さき》 榜《こ》ぎたみ行《ゆ》けば 近江《あふみ》の海《み》 八十《やそ》の湊《みなと》に 鵠《たづ》さはに鳴《な》く 未だ詳ならず
礒前 榜手廻行者 近江海 八十之湊尓 鵠佐波二鳴 未詳
【語釈】 ○礒の前 「礒」は、海岸の石の多くあるところ。「前」は、「埼」で、出鼻。ここは湖であるが、古称は海と同じにするのが風であった。○榜ぎたみ行けば 「たみ」は、迂回することで、漕ぎめぐって行くと。当時の航海は、つとめて岸を離れないようにするのが風であった。不時の危険を避けやすくするためである。○近江の海八十の湊に 「近江の海」は、琵琶湖。「八十」は、数の多いことを、具体的にあらわそうとする(62)語。「湊」は、船の着くところ。琵琶湖を繞って散在している土地の交通路は、一に船によったのであるから、湊の数は限りなくあったのである。○鵠さはに鳴く 「鵠」は、鶴に通じて用いていた。一方、「たづ」は、鵠、鶴などを総括しての称でもあった。「さは」は、多く。○未だ詳ならず この注は『類聚古集』『古葉略類聚鈔』、紀州本にはないものであり、また、その意味も明らかではないものである。後人の書入れの混入ではないかとされている。
【釈】 磯の崎を漕ぎめぐって行くと、近江の海の、八十《やそ》と限りなくある湊々に、鵠《たず》が多く鳴いている。
【評】 「礒の前榜ぎたみ行けば」は、湖を越えようとしても、また一方の岸の、ある地から地へ行こうとしても、つとめてとろうとする方法であった。ここはそのいずれともわからないが、旅の途次としてのことであったと思える。「八十の湊に鵠さはに鳴く」は、鵠の湊にいるのは、そこを餌をあさるに適当な場所としているので、鳴くのはおのずからに鳴く場合もあり、また、船の出入りがあるために、警《いまし》め合って鳴く場合もある。ここは後の場合を心に置いてのものと取れる。船はもとより黒人の船だけではなく、多くの船があるので、それに驚いて鳴く鵠の声の多いのは当然であるが、聞くのは黒人で、「八十の湊」の声を同時に聞くということは、ありうべからざることに思える。ここには誇張があり、飛躍がある。しかし、鵠の声は高いものであり、湊は比較的接近して幾つもあり、加えて、浪のない時の湖上は静寂で、音をさえぎる何物もないのであるから、湊々の鵠の声が同時に聞こえるということも、必ずしも甚しい誇張ではない。気分としてはまさにそのような気がしたろうと思われる。情趣を重んじる黒人にとっては、湖上全体の情趣を捉えていおうとすると、こうした誇張と飛躍を安んじて行なったものと思え、そこに一首の趣を感じる。前二首と同じく、純粋な自然詠であって、高度の文芸性をもったものである。
(63)274 吾《わ》が船《ふね》は 枚《ひら》の湖《みなと》に 榜《こ》ぎ泊《は》てむ 奥《おき》へなさかり さ夜《よ》ふけにけり
吾船者 枚乃湖尓 榜將泊 奧部莫避 左夜深去來
【語釈】 ○吾が船は枚の湖に 「吾が船は」は、自分の乗っている船は。「枚」は、今は比良《ひら》と書く。潮水の西岸の地。「湖」は、集中に用例のある字で、(二五三)に出た。○榜ぎ泊てむ 「泊つ」は、船の着いて止まる意で、漕ぎ着けて止まろう。○奥へなさかり 「奥」は、沖。「なさかり」は、「な」は禁止。後世は「な……そ」をもってすることになったが、古くは「な」だけであった。「さかり」は、遠ざかるのさかると同じく、離れる意。これは連用形で、こうした場合の定まりである。○さ夜ふけにけり 「さ」は、接頭語。「ふけにけり」は、「に」は、完了で、更けてきたことだ。
【釈】 わが船は、比良の港へ着けて止めよう。沖の方へ離れることはするな。夜は更けてきたことだ。
【評】 自身の乗った船を漕いでいる船子《かこ》に対して命じた語である。本来は口頭の語をもってするべきものを、歌の形式をもってしたもので、いわゆる実用性の、口承文学の系統のものである。これを歌として見ると、その際の全体が現われており、また作者の気息もさながらに現われていて、優に一首の歌を成しているものである。この結果をきたさしめているのは、なかば以上形式の力である。短歌というものの性格を語っている歌といえる。
275 何処《いつく》にか 吾《われ》は宿《やど》らむ 高島《たかしま》の 勝野《かちの》の原《はら》に この日《ひ》暮《く》れなば
何處 吾將宿 高嶋乃 勝野原尓 此日暮去者
【語釈】 ○何処にか吾は宿らむ どこを宿りとしようかで、夜を寝るべき所を、下の「勝野の原」と予定し、その原にはもとより家はなく、寝るべき場所を自身設けるべきこととしての疑問。○高島の勝野の原に 「高島」は、近江国の郡名で、琵琶湖の西岸の内、北部一帯にかけての地。「勝野の原」は、高島郡の南端の、湖に接した地。現在は、高島町の内に、勝野という名をとどめている。○この日暮れなば 今日の日が暮れたならばで、行先を想像してのもの。
【釈】 何処《いすこ》を吾は宿りとしようか。高島の勝野の原で今日の日が暮れたならば。
【評】 上代の旅行にあつては、その日その日の夜の宿りが、最大の関心事であったことは思いやすいことである。これもそれで、旅路を行きつつ、その夜の宿りを気にしての心である。勝野の原は、古、大和京から北陸方面へ向かってゆく本街道にあ(64)たっての地である。この歌は、昼、その街道を歩いていての心であるが、どちらへ向かっているのかはわからない。我と呟いたもので、心やりの歌である。
276 妹《いも》も我《われ》も 一《ひと》つなれかも 三河《みかは》なる 二見《ふたみ》の道《みち》ゆ 別《わか》れかねつる
妹母我母 一有加母 三河有 二見自道 別不勝鶴
【語釈】 ○妹も我も一つなれかも 「一つ」は、一体の意でいったもの。「なれかも」は、後世だと「なればかも」という意の古格。「なれ」は、「にあれ」の約で、断定。「かも」は、「か」の疑問と「も」の詠歎と合したもの。妹も我も一体であるからであろうかの意。○三河なる二見の道ゆ 「三河なる」は、三河国にある。「二見の道」は、今は明らかではない。したがって諸説がある。要するに東海道の一部分の名で、古の国府のあった御油《ごゆ》の付近の道で、ただ一筋であった本街道の名ともいい、二筋に岐れるその一筋の名であるともいわれていて定まらない。「ゆ」は、よりで、経過する地点をあらわす語。○別れかねつる 「かね」は、不能の意。「つる」は、完了の助動詞「つ」の連体形で、上の「か」の結。
【釈】 妹も我も一体であるからであろうか、三河国にあるこの二見の道で、別れ得ずにいることであるよ。
【評】 黒人が旅の路に立って、その妻との別れを惜しんでいる心である。その心の暗くはなく、どちらかというと明るいものであるところから見ると、その別れは何らかの都合があって、しばらく別れている程度のものであったろうと思われる。しかし「妹も我も一つなれかも、別れかねつる」というのは、一日二日の別れという軽いものともみえない。その都合の何であったかはもとよりわからず、そこに必然性を求めるのは想像にすぎないものとなる。「三河なる二見の道」と地名を重ねてくるのは、口承文学の系統のもので、ここもそれに従ってのものとみえる。一首の中に、「一」「二」「三」という数字の重なってくることは問題となることである。要は、これを主として、その興味で詠んだ歌か、または、付随的のものかということである。口承文学としての謡い物は、相応に技巧の多いもので、ことに音の興味を重んずるものである。いったがように二つの地名を取入れたのは、口承文学の系統のことである。それは、数字とはいえ、音の興味に近いものの加わったのがこの数字である。無意識な、自然なものとはいえないが、ほとんどそれに近い状態で詠んだ歌に、黒人の歌才の成行きとして、労せずして絡んできた技巧ではないかと思われる。
一本に云ふ、水河《みかは》の 二見《ふたみ》の道《みち》ゆ 別《わか》れなば 吾《わ》がせも吾《われ》も 独《ひとり》かも去《ゆ》かむ
一本云、水河乃 二見之自道 別者 吾勢毛吾文 獨可文將去
(65)【語釈】 略す。
【釈】 三河国の二見の道で別れたならば、わが背も吾も、独りでさびしく旅をすることであろうか。
【評】 上の歌と同じものとして、こうした伝えもあるとの意で引いたものとみえる。しかしこれは女の歌で、上の歌に和《こた》えたものであることは明らかである。黒人の妻の歌であろう。『考』は、この歌は題詞の八首の歌が終わった後、別に題詞があって載っていたのを、乱れてここに入ったものだろうといっている。撰者がこのような扱いをしたものとは思われない。
277 速《と》く来《き》ても 見《み》てましものを 山背《やましろ》の 高《たか》の槻村《つきむら》 散《ち》りにけるかも
速来而母 見手盆物乎 山背 高槻村 散去奚留鴨
【語釈】 ○速く来ても見てましものを 「速く来ても」は、「も」は、詠歎。もっと早い時に来て。「見てましものを」は、「て」は完了、「まし」は、仮想をあらわす助動詞で、見るべきであったものを。○山背の高の槻村 「山背」は、山城国で、平安奠郡以前はこの字、その他をも用いた。大和京から見て山背《やまうしろ》の義。「高槻村」は、古来難解とした。それは全体を地名と解したがためであるが、そうした地名の山背国にあることは証し難いためである。最近に生田耕一氏が改訓を試みた。訓は「高《たか》の槻村」《つきむら》とし、その「高」は、古にいう山城国|綴喜《つづき》郡多賀郷であるとし、その地は今の多賀、井手一円の地であるとした。「多賀」は「たか」で、土地の人は皆そういっており、式内の「高神社」もあるというのである。また「槻村」は槻の木群《こむら》だといっている。爾来この解が用いられている。○散りにけるかも 「に」は、完了。「ける」は、過去。「かも」は、詠歎。散ってしまったことであるよ。
【釈】 もつと時早く来て見るべきであったものを。山城国の高の槻の木群《こむら》の黄葉《もみじ》は、散り去ってしまったことであるよ。
【評】 黄葉に対して深い愛をもっていたのは、上代の人に共通なことである。しかし槻の黄葉だけを捉えて一首の歌としているのは初めてである。しかもこの歌は、時過ぎてそれの見られなかったことを嘆いているもので、単純を極めたものである。それにもかかわらず、感の深いものとしているのは、黒人の自然に対する愛と、ものを綜合的に感じ、その奥にある情趣を捉える力との、相俟って醸し出すところのものである。これはこの時代としては、まさに個性的なものである。
石川少郎の歌一首
【題意】 「石川少郎」については左注がある。大宰少弐の職にもあった人であるから、その頃の作とみえる。
(66)278 志可《しか》の海人《あま》は 軍布《め》苅《か》り塩《しほ》焼《や》き 暇《いとま》無《な》み 髪梳《くしげ》の小櫛《をぐし》 取《と》りも見《み》なくに
然之海人者 軍布苅塩焼 無暇 髪梳乃小櫛 取毛不見久尓
【語釈】 ○志可の海人は 原文「然」は、「しか」の地名に当てたもので、この地名は諸所にあるが、ここは大宰府に近い志可《しか》島だろうとされている。志可は筑前国(福岡県)糟屋郡志賀町に属し博多湾の東北一帯を抱えている半島の、その端の部分にある。海運・漁業など海人の業をもって古来聞こえており、集中にもその地を詠んだ歌が多い。「海人《あま》」は、本来は部族の名称で、男女を通じての称であるが、ここは女だけをいったものであることが、下の続きでわかる。 ○軍布苅り塩焼き 「軍布」は、「め」に当てた字と取れるが、そのよるところは明らかでない。諸説があるか、定まらずにいる。「め」は大体わかめをいっている。「塩焼き」は、製塩をし。○暇無み 「無み」の形は、しばしば出た。無くしての意。○髪梳の小櫛 「髪梳」は、訓み難くして、さまさまの訓か試みられている。心としては「小櫛」を修飾するもので、形としては、「の」に続く関係上名詞であり、音数としては三音を適当とするものである。訓は、「つげ」「かみけづり」「くしげ」「くし」「ゆする」「かみすき」「けづり」などある。これらの中では「くしげ」に心が引かれる。これは新勅撰集の訓で、『拾穂抄』が賛しているものである。この訓は、櫛笥《くしげ》はその名のことく、主として櫛を容れる筥《はこ》であり、また櫛は女の大切にした物であるから、その良否はとにかく、当然禰笥に入れてあることと解して、「髪梳」を櫛笥に当てたものではないかと思われる。「然《しか》」「軍布《め》」など用字にある凝りを示している関係上、許され難いものとは思われない。これは最も常識的な訓で、作意を主として迎えてのものであるが、作者は貴族で、海人《あま》の生活を傍観してのものであり、歌はまた、謡い物の色彩の濃厚なものであるから、この平凡な訓か真に近くはないかと思われる。「小櫛」の「小」は、接頭語。○取りも見なくに 手に取っても見ないことよの意で、「も」も「に」も詠歎。「取らなく」を嘆きをもって強めていい、さらに言いさしにしたもの。
(67)【釈】 志可の海人《あま》の女は、軍布《め》を苅ったり塩を焼いたりするのに暇がなくて、櫛笥の櫛を、手に取って見ることもしずにいることよ。
【評】 貴族として海人《あま》の生活を傍観し、女の方に憐れみの心を寄せたものである。しかしその隣れみは、海人の女がその生業にあまりにも忙しく、女として第一に重んずる髪をいたわる暇もないことを中心としたもので、貴族の耽美《たんび》の心を通しての隣れみである。結句は嘆きをこめていってゐるので、海人自身の訴えのごとき感があり、謡い物の匂いをもったものとなっている。実際に即していう歌風に従ってのものなので、おのずから厚みが添い、耽美の心の隠れようとしているところがあって、それが趣となっている。
右、今案ずるに、石川朝臣君子、号を少郎子といへり。
右、今案、石川朝臣君子、号曰2少郎子1也。
【解】 題詞の「少郎」についての注である。この人は、上の(二四七)「石川大夫和ふる歌」の左注に、「正五位下石川朝臣|吉美侯《きみこ》、神亀年中任2少弐1」とある人である。この任官は続日本紀には見えないが、漏れたものだろうという。「少郎子」は、中国風にならっての号で、兄弟三人以上ある時、末にあたっている人に対しての号である。
高市連黒人の歌二首
279 吾味児《わぎもこ》に 猪名野《ゐなの》は見《み》せつ) 名次山《なすぎやま》 角《つの》の松原《まつばら》 何時《いつ》か示《しめ》さむ
吾妹兒二 猪名野者令見都 名次山 角松原 何時可將示
【語釈】 ○吾妹児に猪名野は見せつ 「猪名野」は摂津国河辺郡にあった野で、古はそこに国府を遷そうとされたこともあり、また牧ともされた。今の伊丹市はその中で、市の内外に猪名神社、猪名寺、稲野などがあって、名残りをとどめている。「見せつ」は、見させたで、見せようと心がけていて見せた心でいっているもの。猪名野が一つの名所となっていたことがわかる。○名次山 『槻落葉』が所在を考証し、「神名帳」有馬郡に名次神社があり、この神社は今、広田神社の摂社として、同社の西名次丘にあるが、その丘であろうという。ここは猪名野よりは西で、大路に沿った地である。ここも一つの名所であったとみえる。○角の松原何時か示さむ 「角の松原」は、諸注考証しているが、要は、『和名抄』に、武庫郡津門【都止】とある所であろうか。それだと西宮の東につつ川という流れがあり、その辺であろう。それだと、名次山より順路でもあるというの(68)である。『講義』は、はたしてここだとすると、角《つの》より「つの」「都門《つと》」と転じてきたものとしなければならないが、「門《と》」は濁音でなくてはならないといって、難を残している。「示さむ」は、さし示して見せようの意。
【釈】 吾妹児に名所の猪名野は見せた。この路についである名所の名次山《なすぎやま》、角《つの》の松原は、いつさし示して見せられようか。
【評】 妻に猪名野を見せようとして伴って行って見せ、それを喜ぶとともに、何らかの都合で、その路の前方にある名次山、角の松原は見せられないのに心を残し、憧れをつないでの歌である。史蹟や名所を重んじ喜ぶ心は、国家が隆運に向かっている時に、それに伴って起こってくる心である。この歌で見ると、黒人が喜ぶとともに、妻も名所を喜んでいたことがわかる。当時の生活を思わせる歌である。
280 いざ児《こ》ども 倭《やまと》へ早《はや》く 白菅《しらすげ》の 真野《まの》の榛原《はりはら》 手折《たを》りて帰《ゆ》かむ
去來児等 倭部早 日菅乃 眞野乃榛原 手折而將歸
【語釈】 ○いざ児ども 「いざ」は、誘う意の語。「児ども」は、目下《めした》の者を親しんで呼ぶ称。ここは呼びかけてのもの。〇倭へ早く 「倭」は、大和で、その家の在る所を広くいったもの。「早く」は、心としては下の「帰かむ」へ譲って、言いさしにして言いきったもの。 ○白菅の 「白菅」につき『講義』は、水辺、湿地に自生する一種の草で、かやつり草に似ているが、質は軟弱で、淡緑色をしており、やや白色を帯びている。他の歌によって、真野にそれの生えていたことが知られるから、実景として、白菅の生えている野の意で、真野に続けたものだといっている。○真野の榛原 「真野」につき『攷証』は、摂津国矢田部郡に、「真野滞在2西池尻村1真野池在2池尻村1」とある所であろうといっているが、現在は、神戸市の中に入り、長田区東尻池町、西尻池町の辺り。「榛原」は、萩原で、しばしば出た。真野は集中に多く出ており、巻十一(二七七二)「真野の池の小菅を笠に縫はずして」、巻七(一一六六)「衣《きぬ》に摺りけむ真野《まの》の榛原《はりはり》」など他にもあり、池には小菅、野には榛の多かったことが知られる。水辺には白菅が続いていたのである。○手折りて帰かむ 「手折りて」は、「榛原」に続き、その榛を手折ってで、折るのは家づととしてである。「帰かむ」は家へ帰って行こうの意。
【釈】 さあ、皆の者、大和へ早く。白菅の生えている真野のこの萩原の萩を手折って、苞《つと》として家に帰って行こう。
【評】 この歌は、次の黒人の妻の和《こた》え歌と合わせてみると、黒人夫妻に、従者が添って、萩の花の盛りの頃、その名所とされていた真野へ遊覧に行き、十分に遊覧しての後、主人である黒人が帰りを促すために詠んだものと取れる。すなわち歌としては実用性のものであるが、他面文芸性の豊かなものである。
「いざ児ども倭へ早く」は、実用性を端的にあらわしたものである。「白菅の真野の榛原」は、野の特色、すなわち水と野と相まじっている複雑な趣を、白菅と榛とによって美しく具象した(69)技巧的なものである。「手折りて帰かむ」は、一同の遊覧に飽かない心を察しながらも、それに主人としての分別を加え、上の「早く」へ絡ませていったものなのである。さらに全体として見ると、「倭へ早く」の言いさし、「榛原手折りて」の続きの飛躍など、その際の黒人の心の満ちていたことを思わせるものである。こうした続けは、情熱の高まった際にのみできるものだからである。この歌は、巻一(六三)「いざ子どもはやく日本《やまと》へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ」という山上憶良の歌と通うところの多いものである。いずれも口承を旨とした歌で、その程の歌の風として、影響を及ぼしているものと思える。
黒人の妻の答ふる歌一首
281 白菅《しらすげ》の 真野《まの》の榛原《はりはら》 往《ゆ》くさ来《く》さ 君《きみ》こそ見《み》らめ 真野《まの》の榛原《はりはら》
白菅乃 眞野之榛原 徃左來左 君社見良目 眞野乃榛原
【語釈】 ○往くさ来さ 『代匠記』は、往きさまかえりさまなりと解している。他にも諸説があるが、『講義』は、「さ」は「さま」の義であろうとし、さまは普通、空間的に方向をさすものとのみ考えられているが、古くは意味が広く、時間的にも通わしていたようであると、詳しく説いている。これは京から西への旅を心に置いての語である。〇君こそ見らめ 「見らめ」の「らめ」は「らむ」の已然形。「らむ」は、古くは上二段活用に限り、連用形に続けた。君こそは見ようで、我は見られないの意をもった語。
【釈】 白菅の生えている真野の榛原よ。西への旅の往きざまにも帰りざまにも、君こそは見もしようが、我は見られない。好景の真野の榛原よ。
【評】 前の歌に対しての和え歌である。「いざ児ども倭へ早く」と呼びかけられたうちに黒人の妻もいて、その場で和えたものと取れる。「往くさ来さ君こそ見らめ」は、いったがように我我は珍しく、したがって見飽かないという心を腕曲にいったもので、さらに第二句と結句とで「真野の榛原」を繰り返して、その好景であることを誘え、その見飽かぬ心を強めたものである。すなわち「早く」と促すのを押し返し、遊覧を続けたい心を婉曲に訴えたものと取れる。これも黒人の歌とともに実用性の範囲の歌である。
春日蔵首老《かすがのくらひとおゆ》の歌一首
【題意】 「老」は、巻一(五六)に出た。初めは僧であったが、大宝元年三月、勅命によりて還俗《けんぞく》した人である。
(70)282 つのさはふ 石村《いはれ》も過《す》ぎず 泊瀬山《はつせやま》 何時《いつ》かも越《こ》えむ 夜《よ》は深《ふ》げにつつ
角障經 石村毛不過 泊瀬山 何時毛將超 夜者深去通都
【語釈】 ○つのさはふ石村も過ぎず 「つのさはふ」は、巻二(一三五)に出た。「石」にかかる枕詞。「石村《いはれ》」は、「磐余」の字も用いる。今は高市郡であるが、古は十市郡であった。桜井から香具山付近へかけての一帯の地の称。「石村も過ぎず」は、石村の地さえもまだ通り過ぎないというので、石村を歩いている際の心。○泊瀬山 この山は、石村から東の方の初瀬川の谷間を溯つて行った所の、その北方にある山で、天神山を山口とする山だと『講義』はいっている。○何時かも超えむ いつ越え得られようかで、泊瀬山を越えての彼方まで行こうとしての心。○夜は深けにつつ 「に」は完了。夜は更けてしまいつつ。
【釈】 まだ石村《いわれ》の地さえも通り過ぎない。泊瀬山はいつ越え得られるのであろうか。夜は更けてしまいつつ。
【評】 何らかの急用を帯びて、夜、泊瀬山を越しての彼方まで行こうと志して、現に歩いていての心である。藤原京から石村までは幾ほどもない間であるのに、その地にあって焦燥の感を起こし、途中の第一の難場である泊瀬山を越え終わる時をいつのことかと懸念し、夜の更けて行くのに関係させて焦燥を深めているのである。歌は心やりのためのもので、焦燥そのものを内容としている、あくまで実際に即したものである。迫真性の豊かな、特色のあるものである。
高市連黒人の歌一首
283 墨吉《すみのえ》の 得名津《えなつ》に立《た》ちて 見渡《みわた》せば 武庫《むこ》の泊《とまり》ゆ 出《い》づる船人《ふなびと》
墨吉乃 得名津尓立而 見渡者 六兒乃泊從 出流船人
【語釈】 ○墨吉の得名津に立ちて見渡せば 「墨吉」は、摂津国住吉郡住吉神社のある所。「得名津」は、今は明らかではない。『講義』は、『堺鑑』の説くところに基づき、今の堺市の北、住吉に近い地だろうといっている。「立ちて見渡せば」は、立って遠望をすればで、その地の海岸であることをあらわしている。○武庫の泊ゆ 「武庫の泊」は、摂津国の武庫郡と河辺郡の堺を流れる武庫川の河口で、古史に「務口水門《む二のみなと》」と呼ばれている所であろうという。「ゆ」は、より。『講義』は、得名津とされている地点から、武庫の泊までは海上三里で、中間は大阪湾で目を遮る物がないといっている。○出づる船人 漕ぎ出すところの船人よの意で、遠望する目に映る物は、もとより船であるが、船には船人が乗っているものとして言いかえた語。
(71)【釈】 墨吉の得名津の海辺から遠望をすると、今しも武庫の泊から漕ぎ出すところの船人よ。
【評】 墨吉の得名津から武庫の泊まで、海上三里を隔てて、当時の大きくない船の漕ぎ出すのが見えるというので、その時の空は晴れ、海の穏やかであったのが想像される。これはまさしく自然詠で、「船人」も大自然の中の一点景となって溶け入っている感のあるものである。しかしこの歌には一種の情趣があって、その情趣は対象そのものからくるのみではなく、作者の心の加わっているものと思える。作者の方からいうと、黒人は旅中の自然詠ばかりをしている人で、旅に対しての憧れをもっていた人と思える。当時の旅は大体船によるのを原則としている。そうした穏やかな海に船出をするのを見ると、心動かずにはいられなかったろう。船を「船人」と言いかえたのは、その船人を旅する人とし、それに対して羨望の情を寄せたがためではないかと取れる。この歌の情趣は、一半はその心の現われで、自然詠とは見えるが、人事詠の絡んでいるものと解される。
春日蔵首老の歌一首
【題意】 歌で見ると、老《おゆ》が駿河国に定住していての作と思われる。それだと国司であったと見えるが、そのことは所見がない。老の詩の懐風藻にあるものに題して、「従五位下常陸介春日蔵老」とあるので、その東国に在ったことはわかる。
284 焼津辺《やきつべ》に 吾《わ》が去《ゆ》きしかば 駿河《するが》なる 阿倍《あべ》の市道《いちぢ》に あひし児《こ》らはも
焼津邊 吾去鹿齒 駿河奈流 阿倍乃市道尓 相之兒等羽裳
【語釈】 ○焼津辺に吾が去きしかば 「焼津」は、駿河国|益頭《ましつ》郡にあり、日本武尊が賊のために火をもって囲まれたという名高い事蹟のあった地である。今の静岡よりは西南方三里を隔てた海岸の地である(現焼津市付近)。「辺に」は、方面に。「吾が去きしかば」は、わが行った時にの意。「ば」は、「ば」がこの場合のように已然形に接続する時には理由をあらわすものとはならず、去《ゆ》きし時にという意と異ならないものになるのは、当時の格である。上の(二五三)「行き過ぎかてに思へれば」の「ば」、また下の(三八八)「寝《い》の宿《ね》かてねば」の「ば」など、すべて同じである。○駿河なる阿倍の市道に 「駿河なる」は、駿河国にあるで、下の「阿倍の市道」の所在を示したもの。「阿倍」は、駿河国の郡名であるが、その郡に国府があり、また今の静岡は、明治維新までは府中といっていたので、国府所在地の地名ともなっていたと取れる。「市」は、毎月何回か、定めてある日に、定めてある場所に人々が集まり、物品を売買することの称。「市道」は、その市へ行く道にも、市そのものの中の道にも通じていう語。ここは、後の意のものと取れる。○あひし児らはも 「あひし」は、ここは見かけた。「児ら」の「児」は、若い女を親しんでの称。「ら」は複数を示したものではなく、単に添えていったもの。「はも」は、「は」と言いさし、それに「も」の詠歎を添えたもの。見かけたあの若い女はよという意。
(72)【釈】 焼津方面へわが行った時に、その途中、駿河国に立つ阿倍の市の、その市中《いちなか》の道で見かけた、あの若い女はよ。
【評】 一首の中心は、「あひし児らはも」で、老がたまたま路上で見かけた若い女の、その美しさを忘れ難くして、後より思い出してなつかしんでいることで、他はすべて、その女を見かけた事情をいっているものである。事情というのは、そういう事とは全然関係のない、おそらくは国司として公務を帯びて「焼津辺」に行こうとし、たまたま「阿倍の市道」を過ぎたということで、あくまでも実際に即したものであり、その即し方は特異なまでである。これは老の人柄よりくることかと思われる。しかし結果からいうと、そのために「焼津」「駿河」「阿倍」という三地名を取入れた、土地の色彩のきわめて濃厚なものとなっている。しかもそれは、「児らはも」に集中されるものとなっているので、一首としては、その土地に対する好感をあらわしたものとなっている。これは民謡に国讃めの歌の絡んだものといえることである。その中の「駿河なる」が「児ら」を重からしめる役をもっているのは、微細な技巧というべきである。
丹比真人笠麿《たぢひのまひとかさまろ》、紀伊の国に往き、背《せ》の山を越ゆる時作れる歌一首
【題意】 「丹比真人笠麿」は、伝が知られない。丹比は氏、真人は姓、笠麿は名である。勢の山は、和歌山県伊都郡かつらぎ町の北にある山で、大和国より紀伊国へ越えるには必ず通るべき道筋にあたっている。古の紀関はここにあったろうといわれている。
285 栲領巾《たくひれ》の 懸《か》けまく欲《ほ》しき 妹《いも》の名《な》を この背《せ》の山《やま》に 懸《か》けば奈何《いか》にあらむ【一に云ふ、かへばいかにあらむ】
栲領巾乃 懸卷欲寸 妹名乎 此勢能山尓 懸者奈何將有【一云、可倍波伊香尓安良牟】
【語釈】 ○栲領巾の懸けまく欲しき 「栲領巾の」は、栲すなわち楮《こうぞ》類の繊細をもって織った、女の、領《えり》より肩へ懸ける領巾で、「懸け」と続いて、その枕詞。「懸けまく」は、「懸けむ」に「く」を添えて名詞形としたもので、懸けようことの意。懸くは、心に懸ける意と、言《こと》に懸ける意とのある語で、ここは言の方で、言い及ぼすというにあたる語。「欲しき」は、ほしいところので、下へ続く。全体では、言《こと》に懸けて、すなわち包まずに口へ出して言い及ぼしたいところのの意。○妹の名を 妹という名を。○この背の山に懸けば奈何にあらむ 「この背の山に」は、いま現に越えつついるこの山に。「懸けば」は、言い及ぼしたならばで、妹という名を及ぼすのは、「背」を「妹」と喚びかえたならばの意。「奈何にあらむ」は、どんなものであろうかと、相談の意をもっていったもの。
【釈】 栲領布の懸けるというその言《こと》に懸けて、すなわち口に出して言い及ぼしたいところの妹という名を、この越えつついる背(73)の山に言い及ぼして、妹の山と喚びかえたならば、どんなものであろうか。
【評】 この歌に和える春日老の歌と合わせ見ると、二人は相伴って背の山を越えようとしていたことがわかる。打揃っての旅をしているところから見て、行幸の供奉をしていたのではないかといわれている。背の山は紀路の難路で、これを越すとまさしく旅という感がしたものと思われる。旅にはいわゆる旅愁が付き物で、それをもつのが普通とされていたとみえる。しかし親しい者同志が相対していう場合には、さすがにそれにも程度が必要であったとみえる。「栲領布の懸けまく欲しき妹」というのは、その程度を守っての言い方と取れる。妹と背とは相対して離し難いものであって、妹といえば必ず背は連想されてくる。しかるに今越えている山は、その背という名をもった「背の山」である。その妹をこの「背の山」に関係させることは、この場合しゃれたことであり、文芸的とも言いうることである。「妹の名をこの背の山に懸けば」はすなわちそれである。「奈何にあらむ」は、同感を求める心をもって相談した形のもので、親しい微笑の感じられる語である。歌を社交の具とし、良い意味の戯れをいおうとするのは伝統的のことで、この歌はその範囲のものである。
春日蔵首老、即ち和《こた》ふる歌一首
【題意】 「即ち」は、即座にの意で、老が相伴っていたことを知りうる語である。
286 宜《よろ》しなへ 吾《わ》が背《せ》の君《きみ》が 負《お》ひ来《き》にし この背《せ》の山《やま》を 妹《いも》とは喚《よ》ばじ
宜奈倍 吾背乃君之 負來尓之 此勢能山乎 妹者不喚
【語釈】 ○宜しなへ 巻一(五二)に出、他にも二か所に出ている。「宜し」は、ものの十分に好いこと。「なへ」は、「並べ」で並ぶ意。はなはだ結構なという意にあたる。○吾が背の君が負ひ来にしこの背の山を 「吾が背の君」は、男同志が深く親しんで呼ぶ称にもした語。ここは笠麿をさしている。「負ひ来にし」は、「に」は完了。負いもってきたところの。「この背の山を」は、いま現に越えている背の山をで、「背」は、「負ひ来にし」の続きとしては、妹に対しての背すなわち笠麿を意味させるとともに、山の名としての「背《せ》」をも意味させているものである。全体では、わが背の君が負いもってきたところの背というを名としているこの背の山をで、夫としての背と、山としての背とを一つにしているのである。それがすなわち「宜しなへ」と讃えるべきことなのである。○妹とは喚ばじ 我は妹とは喚ぶまいで、背《せ》の山で結構だの意。
【釈】 はなはだ結構にも、君の負いもってきているところの背ということを名としているこの背の山を、我は妹とは喚ぶまい。
【評】 老の和え歌は、作意としては、我は君のいわれようとする妹のことは思わない。同伴者に君があるので十分であるとい(74)うので、その心を和え歌の型として、笠麿の歌に関係させていっているのである。詠み方は、「この背の山に懸けば奈何にあらむ」に対し、「この背の山を妹とは喚ばじ」と反対したのである。これは、反対しなければ面白くないので、おのずからに決まっている型である。この反対には理由がなくてはならず、その理由は善意をもったものでなくてはならないことも、また型となっているものである。「宜しなへ吾が背の君が負ひ来にし」がすなわちそれである。笠麿のいわんとしたのは「懸けまく欲しき妹の名」で、老にも同感させようとしたのであるが、老は自身の妹のことには全然触れず、笠麿に対しても、その妹の夫であるという点だけを挙げ、そこに「宜しなへ」という喜びをあらわすにとどめている。これはしかし笠麿の心をうべなっているものである。即座に和《こた》えた歌としては、心のはっきりとした、相応に技巧のある歌というべきである。
志賀に幸《みゆき》せる時、石上《いそのかみの》卿の作れる歌一首 名闕く
【題意】 「志賀」は近江国滋賀郡のことである。行幸は、何帝のいつのことともわからない。左注にも「行幸の年月を審にせず」といっているのである。思うに出典とした本の、この部分だけを抄出して、前後を顧みなかったのであろうという。『考』以来、諸注考証を重ねているが、『講義』は最も精細なる考証をしている。「石上卿」は「名闕く」とあるので誰ともわからないが、これにつぐ穂積朝臣老の歌は、この行幸の際同じく供奉して作ったものであるところから、老を手がかりとして考証を進め、さらに歌の排列順から年代を推測したものである。結論的にいうと、穂積朝臣老の史上に見えるのは、続日本紀、大宝三年より天平十六年までである。その頃石上氏にして卿と呼ばるべき人は、石上朝臣麿と乙麿と豊庭との三人で、そのうちのいずれかでなくてはならない。また、歌の排列順から見ると、この辺の歌は大体、藤原朝から奈良朝の初めのものとみえるが、その頃近江国へ行幸のあったのは、元正天皇の養老元年九月、美濃国当耆郡多度山の醴泉に行幸があり、その途次、「戊申(十二日)行(テ)至2近江国1観2望淡海1云々」の一事があるのみである。それだと石上卿は豊庭であろうというのである。
287 ここにして 家《いへ》やも何処《いづく》 白雲《しらくも》の 棚引《たなび》く山《やま》を 越《こ》えて来《き》にけり
此間爲而 家八万何處 白雲乃 棚引山乎 超而來二家里
【語釈】 ○ここにして家やも何処 「ここにして」は、ここにありてで、ここは滋賀。「家」は「我が家」で、大和にある家。「やも」は、「や」の疑問に「も」の詠歎の添ったもの。「何処」は、どこにあるのか。○白雲の棚引く山を 「白雲」は、行幸は九月初句であるから、秋の雲。○越えて来にけり 「に」は、完了。打越えて来たことであるよ。
(75)【釈】 ここの滋賀にあって、大和のわが家はどこにあるのであろうか。あの秋の白雲の靡いている山を打越えて来たことであるよ。
【評】 旅にあってわが家を思う心のものであるが、風景に対する感が重く働いて、溶け合って、情趣となっているものである。淡く、品位のあるもので、奈良朝初期の貴族を思わせる歌である。漢詩の風韻に通うものがあって、その影響を思わせられる。親しさの足りない感を起こさせるのは、そのためではないかと思われる。
穂積朝臣老の歌一首
【題意】 「穂積朝臣老」は、続日本紀でその伝が知られる。要は、大宝三年、正八位。和銅三年、正五位上大伴宿禰旅人が左将軍の時、従五位下でその副将軍。同六年従五位上。養老元年正五位下、式部少輔。同二年正五位上、式部大輔。同六年、「坐3指2斥乗輿1所2斬刑1。而依2皇太子奏1隆2死一等1配2流佐渡島1」ということがあり、天平十二年、大赦があって京に入るを許された。同十六年大蔵大輔となる。天平勝宝元年八月卒。歌は行幸に供奉して作ったもの。
288 吾《わ》が命《いのち》し 真幸《まさき》くあらば 亦《また》も見《み》む 志賀《しが》の大津《おほつ》に よする白浪《しらなみ》
吾命之 眞幸有者 亦毛將見 志賀乃大津尓 縁流白浪
【語釈】 ○吾が命し真幸くあらば 「命し」の「し」は、強め。「真幸く」は、つつがなく。わが命が、もしつつがなくているならば。○亦も見む 再びこれを見よう。○志賀の大津によする白浪 「志賀の大津」は、天智天皇の大津宮のあった所。「よする白浪」は、寄せるところの白浪よの意。
【釈】 わが命が、もしつつがなくているならば、再びこれを見よう。志賀の大津へ向かって寄せるところの湖の白浪よ。
【評】 旅にあって絶景に逢うと、生きて再び見られるかどうかを危ぶむ心の起こるのは、人間の通有性である。老もそうした感を起こしたのである。絶景と感じたのは、「志賀の大津によする白浪」であるが、大和国の京に住んでいて、大湖を目にする機会がなかったとすれば、起こりうる感である。一首、沈痛な響があって、その感の真実を裏書している。この沈痛の度については、老の人柄が関係しているかとも思われる。
右、今案ずるに、幸行の年月を審にせず。
(76) 右、今案、不v審2幸行年月1。
【解】 石上卿の誰であるかが不明であった所からの注である。「幸行」の文字は古書に例のあるものだと『略解』が注意している。
間人《はしひとの》宿禰|大浦《おほうら》の初月《みかづき》の歌二首
【題意】 「間人宿禰」は、『新撰姓氏録』にあり、「間人宿禰、仲哀天皇皇子、誉屋別命之後也」とある。「大浦」については、何の記録もない。初月は、漢語の熟字で、月初の月の意であるが、この集には三日月の意で用いている。
289 天《あま》の原《はら》 ふりさけ見《み》れば 白真弓《しらまゆみ》 張《は》りて懸《か》けたり 夜路《よみち》は吉《よ》けむ
天原 振離見者 白眞弓 張而懸有 夜路者將吉
【語釈】 ○天の原ふりさけ見れば 上にしばしば出た。大空を遠く仰ぐとの意。○白真弓 「白真弓」は、集中、「白檀」の字を用いてもいる。檀は上代、弓材として用いていた木で、黏《ねば》り強く、それに適した木であったとみえる。今、檀という木とは異なった木であろう。壇の弓は白木《しらき》のままで用いたところから、この称ができたとみえる。槻弓、梓弓などと同じく弓を添えるべきであるが、同音の重なる関係上、弓を略《はう》いたのである。○張りて懸けたり 「張りて」は、弦を張ってで、それをすると弓が彎曲するところから、その彎曲した形を三日月に譬えていったもの。「懸けたり」は、懸けてありで、空にかかっている意。○夜道は吉けむ 「吉けむ」は、「吉し」の未然形「吉け」に推量の「む」のついたもの「近けむ」「全《また》けむ」と同じ語格のもの。
【釈】 大空を遠く仰ぐと、白真弓に弦を張ってかけてある。これだと夜道をするにはよくあろう。
【評】 中心は、結句「夜路は吉けむ」にあるところから見て、遠い道の、急ぐべき道を歩いていて、夜にかけて歩き続けようと思っている際、空に三日月の現われているのを発見して、夜路には都合がよかろうと喜んだものと取れる。技巧は、「白真弓張りて懸けたり」の隠喩にある。上代、多少なりとも身分のある人が、長途の旅をする場合には、護身の具を携えるということは普通のことであったろう。三日月に対しての「白真弓」という連想は、そうした護身具からのものではないかと思われる。それだと三日月を身に引きつけうる感がしたことであろう。一首、生活に即して、その上の喜びを直接にいったもので、文芸的のものではないが、結果からいうと、「白真弓」の隠喩によって、その感の伴ったものとなっている。
(77)290 椋橋《くらはし》の 山《やま》を高《たか》みか 夜隠《よなばり》に 出《い》で来《く》る月《つき》の 光《ひかり》乏《とも》しき
椋橋乃 山乎高可 夜隱尓 出來月乃 光乏寸
【語釈】 ○椋橋の山を高みか 「椋橋の山」は、大和国磯城郡多武蜂の東に連なり、宇陀郡に界している山で、今、音羽山と呼んでいる山だという。『講義』はこれを疑い、『大和志』『大和国町村誌集』には倉梯山《くらはしやま》と音羽山とは別となっており、また集中、倉梯山の山はしばしば出るが、音羽山というのは見えないので、古くは倉梯山は、音羽山をもこめての名ではなかったかといっている。「高みか」は、高きゆえにかで、「か」は疑問。○夜隠に出で来る月の 「夜隠」は、訓が定まらず、したがって解も定まらずにいたものである。訓は二様で、『童蒙抄』は、「よなばり」と訓み、地名とした。例は、「隠」を「なばり」と訓むのは、巻一(四三)「隠《なばり》の山」があり、また、巻二(二〇三)「吉隠《よなばり》の猪養《ゐかひ》の岡」もあって、それらを証としてである。『代匠記』以下諸注、それを認めず、一に「夜隠《よごもり》」と訓んでいる。「夜隠《よごもり》」は、暁の、まだ夜に隠《こも》って明けきらない意の名詞で、それ以外の意はない語である。下への続きは、「出で来る月」で、暁のまだ夜の闇を保っている時に出て来る月ということになる。これは二十日以後の月の状態で、題詞の「初月」によってあらわしている三日月とは明らかに矛盾するものである。したがって「夜隠《よごもり》」の意味を広くして、宵にも適用しうるとし、または誤字であるとの説も出てきている。『講義』は、『童蒙抄』と同じ訓とし、「夜隠」を上にいった「吉隠《よなばり》」すなわち現在は磯城郡初瀬町の大字《おおあざ》として残っている地だと解して、実地について精細なる討究をしている。「夜隱《よなばり》」は、初瀬町と宇陀郡榛原との中間にあり、伊賀国名張へ向かう道にあって、古の東国へ行く要路にあたっているというのである。また、そこは、三日月と方角の関係からいうと、西空低く現われる三日月が、西方の倉梯山に遮られる地点だともいうのである。これは『講義』によって初めて確められたものである。「出で来る月の」は、西空に現われる月ので、三日月の状態。○光乏しき 「乏し」は、集中、羨しの意にも用いられているが、ここは現在の用法と同じく、少しの意のもの。「乏しき」は連体形で、上の「か」の結。
【釈】 椋橋山が高いゆえなのか、この夜隠《よなばり》の、空に現われる月が遮られて、その光の少ないことであるよ。
【評】 前の歌と同じく、夕べ近く、三日月の現われる頃道を歩いていて、前途を急ぐところから、三日月の光を夜道の便りとしようとする心をもち、それの十分に行かないのをかこつ歌である。対象は三日月ではあるが、鑑賞の心はまじえていないものと取れる。道は東国への道である。前の歌とは連絡はないが、いずれも旅路としての夜道に、月光を利用しようとする心からのもので、その点では一致している。実際生活に即したものである。
小田事《をだのつかふ》の背《せ》の山の歌一首
【題意】 「小田事」は、伝が全く知られない。小田という氏は、『新撰姓氏録』にも収められてはいない。「背の山」は(二八五)(78)に出た紀伊国の山。
291 真木《まき》の葉《は》の しなふ背《せ》の山《やま》 しのばずて 吾《わ》が越《こ》え去《ゆ》げは 木《こ》の葉《は》知《し》りけむ
眞木葉乃 之奈布勢能山 之努波受而 吾超去者 木葉知家武
【語釈】 ○真木の葉のしなふ背の山 「真木」は、杉檜など代表的の木の称にもいい、また、槇《まき》にもいう。ここは槇であるという解に従う。「しなふ」は、ハ行四段活用の語で、若く撓《しな》やかな状態をあらわす語。巻十三(三二三四)「春山のしなひ盛《さか》えて」、巻二十(四四四一)「立ちしなふ君がすがたを」など、他にもある。「真木の葉のしなふ」は、槇の葉が若く撓やかであるで、下へ続く。「背の山」は、上の(二八五)に出た。大和と紀伊の国境をなす山で、大和から紀伊に行く者は、この山を越すと、その国を離れて旅に出たという感を強くし、また「背」という名の連想で、妹を思わせられる歌が集中に多い。この山は妹を思う山だということが、当時一つの常識となっていたものではないかと思われる。○しのばずて 「しのぶ」は、意味の広い語である。ここは忍び隠す意と取れる。「しのばずて」と、打消の「ず」からただちに「て」に続けるのは古格で、集中に少なくない。「ずして」の意である。すなわち、忍び隠さずして。妹を恋う心は、普通、人に見せまいとして忍び隠すのであるが、今は場所柄とてそれをせず、表面に露《あら》わしての意である。この句は上の「背の山」に直接に続いていて、背の山をしのばずしての意のもので、その間に飛躍がある。この飛躍は、背の山が旅愁を起こさせる山だということが認められていないと成立たないものである。いったがように、それが成立っており、これで通じ得たものと解される。○吾が超え去けば わが越えて行ったのでで、しのばずという状態を続けて歩を続けたのでの意がある。○木の葉知りけむ 槇の葉がわが心を知ったのであろうの意。樹木が人の心を感じる力をもっているということは、上代の信仰であったとみえる。巻二(一四五)山上憶良、「あまがけりあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ」は、結松《むすびまつ》に通う神霊を、松は人以上に知るというのであり、巻七(一三〇四)「天雲の棚引く山の隠《こも》りたる吾が下心《したごころ》木の葉知るらむ」は、これと心を同じくするものである。なお、古事記、神代の巻の、樹木を掌る神のあることも、この信仰につながりのあるものであろう。
【釈】 槇の木の若く撓《しな》やかなところの背の山を、ここを越すと妹を思わせられるというとおりに、吾も妹を思う心を起こし、場所柄とてそれを忍び隠さずに越えて行ったので、人の心を知る木の葉は、それと知ったのであろう。
【評】 歌因は明らかで、背の山を越えつつ、旅にある夫に通有な、妻恋しい心を起こしたということである。さらにいえば、槇の木の立ち続いている山路の、人の少ないところを歩いていてのことなので、その妻恋しい思いをはばかる必要がなく、それをほしいままに露《あら》わしたのであるが、心づくと、そこに立ち並んでいた槇の木の葉は、それを知ったことであろうと、恥ずかしい感を起こしたというのである。「真木の葉のしなふ」は「木の葉」に照応させたところのあるもので、槇は葉をもって代表させるよりほかないものだからと取れる。木が人の心を感知する神秘力をもっているとするのは、いわゆる詩情からのも(79)のではなく、当時そうした信仰が存していたためかと思われる。また、「勢の山しのばずて」の続きも、いったがごとき心理に依拠してのことと思われるが、いずれも疑問を残すべきである。
角麿《つののまろ》の歌四首
【題意】 「角麿」は、ここよりほかには見えず、伝はわからない。角氏は『新撰姓氏録』に出ており、「角朝臣、紀朝臣同祖、紀角宿禰之後也、日本紀合」とある。日本書紀、雄路紀に、「角臣等初居2角国1而名2角臣1自v此始也」とある。角国は今の周防国|都濃《つの》郡で、天武天皇の御代に朝臣を賜わった。
292 久方《ひさかた》の 天《あま》の探女《さぐめ》が 石船《いはふね》の 泊《は》てし高津《たかつ》は 浅《あ》せにけるかも
久方乃 天之探女之 石船乃 泊師高津者 淺尓家留香裳
【語釈】 ○久方の天の探女が 「久方の」は、天の枕詞。「天」は、高天原に属するものに、この国土のものと差別する意で添えていう語。「探女」は、女の名前で、この女のことは古事記にも日本書紀にもあり、天稚彦《あめわかひこ》の従者である。天稚彦は高天原より出雲国を平定すべき詔を承けて降らせられた三人目の御使であるが、これまた前の二人と同じく出雲の勢力に圧しられて、復奏しないこと八年に及んだ。高天原では事を促そうとして、鳴女《なきめ》という雉《きじ》を遣わすと、天の探女は天稚彦に勧めて、その鳴女を射させたということによって伝わっている女である。これは古事記も日本書紀も同様で、探女という意は、他人の心を探って、主人に知らせる女という意であろうという。○石船の泊てし高津は 「石船」は、天磐※[木+豫]樟船《あまのいわくすぶね》ともいっており、「石《いは》」は、船の堅固なことを讃えていった語。「泊てし」は、船が着いて止まることをあらわす語。「高津」は、仁徳天皇の難波高津宮のあった所で、現在の大阪城の辺りであろうといわれている。○浅せにけるかも 「浅す」は、浅くなる意。浅くなってしまったことであるよと、感慨をこめていったもの。
【釈】 天の探女が高天原から乗って来た堅固な船の、着いて止まった高津は、津くなってしまったことであるよ。
【評】 これは古事記、日本書紀とは全く異伝である。『代匠記』は、「或物に津国風土記を引て云、難波高津は天稚彦天降りし時、天稚彦に属《つき》て粁れる神天探女磐船に乗て此に到る。天磐船の泊る故に高津と号《なづ》く云々」といっている。その「或物」というは『続歌林良材集 上』であるが、これは地名の起源伝説であり、存在する可能性のあるものである。この歌は、そうした伝説の上に立ったものである。天稚彦をいわずに、天の探女の方をいっているのは、ある特殊な精神力をもった女に魅力を感じたがためで、時代性の影響があってのことかと思われる。
(80)293 塩干《しほひ》の 三津《みつ》の海人《あま》の くぐつ持《も》ち 玉藻《たまも》苅《か》るらむ いざ行《ゆ》きて見《み》む
塩干乃 三津之海女乃 久具都持 玉藻將苅 率行見
【語釈】 ○塩干の三津の海人の 「塩干の」は、干潮のおりの。「三澤の海人の」は、「三澤」は難波の津で、「三」は御料の津であるゆえに尊んで添えたもの。「海人」は海人の女の意のもので、上にも出た。この初二句は、四六音である。○くぐつ持ち 「くぐつ」につき、『講義』は、諸注の考証を進めている。「くぐ」は海浜に生ずる草の名で、今もある物であり、それでつくった繩が現に用いているくぐ繩である。くぐ繩で編んだ籠がすなわちくぐつで、くぐつ籠の略であろうというのである。○玉藻苅るらむ 「玉藻」は、藻。「苅るらむ」は、くぐつに収めるために苅るので、苅るのをと下へ続く。○いざ行きて見む 「いざ」は、人を誘う意の語。
【釈】 干潮の時の三津の海人《あま》が、手にくぐつを持ち、藻を苅るであろうさまを、さあ、一緒に見物に行こう。
【評】 大和国に住んでいる人の、たまたま見る海珍しさの心のものである。海岸の海人の生活が珍しく、干潮時、くぐつを持って、食料のための藻を苅りに出る様を、すでに見て知っているにもかかわらず、また飽かずにまたも見ようとし、しかも人を誘っているのである。誘われる人も同感であったとみえる。生活に即した、実用性の歌である。
294 風《かぜ》を疾《はや》み 奥《おき》つ白浪《しらなみ》 高《たか》からし 海人《あま》の釣船《つりぶね》 浜《はま》にかへりぬ
風乎疾 奥津白浪 高有之 海人釣船 濱眷奴
【語釈】 ○風を疾み 「疾み」は、旧訓「いたみ」で、爾来それが定訓のごとくなっていた。『講義』は、「疾」には「いたし」という意はなく、「はやし」と訓むほかはない字であると詳しく考証をしている。風が早くして。○奥つ白浪高からし 沖の白浪が高く立つのだろうで、「らし」は、眼前を証としての推測で、証は下の船の状態。○海人の釣船浜にかへりぬ 沖に見ていた海人の釣船が、危険を避けるために、浜に帰った。
【釈】 風が疾くして、沖の白浪が高く立つのであろう。海人の釣船が浜に帰った。
【評】 海岸にあっては平凡極まることで、いうにも足りないことであるが、前の歌と同じく、海の状態の珍しさから、わが心やりとして詠んでいるものである。わが生活に即して第三者は問題とせずに、心やりとして詠むということは、歌が集団から離れて、個人のものとなり、したがって文芸的なものとなると、当然に起こってくるべきことである。この人の歌にはその傾向が著しい。
(81)295 清江《すみのえ》の きしの松原《まつばら》 遠《とは》つ神《かみ》 我《わ》が大王《おほきみ》の 幸行処《いでましどころ》
清江乃 木笑松原 遠神 我王之 幸行處
【語釈】 ○清江のきしの松原 「清江」は、今の住吉神社のあるところ。「きしの松原」は、海岸の松原で、そこは今も松原となっている。下に感歎の心がある。○遠つ神我が大王の 「遠つ神」は、下の「大王」を讃えた語で、天皇は神聖にして、人界よりは遠い神であるの意。「我が大王」は、天皇を親しんで申したもの。○幸行処 「幸行」は、前にも出た。行幸されたところの地の意で、熟語。
【釈】 清江の岸の松原よ、ここは遠つ神にますわが天皇の幸行処《いでましどころ》であるよ。
【評】 住吉の岸の松原の愛でたく清らかなのを目にし、そこは天皇の行幸地となっていることを思い合わせて、その地を讃えるとともに尊んだ心のものである。一首、名詞と助詞のみで、一つの動詞さえもない歌である。しかもいささかの不自然もなく、落着いた、清らかな趣をもった歌となっている。
田口益人《たぐちのますひとの》大夫、上野国司に任ぜられし時、駿河国|浄見埼《きよみのさき》に至りて作れる歌二首
【題意】 「田口益人」のこの時のことは、続日本紀、和銅元年三月の条に、「従五位上田口朝臣益人為2上野守1」と出ている。また、同じく和銅二年十一月の条に、「従五位上田口朝臣益人為2右兵衛率1」と出ているので、国司であった期間も知られる。「田口氏」は、『新撰姓氏録』に、「田口朝臣、石川朝臣同祖、武内宿禰大臣之後也。蝙蝠《かはほり》臣豊御食炊屋姫天皇御世家2於大和国高市郡田口村1、仍号2田口臣1、日本紀漏」とある。「益人」の父祖は許かでない。「大夫」は、四位・五位の人の敬称。「駿河国浄見埼」は、清水市で、海岸に迫った地。今の興津の清見寺のある辺りで、その門前に関屋里というがあり、そこが昔関のあった所で、清見埼の通過地点であったろうと推定されている。なお、上野国は東山道に属しているので、本来は東山道を下るべきであるが、信濃国の道路が困難なため、東海道により、したがって駿河国を経過したのだろうとされている。これは例のあることである。
296 廬原《いほはら》の 清見《きよみ》の埼《さき》の 見穂《みほ》の浦《うら》の 寛《ゆた》けき見《み》つつ 物念《ものおも》ひもなし
廬原乃 淨見乃埼乃 見穗之浦乃 寛見乍 物念毛奈信
【語釈】 ○廬原の清見の埼の見穂の浦の 「廬原の清見の埼の」は、上にいった。「見穂の浦」の「見穂」は、今の三保の松原の地である。ここは(82)今は清水市に属している。三保の埼は、清見が埼と南北に相対していて、西の方に湾入して清水港を抱いている。「見穂の浦」は、その入江を称したものと取れる。さて、「清見の埼の見穂の浦」という続け方は、三穂の浦が清見の埼に属しているがごとき続け方であるが、これは実地とは違っている。それにつき『講義』は、この続け方は他にも例のあるもので、巻十二(三一九二)「草陰《くさかげ》の荒藺《あらゐ》の埼の笠島を見つつか君が山|道《ぢ》越ゆらむ」とあるが、これも荒藺の崎のうちに笠島があるというのではなく、荒藺の崎から見渡すと、眼下に近く笠島が見えるというのであるらしく、ここの場合と同じだというのである。これに従う。○寛けき見つつ 「寛けき」は、寛かなるさまで、海の状態をいったもの。すなわち海の広く穏やかなさまを、総合的にいったもので、例のあるものである。「見つつ」は、継続。○物念ひもなし 「物念ひ」は、意味の広い語で、人として世に生きている以上、せずにはいられない嘆かわしい思いのすべてをあらわす語。「も」は、詠歎。一句、最上の幸福感をいったものである。
【釈】 廬原の清見の埼から、見穂の浦の寛《ゆた》かなさま、すなわち広く穏やかなさまを見い見いしていると、わが心はその佳景と一つになって、世の物念いとてはない。
【評】 赴任の途次、東海道の風景の中でも尤《ゆう》なるものとされている駿河湾の佳景に初めて接し、大和に在住する人の、海を珍しむ心も伴って、最上の快感を得たところからの歌である。その中心は、「物念ひもなし」ということで、これをもって最上の喜びとし、明らかに言いきっているところに、風景そのものを鑑賞する心も、実際生活からは遊離していなかったことをあらわしている。「廬原の清見の埼の見穂の浦の寛けき見つつ」は、駿河湾の大景を総合して客観化したものである。地名を三つまで重ねていることは、注意されることであるが、これはその土地を重んじる心からのもので、伝統となっている手法である。ここは重んじるというよりも、驚歎し愛でているもので、同時にそれが、間接ながら具象の効果を挙げている。「寛けき見つつ」はそれを総合しての具象である。一首、単純に、また素朴を極めたものであるが、その際の強い感動から生まれた調べによって、力あるものとなっている。
297 昼《ひる》見《み》れど 飽《あ》かぬ田児《たご》の浦《うら》 大王《おほきみ》の 命《みこと》恐《かしこ》み 夜《よる》見《み》つるかも
畫見騰 不飽田兒浦 大王之 命恐 夜見鶴鴨
【語釈】 ○昼見れど飽かぬ田児の浦 「昼見れど飽かぬ」は、昼の光で十分に見たけれども、それでも飽きることのないところの意で、「見れど飽かぬ」は、歎美の情をあらわす最上の語。「昼」は、下の「夜」と対照させたものである。「田児の浦」は、古くは廬原郡に属していた。森本治吉氏は、興津町の東方、薩※[土+垂]峠《さつたとうげ》から、現在の東海道線由比駅の辺りのようであるといっている。○大王の命恐み 「大王の命」は、ここでは、国司として京より任国へ着くまでの日数が、朝廷より定められている意。「恐み」は、謹み承《う》けまつってで、その日数は厳格に守っての意である。『講義』は、この当時の規程はわからないが、延喜式によると、上野国から山城の京に調物《みつぎもの》を貢する日数は、上り二十九日、下り十四日とある。大和(83)の京からの国司の日数は、この下りに一、二日を加えたものであろうが、同じく延喜式によると、武藏国までの下りは十五日であるので東海道によっての益人の行程は、よほどまで強行しなければならないものだったろうといっている。○夜見つるかも 「夜」は、夜にかけての旅をしていたことが、上よりの続きでわかる。「かも」は詠歎。残り惜しくも、夜見たことであるよの意。
【釈】 昼の光で見たけれどもなお飽くことのないところの田児の浦を、我は天皇の仰せたまえる規程を謹み承《う》けまつって、残り惜しくも、夜見たことであるよ。
【評】 前の歌に続いて詠んだものである。田児の浦は、清見の埼よりも東にあたっていて、いったがごとくやや広い地域である。田児の浦に沿っての海道を通る時にはすでに夜に入っており、行く行くも見て楽しもうとする海は見えなくなっていたのである。しかし規定の日数を思うと、心残りは忍ばなければならなかったのであるが、その心残りを、「大王の命恐み」という心によって一掃したのである。これは成句となっているきわめて重い心をもったもので、それによって、「昼見れど飽かぬ」に対照させている「夜見つるかも」は、単なる嘆きではなく、佳景に対する愛着の強さをあらわすものとなって、味わいをなしているのである。実際生活を重んじつつ、しかもつとめて佳景を楽しもうとする、この時代の人の心がうかがわれる。
弁基の歌一首
【題意】 「弁基」は、巻一(五六)、それ以下にも出た、春日蔵首老の法師としての名である。弁基が勅命によって還俗《げんぞく》したのは、大宝元年三月である。この名によると、還俗以前の歌である。
298 亦打山《まつちやま》 暮越《ゆふこ》え行《ゆ》きて 廬前《いほさき》の 角太河原《すみだがはら》に 独《ひとり》かも宿《ね》む
亦打山 暮越行而 廬前乃 角太河原尓 獨可毛將宿
【語釈】 ○亦打山暮越え行きて 「亦打山」は、奈良県五条市上野町から和歌山県橋本市隅田町真土に越える待乳峠。「暮越え行きて」は、夕暮れに越えて行ってで、下の続きから見ると、大和国から紀伊国へ向かって行くのである。○廬前の角太河原に 「廬前の」は、不明で、古くから問題とされている。下の「角太河原」への続きから見ると、枕詞か、または地名と取れるのであるが、枕詞としては認められず、また地名としてはその名の地は認められないからである。大体、角太河原を含んだ大名であって、後に忘れられたものと取れる。「角太河原」は、亦打山《まつちやま》を越えると隅田があり、紀の川がその地を通過しているところからの、その河原であろうという。○独かも宿む 「か」は、疑問、「も」は、詠歎。ただ独り宿ることであろうか。
(84)【釈】 真土山を夕暮れに越えて行って、廬前の角太河原に、ただ独りで宿ることであろうか。
【評】 大和から紀伊への旅をしようとして、その道を歩きながら、その夜の寝場所を思いやった心である。それを思ったのは、まだ大和の地域を歩いている時で、真土山を越すのは夕暮れ時で、紀伊の地域へ入ったら、廬前の角太河原で寝ようと思い、独りさびしく寝るのを思いやって感傷的になった心である。「廬前の角太河原に」と、地名を重ねて明らかにいっているのは、感傷の心の伴ってのことと取れるが、一つには、その地を知っていてのことと思われる。この当時の旅のそうした侘びしさは、すでに経験のある地ということによって軽くはならず、かえって深められたものと思われる。思いやりを素朴に詠んだものであるが、感のある歌である。
右、或は云ふ、弁基は春日蔵首老の法師名なりと。
右、或云、弁基者春日藏首老之法師名也。
【解】 このことは、題意でいった。
大納言大伴卿の歌一首 未だ詳ならず
【題意】 「大納言大伴卿」は、大納言であるがゆえに、尊んで名を記さず、代わりに、三位以上の敬称とする卿をもってしたものである。大伴氏で大納言となった人は、前後五人ある。天武天皇の朝の大納言大伴望陀の連《むらじ》、文武天皇の朝の大納言大伴宿禰御行、大納言大伴安麿、聖武天皇の朝の大納言大伴旅人である。ここの大納言大伴卿はその中の誰かである。その誰であるかについては、沢瀉久孝氏の考証がある。要は、この巻の歌の排列は、大体年代順となっており、この前後の歌で年代の明らかなのは、上の田口益人の上野国司となったのは、和銅元年三月であり、後に続く柿本人麿は和銅二、三年に死んだと推定されているので、ここの大伴卿はその頃の人でなければならない。その点から見ると、大伴安麿の大納言となったのは、続日本紀、慶雲二年八月の条に、「為2大納言1」とあり、また、和銅七年五月の条に、「大納言兼大将軍正三位大伴宿禰安麿薨」とあるので、安麿と推定すべきだというのである。これは本巻の撰者には、問題とならなかったこととみえる。安麿のことは、巻二(一〇一)に出た。したがって、「未だ詳ならず」という注は、後人の加えたものとわかる。
299 奥山《おくやま》の 菅《すが》の葉《は》凌《しの》ぎ 零《ふ》る雪《ゆき》の 消《け》なば惜《を》しけむ 雨《あめ》な寄《ふ》りそね
(85) 奥山之 菅葉凌 零雪乃 消者將惜 雨莫零行年
【語釈】 ○奥山の菅の葉凌ぎ 「奥山の」は、奥山に生えている意。「菅」は、自生する草で、ここは奥山の物であるからいわゆる山菅と取れる。俗に竜がひげ、尉がひげとも呼んでいる。「凌ぎ」は、押し分ける意の語。菅の葉を押し分けて。○零る雪の消なば惜しけむ 「零る雪の」は、今降っているところの雪が。「消なば惜しけむ」は、「消なば」は、消え去ったならば。「惜しけむ」は、「惜し」の未然形に「む」のついたもの。○雨な零りそね 「雨」は、雪を消す物としていっている。「な」は、禁止。「な」のみでも、また「そ」を伴っても同様である。原文「行年」は、旧訓「こそ」、『槻落葉』は、本居宣長の語により、「行」は「所」の誤写であるとして、「そね」と改めている。「行年」という文字は集中四か所あり、いずれも「そね」と訓んで意の通ずるものであるが、「行」を何ゆえに「そ」と訓むかは不明であり、したがって諸説があって定まっていない。『代匠記』は、旧訓に従って「こそ」と訓み、「行年」は「去年」と同じ意で、その「こぞ」を清濁を通ずる意で「こそ」に当てたものとし、意は願望であるとしている。しかし「な」の禁止の後に願望の「こそ」の続く例は古典に例のないものとして斥けられている。『攷証』は、同じく「こそ」と訓み、「こ」は「来」、「そ」は禁止のそれであるとしている。『講義』は、この解は文法的には誤ったものではないが、用例の多い「そね」の妥当なのには及ばないとして、疑いを残して従っている。本居宣長の誤写説は、「行年」は集中五か所あり、皆同一であるから成立ち難いものとしての上のことである。しかし『講義』が挙げているように、巻七(一三六三)「言な絶え行年」、巻十三(三二七八)「犬な吠え行年」は、「行年」は、「そね」と訓むよりほかないものである。「行年」は、「行」を「そ」と訓むよりどころは不明のままに残し、「そ」は、上の「な」に連なっている禁止、「ね」は、他に対しての願望をあらわすものと見ることとする。
【釈】 奥山に生えている山菅の葉を押し分けて今降っている雪の、消え去ったならば惜しいことであろう。雨よ降って消すことはするな。
【評】 自然を詠んだ歌であるが、自然といううち、微細なる風景のもつ情趣を捉えたものであって、そこに特色がある。奥山の雪に興を催したとすれば、大景の捉えるべき物が幾らもあろうに、菅の葉に降る雪だけを捉えているのは、まさに作者の好みというべきである。時代的に見て、こうした対象を扱っているのは、珍しとすべきである。「菅の葉凌ぎ零る雪」というのは、そうした状態を眼前に見て、興を催したがゆえに初めていえることで、実際に即したものである。菅の葉に降る雪の印象的なのは、そこにはそれまで雪のなかったことを思わせ、「凌ぎ」は、その雪片の大きく、またかなりの降りであることを思わせ、また、消えるを惜しんで雨よ降るなというのは、その季節の厳冬でないことを思わせるものである。こうした余情は、実際に即しているがためにおのずからに添いくるものである。注意されることは、情趣の特殊なことである。情趣は「消なば惜しけむ」ということであるが、その情趣を抱かせた物は、山菅の青く鋭い葉を凌いで降っている白雪という、単一な、清浄なもので、それ以外のものではない。これは上代より伝わりきたっている好みと思われる。微細な自然を捉えての歌という意味では時代的に新しいが、盛ってあるものは伝統の情趣で、抒情味の勝った、すなわち古風を失わないものなのである。
(86) 長星王《ながやのおほきみ》、馬を寧楽山《ならやま》に駐《とど》めて作れる歌二首
【題意】 「長屋王」は、巻一(七五)に出た。「寧楽山」は、巻一(一七)に出た奈良の山で、奈良市の北方に横たわっている一帯の丘陵の称である。古、大和国から山城国方面へ出るには、ここを越えるのが順路で、その路は今、歌姫というを通るところから歌姫越と呼ばれている路である。歌はその歌姫越を越えようとして、その頂で作ったものである。
300 佐保《さほ》過《す》ぎて 寧楽《なら》の手祭《たむけ》に 置《お》く幣《ぬさ》は 妹《いも》を目《め》離《か》れず あひ見《み》しめとぞ
佐保過而 寧樂乃手祭尓 置幣者 妹乎目不離 相見染跡衣
【語釈】 ○佐保過ぎて 「佐保」は、奈良市の西北に連なり、今、法蓮町から法華寺町にかけての地。「過ぎて」は、通り過ぎてで、奈良山に向かおうとして、その途中の地としていっているのである。長屋王は藤原京から来られたものと取れる。○寧楽の手祭に 「寧楽」は、上の奈良山。「手祭」は手向けの意で、神に物を捧げる意の動詞の、その名詞となった語。「祭《むけ》」は義をもって当てた字である。この語は転じて、旅をする際、道中の無事を祈るために、その神を祭る一定の場所の称となった。さらにいえば、この道の神は、平地だと路の岐《わか》れ目、山道だと登り切った所の、土地境、国境をなす所に祀られて、その土地または国を守るところの神である。したがって旅人としてその地へ入ってゆくには、道の神の許を乞い加護を乞わなければならなかったのである。ここの「手祭」は、その神の祀られている場所である。「手祭」はさらに転じて、道の神の祀られている土地のうち、最も印象的である山をあらわす語となって、峠となって、今では異なった意のものとなっている。○置く幣は 「置く」は、神に捧げる意をあらわす当時の語。「幣」は、神に捧げる物、または祓《はらい》として出す物の総称で、ここは神に捧げる物である。これは布、麻、糸、紙などで、あらかじめ用意していた物である。神に祈りをするための祭には、必ず幣を捧げることとなっていたので、「置く幣は」というのは、祈り申すことはということを具象的にいったものである。○妹を目離れずあひ見しめとぞ 「妹」は、家にある妻。「目離れず」は、「目」は見ること、「離れず」は絶えずの意。「あひ見しめ」は、「あひ」は、逢ひ。「しめ」は「しむ」の命令形で、下二段活用の命令形に、「よ」のないのは当時の語法である。「とぞ」は、とぞ祈るなるの意の略語となったもの。二句、家にいる妹を絶えずも見せさせたまえよという心であるの意。
【釈】 佐保を通り過ぎて、今、奈良山の手向に来て、大和国を離れて山城国に入ろうとするにあたり、ここに祀られた道の神に幣を捧げて祭る心は、わが新たに入り行く国での無事を祈るというのではなく、家にいる妻を、絶えずも見せさせたまえよと祈る心である。
【評】 旅中、その神を祭るのは、危険の起こりやすい旅の身の無事を祈るためのことである。この歌は、一身の無事を祈るという消極的の境を超え、夫婦生活の幸福に続いてゆくようにという積極的なものである。この態度は、心理的には妥当性のあ(87)るものである。それは、身はすでに旅に出ていて、いまや国境を越えようとする時であるから、自身の旅先を思うとともに、家に残してきた妻を顧みさせられる時である。夫婦生活に生活価値を認めていた時代とて、一身の無事ということは、おのずから妻に繋がって行き、妻との将来の幸福を祈ることになるのは当然だからである。しかし旅にあって道の神への祈りが、夫婦生活の将来へ及んだものであるということは、心の余裕のあって初めて思いうることで、これは、長屋王の御身分、また旅の性質などの関係していることと思える。一首、その際の実感で、文芸的のものではない。
301 磐《いは》がねの 凝《こご》しき山《やま》を 超《こ》えかねて 哭《ね》には泣《な》くとも 色《いろ》に出《い》でめやも
磐金之 凝敷山乎 超不勝而 哭者泣友 色尓將出八方
【語釈】 ○磐がねの凝しき山を 「磐がね」は「岩が根」で、根は、地に固定する意で添えた語。「凝し」は、形容詞。ごつごつしている意。○超えかねて哭には泣くとも 「超えかねて」の「かね」は、堪えなくて。越えきれなくて。「哭には泣くとも」の「とも」は、仮定の事柄をあらわす助詞。声をたてて泣くことがあるとしてもで、初句よりこれまでは仮定の事柄としていっているものである。○色に出でめやも 「色に出づ」は、表面にあらわす意。「めや」は、已然形の「め」に、疑問の「や」の添って、反語をなしているもの。「も」は、詠歎。表面にあらわそうか、あらわしはしないで。「色に出づ」は、妹を恋う心をあらわす意のもの。
【釈】 岩のごつごつした歩きにくい山路を越えきれないで、その苦しさから声をたてて泣くことがあるとても、妹を恋う心を表面にあらわそうか、あらわしはしない。
【評】 前の歌と同じく奈良山での歌で、心も、国境の山を越えようとして家に残してある妹を思ってのものである。「磐がねの凝しき山を超えかねて哭には泣くとも」は、いったがように仮定の事柄で、「色に出でめやも」をいおうとする関係からいっているものである。仮定とはいっても、「寧楽の手祭」まで登るには、その状態に近い路を越え、「哭には泣」かないまでも、それに近い心も経験しているので、それを誇張していったものと取れる。この誇張は、「色に出でめやも」をいおうがためにしたものである。前の歌は、生活価値を夫婦生活に置いたものであるが、この歌はそれとは反対に、いかに妹を思おうとも、その思いを表面にあらわして、人に知られるようなことは断じてしまいとの心である。これはいわゆる丈夫《ますらお》の覚悟である。すなわち個人としては夫婦生活を命ともするが、公人としてはあくまでもそうしたさまは見せまいとするので、当時の位置ある人の心情の両面を示したものである。これは柿本人麿の歌にも際やかに現われているわけで、当時の通念であったと思われる。諸注、四句「哭には泣くとも」を、妹を思ってのことと解してきたのを、『講義』は、それでは結句と打合わないとし、四句は上三句(88)に続いて、山路の状態を仮定としていったものだと解している。文字どおりに読めばそう解すべきものであるので、それに従う。
中納言|安倍広庭《あべのひろには》卿の歌一首
【題意】 「安倍広庭」は、右大臣安倍|御主人《みうし》の子。神亀四年、歴任して中納言に任ぜられ、続日本紀、天平四年二月の条に、「中納言従三位兼催造宮長官知河内和泉等国事阿倍朝臣広庭薨」と誌されている人である。年七十四。卿は敬称。
302 児《こ》らが家道《いへぢ》 差《やや》間遠《まどほ》きを 野干玉《ぬばたま》の 夜渡《よわた》る月《つき》に 競《きほ》ひ敢《あ》へむかも
兒等之家道 差間遠焉 野干玉乃 夜渡月爾 競敢六鴨
【語釈】 ○児らが家道差間遠きを 「児らが家道」は、妹が家までの間の道。「差間遠きを」は、「差《やや》」は、用例のある字。現在も用いている、程度を示す副詞。「間遠し」は、当時用例の少なくない語で、これも現在も用いられている。「を」は、接続の意のもの。やや距離の遠いのを。○野干玉の夜渡る月に 「野干玉の」は、夜にかかる枕詞。「夜渡る月に」は、夜空を渡ってゆくところの月に。○競ひ敢へむかも 「競ひ」は、競争する意。「敢へ」は、堪える意。「か」は、疑問、「も」は、詠歎。競争しきれるであろうかの意。月の山に入る前に、自分は妹の家に行き着こうとして、道を急いでいるのを「競ふ」といい、その間に合うのを「敢へる」といっているのである。
【釈】 妹の家までの道は、やや距離が遠いのを、今、夜空を渡っている月の山に入る前に、行き着ききれるであろうか。
【評】 古くは、妹の家の遠い所にあるというのは、例の多いむしろ普通のことであった。ここもそれとみえる。また、夜、妹の家へ通うのに、月光にたよるのを便利としていたことは、察しやすいことである。ここもそれである。一首の中心としているところは、「競ひ敢へむかも」で、細かい思料の伴った、差迫った気分である。その点から見て、月夜、妹の家へ通って行こうとして、途中、傾いてきた月を望み、残っている道程を思って、心もとなさを感じての心と取れる。普通だと、月のあるうちに行き着きうるだろうかというところを、月を心あるもののごとく見、しかも大きな物として捉えて、「野干玉の夜渡る月に競ひ」という言い方をしているところに、この時代の心があり、また作者の心もある。途上の独語で、実際に即した歌である。
柿本朝臣人麿、筑紫国《つくしのくに》に下《くだ》れる時、海路にて作れる歌二首
303 名《な》ぐはしき 稲見《いなみ》の海《うみ》の 奥《おき》つ浪《なみ》 千重《ちへ》に隠《かく》りぬ 山跡島根《やまとしまね》は
(89) 名細寸 稲見乃海之 奥津浪 千重尓隱奴 山跡嶋根者
【語釈】 ○名ぐはしき 名の好いの意で、名高いというにあたる。稲見を讃えるために添えた語。○稲見の海の奥つ浪 「稲見の海」は、播磨国印南郡の海で、稲見は巻一(一四)にも、その後にも出た。難波より筑紫に向かう海路を、そこの海まで来ての眼前。「奥つ浪」は、沖の方の浪で、沖は、岸寄りの船中から、東、大和の方を望んでいっているもの。〇千重に隠りぬ 「千重」は、物の幾重にも限りなく重なっていることをあらわす語で、山、雲、浪などにいったものが多い。ここは、上よりは、「奥つ浪千重」と続いて、沖に立ち続いている浪の、その千重であるが、下への続きからいうと、実際は、大和を隠すものは浪ではなく、淡路島や、摂播国境の山などである。それで、心としては「千重」は遠くの意のものである。その関係からいえば、「名ぐはしき稲見の海の奥つ浪」は、「千重」の序詞で、遠くの意をいうためのものである。「隠りぬ」は、隠れてしまった。○山跡島根は 「山跡島」は、(二五五)に出た「倭島」と同じで、それに「根」の添ったもの。大和国の意のもので、恋しい妹のいる国ということを婉曲にあらわしたもの。
【釈】 名高い稲見の海の、沖の方の浪を望むと、その立ち続いている千重の、遠くも隠れてしまった。恋しい妻のいる大和国は。
【評】 稲見の海の、そこからは大和国の山も全く見えない所へ来て、東の方過ぎて来た海を顧みて、妻恋しい心を発しての歌である。妻恋しいとはいっても、今は妻より遠ざかってゆく時で、そして視覚的にはすでに遠ざかりつくした時でもあるので、心は静かで、細かく動いている。その心が語の上にさながらに現われている。
初句より三句まではいったように序詞である。しかしこの序詞は、設けてのものではなく、眼前の実際である。そしてこの実際は、山跡島根の恋しさに導かれてのもので、それ以外のものではない。力点は山跡島根にある。この眼前と山跡島根とを綜合させ、微妙に繋いでいるものが「千重」である。実際であって、同時にそれを超えているのであるが、その超えた跡を見せない巧妙さと美しさとが、「千重」にある。この序詞は、形としては口承文学系統のものであるが、心としては、記載文学としても得難い充実したものをもっているというべきである。人麿の作としては、静かな、思い入った方面を元しているものである。
304 大王《おほきみ》の 遠《とほ》の朝庭《みかど》と あり通《がよ》ふ 島門《しまと》を見《み》れば 神代《かみよ》し念《おも》ほゆ
大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念
【語釈】 ○大王の遠の朝庭と 「大王の」は、天皇の。「遠の朝庭と」は、「遠の」は、京を中心として、そこより遠方にあるところの意。「朝庭」の「庭」は、廷と通じて用いていた字。「朝庭」は、御門《みかど》で、本来は皇居を、尊む意から距離を置いての称であるが、ここは国家の大政を執らせ(90)られる所としての称。「遠の朝庭」は、京より遠方にある政庁で、大宰府を初めとして、国々にある国庁の称。ここは、筑紫へ向かいつついる時の語なので、その方面の国庁である。「と」は、として。○あり通ふ 「あり」は、当時動詞の上に添えて用いた語で、あり経《ふ》る、あり待つなど例の多い語遣《ことばづか》いで、その下に続く動詞の、継続の意をあらわす語。引き続いて通《かよ》っているところの意。○島門を見れば 「島門」の「門」は、水門《みと》、迫門《せと》などの門《と》で、海の狭くなった所の称。「島門」は島と島との間の、海の狭くなった所である。島は、島嶼はもとより、前の歌の「山跡島根」のように、大和国の称ともなっていた。本来瀬戸内海の瀬戸は、迫門《せと》の意であるから、広い意味でいえば、いま航海している瀬戸内海は、すべて島門ともいえる。また、航路は、つとめて陸より離れないようにしていたのであるから、その陸と島嶼の間は、明らかに島門である。ここは広い範囲にわたっていっているものと取れる。「見れば」は、船中から、島門を見るとの意で、海上より見る水と陸との醸《かも》し出す光景の面白さをいっているものと取れる。○神代し念ほゆ 「神代」は、ここは、上よりの続きで、伊弉諾《いざなぎ》、伊井冉《いざなみ》の二神の国産みの事をいっているものと解される。「し」は、強め。「念ほゆ」は、思われる。
【釈】 天皇の、京よりは遠方にある政庁として、筑紫方面へ引き続いて通っているところの、この瀬戸内海の島門の光景の面白さを見ると、天皇の遠つ御祖《みおや》の伊弉諾、伊弉冉の神の、こうした光景の国土を産ませ給うた時のことが思われる。
【評】 前の歌と同じく、瀬戸内海においての作である。瀬戸内海の風景の面白さはいうまでもなく、ことに大和の京に住んでいた当時の宮人に取っては言い難いものであったろうと思われる。この歌の作因は、海上の穏やかで、航行の怖れのなかった日、瀬戸内海の風景の面白さをしみじみと感じ、そうした時に誰しも本能的に思わせられる、その光景の由ってきたるところに思い及ぼし、この国土を産ませられた伊弉諾、伊弉冉の二神を思って、それを「神代」という語をもってあらわしたものと思われる。その神代を思うと、天皇はこの二柱の神の御末であらせられ、現に自分は今、その天皇の「遠の朝廷」に御使として遣わされているのであり、しかも自分と同じことを、昔から継続して行なっていることまでも思わせられたのである。さら(91)にいえば、眼前の面白い風景と、それを貫いて、古より今に及んでいる皇室の長い歴史とを綜合して、風景の歎美と皇室の奉賀とを一つにした歌である。瀬戸内海はもとより、筑紫にある「遠の朝庭」へ通うだけの航路ではない。それを「神代」との関係において、単にそれだけのものであるがごとくにいっているのは、眼前の風景と長い歴史とを綜合しようとするところからいっているものである。一首、複雑している心を、単純に、静かにいっているもので、人麿の一面を遺憾なくあらわしているものである。巻七(一二四七)、人麿歌集の中の、「大穴牟遅《おほなむち》少御神《すくなみかみ》の作らしし妹背の山は見らくしよしも」と、心としては通うところのあるものである。
高市連黒人の近江の旧都の歌一首
【題意】 「黒人」は、上の(二七〇)に出た。「近江の旧都」は、天智天皇の大津宮で、この当時は址のみとなっていたのである。
305 かく故《ゆゑ》に 見《み》じといふものを 楽浪《ささなみ》の 旧《ふる》き都《みやこ》を 見《み》せつつもとな
如是故尓 不見跡云物乎 樂浪乃 舊都乎 令見乍本名
【語釈】 ○かく故に見じといふものを 「かく故に」は、このようであるがゆえにで、「かく」は、眼前の址もないまでに荒廃している悲しい有様をさしていったもの。「見じといふものを」は、見まいというものをで、見に行こうと誘われた時、断わっていった語を繰り返したもの。○楽浪の旧き都を 「楽浪」は、近江国滋賀郡の地名。「旧き都」は、以前の都で、天智天皇の大津宮のあった所。○見せつつもとな 「見せつつ」は、見せ見せしてで、誘って来た人の見せたことを、強めるため継続としたもの。「もとな」は、『講義』は、「本無《もとな》」で、理由なく、根拠なくの意の語で、ここは、よしなくというにあたるといっている。転置となっていて、「もとな見せつつ」の意で、よしなくも見せつつ悲しませるの意。
【釈】 このようであるがゆえに、見まいと断わっていうものを、強いて誘ってきて、楽浪の旧い都を、よしもなく見せ見せして悲しませることである。
【評】 人に誘われて近江の旧都の址に立ち、その址もなく荒廃しているのを見て感傷しての心である。綜合感を愚痴の形をもっていったもので、具象的には何もいわず、わずかに「楽浪の旧き都」という名詞と、「もとな」という副詞で、感傷を暗示しているだけであるが、その光景と、その際の心とが融け合って、十分に感のあるものとなっている。実際に即する態度と、作者の感性の鋭さとからきているものである。巻一(三二)(三三)「高市|古人《ふるひと》」と題するものと同系統のものと思われる。
(92) 右の歌、或本に曰はく、小辨の作なりと。いまだ此の小弁といふ者を審にせず。
右謌、或本曰、小辨作也。未v審2此小弁者1也。
【解】 右の歌に対して、作者に異伝があるとの意で、ある本には小弁の作とあるが、その小弁なる者がわからないというのである。小弁につき『講義』は、この当時小弁という称をもちうるものは、太政官の左少弁、右少弁のいずれかであろう。「少」と「小」とは通用していたと考証している。この名においての歌は、巻九(一七三四)にもある。
伊勢国に幸《みゆき》せる時、安貴壬《あきのおほきみ》の作れる歌一首
【題意】 この伊勢国への行幸につき、沢瀉久孝氏は、年代順に排列してある前後の歌から見て、続日本紀、元正天皇、養老二年、美濃国へ行幸のあった際のことではないかと考証している。これに従う。「安貴王」は、(二四三)春日王《かすがのおおきみ》の御子、(四一一)に出る。市原王の御父、天平元年従五位下、同十七年従五位上に叙せられた。
306 伊勢《いせ》の海《うみ》の 奥《おき》つ白浪《しらなみ》 花《はな》にもが つつみて妹《いも》が 家《いへ》づとにせむ
伊勢海之 奧津白浪 花尓欲得 ※[果/衣]而妹之 家※[果/衣]爲
【語釈】 ○伊勢の海の奥つ白浪 伊勢の海の、沖に見える白浪はの意で、眺め入っての語。○花にもが 「花に」は、花にての意。「が」は、願望をあらわす助詞。花であってほしいの意。この場合のように、願望の「が」の上には、必ず「も」を添えるのが格となっていて、それのない例はない。なおこの形は古く、後世には「がも」となってきたものである。この願望は、沖の白浪が花のごとくに見えるところからのものである。○つつみて妹が家づとにせむ 「つつみて」は、本当の花であったならば、物に包んで。「妹が家づとにせむ」は、「妹」は京の家にいる妹。「家づと」は、土産物であるが、「つと」は物に包むことを定まりとするよりの称。
【釈】 伊勢の海の沖に見える白浪は、花であってほしい。それだと、物に包んで、京にいる妻に、旅の土産としよう。
【評】 大和の京に住む人の、海を珍しがり、ことに沖の白浪を面白がり、それに花を感じて、大和の妹に見せたい心を起こしたものである。大海の白浪に花を感じるというのは、優美を慕う心で、時代の移りを思わせるものである。しかし花とはいっても華麗なものではなく、淡泊な清浄なものであるのは、古きを伝えているといえる。
(93) 博通法師、紀伊国に往き、三徳《みほ》の石室《いはや》を見て作れる歌三首
【題意】 「博通法師」は、伝が全くわからない。紀伊国に往きといっているので、大和国の人とはわかる。「三穂の石室」は、『帝国地名辞典』に詳しい。和歌山県日高郡美浜町三尾、磯と呼ばれる地にある大岩窟である。窟は深さ十六間、帽五、六間、高さ七、八間より十二、三間、海上に南面して、大小の巌相重なっている。海に臨んでいるが、風濤《ふうとう》の患はないという。そこは、御坊町から日の御崎へ行く途中の海上である。
307 はたすすき 久米《くめ》の若子《わくご》が いましける【一に云ふ、けむ】 三穂《みほ》の石室《いはや》は 見《み》れど飽《あ》かぬかも【一に云ふ、あれにけるかも】
皮爲酢寸 久米能若子我 伊座家留【一云、家牟】 三穗乃石室者 雖見不飽鴨【一云々、安礼尓家留可毛】
【語釈】 ○はたすすき 旗薄で、薄の穂を出し、それが旗に似ているところからの称。集中、「穂」の枕詞とした例が多い。ここもそれで、四句「三穂」の枕詞としてのものだと『古事記伝』がいい、『古義』は第一句を第四句に言いかけた例として、巻十二(三一四〇)「愛《は》しきやししかる恋にもありしかも君に遺《おく》れて恋《こほ》しき念《も》へば」を挙げている。枕詞として特殊な用法である。○久米の君子が どういう人であるか明らかではない。語義としては、久米氏の若き人ということである。『代匠記』は、久米仙人ではないかといい、『古事記伝』は、日本書紀、顕宗紀の、天皇は更《また》の名を来目稚子《くめのわくご》と仰せられたのに関係がありはしないかといっているが、いずれも暗椎にすぎない。歌を通じて見ると、作者博通法師の深くも慕っていた人で、故人といっても、年代の距離のさして遠くない人に思える。個人的に何らかの関係のあった人ではなかったかとも思える。○いましける いらせられたところの。敬語をもっていうべき人であったとみえる。○一に云ふ、けむ 一本に、「いましけむ」ともあるというのである。いらせられたであろうところの。○三穂の石室は 題意にいった。○見れど飽かぬかも 幾ら見ても飽かないことであるよで、きわめて愛でたい風景、また人を歎美する意の成語。ここは、石室その物を歎美したのではなく、久米の若子の住んでいた所という関係において歎美しているのである。すなわち久米の若子をなつかしむ心を具象化するために石室を歎美しているものである。○ーに云ふ、あれにけるかも 荒れたことであるよと、石室の荒れたのを嘆いた心である。石室が荒れるということは不自然である。思うにこの歌が伝承され、石室に対して「見れど飽かぬかも」という語が適当でないとするところから、単なる懐古の歌として、このように改められたのであろう。
【釈】久米の若子がいらせられたところの(いらせられたであろうところの)はたすすき三穂の石室《いわや》は、懐かしくして幾ら見ても見飽かないことであるよ。(荒れてしまったことであるよ)
【評】 作者が三穂の石室を見て、そこに住んでいた久米の若子を深く思って詠んだという特殊な歌である。作者も久米の若子も、そのどういう人であるかがわからないので、作意である思慕の情の内容には触れることができない。第三者として感じ得(94)られるのは、懐古の情という、この歌としては主目的以外のものにすぎない。実感の表現を目的とした歌にあっては余儀ないことである。実際に即して詠むという作歌態度から、作者は久米の若子に対する思慕の情を、石室そのものを極力いうことによって具象化しようとしている。「見れど飽かぬかも」についてはすでにいった。地名の「三穂」に、「はたすすき」という枕詞を、特殊な用法をしてまでも添えようとしたのは、「三穂」を修飾しようとしたがためで、これも要するに石室を歎美し、「見れど飽かぬかも」を強めようがためである。この歌に異伝を生じたのは、伝承されたためであるが、何ゆえに伝承されたかはわからない。思うに、「久米の若子」「三穂の石室」に対して親しみを感ずる範囲において行なわれたことではなかろうか。
308 常磐《ときは》なす 石室《いはや》は今《いま》も ありけれど 住《す》みける人《ひと》ぞ 常《つね》なかりける
常磐成 石室者今毛 安里家礼騰 住家類人曾 常無里家留
【語釈】 ○常磐なす 「常磐」は、恒久不変な岩で、代表的に不変な物。「なす」は、のごとく。○石室は今もありけれど 石室は今も変わらずにあったけれども。○住みける人ぞ その中に住んでいたところの人、すなわち久米の若子の方は。○常なかりける 「常」は、不変。不変ではなかったことであるよで、「ける」は「ぞ」の結。
【釈】 床岩のごとく石室は今も変わらずにあったけれども、その中に住んでいたところの人の方は、不変ではなかったことであるよ。
【評】 自然と人間とを対照して、人間の無常を観ずるという、知的に人生を大観する心を、眼前の石室とそこに住んだ人とに引きつけ、久米の若子を悲しんだものである。これは明らかに仏者の心で、当時仏教は弘く浸潤していたとはいえ、歌の上にはまだそれほどには現われていないので、この当時としては新しさのあるものである。久米の若子の世に亡いのを悲しんでいるこの心は、遠い故人に属してのものとは思われない。
309 石室戸《いはやと》に 立《た》てる松《まつ》の樹《き》 汝《な》を見《み》れば 昔《むかし》の人《ひと》を 相見《あひみ》る如《ごと》し
石室戸尓 立在松樹 汝乎見者 昔人乎 相見如之
【語釈】 ○石室戸に立てる松の樹 「石室戸」の「戸」は、門《と》の意のもので、石室の出入り口。「立てる松の樹」は、立っている松の樹よで、親しんで呼びかけたもの。○汝を見れば お前を見ていればで、松の樹に話している形のもの。○昔の人を相見る如し 「昔の人」は、故人である久(95)米の若子。「相見る」は、「逢ひ見る」で、逢って目に見ている意。昔の人を、逢って見ているがようである。
【釈】 石室の出入り口に立っている松の樹よ、お前を見ていると、ここに住まわれていた昔の人を、逢って目に見ているがようである。
【評】 これは前の歌の知的なのとは異なって、純感情的な歌である。純感情的とはいっても、いわゆる詩的というのではなく、由る所のあるものに見える。それは伝統の久しい形見の思想で、その人に縁故の深い物を、死後、その人の形見として、その物によってその人を思うことである。石室ももとより形見となりうる物であるが、その石室の出入り口に立っている、生命ある松の樹は、形見として心を寄せるには恰好《かつこう》のものに思われる。作者の心には、思うにその伝統が影響して、形見とするとともに、命あるところに心が寄り、そこに久米の若子を現前せしめて、呼びかけ、話しかけているのである。冴えた調べは、高潮した心をあらわしている。
【評又】 この三首は、おのずから連作の趣をもっている。第一首は、おそらく初めて三穂の石室を目にして、深く慕っている久米の若子に対する情を、その石室をいうことによって具象化したもので、総叙ともいうべきものである。第二首は転じて、久米の若子の世に亡い悲しみを、知性を働かせることによって諦めようとしたもの。第三首は更に転じて、第一首の心にたちかえって、それを細叙したもので、その時はおのずから仏者の心から離れ、古来の伝統の精神の上に立ち、悲しみのうちに慰めを得ているのである。もとより、一首一首独立した歌ではあるが、一貫したものがあっておのずから連絡がつき、連作的な味わいももちうるものとなっているのである。すでに人麿は、意識的に連作をしている後であるから、この作者にその心があったとしても、怪しむには足りないことである。この法師の歌はこの三首よりしか伝わってはいない。多くあったことと思われる。
門部王《かどべのおほきみ》、東《ひむかし》の市《いち》の樹を詠《なが》めて作れる歌一首 後に、姓大原真人の氏を腸ふ
【題意】 「門部王」は、御父は明らかにされていない。続日本紀、和銅三年正月、旡位門部王に従五位下を授けられるとあり、同、天平十七年四月に、「大蔵卿従四位上大原真人門部卒」とある。この大原真人という姓は、天平十一年四月、従四位上高安王らの上表して賜わったものなので、門部王もその同族と取れる。『新撰姓氏録』には、「大原真人出v自2謚敏達孫百済王1也、続日本紀合」とある。門部王は、続日本紀、養老三年に、「伊勢国守門部王」とあり、また、本巻(三七一)に「出雲守門部王」ともあるので、四年を任期とする国守を二回まで勤められたことがわかる。「東の市の樹」は、平城京には東西に市があって、東の市は左京にあり、今の辰市はその址であるといい、西の市は右京にあり、今の郡山市九条はその址だという。「詠めて」につき、『講義』は詳しく考証をしている。要は漢詩の詠史、詠物の詠で、対象としての意で、今の場合は、植木を対象として作った歌の意(96)だといっている。
310 東《ひむかし》の 市《いち》の植木《うゑき》の 木《こ》だるまで あはず久《ひさ》しみ うべ吾《われ》恋《こ》ひにけり
東 市之殖木乃 木足左右 不相久美 宇倍吾戀尓家利
【語釈】 ○東の市の植木の 「東の市」は、上にいった。「植木」は、道に植える木で、巻二(一二五)「橘の蔭|履《ふ》む路の八衢《やちまた》に」に出た。ここもそれである。○木だるまで 「木だる」は、「木垂《こだ》る」で、「垂る」は古くは四段活用であった。木の枝の垂れる意で、これは、木が老いて初めてあらわすさまである。すなわち木の老いたことを具体的にいったもの。○あはず久しみ 「あはず」は、逢わず。対象となっている物は上の植木で、事としては見ずということであるが、国守となって地方にあって、京を恋うる心を植木に寄せていたところから、感傷の心をもって有情化していっているもの。「久しみ」は、久しくして。逢わないことが久しくして。○うべ吾恋ひにけり 「うべ」は、なるほどと、是認する意の副詞。「吾恋ひにけり」の「吾」は、『類聚古集』と紀州本にはないが、他はすべてある。これがあると九音という特殊なものになる。それにつき『講義』は、この九音の例は、巻三、四に多いところから見ると、この二巻の一つの傾向であろうといっている。その例は、上の(二八五)「妹の名をこの勢の山に懸けば奈何《いか》にあらむ」の末句、(四八〇)「大伴の名に負ふ靭《ゆき》帯ひて」の第二句、(六五九)「かくしあらばしゑや吾が背子奥も何如《いか》にあらめ」の末句である。これに従う。「吾恋ひにけり」は、吾は恋ったことであるよで、恋ったのは、上と同じく植木である。吾の恋ったのももっともなことであるよの意。
【釈】 この東の市の植木が、このように老いて枝の垂れるまでも、逢わないことが久しくて、吾のこの植木を恋ったことももっともなことであるよ。
【評】 四年を任期とする国守の任が解けて京へ帰って来、東の市の植木に対した時の感である。京の中でも人の繁く集まる「市道《いちぢ》」に植わっている、その当時は新味を保っていた橘の並木というものは、印象的な、魅力のある物で、京を恋うる心に浮かんで、最も恋しがらせていた物とみえる。今|目《ま》のあたりその植木を見て、しかも植木の老いて木垂れているさまを新たに発見して、地方にあって恋しがっていた心を改めて是認した心である。楽しさにいて悲しさを思い浮かべた複雑した心であるが、それが「東の市の植木」という単純な物に統一されて、静かな趣をもったものとなっている。東の市の植木と限っているのは、詩情だけではなく、何らかの実感の伴っていることであろうが、第三者には、詩情を強めるものとして受取られる。
※[木+安]作村主益人《くらつくりのすぐりますひと》、豊前国より京に上る時作れる歌一首
(97)【題意】 「※[木+安]作」は氏、「村主」は姓、「益人」は名。村主は、帰化人に賜わる姓の一つである。その「豊前国」に在ったのは、どういう関係であるかわからないが、国司としてであれば、その最下の目の程度であったろうと思われる。それは、巻六にこの人の歌が今一首(一〇〇四)あり、その注に、「内匠寮大属※[木+安]作村主益人」という官名があり、天平六年の詠であることがわかる関係からである。それ以外には伝はわからない。
311 梓弓《あづさゆみ》 引《ひ》き豊国《とよくに》の 鏡山《かがみやま》 見《み》ず久《ひさ》ならば 恋《こほ》しけむかも
梓弓 引豐國之 鏡山 不見久有者 戀敷牟鴨
【語釈】 ○梓弓引き 梓弓引き響《とよ》ますと続く、その「響《とよ》」を、同音の「豊《とよ》」に転じて枕詞としたもの。弓弦《ゆずる》の音の高さをいった歌は集中に少なくない。○豊国の鏡山 「豊国」は、豊前、豊後二国の、二国に分かれなかった以前の称。ここは旧名でいっているので、題詞の豊前国。「鏡山」は、本巻(四一七)に、「豊前国鏡山」と出ている。今は、田川郡香春町鏡山にある山で、そこは小倉市から遠くない地である。○見ず久ならば恋しけむかも 「見ず久ならば」は、見ないことが久しくなったならばで、その地を去ろうとして、去っての後を思いやっての心。「恋しけむかも」は、「恋《こほ》し」は「恋《こひ》し」の古い形。「恋《こほ》しけむ」は、「恋し」の未然形「恋しけ」に推量の「む」のついたもの。「かも」は、「か」の疑問に、「も」の詠歎の添ったもの。
【釈】 梓弓を引きとよもす、そのとよを名にもった豊国の鏡山よ、今はここを去って見ない時が久しくなったならば、恋しく思うことであろうか。
【評】 豊前国を去らんとして、その地で久しく見馴れて来た鏡山に対して、名残りを惜しんでいる心である。鏡山に対する愛惜をいうに、重い呼び方をもってしようとし、その所在の「豊国」に、「梓弓引き」という新しく、またふさわしい序詞を添えているのは、伝統に従ってのことであるが、新意のあるものである。「見ず久ならば恋しけむかも」は、落着いた、余裕のあるもので、鏡山を単に風景として見てきた心の上に立ち、今別れようとし、別れた後のことを思うと、風景を超えたものになろうとする心を示しているもので、実感に即して個性的な面を拓いているところがある。調子は低いが、心理の微細をあらわしている歌である。
式部卿藤原|宇合《うまかひ》卿、難波堵《なにはのみやこ》を改め造らしめらるる時、作れる歌一首
【題意】 「藤原宇合」は、巻一(七二)に出た。藤原不比等の第三子である。霊亀二年八月遣唐副使。養老三年七月按察使を置か(98)れた時、常陸守として安房、上総、下総を管す。神亀三年十月知造難波宮事。天平三年参議。同四年西海道節度使。同九年八月に薨じた。卿は三位以上に対する敬称。「難波堵」の堵は都に通じて用いた。巻一(三二)に既出。難波堵は、ここは孝徳天皇の長柄豊碕宮《ながらとよさきのみや》である。この宮は、天武天皇の朱鳥元年五月、火を失してほとんど全焼したが、応急の復興があったとみえ、その後、文武、元正、聖武三天皇の行幸があった。改造の事は、続日本紀、神亀三年に、「十月庚午以2式部卿従三位藤原宇合1為2知造難波宮事1」と出ており、同じく、天平四年三月、「知造難波宮事従三位藤原朝臣宇合等己下仕丁已上賜v物、各有v差」とあって、工事の進捗を賞せられている。題詠はすなわちこの間の事である。天平十六年二月には、難波遷都の事を宣せしめられているので、改造の規模は大きなものであったことが察しられる。またこの当時、難波は摂津職の治めていたところで、平城京の左右京職と同様の制度であったことも、その宮を思わせることである。摂津職とは、難波の都城の政治と、津すなわち要港のことを兼摂する意の称である。
312 昔者《むかし》こそ 難波居中《なにはゐなか》と いはれけめ 今者《いまは》京《みやこ》引《ひ》き 都《みやこ》びにけり
昔者社 難波居中跡 所言奚米 今者京引 都備仁鷄里
【語釈】 ○昔者こそ 「昔者」は、中国の熟字で、「者」は助語。下の「今者」に対させたもので、宮の改造以前をさした語。○難波居中といはれけめ 難波居中の「居中」は、「田舎」の字も当てる。すなわち地方をさす意で用いたもので、下の「京《みやこ》」に対させてある。「けめ」は、上の「こそ」の結。難波の田舎といわれもしたろうの意。○今者京引き 原文「今者京引」、旧訓「今はみやひと」。『代匠記』の訓である。「今者」は、上の「昔者」に対させたもの。作意からいっても、自身主管として改造した宮を眼前に見て、躍る心をもっていっているのであるから、「今者」と急迫した言い方をしたものとみえる。「京引き」という語は、ここにあるのみで、他に所見のない語である。「引き」は、諸注、引き遷《うつ》しての意と解している。それに従う。これは事としてはなかったことであるが、改造された宮が壮麗で、まさしく皇城というべきであるということを、具象的にいおうとしての語と取れる。この心はなお下へ続く。○都びにけり 「び」も、ここよりほか所見のない語である。しかし「鄙び」という、これに対する語があるから、文献には見えないが、常用語としては存していたかと思われる。「び」は、そのさまをいう語で、「都び」は都めく意。「けり」は、詠歎。
【釈】 昔こそは、難波の田舎と人にいわれもしたことだろう。今はここに京《みやこ》を引き遷して、すでに都めいていることであるよ。
【評】 難波宮改造の命をこうむって、その事を主管していた宇合が、事が進捗して、大体ができあがったのを見て、喜びの心を詠んだものである。「難波居中」は、広い範囲の称で、「都びにけり」も、その広い範囲にわたってのことであるが、そのような変化を起こさせたのは、「京引き」という、改造された一皇城のためだとしているのは、単に自身の責務を果たし得ている(99)ことを喜ぶだけのものではなく、皇城をとおして皇威を賀する心をもったもので、そのために誇張もしているものと取れる。「京引き」という語は、明らかに誇張であるが、この語がなければこの歌は成立ち得ないものにみえる。一首、「昔者」と「今者」と対照させ、「居中」と「都び」と対照させたもので、知性の勝った歌である。また、「京引き」「都び」と、他に例のない語を用いているのも新味である。調べも明るくさわやかである。すぐれた歌ではないが、新風を追っているものとみえる。
土理宣令《とりのせんりよう》の歌一首
【題意】 「土理宣令」は、父祖は知られない。続日本紀に、「養老五年正月庚午詔2従七位下刀利宣令等1退朝之後令v侍2東宮1焉」とある。東宮に侍するのは学問をもってである。また、懐風藻には、「正六位伊予椽刀利宣令」とあって、二首の詩があり、「年五十九」とある。また、経国集、巻第二十には、対策文二首がある。文学があって、姓のないところから、帰化人の子孫ではないかといわれている。
313 み吉野《よしの》の 滝《たぎ》の白浪《しらなみ》 知《し》らねども 語《かた》りしつげば 古《いにしへ》念《おも》ほゆ
見吉野之 瀧乃白浪 雖不知 語之告者 古所念
【語釈】 ○み吉野の滝の白浪 「み吉野」は、吉野。「滝」は、吉野川の流れが岩に激して、たぎち流れる所の称で、名詞。「白浪」は、滝に湧くそれである。この滝は、巻一(三六)で、吉野宮のことを「滝《たぎ》のみやこ」と呼んでいるその滝で、初二句は、吉野宮のことを、そこの光景をいうことによって暗示しているものである。また、この初二句は、「白浪」の「白《しら》」を、第三句「知ら」へ、畳音の関係で続けているもので、その意味で「知ら」の序詞であって、二様の意味をもったものである。○知らねども 我は知らないけれどもで、知らないのは、結句の「古」のことである。○語りしつげば古念はゆ 「語りしつげば」は、「し」は強めで、人が語り継いで聞かせるのでで、その語ることも「古」のことである。「古念ほゆ」は、古の事がゆかしく思われる。
【釈】 み吉野の滝の白浪の愛でたい所、すなわち吉野宮のことは、知らないけれども、人が語り継いで聞かせるので、繁く行幸のあった古の事が、ゆかしく思われる。
【評】 一首、おおらかな詠み方をしているが、作意のあるところは明らかだ。「み吉野の滝の白浪」は、いったがように、いわゆる「滝《たぎ》のみやこ」をいっているもので、吉野川の中でも、吉野宮のある所が、最も滝の愛でたい所なので、光景をいうことによってそこをあらわしうるものである。「語りしつげば古念ほゆ」という、人が語りぐさとする古の事は、行幸の盛事で、(100)また語りうるところは、そうした際の応詔の詩歌の愛でたさである。その詩は、壊風藻に、歌は本集にとどまっている。時代はしだいに文芸的となり、また山水に対する好尚もしだいに深まってきたのであるから、文学の士である作者が、人の語るのを聞いて、その古の御代をゆかしく思うのは察しられることである。一首としては、淡泊な詠み方はしているが、初二句はいったがように複雑味をもったものである。それは吉野宮を、そこの風景の特色をいうことによって具象化するという文芸的なことをしているために、その延長として、同時に序詞ともなし得たのである。この時代の傾向を示しているものである。
波多《はたの》朝臣|小足《をたり》の歌一首
【題意】 「波多小足」の伝は不明である。日本書紀、天武天皇十三年、「波多臣賜v姓曰2朝臣1」とあり、『新撰姓氏録』に、「八多朝臣、石川朝臣同祖、武内宿禰命之後也」とあるが、その他は知られない。
314 さざれ浪《なみ》 礒越道《いそこしぢ》なる 能登湍河《のとせがは》 音《おと》の清《さや》けさ たぎつ瀬毎《せごと》に
小浪 礒越道有 能登湍河 音之清左 多藝通瀬毎尓
【語釈】 ○さざれ浪礒 「さざれ浪」は、小さな浪。「礒」は、海岸の石の多い所のさまであるが、この時代には、池、川などにもいった。これは下の「越《こし》」へ続き、小さな浪の礒を越しと続いて、その「越」を、地名の「越」へ転じ、その序詞としたもの。○越道なる能登浦河 「越道」は、ここは越へゆく道の意。「なる」は、にある。「能登湍河」は、滋賀県坂田郡近江町能登瀬を流れている天野川か。古くそう呼んだのであろう。○音の清けさ 音のさわやかであることよの意。○たぎつ瀬毎に 「たぎつ瀬」は、石に激してたぎる瀬のあるごとに。
【釈】 小さい浪が礒を越すという、その越すに因みのある越路にある能登湍川よ。水音のさわやかであることよ、川中の石に激《たぎ》つ瀬のあるごとに。
【評】 何らかの事情で越へゆくことがあって、能登湍河の流れの音に聞き入って、それを愛《め》でた心である。この歌は渓流の音に聞き入っているだけで、それ以外のものではないが、しかしその渓流の音に対して、深い興味を感じたことは、表現を通して明らかに見える。能登湍河をいうに、「越道なる」と所在をいっているのは普通であるとしても、その「越」をいうに「さざれ浪礒」という序詞を設け、その序詞も「音」に関係のあるものを選んでいるのは、渓流そのものを愛する心である。渓流の中心は、「音の清《さや》けさ」であるが、この「清けさ」は、さわやかな音で、要するに音の清浄さである。深く心を引かれたものの何であるかがわかる。「たぎつ瀬毎に」は、一か所のことではなく、異なった位置のものと取れ、したがって行く行く聞いた(101)ことがわかる。倒句とし、細かく、刻んであるのも、この歌にあっては、その心にきわめて適切なものである。自然の愛が、こうした微かな、し動的なものではあるが静かな趣をもったものに向かって来たということは、時代を思わせられる。
暮春の月、芳野離宮に幸せる時、中納言大伴卿、勅を奉《うけたまは》りて作れる歌一首 【并に短歌、いまだ奏上を逕ざる歌】
【題意】 「暮春の月」は、春の三月。何年の三月とも知れない。聖武天皇の吉野宮への行幸は、続日本紀、神亀元年、「三月庚申幸2芳野宮1」とある、その年ではないかという。「中納言大伴卿」は、大伴旅人。旅人の中納言に任じられたのは、養老二年三月で、大納言に任じられたのは天平二年十月である。「いまだ奏上を逕ざる歌」の「逕」は経と通じて用いていた字で、これによって見ると、詔に応じるためにあらかじめ賀歌を作っていたのであるが、詔がなく、したがって献じなかった意と取れる。
315 み吉野《よしの》の 芳野《よしの》の宮《みや》は 山《やま》からし 貴《たふと》くあらし 水《かは》からし 清《さや》けくあらし 天地《あめつち》と 長《なが》く久《ひさ》しく 万代《よろづよ》に 改《かは》らずあらむ いでましの宮《みや》
見吉野之 芳野乃宮者 山可良志 貴有師 水可良思 清有師 天地与 長久 万代尓 不改將有 行幸之宮
【語釈】 ○み吉野の芳野の宮は 吉野にある吉野の宮はで、この宮のことは、巻一(二七)以来しばしば出た。その址はいま吉野郡吉野町宮滝にある。○山からし貴くあらし 「山から」の「から」は、ゆえという意で、巻二(二二〇)の「玉藻よし讃岐の国は、国柄《くにから》か見れども飽かぬ、神柄《かむから》かここだ貴き」とあった、その国柄、神柄の柄と同じで、本性よりしてという意である。「山から」は、吉野の宮を繞《めく》らしている山の本性よりして。「し」は、強め。「貴くあらし」の「あらし」は、「あるらし」と並び行なわれていた語で、意は同じである。「らし」は眼前を証としての推測をあらわす語で、証は山である。貴いのであろうで、二句、山の本性よりして、宮もそれと同じく貴いのであろうと、宮を讃えた語。○水からし清けくあらし 「水《かは》からし」は、『代匠記』の訓。「水」は「川」に当てて用いていた。ここは「山水」と対させたものであるから、水《かわ》と取れる。川は吉野川。「からし」は、上と同じ。「清けくあらし」は、「清け」は、ここは清らかな意で、「あらし」は上と同じ。水《かわ》の本性よりして、宮もそれと同じく清らかであろうの意。○天地と長く久しく 天地とともに長久に。○万代に改らずあらむいでましの宮 万代にわたって変わらずにいるであろうところの、この行宮《あんぐう》よの意で、離宮の永久を賀したもの。
【釈】 吉野にある芳野の宮は、宮を繞らしている山の本性よりして、宮もそれと同じく貴いのであろう。宮を綾らしている川の(102)本性よりして、宮もそれと同じく清らかなのであろう。天地とともに長久に、万年にわたって変わらずにいるであろうところの、この行宮よ。
【評】 吉野の宮の行幸に供奉することとなり、そうした際には、先例として賀歌を献じることになっているので、詔があったならば献じようとして、あらかじめ作っておいた歌とみえる。長歌の形式を選んだのも、そうした改まった際には、古風に、長歌形式をもってするのが先例となっているので、それにならってのこととみえる。いっていることは、吉野宮そのものの 「貴さ」「清けさ」を誘えて、そしてその永遠を賀するにとどまったものである。最高の尊敬より天皇を讃える場合、親近したかのごときことを申すのはかえって非礼であるとして、遠く距離を置いて申すのを常としているので、宮そのもののみを讃えて、天皇にまでは及ぼさないのは、当を得たことといえる。しかし、いっていることはあまりにも単純で、儀礼に近いもののごとくみえる。これは作者の歌が長歌には適さなかったためと思われる。宮の「貴さ」「清けさ」を、自然の関係において捉えているところはこの時代風で、歌の平静に、一種の気品のあるところは、作者の人柄である。
反歌
316 昔《むかし》見《み》し 象《きさ》の小河《をがは》を 今《いま》見《み》れば いよよ清《さや》けく なりにけるかも
昔見之 象乃小河乎 今見者 弥清 成尓來鴨
【語釈】 ○昔見し象の小河を 「昔見し」は、以前に見たことのあったで、この「昔」は下の「今」に対させたもの。「象の小河」は、巻一(七〇)に「象《きさ》の中山《なかやま》」というのがあるが、それはいま喜佐山《きさやま》といい、その谷間を喜佐谷といっている。そこを小川が流れ下っているが、その小川と取れる。○今見れば 今また見れば。○いよよ清けくなりにけるかも ますます清らかなさまに変わってきたことであるよの意。
(103)【釈】 以前見たことのあった象《きさ》の小河を、今また見ると、ますます清らかなさまに変わってきたことであるよ。
【評】 吉野宮のほとりにある「象の小河」が、昔見た時よりもますますさやかになってきたと、強い詠歎をもっていっているのは、上の長歌を承けて、賀の心をもっていっているものである。すなわち「万代に改らずあらむいでましの宮」ということを立証して、本来の清らかさが変わらないのみならず、ますます発揮させているというので、長歌の「山」「水《かは》」によって賀したその「水」を延長させて、賀の心を徹底させたものである。
長歌の一般的なのを個人的にし、自己の体験を通していう形にしているのは、人麿の好んで用いた手法で、反歌として要を得たものである。象の小河に対するこの感懐は、その物を眼にしないと捉え難いものかと思われる。それだと、この賀歌を作ったのは、吉野宮の行幸に供奉しており、その地で作ったものではないかと思われる。
山部《やまべの》宿禰赤人、不尽山《ふじのやま》を望める歌一首 并に短歌
【題意】 「山部赤人」の伝は明らかでない。父祖も知られず、また行幸の供奉はしているが、官歴も身分も知られない。『新撰姓氏録』にも、宿禰《すくね》姓の山部氏は洩れている。知られていることは、日本書紀、天武天皇十三年、大伴連以下五十氏に宿禰姓を賜わった中に、山部連があるので、以前は連姓であったこと、また、山部連は、日本書紀によって、播磨の国司としての伊与来目部小楯が、顕宗仁賢の二天皇を見あらわし奉った功によって賜わったもので、祖先は久米氏であったことが知られるだけである。一方、身分については、行幸の供奉をして作歌している関係上、その生存時代の大体が知られる。年月の明らかなもので、最も古い歌は、巻六、「神亀元年冬十月、紀伊国に幸せる時」のもので、同二年五月の芳野離宮、同年十月の難波宮、同三年九月の播磨国印南野、天平六年三月の難波宮、最後は、同「八年夏六月芳野の離宮に幸せる時」と、相ついで行幸の供奉をして歌を作っているので、大体、聖武天皇の御代の初めの頃の人で、当時|舎人《とねり》ではなかったかと想像されている。この前後の歌もあろうが、年代はわからない。「不尽山を望みて」というのは、(四三一)に、「勝鹿《かつしか》の真間娘子《ままのをとめ》の墓を過ぎし時」と題する歌があり、勝鹿は下総国の葛飾であるから、官命を帯びて東国の旅をしたことは明らかである。したがって親しく目にしたのである。
317 天地《あめつち》の 分《わか》れし時《とき》ゆ 神《かむ》さびて 高《たか》く貴《たふと》き 駿河《するが》なる 布士《ふじ》の高嶺《たかね》を 天《あま》の原《はら》 振《ふ》り放《さ》け見《み》れば 渡《わた》る日《ひ》の 陰《かげ》も隠《かく》らひ 照《て》る月《つき》の 光《ひかり》も見《み》えず 白雲《しらくも》も い去《ゆ》きはばかり 時《とき》じくぞ 雪《ゆき》は落《ふ》りける 語《かた》り告《つ》ぎ 言《い》ひ継《つ》ぎ往《ゆ》かむ 不尽《ふじ》の高嶺《たかね》は
(104) 天地之 分時從 神左備手 高貴寸 駿河有 布士能高嶺乎 天原 板政見者 度日之 陰毛隱比 照月乃 光毛不見 白雲母 伊去波伐加利 時自久曾 雪者落家留 語告 言繼將徃 不盡能高嶺者
【語釈】 ○天地の分れし時ゆ 「天地の分れし時」は、日本書紀に、「天地初(めて)剖《わかるる》時」とある時で、渾沌たる氣が割《わか》れて天となり地となった時、すなわち天地の開闢《かいびやく》の時で、この国土としては最古の時。「ゆ」は、より。これは、神とみての不尽山を、時間的方面からいったもの。○高く貴き 「高く」は、不尽山の目に映る状態をいつたものであるが、それを神の状態と見てのもの。「貴く」は、同じく不尽山の状態であるが、神として心に感ずるもの。○駿河なる布士の高嶺を 「駿河なる」は、駿河にある。「高嶺」の嶺は、峰の「ね」で、高い峰。○天の原振り放け見れば 「天の原」は、下への續きで、天の原にの意だと、『新考』がいっている。「振り放け」は、身を反《そ》らしてで、高く仰ぎ、また遠く望む意を具象化したもの。ここは仰ぎ見れば。○渡る日の陰も隠らひ 「渡る日」は、空を渡る日。「陰」は、光。「も」は下の「月」などと並べる意のもの。「隠らひ」は、「隠る」をハ行四段に再活用した語で、隠るの連続をあらわすもの。二句、空を東より西へ渡る日の光も、不尽山には隠れ続けの意。空を渡る日が、地上の物のために隠れ続けるということは、ありうべからざることである。それをあらしめるのは、不尽山の高いゆえであるが、その高いのは神としての姿なので、奇《あや》しき神の姿のために、超凡の事が起こっているとの意である。以下、この心を続けている。○照る月の光も見えず 空に照る月の光もまた、不尽山に遮られて見えないというので、心は上に同じ。○白雲もい去きはばかり 「白雲」は、白い雲で、雲の中でも最も軽く、自由に動く物である。「も」は、もまた。「い去き」の「い」は、接頭語。「はばかり」は、日本書紀、天智紀の童謡に、「赤駒のい行きはばかる真葛原《まくずはら》」、また、次の歌の反歌に、「天雲もい去《ゆ》きはばかり棚引くものを」とあり、実際の運動の阻まれる意をあらわす語。二句、最も軽く、自由に動くもので、また古くは霊気のあるものとして尊ばれてもいた雲であるが、その白雲もまた、不尽山のためには行くことを阻まれてで、意は上と同じ。○時じくぞ雪は落りける 「時じく」は、その時ではなくの意の古語で、不時、非時などの文字を当てている。その心を進めて、いつでも、すなわち常にの意にも用いる。ここはその時ではなく、すなわち冬ではなくの意のもの。神の威力をいおうとしたものだからである。「ける」は、上の「ぞ」の結。雪は降っていることであるよの意。これは、雪は消える物とし、いつも白く見えるのは、常に降っているゆえだと解しての語である。この二句の心は、上と同じで、神の奇《あや》しきさまの極まりをあらわしたこととしていっているのである。以上、第一段である。○語り告ぎ言ひ継ぎ往かむ不尽の高嶺は 「語り告ぎ」は、語って、後の代の人に伝えての意。上代、文字のなく、またあってもその通用の一部にすぎなかった時代には、記憶すべき事は語り伝えるよりほかはなかった。その記憶すべき事というのは、貴い神々の事蹟、皇室の由来、その家の祖先の事蹟などを主とし、日常生活の上で心得ておくべき事柄であった。これらの事は、誰しも語って伝えられ、また語って伝えることとしていたのである。ここは不尽山を、天地の分かれた時からいます、高く貴く、また奇しきさまをあらわしていられる神として、後の人に語って伝えようというのである。「言ひ継ぎ往かむ」は、上の「語り告ぎ」と意味は同じで、その心を強めようがために、語を換えて繰り返したものである。「不尽の高嶺は」は、心としては、上の二句と倒句になっているものである。神なる不尽の高峰はの意。
【釈】 天と地の分かれた時、すなわちこの国土の初めてできた時から、神にふさわしいさまをあらわして、高くもまた貴く、この駿河国にある不尽の高峰を、天の原に仰ぎ見ると、その神威の奇《あや》しさに、空を渡るところの日の光も、この山には隠れ続き、(105)空に照るところの月の光もまた、この山に遮られて見えない。そらを軽く自由に動く白雲もまた、山のために行くことを阻まれ、その時、すなわち冬ではなく、雪が降っていることではあるよ。後の代の人にも、語り継ぎ、言い継いで伝えてゆこう、この神にいます不尽の高峰のことは。
【評】 一首、心を尽くして富士の神性を讃えた歌である。赤人は、時代の影響と、自身の資質とによって、従来何びとも認め得なかったほど、わが国の自然の美しさと靜かさとを感じ取って、その方面を開拓した人であるが、大きな自然を対象とした歌は、この一首のみである。おそらくそうした自然に接する機会がなかったためであろう。この歌は赤人が、初めての経験として富士山に接しての感懐であるが、ここに見える赤人は、その平生の文芸性は全く失ってしまい、上代の信仰である、大海または高山を神それ自体として見る信仰に立ち帰らせられ、全くその心のみに終始する歌を作っているのである。「天地の分れし時ゆ、神さびて高く貴き」は、神としての富士を総括しての語である。神性の第一は、悠久の時を貫いて、その威力をあらわしていることである。「天地の分れし時ゆ」というのは、溯って想像する悠久の涯《はて》である。神性の第二は、その威力である。山をその姿としている神にあっては、「高く貴き」は神そのものの姿で、「神さびて」いることである。その「貴き」は威力でなくてはならない。「渡る日の陰も隠らひ」以下、「時じくぞ雪は落りける」までの二句|対《つい》二回の繰り返しは、総括していった「高く貴き」の内容を細叙したもので、一に神の威力を具象的にいおうとしたものである。叙景として見ると強いた跡のあるものとなるが、志はそこにはなく、極力、神性をいおうとしてのものなのである。第二段の「語り告ぎ言ひ継ぎ往かむ」は、上代より神々の事蹟を伝えるためにしてきていたことで、この当時も行なわれていたことと取れる。伝えるのは、讃えるためで、これを悠久の将来に及ぼそうがためのことである。一首、一貫して、神としての富士の山を讃えたもので、神に献じる心をもっての作と思われる。
詠み方の上からいうと、情意を尽くして詠んでいるが、暢達《ちようたつ》の趣はなく、どちらかというと苦渋に近いところがあるといえる。これは赤人が、対象のために圧しられたがゆえであろう。しかしその情意は失われず、苦渋を通じて、詠歎の形となって現われているので、結果から見ると、短い語《ことば》をもって、立体感を盛り上がらせたものとなっている。そこにこの歌の味わいがある。このことは、次の反歌と対比すると明らかであり、さらにこれにつぐ長歌と対比するといっそう明らかである。
反歌
318 田児《たご》の浦《うら》ゆ 打出《うちい》でて見《み》れば 真白《ましろ》にぞ 不尽《ふじ》の高嶺《たかね》に 雪《ゆき》は零《ふ》りける
田兒之浦從 打出而見者 眞白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留
(106)【語釈】 ○田児の浦ゆ打出でて見れば 「田児の浦」は、(二九七)「昼見れど飽かぬ田児の浦」でいった。「ゆ」は、ここは、移動の経路をあらわしているもので、を通っての意のもの。「打出でて」は、狭い所から広い所へ出て行くことをあらわす語である。この二句は、田児の浦を通って、狭い所から広い所へ出てみるとの意。森本治吉氏は実地踏査によって、赤人が西方から東方へ向かっての旅をして来ると、この場合は薩※[土+垂]峠《さつたとうげ》を越えて、山の中から田児の浦へかけての狭い所を通り、海岸へ出るとにわかに視界が展《ひら》け、駿河湾を隔てて初めて不尽の山が見えることになる。ここはそれをいったものであると説明している。従来この二句は諸注解し悩み、したがって諸説があるのであるが、この解は最も妥当なものに聞こえる。なお、以下の続きもこの解を支えるものとなっている。これに従う。○真白にぞ不尽の高嶺に雪は零りける 「ける」は、「ぞ」の結。まっ白に、不尽の高い峰に雪が降っていることであるよとの意をあらわしたもの。
【釈】 田児の浦を通って、狭い所から広い所へ出てみると、まつ白に、不尽の高い峰には雪が降っていることであるよ。
【評】 上の長歌の反歌としてのものであるが、この歌は不尽の山を初めて目にした時の感で、時間的にいうと、この方が先のものである。長歌と反歌との関係という上から見ると、人麿のものはきわめて緊密であるが、それに較べると、赤人のは間隙をもっているものが多い。この歌にもその趣がある。この歌を一首の短歌として見ると、赤人の短歌は、あくまで実際に即しつつ、表現は極度に単純にするのが風であって、したがってその結果は、含蓄の多いものとなっている。「田児の浦ゆ打出でて見れば」は、「ゆ」と「打出で」とによって、田児の浦も、またそこへ出るまでの地域も、狭い所であったことをあらわし、現在いる所の、それとは反対に広い所であることをあらわしている。これはむしろ含蓄にすぎるもので、難解はそこからきているのであるが、しかし「打出で」を森本氏のいうごとく、正当に解すれば、難解とは言い難いものとなる。また、「真白にぞ不尽の高嶺に雪は零りける」も、「真白に」をまずいい、「ぞ」と「ける」によって強めた言いあらわしは、強い感動をもってのものとわかる。その感動の第一は、「真白にぞ」によって、その雪が、雪の季節のものではなく、異常な時のものであることをあらわしている。第二に、その異常は、興味の対象としてのものではなく、神にます不尽の山の、その測り難い威力の顕われとしての異常であって、その意味においてこの事は長歌につながるのである。一見、平明なる叙景のごとく見えて、含蓄するところの多いものである。こうした心細かさをもつとともに、澄んだ強い調べをもっていて、訴えくる力のあるのは、赤人の手腕である。
不尽山を詠める歌一首 并に短歌
【題意】 この歌は、作者の不明なものである。左注が添っていて、それに対しても論がある。本巻の歌はすべて作者の明らかなのばかりであるから、この歌は異例である。上の歌との関係において収録したものとみえる。
(107)319 なまよみの 甲斐《かひ》の国 《くに》打寄《うちよ》する 駿河《するが》の国《くに》と こちごちの 国《くに》のみ中《なか》ゆ 出《い》で立《た》てる 不尽《ふじ》の高嶺《たかね》は 天雲《あまぐも》も い去《ゆ》きはばかり 飛《と》ぶ鳥《とり》も 翔《と》びも上《のぼ》らず 燎《も》ゆる火《ひ》を 雪《ゆき》もて滅《け》ち 落《ふ》る雪《ゆき》を 火《ひ》もて消《け》ちつつ 言《ゝ》ひも得《え》ず 名《な》づけも知《し》らに 霊《くす》しくも 座《いま》す神《かみ》かも 石花《せ》の海《うみ》と 名付《なづ》けてあるも その山《やま》の つつめる海《うみ》ぞ 不尽河《ふじかは》と 人《ひと》の渡《わた》るも 其《そ》の山《やま》の 水《みづ》の当《たぎ》ちぞ 日本《ひのもと》の 山跡《やまと》の国《くに》の 鎮《しづ》めとも 座《いま》す祇《かみ》かも 宝《たから》とも 成《な》れる山《やま》かも 駿河《するが》なる 不尽《ふじ》の高嶺《たかね》は 見《み》れど飽《あ》かぬかも
奈麻余美乃 甲斐乃國 打縁流 駿河能國与 己知其智乃 國之三中從 出立有 不盡能高嶺者 天雲毛 伊去波伐加利 飛鳥母 翔毛不上 燎火乎 雪以滅 落雪乎 火用消通都 言不得 名不知 靈母 座神香聞 石花海跡 名付而有毛 彼山之 堤有海曾 不盡河跡 人乃渡毛 其山之 水乃當焉 日本之 山跡國乃 鏡十方 座祇可聞 寶十方 成有山可聞 駿河有 不盡能高峯者 雖見不飽香聞
【語釈】 ○なまよみの ここにだけ見える語で、「甲斐」の枕詞と取れるが、語義は明らかでない。諸説があるが、定説とはなり得ないもののみである。○甲斐の国 ここは七音になるべきところを、五音をもってしたもの。これは口承文学時代には例のあることである。○打寄する駿河の国と 「打寄する」は、「する」を「駿《する》」に畳音《じようおん》の関係で続けた枕詞。「駿河の国と」の「と」は、同様のものを並べて合わせていう場合には、その下のものにだけ「と」を添えて、上のものには省くのが、当時の風であった。すなわち、「甲斐の国と」の「と」が省かれている形である。○こちごちの国のみ中ゆ 「こちごちの」は、巻二(二一〇)に出た。そちこちの意。「み中」は、まん中。「ゆ」は、より。二句、そちこちの二つの国のまん中より。○出で立てる不尽の高嶺は 「出で立てる」は、現われ出でて聳ている意。「不尽の高嶺」は、山であるとともに神であるとしてのもので、そのことは続きにいっている。○天雲もい去きはばかり 上の歌に「白雲もいゆきはばかり」とあったのと心は同じで、「白雲」が「天雲」となっているのみである。「天雲」の「天」は、高さをいおうとする心のものである。○飛ぶ鳥も翔びも上らず 「飛ぶ鳥も」は、空高く飛ぶところの鳥もまた。「翔びも上らず」は、「も」は詠歎で、その山の高さまでは飛び上がらないの意。「天雲の」以下四句は、不尽山の高さを讃えたもので、その高さは、上の赤人の歌の「高く貴き」の「高く」と同じ心のものである。すなわち神の神性の現われとしての高さである。(108)○燎ゆる火を雪もて減ち 「燎ゆる火」は、富士山の火山として煙を噴いているところよりいっているもの。富士山の爆発して灰を降らしたことの記録に残っているものは、桓武天皇の天応元年、また延暦十九年、清和天皇の貞観六年などがある。都良香《みやこのよしか》の「富士山記」には、「其在v遠望者、常見2煙火1」とあるので、平常も薄い煙を噴いていたことがわかる。「雪もて滅ち」は、雪をもって消しで、噴煙のあるにもかかわらず、同時にいつも雪があるので、その対照の際やかさを怪しんで、神の威力のしからしめることとし、その心から想像しての語。○落る雪を火もて消ちつつ 降って来る雪を、燎える火をもって消し続けてで、上の二句を、逆にして繰り返したもので、神の威力を強くいおうとしたものである。「燎ゆる火を」以下四句は、赤人の歌の「高く貴き」の「貴き」と心を同じくするものである。○言ひも得ず名づけも知らに「言ひも得ず」は、「も」は、もまた。語《ことば》をもってはいいようもなく。「名づけも」は「名づけ」は語《ことば》をもって言いあらわすことの意。「も」は、もまた。「知らに」は、しばしば出た。「に」は、打消で、連用形。名づけることもまた知られないで。上の「言ひも得ず」の繰り返し。二句、下の「霊《くす》しくも」の程度の限りないことをいったもの。○霊《くす》しくも座《いま》す神かも 「霊しく」は、霊異にで、「天雲も」以下八句でいった神の威力を総括したもの。「も」は詠歎。「座す神」は、起首の「不尽の高嶺は」を言いかえたもの。「かも」は詠歎。以上、第一段。○石花の海と名付けてあるも 「石花」は、「せ」に当てた文字。石花は海中の石に生ずる植物に似た動物で、春、紫色の花をつける物で食料とした。今も「せい」と呼び、「かめのて」と呼んでいる。「海」は、ここは湖。「名付けてあるも」は、人が名づけているものもまた。この「石花《せ》の海」という名は、今は伝わってはいない。その伝わらないのは、地形の変化に伴って、名も異なったがためと取れる。『三代実録』貞観六年六月に、「甲斐国言、駿河国富士大山、忽有2暴火1焼2砕崗巒1草木焦焼、土礫石流、埋2八代郡|本栖《もとす》并※[戔+立刀]《せ》両水海1云々、両海以東亦有2水海1名曰2河口《かはぐち》海1云々」とあり、また、同じく貞観七年十二月には、「駿河国富士大山西峰、忽有2熾火1焼v砕v巌云々、雖v然異火之変于v今未v止、遣2使者1検察、埋2※[戔+立刀]《せ》海1千許町云々」とある。これによると、貞観六年以前は、河口、※[戔+立刀]、本栖と、三湖があり、その※[戔+立刀]の湖は千町ばかりを埋められたのである。現在は本栖、河口の両湖はあり、※[戔+立刀]の湖はなく、その代わりに西湖《せいこ》、精進湖《しようじこ》の二湖があるのである。すなわち※[戔+立刀]の湖が(109)両断されて、西湖、精進潮となったのである。なお「西《せい》」は「※[戔+立刀]《せ》」の名残りであり、精進村の地籍に「字石花湖」と記されているという。○その山のつつめる海ぞ「その山」は、富士山。「つつめる」は、土をもって大きな水を囲う意で、堤《つつみ》はそのつつむの体言となったものである。高山の上の海であるとして、そのあることを、神の威力の現われとしていったもの。○不尽河と人の渡るも 「不尽河」は、甲斐国に発し、駿河国蒲原で海に注ぐ名高い河で、また急流である。この河の支流の一つの釜無川は、甲斐国駒ケ岳より発し、また、笛吹川は、甲斐国徳輪山より発しているが、不尽河が富士山の背後を繞って河口に向かって流れているところから、富士山の水の集まりとしていたと取れる。「と」は、といって。「人の渡るも」は、「人」は、東海道方面を旅する人。「渡る」は、徒渉。「も」は、もまた。石花《せ》の海に対させたもので、それを渡ることのたやすからぬことを、同じく神の威力としたもので、これは言外にしてある。○其の山の水の当ちぞ 「其の山」は、富士山。「当ち」は、水の急流を泡立ち流れるのをたぎつという、その連用形の体言となったもの。以上、第二段。○日本の山跡の国の 「日本」は、日の出る所の意で、すなわち東方であり、わが国を讃えた称。これは古典に現われている日本《ひのもと》という称の最初の語である。「山跡の国」は、わが国の古名。○鎮めとも座す祇かも 「鎮め」は、安定させる意の名詞で、すなわち堅固ならしめること。「と」は、として。「も」は、詠歎。「座す祇かも」は、「祇」は、富士山。「かも」は、詠歎。○宝とも成れる山かも 「宝」は、上と同じく、山跡の国の宝。「成れる」は、生成した所の。以上、第三段。○駿河なる富士の高嶺は見れど飽かぬかも 「駿河なる」は、駿河にあるで、東海道方面より対していることをあらわしているもの。「見れど飽かぬかも」は、幾たびも見たが見飽かぬことであるよで、きわめて歎美したことをあらわす成語。
【釈】 なまよみの甲斐国と、打寄する駿河国との、そちこちの国のまん中から現われて聳えている富士の高嶺は、その神性の現われとしての高さのゆえに、天を行く雲も、その行くことを阻まれ、空を飛ぶ鳥も、そこまでは飛び上がらない。またその神性の現われとしての貴さは、その巓《いただき》に燃えている火を、降る雪をもって消し、反対に降り来る雪を、燃える火をもって消しつづけて、言いあらわすこともできず、名づけることも知られないまでに霊妙にまします神であることよ。石花《せ》の海と人が名づけている、高山の中の海という霊《くす》しい物も、その山の囲っている海であるぞ。不尽河といって、旅びとの悩んで徒渉するのもまた、その山から激《たぎ》ちくだる水であるぞ。日本《ひのもと》の山跡《やまと》の国の鎮めとしてまします神であることよ、宝として生成したところの山であることよ。駿河国にある富士の高嶺は、幾たびも見るけれども見飽かないことであるよ。
【評】 作意としては、上の赤人の歌と同じく、上代信仰である山を神であるとする信仰の上に立ち、不尽山を神として、その神威を極力讃えたもので、異なるところは、その讃える態度の上に、いささかの変わりのあることである。作意からいうと、一首を四句とし、整然とした構成をもたせて、讃えている。第一段は「霊しくも座す神かも」までで、神性の現われとして高く貴きことを讃えたもので、「天雲もい去きはばかり、飛ぶ鳥も翔びも上らず」はその高きこと、「燎ゆる火を雪もて滅ち、落る雪を火もて消ちつつ」はその貴きことである。「燎ゆる火」以下は、神の霊異を讃えるには絶好のもので、詩才を思わせるものである。第二段は、「その山の水の当ちぞ」までで、第一段を承けて、神としての威力を細叙した形のものである。第三段は、「宝とも成れる山かも」までで、この段は一転して、神である不尽山を、「日本の山跡の国」との関係において讃えたもので、(110)「神」として、また「山」として讃えたものである。第四段は結末の三句で、これは第三段を延長させて作者自身の讃え言としたものである。その一首を総括した心は、むしろ「山」としての方面に力点を置き、「見れど飽かぬかも」と歎美しているのである。
讃える態度の上の異なりというのは、赤人の歌は、不尽山を神そのものとして、したがって近づき難く、まして親しみ難い物として、それにふさわしい遠望した態度を取って詠んでいるのに、この歌は、山を神としている態度は同様であるが、その神に近づき、神というよりも山として見ようとする態度を取っていることで、そこが異なっているのである。第一段の、「なまよみの甲斐の国、打寄する駿河の国と」と、不尽山の位置を風土記的に明らかにいっているところも、不尽山を山として、知性的に見ようとする心といえる。第二段の、「石花の海と名付けてあるも」「不尽河と人の渡るも」は、いっそう風土記的であり、したがって知性的であって、ここでは神である山と人との距離を縮めて、接近せしめているものである。第三段の、「鎮めとも座す祇」「宝とも成れる山」は、不尽山をわが国家との関係において見、また、「神」と「山」とに分けて見たもので、最も知性的なものである。結末の「見れど飽かぬかも」は、明らかに不尽山を山として見たものといえる。以上を総括すると、不尽山を神であるとともに山であるとする信仰の上に立ってはいるが、その信仰には知性がまじり、神とするよりも山と見る気分が、おおい難く現われてきているものである。
この信仰より離れて知性的となろうとしている態度を端的にあらわしているものは、その作風である。売人の歌は信仰であるがゆえにしたがって詠歎となっているのに、この歌は知性をまじえている結果、自然説明的になろうとしているのである。一首の暢達の趣はそこからきているものであり、また才情の豊かさと、変化の味わいのあるにもかかわらず、全体として平面的な感じを起こさせているのも、同じくそこからきているのである。この信仰より知性への推移は、時代の下ったがためと思われる。何びとの作かはわからないが、赤人より知性的な人、または不尽山を見馴れて、驚異感の薄れている人の作だということは言い得られるものである。
反歌
320 不尽《ふじ》の嶺《ね》に 零《ふ》り置《おく》雪《ゆき》は 六月《みなづき》の 十五日《もち》に消《き》ゆれば その夜《よ》ふりけり
不盡嶺尓 零置雪者 六月 十五日消者 其夜布里家利
【語釈】 ○不尽の嶺に零り置雪は 「置《おく》雪《ゆき》」は旧訓。『考』以下「置ける雪」と改めているのを、『講義』は、それだと「在」「有」「流」などの文字を加えるべきで、それのないものは本巻にはないといい、意味としても「置《おく》」で不都合はなく、音数の上でもこの方が穏やかだというのである。(111)不尽山の雪は絶えず降っているものとしていることが歌の上で明らかであるから、「置ける」と時磨的にしない方が作意と思われる。○六月の十五日に消ゆれば 「十五日《もち》」は、「もち月」より出た義訓で、他にも例がある。これにつき仙覚の『万葉集註釈』に、「富士の山には雪のふりつもりてあるが、六月十五日にその雪のきえて、子の時よりしもには又ふりかはると駿河風土記に見えたり」とある。これによると、盛暑の頂点を具体化して、六月十五日としたものと思われる。原文「消者」は、旧訓「消《け》ぬれば」を、『代匠記』が改めたものである。消えると同時に降る雪をいったものであるから、「消ぬれば」と強める要のないものである。○その夜ふりけり その夜に降ることだと、詠歎をもっていったもの。
【釈】 不尽の峰に降って置いている雪は、盛暑の頂点である六月の十五日に消えると、すぐその夜に降ることだ。
【評】 仙覚の引いている風土記の伝統の上に立っての歌とみえる。これは、富士の峰には、盛暑でも雪があるということに驚異の心を寄せ、神の威力を讃えることを目的とすることよりも、雪はその本質として、盛暑には消えざるを得ないものだという知性的の伝説に心を引かれたもので、長歌の起首の、「燎ゆる火を」を繰り返したものではなく、結末の「見れど飽かぬ」に絡んだ心のものである。しかし才情を思わせる歌である。
321 布士《ふじ》の嶺《ね》を 高《たか》み恐《かしこ》み 天雲《あまぐも》も い去《ゆ》きはばかり たなびくものを
布士能嶺乎 高見恐見 天雲毛 伊去羽斤 田菜引物緒
【語釈】 ○布士の嶺を高み恐み 「布士の嶺」は、下への続きで、山であるとともに神としてのものであることがわかる。「高み」は、高くしてで、神の姿として讃えていっているもの。「恐み」は、恐くしてで、上と同じく、神の威力としていっているもの。○天雲もい去きはばかり 天を行く雲も、行くことを阻まれて。○たなびくものを 「たなびく」は、「た」は、接頭語。「なびく」は、「靡く」で、山にかかっている形をいったもの。靡くは、従うという意をもった語なので、ここは上よりの続きで、越えかねて、威服するという意をもたせたものと取れる。「を」は、詠歎。
【釈】 神である富士の山の、その神性の現われとして、高くあり、恐くあるので、天《あめ》を行く雲も行くのを阻まれて、その山にかかって、従うものとなっているよ。
【評】 富士山を讃えた心である。一首、語《ことば》は単純で、調べも柔らかであるが、心は山であるとともに神である富士山の両面を融合させた複雑なものである。上の長歌と反歌は、口承文学の系統を引いたものであるが、この歌は、記載文学の色彩の濃厚なもので、作風を異にしているものである。
(112) 右の一首、高橋連虫麿の歌の中に出づ。類を以てここに載す。
右一首、高橋連蟲麿之歌中出焉。以v類載v此。
【解】 これは撰者の添えた注である。高橋虫麿は、集中に七首の歌をとどめてい、またその歌はいずれも特色のあるものである。伝は明らかではないが、天平四年、藤原宇合が西海道の節度使となった時、餞けの歌を作っているので、その生存時代の大体は知れ、また、常陸の筑波山、下総の葛飾、摂津の葦屋などの歌を作っているので、その足跡の大体も知られる。また、高橋連虫麿歌集という物の存したことも、歌の左注によって知られる。右の一首の歌は、その集中にあるもので、富士山に関した歌であるから、ここに載せるというのである。「右の一首」につき、諸注、解が二つとなって、一定していない。一つは文字どおりに(三二一)の一首だけとするもの。他の一つは(三一九)の長歌以下三首を一括しての称とするものである。この「右の何首」という注は、本集に例の多いものである。『講義』はその全都を集めて調査し、「右の一首」とある場合は、必ず一首に限られていることを突き止め、三首一括という解を斥けている。三首一括して一首といっているという解は、(三一九)の長歌が、虫麿の作風に似ているとする解の上に立ったものであるが、今の場合、(三二一)は、いったがように他の二首とは作風を異にしていて、同一手に出たものとは認められないものである。
山部宿禰赤人、伊予の温泉《ゆ》に至りて作れる歌一首 并に短歌
【題意】 「伊予の温泉《ゆ》」は、今の松山市道後温泉のことである。赤人がそこへ行った理由はわからない。歌は、伊予の温泉へ行き、そこにあった古の行幸啓の事を懐い、それを通して皇室への賀の心を詠んだものである。古の行幸啓の事は、釈日本紀に引いている伊予風土記によって知られるのであるが、風土記撰進までに前後五度あったのである。その第一度は、景行天皇と皇后との行幸啓、第二度は、仲哀天皇と神功皇后との行幸啓、第三度は、聖徳太子の行啓、第四度は、舒明天皇と皇后(皇極天皇)との行幸啓、第五度は、斉明天皇と、天智(皇子)、天武(皇子)の行幸啓である。景行、仲哀二朝の事は日本書紀には載っていない。聖徳太子の事も載っていないが、風土記には、その時太子は湯ノ岡の側に碑文を立てられた事を載せている。舒明天皇の行幸は日本書紀に載っていて、即位十一年十二月に行幸され、翌十二年四月に還幸になった。この時の事は、伊予風土記も、巻一(六)の左注も伝えている。斉明天皇の行幸は、日本書紀に載ってい、即位七年正月、西征の途次、熟田津石浜行宮《にぎたついわゆのあんぐう》に御船を泊《は》てさせられたのである。
(113)322 皇神祖《すめろぎ》の 神《かみ》の御言《みこと》の 敷《し》き座《いま》す 国《くに》の尽《ことごと》 湯《ゆ》はしも さはにあれども 島山《しまやま》の 宜《よろ》しき国《くに》と こごしかも 伊予《いよ》の高嶺《たかね》の 射狭庭《いさには》の 岡《をか》に立《た》たして 歌思《うたおも》ひ 辞思《ことおも》はしし み湯《ゆ》の上《うへ》の 樹《こ》むらを見《み》れば 臣《おみ》の木《き》も 生《お》ひ継《つ》ぎにけり 鳴《な》く烏《とり》の 音《こゑ》も更《かは》らず 遐《とほ》き代《よ》に 神《かむ》さび往《ゆ》かむ 行幸処《いでましどころ》
皇神祀之 神乃御言乃 敷座 國之蓋 湯者霜 左波尓雖在 嶋山之 宜國跡 極此疑 伊豫能高嶺乃 射狭庭乃 崗尓立而 謌思辞思爲師 三湯之上乃 樹村乎見者 臣木毛 生繼尓家里 鳴鳥之 音毛不更 遐代尓 神左備將徃 行幸處
【語釈】 ○皇神祖の神の御言の 「皇神祖」は、皇祖を申す称であるが、歴代の天皇にも及ぼして申した。ここはその後のものである。「神」は、天皇を古代信仰から申したもの。「御言」は、尊《みこと》に当てたもので、尊称。二句、天皇を尊んで申したもので、この二句は、下の「射狭庭の岡に立たして」に続いているところから、舒明天皇を申しているものと解される。○敷き座す国の尽 「敷き座す」の「敷き」は、御支配になる意。「座す」は、敬語とするために添えたもの。「国の尽」の「国」は、狭い意のもので、諸国。「尽」は、「尽く」の古語。○湯はしもさはにあれども 「湯」は、温泉を称する語で、古くから用いられ、今も用いている。「しも」は、「し」と「も」と合成した語で、物事を取立てて強くいう意の助詞。「さは」は、多くの意。 ○島山の宜しき国と 「島山」は、ここは島の中にある山の意で、「島」というのは、四国全体を海より見ての称と取れる。「宜しき」は、足り整っている意。「国と」は、国として。上の二句は、「湯」を主としていっているのに、ここでは「島山」を主としたこととなっている。続けると、「湯」のあるのに「島山」もまた宜しき国であるとしての意と取れる。○こごしかも伊予の高嶺の 「こごし」は、ごつごつとしている意で、形容詞。「かも」は、詠歎。険阻なことよの意。「伊予の高嶺」は、伊予を代表する高山の意で、それだと石槌山だとされている。この山は、周桑郡|千足山《せんぞくやま》村にあり、伊予のみならず、四国第一の高山で、高さ千九百メートルを超えている。道後温泉とはほぼ七里を距てているが、その間、山脈が連亙《れんこう》して、しだいに低くなって、温泉の辺まで来ている。この「高嶺」については異説があるが、上二句の「島山の宜しき国と」の続きとしていっているもので、同じく、「温泉《ゆ》」よりも「島山」の方を主としている関係上、石槌山と取れる。○射狭庭の岡に立たして 「射狭庭の岡」は、今はその名が伝わっていず、またその所も明らかではない。しかし下の続きの「み湯の上の樹むらを見れば」というのは、その「岡」においてのことであるから、「み湯の上」すなわち温泉のほとりの岡であることだけは知られる。また、「神名帳」によると、伊予国|温泉《ゆの》郡に四座の神があり、阿治美神社、出雲崗神社、湯神社、伊佐爾波神社とあるので、伊佐爾波神社は、射狭庭岡にあったものと思われる。「立たして」は、立つの敬語で、立たしたのは、起首、「皇神祖の神の御言」である。その舒明天皇にましますことは、下の続きで察しられる。(114)○歌思ひ辞息はしし 「歌思ひ」は、歌を作ろうと思い、「辞思はしし」は、「辞」は語《ことば》で、「歌」を言いかえたもの。「思はしし」は、敬語で、作ろうとお思いになられたの意。この事は下に譲る。○み湯の上の樹むらを見れば 「み湯」の「み」は、美称で、「湯」は、温泉。「上」は、辺りの意。「樹むら」は、木群で、木立の群がり。これも下に譲る。○臣の木も生ひ継ぎにけり 「臣の木」の「臣」は、樅《もみ》の古名だと古くからいわれている。「も」は、もまた。「生ひ継ぎ」は、生え継ぐで、前の木は樹齢が尽きて、次の木が生え継ぐ意。「けり」は、詠歎。○鳴く鳥の音も更らず 木の上に鳴いているところの鳥の声もまた、昔に変わらないの意。「射狭庭の岡」以下の事は、『仙覚抄』巻三に引いている。伊予風土記に出ており、また、本集巻一(六)の歌の左注にも出ている。風土記の文は、「以2岡本天皇并皇后二躯1為21。于時於2大殿戸1有2椹《むく》与|臣木《おみのき》1、於2其上1集3止2鵤《いかるが》与2此米鳥《しめのとり》1。天皇為2此鳥1、枝繋2稲穂等1養賜也」というのであり、巻一(六)の左注は、類聚歌林にあるもので、「一書に、この時に宮の前に二つの樹木あり、この二つの樹に斑鳩《いかるが》、比米《ひめ》、二つの鳥|大《いた》く集れり。時に勅して多く稲穂を懸けて之を養ひたまふ。すなはち作れる歌云々」というのである。これらによると、舒明天皇の行宮は、射狭庭《いさにわ》の岡の上にあり、宮の前に椹《むく》と樅の木があり、たまたま斑鳩と此米のその木に集まったのを、天皇が興じたまい、稲穂を与えて養われ、歌をもお作りになられたのである。舒明天皇は、赤人がこの歌を作った聖武天皇の御代からは十一代前、年としては約百年前のことである。赤人はこの行幸啓の時のことを心に置いていっているものと解される。すなわち、「射狭庭の岡」は、行宮のあった所。「立たして」は、宮の前に立たせられたこと。「歌思ひ云々」は、「乃ち作れる歌云々」とあるもの。「樹むら」は、椹《むく》と臣《おみ》の木、「生ひ継ぎ」は、十一代、約百年の経過を具象したもの。「鳴く鳥」は、斑鳩と此米にあたる鳥の鳴き声である。以上、一段。○遐き代に神さび往かむ行幸処 「遐き代」は、遠き代で、過去にも将来にもいう。ここは将来。「神さび往かむ」の「神さび」は、神としての振舞いをする意であるが、転じて、物の古びて神々しくなる意にもいう。ここはその後のもの。「行幸処」は、行幸のあった処の意で、ここは主として舒明天皇に対して申しているもの。三句は、賀の心で、一段をなしており、これが一首の力点である。
【釈】 すめろぎの神の尊が、御支配になられるもろもろの国のことごとくに、温泉こそは多くあるけれども、島の中にある山の姿の足り整っている面白い国であるとして、険阻なことである、この伊予の高嶺の、それに続く、射狭庭の岡にお立ちになって、歌をお作りになろうと思い、語《ことば》をお続けになろうと思わせられた、温泉の辺りの樹群を見ると、その古あった樅の木も、生え継いであることよ、その古に鳴いていた鳥の声もまた、変わってはいない。遠き後の代にも、引続いて神々しくなってゆくことであろう、この行幸《いでまし》の跡どころは。
【評】 赤人が伊予の道後の温泉に行き、行幸の跡どころである射狭庭の岡に立って、そこの風景に心を引かれるとともに、その風景を通して想い起こされてくる舒明天皇の行幸のおりのことを思い、古も今も変わらない自然に寄せて、その跡どころの永遠を祝ったものである。心としては皇室に対しまつっての賀であって、それが一首の中心となっている。
この歌は、その表現を通して、その際の赤人の心の動きを、比較的明らかにうかがわせるものである。赤人の心は、自然の風光に引かれがちだ。「こごしかも伊予の高嶺の」は、それを石槌山とすることは、射狭庭《いさにわ》からは距離があり過ぎるので不自然だとし、問題となっているものである。これは赤人としては、第一に、射狭庭そのものの風景に心が引かれ、その風景をいう(115)には欠き難いものとして添えたものであろう。のみならず、この「伊予の高嶺」をいうために、すでに「島山の宜しき国と」と言っているのでもある。これはそれに先立つ「湯はしもさはにあれども」には、直接には続き難いものである。事実、伊予の温泉《ゆ》への行幸は、御目標が温泉にあったことは申すまでもなく、「島山」にあったのではない。それを「島山」そのものにあったがごとく申しているのは、赤人の臆測にすぎないもので、不自然はむしろそこにある。「伊予の高嶺」の不自然はその延長である。この不自然をあえてしているのは、赤人の自然の風光に引かれる心である。さらにまた、「臣の木も生ひ継ぎにけり、鳴く鳥の音も更らず」は、赤人が最も直接に心を動かしたものとみえる。行幸啓はいったがように五度あって、舒明天皇が特に際やかなことをなされたのではない。それを天皇に限って申しているのは、眼前の木立に小鳥の鳴いているのに心が引かれ、それによって風土記に伝えているところの木立と小鳥のことを想い起こしたのではないかと思われる。風土記には椹《むく》と臣《おみ》の木とがあるが、ここにいっているのは臣の木だけである。臣の木は樅とすると常磐木《ときわぎ》であるが、椹は落葉樹である。その木はなかったのか、またはあっても落葉していて印象的ではなかったというようなこともあろう。もし後の場合であったとすれば、赤人がいかに印象と実感を重んじたかを示すこととなる。臣の木に「生ひ継ぎ」という断わりを添え、「鳥の音」に斑鳩《いかるが》も此米《しめ》も関係させないことも、同じ態度を示しているものといえる。
一首は、皇室に対する賀を力点としている。射狭庭の与える感は、単に風光としてだけのものではなく、「行幸処」ということが主になっていたろうから、これは当然のことである。賀の心をいうには、舒明天皇の伊予の温泉への行幸のことを申さなくてはならない。「皇神祖の神の御言の、敷き座す国の尽、湯はしもさはにあれども、島山の宜しき国と」がすなわちそれであるが、これは巻一(三六)柿木人麿の「吉野宮に幸しし時」の起首、「やすみしし吾が大王《おほきみ》の、聞《きこ》し食《め》す天の下に、国はしも多《さは》にあれども、山川《やまかは》の清き河内《かふち》と」を想わずにはいられないものである。この影響を受けたものと思われる。この部分は安易である。結末の「遐き代に神さび往かむ行幸処」は、むしろ成句に近いものである。赤人の特色は、若木の臣の木と、それに鳴く小鳥の声というささやかなものに、自然の悠久さを感じ、それを無窮なる皇室に繋いで、「行幸処」の永遠を賀したところにある。これは赤人に限られたものである。
反歌
323 百《もも》しぎの 大宮人《おほみやびと》の 飽田津《にぎたづ》に 船乗《ふなの》りしけむ 年の知らなく
百式紀乃 大宮人之 飽田津尓 船乘將爲 年之不知久
【語釈】 ○百しきの大宮人の 「百しきの」は、大宮の枕詞。しばしば出た。「大宮人」は、大宮に奉仕する百官であるが、ここは行幸の供奉の廷(116)臣。○飽田津に 「飽田津《にぎたづ》」は旧訓。この訓は問題となっている。『攷証』は、「玉篇に饒飽也とありて相通ずれば、飽にてもにぎたづとよまんに何かあらん」といっている。日本書紀、斉明天皇七年の条に、「御船泊2于伊予国熟田津石湯行宮1」とあり、「熟田津此云2※[人偏+爾]枳陀豆1」という注があって、温泉に近い、船の発着地であったことは明らかである。この名は今は伝わっていない。「飽田津」はこの熟田津を基本にしての訓である。○船乗りしけむ年の知らなく 「船乗りしけむ」は、「船乗り」は、航海する意で、海路の旅をも言いうるが、ここは、長歌との関係上、舟遊びと取れる。「けむ」は、連体形。「年の知らなく」は、「年」は、その事のあった時。「なく」は、「な」の打消に、「く」を添えて名詞形としたもので、知られないことよの意。舒明天皇の行幸は、即位十一年十二月で明らかであるのを、辿り難い古のこととしていっているのは、そうすることを賀の心にかなうこととしてである。
【釈】 百しきの大宮人が、この飽田津に舟遊びをされたであろう時の、年古くして知られないことであるよ。
【評】 長歌は、天皇の射狭庭《いさにわ》の岡においての御遊のことをいっているのに対し、反歌は、供奉の大宮人の飽田津における舟遊びをいって、その楽しいさまを思いやったものである。「年の知らなく」は、長歌の「臣の木も生ひ継ぎにけり、鳴く鳥の音《こえ》も更《かは》らず」といっている、その遠い古のほうを承けてのもので、遠い古ということがすなわち祝賀の心である。
神岳《かむをか》に登りて、山部宿禰赤人の作れる歌一首 并に短歌
【題意】 「神岳」は、雷岳のこともいい、また、三輪山にもこの字を当てている。ここは、反歌に明日香川のことをいっているところから、雷岳のことと取れる。明日香川は雷岳の裾を繞って流れているからである。雷岳は(二三五)に出た。高市郡明日香村字雷にある岳である。ここは飛鳥の故京に近く、したがって故京の辺りを展望するには絶好の場所である。「神岳に登りて」は、そこを、飛鳥の故京の展望台としてのことである。
324 三諸《みもろ》の 神《かむ》なび山《やま》に 五百枝《いほえ》刺《さ》し 繁《しじ》に生《お》ひたる 都賀《つが》の樹《き》の いや継《つ》ぎ嗣《つ》ぎに 玉葛《たまかづら》 絶《た》ゆることなく 在《あ》りつつも 止《や》まず通《かよ》はむ 明日香《あすか》の 旧《ふる》き京師《みやこ》は 山《やま》高《たか》み 河《かは》とほしろし 春《はる》の日《ひ》は 山《やま》し見《み》がほし 秋《あき》の夜《よ》は 河《かは》し清《さや》けし 旦雲《あさぐも》に たづは乱《みだ》れ 夕霧《ゆふぎり》に 河津《かはづ》は騒《さわ》く 見《み》る毎《ごと》に 哭《ね》のみし泣《な》かゆ 古《いにしへ》思《おも》へば
三諸乃 神名備山尓 五百枝刺 繋生有 都賀乃樹乃 弥繼嗣尓 玉葛 絶事無 在管裳 不止將通(117) 明日香能 舊京師者 山高三 河登保志呂之 春日者 山四見容之 秋夜者 河四清之 旦雲二 多頭羽亂 夕霧丹 河津者驟 毎見 哭耳所泣 古思者
【語釈】 ○三諸の神なび山に 「三諸」は、御室で、「み」は美称、「室」は神を祭る室の意で、本来は普通名詞である。「神なび」は、神を祭る所の称で、『考』は、神の森の意で、「もり」が約《つつ》まって「み」となり、「び」に転じたものと解している。森は神の降ります所である。「神なび山」は、神を祭る所の山の意で、これまた普通名詞である。集中の用例によると、雷岳のことを、「三諸《みもろ》の神《かむ》なび山」〔巻十三(三二六八)〕、「神なびの三諸の山」〔巻十三(三二二七)〕、単に「神なび山」〔巻十三(三二六六)〕とも呼んでいる。ここは雷岳のことである。○五百枚刺し繁に生ひたる 「五百枝」は、多くの枝という意を、具象的にいったもの。「刺し」は、枝の生じている意。「繁に」は、繁くの意の古語。多くの枝が生じ、繁く枝が出ているで、同意のことを重ねていったもの。○都賀の樹のいや継ぎ嗣ぎに 「都賀」は、「刀賀《とが》」ともいっていた。今の栂《とが》。山地に自生する常緑の喬木。葉は樅に似ている。これは下の「継ぎ」に、同音の反覆でかかるものである。その点からいうと、「三諸の」以下五句は、「継ぎ」の序詞である。しかしこの五句は、単に序詞だけのものではなく、同時に神岳の叙景ともなっているもので、叙景を序詞の形でいったという複雑なものである。また、巻一(二九)人麿の歌の中に、「樛《つか》の木のいやつぎつぎに」というのがあって、これはその影響のあるものと見られる。「いや継ぎ嗣ぎに」は、いよいよ継ぎ継ぎにで、継ぎ継ぎには、引続いての意。これは赤人自身のことである。○玉葛絶ゆることなく 「玉葛」は、「玉」は美称、「葛」は蔓草の称で、意味で、「絶ゆる」にかかる枕詞。「絶ゆることなく」は、下の「通ふ」につづくもの。○在りつつも止まず通はむ 「在りつつも」は、「在り」は、生きている意。「つつ」は、継続、「も」は、詠歎。いつまでもという意でいっているもの。「止まず通はむ」は、止むことはなく通おうと思うところので、赤人自身のこと。「通はむ」は連体形。下へ続く。○明日香の旧き京師は 「明日香」は、ここでは浄見原宮をさしていると取れる。「旧き」といっているのは、赤人は神亀、天平の頃の人で、奈良宮の初頭の人だからである。浄見原宮は、天武天皇より持統天皇へ及ぼしての宮で、藤原宮へ遷られる以前の宮である。○山高み河とほしろし 「山高み」の「山」は、神岳の上より望んだものであるが、飛鳥の地を中心として、それを繞っている山を大観したもので、また風景としてのものてある。近く、東より南へかけて、倉橋、多武、細川、南淵、高取などの山々が連なっている。「高み」は、高くして。「河とほしろし」の「河」は、上の「山」に対させたもので、それに対する態度も同様である。これは飛鳥川である。「とほしろし」は、上代の文献としては、ただここにだけ見えている語である。解は二様となっている。その一つは『代匠記』の解で、「大きにゆたけき意なり。神武紀下云、集《つどふ》2大小之魚《とほしろくさきいをどもを》1、」といっている。いま一つは『玉の小琴』の解で、「とほしろくはあざやかなることなり。凡てあざやかなることをしろしと云。いちじろきも是也。云々」というのである。『講義』は、「とほしろし」は「くしき」活用の形容詞であるが、形容詞の語幹の三音以上のものは、単一の組織より成るものはなくて、多くは二個の語根または語幹の合成より成っている。これも「とほし」「通」の語幹あるいは「遠」の語幹と「しろし」(著)の語幹との合成したもので、そのために新たな観念を生じたものである。すなわち「遠く」「通る」の語幹としては深遠通達の意があり、「しろし」は顕著の義がある。ここは河の流れの遠く著しく通っている意だというのである。従うべきである。神岳の上から飛鳥川を遠望した感じである。○春の日は山し見がほし 「春の日は」は、次の「秋の日は」に対させたもので、一年を春秋をもって代表させたもの。「山し」の「し」は、強め。「見がほし」は、一つの用語。「見」は体(118)言で、「ほし」の主格。「ほし」は欲しで、見たいの意。○秋の夜は河し清けし 「河し」の「し」は、強め。「清けし」は、清くさわやかな意で、これは月に照らされた状態と取れる。○旦雲にたづは乱れ 「旦雲に」は、朝は雲の多い時としていったもので、次の「夕霧」に対させたもの。旦雲の中に。「たづ」は、鶴類。これは次の「驟《さわ》く」に対させたものであるから、声を主にしていつたものと取れる。乱れて鳴きの意。○夕霧に河津は驟く 「夕霧に」は、夕は霧の立つ時としていったもので、霧の最も立ちやすいのは川であるから、それを心に置いてのもの。夕霧の中に。「河津」につき、『講義』は考証して、この時代には「かへる」という語《ことば》はなかった。巻十(二一六一)以下五首は、題詞は「詠蝦」とあり、歌にはすべて「川津」の字を用いている。また、同、(二二六五)は、題詞は「寄蝦」とあり、歌にも「蝦」を用い、「かはづ」と訓んでいる。蝦は「かへる」に当てる文字である。これによると、「かへる」という語はなく、「かはづ」の一語のみであったことか知られる。「河津」の歌は、清流に住む、音の好いものとしていっているから、物としては後の河鹿《かじか》だと知られる。すなわち蝦《かえる》も河鹿も河津《かわず》と呼んでいたというのである。ここは今の河鹿である。「驟く」は、繁く鳴き立てる意。以上、一段である。○見る毎に哭のみし泣かゆ古思へば 「見る毎に」は、明日香の故京を見るたびごとにで、起首の「止まず通はむ」に照応させたもの。「哭のみし泣かゆ」は、「し」は強め、声を立ててばかり泣かれるで、感動のきわめて強いことをあらわす成語。この感動は、故京に対する悲しみではなく、その風光に対しての懐かしみである。それは上来いっているところから明らかである。「古《いにしへ》思へば」は、古、飛鳥の浄見原が京《みやこ》であった時を思えばの意で、愛でたい風光と、畏い京との一つになっていたことを思うとというので、限りなき懐かしさを余意とした語。
【釈】 三諸の神なび山すなわち雷岳に、多くの枝を生じ、繁く枝を生じている都賀《つが》の樹の、そのつがという、ますます継ぎ嗣ぎに、絶えるということのなく、いつまでもやまずも通おうと思う明日香の旧い京は、そこを繞らしている山々が高くあって、そこを流れている河が遙かにもあざやかに見える。春の昼は、その山々が眺めたいさまである。秋の夜は、その河が清らかにさわやかである。朝の雲の中には、鶴《たず》が乱れて鳴いており、夕べの霧の中には、河鹿が繁くも鳴き立てている。ここへ来て見るたび(119)ごとに、声を立ててばかり泣かれる。この愛でたい風光と京との一つになっていた古を思ふと、限りもなく懐かしくて。
【評】 「神岳に登りて」といっているが、歌は神岳そのものには直接触れるところのないもので、そこをもって、「明日香の旧き京師」を展望する高所としただけのものである。展望していっているところは、いわゆる故京に対しての感懐であるが、この歌はきわめて異色をもったものである。それは故京に対する感懐といへば、すべて人事の推移を悲しむもので、以前盛んであった京の衰え去ったのを悲しむ心に限られている。しかるにこの歌は、人事に触れるところがほとんどなく、推移を悲しむ心は全くないものである。故京に対しての感懐としては、それが故京であるがゆえの懐かしさにとどまるもので、そこを限りなく懐かしめているものは、風光の愛でたさなのである。赤人の心にはこの二つが融け合って一つとなっていたとみえるが、この人事の暗い面を見ず、風光の愛でたさのみを酷愛しているところは、故京を偲ぶ歌としてはまさに異色である。これは赤人の個性のしからしめるところといえる。個性とはいうが、赤人は奈良京初頭の人で、国運のきわめて興隆する中に生きていた人なので、時代的に見て、顧みて時代の推移を悲しむというような心はもてず、反対に時代を謳歌する心が、自然美の鑑賞という文芸性の方に発揮されていったものとみえる。すなわち時代の人だったのである。なお、赤人より見て故京といえば、当然藤原京であるべきなのに、それを越えて浄見原の京を慕っているのは、前者よりも後者の方が、自然美の上でいっそう心引かれるものがあったためではないかと思われる。それだと、そこにも赤人の個性が現われているといえる。
この歌は二段より成っている。第一段は、結末に近い「河津《かはづ》は驟く」までである。この第一段の前半、起首より「在りつつも止まず通はむ」までの十句は、それに続く「明日香の旧き京師は」を修飾しているものである。これは修飾とはいうが、ほとんど独立した一つの意味をもったもので、明日香の旧き京師に対する限りなき思慕をいっているものである。しかしその思慕が何によって起こるかということは全くいっていず、「明日香の旧き京師は」と続けて、言い出してきている所は、そこの風光の愛でたさなのである。これによって見ると、明日香の旧き京師の懐かしさは、その「旧き京師」であるとともに、その風光の愛でたさであって、しかもその風光の愛でたさを描いた「山高み河とほしろし」以下、「河津は驟く」までの対句のみをもってする十句は、一首の中心を成しているのである。この旧き京師と風光の愛でたさを融かして一つとし、しかも風光の方に力点を置いているところに赤人の面目がある。
第二段は、「見る毎に哭のみし泣かゆ、古思へば」の結末の三句である。「古思へば」は、心としては倒句になっているもので、第一段の前半の、明日香の旧き京師に対する思慕であり、「見る毎に哭のみし泣かゆ」は、第一段の後半の風光に対しての心で、「見る毎に」は、「止まず通はむ」といっているごとく、赤人はすでに幾たびとなく通って来て、そのたびごとにしていたことを、今また繰り返しているもので、現在に過去をこめて、総括していっているものである。第二段は、旧き京師と、そこの愛でたい風景とが一つになって、限りなく感動させたことの端的で、全体を総括しての繰り返しである。
(120) 反歌
325 明日香河《あすかがは》 川《かは》よど去《さ》らず 立《た》つ霧《きり》の 念《おも》ひ過《す》ぐべき こひにあらなくに
明日香河 川余藤不去 立霧乃 念應過 孤悲尓不有國
【語釈】 ○明日香河 明日香河は、雷岳の裾を流れている川である。これによって神岳は雷岳であり、旧《ふる》き京師《みやこ》というのは、浄見原の京であることが明らかである。○川よど去らず立つ霧の 「川よど」は、川の流れの淀となっている所の称。「去らず」は、離れずで、川淀を離れずには、下の「立つ霧」の位置を示しているものである。川霧は、川の流れの上に立つ霧であるが、流れの早い所より、淀となっている所の方が立ちやすいものである。この一句は、心からいうと、川淀の所だけに限ってという意である。なお、川霧が川淀に限って立つのは、朝と夕の霧の多い時ではなく、昼の少ない時の状態と取れる。ここはその時刻をも暗示しているもので、言いかえると、現に眼前の状態として見ている昼の景である。「立つ霧の」の「の」は、のごとくの意のもので、立つ霧のごとくにで、譬喩。この譬喩は、霧を消えやすいものとしてである。○念ひ過ぐべき 「念ひ過ぐ」は一語で、念いが過ぎ去るで、上の譬喩からの続きは、なくなることを過ぎるというところから、霧の消えることを過ぐといったのである。念いが消えてなくなる、すなわち忘れ去る意。○こひにあらなくに 「こひ」は、恋で、ここは憧れで、旧き京師に対する思慕をいったもの。「なく」は、「な」の打消に「く」を添えて名詞形としたもの。「に」は、詠歎。憧れではないことなのに。
【釈】 明日香河の川淀を離れずに、そこにのみ限って立っている霧の、その消え失せるかごとくに、わが旧き京師《みやこ》に対する憧れは、思いの消え失せる、すなわち忘れ去るようなものではないことであるのに。
【評】 長歌でいっている、明日香の旧き京すなわち浄見原の京に対するなつかしさと、風光の美しさに対する情を、総括して、繰り返しいっているものである。反歌としては一つの型となっているものである。しかしその情を「こひ」と言いかえて、現に今見ているのであるが、見ざるもののごとくにいっているのは、その情の限りなさを示しているもので、進展のあるものである。「明日香河川よど去らず立つ霧の」は譬喩であるが、これは明らかに眼前を捉えたものである。明日香河は、神岳の裾を流れている川であるのみならず、「川よど去らず立つ霧」は、微かな光景であって、眼前に見るのでなければ捉えられぬ物だからである。また、「川よど」を取り立てていっているのは、いったがように昼の光景だからであろうと思われる。詮ずるところは「念ひ過ぐ」の譬喩であるのに、このように自然の状態に食い入って細かくいうのは、赤人の特色である。ここにも面目があるといえる。抒情ではあるが、叙景と融合をもった、その作風を示しているものである。
門郡王《かどべのおほきみ》、難波に在りて、漁父《あま》の燭光《ともしひ》を見て作れる歌一首 後に、姓大原真人の氏を賜ふ
(121)【題意】 「門部王」は、(三一〇)に出た。
326 見渡《みわた》せば 明石《あかし》の浦《うら》に ともす火《ひ》の ほにぞ出《い》でぬる 妹《いも》に恋《こ》ふらく
見渡者 明石之浦尓 燒火乃 保尓曾出流 妹尓戀久
【語釈】 ○見渡せば明石の浦にともす火の 「見渡せば」は、難波の海べから彼方を見渡す意。「明石の浦」は、播磨で、難波の浦べからは遙かに見渡せる地。ここは、広く、そちらの海上という意を具体的にいおうとしてのものと取れる。「ともす火の」は、いわゆる漁火《いさりび》である。初句より三句までは、「ほ」に続けるためで、その関係は、※[火+陷の旁]《ほのほ》は火《ほ》の穂《ほ》で、「ほ」は火の尖端だからである。その「ほ」は意味を転じてあり、初句よりの三句は、「ほ」の序詞である。○ほにぞ出でぬる 「ほに出づ」は、内にあるものが表面に現われる意で、ここは、包みきれず表面に現われたことであるの意。「ぬる」は、「ぞ」の結。○妹に恋ふらく 「妹」は、男より女を親しんで呼ぶ称で、ここは傍らにいる女というほどの関係の者と取れる。「恋ふらく」は、「恋ふ」に「く」を添えて名詞形としたもので、恋うることはの意。
【釈】 見渡すと、明石の浦の方に、海人《あま》のともすいさり火が見えるが、その穂という、穂すなわち表面に出たことであるよ。わが妹に恋うることは。
【評】 門部王が難波へ旅をされて、そうした際身分のある人のする、傍らに女を侍らせることをしていたとみえる。夜、楽しみのために、海を望んでいられた時、難波より西の方、明石方面に見える漁火を眺めながら、その女に、軽い心をもって詠みかけられた懸想《けそう》の歌と取れる。初句より三句までは序詞で、これは謡い物の脈を引いたものである。興として眺めていられた眼前の景を捉えて序詞としたところに、心の動きが見え、また歌としての味わいもある。いわゆる座興という程度の戯れに近い心のものと思われる。歌の内容は恋であるが、難波に在りてということに力点を置き、※[羈の馬が奇]旅の歌として雑歌に入れたものと取れる。これは巻一の行幸の供奉の歌には例の多いことで、それにならってのことと思はれる。
或|娘子等《をとめら》、※[果/衣]《つつ》める乾鰒《ほしあはび》を贈《おく》りて、戯《たはむ》れに通観《つうくわん》僧の咒願《じゆぐわん》を請ひし時、通観の作れる歌一首
【題意】「乾鰒」は、鰒の肉を乾した物で、当時、貴重な食物とした物、「※[果/衣]む」は「包む」で、乾鰒を保存するためにしていたこと。「咒願」は、仏教の語で、念仏誦号し、法語を唱えて、福利を願うことで、普通は、法会《ほうえ》の時、導師が施主の願に従い、死亡者の幸福を祈願する意である。「娘子」も、「通観」も、いかなる人とも知れない。戯れにというのと、また歌によって、娘子の請ったのは、乾鰒を蘇生させることであったとみえる。
(122)327 わたつみの 奥《おき》に持《も》ち行《ゆ》きて 放《はな》つとも うれむぞこれが 死還生《よみがへ》りなむ
海若之 奧尓持行而 雖放 字礼牟曾此之 將死還生
【語釈】 ○わたつみの奥に持ち行きて放つとも 「わたつみ」は、本来は海の神の称であるが、転じて海そのものとなった。ここはそれである。「奥」は、沖。○うれむぞこれが 「うれむぞ」は、ここと、巻十一(二四八七)「平山《ならやま》の子松が末《うれ》のうれむぞは我が思ふ妹に逢はず止みなむ」との二か所にだけある語である。『代匠記』は、「語勢を以て推するに、なんぞ、いかんぞなど云に同じく聞ゆ」といっており、それ以外の解のない語である。そう解するよりほかはなくみえる。「これ」は、乾鰒。○死還生りなむ 「死還生」は、よみがえりに当てた文字。本来「よみ」は死後に行く国。「かへり」は、生きてこの世に還る意で、蘇生の意である。
【釈】 海の沖へ持って行って放そうとも、どうしてこれが蘇《よみが》えろうか。
【評】 当時仏教は、皇室の御保護、貴族の信仰によって、社会的には勢力のあるものであり、したがって僧の社会的位地も相応に高いものであった。しかし一般庶民に浸透した力はむしろ浅いもので、ことに年若い女子においては、いっそうであったとみえる。ここの娘子らのいっていることは、それを代表しているもので、法会で目にする咒願よりの連想として、乾鰒を生かしてみせよと、悪意なき揶揄《やゆ》を試みたものとみえる。戯れというのはその意であろう。それに対する僧の態度も、同じく戯れであったろう。怒らず、斥けず、また諭そうともせずに、歌とするにも及ばない心を、わざと歌としているのは、思うにその口唱を咒願に似せしめるためであったろう。歌としては、歌というものが当時一方ではどのように扱われていたかを示している程度のもので、一首は、当時の社会相を示しているものとして見るべきであろう。
大宰少弐小野|老《おゆ》朝臣の歌一首
【題意】 「小野老」は、『新撰姓氏録』に、孝昭天皇の皇子天押帯彦押人命より出て、近江国滋賀郡小野村にいたところから小野を氏とした。官歴は、続日本紀に委しく、天平九年六月に、「大宰大弐従四位下小野朝臣老卒」とある。老が大宰大弐に任ぜられたことは史に見えないが、巻五、天平二年正月十三日大宰帥大伴卿宅梅花歌三十二首の中に、小弐小野大夫とあるは老のことと見えるので、その当時すでに少弐として大宰府にあったことが知られる。姓名の記し万は令に規定があって、「三位以上直称v姓、四位先v名後v姓、五位先v姓後v名」とあるが、ここの記し方は、その四位に相当するもので、したがってこの歌は老の従四位下時代のものである。
(123)328 青丹《あをに》よし 寧楽《なら》の京師《みやこ》は 咲《さ》く花《はな》の 薫《にほ》ふが如《ごと》く 今《いま》盛《さか》りなり
青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有
【語釈】 ○青丹よし寧楽の京師は 「青丹よし」は、奈良の枕詞で、巻一以来出た。老がこの歌を作った時は、奈良へ遷都後、約二十年を経た時である。○咲く花の薫ふが如く 「薫ふ」は、古くは、色についていった語で、例の多いものである。ここもそれで、咲いている花の色の艶やかなように。
【釈】 青丹よし奈良の京は、咲き出ている花の、その色の艶やかなように、今盛りなさまである。
【評】 奈良京を讃えた歌である。『代匠記』は、老が朝集使などで、大宰府から奈良京へ上って来た時の詠であろうといっている。奈良京を客観的に見、きわめて単純な語《ことば》に、溢れるがごとき感歎の情を盛り、しかも皇都に対する虔《つつ》しみより、落着いた調べをもって詠んでいるところは、まさにそうした事情の下に詠んだものだろうと思われる。当時の奈良京は、前古にかつてないものであったので、この感歎は実感であって、作歌態度もそれによって定められたことと取れる。
防人司佑《ききもりのつかさのじすけ》大伴|四綱《よつな》の歌二首
【題意】 「防人司」は、大宰府に属している一官庁で、防人に関する事務の一切を掌るところである。長官は正《かみ》、次官は佑《すけ》、三等官は令史となっている。佑は正八位上の相当官である。「四綱」は、大伴氏ではあるが、父祖は明らかでない。ただ天平十年ごろ大和国の少掾であったことが「上階官人歴名」(大日本古文書廿四)によって明らかにされている。
329 安見知《やすみし》し 吾《わ》が王《おほきみ》の 敷《し》きませる 国《くに》の中《うち》には 京師《みやこ》し念《おも》ほゆ
安見知之 吾王乃 敷座在 國中者 京師所念
【語釈】 ○安見知し吾が王の 巻一以来しばしば出た。「安見知し」は、王を讃える語で、枕詞となっているもの。「吾が」は、親しんで添えたもの。「王」は、天皇をさしまつる称。○敷きませる国の中には 「敷きませる」も、しばしば出た。御支配にならせられる。「国の中」は、「国」は、わが国全体。「中」は、外《そと》に対しての語で、国内にあってはの意。○京肺し念ほゆ 「京師」は、天皇のまします所で、ここは奈良。「念ほゆ」は、思われるで、恋しい意。
(124)【釈】 わが天皇の御支配にならせられる国のうちでは、京が最も恋しく思われる。
【評】 地方官として大宰府にあって、中央の京である奈良が、おのずからに思慕せられる心をいったもので、察しられる心である。しかしそうした心をいうにも、個人的の心だけのものとはしなかつたことは、その恋しい「京師」をいうに、「安見知し吾が王の敷きませる国の中には」は、五句の中の四句までを費やして、その恋しさは天皇のまします所だからという意を暗示しているので知られる。単純な心ではあるが、その意味で複雑味をもっている。これは当時の官人に共通の心だったのである。
330 藤浪《ふぢなみ》の 花《はな》は盛《さか》りに なりにけり 平城《なら》の京《みやこ》を 念《おも》ほすや君《きみ》
藤浪之 花者盛尓 成來 平城京乎 御念八君
【語釈】 ○藤浪の花は盛りになりにけり 「藤浪」の「浪」は、靡《な》みの意で、藤そのものの状態をいった語。添えていったもので、藤の称である。古い語で、後世まで行なわれたもの。「花」に続けたのはそのためである。藤の花は花盛りになったことであるよの意で、大宰府にあっての感である。○平城の京を念ほすや君 「平城の京」は、ここは故郷としていっているのであるが、大伴家の邸は佐保にあった。春日山一帯は、今も藤の多い所であるが、当時も同様で、春日山に近い佐保のあたりは多かったとみえる。ここは、藤の花によって連想される故郷を、大君のいます平城の京と言いかえたものである。「念ほす」は、「念ふ」の敬語。「君」は、長官の旅人を呼びかけたものであることは、次の歌でわかる。
【釈】 ここの藤の花は、花盛りとなったことであるよ。この花によって連想される佐保の故郷、すなわち大君のいます平城の京を、恋しくお思いになられますか君は。
【評】 口頭の言葉を、歌としていったものである。同じく旅にある身で、郷愁を感じ合っていることは当然のこととして、それに対しての慰めをいったものであるが、旅に見る花によって、故郷の同じ花を連想するということは、実生活からはある遊離をもった、文芸的な方法である。聞く者もそれを喜ぼうとしていったもので、そこに慰めの一半があったのであろう。その故郷をいうに、大君を中心として、「平城の京」と言いかえているのは、前の歌と同じく、宮人としての意識をもっているがゆえで、そこに当時の心がある。この歌も、前の歌も、明るく、柔らかく、単純に似て複雑味をもっているところ、奈良宮時代を思わせる歌である。
帥大伴卿の歌五首
(125)【題意】 「帥」は、大宰府の長官の称で、従三位相当官。大納言の下、皇太子傅、中務卿の上に位する官である。「大伴卿」の卿は、敬称である。大伴氏で大宰帥となったのは、大伴安麿と同じく旅人の二人である。歌の年代順排列によって、ここは旅人と知られる。旅人の大宰帥となったことは続日本紀には記されていないが、本集で明らかである。したがって、その任ぜられた時は不明であるが、本巻(四三八)以下三首に、「神亀五年戊辰、大宰帥大伴卿、故人を思ひ恋ふる歌三首」とあるので、その頃はすでに大宰帥であったことがわかる。また巻十七巻首(三八九〇)に、「天平二年庚午冬十一月、大宰帥大伴卿、大納言に任《まけ》られ【帥を兼ぬること旧の如し】京に上りし時」とあるので、その時まで大宰府にいたのである。歌は大宰府でのものである。
331 吾《わ》が盛《さかり》 復《また》変《を》ちめやも 殆《ほとほと》に 寧楽《なら》の京師《みやこ》を 見《み》ずかなりなむ
吾盛 復將變八万 殆 寧樂京乎 不見歟將成
【語釈】 ○吾が盛 「盛」は、齢《とし》の盛りの意で、他に用例のあるもの。○復変ちめやも 「復」は、再び。「変《を》ち」の訓は、本居宣長の加えたもの。例として、巻五(八四七)「吾が盛いたく降《くだ》ちぬ雲にとぶ薬はむともまた遠知《をち》めやも」、(八四八)「雲に飛ぶ薬はむよは都見ばいやしき吾《あ》が身また遠知《をち》ぬべし」を挙げている。『槻落葉』は、さらに用例を加えている。集中、「変若《をち》」の字を当ててもいる。意は、もとへ立ち復《かえ》る意である。「めやも」は、已然形「め」に、疑問の「や」の添って反語をなしているもの。一句、再び立ち復ることがあろうか、ありはしないの意。○殆に ほとんどの古語。副詞。○寧楽の京師を見ずかなりなむ 奈良の都を見なくて畢《おわ》ってしまうであろうかで、「か」は疑問。
【釈】 わが齢の盛りは再び立ち復つてくることがあろうか、ありはしない。この有様では、ほとんど奈良の都を見なくて畢ってしまうのであろうか。
【評】 旅人は天平二年に京へ帰って来、翌三年七月に薨じた。年齢は不明だが、相応な老齢であったと思はれる。神亀は五年で終わって、天平と改まったのであるから、この歌を詠んだ時にもすでに老齢であったと思われる。歌はこれを初め以下五首、すべて故郷に対する思慕の情を詠んだものである。高官とはいえ、筑紫の辺境に久しくとどまっていたので、思郷の心の起こるのは当然である。が、これらの歌は同じく思郷とはいえ、老齢者のそれであって、老齢ということが基本となっている特殊性のあるものである。旅人という人を、最も直接に、最も深刻にあらわしているものである。この歌は広く「寧楽の京師」を対象としたものである。前古に例のない文化の相をあらわしていた当時の奈良の都に対して、文化人である旅人が辺境にあって、第一に思慕の情を寄せたのは、もっともなことと思える。その情の強さは、身世を大観して詠んでいる態度からも、また二句までを一段とし、それ以下を一段とした間に、相応な飛躍を置いて詠んでいる昂奮した調べによっても感じられる。しか(126)し「殆に」と、それに程度をつけ、余裕をもっていっているの は、その人柄を思わせるものである。
332 吾《わ》が命《いのち》も 常《つね》にあらぬか 昔《むかし》見《み》し 象《きさ》の小河《をがは》を 行《ゆ》きて見《み》む為《ため》
吾命毛 常有奴可 昔見之 象小河乎 行見爲
【語釈】 ○吾が命も 「も」は、詠歎の助詞。○常にあらぬか 「常」は、永久、あるいは変わらずの意で、ここは変わらずにの意。「あらぬか」の「ぬ」は、打消「ず」の連体形で、「か」は、疑問、続けると、ないのか、あってくれよの意となり、反語をなすもの。これは用例の多い語である。○昔見し象の小河を 「象《ささ》の小河」は、上の(三一六)の旅人の歌に出た。吉野の「象《きさ》の中山」から流れ出す小川。二句は、(三一六)にある、芳野の離宮に行幸のあった時、旅人も供奉に加わっていて親しく目にした、その思い出と取れる。○行きて見む為 再び行って見ようがために。
【釈】 わが命は変わらずにいてくれないものか、いてくれよ。昔見た懐かしい象の小川を、再び行って見ようがために。
【評】 旅人が奈良京を思うと、強い思い出となって浮かんでくるものに、「昔見し象の小河」があったことがこの歌で知られる。その「昔見し」は、上の(三一六)の歌のことであろう。それだと聖武天皇の吉野宮行幸に供奉の一人として加わった時のことである。吉野宮への行幸は久しく絶えていたので、その行幸は珍しいものであり、それに供奉し得たことは、山水を好む旅人には面正しいことであるとともに深い歓びでもあって、齢の盛りの頃を思うと必ず思い出されてくることだったとみえる。この歌は、いま筑紫にあって、齢の末を意識している心に、また強く思い出されてのものである。注意されることは、芳野には佳景が多いのに、旅人はその中から、一小景にすぎない象の小川を選び出していることである。これは自然の中でも、狎れ親しみうる小さな物に心が寄っていっていたことを示すもので、旅人の人柄にもよるが、時代の好尚も伴っていることと思われる。
333 浅茅原《あさぢはら》 つばらつばらに 物《もの》念《おも》へば 故《ふ》りにし郷《さと》し 念《おも》ほゆるかも
浅茅原 曲曲二 物念者 故郷之 所念可聞
【語釈】 ○浅茅原つばらつばらに 「浅茅原」は、丈の低い茅花《つばな》の原で、茅原《ちはら》が、その音の近いところから、畳音の関係で、「つばら」の枕詞となっているもの。「つばら」は、つまびらかの古語で、「つばらつばらに」は、それを強める意で音を畳んだ副詞。○物念へば ものを思えばであ(127)るが、広く「物」といっているのは、下の続きで見ると、身世を思う意である。○故りにし郷し念ほゆるかも 「故りにし郷」は、以前住んでいた里で、ここでは奈良の都のように見えるが、この歌に続く歌によって、それは明日香にある里ということがわかる。それは奈良の佐保に移る以前の大伴氏の住んでいた地で、巻六、「大納言大伴卿、寧楽の家に在りて故郷を思ふ歌二首」とある一首の(九六九)「神名備《かむなび》の淵《ふち》は浅《あ》せにて」とある所である。神名備は、飛鳥川の神名備岳、すなわち雷岳付近の淵である。「し」は、『古義』の訓で、強めの意の助詞。『講義』は「之」を「の」と訓むとすると、「の」より「思ほゆるかも」に続く例は、集中にはないと注意している。「念ほゆる」は、思われる。「かも」は、詠歎。
【釈】 つまびらかにわが身世を思うと、明日香の故里が取り分けても思われることであるよ。
【評】 しみじみと過去を思い続けると、最も強く心に浮かんでくるのは、最も古く住んでいた故里だというのである。最初に懐かしく思われたのは、「寧楽の京師《みやこ》」であったが、これは大君の座《いま》す京として、また文化を代表している地としてであった。これは旅人に残っている若い方面が思わせたことなのである。しかしさらに思い続けると、それよりも、古く住んだ明日香の故里の方が、いっそう懐かしく思われてきたというのである。すなわち若さを超え、知性を超えて、老齢の今にふさわしい感性のみの故里が恋しくなったのである。思うにそこに繋ぐ思い出は、幼年時から青年時のものであったろう。老齢に入って、他に待つところのない心は、ただちに幼年時青年時に立ち復《かえ》るのが常で、旅人も一面には、その状態に入っていたとみえる。「浅茅原」は枕詞であるが、「故りにし郷」につながるところのあるもので、おのずからにもち得た技巧と思われる。
334 萱草《わすれぐさ》 吾《わ》が紐《ひも》に付《つ》く 香具山《かぐやま》の 故《ふ》りにし里《さと》を 忘《わす》れむが為《ため》
萱草 吾※[糸+刃]二付 香具山乃 故去之里乎 忘之爲
【語釈】 ○萱草 山野に自生する百合科の宿根草で、秋、黄赤色の花を開く。かんぞうと呼ぶ。中国では、憂えを忘れさせる草として詩経に出ている。わが国もそれにならったとみえるが、いったん忘れ草という名を得ると、名はそれに伴う神秘的の力をもつものとするわが信仰に支持されて、憂さを忘れさせる力をもつ草とされ、一般化するに至った。○吾が紐に付く 「紐」は、下紐。「付く」は、結びつける意。下紐につけるのは、身に触れさせるほど、その力が直接に強く伝わるとする信仰からである。○香具山の故りにし里を 「香具山の」は、香具山付近にあるで、前の歌でいった「神名備の淵」と同じ所である。広く、その里の付近にある風光の美しい所を捉えていったものと取れる。「故りにし里」は、「に」は完了、「し」は過去で、古くなってしまった里。○忘れむが為 忘れようがためにで、忘れようとするのは、忘れないと恋しさのために苦しいからである。
【釈】 萱草《わすれぐさ》をわが下紐に結びつける。香具山の付近にある、あの古くなってしまった里の恋しさに堪えられない、その苦しさを忘れようがために。
(128)【評】 前の歌に続いたもので、いうところの「故りにし里」に対する情痴をいったものである。「萱草」を用いた歌は集中に多いが、すべて恋の嘆きのする術のないものを忘れようがためである。この歌は故里に対してそれをしているが、心としては同じだとしてのものとみえる。故里に「香具山の」を添えているのは、地理的にいってその山に近いとするところもあろうが、それよりも、故里を美化しようとするのが主となっているものと取れる。前三首は、身世を大観するというところがあって、その意味で積極的の心も見えるものであるが、この歌はそうしたところはなく、したがって痛切な味はなく、情痴に陥っている趣のものである。旅人の老齢の面をあらわしているものといえる。
335 吾《わ》が行《ゆき》は 久《ひさ》にはあらじ 夢《いめ》のわだ 湍《せ》にはならずて 淵有毛《ふちにあらなも》
吾行者 久者不有 夢乃和太 湍者不成而 淵有毛
【語釈】 ○吾が行は久にはあらじ 「行」は、旅行きの意で、ここは帰京のための行《ゆき》である。名詞。「久」は、長い期間で、ほど遠いことというにあたる。大宰帥は任期の定まっている官であるところからの推測。わが帰京のための旅行きは、ほど遠いことではあるまい。○夢のわだ 「わだ」は、淀で、「夢のわだ」は淀の名であるが、今はその名はとどまっていない。巻七(一一三二)「芳野作」「夢のわだ言《こと》にしありけり寤《うつつ》にも見て来しものを念《おも》ひし念へば」とあるので、芳野にあるものと知れる。また『玉の小琴』は、懐風藻に、吉田連宜従鶯吉野宮の詩に、夢淵と作っているのもそれであろうといっている。吉野宮に近い辺りで、吉野川の一部の称と知られる。鴻巣盛広氏は、宮瀧の下流、象《きさ》の小川の吉野川に注ぐ辺りを、土地の人は今も夢淵《ゆめふち》と呼んでいるから、そこであろうといっている。○湍にはならずて 「湍」は、瀬に通ずる字。水の浅い所の意のもので、下の「淵」に対させたもの。「なる」は、変わる意。「ならずて」は、ならずしての意の古格。淵が瀬には変わらずしてで、川は淵と瀬と変わりやすいものということの上に立っての言。○淵有毛 文字は諸本すべて同じで異なりがなく、これによって訓むほかはない。文字の少ないところから、訓が定めかねている。要するに一首の意から推して、合理的に訓むべきである。従来の訓はさまざまであるが、大別すると、疑問とするか、または希望とするかの二つである。疑問と見る訓は、『童蒙抄』は「淵にてあるも」と訓み、「も」は「かも」の意だとしている。これは強いた解というべきである。『略解』は「淵にあるかも」とし、『攷証』は「淵にてあるかも」として、「毛」は「毳」の略字だと説明している。『講義』は、『攷証』の訓はおちつかないものであり、その説明も確証はないが、しばらくこれに従うとしている。希望と見る訓は、『代匠記』、本居宣長、『古義』『新考』などであるが、これらは誤字説を立てての上のものである。『槻落葉』は「淵にてあれも」と訓み、「あれも」は「あれよ」の意だといっているが、『講義』は「あれ」の下に「も」を加えるごとき語法は古今にないとして斥けている。『新訓』は「淵にしあらも」と訓んでいる。これは推量とも希望とも取れるものである。吉沢義則氏は「淵にあらなも」と訓み、希望の意の「なも」は、巻一(一八)にもあって、その存在は確かであるが、「毛」の一字を「なも」と訓むことは、許されうることとは思うが用例のないものだとして、試訓だと断わっている。一首の意から見ると、ここは故里に期待をかけ、変わりやすい淵瀬に対して、しばらくその変わらないことを希望しているものと見られるので、以(129)前のまま、淵でいてほしいとする吉沢氏の訓が、比較してJ最も妥当なものに思われる。今はこれに従うこととする。
【釈】 わが帰京のための旅をするのは、ほど遠いことではあるまい。夢のわだよ、瀬には変わらずに、以前のままの淵であってくれよ。
【評】 この歌は、これまでの四首に較べて、最も積極的な、明るい心をもったものである。これまでの四首のうち、これに近い趣をもったものは、第二首、「吾が命も常にあらぬか」であったが、それよりも遙かに積極的である。「夢のわだ」を、象の小河の吉野川への落口だとすると、この歌はそれに連絡のあるもので、旅人の心は吉野を思うと若やいできたとみえる。奈良を思い故里を思うと、しみじみと懐かしむことのほかはないものとなるのであるが、吉野を思うと、にわかに期待をかける心となるのである。これは人生的の面には失望して、自然の風光に対して逃げ路を求めていた心がうかがわれることである。なお以上の五首は、意図しての連作とは見えないが、思郷ということで統一されている関係上、おのずから連作に近いところをもっている。地理的にいっても五首三か所に限られていて、その心をつないだ範囲を示しているものである。
沙彌満誓《さみまんせい》、綿《わた》を詠める歌一首 造筑紫観音寺別当、俗姓笠朝臣麿なり
【題意】 「沙彌」は梵語《ぼんご》で、男子が出家して、十戒は受けたが、まだ修行の熟さない階級の者の通称である。「満誓」は、笠朝臣麿の出家しての名。麿は父祖は明らかでない。慶雲元年、従五位下に叙せられ、美濃守、尾張守に歴任し、養老四年右大弁に任ぜられ、続日本紀、養老五年五月の条に、「戊午石大弁従四位上笠朝臣麻呂請d奉2為太上天皇1出家入道u勅許之」とある。この時、元明天皇の御病が重かったので、浄行の男女一百人を入道せしめたが、麿は進んでその中に加わったのである。続日本紀、養老七年の条に、「二月丁酉勅遣2僧満誓1【俗名従四位上笠朝臣麻呂】於2筑紫1令v造2観世音寺1」とある。観世音寺は天智天皇御発願の寺であるが、当時まだ完成しなかったので、造営を監査せしめられたのである。「緜」は、この当時は、現在の木綿|綿《わた》はまだ伝来せず、現在の真綿のみであった。木綿綿はインドの原産で、初めてわが国に伝来したのは、日本後紀巻八に、延暦十八年秋七月、昆崙人(インド人)の参河国に漂着した者が、その種子を持っていて、各地に植えたとある時である。しかるにその時の木綿綿は拡まらずして中絶してしまったことがわかっている。
336 白縫《しらぬひ》 筑紫《つくし》の綿《わた》は 身《み》に著《つ》けて 未《いまだ》はきねど 暖《あたた》けく見《み》ゆ
白縫 筑紫乃綿者 身著而 未者妓祢杼 暖所見
(130)【語釈】 ○白縫 筑紫にかかる枕詞であることは、他にも例があって明らかだが、意味はまだ知られていない。○筑紫の綿は 「筑紫」は、九州の総名としてのもの。「綿」は、上にいった。これについて『講義』は詳しく考証している。綿が古来九州の名産であったことは、続日本紀巻二十九、神護景雲三年三月の条に、「乙未(二十七日)始毎年運2大宰府綿廿万屯1以輸2京庫1」とあって、毎年|調物《みつぎもの》として京庫に納めていたことが知られる。屯は、唐令によると、「六両為v屯」とあり、令制によって十六両を一斤とするので、二十万屯は七万五千斤で、莫大な量である。後、この調物の量のしだいに減じた記事があるが、それは養蚕の利の乏しくなったためだろうという。なおその真綿であったことも、記事の上に明らかである。○身に著けて未はきねど わが身に著けては、まだ著ないけれどもで、満誓が着任した当座、初めてその地の綿を見た時のことと取れる。○暖けく見ゆ 「暖けく」は、仮名書きのない語である。古く「あたたけく」と「あたたかく」と行なわれていたことはわかる。「あたたけく」に従う。暖かそうに見られるの意で、強めて断定していったもの。暖かさの懐かしい頃であったとみえる。
【釈】 この筑紫の綿は、身につけてはまだ著ないけれども、いかにも暖かいものに見られる。
【評】 「白縫筑紫の綿は」は、眼前の綿を見ての語《ことば》であるが、「筑紫」を添え、さらにそれに「白縫」の枕詞を添えていっているのは、その綿を讃える心からである。音に聞いていた名産の綿の、眼前に豊かにあるのに対した心である。「身に著けて未はきねど暖けく見ゆ」は、観世音寺造営の監督として、着任|匆々《そうそう》の時であって、まだ身に著けたことのない時だったとみえる。「未は」と「は」を添えて強めているのが、その心を明らかにあらわしている。「暖けく見ゆ」は、その季節を思わせる語《ことば》である。一首、すなおに詠んではいるが、その時の実感に随順してのものであるところから、おのずから微細な心持までも現われている。全体として感覚的であるのが、何よりもそれを示している。
山上憶良臣《やまのへのおくらのおみ》、宴《うたげ》を罷《まか》る歌一首
【題意】 「山上憶良」は巻一(六三)に出た。憶良は、和銅六年従五位下に叙せられ、霊亀二年伯耆守に任ぜられ、養老五年、退朝の後東宮に侍せしめられた。続日本紀には洩れているが、筑前守であったことは、巻五によって明らかであり、その任ぜられた時も、天平二年の歌に、「ひなに五年《いつとせ》すまひつつ」とあるので、神亀五年であったことが知られる。この歌は、前後がすべて、大宰府を中心としての歌であるところからみて、同じく筑前守時代のものであろうといわれている。題詞の「山上憶良臣」は、細井本と版本には「山上臣憶良」とある。姓《かばね》を名の下に書くのは、令制によると四位の人に対してのことであるが、筑前守は従五位下相当の官で、正しい書き方ではない。『講義』は、俗間では後世のごとく、五位に対してもこのように書いていたのではないかといっている。「宴より罷る」は、宴席より中座して退《さが》る意で、罷るというので、宴は大宰府においてのものと思われる。
337 憶良《おくら》らは 今《いま》は罷《まか》らむ 子《こ》哭《な》くらむ 其《その》彼(子《こ》)の母《はは》も 吾《わ》を待《ま》つらむぞ
憶良等者 今者將罷 子將哭 其子母毛 吾平將待曾
【語釈】 ○憶良らは今は罷らむ 「憶良ら」の「ら」は、接尾語で、複数を示したものではない。「憶良らは」は、一人称で、憶良自身をいっているもの。「今は」は、題詞の、宴の状態に対していっているもので、宴としての一わたりのことはすんだ時と取れる。「罷る」は、尊い所より退く意で、宴の人々を敬っての言い方。○子哭くらむ わが子が泣いていようというのであるが、その泣くのは、結句で、父親の帰りを待っている意とわかる。○其彼(子)の母も 「彼」は「古葉略類聚鈔」には「子」となっているが、他の諸本は「彼」である。『槻落葉』は、「彼」に従い、「其《そも》彼《そ》の母《はは》も」と訓んでいる。『講義』はそれに従い、「彼」は「かの」に当てた例がなくはないが、この当時は「その」に当てたのだろうといい、しばらく従うといっている。一首の他の部分は、すべて線が太く、直截であるから、その関係上、ここも同様であろうと思われるから、「子」に従うこととする。「其子の母」とは、むろん妻であるが、それを妻といわず、子を主として、「子の母」と言いかえているところに、憶良の特色がある。家の中心を子に置き、妻はその子の母として見ているということは、他には例のないものだからである。「も」は、もまた。○吾を待つらむぞ 吾《われ》が帰るのを待っていようぞ。
【釈】 憶良は今は、お暇を乞って中座をしよう。家には子が、私を待って泣いていよう。その子の母もまた、私を待っていようぞ。
【評】 宴席に列なっていて、中座をしようとする時、挨拶として詠んだ歌である。「罷らむ」という語は敬語である。儀礼としていう場合もあろうが、筑前守としての憶良がいっているので、その宴は大宰府でのもので、席には目上の者もいた関係から、必要として用いたものではないかと取れる。それだとすると、「憶艮らは今は罷らむ」ということは、憶良の人柄、面目を、濃厚にあらわしている語《ことば》である。すなわち儀礼としての宴には列なるが、その儀礼の部分がほぼ終わって、個人的に歓を尽くそうとする部分に移ろうとする時には、憶良は躊躇《ちゆうちよ》なくそれを避けようとしたのである。これを大宰府における宴とすると、そうした事はまれなことであろうが、そうした場合にも、我を没してその雰囲気に同ずるということはしず、いつも自己を意識し、自己の意志に従って行動していたことが、この語《ことば》の中に現われているからである。「子|哭《な》くらむその子の母も吾を待つらむぞ」は、中座の理由で、結論を先にいい、理由を後から添える形のものである。これは、公の儀礼すなわち務めについで大切なものは、憶良にとっては家にある子であって、子が一家の中心になっていることを示していたものである。妻にも及んでいるが、それは妻としてではなく、子の母としてで、いったがようにこれは当時にあってはきわめて特殊な心持である。男が旅にあって故里をいう時には、故里は妹と同意語である。また近くいて「妹が家」という時には、その家には妹がいるだけで、子は関心外のものとなっている。概していうと夫妻は同居してはいず、したがって子に対する父としての関心は少なかったろうとは思われるが、父子の愛情は本能的のもので、無関心でいられるものではない。それにもかかわらず、父として子を対象としての歌のほとんどないのは、歌としてはそうしたものは必要のなかったためではないかと思われる。男が妻をのみ対(132)象とした歌を詠んでいるのは、別居生活をしている夫婦間にあっては、その関係を持続させてゆくには、歌は欠くべからざる必要品であるという伝統があり、それが歌の性格のようになってしまっていたのではないか。妻には子のあるのが当然で、子にはむろん愛情をもっているのであるが、この愛情は、歌をもってあらわす必要がなく、したがってそうした歌がなかったのではないかと思われる。それだとすると、憶良の子に関する歌は、従来はその必要の認められるところがなかった歌の素材としての子というものを、憶良の文芸性によって新たに捉えきたったものと取れる。これは時代が文芸的になってきたのと、憶良の人柄との相俟ってのもので、人柄という中には、憶良の儒教の影響を受けることの深かったことも関係していよう。「子哭くらむ」の「哭くらむ」は、「待つらむぞ」の意からのことであるが、これは明らかに誇張の感じられる語《ことば》で、ここに博良の子に対する溺愛《できあい》が現われている。憶良のこの堂々としていう理由を、その宴席の人々が、いかなる心をもって聞いたかは疑わしい。そうしたことは問題とせずしていっているところに憶良の面目がある。この宴を大宰府においてのものとすると、憶良は妻子を伴っていたことになるが、その辺の消息は解せられない。
大宰帥大伴卿、酒を讃《ほ》むる歌十三首
【題意】 「大宰帥大伴卿」は、旅人である。旅人のことは(三三一)にいった。これらの歌は、任地大宰府にあって詠んだものと取れる。「酒を讃むる」は、酒の徳を讃える意で、酔中の趣を喜ぶ心である。わが国では古来、酒と歌とは離れない関係をもつものとなっていた。上代には酒は神に属したもので、人のものではなかった。人が酒を飲みうるのは、神事の際神より賜わる場合だけで、その時には神と人との間に立つ人が、歌をもって神酒を讃えた後に飲ましめたのである。時代が降り、酒が享楽のためのものとなった時にも、人が他に酒を勧める場合には、その時の心を歌をもって述べた後に盃を勧めることとなっていて、古い風が保たれていたのである。それらの歌は内容としては、酒を讃める歌とも言いうるものである。また、中国の詩文には酒を讃めるものが多く、したがって名作も少なくない。これはその国の政治状態に関係をもつもので、政治上の変化がはげしく、文芸の教養をもった人で、失意の境に陥った人が、世事を酒によって忘れようとする心のものが多い。また、酒を溺愛する人が、談理を好む心から、酔って没我の状態となるのを神仙の心に通うものだとして喜ぶものである。中国文学の教養の深かった旅人は、それらの影響を受けることも少なくなかったとみえる。この酒を讃むる歌十三首は、旅人としては力作であって、また代表的のものでもある。この歌で注意されることの第一は、十三首は連作であって、首尾一貫したものだということである。短歌の連作は、人麿によって際やかに高められたものであるが、人麿にも十三首という大きな連作はない。その大きいという上からいうと、この作は集中での代表作である。また連作は、すでに人麿についてもいったが、一つの事相を、時間的推移を追って詠むということを条件としていたもので、各首が独立しているとともに、全体が有機的組織をももっているということを条件とする。(133)この連作は、その条件を備えているが、事相はきわめて単純で、ただ飲酒ということであり、しかも独酌とみえるもので、事相そのものとしてはほとんどいうに足りないもので、その時間的推移は、飲酒によって起こされる気分の推移にすぎないものだということである。すなわち事相というよりも、気分を主としての連作なのである。これがこの連作の特色である。第二には、この時代の歌はすべて実際に即することを風としていたが、ことに連作はあくまでも実際に即さなければならない性質のものである。この連作にあっての実際は何かというと、歌そのものの上に暗示されているにとどまって、すべて背後に隠されているのである。その背後のものをある程度まで明らかにしないと、この連作は捉えられないのであるが、それは臆測するよりほかないものである。明らかなことは、この連作を詠んだ当時、旅人はいかんともし難い事柄により、紛らすべき方法もない鬱情《うつじよう》に捉えられており、この時初めて、酒によってその鬱情を紛らすことを発見したという事柄である。旅人はその時初めて酒の味を知ったのではなく、それ以前とてもむろん酒は飲んでいたろうが、それまでの酒は享楽のためのものであったのが、その時の酒は救いの手となったのであって、これは旅人にとって新たなる発見であり、またいうべくもなく有難いことだったのである。この連作は、ある時の飲酒により、初めて酒にそうした徳のあることを発見し有難がった心を、時間的推移を追って詠み続けたものである。このことは、この連作に対するには、あらかじめ心に置かなければならないことである。その鬱情の何よりきたったものであるかということは、直接には全然いっていないので、歌によって臆測するよりほかはない。臆測をいうと、巻五、巻首(七九三)「大宰帥大伴卿凶問に報《こた》ふる歌一首。禍故重畳し、凶問|累《しき》りに集る。永く崩心の悲を懐き、独断腸の泣《なんた》を流す。但《ただ》両君の大助に依りて、傾命|纔《わづか》に継ぐ耳《のみ》。筆言を尽さず、古今の歎く所なり。世の中を空《むな》しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり」という、老齢に入ってその妻に先立たれた際のことではないかと思われる。事は神亀五年六月である。
338 験《しるし》なき 物《もの》を念《おも》はずは一杯《ひとつき》の 濁《にご》れる酒《さけ》を 飲《の》むべくあるらし
驗無 物乎不念者 一杯乃 濁酒乎 可飲有良師
【語釈】 ○験なき物を念はずは 「験なき」は、「験」は、「記す」の名詞化した語で、転じて効果、すなわち「かい」という意となったもの。かいのない。「念はずは」は、巻二(八六)「あらずは」と同じ意で、思わずにの意。この語は「まし」と相応じさせている場合が多い。「物を念ふ」は、嘆きをする意。甲斐のない嘆きをするよりは。○一杯の濁れる酒を 「一杯」は、「杯」は、「酒づき」のつきで、古代の物は土器、すなわち今の「かわらけ」であったところからの文字。一杯という意で、その量のいささかなのをあらわした語。「濁れる酒」は、濁酒で、清酒に対させたもので、それより劣った意でいっているもの。○飲むべくあるらし 「らし」は、眼前を証に挙げての推測をあらわす語で、今は証は、自身の酔って物念いのない状態である。
(134)【釈】 甲斐のなき嘆きをしないで、一杯の濁酒を飲むことのほうが、まさっているようではある。
【評】 甲斐のない嘆きに捉えられていた時、いささかの酒を飲んで、微酔の程度に入ると、その嘆きの薄らいでこようとするのを体験して、酒というものの力を初めて発見した心をいっているものである。「一杯の濁れる酒」は、いささかな粗末な物の意で、その力の偉大さをいおうとする用意をもつての語《ことば》である。洒そのものを愛する心からではなく、その偉力をいおうとしてのものなのである。結句の「らし」は含蓄をもった語で、この一語によってその体験であることをあらわしている。自身にとっては重大である嘆きを、「験なき物を念ふ」と軽んじていい、また、新たな発見を、「飲むべくあるらし」と婉曲な語《ことば》をもっていっているところ、旅人の人柄を思わせる。
339 酒《さけ》の名《な》を 聖《ひじり》と負《お》ほせし 古昔《いにしへ》の 大《おほ》き聖《ひじり》の 言《こと》の宜《よろ》しさ
酒名乎 聖跡負師 古昔 大聖之 言乃宜左
【語釈】 ○酒の名を聖と負ほせし 「負ほせ」は、下二段活用の動詞。つけたところのの意。酒の名を、聖とつけたところので、下へ続く。これは中国の故事をいったもので、『魏書』に、「大祖禁v酒、而人竊飲。故難v言v酒。以2白酒1為2賢者1、以2清酒1為2聖人1」とあるによったのである。「聖《ひじり》」はその「聖人」で、清酒の隠語である。もとより隠語であるから、明らかな理由があるのではない。聖賢は中国にあっては、理想的人物の称で、清酒と濁酒とは極端にかけ離れたもので、それが隠語たりうるゆえんである。この隠語を作ったのは、当時の人で、もとより誰ともわからない。○大き聖の言の宜しさ 「大き聖」は、熟語。「大き」は讃える意の語で、聖の中でもすぐれた聖。「言」は、言葉。「宜し」は、讃える意の語で、意味の広いものである。ここは言葉そのものを讃えているので、ふさわしいというにあたる。「宜しき」は、ふさわしいことよ。
【釈】 酒の名を聖とつけた、昔の大いなる聖の、その言葉のふさわしいことよ。
【評】 これは前の歌の気分の延長で、微酔の境に入ると甲斐なき嘆きを忘れることを得たので、何らかの語で酒を讃えようとすると、知識人である旅人には、それに当てはまる中国の故事が浮かんできたので、それをもって代わりとしたのである。しかしそれをするには、その故事に対して、旅人自身の解釈を下したのであって、その解釈が一首の作意である。それは酒に対して、「賢者」「聖人」という隠語をつけたのは、隠語とはいえ漫然とつけたのではなく、理のある適《ふさ》わしいものである。それは酒は人をして没我の境に入らしめる物で、その没我ということはすなわち聖賢の心である。それで、酒にそうした隠語をつけた人は、聖賢の心を知りつくした人で、まさに大聖と称すべきであるというのである。隠語を造った魏の人は、ただその時の人というだけで、もとより誰ともわからない。期するところは人に気づかれないように、思いきって突飛な名をつけようと(135)いうことだけで、大聖などという者とは何のかかわりもないものである。それを「大き望」と定めたのは旅人の解釈で、現在の自身の心境を基としてそれを発展せしめたものである。一首、軽く見えるものではあるが、根柢のあり、また才情の見えるものである。
340 古《いにしへ》の 七《なな》の賢《さか》しき 人等《ひとたち》も 欲《ほ》りする物《もの》は 酒《さけ》にしあるらし
古之 七賢 人等毛 欲爲物者 酒西有良師
【語釈】 ○古の七の貿しき人等も 「古」は、中国の晋の代。「七の賢しき」は、七人の賢いで、「賢」は旧訓「かしこき」で、『古義』の訓。古くは「かしこし」は恐懼の意で、賢しは「さかし」といったことが仮名書きによって明らかだからである。「人|等《たち》」の「等《たち》」は、敬いの意をもっての複数をあらわす語。「も」は、もまたで、並べる意のもの。その並べたのは、旅人自身にで、結句の「らし」と相応じさせている。三句、中国の故事をいったので、『晋書』『世説』などに出ている名高いものである。『世説』には、「陳留(ノ)阮籍、※[言+焦]国(ノ)※[(禾+尤)/山)]康、河内(ノ)山濤、三人年皆相比、康年少之。亜之預2此契1者、沛国(ノ)劉伶、陳留(ノ)阮咸、河内(ノ)向秀、琅邪(ノ)王戎。七人集2于竹林之下1、肆v意酣暢。故世謂2竹林(ノ)七賢1」とある。酣暢とは酒を飲んで楽しむことである。いわゆる晋の竹林の七賢人である。昔の七人の賢い人たちもまた。○欲りする物は 欲りするは、「欲る」に「す」が複合した、その連体形。後の欲するに同じ。欲しいとする物はで、賢者は物慾を超越した世界に住する者とし、それにかかわらず欲しいとする物はとの意でいっているもの。○酒にしあるらし 「し」は、強め。「らし」は、証を挙げての推量で、ここでは証となるものは、旅人自身の心境で、自身を竹林の七賢人に擬《なぞら》えての語。
【釈】 いうところの七人の賢い人たち、すなわち竹林の七賢人もまた、それだけは捨てられずに欲しいとしていた物は、確かに酒であったことだろう。
【評】 前の歌に続けて、酔って憂えを忘れた状態を喜んだ心である。前の歌に続いて旅人の心に浮かんだのは、名高い竹林の七賢人で、自身の心境を七賢人に擬したのである。それは「人たちも」の「も」と、「あるらし」の「らし」とによって明らかである。この当時にあっては、自身を七賢人に擬するということは、高い矜持であったろうと思われるが、それをあらわすにはきわめて婉曲な方法を取っているところに、その人柄がみえ、また文芸的感性の鋭さをも思わしめる。
341 賢《さか》しみと 物《もの》言《い》ふよりは 酒《さけ》飲《の》みて 酔哭《ゑひな》きするし 益《まさ》りてあるらし
(136) 賢跡 物言從者 酒飲而 醉哭爲師 益有良之
【語釈】 ○賢しみと物言ふよりは 「賢しみと」は、賢くありと思ってで、分別がありとしてというにあたる。「物言ふよりは」は、ものをいうのよりはで、下の「酒飲みて酔哭きする」に対させたもの。これは他人の事をいっているかのようにも見えるが、旅人自身のことをいっているものであることは、結句の「らし」で明らかである。○酒飲みて酔哭きするし 「酔哭き」は、いわゆる泣き上戸で、酔いが極まると、平生の自制力が衰えて、胸に停滞していた悲しみが、涙となって現われることである。これは熟酔ということを具象化したものと取れるが、十三首の中にこの語《ことば》は三回までも繰り返されているところから見て、旅人にはそうした性癖があったのではないかとも思われる。これは性癖としては稀れなもので、醜いとされているものである。ここもそれで、「賢しみと物言ふ」の賢しげなのに、醜いこととして対照したものである。「し」は、強め。酒を飲んで熱酔して酔哭きをすることのほうが。○益りてあるらし 「益りてある」は、まさっている。「らし」は上に出た。証を挙げての推量で、証は旅人自身の心境の変化である。
【釈】 悲しみを紛らそうとして、分別ありげにものをいっているその賢げなのよりも、酒を飲んで酔を極めて、醜い酔哭きをするほうが、効果の上では明らかにまさっているようである。
【評】 前の歌に続いた気分のもので、この歌は酔を極めて酔泣きをし、そのために悲しみの紛れたという体験の上に立って、顧みて、同じく悲しみを紛らそうとして、世の道理を口にして、それによって諦めようとしたことの劣っていたことをいったものである。「賢しみと物言ふ」と「酒飲みて酔哭きする」とを対させているのは、酔哭きを醜いとして避けようとしていた心をあらわしたものであり、また、すでに体験となっているにもかかわらず、「益りてあるらし」と推量の形でいっているのは、いずれも旅人の人柄をあらわしているものである。
342 言《い》はむすべ 為《せ》むすべ知《し》らず 極《きは》まりて 貴《たふと》き物《もの》は 酒《さけ》にしあるらし
將言爲便 將爲便不知 極 貴物者 酒西有良之
【語釈】 ○言はむすべ為むすべ知らず 「言はむすべ」は、言うべき術《すべ》すなわち方法。「為むすべ」は、為《す》るべき方法。「知らず」は、知られずで、両方へかかっている。言いようもしようもなくで、言語に絶してというにあたる成句である。「為むすべ」は、語としては為《す》べき方法であるが、心としては、「言はむすべ」の語《ことば》を変えた繰り返しで、意を強めるためのものである。なお「知らず」は、本文は「不知」、旧訓「知らず」を、『代匠記』が「知らに」とも訓んで以来、それに従うものがある。佐伯梅友氏は、「知らに」とあるのは、下の述語に対して、上がその理由を示す場合にのみ限って用いられていると考証している。ここは一、二句は、「極まりて貴き」に対して副詞的修飾語であるから、氏の説に従って「知らず」に従う。○極まりて 「極まりて」は、この上もなく。『講義』は、この語は集中ここにあるのみだと注意している。○酒にしあるらし 上に出(137)た。【釈】 いおうようも、すべきようも知られないほどに、すなわち言語に絶して、この上もなく貴い物は、確かにこの酒というものであろう。
【評】 旅人自身、酔いの快さの頂点にいて、その快さをきたさしめた眼前の酒を讃えたものである。初句より四句までは、最大級の讃え語をもってしていながら、結句に至って「あるらし」という推量の語をもって結んでいるのは、その心の実際に即したものであることを示しているものである。いわゆる酒は百薬の長であるとし、天下の至宝であると信じつつ、それを強いない態度をもっていっているところに、旅人の人柄がみえる。一首、感情の満ちた、調べの豊かな作で、心は平凡であるが、魅力をもったものである。
343 中々《なかなか》に 人《ひと》とあらずは 酒壺《さかつぼ》に 成《な》りにてしかも 酒《さけ》に染《し》みなむ
中々尓 人跡不有者 酒壺二 成而師鴨 酒二染甞
【語釈】 ○中々に人とあらずは 「中々に」は、なま中に。「人とあらずは」は、人としてあらずにで、(三三八)「思はずは」と同じ形のもの。○酒壺に成りにてしかも 「酒壺」は、酒を貯えて置く壺。「成りにてし」は、「成る」は変える意で、身をそれに変える意。「てしか」は願望の意。「も」は、詠歎。変わってしまいたいものであるよの意。この二句は中国の故事によったものである。これは呉の鄭泉のことで、その出典につき、『講義』は詳しい考証をしている。要は、鄭泉の事の載っている書は、『呉書』、『三国志』の「呉志」、小説である『※[王+周]玉集』の三書だけであるが、『呉書』は中国で早く佚し、「呉志」は旅人より以後に伝わった書であるから、『※[王+周]玉集』からであろう。『※[王+周]玉集』の記事は『呉書』から引いたもので、「鄭泉字文淵、陳郡人也。孫権時為2大中大夫1、為v性好v酒。(中略)臨v死之曰勅2其子1曰、我死可v埋2於窯之側1、数百年之後化而成v土、覬取為2酒瓶1獲2心願1矣。出2呉書1」と、いうのである。○酒に染みなむ 酒にひたって、しみていよう。
【釈】 なまなかに人としてあらずに、身を酒壺に変えてしまいたいものであるよ。そうなって、酒にひたり、しみていよう。
【評】 前の、酔つての快さから、酒を無上の宝と讃えた、その心の延長である。心としては、酔いの快さは限りがあって、覚める時があるとし、それのないことを希う心である。その心に連想として浮かんだのは、漢文学好きの旅人とて、鄭泉の故事であった。鄭泉が身を酒瓶となしたというのは、死後数百年の後のことであるが、旅人の願いは眼前のことである。鄭泉の理詰めにいっていることを、旅人は明るく、感としていっているもので、そこに国土の相違が認められる。したがって故事はただ、材料に藉《か》りたにすぎないものとなっている。
(138)344 あな醜《みにく》 賢《さか》しらをすと 酒《さけ》飲《の》まぬ 人《ひと》を熟《よ》く見《み》ば 猿《さる》にかも似《に》む
痛醜 賢良乎爲跡 酒不飲 人乎※[就/火]見者 猿二鴨似
【語釈】 ○あな醜 「あな」は、感動詞、ああと同じ。「醜」は、見苦しいで、ああ見苦しいことよの意。この句は、第二句以下の、酒を飲まない人に対しての批判で、最初にそれを詠歎の形をもっていったものである。したがって、初句切れの形である。○賢しらをすと酒飲まぬ 「賢しら」は、「賢し」という形容詞に、「ら」の接尾語の添った一つの語で、副詞。賢立《かしこだ》てをする意。「すと」は、するとて。「酒飲まぬ」は、下へ続く。賢立てをするとて、そのために酒を飲まないところの意で、酒に酔ったさまを愚かしいものとして、それを避けようために飲まないところの意。○人を熟く見ば 「人」は、前後の歌との続きから見ると、他人をいっているのではなく、我とわれ自身をいっているものと取れる。さらにいうと、酔前の自分を酔後の自分から振り返って見て、別人のごとく感じていっているという特殊な用法のものである。上から続いて、「賢しらをすと酒飲まぬ人」は酔前の自分を、酔後に客観視し、否定している心のものである。「熟く見ば」は、『代匠記』の訓。よくよく見たならばで、酔前にはそれをよしとしていたが、酔後の心から、立ち入って見るとの意。○猿にかも似む 「かも」は、「か」の疑問に「も」の詠歎の添ったもの。「似む」は『代匠記』の訓。猿に似ているだろうかの意。「猿」はここでは、人真似《ひとまね》をするものとしていったもので、本来の心は愚かなのに、人真似をして賢そうな態《さま》をするものとし、「賢しらをすと酒飲まぬ」ということは、悲しみを紛らす上では拙い方法で、酔哭きするには及ばないものであるのに、その態《さま》の良さに欺かれて、それをのみ良しとするのは、猿に似ているとの意のものである。
【釈】 ああ見苦しいことであるよ。悲しみを紛らそうとしながらも、賢立てするとて、効果の上からいうと、それよりも遙かにまさった方法である酒を飲むということをしない人は、よく見て真相を捉えたならば、人真似をして賢そうにふるまっている猿に似ていることであろうか。
【評】 これは(三四一)の「賢しみと物言ふよりは」と同じ心のもので、異なるところは、前の感を強く言いかえただけである。なぜにそういうことをしたかというと、前の時には初めてその感を経験した時であったので、体験で確かめたものであったとはいえ、推量の形においていうという消極的の態度を取ったのであるが、今はきわめて明らかな事実となってきたので、それにふさわしい強い形をもって、いま一度同じ心を繰り返していったのである。この歌は一見、他人を評しているもののごとき感を起こさせるもので、その感は「賢しらをすと酒飲まぬ人」と客観的にいっているところにあるが、人目をはばかって酒を飲まなかったのは旅人自身で、第一首目の「験なき」がすでにその状態を背景としたものであり、それ以下も一に旅人自身のことで、他人は介在させていないので、連作の約束からいっても、ここに、にわかに他人を挟むということはないはずである。自身を客観視して、「人」という語であらわすことは、集中には例のないものであるが、他人のために歌を代作したもの(139)は相応にあり、また、民謡はすべて他人の作をわがものとしたもので、自他を通わして、我の中に他を見、他の中に我を見ることはむろん行なわれていたことである。旅人はこの連作中にも、漢語、仏語を和訳して用いているものはかなりに多い。我を客観視して「人」と目することは、この人としては怪しむに足りないことと思われる。
345 価《あたひ》なき 宝《たから》といふとも一坏《ひとつき》の 濁《にご》れる酒《さけ》に 豈《あに》まさめやも
價無 寶跡言十方 一杯乃 濁酒尓 豈益目八方
【語釈】 ○価なき宝といふとも 「価なき宝」は、価を超越した、すなわち限りもなく貴い宝。法華経受記品に、「以2無価宝珠1繋2其衣裏1」という名高い句を初め、他にもある。それを訳したものとみえる。○一杯の濁れる酒 (三三八)に出た。いささかの粗末な酒。○豈まさめやも 「豈」は、否定、反語を導く副詞。「まさめや」の「め」は已然形で、「や」に続いて反語をなしている。何まさろうか、まさりはしない。
【釈】 価を超越した限りなくも貴い宝といっても、一杯の濁った酒の、いささかの粗末なものに、何まさろうか、まさりはしない。
【評】 紛らす方法のなかった悲しみを、十分に消し去った酒に対して、今更にその徳を感じて、褒め讃えた心で、前の歌に続く気分のものである。「価なき宝」と「濁れる酒」とを対照させているのは、単に語だけのものではなく、「価なき宝」は仏典だけのものではなく他にも用例のあるものであるが、ここは仏典を典拠とし、しかも仏教を暗示したもので、その尊い教も、酒としては劣ったものである「濁れる酒」にも及ばないとの心を寓したもので、これはすなわち極力酒を讃えたものである。知識人の旅人ではあるが、悲しみの極まった時には、思想はついに感覚に及ばないとしているので、語《ことば》としては単純であるが、心としては深いものをもった歌である。
346 夜《よる》光《ひか》る 玉《たま》といふとも 酒《さけ》飲《の》みて 情《こころ》を遣《や》るに 豈《あに》しかめやも
夜光 玉跡言十方 酒飲而 情乎遣尓 豈若目八方
【語釈】 ○夜光る玉といふとも 「夜光る玉」は、中国の故事で、いわゆる夜光の玉である。『述異記』に、「南海有v珠、即鯨目、夜可2以鑿1、謂2之夜光1」とあって、天下の至宝としたものである。○酒飲みて情を遣るに 「心を遣る」は、心中の鬱情を散らすこと。○豈しかめやも 何、及ぼうか、及びはしない。
(140)【釈】 天下の至宝とする夜光の玉といっても、人に与える効験からいうと、酒を飲んで心中の鬱情を散じるそれに、何及ぼうか及びはしない。
【評】 前の歌の延長で、心も形も相通ったものである。「夜光る玉」は、訳語としてはいうほどのものでもないが、これまた旅人によって加えられた語彙《ごい》である。二首、酒を溺愛しての心の如く見えるが、事実としては、酒によって鬱情を散じ得た歓びの心よりのものであって、矯飾を思わせるような口気は、その歓びの現われである。酒に対しては旅人は、その酔態をはばかって、平生は親しまずにいた人ではないかとさえ思わせる歌があるのでも、このことは思われる。
347 世間《よのなか》の 遊《あそ》びの道《みち》に 冷者《さぶしくは》 酔哭《ゑひな》きするに あるべくあるらし
世間之 遊道尓 冷者 酔泣爲尓 可有良師
【語釈】 ○世間の遊びの道に 「遊び」は、古くは、歌舞管絃より漁猟までを含めた称であった。人の楽しみの代表のものとしてである。「道」は、筋というにあたる。○冷者 旧訓「まじらはば」、『代匠記』は「おかしきは」、『童蒙抄』は「すさめるは」、『考』は「さぶしくは」、『玉の小琴』は「冷」は「怜」の誤りとして「たぬしきは」、『古義』は「洽」の誤りとして「あまねきは」、近く生田耕一氏(『万葉難語難訓攷』)は、「すずしきは」などがある。比較的妥当なのは『考』の「さぶしくは」である。今はこれに従う。それだと楽しくなくばの意である。上よりの続きは、人の楽しみの代表である遊びの道の上で、もし楽しくないならばで、これは人柄により、また年齢によってありうべきことである。○酔哭きするに 「酔哭き」は、上に出た。旅人はこれをもって、最も情《こころ》をやりうる方法としていたのである。これは「遊びの道」以外の、単なる飲酒をさしたもの。一句、酔哭きすることによって情《こころ》をやるにの意。○あるべくあるらし 「あるべくある」は、巻十五(三七三九)「妹をば見ずぞあるべくありける」とあり、当時の語づかいである。「らし」は、眼前に証を挙げての推量で、証は旅人自身の体験と取れる。あるがように思われるの意。
【釈】 世の中にあるさまざまの遊びの筋において、もし情をやることができなかったならば、飲酒によって得られる酔泣きすることによって、情をやるべきであるがように思われる。
【評】 酒を無上の宝とする前の二首に続く気分のもので、新たにその価値を発見した飲酒の楽しみを、従来楽しみの代表のものとしていた「遊びの道」の上に置き、その位置を確かめようとした心のものである。「遊び」は年齢により、またその時の心の状態によって、その価値の変わってくるものである。「遊び」の種類はいったがように、歌舞管絃より漁猟までも含めたものであった。老齢の旅人には、漁猟はおそらく興味とはなり得なかったと思われる。それだと残るものは歌舞管絃である。当時の大宰府には、それらのことに堪えるいわゆる遊行婦が少なくなく、また旅人に親しんでいたことは、旅人が大宰府を去る時、遊行婦の別れを悲しんで詠んだ歌によっても知られる。これらの「遊びの道」は、酒の伴っていたものであることは想(141)像しやすく、「遊び」と酒とは別なものではない。しかし酒より起こる「酔哭き」ということは、面目を重んじる旅人にあっては人前では許されないことであって、それのできるのは独酌の場合に限られたことであろうと思われる。歌は、人とともにするべき歌舞管絃の与える楽しみよりは、独酌によってする酔哭きのほうが、我にとってはまさった楽しみであるということである。これは深い悲しみを抱いていた当時の旅人にとっては、心理的にも自然なことであったろう。しかしそれをいうには、断定を避けて、「冷者」といい、「あるべくあるらし」と想像の形をもってしたのである。永い伝統をもった歌舞管絃に対しては、それより与えられる興味の少ないにもかかわらず、一概に斥けたことはいわず、自身の酔哭きの喜びに対しても、一歩を退けた言い方をしているのは、旅人の人柄よりくるものと取れる。
348 今代《このよ》にし 楽《たの》しくあらば 来生《こむよ》には 虫《むし》に鳥《とり》にも 吾《われ》はなりなむ
今代尓之 樂有者 來生者 蟲尓鳥尓毛 吾羽成奈武
【語釈】 ○今代にし 「今代」は、仏教でいう現世の意。仏教では、人は過去、現在、未来の三世にわたって流転するもので、現世は過去世の業の報いであり、また来世は、同じく現世の業の報いであるべきだとしている。したがって、来世は楽しみを得ようとすれば、現世で善業を積まなくてはならない。それにはまず五戒、十戒を守るべきだとしている。「今代」はそうした意をもっていっているものである。「し」は、強め。現世でさえというにあたる。○楽しくあらば 楽しかったならばで、この楽しさは世間的のものである。五戒、十戒は、善業を積むために、まず世間的の楽しみを禁じることで、飲酒の楽しみもその中に加えられている。この歌には、直接に酒のことはいってはいないが、旅人は酒をもって最上の楽しみとしているのであるから、「楽しくあらば」は飲酒の楽しみを得られればの意を間接にいっているものと取れる。○来生には 「来生」は、来世で、現世の報いの現われる世。○虫に鳥にも吾はなりなむ 「虫に鳥にも」は、虫にも鳥にもで、こうした場合、このものには「も」をいわないのが上代の語法である。虫、鳥は、いわゆる畜生である。「なりなむ」は、「なり」は変化する意。「なむ」は、未来の想像。これは、現世で悪業を積むと、その報いとして来世は畜生に生まれるという仏教の心よりのものである。
【釈】 現世でさえ楽しくあったならば、吾は来世では、畜生である虫にでも鳥にでも変わってしまおう。
【評】 上の「価なき宝といふとも」で、すでに間接ながら仏教に触れていたが、この歌に至ると、直接に、正面からそれを否定している。旅人の時代は仏教の興隆期で、当時としては空前の驚くべき盛行を示していた時代である。また当時の仏教は貴族社会より起こったものであり、さらにまたそれを理解するには知識を要したのである。旅人は当然仏教に関心をもち、また相応に深く理解し得ていたことだろうと思われる。悲しみの最も大きいものは生死であり、死別である。この作をした当時、旅人の抱いていた悲しみは、妻の死であったろうと思われるが、それでないにしても、それに近いほどのものであったろうと思(142)われる。「験なき物を念ふ」といい、「賢しみと物言ふ」といひ、「賢しらをすと酒飲まぬ」といっているのは、そうした悲しみより解脱《げだつ》しようとしての理《ことわり》を意味させているもので、またそうした際の理といえば、代表的のものは仏教で、おそらくはそれ以外にはなかったであろう。旅人の繰り返し「賢しら」といっているのは仏説であったろうと思われる。しかし結局旅人はそれによっては救われず、のみならず仏教の戒として禁じている今世《このよ》の楽しみである飲酒によって、初めて救いを体験したのである。温雅で、断定を避けようとする旅人ではあるが、明らかなる体験の前には躊躇することができず、「酔哭きするし益りてあるらし」より「猿にかも似む」としだいに心が高まってき、ついに最後には、「来世には虫に鳥にも吾はなりなむ」と、あからさまに仏教を排斥する態度を取るに至ったのである。この歌は一見、現世の享楽を讃えたがように見えるが、享楽というような余裕のあるものではなく、酒によって悲しみを克服しようという願いを抒《の》べたものである。思想によっての逃避を斥け、あくまで現実に生きようとするところは、伝統の国民性のいかに深く旅人の中に伝わっているかを示すものといえる。「楽しくあらば」は意味の広い語《ことば》で、この一首だけでは酒とは限れないものである。しかし今は連作として作っているので、前々よりの続きで、酒を暗示しうるものとしていっていることと取れる。事実、暗示し得ているのである。同時にまたこの語《ことば》は、語どおりに広がりをもっていて、酒以外の楽しみも連想させるものである。その意味では、仏教に対する不足の心を徹底させているといえる。
349 生《う》まるれば 遂《つひ》にも死《し》ぬる 物《もの》にあれば 今世《このよ》なる間《ま》は 楽《たの》しくをあらな
生者 遂毛死 物尓有者 今在間者 樂乎有名
【語釈】○生まるれば遂にも死ぬる物にあれば 生まれてくれば、果てには死んで行くものであるのでで、人間の生命を大観した語。これは仏説の生者必滅を訳した語である。「遂にも」の「も」は詠歎の助詞で、「必」に当てたものであるが、具体化し得ているものである。○今世なる間は 「今世」は、上に出た。現世の意、三世ということを背後に置いての語。現世に生きている間は。○楽しくをあらな 「を」は、詠歎。「あらな」の「な」は、未然形を受けて、希望の助詞。ありたいの意。
【釈】 生まれてくれば、果てには死んでしまうものなので、現世に生きている間は、楽しくてありたい。
【評】 前の歌と、心としては全く同じもので、それを言い方を変えて繰り返したものである。繰り返したのは、この心は深いもので、そうせざるを得なかったためと取れる。注意されることは、繰り返していうこの歌では、取材の範囲が狭くなって、上の歌の「今代《このよ》にし楽しくあらば」だけとなり、「来世」ということは暗示にとどめ、あるいは捨て去っているともみえること(143)である。それでいて一首の歌としては、この方が感の深いものとなっているのである。この心は旅人の、酒を通して新たに至り得た最上の境である。
350 黙然《もだ》居《を》りて 賢《さか》しらするは 酒《さけ》飲《の》みて 酔泣《ゑひな》きするに 尚《なほ》如《し》かずけり
黙然居而 賢良爲者 飲酒而 醉泣爲尓 尚不如來
【語釈】 ○黙然居りて賢しらするは 「黙然」は漢語で、訓は、巻十七(三九七六)「母太《もだ》もあらむ」の仮名書きによるもの。黙つての意で、ここは副詞。「黙然居りて」は、黙っていて。「賢しらするは」は、上に出た。賢げにするのはで、分別のありそうにしているのはの意。黙りつづけて、分別のあり顔にしているのはで、これは下の「酒飲みて酔泣きする」に対させたもので、それとは反対な状態である。これはこの連作の第一首目の「験なき物を念ふ」を、客観的に見ての語である。○酒飲みて酔泣きするに 上に出た。悲しみをやる第一の方法としてのもの。○尚如かずけり 「尚」は、やはり。「如かず」は及ばない。「けり」は、詠歎で、打消の「ず」よりただちに「けり」に続くのは、上代の語法で、後世のしかざりけりの意。
【釈】 悲しみに打克とうとして、黙りつづけて、分別のあり顔にしているのは、酒を飲んで酔泣きをするのに較べると、やはり及ばないことであるよ。
【評】 この歌は、この連作の結語として添えたもので、第一首目の「験なき物を念はずは」に応じさせたものである。「黙然居りて賢しらするは」は、第一首目の「濁れる酒」を飲む前の状態で、いったがように、おそらくは仏教の教理によって、直面していた悲しみに打克とうと努力していた時の状態を客観的にいったもの、「酒飲みて酔泣きする」は、試みに飲んだ「濁れる洒」によって、意外にもその悲しみを払い去ることができた新しい経験で、「尚如かずけり」は、それを対比すると、飲酒による救いの力のこの上もないものであることをいったものである。この二つの体験を比較して、その甲乙を定めるに、「尚」の語を用いて、熟思した上でという意をあらわしているのは、旅人のにわかには断定をしない、その温藉《おんしや》な人柄からくることと思われるが、しかし他にも理由があってのことかもしれぬ。この酒を讃むる心は、繰り返しいったがように、酒を享楽の対象として、その味わいを愛でるのではなく、酒を憂えを忘れしめる物として、酔泣きを導き出す力を讃めているのである。すなわち必要を充たしうる物としてである。その背後には大いなる悲しみがあったのであるが、旅人自身は直接には一言もそれに触れていず、ただ、暗示にとどめているのである。これは技法としてというがごときことではなく、旅人の作歌動因からきているものと思われる。それはこれらの歌は、旅人自身わが心をやろうがためのもので、他に示そうということは念頭になかったところから、その必要がないとして触れなかったものと思われるのである。これらの歌の背後にある悲しみは、題意でいったがよう(144)に、妻の死ではなかったかと思われる。それをほかにしては、これほどに深い悲しみは想像し難いものだからである。それだとすると、それに関連して思われることは、旅人は当時、仏教の教理に従って、故人のために飲酒戒を守って酒を断っていたのではなかったかということである。この連作によると、旅人はこの時初めて酒を飲んだがごときことをいっているのであるが、そうしたことは想像としても許されないことである。許されることは、仏教の戒を守って禁じていた酒を、悲しみのいかんともし難いところから破り、その破ったことによって怪しきまでに強い救いを得たので、その発見と感激に駆られて、この大連作は詠んだのである。「黙然居りて賢しらする」は、禁酒戒を守り、ひたすら仏教の教理によって悲しみより解脱しようと試みていたことで、そのことを綴り返しいっているのは、それに縋ろうとしたことの深かったがためで、また、やや突飛な形において仏説を斥ける心を詠み続けているのも、同じくその心からであろうと取れる。しかし、仏説のなお心に残るものがあり、一脈の払いつくし難いものがあって、それがこの最後の結語としての歌に、「尚」の語を用いさせたのではないかと思われる。
沙彌満誓の歌一首
【題意】 「沙彌満誓」は、上の(三三六)に出た。
351 世間《よのなか》を 何《なに》に譬《たと》へむ 旦開《あさびらきこ》 榜《こ》ぎ去《い》にし船《ふね》の 跡《あと》なきが如《ごと》
世間乎 何物尓將譬 旦開 榜去師船之 跡無如
【語釈】 ○世間を何に譬へむ 「世間を」は、世間を仏者のいう無常という面から捉えていっているもので、世間の無常さをの意。「何に譬へむ」は、何をもって譬えようかで、譬をかりてあらわそうとするのは、その無常のさまである。以上、一段落で、我と我に自問したものである。○旦開榜ぎ去にし船の 「旦開」は、朝、船出をすることをあらわす古語で、集中に例の多いもの。「榜ぎ去にし船」は、榜いで行ってしまった船で、二句は、夜の危険な時は船を港にとどめ、朝、安全な時になると漕ぎ出すという、航海の上ではきわめて普通なことをいったもの。○跡なきが如 「如」は、旧訓。『槻落葉』は、「如し」と改めている。巻二(一六八)「天見る如久《ごとく》」があり、本巻(三〇九)「相見る如之《ごとし》」があって、「久」「之」を記している例から見て、「如」は「ごと」の旧訓によるべきだと『講義』はいっている。意は、その船の後に残すもののないがごとくだの意。三句以下、初二句の自問に対して自答したもの。
【釈】 世間の無常さは、何をもって譬えたらあらわせようか。それよ、港から朝船出をして漕いで行ってしまった船の、後に残すもののないがごとくである。
(145)【評】 世間の無常ということを詠もうとしてのものである。そうした感を起こさせる何らかの刺激があったのかもしれぬが、直接その事には触れず、心持としていっているものである。歌は二段より成っており、初二句はいったがように自問したもので、三句以下はそれに対して自答した形のものである。これは旋頭歌など口唱文学期のものには少なくない形で、その伝統の上に立ったものである。「世間を何に譬へむ」は、無常の感が強く、譬うるにものもなく、惑った意のものである。「旦開榜ぎ去にし船の跡なきが如」は、思いつき得ていっている譬という形のものである。この譬は、当時満誓は大宰府に在って、自然、海に接することも多いところから、経験としていっているものと取れる。新意のあるものである。夜、港につないであった船が、朝、漕ぎ出した後には、何の痕跡もないということは、生存した人の死亡した後のさみしさをあらわすには、恰好な譬喩といえるものである。「如」と「如し」とは、意味としては異なるところはないが、「なきが如」「なき如し」と続けての上で見ると、「なきが如」は、「なき」ということを感を主としていったものとなり、「なき如し」は事を主として、感はそれに伴ってのものという差がある。ここは、自問に対する自答のもので、感を主としてのものであるから、「なきが如」のほうが、心としても妥当なものと思われる。
若湯座王《わかゆゑのおほきみ》の歌一首
【題意】 「若湯座王」は、伝が明らかではなく、歌もここの一首が伝わるのみである。湯座は本来、尊き御子に産湯をつかわせまつる婦人の職名で、若湯座は、大湯座に対しての称であり、その事の補助をする職である。後、これが氏の名となった。この王の御名は、王の乳人の氏より得られたものだろうという。
352 葦辺《あしべ》には 鶴《たづ》が哭《ね》鳴《な》きて 湖風 《みなとかぜ》 寒《さむ》く吹《ふ》くらむ 津乎《つを》の埼《さき》はも
葦邊波 鶴之哭鳴而 湖風 寒吹良武 津乎能埼羽毛
【語釈】 ○葦辺には鶴が哭鳴きて 「葦辺」は、葦の生えている辺りで、海岸の状態としていっているもの。これは例の多いもので、したがって当時の海岸には共通の光景であったとみえる。「鶴が哭鳴きて」は、「鶴」はその葦辺に棲んでいるものとしていったもの。棲んでいるのは餌としての小魚を獲る関係からである。その鶴が哭鳴くのは、清くさわやかな趣としていっているもの。○湖風寒く吹くらむ 「湖風《みなとかぜ》」は、仙覚の訓。この字は上の(二七四)に出た。港の風の意。「寒く吹くらむ」の「らむ」は、連体形で、下へ続く。これもまた、清くさわやかな趣をいったものである。○津乎の埼はも 「津乎の埼」は、『仙覚抄』は、「伊予国野間郡にありと見えたり」といっているが、それ以上には確かめられていない。不明なのは、この王が任地など特別な関係で知っていられた所で、有名になるべき土地ではなかったためである。「はも」は、「は」は上を承けて(146)いったもので、そこで言いさし、それに詠歎の「も」を続けたもので、ここは、その地以外の所に在って、その地を思い、嘆きの心を寄せている意のものである。
【釈】 葦の生えている辺りには、そこに棲む鶴が、清くさわやかに鳴き、また港の風が、同じく清くさわやかに、寒く吹いているだろうところの、あの津乎の埼はよ。
【評】 一首、津乎の埼という海岸の風景を思い浮かべて、懐かしみの情を寄せられたものである。ここにいわれている風景は、海岸とするときわめて常凡なもので、どこにでも見られる程度のものである。それを懐かしく感じられるということは、その地に特別な関係がなければあり得ないことであり、また風景としては常凡であるが、葦辺の鶴が音も、寒く吹く港風も、いつたがように清くさわやかなもので、そうした趣を捉えるということは、その地に馴染むこと久しくなければできないことである。その埼は王にとっては任地などという関係のあった所ではないかと思われる。さらにまた、海岸のこうした常凡の風景を懐かしむのは、現在は海を離れた所にいられるがためで、おそらく奈良《なら》京においての作ではないかと思われる。「湖風寒く吹くらむ」によると、この思い出をなされたのが、初冬頃の、風の肌寒く感じられる時であったろうと思われる。一見平凡に感じられるが、こもった味わいを持った歌である。こうした純粋に風景のみの、また他奇なき歌が詠まれ、選ばれるということは、時代が文芸的となったために初めてありうることで、この点もまた注意させられる。
釈通観《しやくつうくわん》の歌一首
【題意】 「通観」は、上の(三二七)に出た。
353 み吉野《よしの》の 高城《たかき》の山《やま》に 白雲《しらくも》は 行《ゆ》き憚《はばか》りて 棚引《たなび》けり見《み》ゆ
見吉野之 高城乃山尓 白雲者 行憚而 棚引所見
【語釈】 ○み吉野の高城の山に 「み吉野」は、しばしば出た。「高城の山」は、古典には所見のない山である。吉野郡の中であることは明らかだ。『大和志』には、「高城山、在2吉野山東1、中有2塁址1、有2古歌1」とあり、『大和志料』には、「高城山。吉野山ノ東ニアリ。山中ハ大塔宮ノ塁址アリ、因テ城山ト字ス」とある。高城という地名は諸所にあり、城《き》は敵を防ぐ城塞をいう語であるから、高城は土石を高く盛り繞らしたものの称と思われる。この山々もそれがあるところからの称であろう。○白雲は行き憚りて 上の(三一七)「山部宿禰赤人、不尽山を望める歌」に出ている語である。いったがように、雲は最も自由に動くものでもあり、また古くは霊気あるものとして尊ばれてもいたのであるが、その雲さえ、そこ(147)を過ぎ行くことを阻まれるというので、これは不尽の山の場合と同じく、山そのものが威霊ある神であるということをあらわしているもので、単に高山ということをあらわしたものではないと取れる。○棚引けり見ゆ 「棚引けり」は、旧訓「たなびきて」を、『古義』が改めたものである。それは、「見ゆ」の上にくる動詞あるいは助動詞は、終止形であるのが古格で、上の(二五六)「乱れ出づ見ゆ」、巻六(一〇〇三)「船出為利《ふなでせり》見ゆ」、巻十五(三六七二)「ともし安弊理《あへり》見ゆ」など、他にも例の多いものである。靡いているのが見られるの意。
【釈】 吉野の高城の山に、空を渡り霊気の畏い白雲が、その山を行き過ぎるのを阻まれて、靡いているのが見られる。
【評】 高城の山を目に仰ぎ見ての歌であるから、吉野の山中にあっての作とわかる。「高城の山」をいうに、「み吉野の」を冠しているのは、所在をことわる必要からのものではなく、山を讃える心よりのものである。「白雲は行き憚りて」は、山を威霊ある神なりとして、それを具象的にあらわしたもので、それ以外のものではなく取れる。赤人の歌にもあり、これに類似した語は他にもあるので、すでに以前より成語となっていたものかとも思われる。神霊の威力を具象するとしては、巧妙なる語というべきである。熱意をもって、単純に、一気に詠んでいるところも、讃えの心にふさわしくみえる。
日置少老《へきのすくなおゆ》の歌一首
【題意】 「日置」は、諸国にある地名で、「ひおき」「ひき」とも訓んでいるが、古事記に、「是大山守命者、土形君、弊岐《へき》君、榛原君之祖也」とあるので、「へき」と訓むべきである。『新撰姓氏録』には、右京皇別に日置朝臣、蕃別に日置造があって、そのいずれともわからない。「少老」は、『考』が「すくなおゆ」と訓んでいる。『講義』は、日本書紀、巻二十八に、同じ人を「左味君宿那麻呂」とも、「佐味君|少《すくな》麻呂」とも書いていることを引いて、この訓を確かめている。この人、伝は不明である。
354 繩《なは》の浦《うら》に 塩《しほ》焼《や》く火気《けぶり》 夕《ゆふ》されば 行《ゆ》き過《す》ぎかねて 山《やま》に棚引《たなび》く
繩乃浦尓 塩焼火氣 夕去者 行過不得而 山尓棚引
【語釈】 ○繩の浦に塩焼く火気 「繩の浦」は、その所在が明らかではない。『古義』は、土佐国安芸郡|那半《なわ》ではないか。そこは南に海を帯び、北東に山を負って、この歌詞にかなっているといっている。『檜嬬手』は、播磨国飾磨郡にあり、入江をなしている地で、その入江は五、六石積みの船までは泊れる港である、古、奈波のつぶら江といったのもここだろうといっている。『講義』はこれに検討を加え、そこは赤穂郡で、那波村(相生市那波)といい、古の山陽道の要路赤穂街道の分岐点で、今は山陽本線の那波駅である。海と山と迫っており、また製塩に名高い地だから、由ありと思われるといっている。「塩焼く火気」は、塩を製するために焚く火の煙。○夕されば行き過ぎかねて 「夕されば」は、夕べの移って(148)くれば、すなわち夕べとなるとで、夕べは、昼の中の太陽に暖められた空気の冷えてくる時で、したがって煙の圧えられて、立ち騰《のぼ》り難くする時である。「行き過ぎかねて」は、立ち騰った空を行き過ぎて、遠くへ行くことを得ずして。○山に棚引く 近くの山腹に靡いている。
【釈】 繩の浦の、塩を製するために焚く火の煙は、夕方となると、そこの空を行き過ぎて遠くへ行くことができなくなって、近くの山の腹に靡いている。
【評】 純粋な叙景の歌といううちでも、終日焚いている製塩の煙が、夕方になるとその状態を変えてくるという、特殊な、また微細なことに心を寄せた歌で、この当時としてはきわめて新意のあるものである。立ち騰り、靡き薄れて消えてゆく煙の状態は、本来魅力のあるもので、後世も歌の取材となっているものであるが、その多くは恋の譬喩としてである。この歌は煙そのものだけの歌であり、また、「夕されば行き過ぎかねて山に棚引く」は、あくまでも実際に即したもので、そこに興味がある。実際を重んずる心が、いかに強く働いていたかを思わせられる。
生石村主真人《おほしのすぐりまひと》の歌一首
【題意】 「生石」は氏、「村主」は姓、「真人」は名である。続日本紀、天平勝宝二年正月の条に、正六位上から外従五位下を授けられている大石村主真人と同人であろう。生石氏は、坂上氏の系図に見えていて、坂上氏と同族だと『講義』はいっている。
355 大汝《おほなむち》 小彦名《すくなひこな》の 座《いま》しけむ 志都《しつ》の石室《いはや》は 幾代《いくよ》経《へ》ぬらむ
大汝 小彦名乃 將座 志都乃石室者 幾代將經
【語釈】 ○大汝小彦名の 「大汝」は、またの名を大国主神ともいい、素戔嗚尊の孫にあたられ、天孫降臨に先立ち、この国土を経営して、天孫に譲られた神であり、神代を代表する神である。「小彦名」は、高皇産霊神の子とも神皇産霊神の子とも伝えられ、大汝神を助けて国土経営にあたられた昆虫である。この二神の功を、日本書紀は、「夫大己貴命与2少彦名命1戮v力一v心経2営天下1、復為2顕見《うつしき》蒼生及畜産1則定2其療v病之方1、又為v攘2鳥獣昆虫之災異1則定2其禁厭之法1。是以百姓至v今咸蒙2恩頼1」といい、古事記には、神産巣日神が、少彦名命に命じられた語として、「故汝与2葦原色許男命1(大汝)為2兄弟1而作2堅其国1」とあり、事としては、「故自v爾大穴牟遅与2少名毘古郡神1、二柱神相並作2堅此国1」とある。○座しけむ志都の石室は 「座しけむ」は、住ませられたであろうところの。「志都の石室」は、その所在について諸説がある。そのうち最も注意される説は、本居宣長の『玉勝間』巻九に載せているもので、要は、石見国邑智郡岩屋村(瑞穂町岩屋)に大きな岩窟があり、里人は「しづ岩屋」といっている。そこは出雲《いずも》と備後の境で、浜田より二十里ばかり、東方の山深い所である。高さ三十五、六間もある大岩星である。古、大穴牟遅(149)少彦名の二神のかくれ給いし岩屋と里人は語り伝えている。以前はやがて岩屋を祭っていたのに、中頃からその外に社を建てて祭っている、というのである。宣長はこの歌につき、真人が宮人としてこの国に在って、行って見たとすれば格別であるが、いかがなものであろうかと疑っている。とにかくその国は、他国の人の行くこと稀れな上に、そのような辺都な土地なので、後の人の構えていったこととも思われない。必ず深い由があろうといっている。真人が宮人としてその国に在って見たかもしれぬということは、疑うほどのことでもない。今はしばらくここと見るほかはなかろう。○幾代経ぬらむ どれほどの久しい代を経たことであろうかで、岩屋そのものに対していっているもの。
【釈】 大汝と小彦名の二柱の神が居られたであろうところのこの志都の岩屋は、その後どれほどの久しい間の代を経たことであろうか。
【評】 大汝、小彦名の二神の座した所だという伝説を信じ、その岩屋を目に見ての感である。この二柱の神が、わが国土を作り堅められたという言い伝えは、上代にあっては、広い範囲にわたり、深く信じられていたものであったことは、集中の他の歌によっても想像される。その神が神霊として仰がれていた時代に、山上にある大きな岩屋を見て、それを二神に結びつけ、何らかの関係を想像するということは、最も自然な、またありうることである。それはすなわち岩屋の起源伝説である。真人のいう「志都の石室」と石見国の「しづ岩屋」と、はたして同じ物であるかどうかは、もとよりわからないことで、今それを別個の物とし、二か所においてこの歌詞のような言い伝えがあったとしても、怪しむには足りないことである。この歌で、真人が力点を置いているのは、大汝、小彦名の二神ではなく、石室《いわや》であって、その経たる年月に対する感動であることは、注意されることである。
上古麿《かみのふるまろ》の歌一首
【題意】 「上」は氏、「古麿」は、こまろとも訓んでいる。上氏は蕃別で、姓は三つに別れている。古麿は何姓かわからない。伝は不明である。
356 今日《けふ》もかも 明日香《あすか》の河《かは》の 夕離《ゆふさ》らず 川津《かはづ》鳴《な》く瀬《せ》の 清《さや》けかるらむ【或本の歌、発句に云ふ、明日香川今もかもとな】
今日可聞 明日香河乃 夕不離 川津鳴瀬之 清有良武【或本歌、発句云、明日香川今毛可毛等奈】
【語釈】 ○今日もかも明日香の河の 「今日もかも」の「かも」は、「か」は疑問、「も」は詠歎の助詞。この「か」は、結句の「らむ」の連体形で結ばれている。「明日香の河」は、しばしば出た。○夕離らず川津鳴く瀬の 「夕離らず」は、夕ごとにの意の語で、巻七(一三七二)「み空ゆく(150)月読壮士夕不去《つくよみをとこゆふさらず》目には見れども因《よ》る縁《よし》もなし」、巻十(二二二二)「暮不去河蝦《ゆふさらずかはづ》鳴くなる三和河《みわがは》の清き瀬の音《と》を聞かくしよしも」など、いずれも夕ごとにの意と取れる。この語は「朝さらず」に対したものである。「川津鳴く瀬の」は、「川津」は今の河鹿で、上の(三二四)に出た。明日香川には河鹿が多く住んでいたのである。この二句の続きは、河鹿は昼も鳴くものであるが、夕方、辺りの物音がしずまった時には、ことにその声が耳につくところからいったもので、感じを主としての続けである。また、河鹿は、清い水でなければ棲まないものであるところから、下へ続けている。○清けかるらむ 「清けかる」は、「清けくある」の約《つづ》まったもの。瀬を形容したもので、水の清さ、その水の流れるに伴って立てる音をも含めての語であるが、ここは、河鹿の声をも含ませているものと取れる。初句の「かも」をここに移して解すべきもの。○或本歌云々 「今もかもとな」は、「今もか」は「今日もかも」の範囲を狭めたもので、「か」は結句の「らむ」の下に移して解すべきもの。「もとな」は巻二(二三〇)に既出。本来は理由なくの意であるが、意味の広い語で、ここはおぼつかなくという意で、「今もか」を強める意で用いているものと取れる。したがって、「か」の下に続けて解すべきもの。
【釈】 今日も、あの明日香川の、夕ごとに河鹿の鳴く瀬は、前のように清《さや》かであることだろうか。(あの明日香川は、今も、……清かであることだろうか、おぼつかない)
【評】 明日香の里に対して故里としての心をつないでい、そこの代表的の佳景である明日香川に対して思慕の情を起こしたものである。その情の中心となっているものは、明日香川の川瀬の清けさであって、そこに特色がある。また、その情を起こしたのは、河鹿の鳴きはじめる晩春初夏の頃であったろうと思われて、そこにも清けさがある。その清けさは、水の清さ、瀬の音の清けさ、河鹿の声の清けさの綜合されたもので、同時に細かい心も働いていて、それを感によって綜合したものである。山部赤人の歌風の起こる時には、それと撰を同じゅうする上の(三五四)の歌、この歌のようなものも行なわれていたことを思わせられる。「或本の歌」は、心は同じであるが、あまりに心を細かく働かせすぎたために、一首の姿が砕けて、思慕の情よりも不安の情のほうが勝ったものとなってしまっている。
山部宿禰赤人の歌六首
357 繩《なは》の浦《うら》ゆ 背向《そがひ》に見《み》ゆる 奥《おき》つ島《しま》 榜《こ》ぎ廻《み》る舟《ふね》は 釣《つり》を為《す》らしも
繩浦從 背向尓所見 奧嶋 榜廻舟者 釣爲良下
【語釈】 ○繩の浦ゆ 「繩の浦」は、上の(三五四)のそれと同じ所であろう。それだと播磨国赤穂郡の海岸である。赤人は西へ向かっての旅をしていたと取れるから、それだと当時の風に従って、船で瀬戸内海を航行し、今、繩の浦へ寄ろうとしているところで、そこを起点として、繩の浦(151)よりといっていると取れる。○背向に見ゆる奥つ島 「背向に見ゆる」は、「背向」は背中合わせで、すなわち後ろ。後ろに見えるというのは、振り返って見た場合にのみいうことであるから、ここも船を港に向けていて、船中から振り返って見て、後ろに見えるといっているのである。細かい言い方であるが、以下も同様で、不調和なものではない。「奥つ島」は、沖の島であるが、その沖は、距離の近い所であることが、続きでわかる。○榜ぎ廻る舟は 「廻る」は、めぐるで、漕ぎめぐっている舟は。○釣を為らしも これは旧訓である。『玉の小琴』は「釣為」を「釣せす」と改めた。「釣をす」という訓を、語感の上から厭《いと》ったのである。『古義』は、「為《せ》す」は敬語で、ここには当らないという理由で「釣し為《す》」と改めた。『講義』は、集中に多い例に従って、旧訓に復《かえ》している。旧訓の方が落着きを持っている。これに従う。「らし」は、証を挙げての推量で、ここは「榜ぎ廻る」という状態が証と取れる。「も」は詠歎。
【釈】 船が繩の浦へ入ろうとして、そこから振り返って見ると、後ろのほうに見える沖の島を漕ぎめぐっているところの舟は、釣をしているようであるよ。
【評】 穏やかな日、瀬戸内海を舟行していての興であるが、奈良京に住んでいる宮人の、海を珍しむ心の伴っているもので、いささかの事にも心の動いての作と取れる。「繩の浦ゆ背向に見ゆる」は、やや難解の感のある言い方であるが、上代の歌風で、そこの土地を主とし、それに自身のその時の状態を絡ませて、一緒にいおうとするところからきているものである。それは、いおうとする事は、その土地から離すを得ず、またそのいおうとする興は、自身のその時の状態もいわなければならないという必要からのもので、結果から見ると細かい言い方になっているのである。しかしこの細かさは、いわんとする興も淡くまた細かいもので、「榜ぎ廻る舟は釣を為らしも」ということであるので、一首全体の上からは調和をもち得たものなのである。手腕のみえる作で、歌としても湿おいをもち得ている。
358 武庫《むこ》の浦《うら》を 榜《こ》ぎ廻《み》る小舟《をぶね》 粟島《あはしま》を 背《そがひ》に見《み》つつ ともしき小舟《をぶね》
武庫浦乎 榜轉小舟 粟嶋矣 背尓見乍 乏小舟
【語釈】 ○武庫の浦を 摂津国武庫郡の海辺を。現在の武庫郡は、古よりも以西の地域を含めたもので、古は河辺郡の西、菟原郡の東にあって、主として武庫川の流域であったと『講義』は注意している。すなわち今よりも三津浜に寄っていたのである。○榜ぎ廻る小舟 「榜ぎ廻る」は、前の歌に出た。榜ぎめぐる意で、上代の航海法は、できうる限り海岸を離れまいとしたので、海岸伝いという状態になったのである。「小舟」は、下に詠歎が含まれている形のもの。○粟島を 「粟島」は、所在が明らかでない。古事記に二か所出ており、摂津の海に接した所の島だということを暗示している。本集にも二か所出ており、その一か所は、巻四(五〇九)「丹比《たぢひの》真人笠麿、筑紫国に下れる時、作れる歌」であり、海路、船を寄せる島々を道行き風に並べてあるので、最も所在をあらわしている。その部分を引くと、「天放《あまさか》る夷《ひな》の国辺に、直《ただ》向ふ淡路を過ぎ、粟島を背向《そがひ》に(152)見つつ……稲日《いなび》づま浦|廻《み》を過ぎて」というのである。「稲日づま」は、いま播磨国加古川の川口にある高砂の地である。すなわち瀬戸内海を西に向かって行くと、第一に淡路島、第二に粟島、第三に「稲日づま」という順序になるのである。この歌における粟島は、単に風景として捉えているという偶然なものではなくて、笠麿の歌の場合と同じく、今、西へ向かっての旅をする赤人の船が、その島に向かっているのか、出たのか、いずれにしてもその島を念としていることをあらわしている島で、赤人にとっては必然の理由があっていっているものである。その粟島は、今はその名の島もなく、またどこともわからなくなっている。○背に見つつともしき小舟 「背《そがひ》に見る」は、前の歌に出た。「背に見つつ」は後ろに見つつ漕いでゆくところので、すなわち三津の浜へ向かって行く、言いかえると京に帰るところの意。「ともしき」は、羨ましきの意で、「小舟」は、二句の繰り返しで、小舟よの意のもの。
【釈】 武庫の海辺《うみべ》を、海辺伝いに漕ぎめぐって行くところの小舟よ。粟島を後ろに見つつ漕いで行くところの羨ましい小舟よ。
【評】 三津の浜から船出して、瀬戸内海を西に向かって航して行く赤人の、武庫の浦から遠くない辺りで、たまたま反対に、西より来て東の三津の浜へ向かって行く船と行きちがいになり、その船中の人を羨んだ心のものである。羨むのは、妹が待つ家に帰って行く人だからである。しかしそれをいうには、しだいに隔たり行くその人の船を武庫の浦に捉え、自身の船に近いところの粟島によって関係づけ、「武庫の浦を榜ぎ廻る小舟」と総括していい、「粟島を背に見つつともしき小舟」と、繰り返していうことによって自身と対比し、それによって感傷の全部をいっているところ、まさに典型的な単純化である。心が細かく、調べもしめやかで、一家の風格を発揮した作である。
359 阿倍《あべ》の島《しま》 うの住《す》む石《いそ》に よる浪《なみ》の 間《ま》なく比来《このごろ》 日本《やまと》し念《おも》ほゆ
阿倍乃嶋 字乃任石尓 依浪 間無比來 日本師所念
【語釈】 ○阿倍の島 所在は不明である。赤人が船旅をしている途上、見かけた島である。○うの住む石による浪の 「う」は、鵜で、水中の魚を捕えて食餌とする鳥。「住む」は、そこを離れずにいるところからいったもの。「石」は、古くは「いそ」といったところからの用字。「浪の」の「の」は、ここは、のごとくの意のものと取れる。初句より三句までは、下の「間なく」の譬喩とも取れ、また序詞とも取れるものである。序詞は本来、口承文学時代、謡い物の上で愛用された修辞法で、その係る語、ここでいえば「間なく」との関係に、飛躍があり、唐突なものがあって、それが喜ばれたのである。ここの続きにはそれが少ないので、譬喩の心のものであろうと思われる。○間なく比来 絶え間もなく、すなわち絶えずこの頃はで、旅の日数のすでに重なっていることをあらわしたもの。○日本し念はゆ 「日本」は、倭で、わが家《や》すなわち妹ということを、おおまかにあらわした称。「し」は、強め。「念ほゆ」は、思われるで、恋しまれるの意。
【釈】 阿倍の島の、鵜の住んでいるところの磯に寄ってくる浪のごとくに、我は絶えずもこの頃は、家にいる妹が恋しまれる。
(153)【評】 舟旅の途上、磯に寄せる浪の絶え間のない状態を目にして、胸にある旅愁を刺激されての歌である。岸に寄せる浪の状態から間なくを連想することは、すでに常識化したもので、創意のあるものではない。また、「阿倍の島」というように地名を入れ、また妹のことを「日本」というように言うのも、常識となっていた。しかし、磯をいうに、「うの住む石」といっているのは新味のあるものである。鵜は京にあってはもとより、水辺にあってもどちらかというと少ない鳥であり、また印象的なさまをしたものであるから、旅愁をそそられること多いものと思える。一首、心細かく、湿おいを帯びていて、そのために常凡を新鮮に化しているところがある。
360 塩《しほ》干《ひ》なば 玉藻《たまも》苅蔵《かりをさ》め 家《いへ》の妹《いも》が 浜《はま》づと乞《こ》はば 何《なに》を示《しめ》さむ
塩干去者 玉藻苅藏 家妹之 演※[果/衣]乞者 何矣示
【語釈】 ○塩干なば 潮が干ていつたならば、すなわち引潮になったならば。○玉藻苅蔵め 「玉藻」は、しばしば出た。「玉」は美称で、「藻」は海草の総称。「苅蔵」は、訓がさまざまで定まらない。旧訓「かりつめ」、近く『全釈』は「かりをさめ」と訓んだ。「蔵」を「をさむ」と訓んだ例は、集中に他に二か所あり、妥当なものである。これに従う。これは命令形で、ここで一段となっている。○家の妹が浜づと乞はば 「家の妹」は、家にいる妹。「浜づと」は、「家づと」、「山づと」などと同系の語で、浜の土産物。「乞はば」は、旅をすると土産を持って帰るのが風となっていたことを背景としての語。○何を示さむ 何物をそれとして示そうかで、そのほかには何もないということを、余情としての語。すなわち玉などはもとより、貝もない所としていっているもの。
【釈】 潮が引いて行ってしまったならば、人よ、玉藻を苅つて蔵《しま》って置けよ。家にいる妹が浜の土産物を乞ったならば、何物をこれだといって示そうか、ここにはそれよりほかの物はない。
【評】 海路の旅をして、帰路、家へ着くのも程もないといった時、港にあっての歌と思われる。家を思うと、浜づとのことが連想されてくるが、その海にはこれぞという物も見あたらず、また、そこを外にしては、そうした物を探す場所もないということを背後としての心であるということが、歌の上から感じられる。落着いた心をもって家を思う心、旅路のその時の状態など、相応に複雑したことを、その従者に命じる短かい用向きの語の中に、おのずからに含ませているのは、実際に即して詠んでいる結果ではあるが、非凡なる手腕というべきである。赤人の特色をもっている歌である。
361 秋風《あきかぜ》の 寒《さむ》き朝開《あさけ》を 佐農《さぬ》の岡《をか》 超《こ》ゆらむ公《きみ》に 衣借《きぬか》さましを
(154) 秋風乃 寒朝開乎 佐豊能岡 將超公余 衣借益矣
【語釈】 ○秋風の寒き朝開を 「朝開」は、朝明けの約。「を」につき、『講義』は詳しい説明をしている。この「を」は、長時継続する事項をもって説明しようとする時、その時間の継続していることをあらわすもので、その意味で普通の「を」とは異なっていると、多くの例を挙げて証明している。しかしその事項は、時間的継続を要する点では、一種の動的目標であると注意し、現在の「日をくらす」「夜をあかす」などと同例であるといっている。○佐農の岡 所在は明らかでない。上の(二六五)「神《みわ》の崎|狭野《さの》の渡」とあり、そこと同じではないかともいう。それだと紀伊国牟婁郡である。○超ゆらむ公に 原文「将超」は、「こゆらむ」とも「こえなむ」とも訓め、『略解』は「こえなむ」と訓んでいる。それだと、まだその地へ到らない以前に詠んだ歌となる。ここは現に越えようとしている事を推量しての意と取れるから、「こゆらむ」とすべきである。「公」は、男女間では、女より男に対しての称である。この称を用いている以上、作者は女で、少なくとも女の立場に立っての人でなくてはならない。○衣借さましを 衣を貸すということは、夫婦者にあっては、寒い時には、互いに下の衣を貸し合うのが上代の風であった。ここは、女より男に貸す場合である。「まし」は、事実としてはないことを、仮設していう意の助動詞。「を」は、詠歎の助詞で、できることならば、わが下の衣を貸そうものをの意。
【釈】 秋風の肌寒いこの明け方に、これから佐農の岡を越えて行こうとする君に、できることならばわが下の衣を貸そうものを。
【評】 この歌は女の歌で、少なくとも女の立場に立っての歌である。しかしこの巻の撰者は、赤人の歌と認めていたもので、それは題詞によって明らかである。認めるには証のあったことと思われる。それだと赤人が女のために代作をしたものと見なければならない。代作の歌は集中にある程度まではあり、またあからさまに断わってもあって、さして珍しいものではない。当時の歌は実用性の面が広く、歌は口頭の挨拶として詠まれる場合が多く、またそうしたものは、文芸上の価値を競うというところのないものでもあるから、必要な場合には当然のこととして代作をしたものと思われる。これを赤人の歌とすると、どういう必要があってのことか、少なくともあるいはどういう衝動があっての代作かということが問題となる。最も想像されやすいことは、佐農の岡を越える旅人を赤人自身とし、すでに旅愁のある上に、おりからの侘びしさも加わって、大和の家にいる妹を思わせられ、もし妹がここに居たとしたならば、我をいたわる心をもってこうもいうだろうと思い、それを歌として、我と我を慰めての作だろうということである。これは歌が著しく文芸性を高めてきた当時にあっては、ありうべきことと思われる。さらに立ち入って想像すると、当時の風に従って赤人も、旅愁を慰めるために、その土地の女と関係を結んだが、これはかりそめの関係で、別れれば再び逢うことは期し難い間である。別れようとする時、女がこのようなことをいったのを、赤人が代わって歌にしたということも、ないとは言えないことである。そう思うのは、普通の夫婦関係であれば、衣を貸すということは何でもないことである。しかるにこの女は、衣を貸そうとす
る心はあるが、それを実行はしていないことをいって言るので、(155)それは今いったごとき関係の間にあってのみありうることだからである。いずれにもせよ、歌は心細かく、調べがしめやかで、赤人の特色をもったものであって、赤人の作であるということは疑う余地のないものである。その心細かさは、事実に即するところからくるもので、したがって含蓄となってくるので、いうがごとき想像をさせることともなるのである。
362 美沙《みさご》ゐる 石転《いそみ》に生《お》ふる 名乗藻《なのりそ》の 名《な》は告《の》らしてよ 親《おや》は知《し》るとも
美沙居 石轉尓生 名乘藻乃 名者告志弖余 親者知友
【語釈】 ○美沙ゐる石転に生ふる 「美沙」は、江辺、山中にいる鳥で、魚を餌としているもの。ここは江辺として下に続けている。「石転」は、磯回《いそみ》と同じで、磯のめぐりの意。○名乗藻の 「名乗藻」は、海藻の一種で、今、ほんだわらと呼んでいる物である。初句からこれまでの三句は、次の「名は告らし」の同語に畳むためのもので、序詞である。○名は告らしてよ 「名」は、女の名。「告らし」は、告白、すなわち知らせるの意の敬語。上代は、男は女に対して敬語を用いていて、その例は集中に限りなくある。原文の「弖」は諸本すべて「五」とあり、したがって訓み難くしていたのを、『考』が「弖《て》」の誤写だとし、爾来諸注の従っているものである。「て」は、「つ」の命令形。「よ」は、ここは、要求の意を強める助詞。名を知らせて下さいよの意。男が女にその名を知らせよというのは、求婚に応ぜよということであり、進んでは、信じて身を托せよということであって、ここもそれである。○親は知るとも 「親」は、上代では大体母である。それは子からいうと、父は母の家へ通って来る関係だけで、平生一緒にいるのは母で、したがって母の方が重かったためである。その結果、娘の結婚に干渉するのは、主として母であった。結婚は、娘の自由であって、あらかじめ母の承諾を受ける必要はなかったが、しかし干渉はされたのである。ここはそれを背後に置いての語《ことば》で、たとい母親はそのことを知ろうともで、知って干渉するめんどうはあろうとも、ということを余意としたものである。
【釈】 美沙のいる磯のぐるりに生えている名乗藻の、それの名を告って下さいよ。そのことを母が知って干渉するめんどうがあろうとも。
【評】 これは求婚の歌で、部立の上からいうと、相聞に属すべきものである。事としては「名は告らしてよ」という求婚の語《ことば》だけで、きわめて単純なものである。「美沙ゐる石転に生ふる名乗藻の」は序詞で、これはすでにいったように謡い物時代のもので、伝統的のものである。今は求婚の歌であるから、それが妥当のものとなっている。名を告る関係において名乗藻を捉えていることは、これもすでに伝統的となっているもので、新意のないものである。しかし名乗藻のあり場所を、「美沙ゐる石転に生ふる」と細かくいっているのは新意である。したがって、眼前の景を捉えてのものではないかと思わせるものである。また、「親は知るとも」は、娘が親の思わくをはばかって、躊躇《ちゆうちよ》することを心に置き、決意を促す意のもので、この事はむしろ普通とはなっていたにもせよ、この歌ではそこに力点を置いた形でいっているものであるところに、屈折と複雑とがあって、(156)ここにも細かさがある。赤人の歌風を思わせるものである。
或本の歌に曰く
363 美沙《みさご》ゐる 荒磯《ありそ》に生《お》ふる 名乗藻《なのりそ》の よし名《な》は告《の》らせ 父母《おや》は知《し》るとも
美沙居 荒磯尓生 名乘藻乃 吉名者告世 父母者知友
【語釈】 ○荒磯に生ふる 「荒磯」は、しばしば出た。海岸の、石の現われ続いている所。上の歌の「石転《いそみ》」の細かさを変えて粗《あら》くしたものである。○よし名は告らせ 原文「吉名」は、諸本すべて「告名」とある。旧訓「なのり」で、心が通り難いところから、諸注さまざまの訓を試みている。『略解』は「告」は吉の誤写として、「よしなは」と訓んでいる。これは誤写説であるが、この誤写はきわめてありやすいものであり、またそれだと心が安らかに通じるから、これに従う。「よし」は、ままよの意の副詞で、下への続きから見ると、女の決意を促すもので、自然に感じられる。上の歌の「名は告らしてよ」に較べると、その柔らかさを、剛《つよ》く変えたものである。○父母は知るとも 上の歌の「親」を「父母」に変えただけであるが、目に訴える歌としては、その方が意味が広くなるものとしてであろう。
【釈】 美沙のいる荒磯に生えている名乗藻の、ままよ、あなたの名を告って下さい。たとい父母は知ってめんどうなことはあろうとも。
【評】 上の歌は、その事柄からいって、きわめて一般性をもった歌なので、流布して広く謡われるものとなり、それに伴う現象として、細かい部分は粗く、柔らかい部分は剛く変えられ、いっそう一般性をもつものとされたとみえる。この「或本の歌」は、そうした変化を受けた時に、何びとかによって記録されたものと解される。
笠朝臣金村《かさのあそみかなむら》、塩津山《しほつやま》にて作れる歌二首
【題意】 「笠朝臣金村」は、巻二(二三二)の左注に出た。笠氏は、孝霊天皇の皇子稚武彦命の孫鴨別命の後、朝臣の姓は、天武天皇の御代、臣であったのを、新たに賜わったものである。金村の伝は明らかではなく、本集の歌によって、その生存時代と行動の一部が知られるのみである。歌は、霊亀元年のものから、天平五年までのものが伝わっている。「塩津山」は、『和名抄』の、近江国浅井郡塩津郷とある地の山と取れるが、その郷は今は滋賀県伊香郡西浅井村塩津浜といい、山の名は伝わってはいない。そこは、琵琶湖の最北端にある地で、北陸の新道にあたる地である。大体は、大津より塩津までは水路、それより塩津越えをして、越前国敦賀へ出たのである。新道のことについては、『講義』が詳しく考証している。
(157)364 大夫《ますらを》の 弓上《ゆずゑ》振《ふ》り起《おこ》し 射《い》つる矢《や》を 後《のち》見《み》む人《ひと》は 語《かた》り継《つ》ぐがね
大夫之 弓上振起 射都流矢乎 後將見人者 語繼金
【語釈】 ○大夫の弓上振り起し 「大夫の」は、大夫がで、大夫はしばしば出た、勇気ある男子の意で、ここは金村が自身をいっているもの。自身大夫をもって任じ、自称としていっているのは、集中に例が多く、ここもそれである。「弓上」は、弓を立てた形とし、その下の方を本《もと》といい、上の方を末《すえ》と呼んでいたことは、「梓弓末」という続きが集中にあるところから知られ、ここもそれで、弓の上の方のことである。「振り起し」は、横にして持っていた弓を縦に立てることで、矢を射ろうとする時の弓の形をいったもの。○射つる矢を 射たところの矢をで、「後見む」に続く。この矢は、何を目的として射るもので、また何にとどめて置こうとするものか、それに関しては何事もいっていない。いわないのは、当時はそれでわかったからであるが、今はわからないものとなっている。そうしたことが廃り、また忘れられてしまったからである。諸注、それぞれ異なった説を立てているが、『童蒙抄』は、「金村の意趣は知り難けれど、歌の意は聞えたる通の歌にて、古代は旅行などする時、山路深林などを通ふには、きはめて魑魅魍魎《ちみまうりやう》の気を退散せんがために、矢を発し、鳴弦などをせしこと也(略)」といっており、それが最も注意される。『講義』は、矢立の杉すなわち矢を射立ててある杉の諸所にあることを挙げ、『廻国雑記』の標注に、「神に上矢を奉らんとて射立る事なれば、矢立杉所々にある成べし」というを引き、「古くは旅行するものが、その旅中の安全を請ひ、又は卜するが為に、山路などにかゝる際、ある著しき杉などの樹に矢を射立つることのありしならむ」といっている。このことは民俗学の研究の対象の中に加えられ、しだいに明らかになりつついるが、現在のところ、大体上に引いた範囲のことのように思われる。○後見む人は語り継ぐがね 「後見む人は」は、我より後に、ここを通って、この矢を見るであろうところの人はの意。「語り継ぐ」は、言い伝えることで、上代にあっては、人の記憶すべき尊い事、または珍しいことを伝えるには、それが唯一の方法で、ここもその意のものである。「がね」は、『講義』は、「その源は、格助詞の『が』と冀望の終助詞『ね』の合成なりと見ゆれど、後を予期し冀ふ意の一つの体言の如くなれり」といつている。ありたきものよの意。
【釈】 大夫たる我が、弓末《ゆずえ》を振り起こして射たところのこの矢は、後にここを通ってこれを見るであろう人は、その弓勢《ゆんぜい》の強さを、後の世までも語り継いでもらいたいものよ。
【評】 塩津山を越えようとして、上に引いたがごとく、魑魅魍魎を退散せしむる心と、神に道中の安全を祈る心とをもって、そこの立木に矢を一筋射立てた後、我とわが弓勢の強さに誇りを感じて、その心を詠んだものである。大夫をもって任じたことは、武官に限らず文官も等しくもっていた心であり、またその上での名誉を尊んで、後世までも伝えようとしたのは、当時の人の一様にもっていたもので、これもその現われである。「弓上振り起し」と、自身のことを客観的に叙した、一見巧みな句をまじえているがごとくであるが、これは弓勢の強さを具象化しようがためのもので、一首、率直に、直線的な、強い調べをもったものであり、どちらかというと無骨な趣をもった歌である。この当時の、身分の高くない官人の気分を代弁している(158)歌と取れる。
365 塩津山《しほつやま》 打越《うちこ》え去《ゆ》けば 我《わ》が乗《の》れる 馬《うま》ぞ爪《つま》づく 家恋《いへこ》ふらしも
塩津山 打越去者 我乘有 馬曾爪突 家戀良霜
【語釈】 ○塩津山打越え去けば 塩津山を越えて、越前の方へ向かって行けば。○我が乗れる馬ぞ爪づく 我が乗っている馬が、つまずくというので、山路としては、当然ありうる状態である。以上一段。○家恋ふらしも 「家恋ふ」は、家人の我を恋う意と思われる。「らし」は、眼前を証としての推量で、証は「馬ぞ爪づく」である。「も」は、詠歎。この一句の解は、定まっていない。『考』は、下の(四二六)「草枕旅のやどりに誰《た》が夫《つま》か国忘れたる家待真国《いへまたまくに》」を例として、「家」は「家に」の意で、家人を意味させたものと取っている。『攷証』は、「家」は文字どおり家で、馬が家を恋う意だと取っている。いずれにしても上の状態の理由としているもので、構成の上から見ると、『攷証』の解の方が自然にみえるものである。しかるに、これと同想の歌は他にもあって、巻七(二九一)「妹が門《かど》出で入りの河の瀬をはやみ吾が馬つまづく家思ふらしも」、同じく、(一一九二)「白妙ににほふ信士《まつち》の山川に吾が馬なづむ家恋ふらしも」などもあり、この事は当時一般に信じられていたいわゆる俗信であったと思われる。俗信という上よりいうと、馬がその家を恋うがゆえに行きなずみ、あるいはつまずくというのは合理的なことで、家人が旅にある者を気づかうと、その心が旅先に感応し、その当人よりも思慮のない物であるその乗馬の上に現われるということのほうが信仰的で、当時としてはかえって自然であったろうと思われる。自然というのは、魂の感応は、無意識状態でいる夢の中に現われることが多く、また神の畏い諭しは、幼児あるいは童に現われることが多いとしていたのと、同じ系統のものだろうと思われるからである。俗信となり得たのも、理を超えての信仰であったためであろう。「らし」もこれを支えるものである。『考』の解に従う。
【釈】 塩津山を越えて前方へ向かって行くと、わが乗っている馬がつまずいたことである。これは、家人が我を思っているからであろうよ。
【評】 「塩津山打越え去けば」は、この歌にあっては馬のつまずいた場所を示すものであるが、金村からいうと、そこは近江国を越えて越前国へ向かうことをあらわしていることで、いわゆる旅愁を刺激される時であったろうと思われる。おりから馬がつまずくということが起こったので、俗信を想い起こし、それをいうことによって自身の旅愁の当然なことをあらわそうとしたのである。「家恋ふらしも」が、飛躍をもった言い方になっているのは、当時としては誰も知っていることで、いう必要のなかったためと取れ、またいわんとしていることは自身の旅愁であるが、直接にはそれに触れた一語をも用いていないのは、当時としてはこの俗信をいうことによって十分にあらわしうるものとしたがためと取れる。
(159) 角鹿津《つのがのつ》にて船に乗る時、笠朝臣金村の作れる歌一首 并に短歌
【題意】 「角鹿」は、今の敦賀である。ここは日本海へ面した各国へ向かって、海路をとって行くとすると、その基点となっていた所である。当時の旅行は、海路による方が容易なところから、できうる限りはそれによっていた。金村の向かった方面は歌ではわからない。
366 越《こし》の海《うみ》の 角鹿《つのが》の浜《はま》ゆ 大舟《おほふね》に 真梶貫《まかぢぬ》き下《おろ》し 勇魚取《いさなとり》 海路《うみぢ》に出《い》でて あへきつつ 我《わ》が榜《こ》ぎ行《ゆ》けば 大夫《ますらを》の 手結《たゆひ》が浦《うら》に 海未通女《あまをとめ》 塩焼《しほや》く炎《けぶり》 草枕《くさまくら》 旅《たび》にしあれば 独《ひとり》して 見《み》るしるし無《な》み 綿津海《わたつみ》の 手《て》に巻《ま》かしたる 珠《たま》だすき 懸《か》けてしのひつ 日本島根《やまとしまね》を
越海之 角鹿力濱從 大舟尓 眞梶貫下 勇魚取 海路尓出而 阿倍寸管 我榜行者 大夫乃 手結我浦尓 海未通女 塩焼炎 草枕 客之有者 獨爲而 見知師無美 綿津海乃 手二巻四而有 珠手次 懸而之努※[木+貴] 日本嶋根乎
【語釈】 ○越の海の角鹿の浜ゆ 「越の海」は、越に属せる海で、越は古くは、越前より越後へかけての総名であった。ここも広くさしていったもの。「角鹿の浜」は、敦賀の海辺の意で、「浜」はここは海辺の意のもので、港ということを広くいったもの。「ゆ」は、より。○大舟に真梶貫き下し 「大舟」は、大きな舟で、外洋に用いるもの。「其梶」の「真」は、十分の意をあらわす接頭語。「梶」は、舟を漕ぐ物で、今の艪《ろ》にあたるもの。舟の左右に取付ける梶のその全部の梶。「貫き下し」は、取り懸けの意。○勇魚取海路に出でて 「勇魚取」は、海にかかる枕詞。巻二(一三一)に出た。「海路《うみぢ》」は、旧訓。○あへきつつ我が榜ぎ行けば 「あへく」は、息をせわしくつかうことで、下の「ぼうぎ」を修飾したもの。力を尽くすことを具象的にいったもの。「我が榜ぎ」は、事実としては榜ぐのは舟子《かこ》であるが、その舟の主《あるじ》であるところから、自身のこととしていったもの。○大夫の手結が浦に 「大夫の」は、大夫の身に着ける物の意で、「手結」にかかる枕詞。「手結」は、たまきともいい、文字としては「手纏」を当て、「たゆひ」ともいったろうと考証されている。弓を射る時、手に巻く物で、後世の小手《こて》の類だという。枕詞よりの続きはこの手結で、それを同音の地名手結に転じたもの。「手結」は、越前国敦賀郡手結村(敦賀市田結)で、古く手結神社のあった地。「手結の浦」は、今の敦賀より北方一里足らずの海辺の地。○海未通女塩焼く炎 「海未通女」は、「海《あま》」は本来部族の称で、転じて海の業をする者の称となったもの。ここは転じての意のものと取れる。「未通女《をとめ》」は処女の意で、若い女の意で用いているものと取れる。「未通女」としているのは早少女《さおとめ》と同じく、その業に信仰を関係させ、少女のするべきこととしていたところからのものと取れる。「塩焼く炎《けぶり》」は、塩を製するために火を焚いて立てていると(160)ころの煙よの意。以上一段。○草枕旅にしあれば 「草枕」は、「旅」にかかる枕詞。しばしば出た。「旅にし」の「し」は、強め。旅にいるのでで、この旅は妹と別れて独りでする事としていっているもの。○独して見るしるし無み 「独して」は、ここは独りにての意のもの。「見るしるし無み」は、「しるし」は甲斐。「無み」はなくしての意で、浦に立つ塩を焼く煙を、珍しく、甚だ面白いものと見、その面白みを共に喜ぶ妹のいないことを、見る甲斐のないものとしての言。○締津海の手に巻かしたる 「綿澤海」は、海そのものの称でもあり、海をうしはく神の名でもある。二者一だからである。ここは神の名としてのもの。「巻かしたる」は、「巻く」の敬語「巻かす」の連用形に「たる」を続けたもので、巻いていらせられるの意。神あるいは尊い人が、手足に玉を巻いているのは上代の風俗で、海中にある玉を手玉と見ての言。この二句は、下の「珠だすき」という枕詞の、その「珠」の一語にかかる枕詞である。○珠だすき懸けてしのひつ 「珠だすき」は、玉を装飾とした襷《たすき》で、既出。襷の肩にかける物であるところから、下の「懸け」へ意味でかかる枕詞。「懸けてしのひつ」の「懸けて」は、心にかけて。「しのふ」は、思い慕う意。〇日本島根を 「日本」は、ここは大和に当てたもの。「島根」は、上の(二五五)の倭島と同じ意のもので、全体で大和国の意。これは大和の家にいる妹ということを、婉曲に言いかえたもので、型のごとくなっていた言い方である。
【釈】 越の海の敦賀の港から、大舟に左右の艪《ろ》のすべてを取り懸け、海路に出て、喘ぎ続けてわが榜いで行くと、大夫の身に着ける手纏《たゆい》というその手結《たゆい》の浦に、海未通女《あまおとめ》が塩を焼くとて立てている煙の珍しく面白さよ。今は旅にいることとて、われ独りで見て見る甲斐がなくして、海の神の手に巻いていらせられる玉という名をもった玉襷の、心にかけて共に見たいものよと思い慕った、大和島根の家にいる妹《いも》を。
【評】 長歌は本来、抒情の背景としての叙事をもしなければ、その抒情が徹底しない場合に作るもので、その必要があって用いる形式で、興味よりのものではない。この長歌は、越の海の手結の浦に立つ、塩焼く煙の面白さを中心とし、それに伴う連想として家郷の妻を思ったものである。それは平生大和国に住んでいる金村からいうと、珍しく、したがってはなはだ面白いものであったろうとは察しられるが、要するに取材としては単純なものである。そのことは、この長歌を繰り返した形の次の反歌で、ほぼ同じ心を言いつくしているのを見ても明らかにわかることである。その点からいうとこの長歌は、長歌という形式を用いるまでの必要のない場合に、興味によって用いたものといえる。この時代には長歌はすでに衰えつつあったので、金村の興味は、その衰えがたの長歌を作ることによって、文芸性を発揮しようとするところにあったものと見られる。技巧の上から見ると、この歌は二段から成っていて、第一段は、「大夫の手結が浦に海未通女塩焼く炎」までで、そこで切れている。起首から重く言い起こして言い続けているのは、結局これをいおうがためであるが、その捉えているところは、作者に同情して割引して見ても、平凡な、また単純な風景で、それまでにふさわしくない軽いものである。その「炎」に余情をもたせて言いきり、しかも飛躍して「草枕旅にしあれば」と転じさせているのは、その風景をきわめて重く扱おうとしていたことがわかる。風景のもつ趣が、独立して歌の対象となり得たのは、その起こりはやや古いにもせよ、大体この時代に高まってきたもので、(161)その点からいうと、金村の風景に対するこの態度は新味のあるもので、そこに文芸性があるといえるものである。また、「綿津海の手に巻かしたる珠だすき懸けて」は、いったがように枕詞に序詞を冠したもので、甚だ技巧的なものである。その序詞は海に関係させてのものであるから、その用意をもしたものと思われる。この技巧が作意にとって、はたして妥当なものかどうかは問題となりうるもので、必ずしも妥当とはいえないものである。とにかくここには極度に技巧を喜んだ跡が見えるのであって、これも文芸性を求めたものといえる。歌としての価値は高くはないが、作歌態度として時代の尖端を行こうとしたところの見えるものである。
反歌
367 越《こし》の海《うみ》の 手結《たゆひ》の浦《うら》を 旅《たぴ》にして 見《み》れば乏《とも》しみ 日本《やまと》思《しの》ひつ
越海乃 手結之浦矣 客爲而 見者乏見 日本思※[木+貴]
【語釈】 ○旅にして見れば乏しみ 「旅にして」は、ここは旅にありての意のもの。「乏しみ」は、「乏し」は、めずらしく愛すべきという意。「乏しみ」は、乏しくして。
【釈】 越の海の手結の浦を、旅にあって見ると、その風景のめずらしく愛すべくして、大和の家にある妹に見せたく思い、妹を思い慕った。
【評】 長歌の心を要約して繰り返した形のもので、反歌としては、人麿以前へ立ちかえった古風なものである。長歌では、手結の浦の「塩焼く炎《けぶり》」に力点を置いたのを、これは、「手結の浦」の中に取り入れているのがおもなる違いである。
石上《いそのかみの》大夫の歌一首
368 大船《おほふね》に 真梶《まかぢ》繁貫《しじぬ》き 大君《おほきみ》の 御命《みこと》恐《かしこ》み 礒廻《いそみ》するかも
(162) 大船二 眞梶繁貫 大王之 御命恐 礒廻爲鴨
【語釈】 ○大船に真梶繁貫き 「繁」を、「しじ」と訓んだのは『代匠記』である。この二句は成句となり、巻十五(三六一一)「於保夫祢尓麻可治之自奴伎《おほふねにまかぢしじぬき》」以下、同(三六二七)、巻二十(四三六八)にも、同様に仮名書きのものがある。大船に、左右の艪《ろ》の数多を取り懸けて。○大君の御命恐み この二句も成句となっているもので巻一(七九)に出たのを初めとして、集中に多いものである。天皇の仰せ言を謹み承っての意で、古来わが臣民の絶対のこととして行なっているところのものである。○礒廻するかも 「礒廻《いそみ》」は、旧訓「いさり」。『童蒙抄』の訓。「いそみ」という仮名書きの例は一つもないが、礒廻の類語としては、「浦廻」「礒回」「湾廻」「島回」「島廻」などがあり、一方、訓の方では「浦|箕《み》」「宇良未《うらみ》」というのがあり、これは「浦廻」と同じであると取れる。「回」「廻」はいずれもめぐりの意であり、上の(三六二)には「石転《いそみ》」ともあって「転」も同様である。礒廻は、事としては礒めぐりということで、形としては名詞である。意味としては、礒は荒磯の磯と同じく石であって、この場合、海岸に連なっている岩をいっているもので、海岸ということを、その場合の必要に応じるために具象的にいったものと取れる。また当時の航海は、海上の風波を避けるために、できうる限り海岸に沿って舟を進めていたことは集中の歌によって明らかなので、航海はその状態としては磯めぐりであったと取れる。「礒廻する」は、名詞「礒廻」に「す」を添えて動詞としたもの。「かも」は、詠歎。
【釈】 大船に左右の艪の数多あるのを取り懸け、天皇の仰せ言を謹んで承り、礒めぐりをすることであるよ。
【評】 どういう際の歌であるかは明らかではないが、次の「和《こた》ふる歌」によると、石上大夫が任地に在って、その任を行なうための航海をする際のものであったと取れる。また、歌から見ると、その任地は海に接しており、その海は、航行するには危惧《きぐ》の念を抱かせるものであったことが察しられる。また、任地は地方であり、地方官は国司であるが、国司はその任として国内を巡視しなければならないものである。さらにまた、当時の旅行は、陸路よりも水路の方が比較的安易なところから、できうる限り水路を取るのが普通であった。この歌は国司としての石上大夫が、その任である国内巡視をするために、海路を取っての旅をし、その海のやや危険な怖れのあるのに対して、自身の現在を強く意識し、大君の御言を恐むとともに、海路のたやすからぬを言いあらわしたものと解される。「大船に真梶繁貫き」は、国司としての旅の威厳と、海路の安全を信ずる心との一つになった、複雑した味わいのものに取れる。「礒廻するかも」には、いわざる嘆きがある。
右、今案ずるに、石上朝臣乙麿越前の国守に任《ま》けらえき。盖この大夫か。
右、今案、石上朝臣乙麿任2越前國守1。盖此大夫歟。
【解】 「石上朝臣乙麿」は、左大臣石上麿の子で、続日本紀によると神亀元年二月正六位下より従五位下を授けられたのを初めに、(163)天平勝宝元年七月中納言に任ぜられ、同二年九月に薨じ、記事には、「中納言従三位兼中務卿石上朝臣乙麿薨、左大臣贈従一位麿之子也云々」とある人である。その間、天平十一年には事によって土佐国に流され、同十八年には常陸守に任ぜられたことなどあるが、ここにある越前守に任ぜられたことは続日本紀には載っていない。この左注はよるところのあるもので、続日本紀には漏れたのだろうとされている。したがって歌は、越前守として在任した時のものと取れる。
和《こた》ふる歌一首
369 物部《もののふ》の 臣《おみ》の壮士《をとこ》は 大王《おほきみ》の 任《よさし》の随意《まにま》 聞《き》くとふものぞ
物部乃 臣之壯士者 大王之 任乃隨意 聞跡云物曾
【語釈】 ○物部の臣の壮士は 「物部」は、朝廷に仕えまつる文武百官の総称で、巻一(五〇)に出た。「臣の壮士」は、「臣の」は大君の臣としての意。「壮士」は齢《とし》の盛りの男の意。これは「臣《おみ》のをとめ」という語もあって、それに対しての語で、特殊な称ではない。○大王の任の随意 「大王の」は、天皇の。「任《よさし》」は、旧訓。『代匠記』は「まけ」と改めた。『古事記伝』は「まけ」につき、「まけ」は京より他国《よそくに》の官に令罷《まからする》意で、「御まからせ」を約《つづ》めて「まけ」というのだといっている。文字も『類聚名義抄』に「退給」を「まけたまへ」、本集、巻十三(三二九一)には、「遣《まけ》の万万《まにまに》」となっている。「任」は、巻二(一九九)に、「皇子ながら任《よさし》賜へば」とあり、御委任の意である。「任の随意」は、御委任のとおりにの意。○聞くとふものぞ 「聞くとふ」は、『考』の訓。ここの聞くは、諾《うべな》い従う意のもので、巻四(六六〇)「汝《な》をと吾《わ》を人ぞ離《さ》くなるいで吾君《あぎみ》人の中言《なかごと》聞きこすなゆめ」を初め、例のあるものである。
【釈】 物部《もののふ》の臣《おみ》の壮士《おとこ》たる者は、天皇の御委任のとおりに、いかなることをも諾い従うべきものであるぞ。
【評】 石上大夫の、「大王の命恐み」とはいっているが、「礒廻するかも」と嘆きをもっていってもいる、その心を汲み取って、激励する心を述べたものである。「任の随意」ということは、国司の立場からいうと、命じられている任務ということにあたるので、国司としての任務の一つである、領内の巡視ということではないかと思われる。「和ふる歌」というので、大夫と一つ所にいた人で、心の雄々しい人であったことはわかる。従者としてではなく、ほぼ対当に近い、親しい関係の人であったろうと思われる。それのいかなる人であったかは、左注に関係する。
右は、作者いまだ審ならず。但笠朝臣金村の歌の中に出づ。
(164) 右、作者未v審。但笠朝臣金村之歌中出也。
【解】 『代匠記』は、「歌」の次に「集」の字が脱したのではないかといっている。正確を旨とする注であるから諾われることである。この注は右の歌一首についてのものであるが、「和ふる歌」は、それに先立つ「唱ふる歌」がなければ存在し難いものであるから、金村の歌集の中には、何らかの形で石上大夫の歌も載っていたのではないかと想像される。「大夫」という称もそれだとふさわしいものとなる。なお、上の金村の歌は敦賀においてのものであり、この二首もその次《なら》びにある関係上、金村の敦賀へ旅した時は、石上大夫の越前国司としての在任中であったのではないかと想像される。
安倍広庭卿の歌一首
【題意】 「安倍広庭」は、上の(三〇二)に出た。
370 雨《あめ》零《ふ》らず との雲《ぐも》る夜《よ》の 潤《ぬ》れ湿《ひ》づと 恋《こ》ひつつ居《を》りき 君《きみ》待《ま》ちがてり
雨不零 殿雲流夜之 潤濕跡 戀乍居寸 君待香光
【語釈】 ○雨零らずとの雲る夜の 「雨零らず」は、原文「雨不零」。旧訓「雨零らで」。『講義』の訓。この当時は「で」という打消は行なわれていなかったと思われるというのである。雨ふらずしての意。「との雲る」は、「たな曇る」ともいい、集中に例の多い語。全面的に曇る意である。「夜の」の「の」は、夜のこととての意。二句、雨は降らずして、全面的に曇っている夜のこととてで、今にも雨が降り出しそうな状態を叙していっているもの。○潤れ湿づと 旧訓「潤《ぬ》れ湿《ひ》でと」を、『代匠記』の改めたもの。「湿づ」は、浸《ひた》る意。濡れひたると思つての意。これは、もし雨が降り出したならば、当然そうなると思ったので、その濡れひたるのは、結句の「君待ちがてり」の「君」と呼ばれる人である。すなわちその人は、こちらに来ようとして、途中にいるものとしての言。○恋ひつつ居りき 「恋ふ」は、男女間だけではなく、親子友人など親しい者の間にもいった。ここは、「君」という人に対していっているので、雨に逢いはしないかと思って案じることをいったもの。 ○君待ちがてり 「がてり」は、一つの事をしながら、傍ら、他の事をも兼ねてする意の語で、現在の口語としての「がてら」と同じ。君の来られるのを待つ傍らの意。この「君」は、広庭の友人関係の人であると取れる。
【釈】 雨は降らないが、全面的に曇っている夜のこととて、降り出したら濡れひたることと思って、案じつづけていた。君の来るのを待つ傍ら。
【評】 広庭が、来訪を約束してある友を待ち得た時、その喜びをいった歌で、日常語をもってする挨拶の代わりに、歌をもっ(165)てしたものである。これは当時の貴族とすると、むしろ普通なことであったとみえる。歌の上からいうと、歌を実用性のものとして扱っていることである。一首の心は、単純なものであるが、歌としてはやや解しにくいものとなっているのは、実際に即そうとする心が強く働いているためである。実際というのは、友である人の訪問しようと約束してあった夜は、偶然にも雨もよいの空となり、しかも今にも降り出そうとしたのであるが、降らないうちに来たということで、初句句は、その天候の特殊さをいったもの。三、四句は、途中のほどを案じつづけたことを、「恋ひつつ」と強め、「き」と過去にして強めていい、結句において、それらを総括して来訪の喜びをいったものである。解し難い感のあるのは、つぶさに実際に即そうとしたためで、即すことはすなわち心を尽くすことだったのである。この微細は、時代を思わせるものである。また、この歌は、『考』の注意しているように、相聞の範囲に属すべきものである。
出雲守|門部王《かどべのおほきみ》、京を思ふ歌一首 後に大原真人の氏を賜ふ
【題意】 「門部王」は、上の(三一〇)に出た。王の「出雲守」に任ぜられたことは、続日本紀には見えない。漏れたのである。
371 飫《おう》の海《うみ》の 河原《かはら》の千鳥《ちどり》 汝《な》が鳴《な》けば 吾《わ》が佐保河《さほがは》の 念《おも》ほゆらくに
飫海乃 河原之乳鳥 汝鳴者 吾佐保河乃 所念國
【語釈】 ○飫の海の 「飫の海」は、巻四(五三六)に、同じく門部王の「飫宇《おう》の海の潮干の潟の片念《かたもひ》に」にある、その「飫宇」と同所であろうという。「飫」は「お」の仮名に用いている字なので、それだと「宇」が脱したのではないかと『槻落葉』はいっている。これを出雲国の地名とすると、出雲風土記の意宇郡にあたる。今は島根県能義郡と八束郡にわたる地で、そこは中の海および宍道湖《しんじこ》の南岸の地である。○河原の千鳥 「河原」は、上よりの続きから見て、「河」に接した所にあるもので、河の名をいわずとも、それとわかるものであったことが知られる。『講義』は、当時の国府すなわち守の居た地は、今の八束郡|出雲郷《あだかい》村|府敷《ぶしき》という所で、そこは中の海の西南隅に近い所だという。また、国府に近く、東を流れて中の海に注ぐ意宇川という川があるといっている。「河原」とは、その意宇川の河原と取れる。「千鳥」はすでに出た。呼びかけとなっている。○汝が鳴けば 上の(二六六)「淡海の海《うみ》夕浪千鳥汝が鳴けば情《こころ》もしのに古《いにしへ》念ほゆ」に出た。お前が鳴くので。○吾が佐保河の 「吾が」は、親しんで添えたもので、親しむのは、そこに王の邸があるためと取れる。「佐保河」は、今の奈良市の北にある佐保の地から発し、古の平城京の間を流れ、初瀬川と合して、大和川となる川。○念ほゆらくに 「念ほゆらく」は、「念ほゆる」に「く」の添って名詞形となったもの。「に」は、詠歎で、思われることであるをの意。
【釈】 飫宇《おう》の海に接している意宇川の河原に鳴いている千鳥よ。お前がそのように鳴くので、さまを同じくしている、わが家の(166)ある辺りの佐保川が思われることであるを。
【評】 出雲にあって千鳥の声を聞き、それに刺激されて旅愁を催し、故里である奈良の佐保川の千鳥を連想しきたるというので、その心はきわめて自然である。あらわし方も、「飫の海の河原の千鳥」とおおらかにいって、国府のほとりの意宇川の河原を明らかにあらわしているところ、また「吾が佐保河の」と、佐保河に「吾が」を添えるというおおらかな方法によって、故里を具象的にあらわしているところなど、手腕の認められるものである。一首、いわゆる景情の一つに溶け合った作である。この歌は、上に引いた「淡海の海夕浪千鳥」と通うところのあるもので、年代的に見てその影響を受けているものと思われる。今二首を較べると、「淡海の海」は大景に対して古の御世を思ったもの、これはおそらく聞きなれた千鳥の声を耳にして遠情を誘われ、それを故里につないだもので、大小の差はあるが、それを割引して見ても、前の歌の主観的に、線が太く、盛り上がってくるもののあるのに較べると、後のこの歌は、即物的に、線が細く、沁み入らんとするものをもっているという相違がある。このことは、この門部王の歌だけに限ったことではなく、時代的傾向と見られるものである。この歌は上にいった関係で、比較されやすく、したがって相違が目立つというにすぎないものである。
山部宿禰赤人、春日野に登りて作れる歌一首 并に短歌
【題意】 『童蒙抄』を初め『考』『槻落葉』など、「春日野に登りて」というを問題とし、「野」は「山」の誤りであろうといっている。『古義』はそれらに反対して、山上の野であるから登るといったのである、高円の岑上《おのえ》の宮とも、野上の宮ともいい、ことに二十巻の題詞には、「各壺酒を提げて、高円の野に登り、聊所心を述べて作れる歌」ともあるといっている。『講義』は古、春日野といったのは、今よりは広く、若草山あたりまでをこめていたのだろうといっている。
372 春日《はるひ》を 春日《かすが》の山《やま》の 高座《たかくら》の 御笠《みかさ》の山《やま》に 朝《あさ》離《さ》らず 雲居《くもゐ》たな引《び》き 容鳥《かほどり》の 間無《まな》く数鳴《しばな》く 雲居《くもゐ》なす 心《こころ》いさよひ その鳥《とり》の 片恋《かたこひ》のみに 昼《ひる》はも 日《ひ》の尽《ことごと》 夜《よる》はも 夜《よ》の尽《ことごと》 立《た》ちてゐて 念《おも》ひぞ吾《わ》がする あはぬ児《こ》故《ゆゑ》に
春日乎 春日山乃 高座之 御笠乃山尓 朝不離 雲居多奈引 客鳥能 間無数鳴 雲居奈須 心射左欲比 其鳥乃 片戀耳二 晝者毛 日之盡 夜者毛 夜之盡 立而居而 念曾吾爲流 不相兒故荷
(167)【語釈】 ○春日を春日の山の 「春日を」の「を」は、詠歎の意のものであるが、「の」に近い意をもっているもの。春の日の霞むという意で、「春《かす》」に続き、それを地名に転じての枕詞。「春日の山」は、現在奈良市の東にある山で、峰を三つもっている山。○高座の御笠の山に 「高座」は、高く構えたところの座の称で、この語によって思われるのは、天皇の御即位の際、毎年の正月、群臣の朝賀を受けさせられる際などに用いさせられる高御座《たかみくら》である。これには、後ろより覆う御笠《みかさ》があるので、意味で御笠の枕詞としたものだといってきた。しかるに『講義』は、高御座を枕詞とするのは恐れ多いことであり、また一方、当時は僧が重んじられており、宮中で斎会《さいえ》が修せられる際は、講師、読師のために「高座」を設けたことが、『延喜式』の「図書寮式」、また「内匠寮式」に出ている。それにも「蓋」があった。その蓋も御笠と言いうるものである。「高座」はそれではないかと説を立てている。「御笠の山」は、春日山の西の蜂で、今、若草山をそれとするのはあたらない。上二句とこの二句の続きは、総じていうと春日の山で、その中に御笠の山も含まっているのである。○朝離らず雲居たな引き 「朝離らず」は、朝ごとにの意。「雲居」は、雲の居る所、すなわち空の意で用いられる語であるが、転じて、雲そのものの意でも用いられている。ここは雲の意のもの。「たな引き」は、靡き。○容鳥の間無く数鳴く 「容鳥」は、今の何鳥であるか明らかにされていない。集中に例が少なくなく、晩春頃から鳴く鳥で、数鳴《しばはな》く鳥とされている。『考』は、今のかっぽうどりで、喚子鳥《よぶこどり》ともいわれた鳥で、かぽうかぽうと鳴くところから容鳥《かおどり》と呼ばれたのであるという。この鳥は、下の続きでは、片恋する鳥だとされているが、かつぽうどりはその習性として、一つ所にとどまっていて、同じ調子を繰り返していつまでも鳴くので、「数鳴く」といい、「片恋」をするといわれるにふさわしい鳥である。また季節も、晩春に来て夏までいる鳥である。『考』の解に従うべきであろう。後世、閑古鳥というのも同じ鳥である。「間無く」は、絶え間なく。「数鳴く」は、「しば」はしばしばで、ここはしきりにの意。以上、一段。○雲居なす心いさよひ 「雲居なす」は、「雲居」は上を承けたもの。「なす」は、のごとくの意で、雲を動いてやまぬものとして、「心」の譬喩としたもの。「心いさよひ」は、「いさよひ」は進もうとしてためらう意で、心がそのようになっていての意。これは恋の上の煩悩をいったもの。○その鳥の片恋のみに 「その鳥の」は、「その」は上の容鳥をさしたもの。「の」は、「のごとく」の意のもの。「片恋のみに」は、「片恋」は上にいったように、その鳴く状態から連想してのことで、当時一般にいわれていたことと取れる。それには、鳥というものを、後世よりも重く見ていたことも伴っていることと思われる。「のみに」は、片恋という状態ばかりで。○昼はも日の尽 「昼はも」の「も」は、詠歎。「日の尽」は、一日じゅうすべてで、ただひたすらにという意を具象化したもの。○夜はも夜の尽 上と対句にして、強めたもの。○立ちてゐて念ひぞ吾がする 「立ちてゐて」は、立つたり坐ったりしての意で、懊悩して心の落着けない状態を具象化したもの。「念ひぞ吾がする」の「念ひ」は、嘆きで、嘆きばかりをしていることであるの意。○あはぬ児故に 「あはぬ」は、わが求婚に応じないところのの意。「児」は、女を親しんでの称。「故に」は、理由をいったもので、よっての意。
【釈】 春日を春日の山の中の、高座の御笠の山には、朝ごとに雲が靡《なび》いて、容鳥《かおどり》が絶え間なくしきりに鳴いている。その雲のさまのごとくに、わが心も進みかねてためらい、その容鳥のごとくに、我もまた片恋ばかりの状態で、昼は一日じゆう、夜は夜っぴて、立つたり坐ったりして、嘆きばかりをしていることであるよ。わが求婚に応じない愛すべき女によって。
【評】 求めて得られない恋の煩悩を、我と我にいう態度で作った歌である。この歌は二段から成っていて、第一段は、「数鳴(168)く」までである。起首よりそこまでは、純粋な叙景であって、抒情を意図してのものではない。結果から見ると、この段でいっている「雲居」と「容鳥」とは、第二段の抒情の譬喩となっているのであるが、それは結果であって、原因からいうと、成心なく風物に対しており、その風物の中に、特にわが心に通いくるものを認めうると、それを借りて心の具象化に向かうのであって、これは上代からの伝統となり、型のごとくにもなっていることである。ここもそれである。赤人が抒情を念とせず、風物を眺めようとする心のみをもって向かっていたことは、無意識に用いたと思われる語句の中にも見える。「朝離らず雲居たな引き」といっているのは下の「心いさよひ」の譬喩となり得たように、雲が、朝、山から離れようとして動いている時である。また「容鳥の間無く数鳴く」も、鳥類は容鳥に限らず、すべて朝の目覚めが早いものであるから、これも早朝のさまとして、一に即物の心をもって言い続けたものと取れる。第一段は純粋の叙景であるというのは、この意味からである。第二段の抒情は、第一段の風物の中で特に心に通いきたった「雲居」と「容鳥」によって、懊悩している心の具象化を志したのであるが、それは抒情のきっかけを得たにすぎないもので、いわんとする中心は、「立ちてゐて念ひぞ吾がするあはぬ児故に」で、風物とはつながりのないものとなっているのである。さらにこの歌を、一首全体として見ると、この歌のもっている事件は、「あはぬ児故に」というものだけで、事件とは称し難いものである。長歌という形式は、叙事をまじえることによって抒情を徹底させようという要求の下に用いられるものであって、この歌のごとき場合には、その要のないものである。「あはぬ児故に」というだけの嘆きであれば、短歌で事が足りるといえる。それにもかかわらず長歌形式を用いたのは、その好むところの叙景をしようとし、それをもって叙事に代えようとしたがためと思われる。その結果から見ると、赤人の長歌に往々にまじる、稀薄なものとなりおわったのである。
反歌
373 高※[木+安]《たかくら》の 三笠《みかさ》の山《やま》に 鳴《な》く鳥《とり》の 止《や》めば継《つ》がるる 恋《こひ》もするかも
高※[木+安]之 三笠乃山尓 鳴鳥之 止者繼流 戀哭爲鴨
【語釈】 ○高※[木+安]の三笠の山に鳴く鳥の 「鳴く鳥」は、長歌との関係においていっているもので、容鳥である。したがってその鳴くのは、片恋の苦しさの訴えである。「の」は、のごとくの意のもの。○止めば継がるる恋もするかも 「止めば」は、今まで鳴きつづけていた容鳥が、鳴きやめると。「継がるる」は、続けられるで、その事のおのずからに行なわれる恋。これは違体格で、次の「恋」につづいている。「恋」は、わが恋であるが、容鳥と緊密に関係させたもので、片恋である。「恋もするかも」は、「も」は詠歎で、そうした恋をも我はすることであるよの意。
(169)【釈】 高※[木+安]の三笠の山に片恋に鳴いている容鳥《かおどり》のごとく、それが鳴きやむと続けられるところのその片恋を、我のすることであるよ。
【評】 この反歌は、長歌との関係において成立ちうるもので、独立性のないものである。それは「鳴く鳥」が容鳥であり、「恋」がそれの片恋であることによって意味をなすものだからである。すなわち長歌の繰り返しという、人麿以前の古風なものなのである。しかしこの歌は、景と情との融合を極めたもので、その緊密な程度は異とすべきものである。それは「容鳥の」の「の」は、文字どおりに「止めば継がるる恋も」と続き、単に容鳥の上をいったものと見ればそうも見られ、その「恋も」にわが恋をこめ、「するかも」の詠歎によって言いおおせたとすれば、そう見られるのみならず、かえって含蓄の多い、広がりをもったものとなるのである。今は「の」を、のごとくの意と解したのであるが、それだと味わいの上では劣るが、心としては平明な解しやすいものとなってくるのである。こう解そうとしたのは、この歌を長歌の一部とせず、独立した一首の歌と見ようとするがためで、それがまた赤人の反歌の風でもあろうと思われるからである。こうした疑いを起こさせるのは、要するに赤人の景情の融合が緊密であるからで、この面における感性と表現力の卓越しているがためである。
石上乙麿朝臣の歌一首
【題意】 「乙麿」のことは(三六八)左注に出た。「朝臣」とあるのは、乙麿は中納言従三位となったので、卿とすべきであるが、この歌を作った時は四位であったからであろうと『講義』は注意している。
374 雨《あめ》零《ふ》らば 着《き》むと念《おも》へる 笠《かさ》の山《やま》 人《ひと》にな着《き》しめ 宿《ぬ》れは漬《ひ》づとも
雨零者 將盖跡念有 笠乃山 人尓莫令盖 霑者漬跡裳
【語釈】 ○雨零らば着むと念へる 「着む」は、下の「笠」についていつたもので、身に着ける意で、今だとかぶる意である。昔の笠は、その普通の物は着るといっていた。また、大笠という物もあって、それに柄がついており、これだけは「さす」といったが、それは三位以上に許されている特殊な物であった。二句、雨が降ったならば、着ようと思っているで、意味で、下の「笠」へ続くもの。○笠の山 『代匠記』は三笠山としている。『攷証』は、一説として、『大和志』に、城上郡笠村(桜井市笠)にあり、「巒峰如v笠」とあって、それによっての名だというが取らないといっている。『講義』はその捨てた説を取り、その村は、初瀬の北から石上へ通ずる路にあたっており、藤原不比等の創建という笠寺のある地である。おそらくはその山だろうといっている。それだと、笠の山が歌因であって、その山に対しての抒情である。しかし抒情は、山そのものに対してではなく、山の名の「笠」という一語に対してだけのものとなっている。「笠の山よ」と呼びかけたもの。○人にな着しめ 『古義』の訓。(170)「そ」にあたる字がないので、必ずしも「そ」を添えてよまなくてもいいのである。我以外の者には着させるなの意。○霑れは漬づとも 「霑れは漬づ」は、「は」は、強め。「漬づ」はすでに出た。たとい甚しく濡れて濡れそぼとうともの意。
【釈】 雨が降ったならば、わがかぶろうと思っている笠の、その笠という名をもった笠の山よ。我以外の者にはかぶらせるなよ、たとい濡れて濡れそぼっていようとも。
【評】 笠の山に呼びかけていっているのであるから、山に対しての抒情であることは明らかである。しかし抒情の因をなしているのは、「笠」という一語に対してであって、無理な感のないではないが、その山の形が笠に似ているところからのこととすると、緩和されるところがある。笠を女に譬え、その女をわがものとすることをわが笠にするという心の歌は、集中に少なくないもので、流布して常識となっていたものと取れる。その点からいうとこの歌は、譬喩歌に似たところがある。すでにそうした解もあるところから、『古義』は、これは譬喩歌ではなく、山の面白さを愛でていったものだとも注意している。いったがように「笠の山」と呼びかけていっているので、そう見るほかはない。大体、自然の風物に見入り、その刺激によって発してくる心を、その風物に絡ませて具象するというのが、この時代の建前である。この歌もそれで、笠の山の、その形の笠に似ているところに興をもち、その笠より連想されてくる、この時代の民謡的常識を詠んだものと取れる。すなわち実景に即しての連想であって、いうところの譬愉歌とは根本を異にしているものである。さらにいえば、譬愉以前の歌である。これは主として時代のさせていることである。
湯原王《ゆはらのおほきみ》、芳野にて作れる歌一首
【題意】 「湯原王」は、天智天皇の御孫、施基《しき》親王の御子である。施基親王は、その御子の光仁天皇が御即位になった後、追尊して田原天皇と申したので、湯原王は田原天皇の御子弟である。また、光仁天皇は御兄弟を親王とされたので、ここに王というのは、光仁天皇御即位以前の称である。湯原王の歌は、この巻に三首、巻四に八首、巻六に三首、巻八に五首あり、すべてで十九首が伝わっている。
375 吉野《よしの》なる 夏実《なつみ》の河《かは》の 川《かは》よどに 鴨《かも》ぞ鳴《な》くなる 山影《やまかげ》にして
吉野尓有 夏實之河乃 川余杼尓 鴨曾鳴成 山影尓之弖
【語釈】 ○吉野なる夏実の河の 「吉野なる」は、吉野にあるところの。「夏実の河」は、吉野川が菜摘の地を流れる間の称で、そこは吉野宮のあ(171)った宮滝よりは上流、東十町ばかりを溯った、今、吉野町菜摘の地である。この辺りで吉野川は彎曲し、半島状に一地域を繞っているが、菜摘はその尖端にあたっている。ここは吉野でも佳景とされ、集中に他にも歌があり、懐風藻の詩にも扱われている。○川よどに 「川よど」は、川の流れの澱《よど》んだところの称。これは河流の彎曲した所にできるものである。この澱は今もある。○鴨ぞ鳴くなる 鴨が鳴いていることであるの意。○山影にして 「影」は、陰に当てた字。「にして」は、ここは、においての意のもの。山陰においてというのは、作者の今いる所からは、山を隔てた、その陰にあたっての意。
【釈】 吉野にある夏実の河のその川澱に、鴨が鳴いていることである。ここからは山陰にあたって。
【評】 「吉野なる夏実の河の川よどに」と、大景より小景へと、しだいに狭められ、そこに「鴨ぞ鳴くなる」という形のない、いささかなものを据えられ、さらにそれを「山影にして」という間接なものにさえされた歌で、その取材の上にも、手法の上にも、特色のあるものである。鴨の鳴き声は、常識からいえば愛すべきものとは思われないが、この歌はそれを捉えて一首とされ、しかも抒情の一語をもまじえずして、感の通った、気分のあるものとされていることが注意される。鴨は渡り鳥で、冬季に来る鳥であるから、この歌を作られた時は冬である。静寂を極めた吉野の谿谷の、夏実の佳景において聞く鴨の鳴き声は、環境の力に引き立てられて印象的なものに感じられ、一種の気分を醸させたものと取れる。それにしても、鴨の声そのものを一首の歌にするということは、実際に即する心が強くなければできないことである。さらにまたこの歌で注意されることは、気分のおおらかに明るく、語《ことば》続きの順直を極めていることであるが、これはあくまでも実際に即そうとする態度からきているもので、「山影にして」ということは、その態度からでなければいわれないものである。感としてはさして際やかではないものが、十分に抒情味をもったものとなっているのは、この態度のためだといえる。描写そのものによって抒情を遂げるということは、文芸性の高上であって、この時代の新風である。
湯原王、宴席の歌二首
376 秋津羽《あきづは》の 袖《そで》振《ふ》る妹《いも》を 玉《たま》くしげ 奥《おく》に念《おも》ふを 見賜《みたま》へ吾君《わぎみ》
秋津羽之 袖振妹乎 珠匣 奧尓念乎 見賜吾君
【語釈】 ○秋津羽の袖振る妹を 「秋津羽」の「秋津」は、蜻蛉で、「羽」は、羽根。蜻蛉の羽根の意で、その薄く、軽く、美しいのを、それに似た羅《うすもの》の譬喩とし、進めて、直接に羅の意としたもの。類語として「蜻領巾《あきつひれ》」という語もある。「袖振る」は、舞を舞うことを具体的にいったもの。「妹」は、ここは、侍女を親しんでいっているものと取れる。羅の袖を振って舞う、わが女をの意で、宴席の興を添えさせようとして、侍女に舞(172)を舞わせたのをさしていっているもの。○玉くしげ奥に念ふを 「玉くしげ」は、巻二(九三)に出た。「玉」は、美称。「くしげ」は、櫛笥で、櫛を初め化粧用品を入れておく筥《はこ》の称。筥であるところから、奥と称すべきところもあるとして、奥と続けて、その枕詞としたもの。「奥に念ふ」は、「奥に」は、内外と対させていう、その内にあたる語で、『代匠記』は秘蔵の意だといっている。類語として「奥妻《おくづま》」「奥まへて吾が念《も》ふ君は」などがあり、意は同じである。二句、秘蔵に思っている者をで、上の二句を、角度を変えて繰り返していったもの。○見賜へ吾君 「見賜へ」は、見て興《きよう》とし給えよの意。「吾君」は、きわめて親しみ尊んでの呼びかけ。
【釈】 蜻蛉羽《あきづは》の羅《うすもの》の袖を振って舞を舞うわが女を、わが秘蔵に思っている者を、見て興とし給えよ、吾君《わぎみ》よ。
【評】 「吾君」と呼ぶ親しい客に、宴を設けてもてなした時、王の侍女と思わせる者に、宴席の興を添えるために舞わせた際の、王の挨拶として詠んだ歌である。人に物を贈る時に、その物の良い物であること、あるいはその物を得るに労苦したことをいうのは、上代の風であったのと同じく、ここも、今舞わせている女は、我にとっては軽くない者だというのが礼であって、その心をもって詠んだものである。それにしても歌に現われているところは、王がいかにその女を愛しているかを、あらわに、濃厚に出しているものである。初二句は女の愛すべきさまをいい、三、四句は女に対する王の心をいったもので、「玉くしげ」の枕詞のごときは、その上では妥当を極めたものである。女の美しさを重んじるのは時代の風で、こう言い、言わるることが、主客とも喜びであったろうと思われる。必要のあっての挨拶の歌で、実用性のものであるが、一首が柔らかく、神経がとおっていて、品位を保ち得ている作である。
377 青山《あをやま》の 嶺《みね》の白雲《しらくも》 朝《あさ》にけに 恒《つね》に見《み》れども めづらし吾君《わぎみ》
青山之 嶺乃白雲 朝尓食尓 恒見杼毛 目頬四吾君
【語釈】 ○青山の嶺の白雲 「青山」は、樹木のために青く見える山。「嶺の白雲」は、山頂にかかっている白雲で、普通、雲の峰にかかるのは夜で、朝にまで及ぶ。○朝にけに 「け」は、日。「朝にけに」は、朝々にというに同じ。山の雲の最も印象的なのは朝であるから、ここもその意で、感覚的にいったもの。○恒に見れどもめづらし吾君 「恒に」は、ふだんにで、「朝にけに」を強める意で繰り返したもの。「めづらし」は、「愛《め》づらし」で、良いものは飽かせない意をもっていったもので、初句よりこれまでは、「吾君」に対する親愛の情をいうための譬喩。「吾君」は、呼びかけ。
【釈】 青山の頂にかかる白雲の、朝々に、ふだんに見ているけれども、それにもかかわらず飽かず愛ずらしい、そのごとき吾君《わぎみ》よ。
(173)【評】 初句より、結句の「めづらし」に至るまでは、すべて譬喩である。しかも譬喩であることをあらわす一語をも用いずにしているものである。譬喩についてはしばしばいったように、大体自然の風物から人事を連想し、その人事をあらわすに、見たところの風物を借りているものが多い。しかるにこの場合はそれとは反対に、「吾君」と称せらるる人に対しての平生の感をいおうとして、それにふさわしい自然現象を捉えきたったもので、まさしくも譬喩である。後世的に見れば普通なものであるが、当時としては新味をもったものである。しかしこの譬喩は平生見馴れている風物で、「朝にけに恒に見れども」は、あるいは「吾君」のことをいっているのではないかと思わせるまで、譬喩されるものと融け合ったものである。新味というのは、譬喩を扱う態度の上のことにすぎない。「青山の嶺の白雲朝に」という続きは、感覚的なみずみずしいものである。おおらかに、柔らかみをもち、自然現象を重んじて、それを言い尽くそうとされるところ、上の「吉野なる」と同様である。実用性の歌であるが、文芸性の高いものをもっている。
山部宿禰赤人、故太政大臣藤原家の山池を詠める歌一首
【題意】 赤人から見て「故太政大臣藤原家」というと、藤原不比等のほかにはない。赤人は神亀から天平へかけての人で、不比等の薨じたのはそれに先立った養老四年八月で、藤原氏で太政大臣となった者はほかにはないからである。不比等は鎌足の二男で、薨じた時は正二位右大臣であったが、薨後正一位太政大臣を賜わったのである。「太政大臣」の上に「贈」とあるべきだが、当時の史書もこの集もそれのないところから、記さないのが当時の例であったろうという。「藤原家」は、諱《いみな》を書くのをはばかっての言い方で、尊称である。「山池」は、造り庭の築山と池の意である。
378 昔者《いにしへ》の 旧《ふる》き堤《つつみ》は 年《とし》深《ふか》み 池《いけ》のなぎさに 水草《みくさ》生《お》ひにけり
昔者之 舊堤老 年深 池之瀲尓 水草生尓家里
【語釈】 ○昔者の旧き堤は 「昔者」は、字は中国の熟字で、慣用していたもの。(三一二)「昔者《むかし》こそ」、巻七、(一〇九六)「昔者《いにしへ》の事は」などある。誤字説があるが、諸本異同がない。「堤《つつみ》」は、池の堤の意で、池のことを言いかえた形のもの。古のもののこの旧い池はの意。○年深み 年が久しくしての意。この場合の「深み」は、久しいという意で、集中用例のあるものである。○池のなぎさに水草生ひにけり 「なぎさ」は、波の寄せかえす所で、岸寄りの部分。「水草」は、水辺に生える草の総称。「生ひにけり」は、「に」は完了。「けり」は、詠歎。
【釈】 古のもののこの旧い池は、年を経ること久しくして、池の渚に、水草《みずくさ》が生えたことである。
(174)【評】 藤原不比等の旧宅の、その造り庭を見て、その当時に較べて荒れてきているのに対しての感傷である。その荒れてきたことは、池の渚に水草が生えてきているという一事によって具象し、それによっていわんとする感傷を遂げさせているものである。「昔者の旧き堤は」といい、さらに「年深み」と続けているのは、くどきにすぎる感のするものである。しかし作意からいうと、必要のあったことと取れる。赤人の生存時代からいうと、不比等の薨はさして年月の遠いことではなく、赤人は当然不比等の盛んなさまを目にしていたと思える。不比等は位人臣を極め、病中、薨後の朝廷よりの殊遇は、前例のないまでのものであった。また、その後も栄えていた。その旧居の造り庭の荒れたのを見ると、時の推移の悲しみを強く感じ、それを具象的にあらわさずにはいられなくなり、「昔者の旧き堤」という言い方をしたものと思われる。次に、その悲しみをなぎさの水草に集中して具象しようとすると、その原因として、さらに「年深み」を繰り返さなくてはいられなかったとみえる。この繰り返しが、赤人の不比等に対してもった感傷の具象化なのである。直接に感傷をいうことを避け、また強い調べによってあらわすこともできず、静かに、精緻なる具象によってあらわそうとする赤人の手法は、おのずからここに至ったものとみえる。またこの手法は、赤人一人のものではなく、奈良遷都以後、人々に共通な歌風ともなっていたものである。
大伴坂上郎女《おほとものさかのへのいらつめ》、祭神の歌一首 并に短歌
【題意】 「大伴坂上郎女」は、佐保大納言と呼ばれた大伴宿禰安麿の女で、旅人の妹である。坂上郎女というのは尊称で、「坂上」はその住んでいた地名、「郎女」は女に対する敬称である。坂上の里は大和国生駒郡三郷村立野の東北、大和川に沿って、今、さかねと呼ばれている地、あるいは奈良市法華寺町の北ともいわれている。郎女は初め、一品穂積親王に召されたが、皇子が薨じられた後、藤原朝臣麿に嫁し、麿も薨じたので、異母兄大伴宿禰宿奈麿に嫁して、二女を挙げた。長女坂上大嬢は、大伴家持の妻となり、次女坂上二嬢は、大伴駿河麿の妻となった。郎女は歌人としては、額田王と並んでこの集の女流歌人の代表者とされ、歌数も多い人である。「祭神」については左注がある。神というのは大伴氏の祖先神で、祭は、一年二回、定期に営んだ例祭であって、歌はその際に作ったものである。
379 久堅《ひさかた》の 天《あま》の原《はら》より 生《あ》れ来《き》たる 神《かみ》の命《みこと》 奥山《おくやま》の 賢木《さかき》の枝《えだ》に 白香《しらか》付《つ》く 木綿《ゆふ》取《と》り付《つ》けて 斎戸《いはひべ》を 忌《いは》ひ穿《ほ》り居《す》ゑ 竹玉《たかだま》を 繁《しじ》に貫《ぬ》き垂《た》り ししじ物《もの》 膝《ひざ》折《を》り伏《ふ》せ 手弱女《たわやめ》の 押日《おすひ》取《と》り懸《か》け かくだにも 吾《われ》は祈《こ》ひなむ 君《きみ》にあはじかも
(175) 久堅之 天原從 生來 神之命 奥山乃 賢木之枝尓 白香付 木綿取付而 齋戸乎 忌穿居 竹玉乎 繁尓貫垂 十六自物 膝折伏 手弱女之 押日取懸 如此谷裳 吾者祈奈牟 君尓不相可聞
【語釈】 ○久堅の天の原より 「久堅の」は、天、日、月などにかかる枕詞。意味は明らかでなく、諸説がある。瓠形《ひさごがた》の意だという解が穏やかに聞こえる。「天の原」は、高天原で、天上の国で、皇祖神を初め神々のまします国。○生れ来たる神の命 「生れ」は、現われる意で、巻一(二九)「生れましし神のことごと」のほか、用例のある語。「来たる」は、きいたるで、この国に来て、現在も存在している意。「神の命」の「神」は、ここは、大伴氏の祖先神である天忍日命《あめのおしひのみこと》で、「命」は、尊んで添えた語。「神の命」は、呼びかけの形である。以上の四句は、天孫降臨の際、天忍日命が供奉をしてこの国に来たり、その氏族より祀られて神として鎮まっていることをいったもので、それをいうことはすなわち、神を崇め讃えることである。なお氏族の祖先神は、その祖先神一柱だけで、また神は永遠に存在するものである。○奥山の賢木の枝に 「奥山」は、人の最も到らぬところで、したがって穢れのない所としてのもの。「賢木」は、下の続きによって、神に供えるべき幣《ぬさ》を、その枝に結びつけるための木。上代の風として、人に物を贈る時には、木の枝に結びつけることをした。この風は平安朝時代までも行なわれたものである。「賢木」は神に幣を供えるには必ず用いるべき木と定められていたもので、上の「奥山の」との関係で、清浄なる木として選ばれていたものと取れる。この木が現在の何の木であるかについては諸説があるが、最も有力なのは、これはもと、神境に植える木の総称で、すなわちひもろぎのことであり、後、一木の名となって、もっぱら祭神に用いられるものとなった。今の山茶花《さざんか》科の「さかき」だというのである。○白香付く木綿取り付けて 「白香《しらか》付《つ》く」は、『考』の訓。「白香」は、その何であるかが明らかではなく、諸説がある。本居太平は、白香は集中に三か所あって、皆この字を用いているから、白髪ではなく、白紙であろう。白髪《しらかみ》をしらがという例で、白紙《しらかみ》をしらがともいえる。当時白紙を切りかけにして、木綿《ゆう》に添え付けたのであろうといっている。近藤芳樹は、これにつき、当時は白紙をやがて木綿として取り付けたので、白紙と木綿は別物ではない。「白香付く」は木綿の枕詞であるといっている。『檜嬬手』は、白香は白い苧《お》であるとし、木綿はこの苧をもって取り付けたので、その意でいったものとしてゐる。『講義』は、古、髪置の式には白髪《しらか》というものがあったが、これは苧で、白髪に准ぜしめたものであるといっている。この苧を白髪に准ぜしめるのが、その形状の似ただけではなく、名も通うもので、苧を「しらが」ともいったがためであるとすると、『檜嬬手』のいうところに関係のつくこととなる。名の通うところから呪力を認めたろうという想像は、許されうべきものに思える。『檜嬬手』の解に比較的心が引かれる。「付く」は、終止形で、ここは枕詞であるから、その格として「付く」と訓むべきである。白い苧で付けるの意で、意味で木綿にかかる枕詞。「木綿《ゆふ》」は、穀の木の繊維で、しばしば出た。二句、白香で付ける木綿を取付けて。「白香付く」の枕詞を添えたのは、その事を鄭重《ていちよう》にいわんがためである。以上四句、木綿を供えることを具体的にいったもの。○斎戸を忌ひ穿り居ゑ 「斎戸」は、神に供える御酒《みき》を盛る瓶《かめ》のごとき物の称で、「斎《いは》ひ」は、穢れを忌んで、慎しみ清める意の語。「戸《へ》」は、土焼の瓶のごとき物で、形は相応大きく、底部は円くなっている物である。「忌ひ穿り居ゑ」は、「忌《いは》ひ」は、神に供えるべく斎って。「穿り居ゑ」は、底部の円いところから、土を掘って据えてで、二句、御酒《みき》を供えることを具体的にいったもの。○竹玉を繁に貫き垂り 「竹玉」は、いかなる玉か明らかではなく、したがって諸説がある。『仙覚抄』は、陰陽家の伝えにより、竹を玉のように刻んだものといい、賀茂真淵は、玉を篶竹《すずたけ》につけたところからの称といい、『攷証』は、古墳から出る玉で、色は緑で、長さは五、六分のものがあ(176)り、細い竹をふつうに切つたのに似ているから、それであろうといい、なお他にもあって定まらない。「繁《しじ》に」は、繁くで、副詞。「貫き垂り」は、「貫き」は緒に貫く意。「垂り」は、古くは四段活用で、垂らしの意。二句、竹玉を繁く緒に貫いて、垂らしで、何に垂らしたのかは明らかでない。祭の定まった式をいっているもので、当時としてはそれまでいう必要はなかったことである。神に供える物であるから、上の賢木《さかき》の枝と取れる。「奥山の」以下ここまでは、祭の式をつぶさにいったもので、神に品々を奉ることはすなわち神を崇め讃うる心をあらわすことであるから、つぶさに言いたてることは、その心を尽くすこととなるのである。○ししじ物膝折り伏せ 「ししじ物」は、巻二(一九九)に出た。「しし」は宍《しし》で、その肉を食料とする猪鹿の総称。それに「じ」を添えて猪鹿のごとしの意とし、さらに「物」を添えて熟語として、猪鹿のごときさまの意で、「膝折り伏せ」の枕詞としたもの。「膝折り伏せ」は、膝を折って身を伏させてで、平伏する意。これは上代の拝の形で、一般に行なわれたもの。○手弱女の押日取り懸け 「手弱女」は、「手」は接頭語。弱き者の女の意で、ここは自身をいったもの。「押日」は、上代は男女とも身につけた物とわかるが、後世には伝わらない物である。「大神宮儀式帳」に、「帛|意須比《おすひ》八端【長各二丈五尺弘二幅】」とあって、『講義』は、「止由気宮儀式帳」により、神官の女が、神に大御饌を奉る時の儀式の一条として、「天押日蒙而」とある文を引いている。『古事記伝』は、「幅《はたばり》の限《まま》にいと長き物なるを、後世の婦人の被衣《かつぎぎぬ》のごとく、頭より被て衣の上を覆ひ下は襴《すそ》まで垂ると見ゆ」といっている。「取り懸け」は、身に打ち懸ける意。以上四句は、神に折をしようとして、身の礼を尽くしていることをいっているもので、言いかえると、神を崇めている心を、具体的にいうことによって尽くそうとしているものである。○かくだにも吾は祈ひなむ 「かくだにも」の「だに」は、軽きをいって、重きを言外におく意の助詞。「も」は詠歎。これほどだけでもの意で、下の「祈ひなむ」ことの、控えめにしているものであることをあらわしているものである。それは神は、守護されるべきものは常にされているので、その神に対して多くを祈るということは、はばかるべきこととしていた、その心からのことと取れる。「祈ひなむ」の「なむ」は、『代匠記』は「祷《の》む」の意であるとしている。これを助動詞と見ると、将来を推測する意となって、現に祈っていることと矛盾するので、動詞と見るほかはないが、「なむ」を動詞として、ここに当たりうるものとするには、『代匠記』の解に從わざるを得ないとされている。○君にあはじかも 「君」は、男。「か」は疑問、「も」は詠歎。君に逢うことはできないだろうかというのに、「も」の詠歎を添えたもので、この「も」は強いて訳すと、どうでもというほどの意のものと取れる。これは、逢えずにいるという事がその頃の状態で、それを祖先神の加護によって、逢えるようにしていただきたいと思うのであるが、この状態が神意にかなうものであれば、余儀ないものであるという心をもち、その上に立っての哀訴の心をあらわしたものと取れる。上の「かくだにも」という語は、その意味でここに響いてきている。すなわちこの語は、祈《こ》いなむことその事であって、祈いなむことを終わっての後、その結果を危ぶんで、疑いをもって独語しているのではなく、現に祖先神に対して、祈っている語と取れる。
【釈】 久堅の高天原から、そこに現われて、今この国のここに来ていらせられる神の命よ。奥山の榊《さかき》の枝に、白き苧《お》をつける木綿《ゆう》を取付けて供え、また斎瓮《いわいべ》に御酒《みき》を盛って、清めては土を掘って据えて供え、また竹玉を繁く緒に貫いて垂らして供え、猪鹿《しし》のさまに膝を折って身を伏させ、女の物なる「おすひ」を身に被《かず》いて、これほどのことだけなりともと吾は祈り祈る。どうでも君には逢えないものであろうか。
(177)【評】 表現についてのことは、語釈でいった。第一に、祖先神を讃えて呼びかけ、第二には、祭の式を尽くしていること、第三には、自身の崇敬の情を尽くしていることを、その事に合わせては過ぎはしないかと思われるまでに懇ろに具体化していって、それによって祖先神に対する氏族としての情をあらわし尽くし、最後に自身の祈りをいっているのである。しかし肝腎の祈りは、神に対する礼として、控えめに、言葉少なに、どちらかというと、その意を捕捉しかねるかの感ある言い方をしているものである。その構成の整然としたものであることは、以上でもわかり、きわめて改まった態度のものであることが知られる。用語も比較的素朴で、したがって強く、語の続きも直線的で、弛みのないことは、上にいった態度を裏づけるものであって、これは言いかえると古風ということであって、新風を慕った郎女としては、特に意識しての風であったとみえる。したがって、この歌は坂上郎女にとっては、重大なものであったろうと思われる。転じて、これほどに心を尽くしてしている祈りの対象である「君」とは、大体誰であろうかと思うと、不可解なものとなってくる。それというのが、この歌には左注があり、この祭の行なわれた年月が記されているからである。「天平五年冬十一月」というと、郎女は相応な年齢であったと思われる。正確な年齢は徴すべきものがないが、兄の旅人は、天平三年、六十七をもって薨じているので、郎女の年齢も相応に高いものだったろうと思われる。夫の宿奈麿《すくなまろ》の没年は徴すべき資料がないが、天平五年頃には、すでに故人になっていたろうといわれている。それだとここにいう「君」とは、誰をさしているのだろうかと怪しまざるを得ないものとなる。女性として「君」といえば男性をさしたものであり、その男性に逢えぬ嘆きをするといえば、ただちに恋の嘆きを連想させられるのであるが、この歌には、恋の嘆きを思わせるようなところは微塵もない。また、祈るのは祖先神であり、その祈りはいったがように全心を打込んだものであるが、その祈ることはといえば、「君にあはじかも」ということである。この語《ことば》は、いったがように、近き過去にも、また現在にも、逢えずにいる人であることを暗示している語である。また、将来についても、神に対してのはばかりゆえに、控えめにいっているということを控除しても、必ず逢いたいという積極的の心をもってのものではなく、逢えないということの上に立って、神の加護によって、あるいは幸いにも逢いうることがありはしないかと、哀訴する程度のものと解される。中心の祈りの部分は語が隠約で、捕捉し難い感のあるものであるが、その隠約は、いうがような複雑さと屈折をもったことを、簡潔にいおうとするところからきているもので、この解は強いたものではなかろうと思われる。当時の郎女に、このような感を抱かせる「君」とは、はたして誰であったろうかと思わせる。氏族の中で神となりうる者は、その氏族の祖先神一柱だけで、他の故人は霊として存在しているにすぎないものである。そうした人は「君」と言いうる者である。郎女が今は霊となって存在している故人の何びとかに対して、思慕の情のやみ難いものをもち、せめて霊としての交通をもち得たいと願い続けていて、今、祖先神の祭という特別な場合に、神の加護を信じてその事を祈ったとすれば、こうした歌は成立ちうるものと想像される。この歌はそうした範囲のもので、おそらくは夫宿奈麿をさしているのではないかと思われる。疑問を残してし(178)ばらくそう解する。
反歌
380 木綿畳《ゆふだた》み 手《て》に取《と》り持《も》ちて かくだにも 吾《われ》は乞《こ》ひなむ 君《きみ》にあはじかも
木綿疊 手取持而 如此谷母 吾波乞甞 君尓不相鴨
【語釈】 ○木綿畳み手に取り持ちて 「木綿」は、上に出た。これは幣帛《にぎて》として神に手向けるもので、今はそれである。「畳み」は、畳んでで、その長いのを畳む意。「手に取り持ちて」は、神に手向ける状態で、その事を鄭重に行なっている意で細かくいったもの。
【釈】 幣帛としての木綿《ゆう》を畳んで、手に取り持って手向けて、せめてこの事のかなうようにと吾は神に祈り祈る。君に逢えないものであろうか。
【評】 長歌を要約して繰り返したもので、ことに三句以下は、長歌の結末をそのままに繰り返したものである。これは反歌としては最も古風なもので、この当時の反歌としては、むしろ珍しいものである。これも長歌と同じく、意識して古風に従ったものと取れる。
右の歌は、天平五年冬十一月を以ちて、大伴氏神《おほとものうぢのかみ》を供祭する時、聊この歌を作る。故に祭神歌といふ。
右歌者、以2天平五年冬十一月1、供2祭大伴氏神1之時、聊作2此謌1。故曰2祭神歌1。
【解】 氏神の祭については、『講義』が詳しく考証をしている。『類聚三代格』、寛平七年の太政官符、また、『神宮雑例集』には、一年二回、氏神祭をすべきこと、またしたことが記してある。さらに春日神社、大原野神社、平野神社は、それぞれ氏の神であるが、いずれも春二月、あるいは夏四月、冬十一月に祭をするべきことが規定されており、ことに冬十一月の方が重んじられていたとみえ、月が一定していた。ここの「十一月」もそれであろうという。大伴氏の氏神の社は、『延喜式』では山城国葛野郡にあるが、これは遷されたもので、その以前は河内国にあったのではないかという。神のことは上にいった。「故に祭神歌といふ」は、歌を作ったのが祭祀の際であったので、それにちなんでの称であって、作因は郎女自身の祈りのためのものである。
(179) 筑紫《つくし》の娘子《をとめ》、行旅に贈れる歌一首 娘子、字を児島といふ
【題意】 筑紫の娘子は、紀州本はじめ西本願寺本以下五本の下の注で、「娘子、字を児島といふ」とある。児島という女は、巻六(九六五)(九六六)にも出ている作者で、その歌は、天平二年、「冬十二月、大宰帥大伴卿の京に上る時、娘子《をとめ》の作れる歌二首」とあるものである。なおその歌の左注で、この女は当時その地に住んでいた遊行女婦であることが知られる。「行旅」は旅びとの意で、誰ともわからない。
381 家《いへ》思《おも》ふと 情《こころ》進《すす》むな 風候《かぜまも》り 好《よ》くしていませ 荒《あら》き其《その》路《みち》
思家登 情進莫 風候 好爲而伊麻世 荒其路
【語釈】 ○家思ふと情進むな 「家思ふと」は、その家を恋しく思うとての意で、旅人に共通の情をいったもの。「情進むな」の「進む」は、集中に「榜《こ》ぎの進みに」「去《ゆ》きの進みに」などの用例があって、いずれも逸《はや》るという意に用いてある。ここもそれで、心逸りたまうなで、すなわち、逸って危険を冒そうとはしたまうなの意。○風候り好くしていませ 「風|候《まも》り」は、「候」が「俟」になっていたのを、七本が「候」とあるので、『代匠記』が改め、訓を施したもの。「風」は、海上の風、「候り」は見守《まも》りで、見定める意。「行旅」というのは、たぶん大宰府から京へ上る人で、それだと路は、瀬戸内海を船でするものである。当時の船の風浪に堪える力の少ないものであったことは前にも出た。したがって「風候り」ということは、最も重大なことだったのである。この語は名詞。「好くしていませ」は、「好くして」は、十分にして。「いませ」は、ここは行けの敬語で、行きたまえの意。○荒き其路 荒い路であるのにの意で、下に詠歎を含んだもの。
【釈】 その家を恋しく思うとて、心|逸《はや》りたまうな。風の見定めを十分にして行きたまえよ。荒いその路であるのに。
【評】 常語をもってする挨拶に代えるに、歌をもってしたものである。すなわち実用性の歌である。一首を三段とし、重く、積み重ねていい、調べの美しさを捨てて詠んでいるのは、口語に近づけようとしているがためで、時宜に適したものである。作者の面目の感じられる歌である。
筑波岳《つくばのたけ》に登りて、丹比真人国人《たぢひのまひとくにひと》の作れる歌一首 并に短歌
【題意】 「筑波岳」は、歌では筑波の山となっている。常陸国筑波郡にある山で、関東での名山。「丹比真人国人」は、続日本紀にしばしば出ている人である。「丹比」氏は、宣化天皇の皇子賀美恵波王より出ている。「真人」は姓で、天武天皇の御代に賜わ(180)ったもの。「国人」は、天平八年従五位下、十年民部少輔、天平勝宝三年従四位下、天平宝字元年摂津大夫、その年七月、橘奈良麿の謀反に関係して遠江守として伊豆に配流《はいる》された人である。
382 鶏《とり》が鳴《な》く 東《あづま》の国《くに》に 高山《たかやま》は さはにあれども 朋神《ふたがみ》の 貴《たふと》き山《やま》の 儕立《なみたち》の 見《み》がほし山《やま》と 神代《かみよ》より 人《ひと》の言《い》ひ嗣《つ》ぎ 国見《くにみ》する 筑波《つくば》の山《やま》を 冬木成《ふゆごもり》 時敷《ときじき》時《とき》と 見《み》ずて往《い》なば まして恋《こ》ほしみ 雪消《ゆきげ》する 山道《やまみち》すらを なづみぞ吾《わ》が来《け》る
鷄之鳴 東國尓 高山者 佐波尓雖有 朋神之 貴山乃 儕立乃 見杲石山跡 神代從 人之言嗣 國見爲 築羽乃山矣 冬木成 時敷時跡 不見所徃者 益而戀石見 雪消爲 山道尚矣 名積叙吾來煎
【語釈】 ○鶏が鳴く東の国に 「鶏が鳴く」は、東にかかる枕詞で、巻二(一九九)に出た。定説はない。『古義』は、妻が朝、通って来る夫にいう語として、鶏が鳴く、起きよ吾夫《あずま》の意で、「あづま」に続くものだろうといっている。「東の国」は、坂東の国々をさしての称。安曇《あずみ》族の住んでいる地としての称であろうという説がある。○高山はさはにあれども 「高山」は、高い山。「さは」は、物の多い意で、上に出た。○朋神の貴き山の 原文「明」とあり、諸本みな一様で、「明神」は旧訓「あきつがみ」である。あきつ神は現《あき》つ神で、天皇御一方に申す称であるから、ここにはあたらない。『童蒙抄』は「明」は「朋」の誤りであるとして、「ともがみの」と改めた。『考』はさらに改めて「ふたがみの」とした。「ふた神」は二神《ふたがみ》で、男女二神の意である。上代は山そのものを神と崇めていたことは、上にしばしば出た。筑波山はその意味でことに崇められていた山である。この山は、男体女体の二峰が東西に相並んでいて、まさに「朋神《ふたがみ》」をなしている。誤字説に従うべきである。「貴き山の」は、「貴き」は、神として讃えていったもの。「の」は、同じ趣の語を重ねていう時に用いる助詞で、にしてというにあたる。すなわち次の二句は、この二句の繰り返しの形となっているからである。○儕立ちの見がほし山と 「儕立」は、旧訓「ともたち」。細井本に「なみたち」の訓があり、『考』もそう訓んでいる。「儕」は「※[藕の草がんむりなし]」であるから「並《な》み」の意があり、「なみたち」と訓みうるものである。この語はここよりほか例のないものであるが、巻七(一七五三)に「二並《ふたなみ》の筑波の山を」とあり、その「二並」と同じ意である。「朋神《たたがみ》」を具体的に言いかえたものである。「見がほし山」は、見ることのほしく思われる山の意。「ほし」という形容詞の語幹から、ただちに名詞「山」に続けることは、「くはし妻《め》」「かなし児」などと同じである。「と」は、といっての意。二句、男体女体の並び立っているところの、見ることのほしく思われる山といってで、上の「朋神の貴き山」の繰り返しとしてのものであるが、しかし内容には相応な距離がある。すなわち上二句は、筑波山の神としての方面だけをいったものであるのに、この二句は、風景としての方面を取入れ、しかもそちらを強調したものである。○神代より人の言ひ嗣ぎ 「神代」は、ここは遠き古人として、現在に対させていっているもの。「人の言ひ嗣ぎ」は、言い嗣ぐことにはおのずから範囲があって、貴いこと、名高いことでないとしなかった。ここもその意で、それを具体化していっているもの。○国見する筑波の山を 「国見」は、しばしば出た。高い所に登り、国の形勢、民の状態を見(181)ることであるが、転じて、展望を楽しむ意ともなった。ここは後者である。「国見する」は、上に対して、現在も人々の展望を楽しんでいるところのの意。○冬木成時敷時と 「冬木成」は、巻一(一六)に出た。月の終りを「月ごもり」というと同類の語て、冬の終りの意。この語は、集中の例から見ると、「春」にかかる枕詞となっているが、『考』はここは枕詞としてのものではなく、単に季節をあらわした語であるとしている。従うべきである。「時敷時《ときじきとき》」は、「時敷」を『代匠記』は「ときじく」の訓をよしとしたのを、『新考』が「ときじき」と改めた。理由は、「時じく」は動詞の四段活用ではなく、形容詞だから、その連体形として「時じき」と訓むべきだというのである。「時じく」は非時の意で、「時敷時」は、その時ではない時の意。「と」は、といって。二句、冬の終りの、その時ではない時だといっての意。この「時敷時」を、『考』は、高山に登るべきにあらずとの意だと解している。この解が要を得たものと思われる。高山に登るのは、春より秋までの期間て、冬は登る時ではないということは、古今を通じての常識である。山開きか盛夏のことであるのも、高山に登るには適当の時だということが主となっていよう。もっとも山開きのあるほとの山は、ことごとく神を祀ってあり、登山は参拝のためであるが、上代には山そのものが神であったから、登山の意は同様で、冬をその時ならずとするのは、その頃は危険が起こりやすく、起これば山を穢《けか》すことを怖れたからであろう。常陸風土記には、坂東諸国の男女が、春花、秋葉の際、相携えて登臨することがいってあり、また、本集巻九(一七五九)に、筑波嶺に※[女+燿の旁]歌会《かがい》をすることが作られているが、それらはすべて神を祭るための神事であったと解され、特別のことであり、平生にも登山は許されたものと取れる。登山の上は、神を拝してその事の許しを乞うのは当然のことである。○見ずて往なはまして恋ほしみ 「見ずて」の「見」は、上の「国見する」の国見と同じ意で、「見ずて往なば」は、登山して国見をせずしてこの地を去ったならば。これは国人《くにひと》か何らかの官命を帯びてたまたまこの地に来、去る時もわかっているところからの語。「まして恋ほしみ」は、「まして」は、この地に来ずして想望していた時よりも一段に。「恋ほしみ」は、「恋ほし」は「恋ひし」の古形。恋しくありとして。○雪消する山道すらを 「雪消する」は、雪解けのするで、春に近い頃を具体的にあらわしたもの。その頃は、道の一年じゅう最も歩き難い時である。「山道すらを」の「すら」は、一事を挙げて他を類推させる意の助詞。山道をさえ。○なづみぞ吾が来る 「なづみ」は、難渋する意。「来《け》る」の原文「来煎」は神田本「来並」、西本願寺本なとには「来前一」とあり、誤字説により「クル」あるいは「コシ」とされてきていたが、沢瀉博士の訓に従う。「ぞ」は係、「来る」はその結「来ある」の約言。難渋して来(182)たことであるよ。
【釈】 鶏が鳴く東《あずま》すなわち坂東の国には、高い山は数多くあるけれども、しかし男神女神の二神にます貴い山にして、相並んで立っている見ることをほしく思わせる山だといって、神代の昔から人が言い嗣いできて、今も人の登って展望を楽しんでいる筑波の山を、冬の終りの、登山にはその時ではない時だといって、この地まで来ていて、登ってその展望をせずに立ち去ったならば、遠く想望していた時よりも一段と恋しく思うによって、一年を通じて道の最も悪い時の、雪解の山道をさえ、難渋をして吾は来たことであるよ。
【評】 題詞には「筑波岳に登りて」とあるが、歌の上でいっているところは、登っての上の感懐ではなく、山上での国見に対して強い憧れを起こし、それを遂げようとして、登山の期ではない冬季に強行し、途中のある地点まで来たところで打切っているものである。すなわち一首の中心は、筑波登山の憧れそのもので、強行はその憧れを具象化したにすぎないものである。筑波山が貴い神であることは作者もいっているのであるが、歌はその神性に触れていおうとするところは全くなく、山上の風光に憧れるという、個人的興味にとどまっているものである。それがこの歌の特色で、したがって言っているところも、風光に対する憧れの心理のみである。起首から「国見する筑波の山を」までの前半は、憧れの対象としての筑波の山を叙したものである。ここにいっていることは、国人が京に在った時、すでに聞いて知っていたことで、今、何らかの官命をこうむってたまたまこの地に来、その山を眼前に見ることによって、さらに憧れの心を新たにさせられたことを一つにし、それを具体的にあらわそうとしての叙事である。「冬木成時敷時と」というより以下は、一転して憧れの心理を叙したものである。「見ずて往なばまして恋ほしみ」は、語は簡であるが、複雑した心理をいったもので、これが心理の眼目となっているものである。「冬木成」以下のこの四句は、風光というものがいかに当時の人の心を引くものであったかということ、一般の旅びとの心、その旅の事情などが暗示されているものであり、それとともに、作者がいかに実際に即した詠み方をしようとしたものであるかをも示しているものである。結末の「なづみぞ吾が来る」は、いったがように一首の作意が憧れそのものをいおうとするものであるところから、当然の打切り方と目すべきである。長歌としては短いものであるが、作者自身の心理に即して詠んでいるので、根本は抒情であるが、散文的な、淡いながらに複雑した味わいをもったものとなっている。奈良遷都以後の長歌という趣をもったものである。
反歌
383 筑波根《つくばね》を よそのみ見《み》つつ ありかねて 雪消《ゆきげ》の道《みち》を なづみけるかも
(183) 築羽根矣 ※[冊をひっくり返したもの]耳見乍 有金手 雪消乃道矣 名積來有鴨
【語釈】 ○筑波根をよそのみ見つつ 「よそのみ」は、よそにばかりで、その内に入らずに、すなわち筑波の上に登らずに、離れてばかり。「見つつ」は、継続で、憧れの心を暗示するもの。○ありかねて あり得ずして。○雪消の道をなづみけるかも 「なづみ」は、上に出た。「ける」は、「来」と「あり」と熟合して、音の転じた動詞で、来たの意。過去をあらわす助動詞の「ける」ではない。難渋して来たことであるよの意。
【釈】 筑波山を、離れてよそにばかり見つづけてはあり得ずして、雪解けの道を難渋して来ていることであるよ。
【評】 この反歌は、長歌を要約して、繰り返していったものである。反歌としては古風なものであるが、登山に対する憧れということに集中して、他に渉《わた》るまいとしているところに、作者の心の見えるものである。
山部宿禰赤人の歌一首
384 吾《わ》が屋戸《やど》に 韓藍《からあゐ》種《ま》き生《おほ》し 干《か》れぬれど 懲《こ》りずて亦《また》も 蒔《ま》かむとぞ念《おも》ふ
吾屋戸尓 韓藍種生之 雖干 不懲而亦毛 將蒔登曾念
【語釈】 ○吾が屋戸に 「屋戸」は、意味が広く、家の門《かど》、家の前、家そのものをいう称。ここは家の前と取れる。○韓藍種き生し 「韓藍《からあい》」は、鶏冠草といい、今の鶏頭花である。舶来の草で、当時は珍重したもの。「種《ま》き」の訓は、集中に例のあるもの。種蒔くより当てたものであろうという。「種き生し」は、蒔いて生やして。○干れぬれど 旧訓「かれぬとも」を、『考』の改めたもの。枯れたけれどもで、事実をいったもの。○懲りずて亦も蒔かむとぞ念ふ それに懲りずして、再び蒔こうと思うことであるよ。
【釈】 わが家の前に、鶏頭花を蒔いてはやして、それは枯れたけれども、懲りずして再び蒔こうと思うことである。
【評】 当時は珍しい物であった舶来の鶏頭花に対する愛着を詠んだものである。韓藍に関する歌は、集中他にもあるが、いずれも人事との関係において捉えているものであるのに、この歌は純粋に、その物に対する愛着を詠んだもので、そこに特色がある。微細な草花に対する愛着を、素朴に、心深く詠んでいるところに、赤人の面目がみえる。この歌を譬喩歌とみている解が少なくない。譬喩歌は前にもいったように、自然物の状態の上に、わが恋の心と通うものを認め、その自然をいうことによって心をあらわそうとするのが基本となっているものである。この歌についていえば、わが心に力点を置き、韓藍を従としている関係であれば、すなわち譬喩歌となるのである。この歌は、韓藍そのものに力点を置き、吾は従となっているものなので、(184)譬喩歌とは目すべきではなく、雑歌の範囲のものである。
仙柘枝《やまびとつみのえ》の歌三首
【題意】 「仙柘枝」は、この歌の左注に、「柘枝仙媛」とあって、女の仙人で、柘枝と名づけられていた者であることがわかる。「仙」は「ひじり」とも「やまびと」とも訓んでいる。「やまびと」は『考』の訓である。仙人は、山に住み、仙草を食うことによって不老の身となり、また仙術によって空を飛行し、自由にその身の形を変じうる者とされていた。これは中国から渡来した思想であって、やや古い時代から行なわれており、流布もしていたものである。しかしわが国に喜ばれたのは、その仙人の中の仙女のほうで、仙女というよりもむしろ天女というべきものであった。仙人は地上の人の仙術を得た者で、畢竟《ひつきよう》人間であるが、天女は天の神の侍女で、中国で信ずる天の神、あるいは仏教の範囲のもので、本来天上のものである。わが国で最も喜ばれたのは天女のほうで、神の譴《とが》めをこうむって下界に下り、または自身の意志で、時あって下って来、さまざまな形において人間との交渉をもつという方面である。風土記にある天女、竹取物語のかぐや姫などがそれである。この柘枝もその範囲のものである。「柘枝」というのは、柘は山桑《やまくわ》であって、その枝の意である。第二首目の歌によると、この仙女は、柘枝すなわち山桑の硬と身を変えて、吉野川を流れ下り、その川に梁《やな》を打って鮎の漁をしていた美稲《うましね》という男の梁《やな》にかかり、本身をあらわして女に復《かえ》り、ついに美稲の妻となったという伝説のあったことが察しられる。この伝説は甚だ当時の人を喜ばせたものとみえ、この歌の左注によると「柘枝伝」という書のあったことがわかる。その書は古く佚《いつ》してしまって、遺す部分もないが、しかし懐風藻の詩には、この伝説に触れているものが何首かあり、さらにまた、続日本後記、嘉祥二年、仁明天皇四十の御賀に、興福寺大法師らが奉った長歌の賀歌の中にも、同じくこの事に触れているところのあるのを見ても、この伝説のいかに喜ばれたものであるかがわかる。この伝説の内容のどういうものであったろうかということについては、『講義』が精しく考証している。この題詞には、「柘枝の歌」とあるが、柘枝自身の作った歌ではなく、その伝説に関係しての歌という意のものである。
385 霰零《あられふ》り 吉志美《きしみ》が高嶺《たけ》を 険《さか》しみと 草《くさ》取《と》りかなわ 妹《いも》が手《て》を取《と》る
霰零 吉志美我高嶺乎 險跡 草取可奈和 妹手乎取
【語釈】 ○霰零り吉志美が高嶺を 「霰零り」は、霰に打たれる物が、その強い力のためにきしむ音を立てる意で、吉志美の枕詞となったもの。「吉志美が高嶺」は、肥前国杵島郡白石町の杵島岳《きしまだけ》で、その「ま」が「み」に訛《なま》ったものと取れる。この事は後にいう。○険しみと 「険しみ」(185)は、険しくありとして。「と」は、意味の軽い助詞で、調べを主として添えたもの。○草取りかなわ 「かなわ」は、諸注、解を試みているが、十分には解せられない。解のよるところは、この歌は後にいう、『仙覚抄』が引くところの肥前国風土記の中にあるもので、その歌のこれにあたる句は、「草取りかねて」というので、きわめて明らかである。解は、それとこれとを関係づけようとするのであるが、つけかねているのである。おそらくはそれの訛ったものであろう。それだと、手力《たぢから》として草に縋ろうとするが縋り得ずしての意である。しばらくこの意のものと見ておく。○妹が手を取る 「妹」は、男より女を称する称で、意味の広いものである。ここもそれで、女というにあたる。女の手を取るのは、求婚の意をあらわすしぐさである。
【釈】 今登りつついる吉志美が高嶺《たけ》が険しいとして、手力としての草には縋り得ずして、代わりに妹の手を取る。
【評】 上にいった『仙覚抄』が引いている肥前国風土記の、今は逸文となっているものは次のようである。「杵島郡、県南二里有2一孤山1。従v坤指v艮三峰相連、是名曰2杵島1。坤者曰2比古神1、中者曰2比売神1、艮者曰2御子神1【一名軍神、動則兵興矣。】郷閭士女、提v酒抱v琴、毎v歳春秋、携v手登望、楽飲歌舞、曲尽而帰。歌詞曰、阿邏礼符縷《あられふる》 耆資熊《きしま》(麼《ま》)加多※[土+豈]塢《かたけを》 嵯峨紫弥占《さがしみと》 区瑳刀理我泥底《くさとりかねて》 伊母我提塢刀縷《いもがてをとる》【是杵島曲】」というのである。記事によって歌の心は明らかになる。杵島山はその名のごとく神であり、その土地の者が年々春秋に酒と琴とを携えて登るのは、定時の祭礼を行なうためと取れる。またその祭礼の時には、神事の一つとして、筑波山で行なわれると同様に歌垣が行なわれたものと取れる。歌垣はその初めにあっては性的開放の伴ったもので、それが神事でもあったと解せられる。歌はその歌垣のもので、男が女に求婚の意を示すために、上代の風に従って、歌をもってしているものである。この意志表示としての歌は強弁のもので、草を取りかねる際に、女の手が取れるということはありうべからざることである。柘枝の伝説が懐風藻の詩に取入れられた頃は、風土記が撰進された頃で、時の前後はないのであるが、この杵島曲のような機知をもった、また若い男の利用するに便利な民謡は、広い範囲に速かに広がって風土記に記録されない以前に、すでに大和国において謡われていたであろうということが想像される。問題の「かなわ」は、「きしま」が「きしみ」と訛ったと同様に、ある地方において訛ったものであろうと思われる。左注によると、この歌は「柘枝伝」の中にはないというが、それだと、知識人であるその伝の筆者には、この訛音《かおん》が承認できなかったという関係が伴っていたのではないかと思われる。さて、この杵島曲のここにある理由については、左注に、「或は云ふ、吉野の人味稲の柘枝仙媛に与へし歌なりと」と断わってあるので、その存在の理由だけはわかる。しかし美稲がどういう心をもって柘枝に与えたかは、これだけでは十分にはわからない。上代にはしばしばいったように、求婚の意志表示は歌の形式をもってしなければならなかった。しかしすべての男が、自身のために新たに作歌するということは不可能なところから、すでに存在しているその類の歌を記憶しておき、それを必要に応じて流用していたとみえる。美稲の柘枝に与えたのもその意味のもので、利用しようと志したのは「妹が手を取る」という一句で、そうしたしぐさをしようとするにあたって、民謡として人も謡い我も謡っていたところのものを利用したもの(186)と解せる。この歌が「柘枝伝」にはないといい、「或は云ふ」と断わってあるのも、伝説が庶民の間に広がるにあたり、その庶民に親しいものに変えられてゆくのは普通のことであるから、この歌は、ある地方において付け加えられたものかと思われる。なお、『玉の小琴』は、「かなわ」の考証のついでに、「本此歌は古事記に速総別王《はやぶさわけのおほきみ》の御歌に、はしたてのくらはし山をさかしみと岩かきかねて我手とらすもと云歌の転じたる物也」といっているが、これは仁徳天皇の御代の名高い物語の一つで、この御歌というのも杵島曲から出たものではないかと思われる。これによっても杵島曲が、いかに広く、またいかに親しまれていたかが知られ、御歌というものも、たまたまその事を傍証するものであるかのごとく見える。
右一首、或は云ふ、吉野の人|味稲《うましね》の柘枝仙媛に与へし歌なりと。但、柘枝伝を見るに、この歌あることなし。
右一首、或云、吉野人味稻与2柘枝仙媛1歌也。但、見2柘枝傳1無v有2此歌1。
【解】 撰者の注である。この注のことはすでに上にいったので省く。
386 この暮《ゆふべ》 柘《つみ》のさ枝《えだ》の 流《なが》れ来《こ》ば 梁《やな》は打《う》たずて 取《と》らずかもあらむ
此暮 柘之左枝乃 流来者 ※[木+〓]者不打而 不取香聞將有
【語釈】○この暮柘のさ枝の流れ来ば 「この暮」は、この夕方。「柘のさ枝」は、「柘」は山桑。「さ」は、美称にも、小さい意にも用いる。ここは美称と取れる。柘の枝は、柘枝の伝説の、天女の身を変えてなったところの物。「流れ来ば」は、もし流れて来たならばで、仮想である。全体では、この夕方、昔、美稲《うましね》に起こったように、柘の枝が流れて来たとしたならば。○梁は打たずて 「染」は、今も地方によっては行なわれている川漁の設備で、その方法は、川の浅く、瀬の荒い所へ、流れを堰《せ》く形に杙を打並べて、上流から下る魚の道を止め、一部分だけをあけて、そこには竹簀を平面に張り、魚があいた口を通ろうとすると、いきおい竹簀の上にかかるようにするものである。「打つ」は、この設備をする特殊語で、今も行なわれている。「梁は打たずて」は、諸注、さまざまに解しているが、いずれも明瞭でないのを、『講義』が明瞭なものにした。それは、梁は打たずしてあればの意だというのである。○取らずかもあらむ 「かも」は、「か」の疑問に「も」の詠歎の添ったもの。取り得ぬことであろうかの意で、取るのは上の柘の枝で、かかるべき梁がないので、「取らずかも」といっているのである。「かもあらむ」の疑問は、上の「来ば」の仮想に応じさせたものである。
【釈】 この夕方、昔の美稲《うましね》に起こったように、もし柘の枝が流れて来たとしたならば、美稲の場合とはちがって、今は梁が打っ(187)てないので、それのかかる物がなく、したがって取り得ないことであろうか。
【評】 これは美稲の柘枝仙媛を得た伝説を事実として、それを羨み、自身もそうした幸いを得たいものだと憧れている後の人が、吉野川のほとりの、美稲の伝説のあった場所に立っての心を詠んだものである。中心をなしていることは、美稲はここに梁を打ってあったので、柘の枝を取ることができて、幸いな身となり得たのだ。しかるに自分はそれをしていないので、たといその時と同じように柘の枝が流れて来たとしても、取ることができないのではなかろうかと、その事の不可能を感じつつ、それを不安の形においていったものと解せられる。伝説を踏んでの歌なので、解し難いようにみえるが、事実に即する心をもったものなので、作意は明らかにとおるものである。
右一首
387 古《いにしへ》に 梁《やな》打《う》つ人《ひと》の 無《な》かりせば 此間《ここ》もあらまし 柘《つみ》の枝《えだ》はも
古尓 ※[木+〓]打人乃 無有世伐 此間毛有益 柘之枝羽裳
【語釈】 ○古に梁打つ人の無かりせば 昔に、梁を打って川漁をする人がなかったならばで、ここではその人を美稲《うましね》とし、その人は伝説では既存の人であるのを、もしその人がなかったならばと仮想しての語。○此間もあらまし 「此間《ここ》」の訓は、『略解』にある本居宣長の訓で、この訓は集中に例の少なくないものである。「此間」は、「此所」で、眼前をさしたもので、「古」に対させたものである。「まし」は上の「せば」に応じさせたもので、連体形で下に続くもの。○柘の枝はも 「柘の枝」は、伝説のそれで、天女の化した物。「はも」は、「は」は上を承けて、事を言いさしにし、それに「も」の詠歎を添えることによって、含蓄をもたせて終止させたもの。巻二(一七一)に出た。
【釈】 昔の世に、梁を打って川漁をした人、すなわち美稲《うましね》という人がもしなかったならば、したがってその人に取ってしまわれずして、ここにもあるであろうところのその柘の枝はよ。
【評】 前の歌と同じく、柘枝の伝説を事実と認め、美稲の幸いを羨み、仙媛であるところの柘枝を得たいと思ってそれに憧れる心のものである。異なるところは、前の歌では、再び柘枝の流れ来ることを想像するものであるのに、これは一たびよりほかはないものと諦めて、単なる羨みとしている点だけである。この時代は、前の時代よりの引続きとして、瑞祥を尊ぶ思想とともに、神仙を信じる思想が盛んになり、神仙といううち、ことに仙女に関する伝説が多くなって、風土記、日本霊異記の中に、幾つかの伝説が載っている。この柘枝の伝説も、その範囲のもので、浦島子の伝説を除いては、他のものは歌とされない(188)中にあって、間接ながら、たまたま歌とされているものである。
右の一首は、若宮年魚《わかみやのあゆ》麿の作なり。
右一首、若宮年魚麿作。
【解】 「若宮」は氏、「年魚麿」は名であるが、この氏は『新撰姓氏録』にはなく、年魚麿の名は、ここに作者としてあるほかは、集中に二か所、歌の伝誦者として載っているだけで、伝は不明である。
※[羈の馬が奇]旅の歌一首 并に短歌
【題意】 この「※[羈の馬が奇]旅」は、瀬戸内海を舟航するもので、西方より難波津へ向かい、一夜を淡路島に過ごし、翌日難波に向かって航する途中までを詠んだものである。
388 わたつみは 霊《あや》しきものか 淡路島《あはぢしま》 中《なか》に立《た》て置《お》きて 白浪《しらなみ》を 伊予《いよ》に廻《めぐ》らし 座待月《ゐまちづき》 あかしの門《と》ゆは 暮《ゆふ》されば 塩《しほ》を満《み》たしめ 明《あ》けされば 塩《しは》を干《ひ》しむ 潮《しほ》さゐの 浪《なみ》を恐《かしこ》み 淡路島《あはぢしま》 礒隠《いそがく》りゐて 何時《いつ》しかも 此《こ》の夜《よ》の明《あ》けむと 侍従《さもら》ふに 寝《い》の宿《ね》かてねば 滝《たぎ》の上《うへ》の 浅野《あさの》の雉《きぎし》 あけぬとし 立《た》ち動《さわ》くらし いざ児《こ》ども あへて榜《こ》ぎ出《で》む にはもしづけし
海若者 靈寸物香 淡路嶋 中尓立置而 白浪乎 伊与尓廻之 座待月 開乃門従者 暮去者 塩乎令清 明去者 塩乎令干 塩左爲能 浪乎恐美 淡路嶋 礒隱居而 何時鴨 此夜乃將明跡 侍從尓 寐乃不勝宿者 瀧上乃 淺野之※[矢+鳥] 開去歳 立動良之 率兒等 安倍而榜出牟 尓波母之頭氣師
【語釈】 ○わたつみは霊しきものか 「わたつみ」は、渡《わた》の神の意で、ここは海神の意のもの。「霊《あや》し」は、驚きをあらわす「あや」を語幹とした語で、その力に対しての驚きを主としての語。「か」は、詠歎。海はその力の驚くべきものであるよの意。○淡路島中に立て置きて 「淡路島」は、(189)今の四国の淡路。「中」は、海における位置をいったもので、この島は、東は大阪湾、西は瀬戸内海、南は紀伊水道をとおして太平洋に臨み、北は明石海峡を隔てて播磨、摂津に向かっていて、これらの海のまん中にの意。「立て置きて」は、立たせて置いてで、その島のそこに立っているのは、海神の然《しか》せしめた意でいったもの。○白浪を伊予に廻らし 「白浪」は、ここは海水の満潮によって騒立《さわだ》ったものの意。「伊予」は、四国の伊予の国。「廻らし」は、廻らせてやる意で、廻らすのは海神である。この二句のいっていることは、一昼夜二回干満のある潮の、瀬戸内海の東部、
淡路島のあたりにおける状態は、太平洋の満潮が、紀伊水道を通って瀬戸内海に入って来ると、広い所より狭い所へ入った関係上、急激な流れとなり、淡路島で南北二つに岐《わか》れ、その南の流れは、鳴門海峡を経て、西の方伊予国まで流れて行ってやみ、北の流れは、明石海峡を経て、備中国まで行ってやむのである。この止まるのは、反対の備後海峡から入り来たる潮に堰《せ》かれるためで、止まった潮はそれぞれ以前の道を経て太平洋へ還るのだという。この事については『考』がいい、『講義』がさらに精しくしている。○座待月あかしの門ゆは 「座待月」は、『攷証』は、「座《ゐ》」は、「寝る」に対しての「居《を》る」という事で、寝ずして起き明かす意のもので、夜を居明かして待つ月の意であり、有明月のことであるといっている。意味で、明かすと続き、明石の枕詞としたもの。「あかしの門《と》ゆは」は、明石海峡よりは。○暮されば塩を満たしめ 「暮されば」は、夕方が来れば。「塩」は、潮。「満たしめ」は、満潮とならしめで、上と同じく海神のすることとしていったもの。○明けされば塩を干しむ 「明けされば」は、明け方が来ればで、「明け」は名詞形。「塩を干しむ」は、潮を退《ひ》かしめるで、同じく海神のすることとしてのもの。上の「暮《ゆふ》」とこの「明け」とは、大体をいったもので、広く朝夕というと同じである。それは潮の干満は、平均十二時二十五分ごとに行なわれるもので、日々移動があるからである。この干満は、淡路島の北を流れて、備中に向かう流れに即していっているものである。以上、海神の業《わざ》をいったもので、一段。○潮さゐの浪を恐み 「潮さゐ」は、潮のさして来る時に立つ音。「浪」は、潮さいに伴う浪で、それに向かうことは、小船にとっては危険なことである。「恐み」は、怖ろしいによって。○淡路島礒隠りゐて 「礒隠り」は、「礒」は、海べの岩。「隠り」は、舟をその蔭に隠すことで、浪を避けるためである。淡路島の海べの岩蔭に舟を隠して。○何時しかも此の夜の明けむと 「何時しかも」は、いつになったらばで、早くと思って待つ意。「此の夜の明けむと」は、この夜の明けようと思つての意。○侍従ふに寝の宿かてねば 「侍従」は、『玉の小琴』の試訓である。『攷証』は、巻十一(二五〇八)「皇祖《すめろき》の神の御門《みかど》を懼《かしこ》みと侍従《さもらふ》時《とき》に」を、その用例として、その訓を確かめている。意は、「さ」は、接頭語。「もらふ」は、「守《も》る」をハ行四段に再活用して、その継続をあらわす語としたもの。「侍従ふに」は、風と浪との様子を見守り続けるに。「寝の宿かてねば」は、「寝」は、「いぬる」ことの名詞形。「かてねば」は、「かて」は勝《た》えの意で、「ね」はその打消で、寝ても眠ることができずいればの意。○滝の上の浅野の雉 「滝の上の浅野」というのは、淡路島津名郡北淡町に浅野というがある。そこは淡路島の北端から西海岸二里ばかりの所で、その村の上方十町ばかりの所に浅野滝というがある。直下七丈四尺、幅一丈二尺あるという。「上」は、辺りの意で、全休では、滝のある辺りの浅野の意。ここは、船を岩隠れさせ、舟人の上陸していた所。○あけぬとし立ち動くらし 「あけぬとし」は、「し」は、強め。夜が明けたとして。「立ち動くらし」は、飛び立って騒ぐようである。「らし」は、眼前を証としての推量で、証は、夜のほのかに白んできたことと取れる。『講義』は、ここのごとく上に「し」を用いて、下を「らし」とするのは、集中に例が少なくないといい、(三四一)「酒飲みて酔哭《ゑひな》きするしまさりたるらし」、巻八(一五八五)「しぐれの雨し間《ま》なく零《ふ》るらし」などなお挙げている。以上、舟を繋いだ地での一夜の状態をいったもので、一段。○いざ児どもあへて榜ぎ出でむ 「いざ」は、人を誘う語。「児ども」は、目下の者を親しんで呼ぶ称。ここは、舟主《ふなあるじ》が舟子《かこ》に対してのもの。「あへて」は、押切ってとい(190)うにあたる。さあ皆の者、押切って榜ぎ出そう。○にはもしづけし 「には」は、陸上でも海上でも、労働を行なう場所を称する称。ここは海上の、船を榜ぐ路の称と取れる。「も」は、上の夜の明けたのに並べる意のもの。「しづけし」は、穏やかである。以上、一段。
【釈】 海神はその力の驚くべきものであることよ。淡路島を海のまん中に立てておいて、太平洋の満潮の、紀伊水道を経て瀬戸内海に白浪となって入り来るものを、その淡路島で南北の流れに裂き、その南の流れを伊予国に廻《めぐ》らしてやり、また、北の流れの通過するところの明石海峡からは、夕方が来れば潮を満たしめて来、明け方となってくるとその潮を干させる。潮さいに伴う浪が怖ろしいにより、淡路島の海べの岩蔭に船を隠していて、早くこの夜の明けよと思って、風と浪との様子の見守りを続けるので、寝ても眠ることができずにいれば、この居る所の浅野の滝の辺りの、浅野村の雉が、夜が明けたとて、飛び立って騒ぐようである。さあ皆の者、押切って榜ぎ出そう。榜ぎ行く路の方も穏やかである。
【評】 西方より瀬戸を経て大和国へ帰る途中、淡路島に一夜を過ごした時の感懐を詠んだものである。長歌形式を選んであるが、この歌には長歌を必要とするほどの事件はなく、事としては、航海としては普通な海面である時に、同じく普通の事として行なわれていた、夜は船を海べに繋留して、舟人はそれに近い陸上に宿ることをしたにすぎないものである。感懐の中心をなしているものは、瀬戸内海の潮の荒さである。これはいったがように、広い太平洋の干潮満潮に伴う潮の変化が、狭い内海に影響するところから起こるもので、淡路島はその関門にあたっているのに、船がそこまで来たおりから、夜に向かっていて、一夜をそこに過ごすべきことになったので、その際の感懐として、瀬戸内海の潮の恐るべきを捉えていっているという心のものである。第一段は、瀬戸内海の潮を総叙したものである。潮の恐るべきを一に海神の力の驚くべきものの現われであるとしているのは、上代の航海者にとっては当然の信仰である。これは後世までも持続されたものであるが、持続せざるを得ずしてのもので、当時にあっての強さはきわめて自然なことである。潮の叙述は簡単なものであるが、要を得たもので、今日の研究と相合うものとのことである。航海者の体験をとおしての知識であるがゆえに、こうした立体的な叙述はできたものと取れる。第二段は一転して、舟人の航路を見守りつつ一夜を明かすことをいったものであるが、これまた簡潔なもので、第一段と調和するものである。第三段は、夜明けと海上の静穏とを叙するとともに、それを出船命令としているもので、簡潔をきわめた明るいものである。一首、全体としては抒情であるが、実際に即しての抒情で、その実際は航海としては常態のものであるところから、散文的の味わいの比較的濃いものとなっている。その点から見て、この歌は作者はわからないが、奈良遷都以後のものと思われる。また、そうした点から見ると、この歌は巻二(二二〇)「讃岐の狭岑《さみねの》島に石中に死れる人を視て、柿本朝臣人麿の作れる歌」と題するものに通うところのあるものである。内容が航海中のできごとである点、構成が、国土を神として、その力を讃えることを主とし、それに事件を関係させたものであるからである。異なるところは、人麿の歌には際立った事件があるが、この歌にはそれのないことである。これは言いかえると、いったがように長歌形式を必要としない材ということで(191)ある。あるいは人麿の歌に影響されて、長歌を作ろうとの意識をもって作ったものではないかとも思われる。
反歌
389 島伝《しまづた》ひ 敏馬《みぬめ》の埼《さき》を こぎ廻《み》れば 日本恋《やまとこ》ほしく 鶴《たづ》さはに鳴《な》く
嶋傳 敏馬乃埼乎 許藝廻者 日本戀久 鶴左波尓鳴
【語釈】 ○島伝ひ敏馬の埼を 「島伝ひ」の「島」は、海中の孤島だけではなく、半島をも称したもの。ここは半島である。「島伝ひ」は、半島の岸を伝つてで、当時の航海法は、風浪を避けやすくするため、できうる限り海岸伝いに漕いだので、その状態を叙したもの。「敏馬」は、今の神戸市灘区。「埼」は、神戸港の東の岬ではないかという。○こぎ廻れば 漕ぎ廻《めく》って行けば。○日本恋ほしく鶴さはに鳴く 「日本」は、大和で、その家を言いかえたもの。家恋しい心をそそって鶴が多く鳴くの意。
【釈】 海岸伝いに敏馬の埼を漕ぎ廻って行くと、わが家恋しい心をそそって鶴が多く鳴く。
【評】 この反歌によって、航路の帰りであることがわかる。淡路島から明石海峡を横切り、それからいわゆる「島伝ひ」をしての航路であって、敏馬の埼まで来ると、最終の港である難波津が見えるのである。家に近づくに伴って家恋しい心の募ってくるおりから、その心をそそってしきりに鶴が鳴くというので、明るい心のものである。反歌は、長歌とは離れたもので、しかも航路の推移を示しているものである。これは反歌として新しい手法のものである。
右の歌は、若宮年魚麿之を誦せり。但、いまだ作者を審にせず。
右謌、若宮年魚麿誦v之。但、未v審2作者1。
【解】 「年魚麿」のことは、上の歌に出た。この注は撰者の加えたものとわかる。
譬喩歌
【標目】 譬喩歌という部立は、ここに初めて出てきたものである。巻一、二の歌は、雑歌、相聞、挽歌と三つに部立をしている(192)のに、巻三、四の歌は、雑歌、譬喩歌、挽歌、相聞と四つに部立し、新たに譬喩歌という一部立を加えているのである。譬喩歌というのは、その意味からいうといわゆる譬え歌で、いおうとする心を物に寄せ、それをいうことによって心をあらわすもので、修辞上の方法の名である。雑歌、相聞、挽歌は、いずれも歌の本質に対しての名であるから、その中にこれを加えて一つの部立とするということは、本質と修辞法とを混同したことで、標準を異にしたものといわなければならない。また、譬喩歌をその名のとおりに、修辞法と解すると、これは雑歌、相聞、挽歌のいずれにもわたりうるものでなくてはならない。しかるに、集中の事実より見ると、譬喩歌は、相聞の中の一類に限られたものであって、さらに立ち入っていえば、恋の歌で響喩を用いた歌というにすぎないものである。またその譬喩の用い方も、大部分はいうところの隠喩法であるが、中に大部分は単に序詞として物を用いているという意味だけで、この部に入れているものもある。こうした部立の生まれてきた理由は、歌が実用性のものとしてよりは、文芸性のものとして見られる度が高まってき、したがって修辞上に、細かく深く注意するようになり、その結果譬喩ということが、作歌上の大きな問題となってきたのがその原因であろうと思われる。同時に一方には、恋の歌はこれを譬喩という観点から見ると、最も譬喩を用いたものの多いものである。それというが、恋の心は、感情としては強く激しいものであるにもかかわらず、これを捉えて言いあらわそうとすると、あらわしにくいものである。しかるに上代の人は、物に即していうことを建前とする歌風に従っているところから、眼前の事物風景の、その時のわが気分に通うところのものがあると、その事物風景をいうことによって、その心をあらわしたのである。そうした場合は、当時の夫婦別居の生活にあっては、いきおい味わわせられがちであった恋の懊悩の場合に多かったのである。恋の歌にいわゆる譬喩歌の多いのは、このためと思われる。そうしたことは、修辞上でいう譬喩の範囲のものであるが、意識的なものではなく、自然発生的な、譬喩法以前のものと感じられるところのあるものである。この事実が、歌を文芸性という面から見ようとし、譬喩を尊重する心に迎えられて、その結果、ついに譬喩歌という部を生ましむるまでに至ったことと思われる。譬喩とはいうが、直喩法のものがほとんどなく、大部分隠喩法であること、また、序までも譬喩の中に取入れたということは、上にいった事実よりきていることである。したがってこの部立は、漢詩を模倣したものではなく、わが自然発生的のものに、漢詩が比較され、その名目を襲用したという程度のものと解される。
紀皇女《きのひめみこ》の御歌一首
【題意】 「紀皇女」は、巻二(一一九)に出た。天武天皇の皇女で、穂積皇子の同母妹。母は大〓《おおぬ》娘、蘇我赤兄の女である。巻十二(三〇九八)「おのれ故|罵《の》らえて居れば駿馬《あをうま》の面高ぶだに乗りて来べしや」の左注に、「右の一首は、平群文屋朝臣益人伝へ云ふ、昔聞けり、紀皇女|竊《ひそか》に高安王に嫁ぎて、責めらえし時にこの歌を作らす。但、高安王、左降して伊与国守に任ぜらる」とある。この事は、ここの歌にかかわりがあるかもしれぬ。
(193)390 軽《かる》の池《いけ》の ※[さんずい+内]廻《うらみ》往《ゆ》き転《み》る 鴨《かも》すらに 玉藻《たまも》のうへに 独《ひとり》宿《ね》なくに
輕池之 ※[さんずい+内]廻徃轉留 鴨尚尓 玉藻乃於丹 獨宿名久二
【語釈】 ○軽の池の※[さんずい+内]廻往き転る 「軽の池」の「軽」は、橿原市大軽、見瀬、石川、五条の諸町一帯の地。「池」は応神天皇の御代に作ったものといわれている。広さ百五十|畝《せ》と『大和志』にある。「※[さんずい+内]廻《うらみ》」の「※[さんずい+内]」は「納」となっている本が多い。「※[さんずい+内]」は、西本願寺本のもの。訓は『槻落葉』のもの。浦廻で、浦のあたりの意。本来海の入江の称であるが、当時には池にも用いたもので、例の多いもの。「往き転る」は、泳いで廻っている意。○鴨すらに 鴨のようなものでさえも。○玉藻のうへに独宿なくに 「玉藻」は、藻を讃えていったもの。池の藻草。「宿なく」は、「く」を添えることによって名詞形としたもの。「に」は、詠歎。藻の上に夜は独りでは宿ないことであるのに、鴨は雌雄睦まじい鳥で、いつも離れずにいるものである。
【釈】 軽の池の浦廻を泳ぎ廻っている鴨でさえも、夜は藻草の上に独宿はしないことであるのに。
【評】 軽の池に雌雄睦まじく住んでいる鴨を御覧になると、それとは反対な御自身の現在の状態が比較されてきて、その嘆きをあらわすために、鴨の状態を嘆きをもっていわれたものである。作意からいうと御自身が主であるが、形の上からいうと鴨が主となって、御自身は背後のものとなっている。譬喩を用いたというのではなく、おのずから譬喩という結果になったものである。
造筑紫観世音寺別当沙弥満誓の歌一首
【題意】 「筑紫観世音寺」は、大宰府にあったもので、日本三戒壇院の一、九州の僧の受戒するところと定められていた寺である。この寺は天智天皇が、斉明天皇の遺志を奉じて創建なされたものであるが、久しく造作が畢《おわ》らず、元正天皇の養老七年、僧満誓が勅をこうむってその事にあたった。「別当」というのは、奈良朝時代には、大寺の長官に限っての称であると『講義』が考証している。造筑紫観世音寺別当は職名である。満誓のことは(三三六)に出た。従四位上笠朝臣麿の出家しての名である。
391 鳥総《とぶさ》立《た》て 足柄山《あしがらやま》に 船木《ふなぎ》伐《き》り 樹《き》に伐《き》り帰《ゆ》きつ あたら船材《ふなぎ》を
鳥總立 足柄山尓 船木伐 樹尓伐歸都 安多良船材乎
(194)【語釈】 ○鳥総立て 「鳥総」については、『講義』が精しく考証している。鳥総は朶《だ》の意の国語で、朶は木の上部の枝の小枝、葉のふさふさと付いている部分の称で、鳥総もそれであるという。「立て」というのは、それを地上に立てることである。本来、山の木は、山の神に属する物であるとして、それを伐り出す時には、その本末《もとすえ》、すなわち株と鳥総とを山神に供えることを古来より風としていた。この事は集中にも、巻十七(四〇二六)「とぶさたて船木《ふなき》きるといふ能登の島山」とあり、また、大殿祭の祝詞に、宮材を伐り出す時の式として記されており、その他にもある。○足柄山に船木伐り 「足柄山」は、相模国足柄上郡。「船木」は、船材。この当時は造船術がまだ進まなかったのて、船材には大木を選《えら》んでいた。この船木もその範囲の物である。○樹に伐り帰きつ 船材として伐って、運んで行ったの意。○あたら船材を 「あたら」は、惜しむべきの意で、今もあったら物などと用いている。「を」は、詠歎。
【釈】 鳥総《とぶさ》を立てて、木の本末を神に供える祭をして、足柄山の船木を伐って、船材として伐って運んで行った。惜しむべき船木であるものを。
【評】 船木を意中にある女に譬え、その女の他人のものとなったのを、嘆きをもっていった形のものである。嘆きは、「樹に伐り帰きつ」と繰り返していっているところにあらわれている上、さらに「あたら船材を」といったので、濃厚なものとなっている。この譬喩は、意識して用いているもので、文芸的なものである。四、五句は、譬喩としては濃厚な感のあるものであるが、しかしこの濃厚さは、表現上必要なものとしたのだろうと取れる。この歌は背後に何らかの事実があり、実感として作ったものではないかということが、作者が出家であるところから問題とされやすいところがある。そうした感を起こさせるのは、譬喩が現実味の強いものであり、また特殊なものであるところから、その連想よりのことと思われる。この譬喩は眼前のものではなく、作者の記憶の中より捉えたものであろうが、たとい譬喩とはいえ、親しく見聞したものを捉えて用いようとするのは当時の歌風であるから、その譬喩に、作者の社会上の身分を絡ませようとするのは無理である。またこの当時は、歌はすでに(195)かなりまで文芸的のものになっているので、この程度のものは、想像上の所産としてもありうるものである。かたがた、この歌の背後は問題とはならない。また、この歌の上から見ても、四、五句は嘆きではあるが、謡い物の趣のあるもので、形は嘆きであるが、心としてはむしろ軽いものである。この点も上のことに絡まりうるものである。
大宰大監大伴宿禰|百代《ももよ》の梅の歌一首
【題意】 「大監」は、大宰府の判官で、二人あり、大弐小弐につづく官である。正六位下相当官である。職員令に「掌d糺2判府内1、審2署文案1、勾2稽失1、察c非違u云々」とある。「百代」は、父祖は明らかではない。続日本紀、天平十年外従五位下で、兵部少輔、十三年美作守。十五年筑紫鎮西府副将軍。十八年従五位下、豊前守。十九年正五位下とある。
392 烏珠《ぬばたま》の その夜《よ》の梅《うめ》を 手忘《たわす》れて 折《を》らず来《き》にけり 思《おも》ひしものを
烏珠之 其夜乃梅乎 手忘而 不折來家里 思之物乎
【語釈】 ○烏珠のその夜の梅を 「烏珠の」は、しばしば出た。夜にかかる枕詞。「その夜」は、ある夜をさしたもので、後から思い出していっているもの。「梅」は、梅の花。下に「来にけり」とあるので、その梅は他の家のもので、何らかのことで他の家へ行き、夜そこで見た物。○手忘れて折らず来にけり 「手忘れ」は、ここよりほか見えない語であるが、動詞の接頭語として「た」を添えた「たなびく」「たもとほる」などの語があるところから、これもそれで、意味は忘れてというと同じで、その語感の強いものであろう。「折らず来にけり」は、折らずして帰って来てしまったことであるの意。○思ひしものを 折ろうと思っていたものをの意。
【釈】 その夜、あすこで見た梅の花を、忘れて、折らずに帰ってしまったことであるよ。折ろうと思っていたものを。
【評】 この当時は梅の花は、外来の、珍奇の感の失せないものであった。よそで梅の花を見て、それを愛で、帰りには折ってゆこうという感を起こすのは、自然なことである。しかるに帰りしなには、事に紛れて、それを忘れてしまい、家に帰って心残りに感ずるというのは、いっそう自然なことである。「手忘れて」というのは実際に即してのことで、ありうべきことであるのみならず、この歌にとっては重大なことである。「梅」を女に譬え、「折る」をわが物に譬えるということは、譬喩という上からはきわめて妥当なものであるが、その関係からいうと、「手忘れて」はきわめて不妥当なこととなり、あるべくもないこととなる。この歌は、作者からいうと譬喩歌ではないのではないか。それを撰者が、「梅」「折る」などの語に引かれて、迎えて解して譬喩歌の中に加えたものかと思われる。
(196) 満誓沙弥の月の歌一首
393 見《み》えずとも 孰《たれ》恋《こ》ひざらめ 山《やま》の末《は》に いさよふ月《つき》を 外《よそ》に見《み》てしか
不所見十万 執不戀有米 山之末尓 射狭夜歴月乎 外見而思香
【語釈】 ○見えずとも孰恋ひざらめ 「見えずとも」は、たとい見えなかろうともで、いうのは、下の「山の末《は》にいさよふ月」である。「孰恋ひざらめ」は、誰が恋いずにいようか、皆恋っているの意で、ここのごとく反語としようとする場合、上に疑問の語を置き、下を已然形で結ぶ例は少なくない。巻二(一〇二)にも、これと同じく「誰《た》が恋ならめ」というがあった。○山の末にいさよふ月を 「山の末」は、山の端《は》で、「末《は》」を義をもって当てた字。月の出入りするところの意でいっているもの。「いさよふ月」は、滞りたゆたっている月で、月の山より出ようとする時にはそのように感じられるものなので、それを具象的にいったもの。○外に見てしか 「外《よそ》に」は、よそながらに、すなわち直接ではなくとも。「見てしか」は、見たいものであるよの意。「てしか」は(三四三)に出た。
【釈】 たとい見えなかろうとも、誰が恋いずにいようか。皆恋っている。出ようとして山の端《は》に滞りたゆたっている月を、よそながらも見たいものであるよ。
【評】 月を恋おしい女に譬え、その女のたやすくは見られない人であるという実際、およびその女に対する憧れの心をあらわそうとしたものである。「見えずとも孰恋ひざらめ」は、その女の万人の等しく憧れている人であることをいったもの。「山の末にいさよふ月」は、その女のそこにはあるとわかっているが、直接には見難い人であることをあらわしているものである。これはその女の身分高い人の娘とか、あるいは妻妾とかであるためであろう。作者の力点を置いているところは、「外に見てしか」であるが、これは譬喩としては破綻《はたん》を見せているものである。「いさよふ月」は、そのいさようのはしばらくの間で、当然山より出るものであり、出れば真正面に見られるものだからである。この歌だと、月は永久にいさよっているもののごとくである。これは、月を女に譬えた延長として、その女の、いつといって見る機会もない人であるという実際までも、月の譬喩であらわそうとしたがためである。すなわち譬喩として思想的に捉えた月を、当時の実際を重んじる歌風に従い、一方では月の実際に即そうとし、また他方ではその女の実際にも即そうとして、事が複雑になりすぎたがために、このような破綻をきたしたものとみえる。
余明軍《よのみやうぐん》の歌一首
(197)【題意】 「余」は氏で、「明軍」は名である。「余」は、西本願寺本など、流布本系統のものには「金」とある。余氏も金氏も外来氏族で、当時共に存していた氏である。余氏は百済《くだら》王族の氏で、持統紀、五年正月に正広肆百済王余禅広の名が出るほか、続日本紀、天平宝字二年六月の条に、余益人、余東人ら四人に百済朝臣の姓を賜うことなどが見え、その他にも余氏に関する記事が少なくない。「金氏」は新羅《しらぎ》の王族の氏で、初めて史に見えるのは、続日本紀、大宝三年、「僧隆観還v俗、本姓金、名財云々」とあり、また元明天皇、和銅元年正月、金上元に従五位下を授け、同二年、「従五位下金上元為2伯耆守1」ともあり、これまた記事が少なくない。明軍は父祖はわからないが、下の(四五四)「大納言大伴卿の薨ぜし時の歌六首」と題する歌の五首の作者で、その左注によって、大伴旅人の資人《つかいびと》であったことがわかる。資人というのは、高位の人に公より給せられる者で、史に載っているものとしては、続日本紀、養老五年、中納言従三位大伴宿禰旅人に帯刀資人四人を給うとあるが、これは三位には資人六十人を給わる定めであるから、その中の四人が帯刀の資人だったということである。
394 印《しめ》結《ゆ》ひて 我《わ》が定《さだ》めてし 住吉《すみのえ》の 浜《はま》の小松《こまつ》は 後《のち》も吾《わ》が松《まつ》
印結而 我定義之 住吉乃 濱乃小松者 後毛吾松
【語釈】 ○印結ひて我が定めてし 「印《しめ》」は、巻二(一一五)以下しばしば出た。大体、山野にある物などに対して、わが所有であることを示すために印《しるし》を付けることで、繩を結うことであろうが、転じて、路の目じるしなどにもいった。「印結ひて」は、印《しめ》を結わいつけて。原文「義之」の「義」は、「羲」の誤りで、訓は『玉の小琴』の施したものである。中国の王羲之の書が、当時わが国にも尊ばれており、書のことを「手」というところから、「羲之」を「手師《てし》」とし、「てし」に当てた戯書である。また、王羲之をその子の王献之に対させ、大王、小王とし、「大王」を「てし」に当てても用いている。「我が定めてし」は、わが所有と定めておいたの意。○住吉の浜の小松は 「住吉」は、しばしば出た。今の大阪市住吉。「小松」の「小」は、親しんで添えたもので、小さいという意ではないと取れる。巻四(五九三)「平山《ならやま》の小松が下に立ち嘆くかも」など、例がある。住吉の松原は、名高いものとなっていた。○後も吾が松 「後も」は、今すでにわが松であるが、後々もまた同じくの意。
【釈】 印《しめ》を結わえてわが所有の物だと定めておいたこの住吉《すみのえ》の浜の松は、後々もまた、今と同じくわが松であるよ。
【評】 「住吉の浜の小松」は、女の譬喩で、実際に即して詠もうとする歌風との関係上、女は住吉の者であったと取れる。「印結ひて我が定めてし」は、その女と契りを結んだことの譬喩で、「後も吾が松」は、将来も心|渝《かわ》るまいと女に誓った意である。この譬喩は、譬喩としてこなれきったもので、これを用いているために、誓の心を、美しく、綜合的に言い得たのである。
笠女郎《かさのをとめ》、大伴宿禰家持に贈れる歌三首
(198)【題意】 「笠女郎」は、「笠」は氏、「女郎」は女の敬称で、名は他の多くの女と同じく伝わらず、父祖未詳。短歌二十九首を残した。笠氏は『新撰姓氏録』その他で、孝霊天皇の皇子稚武彦命の後である。同族に笠金村、満誓沙弥などがある。「大伴家持」の名は、ここに初めて出た。略伝を記すと、大伴旅人の嫡子。続日本紀、天平十七年正六位上より従五位下。十八年宮内少輔、また越中守。天平勝宝元年従五位上。六年兵部少輔、また山陰道巡察使。天平宝字元年兵部大輔。二年因幡守。六年信部(中務)大輔。八年薩摩守。慶雲元年大宰少式。宝亀元年民部少輔、また左中弁兼中務大輔、正五位下。二年従四位下。三年、兼式部員外大輔。五年相模守。また左京大夫兼上総守。六年衛門督。七年伊勢守。八年従四位上。九年正四位下。十一年参議、また右大弁。天応元年兼|春宮《とうぐう》大夫、正四位上、また左大弁、春宮大夫如v故、従三位。延暦元年氷上川継謀反の事に座して任を解かれたが、間もなく春宮大夫となり、兼陸奥按察使鎮守将軍。二年中納言、春宮大夫如v故。三年持節征東将軍。四年八月薨じる。薨後二十余日、大伴継人、竹良らが藤原種継を殺したことに座しているというので追除名され、子の永主らは配流となったが、日本後紀大同元年勅命によって本位に復せられた。年は不明であるが、七十前後であったろうという。
395 託馬野《たくまの》に 生《お》ふる紫《むらさき》 衣《きぬ》に染《そ》め 未《いま》だ服《き》ずして 色《いろ》に出《い》でにけり
託馬野尓 生流紫 衣尓染 未服而 色尓出來
【語釈】 ○託馬野に 「託馬野」は、旧訓「つくまぬ」。「託」を「つく」に当てたのは、言託《ことづ》くと当てるその託《つく》であるとし、所としては近江国坂田郡米原町|筑摩《つくま》であるということが定説のごとくなっていた。しかるに『講義』はこれに疑いを挟み、考証して、新たなる提案をしている。要は、地名に当てる字は音を借りるのが例で、訓をもってしたものはない。「託」を「つく」に当てた例は、集中はもとより他の古典にもない。この字は、音としては「たく」「たか」のいずれかである。この字を当てうる地名を『和名抄』で検すると、肥後国の郡名として「託麻《たくま》」、讃岐国の郷名として「託間《たくま》」がある。他方、この野は、「紫」の産地としてであるが、『延喜式』の交易雑物の中の柴草の産地を見ると、国としては甲斐、相模、武蔵、下総、常陸、信濃、上野、下野、出雲、石見、大宰府があるが、近江国は加わっていない。これらにより「託馬野」は、肥後国託麻郡(熊本県飽託郡託麻村)の野で、上の大宰府の管轄内ではないかというのである。従うべきである。○生ふる紫 「生ふる紫」は、生えている紫草で、紫草は紫の染料。○衣に染め 「衣」は、自身の物。○未だ服ずして色に出でにけり 「色に出で」は、顔色に現われる意で、心に包んでいることの自然に表面に現われる意の慣用語。「に」は、完了。「けり」は、詠歎。
【釈】 託馬野に生えている柴草をもってわが衣を染め、まだ着ずにいるうちに表面に現われてしまったことであるよ。
【評】 「託馬野に生ふる紫」は、家持を譬えたものである。「託馬野」は「紫」の産地としていっているのであるが、単にそれだけではなく、自身に比しては家持の身分が高く、そのために逢い難いのを、紫の産地として最も遠隔な地をもって譬えたの(199)である。「紫」は、服色令の中の最高の色であるところから、家持に譬えたもので、この二句は、逢い難い尊い人という意を譬えたのである。「衣に染め」は、夫婦の約束をし、家持をわがものとした意の譬。「未だ服ずして」は、約束だけで、共寝をしたこともなくての意の譬。「色に出でにけり」は、すでに慣用語となっていて、譬というには足りないものであるが、「色」は「紫」に関係させた語である点からは、譬の心があるといえるものである。一首、心としては、単に夫婦の約束をしただけで、一方では他人にも知られてしまっているのに、共寝をしたこともないと訴えたものであるが、譬喩はいうがごとく複雑を極めたもので、しかも自然な、調和をもった、安らかなものとなし得ているもので、才情の思われる歌である。まさに譬喩歌と称すべきである。
396) 陸奥《みちのく》の 真野《まの》の草原《かやはら》 遠《とほ》けども 面影《おもかげ》にして 見《み》ゆとふものを
陸奥之 眞野乃草原 雖遠 面影爲而 所見云物乎
【語釈】 ○陸奥の真野の草原 「陸奥」は、道の奥の約。今の奥羽地方の羽すなわち、羽前羽後を除いての総名。「真野」は、『和名抄』に、陸奥国行方郡真野とあり、行方郡は磐城国である。現在は、福島県相馬郡鹿島町真野にあたる。「草原《かやはら》」は、「草《かや》」は古くは屋根を葺《ふ》く料とする草の称である。「草原」の下に、詠歎が含まれている。○遠けども 仮名書きによっての訓。後の遠けれどもにあたる古格。○面影にして見ゆとふものを 「面影」は、本来は影の意であるが、転じて、眼前にない物の、あるがごとくに思われる意となった語。「して」は、動詞の代わりをしているもので、なってというにあたる。この語はなくても通じる続きである。「見ゆとふものは」は、「見ゆとふ」は、原文「所見云」。旧訓「見ゆといふ」。『考』の訓。「を」は、詠歎。見えると人がいうものをで、余意をもたせたもの。
【釈】 陸奥《みちのく》の真野の草原《かやはら》よ、遠く隔ててはいるけれども、それを思えば、面影になって見えると人がいっているものを。
【評】 「陸奥の真野の草原」は、家持に譬えたものである。「陸奥」という遠隔の地を譬えたのは、前の歌と同じく、家持に逢い難くしている心よりで、その点は同様である。いま一つは、当時の大和の京には、自然の風光の新しいものに憧れる心があったのであるが、その心より陸奥は、きわめて風光に富んだ、憧れの国となっていたので、その心をも絡ませて、家持を愛でたい、憧れの対象として捉えたものである。「面影にして見ゆとふ」は、他人のいうこととしていったものであるが、それに「ものを」の詠歎を添えて、まして我においてはの余意をもたせて、逢い見たさに堪えられない意の譬としたのである。譬喩が単純な上に、気分が透徹しているために、譬喩がただちに訴えとなっているがごとき感のあるものである。これは才情のきわめて豊かな上に、詠み方もきわめて新しく、譬喩歌の上乗なるものである。譬喩という名目は、この一女性によって拓《ひら》かれた(200)ものであるかの観さえある。
397 奥山《おくやま》の 磐本菅《いはもとすげ》を 根《ね》深《ふか》めて 結《むす》びし情《こころ》 忘《わす》れかねつも
奧山之 磐本管乎 根深目手 結之情 忘不得裳
【語釈】 ○奥山の磐本菅を 「奥山の」は、草の生えている所をいおうとしてのもので、きわめて清浄なる所としたもの。「磐本菅」は、磐の本に生えている菅の意で、菅の一種としての山菅《やますげ》(やぶらんともいう)を具象的にいったもの。笠などにする菅は湿地に生えるもので、これは山地に生える別種のものである。この「菅」も、草としていっているものであるが、その最も清浄なものとして選んでのもの。○根深めて結びし情 「根深めて」の「根」は、上より続いて、「菅」の根の意。「深めて」は、深くして。根を深くしてで、下の「結びし」の状態をいったもの。すなわち菅の葉を結ぶ状態をいったのであるから、「根」は葉の根もとの意でなければならない。初句からの続きは、奥山の磐本菅の葉を、その根もとを深くして。「結びし情《こころ》」の「結びし」は、引き結んだ意。木の小枝、草の葉を結ぶことは、巻一(一〇)「岡の草根をいざ結びてな」、巻二(一四一)「磐代の浜松が枝《え》を引き結び」などあり、身の無事を祈る時の業《わざ》であり、また、巻十一(二四七七)「足引の名に負ふ山菅押し伏せて君し結ばばあはざらめやも」があり、これは相逢うことを祈る業《わざ》と取れる。いずれにもせよ「結びし」は祈りの業であり、今の場合も、その心をもって上から続けているのである。この祈りは、心深くしたものということを具象化しているものである。しかるにこの「結びし」は、下への続きから見ると、約束をしたの意の「結びし」となっている。下の(四八一)「玉の緒の絶えじい妹と、結びてし事は果さず」、その他例の少なくないものである。すなわちこの「結びし」は、同音異義で、葉を結ぶ意の結ぶを、約束をする結ぶに転じさせてあるもので、主となっているのは約束の意のほうである。その上から見て、初句から「根深めて」までは「結びし」の序詞である。「結びし情《こころ》」は、家持と夫婦関係を約束したわが心。○忘れかねつも 「かね」は、得られない意。「も」は、詠歎。忘れられないことであるよの意。
【釈】 奥山の磐本菅という、きわめて清浄な草を選んで、その根もとを深くして引き結んでする祈りのそれではないが、我の君と結び契った心は、忘れられないことであるよ。
【評】 家持に対する強い憧れを、控えめにして訴えたものである。「奥山の磐本菅を根深めて」は序詞であって、譬喩ではない。これを譬喩とすることは強いたものである。しかしこの序詞は、心深くということを具象的にいっているもので、女郎の気分に通うところのあるものである。その意味では、譬喩に近いものである。「根深めて」という語はことにそれをあらわしている。本来、序詞の中のあるものは譬喩に続いているもので、譬喩の延長と見られるものがある。この序詞もその範囲のものといえる。一首、気分だけをいったものであるが、技巧の力によって、軽くなりやすいものを重からしめているもので、才情を思わしめる歌である。
(201) 藤原朝臣|八束《やつか》の梅の歌二首 八束は、後の名は真楯、房前の第三子なり。
【題意】 「藤原八束」は、元正天皇、霊亀元年、藤原房前の第三子として生まれた人で、天平宝字四年、名を真楯《またて》と改めた。天平十二年従五位下。十三年右衛士督。十九年治部卿。二十年参議兼式部大輔。天平勝宝四年摂津大夫。天平宝字二年参議兼中務卿。四年大宰帥。六年中納言信部卿。天平神護二年大納言となり、その年薨じた。
398 妹《いも》が家《いへ》に 開《さ》きたる梅《うめ》の 何時《いつ》も何時《いつ》も 成《な》りなむ時《とき》に 事《こと》は定《さだ》めむ
妹家尓 開有梅之 何時毛々々々 將成時尓 事者將定
【語釈】 ○妹が家に開きたる梅の 「妹が家」の「家」は、「いへ」「へ」と両様の仮名書きのあるものである。「開きたる梅」は、現に眼前に咲いている梅の花。○何時も何時も成りなむ時に 「何時も何時も」につき、『代匠記』は、巻四(四九一)「河の上のいつもの花の何時も何時も来ませ吾が背子時じけめやも」のように、絶えずという意のものと、巻十一(二七七〇)「道の辺の五柴原《いつしばはら》の何時も何時も人の縦《ゆる》さむ言《こと》をし待たむ」とように、いつにてもの意のものとあると注意している。ここはその後のものである。「成りなむ」は、実のなるであろうで、上の「開きたる梅」で花、この「成りなむ」で実ということを暗示している。巻二(一〇二)「玉葛花のみ咲きて成らざるは誰《た》が恋ならめ」とように、花を恋の上の美しい語、実を心の誠に譬えるのは古くからのことである。これらもそれである。○事は定めむ 「事」は、結婚。「定めむ」は、取定めよう。
【釈】 妹が家に今現に咲いている梅の花が、いつにても実のなるであろう時に、結婚は取定めよう。
【評】 当時はまだ珍しく、したがって珍重されていた梅を妹に譬え、さらにその花と実とを、恋の上の語《ことば》と誠とに譬えたものである。この譬は以前よりあるものであるが、語としてはあらわさずに、それと感じさせているのは、一つの技巧である。歌は実用性のものであるが、技巧を用い、余裕をもっていっているところ、文芸性のあるものである。
399 妹《いも》が家《いへ》に 開《さ》きたる花《はな》の 梅《うめ》の花《はな》 実《み》にし成《な》りなば かもかくもせむ
妹家尓 開有花之 梅花 實之成名者 左右將爲
【語釈】 ○妹が家に開きたる花の梅の花 「花の」の「の」は、同じ趣の語を重ねていう時に用いる助詞で、すなわちというにあたる。「梅の花」の下には詠歎の心がある。妹が家に、今咲いている花の、すなわち梅の花よという意で、その花を讃える心をもっているもの。○実にし成りなば(202) 「し」は、強め。花が実になったならばで、誠実が認められたならばの意をいったもの。○かもかくもせむ 「かもかくも」は、「か」と「かく」と差別をつけ、相対させた語で、後世の「とにかくに」の古語。集中には「かにかくに」と「かもかくも」と二様の例がある。ここは思い入れをもっていった場合なので、「も」の方が作意と取れる。いずれかに定めようの意。
【釈】 妹が家に、今咲いている花のすなわち梅の花よ。この花が実となったならば、事をいずれとも定めよう。
【評】 「花」と「実」との譬喩は、上の歌と同様である。しかしこの「花」は、語《ことば》という意味はなく、妹そのものだけの譬喩となっており、しかも妹を讃える意のものとなっている。また、「実にし成りなば」も、当然、実となるものと定めて、それを期待している意のものである。「かもかくもせむ」は、「事は定めむ」と差のない言い方であるが、上との関係からいえば、いま少し積極的にいうべきものと取れる。歌は実用性のものであるから、八束は妹に対して、身分などの点から、地歩を占め、余裕をもった言い方をする必要があったためと取れる。この点は上の歌がすでにそれであった。二首、心が同じもののように見えるが、この歌のほうが積極的で、進展させてあって、実となることを促している趣のあるものである。これは形としては連作で、連作の自然発生的の面を見せているものである。
大伴宿禰駿河麿の梅の歌一首
【題意】 「駿河麿」は、父祖を明らかにすることができない。続日本紀にも、「公卿補任」にもその点は見えないからである。巻四(六四九)大伴坂上郎女の歌の左注に、「右、坂上郎女は、佐保大納言卿の女なり。駿河麿はこれ高市大卿の孫なり。両卿兄弟の家、女孫姑姪の族、ここを以て、歌を題し送答し、起居を相問ふ」とあるのが唯一のより所となっている。すなわち駿河麿の祖父高市大卿は、郎女の父にして佐保大納言と称せられた大伴安麿と兄弟であったとはわかるが、高市大卿は尊称で、その誰であったかがわからないのである。駿河麿の官歴は、続日本紀、天平十五年従五位下。十八年越前守。天平宝字元年橘奈良麿の事変に座して弾劾されたが、宝亀元年五月には、従五位上、出雲守。同年十月正五位下。二年従四位下。三年陸奥按察使、ついで正四位下、四年兼陸奥国鎮守将軍。六年参議、正四位上、七年卒して従三位を贈られた。
400 梅《うめ》の花《はな》 開《さ》きて落《ち》りぬと 人《ひと》は云《い》へど 吾《わ》が標《しめ》結《ゆ》ひし 枝《えだ》ならめやも
梅花 開而落去登 人者雖云 吾標結之 枝將有八方
【語釈】 ○梅の花開きて落りぬと人は云へど 梅の花が咲いて散ってしまったと人がいうけれども。○吾が標結ひし枝ならめやも 「標結ひし」(203)は、上の(三九四)に出た。わが所有の物として、その印《しるし》の標を結っておいたで、これは花の咲く以前のこととしていったもの。「枝ならめやも」は、疑問の「や」が、已然形の「め」を承けて反語となっているもの。その枝であろうか、その枝ではない。
【釈】 梅の花が咲いて散って行ったと人はいうけれども、それは自分が、わが所有として標《しめ》を結っておいた枝であろうか、その枝ではない。
【評】 「梅」を女に譬え、「開きて落りぬ」を、その物として事の終わった意、すなわち人の物と定まったことに譬え「吾が標結ひし枝」を、わが契った女に譬えたものである。標を結っておけば、梅は咲きも散りもしないかのようにいっているのは、事としては不自然であるが、その不自然が譬喩ということをあらわしているのである。人のいうことに不安を感じつつ、それを押し返そうとしているもので、心としては実際に即した、自然なものである。
大伴坂上郎女、親族《うから》と宴《うたげ》する日|吟《うた》へる歌一首
【題意】 酒宴には必ず歌が付き物であったことは、宴は「うちあげ」の約で、うちあげは、一同が揃って手を拍《う》ち上げることで、これは歌に合わせてする手拍子である。「吟へる歌」というのは、酒宴の席で謡った歌である。「宴」は「うちあげする」と訓むべきであろうといい、『講義』は精しい考証をしている。今は「うたげ」に従っておく。
401 山守《やまもり》の ありける知《し》らに その山《やま》に 標《しめ》結《ゆ》ひ立《た》てて 結《ゆ》ひの辱《はぢ》しつ
山守之 有家留不知尓 其山尓 標結立而 結之辱爲都
【語釈】 ○山守のありける知らに 「山守」は、山の番人で、その山をわが物として番をしている人。「ありける知らに」は、居たことを知らずして。「知らに」という語は、下の述語の理由を示す場合に用いられる語で、ここは「辱しつ」の理由を示すもの。○その山に標結ひ立てて 「結ひ立て」の「立て」は、その事を著しくする意の語だと『講義』は注意している。その山に、わが所有としての標を著しく結って。○結ひの辱しつ 「結ひ」は、動詞の連用形を体言化したもの。結う事をして辱をかいたの意。
【釈】 山番の番をしていたことを知らずして、その山に我が物の印《しるし》の標《しめ》を結って、結う事の辱をかいた。
【評】 この歌は、山を駿河麿に、「山守」をその通っているという女に、「標結ひて」を我が物とした、すなわち駿河麿を聟《むこ》にしたことに譬えたものである。この事は、これに続く駿河麿の歌で、その懸念を無用のものとしているので明らかである。この(204)歌を郎女が、親族《うから》の宴《うたげ》の日に吟《うた》ったというのは、郎女としてはその必要を感じてのことと思われる。歌は怨みとしていつているものであるが、親族の聞くところで吟ったのは、駿河麿をしてその事をやめしめ、またやめる上で親族をその立合人とし保証人としようとの心からのことと取れる。当時の大伴家の一族は、きわめて親しい間柄の者ばかりであり、また郎女は一族の長者の格でもあるから、そうした仕方をするのが、さして不自然なものではなかったろうと取れる。とにかく和え歌によると、駿河麿はこの譬喩をもって詠んだ歌をわが事とし、即座に、その懸念の無用なことをいっているのでも、その間の消息はわかる。さて駿河麿が郎女の聟であるという上で、どの娘の聟であるかということは、『講義』の考証によると不明なことになる。従来、田村大嬢《たむらのおおいらつめ》とされていたが、これは証とすべきことのないものであり、また、(四〇七)の題詞に、「大伴宿禰駿河麿、同じき坂上家の二嬢《おといらつめ》を娉《つまど》ふ歌」とあるが、これは田村大嬢ではなく、また坂上大嬢《さかのうえのおおいらつめ》でもない別な娘で、その娘は誰ともわからず、またこの題詞の歌以外には、駿河麿と郎女との聟姑関係に触れた歌も、記事もないのである。この歌は歌として見ると実用性のもので、譬喩は用いてあるといえ、それは用いざるを得ずしてのもので、文芸的の意味のものではない。心としては怨みを述べたものであるが、余裕をもち、洒脱の趣をももったもので、長者として、思うところあって詠んだ歌というにふさわしいものである。
大伴宿禰駿河麿、即ち和《こた》ふる歌一首
【題意】 「即ち」は、立ちどころの意で、即座というにあたる。歌をもって物をいわれると、同じく歌をもって和えることは、上代からの風である。
402 山主《やまもり》は けだしありとも 吾妹子《わぎもこ》が 結《ゆ》ひけむ標《しめ》を 人《ひと》解《と》かめやも
山主者 盖雖有 吾妹子之 將結標乎 人將解八方
【語釈】 ○山主はけだしありとも 「山主」は、贈歌をうけたもの。「けだし」は、巻二(一一二)に出た。今用いているよりも意味が広く、もしというに似ている。いわれるところの山番が、もしあるとしようとも。○吾妹子が結ひけむ標を 「吾妹子」は、男子より女子を親しんで呼ぶ称で、範囲の広いもの。ここは郎女。「結ひけむ標」は、上の歌と同じ。○人解かめやも 「解く」は、上の「結ひ」に対させたもので、取り去る意。他人が解こうか、解きはしない。
【釈】 いわれるところの山番が、もしあるとしようとも、あなたが結われたであろうところの標《しめ》を、他人が解いて取り去ること(205)をしようか、しはしない。
【評】 郎女の歌の心をまっすぐに受け入れてはいるが、しかしそれは軽く受け流して、懸念するには足りないことのようにし、力点を、郎女の威力を讃えるところに置いたものである。これがおそらく実状であったろうが、郎女の面目を立て、自身の面目も保ち得ている、時宜にかなったものである。それにしても駿河麿とすると、こういう以上、親族の集まっている席上で、一種の誓をした結果となるものである。二首を通じて見ると、こうした交渉が円滑に行なわれるのは、歌をもってするがゆえであって、実用性の歌が変わらずに続いて行った消息に触れているものである。
大伴宿禰家持、同じき坂上家《さかのうへのいへ》の大嬢《おほいらつめ》に贈れる歌一首
【題意】 坂上家の大嬢は、巻四(七五九)の左注によって知られる。「右、田村大嬢と坂上大嬢と、并にこれ右大弁大伴|宿奈暦《すくなまろ》卿の女なり。卿は田村の里にあり、号を田村大嬢と曰へり。但妹坂上大嬢は、母坂上の里に居り、仍りて坂上大嬢と曰へり。云云」というのである。すなわち大嬢は、宿奈麿の次女として、郎女より生まれた人であり、母とともに坂上の家に住んでいたところから呼ばれた敬称である。この人は後、家持の妻となった。なお、宿奈麿は安麿の第三子なので、家持と大嬢とは従兄弟である。「坂上」は、(三七九)題詞に出た。
403 朝《あさ》にけに 見《み》まく欲《ほ》りする その玉《たま》を 如何《いか》にしてかも 手《て》ゆ離《か》れざらむ
朝尓食尓 欲見 其玉乎 如何爲鴨 從手不離有牟
【語釈】 ○朝にけに見まく欲りする 「朝にけに」は、日々に、すなわち常に。「見まく欲りする」は、「見まく」は、「見む」に「く」を添えることによって名詞形にしたもの。見ることをの意。「欲りする」は、欲するで、したいの意。○その玉を 「その」は、さし示す意で、下の「玉」を他と差別して一つの玉としているもの。○如何にしてかも 「かも」は、疑問で、どのようにしてかで、術《すべ》がわからず、思い余った心をいったもの。○手ゆ離れざらむ わが手より離れないものにできようかで、上の「かも」は、ここへ移る意のもの。
【釈】 日々、常に見ることをしたいと思うその玉を、どのようにして、わが手から離れないものにできようか。
【評】 「玉」を大嬢に譬え、「手ゆ離れざらむ」を我が物にすることに譬えたものである。玉を思う人に譬えるのは、古くからの風で、これはそれにならったものである。娉《つまど》いの歌であるが、直接に相手に訴えることをせず、その願いをもって、ただ思い(206)余っている自身の状態をいっただけのものである。そうした態度を取るよりほかはなくての歌と思われる。ここに報《こた》え歌のないのは、なかったためかと思われる。大嬢は詠まずとも、母の郎女にうべなう心があれば、代作をした例もあるので、あればここに載っているだろうと思える。
娘子《をとめ》、佐伯《さへきの》宿禰赤麿に報《こた》へて贈れる歌一首
【題意】 「娘子」は、誰ともわからない。「佐伯宿禰赤麿」は、伝が知られない。「佐伯氏」は大伴氏と同祖であり、したがって親しかったろうということが注意される。この歌は、赤麿からある娘子に娉《つまど》いの歌を贈ったのに対して、娘子の報えのもので、赤麿の贈った歌は伝えていないが、「譬喩歌」に入り得ないものであったからではないか。
404 ちはやぶる 神《かみ》の社《やしろ》し 無《な》かりせば 春日《かすが》の野《の》べに 粟《あは》種《ま》かましを
千磐破 神之社四 無有世伐 春日之野邊 粟種益乎
【語釈】 ○ちはやぶる神の社し 「ちはやぶる」は、主として神にかかる枕詞。巻二(一〇一)その他にも出た。「社」は、屋代の意で、神の降りたまう屋の意。「し」は、強め。○無かりせば 無かったならばで、仮定。仮定にしたのは、これをいっている場所は、下の「春日の野べ」で、そこには現に神の社があったからである。○春日の野べに 春日の野は、春日の地にある野で、現在の奈良市の春日野で、今よりは広範囲にわたっての称。今は、上の「神の社」の所在地としていっている。この神は、現在の春日神社の四座の神であるかどうかということにつき、『代匠記』は疑いを挟んで考証し、『講義』はさらに詳しくしている。要は、現在の四座の神の勧請《かんじよう》は、称徳天皇の御宇であるから、今いっている神は、『延喜式』に名神大とある春日神社で、四座の神のほかであり、その地主社であろうというのである。○粟種かましを 「粟種く」は、春日の野は水田はなく陸田のみの地であるから、実際に即してのことと取れる。「まし」は、仮想で、上の「せば」に応じたもの。「を」は、詠歎。粟を蒔こうものをで、それができないのを嘆いての意。神の社に近い辺りは、清浄を穢すのをおそれて、作物を作らなかった上に立っての仮想。
【釈】 ちはやぶる神の社がもしなかったならば、ここの春日の野に、我は粟を蒔こうものを。
【評】 「神の社」は、赤麿のもっている妻に譬えたもの。「粟」は、逢う意の「逢は」を懸けて、その譬としたものである。「逢は」の譬のほうは、『仙覚抄』がいい、『代匠記』『槻落葉』の従っているものである。『講義』は、巻十四、東歌(三三六四)「足柄の箱根の山に粟蒔きて実とはなれるをあはなくもあやし」を挙げて支持している。「粟」と「逢は」は、文芸的にいえば掛詞であるが、上代の言霊《ことだま》信仰では、「逢は」と同音の「粟」には、逢うことをさせる力があるものとし、それによって譬とし(207)たものと取れる。娘子のいうのは、君に妻がなかったら、娉いに応じようものをといって、嘆きをもって拒んだものである。「春日の野べ」を捉えているのは、娘子の住所がそこで、「粟種かまし」も生活に関係のあることで、実際に即しての語《ことば》と取れる。したがって、形としては譬喩であるが、それを用いた娘子は、必要に駆られて、そうしたことは意識せずしていっているものと取れる。
佐伯宿禰赤麿、更に贈れる歌一首
405 春日野《かすがの》に 粟《あは》種《ま》けりせば 鹿《しし》待《ま》ちに 継《つ》ぎて行《ゆ》かましを 社《やしろ》し留《とど》むる
春日野尓 粟種有世伐 待鹿尓 繼而行益乎 社師留焉
【語釈】 ○春日野に粟種けりせば 「種けりせば」は、蒔きありとせばの意で、上の歌の四、五句を承けてのもの。○鹿待ちに 古点「待つしかに」であり、『代匠記』『考』『略解』はこれに従い、『代匠記』は、粟の熟するを待つ鹿とし、『考』は待つ鹿のごとくとし、『槻落葉』は、「待たすかに」と訓み、「かに」は、のごとくにの意と解している。『代匠記』の解は、下の「行かまし」の目的となり得ず、『槻落葉』の解は、何が何を待つか明らかでない。『古義』が今のごとく改めた。意は、「鹿《しし》」は、鹿、猪など、その宍《しし》を食用とする獣の総称で、用例の多い語である。「鹿待ち」は、鹿を待つことで、待つのは捕えて食用としようがためである。上よりの続きは、鹿は粟が熟すと、荒らそうとしてくるもので、その頃はその時節である。鹿待ちのためにの意。○継ぎて行かましを 「まし」は、上の歌に出た。続けてそこへ行こうものを。○社し留むる 「社し」は、上の歌に出た。「留焉」の訓は、『攷証』のものである。「焉」は漢文風の助辞で、これを用いた例は(208)集中に多く、これもそれである。「留」を「とどむる」と訓む例として、『講義』は、巻四(五三二)「打日さす宮に行く児を真悲《まかな》しみ留者《とむれば》苦し聴去者《やれば》すべなし」を挙げている。社が行くことを留《とと》めるの意。社は、穢れのうち、血の穢れを最も忌む所であるから、その辺りで、鹿待ちという出血に関係のあることをするのは、実際としてもすべきことではない。「留《とどむる》」は連体形であって、これで終止させるのは特殊なことで、詠歎の心をこめていう場合に限っている。集中に例の少なくないものである。
【釈】 春日野にもし粟が蒔いてあるとするならば、その実の熱する頃とて、荒らしに来る鹿《しし》を待つために、続けてそこに行こうものを。そうした穢れに近いことは、そこにいます神の禁じ留めることであるよ。
【評】 「粟種けりせば」は、上の歌と同じく「粟」を「逢は」の譬喩としたもので、娘子がもし我に逢おうとする心があるならばという意の譬。「社し留むる」の「社」は、上の歌では、娘子が赤麿の妻の譬喩としたものであるのに、ここでは、赤麿が娘子に夫のあることを想像し、それに譬えたものである。赤麿のこれらの譬喩は、娘子が自然発生的に用いたものを奪って、意識的に、技巧化して用いているものである。しかし「社し留むる」は、いったがように実際に即してのものである。
娘子《をとめ》、復《また》報ふる歌一首
406 吾《わ》が祭《まつ》る 神《かみ》にはあらず 大夫《ますらを》に 認有《つなげる》神《かみ》ぞ 好《よ》く祀《まつ》るべき
吾祭 神者不有 大夫尓 認有神曾 好應祀
【語釈】 ○吾が祭る神にはあらず 吾が祭っている神ではないで、「神には」の「は」で、それは他の神であるということを暗示しての言い方である。娘子《おとめ》の初めの歌に、「神の社しなかりせば」といって、その「神」を赤麿の妻に譬えていったのに、赤麿は前の歌で、娘子の夫を譬えていってきたので、娘子は立返って、初めの歌でいった神の説明をしているのである。吾が「神」といったのは、わが祭るべき神のことではないと断わったのである。○大夫に認有神ぞ 「大夫」は、赤麿を尊んでいったもの。「認有《つなげる》」は、旧訓「とめたる」。『考』の訓。「つなぎとどめて離れぬ神有といへり」と説いている。諸注、さまざまの訓を試みているが、『講義』は、「認」の用字例として、集中いま一か所ある巻十六(三八七四)「所射鹿《いゆしし》を認《つなぐ》河辺の和草《にこぐさ》の」を引き、さらに『類聚名義抄』の「認」字につき、つなぐの訓のあることを確かめている。その解については日本書紀、斉明紀の歌、「射ゆ鹿《しし》をつなぐ河辺の若草の若くありきと吾《あ》が思《も》はなくに」という、巻十六の歌に酷似した歌の「つなぐ」に対し、『稜威言別《いつのことわき》』の解を参考として引いている。要は、認《つな》ぐは狩猟の上の語で、獣のいる場所を心で標めておき、そこへ認《と》めてゆく意で、この語は江戸時代の猟師の間には生きて用いられていた。例せば、猪を一打ち射留めると、その猪は身が熱し喉が渇き、その辺りの河辺に水を飲みに行くが、疲れて逃げられず、必ずそこにいるものである。その射留めたこともつなぐといい、そのいる所へ覓《と》》めて行くのも、つなぐとも、跡をつなぐともいっているとい(209)うのである。『講義』はなお他の証となるものを引いている。これによって『考』の解に従うべきであろう。「神ぞ」は、下の続きで、神をぞの意のものと取れる。この二句は、大夫につないでいる神をこその意である。『講義』は、語格からいうと、「大夫を」とあるべきで、それが普通であるのに、「大夫に」とあるのは普通ではないとして疑っている。この「神」は、赤麿の妻の譬喩としてのものであるから、「神」とはいえ実体は無力なものであるから、その意をもっていっているものではないかと取れる。それだと作意としては不自然ではなくなる。○好く祀るべき 「べき」は、「ぞ」の結。心して祀るべきであるよの意。
【釈】 吾《われ》が神といったのは、わが祭っている神をいったのではない。その神は、大夫《ますらお》君に認《つな》いで、跡を覓《と》めている神のことで、君はその神をこそ心して祀るべきであるよ。
【評】 赤麿が娘子《おとめ》には夫がありはしないかと危ぶんで、「社し留《とど》むる」といってやったのに対し、娘子はそれには答えようとせず、最初に自分が「神の社」といった、その「神」の説明をする形において、赤麿にも劣らない態度で、危ぶみの情を強調していっているものである。事の全体の上からいうと、赤麿の娉《つまど》いに対して娘子は応じる心をもち、赤麿もそれは承知の上で、双方とも、他に関係者をもっているのではないかと危ぶんで、探り合っている範囲の歌である。一夫多妻の時代であり、夫妻は同棲すると定まっていない時代であったから、こうした危ぶみは双方もたざるを得なかったのである。歌はいずれも一見遊戯に似ているが、それは昏譬を用いているからで、この譬喩は、事の性質上、用いざるを得なかったものであり、心としては率直なものであったと取れる。「吾が祭る神」「大夫に認有神」と、譬喩としてのものではあるが、「神」を対立させていっているのは、当時の信仰状態を反映しているもので、技巧としてのものではない。それは当時の神は、その加護を垂れる範囲が厳しく限られていて、例せば一つの部落の神は、他の部落の者に力を及ぼさず、一つの氏の神は、他の氏人にはかかわりをもたなかったのである。これは現在にも伝わっていることであるが、大勢としては、後世になるに従って、神の加護の範囲は広がって、すべての神は民族の神となろうとしつついる。この当時の信仰状態としては、娘子のいっていることは当然のことだったのである。全体として見ると、男の態度には余裕があるが、女は一本気であり、従順なところがあると同時に、烈しいところをもっていて、三首の贈答を通して、歌物語の趣をあらわしているものである。
大伴宿禰駿河麿、同じき坂上家《さかのうへのいへ》の二嬢《おといらつめ》を娉《つまど》ふ歌一首
【題意】 「同じき坂上家」という「同じき」は、(四〇一)の歌との関係においていっているものと取れる。「二嬢」は、中国風の言い方で、二人の娘とも、第二の娘とも解せられるものである。「嬢」は「娘」と通じて用いる語である。ここは事の性質上、第二の娘と解される。「坂上家」は、坂上郎女の住んでいた家で、そこに住んでいた宿奈麿の娘で、明らかにわかっているのは、(210)後に家持の妻となった坂上大嬢だけで、二壌というのはただここにあるだけで、それ以上にはわからない。このことは(四〇三)についていった。
407 春霞《はるがすみ》 春日《かすが》の里《さと》の 殖子水葱 《うゑこなぎ》 苗《なへ》なりと云《い》ひし 柄《え》はさしにけむ
春霞 春日里之 殖子水葱 苗有跡云師 柄者指尓家牟
【語釈】○春霞春日の里の 「春霞」は、春の霞で、春を添えているのは、古くは秋の霧をも霞と称したからである。霞の「かす」を「春日」の「かす」に畳む関係で、春日の枕詞。「春日の里」は、古くは範囲が広く、東は春日山より西は率川《いざがわ》地方まで、南は大宅から北は佐保までにわたり、現在の奈良市の大部分にあたる地域であった。○殖子水葱 これにつき、『講義』は精しく考証している。食用とする一年生の水草で、集中、水葱《なぎ》と小水葱《こなぎ》と二種あるが、同種の物である。後世は水葵《みずあおい》といった。本来水沢に生ずるものであるが、好んで食用とするところから水田にも作った。葉は初め沢瀉《おもだか》に似、後には竹柏《なぎ》に似てくる。秋、穂を出し、青碧色または白色の小さい花をつける。生食し、また糟漬にもしたという。「殖」を添えているのは、植える、すなわち栽培したからで、これは「殖草」「殖竹」などに通じてのことだといっている。○苗なりと云ひし 「苗」は、発育しない物の意。「し」は、「き」の連体形で、それによって準体言としたもの。まだ苗であると以前にいわれた物はの意。○柄はさしにけむ 「柄」は、「枝」に当てたもの。小水葱は枝はないが、葉の繁るのをそう言いかえたもの。「さす」は、枝を出すこと。今は枝を出して来たことであろうで、苗の十分育ったことであろうの意。
【釈】 春霞春日の里に作っている殖子水葱《うえこなぎ》よ、以前まだ苗であるといわれたものは、今は育って枝を出してきたことであろう。
【評】 殖子水葱をもって二嬢《おといらつめ》に譬え、その成人しないことを「苗」に、成人を「柄はさし」に譬えたものである。植物を譬としようとするならば、他に美しい物もあったであろうに、食用とする小水葱を選んだのは、その「殖子水葱」であるからであろう。その作ってある場所を「春日の里」としたのは、少なくとも坂上家のその水田が春日の里にあったのでなくてはならず、その春日の里に「春霞」の枕詞を添えて、できうる限り事を鄭重にいっているのは、坂上家が春日の里にあったというほどに思わざるを得ないものである。しかるに坂上家のあった坂上は、(四〇二)でいっているように生駒郡の地であり、春日の里は添下郡であるから、それと見ると矛盾が起こり、わかり難いものとなるので、『講義』は特に問題としている。この事は、「苗なりと云ひし」に関係あるもので、やや早い頃には、二嬢の母郎女は春日の里に住んでい、後に坂上の里に移ったので、歌は溯つて、その春日の里にあった時に郎女の答えたことをいったものと見ると、無理のないものとなる。しかしこれは証すべき料のない推測である。この歌は実用性のものであるが、譬喩は文芸的にこなれきったもので、当時者間には明瞭に通じるが、第三者には題詞がないと解しかねるまでのものである。しかしこの譬喩は、技巧というよりは、必要のあって用いているもので(211)ある。一首、落着いていて、物言いが剋明《こくめい》で、その人の実体《じつてい》なのを思わせるものである。上の「春日の里」の推測も、この点からされるものである。
大伴宿禰家持、同じき坂上家の大嬢《おほいらつめ》に贈れる歌一首
408 石竹《なでしこ》の その花《はな》にもが 朝旦《あさなさな》 手《て》に取《と》り持《も》ちて 恋《こ》ひぬ日《ひ》なけむ
石竹之 其花尓毛我 朝旦 手取持而 不戀日將無
【語釈】 ○石竹のその花にもが 「石竹」は、今の撫子《なでしこ》で、集中にその名が多く、当時|愛翫《あいがん》されていたことが知られる。「その花」は、撫子の花で、「その」は強める意で用いたもの。「にもが」は「に」は、格助詞。「が」は、希望の、「も」は、詠歎の助詞である。この「に」が用いられている場合には、その下に動詞が略されているのが常規であると『講義』は注意している。撫子の花であって欲しいことよの意。○朝旦手に取り持ちて 「朝旦」は、あさなあさなの約。また「あさな」の「な」は、「に」の転音。「手に取り持ちて」は、愛すると、離れて見ているに堪えず、折り取って、手に持って見る意。○恋ひぬ日なけむ 「恋ふ」は、離れていて、眼に見ずに憧れる意と、眼前に見ながらも愛着する意とある。ここは後の意のもの。「なけむ」は、「なからむ」の意。形容詞「なし」の未然形「なけ」に推量の助動詞「む」のついたもの。
【釈】 撫子のその花であって欲しいことよ。それだと、朝に朝に、すなわち絶えずも、折り取って手に持って、愛着しない日はなくていよう。
【評】 撫子の花を大嬢に譬えたものであるが、これはおりから 若い心と、穏やかな人柄の思われるというだけの作である。その花の季節で、愛すべき花と一般にされていたがためである。
大伴宿禰駿河麿の歌一首
409 一日《ひとひ》には 千重浪敷《ちへなみし》きに 念《おも》へども などその玉《たま》の 手《て》に巻《ま》き難《がた》き
一日尓波 千重浪敷尓 雖念 奈何其玉之 手二卷難寸
【語釈】 ○一日には千重浪敷きに 「一日には」は、一日のうちには。「千重浪敷き」は、「千重浪」は、千重と続いて寄せて来る浪。「敷き」は、『講義』は、しげく行なわれるわざをいう語だと注意している。初句からの続きは、初句に「には」の助詞があるから、上の歌の場合と同じく、(212)「千重浪」の下に、寄するごとくの意が略されているものといっている。全体では、一日のうちには、千重浪の寄せるごとくで、「一日」の「一」と「千重」の「千」とは、意識して対させていると取れる。○念へども 念うのは、下の「玉」である。○などその玉の 「など」は、疑問。「なぞ」も集中にあり、共に行なわれていた。「なぞ」の「ぞ」は係助詞で、「など」の「ど」は、それの古い姿の一つだと『講義』はいっている。「その玉」は、「その」は指示する意で、上の「千重浪」の打寄せて来ることのある海中の玉、すなわち鰒玉《あわびだま》である。○手に巻き難き 「手に巻く」は、手玉として緒に貫《ぬ》いて手に巻くこと。
【釈】 一日のうちには、千重浪の寄せるがごとくにしげく思っているけれども、どうして海のその玉は、手玉とすることができないのであろうかよ。
【評】 「玉」を女に、「手に巻く」を、わが物とする、すなわち妻とすることに、念いを「千重浪」に譬えたものである。愛する人を玉に、一緒にいるのを、それを手に巻くに譬えるのは、古くからあるもので、またしげさを千重浪に譬えるのも、巻十三(三二五三)「百重《ももへ》波千重浪敷きに言《こと》あげす吾は」という古いものがある。この歌はそれらを一つに集めたものであるが、意図的に、多くを集めすぎたため、かえって心の弱められているものと思える。
大伴坂上郎女の橘の歌一首
410 橘《たちはな》を 産前《やど》に植《う》ゑ生《お》ほし 立《た》ちて居《ゐ》て 後《のち》に悔《く》ゆとも 驗《しるし》あらめやも
橘乎 屋前尓殖生 立而居而 後雖悔 験將有八方
【語釈】 ○橘を屋前に植ゑ生ほし 「橘」は、渡来した木で、当時珍重して鑑賞した木。「屋前《やど》」は、旧訓。「やど」は意味の広い語で、「屋戸《やど》」すなわち屋の戸の字を用い、庭の意としている例は、集中に甚だ多い。ここもそれである。「植ゑ生ほし」は、移し植えて育てての意。○立ちて居て後に悔ゆとも 「立ちて居て」は、(三七二)「立ちて居て念ひぞ吾がする」があった。思いが深く落着きかねる時の状態で、ここも思いの深いことを具象化したもの。「後に悔ゆとも」は、後になって悔をしようともで、悔いるのは上の橘を植え生おしたこと。○験あらめやも 「驗」は、甲斐。「めやも」は、「む」の已然形「め」に「やも」を続けて反語としたもの。甲斐があろうか、ありはしない。
【釈】 橘をわが庭に移し植えて育てた後に、その事を深く後悔することがあろうとも、その時になっては甲斐があろうか、ありはしない。
【評】 「橘」を娘の聟に譬え、「屋前に植ゑ生ほし」を、わが家に通わせることに譬えたものである。橘は珍重されていた庭木であるから、この譬喩はその意味では適当なものである。「立ちて居て後に悔ゆとも」は、譬喩を離れて、単に橘の上でいう(213)と、意味をなさないもので、譬喩のほうで、聟の娘に対する軽薄な心に対する不安と見て、初めて通るものである。譬喩歌は本義としても、譬喩としても通るものであるのが建前であるから、その意味でこの歌は十分なものとはいえない。しかしこの歌には、続いて和え歌があって、それによると聟となろうとしている人に贈ったもので、当事者だけの間の実用性の歌である。この類の不備な点のある歌の往々まじっているのは、撰者の計らいとしてのことと思われる。
和ふる歌一首
【題意】 右の歌を郎女より贈られて、それに対して和えた歌である。歌をもってものをいわれれば、歌をもって和えるのは当然のことだったのである。作者は誰ともわからない。
411 吾妹児《わぎもこ》が 昼前《やど》の橘《たちばな》 甚近《いとちか》く 植《う》ゑてし故《ゆゑ》に 成《な》らずは止《や》まじ
吾妹兒之 屋前之橘 甚近 殖而師故二 不成者不止
【語釈】 ○吾妹児が屋前の橘 「吾妹児」は、郎女。「屋前の橘」は、その庭にある橘。○甚近く植ゑてし故に 「甚近く」は、はなはだ近くで、近くというのは、下の「植ゑ」の位置をいったもので、この作者の家の近くである。「植ゑてし故に」は、「て」は、完了。移し植えることをしたがゆえに。○成らずは止まじ 「成る」は、実のなることで、橘は当時、葉も花も愛したが、ことに実の美しきを愛したので、その意でいっているもの。その実がならなければ、わが丹精はやめまいというので、どこまでも丹精して実をならせようの意である。
【釈】 吾妹児の庭の橘を、わが家の甚だ近い所に移し植えたがゆえに、この上は、その橘に、実がならなければわが丹精はやめまい。
【評】 この歌では、「橘」を郎女の娘に譬えてある。橘は賞美した木であるから、自身に譬えられたのを、相手の娘に代えたのは妥当なことである。「甚近く植ゑてし」は、郎女の娘との結婚交渉が進捗《しんちよく》してきていることを譬えたもの。「成らずは」は、結婚の交渉を「花」と「実」とに譬え、「花」を、なかば儀礼的に、言葉の上だけでの交渉時期に、「実」を、心の相合うこと、すなわちその成立に譬えることは、古くから慣用となっているもので、ここもそれである。郎女の贈った歌は、聟となるべき人の誠実の度を確かめようとしたものであるが、その人は、その事には答えようとせず、わが誠実をもって、必ず郎女の娘を動かそうということをいっているのである。当時の結婚は、大体当事者の間で定まるもので、親は多くの干渉をしないのが建前であった。往々、親が干渉して問題となる場合があったが、それは親としては承認のし難い相手であったためと取れる。ま(214)た、親とは母親であって、また、普通「親」という場合には母親に限っていたのである。これは夫妻同棲せず、子は母親にだけ監督されていたことの自然の成行きである。これらの歌も、その上に立ってのものである。
市原王《いちはらのおほきみ》の歌一首
【題意】 「市原王」は、巻六(九八八)の題詞により、安貴《あき》王の子であることが知られる。安貴王は、(三〇六)の作者として出た方で、天智天皇の曾孫である。市原王は、天平十一年|写経司《しやきようし》の舎人《とねり》。同十五年従五位下。その頃より玄蕃頭となったが、玄蕃寮は治部省管下の一寮で、全国の仏寺僧尼の名籍と、供養斎食の事を管する役所である。天平勝宝元年東大寺大仏造営の功によって従五位上に、ついで正五位下に敍せられ、天平宝字七年摂津大夫、また、造東大寺長官に任ぜられた。また天平宝字二年の頃、治部大輔にも任ぜられている。大体、仏教に関する方面に歴任された。続日本紀、天応元年二月の条に、王の妻は、光仁天皇の皇女能登内親王であることが出ている。
412 いなだきに きすめる玉《たま》は 二《ふた》つなし かにもかくにも 君《きみ》がまにまに
伊奈太吉尓 伎須賣流三者 無二 此方彼方毛 君之随意
【語釈】 ○いなだきに 「いなだき」は、頂《いただき》のことと取れる。『和名抄』は、「顛」に「いただき」の訓をしている。「な」と「だ」とは、相転じ合っている例が多いから、これもそれであろうといい、『講義』は多くの例を挙げている。○きすめる玉は二つなし 「きすめる」という語は、集中ここにあるだけで、他には用例がなく、したがって解し難いものである。諸注、解を試みているが、玉を緒をもって統べる意の「統《すま》る」に関係をつけ、用例として、日本書紀、神代紀、天照大神の御装の、「便以2八坂瓊五百箇|御統《みすまる》1纒2其髻鬘及腕1」と、「法華経」の安楽行品にある、仏説の無上の物であることの譬としての、転輪王の「髻中(ノ)明珠」とを引いているのである。しかるに、当時の男の髪は左右に分けて、角髪《みずら》に結っているのであるから、それを飾る玉としては「二つなし」では意味が通じなくなり、結局、「きすめる」と「統《すま》る」とは別語だということになる。しかるに『新考』は、「きすむ」という古語の例を見出している。それは、播磨風土記、賀毛郡の下に、「伎須美野《きすみの》」という野の地名伝説として、「右号2伎須美野1者、品太天皇之世、大伴連等請2此処1之時、喚2国造黒田別1而問2地状1。爾時対曰、縫(ヘル)衣(ヲ)如v蔵2櫃(ノ)底1、故曰2伎須美野1」というがある。これによると「蔵」は「きすめる」と訓むべきで、古くは、蔵《しま》つておくことを「きすむ」といっていたことがわかるのである。この語例は、この一つがあるのみであるが、これによると、「きすめる玉」は、蔵ってある玉である。それだと初句より続けると、「いなだき」はいわゆる髻中で、髻《もとどり》の中に蔵つてある玉ということになり、「髻中(ノ)明珠」を言いかえたものということが知られる。「二つなし」は、上を承けて、唯一の物で、無二、無三の貴い物の意とわかる。「髻中(ノ)明珠」は、仏説の無上であることの譬であるから、仏教を信ずる限り、誰でももっていると信じられるも(215)のである。ここは転輪王と同じく、わがいただきにもあるものとしての言である。以上のことは『講義』の考証しているところである。○かにもかくにも 「か」と「かく」と対させたもので、今の「とにもかくにも」にあたる古語。ああなりとも、こうなりともで、すなわち、いかようになりともの意。○君がまにまに 「君」は、一首の上から見ると、愛する女をさしてのものと取れる。男より女をいうには、一般に「妹」といっているが、稀れに君を用いている場合があって、これはそれと取れる。この「君」はその妻能登内親王であろうと思える。「まにまに」は、随意にで、下に、なろうの意の略されているものである。
【釈】 わが頂、すなわち髻《もとどり》の中に蔵ってある玉は、唯一にして、無二無三の貴い物である。君はそれのごとくに貴いので、ああなりとも、こうなりとも、すなわち、いかようになりとも、君の随意になろう。
【評】 仏説が取り入れられている歌は、集中に珍しくはない。仏教関係の事実よりも、むしろ思想の方が多く、その人生観、世界観を取り入れているものが少なくはない。これは思想ではなく事実のほうのもので、我ももっているとする「髻中(ノ)明珠」をもって、その愛する女の譬喩としたもので、仏教を主としていうと、それを修辞上に利用したという軽い扱い方のものである。王の官歴として仏教に親しむことが深く、その結果このように、日常生活の上に利用するまでに至ったものとみられる。しかし譬喩として見ると清新な、また含蓄をもったもので、すぐれたものといえる。
大網公人主《おほあみのきみひとぬし》、宴《うたげ》に吟《うた》へる歌一首
【題意】 「大網」は氏、「公」は姓、「人主」は名である。『新撰姓氏録』(左京皇別)に、「大網公上毛野朝臣同祖、豊城入彦命六世孫、下毛野君奈良弟真若君之後也」とある。伝は不明である。宴に吟へるというのは、歌の出所をいったものである。そうした場合、自作も、また古歌も吟ったので、いずれとも定められない。
413 須磨《すま》の海人《あま》の 塩焼衣《しほやきぎぬ》の 藤服《ふぢごろも》 間遠《まとほ》くしあれば 未《いま》だ著穢《きな】れず
須麻乃海人之 塩焼衣乃 藤服 間遠之有者 未著穢
【語釈】 ○須磨の海人の塩焼衣の 「須磨」は、今の神戸市の西にある須磨。「海人」は、ここは、海の業をする者の総称としてのもの。「塩焼衣」は、塩を煮る時に著る衣の意で、いわゆる労働服である。○藤服 藤の繊維をもって織った服《ころも》の意。「藤」は、現在の藤だけではなく、葛を「ふぢ」と訓ませているのでもわかるように、蔓をなしている草木の総称である。粗末な服としていっているもの。初句からこれまでの三句は、序詞である。○間遠くしあれば 「間遠」は、一語二義で、上よりの続きは、織目《おりめ》が粗《あら》い意で、聞遠と続き、承けるほうは、男の立場に立って、女の(216)家との距離が遠い意で、問遠と転じさせたものである。「し」は、強め。間遠であるのでの意で、「ば」は条件をあらわすもの。○未だ著穢れず 「著穢れず」は、「来馴れず」の意で、「来」は行く、すなわち通って行くことを、女のほうを主として「来」といっているものである。「馴れず」は、馴染がつかない意で、行くことが少なく、馴染が浅いといって嘆いた意である。上の句との続きから見れば、そう解するよりほかはなく、それでなければ心のとおらなくなるものである。
【釈】 須磨の海人の塩を煮る時に著る衣のその藤服《ふじごろも》。織目が間遠である、その間遠い所に妹の家があるので、我はまだ通って来馴れず、馴染が浅い。
【評】 この歌は、これを譬喩歌と見るには、「藤服」を、「間遠くしあれば」の譬喩と見なければならないが、これはいったがように、初句から「藤服」までは、「間遠」に一語二義でかかっている普通の譬喩であって、譬喩と称すべきものではない。撰者は、初句より三句までを序詞と認めず、「藤服」だけを女の譬喩とし、「間遠く」を単に、男と女の家の距離の遠い叙述とし、「未だ著穢れず」と文字どおりに取り、それを馴染の浅い譬喩と見て、そこに嘆きを認めたのであるかもしれない。それだと譬喩歌と取れ、心のとおるものとなるのである。しかしこれは、語《ことば》の続きからいうと、強いた無理なものといわなければならない。それにつき斟酌されることは、「吟《うた》へる歌」ということで、この歌を耳で聴くと、「未だ著穢れず」が強く響き、したがって「間遠くしあれば」とそれとの続きが閑却されるところがあったろうかと思われることである。それにしても、これを譬喩歌と見ることは無理というべきである。
大伴宿禰家持の歌一首
414 あしひきの 石根《いはね》こごしみ 菅《すが》の根《ね》を 引《ひ》かは難《かた》みと 標《しめ》のみぞ結《ゆ》ふ
足日木能 石根許其思美 菅根乎 引者難三等 標耳曾結焉
【語釈】 ○あしひきの石根こごしみ 「あしひきの」は、山にかかる枕詞であるが、これをただちに「山の」の意に用いたものである。これは奈良遷都後に起こった風であるらしく、他の例もある。「石根こごしみ」の「石根」は、磐の意で、「根」は添えたもの。しばしば出た。「こごしみ」は、ごつごつしているにより。○菅の根を 「菅」は、上との関係上、湿地に生じる普通の物ではなく、山地に生じる山菅で、「磐本管」(三九七)と呼ばれる物であり、したがって根が深く、引き抜けない物であることがわかる。○引かば難みと 「引かば」は、小松を引く、大根を引くというそれで、引き抜く、根こじにする意で、引き抜こうとしたならばの意。「難みと」は、困難であるゆえにと思って。○標のみぞ結ふ 「標」は、しばしば出た。わが物とする印《しるし》の物。原文の「焉」は、漢文風の助辞。標だけを結っておくの意。山菅はその物として標を結っておくという性質(217)の物ではない。したがってこの事は、心の中ですることということを暗示している語である。
【釈】 山の磐がごつごつしていて、そこに生えている山菅の根は、根こじにしようとすれば困難なゆえに、心の中で、わが物との印の標だけを結っておく。
【評】 「あしひきの石根こごしみ」は、得ようとする女の環境の譬喩、「菅の根」は女の譬喩、「引かば」はわが物とする意の譬喩である。「引く」は、女の心を誘い試みる意ももっている語であるが、ここではそれは縁語的の働きをしているだけである。「標のみぞ結ふ」は、全体を譬喩とする上では、やや不自然な趣のある語であるが、大体としては、複雑なる心を譬喩化し得ているものである。心穏やかな人が、丹念に、苦労して詠んだ歌ということを思わせるものである。
挽歌
【標目】 挽歌は、巻二に出た。これは、巻三、四の両巻を一括し、それを四部に分かった一部としてのものである。
上宮聖徳皇子《うへのみやのしやうとこのみこ》、竹原井《たかはらのゐ》に出遊《いでま》しし時、竜田山《たつたやま》の死人を見て悲傷《かなし》みて御作歌《つくりませるうた》一首【小墾田宮《をはりたのみや】に天の下知らしめしし天皇の代、墾田の宮に天の下知らしめししは、豊御食炊屋姫天皇なり。諱は額田、謚は推古】
【題意】 「上宮聖徳皇子」は、御名は厩戸|豊聡耳《とよとみみ》命、用明天皇の皇子、推古天皇の御宇、皇太子として摂政をされた御方で、あまねく熟知されている御方である。「上宮」は、当時の皇居の南に、上宮と称する宮があって、父天皇が皇子をそこに住ましめられたからの称で、皇子が後|斑鳩《いかるが》にお移りになっても、なおそれを称とされたものである。「聖徳皇子」は、御薨去の後に奉った謚号《しごう》である。「竹原井」は、『河内志』には、大県郡高井田村に在るとしているが、現在では、大阪府下柏原市高井田にあたる。そこは竜田山の西、大和川の沿岸である。本来、「竹原」は地名、「井」はここは井泉で、『河内志』に「有2石井1在2水涯1」といっているものであるが、それがやがて地名となったのである。そこは大和国から難波に出る古道にあたる地で、名所となっていたものとみえる。皇子よりは後のことであるが、そこには「竹原井頓宮」が営まれ、元正天皇養老年間より、光仁天皇宝亀年間にわたって、大体難波宮に行幸の御途次、その宮にも数回行幸になられたことが、続日本紀に出ている。「出遊」は遊覧のためと取れる。「竜田山」は、竹原井に出られるために越えるべき山、「死人」は、路に行倒れになった旅の人である。
(218)415 家《いへ》にあらば 妹《いも》が手《て》纒《ま》かむ 草枕《くさまくら》 旅《たび》に臥《こや》せる この旅人《たびと》あはれ
家有者 妹之手將纏 草枕 客尓臥有 此旅人※[立心偏+可]怜
【語釈】 ○家にあらば妹が手纒かむ 「家にあらば」は、下の「旅」に対させての想像。「妹が手纏かむ」は、妻の手を枕とすることであろうで、これも下の「草枕」に対させたもの。○草枕旅に臥せる 「草枕」は、旅の枕詞。「臥せる」は、臥《ふ》すの古語「臥《こ》ゆ」の敬語「臥《こや》す」の已然形に、完了の「る」の添ったもので、連体形。臥《ね》ていられるところの。○この旅人あはれ 「旅人」は、たびひとの約。「あはれ」は、感歎をあらわす意味の広いもの。ここは憐れみである。
【釈】 その家にいるならば、妻の手を枕として臥ることであろう。草枕旅に臥ていられるところの旅人よ、あわれにも。
【評】 題詞のごとく、路上に行倒れとなっている旅人を悲傷されての歌である。実際に即するのが上代以来の歌風である上、こうした特殊な実際にあっては、いっそうそれに即せざるを得ないのである。この歌は大体としては実際に即している範囲のものであるが、その即し方はよほど間接なもので、むしろ抒情の勝ったものである。路上に行倒れになっているという悲惨なことをいうに、「草枕旅に臥せる」と漠然とした言い方をし、その「臥せる」を憐れむべきことであるとして、「家にあらば妹が手纏かむ」ということを添えて比較し、さらに「あはれ」と添えられているのである。すなわち悲傷すべき実際の状態を直写することを避け、感傷的な語を添えることによって、事の実際を暗示しようとしているもので、一見素朴なごとくであって、実は相応に技巧的なものである。しかしこの態度は、巻二(二二〇)「讃岐の狭岑島に石中に死れる人を視て」と題する人麿の歌と同様なものであって、事のあまりにも悲惨なために、憐れみの心より直写を避け、また死人を穢れとして、忌み怖れる心よりそれとなくあらわそうとしたとも言えるもので、技巧的なのは必要より出たこととも言えるのである。それにしてもこの歌には、全体として心の稀薄なものがあり、はたして皇子のお作であるかを危ぶましめるところがある。日本書紀、推古紀には、事も歌もこれと相似たものがある。それは太子が片岡に遊行《いで》ました時、飯に飢えて道のほとりに臥《ねむ》っている旅人を御覧になって憐れまれ、飲良を与え、衣裳《みけし》を脱いで覆われた後に詠ませられた歌として、「級照《しなて》る片岡山に 飯《いひ》に飢《ゑ》て臥《こや》せる その旅人《たぴと》あはれ 親なしに汝《なれ》成りけめや さす竹の君やはなき 飯に飢て臥せる その旅人あはれ」というのである。この二首の歌は相通うところが多く、一事二伝と思わざるを得ないものである。試みに二首の歌についてその関係を思うと、歌謡は上代にさかのぼるに従って長歌が多くて短歌が少なく、下るに従ってその反対となっている。これは時代の好尚の推移よりくる趨勢《すうせい》である。二首とも、謡い物の色彩の濃厚なものであるところから見て、推古紀の長歌が民衆によって謡い継がれているために、いつか短歌形式のものに変わったのではないかということは、最も想像されやすいことである。さらにまた、聖徳太子の(219)御事蹟は、仏教の隆盛となるにも助けられ、民衆の好んで語り継いだものであり、したがってそのお作もあまねく謡い継がれたことであろうから、長歌の短歌にまでも変わった歌を、同じく皇子のお作と伝え、したがって記録していたということもありうることと想像されるのである。この歌はそれから直接に受ける感じを基として思うと、あるいは言ったがごとき経路をもったものではないかと思われる。
大津皇子|被死《みまか》らしめらえし時、磐余《いはれ》の池の般《つつみ》にて涕を流して御作歌《つくりませるうた》一首
【題意】 「大津皇子」は、巻二(一〇五)に出た。「被死《みまか》らしめらえし時」というのは、日本書紀、持統紀に、「朱鳥元年冬十月戊辰朔己巳、皇子大津謀反発覚、逮2捕皇子大津1。庚午賜2死皇子大津於|訳語田《をさだ》舎1。時年廿四」とある時の事である。「磐余の池」は、日本書紀、履中紀に、天皇、磐余に都せられ、「二年作2磐余池1」とある池である。宮地は、今の桜井市の西南、池の内付近といい、式内若桜神社がその址であるともいうから、池はその付近の地であろうと思われるが、今は涸《あ》せ果てて址をとどめていない。「般」は「つつみ」の意をもった字である。目録には「陂」とある。日本書紀には、訳語田舎とあるが、訳語田の名は伝わらず、所在も明らかでない。舎は皇子の邸である。その邸が磐余の池に近い所にあったことが思われる。
416 百伝《ももづた》ふ 磐余《いはれ》の池《いけ》に 鳴《な》く鴨《かも》を 今日《けふ》のみ見《み》てや 雲隠《くもがく》りなむ
百傳 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見哉 雲隱去牟
【語釈】 ○百伝ふ磐余の池に 「百伝ふ」は、『考』は、「こは百に数へ伝ふる五十」という意で、「い」の一音にかかる枕詞だといっている。「百足《ももた》らず五十日太《いかだ》」「百足らず八十《やそ》の」などの例もある。ここは、磐余の「い」にかかる。○鳴く鴨を 鳴くところの鴨をで、時は冬十月であるから、鴨の渡って来ている時である。○今日のみ見てや雲隠りなむ 「今日のみ見てや」は、「や」は疑問で、次の句に廻して解すべきもの。今日だけ見てで、今日を見収めとしての意。「雲隠りなむ」の「雲隠り」は、上代の信仰として、貴人は死ぬと、その魂は天に昇って目に見られぬものとなるとしていたから、そのことを具象的にいったもの。「なむ」は将来を推測していう語。
【釈】 百伝う磐余の池に鳴くところの鴨を、今日だけ見て、われは死んで雲に隠れてゆくのであろうか。
【評】 日本書紀はこの時の事を、比較的詳しく伝えている。時は御父天武天皇の崩御に続いての時で、捕えられるとたちまち死を賜わったので、皇子の妃も徒跣、髪を乱して走って来られて、殉死を遂げられた。謀反というのは皇位継承の範囲の事で、例の多いものである。英邁《えいまい》にして文事にも長《た》けられた二十四の皇子は、懐風藻にこの時の詩一絶をも遺されている。それは、(220)「金烏臨2西舎1、皷声催2短命1。泉路無2賓主1、此夕離v家向」というのである。歌はいわゆる辞世としてのものであるが、その際の眼前の実際に即して、死を明らかに意識しつつ、平生見馴れていられた磐余の池に時節柄として渡って来ている鴨の鳴き声に心を寄せられるという、世間を超越したもので、その趣は詩の「泉路無2賓主1」とあるに通うものである。しかもそれをいわれるには、心がこめられてい、「磐余の池」は「百伝ふ」という枕詞を添えて懇ろにいい、鴨は「鳴く鴨を」という、瞬間的な、また印象的な状態において捉えられ、それを「今日のみ見てや」のものとして、長い関係の最後であるとの心を明らかにされた上で、皇子の尊貴を意識された「雲隠りなむ」という語をもって結んでおられるのである。磐余の池の鴨という一小生物に、これほど心をこめていわれていることは、すなわち皇子のその際のいわざる哀感であって、その哀感はさらに直接に、一首を貫く強く身にしみる調べとなって現われているのである。また、「鳴く鴨の」という鳥の鳴き声に、当時ある神秘なものを感じ、魂の行方として「雲隠り」といっていることも、同じく信仰のなっているものと思われる。皇子がそれを意識されてのことかどうかはうかがい難いが、この歌としては明らかに陰影として感じられるところのものである。
右は、藤原宮の朱鳥元年冬十月。
右、藤原宮朱鳥元年冬十月。
【解】 この注につき『講義』は、藤原宮へ遷られたのは朱鳥八年のことであるから、持統天皇の御治世の意で注したものと見るべきであると注意している。
河内王《かふちのおほきみ》を豊前国|鏡山《かがみやま》に葬《はふ》れる時、手持女王《たもちのおほきみ》の作れる歌三首
【題意】 「河内王」につき『講義』は、この名の王が日本書紀と続日本紀とに四人ある。第一は、日本書紀、持統天皇三年、大宰帥に任ぜられた河内王、第二は、続日本紀、和銅七年、従四位下に叙せられた河内王、第三は、天平九年無位より従五位下に叙せられた河内王、第四は、宝亀元年無位より従五位上に叙せられた河内王である。ここは歌の排列から見て奈良遷都以前と考えられるので、第一の河内王であろうという。この王の事は、日本書紀、天武紀に二回出、持統紀には三年閏八月に、「以2浄広肆河内王1為2筑紫大宰帥1授2兵仗1及賜v物」とあり、つづいて二回出たあと、八年四月には、「以2浄大肆1贈2筑紫大宰率河内王1并賜2賻物1」とあるので、薨去より贈位され賻《ふ》を賜わったことがわかる。御系統は明らかでないといっている。「豊前国鏡山」は、小倉市より遠くない田川郡香春町鏡山であり、王の墓は今も存在して、前方後円の瓢塚《ひようづか》の上に、一大|石槨《せつかく》が露出するに至ってい(221)るという。「手持女王」は、父祖も伝え知られないが、歌はその地で詠んだものと取れるから、伴われて任地に在った王の妻であろうと取れる。
417 王《おほきみ》の 親魄《むつたま》あへや 豊国《とよくに》の 鏡《かがみ》の山《やま》を 宮《みや》と定《さだ》むる
王之 親魄相哉 豊國乃 鏡山乎 宮登定流
【語釈】 ○王の親魄あへや 「王」は、河内王。「親魄」は、ここに一か所あるだけの語である。祝詞《のりと》、大祓詞《おおはらいのことば》に「皇親《むつ》神漏岐神漏美乃命」とあり、同じことを祈年祭には、「皇陸《むつ》神漏岐命」とあって、「親」と「睦」とは同じ意で、睦まじさ、睦むの意と知られる。「魄」は、「たましひ」で、人の身に宿るもの。人の死後はそのものだけで存在するとされているもの。「親魄」は、睦む魂《たま》で、魂には和魂《にぎたま》、荒魂《あらたま》など、その作用を異にする面があるとされているので、親魄もその一面で、物に睦む魂の意と思われる。「あへや」は、「合へや」で、後世の「合へばにや」にあたる古格。「合ふ」は、巻十二(三〇〇〇)「霊《たま》合はば相|宿《ね》むものを」など例がある。現在も、心の合う、性の合うといっているのと同じである。「や」は、疑問。睦む魂が合ったのであろうかの意で、合うのは下の「鏡山」に対してである。○豊国の鏡の山を 上に出た。○宮と定むる 「宮」は、皇族としての王の邸宅の称としてのものであるが、ここは墓のことをいっているものである。神霊の籠もられる所としての意である。巻二(一九六)明日香皇女の木〓《きのえ》の殯宮、また(一九九)高市皇子等の城上《きのえ》の殯宮を、人麿は「常宮《とこみや》」といっているが、それと同じ意である。「定むる」は、王御自身が定めた意で、実は後の者が営んだのであるが、尊む意からいったものである。これは連体形で、上の「や」の結。
【釈】 王《おおきみ》の、物に睦む魂《たま》が、そこと合ったのであろうか、この豊の国の鏡の山を、常《とこ》しえの宮と定められたことであるよ。
【評】 作意は、王の御身をもって、京よりはきわめて遠い豊の国の鏡の山を、墓とされることに至ったことの嘆きをいったものである。「親魄」という語は愛でたい語であるのに、他に用いられていないところから見ると、古語として、やや特殊なものであったかと思われる。また、墓を「宮」ということは、人麿の歌によると、皇親という中でも特に尊い方に用いていたもので、河内王にはやや過ぎた語ではないかとの感があるが、これは作者としての女王の特別の尊敬よりいわれているものと思われる。一首、古風で、素朴で、重厚な味わいがあり、内に熱意を蔵しているのは、作者が女性であるためと思われる。しかし技巧としては熟したもので、自在で、さわやかさをもったものである。これは以下三首を通じて同様である。
418 豊国《とよくに》の 鏡《かがみ》の山《やま》の 石戸《いはと》立《た》て 隠《こも》りにけらし 待《ま》てど来《き》まさず
豊國乃 鏡山之 石戸立 隱尓計良思 雖待不來座
(222)【語釈】 ○石戸立て 「石戸」は、岩をもって作った戸で、墓の入口に立て、内外を遮る戸である。墓は上にいったように、前方後円の瓢塚で、槨は後門の玄室の内に据え、入口の戸は、前方の羨道と称する、玄室に通ずる道の入口に立てたのである。「立て」は、現在もいう語で、戸を閉ざす意で、王自身がされたこととしていったもの。○隠りにけらし 「隠り」は、「籠り」で、現在もいう語。ここは墓の内に籠もる意。「らし」は、眼前を証としての推量をあらわす語。証は、下の「来まさず」である。籠もってしまったようだの意。これも上と同じく、王自身の心をもってされたこととしてのもの。上代の信仰として、死ということは、魂が身から離れ去った状態ということで、その魂は帰って来ることがあり、再び身に宿れば生きかえりうるものとしていた。高貴の御方の殯宮の事は、これに関係してのことと思われる。「隠りにけらし」は、この信仰の上に立っての事と取れる。○待てど来まさず 生きかえられ、帰って来られるかと待っているが、お帰りになられない。
【釈】 豊の国の鏡の山の御墓の入口の岩戸を、御自身で立て、籠もってしまったのであろう。待っているが、お帰りになられない。
【評】 前の歌は、王を葬った時のものであるが、これはその後、ある日数を経た時の歌である。「待てど来まさず」が中心で、その嘆きをいったものであるが、その「待てど」は、上にいったがごとき信仰があり、それによってのもので、こういう際に陥りやすい情痴よりのものではない。したがって「来まさず」に理由が求められるのであるが、それが初句より四句までである。「石戸立て隠りにけらし」は、いったがように、王自身の心をもってされたこととしたもので、これも信仰の上に立っての心である。「石戸」をいうに、「豊国の鏡の山の」を添えているのは、その石戸を重んじるがためのもので、王に対しての尊敬の心をあらわしているものである。一首、しっかりとした、強い心が、底を流れているものである。
419 石戸《いはと》破《わ》る 手力《たぢから》もがも 手弱《たよわ》き 女《め》にしあれば すべの知《し》らなく
石戸破 手刀毛欲得 手弱寸 女有者 爲便乃不知苦
【語釈】 ○石戸破る手力もがも 「石戸破る」は、「石戸」は上の墓の石戸。「破《わ》る」は破るで、破るのは入口を設けるためである。石戸は立てかけてあるものなので、入口を設けるには、取り去るか破るかするよりほかはないものである。「手力もがも」は、「手力」は腕力。「もがも」は「が」は上に「も」を伴って希望をあらわす助詞。「がも」の「も」は、詠歎で、「が」を強めるための物である。「もが」「がも」は同系のもので、(三〇六)「花にもが」など、例の多いものである。二句、岩戸を破《わ》るほどの腕力もほしいものだの意。これは、天照大神の天窟戸の変の時の手力男神のことを思い寄せていっているものと思われる。○手弱き女にしあれば 「手弱き」は、「手」は接頭語で、四音一句。「女《め》にしあれば」は、「女」は『玉の小琴』の訓。「し」は強め。六音一句。この二句は、古事記上巻、須世理毘売《すせりひめの》命の御歌に、「吾《あ》はもよ女にしあれば」とある、その四六音の続きにならったものであろうという解があり、従うべきである。○すべの知らなく 「知らなく」は、「く」を添えて名詞形としたもの。知らぬ(223)ことよの意。
【釈】 石戸を破って墓の入口をあけるほどの腕力もほしいものであるよ。弱い女の身であるので、それをする方法の知られないことであるよ。
【評】 上の歌の「待てど来まさず」の嘆きに続いたもので、嘆きに堪えかねるところより積極的になり、「石戸立て隠りにけらし」と、王の心よりのこととしたそれに反抗し、石戸を破って王を引き出したいとまで思うが、省みるとそれもかなわないと思い、再び嘆きにかえる心である。天窟戸の故事、須世理毘売命の御歌と、一首の中に二か所までも神代の故事を絡ませているのは、女王の信仰心のさせることと見るべきであろう。歌材としてはいずれも際立ったものであるが、こなれきって目立たないものとなっているのは、手腕のすぐれているためである。三首おのずから連作の形となり、一つの嘆きの時間的推移をあらわした複雑味をもったものとなっている。古風を好むとみえ、また手腕をももっている女王のこととて、こうした心は長歌をもって詠もうとされるのが普通と思われるのに、短歌三首を連作の形にしてそれに当てられているのは、時代の影響からであろうと思われて、その点注意される。
石田王《いはたのおほきみ》の卒せし時、丹生王《にふのおほきみ》の作れる歌一首 并に短歌
【題意】 「石田王」は、伝が不明である。「卒せし時」は、喪葬令に、「五位以上及皇親称v卒」とあるが、「卒」によって位階を知ることはできない。また、その時は、これにつぐ(四二三)に、この王を哀傷した山前王《やまくまのおほきみ》の歌があるが、山前王は養老七年に卒せられたので、その以前であることが知られるだけである。「丹生王」も伝は不明である。女王であろうと想像されるが、確かではない。
420 なゆ竹《たけ》の とをよる皇子《みこ》 さ丹《に》つらふ 吾《わ》が大王《おほきみ》は 隠《こも》りくの 始瀬《はつせ》の山《やま》に 神《かむ》さびに いつき坐《いま》すと 玉梓《たまづさ》の 人《ひと》ぞ言《い》ひつる およづれか 吾《わ》が聞《き》きつる 狂言《たはこと》か 我《わ》が聞《き》きつるも 天地《あめつち》に 悔《くや》しき事《こと》の 世間《よのなか》の 悔《くや》しきことは 天雲《あまぐも》の そくへの極《きは》み 天地《あめつち》の 至《いた》れるまでに 杖《つえ》策《つ》きも 衝《つ》かずも去《ゆ》きて 夕衢占《ゆふけ》問《と》ひ 石卜《いしうら》以《も》ちて 吾《わ》が屋戸《やど》に 御諸《みもろ》を 立《た》てて 枕辺《まくらぺ》に 斎戸《いはひべ》を据《す》ゑ 竹玉《たかだま》を 間無《まな》く貫《ぬ》き垂《た》り 木綿《ゆふ》だすき かひなに懸《か》けて (224)天《あめ》なる ささらの小野《をの》の 七相菅《ななふすげ》手《て》に取《と》り持《も》ちて 久堅《ひさかた》の 天《あめ》の川原《かはら》に 出《い》で立《た》ちて 潔身《みそ》ぎてましを 高山《たかやま》の 石《いは》ほの上《うへ》に 座《いま》せつるかも
名湯竹乃 十縁皇子 狭丹頬相 吾大王者 隱久乃 始瀬乃山尓 神左備尓 伊都伎坐等 玉梓乃 人曾言鶴 於余頭礼可 吾聞都流 狂言加 我聞都流母 天地尓 悔事乃 世間乃 悔言者 天雲乃 曾久敝能極 天地乃 至流左右二 杖策毛 不衝毛去而 夕衢占問 石卜以而 吾屋戸尓 御諸乎立而 枕邊尓 齋戸乎居 竹玉乎 無間貫垂 木綿手次 可比奈尓懸而 天有 左佐羅能小野之 七相菅 手取特而 久堅乃 天川原尓 出立而 潔身而麻之乎 高山乃 石穗乃上尓 伊座都類香物
【語釈】 ○なゆ竹のとをよる皇子 「なゆ竹のとをよる」は、巻二(二一七)に出た。「なゆ竹」は、女竹《めだけ》。「とを」は、「たわ」と同じく撓《たわ》むの語幹。「よる」は、依《よ》るで、撓みよるすなわち嫋《しなや》かな状態を具象的にいったもの。「皇子」は、御子で、古くは王にも当てた字。二句、女竹のごとく嫋やかな状態をした王で、石田王の若やかな姿を讃えていったもの。上の巻二のものは、美人の采女《うねめ》を讃えて人麿のいったものであるが、ここは男王を讃えてのものである。しかしこれをいっている者は、下の「玉梓の人」すなわち王の臣下の使であり、承認して用いている者は丹生王であって、女性的の美というよりも、若やかということを主としていったものと取れる。これは次の二句も同様である。なお、「なゆ竹の」が枕詞として用いられていないことは、次の「さ丹つらふ」に対させたものである上からも明らかである。○さ丹つらふ吾が大王は 「さ丹つらふ」は、「さ」は、よきものの意。「丹」は赤色で、「さ丹」は用例の多い語である。「つらふ」は、『古義』は、「引く」を「引こづらふ」、「挙げ」を「挙げつらふ」というと同じく、その形容をいう詞《ことば》だといっている。『講義』は、赤色のつやのよく現われたのをいうのだろうといって補っている。用例は、紐、君、黄葉《もみじ》、色などに冠している。ここは色の実質をあらわしている語で、赤くつやよき顔をされたわが大王で、上と同じく、その若さを讃えたもの。○隠りくの始瀬の山に 「隠りくの」は、巻一(四五)に出た。始瀬の枕詞。「始瀬の山」は、大和国磯城郡、今の初瀬町の後方の山。当時はそこが墓地とされており、ここもそれである。○神さびにいつき坐すと 「神さびに」は、「神さび」は、神としての状態をあらわすことで、ここは皇親である王が卒して神霊となられたため、神としてふさわしきさまにすること。『講義』は、「神さび」は、神さぶるの連用形を準名詞とし、「に」を続けることによって、下の「いつく」の目的としたもので、神さぶるためにの意であるといっている。「いつき坐す」は、「いつき」は崇め祭る意。「坐す」は広い意味の敬語で、斎《いつ》き申すというほどの意である。上より続けると、「吾が大王《おほきみ》は……いつき坐す」となって、石田王自身がされていることとなって、意が通らなくなる。『攷証』はこれを問題として、訓を改めている。『講義』は、「いつき坐す」は、王のことを使が報告している語《ことば》であって、そのため敬語を用いるものであり、いつき給うの意であるといって、例を引いて確かめている。例は巻二(一九九)「高市皇子尊の城上《きのへ》の殯宮の時」と題する人麿の歌の、「言《こと》さへく百済《くだら》の原ゆ 神葬《かむはふ》り葬《はふ》りいまして」であって、これも皇太子の御葬りとして、宮(225)中で常ませられることであるために、「葬りいまして」も敬語をもっていっているのであって、心としては同じだというのである。「と」は、下の続きで、使の口上であることを示したもの。口上は初句よりこれまでである。○玉梓の人ぞ言ひつる 「玉梓の」は、使の枕詞として慣用されている語であるが、ここは使そのものとして用いたもの。「あしひきの」が山の意とされたと同様である。○およづれか吾が聞きつる 「およづれ」は、後世には伝わらなかった語で、下の「狂言《たはこと》」と対させて用いられている語である。日本書紀、天智紀、九年正月に、「禁2断|誣言妖偽《たはことおよづれ》1」を初めとし、妖言、逆言、妖偽などの文字を当てられている語である。妖言は妄言の意で、でたらめという現代語にあたるものと取れる。「か」は、疑問。でたらめを我は聞いたのであるか。○狂言か我が聞きつるも 「狂言《たはこと》」は、たわれたる言葉。「も」は、詠歎。以上、一段落。○天地に悔しき事の 「天地に」は、天地の間にの意で、世にということを強めていったもの。「事の」の「の」は、同じ趣の事を重ねていうことをあらわす意のもの。○世間の悔しきことは この世での悔しい事はの意。以上の四句は、悔しさの絶大であることをあらわしたもので、以下二十四句は、その悔しい事の内容をいったものである。その結末を、「潔身《みそ》ぎてましを」と、想定をあらわす「まし」を用いていっているので、二十四句を費やしていっていることは、仮定してのものであることが明らかである。すなわち、もしそれと知ったならばの意のもので、それを略してのものである。○天雲のそくへの極み 「天雲」は、天の雲。「そくへ」は、退《しりぞ》くの「そく」の、「方《へ》」に連なった「そき方《へ》」という語の、音の転じたもの。「そく」は四段活用の動詞で、その連体形。「極み」は、はて。天の雲の退いている所を地平線上として、そのはての所。○天地の至れるまでに 天と地との行きついてある所、すなわち地平線の所まで。以上四句は、地のはてということを、人の行きうるはての心をもって、強めていったもの。○杖策きも衝かずも去きて 「杖策」は、漢語で、「策」は名詞で杖。「杖」は動詞。「策」は、古くは旅行の際は持つ物とした。杖をついても、またつかなくても行つてで、どのようにしても行つての意。○夕衢占間ひ石卜以ちて 「夕衢占」も「石卜」も、上代に行なわれた民間の占法であって、「石卜」はここにあるのみであるが、「夕衢占」は集中に例の多いものである。いずれも未来の吉凶を知るためのことで、一定の方法をもって、神意の暗示を得る法である。その方法は、当時のものとしては伝わっていず、後世のものによって想像するにとどまる。「夕衢占」について最もくわしく説いているのは『講義』で、鳥羽崇徳頃の御代、三善為康の撰した『二中歴』に出ているものが最も古く、要は、夕べ、道に立ち、「ふなとさへ、ゆふけの神に物問はば、道行く人よ、うら正にせよ」という歌を三度誦し、堺を作って散米をし、櫛《くし》の歯を鳴らして、その後、その堺に入って来る人、または堺の中にいる人の言語によって、吉凶を判断するというのである。こうした信仰は、伝えを守って変えまいとするものであるから、大体古風を伝えていると見られよう。また、「石卜」は、古くは日本書紀、景行紀、十二年、土蜘蛛征討の時、天皇碩田国で、事の成否を占う為、祈誓《うけひ》をして野中の大石を蹴られると、その石が柏の葉のごとくに挙がったとあり、後のものでは『塵袋』、また「堀川百首」金葉集の歌などにより、神として祀ってある石が、その時その人に軽くて動くか、重くて動かないかに神意がありとして、吉凶を占ったものと思われる。「天雲の」以下これまでの八句をもって一つの事をいったもので、言いさしの形にしてあるものと解せられる。一つの事というのは、「夕衢占」と「石卜」とをもって、石田王の凶事を予知すべきであったというので、それをするには、いかなる所までもいかにしても行っての上でと強めたものと取れる。すなわち以上一小段である。○吾が屋戸に御諸を立てて 「吾が屋戸」は、吾が屋の戸の所すなわち庭。「御諸を立て」は、「御諸」は「御室《みむろ》」で、神の降って宿り給う所の総称。「立て」は、作る意。○枕辺に斎戸を据ゑ 「枕辺」につき『講義』は、御諸の内に神座を設けるが、その頭の辺の意であると解いている。これによって従来曖昧であったことが明らかになったといえる。「斎戸を据ゑ」は、(三七九)に出た。○竹(226)玉を間無く貫き重り 原文「無間」は「間無く」と訓みうる字である。『玉の小琴』は「しじに」と訓んでいる。用例によってのことであって、『講義』は、「間無く」は時の上のことで、ここは漢文流の用字であるから、義訳して「しじに」と訓むべきだとしているが、今は「間無く」と訓む。○木綿だすきかひなに懸けて 「木綿だすき」は、木綿は楮の繊維で、それをもって作った襷で、純白な物。神事の際に用いる物。「かひなに懸けて」は、襷は肩より腕《かいな》にかけるので、それをいったもの。「吾が屋戸に」以下これまでの八句は、神を祭るという一つの事をいったもので、前と同じく、言いさしの形をもって纏めたものである。祭は、石田王のつつがなきことを祈るためのものである。以上二小段。○天なるささらの小野の 「天なる」は、天にあるで、「天」は、高天原。「ささらの小野」は、「小」は美称で、野の名である。そうした名の野が高天原にあるとされていたことは、巻十六(三八八七)「天なるやささらの小野に茅草《ちかや》苅り」とあるのでも知られる。高天原には、山も川もあるので、野もあるとされていたのである。○七相菅手に取り持ちて 「七相菅」は、「相」は「ふ」に当てたもので、用例のあるもの。「ふ」は、畳、莚《むしろ》、席《むしろ》などの、編んだ緒をいう称で、「隔《へ》」ともいう。「七相菅」は一本の菅で七か所を編みうるものということである。『延喜式』の菅薦の広さは四尺であるから、「七相」もその範囲内の丈であり、菅の丈の高さを具体的にいおうとした称と取れる。「天なる」以下三句は、きわめて清浄なる菅ということをいおうとしたものである。ここの菅は、罪穢を祓うために禊《みそぎ》をする際、祓の具としていた菅であって、その事は大祓詞を初め、集中の歌にもある。「手に取り持ちて」は、祓の時の状態をいったもの。○久堅の天の川原に 「久堅の」は、天の枕詞。「天の川原」は、高天原にある河原で、安《やす》の河原ともいう。ここは禊をする場所としてのもの。○出で立ちて潔身ぎてましを 「潔身ぎ」は、神事としての行《わざ》で、身の罪穢を祓って清浄となるためにすることで、清浄になるのは、凶を去り吉を来たらしめるためである。古事記に伊邪那岐神のその事があって、重大な事柄である。「ましを」は、「まし」は想定をあらわす助動詞で、上の「天雲のそくへの極み」以下二十八句の事の、仮想であることを条件としての語である。「を」は詠歎。「天なる」以下の八句は、禊という一つの事をいっているもので、これは言いさしではなく、他の二つの事をも合わせて、総括して言い結んだものである。ささらの小野の菅を持って、天河原に禊をするというのは、禊ということを強めようとしてのもので、石田王のためには不可能の事をもあえてしようとの心からのものである。三小段である。○高山の石ほの上に 「高山」は、始瀬《はつせ》の山を言いかえたもの。「石ほの上」は、石田王の墓を具体的にいったもの。墓地は高燥な、地盤の堅固な所を選んだのである。○座せつるかも 「座せ」は、座さしめる意で、いまさしめたことであるよの意。これは、使の「神さびに」といったと同じく、卒去ということを、王を尊ぶ心から言いかえたもの。
【釈】 女竹の嫋《しなや》かなるがごとくに若やかなる皇子《みこ》にして、赤くつややかなる若々しい顔をされたわが大王《おおきみ》は、隠国《こもりく》の始瀬《はつせ》の山に、神にふさわしくあられるがために、臣下の者が崇めお祭り申していると、使の人が来ていったことである。でたらめ事を吾は聞いたのであろうか、たわけ言《ごと》を吾は聞いたのであろうか。天地《あめつち》の間での悔しいことで、世の中での悔しいことには、そのような凶事があろうと前もって吾が知っていたならば、天雲《あまぐも》の退いて下りている所のその地のはての、天《あめ》と地《つち》との行き極まっている果てまでも、枚をつこうともつかずともして行って、夕占《ゆうけ》も問い、石卜《いしうら》もして、王の身の不吉を知って、避ける術《すべ》もし、また、わが屋の庭に御諸《みもろ》を立てて、神座の頭辺《かしらべ》には斎瓮《いわいべ》を据え、竹玉を繁く貫き垂らし、木綿襷《ゆうだすき》を腕《かいな》にかけて祭を行ない、王の身に神の加護を祈り奉り、また、高天原にあるささらの野の七ふ菅の、そのきわめて清浄なる物を祓の具として、久堅の天の川原に出て(227)禊をして、王の身の罪穢を祓って、つつがなきようにもしたであろうものを、王の身の不吉を知らず、吾が何事もしなかったがために、王を高山《たかやま》の石おの上に座《ま》さしめることとなってしまったのであるよ。
【評】 題詞では、丹生王は石田王に対してどういう関係の方かわからないが、歌で見ると、妻という関係の方で、同棲はしていなかった方と思われる。それでなければ、このような深い嘆きはあるべきではないからである。また歌で見ると、石田王は若くして卒せられたとみえるから、丹生王も若かったことと思われる。この歌の著しい点は、丹生王が上代の信仰をきわめて深く身に体しておられ、死生ということは一に神意によるものとし、その死も、神意をうかがって、しかるべき祈りをすれば脱れうると信じていたことである。この歌は、そうした信仰をもっていた丹生王が、石田王のためにそれを行なうのは自身の当然の責任であるとし、それを行なわなかったがゆえに石田王は卒去されたとして、その悔しさを嘆いているのがこの歌である。歌は二段より成っており、第一段は、石田王の卒去を使より聞いたこと、第二段は、それとともに思われてくる、上にいった自身の責任と、それを果たすを得なかった悔しさの嘆きである。第二段は四小段より成っており、その中の三小段は、丹生王としてすべきであったことを、つぶさに思い浮かべたもので、一段八句ずつで、三つの事をいっている。第一は、夕占《ゆうけ》、石卜《いしうら》をもって、石田王に迫ってきている不吉を予知すべきであったこと、第二は、神に無事を祈るべきであったこと、第三は、禊をすべきであったことで、当時、禍を脱れうる方法とされていたことのすべてを思ったものである。ここで問題となることは、この三つの事は、事柄としては皆異なっているが、語《ことば》としては切れていず、言いさしの形をもって続けられているので、その区別が曖昧に感じられることである。これはしかし、後代から見るゆえに曖昧な感が起こるので、当時としては、これらのことは自明なことで、この形をもってして十分区別が感じられていたのではないかということである。加えてまた、これをいう時には、丹生王は激情に駆られていて、省略のあり、飛躍のある言い方をしているので、それも手伝っていることと思われる。ことにその感のあるのは、第一の、「夕衢占問ひ石卜以ちて」であって、それをするために、「天雲のそくへの極み、天地の至れるまでに」と、きわめて遠距離まで行くことを条件としているのであるが、なぜにそれが必要であるか解しかねる。第三の、「天の川原に潔身ぎてましを」によると、これもそれと同じく、激情より事を強調しているものとみえるが、それであるとすると、丹生王はたやすくは外出のできない身で、自身夕衢占、石卜というようなことは行なえないのに、それをもあえて行なおうとの心のものと解するよりほかはないものである。しばらくそう解しておく。一首、時代とその人に即しているところから、おのずから特色をもった歌となっているものである。
反歌
(228)421 逆言《およづれ》の 狂言《たはこと》とかも 高山《たかやま》の 石《いは》ほの上《うへ》に 君《きみ》が臥《こや》せる
逆言之 狂言等可聞 高山之 石穗乃上尓 君之臥有
【語釈】 ○狂言とかも 「と」は、としての意。「かも」は、「か」は疑問、「も」は詠歎。○君が臥せる 「臥せる」は、(四一五)に出た。「臥《こ》ゆ」の敬語。これは連体形で、上の「か」の結。
【釈】 でたらめ事のたわれ言として使はいうのであろうか、君は高山の上に臥していらせられるとのことであるよ。
【評】 長歌の第一段を繰り返したものである。最も感の強かった点を繰り返したので、古風な、順当な反語である。
422 石上《いそのかみ》 布留《ふる》の山《やま》なる 杉群《すぎむら》の 思《おも》ひ過《す》ぐべき 君《きみ》にあらなくに
石上 振乃山有 杉村乃 恩過倍吉 君尓有名國
【語釈】 ○石上布留の山なる杉群の 「石上」は、大和国山辺郡の地名で、石上神宮のある地。「振の山」は、石上の中にある山で、今は天理市布留の東にある山。「なる」は、にある。この三句は、下の「過ぐ」に、同音の繰り返しでかかる序詞。○思ひ過ぐべき君にあらなくに 「思ひ過ぐ」は、「思ひ」は嘆きで、「過ぐ」は、過ぎ去る意。嘆きが過去となるは、忘れる意である。「あらなく」は、打消の「な」に「く」を添えて名詞形としたもの。「に」は、詠歎。
【釈】 石上の布留の山にある杉群の、その杉によって思われる思い過ぐ、すなわち嘆きが過ぎ去って忘れられるべき君ではないことであるを。
【評】 これは第二段の、石田王の卒去のことを認めた後の心である。序詞の布留の山の杉群は、古くより名高い石上神宮に対する崇敬、永久なものに見える杉群などの関係で捉えた、気分の伴ったものと思われる。長歌の余意をいったという上では展開があるが、序詞を用いた、古風の範囲のものである。
同じき石田王の卒せし時、山前王《やまくまのおほきみ》の哀傷して作れる歌一首
【題意】 「山前王」は、続日本紀、天平宝字五年芽原王の罪あって多※[衣偏+陸の旁+丸]島に流された時の記事に、「芽原王者、三品忍壁親王之孫、(229)従四位下山前王之男」とあるので、天武天皇の御孫と知られる。この王については、続日本紀、慶雲二年、「旡位山前王授2従四位下1」とあり、また養老七年、「散位従四位下山前王卒」とある。また懐風藻には、「従四位下刑部卿山前王一首」とある。石田王の卒去が、養老七年以前であったことだけはこれによってわかる。
423 角障経《つのさはふ》 いはれの道《みち》を 朝離《あささ》らず 帰《ゆ》きけむ人《ひと》の 念《おも》ひつつ 通《かよ》ひけまくは 霍公鳥《ほととぎす》 鳴《な》く五月《さつき》には 菖蒲《あやめぐさ》 花橘《はなたちばな》を 玉《たま》に貫《ぬ》き【一に云ふ、貫《ぬ》き交《まじ》へ】 蘰《かづら》にせむと 長月《ながつき》の しぐれの時《とき》は 黄葉《もみちば》を 折《を》り挿頭《かざ》さんと 延《は》ふ葛《くず》の いや遠永《とほなが》く【一に云ふ、田葛《くず》の根《ね》のいや遠長《とほなが》にお】 万世《よろづよ》に 絶《た》えじと念《おも》ひて【一に云ふ、大船《おほふね》の念《おも》ひ憑《たの》みて】 通《かよ》ひけむ 君《きみ》をば明日《あす》ゆ【一に云ふ、君《きみ》を明日《あす》ゆは】 外《よそ》にかも見《み》む
角障經 石村之道乎 朝不離 將歸人乃 念乍 通計万口波 霍公鳥 鳴五月者 菖蒲 花橘乎 玉尓貫【一云、貫交】、蘰尓將爲登 九月能 四具礼能時者 黄葉乎 折插頭跡 延葛乃 弥遠永【一云、田葛根乃弥遠長尓】 万世尓 不絶等念而【一云、大舟之念憑而】 將通 君乎婆明日從【一云、君乎從明日者】 外尓可聞見牟
【語釈】 ○角障経いはれの道を 「角障経」は、巻二(一三五)に出た。蔦《つた》が這うの意で、「さ」は接頭語。石《いわ》にかかる枕詞。「いはれ」は、(二八二)(四一六)に出た。今の桜井市付近の地。「道」は、往還。○朝離らず帰きけむ人の 「朝離らず」は、(三七二)に出た。朝ごとにという意。「帰きけむ人」は、通ったであろう人で、その人は石田王である。路上における石田王をいっているのは、山前王の家が石村《いわれ》にあって、常に見かけたという関係からのことと取れる。○念ひつつ通ひけまくは 「念ひつつ」は、「つつ」は継続。念いながら、これは石田王の心中を想像していっているものであるが、その念う事は以下の事で、想像の許される性質のものである。「通ひけまく」は、「通ひけむ」に「く」を添えて名詞形としたもので、用例のあるものである。この「通ひけまく」は、上の「朝離らず帰きけむ」を繰り返したもので、作意としては力点を置いていっているものである。しかし通うのはどこかということには触れていない。通うことと一つにしていっている「念ひつつ」の内容は、以下にくわしくいっているが、その享楽的なものであることと、反歌は「泊瀬|越女《をとめ》」を関係しているものであることから見て、妻どいのために泊瀬へ通ったことをいっているものと思われる。○霍公鳥鳴く五月には ほととぎすの渡って来て鳴く五月には。○菖蒲花橘を 「菖蒲」は、今のしょうぶ。集中に多い物である。邪気を払う力のあるものとして、五月五日の節《せち》には重用されていた。「花橘」は、花の咲いている橘で、橘の花である。橘は当時代表的に愛された木である。○玉に貫き 玉として貫きで、菖蒲と橘の花とを、玉を貫く如くに緒をもって貫きの意。○一に云ふ、貫き交へ 一本には貫き交へとあるという。事を稍々くわしくいっただけの差である。○蘰にせむと 「蘰」は、頭髪の飾りとして用いたもので、上代よりの(230)風であったが、この当時は、儀式の際のみの物となっていた。菖蒲をもって作った蘰は菖蒲蘰と称し、五月五日の節に用うべきものとなっていた。続日本紀、天平十九年五月に、「太上天皇詔曰、昔者五日之節常用2菖蒲1為v蘰。比来已停2此事1。従v今而後非2菖蒲蘰1者、勿v入2宮中1」とあるので、その状態が知られる。「と」は、下の「念ひて」に続く。「霍公鳥」以下は、五月五日の節を、一年の上半期の楽しみを代表するものとして、その楽しみに逢おうとする意。○九月のしぐれの時は 「しぐれ」は、当時は秋の雨を称していて、その例が多い。九月のしぐれの降る時は。○黄葉を折り挿頭さんと 「挿頭す」は、挿頭《かざし》として冠へ挿すことで、上の蘰と同じく、儀式の時にはするべきこととしてしたもの。これは九月九日の節を指しているもので、一年の下半期の楽しみを代表するものとし、それに逢おうとする心。「と」は、上の「と」と共に、下の「念ひて」に続くもの。○延ふ葛のいや遠永く 「延ふ葛の」は、ここは、その蔓の状態を譬喩として、「遠永」の枕詞としたもの。「いや遠永く」は、ますます遠く永くで、時の上でいっているもの。○一に云ふ、田葛の根のいや遠長に 一本のもの。「田葛」の字につき『講義』は、これは漢語で、中国では葛を栽培したところからできた熟字だと考証している。用例の少なくないもの。「田葛の根の」は、根を捉えて譬喩として、枕詞としたもの。「根」という目に見えない部分に、新たに興味をもってのものといえる。○万世に絶えじと念ひて 「万世」は、万年で、永久の意。「絶えじと念ひて」は、絶えまいと思ってで、二句、上の「蘰」をし、挿頭《かざし》をしようとする楽しみは、永久に絶えることはなかろうと思つての意。○一に云ふ、大船の念ひ憑みて 一本のもの。「大船の」は、意味で、「憑み」にかかる枕詞。期待をしての意で、二句成句。○通ひけむ君をば明日ゆ 「通ひけむ」は、連体形で、「君」に続くもの。これは上の「念ひつつ通ひけまくは」に応じさせているもの。「明日ゆ」は、明日より。○一に云ふ、君を明日ゆは 一本のもの。○外にかも見む 「外」は、よそで、ここ以外の、関係の薄い地の意。今は泊瀬山をさしている。「かも」は、疑問と詠歎とのもの。よその者と見るであろうか。
【釈】 葛《つの》さ這う石村《いわれ》のここの道を、毎朝必ず通つたであろう人の、その心の中に思いながら通って行った事は、ほととぎすの渡って来て鳴く五月には、菖蒲《あやめぐさ》と橘の花とを玉として緒に貫《ぬ》いて(貫《ぬ》き交《まじ》えて)、菖蒲蘰《あやめかずら》を作り、それで頭髪を飾って五日の節の楽しみに逢おうと思い、九月のしぐれの雨の降る時には、黄葉を折って冠に挿して、九日の節の楽しみに逢おうと思い、その楽しみは這う葛のようにますます遠く永く(田葛《くず》の根のように遠く長いものと)将来に続き、永久に絶えることはなかろうと思って(期待して)、この道を通って行ったであろうところの君を、明日《あす》からは、よその者として見ることであろうか。
【評】 この歌は挽歌として作ったものであるが、それとすると、特殊な趣をもったものといえる。挽歌は、この世を去った人の霊の、明らかに存在しているものを慰めようとすることを目的としたもので、その心を遂げるには、わが全心を尽くし、その人の全体を対象として、誘うべきを讃え、死の悲しみを尽くすべきもので、人麿のその種の作はすべてこれである。しかるにこの歌は、山前王の石田王に対するやさしい思いやりと、軽い憐れみだけのもので、山前王としてはかなり余裕のあるものである。表現もそれに伴って、明るく、いわゆる気の利いたもので、挽歌としては特殊の趣のものといわざるを得ないものである。この歌をこの前の丹生王の、同時の作と比較してみると、この点は明らかである。この歌では石田王を、石村《いわれ》の路上において捉えている。これは王が、どこかへ通われる途上としてのもので、その通われる先は暗示にとどめたものである。その娉《つまど》(231)いのためであることは察しられるものである。それとともに、その時の王の心中をも想像して、「念ひつつ通ひけまくは」という形において、石田王の全体を綜合して捉えているものである。これは一面では実際に即した捉え方とみえるが、他面では明らかに想像を働かせたもので、気の利いた方法というべきである。「念ひつつ」の方面は、菖蒲蘰をし黄葉を挿頭《かざ》すことで、石田王が皇親とし、また廷臣として、当時の文化生活を享楽することで、これは想像とはいえ一般物の範囲のもので、合理的なものと思える。これらは言いかえると、恋の享楽と、文化生活の享楽ということであって、前の丹生王の歌でわかるように、石田王を年若い人とすると、その全体を捉えたといいうるものである。山前王がこうした捉え方をしているのは、たぶん王のほうが石田王より年長で、石田王のその行動と心とを承認し、同感するものがあったからのことと思われる。結末は、石田王のそれらの享楽生活に強い憧れをもっていたにもかかわらず、裏切られて終わってしまったことに対しての憐れみで、そこに挽歌の心をあらわしているものである。一首全体として見ると、これを実際から遊離しているものとはいえず、むしろ実際に即しているものではあるが、この当時の歌の基調をなしているところの、生活に対する執着と緊張とに伴う沈痛味の、挽歌であるにもかかわらず欠けているものである。その意味では、実際よりある遊離をもった、後世でいう文芸的のものとなっているもので、この当時としては新風だったのである。こうした傾向が、すでに萌していたことが注意される。
右の一首は、或は云ふ、柿本朝臣人麿の作なりと。
右一首、或云、柿本朝臣人麿作。
【解】 これは撰者として、当時の伝をいったものである。この伝について思われることは、この歌は異本があって、それによると、この底本としたものの歌とは、四か所までも異なった部分のあることである。しかるにその異なった部分は、意味では皆拙くなっているものである。これは広く伝承された結果としてのことと思われる。すなわちこの歌は、その当時愛されたものということがわかる。
或本の反歌二首
【題意】 これは、「或本」には、反歌二首が添っているというのである。この時代の長歌は反歌の添っているのが普通であるから、「或本」にそれがある以上、原はあったものと思われる。
424 隠口《こもりく》の 泊瀬《はつせ》をとめが 手《て》に纒《ま》ける 玉《たま》は乱《みだ》れて ありといはずやも
(232) 隱口乃 泊瀬越女我 手二纒在 玉者乱而 有不言八方
【語釈】 ○隠口の泊瀬をとめが 「隠口の」は、(四二〇)に出た。「泊瀬をとめ」は、「泊瀬のをとめ」の意で、連ねる意の「の」を省《はぶ》いた語は、例の多いものである。長歌で、石田王の「通ひ」とのみいっているのを、それとの関係でいっているものと取れる。一人の女の意である。○手に纒ける玉は乱れて 「手に纒ける玉」は、手玉で、玉を緒で貫いて、腕に纒わしめているもので、巻二(一五〇)「玉ならば手に巻き持ちて」とあるものである。大切にした物である。「乱れて」は、玉が乱れてて、貫いている緒が断えて、手玉としての体を失ったことをいったもの。これは不時なことで、ここは王の卒去に譬えたものと取れる。○ありといはずやも 「やも」は、反語で、上に続けて、いると人が言うではないか、言っているの意。反語を用いることによって肯定の意を強くし、嘆きをあらわしたもの。
【釈】 隠口の泊瀬の少女が、手に纏わしめている手玉の緒は断えて、玉は乱れていると人が言うではないか、言っている。
【評】 長歌とは観点を変えて、長歌では石田王だけをいっていたのを、観点を移して、泊瀬|少女《おとめ》を対象とし、それをして悲しませることによって、挽歌につながりをもたせるものである。これは人麿の反歌に見る手法であるが、ここにも現われているものである。「泊瀬をとめが手に纏ける玉は乱れて」ということは、一人の女に起こったことでなくてはならず、また単にその事としてだけでは、いうにも足りない事柄であるのに、それを強くいうことによって、王の卒去、それに対する少女の悲しみを暗示するものとしているのは、技巧としては進歩したもので、長歌の技巧に調和するものである。
425 河風《かはかぜ》の 寒《さむ》き長谷《はつせ》を 歎《なげ》きつつ 公《きみ》があるくに 似《に》る人《ひと》も逢《あ》へや
河風 寒長谷乎 歎乍 公之阿流久尓 似人母逢耶
(233)【語釈】 ○河風の 寒き長谷》を 「河風」は、長谷川の風である。この川は長谷の谿谷《けいこく》を流れ、国中《くんなか》で佐保川と合流して大和川となるので、石村《いわれ》から長谷へ行くには、この川に沿って溯るのである。「寒き長谷を」は、寒く吹く長谷を。「寒き」は、石田王の卒去の時が冬であったかもしれぬが、ここでは、妻である女が、通い来る男を見る時の環境としていっているもので、身に沁みるもののある時としてである。○歎きつつ公があるくに 「歎きつつ」は、嘆きながらで、その嘆きは恋の上のものである。すなわち逢い難い事情のある嘆き、別れを悲しんでの嘆きなどである。「公があるくに」は、「公」は女より見た男の称。「あるくに」は、歩いているのにで、これも上に続いて、女より見た男の状態で、女としては恋のあわれの最も深い状態である。○似る人も逢へや 「似る人も」は、似ている人にでも。「逢へや」は、「逢へ」の已然形に「や」が続いて反語となっているもの。逢おうか、逢いはしないの意。似ている人にでも逢えようか、逢えはしないで、少女の悲しみをいっているもの。
【釈】 河風の寒く吹いている長谷を、嘆きながら歩いている君すなわち石田王に、似ている人にも少女は逢えようか、逢えはしない。
【評】 これも前の歌に続いて、泊瀬少女を観点とし、その少女の石田王の卒去に対してもつ悲しみを想像し、それをいうことによって挽歌につながりを付けたものである。少女にとって石田王の最も印象的だったのは、王が河風の寒い頃、恋の嘆きをしながら長谷の道を歩いている時であったと想像し、少女がそうした状態の王を思い出して懐かしがり、それに似た人すらも見られないのを嘆いているとしたのである。この想像は文芸気分の濃厚なものであるが、挽歌としての悲しみをいうには間接なところがあり、したがって問題とされている歌である。前の歌とのつながりの緊密なものであり、共に長歌との調和をもっているものである。
右の二首は、或は云ふ、紀皇女が薨じ給ひし後、山前王の、石田王に代りて作れるなりと。
右二首者、或云、紀皇女薨後、山前王代2石田王1作之也。
【解】 これは、この二首は、上の長歌の反歌ではなく、紀皇女薨去の時の歌だという伝もあるので、撰者として添えたものである。「紀皇女」は(三九〇)に出た。伝の拠《よ》るところは全く知られないものである。
柿本朝臣人麿、香具山の屍を見て、悲慟して作れる歌一首
【題意】 「香具山」はしばしば出た。人麿は藤原宮時代の人とされているから、香具山は皇居に近い所だったのである。「屍」は路上の行倒れである。これについては(四一五)にいった。その土地に由緒《ゆかり》のない旅人には起こりがちなことだったのである。「悲慟して」は悲しみてである。
(234)426 草枕《くさまくら》 旅《たび》の宿《やど》りに 誰《た》が嬬《つま》か 国《くに》忘《わす》れたる 家《いへ》待《ま》たまくに
草枕 羈宿尓 誰嬬可 國忘有 家待眞國
【語釈】 ○草枕※[覊の馬が奇]の宿りに 「草枕」は、旅の枕詞。「旅の宿り」は、「宿り」は名詞で、宿るところ。旅人には宿りがなくてはならないとしていっているのであるが、この屍となっている旅人は、事実としては地上に横たわっているので、それがないのである。京の中のこととて、多少なりとも物資を携えていれば、身を容れる小屋もでき、人の家に宿ることもできる訳であるが、それのできない憐れな人だったとみえる。人麿はその死んで横たわっているのを、寝ている状態と見、寝ている所である関係から「宿り」と言いかえたものと取れる。すなわち旅びとを憐れんで、美しく言いかえたのである。○誰が嬬か 「嬬《つま》」は、「夫」に当てた字で、他にも例のあるもの。「か」は、疑問。○国忘れたる 「国」は、狭いもので、郷国。「忘れたる」は、旅びとはその郷国へ帰るべきものとし、それをしようとせずにいる状態を、「忘れ」といったので、ここも、死ということを美しく言いかえたものである。「たる」は連体形で、上の「か」の結。二句、誰の夫の、その郷国を忘れているのかというので、その屍の人に妻があると定め、妻の夫であるということに力点を置いていっているもの。○家待たまくに 「家」は、屍の人の家で、家の人すなわち妻の意。「待たまく」は、「待たむ」に「く」を添えることによって名詞形としたもの。「に」は、詠歎。家妻が帰りを待っていることであるのに。
【釈】 この旅の宿りに、誰の夫《つま》のその郷国へ帰るのを忘れているのであるか。その家の妻は、帰りを待っていることであろうのに。
【評】 藤原京の中の、香具山という小さい山に、貧しい旅びとの行倒れとなって死んでいるのを見て、悲しんで詠んだ歌である。死を穢《けがれ》として甚しく嫌った時代とて、「悲慟して」という中にすでに人麿の心があるといえるものである。死人に対してはその霊を慰めるべきであるが、人麿は自身の心としてはせずに、その死人には妻があるとし、その妻が夫の帰るのを待ち侘びているということによって、妻を悲しませることによって間接に悲しんでいるのである。生活価値を夫婦関係にありとしている人麿としては、これは当を得た方法で、巻二(二二〇)「讃岐の国|狭岑《さみねの》島に石中に死れる人を視て」の歌と同一なものである。この死人の実際の状態は、おそらく醜いものであったろうと思われるのに、人麿のそれをいう語の、いかに婉曲に、またいかに美しいものであるかはいった。これは技巧ではなく、憐れみの心の自然の発露であるが、単に形として見れば、人麿の豊かさの現われと見るべきである。一首、静かに、ゆるやかな調べをもっていっているが、沈痛な気分の漂ったものとなっているのは、人麿の心の直接の現われと見るべきである。
田口広麿《たぐちのひろまろ》の死せし時、刑部垂麿《おさかべのたりまろ》の作れる歌一首
(235)【題意】 「田口広麿」は、伝が明らかでない。続日本紀、慶雲二年に、従五位下に叙せられた田口朝臣広麻呂があるが、それは朝臣の姓があり、また五位であるから、死ねば卒と書かれるべきであるから、別人であろう。「刑部垂麿」も伝は知られない。
427 百足《ももた》らず 八十隅坂《やそくまさか》に 手向《たむけ》せば 過《す》ぎにし人《ひと》に 盖《けだ》しあはむかも
百不足 八十隅坂尓 手向爲者 過去人尓 盖相牟鴨
【語釈】 ○百足らず 百に足りない数の意で、八十にかかる枕詞。○八十隅坂に 「八十」は、多くということを具象的にあらわしたもの。巻二(一三一)「この道の八十隈《やそくま》毎に」、その他出た。「隅坂」は、旧訓「すみさか」。『考』が「坂」を「路」の誤りとして「隅路《くまぢ》」とした。『攷証』は、『広雅』に、「隅、隈也」とあるのにより、「隅《くま》」を確かめ、『講義』は、巻六(九四二)「往き隠る島の埼埼|隅《くま》も置かず憶《おも》ひぞ吾が来る」の用例を引いている。「隅坂《くまさか》」は、集中、ここにあるのみの語である。『講義』は、隈のある坂の意だとし、国境に多い名であるといい、自身通った地でも、信濃国と越後国の国境の国道筋、また加賀国と越前国の界にもあるといっている。隈は、川、道などの曲がり目の、内側の称であるから、隅坂は峠の頂上に近く、勾配が急で、歩行に困難な所は、それを緩和させるために、道の屈折を多くしてある所の称と取れる。山の頂点を貫く線をもって国境とするところから、この名の坂が国境に多いことになろうと思われる。また、いわゆる手向《たむけ》の神は、国の境に祀《まつ》られて、その国を護っていられる神であって、旅びととしてその国に入るには、この神に幣を奉って許を乞い、加護を祈らなければならない神である。この神は隅坂の辺りに祀ってあるので、「隅坂」とは手向の神を言いかえたものと解される。ここはその意のものである。○手向せば 幣を奉って祈ったならばの意で、祈るのは上にいった加護を祈る意である。○過ぎにし人に 世を去った人、すなわち死んだ人で、広麿。この人の死んだのは、上からの続きで見て、遠い旅に出て死んだので、その死んだのは、数多の国の界を守る神の加護を受け得ず、すなわち神罰の結果であると垂麿は解し、代わって手向をすることによって神意を和《なご》めようとする意。○盖しあはむかも 「盖し」は、もしに似て、疑い推測する意の副詞。「あはむ」は、逢はむ。「かも」は、「か」は疑問、「も」は詠歎。
【釈】 広麿の旅路として通って行った道の、八十《やそ》と多く祀られている隅坂《くまさか》の神に、我が代わって手向をして神意を和めたならば、死に去った広麿に、あるいは再び逢えるのであろうか。
【評】 人の死生は、一に神意によるものとする信仰の上に立っての心で、その心は、上の(四二〇)の「丹生王」の歌と同じである。当時の信仰からいうと、その住地以外の神の心は、測り難いものとしていたので、旅ということは、その意味においても危険なことだったのである。垂麿の心では、友広麿の旅での死は、必ず、その多くの神のいずれかの神の意に悖《もと》ったがためであるとし、自分が代わって、その通過した地の、界を守る神のすべての意を和めたならば、神罰が解けて、再び広麿に逢われようかと、嘆いて思ったのである。死の原因が明らかなので、その原因を失わせると、当然の結果が現われようと思いつ(236)つ、さすがに疑いをもっていっているものである。時代の隔りがこの歌を間接なものとしているが、当時にあっては直接な、解しやすいものであったろうと思われる。
土形娘子《ひぢかたのをとめ》を泊瀬山に火葬せし時、柿本朝臣人暦の作れる歌一首
【題意】 「土形」は、地名としても、氏としても言いうるもので、どちらもある。地名としては、『和名抄』郷名、「遠江国城飼郡土形【比知加多】があり、氏としては古事記、応神の巻に、「是大山守命者、土形君、弊岐君、榛原君等之祖」とある。この氏は『新撰姓氏録』にはない。いずれともわからない。「火葬」は、文武天皇四年、僧道照をその遺言によって初めて行なったことであるが、大宝三年には、崩御された持統天皇を飛鳥岡で火葬し奉ったほどにも早くも弘まった風である。これは仏教の勢力のあったこと、道照の高名な僧であったことなどの関係しているためであろう。死者に対する観念の、上代より伝わりきたっているものに変化の起こったことで、精神的には大きなことであったと思われる。人麿在世時代としてはきわめて新しい風であった。
428 隠口《こもりく》の 泊瀬《はつせ》の山《やま》の 山《やま》の際《ま》に いさよふ雲《くも》は 妹《いも》にかもあらむ
隱口能 泊瀬山之 山際尓 伊佐夜歴雲者 妹鴨有牟
【語釈】 ○隠口の泊瀬の山の (四二〇)に出た。墓地としていったもの。○山の際に 「際」は、間で、山と山との間。火葬は高所において行なったことと思われる。○いさよふ雲は妹にかもあらむ 「いさよふ雲」は、「いさよふ」は、たゆたっている、すなわち立ち騰《のば》りもせず、静まりもせずにいる意。「雲」は、火葬の煙を、その状態の似ているところから言いかえたもの。上代は雲を神秘的なものと見る心があった。また死ということは、魂が身より離れ去った状態としていた。ここはそれらの信仰の上に立って、雲に霊を感じた心のものと思われる。「妹にかもあらむ」は、「かも」は疑問の「か」と詠歎の「も」との連なったもので、妹すなわち娘子そのものであろうかの意。
【釈】 隠口の泊瀬の山の山の間に、今、たゆたっている白い雲は、土形娘子《ひじかたのおとめ》そのものなのであろうか。
【評】 土形娘子の火葬されるのを、遠くない距離から眺めての感である。死は魂の身から離れた状態だとはいつても、死者をある期間、生者と異ならない態度で扱う風のあったところから見て、遠く離れつくしたものとは見なかったことと思われる。火葬ということが目新しい時代にあっては、死者がみるみる煙と化するのを見ると、上代よりの信仰に支えられて、その煙を雲と見、雲に魂を感じるということは、自然な、ありうべきことと思える。この歌、初句から四句までを費やして雲を鄭重《ていちよう》にいい、結句、「妹にかもあらむ」と驚異の感をこめての言い方をしているところ、さらにまた、一首の調べのきわめて敬虔《けいけん》なもので(237)あるところから、雲に魂を感じての心のものと取れる。人麿が上代信仰の保持者であったということも関係していると思える。
溺死《おぼれし》にし出雲娘子《いづものをとめ》を吉野に火葬せし時、柿本朝臣人麿の作れる歌二首
【題意】 「出雲娘子」の「出雲」は、上の歌と同じく、地名とも氏とも取れるものである。地名としては、出雲国はもとより、今の初瀬町の中に出雲と称する地がある。ここは古、大和国から伊勢国へ出る要路にあたっており、「出雲郷」として著名な地であった。「溺死にし」は吉野川においてのことと思われるから、「出雲郷」と見ると由縁《ゆかり》のなくはないことに思われる。氏としては、『新撰姓氏録』(左京神別)に、「出雲宿禰、天穂日命子、天夷鳥命後也」とある。その氏人とも見られなくはないものである。「吉野に火葬せし」は、その死所に近い高所で火葬した意である。歌によると、人麿はその死者を目にしているのであるが、なぜに吉野に在ったかはわからない。
429 山《やま》の際《ま》ゆ 出雲《いづも》の児《こ》らは 霧《きり》なれや 吉野《よしの》の山《やま》の 嶺《みね》にたなびく
山際從 出等兒等者 霧有哉 吉野山 嶺霏※[雨+微]
【語釈】 ○山の際ゆ出雲の児らは 「山の際ゆ」は、「山の際」は、上に出た。山と山との間。「ゆ」は、より。山の際より「出づ」と続き、「出雲」の枕詞となっているもの。この枕詞は、土地としての出雲を讃える意で添えたものと思われる。「出雲の児」は、親しんでの称。「ら」は、調子のために添えたもので、複数をあらわすものではない。○霧なれや 「霧」は、火葬の煙の薄れて散ろうとする時の状態をいったもの。霧は、集中の歌、またその他でも、人の嘆きの形に現われたものとしている例が多い。それは嘆きは長息《ながいき》の約でありとし、寒い季節に長息をすると、霧となるという関係からいっているもので、霧は人の身についたものとしていたのである。この「霧」も「出雲娘子」の化したものとしてのそれで、前の歌の「雲」と同じく、それに魂を感じてのものと思われる。「なれや」は、後世の「なればにや」にあたる古格で、「や」は、疑問。霧であるからであろうか。○吉野の山の嶺にたなびく 「たなびく」は、「や」の結で、連体形。吉野の山の峰に、霧となって靡《なび》いていることであるよ。
【釈】 山の間《ま》を出ずという、それを地名にもった出雲の愛《かな》しい娘子《おとめ》は、霧であるからであろうか、今、吉野の山の峰に霧となって靡いていることであるよ。
【評】 出雲娘子の、吉野山の中のいずこかで火葬にされ、その煙が立ち騰《のぼ》って、薄れて霧のようになり、山の頂に靡いているに対しての心である。「出雲の児らは霧なれや」は、驚異の情の強いものをあらわした語《ことば》で、これは一つには、火葬ということの目新しさからきたものであろうが、いま一つは、いったがように魂を連想させる霧という状態に変化してゆくことに対し(238)てのものである。この歌で力点を置いているところは、その変化の状態の速かさであって、火葬の煙を「霧」といっていることがすでにそれであって、濃い時には雲と見えるのが、薄れて霧という状態になった時を捉えているのである。それを、「吉野の山の嶺にたなびく」と、常磐木《ときわぎ》の峰を背景として、「たなびく」という状態において捉えているのは、消え去ってしまおうとする寸前なのである。のみならず、初句「山の際ゆ」は、意味としては出雲の枕詞であるが、気分としては、火葬の煙の山の間から立ち騰ることに繋がりをもちうるもので、その時は雲と濃かったのが「嶺」に至って「霧」と薄れたことを暗示しているといえるものである。この枕詞はここにいかにも適切である上に、他には用例のないものであるから、人麿のこの際造ったものではないかとも思われる。同じく火葬に対しての驚異の情を詠んだものであるが、これを前の歌に較べると、内容が複雑で、心の躍ったものである。
430 八雲《やくも》刺《さ》す 出雲《いづも》の子《こ》らが 黒髪《くろかみ》は 吉野《よしの》の川《かは》の 奥《おき》になづさふ
八雲刺 出雲子等 黒髪者 吉野川 奧名豆颯
【語釈】 ○八雲刺す 出雲へかかる枕詞。出雲の枕詞としては「八雲立つ」があり、それが古いものと思われる。しかるに一方には、古事記、景行の巻に、日本武尊の詠として、「やつめさす」がある。『講義』は、「八雲刺す」は「やつめさす」と同じく、「八雲立つ」の訛《なま》ったものであろうといっている。他にも説があるが、今はこれに従う。○奥になづさふ 「奥」は、沖の意で、本来海での称であるが、この時代には、湖、池、川などでも、岸より遠い所を称する称となっていた。例の多いものである。ここは川である。「なづさふ」は、本居宣長の解を、『講義』が進めてくわしく研究している。集中の例を綜合すると、水上に浮かぶか漂うかの意のようであるといっている。ここは浮かび漂っている意と取れる。
【釈】 八雲刺す出雲の愛《かな》しい娘子《おとめ》の黒髪は、吉野の川の沖に浮かび漂っている。
【評】 題詞の「溺死にし」という状態を、親しく目にした時の感である。溺死した少女の状態は、きわめてあわれなものと思われるのに、この歌はその死ということには直接には触れず、「黒髪は奥になづさふ」という、生者としては不自然な状態をいうことによって暗示し、あわれさというよりも、一種の艶《えん》を漂わしている。艶というのは、当時の女は、夜寝る時には、長い黒髪を床の上に靡かして置くのが風で、そのことは相聞の歌に愛すべき状態として詠まれてもいるところから連想されるものである。当時の、若い女を貴ぶ風の中にあって、ことにその心の強かった人麿は、そうした連想を絡ませて、夜の床の上と、「吉野の川の奥」というかけ離れた対照によって、一種の説明し難い艶《えん》を看取したのではないかと思われる。複雑した事柄をきわめて単純に捉え、あわれな事柄を一種の艶を漂わしたものとしている、特殊な歌である。
(239) 勝鹿《かつしか》の真間娘子《ままのをとめ》の墓を過ぎし時、山部宿禰赤人の作れる歌一首 井に短歌【東の俗語に云ふ、可豆思賀能麻末能弖胡《かづしかのままのてこ》】
【題意】 「勝鹿の真間」は、地名で、現在の千葉県市川市|宇《あざ》真間である。そこは国府台の高地の岬崖《こうがい》にあたり、其間川の岸である。舟が交通、運輸の代表的の機関であった関係上、川岸のこの地は、名高い所であったとみえる。「真間娘子」は、真間の者である娘子で、一人の女をさしたもの。この娘子は珍しい美人であった上に、土地柄が関係して、きわめて有名であったとみえて、これを対象とした歌が集中に多く、巻九(一八〇七−一八〇八)の高橋虫麿の歌を初めとし、巻十四(三三八四)以下四首の歌もある。この赤人の時、すでに古の人として、伝説の人物であり、ここではただ美人として詠まれているだけであるが、虫麿の歌では、多くの男から求婚されたにもかかわらず、誰にも嫁せずして、真間川に投身して死んだこととなっている。伝説そのものとしての流動をしていたとみえる。「過ぎし時」は、そこを通った時というので、他の目的をもっての旅をして、たまたま通過した時の意である。この旅は、(三一七)「不尽山を望める歌」の時の延長のものと思われる。
431 古昔《いにしへ》に ありけむ人《ひと》の 倭文幡《しづはた》の 帯《おび》解《と》き替《か》へて 廬屋《ふせや》立《た》て 妻《つま》どひしけむ 勝牡鹿《かつしか》の 真間《まま》の手児名《てこな》の 奥槨《おくつき》を こことは聞《き》けど 真木《まき》の葉《は》や 茂《しげ》りたるらむ 松《まつ》が根《ね》や 遠《とほ》く久《ひさ》しき 言《こと》のみも 名《な》のみも吾《われ》は 忘《わす》らえなくに
古昔 有家武人之 倭文幡乃 帶解替而 廬屋立 妻問爲家武 勝壯鹿乃 眞間之手兒名之 奧榔乎 此間登波聞杼 眞木葉哉 茂有良武 松之根也 遠久寸 言耳毛 名耳母吾者 不所忘
【語釈】 ○古昔にありけむ人の 昔、世にあったであろうところの人で、人は手児名に妻どいをした男としていったもの。○倭文幡の帯解き替へて 「倭文幡」は、倭文の幡の意で、「倭文」は、「しづおり」とも「しづり」ともいった織物の名で、栲《たえ》、麻、苧《からむし》などを青色、赤色に染めて、それを交織《まぜおり》に織る意である。これは、近世の縞織にあたる物である。上代の織物は白地であったから、これは進んだ織法で、したがって貴い物であった。集中に例の多いものである。「幡」は、機《はたご》で、織物をする器械の名であるが、転じて織った布の称ともなった。「倭文」の文字は、わが国で始めた文《あや》織物の意のもの。「帯」は、上の布の帯で、その物の貴いところから、用いる範囲は、紐、帯くらいであったとみえる。「解き替へて」は、解きかわしての意で、男女が閨に入る時の状態をいったもの。『童蒙抄』は、下の「廬屋立て」というための序詞だと解し、『講義』はそれを精しくして、上からは臥すと続け、その臥すを「廬屋」の「ふせ」に転じたものとしている。○廬屋立て妻どひしけむ 「廬屋」は、粗末の家の意で、屋根の地に伏しているがようなところからの称。ここは「妻どひ」に先立って立てるもので、それだと「つま屋」であって、つま屋をその状態か(240)ら言いかえたものである。上代は妻を迎えるには、あらかじめつま屋を立てるのが風であった。これは上代の建築法では、家の内が一と続きで、家人が同居していたから、その必要があったとみえる。この風は近世まで地方には残っていたものである。「立て」は、新たに営むことで、下の「妻どひ」にて立つ事としていっている。「妻どひしけむ」は、妻どいをしたであろうところので、上の「人」のすること。「妻どひ」は、求婚の意でも用いられ、すでに夫婦関係となっている上で、夫が妻の家へ通う意でも用いられている語である。ここは求婚の意のもの。二句、つま屋を立てた上で求婚をしたであろうところのの意である。大体、上代より中世へかけての結婚は、夫が妻の家へ通うのが普通で、その後に家に迎えることもあったのであるが、中には、初めから天の家に迎えることもあって、その文献に出ているものは貴族だけであるが、庶民の間にもありうることであったろう。ここは、夫の家へ迎えるほうであって、赤人の想像としていっているものである。○勝牡鹿の真間の手児名の 「手児名」は、娘子《おとめ》に対して一般の者のいっていた名である。巻十四(三三九八)「はにしなの伊思井《いしゐ》の手児《てこ》が言《こと》な絶えそね」があり、これは信濃国埴科の石井の手児を詠んだもので、「手児」の普通名詞であったことを示しているものである。『講義』は、この称は平安朝時代の落窪物語にも、鎌倉時代の日蓮の遺文にも用いていると考証し、『考』は、今も上総、下総では用いているともいっている。語意については、『槻落葉』は、集中の他の用例をも考え、「手児」は母の手を離れない処女の意、「名」は「背な」「妹なね」などいう「な」で、親しんで添える意のものであろうといっている。○奥槨をこことは聞けど 「奥槨」は、墓で、「奥」は奥まった所。「つ」は「の」の意の助詞。「き」は普通「城《き》」を当て、人の造った一郭の場所の称で、墓を具象的にいった語。「槨」は棺をおおう物の称で、意で当てた字である。「こことは聞けど」は、ここだと人から聞いたけれども。○真木の葉や茂りたるらむ 「真木」は、立派な木の意であるが、集中の例は檜をいっているとみえる場合が多い。ここは下の「松」に対させたもので、明らかに檜と取れる。「や」は、疑問。檜の葉が茂くなっているのであろうか。これは墓がその印《しるし》もなく、目にとまる物もないさみしい状態であるのを、そのさみしさをいうことを避けて、その見えないのは、檜の葉が茂って隠しているためであろうかと、婉曲にいって暗示しているものである。この暗示は、上の「聞けど」の「ど」で明らかにされている。「真木」は墓地にあるもので、老木であることが、この言い方でおのずからわかる。○松が根や遠く久しき 「松が根」は、松が老木になると根上がりになるものである。ここは見える物としていっているので、それである。「や」は、疑問。「松が根や」は、その根上がりとなっていて、遠い所まで及んでいることが見える意で、「遠く」へ続いているが、承けるほうの「遠く」は、時の上のものであるから、枕詞と見られるものである。しかし、眼前を捉えていっているので、譬喩の意の濃厚なものである。「遠く久しき」は、時が遠く久しくも経ているのであるかで、上二句と同じく、その墓の見えないことを、婉曲にいって暗示しているものである。この二句は、上の二句の繰り返しで、その上では対句であるが、「松が根や」が枕詞になっている点では、形のくずれたものである。○言のみも名のみも吾は 「言」は、話で、手児名の伝説。「のみも」は、だけでもで、その実在していた時に較べて、いささかのものとしていっているもの。「名のみも」は、名声だけでも。○忘らえなくに 「忘らえ」は、後の忘られ。「なく」は、「な」の打消に「く」の添った名詞形。「に」は詠歎。忘れられないことであるよ。
【釈】 昔、世にあったであろうところの男が、貴い倭文《しず》布の帯を解きかわして臥すという、その名の廬屋《ふせや》の嬬屋《つまや》を立てた上で、求婚をしたであろうところの勝牡鹿《かつしか》の真間の手児名の、その奥つ城《き》はここであると人から聞いたけれども、ここに老いて立っている檜の葉が、茂くなっているためであろうか、ここに立っている老松の、根上がりとなっている根の遠い所まで及んでいる、(241)その遠くも時がたち、久しくもなっているのであろうか、眼に止まるところの物とてはない。しかし、手児名の話だけでも、名声だけでも、我には忘れられないところのものであるよ。
【評】 この歌は、挽歌の心につながるものはあるが、旨とするところは、伝説を通して古の美人を懐かしむ情で、さらにいえば、伝説を歌にもたらしきたったものである。古の尊い神々、すぐれた人々、また珍しい事柄などが、物語として語り継ぎ言い継がれてきていたことはいうまでもないが、それが歌の素材とされるようになったのは、奈良遷都以前にあっては少なく、以後にわかに著しくなってきたことである。これは時代が盛運に向かってきたがために、人々はその時代の由ってきたるところを思おうとする心が強くなり、一方では生活も安易になってきたためのことと思われる。この歌はその一つで、それとしては比較的古いものである。この歌は全体として見ると、赤人の長歌の中にあっては心の躍ったもので、生趣の多いものであるが、技巧の上では、部分的には破綻《はたん》を見せているといわれるべきものである。「倭文幡の帯解き替へて」は、「廬屋」の序詞として捉えているもので、ここに序詞を用いたのは、手児名の生存時代をつとめて華やかなものとしようとしたためと思われる。そのことは、続いて墓のことをいう場合に、その墓のさみしいことをいうのを極力避けようとしているのでも察しられる。しかしこの序詞は、この場合としては、あまりにも実際に即しすぎていて、序詞のもつ変化の面白さという性格を忘れたがごときものである。諸注の解し悩んだのも当然といえる。また「廬屋」は、嬬屋《つまや》を言いかえたもので、具体的にしたという上からは意味があるが、この場合は華やかさを求めているのであるから、この言いかえは妥当だとはいえない。序詞に引かれての言いかえと思われる。さらに墓を叙している「真木の葉や茂りたるらむ 松が根や遠く久しき」は、実際に即してのもので、したがって生趣があり、その墓が高地ではなかったかとさえ思わせるものであるが、これは対句の形のもので、その上からいう(242)と、「真木の葉や」に対する「松が根や」は枕詞となっていて、妥当とはいえないものである。これらは破綻というはすぎるとしても、妥当を欠くとはいいうるものである。
反歌
432 吾《われ》も見《み》つ 人《ひと》にも告《つ》げむ.勝牡鹿《かつしか》の 真間《まま》の手児名《てこな》が 奥《おく》つ城処《きどころ》
吾毛見都 人尓毛將告 勝牡鹿之 間々能手兒名之 奧津城處
【語釈】 ○吾も見つ人にも告げむ 吾もまた目に見た。見ない人にも告げて知らせようで、文字の通用の範囲の狭く、交通の不便な時代の、見聞の重んじられたことを背後にしての心。○奥つ城処 墓のあり所の意で、墓所というにあたる。
【釈】 吾もまた目に見た。これを人にも告げ知らせよう。勝牡鹿の真間の手児名のこの墓所を。
【評】 手児名の伝説は以前から聞いて憧れていたのに、その墓を見たので、憧れの情がさらに深くなって、昂奮した心をもっていっているものである。その昂奮が端的に、一首の調べにあらわれている。反歌としても、長歌を展開させているものである。
433 勝牡鹿《かつしか》の 真間《まま》の入江《いりえ》に 打靡《うちなび》く 玉藻《たまも》苅《か》りけむ 手児名《てこな》し念《おも》ほゆ
勝牡鹿乃 眞々乃入江尓 打靡 玉藻苅兼 手兒名志所念
【語釈】 ○真間の入江に 真間川の入江で、川は江戸川の支流である。「入江」は、本来海、湖などの水の、陸に入り込んでいるところの称であるが、川にも「奥《おき》」、池にも「磯」などといっている例は、集中に多いので、ここもそれらと同じく、真間川にいっているのである。こうした称は、海がなく、それに憧れている大和国の京人《みやこびと》の心から用いられたものという解があるが、それだとすると赤人には当然な語である。○打靡く玉藻苅りけむ 「打靡く」は、川の藻の波にゆらいでいる状態。「玉藻」は、「玉」は美称で、藻。「苅りけむ」は、手児名が身分がら当然したであろうとして推量したもの。連体形で、下へ続く。○手児名し念ほゆ 「し」は、強め。「念ほゆ」は、思われるで、ここは想像される意。
【釈】 勝牡鹿の真間川の入江に、川波に靡いている藻を見ると、これを苅ったであろうところの手児名が想像される。
【評】 眼前にある真間川の川藻を見、手児名が身分がらこの川藻を苅つたことであろうと連想して、過去の手児名を眼前のものとして懐かしんだ心の歌である。このように自然と人事を対照する場合には、自然の永久で、人事の倏忽《しゆくこつ》であることを対比(243)して、人生を悲しむものが多いが、この歌はそれではなく、眼前の自然に、過去の人事をよみがえらせてき、双方を一つにして懐かしむという、むしろ反対なものである。したがって一首が明るく軽いものとなっている。
【評又】 以上の長歌と反歌二首とを全体として見ると、巻一(二九)より(三一)にわたる「近江の荒れたる都を過ぎし時、柿本朝臣人麿の作れる歌」を連想させるものがある。取材としては一は畏い皇居の址、一は庶民の一女子の墓であり、一は昔の盛時を思って悲しみを尽くしたものであり、一は伝説の美人に対して憧れを新たにしたものであって、すべてが対蹠的になっているものであるが、その構成の上にはかなり似通っているものがある。ことに二首の反歌の長歌に対してもつ関係は、赤人の他の場合のものとは異なって、人麿の態度に似たもののあることを感じる。これは、当時を通じてのことであり、またこの歌にのみ限ったことでもないが、人麿の影響の微妙さを思わせるものである。
和銅四年辛亥、河辺宮人、姫島の松原に美人の屍を見て哀慟して作れる歌四首
【題意】 この題詞は、巻二(二二八)(二二九)二首のそれと、内容としては同じものである。しかるに歌は全く異なっているので、撰者はその理由でここに載せ、そのことを左注として断わっているものである。ここに載せたのは、年次がここに該当するからである。出所は一本からである。
434 かざはやの 美保《みほ》の浦廻《うらみ》の 白《しら》つつじ 見《み》れどもさぶし なき人《ひと》念《おも》へば【或は云ふ、見《み》れば悲《かな》しもなき人《ひと》思《おも》ふに】
加麻※[白+番]夜能 美保乃浦廻之 白管仕 見十方不怜 無人念者【或云、見者悲霜無人思丹】
【語釈】 ○かざはやの美保の浦廻の 原文「加麻※[白+番]夜」の「麻」が、文字として問題となっている。それは、「風早《かざはや》の」という語が集中に二か所あり、ここもそれであろうと推測しての上に立ってのもので、「麻」を「ざ」と訓もうとしてのことである。『考』は「麻」は「あさ」の上略で、「さ」に当てたものとしているが、四字のうち、この一字だけを訓《よみ》とするのは妥当でないとして、『略解』は「座」を誤写してであろうとしている。『講義』は、諸本すべて「麻」で、「座」の誤写とする手がかりもないが、結局そう見るよりほかは解しようがないとしている。しばらくこれに従うべきであろう。次に「風早」の用例というのは、巻十五(三六一五)「風早のうらのおきべにきりたなびけり」と、巻七(一二二八)「風早の三穂の浦廻を榜ぐ舟の船人《ふなびと》動《さわ》く波立つらしも」というのであって、今の歌は、この歌と同じ地と思われる。巻十五の歌によると、「風早のうら」という続きから、「風早」は地名とも取れるが、巻七の歌によると、風の早いという意にも取れるもので、『代匠記』は風の早い意に解している。そのいずれであるかについて『講義』は精しく考証して、巻七の「風早の三穂の浦廻を」の歌は、その国々の歌を一団としたものの中にあるもので、この歌は紀伊国と播磨国との中間にある。一方、「美保」は、上の(三〇七)「紀伊国に往き、三穂の石屋《いはや》を見て」とあるその「三穂」と同じ地と見て、(244)紀伊国と見るべきであろう。また紀伊国には「風早」という地名はないから、『代匠記』の解のごとく、風の烈しいという意に解すべきであろうといっている。「浦廻」は、浦のあたり。○白つつじ 白色の躑躅《つつじ》の花で、呼びかけの心をもってのもの。○見れどもさぶしなき人念へば たのしかるべき花を見ているけれど、たのしくない、死んだ人を思っているのでの意。○或は云ふ、見れば悲しもなき人思ふに 見れば悲しいことよ、死んだ人を思うので。
【釈】 風の烈しいこの美保の浦の辺りに咲いている自躑躅《しろつつじ》の花よ、楽しかるべきものを見ているが楽しくはない、死んだ人を思っているので。あるいはいう、見ると悲しいことよ、死んだ人を思うので。
【評】 美保の浦で、近く死んだ人に対する悲しみに胸を占められながら、おりからそこに咲いている白躑躅の花に対しての心と取れる。白躑躅は眼前に咲いているもので、実際に即してのものと思われる。しかし、「風早の」という語で、その翻りつつ咲いていることが思われ、またその「白」というのが、多分は水死したであろうと思われる人を連想させる力をもっていて、特殊の感のあるものとなっている。しかしこれは作者としては意図したことではなかろうと思われる。題の事柄と、気分としてはつながりをもちうるものであるが、土地が全く無関係であるから、それは偶然のことといわなければならない。「或は云ふ」のほうは、死んだ人のことを忘れたがごとき心でいたのに、白躑躅の花を見ると、必然的にその人のことを思い出して、にわかに悲しくなるというので、こちらは死を水死であるとすると、直接にそれに即したものである。作意としては、本行のものよりも明らかである。
435 みつみつし 久米《くめ》の若子《わくご》が い触《ふ》れけむ 礒《いそ》の草根《くさね》の 干《か》れまく惜《を》しも
見津見津四 久米能若子我 伊觸家武 礒之草根乃 干卷惜裳
【語釈】 ○みつみつし久米の若子が 「みつみつし」は、本集ではここにあるだけであるが、古事記、日本書紀には多い語である。「久米」の枕詞であるが、記紀では久米は兵の総称で、それを讃える意と取れるものである。諸説があるが、『古義』の勇武《かど》あることをいったものだという解が、比較的妥当に感じられる。『講義』は、「みつ」は武威という意で、それを重ねて形容詞の語幹としたものだといって、さらに明らかにしている。「久米の若子」は、(三〇七)に出た。それには、三穂の石屋《いわや》に住んでいた人としているが、ここもその人のことと取れる。○い触れけむ磯の草根の 「い触れけむ」は、「い」は接頭語。触れたであろうところのの意。触れたのは、自然にあったこととしてのもの。「礒の草根」は、「礒」は海岸の石。「草根」は「根」は岩根などのそれと同じく、意味はないもので、草。○干れまく惜しも 「干れまく」は、「干れむ」の名詞形。枯れてゆくことの惜しさよ。
【釈】 みつみつし久米の若子が、いつの時にか触れたことがあろうと思われるところのこの磯の草の、枯れてゆくことの惜しさ(245)よ。
【評】 三穂の石屋《いわや》を見て、そこに住んでいたという久米の若子を思う(三〇七)以下三首の歌と、何らかの繋がりをもった歌と取れる。それらの歌では、久米の若子は時を隔てた昔の人のようであるが、この歌では「草根の干れまく」とあって、近い時のこととしていっているように取れる。しかしこれは、眼前の草を古と同じ物と見ていったとすれば、許されうるものである。「干れまく」といっているので、今枯れんとしているのを見ての感とわかり、実際に即した、強い感傷を包んでのものとわかる。この歌も前の歌と同じく、題には関係のないものである。
436 人言《ひとごと》の 繁《しげ》きこのごろ 玉《たま》ならば 手《て》に巻《ま》きもちて 恋《こ》ひざらましを
人言之 繋比日 玉有者 手尓卷以而 不戀有益雄
【語釈】 ○人言の繁きこのごろ 「人言」は、他人がとやかくと取沙汰をすること。「繁きこのごろ」は、はげしいこの頃で、男女関係が噂に立ち初めた当座のことと取れる。下に詠歎が含まれている。○玉ならば手に巻きもちて もし相手の人が玉であるならば、手玉として腕に巻いて持っていてで、手玉をするのは、集中の例で女のすることと取れるから、「玉」は夫である男を譬えたもの。○恋ひざらましを 恋いずにいようものをで、「まし」は「玉ならば」の仮定の結。
【釈】 他人の取沙汰のはげしいこの頃よ。もし君が玉であるならば、わが手に巻いて持って一緒にいて、恋いずにいようものを。
【評】 夫を通わせ初めた頃の女が、人言に当惑しての嘆きである。「人言の繁きこのごろ」は、その事が周囲の人々の興味となっていることを思わせるところから、事の初めと取れる。「恋ひざらましを」は、女が夫に憧れていて、人言にもかかわらず、繁く逢っていることを思わせるものである。「玉」というだけで夫をあらわしていることも注意される。これは明らかに相聞の歌で、題とは関係のないものである。
437 妹《いも》も吾《われ》も 清《きよみ》の河《かは》の 河岸《かはぎし》の 妹《いも》が悔《く》ゆべき 心《《こころ》は持も》たじ
妹毛吾毛 清之河乃 河岸之 妖我可悔 心者不持
【語釈】 ○妹も吾も清の河の 「妹も吾も」は、心清く、すなわち純粋な心をもって契っていると続け、その清を河の名に転じたもので、ここは清(246)にかかる枕詞である。「清の河」は、『代匠記』は、飛鳥河の浄見原《きよみはら》の辺を流れる時の名であろうといっている。巻二(一六七)に、「飛ぶ鳥の浄《きよみ》の宮」ともあって、ありうる名である。○河岸の 河の岸で、ここは崩《く》えやすい所としていっているもので、下の句の「悔ゆべき」に、「崩ゆ」の意で続き、それを「悔《く》ゆ」に転じたものである。すなわち初句より三句までは、悔ゆの序詞である。○妹が悔ゆべき心は持たじ 妹が、この契りを結んだことを後悔するような心は、我はもつまいで、心の変わるようなことはしまいの意。
【釈】 妹も吾も心清くも契った、その清みを名としている清《きよみ》の河の河岸の、それは崩ゆるものではあるが、我はその悔ゆるようなことを妹にさせる心はもつまい。
【評】 飛鳥河を清《きよみ》の河と呼ばれる辺りに住んでいる男が、同じくその辺りの女と夫婦関係を結んだ時、男が女に対して誓の心をもって詠んだ歌である。「妹も吾も清の河の河岸の」と、その土地に即した序詞を設け、序詞の中に「妹も吾も」と、「清み」に続く枕詞を設けて、その枕詞にも一首と関係の深い心をもたせているという、心をこめた言い方をしたのである。こうした心は、いかなる夫婦の間にも適用のできるものであるから、民謡風にいわれ、謡いかえされていたものかと思われる。序詞を用いているところ、また「崩ゆ」と「悔ゆ」の一語二義は、他にも例のあるもので、民謡の匂いのある歌である。それとすると、繊細味があり、静かさがあって、進歩したものというべきである。これも相聞の歌で、題とは関係のないものである。
右、案ずるに、年紀并に所処及び娘子の屍の作歌人名、已に上に見えたり。但歌辞相違し、是非別ち難し。因りて以て累《かさ》ねてこの次《ならび》に載す。
右、案、年紀并所處及娘子屍作歌人名、已見レ上也。但謌辞相違、是非難v別。因以累載2於茲次1焉。
【解】 この事は題詞の所で大体をいった。この歌の題詞は、巻二(二二八)(二二九)の二首に対する題詞と、文字に多少の相違はあるが、意味は全く同じものである。しかるに歌は全然違っていて、いずれが是、いずれが非と別ち難い。それで年代順に従って、再びここに載せるというのである。これはこの三巻の撰者の、撰をするにあたって加えた注で、この四首の歌は、撰者の見た本にあったものであることは明らかである。撰者の本巻の資料に対し、また撰をするについての態度の、細心であったことを示している注である。この四首の歌の、題とは全く関係のないものであることは明らかであるが、なぜにこう成ったかは全くわからない。しかし単に歌として見ると、いずれもすぐれたものである。撰者のこれを捨てかねたのは、すぐれた歌であったためかと思われる。
(247) 神亀五年戊辰、大宰帥大伴卿、故人を思ひ恋ふる歌三首
【題意】 「大伴卿」は、大伴旅人。「故人」は、故旧の意と物故した人の意とをもっている語であるが、ここは物故した人で、旅人の妻大伴郎女をさしている。郎女は旅人に伴われて大宰府に行っており、そこで逝去したのである。その事は、巻八(一四七二)の左注にあり、また朝廷より弔問の勅使石上朝臣堅魚を遣わされたこともいっている。また逝去の時は、巻五の巻頭、旅人の「凶問に報《こた》ふる歌」に添っている日付「神亀五年六月二十三日」により、それに先立つ、近い日のことであったとわかる。
438 愛《うつく》しき 人《ひと》の纒《ま》きてし 敷細《しきたへ》の 吾《わ》が手枕《たまくら》を 纒《ま》く人《ひと》あらめや
愛 人之纒而師 敷細之 吾手枕乎 纒人將有哉
【語釈】 ○愛しき人の纒きてし 「愛しき人」は、巻二十(四三九二)「うつくし母に」、また日本書紀、斉明紀、天皇の御製に、「うつくしき吾が稚き子を」などがあって、親愛する人の意で、妻の郎女をいっているものである。「纒きてし」は、「て」は、完了。枕としたところの。○敷細の吾が手枕を 「敷細の」は、「敷」は重波《しきなみ》などいう「しき」で、繁きの意の語。織目の細かさをいったもの。「細」の字を「たへ」に当てたのは、『講義』は「細布」の略だろうといっている。同じく織目の細かい意で、いずれも布の状態をいったもの。主として「衣」にかかる枕詞であるが、「枕」にも及ぼしたもので、ここは「手枕」の「枕」にかかっている。「吾が手枕」は、夫としての旅人の手枕。○纒く人あらめや 「あらめや」は、「め」の已然形に「や」の続いて反語をなしたもので、あろうか、ありはしないと強くいったもの。
【釈】 親愛した人の枕としたわが手枕を、他にまた枕とする人があろうか、ありはしない。
【評】 物故した妻を思った心で、その思う心の純粋さをあらわしたものである。一首、いかにも単純に、また率直に、他人の見ることなどは意に置かず、一にわが心を抒《の》べようとしているもので、したがっておおらかな、落着いた気品をもったものとなっている。この歌にあらわれているところのものが、やがて旅人という人であったろうと思わせるものである。感傷をいいながらも、おのずからに節度のあるのは、貴族であり、また教養をもっているところからきているものであろう。
右の一首は、別れ去りて数旬を経て作れる歌。
右一首、別去而経2數旬1作謌。
(248)【解】 「別れ去りて数旬」は、死別して三、四十日の意である。これについて注意されることは、「題意」でいったように、大伴郎女の逝去に伴っての歌は、「巻五」にも収められ、またこの巻にも収められていることである。すなわち、ほとんど同時の歌が二つに分けられ、巻を異にして扱われていることで、ことに「巻五」は特殊な巻であるところから、いっそうこの事が注意を引くのである。これは撰者が異なっていることを思わせる事柄である。
439 還《かへ》るべく 時《とき》はなりけり 京師《みやこ》にて 誰《た》が手本《たもと》をか 吾《わ》が枕《まくら》かむ
應還 時者成來 京師尓而 誰手本乎可 吾將枕
【語釈】 ○還るべく時はなりけり 旧訓「還るべき時にはなりぬ」。『代匠記』の改訓。「還る」は、京へ還る意。「時はなりけり」は、時は移って来たことであるよというので、これは大宰帥としての任期が果てて、当然京へ還るべき時が近づいて来たことに対する感懐である。大宰帥の任期は四年で、宝亀十一年以後は五年に改まったが、この時はそれ以前である。旅人は天平二年十月に大納言を兼任することとなり、その十二月帰京の途に上ったのであるから、これはそれに近い時のことである。○京師にて誰が手本をか 「京師にて」は、帰って京に在って。「誰が手本を」の「手本」は、袂で、袖というも同じく、手を言いかえたもの。「か」は、疑問。○吾が枕かむ 「枕かむ」は、『代匠記』の訓てある。「枕」を動詞として四段活用に働かした「枕く」という語は、仮名書きのあるもので、それによってのものである。巻一(六六)「松が根を枕き宿《ぬ》れど」があった。枕としようかの意。
【釈】 京へ還るべく、時は移って来たことであるよ。京にあって、誰の手を吾は枕としようとするのか。
【評】 地方官としての任期が果てようとし、京へ帰るという楽しい時が近づくと、それとともに思われるのは住み馴れた家であり、家の中心であるところの妻であるのは、自然な心理である。この歌は、その心理に催されて今更のごとく亡妻を思い、京に還る張合いのなさをいったものである。二句に休止を置き、心理の推移を暗示しているところに、落着いた心と、しみじみした心が現われて、哀感をなしている。
440 京師《みやこ》なる 荒《あ》れたる家《いへ》に ひとり宿《ね》ば 旅《たび》にまさりて 辛苦《くる》しかるべし
在京師 荒有家尓 一宿者 益旅而 可辛苦
【語釈】 ○京師なる荒れたる家に 「京師なる」は、奈良の都にある。「荒れたる家」は、四年間の留守中に、自然に荒れてきている家で、楽しか(249)るべき故里の家の、反対にさびしかるべきを思いやっての心。○ひとり宿ば 独寝をしたならばで、妻のないこととて、当然のこととしての思いやり。○旅にまさりて辛苦しかるべし 「旅」は、本来苦しいものとしていっている。「まさりて」は、楽しかるべき家の、妻のないのによって裏切られるので、甚しく苦しかるべき事を、旅と比較してのもの。「辛苦しかるべし」は、苦しくあるであろうと思いやったもの。
【釈】 京にある、留守中に荒れている家へ還って、妻のない身のひとり寝をしたならば、楽しかるべき家の、苦しかるべき旅にもまして、いっそう苦しく感じられることであろう。
【評】 旅より家に還ろうとするにあたり、楽しかるべき家と、苦しかるべき旅ということを心に置き、楽しかるべき所の楽しくないのは、苦しかるべき所の苦しいのよりもさらに苦しいであろうと思いやったのである。複雑した心理を、実際に即して、きわめて単純にいったもので、旅人の感性の鋭さと、頭脳の明らかさとを思わせる歌である。この歌は、前の歌と心の連なっているもので、前の歌でいって足りなかったものを補っていおうとした形のもので、連作というべきである。
右の二首は、京に向ふ時に臨み近づきて作れる歌。
右二首、臨2近向v京之時1作歌。
【解】 「京に向ふ時」は、天平二年で、前の歌の神亀五年とは年がちがい、その間に少なくとも一年以上の隔たりがある。それを「神亀五年」の題の下に纏めたのは、歌の性質を主としてのことと思われる。
神亀六年己巳、左大臣長屋王に死を賜ひし後、倉橋部《くらはしべの》女王の作れる歌一首
【題意】 「長屋王」は、巻一(七五)に出た。天武天皇の御孫、高市皇子の御子で、神亀元年左大臣に任ぜられ、太政官の上位となっておられたが、神亀六年|讒《ざん》によってその邸において死を賜わった。年五十三。妃吉備内親王、御子膳夫王、桑田王、葛木王、鉤取王など皆殉死を遂げられた。事は続日本紀に載っている。「倉橋部女王」は、伝が明らかでない。
441 大皇《おほきみ》の 命《みこと》恐《かしこ》み 大荒城《おほあらき》の 時《とき》にはあらねど 雲隠《くもがく》ります
大皇之 命恐 大荒城乃 時尓波不有跡 雲隱座
【語釈】 ○大皇の命恐み 天皇の詔を恐《かしこ》んで承《う》けまつって。これは成句となっていて、用例の多いものである。○大荒城の時にはあらねど 「荒(250)城」は、「新城《あらき》」の意で、人の死後、葬送をするまでの間を、新たに営んだ屋に移して賓遇するのが風で、新城はその新たなる屋の称。これによってその事をあらわすものである。荒城に移すのは、死の穢《けが》れを避けることが目的であった。「大」は、王の荒城であるがゆえに、尊んで添えたもの。「時にはあらねど」は、その時ではないけれどもで、大荒城の時、すなわち御寿命ではないけれどもというので、死を賜わったことを婉曲にいったもの。これは天皇に対しまつり、また王に対しまつって、当然の礼として婉曲にいったのである。○雲隠リます 「雲隠る」は、(四一六)大津皇子の歌に出た。高貴の御方は、死ぬと魂が天上に帰るということを具象的にいったもの。「ます」は、敬語で、おかくれになられるの意。
【釈】 天皇の詔を恐《かしこ》んで承けまつって、大荒城のことを行なうべき時、すなわち御寿命としてではなく、君にはおかくれになられる。
【評】 事の中核をとらえて、感傷の語をまじえずして叙し、その悲しみをあらわそうとしているものである。倉橋部女王の長屋王に対する関係はわからないが、事があまりにも異常で重大であったので、その事柄だけで心がいっぱいになり、他の何事を思う余裕もなかったことが、その悲しみのあらわし方の上に見える。調べもまた、内容にふさわしく、直線的でありながら、重く鬱屈《うつくつ》した情を湛えたものである。
膳部王《かしはでべのおほきみ》を悲傷《かなし》める歌一首
【題意】 「膳部王」は、上にいった膳夫王で、長屋王の子、御母は吉備内親王である。続日本紀、霊亀元年御母の尊貴なるゆえをもって皇子の列に入れて優遇するとの事があり、また神亀元年には従四位下を授けられた方である。
442 世間《よのなか》は 空《むな》しき物《もの》と あらむとぞ この照《て》る月《つき》は 満《み》ち闕《か》けしける
世間者 空物跡 將有登曾 此照月者 満闕爲家流
【語釈】 ○世間は空しき物と 「世間」は、下の続きによると、仏説でいう現世の意である。「空しき」は、仏説でいう無常、すなわち常無きということを言いかえたもので、同じ意である。○あらむとぞ 「あらむと」は、あることを示そうとての意。○この照る月は満ち闕けしける 「この」は、眼前のものをさす語で、おりからの月に対してのことをあらわしたもの。「満ち闕け」は、一定の状態のない、すなわち無常である意。「ける」は、連体形で、上の「ぞ」の結。
【釈】 現世は無常な、すなわち空しいものであることを示そうとて、今見る空に照る月は、満ちつ欠けつしていることであるよ。
【評】 膳部王に何らかの特別の関係をもっていた人の、夜、王の死を悲しむ心を抱いて、おりからの月にその心を繋いでいっ(251)ているものである。この人の心は、王の死を悲しみつつも、それを諦めようとしているもので、諦めるには、当時盛行していた仏説に縋ってしようとし、今現に見ている月によって、その仏説を確かめ強めようとしているのである。直接には王に触れず、仏説のみをいっている形であるのは、力点が諦めに置かれているためである。前の歌の悲しみを主としているのに較べて、この歌の諦めを主としているのは、作者の身分が低く、事柄そのものを思うことさえも憚るような心をもっていたがためであろう。諦めようとすることに心を集中させ、それを強く深くいおうとしているところ、この作者は男ではないかと思わせる。
右の一首は、作者いまだ詳ならず。
右一首、作者未v詳。
【解】 この注の「詳ならず」というのは、作者の身分の低いことに関係してはいないかと思われる。
天平元年己巳、摂津国|班田史生丈部竜麿《はんでんのししやうはせつかべのたつまろ》、自ら経死せし時、判官大伴宿禰|三中《みなか》の作れる歌一首 并に短歌
【題意】 「摂津国班田史生」は、班田は、孝徳天皇大化改新より始まった制度で、全国の公民に口分田《くぶんでん》を班《わか》ち与える事であり、その詳細は「田令」にある。大体は、六年日ごとにそのことを改め行なわれたが、これは公民に死亡する者、成人する者があるためである。その任にあたる者は、諸国では国司であったが、京および五畿内は特に班田使を任じて事にあたらしめた。摂津国はその範囲内の国である。史生は、国語では「ふみひと」といい、書記である。史生は、二官、八省を初めすべての官署にある職で、公文書を掌る者である。「丈部竜麿」は、伝はわからない。丈部氏は『新撰姓氏録』にあり、「天足彦国押人命孫、比古意祁豆命後也」とあり、姓《かばね》は造であるが、竜麿にはそれがないので、身分の低い者であろうとされている。なお竜麿は、歌によると、諸国の国司より、「軍防令」に従い、皇居の御門を衛《まも》ることを職とする衛士あるいは兵衛として貢した者の一人であることがわかる。衛士と兵衛は、兵衛のほうが位置が高く、諸国の郡司の子弟で、兵馬の事に堪える者を、一郡一人の割をもって簡抜した者である。また、兵衛は期が満つると、考試の上で、京の文武官に用い、地方の郡司ともした。竜麿は史生となっているところから、兵衛であったと思われる。「自ら経死せし」は、経死は絞れ死ぬことで、自殺をした意である。なぜにそういうことをしたかは、触れて言っているものがないのでわからない。「判官」は、第三等官で、国語で「まつりごとひと」といい、官署の事務の一切を処理する任にある人である。「三中」は、父祖は知られないが、官歴は、続日本紀に出ている。天平九年遣新羅使副使(252)として入京したことが出ている。副使従六位下で、その年に正六位上。十二年外従五位下。十五年兵部少輔。十六年山陽道巡察使。十七年大宰少式。十八年長門守。従五位下。十九年刑部大判事に任ぜられている。
443 天雲《あまぐも》の 向伏《むかふ》す国《くに》の 武士《もののふ》と 云《い》はえし人《ひと》は 皇祖《すめろぎ》の 神《かみ》の御門《みかど》に 外《と》の重《へ》に 立《た》ち候《さもら》ひ 内《うち》の重《へ》に 仕《つか》へ奉《まつ》り 玉葛《たまかづら》 いや遠長《とほなが》く 祖《おや》の名《な》も 継ぎゆくものと 母父《おもちち》に 妻《つま》に子等《こども》に 語《かた》らひて 立《た》ちにし日《ひ》より 帯乳根《たらちね》の 母《はは》の命《みこと》は 斎忌戸《いはひべ》を 前《まへ》に坐《す》ゑ置《お》きて 一手《かたて》には 木綿《ゆふ》取《と》り持《も》ち 一手《かたて》には 和綿布《にぎたへ》奉《まつ》り 平《たひ》らけく ま幸《さき》く座《ま》せと 天地《あめつち》の 神祇《かみ》を 乞《こ》ひ祷《の》み いかならむ 歳月日《としつきひ》にか 茵花《つつじばな》 香《にほ》へる君《きみ》が 牛留鳥《くろとり》の なづさひ来《こ》むと 立《た》ちて居《ゐ》て 待《ま》ちけむ人《ひと》は 王《おほきみ》の 命《みこと》恐《かしこ》み 押光《おして》る 難波《なには》の国《くに》に 荒玉《あらたま》の 年《とし》経《ふ》るまでに 白栲《しろたへ》の 衣《ころも》も干《ほ》さず 朝夕《あさよひ》に ありつる公《きみ》は いかさまに 念《おも》ひ座《いま》せか うつせみの 惜《を》しき此《この》世《よ》を 露霜《つゆしも》の 置《お》きて往《い》にけむ 時《とき》にあらずして
天雲之 向伏國 武士登 所云人者 皇祖 神之御門尓 外重尓 立候 内重尓 仕奉 玉葛 弥遠長 祖名文 繼徃物与 母父尓 妻尓子等尓 語而 立西日從 帶乳根乃 母命者 齋忌戸乎 前坐置而 一手者 木綿取持 一手者 和綿布奉 平 間幸座与 天地乃 神祇乞禮 何在 歳月日香 茵花 香君之 牛留鳥 名津通來与 立居而 待監人者 王之 命恐 押光 難波國尓 荒玉之 年經左右二 白栲 衣不干 朝夕 在鶴公者 何方尓 念座可 欝蝉乃 惜此世乎 露霜 置而徃監 時尓不在之天
【語釈】 ○天雲の向伏す国の 「天雲」は、空の雲。「向伏す」は、見る者の方へ向かって伏しいる意で、雲の下《くだ》って地平線上に横たわっていることであり、地上のきわめて遠い所ということを具象的にあらわしている語である。遠いというのは、ここは京を中心としていっている事で、地方の諸国の意である。この語は成句となっているもので、『延喜式』の「祈年祭」にもあり、本集にもあるものてある。○武士と云はえし人は 「武(253)士《もののふ》」は、物部《もののべ》で、百官の称であるが、武官の称に転じたもの。すべて武を練っていたからのことである。「云はえし」は、『古義』の訓。いわれしで、讃える意で、称せられたこと。以上四句、地方の武士と称せられた者はで、竜麿の語《ことば》として、自分どもの階級をいっているもの。○皇祖の神の御門に 「皇祖」は、皇祖より現代の天皇にわたって申す称で、ここは現代の天皇。「神の御門」は、「神」は、天皇の御事。「御門」は、下の続きで、宮城の御門とわかる。二句、皇居の御門に。○外の重に立ち候ひ 「侯ひ」は、『代匠記』の訓。「外の重」は、「外《と》」は外郭、「重《へ》」は九重《ここのえ》という重である。「宮衛令」の『集解』に、皇居には、外門、中門、内門の三重の門のあることをいっているが、その外門である。「立ち候ひ」は、立って、御|衛《まも》りのことをしの意。この皇居の御門を衛る者は、衛士と兵衛とを通じてのことである。○内の重に仕へ奉り 「内の重」は、内門。「仕へ奉り」は、御衛りのことをお仕え申しで、二句、上の二句の対句で、御衛りのことを語を変えて繰り返しいったもの。繰り返すのは、その事の重大さをあらわすためである。○玉葛いや遠長く 「玉葛」は、「玉」は美称で、葛のこと。その遠く長く及んでいるところから、「遠長」の枕詞としたもの。譬喩の意のものである。「いや遠長く」は、ますます遠く長くと、時の上をいったもの。○祖の名も継ぎゆくものと 「祖の名も」は、祖先の名をも。「継ぎゆくもの」は、続けてゆくべきもの。「と」は、下の「語らひ」に続く。○母父に妻に子等に 「母父《おもちち》」は、仮名書きのあるもの。母を重んじた続け方をしているのは、上代は夫婦別居していたところから、子からいうと、母のほうが親しみが深かったためである。二句、家族全体に。○語らひて立ちにし日より 「語らひ」は、「語る」にハ行四段活用型の助動詞「ふ」をつけ、継続をあらわす。よくよく話して。「立ちにし日」は、「に」は、完了。京へ出立した日からの意。○帯乳根の母の命は 「帯乳根の」は、母にかかる枕詞であるが、定解のない語である。『古義』は、「たらち」は「足らし」の転で、物を充足せしめる意。「根」は親しみをあらわす語で、母を讃えての意だと解している。比較的穏やかな解である。「母の命」は、母を尊んでの称で、例のあるもの。○斎忌戸を前に坐ゑ置きて 「斎忌戸」は、(三七九)に出た。神に奉る御酒《みき》の甕。「前に坐《す》ゑ置きて」は、「前」は、神の御前。「坐ゑ置き」は、同じく(三七九)に出た。地上に、地を掘って据えて置く意。○一手には木綿取り持ち 「一手」は、旧訓「ひとて」。諸注、問題としないものであるが、『講義』は「かた手」と改めた。要は、両手を「左右手《まて》」「諸手《もろて》」というに対し、一方の手は「かた手」というべきで、「真帆」に対する「片帆」、「莫屋《まや》」(両下)に対する「片屋」、その他を挙げ、この語は平安朝時代にも及んでいるといっている。これに従う。「木綿取り持ち」は、「木綿」は、神を祭る時に奉るもの。「取り持ち」は、奉る状態。○一手には和綿布奉り「和綿布奉り」は、「木綿」と同じく、神に奉つてで、上二句と対句にして、事の鄭重なるをあらわしたもの。○平らけくま幸く座せと 「平らけく」は、平穏に。「ま幸く」は、「ま」は「真」で十分にで、十分無事に。「座せ」は、いよの意の敬語で、天皇に仕えまつる上で、子ながら貴んだ意のもの。○天地の神祇を乞ひ祷み 「神祇」は、旧訓「かみに」。『管見』が「に」を「を」とし、『講義』は「を」の例の多いことを考証したもの。「祷《の》む」は、日本書紀、崇神紀に、「叩頭此云2廼務1」と注のあるもので、本来は叩頭する意である。『講義』は、現在の「頼《たの》む」はこの「のむ」で、「た」は接頭語である。ここも煩むの意であり、その点からも、「を」の助詞の伴うのがよいといっている。○いかならむ歳月日にか 「歳月日」は、旧訓「歳の月日」。『代匠記』の訓である。いつの歳、月、また日にかの意。○茵花香へる君が 「茵花」は、躑躅《つつじ》の花で、ここは赤色のもの。譬喩として、下の「香へる」に、枕詞の形をもって続く。「香へる」は、ここは色の艶《つや》やかな意のもので、紅顔というにあたる。「君」は、竜麿。二句、丹躑躅の花のように、くれないの顔をしたところの君が。○牛留鳥のなづさひ来むと 「牛留鳥」は、旧訓「ひくあみ」。『略解補正』が「牛留鳥《くろとり》」と改め、木村正辞の『字音弁証』の賛しているものである。『講義』は、「留」を「ろ」に用いた例は、『古語拾遺』(254)の「皇親神留伎命」を初め他にもあるが、「牛」を「く」とは訓み難いので、確説とはし難いが、しばらくこれに従うといっている。「くろとり」は『和名抄』に、「※[主+鳥]、黒色水鳥名也、久呂止利」とあり、土佐日記にも出ているものである。上の「茵花」と対させてあり、また下の「なづさひ」への続きから見ても、作意は鳥としてであろうと思われる。下の「なづさひ」に、譬喩の意をもってかかる枕詞。「なづさひ」は、(四三〇)「奥《おき》になづさふ」に出た。水に浮かび、漂うの意である。「来むと」は、家に帰って来ようとの意。二句、黒鳥のごとくに海に浮かんで帰って来ようとで、舟に乗って来ることを譬えていったのである。当時の旅行は、舟の用いられる限りは用いたものであるから、竜麿の国の海に面したところからいったもの。○立ちて居て待ちけむ人は 「立ちて居て」は、落着けない状態。「待ちけむ」は、待っていたであろうところので、待つのは上の「母の命」。「人」は竜麿。○王の命恐み 既出。○押光る難波の国に 「押光る」は、難波にかかる枕詞であるが、語義は定解がない。巻十二(二六七九)「窓越しに月押照りて」その他の用例で、光の隈なく照る意と解される。「難波の国」は、難波宮を中心として、摂津国を言いかえたもの。○荒玉の年経るまでに 「荒玉の」は、年にかかる枕詞。語義は諸説があって定まらない。『歌袋』は、荒玉は『和名抄』の玉の磨かない物との解に従い、それを砥にかけて磨く意で、「と」に続くと解して、それを「年」に転じたものと解している。「年経るまでに」は、何年かを過ごすまで久しい間をの意。これにつき『講義』は、摂津国班田の事は、続日本紀に、「天平元年十一月癸巳任2京及畿内班田司1」とあり、また班田の事は、十一月より翌年の二月までの間に行なわれるのが定めであったから、竜麿の班田史生としての任にあったのは、二月以内にすぎない。「難波の国に年経る」というのは、他の官吏としてでなくてはならない。思うに摂津職の史生をしていて、班田使の史生に転じさせられたのであろう。左右京職にあっては、それが制度であったから、同様であったろうといっている。○白栲の衣も干さず 「白栲の衣」は、実際をいったものと取れる。「も」は、それさえも。「干さず」は、濡れたのを乾《ほ》さずで、精励ということを具体的にいったもの。○朝夕にありつる公は 「朝夕に」は、常にということを具体的にいったもの。「ありつる公」は、過ごしていたところの公《きみ》で、「公」は竜麿。○いかさまに念ひ座せか 「いかさまに」は、どのように。「念ひ座せか」は、「念へか」を敬語でいったもの。どのようにお思いになったのかで、その心の測り難いことをいったもの。敬語を用いたのは、竜麿が死んで霊となっているので、霊に対して敬っていったのである。○うつせみの惜しき此世を 「うつせみの」は、現身《うつしみ》の意で、世にかかる枕詞。「惜しき此世」は、惜しむべき此の世。○露霜の置きて往にけむ 「露霜の」は、「置き」にかかる枕詞。巻二(一三一)以下に出た。「置きて」は、後《あと》に残して。「往にけむ」は、あの世に往つたのだろうというので、死を、現し世から幽《かく》り世に去る意としていったもの。○時にあらずして その時すなわち定命ではなくして。(四四一)「大荒城の時にはあらわど」と同じ。
【釈】 天《あめ》の雲の地平線上に下《お》りて、こなたに向かって伏しているところの国、すなわち京より見て遙かなる地方の諸国の、勇武なる武士《もののふ》と称せられている限りの者は、衛士、兵衛として召されて、畏き天皇の宮城の御門の衛りに任じ、外門に立ってお仕え申し、内門にお仕え申して、玉葛のますます遠く長い後の世まで、先祖の名をも続けてゆくべきものであると、その母や父に、妻や子どもによくよく話して、京に向かって発足したその日から、君が母の命は、斎忌戸《いわいべ》を神の御前にと地を掘って据えて置き、また片手には神に捧げまつる木綿《ゆう》を取り持ち、またの片手には同じく和細布《にぎたえ》を捧げて、君の平穏に、まことに無事でいらせられよと、天地《あめつち》の神々に乞い頼み、いつの歳、月、また日にかは、丹躑躅《につつじ》のごとき顔いろをした君が、黒鳥のごとく海に舟を漂わし(255)て帰って釆ようと、立ちつ居つ落着き難くして待っていたであろうところのその君は、天皇の詔を畏まりお承け申して、この難波国に、何年にもわたる久しい間を、白栲《しろたえ》の衣の濡れたのも乾す暇がなく、常に精励していた君は、どのようにお思いになって、この惜しむべき現し世を後《あと》に残して、あの世へと移ってしまったのであろうか、定命ではなくして。
【評】 竜麿の自ら経死したのは、どういう理由によってであるかは、触れていっていないのでわからない。最も知りやすい関係にある三中も、「いかさまに念ひ座せか」といって、触れようとはしていない。もっともこの語《ことば》は、尊い方々の心中はうかがい知り難いものとして、儀礼として用いきたっている成句であるから、今の場合も、竜麿を霊として見、霊に対する尊敬をあらわす心で用いたものと見るべきで、実は知っていたのであろう。そう思われるのは、長歌という形式は大体改まってのもので、文芸意識から興味として作る場合は格別、今の挽歌のような場合は、これを用いなければならないとしたことは、言いかえれば、竜麿の死に対して深く心を動かし、その全貌《ぜんぼう》をいうことによって霊を慰めようとし、それには長歌でなくてはならないとしたからであろうと思われるからである。事実この歌は、竜麿の全貌を尽くしている。一首三段に分かれてい、第一段は、初句より「立ちにし日より」までで、ここは武士《もののふ》としての竜麿の覚悟をいっているものである。すなわち衛士、兵衛としてあくまでも天皇に仕えまつるべきこと、また仕うることによって、家の名をも持続させてゆくべきことをいっているもので、竜麿の面目を発揮せしめたものである、第二段は、「待ちけむ人は」までで、ここはその母の竜麿に対する慈愛をいったものである。父もあり妻子もある竜麿としていっているが、特に母だけを選んだのは、一つには、神を祭ることは家刀自《いえとじ》のすることという関係もあろうが、おもなることは、竜麿をその家につなぐ者は、その母であるとしているところに、武士《もののふ》の面目があるとする三中の心からであろう。このことは、反歌に至って初めてその妻に及んでいることからも思われる。第三段は、それより結末までであるが、その難波国における多年の精励をいっているのは、竜麿が兵衛として優れた者であり、その延長として史生となったことをいっているもので、竜麿の面目を発揮させているものである。ここはまたそれとともに、摂津国班田の判官として、史生竜麿を誄《るい》しているもので、一首の中心である。三中と竜麿とは位置が相応にちがっているので、その三中がこれほどまでに竜麿をいっているということは、格別なことで、心を尽くしたものというべきである。さらにまたこの歌は、表現手法の上で、客観的にしようと意図していることが注意される。例せば第一段では、「武士と云はえし人は」と、その中心となることを、この形において簡明に捉え、他はこれに絡ませつつ想像をもって自由に描いていることである。この「人」は竜麿自身ではなく、彼の属している武士《もののふ》の階級を総括したものではあるが、彼もその中の一人としていっているので、彼自身を意味させているといえるものである。ここに武士の覚悟をその家族に語らうということは、三中の想像であろう。第二段は、「立ちて居て待ちけむ人は」が中心で、他はその立ちて居て待つ状態の描写であるが、これまた第一段と同じく三中の想像であろう。第三段は、「朝夕にありつる公は」が中心で、他は想像と取れる。それは班田の判官としての三中と史生竜麿との交渉は、二月以内に(256)すぎず、したがって「年経るまでに」の竜麿の状態は、想像でなければならなかったからである。一首を三段より構成している上に、一段ごとに中心を捉え、その中心に絡みつつ、想像を駆使して状能描写をしているということは、作者としては意図して行なっていることとみえる。長歌が叙事的抒情であることは古くより行なわれていることであるが、その叙事の方面で、明らかに意図を示しつつ作っているということは新しいことで、ここに時代に影響されての動きがある思とわれ、この点が特に注意される。
反歌
444 昨日《きのふ》こそ 公《きみ》はありしか 思《おも》はぬに 浜松《はままつ》の上《うへ》に 雲《くも》にたなびく
昨日社 公者在然 不思尓 濱松之於 雲棚引
【語釈】 ○昨日こそ公はありしか 昨日という日まで、君はこの世にあった。「しか」は「こそ」の結。○思はぬに 旧訓「おもはずに」。『玉の小琴』の訓。『講義』は、ここは両様に訓め、またいずれでも意味は通じる。「思はずに」は、状態を主としていい、「思はぬに」は、思わぬ時に、あるいは、思わぬに加えての意で用いられていると例示し、ここは「思はぬに」で思いもよらぬにの意であろうといっている。○浜松の上に雲にたなびく 原文、流布本には「浜松之上於雲棚引」とあり、旧訓「浜松の上に雲と棚引く」であった。しかし類聚古集、紀州本などの古本には「上」の字がなく、それが正しい伝えのようでもある。「於」は「うへ」と訓めるので、「浜松之於」だけで「浜松の上に」と訓む。「浜松の上に」は、海岸の浜に立っている松の上にで、「雲に棚引く」は、雲となって靡くで、巻十九(四二三六)に用例がある。火葬の煙の立ち昇って行くのを、雲と見て、それを一首の旨としていったもの。
【釈】 昨日という日まで、君はこの世にあった。思いもよらずに今は、浜松の上に、雲となって靡いている。
【評】 竜麿を火葬にした際の心で、三中はそれを近くいて見た形の歌である。「雲にたなびく」は、電麿が雲に化して靡く意で、雲に霊を連想して、眼前に現《うつ》し身が霊となってゆくことをいったものである。「浜松の上に」は、そうした雲が、今現にある位置をいうものになり、動きつついる雲の瞬間的の位置ということを思わせる。「浜松の上の」とすると、同じく雲の位置ではあるが、それを修飾する形となり、雲が固定しているかの感のあるものとなる。作意は竜麿の身の変化の悲しみをいっているものであるから、「上の」とすると、その抒情の心が著しく薄らいでくる。反歌としては、長歌の境を進展させ、実際に即して細かいことをいい、三中の悲しみをいっているもので、新風のものである。
(257)445 いつしかと 待《ま》つらむ妹《いも》に 玉梓《たまづさ》の 事《こと》だに告《つ》げず 往《い》にし公《きみ》かも
何時然跡 待牟妹尓 玉梓乃 事太尓不告 徃公鴨
【語釈】 ○いつしかと待つらむ妹に 「いつしかと」は、「し」は強めで、いつ帰るであろうかと思って。原文「待牟」は、旧訓「まつらむ」による。「妹」は、竜麿の国にある妻。○玉梓の事だに告げず 「玉梓の」は、使の枕詞から、使そのものに転じた語。「事」は、言。「だに」は、軽きを挙げていったもの。使の口上という程度のものをも知らせずに。○往にし公かも この世を去ってしまった君であるよ。
【釈】 いつになったら帰るであろうかと国に待っているであろうその妻に、使の口上という程度の事も知らせずに、この世を去ってしまった君であるよ。
【評】 三中が竜麿を尊みかつ憐れんだ心のものである。大夫《ますらお》たる者は、妻を思うという女らしい心をもつものではないということが、当時一般に信じられていたのは、他の歌で知られる。竜麿はそれを実行した者として尊んだのである。しかしそれは、強い義務観念からの自制であるとして、同時にそれを隣れみもしたのである。この場合は、覚悟しての経死であるから、その隣れみはいっそう深いわけである。長歌では妻を取立てず、最後にわずかにそれに触れているのは、作者としての用意よりのことと思われる。
天平二年庚午冬十二月、大宰帥大伴卿、京に向ひて道に上りし時、作れる歌五首
【題意】 「大伴卿」は、旅人。天平二年十月一日大納言に任ぜられ、転任のため、十二月一日京へ向かった。なお妻大伴郎女は大宰府で没したので、一人、さみしく帰る形となったのである。
446 吾妹子《わぎもこ》が 見《み》し鞆浦《とものうら》の 天木香樹《むろのき》は 常世《とこよ》にあれど 見《み》し人《ひと》ぞなき
吾妹子之 見師鞆浦之 天木香樹者 常世有跡 見之人曾奈吉
【語釈】 ○吾妹子が見し鞆浦の 「吾妹子」は、大伴郎女。「見し」は、赴任の途次に見たところのの意。「鞆浦」は、現在の広島県福山市鞆町の浦で、ここは古来瀬戸内海の航路の要津となっていて、名高い地である。また風光のきわめて好い地でもある。○天木香樹は この字は、この集にのみあるものである。それを「むろの木」に当てたものであることは、巻十六(三八三〇)に、題として「天木香」を、歌では「室《むろ》の木」と詠(258)んでいるので知られる。この文字を用いたにつき『講義』は、当時天木香という一種の香薬があり、人の知る物であって、それをこの木から製したものであろうという。また、その木については、『本草和名』『新撰字鏡』『和名抄』などで考証し、「ねずみさし」の一種「はひねず」と称する木であろうといっている。これは海浜に自生する常緑灌木で、幹に枝が密生し、地上に這う木である。室の木の樹脂から香薬を製したとすることは、『本草和名』にある。○常世にあれど見し人ぞなき 「常世」は、永久不変の世の意であるが、転じて永久不変の意にも用いた。ここはそれである。郎女のそれを見たのは、赴任の途次で四年前のことにすぎないが、郎女の死との比較において、その間をこういったのである。「見し人」は、上の吾妹子。「なき」は「ぞ」の結で、ないことであるよと詠歎をこめての語。
【釈】 吾妹子がかつて見たところの鞆浦の室の木は、このように永久不変なさまでいるけれども、これを見た人のほうは、世にないことであるよ。
【評】 この歌をはじめ続く二首も、鞆浦の室の木を見て、亡妻を思い出した感傷を詠んだものである。思うに赴任の途中、郎女がその室の木を見て、深くも愛でたことがあったので、それを思い出したのであろう。室の木は灌木だというから、そう目立つはずはない。鞆浦は、海岸は断崖《だんがい》で、幾つかの島を抱いた形になっているから、室の木はその断崖の上にあり、これを船中から眺めたので、印象的に感じたのであろう。郎女は身分柄、船旅というようなことはしなかったろうから、ことに感が深かったものと思われる。室の木にとっては、四年間の経過は何ほどのことでもないのを、「常世」という語を用いるのは、それによって郎女の死に対する悲しみをあらわそうとしたもので、旅人という人を思わせる用語である。
447 鞆浦《とものうら》の 礒《いそ》の室《むろ》の木《き》 見《み》む毎《ごと》に 相見《あひみ》し妹《いも》は 忘《わす》らえめやも
鞆浦之 礒之室木 將見毎 相見之妹者 將所忘八方
(259)【語釈】 ○礒の室の木 「礒」は、本来石の古語で、ここは海岸の岩をいっている。室の木の生えている場所である。○見む毎に 将来、見るたびごとに。○相見し妹は 「相見し」は、二様の用例のある語で、一つは、男女相会った、すなわち夫婦関係になった意、いま一つは、共に眺めた意である。ここは後のものである。○忘らえめやも 「めや」は、反語で、忘れられようか忘れられないと強くいい、それに詠歎の「も」を添えたもの。
【釈】 鞆浦の海べの岩の上に生えているこの室の木よ。これを見るたびごとに、かつて一緒に眺めた妹が思い出され、その妹は忘られようか忘られない。
【評】 これは前の歌に連なる心のものである。郎女が室の木をいたくも愛でたであろうと思われるのは、これらにつぐ(四五二)に「妹として二人《ふたり》作りし吾が山斉《しま》は」とあり、それに次ぐ(四五三)には「吾妹子が植ゑし梅の樹」ともあって、郎女は造庭の趣味、樹木に対しての趣味も深かったろうと思われるのである。旅人からいうと、親しい者と相共に佳景に対するということは、人生の一快心事として漢詩に多いものであるから、漢文学の教養の高い旅人には、その意味においても感銘のあったものと思われ、かたがたその室の木に刺激されての旅人の哀感は深いものであったろうと思われる。今はその室の木を見て郎女を思い出したのであるが、その見たということをいうに、「見む毎に」と、将来をかけての言い方をし、また思い出したことを、「忘らえめやも」と、反語を用いて強くいい、上に照応させているのは、その際の哀感の深さをあらわしているものである。平明に似て複雑味のある歌である。
448 礒《いそ》の上《うへ》に 根《ね》はふ室《むろ》の木《き》 見《み》し人《ひと》を いづらと問《と》はば 語《かた》り告《つ》げむか
(260) 礒上丹 根蔓室木 見之人乎 何在登問者 語將告可
【語釈】 ○礒の上に根はふ室の木 「根はふ」は、根の這っているで、室の木の状態。横に広くひろがっている老木を思わせる語である。○見し人をいづらと問はば 「見し人」は、かつて見たところの人で、郎女を室の木との関係においていった語で、室の木が、我を見たことのあった人として、郎女をさしているものである。原文「何在」は、旧訓「いかなり」。『考』の改めたものである。「いづら」は仮名書きの例のある語で、「いかなり」の例は集中にないと『講義』がいっている。何処《いずく》と同じで、どこにいるかの意である。二句、室の木が、前に一緒であった一人が見えないので、訝《いぶか》って問う意。○語り告げむか その居ない訳を話して知らせたものであろうか。
【釈】 磯の上に根を這わせている室の木よ。さきに一緒に我を見た一人のほうは、どこにいるのかともし尋ねたならば、我はその居ない訳を話して知らせたものであろうか。
【評】 前の歌に連なるもので、感傷が深まってきて、空想的となってきたものである。ここでは室の木を、さながら人と同じく心あるものとしているのであるが、この空想は旅人にとっては根拠のあったもので、根拠とは、郎女はこの室の木を見た時、きわめて深い愛をあらわし、それを旅人は目にしている関係上、室の木もそのことを喜んだものとして、「見し人をいづらと問はば」という空想を起こしてきたと思われるのである。そうした根拠あってのことであるが、しかし空想には限度をつけて、「問はば」とし、また「語り告げむか」と、控えめな、また静かな物言いとしているのである。「語り告げむか」は、室の木に妻のことを告げたい心をもっていて、その感傷を抑えていっているもので、躊躇の情をあらわしてのものではない。この一首、感傷より空想的となり、さすがにそれに限度を置くというところに、旅人の人柄の見えるもので、実感の素朴なる現われと取れる。
右の三首は、鞆浦を過ぐる日作れる歌。
右三首、過2鞆浦1日作謌。
【解】 注は、撰者のつけたものである。三首、室の木に即しての実感の推移を、緊密に連絡させての作で、連作である。連作という形式が意図的なものではなく、必要に駆られて生まれてきた跡を示しているといえる。
449 妹《いも》と来《こ》し 敏馬《みぬめ》の埼《さき》を 還《かへ》るさに 独《ひとり》して見《み》れば 涕《なみだ》ぐましも
(261) 与妹來之 敏馬能埼乎 還左尓 獨而見者 涕具末之毛
【語釈】 ○妹と来し敏馬の埼を 「妹と来し」は、妻とともに来たところので、敏馬へ続く。これは大宰府へ赴任する途次として通った意で、「来し」は大宰府を中心としての語。「敏馬」は、(二五〇)に出た。今の神戸港内の東のほうの崎で、古の碇泊地。○還るさに独して見れば 「還るさ」は、今の還りしな。「さ」は、今の「しな」の古語「さだ」と同じく、時の意であると『講義』はいっている。「独して」は、独りあって。○涕ぐましも 「涕ぐまし」は、涙を催す意で、現在口語に用いている。「ぐむ」の動詞が形容詞となったもの。「も」は、詠歎。
【釈】 妻とともに、赴任の際通って行ったところの敏馬の埼を、還りしなに、独りあって見ると、涙を催すことであるよ。
【評】 特に敏馬の埼を捉えていっているのは、そこは難波津に近い所とて、行きしなに、郎女が深く心を動かしたというような記憶があってのことと思われる。平明な歌であるが、沁み入らんとするものをもっている。
450 去《ゆ》くさには 二人《ふたり》吾《わ》が見《み》し この埼《さき》を 独《ひとり》過《す》ぐれば 情《こころ》悲《かな》しも【一に云ふ、見《み》もさかずきぬ】
去左尓波 二吾見之 此埼乎 獨過者 情悲喪【一云、見毛左可受伎濃】
【語釈】 ○去くさには 「去くさ」は「来さ」と対した語。「さ」は、上の「還るさ」のそれと同じ。○二人吾が見しこの埼を 妻と吾が二人で見たこの敏馬の埼を。○独過ぐれば情悲しも 一人で過ぎて行くので、転変が思われて、心が悲しいで、「も」は詠歎。○一に云ふ、見もさかずきぬ 「見もさかず」は、見放《みさ》ける、すなわち遠く目を放って見ることもせずにで、悲しんでいる心の具象化。「きぬ」は、来ぬで、通り過ぎた意。
【釈】 行きしなには、妻と二人で見たこの崎を、帰りしなには一人で過ぎることになったので、転変が思われて、心悲しいことであるよ。また、目を放って見ることもせずに通り過ぎた。
【評】 前の歌と連なっていて、前の歌は敏馬の埼を目にした時の感、これはそこを過ぎて行った時の感である。京への還りしなの風物が、行きしなの記憶を新たにするものとなり、哀傷をよみがえらせるものとなったことが感じられる。「一に云ふ」は、心やりとして哀傷を直写しているこれらの歌にあっては、巧みさがあり、したがって間接になって、劣っている感がある。
右の二首は、敏馬埼を過ぐる日作れる歌。
右二首、過2敏馬埼1日作謌。
(262) 故郷の家に還り入りて、即ち作れる歌三首
【題意】 「故郷の家」は、所在は明らかでない。(四四〇)に「京師《みやこ》なる荒れたる家にひとり宿《ね》ば」とあるその家であろうから、奈良京の内にあったものと思われる。なお、巻六、「大納言大伴卿、寧楽の家に在りて故郷を思ふ歌二首」(九六九)(九七〇)によると、「神名火《かむなび》」と「栗栖《くるす》」の二か所をも「故郷」と呼んでいるのである。「神名火」は、幾か所かあるが、高市郡飛鳥の神名火であり、栗栖は忍海郡栗栖である。「即ち」は、即時にの意。
451 人《ひと》もなき 空《むな》しき家《いへ》は 草枕《くさまくら》 旅《らたび》にまさりて 辛苦《くる》しかりけり
人毛奈吉 空家者 草枕 旋尓益而 辛苦有家里
【語釈】 ○人もなき 「人」は、意味の広い語で、「も」は、詠歎。「なき」は、ここはいない意。人のいないというのは、留守居の者、待ち迎える者のいない意ではなく、家刀自たる妻の意のもの。○空しき家は 空虚な家の意。
【釈】 家刀自のいない空虚な家は、わが家とはいえ、旅にもまさって苦しいものであることよ。
【評】 (四四〇)「京師《みやこ》なる荒れたる家にひとり宿《ね》ば旅にまさりて辛苦《くる》しかるべし」と、出発前大宰府にあって思いやって嘆いた、その思いやりのまさしく事実となった嘆きである。これは家というものを故郷の中心とし、最も安定を得らるべきところとして、それのないことを、最も侘びしいものである旅にもまさって苦しいとする心理を抒《の》べたものである。
452 妹《いも》として 二人《ふたり》作《つく》りし 吾《わ》が山斎《しま》は 木高《こだか》く繁《しげ》く 成《な》りにけるかも
与妹爲而 二作之 吾山齋者 木高繁 成家留鴨
【語釈】 ○妹として二人作りし 「妹として」は、ここは妻と協力して。「二人作りし」は、二人で作ったところの。○吾が山斎は 「山斎」は、旧訓「やま」。『古義』が改めた。「しま」は巻二(一七〇)に出、作り庭に対する当時の称であり、ここも下の続きはそれに該当するものである。なお、巻二十(四五一一−三)までの三首は、題は、「山斎に属目して作れる歌」とあり、歌はすべて作り庭の状態をいったものであるところから、この字を「しま」に当てて用いていたことが知られる。「斎」は燕居の室の意をもった字で、山斎は山に作った燕室の義である。『古義』は作り庭の内に、そうした家の形も作ったからの称ではないかといっている。○木高く繁く成りにけるかも 「木高く」は、丈が高く。「繁く」は、枝葉の(263)繁く。「成り」は、変化。「に」は完了。「かも」は詠歎。
【釈】 妻と協力して、二人で作った吾が作り庭は、今還って来て見ると、庭の木立は丈が高く枝葉《えだは》が繁くも変わってしまっていることであるよ。
【評】 四年間見ずにいた吾が家の作り庭を、その間に故人となった妻と協力して作ったものという関係をとおして、打見た時の最初の感をいったものである。「妹として二人作りし吾が山斎は」と、「妹」と「山斎」とを一つにして見て、「木高く繁く成りにけるかも」と、綜合しての感を、強く太い調べをもっていい、作った人は世になく、作られた庭の木は、育って繁って来ていることに対する言いあらわし難い感を、その調べに托してあらわしたものである。旅人の心は、細くも太くも動くが、これはその太いもので、立体感の豊かなものである。庭木は、冬のことで、常磐木が多かったことと思われる。
453 吾妹子《わぎもこ》が 植《う》ゑし梅《うめ》の樹《き》 見《み》る毎《ごと》に 情《こころ》咽《む》せつつ 涕《なみだ》し流《なが》る
吾妹子之 殖之梅樹 毎見 情咽都追 涕之流
【語釈】 ○吾妹子が埴ゑし梅の樹 郎女が、自身の好みとして庭に植えた梅の木の意で、当時梅は、外来の新味をもったものとして珍重された木である。○見る毎に 見るたびにというので、ある期間に渡っての語と取れる。題には「即ち」とあるが、この歌は必ずしもそれにあたっていない。『講義』は、『延喜式』の「主計式」によると、大宰府の行程は上二十七日、下十四日とあると注意している。旅人は十二月に発足したので、奈良京へ着いた時は一月に入り、梅の花の咲くに近かったことが思われる。この「見る毎に」は、その花に対してのことで、少なくとも蕾の目だつものであったと取れる。○情咽せつつ涕し流る 「咽す」は、食物の喉に塞《つま》る意で、今の口語の咽せかえると同じである。悲しみのはげしい時、胸が塞《せ》きあげてくることの譬喩として用い、転じてそうした悲しみそのものをあらわす語となったもので、用例の少なくないものである。『講義』は漢詩文より直訳したものだろうといっている。「涕し」の「し」は強め。
【釈】 妻が植えた梅の木よ、それを見るごとに、次第に花となって行こうとするので、感が迫って、胸が塞きあげてきて、涙が流れる。
【評】 「見る毎に涕し流る」という続きは、植えた人は世を去ったのに、植えられた木は春に逢って花となろうとしている、その対照に刺激されての悲しみである。飛躍のある言い方で、迎えて見なければ解しかねるまでであるが、これは旅人の心やりの作で、他の見ることを予期したものではないということも関係していることと思われる。鞆浦の室の木以下この歌までの八首は、「人もなき空しき家は」の一首を除くと、すべて自然と人間とを対照して、自然の悠久に対して人間のはかなさを嘆いた(264)ものばかりである。しかるにそれを詠み出すにあたって、旅人は知性を加えて対比するということは全然せず、感性のみをもって言っていることは、注意されることである。自然と人間との対照は、漢詩には多いもので、その方面の教養の高い旅人には、むしろ常識となっていたことと思われる。それを全然用いないということは、好まなかったがためと思うほかはない。この歌はその中でも、最も際立ったものである。
天平三年辛未秋七月、大納言大伴卿の薨ぜし時の歌六首
【題意】 旅人の薨去のことは、続日本紀、天平三年の条に、「秋七月辛未大納言従二位大伴宿禰旅人薨。難波朝右大臣大紫長徳之孫、大納言贈従二位安麿之第一子也」とある。また『公卿補任』には、「七月廿五日薨」とある。「六首」は、初め五首は、資人《つかいびと》余明軍《よのみようぐん》のもの、後の一首は県犬養宿禰人上《あがたのいぬかいのすくねひとかみ》のもので、いずれも左注となっている。
454) 愛《はし》きやし 栄《さか》えし君《きみ》の いましせば 昨日《きのふ》も今日《けふ》も 吾《あ》を召《め》さましを
愛八師 榮之君乃 伊座勢婆 昨日毛今日毛 吾乎召麻之乎
【語釈】 ○愛きやし栄えし君の 「愛きやし」は、「愛き」は、愛すべきという意の古語で、「や」と「し」は、助詞。巻二(一三八)に出た。下の「君」を讃えるもの。「君」は主としての旅人で、親しみの意をもってのもので、「吾が背子」などの「吾が」に近いものである。「栄えし」は、世に栄えたの意で、これは尊んでのもの。○いましせば 「います」は「ゐる」の敬語で、「せば」は、仮設の意。いらせられたならばで、ここは、もし御存命であったならばの意。○昨日も今日も吾を召さましを 「吾」は、「わ」とも「あ」とも訓める。「あ」は『古義』の訓である。「あ」のほうが古く、したがって素朴で、この場合に適していよう。「召さましを」は、「召す」は、用を命じるため。「まし」は上の「せば」の帰結。「を」は、詠歎。お召しになろうものを。
【釈】 愛すべき、世に栄えていたところの君が、もし御存命であったならば、昨日も今日も、御生前のように手前をお召しになろうものを。
【評】 主としての旅人を、その薨後追慕しての心であるが、儀礼という意はいささかもなく、ひたすらに懐かしんだ心のものである。「昨日も今日も吾を召さましを」は、生前そうされることを嬉しく感じていての思い出である。資人の一人であるから、特に旅人に愛されていて、そうした扱いを受けたものと思われ、懐かしむのにも理由があったと取れる。「愛きやし」という語も、その意味で、一首の心にふさわしいものである。歌の詠み口が旅人に通うもののあるのも、その間の消息を示すも(265)のといえよう。
455 かくのみに ありけるものを 芽子《はぎ》の花《はな》 咲《さ》きてありやと 問《と》ひし君《きみ》はも
如是耳 有家類物乎 芽子花 咲而有哉跡 問之君波母
【語釈】 ○かくのみにありけるものを 原文「如是耳」は、旧訓「かくしのみ」。『代匠記』の改めたもの。巻十六(三八〇四)に「如是耳尓」の例があり、また「かくのみ」の例もきわめて多いものである。「かく」は、かくも人の命ははかないの意を略していったもの。「のみに」は、それを強めたもの。「ありけるものを」は、「ものを」は詠歎で、あったものを。二句、このようにまでも人の命ははかなくあったものを。○芽子の花咲きてありやと 萩の花は咲いているかで、下の「問ひし」に続き、旅人が重病の床で明軍に尋ねた語《ことば》である。旅人の薨じたのは七月の末で、萩の花の咲く頃だったのである。○問ひし君はも 「君はも」は、「君は」と言いさして、それで終止とし、「も」の詠歎を添えて嘆きの意をあらわしたもので、余情をこめているものである。尋ねた君は、ああの意。
【釈】 これほどまでに人の命ははかなくあったものを。萩の花が咲いているかとお尋ねになられた君はよ。
【評】 これは旅人の薨去の直後、明軍が主の重病の床の上で尋ねた語《ことば》を思い出し、その語によって哀傷の心を抒べたものである。旅人の語は明軍には、きわめて感銘の深いものであったと思われる。重病の床にあって、その秋の萩の花に関心をもって尋ねるということは、明軍にはいかにも優しい心と思え、その意味でも感銘させられ、また、老体の重病のこととて、生死のほども測られない時に、そうしたことを尋ねられたので、事の対照の上から、いっそう感銘させられて、忘れ難い語であったろうと思われる。これはそれらの感銘を綜合して、薨去の直後、主の旅人を懐かしみ悲しんだ心のものと取れる。萩の花のことをいっているので、薨後のある時、おりからのそれを見ての思い出と取れなくはない趣もあるが、そうした余裕をもってのものではなく、深い悲哀の中にあっての思い出と解すべきであろう。その悲哀は、直接に調べとなって現われ、沁み入る力をもったものとなっている。この歌は事は単純であるが、明軍の心とは別に、旅人の人柄をも思わせるものがあって、拡がりをもった歌である。
456 君《きみ》に恋《こ》ひ 痛《いた》もすべなみ 蘆鶴《あしたづ》の 哭《ね》のみし泣《な》かゆ 朝夕《あさよひ》にして
君尓戀 痛毛爲便奈美 蘆鶴之 哭耳所泣 朝夕四天
(266)【語釈】 ○君に恋ひ痛もすべなみ 「君に恋ひ」は、君を恋いであるが、それにつき『講義』は、上代は「君に」といい、「君を」といってはいない。「君に恋ひ」は、目標である「君」を静的に、恋う我を動的にいったもので、後世とは反対であると注意している。「痛も」は、仮名書きの例のある語で、形容詞「痛し」の語幹を副詞としたもので、甚しくの意。「すべなみ」は、術すなわちする術《すべ》がなくして。二句、君が恋しく、どうにもする術がなくしてで、追慕の情をいったもの。○蘆鶴の哭のみし泣かゆ 「蘆鶴」は、蘆辺にいるところからの称。「の」は、のごとくの意で、その高く鳴くのを譬喩としたもの。「哭のみし泣かゆ」は、「哭のみ」は、声を立ててばかり。「し」は、強め。「泣かゆ」は、泣かれるで、はげしくばかり泣かれる意。○朝夕にして 「朝夕」は、昼夜で、一日ということを具象的にいったもの。「して」は、ここはわたってにあたる。
【釈】 君が恋しく、どうにもする術《すべ》がなくして、蘆鶴のごとくにも、声を立ててばかり泣かれる。昼夜にわたって。
【評】 主旅人の薨去直後のはげしい悲しみを直写したものである。「朝夕にして」が一首の力点で、継続した時を綜合したもので、悲しみの中に浸って、いちずにいっているものである。
457 遠長《とほなが》く 仕《つか》へむものと 念《おも》へりし 君《きみ》座《いま》さねば 心神《こころど》もなし
遠長 將仕物常 念有之 君不座者 心神毛奈思
【語釈】 ○遠長く 遠く長くで、時の上でいったもの。永遠にわたって。○念へりし 思っていた。○君座さねば 「座さねば」は、世にいまさぬので。○心神もなし 「心神」は、旧訓「たましひ」。『槻落葉』が「こころど」と改めた。この訓は、巻十七(三九七二)「出で立たむ力を無みとこもり居て君に恋ふるに許己呂度《こころど》もなし」、また巻十三(三二七五)「一《ひとり》眠《ぬ》る夜を数へむと思へども恋の茂きに情利《こころど》もなし」などとあるのによったものである。「心神」の文字は、巻十二(三〇五五)「吾が心神《こころど》の頃者《このごろ》はなき」にあり、また、下の(四七一)には、「家|離《さか》りいます吾妹を停《とど》め不得《かね》山隱りつれ情神《こころど》もなし」と、「情神」の文字もある。いずれも名詞である。意味は、『槻落葉』は、「心所」の意で、心臓をさしているのであろうといっているのを、『講義』は進めて、心のおちつき所をさしているのだろうといっている。魂の身に鎮まっている状態が生であり、離れた状態が死であると信じていたのであるから、それに準じて、心にもその所があるとしたことは、ありうることに思える。今はこの解に従う。「心神もなし」は、心が落ちつき所もない、すなわち心が身に添っていず、ぼんやりしている意と取れる。
【釈】 永遠にわたって仕えようと思っていた君が、この世にいまさずなったので、我は心の落ちつき所もなく、ぼんやりとしている。
【評】 これも主旅人の薨去の直後、はげしい悲しみのためにぼんやりとしている自身を反省し、その状態を全体として捉えていうことによって、悲しみをあらわそうとしたものである。「遠長く仕へむものと」と、主従関係をとおしての心であるが、懐かしむ心よりのものであることが、「心神《こころど》もなし」によって現われていて、それが趣をなしている歌である。
(267)458 若子《みどりご》の 匍匐《は》ひたもとほり 朝夕《あさよひ》に 哭《ね》のみぞ吾《わ》が泣《な》く 君《きみ》なしにして
若子乃 匍匐多毛登保里 朝夕 哭耳曾吾泣 君無二四天
【語釈】 ○若子の匍匐ひたもとほり 「若子の」は、緑児のごとくで、下の譬喩。「匍匐ひたもとほり」は、「匍匐ひ」は、「這ひ」、「たもとほり」は、「た」は接頭語、「もとほり」は、同じ所をあちこち廻る意。「匍匐ひ」は、上代の拝礼の形で、今日の坐礼のごとく、手を突き、頭を下げたのである。巻二(一九九)「鶉なすいはひもとほり」以下、例の多いものである。これは上代の拝礼という中でも古風なもので、表面は禁じられていたのであるが、尊貴の殯宮の場合などには行なわれていたものである。ここも、旅人の喪中のことと取れる。すなわち敬った形である。「たもとほり」は、身を一所に置くことができず、居ざり廻る状態をいったもので、これは悲しみの状態である。二つの状態は、事としては続いているが、心は別だといえる。○朝夕に哭のみぞ吾が泣く 「朝夕」は、上に出た。昼夜。「哭のみぞ吾が泣く」は、声を立ててばかり泣くことであるよで、これは悲しみのみをいったものである。○君なしにして 君の世にない状態にあって。
【釈】 緑児のごとくにも、這って拝礼をして敬い、悲しんで居ざりまわり、昼夜にわたって吾は、声を立ててばかり泣いていることであるよ。君の世にない状態にあって。
【評】 主旅人の喪に服している間の状態を抒《の》べたものである。「若子の匍匐ひたもとほり」は、ひたすらに敬い悲しむ状態、「朝夕に哭のみぞ吾が泣く」は、ひたすらに悲しむ状態で、その際の状態の全部をいうことによって、悲しみを具象化したものである。喪ということはいってはいないが、その中にあっての状態をいっているので、それと感じられるものである。
右の五首は、資人《つかひびと》余明軍《よのみやうぐん》が、犬馬《けんば》の慕《したひ》心中の感緒に勝《あ》へずして作れる歌。
右五首、資人余明軍、不v勝2犬馬之慕心中感緒1作謌。
【解】 「資人」は、五位以上の官人に、防衛駈使のために朝廷より賜わる人で、その数は「軍防令」に規定されている。位に対しての者は位分資人といい、一位に一百人、以下しだいに減じ、従五位に二十人、また官に対しての者は職分資人といい太政大臣三百人、左右大臣二百人、大納言百人である。資人は六位以下の子、および庶人の貢人から選ぶ者で、式部省で扱う者であり、一定の身分の者は請願によっても許された。「余明軍」は、「余」が「金」となっている本もある。いずれの氏もあって、(三九四)題詞の条で触れたように、帰化人の末である。「明軍」の伝は不明である。「犬馬の慕」は、中国の熟語で、犬や馬がその主を慕う心で、譬喩。「心中の感緒」は、心中の感傷である。
(268)459 見《み》れど飽《あ》かず いましし君《きみ》が 黄葉《もみちば》の 移《うつ》りい去《ゆ》けば 悲《かなし》くもあるか
見礼杼不飽 伊座之君我 黄葉乃 移伊去者 悲喪有香
【語釈】 ○見れど飽かずいましし君が 「見れど飽かず」は、幾度も見たけれども飽かないで、最も良いもの、人に対しての讃詞で、成語となっていたもの。「いましし君」は、「ある」の敬語「います」の過去で、いらせられた君の意。○黄葉の移りい去けば 「黄葉の」は、「過ぐ」の枕詞となっており、ここも事としてはその意のものであるところから、諸注枕詞としているのを、『講義』は、おりからの物を捉えて譬喩としたもので、黄葉のごとくの意だとしている。「移りい去けば」は、「い」は接頭語、「移り去けば」は、推移し去ればで、黄葉の散るのをもつて旅人の死に譬えたもの。○悲くもあるか 「か」は、詠歎。
【釈】 幾度も見るけれども飽くことなく愛でたくいらせられた君が、おりからの黄葉のごとく推移して行かれるので、悲しいことではあるよ。
【評】 左注によって作意の知れるごとく、大体儀礼としてのものであるが、しかし悲しみをもっていって、しめやかにいっているものであることは、一首の調べによって知られる。「黄葉の移りい去けば」は、いったがごとく枕詞を還元して、眼前の景色に絡ませたもので、技巧のあるものであり、したがって余裕を思わせるものでもある。しかし、一首に融け入っているもので、そのことを思わせないものである。
右の一首は、内礼正県犬養宿禰人上《ないらいのかみあがたのいぬかひのすくねひとかみ》に勅して、卿の病を検護せしむ。而も医薬験無く、逝く水留らず。斯《これ》に因りて悲慟して、即ち此の歌を作れり。
右一首、勅2内礼正縣犬養宿祢人上1。使v検2護卿病1。而〓薬無v験、逝水不v留。因v斯悲働、即作2此歌1。
【解】 「内礼正」は、内礼司の長官で、この司は、中務省の管するもので、宮内の礼儀および非違を禁察する所である。「正」は正六位下相当官である。「県犬養」は、『新撰姓氏録』にある氏で、「神魂命八世孫、阿居太都《あけたつ》命之後也」とある。「人上」の伝は知られない。「病を検護せしむ」は、『講義』の考証によって明らかになった。要は、五位以上の者の病患の時には、これを奏聞し、医を遣し薬を給うのが定めとなっていたので、人上は職務として、その事を検校し、病を看護したのだという。「逝水留ら(269)ず」は、死を譬えたもので、中国の成語である。
七年乙亥、大伴坂上郎女、尼《あま》理願《りぐわん》の死去を悲嘆して作れる歌一首 并に短歌
【題意】 「大伴坂上郎女」は、(三七九)に出た。「尼理願」は、新羅国より帰化した者で、大伴家をたよっていた者であるが、大伴家の刀自である石川郎女が、おりから摂津国有馬温泉へ湯治に行っていた留守中に寂したので、坂上郎女は報告の心をもって歌を作り、母の許へ贈ったのである。事は左注にくわしい。
460 栲角《たくつの》の 新羅《しらぎ》の国《くに》ゆ 人《ひと》ごとを よしと聞《き》こして 問《と》ひ放《さ》くる 親族兄弟《うからはらから》 無《な》き国《くに》に 渡《わた》り来《き》まして 大皇《おほきみ》の 敷《し》き座《ま》す国《くに》に 内日指《うちひさ》す 京《みやこ》しみみに 里家《さといへ》は さはにあれども いかさまに 念《おも》ひけめかも つれもなき 佐保《さほ》の山辺《やまべ》に 哭《な》く児《こ》なす 慕《した》ひ来座《きま》して 布細《しきたへ》の 宅《いへ》をも造《つく》り 荒玉《あらたま》の 年《とし》の緒《を》長《なが》く 住《すま》ひつつ 座《いま》ししものを 生《うま》るれば 死《し》ぬといふ事《こと》に 免《まぬか》れぬ 物《もの》にしあれば 憑《たの》めりし 人《ひと》の尽《ことごと》 草枕《くさまくら》 旅《たび》なるほどに 佐保河《さほがは》を 朝川渡《あさかはわた》り 春日野《かすがの》を 背向《そがひ》に見《み》つつ 足《あし》ひきの 山辺《やまべ》を指《さ》して 晩闇《ゆふやみ》と 隠《かく》りましぬれ 言《い》はむすべ 為《せ》むすべ知《し》らに 徘徊《たもとほ》り ただ独《ひとり》して 白栲《しろたへ》の 衣袖《ころもで》干《ほ》さず 嘆《なげ》きつつ 吾《わ》が泣《な》く涙《なみだ》 有間山《ありまやま》 雲居《くもゐ》たなびき 雨《あめ》に零《ふ》りきや
梓角乃 新羅國從 人事乎 吉跡所聞而 問放流 親族兄弟 無國尓 渡來座而 大皇之 敷座國尓 内日指 京思美弥尓 里家者 左波尓雖在 何方尓 念鶏目鴨 都礼毛奈吉 佐保乃山邊尓 哭兒成 慕來座而 布細乃 宅乎毛造 荒玉乃 年緒長久 住乍 座之物乎 生者 死云事尓 不免 物尓之有者 憑有之 人乃盡 草枕 客有間尓 佐保河乎 朝河渡 春日野乎 背向尓見乍 足氷木乃 山邊乎指而 晩闇跡 隱益去礼 將言爲便 將爲須敝不知尓 徘徊 直獨而 白細之 衣袖不干 嘆乍 (270)吾泣涙 有間山 雲居輕引 雨尓零寸八
【語釈】 ○栲角の新羅の国ゆ 「栲角の」は、栲の繊維をもって造った綱《つな》の意で、その白いところから白《しら》と続き、新羅の枕詞となったもの。「角《つの》」は「綱」の転音である。同系のものに「栲衾《たくぶすま》」があり、同じく新羅にかかり、また「栲領巾《たくひれ》の」があって「白浜《しらはま》」にかかっている。「新羅の国ゆ」は、新羅の国よりで、新羅は理願の本国。この当時は新羅はわが国とほぼ対当の交りをしていた。○人ごとをよしと聞こして 「人ごと」は、人言《ひとごと》。他人のいうことで、噂というにあたる。「よしと」は、わが国を吉い国だとの意。尼という立場からであるから、仏教の盛んな国としてと取れる。「聞こして」は、原文「所聞而」。旧訓「きかれて」を、『代匠記』の改めたもの。当時は「る」という敬語はなかった。「きこす」は、「きく」の敬語「きかす」の転じたもので、集中に仮名書きの例の少なくないものである。○問ひ放くる親族兄弟 「問ひ放くる」は、「問ひ」は、人にものをいう意。「放くる」は、憂いを放ちやる、すなわち憂いを消す意。憂いを語って紛らす意。「親族《うから》」は、同族。「兄弟《はらから》」は、本来は同腹の兄弟であるが、ここはそれほどの意味はなく、親族兄弟と並べて、最も親しい者としていったもの。○無き国に渡り来まして 「無き国」は、上に続いて、そうした者のいない国、すなわち外国で、ここはわが国をさしている。「渡り来まして」は、「渡り」は、海を渡って。「来まして」は、「来て」の敬語。○大皇の敷き座す国に 天皇の御支配になられる国にで、わが国を尊んでいったもの。○内日指す京しみみに 「内日指す」は、宮にかかる枕詞で、解は諸説あるが、「うち」は接頭語で、あまねきという意があって、ここはそれであり、「日指す」は、日の射す意。宮は上代より、日光の好く射すことを条件として、その事をもって讃えているので、これもその意のものという解に従う。あまねく日の射すところの意で、宮につづく。「京《みやこ》」は、宮すなわち皇居のあるところ。「しみみに」は、「しみ」は繁くの意の古語で、巻一(五二)「しみさび立てり」とあったその「しみ」で、「しみみ」は、「しみしみ」を重ねて、第二の語の首音を略いたもの。このことは例の多いことである。○里家はさはにあれども 「里家」は、上の「京」の状態で、里や家は。里は厳格にいうと、京の坊にあたるもので、京の部分をいう語ではないが、当時の実際はそういってもさしつかえない状態で、古くからいっていたものと取れる。「さは」は、多くで、巻一(三六)「国はしも多にあれども」とあった。○いかさまに念ひけめかも 「いかさまに」は、どのようにで、巻一(二九)「いかさまに念ほしめせか」と出た。「念ひけめかも」は、「か」は疑問、「も」は詠歎、後世の「念ひけめばかも」というにあたる古格。念ったのであろうかで、理願の行動に対し、敬意をもっていったもの。○つれもなき佐保の山辺に 「つれもなき」は、縁故もない。「佐保の山辺」は、佐保山のほとりで、「佐保」は、奈良市の西北に連なっており、明治以後、法蓮町と法華寺町とを合わせての称となっている。そこに佐保山もある。大体古と同じ地域である。そこには当時、大官の邸があり、大伴安麿の邸もそこにあった。作者の郎女もその邸にいていっているので、「佐保の山辺」は、その邸を所在地によって言いかえたものである。○哭く児なす慕ひ来座して 「哭く児なす」は、泣く児のごとくで、泣きつつ親を慕う意で、「慕ふ」の譬喩。「慕ひ来座して」は、「慕ひ」は、上に続いて大伴家を。「来座して」は「来て」の敬語。○布細の宅をも造り 「布細の」は、しばしば出た。細かく織った栲の意で、衣、枕、床などにかかる枕詞。ここは、枕、床などを拡げて「宅」にかけているものである。「宅をも造り」は、佐保に住宅までも造って。○荒玉の年の緒長く 「荒玉の」は、(四四三)に出た。「年の緒」の「緒」は、年が続いて絶えないものであるところから添えていった語で、玉の緒、気《いき》の緒などと同類の語。年長く、すなわち多年の意。○住ひつつ座ししものを 「住まひ」は、「住む」に助動詞「ふ」をつけて、その継続をあらわした語。「つつ」は継(271)続、「座ししものを」は、「座す」は、「ゐる」の敬語。「ものを」は、詠嘆。住みつづけていられたものを。以上、理願の経歴を叙したもので、第一段。○生るれば死ぬといふ事に 生まれてきた者は、死んで行くということにで、これは仏説の「生者必滅」を訳した語《ことば》である。○免れぬ物にしあれば 「免れぬ物」は、従うほかはないもの。「し」は、強め。○憑めりし人の尽 「憑めりし人」は、憑んでいた人で、理願の頼みとしていた大伴家の人。「尽」は、家刀自である石川郎女と、その周囲の者のすべて。○草枕旅なるほどに 「草枕」は、旅の枕詞。「旅なるほど」は、旅に出ている間で、下の有馬温泉へ行っている留守中。○佐保河を朝川渡り 「佐保河」は、春日山の後ろを水源として、佐保の内を流れている河。朝川は、朝の間の川の意で、一つの語。巻一(三六)に出た。「渡り」は、徒渉し。これは理願の死去して、葬場へ送られる葬列を、理願自身のするがごとくに叙したもの。○春日野を背向に見つつ 「背向」は、後ろ。「見つつ」は、見るの継続で、上と同じく、理願が見つつ行くで、しだいに遠ざかる意。上に続いて、葬列の道行である。○足ひきの山辺を指して 「足ひきの」は、山の枕詞。「山辺」は、理願の葬地。「指して」は、向かって。○晩闇と隠りましぬれ 「と」は、のごとくの意のもので、晩闇の物の見えなくなるがごとくにで、「隠り」の譬喩。「隠りましぬれ」は、「隠り」は、見えなくなる意。「まし」は、「隠り」を敬語としたもの。「ぬれ」は、後世の「ぬれば」にあたる古格で、已然形だけで条件を示しているもの。「隠りましぬれ」は、山地へ入って行ってしまったので、郎女がその葬列を見送っていて、しだいに見えなくなったがようにいったもの。なお、上の「背向に見つつ」は、理願が名残りを惜しんで振り返りつつ行く形、これは見えなくなるまで見送る形で、いずれも主観的なものである。また、「朝川」と「晩闇」とも対させている。以上、理願の死去と葬送で、第一段。○言はむすべ為むすべ知らに いうべき方法もすべき方法も知られずにで、悲しみのため途方に暮れた形。成句で、巻二(二〇七)に出た。なお「知らに」は、「に」は打消であるが、これは下にいうことの理由をあらわす場合に用いる語で、ここは「泣く」の理由である。○徘徊りただ独して 「徘徊り」は、(四五八)に出た。ここは、うろうろしての意で、悲しみの状態を具象的にいったもの。「ただ独して」は、ただ独りあってで、留守居の郎女の心細い状態をいったもの。○白細の衣袖干さず 「白細の衣袖」は、ここは白の衣、すなわち喪服のその袖。「干さず」は、乾かさずで、涙で濡らし通して。○嘆きつつ吾が泣く涙 「嘆き」は、長息《ながいき》の約で、溜息。「つつ」は継続。嘆きながらわが泣く涙よの意。○有馬山雲居たなびき 「有馬山」は、神戸市兵庫区有馬町にある山で、ここは有馬温泉の所在地としてのもの。「雲居」は、ここは雲の意。「たなびき」は、「た」は接頭語。「なびき」は、靡き。この用字は意味より当てたもので、例の少なくないもの。有馬山に雲となって靡いての意。嘆きの溜息が雲となるとしたもの。○雨に零りきや また涙は雨になって降ったことであったかの意。この結末の五句は、古事記、上巻、八千矛神の須勢理比売《すせりひめ》に対しての御歌に、「汝《な》が泣かさまく朝雨《あさあめ》の狭霧に立たむぞ」とあり、溜息が霧となり、涙が雨となるということは、上代よりいっていることで、その御歌は一般に愛誦されていたらしいので、それに倣ったものと思われる。以上、理願に対しての悲しみで、一首の主意を成すもので、箪二段。
【釈】 新羅の国から、人の噂に吉《よ》い国であると聞かされて、憂いを語って忘れるべき同族や兄弟もないこの国に渡って来られて、天皇の御支配になられる国の京には、繁くも並びつづいて里も家もあるけれども、どのように思われたのであろうか、縁故もない佐保の山のほとりのわが家に、親を慕って泣く児のごとくにも慕ってこられて、その近くに家までも造って、多年の間を住みつづけていられたものを、生まれきた者は死んで行くという理《ことわり》には、免れず従うべきものであるので、頼みとしていた人のすべての、旅に出ている間に死去して、その人は、佐保河を朝の間に徒渉し、春日野を後ろにして振り返り見ながら、山辺の方へ向(272)かつて、夕闇に物の見えなくなるがごとくに隠れて行ってしまわれたので、悲しみのためにものをいうべき方法も、するべき方法もわからず、うろうろとただ独りでしていて、白妙の喪服の袖が乾かず濡れ通して、溜息を吐《つ》きつづけてわが泣いている涙よ、母上が今いられる有馬山に、その溜息は雲となって靡き、涙は雨になって降ったであろうか。
【評】 この歌は、形から見ると、佐保の邸の留守居をしている坂上郎女が、有馬温泉に湯治に行っている.母の石川郎女に、理願の死去を報告しているもので、消息という実用性の形のものである。しかし内容から見ると、理願の死を悲しんだ挽歌であり、しかも情の委曲を尽くしたものであって、ことにその死去の際、それに逢ったのは自分一人だけであったという感傷をとおしての悲しみは、まさに文芸性のものである。全体から見ると実用性ということは、作因をなしているにすぎないもので、文芸性をほしいままにしているものである。一首三段から成っており、第一段は理願の経歴を叙したものである。これは事としては、石川郎女は誰よりもよく知っていることなので、改めていうには及ばないものである。それを細叙しているのは、その死は理願の生涯を思わせるものなので、文芸としてはいわずにはいられぬ必然性のあるものである。そうした理由でいっているにもかかわらず、坂上郎女のいっていることは、理願のいかに心細い身の上であるか、またいかに大伴家をたよっていた隣れむべき人であったかということである。尼としての理願であるから、その上で尊んでいおうとしたならば、何事かがあったであろうが、それには全然触れようとしていないのは、その時の感傷がさせたことともいえ、また当時の仏教の実際に関係してもいたろうと思えるが、主となっているものは、若い女性のものの感じ方よりきているものと思える。第二段は、理願の死去と葬送である。「憑めりし人の尽草枕旅なるほどに」と、前段を承けて、理願の憫れむべき人であることを強調し、後段、自身の悲しみの伏線とした上で、理願の生涯の終りをいっているのである。その死をいうに、「生るれば死ぬといふ事に免れぬ物にしあれば」と、仏説を引いて、暗示の程度にとどめているのは、理願を尊んでの言い方で、用意をもってのものと取れる。「佐保河を朝川渡り」以下、いわゆる道行体を用いているのは、その事を具象的にいい、鄭重にいうことによって、悲しみを尽くそうとしてのもので、これは型となっていることで、大体としては技巧ではない。技巧は、その上に立っての言いあらわしにあって、いったがように、葬送される理願を、理願その人の心よりのことのごとくに扱い、「朝川渡り」「背向にしつつ」といい、また郎女も「隠りましぬれ」と、遙かに見送っているがごとき言い方をしているのである。「朝川」に「晩闇」を対させているところ、「晩闇と」の譬喩の新鮮味をもっているところなど、細緻でありながら自然で、郎女の才情を示しているものである。第三段は、理願の死に対する悲しみをいっているもので、一首の主旨である。ここは第一段、二段を綜合して、いかにその隣れみと悲しみの深いものであるかをいっているのであるが、注意されることは、それが理願その人に対してのものというよりも、むしろ母石川郎女に訴えるものとなっていることである。ここにいっている、我がただ独りで当惑したということは、その悲しみを深くさせられたという理由では挽歌につながるものであるが、これは明らかに母に対しての訴えとい(273)えるものである。挽歌は世を去った人の霊を慰めるものであるのに、それが稀薄になっているということは、時代の影響のあることで、上代よりの信仰が、仏教との関係において推移しつついたことを示すものかと思われる。「嘆きつつ吾が泣く涙」以下の結末は、飛躍の大きいものであるが、いったがように八千矛神の御歌の心を前進させたもので、その意味での技巧の優れたものであることを示しているものである。総括していうと、知性の明らかさと感性の細かさとが相俟って、余裕をもって一首を成しているところは、その才情を思わせるものであるが、それとともに平面的となり、散文的な趣を帯びてきて、歌の魅力をなすところの沈潜するもの、または盛り上がってくるものの乏しいものとなっている。これは一に作者の気魄の不足よりきたるものである。このことは、作者の女性であることと、時代の生活気分よりきているものと思われる。
反歌
461 留《とど》め得《え》ぬ 寿《いのち》にしあれば 敷細《しきたへ》の 家《いへ》ゆは出《い》でて 雲隠《くもがく》りにき
留不得 壽尓之在者 敷細乃 家從者出而 雲隱去寸
【語釈】 ○留め得ぬ寿にしあれば 「留め得ぬ」は、人の力をもってしては留め得られないところの。「寿」は、寿命。「し」は、強め。○家ゆは出でて 「家ゆ」は、家より。死者として墓地に移されること。○雲隠りにき 「雲隠る」は、(四一六)に出た。死ぬと魂か天に昇ることを具象的にいったものである。この語は、高天原より降られた尊貴の御方に対し、「神上《かむあが》り」と申すのに近い語で、身分の下《くだ》った者には用いなかったものとみえる。今は理願を尊んでいったものではあるが、妥当とはみえない。当時これを妥当としたのは、火葬ということが一般化し、死者の身が煙となって空に騰るところから、その煙を雲と見て、雲と化し去る意でいったのではないかと思われる。「き」は、過去で、ここでは過去の者となった意で、感を強めるものとしている。
【釈】 人力をもっては留め得られないところの寿命であるので、その家から出て、その人は雲に隠れてしまった。
【評】 長歌の第二段、三段を総括して繰り返したものである。ここには悲しみつつも静かな諦めがあって、反歌としての進展を示している。
右、新羅の国の尼、名を理願と曰へり。遠く王徳に感じて聖朝に帰化せり。時に大納言大将軍大伴卿の家に寄住し、既に数紀を逕たり。ここに天平七年乙亥を以て、忽に運病に沈《しづ》み、既《はや》く泉界に趣く。是《ここ》に大家《たいこ》石川命婦、餌薬の事に依りて有間の温泉に往きて、この喪に会はず。但《ただ》郎女独(274)留りて屍柩を葬り送ること既に訖《をは》りぬ。仍りて此歌を作りて温泉に贈り入る。
右、新羅國尼、名曰2理願1也。遠感2王徳1歸2化聖朝1。於v時寄2住大納言大將軍大伴卿家1、既逕2數紀1焉。惟以2天平七年乙亥1、忽沈2運病1、既趣2泉界1。於v是大家石川命婦、依2餌薬事1往2有間温泉1而不v會2此喪1。但郎女獨留葬2送屍柩1既訖。仍作2此謌1贈2入温泉1。
【解】 「王徳」は、天皇の御徳。「聖朝」は、天皇の御国。「大納言大将軍大伴卿」は、大伴安麿で、旅人、郎女などの父。続日本紀に、「和銅七年五月丁亥朔、大納言兼大将軍正三位大伴宿禰安麿薨」とある。「数紀」は、一紀は十二年で、数紀は三、四紀である。「運病」は、天命としての病で、老病というべきものに取れる。「大家」は、婦人に対する尊称。「石川命婦」は、石川は氏、命婦は、後宮に仕える女官の役名である。この人は「石川朝臣」とも記されているが、朝臣は姓である。また「石川内命婦」とも記されているが、内命婦は五位以上の者の称である。また名を邑婆《おほば》ともいったとある。安麿の妻で、郎女の母である。「餌薬の事」は、病気療治の事で、湯治にあたる。
十一年己卯夏六月、大伴宿禰家持、亡妾を悲傷して作れる歌一首
【題意】 「家持」は、(三九五)に出た。天平十一年の家持の年齢を『講義』は考証している。『公卿補任』によると、家持は宝亀十年に五十二歳、天平元年生まれとあるが、それだとこの時は十一歳で、題詞にふさわしくない。しかるに、巻十七(三九一一)以下三首、天平十三年の作の左注に、「右、四月三日内舎人大伴宿禰家持、久邇《くに》京より弟書持に報《こた》へ送る」とあって、その時には内舎人であったことがわかる。内舎人は「軍防令」に、「凡五位以上子孫年廿一以上、見(ニ)無2役任1者、毎年京国官司勘検知v実、限2十二月一日1并v身送2式部1、申2太政官1検2簡性識聡敏儀容可1v取、充2内舎人2三位以上(ノ)子不v在2簡(ノ)限1云々」とあって、家持は従二位大納言旅人の子でその資格があり、また年齢は、その時を初任としても二十一歳以上であったことが知られる。それだと此の年は、少なくとも十九歳だったのである。「亡妄」はいかなる身分の者とも知られない。大宝令によると、妾は公に認められ、戸籍に登録されることに規定されている。
462 今《いま》よりは 秋風《あきかぜ》寒《さむ》く 吹《ふ》きなむを 如何《いかに》か独《ひとり》 長《なが》き夜《よ》を宿《ね》む
從今者 秋風寒 將吹焉 如何獨 長夜乎將宿
(275)【語釈】 ○今よりは 今より後はで、時は陰暦六月で、秋近き時であるから、秋を佗びしい時として思いやったもの。○秋風寒く吹きなむを 「吹きなむ」の「なむ」は、未来の想像をあらわす語。「を」は、ものを。○如何か独 「如何か」は、どのようにしてかで、「か」は疑問。「独」は、相手のない夜の床。○長き夜を宿む 「長き夜」は、秋の夜の長きを、肌寒さの長さとしていったもの。
【釈】 今よりは秋風が寒く吹こうものを。どのようにして、ただ一人で、その長い夜の肌寒さとさみしさに堪えていこうか。
【評】 妾の死を悲しんだものであるが、いっているところは、秋の夜床の肌寒さの思いやりで、旅愁と異ならないものであり、それも差迫ってのものではなく、将来のこととしてであって、余裕のあるものである。心は単純なものであるが、この歌は訴える力をもっている。それは家持の心の純粋なのと、抒情性の豊かなためであるが、それとともに、若々しいながら父旅人に似た一種の気品をもっているからで、このほうがむしろ主となっているためである。「如何か独」という句など、語《ことば》としては平凡であるが、情の充ちたものである。歌人としての素質を思わせるに足りる歌である。
弟大伴宿禰|書持《ふみもち》、即ち和《こた》ふる歌一首
【題意】 「書持」は、家持の弟ということが知られるだけで、伝はわからない。巻十七、(三九五七〜三九五九)にその長逝を悲しむ家持の長歌と短歌があり、作った時は左注によって天平十八年秋九月二十五日、作った所は任国越中においてであるから、その頃に早世したのである。集中に歌は少なくない。「即ち」は、即時にの意。
463 長《なが》き夜《よ》を 独《ひとり》や宿《ね》むと 君《きみ》がいへば 過《す》ぎにし人《ひと》の 念《おも》ほゆらくに
長夜乎 獨哉將宿跡 君之云者 過去人之 所念久尓
【語釈】 ○独や宿むと君がいへば 「独や」の「や」は、疑問。独りで寝るのだろうかと嘆いて君がいうのでの意。○過ぎにし人の この世を去ってしまった人ので、兄家持の妾。○念ほゆらくに 「念ほゆらく」は、「く」を添えることによって名詞形としたもの。「に」は詠歎。思われることであるよで、「念ほゆ」は嘆きの意のもの。
【釈】 長い夜を、独りで寝るのであろうかと、嘆いて君がいわれるので、我も世を去ってしまった人が悲しく思われることであるよ。
【評】 兄の嘆きをとおして、その妾であった人の死を悲しむという心のもので、兄を慰め、それにもまして死者を慰めている(276)という、時宜に叶った歌である。調べのさわやかさはないが、頭脳の明敏を思わせるもので、情の細かさは兄に勝っているものがあるといえる。
又家持、砌《みぎり》の上の瞿麦《なでしこ》の花を見て作れる歌一首
【題意】 「又」は、上の歌と同じ心を、また作った意。「砌」は、軒下。「上」は、ほとり。「瞿麦」は、かわらなでしこで、今、山野に自生する物。
464 秋《あき》さらば 見《み》つつ思《しの》へと 妹《いも》が植《う》ゑし 屋前《やど》の石竹《なでしこ》 開《さ》きにけるかも
秋去者 見乍思跡 妹之殖之 屋前乃石竹 開家流香聞
【語釈】 ○秋さらば見つつ思べと 「秋さらば」は、秋が移ってきたならばで、秋は石竹《なでしこ》の花の咲く時としてのもの。「見つつ」は、継続。「思ふ」は、眼前にない物を思う意と、眼前の物を深く愛ずる意とがある。ここは後のもの。「思へ」は、命令形で、深く愛でよ。「と」は、といって。○妹が植ゑし屋前の石竹 妹が植えたところの庭の石竹の、その花がの意。○開きにけるかも 咲いてきたことであるよ。
【釈】 秋が来たならば、見つづけて深くも愛でよといって、妹が植えたところの庭の石竹《なでしこ》の、その花、か咲いて来たことであるよ。
【評】 秋、砌の石竹の咲いてきたのを見て、それを植えた亡き妾を思い、深い感慨を発したものである。「秋さらば見つつ思へ」と予期をかけた人は命が尽き、予期をかけられた石竹は、命あるままにそのとおりに花となったのであるから、感慨の深いものがあったと思われる。それを「開きにけるかも」という詠歎にこめて、何事もいおうとはしていないものである。抒情性の強いもので、それが味わいとなっている作である。
移朔して後、秋風を悲嘆して家持の作れる歌一首
【題意】 「移朔」は、漢語で、「朔」は月のはじめの日、「移」は移るで、月がかわっての意である。前よりの読きで、妾の死んだのは六月であるから、七月に入ってということである。「秋風」は、七月は陰暦では秋だからである。
465 虚蝉《うつせみ》の 代《よ》は常《つね》なしと 知《し》るものを 秋風《あきかぜ》寒《さむ》み しのひつるかも
(277) 虚蝉之 代者無常跡 知物乎 秋風寒 思努妣都流可聞
【語釈】 ○虚蝉の代は常なしと 「虚蝉」は、現身《うつしみ》の転じたもので、古くは幽《かく》り身《み》に対しての称であったのを、仏教が信じられることになって以来、現世の身となったもの。ここは仏教の意のもの。「代」は、上より続いて、現身として生きている代、すなわち現世。「常なし」は、恒久性がない、すなわち流転してやまないものの意。「と」は、ということは。二句、人生の無常なものであるということはの意。○秋風寒みしのひつるかも 「秋風寒み」は、秋風が寒くしてで、独寝の肌寒いのでの意。「しのひつる」は、眼前にいないものを恋しく思ったで、亡妾を慕う意。「かも」は、詠歎。
【釈】 現世は無常なものということは知っているものを、秋風が寒くて、ひとり寝の肌寒さに刺激されて、世にない人を恋しく思ったことであるよ。
【評】 人生の無常だということは、知性の上では覚悟しているが、現実の刺激によって乱されるといって嘆いたものである。(四六二)で、「今よりは秋風寒く」と思いやって嘆いた、それが事実となってきたものである。その時は感性のみであったのが、今は知性的となり、諦念の上に住そうと思い、同じく「秋風のことをいって、「秋風寒みしのひつる」と、肌寒さは余情とし、「しのびつる」と過去にして言っているのである。「しのひ」の対象をいわずにあらわしているとともに、連作の趣を発揮している作である。
又、家持の作れる款一首 并に短歌
466 吾《わ》が屋前《やど》に 花《はな》ぞ咲《さ》きたる そを見《み》れど 情《こころ》も行《ゆ》かず 愛《は》しきやし 妹《いも》がありせば 水鴨《みかも》なす 二人《ふたり》双《なら》び居《ゐ》 手折《たを》りても 見《み》せましものを 打蝉《うつせみ》の 借《か》れる身《み》なれば 露霜《つゆしも》の 消去《けぬ》るが如《ごと》く 足《あし》ひきの 山道《やまぢ》を指《さ》して 入日《いりひ》なす 隠《かく》りにしかば そこ念《も》ふに 胸《むね》こそ痛《いた》き 言《い》ひも得《え》ず 名付《なづ》けも知《し》らに 跡《あと》もなき 世間《よのなか》にあれば 為《せ》むすべもなし
吾産前尓 花曾咲有 其乎見杼 情毛不行 愛八師 妹之有世婆 水鴨成 二人雙居 手折而毛 令見麻思物乎 打蝉乃 借有身在者 露霜乃 消去之如久 足日木乃 山道乎指而 入日成 隱去可婆 曾許念尓 胸己所痛 言毛不得 名付毛不知 跡無 世間尓有者 將爲須辨毛奈思
(278)【語釈】 ○吾が屋前に花ぞ咲きたる 「屋前」は、庭の意のもの。「花」は、前よりの関係、また後の続きで、「石竹」の花と取れる。○そを見れど情も行かず 「情行く」という語は、集中には他に例のないもので、後世盛んに用いられる語である。心が満足する意である。「情も行かず」は「も」は詠歎で、心が満足もしない。○愛しきやし妹がありせば 「愛しきやし」は、愛しきで、しばしば出た。妹を形容したもの。「妹がありせば」の「せば」は、仮定で、もしも生きていたならば。○水鴨なす二人双び居 「水鴨」は、水にいる鴨で、鴨を具象的にいったもの。「なす」はのごとく。水上の鴨は雌雄並んで睦ましくしているのを捉えて譬喩としたもの。「二人双び居」は、夫妻の睦ましさを具象的にいったもの。○手折りても見せましものを 折って妹に見せようものをで、「まし」は「せば」の帰結。以上一段。○打蝉の借れる身なれば 「打蝉」は、上の歌に出た。意も同じ。「借れる身なれば」の「借れる」は、「借りある」の約で、かりに成っているの意。仏説では、人身は諸縁のかりに合っている状態だとしている、それに依ったもの。○露霜の消去るが如く 「露霜」は、巻二(一九九)「露霜の消《け》なば消《け》ぬべく」に出た語で、露や霜の意。意味で「消」に続く枕詞。「消去るが如く」は、消えてしまうがようにで、はかなくも死ぬ意の譬喩。上に引いた二句は人麿作中のもので、この二句はそれを摸したものと思われる。○足ひきの山道を指して 「山道」は、墓地としての山へ向う道。上の(四六〇)に「足ひきの山辺を指して」があった。坂上郎女の作中のもので、これはいうほどのものではないが、同じく影響を受けたものと思われる。○入日なす隠りにしかば 二句、巻二(二一〇)に出た。入日のごとく隠れてしまったのでの意で、葬られたこと。これは人麿の作中のもので、それを模したと思われる。○そこ念ふに胸こそ痛き 「そこ念ふに」は、その点すなわち死を思うに。「胸こそ痛き」は、悲しみのはげしいために、胸が痛いの意で、これは今もいう形容である。「こそ」を、連体形の「痛き」で結ぶのは、当時の古格である。○言ひも得ず名付けも知らに 二句、(三一九)「不尽の山を詠める歌」に出た。言いあらわすこともできず、名づけようも知られずにで、これもそれを模したものと思われる。○跡もなき世間にあれば 「跡もなき」は、死後に残す物もないで、常なきさまの甚しさをいったもの。(三五一)「世間《よのなか》を何に譬へむ旦開傍ぎ去にし船の跡なきが如」の影響を受けているものと思える。○為むすべもなし すべき方法もない。
【釈】 わが庭に花が咲いていることである。それを見るけれども、心は満足もしない。可愛ゆい妹がもし生きていたならば、水の上の鴨のごとくに睦ましく、吾も二人で双んでいて、折り取っても妹に見せようものを。現世のこの身は、衆縁のかりに合って成っているものであれば、露や霜の消えてしまうようにはかなくも死んで、その墓地のある山への路をさして、入日のごとく隠れてしまったので、その点を思うと、はげしい悲しみに胸の痛いことであるよ。言いあらわすこともできず、名づけるようも知られないまでに、後《あと》に残すものとてもない無常の世間《よのなか》なので、するべき方法とてもない。
【評】 この歌は、「砌《みぎり》の上の瞿麦《なでしこ》の花」といっている、前々より繰り返し作っているところの花に対して亡妻を思い出したことが作因で、主としていっていることは、その死は人生の大法の如何ともし難いものであるから、諦めるべきであるとして、諦めを強いているものである。すなわち感情を理知をもって抑えようとする複雑味をもったものである。一首の歌として見ると、この歌は、読後の感銘の薄い、不出来なものである。それは、一首の歌として最も大切である統一力が欠けているのと、また、「語釈」でいったように、故人または先輩の佳句を捉えきたって用いているものが多いので、それがおのずから不調和のものと(279)なり、流動の相をもち得ないためである。なぜに統一力が欠けたかは、一首の構成に無理があるためである。主としていわんとすることは、死生観というがごとき大規模なものであるのに、作因は砌に咲いている瞿麦の花という小さなものである。このいささかなる作因を、感傷をたよりに、強いて大問題へ展開させようとしたがために、感傷に圧倒されて混乱の形に陥り、統一がつけられなかったものとみえる。また、故人や先輩の句の多くを捉えきたったのは、その根本には、長歌を作るには力が足らず、人の影響を受けやすい人柄でもあったためと思われるが、今の場合としては、知性的なことをいうのは不得手である人が、感情をとおしてそれを言いきろうとするところから、平生佳句として記憶にあったところのものを拉しきたって、それによって力あらしめようとしたためではないかと思われる。この二つのことが合して不出来なものとしたのであるが、要するに、短歌は手に入った作をするまでに至っていたが、長歌は稽古時代で、手に余ったがためで、家持としての道程を示している作である。用いている枕詞が、譬喩からきたものの多いことも、同じ理由からと思える。しかしこれに続く長歌の安積皇子《あさかのみこ》に対しての二首は、その間に五年の隔たりはあるが、別手の観をもったものとなっている。
反歌
467 時《とき》はしも 何時《いつ》もあらむを 情《こころ》哀《いた》く い去《ゆ》く吾妹《わぎも》か 若子《みどりご》を置《お》きて
時者霜 何時毛將有乎 情哀 伊去吾味可 若子乎置而
【語釈】 ○時はしも何時もあらむを 「時はしも」の「時」は、下の「い去く」時で、すなわち死ぬ時。「しも」は、強め。「何時もあらむを」は、いつにてもあろうものをで、いつと限ったことではなかろうものを。○情哀く 「哀」は、『類聚名義抄』に「いたむ」の訓のある字。わが心を痛くしてで、悲しみの深い意。○い去く吾妹か 「い去《ゆ》く」は旧訓。『考」は「いぬる」、『槻落葉』は「いにし」と訓み、一定していない。「い」は、接頭語。「去《ゆ》く」は、死者となって家を出てゆく意で、死ぬこと。『講義』は、ここは「去」の字を主としたものだとの理由で旧訓を取っている。これに従う。「か」は、詠歎。死者は霊として存しているものと信じていたので、その点からも現在法を用いていることが不合理ではない。○若子を置きて「君子《みどりご》」は旧訓。『玉の小琴』は「わくご」、『槻落葉』は「わかきこ」と訓んでいる。巻二(二一〇)「若児《みどりご》の乞ひ泣くごとに」があり、それによっていようという解に従う。「置きて」は、後《あと》に残して。
【釈】 死ぬ時といえば、いつでもあろうものを、わが心を痛くして家を出てゆく妹であることよ。緑児を後に置いて。
【評】 妻の死を嘆いた心であるが、嘆きの中心は、後《あと》に残した緑児に対しての隣れみに置いているもので、その点では例の稀れなものである。上に挙げた巻二(二一〇)は、人麿の同じ状態において詠んだ歌であるが、それは乳のない当惑さを主としたものである。これはただ隣れみだけを主としたもので、その点では異なっているが、いずれも妻の死を子に結びつけたもの(280)で、その意味では稀れなものである。人麿の影響を受けたもの かと思われるが、その受け方は家持的であるといえる。日常生活に即した歌である。
468 出《い》でて行《ゆ》く 道《みち》知《し》らませば 予《あらかじめ》 妹《いも》を留《とど》めむ 塞《せき》も置《お》かましを
出行 道知末世波 豫 妹乎將留 塞毛置末思乎
【語釈】 ○出でて行く道知らませば 「出でて行く」は死者として家を出て、向かって行くで、下の「道」へ続く。「道」は、冥途の道。「知らませば」は、もし知っていたならばで、仮定。○予 旧訓「かねてより」。『考』は「あらかじめ」と改めた。この改訓は、『槻落葉』の支持し、『攷証』の反対しているもので、定まってはいない。「かねてより」も「あらかじめ」も、仮名書きの例のないものだからである。『講義』は、「かねてより」は、「かねて」を体言として「より」を添えたもので、源氏物語より以前にはない語であり、この場合も「より」の意は加えるべきではない。『類聚名義抄』には「予」に「あらかじめ」の訓はあるが、「かねてより」はないと理由を挙げて、『考』の改訓に従っている。○妹を留めむ塞も置かましを 「留めむ塞」は、行くのを引留める関で、当時、街道の要害の地には関を据えて、人の自由な往来を禁じていたので、それによっての想像。「置かましを」は、据えておこうものをで、「まし」は、上の「せば」の帰結。
【釈】 家を出て向かって行くところの冥途の道をもし知っていたならば、前もって、行く妹を引留めるところの関も据えておこうものを。
【評】 これは妹のみを対象としたものである。上代の信仰として、生者と死者との距離は近く、死者は霊として異なる所に存在しているものと信じられていた。死を「出でて行く」といい、また、「留めむ塞」といっているのも、この信仰が背後にあっての言で、感傷よりの空想とはいえないものである。したがってこうした心を詠んだ歌は少なくないのである。この歌はその範囲のものである。
469 妹《いも》が見《み》し 屋前《やど》に花《はな》咲《さ》き 時《とき》は経《へ》ぬ 吾《わ》が泣《な》く涙《なみだ》 いまだ干《ひ》なくに
妹之見師 屋前尓花咲 時者經去 吾泣涙 未干尓
【語釈】 ○妹が見し屋前に 「屋前」は、庭の意のもので、(四六四)に出た。妹が世にあって見た庭に。○花咲き時は経ぬ 「花」は、同じく(四六四)の石竹《なてしこ》の花と取れる。「時は経ぬ」は、亡くなってから時が経過した意。○吾が泣く涙いまだ干なくに 「吾が泣く涙」は、妹の死を悲しん(281)での涙。「干なくに」は、干ないことであるのにの意。
【釈】 妹が世にあって見た庭に、石竹《なでしこ》の花が咲き、時は過ぎ去った。妹を悲しんでわが泣く涙は続いて、まだ乾かないことであるのに。
【評】 妹がその咲くのを見ようと楽しんだという石竹が、亡き後に咲いて、悲しみを新たにしての歌である。作意は実際に即したものである。しかし詠み方は、巻五(七九八)「妹が見しあふちの花は散りぬべし吾が泣く涙いまだ干なくに」に倣ったものであることは明らかである。この歌は山上憶良のもので、家持は尊むべき先輩として、その風に倣ったものが他にもあるので、これもそれと取れる。当時すでに歌の詠み方には型ともいうべきものがあって、稽古としてそれを学ぶのが普通で、家持もそれをしていたことを示しているものである。
悲緒未だ息《や》まず、更に作れる歌五首
470 かくのみに ありけるものを 妹《いも》も吾《われ》も 千歳《ちとせ》の如《ごとく》 憑《たの》みたりける
如是耳 有家留物乎 妹毛吾毛 如千歳 〓有來
【語釈】 ○かくのみにありけるものを 二句、(四五五)に出た。このようにばかり常なき世であるものを。○千歳の如憑みたりける 「千歳の如《ごとく》」は旧訓。『考』は「如《ごとも》」と訓んだ。『講義』は、「如《ごと》も」という例は、巻九(一八〇七)「昨日《きのふ》しも見けむがごとも念ほゆるかも」など仮名書きの例によると、下にただちに「かも」の接した場合に用いられているので、旧訓の方が当たっているといっている。「憑みたりける」の、「ける」は旧訓で、『童蒙抄』は、「けり」と訓んでいる。「ける」は連体形で、普通は上に「ぞ」「や」「か」「なも」の係助詞があって、その結となるものである。ここはその係助詞がないので、異例として問題としているものである。この例は他にもなくはなく、『講義』は、巻二十(四四九六)「うらめしく君はもあるかやどの梅の散り過ぐるまで見しめずありける」を引いている。この形は詠歎をこめたもので、頼んでいたことであるよの意となり、作意としてこの場合に適当なものとなるので、旧訓に従うべきであろう。
【釈】 このようにばかり常の無い世であるものを、妹も吾も、千年も生きられるもののごとくに頼んでいたことであるよ。
【評】 人間共通の人情で、痛感する者にとっては新たとなるものである。この歌も、その痛感した程度が、強い調べとなって現われており、形もそれに従って、素朴な、純粋なものとなっており、感のあるものである。
(282)471 家離《いへさか》り います吾妹《わぎも》を 停《とど》め不得《かね》 山隠《やまがく》りつれ 情神《こころど》もなし
離家 伊麻須吾味乎 停不得 山隱都礼 情神毛奈思
【語釈】 ○家離りいます吾妹を 「家離り」は、家を離れてゆくことで、離れるのは下の「吾味」である。事は死者として葬られるのであるが、それを吾妹自身の心としていっているもので、これは死者を、霊としての存在とし、尊む心からである。「います」は、「離り」を敬語とするために添えたもの。家を離れられるところの妹を。○停め不得 「不得」は、「得ず」「得ぬ」とも訓ませ、「かね」と義訓としても用いている字である。ここはいずれに訓んでも意味は通じるが、「かね」と訓むほうが、事としていっているのではなくて、感傷としていっているものなので、語感として、「かね」に当てたと見るほうが作意であろうと思われる。○山隠りつれ 「山隠り」は、山に隠れる意で、事としては、葬地としての山に葬られる意である。それは妹自身隠れたこととしていっているのは、上の「離り」と同じ心からである。「つれ」は、後世の「つれば」にあたる古格。○情神もなし 「情神」は、(四五七)に出た。心の落ちつき所で、それもないというので、悲しみのため、心が身に添っていない意。
【釈】 家を離れられるところの吾妹を引留めることができず、山に隠れてしまったので、悲しみのために、心が身に添ってもいない。
【評】 葬送の時の悲しみを思い浮かべての悲しみである。生者と死者との距離は近いが、しかしそのための関は越え難いものとする心は、その関となった葬送の時が、限りなく深い悲しみとなって、いつまでも胸にまつわっていたものと思われる。その意味で、葬送の際の叙事は、ただちに悲しみの具象化となりうるものである。この歌はそう取れる。
472 世間《よのなか》し 常《つね》かくのみと かつ知《し》れど 痛《いた》き情《こころ》は 忍《しの》びかねつも
世間之 常如此耳跡 可都知跡 痛情者 不忍都毛
【語釈】○世間し常かくのみと 「世間し」の「し」は強め。「常かくのみと」は、常に、このようにばかり無常のものであるという事は。○かつ知れど 「かつ」は、片方ではの意の副詞。「知れど」は、知っているけれども。○痛き情は忍びかねつも 「痛き情」は、旧訓「痛む情」。『童蒙抄』が「痛き」と改めた。「痛む」といえば時間が広くなり、「痛き」というと、狭く、現在のこととなって、感が強くなる。作意は「痛き」と取れる。悲しみのために痛い心。原文「不忍」は、諸注、「不得忍」の「得」の脱したものであろうというが、文字は諸本一様である。「不忍」を「しのびかね」と訓ませているのはこの一か所のみであるが、義訓とすべきである。「も」は、詠歎。堪えられないことであるよの意は、悲しみに乱されていることを綜合的にいったもの。
(283)【釈】 世間というものは、常にこのようにばかりある。すなわち無常なものであるということは、片方では知っているけれども、悲しみに痛む心は、その甲斐もなく、堪えられないことであるよ。
【評】 愛する者に死別した悲しみの、世間無常のことわりに従って諦めることのできない嘆きをいったもので、これまた、人間共通の心である。「かつ」と条件を付していい、「忍びかねつも」と綜合していっているところに、実際に即しての痛感であることを思わしめる。真率をもって貫いている。
473 佐保山《さほやま》に たなびく霞《かすみ》 見《み》る毎《ごと》に 妹《いも》を思《おも》ひ出《で》 泣《な》かぬ日《ひ》はなし
佐保山尓 多奈引霞 毎見 妹乎思出 不泣日者無
【語釈】 ○佐保山にたなびく霞 「佐保山」は、次の歌によって、亡妾の墓のある山だとわかる。「たなびく霞」は、なびいている霧で、今は時は秋と取れるが、古くは霧をも霞と呼んでいたのである。これは用例の多いものである。○妹を思ひ出 「思ひ出」は、旧訓「思ひ出でて」。『童蒙抄』は「思ひ出《で》」、『考』は「思《も》ひ出《で》て」、『略解』は「思ひ出《で》て」で、定まらない。『講義』は、用例として、日本書紀、仁徳紀、「本辺《もとべ》は君をおもひで、末辺《すゑべ》は妹をおもひで」を引いて、『童蒙抄』の訓を支持している。
【釈】 佐保山に靡いている霧を見るたびごとに、そこに葬られている妹を思い出して、泣かない日とてはない。
【評】 妹を葬ってある佐保山に、ほの白く秋霧の靡いているのを見ると、それが刺激となって、妹を思い出して涙となるというのである。霧が刺激となるということには、何ら直接の理由があるのではなく、強いていえば、佐保山の状態が、平日とは異なったものに見えるがゆえに刺激となるのであり、またそれが秋霧という静かな、しめやかなものであるゆえに、悲しみに引き入れる刺激となるというにすぎないのである。要するに、事なき時であったならば、何の刺激ともならないものが、悲しみに敏感になっているがためになってくるという範囲のものである。歌因は主観的なものであるにかかわらず、広く同感を誘いうる客観性をもっているのは、その主観か偏ったものではないためと、具象化が適当なためとである。
474 昔《むかし》こそ 外《よそ》にも見《み》しか 吾妹子《わぎもこ》が 奥槨《おくつき》と念《も》へば はしき佐保山《さほやま》
昔許曾 外尓毛見之加 吾妹子之 奧槨常念者 波之吉佐寶山
【語釈】 ○昔こそ外にも見しか 「昔」は、以前の意のもので、ここは佐保山が亡妾の墓地となる以前の意でいったもの。「外」は、関係のない所。(284)「しか」は、上の「こそ」の結。以前は関係のない所と見たの意。○吾妹子が奥槨と念へば 「奥槨」は、(四三一)に出た。奥つ城《き》で、墓の意。「念へば」は、「念《おも》へば」とも「念《も》へば」とも訓みうる。今は「念《も》へば」に従う。○はしき佐保山 「はしき」は、巻二(二二〇)「愛《は》しき妻らは」と出た、その愛《は》しきで、愛すべき。「佐保山」は、詠歎をこめてのもの。
【釈】 以前は関係のない所と見ていた。それを吾妹子が墓であると思うので、愛すべき佐保山よ。
【評】 亡妾に対してのはげしい悲哀が鎮まって、その墓のある佐保山をなつかしいものとして望むように移ってきた心である。時の経過がさせたものと取れる。「吾妹子が奥槨と念へばはしき佐保山」は、佐保山全体を妹が墓と感じる心で、誇張というよりも、心の余裕がなつかしみの範囲を押拡げさせたものである。この一連の歌は、こうした心境に到達し得た時のものであることを示している。
【評又】 この一連五首は、(四六二)以下、亡妻に関する何首かの歌とは、著しく面目を変えたものである。これまでの歌は、悲哀に圧倒されて心緒が纏まらず、亡妻の思い出の中、最も直接であった砌の石竹の花という一微物に取縋って、その感傷を繰り返しいっているにすぎないものであったのに、ここに至ると、亡妻その人の全体を捉え、広い人生の中の一人として扱ってきていて、態度が全然改まってきているといえるものである。これは、時の経過が、亡妻との間に距離を持たせ、したがって余裕をもたせて来て、初めて大観することを得せしめたためである。この五首は連作の趣をもち、最後の第五首の、「昔こそ外にも見しか」の歌は、この一連を作る時に家持の至り得た心境の高さを示しているものである。なおこの一群の作によって注意されることは、対象としては同一なものであるが、それを扱う作者の態度によって、いかに価値の異なった歌となるかという作歌の機微を、家持自身如実に示していることである。これ以前の作は、対象に支配されたものであるのに、これは十分に対象を支配し得ているもので、そこに至って初めて価値の高い歌となり得たということで、またそうなり得たことによって、家持の心は初めて充たされて、これを最後としてこの事に関する歌を打切ることも得たのである。ほとんど同一の内容を繰り返して詠んでいたのは、心充つるものが得られず、したがって悲哀から離れられなかったのであるが、一たび会心の作を得ると同時に、その悲哀を客観化し、処理しうるに至ったのである。「悲緒未だ息《や》まず、更に作る」という題詞は、この間の消息を示しているものと思われる。さらにまた、これらの歌は挽歌とはいえ、直接に死者の霊を慰めようとしたところは認められず、一に家持自身の悲哀をやることを念として作っているものとみえる。死者を悲しむことは、やがて死者を慰めることとはなるが、しかし挽歌本来の目的からいうと間接なものといわざるを得ない。これは家持と亡妻との身分上の関係も伴ってのこととは思えるが、主としては、実用性のものであった挽歌が、文芸性のものに移りつつあったことを示していることで、時代の推移のためであろうと思われる。挽歌という上よりいえば、この一連以前の歌は、ここに至る過程にすぎないもので、存せしめる要のないものであるのに、そのすべてをとどめているということは、文芸性の上に立ってのことと取れる。
(285) 十六年甲申春二月、安積皇子《あさかのみこ》の薨じ給ひし時、内舎人《うどねり》大伴宿禰家持の作れる歌六首
【題意】 「春二月」は、安積皇子の薨じられた時で、続日本紀には、「閏正月」となっている。日は「丁丑」で十三日である。家持が挽歌三首を作ったのは、左注によると「二月三日」であるから、薨去はその以前のことである。「閏正月」を「二月」というには、何らか当然の理由があったのであろう。「安積皇子」は、聖武天皇の皇子である。続日本紀にはこの時のことを、「乙亥、天皇行2幸難波宮1(中略)是日安積親王縁2脚病1従2桜井頓宮1還。丁丑薨。時年十七。(中略)親王、天皇之皇子也。母夫人正三位県犬養宿禰広刀自、従五位下|唐《もろこし》之女也」とある。桜井頓宮は、当時の河内国河内郡桜井郷にあったもので、今の六万寺はそのあった所だという。皇子は、皇太子にも立つべき御方であったが、皇太子はこの時より六年前の天平十年、阿倍内親王が御年二十一でお立ちになっていた。後の孝謙天皇である。これは御母が藤原氏であったためだという。「内舎人」は、職員令によると、「掌d帯刀宿衛(シ)、供2奉(シ)雑使(ニ)1、若(シ)駕行(アレバ)分c衛前後u」とある。定員は九十人、中務省に属していた。家持がこの職にあったのは、本集によると、天平十年より十六年に至る七年間である。「六首」は、前後二回にわたって、長歌に反歌二首の添ったものを作った、それを総括しての称であって、例のない書き方である。略しての称というよりも、歌そのものに力点を置いての書き方と取れる。
475 掛《か》けまくも、あやに恐《かしこ》し 言《い》はまくも ゆゆしきかも 吾《わ》が王《おほきみ》 御子《みこ》の命《みこと》 万代《よろづよ》に 食《め》し賜《たま》はまし 大日本《おほやまと》 久邇《くに》の京《みやこ》は 打靡《うちなび》く 春《はる》さりぬれば 山辺《やまべ》には 花《はな》咲《さ》(286)きををり 河湍《かはせ》には 年魚《あゆ》こさ走《ばし》り いや日《ひ》けに 栄《さか》ゆる時《とき》に 逆言《およづれ》の 狂言《たはごと》とかも 白細《しろたへ》に 舎人装束《とねりよそ》ひて 和豆香山《わづかやま》 御輿立《みこした》たして 久堅《ひさかた》の 天知《あめし》らしぬれ 展転《こいまろ》び ※[泥/土]《ひづ》ち泣《な》けども 為《せ》むすべもなし
挂卷母 綾尓恐之 言卷毛 齋忌志伎可物 吾王 御子乃命 万代尓 食賜麻思 大日本 久迩乃京者 打靡 春去奴礼婆 山邊爾波 花咲乎爲里 河湍爾波 年魚小狹走 弥日異 榮時尓 逆言之 狂言登加聞 白細尓 舍人装束而 和豆香山 御輿立之而 久堅乃 天所知奴礼 展轉 ※[泥/土]打雖泣 將爲須便毛奈思
【語釈】 ○掛けまくもあやに恐し 「掛けまくも」は、掛けむを、「く」を添えて名詞形としたもの。掛ける事はの意。「掛く」は、わが心に及ぼし、またはわが言葉に及ぼすことで、ここは心の意のもの。「も」は、詠歎。「あやに」は、甚しくも。「恐し」は、恐れ多し。○言はまくもゆゆしきかも 「言はまくも」は、わが言葉としていおうことは。「ゆゆしきかも」は、「ゆゆしき」は忌み憚るべきことの意。「かも」は、詠歎。以上四句は、天皇または皇子など、きわめて尊貴なる御方は、人倫を超えられたものとしての讃え詞で、ここは安積皇子に対してのもの。○吾が王御子の命 いずれも安積皇子を称したもの。「御子の命」は公式には皇太子に対しての尊称で、その場合は、「命」は「尊」の字を用いることに定められていた。ここは、心としては同じ意の尊称。ほぼ同意の称を重ねているのは、尊んで鄭重にいったのである。○万代に食し賜はまし 「万代に」は、万年にわたって、すなわち永久に。「食《め》し」は、「食《を》し」に当てた用例もある字である。巻一(五〇)「食《を》す国《くに》を見《め》し賜はむと」を初め、こうした続きの場合は、「食《め》し」といっているので、ここもそれである。支配の意の「見《み》」を敬語として「見す」とし、それを転じたもの。「賜はまし」の「まし」は、連体形で下に続く。御支配になるであろうところの意。○大日本久邇の京は 「大日本」は、久邇の京の所在を示す語であるが、その京は山城国であるので、ここは文字どおりわが日本の意であり、「大」は讃詞である。「久邇の京」は、京都府相楽郡加茂、山城、木津町にわたる地に営まれた都であって、五年間の皇都であった。すなわち天平十二年、奈良の宮よりこの京へ遷都され、天平十六年二月には、さらに難波の宮へ遷都され、天平十七年には、また奈良の京へ遷られたのである。安積皇子の薨じられた天平十六年二月には、京は難波であって、久邇の宮は鈴鹿王が留守官となっておられ、安積皇子もこの宮にいられたのである。なお「大養徳恭仁《おほやまとくにの》大宮」という称は、そこが皇都であった時、勅命によって定められた号である。○打靡く春さりぬれば 「打靡く」は、春の木草の状態をいったもので、形容の意で春にかかる枕詞。「春さりぬれば」は、春がめぐってきたのでの意で、皇子薨去の際の季節をいったもの。○山辺には花咲きををり 「山辺」は、久邇の京の周囲をめぐらしている山のあたり。「花咲きををり」は、「花」は、下の反歌によると桜と取れる。「ををり」は、巻二(一九六)に出た。春の木の枝葉が茂って靡き、あるいは咲く花によって撓んでいる状態をいった古語。○河湍には年魚こさ走り 「河湍」は、川の瀬で、久邇の宮に近い川は、古の泉河、(287)今の木津河である。「年魚こ」は、鮎の子で、いわゆる若鮎。若鮎は春のものである。「さ走り」は、「さ」は接頭語。「走り」は鮎の川に泳ぐ状感の敏捷なのを叔したもの。○いや日けに栄ゆる時に 「いや」は、ますます。「日けに」は、「日にけに」を略した語。「け」は日の意で、この場合、上の「日」と大体同じ意で畳んでいったもの。「栄ゆる時に」は、意味としては上の「大日本久邇の京」に続き、京の栄えてゆく時であるが、それに上四句の春の風物の栄えをも絡ませたものである。久邇の京は安積皇子の食《め》し賜う所としていっているので、京の栄えはすなわち皇子の栄えであって、その心をもっていっているものである。○逆言の狂言とかも 二句、(四二一)に出た。「逆言《およづれ》」は、妄りなる語の意の古語。「狂言」は、たわれたる語。「と」は、として。「かも」は、「か」は疑問、「も」は詠歎。妄りなる語のたわれたる語をいうのであろうか、の意で、家持は難波の宮にあって皇子の薨去を聞き、あまりの意外さに真とできなかった心。○白細に舎人装束ひて 「白細」は、白き栲《たえ》で、喪服としての白の衣。「装束《よそ》ひて」は、装いをしてで、改めて着かえる意。○和豆香山御輿立たして 「和豆香山」は、皇子の墓を営んだ地で、今は京都府相楽郡湯船村、和束町付近の山。「御輿」は、皇子の葬送され給う乗物。「立たして」は、「立つ」の敬語で、御輿を立つは、停める意。そこを葬地として停めたのである。皇子御自身の意志をもってお停めになった意でいったもの。これは尊んだ意で、しばしば出たもの。○久堅の天知らしぬれ 「久堅の」は、「天」の枕詞。「天知らす」は、「天」は天上の国、「知らす」は御支配になる意で、天皇の崩御、高貴なる皇子の薨去は、天上の国を御支配になるためだというのは、上代よりの信念で、これもしばしば例が出た。「知らしぬれ」は、後世の知らしぬればにあたる語の古格で、これまたしばしば出た。御支配になられてしまったので。○展転び※[泥/土]ち泣けども 「展転《こいまろ》び」の「こい」は、仮名書きの例のある語で、上二段活用の語の連体形であり、「こい伏す」また「こい転ぶ」と熟語としている関係上、「まろぶ」に近い意をもった古語であり、「こい伏す」は、現在口語でいうと、どっと寝るというに近く、「こい転び」は倒れころがりというに近い意と取れる。「※[泥/土]《ひづ》ち泣く」は、涙で衣を汚《よご》して泣く意だと『講義』が考証している。○為むすべもなし 今はすべき方法もないの意。
【釈】 わが心に掛けることも甚だ恐れ多いことである。わが言葉にすることも忌み憚るべきことであるよ。わが王《おおきみ》安積皇子の命の、永遠にわたって御支配になるであろうところの大日本《おおやまと》久邇の京は、打靡く春がめぐってきたので、京をめぐらす山の辺りには、桜花が咲いて撓んで、泉河の河瀬には若鮎が勢よく走っており、それとともに京は、ますます日に日に栄えてゆく時に、妄り語《ごと》のたわれ語としていうのを聞いたのであろうか、白栲の喪服に舎人らは衣を改めて、皇子には和豆香山《わずかやま》の山路に、お召しの御輿をお停めになり、天上の国を御支配になってしまわれたというので、吾は驚きと悲しみで倒れ転がり、涙に衣を汚《よご》して泣くけれども、今はすべき方法もない。
【評】 安積皇子の薨去、その葬儀の事の終わった後に、家持は難波の宮にあってその顛末を聞き、悲しんで作った形のもので、皇子に対しての挽歌ではあるが、柩の前で読んだものではなく、個人として作ったものと思われる。尊貴の方に対しての挽歌は、言いうることの範囲が定まっていて、親しく仕え奉ったというごとき特別の事情のない限り、特に言いうることがなく、したがって作りにくいものに思われる。この歌はその作りにくい立場に立ったものであるが、乏しい素材を生かして、感のあるものとしている。これは家持の安積皇子に対する忠誠の心よりきていることといえる。例せば、起首、「掛けまくも」以下四句の(288)讃え詞は、最上級のもので、一皇子に対しては過ぎるものとも言いうるものである。「吾が王御子の命」も明らかに尊称である。皇子をいうにそのいらせられる宮をもってすることは当然であるが、久邇の京を皇子の京のごとくにいい、成語であったとはいえ、「大日本久邇の京」という称をもってしているのは、巧みな讃え方というべきである。また京を讃えるに、その季節の風物を絡ませ、「山辺には花咲きををり、河湍には年魚こさ走り」といって、十七歳の皇子の前途の限りなき愛でたさを暗示しているのは、その時代の作風の影響があるとしても、最も巧みなもので、忠誠の心の現われというべきである。また、葬儀の事をいうにも、悲しいながらにも言わなくてはならないことを最少限度にとどめ、葬送ということをあらわすために、「白細に舎人装束ひて」といい、皇子を葬り奉ることを、「和豆香山御輿立たして久堅の天知らしぬれ」という、これ以上婉曲に、また荘重には言い方のないと思われるものとしている。これは前半の皇子を讃えた部分にもまして巧みなものであるが、これも家持の忠誠の心から出た巧みである。全体として見ても調和をもち、一脈の美しさを漂わし得ているもので、家持の面目をあらわしているものといえる。
反歌
476 吾《わ》が王《おほきみ》 天《あめ》知《し》らさむと 思《おも》はねば おほにぞ見《み》ける 和豆香《わづか》そま山《やま》
吾王 天所知牟登 不思者 於保尓曾見谿流 和豆香蘇麻山
【語釈】 ○吾が王天知らさむと思はねば わが皇子の天上の国を御支配になろうとは思わないので。○おほにぞ見ける和豆香そま山 「おほ」は、おおよそにで、関係のないものということをいったもの。「和豆香そま山」の「そま山」は、杣山で、材木を伐り出す山。和豆香山の杣山よで、詠歎をこめていっているもの。
【釈】 わが皇子が天上の国を御支配になろうとは思わないので、関係のないものとしておおよそに見てきたところの和豆香山の杣山よ。
【評】 長歌の後半を繰り返した形のものであるが、この歌は御墓所としての和豆香山に心を寄せてのもので、また「そま山」ということによって、御墓所との対照を際立たせ、それによって悲哀をあらわしているものである。長歌を進展させ、余情をもたせ得たものである。
477 足《あし》ひきの 山《》やまさへ光《ひか》り 咲《さ》く花《はな》の 散《ち》り去《ぬ》る如《ごと》き 吾《わ》が王《おほきみ》かも
(289) 足檜木乃 山左倍光 咲花乃 散去如寸 吾王香聞
【語釈】 ○足ひきの山さへ光り 「足ひきの」は、「山」の枕詞。「山」は、長歌との関係で、久邇の京に近い山とわかる。「さへ」は、花のみではなく、山そのものまでもの意。「光り」は、原文「光」、旧訓「光《て》りて」。『槻落葉』が「光り」と改めた。両様に訓める字で、各々例がある。一字であるので、「光り」が作意と取れる。花のきわめて賑わしく咲いている形容。○咲く花の 咲いている花で、何の花とも限っていない。ここは譬喩としてのもので、皇子の年若く、花やかにいましたことと、その薨去の慌しい感をあらわすための花で、長歌に「咲きををり」といっているものであるから、その季節の桜の花と取れる。「花」と広くいっているのは、余情をあらしめようとしてであろう。○散り去る如き吾が王かも 「散り去る」は、原文「散去」、旧訓「散りゆく」。『槻落葉』が改めた。時間的にいわず、眼前のことのごとくにいって、感を強めようとするのが作意であろうから、従うべきである。散って行くがような。
【釈】 足ひきの山そのものまでも光ってはなやかに咲いている花の、見る見る散って行ったがようなわが皇子であることよ。
【評】 長歌の前半の心を、後半につなぐことによって一首としたもので、長歌を進展させたと言いうる歌である。実際を感性によって綜合的に捉え、華やかさと寂しさとを同時にもたせ得た、柄《がら》の大きい、感のとおった歌で、家持の面目を発揮した優れた歌といえる。「花」は桜と思われるが、単に「花」としたのは、抒情のほうを重んじたがためで、時代風ともいえるが、家持の歌風の傾向を示しているものといえるものである。
右の三首は、二月三日に作れる歌。
右三首、二月三日作詞。
【解】 「二月三日」につき『講義』は、薨去の日より二十一日目だと考証している。
478 掛《か》けまくも あやに恐《かしこ》し 吾《わ》が王《おほきみ》 皇子《みこ》の命《みこと》 物《もの》のふの 八十伴《やそとも》の男《を》を 召《め》し集聚《つど》へ 率《あとも》ひ賜《たま》ひ 朝猟《あさかり》に 鹿猪《しし》践《ふ》み起《おこ》し 暮猟《ゆふかり》に 鶉雉《とり》履《ふ》み立《た》て 大御馬《おほみま》の 口《くち》抑《おさ》へ駐《と》め 御心《みこころ》を 見《め》し明《あき》らめし 活道山《いくぢやま》 木立《こだち》の繁《しげ》に 咲《さ》く花《はな》も 移《うつ》ろひにけり 世間《よのなか》は かくのみならし 大夫《ますらを》の 心《こころ》振《ふ》り起《おこ》し 劔刀《つるぎたち》 腰《こし》に取《と》り佩《は》き 梓弓《あづさゆみ》 靫《ゆき》取《と》り負《お》ひて 天地《あめつち》と いや遠長《とほなが》に (290)万代《よろづよ》に かくしもがもと 憑《たの》めりし 皇子《みこ》の御門《みかと》の 五月蠅《さばへ》なす 驟騒《さわ》く舎人《とねり》は 白栲《しろたへ》に 衣《ころも》取《と》り著《き》て 常《つね》なりし 咲《ゑ》まひ振《ふる》まひ いや日《ひ》けに 更《かは》らふ見《み》れば 悲《かな》しきろかも
桂卷毛 丈尓恐之 吾王 皇子之命 物乃負能 八十件男乎 召集聚 率比賜比 朝※[獣偏+葛]尓 鹿猪踐起 暮※[獣偏+葛]尓 鶉〓履立 大御馬之 口抑駐 御心乎 見爲明米之 活道山 木立之繁尓 咲花毛 移尓家里 世間者 如此耳奈良之 大夫之 心振起 劔刀 腰尓取佩 梓弓 靫取負而 天地与 弥遠長尓 万代尓 如此毛欲得跡 〓有之 皇子乃御門乃 五月蠅成 驟〓舎人者 白栲尓 服取著而 常有之 咲比振麻比 弥日異 更經見者 悲呂可聞
【語釈】 ○掛けまくもあやに恐し 心、言葉に及ぼすことも、甚だ恐れ多い。○吾が王皇子の命 前に出た。○物のふの八十伴の男を 「物のふ」の「ふ」は、部《べ》ともいい、朝廷に奉仕する多くの職の、その部属の称。「八十伴の男」の「八十」は、その部属の数の多数であることを具象的にいったもので、多くの意。「伴」は、その部属に属している人々で、輩《ともがら》の意。「男」は、普通「緒」の文字を当てる。長官の意で、その郡属を統率しつつ朝廷に仕えている人の称。全体では、朝廷に奉仕している多くの部属の長官で、さらにいえば、朝廷の百官。○召し集聚へ率ひ賜ひ 「集聚《つど》へ」は、旧訓「あつめ」。『代匠記』が改めた。文字は熟語で、家持の歌にはそれが多い。「あつめ」という語は集中には用例がなく、すべて「つどへ」である。「率《あども》ひ賜ひ」は、『考』の訓。巻二(一九九)に出た。率いることの古語。○朝猟に鹿猪践み起し 「朝猟に」は、朝の猟にはで、一日を感覚的にするために朝と暮とに分けたもので、次の「暮猟に」に対させたもの。「鹿猪《しし》」は、文字どおり、その宍《しし》を食用とする野獣の総称。「践み起し」は、草蔭などに伏しているししを、射て捕《と》るために、その草を践んで起たせる意。○暮猟に鶉雉履み立て 暮《ゆうべ》の猟には、野鳥の鶉雉を、同じく捕るために、その潜んでいる草を履んで飛び立たせの意。○大御馬の口抑へ駐め 「大御馬」は、皇子の乗馬を尊んでの称。「口抑へ駐め」は、馬の手綱の、口元近い所を捕えてで、歩みを留めることを具象的にいったもの。これは現在もしている方法である。○御心を見し明らめし 「御心を」は、皇子が御心を。「見《め》し明らめし」は、「見《め》し」は、「見る」を敬語とするためにサ行四段活用にし、「み」を「め」に転じさせたもの。「めし」の訓は、当時の用例の多きに従ったのである。「明らめし」は、明らかにしたで、心を晴らしたというにあたる語。これは連体形で、下へ続く。全体では、御心を、御覧になる事によって晴らされたところの意で、さらにいえば、心ゆくまで御眺望をなされたところの意。○活道山 この名は今は伝わっていず、所在が不明である。巻六(一〇四二)「同じき月(天平十六年甲申春正月)十一日、活道岡《いくぢのをか》に登り、一株の松の下に集ひて飲《うたげ》せる歌二首」とあって、そのおおよそが想像される、そこは久邇の宮の大宮人が、行楽をする場所となっており、また「岡」と称するにふさわしい山であったことがわかる。さらにまたこの歌の反歌に、「皇子《みこ》の命《みこと》のありがよひ見《め》しし活道」ともあって、安積皇子も常に行楽のために行かせられた、いわば皇子の形見の地とも称すべき所であったこともわかる。久邇の京からは距離の遠くない所と思われる。○木立の繁に(291) 「木立」は、下の続きで、「花」の咲く木で、その花は桜と取れる。「繁」は旧訓「しじ」。『槻落葉』が「しげ」と改めた。用例は、巻十八(四〇五一)同じく家持の歌に、「多胡《たこ》の埼木のくれ之気《しげ》に時鳥来鳴き響《とよ》めば」、その他がある。繁きことの意で、名詞。桜の木立の繁みにで、言いかえると、繁き桜木立にの意。○咲く花も移ろひにけり 「咲く花」は、桜と取れる。「も」は、もまた。「移ろひ」は、しばしば出た。「移る」にハ行四段活用型の助動詞「ふ」をつけ、継続をあらわす。「移る」は推移の意で、花の散ること、人の死ぬことをも含めうる語。ここはその双方にわたっている。「に」は、完了。「けり」は、詠歎。咲く花もまた移ろい去ったことであるよの意で、皇子の薨去につぐその時は、活道山に多い桜の花も散ってしまっていたのである。この歌の反歌によると、家持はその時活道山に登っているので、これは眼前の光景に対しての感である。○世間はかくのみならし 「世間」は、現世。「かく」は、上の移ろい。「のみ」は、はかりで、強め。「ならし」は、なるらしで、「らし」は、眼前を証としての推量で、証は、移ろい。この二句は、山上憶良の長歌の中にあるもので、それに倣ったものと思われる。このことは、ここだけではなく、他にもあるからである。以上、第一段である。○大夫の心振り起し 「大夫」は、しばしば出た。勇気ある男子の称で、ここは家持の矜りをもっての自称。その職を自任している武人の意でいっているもの。「振り起し」は、奮い立て。○劔刀腰に取り佩き 「劔刀」は、「劔」は鋭利な意で、そうした刀《たち》を。「佩き」は、腰に帯びる意。○梓弓靫取り負ひて 「梓弓」は、梓弓を手に執りの意。「靫」は、矢を容れる器で、背に負う物。○天地といや遠長に 「天地と」は、天地とともに。「いや遠長に」は、ますます遠く久しくで、永久にという意の成句。○万代にかくしもがもと 「万代に」は、万年にで、永久を具体的にいったもの。「かくしもがも」は、「かく」は、このように。「し」は、強め。「かも」は、上に「も」を伴って、希望の助詞。「と」は、と思って。「かくし」の後に略語のある形。このようにありたいものと思って。○憑めりし皇子の御門の 「憑めりし」は、憑みありしで、憑んで来たところの。家持が皇子にお仕え申そうと頼みにして来た意。「皇子の御門」は、皇子の宮殿。○五月蠅なす驟騒く舎人は 「五月蠅なす」は、五月の蠅のごとくにで、意味で「驟騒く」にかかる枕詞。「驟騒く」は、多数の舎人の賑わしくしているのを、誇張をまじえていったもの。「舎人」は、題詞でいった。『講義』は、(292)この皇子の品位は明らかでないが、かりに四品としても、百人の帳内《とねり》が奉仕した訳だといっている。○白栲に衣取り著て 白い栲の物に衣を着かえてで、定めの喪服となっての意。皇子の殯宮の期間は明らかではないが、一年間であったろうと『考』はいっている。その間は喪服だったので、これは皇子の宮の服喪のさまを叙したものである。○常なりし咲まひ振まひ 「常なりし」は、常にありしで、平常のものであった。「咲《ゑ》まひ」は、「咲む」の名詞形。「振まひ」は、振舞の字を当てる語。挙動の意。この語は集中ここのみで、これも名詞形。平常のものであった楽しげな笑い、楽しげな行動で、皇子御在世中の舎人の様子。この二句もまた、巻五(八〇四)山上憶良の歌の中にあるものである。○いや日けに更らふ見れば 「いや日けに」は、前に出た。ますます、日に日に。「更らふ」は、「更《かは》る」の継続をあらわす語。更り続けて行くのを見ればで、皇子の宮殿のしだいに寂びれて行く状態を、眼に見ていっているもの。殯宮の事が終われば、舎人は離散するべき定めであった。○悲しきろかも 「ろ」は、音調のために添えるもの。悲しきことかなの意。
【釈】 心に言葉に及ぼすことも甚だ恐れ多い。わが王皇子の命の、朝廷に仕えまつる八十と多くの臣を召し集え、お率いになって、朝の猟には草むらに伏す鹿猪《しし》を践《ふ》み起こして狩り、暮《ゆうべ》の猟には同じく草むらを塒《ねぐら》とする鶉雉《とり》を履んで飛び立たせて狩り、御乗馬の口づらを抑えて歩みを留めさせ、御心を御覧になることによってお霽らしになられたところの活道山《いくじやま》の、そこの桜木立の繁みに咲いていた花もまた、今は皇子とともに移ろい去ったことであるよ。現世というものはそのようにばかりあるものであろう。我も武人としての心を奮い立て、鋭利な刀《たち》を腰に佩き、梓弓を手に、靫を背に負って、天地《あめつち》とともにますます遠く久しく、永遠にわたってこのようにのみお仕え甲したいものだと頼んできたところの、その皇子の宮殿に、五月蠅《さばえ》のごとく賑わしく騒いでお仕えしていたところの舎人は、今は白い栲の喪服にと衣を改め着て、以前はそれが平常であった楽しげな笑い楽しげな挙動の、ますます、日に日にと変わって寂びれてゆくのを見ると、悲しいことではあるよ。
【評】 前の長歌は、家持が難波の宮にあって、安積皇子の御薨去を聞いて悲しんで作ったものであるが、この長歌は、皇子の宮である久邇の宮に参り、殯宮に侍することもした際に作ったもので、悲しみの心を尽くして作ったものである。一首二段より成っており、前段では、活道山へ登って皇子を悲しみ、後段では、久邇の宮に侍しての悲しみをいっているのである。
前段で、家持が皇子を思う場所として活道山を選んだのは、その山は皇子の御生前最もお心を寄せられた所で、皇子の形見という上から見ると、久邇の宮についでの物と思ったからと取れる。生前心を寄せた物または所を、死後形見として見るということは、上代よりの風で、巻一(四五)日並皇子尊の薨後、御子軽皇子の安騎野へ行って宿らせられたごときはその例である。安積皇子と活道山との関係は、上に引いた「皇子の命のありがよひ見しし活遺」で窺われるが、家持に最も印象の深かったのは、この歌にある御狩場においての皇子のお心寄せで、「大御馬の口抑へ駐め 御心を見し明らめし 活道山」である。風景を愛好することをもって誇りとしたこの当時にあっては、行楽の場所である活道山をもって皇子の形見とするということは、適当とされたことと思われる。この活道山は、桜をもっても愛されていた所とみえる。「活道山木立の繁に咲く花」というの(293)は、そこの実際をいっている語で、尋常のものではなかったとみえる。上の(四七七)で、「あしひきの山さへ光り咲く花の」といっているのは、久邇の京を繞らしている山全体の意のものではなく、この活道山ではないかと思われる。それはとにかく、家持のこの一段においていっていることは、(四七七)のそれと同じく、桜の花の散り去ったのに托して皇子の御薨去を悲しんだのであるが、この一段はそれにはとどめず、桜の花の咲き場所としての活道山を、皇子に緊密に関係させ、まずその山を皇子の形見の山とし、その形見の山の桜の散り去ったこととして生面を拓いてきているのである。皇子と活道山との関係の付け方は、技巧としてはこの一段の中心で、皇子の盛時を具象化するものとして、当時の男子が代表的な遊興とした御猟を捉えきたり、その大規模な、華やかさを極めた状態の中で、卒然として「大御馬の口抑へ駐め」という、前に引いた一節を加え、そしてその活道山の桜は、皇子にとっては最も悲しいことである御薨去を象徴するものとして、華やかさと寂しさとを対照させて、自身の哀感を漂わしている技巧は、すぐれたものと言わざるを得ないものである。
後段は、皇子の宮である久邇の宮の、御薨去後日に日に寂びれゆく哀感を叙したものである。宮にとどまる者は舎人であって、舎人は殯宮に奉仕するとともに御生前と同じく宮にも侍宿し、殯宮の儀が果てるのを期として離散することになっていたもので、このことは日並皇子尊の場合と同様である。したがって皇子の宮の哀感を具象するには、日に日に変化させられてゆく舎人の状態をあらわすことは、最も適当な方法で、この一段は、皇子の御生前と御薨後の舎人の状態を対照させることを中心とし、それによって簡潔に意図を遂げようとしているのである。この方法は前段と全く同一である。この段で注意されることは、家持自身の心であり、公なものとして作らせられたのではなく、私のものとして作ったこの挽歌にあっては、いきおい自身を強調せざるを得ないのである。「大夫の心振り起し」以下、「憑めりし」に至るまでの堂々たる十一句は、一に自身の心情を述べたもので、皇子に対する挽歌という上からは、度を超えたものというべきである。しかし家持は、「憑めりし皇子の御門の」と転じて、その長句は、「皇子の御門」を修飾するものという形にしているのである。これは最も要を得た方法で、すぐれた技巧とすべきである。一段の中心としている舎人の状態は、前段の「大御馬の口抑へ駐め」と同じく、実際の印象を描いたものなので、微細で、同時に簡潔である。御生前を、「五月蠅《さばへ》なす驟騒く舎人」といい、「常なりし咲まひ振まひ」といい、御薨後を、「いや日けに更らふ見れば」と、将来をかけて暗示している方法は、これまた要を得たものである。また全体を通じて、皇子の御生前の華やかに愛でたかったことに力点を置き、薨去の悲哀は、暗示にとどめようとしているところは、家持の皇子に対する忠誠心のさせていることと取れる。なおこの歌に、憶良の句を踏襲しているものの見えるのは、作歌上における当時の家持を語っているものと見られる。
反歌
(294) はしきかも 皇子《みこ》の命《みこと》の ありがよひ 見《め》しし活道《いくぢ》の 路《みち》は荒《あ》れにけり
波之吉可聞 皇子之命乃 安里我欲比 見之活道乃 路波荒尓鷄里
【語釈】 ○はしきかも 「はしき」は、「愛《は》しき」で、愛すべきことよの意。語としては切れていて、いわゆる一句切れであり、この集としては珍しいものである。しかし心としては、皇子を讃えたものと取れるので、無理のあるものである。○ありがよひ 「在り通ひ」で、継続して通いの意。○見しし活道の 「見しし」は、上に出た。「見し」の敬語で、御覧になった。○路は荒れにけり 「に」は、完了。「けり」は、詠歎。その路は荒れてしまったことよ。
【釈】 愛すべき皇子の命の、継続してお通いになった活道への路は、そのことが絶えたので、荒れてしまったことであるよ。
【評】 皇子の薨去を、間接な言い方をもって悲しんだもので、長歌に即しつつも進展させたものである。この歌によっても、家持が活道山へ行ったことは明らかである。この歌の一句切れは問題となりうるものである。一句切れの例としては、巻五(七九七)山上憶良の「悔《くや》しかも斯く知らませばあをによし国内《くぬち》ことごと見せましものを」がある。これにならったものと思われる。憶良の歌は一句切れとはいえ、二句以下の全部を包括しているもので、新生面を拓くとともに体を得ているものである。この歌は、語と心との間に罅隙《すき》のあるもので、憶良を学んで至り得なかった跡をとどめているものである。ここにも家持と憶良との関係を示している。
480 大伴《おほとも》の 名《な》に負《お》ふ靫《ゆき》帯《お》ひて 万代《よろづよ》に 憑《たの》みし心《こころ》 何所《いづく》か寄《よ》せむ
大伴之 名負靫帶而 万代尓 〓之心 何所可將寄
【語釈】 ○大伴の名に負ふ靫帯ひて 「大伴」は、家持自身のことをいっているもので、その意味では氏の名であるが、その氏は、朝廷に奉仕する職としてつけたものであるから、その意味では衿りをもってのものである。「名に負ふ靫」は、名をもっているところの靫で、その靫は武人としての印の物である。大伴氏は天孫降臨の際、その祖天忍日命が、久米氏の祖天津久米命とともに、武装をして御前に立って奉仕した。爾来、この二氏の率いている軍を、大来目部、天靫負部《あめのゆげひべ》と号した。大化の改新後は、武職は大伴氏には限らなくなったが、久しい習慣で靫負《ゆげひ》という称は残されていたのである。この事については『講義』が詳しく考証している。「帯《お》ひて」は旧訓で、「帯」の字は、漢語で帯靫というところから、「負」に当てたもの。二句、大伴としての高い名をもっているところの靫を負つての意。○万代に憑み」心 永遠にお仕え申そうと籟んできたところのわが心。○何所か寄せむ 皇子なき今は、何所《いずこ》に寄せようか、その所もないと嘆いた心。
(295)【釈】 大伴としての高い名をもっているところの靫を負って、 永遠にお仕え申さうと頼んできたところのわが心は、今よりはどこへ寄せようか、その所もない。
【評】 長歌では背後に置いてあった心を、表面にもち出して、繰り返していったものである。「大伴の名に負ふ靫帯ひて」は、含蓄のある語である。自身のことを矜りをもっていったものであるが、その矜りは個人的のものではなく、部属として、朝廷に奉仕しきたった歴史の上に立ってのもので、忠誠に対する自信より出ているものである。「何所か寄せむ」は、嘆きの心よりのものであるが、皇太子でもない一皇子としての安積皇子に対し奉ってのものとすると、過ぎたるがごとく思われる。ここに家持の皇子に対する特別の心が見え、また時代の情勢も窺われる感がある。
右の三首は、三月二十四日に作れる歌。
右三首、三月廿四日作謌。
【解】 「三月二十四日」は、皇子薨後七十一日目にあたっていると『講義』がいっている。前の日付もこの日付も、歌そのものに取ってはほとんど必要のないもので、むしろ余分のものである。歌は安積皇子に対する挽歌であって、挽歌の本質からいうと、死者の霊を慰めるためのもので、その霊前において歌うのを本意とするものだからである。これらの日付は、個人的のもので、備忘にすぎないものであるのに、それを記すということは、挽歌そのものよりも、その制作のほうに力点を置いたことと取れる。これは題詞の「六首」という異例な言い方と同じ心からのもので、要するに挽歌が文芸性のものとなってきたことを示しているものである。この書き方は、家持がこの巻の撰者ではなかったかということに関係をもちうるものである。
死せる妻を悲傷《かなし》みて、高橋朝臣の作れる歌一首 并に短歌
【題意】 「高橋朝臣」は、「朝臣」は姓で、名は著してない。その事は左注にいっている。
481 白細《しろたへ》の 袖《そで》指《さ》しかへて 靡《なび》き寝《ね》し 吾《わ》が黒髪《くろかみ》の 真白髪《ましらが》に なり極《きはま》りて 新世《あらたよ》に 共《とも》にあらむと 玉《たま》の緒《を》の 絶《た》えじい妹《いも》と 結《むす》びてし 事《こと》は果《はた》さず 思《おも》へりし 心《こころ》は遂《と》げず 白妙《しろたへ》の 手本《たもと》を別《わか》れ にきびにし 家《いへ》ゆも出《い》でて 緑児《みどりこ》の 哭《な》くをも置《お》きて 朝霧《あさぎり》の 髣髴《おほ》に(296)なりつつ 山代《やましろ》の 相楽山《さがらかやま》の 山《やま》の際《ま》に 往《ゆ》き過《す》ぎぬれば 云《い》はむすべ 為《せ》むすべ知《し》らに 吾妹子《わぎもこ》と さ宿《ね》し妻屋《つまや》に 朝《あした》には 出《い》で立《た》ち偲《しの》ひ 夕《ゆふべ》には 入《い》り居《ゐ》嘆《なげ》かひ 腋挟《わきばさ》む 児《こ》の泣《な》く毎《ごと》に 雄《をのこ》じもの 負《お》ひみ抱《うだ》きみ 朝鳥《あさとり》の 啼《ね》のみ哭《な》きつつ 恋《こ》ふれども 効《しるし》を無《な》みと 辞間《ことと》はぬ 物《もの》にはあれど 吾妹子《わぎもこ》が 入《し》りにし山《やま》を 因《よす》かとぞ念《おも》ふ
白細之 袖指可倍弖 靡寐 吾黒髪乃 眞白髪尓 成極 新世尓 共將有跡 玉緒乃 不絶射妹跡 結而石 事者不果 思有之 心者不遂 白妙之 手本矣別 丹杵火尓之 家從裳出而 緑兒乃 哭乎毛置而 朝霧 髣髴爲乍 山代乃 相楽山乃 山際 徃過奴礼婆 將云爲便將爲便不知 吾妹子跡 左宿之妻屋尓 朝庭 出立偲 夕尓波 入居嘆會 腋挟 兒乃泣毎 雄自毛能 負見抱見 朝鳥之 啼耳哭管 雖戀 効矣無跡 辞不問 物尓波在跡 吾妹子之 入尓之山乎 因鹿跡叙念
【語釈】 ○白細の袖指しかへて 「白細」は、夫婦とも平生着ている衣。「袖指しかへて」は、腕をさし交わしてで、共寝をする状態。○靡き寝し吾が黒髪の 「靡き寝し」は、「靡き」は、睦まじくという意を具象的にいったもの。ここは、夫としての自身のことをいったもの。「吾が黒髪」は、寝ている時の状態を、印象的にいったもので、それとともに、下に続けて、時の経過をあらわそうとしたもの。○真白髪になり極りて 「真白髪」は、「真」は、十分に。「白髪《しらが》」は、集中に仮名書きはなく、『新撰字鏡』によっての訓。裏白な髪に。「なり極りて」は、原文「成極」で、旧訓。「なり」は、変化すること。「極りて」は、はてとなって。真白い髪に変りきってで、下へ続く。○新世に共にあらむと 「新世」は、新しい世の意であるが、ここは御代の関係でいったものではなく、時は推移するものとしていったもので、続いてきたるべき後の世の意。すなわちいつの世までもというにあたる。「共にあらむと」は、一緒に生きていようといってで、「と」は、次の「結びてし」に続く。○玉の緒の絶えじい妹と 「玉の緒の」は、玉を貫く緒の意のもので、意味で「絶え」にかかる枕詞。「絶えじい」の「い」は、語調を強めるために添えた助詞。この契りは、絶えさせまい妹よとの意。○結びてし事は果さず 「結びてし」は、契りを結んでおいたで、約束をしてあった。「事は果さず」は、その長生の事は果たさずしてで、「果さず」は連用形。○思へりし心は遂げず 「思へりし」は、「思ひありし」で、思っていた。「心は遂げず」は、長生の心は遂げずしてで、「遂げず」も連用形。○白妙の手本を別れ 「白妙の手本」は、起首の「白細の袖」を語を変えていったもの。夫として共寝をする我をの意。「別れ」は、別離をして。○にきびにし家ゆも出でて 「にきびにし」は、睦び楽しくしたで、巻一(七九)に出た。「家ゆも出でて」は、家からまでも出て。以上四句、葬送されることであるが、しばしば出たように、霊を尊んで、死者自身の意志として行なっているようにいっ(297)たもの。○緑児の哭くをも置きて 緑児の乳を慕って泣くのを後《あと》に残してで、死んだ妻の年若かったことが知られる。○朝霧の髣髴になりつつ 「朝霧の」は、朝霧のごとくにで、意味で「髣髴《おほ》」にかかる枕詞。「髣髴に」は、『玉の小琴』の訓。巻四(五九九)「朝霧の鬱《おほ》に相見し」その他例のあるものである。ぼんやりとの意の語で、はっきりとの反対である。ぼんやりとした状態になりなりしてで、事としては、見送っている葬列の、遠ざかってゆく状態であるが、妻自身の後ろ姿のごとくいったもの。○山代の相楽山の 「山代」は、山城国。「相楽山」は、旧訓「さがらの山の」。『考』の改めたもの。『和名類聚抄』に、「相楽郷、佐加良加」とあるためである。相楽山は久邇の京のある相楽郡にある山で、広くいったもの。国名を冠したのは、事を鄭重にいうためのものである。○山の際に往き過ぎぬれば 「山の際《ま》」は、山の間で、葬地。「往き過ぎぬれば」は、行き去ってしまったので。「過ぎぬれば」は、ここは見えなくなってしまったのでの意である。事としては葬られたのであるが、死者を尊ぶ意から、その事は余情とした言い方をしたもの。○云はむすべ為むすべ知らに いうべき言葉、すべき方法も知られずで、悲しみに心顛倒したことの具象化。「知らに」は、下の事の理由をあらわすための言い方。○吾妹子とさ宿し妻屋に 「さ宿し」の「さ」は、接頭語。共寝をしたの意。「妻屋」は、閨《ねや》。○朝には出で立ち偲ひ 朝はその閨から外へ出て来て妻を思い。○夕には入り居嘆かひ 原文「嘆會」の「會」は、紀州本以外の諸本「舎」となっている。『考』が誤字として改めたもの。「嘆かひ」は、嘆く事の継続をあらわす。夕には閨に入っていて嘆き続け。○腋挟む児の泣く毎に 「腋挟む」は、児を抱く状態。巻二(二一〇)柿本人麿の歌に出た。「泣く毎に」の「毎」は、諸本「母」となっている。『考』が「毎」の誤写として改めた。子の泣くたびにで、泣くのは母の乳を恋ってである。○雄じもの負ひみ抱きみ 「雄じもの」は、男たる者がの意で、巻二(二一〇)に出た。「負ひみ抱きみ」は、「抱《うだ》き」は集中仮名書きの例がなく、日本霊異記に、「抱【宇田支】」とあるによったものである。ここの二つの「み」は、同じ趣のこと二つ以上を、対させて重ねていう時に用いる語法で、後世にも行なわれているものである。負ったり抱いたりしてで、すかそうとしてのしぐさ。○朝鳥の啼のみ哭きつつ 「朝鳥の」は、朝の鳥は鳴く音の耳につくものであるところから、意味で「哭き」にかかる枕詞。「啼のみ哭きつつ」は、声を立ててばかり泣き泣きして。○恋ふれども効を無みと 妻を恋うけれども今はその甲斐のないによってと思っての意。○辞間はぬ物にはあれど 「辞問はぬ物」は、ものはいわない物で、そうした物は慰めとならないものとしていい、それではあるけれどもの意。○吾妹子が入りにし山を 妻が入ってしまった山をで、葬地としての相楽山を。○因かとぞ念ふ 「因か」は、心を寄せる所の意で、慰めとなる物の意。形見というにあたる。形見と思っていることよの意。
【釈】 白妙の袖をさし交わして、睦まじく妻と共寝をした時のわが頭の黒髪の、真白い髪に変わり尽くして、後の新たに移りくる世に、一緒に生きていようといって、夫婦の契りは絶やすまいと約束をした、その事は果たさずに、その心は遂げずに、わが枕としてする白妙の袂から別れ、睦び楽しんでいた家からも出て、緑児の乳を乞って泣くのまでも後に残して、その行く後姿はしだいにぼんやりとなりなりして、山城国の相楽山《さがらかやま》の山の間に入って見えなくなってしまったので、悲しみに心顛倒し、口にする言葉も、身にする術《すべ》も知られずに、妻と共寝をした閨にいて、朝は外に出て立って妻を恋い、夕は閨に入って嗅きつづけ、腋に挟んでいる縁児の乳を乞って泣くたびに、男たるもの負ったり抱いたりしてすかし、我も声を出してばかり泣きつづけて恋うけれども、今はその甲斐もないによってと思って、ものもいわない、慰めのない物ではあるけれども、妻の入ってしまったとこ(298)ろの山を、心の寄せ所と思っていることであるよ。
【評】 この歌は、一緒に暮らしていた妻で、仲が睦まじく、緑児をもっているという若い妻に死なれた夫の、その妻に対する挽歌として作ったものである。死んだ妻ではあるが、死ということは直接にはいわず、家を出て山に入った者として、所を変えての存在として扱っているのは、悲傷の心より感じていることではあるが、死者を霊として存在しているものと意識して、尊んでのものの言い方と取れる。いっていることの最大部分は自身の悲傷であるが、これは妻の霊を慰めるゆえんのものであり、結末は、妻の追慕の永久であるべきことをもってしているのは、純粋にその霊を慰めようとしてのことであって、挽歌の本質に従い、古風な詠み方をしているものである。この古風ということは、家持の安積皇子に対する挽歌と較べて見ただけでもあきらかである。詠み方は平面的で、悲傷をあらわすに足りると思われることは、その一切を言い尽くそうとしているものである。それをいう上では、巻二(二一〇)(二一三)の人麿の「妻死りし後、泣血哀慟して作れる歌」を参考として、部分的にそれを模した所が少なくはない。なお巻十六、山上憶良の海人|荒雄《あらお》を悲しんだ歌の影響を受けていようと思われる所もある。しかしこれらのことは、やや事に堪えうる人の、挽歌は作らねばならぬものとして作る場合には、普通にしていたろうと思われることで、その上からいえば、この歌は上乗なるものと思われる。この作者には、この人としての特色がなくはない。起首、卒然として、「白細の袖指しかへて」と感覚的な物言いをし、「靡き寝し吾が黒髪の」と同じく感覚的な続け方をしつつ、それを「真白髪になり極りて」と、時の推移に転じて来る所は、粗野であるとともに心の鋭敏さを示しているもので、好い本質をもっているといえる。また、葬列の遠ざかるのを叙して、「朝霧の髣髴になりつつ 山代の相楽山の 山の際に往き過ぎぬれば」といっているのは、上の粗野とは反対に、感覚の繊細さを示しているものといえる。結末の、「吾妹子が入りにし山を 因《よす》かとぞ念ふ」は、憶良の影響を思わせるが、十分にこなれて、この作者のものとなっている趣がある。一首として、作者の面目をもち得ている作というべきである。
反歌
482 うつせみの 世《よ》の事《こと》にあれば 外《よそ》に見《み》し 山《やま》をや今《いま》は 因《よす》かと思《おも》はむ
打背見乃 世之事尓在者 外尓見之 山矣耶今者 因香跡思波牟
【語釈】 ○うつせみの世の事にあれば 「うつせみの」は、現し身、すなわち生者必滅の理より脱れられない身の。「世の事にあれば」は、この世においての事であれば。○外に見し山をや今は 無関係なものに見てきた山を、今となってはで、「や」は詠歎。○因かと思はむ 心の寄せ所と(299)思ってなつかしもうの意。
【釈】 現し身の生者必滅の脱れられない身の、この世においての事であれば、無関係のものに見てきた相楽山を、今よりは、心の寄せ所としてなつかしもう。
【評】 長歌の結末を繰り返したもので、反歌としては古風な型である。長歌のもつ熱意を失ったものであるが、しかし素朴な詠み口の中に、静かな悲しみを湛えているものである。
483 朝鳥《あさとり》の 啼《ね》のみし鳴《な》かむ 吾妹子《わぎもこ》に 今《いま》亦《また》更《さら》に 逢《あ》ふ由《よし》を無《な》み
朝鳥之 啼耳鳴六 吾妹子尓 今亦更 逢因矣無
【語釈】 ○朝鳥の啼のみし鳴かむ 長歌の「朝鳥の啼《ね》のみ哭《な》きつつ」と同じである。「し」は強め。「鳴かむ」は、泣いていよう。○今亦更に逢ふ由を無み 今はまた更に逢う由が無いゆえに。
【釈】 声を立ててばかり泣いていよう。妻に今はまたさらに、逢う由が無いゆえに。
【評】 長歌でいった一事を、さらに継続させようというだけのもので、新意のないものである。この歌も、前の歌と同じ趣をもっている。
右の三首は、七月二十日、高橋朝臣の作れる歌なり。名字未だ審ならず。但、奉膳の男子と云へり。
右三首、七月廿日、高橋朝臣作謌也。名字未v審。但、云2奉膳之男子1焉。
【解】 「七月二十日」は、前の歌と同じく、年は天平十六年と取れる。前の六首の歌の日付は、同じ皇子の挽歌として作ったものであるが、所を異にしている関係から、その内容も異なることを断わる必要があったともいえるが、しかしそれはなくてもわかることであって、主となっているのは作者の好みであろうと思われる。この歌の日付も、歌を年代順に排列する上で、正確を期するためのものともいえるが、同じくそれほどの必要があるとは思われない。前の歌に引かれて記したものかもしれぬ。「高橋朝臣」は前にいった。作の日付を調べられるくらいなら、名は調べられたろうが、「審ならず」といっているのは解し難い。高橋氏は『新撰姓氏録』に出ており、孝元天皇の皇子大彦命の後であり、代々膳職にあった氏である。「奉膳」は、宮内省内膳司の長官の称で、職員令に、「奉膳二人、掌d惣2知御膳1進食先甞事u」とある。
(302)萬葉集 巻第四概説
一
本巻に収められている歌数は、三百九首であって、『国歌大観』の番号よりいえば、(四八四)より(七九二)までである。そのうち四首の重出歌がある。二首は巻第八、一首は巻第十四にもあるものであるが、残る一首すなわち(五一一)は、巻第一(四三)であって、明らかに本巻の撰者の責任となるべきものである。
歌体は、長歌七首、旋頭歌一首、他はすべて短歌で、三百一首にのぼっている。
部立は、相聞のみで、雑歌、挽歌は含んでいない。巻第三の概説でいったがように、巻第三、四は、巻第一、二にならって編纂《へんさん》したものであって、巻第三を、雑歌、譬喩歌、挽歌に当て、本巻を相聞に当てて、全体として呼応せしめているのである。もっとも巻第三の譬喩歌という部立は、新しい特殊なものであるが、これはその場合にいったがように、本質としては相聞であって、当然その部に含ましめるべきものであるのに、これに修辞的相異を求めて、強いて特殊なものとみなし、新しい一つの部立としたものである。その譬喩歌二十一首を、かりに本巻の三百九首に加えると、三百三十首という多数となる。巻第二に収められている相聞は、わずかに五十五首であるのを思うと、本巻の相聞のいかに著しくふえているかが注意される。
二
さらに以上の歌を、その制作年代からみると、巻首は、「難波天皇の妹、大和に在す皇兄に奉上れる御歌一首」に始まっている。これは巻第二の巻首「磐姫皇后、天皇を思ひたてまつる御作歌四首」にならって、さかのぼっての代の尊貴なる御方の歌をもってしようとした意図からのもので、特別なものとしてみるべきである。それについでは、飛鳥崗本朝、近江朝、藤原朝と、時代を追って降り、各時代の代表的歌人の作をもってして、最後に奈良朝に入って、聖武天皇久邇京時代、すなわち天平十二年十二月より同じく十六年二月難波遷都までの足かけ五年間の京時代の歌をもって終わっているのである。
注意されることは、時代と歌数との割当率である。奈良朝以前の歌は、その時代の長いにかかわらず、わずかに約三十首ほどにすぎず、しかも重出歌は、この範囲のものである。本巻全体よりの率からいえば、一割前後なのである。奈良朝に入ると、初期のものは七十首、二割強で、中期のものは二百首、全体の七割を占めているのである。約言すれば、奈良朝以前のものは、巻第一、二の拾遺にすぎない程度のものであり、重点は奈良朝(303)中期にあったのである。これは、資料を得る難易ということも関連していたのではないかと、一応は思われることであるが、一概にそうはいえないことである。奈良朝以前の歌は、何びとかが蒐集《しゆうしゆう》し書写した本によったものであることは明らかであるが、それらの参考本には、本巻のごとき歌の数え難いまで多くのあったことを、本巻以後の巻が証明しているからである。その点からみると、本巻に奈良朝以前の歌の少ないことは、巻第一、二の体裁にならって、時代順を追っての排列をしようと意図し、また、編纂者の編纂時代に重点を置こうと意図したからのことであって、資料を得る難易ということは関係のなかったことが知られる。
三
本巻は、編纂者がその編纂時代に重点を置いた巻であることは、上にいった。その編纂時代、すなわち奈良朝中期久邇京時代において、編纂者はいかなる作者の歌に最も重点を置いているか、言いかえれば、誰の歌を最も多く取っているかということは、このことを具体的に示すことになる。
第一に多く取っているのは、大伴家持で、六十余首である。奈良中期の相聞として二百首を取っている中でのこの数は、そこに特別な事情の伴っていたことを思わせずにはおかないものである。これらの歌は、ほとんど例外なくめざす相手があって贈ったもので、独り心をやるために詠んだものではない。したがってそこには、家持をめざして贈ってきた女性の歌があるわけである。この時代も深く相思う間でない限り、贈歌に対して必ず答歌があったのではなく、家持より贈っただけで答のないものがあるとともに、家持に贈っただけで、答を得られなかった女性もいるのであるが、とにかく、家持と関係した女性の歌は、著しく目につく。その代表的なものは笠女郎で、二十四首ある。大伴坂上郎女のものも十首ある。山口女王と中臣女郎とのおのおの五首、河内百枝娘子、巫部麻蘇娘子、粟田女娘子のおのおの二首、他に童女の歌もある。これらはすべて、今日からいえば消息文であり、しかも親展付きのものであって、家持以外の何びとも知ることのできない資料なのである。これら家持の直接関係のものを合すると百首となり、二百首の一半を占めることとなるのである。
転じて、家持の直接関係以外の歌をみると、時の帝聖武天皇が、何らかのつながりある女性に賜わった御製、そうした女性の天皇に献った歌との少数を除くと、きわだって目につくのは、大伴氏一族の間の相聞である。そのおもなるものは、第一は、大伴旅人が大宰帥として在任中、その下僚の事に触れての相聞、また、大納言に任ぜられて上京する際の惜別の相聞などであって、これらはその当時記録されていたものが、嫡子としての家持の手に伝わったものと思われる。第二は、大伴坂上郎女の数多い相聞であるが、これらは、その愛する甥であり、また聟ともなった家持に、その歌稿を示したであろうという推量は、さして無理のないものであろう。その他の一族の歌は、大伴氏に(304)おける家持の地位と、その歌好きの性情とから、これを耳にし得ることが難くはなかったろうと思われる。また、大伴氏以外の歌は、何らかの機縁を通じて、これを耳にし記録し得たろうと想像するほかはないのであるが、本巻に取ってある歌が、必ずしも奈良朝中期の代表的のものばかりではなく、相応に偏ったものである点からみて、この想像は、強いたものではないと思われるのである。
以上を要約すると、本巻の編纂者が、大伴家持であることは疑う余地のないことと思える。
四
最後に、本巻の歌風についていうべきであるが、奈良朝以前の歌はしばらくおき、編纂者が重点を置いている、奈良朝中期の歌についてだけ触れることとする。
奈良朝中期の人々が、心には、奈良朝以前の歌を重んじ慕い、常に愛誦して口につくまでになっていたにもかかわらず、自身詠み出す歌は、それらとは異なった新しい面に向かわせられていた消息をうかがわせる、恰好の材料がある。それは、この期間の人々の相聞の歌には、巻第十一、十二の、「古今相聞往来の歌の類の上下」と注記ある巻の歌を捉え、それにいささか手を加えて、自作の代用にしているものが、少なからずある。これはそれらの人々が、いかに前代の歌に溺れていたかを示していることでなくてはならない。今、特に目につくものとして、二つの例を挙げる。それは奈良朝中期の代表的歌人である大伴坂上郎女と笠女郎とであって、いずれも捉えている歌は、巻第十一に収められている作者未詳の歌(巻十四−三四七〇によれば柿本人麿歌集の歌)なのである。大伴坂上郎女は、本巻(六八六)で、
このごろに千歳や往きも過ぎぬると吾や然《しか》念《おも》ふ見まく欲《ほ》れかも
と詠んでいるが、これは巻第十一(二五三九)
相見ては千歳や去ぬる否をかも我や然《しか》念《も》ふ君待ち難《がて》にによったものであることは明らかである。作者未詳の歌も、女が逢い難くしている男を慕っての訴えで、郎女としては、まさに現在のわが心を言いつくしているものとして、捉えて代用させたことと思われる。これをそのままには用いず、改作をせずにはいられなかったところに、作者未詳の歌と郎女との相異がある。作者未詳の歌は、女が恋情が昂まり、心が乱れて夢中になった時のものであるが、さすがに一脈の分別心は保ち得て、疑問の助詞を三つまで重ねて、そうした気分をさながらにあらわしているのである。詠み方として見れば、時を瞬間的に切り縮め、純主観的に詠んでいるのである。恋情の上からいえば、こうした気分は一般的なものであって、それであればこそ郎女も、深く心を惹かれていたのである。しかるに、それをわが心として用いようとすると、原作の瞬間的なのを、「此の頃は」とやや久しきにわたった時間とし、それ以下も、そのやや久しい時間における自身の気分を説明するものという方法をとってい(305)るのであって、純主観的のものを、むしろ客観的に扱っているのである。作者未詳のものとは、一見酷似してはいるが、作歌態度としては対蹠的なまでに異なっているのである。言いかえれば、抒情を叙事に、詠歎を説明に、詩を散文に向かわしめようとしているといえる。
郎女は上の歌に続いて、次の歌を詠んでいる。
青山を横ぎる雲のいちしろく吾と咲《ゑ》まして人に知らゆな
夫婦関係を結んで間もない夫が、昼、多くの人中にいて、ふと自分のことを思って、思い出し笑いをして、人にそれと察しられるようなことがなかろうかと想像して、危ぶみ警めた心である。魅力ある歌で、郎女のものとしても勝れたものであるが、しかしこの想像そのものは、著しく客観的・物語的な匂いを帯びたものである。この二首を取ってみても、奈良朝中期の歌風が、奈良朝以前のそれに較べて、いかに異なった傾向を取っていたかがうかがわれる。
笠女郎も同様なことをしているのである。女郎が大伴家持に贈った歌の中に、
おもふにし死《しに》するものにあらませば千遍《ちたぴ》ぞ吾は死《し》にかへらまし(六〇三)
というがあるが、これも巻第十一、人麿歌集の、
恋するに死《しに》するものにあらませば我が身は千遍《ちたび》死反《しにかへ》らまし(二三九〇)
人麿歌集のものは、恋情の上でのきわめて一般的な嘆きであって、笠女郎もそれをさながらに受け入れ、自身を代弁するものとして、きわめていささかを変えてわが用を足さしめたのである。異なるところは、人麿歌集にあっては、恋の嘆きをする自身を大観し、人間そのものの嘆きを独語するがごとくに扱っており、したがってその調べは、太く緩やかに、力のこもったものとなっているのであるが、それをきわめていささか改めた女郎のものは、自身の恋の、急迫しての訴えとなり、感傷そのものとなっている。したがってその調べは、細く迫って、相手にまつわりつくものとなっている。人麿歌集の歌を深く慕いつつおのずからに距離のあるものとなっているのである。女郎はこの歌に続けて、
皆人を寝よとの鐘は打ちつれど君をし念《も》へば寝《い》ねかてぬかも(六〇七)
と詠んでいる。鐘は当時、奈良|京《みやこ》にあった官設の時の鐘である。歌としては、恋の悩みをしている女の、珍しいまでに素朴な形をもって詠んでいる、魅力の多いものであるが、我と甘えて、相手に甘え寄ろうとするもので、その時の心の閃きという範囲にとどまり、したがって調べの細く低いものとなっている。これはその慕っている人麿歌集の歌風から離れて行き、眼前の刺激に引かれつつ、深く思い入ることなく詠んでいるもので、その代わりには、奈良朝以前には見られなかった、清新にしてみずみずしい境を拓いているものである。
また、この時期には、歌の代作ということが、何のはばかるところもなく、おおっぴらに行なわれていたことが知られる。(五四三−五四五)に至る長歌と反歌とはその一例で、題は、(306)「神亀元年甲子冬十月、紀伊国に幸せる時、従駕の人に贈らむ為、娘子に誂《あとら》へらえて作れる歌一首井に短歌」で、作者は笠朝臣金村である。大意は、天皇の行幸の供奉に加わっているわが夫は、軽の路から畝火を見、真土山を越えて、紀伊国へ入り、おりからの黄葉の散るのを見るおもしろさに紛れて、しみじみとは我を思ってくれず、旅は好いものだと思いつついようと思うと、もっともだとは思うものの、さすがに妬ましくてじっとはしていられない。我も君の行った路を追って行こうと、何遍となく思うが、女子の旅行は許されていないので、関守に咎められたら、何と返事をしたものだろうかと思って、起ち上がっては見るがつまずいてしまう、というのである。作意は、行幸の供奉をした夫を、後に残っている妻の立場から思うという、常凡なことを物語的に構想し、中心は、旅のおもしろさに紛れて妻を忘れているだろうと思うと、嫉妬を感じて、じっとしてはいられないという恋情に伴う一種の心理に置いているもので、これはいちだんと物語的である。かうした微細な心理描写を眼目とすることは、中世の物語に至って起こってきたことなのに、金村はこの時代に、早くも歌において試みているのである。これは明らかに歌の散文化である。長歌はこの時代には、すでに古風な歌体となっていたのであるから、それを作る金村には、奈良朝以前の柿本人麿は、師表として厳存していたことと思われる。人麿も叙事はしているが、それは抒情を遂げさせようがためのものであって、ここに見るがような、物語的興味に乗っての叙事は、けっしてしてはいない。人麿とは作歌態度を異にして、全く新たなる方面へ向かったものである。
笠金村の行なったこの代作ということは、問題を含んでいることである。男女間の相聞の歌の根本をなすものは、男女互いに誠実を誓い合う言葉を歌をもってしたものである。夫妻居を別にして生活し、また一夫多妻を咎めなかった時代にあっては、誠実を誓い合い、またおりおりそれを繰り返し確かめ合うことは、実際生活上必要なことだったのである。男女の相聞の歌は、この必要を充たすために、歌という重んじられていた表現形式を用いたのであって、文芸品として作るものではなかったのである。他人に誂えて代作してもらうということは、その重要な事を涜《けが》すわざで、忌むべきことであったのはいうまでもない。笠金村というこの時代の代表的歌人が、そうしたことをおおっぴらに行なっているということは、男女の相聞の歌に対する観念が変わって来たところから起こってきたこととみるほかはない。上に挙げた大伴坂上郎女、笠女郎の、人麿歌集の歌をやや改めてわが用に供したということも、その意味では相通うところのあるものといわなくてはならない。いかに変わったかというと、わが魂の表象として、重い責任を負わせていた実用の歌を、わが魂からはある遊離をもった、興味を主とした文芸に変えたのである。もしそこに実用の意があるとすれば、媚態を通し、あるいは感傷を通しての哀訴によって、その相手を動かすことである。それが真実から遠ざかる結果を生むのは当然である。このことは、古来、男女の相聞の歌にまつわっていた一種の信仰を切り離し、歌を興味よりのものとして、それをしてほ(307)しいままにふるまい得るものとしたことであな。
歌風は、奈良朝以前と奈良朝とは変わり、奈良朝としても初期と中期とは変わっている。これは歌がそれ自体の力をもって変わったのではなく、時代の生活情調が変わらしめたのである。歌に限らず、一切の興味の対象となるものは、その時代の生活情調に調和し得て、親しさを感じさせうるものが存し、しからざるものは亡びてゆく。歌風ももとよりそれであって、一代の歌風はその時代の生活情調の造り出すもので、その反映である。有識階級の知識のほぼ一定していたと思われるこの時代にあっては、その反映としての歌風は、おのずから単一で、また強力でもある。奈良朝中期の生活情調は、これを奈良朝以前に較べると、はるかに安易な、むしろ惰容をもったものであったことは明らかである。そのことは、前代の、内には国家の統一力を伸張させねばならず、外には大陸に対する警戒もゆるがせにはできない必要に駆られ、有識階級は一団となって事に当たろうとしていたのが、この時代には、それらもひとまず安堵のできる情勢となり、代わっての問題は、皇室を繞っている旧来の豪族が、何らかの方法でその勢力を張ろうとすることに移っていた。また一方には、古来の信仰はしだいに衰えてきたが、新しい信仰は実際には力を帯びてこず、念とするところは、大陸文化の模倣で、その上で相競い合っているありさまであった。約言すれば、集団的だったものが個人的に、信仰的だったものが物質的になり、そこから醸し出されてくる生活情調が、歌にあっては、その好尚を変えさせ、歌風をも変えさせたのである。奈良朝中邦の歌風は、上にいったがごときものにならざるを得ずしてなったものだったのである。
五
歌風と直接のつながりをもったことではないが、しかし切り離し難いことで、問題とせずにはいられないことがある。それは、本巻というよりも、本巻の奈良朝中期の歌になると、編纂者は、同じ作者の歌の何首かを、ひとまとめとして採録しており、しかもその作者は、歌人として必ずしも有力者であることを目標としていない趣があって、このことは著しく目につくこととなっている。これは巻第三にもすでにその趣の見えていたことであるが、そちらはきわめて少数の選ばれた人に限られており、したがってその作品もすぐれているところから、おのずから自然に感じられたのであるが、本巻の中期の歌は、その時を撤して、自由に行なっている趣があらわなので、注意せずにはいられなくなっているのである。
二、三の例を挙げると、(六三一−六四二)に至る十二首は湯原王と娘子との、ある期間にわたっての相聞の歌をひとまとめにしたものである。それは何らの事件も伴わない、平和な恋愛関係であって、強いて事件を求めれば、王が一度娘子をその家から連れ出して、よそで宿ったことがあるにすぎない。しかし十二首を通読すると、それを貫き流れている平和な気分が、一種の興味となって感じられてくる。これは一首一首の歌のもつ(308)興味とは別種なものである。いかなる興味かといえば、人間生活の時間的推移からくる興味で、言いかえれば物語的興味なのである。
また、(五八七−六一〇)の二十四首は、笠女郎から大伴家持に、ある期間にわたって贈ってきた歌を、ひとまとめにしたものである。女郎は非凡なる歌才をもった人で、その一首一首がそれぞれ興味あるものではあるが、全部を通読すると、これまた別種の興味が添ってくる。それは女郎は家持と関係は結んだが、家持は疎遠にして、足を遠ざけがちである。女郎は懊悩し、家持の通って来よいようにと、奈良京の外にあった住まいを京の内に移し、深い媚を湛えての訴えを繰り返し贈るのであるが、家持は前どおり親しんでこない。最後には、家持の家の見える奈良山に登って、心やりに眺めもして、それを歌にして贈ったが、やはり反応がない。最後には怒りを発し、捨てぜりふに類した歌を贈って、その采邑《さいゆう》のあったかと思われる伊勢国へ去ったが、またそこから諦めきれない訴えをするまでの推移が、二十四首を通して、余情をもちつつも明らかに感じられてくる。これもまた湯原王の場合と同じく、歌をひとまとめにすることによって添ってくる物語的興味である。
これらは代表的なものであるが、そのほかにも、大伴家持がその妻とした大伴坂上大嬢に贈った十五首、また娘子に贈った七首、大伴坂上郎女の七首ひとまとめのもの、また五首のもの、それ以下のものは、挙げるに堪えないまでである。
これらすべては、歌によって物語的興味を充たそうとする要求から起こったもので、歌の散文化といえるものである。この事は奈良朝初期の大伴旅人、山上憶良などによって、すでに意図的に試みられていたことであるが、それが中期に至ると、家持によって継承され、ますます流行してきたものである。天平の無事泰平な代に生活していた人々は、周囲の人事も、自身のことも、時間的観点に立って、静かに眺め味わうことが興味となり、好尚ともなって、それがこうした、やや久しい期間にわたってのある人のある事件に対しての歌を、ひとまとめにして見る興味を誘致したことと思われる。大伴家持としては、これが後にその歌日記にまで進展したのであるといえる。
〔目次省略〕
(318) 相聞
【標目】 「相聞」は、巻二に出た。この巻は全部を相聞に当ててある。
難波天皇《なにはのすめらみこと》の妹、《いろと》大和に在《いま》す皇兄《いろせ》に奉上《たてまつ》れる御歌一首
【題意】 「難波天皇」は、難波を京とし給える天皇で、難波宮御宇天皇の意である。そのことをなされた天皇は、仁徳、孝徳の二天皇であるが、ここは、これにつぐ舒明天皇の御製があるので、年次の関係上、仁徳天皇である。「妹」と「皇兄」とは、いずれも天皇を主としての称で、応神天皇の皇女皇子である。天皇には皇子皇女あわせて二十五王あるいは六王が在した。「妹」はどなたともわからないが、「皇兄」のほうは、応神紀によると、皇后の御姉高城入姫の生んだ額田大中彦皇子があられたので、この皇子であろう。御名の「額田」を地名よりのものとすると、『和名抄』郷名に、「大和国平群郡額田 奴加多」があるから、そこと取れ、それだと「大和」に関係もつくこととなる。
484 一日《ひとひ》こそ 人《ひと》も待《ま》ちよき 長《なが》きけを かくのみ待《ま》たば ありかつましじ
一日社 人母待吉 長氣乎 如此耳待者 有不得勝
【語釈】 ○一日こそ人も待ちよき 原文「吉」は、元暦本をはじめ四本にあるものである。西本願寺本などは「告」で、旧訓「待ち告げ」。『代匠記』が、「吉」ならば、「待ち吉《よ》し」としたのを、『新訓』が「待ち吉き」と改めた。「よき」は連体形で、「こそ」の係の結。「こそ」を連体形で結ぶのは、古格である。一日だけの間ならば、誰も待ちよいことであるで、ここで段落。○長きけをかくのみ待たば 「長きけ」は、「長き」は、下の続きで、数多くということを具象化したものと取れる。「け」は、「日《カ》」の転音で、日《ひ》。「待たば」は、原文「所待者」、旧訓「待たるれば」。『玉の小琴』は、「所」を「耳」の誤写とし、「かくのみ待たば」と改めている。「所」は諸本異同のないものであるが、事としては未来の予想であり、結句の「ましじ」に応ずべきものでもあるので、今はこれに従う。このようにばかり待つのでは。○ありかつましじ 巻二(九四)に出た。「かつ」は、堪う、得の意。「ましじ」は、否定推量の助動詞。生きているに堪えられないであろう。
【釈】 一日だけの間ならば、誰も待ちよいことである。多くの日を、このようにのみ待つのでは、我は苦しさに生きているに堪(319)えられないであろう。
【評】 題詞に従えば、難波京に在らせらるべき額田大中彦皇子が、その采地である大和国の額田に往かれ、久しく還って来られないのを嘆いて、異母妹の伉儷《こうれい》関係になっていられる皇女の贈られた歌ということになる。一首の歌としては、心は常識的のものであり、形は素朴な、したがって重厚な趣をもったものであって、古風をもったものである。制作時代の上からいえば、巻二の巻首の磐姫皇后の御歌と同時代であって、相並んで集中の最古のものである。この歌は、歌としては、磐姫皇后の御歌とは異なって、制作年代を疑うべき理由のないものである。しかし作者としての皇女の御名の伝わっていないことは、ある曖昧さのあると見ざるを得ないことであり、また古風というだけで、何ら特殊のものをもっていないものなのである。古い一民謡で、作者はいわゆる起源伝説にょって守られてきたものでないともいえないものである。撰者としては、それらの点には触れようとせず、作者の高貴に、時代の古いことを幸いとして、巻二の巻首の磐姫皇后の御歌に匹敵しうるものとして、巻首に据えたものかと思われる。
崗本天皇《をかもとのすめらみこと》の御製一首 并に短歌
【題意】 「崗本天皇」は、高市崗本宮御宇天皇で、舒明天皇を申す。天皇の御事は、巻一(二)に出た。この御製は、女性の立場に立ってのものとみえるので、おのずから問題を含むものである。その関係よりか、左注が添っている。
485 神代《かみよ》より 生《あ》れ継《つ》ぎ来《く》れば 人多《ひとさは》に 国《くに》には満《み》ちて 味《あぢ》むらの 去来《いざ》とは行《ゆ》けど 吾《あ》が恋《こ》ふる 君《きみ》にしあらねば 昼《ひる》は日《ひ》のくるるまで 夜《よる》は 夜《よ》の明《あ》くるきはみ 念《おも》ひつつ 寐《い》も宿難《ねが》てにと あかしつらくも 長《なが》き此《こ》の夜《よ》を
神代從 生繼來者 人多 國尓波満而 味村乃 去來者行跡 吾戀流 君尓之不有者 晝波 日乃久流留麻弖 夜者 夜之明流寸食 念乍 麻宿難尓登 阿可思通良久茂 長此夜乎
【語釈】 ○神代より生れ継ぎ来れば 「神代より」は、天地開闢の時よりの意を、具象的にいったもの。「生れ継ぎ」は、「生れ」は、「生みあれ」の約で、「生み」も「あれ」も同義で、生まれる意。「継ぎ」は、継続。生まれ続けて。〇人多に国には満ちて 「人」は、住民。「多に」は、多くで、(320)「満ち」に続く副詞。「国」は、国土。「満ち」は、充満して。人が多く、この国土に満ちているけれども。これと類想のものが、民謡集である巻十三(三二四八)「敷島の日本《やまと》の国に、人さはに満ちてあれども」があり、それに続けて、「藤浪の思ひまつはり、若草の思ひつきにし、君が目に恋ひや明かさむ、長きこの夜を」とある。この二句はもとより、全体としても通うところのあるものである。○味むらの去来とは行けど 「味むら」は、味鴨《あじかも》の群れ。この鴨は渡り鳥で、冬季わが国に来るものである。巴鴨《ともえがも》ともいう。顔部に巴形の斑紋があるところからの名で、したがって印象的である。「の」は、のごとくの意のもの。群れをなしている習性のあるところから、それを誘《いざな》い合ってのことと見、誘う意の「いざ」に、譬喩の意をもって続け、また、騒がしく見えるところから「騒ぐ」にも続ける枕詞。ここは「いざ」に続けたもの。譬喩の意の枕詞であるから、譬喩とも見られるものである。「去来《いざ》とは行けど」は、「去来」は、旧訓。『仙覚抄』の訓である。巻十(二一〇三)「秋風は涼しくなりぬ馬|並《な》めて去来《いざ》野に行かな萩の花見に」の用例がある。「いざ」は、誘う意の感動詞。いざと誘っては往くけれどもで、人々の睦ましげに路を行く状態を、羨みの心をもっていったもの。○吾が恋ふる君にしあらねば 「吾が恋ふる」は、わが憧れている。「君」は、男女間にあっては、妻より夫を呼ぶ称で、ここもそれである。「し」は、強め。○昼は日のくるるまで 「日のくるるまで」は、終日という意を感覚的にいったもの。○夜は夜の明くるきはみ 「きはみ」は、極みで、果て。果てまでの意で、下へ続く。二句、上の二句と対句となっている。○念ひつつ寐も宿難てにと 「念ひつつ」は、嘆き続けて。「寐も宿難てに」は、「寐も宿」は、「寐」は眠る意。「も」は詠歎。「難て」は得《う》の意。「に」は打消「ぬ」の連用形で、下に意を含めたもの。「と」は、上をとりまとめて、下の修飾格としているもの。寐ても眠り得ない状態での意。○あかしつらくも長き此の夜を 「あかしつらく」は、「あかしつる」に「く」を添えて名詞形としたもの。「も」は、詠歎。明かしたことであるよ。「長き此の夜を」は、秋より冬へかけての夜の長い時をいったのであるが、長さは苦しさを含蓄としたもの。この結末は、七七七という形となっている。これは巻十六(三八八五)「乞食者《ほがひぴと》の詠《うた》」の結末が、七七七七七となっているのに近いもので、他には例のないものである。
【釈】 天地開闢の神代の昔から、生まれ続いてきているので、人が多くこの国土に充満していて、いざといって誘《いざな》って睦ましげに路を歩いているけれども、それらの人はわが憧れる背の君ではないので、吾は昼は日の暮れるまで終日を、夜は夜の明ける果てまでも嘆きを続けて、寐ても眠り得ない状態で、明かしたことであるよ。長いこの夜を。
【評】 この歌が、崗本天皇の御製歌であるということには、拠るべき伝えのあったことと思われる。しかしこの歌は、伝えそのものの上に疑いを挟みうるものをもっている。その第一は、この歌は明らかに女性の立場に立っての作で全体としての心も、その夫を待って待ち得ずにいる、久しい嘆きをいったものであり、ことに「君」という代名詞を用いているのは、そのことを確かめうるものである。その第二には、天皇の御製歌は、巻一(二)「天皇 香具山に登りて望国《くにみ》したまひし時の御製歌」があり、御心がおおらかに、明るく、御言葉は単純であるが、洗煉を極めた、含蓄のあるもので、御格調も悠揚迫らざるもので、尊貴なる御風格を偲ばせるものである。それに較べるとこの歌は、すべての点においてあまりにも趣を異にしていて、その一点においても相通うところのないものである。その第三には、この歌は民謡の匂いが濃厚である。起首の「人多に国には満ちて」は、いったがように巻十三の民謡、「敷島の日本の国に、人さはに満ちてあれども」と通うもので、民謡の成句という感の(321)おおい難いものである。その「人多に」をいうために、「神代より生れ継ぎ来れば」と知性的な説明を添えているのは、むしろ巻十三のものよりも後のものという感さえ起こさせる。また、結末の七七七という形も、いったがように謡い物に限った形である。「昼は日のくるるまで、夜は夜の明くるきはみ」という対句は、心としては用例の多いものであるが、この対句は庶民的な匂いを帯びたものといえる。さらにその第四には、舒明天皇時代の長歌には、二首の反歌を添えたというものはなく、一方民謡には比較的多くそれがあり、またその反歌は、長歌よりの飛躍が多く、その関係の曖味なものである。ことに反歌の第二のものは、この歌にあっては飛躍の多いものである。以上はおのずから問題となってくるもので、この歌を御製歌とする伝えに対して疑いを挟ましめるものである。この歌には左注があって、女性の歌ではないかとして疑っているがようであるが、それはおそらく撰者自身の添えたもので、撰者もある疑いをもったものと思われる。それにもかかわらずこの歌を採録したのは、この巻を重からしめるために、巻一(二)に准じて、崗本天皇御製歌という伝えのあるままに、第二首目に採録したのではないかと思われる。
反歌
486 山《やま》のはに 味《あぢ》むら騒《さわ》き 去《ゆ》くなれど 吾《われ》はさぶしゑ 君《きみ》にしあらねば
山羽尓 味村驂 去奈礼騰 吾者左夫思恵 君二四不在者
【語釈】 ○山のはに 山の端に向かって。味は水禽であるから、山またはその近い所の塒《ねぐら》に向かって飛ぶと取れる。時刻も夕方であろう。○味むら騒き去くなれど 「騒き」は、群れて飛ぶ羽音で、鳴き声もまじっていよう。○吾はさぶしゑ 「さぶし」は、楽しくない意。「ゑ」は、詠歎の助詞。○君にしあらねば 長歌に出た。味むらによって夫君を連想したもの。
【釈】 山の端に向かって、味の群れが騒がしく飛んで行くけれども、吾は楽しくはないことよ。それは夫君ではないので。
【評】 反歌は、長歌の「味むらの去来とは行けど、吾が恋ふる君にしあらねば」という主要な部分を操り返したものである。しかしこちらの「味むら」は、枕詞としてのものではなく、実景である。味は冬季の鳥であり、また、山の端へ群れて飛ぶのは、たぶん塒を求めるためであろうから、冬の夕方の最もさみしい時刻である。その群れて行くさまと、騒がしい音や声を聞くと、それが刺激になって、にわかにさみしい心を起こし、そのさみしさに引かれて、味むらと君とを比較するという、感性によってのみ起こる心をもったのである。これは明らかに飛躍であるが、心理的には肯けるものである。これを一首の歌として見ると、独立性のやや稀薄なもので、長歌の繰り返しとすることによって価値をもつものである。これは民謡に共通な事柄(322)である。この、知性が見えず、純感性的なものであることは、庶民的であり、民謡的であることを思わせる。
487 淡海路《あふみぢ》の 鳥籠《とこ》の山《やま》なる 不知哉川《いさやがは》 けのころごろは 恋《こ》ひつつもあらむ
淡海路乃 鳥籠之山有 不知哉川 氣乃己呂其侶波 戀乍裳將有
【語釈】 ○淡海路の鳥籠の山なる不知哉川 「淡海路の」は、「淡海」は、国としての近江で、琵琶湖によっての名。「路」は、このように地名の下にただちに添ったものは、その土地へ通ずる街道の意と、土地そのものをあらわす意とに用いられている。ここは後のもので、近江の土地のの意。「鳥籠の山なる不知哉川」は、鳥籠の山にあるところの不知哉川の意で、鳥籠の山は、不知哉川の位置を示しているものである。不知哉川が鳥籠の山から発しているとも、その裾を流れているとも取れる。この山の名も川の名も、古くから忘れられてしまって伝わってはいず、したがって考証が重ねられている。どちらも、今の滋賀県犬上郡にあり、「不知哉川」は、今の大堀川(芹川ともいう)の旧名で、霊仙山の南西芹谷村から発し、西流して正法寺山(鳥籠山)の南西を流れ、彦根市の西に至って琵琶湖に注ぐというのである。鳥籠山を正法寺山とするについては異説があって定まっていない。この三句の解、すなわち下への続きは、諸注それぞれで、かなりに距離のあるものである。大別すると三様で、第一は、この三句を「け」の序詞と見るものである。それは原文「気」は、水の気《き》で、霧であり、その気《き》を気《け》とし、時の意に転じての序詞だというのである。『代匠記』、宣長、『古義』などがそれであり、『考』『新考』『新釈』など、『代匠記』とは異なっているが、序詞と見ていることは同様である。第二は、対手の人の近江へ行っているがゆえに、その人になぞらえてそこの土地をいったものとする解で、『攷証』がそれをいい、『新考』『新釈』なども、一方ではそれも取入れている。第三は、「いさや河といふ地名を、やがて女の情をいさ不知《しらず》といふにとりなし給へり」という『略解』の解である。これは、巻十一(二七一〇)「犬上の鳥籠の山なるいさや河|不知《いさ》とを聞《きこ》せ我名|告《の》らすな」があり、それを心に置いての解と取れる。「いさ」は「さあ」にあたる感動詞で、「さあ、知らない」の意の語であり、この歌は夫が妻に、わが名を包めと命じたものである。また巻十一は、やや古い時代の謡い物であるから、この歌も広く流布し、一般化していたものと思われる。この歌では「いさや河」は、畳音の関係で「不知《いさ》」にかかる序となっているもので、初句より三句までは明らかに序詞である。しかるにここの歌は、形としては酷似しているが、序詞として下へ続くものではなく、初句より三句までで一段をなしており、「不知哉川《いさやがは》」によって「不知《いさ》」ということを暗示させているものと取れる。地名に含蓄をもたせようとするのは伝統的なことである上に、巻十一の歌もあるので、これは自然なことに思える。『略解』の解があたっていると思われる。すなわち、近江の土地にある、鳥籠の山の麓を流れる不知哉川という名のごとく、我も君の心は知らないというのて、疎くなっている夫に対して、その妻のもつ不安をいったもの。○けのころごろは恋ひつつもあらむ 「けのころごろは」は、「け」は、日。「ころごろ」は、頃を重ねたもので、「ねもころ」を「ねもころごろ」といっている類である。この頃の間はの意。「恋ひつつもあらむ」は、憧れつづけていようで、「も」は詠歎。
【釈】 近江の土地の鳥籠の山にある不知哉川という名の、我も君の心を不知《いさ》と思うことよ。しかしこの頃の間は、憧れつづけてもいよう。
(323)【評】 これは疎くなってきた夫に対する妻の心で、一段では、夫の真実のほどの頼めないことの嘆きを、成句を借りて婉曲にいい、二段では、思い返して、今しばらくの間は、今までどおりに憧れつづけていようというのである。すなわち妻として動揺している心をいったものである。これは、当時の夫婦関係にあってはきわめて例の多い、一般性をもったものである。初句より三句までは、美しい言い方で、文芸的なものに感じられるが、これはすでに巻十一の歌があった後のもので、成句を借りたにすぎないものと思われる。したがって「不知哉川」にもたせている含蓄は、感性よりの飛躍であって、意識しての文芸性ではなく思われる。それは、これに続けるに、「けのころごろは」という、古風にして素朴な、一見不調和な句をもってしている点からも思われる。また、この四句は、民謡ということも思わせるものである。この反歌は、夫に対する不安という意味では、上の長歌と反歌とにつながりうるところがあるが、その遊離したものであることは一見明らかで、また独立しても存在しうる歌である。後より付加されたものと取れる。
右、今案ずるに、高市崗本宮、後崗本宮、二代二帝各異なり。但崗本天皇と称《い》へる、いまだその指す所を審にせず。
右、今案、高市崗本宮、後崗本宮、二代二帝各有v異焉。但※[人偏+稱の旁]2崗本天皇1、未v審2其指1。
【解】 「高市崗本宮」は、舒明天皇の皇居、「後崗本宮」は、天皇の皇后にして、後に即位された斉明天皇の皇居で、所は同じ崗本であるが、天皇はそのいずれにましますか審かでないとの注である。
額田王《ぬかだのおほきみ》、近江天皇《あふみのすめらみこと》を思《しの》ひて作れる歌一首
【題意】 「額田王」は、巻一(七)を初め、しばしば出た。「近江天皇」は、近江の大津宮にましました天智天皇である。
488 君《きみ》待《ま》つと 吾《わ》が恋《こ》ひ居《を》れば 我《わ》が屋戸《やど》の 簾《すだれ》動《うご》かし 秋《あき》の風《かぜ》吹《ふ》く
君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹
【語釈】 ○君待つと吾が恋ひ居れば 「君待つと」は、「君」は、天皇。「待つ」は、天皇の宮以外の屋に住み、お通いになるのを待つ意。「と」は、(324)として。「吾が恋ひ居れば」は、わが憧れていれば。○我が屋戸の簾動かし 「屋戸」は、ここは屋の戸で、下の簾の位置をいったもの。戸口のというにあたる。「簾動かし」は、「簾」は、竹で編んだ物。○秋の風吹く 「秋の風」は、そのおりの風である。
【釈】 君の通って来られるのを待つとして、わが憧れていれば、わが戸口に垂れてある簾を動かして、秋の風が吹く。
【評】 君が来られはしないかと心待ちにしているおりから、戸口の簾を動かすものがあるので、まさに君かと思って見ると、それは秋風であるというので、一瞬間の昂奮と失望との交錯した、捉えやすきに似て、実は捉えては言い難い気分である。この歌は、「君待つと吾が恋ひ居れば」という主観と、「我が屋戸の簾動かし秋の風吹く」という客観の状態とが微妙に融合して、その一瞬間の気分を、余すなくあらわしつくしている。これは、感動をもった自分を客観化したことではあるが、むしろ心情の具象化というべきもので、それとこれとが微妙に一致したものである。感動の大きい場合には比較的できることであるが、これほどの小さな感動によってするということは、選ばれた少数の高手の者によってのみなされることである。素朴に、平淡に詠んであり、しかも余裕さえ示しているものであるが、額田王の作歌の力量を示している歌の一首といえるものである。
鏡王女《かがみのおほきみ》の作れる歌一首
【題意】 「鏡王女」は、巻二(九一)より(九三)にわたって出ている。藤原鎌足の嫡室となった人である。この歌は、上の歌に和《こた》えたものである。
489 風《かぜ》をだに 恋《こ》ふるは乏《とも》し 風《かぜ》をだに 来《こ》むとし待《ま》たば 何《なに》か嘆《なげ》かむ
風乎太尓 戀流波乏之 風小谷 將來登時待者 何香將嘆
【語釈】 ○風をだに恋ふるは乏し 「風をだに」は、「だに」は軽きを挙げて、重きを言外に置く助詞で、風をだけでも。この風は簾を動かして、額田王を思い誤らしめたもの。「恋ふるは乏し」は、「恋(325)ふるは」は、額田王が、君が来ましたのかと思って、心を動かしたことをいったもの。「乏し」は、ここは、羨ましの意のもので、羨むのは、鏡王女である。風をだけでも、御身は君が来ましたのかと心を動かすので、我は羨ましい。○風をだに来むとし待たば 風をだけでも、君が来ますのだろうかと思って待つようであったらば。○何か嘆かむ 何を嘆こうかで、三句以下は鏡王女の嘆き。
【釈】 風をだけでも、君が来ましたのではないかと御身の心を動かすのは、我には羨ましい。その風をだけでも、我はもし、君が来ますのではなかろうかと思って待つようであったら、何を嘆こうか。
【評】 上の額田王の歌に対して和えたものである。人が歌を詠むと、傍らにある人はそれに対して和えるのが当時の風であったから、その時はたぶん一緒におられたものと思われる。また和え歌は、前の唱え歌の語に関係させるのが風習であるから、「秋の風吹く」を捉えて和えたのである。歌は、失望した額田王を慰める心のものであろうが、形としては、慰めより羨みが主となり、羨みよりも自身の嘆きの方が主となっているものである。「風をだに恋ふるは乏し」と、額田王のほうをいって一段とし、「風をだに来むとし待たば何か嘆かむ」と、同じく「風をだに」を繰り返して、今度は自身の嘆きをいい、相対させ、相比較しているところ、大体は女性の嫉妬の感情であるが、歌としての構成はきわめて知性的であり、また語に対する感性が鋭敏であって、額田王と異なる風格を示しているものである。近江朝時代の高貴の方々の文藻を思わせるものである。
吹※[草がんむり/欠]刀自《ふぶきのとじ》の歌二首
【題意】 吹※[草がんむり/欠]刀自は、巻一(二二)に出た。「吹※[草がんむり/欠]」は氏、「刀自」は宮女、老女、また一般の女子にもいう称で、女性とみえるが、ここの第一の歌には「妹」という語があり、男性と取れる。もっとも第二の歌は女性のものである。『攷証』は、男性としているが、『略解』は女性の歌としている。後に譲る。
490 真野《まの》の浦《うら》の よどの継橋《つぎはし》 情《こころ》ゆも 思《おも》へや妹《いも》が いめにし見《み》ゆる
眞野之浦乃 与騰乃繼橋 情由毛 思哉妹之 伊目尓之所見
【語釈】 ○真野の浦のよどの継橋 「真野の浦」は、真野の海の浦で、摂津国武庫郡。今の神戸市に属し、長田の南に接した所。「よど」は、水の澱んでいる所の称。「継橋」は、考証すべき記録がない。『代匠記』は、普通の橋とはちがい、水中に橋材を立て、水量の普通な時は、その上へ板を渡して渡り、水量の増した時は取りはずすようにしたものだろうという。巻十四(三三八七)「足音《あのおと》せず行かむ駒もが葛飾《かづしか》の真間《まま》の継橋|止《や》まず通はむ」は、そうした橋は当然のこととして、橋板が高く鳴るので、この解を支持するものとなる。この二句は、四句「思へや」へかかり、「継橋」(326)の「継ぎ」によって「継ぎて」ということを暗示させているものである。この関係は、上の(四八七)の「不知哉川《いさやがは》」の「不知」と同様である。またこの二句は、下の「妹」の家のあたりの物として捉えていると取れる。○情ゆも思へや妹が 「情ゆ」は心より。「思へや」は、後の「思へばや」にあたる古格。「妹が」は、心としては次の句に続く。意は、妹が、心より我を思うのであろうか、その妹がの意で、先方でこちらを思うと、こちらの夢に見えてくるという信仰の上に立つてのもの。○いめにし見ゆる 「いめ」は、夢。「し」は強め。「見ゆる」は、「妹が」の「が」の結で、連体形。
【釈】 真野の浦の澱にかかっている継橋の、継いで、妹が心より我を思っているのであろうか、その妹がわが夢に見えることであるよ。
【評】 これは男の歌である。諸注、誤字説、または男同志でも「妹」と言いうることを説きなどしているが、『略解』は、夫より吹※[草がんむり/欠]刀自に贈ったもので、次の歌は、刀自のこれに対しての和え歌であろうといっている。最も穏やかに聞こえる。歌としては、当時の夢の信仰の上に立ったものであるが、そうした心に伴いやすい感傷的なところがないのみならず、「真野の浦のよどの継橋」という序詞によって、おのずから客観化され、むしろ重厚味をもったものとなっている。またこの序詞は、序詞そのものの中に意味をこもらせた特殊なもので、しかもそれを意識的に行なっているものであるが、その語《ことば》に対する感性は、一首全体の上にも行なわれていて、語の続きが緊密であり、それが重厚味をかもし出す上にも大きく働いている。際立ったものではないが、快い歌である。
491 河《かは》の《へ》上の いつ藻《も》の花《はな》の 何時《いつ》も何時《いつ》も 来《き》ませ我《わ》が背子《せこ》 時《とき》じけめやも
河上乃 伊都藻之花乃 何時々々 來益我背子 時自異目八方
【語釈】 ○河の上のいつ藻の花の 「河の上」は、河のほとりで、ほとりは中に対しての意。「いつ藻」は五百箇藻《いほつも》で、繁った藻の意であろうと『代匠記』がいい、諸注従っている。「厳橿《いつがし》」「いつ柴」など類語がある。二句、同音の関係で「何時も」にかかる序詞。○何時も何時も来ませ我が背子 「来ませ」は、来よの意の敬語。妻のわが家へ通って来たまえの意。「我が背子」は、「背」に、「我が」と「子」とを添えて、深い親愛をあらわした称で、これは呼びかけ。○時じけめやも 「時じけ」は、形容詞の未然形で、「時じく」は巻一(六)を初めしばしば出た。その時ではないの意。「め」は推量の助動詞「む」の已然形。「や」は、「め」を承けて反語をなしたもの。「も」は詠歎。その時でないという時があろうか、ないの意で、「何時も何時も」を語を換えて繰り返したもの。
【釈】 河のほとりのいつ藻の花の、そのいつもいつも通って来たまえよわが背子よ。その時ではないという時などあろうか、あ(327)りはしない。
【評】 吹※[草がんむり/欠]刀自から、その夫へ和えた歌である。この歌で見ると、夫の許から、通って行こうとするにつき、あらかじめ都合をたずねてきたのに対しての和えと取れる。心としては、夫に信頼しきったもので、形は明るく、柔らかく、謡い物の匂いをもったものである。この形は媚態を感じさせるべきものであるが、それほどに感じさせないのは、「河の上のいつ藻の花の」という序詞があるためで、この序詞は一首の上に大きく働いているものである。「いつ藻」を『代匠記』の解するごときものとすると、この序詞は刀自の作ったもので、たぶんその家のある地の河の藻に花の咲く、季節の実景を捉えたのであろう。巻一(二二)「河の上の斎つ巌群に草むさず」の作者とすると、これはたやすいことであったと思われる。
田部忌寸櫟子《たべのいみきいちひこ》、大宰に任《まけ》らるる時の歌四首
【題意】 「田部忌寸櫟子」は、「田部」は氏、「忌寸」は姓、「櫟子」は名である。田部の氏は史上に見えるが『新撰姓氏録』には見えず、父祖も伝も不明である。「大宰に任らる」は、大宰府の官人に任ぜられたことであるが、記録の見えないところから、低い官であったと思われる。「四首」は、別れの際の歌を一括しての数で、半分は女の歌である。
492 衣手《ころもで》に 取《と》りとどこほり 哭《な》く児《こ》にも まされる吾《われ》を 置《お》きて如何《いか》にせむ 舎人吉年
衣手尓 取等騰己保里 哭兒尓毛 益有吾乎 置而如何將爲 舎人吉年
【語釈】 ○衣手に取りとどこほり 「衣手」は、袖。当時は筒袖であり、やや長い物であったから、その袖口の部分。「取りとどこほり」は、「取り」は、取縋る意。「とどこほり」は、滞りで、絡んで離れない意。下の「哭く児」の状態をいったもので、「衣手」は母の物。○哭く児にも 「哭く児にも」は、「哭く」は、母を慕ってのことで、「児」は、幼児。「にも」は、よりも。○まされる吾を 「まされる」は、慕う程度のまさっているで、「吾」は、作者。○置きて如何にせむ 「置きて」は、後《あと》に残すことで、残すのは旅立つ人。「如何にせむ」は、どうしようとするのかで、どうにでもなれというのかの意。○舎人吉年 作者の氏名。これは寛永本にはないが、元暦本、類聚古集など五本にはあるものである。この人は巻二(一五二)に出ており、そこでは天智天皇の御代の後宮の一婦人である。今は櫟子の妻と見える。
【釈】 衣の袖口に取縋り絡みついて、母を慕って哭いている幼児にもまさって、君を慕っている我を後に残して、君は我をどうしようとするのであるか。
【評】 別れを惜しむというよりも、別れの悲しみに身も世もなくなっての訴えである。しかしこの悲しみは、歌を通して感じ(328)られるもので、主として「衣手に取りとどこほり哭く児にも」という譬喩の哀切さからき、ついでは、「置きて如何にせむ」のもつ含蓄からくるものである。この譬喩は適切なもので、「取りとどこほり」は味わいの多いものである。女性によって初めて捉えられる譬喩である。夫の官人であるということも、自身の官人の妻であるということも、全く念頭に上らない態度の歌であることが注意される。
493 置《お》きて行《ゆ》かば 妹《いも》恋《こ》ひむかも 敷妙《しきたへ》の 黒髪《くろかみ》しきて 長《なが》き此《こ》の夜《よ》を 田部忌寸櫟子
置而行者 妹將戀可聞 敷細乃 黒髪布而 長此夜乎 田部忌寸櫟子
【語釈】 ○置きて行かば妹恋ひむかも 「置きて行かば」は、後に残してわが大宰府へ行ったならば。「妹恋ひむかも」は、妹が我を恋うであろうかで、「かも」は疑問。○敷妙の黒髪しきて 「敷妙の」は、ここは形としては枕詞とみえるが、それとしては、「黒髪」に続けるのは例のないものである。「敷妙」の「敷」は繁きの意で、繁きは織目の形容で、粗《あら》い物に対してその細かさを讃えた語である。その点から、転じて美しい意の具象語となり、「敷妙の子」「敷妙の宅《いへ》」などとも用いられている。ここも同じ意味で黒髪に続けていると取れる。これは『冠辞考』の解で、それだと冠辞すなわち枕詞と見るよりも、「黒髪」の形容語と見て、敷妙のごとく美しいと解すべきであろう。「黒髪しきて」は、女は、夜は髪を床の上に靡けて寐るのが普通で、「しきて」は布きてで、夫を来させるまじないとしてのこと。当時の信仰よりのことである。○長き此の夜を 「長き」は、その時は、秋の夜の頃であったとみえる。○田部忌寸櫟子 作者名で、西本願寺本、寛永本などにはなく、元暦本、細井本にあるもの。
【釈】 後《あと》に残して大宰府へ行ったならば、妹は我を恋うであろうか。美しい黒髪を布いて寐て、おりからの長い夜を。
【評】 上の歌に対しての和えである。この歌を詠んだのは、歌で見ると、早暁まだ夜の明けきらないうちに、赴任の旅に上ろうとしていて、その直前に詠んだものである。いおうとしている心は、妻と最後の夜を惜しむ暇のなかったのを悲しむ心であるが、型のごとく自分のことはいわず、妻を隣れむ心をいうことによってその心をあらわしているものである。一首の中心は「黒髪しきて」である。これは「袖折り反し」とともに、女が男の来るのを待つまじないであって、当時の信仰の一つであり、集中に例が多い。夫が妻のそうした状態を思い浮かべるというのは、妻の情愛を十二分に受け入れるとともに、その甲斐なさを隣れむことともなり、同時にまた、自身の妻に対しての愛惜の情と、その遂げられないのを嘆くことともなって、複雑な感情を具象的にあらわすものとなり得ている。含蓄の深い句である。
494 吾妹児《わぎもこ》を 相知《あひし》らしめし 人《ひと》をこそ 恋《こひ》のまされば 恨《うら》めしみ念《おも》へ
(329) 吾妹兒矣 相令知 人乎許曾 戀之益者 恨三念
【語釈】 ○吾妹児を相知らしめし人をこそ 「吾妹児」は、妹に対しての愛称。「相知らしめし」は、双方を知らせ合わせたで、下の「人」に続き、夫婦関係を結ばせた仲介者。「人をこそ」の「こそ」は、それだけを取立てる意の係助詞で、その人を何よりも第一に。○恋のまされば 恋が募ってきたのでで、別れて遠ざかるに伴い、反対に憧れが募ってくるという人情を背後においての心。すなわち京を離れた後の心。○恨めしみ念へ 「恨めしみ」は、形容詞の連用形で、意は恨めしく。「念へ」は、「こそ」の結びで、已然形。
【釈】 吾妹児と我とを相知らしめた人を何よりも、別れて恋が募ってくると、恨めしく思うことであるよ。
【評】 これは夫妻相別れた後、櫟子が旅路からその妻に贈ったものである。事の成行きが極まってくると、最初に立ち帰って、その成立ちを思わせられるのは、共通の人情である。櫟子は旅路にあってその思いをし、事の最初を仲介者にあるとしたのである。「恨めしみ念へ」とはいっているが、これは強い愛からの愚痴である。全体を大観しているところ、夫としての心があるといえるものである。
495 朝日影《あさひかげ》 にほへる山《やま》に 照《て》る月《つき》の 厭《あ》かざる君《きみ》を 山越《やまごし》に置《お》きて
朝日影 尓保敞流山尓 照月乃 不厭君乎 山越尓置手
【語釈】 ○朝日影にほへる山に 「朝日影」は、朝日の光。「にほへる」は、色の美しさをあらわす詞で、朝日の光のさして、色美しく映えている山にで、下の「照る月」の位置を示している関係上、山は西の方角に立っているものと取れる。○照る月の 「の」は、のごとくの意のもの。照っている月のごとくに。この月はいわゆる在明の月で、朝日のさし初《そ》めても残っている月である。初句から続いて、西山にさす朝日の光の色と、その山の上の空に残っている月の光とを、世にも美しい物と見て、下の「厭かざる君」の譬喩としたもの。○厭かざる君を 「厭」は「飽」と同じで、「厭かざる」は、いくら見ても飽くことのないところの意。「見れど飽かず」ということは、当時は最上の讃美の語として慣用していたもので、ここもそれである。「君」は、夫婦間では妻が夫を呼ぶ称。ここもそれである。○山越に置きて 「山越」は、山を越した彼方の土地の意で、名詞。「置きて」は、ここは、巻二(八七)「吾が黒髪に霜の置くまでに」などのそれと同じ意のもの。山越の土地の、逢い見ることのかなわない所に置いて、と言いさして、悲しみを余情とした言い方。
【釈】 朝日の光のさして、色美しく映えている山の上に照っている月のごとくに、いくら見ても飽くことのない君を、山越の、逢い見ることのかなわない土地に置いて。
(330)【評】 上の櫟子の歌に対して、妻の吉年の和《こた》えた歌と取れる。心は旅路にある夫の懐かしさと、独りある侘びしさであるが、懐かしさのほうを主として、それに対して三句を費やした譬喩を用いているので、形から見ると豊かなものとなっている。その「朝日影にほへる山に照る月の」という譬喩は、この作者の初めて捉えたものと思われる。日と月の光をもって、世の最上の美しい物としている点に特色がある。しかも烈しいものではなく、いずれも幽かさをもった物である点に、いっそうそれがある。これは実景から捉えたものと思われる。懐かしさの譬喩に三句まで費やしているのであるが、結局としていわんとしていることは、侘びしさの訴えである。これは結句の一句だけであるが、きわめて懐かしいがゆえに侘びしいというので、心理的のつながりの緊密なものがあり、しかも言いさしにしているので、かえって拡がりをもって不足のないものとなっている。「にほへる山」の「山」と、「山越」の「山」ともつながりがあって、形の上でも同じことがいえる。この作者は、本集としては古い時代に属する人であるが、事実に即しつつ、気分を柔らかに豊かにあらわし得ている人で、そのことはここの二首でわかる。新風を詠んだ人ということである。注意に値する人である。
柿本朝臣人麿の歌四首
496 み熊野《くまの》の 浦《うら》の浜木綿《はまゆふ》 百重《ももへ》なす 心《こころ》は念《も》へど ただにあはぬかも
三熊野之 浦乃濱木綿 百重成 心者雖念 直不相鴨
【語釈】 ○み熊野の浦の浜木綿 「み熊野」の「み」は、接頭語。「熊野」は、今の和歌山県牟婁郡の海岸の称。「浦の浜木綿」は、「浦」は、浜木綿の生えている所としていっているので、浦に接した地をいったもの。「浜木綿」は、今、浜おもとと呼んでいる。暖国の海浜の砂地に生じる常(331)緑多年生の草で、葉はおもとに似て、幾重にも重なっている。夏、茎の梢に白色の花が群がって咲く。○首重なす 「百重」は、葉の幾重にも重なっているのを、具象的にいったもの。「なす」は、(四六〇)の「哭《な》く児なす」などと同じく、のごとくの意。以上三句は「念へど」の譬喩。○心は念へど 心には思うけれどもで、「心は」は下の「ただに」に対させてある。○ただにあはぬかも 「ただに」は、直接には。
【釈】 熊野の浦寄りの地の浜木綿の、その葉の百重に重なっているがごとく、繁くも心には思っているけれども、直接には逢わないことであるよ。
【評】 浜木綿は、集中、ここにあるのみで、特殊な物である。またこの浜木綿は熊野の物としているが、ただそこにのみ限って生える物でもない。そうした特殊な物を、限った地において捉え、それを譬喩としているのであるから、これは人麿が何らかの事情の下に熊野に行き、浜木綿を眼にして、おりから抱いていた恋情を、その葉の状態に通わして、捉えて譬喩としたものと思われる。その抱いていた情は、念えども逢い難き嘆きで、人麿はただその一事をいっているだけで、妹とも子ともいっていないのである。一首一文で、句続きが引締っており、強い調べをもっているため、「み熊野の浦の浜木綿」というがごとき珍しくまた美しい句を使っているにもかかわらず、それが目立たないものとなっている。恋の歌として沈痛なものを蔵しているとみえるものである。
497 古《いにしへ》に ありけむ人《ひと》も 吾《わ》が加《ごと》か 妹《いも》に恋《こ》ひつつ いねかてずけむ
古尓 有兼人毛 如吾歟 妹尓戀乍 宿不勝家牟
【語釈】 ○古にありけむ人も 古の世に生きていたであろうところの人もまた。○吾が如か妹に恋ひつつ 「吾が如か」の「か」は、疑問。以下全体にかかる。「妹に恋ひつつ」の「妹に」は後世だと「妹を」というところである。いささかの差別があり、「妹に」は妹を動的に見、「妹を」は静的に見たものだと考えられる。「恋ひつつ」は、恋い続けて。○いねかてずけむ 旧訓「いねかてにけむ」。『代匠記』の訓。後世だと「ざりけむ」というべき所を、打消の助動詞「ず」よりただちに「けむ」に続けるのは古格で、仮名書きの例のあるものである。「かて」は、堪える意。寐ても眠り得なかったであろうの意。
【釈】 古の世に生きていたであろうところの人もまた、今の吾のごとくに、妹を恋いして、寐ても眠り得なかったであろうか。
【評】 純抒情のわかりやすい歌であるが、人麿のもつ傾向を、比較的明らかに出している歌である。その一つは、人麿は恋の歌の多くを作っているが、その歌はほとんど皆苦悩を伴ってい、あるいは苦悩そのものでさえあって、恋という名によって連想される楽しさ明るさはもっていないものである。この歌は上の歌の続きで、求めて得難くしている恋であろうと思われるが、(332)それはとにかくに、恋を苦悩とし、その苦悩を永遠の人生の相《すがた》であるがごとくに感じているのは、人麿特有ともいえるものである。その二つは、人麿はものを感じるに、空間的に、感覚として感じるだけにとどまらず、時間的に、永遠の時の流れの上に泛《うか》べて感じる人で、これは多くの歌に現われていることである。この歌もそれであって、恋の苦悩をしている自身を永遠の人生の上に捉えているものである。心としては我を慰めようとしてのことであるが、その慰め方は、人生に徹することによって得ようとするもので、まさに沈痛と称すべきものである。
498 今《いま》のみの 行事《わざ》にはあらず 古《いにしへ》の 人《ひと》ぞまさりて 哭《ね》にさへ鳴《な》きし
今耳之 行事庭不有 古 人曾益而 哭左倍鳴四
【語釈】 ○今のみの行事にはあらず 「今」は、「古」に対させてのもので、現在の自分。「行事」は、恋の苦しみを総括していったもので、寐ても眠れず、涙をこぼしなどすることの意。○古の人ぞまさりて哭にさへ鳴きし 「古の人ぞまきりて」は、古の人のほうが、今の我よりも苦しみがまさっていて。「哭にさへ鳴きし」は、「哭」は、泣き声。「さへ」は、あるが上にさらに添える意の助詞。「鳴きし」は、泣いたで、「し」は上の「ぞ」の結。泣き声を立てることまでもして泣いたで、自身の忍び泣きを背後に置いてのもの。
【釈】 今の世のこの我のみがしている恋の苦しみではない。古の世にあった人のほうが苦しみが多くて、泣き声を立てることまでもして泣いたことであるよ。
【評】 この歌は、上の歌に続けてのもので、いわゆる連作であり、人麿の率先して試みたふうのものである。上の歌は「古にありけむ人も」といい、「いねかてず」という程度であったのを、この歌は一歩を進めて、「古の人ぞまさりて」といい、「哭にさへ鳴きし」といって、人麿の忍び泣きをするに至ったことを背後にしているものである。連絡させつつも前進させたところに、連作の心がある。この歌は、作意としては上の歌と同じであるが、上の歌に依存するところのあるものである関係上、比較すると散漫の趣があって、魅力の劣ったものとなっている。
499 百重《ももへ》にも 来《き》しけかもと 念《おも》へかも 公《きみ》が使《つかひ》の 見《み》れど飽《あ》かざらむ
百重二物 來及毳常 念鴨 公之使乃 雖見不飽有武
【語釈】 ○百重にも来しけかもと 「百重にも」は、上の(四九六)に出た。ここは百たびもで、数の多くもの意。「来しけかも」は、原文「来及(333)毳」旧訓「来及《きおよ》べかも」。『代匠記』の訓。及ぶという語は当時はなく、「及《し》く」に当てた例は、巻九(一七五四)「今日の日にいかにか及《し》かむ」を初め少なくないからである。「しく」は意味の広い語で、自動詞としても、及ぶ、頻《しき》る、重《かさ》なるの意をもっている。巻二(一一五)「おくれゐて恋ひつつあらずは追ひ及かむ」は、及ぶの意のもの。巻九(一七二九)「礒越す浪の頻《し》きてし念ほゆ」は、頻《しき》る意のもの。巻二十(四五一六)「今日降る雪のいや重け吉事《よごと》」は、重なるの意のものである。ここは重なるの意のものである。「来しけ」は、重なって来たれ。「かも」は、詠歎の助詞。百たびも重なってきよかしと。○念へかも 「かも」は、疑問。○公が使の見れど飽かざらむ 「公が使の」は、「公」は、君と同じ意で当てた字。女より男に対しての称。「使」は、この場合、求婚の意を伝える使い。「公が」は、公のほうを主としていったもの。「見れど飽かざらむ」は、すでに幾たびも見るけれども、なお飽かないのであろうで、女の、男の使いの来るのを喜ぶ心をいったもの。
【釈】 百たびも重なって来よかしと思っているせいでもあろうか、君が使いをすでに幾たびも見るが、我は飽かずにいるのであう。
【評】 これは、題詞では人麿の歌となっているが、「公が使」という語でも、明らかに女の歌とわかる。人麿が女に代わって詠むということも絶無のこととはいえないが、一首の調べのたどたどしく、洗煉のないところを見ても、明らかに他人の歌とみえる。思うに原本にこのように排列してあったのを、そのままに収録したのであろう。その想像からいうと、この歌は、上の三首の歌と繋がりをもったものではないかと思われる。さらにまたこの歌の「百重にも」という句は、「み熊野の浦の浜木綿百重なす」のその「百重」を取ったもので、その歌の返しではないかとも思われる。しかし上の三首は、歌として見ると、片恋の嘆きとはみえるが、我と心を遣るためのもので、女への贈歌とは見難いところのあるものである。またこの歌も、わが心やりを主とした、独詠の匂いの濃いものである。かりに「み熊野の」が贈歌であったとし、それに返したものとすると、男の求婚を心には喜びつつ、いつまでも応じまいとし、その事を弄んでいる心をあらわしたものとなって、甚しく不自然なものとなってくる。要するに上の三首の歌は連作とみえ、人麿が紀伊国の熊野にあってのものとみえるが、この歌はそれと繋がりがあるらしくみえつつ、辿り難いところをもったものということになる。
碁檀越《ごのだむをち》の伊勢の国に往ける時、留《とどま》れる妻の作れる歌一首
【題意】 「碁檀越」は「碁」は氏、「檀越」は名であろうが、父祖も伝も不明である。『代匠記』は、檀越は梵語の旧訳で、新訳は檀那であり、いずれも布施の意だといっている。当時行なわれた仏語を取っての名である。「留れる」は、京に残っている意。
500 神風《かむかぜ》の 伊勢《いせ》の浜荻《はまをぎ》 折《を》り伏《ふ》せて 旅宿《たびね》やすらむ 荒《あら》き浜辺《はまべ》に
(334) 神風之 伊勢乃濱荻 折伏 客宿也將爲 荒濱邊尓
【語釈】 ○神風の伊勢の浜荻 「神風の」は、伊勢へかかる枕詞で、巻一(八一)「神風の伊勢|処女《をとめ》ども」に出た。「浜荻」は、浜に生えている荻で、特殊なものではない。荻は水辺原野に自生する物で、葉は薄より闊《ひろ》く、秋、花穂を出す。○折伏せて 折って伏せるで、下の「旅宿《たびね》」をするための床としようとしてである。当時の旅は、宿るべき屋がないところから、身分のある者は一夜一夜庵を結んで宿ったのであるが、一般の者は野宿をしたのである。その際は、身の危険を避けるために、広く、見とおしの利く場所を選んだ。ここもそれである。○旅宿やすらむ荒き浜辺に 「や」は疑問。「荒き」は、人げのない意。
【釈】 神風の伊勢の国の浜荻を折って伏せて夜床とし、わが背は旅寝をしていることであろうか。人げのない浜の辺りに。
【評】 伊勢に旅をしている夫を、京にあって、夜、床にいて思いやった心である。このことを「すらむ」と現在の想像としていっているのである。旅にある夫を思うと、その夜の床が思われるのは、妻にはほとんど共通になっている心である。「伊勢の浜荻」といっているところは、妻もそうした地を知っているのではないか。詠み方は謡い物風であるが、場景をはっきりと思い浮かべて詠んでいると思われるからである。
柿本朝臣人麿の歌三首
501 未通女等《をとめら》が 袖《そで》振《ふ》る山《やま》の 水垣《みづがき》の 久《ひさ》しき時《とき》ゆ 憶《おも》ひき吾《われ》は
未通女等之 袖振山乃 水垣之 久時從 憶寸吾者
【語釈】 ○未通女等が袖振る山の 「未通女等が袖振る」は、巻二(335)(一三二)「わが振る袖を妹見つらむか」と同じく、男女を通じて、距離のやや遠く、声の通わし難い際、心を通じるしぐさである。ここは未通女《おとめ》のすることとしていっている。「振る」は同音の地名布留《ふる》に転じてあり、それが主となっているので、「未通女等が袖」までの七音は、布留の序詞となっている。「振る山の」は、現在の奈良県天理市布留にある山で、石上神宮の鎮座の地である。宮は布都御魂《ふつのみたま》を祀ってあり、崇神天皇の御代に今の地に遷されたので、古い社である。○水垣の 「水」は、瑞《みず》に当てた字で、瑞は若くみずみずしい意で、ここは神の関係上、垣の讃え詞としてのものである。この句は上より続いて、布留山の瑞垣の意で、これは皇居を御門《みかど》によってあらわすと同様に、布留山の社を、その外面の垣によってあらわしたものである。「の」は、のごとくの意のもので、初句からこれまでは、下の「久しき」の譬喩であり、その譬喩の中に序詞のあるものである。○久しき時ゆ 原文「久時従」、旧訓「久しきよより」。『代匠記』の訓。久しい時よりで、久しい以前からの意。○億ひき吾は 「き」は過去をあらわす助詞で、恋していた、吾はで、女に対して恋を打明けたもの。
【釈】 処女が袖を振るに因《ちな》みある布留山の瑞垣の古いがごとく、久しい以前より妹を思っていたことであるよ。
【評】 この歌は、主となっているのは、「久しき時ゆ憶ひき吾は」で、他の三句は、「久し」の譬喩であるが、この譬喩はそれだけにはとどまらず、その打明けに布留山の神を関係させている意味で、気分としては、誠実を誓った訴えである。なお布留の社は、上代にあっては広範囲にわたって、篤く信じられていたのであるから、それも考慮に入れるべきで、それがこの歌を美しく豊かなものとしている。また布留山の序詞として「未通女等が袖」を用いるのも、単に神に対してだけのものとすると唐突であり、不自然であるが、今は恋の訴えの関係でいっている神なので、間接ながら相手の未通女を讃えることとなり、そのために不自然を感じさせないものとなっている。譬喩が複雑な気分をもっているものであるが、結句が、「憶ひき吾は」という、屈折をもった、強い言い方のため、それに押される所がなく、渾然としたものになっている。一首を貫いて、調べに哀切なものがあり、迫り来るところのあるのは、人麿の主観の現われである。たぶん年若い頃の作であろうが、かけ離れた技巧をもったものである。
502 夏野《なつの》去《ゆ》く 小牡鹿《をじか》の角《つの》の 束《つか》の間《ま》も 妹《いも》が心《こころ》を 忘《わす》れて念《おも》へや
夏野去 小社鹿之角乃 束間毛 妹之心乎 忘而念哉
【語釈】 ○夏野去く小牡鹿の角の 「小牡鹿」の「小」は、接頭語。「角の」の「の」は、のごとく。夏の野を歩いて行く鹿の角のごとくで、鹿は夏の初めに角を落とし、生えかわるので、夏はまだ短いところから、短い譬喩としたもの。○束の間も 巻二(一一〇)「束の間《あひた》も」が出た。「束」は、上代、物の長さの単位としたもので、拳を握って、指四本の並んだ幅で、短かい意。一|束《つか》の短かい間も。○妹が心を忘れて念へや 「妹が心を」は、妹の心を。「忘れて念へや」は、巻一(六八)に出た。「忘れて念ふ」は、当時の語法で、「念い忘る」というと同じである。「念へや」は、(336)「へ」の已然形に「や」の接して反語をなしているもの。思い忘れようか忘れはしないの意。
【釈】 夏の野を歩いて行く牡鹿の角のそれのごとく短かい間でも、妹の心を吾は思い忘れようか忘れはしない。
【評】 妹のことで心はいつもいっぱいであるというので、恋の誠実を誓った心のものである。「夏野去く小牡鹿の角の」という譬喩は淋しさのあるもので、それがこの心に融け合っている。鹿の少なくない時代のことなので、この度は実際に野で見かけたものと思わせるところがあり、したがって男と女との住所を暗示するという拡がりを感じさせる。また、「妹が心を」という語も拡がりをもったもので、それだけでこちらを思う心と感じさせるのは、調べの明るく、さわやかに、張っているからのことである。単純な歌であるが、前の歌と同じく、技巧のかけ離れたことを思わせる歌である。
503 珠衣《たまぎぬ》の さゐさゐ沈《しづ》め 家《いへ》の妹《いも》に 物語《ものい》はず来《き》て 思《おも》ひかねつも
珠衣乃 狭藍左謂沈 家妹尓 物不語來而 思金津裳
【語釈】 ○珠衣の ここ一か所だけで、他にはない語である。『玉勝間』は、「玉裳」などいうと同じく、「珠」は衣を讃える意で添えたものと解している。『攷証』はさらに進めて、新しい衣を讃えたのだといっている。愛でたい衣の意と解する。これは、「さゐさゐ」へ枕詞としてかかっているもので、「さゐさゐ」は、その関係で衣《きぬ》ずれの擬声音と解される。○さゐさゐ沈め 「さゐさゐ」は、承けるほうは、『冠辞考』は妻の嘆きさやめくことだといっている。これも他に例のないものであるが、その範囲のことと取れる。『新考』は、「さゐ」は、「潮騒《しほさゐ》」の「さゐ」で、騒ぎの意だといい、『万葉辞典』は「さわ」だとしている。「ゐ」は「わ」の転音とし、騒ぎの語幹「さわ」としたと取れる。いずれも「騒」を強めるために重ねたものとしているのである。今はこれに従う。それだと、妻の騒立《さわだ》つ意で、名詞である。「沈め」は、旧訓「しづみ」で、『攷証』が「しづめ」としているほか、諸注すべて旧訓に従っている。『攷証』は「しづめ」と訓みうる文字だから、そう訓んで、定《しず》めしめの意とするほうが正しいとしている。すなわち他動詞と見るべきだというのである。これに従う。騒立ちを取鎮めての意。○家の妹に物語はず来て 「家の妹」は、家にある妹で、同棲している妹の意のものと取れる。「物語はず来て」は、話をしずに別れて来ての意である。これは別れの慌しいものであったこと、またその別れが、かりそめのものではないことを背後に置いての語《ことは》と取れる。○思ひかねつも 「思ひ」は、嘆きで、「思ひかねつ」は、嘆きに堪えられぬの意。「も」は詠歎。
【釈】 愛でたい衣の衣《きぬ》ずれのさいさいとする、そのさいさいと嘆き騒立《さわだ》つのを取鎮め、それに心を取られて、家にいる妹に話をしずに別れて来て、今は心残りに堪えられぬことよ。
【評】 この夫妻の別れのかりそめのものではないこと、またその別れの唐突のものであることは、集中の例によると防人以外(337)にはなく、またこれに類似の歌が防人の歌の中にありもするので、おのずからそれを連想させられる歌である。『新考』は防人の歌ではないかと凝っているが、事としては当然な疑いである。また語《ことば》としても、「珠衣のさゐさゐ沈め」は、他には例のないもので、少なくとも中央のものではなく、ことに洗煉を極めている人麿の用語としてはふさわしくないものに思える。また調べとしても鈍くして重いものであり、上の二首の歌の調べの暢達し透徹しているものとは比較にならないものである。『新考』のいうように、古い時代の防人の歌の一首が、何らかの経路で人麿歌集に記録されていたのではないかと思われる。その点からいうと、上の(四九九)の「百重にも来《き》しけかもと念へかも」の、人麿以外の女の歌であると同じ事情で、この歌も、原拠となった本に、今見るごとき排列をもって載っていたのを、そのままに採録したのではないかと思わせられる。この歌は巻十四(三四八一)にもいささかの異なりをもって載っていて、「ありぎぬのさゑさゑしづみいへの妹にものいはず来にて思ひぐるしも」とあり、左注として、「柿本人麿歌集の中に出づ」とある。すなわち注者は、この歌の転じたものと見たのである。この東歌の作者はこの歌を記憶していて、当時の風に従い、それをいささか換えて自分の抒情としたのであるが、それを知ったのは、直接、人麿歌集によってではなく、むしろ人麿と同じく、謡い物となっていたのを、耳を通して覚えたのではないかと思われる。なお雑歌として、同じく巻十四(三五二八)「水鳥の立たむよそひに妹のらに物言はず来にて思ひかねつも」がある。
柿本朝臣人麿の妻の歌一首
【題意】 「人麿の妻」は、すでに歌に出ている者だけでも、軽娘子、羽易娘子、依羅娘子があった。なお他にもあったとする説、また無かったとする説もある。一夫多妻の時代であり、上の中二人は早世してもいるので、あったとしても問題とはならない。したがってこの妻の誰であるかはわからない。
504 君《きみ》が家《いへ》に わが住坂《すみさか》の 家道《いへぢ》をも 吾《われ》は忘《わす》れじ 命《いのち》死《し》なずは
君家尓 吾住坂乃 家道乎毛 吾者不忘 命不死者
【語釈】 ○君が家にわが住坂の 「君が家にわが」は、「住」の序詞となっている。「君」は、夫婦間では妻より夫を呼ぶ称であるから、ここは人麿である。君が家に、わが住みと続いている。しばしば出たように、上代の夫婦は、夫が妻の家に通うのが普通で、後に夫の家へ迎えることもあったのである。これは中世までも続いたことである。ここは、妻が夫の家へ行って住むという特殊なことであったので、それにふさわしい言い方をしているのである。「住坂」は、墨坂という文字で、日本書紀の神武紀、崇神紀、天武紀に出ている地か。それは宇陀郡にある坂の名である。今、(338)墨坂という名は、宇陀郡榛原町の宇陀川の南岸に墨坂神社があって、そこが連想される。そこは大和から伊賀へ越える往還にあたっていて、古の墨坂と見るべきであろう。この二句は、君が家に吾が住んでいる、その住坂のの意で、「君が家にわが」は序詞ではあるが、単に音だけでかかるものではなく、事実を序詞の形にしていったものと解される。同音異義でかかる興味のものとすれば、この序詞は事が特殊で、興味よりのものとはいえず、事という上からは、下の続きから見ると、いわなくてはならない必要なことである。○家道をも吾は忘れじ 「家道」は、家へ通ずる道で、その家は、上よりの続きで人麿の家である。「をも」の「も」は、並べていう意のそれで、家はもとより、その家へ通ずる道をも。「吾は忘れじ」は、忘れまいと「吾」を添えて強くいったもので、誓いに近い意のものである。○命死なずは 死なない限りはで、生きている限りはという心を強めていったもの。
【釈】 君が家に吾は住んでいるその住坂の家の、家はもとより、この家へ通ずる道までも、吾は忘れまい。命の死なずにいる限りは。
【評】 この歌は、人麿の妻が、夫の住坂の家に同棲していることを深く喜んで、感謝の心をほとんど誓いに近い態度でいったものと思われる。「家道をも」といっているのは、夫の家へ移って来た時の記憶をいったものではないかと思われる。夫の家に同棲するということは特別なことであるから、その意味で家道が印象されていたとしても不自然には思われない。あるいはまた、人麿の家に同棲している妻の、その家を離れる事情が起こった時、その家をなつかしみ、家道をもなつかしんで、たとい離れても永久に忘れまいと、独詠として詠んだものとも取れなくはないが、一首として見ると、悲しみの心よりも、喜びの心のものと思われるから、前者であろう。素朴な、情に篤い人で、したがって強い心をもっていた人であるということが、歌から感じられる。
安倍女郎《あべのいらつめ》の歌二首
【題意】 「安倍女郎」は、巻三(二六九)に出た「阿倍女郎」と同人であるとされている。「阿倍」「安倍」は通じて用いていた例があるからである。安倍氏の一族であることがわかるだけで、伝は不明である。この人の歌はなお後に出る。
505 今更《いまさら》に 何《なに》をか念《おも》はむ 打靡《うちなび》き 情《こころ》は君《きみ》に 縁《よ》りにしものを
今更 何乎可將念 打靡 情者君尓 縁尓之物乎
【語釈】 ○今更に何をか念はむ 「今更に」は、今になって改めて。「何をか念はむ」は、何の思うことがあろうかで、何もないという心を強くい(339)ったもの。○打靡き 「打」は、接頭語、「靡き」は、従う状態で、下の「縁《よ》り」につづく。○情は君に縁りにしものを 「縁る」は、任せる意。「に」は、完了。心は君に任せてしまっているものを。
【釈】 今になって改めて何の思うことがあろうか。靡いて、わが心は早くから君に任せてしまっているものを。
【評】 この歌は、次の一首と同時のもので、女郎の夫に何らかの憂え事が起こり、その関係上、夫から身の去就を考えてもいいというような事を、いたわりの心をもっていわれた時の返事とみえる。「今更に何をか念はむ」は、自分を夫から切り離して、別な物として思おうなどとは、けっして思っていないの意。「情《こころ》は君に縁《よ》りにし」は、すでに君と同体となっているの意である。妻として夫に対して献身的な、言いかえると宗教的になっている心をいったもので、誓いの歌である。
506 吾《わ》が背子《せこ》は 物《もの》な念《おも》ほし 事《こと》しあらば 火《ひ》にも水《みづ》にも 吾《われ》なけなくに
吾背子波 物莫念 事之有者 火尓毛水尓母 吾莫七國
【語釈】 ○吾が背子は物な念ほし 「吾が背于」は、夫に対する最も親しんだ称。「物な念ほし」は、巻一(七七)に出た。「な」は、禁止の助詞。このように用言の上に続く場合は、連用形で終止する。「念ほし」は、「念ひ」の敬語。物案じしたまうなの意。○事しあらば 「事」は、ここは事件の意のもの。「し」は、強め。事件が起こったならば。○火にも水にも 火の中にも、水の中にも入るの意で、命を捨てて何事をもする意を具象的にいったもの。言いさしの形にして、入るということをいわないのは、熱意よりの昂奮をあらわしているもの。○吾なけなくに 巻一(七七)に出た。「なけ」は、形容詞「無し」の未然形の古形。「なく」は、打消の助動詞「ず」の未然形「な」に、「く」の添って、名詞形となったもの。「に」は、詠歎。ないではないことであるものをで、すなわちあるものをというのを強めていったもの。
【釈】 わが背子は、物案じをしたまうな。もし事件が起こったならば、たとい火の中へでも水の中へでも入る吾という者が、ないではないことであるものを。
【評】 これは女郎のほうが、夫を慰め励ましたものである。「吾が背子は物な念ほし」と、卒然と言い出したのは、夫が何事か物案じをしているのを見て、見かねてのことで、現状に即してのものと取れる。続いて、妻としての献身的な心を、具象的にいっているのであるが、「火にも水にも」というごとき言いさしと、「吾なけなくに」というごとき、古く、屈折の多い語とを用いて、情熱を強く一気にいい、それによって渾然とした一首とならしめているのである。上の歌にも宗教的のものがあったが、これは一段と昂揚したもので、上代の女性の夫婦関係を宗教的に観じ、したがって積極的な態度をもっていたことが明らかに現われている歌である。その意味での典型的なものといえる。
(340) 駿河※[女+采]女《するがのうねめ》の歌一首
【題意】 「駿河※[女+采]女」は、駿河国より召された采女《うねめ》の、宮中における称である。采女のことは、巻一(五一)、巻二 (九五)に出た。「※[女+采]」は、采女を一つにしたわが国の造字である。伝はわからない。采女は婚を厳禁されていたので、この歌でいうがごときことは、任が解けての後でなければできないことである。解任の後、前官をもって呼んだものと取れる。
507 敷妙《しきたへ》の 枕《まくら》ゆくくる 涙《なみだ》にぞ 浮宿《うきね》をしける 恋《こひ》の繁《しげ》きに
敷細乃 枕從久々流 涙二曾 浮宿乎思家類 戀乃繁尓
【語釈】 ○數妙の枕ゆくくる涙にぞ 「敷妙の」は、ここは枕にかかる枕詞。「枕ゆくくる」は、「ゆ」は、より。「くくる」は、潜《くぐ》るの意で、四段活用の語か。「ぞ」は、取立てていう意の助詞。夜の枕を潜って、床の上へ落ちる涙にの意。○浮宿をしける 「浮宿」は、舟にあって、水の上に浮かんで寐る意の語で、用例のあるもの。「ける」は、上の「ぞ」の結。浮寐をしたことであるよ。○恋の繁きに 「繁き」は恋の深さをいったもの。
【釈】 夜の枕を潜って床の上に落ちてたまる涙に、吾は浮寐をしたことであるよ。恋の繁さで。
【評】 通って来るのを待ったが、来なかったところの夫に訴えた歌と取れる。吾が恋しさに流す涙の上に浮寐をしたというのは、心としては訴えの情を強めようがためのもので、また語《ことば》としては例のないもので、当時にあっては新しいものである。しかし結果から見ると、実際から遊離したものとなって、かえって訴えの情を弱めてしまっている。夫婦間の歌で、実用を主とすべきものが、文芸的にしようとしたため、その本旨を失うに至ったものである。実際的ということを性格とし、文芸性ということには限度のあるのを、その限度を超えたもので、この傾向が後の平安朝に続くものとなっている。
三方沙弥《みかたのさみ》の歌一首
【題意】 「三方沙弥」は、巻二(一二三)以下三首の歌の作者である。
508 衣手《ころもで》の 別《わか》る今夜《こよひ》ゆ 妹《いも》も吾《われ》も いたく恋《こ》ひむな あふよしをなみ
(341) 衣手乃 別今夜從 妹毛吾母 甚戀名 相因乎奈美
【語釈】 ○衣手の別る今夜ゆ 「衣手」は、袖の意。「別る」は、別れて遠ざかる意で、下二段活用の終止形。終止形から「今夜」という体言につづく語法である。「ゆ」は、より。袖と袖の別れて遠ざかる今夜よりはで、男女親しむ状態を、「袖|携《たづさは》り」、「手携り」などといっているのを背後に置き、別れるということを具象的にいったもの。○妹も吾もいたく恋ひむな 「恋ひむな」は、原文「恋名」、旧訓「こひしな」。『拾穂抄』の訓。「な」は、詠歎。妹も吾も甚しく恋することであろうよ。○あふよしをなみ 「あふよし」は、逢い見る方法。「なみ」は、無み。無いゆえにで、理由をあらわしたもの。
【釈】 袖と袖との別れて遠ざかるべき今夜よりは、妹も吾も、甚しく恋することであろうよ、逢い見る方法が無いゆえに。
【評】 何らかの事情で、夫婦遠く別れるべきことになった時、別れに先立って妻に与えた歌である。「衣手の別る今夜ゆ」という語《ことば》は、その場合とすると、実際に即しつつも、美しく落着いた言い方である。したがって一首全体に調和をもったものとなっている。おのずからにその人柄をあらわしている歌である。
丹比真人笠麿《たぢひのまひとかさまろ》、筑紫国に下れる時、作れる歌一首 并に短歌
【題意】 「丹比真人笠麿」は、巻三(二八五)に既出。「丹比」は氏、「真人」は姓、「笠麿」は名。真人の姓は、天武天皇の朝に賜わったもので、丹比氏は史上にあらわれており、同族の名は少なくないが、笠麿の伝は明らかでない。「筑紫に下れる」は、官命を帯びてのことと思われるが、その事はわからない。
509 臣女《たわやめ》の 匣《くしげ》に乗《の》れる 鏡《かがみ》なす 見津《みつ》の浜辺《はまべ》に さ丹《に》つらふ 紐《ひも》解《と》き離《さ》けず 吾妹児《わぎもこ》に 恋《こ》ひつつ居《を》れば 明晩《あけぐれ》の 旦霧《あさぎり》隠《がく》り 鳴《な》くたづの 哭《ね》のみし哭《な》かゆ 吾《わ》が恋《こ》ふる 千重《ちへ》の 一重《ひとへ》も なぐさもる 情《こころ》もありやと 家《いへ》のあたり 吾《わ》が立《た》ち見《み》れば 青旗《あをはた》の 葛木山《かづらきやま》に たな引《び》ける 白雲隠《しらくもがく》り 天《あま》さかる 夷《ひな》の国辺《くにべ》に 直向《ただむか》ふ 淡路《あはぢ》を過《す》ぎ 粟島《あはしま》を 背《そがひ》に見《み》つつ 朝《あさ》なぎに 水手《かこ》の音《こゑ》喚《よ》び 暮《ゆふ》なぎに 梶《かぢ》の音《と》しつつ 浪《なみ》の上《へ》を い行《ゆ》きさぐくみ 磐《いは》の間《ま》(342)を い往《ゆ》き廻《もとほ》り 稲日都麻《いなびつま》 浦《うら》みを過《す》ぎて 鳥《とり》じもの なづさひ去《ゆ》けば 家《いへ》の島《しま》 荒磯《ありそ》のうへに 打靡《うちなび》き しじに生《お》ひたる 莫告《なのりそ》が などかも妹《いも》に 告《の》らず来《き》にけむ
臣女乃 匣尓乘有 鏡成 見津乃濱邊尓 狭丹頬相 紐解不離 吾味兒尓 戀乍居者 明晩乃 旦霧隱 鳴多頭乃 哭耳之所哭 吾戀流 千重乃一隅母 名草漏 情毛有哉跡 家當 吾立見者 青旗乃 葛木山尓 多奈引流 白雲隱 天佐我留 夷乃國邊尓 直向 淡路乎過 粟嶋乎 背尓見管 朝名寸二 水手之音喚 暮名寸二 梶之聲爲乍 浪上平 五十行左具久美 磐間乎 射徃廻 稻日都麻 浦箕乎過而 鳥自物 魚津左比去者 家乃嶋 荒磯之宇倍尓 打靡 四時二生有 莫告我 奈騰可聞妹尓 不告來二計謀
【語釈】 ○臣女の 「臣女」は、細井本以下三本、「臣」が「《め》巨」となっているが、他の諸本は異同がない。旧訓「まうとめの」であるが、意が通じない。『改訓抄』は、「おみのめの」と改め、『考』『古義』などこれに従っている。『古義』は古事記、雄略天皇の巻に「おみのをとめ」とあり、「臣《おみ》の子《こ》」「臣の壮子《おとこ》」などいうのと同例だといっている。『略解』は、「臣女」は「姫」の誤りで、「たをやめの」か、またはこのままで「みやびめの」と訓むべきだとしている。『攷証』は、「臣《おみ》の女」という語は他には見えず、ここはそうした言い方をするべき要のない所だ。また「たをやめ」は『和名抄』に初めて出る語で、古くは「たわやめ」であったとし、誤字であろうとして訓をつけずにいる。『新考』は、「臣女」はおそらく「姫」の字を戯れに二字に書いたものであろうとし、訓は「たわやめ」としている。『新訓』も「たわやめ」としている。義訓として、これに従うこととする。○匣に乗れる 「匣」は、巻二(九三)「玉匣」に出た。櫛笥で、笥は容器の意。櫛を主として、鏡、化粧品を入れる筥。「乗れる」は、乗っているで、下の「鏡」に続く。鏡を用いるため、櫛笥から出し、その上に載せてある状態。○鏡なす 「なす」は、のごとく。以上三句は、たわやめの櫛笥の上に載せてある鏡のごとくで、その見る物である意で、「見津」の「見」にかかる序詞である。○見津の浜辺に 「見津」の「見」は、「御」で「津」を尊んで添えた美称。「津」は難波の津で、朝廷の御料の所だからである。「浜辺」は、出帆を待ってとどまっている所としてのもの。○さ丹つらふ紐解き離けず 「さ丹つらふ」は、「さ」は、接頭語。「丹《に》」は、赤色。「つらふ」は、色の映発する意。枕詞としても用いるが、ここは下の「紐」の形容で、赤く匂うの意。「紐解き離けず」は、衣の紐を解きやらずの意で、巻九(一七八七)「紐解かず丸《まろ》寐をすれば吾が著たる衣《ころも》は穢《な》れぬ」、その他にもあるごとく、丸寐をする時の状態で、共寐をする時とは反対な状態であるところから、それを背後に置いての言い方。○菩妹児に恋ひつつ居れば 上より続いて、夜の床に妹を恋いつづけておれば。○明晩の旦霧障り鳴くたづの 「明晩」は、夜明け方のほの暗さ。「旦霧隠り」は、朝立つ霧に隠れてで、「隠り」は、隠れた状態となって。「鳴くたづ」は、鳴いている鶴で、鳥類は朝早く求食《あさり》を(343)するのが習性である。「の」は、のごとくで、「哭《な》かゆ」にかかる譬喩。○哭のみし哭かゆ 「哭のみ」は、声を立ててばかりで、泣き方の甚しい意。「し」は、強め。「哭かゆ」は、泣かれる。○吾が恋ふる千重の一重も わが恋っているその千分の一でもで、成句となっているもの。しばしば出た。○なぐさもる情もありやと 「なぐさもる」は、「慰むる」で、「む」が「も」に転じたもの。『代匠記』は、「三室《みむろ》」が「御諸《みもろ》」になっていると同類であるといっている。「情もありやと」は、「情」は上に続いて、なぐさもる情《こころ》で、情なぐさむという意の、当時の語法。「ありやと」は、あろうかと思って。○家のあたり吾が立ち見れば 「家のあたり」は、家の辺。家は大和の京にあるのであるから、家の方向というほどの意を、具体的にしようと狭くいったもの。「立ち見れば」の「立ち」は、感を強めることを主として慣用されているもので、意味は少ないもの。○青旗の葛木山に 「青旗の」は、巻二(一四八)に出た。山の木立の青いのを、旗に譬えたもので、青旗のごときの意。「葛木山」は、大和国の西部を劃っている連山で、難波の津からは大和国を隠している山。○たな引ける白雲隠り 靡いている白雲に隠れてで、白雲の靡くのは「葛木山」、隠れるのは「家のあたり」で、家のあたりが白雲に隠れているとの意である。「隠り」は、四段活用、連用形で、言いさした形となっており、以下は「天ざかる」に始まって海路のほうに転じている。この言いさしての転じ方は不自然のようにみえるが、「吾が恋ふる」以下の十句は、妹に心を残してということを具体的にいおうとしてのもので、単なる叙事ではないから、必ずしも不自然ではないものである。○天さかる夷の国辺に 「天さかる」は、都から遠ざかっている意で、夷にかかる枕詞。「夷」は、地方の総称。ここは筑紫をさしている。「国辺に」の「に」は、目標を示す意のもの。筑紫国のほうへと志しての意で、以下の海路を総叙したもの。○直向ふ淡路を過ぎ 「直向ふ」は、正面に向かうで、難波の津より淡路の真正面に見える意で、その形容句としたもの。「淡路を過ぎ」は、「淡路」は淡路島で、難波を出た船の第一に寄港する地。今は、そこを漕ぎ過ぎて。○粟島を背に見つつ 粟島は巻三(三五八)「粟島を背向に見つつ」があった。淡路島の付近の島と思われるが、今は不明となっている。「背に見つつ」は、「背《そがひ》」は、「背向《そがひ》」で、後ろの意。後ろにして漕ぎ遠ざかりつつ。○朝なぎに水手の音喚び 「朝なぎ」は、海上の、朝の凪ぎた時。「水手」は、船頭。「音喚び」は、「喚ぶ」は高声《たかごえ》を立てる意で、声は、梶の調子を合わせるためのかけ声。朝なぎには、船頭が梶を合わせるかけ声を高く立て。○暮なぎに梶の音しつつ 夕の凪ぎの時には、船を漕ぐ梶の音を立てつづけてで、二句、上の二句と対句。○浪の上をい行きさぐくみ 「い行き」の「い」は、接頭語。「さぐくみ」は、苦しんで進む意と取れるが、それ以上はわからない。○磐の間をい往き廻り 「磐の間」は、海岸に乱立する厳の間。当時の航海は、風波の危険を避けやすくするため、できうる限り海岸に接して漕いだことを後に置いての言。「廻り」は、あちこちと廻り。○稲日都麻浦みを過ぎて 「稲日都麻」は播磨風土記に出ている地名で、加古川の河口にある高砂《たかさご》で、古くは島となっていたのが、今は陸続きとなった地。集中、他に二か所出ている。「浦み」は、浦のあたり。○鳥じものなづさひ去けば 「鳥じもの」は、鳥のごときさまをした物の意の語で、類語はしばしば出た。この「鳥」は水鳥で、譬喩。水鳥のごときさまにの意。「なづさひ去けば」の「なづさひ」は、巻三(四〇三)に出た。浮き漂って漕ぎ行けば。○家の島荒礒のうへに 「家の島」は、播磨灘の中、姫路市飾磨港の西南にあたり、宝津港の南方七海里にある。家島群島の主島。「荒礒」は、海岸の水より現われた岩の続いている所。「上」は、あたり。○打靡きしじに生ひたる 「打靡き」は、「打」は接頭語。「靡き」は、下の莫告《なのりそ》の状態。「しじに生ひたる」は、繁く生えているところの。○莫告が 「莫告」は、今の、ほんだわらという藻。「が」は、ここは「の」と同じであるが、下の「などか」に続く関係上、それに引かれて畳音に近くしたものと取れる。「家の島」以下これまでの五句は、下の「告らず」に、畳語の関係でかかる序詞である。○などかも妹に告らず来にけむ 「などか」は、なぜにか。「も」は(344)詠歎。「告らず来にけむ」は、別れを告げずに来たのであることかで、「けむ」は、「などか」の「か」の結て、連体形。
【釈】 たおや女の櫛笥の上に載っている鏡のように、見るという言《こと》を名に負っているこの見津の浜辺に、我は赤く匂う衣《ころも》の紐も解きやらず、独り寐の丸寐をして、京に残して来た妹を恋いつづけていると、明け方のほの暗い時の朝霧の中に隠れて鳴いている鶴《たず》のごとくに、妹恋しさに声を立てての泣き方ばかりをさせられる。せめてわが恋っている心の千が一なりとも、心の慰むこともあろうかと思って、京のわが家のあるほうを立って見ると、青旗のような葛木山に靡いている白雲に遮られ隠れて見えずに、我は京を遠く離れた地方の国に向かって船出をし、難波津に其向に向かっている淡路島を漕ぎ過ぎ、粟島を後ろに見つつ遠ざかり、朝の凪には、船頭の梶の調子を合わせるかけ声を高く立て、夕の凪には、梶を使う音を続けて、浪の上を行き悩み、海岸に乱立する磐の間を行きめぐって、播磨灘の稲日都麻の浦のあたりを漕ぎ過ぎて、水鳥のごときさまに水に漂って進んで行くと、家の島の磐続きの岸辺のあたりに、打靡いて繁くも生えているところの莫告藻《なのりそ》のその名のごとくに、なぜに我もまた、この旅のことを妹に告《の》らずに来たことであろうか。
【評】 笠麿のこの筑紫への旅は、官命がにわかに下ってのことと思われる。あるいはまた、他に事情が伴っていたのかもしれぬが、とにかく、その妻に別れを告げる暇のない発足であったことは歌で知られる。この歌は、旅そのものについては何のいうこともなく、ただ妻への心残りだけをいっているもので、難波津で出帆の準備をしている間、また出帆して、播磨灘の家島へ行くまでの間、笠麿の心を占めていたものは、その心残りだったのである。この歌は、その心残りを中心としたもので、卒然として「見津の浜辺」から言い起こし、「家の島」を眼前に見る所で打切ってあるのも、その関係においてである。歌は意識して構成をつけたもので、「見津の浜辺」に一つの頂点をつけ、「家の島」にいま一つの頂点をつけて、前後二段とし、前段より(345)も後段のほうを重くして、統一をつけたものである。前段は起首から、「たな引ける白雲隠り」までである。その頂点は、「吾が恋ふる千重の一重も」以下「白雲隠り」までで、わが家の空を顧望して妹を偲ぶという、一般的な旅愁である。細部においても、技巧を用いている心が知られる。「臣女の匣に乗れる鏡なす」という序詞は、「見津」の「見」にかけたものであるが、この「見」は美称の「み」であって、序詞が讃えの心をもったものという点からは、妥当なものとは思われない。しかし、この際の笠麿のいおうとしていることは、妹を思う心であるから、その点からは序詞は、妹に繋がりをもち、効果的なものとなってくる。意識してのこととみえる。また、「哭のみし哭かゆ」ということは、たとえいかなる事情のもとにあったにもせよ、いわゆる大夫《ますらお》として感傷にすぎるものとも聞こえる。しかしこれは、「さ丹つらふ紐解き離けず、吾妹児に恋ひつつ居れば」という、終夜を眠り難くしたことを背後に置き、さらに、「明晩の旦霧隠り、鳴くたづの」という実景に刺激されてのことで、感傷が妥当のものになってくるところがある。したがって「明晩の」以下三句の譬喩は、技巧のないごとくにみえて効果の多いものである。これも意識してのものかと思われる。「白雲隠り」と言いさして一転して、事は海路に移っている。この移り目については、後にいう。後段としての海路の頂点は、結末の「などかも妹に告らず来にけむ」で、これが一首の頂点でもある。この「妹に告らず」ということは、特殊なことであって、笠麿の感傷はここから発しているのであるが、これを最後に置いたのは要を得たものである。この感を発したのも、卒然なものではなく、「家の島荒礒のうへに、打靡きしじに生ひたる、莫告」に刺激されてのこととしている。物の名そのものに神秘的な力があるという信仰をもっていた時代であるから、この五句の序詞は、序詞であるとともに、「などかも妹に告らず来にけむ」を合理化することをしているものである。さらにまた、この感傷には、播磨灘の航路の危険を背後に置いてもいる。淡路島、粟島までの航海は安易であるが、播磨灘へかかると、そこは聞こえた難航の海であるところから、その実際に即して、「朝なぎに」「暮なぎに」と対句を設けて、航路のたやすからぬことをいい、さらにまた、「稲日都麻」を過ぎて「家の島」へ向かうには、海岸を離れて、海を横切る路になるので、「鳥じものなづさひ去けば」といい、「家の島」を間近く見る所で感を発した形にしているのは、最後の感傷を合理化させる上では、妥当な場所というべきである。播磨灘に入って以後の実際への即し方は、全面的であって、前段よりもはるかに強く、また、前段と漸層的でもある。これは一首の構成上明らかに意識したことと思われる。次に一首の構成の上で、笠麿の最も注意した点は、陸と海とを対照させ、海によって統一をつけた点にある。この陸と海の対照は、巻二(一三一)より(一三七)にわたる、「柿本朝臣人麿、石見国より妻に別れて上り来る時の歌」に現われているものと揆を一にするものである。しかし時代的に見て、笠麿が人麿を学んだとは言い難いものである。溯ると、古事記、上巻神代の巻の、八千矛神に関する歌謡は、すべて海陸を対照させたものである。その歌謡は弘く流布して、この時代より後の山上憶良の歌にまでも影響している。その点から見ると、人麿も笠麿も、同じく八千矛神の歌謡の影響を受けていると見るべきであろう。この陸と海との対照は、際立たせず、自然の形で遂げようと思(346)ったことであろう。陸と海との移り目を、「たな引ける白雲隠り」という言いさしの形にしたのは、その心よりのことと思われる。これが成功したものかどうかは問題となる余地のあるものであるが、その意図は汲み取れる。大体として、やや放胆に、いわゆるあぶない詠口《よみくち》をする人とみえるから、そこに興味もあり、また危険もあるといえるものである。
反歌
510 白細《しろたへ》の 袖《そで》解《と》き更《か》へて 還《かへ》り来《こ》む 月日《つきひ》を数《よ》みて 往《ゆ》きて来《こ》ましを
白細乃 袖解更而 還來武 月日乎数而 往而來猿尾
【語釈】 ○白細の袖解き更へて 「白細の」は、ここは袖へかかる枕詞。「袖解き」は、袖を衣から解き離しての意。「更へて」は、取り換えての意。夫婦の袖を解き離し、取り換えて縫いつけてで、これは上代の信仰として、その人の身につけた物はその人の一部分であるとして、これを自身につけることは、その人とともにいることとした心よりのことである。これは上代でいう形見である。この二句は、結句の「往き」へ続く。○月日を数みて 「数」は旧訓「かぞへる」。『代匠記』の改めたもので、仮名書きもあり、用例も多いものである。数える意である。往復に費やす予定の月日を数えてで、吾も妹もまた逢う日を待つようにしての意のもの。○往きて来ましを 筑紫へ往つて来ようものをで、「まし」は、上に仮定があって、その帰結を示すもの。「を」は、詠歎。この「まし」は全体にかかるもので、もし逢うことができたなら、その上での意のもの。
【釈】 もし希望どおりにできるならば、二人の袖を解いてつけかえて形見とし、往復の日数を数えて、また逢う日を楽しみにして、その上で筑紫まで往って来ようものを。
【評】 長歌の結句の「などかも妹に告《の》らず来にけむ」の延長で、もし逢えたならば、告《の》るのみではなく、こうもしようと想像して嘆いているのである。この反歌で見ると、笠麿の筑紫に行くのは、短期間のもので、したがってにわかのことで、官命としても使という程度のことではなかったかと思われる。反歌は繰り返しの範囲のものではあるが、展開をもっている点で、新風のものといえる。
伊勢国に幸せる時、当麻麿大夫の妻の作れる歌一首
511 吾《わ》が背子《せこ》は 何処《いづく》行《ゆ》くらむ おきつもの 隠《なばり》の山《やま》を 今日《けふ》か超《こ》ゆらむ
(347) 吾背子者 何處將行 己津物 隱之山乎 今日歟超良武
【釈】 この歌は、巻一(四三)に出ていて、これは重出したものである。
草嬢の歌一首
【題意】 「草嬢」は、諸注、問題としている。『代匠記』は略して書いた女の名だろうといい、『考』は「草」の下に「香」を脱したので、「くさか」ではないかといい、『路解』がそれに従っている。『古義』は「輟※[田+井]録」に娼婦のことを草娘といっているので、これもそれであろうとして「うかれめ」と訓み、『新考』は草野の娘子すなわち村嬢という意であろうといい、『全釈』も田舎者を草人というので村娘の義であろうといっている。歌は農業をしている娘の心をいったものであるから、『新考』の解に従うべきであろう。
512 秋《あき》の田《た》の 穂田《ほだ》の刈《かり》ばか か縁《よ》りあはば そこもか人《ひと》の 吾《わ》を事《こと》なさむ
秋田之 穗田乃苅婆加 香縁相者 彼所毛加人之 吾乎事將成
【語釈】 ○秋の田の穂田の刈ばか 「秋の田」は収穫期の田の意。「穂田」は、稲が穂を出して熟した時の田で、秋の田の繰り返し。「刈ばか」は、「刈」は、草や稲を刈り取る意。「はか」は、地域の広さをあらわす語で、その地域は、刈るという労働の上でのもの。「刈ばか」は熟語である。この「はか」は現在も用いられているが、意義はやや転じ、仕事の速度をあらわす語となり、捗《はか》がゆく、ゆかぬなどと用いられている。「刈ばか」は実際の上でいうと、「一はか」は一人一日の刈上げ区域というごときものであったろう。○か縁りあはば 「か」は、接頭語。「縁り合はば」は、寄り合ったならばで、事としては、女のはかと、男のはかとが相接していて、刈り上げの仕事が進んで行くと、自然に男女が相接近するような状態になることを心に置いていっているものと取れる。○そこもか人の 「そこ」は、後世の「その点」にあたる古語。「そこも」は、その点につけても。「か」は、疑問。「人の」は周囲の人々の。○吾を事なさむ 「事なす」は、「事」は事件で、ここは夫婦関係に因《ちな》んでのこと。「なす」は、拵え立てる意で、「事なさむ」は、夫婦関係に因んでの事を拵え立てていうであろうかの意。
【釈】 秋の田の穂田の刈ばかが接しているために、自然に男と接近するような状態になったならば、それにつけても周囲の人々は、心があってのこと、関係があってのことと拵え立てていうことであろうか。
【評】 上代の結婚は、ある期間は双方秘密にしていたので、したがって好奇の心から、噂の好題目になっていたものとみえる。(348)歌はその対象とされやすい年頃の娘の、その事についての嘆きである。ここにいっている「穂田の刈ばか」は、春先、耕作準備として野火をする時などと同じく、秋の稲刈が協同労作となっていたとみえ、そうした時は、部落の男女が一つに集まる時なので、それを背後に置き、そうした余儀ない時の、加えて刈ばかが相接しているという余儀ない場合にも、男に近寄るということがあれば、ただちにそれを種にして事を構えかねないことだと、怒りをもって嘆いた心である。実際生活に即してのものなので、語は単純であるが、心は複雑で、切実な味わいをもっている。
志貴皇子の御歌一首
【題意】 「志貴皇子」は、巻一(五一)に出た。
513 大原《おほはら》の この市柴《いつしば》の 何時《いつ》しかと 吾《わ》が念《おも》ふ妹《いも》に 今夜《こよひ》あへるかも
大原之 此市柴乃 何時鹿跡 吾念妹尓 今夜相有香裳
【語釈】 ○大原のこの市柴の 「大原」は、大和国高市郡、今の明日香村字小原の地であろうという。巻二(一〇三)「大原の古りにし里」とあった所と同所。「この市柴」は、「この」は、眼前の物を指示しての語。「市柴《いつしば》」は旧訓。「五柴」と書いた例が幾つもある。「市」の字を用いているについて『新考』は、転じて「いち柴」ともいったのではないかと疑っている。「いつ」は、「厳橿」「いつ藻」などのいつと同じく、繁っている意のもので、「柴」はそれとの関係上、木の柴ではないかという。これに従う。この二句は、下の「何時《いつ》」に畳音の関係でかかる序詞である。序詞ではあるが、眼前の物を捉えてのそれであることが注意される。○何時しかと吾が念ふ妹に 「何時しか」は、「し」は強め、「か」は疑問で、いつがその時かで、早くと待つ意をもった語。いつがその時か、早くと思っているところの妹に。○今夜あへるかも 「かも」は、詠歎。
【釈】 大原のこの市柴《いつしば》のいつという、そのいつがその時かと待ち思っていたところの妹に、今宵は逢っていることであるよ。
【評】 これは「妹」と呼ばれる人に与えられた歌である。「大原のこの市柴の」という序詞は、「何時しか」を強めるためのもので、強くも待ち望んでいたことをいうことによって、その逢い得たことを喜ぶ深さをあらわしたもので、逢い初めた夫婦間にあっては、普通のこととしていたものと思われる。この序詞の眼前を捉えたものであることは、「大原」という地名を用いていることにより、「この」という指示する語を用いていることによって明らかである。これは「妹」もその時見ているものなので、その意味でも感を強めるものとなるからである。山野などで男女が逢うのは、人目を避けようがためで、当時にあってはむしろ普通のことであったと思われる。巻二(一〇七)「あしひきの山のしづくに」は、大津皇子の山において女と逢おうと(349)されたもので、事としては同様である。
阿倍女郎の歌一首
【題意】 「阿倍女郎」は(五〇五)に出た。
514 吾《わ》が背子《せこ》が けせる衣《ころも》の 針目《はりめ》落《お》ちず 入《い》りにけらしも 我《わ》が情《こころ》さへ
吾背子之 蓋世流衣之 針目不落 入尓家良之 我情副
【語釈】 ○吾が背子がけせる衣の 「吾が背子」は、しばしば出た。「けせる」は、「けしある」の約《つづ》まった語。「けす」は着るの敬語で、着ていらせられるの意。○針目落ちず 「針目」は、針の縫目で、縫目と同じ。「落ちず」は、洩れずで、限りない縫目の、その一目も洩れずに。○入りにけらしも我が情さへ 「入りにけらしも」は、「に」は、完了。「入りに」は入ってしまったの意。「けらし」は、眼前を証としての推量をあらわすもので、証は下の「情《こころ》」である。「も」は、詠歎。「我が情さへ」の「さへ」は、重い上に軽きを添える意のもので、針目の上に我が情までも添っての意で、背の恋しさに放心した状態であるのを、巧みに言いかえたものである。
【釈】 わが背子が着ていらせられる衣の、その限りない縫目の一つも洩れず、縫糸とともに入って行ってしまったのであろう、わが心までが。
【評】 古くは夫の着物は、その一切が事の手で作られたもので、糸を得ることを初め、織り、染め、縫うことまでもしたのである。この歌は阿倍女郎が、その夫である人の衣を、当時の風に従ってみずから作り、たぶんはそれを夫の家に贈る時に、添えてやったものと思われる。歌の主旨は、夫の恋しさに心を奪われて、放心したような状態でいるということを訴えようとしてのものであるが、それをおりからの衣に関係させて、心が針目とともに衣の中に入ってしまって、わが身には添っていないと言いかえたのである。このことは女郎の創意ではなく、当時一般に信仰されていたことで、女郎はそれを応用したというにすぎないものではないかと思われる。この戦争以来、出征者が護身用として身につける千人針と称する物も、これと同じ信仰によってのものと思われ、その根柢の深さを思わせられるからである。この推測の当否にかかわらず、その贈った場合柄を思うと、才情の豊かな人であったことを思わせられる。
中臣朝臣《なかとみのあそみ》東人、阿倍女郎に贈れる歌一首
(350)【題意】 「中臣朝臣東人」は、続日本紀、和銅四年、正七位上より従五位下。養老二年式部少輔。同四年右中弁。天平四年兵部大輔に任ぜられた人である。この歌と、次の歌によると、阿倍女郎と夫婦関係の人であったことが知られる。
515 独《ひとり》宿《ね》て 絶《た》えにし紐《ひも》を 忌《ゆゆ》しみと せむすべ知《し》らに 哭《ね》のみしぞ泣《な》く
獨宿而 絶西紐緒 忌見跡 世武爲便不知 哭耳之曾泣
【語釈】 ○独宿て 独り寝をしてで、別居生活をしていることを、夫婦関係を通していったもの。○絶えにし紐を忌しみと 「絶えにし紐」は、切れてしまった紐で、「紐」は衣に縫いつけてある物。「忌しみと」は、「忌しみ」は形容詞の動詞化したものの連用形で、忌しくありの意。「忌し」は、甚だ忌むべきの意。「と」は、と思って。上代人は衣の紐に対して特殊な信仰をもっていたことが、集中の歌で知られる。夫が旅へ出る時には、妻は衣の紐を結んでやるのを風とし、また夫は、その紐を解くまいとしたのである。また紐の絶えることを甚しく忌んだが、これは夫婦関係の絶えることを暗示したものと解したようである。生活の一切は神意にありとし、それを暗示によって知る時代にあっては、生まれやすい信仰である。ここも、夫婦関係の絶えるものと解しての悲しみと取れる。○せむすべ知らに なすべき方法が知られずにで、「知らに」は、下の「泣く」の原因を示しているもの。これは、夫婦関係の絶えることを、神意の暗示と解しての狼狽である。○哭のみしぞ泣く 声を立ててばかり泣くで、「し」は強め。「泣く」は、「ぞ」の結、連体形。
【釈】 旅で独り寝をしていて、切れてしまった衣の紐を、甚だ忌むべきことであると思って、なすべき方法が知られずに、声を立ててばかり泣いていることであるよ。
【評】 東人が旅にあって、妻の女郎へと贈った歌である。心は旅愁という程度のものではなく、不安の訴えで、しかも哀切なものである。これは信仰の重圧の下にいたからのためであるが、それだけではなく、当時の夫婦関係というものが、同棲をしていないところから不安の伴いやすいものであったためと取れる。次の「答ふる歌」と合わせて見ると、この夫婦は、妻よりも夫のほうが多くの不安を感じていたものにみえ、この歌もそこから出ているものと取れる。歌としては実用性のもので、多くをいうべきものではない。
阿倍女郎の答ふる歌一首
516 吾《わ》がもてる 三相《みつあひ》に搓《よ》れる 糸《いと》もちて 附《つ》けてましもの 今《いま》ぞ悔《くや》しき
(351) 吾以在 三相二搓流 絲用而 附手益物 今曾悔寸
【語釈】 ○吾がもてる 「もてる」は、「持つ」に完了の助動詞「り」の連体形のついたもの。持っているの意。○三相に搓れる糸もちて 「三相」は、三筋を搓り合わせたもの。普通の物は二筋を搓ったものなので、「三相」は丈夫なものの意。これは糸だけではなく、綱にもいっている称である。「糸もちて」は、糸をもって。○附けてましもの 「附け」は、紐を衣に縫いつける意。「て」は、完了「つ」の連用形。「まし」は、仮定の帰結をあらわすもの。それと知ったら、つけておいたであろうものをの意。○今ぞ悔しき 「悔しき」は、連体形。今となっては、それをしなかったのが残念なことであるよの意。
【釈】 吾が持っている三相の糸の丈夫な物をもって、それと知ったら縫いつけておいたであろうものを。今となってはそれをしなかったのが残念なことであるよ。
【評】 夫は衣の紐の絶えたのを、不吉極まることとして、途方に暮れた物言いをしているのに、妻の女郎は、紐の絶えたというのを、紐を衣に縫いつけてある糸の切れたこととし、それならば持合わせの三相《みつあい》の糸で縫いつけて置けばよかったものを、不注意で残念なことをしたと、紐の絶えたということには全く無関心な態度をもって、何というほどのこともない一些事としている。「今ぞ悔しき」と大きくいっているのも、単に自分の不注意に対しての詫びである。妻としての操持に絶対の信念をもって、そうした点には触れまいとしている態度よりのものであるが、全体に余裕をもち、ことに結句「今ぞ悔しき」は、贈歌の「哭《ね》のみしぞ泣く」に意識して通わせたような言い方をしたのではないかと思われるまでである。上代の女性の夫婦関係を信仰的に感じている面影とともに、才情の豊かさをも示しているものである。
大納言兼大将軍大伴卿の歌一首
【題意】 この「大伴卿」は、大伴安麿である。巻三(二九九)に出た。続日本紀、和銅七年五月の条に、「大納言兼大将軍正三位大伴宿禰安麿薨、帝深悼之、詔贈従二位」とある。
517 神樹《かむき》にも 手《て》は触《ふ》るといふを うつたへに 人妻《ひとづま》といへば 触《ふ》れぬものかも
神樹尓毛 手者觸云乎 打細丹 人妻跡云者 不觸物可聞
【語釈】 ○神樹にも手は触るといふを 「神樹」は、旧訓「さかき」。本居宣長が今のように改めた。ここは、神の下り給う樹として、清められている神聖な樹と取れるからである。「手は触るといふを」は、手を触れることもあると人がいうものをで、手を触れるのは汚すことで、あるべか(352)らざることであるが、そうした場合もあるというものをの意。(七一二)「味酒《うまさけ》を三輪の祝《はふり》が忌《いは》ふ杉手触れし罪か君に逢ひがたき」がある。○うつたへに ひとえにの意で、副詞。○人妻といへば触れぬものかも 人妻は、他人の妻。「触れぬ」は、関係をつけぬの意。「かも」は、「か」の疑問に、「も」の詠歎の添ったもの。
【釈】 神聖なものである神木にも、時としては手を触れることもあると人がいうものを、ひとえに、人妻というと触れないものであろうか。
【評】 この歌は独詠と取れる。人妻に関心をもち、その間の超ゆべからざることを思いつつ、忘れかねての独語であろう。神木に手を触れることの怖るべきことであるのは、上に引いた歌でもわかるように、一般にいわれていたこととみえる。「手は触るといふを」と「いふ」を添えていっているのは、時としてはそうした事もあると聞く意で、安麿の神木に対する信仰をあらわしているものである。その神木と人妻とを比較し、人妻のほうには「うつたへに」を添えていっているので、安麿の道義心と、「かも」の疑問との矛盾の強さが感じられる。この対比は、「触る」という語に導かれてのものであり、その「触る」は二義をもったもので、内容を異にしているのであるが、そこに語戯に近いものをすら感じさせないのは、この歌が全体としてもっている素朴と誠実の感のさせることである。
石川郎女の歌一首 即ち、佐保大伴の大家なり
【題意】 「石川郎女」は、元暦本を初め八本に、小字で、「即佐保大伴大家也」と注がある。「佐保大伴」は、佐保に邸をもっている大伴氏で、安麿に対する敬称であり、「大家《たいこ》」は婦人の尊称であって、安麿の嫡妻の意である。集中に「石川郎女」と呼ばれる人は何人かあり、それが何びとであるかは問題となっている。「石川」は氏であり、「郎女」「女郎」は敬称であるから、石川氏の女性に通じて用いられるものだからである。この人は、巻三(四六一)の左注に、「大家石川命婦」とあり、また本巻、(六六七)の左注に、「大伴坂上郎女の母、石川|内命婦《うちのひめとね》」とある人である。「内命婦」は、後宮の女官で、五位以上の者に対する称である。また「石川朝臣」とも呼ばれている。「朝臣」は姓である。名を「邑婆《おおば》」といったこともわかる。
518 春日野《かすがの》の 山辺《やまべ》の道《みち》を おそりなく 通《かよ》ひし君《きみ》が 見《み》えぬ頃《ころ》かも
春日野之 山邊道乎 於曾理無 通之君我 不所見許呂香裳
【語釈】 ○春日野の山辺の道を 「春日野」は、巻三(三七二)「山部赤人、春日野に登りて」の歌に出た。現在の奈良市の春日野よりは範囲が広(353)く、その中に「登りて」という山地をも含んでいたのである。「山辺の道」は、山のほとりの道で、その道は、郎女の家へ通ずるものである。○おそりなく 「おそり」は、原文「与曾理」とある本が多いが、元暦本は「与」が「於」となっている。それに従う。「おそり」は「恐り」で、上二段活用の連用形で、名詞形のものである。集中には用例がないが、土佐日記には、正月二十三日の条に、「このわたり海賊のおそりありといへば、神仏を祈る」とある。古くから行なわれていた語と思われる。○通ひし君が見えぬ頃かも 「通ひし君」は、郎女の家へ、通って来たところの君で、「君」は夫としての安麿と取れる。「見えぬ頃かも」は、打絶えて見えないこの夜頃であるよと、嘆いてのもの。
【釈】 春日野の山のほとりの道を、恐れることもなく通って来た君の、打絶えて見えないこの夜頃であるよ。
【評】 初句より四句までは、夫の真実を謝する心のものであり、結句は不安の情をいったものであるから、夫に訴えの心をもって贈るために詠んだものであろう。それにしては直接に訴えるところが稀薄なので、あるいは自身の心やりのために詠んだものではないかと思わせるまでである。本来は実用性の歌で、見るものは贈られた夫だけのものであるから、妻としての誠意と、そのつつましさが通じれば、それがすなわち訴えともなり得たので、これで事が足りたとすべきであろう。この文芸性の乏しいのは、時代の関係もあるが、それよりも、その人の歌才の少なかったことがおもになってのことと取れる。
大伴女郎の歌一首 今城王の母なり、今城王、後に大原真人の氏を賜ふ
【題意】 「大伴女郎」は、題詞の下に、元暦本を初め六本には、小字をもって、「今城王之母也、今城王後賜大原真人氏也」という注がある。集中、「大伴郎女」と称されている人が二人あり、その一人は「大伴坂上郎女」であり、今一人は、この注のある人だと考証されている。この「女郎」(『考』は「郎女」の誤写かといっている)は、旅人の妻であるが、それ以前、「今城王」の父である人の妻となり、後に旅人の妻となった人である。今城王の父がどなたであったかは知れず、また郎女の家も知れない。郎女は、旅人の大宰帥となって任地に赴いた時伴われて行き、その地で没したことが、巻八(一四七二)石上堅魚の歌の左注で知れ、また旅人の歌によっても知られる。
519 雨障《あまつつみ》 常《つね》する公《きみ》は 久堅《ひさかた》の 昨夜《きそのよ》の雨《あめ》に 懲《こ》りにけむかも
雨障 常爲公者 久堅乃 昨夜雨尓 將懲鴨
【語釈】 ○雨障常する公は 「雨障」は、雨を畏み慎しむ意で、その心から雨に妨げられて家にこもる意の名詞。心としては一種の信仰をもってのことと取れる。「常する公」は、平生しているところの公で、「公」は妻より夫をさしての称。○久堅の昨夜の雨に 「久堅の」は、「雨」にかか(354)る枕詞。「昨夜《きそのよ》」は、『新訓』の訓。巻二(一五〇)に仮名書きのものがある。昨夜の意で「きぞ」ともいっていた。「昨夜の雨」は、前夜、郎女の許へ通って来て、夜の明けないうちに帰って行った、その時の雨。○懲りにけむかも 「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形。「かも」は疑問。懲りてしまったことであろうか。
【釈】 雨障《あまつつみ》を平生しているところの君は、昨夜の帰り路の雨に懲りてしまったことであろうか。
【評】 通って来て、帰った夜の明けた後、挨拶の心をもって贈ったもので、平安朝時代の後朝《きぬぎぬ》の歌の範囲のものである。しかし訴える心のものではなく、雨に逢ったのを気の毒に感じて、いたわった心のものである。この雨は、帰りしなに不意に逢ったものかと思われる。帰ろうとする時からの雨ではなかろう。「懲りにけむかも」は、不安をもっての訴えといえるものであるが、明るい心を背後に置いてのもので、いたわりと見るほうがあたっているものである。おおらかで、優しさがあり、その階級を思わせる人柄である。
後人《のちのひと》の追同《おひなぞら》ふる歌一首
【題意】 「後人」は、誰ともわからない。「追同」は、「同」は漢文では「和」と同じ意で用いていると『攷証』が考証している。古歌の境地を想像して感を催し、その延長として歌を詠むことが、奈良遷都前後から起こってきているが、これもそれである。当時、軽い興味として稀れに行なわれていた題詠の、文芸的になってきたものとみられるものである。
520 久堅《ひさかた》の 雨《あめ》も落《ふ》らぬか 雨《あま》つつみ 君《きみ》に副《たぐ》ひて この日《ひ》晩《く》らさむ
久堅乃 雨毛落粳 雨乍見 於君副而 此日合晩
【語釈】 ○雨も落らぬか 「落らぬか」は、降らないのか、降ってくれよの意で、「ぬか」は願望をあらわすもの。「ぬか」は、上に「も」を伴って、それと相俟つているものである。巻三(三三二)「吾が命も常にあらぬか」と同じ。○雨つつみ 前の歌に出た。○君に副ひてこの日晩らさむ 「副ひ」は、添って一緒にいる意。君に添って一緒にいて、この一日を過ごそう。
【釈】 雨が降らぬか、降ってくれよ。それだと、雨《あま》つつみをする君に添って一緒にいて、この一日を過ごそう。
【評】 これは後の人が、上の歌の女郎の心を思いやり、女郎に代わって詠んだ形のものである。女郎の「公《きみ》」と呼ぶ夫の、夜明け方帰ろうとしている時は、まだ雨は降ってはいなかったが、雨催いの空であったと想像し、その「公」は雨に対しては、(355)「雨つつみ」をする人であると想像し、女郎はそれこれを一つにして、心の中でこのように思ったであろうと想像して詠んだのがこの歌である。上の歌のつつましやかな、人柄なのに較べると、この歌はただ媚態を示しているだけのものである。作者である「後人」は、歌としてはこのほうが優っているとしたことであろうが、上の歌はその人に即しての実用性のものであり、この歌はその人から遊離させたいわゆる文芸性のものであり、立場を異にしたものであって、優劣のいえないものである。女郎がもしこの歌を見たならば、斥けたであろうと思われる。女郎と「後人」とは、時としては幾何《いくばく》の隔たりもなかろうと思われるが、推移の際やかなものがある。
藤原|宇合《うまかひの》大夫、任を遷されて京に上る時、常陸娘子《ひたちのをとめ》の贈れる歌一首
【題意】 「藤原宇合」は、巻一(七二)に出た。「大夫」は五位としての敬称である。「任を遷されて京に上る」は、地方官であった時のことであるが、続日本紀、養老三年に、「常陸国守正五位上藤原朝臣宇合、管安房、上総、下総三国云々」とあるので、その任が果てて、他の任で京へ上る時のことである。大体、養老七年頃であろうという。「常陸娘子」は、常陸にいる娘子の意で、遊行女婦であろうと思われる。
521 庭《には》に立《た》つ 麻手《あさで》刈《か》り干《ほ》し しき慕《しの》ふ 東女《あづまをみな》を 忘《わす》れたまふな
庭立 麻手苅干 布慕 東女乎 忘賜名
【語釈】 ○庭に立つ麻手刈り干し 「庭に立つ」は、庭に立っているで、下の「麻手」に続く。「麻手」は麻のこと。「刈り干し」は、刈り取り、干しの意で、初二句は、「しき」の序詞となっている。続きは、「敷き」の意で、地面に敷くことで、これは干すためのことである。「干し」と「敷き」は、事として前後しているが、序詞とする関係上そうさせたものと取れる。○しき慕ふ 「しき」は、承けるほうは、繁く、ひまなくの意で、しきりにというにあたる。「慕《しの》ふ」は、ここは慕う意。しきりにも思うところの。○東女を忘れたまふな 「東女」は、東の女。「東」は東国の総称。ここは京に対して卑下の意をもっていったもの。「女」は、娘子自身のこと。「忘れたまふな」は、忘れてくれるなの意で、敬語をもっての訴え。宇合の任期中に愛されていたことを背後に置いての語。
【釈】 庭に立っている麻を刈り取って、干して地面に敷く、そのしくという語《ことば》のとおり、しきりにも君を慕うところの夷《ひな》の東《あずま》の女の我を忘れたまうな。
【評】 常陸の国府に住んでいる女の、たぶんは一遊行婦が、任期中自分を愛していた国守の、遷任して京へ上るに際し、別れ(356)を悲しみ、せめては我をお忘れ下さるなと訴えたものである。遊行婦ではないかと思われるのは、この歌は感情が濃厚で、あらわし方は露骨で、しかもかなりまで技巧的なものだからである。自身を「東女」という語であらわしているのは、国守に対しての卑下の心からのものであるが、要を得たもので、これが「庭に立つ麻手刈り干し」という序詞に連絡しているのである。この序詞は農民の生活を捉えていっているもので、作者である女の実生活よりのものではなく、「東女」との関係で、構えて設けたものと思われる。すなわち技巧で、知性を働かせたものである。この序詞と、「しき」との続きは、いったがように無理がある。しかしこれを音読すると、それを感じさせなくなるところがある。それは「刈り」「干し」と同じ尾韻を重ね、それを「しき」「しのふ」と頭韻に移して、さらに重ねているためであろう。これは技巧ではあるが意識してのものではなく、謡い物に馴れているところから、その影響でおのずからに得ているものと思われる。こういう技巧は特殊な女性でないと得られないものであろう。
京職《みさとづかさのかみ》藤原大夫、大伴郎女に贈れる歌三首 卿は諱を麿といふ
【題意】 題詞は諸本異同がある。大矢本など三本には「京職」の下に「大夫」があり、また「贈」が「賜」、「郎」が「良」となっている。題詞の下、小字の注はない本もある。京職は、奈良京の政務の一切を掌《つかさど》るところで、地方の国庁と同様である。政務の事項は「職員令」に定められている。「大夫」は、その長官で、国庁における国守にあたる。「藤原大夫」は、藤原麿で、「大夫」は、四、五位の者に対する敬称である。麿は、藤原不比等の第四子で、続日本紀、養老元年、正六位下より従五位下、同五年従四位下となり、左右京大夫となった。歌はこの頃のものである。神亀三年正四位上、天平元年従三位、同三年参議、同九年兵部細。その年に薨じて、太政大臣を贈られた。麿の家を京家というのは、京職大夫であったためである。「大伴郎女」は、ここは、大伴坂上郎女を称したもので、郎女のことはしばしば出た。なおこれらの歌の後に左注として伝が添っている。二人は一時夫婦関係となっていたのである。
522 をとめ等《ら》が 殊篋《たまくしげ》なる 玉櫛《たまくし》の 神《かむ》さびけむも 妹《いも》にあはずあれば
※[女+感]嬬等之 珠篋有 玉櫛乃 神家武毛 妹尓阿波受有者
【語釈】 ○をとめ等が珠篋なる 「をとめ等」は、広く女をさしたものであるが、女を愛し重んじる意から、若い女の称を用いたもの。用例が少なくない。「珠篋」は、「珠」は、美称。「篋」は、櫛笥《くしげ》で、主として櫛を入れる筥。しばしば出た。「珠篋なる」は、櫛笥の中にあるの意。○玉櫛(357)の 「玉」は、上と同じく美称。「櫛の」の「の」は、のごとくの意のもので、初句よりこれまでは、下の「神さび」の譬喩。櫛は大切な物として、久しく用いるのを常としたとみえる歌があり、またそのものの性質として油じみて古びても見えるので、その古びた点を捉えてのもの。○神さびけむも 「神さぶ」は、本義は、神としての性質を発揮する意であるが、転じて、物の古びていることをあらわす語ともなっている。ここはそれである。古びてしまったことであろうで、「も」は詠歎。古びるという意は、下にその理由として「妹にあはずあれば」といっているように、妹に逢わずにいれば、そのために老人らしくなる意で、砕いていえば、爺むさくなってしまったことだろうの意。これは麿としては甚だ誇張した言で、その誇張は、郎女を婉曲に讃えることであり、またさみしさを訴えることでもある。
【釈】 おとめらの玉櫛笥の中にある玉櫛の古びているがごとくに、吾もまた爺むさくなってしまっていることであろう。このように妹に逢わずにいるので。
【評】 何らかの事情があって、麿が郎女の許へ通うことのできずにいる時に、その言いわけとしての歌である。それをするに、「神さびけむも」は、「語釈」でいつたがような理由で、自身の地歩を占めつつしている訴えで、当時者の間では要を得た言い方であったろうと思われる。「をとめ等が珠篋なる玉櫛の」という譬喩もまた、表面は一般的な物を捉えているがごとくであるが、心としては、郎女の身辺の物をいっているのであろうから、ここにも同じ心が働いているといえる。「珠」を重ねたのも、その意味では拙いとはいえないものである。
523 好《よ》く渡《わた》る 人《ひと》は年《とし》にも ありとふを 何時《いつ》の間《ま》にぞも 吾《わ》が恋《こ》ひにける
好渡 人者年母 有云乎 何時間曾毛 吾戀尓來
【語釈】 ○好く渡る 「渡る」は、巻十三(三二六四)「年渡るまでにも人はありとふを何時《いつ》の間《まに》ぞも吾が恋ひにける」があり、一首全体としても、また語としても、それを取ったもので、経過するの意である。「好く渡る」は、好く経過するで、恋の上では、好く堪え忍びつづける意。○人は年にもありとふを 「年にも」の「年」は、一年間の意で、巻十一(二四九四)「ここだく恋し年にあらば如何に」、その他用例の多いものである。「年にも」は、一年間の久しきにわたっての意。「ありとふを」は、あるということであるものを。初句よりこれまでは、天上の彦星を心に置いてのもの。○何時の間にぞも吾が恋ひにける 「何時の間にぞも」は「ぞ」は疑問、「も」は詠歎で、いつというほどの間《ま》もないのに、いつかという意で、早くもという意を言いかえたもの。「恋ひにける」は、「ける」は上の「ぞ」の結で、恋しくなってしまったことであるよ。
【釈】 堪え忍ぶことをしつづける人は、一年間にもわたってそれをしているということであるものを、いつの間にか早くも吾は、恋しくなってしまったことであるよ。
(358)【評】 「語釈」でいったがように、巻十三の歌をいささか変えただけのものである。古歌を取って、わが用に当てるということは、古くから行なわれていたことで、恋、挽歌、賀など、心の範囲の広い歌は、それをしようと思えば、大体できたのである。これもそれである。巻十三は民謡集であるから、この歌は誰も知っていたもので、古歌を取るといううちでも最も容易なもので、また古歌とも言い難いほどのものでもあったろう。この古歌は、彦星と自身とを比較したもので、季節感をもったものである。麿がそれを取ったのは、おりから七夕の頃で、これが適切なものであったためかと思われる。麿という人は、本来創意を出し難い人でもあったろうが、この風は、一面時代の影響を受けたものと思われる。
524 烝被《むしぶすま》 なごやが下《した》に 臥《ふ》せれども 妹《いも》とし宿《ね》ねば 肌《はだ》し寒《さむ》しも
蒸被 奈胡也我下丹 雖臥 与妹不宿者 肌之寒霜
【語釈】 ○蒸被なごやが下に 「蒸被」は、今も蒸し暑いというその蒸しで、暖かな意のもの。「被」は、寝具の中の着る物の称で、今の掛蒲団にあたる。暖かい掛蒲団で、熟語。「なごやが下に」は、「なごや」は、「柔《なご》やか」の意で、名詞形。柔やかな物の意。「下に」は、着た下にで、埋もってというにあたる。この二句は、古事記上巻、須勢理毘売《すせりひめ》命の歌に、「むしぶすまにこやがしたに」とあるのを取ったもので、成句である。「にこや」が「なごや」に変わっているのは、転じたのである。○臥せれども 寝たけれども。○妹とし宿ねば肌し寒しも 「肌し」の「し」は、強め。「も」は、詠歎。
【釈】 暖かい衾《ふすま》の、柔らかな物の下になって寝たけれども、妹と共寝をしないので、わが肌は寒いことであるよ。
【評】 独り寝の床の肌寒さを嘆くのは、古くからの常識となっていて、これもそれである。この歌は、「蒸被なごやが下に」といっているところに新味があるが、これは神代の物という伝えはあるだけで、当時広く伝承されていたものとみえ、山上憶良の歌にも引用されている。上の歌の巻十三のものと同じ心のものといえる。これも、季節感の伴った歌と取れる。
大伴郎女の和ふる歌四首
525 狭穂河《さほがは》の 小石《こいし》践《ふ》み渡《わた》り ぬば玉《たま》の 黒馬《くろま》の来《く》る夜《よ》は 年《とし》にもあらぬか
狭穏河乃 小石踐渡 夜干玉之 黒馬之來夜者 年尓母有粳
(359)【語釈】 ○狭穂河の小石践み渡り 「狭穂河」は、佐保川。春日山の鶯滝を水源とし、佐保村の南を流れ、大安寺を経て、大和川の上流となる川。郎女の家へ来る途中にあるもの。「小石」は、旧訓「さざれ」。『代匠記』が、さざれはささやかな意で、小石は「さざれし」とあるから、ここもさざれしと訓むべきかといい、爾来「さざれし」と「小石《こいし》」とが論となっている。今は「小石《こいし》」に従う。「践み渡り」は、橋がないので、川を徒渉する状態をいったもので、それをするのは下の「黒馬」である。○ぬば玉の黒馬の来る夜は 「ぬば玉の」はしばしば出た。「黒」にかかる枕詞。「黒馬」は、旧訓「こま」。『代匠記』が改めた。「くろうま」の約。麿の乗馬としてのもの。「来る夜」は、旧訓。麿の通って来ることを、乗馬によってあらわしたもの。○年にもあらぬか 「年に」は、上の(五二三)「好く渡る人は年にも」のそれと同じで、一年間にわたっての意。「もあらぬか」は、「ぬか」は、上の「も」を伴って、願望をあらわしているもの。上の(五二〇)「雨も落らぬか」に出た。一年間の久しきにわたらないのか、わたってくれよの意。
【釈】 佐保川の河原の小石を踏んで渡って、君が乗馬の黒馬の通って来る夜は、一年間の久しきにわたらないものか、わたってくれよ。
【評】 これは、「好く渡る人は年にも」に対する和え歌である。和え歌は、後世には、贈歌の語を取り、それに反対なことをいうのが型のようになったが、このことはこの当時のものでも、身分がほぼ対等である場合には行なわれていた。この歌もその範囲のものである。この歌は、贈歌の「年にもありとふを」を捉え、その「年にも」は、「好く渡る」であるのを、反対に、通って来ることの「年にも」にしている。それを結句として、他の四句は、通って来る状態としたので、要を得たものである。しかるにこの歌もまた、麿の贈歌と同じく、巻十三(三三一三)から取ったもので、それは、「川の瀬の石ふみわたりぬば玉の黒馬の来る夜は常にあらぬかも」である。この歌の「川の瀬の石」を、「狭穂河の小石」と変え、「常にあらぬかも」を、「年にもあらぬか」に変えたのである。巻十三はいったがごとく民謡集であるから、その歌は双方が知っているものである。相聞の実用性の歌とはいえ、双方が古歌を運用したものを贈り和えしているのであるから、文芸性のものとなったというよりも、む(360)しろ文芸的の遊戯をしているものというべきである。ここに見る郎女は、いかに運用の才に長《た》けていたかということで、要するに知性の範囲のものである。
526 千鳥《ちどり》鳴《な》く 佐保《さほ》の河瀬《かはせ》の 小浪《さざれなみ》 止《や》む時《とき》もなし 吾《わ》が恋《こ》ふらくは
千鳥鳴 佐保乃河瀬之 小波 止時毛無 吾戀者
【語釈】 ○千鳥鳴く佐保の河瀬の小浪 「千鳥鳴く」は、河千鳥が鳴いているところの。「佐保の河瀬」は、上の佐保川の、その流れの瀬をなしている所。「小浪」は、小さな浪で、水の流れる勢によって立つ浪で、したがって絶えず立っているもの。以上の三句は、下の「止む時もなし」の譬喩であるが、譬喩としては原始的なもので、そうした状態を眼にすることが刺激となって、心象としての「止む時もなし」を捉え得た形のもの。○止む時もなし吾が恋ふらくは 「止む時もなし」は、下の「恋」の状態。「恋ふらく」は、「恋ふ」に、「く」を添えることによって名詞形としたもので、わが恋うることはの意。
【釈】 河千鳥の鳴いている佐保川の河瀬に立ちつづいているさざ浪の、それと同じく、やむ時とてはない、君をわが恋うることは。
【評】 この歌も、巻十三(三二四四)「阿胡《あご》の海の荒磯《ありそ》の上のさざれ浪吾が恋ふらくは止む時もなし」によったものと思われる。「阿胡の海」は、長門国で、旅にあって、家を恋いつつ見ているものであるから、「荒磯の上のさざれ浪」が、「恋ふらくは止む時もなし」を思わせるのは自然である。それに較べると、「佐保の河瀬のさざれ浪」は、構えてのものという感を起こさせる。強いて自身の環境に引きつけた跡を見せているもので、成功の作とはいえない。これはおそらく前の歌と同時のもので、前だけでは足りずとして添えたものであろう。
527 来《こ》むといふも 来《こ》ぬ時《とき》あるを 来《こ》じといふを 来《こ》むとは待《ま》たじ 来《こ》じといふものを
將來云毛 不來時有乎 不來云乎 將來常者不待 不來云物乎
【釈】 来ようといってさえ、来ない時があるものを、まして来まいといっているのを、来ようかとは待つまい。来まいといっているものを。
【評】 「来じといふを」というのは、麿の三首の歌のうち、第一にも第三にも言いうるものである。それはどちらも、「来む」と(361)まではいっていないので、それを強めていえば言いうるものだからである。この強めは恨みからである。結句の「来じといふものを」は、明らかに強いたもので、いわゆる拗ねての物言いである。五句とも頭韻を踏んだもので、文芸的遊戯の心をもったものである。やや古くは天武天皇の「淑き人の良しと吉く見て」(巻一[二七〕)の御製もあって、伝統のあるものであり、能才の人によって試みられてきたものとみえる。
528 千鳥《ちどり》鳴《な》く 佐保《さほ》の河門《かはと》の 瀬《せ》を広《ひろ》み 打橋《うちはし》渡《わた》す 汝《な》が来《く》と念《おも》へば
千鳥鳴 佐保乃河門乃 瀬乎廣弥 打橋渡須 奈我來跡念者
【語釈】 ○佐保の河門の 「河門」は、河の両岸が近く迫って、川幅の狭くなっている所の称。ここは、橋の架け場所としていっている。○瀬を広み 流れの瀬が広いによって。○打橋渡す 「打橋」は、さして高くはない岸から岸へ、板を渡して橋とした物の称。○汝が来と念へば 「な」は、汝。あなたが来ると思うので。
【釈】 河千鳥の鳴いている佐保川の河門《かわと》の、そこの流れの瀬が広いので、我は打橋を架け渡す。あなたが来ると思うので。
【評】 この歌は、(五二三)「好く渡る人は年にもありとふを」に和えたものと思われる。その「人」というのは、一年に一度を妻との逢瀬としている天上の彦星であることはいった。七夕に関しての歌は、集中にきわめて多いが、その中の一首として、巻十(二〇六二)「機《はたもの》の※[足+搨の旁]木《ふみき》持ち往きて天の河打橋わたす公《きみ》が来む為」がある。巻十の歌は古いものであるところから、巻十三の歌と同じく、作歌の参考として読まれていて、同じく記憶にあったものと思われる。麿が古歌を台に、彦星を引合いにした歌を贈ってきたので、郎女も同じく古歌を台に、棚機を引合いに出し、棚機女が彦星のために、天の河でしたということを、自身は麿のために、佐保川でするというのである。この歌は古歌を変えた所がやや多く、関係が婉曲になっているが、作意は同一で、わざとらしさの際立ったもので、関係のあるものということは蔽い難いものである。まさに文芸的遊戯のものである。こう見てくると、郎女は「好く渡る人は」の歌に対して、三首を和えたことになる。
右、郎女は、佐保大納言卿の女なり。初め一品穂積皇子に嫁し、寵せらるること儔《たぐひ》なし。皇子薨ぜし後、藤原麿大夫、この郎女を娉《つまど》へり。郎女、坂上の里に家す。よりて族氏|号《なづ》けて坂上郎女と曰へり。
(362) 右、郎女者、佐保大納言卿之女也。初嫁2一品穂積皇子1、被v寵無v儔。而皇子薨之後時、藤原麿大夫、婚2之郎女1焉。郎女、家2於坂上里1。仍族氏號曰2坂上郎女1也。
【解】 「佐保大納言卿」は、大伴泰麿。「穂積皇子」は、天武天皇の皇子で、巻二(一一四)(一一五)に出た。「坂上の里」は、明らかではない。生駒郡三郷村立野の東北、坂上《さかね》説があり、石井庄司氏は、磐姫皇后の陵を「平城坂上陵」と申しているので、奈良坂のほとり、佐保の西方の地ではないかという。「族氏」は、氏族。
又、大伴坂上郎女の歌一首
529 佐保河《さほがは》の 岸《きし》のつかさの 柴《しば》な刈《か》りそね 在《あ》りつつも はるし来《きた》らば 立《た》ち隠《かく》るがね
佐保河乃 涯之官能 少歴木莫苅焉 在乍毛 張之來者 立隱金
【語釈】 ○岸のつかさの 「岸」は、水際。「つかさ」は、地の小高い所の称。「小高かる市のつかさ」、「野山司《のやまつかさ》」「野司《のづかさ》」などの用例がある。○柴な刈りそね 原文「少歴木《しば》」は、『他覚抄』の訓。「歴木」は「くぬぎ」で用例のあるもの。それに「少」を添えて、木の柴に当てたもの。「な刈りそね」は、「な……そ」は、禁止。「ね」は、ねんごろに頼む意の助詞。○在りつつも 生き続けていてで、「も」は詠歎。○はるし来らば 「はる」は、春。「し」は、強め。春が来たならばで、柴の若葉が茂ったならばの心のもの。○立ち隠るがね 「立ち隠る」は、葉蔭に隠れる意で、「立ち」は、感を強めるために添えているもので、例の多いもの。隠れるのは、男女、人目を避けて逢う意。「がね」は、巻三(三六四)「語り継ぐがね」の場合と同じ。動詞、助動詞の連体形をうけて、の料にの意をあらわす助詞。隠れるための料に。
【釈】 佐保川の水岸の柴を、人よ、刈り取らずにくれ。我は生き続けて、春が来て若葉が茂ったならば、その蔭で、思う人と忍び逢うための料に。
【評】 この歌は旋頭歌である。旋頭歌は、短歌とは別個の途を辿って発達した歌体と思われる。短歌との先後は明らかではないが、むしろ古いものと思われる。本集中にはわずかに約六十首があるのみで、それも大体柿本朝臣人麿歌集のものであるから、一面保守的であった人麿によって関心をもたれ、作られもしたものとみえる。古いということは言いかえると民謡的だということである。この歌は、郎女が、擬古の心をもって、興味で作ったものとみえる。男女、野で密会するということは、上代では必ずしも特別なことではないが、きわめて人目を忍ぶ必要のあった者のすることであったと取れる。この歌は自身を、そうした必要のある女に擬し、恋の悩みに堪え難くしつつも、密会の可能のある春を待つ心をいったものである。「在りつつ(363)も」はその悩みを暗示し、「はるし来らば」は、若葉の茂ることを暗示しているもので、心は民謡的であるが、あらわし方は織細で、文芸的なものである。構えて作ったものだからである。
天皇、海上女王《うながみのおほきみ》に賜へる御歌一首 寧楽宮に即位《あめのしたしら》しめしし天皇なり
【題意】 「天皇」は、聖武天皇。「海上女王」は、次の歌の題詞の注として、桂本を初め七本には、「志貴皇子の女なり」とある。志貴皇子は天智天皇の皇子である。女王は、続日本紀、養老七年従四位下、神亀元年従三位を授けられた記事がある。天皇の御后の一人であったとみえる。
530 赤駒《あかごま》の 越《こ》ゆる馬柵《うませ》の 緘《しめ》結《ゆ》ひし 妹《いも》が情《こころ》は 疑《うたがひ》もなし
赤駒之 越馬柵乃 緘結師 妹情者 疑毛奈思
【語釈】 ○赤駒の越ゆる馬柵の 「赤駒」は、毛色の茶褐色の馬。最も多い毛色で、したがって誰にも印象されている毛色である。「馬柵《うませ》」は、馬塞《うませき》の意で、牧場の周囲の柵。厩の出入口の棒を「ませ棒」という称は、今も用いている。「越ゆる馬柵」は、越ゆるところの馬柵で、馬柵の性質をいうことを主としての語で、事としては、馬柵があれば、馬は越えては出られないのである。「の」は、のごとくの意のもので、下の「緘《しめ》結ひし」の譬喩。○緘結ひし 「緘」は、多く「標」の字を用いている。ここは、領有のしるしの物。しるしは大体繩である。「結ひし」とあるので、それと取れる。以上三句は、一、二句は「緘結ひし」を力強くいうための譬喩。また「緘結ひし」は、わがものとしたということを強くいうための具象化で、心は、堅くわがものとしたの意。○妹が情は疑もなし 「妹が情」は、妹の我に対する心で、その真実。「疑もなし」は、我は疑いをもたないで。「も」は詠歎。
【釈】 赤駒の越ゆるところの馬柵《ませ》のごとくにも標《しめ》を結いめぐらして、わがものとした妹の、我に対する真実については疑いをもたない。
【評】 この御製は、次の女王の和《こた》え奉る歌によって見ると、女王が何らかの事で皇居より遠い地へ行っていたおりに賜わったものと思われる。初句より三句までの譬喩は、地方色の濃いものであって、庶民の謡い物を思わせるものである。巻十二(三〇九六)「うませ越《ごし》に麦|喰《は》む駒の詈《の》らゆれど猶し恋しくしのひかてぬを」がある。適例ではないが、連想されるものである。女王の行かれた地が、こうした譬喩を用いるにふさわしい所であったためではないかと思われる。一首、女王に対しての寵をお示しになったものであるが、高く地歩を占めさせられ、おおらかに仰せになっているもので、高貴なる御歌風である。
(364) 右、今案ずるに、この歌は擬古の作なり。但時の当れるを以て、便《すなは》ちこの歌を賜へるか。
右、今案、此謌擬古之作也。但以2時當1、便賜2斯歌1歟。
【解】 「擬古」については諸説がある。古風を摸したという意と思われる。古風というのは一、二句の譬喩で、この時代の御製としては、地方的であるとの意で、新風を慕う心よりいっているものと思われる。「時の当れるを以て」は、場合柄がふさわしいのでの意。
海上女王の和《こた》へ奉《まつ》れる歌一首 志貴皇子の女なり
531 梓弓《あづさゆみ》 爪引《つまひ》く夜音《よと》の 遠音《とほと》にも 君《きみ》が御事《みこと》を 聞《き》かくし好《よ》しも
梓弓 爪引夜音之 遠音尓毛 君之御幸乎 聞之好毛
【語釈】 ○梓弓爪引く夜音の 「梓弓」は、下の続きで梓弓の弦を「爪で引く」ので、これは弦音《つるおと》を立てるため。「夜音」は、夜の音で、夜に限ってするものであることをあらわしている。これは宮中警固の随身《ずいじん》が、夜、その陣にあってする事と定められてしている行為である。弦音は邪神を斥ける力があると古くから信じられており、その意味で、警固のためにするのである。「の」は、のごときの意のもの。○遠音にも 「遠音」は、遠く離れていて聞く音。遠音であっても。○君が御事を 「御事」は、原文「御幸」で、諸本同様である。『考』は「幸」は「事」の誤写だと正した。それに従う。「事」は「言《こと》」に当てたもので、「御言」は、上の御製をさしてのもので、それでないと意が通じないからである。○聞かくし好しも 「聞かくし」は原文「聞之」。旧訓「聞くはし」。『代匠記』が改めた。「聞かく」は、「聞く」の未然形に「く」を添えて名詞形としたもの。聞くことの意。「し」は、強め。「好しも」の「も」は詠歎。
【釈】 梓弓の弦を爪引く夜の音のごとき遠音であっても、君が御言葉を聞きまつることの好さよ。
【評】 御製に和えて、喜びの心を申したものである。その喜びは、表面はおおらかに、ただ喜んでお受けをしたことを申しているだけであるが、部分的には細心な注意をして、その喜びの深さをあらわそうとしているものである。「梓弓爪引く夜音」は、「遠音」の譬喩としてのものであるが、「赤駒の越ゆる馬柵」に対させたものであり、この事の行なわれているのはおそらく皇居だけのことであり、ここは明らかに皇居をあらわして、天皇を慕いまつる心を暗示するものとしている。「聞かくし」という語も、力をこめてのものである。一首、高貴の面目を保ちつつ、心を尽くした趣のあるものである。
(365) 大伴|宿奈暦《すくなまろ》宿禰の歌二首 佐保大納言卿の第三子なり
【題意】「大伴宿奈麿宿禰」は、巻二(一二九)に出た。大伴安麿の第三子である。続日本紀、養老三年正五位下、養老三年備後国守として安芸、周防の按察使を兼ねた。神亀元年従四位下に昇った。その後は不明である。歌はその管国から、女を宮仕として出す時のものと思われる。
532 打日《うちひ》さす 宮《みや》に行《ゆ》く児《こ》を ま悲《かな》しみ 留《と》むれば苦《くる》し 聴去《や》ればすべなし
打日指 宮尓行兒乎 眞悲見 留者苦 聽去者爲便無
【語釈】 ○打日さす宮に行く児を 「打日さす」は、宮、京にかかる枕詞。巻三(四六〇)に出た。あまねく日のさすという解に従う。「宮に行く児」は、「宮」は皇居。「児」は女を愛しての称で、宮仕に行くところの女。この女は後の続きで見ると、心を引かれる美しい女であるから、容貌の端麗ということを資格の一半とした、諸国より貢する采女《うねめ》であろうと思われる。それで国守としてその事務を行なう上で見たものと思われる。○ま悲しみ 「ま」は接頭語。「悲しみ」は、形容詞の動詞化したもので、ここは可愛ゆくして。○留むれば苦し 「留むれば」は、手許に引留めておけばで、そうしたい心からいっているもの。「苦し」は、公務にそむくことなので、苦しい意。○聴去ればすべなし 原文「聴去」は、聴《ゆる》して去《ゆ》かしむる意で、「遣《や》る」に当てたもの。「聴去《や》れば」は、京にやってしまえば。「すべなし」は、せんすべもないで、采女となれば手触れ難い制となっている意と取れる。
【釈】 この国より宮仕えにと京に上ってゆく女の可愛ゆくして、引留めて手許に置きたいが、それをすれば公務にそむくので苦しい。さりとてやってしまえば、どうしよう術《すべ》もない。
【評】 采女貢進の事を国守として行なう際、その女の美貌に心を動かし、私情の遂げ難い嘆きをいったものである。一首、実感を直截に訴えたもので、文芸性は顧慮に加えず、ただ強く情を抒べただけのものである。その抒情が心やりとなって、事柄を忘れさせようとしているものである。
533 難波潟《なにはがた》 塩干《しほひ》の名凝《なごり》 飽《あ》くまでに 人《ひと》の見《み》む児《こ》を 吾《われ》しともしも
難波方 塩干之名凝 飽左右二 人之見兒乎 吾四乏毛
(366)【語釈】 ○難波潟塩千の名凝 「難波潟」は、ここは、風景の愛でたい所としていったもので、その愛でたさは、大和の京の人の海珍しさからの愛でたがりである。「塩千の名凝」は、「塩干」は、干潮。「名凝」は、二義があって、波が鎮まった後の余波の意と、潮が引いた後の溜り水の意とである。ここは塩干の際のことであるから、後の意のものである。以上二句、海の珍しく愛でたさから、見ても飽かず、名凝《なごり》までも見る意で、下の「飽くまで人の見む」の譬喩としてのもの。「難波潟」は、女の上京の路として、また佳景として連想されたもので、心としては譬喩であるが、形としては序詞に近いものである。これは技巧としてのことではなく、むしろその反対のものである。○人の見む児を 「人」は、京の人。「見む」は、眼をもって見愛でる意の想像。○吾しともしも 「し」は、強め。「ともし」は、羨ましい意のもの。「も」は詠歎。
【釈】 難波潟の珍しく愛でたさに、潮干の後の溜り水までも見るごとく、あくまでも京の人の見愛でるであろうところの女を、吾は見られず、羨ましいことであるよ。
【評】 前の歌に続いたもので、女を京に上らせた後の想像である。「難波潟」を捉えているのは、京の連想においてのもので、自身、風景としての難波潟に深い愛惜をもったことのあった記憶を、それに結びつけたものと思われる。序詞に譬喩の気分をもたせることは、すでに行なわれていたことで、これもその範囲のものとはいえるが、十分に成し得ずにいるもので、むしろ拙いものである。二首とも語の続きに飛躍があって、前の歌では三、四句の間に、この歌では結句にそれがあって、いずれも語を補わなければ通じかねる趣があるが、これは感性によって押切ろうとするところからのもので、技巧とはいえないものである。
安貴王《あきのおほきみ》の歌一首 并に短歌
【題意】 「安貴玉」は、春日皇子の子、市原王の父で、続日本紀、天平元年従五位下、十七年従五位上になられた。この歌を作られた事情は、左注にまって明らかであり、因幡国|八上采女《やがみのうねめ》を娉《つまど》ったことが不敬罪とせられ、采女は本国へ還されたが、それを思っての歌である。
534 遠嬬《とほづま》の ここに在《あ》らねば 玉桙《たまぼこ》の 道《みち》をた遠《とほ》み 思《おも》ふ空 《そら》安《やす》けなくに 嘆《なげ》くそら 安《やす》からぬものを み空《そら》往《ゆ》く 雲《くも》にもがも 高飛《たかと》ぶ 鳥《とり》にもがも 明日《あす》去《ゆ》きて 妹《いも》に言問《ことど》ひ 吾《わ》が為《ため》に 妹《いも》も事《こと》なく 妹《いも》が為《ため》 吾《われ》も事《こと》無《な》く 今《いま》も見《み》る如《ごと》 副《たぐ》ひてもがも
(367) 遠嬬 此間不在者 玉桙之 道乎多遠見 思空 安莫國 嘆虚 不安物乎 水空徃 雲尓毛欲成 高飛 鳥尓毛欲成 明日去而 於妹言問 爲吾 妹毛事無 爲妹 吾毛事無久 今裳見如 副而毛欲得
【語釈】 ○遠嬬のここに在らねば 「遠嬬」は、遠方に住んでいる妻。上代は妻の家の遠方にあることは稀れなことではなく、したがってこれは用例のある語。ここは、その本郷に還された八上采女を、京にあっていっているもの。「ここに在らねば」は、「ここ」は、京。「あらねば」は、「あらぬに」と、並び行なわれていた同意の語で、その古い形。この京にいないので。○玉桙の道をた遠み 「玉桙の」は、道にかかる枕詞。しばしば出た。「道をた遠み」は、「道」は、京と因幡との間の距離。「た遠み」の「た」は接頭語。「遠み」は、遠くして。○思ふ空安けなくに 「思ふ空」は、思う心地。「安けなくに」の「安け」は形容詞の未然形。「なく」は、否定の助動詞「ず」の未然形「な」に「く」の添って名詞形となったもの。「に」は、詠歎。○嘆くそら安からぬものを 「嘆くそら」は、嘆く心地。この二句は、上の二句の繰り返しで、対句。以上一段落。○み空往く雲にもがも 「み空往く」は、「み」は、美称。空を自由に行く、「雲にもがも」は「もがも」は顕望。身を雲に変えたい意。交通の不便だった上代の嘆きで、慣用されて成句となっているもの。○高飛ぶ鳥にもがも 「高飛ぶ」の「高」は、空の意の古語で、現在も用いている地方がある。二句、上の二句と対句となっており、同じく成句。○明日去きて妹に言問ひ 「明日去きて」は、すぐにも行ってというのを、「明日」と重く言いかえたもの。道が遠いという意からである。「妹に言問ひ」は、妹にものをいいであるが、「言問ひ」は、逢いを言いかえたもの。○吾が為に妹も事無く 「事なく」は、非常の事がなくで、すなわち無事にの意。二句、吾と妹とを一体として、妹の無事を願う意。○妹が為吾も事なく 上の二句と主格を変えて、一体という事を徹底させたもの。形は繰り返しであるが、意は異なっている。○今も見る如副ひてもがも 「今も見る如」は「今」は、上の「明日去ゆきて」の「明日」に照応させたもので、現在の意。「も」は詠歎。「見る如」は、見せているごとくで、王が眼前に面影として采女を見ている事をいったもの。「副ひてもがも」は「副ひ」は、相並ぶ意。「もがも」は、願望の助詞。二句、今眼前に面影として見ているごとくに、事実として相並んでいたいものであるよの意。
【釈】 遠妻のこの京にいないので、その間の路が遠くあって、思いやる心地が安くはないことであるよ、逢い難さを嘆く心地が安くはないことであるよ。わが身が空を飛ぶ鳥であってほしい、己が身が空を行く雲であってほしい。そして明日は行って、妻に逢ってものをいい、わがために妻も無事に、妻のために我も無事で、現に面影に見ているがごとくに、一緒にいたいものであるよ。
【評】 この歌の反歌によると、「年ぞ経にける」とあって、八上采女《やがみのうねめ》が不敬罪に問われて、因幡国に還されてから、少なくも年を越えていることがわかる。安貴王の思慕の情は、静かな、空想をまじえた気分になっていたことが、歌によって知られる。この歌はその気分にふさわしく、静かに、心細かにいおうとしたものである。大体としては謡い物の風に倣ったものである。謡い物は、そのものとしてすでに古風なものであるのに、この歌はことに古風なもので、この時代の長歌から見ると、時代後れのものである。しかし、さすがに新味をまじえてもいる。新味というのは、素朴に語《ことば》少ないところは古風だが、この静かな(368)調子は、謡い物ではなく、独詠の気分の明らかなものであるからである。また、語《ことば》は惜しんでいるが、それによって細かい気分をあらわそうとしているところも、新味というべきである。一首を二段とし、前段、「安からぬものを」までは、全体を総叙したことをいい、後段は、その上に立って細かい心をいっているのである。「吾が為に妹も事なく、妹が為吾も事無く」は、互いに無事でということであるが、ここでは心の生かされたものとなっている。反歌との関係上、見ぬことが年を経てのこととわかるので、その感はいっそうである。それにつぐ「今も見る如副ひてもがも」は、一首の頂点で、「今も見る如」の解は問題を含んでいるものであるが、相逢うことの想像に伴い、上を承けて、眼前に立ちきたる面影に対していっているものと解される。思う人の面影の立ちきたることは集中に例の多いものであるから、この場合それをいっているとしても怪しむには足りない。これは生趣の深いものである。一首、この時代としては特殊な形式を選んでいるがごとくにみえるが、必然性のあるもので、またその形式を生かし得ているものである。
反歌
535 敷妙《しきたへ》の 手枕《たまくら》纏《ま》かず 間《あひだ》置《お》きて 年《とし》ぞ経《へ》にける あはなく念《おも》へば
敷細乃 手枕不纏 間置而 年曾經來 不相念者
【語釈】 ○敷妙の手枕纏かず 「敷妙の」は、枕の枕詞。「手枕纏かず」は、手枕をせずで、共寐をせずにの意。下へ続く。○間置きて年ぞ経にける 「間置きて」は、絶え間を置いてで、「間」は時。「年ぞ経にける」は、年という永い日時を過ぎたことであるよ。○あはなく念へば 旧訓「あはぬおもひは」。『古義』の訓に従う。「あはなく」は、「あはず」の名詞形。逢わぬこと。
【釈】 手枕と枕としての共寐をせずに、絶え間を置いて年という永い時も過ぎたことであるよ。逢わないことを思うと。
【評】 長歌の、事より感傷を静かに展開させたのを承けて、反歌はその感傷をさらに展開させて、大観した形のものであり、構成をもった、要を得たものである。「間置きて年ぞ経にける」は、素朴で、細かい心があり、長歌と微妙に相通ずるものである。
右、安貴王、因幡八上采女を娶りて、係念極めて甚しく、愛情尤盛なり。時に勅して不敬の罪に断じ、本郷に退却せしむ。ここに王の意、悼怛《たうだつ》して聊かこの歌を作れり。
右、安貴王、娶2因幡八上采女1、係念極甚、愛情尤盛。於v時勒斷2不敬之罪1、退2却本郷1焉。(369)于v是王意、悼怛聊作2此歌1也。
【解】 「八上采女」は、八上郡より貢した采女。八上郡は今は鳥取県八頭郡に入る。「不敬の罪に断じ」は、采女が断ぜられたのである。「悼怛」は、いたみかなしむ意。
門部王《かどべのおほきみ》の恋の歌一首
【題意】 「門部王」は、巻三(三一〇)に出た。左注によって出雲国守であったことが知られる。
536 飫宇《おう》の海《うみ》の 塩干《しほひ》の潟《かた》の 片念《かたもひ》に 思《おも》ひや去《ゆ》かむ 道《みち》の長手《ながて》を
〓宇能海之 塩干乃鹵之 片念尓 思哉將去 道之永手呼
【語釈】 ○飫宇の海の塩干の潟の 「飫宇の海」は、巻三(三七一)に出た。出雲国|意宇《おう》郡にある海の意で、今島根県八束郡の中《なか》の海だろうという。国庁がそのあたりにあったからである。「塩干の潟」は、干潮時の干潟《ひがた》で、この二句は、「潟」を同音の繰り返しで「片」の序詞としたものである。なおこの序詞は、単にそれだけのものではなく、下の「道」の在り場所であり、また「塩干」は、暮の干潮で、時刻をもあらわしているものと取れる。○片念に思ひや去かむ 「片念」は、相手は思わず、こちらだけが思う意。「や」は、詠歎。「去かむ」は、通って行こうで、訴えの心をもっていっているもの。○道の長手を 「長手」は、長い道の意で、遠い路をの意。女の家の遠さをいったのであるが、これまた訴えの心よりのもの。
【釈】 飫宇の海の潮干の潟という、その片思いに思って、我は通って行こうよ。その遠い路を。
【評】 作歌の事情は、左注で明らかである。管内の一娘子に関係し、中絶した後、再び通って行こうとした際のもので、この歌は、今夜娘子の家へ行こうとした日、あらかじめ使をもって贈った歌である。歌はその事情に即したもので、一面には国守として高く地歩を占めつつ、同時に一面には、細心な注意をもって娘子に訴えてい、その矛盾が技巧を生み、それがまた文芸的ともなっているものである。「飫宇の海の塩干の潟の」は、「片念」の「片」にかかる序詞で、「片念」を強くいおうとしてのものである。今は「片念」というべき関係ではなく、王自身その点は恃《たの》むところあってのことと思われるから、これは訴えである。またこれは、下の「道の長手」に響いているもので、道の労苦を強めていう意で、同じく訴えである。さらにまた「塩干」は、ここは夕暮の干潮であろうから、その意では今夜ということ、あるいは時刻までも暗示しているものである。すな(370)わち序詞に他の意味の複雑なものももたせたもので、これは技巧である。「思ひや去かむ」の「や」の詠歎にも、訴えの心があって、「道の長手を」と響き合っている。一首、心をこめたもので、こうした実用性の歌が、すでに文芸的となっていたことを示しているものである。
右、門部王、出雲守に任ぜられし時、部内の娘子を娶れり。未だ幾時《いくばく》ならずして、既に往来を絶つ。月を累ねたる後、更に愛づる心を起す。仍《よ》りて此の歌を作りて娘子に贈り致す。
右、門部王、任2出雲守1時、娶2部内娘子1也。未v有2幾時1、既絶2往來1。累v月之後、更起2愛心1。仍作2此謌1贈2致娘子1。
【解】 「出雲守に任ぜられし時」は、続日本紀には出ていず、この集によってのみ知られることである。「部内」は、管内で、「娘子」の何者であるかはわからない。
高田女王の今城王《いまきのおほきみ》に贈れる歌六首
【題意】 「高田女王」は、天武天皇の皇子長皇子の曾孫。御父は高安王である。それ以外は知れない。「今城王」は、上の(五二八)の左注、大伴坂上郎女の伝に、初め穂積皇子に嫁したことがあり、また、(五一九)の題詞に添えて、元暦本その他には、「今城王之母也、今城王後賜2大厚真人氏1也」とあるところから、穂積皇子の御子で、母は大伴坂上郎女であろうかといわれている。大原真人今城は続日本紀にしばしば出ており、これを今城王の臣籍に下っての後とすると、天平宝字元年従五位下、治部少輔、同七年左少弁、また上野守、八年従五位上、宝亀二年兵部少輔、同三年駿河守となっている。
537 事《こと》清《きよ》く 甚《いた》もないひそ 一日《ひとひ》だに 君《きみ》いしなくば 痛寸取物
事清 甚毛莫言 一日太尓 君伊之哭者 痛寸取物
【語釈】 ○事清く甚もないひそ 「事」は、言《こと》に当てたもので、王の女王に対しての物言い。「清く」は、明らかに、はっきりとしている意で、含みをもたない意。すなわち、言いきった言い方。「甚もないひそ」は、原文「甚毛莫言」で、『考』は「いともな言ひそ」と訓み、諸注が従ってい(371)る。文字どおり「いたもないひ」と訓む。「いた」は、はげしい意。「も」は、詠歎。「な」は、禁止。「な」のみで、「そ」の照応がなく、禁止の意をあらわすのは古風で、例の多いものである。以上一段。○一日だに君いしなくば 「一日だに」は、ただ一日の短かい間だけでも。「君いし」は、「い」は主格に添えていう助詞で、巻三(二三七)「志斐《しひ》いは奏《まを》せ」があった。「し」は、強め。「なくば」は、吾と関係を絶ったならばの意。○痛寸取物 旧訓、「いたききずぞも」。諸注、問題としている。『攷証』は、旧訓は意も解し難く、文字も当たらない。誤字があろうとして、解を省いている。『考』『古義』は、誤字説を立て、『古義』は「偲不敢物《しぬびあへぬもの》」の誤字としている。『新訓』はこれに従っている。『新考』は『古義』の上に立ち、「有不敢物《ありあへぬもの》」かといっている。「旧訓」以来すべて迎えての解である。『攷証』に従い、問題として残しておく。
【釈】【評】 ともに省く。
538 他辞《ひとごと》を 繁《しげ》み言痛《こちた》み あはざりき 心《こころ》ある如《ごと》 な思《おも》ひ吾《わ》が背子《せこ》
他辞乎 繁言痛 不相有寸 心在如 莫思吾背子
【語釈】 ○他辞を繁み言痛み 巻二(一一六)に出た。他人の我に対していうことの繁くして、またはげしくしての意で、そうした例の多いところから、成句のごとくなっていたもの。○あはざりき 王の逢おうとするのを避けて逢わずにいたの意。○心ある如な思ひ吾が背子 「心ある如」は、あだし心があっての事のように。「な思ひ」は、旧訓「おもふな」。『代匠記』の訓。思い給うな。「吾が背子」は、呼びかけ。
【釈】 他人の物言いの繁くはげしくして、そのために逢わずにいた。あだし心があってのように思い給うなよ。わが背子よ。
【評】 王が通って来たのに、女王が避けて逢わなかった夜があり、それに対しての弁明である。次の歌で見ると、女王の周囲の者は、王との婚を喜ばず、妨げをしたものと取れる。「他辞」というのはそれである。それに対して、女王は押切ってゆくだけの心がもてず、また王には、女王のその態度があきたりないという関係ではなかったかと取れる。時代はすでに奈良朝に入っており、高貴な身分の方々であるから、事が複雑になり、感情は繊細になってきているのは、自然の成行きと見られる。歌はこの時代のものとすると、古風な、実用性のみのもので、文芸的なところのないものである。一意、哀訴している、素朴なものである。三句切に、名詞止という形であるが、古くも例のあるもので、新味があるとはいえないものである。
539 吾《わ》が背子《せこ》し 遂《と》げむと云《い》はば 人事《ひとごと》は 繁《しげ》くありとも 出《い》でてあはましを
吾背子師 遂常云者 人事者 繋有登毛 出而相麻志乎
(372)【語釈】 ○吾が背子し遂げむと云はば 「背子し」の「し」は、強め。「遂げむと云はば」は、下の「出でてあはましを」の条件として仮想したもので、「遂げむ」はこの場合、逢うことを遂げる意で、どうでも逢おうというにあたる。もしそういったならば。○人事は繁くありとも 「人事」は、上の歌の「他辞」で、周囲の物言い。周囲の者が語《ことば》多くいおうとも。○出でてあはましを 「出でて」は、家を出でて、人目のない所で密会する意で、例の少なくないもの。「あはましを」の「まし」は、上の「云はば」の帰結。「を」は詠歎。
【釈】 わが背子が、もしどうでも逢おうといったならば、周囲の者の物言いは多かろうとも、吾は家を出て逢つたであろうものを。
【評】 この歌も、前の歌に続いて、逢わなかったことの弁明である。前の歌は、周囲の者に制せられたことをいって訴えたが、この歌は、それのみではなく、自身としても勇気がもてなかったが、それは君がもてるようにしむけてくれなかったがためであるといい、しかしその態度は恨みをいわずに訴えているものである。実情を吐露することのみを念としたもので、前の歌と同様なものである。この歌は心が前の歌に続いているから、同時のもので、おそらくその前の歌も同時で、三首を詠み続けて贈ったのであろう。三首、実際に即しているので、事の輪郭はおのずからにわかる。事としてはこの歌が根本で、通って来た王は、女王が快く逢わないので、不快を感じ、何もいわずして帰ってしまい、次に、前々首の歌で想像されるように、強い語をもって絶縁のことをいってきた。それに対して前の歌とこの歌との弁明と哀訴になったという順序であろう。
540 吾《わ》が背子《せこ》に 復《また》はあはじかと 思《おも》へばか 今朝《けさ》の別《わかれ》の すべなかりつる
吾背子尓 復者不相香常 思墓 今朝別之 爲便無有都流
【語釈】 ○吾が背子に復はあはじかと思へばか 「復は」の「は」は、強めで、意味としては「復」で足りるものである。「あはじかと」は、逢わないのだろうかというので、「か」は疑問。「思へばか」は、思ったせいであろうかで、この「か」も疑問で、係。○今朝の別のすべなかりつる 「今朝の別」は、昨夜逢つての朝の別れで、後朝《きぬぎぬ》の別れ。「すべなかり」は、「すべなくあり」の約で、「すべなく」は、せん術《すべ》のなくで、どうすべきか全くわからずぼんやりとしていた意で、悲しみを具体的にいったもの。「つる」は、「か」の結で、連体形。
【釈】 わが背子に、また逢うことはないのではなかろうかと思ったせいか、その悲しみで、今朝の別れ際には、せん術もなく、ただぼんやりとしていたことであるよ。
【評】 この歌の場合は、前の三首の歌とは別の時で、前の弁明によって、いちおうの心は解け、一夜を相逢って別れた後に、女王より王に贈ったものである。歌は、相逢いはしたが、王の素振りには、女性の敏感によって、王の心の機微の察しられる(373)ものがあるが、女王にはそれを如何《いかん》ともすることができず、ただぼんやりとしているのみであったが、後になって、その自分の仕打ちがまた気になり、弁明をして訴えたものである。純真ではあるが、気が弱く、また気働きの少ない女王の面目の現われている歌で、あわれのあるものである。「すべなかりつる」という語は、実際をいっただけのものであるが、捉え方が適確で、味の多いものである。
541 現世《このよ》には 人事《ひとごと》繁《しげ》し 来世《こむよ》にも あはむ吾《わ》が背子《せこ》 今《いま》ならずとも
現世尓波 人事繋 來生尓毛 將相吾背子 今不有十方
【語釈】 ○現世には人事繁し 「現世」は、下の「来世」に対させたもので、仏教の世界観として説くもの。人としての現在の世。「人事繁し」は、上に出た。現世は人の物言いの多い所であると、自身の現境を大観して嘆いての語。○来世にもあはむ吾が背子 「来世」は、現世を終わると、ただちに継いて来る世のあるとしてのもの。ここは、いわゆる生まれ替って来る世と取れる。来世においてもまた、現世のごとく相逢おう、わが背子よと呼びかけたもの。「あはむ」は、人言《ひとごと》なく、自由にということを含めたもの。○今ならずとも 逢うのは今でなくとも。
【釈】 現世で逢おうとすると、人の物言いが多い。来世でもまた同じように相逢おう、わが背よ。逢うのは今でなくとも。
【評】 当時は仏教が隆盛であったが、集中の歌で見ると、その影響を受けているものが少なく、ありとすると、思想として受け入れ、あるいは語句のおもしろさとして取り入れている程度で、生活気分に溶かしているものは幾何もないといえる。この歌は、その深浅は別として、生活気分に溶かしているものといえる。これは女性としての信心深さを伴っていようが、その気の弱さが根本をなしているものと思われる。王がこの信仰をどの程度まで肯《うべ》なったかは歌がないから知れない。
542 常《つね》止《や》まず 通《かよ》ひし君《きみ》が 使《つかひ》来《こ》ず 今《いま》はあはじと たゆたひぬらし
常不止 通之君我 使不來 今者不相跡 絶多此奴良思
【語釈】 ○常止まず通ひし君が使来ず 「常止まず」は、旧訓「とことはに」。『玉の小琴』が今のように改めた。いつも絶えず。「通ひし君が使」は、王より女王の許へ通っていた使。○今はあはじとたゆたひぬらし 「今」は、過去に対させたもの。「たゆたひ」は、ためらう意。「ぬらし」は、「ぬ」は、完了を示し、「らし」は、眼前を証としての推量で、証は使の来ぬこと。
(374)【釈】 いつも絶えず通っていたところの君が使が来ない。これだと、今はもう逢うまいと、君の心はためらっているのであろう。
【評】 訴えの心のものであるが、その心が弱く、むしろ諦めを告げる口気をもったものである。「常止まず」というのを見ると、「人事繁し」というのは女王の解釈で、限度のあったものとみえる。古風な、真実をとおしての歌を詠まれているので、六首の歌によって、女王自身の面目を怪しきまでに描き出しているところがある。この事に関しての歌はこれで終わっているので、その後を思う由もない。
神亀元年甲子冬十月、紀伊国に幸せる時、従駕の人に贈らむ為、娘子《をとめ》に誂《あとら》へらえて作れる歌一首并に短歌
笠朝臣金村
【題意】 「神亀元年」は、聖武天皇の最初の年号で、「紀伊国に幸せる時」は、続日本紀に出ており、「十月幸卯(五日)紀伊国に幸す」とあり、その七日、紀伊国那賀郡玉垣勾頓宮、八日には海部郡玉津島頓宮に至り、とどまり給うこと十余日。二十三日、和泉国を経て還幸あらせられた。「誂へらえ」は、集中、他にも用例のある字である。日本書紀、垂仁紀、履中紀に「あとらふ」の古訓がある。訓は確め難いものであるが、『攷証』は平安朝の仮名書きにより、「あつらへ」と訓んでいる。代作を頼まれたことである。「笠朝臣金村」は、西本願寺本以下、題詞の中の「誂へらえて」の下に入っているが、桂本その他には、題詞の下、あるいは別行に書いてある。今はそれに従う。金村は巻二(二三〇)以下、しばしば出た。
543 天皇《おほきみ》の 行幸《みゆき》のまにま 物部《もののふ》の 八十伴《やそとも》の雄《を》と 出《い》で去《ゆ》きし 愛《うつく》し夫《つま》は 天翔《あまと》ぶや 軽《かる》の 路《みち》より 玉《たま》だすき 畝火《うねび》を見《み》つつ 麻裳《あさも》よし 木道《きぢ》に《い》入り立《た》ち 真土山《まつちやま》 越《こ》ゆらむ君《きみ》は 黄葉《もみちば》の 散《ち》り飛《と》ぶ見《み》つつ 親《した》しくも 吾《われ》をば念《も》はず 草枕《くさまくら》 旅《たび》をよろしと 思《おも》ひつつ 君《きみ》はあらむと あそそには 且《かつ》は知《し》れども しかすがに 黙然《もだ》もえあらねば 吾《わ》が背子《せこ》が 往《ゆ》きのまにまに 追《お》はむとは 千遍《ちたび》念《おも》へど 手弱女《たわやめ》の 吾《わ》が身《み》にしあれば 道守《みちもり》の 問《と》はむ答《こたへ》を 言《い》ひやらむ すべを知《し》らにと 立《た》ちて爪《つま》づく
(375) 天皇之 行幸乃隨意 物部乃 八十伴雄与 出去之 愛夫者 天翔哉 輕路從 玉田次 畝火乎見管 麻裳吉 木道尓入立 眞土山 越良武公者 黄葉乃 散飛見乍 親 吾者不念 草枕 客乎便宜常 思乍 公將有跡 安蘇々二破 且者雖知 之加須我仁 黙然得不在者 吾背子之 徃乃万々 將追跡者 千遍雖念 手弱女 吾身之有者 道守之 將問答乎 言將遣 爲便乎不知跡 立而爪衝
【語釈】 ○天皇の行幸のまにま 「まにま」は、成行きに任せる意の副詞。同じ意味で、「まにまに」とも用い、用例が多い。○八十伴の雄と 「八十」は多数を具象的にいったもの。「伴」は朝廷に奉仕する団体。「雄」は、緒《お》で、その長官。朝廷に奉仕する多種の職業団体のその長官の意で、朝廷の百官という意を具象的にいった称。「と」は、とともに。○出で去きし愛し夫は 「出で去きし」は、従駕したところの。「愛し夫」は、「愛し」は讃えた意で、親子夫婦の間に限って用いられた語。ここは夫に対してのもの。○天翔ぶや軽の路より 「天翔ぶや軽」は、巻二(二〇七)に出た。空を飛ぶ雁《かり》で、雁を「軽」ともいったところから、地名の軽の枕詞となったもの。軽は巻三(三九〇)参照。畝傍山の東南にあたる。「より」は、そこを経過する意でいっているもの。ここは奈良京より紀伊国へ行く道筋をいおうとし、最も印象的な地の第一としていっているもの。○玉だすき畝火を見つつ 「玉だすき畝火」は、巻一(二九)に出た。「玉だすき」は、「玉」は、美称で、「たすき」は襷。項《うなじ》にかける意の「うなぐ」より「畝」に転じさせて畝火の枕詞としたもの。「畝火」は畝火山。「見つつ」は、眺めつつで、旅行をする状態を暗示したもの。○麻裳よし木道に入り立ち 「麻裳よし」は、巻一(五五)に出た。麻の裳を着と続き、着を国の紀に転じて、その枕詞としたもの。「木道《きぢ》」は、紀路で、紀伊国へ通じる往還の意にも、紀伊国そのものにも用いる。ここは前者である。「入り立ち」は、入る意で、「立ち」は、語感を強めるための慣用。○真土山越ゆらむ君は 「真土山」は、巻一(五五)参照。大和国と紀伊国との国境に立ち、紀州往還にあたっている。○黄葉の散り飛ぶ見つつ 「黄葉の散り飛ぶ」は、十月の光景としていっているもの。「飛ぶ」は、山風を思わせているものと取れる。「見つつ」は、上の「畝火を見つつ」と同じく、旅行の状態を暗示させているもの。○親しくも吾をば念はず 旧訓「むつまじくわれをばおもはじ」。「親」《したしくも》は『玉の小琴』の訓、「吾《われ》をば念《も》はず」は『考』の訓である。しみじみとは吾のことを思わずで、「も」は詠歎。○草枕旅をよろしと 「草枕」は旅の枕詞。「よろしと」は、旧訓「たよりと」。『略解』の改めたもの。「よろしと」はおもしろしとの意。○思ひつつ君はあらむと 「思ひつつ」は、「つつ」の継続によって、上の二か所の「見つつ」と同じ意をあらわしたもの。○あそそには且は知れども 「あそそには」は、ここの一か所よりほか用例のない語である。前後の関係より推して、うすうすはというほどの意の副詞であろうとされている。「且は知れども」は、「且は」は、一方では。一方では察しているけれども。起首よりここまでは、夫を中心としての想像で、以下は自身のことに転じている。以上で、第一段落の形である。○しかすがに黙然もえあらねば 「しかすがに」は、そうではあるものの。「黙然《もだ》」は黙っていることで、名詞。「えあらねば」は、いられないのでで、夫の状態に対して、一種の嫉妬を感じてきての意。○吾が背子が往きのまにまに 「吾が背子」は、上に「君」と二たびまで繰り返していっているのを、一転して最も親しい称に換えたもの。「往き」は従篤しての旅で、名詞。「まにまに」は、上の「まにま」と同じ。○追はむとは千遍念へど 「追はむとは」は、後を追って、一緒になろうとはの意で、夫の愛を取り返そうとはの心のもの。「千遍」は、幾度となくを具象(376)的にいったもの。これ以下はまた一転するので、以上、第二段落の形。○手弱女の吾が身にしあれば 「手弱女」は、「た」は、接頭語。「弱」は、弱い意で、女が男に較べて体力の劣っていることを意識して、卑下の心でいっている語であるが、ここは、下との関係上、女という意のもの。「吾が身にし」の「し」は、強め。二句、女の吾なのでで、旅行する上で、女は男よりも公の制限を受けることが多いということを思い浮かべての語《ことば》。○道守の間はむ答を 「道守」は、次の反歌では「関守」となっており、同じ心でいっているものである。以前から重要な往還には関があり、身分や、旅行の理由の明らかでない者は通さなかった。それを証明する物を過所《かそ》といい、後世の関所手形、すなわち旅行免状にあたる物であった。その事務を司っている者が「道守」あるいは「関守」である。今、娘子も旅をするならば、その過所がなくてはならないのであるが、その得られないことに思い及んだのである。「問はむ答」は、道守の事務として訊ねる身分や、旅行の理由に対しての答である。○言ひやらむすべを知らにと 「言ひやらむ」は、「言はむ」の意を、答の性質上、言ってのけるという意に言いかえたもの。「すべ」は、方法であるが、上よりの続きで、言いぐさというにあたる。「知らにと」は、巻二(二二三)に出た。「に」は否定の助動詞「ぬ」の連用形。「と」は、「言ひやらむ」以下を一纏めとし、下の理由をあらわす意のもの。言ってのける言いぐさを知らずして、そのゆえにというほどの意。○立ちて爪づく 「立ちて」は、今にも出かけようと立ち上がって。「爪づく」は、つまずくで、解は諸説があるが、『代匠記』の、心が上の空であるゆえだという解に従う。「道守」以下の反省が起こると、はたと当惑し、放心した状態になっているのを、具象化していったものである。立ち上がって、うろうろして、物につまずく意。
【釈】 大君の行幸の進みのまにまに、朝廷の百官とともに京を出て行った愛《うつく》しき夫は、天翔《あまと》ぶや軽の路を経て、玉だすき畝火山を見ながらに進み、麻裳よし紀州往還に入って、真土山を越えるであろうところの君は、おりからの山の黄葉の、山風に散って飛ぶのを見ながらに進み続け、それらのおもしろさに心を奪われて、しみじみとはわが上は思わず、草枕旅はおもしろいものだと思い続けて君はいることだろうとは、うすうすは一方では知っているけれども、そうは思うものの吾としては、黙ってそのままにしていることはできないので、わが背子の進み行くまにまに、後を追って一緒になり、その心を取り返そうとは幾たびとなく限りなく思うけれども、女のわが身のことであるので、途中にいる道守が、身分や旅行の理由を尋ねるであろうところのその答を、何と言ってのけたものか言いぐさを知らないので、立ち上がって、うろうろして、放心して物につまずく。
【評】 この歌は、歌そのものとしては、旅にある夫に、その妻が思慕の情を寄せるという実用性の範囲のものである。こうした歌は当事者の間だけのもので、第三者を考慮に入れるべきものではない。したがって歌という形式さえ備えておれば、巧拙は多くの問題とならない性質のものである。作歌の才の足りない者は、古歌を模したもので用を弁じてもいたのである。他人に代作をしてもらうということは、古歌を摸すのに脈を引いたものであるが、頼むということも、頼まれるとそれに応じて、苦労して長歌を作るということも、時代が文芸的となり、実用性ということを離れて、歌そのもののできを問題とするようになったがために起こってきたことと取れる。こうしたことは必ずしも少なくはなかったろうが、明らかな証のあるのは、大伴(377)家持がその妻のために代作をしたなど、わずかにすぎない。この歌はその例として、やや古く、また際立ったものでもある。歌は笠金村としても、代表的に文芸性を発揮したものである。その第一は長歌形式を選んだことである。この時代は、長歌はすでに短歌に席を譲り、儀礼としての改まった場合、または深く心を動かした特別の場合でない限り、短歌をもって事を足していた。長歌を好んだとみえる金村であるが、こうした心を代作するのに、長歌の、しかもやや長いものをもってしたということは、文芸性を発揮しようとの心の伴っていたこととみえる。第二に、歌そのものも、興に乗って作ったというものではなく、細心の用意をもち、構成をつけ、知性を働かせて作った跡を見せているものである。第一段は、起首より「あそそには且は知れども」までで、全体のなかば以上である。これは従駕の旅にある夫の、その状態と心理とを想像したものである。それは大体としては明かるく楽しいものであるが、このことは一に、自然の風景のおもしろさから醸し出されるものである。この当時、自然がいかに魅力あるものとなっていたかは、天皇の玉津島頓宮における十数日の御逗留は、和歌の浦の風光を愛でさせられたためであるというのでも明らかで、したがって金村のこの想像も特殊のものではなかったことが知られる。この歌での風光は、第一は軽より畝火へかけての辺、第二は真土山のおりからの散る黄葉である。それをいうに、中心を夫に置き、最初は、「出で去きし愛し夫は」と愛称をもってし、次には、「真土山越ゆらむ君は」と、改めていい、さらにまた、「旅をよろしと、思ひつつ君はあらむと」と漸層的にいっているのは、相応に知性を働かせての組立と思える。第二段は、上の「知れども」の「ども」で一転させ、夫を離れて娘子自身のことをいっている。そのいうことは、夫が風景のおもしろさに心を奪われ、自分を忘れているがごとくに感じられ、一種の嫉妬の情が燃え立ち、夫の傍らに添う者となって、その情を取り返そうというのである。こうした嫉妬がはたしてあるであろうか。これに似たものはあるとしても、はたしてこれほど強く起こるものであろうか。疑いなきを得ぬことである。これは風景の魅力を限りなきものとする上に立っての想像であって、実際とはある遊離をもったものに思える。この遊離を金村は文芸性と見、一首の眼目をここに置いたのである。ここでまた段を改めているのであるが、その改め方は前の場合と同じく、「千遍念へど」の「念へど」と転じさせているので、その方法は同一である。第三段は、第二段の延長で、改めているとも言えないかのようにみえるものであるが、娘子はここに至って初めて反省をもち、その事の実行難を感じたことにしているので、段を改めていると見るべきである。途中にいるべき「道守」を想像するのは、第一段の道行の照応するものであり、また「立ちて爪づく」の具象化は、細心に心を働かせたもので、一首の結末にふさわしいものである。さて一首を全体として見ると、細心に具象化はしているが、平面的であり、また説明的であって、長歌としてもつべき立体感の盛り上がって来るものが少なく、散文的の感の掩《おお》い難いものである。
反歌
(378)544 後《おく》れ居《ゐ》て 恋《こ》ひつつあらずは 木《き》の国《くに》の 妹背《いもせ》の山《やま》に あらましものを
後居而 戀乍不有者 木國乃 妹背乃山尓 有益物乎
【語釈】 ○後れ居て恋ひつつあらずは 巻二(一一五)に出た。後に残っていて、恋いつづけていずに。○木の国の妹背の山にあらましものを 「妹背の山」は、「背の山」は巻一(三五)参照。紀伊国伊都郡にあり、背山と妹山とが、紀ノ川を挟んで相対し立っている。本来は山に神格を信じての称であるが、ここは人間の妹背の連想からいっているもの。「あらまし」の「まし」は、上の「あらずは」の仮定の帰結としてのもの。
【釈】 後に残ってこのように恋い続けていずに、君のいる紀伊国にある妹山と背山とであろうものを。
【評】 一、二句は成句となっているものであり、「木の国の妹背の山」は、夫のいる紀伊国よりの連想で、妹背の山の離れずにいることを羨んだものである。明るく軽い歌で、謡い物の口気を帯びたものである。しかし紀伊の風景としての妹背山を捉えているので、反歌としての体は備えているものである。
545 吾《わ》が背子《せこ》が 跡《あと》履《ふ》み求《もと》め 追《お》ひ去《ゆ》かば 木《き》の関守《せきもり》い 留《とど》めなむかも
吾背子之 跡履求 追去者 木乃関守伊 將留鴨
【語釈】 ○跡履み求め 足跡を踏んで、行先を求めての意。○木の関守い 紀伊国にある関のその関守。関はどこにあるともわからない。長歌の「道守」を言いかえたもので、想像からいっているもの。「い」は、名詞に添えていう助詞で、上の(五三七)に出た。○留めなむかも 「留めなむ」は、原文「将留」で、四句の「伊」を五句に移し、「旧訓」は「いとどめむ」。「伊」を四句へ属させたのは『童蒙抄』、訓は『玉の小琴』である。「かも」は「か」の疑問と「も」の詠歎。
【釈】 わが背子が足跡を踏んで行先を求めて行ったならば、その途の紀伊国にある関の関守は、女には許し難い旅であるとして、引留めて通さないことであろうか。
【評】 長歌の結句を繰り返したもので、反歌の古い型に従ったものである。しかし、「跡履み求め」と、細かい描写をし、「道守」を「関守」にかえて、新味を盛っているもので、前の歌に較べるとはるかに重い味わいをもったものである。
(379) 二年乙丑春三月、三香原離宮《みかのはらのとつみや》に幸せる時、娘子《をとめ》を得て作れる歌一首 并に短歌 笠朝臣金村
【題意】 「三香原離宮」は、巻三(四七五)より(四七九)にわたって出た。山城国(京都府)相楽郡の恭仁宮《くにのみや》である。神亀二年三月の行幸は、続日本紀には載っていない。漏れたものと思われる。「娘子を得て」は、娘子と婚しての意で、娘子の身分はわからない。歌で見ると、その地に住む遊行婦の類かと思われる。作者名は、元暦本、桂本など、右のように題詞の下にある。
546 三番《みか》の原《はら》 旅《たび》のやどりに 珠桙《たまぼこ》の 道《みち》の去《ゆ》きあひに 天雲《あまぐも》の 外《よそ》のみ見《み》つつ 言《こと》問《と》はむ 縁《よし》のなければ 情《こころ》のみ 咽《む》せつつあるに 天地《あめつち》の 神祇《かみ》辞《こと》よせて 敷妙《しきたへ》の 衣手《ころもで》かへて 自妻《おのづま》と 憑《たの》める今夜《こよひ》 秋《あき》の夜《よ》の 百夜《ももよ》の長《なが》さ ありこせぬかも
三香乃原 客之屋取尓 珠桙乃 道能去相尓 天雲之 外耳見管 言將問 縁乃無者 情耳 咽乍有尓 天地 神祇辞因而 敷細乃 衣手易而 自妻跡 〓有今夜 秋夜之 百夜乃長 有与宿鴨
【語釈】 ○三香の原旅のやどりに 「旅」は、行幸の供奉をしての旅。「やどり」は、宿りで、旅舎。宿と並べ用いたもの。「やどりに」は、宿にあって。○珠桙の道の去きあひに 「珠桙の」は、「道」の枕詞で、しばしば出た。「道の去きあひに」は、道を歩いていて、偶然向かい合った状態で。○天雲の外のみ見つつ 「天雲の」は、天の雲の遠くかかわりのない意で、「外《よそ》」にかかる枕詞。「外のみ見つつ」は、よそにのみ見つつの意の当時の語法で、用例の多いもの。「外」は、関係のないものの意で、「のみ」は、その意を強めたもの。「見つつ」は、継続で、一見、深く心を動かしたことを具象化したもの。○言問はむ縁のなければ 「言問はむ」は、ものを言いかけようとする。「縁」は、つて。○情のみ咽せつつあるに 「情のみ」は、憧れる心だけが。「咽せつつ」は、「咽せ」は、憧れの感が強く、喘ぎの甚しい状態を、具象的にいったもの。「つつ」は、継続。○天地の神祇辞よせて 「天地の神祇」は、天つ神、国つ神の神々。「辞よせて」は、事寄せての意で、単に寄せてというと意は異ならない。引合わせてというにあたる。夫婦関係は、神意によって結ばれるものであるとする信仰を背後に置いてのもの。○敷妙の衣手かへて 「敷妙の」は、衣の枕詞で、しばしば出た。「衣手」は、袖。「かへて」は、交《か》えてで、さし交わしての意。共寝をすることを具象的にいったもの。○自妻と憑める今夜 「自妻《おのづま》」は旧訓「わがつま」。『代匠記』の訓。仮名書きのあり、用例の多い語。わが妻。「憑める」は、頼みあるで、信じて任せている意。○秋の夜の百夜の長さ 「秋の夜」は、夜の長い時として譬喩としていっているもの。時は三月で、その反対に夜の短かい時である。「百夜」は、多くの夜ということを具象的にいったもの。百夜を重ねたごとき長さ。○ありこせぬかも 原文「与」は『攷証』は、「乞」の意で用いている字で、集中に例が多く、漢籍に「与許也」とあるので、許せという意で、「乞」に代えたものだろうといっている。「ありこせぬか」は「ありこ(380)す」の未然形「ありこせ」に、打消の「ぬ」、疑問の「か」の続き、あってはくれぬか、あってくれよと願望をあらわしたもの。「も」は、詠歎。巻二(一一九)に出た。
【釈】 三香の原の旅舎にあって、道を歩いていて偶然に行き逢い、無関係の者とばかり見い見いし、ものを言いかけようつてもないので、心の中でだけ、咽せるがごとくに強く憧れていたのに、天つ神国つ神の引合わせ給いて、袖をさし交わして共寝をし、わが妻と頼んでいるこの夜よ。この春の短か夜が、秋の夜の百夜《ももよ》のごとく長くあってくれぬものか、あってくれよ。
【評】 旅の宿りで娘子を得ての歓喜を、長歌形式で、極度と思われる激情をもって詠んだもので、事と心のふさわしくない点に特色のあるという歌である。娘子は路上で見かけて、その美しさに魅せられおわったものであり、またたやすく夫婦関係の結ばれているものであるところから見て、少なくとも身分ある人ではなく、あるいは遊行婦ではないかという想像を抱かせるものである。それだとすると、当時の身分ある人が、旅のつれづれの慰めにそうした女を近づけるということは、むしろ常凡のことで、この歌のような言い方をするのは、常識以上のことといわなければならない。この歌は、結末は「秋の夜の百夜の長さありこせぬかも」という憧れであるが、それは恋の歓喜の延長としてのものであって、心は歓喜そのものである。多い恋の歌ではあるが、歓喜そのものを詠んだものはきわめて稀れで、ほとんど全部、訴えであり誓いであるともいえる。歓喜を詠んだものは、おそらく謡い物系統のもののみではないかと思われる。この歌はその謡い物系統の上に立った、当時としては古風なものであるが、一方では長歌であり、不自然なまでの激情として詠んでいるもので、その点、時代の過渡的な面を思わせている。「天地の神祇辞よせて」と、こうした個人的なことに、畏いことをいっているのも、同じく時代を思わせるところがある。一首の歌として見ると、語つづきがはでで、浮いていて、集中力の少ない、粗雑の感のあるものである。金村としても劣った(381)作とすべきである。
反歌
547 天雲《あまぐも》の 外《よそ》に見《み》しより 吾妹児《わぎもこ》に 心《こころ》も身《み》さへ 縁《よ》りにしものを
天雲之 外從見 吾味兒尓 心毛身副 縁西鬼尾
【語釈】 ○天雲の外に見しより 外に見た時からすでに。○吾妹児に 「吾妹児」は妻としての愛称。○心も身さへ 心も、また身さえもの意をあらわす当時の語法で、用例の多いものである。「さへ」は、物のある上に、さらに添える意の助詞で、心だけではなく、身までもの意。○縁りにしものを 「縁りにし」は、任せてしまっていたの意で、打込んでしまっていたというにあたる。「ものを」は、のであるにで、強い感歎。
【釈】 無関係な者として見た時からすでに、吾妹児に吾は、心だけではなく身までも打込んでしまっていたのであるに。
【評】 長歌の前半を繰り返していっているもので、「情《こころ》のみ咽せつつ」といったのを、「心も身さへ縁りにしものを」と変えたのであるが、「縁りにしものを」は、顧みてそういうことによって、現在の歓喜を言外にあらわし、そこに力点を置いたものなので、展開をつけているものといえる。一首、女への訴えである。長歌に較べると、はるかに巧緻である。
548 今夜《このよら》の 早《はや》く開《あ》けなば すべを無《な》み 秋《あき》の百夜《ももよ》を 願《ねが》ひつるかも
今夜之 早開者 爲便乎無三 秋百夜乎 願鶴鴨
【語釈】 ○今夜の 旧訓で、『仙覚抄』の訓。「こよひの」を改めたものである。「ら」は、野を「野ら」、一人の子を「子ら」というと同じく、添えていう詞で、用例のあるものである。以下の流暢な調べとの関係上、五音に訓ませようとするのが作意と思われる。○早く開けなばすべを無み 「早く開けなば」は、夜が早く明けたならばで、春の短か夜であるから、当然の懸念である。「すべを無み」は、すべきようもなくしてで、明ければ別れなければならない意。○秋の百夜を願ひつるかも 「秋の百夜を」は、秋の夜の百夜の長さを。「願ひつる」の「つる」は、完了の助動詞「つ」の連体形。「かも」は、詠歎。願ったことであったよの意で、それにもかかわらず、ついに明けてしまった嘆きを言外に置き、そこを中心としていったもの。
【釈】 この楽しい夜の夜明けとなったならば、すべき方法もなくして、秋の夜の百夜の長さのあれよと願ったことであったよ。
(382)【評】 長歌の結未の「百夜の長さありこせぬかも」を承け、それを延長させて、それにもかかわらず夜明けとなった嘆きをいったものである。反歌としての展開をもち、中心の嘆きを言外に置いているところ、前の歌と同工であって、巧緻なものである。
五年戊辰、大宰少弐石川|足人《たりひと》朝臣の遷任するに、筑前国|蘆城《あしきの》駅家に餞する歌三首
【題意】 「石川足人朝臣」は、石川は氏、足人は名、朝臣は姓である。父祖は明らかでない。続日本紀、和銅四年従五位下、神亀元年従五位上とあるのみで、大宰少式に任ぜられたことも漏れている。「遷任」の何であったかもわからない。「蘆城」は、大宰府の南方にあり、京への往還筋に当たっている。古の御笠郡、今は筑紫郡筑紫野町阿志岐の地域である。「餞す」は、行くを送るための宴をすることである。
549 天地《あめつち》の 神《かみ》も助《たす》けよ 草枕《くさまくら》 旅行《たぴゆ》く君《きみ》が 家《いへ》に至《いた》るまで
天地之 神毛助与 草枕 羈行君之 至家左右
【語釈】 ○天地の神も助けよ 「天地の神」は、天つ神国つ神。「も」は、詠歎。「助けよ」は、呼びかけて助けを祈ったもの。「助け」は、道中の無事であるように祈る意。○草枕旅行く君が家に至るまで 「草枕」は、旅の枕詞。「旅行く」は、大宰府より京までの旅をする。「君」は、足人。「家」は、奈良京にあるその家。
【釈】 天つ神国つ神も無事であるように助け給えよ。大宰府より京までの旅をする君が、京のその家に至り着くまで。
【評】 足人の道中の無事を神々に祈ったものである。儀礼としても第一にいうべきものであって、実用性の範囲のものである。したがっていう者、いわるる者共に、歌としての巧拙を思わさないものである。
550 大船《おほふね》の 念《おも》ひ憑《たの》みし 君《きみ》が去《い》なば 吾《われ》は恋《こ》ひむな 直《ただ》にあふまでに
大船之 念〓師 君之去者 吾者將戀名 直相左右二
【語釈】 ○大船の念ひ憑みし 「大船の」は、意味でさまざまの語にかかる枕詞で、ここは航海に頼もしい意味で、「憑み」にかかる。巻二(一六七)に出た。「思ひ憑みし」は、「憑み」が主になっている語で、後世の頼みに思うにあたる語。○君が去なば 「君」は、足人。「去なば」は、こ(383)こより去ったならばで、自分の感情を主としていっているもの。○吾は恋ひむな直にあふまでに 「恋ひむな」の「な」は、詠歎。「直に」は、まともに。「あふまでに」は、「あふまでは」の意で、並び行なわれていた。単にあうまでというのと意は異ならない。
【釈】 大船の頼みに思っていた君が、ここを去ったならば、吾は憧れることであろうよ、まともに逢う時までは。
【評】 この歌は、自身の感情のみをいっているもので、それも別れて後のなつかしさからの憧れのほどを思いやっているのである。それにも限度があって、「直にあふまでに」と思いうる人なのである。そういう人は、友人関係で、相当な位地のある人でなくてはならない。「大船の念ひ憑み」は成句で、今はそれを用いているのであるが、「念ひ憑み」は頼り縋るという意のものではなく、頼もしくしているという意のものと取れる。「直にあふまでに」と、実際に即したことをいっているので、複雑味をもったものとなっている。
551 山跡道《やまとぢ》の 島《しま》の浦廻《うらみ》に 縁《よ》する浪《なみ》 間《あひだ》もなけむ 吾《わ》が恋《こ》ひまくは
山跡道之 嶋乃浦廻尓 縁浪 間無牟 吾戀卷者
【語釈】 ○山跡道の 「山跡」は、大和で、「山跡道」は、大和へ通ずる道である。大宰府からのこの道は、大体海路で、今もその意味で下へ続く。○島の浦廻に縁する浪 「島」は、当時の航海は、できうる限り陸より離れまいとするもので、また海より見る陸を島と称していたことは、「大和島」「大和島根」などで想像される。この「島」もその範囲のもので、ここは大和道の国々を、海から見る関係で総称しているものである。「浦廻」は、浦のあたりで、すなわち船の航路となっている所である。「縁する浪」は、寄せるところの浪で、その間断のない意から「間《あひだ》もなけむ」と続いている。しかるにこの「間もなけむ」は、下の続きからいうと、浪のことではなく恋うることで、意味(384)を転じさせている。その関係で、初句から三句までは「間もなけむ」の序詞である。○間もなけむ吾が恋ひまくは 「間もなけむ」は、絶え間がなかろう。「恋ひまく」は、「恋ひむ」へ、「く」を連ねることによって名詞形としたもので、恋うるだろうことの意。
【釈】 大和往還である海路の、船より見る国々の浦のあたりに寄せるところの浪の、間断もないことであろうが、その間断のないことであろう、吾の君を恋うるだろうことは。
【評】 大宰府より奈良京までの道である瀬戸内海の航路を思い、足人が幾日かを見るであろうところの浦みの浪の間断なさを捉え、それを自身の足人に対する憧れの心の状態としているもので、双方を一線上に繋いでいっているところがこの歌の技巧で、またその技巧をねらいとしている歌である。「山跡道の島の浦廻に縁する浪」は、「間もなけむ」に二義をもたせて、転じての義を主としている上からは、序詞と見るべきものである。しかしこの序詞は、語《ことば》の転ずることを眼目としているという一方的のものではなく、一首の上に相応重い意味をもたせてある上から見ると、足人の眼を通して見る眼前を捉えて譬喩とし、その譬喩にも感を託してあるといえるものである。すなわち譬喩というほうが当たるとも見えるものである。「縁する浪」は、旧訓であり、『童豪抄』は、「縁る浪の」と改めているが、理のあることといえる。またこれを序詞として、「間もなけむ」全部にかかるとするのは、長きにすぎるともいえる。しかし、譬喩の意を弱めて、「縁する浪」とここに句点を置くと、取材という上からいうと、「縁る浪の」というよりも、はるかに画致的となって、風景がはっきりと浮かんでくる。自然の風景のこの時代に魅力的なものとなっていたことはすでにしばしばいった。ここにもその心が働いていると思える。さらにまた調べの上からいうと、「縁する浪」と、ここに句点を置いたほうが、落着いた、重いものとなって、この場合の哀愁をいちだんと湛えうるものとなってくる。すなわち、意味としては譬喩であるが、それを露《あら》わにせず序詞的に扱うことによって、時代とし、また作者としての文芸慾を充たそうとしたものと取れるのである。以上の三首は三様の詠み方をしているが、この一首が傑出している。
右の三首は、作者未だ詳ならず。
右三首、作者未v詳。
【解】 餞の歌であるから、贈られた足人はその作者を記憶しているので記さなかったのが、そのままに撰者の資料の中に加わったのであろう。
大伴宿禰|三依《みより》の歌一首
(385)【題意】 「大伴宿禰三依」は、父祖は明らかでない。続日本紀、天平二十年従五位下、天平勝宝六年主税頭。天平宝字元年参河守。三年仁部(民部)少輔、従五位上、遠江守。六年義部(刑部)大輔。天平神護元年正五位上。二年出雲守。宝亀元年従四位下。五年卒した。
552 吾《わ》が君《きみ》は 和気《わけ》をば死《し》ねと 念《おも》へかも あふ夜《よ》あはぬ夜《よ》 二走《ふたゆ》きぬらむ
吾君者 和氣乎波死常 念可毛 相夜不相夜 二走良武
【語釈】 ○吾が君は和気をば死ねと 「吾が君」は、下の続きで見ると、三依がその妻に対しての称であり、下の「和気」の自称に対させてのものである。この二つの称はここに初めて出たもので、いずれも特殊なものである。第一に「吾が君」であるが、夫より妻を呼ぶ称としては、簡単にするには妹、最も親しんでは吾妹子であって、他にはない。君という称は、男同士では普通であるが、女より男を呼ぶ称としては、妻が夫を尊んで呼ぶ時だけのものである。しかるにここは、夫より妻を呼ぶ称に用い、しかも親しさを示す意の「吾が」をさえ添えたものである。「吾が君」は、一般の用例によると、臣として君に対しての称、あるいは奴《しもべ》としてその主に対する称であって、それ以外にもなくはないが、君主に準ずる心をもって他に対するという特別の場合よりほかは用いないものである。第二は「和気」は、本巻(七八〇)大伴家持より紀女郎に贈った歌、「黒樹《くろき》取り草も刈りつつ仕へめど勤《いそ》しき和気《わけ》と誉めむともあらず」があり、これは家持が、身を奴《しもべ》に擬していっているもので、戯れの心をもってのものである。また、巻八(一四六〇)紀女郎より家持に贈った歌、「戯奴《わけ》【変してわけといふ】がため吾が手もすまに春の野に抜ける茅花《つばな》ぞ食《め》して肥えませ」があり、この「戯奴」は、戯れての称であることを、注を添えて明らかにし、また他は敬語をもってしているのでも、その意は明らかである。すなわち和気は、奴《しもべ》という意で、日常語として用いられていたものであることが知られる。ここも、三依が、その妻を主君に擬し、自身を臣僕に擬していっているもので、それをしているのは、夫たる自分が、妻の意志次第にされていることをあらわそうがためで、恨みの心を戯れの形をもっていっているものである。○念へかも 「念へかも」は、後世の「念へばかも」にあたる古格。死ねよと思っているのであろうかで、疑っていっているもの。○あふ夜あはぬ夜二走きぬらむ 「あふ夜あはぬ夜」は、通《かよ》って行く我に、妻が逢う夜と、反対に逢わない夜との意。「二走きぬらむ」は、旧訓「ふたゆくならむ」。これは古点「よまぜなるらむ」を『仙覚抄』の改めたものである。『考』は、今のごとくに改めた。過去のことに対する推量だからである。「二走く」は用例の少なくない語で、本巻(七三三)「うつせみの世やも二行《ふたゆ》く何すとか妹にあはずて吾がひとり寝む」があり、「走く」は、経過する意で、二たび経過する意。「走」につき『攷証』は、義訓だといっている。『略解』で本居宣長は「去」の誤写だとしている。ここは、二様に経過させたのであろうの意で、二たびということは二様とも言いうることである。
【釈】 わが主君は、奴《しもべ》われに、死ねよと思っていたのであろうか。それで、逢う夜と逢わない夜と、我に二様に経過させたのであろう。
(386)【評】 三依が通って行った夜、その妻が逢わないことのあったのを恨んで贈った歌である。妻が夫に逢い難いという事情は、当時は女は神事にも関係していたので、自然ありうることである。それは三依も承認していたと思われる。しかし「あふ夜あはぬ夜」ということは、恋の上で最も苦痛とする、冷熱の間に漂わされるという形のことなので、「あはぬ夜」の侘びしさを誇張して、恨みの心をもって贈ったものである。しかし、さすがに正面よりはいうべくもないことなので、「吾が君」「和気」というごとき戯れの称をもって、妻次第で、夫の如何ともし難いことを、愚痴という形にしたものである。「二走《ふたゆ》く」という語は、仏説よりきたるもので、この歌も、上に引いた「うつせみの」の歌も、それを恋の享楽の上に利用しているものである。実用性の歌で、巧拙を念としているものではない。
丹生女王《にふのおほきみ》、大宰帥大伴卿に贈れる歌二首
【題意】 「丹生女王」は、御系譜は明らかでない。続日本紀、天平十一年従四位下丹生女王に従四位上を授け、天平勝宝二年正四位を授ける事が見える。巻三(四二〇)の長歌の作者「丹生王」と同人かという。
553 天雲《あまぐも》の 遠隔《そくへ》の極《きは》み 遠《とほ》けども 情《こころ》し行《ゆ》けば 恋《こ》ふるものかも
天雲乃 遠隔乃極 遠鶴跡裳 情志行者 戀流物可聞
【語釈】 ○天雲の遠隔の極み 「遠隔」は、「そくへ」とも「そきへ」とも訓みうる。いずれも集中にあるからである。退きたる方の意。天雲の退きたる方《かた》のその果てで、遠い所を具象的にいったもの。巻三(四二〇)に出た。○遠けども 後の「遠けれども」にあたる古格。巻三(三九六)に出た。○情し行けば 「し」は、強め。わが恋うる心がそちらへ行けばの意。上代は、心は身を離れてどこへでも行きうるものと信じていた、その心からのもの。○恋ふるものかも 「恋ふる」は、先方もこちらを恋うる意。「かも」は、詠歎。上代は、心と心とは互いに相感応するものと信じていた、これもその心よりのもの。
【釈】 天雲の退《そ》いている方のその果ての遠い所ではあるけれども、わが恋うる心のそちらへ行けば、そちらでもこちらを恋うるものであることよ。
【評】 この歌は、次の歌と連作になっており、次の歌によって歌因が知られる。それは大宰府の旅人が、何らかの便宜に託して、丹生女王に酒を贈り物としたのに対し、女王が喜びの心をもって詠んだものである。すなわち挨拶の歌である。「情し行(387)けば」の「情」は、続きの「恋ふる」によって、恋うる心であると知られる。女王の恋うる心が、京より筑紫に行き、旅人の心がそれに感応したというがごときことは、そういうことの実在を信じていた時代だけに、たやすく言いうることであり、したがって誇張もなしうることである。「天雲の云々」というのは、その誇張を合理化しようとのもので、誇張は感傷からではなく、知性からのものであるために、それがおのずから一首に、洒脱の趣を帯びさせている。この歌を受け取る旅人の、微笑を想像しての歌と思える。
554 古《いにしへ》の 人《ひと》の食《をさ》せる 吉備《きび》の酒《さけ》 病《や》めばすべなし 貫簀《ぬきす》賜《たば》らむ
古 人乃令食有 吉備能酒 痛者爲便無 貫簀賜牟
【語釈】 ○古の人の食せる 「古の人」は古くより知っている人で、旅人をさしたもの。「食せる」は、ここは飲ませるの意。○吉備の酒 吉備国の酒という『代匠記』の解に従う。吉備は備前、備中、備後三国の総称。当時名酒があって、それを贈り物としたとみえる。黍の酒、すなわち黍をもって造った酒という解は、この人たちの間の贈り物としてはふさわしく感じられない。○病めばすべなし 「痛」は、「病」に通じる字。「病」は酔の覚めない意の字だと『攷証』が考証している。酔うとせんすべがないの意。○貫簀賜らむ 「貫簀」は、竹で編んだ小さい簀で、盥で手を洗う時、水の飛ばないようにその上に掛けておく物。ここは酔って嘔《は》く時の用意に用いる物としていっている。「賜《たば》らむ」は、『攷証』の訓。仮名書きの例のあるものである。いただこうの意。
【釈】 古い知合いの人の我に飲ませるところの吉備の酒よ。酔えばせんすべもない。嘔《は》く時の用意にと、貫簀をいただこう。
【評】 旅人は天平三年に薨じ、女王は天平十一年から続日本紀に出ているので、年齢の差が思われる。その旅人が女王に酒を贈ったということは、贈れば喜ぶということを知ってのことと思われる。しかし贈られた女王は、酒そのものに対しては迷惑そうにいい、「貫簀賜らむ」と、そうした物も用意がないかのような言い方をしている。皮肉な贈り物として、てれ隠しを言わねばいられないものがあったのではないかと思われる。甘えつつ突拍子もないことをわざといった趣があって、戯咲《ぎしよう》の範囲のものとなっている。しかし重苦しく、理に落ちたところのあるものである。
大宰帥大伴卿、大弐|丹比県守《たぢひのあがたもり》卿の民部卿に遷任せらるるに贈れる歌一首
【題意】 「丹比県守」は、左大臣正二位島の第二子。続日本紀に官歴が詳しく出ているが、この題詞にある大宰大式になった時も、また民部卿に遷任したことも漏れている。官歴は、慶雲二年従六位上より従五位下を授けられたのを初めとし、最後は、天平九(388)年中納言正三位をもって薨じている。霊亀二年遣唐押使、同四年持節征夷将軍、天平三年参議、同四年中納言、山陰道節度使などを歴している。
555 君《きみ》が為《ため》 醸《か》みし待酒《まちざけ》 安《やす》の野《の》に 独《ひとり》や飲《の》まむ 友《とも》なしにして
爲君 醸之待酒 安野尓 獨哉將飲 友無二思手
【語釈】 ○君が為醸みし待酒 「君が為」は、県守に飲ませるためにの意。「醸みし」は、醸むは、酒を造る意の古語。米を口に嚼《か》んで醗酵させたより起こった語。古事記中巻、応神の巻に、その所を浄め、神を祀りつつ酒を嚼むことが歌謡となっている。後の醸《かも》すは嚼《か》むより出た語。「待酒」は、他より来る人に飲ませようとする酒で、同じく古事記中巻に、息長帯日売命《おきながたらしひめのみこと》(神功皇后)が、越前より還らるる応神天皇のために待酒を造ったことが出ている。君に飲ませようとして、かねて醸しておいた待酒をの意で、県守が大弐より民部卿に遷任になる前、すでに大宰府にはおらず、他へ行っていたことがこの二句で知られる。他というのは京であって、召されて京へ上り、そこで遷任の勅をこうむり、大宰府へは還らなかったものと察せられる。○安の野に独や飲まむ 「安の野」は、筑前国(福岡県)朝倉郡夜須村にある野。大宰府の官人の野遊びをする所となっていて、今はその意でいっていると取れる。「独や飲まむ」は、「独」は、われ一人。「や」は、詠歎。「飲まむ」は、上の待酒。安の野でただ一人飲もうというので、時は春秋のいずれかであったとみえる。○友なしにして 友無しにての意で、上の「独」を繰り返して、嘆きの意を強めたもの。
【釈】 君に飲ませようがためにあらかじめ醸しておいた待酒を、今は安の野でただ一人飲もう。友のない状態で。
【評】 一人の友と頼んでいた県守に、思いがけずも別れるようになった心さびしさを訴えたものである。県守の京官となったのを喜ぶでもなく、自身の境涯を悲しむでもなく、ただ心合いの友のいなくなったさびしさをさびしむことだけを言っているところに、世事のすべてを見とおしている老齢の旅人の心境が現われていて、あわれを感じさせる。「醸みし待洒」といっているので、その事の意外であったこと、また、「友なしにして」といっているので、帥である旅人としては、大弐である県守をおいては、友と呼びうる者のなかったことが察しられる。「安の野に」といっているのは、知識人のみの解しうるいわゆる風流の心よりいっているものと取れる。県守は集中に歌を残してはいないが、遣唐押使ともなった人で、知識人であったと思え、旅人にとっては身辺にいるただ一人の話相手だったと見える。この歌は、大宰府より京へ贈ったものと解される。
賀茂女王、大伴宿禰三依に贈れる歌一首 故左大臣長屋王の女なり
【題意】 「賀茂女王」は、元暦本ほか六本には、題詞の下に、「故左大臣長屋王之女也」と注がある。また巻八(一六一三)の注(389)に、「長屋王之女。母曰2阿倍朝臣1也」ともある。「三依」は、上の(五五二)に出た。歌によると、三依と夫妻関係となっており、三依が筑紫へ旅をする前の歌であることが知られる。
556 筑紫船《つくしぶね》 未《いまだ》も来《こ》ねば 予《あらかじめ》 あらぶる君《きみ》を 見《み》るが悲《かな》しさ
筑紫船 未毛不來者 豫 荒振公乎 見之悲左
【語釈】 ○筑紫船 集中、「松浦船《まつらぶね》」「熊野船《くまのぶね》」など同系の語がある。これらは松浦で造った船、熊野で造った船の意である。それによると筑紫船も、筑紫で造った船の意と取れるが、ここは事の性質上、それではなく取れる。三依の筑紫へ行くのは、大体大宰府へであろうが、官命をこうむってのことで、したがってその船は官船である。その船が筑紫で造った船に限られている理由はなく、またそういうことを問題とする要もない。それでここは意味の広いもので、筑紫へ向かって行く船の意で用いているものと解される。○未も来ねば 「末も」の「も」は、詠歎。「来ねば」は「来ぬに」と意味を同じくし、並び用いられていた語法で、巻三(二八四)「焼津辺《やきつへ》に吾が行きしかば駿河なる阿倍の市道《いちぢ》にあひし児らはも」、その他例が少なくない。ここも「来ぬに」の意。「来ぬに」は、今の語でいえば、行かぬにの意にあたるものである。「来る」と「行く」とは、同じく二つの地点の間の動きをあらわす語であるが、そのどちらを主とするかによって用い方を異にさせているのが上代の語法である。巻一(七〇)「大和には鳴きてか来らむ呼子鳥《よぶこどり》象《きさ》の中山呼びぞ越ゆなる」は、吉野宮にあって、藤原宮のほうへ飛んで行く呼子鳥を、「来らむ」といっているので、これは藤原宮を主としていることをあらわしている用い方である。ここも、筑紫と京とを対させ、京のほうを主として、今だと「行かぬに」というところを「来ぬに」といったものである。上より続いて、筑紫へ向かう船がまだ出て行かぬにの意。出るのは難波の津であるが、そこを奈良京と等しなみに扱っての言。○予あらぶる君を 「予」は、前もって。すなわち出ぬ前から。「あらぶる」は、疎く遠くなる意で、巻二(一七二)「放ち鳥荒びな行きそ君まさずとも」など例がある。「君」は、三依。
【釈】 筑紫へ向かう船は、まだ出て行かないのに、それ以前からすでに、吾に疎く遠くなる君を見ることの悲しさよ。
【評】 妻としての女王からいうと、遠い別れをするのが悲しいのに、おりから三依が通って来ないので、ますます悲しんで訴えたものである。三依としては旅の準備のために多忙だということもあろうが、それには触れず、また官命としての旅も、「あらぶる」事として悲しんでいるもので、一に妻としての情愛をいっているものである。「筑紫船未も来ねば」は、出船ということを具象化していったもので、巧みな語である。「あらぶる」嘆きが一首の中心である。
土師《はにし》宿禰|水通《みみち》、筑紫より京に上る海路にて作れる歌二首
(390)【題意】 「土師宿禰水通」は、伝未詳。巻五(八四三)に土師氏御通とあり、大宰府における大伴旅人邸の梅花の宴に列席している。また巻十六(三八四五)の注などにより、大舎人であったこと、字を志婢《しび》麿といったことだけがわかっている。
557 大船《おはふね》を 榜《こ》ぎの進《すす》みに 磐《いは》に触《ふ》れ 覆《かへ》らば覆《かへ》れ 妹《いも》に因《よ》りては
大船乎 榜乃進尓 磐尓觸 覆者覆 妹尓因而者
【語釈】 ○大船を榜ぎの進みに 「大船」は、実際をいったもの。官船と取れる。「榜ぎ」も、「進み」も、共に名詞形。榜ぎ進めることの意。○磐に触れ覆らば覆れ 「磐に触れ」は、「磐」は、海岸にあるもの。当時の漕法として、風波を避けやすくするために海岸寄りを榜いだからである。「覆らば覆れ」は、覆《くつが》えるならば覆えれよで、順風などで、船の進行の速かな時には、磐に触れそうにすることもあつたとみえ、その際の心である。○妹に因りては 妹のためにはの意で、例の多いもの。妹は京にいる者で、早く逢いたいと思う心から、そのためには、たとい危険は伴おうとも、船脚《ふなあし》の早いことを望んでいっているもの。
【釈】 わが大船を漕ぎ進めることについて、磐に触れて覆えるようなことがあるならば、それもかまわない覆えれよ。早く妹に逢うためには。
【評】 順風などで船脚が早く、漕ぎ方に調子づいて、あわや海岸の磐にぶつかろうとするような時があって、そうした際に突発的にもった心である。結句の「妹に因りては」は一首の中心であって、初句より四句まではその関係において言っているもののごとく見えるが、事実は、そうした船の状態は、水通の心とは関係なく起こっていることで、水通の心はその状態によってもたされたものだからである。それを強いて関係づけたことが作者としての興味であり、したがって結句はかなりな飛躍をもったものである。語《ことば》そのものは沈痛なものであるが、心は洒落《しや》れたものである。
558 ちはやぶる 神《かみ》の社《やしろ》に 我《わ》が掛《か》けし 幣《ぬさ》は賜《たば》らむ 妹《いも》にあはなくに
千磐破 神之社尓 我挂師 幣者將賜 妹尓不相國
【語釈】 ○ちはやぶる神の社に 「ちはやぶる」は、神にかかる枕詞。「社」は屋代《やしろ》の意で、天より降りたまう神の屋の意。ここでは、神は常に社にましますようにいっている。これは信仰の推移を示していることである。○我が掛けし幣は賜らむ 「掛けし」は、捧げたの意で、幣を捧げる(391)ことを、「奉《まつ》る」とも「置く」とも、また「掛く」ともいったのである。「置く」「掛く」、共に奉る状態をいったもの。「幣」は、神に捧げる物の総称。「賜らむ」は、訓は上の(五五四)に出た。返していただきたいの意。「む」は、意志。○妹にあはなくに 「なく」は、しばしば出た。打消「ず」の未然形に「く」を添えて名詞形としたもの。「に」は、詠歎。妹に逢えぬことであるものを。
【釈】 ちはやぶる神の社に、速かに妹に逢わせたまえと祈ってわが捧げた幣は、返していただきたい。妹に逢えぬことであるものを。
【評】 瀬戸内海の航路の日数を要するのを、妹逢いたさに駆られている心にもどかしく感じての呟きと取れる。『代匠記』は、天候のために繋留を余儀なくされた際の心と解しているが、一首の上にそうした深刻味は感じられず、もつと軽いものに思える。「幣は賜らむ」ということは、信仰の推移の甚しさを示しているものである。巻三(三〇〇)「佐保過ぎて寧楽の手祭《たむけ》に置く幣は妹を目|離《か》れず相見しめとぞ」の長屋王の歌が、すでにこの推移を示しているのに、これはさらにその甚しいものである。しかしおそらくこれは例外なもので、その例外なことをいおうとするのが、やがて歌因ではなかったかと思われる。水通の歌にはそうした傾向が認められるからである。
大宰|大監《だいげん》大伴宿禰|百代《ももよ》の恋の歌四首
【題意】 「百代」は、巻三(三九二)に出た。「大監」は、大宰府の判官。誰に贈った歌かはわからない。これについで坂上郎女の歌があるところから、兄旅人に伴われて当時大宰府にあった郎女に贈ったものではないかと想像されている。
559 事《こと》もなく 生《い》き来《こ》しものを 老《おい》なみに かかる恋《こひ》にも 吾《われ》はあへるかも
事毛無 生來之物乎 老奈美尓 如是戀于毛 吾者遇流香聞
【語釈】 ○事もなく生き来しものを 「事もなく」は、「事」は、不幸な事件の意。「も」は、詠歎。不幸な事件にも逢わずに、すなわち安穏に。「生き来し」は、旧訓「ありこし」。『代匠記』は「あれこし」、『新訓』は「生ひ来し」と訓んでいる。下の「老なみ」に対させたものであるから、「生き来し」という訓に従う。過ごして来たものをと、過去を懐かしんでいったもの。○老なみに 「老なみ」は、老次《おいなみ》で、しだいに老いる頃に。○かかる恋にも吾はあへるかも 「かかる恋」は、こうした恋で、上との対照で苦しさを暗示した語。「かも」は、詠歎。
【釈】 不幸な事件にも逢わず、安穏に過ごしてきたものを、しだいに老いる頃に、こうした苦しい恋に吾は逢っていることであ(392)るよ。
【評】 身、老境に入り初めて、生涯に初めての苦しい思いをする恋に出逢ったことだと、思い入れをもって訴えたものである。しかしこの歌は、苦しみそのものをあらわすことができず、その輪郭をいっているにすぎないので、訴える力の足りないものとなっている。以下の歌で見ても、百代は歌才の少ない人だったとみえる。しかしこの程のことをいうには、歌をもってせざるを得ない時代だったので、その心得をもとうとし、労苦して作ったものと思われる。
560 こひ死《し》なむ 後《のち》は何《なに》せむ 生《い》ける日《ひ》の 為《ため》こそ妹《いも》を 見《み》まく欲《ほ》りすれ
孤悲死牟 後者何爲牟 生日之 爲社妹乎 欲見爲礼
【語釈】 ○こひ死なむ後は何せむ 恋い死にに死んだ後には、憐れんでもらったとて何の役に立とうで、「死なむ」の「む」は連体形で、「後」に続く。○生ける日の為こそ妹を 生きている日のためにこそ、妹を。○見まく欲りすれ 「見まく」は、見ることをで、名詞形。「欲りすれ」は、欲しいのだで、願うにあたる。サ変動詞「欲りす」の已然形で、「こそ」の結。
【釈】 恋い死にに死んだ後には、隣れんでもらったとて何の役に立とう。生きている日のためにこそ、妹を見ることをしたいと願うのだ。
【評】 歌は焦れ死にをしそうな状態に陥っている男が、その衷情を意中の女に訴えたものである。前の歌で「老なみ」といっている百代としてはふさわしくない感のするものであるが、これは心境の通うところのあるという理由で、古歌をいささか変えたにすぎないものである。古歌というのは巻十一の歌で、そのことはこの歌だけではなく後にも及ぼしていることである。巻十一は、標題に「古今の相聞往来の歌の類の上」とあり、巻十二はその「下」としたもので、作者の不明な歌の集であり、また民謡的な色彩の濃いもので、一般に口誦されていたとみえるものである。古歌を取ってわが用に当てるということは、作歌の才のない者にはむしろ普通に行なわれていたことで、百代も今それをしているのである。その歌は(二五九二)「恋ひ死なむ後は何せむ吾が命生ける日にこそ見まく欲りすれ」というのであって、その三句以下の切迫した心を、わが状態にふさわしいものとしようとしてやや緩和させたものである。しかし「生ける日の為こそ」という変え方は、浅薄なものといわざるを得ない。
561 念《おも》はぬを 思《おも》ふと云《ゝ》はば 大野《おほの》なる 三笠《みかさ》の社《もり》の 神《かみ》し知《し》らさむ
(393) 不念乎 思常云者 大野有 三笠社之 神思知三
【語釈】 ○大野なる三笠の社の 「大野」は、『和名抄』には筑前国御笠郡大野とあり、今は福岡県筑紫郡大野町である。「なる」は、「にある」の約。「三笠の社《もり》」は、「三笠」は社の名。「社」は、神の降ります所としていっているもの。○神し知らさむ 「神」は、何神ともわからぬ。「し」は、強め。「知らさむ」は、知らむの敬語で、神は何事をも見とおして知り、嘗罰を厳にする意でいっているもの。
【釈】 思いもしないのを、思うと偽っていったならば、大野にある三笠の森に降られる神が知っていて、必ず罰し給おう。
【評】 男より女にその真実を誓ったもので、女の疑いに対していったものである。これも古歌によったもので、巻十二(三一〇〇)「想はぬを想ふと云はば真鳥住《まとりす》む卯名手《うなで》の社の神し知らさむ」を、神の社だけを変えたものである。「其鳥住む卯名手の社」は、真鳥はたぶん鷲で、それの住むは、社の状態。卯名手は大和国高市郡雲梯《うなで》で、祭神は、出雲系の代表的の神|事代主命《ことしろぬしのみこと》である。この神は奈良遷都以前は京に近い大社であり、一般の深く崇敬していた神である。百代はそれを、大宰府に近い「大野なる三笠の社」に変えたのである。今は恋の訴えをする上で、あらかじめ真実を誓った形のものとしている。歌としては、巧拙をいうべきほどのものではない。
562 畷《いとま》なく 人《ひと》の眉根《まよね》を 徒《いたづら》に 掻《か》かしめつつも あはぬ妹《いも》かも
無暇 人之眉根乎 徒 令掻乍 不相妹可聞
(394)【語釈】 ○暇なく人の眉根を 「暇なく」は、間断なくで、下の「掻かしめ」に続くもの。「人の眉根」は、「人」は、我で、下の「妹」に対させていったもの。「眉根」は、眉で、根は添えていった語。○徒に掻かしめつつも 「徒に」は、甲斐なく、無駄に。「掻かしめ」は、眉のかゆいのは、恋しい人に逢える前兆だという信仰があって、その意でいっているもの。「つつ」は、継続。「も」は、詠歎。○あはぬ妹かも 「かも」は、詠歎。
【釈】 間断なくわが眉を、甲斐なく無駄に掻かせ続けながらも、逢わないところの妹であるよ。
【評】 これも古歌によったものである。巻十二(二九〇三)「いとのきて薄き眉根《まよね》を徒に掻かしめにつつ逢はぬ人かも」を変えたもので、妹の逢わない嘆きを訴えたものである。古歌のほうは、「いとのきて」は甚しくもの意で、眉根の状態をいったもの。「掻かしめにつつ」の「に」は完了で、同じく嘆いての訴えであるが、細かい味わいと、こもった味わいとをもったものである。百代はそれを変えて、それらの味わいのない、騒がしく、浮いたものとしてしまっている。これは明らかに拙いものである。以上四首、拙いながらに採ってあるもので、歌よりも人によってのことと思われ、撰者との関係を思わせるものである。
大伴坂上郎女の歌二首
563 黒髪《くろかみ》に 白髪《しろかみ》交《まじ》り 老《お》ゆるまで かかる恋《こひ》には 未《いま》だあはなくに
黒髪二 白髪交 至耆 如是有戀庭 未相尓
【語釈】 ○黒髪に白髪交り老ゆるまで 「黒髪に白髪交り」は、「老ゆる」の状態としていったもの。女のことであるから、髪を問題としていっているのは、きわめて適切である上に、感覚的の力強さももったものである。○かかる恋には未だあはなくに 「かかる恋」は、下の続きで、その苦しさを暗示したもので、(五五九)と同様である。「あはなくに」は、遇わぬことよの意のもの。
【釈】 黒髪に白髪がまじって、身の老いてくるまで、このような苦しい恋には、我はまだ遇わぬことであるよ。
【評】 余裕をもって、やすらかに詠み下している点は、郎女としては普通のことであるが、「黒髪に白髪交り」という状態描写は、清新な意味で注意されるものである。郎女が兄旅人に伴われて大宰府へ行っていた頃の年齢は明らかにすることはできないが、少なくも「白髪交り」という年齢でなかったことは確かなようである。その点から、これは誇張というよりも、ためにするところあっての架空の言であると思われる。また、一首の心は、郎女が独詠的に恋の嘆きをいっている形のものであるが、そうした事実も認められないので、その上からも架空の言と取れる。さらにまた、歌の排列順から見て、上の百代の歌に続い(395)ているところから、百代の歌と関係がありはしないかともいわれている。その点から見ると、百代の最初の「事もなく生き来しものを老なみにかかる恋にも吾はあへるかも」と、その心は全く同一で、異なるところは、それを改作して、優ったものにしているということである。したがって関係がありとすれば、百代の自作の一首だけに対して、加筆をしたということになって、一種の揶揄《やゆ》ともみられるものである。これに続く歌が、揶揄の心をもってしたものであることからも、この事は思われる。
564 山菅《やますげ》の 実《み》ならぬ事《こと》を 吾《われ》に依《よ》せ 言《い》はれし君《きみ》は 誰《たれ》とか宿《ぬ》らむ
山菅之 實不成事乎 吾尓所依 言礼師君者 与孰可宿良牟
【語釈】 ○山菅の実ならぬ事を 「山菅」は、竜のひげと称する山草で、冬、繁く実のなるところから、実と続けてその枕詞としたもの。「実ならぬ」の「実」は、恋の上で、「花」に対させた語で、本来は譬喩であるが、その意の薄くなったもの。「花」は、口頭のみの交渉、「実」は、関係の成立ったことをあらわす語で、事実というにあたる。「実ならぬ事」は、事実ではない事、すなわち噂のみの意である。○吾に依せ言はれし君は 「吾」は、郎女。「吾に依せ」は、吾に言寄せての意で、わがためにというと異ならない。「言はれし君」は、人から言われたところの君で、「君」は、歌を贈られる男。○誰とか宿らむ 「か」は、疑問。今、どういう女と共寝をしているだろうかの意。
【釈】 事実でもない事を、わがために人から言われてきたところの君は、現在いかなる女と共寝をしていることであろうか。
【評】 恋に関係した範囲の歌ではあるが、自身の恋は少しも含んでいないものである。相手の男を、「山菅の実ならぬ事を吾に依せ言はれし君」といっているが、これはただそうした事実をいっているだけで、感情の動きはない。「誰とか宿らむ」も、そこに羨みも嘆きも認められないものである。こうした心は、郎女自身としてはいう必要のないもので、それを言っているのは、その場合上、そのようなことを言わなければならない必要に駆られていわされたものと取れる。こういう事をいえる相手は、平生ある程度の親しみをもっている間柄でなければならぬ。また、「吾に依せ言はれし君」という男は、郎女にふさわしい相手と思わせる地位の者でなくてはならぬ。それこれより見て、前の歌の作者大監百代だろうという推測は当たっているものと思われる。それだと百代の、第二首目の「こひ死なむ」以下三首の、古歌を摸して詠んだ三首の歌に対してのもので、それらの歌をしらじらしいものと見、それには和《こた》えようとせず、顧みて他をいった形のもので、他とは上品な皮肉である。世故に長《た》けた、聡明な女性が、地歩を占めての歌で、文芸性という上からはいうべき何物もないものであるが、当時者間の実用性の歌としてみると、歌という形式をもってしているがゆえに初めて言い得られるという、きわめて適切なものである。これは歌のもつ一面である。
(396) 賀茂女王の歌一首
565 大伴《おほとも》の 見《み》つとは云《い》はじ あかねさし 照《て》れる月夜《つくよ》に 直《ただ》にあへりとも
大伴乃 見津跡者不云 赤根指 照有月夜尓 直相在登聞
【語釈】 ○大伴の見つとは云はじ 「大伴」は、摂津国の難波津のある辺りの大名。「御津」、すなわち難波津を、御料の津であるがゆえに尊んでいう御津と続け、それを同音の「見つ」に転じて、その枕詞としたもの。特殊な枕詞で、女王の創意のものかと思われる。「見つとは云はじ」は、「見つ」は、相逢った意であるが、男女相関係した意をあらわす語。ここもそれである。「云はじ」は、人にいうまいで、女王としてはその周囲の者にも隠しておこうの意。○あかねさし照れる月夜に 「あかねさし」は、「あかね」は、ここは赤色。「さし」は、光線の照り光る意という解に従う。赤く照りさすで、下の「月」の状態をいったもの。「月夜」は、ここは月の夜。○直にあへりとも 「直に」は、直接に。「あへりとも」は、逢ったということもで、いうまいを省いた言い方。
【釈】 大伴の御津の、その見つということも、周囲の者には隠していうまい。いや、それどころではなく、赤く照りさす月の夜に、直接に君に逢ったということさえもいうまい。
【評】 女王は上の(五五六)によって、大伴三依の妻であったことがわかり、またその三依は筑紫へ旅立とうとしていることも知られる。「大伴の御津の浜」という続きは、例の多いものであるが、「大伴の」を「見つ」の枕詞としたのは特殊なものである。その点から思うと、三依が筑紫へ向かって出帆するに先立ち、女王は別れを惜しむ意で御津まで行かれ、一夜三依と戸外でひそかに逢われたことがあって、その夜の別れに、女王の喜びの心から詠まれたものかと思われる。一、二句は、ひそかに逢い得た喜びを、綜合していわれたもの。三句以下は、その喜びに堪えずして、さらに繰り返していったものであるが、三、四句は逢った場所の情景、結句は二句「見つとは云はじ」をさらに強めて、「直にあへりとも」と言いかえたもので、整然たる構成をもたせ、流るるがように詠んだものである。女王の歌才を思わせる歌である。
大宰|大監《だいげん》大伴宿禰百代等、駅使《はゆまつかひ》に贈れる歌二首
【題意】 「駅使」は、官道の駅々に、官用のために飼っている馬に乗り継いでの使の称で、急を要する公の使の称である。後世の早打《はやうち》にあたる。この際のことは左注にくわしい。
(397)566 草枕《くさまくら》 旅行《たびゆ》く君《きみ》を 愛《うるは》しみ 副《たぐ》ひてぞ来《こ》し 志可《しか》の浜辺《はまべ》を
草枕 羈行君乎 愛見 副而曾來四 鹿乃濱邊乎
【語釈】 ○草枕旅行く君を 「草枕」は、旅の枕詞。「旅行く君」は、京へ還るところの君で、題詞の駅使をさしたもの。○愛しみ 原文「愛見」。旧訓「うつくしみ」。『代匠記』は、三様の訓を試みているが、その一つに「うるはしみ」がある。「うつくしみ」とも「うるはしみ」とも訓みうる字であるが、「うつくしみ」は、いとおしさに、あるいは恋しさにと訳してあたる語で、親子、夫婦の間に限って用いられているものである。「うるはしみ」は、美しいので、あるいはいとしいのでというにあたる語であるが、ここは作者|百代《ももよ》が京恋しい心を抱いているところから、そちらへ還る人に心を引かれる意でいっているもので、懐かしいのでというに近く思える。○副ひてぞ来し志可の浜辺を 「副ひて」は、連れ立って。「来し」の「し」は、「ぞ」の結。「志可の浜辺」は、筑前国(福岡県)糟屋郡志賀町で、今の博多湾の沿岸。京への往還筋である。
【釈】 旅に行く君が懐かしいので、別れかねて連れ立って来たことであるよ。この志可の浜辺を。
【評】 いっているところは、作者百代の京恋しく、したがって京びとの懐かしくて、別れ難い心の訴えである。官命を果たして京へ還る人を、「草枕旅行く君」といっているのは、大宰府を中心としてのことで、自身に執しての言い方である。「愛しみ」もいったがように、自身を主としての語である。「志可の浜辺」まで送ったのは、儀礼としての心もあることであろうが、それをわが心よりの事のごとくいっているのは、最もその心をあらわしたものである。歌としてはもどかしさのあるものであるが、自身に即しての抒情は間接ながらしつくしているものである。
右の一首は、大監《だいげん》大伴宿禰百代
右一首、大監大伴宿祢百代
567 周防《すは》なる 磐国山《いはくにやま》を 越《こ》えむ日《ひ》は 手向《やむけ》好《よ》くせよ 荒《あら》きその道《みち》
周防在 磐國山乎 將超日者 手向好爲与 荒其道
【語釈】 ○周防なる磐国山を 「周防なる」は、周防国にある。「磐国山」は、山口県岩国市から玖珂町にいたる間の山。安芸国から周防国へ入る駅路にあたっており、大宰府から京へ陸路を取ると、必ず越えねばならぬ山である。○越えむ日は 越える日にはで、前途を思いやってのもの。(398)○手向好くせよ 「手向」は、神に奉る幣を言いかえた語。磐国山の頂に祀られている神に、その神の領《うしは》く道の間の無事を祈って奉るのである。「好くせよ」は、ねんごろにせよで、手向をねんごろにするのは、祈りを鄭重にすることである。○荒きその道 荒く危険なそこの道であるよの意。
【釈】 周防国にある磐国山を越える日には、その山の頂にいます神に、手向をねんごろにして、鄭重に祈りたまえよ。荒く危険なそこの道であるよ。
【評】 遠い旅をする人に対して、道中の無事を祈る歌を贈るのは、当然の儀礼となっていたことで、この歌はその意のものである。そうした場合に、古くは、送る者がその無事を神に祈り、あるいは単に祈りの心を詠んだのであるが、降ってのこの頃は、この歌のように、自身神に祈れと注意をするようになってきたとみえる。遠い前途を思いやって、特に磐国山をいっているのは、作者自身の経験より来ているのではないかと思える。一首、素朴に真率の情の現われているものである。
右の一首は、少典山口|忌寸《いみき》若麿
右一首、少典山口忌寸若磨
【解】 「少典」は、「すくなふみひと」と訓む。大宰府の四等官の最下位の役で、正八位相当官。事を受け上抄し、文案を勘署し、稽失を検出し、公文を読申することを掌る職。「山口忌寸若麿」の「忌寸」は、姓。伝は明らかでない。『新撰姓氏録』によると、山口氏は帰化人の末である。
さきに天平二年庚午夏六月、帥大伴卿、忽ち瘡を脚に生じ、枕席に疾苦す。これによりて駅を馳せて上奏し、望むらくは、庶弟|稲公《いなきみ》、姪《をひ》胡麿《こまろ》を請ひて遺言を語らまく欲《ほ》りすといへれば、右兵庫助大伴宿禰稲公、治部少丞大伴宿禰胡麿両人に勅して、駅を給ひ発遣し、卿の病を省《み》しむ。而して数旬を逕《へ》て、幸に平復することを得たり。時に稲公等病の既に癒えたるを以て、府を癸して京に上る。ここに大監大伴宿禰百代、少典山口忌寸若麿、及び卿の男家持等、駅使を相送りて、共に夷守《ひなもり》の駅家に到り、聊か飲みて別を悲しみ、すなはちこの歌を作る。
以前天平二年庚午夏六月、帥大伴卿、忽生2瘡脚1、疾2苦枕席1。因v此馳v驛上奏、望、請2庶(399)弟稻公、姪胡麿1、欲v語2遺言1者、勅2右兵庫助大伴宿祢稲公、治部少丞大伴宿禰胡麿兩人1、給v驛發遣、令v省2卿病1。而逕2數旬1、幸得2平復1。于v時稻公等以2病既療1、發v府上v京。於v是大監大伴宿祢百代、少典山口忌寸若麿、及卿男家持等、相2送驛使1、共到2夷守驛家1、聊飲悲v別、乃作2此謌1。
【解】 「駅を馳せて」は、駅馬に乗って走らせるところの急使をもって。「庶弟」は、兄弟の中、一人を嫡子とし、他は庶子とした。稲公は安麿の男で、旅人、坂上郎女には弟である。「稲公」は、その官歴は続日本紀に詳しい。天平十三年従五位下、因幡守。同十五年従五位上。天平勝宝元年正五位下、兵部大輔。同六年上総守。天平宝字元年正五位上、続いて従四位下。同二年大和守などである。「姪」は、兄弟の子の称で、男女にかかわらず用いた。「胡麿」は田主あるいは宿奈麿の男であろうという。官歴は、続日本紀によると、天平十七年従五位下、天平勝宝元年左少弁、同二年遣唐副使。同三年従五位上、同四年従四位上。同六年左大弁、正四位下。天平宝字元年陸奥鎮守府将軍、陸奥按察使。その年橘奈良麿の乱に与したとのゆえをもって囚えられて獄死した。「右兵庫助」と「治部少丞」のことは続日本紀には載っていない。「数旬」は、「旬」は十日間の称。「夷守」は、古く筑紫国頸城郡の宿とあるが、今は所在が明らかでない。福岡市多多羅かという。戍を置いて夷を守るところからの称と取れる。「駅家」は、駅馬、伝馬を備えておく所の称。
大等帥大伴卿、大納言に任《ま》けらえて京に入らむとする時に臨み、府の官人等、卿を筑前国|足城《あしき》駅家に餞する歌四首
【題意】 「大納言に任けらえて」は、続日本紀にはその時が漏れているが、「公卿補任」には、「天平二年十月一日」とある。「蘆城駅家」は、上の(五四九)に出た。
568 み埼廻《さきみ》の 荒磯《ありそ》によする 五百重浪《いほへなみ》 立《た》ちても居《ゐ》ても 我《わ》が念《も》へる君《きみ》
三埼廻之 荒磯尓縁 五百重浪 立毛居毛 我念流吉美
【語釈】 ○み埼廻の荒礒によする 「み埼廻」は、「廻」は旧訓「わ」、『古義』の改めたもの。「み埼」は、海に突出した地の鼻。「廻」は、あたり。(400)「荒磯」は、岩石の水上に現われている海岸の称で、しばしば出た。○五百重浪 「五百重」は、絶えず寄せる浪を具体的にいったもの。初句よりこれまでは、浪の「立つ」の意で下へ続き、その「立つ」を「起つ」に転じて、序詞としたもの。○立ちても居ても 起ってもまた坐ってもで、それを終日の行動の全部とし、絶えずという意を具象化したもの。○我が念へる君 「念《も》へる」は、旧訓「おもへる」。『考』の訓。我が慕っているところの君よの意で、「君」は旅人。
【釈】 海中へ突出した地の鼻の、その辺りの海岸の岩石に、五百重と限りなく寄せる浪の、寄せては立つ、その我が起つにつけても、また坐るにつけても、絶えずも慕っているところの君よ。
【評】 旅人との別れを惜しみ、その平生限りなくも敬慕していることをいうことによって、別れかねる心を訴えたものである。「み埼廻の荒磯によする五百重浪」は、「立つ」の序詞であるが、それだけのものにとどめず、その間断なき状態をいうことによって、「立ちても居ても」に照応させ、それをいっそう強く具象化させているものである。これは序詞に譬喩の意ももたせることであって、文芸化である。この風は当時すでに行なわれていたもので、事としては創意あるものではないが、その土地も海に遠い所ではなく、旅人の路も海路と定まっていたとみえるから、場合がらきわめて適切なものといえる。下官の餞《はなむけ》の歌としては、その態度も穏当に、手腕もすぐれたものである。
右の一首は、筑前掾|門部《かどべの》連|右足《いそたり》
右一首、筑前掾門部連右足
【解】 「掾」は、国司の三等官で、上国は大掾少掾とあった。筑前国は上国である。「門部」は氏。『新撰姓氏録』には、「牟須比命《むすびのみこと》児、安《やす》牟須比命之後也」とある。「石足」の父祖は知られない。
569 辛人《からひと》の 衣《ころも》染《そ》むとふ 紫《むらさき》の 情《こころ》に染《し》みて 念《おも》ほゆるかも
辛人之 衣染云 紫之 情尓染而 所念鴨
【語釈】 ○辛人の 「辛」は、韓《から》あるいは唐《から》など用いているのと同じ意の字で、それぞれ用例のあるものである。ここは唐である。唐の人のの意。○衣染むとふ 原文「衣染云」、旧訓「ころもそむといふ」。『考』の訓。衣を染めるというの意。○紫の 紫は、ここは、染料としてのもの。「の」は、のごとく。古くは染料としての紫は紫草《むらさき》の根から穫たので、双方に通じていった。初句よりこれまでは、染料としての紫が、物に染《し》み(401)る意で、下の「染《し》み」の譬喩としたもの。○情に染みて念ほゆるかも 「情に染みて」は、現在も用いている語で、「染む」は深くも感ずる意を具象化した語。「念ほゆるかも」は、思われることよで、旅人との別れの悲しさを背後に置いているもの。これは相対していっている場合だからである。
【釈】 唐《から》の人が衣を染めるという染料の紫のごとく、心に染みて、この別れの悲しくも思われることであるよ。
【評】 旅人と相対して、別れの悲しさを訴えたのである。譬喩として染料の紫を捉えてあるのは、この染料のよく物に染みるという意ではなく、色としての紫が高貴なものとされていた関係からと思われる。『代匠記』はこの点に注意し、当時位階によって服色は定められていたから、紫は高位の人に限られた色となっていた。旅人は正三位大納言であるから、朝服の紫の今ひとしお濃くなることを寄せていっているかと解している。『攷証』はさらに「衣服令」を引き、「三位以上浅紫色」とあることをいっている。それだと『代匠記』の解はいっそう適切となってくる。また、「辛人の」について、『攷証』は、わが「衣服令」は唐令にならったものと思われるが、その唐令は残っていないから明らかでない。しかしよるところがあろうといっている。この「辛人」をいっているのは、当時は先進国として唐を重んじていたのであり、加えて旅人は漢文学の教養の高い人であったのに、この歌の作者|陽春《やす》も同じくそうした人であったところから、互いに黙会するものがあっていっている語と思える。歌は旅人一人を対象とした実用性のものであるから、そうしたことはありうることである。すなわちこの譬喩は、悲しみの意味の「情《こころ》に染《し》みて」を強める形のものであるが、その中に旅人に対する賀の心、その特殊の趣味をも充たそうと意図した複雑なもので、それをさりげなく、安らかに、また美しくいっているところに、作者の歌才を見せているものである。
570 大和《やまと》へ 君《きみ》が立《た》つ日《ひ》の 近《ちか》づけば 野《の》に立《た》つ鹿《しか》も 動《とよ》みてぞ鳴《な》く
山跡邊 君之立日乃 近付者 野立鹿毛 動而曾鳴
【語釈】 ○大和へ君が立つ日の 「大和へ」は、大和国の奈良京にということを、広く言いかえたもの。それによって路の遠さをも感じさせうるとともに、下の「野」にも照応しうるものとしている。「君が立つ日」は、十二月であることは知られている。○野に立つ鹿も 「野」は、広範囲にわたってのもの。大宰帥としての旅人に対してのものだからである。「立つ」は、鹿の状態としていったものであるが、「君が立つ」の「立つ」には照応させてもいる。「鹿も」の「も」は、同類の一つを挙げる意のもので、主人として人を背後に置いてのもの。鹿もまた人と同じく。○動みてぞ鳴く 騒いで鳴いていることであるよ。
【釈】 大和へ向かって君の旅立つ日が近づいてきたので、別れを悲しんで、野に立っている鹿もまた、人と同じく騒がしく鳴い(402)ていることであるよ。
【評】 この歌は、大宰帥としての旅人との別れを悲しむ者は、ひとり人間ばかりではなく、野に立つ非情の鹿もまた同じく甚しくも鳴いているとの意である。為政者が仁政を施いたために、非情の禽獣までもそれを感じるに至ったということは、中国の歴史には往々に出ていることなので、それを心に置いていっているものである。『代匠記』は、旅人の旅立った時は十二月で、鹿の騒がしく鳴く季節ではないことをいっているが、これは譬喩の心をもっているものである。巻三(二三九)「長皇子、猟路池《かりぢのいけ》に遊び給へる時、柿本朝臣人麿の作れる歌」には、野に棲む禽獣も、皇土に生くるものとして、人間とひとしなみに、皇子に奉仕することを喜びとして身を捧げる心をいっている。今の歌はその精神と直接のつながりはないが、間接にはつながりうるもので、皇土のものとして、禽獣も人間と等しき心をもっているとしたもので、中国の故事によっただけのものではないと思われる。この歌も前の歌と同じく、別れの悲しみをいったものではないが、旅人の徳を讃える心、その中国趣味を充たさせようとするところのあるもので、同巧異曲のものである。表現の単純な点、安らかに美しさをもった点もまた同様である。
右の二首は、大典|麻田連陽春《あさだのむらじやす》
右二首、大典麻田連陽春
【解】 「大典」は、上の(五六七)に「少典」のことが出た。大宰府の四等官で、輔、弐、監、典という順序である。「麻田連陽春」は、続日本紀、神亀元年、正八位上答本陽春に麻田連の姓を賜わることが出ており、旧くは答本氏である。『代匠記』はその氏から推して、帰化人の末ではないかという。天平十一年正六位上よりほか従五位下に進み、懐風藻により石見守となったことが知られる。
571 月夜《つくよ》よし 河音《かはと》清《さや》けし いざここに 行《ゆ》くも去《ゆ》かぬも 遊《あそ》びて帰《ゆ》かむ
月夜吉 河音清之 率此間 行毛不去毛 遊而將歸
【語釈】 ○月夜よし「月夜」は、単に月、月光の意でも用いた。ここは、下の「河音」と並べているので、月の意と取れる。○河音清けし 旧訓「かはおときよし」。『童蒙抄』の改めたもの。「かはと」も「さやけし」も用例のあるものである。「河」は蘆城川であろうという。「清けし」は、十二月という季節に関係した讃え方と取れる。○いざここに 「いざ」は、他を誘って呼びかける語。「ここ」は、川のほとり。○行くも去かぬも(403)「行く」は、京へ向かう旅人の一行。「去《ゆ》かぬ」は、大宰府へとどまる官人。○遊びて帰かむ 「遊びて」は、別れを惜しみ、またそれを楽しくしようとしてのこと。「帰《ゆ》かむ」は、別れ行かむの意と取れる。「帰」の字は義訓で、それぞれ帰るべき所へ向かう意で、すなわち別れる意。
【釈】 月がよい。河瀬の音がさわやかだ。さあここで、京へ行く者も、行かずして大宰府にとどまる者も、名残りを惜しんで、楽しく遊んで別れて行こう。
【評】 歌は、まだ夜の明けぬ頃、旅人一行の発足を見送ってきた大宰府の官人として、全体に向かって呼びかけた心のもので、言葉をもってしても足りることを歌とし、高らかに歌いかけたものと取れる。しばらくでも名残りを惜しみたいということを、「月夜」と「河音」という自然に託し、「遊びて帰かむ」といっているのは、自然愛好の念の強くなった時代気分を反映したもので、時宜に適した言い方である。また形から見ても、「月夜よし河音清けし」と、句を切って同韻を畳み、「行くも去かぬも遊びて帰かむ」と「行く」を三回までも畳んでいるところは、口承文学の系統を際やかに引いたもので、これまた時宜に適したものである。
右の一首は、防人佑《さきもりのすけ》大伴四綱
右一首、防人佑大伴四綱
【解】 「防人佑」は、大宰府に属する防人司の次官。「大伴四綱」は、巻三(三二九)に既出。伝未詳。
大宰帥大伴卿の京に上りし後、沙弥満誓《さみのまんせい》の卿に贈れる歌二首
572 真十鏡《まそかがみ》 見飽《みあ》かぬ君《きみ》に おくれてや 旦夕《あしたゆふべ》に さびつつ居《を》らむ
眞十鏡 見不飽君尓 所贈哉 旦夕尓 左備乍將居
【語釈】 ○真十鏡見飽かぬ君に 「真十鏡」は、真澄鏡の意で、意味で「見」にかかる枕詞。「見飽かぬ君」は、いくら見ても飽かぬ君で、見れど飽かぬは、古くは最上の讃え言葉であって、しばしば出た。○おくれてや 「おくれ」は、後れで、あとに遺《のこ》された意。「や」は、疑問。○旦夕にさびつつ居らむ 「旦夕に」は、旦に夕べにの意で、終日、すなわち絶えずということを具体的にいったもの。「さび」は、「不楽」「不怜」の字も当ててもおり、侘びしむ意。「つつ」は、継続。「らむ」は、現在の想像。
(404)【釈】 見れども飽くことのないところの君に、あとに遺されて、旦に夕べに絶えずも、佗びしみ続けていることであろうか。
【評】 筑紫観世音寺の別当として、長官旅人に遠く思慕の情を寄せたものである。身分の隔てを意識し、限度を超えまいとした上で、そのもつ思慕の情を尽くそうとしたものである。すなわち普通の心を、調べをもって深化したもので、一首しみじみとした哀調を帯びたものとしている。頭脳と感情の深さを思わせられる。
573 ぬば玉《たま》の 黒髪《くろかみ》変《かは》り 白髪《しらけ》ても 痛《いた》き恋《こひ》には あふ時《とき》ありけり
野干玉之 黒髪變 白髪手裳 痛戀庭 相時有來
【語釈】 ○ぬば玉の黒髪変り 「ぬば玉の」は、意味で「黒」にかかる枕詞。感を強めるものとしてである。「黒髪変り」は、わが黒髪の色が変わって。○白髪ても 旧訓。『古義』は用例として、巻九(一七四〇)「水江浦島の子を詠める歌」の、「黒かりし髪も白けぬ」を引いている。「白け」は、白くなる意で、現在も用いている。「も」は、もまたの意。初句よりこれまでは、老境に入ってもということを具体的にいったもので、心は、老境に入ると心が淡くなって、恋などということは思わなくなる意をあらわそうとしたもの。○痛き恋には 「痛き」は、心痛きで、甚しいの意。「恋」は、広い意のもので、憧れというにあたる。「は」は、強め。旅人に対する深い思慕を、具体的に言いかえたもの。○あふ時ありけり 「けり」は、詠歎。
【釈】 ぬば玉のわが黒髪の色が変わって白くなって、今は恋などということはないと思っていてもまた、心痛いまでの憧れをもつ時はあることであるよ。
【評】 旅人に対する深い思慕の情を訴えたものである。その訴えをするに、君によってということは全然いわず、ただ自身の意外なる心象を吐露する形としているのは、上の歌と同じく、旅人に対する身分の隔たりを意識してのゆえと取れる。しかしそれをしての上では、心を尽くした物言いをしている。初句より三句までの老境の具象化、四、五句のわが心象としての具象化は、心深さの現われであって、同じくしみじみとした味わいをもったものである。この歌にも哀調がある。
大納言大伴卿の和ふる歌二首
574 此所《ここ》に在《あ》りて 筑紫《つくし》や何処《いづく》 白雲《しらくも》の たな引《び》く山《やま》の 方《かた》にしあるらし
(405) 此間在而 筑紫也何處 白雲乃 棚引山之 方西有良思
【語釈】 ○此所に在りて ここに来てはの意。「此所」につき『攷証』は、次の歌との関係上、同じく「草香江《くさかえ》」の辺りであろうといっている。草香江は河内国で、難波より奈良京への往還にあたっている。それだと帰京の途中、満誓よりの歌を受け取って、即座に和え歌を詠んだと取れる。○筑紫や何処 「や」は、疑問。筑紫はどちらであろうかで、筑紫は満誓のいる所としてのもの。「何処」はどちらともわからず、したがっておぼつかなく、懐かしい心を託したもの。○白雲のたな引く山の方にしあるらし 「白雲のたな引く山」は、眼に続いて見える光景として叙したもの。「方」は、方角。「らし」は、眼前を証としての推量をあらわす助動詞であるから、証は、旅人が現に通過してきた方面にある山でなくてはならない。その意と取れる。
【釈】 ここに来て懐かしく思う、君のいる筑紫はどの方角であろうか。現に我が通過してきた、あの白雲の靡いている山の方角であろう。
【評】 この歌は、自問自答した形のもので、独詠と見れば見られるものである。心としては、筑紫へ対しての懐かしさの情をいっているもので、心の広いものである。しかし実際は、満誓に対しての和え歌である。高く地歩を占め、おおらかに、のびやかに情を抒《の》べて、しかも和え歌としての心を保ち得ているところに、旅人の人柄がある。多くの官人から、心から慕われている旅人の面影が見える。巻三(二八七)石上卿の「ここにして家やも何処《いづく》白雲のたなびく山を越えて来にけり」に酷似していることを諸注いっている。二首を較べると、石上卿の歌は、心は、事に合わせては明かるく、浅く、形は謡い物風であるのに、旅人のものは、心暗さを含み、隠約であるがために含蓄をもち、形は文芸的のものとなって、明らかに優れたものとなっている。古歌を踏襲することは、当時にあっては普通なこととなっていた。それを進展させ生面を拓いているので、面目のあるものとすべきである。
575 草香江《くさかえ》の 入江《いりえ》に求食《あさ》る 蘆鶴《あしたづ》の あなたづたづし 友《とも》無《な》しにして
草香江之 入江二求食 蘆鶴乃 痛多豆多頭思 友無二指天
【語釈】 ○草香江の入江に求食る 「草香江」は、河内国中河内郡、今の杖岡市|日下《くさか》町にあった江で、生駒山の西麓の地である。古くは、大和川がここを流れて江をなしており、その淀川に合流する関係から、難波から舟で淀川を溯り、ここまで来たものかといわれている。「入江に求食る」は、入江となっている所に求食っている。○蘆鶴の 鶴の好んで蘆のある水岸にいるところからの称。初句よりこれまでは、「鶴《たづ》」を畳音の関係で、下の「たづたづし」に続けて、その序詞としたもの。○あなたつたづし 「あな」は、感動詞。「たづたづし」は、おぼつかなし、たよりなしの意(406)で、後のたどたどしの古い形。○友無しにして 友のない状態にあっての意。(五五五)に既出。
【釈】 革香江の入江に求食《あさ》っている蘆鶴の、その「たづ」ではないが、ああ「たづたづし」く頼りないことではある。友のない状態にあって。
【評】 初句より三句までの序詞は、『攷証』のいうがごとく、帰京の途中草香江にあって、おりからそうした光景を眼にした関係で捉えたものとみえる。地名を用いて細かい光景をいうことは、当時は空想ではしなかったからである。それだとこの蘆鶴は、冬の寒い江の枯蘆の中に求食《あさ》っていたもので、さみしく頼りなげな感を誘うものであったとみえる。すなわち形は序詞にしてあるが、心は譬喩であって、それを婉曲なものにしようがために、意識して序詞の形にしたものと思え、そこに旅人の文芸意識が感じられる。「友無しにして」の「友」は、満誓をさしているもので、この友は知己の意のものである。上の歌は心の広いものであったが、この歌は直情を訴えたもので、惻々として迫りくるところのあるものである。これも旅人の一面で、おおらかではあるが、内に熱意を含み、その熱意はただちに流露してくるという風の人柄であったとみえる。
大宰帥大伴卿の京に上りし後、筑後守|葛井《ふぢゐ》連大成、悲嘆して作れる歌一首
【題意】 「葛井連大成」は、続日本紀、養老四年、白猪史《しらゐのふびと》の氏を改めて葛井連姓を賜わるとあり、また神亀五年正六位上より外従五位下を授けられたことが見えるだけで、父祖は知られない。
576 今《いま》よりは 城《き》の山道《やまみち》は 不楽《さぶ》しけむ 吾《わ》が通《かよ》はむと 念《おも》ひしものを
從今者 城山道者 不樂牟 吾將通常 念之物乎
【語釈】 ○今よりは 「今」は、旅人の大宰府にいなくなった時をさしたもの。○城の山道は 「城の山」は、筑後国(福岡県)筑紫郡と肥前国(佐賀県)三養基郡とに跨《また》がっている山で、肥前、筑後方面から大宰府に出るには、越さねばならぬ山となっている。「山道」は、その山越えの道で、大成が筑後の国守としてその要路をいっているもの。○不楽しけむ 侘びしいことであろうで、これはその山道の本来の相である。今までは旅人に逢うのを楽しみに、そこの侘びしさを感じなかったことを背後に置いての言。○吾が通はむと念ひしものを 吾は繁くも通おうと思っていたものをで、これも旅人に逢う楽しみを背後に置いての言。
【釈】 君が大宰府にいまさずなった今後は、城の山越えの路は、その本来の相に立ちかえって、佗びしい所となることであろう。(407)君にまみえる楽しみに駆られて、吾は繁くも往来しようと思っていたものを。
【評】 体験しているところを、率直に、素朴に訴えたものである。感傷の言を漏らしていないところにかえってあわれがある。国守として長官なる旅人に、その全幅を披瀝した歌といえる。
大納言大伴卿、新しき袍《うへのきぬ》を摂津大夫高安王に贈れる歌一首
【題意】 「袍」は、地は綾で、色は紫。単《ひとえ》の盤領《あげくぴ》で、袖の長い物である。「摂津大夫」は、摂津職の長官。「高安王」は、長親王の孫、川内王の子。続日本紀、和銅六年従五位下。養老元年従五位上。同三年伊予守として阿波、讃岐、土佐三国の按察使。同五年正五位下。神亀元年正五位上。同四年従四位下。同十一年大原真人の姓を賜わって臣籍に下り、同十二年正四位下。同十四年に卒した。
577 吾《わ》が衣《ころも》 人《ひと》にな著《き》せそ 網引《あびき》する 難波壮士《なにはをとこ》の 手《て》には触《ふ》るとも
吾衣 人莫著曾 網引爲 難波壮士乃 手尓者雖觸
【語釈】 ○吾が衣人にな著せそ 「吾が衣」は、吾が贈るところのこの袖は。「人にな著せそ」は、君以外の人には著せたまうなで、わが心をこめた品であるから、気には入らずとも、他に与えることはしたまうなの心をもっていっている言。○網引する難波壮士の 「網引する」は、巻三(二三八)に出た。漁《すなど》りをするための網を引き上げる手業《てわざ》で、海人《あま》のする業《わざ》。「難波壮士」は、難波の浦に住んでいる男で、ここは上に続いて、海人《あま》の意。賎しい者としていっているのである。「難波」と限っているのは、高安王が摂津大夫である関係からで、上より続けて、周囲の賎しい者ということを具体的にいったもの。○手には触るとも 将来、手に触れるようなことになろうともで、高安王がその袖が気に入らず、着ずに棄てておく、その自然の成行きとして、賎しい海人《あま》の手に渡るようなことがあろうともの意。
【釈】 わが贈り参らせるこの衣を、君以外の人には着せ給うなよ。たとひ末々、綱引きをする難波壮士の卑しい者の手に渡るようなことがあろうとも。
【評】 人に物を贈る時には、古くは礼として、その物の心をこめた物であることを言い添えるのが風となっていた。これもそれで、心をこめた物であるから、しかるべく扱っていただきたいということを、婉曲にいったものである。「新しき袍」であるのに「吾が衣」と、自身の身に着けていた物のごとくいっているのも、心をこめた意であり、「人にな著せそ」も、たとい気(408)には入らずとも、他人には与え給うなと、同じく心をこめたのにふさわしい扱い方をしたまえと要求したのである。「網引する」以下は、その気に入らずともという斟酌の延長で、それに王の現にいられる地である難波を関係させ、自然の成行きとして賤しい者の手に渡るということを「手には触るとも」と婉曲にいったものである。心細かい言い方をしているためにやや解し難いものとなっており、諸注解を異にしているが、贈り物に添えた挨拶代わりの歌であるから、親しい間柄だと、自然立入っての物言いも許されるはずである。これは旅人が筑紫の土産《つと》代わりに贈ったものと思われる。
大伴宿禰三依の別を悲しめる歌一首
578 天地《あめつち》と 共《とも》に久《ひさ》しく 住《す》まはむと 念《おも》ひてありし 家《いへ》の庭《には》はも
天地与 共久 住波牟等 念而有師 家之庭羽裳
【語釈】 ○天地と共に久しく住まはむと 「天地と共に久しく」は、「天地」を最も永久のものとし、その意で譬えにしたもので、最も永久なる天地とともに、我も久しく。「住まは」は「住まふ」の継続をあらわした語。「む」は意志を示す。住みつづけよう。○念ひてありし家の庭はも 「念ひてありし」は、これまで思っていた。「家の庭」は、「家」は、そうした思いをつないできた家であるから、住み馴れた京の家である。「庭」は、庭園で、当時しだいに行なわれてきた林泉で、まだ新奇の念もあり、したがって愛着の念も深かったものと取れる。この歌はその庭を中心としたものである。「はも」は、「は」といって言いさし、それに詠歎の「も」を添えたもので、その詠歎によって、眼前にはないものを思慕する場合に用いられる語となっていた。ここもそれで、「家の庭」に別れ来たって、心中に思い浮かべた意である。
【釈】 永久な天地とともに、久しくも住み続けようと思っていた家の、その懐かしい庭はよ。
【評】 三依が筑紫へ旅立とうとしていたことは、上の(五五六)に出ている。この歌は、任地筑紫へ向かって発足した途中、遺して来た奈良京の家の庭を思って詠んだものと取れる。庭を思慕の中心としていることは、時代気分を反映したものである。「天地と」という極度の譬喩を用いていっていることがそれを思わせる。歌は相聞ではなく雑歌の範囲のものである。
余明軍《よのみやうぐん》、大伴宿禰家持に与ふる歌二首 明軍は大納言卿の資人なり
【題意】 「余明軍」は、巻三(三九四)その他に出た。旅人の公より賜わっていた資人《つかいぴと》である。「与ふる」は、高きより低きに対しての語で、ここにはあたらないことを『考』も『攷証』もいっている。『攷証』は、当時「贈」と「与」と差別なく用いてい(409)たことを注意している。
579 見奉《みまつ》りて 未《いまだ》時《とき》だに 更《かは》らねば 年月《としつき》の如《ごと》 念《おも》ほゆる君《きみ》
奉見而 未時太尓 不更者 如年月 所念君
【語釈】 ○見奉りて未時だに 「見奉りて」は、お見上げ申しての意で、仕えている主人の男に対しての敬語。「時だに」は、「時」は、時刻。「だに」は、一事を挙げて、他はいうに及ばぬ意の助詞。一時刻だけでも。○更らねば 「ねば」は、「ぬに」と異ならないもので、並び用いられていた語。改まらないのに。○年月の如念ほゆる君 「年月の如」は、年月の久しい問見ないがごとく。「念ほゆる君」は、恋しく思われる君よ、の意。
【釈】 お見上げ申してから、まだ一時刻だけでも改まってはいないのに、年月の久しい間見ないがごとく恋しくも思われる君よ。
【評】 純粋な、人思いの心を、細く、澄んだ調べに託したものである。明軍の歌は概してこれで、風格をなしているものである。人柄より発しているものであろうが、旅人と通うところがあり、その影響を受けているものかと思われる。
580 足引《あしひき》の 山《やま》に生《お》ひたる 菅《すが》の根《ね》の ねもころ見《み》まく 欲《ほ》しき君《きみ》かも
足引乃 山尓生有 菅根乃 懃見卷 欲君可聞
【語釈】 ○足引の山に生ひたる菅の根の 「足引の」は、山の枕詞。「山に生ひたる菅」は、山菅。これは根のことに深いものである。以上三句は根を、畳音で「ねもころ」の「ね」に続けて、序詞としたもの。○ねもころ見まく 「ねもころ」は、ねんごろに。「見まく」は「見む」に「く」を添えて名詞形としたもので、見んことの。○欲しき君かも 「欲しき」は、口語の「ほし」と同じ意の語。
【釈】 足引の山に生えている菅の根の、そのねんごろにも見まつることのほしい君ではあるよ。
【評】 前の歌に続けたもので、「見奉りて」といったそれがしばらくのことで、飽き足りないことを思って、ねんごろにも見まつることのほしさよと訴えた歌である。三句を費やしての序詞は、物としては山菅の根のということであるが、それをこのように言うことによって、その特色である深いということを強く思わせ、感の上で、「ねもころ」に響くものとしてあるのは、意図をもってのことと取れる。上の歌と同じく、その人柄を思わせるものである。二首、これほどの事をいって、言い据えて、いわゆる姿をもたせていることは、注意されることである。
(410) 大伴|坂上家《さかのうへのいへ》の大娘《おほいらつめ》、大伴宿禰家持に報《こた》へ贈れる歌四首
【題意】 「大伴坂上大娘」は、巻三(四〇三)に出た。大伴宿奈麿の娘。母は坂上郎女で、家持とは母の関係で従兄弟にあたり、その妻となった人。「大娘」は、「大嬢」と同じで「娘」とあるはここのみである。
581 生《い》きてあらば 見《み》まくも知《し》らに 何《なに》しかも 死《し》なむよ妹《いも》と 夢に見《いめみ》えつる
生而有者 見卷毛不知 何如毛 將死与妹常 夢所見鶴
【語釈】 ○生きてあらば 下の「死なむ」に対させたもの。○見まくも知らに 「見まく」は、見るであろうことで、夫婦として相逢う意。「も」は、詠歎で、現在見難いことを背後に置いての言。「知らに」は、旧訓「しらず」。『考』の訓。知らないで。○何しかも 「し」は、強め。「かも」は、疑問。何だって。○死なむよ妹と夢に見えつる 「死なむよ妹」は、死んでの上で逢おう、妹よの意で、夢に家持のいった語。「夢に見えつる」は、そういう君が、わが夢に見えてきたことであるよで、「つる」は、上の「か」の結で、連体形。夢は、その人の魂が通って来て見えるものという、当時の信仰の上に立っての言。
【釈】 生きていたならば、相逢えるであろうことも知らずに、何だって死んで相逢おう妹よと、君はわが夢に見えてきたのであろうか。
【評】 夢を魂の交流とし、夢に見えることはその人の魂の現われだと信じる心の上に立ってのものである。家持と大娘との関係は、何らかの理由で、家持には叔母、大娘には母である坂上郎女の喜ばないものであって、逢瀬を妨げられていた期間があり、思うに任せぬものであったらしい。この歌はその期間のもので、一夜大娘の夢に、家持がその逢い難いのを嘆き、これだと、死んで相逢ったほうがまさっていると訴えたのである。それによって家持の心を感じた大娘は、家持を慰めたのであるが、慰めというよりはむしろ、それを短慮であるとして諌めたものである。若い女としてはどちらかというと知性的な、したがって強い所のあった人だということが歌から感じられる。
582 大夫《ますらを》も かく恋《こ》ひけるを 幼婦《たわやめ》の 恋《こ》ふる情《こころ》に 比《たぐ》ひあらめやも
大夫毛 如此戀家流乎 幼婦之 戀情尓 比有目八方
(411)【語釈】 ○大夫もかく恋ひけるを 「大夫」は、下の「幼婦」に対させたもので、強い男子の意で、家持をさしたもの。「も」は、同煩の一事をあげて強めたもの。「かく恋ひける」は、「かく」は、「しか」と同じに用いたもので、家持の夢でいったこと。「恋ひけるを」は、恋っていたことであるものをで、「を」は詠歎。○幼婦の恋ふる情に 「幼婦」は、弱い女の意で、「幼婦」は義訓。大娘自身をいっているもの。「恋ふる情」は、家持に対してのもの。○比ひあらめやも 「比ひあらめ」は、旧訓「ならべらめ」。『考』の訓。「比《たぐ》ふ」は、立ち並ぶ意。「め」は、推量の已然形、「やも」は反語。立ち並ぶことができようか、できはしないの意。
【釈】 心強い大夫の君でも、そのように恋うていることであるものを。しかし、弱い女の我が君を恋うている心には、立ち並ぶことができようか、できはしない。
【評】 この歌は、前の歌と同時のものである。前の歌は先方を主として、諌める態度でいってあるのに対し、これは自分を主として慰めの心をいっているものであり、二首相俟って慰めの心を徹底させているものである。慰めというのはこちらの心の、事情の如何にかかわらず真実であることをあらわしている意においてである。いわば一種の誓いである。真意は訴えであるが、知性的なところと強いところとがあって、訴えの直接さを失っているところがある。その点前の歌と同様である。
583 月草《つきくさ》の 徒《うつ》ろひ安《やす》く 念《おも》へかも 我《わ》が念《おも》ふ人《ひと》の 事《こと》も告《つ》げ来《こ》ぬ
月草之 徙安久 念可母 我念人之 事毛告不來
【語釈】 ○月草の徙ろひ安く 「月草」は、今の露草。その花をもって衣を摺ると、いくぱくもなく褪《あ》せるところから、意味で「移ろふ」にかかる枕詞。「徒ろひ安く」の「徒」は「移」である。「徒ろひ」は、「移る」の継続をあらわしている語。「移る」は推移すなわち変化である。ここは変わるというにあたる。「徒ろひ安く」は、変わりやすいで、女より見た男の心の状態をいったもの。○念へかも 後世の「念へばかも」にあたる古格。「かも」は、疑問。我に対して思っているのであろうかの意。○我が念ふ人の事も告げ来ぬ 「我が念ふ人」は、我が思っている人で、夫としての家持であるが、背とか君とかいうのを、場合上客観的に言いかえたもの。「事も」は、「言も」で、便りさえもの意。「告げ来ぬ」は、便りをする使も来ぬの意。
【釈】 月草の変わりやすい心を我に対してもっているのであろうか。我が思っている人は、便りをさえもして来ない。
【評】 家持より便りのなかった時、恨んで訴えたもので、類歌の多いものである。家持に贈るために詠んだものであるが、独詠と見れば見られる訴えの色の薄さをもったものである。上の二首と同系のものである。
(412)584 春日山《かすがやま》 朝《あさ》立《た》つ雲《くも》の 居《ゐ》ぬ日《ひ》なく 見《み》まくの欲《ほ》しき 君《きみ》にもあるかも
春日山 朝立雲之 不居日無 見卷之欲寸 君毛有鴨
【語釈】 ○春日山 奈良市の春日山で、大娘の邸のある坂上から見える山としていっていると取れる。○朝立つ雲の居ぬ日なく 「朝立つ雲」は、雲は夜は山に降り、朝は立ち現われるものとしていったもので、雲の常態である。「居ぬ日なく」の「居」は、山にかかっている意。かからない日とてはなくで、これは梅雨期のような曇天続きの特殊な光景である。眼前を捉えていっているのである。初句よりこれまでは、春日山に、朝は立ち現われる雲の、そのままにかかっていない日とてはなくで、春日山が連日雲に隠れている意で、したがってその雲は必ず「見」る意で、下の「見」に続き、初句より三句まで「見」の序詞としているもの。この序詞は、譬喩に近いもので、したがって序詞としては説明の語を添えないと通じ難い曖昧さのあるものである。○見まくの欲しき 「見まく」は、動詞「見む」に「く」を添えて名詞化したもので、見んことの。「欲しき」は、現在も用いている語で、連体形で、「君」に続く。○君にもあるかも 「も」も、「かも」も、詠歎。
【釈】 春日山に朝立ち現われる雲の、かからない日とてはなく、したがってその雲は必ず見る、その逢い見ることをしたいところの君であることよ。
【評】 この歌は、純粋な訴えであって、以上の三首とは趣を異にしているものである。豊かさはないが、才気を思わせるものである。連日春日山に雲がかかって見えないというのは、ある特別な季節のことで、実景を捉えたものと思われる。その実景を、心としては譬喩であるが、形は序詞として、柔らかく、含蓄のあるものとしているのは、巧みだといえる。上の三首と同(413)じく恋の上の訴えであるが、ひとたび風景に託してくると、打上がった、品のあるものとなるというこのことは、やや降《くだ》っての時代の人が、実用的の歌を文芸的なものにしようとの意図から、好んで風物に託しての歌を詠み出した機微を示しているものといえよう。
大伴坂上郎女の歌一首
585 出《ゝ》でて去《い》なむ 時《とき》しはあらむを ことさらに 妻恋《つまごひ》しつつ 立《た》ちて去《い》ぬべしや
出而將去 時之波將有乎 故 妻戀爲乍 立而可去哉
【語釈】 ○出でて去なむ時しはあらむを 「出でて去なむ」は、郎女の許から出て行く意で、一首の上からいうと、夫として夜通って来る宿奈麿の、帰ってゆくことと取れる。「去なむ」は、「時」につづく。「時しはあらむを」は、「し」は、強め、「を」は、詠歎で、適当な時があろうものをの意。「時」は、意味の広い語で、広く時期とも取れ、狭く時刻とも取れる。ここは一首の上から見て、狭い意の時刻と解される。○ことさらに妻恋しつつ 「ことさらに」は、現在も用いている語で、わざとというにあたる。「妻恋」は、熟語で、妻を恋うる心、またはしぐさで、ここはしぐさと取れる。「しつつ」は、継続。わざと妻を恋うしぐさをしつつで、これは範囲の広く、したがって内容の漠然とした語である。夫妻相対していての語であるから、当事者にはこれで十分通じたものと思われる。最も想像されやすいことは、妻の立場からいうと、夫として通って来た以上、一夜を妻の許にいるのが普通であるが、夫の立場からいうと、妻に実意を示すために通っては来たものの、都合上からすぐに帰らねばならぬということもありうることである。すなわち顔だけを見せて立ち帰るということである。これを妻の立場から、恨みをもって誇張していうと、「ことさらに妻恋しつつ」といえるのである。やや穿《うが》った解に似ているが、歌は実用性のもので、実際に即してのもので、第三者を予想してのものではないから、こうしたこともありうることである。ここはそれと取れる。○立ちて去ぬべしや 「立ちて」は、立っていて。「や」は、反語で、立っていて去るべきであろうか、去るべきではないで、初句を語を換え、強めて繰り返したもので、恨みの心からのものである。
【釈】 わが許より出て行かれる適当な時刻はあろうものを。わざと妻恋のしぐさをしつつも、立ち去るということがあるべきだろうか、あるべきではない。
【評】 この歌の解は、『代匠記』初稿本に、「これは夫君の旅にゆく時などによめるにや。出てゆかむ時もこそあらめ。われをこふるといふ時しも、わざとたちてゆくべき物か。実はこふといふはことばにて、さもあらねばこそ立て行らめとなり」と解しており、精撰本のほうには語をやわらげている。諸注すべて初稿本の解に従っている。事としてはそのほうが一般性があり、またおもしろくあるごとく感じられるが、それだと「出でて去なむ時しはあらむを」は筋の立たないこととなる。官人の旅は(414)公務を帯びてのもので、夫妻関係よりとかくのことは言えないものである。したがって「ことさらに妻恋しつつ」は、郎女が情痴に陥って、非常識なことをいうことにもなる。「ことさらに妻恋しつつ」は、夫の実意は認めながらも、恨みの心から、わざと認めないさまを装い、夫のしぐさを不自然なこととして非難するものとすると、郎女の他の歌とも通いうる巧みな物言いともなってくるともいえる。
大伴宿禰|稲公《いなきみ》、田村大嬢《たむらのおほいらつめ》に贈れる歌一首 大伴宿奈麿卿の女なり
【題意】 「大伴宿禰稲公」は、(五六七)の左注に出た。坂上郎女の弟である。「田村大嬢」は、大伴宿奈麿の娘で、坂上郎女が嫁する前の、前妻の出であろうとされている。その前妻は誰とも明らかではない。父宿奈暦とともに田村の邸に住んでいたところから、田村大嬢と称せられた。この人は稲公の妻となった。
586 相見《あひみ》ずは 恋《こ》ひざらましを 妹《いも》を見《み》て もとなかくのみ 恋《こ》ひば奈何《いか》にせむ
不相見者 不戀有益乎 妹乎見而 本名如此耳 戀者奈何將爲
【語釈】 ○相見ずは恋ひざらましを 「相見ずは」は、夫婦関係を結ばなかったならば。「恋ひざらましを」は、「まし」は上の仮設の結。「を」は詠歎。恋いずにいようものをで、すでに夫婦関係となっている上で、さかのぼって仮設としていっているもの。○妹を見て 妻として逢ってで、現在の関係をいったもの。○もとなかくのみ恋ひば奈何にせむ 「もとな」は、ここは、みだりにというにあたる。巻二(二三〇)に出た。「かくのみ」は、このようにばかりで、その程度の甚しさをいっているもの。「恋ひば奈何にせむ」は、恋しく思ったならばどうしようで、その堪え難さをいったもの。
【釈】 夫婦として相逢うことがなかったならば、恋うることもなかろうものを。妻として逢っての今を、みだりに、このようにばかり恋しく思ったならば、どうしたものであろうか。
【評】 夫婦関係を結んだ当座、妻恋しさに堪えられない心からの訴えである。当座というのは、関係のなかった以前と、現在とを比較して、それを一首の中心としているもので、こうした心はおそらくはその当座であるか、あるいは事の終わった後かでなければ思わないものだからである。類歌の多いもので、女によって抱かれやすい感である。
右の一首は、姉坂上郎女の作。
(415) 右一首、姉坂上郎女作。
【解】 「姉」というのは、稲公との関係をいったものである。それだと郎女が弟のために代作したものである。こうした事の行なわれていたことはすでにしばしば出た。題詞は事を主としたもの、注は作者を没しまいとしたもので、歌がその両方に跨がっていたものであることを示していることである。
笠女郎、大伴宿禰家持に贈れる歌廿四首
【題意】 「笠女郎」は、巻三(三九五)に出た。
587 吾《わ》が形見《かたみ》 見《み》つつしのはせ 荒珠《あらたま》の 年《とし》の緒《を》長《なが》く 吾《われ》もしのはむ
吾形見 々管之努波世 荒珠 年之緒長 吾毛將思
【語釈】 ○吾が形見見つつしのはせ 「形見」は、亡き人、あるいは遠く離れている人の身代わりとして見る品。ここは、女郎が自身の代わりとして家持に贈った品。「見つつしのはせ」は、「見つつ」は継続して見るで、絶えず見る意。「しのはせ」は、偲びたまえよと敬語をもってした命令形。「しのふ」は、その人を思う意。○荒珠の年の緒長く 「荒珠の」は、「年」にかかる枕詞。「年の緒」の「緒」は、年とともに長く続いている物であるところから、語感を強める意で添えたもので、熟語。○吾もしのはむ 吾もまた君を偲ぼう。
【釈】 わが贈るわが形見を絶えず見て、吾を思いたまえよ。年長く、いつまでも、吾もまた君を偲ぼう。
【評】 笠女郎は、その歌に現われているところから見ると、知性のもつ強さと、感性のもつ柔らかさを兼ね備えている人で、それが融け合って一つとなり、しかも互いに陰影となり合っているという趣をもった人である。同時に歌才の豊かな人で、充実し、緊張した感を、余裕をもって細かくあらわしうる人で、歌人として集中でも傑出した一人である。この歌は、形見として贈った品に添えたもので、挨拶にすぎないものであるが、さっぱりした中に訴えの心を含ませ、落着いていて弛みのないものであって、その凡ならざるを示しているものである。形見は今日でいえば記念品であるが、上代は物と心との間に区別を立てず、物を離れては心がないとする信仰をもっていたので、その信仰が背後にあって、軽からざる歌としているのである。
(416)588 白鳥《しらとり》の 飛羽山松《とばやままつ》の 待《ま》ちつつぞ 吾《わ》が恋《こ》ひ渡《わた》る 比《こ》の月《つき》ごろを
白鳥能 飛羽山松之 待乍曾 吾戀度 此月比乎
【語釈】 ○白鳥の飛羽山松の 「白鳥の」は、羽根の白い鳥の総称としてのもので、「飛ぶ」と続けて「飛羽」の枕詞としたもの。「飛羽山松」は、飛羽山の松の意。「飛羽山」は、所在不明である。この人は遠方の地名も捉えて用いる風があるので、山城国の鳥羽山ではないかという解もある。しかし一首の作意から見ると、家持の奈良京から通って行かれる地に住んでいての歌であるから、その地の山であったと取れる。広くいえば大和国内にある山で、その山が名高くならなかったから、名が伝わらなかったと取れる。初二句は、「松」を畳音の関係で「待ち」に続けて、その序詞としたもの。○待ちつつぞ吾が恋ひ渡る 「待ちつつ」の「つつ」は、継続。「渡る」も、同じく継続で、君の通って来るのを待ちつづけて、吾は恋い続けているの意。○此の月ごろを 「月ごろ」は、幾月かの意。「を」は、助詞。
【釈】 白鳥の飛羽山の松の、その待つことを続けて、吾は君を恋い続けている。この幾月の間を。
【評】 「待ちつつぞ吾が恋ひ渡る比の月ごろを」というので、その空しく待っているをいったもので、哀切な訴えである。その「待ち」を強めるために、「白鳥の飛羽山松の」という序詞を設けたのであるが、「白鳥の」という枕詞は、たぶん女郎の、「飛羽」という眼前の山を捉えていおうとして工夫したものではないかと思われる。序詞とはいっても、「松」と「待つ」とを畳音としたという単純なものであるのに、その序詞のなかばを枕詞としたという、きわめて軽い序詞である。しかし、鳥と松とは、来るもの、来るを待つものという関係があり、白鳥の「白」と「松」とは色彩の対照をもつもので、その意味からはこの序詞は、陰影の多いものとなり、三句以下の強い調べを助けるものとなっている。優れた技巧というべきである。一首、冴えた、さわやかな歌である。
589 衣手《ころもで》を 打廻《うちみ》の里《さと》に ある吾《われ》を 知《し》らずぞ人《ひと》は 待《ま》てど来《こ》ずける
衣手乎 打廻乃里尓 有吾乎 不知曾人者 待跡不來家留
【語釈】 ○衣手を 「衣手」は、袖で、袖をもって衣を代表させたものと取れる。衣を砧《きぬた》で打つの意で、「うち」の枕詞となっているもの。これは異説の多いものである。○打廻の里に 「打廻《うちみ》」は、巻十一(二七一五)「神名火《かむなぴ》の打廻《うちみ》の前《さき》の石淵《いはふち》の」ともあり、用例のあるもので、この神名火は明日香の雷の丘ととれるので、その付近の地名であろうが、正確な所在は不明である。女郎の住んでいる地としていっているもので、上の「飛(417)羽山」のある地と同じ所と思われる。○ある吾を いるところの我を。○知らすぞ人は待てど来ずける 「知らずぞ」は、それと知らずしてで、家持が知らなくての意である。これは事としてはあるまじきことで、家持はむろん知っているのであるが、そのあまりにも疎遠にするので、恨んで、誇張していったもの。「人は」は、夫としての家持をさしているのであるが、恨みの心からわざと距離を置いていったもの。「来ずける」は、後世の「来ざりける」にあたる古格の言い方。「ける」は、「ぞ」の結で、連体形。
【釈】 衣手を打ちというその打廻の里に、現にこうしている吾を、それとも知らずして人は、待っているけれども来ないことであるよ。
【評】 この歌は、上の一首とおそらく同時のもので、待つにもかかわらず、幾月にもわたって家持の通って来ないのを恨んでのもので、上の歌の哀切な訴えとは異なって、「知らずぞ人は」と皮肉にいって、満腔の恨みを抒べたものである。その際にも「衣手を」という枕詞を設け、「衣手を打ち」に女性としての手業《てわざ》を関係させてもある。前の歌とは地名を変えているのも、意図してのことかとも思われ、同じく異色をもった歌である。
590 荒玉《あらたま》の 年《とし》の経去《へぬ》れば 今《いま》しはと ゆめよ吾《わ》が背子《せこ》 吾《わ》が名《な》告《の》らすな
荒玉 年之經去者 今師波登 勤与吾背子 吾名告爲莫
【語釈】 ○荒玉の年の経去れば 「荒玉の」は、年の枕詞。「年の経去れば」は、何年も経てしまったのでで、逢いそめて以来ということを背後に置いての言。○今しはと 「し」は、強め。「と」は、と思って。今はもう障りのないことと思って。○ゆめよ吾が背子吾が名告らすな 「ゆめ」は、強く命令する意の副詞。「よ」は、詠歎。「告らすな」に続く。「吾が背子」は、呼びかけ。「吾が名告らすな」は、「告らす」は、「告る」の敬語。「な」は、禁止。妻としてのわが名を、他人に言いたもうなで、上代の信仰として、夫婦は互いに相手の名を絶対に秘密にすべきものとし、それを漏らすことを厳に禁じ合っていた。これは、名にはその人の魂が宿っていて、名とともにこちらの身についている相手の魂が、他に漏らすことによって遊離し、夫婦関係が薄弱になると信じていたからである。この信仰をあらわした歌は、集中に多く、これもそれである。
【釈】 逢いそめてからすでに何年も経てしまっているので、今はもう障りがないと思って、ゆめゆめわが背子よ、わが名を他人に漏らすことはしたもうな。
【評】 この歌の背後にある信仰は、夫婦別居して、互いにある不安を抱き合っていた時代には、一般的な、また重大なものであったとみえる。妻はこの信仰を守りやすかったが、夫のほうは軽い興味から、ともすればそれを破るということもあったと思われる。この歌は、女郎の立場から、家持の疎遠にするのに対して、あるいはという疑いをもったことに関係していようと(418)思われるが、直接の刺激は、この次の歌の、夢見の悪かったことであろうと取れる。歌は訴えであるが、年下の者を諭すがごとき口吻の明らかに見えるものである。
591 吾《わ》が念《おもひ》を 人《ひと》に知《し》らせや 玉匣《たまくしげ》 開《ひら》きあけつと 夢《いめ》にし見《み》ゆる
吾念乎 人尓令知哉 玉匣 開阿氣津跡 夢西所見
【語釈】 ○吾が念を人に知らせや 「吾が念」は、われが君を恋い思うこと。「人に知らせや」は、後世の「人に知らすればにや」にあたる古格。他人に知らせたのであろうかで、「や」は、疑問で、係。○玉匣開きあけつと 「玉匣」は、しばしば出た。「玉」は美称。「匣」は櫛笥で、化粧の具を容れる箱。「開きあけつと」は、その蓋を開きあけたとで、「開きあけ」は、同じ事を強めるために語を重ねたもの。○夢にし見ゆる 「し」は、強め。「見ゆる」は、上の「や」の結。連体形。見えることであるよと、強めるために現在法を用いたもの。
【釈】 われが君を恋い思うことを、君が他人に知らせたのであろうか、櫛笥の蓋をあけたとわが夢に見えることであるよ。
【評】 夢を神秘なものとし、神の意志の暗示とし、また人と人の魂の交流とする信仰は、上代にはきわめて強かったもので、現在でもなお保たれているものである。女性はことにこの信仰が深かった。これもそれで、櫛笥の蓋をあける夢は、秘密にしていた恋を打明けたことの兆《しるし》だと信じられてい、今その夢を見たので、夫の家持がそれにあたることをし、魂の交流によって吾に見えたのだと取ったのである。その事は、秘密にすべき相手の名を漏らすということにもただちにつながるものである。女郎も夢に対する信仰の強いものをもっていたので、その頃の夫婦の状態と関連させて甚しく懸念し、上の歌とこれとの二首にして贈ったものと取れる。この歌も当時としては自明なことを綿密にいっているところに、上の歌と同じく、諭すごとき態度が見える。
592 闇《やみ》の夜《よ》に 鳴《な》くなる鶴《たづ》の 外《よそ》のみに 聞《き》きつつかあらむ あふとはなしに
闇夜尓 鳴奈流鶴之 外耳 聞乍可將有 相跡羽奈之尓
【語釈】 ○闇の夜に鳴くなる鶴の 「闇の夜」は、旧訓「くらきよ」。『攷証』が仮名書きによって改めたもの。闇の夜に鳴いている鶴のごとくで、「の」は、のごとくの意のもの。声だけ聞こえて姿は見えない意で、下の譬喩としたもの。○外のみに聞きつつかあらむ 「外のみに」は、「外」はよそで、その住む土地以外の所の意であるが、ここは直接でない意となったもの。「のみ」は、ばかりで、強め。「聞きつつかあらむ」は、「聞(419)きつつ」は、家持の噂を聞きつづけて。「か」は、疑問。「あらむ」は、現在の推量。○あふとはなしに 逢うということはない状態で。
【釈】 闇の夜に鳴いている鶴のごとくに、間接にばかり噂を聞きつづけているのであろうか。直接に逢うということはない状態で。
【評】 家持の疎遠にするのを嘆いて訴えたものであるが、しっかりとした調べの中に、訴えの心を漂わさせているもので、その人柄のみならず年齢をも想像させるところがある。「闇の夜に鳴くなる鶴の」という譬喩は、当時は鶴が少なからずいたとみえるから、取材としては平凡なものであるが、気分をあらわす上では適切なものである。ものを思わせられている夜の高い声の鶴は、女郎より見ると貴公子としての家持をさながらに思わせるに足るものであり、また遠情を誘うものでもあったろうと察せられる。単純な形に複雑した気分を織り込んでいる譬喩といえる。この一首は、上の二首とは別な時に詠んで贈ったものと思われる。
593 君《きみ》に恋《こ》ひ いたもすべ無《な》み 楢山《ならやま》の 小松《こまつ》が下《した》に 立《た》ち嘆《なげ》くかも
君尓戀 痛毛爲便無見 楢山之 小松下尓 立嘆鴨
【語釈】 ○君に恋ひいたもすべ無み 「君に恋ひ」は、後世だと「君を恋ひ」というところである。「君に」は、君を動的なものに見ている差があると『講義』が注意している。「いたも」は、甚しくもの意。「いたし」の語幹に、詠軟の「も」の添ったもの。「いとも」と同じ。「すべ無み」は、せん術《すべ》無くして。君が恋しく、どうにもしようもなくして。○楢山の 奈良山である。奈良市の北方に長く連なっている丘陵の称で、しばしば出た。家持の邸が奈良山の中の佐保山にあったことが集中の歌によって知られる。それをよそながら見ようとしてのことと取れる。○小松が下に 「小松」は、小さい松であるが、下にとあるので、相応に大きな松をも称した言と思われる。山松《やままつ》は高いものを標準としていっている語であるから、それとの関係から、相応な大きさの物も小松と呼んだとみえる。「下《した》」は旧訓。○立ち嘆くかも 「立ち嘆く」は、嘆くを主とした語。「嘆く」は、ここはため息をつく意。「かも」は、詠歎。
【釈】 君が恋しく、どうにもしよう術《すべ》もなくして、君の邸の見える奈良山の小松の下に立って、ため息をつくことであるよ。
【評】 家持に嘆いて訴えたものであるが、形の上からは独詠に近いものである。この歌は、心も事もきわめて単純であって、単純を風とした上代の歌にあっても最も単純なものである。しかるにこの歌は、女郎の全幅をあらわしつくしている感を起こさせるもので、これを読むと、女郎のその時の状態、その時の心の全部が一体となって、躍如として現われている感を起こさせる。「小松が下に」という語は、この歌では微妙な働きをして、それでなければならないものとなっている。このために、嘆き衰えている女郎の姿が現われているように感じられる。これは自身を客観化したというよりも、心情の具象化というべき(420)で、双方が微妙に調和したものであり、抒情の骨髄を掴んでいる心から、おのずからに発露したものというべきである。
594 吾《わ》が屋戸《やど》の 暮陰草《ゆふかげぐさ》の 白露《しらつゆ》の 消《け》ぬがにもとな 念《おも》ほゆるかも
吾屋戸之 暮陰草乃 白露之 消蟹本名 所念鴨
【語釈】 ○吾が屋戸の暮陰草の 「屋戸」は、宿。「暮陰草」は、暮の陰草で、「暮」は、夕べに見るで、「陰草」は、物蔭に生える草で、用例のある語である。ここは、下の「露」の置く物として捉えているので、「暮」は霞の置く時刻。「陰草」は、露の置きやすいものとしていったもの。○白露の 露を印象的にいった語。初句よりこれまでは、露を消えるものとして「消《け》」に続け、「消」の内容を転義させてあるので、「消」の序詞。○消ぬがにもとな念ほゆるかも 「消ぬがに」は、「消」は、命の死ぬ意に用いていた語で、用例の多いものである。「ぬ」は、完了の助動詞。「がに」は、ばかりにの意の助詞。巻二(一九九)に既出。命の死んでしまいそうなばかりに。「もとな」は、ここは、みだりにというにあたる。巻二(二三〇)に既出。「念ほゆるかも」は、「かも」は、詠歎で、思われることよ。
【釈】 わが宿の、夕べに見る物蔭に生える草の葉に置いている白露の、その消えるというように、吾も消え、すなわち命が死んでしまいそうなばかりに、みだりにも思われることであるよ。
【評】 上の歌と同じく、夫としての家持から疎遠にされ、絶望的になってきた際の感傷で、それの状態をいって訴えとしたものである。「消ぬがにもとな念ほゆる」は、極度の感傷状態であるが、その「消」のために設けた「吾が屋戸の暮陰草の白露の」は、巧緻なものである。これは序詞ではあるが、譬喩の心の濃厚なものであって、しかも「暮陰草の白露」は、知性と感性との鋭敏に働いているものである。一首、ほとんど取乱した心の表現であるが、表現に際しては十分の客観性をもたせているもので、この矛盾の統一は、一に歌才のいたすところである。上の歌とこの二首とは、同一心境のもので、二首同時のものではないかと思われる。
595 吾《わ》が命《いのち》の 全《また》けむ限《かぎり》 忘《わす》れめや いや日《ひ》にけには 念《おも》ひ益《ま》すとも
吾命之 將全牟限 忘目八 弥日異者 念益十方
【語釈】 ○吾が命の全けむ限 「全けむ」は、諸本「将全幸」とあるが、元暦本のみ「幸」が「牟」となっている。『略解』は、「幸」の誤りを指摘している。「全けむ」は、古事記、倭建命の御歌に、「命の麻多祁牟《またけむ》人は」と仮名書きの例のある語で、「全くあらむ」の約。「全けむ限」は、読(421)くであろう間は。○忘れめや 「めや」は、推量の「む」の已然形に「や」の疑問の添って、反語となっているもの。忘れようか忘れはしない。○いや日にけには念ひ益すとも 「いや日にけに」は「いや」は、いやが上に。「けに」は、日に。「益すとも」は、増していこうともと、未来を推量したもの。
【釈】 わが命の続いていこう間は、君を忘れようか忘れはしない。なおこの上に、日に日に思いが増していこうとも。
【評】 この歌は、前の二首と同じく絶望的な心境に住しつつも、その諦めかねる心を強調して、その意味で積極的になってき、それを訴えとしたものである。女性として特殊な心境ではないが、しかし心の強さのない者にはもてないものである。この強さと、それに伴う烈しさは、女郎としては恋の昂奮よりのものではなく、本質としての性格からきているものと思われる。家持が女郎を避けようとしたのは、何のゆえであるかはもとよりわからないが、むしろ気弱く、おおらかで、貴族的であった家持には、女郎のこの性格は圧迫となり、重苦しいものに感じられて、堪えられなかったのではないかと思われる。
596 八百日《やほか》往《ゆ》く 浜《はま》の沙《まなご》も 吾《わ》が恋《こひ》に 豈《あに》益《まさ》らじか 奥《おき》つ島守《しまもり》
八百日徃 濱之沙毛 吾戀二 豈不在歟 奧嶋守
【語釈】 ○八百日往く 「八百日」は、甚だ多くの日数ということを具象的に言いかえたもの。「往く」は、行程というにあたる語。甚だ多くの日数を費やして行く長さのあるで、下の「浜」の状態をいったもの。○浜の沙も 「浜」は、砂地の海岸の称。「沙」は、旧訓「まさご」。『攷証』が仮名書きの例によって改めたもの。「も」は、さえもの意のもの。ここは砂の数多さをいっている。○吾が恋に 「恋に」は、上の「沙」と応じて、恋の繁さをいっている。○豈益らじか 旧訓「あにまさらめや」を、『代匠記』が今のように改めた。「豈」は、何、何ぞの意の副詞で、それに否定の語が続き、それと応じる語である。その否定は、多くは反語をもってしてのもので、巻三(三四五)「濁れる酒に豈まさめやも」。(三四六)「情《こころ》を遣《や》るに豈しかめやも」のごときである。しかるにここのごとく、否定ではあるが反語をもってせずに応じているものがあって、一類をなしている。本居宣長は『歴朝詔詞解』四巻で、ここのものをも例としてそれに触れているが、それを『新考』は引いている。要を摘むと、第二十八詔に、「豈障るべきものにはあらず」とある、ここと同じ「豈」の用法についての解で、宣長は例として、第三十八詔、「豈敢へて(云々)事は無しと」、日本書紀、仁徳紀、大后の御歌の「豈|好《よ》くもあらず」それにここの「豈益らじか」を引き、賀茂真淵は、巻十六(三七九九)「豈もあらず」につき、「何の論もあらず」といっているとおり、ここも「何《な》でふことかあらむ、さはることはあらじ」というのだと解している。『新考』は、これらの「豈」はいずれも「おそらくは」と訳して通じるに似ているといっている。「豈」に応ずるものとして反語を用いない否定のものは、反語を用いるものの慣用された結果、「豈」の一語の中にそれを暗示させ、その補足として、単なる否定の語を続けるように転じてきた語法ではないかと思われる。「豈益らじか」は、何ぞ益《まさ》ろう、益らないのではなかろうかで、この場合「か」は疑問で、特別なものである。こう解して、上の諸(422)例は通じるようである。○奥つ島守 「島守」は、島の番人。沖の島の島番よと、呼びかけたもの。
【釈】 甚だ多くの日数を費やすべき行程の、この長い浜にある砂《まさご》の数さえも、わが恋の繁さに較べては、何で益《まさ》ろう、益らないのではなかろうか。いかに思う沖の島の島番よ。
【評】 これは恋の嘆きをいったものではあるが、実感より遊離させ、奔放に空想を用いて、文芸的に情景を描き出したものである。沖の島に行き、八百日往くに値する長い砂浜を見渡すと、そこに限りなくある砂の数と、わが恋の繁さとを比較し、わが繁さのほうが必ず益《まさ》っていると思い、それを緩和させて疑問にして、そこにいる島守に尋ねた形のものである。島守に尋ねるということは不合理なことであるが、合理不合理などということは超えてのものである。調べもその気分に伴った強いものであるために、その不合理を忘れさせようとするところがある。この歌は前の歌に一脈の続きがあって、感傷の極の弱い心を押し返して、それなりに強いものとすると、それとともに新たなる熱意の湧き来たるものがあり、泣きつつもほほえんだ、そのほほえみを笑いとし、その笑いを具象化して歌としたものといえる。非凡な歌才というべきである。上の歌とともに、絶望の境にあっても諦めないという強さにおいて相通うものである。二首同時のものかと思える。
597 うつせみの 人目《ひとめ》を繁《しげ》み 石走《いはばしる》 間近《まぢか》き君《きみ》に 恋《こ》ひ渡《わた》るかも
宇都蝉之 人目乎繁見 石走 間近君尓 戀度可聞
【語釈】 ○うつせみの人目を繁み 「うつせみの」は、現身ので、「人」にかかる枕詞。「人目を繁み」は、人目が繁くしての意。「人目」は、現在も用いる語で、周囲の人の見え、すなわち目にとまること。○石走間近き君に 「石走」は、訓が定まらない。「いはばしる」「いははしの」「いははしり」などある。集中に仮名書きで「伊波婆之流多伎毛登抒呂尓《イハバシルタキモトドロニ》」(巻十五、三六一七)があるから「いはばしる」の訓に従う。巻一(二九)に出た。「間」に続く意は未詳である。「間近き君に」は、間近に住む君すなわち家持にで、「間近」は、現在も用いている語である。後の歌で見ると、女郎は故郷があって、この頃は京に出て来ていたのであり、京は旅であり、したがって転居もたやすかったと見える。また続きの歌には、「皆人を寝よとの鐘は打ちつれど」とあり、京の鐘の音の聞こえる所にいたことがわかるから、上の「打廻《うちみ》の里」よりも、いっそう家持の邸に近い所へ移って来ていたのではないかとも思われる。○恋ひ渡るかも 恋い続けていることよ。
【釈】 周囲の人目が繁くして、それを憚るために、間近に住む君に恋い続けていることよ。
【評】 この歌は、きわめて普通な夫婦関係にある妻の嘆きと異ならないもので、女郎のもつ尋常な女性としての面を示しているものである。これを上の歌に較べると、心機一転しているがごとくにみえる。思うに前の歌とこの歌との間には、家持の娉(423)いがあり、女郎の心はすっかり和められたものとみえる。上の歌の激情は濃情の半面で、そのあまりにも充たされぬところから発しているものであるから、この変化は当然な、自然なものと思われる。
598 恋《こひ》にもぞ 人《ひと》は死《しに》する 水無瀬河《みなせがは》 下《した》ゆ吾《われ》痩《や》す 月《つき》に日《ひ》にけに
戀尓毛曾 人者死爲 水無瀬河 下從吾痩 月日異
【語釈】 ○恋にもぞ人は死する 「恋にもぞ」の「も」は、もまた。「ぞ」は、係。「人は死する」の「死《しに》」は、名詞。「する」は「ぞ」の結。○水無瀬河下ゆ吾痩す 「水無瀬河」は、巻十一(二七一二)「水無河《みなしがは》絶ゆといふ事を」があり、水が地下を流れる川の称で、普通名詞である。意味で、「下」にかかる枕詞。「下ゆ」の「下」は、心。「ゆ」は、より。心よりで、恋の悩みよりの意。「吾痩す」は、死に近づく意。○月に日にけに 「けに」は、日にの意。月に日に日にで、しだいにということを具象的にいったもの。
【釈】 恋のためにもまた、人は死ぬということをするものである。心の悩みより吾は痩せる。月に日に日に。
【評】 恋の悩みを訴えたものである。この一群の歌はすべてそれであるが、この歌は、これに先立つ歌とは明らかにその趣を異にしているかにみえる。それは以前の歌は、同じく恋の悩みとはいうものの、その恋は距離を置いていることから起こる憧れであり、その悩みは、その距離の撤そうとすればたやすくも徹せられるものと思うにもかかわらず、事実としてはたやすくないところからくる懊悩であった。すなわち家持を夢として抱いての上の悩みという趣のものである。しかるにこれに先立つ歌より以後のものは、距離を徹して身を間近に置き、憧れの明るく軽いものの代わりに、情愛の質実なるものを求めようとして、そこにまた異なる意味の距離を感じての悩みなのである。昂奮が失せて沈潜した情となっているのはそのためと思われる。この歌も訴えの心をもってのものであるが、訴えて動かそうとする意図は少なく、純なる訴えとなり、重厚味の添ったものとなっているのは、歌因の異なるがためである。この心はこの歌だけではなく後にも続く。
599 朝霧《あさぎり》の 欝《おほ》にあひ見《み》し 人《ひと》故《ゆゑ》に 命《いのち》死《し》ぬべく 恋《こ》ひ渡《わた》るかも
朝霧之 欝相見之 人故尓 命可死 戀渡鴨
【語釈】 ○朝霧の欝にあひ見し 「朝霧の」は、物を隔ててぼんやりさせる意で、「欝《おほ》」にかかる枕詞。「欝に」は、旧訓「ほのに」。『玉の小琴』が改めた。用例の多い語。ぼんやりと。「あひ見し」は、夫婦関係を結んだ意。○人故に 「人」は、家持。「故に」は、今の用法と同じ。○命死(424)ぬべく恋ひ渡るかも 「命死ぬべく」は、命も絶えそうに。
【釈】 ぼんやりとした状態で夫婦関係を結んだ君のゆえに、吾は命も絶えそうにして恋いつづけていることであるよ。
【評】 恋の訴えで、単純な形のものであるが、この一群の中に置いて見ると、複雑な心をもったものとなってくる。女郎は今初めて自身の悩んでいる恋を大観し、批評しようとする心に立ち至っている。女郎の恋は「欝にあひ見し」ということに始まったもので、その事がなければ知らなかったものである。それがあったがために、今は「命死ぬべく恋ひ渡る」という状態に陥っているのである。それは楽しいものではなく苦しいもので、しかも脱れられなくなっているものなのである。歌はその心の訴えで、これは妻として夫に訴えるものというよりも、人間として人間に訴える域に迫っているものである。家持を「人」という語で呼んでいるのも適当に感じられる心である。
600 伊勢《いせ》の海《うみ》の 磯《いそ》もとどろに よする浪《なみ》 恐《かしこ》き人《ひと》に 恋《こ》ひ渡《わた》るかも
伊勢海之 礒毛動尓 因流浪 恐人尓 戀渡鴨
【語釈】 ○伊勢の海の磯もとどろに 「伊勢の海」は、その国の名高く、したがって人の知っているゆえに捉えたのか、あるいは女郎に何らかの関係があってのゆえかはわからない。女郎は遠方の地名を、後世の名所風に捉える風があるから、前者かもしれぬ。「磯もとどろに」は、「磯」は、岩石より成る海岸。「も」は、までもの意のもの。「とどろ」は、轟く意。下の浪の状態。○よする浪 寄せて来る浪で、その力の測り難く恐ろしい意で、「恐《かしこ》き」に続き、初句よりこれまでを序詞としたもの。○恐き人に恋ひ渡るかも 「恐き人」の「恐き」は、やや意味の広い語で、神、尊貴な人に対して恐れ多いという意味にも用い、またその力の測り難い意で、山や海に対して恐ろしいという意でも用いている。同じ心から人に対しても、その心のうかがい難い意で用いている例がある。恐れ多いの意ではなかろうと『代匠記』は注意しているが、ここは、その心の測り難い意でいう恐ろしいの意のものと取れる。日本書紀、仁徳紀、天皇が八田《やたの》皇女を宮中へ納れようとされた時、磐之姫皇后が拒んで、「衣《ころも》こそ二重《ふたへ》もよき狭夜床《さよどこ》を並べむ君はかしこきろかも」と詠まれたのと似ている。すなわち女郎は、家持の愛を十分に獲られようと想像したのに、事実はその反対となってきたので、その心の測り難いものに見えてきたのを嘆いていっているのである。ここの意は、心恐ろしい人を恋いつづけていることよ。
【釈】 伊勢の海の岩石の海岸に轟いて寄せて来る浪の力の測り難く恐ろしい、その測り難い心の、恐ろしく思われる人に、我は恋いつづけていることであるよ。
【評】 女郎の心情の全部を披瀝して訴えた歌である。全部というのは、家持を「恐き人」と呼んでいることである。女郎からいうと、初めは家持を思うままにわが物とできると思ったのであろうが、案外にもつれない人であって、その意味では絶望を(425)感じさせられた。しかし全然つれないばかりではなく、時にはある程度の温情を示すこともあるので、諦めるには諦めきれない状態であったとみえる。本来勝気な、情熱も理知もある女性であるから、自尊心も伴って、どうにかできようという気もし、またどうにもならない気もして、動揺していたとみえる。これはどうにもなりそうもない気の勝ってきた時の心で、家持が心に余る、捉えきれない者に見えてきた時の心情であって、その全部を「恐き人」という一言に託しているものである。この一群の中に置いて見ると、心理の陰影を微妙にもあらわし得た、含蓄のある優れた歌である。
601 情《こころ》ゆも 吾《あ》は念《も》はざりき 山河《やまかは》も 隔《へだた》らなくに かく恋《こ》ひむとは
從情毛 吾者不念寸 山河毛 隔莫國 如是戀常羽
【語釈】 ○情ゆも吾は念はざりき 「情ゆも」は、「ゆ」は、よりで、心を思いの発する場所としていっているもの。後世の「に」にあたる。「も」は、詠歎。「吾は念はざりき」は、旧訓「吾《われ》は念《おも》はず」。『代匠記』の訓。思ひもしなかった。○山河も隔らなくに 「山河も」は、山も河もで、路の妨げとなるもの。「なく」は、打消「ず」の名詞形。「に」は、詠歎。隔てていないことであるのに。○かく恋ひむとは 「かく」は、このようにで、甚しさを暗示したもの。「恋ひむ」は、憧れんというにあたる。
【釈】 心にも吾は思わなかった。路妨げとなる山も河も隔ててはいないことであるのに、このように憧れようとは。
【評】 (五九七)以下一と続きのものである。家持の娉いをしないのは、路の遠いためであろうとして、いったように近間へ移ってきたとみえるが、その疎くするのは以前と同様なので、案外なこととして嘆いて言っているのである。昂奮をもって詩情を働かせるところがなく、思い入つて、愚痴をいっている形のもので、女郎の心の振幅の広さを思わせる歌である。
602 暮《ゆふ》されば 物念《ものも》ひ益《まさ》る 見《み》し人《ひと》の 言問《ことど》ふすがた 面影《おもかげ》にして
暮去者 物念益 見之人乃 言問爲形 而景爲而
【語釈】 ○暮されば物念ひ益る 「暮されば」は、夕方が来ればで、しばしば出た。「物念ひ益る」は、「物念ひ」は嘆きで、ここは恋の悩み。「益る」は、募ってくる。夕方はさみしい時刻であるとともに、夫の嫂いをする時刻で、今はそれがないことを背後に置いてのもの。○見し人の言問ふすがた 「見し人」は、夫婦として相逢った人で、すなわち家持。「言問ふすがた」は、旧訓「こととひしさま」。『代匠記』が今のごとく改めた。「為形」は、用例のある訓。ものをいう姿。○面影にして 「面影」は、幻影。「にして」は、ここは、に立って。
(426)【釈】 夕方になると、いっそう嘆きが募ってくる。相逢った人のものをいう姿が面影に立ってきて。
【評】 嘆きをもっての訴えである。「暮されば物念ひ益る」は、これを取り離して一首の歌とすると、説明に過ぎる語のように見えるが、これを一群の中に置いて見ると、終日を嘆き暮らして、娉いの時刻である夕暮になると、その事のないがためにいっそう嘆きが募ってくるという、時間的叙事を含んでの訴えとなっているからである。「見し人の言問ふすがた面影にして」も、上の関係において、単に懐かしむ意味で言っているものではなく、家持の娉いがありはしないかと期待しているところからの連想で、それがやがて「物念ひ」になってくるものである。旧訓の「言問ひしさま」という過去の思い出にした訓は、その意味でこの場合にはあたらないものである。一首、訴えのために詠んだものであるが、そうしたことを離れての独詠とも見られるものであり、またそれとしても、単純に、感覚的で、印象の鮮やかな、魅力のある歌となる。これは女郎の歌才のいたすところである。
603 念《おも》ふにし 死《しに》するものに あらませば 千遍《ちたび》ぞ吾《われ》は 死《し》にかへらまし
念西 死爲物尓 有麻世波 千遍曾吾者 死變益
【語釈】 ○念ふにし死するものにあらませば 「念ふにし」は、「念ふ」は、嘆き。「し」は、強め。「死するものに」は、死ということをするもので。「あらませば」は、仮設。○千遍ぞ吾は死にかへらまし 「死にかへらまし」は、「かへる」は、反復の意。「まし」は、上の仮設の帰結。
【釈】 嘆きをするので、死ぬということをするものでもしあるならば、千遍も吾は、死を繰り返していることであろう。
【評】 この歌は、巻十一(二三九〇)人麿集「恋ひするに死《しに》するものにあらませば吾が身は千遍《ちたぴ》死にかへらまし」をいささか換えたものである。古歌をわが作に代えて用いるということは、当時は普通のこととなっていた。これは自作の困難なためばかりではなく、古歌をわが心とすることに一種のあわれを感じてのことであったとみえ、聞く人も同じくそれを感じてのことと思われる。きらずば女郎のごとき稀有《けう》な歌才をもった人によってされるはずはないことである。それだと後世の本歌取とその心を同じゅうしていることで、本歌取の一過程を示しているといえる。
604 剣大刀《つるぎたち》 身《み》に取《と》り副《そ》ふと 夢《いめ》に見《み》つ 何《なに》のしるしぞも 君《きみ》にあはむ為《ため》
釼大刀 身尓取副常 夢見津 何如之怪曾毛 君尓相爲
(427)【語釈】 ○剣大刀身に取り副ふと夢に見つ 「剣大刀」は、剣の太刀で、諸刃《もろは》の称。「身に取り副ふと」は、「身に」は、わが身に。「取り副ふ」は、「取り」は、接頭語に近い軽いもの。「副ふ」は、添う意。「と」は、ということを。○何のしるしぞも 「しるし」は、原文「怪」、旧訓「さとし」。『代匠記』は、旧訓に従っているが、日本書紀には「怪」を「しるし」と訓んでいると注意している。『攷証』は、「しるし」と訓み、用例として、日本書紀、垂仁紀の初めに、「因2夢祥1以立為2皇太子1」とあり、また同五年の紀に、天皇が夢を見て、寤《さ》めて皇后に詳しく語られ、「是何祥也」と問われる条があり、「祥」はいずれも「さが」と訓んでいる。しかるに、古事記には、その同じ夢のことを、「如v是之夢、是有2何表1也」と、「祥」を「表」をもって記している。この「表」は、巻十九(四二一二)「をとめらが後の表《しるし》」とあり、「しるし」と訓んでいる。これによると「夢祥」は「いめのしるし」と訓むべきである。一方、『荘子庚梁楚篇釈文』に、「祥怪也」とあるから、「怪」は「祥」の心をもって用いたのだといっている。『古義』も「しるし」と訓み、さらに用例を加えている。これに従う。「怪《しるし》」は、ここは夢の前表で、神意の夢に現われる意で、意味からいえばさとしである。これは上代の信仰で、例の多いものである。したがってこの「しるし」は、判断によってそれにこもる神意を知るべきものであった。「何のしるしぞも」は、「ぞ」は、問をあらわす意のもの。「も」は、詠歎で、夢判断をしようと自問したもの。○君にあはむ為 君すなわち家持に逢わんということを知らせるためのものの意。『代匠記』は、剣太刀は男の具であるから、それが身に添うということから判じたのであろうといっている。
【釈】 剣太刀がわが身に添うということを夢に見た。どういうことのある前表であろうか。君に逢うだろうということを知らせるためであるよ。
【評】 夢の信仰の深かつた時代であり、特にその保持者である女性にとっては、この夢はきわめて嬉しいものであったとみえる。家持と自分との関係は神意にかなったもので、神の加護の加わっているものと思ったからである。これを歌として贈ったのは、家持にもこの神意を思わせ、それに背くようなことはさせまいと思ったので、他意のあったのではなかろうと取れる。この夢は、動揺し、行詰まった気分になっていた女郎には、一種の救いであったろうと思われる。これに続く歌も、積極的なものとなってきている。
605 天地《あめつち》の 神《かみ》し理《ことわり》 なくばこそ 吾《わ》が念《も》ふ君《きみ》に あはず死《しに》せめ
天地之 神理 無者社 吾念君尓 不相死爲目
【語釈】 ○天地の神し理なくばこそ 「天地の神」は、天つ神|地《くに》つ祇で、あらゆる神々。「し」は、強め。「理《ことわり》」は、広くいえば筋路で、地上のすべての物に絶対の力をもって臨まれ、正しきを加護し、正しからざるを罰せられることである。この理《ことわり》は、必ず人々の上に現われるものである。「なくばこそ」は、なかったならばで、「こそ」は係。これは絶対にないことを、強くいうために逆説的にいったもの。○吾が念ふ君にあはず死(428)せめ 「吾が念ふ君」は、家持。「あはず死《しに》せめ」は、逢わずに死にもしようで、「め」は「こそ」の結で、已然形。これは上に応じて、絶対にないとしていっていることで、その反対の、逢い得て幸いでありうると信じていっているものである。
【釈】 天つ神|地《くに》つ祇のあらゆる神々に、筋路というものがないことであったならば、わが思う君に、逢わずに死ぬということもあろう。
【評】 女郎が自身の家持に対する真心、またその真心からの祈りは、天つ神地つ祇の憐憫《れんびん》を垂れ、加護したまうものと信じ、さらにまた神々の理《ことわり》は、必ずや人々の上に顕われるものとの強い信念の上に立っての訴えである。これはきわめて積極的な心である。これは長い動揺の果てに至りついた境で、この歌によっても知られるとおり、神々への祈りはしていたのであるが、初めて語として発しうるに至ったものである。「理《ことわり》なくばこそ」と逆説的にいい、「あはず死せめ」と「死」をまでもいっているのは、熱意の集中しきたっていわせたものと取れる。
606) 吾《われ》も念《おも》ふ 人《ひと》もな忘《わす》れ 多奈和丹《おほなわに》 浦《うら》吹《ふ》く風《かぜ》の 止《や》む時《とき》なかれ
吾毛念 人毛莫忘 多奈和丹 浦吹風之 止時無有
【語釈】 ○吾も念ふ人もな忘れ 「吾も念ふ」は、吾もまた君を思うで、「も」は同類を並べる意のもの。「君もな忘れ」は、君もまた吾を忘るなで、「な」は、禁止。下に「そ」を伴わないのは古格である。○多奈和丹 この語は、この一か所にあるだけのもので、意味が解せないものである。誤写説があり、また『管見抄』には「ねんごろなる心也」と解を下しているが、いずれも拠《よ》り所のないものである。不明としておくよりほかはない。○浦吹く風の止む時なかれ 「浦吹く風の」は、「浦」は海や湖の入江となっている所の称で、そうした所は絶えず風の吹いているものであるから、譬喩として捉えたもの。「の」は、のごとく。「止む時なかれ」は、絶えずそのようであれで、二句の「な忘れ」を強くしたもの。
【釈】 吾もまた君を思う。君もまた吾を忘れるな。浦に吹く風のごとく、絶えずも吾を思えよ。
【評】 三句が不明であるが、省いても大意が捉えられなくはない。訴えではあるが、上の歌と同じく積極的の態度のもので、自身と家持とを対等に扱い、一句二句と切り、三句以下は二句を強めたもので、訴えというよりは要求に近い形のものである。「浦吹く風の」という譬喩は、当時としては唐突の感のあるものである。それは譬喩は、眼前の物で、相手もそれを知っている物を捉えるのが普通となっていた。これは奈良京での歌で、浦とは関係のない地であるからである。女郎の胸には海が深く印象されていたためではないかと思われる。それだと上の「伊勢の海の」といっているのとつながりがあるかもしれぬ。
(429)607 皆人《みなひと》を 宿《ね》よとの鐘《かね》は 打《う》ちつれど 君《きみ》をし念《も》へば 寐《い》ねかてぬかも
皆人乎 宿与殿金者 打礼杼 君乎之念者 寐不勝鴨
【語釈】 ○皆人を宿よとの鐘は 「皆人」は、熟語。ここは京の人全体をさすもの。「を」は、後世だと「に」というところである。「君を恋ひ」の場合と同じく、しばしば出た。「宿よとの鐘」は、今は寝よと命じるところの鐘で、当時奈良京には、鐘をもって時刻を知らせることが定めとなっていた。『代匠記』は詳しく説明している。それは『延喜式』第十六「陰陽寮」に、「諸時(ニ)撃(ツコト)v鼓(ヲ)。」として「子午(ニハ)各九下、丑未(ニハ)八下、庚申(ニハ)七下、卯酉(ニハ)六下、辰戌(ニハ)五下、巳亥(ニハ)四下、並《トモニ》平声、鐘依(レ)2》刻数(ニ)1也」というのである。また、日本書紀、天武紀十三年に、「逮《オヨビテ》2于|人定《ヰノトキニ》1大|地震《ナヰフル》」とあり、「人定」とは人の寝て定《しず》まる意であり、その時が亥の時だったのである。これは今の午後十時である。○打ちつれど 原文「打礼杼」旧訓「うつなれど」『考』の訓である。打ったけれども。打ったのは、陰陽寮のその係の人。○君をし念へば寐ねかてぬかも 「君をし」は、「君」は、家持。「し」は、強め。「寐ねかてぬ」は、「寐ね」は、眠る意。「かてぬ」は、巻二(九五)に出た。「かて」は、下二段の動詞で、連用形。堪えの意。「ぬ」は、打消の助動詞。堪えないで、あたわぬというに近い。「かも」は、詠歎。
【釈】 京のすべての人に、寝よと命じるところの鐘は打ったけれども、君を思っているので、眠ることができずにいることよ。
【評】 家持に対する思慕の心を詠んで訴えた歌である。訴えとはいうが、この歌には、家持の娉いを促そうとする直接の要求はもっていず、ただ思慕そのものをあらわそうとしたもので、その意味では独詠に近いものである。いっているところは、眠るべき時刻ではあるが、思慕の情が動いて眠らせないというだけのことで、「皆人を宿よとの鐘」を捉えていっているのも、周囲へ随順しようとする心のもので、全体としても静かな、柔らかい心をあらわしているものである。上の歌までの数首の積極的な、働きかけようとするものが消えている歌である。一首の歌とすると、単純に、感覚的に、清新な趣があって、女郎の歌才を思わせるものである。
608 相念《あひおも》はぬ 人《ひと》を思《おも》ふは 大寺《おほでら》の 餓鬼《がき》の後《しりへ》に 額《ぬか》づく如《ごと》し
不相念 人乎思者 大寺之 餘鬼之後尓 額衝如
【語釈】 ○相念はぬ人を思ふは 思ひ合はないところの人を思うのは。○大寺の餓鬼の後に 「大寺」は、大きな寺。「餓鬼」は、ここは餓鬼の像。当時、大寺に餓鬼の像の据えてあったことは、巻十六(三八四〇)「寺々《てらでら》の女餓鬼申さく」とあるので知られる。「餓鬼」は、慳貪《けんどん》の報いとして陥る三悪道の一つの餓鬼道の中に悩んでいるもので、皮と骨ばかりに痩せ、常に餓に苦しんでいるさまをあらわしたものである。これを据えたのは、(430)悪業の報いを示すためで、礼拝《らいはい》させるためではない。「後に」は、後方にで、下の「額づく」位置で、それをするには効果のない所。○額づく如し 「額づく」は、額を地につけることで、礼拝を具体的にいったもの。「如し」は、原文「如」。旧訓は「がごと」。『古義』が改めた。意味としては同じであるが、調べの上で「如し」のほうが強く、一首に調和がある。それが作意であろう。
【釈】 思い合わない人を思うのは、大寺に示しのために据えてある餓鬼の像の、礼拝しても何の効果もない物を、しかもその後方にあって礼拝するがようである。
【評】 この歌は以上とは全く面目の変わったもので、家持に対しての恨みである。家持には何らの愛もないことをようやくに認めて、見きりをつけて故郷へ帰ろうとし、それに先立って贈ったものである。愚痴も恨みも限りもなくあったろうが、愚痴はいわず、恨みは、「大寺の餓鬼の後に額づく如し」という譬喩に託したのであるが、きわめて適切な、したがって新しい、類を絶した譬喩というべきである。思うに一種の昂奮状態にあって捉えたもので、その状態に入ると、女郎は心が冴えて自在となり、奔放を極めたことも言い得たとみえる。稀有な歌才である。
609 情《こころ》ゆも 我《わ》は念《も》はざりき 又《また》更《さら》に 吾《わ》が故郷《ふるさと》に 還《かへ》り来《こ》むとは
從情毛 我者不念寸 又更 吾故郷尓 將還來者
【語釈】 ○情ゆも我は念はざりき (六〇一)に出た。○又更に吾が故郷に また重ねて、自身の郷国にで、「故郷」は、ここでは、自身の郷国の意のもので、その郷国は領地となっていた所であろう。その地のいずれであるかはわからない。
【釈】 心にも我は思わないことであった。また重ねてわが地に還って来ようとは。
(431)【評】 左注によって、故郷より贈った歌とわかり、二首の中のその一首である。故郷へ還つての最初の感慨ともいうべきもので、家持に対して抱いている長い間の恨みを総括して、これを言外に置いての言い方をしたものである。言外にしたのはすなわち訴えで、家持の心には響くものであったろう。また艶も失ってはいないのもそのためで、この女郎にふさわしいものである。
610 近《ちか》くあらば 見《み》ずとも在《あ》るを いや遠《とほ》く 君《きみ》が座《いま》せば ありかつましじ
近有者 雖不見在乎 弥遠 君之伊座者 有不勝自
【語釈】 ○近くあらば見ずとも在るを 「近くあらば」は、近い所に君が居たならばで、下の「遠く座せば」に対させた仮設。「見ずとも在るを」は、たとい相逢わずとも我は生きていられるものを。○いや遠く君が座せば 「いや遠く」は、「いや」は、いとどの意。「遠く」は、女郎の故郷と京との距離。「君が座せば」は、「君」は、家持。「座せば」は、居ればの敬語。○ありかつましじ 「あり」は、生きて。「かつ」は、堪える意。「ましじ」は、後世の「まじ」にあたる古形。打消推量の助動詞。生きるに堪えられないであろう。巻二(九四)に出た。
【釈】 近い所に君が居るのであったならば、たとい相逢わずとも我は生きていられようものを、いとど遠い所に君が居られるので、我は生きているに堪えられないことであろう。
【評】 上の歌についで起こった心である。家持の居る土地から遠く離れようと覚悟して離れて来た故郷であるが、離れおわると新たにさみしさを感じてき、それを綿密にいったものである。いちおう見きりはつけたが、それとともに遠ざかろうということは、十分には覚悟がついていなかったがためで、当然な心理というべきである。
右の二首は、相別れて後更に来贈《おく》れるなり。
右二首、相別後更來贈。
【解】 「来贈れる」は、『考』は「来贈」二字を「おくれり」と訓み、『古義』は「おくれる」と訓んでいる。これらに従う。
大伴宿禰家持の和ふる歌二首
611 今更《いまさら》に 妹《いも》にあはめやと 念《おも》へかも ここだ吾《わ》が胸《むね》 欝悒《おぼほ》しからむ
(432) 今更 妹尓將相八跡 念可聞 幾許吾胸 欝悒將有
【語釈】 ○今更に妹にあはめやと 「今更に」は、今は重ねて。「あはめや」は、推量の助動詞「む」の已然形「め」に、疑問の「や」の続いて、反語。逢おうか、逢わない。○念へかも 後世の「念へばかも」にあたる古格。「かも」は、「か」の疑問に、「も」の詠歎の添ったもの。○ここだ吾が胸欝悒しからむ 「ここだ」は、甚しく。「欝悒」は、旧訓「いぶかし」。『代匠記』は「いぶせく」。これは用例のあるものである。『玉の小琴』は「おぼほし」と改めた。これも用例のあるもので、いずれも心の霽《は》れやらぬ状態をいう形容詞である。しかし「おぼほし」のほうが緩やかさがある。これに従う。
【釈】 今は重ねて妹に逢うことがあろうか、ありはしないと思うからであろうか。このように、甚しくもわが胸の霽れやらずいることであろう。
【評】 儀礼として和えたという程度の歌で、感動の認められないものである。語つづきに粘りのあるのは、家持の歌風である。
612 中々《なかなか》に 黙《もだ》もあらましを 何《なに》すとか 相見《あひみ》そめけむ 遂《と》げざらまくに
中々者 黙毛有益乎 何爲跡香 相見始兼 不遂尓
【語釈】 ○中々に黙もあらましを 「中々に」は、なまなかにというにあたり、下への続きから見ると、求婚のことをいわずしてという仮設の意をこめたもの。「然も」は、「黙」は、黙っていることで、上の仮定に応じさせて、それを明らかにしたもの。「も」は、詠歎。「あらまし」は、仮設の帰結。「を」は、詠歎。なまなかに求婚のことを言い出さずに、黙っていたほうが好かったものをの意。○何すとか相見そめけむ 「何すとか」は、「か」は、疑問で、何だとてというにあたる。「相見そめけむ」は、夫婦関係を結び始めたのであろうかで、「か」は上の句のもの。○遂げざらまくに 遂げないであろうことなのに、の意。
【釈】 なまなかに求婚のことを言い出さずに、黙っているべきであったものを、何だとて夫婦関係を結び始めたのであろうか。末遂げないであろうものを。
【評】 これも儀礼の心から嘆きのごとくいっているが、一切を過去のこととしてしまい、それに対して悔みの心をいっているのが、嘆きのごとく聞こえるというにすぎないものである。実用性の歌ではあるが、低調というべきものである。
山口女王、大伴宿禰家持に贈れる歌五首
(433)【題意】 「山口女王」は、伝が明らかでない。
613 物《もの》念《おも》ふと 人《ひと》に見《み》えじと なま強《じひ》に 常《つね》に念《おも》へり 在《あ》りぞかねつる
物念跡 人尓不所見常 奈麻強尓 常念弊利 在曾金津流
【語釈】 ○物念ふと人に見えじと 「物念ふ」は、「物」は添えていう語。「念ふ」は、嘆きで、嘆きは恋の上のもの。「と」は、ということを。「人に見えじと」は、周囲の人に見られまいと思って。 ○なま強に常に念へり 「なま強」は、「なま」は生《なま》で、熟に対した語。中途半端の意。「強」は強いてすることで、熟語。十分にできないことを強いての意の語。「常に念へり」は、絶えず用心している。○在りぞかねつる 「在り」は、生きていること。「かね」は、難い意。「つる」は、上の「ぞ」の結。
【釈】 嘆きをしているということを、周囲の人には見られまいと思って、できないことを強いて、絶えず用心をしている。これでは生きてい難いことであるよ。
【評】 家持に疎遠にされている嘆きを訴えたものである。実際に即して、つぶさにいうことによって嘆きをあらわそうとし、「なま強に」という副詞を用いているところ、また四句で結んで、飛躍をつけて結句を据えているところなど、すべて時代の歌風である。しかし一首全体とすると、作歌に馴れず、生硬の跡の蔽い難いものである。
614 相念《あひおも》はぬ 人《ひと》をやもとな 白細《しろたへ》の 袖《そで》漬《ひ》づまでに 哭《ね》のみし泣《な》くも
不相念 人乎也本名 白細之 袖漬左右二 哭耳四泣裳
【語釈】 ○相念はぬ人をやもとな 「想念はぬ人を」は、思い合わないところの人をで、家持をさしたもの。「や」は、ここは詠歎。「もとな」は、ここは、筋も立たずというにあたる。○白細の袖漬づまでに 「白細の」は、「袖」の枕詞。「袖漬づまでに」は、袖が、拭う涙で濡れ通るまでに。○哭のみし泣くも 「哭のみ」は、声を立ててばかり。「し」は、強め。「泣くも」は旧訓。『代匠記』は「泣かも」と改めている。旧訓に従う。
【釈】 思い合わないところの人を、筋も立たず、わが袖の涙で濡れ通るまでに、声のみ立てて泣くことよ。
【評】 一般的の恋の心をいっているがごとくであるが、これは実際に即した歌と取れる。それは「もとな」の一副詞が強く働いていて、悲しみに溺れて泣き濡れている中途、自身のその状態を反省する心が起こったことをあらわしているものだからで(434)ある。「相念はぬ人をや」は、ついでそれを合理化しようとしてのものと取れる。すなわち感性ばかりでなく、知性も働いている歌である。一首として見ると、「もとな」があるために、単なる訴えにとどまらず、恨みをもまじえた、複雑なものとなってきているのである。詠み口は巧みではないが、実感であるところからくる力のある歌である。
615 吾《わ》が背子《せこ》は 相念《あひも》はずとも 敷細《しきたへ》の 君《きみ》が枕《まくら》は 夢《いめ》に見《み》えこそ
吾背子者 不相念跡裳 敷細乃 君之枕者 夢所見乞
【語釈】 ○吾が背子は相念はずとも 「吾が背子」は、夫に対して最も親しんでの称。「相念はずとも」は、思い合わなかろうとも。○敷細の君が枕は 「敷細の」は、ここは「枕」にかかる枕詞。「君が枕」は、家持の用いている枕の方はで、「枕」をいっているのは、下の「夢」との関係においてである。夢は、人が我を思うと、その心が通って夢に現われてくるというのが、上代の信仰であって、ここもそれを背後に置き、君は思わぬので夢には見えるはずがないが、君の夜の身に最も近い物であって、思う思わぬの圏外の物である枕の意でいっているのである。○夢に見えこそ 「こそ」は、願望をあらわす助詞。夢に見えてくれよの意。
【釈】 わが背子は、我と思い合わずにいようとも、君の夜の身に添っている枕のほうは、わが夢に見えてくれよ。
【評】 思慕の情を訴えた歌である。「君が枕」を捉えているのは、実際的であるとともに、知性の働きもあるもので、静かな、しみじみした味わいをもったものである。最も女王の人柄を思わせる歌である。
616 剣大刀《つるぎたち》 名《な》の惜《を》しけくも 吾《われ》はなし 君《きみ》にあはずて 年《とし》の経《へ》ぬれば
釼大刀 名惜雲 吾者無 君尓不相而 年之經去礼者
【語釈】 ○剣大刀名の惜しけくも 「剣大刀」は、剣の太刀で、ここは「名」の枕詞としてのもの。そのかかる理由は諸説があるが、『古義』の解が最も自然に聞こえる。「な」は刃の意の古語とみえ、刃物の名には「な」の音が多い。刀は片刃《かたな》、鉋《かな》、鉈《なた》の「な」もそれであろう。動詞「薙《な》ぐ」もそれであろうといい、なお挙げている。これに従う。「名の惜しけくも」は、「名」は、「刃《な》」を同音異義で転じたもので、名誉。「惜しけく」は、形容詞「惜し」に「く」を添えて名詞形としたもの。惜しいこと。「も」は、詠歎。夫のあるということは不名誉のこととしていたとみえる。強くいっているところから見ると、女王の身分に関係することかと思える。○吾はなし 言いきった、強いもの。○君にあはずて年の経ぬれば 「あはずて」は、「あはずして」。
(435)【釈】 剣太刀などいうその名の惜しいことも我は今はない。君に逢わなくて年を経て来たので。
【評】 思慕の訴えではあるが、沈静な趣をもった強いもので、同じく知性的な人柄を思わせるものである。あるいは家持から、名ということについていった歌があって、それに対してのものではないかとも思われる。
617 蘆辺《あしべ》より 満《み》ち来《く》る潮《しほ》の いや益《ま》しに 念《おも》へか君《きみ》が 忘《わす》れかねつる
從蘆邊 滿來塩乃 弥益荷 念歟君之 忘金鶴
【語釈】 ○蘆辺より満ち来る潮の 「蘆辺」は、蘆の生えている辺りで、海岸を具象的にいったもの。「より」は、下の「潮」の進行する位置をあらわしたもので、「に」というにあたる。「満ち来る潮」は、しだいに満ち来る潮、すなわち満潮となろうとする状態。「の」は、のごとくの意のもので、下の「いや益し」の譬喩。○いや益しに念へか君が 「いや益しに」は、いよいよまさって。「念へか」は、旧訓「おもふか」。『代匠記』が改めた。後世の「念へばか」にあたる古格で、思うせいであろうか。「君が」は、君を主格としての言い方。○忘れかねつる 「忘れ」は、忘られの意。「かね」は、得ずの意。
【釈】 蘆辺にしだいに満ちて来る潮のごとく、いよいよまさって思うせいであろうか、君のことが忘れ得ぬことであるよ。
【評】 「君が忘れかねつる」は、家持の態度を見ると、女王は忘れなくてはならないことを背後に置いての言である。しかし女王の実際は、それができないというので、知性の命じるところに感情は従いかねていることをいったものである。のみならず女王は、「いや益しに念へか」と、疑いを添えていう状態にさえなっているので、その「いや益し」は、譬喩を借りて力強くいおうとするものともなっているのである。これは家持に疎んぜられると、反対にますます思慕が募ってくるという、心理の機微を含んだものである。知性の伴った、静かではあるが相応に強みをもった人柄が現われている歌である。
大神《おほみわの》女郎、大伴宿禰家持に贈れる歌一首
【題意】 「大神女郎」は、伝が明らかではない。大神氏は、続日本紀に散見しており、『新撰姓氏録』によると大国主命の後であり、姓は朝臣である。
(436)618 さ夜中《よなか》に 友《とも》喚《よ》ぶ千鳥《ちどり》 物念《ものも》ふと わび居《を》る時《とき》に 鳴《な》きつつもとな
狭夜中尓 友喚千鳥 物念跡 和備居時二 鳴乍本名
【語釈】 ○さ夜中に友喚ぶ千鳥 「さ夜中」は、夜中。「友喚ぶ」は、鳴き声の群れているのを、その声のさみしさから、友を喚ぶと聞きなしての言。「千鳥」は、呼びかけに近いもの。○物念ふとわび居る時に 「物念ふ」は嘆きであるが、ここはそれを緩やかにして、文字どおり、ものを思う意。「と」は、とて。「わび居《を》る時に」は、悲しく思っている時に。○鳴きつつもとな 「鳴きつつ」は、「つつ」は継続で、鳴き鳴きして。「もとな」は、ここは、由もなくで、さらに我を悲しませるという意を含めたもの。
【釈】 夜中に、その友を喚ぶ千鳥よ。ものを思うとて、わが悲しく思っている時に、鳴き鳴きして、由もなくさらに我を悲しませる。
【評】 家持に恋の上の訴えをしようとの心で詠んだものであるが、いうところは、ある夜中における女郎の哀感を、環境としての自然の千鳥に絡ませて、独詠の形をもって詠んだものである。「物念ふとわび居る」は、恋の上のもので、家持に訴えようとするものであるが、表面はやや心を広く、間接なものにし、その哀感を強めしめる千鳥の声のほうを、むしろ主としたものである。心情を自然化させようとしているもので、実用性の歌を文芸性のものにしようとしているのである。しかし詠み方は、あくまで実際に即し、心細かく、しみじみと詠んでいるものであって、その文芸性は、実用性という上から見てもかえって効果的なものである。
大伴坂上郎女、怨恨の歌一首 井に短歌
【題意】 「怨恨」は、夫の不信に対してのものである。郎女は前後三人の夫をもち、初めは穂積皇子に召され、皇子薨後、藤原麿に逢い、最後に大伴宿奈麿の後妻となって坂上大嬢を生んだのである。歌から見て、この怨恨は藤原麿に対してのものではないかと想像されている。
619 押照《おして》る 難波《なには》の菅《すげ》の ねもころに 君《きみ》が聞《き》こして 年《とし》深《ふか》く 長《なが》くし云《い》へば 真《ま》そ鏡《かがみ》 磨《と》ぎし情《こころ》を 縦《ゆる》してし その日《ひ》の極《きは》み 浪《なみ》の共《むた》 靡《なび》く玉藻《たまも》の かにかくに 意《こころ》は持《も》たず 大船《おほふね》(437)の 憑《たの》める時《とき》に ちはやぶる 神《かみ》や離《さ》けけむ うつせみの 人《ひと》か禁《さ》ふらむ 通《かよ》はしし 君《きみ》も来《き》まさず 玉梓《たまづさ》の 使《つかひ》も見《み》えず なりぬれば いたもすべなみ ぬば玉《たま》の 夜《よる》はすがらに 赤《あか》らひく 日《ひ》も闇《く》るるまで 嘆《なげ》けども しるしを無《な》み 念《おも》へども たづきをしらに 幼婦《たわやめ》と 言《い》はくもしるく た小童《わらは》の 哭《ね》のみ泣《な》きつつ たもとほり 君《きみ》が使《つかひ》を 待《ま》ちやかねてむ
押照 難波乃菅之 根毛許呂尓 君之聞四手 年深 長四云者 眞十鏡 磨師情乎 縱手師 其日之極 浪之共 靡珠藻乃 云々 意者不持 大船乃 〓有時丹 千磐破 神哉將離 空蝉乃 人歟禁良武 通爲 君毛不來座 玉梓之 使母不所見 成奴礼婆 痛毛爲便無三 夜干玉乃 夜者須我良尓 赤羅引 日母至闇 雖嘆 知師乎無三 雖念 田付乎白二 幼婦常 言雲知久 手小童之 哭耳泣管 俳〓 君之使乎 待八兼手六
【語釈】 ○押照る難波の菅の 「押照る」は、いちめんに照る意で、「難波」の枕詞。かかる理由は諸説があるが、『管見抄』の、潮照りで、讃める意でかかるというに従う。「難波の菅」は、難波の海岸に生える菅で、蓆《むしろ》、笠などを主として、日用品を造る大切な材料であった。この二句は、下の「根」に続き、その「根」を「ねもころ」の「ね」に転じて、その序詞としたもの。○ねもころに君が聞こして 「ねもころに」は、ねんごろにで、懇切にというにあたる。「君」は、夫に対していっているもので、麿であろう。「聞こし」は、「言ふ」の敬語で、仰せになりというにあたる語。巻十一(二七一〇)「不知《いさ》とを聞《きこ》せわが名告らすな」がある。○年深く長くし云へば 「年深く」は、年多くで、何年にもわたっての意。巻三(三七八)「いにしへの旧《ふる》き堤は年深み」、その他ある。「長くし云へば」は、「し」は強め。長い間いったのでで、夫婦関係を結ぶに至るまでの、長い交渉期間をいったもの。初句よりこれまでは、夫の真実を信ずるに至った経路をいったもの。○真そ鏡磨ぎし情を 「真そ鏡」は、真澄鏡で、意味で、「磨ぎ」にかかる枕詞。「磨ぎし情」は、磨ぎすましていた心で、緊張していた心の意。この心は男女関係の上でのものであるから、郎女がこうした心をもったのは、たぶん穂積皇子薨後のことと思われる。○縦してしその日の極み 「縦してし」は、「て」は完了。許してしまったで、妻となった意。「その日の極み」は、その日を限りとしてで、それ以来の余意をもったもの。○浪の共靡く玉藻の 「浪の共」は、浪とともに。巻二(一三一)に出た。「玉藻」は、「玉」は、美称。二句、靡く状態として、「かにかくに」と続け、その「かにかくに」を意の状態に転義して、その序詞としたもの。譬喩に近いものであるが、序詞と取れる。「かにかく」の譬喩。○かにかくに意は持たず 「かにかくに」は、どうこ(438)うにの意で、副詞。下に思うという動詞の省かれているもの。「意は持たず」は、「持たず」は、連用形で、上に続いて、二句、心一筋にという意を強めていったもの。○大船の憑める時に 「大船の」は、意味で「憑む」にかかる枕詞。既出。「憑める時に」は、夫を頼みとしている時に。○ちはやぶる神や離けけむ 「ちはやぶる」は、「神」にかかる枕詞。「神や離けけむ」は、「や」は、疑問。「離け」は、我より引離す。「けむ」は、過去の推量。神が君を引離してしまったのであろうか。○うつせみの人か禁ふらむ 「うつせみの」は、現身ので、「人」の枕詞。既出。「か」は、疑問。「禁ふ」は、「障《さ》ふ」で、遮る、すなわち邪魔をする。「らむ」は、現在の推量。世間の人が君を遮っているのであろうか。○通はしし君も来まさず 「通はし」は、「通ふ」の敬語。夫として妻の許に通う意。「し」は、過去。「君も」の「も」は、下の「使」と並べてのもの。「来まさず」は、「来ず」の敬語。○玉梓の使も見えず 「玉梓の」は、「使」にかかる枕詞。巻二(二〇七)に出た。「使も」の「も」は、「君も」に並べたもの。「見えず」は、連用形で、下へ続く。○なりぬればいたもすべなみ 「なりぬれば」は、「なり」は、変化する意。「ぬれ」は、完了。変わってしまったので。「いたもすべなみ」は、「いたも」は、いたくもと同じく、甚しくも。「すべなみ」は、せん術《すべ》なくして。○ぬば玉の夜はすがらに 「ぬば玉の」は、「夜」にかかる枕詞。既出。「夜はすがらに」は、「すがら」は、尽《すが》るるまでにで、夜は夜の明けるまでに。「夜は」は、下の「日も」に対させたものであるが、夜のほうを主としたことをあらわしているもので、実際に即した言い方である。○赤らひく日も闇るるまで 「赤らひく」は、ここは、「日」にかかる枕詞。解は諸説があって定まらない。「日も闇るるまで」は、日もまた暮れるまでで、日も終日。○嘆けどもしるしを無み 「しるしを無み」は、その甲斐なくしての意。○念へどもたづきをしらに 「念へども」は、嘆けどもというに同じ。「たづき」は、手段。「しらに」は、「知らに」で、「に」は打消。知らずの意であるが、下の事の原因をあらわす際に用いる語。○幼婦と言はくもしるく 「幼婦《たわやめ》」は、義訓。たわやかなる女で、弱い女の意。「言はく」は、「言ふ」の未然形に「く」を続けて名詞形としたもの。人に言われること。「も」は、詠歎。「しるく」は、著くで、いちじるく。○た小童の哭のみ泣きつつ 「た小童」は、「た」は接頭語で、童《わらわ》。「の」は、のごとく。「哭のみ泣きつつ」は、声を立ててばかり泣きながら。○たもとほり君が使を待ちやかねてむ 「たもとほり」は、「た」は接頭語。「もとほり」は、あちこちとうろうろしての意で、下の「待ち」の状態。「君が使を」は、夫よりの使で、せめてもの便《たよ》りをの意でいっているもの。「待ちやかねてむ」は、「や」は、疑問。「かね」は、得ぬ意。「て」は、完了で、強めているもの。待って待ち得ないのであろうか。
【釈】 押照る難波の菅の根という、そのねんごろさをもって、君は我に仰せになって、何年にもわたって長い間をいうので、真そ鏡|磨《と》ぎすました緊張していた心を君に許した、その日を限りとしてそれ以来は、浪とともに靡く玉藻の、どうこうと思って動揺する心をもたず、ただ君を頼みとしている時に、神が君を引き離してしまったのであろうか、世間の人が遮って邪魔をしているのであろうか、通っていらした君もお越しにはなられずに、君の使もまた見えないさまに変わってしまったので、甚しくもせん術《すべ》がなくして、夜は夜の尽きるまでに、昼も暮れてゆくまでに、たえず嘆いているけれどもその甲斐はなくして、物思いをしているけれどもすべき手段を知られずに、弱い女と人にいわれていることのとおりに、童のごとくに声を立ててばかり泣きながら、あちこちとうろうろして、せめてはと思う君よりの使を、待って待ち得ないのであろうか。
【評】 一首、怨恨とはいうが、夫の不実を嘆く心のもので、当時の夫婦生活にあってはきわめてありがちな、むしろ一般的な(439)ものである。これは短歌としても言いうる性質のもので、またその類も多いものである。長歌にしたのは、郎女が心の委曲を尽くさずにはいられない要求に駆られてのことと思われる。構成もしたがって単純で、前半、「大船の憑める時に」までは、結婚前の成行き、結婚直後の真実心で、後半は、その心の理由なく裏切られた嘆きであって、これを対照的に扱ったものであり、短歌によくある構成と異ならないものである。しかし技巧についていうと、深い用意がしてあって、その並々ならぬものを示している。第一に注意されることは、この歌は相応な長さをもっているのに、一首一句で、句の切れをもっていないことである。これは人麿系統のもので、余裕をもって詠みこなす手腕をもたない限りできないことであるが、それをしきっていることである。第二は、調べの上での読点《とうてん》の切り方であって、四句一読点、六句一読点を、自然な状態で錯落させてあって、平板と単調とを巧みに避けていることである。第三は、対句の用い方であって、前半の軽いほうには全く用いず、後半の重いほうに移ると、二句対を連続して用いて、それによって感を強めていることである。第四は、「押照る難波の菅の」と「浪の共靡く玉藻の」という二つの序詞は、前半にのみ用いて、後半には一つも用いていないことである。その海に関した物のみであることも、奈良京にあってのことだから想像のもので、文芸性よりのものである。以上、全体にわたってのことで、さらに細部についていえば、前半の読点は、「長くし言へば」まで六句、「その日の極み」まで四句、「憑める時に」まで六句である。「磨ぎ」の枕詞「真そ鏡」も、男子ならば「剣太刀」とあるを用うべきで、用意がある。次に後半は、「人か禁ふらむ」まで四句、これは二句対で当然である。「いたもすべなみ」まで六句、これは二句対に、繋ぎの二句の添ってのものである。「日も闇るるまで」まで二句対を二回、「たづきをしらに」まで同じく二句対二回、「哭のみ泣きつつ」まで四句、二句対に近いもの。ついで結末の三句である。注意されるのは、「神や離けけむ、人か禁ふらむ」と助動詞に時の変化をもたせていることであるが、これは無意識のこととは思われない。また、「夜はすがらに、日も闇るるまで」と、助詞の用法で夜を主とし、日を従としていることをあらわしているのは、明らかに意識してのことと思われる。結末の「たもとほり君が使を待ちやかねてむ」は、「たもとほり」と生動する句を用いながら、「待ちやかねてむ」とおおらかな句をもって応じさせているところに、用意がみえる。要するに、いうところは一般的なことであるが、心を尽くそうとして尽くしきっており、技巧としては適切をもっており、心細かに、洗煉よりくる品位と余裕とのあるもので、郎女の手腕を示しているものである。全体としては平板で、立体感の乏しい、したがって魅力の少ないものであるが、これは取材そのもののためといえる。この当時としては優れたものといわなくてはならない。
反歌
620 元《はじめ》より 長《なが》く謂《い》ひつつ 恃《たの》めずは かかる念《おも》ひに あはましものか
(440) 從元 長謂管 不令恃者 如是念二 相益物歟
【語釈】 ○元より長く謂ひつつ 「元より」の「より」は、事の進行の時を示しているもので、「に」にあたるもの。「長く謂ひつつ」は、長い期間にわたって交渉を続けつつで、長歌の「年深く長くし云へば」の繰り返し。○恃めずは 「令」の字、金沢本、紀州本のほかは「念」とあり、『代匠記』は、「念」は「令」の誤りといっている。頼ませなかったならばで、事実とは反対な仮設。○かかる念ひにあはましものか 「かかる念ひ」は、こうした甚しい嘆き。「あはましものか」は、出逢おうものかで、「まし」は、仮設の帰結。これは長歌の後半の繰り返し。
【釈】 初めに、長期にわたっての交渉を続けて、我をして額ましめなかったならば、今日こうした嘆きに出逢おうものか。
【評】 長歌の意を要約したもので、反歌としてはむしろ古い詠み方である。怨恨の心が沁みていて、独立した歌と見ても感のあるものである。
西海道節度使判官佐伯宿禰|東人《あづまひと》の妻、夫君に贈れる歌一首
【題意】 「節度使」は、天平四年初めて置かれた官であり、職掌は諸道に遣わして、軍務などの事を検定せしめられることであった。「判官」は、四等官の中の三等官で、いわゆる「じょう」であり、四人あった。「佐伯宿禰東人」は、続日本紀、天平四年八月この官をもって外従五位下を授けられている。佐伯氏は、『新撰姓氏録』に、大伴氏と同祖、道臣命七世の孫である室屋大連公の後だとある。
621 間《あひだ》無《な》く 恋《こ》ふれにかあらむ 草枕《くさまくら》 旅《たぴ》なる公《きみ》が 夢《いめ》にし見《み》ゆる
無間 戀尓可有牟 草枕 客有公之 夢尓之所見
【語釈】 ○間無く恋ふれにかあらむ 「問」は、旧訓「ひまも」。『代匠記』の訓。両様に訓み得られるが、「あひだ」のほうが、下の続きに適切に見える。これは絶え間の意。「恋ふれにかあらむ」は、「か」は、疑問。我を恋うているのであろうかと推量したので、その推量は、「夢にし見ゆる」との関係においてである。人が我を思うと、その人がわが夢に見えるという信仰の上に立つてのことで、これは上の(六一五)にも出ている。○草枕旅なる公が 「草枕」は、「旅」の枕詞。「旅なる公」は、旅にある公で、「公」は、夫に対しての称。○夢にし見ゆる 「し」は、強め。「見ゆる」は、「公が」の「が」の結。連体形。
【釈】 絶え間なく君は我を恋うているのであろうか。旅にある君が、わが夢に見えることであるよ。
(441)【評】 旅にある夫に贈ったもので、夫に対する思慕の情をいうのを目的としたものであるが、直接には何事もいわず、当時の夢に対する信仰によって、夫が自分を絶え間なく恋うていてくれるだろうことを確かめ、それを喜ぶことによって、間接にあらわしているものである。遠隔の地にある夫に贈る歌を、こうした間接なもので満足していたということは、夫婦関係がきわめて円満で、双方信じ尽くしているからこそありうることである。人柄を思わせられる歌である。
佐伯宿禰東人の和ふる歌一首
622 草枕《くさまくら》 旅《たび》に久《ひさ》しく なりぬれば 汝《な》をこそ念《おも》へ な恋《こ》ひそ吾妹《わぎも》
草枕 客尓久 成宿者 汝乎社念 莫戀吾味
【語釈】 ○草枕旅に久しくなりぬれば 旅にあることも久しくなってしまったので。○汝をこそ念へ 他の事はとにかく、汝のことをだけ思っているで、ここで段落である。○な恋ひそ吾妹 「な……そ」は、禁止。「吾妹」は、呼びかけ。我を恋うことはするな、妻よで、妻の物思いをすることを、憐れんで制した心である。
【釈】 旅にいることが久しくなってしまったので、他のことはとにかく、汝だけが恋しいことであるよ。しかし汝は、我を恋うことはするな、妻よ。
【評】 初句より四句までは、妻のいってきたことを、そのとおりだと承認し、確かめてやったもの。結句は一転して、我はそうだが、しかし汝は我を恋うなよと、妻を隣れんでいい、それを中心としたのである。結句のことは、妻はそれとはいっていないが、察していっているものである。妻にふさわしい夫である。
池辺王《いけべのおほきみ》の宴《うたげ》に誦《とな》へし歌一首
【題意】 「池辺王」は、続日本紀、神亀四年従五位下を授けられ、天平九年内匠頭となった記事がある。また、延暦四年七月「庚戌(十七日)刑部卿従四位下因幡守|淡海真人三船《あふみのまひとみふね》卒。三船、大友親王之曾孫也。祖、吉野王正四位上式部卿。父、池辺王従五位上内匠頭」とあるので、弘文天皇の孫である。「宴に誦へし歌」は、宴席で短歌を誦うことは風をなしていたことで、集中その例が多い。古歌をもってし、あるいは自歌をもってもした。本来は、宴席には歌は欠き難いものであって、儀礼のものとなっていたのであるが、後には興のものとなってきた。ここは興としてのものと取れる。
(442)623 松《まつ》の葉《は》に 月《つき》はゆつりぬ 黄葉《もみちば》の 過《す》ぎぬや君《きみ》が あはぬ夜《よ》多《おほ》き
松之葉尓 月者由移去 黄葉乃 過哉君之 不相夜多焉
【語釈】 ○松の葉に月はゆつりぬ 「ゆつり」は、集中、「移り」と並び用いられている語で、移りの意。松の葉のところに、月が移ってきたで、上代、夜の時刻の移りを月によって知るのは普通のことであり、集中に例が多く、これもそれである。下の続きで見ると、女が夜、夫としての「君」の通って来るのを、その家にいて待っていてのことで、「松」は女の家の辺りのもの。「月」がそこまで移ったのは、時刻の遅過ぎることをあらわしたもの。段落。○黄葉の過ぎぬや君が 「黄葉の」は、「過ぎ」にかかる枕詞。巻一(四七)「黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し」に出た。この「黄葉の過ぎ」は、木の葉の黄変するのは、その推移であるとし、推移は経過であるとして、経過の意の「過ぎ」に続けてその枕詞としたものである。「過ぎ」の中の最も重大なものは人の死で、現世から幽界へ過ぎることであるから、その意で用いられているものが多いのであるが、「過ぎ」は意味の広い語で、ここの「過ぎ」は夫の愛の盛りが過ぎた意に用いられてあり、「過ぎぬや」は、「ぬ」は、完了、「や」は、疑問で、愛の盛りが過ぎてしまったであろうかの意。「君が」は、この一文の主格で、上の(六一七)の四、五句「念《おも》へか君が忘れかねつる」と同じである。○あはぬ夜多き 「多き」は、旧訓「おほみ」。『攷証』の改めたもの。我に逢わない夜、すなわち通って来ない夜の多いことであるよで、「多き」は連体形、上の「や」の結。
【釈】 松の葉に月が移って来て、君が通って来るとしては遅くなりすぎて、待つ甲斐がなくなった。愛の盛りは過ぎたのであろうか、君の通って来ず、逢わない夜の多いことであるよ。
【評】 歌は、妻がある夜、夫の通って来るのを待って待ち得ず、またそうしたことが連夜に及んでいるので、夫の愛を危んだ嘆きで、当時としては例の多い、一般性をもったものである。宴席の興にふさわしい歌である。問題は、これは古歌か、王の自歌かという点である。歌は一見素朴であり、また重厚味ももっているので、古歌ではないかと思わせるものである。当時は新風を慕った時代であるから、これを聞く人は古歌の感を起こしたことであろう。また歌は明らかに女の心であるから、これもその感を援けることである。しかし宴席で誦《うた》ったものとすると、これらはすべてその興を高めることであって、また興を高める上からいえば、古風も、女の心も、作為しうるものであるから、一概のことはいえないことである。今、作為という上から見れば、この歌は素朴に似て用意があり、重厚味に似たものも醸し出したものであって、男の歌と見えるところがある。「松の葉に月はゆつりぬ」は、下との関係においてきわめて巧妙なものである。これで一段としているところ、「ゆつり」という古語を用いているところも古風を思わせるが、この捉え万は民謡には例の少なくないものである。問題は、「黄葉の過ぎぬや君が」にある。「黄葉の過ぎぬや」は、これを形から見ると「松の葉に月はゆつりぬ」に酷似していて、対句として繰り返したがごと(443)き形のものである。それが感としては古風を感じさせもするのであるが、意味としてはかなりな飛躍をもって進展させているものである。またこの二句は、上に引いた「黄葉の過ぎにし君が」を連想させるものであるが、それは人麿の歌で、名高いものであるから、当時の人口にもあって、同じく連想させたものであろう。人麿の歌は死の意であるのに、これは愛の衰えであるから、その距離が聞く人を微笑させたものと思われる。これは明らかに作為であり、また知性的なものでもある。「君が」の用法も、例に引いたように、この当時にあるものであり、その他にも類似のものがあって、当時の好みにあったものとみえる。大体、一首全体が気分であって、形象化に心を用いたものであることは明らかであるが、初二句より三句以下への飛躍は大き過ぎるもので、それを遂げているのは、男性の知性がさせているものと思われる。要するにこの歌は池辺王の自歌であって、古歌ではなく、古風を摸したもので、女性の心をいってはいるが、当時の風に従って、気分を知性的に具象化した跡の明らかなるものといえる。また歌としては、おおらかで、品はあるが、さして歌才の豊かなものとは見えないものである。
天皇、酒人女王《さかひとのおほきみ》を思《しの》ひ給ふ御製歌《おほみうた》一首 女王は穂積皇子の孫女なり
【題意】 「天皇」は、聖武天皇。「酒人女王」は、元暦本などの題詞の下に小字で、「女王者穂積皇子之孫女也」とあるほか、史上には見えない方である。
624 道《みち》にあひて 咲《ゑ》まししからに 零《ふ》る雪《ゆき》の 消《け》なば消《け》ぬがに 恋《こ》ふとふ吾妹《わぎも》
道相而 咲之柄尓 零雪乃 消者消香二 戀云吾味
【語釈】 ○道にあひて咲まししからに 「道にあひて」は、女王が往還で、人に逢っての意。その人は、男性で、身分の知れている人とはみえるが、誰ともわからない。「咲ましし」は、原文「咲之」。旧訓「ゑみせし」。『考』の訓。「咲みし」の敬語。女性に対しては敬語を用いる風があったので、それに従われてのものと思われる。「からに」は、ゆえに。女王が笑顔をなされたがゆえにで、これは敬意を表されたがために、答礼としてのことと取れる。○零る雪の消なば消ぬがに 「零る雪の」は、消えの意で、その約の「消」にかかる枕詞。「消《け》消なば消ぬがに」は、「消《け》」は、命消えの意で、死の意に用いていた語。「がに」は、ごとくにの意。死ぬならば死んでしまえというがごとくにで、下の「恋ふ」の状態。恋が甚しく、その苦しさに、生きているにもいられぬ意。○恋ふとふ吾妹 「恋ふとふ」は、旧訓「こふてふ」。『略解』の訓である。両様に訓みうるもので、意味も同じである。「とふ」のほうが語感が柔らかで、全体に調和があるので、これに従う。恋うと、その人がいっているところの我妹よで、「吾妹」は女王を親しんで呼びかけ給うたもの。
(444)【釈】 往還で逢って、笑みをなされたがゆえに、その人は、死ぬならば死んでしまえというごとくにも恋うているという噂のある吾味よ。
【評】 何らかのおりに、御製のような噂をお聞きになられ、興をお感じになったところから、それを歌として女王に賜わったもので、他の意はないものに思われる。きわめておおらかに、また品位の高い、皇室にのみあって、臣民の間には全く見られない風をもった歌柄である。これは歴代の伝統となっている風である。
高安王、※[果/衣]《つつ》める鮒を娘子《をとめ》に贈れる歌妹一首 高安王は後に姓大原真人の氏を賜へり
【題意】 「高安王」は、上の(五七七)に出た。「※[果/衣のなべぶたなし]める鮒」は、物に包むのは、贈り物をする時の定まりである。鮒は生きていないもの。なお鮒は淡水魚で、大きい物は尺にも余る。「娘子」は、誰とも知れぬ。
625 奥《おき》へ往《ゆ》き 辺《へ》に去《ゆ》き今《いま》や 妹《いも》が為《ため》 吾《わ》が漁《すなど》れる 藻臥束鮒《もふしつかぶな》
奧弊徃 邊去伊麻夜 爲妹 吾漁有 藻臥束鮒
【語釈】 ○奥へ往き辺に去き今や 「奥」は、沖で、普通海についていう称であるが、上代では池、川などにも用いた。ここは鮒の居場所としてであるから淡水である。広い沖のほうへ行き。「辺に去き」は、「辺」は、奥に対して、陸寄りの所をいう称。「辺に去き」は、岸寄りのほうに行きで、上より続いて、さまざまに労苦してという意を具体的にいったもの。「今や」は、「や」は、詠歎。今ようやくにというほどの意。○妹が為吾が漁れる 「妹が為」は、妹に贈ろうがために。「吾が漁れる」は、わが漁り得たところの。○藻臥束鮒 「藻臥」は、藻の中に臥しているで、鮒の藻に潜んでいるのを、その長く横たわっている恰好から臥していると見たので、感覚化した言い方。「束鮒」は、一束の鮒で、束は上代の尺度の単位。指四本を並べた長さで、二寸余。下に詠歎の心がこめられている。
【釈】 沖のほうへ行き、また岸寄りのほうへ行きなど、さまざま労苦して、今ようやくに、妹がためにわが漁り得たところの藻に臥している束ばかりの鮒であるよ。
【評】 人に物を贈るおりには、その贈り物は贈り主の心のこもっている物であることを言い添えるのが上代の礼になっていた。これもその範囲のものであるが、この歌では、その物に合わせては言い方が大げさで、また巧みでもあって、挨拶という境を超え、独立した、明るく楽しい歌となっているものである。鮒は、その棲む所で得ようとすればたやすく得られるものである(445)のに、初句より四句までは、甚しくも得難いものであるがごとくいい、それを妹がために辛くして得たようにいっているのはあまりにも見え透いている誇張で、自他共に微笑するような言である。しかもそれは束鮒というがごとき小さな物なのである。「藻臥束鮒」は、きわめて巧妙な造語である。複雑した事柄を、感性によって綜合して簡潔なものとし、しかも語感の柔らかなものとしている。鮒に対する感のこもっているもので、それが魅力をなしている。これはこの場合にも適切なものであるが、さらに拡がりをもちうる語である。
八代女王《やしろのおほきみ》、天皇に献れる歌一首
【題意】 「八代女王」は、父祖が考え難い。続日本紀、天平九年無位から正五位下を授けられ、また天平宝字二年「毀2従四位下矢代女王位記1、以d被v幸2先帝1而改uv志也」とある。先帝というのは聖武天皇である。
626 君《きみ》に因《よ》り 言《こと》の繁《しげ》きを 古郷《ふるさと》の 明日香《あすか》の河《かは》に みそぎしに去《ゆ》く【一の尾に云ふ、竜田《たつた》越《こ》え三津《みつ》の浜辺《はまべ》にみそぎしにゆく】
君尓因 言之繁乎 古郷之 明日香乃河尓 潔身爲尓去【一尾云、龍田越 三津之濱邊尓 潔身四二由久】
【語釈】 ○君に因り言の繁きを 「君に因り」は、「君」は天皇で、天皇によってわが上に。「言の繁きを」の「言」は、ここは噂という程度のものではなく、下の「みそぎ」を必要とする深刻なものである。これは嫉み恨みなと、要するに憎んでの詛《のろ》いにまで及んでいるものとみえる。女王が天皇より幸いせられることが背後にあり、後宮の人々よりされるものと取れる。人より詛われると、その影響で詛われた人(446)の身が衰えるということは、上代の信仰で、後までも続いたものである。ここもその意である。「繁き」は、多き。○古郷の明日香の河に 「古郷」は、故京で、奈良京以前の飛鳥地方。「明日香の河」は、飛鳥川で、飛鳥の代表的の川。○みそぎしに去く 「みそぎ」は、「身滌《みそそぎ》」の約で、水で身を滌ぐこと。一定の法でそれをすると、身に積もっている罪穢を祓いうるということは、上代の信仰の中でも重いもので、後までも続いているものである。○一の尾に云ふ 一本には、一首の「尾」、すなわち三句以下が異なって、次のようにいっている。○竜田越え三津の浜辺に 「竜田越え」は、竜田山を越えてで、大和より難波へ行く通路。大和国生駒郡、今の三郷村で、そこの西嶺がすなわちそれである。「三津」は、難波の津で、下のみそぎをする場所としてのもの。
【釈】 陛下によって、人より忌まわしい言葉の多くをいわれているわが身の穢を祓うために、故京の飛鳥川へ禊《みそぎ》をしに行く。また、竜田山を越えて、三津の浜辺へ行く。
【評】 上にいったがように、女王が天皇より幸いせられた後、競争と嫉妬のはげしい後宮の人々から忌まわしい言葉を盛んにいわれ、当時の信仰でその身に及ぼす穢を怖れて、同じく当時の信仰から明日香河へ禊に行こうとした際の歌で、天皇に献ったのは、訴えと報告の心よりである。一本の伝えは、三津の浜辺が同じく禊の場所とされていたところから起こったものである。原形は、女王のそうした場合のものとして、「明日香の河」であったろうと思われ、異伝の起こったのは、「三津の浜辺」のほうが一般的であったためかと思われる。歌としては、その時の実際に即しての物で、特殊なものではない。
娘子《をとめ》、佐伯宿禰赤麿に報《こた》へ贈れる歌一首
【題意】 娘子は、誰とも知れない。「赤麿」は、巻三(四〇四)以下に出て、娘子と贈答した歌をとどめている。ここの贈答も同じ娘子とのものと思われる。
627 吾《わ》が手本《たもと》 巻《ま》かむと念《おも》はむ 大夫《ますらを》は 変水《をちみづ》定《しづ》め 白髪《しらが》生《お》ひにたり
吾手本 將卷跡念牟 大夫者 變水定 白髪生二有
【語釈】 ○吾が手本巻かむと念はむ 「吾が手本」は、「吾」は、娘子。「手本」は、文字どおり手の本であるが、転じて袂の意となったもの。しかし事実は手で、それを婉曲にあらわしたものである。「巻かむ」は、纒《ま》かむで、枕としようとする意。わが手を枕としようと思うであろうところの意で、下へ続く。○大夫は 「大夫」は、赤麿を尊んでいったもの。初句よりこれまで一段落で、「大夫」は主格、意としては初句の上にあるべきもの。○変水定め 旧訓「なみだにしづみ」。原文「變」は諸本「戀」。元暦本に「變」とあるのによる。それだと巻十三(三二四五)「月よみ(447)の持たる変若水い取り来て」とある「変若水」の略で、「をち水」である。『新訓』はこれを取っている。「恋水」を「涙」の義訓とするのは迎えての訓で、『新訓』に従うべきである。「定」を、『新訓』は「求」を当て、元暦本によると注しているが、『校本万葉集』では「定」は諸本異同がない。旧訓の「しづみ」につき『代匠記』は、「定は人のねたるを人定《しづまる》といふ。沈静とかきてしめやかとよみ、又沈静とつゞくる心、まことにしづかといふも、しづむとおなじ心なり」と注している。さらにまた、鎮定と熟する語もあるので、その定と見、鎮めすなわち落ち着かせる意と解することも可能と思える。それだとこの一句は、飲めば若変わるという変水《おちみず》を得ようと騒立《さわだ》つ心を定《しず》めて、すなわちそのことを諦めての意となる。今はそう解する。これは娘子自身のことで、上の「大夫は」に対させたもので、「吾は」を省いた形のものである。○白髪生ひにたり 「に」は、完了。白髪が生えてしまっている。
【釈】 わが手を枕として共寝をしようと思っていよう、君は。その我は変水《おちみず》を求めることを諦めて、今は白髪が生えてしまっている。
【評】 娘子は題意でいったように、巻三に出た人であろうと思われるが、その後赤麿と関係が結ばれ、また忘れられた状態で過ごしていたものと思われる。歌は、赤麿が再び逢おうといってきたのに対して、我は今は、白髪の生えている者で、そうしたことにはふさわぬ者だと断わったのである。作意は相応に皮肉なもので、また詠み方も、赤麿と自身とを対照させ、飛躍をもって言って、知的なものであるのに、その間に「変水」を取入れているのは、変水という常世《とこよ》関係の思想が、当時いかに一般化されていたかを示しているものである。それは、ここは、心としては単に老いてということをいうにすぎないのに、後世から見るときわめて特殊なことをもって具象化しているからである。歌は娘子の人柄の尋常でないことを思わせるものである。
佐伯宿禰赤麿の和ふる歌一首
628 白髪《しらが》生《お》ふる ことは念《おも》はず 変水《をちみづ》は かにもかくにも 求《もと》めて行《ゆ》かむ
白髪生流 事者不念 變水者 鹿※[者/火]藻闕二毛 求而將行
【語釈】 ○白髪生ふることは念はず 「ことは」は、下の「変水は」に対させたものである。白髪の生えることのほうは問題とせずで、娘子の歌の結句を承けたものである。○変水は 変水のほうはで、娘子が「変水|定《しづ》め」と、諦めてしまっているのを取上げたもの。○かにもかくにも求めて行かむ 「かにもかくにも」は、後世の「とにもかくにも」にあたる古語。ここは、娘子は諦めたというが、我は諦めず、得られるにもせよ、得られぬにもせよの意。「求めて行かむ」は、我はそれを求めて、そちらへ行こうの意で、我は行って捜し直そうの意である。作意としては、御身の所へ行こうという意をあらわしたもの。
(448)【釈】 白髪が生えているといわれるが、そのことは問題とはしない。しかし諦めたという変水のほうは問題として、得られる得られないにかかわらず、我はそれを捜し直しに行こう。
【評】 白髪が生えていてもかまわない、逢おうというので、その逢おうを、娘子の変水に絡ませて巧みに、また婉曲にいっているものである。娘子の歌にくらべると、機知もあり、教養もあるものである。この歌は根本は実用性の歌であるが、できうる限り文芸性を加えようとして、その結果婉曲をきわめて、本意を曖昧にならせようとするところまで至っているものである。平安朝のこの種の歌に近いところまで迫っているものといえる。
大伴四綱《よつな》、宴席《うたげ》の歌一首
【題意】 「大伴四綱」は、巻三(三二九)に出た。旅人の大宰帥であった時、防人司佑を務めていた人。
629 何《なに》すとか 使《つかひ》の来《き》つる 君《きみ》をこそ かにもかくにも 待《ま》ちかてにすれ
奈何鹿 使之來流 君乎社 左右裳 待難爲礼
【語釈】 ○何すとか使の来つる 「何すとか」は、旧訓「なにしにか」。『考』の訓である。何をしようとてかで、「か」は、疑問。「使の来つる」は、「使」は宴席に来るはずになっている人の使。「来つる」の「つる」は、上の「か」の結。○君をこそ 「君」は、来るはずの人。「こそ」は、使と比較してのもの。○かにもかくにも 後世の「とにもかくにも」にあたる古語。ここは、どうあれこうあれ、強《し》いても来よと思っての意。○待ちかてにすれ 「かてに」は、「かて」は得る意。「に」は打消「ず」の連用形。待って待ち切れずにの意。「すれ」は、「こそ」の結。
【釈】 何をしようとて使が来たことであろうか。君のほうをこそ、どうあれこうあれ、強いても来よと思って、待って待ち切れずにいることよ。
【評】 宴席に来るはずの人で、その遅いのを待ちかねていた時、その人よりの使の来たのを見た瞬間の心持である。使は、都合で来られない断わりをいいに来たとみえ、四綱はむろんそれを聞いたのであるが、わざとそれには触れず、使を見た瞬間の心持だけをいい、強いても来よと促したもので、その使に持ち帰らせた形の歌である。その場合柄として、要を得た、また機知の働いた歌である。この風は、歌垣の場合にも、また平時でも、歌をもって問答する場合には行なわれてきたもので、歌のもつ一面として重んじられ喜ばれていたものである。実際に即して、複雑した、微細な気分を、安らかにあらわし得ている歌で(449)ある。
佐伯宿禰赤麿の歌一首
630 初花《はつはな》の 散《ち》るべきものを 人《ひと》ごとの 繁《しげ》きによりて よどむころかも
初花之 可散物乎 人事乃 繁尓因而 止息比者鴨
【語釈】 ○初花の散るべきものを 「初花」は、その季節に最初に咲く花で、ここは処女の、夫をもち得られそうになったものを譬喩としていっているもの。「散るべき」は、上よりの続きは、花の散ってゆくべきで、譬喩としては、他の男の有《もの》となるべきの意。「ものを」は、強い詠歎。○人ごとの繁きによりて 「人ごと」は、他人の噂。「繁きによりて」は、多いために。○よどむころかも 原文「止息」は、旧訓「とまる」。『玉の小琴』の訓。躊躇している意。「かも」は、詠歎。
【釈】 初花の散るがように、わが思う処女は他人の有《もの》となってゆくべきものを。人の噂の多いために、躊躇して、交渉せずにいるこの頃ではあるよ。
【評】 「初花の散るべきものを」という譬喩が、作者も、また伝聞する者も、共に喜んだものかと思われる。一人の処女を、二人以上の男が得ようと競うことは、事としては少なくないことであり、またそうした歌も多いのであるが、この譬喩は、恋を遊戯視している心のあらわに感じられるものである。恋の上では、男の態度は女に較べては真剣味を欠くものであるが、これほどまでに遊戯的な感を起こさせるものは稀れである。これは歌というものが文芸性のものとなってきた結果、譬喩の美しさということが過大に評価され、従来としては言うべからざることとしていたことが、安んじていわれるようになったためと思われる。赤麿の人柄にもよることであるが、他面、時代のさせていることと見られる。
湯原王《ゆはらのおほきみ》、娘子《をとめ》に贈れる歌二首 志貴皇子の子なり
【題意】 「湯原王」は、巻三(三七五)に出た。天智天皇の御孫、志貴皇子の御子である。「娘子」は、何者ともわからない。
631 うはへなき ものかも人《ひと》は 然《しか》ばかり 遠《とほ》き家路《いへぢ》を 還《かへ》す念《おも》へば
(450) 宇波弊無 物可聞人者 然許 遠家路乎 令還念者
【語釈】 ○うはへなき 『代匠記』は、表辺なきの意、宣長は、あいそのなきの意、『攷証』は、追従《ついしよう》のない意と解している。いずれも同じ意で、心は信じているが、取繕うことをしない意である。○ものかも人は 「ものかも」は、上に続き、「かも」は詠歎。「人は」は、娘子をさしたもの。○然ばかり遠き家路を 「然ばかり」は、あれほどの意で、遠さを具象的に強めたもの。「家路」は、王の家へ向かっての路で、娘子の家を基としてのもの。○還す念へば 「還す」は、宿らせずして、空しく還す意。「念へば」は、意味は軽く、語調を主として添えていう語であるが、今の場合も、これが添っているために心が柔らかになっている。
【釈】 あいそのないことであるよ、そなたは。あれほどに遠いわが家への路を、空しく還らせることを思うと。
【評】 娘子はどういう身分の者かわからないが、王と心を通わしているにもかかわらず、周囲との関係で、自由に逢うことのできない身であったとみえる。この歌はそれを背後に置いてのもので、一夜、王が通って行かれたのを、空しく帰らせた後に、王から恨みの心をもって贈ったものである。しかしその逢えない事情は、王も十分承認しているので、恨みとはいっても、「うはへなきものかも」と嘆かれる程度のもので、その世馴れないのを憐れむ心を、愚痴の形においていわれたものである。王の心はおおらかであるとともに、歌風もまた、おおらかで、品位の伴っているもののあることを思わせる。
632 目《め》には見《み》て 手《て》には取《と》らえぬ 月《つき》の内《うち》の 楓《かつら》の如《ごと》き 妹《いも》をいかにせむ
目二破見而 手二破不所取 月内之 楓如 妹乎奈何責
【語釈】 ○目には見て手には取らえぬ 目にはそれと見ていて、手には折り取ることのできないで、下の「月の内の楓」の状態をいったもの。心としては「妹」に対する嘆きをいったもので、その上では、姿は目には見ているが、わが手中の物とはできない、すなわち添寝はできないところのの意。○月の内の楓の如き 月中の桂樹のごときで、これは牽牛織女などと同じく中国の伝えである。『攷証』はその出所を挙げ、『初学記』、『酉陽』、仏書にもあるといって引いている。『詞林采葉抄』は、『兼名宛』にあるものを引いているが、それは「月中有v河、河上有v桂、桂高五百丈」というので、諸書、部分的には伝えを異にしている。「楓」は、わが国では「桂」を「をかづら」、「楓」を「めかづら」と称するところから、「桂」に当てた字である。○妹をいかにせむ 「妹」は、上に続いて、通って行つても逢えない娘子で、「いかにせむ」は、どうしたら好いのであろうかと、当惑しての嘆き。
【釈】 目にはそれと見ていて、わが手中の物とはできないところの、月の中にある桂のような妹を、どうすればよいのであろうか。
(451)【評】 前の歌のごとき状態についての嘆きで、二首、同時のものと思われる。この歌は、娘子に贈ったものではあるが、独詠の趣の濃厚なものである。月の内の楓の譬喩は、「目には見て手には取らえぬ」という、前の歌の状態よりの連想で、心理的には妥当なものであるが、高度の文芸性のものである。当時は漢詩文が一般化してきたといううち、ことにこの譬喩のような、神仙的な趣をもったものは酷愛されていたらしいので、この譬喩は娘子が解しうるものとして用いられたものと思われる。それにしてもこの譬喩は清新なものである。それを尋常の事のように安らかにこなしきっているのは、王の歌才というべきである。
娘子の報へ贈れる歌二首
633 ここだくに 思《おも》ひけめかも 敷細《しきたへ》の 枕《まくら》片去《かたさ》る 夢《いめ》に見《み》え来《こ》し
幾許 思異目鴨 敷細之 枕片去 夢所見來之
【語釈】 ○ここだくに思ひけめかも ひどく我を思ったのであったろうかで、「けめかも」は、後世の「けめばかも」で、「かも」は、疑問と詠歎を続けたもの。娘子が王の心を推察していっているので、推察したのは、王が娘子の夢に入ってきたからで、夢は、先方がこちらを思うがゆえに見るものだという信仰の上に立ってのことである。○敷細の枕片去る 「敷細の」は、「枕」にかかる枕詞で、既出。「枕片去る」は、旧訓「枕片|去《さ》り」であるが、『代匠記』は「片去る」とも訓み、『略解』『古義』も同様である。意味は、『代匠記』は、巻十八(四一〇一)「ぬば玉の夜床片|左《さ》(古《こ》)り」を証として、妻が独り寝をする時には、夜床の片方に去って、夫のために、今一方を空《あ》けておくのが風となっていたとみえるから、ここもそれと同じく、枕の片っ方を夫に分けておいて寝る夜のという意で、下の「夢」に続いていると解している。作意は、「枕片去る夢」と続けて、「枕片去る」は共寝をする時の状態とし、共寝ということを具象的にいったものと解される。○夢に見え来し 「夢に」は、夢に君はの意。「来し」は、二句の「かも」の「か」の結で、見えてきたことであるよ。
【釈】 ひどく君は我を思ったのであったろうか、その心が通って、枕を片去って寝る、共寝の夢に君は見えてきたことであるよ。
【評】 王との関係が結ばれた後の歌と取れる。夢を信仰する心は女性にことに強いもので、これもその上に立ってのものであるが、若い女性の素直な、溺れきった心が、さながらに現われている歌である。
634 家《いへ》にして 見《み》れど飽《あ》かぬを 草枕《くさまくら》 旅《たび》にも夫《つま》と あるがともしさ
(452) 家二四手 雖見不飽乎 草枕 客毛妻与 有之乏左
【語釈】 ○家にして見れど飽かぬを 「家にして」は、家にあって。「見れど飽かぬ」は、いくら見ても見飽かないで、きわめて愛でたい意を具象的にいったもの。「を」は、詠歎。○草枕旅にも夫と 「草枕」は、「旅」の枕詞。「旅にも」は、旅にまでもで、「も」は、家に並べたもの。原文「妻」は、前後の関係から、夫《つま》に当てた文字と解される。娘子より王をさしたもの。「と」は、とともに。○あるがともしさ 「ともし」は、意味の広い語で、ここは、愛すべく慕わしいの意と取れる。「ともしさ」は、ともしいことよの意。
【釈】 家にあって、いくら見ても見飽かずに愛でたいのに、旅にまでもその夫《つま》と共にいるという、このうれしく慕わしいことよ。
【評】 王は、娘子の周囲の者の許しは得たが、なおその煩わしさを避けようとする心から、娘子を旅に連れ出したとみえ、娘子はそのことを喜んでの歌と解せる。すなわち相対していてのものである。若い女性の単純な、偏えごころの現われた歌である。
湯原王、亦贈れる歌二首
635 草枕《くさまくら》 旅《たび》には嬬《つま》は 率《ゐ》たれども 匣《くしげ》の内《うち》の 珠《たま》とこそ念《おも》へ
草枕 客者嬬者 雖率有 匣内之 珠社所念
【語釈】 ○草枕旅には嬬は率たれども 「嬬」は、娘子。「率」は、連れる意。旅に妻は連れて来ているけれども。○匣の内の珠とこそ念へ 「匣の内」は、旧訓「はこの内なる」。『代匠記』が、読添えが多すぎるとして改めたもの。「匣」は、櫛笥で、しばしば出た。「珠」は、美しく貴い物の意で、ここは娘子の譬喩としている。珠を櫛笥の中に蔵すということは、不自然なごとく聞こえるが、櫛笥は、貴重な鏡も入れておく物であるから、不自然とはいえない。「こそ念へ」は、「こそ」は、その物だけを取立てていう意のものであるから、上を承けて、珠だとばかり思っていることであるよの意。
【釈】 旅というかりそめな所に妻は連れて来ているけれども、わが心では、妻は匣《くしげ》の中に蔵している貴重な珠だとばかり思っていることであるよ。
【評】 娘子の上の歌に和えたものである。心は、娘子の喜びをそのままに承け入れたものであるが、王のほうは心の視野が広く、娘子の喜ぶ旅を「匣の内」と対させ、「旅には」「嬬は」と、「は」によってそれをあらわして、微細な陰影を帯びさせている。
(453)636 吾《わ》が衣《ころも》 形見《かたみ》に奉《まつ》る 布細《しきたへ》の 枕《まくら》を離《さ》けず 巻《ま》きてさ宿《ね》ませ
余衣 形見尓奉 布細之 枕不離 卷而左宿座
【語釈】 ○吾が衣形見に奉る 「形見」は、その人の身代わりとして見る物で、その人に関係の深い物をもってした。今は衣をもってしたのである。「奉《まつ》る」は、「奉《たてまつ》る」の古い形で、贈るということを敬語をもってしたのである。男は女に対しては敬語を用いるのが風となっていた。○布細の枕を離けず 「布細の」は、「枕」の枕詞。「離けず」は、離さずで、身に近いものとしての意。○巻きてさ宿ませ 「巻きて」は、「纒《ま》きて」の字も用いる。意は同じである。纒《まと》って。「さ宿《ね》ませ」は、寝よを、これも「ませ」の敬語を添えていったもの。
【釈】 わが衣を、形見として差上げる。これは夜の枕から離さず、身に纏って寝たまえ。
【評】 贈り物には歌を添えるという、型に従ってのものであるが、その物が形見であるので、改まって、敬語の多くを用い、またその物の扱い方をも要望しているという、特殊のものである。三句以下は、その扱い方としては当然のことで、いうを要さないことであるが、それを力を入れていっていることは、夫婦間の誓いを、実行に移させようとして要求しているものである。結句の、上を承けて漸層的に力を入れていっているのは、そのためであるが、娘子に教え諭す心をもこめたものである。この旅とはいってもかりそめのもので、娘子をその家に帰らせようとする際のものと思われる。
娘子、復《また》報へ贈れる歌一首
637 吾《わ》が背子《せこ》が 形見《かたみ》の衣《ころも》 嬬問《つまどひ》に わが身《み》は離《さ》けじ 言問《ことと》はずとも
吾背子之 形見之衣 嬬問尓 余身者不離 事不問友
【語釈】 ○吾が背子が形見の衣 「吾が背子」は、王を最上の親しみをもって呼んだもの。「形見の衣」は、下に詠歎を含めたもの。○嬬問に 「嬬問」は、名詞。ここは、夫がその妻の許へ通って来る意。「に」は、巻一(七九)「栲《たへ》の穂に」の「に」と同じく、のさまにの意のもの。夫が通って来ているさまに、すなわちその時と同じように。○わが身は離けじ わが身より離すことはしまいで、共寝をしている夫のごとく扱おうの意。○言問はずとも ものは言わなかろうともで、夫との相違をいったもの。
【釈】 わが背の君の形見として賜わった衣よ。わが許に通って来た夫を扱うさまに、わが身より離すことはしまい。これはもの(454)をいわない物であろうとも。
【評】 上の王の歌に和えたものである。王の歌は形見の精神を、その扱い方を通して徹底させようとするものであるのに、娘子は単に扱い方としてのみ受け入れ、「言問はずとも」とさえいっているのである。人間味の距離の大きさを思わせられることで、したがって物語的興味をももたせられることである。
湯原王、亦贈れる歌一首
638 ただ一夜《ひとよ》 隔《へだ》てしからに 荒玉《あらたま》の 月《つき》か経《へ》ぬると 心《こころ》は遮《まと》ふ
直一夜 隔之可良尓 荒玉乃 月歟經去跡 心遮
【語釈】 ○ただ一夜隔てしからに ただ一夜を隔てていたゆえにで、「から」は、ゆえ。○荒玉の月か経ぬると 「荒玉の」は、ここは時としての「月」にかかる枕詞。「月か経ぬると」は、月が経て行つたかと思つてで、長く感じる意。○心は遮ふ 旧訓「おもほゆるかも」。この訓は理由のないものとして、諸注改訓を試みている。『代匠記』は、巻十二(二九六一)「空蝉の常の辞《ことば》と念《おも》へども継ぎてし聞けは心遮焉《こ二ろはなぎぬ》」の「心遮焉」を例として、「遮」は遮りやる意で、義をもって「和《な》ぐ」に当てたものとし、ここはその反対で、「遮」の上に「不」のあって脱したものかとし、「和《な》がず」すなわち慰まずの意かとした。『略解』は「ながず」という詞はないといって斥けた。『古義』は、『代匠記』の引いた歌の「心遮焉」を「心まどひぬ」と改訓し、ここも同じく「心|遮《まど》ひぬ」かといっている。「遮」は、義をもってすれば「惑《まど》ふ」と訓み難い字ではない。『新訓』は、「心はまどふ」と訓んでいる。上よりの続きでいえば、「まどふ」の範囲のことをいったものと思われ、上とも調和しうる訓であるから、疑いを残して『新訓』の訓に従う。「まとふ」の「と」は、古くは清音であったと考えられている。
【釈】 ただ一夜を隔てたがゆえに、逢わずに一と月も過ぎて行ったのかと心が惑う。
【評】 心は一般的のもので、類歌も多いものであるが、この歌は切実な感が、おおらかな調べに溶けて、沁み入る力のあるものとなっている。排列順から見て、上の旅の直後のものではないかと思われる。
娘子、復《また》報へ贈れる歌一首
639 吾《わ》が背子《せこ》が かく恋《こ》ふれこそ ぬば玉《たま》の 夢《いめ》に見《み》えつつ 寐《い》ねらえずけれ
(455) 吾背子我 如是戀礼許曾 夜干玉能 夢所見管 寐不所宿家礼
【語釈】 ○吾が背子がかく恋ふれこそ 「かく」は、後世だと「然《しか》」というところを、通じていっていた。古形である。上の王の歌を承けたもの。「恋ふれこそ」は、後世だと「恋ふればこそ」というところで、古格で、例の多いもの。先方の恋うるのが、こちらの夢の原因となるとしてのもの。○ぬば玉の夢に見えつつ 「ぬば玉の」は、ここは「夢」の枕詞。夜の延長として夢にもかけた。「見えつつ」は、見え続けてで、上の「恋ふ」の結果。○寐ねらえずけれ 「寐ねらえず」は、寝ても眠れない。「ず」の終止形から「けれ」に続くのは古格で、後世だとその間に「あり」の入るべきところである。「けれ」は、「こそ」の結。
【釈】 わが背子が、そのように我を恋うたので、そのために我には背子の夢が見られ続けて、寝ても眠られなかったことであるよ。
【評】 王の歌に和《こた》えたもので、夢の信仰の上に立ったものである。
湯原王、亦贈れる歌一首
640 はしけやし ま近《ぢか》き里《さと》を 雲居《くもゐ》にや 恋《こ》ひつつ居《を》らむ 月《つき》も経《へ》なくに
波之家也思 不遠里乎 雲居尓也 戀管將居 月毛不經國
【語釈】 ○はしけやしま近き里を 「はしけやし」は、巻二(一三八)(一九六)に「はしきやし」と出た、それと同じ。「愛《は》しけ」に、「やし」の詠歎の助詞の添ったもの。ここは意味で、下の「里」にかかる枕詞。「ま近き里」は、娘子の家のある里で、里はその家を広く言いかえたもの。○雲居にや恋ひつつ居らむ 「雲居」は、雲の居る所で、きわめて遠い所の意。「に」は、のごとくの意のもの。「や」は、疑問。「恋ひつつ」は、恋の継続。○月も経なくに 「月も」は、その月をも。「経なく」は、経ぬの意の名詞形。「に」は、詠歎。
【釈】 愛すべき、間近にあるその里を、きわめて遠い所のごとくにも、恋い続けていることであろうか。別れてから月も越えないことであるのに。
【評】 一と月足らずの間、娘子の家へ通えずにいた頃の歌である。これも類歌の多いものであるが、調べのためにおのずから品位あるものとなっている。
娘子、復報へ贈れる歌一首
(456)641 絶《た》ゆと云《い》はば わびしみせむと 焼大刀《やきたち》の へつかふことは 幸《よけ》くや吾君《わぎみ》
絶常云者 和備染責跡 焼大刀乃 隔付經事者 幸也吾君
【語釈】 ○絶ゆと云はばわびしみせむと 「絶ゆと云はば」は、夫婦関係が絶えるといったならばで、王より娘子にいおうとしていることと想像してのもの。「わびしみせむ」は、わびしいすなわち心細い思いをしようかで、王が娘子を憐れんでの心。「と」は、と思って。○焼大刀のへつかふことは 「焼大刀の」は、「焼大刀」は大刀は銕《てつ》を焼いて鍛えたところからの語で、大刀というと同じ。これは、「へ」にかかる枕詞と取れる。「へ」は、隔つ、隔《へ》なるの語幹で、隔ての意の名詞。大刀は鞘《さや》に蔵《おさ》めておくものであるから、その鞘を「へ」といったのではないかと思われる。「焼大刀の」は、「へ」にかかる枕詞。「へつかふ」は、巻七(一四〇二)「湊より辺附《へっ》かふ時に放《さ》くべきものか」、他にも用例があって、「辺附かふ」は、「辺」は沖に対しての岸で、「附かふ」は、「附く」に助動詞「ふ」をつけて、その継続をあらわす語。一語で、船が岸につく時の状態をあらわす語である。船は岸にはさっそくはつけられず、つきつ離れつ、いわゆるたゆたう状態をするので、それを恋の上へも転じ、中途半端の状態を、「へつかふ」という語であらわしていたとみえる。ここはそれである。二句、中途半端のことをしているのはで、王の通って来ることの間を置くようになったのを、娘子の恨んていつているもの。○幸くや吾君 「幸くや」は、「幸」の字は諸本異同がない。旧訓「よしや」。『考』が「よけくや」と改めた。「幸《よけ》く」は、「よく」を、名詞形としたもので、よいこと。「や」は、疑問。「吾君」は、親しんでの称。呼びかけ。よいことであろうか、君よ。
【釈】 関係が絶えるといったならば、わが心細い思いをすることであろうと思って、それとはいわないが、事としてはそれと同様に、中途半端なさまを示しているのは、よいことであろうか君よ。
【評】 王の娘子の許に通うことが間遠くなった頃、娘子の恨んで訴えたものである。王にどういう事情があったかはわからないが、娘子はそうしたことは問題とせず、王の心が疎くなったことと解して、「へつかふこと」としたのである。しかしその恨みは柔らかいもので、語としては「幸《よけ》くや」と疑問の助詞を添えていっているだけで、王の人柄を信じ、王を立てて、「絶ゆと云はばわびしみせむと」といっているのである。娘子の歌としては、初めて分別を働かせていっているものであるが、恨みを思う場合にも、善意に満ちたものである。
湯原王の歌一首
642 吾妹児《わぎもこ》に 恋《こ》ひて乱《みだ》れり くるべきに 懸《か》けて縁《よ》せむと わが恋《こ》ひ始《そ》めし
(457) 吾妹兒尓 戀而乱在 久流部寸二 懸而縁与 余戀始
【語釈】 ○吾妹児に恋ひて乱れり 「吾妹児」は、上の娘子と取れる。「恋ひて乱れり」は、旧訓「恋ひて乱るる」。『代匠記』の訓。「乱れり」は、乱れありで、乱れているの意。以上、一段落。○くるべきに懸けて縁せむと 「くるべき」は、蟠車の字を当てている。糸を繰るに用いる具で、大体、台の上に短かい竿を立て、その上に木匡《わく》があって、廻るようになっている物。糸を縒《よ》り合わせるには、糸を木匡に巻いておき、糸を引くとともに木匡が廻って解けるように拵えた物。「懸けて縁せむ」は、「懸けて」は、くるべきに糸を巻いておいて。「縁せむと」は、縒り合わせむとで、二筋の片糸を一筋の糸に合わせる意。○わが恋ひ始めし 我は恋い初めたことであるよで、「し」は、「が」の結。連体形。
【釈】 我妹子に恋うて、思うに任せぬためにわが心は乱れている。その始めを思うと、我と我妹子とを、片糸のそれのごとくくるべきにかけて、たやすくも縒り合わせて一筋にしようと思って恋い初めたことであるよ。
【評】 この歌は、以上の歌の娘子と贈り報えたものであるのとは別に、王の独詠としてのものである。歌は娘子との関係の結ばれる以前のもので、求婚の交渉を始められた時は、おそらくは身分の関係上、事はきわめてたやすく進捗するものと予想されたのに、実際はそれとは反対に、甚だ困難だったので、それに感を発してのものである。「吾妹児に恋ひて乱れり」は、事が停滞しているために、心が乱れるまでに至っている現在をいったもの。「くるべきに懸けて縁せむとわが恋ひ始めし」は、予想の甚だ容易なものであったことをいったもので、これとそれとを対照させていったものである。片糸を縒り合わせて一筋とすることをもって、夫婦関係の結ばれることの譬喩にすることは、想像しやすいことであるが、それについて「くるべき」を捉えきたっていることは、やや特殊のことで、またこの歌にあっては、それが軽い物とは見えない。思うに、当時「くるべき」という具は、まだ一般的な物とはなっていず、特に便利な具であるとして注意されていたところから、交渉の容易に纏まるものという意をあらわすために用いたものと思われる。したがって三句「くるべきに」以下の譬喩は、複雑した心を単純に具象化したという意味で、創意に富み、才気の現われていたものであったろうと解される。
【評又】 以上十二首の歌は一連のものであって、おのずからに湯原王と娘子との恋愛事件の、その成立と、経過との時間的推移をあらわしている上に、王と娘子の個性をも濃厚に示していて、まさに一篇の歌物語をなしているものである。この風は従前からあったものであるが、奈良時代に入ると著しく進んできており、この一連のごときは、一つの代表的なものともなっているのである。国語をもってする物語の要求の高まりきたっていたことを示す一つの例とも見られるものである。
紀女郎《きのいらつめ》の怨恨の歌三首 鹿人大夫の女、名を小鹿といふ、安貴王の妻なり
【題意】 題の下の小字の注は、元暦本をはじめ六本にあるものである。「鹿人」は、続日本紀、天平九年九月正六位上紀朝臣鹿(458)人に外従五位下を授け、同十二月主殿頭となすとあり、同十二年外従五位上を授く、同十三年大炊頭となすとある。安貴王は、巻三(三〇六)と(五三四)に出た。「怨恨」は、夫に離別されたためのものであることが歌で知られる。
643 世間《よのなか》の 女《をみな》にしあらば 吾《わ》が渡《わた》る 痛背《あなせ》の河《かは》を 渡《わた》りかねめや
世間之 女尓思有者 吾渡 痛背乃河乎 渡金目八
【語釈】 ○世間の女にしあらば 「世間の女」は、この世に生きている女の限りはの意で、「し」は、強め。○吾が渡る痛背の河を 「吾が渡る」は、現に吾の今渡っているの意で、下の痛背の河を徒渉しつついる際の状態。河に橋がなく、越えようとすれば徒渉するのが、当時にあっては、路が小路である限りは普通のことであった。「痛背《あなせ》の河」は、集中に「痛足《あなし》の河」とあるのと同じ川で、「せ」と「し」と通じて言っていたろうとされている。それだと、奈良県磯城郡纒向村大字穴師(現、大三輪町穴師)を流れている川(現在の巻向川)で、初瀬川の一支流をなしている小流である。○渡りかねめや 「かね」は、得ずの意で、現在も用いている。「めや」は、推量の助動詞「む」の已然形「め」に疑問の「や」の続いているもので、反語。渡りかねようか、渡りかねはしないで、必ず渡るの意を強くいったもの。
【釈】 この世に生きている女である限りは、今吾が渡っている痛背の河を渡るということをしかねようか、しかねはしない。
【評】 歌は女郎が、痛背の河を渡りながら発した感慨で、一方ではその事の尋常でないのを思いつつ、同時に他方では、これは当然なことである、これは吾のみのすることではなく、この世に生きている女である限り、誰しもせずにはいられないことであると、そのことを押返して肯定した心のものである。痛背の河を渡るのを尋常でないとするのは、この河は女郎とその夫の家との間にあるもので、平常だとその河を渡るのは夫であるのに、今は妻の女郎がしているので、尋常ではないとするものと解される。この尋常でないことをあえてするのは、夫が女郎を疎遠にし、関係を絶とうとしているので、それに昂奮しての(459)行動と見なければ、この歌は解せないものとなる。歌そのものも、題詞も、その事をかなりまで明らかに示しているといえる。強い感情と理性との溶け合っている歌といえる。
644 今《いま》は吾《わ》は わびぞしにける 気《いき》の緒《を》に 念《おも》ひし君《きみ》を 縦《ゆる》さく思《おも》へば
今者吾羽 和備曾四二結類 氣乃緒尓 念師君乎 縱左久思者
【語釈】 ○今は吾はわびぞしにける 「今は」は、それまでに対させていっているもので、事の成行きの最後を、時間的にいったもの。「わびぞしにける」は、「わび」はここは物悲しい意で、物悲しくなってしまっていることよの意。○気の緒に念ひし君を 「気の緒」は、「気」は息《いき》すなわち気息で、息をすることを生きていることとしての語。「緒」は文字どおり緒で、長く続く物としていう語。「気の緒」は息の続いてゆくこと、すなわち命の意で、用例の多い語である。「に」は、のごとくの意。「気の緒に念ひし」は、わが命のごとくに思ってきたで、命がけに思ってきたという意。「君」は、夫。○縦さく思へば 「縦さく」は、原文「従左」。元暦本、他の二本に「左」の下に「久」がある。これに従う。「縦す」は、許すで、夫婦関係の上のことで、許して自由にさせる意で、手放すこと。「縦さく」は、「縦す」に「く」を添えて名詞形としたもので、手放すこと。「思へば」は、思っているので。
【釈】 今は吾は物悲しい心となってしまっていることであるよ。命にかけて思ってきたところの君を、手放すことと思うので。
【評】 女郎が、夫との関係が全く絶望的なものとなってしまった時に、嘆いて詠んだものである。「今は吾はわびぞしにける」と、まず嘆きをいい、それ以下をもって事をいっている形は、その嘆きの強く、生々《なまなま》しいことをあらわしているもので、事の絶望に終わった直後の心である。前の歌と時間的に連絡をもちうるものである。二首、感情の強さは同様で、人柄とともに歌才をも思わしめるものである。
645 白細《しろたへ》の 袖《そで》別《わか》るべき 日《ひ》を近《ちか》み 心《こころ》に咽《むせ》ひ 哭《ね》のみし泣《な》かゆ
白細乃 袖可別 日乎近見 心尓咽飯 哭耳四所泣
【語釈】 ○白細の袖別るべき日を近み 「白細の」は、「袖」にかかる枕詞。「袖別るべき」は、袖の別れなければならないの意で、「袖別る」は、夫婦の相睦んでいることを、「袖さしかへ」「袖携はり」など具象的にいっているのの反対で、夫婦の遠ざかる意をあらわしているもの。用例の多い語である。「べき」は、それをしなくてはならない意をあらわしたもので、離別の心をもって言っているものである。「日を近み」は、その日が(460)近くして。以上、夫の疎遠にするところから、関係の絶えるべき成行きを予想しての言と取れる。○心に咽ひ哭のみし泣かゆ 「心に咽ひ」は、心が、悲しみに咽《む》せかえって。「哭のみし泣かゆ」は声を立ててばかり泣かれるで、「し」は強め。「咽ひ」の「ひ」は清音であったらしい。
【釈】 相携わってきた袖が別れなければならない日が近いので、その悲しみに心が咽せかえって、声を立ててばかり泣かれる。
【評】 この歌は、前の二首に較べると心が柔らかで、近づき来たる悲しみを予想して嘆いているのみで、昂奮を帯びていないものである。その意味で、上の二首より後のものではなく、前のものであろうと思われる。すなわち夫より疎遠にされるので、その成行きとして絶縁の日の近づき来たることを予想し、悲しみに浸っていた頃のこととみえる。この心の行詰まりが前の二首の歌となったのであろう。『新考』もそういう解をしている。激情となった時の歌ほどには面目を発揮していないものである。
大伴宿禰駿河麿の歌一首
【題意】 「駿河麿」は、巻三(四〇〇)に出た。また(六四九)の左注にも出ている。大伴宿禰御行の孫で、父は誰であるか明らかではない。坂上郎女には姪《おい》にあたり、坂上家の二嬢《おといらつめ》を妻とした人である。
646 大夫《ますらを》の 思《おも》ひわびつつ たびまねく 嘆《なげ》く嘆《なげき》を 負《お》はぬものかも
大夫之 思和備乍 遍多 嘆久嘆乎 不負物可聞
【語釈】 ○大夫の思ひわびつつ 「大夫」は、健き男子の意で、ここは嘆きなどはしないものとしていったもの。「思ひわび」は、熟語で、思い悲しむ意。「つつ」は、継続。○たびまねく嘆く嘆を 「たびまねく」は、「たび」は、度《たひ》で、数の意。「まねく」は、「多く」の古語。「たびまねく」はたびたびの意。「嘆く嘆」は、嘆いてする歎息。○負はぬものかも 「負ふ」は、上より続いて、嘆きを負うで、「負ふ」は、語としては負いもつことであるが、崇《たたり》を受けるという、その受けるにあたる語で、人に嘆きをさせると、その報いを身に受けて禍をこうむる意でいっているもの。「かも」は、「か」の疑問に、「も」の詠款の添ったもの。一句、身に受けないものであろうかというので、必ず受けるものだということを、婉曲にいったもの。
【釈】 大夫たる我が、思い悲しんで、たびたびも嘆いてする歎息を、それをさせる御身が、報いとして身に受けないものであろうか。
【評】 この歌で見ると、駿河麿が求婚をしている女に贈ったもののごとく見えるが、左注によると、以下三首の歌とともに、(461)坂上郎女と贈報したものであることがわかる。またこれらの歌の性質も、姑《おば》姪《おい》の間で起居を相問うたものであると断わっているので、その左注を信ずるよりほかはない。思うに左注は、この歌に対して人が誤解を抱きはしないかと危ぶんで添えたものであろうが、まさにその要のある歌と言うべきである。巻三(四〇七)によると、駿河麿は坂上家の二嬢《おといらつめ》の、まだ婚期には達しかねる娘を娉《よば》っている。この歌で見ると、その娉《つまど》いは成立ち、夫婦関係が結ばれたが、二嬢は郎女の保護の下にあり、駿河麿としては思うままには逢いかねる状態であったので、それを嘆いて二嬢に贈ったものではないかと思われる。報《こた》え歌は、郎女が二嬢に代わって詠んだもので、これは坂上大嬢の家持に贈る歌を、母の郎女が代わって詠んでいる例もあって、当時としてはさして特別のことではなかったと言える。以上は想像で、拠り所をもたないものであるが、そう解さなければ歌そのものが解しかねるからである。今はこう解しておく。
大伴坂上郎女の歌一首
647 心《こころ》には 忘《わす》るる日《ひ》なく 念《おも》へども 人《ひと》のことこそ 繋《しげ》ぎ君《きみ》にあれ
心者 忘日無久 雖念 人之事故 繁君尓阿礼
【語釈】 ○心には志るる日なく 「心には」の「は」は、事実に対させたもので、その事実は言外に置いている。○人のことこそ繁き君にあれ 「人のこと」は、「こと」は言、人の噂で、女性に関しての風評。
【釈】 心では、忘れる日とてもなく思っているけれども、他の女性に関しての風評の多い君ではあることよ。
【評】 「人のこと」を問題とし、それゆえに、心には思っているけれども逢わないと、婉曲に断わっている歌で、これは夫婦関係の間でないと言うべくもないことである。これは上に言ったように、郎女自身の心ではなく、二嬢《おといらつめ》に代わってのものと思われる。言い方は穏やかなものであるが、高く地歩を占めて言っているものである。
大伴宿禰駿河麿の歌一首
648 相見《あひみ》ずて け長《なが》くなりぬ この日《ごろ》は いかに好去《さき》くや いぶかし吾妹《わぎも》
不相見而 氣長久成奴 比日者 奈何好去哉 言借吾味
(462)【語釈】 ○相見ずてけ長くなりぬ 「相見ずて」は、夫婦として相逢わずして。「け長く」の「け」は、「日《か》」の転で、時の意。時久しく。○いかに好去くや 「いかに」は、いかにありやで、安否を疑う意。「好去《さき》くや」は、原文「好去哉」。旧訓「よしゆきや」。諸注さまざまに訓んでいる。問題となるのは、『考』の「よけくや」、『攷証』の「さききや」、『古義』の「さきくや」である。巻九(一七九〇)「吾が思ふ吾子《わこ》真好去《まさきく》有《あ》りこそ」をはじめ、多くの例に従って『古義』に従う。「好去」は漢語で、「好」は吉《よ》く、「去」は行くで、時の過ぎ行く意。無事なりやの意。○いぶかし吾妹 「いぶかし」は、訝しく不審に思うよ。「吾味」は、「妹」だけだと、女子に対しての称であるから、郎女にも言いうる称であるが、「吾」を添えて特に親しみの意をあらわしているので、妻すなわち二嬢《おといらつめ》と取れる。呼びかけである。
【釈】 相逢わずして時久しくなった。どのような様子であるか、無事なのであるか、不審に思うよ、吾味よ。
【評】 これは久しく逢わずにいる妻に対しての心とすると淡泊なもので、親族の長上としての郎女に対してのものとも見られるものである。駿河麿としては、こういう言い方をする必要のあってのことと思われる。妻が郎女の意志次第の者であり、相聞の歌が郎女の眼を経るものであるとすれば、立ち入ってのことは言うまいとしたのかもしれぬ。その時の事情に即した実用性の歌であるから、それ以上は知られない。
大伴坂上郎女の歌一首
649 夏葛《なつくず》の 絶《た》えぬ使《つかひ》の よどめれば ことしもある如《ごと》 念《おも》ひつるかも
夏葛之 不絶使乃 不通有者 言下有如 念鶴鴨
【語釈】 ○夏葛の絶えぬ便の 「夏葛の」は、夏の葛の蔓の、伸びて続いている意で、「絶えぬ」にかかる枕詞。「絶えぬ使」使は、間断なき使で、使は駿河麿の消息をもたらすもの。○よどめれば 旧訓「かよはねば」。『略解』の訓。通うことが淀むで、絶えているので。○ことしもある如念ひつるかも 「こと」は、事で、異変。「しも」は、強め。きっと何か異変があるように思ったことであるよ。
【釈】 君よりの間断なき使が、この頃は絶えているので、きっと何か異変があるように思ったことですよ。
【評】 これは上の歌の報《こた》えではなく、郎女のほうから贈ったものである。しばらく使が来ないと、こちらから積極的に使をやるという状態であったことを示しているものである。これも二嬢《おといらつめ》に代わってのものと取れる。
右、坂上郎女は、佐保大納言卿の女なり。駿河麿は、これ高市大卿の孫なり。両卿兄弟の家、女(463)孫姑姪の族、ここを以ちて、歌を題し送答し、起居を相問ふ。
右、坂上郎女者、佐保大納言卿之女也。駿河麿、此高市大卿之孫也。両卿兄弟之家、女孫姑姪之族、是以、題v謌送答、相2問起居1。
【解】 「佐保大納言卿」は、大伴安麿。「高市《たけち》大卿」は、『代匠記』が、大伴|御行《みゆき》かといい、爾来定説のごとくなっていたが、御行であることを証する文献はない。『講義』は、安麿は長徳《ながとこ》の六男であって、兄弟が多いから、その誰の称であるか不明であるとしている。従うべきである。したがって駿河麿の父の誰であるかも明らかにし難い。「女孫」は、安麿兄弟を基としていっているもので、一方は女《むすめ》、一方は孫という関係を言ったもの。「姑姪」は、郎女と駿河麿とを基としての関係で、「姑」は「をば」で、郎女は駿河麿にとっては、親の従兄弟姉妹であるところから、「をば分《ぶん》」であり、「姪」は「をひ」で、兄弟の子は、男女を通じてこの文字を用いたのである。「歌を題し送答し、起居を相問ふ」は、歌をもって互いに安否を問い合ったの意であるが、後の二首は強いて言えばそうも言えようが、前の二首はそうは取り難いものである。安否を問い合うにも、恋愛的の言い方をする風は歌の上にはあることであるが、それにしても甚しく度を超えたものである。この注を添えた撰者は、実用性の歌も文芸性のものとしたい意図があって、その意図から添えたものではないかと思われる。
大伴宿禰三依、離《わか》れて復《また》相《あ》へるを歓ぶ歌一首
【題意】 「三依」は、(五五二)に出た。
650 吾妹児《わぎもこ》は 常世《とこよ》の国《くに》に 住《す》みけらし 昔《むかし》見《み》しより 変若《をち》ましにけり
吾味兒者 常世國尓 住家良思 昔見從 變若益尓家利
【語釈】 ○常世の国に住みけらし 「常世の国」は、黄泉国の意でもいうが、また不老不死の国の意でもいう。ここはその後の意のものである。これは中国の道教のいうところのもので、伝来して喜ばれ、当時甚しく喜ばれていたものである。想像上の国である。「住みけらし」の「らし」は、眼前を証としての推量。その証は、下の「変若《をち》」である。○昔見しより変若ましにけり 「昔見し」は、以前に関係をもって逢っていた時。「変若」は、旧訓「わかへ」。『攷証』の訓である。「変若」は、若返る意の動詞で、集中に例の多いものである。「まし」は、敬語とするための助動詞。(464)「に」は、完了。「けり」は、詠歎。若返られたことであるよで、女性に敬語を用いるのは普通となっていた。常世の国の草を食うと若返り、また月の中には、飲むと若返る水があるなどということが信じられていたのである。
【釈】 吾妹子はきっと常世の国に住んでいたのであろう。以前逢っていた時よりは若返られたことであるよ。
【評】 若さを喜ぶ情の最も強い女性に、以前より若返ったというのは、明らかに世辞と取れるが、常世の国の信仰が一般化していた雰囲気の中において言っているものであるから、割引をしなくてはならないものであろう。それにしても誇張の加わっているものであることは明らかである。明るく軽い歌である。
大伴坂上郎女の歌二首
651 久堅《ひさかた》の 天《あめ》の露霜《つゆじも》 置《お》きにけり 宅《いへ》なる人《ひと》も 待《ま》ち恋《こ》ひぬらむ
久堅乃 天露霜 置二家里 宅有人毛 待戀奴濫
【語釈】 ○久堅の天の露霜 「久堅の」は、「天」の枕詞。「天の」は、天の物のの意。「露霜」は、熟語。晩秋初冬のもので、今いう水霜《みすじも》。○置きにけり 「に」は、完了。「けり」は、詠歎。○宅なる人も 家にある人もまたの意で、郎女が家を離れて旅にいたことを示している。夫とは家を異にしているので、その家にある者は娘である。「も」は、もまたで、我と同じくの意をもって下へ続く。○待ち恋ひぬらむ 我に逢うことをいたく待ちこがれていることであろう。
【釈】 今朝見ると、天《あめ》の露霜が地に置いていることであるよ。家にいる者もまた我と同じく、逢い見ることをいたく待ちこがれていることであろう。
【評】 旅愁をいったものであるが、それを感じさせる者は「宅なる人」すなわち娘であって、男の旅愁とは異なっている。加えて、我を主とせず、我は、「も」の一助詞によって暗示するにとどめ、「宅なる人」のほうを主としているのである。これは型のごとくになっていたことである。旅での日の重なっていることを、朝に見た露霜であらわし、「天の」を添えることによってその感を重からしめている点、また、日のつもりだけではなく、季節のもたらすさみしさも暗示している点など、一首の調べの張ったのと一つになって、事は常凡であるが、力のある歌となっている。
652 玉主《たまぬし》に 珠《たま》は授《さづ》けて かつがつも 枕《まくら》と吾《われ》は いざ二人《ふたり》宿《ね》む
(465) 玉主尓 珠者授而 勝且毛 枕与吾者 率二將宿
【語釈】 ○玉主に珠は授けて 「玉主」は、「玉」は下の続きで、わが愛娘の譬喩と知れる。掌中の珠ともいってい、熟した譬喩である。したがって玉主は、娘の夫の譬喩である。「珠は授けて」は、娘は与えての意で、すなわち婚を許しての譬喩。「授けて」という言い方は、親という地位を示しているもの。○かつがつも 「かつがつ」は、「かつ」の畳語で、物の十分でない意をあらわす副詞。口語の、まずまずというにあたる。○枕と吾はいざ二人宿む 「枕」は、わが夜の枕。ここは、共に寝る相手としていっているもので、娘の代わりとした物。「いざ」は、誘う意の感動詞で、ここは我と我を誘う意のもの。「二人」は、枕を擬人しての語であるが、それをしたのは、娘の代わりとしたからである。「宿む」は、夜、寝ようとする際であることをあらわしたもの。
【釈】 その玉の持主となってゆくべき者すなわち聟に、わが珠として身を離さずにいた娘を授けたので、夜を寝るにも相手のない我は、まずまずわが枕で我慢をして、この枕と二人で、さあ、これから寝よう。
【評】 娘を結婚させてその夫の物としてしまった母親のもつ一種の寂寥感を詠んだもので、結婚させた夜、自身寝ようとして、これまでは娘と枕を並べて寝たのとはちがって、自分ひとりきりで寝て、辺りのさみしさを痛切に感じさせられた時を捉えて詠んでいるものである。一首、複雑した気分を単純に具象してあって、手腕を思わせるものである。「王主に珠は授けて」は、娘というものは、いったん夫をもたせると、全く夫のものとなってしまうものであることを、十分意識しての言い方で、単純な譬喩の中に、この意識を託し得ているものである。譬喩ではあるが、それでなければ心のあらわせない必要をもったものである。「かつがつも」という語も、娘に代わって、夜を身に添う物はわが枕よりしかないと思う、そのさみしさを託した語で、その枕と吾とを「二人」という語で徹底させて、その心を明らかにしている。いざという語も、寝ようという気にもなれないのを、我と励ましてその気にならせようとする語で、複雑した気分を託している。三句以下、枕を擬人した形でいっているが、この擬人も、これをすることによって初めてその心のあらわせる、必要なものである。娘を結婚させた後の親の心は、古来あらゆる親の体験しているものであるが、歌となっているものはきわめて少なく、これはその代表的のものである。この歌は母性愛を詠んだ独詠であって、相聞の範囲のものではないが、結婚に関係しているものとして、ここに加えたのであろう。
大伴宿禰駿河麿の歌三首
653 情《こころ》には 忘《わす》れぬものを たまさかに 見《み》ぬ日《ひ》さ数多《まね》く 月《つき》ぞ経《へ》にける
(466) 情者 不忘物乎 儻 不見日数多 月曾經去來
【語釈】 ○情には忘れぬものを 「情には」は、心と行とを対させていっているもの。○たまさかに 原文「儻」、旧訓「たまたまも」で、義訓である。『攷証』は「たまさかに」と改め、巻十一(二三九六)「玉坂《たまさか》に吾が見し人を」を例とし、この字は中古の字書には、「たまさか」とも「たまたま」とも訓ませてあり、二様の訓があるが、「たまたま」という語は中古以来のことで、古くは上の例のように「たまさか」といっていたと考証している。これに従う。意味はどちらも同じで、ここは口語の、時たまにというにあたる。○見ぬ日さ数多く 「さ数多く」は旧訓「数多《かずおほ》く」。『略解』の訓である。「さ」は、接頭語、「まねし」は多しで、用例の多い語である。逢わない日が数多く。○月ぞ経にける 月も経て行ったことであるよ。
【釈】 心では常に忘れずにいるものを。それとしては時たまのこととして、逢わない日が数多くなって、月も経て行ったことであるよ。
【評】 足遠くしていることの弁解で、実用性のものである。落着いているというよりも、むしろ気乗りのしていない口気のもので、儀礼ということを思わせる歌である。
654 相見《あひみ》ては 月《つき》も経《へ》なくに 恋《こ》ふといはば をそろと吾《われ》を おもほさむかも
相見者 月毛不經尓 戀云者 乎曾呂登吾乎 於毛保寒毳
【語釈】 ○相見ては月も経なくに 「相見ては」は、相逢ってからは。「月も経なくに」は、「月」は、一か月。「経なく」は、「経」を打消して名詞形としたもので、経ないことであるに。○をそろと吾をおもほさむかも 「をそろ」は、「をそ」は、『仙覚抄』および『奥儀抄』を引用した『代匠記』以来嘘の古語とされてきたが、『全註釈』は軽率、周章の意と推察し、『古典大系』補注にも軽はずみ、軽率の意としている。従うべきである。「ろ」は、接尾語。巻十四(三五二一)「烏とふ大をそ鳥の」とあり、烏という大あわて鳥の意。「おもほさむかも」は、思われるであろうかで、敬語。「かも」は、疑問。
【釈】 相違ってからは、まだ一月も経ないことであるのに、恋うているといったならば、軽はずみだと我を思われることであろうか。
【評】 前の歌と同時のものと思われる。夫婦間で、一月足らずも逢わずにいて、逢いたいということをいうのに、遠慮がいり、躊躇があったということは、むしろ自然である。誰に贈った歌かはわからないが、こうした夫婦関係は特殊なもので、その点(467)から、坂上家の二嬢《おといらつめ》に贈ったものではないかと思わせる。
655 念《おも》はぬを 思《おも》ふと云《い》はば 天地《あめつち》の 神祇《かみ》も知《し》らさむ 邑礼左変
不念乎 思常云者 天地之 神祇毛知寒 邑礼左變
【語釈】 ○念はぬを思ふと云はば 偽をいったならばの意で、それを夫婦関係の上に及ぼしてのもの。これは神は偽を咎められるものとして、神を対象としての言である。○天地の神祇も知らさむ 天神も地祇も、すなわち、あらゆる神々がお知りになられようで、神は一切を見とおし給うとしていったもの。○邑礼左変 旧訓「さとれさかはり」で、意をなさない。諸注、訓を試みているが、すべて迎えて解した上で、誤写説を立て、文字を改めるものばかりである。問題としてこのままにしておく。
【釈】 略す。
【評】 初句より四句まで続いて句絶をもち一段落をなすので、四句まではわかる。夫より妻に対して、誠実を誓った心のもので、例の多いものである。結句はたぶん、上を承けて、その誓いを強めようとしたものであろう。
大伴坂上郎女の歌六首
656 吾《われ》のみぞ 君《きみ》には恋《こ》ふる 吾《わ》が背子《せこ》が 恋《こ》ふといふことは 言《こと》のなぐさぞ
吾耳曾 君尓者戀流 吾背子之 戀云事波 言乃名具左曾
【語釈】 ○吾のみぞ君には恋ふる 我だけが君に恋うていることであるよ。○吾が背子が恋ふといふことは 「吾が背子」は、最も愛しての称で、夫に対してのもの。「恋ふといふことは」は、我を恋うているということは。○言のなぐさぞ 「言」は、言葉としての。「なぐさ」は、慰めの語幹で、意は慰め。言葉としての慰めで、口さきだけの上手というにあたる。
【釈】 我だけが君を恋うていることであるよ。わが背子が我を恋うているというのは、我に対しての口さきだけの上手言、慰め言であるよ。
【評】 我を恋うていると夫よりいわれたのに対しての報《こた》えである。相手の誰であるかは、題詞がないので明らかではない。し(468)かし、前の(六四六)より(六四九)にわたる四首の、駿河麿と郎女との贈答の歌と同系統のものではないかと思われる。それは坂上家の二嬢《おといらつめ》に代わってのものであろうと言ったが、これも同じくそれであろうと思われる。いうところは別居している夫婦間の普通の人情にすぎないものであるが、聡明な、世故に通じた人が、媚態を失わない程度の態度を保ち、余裕をもって品よくいっているもので、それが、一首の語続きの清らかなのと相俟って魅力をなしているものである。
657 念《おも》はじと いひてしものを 翼酢色《はねずいろ》の 変《うつ》ろひやすき 吾《わ》が意《こころ》かも
不念常 曰手師物乎 翼酢色之 變安寸 吾意可聞
【語釈】 ○念はじといひてしものを 「念はじと」は、君のことは思うまいで、夫を恨むことのあった時の言。「いひてし」の、「て」は完了。いったものをで、強めたもの。○翼酢色の 「翼酢」は、唐棣花とも書き、その物は不明で、したがって諸説がある。巻八(一四八五)「夏まけて咲きたる唐棣花《はねず》」とあって、初夏に花が咲き、また巻十一(二七八六)「唐棣色の赤裳のすがた」により、その色が紅の物とは知れる。ここは下の続きで、その花の色の褪《あ》せやすいところから、変わりやすいことの譬喩としてあるもので、「の」は、のごとくの意のものである。褪せやすいのは、たぶん染料として用いてのことと思われる。○変ろひやすき吾が意かも 「変ろふ」は、「変る」の継続をあらわす語。変《うつ》るは移るで、変化する意である。「変ろひやすき」は、変わってゆきやすい意で、そのことは、「念はじ」といったのが変わって、今は君を思わせられている意である。「かも」は、詠歎。
【釈】 君の恨めしさに、今よりは君を思うまいと言ったものを、翼酢色のごとくにも変わってゆきやすく、今は君を思わせられているわが心ではあるよ。
【評】 これは前の歌とは別の時のもので、訴えの心をもって妻より夫に贈ったものである。言わんとするところは、君の恋しく思われるということで、通って来ることを求めているものであるが、「変ろひやすき吾が意かも」といって、「念はじと」の照応によって思うことを暗示しているという間接な言い方をしているものである。その「変ろひやすき」の譬喩として捉えている「翼酢色の」は、染料として女性に関係のある物として捉えたもので、したがって翼酢の咲く初夏のことという関係もあり、かたがた適切なものと思える。淡泊な言い方の中に濃情を包み、心高さ、心細かさももっている歌である。
658 念《おも》へども しるしもなしと 知《し》るものを いかにここだく 吾《わ》が恋《こ》ひ渡《わた》る
(469) 雖念 知僧裳無跡 知物乎 奈何幾許 吾戀渡
【語釈】 ○念へどもしるしもなしと 「しるし」は、験《げん》で、「甲斐」というにあたる。夫を思ったけれども、その甲斐のないということを。○いかにここだく 旧訓「なぞかくばかり」。諸注、さまざまの訓を試みている。「奈何」を「いかに」と訓んだのは、『新訓』である。これに従う。「幾許」を「ここだく」と訓んだのは、『攷証』である。何《なに》なればかく数多く、すなわち繁くも。○吾が恋ひ渡る わが恋い続けるのであろうかで、「か」は、上の「いかに」のもっているもの。
【釈】 君を思ったけれども、何の甲斐もないことはすでに知っているものを。何なればかく繁くも、吾は恋い続けることであろうかよ。
【評】 これは上の歌とは、また別の時のもので、夫が足遠くして通って来ない時に、強くも訴えようとしてのものである。しかし詠み方は、この歌もまた独詠のような態度を取ったものである。いかなる場合にも、ある程度の優越感は失うまいとしていたとみえる。
659 予《あらかじめ》 人《ひと》ごと繁《しげ》し かくしあらば しゑや吾《わ》が背子《せこ》 奥《おく》も何加《いか》にあらめ
豫 人事繁 如是有者 四惠也吾背子 奧裳何如荒海藻
【語釈】 ○予人ごと繁し 「予」は、以前からで、下の「奥」に対させたもの。「人ごと」は、人言で、ここは自分ども夫婦関係に対して、他人の言うこと。人言の範囲は広く、単に興味よりの噂もあるが、悪意よりする中傷もある。次の歌では、同じ事を「中言《なかごと》」といっているので、悪意のものと取れる。○かくしあらば 「し」は、強め。このようであったならばで、結句に続く。○しゑや吾が育子 「しゑや」は、間投詞。『代匠記』は「よしや」の意であるといっているが、本居宣長は歎息の声だと解している。宣長に従う。「吾が背子」は、呼びかけたもの。○奥も何如にあらめ 「奥」は、時の上に移して、末の意にも用いてい、その例は多い。ここは末。「も」はもまたで、「予」と並べたもの。「何如にあらめ」は、「何如に」は、どのようにで、「人ごと」を対象としたもの。「あらめ」は、原文「荒海藻」、旧訓「あらも」、『攷証』が「あらめ」と改めたものである。『和名抄』に、「滑海藻、阿良米。俗用2荒布1」とあって、その義訓だというのである。「め」は、未来の助動詞「む」の已然形。上に疑問の語「いかに」「誰」などがある時に用いている。
【釈】 以前から、我らの間については、他人の中傷の言葉が多い。このようであったならば、ああわが背子よ、末はどのような人言《ひとごと》をされることであろうか。
【評】 前の歌とは別の時のもので、自分どもの夫婦関係について、他人の中傷の言のあることを聞き、それが自分のほうにい(470)っそう不利なもので、夫が聞いたならばどのような気がしようと憂えられるものであったとみえる。いったん夫婦関係が結ばれた以上、妻のほうがいかに心高くあろうとも、実際は弱者とされてくるのが普通である。この歌はそれらの事を背後に置いて、夫に婉曲に注意を求め、また当惑の情を訴えたものである。線は細いが、真率の気の貫いた、感のある歌である。
660 汝《な》をと吾《わ》を 人《ひと》ぞ離《さ》くなる いで吾《わ》が君《きみ》 人《ひと》の中言《なかごと》 聞《き》きこすなゆめ
汝乎与吾乎 人曾離奈流 乞吾君 人之中言 聞起名湯目
【語釈】 ○汝をと吾を 汝と吾とをの意で、物を二つ並べる場合、下の物に「と」を添えないのは古格である。「汝を」の「を」は、他に例のないものである。『代匠記』は助語なりといい、『攷証』『古義』も同様であるが、『新考』は衍字《えんじ》ではないかと疑っている。諸本異同がない。○人ぞ離くなる 他人が離間しようとしていることであるよ。○いで吾が君 「いで」は、感動詞。ここは呼びかけのために用いているもの。「吾が君」は、上の「汝を」で、改まっての称で、呼びかけ。○人の中言聞きこすなゆめ 「人の中言」は、他人の中傷の言で、上の離《さ》けようとしてのもの。「聞きこすな」は、原文「聞起名」、旧訓「聞き起《た》つな」。『考』は、「起」は「越」の誤りかとしている。しかし、「越す」の「こ」は甲類で、「起す」の「こ」は乙類でこれは認められない。『略解』に「おこすのおを略きて仮字に用たり」とあるのにより、「おこす」の「お」を略した借訓とすべきであろう。「こす」は希求の意の語である。「聞きこすな」は、聞いてくれるな。「ゆめ」は、強い禁止の語。
【釈】 汝《な》れと吾とを、他人が離間しようとしていることであるよ。いでわが君よ、他人の中傷の言葉を聞いてくれるなよ、けっして。
【評】 これは心としては前の歌に続いているもので、一歩進めていっているものである。たぶん同時のもので、事を重大なりとし、明らかにいい、強く訴えようとしたものと思われる。この歌はそうした際の女性の強さをあらわしているものである。
661 恋《こ》ひ恋《こ》ひて あへる時《とき》だに 愛《うつく》しき こと尽《つく》してよ 長《なが》くと念《おも》はば
戀々而 相有時谷 愛寸 事盡手四 長常念者
【語釈】 ○恋ひ恋ひてあへる時だに 「恋ひ恋ひて」は、恋いに恋うてで、自身の恋の久しいことをいったもの。「あへる時だに」は、たまたま逢った時だけなりとも。○愛しきこと尽してよ 「愛《うつく》しき」は、旧訓。「うるはしき」とも訓みうる文字である。可愛ゆいという意で、ここはやさしいというにあたる。「こと尽してよ」は、「こと」は、言。「尽し」は、ここは十分にいう意。「よ」は、ここは要求の意を強めた助詞。やさしい言(471)葉を十分に給えよの意。○長くと念はば 夫婦関係を永く続けようと思うならば。
【釈】 恋いに恋うて、たまたま逢った時だけなりとも、やさしい言葉を十分に給えよ。この関係を永く続けようと思うならば。
【評】 これは相逢った夜の訴えである。居を別にしていた夫妻の気分の、おのずからに濃厚に出ている歌である。初句より四句までもそれであるが、ことに結句「長くと念はば」はその極まったもので、妻の立場からいうと、関係の永続は希《ねが》っているが、最後の一線の如何《いかん》ともし難いものを、常に意識にのぼせていなければならなかったことを示しているものである。今日からみると、夫婦関係がじつに自由で、妻からいうと常に不安の伴ったものだったのである。
【評又】 以上六首の歌は、(六五六)にいったがように、坂上家の二嬢《おといらつめ》から夫駿河麿に贈りまた報《こた》える歌を、郎女が代作したものではないかと思われるのである。その拠り所はすでにいったが、さらにまた、歌の排列順もその事を思わせる。この排列をしたものは大伴家持であろうが、家持はその間の事情を知っていてのことと思われるからである。他の何よりもその事を思わせるのは、この六首のうち、他よりの中傷言を問題とした(六五九−六六〇)の二首を除いた四首は、いったがごとく巧妙ではあるが、実感の少ない、余裕をもったもので、題詠に近い趣をもった歌で、郎女自身のことをいっているものとは思われ難いからである。加えて、(六五六−六五八)までの三首は、そのいうところは妻としての訴えであるが、ある地歩を占めての上でするという趣をもっているものである。これは郎女が二嬢を擁護しようとする心から出ているもので、二嬢としてはなし得ないことであり、また郎女自身のものとするとおそらくしないことだろうと思われるからである。この六首を続けて見ると、初めの三首はいうがごとく地歩を占めてのものであるが、後の三首は対等の態度のものであり、ことに最後の一首は心弱い訴えとなっていて、時とともに心の推移してゆく跡が、おのずからに歌物語をなしている。これはその時々の実際に即したものであることの自然の成行きであって、作者の意図以外のものである。
市原王の歌一首
【題意】 「市原王」は、巻三(四一二)に出た。
662 網児《あご》の山《やま》 五百重《いほへ》隠《かく》せる 佐堤《さで》の埼《さき》 さではへし子《こ》が 夢《いめ》にし見《み》ゆる
網兒之山 五百重隱有 佐堤乃埼 左手蠅師子之 夢二四所見
(472)【語釈】 ○網児の山 「網児」は、巻一(四〇)に出た。志摩国|英虞《あご》郡(現、三重県志摩郡の一部)で、古の国府のあった辺り。網児にある山。○五百重隠せる佐堤の埼 「五百重」は、幾重にもという意を具象的にいったもの。「隠せる」は、隠しているで、事としては繞らしているのであるが、山が心あってしているごとく言いかえたもの。「佐堤の埼」は、所在不明。諸説があるが一定しない。○さではへし子が 「さで」は、小網《さで》と当ててもいる。漁具で、現在も用いている。「はへ」は、「延《は》へ」の意。小網を使うことは、さすというが、そのさまを具象的にいった語。「子」は、女を親しんでの称で、ここは海人《あま》である。○夢にし見ゆる 「し」は、強め。「見ゆる」は、連体形で、詠歎を含めているもの。
【釈】 網児の山の幾重にも隠しているところの佐堤の埼よ、そこで小網《さで》をさし延ばして漁りをしていた海人の女が、夜の夢に見えることであるよ。
【評】 大和に住んでいられる王には、たまたま見る網児の海が、珍しく心引かれるものであったとみえる。またそこに小網を使って漁りをしている海人の女も、同じく珍しく心引かれるものであったとみえる。その昼見た印象が夜の夢となり、時の距離の関係で一体に溶け合って、新たに珍しく心引くものとなってきたのである。この複雑した気分を、抒情の一語もまじえず、純客観的に言うことによってあらわしているのがこの歌である。初句より三句まで、地名を重ねて力強くいうことによって、風景をあらわし、四句人事をあらわし、結句はそれを承ける形で、全体に対する憧れをあらわしたもので、はなはだ要を得た扱い方である。心細かさ、静かさがそれに伴って、一首を生かしている。赤人を代表とする自然観照を進展させ、人事を加えきたったもので、後の平安朝時代に及んでゆく風である。この歌は、「さではへし子」が中心となっているので相聞に加えたものと思われるが、羈旅の歌である。
安都《あと》宿禰|年足《としたり》の歌一首
【題意】 「安都」は、元暦本以外の諸本には安部とあるが、目録には安都とある。『代匠記』は安倍氏は姓は朝臣で、安都氏は宿禰であるから、安都の誤りだとして正している。続日本紀、文武紀、慶雲元年従五位上|村主百済《すぐりくだら》に阿刀連《あとのむらじ》を賜わり、元正紀、養老三年正八位下阿刀連人足らに宿禰の姓を賜うとある。「年足」の伝は未詳である。
663 佐穂《さほ》渡《わた》り 吾家《わぎへ》の上《うへ》に 鳴《な》く鳥《とり》の 声《こゑ》なつかしき 愛《は》しき妻《つま》の児《こ》
佐穗度 吾家之上二 鳴鳥之 音夏可思吉 愛妻之兒
(473)【語釈】 ○佐穂渡り 「佐穂」は、佐保の字を用いたものが多い。奈良市の西北の地で、既出。「渡り」は、諸注、解が異なり、『代匠記』は辺《あた》り、『古義』は佐保河を渡りと解している。『新考』は下の鳥の飛び渡る意と解し、一句、佐保の里を飛び渡って来てとしている。下の続きからこの解に従う。○吾家の上に鳴く鳥の 「吾家《わぎへ》」は、わが家の約で、例の多いもの。「鳥の」の「の」は、のごとくの意のもので、わが家の上に鳴いている鳥のごとく。○声なつかしき愛しき妻の児 「声なつかしき」は、ものいう声のなつかしく。「愛しき妻の児」は、「愛しき」は可愛ゆき。「妻の児」の「児」は、親しんで添えた語で、妻。下に詠歎の含まっている形のもの。
【釈】 佐保の里を飛び渡って来て、今わが家の上に鳴いている鳥のごとくにも、ものいう声のなつかしく、可愛ゆいわが妻よ。
【評】 歌で見ると、年足の家は佐保に接した地にあったものとみえる。「佐穂渡り吾家の上に鳴く鳥」というのは、佐保は佐保山に沿った地で小鳥の多い所で、そちらから年足の家のほうへ飛んで来て鳴いている鳥であるが、家の内にいて鳥の飛んで来た方面の知れるのは、高く鳴きつつ飛んで来るものでなくてはならない。それだとほととぎすで、したがって聞いたのは夜である。ほととぎすの愛すべき声を聞くと、それによって妻の声のなつかしさが連想され、「愛しき妻の児」と思慕の情を寄せたのである。初句より三句までの譬喩は眼前を捉えているもので、それが一首の生命をなしている。妻のものいう声のなつかしさを讃えるということは、あってしかるべきものであるにもかかわらず、例の少ないもので、その意味でこの歌は珍しいものである。しかし作者としては実際に即していっているだけで、他意あるわけではない。
大伴宿禰|像見《かたみ》の歌一首
【題意】 「像見」は『全註釈』によって、天平勝宝二年四月、正六位上で摂津職の少進であったことが明らかにされた。続日本紀、天平宝字八年正六位上より従五位下、神護景雲三年左大舎人助、宝亀三年従五位上となったことがわかる。
664 石上《いそのかみ》 零《ふ》るとも雨《あめ》に さはらめや 妹《いも》にあはむと いひてしものを
石上 零十方雨二 將関哉 妹似相武登 言義之鬼尾
【語釈】 ○石上零るとも雨にさはらめや 「石上」は、大和国山辺郡(奈良県天理市石上)の地名、巻三(四二二)に既出、その内に布留《ふる》の地があるので、布留と続け、零《ふ》る、古るに転じてその枕詞としたもの。「零るとも雨にさはらめや」は、たとい降ろうとも、雨のために妨げられようか、妨げられないで、「や」は反語。○妹にあはむといひてしものを 妹に逢おうと約束をしてしまっているものをで、「てし」の「て」は完了。
(474)【釈】 たとい降ろうとも、雨のために妨げられようか、妨げられはしない。妹に逢おうと約束をしてしまってあるものを。
【評】 妹の家へ出かけようとする際、雨模様になってきたのを見て、気づかいつつも我と心を励ました心である。
安倍朝臣虫麿の歌一首
【題意】 「虫麿」は、続日本紀、聖武紀、天平九年正七位上より外従五位下となり、皇后宮亮、中務少輔、播磨守、紫微大忠を経て、孝謙紀、天平勝宝四年中務大輔、従四位下で卒している。作歌の事情は(六六七)の左注にある。
665 向《むか》ひゐて 見《み》れども飽《あ》かぬ 吾妹子《わぎもこ》に 立《た》ち離《わか》れ往《ゆ》かむ たづき知《し》らずも
向座而 雖見不飽 吾妹子二 立離徃六 田付不知毛
【語釈】 ○向ひゐて見れども飽かぬ 「向ひゐて」は、さし向かっていて。「見れども飽かぬ」は、長く見たけれども見飽かないで、物を鑑賞する意の成語。○吾妹子に 「吾妹子」は、左注によって坂上郎女とわかる。これは女性を最も親しんで呼ぶ称で、妻に対して用いている。虫麿と郎女とは親族の親しい間というにすぎないのであるが、わざと夫婦関係であるがごとくいったものである。「に」は、現在だと「を」という場合である。『講義』は、「に」と「を」の差別を注し、「に」は相手を動的に見、「を」は静的に見たものだといっている。○立ち離れ往かむ 「立ち離れ往かむ」は、「立ち」は感を強めるために添えて言う語。一句、遠い別れをすることに慣用されている言い方である。今は事としては、虫麿が郎女の家を訪れていて、その家に帰ることである。これもわざと言っているのである。○たづき知らずも 「たづき」は、たよりで、今、きっかけというにあたる。「知らずも」は、知られぬことよで、「も」は詠歎。
【釈】 さし向かっていて、長く見たけれども見飽かないところの吾妹子に、立ち別れて行こうにも、そのきっかけの知られないことであるよ。
【評】 夫がその酷愛している妻に別れて、遠い旅へ立とうとして、名残りの惜しさに立つに立ちかねている心である。親族としてのかりそめの訪問で、帰らなければならない際に、なかば戯れの心をもって詠んだものである。普通の人情を誇張して恋愛的にいう傾向は、抒情の歌にはありうるものである。また、真実を基本とする歌に、明るい戯咲《ぎしよう》を伴わせようとする風も、すでに以前からあったものである。この歌のようなもののあったことは怪しむに足りないことといえる。
(475) 大伴坂上郎女の歌二首
666 相見《あひみ》ぬは 幾久《いくひさ》さにも あらなくに 幾許《ここだく》吾《われ》は 恋《こ》ひつつもあるか
不相見者 幾久毛 不有國 幾許吾者 戀乍裳荒鹿
【語釈】 ○相見ぬは 相逢わぬはで、夫婦関係としていっているもの。○幾久さにも 古本の訓、で甚しく久しいことにも。「ひささ」は「ひさひさ」の約言。○あらなくに 「なく」は打消して名詞形としたもの。ないことなのに。○幾許吾は 「幾許《ここだく》」は、旧訓「ここばく」。紀州本は「ここだく」と訓んでいる。「ここだ」も「ここば」も、集中に仮名書きの例のあるもので、ここはいずれとも定め難いが、「ここだ」のほうが例が多く、また大祓詞には「ここだく」が用いられてもいるので、「ここだく」に従う。『新訓』は「ここだく」と訓んでいる。意はここは、甚しくである。○恋ひつつもあるか 「か」は、詠歎。夫婦関係の心である。
【釈】 相逢わないことは、甚しく久しいことでもないことなのに、甚しくも我は恋いつづけていることであるよ。
【評】 上の歌に報《こた》えた形のもので、恋の心をもって言っているものであるが、そのいうことは概念的なもので、虫麿よりも控えめなものである。「幾久さにも」と「幾許吾」と対させて、わざと語を厳めしくしているのも、戯れの心よりのことで、技巧を弄んだものである。
667 恋《こ》ひ恋《こ》ひて あひたるものを 月《つき》しあれば 夜《よ》は隠《こも》るらむ 須臾《しまし》はあり待《ま》て
戀々而 相有物乎 月四有者 夜波隱良武 須臾羽蟻待
【語釈】 ○恋ひ恋ひてあひたるものを 恋いに恋うた果てに、ようやく逢っている今であるものをで、夫婦関係としていっているもの。○月しあれば夜は隠るらむ 「月しあれば」は、「し」は強め。夜の物である月が、あのように照っているので。「夜は隠る」は、夜が深い意で、夜が昼のほうへ移って行かずに、こもっている意と取れる。○須臾はあり待て 「須臾」は、「暫《しば》し」の古語。「あり待て」の「あり」は、動詞の上に添えられる時は、下の動詞の意の継続をあらわすもので、「あり立たし」などの例がある。「あり待て」は、待ち続けよで、命令形。
【釈】 恋いに恋うてようやく逢った今夜であるものを。月の光があのようにあるので、夜はまだ深いことであろう。しばらく夜明けまで待ち続けよ。
(476)【評】 夫婦関係の間で、たまたま通って来た夫との別れを惜しむ心のものである。いうところは一般性のものであるが、郎女にふさわしく、神経の通った、細かい心をもったものである。戯れの心をもって詠んだものであることは、前の歌と同じである。
右、大伴坂上郎女の母石川内命婦と、安倍朝臣|虫満《むしまろ》の母|安曇《あづみの》外命婦と、同居の姉妹同気の親《しん》なり。これによりて郎女と虫満と、相見ること疎からず、相談《あひかたら》ふこと既に密なり。聊か戯歌を作りて以て問答を為せり。
右、大伴坂上部女之母石川内命婦、与2安倍朝臣蟲滿之母安曇外命婦1、同居姉妹同氣之親焉。縁v此郎女蟲滿、相見不v踈、相談既密。聊作2戯哥1以爲2問答1也。
【解】 「石川内命婦」は、石川は氏、命婦は後宮の女官の名で、内命婦は、五位以上の者の称、「うちのひめとね」といった。安麿の妻で、旅人、郎女の母。諱《いみな》を邑婆《おおば》といったことが知られている。「虫満」の「満」は、麿と通じて用いた。安曇外命婦は、安曇は氏、外命婦は、五位以上の者の事の称で、「とのひめとね」といった。父祖は詳かでない。この左注は、虫麿と郎女の歌は夫婦関係のごとく見えるが、その戯れのものであることを断わり、誤解を避けしめようとしたものである。
厚見王《あつみのおほきみ》の歌一首
【題意】 「厚見王」は、父祖は明らかではない。続日本紀、聖武紀、天平勝宝元年従五位下を授けられ、同七年少納言として伊勢神宮に幣帛を奉り、同、孝謙紀、天平宝字元年従五位上を授けられている。
668 朝《あさ》に日《け》に 色《いろ》づく山《やま》の 白雲《しらくも》の 思《おも》ひ過《す》ぐべき 君《きみ》にあらなくに
朝尓日尓 色付山乃 白雲之 可思過 君尓不有國
【語釈】 ○朝に日に色づく山の 「朝に日に」は、「日《け》」は旧訓「ひ」、『略解』が改めた。いずれにも訓める。今は『略解』に従う。意は同じてある。朝見るごとに、日ごとにの意で、下へ続く。「色づく山」は、「色づく」は、青葉が黄葉する意。○白雲の 上の山にかかる白雲て、おりか(477)ら雲の多い時である。初句からこれまでは、下の「過ぐ」へ、雲の動き去る意で続き、その「過ぐ」の意を転じることによって序詞としたもの。○思ひ過ぐべき君にあらなくに 「思ひ過ぐ」は、思いが過ぎ去る意で、過ぎ去るとなくなる意の語で、忘れるということを具体的にいっているもの。忘れるべき。「君」は、女より男をさしていう称で、きわめて稀れにその反対の場合もある。男同志だと普通である。ここはそのいずれであるともわからない。「なく」は、打消「ず」の未然形に「く」を添えて名詞形としたもの。
【釈】 朝見るごとに、日ごとに、黄葉に色づいてゆく山にかかる白雲の、やがて過ぎてゆく、その思い過ぎ、すなわち忘れることのできるべき君ではないことであるものを。
【評】 この四、五句は、巻三(四二二)「石上布留《いそのかみふる》の山なる杉|群《むら》の思ひ過ぐべき君にあらなくに」と同じで、成句に近いものであったと思われる。新意は、「朝に日に色づく山の白雲の」という序詞である。この序詞は眼前を捉えたもので、季節感の細かく出ているものである。「朝に日に」は、「日にけに」というと同意で、「朝」を物の印象の鮮やかな時として言いかえたものと思われる。「色づく山」も、静かなる推移をあらわしたものであり、「白雲」も、おりから雲の多い時であり、また、「色づく」と「白」とは色彩の対照もあって、眼前でなくてはいえず、また心をこめなければいえないものである。この歌の「君」は、「語釈」でいったように、男性である王が女性に対して言ったとしてはふさわしくなく、同じく男性に対してのものと思われる。それだと上の引歌が連想されるが、その歌は、丹生王《にふのおほき》が石田《いはた》王の卒去を悲しんだ際の歌である。この歌も挽歌であり、「思ひ過ぐ」が恋の上でも通じうる語であるところから、撰者がこの部に加えたものではないかと思われる。これは往々あることで、必ずしも珍しいことではない。それだとすると序詞の、「山」を心深く扱っているのは、その山に「君」という人の墓があるという関係のためではないかと思われる。
春日王の歌一首 志貴皇子の子、母は多紀皇女といふ
【題意】 この題詞の下の注は、元暦本以下七本にある。文字に多少の異同があるが、意は異ならない。この春日王は、続日本紀、元正紀、養老七年無位より従四位下に叙せられ、同、聖武紀、天平三年従四位上、同十五年正四位下同十七年散位正四位下で卒している。集中、今一|方《かた》の春日王があり、系統未詳。文武天皇三年浄大肆をもって卒している。
669 足引《あしひき》の 山橘《やまたちばな》の 色《いろ》に出《い》でよ 語《かた》らひ継《つ》ぎて あふこともあらむ
足引之 山橘乃 色丹出与 語言繼而 相事毛將有
(478)【語釈】 ○足引の山橘の 「足引の」は、「山」の枕詞。「山橘」は、今の薮柑子。山地に自生する小灌木で、夏、青白い小花を開き、秋、小球果を真赤に熟させる。ここは、その果をいっているもの。「の」は、のごとくの意のもの。○色に出でよ 「よ」は、仙覚本系統の諸本は多く「而」とあり、旧訓「て」であるが、元暦本、他二本には「与」とある。これに従う。「色に出でよ」は、心を表面にあらわせよで、心は恋のそれである。命令形で、他に向かっていったものと解せる。○語らひ継ぎて 「語らひ」は、「語る」の継続をあらわす語。「継ぎて」も、継続。「語る」は、恋の上の心をあらわす意で、心を通わすということを具象的にいったものといえる。○あふこともあらむ 「あふ」は、「逢ふ」で、男女関係。「も」は、現在に並べて、将来もまた。「あらむ」は、推量。
【釈】 足引の山橘の果のごとく、色に出て、すなわちその心を表面にあらわせよ。それだと、わが心を通わし続けて、後にもまた逢うこともあろう。
【評】 王がある女と相対していられて、その女に贈ったもので、その場合に即させて詠んだ、実用性の歌と取れる。「足引の山橘の色に出でよ」は、女は王に心を許してはいるが、その心を表面にあらわすことをせず、王としては親しみをもち難い状態であるので、女のその態度をやめさせようとして言ったものと取れる。それだと女は、初めて王に逢った者で、たぶん、身分の隔りから甚しく遠慮してのことと解される。「語らひ継ぎて」は、現在相逢っていての上のことで、女が態度を改めないと、そのこともできにくいからのことであり、「あふこともあらむ」は、親しんでの上の成行きとしてのもので、将来のことである。この句は上にいった身分の隔りということをあらわしているものと言える。解しやすきに似て、解し難いところのある歌で、誤字説の起こっているのもそのためであろう。解し難さは、実際に即したもので、その実際の明らかでないがためである。一首、おおらかな、高貴の面影をもったものである。
湯原王の歌一首
【題意】 「湯原王」は、上の(六三一)以下、(六四二)にわたって、娘子と贈報した人。これもその続きと思われる。
670 月読《つくよみ》の 光《ひかり》に来《き》ませ 足疾《あしひき》の 山《やま》き隔《へな》りて 遠《とほ》からなくに
月讀之 光二來益 足疾乃 山寸隔而 不遠國
【語釈】 ○月読の光に来ませ 「月読」は、神代紀に出ており、月神の御名。ここは、転じて月そのものの称となったもの。「光に」は、光を頼りとして。「来ませ」は、敬語。わが方に来たまえで、次の歌で、女に贈ったものと知れ、女に対しての慣用のものと知れる。○足疾の山き隔りて(479) 「足疾の」は、「山」の枕詞。「山き隔りて」の「山き」は元暦本、類聚古集、紀州本のほかは「山乎」とあり、それだと穏当のようであるが、巻十七(三九六九)に「あしひきの夜麻伎敝奈里※[氏/一]……」、同巻(三九八一)にも「あしひきの夜麻伎敝奈里※[氏/一]」の例があり、元暦本などの伝えが正しいと考えられる。しかし「き」の意は明瞭でなく、「来」の意か(全註釈)、距離の意か(古典大系)、ものをわかつ意か(注釈)などといわれている。意味は「を」としてもほとんど異ならない。「隔りて」は旧訓「へだてて」。『略解』が「へなりて」と改めた。いずれにも訓める字である。「月読」との関係で、「へなる」の古きに従う。意は隔ててで、山を隔てとしての意で、下の「遠からなく」の状態をいったもの。○遠からなくに 「なく」は、しばしば出た。遠くはないことであるに。
【釈】 月の光を頼りにしてこちらへ来たまえ。山を隔てとしていての遠い路というではないものを。
【評】 王のほうより女に、こちらへ来いと誘ってやった実用性の歌である。温藉《おんしや》な、高貴な風のおのずからに備わった歌である。
和ふる歌一首 作者を審らかにせず
【題意】 題詞の下の細注は元暦本、他の五本に付されている。(六三三)の「娘子」とある女と思われるが、それも審らかではないというのであろう。
671 月読《つくよみ》の 光《ひかり》は清《きよ》く 照《て》らせれど 惑《まと》へる情《こころ》 堪《た》へず念《おも》ほゆ
月讀之 光者清 雖照有 惑情 不堪念
【語釈】 ○月読の光は清く 「月読の光」は、贈歌を承けたもの。「は」は、下の「惑へる情」に対させたもの。「清く」は、「光」を進めていったもの。○照らせれど 照らしているけれどもで、上の「清く」を承けたもの。○惑へる情 惑っている心で、「惑ふ」は、ここは、恋のために乱れている心で、行く路の弁別もなくなっている心という意でいっているもの。○堪へず念ほゆ 原文「不堪念」。旧訓。堪えられずと思わるの意で、堪えられずは、贈歌の「来ませ」を承けて、路を辿りかねる意。
【釈】 月の光は清く照らしているけれども、わが恋のために乱れている心は弁別が失せ、路を辿るに堪えられないと思われる。
【評】 表面は王の召しを拒んだ形であるが、その拒むのは、惑える情《こころ》を訴えようがためで、中心はそこにある。惑える情というのは、王より疎遠にされていると感ずる悲しみで、それが事実であったかどうかはわからない。男女間のことであるから、ある期間を過ぎると、男はおのずから冷淡になり、女は反対に熱意が加わるのか普通で、疎遠というのも、その開きより起こ(480)る感ではないかと思われる。女はこうした歌をもって和えたが、事実は王の召しに応じたのではないかと思われる。
安倍朝臣虫麿の歌一首
672 倭文手纒《しづたまき》 数《かず》にもあらぬ 寿《いのち》もち いかに幾許《ここだく》 吾《わ》が恋《こ》ひ渡《わた》る
倭文手纏 數二毛不有 壽持 奈何幾許 吾戀渡
【語釈】 ○倭文手纒 倭文をもって作った手纒の意。これは上代の織物で、色の異なる糸をもって交織《まぜおり》にしたもので、後世の縞物。「手纒」は、腕輪で、腕頸に巻く物。「数にもあらぬ」、「いやしき」に続けて、その枕詞としている。解は諸説があり、「倭文」はそれを織るに苧環《おだまき》の数を要するところから数を続くといい、また、同じ意で、弥重《いやし》きの意で、いやしきに続くといい、まだ定説となりうるものがない。問題として残すべきである。○数にもあらぬ寿もち 「数にもあらぬ」は、物の数にも入るべくもなく価値の少ないの意で、賎しい意。ここは、身分の低い意と取れる。「寿《いのち》」は、旧訓。『考』は、「身」の誤り、『略解』は、「吾身」の誤りというが、諸本異同がない。「命」に義をもって当てた字で、命はすなわち身で、旧訓で通じる。○いかに幾許 「いかに」は、旧訓「なぞ」。『代匠記』は「なにか」と改め、『新訓』は「いかに」と改めている。いずれにも訓めるものである。なんとの意で、疑いの意をもった副詞。「幾許《ここだく》」は、上の(六六六)に出た。甚しく。○吾が恋ひ渡る 吾は恋い続けるのであるかよで、「いかに」と照応させたもの。以上の二句、上の(六五八)に出た。
【釈】 物の数でもない賤しい身分の身をもって、なんと甚しくも吾は、恋い続けているのであるかよ。
【評】 身分の隔たりを意識させられる高い階級の女性に対し、長い間片恋をしてきて、ある時、その事柄を反省した心である。独詠である。事を大観したところからおのずから宗教的になり、身を「寿《いのち》」に言いかえたものと取れる。恋の上で身の階級を意識させられる歌は、集中に少なくはない。虫麿は相応に高い身分をもってそれをしているので注意されるが、これは相手次第のことである。
大伴坂上郎女の歌二首
673 真《ま》そ鏡《かがみ》 磨《と》ぎし心《こころ》を ゆるしてば 後《のち》に云《い》ふとも 験《しるし》あらめやも
眞十鏡 磨師心乎 縱者 後尓雖云 驗將在八方
(481)【語釈】 ○真そ鏡磨ぎし心を 「真そ鏡」は、真澄鏡の約。巻三(二三九)にも出た。鏡は光を発せしめるために磨ぐと続け、その枕詞としたもの。「磨ぎし心」は、磨いで澄ましめた心で、これは女として、男を警戒することの強い心をいったもの。すなわち、たやすくは男に許さない心である。○ゆるしてば 「ゆるし」は、許す、すなわち身を任せること。「て」は、完了で、許してしまったならば。○後に云ふとも 「後に」は、後後になってで、妻となつての後。「云ふとも」は、とやかく言おうともで、「云ふ」は悔ゆともを、一歩手前でいった形のものと取れる。我に対していうのである。○験あらめやも 「験」は、「甲斐」。「や」は、反語。甲斐があろうか、ない。
【釈】 真そ鏡を磨いで澄ましめた心を守りつくさず、いったん男に身を任せてしまったならば、後になって我ととやかく言おうとも、その甲斐があろうか、ありはしない。
【評】 初句より三句までは、上の(六一九)同じ人の「怨恨の歌」と題する長歌に、「まそ鏡磨ぎし情《こころ》を許してし」とあって、その一歩手前の心である。男女関係が自由で緩かったこの時代に、結婚を前にした聡明な女性は、緊張した心をもって将来を思う必要があったので、こうした心をもたざるを得なかったものと察しられる。階級の高い、聡明な郎女にあっては、ことにこの感が強かったものと思われる。「後に云ふとも」という語は、さすがにつつましいものである。
674 真玉《またま》つく をちこち兼《か》ねて 言《こと》はいへど あひて後《のち》こそ 悔《くい》にはありといへ
眞玉付 彼此兼手 言齒五十戸常 相而後社 悔二破有跡五十戸
【語釈】 ○真玉つくをちこち兼ねて 「真玉つく」は、「真」は、美称。「玉つく」は、玉を身に着ける意で、玉を身に着けるには、緒に貫《ぬ》いての上のことなので、「緒《を》」と続け、「をち」の「を」に転じての枕詞。「をちこち」は、義訓。これは場所の上で、あちら、こちらという意をあらわす語であるが、転じて時の上に移し、行末、今の意にも用いた。用例は他にもある。「兼ねて」は、わたって。○言はいへど 「言」は、旧訓「いひは」。『考』が改めた。言葉としては言うけれどもで、「言《こと》」は、約束としてはの意。○あひて後こそ 夫婦として相逢っての後こそで、「こそ」は一点を取立てる意。○悔にはありといへ 「悔には」は、原文「悔二破」。諸本異同がない。『略解』は、「二」は衍字だとしている。意としては「悔」で、「悔に」は用例のないものであるが、原文に従い、悔の状態にの意に解しておく。「ありといへ」は、「いへ」は、「こそ」の結。悔があると、人がいっているの意。
【釈】 我を娉《よば》う人は、行末、今にわたって、約束としては心|渝《かわ》らないと言っているけれども、いったん夫婦として相逢った後の実際としては、後悔の状態にあるものだと世間の人が言っていることであるよ。
【評】 前の歌の延長で、一歩前進した心を、繰り返して言っているものである。前の歌の強さはないが、代わりに心細かさが(482)あって躊躇している心境をよくあらわしている。「悔にはありといへ」は、前の歌と同じくつつましさをもったもので、「悔に」という語は用いているが、わが心よりのものとせず、「ありといへ」と、世間の人の語としているのである。この二首は、前の歌に引いた「怨恨の歌」につながりをもったものではないかと思われる。
中臣女郎、大伴宿禰家持に贈れる歌五首
【題意】 「中臣女郎」は、中臣氏の娘ということがわかるだけで、他はすべて考え難い。
675 をみなへし 咲《さ》く沢《さは》に生《お》ふる 花《はな》がつみ かつても知《し》らぬ 恋《こひ》もするかも
娘子部四 咲澤二生流 花勝見 都毛不知 戀裳摺香聞
【語釈】 ○をみなへし咲く沢に生ふる 「をみなへし」は、今の女郎花。「咲《さ》く沢《さは》」は、旧訓。咲くところの沢の意である。『代匠記』は、これを「咲沢《さきさは》」と改め、佐紀の地にある沢の意かとした。諸注これに従っている。佐紀は、奈良市佐紀町。『攷証』のみはそれを疑い、旧訓に復し、地名ではないとして、巻十(一九〇五)「をみなへし咲《さ》く野《の》に生ふる白つつじ」、同、(二一〇七)「をみなへし咲《さ》く野《の》の芽子《はぎ》に」。また、巻十二(三〇五二)「かきつばた開沢《さくさは》に生ふる菅の根の」、巻七(一三四六)「をみなへし生ふる沢辺の真葛原」などを例として、「開沢」「咲野」の地名ではないことを考証している。従うべきである。○花がつみ 諸説があってきめがたい。白井光太郎の研究によれば、野生の花菖蒲の一種で、日光地方では「赤沼あやめ」と称している物だという。初句よりこれまでは、「かつみ」を、畳音の関係で下の「かつて」の序詞としたものである。○かつても知らぬ恋もするかも 「かつて」は、前かたには。「も」は、詠歎。「恋も」の「も」「かも」は、いずれも詠歎。
【釈】 女郎花の咲く沢に生えているところの花がつみのかつという、そのかつても知らなかった恋を、我は君によってすることであるよ。
【評】 初句より三句までの序詞は、これを形の上から見ると、「かつて」に畳音の関係で続いているもので、同音異義の興味をねらう謡い物系統のものとみえるものであるが、作意からいうとそれだけのものではなく、心をこめたものである。この歌にあっては、「かつても知らぬ」ということが訴えの中心をなしているもので、きわめて重いものである。序詞はその「かつて」を強めるためのもので、これがあって初めて思い入れのあるものとなるのである。心理的にいうと、「女郎花咲く沢に生ふる花がつみ」を見ることによって、その音の連想から、「かつても知らぬ」という哀切な情を、辛くも語《ことば》となし得たという趣をも(483)っているのである。音の連想よりという点には新意があるが、本来としては、外界の刺激によりてわが心を捉えるという、古風なものである。相応な教養をもった、そのいうところから見て、やや年をした女性を思わしめる歌である。
676 海《わた》の底《そこ》 奥《おき》を深《ふか》めて 吾《わ》が念《も》へる 君《きみ》にはあはむ 年《とし》は経《へ》ぬとも
海底 奧乎深目手 吾念有 君二波將相 年者經十方
【語釈】 ○海の底奥を深めて 「海の底」は、「底」は古くは、現在用いている、物を垂直に見ての最低部の称だけではなく、距離の上にも用いて遠近と対させるその遠の意にも用いた。ここは、海の陸よりは遠い所の意のもので、意味で「奥《おき》」にかかる枕詞。「奥を深めて」は、本来は文字どおり奥《おく》であって、沖に転じたものという解に従う。上よりの続きは沖で、海の底はすなわち沖であって、同意を畳んだものである。「奥」は、心という意にも用いたとみえる。それは心の所在を身の奥にあるものとして、心というものを感覚的に具象化しようとしたところから起こったものと思える。ここは、その意のもの。「深めて」は、深くしてで、他動詞。一句、心を深くしてで、心深くというにあたり、その強いものである。○吾が念へる君にはあはむ 「吾が念へる君に」は、我が思っている家持。「は」は、強め。「あはむ」は、「逢はむ」で、妻として逢おうの意。○年は経ぬとも 「ぬ」は、完了で、強めのためのもの。たとい何年も逢えずに過ぎて行こうとも。
【釈】 心を深くして我が思っているところの君には、妻として逢おう。たとい何年も空しく過ぎて行こうとも。
【評】 初めて人を思った女性の、純粋な、強い感情の現われている歌である。いうところは一般的のものであるが、素朴で、立体感があって、時代的にいうと古風に属する歌風である。
677 春日山《かすがやま》 朝《あさ》居《ゐ》る雲《くも》の 欝《おほほ》しく 知《し》らぬ人《ひと》にも 恋《こ》ふるものかも
春日山 朝居雲乃 欝 不知人尓毛 戀物香聞
【語釈】 ○春日山朝居る雲の 「春日山」は、しばしば出た。「朝居る雲」は朝、山にかかっている雲で、夜に降《くだ》っていた雲を、朝見ての称。「の」は、のごとく。○欝しく はっきりせず、おぼつかない意。しばしば出た。「恋ふる」に続く。○知らぬ人にも恋ふるものかも 「知らぬ人に」は、見たことのない人をで、家持をさしたもの。女郎は家持を見たことがなく、人を中間にしての交渉だったのである。「も」「かも」は、詠歎。
【釈】 春日山に朝かかっている雲のごとくにもおぼつかなくも、我は見たことのない人を恋うていることであるよ。
(484)【評】 「知らぬ人にも恋ふる」というおぼつかなさを、嘆いて訴えたものである。「春日山朝居る雲」は、そのおぼつかなさが恋の状態の刺激となり、哀しく感じさせた形のものである。贈歌である関係から、この春日山は、女郎の家より遠くないものであったと取れる。
678 直《ただ》にあひて 見《み》てばのみこそ たまきはる 命《いのち》に向《むか》ふ 吾《わ》が恋《こひ》止《や》まめ
直相而 見而者耳社 靈剋 命向 吾戀止眼
【語釈】 ○直にあひて見てばのみこそ 「直にあひて」は、直接に相逢って。「見てばのみこそ」は、「見てば」は、「て」は完了で、強めのためのもの。見ることをしたならばで、「見」は、上の「あひ」の繰り返し。「のみ」は、ばかりの意で、「こそ」は、取立てての意。一句、見るということをしたならば、そのことだけがの意。○たまきはる命に向ふ 「たまきはる」は、「命」「内」その他にかかる枕詞であるが、意味は諸説があって定まらない。「たま」は「魂《たま》」で、身すなわち肉体と対立するもの。「きはる」は、「来経《きふ》る」の転で、魂が外部より身の内にきて経るすなわち宿っている意で、そうした状態がすなわち命だとして、意味で「命」にかかり、同じ心より「幾世」にもかかり、命の内の意で「内」にかかり、また、山上は神の霊《たま》の来経る所として「吾が山の上」にもかかるのではないかと思われる。「命に向ふ」は、「向ふ」はここは匹敵する意で、命と対等のの意。命がけ、命とかけがえというにあたる。○吾が恋止まめ わが憧れはやもうで、「止まめ」の「め」は已然形、「こそ」の結。
【釈】 直接に相逢って、見るということをしたならば、そのことによってだけ、命とかけがえのわがこの憧れはやもう。
【評】 見ぬ恋の憧れの昂まり極まってきた心を言いあらわして訴えたものである。情熱が心を気分に化さしめていて、一、二句の執拗《しつよう》な繰り返し、三、四句の重い思い入れとなって、重厚味のあるものとさせている。この歌も古風の好さの注意されるものである。
679 不欲《いな》と云《い》はば 強《し》ひめや吾《わ》が背《せ》 菅《すが》の根《ね》の 念《おも》ひ乱《みだ》れて 恋《こ》ひつつもあらむ
不欲常云者 將強哉吾背 菅根之 念乱而 戀管母將有
【語釈】 ○不欲と云はば強ひめや吾が背 「不欲」は、「否」に当てた字で、諾《うべ》なわぬ意。今の、いやだというにあたる。相逢うことに対しての言。「強ひめや」の「や」は、反語。強いようか、強いはしない。「吾が背」は、家持を親しんでの称で、呼びかけ。○菅の根の念ひ乱れて 「菅の根の」は、「菅」は今の菅《すげ》。その根の入り乱れているところから、意味で「乱れ」の枕詞となっているもの。「思ひ乱れ」は、恋の嘆きに心の乱れ(485)る意。○恋ひつつもあらむ 「恋ひつつ」は、継続。「も」は、詠歎。
【釈】 相逢うことはいやだというならば、強いようか強いはしない、わが背よ。我は一人、嘆き乱れて恋い続けてもいよう。
【評】 「不欲と云はば」は、女郎の訴えにもかかわらず、家持は逢おうとしないところから、心中を察しての言と取れる。女郎はそう察しるとともに、「強ひめや吾が背」と、親しみをもって潔く諦め、怨みがましいことは言おうとしていない。加えて「念ひ乱れて恋ひつつもあらむ」と言い添えてもいる。これは女郎の人柄よりのことであるが、人柄というよりもむしろ古風というべきで、やや溯った時代の女性の、等しなみにもっていた心である。「不欲と云はば強ひめや吾が背」は、女郎としては自然に、必然なこととして言っているものと思えるが、捉えては言いやすくないもので、この歌を魅力あるものとしている句である。
【評又】 女郎の歌があるのみで、家持のものはないところから、前後の事情は全くわからない。この五首の歌だけで見ると、女郎は相応に高い教養をもった、時代的にいうと、新時代の風に染まず、古風を保持していた、純良な、頼もしい女性であったことが知られる。家持を「知らぬ人」と言いつつも、熱意をもって訴えをしているところから見ると、家持は人を介して娉いをしたものとみえる。それにもかかわらずその後の家持は、冷淡な態度を取り、また取り続けてしまったのではないかと思われる。笠女郎といい、中臣女郎といい、歌風が実際に即するものであった自然の成行きとして、おのおの無意識のうちに個性を発揮し、その結果として、後世の物語中の人物に見るがごとくその面目をとどめている。おのずからなる歌物語というべきである。
大伴宿禰家持、交遊と別るる歌三首
【題意】 「交遊」は、「遊」は「友」と通じて用いる字で、交友すなわち友というと同じである。『代匠記』は、目録には「別」の下に「久」の字があるので、ここは落ちたのであろうといい、「久しく別るる」の意だといっている。しかし諸本このとおりで、異同はない。「別るる」は、交を絶つ意と取れる。交遊というのは誰ともわからない。
680 けだしくも 人《ひと》の中言《なかごと》 聞《き》こせかも 幾許《ここだく》待《ま》てど 君《きみ》が来《き》まさぬ
盖毛 人之中言 聞可毛 幾許雖待 君之不來益
【語釈】 ○けだしくも 「けだしくも」は、おそらくはと推量する意の語で、副詞。「けだし」とも「けだしく」とも「けだしくも」ともいい、意味としては同じである。類例には、「もし」、「もしくは」がある。○人の中言聞こせかも 「人の中言」は、他人の、間にあっての中傷の言。「聞(486)こせ」は「聞く」の敬語、「かも」は、疑問。お聞きになったからか。○幾許待てど 「幾許」は、甚しく。○君が来まさめ 「来まさ」は、「来」に、敬語「ます」を添えたもの。
【釈】 おそらくは、他人の中間にあっての中傷の言をお聞きになったからであろうか。いたくも待ったけれども、君はわが方にお出でにならない。
【評】 自身を信じ、交友を信じて、そうした間にあってはあるべくもない疎遠なしうちを疑い、他人の中傷を聞いたためではないかとし、それを率直に言い贈ったものである。しかも「聞こせ」「来まさぬ」と敬語をも用いている。これは、中傷を解こうとする心よりのもので、家持の善良なる人柄を示しているものである。宮中を繞って幾つもの大氏族が、暗黙の間に勢力を争っていた雰囲気に触れている歌であり、その間に立っての家持の人柄も示している意味で注意される。報《こた》え歌がないので、事の結果はわからない。
681 なかなかに 絶《た》つとし云《い》はば かくばかり 気《いき》の緒《を》にして 吾《われ》恋《こ》ひめやも
中々尓 絶年云者 如此許 氣緒尓四而 吾將戀八方
【語釈】 ○なかなかに絶つとし云はば 「なかなかに」は、ここは、むしろというにあたる。「絶つとし」は、原文「絶年」、旧訓「たえねとし」。先方のことをいっているのであるから、「ね」を訓み添えた旧訓はあたらない。諸注それぞれ改訓を試みている。『新訓』は「絶つ」。先方のすることであるから、事としては「絶つ」と言いうることであり、こちらは訴えの心をもって言っているのであるから、事の露《あら》わで、強いほうが効果的であるから、「絶つ」が妥当に感じられる。「絶《た》つとし」は、「し」は強め。交りを絶つといったならば。○かくばかり気の緒にして 「かくばかり」は、これほどで、自身の状態を総括していったもの。「気の緒にして」は、「気の緒」は、息の永く続くことの意で、命ということを具象化した語。「にして」は、上を承けて、という状態にの意。今の一所懸命という語にあたるものである。○吾恋ひめやも 「や」は、反語。吾は君を恋いようか恋いはしない。
【釈】 むしろ交りを絶つと君がいったならば、我はこれほどに一所懸命に君を恋いようか恋いはしない。
【評】 前の歌と同時のもので、一歩を進めたものである。いうところは、先方の友情が疑わしく危まれると、それとは反対に、こちらの友情はますます深まってきて、気《いき》の緒にして恋うるという状態となっているというので、先方の態度の曖昧なのに対しては、いささかの恨みをまじえているが、根本の友情に対しては動《ゆる》ぎのないことを訴えているのである。友情とはいえ、恋情に近い趣をもったものである。家持という人の思われる歌である。
(487)682 念《おも》ふらむ 人《ひと》にあらなくに ねもころに 情《こころ》尽《つく》して 恋《こ》ふる吾《われ》かも
將念 人尓有莫國 懃 情盡而 戀流吾毳
【語釈】 ○念ふらむ 旧訓「念ひなむ」。『古義』の訓。「なむ」は未来の推量であるから、現在の「らむ」とすべきである。我を思っているだろうところの。○人にあらなくに 「人」は、交遊。距離をつけて客観的に言いかえたもの。「なく」は、しばしば出た。「に」は、詠歎。○ねもころに 今のねんごろに。○情尽して恋ふる吾かも 「情尽して」は、全心を傾けて。「吾かも」の「かも」は、詠歎。
【釈】 我を現に思っているところの人ではないことなのに、ねんごろに、全心を傾けて我は恋うていることであるよ。
【評】 これも同時のものである。友は我を思うまいが、我はその友を思って惜しまないというので、この歌にはすでに疑いも恨みもなく、ただ独りある境地のものである。贈歌ではあるが、独詠の趣をもっている。三首を連《つら》ねると、若い頃の家持の面目が、全面的に現われている感がある。
大伴坂上郎女の歌七首
683 いふ言《こと》の 恐《かしこ》き国《くに》ぞ 紅《くれなゐ》の 色《いろ》にな出《い》でそ 念《おも》ひ死《し》ぬとも
謂言之 恐國曾 紅之 色莫出曾 念死友
【語釈】 ○いふ言の恐き国ぞ 「いふ言」は、人のいう言葉で、噂というにあたる。他人のことを興味の対象としていうことで、上流社会にあってはもとより、下級社会でも、その機構が緊密であったために、噂を立てられる者は甚しく迷惑をした。「いふ言」は、ここでは男女関係を意味させたもので、噂話の代表的なもの。「恐き」は、旧訓「さがなき」。『代匠記』が改めた。恐るべき。「国」は、古くは一郷一郡の狭い範囲の称で、郡県制度以後、広範囲の称となった。ここはその古い言い方で、わが住んでいる土地というほどの、狭く、漠然とした意のもの。「ぞ」は、指示。○紅の色にな出でそ 「紅の」は、紅花《べにばな》のごとくで、その色の鮮かなところから譬喩としたもの。「色にな出でそ」は、「色」は、顔いろ。「な……そ」は、禁止。顔いろには出すなで、ここは男女関係が結ばれていて、それが素振りに出やすいもの、出れば噂の種になるとして禁止したもの。○念ひ死ぬとも 「念ひ死ぬ」は、嘆き死ぬ意で、たとい、人目をはばかるために逢えずにいて、そのようなことがあろうともの意。
【釈】 人の立てる噂の恐るべき土地であるぞ。紅花のごとく鮮やかに顔いろに出すことはするな。たとい嘆き死ぬことがあろうとも。
(488)【評】 すでに夫婦関係は結ばれていたが、まだ秘密にしておくべき時期に、夫である人に対して贈ったもので、その秘密を他人に悟られて、噂の種になることはけっしてするなと、堅く禁じた心である。禁じるのは、その関係を重んじるためで、したがって歓びを背後に置いてのものである。この秘密の厳守は、必要のあってのことではあるが、女性の特性も伴ってのものと見られる。調べが張って、強さを含んでいるために、誇張が自然なものとなり、全体として美しいものとなっている。冴えた美しさである。これは郎女の特色で、この七首は最もよくそれをあらわしている。
684 今《いま》は吾《あ》は 死《し》なむよ吾《わ》が背《せ》 生《い》けりとも 吾《われ》に縁《よ》るべしと 言《い》ふと云《い》はなくに
今者吾波 將死与吾背 生十方 吾二可縁跡 言跡云莫苦荷
【語釈】 ○今は吾は死なむよ吾が背 「今は吾は」は、「吾《あ》」は旧訓「われ」を、『考』の改めたもの。「今は」は、過去に対させたもの。「吾は」は、夫に対させたもので、過去は頼みにしてきたが、今となっては、君は知らず我はで、思い詰めた形のもの。「死なむよ吾が背」は、死んでしまいますよわが背よで、二句とも呼びかけ。○生けりとも 「生けり」は、生きありで、たとい生きていようとも。○吾に縁るべしと言ふと云はなくに 「吾に縁るべしと」は、君が我を縁りどころとしようとはで、「縁る」は、寄って一つとなる、すなわち心よりの妻とする意。「言ふと云はなくに」は、「言ふ」は、上を承けて、君がいうと。「いはなくに」は、夫と郎女の間に立って事を運んだ側近の者のことで、その者が、我にいわないことであるものをの意。
【釈】 今の状態では我としては、死んでしまいますよわが背よ。たとい生きていようとも、君は我を縁りどころとしようというとは、事を知っている者が我にいわないことであるものを。
【評】 とどまるところを知らない恋情から、その夫に甘えて、わざと拗《す》ねていっている心のものである。媚態の具象化であって、それにふさわしく、細かく屈折をもった言い方である。「吾」という語を三回まで繰り返しているのも、その現われである。この言い方は先蹤《せんしよう》のあるもので、郎女はそれによったとみえる。「今は吾は死なむよ吾が背」は、巻十二(二八六九)「今は吾《わ》は死なむよ吾妹逢はずして念ひわたれば安けくもなし」があり、「吾に縁るべしと言ふと云はなくに」は、巻十一(二三五五)「うつくしと吾が念《も》ふ妹は早も死なぬか、生けりとも吾に依るべしと人の言はなくに」があるからである。しかし郎女の歌は、細かい感性をもって二首を一丸とし、渾然としたものとしているので、新たなる展開を与えたものといえる。このことはまたこの時代の歌風でもあったものである。
(489)685 人言《ひとごと》を 繁《しげ》みや君《きみ》を 二鞘《ふたさや》の 家《いへ》を隔《へだ》てて 恋《こ》ひつつをらむ
人事 繁哉君乎 二鞘之 家乎隔而 戀乍將座
【語釈】 ○人言を繁みや君を 「人言」は、他人のする噂。「繁みや」は、「繁み」は、繁くして。「や」は、疑問。五句へかかる。○二鞘の 「二鞘」は、どういう鞘であるかわからず、したがって諸説がある。『代匠記』は詳しく考証しているが、一説として、一つの鞘で、幾つもの刀身を蔵《おさ》めるようにできたものではないかと言っている。『新考』は、現存の正倉院の御物の中に、一幹三室、すなわち鞘は一つで、刀身の三口を蔵められるように作ったものがあるといって、図示している。鞘は本を太く、末を細く作ってあり、刀の柄《つか》の色の異なるところから見ると、用いるところも異なるのであろうと言っている。これは鞘とはいうが、太刀を佩く際の物ではなく、家に蔵する際の物である。『新考』のこの解は最も妥当に聞こえるものである。鞘は漢語では刀室といい、室は古く「さや」とも訓ませていた。「の」は、のごとくの意のもので、下の譬喩。○家を隔てて 郎女とその夫とは、家を隔てて、すなわち家を異にしてで、一幹二刀室に酷似した状態なのである。なおこの譬喩から見ると、双方の家は近かったと思われる。○恋ひつつをらむ 恋い続けているのであろうか。
【釈】 人の噂が多いので、我は君を、二鞘の太刀のごとくに、家を隔てた状態で恋い続けているのであろうか。
【評】 実際の状態に即しての嘆きで、したがって静かな歌である。「二鞘」は『新考』の解に従うと、適切な譬喩である。太刀はこの当時とても貴い物であり、ことに武臣をもって任ずる大伴家としてはいっそうであったろう。この歌を贈った相手が宿奈麿であるとすると、さらにいっそうと言うべきである。
686 このごろに 千歳《ちとせ》や往《ゆ》きも 過《す》ぎぬると 吾《われ》や然《しか》念《おも》ふ 見《み》まく欲《ほ》れかも
比者 千歳八徃裳 過与 吾哉然念 欲見鴨
【語釈】 ○このごろに 旧訓。この頃のうちに。○千歳や往きも過ぎぬると 「や」は、疑問。「ぬる」は、「や」の結。千年の久しさが経過したことであるかと。○吾や然念ふ 「や」は、詠歎。我はそのように思う。○見まく欲れかも 旧訓「見まくほりかも」。『略解』の訓。「見まく」は、「見む」の名詞形。君に逢うこと。「欲れかも」は、後世の欲ればかもにあたる古格。「かも」は、疑問。欲するからなのか。
【釈】 この頃のうちに、千年の久しきが経過したことであるかと、我はそのように思う。君に逢うことを欲するからなのか。
【評】 巻十一(二五三九)「相見ては千歳や去ぬる否をかも我や然念ふ君待ち難《かて》に」がある。明らかにこれによった歌であるが、(490)本歌の迫真は薄らいでいるが、代わりに明るさと美しさのある ものとなっている。時代の好尚の推移が影響してのことである。
687 愛《うつく》しと 吾《わ》が念《も》ふ情《こころ》 速河《はやかは》の 塞《せ》きに塞《せ》くとも 猶《なほ》や崩《くづ》れむ
愛常 吾念情 速河之 雖塞々友 猶哉將崩
【語釈】 ○愛しと吾が念ふ情 「愛しと」は、旧訓。「うつくし」「うるはし」と両様に訓め、また双方用例も多いものである。旧訓に従う。「うつくし」は、親子、夫婦間に限っていっている語で、いとしいというにあたる。「情《こころ》」で小休止となり、詠歎が含まっている形。○速河の塞きに塞くとも 「速河」は、水の流れの早い川。「の」は、のごとく。「塞きに塞く」は、「塞き」は、堰《せ》きとめる意。堰きに堰くで、あくまで堰く意。○猶や崩れむ 「や」は、詠歎。「崩れむ」は、堰の崩れる意。やはり崩れよう。
【釈】 君をいとしいとわが思う心よ、早川の流れのように、いかに塞きに塞いても、やはり崩れてゆこう。
【評】 妻としての情を、訴えの心をもって言っているものであるが、それとしては余裕があって、夫の愛する妻に対しての物言いのようである。誇張は伴っていても、大体実際に即しての歌であるから、郎女の夫婦関係の実情に触れているものであろう。これは郎女が、女としては相応な年輩に達していたからの心で、その人柄に関係のあるものではないと思われる。安らかに恋に浸っている気分の具象されている歌である。
688 青山《あをやま》を 横《よこ》ざる雲《くも》の いちしろく 吾《われ》と咲《ゑ》まして 人《ひと》に知《し》らゆな
青山乎 横〓雲之 灼然 吾共咲爲而 人二所知名
【語釈】 ○青山を横ぎる雲の 「横ぎる」は、「ぎる」は切るの意。横に切るで、細く一筋に靡いている状態。「雲」は、下の続きで、白雲とわかる。「の」は、のごとくで、一、二句は譬喩。○いちしろく 今の、著しくの古語。○吾と咲まして 「吾と」の「と」は、同趣の語を並べてつなぐ意のもので、その同趣の語は、同じく「吾」で、それは省かれている。すなわち我と我自身に。「咲まして」は、「咲む」に、敬語「ます」を添えて敬語としたもの。「咲まして」は、微笑《ほほえ》ましてである。「吾と咲まして」は、吾と吾にすなわち独りで、思い出し笑いをなされて。この解は『攷証』に従ったものである。この思い出し笑いは、男女関係の上で歓びをもっている者のしやすいことであり、すれば他人にそれと感づかれるものである。○人に知らゆな 「人に」は、他人に。「知らゆな」は、知られるなで、上にいったことを感づかれるなの意。
(491)【釈】 青山を横切る白雲のごとくに著しくも、我と我に微笑まれることをして、他人にそれと感づかれたもうなよ。
【評】 郎女よりその夫に、夫婦関係の秘密を保たせようとして贈った歌である。「吾と咲まして」の「吾」を郎女とする解が多いが、相対しての咲《え》みであれば、歌として贈る必要もなく、また事としても、歌にするに値しない些事であるから、そうした解は成立ち難いものである。この思い出し笑いは一般性をもったもので、現在でもただちに人をうなずかせるものであろうが、しかし女性でなくては捉えてはいわないものと思える。郎女としてもおそらく、自身の体験よりいっているものであり、また歓びをもっていっているものであろう。「青山を横ぎる雲の」という譬喩は特色のあるもので、一首、歌才のほどを思わせるものである。
689 海山《うみやま》も 隔《へだ》たらなくに なにしかも 目言《めごと》をだにも 幾許《ここだ》乏《とも》しき
海山毛 隔莫國 奈何鴨 目言乎谷裳 幾許乏寸
【語釈】 ○海山も隔たらなくに 海も山も隔てているのではないことなのに。○なにしかも 「し」は、強め。「かも」は、疑問。何なれば。○目言をだにも 「目」は、眼に見ること。「言」は、言葉を交わすこと。「だに」は、軽きをいい、重きを言外に置いたもの。顔を見、ものを言うくらいなことさえも。○幾許乏しき 「幾許」は、甚しく。「乏しき」は、少ない意。三旬目の「か」の結びで連体形。詠歎を含ませている。
【釈】 海や山を隔てているというではないことであるのに。何なればこのように、顔を見、ものを言うくらいなことさえも、甚しくも少ないことであるのかよ。
【評】 夫と近く住んでいながら、人の噂を怖れて逢い難くしていることを背後に置いての嘆きで、対照を用いて誇張していっているものである。「なにしかも」が中心で、ある程度の含蓄をもっている。
大伴宿禰三依、別を悲しめる歌一首
【題意】 「三依」は、(五五二)(五七八)に出た。
690 照《て》れる日《ひ》を 闇《やみ》に見《み》なして 哭《な》く涙《なみだ》 衣《ころも》沾《ぬ》らしつ 干《ほ》す人《ひと》なしに
(492) 照日乎 闇尓見成而 哭涙 衣沾津 干人無二
【語釈】 ○照れる日を闇に見なして 「見なし」の「なし」は、変化させる意で、「見なして」は、見えを変わらせて、すなわち見えなくしてで、下の「涙」の多い状態を形容したもの。○衣沾らしつ 「衣」は、衣全体で、普通は涙の濡らすのは袖であるのに、誇張していったもの。○干す人なしに 「干す人」は、濡れた衣を干して、着るに堪えるようにする人で、妻のすることである。ここもその意で、妻。「に」は、詠歎。
【釈】 空に照っている日を、闇に変わらせ.てわが泣く涙が、わが着ている衣を濡らした。今はそれを干す人すなわち妻はいないものを。
【評】 妻に別れて遠い旅へ立った際、別れて間もない頃に詠んだ歌と思われる。極度に誇張した歌である。誇張は気分が伴っておれば自然なものとなるが、この歌はそれが少ないため、事柄だけが孤立して、著しく感ぜしめるものとなっている。したがって結果としては実際から遊離した趣のものとなっている。
大伴宿禰家持、娘子に贈れる歌二首
691 百礒城《ももしき》の 大宮人《おほみやびと》は 多《おほ》かれど 情《こころ》に乗《の》りて 念《おも》ほゆる妹《いも》
百礒城之 大宮人者 雖多有 情尓乘而 所念妹
【語釈】 ○百礒城の大宮人は 「百礒城の」は、百と多くの礒《いし》の城のあるの意で、宮の讃詞で枕詞。「大宮人」は、朝廷に奉仕する男女百官の総称。ここは女官の総称としたもの。○多かれど 大勢あるけれども。○情に乗りて念ほゆる妹 「情に乗りて」は、気にかかるというと同じ心で、その強いもの。心を占めることを具象化した語。「念ほゆる妹」は、思われるところの妹かなの意で、「妹」は男より女を呼ぶ普通の称。
【釈】 百礒城の大宮人としての女官は大勢あるけれども、わが心にかかって恋しく思われる妹ではあるよ。
【評】 采女は容姿の端麗ということを資格の一つとしたところから見て、大宮の女官は同じく端麗であったと思われる。その中でも第一の者に思われるということは、効果的な推讃である。軽い心の娉《つまど》いと見え、一とおりの歌というにすぎないものである。
692 うはへなき 妹《いも》にもあるかも かくばかり 人《ひと》の情《こころ》を 尽《つく》せる念《も》へば
(493) 得羽重無 妹二毛有鴨 如此許 人情乎 令盡念者
【語釈】 ○うはへなき妹にもあるかも 「うはへなき」は、(六三一)に出た。あいそのないというにあたる。「妹にもあるかも」は、「も」も、「かも」も詠歎で、嘆きをもっていっているもの。初句から続いて、上の歌に対して報《こた》えをしないのを嘆いての語と取れる。○かくばかり これほどまでにで、下の「尽せる」にかかるもの。○人の情を尽せる念へば 「人の」は、我ので、客観的にいったもの。人は他人の思いに対しては、適当な態度を取るべきものだということを背後に置いての言いかえ。「尽せる」は、旧訓「つくすと」。『古義』の訓である。尽くしていることをの意。
【釈】 あいそのない妹ではあることよ。これほどまでに、他人が心を尽くして思っていることを思うと。
【評】 女が相手にならなかったのを恨んで、押返して訴えたものであるが、恨むには理をまじえている。それは、人は人よりの思いに対して、適当な態度を取るべきものであるのに、それをしないということであるが、これは道徳的な意味でいうのではなく、当時、信仰として、そうしないと、祟りがあるとされていたとみえる。言い方の婉曲なのは、訴えのほうが主となっているからである。実際に即しての歌で、微温的とならざるを得ない性質のものである。
大伴宿禰|千室《ちむろ》の歌一首 未だ詳らかならず
【題意】 「千室」は、父祖は考え難い。巻二十(四二九八)「(天平勝宝)六年正月四日、氏族の人等少納言大伴宿禰家持の宅に集り宴《うたげ》飲せる歌三首」の中に、「左兵衛督大伴宿禰千室」とある。また、続日本紀、天平五年正六位上大伴宿禰小室に外従五位下を授け、同十月外従五位下大伴宿禰小室を摂津亮とするとある。この小室は同人ではないかと『攷証』はいっている。
693 かくのみに 恋《こ》ひや渡《わた》らむ 秋津野《あきつの》に たな引《び》く雲《くも》の 過《す》ぐとはなしに
如此耳 戀哉將度 秋津野尓 多奈引雲能 過跡者無二
【語釈】 ○かくのみに 旧訓「かくしのみ」。『攷証』の訓。このようにばかり。○恋ひや渡らむ 「恋ひ」は、家にある妻に対してのもの。「や」は、疑問。「渡る」は、続ける。○秋津野にたな引く雲の 「秋津野」は、奈良県吉野郡吉野町、吉野離宮のあった地一帯の称。「たな引く雲の」は、靡いている雲のごとく。二句、高地のこととて雲が常に降りているところから、それを捉えての譬喩。○過ぐとはなしに 「過ぐ」は、雲は移り去りまた消え去るものなので、その意で「過ぐ」といい、感情もまた、過ぎ去るもので、過ぎ去れば忘れるところから、忘れる意でいったも(494)の。すなわち忘れることの具象化である。忘れられようとはせずに。
【釈】 このようにばかり、家にある妻を恋いつづけていることであろうか。ここの秋津野に常に靡いている雲のごとく、過ぎ去り、忘れゆくということはなしに。
【評】 何らかの公務を帯びて秋津野に滞在しており、家恋しい心を抱いていて、場所柄として絶えず雲が降りて、霽れずにいるのを眺めると、その状態が、家恋しい思いの紛れる時のないのに通うのを感じての歌である。「秋津野にたな引く雲の」は譬喩ではあるが、心を誘導した趣のあるもので、譬喩以上のものである。風景と心とを一つにし、心のほうは婉曲にいおうとする傾向を見せている歌である。
広河女王《ひろかはのおほきみ》の歌二首 穂積皇子の孫女、上道王の女なり
【題意】 題詞の下の注は元暦本以下五本にある。続日本紀、天平宝字七年無位広河王に従五位下を授くとある。『代匠記』は、この紀は内親王、女王の列に入っているところから見て、「王」は「女王」の女を脱したものであろうと言っている。
694 恋草《こひぐさ》を 力車《ちからぐるま》に 七草《ななくるま》 積《つ》みて恋《こ》ふらく 吾《わ》が心《こころ》から
戀草呼 力車二 七車 積而戀良苦 吾心柄
【語釈】 ○恋草を 恋の思いを、草に譬えたもの。恋は草の生えるがように現われ、また草のように繁くもなるので、心理的に不自然ではない。また集中には、「手向草」「目ざまし草」「語らひ草」などの語があり、その草は料の意であるが、語感としても熟したものである。○力車に七車 「力車」は、「力」は力人《ちからびと》すなわち労働者の意で、平安朝の物語には多い語である。「力車」は、労働者の輓《ひ》く車で、当時物を運ぶに用いていたものとみえる。江戸時代の大八車、今の荷車にあたる物である。ここは刈草を運ぶ上でいっている。「七車」の「七」は、数の多い意で、幾車。○積みて恋ふらく 「積みて」は、運ぶために積んで。「恋ふらく」は、「恋ふ」に「く」を添えて名詞形としたもので、恋うることの意である。下に詠歎の含まっている形。積んで恋うていることよ。○吾が心から 「から」は、ゆえで、わが心ゆえの事としての意。
【釈】 恋草を、力人《ちからびと》の引く車に幾車となく多く積んで、我は恋うていることよ。わが心ゆえに。
【評】 初句より四句までは、恋の苦しみの堪え難いものを抱いて生きている状態の譬喩である。譬喩としてはとっぴな感のあるものであるが、当時の庶民の状態として、刈草を力車に積んで、喘ぎつつ引いているということは、時節によっては珍しか(495)らぬことであったろうと思われる。それを見た女王が、その状態に、わが恋を連想したということはありうることで、不自然とはいえないものである。この時代には、寄物陳思の歌がすでに意識的なものとなっており、つとめて優美な物を捉えているのに、女王はそれ以前に引戻し、譬喩としてではあるが庶民の労働状態を捉えたのであって、これはとっぴというよりもむしろ、実際に即そうとする心の強く働いたものというべきである。しかしこの歌は、同時に半面には、諧謔の心をまじえていることは明らかである。これはたぶん、女王は相応の年齢であって、自身を批評的に見、客観的に見ることができたため、そこから発したものと思われる。本来恋に陥っている時には、そうした心の強く働くものであるから、それも伴っているのであろう。一首全体とすると、謡い物のもつ直線的な、太く、明るい調べをもっており、素朴で、庶民的である。四句「積みて恋ふらく」は、「積みて」は引くためで、喘いで引くことがすなわち恋うる状態であるから、この語続きには飛躍がある。この飛躍は技巧と称しうるもので、感情の細かさをもっているといえる。
695 恋《こひ》は今《いま》は あらじと吾《われ》は 念《おも》へるを 何処《いづく》の恋《こひ》ぞ つかみかかれる
戀者今葉 不有常吾羽 念乎 何處戀其 附見繋有
【語釈】 ○恋は今は 「恋は」は、恋というものはで、これは擬人したものである。四句の「恋」も同様である。この擬人は拠《よ》り所のあるものである。巻十六(三八一六)「家にありし櫃《ひつ》に※[金+巣]《かぎ》さし蔵《をさ》めてし恋の奴《やつこ》のつかみかかりて」がすなわちそれで、この歌の左注に、「右の歌一首は、穂積親王、宴飲《うたげ》の日、酒酣なる時、好みて斯《こ》の歌を誦《ず》して、以て恒《つね》の賞と為し給ひき」とある。穂積親王は、女王には祖父にあたられるので、女王の心にこの歌があって、それに拠られたと思われる。「今は」は、今となってはで、恋をするにはふさわしくない年齢との意のものである。○あらじと吾は念へるを 「あらじと」は、わが身にはあるまいと。「吾は念へるを」は、我としては思っていたものを。○何処の恋ぞ どこにいた恋かで、「ぞ」は係。○つかみかかれる 「つかみかかる」は掴みかかるで、不意に現われてわが身に掴みつく意で、この語は今も口語に用いているものである。「かかれる」は連体形で、「ぞ」の結。したがって下に詠歎を含んでいるもの。四、五句は上に引いた歌の影響を濃厚に受けたものである。
【釈】 恋というものは、今となってはわが身にはないものであろうと我は思っていたものを。どこにいた恋か、不意に現われてわが身に掴みかかっていることであるよ。
【評】 女王が恋などということには縁遠い年齢になられた時、はからずも恋の心を抱き、そのことの思いがけなさを怪しむとともに、そのことに対して嘆きをもって詠んだ歌である。詠み方は前の歌と同じく、自身を批評的に見、客観的に見ての上のものである。注意されることは、原拠となっている穂積親王の誦された歌との関係である。その歌は、恋を「奴《やつこ》」といい、櫃(496)に蔵めて出すまいとしているもので、恋の厄介な、苦い面を強調しているものであるが、要するに戯咲歌の範囲のもので、聞く者の笑いをうかがったものである。この歌も、恋を厄介物としている点は同じであるが、根本をなしているものは嘆きであって、ここには笑いはない。すなわち一般的なものを個人的とし、笑いを嘆きとしている点で、原拠の歌を進展させたものといえる。この進展は、口承が記載となったことである。
石川朝臣|広成《ひろなり》の歌一首 後に、姓高円朝臣の氏を賜ふ
【題意】 「石川朝臣広成」は、続日本紀、天平宝字二年従六位上より従五位下、四年|高円《たかまとの》朝臣の姓を賜わり、文部少輔となり、この後は名を広世と改めている。同五年摂津亮、ついで尾張守、同六年山背守、同八年従五位上、播磨守、神護景雲二年周防守、三年伊予守、宝亀元年正五位下を授けられた。ここに広成とあるので、この巻が天平宝字四年以前に撰せられたことが知れると『攷証』はいっている。
696 家人《いへびと》に 恋《こひ》過《す》ぎめやも かはづ鳴《な》く 泉《いづみ》の里《さと》に 年《とし》の歴《へ》ぬれば
家人尓 戀過目八方 川津鳴 泉之里尓 年之歴去者
【語釈】 ○家人に 「家人」は、家にいる人全体の意にも用い、その中心をなす妻を婉曲にあらわす語にも用いている。ここは後者である。○恋過ぎめやも 「恋」は、ここは名詞で、恋うることの意。「過ぐ」は、上の(六九三)の「過ぐとはなしに」のそれと同じく、経過し、過去のものとなる意で、忘れるを具体的にいった語。「や」は、反語。恋うることを忘れようか、忘れはしないの意で、絶えず恋うている意。○かはづ鳴く泉の里に 「かはづ」は、今の河鹿。「かはづ鳴く」は、泉の里の形容。「泉の里」は、京都府相楽郡泉川のほとりの里で、恭仁《くにの》宮の付近。広成は妻を奈良京に置いて、そこに住んでいたことがこの歌で知られる。恭仁宮に関しての公務を帯びてのことか、または他の公務のためであるかはわからない。○年の歴ぬれば 年が経てしまったのでで、滞留の久しきを、嘆きをもって強めていっているもの。「年」は一年とも、また何年かとも取れる語である。感傷をもっていっているので、年を越した、すなわち二年にまたがっている意のものと思われる。
【釈】 妻を恋うることが忘られようか忘られはしない。河鹿の鳴くこの泉の里に、年をまたがるまでの久しい間を過ごしてしまったので。
【評】 旅にあって妻を恋う心で、類歌の多いものであるが、「かはづ鳴く泉の里」と地名を用いて言っているので、そのために(497)気分となし得ているものである。しみじみとした趣がある。
大伴宿禰|像見《かたみ》の歌三首
【題意】 「像見」は、(六六四)に出た。
697 吾《わ》が聞《きき》に 繋《か》けてな言《い》ひそ 刈薦《かりこも》の 乱《みだ》れて念《おも》ふ 君《きみ》が直香《ただか》ぞ
吾聞尓 繋莫言 苅薦之 乱而念 君之直香曾
【語釈】 ○吾が聞に 旧訓。「聞」は、名詞で、聞くことの意。用例のあるものである。○繋けてな言ひそ 「繋けて」は、関係させて、あるいは及ぼしての意。「な言ひそ」は、言うなと禁止したもの。初句から続けると、我の聞《きき》に及ぼして言うなで、他人の我に向かって話すことを制した語《ことば》で、さらにいえば、そのようなことを我に聞かせるなの意。その聞かせた事柄は、結句の「君が直香」で、聞かせた人は、像見と、その思い人の中間に立って、使の役をしている者と取れる。○刈薦の乱れて念ふ 「刈薦の」は、刈った薦のごとくで、その乱れやすいところから、「乱れ」の枕詞となっているもの。「乱れて念ふ」は、心乱れて思っているところので、「君」を修飾しているもの。これは、思い人の上に障りがあって、逢いやすくなかったためで、第三首目の歌がそれをあらわしている。○君が直香ぞ 「君」は、女をさしているものと取れる。男より女をいうには妹が普通であって、「君」というのは例外の珍しいものである。しかしここは、第三人称として言っているものであり、その中間の者と女との関係が、そういう称を用いるのが適当な関係であったがためかもしれぬ。この時代には、少ないながら例のあるものである。「直香」は、ここは有様というにあたる。
【釈】 我に聞かせて、そのようなことは言いうな。心乱れ(498)て思っているところの君の有様であるぞ。
【評】 像見は仲介者を通じて女に求婚の交渉をし、女もそれを否んでいるのではないが、周囲にさしつかえがあるため事が進捗せず、懊悩をしていたとみえる。それがこの歌の背後にあるもので、事は複雑しているごとくであるが、当時の結婚にあってはこうしたことは、むしろ普通のことであったとみえる。歌は、その仲介者が像見の許へ来て、女の有様を伝えた時のもので、像見としてはそれを聞くことがつらく、そうしたことは聞かないほうが幸いだとして制した心のものである。複雑したことを、一断面を言うことによってあらわそうとしたものである。極度に実際に即した歌で、そのために解し難くもなっているが、その断面は一般性をもっているものなので、同時に解しうるものでもある。断面の捉え方は、無意識なものであろうが、結果から見ると巧みだとすべきものである。
698 春日野《かすがの》に 朝《あさ》居《ゐ》る雲《くも》の しくしくに 吾《あ》は恋《こ》ひ益《ま》さる 月《つき》に日《ひ》にけに
春日野尓 朝居雲之 敷布二 吾者戀益 月二日二異二
【語釈】 ○春日野に 「春日野」は、現在の奈良市のそれであるが、巻三(三七二)「春日野に登りて」とあり山地をも含めた広範囲のものであったことが知られる。ここも雲のいる所としてであるから、高地をさしているとみえる。○朝居る雲の 山に夜|降《くだ》る雲を、朝に見ての言。初句より続き、雲の重なっている意で、「重《し》く」と続き、それを「しくしく」に転じての序詞。○しくしくに 引きもきらずの意で、副詞。○吾は恋ひ益さる 旧訓「吾《われ》は恋ひ益す」。『古義』の訓。吾は恋い募ってゆく。○月に日にけに 月ごとに、日ごとにで、絶えずを具象化した語。
【釈】 春日野に朝かかっている雲の打重なっているが、わが心も引きもきらず恋い募って行く。月ごとに、日ごと日ごとに。
【評】 障りがあるために、かえって恋が募って行く心で、一般性のものである。一、二句の序詞は、心としては譬喩であるが、それに序詞の形をもたせたもので、その間の距離の少ないものである。像見の家が春日野に近い辺りにあり、朝々に見る実景で、それを捉えてのものと取れる。
699 一瀬《ひとせ》には 千遍《ちたび》障《さは》らひ 逝《ゆ》く水《みづ》の 後《のち》にもあはむ 今《いま》ならずとも
一瀬二波 千遍障良比 逝水之 後毛將相 今尓不有十方
(499)【語釈】 ○一瀬には千遍障らひ 「一瀬」の「瀬」は、川の流れの浅い所で、淵に対しての称。「一瀬」は、淵と淵との間。「千遍」は、千度で、数の多い意。「障らひ」は、「障る」の継続をあらわした語。障り続けて。障るのは岩石に対して。○逝く水の 「逝く水」は、流れゆく水で、川水。「の」は、のごとくで、水の分かれることを捉えて譬喩としたもの。○後にもあはむ 旧訓「後《のち》も相《あ》はなむ」。これは古点で、『代匠記』の改めたもの。「も」は、詠歎。後になって逢おう。○今ならずとも 今でなくても。
【釈】 一瀬の間でも、千たびと多く岩石に障り続けて、分かれては流れてゆく水のごとくに、我も後には妹と逢おう、今でなくても。
【評】 山地の大和国のこととて、渓流を恋の譬喩に捉えたものは少なくない。この歌の先蹤をなすものに、巻十一(二四三一)「鴨川の後瀬静けく後も逢はむ妹には我は今ならずとも」。巻十二(三〇一八)「巨勢にある能登瀬の河の後も逢はむ妹には吾は今ならずとも」などがある。これは謡い物と思われるが、その影響を受けつつ、謡い物的なところを消そうとした歌である。
大伴宿禰家持、娘子の門に到りて作れる歌一首
700 かくしてや 猶《なほ》や退《まか》らむ 近《ちか》からぬ 道《みち》の間《あひだ》を 煩《なづ》み参来《まゐき》て
如此爲而哉 猶八將退 不近 道之間乎 煩參來而
【語釈】 ○かくしてや猶や退らむ 「かくして」は、このようにしてで、その事は三句以下にいっていること。「や」は、疑問。「猶や」は、「猶」は、それでも。「や」は、詠歎。「退《まか》る」は、帰る意であるが、先方へ対して敬意を表しての語である。引下がるというにあたる。これは女に対しては敬語を用いる風に従ってのもの。下の「参来」と対させてあって、それも同様である。○近からめ道の間を 近くはない道をで、遠い路を婉曲にいったもの。○煩み参来て 「煩み」は、難渋して。「参来て」は、伺ってというにあたる。
【釈】 このようにして来て、それでも引下がるのであろうか。近くはない道のりを、難渋して伺って。
【評】 娘子に娉《つまど》いをしたが、逢おうとしないので、訴えの心をもって詠んだものである。そうした際道の労苦をいうのは、型ともなっているもので、真情のある証としたものである。これもそれである。
河内百枝娘子《かふちのももえをとめ》、大伴宿禰家持に贈れる歌二首
(500)【題意】 「河内百枝娘子」は、伝は全く知れない。「河内」は、氏、「百枝」は名であろう。
701 はつはつに 人《ひと》をあひ見《み》て いかならむ 何《いづ》れの日《ひ》にか 又《また》外《よそ》に見《み》む
波都波都尓 人乎相見而 何將有 何日二箇 又外二將見
【語釈】 ○はつはつに人をあひ見て 「はつはつに」は、わずかに。「人」は、家持をさしたもの。敬意から距離をつけていっている語。「あひ見て」は、「逢ひ見て」で、男女関係をあらわしたもの。○いかならむ何れの日にか 「いかならむ」は、「日」にかかる。どういう機会の日というほどの意。「何れの日」は、いつの日。○又外に見む 「外に」は、関係のない状態において。「見む」は、単に目に見るで、見かける意。
【釈】 ほんのちょっと、人と相関係して、どういう機会の、いつの日に、またよそながらも見かけられるであろうか。
【評】 自身と家持との間に、甚しく身分の隔たりのあることを意識し、一たびは関係したが、それだけの仲で、再びはあい難いものとしつつ、その事をもって訴えとしたのである。純粋な、つつましい心の現われている歌である。
702 ぬば玉《たま》の その夜《よ》の月夜《つくよ》 今日《けふ》までに 吾《われ》は忘《わす》れず 間《ま》なくし念《も》へば
夜干玉之 其夜乃月夜 至于今日 吾者不忘 無間苦思念者
【語釈】 ○ぬば玉のその夜の月夜 「ぬば玉の」は、「夜」の枕詞。「その夜」は、「その」は相逢ったことをさしたもの。「月夜」は、月。○今日までに吾は忘れず 今日に至るまで忘れない。○間なくし念へば 「間なく」は絶え間なく。「し」は、強め。「念へば」は、思っているので。
【釈】 相逢った夜の月は、今日に至るまで吾は忘れない。絶え間なく思っているので。
【評】 家持と逢ったのは、月下であったとみえる。これは当時としては特別なことではなかったのである。家持を思う心を、その夜見た月に転じて、月を忘れないということによってあらわしているものである。人と風物とを一体としていうことは、この時代にはすでに一般化しようとしていたものと思われる。この歌はその範囲のもので、文芸的意図をもってのものではなく、自然に、純粋な心をもっていっているものと取れる。
巫部麻蘇娘子《かむなぎべのまそをとめ》の歌二首
(501)【題意】 「巫部麻蘇娘子」は、父祖は知れない。巫部は氏で、『新撰姓氏録』に、「巫部宿禰、神饒速日命六世之孫、伊香我色雄命之後也」とあり、また「巫部連、饒速日命十世之孫、伊己布都乃連公之後也」ともある。「麻蘇」は名と取れる。
703 吾《わ》が背子《せこ》を あひ見《み》しその日《ひ》 今日《けふ》までに 吾《わ》が衣手《ころもで》は 乾《ふ》る時《とき》もなし
吾背子乎 相見之其日 至于今日 吾衣手者 乾時毛奈志
【語釈】 ○あひ見しその日 相逢ったその日よりの意。○吾が衣手は乾る時もなし わが袖は、恋うての涙を拭うのに濡れて、乾く時がないで、「も」は詠歎。
【釈】 わが背子に相逢ったその日から今日に至るまでを、わが袖は、恋うての涙を拭うのに濡れとおして、乾く時もない。
【評】 恋の苦しさの訴えであるが、歌としては水準以下のものというべきである。
704 栲繩《たくなは》の 永《なが》き命《いのち》を 欲《ほ》りしくは 絶《た》えずて人《ひと》を 見《み》まく欲《ほ》れこそ
栲繩之 永命乎 欲苦波 不紹而人乎 欲見社
【語釈】 ○栲繩の永き命を 「栲繩の」は、栲《こうぞ》をもって綯《な》った繩で、意味で「永く」の枕詞。「永き命」は、長い寿命。○欲りしくは 「欲りしく」の、「し」は過去の助動詞、「く」を添えて名詞形としたもの。欲しいと思ったことはの意。○絶えずて人を 「絶えずて」は、「見まく」にかかる。絶えずにの意。「人」は、家持。○見まく欲れこそ 旧訓「見まく欲りこそ」。『新考』の訓。「見まく」は、「見む」の名詞形。見る、すなわち逢うこと。「欲れこそ」は、後の欲ればこそにあたる古格。「こそ」は、係辞で、「あれ」の結の省かれた形。逢いたいと思うためでこそあるの意。
【釈】 長い寿命を欲しいと思ったことは、他のためではなく、絶えずに君と逢いたいことのためでこそある。
【評】 前の歌の心を積極的にした訴えであるが、心の在り方を説明した程度のもので、この時代としてはむしろ拙いものである。
大伴宿禰家持、童女《をとめ》に贈れる歌一首
(502)705 葉根蘰《はねかづら》 今《いま》する妹《いも》を 夢《いめ》に見《み》て 情《こころ》の内《うち》に 恋《こ》ひ渡《わた》るかも
葉根蘰 今爲妹乎 夢見而 情内二 戀渡鴨
【語釈】 ○葉根蘰 不明な語である。その物は残らず、記録もないからである。「蘰」とあるので、頭髪に施した物と思われ、また集中、葉根蘰に関係をもった歌が四首あるが、いずれも童女の物としてあるので、童女に限つての物と思われる。また、童女とはいうが、それらの歌は男女関係を絡ませたものであるところから、成女に近い年齢の者が、ある時期にしていた物とみえる。蘰は本来儀式に関係のある物であるが、後には装飾の物ともなったであろうことは、玉、化粧などによっても想像される。大体、成女となった儀式としての物と解される。○今する妹を 「今」は現在で、それをするべき年齢、時期をあらわしたもの。「する」は、頭髪に施す意。「妹」は、女に対する一般の称。○夢に見て 「夢」は、魂の感応より見るものとされていた。先方がこちらを思っている時には、それがこちらの魂に感応して夢に見えるというのが土台で、反対に、こちらが先方を思っている時にも、それと同じ結果を生むとされていたものに見える。ここはその後の場合で、こちらの思いが先方の魂に感応しての夢と取れる。○情の内に恋ひ渡るかも わが心の中に恋いつづけていることであるよ。
【釈】 葉根蘰を現在しているところの妹を夢に見て、我は心の中に恋い続けていることであるよ。
【評】 「葉根蘰今する妹」というのは、家持がその童女を眼に見て言っているのではなく、想像のものであることが、次の童女の歌で知られる。「夢に見て」は、「語釈」でいったように、先方は意識せずとも、魂のつながりのあることを背後に置いてのものと取れる。それでないと「恋ひ渡る」が意をなさないからである。「情の内に」というのは、童女であるのに対しての斟酌である。淡い心をもっての訴えであるが、歌は細心な用意をしたものである。
童女の来報《こた》ふる歌一首
706 葉根蘰《はねかづら》 今《いま》する妹《いも》は なかりしを 何《いづ》れの妹《いも》ぞ 幾許《ここだ》恋《こ》ひたる
葉根蘰 今爲妹者 無四呼 何妹其 幾許戀多類
【語釈】 ○葉根蘰今する妹は 贈歌の語をそのまま取ったもの。「妹は」は、妹にはの意でいっている。○なかりしを なかったものをで、我はおりから、そうしたことはしていなかったものをの意。○何れの妹ぞ どういう妹をぞで、「ぞ」は係。我以外のどういう女をの意。○幾許恋ひたる 甚しくも恋うていることであるかで、「幾許恋ひ」は、「夢に見」に対させたもの。「たる」は、「ぞ」の結で、詠歎を含めたもの。
(503)【釈】 葉根蘰を現にしている妹では我はなかったものを、どういう妹を君は、そのように甚しくも恋うていることであるぞ。
【評】 この歌で見ると、葉根蘰というものは、それをするにはある期間のあるものであって、男から見ると、その期間との関係において印象的なものではなかったかと思われる。この歌は、いわゆるませた物言いというよりも、むしろ童女らしい正直な物言いと解すべきであろう。それは、夢に対しての信仰は、当時は常識となっていたもので、成女に近いほどの女なら誰でも知っていることであり、この歌はその上に立ってのものだからである。二首、いうべきほどの歌ではないが、その事柄のやや特殊なものであることに興味をもって撰んだものと思われる。
粟田女娘子《あはだめのをとめ》、大伴宿禰家持に贈れる歌二首
【題意】 「粟田女」の「女」は、西本願寺本以後の諸本にはなく、元暦本、他二本にあるものである。「粟田女」は、氏ではなく、一方、「何女」と称する名の多かったところから、これも名と思われる。伝は知れない。元暦本には、本文の下に小字で、「注士※[土+完]之中」とあり、古葉略類聚鈔、紀州本、京都大学本も、「士」が「云」となっているだけで、同じ注がある。「士」も「云」も「土」の誤りであり、「土※[土+完]」は歌にある「※[土+完]《もひ》」であって、この歌は士※[土+完]の中に書いてあったものとの意である。
707 思《おも》ひ遣《や》る すべの知《し》らねば 片士※[土+完]《かたもひ》の 底《そこ》にぞ吾《われ》は 恋《こひ》なりにける 土士※[土+完]の中に注せり。
思遣 爲便乃不知者 片士※[土+完]之 底曾吾者 戀成尓家類 注2土士※[土+完]之中1
【語釈】 ○思ひ遣るすべの知らねば 思いをはらす方法を知らないのでで、恋の悩みは夫に逢うことによって去るのであるが、それができないのでの意で、家持の疎遠にする恨みを控えめにいったもの。○片士※[土+完]の 「士※[土+完]《もひ》」は士※[土+宛]に通じる字で、土器の食器の称で、片士※[土+完]はその一種である。『代匠記』は、『延喜式』巻一に、「供2神今食料1、土片|椀《もひ》廿口」、同三十二に、「松尾神祭雑給料、片士※[土+完]八十七口、大原野祭雑給料、片士※[土+完]四十八口」とあるを証として引いている。神事には上代の風を伝えるべきとして、後世にも用いていたのである。『攷証』はさらに、「言計式」に「有蓋椀二十口」とあるより推して、片士※[土+完]は蓋の無い士※[土+完]の意で、片盤《かたさら》、片※[土+下]《かたつき》などいうも、同類の物であろう。また、「もひ」は飲用水の称でもあるが、これはその容器士※[土+完]より出たところの称で、士※[土+完]は飲用水を容れる器であるともいっている。「片士※[土+完]」は、恋の上の「片思《かたもひ》」と同音であるところから、ここはその意で用い、それを片※[土+完]の中に書いたのである。○底にぞ吾は 「底」は、片士※[土+完]の「底」であるが、この語は、物の限りという意にも用いていて、巻十二(三〇二八)「大海の底を深めて結びてし」などがあり、ここもその意に用い、上から続いて、「片思」の極限としたもの。○恋なりにける 「恋」は、恋を名詞として用いたものと取れる。「なり」は、変わる意。「に」は、完了。「ける」は、「ぞ」の結。恋がなってしまったことである(504)よで、疎遠にされる恨みをいわず、その状態の苦しさをいったもの。
【釈】 思いをはらすべき方法を知らないので、片思《かたもい》の底までわが恋はなってしまったことであるよ。
【評】 疎遠にされる悲しみを訴えたものである。こうした場合は普通、恨みをいうか、あるいは恋の堪え難きをいうのであるが、この歌はその積極性がなく、消極的に自身の苦しみの状態を言うだけにとどめているものである。これは家持と自分との身分の隔たりを意識して、わざと控えめにしたものと思われる。この歌を片※[土+完]《かたもい》の底に書いて贈ったのも、そうすることが先方に興味がありうることとし、訴えを効果的にしようとしてのことと思われる。同音異義が興味あることとして喜ばれたのは、古事記、日本書紀のいわゆる起源伝説をはじめ、枕詞、序詞の上にも甚だ多く現われていることであるから、この歌のしていることは、この当時にあっては自然な、また興味あることとされたであろうと思われる。歌を物に着けて贈ることは、巻二(一一三)、弓削皇子が額田王に、松が枝に着けて贈った例がある。後には普通のこととなり、型とさえなったのであるから、当時も行なわれていたことかもしれぬ。片※[土+完]の中に書くというのは特別のことではあるが、当時の風に、つながりのあったことかと思われる。
708 復《また》もあはむ よしもあらぬか 白細《しろたへ》の 我《わ》が衣手《ころもで》に 斎《いは》ひ留《とど》めむ
復毛將相 因毛有奴可 白細之 我衣手二 齋留目六
【語釈】 ○復もあはむよしもあらぬか 「復もあはむよしも」は、重ねて相逢ふ因《ちな》みで、「も」は、二つとも詠歎。「あらぬか」は、ないものか、あってくれよの意の語。○白細の我が衣手に 「白細の」は、「衣」の枕詞。「衣手に」は、袖に。○斎ひ留めむ 「斎ひ」は、本来は潔斎することであるが、これは神霊に仕える態度であるところから、祭る意にも、斎《いつ》く意にも用いられている。ここは斎くま。「留めむ」は、魂を留めようの意と取れる。魂に対しても、神霊と同じ態度をとっていた。上より続いて、わが袖に、斎いて君の魂を留めようというのである。これに類した事を詠んだ歌に、巻十五(三七七八)、京にある狭野弟上娘子《さののおとがみのおとめ》が、越前国に流された中臣朝臣|宅守《やかもり》に贈った歌に、「白妙のわが衣手を取り持ちて斎《いは》へ我が背子|直《ただ》に逢ふまでに」がある。これは形見に贈ったわが袖を斎うことによって、相手が身の無事を得るとする信仰の上に立っての言である。形見の品にはその人の魂が宿っており、魂は斎うことによってその神秘力を発揮すると信じていたものとみえる。この歌はそれとは趣が異なっているが、心は同じで、娘子の袖に家持の身が触れたので、その魂が宿っているものとし、その魂は斎《いつ》き守ることによってそこに留まるものとし、魂が留まっていれば、家持の身もそれに引かれて来るものとして言っているのではないかと思われる。上代よりの信仰の上に立っての言で、この範囲のことと思われる。
(505)【釈】 重ねて相逢う因《ちな》みはないか、あってくれよ。白細《しろたえ》のわが袖の上に、君が魂を斉き守って留めておいて、その因みとしよう。
【評】 「斎ひ留めむ」ということがはっきりしないが、上のように解するとその心は通る。家持とまた逢うことは、わが力には及ばずとして、信仰の力を借りようとするもので、心深い訴えではあるが、その控えめであることは前の歌と同様である。前の歌の「片※[土+完]《かたもひ》」は、平安朝では神事に限ったもののごとくなっており、また、この歌の「斎ひ」も、類似の歌はあるが、詠んでいる者は同じく女である。この娘子は、女性に共通であるところの伝統の信仰の保持者であり、また身分の低いらしいことが、信仰保持心の強いことともなって、この二首のような歌を詠ませているのではないかと思われる。また二首とも、自意識をもった、つつましい人柄であることを思わせるものである。
豊前国の娘子《をとめ》大宅女《おほやけめ》の歌一首 未だ姓氏を審らかにせず
【題意】 「大宅女」は、名。「女」の添った名前が多いからである。題詞の下の小字の注は元暦本ほか五本にある。
709 夕闇《ゆふやみ》は 路《みち》たづたづし 月《つき》待《ま》ちて 行《ゆ》かせ吾《わ》が背子《せこ》 その間《ま》にも見《み》む
夕闇者 路多豆多頭四 待月而 行吾背子 其間尓母將見
【語釈】 ○夕闇は路たづたづし 「路」は、下の「背子」のその家へ帰る路と取れる。「たづたづし」は、おぼつかなしで、歩きにくい意。○月待ちて行かせ吾が背子 「月待ちて」は、月の出を待ってで、月の出の早い頃の実際に即してのもの。「行かせ」は、原文「行」、旧訓「ゆかむ」。『代匠記』の訓。「行く」の敬語。命令形。「吾が背子」は、呼びかけ。○その間にも見む 「その間」は、月の出るまでの間。「も」は、それ以前の時を背後に置いたもの。「見む」は、共にいようの意。
【釈】 夕闇は路がおぼつかない。月の出を待って行きたまえよわが背子よ、その間も共にいよう。
【評】 何らかの事情で昼通って来て、夕方帰ろうとする夫に、名残りを惜しんでの歌である。女の細かい心をもって、実際に即して、素朴にいっているので、事が気分になり得て、それが魅力となっている歌である。豊前国の身分のない女の歌であるが、魅力のあるところから京に伝わるに至ったものとみえる。
安都扉娘子《あとのとびらをとめ》の歌一首
(506)【題意】 「安都扉」は、安都は氏、扉は名と思われる。(六六三)安都宿禰年足があった。同族とみえる。
710 み空《そら》ゆく 月《つき》の光《ひかり》に ただ一目《ひとめ》 相見《あひみ》し人《ひと》の 夢《いめ》にし見《み》ゆる
三空去 月之光二 直一目 相三師人之 夢西所見
【語釈】 ○み空ゆく月の光に 「み空」の「み」は、美称。空を渡ってゆく月の光によって。○ただ一目相見し人の ただ一目、互いに見かわした人のというので、道行きずりに逢った人とみえる。○夢にし見ゆる 「夢」は、魂の通うものがあっての意のもの。「し」は、強め。「見ゆる」は、連体形で、終止形であるべきところを、感動をあらわすために連体形を用いるのは、この当時の格で、例のあるものである。
【釈】 空を渡ってゆく月の光に、ただ一目見かわし合った人が、夢に見えることであるよ。
【評】 夢は魂の感応によるものだとする信仰の上に立って、路上に一目見ただけの人とのつながりに思い入つた心である。この夢は、上の (七〇五)の、家持の童女《おとめ》に贈った歌の夢と同系のものに思われる。調べに、静かではあるが強いものがあって、それが魅力をなしている。「み空ゆく」は、語としては月の修飾にすぎないものであるが、これあるがために、「相見し」という境の広さを連想させ、さらにまた「相見し」の瞬間的であったことをも響かせきたるものがあって、この歌としては重い働きをしている。しかし作者としてはそれと意識して用いたものではないかもしれぬ。
丹波大女娘子《たにはのおほめをとめ》の歌三首
【題意】 「丹波」は『代匠記』は、下に「国」の字がなく、またこの氏は『新撰姓氏録』にあるので、氏であるとしている。そこには、「丹波史、後漢霊帝八世孫、孝日王之後也」とあるもので、帰化人である。「大女」の「女」は、元暦本以下四本にあるもので、大女は名と取れる。『代匠記』は、丹波が氏であることは、第二首は、大和国での作であることでも知られるといっている。『攷証』は、「国」の字はなくても、「河内百枝娘子」のごとくその国の者であることをあらわしている用例は多いといって反対している。『代匠記』に従う。伝は知り難い。
711 鴨鳥《かもとり》の 遊《あそ》ぶこの池《いけ》に 木《こ》の葉《は》落《お》ちて 浮《うか》べる心《こころ》 君《わ》が念《おも》はなくに
鴨鳥之 遊此池尓 木葉落而 浮心 吾不念國
(507)【語釈】 ○鴨鳥の遊ぶこの池に 「鴨鳥」は、鴨。渡り鳥で、雁におくれて来、またおくれて帰る。すなわち落葉の季節である。「この池」は、眼前をさしている。○木の葉落ちて 「落ち」は、枯れて落ちる意。初句からこれまでは眼前の光景で、その木の葉が水に浮かぶ意で続き、それを転義して序詞としたもの。○浮べる心 軽く漂う心で、実《じつ》があって動かない心に対させたもの。男女関係の上での心である。○吾が念はなくに 「念ふ」は「心」に続き、心念うの意。心をもつの意をあらわす古語で、用例の多いもの。「なくに」は、しばしば出た。「なく」は、打消して名詞形としたもの。「に」は、詠歎。
【釈】 鴨が泳いで遊んでいるこの池に、秋の木の葉が散り落ちて浮かんでいる、その浮かぶ、すなわち軽く漂う心は、我はもっていないことであるものを。
【評】 夫婦関係の上で夫より疎くされ、貞実について疑われていることを背後にしての歌と取れる。初句より三句までは、形としては「浮べる」にかかる序詞であるが、文芸的に構えて捉えたものではなく、「この池に」で明らかなように、眼前の光景である。さらにいえば、「木の葉落ちて浮べる」という光景を見て、その「浮べる」を我に引きあてたものである。すなわち譬喩よりさらに緊密に心につながったものである。これは最も古い表現法で、その心を具象しうる対象を認めたことによって、初めて表現の心を起こすという範囲のものである。この歌はその範囲のものである。
712 味酒《うまさけ》を 三輪《みわ》の祝《はふり》が 忌《い》はふ杉《すぎ》 手《て》触《ふ》れし罪《つみ》か 君《きみ》に遇《あ》ひ難《がた》き
味酒呼 三輪之祝我 忌杉 手觸之罪歟 君二遇難寸
【語釈】 ○味酒を 「味酒を」は、「味酒」は、うまき酒。「を」は、詠歎で、ここは「三輪」にかかる枕詞。「三輪」は、上代の神酒の称で、同意の語を重ねる関係で続け、その三輪を地名に転じたもの。○三輪の祝が 「三輪」は、奈良県大三輪町の大神《おおみわ》神社。「祝」は、神職の一つの階級の称。神主につぐ位であるが、神主をさすことがある。(508)○忌はふ杉 「忌はふ」は、「斎《いは》ふ」で、意味の広い語である。ここは斎《いつ》き守る意で、下の「杉」に対することで、斎き守っているところの杉の意。この杉は社の境内に立つ木で、神の御霊《みたま》の降られる木として、それにふさわしく清浄を保たせ、穢に触れさせなくしているもの。○手触れし罪か 手を触れて穢したことのあった神罰か。○君に遇ひ難き 「君」は、夫。「難き」は、連体形で、「か」の結。遇い難きことよの意。
【釈】 味酒よ三輪の大神《おおみわ》神社の祝が斎《いつ》き守っているところの杉よ、それにわが手を触れて穢した神罰で、君に逢い難いことであるのかよ。
【評】 夫に疎まれている理由が発見できず、人事の一切は神意によるものとする信仰から、その住む大和国の神である三輪の神の神意によってのこととし、さらに神意を思って、神木の杉に手を触れたことのあったのに思いあたっての心である。女性の信仰心の強さのあらわれている歌である。
713 垣穂《かきほ》なす 人辞《ひとご》聞《き》きて 吾《わ》が背子《せこ》が 情《こころ》たゆたひ あはぬこの頃《ごろ》
垣穗成 人辞聞而 吾背子之 情多由多比 不合頃者
【語釈】 ○垣穂なす人辞聞きて 「垣穂」は、垣の秀《ほ》の意と取れる。垣は柴などで作ったので、その秀は多いわけである。「なす」は、のごとくの意で、垣の秀のごとくで、多くの意。「人辞」は、他人の噂で、夫婦関係の秘密にしてあるものに対して、他人の興味よりする噂。○吾が背子が情たゆたひ 「たゆたひ」は、躊躇してで、するのは人言を怖れる意からのこと。○あはぬこの頃 「あはぬ」は、「逢はぬ」で、通って来ない意。「この頃」は、下に詠歎を含んでいる形のもの。
【釈】 垣の秀《ほ》のごとくにも多き人の噂を聞いて、わが背子の、それを怖れて躊躇して、通って来て逢わないこの頃であるよ。
【評】 夫婦関係が秘密なものであり、それゆえに人言があり、あれば怖れて足を遠くするというのは、きわめて一般的なことであった。これもその範囲のもので、嘆いての訴えである。三首、夫に疎くされての嘆きは一貫しているが、異なる時のもので、連絡のあるものではない。
大伴宿禰家持、娘子《をとめ》に贈れる歌七首
714 情《こころ》には 思《おも》ひ渡《わた》れど 縁《よし》を無《な》み 外《よそ》にのみして 嘆《なげき》ぞ吾《わ》がする
(509) 情尓者 思渡跡 縁乎無三 外耳爲而 嘆曾吾爲
【語釈】 ○情には思ひ渡れど 「情には」は、「外にのみ」に対させたもの。「思ひ渡る」は、「渡る」は、遠く及ぶ意で、思い続けていたけれども。○縁を無み 逢う手がかりがなくして。○外にのみして嘆ぞ吾がする 「外」は、余所《よそ》は、住む地域を異にする意から出て、無関係の意となった語。「外にのみして」は、無関係のみの状態。「嘆ぞ吾がする」は、我は嘆きをしていることであるよ。
【釈】 心の中には長く思い続けているけれども、逢うべき手がかりがなくて、無関係のみの状態で、我は嘆きをしていることであるよ。
【評】 いうところはきわめて普通のものである。詠み方もそれにふさわしいものであるが、正直で、語の続きにある粘りをもっていて、その人を思わせるものである。それが特色である。
715 千鳥《ちどり》鳴《な》く 佐保《さほ》の河門《かはと》の 清《きよ》き瀬《せ》を 馬《うま》打《うち》わたし 何時《いつ》か通《かよ》はむ
千鳥鳴 佐保乃河門之 清瀬乎 馬打和多思 何時將通
【語釈】 ○千鳥鳴く佐保の河門の この二句(五二八)に既出。「千鳥鳴く」は、佐保川の修飾。「佐保の河門」は、佐保川の渡り場で、橋がなくて徒渉したのである。○清き瀬を 清い川瀬をで、「通はむ」につづく。○馬打わたし何時か通はむ 「馬」は、自身の乗馬。「打わたし」は、「打」は、接頭語。「わたし」は、渡らせ。「何時か通はむ」は、いつになれば娘子の許へ通えようか。
【釈】 千鳥の鳴いているところの佐保川の渡り場の、その清らかな川瀬を、わが乗る馬を渡らせて、いつになれば妹が許へ通えようか。
【評】 家持の家より娘子の家へ行くには、佐保川を渡ることになっていたのである。一首の中心は「何時か通はむ」で、娘子に対する予想で、実現するともしないともわからないものであるが、その予想をすると、美しい佐保川を、乗馬で楽しく渡る状態が浮かんできて、それが憧れの対象であるかのようになってきたのである。美しい想像に溺れてゆく家持を思わせる歌である。その美しさを風景の上に求めているところも家持を思わせる。
716 夜昼《よるひる》と 云《い》ふ別《わき》知《し》らに 吾《わ》が恋《こ》ふる 情《こころ》はけだし 夢《いめ》に見《み》えきや
(510) 夜晝 云別不知 吾戀 情盖 夢所見寸八
【語釈】 ○夜昼と云ふ別知らに 「夜昼と云ふ別」は、夜か昼かという差別で、下の「恋ふる情」の状態。「知らに」は、「に」は打消で、知らずの意。「知らに」は、下に続くことの理由をあらわす際に用いられている。ここでは「夢に見え」の理由である。○吾が恋ふる情はけだし 「けだし」は、「若し」で、あるいはと疑うにあたる。こちらで恋うる情が、先方の魂に感応して、こちらを夢に見るものだという信仰の上に立っての言。○夢に見えきや 「き」は、過去。「や」は、疑問。
【釈】 夜といい昼という差別もわからずにわが恋うている心は、あるいは妹が魂に感応して、我を夢に見たことがあったろうか。
【評】 夢はこちらの魂の先方の魂に感応するところから見るものだという信仰の上に立っての訴えである。見ればこちらを思うべきであり、見ねば恨みを受けるべきであるから、訴えとしては効果的なものである。見たいといわれたい予期をもっての訴えである。
717 つれもなく あるらむ人《ひと》を 独念《かたもひ》に 吾《われ》は念《おも》へば 惑《わぴ》しくもあるか
都礼毛無 將有人乎 獨念尓 吾念者 惑毛安流香
【語釈】 ○つれもなくあるらむ人を 「つれもなく」は、つれなくは、思いやりなくで、現在も用いている。「も」は、詠歎。「あるらむ人」は、現にその状態でいよう人で、娘子を恨んでの語。○独念に 「独念」は「片念」の義訓で、用例のある字。我のみ思う意。○吾は念へば惑しくもあるか 「吾は念へば」は、我のほうは思っているので。「惑」は、旧訓「まとひ」。『代匠記』の訓。『攷証』も、巻九(一八〇一)「惑者《わびびと》は啼《ね》にも哭《な》きつつ」、巻十(二三〇二)「惑者《わびびと》のあな情《こころ》なと念《おも》ふらむ」を引き、『説文』に「惑乱也」とあるのでおのずからその意があるといっている。ここは悲しいというにあたる。「か」は詠歎。
【釈】 思いやりもなくているだろうところの人を、片思いに我は思っているので、悲しいことではあるよ。
【評】 正直に、語に粘りをもたせていう、家持風の歌というにすぎないものである。
718 念《おも》はぬに 妹《いも》が咲《ゑ》まひを 夢《いめ》に見《み》て 心《こころ》の中《うち》に 燎《も》えつつぞをる
不念尓 妹之咲※[人偏+舞]乎 夢見而 心中二 燎管曾乎留
(511)【語釈】 ○念はぬに妹が咲まひを 「念はぬに」は、思いがけずにというにあたる。「咲まひ」は、「咲む」の継続をあらわした語の名詞形。笑んでいる姿というにあたる。○燎えつつぞをる 「燎え」は、甚しくものを思うと、胸が熱く感じるのを、強調しての語。ここは、甚しく憧れる意を具象化したもの。「つつ」は、継続。
【釈】 思いがけずに、妹が笑んでいる姿を夢に見て、妹の心の感応と思い、心の中に甚しくも憧れつづけていることであるよ。
【評】 家持の空想的な面をあらわした歌である。実際に即していう時には、丹念に、むしろくどくも言わなくてはいられない家持であるが、空想的になると、明るく、軽く、飛ぶ小鳥のようになってくる。これはその範囲のものである。力量はとにかく、詩情を思わせる歌である。
719 大夫《ますらを》と 念《おも》へる吾《われ》を かくばかり みつれにみつれ 片思《かたもひ》をせむ
大夫跡 念流吾乎 如此許 三礼二見津札 片念男責
【語釈】 ○大夫と念へる吾を 強き男子だと思っている我であるものをで、「を」は詠歎。男子の矜《ほこ》りをいう、当時の成句。以上、段落。○かくばかりみつれにみつれ 「かくばかり」は、このようにで、以下を総括していったもの。「みつれ」は、巻十(一九六七)「香《か》ぐはしき花橘を玉に貫《ぬ》き送らむ妹はみつれてもあるか」という例もある。語意は『代匠記』は、日本書紀に「羸」を「あつれ」と点じているところがあり、古の片仮名は「ア」も「ミ」も同字であるから、あるいは「ミツレ」であるかもしれぬ。いずれにもせよ「みつれ」は思いにやつるる意だとしている。『攷証』は、その日本書紀というは顕宗紀元年で、「羸弱」を「アツシレ」と訓んでいるもので、この語とは別で、結局解し難い語だといっている。『大言海』は、「身やつる」の約だとしている。「身」と「三」の「み」は上代仮名づかいの上で異なり、疑点はあるが、やつれる意というに従う。「みつれにみつれ」は、やつれにやつれで、そのことの甚しい意。○片思をせむ 片思いをしようかで、「か」は「かくばかり」の照応よりのもの。
【釈】 強い男子と思っている我であるものを。このように、やつれにやつれて片思いをしようか。
【評】 甲斐なき恋に悩んでいる自身の状態に反省を加え、嘆き憤った心のもので、独詠の形をもって訴えとしたものである。事の性質として誇張はあろうが、真情の認められるものである。
720 むらきもの 情《こころ》推《くだ》けて かくばかり 吾《わ》が恋《こ》ふらくを 知《し》らずかあるらむ
村肝之 情推而 如此許 余戀良苦乎 不知香安類良武
(512)【語釈】 ○むらきもの情摧けて 「むらきもの」は、「心」の枕詞。巻一(五)に出た。「情摧けて」は、甚しく苦しむことを具象的にいったもの。○吾が恋ふらくを 「恋ふらく」は、「恋ふ」の名詞化。恋うていること。○知らずかあるらむ 「か」は、疑問。「らむ」は、現在の推量。
【釈】 わが心が甚しい苦しみに砕けて、このようにまで恋うていることを、妹は知らずにいるであろうか。
【評】 片思いの嘆きに、恨みをまじえて訴えたものである。
【評又】 「娘子」という人はいかなる人であるか全然わからず、(六九一、六九二)の「娘子」と同人であるかまたは別人であるかさえもわからないのである。とにかく、こうした七首の訴えをされたにもかかわらず、この恋はついに成立たなかったものとみえる。娘子の報え歌があれば、たぶんここに並べ載せ得たことと思われるが、それのないところを見ると、報えなかったものと思われる。多くの女性に取囲まれて、そうした方面は自由な時代だったとはいえ、むしろ放縦な生活をしていた家持も、この娘子にはかつて経験しない苦《にが》さを味わわされたのである。歌の排列順から見ると、この苦いことのあった後まもなく、家持は数年間を中絶していた大伴坂上大嬢との関係を復活し、それを機会としたかのごとく以前の生活を打ちきってしまっているのである。その推移と変化とは、おのずから物語をなしているものとみえる。またこの時代の家持の歌は、概していうと幼稚であって、後年の美を発揮し得ないものであり、この七首のうち、(七一五)と(七一八)の平和な心境を叙した二首は、さすがにその素質の凡ならざるを示しているが、他の五首は、単なる常識を、正面から正直に、語を尽くして言っているにすぎないものであり、強いていえば、その語続きの直線的で粘りのある点に特色があると言えるが、これはまだ余裕がもてず、苦渋して詠んでいる結果だともいいうるものである。要するにこの五首は、家持としては、その人柄の堪え難くする苦《にが》さに出逢い、もち馴らされていた青年貴族の誇りを奪われて、それを取戻そうとする心からの歌で、五首を一貫している執拗と執着はそこから発しているものと思われる。すなわち家持の最も弱所を示している歌なのである。このこともまた物語的であって、相俟って物語の趣を成しているといえる。
天皇に献《たてまつ》れる歌【大伴坂上郎女、佐保宅にありて作る】
【題意】 題詞の下の注は、元暦本以下五本にあるものである。すなわち坂上郎女が、佐保の宅で作って、天皇に献ったもので、それだと天皇は聖武天皇であられる。
721 足引《あしひき》の 山《やま》にし居《を》れば 風流《みやび》なみ 吾《わ》がするわざを とがめたまふな
足引乃 山二四居者 風流無三 吾爲類和射乎 害目賜名
(513)(513)【語釈】 ○足引の山にし居れば 「足引の」は、「山」の枕詞。「山」は、佐保を称したもの。「佐保」は佐保山の麓で、山寄りの地というにすぎないのであるが、それを山中のごとくいっているのは、大宮に対して、卑下の心をもっていったがためである。「し」は、強めで、「山にし」は、山中にのみというほどの意。○風流なみ 「風流《みやび》」は、「宮び」で、大宮ぶりの意。大宮を都雅の代表的なところとし、地方の粗野に対させていったもの。「風流」は都雅の文化的方面を強調しての語。「なみ」は、なくして。○吾がするわざを 「わざ」は、業《わざ》で、ここは手業《てわざ》としてした何物にか対して、おおらかにいった語。思うに農産物の珍しい物、あるいは山野で得られる茸、果物というごとき物に対しての言で、それを得たのはわが手業であるとしていったものと取れる。○とがめたまふな 「とがめ」は咎めで、失礼な品だとして咎める意。
【釈】 足引の山にのみ暮らしておりますので、風流《みやび》がなくて、手前がいたしますこの事を、お咎め下さいますな。
【評】 坂上郎女が天皇に、佐保において産した自然物の何物かを献上した際、その物に添えた歌と思われる。その土地に産するいわゆる土産《みやげ》を天皇に献ずるということは、民の務めとして古来より行なっていることであって、吉野山中の国栖人《くずびと》は、上代より後世に至るまで変わらずにしていたことである。郎女のしたこともその風にならってのことである。しかしその心としては、貢《みつぎ》としての物ではなく、その季節の珍しく好い物を御覧に入れようとしてのことである。歌は儀礼として添えたものである。本来こうした歌は、その物の好さをいい、我がそれを得るための労をいうのが型となっているが、これは天皇に対する臣下としての礼をいっているものである。
大伴宿禰家持の歌一首
722 かくばかり 恋《こ》ひつつあらずは 石木《いはき》にも ならましものを 物思《ものも》はずして
如是許 戀乍不有者 石木二毛 成益物乎 物不思四手
【語釈】 ○かくばかり恋ひつつあらずは このように憧れつづけていずにで、二句、巻二(八六)に既出。成句に近いもの。○石木にもならましものを 「石木」は、非情のもの、また劣ったものとして言っている。「も」は、詠歎。「ならまし」は、変わろうで、「まし」は仮想。○物思はずして 「物思ふ」は、嘆きで、「恋」の上のもの。
【釈】 このように憧れつづけていずに、非情の劣ったものである石や木にも身を変えようものを。恋の嘆きをせずして。
【評】 恋の上の嘆きであるが、一般的な言い方で、誰に対してのものかわからないものである。凡作である。
(514) 大伴坂上郎女、跡見庄《とみのたどころ》より、宅《いへ》に留《とど》まれる女子《むすめ》の大嬢《おほいらつめ》に賜《たま》へる歌一首井に短歌
【題意】 「跡見」は、奈良県桜井市|外山《とび》にあったと思われる。「庄」は田所《たどころ》で、そこに大伴家の領地があったとみえる。「宅」は、坂上の邸で、「大嬢」は、坂上大嬢。左注によって、歌は大嬢よりの便りに対し、報えの心をもって詠んだものとわかる。
723 常世《とこよ》にと 吾《わ》が行《ゆ》かなくに 小金門《をかなど》に 物悲《ものかな》しらに 念《おも》へりし 吾《わ》が児《こ》の刀自《とじ》を ぬば玉《たま》の 夜昼《よるひる》といはず 念《おも》ふにし 吾《わ》が身《み》は痩《や》せぬ 嘆《なげ》くにし 袖《そで》さへ沾《ぬ》れぬ かくばかり もとなし恋《こ》ひば 古郷《ふるさと》に この月《つき》ごろも ありかつましじ
常呼二跡 吾行莫國 小金門尓 物悲良尓 念有之 吾兒乃刀自緒 野干玉之 夜晝跡不言 念二思 吾身者痩奴 嘆丹師 袖左倍沾奴 如是許 本名四戀者 古郷尓 此月期呂毛 有勝益士
【語釈】 ○常世にと吾が行かなくに 「常世」は、常住不変の国で、方位も離れず、遠い海の向こうにあるとされていた国。転じて、不老不死の仙郷の意にも用いられたが、ここはその初めの意のもの。「行かなくに」は、行かぬことであるものをの意で、しばしば出た。○小金門に物悲しらに 「小金門」は、「小」は、接頭語。「金門」は、集中の用例によると、門《かど》と同意に用いられている。金を用いて作った門の意ともされ、また疑われてもいて、語源は明らかでない。「物悲しらに」は、「ら」は、接尾語。この「ら」に、さらに「に」を添え、形容詞を副詞にしたもので、悲しそうにの意。○念へりし吾が児の刀自を 「念へりし」は、思っていたところの。「刀自」は、主婦の総称で、老若高下にかかわらず用いた。○ぬば玉の夜昼といはず 「ぬば玉の」は、「夜」の枕詞。「いはず」は、という差別の立たずの意で、ぬば玉の夜といい、また昼という差別の立たず。○念ふにし吾が身は痩せぬ 「念ふにし」の、「し」は強め。思うによって。○嘆くにし袖さへ沾れぬ 「嘆くにし」は、「念ふにし」と同じ意で、繰り返し。「袖さへ」は、袖までもで、上の「痩せ」に加えての意。「沾れぬ」は、涙に濡れた。○かくばかりもとなし恋ひば 「もとな」は、巻二(二三〇)に出た。ここは濫りにというにあたる。「し」は、強め。「恋ひば」は、恋うならば。○古郷にこの月ごろも 「古郷」は、以前住んでいたところの称で、ここは跡見庄をさしているもの。古くからの別荘がある意でいっているものと取れる。「この月ごろ」は、さしあたっての月頃で、当分の間というにあたる。やや長い期間を標準としていっているもの。「も」は、さえもの意。○ありかつましじ 「かつ」は、堪えうる意。「ましじ」は、後の「まじ」にあたる古語。打消推量の助動詞。あるに堪えられまいの意。巻二(九四)、(四八四)、(六一〇)に出た。
(515)【釈】 どちらとも知れない遠い常世の国にとわが行くことではないものを、見送りに門に立って悲しそうに思っていたわが児の刀自を、夜といい昼という差別も立たずに思っているので、わが身は痩せた、嘆いているので、袖までも涙に濡れた。このようにばかり濫《みだ》りに恋うているのであれば、ここの故郷に、当分の間だけでもとどまっているには堪えられまい。
【評】 跡見庄にいて、坂上の宅にいる娘を恋うる心であるが、それをいうのに、旅立った日、見送りをするとて門に立ち、物悲しそうにしていた娘の状態を捉えて、それに絡ませて言っているものである。母と娘との間では、それが実際であったろうと思われるが、歌という上からも、その単純に、また感覚的に捉えていることが、一首に生気をあらしめ、また落着いたものとならせていて、要を得たものとなっているのである。詠み方も、同じく憧れの情とはいえ、男女間のものとはちがって、激情をまじえない、落着いた静かなもので、母と娘との間にふさわしいものである。句は、二句ずつで休止を置いた単調なもので、他の句はまじえていず、また組立も、二段ではあるが、ほとんど一段のような簡潔なものにし、立体感をもたせようとしているもので、いずれも作意に添ったものである。短歌形式では、この落着きと静かさとはもち難かろうと思われ、長歌形式を選んだことの必然さの思われる歌である。
反歌
724 朝髪《あさがみ》の 念《おも》ひ乱《みだ》れて かくばかり なねが恋《こ》ふれぞ 夢《いめ》に見《み》えける
朝髪之 念乱而 如是許 名姉之戀曾 夢尓所見家留
【語釈】 ○朝髪の念ひ乱れて 「朝髪の」は、その乱れやすい意味で、「乱れ」にかかる枕詞。「念ひ乱れて」は、心乱れて思う意。○かくばかりなねが恋ふれぞ 「かくばかり」は、このようにばかりで、さすところがあって言っているもの。そのさすのは大嬢より郎女に寄せた歌と取れる。「なね」は、「汝《な》」に、親称の「ね」の添った語。「恋ふれぞ」は、先方がこちらを恋うと、夢に見えるという意のもので、下の「夢」の原因。○夢に見えける 大嬢が夢に見えた意。「ける」は、「ぞ」の結。
【釈】 朝髪の心乱れて、このようにまでお前が我を恋うので、それでわが夢に見えたことであるよ。
【評】 長歌は、母として甚しくも娘を恋うことであるが、反歌は、反対に、娘が母を恋うことをいい、それを夢見によって実証したもので、展開があり照応があって、緊密に関連させたものである。要を得た反歌というべきである。
(516) 右の歌は、大嬢の進《たてまつ》れる歌に報《こた》へ賜へるなり。
右謌、報2賜大嬢進謌1也。
【解】 寛永本は、「嬢」の下が一部分空白となっているが、元暦本その他五本には、「進」の字がある。すなわち「進れる歌」である。
天皇に献れる歌二首 【大伴坂上郎女、春日里にありて作る】
【題意】 題詞の下の注は、寛永本にはないが元暦本他五本にあるものである。天皇は聖武天聖であられる。
725 にほ鳥《どり》の 潜《かづ》く池水《いけみづ》 情《こころ》あらば 君《きみ》に吾《わ》が恋《こ》ふる 情《こころ》示《しめ》さね
二寶鳥乃 潜池水 情有者 君尓吾戀 情示左祢
【語釈】 ○にほ鳥の潜く池水 「にほ鳥」は、かいつぶり。「潜く」は、潜《くぐ》るで、くぐるのは小魚を捕えるためである。「池水」は、池の水よと呼びかけたもの。この池は、次の歌で見ると、「君が家の池」とあるものである。○情あらば 非情である池水に、もし情があるならばと仮想していっている。○君に吾が恋ふる情示さね 「君に吾が恋ふる情」は、「恋ふ」は、意味の広い語で、ここは慕う意と取れる。「示さね」は、「ね」は、他に対しての希望の助詞。示してくれよの意。
【釈】 にほ鳥の潜り入る池の水よ。もしも情《こころ》があるならば、君を我が慕っている心を示してくれよ。
【評】 天皇を慕う心を申したものである。直接、慕うとはいわず、天皇の御覧になる池水に呼びかけ、池水がもし情があるならば示してくれと頼んだもので、間接という範囲でも、その極度のものである。非情の物を擬人しようとしたならば、他に物もあろうに、常識ではすべくもない池水を擬人しているのは、わざと縁遠い物を選んだのであって、縁遠いということは、天皇と臣下としての自身との間にできるだけ距離をつけたもので、この距離はすなわち敬意である。「にほ鳥の潜く池水」は、その水の深いことを具象的にいったもので、深さということを暗示したものと思われるが、これは単なる光景とも見られるものである。その曖昧にしてあることも、深さということを婉曲にしたものである。また、「情あらば」「吾が恋ふる情」と、「情」(517)を重ねているのも、事を鄭重《ていちよう》にいおうがためである。郎女としては、その平常の才情を抑え、素朴をきわめた詠み方をしたものであるが、その素朴は、深く心してのものであって、わざと素朴にしたものである。これは天皇に対しまつる臣下としての礼よりである。
726 外《よそ》に居《ゐ》て 恋《こ》ひつつあらずは 君《きみ》が家《いへ》の 池《いけ》に住《す》む云《と》ふ 鴨《かも》にあらましを
外居而 戀乍不有者 君之家乃 池尓住云 鴨二有益雄
【語釈】 ○外に居て恋ひつつあらずは 「外」は、大宮を標準にしての言で、よそにあって大宮を恋いつづけていずに。○君が家の池に住む云ふ 「君が家」の「家」は、大宮のことでなくてはならないが、それとしては適当せぬ語であるとして、これにより、題詞が誤まっているのではないかと疑う注がある。しかし題詞は諸本異同のないものである。『攷証』はこの点につき、二首ともに、天皇がまだ皇太子でいらせられた時に奉ったものであろうといっている。これは問題として残しておくべきである。「池に住む云《と》ふ」は、下の「鴨」のことをいったもので、伝聞した形をもっているものである。渡り鳥の鴨のことであるから、その来る季節はわかることで、すでにその季節に入っていることを知っての言であるから、「住むらむ」といっても誤りのないことである。それをこのように言っているのは、用意して距離をつけていっているもので、その距離はすなわち敬意である。○鴨にあらましを 「鴨」は、雁におくれて渡って来る鳥で、その来るのは晩秋初冬である。「まし」は、「あらずは」の帰結。「を」は、詠歎で、できるならばその鴨であろうものをで、劣った物である鴨を羨むのは、それが大宮の内にいるからのことで、それによって天皇をお慕い申す心をあらわしたのである。
【釈】 よそにいて、恋いつづけていずに、できることならば、君が家の池に住んでいると聞く鴨でありたいものを。
【評】 この歌も前の歌と同じく、天皇をお慕い申す心をあらわしたものである。卑下の心をもち、用意をもっていっていることは、池の鴨を羨むという作意の上にも、「君が家の池に住む云ふ」という言い方の上にも現われている。前の歌と同じく才情を抑えて一般的のことをいっているものであるが、しかし、一つの池を捉え、同じく水鳥を捉えつつ、その角度を変えるのは、前の歌だけでは心足らずとして、繰り返していう形をとったのであるが、それだけではなく、心としても一歩前進せしめた趣をもったものである。その意味でこの二首は同時のものと思われる。
大伴宿禰家持、坂上家の大嬢に贈れる歌二首 【数年を離り絶えて復会ひて相聞往来す】
【題意】 「離り絶え」については、いかなる理由があってのことか、その間の消息には全く触れて言っていないのでわからない。(518)想像されやすいことは、娘の結婚については、当時の風として、その母が絶対の権力をもっていたのであるから、坂上郎女が関係していたのではないかということである。その触れていわないのは、郎女は大嬢には母、家持には叔母である関係上、いうを好まず、またいうを得なかったのではないかということである。
727 萱草《わすれぐさ》 吾《わ》が下紐《したひも》に 著《つ》けたれど 鬼《しこ》のしこ草《くさ》 事《こと》にしありけり
萱草 吾下紐尓 著有跡 鬼乃志許草 事二思安利家理
【語釈】 ○萱草 現在の萱草《かんぞう》の古名。秋、百合《ゆり》に似た花を開く。野生する物で、栽培もした。漢籍には、これを食うと憂いを忘れるとあり、それが我が国に伝わって、この草を身に着けているとものを忘れさせるという信仰の伴うものとなり、忘れ草という名を負うに至ったと見える。集中の例によると、恋の苦しみを忘れることにのみいわれている。○吾が下紐に著けたれど 「下紐」は、下裳《したも》、下袴の紐。下紐にも信仰が伴っていて、人に恋いされるとおのずから解けるとしていた。「著け」は、結びつける意。○鬼のしこ草 「鬼」は、醜の略字で、古くから用いていた。ものを罵る意の語。それを重ねることによって強めたもので、つまらぬともつまらぬ草の意で、呼びかけ。○事にしありけり 「事」は「言《こと》」に当てたもの。「し」は、強め。「けり」は、詠歎。ただ名前だけで、実《じつ》の伴わないものであることよ。
【釈】 忘れ草をわが下紐に結びつけていたけれども、つまらぬともつまらぬ草よ、ただ名前だけで実の伴わないものであることよ。
【評】 大嬢を深くも思うが、思うのみで逢い難い苦しみを、一般信仰である忘れ草を下紐につけることによって忘れようとしたが、その苦しみに対しては何の甲斐もなかったということを、忘れ草を罵ることによってあらわしたもので、長い間の恋の苦しみの訴えである。事としては、はかないものであるが、当時としては信仰の伴っていたものであり、また調べも、熱意よりくる強さがあって、その心を具象し得ているものである。
728 人《ひと》も無《な》き 国《くに》もあらぬか 吾妹児《わぎもこ》と 携《たづさ》ひ行《ゆ》きて 副《たぐ》ひてをらむ
人毛無 國母有粳 吾妹兒与 携行而 副而將座
【語釈】 ○人も無き国もあらぬか 「国」は、ここは狭い範囲で用いていた例によるもので、所というにあたる。「あらぬか」は、上に「も」を伴った形のもので、ないか、あってくれよの意で、希う意。○携ひ行きて 共に行く意。○副ひてをらむ 並んでいようで、一緒にいる意。
(519)【釈】 人のいない所がないものであろうか、あってほしいことよ。吾妹子とともに行って、並んで一緒にいよう。
【評】 心を通わしている男女が、周囲の妨げのために自由に逢えないのを嘆いての訴えで、一般的な心である。数年を隔ててまた逢うようになったとはいうが、その逢い方は自由なものではなかったのである。歌は、他の女性に対した時よりは熱意をもったものであることが、その調べの張りを帯びていることによって感じられる。二首、正直で、単純な、一本気の性分を思わせる歌である。
大伴坂上大嬢、大伴宿禰家持に贈れる歌三首
729 玉《たま》ならば 手《て》にも巻《ま》かむを うつせみの 世《よ》の人《ひと》なれば 手《て》に巻《ま》き難《がた》し
玉有者 手二母將卷乎 欝瞻乃 世人有者 手二卷難石
【語釈】 ○玉ならば手にも巻かむを 「玉ならば」は、君がもし玉であるならばで、巻二(一五〇)に同じ心のものが出た。女のしやすい連想である。「手《て》にも巻かむを」は、手玉として、手に巻こうものをで、「も」は詠歎。○うつせみの世の人なれば 「うつせみ」は、現身《うつしみ》の転で、現世に生きている身。現実の身をもっているこの世の人であるので。この二句も、上の引歌に出た。○手に巻き難し 手玉としては巻き難いで、二句を繰り返して強めたもの。
【釈】 君がもし玉であるならば、手玉としてわが手にも巻こうものを、現実の身をもっているこの世の人であるので、手には巻き難い。
【評】 当時の常識となっていたものを、一首にまとめた程度のものである。この時代は、古歌の学習に努めた時代であるから、この歌はその範囲内のもので、自他ともに当然のこととしていたと思われる。
730 あはむ夜《よ》は 何時《いつ》もあらむを 何《なに》すとか 彼《そ》の夕《よひ》あひて 事《こと》の繁《しげ》しも
將相夜者 何時將有乎 何如爲常香 彼夕相而 事之繋裳
【語釈】 ○あはむ夜は何時もあらむを 「あはむ夜は」は、相逢おう夜は。「何時も」は、旧訓「いつしか」。『代匠記』の訓。「何時もあらむを」(520)は、いつでも他にもあろうものをの意で、その夜には限らないのにの意。「を」は、ものを。○何すとか彼の夕あひて 「何すとか」は、何の必要があってかで、後世の、「何とて」にあたる語。「彼《そ》の夕《よひ》」は、旧訓「かのよに」。『考』の訓。「あひて」は、上の「か」を連体形「あふ」で結ぶべきを、下への続きで、連用形「あひ」に解消させたもの。○事の繁しも 「事」は言《こと》。「繁しも」は「も」は、詠歎。大嬢の、周囲の者から言いたてられる嘆き。
【釈】 相逢おう夜は、いつでもあろうものを、何だってあの夜に逢ったろうか、人言《ひとごと》の多いことよ。
【評】 「言の繁しも」を、家持に知らせかつ訴える心のものである。夫としての家持であるが、その通って来たことは言いたてられる事柄であったとみえる。言いたてる者は、大嬢の身分であるから、その周囲の者であったとみえる。実際に即したものなので、おのずから切実味のある歌となっている。
731 吾《わ》が名《な》はも 千名《ちな》の五百名《いほな》に 立《た》ちぬとも 君《きみ》が名《な》立《た》たば 惜《を》しみこそ泣《な》け
吾名者毛 千名之五百名尓 雖立 君之名立者 惜社泣
【語釈】 ○吾が名はも 「名」は、評判。ここは、家持との関係。「も」は、詠歎。○千名の五百名に 「千」も、「五百」も、たび繁くということを、具体的にいおうとしたもの。○立ちぬとも 「ぬ」は、完了。立ったとしてもで、下に、それはかまわないがの意を省いた言い方。○君が名立たば惜しみこそ泣け 「君が名立たば」は、君の評判が立ったならばと思っての意。「惜しみこそ泣け」は、名の評判が立ったならばと思って、その疵つくことのそれだけを惜しんで泣いているの意。
【釈】 わが評判は、甚だ繋き評判に立ったとしても、それはかまわないが、もしも君の評判が立ったならばと思って、その名の疵つくことだけを惜しんで泣いている。
【評】 この歌の「名」は、夫婦関係を保全するために、その立つことを惜しむ名ではなく、その関係の世間にひろがることを怖れてのものと取れる。すなわち家持の世間に対しての面目としての名で、それは大嬢も共同のものとみえる。二人が夫婦関係を結ぶことは、面目を失うことになる理由があったものとみえる。歌は大嬢が、夫としての家持のためには、進んでいさぎよく犠牲となろうとする精神をあらわしているもので、上代以来、わが国の妻がもっている美風を示しているものである。「千名の五百名」という語は、ありうべき語ではあるが、他には見えないところからいうと、あるいは大嬢の造語であったのかもしれぬ。とにかく、そうした語を用いて、こなしきった用い方をしている点からいっても、また沈痛な趣をもった調べからいっても、上の歌とはちがって、すぐれた歌と言いうるものである。
(521) 又、大伴宿禰家持の和《こた》ふる歌三首
732 今《いま》しはし 名《な》の惜《を》しけくも 吾《われ》はなし 妹《いも》によりては 千遍《ちたび》立《た》つとも
今時者四 名之惜等 吾者無 妹丹因者 千遍立十方
【語釈】 ○今しはし 「し」は、二つとも強め。今という今は、というほどの意。○名の惜しけくも吾はなし 「惜しけく」は、「惜し」の未然形に、「く」を添えて名詞形とした語。惜しいこと。評判の惜しいということも我はない。○妹によりては千遍立つとも 「妹によりては」は、妹がためには。「千遍」は、大嬢の「千名」と言ったのに対させてのもので、意は同じく、繁き評判。
【釈】 今という今は、評判の惜しいということは我にはない。妹がためには、たとい繁き評判が立とうとも。
【評】 大嬢の「吾が名はも」の歌に和《こた》えたものである。大嬢のわが名は「千名の五百名」に立とうとも、かりにも君の名が立ってはといったのに対させて、わが上にその「千名」が立とうともというのを、「千遍」と言いかえたのである。熱意をもっていっていることは、一首の調べのさわやかに強い上に現われている。初句「今しはし」と言い出し、三句で言いきっているのも、この場合適切である。和《こた》え歌ではあるが、誓のごとき趣をもったものである。
733 空蝉《うつせみ》の 代《よ》やも二行《ふたゆ》く 何《なに》すとか 妹《いも》にあはずて 吾《わ》が独《ひとり》宿《ね》む
空蝉乃 代也毛二行 何爲跡鹿 妹尓不相而 吾獨將宿
【語釈】 ○空蝉の代やも二行く 「空蝉の代」は、上の(七二九)に出た。「やも」は、「や」の反語に「も」の詠歎の添った語。「二行く」は、巻七(一四一〇)「世間《よのなか》はまこと二代《ふたよ》は行かざらし過ぎにし妹に逢はなく念へば」の用例があり、一度行くだけのものの意で、世の中を時の運行の上から見ていっているもの。現世は一度だけのもので、二度とあろうか、ありはしない。○何すとか 大嬢の(七三〇)「あはむ夜は」に和《こた》えたもので、意は、何とて。言いかえて、反対の心をあらわしたもの。○妹にあはずて吾が独宿む 「あはずて」は、後世の逢わずしてにあたる古語。「宿む」の「む」は、「か」の結。
【釈】 現身として生きているこの世は、二度と立ち帰り運行するものであろうか、ありはしない。何とて、妹に逢わずに、我が独りで寝ることをしようか。
(522)【評】 「空蝉の代やも二行く」という意識は、生活を永久の歴史の上に泛《う》かべてみようとする人麿の意識とは対蹠的なもので、仏説に影響されて、この当時に行なわれていたものとみえる。この意識を、男女間の事に限ってのみもっているのは、それによって享楽気分を肯定しようとするのであって、これは時代の影響である。家持のいっているのもその範囲のもので、これを唯一の真と信じ、「あはむ夜は何時もあらむを」の大嬢の分別を否定し、押返して、逢う歓びのためには一切を棄て去ろうというのである。それが気分にまでなっていたことは、一首の調べの強くさわやかなものであるので知られる。これは前の「あはむ夜は」に当てたもので、それをすることによって誓の心を強めた趣のあるものである。
734 吾《わ》が念《おもひ》 かくてあらずは 玉《たま》にもが 真《まこと》も妹《いも》が 手《て》に纏《ま》かれむを
吾念 如此而不有者 玉二毛我 眞毛妹之 手二所纏乎
【語釈】 ○吾が念かくてあらずは 「かくて」は、「念」の状態で、総括しての感をいったもの。下の続きで、「念」は、逢い難い嘆き。「かくて」は、その悩みの強さを暗示したもの。「あらずは」は、あらずに。○玉にもが 「も」は、詠歎。「が」は、願望。わが身が玉であってほしいの意で、「玉」は、大嬢の(七二九)の歌に対させたもの。○真も妹が手に纒かれむを 「真も」は、まことにもで、「手に纒かれむを」は、手玉として手に巻かれようにで、「手にも巻かむを」に対させたもの。たえず一緒にいようという心をあらわしたもの。
【釈】 わが逢い見難い嘆きのこのように強いものをもっていずに、わが身が玉であってほしい。いわれるとおりまことにも、妹が手に巻かれて、たえず一緒にいように。
【評】 (七二九)「玉ならば」に和《こた》えたものである。贈歌に較べると、際やかに男性的なものであり、また積極的なものである。与えられた材が感傷となりやすいものであるが、その趣を見せていないのは、家持のその時の精神状態のためである。
同じき坂上大旗、家持に贈れる歌一首
735 春日山《かすがやま》 霞《かすみ》たなびき 情《こころ》ぐく 照《て》れる月夜《つくよ》に 独《ひとり》かもねむ
春日山 霞多奈引 情具久 照月夜尓 獨鴨念
【語釈】 ○春日山霞たなびき 「春日山」は、大嬢の坂上の家より近く、眼に見ているもの。「霞たなびき」は、霞が靡いていて。○情ぐく 「情(523)ぐく」は、解が定まっていない。形容詞「情ぐし」の連用形で、下の「照れる」に続いている。「情ぐし」の用例は、集中に四か所あり、いずれもこの当時のものである。その一つは本巻(七八九)「情《こころ》ぐく念《おも》ほゆるかも春霞たなびく時にことの通へば」。その二は、巻八(一四五〇)「情《こころ》ぐきものにぞありける春霞たなびく時に恋の繁きは」。その三は、巻十七(三九七三)の長歌の結びの、「こころぐしいざ見に行かなことはたなゆひ」で、いま一つはこの歌である。語意は、『代匠記』は、心苦しくであるといい、『略解』は、くぐもるで、おぼつかないことにいっていると解している。語源は『代匠記』のようであろうが、ここはおぼつかなくの意と取れ、他の例もそれで意が通じる。心の状態をあらわす語が、そうした心を起こさせる物の状態をあらわす語に転じたものと思われる。下の「照れる」に続き、おぼつかなくも照っているとなり、後世の朧月夜《おばろづくよ》というと、同じ意と取れる。○照れる月夜に 上から続いて、おぼつかなくも、すなわち朧ろに月の照っている夜に。そうした夜は、人恋しい心をそそられる夜としていっているものである。○独かもねむ 「かも」は、疑問。独りで寝ることであろうかと嘆いたもの。
【釈】 春日山に霞がたなびいて、おぼつかなくも月の照っているこの快い夜に、我は独りで寝ることであろうか。
【評】 初句より四句までは、自然の風光の快いことをいい、結句は、その快い風光にふさわしい心的状態をもちたいと願っているが、それが得られない嘆きを訴えているものである。その時々の自然の状態の、その中にいる人の心に影響してくることは、古くからいっているものであるが、その無意識的であったのを意識的にし、またそれを詩情とすることは、この時代に至って高まってきたことで、この歌はその範囲のものである。大嬢の歌としては優れたものである。
又、家持、坂上大嬢に和ふる歌一首
736 月夜《つくよ》には 門《かど》に出《い》で立《た》ち 夕占《ゆふけ》問《と》ひ 足卜《あうら》をぞせし 行《ゆ》かまくを欲《ほ》り
月夜尓波 門尓出立 夕占問 足卜乎曾爲之 行乎欲焉
【語釈】 ○月夜には 「は」は、取立てての意をあらわしているもので、上の歌に対させて、月夜には我も同じ心を起こしての余意をもたせたもの。○門に出で立ち 「立ち」は、感を強めるために添えていったもの。○夕占間ひ 「夕占」は、夕方、路に立ち、道を行く人のいっている語によって、わが吉凶を占うことで、当時一般に行なわれていたもの。巻十一(二五〇六)「言霊《ことだま》の八十《やそ》の衢に夕占問ふ占《うら》正に謂《の》る妹はあひ依らむ」とある。後世の辻占にあたる。「夕占問ひ」は、夕占によってわが吉凶を問いの意。○足卜をぞせし 「足卜」は、その法が明らかにはわからない。伴信友は『正卜考』で、現在、民間の童子のしているものがその遺風であろう。それは路に立ち、あらかじめ目標を定め、吉凶の語と歩調とを合わせて目標に向かって進み、その達して踏みとどまった時の吉凶の語をもって占とするもので、それに類したものだろうといっている。吉とは、妨げなく逢えること。凶はその反対である。「足卜をぞせし」は、足卜をしたことであるよ。○行かまくを欲り 「行かまく」は「行かむ」の名詞形。「欲り」は、欲《ほつ》してで、逢いたく思つての意。連用形。
(524)【釈】 月夜には我も同じく、門に出て夕占に問うたり、足卜をもしたことであるよ。逢ひたく思って。
【評】 前の歌に和えたもので、初句より四句までは、月夜には我も同じ心を起こし、夕占、足卜をしたと、その事実をいったものである。占の結果をいっていないのは、いずれも凶で、行っても妨げがあって逢えないと出たので、思いとどまったというのである。これは二人の事情は、まさにそういうことをする必要があったのである。結句「行かまくを欲り」は、その月夜に限らない平常の心で、「月夜には」と対照的にいっているものである。
同じき大嬢、家持に贈れる歌二首
737 云々《かにかく》に 人《ひと》は《い》云ふとも 若狭道《わかさぢ》の 後瀬《のちせ》の山《やま》の 後《のち》も会《あ》はむ君《きみ》
云々 人者雖云 若狭道乃 後瀬山之 後毛將會君
【語釈】 ○云々に人は云ふとも 「云々に」は、後世の、とやかくというにあたる古語。「人は云ふとも」は、周囲の人はいおうともで、家持との関係について、それを妨げしていおうともの意。○若狭道の後瀬の山の 「若狭道」は、ここは若狭国の意のもの。「後瀬の山」は、福井県小浜市の南方にある小山。この二句は、後瀬の後を、次の「後」に畳音でかけるための序詞。○後も会はむ君 「会」は原文「念」で、諸本同じである。『代匠記』は「合」、『考』は「会」の誤写であろうという。『考』に従う。後にも逢おう君よと呼びかけたもの。
【釈】 とやかくと周囲の人は相逢うことを妨げていおうとも、若狭国にある後瀬の山の、その後にも相逢おう君よ。
【評】 大嬢の周囲には、家持との関係を喜ばず、これを妨げる人があり、その力は大嬢には抗し難いところからの訴えである。「若狭道の後瀬の山の」という序詞は、畳音の関係で「後」にかかるもので、序詞としても形の単純なものである。また大嬢がそうした山を見ているはずもないので、心を働かして捉えたものである。したがってこれは文芸性のものとみえるが、心として、「後」ということを強くいおうとし、その語感を重からしめるために添えたものであり、さらにまた、そのために語を費やしたものであり、後瀬という名には、後の時という意味もあるので、語の神秘力を信ずる心より、その力を頼もうとする心もあったためのものと思われる。文芸性はその要求に付随してのものと思われる。この歌のもつ苦衷は大嬢のみのものであり、また家持に対しては多くをいうを好まなかったものであることは、次の歌で察しられる。
738 世間《よのなか》し 苦《くる》しきものに ありけらく 恋《こひ》に堪《た》へずて 死《し》ぬべき念《も》へば
(525) 世間之 苦物尓 有家良久 戀二不勝而 可死念者
【語釈】 ○世間し 旧訓「世のなかの」。『攷証』の訓。「し」は、強め。○苦しきものにありけらく 「けらく」は、助動詞「ける」を名詞形にするために、その未然形に「く」を添えたもの。したがって、下に詠歎を含んでいる。「ありけらく」は、あったことよ。○恋に堪へずて 「堪へずて」は、後世の堪えずしての意の古語。○死ぬべき念へば 旧訓「死ぬべくおもへば」。『古義』の訓。死にそうなのを思うと。
【釈】 世の中というものは、苦しいものであったことよ。恋の苦しさに堪えられずして、命も死にそうなのを思うと。
【評】 「恋」というのは憧れで、憧れは逢おうとして逢い難いところから起こり、その逢い難いのは、上の歌のごとき事情の下にあるからである。「後もあはむ君」と、忍耐しようとして、消極的なことはいったが、それだけではおさまりかねる心があって、その苦しさの端的を訴えたものである。「苦しきものにありけらく」と総括した言い方をしているのは、過去をも含めてのものであって、長きにわたっての大嬢のその苦衷を暗示しているものであり、含蓄のある言い方である。二首相俟って大嬢の、落着いて、語《ことば》少なく、心労に堪えてゆく人柄を示しているものである。
又、家持、坂上大嬢に和ふる歌二首
739 後湍山《のちせやま》 後《のち》もあはむと 念《おも》へこそ 死《し》ぬべきものを 今日《けふ》までも生《い》けれ
後湍山 後毛將相常 念社 可死物乎 至今日毛生有
【語釈】 ○後湍山後もあはむと 「後湍山」は、大嬢の語を取って、同じく「後」の枕詞としたもの。「後もあはむと」は、後にも逢おうとで、この「後」は、大嬢と語は同じだが、内容を異にしており、大嬢は現在よりも後、すなわち将来という意の普通のものであるが、家持は、数年を隔たっていたという、その数年以前の時期すなわち過去を標準として、それに対させて現在を「後」といっているのである。それは下の「今日まで」で明らかである。○念へこそ 旧訓「念ふこそ」。『代匠記』の訓。思ったのでで、隔たっていた以前、すなわち過去のこと。○死ぬべきものを今日までも生けれ 「死ぬべきものを」は、恋の苦しさに堪えずして死にそうな命であったものをで、これも過去のことをいったもの。「今日までも生けれ」は、「生けれ」は、旧訓「あれ」。『代匠記』の訓。現在まで生きていたのであるで、「生けれ」は、「こそ」の結。
【釈】 いわれるところの後湍山のその後にも逢おうと思ったればこそ、すでに疾《と》くに死んでしまうべき命であったものを、現在まで生きていたのであるよ。
(526)【評】 大嬢の二首の歌を一つにして和えたのである。大嬢の初めの歌の、「後も会はむ君」というのを含んで、その「後」をと思って待ち得た今である。待つのは今までで十分であるといい、また、それをいうに大嬢の後の歌の「死ぬべき」を用い、大嬢の過去より現在のこととしているのを、全く過去のこととしているのである。すなわち「後」も「死ぬべき」も、意味を変えて、全体として反対なこととしたのである。これはこうした贈答の歌の型となっているもので、後世になるほど際やかになったものである。家持の情熱の現われている歌である。
740 事《こと》のみを 後《のち》もあはむと 懃《ねもころ》に 吾《われ》を憑《たの》めて あはざらむかも
事耳乎 後毛相跡 懃 吾乎令〓而 不相可聞
【語釈】 ○事のみを 「事」は、言。「を」は、詠歎。言にのみの意。○懃に吾を憑めて 「懃に」は、ねんごろにで、心深く。「憑めて」は、頼ましめて。○あはざらむかも 旧訓「あはざらめかも」。元暦本他二本の訓に「あはざらむ(ん)かも」とある。『新訓』も同じである。これに従う。「かも」は、疑問の「か」に、詠歎の「も」の添ったもので、逢わないのであろうかと、疑いをもって推量したもの。
【釈】 語《ことば》にのみ後にも逢おうといって、心深くも吾を頼ませておいて、その実は逢わずにいようとするのであろうか。
【評】 この歌は、初めの「後もあはむ君」に対して報えた形のものである。後の「世間し」の歌の哀切な訴えはよそにして、ただ気をまわし、わがままを言っているがごとき心のものである。人としては家持のほうがはるかに単純で、むしろ幼なくさえ見える。
更に大伴宿禰家持、坂上大嬢に贈れる歌十五首
741 夢《いめ》のあひは 苦《くる》しかりけり 覚《おどろ》きて 掻《か》き探《さぐ》れども 手《て》にも触《ふ》れねば
夢之相者 苦有家里 覺而 掻探友 手二毛不所觸者
【語釈】 ○夢のあひは苦しかりけり 「夢のあひ」は、「あひ」は、「逢ひ」で、名詞形。夢の中に相逢うこと。「は」は、現《うつつ》の逢いに対させる意のもの。「苦しかりけり」は、「けり」は詠歎。苦しいことであるよ。現《うつつ》に相逢うのとは反対にの意。○覚きて掻き探れども 「覚きて」は、目ざめてで、後世にも用いられた語。「掻き探る」は夢に見た人が傍らにいる気がして、闇の中で、手で掻き探る意。○手にも触れねば 手にさえも触(527)れないので、それがすなわち「苦し」である。
【釈】 夢の中で相逢うことは、苦しいものであるよ。眼が覚めて、現《うつつ》のような気がして、闇の中の床の上を掻き探るけれども、手にさえも触れないので。
【評】 思う人を夢に見た後の心で、その失望を、「苦しかりけり」といい、三句以下は、そうした感を起こす理由を具象的に描き出したものである。事としては自然なものであるが、『代匠記』は拠《よ》る所のあるものだとして、くわしくいっている。第一は『遊仙窟』で、ここにあたる部分は、「少時坐睡《シバラクマドロメルニ》、則(チ)夢(ニ)見(ル)2十娘(ヲ)1、驚覚(メテ)攪《カキサグルニ》v之(ヲ)、忽然(トシテ)空(シウス)v手(ヲ)。心中(ニ)悵怏(シ)、復(タ)何(カ)可(キ)v論(フ)、余因(テ)乃詠(ジテ)曰(ク)、夢(ノ)中(ニハ)疑(フ)2是(レ)実(カト)1、覚(メテ)後忽(ニ)非(ズ)v真(ニ)》」とある。巻五、山上憶良の「痾に沈みて自《みづから》哀《かなし》ぶ文」の中に『遊仙窟』を引いているのを見ると、この当時は渡来しており、把翫していたとみえるというのである。なお、『文選』長門賦、同じく楽府にも、これに類似の部分があるといって引いている。家持の拠ったのは『遊仙窟』ではないかと思われる。当時は神仙思想の盛んに行なわれていた時代であるから、それとつながりのある『遊仙窟』の愛読されたことは想像されやすいことだからである。それだとすると、これは単に『遊仙窟』の文句によったというだけではなく、自身をその作中の主人公に擬するがごとき心をもって詠んだものと思われる。それは平安朝初期の題詠は、作者自身をその題の中にあるものと想像して詠むのが風となっているので、当時すでに同じ傾向の心が萌していたろうと想像される。これは歌をもって散文的展開をさせようとする歌物語と、その傾向を同じゅうするものである。『遊仙窟』に関係させたと思われる歌は、この一群中、他にもある。
742 一重《ひとへ》のみ 妹《いも》が結《むす》ばむ 帯《おび》をすら 三重《みへ》結《むす》ぶべく 吾《わ》が身《み》はなりぬ
一重耳 妹之將結 帶乎尚 三重可結 吾身者成
【語釈】 ○一重のみ 「一重」は、帯を結んだ状態で、一まわり廻すというにあたる。「のみ」は、ばかりの意で、強めの意のもの。ただ一まわりにだけ。○妹が結ばむ帯をすら 妹が結ぶであろうところの帯をさえで、「すら」は軽きを挙げて、重きを余意とする語。これは女の体をか細いものとし、したがって帯も短いものとして言っているもの。○三重結ぶべく吾が身はなりぬ 「三重結ぶべく」は、三まわりにも結べるように。「吾が身はなりぬ」は、「なりぬ」は、変わったの意で、変わったのは痩せた意である。
【釈】 ただ一まわりにだけ妹が結ぶであろうところの帯を、三まわりに結ぶようにわが身は変わってしまった。
【評】 恋の物思いのために、身が衰えて痩せたということを、細かく具象化していったものである。帯の丈は大体きまってい(528)るのであるから、一まわりの物が三まわりになるということは、身の痩せたことを具象化するとしては、甚しい誇張ではあるが、際やかな方法である。加えて、一まわりを女に、三まわりを我に配しているのは、感覚化も伴っているものでもある。『代匠記』は『遊仙窟』のこれにあたる部分を引いているが、それは、「日日衣|寛《ユルビ》、朝朝帯緩(ブ)」というので、『文選』の古詩にも「衣帯
日(ニ)日(ニ)緩(ブ)」ともあるが、これはそれらに較べると、はるかに進んだものである。拠《よ》ったというよりも進展させたというべきものである。この具象化は人に喜ばれたものとみえ、集中に用例の多いものである。これをしたのが家持であるかどうかはわからないので、この場合の家持と『遊仙窟』との関係は、あるいは間接なものであるかもしれない。
743 吾《わ》が恋《こひ》は 千引《ちびき》の石《いは》を 七《なな》ばかり 頸《くび》に繋《か》けむも 神《かみ》の諸伏《もろぶし》
吾戀者 千引乃石乎 七許 頚二將繋母 神之諸伏
【語釈】 ○吾が恋は 自分の恋はと取立てて、以下にその状態をいったもの。○千引の石を七ばかり 「千引」は、千人で引いて運ぶ意で、下の石の重さをいったもの。「七ばかり」は、「七」は、幾つかということを具体化したもの。○頸に繋けむも 「も」は、詠歎で、首に掛けでもしたようであるの意。○神の諸伏 他に用例のない語で、意味が明らかでない。字面からいうと、神がもろともに臥し給うの意かと取れる。それだと、臥すということが神意によってさせられていることで、絶対に起きられないという意で、全く身動きができないという意をあらわすために用いられていた語かと思われる。大体その範囲の語であったとみえ、それで一首の心は通じる。
【釈】 わが恋は、千人で引いて運ぶ重い岩を、七つほども首に掛けたがようである。神の諸伏であるよ。
【評】 「恋」とは憧れで、それが遂げられず、憧れそのものである状態をいったものである。「千引の石を七ばかり頸に繋けむも」は、その憧れが遂げられず、停滞し、欝屈《うつくつ》している苦しい状態を、譬喩をもって具象したものである。「神の諸伏」も同じ心を、異なった譬喩によって具象したものと取れる。どちらも成語となっているものを捉えていっているものと思われる。双方の関係の有無はわからないが、無いものではないかと思われる。大嬢には時代の関係上、直接に響き得たものであったろう。
744 暮《ゆふ》さらば 屋戸《やど》開《あ》け設《ま》けて 吾《われ》待《ま》たむ 夢《いめ》にあひ見《み》に 来《こ》む云《と》ふひとを
暮去者 屋戸開設而 吾將待 夢尓相見二 將來云比登乎
【語釈】 ○暮さらば屋戸開け設けて 「暮さらば」は、夕方になったならば。「屋戸」は、家の戸。「開け設けて」は、あけて準備をしての意。○夢(529)にあひ見に来む云ふひとを 「夢にあひ見に来む」は、大嬢の消息の語。「人」は、大嬢を客観的にいったもの。
【釈】 夕方になったならば、わが屋の戸をあけて準備をして我は待とう。夢で、逢い見に来ようというその人を。
【評】 夢は先方がこちらを思う時に、魂の感応して見るものだという信仰があった。ここは、思い思われている間であるから、夢は自由に見られるわけである。夢を神秘的なものにし、その人自体のごとく思う心は、後世までも保たれた信仰である。この歌は、これらのことを背後に置いてのもので、文芸性によっての空想と誇張とからのものとは見えない。『代匠記』は、この歌も『遊仙窟』によるところのもので、「今宵|莫《ナカレ》v閉《サスコト》v戸(ヲ)、夢(ノ)裏《ウチニ》向(ハム)2渠辺《キミガアタリニ》1」がそれであるといっている。(七四一)によれば、自身を作中の人物に擬しているところがあると思われる。それだと文芸性の明らかに働いているものと言わなくてはならない。伝説の信仰の上に立ち、それに外来文芸を取入れたものと取れるが、その取入れた程度は、一首の調べに余裕があり、緊張味を滅ぜしめている点に感じるよりほかはない。歌としては特にいうを要さないものであるが、以上の意味で注意されるものである。
745 朝夕《あさよひ》に 見《み》む時《とき》さへや 吾妹《わぎもこ》が 見《み》れど見《み》ぬ如《ごと》 なほ恋《こほ》しけむ
朝夕二 將見時左倍也 吾妹之 雖見如不見 由戀四家武
【語釈】 ○朝夕に見む時さへや 「朝夕」は、旧訓「あさゆふ」。『代匠記』の初稿本の訓。一日中ということを具象化したもの。「見む時」は、逢っていられよう時で、以上は同棲を期して、そうなり得た時の意。「さへ」は、現在の状態に他のものの加わった意をあらわすもので、現在を標準にして、そうなった時さえ。「や」は、詠歎を含んだ疑問の係。一日中一緒にいられるようになった時さえの意。○吾妹が 大嬢ので、「恋し」へ続く。○見れど見ぬ如 「見れど」は、旧訓。逢っているけれども、逢っていないがようにで、飽き足ることを知らない恋の心を、具象的にいったもの。○なほ恋しけむ 原文「由」は「猶」に通じる字で、やはり。「恋しけむ」は、恋しくあらむの意。「む」は結。
【釈】 朝夕に、すなわち一日中逢っていられよう時でさえも、吾妹子は、逢っているけれども逢っていないがように、やはり恋しく思われることであろうか。
【評】 恋の習いとして、絶えず一緒にいても、飽き足るということを知らないものであることをいい、それによって、現在の逢えずにいる苦しさを、余情の形であらわして訴えたものである。その余情は、「見む時さへ」の「さへ」の助詞によってあらわし、「や」の詠歎を添えることによって強めたのである。実情を丹念に直写することによって、他の影響を受けて文芸的のも(530)のとしたものよりは、はるかに効果的のものとしているのである。
746 生《い》ける代《よ》に 吾《あ》はいまだ見《み》ず 事《こと》絶《た》えて かくおもしろく 縫《ぬ》へる嚢《ふくろ》は
生有代尓 吾者未見 事絶而 如是※[立心偏+可]怜 縫流嚢者
【語釈】 ○生ける代に吾はいまだ見ず 「生ける代に」は、わが生きている世で、この世というにあたる。「吾《あ》はいまだ見ず」は、旧訓「われはまだ見ず」。『略解』の訓。改訓のほうが語が柔らかく、この場合、作意に近いものに思える。○事絶えてかくおもしろく 「事絶えて」は、「事」は言《こと》。「絶えて」は、言語に絶して。「おもしろく」は、原文「※[立心偏+可]怜」、旧訓「あはれげに」。『代匠記』の訓。この字は、集中、「あはれ」あるいは「おもしろし」に当ててあり、いずれも義訓である。「おもしろし」はきわめて古い語で、意は今と同じである。○縫へる嚢は 大嬢の縫って贈った嚢で、嚢は古く用途の多いものであった。これは何に用いる物であったかわからない。
【釈】 この世の中で吾はまだ見たこともない。口で言いようもなく、このように趣深く縫った嚢という物は。
【評】 これは大嬢から嚢を贈られた時、それを喜んで詠んで贈った歌である。嚢そのものを甚だしく讃えたのは、それがすなわち喜びをあらわしたことで、その喜び方は童にも似ているといえる。
747 吾妹児《わぎもこ》が 形見《かたみ》の衣《ころも》 下《した》に着《き》て 直《ただ》にあふまでは 吾《われ》脱《ぬ》がめやも
吾味兒之 形見乃服 下着而 直相左右者 吾將脱八方
【語釈】 ○形見の衣 「形見」は、しばしば出た。その人の身代わりとしての衣を。○下に着て わが衣の下に着てで、肌につけて着ての意。○直にあふまでは 直接に逢う時までは。○吾脱がめやも 「やも」は、反語。脱ごうか、脱ぎはしない。
【釈】 吾妹児が身代わりとしての衣を肌につけて着て、直接に逢う時までは、吾は脱ごうか、脱ぎはしない。
【評】 大嬢より形見としてその衣を贈られたのに対しての歌である。夫婦関係の者が別れている時に、形見として衣を贈ること、贈られた衣を下に着ることは、上代では普通のことで、特別な歌ではない。
748 恋《こ》ひ死《し》なむ 其《そこ》も同《おな》じぞ なにせむに 人目他言《ひとめひとごと》 辞痛《こちた》み吾《わ》がせむ
(531) 戀死六 其毛同曾 奈何爲二 人目他言 辞痛吾將爲
【語釈】 ○恋ひ死なむ其も同じぞ 「恋ひ死なむ」は、恋の苦しみで死んでしまおうとすることで、ここは熟語。下の「其《そこ》」と並べたもので、恋い死なむ事もの意でいっているもの。家持としては現状から推しての将来のこと。「其《そこ》」は、旧訓「其《それ》」、『攷証』の訓。その点、あるいはその事で、さすところあってのもの。「も」は、並べる意の助詞。「同じぞ」は、同然であるよの意。恋い死にをするのと同然の「其《そこ》」は、生きて逢えずにいることで、これは現状をいったもの。恋い死にをするのも、逢えずにいるのも、その苦しさは同然であるよの意。○なにせむに何のためにの意で、「吾がせむ」にかかる。○人目他言辞痛み吾がせむ 「人目」は、人の見る目で、現在も用いている。「他言」は、他人のする噂で、いずれも逢うことの妨げをなしているもの。「辞痛み」は、うるさくありとの意のもの。「吾がせむ」は、「なにせむに」に続き、我がしようかの意。
【釈】 恋い死にをしようとすることも、生きて逢えずにいることも、同然であるよ。何のために、人目や他言《ひとごと》がうるさくあるとして我のいられようぞ。
【評】 逢い難い苦しみの訴えで、現状から推して新たなる決意を生むに至ったことをいっているのである。「恋ひ死なむ其も同じぞ」は、逢えずにいる現状は、恋い死にをしてしまったのも同然である。差迫っている恋い死にを思うと、人目他言などいうものは何の意味もないものである。何のために周囲をはばかりなどしようかというので、そうしたものを無視しようとする決意である。思い迫っての実情であることは、語が欝屈し、調べも烈しいものとなっているので知られる。家持の面目の上からいうと、人目他言がたやすからぬものであったと思われる。
749 夢《いめ》にだに 見《み》えばこそあらめ かくばかり 見《み》えずしあるは 恋《こ》ひて死《し》ねとか
夢二谷 所見者社有 如此許 不所見有者 戀而死跡香
【語釈】 ○夢にだに見えばこそあらめ 「夢にだに」は、夢にだけなりともで、逢い見ることを標準としてのこと。夢は、先方がこちらを思うゆえに見えるとしてのもの。「見えばこそあらめ」の「あらめ」は、「め」は「こそ」の結。「ある」は生存する意で、生きてもいられようの意。○見えずしあるは 旧訓「見えずてあるは」。『略解』の訓。「し」は、強め。○恋ひて死ねとか恋うて死ねと思うのかで、先方のこちらを思わないのを恨んでの言。
【釈】 せめて夢にだけなりとも見えたならば、生きてもいられよう。このように見えずにいるのは、こちらを思わないからのことで、恋うて死ねと思うのか。
(532)【評】 夢は先方がこちらを思うがゆえに見えるものという信仰を背後に置いての言で、その見えないのは思わないがゆえであるとしての恨みと訴えである。「夢にだに」と、その見たいことの限りなさをいい、「かくばかり見えずし」と、綜合して強めていっているが、こうした歌の陥りやすい感傷よりの誇張という風が少なく、実感をいっているものであることは、その調べの迫るもののあることが示している。
750 念《おも》ひ絶《た》え わびにしもの、を 中々《なかなか》に 何《なに》か苦《くる》しく 相見始《あひみそ》めけむ
念絶 和備西物尾 中々荷 奈何辛苦 相見始兼
【語釈】 ○念ひ絶えわびにしものを 「念ひ絶え」は、思い切ってにあたる。一時関係はしたが、妨げがあって逢い難くし、諦めていた意。「わびにし」は、「に」は、完了。「わび」は「侘び」で、ここは悲しく思うというにあたる。○中々に なまなかにで、「相見」に続く。○何か苦しく相見始めけむ 原文「奈何」は、いかなればの意で、疑問。「苦しく」は、現在の、逢いたくして逢い難い状態をいったもの。「相見始めけむ」は、相逢い始めたのであろうかで、疑問は、上の「何か」の「か」。
【釈】 夫婦関係を思い切って、悲しいものにしていたのであったものを、なまなかに、何だってこのように苦しい状態で、相逢い始めたのであったろうか。
【評】 周囲からの妨げがあって、夫婦関係を諦めていたのを、後ふたたび旧に戻したが、その妨げは依然としていて、逢い難く苦しいところから、その関係を戻したことに疑いを抱き、全面的に否定し、悔いようとしている一歩前の心である。これは恨み、訴えという範囲を超えた、愚痴ともいうべきもので、大嬢にきわめて親しい心をもっていっているものである。家持の心細さを示しているものといえる。
751 相見《あひみ》ては 幾日《いくか》も経《へ》ぬを 幾許《ここだ》くも くるひにくるひ 念《おも》ほゆるかも
相見而者 幾日毛不經乎 幾許毛 久流比尓久流必 所念鴨
【語釈】 ○相見ては幾日も経ぬを 「を」は、詠歎で、「経ぬを」は、経ないものを。相逢ってから、幾日も経ないので、恋わずにいられるはずであるものをの意。○幾許くもくるひにくるひ 「幾許《ここだ》く」は、旧訓「ここばく」。『攷証』の訓。数の多い意で、ここは、量に転じたもので、甚しくの意。「も」は、詠歎。「くるひにくるひ」は、「くるひ」は「狂ひ」で、物が憑《つ》いて、静かにさせて置かない状態をいう語。物狂おしいという(533)にあたる。○念ほゆるかも 思われることであるよ。
【釈】 相逢ってからは、まだ幾日も立たないので、そうしたはずはないと思うものを、甚しくも、狂おしくも狂おしいほどに思われることであるよ。
【評】 逢えないがゆえに恋しく、相逢ったがゆえに心が募って、さらにも恋しいという、共通の人情をいって訴えたものである。「幾許くもくるひにくるひ念ほゆるかも」は、自身だけの体験のごとく言っているものであるが、そう感じたのが実際で、またこう言っているがゆえに訴えともなっているのである。
752 かくばかり 面影《おもかげ》にのみ 念《おも》ほえば いかにかもせむ 人目《ひとめ》繁《しげ》くて
如是許 面影耳 所念者 何如將爲 人目繁而
【語釈】 ○かくばかり面影にのみ 「かくばかり」は、このようにばかりで、下の二、三句へ続く。「面影にのみ」は、「面影に」は、「面影に立つ」と続け、その人の全貌が眼に浮かんでくるのを、幻となって眼前に立ち現われるごとく、具象化していったもの。「のみ」は、だけというにあたり、直接に見ることに対させていることをあらわしたもの。全体では、単に面影に立って見えるだけでの意。○念ほえば 「念ひ」は、嘆きの意のもので、嘆きをさせられるならば。○いかにかもせむ 「かも」は、疑問。どうしたらよいのであろうかで、堪えられないの意でいっているもの。○人目繁くて 人目が繁くしてで、直接に逢えないことを、その理由のほうからいったもの。
【釈】 このように、単に面影に立って見えるだけの嘆きをさせられているのであれば、どうしたらよいのであろうか。人目が繁く、直接には違えずして。
【評】 この歌も、前の歌と同じく、一般性をもった人情を、自身のみの体験のごとく感じていったものである。「面影にのみ念ほえば」の続きは、その間の消息を語っているもので、心を尽くしていったものと取れる。四句までで言いきり、事の理由を結句に据えているのは、格となっていることではあるが、心の落着きをもっているといえる。
753 相見《あひみ》ては しましく恋《こひ》は なぎむかと 念《おも》へどいよよ 恋《こ》ひまさりけり
相見者 須臾戀者 奈木六香登 雖念弥 戀益來
(534)【語釈】 ○相見てはしましく恋は 「相見ては」は、逢い見たのでの意。原文「須叟」は、旧訓「しばしも」。『新訓』の訓。「しまし」は、「しばし」の古語で、「く」を添えて名詞形としたもの。「恋」は、憧れの意。○なぎむかと念へどいよよ恋ひまさりけり 「なぎむ」は、和ぎむで、乱れの鎮まる意。「いよよ」は、いよいよ。「けり」は、詠歎。
【釈】 逢ひ見たので、しばらくの間は、憧れ心が鎮まろうかと思ったが、反対に、いよいよ憧れがまさってきたことであるよ。
【評】 上の(七五一)と、心としては全く同一のもので、それを言い方を変えているにすぎないものである。しかし前の歌は、その事実を訝《いぶか》るごとき心であったのを、この歌では、同じ事実を嘆きをもって見ているという違いがあり、したがって言い方も違っているのである。時の推移のさせていることといえる。
754 夜《よ》のほどろ 吾《わ》が出《い》でて来《く》れば 吾妹子《わぎもこ》が 念《おも》へりしくし 面影《おもかげ》に見《み》ゆ
夜之穗杼呂 吾出而來者 吾妹子之 念有四九四 面影二三湯
【語釈】 ○夜のほどろ 夜のほのぼのと明けるころ。「ほどろ」は解が定まらず、諸説がある。「ろ」は、接尾語。○吾が出でて来れば 大嬢の許へ通ってゆき、そこを出て来ればで、来るのは自分の家へである。○吾妹子が念へりしくし 「念へりしくし」は、原文「念有四九四」、旧訓「おもへりしくよ」。『代匠記』の訓。「念へりしく」は、「念へりし」に「く」を添えて名詞形としたもので、「し」は、過去の助動詞。巻七(一一五三)「玉拾ひしく」、巻七(一四一二)「背向《そがひ》に宿《ね》しく」と語型の同じもの。下の「し」は、強め。「念ふ」は、嘆きの意のもので、心の中に嘆いていたそれが。○面影に見ゆ 「面影に」は、上の(七五二)のそれと同じ。面影に立って見える。
【釈】 人目に着くのをおそれて、夜のほのぼのと明けるころ我がその家を出てわが家に帰って来たので、吾妹子が本意《ほい》ないことにして嘆いていたそれが、面影に立って見える。
【評】 大嬢の許へ通って行った家持が、人目を忍ぶ必要から夜深く帰るのを、大嬢が嘆いた容子を隣れんで、それが面影に見えるといって、慰めの心をもって贈ったものである。独詠であるかのごとく客観的に詠んでいるのは、家持のその時の心が鎮まって、余裕をもち得ていたためと思われる。実際に即しているものであるために、おのずからに含蓄をもち、味わいのある歌となっている。
755 夜《よ》のほどろ 出《い》でつつ来《く》らく 遍《たび》まねく なれば吾《わ》が胸《むね》 裁《た》ち焼《や》く如《ごと》し
(535) 夜之穗杼呂 出都追來良久 遍多数 成者吾胸 截燒如
【語釈】 ○出でつつ来らく 「出でつつ」は、「つつ」は継続。「来らく」は、「く」を添えて名詞形としたもので、来ること。○遍まねく 旧訓「あまたたび」。『略解』の訓。「遍」は、度《たぴ》。「まねく」は、多くの古語で、用例の多いもの。あまたたびと。○なれば吾が胸裁ち焼く如し 「なれば」は、なるので。「截ち焼く」は、切ったり、焼いたりの意で、『遊仙窟』の、「未2曾飲1v炭、腹熱如v焼、不v憶v呑v刃、腸穿似v割」を取ったもの。
【釈】 人目をはばかって、夜のほのぼのと明けるころにその家を出で出でして帰って来ることが、度《たぴ》重なったので、その本意《ほい》なさに、わが胸は切られたり焼かれたりするがようである。
【評】 上の歌は大嬢を憐れんだのであるが、これは同じことに対して自身を隣れみ、嘆いたものである。この歌も余裕をもち得ているもので、この一連の最初の(七四一)と同じく、『遊仙窟』の語を引くことを喜びとしている。この中国の小説を重んずるのは一般の風であったとみえるが、家持は、父旅人についで、ことにその念が深かったことと思える。
大伴|田村家大嬢《たむらのいへのおほいらつめ》、妹坂上大嬢に贈れる歌四首
【題意】 左注に詳しい。
756 外《よそ》に居《ゐ》て 恋《こ》ふるは苦《くる》し 吾妹子《わぎもこ》を 次《つ》ぎて相見《あひみ》む 事計《ことはかり》せよ
外居而 戀者苦 吾妹子乎 次相見六 事計爲与
【語釈】 ○外に居て恋ふるは苦し 「外」は、郷土を主とし、それ以外の地を無関係の所としていう称。ここは、家を別にしている意。「恋ふるは」は、旧訓「恋ふれば」。『略解補正』の訓。「恋ふ」は憬《あこが》れで、兄弟としてなつかしく思う意。○吾妹子を次ぎて相見む 「吾妹子」は、女同士も用いた。ここは、まさしく妹でもある。「次ぎて」は、続きてで、絶えず。「相見む」は、相逢う。「見む」は連体形で、下へ続く。○事計せよ 「事計」は、熟語。事の計らい、すなわち計画。「せよ」は、命令。
【釈】 家を別にしていて、恋うている事は苦しい。吾妹子と絶えず相逢うことのできるように計画をしたまえよ。
【評】 邸を別にしている異腹の姉より、妹に贈った歌である。異腹ということは、当時にあっては普通のことであった。「事(536)計」というのは、続きの歌で見ると、坂上家にいる妹に、田村家への出入りを勧めたものとみえる。実用性の歌で、歌をもって用を弁じようとしているものである。
757 遠《とほ》くあらば わびてもあらむを 里《さと》近《ちか》く ありと聞《き》きつつ 見《み》ぬがすべなさ
遠有者 和備而毛有乎 里近 有常聞乍 不見之爲便奈沙
【語釈】 ○遠くあらばわびてもあらむを 「遠くあらば」は、下の「里近く」に対させたもの。「わび」は、ここはさびしく思う意。○里近くありと聞きつつ 「里近く」は、田村の里に近く坂上の里がある意。「ありと聞きつつ」は、住んでいると聞き聞きしながら。○見ぬがすべなさ 「すべなさ」は、やるせなさというにあたる。異腹の兄弟は、母同士は競争者であるので、その延長として、他人とさして異ならない仲であるのが普通であった。
【釈】 遠く隔てているのであれば、さびしく思ってもいようものを、この田村の里に近く住んでいると聞き聞きしながら、見ずにいることのやるせなさよ。
【評】 前の歌に続いてのものである。姉妹でありながら、相見る機会のない嘆きをいったものである。異腹とはいえ、女兄弟であり、特に田村大嬢は母がなかったので、坂上郎女は継母であるが、なおかつ、ある隔てはあったろうと思われる。これらの歌は、真心よりのもので、儀礼を含んだものではないことが、その真率な、しみじみとしたものであるところから感じられる。
758 白雲《しらくも》の たなびく山《やま》の 高々《たかだか》に 吾《わ》が念《おも》ふ妹《いも》を 見《み》むよしもがも
白雲之 多奈引山之 高々二 吾念妹乎 將見因毛我母
【語釈】 ○白雲のたなびく山の 白雲の靡いている山ので、高と続き、その高を転義することによって、序詞としたもの。○高々に 集中に多い語で、九か所に用いられているが、その七か所までは「待つ」に続き、ここの「念ふ」に続くのと、巻十二(三〇〇五)が、「高々に君を座《いま》せて何をか念はむ」と、「座せ」に続いているのが例外である。本来、仰ぎ望む意で、待つ状態を具象的にいった語であり、ひたすらに待つ意に用いられ、転じて、その語だけで待つ意をもあらわす語となったとみえる。○吾が念ふ妹を 「念ふ」は、『新考』は上の意で、待ち念うの意だといっている。「妹」は、坂上大嬢。○見むよしもがも 「がも」は、上に「も」を伴って願望をあらわすもの。
【釈】 白雲の靡いている山の高い、その高々に、すなわち、ひたすらに我が見たいと待ち思っている妹を、直接に見るてだてが(537)ほしいものであるよ。
【評】 上の歌に続けて、その心を押進めたものである。「高々に」という語は古くからあるもので、序詞はそれによって設けられたものである。序詞はそのところの実際に即したものかと思われる。
759 いかならむ 時《とき》にか妹《いも》を むぐらふの きたなき屋戸《やど》に 入《い》り座《いま》せなむ
何 時尓加妹乎 牟具良布能 穢屋戸尓 入將座
【語釈】 ○いかならむ時にか妹を 「いかならむ時に」は、どういう時にで、いつの時に。「か」は、疑問で、結句へかかる。○むぐらふのきたなき屋戸に 「むぐらふ」は、葎生で、「葎」は、路傍、藪《やぷ》などに茂る雑草で、「生」は、生える所。「屋戸」は、ここは、家の意。○入り座せなむ 「座せ」は、旧訓「まさしめむ」。『古義』の訓。「入り」を敬語とするために添えたもの。入れ奉ることができようかの意。
【釈】 いつの時に妹を、葎《むぐら》の生えているところのこのきたない家へ、入れまつることができようか。
【評】 上の歌に続き、第一首目に照応させたものであり、この四首は連作で、その中心をなしているものである。上にいったがごとく、坂上大嬢に来訪を勧めることを目的としたもので、実用性の歌で、古くから例のあるものである。坂上郎女の歌風に似たもので、才情の遠く及ばないものである。
右、田村大嬢と坂上大嬢と、井にこれ右大弁大伴|宿奈麿《すくなまろ》卿の女なり。卿は田村の里に居り、号を田村大嬢と曰へり。但、妹坂上大嬢は、母は坂上の里に居り、仍りて坂上大嬢と曰へり。時に姉妹諮問し、歌を以て贈答す。
右、田村大嬢坂上大嬢、並是右大辨大伴宿奈麿卿之女也。卿居2田村里1。號曰2田村大嬢1。但、妹坂上大嬢者、母居2坂上里1、仍曰2坂上大嬢1。于v時姉妹諮問、以v詔贈答。
【解】 「田村の里」と「坂上の里」の位置につき、石井庄司氏は考証を進めている(「文学」第一巻第六号)。要は、佐保川の支流に菰川というがあり、法華寺の東から流れ出している。これが、生駒郡都跡村の地籍で、暗峠《くらがりとうげ》道と交叉しているが、そこの南方、左岸の所に、約三町歩ばかりの広さをもつ「田村川」と称する地区がある。思うにこの田村川は、菰川の古名であろう。そ(538)れだと「田村の里」は、菰川の上流、今の法華寺の辺りに求めることが可能であろうというのである。また、「坂上の里」は、磐姫皇后の御陵を平城坂上陵と申すにより、奈良坂のほとりである。すなわちこの二つの里は、佐保の西と考えられるというのである。「諮問」は、二字とも問うの意をもつ語。
大伴坂上郎女、竹田庄《たけだのたどころ》より女子《むすめ》の大嬢に贈《おく》れる歌二首
【題意】 「竹田庄」は、今、橿原市東竹田の地であろうという。「東」は、磯城郡田原本町西竹田に対しての称である。「庄」は、領地。大伴家の領地の一つであったとみえる。「女子」は、坂上大嬢。
760 打渡《うちわた》す 竹田《たけだ》の原《はら》に 鳴《な》く鶴《たづ》の 間《ま》なく時《とき》なし 吾《わ》が恋《こ》ふらくは
打渡 竹田之原尓 鳴鶴之 間無時無 吾戀良久波
【語釈】 ○打渡す竹田の原に 「打渡す」は、見渡すの意で、広い地形をいう語。「竹田の原」は、竹田にある原。○鳴く鶴の 「の」は、のごとくの意で、鶴の鳴くことの絶えないのを捉えて譬喩としたもの。○間なく時なし吾が恋ふらくは 「間なく」は、絶え間なく。「時なし」は、定まった時がないで、不断の意。「間なく」を繰り返して強めたもの。「恋ふらく」は、「恋ふ」を、「く」を添えて名詞形としたもので、恋うることの意。
【釈】 遠く見渡すこの竹田の原に鳴いている鶴のごとくに、我も絶え間もなく、不断である。そなたを恋うことは。
【評】 巻十二(三〇八八)「恋衣き奈良の山に鳴く鳥の間なく時なし吾が恋ふらくは」と四、五句が全く同一で、そうしたものが同巻にいま一首ある。すなわち四、五句は、古くからの成句を襲用したのである。これはこの当時行なわれていたことで、消息として娘に贈る歌にあっては、それで十分だとしていたこととみえる。しかし初句より三句までは実景で、それに刺激されて強められた感を、成句に続けることによって言いおおせたという、古い形のものである。
761 早河《はやかは》の 湍《せ》にゐる鳥《とり》の 縁《よし》を無《な》み 念《おも》ひてありし 吾《わ》が児《こ》はもあはれ
早河之 湍尓居鳥之 縁乎奈弥 念而有師 吾兒羽裳※[立心偏+可]怜
(539)【語釈】 ○早河の湍にゐる鳥の 「早河」は、流れの早い河。「湍」は、瀬で、上との関係で早瀬。「鳥の」の「の」は、のごとく。早川の瀬の上を飛んでいる水鳥の、その縋るべき物のない意で、下の「縁を無み」の譬喩としたもの。○縁を無み 「縁」は、よりどころ。「無み」は、なくして。大嬢が、母の郎女が家を離れるので、留守中、頼る人がない状態をいったもの。○念ひてありし吾が児はもあはれ 「念ひて」は、嘆いて。「ありし」は、過去で、別れた時の状態を思い出してのもの。「あはれ」は、詠歎で、ああに同じ。
【釈】 流れの早い川の、その瀬の上を飛んでいる水鳥の縋るべき物のないごとく、母がいなくなるというので、頼る物がなくて、嘆いていたところのわが児のあわれさ。
【評】 竹田庄へ来ようとした時、大嬢が留守中を心細がって、嘆いていたさまが、郎女に深く印象されていて、それを思い出して憐れんだ心である。前の歌と同じく娘に贈ったものであるが、この歌のほうは、別れた際の大嬢を全面的に思い浮かべて、それを写しているという客観的な面をもったもので、その意味では独詠に近いものである。これは郎女のもつ文芸性がさせたことである。前の歌とは、古風と新風とが対蹠的になっている。
紀女郎、大伴宿禰家持に贈れる歌二首 【女郎、名を小鹿と云ふ】
【題意》 「紀女郎」は、(六四三)に出た。紀鹿人の女。
762 神《かむ》さぶと いなにはあらず やや多《おほ》や かくして後《のち》に さぶしけむかも
神左夫跡 不欲者不有 八也多八 如是爲而後二 佐夫之家牟可聞
【語釈】 ○神さぶといなにはあらず 「神さぶ」は、老いて形の衰えた状態を古びたとして、同意の「神さぶ」に転じた語で、老いを具象的にいったもの。「と」は、とて。「いなにはあらず」は、旧訓「いなとにはあらず」。『代匠記』の訓。「いな」は、否で、拒む意。○やや多や 原文「八也多八」。旧訓「ややおほは」。『管見抄』の訓である。他に用例のない語で、解が定まっていない。『管見抄』は、「やや」は稍々、「多」は、多く、「や」は、詠歎としている。『略解』は、本居宣長の解に従っている。それは、この一句は「八多也八多」の誤写で、「はたやはた」であるとし、巻十六にその語例あり、「はた」を強めたものだというのである。諸本、文字に異同はないので、『管見抄』に従う。「多や」は、たいていはというにあたり、それに「やや」を添えて、「多」の程度を緩和させたものと見る。緩和は、事を言い確かめるのが目的ではなく、訴えが目的なので、その心をもってしたものと取れる。○かくして後に 「かく」は、家持の懸想の心をいったのを承け入れたことをいったもの。『新考』は、逢ってはいないので、「然《しか》」の心のものだといっている。通じて用いている例があるからである。○さぶしけむかも 「さぶしけむ」は「さぶし」の未然(540)形「さぶし」に「む」のついたもの。さぶしくあらむで、事が永続せず、終わりがおもしろくなかろうの意。「かも」は、疑問。
【釈】 いたく老いているとて、その事を拒もうとするのではない。しかしたいていはと言ってもいいほど、いわれるようにした後に、おもしろくなく終わることであろうか。
【評】 求婚に対しての答である。その事を喜ぶ心をもちつつ、男の誠実を危ぶむという、ほとんど型のごとくなっているものであるが、この歌は年長者としての思慮をまじえ、余裕をもち、しかも相応の地歩を占めていっているもので、その点が特色である。
763 玉《たま》の緒《を》を 沫緒《あわを》に搓《よ》りて 結《むす》べれば 在《あ》りて後《のち》にも あはざらめやも
玉緒乎 沫緒二搓而 結有者 在手後二毛 不相在目八方
【語釈】 ○玉の緒を 玉を貫く緒を。○沫緒に搓りて 「沫緒」は、他に用例のない語で、したがって解し難いものである。緒の一種の状態で、搓り方の称であったことは、「搓りて」によって明らかである。どういう物であるかは、実物は残らず、記録もないので不明である。黒川春村は『碩鼠漫筆』で、沫緒は今の打紐という物のごとく、中を虚《うつろ》に搓り合わせたものであろう。丸打紐の中が虚でふくれ上がる形となっているところから、沫緒と呼んだのであろうと言っている。想像説であるが、比較的穏やかなもので、今はこれに従っておくほかはない。下の続きで見ると、沫緒は、他の遣り方の緒に較べれば、強いものであったとわかる。○結べれば 結んだのでというので、結んだ物は上の玉の緒である。玉の緒は、その末と末とを結び合わせるものであるから、ここもそれである。結ぶということは、上代の信仰として、身の無事を祈ってすることで、松の枝、茅の葉を結んでそれをしたことはすでに出ている。ここは玉の緒をもってそれをしているのである。玉の緒は、玉は魂《たま》に通い、緒は連続した長い物であるから、言霊信仰の関係から命《いのち》を意味させるものとなっていた。ここもそれで、命の長かるべき呪いを、ことに強い緒をもってしたの意と思われる。○在りて後にもあはざらめやも 「在りて」は、生きていての意。「後にも」は、さきざきもまた。「あはざらめやも」は、「や」は、反語。「も」は、詠歎。逢わなかろうか、逢おうと強くいったもの。
【釈】 玉の緒を、沫緒に搓った強い物をもってして、その末と末とを結んで、身の無事を祈る呪いをしたので、生きていてさきざきにもまた、逢わなかろうか、逢おう。
【評】 前の歌は、応じる心をもちつつ将来を懸念したものであったが、この歌はその懸念を打消し、積極的な、強い心になってのものである。帰するところは結句の「あはざらめやも」で、家持の申込みに対して承諾を与えたものであるが、それに条件をつけて、あくまでも逢い遂げようというので、初句より四句までは、そのあくまでを具体化したものである。その具体化を(541)するにあたって、前の歌の「神さぶと」を関係させ、我は長命の祈りをしてといっているので、気分としては複雑なものである。しかし「玉の緒を云々」ということは、当時にあっては普通のことであって、その事としては単純なものであったろうと思われる。一首、老は意識しているが、それは引け目とせず、祈りによって長命をしようといって蔽い去り、強い心をもって訴えたもので、若い家持としては、圧倒されずにはいられないような心である。
大伴宿禰家持の和ふる歌一首
764 百年《ももとせ》に 老舌《おいじた》出《い》でて よよむとも 吾《われ》は厭《いと》はじ 恋《こひ》は益《ま》すとも
百年尓 老舌出而 与余牟友 吾者不※[厭のがんだれなし] 戀者益友
【語釈】 ○百年に 「百年」は、百という齢。「に」は、になって。○老舌出でてよよむとも 「老舌」は、老いての舌。「出でて」は、歯が脱け落ちるため、自然に舌が口の外に出ること。「よよむ」は、言語の不明瞭のこととされてきたが、山田孝雄氏『万葉集考叢』の「身体不随意の状態」あるいは「身心癒えて意の如く活かし得ざる」状態であろうとする説に従う。○吾は厭はじ恋は益すとも 我は老によっては厭うまい、反対に恋は益そうとも。
【釈】 百という齢になって、老いの舌が口外に出て、物言いが不明になろうとも、我はそのためには厭うまい。反対に恋は益そうとも。
【評】 「神さぶと」の歌に和えて、将来の真実を誓ったものである。「百年に云々」は、「神さびて」という不安を忘れさせようために、それを強調していったもの。「吾は厭はじ云々」は、「さぷしけむかも」を忘れさせようとしてのものである。「とも」を重ねて言っているのはそのためである。郎女の歌に較べると、単純をきわめたものである。
久邇京《くにのみやこ》に在りて、寧樂《なら》の宅《いへ》に留《とど》まれる坂上大嬢を思ひて、大伴宿禰家持の作れる歌一首
【題意】 「久邇京」は、巻三(四七五)に出た。天平十二年十二月から同十七年五月まで帝都であった。「寧楽の宅に留まれる」は、新京にはまだ宅ができず、婦女子は故宅に留まっていた意である。
765 一隔山《ひとへやま》 重《へ》なれるものを 月夜《つくよ》好《よ》み 門《かと》に出《い》で立《た》ち 妹《いも》か待《ま》つらむ
(542) 一隔山 重成物乎 月夜好見 門尓出立 妹可將待
【語釈】 ○一隔山重なれるものを 「一隔山」は、久邇京と奈良の故京との間には奈良山が横たわっている、それをいったもの。一重《ひとえ》の山の意。「重なれる」は、隔たれるの古語。(六七〇)に出た。隔ててあるの意。○月夜好み「月夜」は、月のことをもいった。ここはその意のものと取れる。「好み」は、好いゆえに。○門に出で立ち妹か待つらむ 門に出て、妹が我の行くのを現に待っているだろうかで、月の好さに堪えられず、共に観ようとして来るだろうかと思って待っていようと推量したもの。
【釈】 一重《ひとえ》の山の隔てていて、行き難くあるものを。今宵の月が好いゆえに、こうした月には必ず来ようと思って、門に出て、妹は我を待っていようか。
【評】 「月夜好み」という夜、久邇京にいた家持が、月に対して大嬢を思い、大嬢もまた、同じく我を思っていようとする心から、双方を一つにし、さらに自然とも一つにして、一首としたものである。自然の風光の好さによって恋ごころを募らせられるとするこの心は、古くからあったものではあるが、意識的な、際やかなものとなったのは、奈良遷都後のことであって、この歌の心は当時の新風である。この風は、後にしだいに大をなしたものである。
藤原郎女、これを聞きて即ち和ふる歌一首
【題意】 「藤原郎女」は、父祖が知れない。久邇宮の官女の一人であったろうと思われる。
766 路《みち》遠《とほ》み 来《こ》じとは知《し》れる ものからに 然《しか》ぞ待《ま》つらむ 君《きみ》が目《め》を欲《ほ》り
(543) 路遠 不來常波知有 物可良尓 然曾將待 君之目乎保利
【語釈】 ○路遠み 路が遠いゆえにで、路は久邇京と奈良京との間。○来じとは知れるものからに 「ものから」は、ものながらにあたる語。来まいとは知っているものながらに。○然ぞ待つらむ 「然」は、家持の「門に出で立ち」をさしたもの。そのようにして待っていることであろうよの意。○君が目を欲り 「君が目」は、君が見えで、君が姿の意。「欲り」は、現代語の欲しくしてにあたる。君にお目にかかりたくての意。成句と言いうるもの。
【釈】 路が遠いゆえに、来まいとは知っているものながら、いわれるがように待っていることであろうよ。君にお目にかかりたくて。
【評】 人が歌をもってその心をいう時には、傍らにある人は、自身に関係のないことであっても、同じく歌をもって応じるというのは古来の風となっていたことで、ここもそれと取れる。家持は一切を「月夜好み」の刺激としているのに、郎女はそれには触れず、一に大嬢の心よりのこととしているのである。これは特に心あってしたことではなく、女性の立場に立ってのことで、自然にしていることと思われる、これは男女の差というばかりではなく、第三者としての礼も伴っていよう。
大伴宿禰家持、更に大嬢に贈れる歌二首
【題意】 「更に」は、前の歌を承けていっているものと思われる。それだと前の歌も、大嬢に贈ったこととなる。
767 都路《みやこぢ》を 遠《とほ》みや妹《いも》が 比来《このごろ》は うけひて宿《ぬ》れど 夢《いめ》に見《み》え来《こ》ぬ
都路乎 遠哉妹之 比來者 得飼飯而雖宿 夢尓不所見來
【語釈】 ○都路を遠みや妹が 「都路」は、ここは、都への路の意のもので、都は久邇京。奈良から久邇京までの路。「遠みや」は、「や」は、疑問。遠くあるゆえにか。「妹」は、奈良にある大嬢。○うけひて宿れど 「うけひ」は、祈誓の字を当てている。祈る意にも、誓う意にも、転じては狙う意にも用いる語。ここは祈る意のもの。祈って寝るけれどもで、祈るのは、下の続きで、妹を夢に見ようとする意。○夢に見え来ぬ 「来ぬ」の「ぬ」は、上の「や」の結、連体形。夢に見えてこないことであるよ。
【釈】 奈良よりこの久邇京までの路が遠いゆえなのか、妹がこの頃は、わが祈って寝るけれども、夢に見えてこないことであるよ。
(544)【評】 しばしば出たように、夢は先方がこちらを思うと、その魂が通ってきて夢に見えるということが一般に信じられていた。この歌もそれを背後に置いてのものである。夢に見たいと祈りをして寝るが、それにもかかわらず見えてこないことが、「比来」というほど長く続くとすれば、普通だと先方の不信のためだとして恨むべきであるが、それを「都路を遠みや」と解しているのである。この語も単なる感傷のものではなく、夢はその人の魂の通ってくるのであるから、路の距離というものは関係するものだとしてのことである。一首、訴えではあるが、大嬢を十二分に信じている心からのものである。
768 今《いま》知《し》らす 久邇《く に》の京《みやこ》に 妹《いも》にあはず 久《ひさ》しくなりぬ 行《ゆ》きて早《はや》見《《みな
今所知 久迩乃京尓 妹二不相 久成 行而早見奈
【語釈】 ○今知らす久邇の京に 「今知らす」は、旧訓「今ぞ知る」。『代匠記』の訓。「今」は、新たに。「知らす」は、「知る」の敬語。天下をしろしめす意。新たにここで天下をしろしめす久邇京にあっての意。○妹にあはず久しくなりぬ 妹に逢わずに久しくもなったで、「あはず」は連用形。○行きて早見な 「行きて」は、奈良の故京へ行って。「見な」の「な」は、願望の助詞。
【釈】 新たにここで天下をしろしめす久邇京にあって、妹に逢わないことが久しくもなった。奈良へ行って、早く妹を見たいものである。
【評】 妹に対する思慕であるが、廷臣としての覚悟をもっての上のもので、したがって落着いた心のものである。それは前の歌にも見えるものである。
大伴宿禰家持、紀女郎に報《こた》へ贈れる歌一首
769 久方《ひさかた》の 雨《あめ》の落《ふ》る日《ひ》を ただ独《ひとり》 山辺《やまべ》にをれば いぶせかりけり
久堅之 雨之落日乎 直獨 山邊尓居者 欝有來
【語釈】 ○久堅の雨の落る日を 「久堅の」は、「雨」の枕詞。○ただ独山辺にをれば 「山辺」は、久邇京における家持の宅の在り場所で、何の山ともわからない。山に繞らされている京だからである。○いぶせかりけり 「いぶせし」は、心の愁えに結ぼれている状態。「けり」は、詠歎。
(545)【釈】 雨の降る日を、ただ一人で山辺の宅《いえ》にいるので、心が愁えに結ぼれていることであるよ。
【評】 「報へ」というので、返しである。贈歌は、家持の消息を問うという範囲のものであったとみえる。眼前の状態だけを捉え、落着いた心をもって言っているもので、要を得た、品のあるものとなっている。
大伴宿禰家持、久邇京より坂上大嬢に贈れる歌五首
770 人眼《ひとめ》多《おほ》み あはなくのみぞ 情《こころ》さへ 妹《いも》を忘《わす》れて 吾《わ》が念《おも》はなくに
人眼多見 不相耳曾 情左倍 妹乎忘而 吾念莫國
【語釈】 ○人眼多みあはなくのみぞ 「人眼多み」は、人目が多くして。「あはなく」は、旧訓「あはざる」。『古義』の訓。「あはなく」は、「な」は、打消。「く」は、名詞形とするためのもの。逢わないことをしているの意で、意としては旧訓と同じであるが、このほうが訴えの気分をあらわすものがあり、作意と取れる。○情さへ 心までで、逢わないのに加えての意のもの。○妹を忘れて吾が念はなくに 「忘れて念ふ」の語つづきはしばしば出た。思い忘れる意の当時の言い方。「念はなく」は、上の「あはなく」と同じく、「念はぬ」を名詞形にしたもの。「に」は、詠歎。
【釈】 人目が多くして、それにはばかって逢うことをせずにいるだけであるぞ。心までも、妹を思い忘れてはいないことであるぞ。
【評】 家持としてはいうを要さない当然のことを、熱意をもって、諭す態度でいっているものである。題詞にはないが、大嬢(546)から逢い得ぬ恨みをいってきたのに対して報えたもので、その必要があったのであろう。家持の単純に、正直な面をよくあらわしている歌である。
771 偽《いつはり》も 似《に》つきてぞする うつしくも まこと吾妹児《わぎもこ》 吾《われ》に恋《こ》ひめや
僞毛 似付而曾爲流 打布裳 眞吾妹兒 吾尓戀目八
【語釈】 ○偽も似つきてぞする 偽をいうにも、似つかわしい言い方をするものであるよの意。巻十一(二五七二)「偽も似つきてぞするいつよりか見ぬ人恋ふに人の死にせし」とあり、それによったものと取れる。○うつしくも 旧訓「うちしきも」。『代匠記』の訓。「うつしく」は、現しくで、事実としての意の形容詞。「も」は、詠歎。○まこと吾妹児吾に恋ひめや 「まこと」は、上の「うつしくも」を繰り返したもの。「恋ひめや」は、反語で、恋いようか、恋いはしない。
【釈】 偽をいうにも、似つかわしい言い方をするものであるよ。事実として、まことに我妹子が、我を恋いていようか、恋いはしない。
【評】 この歌も、大嬢が恋うているといってきたのに対して報《こた》えたものと取れる。「偽も似つきてぞする」と、古歌の語を取って、大嬢の恋うということを全面的に否定しているのであるが、巻十一の歌の、相手の見えすいた誇張を嘲ったのとはちがって、悪意をもってのものではない。事実、夫婦間にあっては、相信じ合った仲でないとこうしたことは言えないものである。相手を信じ、恋慕の限りない情を内に潜ましていっているものと思える。
772 夢《いめ》にだに 見《み》えむと吾《われ》は ほどけども あはずし思《も》へば うべ見《み》えざらむ
夢尓谷 將所見常吾者 保杼毛友 不相忘思者 諾不所見有武
【語釈】 ○夢にだに見えむと吾は 「夢にだに」は、せめて夢になりとも。「見えむと」は、見られようと思ってで、家持が大嬢の夢に入る意。○ほどけども 『童蒙抄』は、「ほどく」は、紐などを解く意の語として、口語に行なわれているそれであろうといい、それだと下紐についていっているのであろうと解している。『考』『略解』など、それに従っている。それだと上より続いて、我の人の夢に入ろうとする時にする咒《まじな》いで、当時信じ行なわれていたものと取れ、したがって語が足らなくても解せたものと思われる。それだと、上の(七六七)の「うけひ」と相対するものである。○あはずし思へば 旧訓「あひしおもはねば」。『代匠記』「あはぬしおもへば」。『新訓』は「あはずし思《も》へば」と改めている。これに従(547)う。「あはずし」は、「し」は、強め。逢うまいと、思っているのでで、大嬢が夢に見ようとの心をもっていないでの意。○うべ見えざらむ 「うべ」は、諾《うべな》う意で、なるほどというにあたる。見えないのはもっともであるの意。
【釈】 せめて夢でだけなりとも見られようと思って、我は夜、下紐をほどいているのであるけれども、妹は見ようとは思っていないので、なるほど見えないのであろう。
【評】 大嬢よりの贈歌に、家持が夜の夢に見えないといって嘆いたものがあり、それに対しての報え歌と取れる。家持としては毎夜下紐をほどいて、大嬢の夢に入るようにと咒いをしているのに、それにもかかわらず見えないというのは、大嬢が見ようとしないからだと、反対に恨み返したものである。一本気に、恨みを含めていっているのは夢に対する信仰の上に立っているからのことである。
773 言《こと》問《と》はぬ 木《き》すらあぢさゐ 諸茅等《もろちら》が 練《ねり》の村戸《むらと》に 詐《あざむ》かえけり
事不問 木尚味狹藍 諸茅等之 練乃村戸二 所詐來
【語釈】 ○言問はぬ木すらあぢさゐ 「言問はぬ」は、ものもいわないところの。「木すら」は、「すら」は、軽きをいい、重きを言外に置くもの。「あぢさゐ」は、紫陽花。全体では、ものをいうこともしない木の紫陽花ですらの意で、偽く、偽かれるというようなことには、全くかかわりのない物ですらの意。これは下の「詐かえ」に続く。○諸茅等が練の村戸に 「諸茅」の「茅」は、桂本ほか二本は、「弟」となっている。この二句は、諸注解し難くしている。『代匠記』は、諸茅は人の名で、紫陽花を誑《たぶら》かした物語などがあって、それに拠っているのかといっている。「諸茅等」は、上の「言問はぬ」に対させてあり、また、次の歌には、「諸茅等が練の言葉《ことば》」とあるので、ものをいう物、すなわち人と思われる。「練」は、「練の言葉」によると、熟練の練で、口上手という意かと思われる。「村戸」は、不明である。当時、あまねく知られている物語があり、それによったものと思われるが、物語が忘れられてしまったので、不明となったのである。○詐かえけり 「詐かえ」は、詐かれ。「けり」は、詠歎。
【釈】 省く。
【評】 釈ができないので、評もできないのであるが、作意は想像されなくはない。それは、愚かなる物の紫陽花は、諸茅らが、口上手な語《ことば》に詐かれたことであるよと、紫陽花を憐れみ、諸茅らを強く憎んだ心で、紫陽花を自身に、諸茅らを大嬢に譬えたものと思われる。紫陽花の特色は、花の色の幾たびか変わるところにあるから、物語はたぶんその点に触れたもので、紫陽花は心が善良で、諸茅らが口上手にいうままに、その色を変えたという範囲のものではないかと思われる。
(548)774 百千遍《ももちたび》 恋《こ》ふと云《い》ふとも 諸茅等《もろちら》が 練《ねり》の言葉《ことば》は 吾《われ》は信《たの》まじ
百千遍 戀跡云友 諸茅等之 練乃言羽者 吾波不信
【語釈】 ○百千遍恋ふと云ふとも 「百千遍」は、いかに多くという意を、具体的にいったもの。「恋ふと云ふとも」は、我を恋うと言おうともで、未来をかけていっているもの。○諸茅等が練の言葉は 諸茅らが口上手な言葉はで、これは大嬢に譬えたもの。○吾は信まじ 「信まじ」は、原文「不信」、旧訓「たのまず」。『代匠記』の訓。上の「云ふとも」に照応させたもので、我は信じまい。
【釈】 省く。
【評】 前の歌と同時のもので、前の歌に注を加えた形のものである。家持は自身を物語の中のものに擬することを好む風があり、上の(七四一)以下の一連には、『遊仙窟』中の人物としようとした跡がある。この二首の背後にある物語は、わが民族の中のものと思われ、また自身を愚かなる紫陽花に擬しているもので、性質はちがっているが、物語を好むという上では共通なものである。
大伴宿禰家持、紀女郎に贈れる歌一首
775 鶉《うづら》鳴《な》く 故《ふ》りにし郷《さと》ゆ 念《おも》へども 何《なに》ぞも妹《いも》に あふよしもなき
鶉鳴 故郷從 念友 何如裳妹尓 相縁毛無寸
【語釈】 ○鶉鳴く故りにし郷ゆ 「鶉鳴く」は、鶉は、人気《ひとげ》のない荒れた草原に棲むものなので、その荒れたのを古くなったとし、「古」の枕詞となったもの。「故りにし郷」は、今は京は久邇であるところから、奈良をさしていっているもの。「ゆ」は、より。これは、家持が久邇京に住んでいて、以前奈良京に住んでいた頃よりの意でいっているもので、「故りにし郷ゆ」は、遠い以前からということを具象化していった、特別なものである。こういう言い方をしたのは、紀女郎も、この歌を贈った頃は、奈良より久邇へ移って来ていたがゆえで、そのことは、続く歌でわかる。○念へども 恋うているけれども。○何ぞも妹にあふよしもなき 「何ぞ」は、疑問の意の副詞。「も」は、詠歎。何ゆえに。「ぞ」は、係となっている。「あふよし」は、逢う手だて。「なき」は、「ぞ」の結。
【釈】 今は旧《ふ》りし都にあった時代から恋うているけれども、何ゆえに妹に逢う手だてのないことであろうか。
(549)【評】 紀女郎が久邇京へ移り住む事情になったので、同じくその京にいた家持が、直接の関係を結ぼうとする心をもって贈ったものとみえる。淡い言い方をしているのは、関係の浅い事情と、家持の人柄が正直で、誇張したことは言えなかったためと思われる。実際に即することの多い歌で、それに制されたものとみえる。
紀女郎、家持に報へ贈れる歌一首
776 言出《ことで》しは 誰《た》がことなるか 小山田《をやまだ》の 苗代水《なはしろみづ》の 中《なか》よどにして
事出之者 誰言尓有鹿 小山田之 苗代水乃 中与杼尓四手
【語釈】 ○言出しは誰がことなるか 「言出し」は、求婚を言い出したで、それは当然男のすることで、家持のしたこととしてのもの。「誰がことなるか」の「こと」につき、『新考』は、たが上の意で、誰に対しての事であるのかの意だといっている。女郎に対してのことであるが、それをしたままに、忘れたごとくにしているのを恨んでいっているのである。○小山田の苗代水の 「小山田」は、「小」は接頭語で、山の田。「苗代水」は、苗代田へ引くところの水。山の田へ引く水であるから、流れの早いものであるが、苗代田へ引き入れる水は、温めるために澱ませるので、「中よど」の「よど」へ続けて、その序詞としたもの。○中よどにして 「よど」は、上の(六四九)「絶えぬ使のよどめれば」とあり、たゆむ意で、「中よど」は、中途でたゆむ意の名詞。「にして」は、「し」は強めで、「にて」。上を承けて、の状態にての意。
【釈】 君が求婚を言い出したのは、誰に対してのことであるのか。山田の苗代水を澱ませる、その中よどの状態にして。
【評】 家持の訴えに対しては、直接には触れてはいわず、奈良にあって求婚をして以来、忘れたがごとき状態で過ごしてきたのに対して、恨みというよりも、むしろ非難をして報えたものである。「小山田の苗代水の」という序詞は特殊なものである。これは眼前を捉えたものとみえる。女郎の宅が山田に近く、また季節が苗代田を作る時であったためと思われる。
大伴宿禰家持、更に紀女郎に贈れる歌五首
777 吾妹子《わぎもこ》が 屋戸《やど》の籬《まがき》を 見《み》に往《ゆ》かば けだし門《かど》より 返《かへ》しなむかも
吾妹子之 屋戸乃籬乎 見尓徃者 蓋從門 將返却可聞
(550)【語釈】 ○屋戸の籬を見に往かば 「屋戸」は、家。「籬」は寛永本には「笆」とあるが、元暦本はじめ九本に「籬」となっている。家の籬を見に行ったならばで、これは、その時女郎の新京の宅が造られつつあったからである。このことは続いての歌にも出ていて明らかである。○けだし門より返しなむかも 「けだし」は、たぶんという意で、推定する時に用いる副詞。「返しなむ」は、旧訓「かへしてむ」。『略解』の訓。「かも」は、疑問。たぶん家へは上げず、門より帰すのであろうかで、女郎が我に靡くまでの心はもっていないのではなかろうかと危ぶんだ意。これは求婚の時期にあっては、むしろ普通のことだったのである。
【釈】 吾妹子の今造っているという家の籬のさまを見に行ったならば、たぶん、家へは上げず、門《かど》から帰らせることであろうか。
【評】 女郎の今造っている宅を見に行こうというのは、上代は家の建築のある時には、その家主に何らかの関係をもつ者は、材料、労力を提供するなど、応分の助力をするのが一般の風となっていたので、ここもその心からいっているもので、単に見に行こうというのではない。このことは続きの歌にも出ている。家といわず、籬といっているのは、家の内部まで見ようというのは遠慮して、外部にとどめようとする心からで、女郎との関係の深くないことを背後に置いての言である。「返しなむかも」は、上の歌の女郎の恨み、非難を心に置いてのもので、その心の解けないのに対しての遠慮であるが、訴えの心をもっていっているものである。実際に即した歌で、家持の善良な、控えめの風を見せているものである。
778 うつたへに 前垣《まがき》のすがた 見《み》まく欲《ほ》り 行《ゆ》かむと云《い》へや 君《きみ》を見《み》にこそ
打妙尓 前垣乃酢堅 欲見 將行常云哉 君乎見尓許曾
【語釈】 ○うつたへに ひたすらに。(五一七)に既出。○前垣のすがた見まく欲り 「すがた」は、さま。「見まく欲り」は、見ることをしたくの意で、見たいことというにあたる語。しばしば出た。○行かむと云へや 「云へや」は、「云へ」の已然形に、「や」の添ったもので、反語。行こうといおうか、そういうのではない。○君を見にこそ 「君」は、女郎をさしたもの。「君」は、男女間にあっては、女より男をさす称と定まっていたのであるが、奈良京以後はそれが移って、ここのように男より女を呼ぶ称ともなった。しかし例の少ないもので、これはその少ない中の一つである。「こそ」は、その一つを取立てていう語。下に「行け」が省かれている。
【釈】 ひたすらに籬の形を見たいことにして行こうというのであろうか、そうではない。君をこそ見ようと思ってである。
【評】 前の歌に続けたもので、際立った連作である。前の歌では控えめに、消極的にいったのを、この歌ではそれを押切って、積極的にいったものである。その結果、おのずから前の歌の注解のごとき形となったのである。これは家持の好んですることで、歌風ともいぅべきものである。
(551779 板葺《いたぶき》の 黒木《くろき》の屋根《やね》は 山《やま》近《ちか》し 明日《あすのひ》取《と》りて 持《も》ち参《まゐ》り来《こ》む
板盖之 黒木乃屋根者 山近之 明日取而 持將參來
【語釈】 ○板葺の黒木の屋根は 屋根につき『攷証』は考証している。「板葺」は、屋根の葺き方の一種の称。続日本紀、神亀元年以前は、一般には瓦葺というものはなく、それ以前の屋根は、檜皮葺《ひわだぷき》を最上の物とした。これは檜の木を剥《は》いで、厚く重ねて葺いたのである。板屋はそれについだもので、檜以外の木の、大きな板をもって葺いたのである。板葦はそれについだもので、これは板とはせず、丸木を短く切って、並べて葺いたのである。草葺は、さらにこれにつぐものである。神亀元年以後は、宮殿はもとより、貴族、庶民も富んだ者は瓦葺としたのであるが、久邇京は新京で、邸宅もかりそめの物だったので、紀女郎の宅は板葺だったのである。「黒木」は、白木に対しての称で、白木は木材の皮を剥いだもの。黒木はその剥がないものである。「黒木の屋根」は、黒木をもって葺く屋根。○山近し 我が家は山が近いというので、家持の家の位置をいったもの。「山」は、木材のあり場所としてのもの。○明日取りて持ち参り来む 「明日取りて」は、旧訓「あすもとりては」。『古義』の訓。「取りて」は、山より伐り取りての意。「持ち参り来む」は、「持ち」は、旧訓「もて」。『古義』の訓。当時の語法に従ったもの。持って。「参り」は、先方を尊んでの語。「来む」は、現在だと「往かむ」というところであるが、先方を中心としての言い方で、しばしば出たもの。
【釈】 板葺の、その黒木の屋根の材料は、わが家は山が近くて、得る便宜がある、明日は伐り取って、持って伺おう。
【評】 板葺の屋根の材料としての黒木を提供しようということは、前にもいったように上代にあっては、家の建築をする場合、その主人の関係者は、当然の義務として行なっていたことで、格別の好意というほどのものではなかった。ここもそれで、家持が明るい心をもって、まっすぐに言っているのは、その心からである。「山近し」というのは、黒木の提供をするには、幸い便宜があるとの心をもっていっているもので、その事を軽くする意のもの。「明日《あすのひ》」と続けて迫った言い方をしているのも、事のたやすさをいおうがためのもので、心は同様である。実用性の歌で、可否を超えたものである。
780 果樹《くろき》取《と》り 草《くさ》も刈《か》りつつ 仕《つか》へめど 勤《いそ》しきわけと 誉《ほ》めむともあらず 【一に云ふ、仕ふとも】
黒樹取 草毛苅乍 仕目利 勤和氣登 將譽十万不有 一云、仕登毛
【語釈】 ○草も刈りつつ 「草」は、旧訓「かや」。『古義』が「くさ」と改めた。集中、「草」を「かや」と訓ませるのは、それを屋根を葺く料とした時の称で、その料は薄《すすき》が多い関係から、薄を「かや」とも訓んでいる。ここの「草」は、屋根は板葺であるから、その料ではなく、蔀《しとみ》、ある(552)いは壁代《かべしろ》としての物であろう。それだと草であるといっている。巻十一(二三五一)「新室《にひむろ》の壁草《かべくさ》苅りにいまし給はね」とあるのはそれである。「つつ」は、継続。○仕へめど 仕えようけれども。「ど」は、「ども」と同じく、既定の事実を条件としての助詞で、「と」「とも」と相対するものである。結末の「一に云ふ、仕ふとも」の「とも」はすなわちそれで、それだと未定の仮想としてである。この歌は、上の歌と連作になっており、事としては「仕ふとも」のほうがあたっているが、感情の上で誇張して「ども」といったと取れる。そのいずれであるかによって、結句「あらず」の訓が異なってくる性質のものである。○勤しきわけと 原文は諸本「勤知気登」、旧訓「ゆめしりにきと」。諸注、さまざまに訓を試みているが、『考』は、「知」は「和」の誤写として、今のように訓んでいる。文字は諸本異同はないが、旧訓では意が通じないので、『考』に従うべきである。「勤しき」は、勤勉なるの意で、用例のある語。「和気」は、上の(五五二)に、「吾が君はわけをば死ねと念へかも」とあり、謙《へりくだ》っての自称にも用い、また、同じく対称にも用いた。ここは対称である。奴《しもべ》の意の、当時の用語と思われる。○誉めむともあらず 「あらず」は、原文「不有」、旧訓。三句、「仕へめど」と本行に従うと、「あらず」と訓むべきである。誉めようともしないの意で、既定のこととしていっているもの。『攷証』は、「不有」を、「あらじ」と改訓している。これは三句を、「一に云ふ、仕ふとも」に従うとすれば、そう訓むべきものである。○一に云ふ、仕ふとも 仕えようともで、仮想としていったもの。これは家持の再案と思われるが、上の歌との関係より見ると、このほうが穏やかで、まさっているといえる。
【釈】 黒木を伐り取り、草を刈り続けて、我は仕えようけれども、勤勉な奴よと誉めようともしない。あるいは、仕えようとも、誉めようともしまい。
【評】 これは前の歌と連作になっているものであるが、上の籬の歌の場合とは反対に、前の歌では積極的に、一意、協力しようといったのを承け、これは消極的に、いかに協力しようとも、おそらくは喜んでくれなかろうと、控えめの心をもち、それを戯れをまじえた口気をもっていっているものである。この控えめになるのは、女郎と直接には逢っていず、求婚時期の状態にいるので、必要のこととしたものと取れる。戯れの口気をもってしてはいるが、心としては、他意なきを示しているものである。
781 ぬば玉《たま》の 昨夜《きぞ》は還《かへ》しつ 今夜《こよひ》さへ 吾《われ》を還《かへ》すな 路《みち》の長手《ながて》を
野干玉能 昨夜者令還 今夜左倍 吾乎還莫 路之長手呼
【語釈】 ○ぬば玉の昨夜は還しつ 「ぬば玉の」は、「夜」の枕詞。「昨夜は還しつ」は、旧訓「よふべはかへる」。『略解』の訓。「昨夜」は、古くは「きぞの夜」といい、「きぞ」とも用いるに至った語。「は」は、下の「今夜」に対させた意のもの。「還しつ」は、逢わずに還した意。○今夜さへ吾を還すな 「今夜さへ」は、今夜までも。「還すな」は、上と同じくいたずらにの意でのもの。○路の長手を 「長手」は、長い路すなわち(553)遠路。「を」は、詠歎。
【釈】 昨夜は、いたずらに還した。今夜までも、いたずらには還すな。路は遠くあるものを。
【評】 これは別れの時の歌である。女郎が逢おうとせず、いたずらに還らした翌日、その夜も行こうとして、あらかじめ使をもって訴えた歌である。いたずらに還すというのは、求婚時期には普通のことであったが、心としてはすでに承諾を示している仲であるから、家持はその誠を試みられ、試みに応じていたことを見せている歌である。
紀女郎、物を※[果/衣]《つつ》みて友に贈れる歌一首 【女郎、名を小鹿といふ】
782 風《かぜ》高《たか》く 辺《へ》には吹《ふ》けども 妹《いも》が為《ため》 袖《そで》さへ沾《ぬ》れて 刈《か》れる玉藻《たまも》ぞ
風高 邊者雖吹 爲妹 袖左倍所沾而 苅流玉藻焉
【語釈】 ○風高く辺には吹けども 「高く」は、風の激しいことを具象的にいったもの。「辺」は、海岸。○妹が為袖さへ沾れて 「妹」は、女に対しての称で、題詞に「友」とあるもの。「袖さへ」は、裾を標準として、裾はもとより袖までもの意。「沾れて」は、波に沾れるので、波は、「風高み」により、波も共に高いことを暗示したもの。○刈れる玉藻ぞ 「玉」は、美称。「藻」は、海草の総称としてのもので、ここは和布《わかめ》などと取れる。「ぞ」は、指示したもの。この結尾は、寛永本には「玉藻烏」とあり、旧訓「たまもを」である。「烏」は、元暦本ほか八本「焉」とあり、助字であり、『考』もそのことをいっている。「ぞ」は訓み添えたものである。
【釈】 風が激しく海岸に吹いていたけれども、妹に贈ろうがために、風とともに立つ高い波に、衣の袖までも濡れて、我が刈ったところのこの藻であるぞ。
【評】 「物に※[果/衣]みて」というのは和布の類で、人に物を贈る時、それを物に包むとともに、その贈る物は、わが労苦して得た物だということをいう、上代よりの風に従っての歌である。言っていることは、歌の性質として普通のことであるが、風をいうことによって波を暗示し、袖をいうことによって裾を暗示するなど、技巧をもったもので、その点が特色をなしている。
大伴宿禰家持、娘子《をとめ》に贈れる歌三首
(554)783 前年《をととし》の 先《さき》つ年《とし》より 今年《ことし》まで 恋《こ》ふれど何《な》ぞも 妹《いも》にあひ難《がた》き
前年之 先年從 至今年 戀跡奈何毛 妹尓相難
【語釈】 ○前年の先つ年より 「前年《をととし》」は、一昨年で、昨日の前日を「をとつひ」というは、仮名書きのあるもの。「先つ年」は、その先の年で、一昨々年の意。○今年まで 初句よりこれまでは、甚だ永い間ということを具体化して強くいおうとしたもの。○恋ふれど何ぞも妹にあひ難き 「恋ふれど」は、恋うてきたけれども。「何ぞも」は、どうしたわけかと疑った意。「ぞ」は係。「難き」は、「ぞ」の結。あい難いことであるのかと、詠歎を含めたもの。
【釈】 一昨年のその前の年から、今年までという甚だ永い間を恋うているけれども、どういうわけで妹に逢い難いことであろうか。
【評】 永い間を恋うていると、魂が感応して、相手も心を動かすという信仰があり、その上に立っての歌ではないかと思われる。「何ぞも」という疑いがこのことを思わせる。ありうる信仰である。単純なる訴えである。
784 うつつには 更《さら》にもえ言《い》はじ 夢《いめ》にだに 妹《いも》がたもとを 纒《ま》き宿《ぬ》とし見《み》ば
打乍二波 更毛不得言 夢谷 妹之手本乎 纏宿常思見者
【語釈】 ○うつつには更にもえ言はじ 「うつつ」は、現で、事実として共寝をしたならばで、その嬉しさということを余情としたもの。「更にも」は、ことさらにで、「も」は、詠歎。「え言はじ」は、言うこともできないであろう。○夢にだに 「夢」は、「うつつ」に対させたもの。せめて夢にでも。○妹がたもとを纒き宿とし見ば 「たもと」は、袂で、手を言いかえたもの。「纒き宿」は、枕として寝る意。「見ば」は、見たならばで、それだけでも嬉しかろうの意を含めて言いさしにしたもの。
【釈】 事実として共寝をしたならば、その嬉しさは、ことさらに言うこともできないであろう。せめて夢にでも、妹が袂を枕として寝たと見たならば、それだけでも嬉しいことであろう。
【評】 夢は、しばしば出たように、先方がこちらを思うゆえに見えるものだという信仰の上に立ち、わが恋は実現ができなくても、せめて先方がこちらを思う心があれば、それだけでも嬉しいということを、具体的にいおうとしての歌である。余情の(555)多い言い方をしているのは、技巧としてではなく、事柄が双方にわかっているものなので、略いた言い方でも通じうるところからのことである。訴えの心の濃厚なものである。
785 吾《わ》が屋戸《やど》の 草《くさ》の上《うへ》白《しろ》く 置《お》く露《つゆ》の 寿《いのち》も惜《を》しからず 妹《いも》にあはざれば
吾屋戸之 草上白久 置露乃 壽母不有惜 妹尓不相有者
【語釈】 ○吾が屋戸の草の上白く 「屋戸」は、庭の意のもの。○置く露の 「露の」の「の」は、のごとくの意のもので、その消えやすい意で、寿の譬喩としたもの。○寿も惜しからず 「寿も」の「も」は、詠歎。
【釈】 わが庭の草の上に白く置いている露のごときわが命も、我は惜しくはない。妹に逢えずにいるので。
【評】 恋の不如意から起こる感情をいって、その相手に訴えたものである。命を脆いものとして露に譬えるのは、仏説からきているものであるが、すでに常識となっていたものと思われる。その意味では知性的なものであるが、それを眼前の光景によって具象化し、「草の上白く」と感覚化しているので、生趣のあるものとなっている。一首、感傷が調べとなり、したがって単純なものとなっているので、比較的力のあるものとなっている。これは家持の持味である。
大伴宿禰家持、藤原朝臣|久須麿《くすまろ》に報へ贈れる歌三首
【題意】 「久須麿」は、左大臣藤原朝臣武智麿の孫、藤原恵美朝臣押勝の二男である。続日本紀、孝謙紀に、天平宝字二年正六位下より従五位下、同三年美濃守、従四位下、同五年大和守、同六年参議、同七年兼丹波守となる。同八年大師藤原恵美朝臣押勝の謀反が漏れ、天皇には、少納言山村王を遣わして、中宮院の鈴印を収めしめさせると、押勝はそれを聞いて、男|訓儒《くす》麿らをして邀《むか》えてそれを奪わしめた。天皇は、授刀少尉坂上苅田麿、将曹牡鹿島足らをして射て殺させられたとある。久須麿の年齢はわからないが、『代匠記』は、この巻の歌は天平十二、三年に終わっており、一方久須麿は、権臣の子であるのに、天平宝字二年に正六位下であるところから見ると、ここに出ている時は、まだ若年であったろうといっている。歌は、ここの三首をはじめ、それ以下すべて、まだ世づかぬ一少女を中心として、家持と久須麿の詠んだものである。その少女のどういう身分の者であるかは明らかでなく、諸注さまざまの解をしている。『攷証』は家持の女であろうと解している。比較的妥当なものに思われるので、今はこれに従う。
(556)786 春《はる》の雨《あめ》は いやしき落《ふ》るに 梅《うめ》の花《はな》 いまだ咲《さ》かなく いと若《わか》みかも
春之雨者 弥布落尓 梅花 未咲久 伊等若美可聞
【語釈】 ○春の雨はいやしき落るに 「春の雨」は、花の咲くのを促すものとしていったもの。「は」は、下の「梅の花」に対させたもの。「いやしき落る」は、「いや」は、いよいよ。「しき」は、しきりにの語幹で、ここは続いての意。○梅の花いまだ咲かなく 「梅の花」は、当時は外来の物として、珍重されていたもの。「咲かなく」は、「な」は、打消「ず」の未然形。「く」は名詞形とするために添えたもので、「いまだ咲かなく」は、まだ咲かないことよの意。○いと若みかも 「いと」は、甚だ。「若み」は、ここは若いゆえの意で、これは木の状態をいったもの。「かも」は、疑問。
【釈】 花を催す春の雨のほうは、いよいよ続いて降っているのに、梅の花のほうは、まだ咲かないことであるよ。木が甚だ若いゆえなのであろうか。
【評】 事としては、「春の雨はいやしき落るに」は、男よりしきりに求婚されること、「梅の花いまだ咲かなく」は、女の世ごころのつかず、それに応じるに至らないこと、「いと若みかも」は、その木の若いゆえであるかとして、女に同情して、その理由をつけるとともに、男の面目をも立てようとするものであるが、歌として見ると、全部が完全に隠喩となっており、単に若木の梅を詠んだものとして見ても、その心の通じうるものである。これは譬喩としてはきわめて高度なものである。この当時は、一方にはまだ発生的の譬喩が残っており、それは漠然たる感情の、まとめて語となし難いものをもっている時、たまたま自然の風物が刺激となり、それに心を絡ませることによって初めて言いあらわせるようになったと称すべきもので、これは結果から見ると譬喩と見られるものなのであるが、実はそれ以前のものなのである。そうしたものも行なわれていた時代に、こうした、一首全体を隠喩とした譬喩は、それを生み出す態度から見ると、高度の文芸性のものというべきである。家持も久須麿も、それに堪えたのである。しかしこうした態度を取ったのは、実用性の意味合いもあったものと思われる。久須麿は当時の権臣の二男であり、将来を嘱望されている青年でもあるから、その人から家持の娘が求婚をされたとすると、家持としては心して扱わなくてはならなかったろうと思われる。娘としては自身何をいう心も力もないとすると、家持が代わっていうよりほかはない。しかしいうべき事はないわけである。娘を梅の花に擬したということは、自身の珍重の情をあらわすとともに、相手を重んずることにもなりうることで、大伴坂上郎女がその娘を橘に擬したと同じく、季節に関係させると、妥当な擬し方と思える。一方、貴族間にあっては、自然の風物を愛好する風が高まり、またそれを誇りともしていた時代であるから、その雰囲気に支持されてのこととも思える。一首隠喩ではあるが、細心な注意をもって事実に即させており、ことに「いと若みかも」(557)は、上にいったがごとく用意の深いものである。少女が家持の娘であろうということは想像にすぎないものであるが、歌の上から見ると、少なくともそれに近い程度の近親な者でない限り、家持として、このような態度は取らなかったろうと思われる。娘と解すべきであろう。
787 夢《いめ》の如《ごと》 念《おも》ほゆるかも 愛《は》しきやし 君《きみ》が使《つかひ》の まねく通《かよ》へば
如夢 所念鴨 愛八師 君之使乃 麻祢久通者
【語釈】 ○夢の如念ほゆるかも 「夢の如」は、夢を現に対させて意外なことを見るものとして、その意外を具象化したもの。意外は嬉しい範囲のものである。「かも」は、詠歎。○愛しきやし君が使の 「愛しきやし」は、巻二(一三八)に既出。「愛しき」は、愛すべきで、「やし」は、詠歎。「青によし」の「よし」と同じ。「君」を讃えたもの。「君」は、久須麿。「使」は、求婚の消息をもたらす使。○まねく通へば 「まねく」は、たびたび、度数多く。「通へば」は、家持の家へ通って来るので。
【釈】 夢かと思うように嬉しく思われていることであるよ。愛すべき君が遣わされる使の、しばしばわが家に通って来るので。
【評】 娘が、敬愛する久須麿から、熱心に求婚されていることに対して、親としての歓喜をいっているものと取れる。久須麿に対する親愛の情に浸っていっているものであることは、全体を貫く柔らかい気分、一句一句の上にも現われていて、親以外の者の心ではなかろうと思わせるものである。
788 うら若《わか》み 花《はな》咲《さ》き難《がた》き 梅《うめ》を植《う》ゑて 人《ひと》のことしげみ 念《おも》ひぞ吾《わ》がする
浦若見 花咲難寸 梅乎殖而 人之事重三 念曾吾爲類
【語釈】 ○うら若み花咲き難き 「うら若み」は、「うら」は、接頭語。「若み」は、若くしてで、下の「梅」の状態。「花咲き難き」は、花が咲き難いところので、下へ続く。全体では、木が若くして、花が咲き難いところので、(七八六)と同じ心でいっているもの。○梅を植ゑて 梅の木を庭に植えてで、植えるのは鍾愛しようがためで、これは上に続いて、娘の隠喩。○人のことしげみ 「こと」は、言。「しげみ」は、繁くしてで、人の噂が繁くして。これは、上からの続きは、他人もその梅の花を愛でようとして、咲いたかどうかを関心事としてしきりに噂をする意であるが、心としては、「人」は、久須麿。「こと」は、求婚。「しげみ」は、上の歌の「君が使のまねく通へば」で、久須麿の求婚のしきりなことであって、その隠喩。○念ひぞ吾がする 「念ひ」は、ここは嘆き。嘆きをわがすることであるよで、上からの続きは、人がそのようにいえば、我も早く咲(558)けよと嘆かれることであるよの急であるが、心としては、久須麿の心に応じさせたいが、それができないのでいたずらに気を揉んでいるということを隠喩としたもの。
【釈】 木が若くして、まだ花の咲き難い梅をわが庭に植えて、他人が花が咲いたかどうかとしきりに噂にするので、聞く我も、早く咲けよと嘆きをすることであるよ。
【評】 これも、(七八六)と同じく、全部隠喩から成立っている歌で、表面は単に梅の花の、木が若木であるために花の遅いのに対しての心で、前の歌は、花の咲かない事実だけをいったのに対し、これはその事のために、人に対して嘆きをすると、進展させていっているものである。三首連作で同時のもので、この歌はその心の頂点を示しているものである。一首の眼目は、「人のことしげみ念ひぞ吾がする」で、これは全部の眼目ともなっているのである。意味は上にいったがようで、久須麿の求婚を十二分に歓び、共々にその事を実現させたいと思っているが、いかんとも術《すべ》がないと、娘をかばいつつ、久須麿の面目を立てているものである。三首、単純な抒情の語によって、複雑な事情と心持とをあらわしているものであり、またこれは連作の形式によらなければあらわし難いものであって、まさにその必要のあるものである。この歌の技巧は、(七八六)よりもまさっているものであるが、しかしそれは、連作であるがゆえにもちうるものであり、一首としてはいえないものである。
又、家持、藤原朝臣久須麿に贈れる歌二首
789 情《こころ》ぐく 念《おも》ほゆるかも 春霞《はるがすみ》 たなびく時《とき》に ことの通《かよ》へば
情八十一 所念可聞 春霞 輕引時二 事之通者
【語釈】 ○情ぐく念ほゆるかも 「心ぐく」は、(七三五)に出た。心が曇って不安に感じられる意の語で、心苦しくというにあたる。「かも」は、詠歎。○春霞たなびく時に 「春霞」は、「秋霞」に対しての語で、今の霞。「たなびく」は、靡く。これは眼前の風光で、上の「情ぐく」の心象と通うところのあるものとして捉えていっているもの。上の(七三五)坂上大嬢の「春日山霞たなびき情《こころ》ぐく照れる月《つく》夜に独かも宿《ね》む」と心の通うもの。○ことの通へば 「こと」は、言で、久須麿よりの使のもたらす求婚のもの。「通へば」は、通って来るので。
【釈】 心苦しくも思われることであるよ。おりから、霞がたなびいて、外界もそれと同じさまをしている時に、君の使が通って来るので。
【評】 娘の許へ久須麿から使の来るのを見て、それを歓びつつも、その事の遂げられないことを知っている家持の、絶えず気(559)がかりになるので、久須麿を諷する心をもって訴えたものである。「春霞たなびく時に」というのは、自然の状態によって生活気分の動くのを新風とし、貴族の一種の誇りともしていたので、その心で取入れたものであるが、今の場合としては、諷する心を婉曲にする効果を覘つてのものであって、単なる技巧ではない。一首、見かねて、黙ってはいられず、それとなく注意するという性質のものである。
790 春風《はるかぜ》の 声《おと》にし出《で》なば ありさりて 今《いま》ならずとも 君《きみ》がまにまに
春風之 聲尓四出名者 有去而 不有今友 君之随意
【語釈】 ○春風の声にし出なば 「春風の」は、音を立てる意で、その枕詞としたもの。眼前のものを捉えたのである。「声《おと》」は、上よりの続きは音であるが、転じさせて言《こと》の意にしたもので、言に出ずという言と同じ。「し」は強め。「出なば」は、出したならば。全体では、言葉として出したならばで、出すのは下の「君」で、言いかえると、久須麿が婚を結ぼうといわれたならばの意。○ありさりて 「あり」は、生きていての意。「さり」は、春さればなどのそれと同じく、移っての意で、生きて、時が移ってで、言いかえると、このままに過ごして行って。○今ならずとも 今ではなくてもで、「ありさりて」を繰り返したもの。○君がまにまに 「君」は、久須麿。「まにまに」は、心次第にで、「出なば」に応じさせて、なろうの意を含めたも。
【釈】 君が求婚のことをいわれるならば、このままに過ごして行って、今ではなくとも、時期が来たならば、君の心次第になることであろう。
【評】 君に求婚の心があるならば、娘が世づきさえすれば、異存などあろうはずはない。時を待ちたまえと、あくまでも久須麿を重んじ、顔を立てていったものである。「春風の声にし出なば」は、季節の快いものを捉えて枕詞とし、将来のこととして、婉曲に美しくいったもの。「君がまにまに」も、成句ではあるが、卑下して、絶対に従おうとの心をあらわしたもので、心をこめてのものである。
藤原朝臣久須麿の来報《こた》ふる歌二首
【題意】 「来報ふ」は、(七〇六)にも出た。報えてよこした歌のことで、以上の歌に対して報えた意。
791 奥山《おくやま》の 磐影《いはかげ》に生《お》ふる 菅《すが》の根《ね》の ねもころ吾《われ》も 相念《あひおも》はざれや
(560) 奧山之 磐影尓生流 菅根乃 慇吾毛 不相念有哉
【語釈】 ○奥山の磐影に生ふる菅の根の 奥山の、磐の蔭に生えているところの菅の、その根のの意で、この菅は山菅で、根の深い物である。この三句は、「根」を「ねもころ」の「ね」に畳音でかける序詞で、ねもころを力強くいおうとしてのものである。○ねもころ吾も 「ねもころ」は、ねんごろにで、心深く。「吾も」は、吾も亦で、家持が娘に代わって、久須麿を他意なく思っていることをいっているので、それに対して吾も同じくの意でいっているもの。○相念はざれや 「や」は、反語で、相思わずにあろうか、ありはしないと、強くいったもの。
【釈】 奥山の磐の影に生えている山菅の、その深い根の、ねもころに我もまた、相思わずにあろうか、ありはしない。
【評】 君と同じく、我もまた深くも思おうということを、堅く誓った形の歌である。さしあたっては婚を結べない少女を中にして、将来を誓ったものであるが、直接には少女に触れず、心の広いものなので、単なる誓のごとくに聞こえるものである。家持の何首かの歌に対して、総括して報えている形であるから、自然なことといえるところがある。長い、またほとんど成句に近い序詞を用いているところは古風であるが、この歌の性質としては、これまた自然だといえる。
792 春雨《はるさめ》を 待《ま》つとにしあらし 吾《わ》が屋戸《やと》の 若木《わかき》の梅《うめ》も いまだ含《ふふ》めり
春雨乎 待常二師有四 吾屋戸之 若木乃梅毛 未含有
【語釈】 ○春雨を待つとにしあらし 「し」は、強め。「らし」は、眼前を証としての推量。その証は、庭前にある若木の梅。ここで段落で、主格は「若木の梅」であり、それは四句に譲っているのである。○吾が屋戸の若木の梅も 久須麿の家の庭の若木の梅もまたで、家持の庭の物と対比させたもの。○いまだ含めり 「含《ふふ》む」は、つぼむ意で、仮名書きのあるもの、まだつぼんでいる。
【釈】 あなたの家の若木の梅は、春雨の催すのを待っているというのであろう。わが家の庭の若木の梅もまた、同じく、まだつぼんでいる。
【評】 この歌は、家持が(七八六)で「梅の花いまだ咲かなく」といい、(七八八)で、「花咲き難き梅」といっている梅を、「春雨を待つとにしあらし」とうべない、「吾が屋戸の若木の梅もいまだ含めり」と、強く承認した心のものである。この梅は、上の二首の歌に対して報えた意のもので、家持の隠喩をうべない、梅を娘その人と認めてのものである。意の通じる程度にすぎない歌であるのは、報え歌であるためと、力量の足りないためと取れる。しかし微旨をあらわし得ているもので、感性の鋭さと細かさはもっているといえるものである。
(6) 萬葉葉 巻第五概説
万葉集巻第五は、これを形式の上から観ると、『国歌大観』の番号の(七九三)より(九〇六)に至る百十四首を集めた巻である。歌体から観ると、長歌が十首、短歌が百首、その確実性の上には疑いがあるが、仏足石歌体の四首(八八八−八九一)を含んでいるものである。注意されることは、本巻は純粋な歌集ではなく、幾篇かの文章を含んでいることであって、純粋な文章が一篇、詩を含んだものが二篇、また、歌を含んだものが一篇あり、さらにまた、書翰にして歌を含んでいるものは七篇の多きに及んでいる。さらにまた、歌に序が添い、その序が題詞の程度にとどまらず、独立した文章に近く見られるものが六篇あって、全部では相応に多い量である。全体として見ると、もとより歌が中心となってはいるが、その雑然としている趣は他には類例のないものであって、これがやがて本巻の特色をなしているのである。
次に、本巻で注意されることは、歌の部類分けのしてないことである。巻首に「雑歌」と記してあって、一見部立のそれのごとく見えるのであるが、この「雑歌」は他の巻のそれとは異なっており、この標目の中に、「相聞」も「挽歌」も含まれているのである。したがってこの「雑歌」は、部立の名称以前の、文字通りのくさぐさの歌の意なのである。これは撰者からいうと、その内容の雑然としているのに対して言ったものであって、撰者はただ資料として蒐集したのみにとどめ、まだ整理にまでは及ばなかったものと見られる。したがってこの巻の撰者は、撰者とはいえ実は資料蒐集者にすぎなかったのである。
この巻の作品は、その製作時代が大体明らかである。それは代表作者である大伴旅人、山上憶良の作には、その製作年月が記してあり、他の作者も大体この二人に関係しての人であるところから、製作年代は同時だったろうと察しられるからである。その年月は、神亀五年から天平六年までの六、七年間のものである。これを万葉集から観ると、その中期にあたっており、天皇の御代からいうと、聖武天皇の聖代であり、仏教の隆盛とともに他の一切の文運も隆盛に向い、和歌もその一部として盛行した時期であって、従前の実用性を基底とした和歌は文芸性のほうに向い、したがって一般性を重んじていたのが個人性を樹てうるに至った時期である。本巻の歌の排列は、この年代順を追っているものである。
本巻は、撰集の形式はとっているが、その実際を観ると、大伴旅人と山上憶良との私家集に近い趣を持ったものである。二人とも万葉集の代表的歌人であるが、旅人のほうは、その大半をなすところの歌が本巻の中にあり、憶良に至っては、さらに大きく、その大部分の歌が実に本巻の中にあって、かりに本巻を除いたとすれば、この二人の万葉集における位置は異なった(7)ものとならなければならぬ程である。
二人とも本巻における歌はその晩年のものであり、中でも旅人の歌は、大宰帥として大宰府にあった時代だけのものであって、天平二年十二月、大納言に昇進して奈良京へ還ることとなり、足一たび大宰府を離れて途上の人となると同時に、その歌は巻三、巻六のものとなって、本巻には採録されてはいないのである。のみならず明らかに大宰府に在った時期の歌と見られる筑紫の九国二島巡察の際の歌(九六〇−九六一)は巻六にあり、その奈良京を恋うる歌五首(三三一−三三五)は巻三にあり、殊にその代表作の一つとも見られる「酒を讃《ほ》むる歌十三首」(三三八−三五〇)も同じく巻三にあるのである。本巻に採録されている旅人の歌は、大宰府にあった期間中の半ば以上のものというにすぎないのであるが、しかし本巻の歌は、旅人の面目を濃厚に発揮しているものであって、その文芸性をほしいままにした歌は、すべて本巻の中にあると言いうるのである。憶良の歌は、旅人とは趣を異にしていて、その大部分が本巻に採録されている。巻一、二、三、又巻六、八、九と、憶良の歌も散在はしているが、その面目に関係ある歌は、僅かにその中の二、三首にすぎず、他はすべて軽いものである。殊に憶良の特色をなすところの長歌は、すべて本巻に採録されているのである。
この旅人と憶良の二人の歌は、本巻の特色をなすものであるとともに、おのおの万葉集の一面を代表して、その特色をなしているものなのである。加うるにこの二人の歌風は、この時代の歌界の趨勢を示すものであって、二人ともこの時代の所産であるとともに、この時代の要求を直感し、それを作品として現わすことによってこの時代を指導した人々であって、その意味では我が和歌史の一時期を劃してもいる人なのである。
二人の歌風のいかなるものであるかについて概言すると、二人ともその根柢においては等しき物を持っていながら、その傾向においては対蹠的に異なっており、そしてその等しき面《めん》も異なる面も、いずれも時代によって与えられたものなのである。等しき面というのは、二人とも我が伝統の精神を鞏固にも保持している人で、いずれも我が国の歴史を絶対に信奉しており、殊に憶良は、上代よりの神祇に対する信仰を深く身に着けていて、新しい時代機運の中にあって微動だにしないのである。またいずれも現実を尊重し、あるいは現実遊離に憧れるかに見える旅人にあっても、それは表面のみのことであって、一歩胸臆に踏み入れば、遊離というようなことはいささかも思ってはいないのである。憶良に至っては、その現実尊重は、現実改善の実行を伴わしめずにはいられないまでの慨あるものであって、死に至るまでもその執着から離れずにいるのである。しかし二人を歌人という面《めん》から見ると、際やかにその傾向を異にしており、対蹠的とも見られるのである。旅人は我が国での名族大伴氏であり、しかも氏の上《かみ》である。貴族としての旅人の感情は、気品を重んずるところがあり、その鋭尖なる感性は、漢文学の教養としても文芸的な面に向い、実生活の面においても風流《みやび》の面に向って行き、その心は美しく清らかなる物と、物のあわれ(8)の深いものとに動いて行った。これが歌に現われると、ある程度現実を遊離した、いわゆる文芸的なものとなって来るのである。本来大伴氏は武をもって朝廷に奉仕し来たった氏であり、旅人の顕職にあるのも、近き父祖の功によるのである。政体は職の世襲を認めなくなっていたとはいえ、氏の上にして聡明なる旅人に、武人としての覚悟のなかったはずはない。旅人の文芸的な傾向は、一に時代の許すところがあったがゆえに持ち得たものだったのである。その意味では旅人は時代の児である。憶良は旅人とは異なって、聞えるところのない氏の出であり、その学問を認められることによって官に就き得た人である。このことは当時例が少なくなく、僧侶にしてその学才の為に還俗を命じられた者が往々あるので、憶良もその範囲の人だったのである。四十二にして無位であった憶良には、その処世の方針は一定させられていた。それは学問に専念し、これを実行に移し、廷臣として職務の上に実績を挙げて行くよりは外なかったのである。時代は新興の時代であり、これを推進させるものは唐の文化の摂取にあったので、憶良の所期は必ず酬いられるべきものでもあった。憶良はついに伯耆守より筑前守となり、その任期の延ばされたのも、良吏としての聞えがあった為であろうから、何ら外的の支持する物のない身としては、その志を遂げ得たというべきであろう。この間の消息の如何なるものであったかはわからないが、その作品である歌によると、久しく国守であった者が、解任後幾何もない時に、貧しさを嘆いていることに窺われる感がある。憶良の感懐には旅人の文芸的なものも風雅もなく、あるものは、その起居している家庭と、その担任している職務という現実のみであり、またそれに強い執着を持ち、それを進めてより善きものとしようとする一念のみであって、そこより起る感懐を、批評的に観、分解し、組織して、これを長歌という形式をもって詠み出すことだったのである。憶良にとってはその言わんとする所は、長歌といふ形式でなければ言えなかったとみえる。その作品は、当然生活と一如になったもので、その外には出られなかったのである。これは言い換えると個人性の現われである。この個人性ということは、優れた作者にあっては等しく持っているものであるが、従来の作者の持ったものと、憶良の持ったものとには逕庭がある。時代の進運は、この以前よりすでに個人性を認めつつあり、それに対して寛容になりつつあったとはいえ、和歌は本来集団のものであり、口唱のものであって、それを建前とし、性格としているものである。和歌が口唱より記載に移ったのは、かなり以前からだとはいえるが、伝統の口唱という性格は根深いものであり、それが依然として行なわれ、またその面において優秀なる作品の多くが蓄えられていたことは、民謡集である巻十三によっても窺い知られる。したがって個人性ということは、一方においてはそれが許されているが、同時に他方にはそれに条件が付せられていて、内容は記載的なものであるが、形式はあ口唱的なものでなければならないということが、実際としては要求されていたかと思われる。この間の消息は、この時代頃から、長歌という形式は儀礼の場合の作を外にすると著しく減り、反対(9)に短歌が盛行しているのであるが、これは長歌を作るにはその力が堪えないということよりも、内容の個性的なものが形式としては口唱に便な短歌を必要とし、新風の短歌はそれを充たしうるものであるということが暗黙の中に認められ、その結果として長歌は席を短歌に譲らざるを得なかった為と思われる。しかるに憶良の個性的な長歌はそうした雰囲気の間に、逆行的に現われたものだったのである。それが時代的に観て、どのように反映したかはわからないが、とにかく巻第五の撰者によって、大切なる物として扱われている跡を観ると、少なくとも有識階級には認められていたことと思われる。これは個性というものに対して著しく寛大になって来たことを示しているもので、憶良は旅人にも増して、まさしく時代の所産と見られるのである。
旅人と憶良とは、作者としては傾向を異にしているが、この時代という一点においては共通なものを持っており、共に時代を超えて新生面を拓こうとして努力したのであった。それは歌によって物語の世界を生み出そうとすることである。説話に和歌を含ましめ、それを力点とするいわゆる歌物語系統のものは、すでに古事記、日本書紀、風土記にもあって、必ずしも新しいものではない。また贈答の歌を連ねることによっても、物語的な効果を収めることもいささかは行なわれていた。しかしそれらはすべて自然発生的のものと見えるのに、旅人と憶良の試みたものは意識的なものであって、文運の進展はあそれにつれて、複雑な散文の世界を要求していたのに、二人とも漢文学に長けており、それをもってすればこの事はたやすく遂げられるものであるにもかかわらず、二人とも等しく、これを心親しく、また柔らかな国語をもって現わそうとして、工夫し、労苦して、積極的にその試みをしているのである。旅人のその代表的なものは、「松浦河に遊ぶ序」と題するもので、(八五三)より(八六三)に至る十一首の短歌をもってそれをしようとしているのである。詳細は繁を厭って省くが、要を言うと、旅人が大宰帥として九国二島の巡察に出、その途次、肥前の国松浦において、古来神事としてその地に行なわれていた、初夏、女子の松浦河口においてする鮎釣を観て、それより構想したものである。その構想にあたって、旅人はその背後の土地の年中行事ということには全く触れず、偶然にも美女の群れにあって、怪訝の心より神仙かと惑い、その美女の群れに向って人柄を問うと、その群れもまた、土地の者とも、神仙ともはっきりしない曖昧なことをもって答え、美女の群れより恋情を発して来るという物語としたのである。旅人はこれらのことは漢文のやや長いものをもって序という形式において言っているが、全体としての力点は歌に置いており、歌をもって作意を開展させようとしているのであって、その点はまさしく歌物語である。本巻には旅人のこの系統の物が他にもあり、偶発的な興味からのものではなく、明らかに意図をもって行なっていると思わしめる物があるのである。憶良には旅人ほどにはこの類の物がないが、「貧窮問答歌」(八九二−八九三)はまさにそれであり、これは単に歌をもっての問答のみによって、劇的な効果さえ収めており、しかも憶良にとっては代表作の一つともなっているのである。憾良の(10)この歌も、単に興味よりの物ではなく、そうした形式をかりる必要があってのことと思われる節がある。それは当時国守の中には、私腹を肥やそうが為に甚しき苛斂誅求を行なう者があり、その管下の民はことごとく疲弊し困憊していたのである。その最も甚しい者は、以前はある身分を持ち、相応な教養をもっている者が、それが災いとなって極貧の底に陥るという状態であるのに、国司の最下僚である里長は、その職権を超えて、刑具を携えて誅求にあたるという状態でさえもあったのである。民政の実情には通じているが、位地低き憶良にあっては、ただこれを嘆き憂うるより外術がないところから、何びとかしかるべき高官の人に対して、きわめて腕曲にこの実情を訴えようとしたのがすなわち「貧窮問答歌」の作因と思われるのである。憶良にとっては文芸は、儒教的な、利用厚生の具だったのである。要するに、旅人と憶良とのこの方面においての試みは、時代の進運は和歌のみをもって足れりとせず、複雑な散文的な物を要求し、同時にそれも、我が民族の感性と情趣とを伝え得る国語をもってした物を要求していたのであるが、仮名文字のないところから国語の面においての要求は遂げられず、自然発生的な和歌入りの説話のあるのを参考とし、これを意識的に利用して、文芸的要求を遂げるものとしようとしたのである。これは全く時代の所産なのである。
この巻の撰者が何びとであるかは不明であって、一切想像の範囲のことである。しかし本巻の資料はきわめて特色のあるもので、上に言ったがごとく旅人と憶良の私家集に近い感のある、甚しく偏ったものであり、また撰定の方法も、年代順に排列してあるというにとどまり、撰集としては重大なことである部立をさえ施していないので、それらを通して観ることによって、ある程度まで想像の範囲を縮小し得る可能はあるものである。
何よりもまず明らかなことは、本巻の資料の大部分は、帥として大宰府に在った時期の旅人の身辺にあった物で、それ以外の物は数える程の少数にすぎないということである。例せば、本巻の代表作着である憶良の作にしても、天平二年、旅人が大宰府を離れる時までの作は、旅人に贈り、また旅人に示す為に記した物であることによっても、このことは明らかである。旅人に対する返翰の歌のごときは、これは問題とならず、旅人以外の人の許にはあるべくもないものなのである。それらに旅人の自作を加えると、ほぼ本巻の大部分を成しうるのであって、残る物は、旅人が大宰府を去った後の憶良の歌の在り場所が主であり、それに他の人の歌の少数が伴うにすぎないのである。それについで問題となることは、大宰府在官時期における旅人の歌も、旅人自身の手記すなわち手控にあった物ではなく、他の何びとかによって記録されていた物だということである。これは上にも言った如く、巻六(九六〇)「隼人の湍門の磐も」は、大宰帥として薩摩国へ巡察に行った際の歌であり、それにつぐ(九六一)「湯の原に鳴く葦鶴は」は、筑前国湯の原の温泉へ湯治に行った際の歌であるのに、それが本巻の資料にはなっていないところを観ると、これらの歌が後に伝わったのは、旅人の手控には記してあった為とは思われるが、その手搾を本巻の撰(11)者は見るを得なかったのであることを語っている。このことは、単にこの少数にとどまらず、巻三、四、六、八に、同じく大宰府在官当時の歌で、本巻の撰者の採録し得なかったものが、挙ぐるに堪えぬまでに多くあるのでも知られる。このことは、本巻の撰者と、旅人との個人的関係を暗示しているものと言うべきである。その個人的関係の上で察しられることは、大宰帥たる旅人と、本巻の撰者とは、その身分の隔りが甚しく、昵懇しうるまでには至れなかったからではないかと思われるのである。それを思わせられるのは、言やや穿ちに似て来るが、本巻の旅人の歌は、その風流の面の昂揚された、いわゆる純文芸性の物が多く、誰に示しても差支えのない物であるのに、他の巻に散在している歌は、日常の実感を述べた実用性の物が多く、殊に婁の死後の物は、哀音の切々たるものがあり、旅人としてはその対者以外の者には示したくなく思ったであろうと察しられる物が少なくないのである。巻三(三三八−三五〇)「酒を讃むる歌十三首」のごときも、事の死後、払い難き寂しさを遣る心の歌であって、一見思想的のものとも見えるのであるが、側近の者には、ただちにそれを詠んだ心情の感じられる性質のものであった為、旅人は本巻の撰者には見せなかったのではないかと思われる。旅人と水巻の撰者の身分の隔たりということは、これらの点から思わせられるのである。旅人に取って、そうした関係の人はどういう人かというと、これは旅人の私邸に抱えられ、身分はないがその学才によって用いられている記室の人、書記ではないかと思われるのである。旅人からいうとそうした人は、不断に邸内にいる側近者であるところから、用いるに便で記録の用を命じたろうと思われ、また命じられる記室の者からいうと、学才があるのでそうした物を重んじることは知り、大宰府を中心として、文芸の雰囲気の濃厚なもののあった時代とて、それに対する憧れの心ももって事に当ったものと思われる。本巻の撰者を、旅人私邸の人と思わせる最も有力なことは、旅人が天平二年十二月、大納言に昇進して京に還ることとなり、足一たび大宰府を離れると、その見送りの人との贈答の歌を初めとして、途次における感懐の歌も、本集の撰者とは全くかかわりのない物となっていることである。これは本集の撰者は、旅人の旅の随員ともなれず、旅人が大宰府の私邸を離れるとともに、旅人とも、その歌とも関係は絶えてしまった事を示しているのである。もし上の想像が許されるとすれば、本巻が歌集として必須なものである部立をしてない理由もおのずから解けるのである。本巻の撰者は、撰者とはいうが、その実は資料の蒐集者ですらもなく、単に旅人私邸の記室の人として、旅人に贈られる歌、書翰、したがって書翰に含まれている歌、また旅人の物としては、その歌の旅人より記録を命じられた物、旅人よりの書翰の下書、あるいは手控の類を、その職務として整理し、保存していたにすぎないので、それに部立を施すというようなことは、初めから想像すらしたことではなく、たといしようとしたからとてその事には堪えない人だったのである。作品が年代順に排列されている事は、その職務に丹念であった自然の成行きで、他意あってのことではなかったろうと思われる。(12)またその資料の雑然としているのも、職務の自然の成行きであって、この記室の人からいえば、奈良京よりの高位の人、学者の書翰のごときは、最も心引かれる物であったかも知れぬ。
最後に残る問題は、旅人が大宰府を去った後、すなわち本巻の撰渚が本巻と手が切れた後の憶良の歌がどうして本巻に輯録されているかということである。これは明らかに上に言った本巻の撰者とは別な人でなければならない。この部分の憶良の歌の出所は、その大伴熊凝の歌は、それを贈った麻田陽春の手より、「貧窮問答歌」は、末尾の「山上憶良頓首謹上とある、それを上った、多分は高官の人より、「好去好来の歌」は、同じくそれを贈った多治比広成よりと知られるが、その他の物はわからない。そのわかった部分より推すと、直接に憶良の手より出たのではなく、何らかの経路を経て、異なったる撰者の手に入ったものと思われる。この異なったる撰者の誰であるかは、同じくわからないのであるが、本巻最終の、「男子名は古日を恋ふる歌」と題する歌の、長歌に添う二首の反歌の末に、左注として、「右の一首、作者いまだ詳ならず。但裁歌の体、山上の操に似たるを以てこの次に載す」とあるのが、大伴家持を想像させるのである。家持はこの種の注を折々しており、これもそれに似たものだからである。また、家持が憶良に傾倒していたことは、今は定説となっていることである。それらを手懸りとして想像すれば、家持はある年、父旅人の大宰府にとどめてあった本巻の天平二年十二月までの物を手にし、それに憶良の歌の、その時として手に入れうる限りの物を加えたのではないかと思われるのである。それはとにかく、家持が大宰府の旅人私邸にあった本巻の大部分を読み、それを通して憶良の歌に感心し、模倣をしていることについて『代匠記』は注意している。それは家持の、巻三(四七八)「安積皇子の薨じ給ひし時」と題する挽歌のうち、その結末の皇子の舎人の状態を叙して言っている「憑めりし皇子の御門の 五月蠅なす騒く舎人は 白栲に衣取り着て 常なりし 咲ひ振舞 いや日日に変らふ見れば 悲しきろかも」を、巻五(八〇四)憶良の「世間の住り難きを哀しめる歌」のうち、処女の老い易いことを嘆く一節の、「常なりし咲ひ眉引 咲く花の移ろひにけり」を模したものかと注意しているのである。憶良のこの歌は、作ったのは神亀五年、旅人に示した語の記してないものであるが、おそらくは示したのであろう。家持は大宰府にあった本巻の大部分によって初めて憶良のこの歌に接し、心引かれるところ多くして模倣したものと思われる。天平二年十二月以後の憾良の歌の蒐集者は、家持ではなかったという想像の主なる理由は、このことへの繋がりとしてである。家持を本巻の最終の部分の追加者とすれば、その性情より推して、これに部立を加えたい心を起すのは自然と思われるのに、それを試みないのみか、従前の体のままに、文章も歌も雑然と並べた物としているのは、おそらくは文章に対しての尊重が、従前よりも加わり来たっているものがあり、整理がし難いものに思われた為ではないかと察しられる。森本治吉氏は本巻が大体一字一音の仮名書きになっている点に注意し、集中それをしている巻は、家持の撰ということの明らかな巻に(13)限られていることであるから、この巻もその意味で家持の撰であろうと言われている。家持の撰した巻がすべて仮名書きになっているのではないから、何の時か、この巻の文字だけを仮名に書き換えたということは、その性情から推してありうることと思える。
最後に、巻第五の代表歌人たる旅人と憶良との、作歌に対しての態度を、今少しく付言することとする。
旅人の和歌に対する態度は、これを一と口にいうと、和歌というものを重視せず、いわゆる生活の余剰のこととして試みている趣がある。このことの端的を示しているものは、本巻とは巻を異にしているが、巻第六の(九五五―九五六)の二首である。それは大宰少弐石川足人と旅人との唱和のもので、足人は旅人が、老齢辺境の任にあって心侘びしさを感じており、京に還って閑寂の生活をしたいと願っていようと察して、歌をもって慰めの心を言いかけたのである。これは心親しい間であることを示していることである。歌は「さす竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君」というのである。佐保は旅人にとっては、父安麿以来の家のある地であり、そこにはまた大宮人の家も多くあったのである。足人のこの慰めは、多くの官人の等しく思っていたことであり、地位上旅人との関係の親しさを通して代弁したものと思われる。これは今日のわれわれから見ても同感の出来るものである。旅人はそれに対して同じく歌をもって和えている。歌は、「やすみししわが大王の食国は大和も此処も同じとぞ思ふ」というのである。その口気のいささかの亢奮もまじえず、淡々としているところ、また「同じとぞ思ふ」と何らの誇張も加えずに言っているところは、まさに旅人の平常の心を言ったものであろうと思われる。しかも足人は、閑寂なる私生活を慕っているのだろうと思い、佐保をいうに「佐保の山」という如き自然美を加えた言い方までしているのに、旅人はそうしたことは念とせず、一意公生活を思っており、辺境の大宰府に晏如としている事を言っているのである。これが旅人の性情であって、その和歌はこの性情より発しているものと思われるのである。旅人は稟性として文芸性の豊かなる物に恵まれており、その感性は鋭敏であり、綜合力もそれに伴って強いものを持っており、例せばこの歌のごとく、その言うところは時宜に適したものであるとともに、本心の流露であり、またこの歌を作る態度に見えるごとく、自身を事の全体の上に浮べて大観し、綜合して来る所の力の強いものを持っているので、きわめて易らかに、親しく気高い、魅力ある歌を詠み出して来るのである。旅人のこの文芸性の豊かさに引かれて、そのいかに歌を愛し重んじていたかを連想させられがちであるが、これを実績について見ると、旅人は自発的に歌を詠むことが少なく、大宰府にあっての歌の大方は、老齢にしてその妻に先立たれた寂寞の情の医す術がなくて詠んだ巻第三(三三八−三五〇)の「洒を讃むる歌」のごときを外にすると、この歌に見るがごとく、誘因があって、必要に駆られて詠んだ趣のあるもののみであると言える。旅人の文芸的表現の生涯を通じて最も高潮したのは、(14)その職務として九国二島の巡察の旅をした際、肥前国松浦で詠んだ、上に引いた「松浦河に遊ぶ序」、それについでは(八一三)「鎮懐石を詠める歌」の長歌、また、(八七一−八七五)の「領巾振嶺を詠める歌」の連作である。この時の作はまさしく自発的のものであるが、前の二つはいずれも神功皇后に関係ある事蹟であり、後のものは同族大伴狭手彦に関する事蹟であって、詠史の趣を持ったものなのであり、自発的とはいっても、旅人としては誘因のあったとも言えるものなのである。しかも旅人が対者によって余儀なくされることなく、また遣悶の情に駆られることもなく、すなわち何らの必要もなく作歌をしたのは、ただこの旅の時のみであって、おそらくは生涯を通通じてただ一度の経験であったろうと思われるものなのである。そしてこれが旅人の代表的の作ともなっているのである。詠めば必ず優秀な作を成す旅人であるにもかかわらず、自発的に作歌をすることのきわめて少なかったことは、やがて旅人の作歌ということに対しての態度を示していることと思われる。「松浦河に遊ぶ序」はさきに言ったがごとく偶然の機会からであり、また方面は異なるが妻の死後悲嘆の情のやる術がなくて、「酒を讃むる歌十三首」の連作を詠んで、いずれも新生面を拓くものとなったということは、したがって旅人としては予期しなかった成行きと見るべきである。
憶良の作歌態度は、旅人とは対蹠的に異なっている。学識が国家の要求するところと合致し、偶然にも廷臣の末に列するを得た憶良は、その任務を通して国家に奉仕するのが無上の歓びであり、生命その物となったことと思われる。憶良には自身の生命と、国家奉仕と、国家とが一線となって繋がり、その他には何物もなくなって来ている。歌人としての憶良の感性は、旅人のごとく細かくなく、また鋭尖なものではなかったが、その心が常住、上の一線の上につながっているところから、おのずから鋭く働くものがあり、その一線に沿っての感想は、勢い特殊なものとなり、目立つものともなり、また豊かにも見えるものともなったのである。特殊というのは、憶良は、いかなる歌人も最も多くの数を詠んでいる恋の歌のないことである。妻に関しての歌は、その妻の死んだ後挽歌を詠んだものと、また妻を子の母として詠んでいる歌とがあるだけで、それを除くと全くないと言える。またその当時は新風として持て囃された自然の風光を対象とした歌も、七草の名を列挙したというごときものがあるだけで、これもまた全くない形である。憶良の歌は人間生活を対象としたもののみで、それがすなわち憶良の心だったのである。憶良の感性はその心の繋いでいる人間世界にのみ働いた。第一に問題にしているのは、自身の生に対する執着である。その生を愛し死を厭う心の強さは、我が国人としては異数なまでである。憶良は晩年固(病垂)疾に悩んだ人であるが、しかし七十四という高齢を保ち得た人である。その憶良が死とコ疾とを関連させ、その点よりコ疾を問題とし、これを不自然なるものとし、何らかの原因の結果であるとし、原因を探究すれば結果も除去出来るものとして、その探求に努めている執拗さは怪しまずにはいられないまでであり、結局死生は天命であるとの(15)諦念に達し得たのは、七十四で死ぬいささかの前であったと思われる。しかも死の直前には、その名を立てずして死ぬことを嘆く歌を詠み、それを辞世ともしているのである。これはまさに憶良の個性の現われである。自身の生の執着についで感じていたことは、子に対する愛である。万葉集には父として子に対する愛を詠んだ歌は全くなく、たまたま触れて言っているものは、妻の死後、幼い児を扱いかねる悩みくらいなものである。独り憶良は全心を傾けて子を愛しており、その面において代表作を残しているのである。これも憶良の個性の現われである。憶良は庶民生活を問題としており、巻五(八〇〇)「或情を反さしむる歌」、「貧窮問答歌」などの作があり、これが最も代表的なものとなっている。前者は道徳を問題としたものであり、後者は経済を問題としたものであるが、前者もその根本は経済にあり、経済とは要するに国司の苛斂誅求ということなのである。これが廷臣としての憶良の最大関心事だったのである。多年民政を職としていた憶良は、国司と庶民との実情に通じており、いかにかこれを匡正しようとし、単に諭ずるだけにとどめず、これを実行に移そうとして、その方法として詠んだのがこれらの歌なのである。しかもこれを問題とした根本は、庶民を天皇の民であると観、その点から、これを愛し重んじて問題としているのである。そうした歌は他の何びとにもなく、独り憶良にのみあるもので、これは憶良の特色中の特色である。庶民を天皇の民とするこの精神は、我が国を神国なりとする精神に繋がって行く。憶良は、この精神を、巻五(八九四)「好去好来の歌」において、何びとも示さなかったごとき具象的方法をもって、力強くも現わしているのである。それにつき注意されることは、憶良は仏典に通じていること博く、また尊崇の念も深く、前身あるいは僧侶ではなかったかと思わしめるまでであるが、帰するところそれは知識にとどまって信仰とはならず、信仰としては我が国の上代信仰を守り、これを極限までも深化せしめたのである。以上が憶良の感性の働いた範囲であって、狭くして、系統立ち、一線をなしているものなのである。これは言い換えると、憶良は天与の歌人ではなく、努力の歌人であったということである。この感性の最も直接に、また具体的に現われているのは、その長歌である。憶良の長歌の持つ美は、「貧窮問答歌」、(九〇四)「男子名は古日を恋ふる歌」に極まっており、いずれも事象を細かく分解し、それに体系を付けつつ展開させて行っているもので、それに熱意より来る具象化は伴わしめてあるが、要するに説明的、散文的のものの持つ美しさである。これは根本が観念的であり、対象を凝視し、理解しているところより来るもので、直覚により、綜合力によって、ただちに事象の中心を捉えるという行き方とは正反対なものである。綜合力は歌人にとってきわめて重要なる資質であって、旅人はそれを豊かに持っていることを言ったが、憶良は旅人に較べるとその点において劣っており、語るところ多くして、最後の感味のそれに伴わないもののあることを思わしめるのは、その綜合力の劣っているが為である。しかし結論的にこの二人を比較すると、天与の歌人旅人の後に影響するところのものは、(16)努力の歌人慣良に遠く及ばないものがあるのである。これは憶良が、あくまでも生に執着し、それな進展せしめようとするところから来る必然の要求として歌を詠み、さらに進めては、歌を利用厚生の具に供そうとさえする熱意の致すところであって、その成行きがおのずからにして巧拙を超えての力となっているがゆえである。したがって自身の作品に対しても、憶良は旅人とは異なってそれを尊重する心を持っており、その跡を歌中にとどめている。例せば(八九七)「老いたる身に病を重ね、年を経て辛苦み」の長歌で、「たまきはる現の限は」といい、その「現」は作意としては幾何かの年月を意味しているかを注しているところ、その反歌の一首である(九〇三)「倭文手纏」は、この長歌を作った天平五年を溯ること七年前の神亀二年の旧作であるのに、「類を以ての故に更に茲に載す」と注して添えているところ、また(八〇五)「世間の住り難きを哀しめる歌」には、「嘉摩郡にて撰定す」と、その作をした場所まで断っているところなど、いずれも自歌に対する尊重の心を示しているものであり、したがってその歌の苦心して詠んだものであることをも示しているものなのである。しかしこれを、作の動機という上から観ると、旅人の拓いた新生面が、実用性、文芸性の高潮時においての作というだけで、他意あってのものではなかったと同様に、憶良もまた、自身の個性の要求するまにまに作歌したというにすぎず、歌としての価値ということは念頭になく、問題ともしなかったものと思われるが、それが結果から観ると、際やかなる新生面となったのである。
以上が巻第五の代表歌人たる、旅人と憶良との作歌に対する態度の概観である。これを時代的に言うと、この二人が生存していた万葉集中期は、歌風が一転しようとしていた時代であり、従来は和歌を実用性の物であるとし、したがってあくまで実際に即することを本意とすべき物であるとしていたのに、この時代は、時代的に許された個性尊重の念と、諸方面の文化の向上した影響を受けることとによって、和歌は気分を主とした風流なる物とされ、それとともに実際を尊重する心は後退し、その結果として、作歌は安易が喜ばれ、古歌の踏襲が風をなして来たのである。これは巻第四ですでに明らかなことである。旅人と憶良との相共に試みた、和歌をもって散文の心を遂げようとする傾向は、この間にあって、いみじき継承者高橋虫麻呂によって完成され、民間説話を長歌とするという形式において渾然たる作品となったのである。しかし二人の作歌精神から見ると、旅人の文芸性は継承されたが、憶良の知性と観念をまじえたものは、独り憶良にとどまって継承者を得なかったのである。和歌が実用性ということを根本とし、性格としている限り、文化の向上は、実際生活に対して知性的の眼を向けるということも、当然のこととして許されるべきであり、憶良の実際を尊重する熱意は、その知性的のものを浴かして新しき歌となし得ているのであるが、それが再び起り来るには時を要したのである。
(17)萬葉集巻第五 目次
雑歌
大宰帥大伴卿、凶間に報ふる歌一首
筑前守山上臣憤良の挽歌一首井に短歌
山上臣憶良、感情を反さしむる歌一首 井に短歌
山上臣憶良、子等を恩ふ敬一首井に短歌
山上臣憶良、世間の住り難きを哀しめる歌一首井に短歌
大宰帥大伴卿の相聞の歌二首
答ふる歌二宮
帥大伴卿、梧桐の日本琴を中衛大将藤原卿に贈れる歌二首
中衛大将藤原卿報ふる歌一首
山上臣憾良、媒懐石を詠める歌一首井に短歌
大宰帥大伴細の宅の宴の梅花の歌三十二首井に序
故郷を思ふ歌二首
後に追和せる梅花の歌四首
〔以下略〕
(20) 雜歌
【標目】「雑歌」は、すでに巻一と巻三とに出ており、それについては解をしたが、この巻のものは、名を同じゅうして実を異にしていることが注意される。本来雑歌は、相聞、挽歌と並んで、本集の三大都立の一つであり、一と口にいうと、相聞、挽歌以外の歌の称であるのに、本巻の「雑歌」は、相聞と挽歌も含んだものであり、さまざまの歌を総括した称となっているのである。すなわち分類以前の歌の称である。これは本巻の撰者は、巻一、巻二、巻三、巻四の撰者と、態度を異にしていることを示しているものである。
大宰帥大伴卿、凶問に報《こた》ふる歌一首
【題意】 「大伴卿」は、大伴旅人を敬っての称。「凶問」は、弔問で、「報ふる」とは、それに対して返事をする意である。凶問 というのは、旅人の妻大伴郎女が大宰府において没したことに対してのもので、その事は巻四にしばしば出た。最も確かな記録は、巻八(一四七二)の左注で、「右、神亀五年戊辰、大宰帥大伴卿之妻大伴郎女、遇レ病長逝焉。于レ時勅使式部大輔石上朝臣堅魚、遣2大宰府1弔レ喪并賜レ物也云々」というのである。月は、堅魚の歌に霍公鳥が詠まれているところから、四、五月の頃と推せられる。
禍故|重《し》き畳《かさな》り、凶問|累《しきり》に集る。永に心を崩す悲を懐《うだ》き、独腸を断つ泣《なみだ》を流す。但《やだ》両君の大きなる助に依りて、傾ける命纔に継ぐ耳《のみ》。【筆言を尽さざるは、古今の歎く所なり。】
禍故重疊、凶問累集。永懷2崩v心之悲1、獨流2断v腸之泣1。但依2兩君大助1、傾命纔繼耳。【筆不盡言。古今所歎。】
【語釈】○禍故重き畳り 「禍故」は、『文選』にある語で、わざわいの意。「重き畳り」は、重なる意で、妻の死の外にもわざわいがあったとみえるが、それは分らない。○凶問累に集る 弔問の人や使が累りに旅人の宅に集まって来る意。旅人の地位から見て、まさにそうであったろう。○永に心を崩す悲 永久に、心も崩れるような悲しみ。○独腸を断つ泣 独りで腸の断えるような悲しみの涙。○両君の大きなる助 「両君」は、(21)この返事を宛てた二人であるが、誰であるかは分らない。この返書から推すと、親しい目下の人であろうと思われる。「大いなる助」は、心よりの慰め。○傾ける命(ワズカ)に継ぐ 傾ける命は、老衰した命。纔に継ぐは、辛くも続く。○筆言を尽さず 文字や語では書き切れないの意。『易』に、「書不v尽v言、言不v尽v意」に依るもの。○古今の歎く所 古も今も等しく嘆いていることの意。
【解】 これは旅人からいえば、実用の書簡であって、歌に較べるとむしろ重いもので、歌はその一部にすぎないものである。しかし歌を主として見ると、歌は相聞の範囲の物であり、作者のその時の事情に即したものであるから、こうした特殊の事情の下に詠んだものである以上、それのわかる限り、添えるべきもので、その関係は中世の歌の詞書と同じである。加えてこの当時は、書簡を文芸として見る風が盛行していたので、一層分ち難い関係となっていたのである。この事は、以下にも続出している。
793 世《よ》の中《なか》は 空《むな》しきものと 知《し》る時《とき》し いよよますます 悲《かな》しかりけり
余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理
【語釈】 ○世の中は空しきものと 「世の中は」は、仏教思想でいっていて、現世はというにあたる。「空しき」は、同じく仏教思想でのもので、「空し」は実に対させた語で、実すなわち恒久性がなく、流転して息まないの意で、無常というに当る。「空しきものと」は、無常な物と。○知る時し 「知る時」は、妻の死に遭って、知識として知っていたことを事実として知る時の意。「し」は強意の助詞。○いよよますます 「いよよ」は、いよいよの約。「ますます」は、現在も用いている。いずれも「悲し」にかかる副詞で、重ねることによって強めたもの。知識としても悲しかったものが、体験によって限りなくも悲しくなった、その程度を現わしたもの。○悲しかりけり 「悲しかり」は、「悲しくあり」の約で、形容詞。「けり」は、詠歎の助動詞。
【釈】 現世は無常なものであるということを、体験によって知る時は、知識として悲しかったよりも、いよいよますます悲しいものであることよ。
(22)【評】 妻の死に遭っての悲しみを訴えたもので、老齢に入って地方の任地で妻に死なれた心中は察するに余りあるものであるが、さすがにその悲しみを大観し、綜合して、単純な形の中に、含蓄として、現わしている歌である。安らかな調べをもって気品ある詠み方をしているのは、その心がいかに徹していたかを示しているものである。知識として持っていた悲しみが、体験によって深く知られたことをいうに、「いよよますます」という副詞によって、感性的に具象しているのは、すぐれたる歌才というべきである。亡妻を悲しむ歌で、これ程の気品を持ったものは稀れである。
神亀五年六月二十三日
【解】 日付は、書簡としてのものである。
【題意】 次の弔文と詩、それに続く長歌と反歌には、題詞がない。しかし最後に、「神亀五年七月二十一日、筑前国守山上憶良上」とあって、憶良がその作を他人に贈ったものであることは明らかである。贈られたのは大伴旅人で、旅人の手許に残っていたのを、本巻の編者がそのままに資料にしたのである。それについては後に言う。目録には、「筑前守山上臣憶良の挽歌一首并に短歌とあるが、これは後に加えたものである。
蓋し聞かくは、四|生《さふ》の起滅することは、夢の皆空しきに方《なら》ひ、三界の漂ひ流るることは、環の息《や》まざるに喩ふ。この所以《ゆゑ》に椎摩大士《ゆゐまだいし》は方丈に在りて、染疾の患を懐くことあり、釈迦能仁《さかのうに》は双林に坐《いま》して、泥?《ないをん》の苦みを免るること無しといふ。故《かれ》知りぬ、二聖の至極なるも、力負の尋《と》め至るを払ふこと能はず、三千《さみぜん》の世界、誰か能く黒闇の捜り来るを逃れむ。二つの鼠競ひ走りて、目を度《わた》る鳥|旦《あした》に飛び、四つの蛇争ひ侵して、隙《ひま》を過ぐる駒夕に走る。嗟乎《ああ》痛ましき哉《かも》、紅顔は三従と長《とこしへ》に逝き、素質は四徳と永《とこしへ》に滅ぶ。何ぞ図らめや、偕老は要期に違ひ、独飛、半路に生きむとは。蘭室の屏風《へいふう》徒に張りて、腸を断つ哀《かな》しみ弥《いよよ》痛く、枕頭の明鏡空しく懸りて、染?《せんいん》の涙|逾《いよいよ》落つ。泉門一たび掩へば、再び見るに由無し。鳴呼哀しき哉。
蓋聞、四生起滅、方2夢皆空1、三界漂流、喩2環不1v息。所以維摩大士在2乎方丈1、有v懷2染疾之患1、釋迦能仁坐2於雙林1、無v免2泥?之苦1。故知、二聖至極、不v能v拂2力負之尋至1、三千世(23)界、誰能逃2黒闇之捜來1。二鼠競走、而度v目之鳥旦飛、四蛇争侵、而過v隙之駒夕走。嗟乎痛哉、紅顔共2三從1長逝、素質与2四徳1永滅。何圖、偕老違2於要期1、獨飛、生2於半路1。蘭室屏風徒張、斷v腸之哀弥痛、枕頭明鏡空懸、染?之涕逾落。泉門一掩、無v由2再見1。嗚呼哀哉。
【語釈】 ○聞かくは 聞いていることには。〇四生の起滅することは、夢の皆宜しきに方ひ 「四生」は、倶舎論の語で、生物を生まれる形式から卵生、胎生、湿生、化生と四大別した語で、一切の生物の意。「起減」は、生死。「夢の皆空しきに方ひ」は、「方」は「たくらぶ」とも訓まれていて、夢のすべて空しいがようで。〇三界の漂ひ流るることは、環の息まざるに喩ふ 「三界」は、欲界、色界、無色界で、現実の世界を想像させるところの世界で、一切の世界。「漂ひ流るることは」は、生物の流転することは。「環の息まざる」は、「環」は輪状をなしている玉で、「息まざる」は、はてのないのにで、流転のさま。○維摩大士は方丈に在りて 「維摩」は維摩詰所説経にある人で、釈迦と同時代の長者。「大士」は敬称。「方丈」は四方一丈の室で、僧の正室。○染疾の息 病気にかかる悩み。その経にあること。○釈迦能仁は双林に坐して 「能仁」は釈迦という語の漢訳で、ここは敬称の忠で蒐ねたもの。「双林」は、沙羅双樹の林。○泥?の苦しみ 「泥?」は、梵語|涅槃《ねはん》の訛という。寂滅の意。〇二聖の至極なるも 「二聖」は維摩と釈迦。「至極なる」は、至り極まっている人でも。○力負の尋め至るを払ふこと能はず 「力負」は荘子大宗師篇にある語で、夜、人の心付かない間に、山をも負って走るという無限の力を持った人で、死ということを喩えたもの。死を脱することが出来ない。〇三千の世界 三千大千世界で、一切の世界。一の日月と一|須弥山《すみせん》のある世界の一千が、一小千世界。その千が一中千世界。その千が大千世界。その三千がすなわち三千大千世界という。○黒闇の捜り来るを逃れむ 「黒闇」は涅槃経にある語で、一醜女の名で、これも死ということを喩《たと》えたもの。〇二つの鼠競ひ走りて、目を度る鳥旦に飛び 「二つの鼠」は、次の「四つの蛇」と共に仏説譬喩経の中にある譬喩談のもの。要は、人が曠野で象に逐われて、逃げ勘所がないところから、そこにあった空井戸の中へ、樹の限のあるに縋って入って、身を隠した。すると井戸の中には黒白二匹の鼠がいて、その縋っている樹の根を噛み切ろうとする。また井戸の四辺には四つの蛇がいてその人を噛もうとしているというのである。注があって、黒白の二鼠は昼夜であり、四つの蛇は四大だというのである。四大とは地水火風で、これが万物を組織している要素である。「目を度る鳥旦に飛び」は、昼夜の過ぎ行くことの速かなのは、鳥の飛ぶがようだと喩えたもの。〇四つの蛇争ひ侵して、隙を過ぐる駒夕に走る 「四つの蛇」は、上に言った。「争ひ侵して」は、互いに兢って身を侵すで、肉体の死を急がしめる意。「隙を過ぐる駒夕に走る」は、『荘子』知北遊篇の、「人生2天地間1、若v過2白駒郤1忽然云々」より引いたもの。これも時の経過の速かな意。以上、人間世界の無常なことを力説したもの。以下、妻の若くして死んだ意。○紅顔は三従と長に逝き 「紅顔」は、顔の紅いににおう意で、顔の美しさを讃えたもの。「三従」は、婦人の道で、嫁せざる間は父に従い、嫁しては夫に従い、犬死しては子に従うこと。「長に逝き」は、永遠に過去のものとなって。妻の若くして死んだ意。○素質は四徳と永に滅ぶ 「素質」は、白い肌で、若き身の美しさ。「四徳」は、『礼記』に、「婦人先v嫁三月、教以2婦徳婦言婦容婦功1」とあり、婦人の徳。上を繰り返したもの。○偕老は要期に違ひ 「偕老」は、偕《とも》に老ゆる意、夫婦一緒に老年となること。「要期」は、誓い約す意で、期していた時というにあたる。○独飛、半路に生きむとは 「独飛」は、鳥がその伴に離れて、唯一羽飛ぶ意で、独身の譬喩。「半路」は、中途。○蘭室の屏風徒に張りて 「蘭室」は、『家語』に、善き人の室に入るは芝蘭の室に入るが如く、久しくしてその香を知らずというを取った語。ここは婦人の閨房(24)の意。「屏風」は、形を隔つる具としての物。「徒に張りて」は、人の居ないところに空しく立って。○枕頴の明鏡空しく懸り 「枕預の明鏡」は、妻の枕辺の鏡。「空しく懸り」は、それを用いる人のない意。○染?の涕逾落つ 「染?」は、「キン」は、竹の皮。キンを染むる涕は、『博物志』に、舜が南巡して帰らず、蒼梧の野に葬った。舜の二女の娥皇と女英とは後を追って間に合わず、洞庭の山で、涙を落して竹を染め、その皮を斑らにしたという故事から出た語。○泉門一たび掩へば 「泉門」は黄泉の門で、墓の入口。「一たび掩へば」は、一且葬られれば。
【解】 この文は、結尾の日付及び「憶良上」とあるので明らかなごとく、憶良が旅人に、その妻大伴郎女の死を痛んで贈った弔問の書簡文である。そのことは「嗟乎痛ましき哉」以下この文の主要部において、死んだ女性に対して許され得る限りの敬語をつらねている点でも明らかで、それはこの場合、郎女以外の女性には言えないことだからである。この文で最も力をつくしているのは、その大部分を費やして仏教の死生観を説いていることである。まず無常と流転の大綱をかかげ、維摩釈迦の二聖すらそれを脱れられないことを言い、ついで一般の人に及ぼして、博く諸経の語を引いて切々と説き、初めて弔問に入るという態度で、理路と構成とともに整然としたものである。第三者として見ると、弔問の書簡というよりも、伝説を借りて死生を諭している談理の文という趣の濃いものである。さらに言えば筑前守としての憶艮が、長官としての旅人を弔問する書簡としては時宜を失った、出過ぎたものであって、憶良自身、仏説によって死生を脱しようと努力している心情を、場合をも顧みず披露したごとき趣のあるものである。これがおそらく憶良の人柄で、この文はその反映として見られる。このことはなお以下にも続くものである。
愛河の波浪は已に先滅び、苦海の煩悩亦結ばるること無し。従来この穢土《ゑど》を厭離《をんり》す。本願生をかの浄刹に託《よ》せむ。
愛河波浪已先滅、苦海煩惱亦無v結。從來厭2離此穢土1。本願託2生彼淨刹1。
【語釈】 ○愛河の波浪 「愛河」は、愛は愛欲すなわち男女間の欲情で、その絶えないさまを河に譬えた語。「波浪」は、欲情の現われるさまの譬。○已に先滅び 波浪が已になくなってで、女性としての欲情がなくなる、すなわち命が絶えた意。○苦海の煩悩 「苦海」は、人間生活の苦しさを涯《はて》しなき海に譬えたもの。「煩悩」は、人間の五欲に伴っている悩みで、本能としての欲望を追求することはすなわち悩みであるとしての語。○亦結ぽるること無し 再び起ることがないで、命を煩悩という面から見、こちらに力点を置いて、死を善意に解したもの。以上起承。○従来この穢土を厭離す 「従来」は、これまで。「穢土」は、現世を五欲と煩悩の現われその物として、穢《けがら》わしき所と見ての語。「厭離す」は、厭《いと》って離れていたで、智者としての精神状態。○本願生をかの浄刹に託せむ 「本願」は、根本的な願。本願としての意。「生」は命。「浄刹」は、「刹」は国土で、浄らかなる国土すなわち浄土。「託せむ」は、寄託しようで、委ねよう。以上転結。
【解】 一首は、生きた身を離れない愛欲と煩悩のない状態となった。これまでもそうした生活をする穢土として現世を厭ってい(25)たが、今は本願としての浄土へ往こうというので、郎女がその死を喜んで迎えている心のものである。すなわち郎女に代わって作っている形のものである。郎女がそれであるとすると、旅人としては、自分の悲しみはとにかく、郎女を憐れむ心はなごめられることで、慰められたことになる訳である。
日本挽歌一首
【題意】 「日本挽歌」は、上の詩を漢風の挽歌とし、それに対させての国風の挽歌の意である。すなわち形式は異なっているが、心としては同じ人に対する挽歌である。
794 大王《おほきみ》の 遠《とほ》の朝廷《みかど》と しらぬひ 筑紫《つくし》の国《くに》に 泣《な》く子《こ》なす 慕《した》ひ来《き》まして 息《いき》だにも いまだ休《やす》めず 年月《としつき》も いまだあらねば 心《こころ》ゆも 思《おも》はぬ間《あひだ》に 打靡《うちなび》き 臥《こや》しぬれ 言《い》はむ術《すべ》 為《せ》む術《すべ》知《し》らに 石木《いはき》をも 問《と》ひ放《さ》け知《し》らず 家《いへ》ならば 形《かたち》はあらむを 恨《うら》めしき 妹《いも》の命《みこと》の 吾《あれ》をばも 如何《いか》にせよとか にほ鳥《どり》の ふたり並《なら》び居《ゐ》 語《かた》らひし 心《こころ》背《そむ》きて 家《いへ》離《さか》りいます
大王能 等保乃朝庭等 斯良農比 筑紫國尓 泣子那須 斯多比枳摩斯提 伊企陀尓母 伊摩陀夜周米受 年月母 伊磨他阿良祢婆 許々呂由母 於母波奴阿比※[こざと+施の旁]尓 宇知那批枳 許夜斯努礼 伊波牟須弊 世武須弊斯良尓 石木乎母 刀比佐氣斯良受 伊弊那良婆 迦多知波阿良牟乎 字良賣斯企 伊毛乃美許等能 阿礼乎婆母 伊可尓世与等可 尓保鳥能 布多利那良※[田+比]爲 加多良比斯 許々呂曾牟企弖 伊弊社可利伊磨須
【語釈】 ○大王の遠の朝廷と 「遠の朝廷」は複合名詞で、京より遠方にある役所の意で、国庁の総称。ここは大宰府を指している。「と」は、として。○しらぬひ筑紫の国に 「しらぬひ」は、筑紫にかかる枕詞であるが、意味は不明。「筑紫」は九州地方又は特にその北方の称で、ここは筑前国の大宰府を広く言いかえたもの。○泣く子なす慕ひ来まして 「泣く子なす」は、泣く児の如くで、意味で「慕ひ」にかかる枕詞。「慕ひ来ま(26)して」は、慕っていらっしやつてで、「来まして」は敬語。郎女が旅人に添って来たことを言ったもので、男が女に対して敬語を用いるのは例が多く、当時の風だったのである。○息だにもいまだ休めず 「だに」は、軽きを挙げて、重きを言外に置く助詞で、「も」は詠歎。旅行の疲れの息を休めることさえもまだせずにで、着いて間もなくということを具象的に言ったもの。郎女の没した日はわからないが、続きから見ると誇張のあるものと思われる。○年月もいまだあらねば 「年月」は、時日ということを具象的に言ったもの。「ねば」は「ぬに」と同意。○心ゆも思はぬ間に 「心ゆも」は、巻四(四九〇)に既出。心の底から。「思はぬ間に」は、思い懸けない間にで、意外にも短い間に。○打靡き臥しぬれ 「打靡き」は「打」は接頭語で、「靡き」はなよなよとしてで、「こやし」の形容。「こやしぬれ」は、「こやし」は「こゆ」即ち、臥すの敬語で、横におなりになる。「ぬれ」は条件法で、「ぬれば」の意。脱いて横におなりになったのでで、これは下の続きで死ということを婉曲に現わしたものである。この婉曲は技巧よりのことではなく、儀礼として、死ということを直接に言うことを憚ってのことである。○言はむ術為む術知らに 何とも言いようもしようも知らずで、「に」は打消。驚愕放心ということを具象的に言ったもので、慣用句。○石木をも問ひ放け知らず 「石木」は石や木で非情の物として言っている。「をも」の「を」は、『代匠記』は「に」の意のものと解している。普通ならば「に」という場合に「を」を用いるのは古い用法で、例のあるものである。「問ひ放け」は、巻三(四六〇)に既出。物を言いかけて心を晴らす意。石や木のような物にものを言って心を晴らすことも知られずで、上に統いて、驚愕放心を具象的に言ったもの。○家ならば形はあらむを 「家ならば」は、家に妻がいるのならば。「形はあらむを」の「形」は亡骸で、身と魂とを別な物とし、魂の身を離れることを死とする上代の心から言っているもの。「を」は、ものを。○恨めしき妹の命の 「恨めしき」は恨むべき。「家離りいます」に対して言っているもの。「妹の命」は敬称で、例の少ないもの。○吾をばも如何にせよとか 「吾をばも」は、この吾をば。「も」は詠歎。「如何にせよとか」は、どのようにしろというのかで、葬送によって新たに加わり来る悲しみの遣る瀕なさを、自身を客にし、妹のはうを主にして言っているもので、相手のほうを言うことによって我を現わすのは敬意よりのことであり、型となっているもの。○にほ鳥のふたり並び居 「にほ鳥の」は、かいつぶりの如くで、雌雄常に並んでいるところから、意味で並びにかかる枕詞。「ふたり」は夫婦。○語らひし心背きて 「語らひし」は語るの継続「語らふ」の過去で、睦まじくして来たで、「心」につづく。「心背きて」は心に背いて。○家離りいます 「います」は往くの敬語で、家を離れて往かせられるで、葬地へ送られることを、死者自身の心として往くとして言っているもので、敬意よりの言い方。
【釈】 大王の遠方にある役所として、筑紫国へ、我を慕っていらして、旅行の為の苦しい息さえもまだ休ませず、時日もまだ経《た》たないので、思い懸けない間に、なよなよとして横におなりになったので、何とも言いようもしようも知られず、石《いわ》や木のような物にものを言い感けて心を晴らすことも知られない、家にいるならば魂なき形骸はあろうものを、恨めし妹の命は、この吾をどうしろというのか、二人並んでいて睦まじくして来た心に背いて、家を離れて往かせられる。
【評】 この挽歌が大伴郎女を対象としたものであることは、上の書簡に続いての漢詩に対して「日本挽歌」と題して、それらと一連であることを示していることで明らかである。さらにまた、歌の中の敬語もそれを示していると言える。「慕ひ来まして」という程度の敬語は、この時代には一般に慣用されていたものであるが、郎女の死を叙するに、「打靡き臥しぬれ」という(27)如き、きわめて間接な、また語を省いた叙し方をしているのは、尋常な敬意よりではなく、甚だ尊敬してのことである。また、葬送を叙するに、「妹の命の、家離りいます」という言い方も、例のない程のものではないが、相応に尊敬しての言い方で、この場合郎女以外の女性に対して言うべきことではなくみえるからである。さてこの歌を作る態度であるが、これは憶艮が旅人に代わって作っている形のものである。このことは、すでに上の漢詩が郎女に代わってのものであって、憶良としては問題にならなかったものとみえる。時代に多少の差はあるが、笠金村の作にも、大伴坂上郎女にも「誹《あつら》へらえて」と断わってそれをしているものがあって、そのことを怪しまない雰囲気があってのことと思われる。これは歌が実用性より文芸性のものに移って来れば、おのずから発生すべきことと言えるものである。次にこの歌で憶良が旅人に代わって言っていることは、憶良自身として書簡で言っていることとは甚しく距離のあるもので、そちらでは死の余儀なきことを、理法を旨として説いているのに、こちらでは旅人が悲しみを尽くし、ほとんど情痴に陥ろうとさえしていることを言っているのである。理と情とは一致しないのが普通であるから、理は心得ている旅人としても、情の悲しさには堪えられぬということも、当然のこととして言わしめたのであろう。さらに言えば、憶良の理を強調したのも情の激しさがさせたことで、彼としてはこの情痴に近い言を連ねずにはいられなかったのであろう。次にこの歌の出来ばえは、憶良の特色である、綜合力に富んでいるところから来る簡潔で、線の太く力強いところはなく、反対に平面的で、線が細く、感の薄いものとなっている。長歌であるのに句絶を設けず、しかも整った構成を付けず、「石木をも問ひ放け知らず」と言ひ、「吾をばも如何にせよとか」というごとき、細かい含蓄のある句を用いているが、そのわりに効果の少ないものとなっているのは、実感ではない作為の歌だからと思われる。
反歌
795 家《いへ》に行《ゆ》きて 如何《いか》にか吾《あ》がせむ 枕《まくら》づく 嬬屋《つまや》さぶしく 念《おも》ほゆべしも
伊弊尓由伎弖 伊可尓可阿我世武 摩久良豆久 都摩夜佐夫斯久 於母保由倍斯母
【語釈】 ○家に行きて如何にか吾がせむ 家に帰って行って、どのように吾はしたものであろうかで、嬬を墓所に葬り終って、家に帰ろうとした際の心。○枕づく嬬屋さぶしく 「枕づく」は枕を置いてあるで、説明の意で嬬屋にかかる枕詞。巻二(二一〇)に既出。「嬬屋」は嬬の住んでいる家。「さぶしく」は楽しくなく。○念ほゆべしも 思われようで、「も」は詠歎。
【釈】 家に帰って行ってどのように吾はしたものであろうか。妻のいない嬬屋は楽しくなく思われることであろう。
【評】 長歌の結末と時間的に緊密に関係させ、また長歌では嬬を主としているのに、これは自身を主としたもので、展開をも(28)たせたものである。墓所と嬬屋との間に低迷している心を言おうとしたもので、気分としては微妙なものであるが、調べが低く、感の現われていない歌である。
796 愛《は》しきよし かくのみからに 慕《した》ひ来《こ》し 妹《いも》が心《こころ》の 術《すべ》も術《すべ》なさ
伴之伎与之 加久乃未可良尓 之多比己之 伊毛我己許呂乃 須別毛須別那左
【語釈】 ○愛しきよし 形容詞「愛しき」に感動の助詞「よし」を添えて一語としたもの。愛《かわ》ゆいことよで、独立句。○かくのみからに 「かく」は、このようにで、筑紫に来ると間もなく死んだ、その儚《はか》なさを総括して言ったもの。「のみ」は、ばかりで、「かく」を強める為のもの。「からに」は、故にであるが、現在の口語の「のに」にあたる。○慕ひ来し妹が心の 我を慕って筑紫まで来た心が。○術も術なさ 「術も」は、「術なさ」を強める為に重ねたもので、例が多い。「術なさ」は言いあらわす術がないで、何とも言いようもなくかわゆいことだの意。
【釈】 愛《かわ》ゆいことであるよ。こんな事になるばかりであるのに、我を慕って遠く来た妹が心が何とも言いようもない愛ゆいことである。
【評】 自身の悲しさをしばらく離れ、あわれな成行きとなった妻の上に心を移し、自分を慕って遠い旅へ来て儚なくなった心根《こころね》をたまらなくかわゆく思い、そのかわゆさだけを言った歌である。憶良の特色である大観して綜合する心の強い作である。「愛しきよし」と初句を独立句としているのは、それが一首を総括した心だからで、以下はその説明である。初句に独立句を据える形は以前には見えないもので、おそらく憶良の創めたものであるが、技巧としての試みではなく、彼としては実感に即しての言いあらわしで、必然性のあったものである。結句の「術も術なさ」は「愛しきよし」の繰り返しで、相応じうる言いあらわしである。反歌としてすぐれたものである。
797 悔《くや》しかも かく知《し》らませば あをによし 国内《くぬち》ことごと 見《み》せましものを
久夜斯可毛 可久斯良摩世婆 阿乎尓与斯 久奴知許等其等 美世摩斯母乃乎
【語釈】 ○悔しかも 終止形「悔し」から「かも」に統くのは古格で、巻三(三二二)「凝《こご》しかも」と同じ。独立句。○かく知らませば 「かく」は死んだこと。「ませば」は助動詞「まし」の未然形に「ば」のついたもので、仮定の推量をあらわすものであり、巻二(一九七)「しがらみ渡し(29)塞《せ》かませば」と同じ。○あをによし国内ことごと 「あをによし」はしばしば出た語で、奈良へかかる枕詞であるが、ここは「国」へかかっている。讃美の意の語で、その可能があるとしてのことと取れる。「国内」は「くにうち」の約で、「国」は筑紫。風景の珍しく好い筑紫国の内を隈なく。○見せましものを 「まし」は、「ませば」と呼応した結。「を」は、感動詞。
【釈】 悔しいことであるよ。このようになると若し知ったならば、筑紫国の内を隈なく見せようものを。
【評】 この歌は、第一の反歌と同様に、旅人の心を想像して詠んだことの明らかな歌である。当時の上流婦人は、戸外へ出ることも極めて稀れであったことと、時代の風尚として風景の鑑賞が重んじられ、旅人はことにそれを好んでいたので、その上に立っての想像である。しかしこの場合の歌としてはやや余裕のありすぎるもので、したがって感の薄いものである。「悔しかも」と初句を独立句として、以下その内容を言っていることは前の歌と同様であるが、それにふさわしい緊張の持てなかったのは、同じく想像としても憶良自身をとおすところが少なかった為である。
798 妹《いも》が見《み》し 棟《あふち》の花《はな》は 散《ち》りぬべし 我《わ》が泣《な》く涙《なみだ》 いまだ干《ひ》なくに
伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陀飛那久尓
【語釈】 ○妹が見し棟の花は 「妹が見し」は、妹が生前に見たところので、家に近くあったもの。「棟」は棟科の落葉裔木で、今は栴檀《せんだん》と呼んでいる多くある木。五月頃淡紫色の小花を開く。○散りぬべし 散るであろうで、心付いて見た形の言い方。○我が泣く涙いまだ干なくに 泣く涙は、死を悲しむ涙で、死の直後のもの。「干なくに」は干ないことであるのにで、「なく」は打消「ず」の名詞形。
【釈】 妹が生前見たところの棟の花は散るであろう。死を悲しんで我が泣く涙は、まだ干ないことであるのに。
【評】 悲しみにとざされて家の内に籠もっており、外も見ずにいた際、たまたま庭に咲いている棟の花の散りそうになっているのに目を着け、それを見た妹を強く思い出すとともに、自身のその時の涙のまだ干ないように泣き続けていることを思った心である。憶良の大観し綜合する心とともに、その感性の面も同時に働いて、力ある感の強い歌となっている。棟の花は郎女の死の時期を示すものともなっている。
799 大野山《おほのやま》 霧《きり》立《た》ちわたる 我《わ》が嘆《なげ》く おきその風《かぜ》に 霧《きり》立《た》ちわたる
大野山 紀利多知和多流 和何那宜久 於伎蘇乃可是尓 紀利多知和多流
(30)【語釈】 ○大野山霧立ちわたる 「大野山」は、福岡県筑紫郡大野町大宰府都府楼址の背後の山。「霧立ちわたる」は、霧が立ちつづいている。○我が嘆くおきその風に 我が嘆いておきそをする風によって。「おきそ」は「息嘯《おきうそ》」だと本居宜長が解している。おきは息、嘯はうそぶくで、口をすぼめて息をすることで、嘆きを具象的に言ったもの。「風」は息の荒さを誇張したもので、拠りどころがある。日本書紀神代紀に「嘯之《ウソブク》時(ニ)迅風忽(チ)起(ル)」とあるなどである。「に」は、によって。○霧立ちわたる 二句の繰り返し。これも古事記神代の巻に「吹棄気吹之狭霧《フキウツルイブキサギリ》」によったもので、荒い息とともに出る務を誇張したもの。
【釈】 大野山に霧が立ちつづいている。我が嘆いてするはげしい気吹《いぶき》の風によって、霧が立ちつづいている。
【評】 旅人がその住んでゐる大宰府の背後の大野に一面にかかっている薄霧を見て、自分が山に対って漏らしている嘆きの大きな息が、それとともに立つ風に送られてあの霧になったとしている心で、憶良の想像よりの心である。時は初夏であるが、大野山には薄霧のかかることもあるので、それを根拠としての想像であろう。甚しく誇張した想像であるが、一首の形は、二句に句切れを置き、第二句を結句で繰り返すという最も原始的なものであるとともに、嘆きの息が風となり、また霧となるということは、当時の知識階級には親しみの深い記紀の中にあることなので、誇張とはいえ一種の妥当感のあるものだったろう。したがって一首、自然な、重量のある作となっているのである。反歌の結として適当なものである。
神亀五年七月二十一日 筑前国守山上憶良|上《たてまつ》る
【解】 上の書簡に始まった一連の作の最後に添えた日付と姓名であって、書簡の型となっているものである。宛てたのは旅人にであって、大伴家に残っていたままの形でここに収めたのである。棟の花の咲いて散るのは最夏であるのに、七月下旬は太陰暦では盛夏であるから、ある時日な経て贈ったのである。
(31)【総評】 この作の対象となっている亡妻については、従来見解が一定せず、憶良自身の妻で、それについての作を文芸作品と見なして、同好の旅人に示したのではないかとの説があり、有力なものともなっていた。「日本挽歌」と題してある長歌と反歌だけを切り離して見ると、挽歌の性質として、境遇を同じくしている旅人と憶艮には、さしたる無理なく適用し得られるものなので、そうした解も出たのである。しかし上に言ったがように、書簡と漢詩を主体とし、「日本挽歌」をそれに付随した形のものと見ると、書簡は明らかに大伴郎女を対象としたものであることが知られ、またそれは文芸品としてのものではなく、社交上の儀礼としてのものであって、実用性のものだということが知られるのである。もっとも巻首の歌で、旅人自身「凶問累に集る」と言っているので、その中にはこの種のものもあったろうかと思われるが、それがこの外には一つも残っていないところを見ると、文芸作品として残すに足りるものがなかったからかとも思われる。それはとにかく、この一連は、これを凶問とするとじつに特殊な形を備えたもので、またその力を傾注してのものでもある。長扁の弔文と漢詩に、さらに長歌と五首の反収ということは、決して尋常な物ではなく、憶良以外の何びともおそらくは思い寄りもしないものであろう。まして対象の郎女は、当時のこととて夫以外の男性には決して顔を見せない人なので、このことは一段と特殊なことと言うべきである。これは一に憶良の人柄より発していることと思われる。彼の作品は彼自身の不幸または他の不幸を題材としていることが特色で、それが憶良の人柄を語っているのであるが、ことに死に対しての関心が深く、何らの直接の繋がりのない旅中の一青年、また漁夫などの死に対してさえ、強い感動をもって挽歌を作っているのである。大伴郎女に対してもそれと同じ感動を起こし、遠い旅をして筑紫まで来、間もなく没したことを知ると黙ってはいられなくなり、相手が相手ゆえ、この時代としては出来る限りの形体を備えた、このような弔問をしたことと思われる。しかしこれを憶良の作品中に並べて見ると、努力の程は思われるがすぐれた物ではない。実感の伴わない事柄を、想像によって作ったものだからであって、彼にはそれを超えることは出来なかったのである。
或《まど》へる情《こころ》を反《かへ》さしむる歌 并に序
【題意】 作者の憶良であることは、(八〇五)の左注で明らかで、この歌以下それまでを一括して明らかにしている。「或へる情」は、「或」は「惑」に通じて用いていた字で、人の本性に背いた情で、くわしくは憶良自身「序」で説いている。「反さしむ」は、引き戻らしむである。「歌」は古くから長歌を指す称で、短歌はそれを断わっている。長歌は歌の主体であった時代を受けての称、この歌では短歌のはうは略して言わずにいる。「序」は、『代匠記』は孔安国尚書序の「序者所3以序2作者之意1」を引いて解としている。今の場合はそれで、作歌の理由を言っているのである。広くいえば題詞の範囲のものであるが、事が複雑で、思想問題(32)をも含んで、題詞とはし難いところから、独立させたものと見える。一方、漢詩文の影響もあるものと思われる。
或るは人あり、父母を敬《ゐやま》ふことを知れども侍養を忘れ、妻子を顧みずして脱履よりも軽みせり。みづから倍俗|先生《せむじやう》と称《なの》る。意気は青雲の上に揚れども、身体は猶は塵俗の中に在り、未だ修業して得通したる聖たる験《しるいし》あらず、蓋し是れ山沢に亡命する民ならむ。所以《かれ》三綱を指示し、更に五教を開き、遣るに歌を以ちてして、其の或《まとひ》を反さしむ。歌に曰はく、
或有人、知v敬2父母1忘2於侍養1、不v顧2妻子1輕2於脱※[尸/徒]1自稱2倍俗先生1。意氣雖v揚2青雲之上1、身体猶在2塵俗之中1、未v驗2修行得道之聖1、蓋是亡2命山澤1之民。所以指2示三綱1、更開2五敦1、遣之以v歌、令v反2其或1。歌曰、
【語釈】 ○或るは人あり ともすると、こうした人があるで、わざと婉曲に言ったもの。○侍養を忘れ これが惑える情。○脱※[尸/徒]よりも軽みせり 「脱※[尸/徒]」は『淮南子』『史記』などにある語で、※[尸/徒]は履《くつ》と同じ。脱ぎすてた履で軽んずる譬。これも惑える情。○倍俗先生 「倍」は紀州本による。他は諸本「畏」。『代匠記』は「異」の誤写ではないかといっている。「倍」は背く意。「倍俗」は俗世にそむく意。「先生」は先覚の意。○意気は青雲の上に揚れども、身体は猶ほ塵俗の中に在り 意気は志。青雲は『文選』『史記』などにある語で天。青雲の上は、塵俗の中と対させてあり、下の続きでも、当時流行していた仙術で、実際に上天する意で言っているもの。○修行して得道したる聖たる験あらず 修行も神道も仏典の語。仙術を修行して、その道を身につけ得た仙人だという実証がない。○山沢に亡命する民ならむ 山沢は山や沢で、村閭に対させた語で、常民の住むべくもない地の意のもの。亡命は『史記』にある語で、命は名前、亡は無で、戸籍より名前を削られる意で、したがって民は浮浪民。〇三綱を指示し 『白虎通』の語。君臣父子夫婦の関係で、君は臣の綱、父は子の綱、夫は婦の綱の恵。生活秩序の基本。〇五教を開き 五教は『左伝』にあり、父は誠、母は慈、兄は友、弟は順、子は孝。○遣るに歌を以ちてし 遣るは贈る。歌をもって教訓しての意。
【解】 国守たる者は、その職分の一つとして、治下の民に、三綱五教を救うべきことが定められた。筑前守である憶良は、務めとしてそれを行なうべきであった。この歌を作った動機はそこにあったので、創作欲からではなく、義務の遂行の為だったとみえる。憶良が惑情《まとえるこころ》を持っているとした者は、自ら倍俗先生と称っている者で、その実は山沢に亡命する民だったのである。史家の言うところによると、当時の国司は堕落している者が多く、自身の為に甚しい苛斂誅求な敢えてしていて、庶民はその苦痛に堪えられず、郷里を棄てて亡命する者が多かったという。さらに一方には、老荘思想というよりはむしろ道教の、神仙思想に憧れる風が盛行していて、庶民の間にもそれをまねぶ者があったとみえる。我が国体を学ぷ念の極めて深く、また家庭愛の強さ(32)を示している憶良より見れば、それら個人本位の態度は、原因の如何にかかわらず、惑情《まとえるこころ》とみえたことと思われる。3三綱五教は、我が国風と通うところのあるものであり、またそれを教えることが職責の一部ともなっているので、その方便として歌としたのである。
800 父母《ちちはは》を 見《み》れば尊《たふと》し 妻子《めこ》見《み》れば めぐし愛《うつく》し 世《よ》の中《なか》は かくぞ道理《ことわり》 黐鳥《もちどり》の 拘泥《かからは》しもよ 行方《ゆくへ》知《し》らねば 穿沓《うけぐつ》を 脱《ぬ》ぎ棄《つ》る如《ごと》く 踏《ふ》み脱《ぬ》ぎて 行《ゆ》くちふ人《ひと》は 石木《いはき》より なりてし人《ひと》か 汝《な》が名《な》告《の》らさね 天《あめ》へ行《ゆ》かば 汝《な》がまにまに 地《つち》ならば 大王《おほきみ》います この照《て》らす 日月《ひつき》の下《した》は 天雲《あまぐも》の 向伏《むかぶ》す極《きはみ》 谷蟆《たにぐく》の さ渡《わた》る極《きはみ》 聞《きこ》し食《を》す 国《くに》のまほらぞ かにかくに 欲《ほ》しきまにまに 然《しか》にはあらじか
父母乎 美礼婆多布斗斯 妻子美礼婆 米具新宇都久志 余能奈迦波 加久叙許等和理 母智騰利乃 可可良政志母与 由久弊斯良祢婆 字耽具都連 奴伎都流其等久 布美奴伎提 由久智布比等波 伊波紀欲利 奈利捉志比等迦 奈何名能良佐祢 阿米弊由迦婆 奈何麻尓麻尓 都智奈良婆 大王伊摩周 許能提羅周 日月能斯多波 阿麻久毛能 牟迦夫周伎波美 多余臭久能 佐和多流伎波莫 企許斯速周 久尓能腕保良叙 可尓迦久尓 保志伎麻尓麻尓 斯可尓波阿羅慈迦
【語釈】 ○父母を見れば尊し 人間の本能として実際に即し、極めて率直に言っている。○妻子見ればめぐし愛し 「めぐし」は、「心ぐし」と同系の語で、目が曇る意の形容詞、いとしいという意を、そうしたものを見る時の状態によって具象した語。「愛し」は、かわゆいで、上と同義語を重ねて強めたもの。○世の中はかくぞ道理 「世の中は」は、人の世すなわち人間生活は。「かくぞ」は、そうあるのがで、「ぞ」は係助詞。「道理《ことわり》」は筋道で、下に「ぞ」の結を略して、名詞止めにして、強く上を総括している。○黐鳥の拘泥しもよ 「黐鳥の」は黐にかかった小鳥の如くで、その離れ難い意から、拘泥しの枕詞としたもの。「拘泥し」は、動詞「懸《か》かる」の継続をあらわす「懸からふ」を形容詞としたもの。どうにも離れられないの意。「もよ」は詠嘆の助詞。○行方知らねば 遁れて行くべき所が知られないのでの意。以上九句で第一段。七七をもって結んで、独立した一篇のようにしているもので、特殊な一段である。○穿沓を脱ぎ棄る如く 「穿沓」は、疲れて穴のあいた沓。「脱ぎ棄る」の「棄る」は、「都流」の仮名に本居宣長の当てた字。日本書紀、神代紀に、「吹棄、此云2浮枳于都屡《ふきうつる》1」とあるに拠ったので、その「うつ」が「つ」に(34)転じたもの。穿沓は極めて値のないもので、それを脱ぎ棄てるように。○踏み脱ぎて行くちふ人は 「踏み脱ぎて」は、上の「脱ぎ棄《つ》る」を状態として重ねて言って強めたもの。「行くちふ人は」は、「行く」は、家を出て行く。「ちふ」は、というの転で、行くとかいう人はの意で、特別な人としての言い方。○石木よりなりてし人か 「石木」は、非情の物として言っている。「なり」は、本来は変化する意であるが、ここは生まれる意。「て」は完了の助動詞。石や木から生まれた人なのかと、咎め罵るのを抑えて、訝《いぶか》りの形にしたもの。○汝が名告らさね 「告らさね」は、告るの敬語、告らすに、他に対しての願望の「ね」を添えたもの。そなたの名を聞かせてくれと、畳みかけて訝ったもの。以上七句、七七で結んで、第二段。山沢に亡命する民の状態を言ったもの。○天へ行かば汝がまにまに 「天へ行かば」は、天上へ登って行くのならばで、飛行の仙術を言ったもの。「汝がまにまに」は、そなたの心まかせで、その不可能を婉曲に言ったもの。○地ならば大王います 「地ならば」は、地上にいるのならば。「大王います」は、支配者としての天皇がまします。○この照らす日月の下は 照らすところの日や月のある下はで、天下という意を上の「地《つち》」を受けて具体的に厳かに言ったもの。○天雲の向伏す極 天の雲が向って伏しているで、地の涯《はて》という意を具象的に言ったもので、祝詞祈年祭の中などに用いられている成句。○谷蟆のさ渡る極 「谷蟆《たにぐく》」はひきがえる。「さ渡る」は、「さ」は接頭語、「渡る」は遠くまで行く意で、ひきがえるは習性として如何なる所も潜って這いゆくところから、地上の如何なる隈々もという意を具象的に言ったもの。「極」は上と同じ。これも上の二句と同じく祈年祭に用いられている成句。何れも事を厳かにしようとの心から用いたもの。○聞し食す国のまほらぞ 「聞し食す」は既出。統治し領する意。「国のまほらぞ」の「まほら」は、「ま」は接頭語。「ほ」は、秀で、秀でた所。「ら」は接尾語で、国土を讃えた古語で、尊い国ということをあらわす心をもって用いたもの。○かにかくに欲しきまにまに あのようにもこのようにも、したいと思うままにするで、自由に勝手なことをするの意。○然にはあらじか 「然には」は、上を受けて総括して、そうしたものでは。「あらじか」の「か」は感動の助詞で、あるまいよの意。物柔らかに諭した言い方。以上十五句で、第三段。天皇の民であることを、言葉を極めて言ったもの。
【釈】 父母を見ると尊い。妻や子を見るといとしくかわゆい。世の中というものはそうあるのが道理で、黐にかかった鳥のようにどうにも離れられないものであるよ。その外に行く所が知られないので。
穴のあいた破れ履を脱ぎ棄てるように、脱ぎ去ってその家を出て行くとかいう人は、石か木から生まれた人なのか。そなたの名を聞かせてもらいたいものだ。
天上の国へ行くのなら、そなたの随意だ。地上にいるのなら、大王がいらせられる。この日月の照らしている下は、天雲の向い伏している涯まで、ひきがえるの這い渡る隈々まで、大王の御統治なさる尊い国であるぞ。あのようにもこのようにもしたいままにする、そうしたものではなかろうよ。
【評】 この歌は幾つかの問題を含んでいる。第一は憶良が何故にこのような教訓の歌を作ったかということである。歌は少し溯ると実用性のもので、日常生活の必要を充たすための物であったから、その必要がある限り、如何なる歌を作ろうともかまわなかった筈である。しかしこの時代には、実用性の時期は超えて、著しく文芸性のものとなっていたから、教訓を目的とした歌は特殊なものだったのである。それを敢えてしたのは、憶良としては作らずにはいられない必要を感じてのことと思われ(35)る。一つは彼の人柄からである。国家主義の儒教を奉じていた憶良から見ると、それとは反対な、個人の享楽を目的としている神仙道の如きは、極めて憎むべきもので、中央に盛行していたそれが、任国の筑前国に波及しているのを見ると、黙止することの出来ない衝動を受けたものと思われる。又それだけではなく、国守の職責の中には、管下の民を教導することが主なる一条として規定されているので、職務に忠実なる彼は、職責としてそうした者を善導しなくてはならないという心を抱き、それとこれと相俟って、こうした歌としては例のない教訓を目的とした作を思い立ったことと解される。
第二は、この長歌の持つ形式である。言ったがごとくこの長歌は一首三段から成っているが、その各段はそれぞれ七七をもって結ばれ、完全に独立した形を備えているのである。したがってこれを三段と見るよりも、三首の短い長歌が、各々独立するとともに連絡を保ち、合して一首の長い長歌を成していると見られるものである。これは歴史的に見れば彼の人麿の長歌や短歌の上で行なっていた連作形式をさらに前進させたものであるが、憶良自身としてはそうしたことには関係なく、それを必要として取った形式であろう。必要というのは、目的は教訓にあって、それには明晰と単純とが第一条件なので、それを充たそうとすれば勢いこうした形を取らざるを得なかったろうと思われる。それは一句一句の上にも明らかである。例せば起首を見ても、「父母を見れば等し、妻子見ればめぐし愛し」とあるごとく、短い独立文を集合させて作っている点に、如何に明晰と単純を期していたかが窺われる。人麿の長篇の中に一句切れを置かず、一首一文としているのとはまさに対蹠的な態度を取っているのである。要するに教訓の歌という作因が表現形式を決定して、従前に例のなかった形式を生み出させているのである。ここに憶良の歌その物に対する態度、また作歌態度が窺われるのである。同時にこの形式がこの歌に始まりこの歌に終わっている理由も知られるのである。
第三には、この歌に添っている序である。このように纏まった序が、一首の歌に添っているということは、本集にあってはこれが初めであって、特殊なものと称すべきである。歌との繋がりから見ると、この歌はこの序がなければ十分には解されないものなので、その必要は題詞と同じであって、性質としては長い題詞というにすぎないものである。即ち必要を充たす為に添えたもので、その点は、上の表現形式よりもさらに重大なものであって、決して興味よりの物ではないのである。これを歴史的に見れば、記紀の歌謡の前後に添っている物語と性質を同じゅうするもので、憶良の創意とは言えないものである。このことは、本巻でも旅人によって試みられて文芸的なものとして展開し、さらに家持などに継承されて、次の平安朝時代に入るといわゆる歌物語となったものである。展開は多くの原因も伴っていようから一概には言えないが、意図的に歌の作因を散文をもって説明している纏まったものという観点から見れば、この序はおそらくその最も古い、礎石的なものと言わるべきものであろう。
(36)801 ひさかたの 天路《まぢ》は遠《とほ》し なほなほに 家《いへ》に帰《かへ》りて 業《なり》をしまさに
比佐迦多能 阿麻遅波等保斯 奈保々〃尓 伊弊尓可弊利提 奈利乎斯麻佐尓
【語釈】 ○ひさかたの天路は遠し 「ひさかたの」は、天あるいは天象にかかる枕詞。「天路」は天へ通う路の意にも、天その物の意にも用いる。ここは天その物で、そこを仙人の住むところとして言ったもの。「遠し」は、遠くして行き難いの意で、言いかえると、仙人となって天へ登ることは出来ないの意。○なほなほに 「なほ」は直で、すなおに。重ねて強めたもの。○業をしまさに 「業《なり》」は、本来は物を成らせる農業で、転じて広く生業をもさす。当時の庶民の生業はほとんど全部農業であった。「しまさに」は、「する」の敬語「します」に他への願望の助詞「ね」の転音「に」を添えたもの。
【釈】 仙人となって住む天上は、遠いことである。そのようなことに憧れるより、すなおに、その家へ帰って生業をなされよ。
【評】 長歌の心を集約して、繰り返して言ったものである。したがって、長歌に関連させて見て意味の徹する歌である。素朴に懇切に諭し訴える心の現われている歌である。
子等を思ふ歌一首 并に序
【題意】 「子等」は子どもで、複数。童というべき年齢だったことが歌で知れる。任国筑前で作った歌で、子等は歌の上で、遠く離れていたことがわかるが、奈良京に残してあったのかと思われる。
釈迦如来、金口《こんく》に正《まさ》しく説き給はく、等《ひと》しく衆生を思ふこと、羅※[人偏+候]羅《らごら》の如しといへり。又説き給はく、愛《うつくし》みは子に過ぎたるは無しといへり。至極《しごく》の大き聖すら、尚《なほ》子を愛《うつく》しむ心あり。況《ま》して世間の蒼生《あをひとぐさ》、誰か子を愛《うつく》しまざらめや。
釈迦如來、金口正説、等思2衆生1、如2羅※[人偏+候]羅1。又説、愛無v過v子。至極大聖、尚有2愛v子之心1。況乎世間蒼生、誰不v愛v子乎。
【語釈】 ○金口 釈迦は金身であったので、その口を尊んで言ったもの。○衆生 仏典の語で、一切の生物。○羅※[人偏+候]羅 釈迦の在俗中の子。「等(37)しく」以下は、最勝王経粍に出ている語。○至極の大き聖 釈迦を尊んでの称。○蒼生 一般の人。
802 瓜《うり》食《は》めば 子等《こども》おもほゆ 栗《くり》食《は》めば まして偲《しぬ》はゆ 何処《いづく》より 来《きた》りしものぞ 眼交《まなかひ》に もとな懸《かか》りて 安寝《やすい》しなさぬ
字利渡米婆 胡藤母意母保由 久利波米婆 麻斯提斯農波由 伊豆久欲利 枳多利斯物能曾 麻奈迦比尓 母等奈可可利提 夜周伊斯奈佐農
【語釈】 ○瓜食めば子等おもはゆ 「瓜」は、今のまくわ瓜で、夏の物。「子等」は、複数。「おもほゆ」は、思われる。○栗食めばまして偲はゆ 「栗」は、秋のもの。「まして」は、瓜の時にもまさって。「偲はゆ」も、しみじみ思われる。○何処より来りしものぞ 何処《いづく》は、何処《いづく》の古語。何処から来たのだぞと怪しんだ語。夜、床にあって、ふと目の前に浮かんで来た面影に対して言ったもの。○眼交にもとな懸りて 「眼交」は眼間《マナコアイ》の約で目と目の間の意で、今の目の前《さき》にあたる。「もとな」は既出。由なくの意。「懸りて」は、ちらついていてにあたる。○安寝しなさぬ 「安寝」は一語で、安は安らかな、寝《い》は眠りで安眠。「し」は強め。「なさぬ」は、「なす」は寝るの敬語。「なす」に、打消の「ぬ」の添ったもので、他に対してすなわち子どもに対して用いているものである。我が子に対して敬語を用いている例はないが、妹に対してのものは相応に多い。妹に対してのものも慣用の意が多かろうから、子どもにも同じ意で慣用していたが、文字としてあらわす場合が少なかった為、文献に見えないのであろう。ここの子等は童であるから、かわゆいという点では繋りがある。
【釈】 まくわ瓜を食うと、好んで食う子等が思われる。栗を食うと、それにもましてしみじみ思われる。何処《どこ》から来たものであろうぞ、夜になると我が目のさきに由もなくちらついていて、安眠をなさらない。
【評】 集中を通じて、男親で子の愛《かな》しさを詠んでいる者は一人憶良があるだけで、他には例がない。他の人が家といい、国という時には、すべて妹であって、妹の代名詞のようになっているのに、憶良は反対に、妹をいうことはきわめて少なく、子のほうが遙かに多くて、子が家の中心をなしている趣がある。彼はこの時すでに老境に入っているのに、瓜、栗などによって連想される少年期の子等を持っていたということは、この当時としても異数なことであって、その為に愛情が特に深かったかも知れぬが、とにかく珍しい子煩悩だったのである。儒教の道徳もそれを支持していたかと思われる。この歌の後半など、愛《いつくし》みというよりもむしろ情痴ともいうべきもので、自身の安眠のできないのを、子が安眠しない為だとし、子を主に立てて尊んで言う上に、敬語までも用いているのである。この歌は形式からいうと九句で、一種の定型となっていた伝統的なものであり、したがって類の少なくないものである。しかしこの歌のように、短い独立文を用いて引締まった言い方をし、立体感を盛り上ら(38)せているものは、他にはない。これは憶良の強い綜合力が、感性によって生かされ、この定型と微妙に調和しているからである。完壁と称しうる作である。
反歌
803 銀《しろがね》も 金《くがね》も玉《たま》も 何《なに》せむに まされる宝《たから》 子《こ》に如《し》かめやも
銀母 金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良 古尓斯迦米夜母
【語釈】 ○銀も金も玉も 「金」は旧訓「こがね」、『攷証』が仮名書きによって改めた。同じ憶艮の歌で巻五(九〇四)には、「世の人の貴み願ふ七種《ななくさ》の宝も我は 何為むに」という似た句がある。七種の宝は仏典の中にあるもので、ここはその中の三種を挙げたものと見える。○何せむに この句は憶良の歌の二か所以外に三か所あって、それらは皆副詞句として下へ続いている。これはこの句で切れて続かない。「に」は感動の助詞とすべきで、何にかせむと同意である。○まされる王子に如かめやも 「まされる宝」は、上に言った三種の宝を語をかえて言ったもので、それらすぐれた宝も。「如かめやも」の「や」は反語。「も」は感動。
【釈】 銀も金も玉も我は何にしよう。そうしたすぐれた宝も、子に及ぼうか及びはしない。
【評】 長歌では子らを主として言っているのに対し、反歌は自身の心を言って照応させているので、その意味では体を得ているものである。しかし金銀珠玉を子に比較し、子のほがまさっていると、さながら発見のごとく力を籠めて言っているのは、今日からは解し難い感がある。それにつけ、陸奥国から初めて黄金を奉ったので、それを瑞相として勝宝と改元のあったことを思うと、それらの宝がいかに貴かったかが思われる。国守とはいえ憶良はある程度貧しかったらしいから、彼からいうとこれらの宝は、文字の上で知るのみの物であったかも知れぬ。それだと、たといいかなる宝でもということを具象的に言ったものとなって来て、緩和されるところのあるものとなって来る。
世間《よのなか》の住《とどま》り難きを哀しめる歌一首 并に序
【題意】 「世間の住り雑き」は、人生の推移してやまない、すなわち常なきことであるが、ここは若き齢の老いることを言ったものである。
(39) 集り易く排《はら》ひ雑きは、八大辛苦、遂げ難く尽し易きは、百年の賞楽、古人の歎きし所、今又之に及《し》けり。この所以《ゆゑ》に因りて、一章の歌を作りて、二毛の歎を撥《はら》ふ。其の歌に曰はく、
易v集難v排、八大辛苦、難v遂易v盡、首年賞楽、古人所v歎、今亦及v之。所以因、作2一章之謌1、以撥2二毛之歎1。其歌曰、
【語釈】 〇八大辛苦 生苦、老苦、病苦、死苦、恩愛別苦、怨憎会苦、所求不得苦、憂悲悩苦の八苦で、人間苦の全部を類別したもの。○百年 人間の寿命の最大限で、生涯の意。○章楽 章心楽事の意で、愉楽。○之に及けり その嘆きに及んでいる。〇二毛の歎 「二毛」は、『礼記』にある語。鬢髪斑白の意で、黒髪に白髪がまじって来ることで、老境の嘆き。憶良は天平五年七十四で死んだと見えるが、それだとこの謌を作った神亀五年は六十九である。
804 世間《よのなか》の 術《すべ》なきものは 年月《としつき》は 流《なが》るる如《ごとし》し 取《と》りつづき 迫《お》ひ来《く》るものは 百種《ももくさ》に 責《せ》めより来《きた》る 少女等《をとめら》が 少女《えおとめ》さびすと 唐玉《からたま》を 手本《たもと》に纏《ま》かし【或るはこの句あり、曰はく、白妙《しろたへ》の 袖《そで》振《ふ》りかはし 紅《くれなゐ》の 赤裳《あかも》裾引《すそひ》き よち児《こ》らと 手《て》携《たづさ》はりて 遊《あそ》びけむ 時《とき》の盛《さかり》を 止《とど》みかね 過《すぐ》し遣《や》りつれ 蜷《みな》の腸《わた》 か黒《ぐろ》き髪《かみ》に 何時《いつ》の間《ま》か 霜《しも》の降《ふ》りけむ 紅《くれなゐ》の【一に云ふ 丹《に》のほなす】 面《おもて》の上《うへ》に 何処《いづく》ゆか 皺《しは》かきたりし【一に云ふ、常《つね》なりし 笑《ゑ》まひ眉引《まよびき》 咲《さ》く花《はな》の 移《うつ》ろひにけり 世《よ》の中《なか》は かくのみならし】 大夫《ますらを》の 壮士《をとこ》さびすと 剣太刀《つるぎたち》 腰《こし》に取《と》り佩《は》き 猟弓《さつゆみ》を 手握《たにぎ》り持《も》ちて 赤駒《あかごま》に 倭文鞍《しづくら》うち置《お》き 匍《は》ひ乗《の》りて 遊《あそ》び歩《ある》きし 世間《よのなか》や 常《つね》にありける 少女等《をとめら》が さなす板戸《いたど》を 押《お》し開《ひら》き い辿《たど》り寄《よ》りて 真玉手《またまで》の 玉手《たまで》さし交《か》へ さ寝《ね》し夜《よ》の 幾許《いくだ》もあらねば 手束杖《たづかづゑ》 腰《こし》に束《たが》ねて 彼《か》行《ゆ》けば 人《ひと》に厭《いと》はえ 此《かく》行《ゆ》けば 人《ひと》に悪《にく》まえ およしをは 斯《か》くのみならし たまきはる 命《いのち》惜《お》しけど せむ術《すべ》もなし
(40) 世間能 周弊奈使物能波 年月波 奈何流々其等斯 等利都々伎 意比久留母能波 毛々久佐尓 勢米余利伎多流 遠等メ良何 遠等メ佐備周等 可羅多麻乎 多母等尓麻可志【或有此句云、之路多倍乃 袖布利可伴之 久礼奈為乃 阿可毛須蘇※[田+比]伎】 余知古良等 手多豆佐波利提 阿蘇比家武 等伎能佐迦利乎 等々尾迦祢 周具斯野利都礼 美奈乃和多 迦具漏伎可芙尓 伊都乃麻可 斯毛乃布利家武 久礼奈為能【一云、尓能保奈須】 意母提乃字倍尓 伊豆久由可 斯和何伎多利斯【一云、都祢奈利之 恵麻比欲※[田+比]伎 散久伴奈能 宇都呂比尓家里 余乃奈可伴 可久乃未奈良之】 麻周羅遠乃 遠刀古佐備周等 都流伎多智 許意尓刀利波枳 佐都由美乎 多尓伎利物知提 阿迦胡麻尓 志都久良宇知意伎 波此能利提 阿蘇比阿留伎斯 余乃奈迦野 都祢尓阿利家留 遠等※[口+羊]良何 佐那周伊多斗乎 意斯比良伎 伊多度利与利提 麻多麻提乃 多麻提佐斯迦閇 佐祢斯欲能 伊久陀母阿羅祢婆 多都可豆慧 許意尓多何祢提 可由既婆 此等尓伊等波延 可久由既婆 比等尓迩久麻延 意余斯遠波 迦久能尾奈良志 多摩枳波流 伊能知遠志家騰 世武周弊母奈斯
【語釈】 ○世間の術なきものは 人の世で致し方のないものは。○年月は流るる如し 「年月」は、時を具象的に言ったもの。「流るる如し」は、水の流れるがようであるで、その経過の速かなことを喩えて言ったもの。これは、上の「術なきもの」の第一である。○取りつづき追ひ来るものは 「取りつづき」の「取る」は接頭語。続いて、すなわち間断なく。「追ひ来るもの」は、起り来るもので、感性的に強めて言いかえたもの。○百種に責めより来る 「百種」は多くのさまざまの形で、八大辛苦。「責めより」は、身に迫って来る。以上第一段で、総論。以下各論で具体的に措いている。○少女等が少女をびすと 少女どもが、少女にふさわしい振舞をするとて。○唐玉を手本に稚かし 「唐玉」は、唐より舶来した玉。「手本」は、手を本末《もとすえ》に分け、手首のほうを末、肱のはうを本といった。「手本」は、肱の辺りと取れる。「纏かし」は、纏くの敬語。女性に対しての慣用。「少女等が」以下これまでは、『本朝月令』その他の書に五節の舞姫の起源を説いた条があり、そこに天武天皇の御製とも、又神女の歌ともして「少女《をとめ》ども少女《をとめ》さびすも唐玉を手本《たもと》に巻きて少女さびすも」というがあり、それに拠ったもの。○或るはこの句あり 或る本には、ここにこういう句があるというので、この巻の編者の言である。それは下の四句である。編者が見た或る本にはそれがあって、ここにはそれが削除してあるのである。或る本の物は、憶良がこの歌を旅人に示す前の物で、憶良からいうと初稿であり、それが原形のまま伝わった本である。○白妙の袖振りかはし 「白妙の」は袖の枕詞。「袖振りかはし」は、それぞれ袖を振って歩いているのが、振り交わしているごとく見える意。○紅の赤裳裾引き 「紅の」は枕詞.。「赤裳裾引き」は、歩くさまの美しさを言ったもので、いずれも平和な活動美である。○よち児らと手携はりて 「よち」は集中に何か所にも出ている語で、同年輩の意。「児ら」の「ら」は接尾語。同年輩の児と。「手携はり」は、睦ましい形。○遊びけむ時の盛を 「時の盛」は、盛んな時で、若い時。○止みかね過し遣りつれ 「止みかね」の「止み」は、「止む」の四段活用として用いたからの(41)もの。「かね」は得ぬ意。止め得ずに。「過し遣りつれ」の「つれ」は、已然条件法で、後世の「つれば」にあたるもの。○蜷の腸か黒き髪に 「蜷」は、現在になと称する淡水に住む一寸ばかりの貝で、食用とする。「蜷の腸」は、その黒さから、黒にかかる枕詞。「か黒き」の「か」は接頭語。○何時の間か霜の降りけむ 「か」は疑問の係助詞。「霜の降り」は白髪になった譬。何時の間に白髪になったことであろうかと、驚きと怪しみをもって嘆いたもの。○紅の 一に云ふ、丹のほなす 「紅」が一本には「丹のほなす」となっているという編者の注で、真赤な頬をしている意。○何処ゆか皺かきたりし 「何処ゆか」は、何処から来てで、「か」は疑問の係助詞。皺かきたりし。「かきたり」は掻き垂りで、「掻き」は接頭語で、「垂り」は寄って来る意で、何処から皺が寄って来たことであろうか。〇一に云ふ、常なりし笑まひ眉引 「常なりし」は何時もあった。「笑まひ」は、笑むの継続「笑まふ」の名詞形で、笑顔《えがお》。「眉引」は既出。黛をもって措いた眉の称で、上代の若い女のしていた風。○咲く花の移ろひにけり 「咲く花の」は、「移ろひ」にかかる枕詞。「移ろひにけり」は、「移ろふ」は、移るの継続。衰え、なくなる意。「に」は完了。「けり」は感動。衰えたことである。○世の中はかくのみならし 「かく」は上を総括したもので、「のみ」はその強め。「らし」は、推量。この一に云うの六句は、「蜷の腸」以下の八句にあたるもののようである。以上、女子の盛りの住《とどま》り難きを言ったもので、以下は男子である。○大夫の壮士さびすと 「壮士さびすと」は、「壮士」は若い男子の称で、上の「少女さびすと」に同じ。○剣太刀腰に取り佩き 「剣太刀」は剣。「取り」は接頭語。「佩き」は帯び。○猟弓を手揺握り持ちて 「猟弓」は、山幸《やまさち》を獲る弓で、即ち猟の弓。「手握り」は、手に握りで、弓を持つ状態。○赤駒に倭文鞍うち置き 「赤駒」は毛の赤褐色の駒で、即ち鹿毛《かげ》の駒。「倭文鞍」は、ここにあるだけの語である。倭文の布を張った鞍の恵。倭文は上代の織物の名で、緯糸《ぬきいと》を赤青などに染めて織った縞物で、珍重した物である。「うち置き」は「うち」は接頭語、「置き」は馬に鞍を着けること。○匍ひ乗りて遊び歩きし 「葡ひ乗り」は、馬に乗る状態。「遊び」は、意味の広い語で、本来は雅びたことをする意だが、ここは猟をする意。猟は男子に取っては代表的な楽しみで、結婚と対しうるものだったのである。「遊び歩きし」は、猟をして歩いたの意。○世間や常にありける 「や」は疑問の係助詞で反語をなすもの。「常」は、永久。上のような世の中が、永久に続いたことであったろうか、続きはしないの意。以上、若い女子に対させて、若い男の楽しさを叙したもので、一括して第二段。○少女等がさなす板戸を 「ら」は接尾語。「さなす」は、「さ」は接頭語。「なす」は、寐《ね》の敬語「なす」の連体形。女子に対して慣用した。「板戸」は閏の物。少女の寐ていられる閏の板戸をの意。○押し開きい辿り寄りて 「押し開き」は、当時の戸は開戸《ひらきど》であった為、その開き方を具体的に言ったもの。「い辿り寄り」は、「い」は接頭語、「辿り」は暗い中を捜り寄り。○真玉手の玉手さし交へ 「真玉手」は、「真」は接頭語、「玉」は、少女の手を讃えたもの。「玉手」は「真玉手」の感を強める為に重ねたもの。「さし交へ」は、さし交わしで、共妹をする状態を、少女のほうを主として言ったもの。この一句は、古事記神代の巻、沼河比売《ぬなかわひめ》の歌に、「真玉手玉手さし纏き」とあるのに拠ったものと取れる。また、「少女等が」以下は、日本書紀継体紀、勾大兄《まがりのおひね》皇子の御歌、「真木《まき》さく檜《ひ》の板戸を押し開き(中略)妹が手を我に纏《ま》かしめ我が手をば妹に纏かしめ云々」とあるに通うところがある。皇子の歌は上の沼河比売の歌に関係の深いものとみえ、またその歌は一般化されてもいたとみえるから、この部分はそれに拠ったものと取れる。○さ寝し夜の幾許もあらねば 「さ寝」の「さ」は接頭語。「あらねば」は、「あらぬに」と同意の古格で、並び行なわれていたもの。共寐をした夜は幾らもないのにの意。○手束杖腰に束ねて 「手束杖」は、「手」は手、「束」は「掴む」の語根で、手に掴む太さ、即ち掴みかげんの杖。「手束弓」という類語がある。「束ね」は、物と物とを一つに括る意で、「腰に束ね」は、腰と一つにする、すなわちあてがって。二句、杖に倚るということを具象的に言ったもの。○彼行けば人に厭はえ 「彼」
(42)は、原文「可久」とあるが、紀州本外五本とも「久」はない。下の「此《かく》」に対させたもの。彼方《あちら》へ行けば人から嫌われてで、老人が若い人から疎まれる意。○此行けば人に悪まえ 此方《こちら》へ行けば人から悪まれ。○およしをは斯くのみならし 「およしをは」は、他には見えない語で、語義が不明である。『代匠記』は「およし」は「凡そ」で、「を」は助詞だと解している。それに従い、凡そはと解する。「かくのみならし」は、上に出た。以上、第二段を受け、女子との関係をとおして、男子の老の嘆きを練り返して強めたもの。○たまきはる命惜しけど 「たまきはる」は、命、内などにかかる枕詞。巻一(四)に既出。「惜しけど」は後世の「惜しけれど」にあたる古格。命が惜しいけれどもで、この「命」は上を承けての老いての命で、死の迫っているものである。○せむ術もなし とどめるべき術もないで、「も」は感動の助辞。「たまきはる」以下三句は、それまでの全体を総括し、起首の「世間の術なきものは」に照応させて結んだもの。以上第三段。
【釈】 世の中の致し方のないことは、歳月は水の流れるがように速かである。ひっ切りなしに迫って来る辛苦は、百種と多く責め寄って来る。少女が少女にふさわしいさまをするとて、唐玉をその肱に巻き(或る本には、白妙の袖を各々振り交わし、紅の赤裳の裾を引いて)、同じ年頃の者と手を携《たずさ》え合って遊び歩いた、その昔盛りをとどめて置けずに過ごしてやると、其黒い髪には、いつの間に霜が降ったであろうか、紅の(其赤な頬をした)顔の上には、何処から皺が寄って来たのであろうか(一本には、何時でもあった笑顔《えがお》と黛で措いた眉引は、なくなってしまったことである。世の中はそのようなものでばかりあろう)。大夫《ますらお》が若い男にふさわしいことをするとて、剣《つるぎ》を腰に帯び、猟の弓を手に握り持って、鹿毛の駒に倭文《しず》を張った鞍を躍き、それに匍い乗って猟をして歩いた、そうした世の中が永久に続いていたろうか、続きはしない。少女の寝ていられる閨の板戸を押し開いて、暗い中を捜り寄って、その玉のような手を我が手とさし交して、共寝をした夜は幾らもないのに、手束杖を腰にあてがって、彼方《あちら》へ行けば若い者にいやがられ、此方《こちら》へ行けば若い者に悪まれて、大凡はそのようにばかりされることであろう。命は惜しくあるけれども、とどめるべき術とてはない。
【評】 題詞の如く世間の住《とどま》り難きを嘆いた歌で、これは言いかえると無常ということで、その中でも若い者が老いに移り、楽しさが侘びしさに変るという一事だけである。序には八大辛苦を説いているが、これはそのいずれでもない種のものであると共に、何びとにも共通している一般性を持ったものである。この歌はその一般性を一般性として叙しているもので、そこには作者の実感の直接な披瀝をまじえていない、知的な概念的な作である。老いを嘆くということは、広い意味で言えば生命を惜しむことで、この歌も結尾には、「たまきはる命惜しけどせむ術もなし」と明らかにそれを言っている。集中には老いを嘆く歌も、命を惜しむ歌もあるが、そのほとんど全部は、子が親の老いを嘆き、愛し合う夫妻が互いに相手の為にその命を惜しむ心のものであって、一般的に扱っているとはいえ、重点を老いたる男の立場に置いて、作者がそうした人であることを暗示しつつ極力老いを嘆いている歌は他には例のないものである。また作歌態度も、老いを嘆く心を一般的に捉えている為とはいえ、その方法は、一に若きと老いを対照して平面的に羅列しているにとどまり、散文の叙述と異ならぬものとなっている。これは(43)歌の散文化であって、この点でもこの歌は従前には例のないものである。良かれ悪しかれこの歌は特色のあるものである。
この歌を作った神亀五年は憶良六十九の年であったと『代匠記』は考証している。普通の人であればその年齢となると、軽い心での呟きは漏らしても、若盛りの時と現在とを対照してはげしい嘆きをする人は少なかろうと思われるのに、生命に対する執着の珍しいまでに強かった憶良とて、老いを嘆く心も余程強いものがあり、それがこの歌の作因となったものと思われる。すなわち自身の実際に即する心が、おのずからに自身の老いを嘆くという新しい題材を選ばせたのである。また何故に自身の実感を披瀝することを避けたかというと、生命の執着の強い彼は、自身の老いを嘆くことを愧ずる心があって、それを抑えようとするとともに、物を大観して知的に批判しまた綜合することに長じていたので、その抑えた心をおのずからそちらに向わしめたのだろうと思われる。この歌は歌人としての憶良の長所と短所とをともに示している作である。
この歌は後に「撰定」した日付がある。撰定とは未定稿に手を加えて定稿としたことと取れる。それは編者によって三か所に加えられている「或は」「一に云ふ」などが「撰定」以前の形だろうと思われるからである。現形とそれとを比較すると、撰定以前の物は現形よりさらに平面的で冗長である。以後のものは反対に立体的で簡潔で、したがって躍動を持っている。これによると彼自身その短所を心付いていたことが窺われる。また知的という上から言えば、一首の構成の緊密であること、若きと老いの状態の描写の簡潔で印象的であること、また調べに調子がありすぎる程にあって、若々しく老齢のにおいを滞びていない点など、さすがに非凡なる力量だと思わせる。
反歌
805 常磐《ときは》なす 斯《か》くしもがもと 思《おも》へども 世《よ》の事《こと》なれば 留《とど》みかねつも
等伎波奈周 迦久斯母何母等 意母閇騰母 余能許等奈礼婆 等登尾可祢都母
【語釈】 ○常磐なす斯くしもがもと 「常磐なす」は、巻三(三〇八)に既出。代表的に不変な物。「なす」は、の如く。このように。「し」は強めで、自身の命を言っているので、長歌の結尾の「命」を受けてのもの。「がも」は、願望の助詞。 ○世の事なれば 「世の事」は、無常を本体としている世の中のことなので。○留みかねつも 「留み」は生命の推移を留める。「かね」は得ぬ。「つ」は完了の助勒詞、「も」は感動の助詞で、留められないことよ。
【釈】 常磐の如くこのようにわが命もありたいものだと思うけれども、無常の世の中のことなので、留められないことであるよ。
(44)【評】 長歌の結尾の三句を繰り返した形のもので、反歌としては古風なものである。しかし「斯くしもがも」と言っているのは明らかに自身の命をさしているのであるから、長歌の一般的な命を前進させ、それによって長歌の心を徹底させているのである。反歌としては軽くないものである。
神亀五年七月二十一日、嘉摩郡《かまのこほり》にて撰定す。筑前国守山上憶良
神龜五年七月廿一日於2嘉摩郡1撰定 筑前國守山上憶良
【解】 日付は、上の「憶良上」とある挽歌と同一である。「嘉摩郡」は明治年間穂波郡と合併して今は嘉穂郡と呼ぶ、その東南部。福岡県、嘉穂郡、稲築《いなつき》町|鴨生《かもう》に郡家があったといわれている。「撰定す」は上に言ったように未定稿に加筆をして定稿とする意。国守として巡行中、その地でしたのである。この署名には「上」はないので、挽歌とは別の扱いをし、同時に旅人に示そうとして贈ったものとみえる。
【題意】 ここには題詞がないが、目録のほうには「大宰帥大伴卿の相聞の歌二宮。答ふる歌二首」とある。次の文は、その「相聞の歌二首」に添えた書翰という排列順になっているが、書翰その物は返翰であって、歌とは一致しないものである。この排列順に従って解すると、京人から来翰があり、それに対する返翰に二首の歌を添えて贈り、さらにその歌に対して京人から答える歌があったということになる。それでは特殊にすぎて妥当ではないとし、旅人の歌の次に置くべき京人の返翰が、何らかの事情で旅人の贈歌の前に置かれたのだと見る解と、上に言ったがごとく、旅人の返翰だと見る解との二つがある。前者は『代匠記』『略解』『古義』などあり、後者は『攷証』『全釈』などである。この巻の資料となった物は大宰府の大伴家にあった物とみえるから、その資料となった控に、この程度の排列の誤りがあっても不自然ではないと認め、返翰は京人の物との解に従う。書翰は署名が逸しているので、誰とも知れない。
伏して来書を辱うし、具《つぶさ》に芳旨を承《う》く。忽ち漢を隔つる恋を成し、復《また》梁を抱く意《おもひ》を傷む。唯|羨《ねが》はくは去留|恙《つつみ》無く、遂に披雲を待たむ耳《のみ》。
伏辱2來書1、具承2芳旨1。忽成2隔v漢之戀1、復傷2抱v梁之意1。唯羨去留無v恙、途待2披雲1耳。
【語釈】 ○「来書」は、旅人より受けた書翰。「漢を隔つる恋」は、「漢」は天漠で天《あま》の河。「隔つる恋」は牽牛織女が河を隔ててする恋。「梁を抱(45)く意」は、『荘子』盗セキ篇の中にある話で、尾生という男か、女と橋の下で会おうと約束して行って待っているが、女の来ないうちに水が増して来た為、染即ち橋柱を抱いて死んだという事を取ったもので、人を待っている苦しさの譬。「羨はくは」は、願くは。「去留恙無く」は、去ると留まるとで、行動の意。「恙《つつみ》無く」は障りなく。「披雲」は、『中諭』に、文王が大公望に遇った時のことを叙して、「如3披(きて)v雲見2白日1」とあるのに拠った語で、尊む人に逢う歓びで、その日をのみ待っている意。
歌詞両首【大宰帥大伴卿】
806 竜《たつ》の馬《ま》も 今《いま》も得《え》てしか あをによし 奈良《なら》の都《みやこ》に 行《ゆ》きて来《こ》む為《ため》
多都能馬母 伊麻勿愛弖之可 阿遠尓与志 奈良乃美夜古尓 由吉帝己牟丹米
【語釈】 ○歌詞両首 歌二首ということを、漢籍風に言いかえたもの。○竜の馬も 『周礼』に「凡馬八尺以上を竜と為す云々」とあり、中国でいう竜馬を訳した語。駿足の馬の意。「も」は感動の助詞。○今も得てしか 「今も」は今も亦。「得てしか」は、「しか」は、願望の助詞。今、得たいものであるよ。○行きて来む為 「行きて」は、忽ちに行って、忽ちに帰って来ようが為にで、公務に妨げのないことを背後にした語。
【釈】 竜馬を今も得たいものであるよ。奈良の都に忽ちに行って忽ちに帰って来ようが為に。
【評】 大宰帥としての責任感と、地方官として故郷である文化の京を恋うる心とを一つにして、おおらかに品位をもって詠んでいる。挨拶の歌ではあるが、旅人を思わせるに足りる。
807 現《うつつ》には 逢《あ》ふよしもなし ぬばたまの 夜《よる》の夢《いめ》にを 継《つ》ぎて見《み》えこそ
字豆都仁波 安布余志勿奈子 奴婆多麻能 用流能伊昧仁越 都伎提美延許曾
【語釈】 ○現には逢ふよしもなし 「現」は、仮名では「うづつ」となっている。現実にはで、下の「夢」に対させたもの。「逢ふよしもなし」は、逢うべき方法とてもない。○夜の夢にを 「を」は感動の助詞。人を思うと自分が夢で逢いに行き、また夢で逢いにも来ることはしばしば出た。大体男女間のことであるが、ここは男同士の間で言っている。○継ぎて見えこそ 「継ぎて」は続けてで、続くのは思いの深さからである。「見え」は、我の人に見られる。「こそ」は願望。
(46)【釈】 現実では、逢うべき方法もない。夜の夢で続いて見えてもらいたい。
【評】 上の歌は公人ということを心に置いてのものであるが、これはそうした意識から離れ、単なる一私人として言っているものである。したがって「あをによし奈良の都」を棄てて、相手を一人の人とし、のみならず思う女でもあるごとき言い方をしている。歌として見ると、男女間では型となっている範囲のものであるが、旅人の歌とすると纏綿する趣のある、珍しいといえる詠み方のものである。彼の当時の気分を示しているものと言えよう。
答ふる歌二首
【題意】 この歌と書翰の関係は上に言った。旅人の右の二首に答えたものである。
808 竜《たつ》の馬《ま》を 吾《あれ》は求《もと》めむ あをによし 奈良《なら》の都《みやこ》に 来《こ》む人《ひと》のたに
多都乃麻乎 阿礼波毛等米牟 阿遠尓与志 奈良乃美夜古迩 許牟比等乃多仁
【語釈】○吾は求めむ 吾は捜し出そうで、旅人が「得てしか」と言っているのに対してのもの。○来む人のたに 「たに」は、為にで、為を「た」という語は、歌の上では仏足石歌碑に見えるだけであるが、他にも用例があり、この当時用いられていた語である。
【釈】 竜馬を吾は捜し出そう。奈良の都に来るであろう人の為に。
【評】 旅人の第一首に答えているものであるが、第二句をいささか変えているだけで鵜鵡返しである。歌才の乏しい人であったとみえる。儀礼としての答であるから、これでも事は足りたのである。
809 直《ただ》に逢《あ》はず あらくも多《おほ》く 敷妙《しきたへ》の 枕《まくら》離《さ》らずて 夢《いめ》にし見《み》えむ
多陀尓阿波顔 阿良久毛於保久 志岐多閇乃 麻久良佐良受提 伊米尓之美延牟
【語釈】 ○直に並逢ずあらくも多く 「直に」は直接に。「逢はず」は、逢わずしての意で下へ続く。「あらく」は、「ある」の名詞形。「多く」はここでは長くの意。下に、恋うる心が深くの意を持たせたもの。○敷妙の枕離らずて 「敷妙の」は枕の枕詞。「離らずて」は、離れずして常に。○夢にし見えむ 「し」は強め。「見えむ」は、見られようで、君の夢に入ろうを、先方を主にして言ったもの。
(47)【釈】 直接に逢わずいることが長いので、深くも恋うている我は、君の夜の枕を離れずして、夢で見られよう。
【評】 旅人の後の歌に対しての答で、前の歌と同じく贈歌に取縋って、我もまたそうありたいと言ったものである。旅人の感傷を包んでの歌に較べると儀礼にすぎないものである。第三句は余意を持たせてというよりも、意を尽くせなかったというほうがあたる。
【題意】 ここには題はないが、目録にはあって、「帥大伴卿、梧桐の日本琴を中衛大将藤原卿に贈れる歌二首」とある。
大伴|淡等《たびと》謹状
梧桐《きり》の日本琴《やまとごと》一面【対馬|結石山《ゆふしやま》の孫枝《ひこえ》なり
此の琴、夢に娘子《をとめ》に化《な》りて曰はく、余《われ》、根を遙《とほ》き島の崇《たか》き巒《みね》に託《よ》せ、※[朝の月が夸]《から》を九陽の休《よ》き光に※[日+希]《さら》す。長く煙霞を帯びて山川の阿《くま》に逍遙《あそ》び、遠く風波を望みて、鴈木の間に出で入りき。唯恐らくは、百年の後、空しく溝壑に朽ちなむことを。たまたま良き匠《たくみ》に遭ひて、削《けづ》りて小琴《をごと》に為《つく》らる。質|麁《あら》く音少きを顧みず。偏に君子《うまびと》の左琴とならむことを希《ねが》ふと。即ち歌ひて曰はく、
此琴、夢化2娘子1曰、余、託2根遙嶋之崇巒1、※[日+希]2※[朝の月が夸]九陽之休光1。長帯2烟嘉霞1逍2遙山川之阿1、遠望2風波1、出2人鴈木之間1。唯恐、百季之後、空朽2溝壑1。偶遭2良匠1、※[昔+立刀]為2小琴1。不v願2質麁音少1。恒希2君子左琴1。即謌曰、
【語釈】 ○「淡等」は、「淡」は「旅」の「た」、「等」は「人」の「と」で仮名である。漢風に省こうとしてのものである。「謹状」は謹みて状《ふみ》すで、謹啓というに同じ。書翰の最初にこのように書くのは当時の風だったのである。「梧桐の日本琴」は、「梧桐」は琴の用材としてで、この字は現在あおぎりにあたるが、これは夏日紫の花を開く普通の桐である。桐には四種あって、琴の用材としては梧桐が最も良いとされていた。「日本琴」は倭琴の字を用いる。我が国固有の琴の発達した物で、長さ六尺前後、横六寸。七絃八絃の物もあったのが、後一定して六絃となった。「結石山」は、長崎県、上県郡、上対馬町河内、対馬の北島の北部にある山で、「孫枝」は本来は枝より出た枝であるが、琴の用材は、本幹を切ってその後に生じた枝を良材とする。また山地に自生した桐が、木目が細かくて良いとされる。大体次の琴に関してのことは、『文選』のケイ康の琴賦に倣って作ったものであり、その中に琴の用材としての孫枝のこともあるので、この注もその脈を引くものである。○此の琴夢に娘子に化りて曰はく 琴が(48)旅人に対って身の上話をする形で、その琴のすぐれた物であることを語るのである。人に物を贈る時は、その物の良いことあるいは心を籠めての物であることを言い添えるのが礼となっているので、これもその意のものである。○余、根を遠き島の崇き巒に託せ、※[朝の月が夸]を九腸の休き光に※[日+希]す 「遙き島」は対馬の北島。「崇き巒」は結石山。「託せ」は置く。「九陽」は太陽。「休き光」は「休き」は「美き」。「※[日+希]す」は乾かす。琴賦に「惟椅桐之所v生(ズル)今、託(シ)2峻岳之崇崗1」(「椅桐」は桐の一種で、琴の良材)とあり、又「吸(ヒ)2日月之休光(ヲ)1、(中略)旦(ニ)※[日+希](ス)2幹(ヲ)於九陽1」ともある。○長く煙霞を帯びて山川の阿に逍遙び 「長く」は、多年。「煙霞」は山気。「阿」は隈で、物の隅。○遠く風波を望みて雁木の聞に出で入りき 「風波を望み」は、結石山の上の桐の状態。「鴈木の間」は、『荘子』山木篇の中にある話より取った語で、一日荘子が山へ入ると、大木で樵夫が伐らない物があるので、訳を問うと大きすぎて用に適さないという。また山を出て懇意な人の家へ行くと、その人が喜んで鴈を烹ることを召使に命じた。召使は、鳴く雁と鳴き得ない雁とあるが、どちらにするかと尋ねると、その人は鳴き得ないのを烹ろと命じたというので、「鴈木」はその鴈と木の意で、用いられるか用いられないかの中間の意。「出で入り」はどっち付かず。○溝ガク 深い谷。○良き匠 琴を作る良い工匠。○君子の左琴 「左琴」は『古列女伝』の中の語で、「左琴右書、楽亦在(リ)2其中1矣」から出たもので、座側の琴。
810 如何《いか》にあらむ 日《ひ》の時《とき》にかも 声《こゑ》知《し》らむ 人《ひと》の膝《ひざ》の上《へ》 吾《わ》が枕《まくら》かむ
伊可尓安良武 日能等伎尓可母 許恵之良武 比等能比射乃倍 和我麻久良可武
【語釈】 ○如何にあらむ日の時にかも 「日の時にかも」は、いかなる日の、いかなる時にかで、「かも」は、疑問の係助詞。○声知らむ 音楽を解するで、『列子』の「伯牙善(ク)鼓(シ)v琴(ヲ)、鍾子期善(ク)聴(ク)」に拠るもの。音楽を解する人の少ない意で言ったもの。「声知らむ」は、琴の音色《ねいろ》をよく聞き知るであろうところの。○人の膝の上 琴は膝に載せて弾いたところから、人が弾こうとして膝の上に載せること。○吾が枕かむ 「枕かむ」は、枕という名詞を動詞化した「枕く」の未然形に推量の「む」の接したもの。枕にし得ようか。
【釈】 どういう日のどういう時にか、我は音楽をよく解する人の膝の上を枕することが出来るであろう。
【評】 この琴は元来、旅人自身の為に作らせたものであるのに、(49)琴は娘子と化して、「恒に君子《うまびと》の左琴とならむと希ふ」といい、さらに歌では、「声知らむ人の膝の上吾が枕かむ」といって、知己に逢い得ずにいる訴えをしているのである。すなわち旅人には身に過ぎる結構な琴だということを、琴自体をして言わしめているのである。贈物の良い物であることを言おうとする要求としては、じつに巧妙なものである。「如何にあらむ日の時にかも」という続けは、娘子がそのことをいかに強く望んでいるかを気分化し得ているもので、「膝の上吾が枕かむ」も、琴を弾く状態とともに娘子の媚態ともなっているもので、これまた巧みである。旅人の感性の鋭敏を思わせられる歌である。
僕、報《こた》ふる詩詠《うた》に曰はく
【願意】 「詩詠」は、当時歌を漢風に言うことが、上流の知識階級に行なわれていたからで、他にも例がある。
811 言《こと》問《と》はぬ 木《き》にはありとも うるはしき 君《きみ》が手慣《たなれ》の 琴《こと》にしあるべし
許等々波奴 樹尓波安里等母 字流波之吉 伎美我手奈礼能 許等尓之安流倍志
【語釈】 ○言問はぬ木にはありとも 物を言わない木ではあろうともで、娘子の身の上話で言ったことを受けて言ったもの。○うるはしき君が手慣の 「うるはしき君」は立派な方の意で、娘子の望みの「君子《うまひと》」の意。「手慣」は、手馴らして親しむ意。○琴にしあるべし 「し」は強意の助詞。「べし」は、想像の助助詞で、琴になることであろうで、娘子の望みをかなえてやろうの意。
【釈】 物を言わない木ではあろうとも、望みの通り、立派な方の手慣らす琴となることだろう。
【評】 表面は娘子に対しての答で、娘子の身の上話に立って、「言問はぬ木にはありとも」と抑え、望みをかなえる意で、「うるはしき君が手慣の琴」と引受けたものであるが、同時にまた房前に対して、贈物に添える挨拶ということからも離れず、「うるはしき」以下にその心を婉曲に籠めているのである。「言問はぬ木」の二句は、その意味からは不用に似ているが、上の歌の「娘子と化りて」ということは、自身の特殊なことで、常にあることではないので、それとの関係上、言わずにはいられないこととしたと取れる。上の歌が心の鋭敏に働いている歌であるから、この歌にも言うような用意があったことと思われる。
琴の娘子答へて曰はく。
敬《つつ》みて徳音を奉《うけたま》はりぬ、幸甚幸甚といへり。片時《しまらく》にして覚《おどろき》きて即ち夢の言《こと》に感《かま》け、慨然《なげき》て黙止《もだ》を(50)ることを得ず。故《かれ》公使《おほやけのつかひ》に附けて、聊か以ちて進御《たてまつ》るのみ。 謹て状《ふみ》す。具《そなはら》らず。
琴娘子答曰
敬孝2徳音1、幸甚々々。片時覚即感2於夢事1、慨然不v得2黙止1。故附2公使1、聊進御耳。 謹状。不v具。
天平元年十月七日、使に附けて進上《たてまつ》る。
謹みて通はす、中衛|高明閣下《かうめいかふか》謹空。
【語釈】 ○敬みて徳育を奉はりぬ 「徳音」は、よき声。『詩経』の語。有難い旅人の娘子にした約束をいう。○幸甚幸甚 幸い甚しで、感謝の語。○感け 感じて。○慨然て黙止をることを得ず 「慨然て」は深く感動してのこと。「黙止」は、黙っている、すなわち棄てては置けず。○公使に附けて 「公使」は公の用を帯びての使で、大宰府より都へ上る者。房前の返翰で大宰大監とわかる。「附けて」は、託して。○進御る 奉る。○謹みて状す。具はらず 書翰の末尾に型として添えるもの。○謹みて通はす 書翰を贈る挨拶。○中衛高明閣下謹空 「中衛」は中衛府で、神亀五年初めて置かれた府で、後に右近衛となった府。近衛府の一半をなすものである。房前はその長官であった。「高明」は、相手の徳を讃えての尊称。「閣下」は閣下と同じ。「謹空」は書翰の終りに余白を残すことで、当時礼としていたもの。
【評】 この巻物は、旅人から房前に贈呈する日本琴に添えたものである。当時の風として人に物を贈る際には、その物には贈主の並々ならぬ心の籠もっていることを言い添えるのが礼となっており、それには普通一首の歌をもってしていた。旅人もそのようにするべきであるが、贈物は日本琴というやや特殊な物であって、一首の歌では言葉が足りないところから、一つの夢物語を構えて、琴を娘子にならせ、娘子の身の上話としてその琴の常凡でないことを説かせたのである。すなわち旅人自身の言うべきことを娘子に代弁させたのである。物語の大部分は琴材のすぐれたものであることの説明であるが、それはこの場合そうせざるを得ないからである。転じて娘子が歌をもって、「声知らむ人の膝の上」の物となりたいと言い、旅人がそれを承引して「うるはしき君が手慣の琴にしあるべし」と言っているのは、まさしく旅人自身の贈呈の際の挨拶の言葉で、これを贈呈する、幸いに受納し愛翫したまえということなのである。要するに、主旨としてはその際添えなくてはならない礼言であって、実用性の範囲の言葉なのである。この書翰はその実用性のものを、旅人房前らこの当時の上流社会の、しかも教養高い人人の日常生活の上につなぎ、高度な文芸性あるものに化したのである。この時代は外来音楽の隆盛だった反動として邦楽が復興しようとしていた時期だったので、日本琴の良器は自然熱望されていて、いわゆる心にくい贈物であったろうと思われる。(51)琴が娘子に化するということは、『遊仙窟』など神仙譚に倣ったものであり、またその語っている身の上話は、ケイ康の琴賦に倣ったもので、これらは彼らの等しく読んでいた書籍であるから、いささかもいや昧のない、ただ微笑を催させられる範囲のもので、これを受取った房前は、旅人の文芸的才能に感じたことであったろう。この書翰は言ったがごとく、実用性の歌を物語にまで展開させたものである、か、物語すなわち小説という角度から見ると、書翰体小説である。これをそれとして時代に関係させて見れば、たとい短小なものであっても珍しとするべきものであろう。文芸的な相貌をもったものとしているのは、旅人の頭脳の明敏と、その感性の織細なのと相俟って働いている為である。
【題意】 ここも題はないが、目録には、「中衛大将藤原卿報ふる歌一首」とある。右に対する房前の返翰である。
跪きて芳音を承る。嘉懽|交《こもごも》深し。乃ち知りぬ、竜門の恩、復《また》蓬身の上に厚きことを。恋望の殊念、常心に百倍せり。謹みて白雲の什に和《こた》へて、以ちて野鄙の歌を奏《まを》す。房前《ふささき》謹みて状す。
脆承2芳音1。嘉懽交深。乃知、龍門之恩、復厚2蓬身之上1。戀望殊念、常心百倍、謹和2白雲之什1、以奏2野鄙之謌1。房前謹状。
【語釈】 ○跪きて 敬いて。○嘉懽交深し 「嘉」は善美で、旅人の文に対したもの、「懽」は自身の悦びで、それがこもごも深い。○竜門の恩 『後漢書』李膺伝に、「膺独(リ)持(ス)2風裁(ヲ)1、以(チテ)2声名(ヲ)1自(ラ)高(ウス)。士有(レバ)d被(ルル)2其容接(セ)1者u、名(ケテ)為(ス)v登(ルト)2竜門(ニ)1。」とある。その注に、竜門は黄河の上流、緯州竜門県にある。水が急で魚属が上ることが出来ない。上り得れば竜となるとある。ここは旅人をそれに譬えて尊んだ称。○蓬身。蓬のごとく直からざる身で、卑下しての称。○常心 平生の心。○白雲の什 「白雲」は、『攷証』は『穆天子伝』の西王母の謡「白雲在(リ)v天(ニ)山陵自(ラ)出(ヅ)」から出た語といい、旅人の歌を尊んで譬えた語。「什」は、詩は十篇ずつを同じ巻に記すその巻で、ここは歌。
812 言《こと》問《と》はぬ 木《き》にもありとも 吾《わ》が背子《せこ》が 手慣《たなれ》の御琴《みこと》 地《つち》に置《お》かめやも
許等騰波奴 紀尓茂安理等毛 和何世古我 多那礼乃美巨騰 都地尓意加米移母
【語釈】 ○言問はぬ木にもありとも 上の旅人の第二の歌の初二句をそのままに用いたもの。○吾が背子が手慣の御琴 「吾が背子」は、男同士でも特に親しい間では用いた称。ここもその意からである。「手慣の御琴」は、旅人が用い馴らした琴の意で、「御」は称美の接頭語。同じく第二首の「手慣の琴」に関係させてあるが、旅人の愛用の品としたほうが心が深いからである。○地に置かめやも 「地に置く」は、下に置くで、粗(52)末にする意。「や」は、反語。置こうか、置きはしない。
【釈】 物を言わない木ではあろうとも、吾が背子が手慣らし給うた御琴を、下に置こうか置きはしない。
【評】 旅人の第二首の歌に即して、礼として言っているにすぎない感のあるものである。しかし「吾が背子が手慣の御琴」は、相応に用意のある言い方である。旅人は贈物として作らせた琴だとは言っていないが、これは当然なことである。房前は無論そのことは知っていて、それを旅人の愛用品を贈与したように言い倣しているのである。そのほうが贈主の心が深く、受けるほうも悦びが深いからである。「吾が背子」という称にもその心がある。房前が夢物語については、文章でただ一語触れさせているだけにとどめているのは、旅人がそうした物を、構えた主旨を頷き、それ以上展開させるべき性質のものではないと解したからとも取れる。たといそうした心があったとしても、旅人の才には匹敵できないと知ったら、身分柄強いて試みようとしなかったであろう。したがって儀礼の言にすぎないとしても、相応な用意はもってのものと言える。
十一月八日 還る使大監に付く。
謹みて通ず 尊門 記室
【解】 「還る使」は、大宰府から公務を帯びて上京して還る使。「大監」は大伴百代。「尊門」は、先方を尊んでの称。「記室」は、書記で、今の侍史。書簡の型である。
【題意】 この歌にも題詞がないが、目録には「山上臣憶良、鎮懐石を詠める歌一首并に短歌」とあり、この目録が信じられて來たのである。しかるに近来この歌と同様に作者がなく、目録にのみある(八五三―八六三)の松浦河に遊ぶ歌が『代匠記』のくわしい考証によって旅人の作であることがほぼ確認され、目録の信じ難いものとなって來たところから、この歌もそれと同様に旅人の作ではないかとの説が出、有力なものとなっている。本巻の資料はしばしば言ったごとく大伴家に控の形をもって残っていた物と思われるから、署名のないものは大体主人旅人の作と見られる。これは推測であるから、いかようにも論じ得られることである。なお歌その物について言う。
筑前《つくしのみちのくち》の国《くに》怡土《いと》の郡|深江《ふかえ》村|子負《こふの》原、海に臨める丘の上に二つの石あり。大きなるは長さ一尺二寸六分、囲《かくみ》一尺八寸六分、重さ十八斤五両、小きは長さ一尺一寸、囲一尺八寸、重さ十六斤十両、並《とも》に皆楕円にして、状《かたち》鶏《とり》の子《こ》の如し。其の美好《うま》しきこと論《あげつ》らふに勝ふ可からず。所謂径尺の壁是(53)なり。【或るは云はく、此の二つの石は肥前の国|彼杵《そのき》の郡|平敷《ひらしき》の石、占《うら》に当りて取るといふ。】深江の駅家《うまや》を去ること二十許里、近く路頭に在り。公私の往来に、馬より下りて跪拝せずといふこと莫し。古老相伝へて曰はく、往昔《いにしへ》息長足日女《おきながたらしひめの》命、新羅国を征討《ことむ》けましし時、茲《こ》の両《ふた》つの石を用《も》ちて、御袖の中に挿《さしはさ》み著《つ》けて、鎮懐と為したまひき。【實は御裳の中なり】所以《ゆゑ》に行く人此の石を敬拝すといふ。乃ち歌を作りて曰はく、
筑前國怡土郡深江村子負原、臨v海丘上有2二石1。大者長一尺二寸六分、圍一尺八寸六分、重十八斤五兩、少者長一尺一寸、圍一尺八寸、重十六斤十兩、並皆楕圓、?如2鷄子1。其美好者不v可v勝v論。所謂徑尺璧是也。【或云、此二石者肥前國彼杵郡平敷之石、當v占而取之。】去2深江驛家1二十許里、近在2路頭1。公私徃來、莫v不2下v馬跪拜1。古老相傳曰、徃者息長足日女命、征2討新羅國1之時、用2茲兩石1、挿2著御袖之中1、以爲2鎭懷1。【實此御裳中矣】所以行人敬2拜此石1。乃作v謌曰、
【語釈】 ○怡土郡 「怡土那」は明治年間志摩郡と合併し、今は糸島那の南部にあたる地域。○深江村子負原 この地名はどちらも今存している。二丈村。福岡と唐津の間の往還の、海辺の小駅である。○十八斤五両 二十四|銖《はち》を一両とし、十六両を一斤とする。一斤は約百八十匁。○鶏の子 鶏卵。○径尺の壁 直径一尺ある宝石。『淮南子』の語。○肥前の国彼杵の郡平教の石 「肥前の国」は、現在は長崎県。「彼杵」は、そのき。「平敷」は、所在不明。『古事記伝』は、ある人が長崎に近い浦上村平野宿で、今も白石赤石の美しい物が多く出るというを伝えている。○占に当りて取るといふ 神功皇后が鎮懐石とするに、占いをして、それにあたったがゆえに平敷の石を取ったという。 ○深江の駅家を去ること二十許里 昔の一里は六町であるから、「二十許里」は百二十町である。しかるに実際は、深江駅の西方五町である。伝聞の誤りからとみえる。○故老相伝へて曰はく 故老の相伝えての語りは、地方にあっては唯一の保存者による、権威あるもの。○息長足日女命 神功皇后の御名。○茲の両つの石を用ちて、御袖の中に挿み著けて、鎮懐と為したまひき 上代には石に神秘的な霊力を認めて信仰したので、これは現在も、ある神社には残っている。「鎮懐」は、懐《こころ》を鎮める意で、石に懐を寄せて鎮めるのである。魂と体とは別なもので、魂が身に宿って安定を保っていることがすなわち健全な状態だとしたのである。鎮魂は、上代にあってはきわめて強い信仰であった。○実は御裳の中なり 異例として言っているもの。
813 懸《か》けまくは あやに畏《かしこ》し 帯比売《たらしひめ》 神《かみ》の命《みこと》 韓国《からくに》を 向《む》け平《たひら》げて 御心《みこころ》を 鎮《しづ》め給《たま》ふと い取《と》らして 斎《いは》ひ給《たま》ひし 真珠《またま》なす 二《ふた》つの石《いし》を 世《よ》の人《ひと》に 示《しめ》し給《たま》ひて 万代《よろづよ》に 言《い》ひ(54)継《つ》ぐがねと 海《わた》の底《そこ》 奥《おき》つ深江《ふかえ》の 海上《うなかみ》の 子負《こふ》の原《はら》に み手《て》づから 置《お》かし給《たま》ひて 神随《かむながら》 神《かむ》さび坐《いま》す 奇魂《くしみたま》 今《いま》の現《をつつ》に 尊《たふと》きろかむ
可既麻久波 阿夜尓可斯故斯 多良志比※[口+羊] 可尾能弥許等 可良久尓遠 武氣多比良宜弖 弥許々呂遠 斯豆迷多麻布等 伊刀良斯弖 伊波比多麻比斯 麻多麻奈須 布多都能伊斯乎 世人尓 斯※[口+羊]斯多麻比弖 余呂豆余尓 伊比都具可祢等 和多能曾許 意枳都布可延乃 字奈可美乃 故布乃波良尓 美弖豆可良 意可志多麻比弖 可武奈何良 可武佐備伊麻須 久志美多麻 伊麻能遠都豆尓 多布刀伎呂可※[人偏+舞]
【語釈】 ○懸けまくはあやに具し 口にして申すことは甚だ恐れ多いと、神功皇后のことを言うに対して恐懼の情を言ったもの。しばしば出た。○帯比売神の命 「帯比売」は息長帯比売で、神功皇后の御名。「息長」は父王の近江国の領地の名。「帯」は足らしで、充足する意。讃え言。「神の命」は、尊んで神としての称。○韓国を向け平げて 「韓国」は、ここは新羅国を広く言いかえたもの。「向け」は、降伏させ。「平らげ」は、平定して。○御心を鎮め給ふと 散乱する御心を、体内にお鎮めになろうとして。○い取らして斎ひ給ひし 「い取らして」は、「い」は接頭語。「取らして」は、取りての敬語。御手にお取りになられて。「斎ひ給ひし」は、斎うは斎戒して災いから免れる行事のことで、ここは石を身に着けられたことで、お着けになられたところの。○真珠なす二つの石を 「真珠なす」は、「其」は美称。「なす」は、のごとき。○世の人に示し給ひて 征討を遂げさせた、鎮懐の霊力ある石を、あまねく世の人に示し給うて。石の霊力を示そうとされてのこと。○万代に言ひ継ぐがねと 「万代に」は永久に。「言ひ継ぐがね」の「がね」は巻三(三六四)に既出。将来を予想し希望する助詞で、語り伝えるようにと思って。○海の底奥つ深江の 「海の底奥つ」は、海の底の、陸から遠い所の奥で、その奥は深い意で、「深江」に続けた八音の序詞である。深江を重く言おうとしてのことである。○海上の子負の原に 「海上」は、海のほとり。下の子負の原の地勢を言い、これまた子負の原を重からしめようとしてのもの。○み手づから置かし給ひて 「置かし」は、置きの敬語。御自身の手をもってお置きになって。起首よりこれまでは、「帯比売神の命」が主格となって一と続きに続き、ここも「て」の助詞をもって下へ続いているのであるが、この「て」によって主格が変じ、以下は「奇魂」が主格になっているのである。この語法は平安朝にも及んでいるものである。○神随神さび坐す 「神随」は、神そのままにの意。「神さび坐す」は、神にふさわしいさまをしていらせられるで、下の「奇魂」を讃えた語。○奇魂今の現に 「寄魂」は、鎮懐石を言っているもの。奇魂というのは、『古事記伝』は、魂の力には二面あって、一面は荒魂《あらみたま》、他の一面は和魂《にぎみたま》であり、その和魂の中にさらに二面があって、一面は幸魂《さちみたま》、他の一面は奇魂であると言っている。これは魂の奇《くす》しき力を現わすのに対しての称である。この魂は、その霊妙なる力を持っている意味で神とされている。また神はその本賀として永遠に存在し、永遠にその力を現わすものである。本来信仰の対象であった石は、帯比売神の命の御身を通して、奇《くす》しき力を現わしたところから、(55)奇塊の神とされたのてある。上の「神随神さび坐す」は、この意味で言ったのである。「今の現《をつつ》に」は、「現《をつつ》」は、現《うつつ》と同じで現実。その遠い昔より、今の現実にわたってで、神の永遠性を言ったもの。○尊きろかむ 「ろ」は接尾語。「かむ」は「かも」と同じ。神に対しての讃え言。
【釈】 口にして申すのは甚だ恐れ多い。帯比売の神の命が、韓の国を降伏させ平定なされて、御心をお鎮めになろうとして、御手にお取りになって斎いをなされたところの真珠のような二つの石を、その霊力の奇《くす》しきことをあまねく世の人にお示しになって、また永遠に語り伝えるようにとお思いになって、海の底の遠い所のその深いという名を負うこの深江の、海のほとりの子負の原に、御手ずからお置きになって、神であるがままに神にふさわしいさまをしていらせられるこの奇魂《くしみたま》よ、その時より今の現在にわたって尊くもあることであるよ。
【評】 この歌の作意は、筑前国深江のほとりにある鎮懐石を、「奇魂」として崇める心をもって、その由来を叙し、また讃えたものである。この石の事は古事記日本書紀にもあり、また『筑前国風土記』『筑紫風土記』などにも出ていてあまねく知られていることであり、事新しく言うにも及ばない程のものであるが、左注によると、作者はその国の人で石を親しく眼にしている者から、そのことをくわしく聞かされると、今更のごとく深い感動を起こしてこの歌を作ろうとした心になったので、作因は明らかである。歌が叙事的なものとなっているのは、由来を明らかにすることがすなわち礼讃であって、それ以外には方法がないからである。これは『出雲国風土記』の国引きの条、あるいは祖先神を讃える詞などと軌を一にしたものである。作者は旅人であるとする説は従うほかのないものに思える。この時期には長歌の作者は多くはいず、大宰府を中心に見ればそれに堪えうる人は憶良で、旅人にして明らかに彼の作と知られるものは巻三(三一五)「芳野離宮に幸せる時勅を奉《うけたまは》りて作れる歌」と題する一首があるのみである。それでも旅人だと堪えられたことはたやすく想像される。この歌の作者の憶良でないことは歌そのものが明らかに語っている。彼の調べ強く、根太く、暢達の趣をもっているのとは正反対だからである。しかし旅人のおおらかに、物静かに、品位ある歌風にはなぞらえうるものが多分にある。平板なのは叙事を旨とした作であるから余儀ないこととして除外すると、言ったがごとく「て」の一助詞によ(56)って主格を変えているところ、深江に「海の底奥つ」という眼前を捉えての序詞を設けているところなど、繊細にして一種の含蓄とも称すべき趣をもたせたのは、おそらく彼を外にして何びとにも出来なかったことではないかと思われるからである。
814 天地《あめつち》の 共《とも》に久《ひおさ》しく 言《い》ひ継《つ》げと この奇魂《くしみたま》 しかしけらしも
阿米都知能 等母尓此佐斯久 伊比都夏等 許能久斯美多麻 志可志家良斯母
【語釈】 ○天地の共に久しく 「天地の共に」は、現在だと「天地と共に」というべきところで、「の」を同類の語を重ねる意の助詞とし、「共」を「天地」と同類としたと取れる。○言ひ継げと 言い継げよと言ってで、長歌の帯比売命を受けたもの。○この奇魂しかしけらしも 「この」は、眼前のものとして指示したもの。「しかし」は、敷かしで、敷くの敬語。「玉を敷く」というと同じく、置く意。「けらし」は、けるらしで、過去の推量の重いもの。
【釈】 天地と共に久しく言い伝えてゆけと帯比売神の命の思召されて、この奇魂《くしみたま》をここにお招きになったのであろう。
【評】 長歌の心を要約したものであるが、「けらしも」という詞は、帯比売神の命の仰せの通りに、現に眼前にある意を言っているもので、命と奇魂とに対する讃えの意を現わしたものであり、それが一首の中心となっているのである。
右の事伝へ言へるは、那珂《なか》郡|伊知郷《いちのさと》簑島《みのじま》の人建部牛麿是なり。
右事傳言、那珂郡伊知郷簑島人建部牛麿是也。
【解】「那珂郡」は、明治年間、今の筑紫郡の一部となった。福岡市の南方那珂川流域地帯。「伊知郷簑島」は、伊知はその名が伝わらない。簑島は国鉄筑肥線簑島駅付近。「牛麻呂」は、身分不明。この注は、「序」に言っていることの追記で、その伝の出所を確実にしようとする心よりのものである。
梅花の歌三十二首 并に序
【題意】「梅花の歌」は、大宰府における旅人の宅の園梅が盛んに咲いた時、旅人が主人となり、筑紫の国司、大宰府の職員を客として招き、観梅の宴を開いた時に、主客の詠んだ歌で、事は「序」にくわしい。「三十二首」は、主客おのおの一首ずつを詠(57)んだ数で、主人旅人の外に歌を詠んだ客は三十一人だったのである。歌の性質は、この会は宴会だったので、酒に伴う歌が心あり、その歌は喜びの心をもって、眼前を捉えて当座に詠むものであることは定まりであった。この歌はすべてその範囲のものである。注意せられることは、取材は梅であるが、いずれもそれに寄せて、主人旅人に対する賀の心を間接に言っていることである。これは旅人の地位と、その日の心から見て当然のことで、それのないのは旅人の歌のみである。三十二首の歌は、一定の方針をもって席次を定めてあり、「大弐紀卿」を第一位に、少弐二人を続け、ついで「筑前守山上大夫」という風にし、「主人」は第八位に据えている。この席次は、宴会のそれを反映しているものであろうと思われる。この席次は合理的なもので、主人旅人の定めたものと思われる。「序」の作者は、憶良といい、旅人といって、説が分かれている。常識的に考えると旅人であって然るべきである。梅はしばしば言ったように中国より舶来したものであり、当時は新味をもっていたものであるが、必ずしも珍奇な物ではない。観梅を名として、筑紫の地において、このような風流の大会を催すということは、一に旅人の趣味よりのことであって、未聞の盛事である。この日のことは余程旅人を喜ばせたとみえ、後になってその日のことを思い出し、迫和の梅花の歌も詠んでいる程である。すでにこの日の歌を整理して一纏めにする以上、文事に長《た》けている旅人が、その歌に題詞を添える心をもって序を書くということは、自然な、また当然なことと思われるからである。ついで出る(八六四)の吉田宜の旅人に贈った返翰によると、旅人は、(八五三)以下の「松浦河に遊ぶ序」の自作とともに、この序を宜に贈って示しているが、それに対し宜は讃詞を呈している。またこの序には旅人を讃する一語もないこと、また文体の華麗なことなども、旅人の作とする上に有力な証といえる。
天平に年正月十三日、帥《そち》の老《おきな》の宅《いへ》に萃《あつま》るは、宴会を申《の》ぶるなり。時に初春の令き月にして、気|淑《よ》く風|和《なご》やかに、梅は鏡の前の粉《しろきもの》を披《ひら》き、蘭《らん》は珮《おび》の後《しり》への香を薫る。加以《しかのみならず》曙の嶺に雲移り松|羅《うすもの》を掛けて蓋《きぬがさ》を傾《かたぶ》け、夕の岫《くき》に霧結び、鳥《とり》※[穀の禾が系]《となみ》に封《こ》められて林に迷《まと》ふ。庭には新しき蝶舞ひ、空には故《もと》つ鴈帰る。ここに天を蓋《やね》とし、地を坐《しきもの》にし、膝を促《ちかづ》け觴《さかづき》を飛ばす。一室《ひとま》の裏《うち》に言《こと》を忘れ、煙霞の外に衿《えり》を開き、淡然《あは》くして自《みづか》ら放《ほしきまま》に、快然《こころよ》くして自ら足る。若《けだ》し翰苑《ふみてのその》に非ずは、何を以ちてか情《こころ》を※[手偏+慮]《の》べむ。詩に落梅の篇を紀《しる》せり。古と今と夫れ何ぞ異ならめや。宜《うべ》園《その》の梅を賦みて聊か短詠《みじかうた》を成せ。
天平二年正月十三日、萃2帥老之宅1、申2宴會1也。于v時初春令月、氣淑風和、梅披2鏡前之紛1。蘭薫2珮後之香1。加以、曙嶺移v雲、松掛v羅而傾v蓋、夕岫結v霧、鳥封v※[穀の禾が系]而迷v林。庭(58)舞2新蝶1、空帰2故雁1。於v是蓋v天、坐v地、促v膝飛v觴。忘v言2室之裏1、開v衿2煙霞之外1、淡然自放、快然自足。若非2翰苑1、何以※[手偏+慮]v情。詩紀2落梅之篇1。古今夫何異矣。宜賦2園梅1聊成2短詠1。
【語釈】 ○帥の老の家に萃るは 「帥の老」は旅人。「家」は官邸。「萃る」は集まる。○宴会を申ぶ 「申ぶ」は「舒ぶ」で、心をくつろがす。○初春の令き月 正月の善い月。○梅は鏡の前の粉を披き 「鏡の前の粉」は、美人が鏡の前で白粉を粧うのを、開いた梅の譬えとしたもの。○蘭は珮の後への香を薫る 「蘭」は、香草。「珮」は佩の字も用いる。大帯。「後への香」は、大帯の後ろに香木や麝香を入れた嚢を下げていたので、それを譬としたもの。○松は羅を掛けて蓋を傾け 「羅」は、絹の薄もので、霞を譬えたもの。「蓋」は既出。貴人にさし掛ける織物を張った長柄の傘。うす霞のかかった松の形容。○夕の岫に霧結び 「岫」は山にある穴。「結び」は吐き。○鳥※[穀の禾が系]に封められて林に迷ふ 「※[穀の禾が系]」は、細かい紗で出来た鳥網で、霧の譬。「封めらられて」は、取り込められて。○故つ雁 去年来た雁。○天を善とし、地を坐にし 『淮南子』に、「以v天為v室以v地為v輿」とあるより取る。○膝を促け傷(角偏)を飛ばす 「促」は、近く接しさせ。「觴」は盃。「飛ばす」は速かにめぐらせる。〇一室の裏に言を忘れ 忘言は『晋書』『荘子』にある語で、興の深い意。○煙霞の外に衿を開き 胸を披いて外の煙霞に向うで、打解けて風景を楽しむ意。○淡然くして自ら放に 心を淡泊にして自身を自由に扱い。○快然くして自ら足る 快くして自身を満足させる。○若し翰苑に非すは、何を以ちてか情を※[手偏+慮]べむ 「翰苑」は文筆。文筆以外には情を舒《の》べる方法がない。○詩に落梅の篇を紀せり 「詩」は漢詩。「落梅の篇」は、『攷証』は「楽府《がふ》、梅華落曲」と言っている。他にもあろう。○園の梅を賦みて聊か短詠を成せ 「園の梅」は、おりからの旅人の園の梅。「賦みて」は題材として。「短詠」は、短歌。
815 正月《むつき》立《た》ち 春《はる》の来《きた》らば かくしこそ 梅《うめ》を折《を》りつつ 楽しき竟《を》へめ 大弐紀卿
武都紀多知 波流能吉多良婆 可久斯許曾 鳥梅乎乎利都々 多努之岐乎倍米 大貳紀卿
【語釈】 ○正月立ち春の来らば 「立ち」は、始まるで、正月が始まって、春が来たならば。○かくしこそ梅を折りつつ 「かく」は、このようにで、現在の状態。「し」は強意の助詞。「こそ」は係助詞。「梅を折りつつ」は梅の花の枝を折ることをいつの年もしてで、折るのは挿頭《かざし》にする為である。宴会の時にはその時の花を冠に挿すのが、公私を通じての風だったのである。○楽しき竟へめ 「楽しき」は、名詞形。「竟へ」は、極め尽くす意。「め」は「こそ」の結。助動詞「む」の連用形。
【釈】 正月が始まって春が来たならば、このように、梅の枝を折って挿頭にすることを繰り返して、楽しさを極めよう。
【評】 この歌は本歌がある。古歌で『琴歌諸』に載っているものに「新しき年の始めにかくしこそ千年《ちとせ》をかねて楽しき竟《を》へ(59)め」というのである。これを捉えてその場合に適するように替えたものである。今日の楽しさを将来の永い例にしようということは、主人に対して最上の挨拶ともなるものである。宴歌はその席に興を添えることを目的の大部分にしているものであるから、ただちに、本歌を思い合わせて興じたことと思われる。
【作者】 大弐紀卿。「大弐」は、大宰大弐で、帥に次ぐ官。「紀」は氏。名は敬って略してある。「卿」は三位以上に用いる字である。大弐は初め正五位相当官で、後に従四位とした職であるから、「卿」は特に尊んで用いたのである。漠風に模しての書き方である。
816 梅《うめ》の花《はな》 今《いま》咲《さ》ける如《ごと》 散《ち》り過《す》ぎず 我《わ》が家《へ》の苑《その》に ありこせぬかも 少弐小野大夫
鳥梅能波奈 伊麻佐家留期等 知利須義受 和我覇能曾能尓 阿利己世奴加毛 小貮小野大夫
【語釈】 ○梅の花今咲ける如 梅の花は今目の前に咲いているようにで、次の句を修飾する。○散り過ぎず 「過ぎ」は過ぎ去るで、散ってしまわずに。○我が家の苑にありこせぬかも 「家」は、いえの上略。「こせ」は希求助動詞で、巻二(一一九)に既出。「ぬかも」は、打消の反語で、希望をあらわす。あってくれないのかなあ。
【釈】 梅の花は、今咲いているように散ってはゆかずに、我が家の苑にあってはくれないのかなあ。
【評】 目の前に盛りに咲いている梅を讃える心のものであるが、その讃え方がひどく立ち入った、持って廻ったものである。第一に、いつまでも散ってしまわずにいさせたいと言い、ついで、自分の家の庭の物にしたいと言っているのである。宴歌としてその席に興を添えるものとしようとの念からこうした讃え方をしたものかと思われるが、それだといわゆる下手な洒落に類したものである。歌才の乏しかった人とみえる。
【作者】 少弐小野大夫。「少弐」は、大宰小弐で大弐に次ぐ官。「小野」は、氏。略されている名は「老」とわかる。○老の伝は、巻三(三二八)に出た。「大夫」は四位、五位に対しての敬称。
817 梅《うめ》の花《はな》 咲《さ》きたる苑《その》の 青柳《あをやぎ》は 蘰《かづら》にすべく なりにけらずや 少弐粟田大夫
鳥梅能淡奈 佐吉多流僧能々 阿遠地疑波 可豆良尓須倍久 奈利尓家良受夜 小貮粟田大夫
【語釈】 ○青柳は 「柳」はしだり柳。庭前にあった物。○蘰にすべく 「蘰」は巻三(四二三)に既出。しだれ柳の枝は柔軟で、曲げて輪状にするに適したもの。本来は礼装としての物であったが、私の宴会にも用いるものとなった。ここはその日の物。「すべく」は、出来そうに。○なりにけらすや 「なり」は、ここは青く芽を出して来た意。「けら」は「けり」の未然形。「や」は反語。なって来たではないか。
(60)【釈】 梅の花の咲いているこの苑の青柳は、蘰に出来るようになったではないか。
【評】 四句までの続きは、梅の花を挿頭にすることはもとより、それとともにある青柳も、蘰に出来るようになっているというので、「けらずや」の強い反語が十分梅の花の挿頭のほうを暗示し得ている。宴歌としての心を上品な形において十分に果たし得ている歌である。歌才のある人だったとみえる。
【作者】 少弐粟田大夫。「粟田」は、氏。名は不明。続日本紀に栗田朝臣|人上《ひとがみ》があり、天平元年三月正五位上を授けられている。少弐は従五位の官なので、この人ではないかと言われている。
818 春《はる》されば 先《ま》づ咲《さ》く宿《やど》の 梅《うめ》の花《はな》 ひとり見《み》つつや 春日《はるひ》暮《く》らさむ 筑前守山上大夫
波流佐礼婆 麻豆佐久耶登能 烏梅能波奈 比等利美都々夜 波流比久良佐武 箭守山上大夫
【語釈】 ○春されば先づ咲く宿の梅の花 「春されば」は、春が来ればで、既出。「先づ咲く」は、他の花に先立って咲くところの。「宿」は自身の家。「梅の花」は、呼びかけた形のもの。○ひとり見つつや 「ひとり」は、相手なく、ただ独りで。「見つつ」は、継続。「や」は疑問。○春日暮らさむ 「春日」は、春の日で、永いものとして言っている。暮らさむ」は、日を過ごす。
【釈】 春が来ると、他の花に先立って咲くところのこの家の梅の花よ。ただ独りで見つつして、永い春の日を過ごすであろうか。
【評】 「春されば先づ咲く宿の梅の花」は、広い言い方のものであるが、ここは今目前に見ている旅人の庭の物を指しているのである。「ひとり見つつや春日暮らさむ」は、旅人のこの宴を開くに先立つ幾日かの心を想像して言っているもので、「や」という疑間の一助詞によって、そうしているに忍びない旅人の心をあらわしているものである。すなわちそれが今日の梅花の宴の原因だとしているのである。好景を衆とともに楽しみたいというのは共通の人情であるが、いわゆる君子の徳ともしているので、ここはその心で言っているものである。宴歌とすると映えないものであるが、憶良の物を大観して言おうとする態度と、漢学者らしい気分との一つになった、渋い歌である。主人旅人を讃えた挨拶である。
【作者】 筑前守山上大夫。憶良である。
819 世《よ》の中《なか》は 恋《こひ》繁《しげ》しゑや かくしあらば 梅《うめ》の花《はな》にも ならましものを 豊後守大伴大夫
余能奈可波 古飛斯宜志恵夜、加久之阿良婆 烏梅能汲奈尓母 奈良麻之勿能怨 豊後守大伴大夫
(61)【語釈】 ○世の中 は恋繁しゑや 「恋繁し」の「恋」は、広く世の中に対してのもので、憧れとも物慾とも言いかえられるもものである。「繁し」は、多し。「ゑや」は、感動の助詞。○かくしあらば 「かく」は上の二句を受けたもの。「し」は強意、「あらば」は仮説。そのようなものであるならば。○梅の花にもならましものを 「も」は感勤。「まし」は仮設の帰結。我は梅の花になろうものを。
【釈】 世の中は物慾の多いことであるよ。そうしたものであるとしたら、我は梅の花になろうものを。
【評】 平生の俗情が、今日見る梅の花で一掃された喜びを、思い入れ潔く全帽を傾けて言っているもので、旅人に対しての挨拶である。素朴な、立体感をもった歌で、「梅の花にもならまし」が言い据わったものとなっている。歌才ではなく人柄の歌である。
【作者】 豊後守大伴大夫。「大夫」を『代匠記』は大伴三依であろうと言っているが、『攷証』は今は天平二年で、三依の従五位下になったのは天平二十年であるから時代が合わないと言っている。未詳。
820 梅《うめ》の花《はな》 いま盛《さかり》なり 思《おも》ふどち 挿頭《かざし》にしてな 今《いま》さかりなり 筑後守|葛井《ふぢゐ》大夫
鳥梅能波奈 伊麻佐可利奈理 意母布度知 加射之尓斯弖奈 伊麻佐可利奈理 筑後守葛井大夫
【語釈】 ○思ふどち 思う人同士で、その日集まっている人の全体を指したもの。○挿頭にしてな 「挿頭」は既出。「て」は完了の助助詞「つ」の未然形。「な」は自己の願望の助詞。
【釈】 梅の花は今が盛りである。思う同士は挿頭にしようよ。今が盛りである。
【評】 苑の梅の美観を讃え、思う人どちすべてがそれを挿頭にして、宴席の興を極めようというので、主人旅人に対する挨拶の心をもって、会衆すべてに呼びかけたものである。形は典型
(62)の的な謡い物で、二句と四句で切りヽ二句を結句で繰り返したもである。謡った歌かと思われる。
【作者】 筑後守葛井大夫。葛井連|大成《おおなり》で、巻四(五七六)に出た。
821 青柳《あをやなぎ》 梅《うめ》との花《はな》を 折《を》りかざし 飲《の》みての後《のち》は 散《ち》りぬともよし 笠沙弥
阿乎夜奈義 烏梅等能波奈乎 遠理可射之 能弥弖能々知波 知利奴得母與新 笠沙彌
【語釈】 ○青柳梅との花を 「梅と」の「と」は、付加する意の助詞で、後世だと「青柳と」と続けるのを、上の物のほうはないのが当時の語法であった。青柳の花は柳絮である。○折りかざし 折って挿頭として。○飲みての後は散りぬともよし 「飲み」は、酒を飲む意で、用例の多い言い方である。「散りぬともよし」は、「ぬ」は完了で、散ってもかまわない。「とも」は逆意の仮定。
【釈】 青柳と梅の花とを折って挿頭として、酒宴の興を尽くしての後は、散ってしまおうともかまわない。
【評】 三句「折りかざし」までは、「飲み」の状態として言っているもので、酒宴の興を尽くす意のものである。結句「散りぬともよし」は、一面には主人の心を汲んで代弁するがごとき心をもってのものであるが、それにしても甚だ強い言い方である。しかるに集中にはこれと同じ結句をもった歌が他にもある。巻六(一〇一一)、巻八(一六五六)、巻十(二三二八)がそれであり、いずれも梅の花に対してのものである。当時梅の花を主題とし、こうした結句を持った謡い物があり、人口に膾炙していたところから、それを捉えてこの場合に利用したのではないかと思われる。それだと甚だ気の利いたものとなり、強すぎるのも緩和される。作者は歌才の甚だ豊かな人であることも手伝っての推畳である。
【作者】 笠沙弥。沙弥満誓で、「笠」は在俗中の氏である。名を言わぬ例から、氏を用いてその人をあらわしたのである。満誓は当時、造観音寺別当として大宰府にいたので、そのことは巻三(三三六)に出た。
822 わが苑《その》に 梅《うめ》の花《はな》散《ち》る ひさかたの 天《あめ》より雪《ゆき》の 流《なが》れ来《く》るかも 主人
和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母 主人
【語釈】 ○ひさかたの天より雪の 「ひさかたの」は、天の枕詞。○流れ来るかも 「流れ」は、雨、雪、霙などの降る状態をあらわす語で、その継統としての「流らふ」も用いられている。また、風の吹く状態にも用いている。降り、吹く状態を感覚的に言いかえることによって、具象の度を高めようとしたものと取れる。「かも」は感動の助詞で疑問の意も含んでいるもの。
(63)【釈】 わが苑の梅の花が散る。あるいは天から雪の降るのであろうか。
【評】 旅人の歌で、主人であるところから他に対しての儀礼の心を働かせる要はなく、ただ梅花に対しての心だけを言っている。梅の花の散るのが降る雪のごとく見えるということは、この当時として新しいものではなかったろうと思われるが、一首の歌となっているのを見ると、歌柄が大きく、調べが高く、堂堂としたものとなり、旅人その人を思わせるものとなっている(梅の花の散ることを二句で力強く叙し、三句以下、それはあるいは雪の降るのかと言っているだけであるが、その雪は、「ひさかたの天より流れ来る」と、それとしてはきわめて大きな言い方をしているので、初二句には老齢を嘆く感、三句以下にはそれを天命として諦めようとしている感のごときものがおのずから感じられて来て、抒情の一語なき歌が、上品な力強い抒情の歌のごとき味わいを帯びて来るのである。味わいのある歌である。
【作者】 主人《あるじ》。旅人である。
823 梅《うめ》の花《はな》 散《ち》らくは何処《いづく》 しかすがに 此《こ》の城《き》の山《やま》に 雪《ゆき》は降《ふ》りつつ 大監《だいげん》伴氏|百代《ももよ》
烏梅能波奈 知良久波伊豆久 志可須我尓 許能紀能夜麻尓 由企波布理都々 大監伴氏百代
【語釈】 ○梅の花散らくは何処 「散らく」は、「散る」の名詞形。「何処」は、どこぞと疑って言ったもの。○しかすがに 上を受けて、そうはいうもののと打返す意の副詞。○此の城の山に 「此の」は、眼前のものを指示する語。「城の山」は巻四(五七六)に出た。福岡県筑紫郡と佐賀県三養基郡との堺にある山で、筑後の国府から大宰府へ通う路にある山。大宰府からの距離は二里半で、遠望のできる山。大野山(七九九)とする説もある。○雪は降りつつ 「つつ」は継続で、雪が現に降りつついる意である。これは誇張と取れる。
【釈】 梅の花の散っているというのは、どこのことであろうか。我にはそうは見えない。そうはいうもののあの城の山には、冬の物の雪が降りつついる。
【評】 この歌は、他の人々は皆、それぞれ自分の立場に立って作歌しているのに、それとは異なって、旅人の右の歌に対する和《こた》え歌として詠んでいるものである。傍らの人の歌に対して和え歌を詠むのは、平常であれば当然のことになっているので、今もその心よりのことと取れる。「梅の花散らくは何処」は、旅人の「吾が苑に梅の花散る」を否定したもので、「しかすがに」は立ち返ってそれを柔らげて、「此の城の山に雪は降りつつ」と、その席より遠望される城の山に、雪が白く見えるのを誇張して、季節はまだ冬であると立証して言っているのである。このような和え歌を詠んだのは、作者百代は旅人に側近しているところから、上の旅人の歌を、言ったがごとく老齢を嘆く心と解し、梅の花が散るというそのようなことはない、そうは言われるものの、あの城の山には冬の物の雪が降っていて、まだそうした季節ではないと言って慰めた心のものと解される。それでない
(64)とこの歌の独立性は保てなくなるからてある。
【作者】 大監伴氏百代。「大監」は、大宰府の職で、巻三(三九二)に既出。「伴」は大伴。「百代」は、名。ここから名をもってしている。ここまでの人々は、大弐少弐など大宰府の職ながら位地の高い者、また国守、満誓のような特殊な位地の人までも、すべて名を記さず敬称をもってしていたのに、ここから名を記している。軽く扱う意である。こういう扱いをなしうる者は旅人だけで、他にはない訳である。
824 梅《うめ》の花《はな》 散《ち》らまく惜《を》しみ 吾《わ》が苑《その》の 竹《たけ》の林《はやし》に 鶯《うぐひす》鳴《な》くも 少監阿氏|奥島《おきしま》
烏梅乃波奈 知良麻久怨之美 和我曾乃々 多気乃波也之尓 于具比須奈久母 小監阿氏奥嶋
【語釈】 ○梅の花散らまく惜しみ 「散らまく」は、「散らむ」の「む」の古形「ま」に、「く」の続いた名詞形。散りそうなのを。○吾が苑の竹の林に 作者の庭のさまで、竹が林をなしており、その側に梅が咲いている形で、実景。○鶯鳴くも 「も」は感動の助詞。
【釈】 梅の花の散りそうなのを惜しんで、私の苑の竹の林に鴛が鳴いていることよ。
【評】 苑の梅の盛りの花の散りそうになったのに対して、惜しんでいると、おりからその側の竹の林で鶯が鳴いたので、自身の感情を鶯に移入した形のものである。このことは、この梅花の歌ではすでに常識のごとく用いられていて、その時代のいかに文芸的になっていたかを思わせるのであるが、この歌はその方法の際立ったものである。しかし一方では、実景を忠実に言おうとする心も働いていたことが注意される。鶯をして梅の花の散ろうとしているのを惜しませるのは、主人に対する挨拶となるものである。
【作者】 少監阿氏奥島。「少監」は、大監の次官で、職掌は同様である。「阿氏」は阿部、阿曇《あつみ》などの一字を取ったもの。高官は氏を完全に記したのを、大監、少監からは上の一字のみにして、下は省略する記し方をしている。身分の上で差別をつけてのことである。「奥島」は、伝不明。
825 梅《うめ》の花《はな》 咲《さ》きたる苑《その》の 青柳《あをやぎ》を 蘰《かづら》にしつつ 遊《あそ》び暮《く》らさな 小監土氏百村
烏梅能波奈 佐岐多流曾能々 阿遠夜疑遠 加豆良尓志都々 阿素※[田+比]久良佐奈 小監土氏百村
【語釈】 ○梅の花咲きたる苑の 三句の「青柳」の位置を説明している形のものであるが、それとともに苑全体の春景をあらわしているもので、結句の「遊び暮らさな」に照応させたもの。○青柳を蘰にしつつ 青柳の蘰は上に出た。「しつつ」は継続で、時間の長さをあらわしているもの。○遊び暮らさな 「な」は自己に対する願望。
(65)【釈】 梅の花の咲いている苑にある青柳を、今日の宴席の蘰にしつつ一日を遊び暮らそう。
【評】 宴席に列してよろこびを味わいつつ、そのよろこびの延長を願っている心である。おのずから挨拶の心ともなっている。感性の細かさを見せている歌である。
【作者】 小監土氏|百村《ももむら》。この人は、続日本紀に、「養老五年正月庚午、詔(中略)従五位下山上臣憶良、正七位上土師宿禰|百村等、退朝之後令v侍2東宮1焉」とある、その百村と取れる。したがって「土氏」は、土師氏《はにし》であり、学識のあった人と思われる。
826 うち靡《なび》く 春《はる》の柳《やなぎ》と 吾《わ》が宿《やど》の 梅《うめ》の花《はな》とを 如何《いか》にか分《わ》かむ 大典史氏大原
有知奈※[田+比]久 波流能也奈宜等 和我夜度能 烏梅能波奈等遠 伊可尓可和可武 大典史氏大原
【語釈】 ○うち靡く春の柳と 「うち靡く」は、春の枕詞であるが、「柳」の状態ともなって、二様の働きをしている。「春の柳」は、春の若葉を出した柳で、これは旅人の苑内の物。○吾が宿の梅の花とを 「吾が宿」は、自分の家。○如何にか分かむ 「か」は疑問の助詞。「分かむ」は、判別をつけようで、いずれか優り劣っているのそれ。梅の花には劣る柳であるがそうは見えない意。
【釈】 靡いている春の柳の愛《め》でたさと、吾が家の梅の花の愛でたさと、いずれが優っていると判別をつけようか。
【評】 旅人の庭の春の初の愛でたさを讃えたもので、梅の花は言うまでもないとし、柳も、我が庭の梅の花よりも優っていると言って、全部を讃えているのである。心が細かく働いている為に、言い方が婉曲になっているが、挨拶の歌としての心は果たし得ているものである。作歌に孰している人である。
【作者】大典史氏大原。「大典」は大宰の大典。「史氏」は、史部《ふひとべ》氏。「大原」は、伝不明。
827 春《はる》されば 木末隠《こぬれがく》りて 鶯《うぐひす》ぞ 鳴《な》きていぬなる 梅《うめ》が下枝《しづゑ》に 少典山氏若麿
波流佐礼婆 許奴礼我久利弖 宇具比須曾 奈蚊弖伊奴奈流 烏梅我志豆廷尓 小典山氏若麿
【語釈】 ○木末隠りて 「木末」は枝先で、葉の茂っているところ。「隠り」は、古くは四段活用。木ぬれに隠れてで、鶯の常磐木を木伝うさまを叙したもの。○鶯ぞ鳴きていぬなる 「ぞ」は係助詞。「いぬなる」は、行くことよで、「ぞ」の結。○梅が下枝に 「下枝」は幹の下のほうの枝。
【釈】 春が来ると、常磐木の枝先に隠れて、鶯が鳴いて飛び移ってゆくことであるよ、梅の下枝に。
(66)【評】 これはその折苑内で見かけた鶯の動作を捉えて詠んだものである。その鶯は常磐木の梢から現われて、鳴きながら梅の木の下枝に向かって飛んで行ったので、それをそのまま捉えた形である。しかし同時にいま一つの心の働きがあった。それはその鶯が、常磐木から現われたということで、これはいわゆる春になると鶯が幽谷を出て喬木に移るということを連想させるものであるから、ここでは常磐木をその喬木とし、さらに梅の枝に移って行くとして、そこに梅の花を讃える心をあらわそうとしたのである。初句に「春されば」というこの場合としては不用に見える句を置いているのは、その心からのことである。写生によって題詠の心を遂げている歌である。
【作者】 少典山氏若麿。「少典」は大典の次官。職掌は同じである。「山氏」は、山口氏。巻四(五六七)「少典山口忌寸若麿」とある人である。
828 人毎《ひとごと》に 折《を》り挿頭《かざ》しつつ 遊《あそ》べども いやめづらしき 梅《うめ》の花《はな》かも 大判事丹氏麿
比等期等尓 乎理加射之都々 阿蘇倍等母 伊夜米豆良之岐 烏梅能波奈加母 大判事丹氏麿
【語釈】 ○いやめづらしき 「いや」はますます。「めづらし」は、動詞「めづ」より出た形容詞。愛ずらしの意にも、珍しの意にも用いている。これは前者である。
【釈】 人毎に、折って挿頭にしつつ遊んでいるけれども、ますます愛ずべくも見える梅の花であることよ。
【評】 宴会と梅の花とを、そのよろこびによって綜合したもので、体を得た歌である。
【作者】 大判事丹氏麿。「大判事」は大宰府の官人で、司法官。「丹氏」は不明。「舟氏」とある本もある。「暦」も不明。
829 梅《うめ》の花《はな》 咲《さ》きて散《ち》りなば さくら花《ばな》 継《つ》ぎて咲《さ》くべく なりにてあらずや 薬師《くすりし》張《ちやう》氏|福子《ふくし》
烏梅能波奈 佐企弖知理奈波 佐久良婆奈 都伎弖佐久倍久 奈利尓阿良受也 藥師張氏福子
【語釈】 ○継ぎて咲くべく 続いて咲きそうに。○なりにてあらずや 「や」は反語。なっているではないか。
【釈】 梅の花が咲いて散ったならば、桜花が続いて咲きそうになっているではないか。
【評】 この歌は、題の梅花を離れようとしているものであるが心としては、花を通しての春のよろこびの尽きないことを言っているので、広い意味で繋がりがあると言える。気分はあるが、この場合のものとしては拙い。
(67)【作者】 薬師張民福子。「薬師」は、医師で、医療のことを司る大宰府の官人。「張氏」は職業柄、帰化人系統の人と思われる。氏名は字音に訓むべきだろう。伝不明。
830 万世《よろづよ》に 年《とし》は来経《きふ》とも 梅《うめ》の花《はな》 絶《た》ゆることなく 咲《わ》き渡《わた》るべし 筑前介佐氏|子首《こびと》
萬世尓 得之波岐得母 烏梅能波奈 多由流己等奈久 佐吉和多流倍子 筑前介佐氏子首
【語釈】 ○万世に年は来経とも 「万世」は永久。「来経」は、来たり過ぎ去るで、来るというに異ならない。用例が少なくない。○咲き渡るべし 「渡る」は続く。「べし」は推量の助詞。
【釈】 永久に年は来るとも、梅の花は絶えることなく咲き続いて行くであろう。
【評】 旅人の庭の梅の花を対象にして、梅花その物の永遠性を言っているので、旅人に対する賀の挨拶となりうるものである。
【作者】 筑前介佐氏子首。「介」は守に次ぐ官。「佐氏」は佐伯の略であろう。
831 春《はる》なれば 宜《うべ》も咲《さ》きたる 梅《うめ》の花《はな》 君《きみ》を思《おも》ふと 夜寝《よい》も寝《ね》なくに 壱岐守板氏安麿
波流奈例婆 字倍母佐枳多流 烏梅能波奈 岐美乎於母布得 用伊母祢奈久尓 壹岐守板氏安麿
【語釈】 ○春なれば宜も咲きたる 「春なれば」は、春にあればで、春なので。「宜」はもっともなど、諾《うべな》う意の副詞。「も」は、感動の助詞。○梅の花 呼び懸け。○君を思ふと 「君」は、上の梅の花を擬人して敬称を用いたもの。「思ふと」は、恋しく思うとて。○夜寝も寝なくに 「夜寝」は、夜の眠りで、熟語。「なくに」は、しばしば出た。
【釈】 春なので、もつともにも咲いている梅の花よ。君の上を思うとて我は、夜の眠りも出来ないことなのだ。
【評】 梅の花に対してきわめて深く傾倒している心である。「春なれば宜も咲きたる梅の花」と、眼前に咲いている梅の花を見て、その咲いていることを一度は訝り、思いかえして、春なので咲いていても不思議はないと諾った心である。この作者は壱肢を任地としているので、そこにも梅はあるが、花はまだ咲かなかったからのことてある「君を思ふと夜寝も寝なくに」は、作者の任地では梅の花の咲くを待って夜も眠れずにいることを言って、眼前の梅の花を一段と讃えたのである。梅の花に君という敬称を用いているのは、漢詩文の影響と、梅がまだ珍しいものであったこととの相俟ってのことと思われる。一首、(68)自身の体験を主としたものであるが、おちいるところ、旅人の苑の梅の花を讃えたもので、宴歌と言える。
【作者】 「板氏」は紀州本は「坂」、西本頗寺本は「榎」で、定め難い。不明である。「板氏」ならば、続日本紀、天平七年九月の条に出る大史従六位下板持安麻呂か。
832 梅《うめ》の花《はな》 折《を》りてかざせる 諸人《もろびと》は 今日《けふ》の間《あひだ》は 楽《たの》しくあるべし 神司《かむづかさ》荒氏|稲布《いなふ》
烏梅能波奈 乎利弖加射世留 母呂比得波 家布能阿此太波 多努斯久阿流倍斯 神司荒氏稻布
【語釈】 ○諸人は その日の会衆全部の意で、作者もその中にいるのである。○今日の間は 今日の一日の間はで、その「今日」は、旅人の家の客となって観梅の宴につらなっているという、まことに稀有な日で、尊んで言っているもの。○楽しくあるべし 「べし」は推量の助動詞。
【釈】 梅の花を折って挿頭としているもろもろの人は、今日の一日のあいだは楽しいことであろう。
【評】 旅人の観梅の宴に列《つらな》るという稀有な歓びに対しての感謝の心を言ったものである。しかしそれを言うには、第三者ででもあるがごとき、相応に距離を置いての言い方をしている。それはこの作者だけではなく、官人としての位地の低い者には通じてのことで、意識してのこととみえる。この作者はそれを際やかにしてあらわしているのである。「今日の間は楽しくあるべし」というのは、深い感謝の心よりのものであるが、一読それとは響きかねるようなところのあるのは、控えめに言おうとする心よりのことである。
【作者】 神司荒氏稲布。「神司」は、大宰府の主神で、神事を司る職。「荒氏」「稲布」はいずれも不明。
833 年《とし》のはに 春《はる》の来《きた》らば かくしこそ 梅《うめ》を挿頭《かざ》して 楽《たの》しく飲《の》まめ 大令史《たいりやうし》野氏|宿奈麿《すくなまろ》
得志能波尓 波流能伎多良婆 可久斯己曾 烏梅乎加射之弖 多努志久能麻米 大令史野氏宿奈麿
【語釈】 ○年のはに 毎年。○楽しく飲まめ 「飲まめ」は、酒を飲もうで、上に出た。「め」は上の「こそ」の結。
【釈】 毎年、春が来たならば、今日の通りに、梅の花を挿頭として、楽しく酒を飲もう。
【評】 楽しい遊びをして、また重ねてしようというのは常識で、いつの時にも言われていることである。最初に出た紀の卿の歌と構成が酷似している。同じく謡い物に拠ったものであろう。
【作者】 大令史野氏宿奈麿。「大令史」は大宰府の書記。「野(69)氏」は、小野、大野など多く、不明。「宿奈麿」も同じ。
834 梅《うめ》の花《はな》 今《いま》盛《さかり》なり 百鳥《ももとり》の 声《こゑ》の恋《こほ》しき 春《はる》来《きた》るらし 少令史田氏|肥人《ひびと》
烏梅能波奈 伊麻佐加利奈利 毛々等利能 己惠能古保志枳 波流岐多流良斯 小令史田氏肥人
【語釈】 ○百鳥の声の恋しき 「百鳥」は、さまざまの鳥。「恋しき」は、恋しきの古語。鳴き声の恋しい。○春来るらし 「春」は小鳥の声の艶を帯びて好くなる時。「らし」は、限前を証としての推量の助動詞。証は梅の花である。
【釈】 梅の花が今盛りである。さまざまの小鳥の鳴き声の恋しくなる春が来ることであろう。
【評】 盛りに咲いている梅の花を見ると、それに続いて春の代表物として現われる百島の声の好さを想像して、春の整ひ来るのを待つ心である。眼前の梅の花を土台としている点では、宴会につながりをもち得ているが、この場合の歌としては適切なものだとは言えない。鳥の声を愛することはこの時代に入って箸しくなっていると思われるが、百島の声の恋《こお》しきという心は、作者の個性の強く働いているものである。
【作者】 少令史田氏肥人。「少令史」は上に出た。「田氏」は、「田」の字をもった氏は多いので、いずれとも定め難い。「肥人」も伝不明。
835 春《はる》さらば 逢《あ》はむと思《おも》ひし 梅《うめ》の花《はな》 今日《けふ》の遊《あそび》に あひ見《み》つるかも 薬師《くすりし》高《かう》氏|義通《ぎつう》
波流佐良婆 阿波武等母比之 烏梅能波奈 家布能阿素※[田+比]尓 阿比美都流可母 藥師高氏義通
【語釈】 ○春さらば逢はむと思ひし 春が来たならば、逢おうと思っていたで、下の「梅の花」を擬人した言い方。○梅の花 呼びかけ。○今日の遊に 「遊」は、意味の広い語で、宴会、歌舞、奏楽などの称ともなっていた。これは中世にも及んでいる。ここは宴会の意。○あひ見つるかも 逢い見たことであるよと、二句の「逢はむと思《も》ひし」を繰り返した形のもの。「かも」は感動の助詞。
【釈】 春が来たならば逢おうと思っていたところの梅の花よ。今日の宴会に逢い見たことであるよ。
【評】 憧れていた梅の花を見ることの出来たのを、この宴会が機縁であったとして言ったもので、その場合にかなった歌というべきである。しかしそれを言う態度は、個人的な色彩の濃厚なもので、会衆とともに楽しんでいるという気分は稀薄である。梅の花を擬人している点は上の(八三一)と同じく漢詩文の影響の見えることで、その趣味に浸っている趣がある。
(70)【作者】 薬師高氏義通。「薬師」は、前にも出た。「高」という氏は続日本紀に見え、音で訓むもの。「義通」は、伝不明。これも音で訓むべきであろう。
836 梅《うめ》の花《はな》 手折《たを》りかざして 遊《あそ》べども 飽《あ》き足《た》らぬ日《ひ》は 今日《けふ》にしありけり 陰陽師《うらのし》礒《いそ》氏|法《のり》麿
烏梅能波奈 多乎利加射志弖 阿蘇倍等母 阿岐太良奴比波 家布尓志阿利家利 陰陽師礒氏法麿
【語釈】 ○手折りかざして 「手」は接頭語。折って挿頭にして。○飽き足らぬ日は 満足できない日はで、楽しさが尽きないので心が残る意。○今日にしありけり 「し」は強意の助詞。
【釈】 梅の花を折って挿頭にして宴楽をしたけれども、飽き足りない日は、今日という日であるよ。
【評】 これは宴会の終りに近い頃、その日一日中の楽しさを思い返し、なお楽しさの尽きないことを言ったもので、感謝の心よりのものである。場合にふさわしい歌である。
【作者】 陰陽師礒氏法麿。「陰陽師」は大宰府の官人で、人筮相地をする職。「礒氏」は、礒部氏かという。「法麿」は伝不明。
837 春《はる》の野《の》に 鳴《な》くや鶯《うぐひす》 なつけむと 我《わ》が家《へ》の苑《その》に 梅《うめ》が花《はな》咲《さ》く ※[竹/卞]師《かぞへのし》志《し》氏大道
波流能努尓 奈久夜汗隅比須 奈都氣牟得 和何弊能曾能尓 汗米何波奈佐久 ※[竹/卞]師志氏大道
【語釈】 ○鳴くや鶯 「や」は感動の助詞。鳴く鶯を。○なつけむと 「なつく」は、馴着くで、手なずける。「と」は、と思って。○我が家の苑に 「我が家《へ》」は、「我が家《いへ》」と並び行なわれている。○梅が花咲く 「が」は梅に重点を置いて熟語的にしたもの。擬人している。
【釈】 春の野に鳴いている鶯を手なずけようとして、我が家の庭に梅の花が咲いている。
【評】 鶯は梅の花の咲く頃に来る鳥であるのと、春第一に咲く梅とは、快感の上で調和するところから、二つを関係づけようとする心は、自然なものであるとともに、この時代の生活情調、文芸尊重の気分と相俟って行なわれていたことは、上の(八二七)でも窺われる。野に鳴く鶯に「や」の感動の助詞を添えて強調し、梅には「なつけむと」と擬人して人間に引き着けているが、しかし実景の上に立っているところがあり、その距離は大きいものではないことが注意される。この際のものとしては(71)個人的興味の濃厚なもので、適切とは言えないものである。
【作者】 ※[竹/卞]師志氏大道。「※[竹/卞]」は「算」と同じ。「※[竹/卞]師」は大宰府の官人で、計算係である。「志氏」は、その字のある氏が多く、いずれとも定められない。「大道《おおみち》は伝不明。
838 梅《うめ》の花《はな》 散《ち》り乱《まが》ひたる 岡《をか》びには 鶯《うぐひす》鳴《な》くも 春《はる》片設《かたま》けて 大隅目|榎《え》氏鉢麿
烏梅能波奈 知利麻我比多流 乎加肥尓波 字具比須奈久母 波流加多麻氣弖 大隅目榎氏鉢麿
【語釈】 ○散り乱ひたる 「乱《まが》ふ」は、見定められない意。ここは乱れる意。散り乱れている。○岡び 「び」は辺《べ》と同じ。岡のあたり。○鳴くも 「も」は感動の助詞。○春片設けて 「片設く」は、解に諸説があって、一定しない語であるが、『攷証』のひとえに待ち設ける、すなわちひたすら待つという解に従う。
【釈】 梅の花の散り乱れている岡のあたりには、鴬が鳴いているよ。春をひたすら待って。
【評】 初句から四句までは、その折、旅人の庭に見た光景をそのままに詠んだものと思われる。鶯に重点があるが、梅の花も軽くなく扱ったものなので、題意から離れきったものではない。結句の「春片設けて」は、無条件な歌とするとないほうがよい不用なものに見えるが、作者は賀の心をもたせるべき場合だとして詠んでいるのであるから、その点から見ると、光景の説明であるとともに、主人の将来を婉曲に賀したものともなりうる言葉なので当然なくてはならない、それとしても程のよいものだと自信をもち得たものであろう。相当の作というべきである。
【作者】 大隅目榎氏鉢麿。「大隅目」は、国守の四等官で、国によってその員数は異なるが、大隅国は中国であるから、一人である。「榎氏」「鉢麿」はいずれも不明。
839 春《はる》の野《の》に 霧《きり》立《た》ち渡《わた》り 降《ふ》る雪《ゆき》と 人《ひと》の見《み》るまで 梅《うめ》の花《はな》散《ち》る 筑前目|田《た》氏真上
波流能努尓 紀理多知和多利 布流由岐得 比得能美流麻堤 烏梅能波奈知流 筑前目田氏眞上
【語釈】 ○春の野に霧立ち渡り 「霧立ち渡り」は、霧が全面的に立ち続いていて。「霧」は霞である。○降る雪と人の見るまで 降る雪と思って人の見るまでに。
【釈】 春の野のほうには霞が立ち続いていて、降る雪と人が見る程に、梅の花が散っている。
【評】 旅人の歌によると、その日の梅の花は散りぎわになり、 散ってもいたことが知られる。しかるにほとんどすべての人が(72)盛りだと讃えて散るに触れていないのは、梅の花に賀の心を寄せようとした為と思われる。この前の歌とこの歌とは実景に即して散ることを言っている。前の歌はそれでも賀の心をもたせているが、この歌にはほとんどそれがなく、実景で終始しているものである。実景としては、旅人の庭は野が見渡されるもので、遠景が野、前景が梅の木という形になっていて、おりから野にはうす霞が一面にかかっていたと見える。作者は梅の花のしきりに散るのに心を動かし、落花を雪に譬えることを連想してそれを雪とし、その関係から野の霞を「霧立ち渡り」と、雪の日の光景のごとく見做して、一首を構成したのである。春の霞を霧という用例はあって、無理な語ではなかったのである。無条件の歌とすると、これも相応な作である。
【作者】 筑前目田氏真上。「目」も「田氏」も前に出た。「真上」は伝不明。
840 春柳《はるやなぎ》 蘰《かづら》に折《を》りし 梅《うめ》の花《はな》 誰《たれ》か浮べし 酒盃《さかづき》の上《へ》に 壱岐目村氏|彼方《をちかた》
波流楊那宜 可豆良尓乎利志 烏梅能波奈 多礼可有可倍志 佐加豆岐能倍尓 壹岐目村氏彼方
【語釈】 ○春柳蘰に折りし 春の柳は蘰として折ったで、「し」で終止させてあって、ここで句切。「し」は連体形で、上に「ぞやか」の係がなくて連体形で結ぶのは異例のように見えるが、集中少ないながら例のあるものである。巻三(四〇七)「春霞春日の里の殖子水葱《うゑこなぎ》苗なりと云ひし柄はさしにけむ」などがそれである。その日の宴会の例として、自分でしていたことを叙したもの。○梅の花誰か浮べし 梅の花は誰が浮かべたのだで、「か」は係助詞、「し」はその結。これもここで句切があって、その上で結句へ続けて、浮かべた場所を言っている。○酒盃の上に 「酒盃」は自分の前へ巡って来たもので、「上」は酒盃に盛った酒の上に。酒盃に梅花を浮かべることは風流なわざとして行なわれていたとみえ、この続きにも他にもある。
【釈】 春の柳は蘰として折って我がしていたが、梅の花は誰が浮かべたのだ。巡って来た洒盃の酒の上に。
【評】 風流の遊びの限りないことを讃えて、宴会の悦びを言ったものである。庭の春の柳を折って蘰にしていることがすでに風流なことであるのに、さらに巡って来た酒盃を見ると、酒の上に梅の花が浮かべてあるので、人のしたその風流に興じ入った心で、自他共に風流を尽くし合っていることを讃えたものである。初二句と三、四句とは対句の形になっているもので、短歌の謡い物傾向のものは、二句で切り四句で切るのが一つの型となっているのに拠ろうとしたものとみえるが、それをするとしては事象が複雑にすぎるので、おのずからある程度の無理がある。難解な歌となっているのはその為であるが、作者としてはその無理を遂げ得ているところに得意を感じたことであろう。
【作者】 壱肢目村氏彼方。「目」は壱肢国は小国で一人。「村氏」は不明。「彼方」も伝不明。
(73)841 鶯《うぐひす》の 声《おと》聞《き》くなへに 梅《うめ》の花《はな》 吾家《わぎへ》の苑《その》に 咲《さ》きて散《ち》る見《み》ゆ 対馬目高氏老
于遇比須能 於登企久奈倍尓 烏梅能波奈 和企弊能曾能尓 佐伎弖知留美由 對馬目高氏|老《おゆ》
【語釈】 ○声聞くなへに 「声《おと》」は「こゑ」と並び用いられていた語である。「なへに」は、並べにの意で、同時に、につれて。○吾家の苑に 「吾家《わぎへ》」は、吾が家の約音。並び用いられていた。○咲きて散る見ゆ 「咲きて散る」は、後世だと単に散るとのみいう場合にいっている語で、「散る」に重点を置いて経過を示しているもの。用例が多い。「見ゆ」は、見える。
【釈】 鶯の鳴く声を聞くにつれて、梅の花の吾が家の庭に散るのが見える。
【評】 眼前に見た状景をそのままに叙した形の歌である。鶯の鳴く声がしたので、家の内にあって目をやって庭のほうを見やると、おりから庭の梅の花が散っていたというので、これも鶯の鳴くのを、散る梅を惜しんでのことという繋がりを感じたものとみえる。それには全然触れず、しかしその心を現わそうという心から、「見ゆ」という重い語をもって結んだのであろう。庭の梅の花の散るのを見たのに対しては、「見ゆ」という語は重すぎる不適当なものだからである。事としてではなく、気分を生かそうとしたものであろう。梅の花が主になってはいるが、個人的な興味にとどまるもので、この場合の歌としては適当とは言えない。一首の歌とすれば要を得ている。
【作者】 対馬目高氏老。対馬の小国であるから、目は一人である。「高氏」は、前にも出た。「老」は、不明。
842 我《わ》が宿《やど》の 梅《うめ》の下枝《しづえ》に 遊《あそ》びつつ 鶯《うぐひす》鳴《な》くも 散《ち》らまく惜《を》しみ 薩摩目高氏|海人《あま》
和我夜度能 烏梅能之豆延尓 阿蘇此都々 宇具比須奈久毛 知良麻久乎之美 薩摩目高氏海人
【語釈】 ○我が宿の梅の下枝に遊びつつ 「宿」は屋外で、庭。「下枝」は上に出た。「遊び」は、人間の広く風流なことをするのを現わす語であるが、ここは常に用いている。鶯の梅の花に来て鳴いている上に、人間の遊びと同じ心を感じてのもの。「つつ」は継統。○鶯鳴くも 「も」は感動の助詞。上の「遊び」の説明。○散らまく惜しみ 散ることを惜しんで。
【釈】 わが庭の梅の下枝に遊びつつ、駕が鳴いているよ。散ることを惜しんで。
【評】 これも眼前に見ている梅と鶯とをそのままに叙し、「散らまく惜しみ」を添えることによって、主人に対する挨拶の心(74)を婉曲に現わしているものであって、上の(八二四)の竹の林に鳴く鴬と全く同工異曲である。こうした形がすでに一つの型となっていたかと思わせるものである。
【作者】 薩摩目高氏海人。「高氏海人」は、不明である。
843 梅《うめ》の花《はな》 折《を》りかざしつつ 諸人《もろびと》の 遊《あそ》ぶを見《み》れば 都《みやこ》しぞ思《も》ふ 土師氏御通《はにしみみち》
宇梅能波奈 乎理加射之都々 毛呂比登能 阿蘇夫遠美礼婆 弥夜古之叙毛布 土師氏御通
【語釈】 ○都しぞ思ふ 「郡」は奈良の都。「し」は強意、「ぞ」は係助詞。「思ふ」は、「ぞ」の結で、連体形。
【釈】 梅の花を折って挿頭としいしいして、諸々の人の宴楽をしている有様を見ると、奈良の都が思われることであるよ。
【評】 この歌は客の一人として宴に列しながら、第三者のごとき立場に立って詠んでいるものである。当時の奈良は前代に見ない飛躍的文化の府であったので、地方の筑紫にあって諸人の風雅を尽くしているさまを、都を思わせるものだというのは、絶大の讃辞だったのである。「思ふ」は、普通だと「思ほゆ」というところであるのに、「思ふ」と係助詞を用いて強く言っているのは、その讃辞を力強く現わしているものである。
【作者】 土師氏御通。巻四(五五七)に出た土師宿禰水通と同人であろう。そのころ大宰府に下っていたものとみえる。官名を記さず、氏を略さずに記しているのは、何らかの理由のあったことと思われる。
844 妹《いも》が家《へ》に 雪《ゆき》かも降《ふ》ると 見《み》るまでに 許多《ここだ》もまがふ 梅《うめ》の花《はな》かも 小野氏|国堅《くにかた》
(75) 伊母我陛迩 由岐可付不流登 弥流麻堤尓 許々陀母麻我不 烏梅能波奈可毛 小野氏國堅
【語釈】 ○妹が家に雪かも降ると 「かも」は疑問。妹の家に雪が降っているのかと。○許多もまがふ 「許多」は多くであるが、ここはまがう程度で、甚しくも。「まがふ」は、ここは見紛ふ意。○梅の花かも 「かも」は感動。
【釈】 妹の家に雪が降っているのかと見る程に、甚しくも見紛う梅の花であることよ。
【評】 梅の落花を雪に譬えるのは、他にも例のあるものであるが、一首の調べは若々しく躍っていて、実感の現われと思えるものである。しかしこの宴での歌として見ると、何ら直接のつながりのないものである。宴席では一座のすべてに共通の興味のある歌を謡うことが一方では型となっており、大体は笑いを買いうる相聞の歌であった。この歌には笑いはないが、眼前の梅の花にはつながりのある、相聞の心を帯びた歌であるから、この場合、宴歌とするに足りる内容としたかとも思われる。
【作者】 小野氏国堅。伝が詳かでない。
845 鶯《うぐひす》の 待《ま》ちかてにせし 梅《うめ》が花《はな》 散《ち》らずありこそ 思《おも》ふ子《こ》が為《ため》 筑前掾|門《かど》氏|石足《いそたり》
宇具比須能 麻知迦弖尓勢斯 宇米我波奈 知良須阿利許曾 意母布故我多米 筑前掾門氏石足
【語釈】 ○待ちかてにせし 「かてに」は、待ちきれずにしていたところの。○梅が花 呼びかけ。○散らずありこそ 「こそ」は、願望の助詞。○思ふ子が為 「子」は、愛しての称で、思う妹。「為」は、見せようが為に。
【釈】 鶯が咲くのを待ちきれずにしていた梅の花よ。散らずにいてくれよ。思う妹に見せようが為に。
【評】 この歌も上の歌と同じく、梅の花と思う妹とを主題としたもので、同じ性質のものである。しかしこの歌には上の歌のような謡い物風の趣がなく、非感性的である。「鶯の待ちかてにせし梅が花」は、今咲いている梅の花の愛でたさを言おうとして、咲かなかった前に溯って言ったもので、時間的な言い方のものである。「散らずありこそ」は将来へ対しての願望でこれまた時間的である。「思ふ子が為」も、それ自身省略をもった言い方である。要するに、余りにも多くを望んで、綜合が伴わず、感性的な趣のないものにしているのである。宴歌には不適当な詠み方の歌である。
【作者】 筑前掾門氏石足。「掾」は国司の三等官。巻四(五六八)に出た門部連石足である。席次が低くなっている理由はわからない。
(76)846 霞《かすみ》立《た》つ 長《なが》き春日《はるび》を 挿頭《かざ》せれど いやなつかしき 梅《うめ》の花《はな》かも 小野氏|淡理《たり》
可須美多都 那我岐波流卑乎 可謝勢例杼 伊野那都可子岐 烏梅能波那可毛 小野氏淡埋
【語釈】 ○霞立つ長き春日を 「霞立つ」は、春にかかる枕詞。これは実景をあらわすものともなっている。○挿頭せれど 「挿頭す」に、助動詞「り」の已然形と助詞「ど」の接続したもので、条件法。挿頭しているけれども。
【釈】 霞の立つ長い春の日を、終日かざしているけれども、ますますなつかしい梅の花であるよ。
【評】 (八二八)に、心としては酷似したものである。異なるところは、そちらは人々の挿頭の梅を見ての感であるのに、これは自身の挿頭だけを対象としていることである。このほうが感の濃いものがある。
【作者】 小野氏淡理。伝不明である。
員外故郷を恩ふ歌両首
【題意】 「員外」は、員《かず》の外《ほか》であり、員は定数で、上の三十二首の意であり、外《ほか》はそれ以外のものの意である。このように言うのは、三十二首は「梅花の歌」であり、これは「故郷を思ふ歌」で、その性質を異にしているからである。「故郷」は、ここでは筑紫にあって奈良の都をさしているのである。作者の名はないが、歌は明らかに旅人のものである。したがって作者名のないことは、序を初めこの全体を整理した人は旅人であることを示しているものである。
847 我《わ》が盛《さかり》 いたく降《くだ》ちぬ 雲《くも》に飛《と》ぶ 薬《くすり》食《は》むとも また変若《をち》ちめやも
和我佐可理 伊多久々多知奴 久毛尓得夫 久須利波武等母 麻多遠知米也母
【語釈】 ○我が盛いたく降ちぬ 「盛」は、齢の盛りで盛時。「降ち」は、降《くだ》る意で、夜降《よくだち》という例は多くある。我が壮年期は甚しくも遠くなったの意。○雲に飛ぶ薬食むとも 「雲に飛ぶ」は、仙人となって昇天する意で、「薬」は、そうなりうる仙薬で、常人も仙薬を食めば仙人となりうるとしてのもの。その出所は『神仙伝』の淮南王劉安であり、彼は八公という仙薬を作る術を知っている者からその術を受け、それを喫して白日昇天をした。その仙薬の余りを舐めた鶏犬もまた昇天したというのである。「食む」は、喫する。○また変若ちめやも 「変若」は、巻三(三三二)に(77)出た。初めのほうへ立ちかえる意で、ここは若がえる意。「や」は、反語。「も」は、感動の助詞。再び若がえろうか若がえりはしない。仙人は不老不死のものとしているところよりの言。
【釈】 我が盛時は甚しくも遠ざかった。たとい雲に飛ぶ薬を食《は》もうとも、再び若がえることがあろうか、ありはしない。
【評】 題詞には「故郷を思ふ」と言っているが、内容は老いを嘆く心である。老衰しているがゆえに故郷が思われるのだとしたのであろう。総括しての生活感であるために、哥柄が大きく、おおらかで、老のさびも持っている歌である。「雲に飛ぶ薬」を捉えて言っているのは、この当時の神仙道よりのことで、旅人に限ってのことではない。彼自身も趣味としてそれを愛し.本巻にある文章にも、また『懐風藻』に収められている漢詩にも、濃厚にそのことを示しているが、本来は実際を重んじた人であるから、「薬食むともまた変若ちめやも」と粟て去っていて、結局、如何ともし難いことだというに過ぎないものである。
847 雲《くも》に飛《と》ぶ 薬《くすり》はむよは 都《みやこ》見《み》ば いやしき吾《あ》が身《み》 また変若《を》ちぬべし
久毛尓得夫 久須利波牟用波 美也古弥婆 伊夜之吉阿何微 麻多越知奴倍之
【語釈】 ○はむよは 「よ」は「ゆ」と同じく、より。○いやしき吾が身 「いやしき」は、卑賤で、謙遜しての冨。他に対しての称であるから、宴に会している諸人に披露した歌と思われる。○また変若ちぬべし 再び若返るだろうで、上の歌の結句を受けて、それを翻したもの。
【釈】 雲に飛ぶ薬を食むよりも、奈良の都を見たならば、いやしい吾が身も若がえることであろう。
【評】 前の歌に続けての作で、前の歌では、老の如何ともし難い絶望を言ったのであるが、実際を重んじる旅人はただちに活路を見出して、奈良の都を見たならば、仙薬にも遥かにまして、若がえり得ようと言っているのである。老齢の知識人旅人が、文化の都を離れて、遠い地方にあっての心境の思われる歌である。
後に追ひて和ふる梅の歌四首
【題意】 「後に」というのは、宴遊をした日の後で、「追ひて和ふる梅の歌」は、その日の題であった梅の歌に対して、追って唱和する意である。同じく作者名はないが旅人であることは、作風より察しられる。
849 残《のこ》りたる 雪《ゆき》にまじれる 梅《うめ》の花《はな》 早《はや》くな散《ち》りそ 雪《ゆき》は消《け》ぬとも
(78) 能許利多流 由棄仁未自例留 宇梅能半奈 半也久奈知利曾 由吉波氣奴等勿
【語釈】 ○残りたる雪にまじれる 消え残った雪の中にまじって咲いているところの。○梅の花 呼びかけ。
【釈】 消え残った雪の中にまじって咲いている梅の花よ。早くは散るな。雪のほうは消え去ろうとも。
【評】散り際になっている梅の花に対して、その散ることをおしんで、呼び懸けて禁止している強い言い方のものである。「雪にまじれる」は、その色の似て、紛らわしいものになっていることを暗示したもの、「早くな散りそ雪は消ぬとも」も、その色の似ているとこ」ろから、その成行きも同じように思えて、覚束なさを感じていることを現わしてゐるもので、細かに感性の現われている歌である。平俗には見えるが味わいがある。
850 雪《ゆき》の色《いろ》を 奪《うば》ひて咲《さ》ける 梅《うめ》の花《はな》 今《いま》盛《さかり》なり 見《み》む人《ひと》もがも
由吉能伊呂遠 有婆比弖佐家流 有米能波奈 伊麻左加利奈利 弥牟必登母我聞
【語釈】 ○雪の色を奪ひて咲ける 「雪の色を奪ひて」は、梅の花の其白さを具象的に言ったもので、漢詩文の影響を受けた語である。上の歌と同じく雪中の梅で、比較して言ったものと取れるから、実景に即したものである。○今盛なり 「盛なり」は、そうした木もあったと見える。○見む人もがも 「がも」は願望の助詞。人に見せたいものだ。
【釈】 雪の色を奪って真白に咲いている梅の花は、今が盛りである。見る人がほしいものだ。
【評】 梅の花の美しさを独りで見ていて、独りで見ているのを飽き足らずとして、人にも見せたい感を発した心である。「雪の色を奪ひて」の強調は、「見む人もがも」に照応して、厚みのある歌となっている。この美しさを愛する心と.人に見せたいと思う心は、いわゆる風流《みやび》であるが、旅人にあってはそれが本質的なものだったとみえる。
851 我《わ》が宿《やど》に 盛《さかり》に咲《さ》ける 梅《うめ》の花《はな》 散《ち》るべくなりぬ 見《み》む人《ひと》もがも
和我夜度尓 左加里尓散家留 宇梅能波奈 知流倍久奈里奴 美牟必登聞我母
【語釈】 ○我が宿に盛に咲ける梅の花 「宿」は、戸外で、庭。「梅の花」は、下に詠歎がある。○散るべくなりぬ 散りそうな状態となった。
(79)【釈】 我が庭に盛りに咲いていた梅の花よ。散りそうな状態になった。見る人がほしいものだ。
【評】 結句「見む人もがも」は上の歌と同じである。盛りであるから見せたいと思った梅の花を、散りそうであるからまた見せたいと思ったのである。愛惜の心の深さはこの歌のほうが深いと言える。風流の真髄に触れている歌である。以上三首、梅の花の時間的推移を迫って詠んでいるもので、おのずから連作の形となっているものである。旅人の歌には連作が多いが、その由って來たる所を示している歌と言える。
852 梅《うめ》の花《はな》 夢《いめ》に語《かた》らく 風流《みやび》たる 花《はな》と吾《あれ》思《も》ふ 酒《さけ》に浮《うけ》べこそ 【一に云ふ、いたづらに 吾《あれ》を散らすな 酒にうかべこそ】
鳥梅能波奈 伊米尓加多良久 美也備多流 波奈等阿例母布 左氣尓于可倍許曾 【一云、伊多豆良尓 阿例乎知良須奈 左氣尓于可倍許曾】
【語釈】 ○梅の花夢に語らく 「語らく」は、「語る」の名詞形。語ることには。梅の花が人となって、我が夢に入って語ることには。これは(八一〇)の琴が娘子に化したと同系統のことである。○風流たる花と吾思ふ 「風流」は宮びで、高雅な意。高雅なる花であると、我は自身を思っている。○酒に浮べこそ 「酒」は、酒盃のもの。「こそ」は願望の助詞。我にふさわしく扱って、酒盃に浮かべてはしいの意。○一に云ふ、いたづらに吾を散らすな 甲斐なく我を散らしてしまうなで、これは三、四句にあたる部分である。
【釈】 梅の花が人と化して、我が夢に入って語ることには、風流な、高雅なる花であると我は自身を思っている。我にふさわしい扱いをして、酒盃に浮かべて下され。
【評】 梅の花を愛惜する心は、その愛惜すべき物であることを梅の花自体に言わしめることにまで展開したので、自然な心理過程である。神仙趣味を愛する旅人が、梅花に仙女を連想するのはきわめて自然である。前の日本琴、これにつぐ「松浦河」の歌も同系統のものである。「一に云ふ」のほうは、旅人自身の再案であろうと思われる。「風流たる花と吾思ふ」は、上の三首のしみじみと物静かな気分のものと並べると、若々しく花やかすぎて、いわゆる薬の利きすぎたものであるとし、平俗にしようとの心から「いたづらに吾を散らすな」と再案して、そのままにして置いたのであろう。前の三首に続く連作とすると、これを結とし、全体を総括して、あくまでも花を惜しみたいという意で繋がりがあるが、同時に、前の三首で連作は終わったとし、この一首は独立したものとも見られるので、それだとすると原案のはうが魅力あるものである。旅人自身取捨に迷ったのではないかと思わせる。
松浦河《まつらがは》に遊ぶ序
(80)【題意】 松浦河は佐賀県東松浦郡七山村に発し、浜崎、玉島町で海に注ぐ河で、今は玉島川と呼んでいる。この地には名高い伝説があって、日本書紀神功皇后の巻と、古事記中巻とに載っている。それは皇后が新羅征討に向かわれる途中、この地の小河のほとりで食事をされた際、針を曲げて釣針とし、裳の糸を抽いて釣糸とし、飯粒を餌として河の中の石の上に立ち、針を河の中に投げ込んで、祈って、このたびの事が成るならば、川の魚この針を飲めと言われて竿を挙げると、細鱗の魚を獲られたというのである。爾来その国の女は、四月上旬には河の中へ立って年魚を釣ることをして、今に絶たない。男は釣っても獲られないというのである。旅人は大宰帥としての職務上、九州全部を巡視することになっているので、この地に行ったことがあり、たまたま松浦河でその地の若い女の何人かが年魚を釣っているのを見懸け、平常の神仙趣味から、その若い女に仙女の一団を連想して、それと歌を贈答することにして一篇の神仙譚を展開させたのである。上の藤原房前に日本琴を贈る際の仙女は、贈物に添えた歌という制約のあったものであるが、これは純粋に興味よりのものであり、無条件なものであるから、それとは性質を異にした純文芸性の物である。また量においても大きく、旅人のこの方面の代表的なものである。この歌の作者は、『代匠記』以前は山上憶良とされていたが、『代匠記』がその誤っていることを、六つの点からつぶさに立証して、今は旅人の作であるということが定説となっている。
余《われ》以《すで》に暫《しまら》く松浦《まつら》の県《あがた》に往きて逍遙《あそ》び、聊玉島の潭《ふち》に臨みて遊覧《み》しに、忽ち魚を釣る女子《をとめ》等に値《あ》ひき。花容《はなのかほ》双び無く、光儀《てれるすがた》匹《たぐひ》無し。柳の葉を眉《まよ》の中に開き、桃の花を頬《ほ》の上に発《ひら》く。意気《こころざし》は雲を凌ぎ、風流《みやび》なることは世に絶《すぐ》れたり。僕《われ》問ひて曰く、誰が郷《さと》誰が家の児等ぞ、若疑《けだ》しくは神仙といふ者かといふ。娘《をとめ》等皆|咲《ゑ》みて答へて曰はく、児等は漁夫《あま》の舎《いへ》の児、草の庵の微《いや》しきもの、郷も無く家も無し。何《なに》ぞ称《なの》り云ふに足らめや。唯|性《さが》として水を便《たよ》り、復《また》心山を楽しむ。或るは洛浦《らくほ》を臨みて徒に王《おほ》き魚を羨み、乍《また》は巫峡《ふかふ》に臥して空しく烟霞《かすみ》を望む。今|以《すで》に邂逅《わくらば》に貴客《うまひと》に相遇《あ》ひ、感応《あはれとおもふこころ》に勝《た》へずして、輙《すなは》ち?曲《まこと》を陳ぶ。而今而後《いまゆのち》豈|偕老《いもせ》ならざる可しやといふ。下官《われ》対へて曰はく、唯々《をを》敬《つつし》みて芳命《おほせ》を奉《うけたまは》るといふ。時に日山の西に落《しづ》み、驪馬《くろうま》は去《い》なむとす。遂に懐抱《おもひ》を申《の》べ、因りて詠歌《うた》を贈りて曰はく、
余以暫徃2松捕之縣1逍遙、聊2玉嶋潭1遊覽、忽値2釣v魚女子等1也。花容無v雙、光儀無v(81)匹。開2柳葉於眉中1、發2桃花於頬上1。意氣凌v雲、風流絶v世。僕問曰、誰郷誰家兒等、若疑神仙者乎。娘等皆咲答曰、兒等者漁夫之舎兒、草菴之微者、無v郷無v家。何足2稱云1。唯性便v水、復心樂v山。或臨2洛浦1而徒羨2王魚1、乍臥2巫峽1以空望2烟霞1。今以邂逅相2遇貴客1、不v勝2感應1、輙陳2?曲1。而今而後豈可v非2借老1哉。下官對曰、唯々敬奉2芳命1。于v時日落2山西1、驪馬将v去。遂申2懐抱1、因贈2詠謌1曰、
【語釈】 ○以 以は已に同じ。○松浦の県 肥前国の西北部の総称で、今は佐賀長崎の二県に分属している。「県」は地方の支配地の称。○逍遙び 遊びで、見物すること。○玉島の潭 松浦河の玉島の里にある部分の称。玉島川のことで、今松浦川というのは別の川である。○柳の葉を眉の中に開き 眉は柳の若葉のようでで、唐の女は青い黛で眉を描くので、その意で言っている。○桃の花を頬の上に発く 頬は桃の花のようだで、頬を紅で塗っている意。○意気は雲を凌ぎ 気ぐらいがきわめて高いの意で上の容姿に続けて、様子の甚だ気高いことを言ったもの。○風流なることは世に絶れたり 風流も上に続いて、みやびやかな梯子で、品のいいことの意。○誰が郷誰が家の児等ぞ 女に住所や素性を尋ねるのは、当時は求婚する意であったが、ここはそれではなく、尋常の人ではないと訝って尋ねているものであることが、続きでわかる。○若疑しくは神仙といふ者かといふ 多分神仙と言われているものなのかという。○唯性として水を便り、復心山を楽しむ 唯性分として水に親しみ山が好きだというので、人間界よりも自然界を好んでいる意。神仙ということを婉曲に骨定したもの。○洛浦を臨みて徒に王き魚を羨み 上の「水を便り」の説明。「洛浦」は『文選』の曹植の洛神賦に拠ってのそれで、洛水にいる神女のことを叙したものである。「王き魚を羨み」は、巨き魚の自由なさまをかいなく漠む意で、自身のその神女に近い者であることをほのめかしたもの。○巫峡に臥して空しく烟霞を望む 「巫峡」は同じく『文選』の宋王の高唐賦の、巫山の神女を叙したものに拠り、自身のその神女に近い者であることをほのめかしたものである。○邂逅に貴客に相遇ひ 偶然にも貴い旅びとに遇って。○感応に勝へずして、輙ち款曲を陳ぶ 立派なのに感動して、そのままにはいられず、ただちに真ごころを陳べたで、素性を打明けたのは求婚に応じた心からであると、そのことの心を説明したもの。「款曲」は其情。○豈偕老ならざる可しやといふ 「偕老」は夫婦で、夫婦になろうの意。○唯々 承諾をあらわす語。○麗(馬偏)馬は去なむとす 乗っている黒毛の馬は、家を恋うて帰ろうとする。
853 漁《あさ》りする 海人《あま》の児等《こども》と 人《ひと》はいへど 見《み》るに知《し》らえぬ 良人《うまびと》の子《こ》と
阿佐里須流 阿末能古等母等 比得波伊倍騰 美流尓之良延奴 有麻必等能古等
【語釈】 ○海人の児等と人はいへど 「海人」は、しばしば出た。部族の名から海の業をする者の総称に転じた語。序の「漁夫の児」の意。「人」は少女等。○見るに知らえぬ 「見るに」は、そのさまを見るにで、尋常でないことを背後に置いてのもの。「知らえぬ」は、知られぬの古語。(82)○良人の子と 「良人《うまびと》」は、身分の高い人の意で、ここは上の「海人」に対させてあって、広く貴い人というにあたる。
【釈】 漁りを業とする海人の子どもであるとその人は言ったけれども、そのさまを見るに知られた、これは貴い人の子であると。
【評】 序の前半の、娘子らを尋常の者ではないと訝って、その素性を尋ねたのに対し、娘子らが「児等は漁夫の舎の児」と答えたところまでを、立ち返って一首としたものである。序の繰り返しであって、同じ事を歌をもって叙そうとしている趣をもったものである。抒情形式で叙事をしようとする無理があるので、中間的な、双方とも稀薄なものとなっている。しかし漢文の序では出せない、柔らかく纏まった趣をもっている。この趣を当時の人は、新たに意識して求めていたのかと思われる。
答ふる詩《うた》に曰はく
【題意】 娘子の答えた歌で、歌に「詩」の字を当てるのは、他にも例のあるもので、この当時の好みである。
854 玉島《たましま》の この川上《かはかみ》に 家《いへ》はあれど 君《きみ》を恥《やさ》しみ 顕《あらは》さずありき
多麻之末能 許能可波加美尓 伊返波阿礼騰 吉美乎夜佐之美 阿良波佐受阿利吉
【語釈】 ○玉島のこの川上に 「玉島の」は、上の神功皇后の巻の玉島の里。「この川上に」は、この上流に。○君を恥しみ 君が恥かしいので。旅人の尊さに対して身を恥じての意。○顕さすありき 「き」は過去の助動詞。前《さき》には打明けずにいたの意。
【釈】 玉島の里の、この川の上流に家はあるけれども、君を恥ずかしく思って、問われた時には打明けずにいた。
【評】 これは序の、娘子が「豈偕老ならざる可しや」と言った後の心である。この歌では、娘子は序とは異なった者で、仙女などではなく、玉島の里の娘で、素性を問われたのをただちに求婚と取り、躊躇なく応じる心をもったのであるが、男との身分の懸隔を恥ずかしく思って、すぐには応じる心が示せなかったのだというので、その躊躇していたことを弁解しているにすぎないのである。何故にこうした矛盾を事もなげにしているのかは解しかねるが、こうした女が本当は旅人の気にいっている者であった為に、おのずから序から飛躍してしまったのであろう。それだと旅人の神仙趣味は、趣味としても軽い扱いをされていたものと思われる。
蓬客等の更に贈れる歌三首
(83)【題意】 「蓬客」は、旅客である自身を、蓬の実の風に吹かれて飛ぶに譬えた語で、所定めぬ旅人と、自身を卑下しての称。
855 松浦河《まつらがは》 河《かは》の瀬《せ》光《ひか》り 年魚《あゆ》釣《つ》ると 立《た》たせる妹《いも》が 裳《も》の裾《すそ》ぬれぬ
都良河波 可波能世比可利 阿由都流等 多々勢流伊毛河 毛能須蘇奴例奴
【語釈】 ○松浦河河の瀬光り 「松浦河」は、玉島河を広く言ったもの。「河の瀬光り」は、「瀬」は水の流れの浅い所、「光り」は、水の浅い所は波が立ちやすいので、波が光っている意。娘の釣をしている位置の形容。○年魚釣ると立たせる妹が 「釣ると」は、釣るとて。「立たせ」は、立つの敬語。慣用よりのもの。「る」は完了の助助詞「り」の連体形。○裳の裾ぬれぬ このことは当時の男の、魅惑を感じたことと見え、例が少なくない。
【釈】 松浦河の河の瀬が波で光って、年魚を釣るとて立っていられる妹の其の裾がその故に濡れた。
【評】 この歌は事件とすると前の二首の歌とは直接のつながりのないものである。事件としては上の二首の贈答で一応纏まりが付いたので、それを展開させようとすると夫婦関係の上のものとなるが、旅人はそれは好まなかったと見え、最初の、「魚を釣る女子等に値ひき」の第一印象に立ち返って言っているのである。これは心理的に言えば、求婚という事件の峠を越した後、立ち返って娘の美しさを訴えるという形で、間接には繋がりをもっていると言えるものである。「裳の裾ぬれぬ」は人麿の歌などにもあって、新意のあるものではないが、「河の瀬光り」と微妙に解け合って、みずみずしい感性的なものとなっている。玉島河で年魚を釣ることは、神功畠后の伝説に支えられて一種の神事となっていたものだろうと思われるから、この歌の歌材は旅人の目撃したもので、実感であったろうと思われる。
856 松浦《まつら》なる 玉島河《たましまがは》に 年魚《あゆ》釣《つ》ると 立《た》たせる子等《こら》が 家路《いへぢ》知《し》らずも
麻都良奈流 多麻之麻河波尓 阿由都流等 多々世流古良何 伊弊遅斯良受毛
【語釈】 ○松浦なる玉島河に 松浦にある玉島河と、わざと言葉を畳んで重くしたもの。見た形のもの。○家路知らずも 「家路」は、その家へ通じる路。「知らず」は、知られず。「も」は感動の助詞。娘の家に往きたいという憧れをあらわしたもの。
【釈】 松浦にある玉島河の河瀬に、年魚を釣るとて立っていられる少女らの家に、夫として往くべき路の知られないことよ。
(84)【評】 前の歌と心の統いているもので、娘の美しさに感動した延長として、関係を結びたいといふ憧れを起こしたことを、場合に即させて婉曲に、しかし力強く言ったもので、懸想の心である。序は甚しい飛躍をもっているが、歌のほうは進行が静かで、平面的である。一首の形としても結句が異なっているだけで、他はほとんど同じである。
857 遠《とほ》つ人《ひと》 松浦《まつら》の河《かは》に 若年魚《わかゆ》釣《つ》る 妹《いも》が袂《たもと》を 我《われ》こそ纏《ま》かめ
等富都比等 末都良能加波尓 和可由都流 伊毛我多毛等乎 和礼許曾末加米
【語釈】 ○遠つ人 達方にいる人。すなわち旅にいる人で、家人が待つ意で、松にかかる枕詞。○若年魚釣る 若あゆの転。初夏の鮎をいう。日本書紀の神功皇后の巻の「四月の上旬」というにかなう。○妹が袂を我こそ纏かめ 「袂」は腕で、「纏かめ」は枕としようで、共寝をしようの意。
【釈】 松浦の河に若年魚を釣っている、妹が袂は我こそ枕としよう。
【評】 前の歌の続きで「家路知らずも」と嘆いた憧れの心を推し進め、積極的に「我こそ纏かめ」としているのである。心としては類想の多いものであるが、「若年魚釣る」と限って言っているので、上の歌で言った神事を行なう季節と合って来て.実際に即しての想像ということが確かめられる。
娘子等《をとめら》の更に報《こた》ふる歌三首
858 若年魚《わかゆ》釣《つ》る 松浦《まつら》の河《かは》の 河《かは》なみの 並《なみ》にし思《も》はば 我《われ》恋《こ》ひめやも
和可由都流 麻都良能可波能 可波奈美能 奈美迩之母波婆 和礼故飛米夜母
(85)【語釈】 ○若年魚釣る松浦の河の河なみの 「河なみ」は、河波すなわち河に立つ波のの語と、「河次」の字を当て、河の流れの意としているものと二義がある。上との続きから見て河次のほうが自然に感じられる。三句、下の「並」へ同音の関係でかかる序詞である。眼前を捉えての序詞で、働きのあるものである。○並にし思はば 「並」は、現在も口語に用いている語で、一とおり。「し」は強意の助詞。○我恋ひめやも 「や」は反語。「も」は感動助詞。
【釈】 若鮎を釣っている松浦の河の河次の、その次という並《なみ》一とおりに君を思うのであるならば、我は恋いようか恋いはしない。
【評】 前の三首の歌は、男は婚約以前の心に立ち返って、女に対する愛慕の情の強さを言っているもので、その態度自体がすでに余裕のあるものであり、また女の歓心をも買いうるものであるが、女は一旦婚約をすれば、そうした言葉にはほとんど関心をもたず、現在の思慕の情の強さと、将来に対しての渝《かわ》らぬ情を誓おうとしているのである。これはどちらも男女の性情の自然なる現われで、事件的に見るとこの三首ずつの贈報には連絡がなくみえるが、心理的に見れば必然な連絡のあるものである。老体の旅人は男女のこの間の消息をはっきりと掴んでいて、こうした構成をしたものと思われる。この歌は、心熱している女にふさわしい花やかさと、それにふさわしい一種の強い調べがあって、女に代わって作った歌とすると巧みな作である。序詞も心利いたものである。
859 春《はる》されば 我家《わぎへ》の里《さと》の 河門《かはと》には 年魚児《あゆこ》さ走《ばし》る 君《きみ》待《ま》ちがてに
波流佐礼婆 和伎覇能佐刀能 加波度尓波 阿由故佐婆斯留 吉美麻知我弖尓
【語釈】 ○春されば 春が来れば。○河門には 「河門」は、巻四(五二八)に既出。河の両岸の迫って、河幅の狭くなっている所で、したがって水の深い所。○年魚児さ走る 「年魚児」は、「児」は親しんで添えた語。「さ走る」は、「さ」は接頭語、「走る」は、鮎の泳ぐ状態を、その敏捷なところから言ったもの。○君符ちがてに 「がてに」は本来「かてに」だが、混用されている。待ち得ずで、待ちきれずにというにあたる。
【釈】 春が来れば、我が家のある里の河の河門には、鮎が落ちつけずに忙しくも走る。君の来るのを待ちきれず。
【評】 女が婚約した男のその家に来ることを、鮎をかりて婉曲に、しかし同時に甚だ強く訴えている歌である。「我家の里の河門には年魚児さ走る」は、玉島の里の実態を敏感に捉えたもので、「君待ちがてに」はじつに巧妙な感情移入である。旅人は一方では高雅に平俗な歌を詠んでいるのであるが、同時に他方では、若い女に代わっての作をすると、若々しくみずみずしい作をする手腕をもっていたのである。事件としては構想が単調にすぎて、拙いというほかはないが、男女の心理の相違、若い女の心の把握などはじつに鋭敏で、物語的構成を思い立つのも偶然ではないと思わせる。
(86)860 松浦河《まつらがは》 七瀬《ななせ》の淀《よど》は 澱《よど》むとも 我《われ》はよどまず 君《きみ》をし待《ま》たむ
麻都良我波 奈々勢能與騰波 与等武等毛 和礼波与騰麻受 吉美遠志麻多武
【語釈】 〇七瀬の淀は 「七瀬」の「七」は多くのという意を具象的に言ったもの。「瀬」は上に出た。「淀」は瀬の反対に水の滞って湛えている所の称。○澱むとも 澱んだままで流れずにいることがあろうともで、これはないことで、仮設条件法。○我はよどまず君をし待たむ 「よどまず」は、心が懈《たゆ》むことなくすなわち一途に。「君をし」の「し」は、強意の助詞。
【釈】 松浦河の多くの瀬にある淀の水が、たとい澱んで流れずにいることがあろうとも、我が心はよどむことがなく、一途に君を待とう。
【評】 前の歌と同じく、「君をし待たむ」と訴えたものである。その「よどまず」を言う為に、「七瀬の淀は澱むとも」と、同語にして異義のものを捉え、「よど」を三語まで畳み、しかも対照法を用いて、流麗でしかも変化のある歌としているのは、讃うべき才情である。この三首も、前の三首と同じく、時の推移を追った連作で、その上でも緊密なものである。
後の人の追ひて和《こた》ふる詩《うた》三首 帥老《そちのおきな》
【題意】 「後の人」は、上の歌の作者よりも後の人で、無論作者以外の人である。しかるに下に「帥老」という、前の「梅花の歌」の序に用いている旅人の自称を注記として添えているのは、後の人とはいうが、じつは旅人であることを示しているもので、上の松浦河に遊ぶ一連の歌の延長であることを断わったものである。旅人自身が加えたとして不自然な感のないものである。
861 松浦河《まつらがは》 河《かは》の瀬《せ》早《はや》み 紅《くれなゐ》の 裳《も》の裾《すそ》ぬれて 年魚《あゆ》か釣《つ》るらむ
麻都良河波 可波能世波夜美 久礼奈為能 母能頒蘇奴例弖 阿由可都流良武
【語釈】 ○河の瀬早み 河の水流が早くして。○年魚か釣るらむ 「か」は、疑問の係助詞。「らむ」は、現在を推量する助動詞。【釈】 松浦河の水流が早いので、少女らは、紅の裳の裾が濡れて、今も鮎を釣っているのであろうか。
(87)【評】 上の(八五五)「松浦河河の瀬光り」の歌の光景をなつかしんで、それに唱和するごとき形にはなっているが、実はその歌を離れ、一連の歌の作因をなしている、松浦河の初夏の若年魚釣りの神事を行なう、礼装した少女らを目撃した時の印象を、忘れ得ぬものとして反芻して、今もその事を繰り返していようかとなつかしんだのである。ここには物語的構想との関係はなく、単に目撃の印象のみの延長となっているのである。後よりの追想であるが為に、前の時のような若々しくみずみずしい趣は薄れて、平常の平俗に近いものとなっている。
862 人《ひと》皆《みな》の 見《み》らむ松浦《まつら》の 玉島《たましま》を 見《み》ずてや我《われ》は 恋《こ》ひつつ居《を》らむ
比等未奈能 美良武麻都良能 多麻志末乎 美受弖夜和礼波 故飛都々遠良武
【語釈】 ○人皆の見らむ松浦の玉島を 「人皆の」は、すべての人がで、「人」は広い意味のもの。「見」は連用形。古くは上一段活用の場合の連用形から「らむ」に接続した。見るであろうところの。「松浦の玉島」は、松浦の玉島河のある土地で、釣をする少女らを含めたもの。○見ずてや我は恋ひつつ居らむ 「や」は、疑問の係助詞。「恋ひつつ」は、憧れ続けて。
【釈】 すべての人の見るであろうところの、松浦の玉島の里を、我は見ずして憧れつづけていることであろうか。
【評】 松浦河の行事をなつかしんで、心に反芻している歌である。全体の構成の上から添えたものである。
863 松浦河《まつらがは》 玉島《たましま》の浦《うら》に 若年魚《わかゆ》釣《つ》る 妹等《いもら》を見《み》らむ 人《ひと》のともしさ
麻都良河波 多麻斯麻能有良尓 和可由都流 伊毛良遠美良牟 比等能等母斯佐
【語釈】 ○玉島の浦に 「玉島」は、玉島河。「浦」は、海や湖の陸地に入り込んだ所の称であるが、当時は川や池にも用いるのが風夙となっていたので、ここもそれである。○妹等を見らむ 「妹等」は文字通り複数で、神事を行なう里の娘らである。人のともしさ。「ともしさ」は、羨ましいことよの意。
【釈】 松浦の玉島河の浦となった所に、若年魚を釣っている少女らを、現に見ているだろう人の羨ましいことよ。
【評】 上の歌と連作の形になっているもので、玉島の地をなつかしんで、その見難いことを嘆いた心のものである。たまたま見得たのは職務上の関係からで、そうした機会がない限り、当時のこととてたやすくは行かれなかったろうから、これらは何(88)らの誇張もない実感で、物語の楷想とは全く繋がりのないものである。
【総評】 この松浦河に遊ぶ歌は、旅人の特色である空想的所産であって、その物語的構成をもった長大なものである点では、彼の代表作であることを題意で言ったが、この作はひとり旅人にとってそうしたものであるのみならず、我が文学史の上でも、その意味において最初の物であるという点で注意されるべきものである。
序と歌とをもって物語を構成するというこの形式は決して新しいものではない。古事記日本蕃紀の歌謡のある個所はすべてそうなっており、それが古辞《ふるごと》の主体にもなっている程で、眼に熱している形式である。この巻でも上に出た憶良の長歌には長い序が付いており、またそれと同じ性質の題詞は歌ごとに付いているのである。それは理由のあることで、本来我が国のこの時代までの歌は、文芸的欲望から生まれたものではなく、日常生活の必要を充たす為に作られたものである。そのいかに必要であるかを語っているものが、古事記日本書紀の歌に添っている叙事なのである。憶良のものはやや趣を異にしているようにみえるが、彼自身の実情に即して歌作のやまれぬことを語っている点では同様で、実用性の範囲のものである。題詞に至ってはいうまでもない。しかるに旅人のこの作にはその日常生活の上の必要を充たすという実用性は全然なく、一に文芸的欲望を充たそうとして、空想を駆って一つの事件を構成しているもので、これは従来かつてなかったもので、彼によって初めて作られたものである。この点は文学史的に見て注意される。
序と前後十一首の歌から構成された物語を、全体として見返すと、彼の空想にも構成にも限度があって、明らかに跡づけられるものである。玉島河の四月の若鮎釣の神事は、序では触れていないが、日本書紀によると、旅人時代には行なわれていたことが知られる。神事であるから良家の娘も無論加わっており、また当然礼装もしていて、その土地としては見る眼美しいものであったろうと想像される。管下を巡視する職分を負ってその地に行った旅人が、その光栄に接して甚しく心を引かれたことは想像しやすい。平生愛好している神仙趣味から迎えて見て、それを仙女の群れかと訝かったとしてもさして突飛なことでもない。その中の目立つ一人を「良人《うまびと》の子」と見て、訝りの心からその家や名を問うということは、その時の彼の位置としてはありうべきことであり、したのでもあろう。また、問われた娘も、彼の身分に対する畏敬から、躊躇しながらも問に対する答はしたろう。そこまでは多分事実であり、そしてそれが事実の全部であったろう。この間の消息は最初の贈答二首が語っているのである。
旅人の空想は、この他意なく、自然な状態で行なわれた事実から、合理的に生まれたのである。男が女にその家と名を問うということは求婚ということであり、女がそれに答えたということは許諾ということである。旅人と娘とは無意識ながらそれを行なってしまったのである。たとい無意識にもせよ、行なってしまった以上はそれに対する責任がある筈であるが、事実はそれだけで終わり、残るものはそれと心付いた後の一種のへんな気分だけだったと見える。そのへんな気分の生んだ空想の羽ばたきが、この物語の中心をなす、男女の三首ずつの贈答歌なのである。男女の相聞の贈答はきわめて類の多いもので、この(89)こと自体には何らの創意もないものである。しかしこの空想を生むに至るまでの心理経過、また空想の世界で詠んでいる六首の歌の出来ばえは、旅人の物語的構成の手腕の非凡さを示しているもので、現在より見ても新鮮味のあるものと言える。「後の人の追ひて和ふる歌三首」は、旅人のこのことについての真実な感銘である。要するに旅行中の忘れ難い一事象にすぎないものだったのである。上のごとく歌を中心として見ると、序はそれとの繋がりの稀薄なものとなり、なくてもさして差支えのない、言いかえると独立したものとなって来る。しかし中心をなしているのは、上に言った思わぬ求婚と、誤解しての許諾という経路ということで、それを明瞭にする意味では役立っているものである。そのわりには言葉が多すぎて、序の為の序となっている。これは当時の一般の風だったのである。
【題意】 ここには題がないが、目録にはあり、「吉田連宜、梅花に和ふる歌一首」とある。宜は本来は僧で恵俊と呼んだが、続日本紀文武天皇四年、勅によって還俗させられ、姓吉田、名宜と改めさせられた人で、その芸を用いんが為なりとある人である。神亀元年従五位上となり、姓吉田連を賜わった。天平二年陰陽暦術、七曜頒暦などの廃闕を防ぐ為、他の七人の者と共に弟子を取って、その業を習わせることを命じられた。同五年図書頭、同十年正五位下典薬頭となった。『懐風藻』に「正五位下図書頭吉田連宜年七十」とあるので、この時は老齢だったのである。次の文は、旅人から都の宜へ梅花の其の歌と松浦河に遊ぶ歌を贈って示したのに対し、宜から旅人へ贈った返翰である。
宜|啓《まを》さく、伏して四月六日の賜書を奉《うけたまは》る。脆きて封函を開き、拝みて芳藻を読むに、心神開朗にして、泰初《たいそ》が月を懐《うだ》くに似、鄙しき懐《こころ》除《のぞこ》り?《さ》りて、楽広《がくわう》が天を披くが若《ごと》し。辺城に羈旅し、古旧を懐ひて志を傷ましめ、年の矢は停らず、平生を憶ひて涙を落すが若《ごと》きに至りては、但《ただ》達人は排《うつ》るに安《やす》みし、君子は悶《いきどほり》無し。伏して冀はくは、朝に※[擢の旁]《きぎし》を懐《なつ》くる化を宜《の》べ、暮《ゆふべ》に亀を放つ術《みち》を存《のこ》し、張と趙とを百代に架《しの》ぎ、松と喬とを千齢に追はむのみ。兼ねて垂示を奉《うけたまは》るに、梅の苑の芳しき席に、群英藻を※[手偏+璃の旁]《の》べ、松浦の玉潭に、仙媛と贈り答へしは、杏壇各言の作に類《たぐ》ひ、衡皐に駕を税《おろ》す篇に疑《なぞ》ふ。※[身+耽の旁]読吟諷し、感謝歓憎す。宜が主に恋ふる誠、誠に犬と馬とに逾《こ》え、徳を仰ぐ心、心|葵※[草がんむり/霍]《きくわく》に同じ。而も碧海地を分ち、白雲天を隔て、徒に傾き延ぶることを積む、何《な》ぞも労緒を慰めむ。孟秋にして節に膺《あた》る。伏して願はくは、万祐日に新ならむことを。今|相撲部領使《すまひことりづかひ》に(90)因りて、謹みて片紙を付く。宜謹みて啓《まを》す。次《なみ》ならず。
宜啓、伏奉2四月六日賜書1。跪開2封函1、拜讀2芳藻1、心神開朗、似v懐2泰初之月1、鄙懐除?、若v披2楽廣之天1。至v若d羈2旅邊城1、懐2古舊1而傷v志、年矢不v停、憶2平生1而落上v涙、但達人安v排、君子無v悶。伏冀朝宣2懐v※[擢の旁]之化1、暮存2放v龜之術1、架2張趙於百代1、追2松喬於千齡1耳。兼奉2垂示1、梅苑芳席、群英※[手偏+璃の旁]v藻、松浦玉潭、仙媛贈答、類2杏壇各言之作1、疑2衡皐税v駕之篇1。※[身+耽の旁]讀吟諷、感謝歡情。宜戀v主之誠、々逾2犬馬1、仰v徳之心、々同2葵※[草がんむり/霍]1。而碧海分v地、白雲隔v天、徒積2傾延1、何慰2勞緒1。孟秋膺v節。伏願萬祐日新。今因2相撲部領使1、謹付2片紙1。宜謹啓。不v次。
【語釈】 〇四月六日の賜暮 四月六日付で、旅人より賜った書翰。○封函を開き、拝みて芳藻を読むに 「封函」は書翰を入れる函。「芳藻」は芳しき文章。○心神開朗にして、泰初が月を懐くに似 「心神開朗」は、心が朗らかとなり、「奉初が月を懐く」は、『世説』に、時の人夏侯太初の容止を讃え、見ると、朗々として日月の懐に入るがごとしと言ったとある故事に拠る。○鄙しき懐除り?りて、樂広が天を披くが若し 「鄙しき憤除り?りて」は、いやしい思いが消えてで、「?」は払う意。「楽広が天を披く」は、『晋書』に、人が楽広を見て、雲霧を披いて青天を見るように朗らかになるといった故事に拠る。○辺城に羈旅し、古旧を懐ひて志を傷ましむ 「辺城」は辺土にある城で、ここは大宰府のこと。「羈旅し」は、地方の任を旅と見做した語。「古旧を懐ひて」は、亡き大伴郎女を追慕して。○年の矢は停らす、平生を憶ひて涙を落す 「年の矢は停らず」は、歳月の逝くことが速かで、「平生を憶ひて」は、「平生」は若い時。『論語』の語。「涙を落す」は、梅花の宴で旅人の詠んだ老を嘆く心。○達人は排るに安みし、君子は悶無し 「達人」は、知能の通達した人。「排るに安みし」は、推移に安んじで、『荘子』の語。「悶無し」は、煩悶がない。辺城以下旅人を慰め励ましたもの。○朝に※[擢の旁]を懐くる化を宜べ 「※[擢の旁]」は山雉。「化」は徳化。『後漢書』に、後漢の魯恭という人が、国を治めて徳化の実を挙げ、その国では雛を育てている雉子は、童子を信じて傍らに来ても逃げず、童子も、雉子の事情を知って捕えようとしなかったということに拠る。「宜べ」は、布き。○暮に亀を放つ術を存し 『晋書』に、孔愉という人が路を行くと、亀を捕えて籠にする者を見かけ、憐れんで買って谿流に放すと、亀は四度まで振返って去った。後、侯に封ぜられて侯印を鋳させると、その印紐の亀の頭が、三度鋳直させても振返って見る形になったので、愉は今日あるは亀の報恩の心よりのことだと悟ったという故事に拠るもの。そうした仁術を残せの意。○張と趙とを百代に架ぎ 「張と趙」は、張敝と趙広漢で、いずれも前漢の名臣であった人。百代の後にそれらの人を凌ぎ。架は凌。○松と喬とを千齢に追はむのみ 「千齢」は旅人が千歳になった後に。「松」は赤松子、「喬」は周の霊王の太子晋で、いずれも『列仙伝』に出ている仙人。追わむのみは、学び給えの意。伏して冀わくは以下、旅人に対する希望。○垂示を奉る 旅人より書翰をいただいている。○梅の苑の芳しき席に、群英藻を※[手偏+璃の旁]べ 旅(91)人の宅に開いた梅花の宴席。群らがる英才が歌を詠み。「藻」は文辞、「※[手偏+璃の旁]」は舒。○松浦の玉潭に、仙媛と贈り答へしは 「玉潭」は、玉のごとき潭に玉島河を絡ませたもの。仙媛は鮎を釣る少女を旅人のそれかと見たもの。○杏壇各言の作に類ひ 「杏壇」は『荘子』漁夫篇に、孔子が緇帷の林に遊び、杏壇の上に休んだ。弟子は詩を読み、孔子は琴を鼓したとあるに拠ったもので、杏壇は、杏樹のある壇。梅花の宴を開いた旅人の宅に譬えている。「各言」は、『論語』に顔淵と季路が孔子に侍していると、孔子が各々の志を言えとあるに拠るもので、客の各々が作った歌。○衡皐に駕を税す篇に疑ふ 「篇」は、『文選』の洛神賦にある語で、神女に逢うことを叙したのに拠る。「衡皐」は香草のある沢、「税」は舎で、止めること。旅人が松浦河の仙媛を曹子建の洛川の神女に擬した恋。○主に恋ふる誠、誠に犬と馬とに逾え、徳を仰ぐ心、心事瞿(草冠)に同じ 主は、旅人を尊んでの称。犬と馬と葵※[草がんむり/霍]は、『文選』の曹植の求v通2親親1表にある語で、犬馬の誠は人が動かせず、また葵※[草がんむり/霍]の葉は大陽の光を追って廻るものだというに拠ったもので、敬い慕心の深さの譬。葵※[草がんむり/霍]はひまわりのこと。○碧海地を分ち、白雪天を隔て、徒らに傾き延ぶることを積む 「傾き延ぶる」は、葵瞿(草冠)の葉が日に傾き、犬と馬が主人に首を延べることで、慕ふ心。「積む」は、積もらせている。○何ぞも労緒を慰めむ 「労緒」は、旅人の辛労で、慰める法のない嘆き。○孟秋にして節に膺る 「孟」は初で、初秋七月。「節」は、七月七日の節。○万祐 万の幸い。○相撲部領便に因りて 相撲をとる者を地方から集める事を扱う官吏が出張するのに托して。○次ならす 文の順序が整っていない意で、儀礼の語。
諸人《もろびと》の梅の花の歌に和へ奉れる歌一首
【題意】 右の返翰に添えた吉田宜の歌で、以下も同じ。
864 後《おく》れ居《ゐ》て 長恋《ながこ》ひせずは み園生《そのふ》の 梅《うめ》の花《はな》にも ならましものを
於久礼為天 那我古飛世殊汲 弥曾能不乃 于梅能波奈尓忘 奈良麻之母能乎
【語釈】 ○後れ居て長恋せずは 「後れ居て」は、後に残っていてで、共に居ずして。「長恋」は、長い思慕で、旅人に対しての心。「せずは」は、既出。○み園生の梅の花にも 「み園生」は大宰府の旅人の庭。○ならましものを 「ならまし」は、身を変えようで、「まし」は仮設法。
【釈】 後に残って長い思慕をしないで、君がお庭の梅の花にこの身をならせようものを。
【評】 旅人の梅花の宴で詠んだ梅の花の歌に唱和する心のもので、常に旅人とともに居たい心を言ったものである。何々にならましというのは型のごとくなっているものであるが、整って、落ちついた気品のある歌である。
松浦の仙媛の歌に和ふる一首
(92)865 君《きみ》を待《ま》つ 松浦《まつら》の浦《うら》の 少女等《をとめら》は 常世《とこよ》の国《くに》の 天少女《あまをとめかも》かも
伎弥乎麻都 々々良乃于良能 越等賣良波 等己与能久尓能 阿麻越等賣可忘
【語釈】 ○君を待つ松浦の浦の少女等は 「君を待つ」は、松の枕詞であるが、これは優に叙事の働きをしている。「松浦の浦」は、松浦河の浦で、上に出たもの。○常世の国の天少女かも 「常世の国」は、既出。不老不死の仙郷。「天少女」は、天上を飛行する仙女。「かも」は感歎の助詞。
【釈】 君を待っている松浦河の浦の少女等は不老不死の国の仙女であろうか。
【評】 旅人が鮎を釣る少女等を仙女かと想像したのに対して、共感をあらわした心の歌である。仙郷思想は都がその源泉地であった上に、宜は学者でその方面も熟知していた人であるから、共感は当然である。型のごとき歌であるが用意深く詠んだと思わせるものである。
君を思ふこと未だ尽きず。重ねて題《しる》せる二首
【題意】 以上を儀礼のものとし、自身の直接の心をいう意で言ったもの。
866 遙遙《はろばろ》に 思《おも》はゆるかも 白雲《しらくも》の 千重《ちへ》に隔《へだ》てる 筑紫《つくし》の国《くに》は
波漏々々尓 於忘方由流可母 志良久毛能 知弊仁邊多天留 都久紫能君仁波
【語釈】 ○遙遙に思ほゆるかも 「遙遙」は、はるばるの古形。遠く遙かな所に。「思はゆ」は、思ほゆの古形。思われる意。「かも」は、詠歎。○白肇の千重に隔てる 「隔てる」は、「隔つ」に、助動詞「り」の連体形の接続したもの。隔てているの意。○筑紫の国は 大宰府の所在地で、旅人を言いかえたもの。
【釈】 遠く遥かな所に思われることであるよ。白雲が千重に重なって、隔てている筑紫の国は。
【評】 事は単純であるが、調べは上の二首に較べると著しく張っていて、その調べが思慕の情となっているものである。
(93)867 君《きみ》が行《ゆき》 けながくなりぬ 奈良路《ならぢ》なる しまの木立《こだち》も 神《かむ》さびにけり
枳美可由侠 気那我久奈理奴 奈良遅那留 志滿乃己太知母 可牟佐飛仁家里
【語釈】 ○君が行けながくなりぬ 巻二の巻首に出た。「行」は旅行きで、名詞。「け」は、時。○奈良路なる 「奈良路」は、ここは奈良へ行く路の意のものと取れる。旅人の邸は佐保だからである。「なる」は、にある。○しまの木立も 「しま」は、巻三(四五二)「妹として二人《ふたり》作りし吾が山斎《しま》は」と出たそれで、庭園。○神さびにけり 物凄く茂った。
【釈】 君が旅行きは、時久しくもなった。奈良路にある君が庭の木立は、物凄くも茂ったことであるよ。
【評】 旅人の帰京を待ち望む心を、留守宅の庭園の木立の神さびたのに寄せて、それとなく言っているものである。見て思ったままを言っているにすぎない、何のあやもない歌であるが、上の三首に較べると、別手に出たかと思われるまでの魅力のあるものである。老成した深い心の直接な現われだからである。
天平二年七月十日
【解】 書翰の最後の日付である。この後に宛名もあったのであろう。
【題意】 ここには題がないが、目録には「山上臣憶良、松浦の歌三首」とある。
憶良、誠惶頓首、謹みて啓《まを》さく。
憶良聞かくは、方南諸侯、都督刺史、並《みな》典法に依りて、部下を巡行《めぐ》りて、其の風俗を察《み》るといふ。意の内に端《はし》多く、口の外に出し難し。謹みて三首の鄙しき歌を以ちて、五蔵の欝結《むすぼり》を写《のぞ》く。其の歌に曰はく、
憶良、誠悼頓首、謹啓。
憶良聞、方岳諸侯、都督刺史、並依2典法1、巡2行部下1、察2其風俗1。意内多v端、口外難v出。(94)謹以2三首之鄙謌1、寫2五蔵之欝結1。其謌曰、
【語釈】 ○憶良、誠惶頓首、謹みて啓さく 書翰として定まった儀礼の語で鄭重を極めたものである。○方岳諸侯、都督刺史 「方岳」は、『尚書』の周官の記事から出た語。天子が天下を巡狩し、東西南北の四方の岳麓に、その方面の諸侯を参覲させたことから出た語で、「方岳諸侯」は、方岳に参覲する諸侯、すなわち全官吏ということを唐風に言ったもの。「都督」は、『晋書』に出ている官名で、筑紫でいえば大宰帥に相当する職の唐名。「刺史」は、同じく『晋書』に出ている官名で、筑紫でいえば国守に相当する職の唐名で、都督との関係上、大宰府の官人を指したもの。全体では、官吏たる大宰帥及び府の官人の意。○並典法に依りて、部下を巡行りて、其の風俗を察るといふ 典法に拠りては、職務上の法規に従って、「部下を巡行りて」は、管内を巡って、「其の風俗を察る」は、その民の実状を視察する。この典法は、国守はその任国、大宰帥は九州の全部と定まっていた。○意の内に端多く、口の外に出し難し 心の中に思うことが多端で言葉にはあらわし難い。これは下の続きや歌から見ると、憶良はその任国の筑紫以外には出られず、旅人の遊覧した松浦の辺りを見られなかった遺憾を、婉曲に嘆じたもの。〇五戒の鬱結を写く 「五蔵」は五臓で、「写」は除。ここは歌によって心の結ぼれを晴らすの意。
868 松浦《まつら》がた 佐用姫《さよひめ》の子《こ》が 領巾《ひれ》振《ふ》りし 山《やま》の名《な》のみや 聞《き》きつつ居《を》らむ
麻都良我多 佐欲比賣能故何 比例布利斯 夜麻能名乃尾夜 伎々都々遠良武
【語釈】 ○松浦がた 「松浦がた」は、松浦県で、佐用姫の住地。唐津湾をかこむ地。○佐用姫の子が 「佐用姫」のことは、これに続く(八七一)に詳しい。「子」は愛称として添えたもの。○領巾振りし山の名のみや 「領巾」は婦人の頸へ縣けて左右に垂らした布。古くは魔を払う呪力のある物としてであったが、後には装飾品となっていた。「振り」は、それを高く掲げて振ることで、袖を振ると同じく、距離が遠く声の通じ難い所にいる相手に、心を示すしぐさである。ここは大伴狭手彦の遠ざかり行く船に向かってしたのである。「山の名」は領巾振山で、この山は佐賀県東松浦郡部浜崎町と唐津市にまたがる、今は鏡山という小高い丘で、頂上は東西五、六町、南北二、三町の細長い地形をしている。そこからは唐津湾が見渡せる。「や」は疑問の助詞。
【釈】 松浦県の佐用姫が領巾を振った、その山の名だけを聞きつづけていることであろうか。
【評】 旅人の管下巡行で松浦の辺を遊覧したことを聞いて、同行し難い身の憶艮は、第一に領巾振山を見たことを羨ましく思って、そのことの出来ないのを嘆いた心である。羨まれた旅人はその時はその山の歌は詠まず、松浦河に釣する少女に心を傾けていたのである。二人の気分の相異があらわれている。第一にこのような歌を作っているところを見ると、旅人は憶良には松浦河に遊ぷ歌を示さなかったのかとも思われる。思っていることを一気に言い放った調べで、文をもって言っていることと()調和するものである。
869 足比売《たらしひめ》 神《かみ》の命《みこと》の 魚《な》釣《つ》らすと 御立《みた》たしせりし 石《いし》を誰《たれ》見《み》き 【一に云ふ、あゆつると】
多良志比賣 可尾能美許等能 奈都良須等 美多々志世利斯 伊志遠多礼美吉 【一云、阿由都流等】
【語釈】 ○足比売神の命の (八二二)に出た。○魚釣らすと 「な」は、魚の食料としての総称。「釣らす」は、釣るの敬語。○御立たしせりし 「御」は敬語の接頭語。「立たし」は、立つの敬語「立たす」の連用形で名詞。「せりし」は、していたで、連体形。○石を誰見き 「石」は(八五三)以下に出た松浦河の中の岩。「誰」は、我ならぬ誰がと、深みの心からわざと疑問の形にしたもの。旅人を指しての語。「き」は終止形で、「誰」の疑問を終止形で結んだ特別のもので、往々にある古格である。○一に云ふ、あゆつると 三句「魚釣らすと」の一案で、憶良が定めかねて記して置いたものとみえる。
【釈】 足比売神の命が、魚《な》をお釣りになるとて、お立ちになっていられた石を、我ならぬ誰が見たのか。
【評】 この歌は前の歌よりの、羨みの程度の深さを示しているものである。「誰見き」という語はその心を屈折を付けてあらわしたものである。事柄を綿密に言ったのは、神功皇后に対する敬意からそうすべきだとしてのことと思われる。「あゆつると」を別案として書き添えたのは、歌の姿として見ると、このほうが敬語が就かず、感もあざやかになるが、敬意をあらわす上では、細かく立り入りすぎるものとして避けたかった為ではないかと思われる。やはり原案のほうがまさっている。松浦河を思うと、憶良の心に第一に浮かぶのは由緒ある河中の岩だったということは、旅人が松浦河に遊ぷ歌を憶良に示さなかったことを有力に語っているものである。旅人がその歌を都の吉田宜に贈ったのは「四月六日」で、憶良のこの歌を旅人に贈った時は書尾の日付によって「七月十一日」である。旅人の詞友としての憶良に対する態度が思われる。
870 百日《ももか》しも 行《ゆ》かぬ松浦路《まつらぢ》 今日《けふ》行《ゆ》きて 明日《あす》は来《き》なむを 何《なに》か障《さや》れる
毛々可斯母 由加奴麻都良遲 家布由伎弖 阿須波吉奈武遠 奈尓可佐夜礼留
【語釈】 ○百日しも行かぬ松浦路 「百日」は、多くの日数という意を具象的に言ったもの。「し」は強意の助詞。「松浦路」は、松浦辺りの意のもの。下に、詠歎が省かれている。○今日行きて明日は来なむを 今日行って、明日は帰って来られようものをで、距離の近さをいう慣用語のご(96)ときもの。筑前と肥前とは隣国である。○何か障れる 「か」は、疑問の係助詞。「障《さや》る」は、障《さわ》るの古語。何が障りになっているのであろうか。
【釈】 百日もかかって行くのではない松浦辺りよ。今日行って明日は帰って来られようものを。何が障りになっているのだろう。
【評】 「百日しも」と言い、「今日行きて明日は」と繰り返して「何か障れる」と訝りの形をもって言っているのは、愚痴というよりも強い嘆きというべきで、憶良の古蹟に対する憧れのいかに強かったかを示しているものである。「何か障れる」は理の立たない語である。国守は然るべき理由のない限り国境は越えられないことになっていたので、憶良の心のままに遊覧のてきないのは当然なことであるのに、かえってそれを訝って、一私人のごとき物言いをしているからである。良国守と許されていた彼ではあるが、一面にはこうした心情の、偽りならぬものがあったのである。
天平l一年七月十一日 筑前国司山上憶良謹上
【題意】 ここには題はないが、目録には「領巾麾嶺《ひれふりのみね》を詠める歌一首」とあり、作者はない。作者は上よりの続きで旅人であることが明らかである。
大伴|佐提此古郎子《さでひこのいらつこ》、特に朝命を被《かがふ》り、使を藩国《まがきのくに》に奉《うけたまは》る。艤棹《ふなよそひ》して言《ここ》に帰《ゆ》き、稍|蒼波《あをなみ》に赴く。妾《をみなめ》松浦【佐用ひめ》此の別るることの易きを嗟《なげ》き、彼《か》の会《あ》ふことの難きを歎《なげ》く。即ち高山《たかやま》の嶺《みね》に登りて、遙に離れ去《ゆ》く船を望み、悵然《うら》みて肝を断ち、黯然《いた》みて魂《こころ》を銷《け》つ。遂に領巾を脱ぎて麾《ふ》る。傍の者涕を流さざるは莫《なか》りき。因りて此の山を号《なづ》けて領巾麾《ひれふり》の嶺と曰ふ。乃ち歌を作りて曰はく、
大伴佐掟比古郎子、特被2朝命1、奉2使藩國1。艤棹言歸、稍赴2蒼波1。妾也松浦【佐用嬪面】嗟2此別易1、歎2彼會難1。即登2高山之嶺1、遙望2離去之船1、悵然斷v肝、寂然銷v魂。逸脱2領巾1麾之。傍者莫v不v流v涕。因号2此山1曰2領巾麾之嶺1也。乃作v謌曰、
【語釈】 ○大伴佐提比古郎子 郎子は郎女に対してと同じく、敬愛しての称。狭手彦のことは、日本書紀に出ていて、宣化天皇の朝、新羅が任那を侵したので、大伴金村の子狭手彦を遣して事に当らせるとある。狭手彦は任那を鎮め、百済を救った。なお欽明天皇の朝に新羅が任那の宮家を滅ばした時にも、狭手彦は新羅を平げていて、上代の名高い将軍である。○使を藩国に奉る 「藩国」は藩屏国で、属国。「使を奉る」は、討伐の便を奉じる。○言に帰き 言は語調の為の字。松浦に宿泊して出向き。○松浦佐用ひめ 地名と愛称とを一つにした名。例の多いものである。(97)この伝脱は『肥前風土記』にむ載っている。○此の別るることの易きを嗟き、彼の会ふことの難きを歎く 『遊仙窟』に出ている語。○遂に領巾を脱ぎて麾る 恨みいたんでの最後のこととして領巾を振ったというので、たやすくはすべからざることをした意で言っているのである。上代は信仰として、領巾を振ると驚くべき威力をあらわすとしていたので、ここはその心をもって言っているのである。佐用ひめは狭手彦の船を引き戻そうとしたのである。○涕を流さざるは莫りき 信仰を同じくしている者が、その心を汲んで憐れんでのこと。
871 遠《とほ》つ人《ひと》 松浦佐用比売《まつらさよひめ》 夫恋《つまごひ》に 領巾《ひれ》振《ふ》りしより 負《お》へる山《やま》の名《な》
得保都必等 麻通良佐用比米 都麻胡非尓 比例布利之用利 於返流夜麻能奈
【語釈】 ○遠つ人 枕詞。既出。 ○夫恋に 「夫恋」は熟語。「に」は、ゆえに。○領巾頼りしより負へる山の名 領巾を振ったことより領巾麾という名をもっている山であるよ。
【釈】 松浦佐用姫が夫恋いのゆえに領巾を振ったことより、領巾振という名をもっている山であるよ。
【評】 領巾振山を見て、その名の由来を思うことによって、その事に感動した心であるが、感動は言外にしている。物の名の起源伝説が著しく重んじられていた時代であるから、この時代にはこれだけで十分に感をあらわしうることとしたのであろう。
後の人の追ひて和ふる
【題意】 後の人が追って唱和した歌の意であるが、旅人自身の詠んだもので、これにつぐ三首も同様である。佐用姫の物語はあ(98)われ深いものであるが、事としては単純を極めたものなので、繰り返しの形で言うより外はないとしてのことと思われる。
872 山《やま》の名《な》と 言《い》ひ継《つ》げとかも 佐用比売《さよひめ》が この山《やま》の上《へ》に 領巾《ひれ》を振《ふ》りけむ
夜麻能奈等 伊賓都夏等可母 佐用此賣何 許能野麻能閇仁 必例遠布利家牟
【語釈】 ○山の名と 「と」は、としての意のもので、我が事を山の名として。○言ひ継げとかも 「と」は、と思って。「かも」は疑問。○この山の上に 「この」は眼前をさしたもの。「上《へ》」は上《うえ》。
【釈】 我が一事を山の名として、永久に言い継げと思って、佐用姫はこの山の上で領巾を振ったのであったろうか。
【評】 この歌は一読無理なことを言っているが、再読するとその無理が自然になって来る、特別な歌である。「言ひ継げとかも領巾を振りけむ」は、明らかに無理な疑問である。佐用姫の領巾を振ったのは、夫恋しさの念のこらえきれぬあまりにしたことで、言い継ぐなどということは全く無関係なことである。すなわちこの疑問は疑問ともならぬものである。しかし事の成行きから見ると、この当時でもすでに遠い昔のものであるのに、言い継いで絶やしそうにもしていない。これは事のあわれさが忘れさせなくしているので、さながら佐用姫がそうさせているがごとくにも思われるのである。この点からいうと自然な疑問となって来る。一首、領巾振山に対して知性の勝った感傷をしているもので、旅人の作にふさわしいと思わせるものである。
最《いと》後の人の追ひて和ふる
873 万代《よろづよ》に 語《かた》り継《つ》げとし この岳《たけ》に 領巾《ひれ》振《ふ》りけらし 松浦佐用比売《まつらさよひめ》
余呂豆余尓 可多利都袈等之 許能多気仁 比例布利家良之 麻通雄佐用媛面
【語釈】 ○万代に語り継げとし 「万代に」は、永久に、「し」は強意の助詞。○この岳に領巾振りけらし 「この岳」は、眼前の領巾振山、「けらし」は、けるらしの約。○松浦佐用比売 一首の主格。
【釈】 永久に我が事を語り継げと思って、この岳の上に領巾を振ったのであろう、松浦佐用姫は。
【評】 上の歌と同意のものである。上の歌では、「山の名と言ひ継げとかも」と、疑いを問の形で言っているのを、これは「語(99)り継げとし領巾振りけらし」と強い推量として、一歩前進させた心である。恋のあわれさの忘れさせないことの立証である。
最《いと》最《いと》後の人の追ひて和ふる二首
874 海原《うなばら》の 沖《おき》行《ゆ》く船《ふね》を 帰《かへ》れとか 領巾《ひれ》振《ふ》らしけむ 松浦佐用比売《まつらさよひめ》
字奈波良能 意吉由久布祢遠 可弊礼等加 此礼布良斯家武 麻都良佐欲此賣
【語釈】 ○海原の沖行く船を 「沖行く船」は、港を離れて沖を行く船。「を」は、のに。○帰れとか領巾振らしけむ 「帰れと」は、引き返して帰って来よと思って。「か」は、疑問の係助詞。振らし」は、振りの敬語で、女に対しての慣用よりのもの。ここの領巾を振るのは、上代信仰のもので、『肥前風土記』のここを伝えた条は、「俗に伝へて云く、……乙第比売此の岳に登りて披(巾へん)を挙げて招ぐ」とある。「俗」とは土俗すなわち庶民で、古い信仰の保持者である。
【釈】 広い海の沖を行く船であるのに、その船を帰れと思って、領巾を振られたのであろうか、松浦佐用姫は。
【評】 この歌は上に全体的に言って来たのとは別に、佐用姫の領巾を振った瞬間の心持を推量して詠む行き方にしたものである。「帰れとか領巾振らしけむ」は、帰れと思ったことを危み疑って言っているものである。佐用姫は帰ると信じてしたことで、その信仰は旅人も認めて、上にその心より作った歌がある。
しかるに最々後の人として、ここではその同じことを危み凝っているのである。これは最々後の人にはその信仰が衰えていることを示しているものである。信仰がなければこのことは単なる情痴のしぐさとなって来る。それにしてもあわれはあることである。ここは後の心よりのものである。信仰の両端をそれとなくあらわしている、これまた旅人にふさわしい歌である。
875 行《ゆ》く船《ふね》を 振《ふ》り留《とど》みかね いかばかり 恋《こほ》しくありけむ 松浦佐用比売《まつらさよひめ》
由久布祢遠 布利等騰尾加祢 伊加婆加利 故保斯苦阿利家武 麻都良佐欲此賣
【語釈】 ○振り留みかね 「振り留み」は領巾を振って留め。「留《とど》み」は、留めとともに行なわれていた語で、上二段活用。とどめ得ずして。○恋しくありけむ 「こほし」は、「こひし」の古形。○松浦佐用比売 一首の主格。
(100)【釈】 進み行く船をとどめ得ずして、どんなに恋しいことであったろうか、松浦佐用比売は。
【評】 上の歌とこの歌とは、一つの事件の一点を捉えて言っているところから、さながら反歌のような形になっているものである。それにしても上の歌は独立性をもっているが、この歌はかなり脆弱なものである。しかし上の歌と緊密な関係をもった連作になっているので、その脆弱さは救われている。「行く船を振り留みかね」は、上の歌で危み凝った信仰は、ここでは明らかに、無力のものとし、領巾を振るのを単なる情痴のしぐさとしてもいる。
【総評】 以上五首の歌は、追いて和うる人を三人まで設けるという特殊な構想をしたものである。佐用比売の伝説は形が定まっていて、想像を加える余地のないものであるが、同時に事のあわれさの深いものであるから、これについてある纏まったことを言おうとすれば、そのあわれさを繰り返すより他のないものである。後の人、最々後の人と、そこに長い時を設け、時間的に繰り返させたのは、構想としては巧みなものである。無理のない自然な方法でもある。一首一首の上でも相応に用意深く詠んではいるが、これを全体として見ると、鎮懐石、松浦河に遊ぶなどのような心の躍動は伴っていず、やや強いて作った趣のあるものである。時間的に見ても最後の作と思われるから、自然気分の薄れていたということも関係しているかも知れぬ。
書殿《ふみどの》にて餞酒《うまのはなむけ》せし日の倭歌《やまとうた》四首
【題意】 「書殿」は、図書を蔵して置く殿の名で、これは朝廷にはもとより、私人も身分ある人の家にはあった物である。旅人の邸のものである。今はそこを、下の「餞酒」の席に当てたのである。「餞酒」は旅立つ人の路の無事を祈る為にする宴である。「倭歌」は、他に漢詩もあったのに対してのもので、(七九四)の「日本挽歌」と同じ意である。「餞酒」される人は、歌によって旅人と知れる。旅人が大納言に昇進し、都へ還る時のことである。歌の作者は憶良であることは、以下七首の歌の書尾に、「筑前国司山上憶良謹上」とあるので知られ、その時も、同じく「天平二年十二月六日」とあるので知られる。
876 天飛《あまと》ぶや 鳥《とり》にもがもや 京《みやこ》まで 送《おく》り申《まを》して 飛《と》び帰《かへ》るもの
阿麻等夫夜 等利尓母賀母夜 美夜故摩提 意久利磨遠志弖 等比可弊流母能
【語釈】 ○天偲ぶや鳥にもがもや 「天飛ぶ」は既出。空を飛ぶ。「や」は感動の助詞。「がも」は、願望既出。「や」は感動の肋詞。○京まで送り申して 「京」は奈良京。「申し」は敬語とする為に添えているもの。○飛び帰るもの 「もの」は、ものをの意。
(101)【釈】 空飛ぶ鳥でありたいことであるよ。京まで君をお送り申して帰って来るものを。
【評】 餞酒の際の歌は旅立つ人の無事を祝うのであるから、その範囲のことを言うにとどめ、自身の惜別の情は、不吉に陥りやすいところから避けるのを礼としていた。以下四首の歌はその範囲のものである。この歌も、憶良のいつもの自身の感懐を緊張をもって言う風から離れて、落ちついた物柔らかな詠み方をしているのはその為である。「鳥にもがもや飛び帰るもの」は、遠く離れている男女間にはしばしば用いられているものであるが、彼はそれをこの場合に捉え来たって、異なる意味に十分に詠み生かしているのである。憶良の思うのは、旅人をなつかしんで「送り申して」と思うのであるが、国守の職にある彼には、私用で国境を越えることなど思い寄りもされないので、この空想は許されうる最大限の合理性をもったものだったのである。譬喩としてはきわめて甘いものであるが、それがしみじみとしたものとなっているのは、その合理性のさせていることである。「京まで送り申して」は、この場合としてあやしきまで詠み生かされたものである。
877 ひともねの うらぶれ居《を》るに 立田山《たつたやま》 御馬《みま》近《ちか》づかば 忘《わす》らしなむか
比等母祢能 字良夫禮遠留尓 多都多夜麻 美麻知可豆加婆 和周良志奈牟迦
【語釈】 ○ひともねのうらぶれ居るに 「ひともね」という語は、他に例のないもので、未詳の語である。『攷証』は人皆の地方語だろうと言っている。憶良は日常語を歌語とする風があり、例が多い。場合柄それだとすると、旅人にも親しい筑前辺の語であるからその心も伴ったものとして、これに従う。大宰帥の管下の官人全部。「うらぶれ居るに」は、憂えしおれているにで、旅人の発足後を想像しての言。○立田山御馬近づかば 「立田山」は、河内国と大和国の境の生駒山中の一峰。奈良県、生駒郡三郷村立野の西方の山。そこから奈良に行くには越えなければならない山で、そこまで行くと京の近い感をさせる山。「御馬」は旅人の乗馬で、「御」は尊んで添えたもの。○忘らしなむか 「忘らし」は、忘れの敬語。「か」は疑問の終助詞。
【釈】 ここに残されているすべての人は、心憂いてしおれているのに、立田山に御馬が近づいたならば、君はそれらの人をお忘れになられるであろうか。
【評】 旅人が道中無事で、京近くまで.行った時の楽しい心持を、想像で具象的に描き出したものである。それをするに、後に残される諸人の深いさみしさを絡ませて、やすらかに綜合させているのは、非凡な手腕というべきである。儀礼のもので、一種の題詠であるが、いささかもその匂いを見せていない。
(102)878 言《い》ひつつも 後《のち》こそ知《し》らめ とのしくも さぶしけめやも 君《きみ》坐《いま》さずして
伊比都々母 能知許曾斯良米 等乃斯久母 佐夫志計米夜母 吉美伊麻佐受斯弖
【語釈】 ○言ひつつも後こそ知らめ 「言ひつつも」は、三、四句の反転をさせたものと照応させたもので、すなわちさぶしと言いつつも。帥の出立後はさぶしいと諸人が言いつつも。「後こそ知らめ」は、出立後はそのさぶしさのいかに深いかを思い知ろう。○とのしくも これもここにあるのみの語で、他に用例のなく、したがって未詳の語である。『代匠記』は「乏し」と同意の語で「とのしく」は少しくで、下の「さぷし」の程度をあらわしている形容詞だろうと言っている。『攷証』は地方語だろうという。上の「ひともね」と同じく筑前辺りの語で、わざとそうした語を用いた心も同じだとみえる。『代匠記』の解に従うこととする。○さぷしけめやも「さぷしけ」は形容詞で、助動詞「む」が接続し、「や」で反語になっているもので、さぷしいのであろうか、ないの意。上から続いて、大いにさぶしい。○君坐さずして 「君」は旅人、「坐さずして」はここにいらせられなくなってで、旅人の京へ上った後を想像してのもの。
【釈】 今もさびしいと言い言いしていても、後になってそれを痛切に知ることであろう。少しくさびしいという程度であろうか、ありはしない。君がここにいらせられないことになって。
【評】 大宰帥としての旅人が居なくなった後に感じる寂莫の感を思いやることによって、その徳望の高く温情の深かったことを讃えて言っている歌である。きわめて要を得た讃え方であるが、同時にきわめて、捉えて言い難い境でもある。それを、その事を感じ合っている官人の雰囲気をとおして言うという、実際に即しての詠み方をしているもので、きわめて手腕の現われている歌である。こうした場合の歌としては、じつに珍しいものである。
879 万代《よろづよ》に 坐《いま》し給《たま》ひて 天《あめ》の下《した》 まをしたまはね 朝廷《みかど》去《さ》らずて
余呂豆余尓 伊麻志多麻比提 阿米能志多 麻乎志多麻波称 美加度佐良受弖
【語釈】 ○万代に坐し給ひて 「坐し給ひて」は、敬語の坐しに、敬語の補助動詞「給ひ」の接続したもの。○天の下まをしたまはね 「天の下まをし」は、天下の政事を奏上しで、政事を執る意の成語。「たまはね」は、敬語の助動詞に願望の助詞の接統したもの。○朝廷去らすて 朝廷を離れずに。
【釈】 万歳の齢をお保ちになられて、天下の政事をお執りくだされ、朝廷を離れずに。
(103)【評】 大納言に昇進して京に還る旅人に対し、事の全体を綜合しての賀の歌であり、この場合、結びとして言うべき性賀のものである。儀礼の言であるが、それとしては真情の籠もったものである。敬語が多いのはその位地の高さに対してである。
敢へて私懐《おもひ》を布《の》ぶる歌三首
【題意】 餞酒の際の歌は儀礼としてのもので、自身の個人的の感情をまじえるべきものではない。それはそれとして以上の四首で尽くした上で、憶良はこの機会に自身の個人的の心持をも旅人に訴えようとして詠んだのが以下の三首である。「敢へて」と言っているのは、本来はさし控えるべきことをする意からである。
880 天《あま》ざかる 鄙《ひな》に五年《いつとせ》 住《すま》ひつつ 京《みやこ》の手《て》ぶり 忘《わす》らえにけり
阿麻社迦留 比奈尓伊都等世 周麻比都々 美夜故能提夫利 和周良延尓家利
【語釈】 ○天ざかる 既出。枕詞。○鄙に五年住ひつつ 鄙はここは任地の筑前国。「五年」は、筑前守としてこの時までに務めていた年数。国司の年限は、この当時は四年であり、天平宝字二年に六年となったが、後また四年となった。その国が京より遠隔な地は年限を延ばされることもあったので、憶良はそれであったとみえる。「住ひつつ」は、住むの継続「住ひ」にさらに「つつ」の接続したもの。○京の手ぶり志らえにけり 「手ぶり」は風俗。「忘らえ」の「え」は受身の助動詞「ゆ」の連用形。
【釈】 鄙の国に五年を住みつづけて、京の風俗は、忘れさせられてしまいました。
【評】 これを初めとして、続く二首は連作となっており、京へ転任したいことを旅人に縋って頼んでいるのである。一貫して流れている気分は、京が恋しく地方が侘びしく、さながら旅のような気がして過ごしている訴えである。これは地方官に共通な気分で、憶良としても憚りなく言えるものであったとみえる。この歌はその初めのもので、「五年」ということを重点として言ったものである。筑前は大際府のある国で、たとい遠隔であるとしても不便な地ではないから、すでに五年になるという例外が、憶良としてはつらいものであったとみえる。憶良が良吏で代えることを惜しまれたのか、または縁を求めて運動することが拙なかった為かはわからないが、そのどちらもありうることに思える。
881 斯《か》くのみや 息衝《いきづ》きをらむ あらたまの 来経往《きへゆ》く年《とし》の 限《かぎり》知《し》らずて
(104) 加久能未夜 伊吉豆伎遠良牟 阿良多麻能 吉倍由久等志乃 可伎利斯良受提
【語釈】 ○斯くのみや息衝きをらむ 「斯くのみ」は、このようにばかりで、「や」は疑問の係助詞。「息衝き」は、溜息をついて。現在の状態に対する嘆き。○あらたまの来経往く年の 「あらたまの」は枕詞。「釆経往く」は、経過して行くで、時を具象的に強く言ったもので、年の修飾句。○限知らずて 「限」は、国守としての任の果て。「知らずて」は、知られずして。
【釈】 このようにばかり溜息をついていることであろうか。国守として過ごしてゆく年の果てが知られずに。
【評】 上の歌の五年を受けて、さらにこれが将来へも続くのだろうかと、心細さ嘆かわしさを披瀝して訴えたのである。「斯くのみや」と綜合し、「あらたまの来経往く」と年を強調しているところなど、要を得た歌である。憶良の気の勝った方面は隠れ、老の衰えのみ出ているあわれ深い作である。
882 吾《あ》が主《ぬし》の 御霊《みたま》賜《たま》ひて 春《はる》さらば 奈良《なら》の京《みやこ》に 召上《めさ》げ給《たま》はね
阿我農斯能 美多麻々々比弖 波流佐良婆 奈良能美夜故尓 ※[口+羊]佐宜多麻波祢
【語釈】 ○吾が主の御霊賜ひて 「吾が主の」は、「吾が」は、親しんで添えたもの。「主」は大人《うし》と並び行なわれていた同意の敬称、これは現在も口語として残っている。しかし敬意は失われている。「御霊」は、先方の霊魂。「賜ひて」は我に賜わってで、御恩頼を蒙ってということを、先方を主として言った、上代よりの成語。○春さらば 春が来たならばで、春は次の時代と同じく、官人の任免の時期であったと取れる。○奈良の京に召上げ給はね 「召上げ」は、召し上げの約。「ね」は願望の助詞。奈良の京にお召上げ下されよ。
【釈】 我が君のお心計らいによって、春になったならば、奈良の京にお召上げ下され。
【評】 これが憶良の言おうとした眼目で、上の二首はこの歎願する為に理と情を尽くそうとしたものである。連作としての構成が緊密である。転任の歎願とはいえ、これはただ京へ帰りたいというだけのもので、他意あるむのではない。また旅人は大納言に昇任したのであるから、そうしたことに参与しうる人として歎願しているのであるから、この際は老下官としてそれをするのが礼であったかもしれぬ。とにかくいや味のない歎願である。旅人はこの月のうちに上京の途についている。
天平二年十二月六日 筑前国司山上憶良謹上
【解】 「餞酒の歌」とこれとを総括しての日付である
(105) 三島王、後に追ひて和ふる松浦佐用姫の敬一首
【題意】 「三島王」は、舎人親王の御子で、養老七年に無位より従四位下を授けられている。
883 音《おと》に聞《き》き 目《め》には未《いま》だ見《み》ず 佐用比売《さよひめ》が 領巾《ひれ》振《ふ》りきとふ 君松浦山《きみまつらやま》
於登尓吉岐 目尓波伊麻太見受 佐容比賣我 必礼布理伎等敷 吉民萬通良楊滿
【語釈】 ○音に聞き 評判に聞いて。○振りきとふ 「とふ」は、「といふ」の約。○君松浦山 「君」は、君を待つの意で、同音の「松」に続けた序詞の形のもの。古くからあるものである。「松浦山」は、松浦の領巾振山。
【釈】 評判には聞いて目にはまだ見ていない。佐用姫が領巾を振ったという、君を待つという松浦山は。
【評】 領巾振山の歌を読んで、その見ぬ山につないだ憧れの心である。「君松浦山」には多少の技巧が認められる。
大伴君熊凝《おほとものきみくまごり》の歌二首 【大典|麻田陽春《あさだのやす》の作れる】
【題意】 「大伴君熊凝」のことは、次の憶良の歌の序に詳しい。「麻田陽春」は、巻四(五七〇)に出た。歌は、陽春が熊凝に代わってその心中を詠んだ辞世の歌である。
884 国《くに》遠《とほ》き 道《みち》の長手《ながて》を 鬱《おほほ》しく 今日《けふ》や過《す》ぎなむ 言問《ことど》ひもなく
國遠伎 路乃長手遠 意保々斯久 計布夜須疑南 己等騰此母奈久
【語釈】 ○国遠き道の長手を 「国遠き」は、国は熊凝の生国で、生国から遠い。「道の長手」は、長い道中。「を」は、のに。○鬱しく今日や過ぎなむ 「鬱しく」は巻二(一七五)に既出。鬱々としてで、心晴れずに。「や」は疑問の係助詞。「過ぎ」は、経過するで、死ぬ意。今日は死ぬのであろうか。○言問ひもなく 物を言われること、すなわち慰問されることもなく。
【釈】 生国から遠い長い道中なのに、今日は死ぬのであろうか。慰問されることもなく。
(106)【評】 麻田陽春が大伴君熊凝という、他国の賤しい者の死に、何らかの関係をもっていて、その死をあわれんで詠んだものであるが、それをするにあたって、熊凝に代わっての辞世の歌という形にしたものである。この代作ということはこの時代になってしばしば出て来るもので、歌を一方では一つの文芸形式と見ていたことの現われである。死という中でも旅で死ぬということは、この時代にはきわめて悲しいことにしていたので、これはそれを中心として詠んだものである。第三者として詠んだ跡を見せている歌である。
885 朝霧《あさぎり》の 消《け》やすき我《わ》が身《み》 他国《ひとぐに》に 過《す》ぎかてぬかも 親《おや》の目《め》を欲《ほ》り
朝霧乃 既夜須伎我身 比等國尓 須疑加弖奴可母 意夜能目遠保利
【語釈】 ○朝霧の消やすき我が身 「朝霧の」は意味で「消」にかかる枕詞。「消《け》やすき我が身」は、死に易い我が身で、二句仏説的である。○他国に過ぎかてぬかも 「他国」は、自分の生国以外の国の総称で、旅での意。「に」は、にて。「過ぎかてぬ」は、死に得ぬで、死ぬに死なれぬ。○親の目を欲り 親の顔を見たくて。
【釈】 もともと亡び易い身だが、他国では死にきれないことよ。親の顔を見たくて。
【評】 上の歌の連作で、同じく旅に死ぬ悲しさの繰り返しであるが、前進させて、「親の目を欲り」と具体的なものにしている。三句以下の徹底しているのに比して、一、二句は甚しく遊離している。やはり第三者ということを思わせる。
敬《つつし》みて和《こた》ふる、熊凝の為に其の志を述ぶる歌六首 并に序 筑前国守山上憶良
【題意】 「敬みて和ふる」は、上の陽春の歌に対してである。署名の位置は他の例と異なっているが、巻四、笠朝臣金村の歌にも見えた形である。
大伴君熊凝は、肥後の国|益城《ましき》の郡の人なり。年十八歳にして、天平三年六月十七日を以ちて、相撲使某の国の司官位姓名の従人《ともびと》と為り、京都《みやこ》に参向《まゐむか》ふ。天《あめ》なるかも、幸《さち》あらず、路にありて疾《やまひ》を獲、即ち安芸の国佐伯の郡|高庭《たかには》の駅家《うまや》にして身故《みまか》りぬ。臨終《みか》らむとする時、長き歎息《なげき》して曰はく、(107)伝へ聞く仮に合へるの身は滅《ほろ》び易く、泡沫《うたかた》の命は駐《とど》め難しといふ。この所以《ゆゑ》に千聖已に去り、百賢も留らず。況《ま》して凡愚の微《いや》しき者、何《な》ぞも能く逃れ避《さ》らむ。但《ただ》我が老いたる親、並に菴室に在《いま》す。我を待ち日を過したまひ、おのづから心を傷むる恨あり。我を望みて時に違はば、必ず明《あかり》を喪《うしな》ふ泣《なみだ》を致さむ。哀しきかも我が父、痛ましきかも我が母、一の身の死に向ふ途を患へず、唯二の親の世に在《いま》す苦を悲む。今日|長《とこしへ》に別れなば、何れの世にか覲《み》ることを得むといふ。乃ち歌六首を作つて死《みまか》りぬ。其歌に曰はく、
大伴君熊凝者、肥後国益城郡人也。年十八歳、以2天平三年六月十七日1、爲2相撲俊某國司官位姓名從人1、參2向京都1。爲v天、不v幸、在v路獲v疾、即於2安藝國佐伯郡高座驛家1身故地。臨終之時、長歎息曰、傳聞仮合之身易v滅、泡沫之命難v駐。所以千聖已去、百賢不v留。況乎凡愚微者、何能逃避。但我老親、並在2奄室1。待v我過v日、自有2傷心之恨1。望v我違v時、必致2喪v明之泣1。哀哉我父、痛哉我母、不v患2一身向v死之途1、唯悲2二親在v生之苦1。今日長別、何世得v覲。乃作2謌六首1而死。其謌曰、
【語釈】 ○肥後の国益城の郡 今は熊本県で、上益城下益城の二郡に分かれている。○相撲使 相撲|部領使《ことりづかい》のことで、(八六四)の書翰に出た。○某の国の司官位姓名 この文の性質上、明らかにいう必要がないので、わざと略したもの。○天なるかも 天運なるかな。○安芸の国佐伯の郡高庭の駅家 広島県佐伯郡大野町で、高庭という地名は残らないが、厳島に対かった海辺に高畠という地があり、そこではないかという。○仮りに合へる身 仏説に、人身は地水火風の四大がかりに合ったものとするに拠るもの。○泡沫の命 経文の語。○我を望みて時に違はば 我が帰りを待って、その時期が違ったならばで、『戦国策』にある故事に拠ったもの。○必ず明を喪ふ泣を致さむ 目を泣きつぶす程に涙を流そうで、『礼記』に拠ったもの。この序は、初めの部分の「高庭の駅家にして身故《みまか》りぬ」までは、憤良はその伝聞したところをさながらに記したものと取れる。「長き歎息《なげき》して曰はく」より、結末の「覲ることを得むといふ」までの熊凝の語は、麻田陽春の歌よりの想像で、仏典や漢籍から語をかりて事を物語化そうとしたものである。「乃ち歌六首を作つて死りぬ」はその頂点で、これは旅人の「松浦河に遊ぶ歌」と構成を同じゅうするものである。これは時代的要求の伴ってのことと思われるが、少なくも双方の間に繋がりのあってのことと思われる。
(108)886 うち日《ひ》さす 宮《みや》へ上《のぼ》ると たらちしや 母《はは》が手《て》離《はな》れ 常《つね》知《し》らぬ 国《くに》の奥処《おくか》を 百重山《ももへやま》 越《こ》えて過《す》ぎ行《ゆ》き 何時《いつ》しかも 京師《みやこ》を見《み》むと 思《おも》ひつつ 語《かた》らひ居《を》れど 己《おの》が身《み》し いたはしければ 玉桙《たまぼこ》の 道《みち》の隈《くま》みに 草《くさ》手折《たを》り 柴《しば》取《と》り敷《し》きて とこじもの うち臥伏《こいふ》して 思《おも》ひつつ 歎《なげ》き臥《ふ》せらく 国《くに》に在《あ》らば 父《ちち》取《と》り見《み》まし 家《いへ》に在《あ》らば 母《はは》取《と》り見《み》まし 世間《よのなか》は かくのみならし 狗《いぬ》じもの 道《みち》に臥《ふ》してや 命《いのち》過《す》ぎなむ 【一に云ふ、わが世《よ》過《す》ぎなむ】
字知比佐受 宮弊能保留等 多羅知斯夜 波々何手波奈例 常斯良奴 國乃意久迦袁 百重山 越弖須疑由伎 伊都斯可母 京師乎美武等 意母比都々 迦多良比袁礼騰 意乃何身志 伊多波斯計礼婆 玉桙乃 道乃久麻尾尓 久佐太袁利 志婆刀利志伎提 等許自母能 字知許伊布志提 意母比都々 奈宜伎布勢良久 國尓阿良波 父刀利美麻之 家尓阿良婆 母刀利美麻志 世間波 迦久乃尾奈良志 伊奴時母能 道尓布斯弖夜 伊能知周疑南 【一云、和何余須疑奈牟】
【語釈】 ○うち日さす宮へ上ると 「うち日さす」は、巻三(四六〇)に出た。「宮」の枕詞。「宮」は朝廷。「へ」は「に」よりは広く漠然と言ったもので、敬意よりのこと。「上る」は、京を尊んでの言い方。○たらちしや母が手離れ 「たらちしや」は母の枕詞。「たらちねの」が普通で、これは稀れなものである。用例から見て古形と思われる。語義は諸説があって定まらない。「母が手離れ」は、母の許を去る意を、母を主として言ったもの。○常知らぬ国の奥地を 「常知らぬ」は、平生は知らないで、初めての。「国の奥処」は、「国」は、広く土地の意のもの。「奥処」は奥の処で、遠く離れた所。○百重山越えて過ぎ行き 「百重山」は、百重と多く重なっている山で、諸所にある山を総括して言ったもの。○何時しかも京師を見むと 「何時しかも」は、いつかに、「し」の強意の助詞が添って、いつになったら、すなわち早くの意となったもの。○思ひつつ語らひ居れど 「語らひ」は「語る」の継続で、同輩と語らうこと。「居れど」は、居たけれどもで、以上一段落。○己が身しいたはしければ 「身し」の「し」は強意の助詞。「いたはし」は労《いた》わしが原義で、病で苦しい意にも用いた。ここはそれで、病で苦しいので。○玉梓の道の隈みに 「王梓の」は、道の枕詞。既出。「隈」は、曲がり目で角。「み」は接尾語。○草手折り柴取り敷きて 「手折り」の「手」は接頭語。草を折って、柴を取って敷いてで、床を作ること。熊凝の病を得たのは高庭の駅家であるが、人家には入ることが出来ず、路傍に寝ていたのである。病者は嫌われたが為で、普通のことであった。○とこじものうち臥伏して 「とこじもの」は、「とこ」は原文「等計」で、諸本異同がない。それだと「解霜の」で、解けた霜のごとくに臥伏《こいふ》しと続くので、通じはするが、それだと死者を言っているようであり、時も六月であるから、ふさわしくない。(109)『代匠記』は計は許の誤写で、「床じもの」であろう、それでないと下への続きが心得難いと、言っている。『代匠記』の説に従うべきだと思われる。「うち臥伏して」は、「うち」は接頭語。「臥」は動詞「こゆ」の連用形。転びで、転び伏して。○思ひつつ歎き臥せらく 「思ひつつ」は、下の「国に在らば」以下のことで、それを繰り返し思う意。「歎き臥せらく」は、「歎き」は現状を嘆き、「臥せらく」は「臥せり」の名詞形で、臥していることには。○国に在らば父取り見まし 「国」は生国で、もし生国のことであったならば。「取り見る」は、熟語で、世話をする意。「まし」は、「在らば」の仮設の結。○世間はかくのみならし 日本挽歌に出ず。○狗じもの道に臥してや 「狗じもの」は、狗のごとくに。「臥してや」の「や」は疑問の係助詞。○命過ぎなむ 死ぬことであろうか。○一に云ふ、わが世過ぎなむ わが生涯が終わることであろうか。この「一に云ふ」について『新考』は、この一句は、次の第一の反歌の結尾にあるべきものが、紛れてここに移ったものだろうと言っている。
【釈】 都の大宮のほうへ上って行くとて母の手許を離れて、これまで知らない国の遠い所だのに、百重なる山を越して後にして、早く京を見たいと思いつづけ、同輩と話しつづけて来たが、わが身が病で苦しいので、往還の隅に、草を折り柴を取って敷いて床の形にして転び寝をして、このさまを思い思い嘆いて寝ていると、これがもし生国の中のことであったら、父が看護をしてくれよう、もし家に居てのことだったら、母が看誕をしてくれよう、世の中というものはこうしたものなのだろう、狗のように往還の上に寝て命が終わってゆくのであろうか。一に云う、この世を去るのであろうか。
【評】 この歌は、憶良としても力を籠めての作であることが、長歌と反歌五首という、その形の長大な点からも窺われる。熊凝は社会的にいうと相撲使の一従者で、十八の青年にすぎない、言うに足りない存在である。また旅びとが路傍で死ぬということは、上代の極度に穢を忌んだ習俗からいうと珍しからぬことで、集中にも数あるもので、事態としてもさして心を動かされるべきことではなかったのである。それを、旅人の妻大伴郎女に対して詠んだ挽歌とほとんど異ならない程の努力をもってこうした一種の挽歌を詠んでいるのは、甚だ強く憶良の心を動かすものがあったからであろう。生命に対する強い執着、庶民に対する深い愛など、憶良特有なものも伴っていたろうが、最も強く働いたのは、親が子を思う情と離し難い、子の親を思う情が麻田陽春の歌に現われているのに刺激されて、それと同じ情の、彼の倫理観に支えられているものが甚だ強く働いて、「敬みて和ふる」という形で、彼自身を熊凝の立場に立たせて物を言うという、物語的な境にまでたやすく展開して行ったものと思われる。それにつけて思われることは、本来この歌は挽歌の性質のものであるが、それとしては死者の代作ということは、その性質に裏切るところのあるものである。大伴郎女に対しての「日本挽歌」は旅人に代わってのものであるから割引されうるものであるが、これは死者が我と自身を慰めている形のもので、その点問題となることである。陽春も憶良も、死者をあわれむ心をこのように文芸的なものにしているのは、この時代にはすでに挽歌の精神は知識階級からは喪われていたのかと思われる。この歌はまずその事態があわれなものであるから、勢い事態の特殊さを言わねばならぬものであり、また想像で叙したものでもあるから、勢い第三者的な、丹念ではあるが生気の乏しいものとなって、憶良の作とすると見劣りのするものとなっ(110)ている。想像を挟みにくい材ではあるが、憶良の想像は狭く限られたものであったろうと思われる。それにまた憶良の序は、これを歌との関係から見ると、適当を失ったものである。序で抒情の部分までも言いつくしているので、歌の中心となるべきその方面は単なる繰り返しとなり、主客顛倒した形となっている。綜合力の強く働く彼であるのに、序と歌との上にはそれが足らず、ことにこの歌の場合にはそれが目立っている。
887 垂乳為《たらちし》の 母《はは》が目《め》見《み》ずて 鬱《おほほ》しく 何方《いづち》向《む》きてか 吾《あ》が別《わか》るらむ
多良知子能 波々何目美受提 意保々斯久 伊豆知武伎提可 阿我和可留良武
【語釈】 ○垂乳為の母が目見ずて 「垂乳為の」は、長歌では「たらちしや」とある。それと「たらちねの」との中間的な形である。「母が目見ずて」は、母の顔を見ずして。○鬱しく (八八四)に既出。○何方向きてか どちらの方角に向かってかで、自身の生国の方角のわからない意。○吾が別るらむ 「別るらむ」は、母に別れをしたものであろう。
【釈】 母の顔を見なくて、心もとなくもどちらの方角へ向かって別れをするのであろうか。
【評】 単純ではあるが哀切の情をたたえている歌で、すぐれた作と称し得られるものである。陽春の第二首の「他国に過ぎかてぬかも親の目を欲り」を前進して透徹させたものである。『新考』の言っている、長歌の結尾に添っている「一に云ふ、わが世過ぎなむ」は、ここに添うのではないかということは、頷きうるものに思える。この作は広く伝わって誤写を起こしたものとは思われぬから、「一に云ふ」というのは一応は作者の別案かと思われるが、これに続く四首が総てそれを持っているのである。この作は麻田陽春にも示したろうし、また京の旅人の許へも送ったものであるから、別案を添えてのこととは思われない。それだと仏足石歌体のごとく、結句をいささか語を換えて繰り返し謡わせようとの意図のもので、それが編者に誤解されて、原文にはなかった「一に云ふ」の語が添えられたのだろうと解される。反歌を謡い物の形式にしたということは、長歌はその内容から見て、一つの事件を謡い物風に扱ったとも見られるものなので、憶良としては謡い物に倣ってという意図をもっており、反歌には明らかにその意図を示したともみえるからである。編者がこの歌の繰り返しを長歌のほうへ移したのは、この歌にあっては結句は動かし難い適切さをもったものなので、結句に異伝別案があるはずがないと見たことも手伝っていよう。結句の繰り返しがこれと同じく異伝と誤読された例は、他にもあるものである。
888 常《つね》知《し》らぬ 道《みち》の長路《ながて》を くれぐれと 如何《いか》にか行《ゆ》かむ 糧《かりて》は無《な》しに 【一に云ふ、乾飯《かれひ》は無《な》しに】
(111) 都称斯良農 道乃長手袁 久礼々々等 伊可尓可由迦牟 可利弖波奈斯尓 【一云、可例比波奈之尓】
【語釈】 ○常知らぬ道の長路を 平生は知らないその遠い路をで、冥途。○くれぐれと如何にか行かむ 「くれぐれと」は、「くれ」は闇《くれ》で、それを重ねて副詞としたもので、覚束なく。「如何にか行かむ」は、どう行くのであろうか。○糧は無しに 「糧」は、糧《かて》の古語。当時の旅行では糧は途中では得難く、必要なだけを持って出懸けたので、冥途の遠い旅立にそれを案じた意。○一に云ふ、乾飯は無しに 「乾飯」は飯の乾した物で、携帯にたやすいところから用いた。
【釈】 平生知らない冥途の遠い路を、覚束なく、どのように行くのであろうか。道中の糧《かて》はなくて。一に云う、乾飯はなくて。
【評】 この歌は現在から見ると甚しく空想的な空疎なものに感じられるが、この当時には感を誘いうるものであったろう。上代の信仰では、死ということは、その居る界を異にするだけで、異なった状態において存在を続けることだとしていた。仏教が渡来してその行く界は冥途となったのであるが、これは従来の幽界の換名にすぎないもので、仏典でいう死は単なる知識で、身についたものではなかったとみえる。この歌でいう冥途はいわゆる十万億土ではあるが、やはり死んだ自身の存在している幽界で、したがってそこへ行くには現し世でしたと同じく糧《かりて》も乾飯《かれい》も要するとしたのであった。この糧のことを案じている心は、この当時にあってはあわれの深いこととして、読む人を頷かせたものであろうと思われる。
889 家《いへ》に在《あ》りて 母《はは》が取《と》り見《み》ば 慰《さぐさ》むる 心《こころ》はあらまし 死《し》なば死《し》ぬとも 【一に云ふ、後《のち》は死《し》ぬとも】
家尓阿利弖 波々何刀利美婆 奈具佐牟流 許々呂波阿良麻志 斯奈婆斯農等母 【一云、能知波志奴等母】
【語釈】 ○家に在りて母が取り見ば もしも家に居て、母が看護をしてくれるのであったならば。○慰むる心はあらまし 「まし」は、在らばの仮説の結。心の慰むこともあろうの意の当時の言い方。○死なば死ぬとも 死ぬならば死のうとも。○一に云ふ、後は死ぬとも 「後」は、「取り見て」の後。
【釈】 もしも家に居て母が看護をしてくれるのであったら、心の慰みもあろう。死ぬならば死のうとも。一に云う、その後《あと》は死のうとも。
【評】 長歌の「家に在らば母取り見まし」と、「命過ぎなむ」とを綜合した心である。長歌では事の委曲を尽くそうとした為に分解的になったのであるが、短歌は綜合して単純な形として、遙かに感の深いものとしているのである。短歌の特色を見せて(112)いると言える。歌の続きとしては、死を思うとともに、冥途を思いやった心が、母を慕う心になって来たので、人間としての心理の実際に即したものである。父を言わず母を言っているのも実際的である。
890 出《い》でて行《ゆ》きし 日《ひ》を数《かぞ》へつつ 今日《けふ》今日《けふ》と 吾《あ》を待《ま》たすらむ 父母《ちちはは》らはも 【一に云ふ、母《はは》が悲《かな》しさ】
出弖由伎斯 日乎可俗閇都々 家布々々等 阿袁麻多周良武 知々波々良波母 【一云、波々我迦奈斯佐】
【語釈】 ○出でて行きし日を数へつつ 「出でて行きし」は、親のほうを主に立てて親より見た自分を言ったもの。「日を数へつつ」は、予定した旅の日数を数えつつ。○今日今日と吾を待たす 「今日今日と」は、今日は今日はといって。「待たす」は、待つの敬語。○父母らはも 「ら」は接尾語。「はも」は詠歎の助詞。○一に云ふ、母が悲しさ 母の心の悲しいことよ。
【釈】 我が旅立った時からの日数を数え数えして、今日は、今日と言って、我が帰りを待っていられる父母よ。一に云う、母の悲しいことよ。
【評】 上を承けて、今は自身のことは思わず、父母をのみ思って憐れんでいる心で、進展させたものである。この心は、序では力説しているが、長歌にはない。「今日今日と吾を待たすらむ」は、すでに帰期となっている心で、事としては不合理であるが、心としてはあわれがある。結句「父母らはも」と言い、繰り返しにおいては、父を棄てて「母の悲しさ」と強く言っているところ、長歌の道義的なのとは異なって真情が現われており、憶良の感性に細かいもののあることを示している。
891 一世《ひとよ》には 二遍《ふたたび》見《み》えぬ 父母《ちちはは》を 置《お》きてや長《なが》く 吾《あ》が別《わか》れなむ 【一に云ふ、あひ別《わか》れなむ》
一世尓波 二遍美延農 知々波々袁 意伎弖夜奈何久 阿我和加礼南 【一云、相別南】
【語釈】 ○一世には二遍見えぬ 「一世」は、一生涯。「は」は、強意の助詞。「見えぬ」は、見られぬで、逢えない。○置きてや長く 「置きて」は、後に残して。「や」は疑問の係助詞。「長く」は永久に。○吾が別れなむ 吾は別れるであろうか。○一に云ふ、あひ別れなむ 「あひ別れ」は、たがいに別れるの意。
【釈】 生涯に二度と見られない逢えない父母を後に置いて、永久に吾は別れるのであろうか。一に云う、別れるのだろう。
【評】 内容としては第一首の「何方向きてか吾が別るらむ」と 異ならないものである。そちらは死そのものに捉えられての感(113)傷であったのに、続いてはっきりと死を思い、またこまごまと父母を思っての後、再び別れを思うと、その心がすべてを綜合した深さのあるものとなり、「一世には二遍見えぬ」となり、「長く吾が別れなむ」と言いかえて繰り返すものとなって来たのである。五首の連作の最後のものとしての思い入れのあるものである。「一世には二遍見えぬ」がやや曖昧な言い方にみえるのは、この心を言おうとしてのことと取れる。「ひと」「ふた」と対照的になっているのも、そうならせる理由になっていよう。
貧窮問答の歌一首 并に短歌
【題意】 「貧窮問答」は、、尋常の貧窮者と極度の貧窮者との一間一答するのを、第三者の立場に立って叙したもので 長歌形式をもってしたものである。問答という形は、相聞の歌にあっては普通のことで、最も有り触れたものであり、またそれを長歌をもってすることは、古事記神代の巻、八千矛神と沼名河比売《ぬなかはひめ》、また八千矛神と須勢理比売《すせりひめ》との間に行なわれたものを初めとして少なくはなく、またその歌謡はすでに一般化していたとみえるから、これまた創意あるものではない。しかし第三者の立場に立ってそれを叙するということは先例の見えないもので、これは憶良の創意と言える。ことに「貧窮」というものを題材としたことは、全く憶良の創意で、ここに憶良の面目がある。憶良は筑前守であり、その前は伯耆守でもあって、民政と民情に通じていたと思われる。当時の国司は概していうと私腹を肥やそうとする念が熾んで、したがって苛斂誅求を行ない、その結果として、国庫は匱乏《きぼう》を来たそうとし、庶民は堵に安んぜず、流離するという実情であったことを史は伝えている。憶良はそれを嘆きつつ、しかもいかんともすることの出来ずにいた人とみえる。この歌は形からいうと想像の世界のものであるが、根柢は当時の実情に即したものであろうと思われる。
892 風《かぜ》雑《まじ》り 雨《あめ》降《ふ》る夜《よ》の 雨《あめ》雑《まじ》り 雪《ゆき》降《》る夜《よ》は 術《すべ》もなく 寒《さむ》くしあれば 堅塩《かたしほ》を 取《と》りつづしろひ 糟湯酒《かすゆざけ》 うち啜《すす》ろひて 咳《しは》ぶかひ 鼻《はな》びしびしに しかとあらぬ 鬚《ひげ》かき撫《な》でて 吾《あれ》をおきて 人《ひと》はあらじと 誇《ほこ》ろへど 寒《さむ》くしあれば 麻衾《あさぶすま》 引《ひ》き被《かがふ》り 布肩衣《ぬのかたぎぬ》 有《あ》りの ことごと 服襲《きそ》へども 寒《さむ》き夜《よ》すらを 我《われ》よりも 貧《まづ》しき人《ひと》の 父母《ちちはは》は 飢《う》ゑ寒《さむ》からむ 妻子《めこ》どもは さくり泣《な》くらむ この時《とき》は 如何《いか》にしつつか 汝《な》が世《よ》は渡《わた》る
(114)天地《あめつち》は 広《ひろ》しといへど 吾《あ》が為《ため》は 狭《さ》くやなりぬる 日月《ひつき》は 明《あか》しといへど 吾《あ》が為《ため》は 照《て》りや給《たま》はぬ 人《ひと》皆《みな》か 吾《われ》のみや然《しか》る わくらばに 人《ひと》とはあるを 人竝《ひとなみ》に 吾《あれ》も作《つく》るを 綿《わた》もなき 布肩衣《ぬのかたぎぬ》の 海松《みる》の如《ごと》 わわけさがれる 繿褸《かかふ》のみ 肩《かた》に打懸《うちか》け 伏廬《ふせいほ》 の 曲廬《まげいほ》の内《うち》に 直土《ひたつち》に 藁《わら》解《と》き敷《し》きて 父母《ちちはは》は 枕《まくら》の方《かた》に 妻子《めこ》どもは 足《あと》の方《かた》に 囲《かく》み居《ゐ》て 憂《うれ》ひ吟《さまよ》ひ 竈《かまど》には 火気《けぶり》ふき立《た》てず 甑《こしき》には 蜘蛛《くも》の巣《す》かきて 飯《いひ》炊《かし》く 事《こと》も忘《わす》れて 奴延鳥《ぬえどり》の のどよひ居《を》るに いとのきて 短《みじか》き物《もの》を 端《はし》截《き》ると 云《い》へるが如《ごと》く 楚《しもと》取《と》る 里長《さとをさ》が声《こゑ》は 寝室戸《ねやど》まで 来立《きた》ち呼《よ》ばひぬ 斯《か》くばかり 術《すべ》なきものか 世間《よのなか》の道《みち》
風雜 雨布流欲乃 雨雜 雪布流欲波 爲部母奈久 寒之安礼婆 堅塩乎 取都豆之呂比 糟湯酒 宇知須々呂比弖 之〓夫可比 鼻※[田+比]之※[田+比]之尓 志可登阿良農 比宜可伎撫而 安礼乎於伎弖 人者安良自等 富己呂倍騰 寒之安礼婆 麻被 引可賀布利 布可多衣 安里能許等其等 伎曾倍騰毛 寒夜須良乎 和礼欲利母 貧人乃 父母波 飢寒良牟 妻子等波 乞々泣良牟 此時者 伊可尓之都々可 汝代者和多流
天地者 比呂之等伊倍杼 安我多米波 狭也奈農奴流 日月波 安可之等伊倍騰 安我多米波 照哉多麻波奴 人皆可 吾耳也之可流 和久良婆尓 比等々波安流乎 此等奈美尓 安礼母作乎 綿毛奈伎 布可多衣乃 美留乃其等 和々氣佐改札流 可々布能尾 肩尓打懸 布勢伊保能 麻宜伊保乃内尓 直土尓 藁解敷而 父母波 枕乃可多尓 妻子等母波 足乃方尓 圍居而 憂吟 可麻度柔播 火気布伎多弖受 許之伎尓波 久毛能須可伎弖 飯炊 事毛和須礼提 奴延鳥乃 能杼与比居尓 伊等乃伎提 短物乎 端伎流等 云之如 楚取 五十戸良我許惠波 寝良度麻※[人偏+弖] 來立呼此奴 可久婆(115)可里 須部奈伎物能可 世間乃道
【語釈】 ○風雜り雨降る夜の 「の」は、同形の語を重ねるための助詞。風が添って雨の降る夜で。○雨雑り雪降る夜は 雨がまじって雪の降る夜は。風が吹き添って霙の降る夜で、冬の最も寒い夜を強く感覚的に言ったもの。○術もなく寒くしあれば 防ぎようもなく寒いので。「し」は強意の助詞。○堅塩を取りつづしろひ 「堅塩」は塩の下等な物で、色の黒く固まっている物。「取りつづしろひ」は、「取り」は接頭語。「つづしろひ」は、「つづしる」の継続状態をあらわす語で、「つづしる」は少しずつ食う意。堅塩を少しずつ噛り噛りしてで、これは酒の肴の代わりとしてのことであって、その最も粗末な物。○糟湯酒うち啜ろひて 「糟湯酒」は、酒糟を湯に解いて酒の代わりとした物の称。貧しくて酒を得難い者の飲料。他にも用例があって一般的な物。「うち啜ろひて」は、「うち」は接朗語。「啜ろふ」は「啜る」の継続状態。以上四句、寒さ凌ぎに最下等の酒肴を口にすること。○咳ぶかひ鼻ぴしぴしに 「咳ぶかひ」は、原文「之可夫可比」。『考』は上の「可」は「波」の誤りだとして改めたが諸本異同なく、『定本』は「?」の誤りとした。「?」を「可」に誤ったと思われる例ははかにもあり、従うべきである。「咳ぶかひ」は、「咳ぶく」の継続状撥で、咳払《せきばら》いをしつつ。「鼻びしびしに」は、他に用例のない語であるが、「びし」という擬音を重ねたものと取れる。それだと鼻水をびしびしと鳴らしてで、二句、糟湯酒に温まって、得意になって來た状態。○しかとあらぬ鬚かき撫でて 「しかとあらぬ」は、有るかないかの。「鬚」は顎ひげ。「かき撫で」の「かき」は接頭語。一段と得意になった状態。○吾をおきて人はあらじと 我を除いては世間に人物はあるまいと思って。糟湯酒の酔のまわっての最も得意な状態。○誇ろへど寒くしあれば 「誇ろへど」は、「誇る」の継続「ほこらふ」の「ら」が「ろ」に転じた語。「寒くしあれば」は、やはり寒いのでで、「し」は強意の助詞。○麻衾引き被り 「麻衾」は、布で作った夜具。木綿のない時代とて、布は絹布か麻布で、麻布は貴族以外の常用物であった。「引き被り」は、引被《ひつかぶ》り。○布肩衣有りのことごと 「布肩衣」は、布で作った肩衣。「布」は麻またはそれに類較似の植物の繊維で織った粗末な物。「肩衣」は袖のない襦袢ようの物で、最近まであった袖なし絆纏《ばんてん》の類。「有りのことごと」は、「有り」は、名詞形。「ことごと」はことごとく。あるだけ総て。○服襲へども寒き夜すらを 「服襲ふ」は、着襲《きよそ》うの約。着重ねる意。「夜すら」の「すら」は、重きを指して、他を類推させる助詞。「を」は、のに。着重ねたけれども、それでもこれ程寒い夜だのに。○我よりも貧しき人の 我は別者で、飢えないだけの食物はあり、どうやら寒さをこらえるだけの衣類のある人。問者は貧窮ではあるが、他を思いやる余裕のある人。○父母は飢ゑ寒からむ その父母は飢えて寒かろうで、その人を措いて、まずその両親を思いやったもの。○妻子どもはさくり泣くらむ 「乞々」は、「吃々」で、泣きじゃくるの古語。飢えと寒さに泣きじやくっていよう。○この時は如何にしつつか汝が世は渡る 「汝」は「我よりも貧しき人」で呼び懸け。「世は渡る」は、生活を続けるのかで、生き継いで行くのかの意。以上問で、七七で結んで独立させたもの。 ○天地は広しといへど吾が為は狭くやなりぬる 天地は広いというが、我が為には狭くなったのかで、「や」は疑問の係助詞。我が身の置き所もない気がする意。○日月は明しといへど吾が為は照りや給はぬ 「明し」は、明るし。「照りや給はぬ」は、日月を神として言っているもの。○人皆か吾のみや然る 「人皆か」は、総ての人が同様なのか。「吾のみや然る」は、「や」は疑問の係助詞。それとも我一人のみがそのようであることなのか。以上十句、人間として持ちうる当然の権利の持てない憤りを、悲しみと訝りをもって言ったもの。○わくらばに人とはあるを 「わくらばに」は、たまたまに。「人とはあるを」は、「ある」は、生存する意。「を」は、のに。人としては生きているのに。仏説に、人身を享けることは(116)難い意で、人間としての自尊心。○人竝に吾も作るを 人並に我も耕作をしているのにで、当時の庶民はすべて農業をしており、生業の主体でもあったので、同じく自身の恥じなきことを言ったもの。○綿もなき布肩衣の 「綿」は、繭から作る真綿で、それを言っているのは寒気の凌げない意からのこと。○海松の如わわけさがれる 「梅松」は海草で、形が松に似た物。「わわけ下れる」は、破れてばらばらになって、垂れ下がっているで、下の「かかふ」の状態。○繿褸のみ肩に打懸け 繿褸《かかふ》は、ぼろの古語。ぼろきれ。「肩に打懸け」は、肩に懸けるで、着るとも言えない状態。以上六句、衣服の状態。○伏廬の曲廬の内に 「伏廬」は、低く伏したような小宅「の」、は、同形のものを重ねる助詞。「曲廬」は傾いて曲がった小屋。○直土に藁解き敷きて 「直土」は、地べたで、普通の床のない意。「藁解き敷きて」は、藁をほぐして敷いて。普通は菅や薦の織った物を働いた。以上四句、家の状態。○父母は枕の方に 「枕の方」は、上座。○妻子どもは足の方に 「足《あと》の方に」は、下座に。○囲み居て 憂ひ吟ひ 「囲《かく》み」は、囲《かこ》みの古語。主人を取り囲んで居て。「吟ひ」は、呻吟する意の古語で、苦しさに唸る患。○竃には火気ふき立てず 「竈」は釜所で、釜のある所。「火気ふき立てず」は火は焚かず。○甑には蜘蛛の巣かきて 「甑」は、今の蒸籠《せいろう》にあたる土器。古くは飯は蒸したのである。「巣かきて」は、巣を張って。「かき」は「かく」を四段活用に用いた語。飯を炊かないことを具体的に言ったもの。○餌炊く事も忘れて 以上六句、食物の絶無な状態。○奴延鳥ののどよひ居るに 「奴延鳥」は既出。今の虎つぐみ。「のどよひ」は、橋本進吉氏は、細々と力のない声を出すことだと考証している。○いとのきて短き物を端截ると云へるが如く 以下は租税の誅求。「いとのきて」は、甚《いと》除《の》きてで、特に取り分けて。「短き物を端截る」は、本来短い物を、さらにその端を載って短くする意。当時一般に言われていた諺で、後に出る同じ憶良の「沈ア自哀文」に、「諺曰、痛瘡灌v塩、短材載v端、此之謂也」とあり、弱い者いじめ、病み目に祟り目などの類椒。○楚取る里長が声は 「楚取る」は、楚は木の細枝で、ここは笞すなわち刑具で、それを手にしている。「里長」は原文「五十戸良」で、戸令に、九戸以上五十戸までを里とし、長一人を置くと定められていて、五十戸は里、良は長。職掌は、戸口の検校、農桑の課殖、非違の禁察、賦役の催駈である。「声」は未進の田粗賦役を催す声である。○寝屋戸まで来立ち呼ばひぬ 「寝屋戸」は、寝屋の戸口。「来立ち」は、来て立って。「呼ばひぬ」は、「呼ぶ」の継続状態で、呼び続けたの意。〇斯くばかり術なきものか これ程にも致し方のないものだろうかで、「か」は詠歎の助詞。○世間の道 庶民として世に生きている道は。
【釈】 風が添って雨の降る夜で、雨にまじって雪の降る夜は、凌ぎようもなく寒いので、堅塩を噛りかじり、糟湯洒をちびちび啜りつづけて、咳払いをつづけ、鼻をびしびしと鳴らして、有りなしの顎ひげを撫ぜて、この我を除いては人物はなかろうと自慢をつづけるが、やはり寒いので、麻衾を引|被《かぶ》り、布肩衣の有りたけを着重ねたが、それでさえ寒い夜だのに、我よりも貧しい人は、その父母《ちちはは》は飢えて寒いことであろう、妻や子どもは泣きじゃくりをしていることであろう。こうした時はどのようにしつつあなたの生活を続けているのか。
天地《あめつち》は広いというけれども、我が為には狭くなったのであろうか。日や月は明るいというけれども、我が為は照っては下さらないのだろうか。これは総ての人が同様なのか、自分だけがこうなのか。たまたまに逢い難き人身を享けて生きているものを、人慨嘆も耕作をしているのに、綿も入ってはいない布碍衣の、海松のように破れてばらばらになって垂れ下がっている繿褸《ぼろ》ばかりを肩に懸け、低く伏した小屋で、傾いている小屋の内に、地べたに藁をほぐして敷いて、父母《ちちはは》は上座のほうに、妻や子ども(117)は下座のほうに、我を取り囲んで憂いうめいて、竈には火の煙が立たず、甑には蜘蛛が巣を張って、飯を炊ぐことも忘れて、細細と悲しい声を出していると、取り分けて短い物の端を截ると言っているように、笞を手にする里長の租税催促の声は、閨の戸口にまで来て、立って呼び続けた。これ程までに致し方のないものなのか、世の中の道は。
【評】 題意で、この当時の庶民すなわち農民は、国司の私腹を充たそうとしての苛斂誅求の為に、じつにあわれな状態に陥れられ、その郷土にもいられず流離する者があるまでだったことに触れて言った。低い身分から身を起こして、伯耆守、筑前守と歴任した憶良は、この間の消息を十二分に知悉しており、加えて弱者をあわれみ同情する性情から、見るに見かね、黙ってはいられない感を抱いていたと思われる。この歌は結尾に「山上憶良頓首謹上」と記してあり、誰に宛てたものかはわからないが、尊い人に贈った形となっており、官がないところから見ると筑前守を解かれて京へ帰っての後の作とみえる。すなわち在職中は言うに言えずして久しく胸に蔵していたところの、その庶民の窮状をあわれむ切情を、何びとか有力な為政者に、文藻の形をもって訴えたものではなかろうかと思われる。「頓首謹上」は儀礼の成語ではあるが、単に同好の人に文藻を示そうとしての語ではないごとく思われる。
これを構成の上から見ると、この歌の中心は答者のほうにある。問者のほうは、その術なしと佗びているのは冬の一日酷寒の襲い来たって凌ぎ難い感のするということで、これは当時の生活状態からいえば万人共通のことで少しの特異もないものである。答者との関係においてこの人も貧窮者にしているが、食物には事欠かず、衣料もかつがつ有って、寒さ凌ぎに糟湯酒と堅塩を用いるという程度の不自由さであるが、日常生活として自身の為にすることであるから、貧窮という程度の人ではない。歌としては珍しいまでに状態描写をしているのは、「我よりも貧き人の」と、それを思いやるに至る心理過程を自然にあらわそうとするが為のもので、結局そうした人に向かって、「如何にしつつか汝が世は渡る」という、問題の中心に導こうとする為である。問者の生活状態の描写は、簡潔で印象的で、その魅力を持っている点では傑出したものである。
答者の態度は、問者とは反対にいささかの余裕もないもので、ただ自身のみに捉えられているものである。のみならず、深刻沈痛なもので、現われているところは悲しみであるが、その底に流れているのは憤りと訝りであって、そしてそれは不合理より発しているものであることを、明らかに意識しているものである。第一に言っていることは、天地の間に日月に照らされて生きている人間として、当然もっているはずの権利を奪われている憤りと訝りである。次に言っていることは、人間の尊さを自覚し、世間並みに耕作の勤労に服しているのに、それに対しての所得で身に着く物は一物もなく、必需品の衣はないにひとしく、家もないに近く、肝腎の食は絶無の状態がつづいているのである。これはじつに不合理極まることで、人間として憤らずにはいられないことである。答者はこの不合理についてわざと言うを避けているが、その代わりに、このことを最も力強く説明するものとして、里長の納税を促す荒々しい声をもってしているのである。里長の行動は国司の命令によってのもので、これは言うに及ばない自明なことなのである。「斯くばかり術(118)なきものか世間の道」は、不合理の由って来たる経路を十分に知っている庶民の心の総括であって、一見悲しみの声に似ているが、不合理に対する憤りと訝りとを包んでいるもので、崩壊か爆発の一歩手前の声である。為政者の立場から見れば傾聴せざるを得ない声である。
この歌の内容は憶良によって拓かれた新生面のごとく見えるが、元来純空想的の作はせず、実際に即しての感想を詠んでいる憶良である。この歌もそれであって、憶良としては上に言ったごとき要求を充たそうとして懸案としていたものであって、たまたま椒会を得たので、力を傾けて作ったものと思われる。文芸としての新生面は彼としては自然にそういう成行きとなったというにすぎないことと思われる。
893 世間《よのなか》を 憂《う》しと恥《やさ》しと 思《おも》へども 飛《と》び立《た》ちかねつ 鳥《とり》にしあらねば
世間乎 字之等夜佐之等 於母倍杼母 飛立可祢都 鳥尓之安良祢婆
【語釈】 ○世間を憂しと恥しと 「世間を」は、人生という意で、環境を主とした言い方。「憂しと」は、つらいと思い。「恥しと」は、はずかしいとで、極貧の状態にいることを、周囲を主として言ったもの。○飛び立ちかねつ 飛び立って、離れ去ることは出来ない。○鳥にしあらねば 「し」は、強意の助詞。我が身は鳥ではないので。
【釈】 人生をつらいと思い恥かしいと思うけれども、飛び立って離れ去ることは出来ない。我が身は鳥ではないので。
【評】 答者の歌に属した反歌である。「飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」は、突飛な連想のように見えるが、(八〇〇)「或へる情を反さしむる歌」の反歌「ひさかたの天路《あまぢ》は遠しなほなほに家に帰りて業《なり》を為《し》まさに」と同想のもので、答者の生活態度を正しいものと見ているもので、憶良の重んじている態度である。長歌の結末を語を換えて繰り返したもの。
山上憶良頓首謹上
【解】 作の年月がないが、前の熊凝の歌が天平三年六月であるから、それ以後のものとみえる。「頓首謹上」というのは、誰に対してのことか分らない。旅人は天平三年七月に没しているから、旅人に宛てたのではない。歌の性質から見て、為政者中の有力者に贈ったのではないかと想像される。
好去好来《かうこかうらい》の歌一首 反歌二首
(119)【題意】 「好去好釆」は、「好去」は「さきく」また「まさきく」に当てて用いられている文字である。「好去好来」は意としては、さきくいまして、さきくかえりませで、旅行の往還の無事を祈る意である。左注によってこの歌は、天平五年の大唐大使に贈ったものであり、贈主は慣良であることが知られる。また大使は多治比真人広成《たじひのまひとひろなり》であることが明らかである。事は続日本紀にくわしく、天平四年遣唐大使を命じられ、五年四月難波津を進発、七年三月帰朝した。広成は左大臣島の第五子で十一年四月従三位で薨じた人である。
894 神代《かみよ》より 言伝《いひつ》てけらく そらみつ 大倭《やまと》の国《くに》は 皇神《すめかみ》の 厳《いつく》しき国《くに》 言霊《ことだま》の 幸《さき》はふ国《くに》と 語《かた》り継《つ》ぎ 言《い》ひ継《つ》がひけり 今《いま》の世《よ》の 人《ひと》も悉《ことごと》 目《め》の前《まへ》に 見《み》たり知《し》りたり 人《ひと》さはに 満《み》ちてはあれども 高光《たかひか》る 日《ひ》の朝廷《みかど》 神《かむ》ながら 愛《めで》の盛《さかり》に 天《あめ》の下《した》 奏《まを》し給《たま》ひし 家《いへ》の子《こ》と 択《えら》び給《たま》ひて 勅旨《おほみこと》【反して、大命《おほみこと》といふ】 戴《いただ》き持《も》ちて 唐《からくに》の遠《とほ》き境《さかひ》に 遣《つかは》され 罷《まか》り坐《いま》せ 海原《うなはら》の 辺《へ》にも奥《おき》にも 神留《かむづま》り 領《うしは》き坐《いま》す 諸《もろもろ》の 大御神等《おほみかみたち》 船《ふな》の舳《へ》に【反して、ふなのへにと云ふ】 導《みちび》き申《まを》し 天地《あめつち》の 大御神《おほみかみ》たち 倭《やまと》の 大国霊《オホクニタマ》 ひさかたの 天《あめ》のみ虚《そら》ゆ 天翔《あまがけり》り 見渡《みわた》し給《たま》ひ 事《こと》をはり 還《かへ》らむ日《ひ》には また更《さら》に 大御神等《おほみかみたち》 船《ふな》の舳《へ》に 御手《みて》うち懸《か》けて 墨繩《すみなは》を 延《は》へたる如《ごと》く あちかをし 値嘉《ちか》の岫《さき》より 大伴《おほとも》の 御津《みつ》の浜辺《はまび》に 直泊《ただはて》に 御船《みふね》は泊《は》てむ 恙《つつみ》なく 幸《さき》く坐《いま》して 早《はや》帰《かへ》りませ
神代欲理 云傳介良久 虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言靈能 佐吉播布國等 加多利繼 伊比都賀此計理 今世能 人母許等期等 目前尓 見在知在 人佐播尓 滿弖播阿礼等母 高光 日御朝庭 神奈我良 愛能盛尓 天下 奏多麻比志 家子等 撰多麻比 勅旨【反云2大命1】 戴持弖 唐能 遠境尓 都加播佐礼 麻加利伊麻勢 字奈原能 邊尓母奥尓母 神豆麻利 字志播吉 伊麻須 諸能(120)大御神等 船舳尓【反云2布奈能閇尓1】 道引麻遠志 天地能 大御神等 倭 大國靈 久堅能 阿麻能見虚喩 阿麻賀氣利 見渡多麻比 事畢 還日者 又更 大御神等 船舳尓 御手打掛弖 墨繩袁 播倍多留期等久 阿遲可遠志 智可能岫欲利 大伴 御津濱備尓 多太泊尓 美船播將泊 都々美無久 佐伎久伊麻志弖 速歸坐勢
【語釈】 ○神代より言伝てけらく「言伝てけらく」の「け」は、寛永本などは「介《け》」、西本顕寺本、紀州本外三本は「久《く》」となっている。下の「けり」の結との関係上「介」にしたがう。「言伝て」は言い伝え。「けらく」は名詞形で、けること。神代から言い伝へて来たことには。○そらみつ大倭の国は 「そらみつ」は既出。枕詞。「大倭」は場合上国家の意。○皇神の厳しき国 「皇神」は、皇祖神の意にも、一般の神の意にも用いる。ここは、後の続きで見ると、海原の神々、天神地祇を総括して言っている。「厳しき」は厳然としているで、神威の盛んな意。○言霊の幸ふは国と 「言霊」は、言語の霊の意で、言語にはそれぞれ魂があって、よい事を言えばよい結果をあらわし、悪い事を言えば悪い結果をあらわすとしていた。「幸はふ」は、栄え行くで、活躍するというにあたる。賀歌はこの信仰から詠まれるので、今もそれである。○語り継ぎ言ひ継がひけり 「言ひ継がひ」の「継がひ」は「継ぐ」の継統。同意を練り返して、強く過去を言ったもの。○今の世の人も悉 皆の人のみならず今の世もことごとく。○目の前に見たり知りたり 眼前の事実として見もし知ってもいるで、神の力の永久不変なことを言って、さらに強めたもの。以上、第一段。○人さはに満ちてはあれども 人が多く満ちてはいるけれどもで、多くの中より一人を選抜するにいう成句。ここは天皇が廷臣を対象としての場合。○高光る日の朝廷 天皇及び皇子に対する尊称としての「高光る日の御子」はしばしば出た。これは「御子」を「朝廷」としたもの。「みかど」は本来御門であり、それを宮殿朝廷の意とし、後にさらに天皇の意に延長させた語である。ここは下の続きで見ると天皇の意のものである。○神ながら愛の盛に 神として御寵愛の盛んなままに。○天の下奏し給ひし (八七九)に出た。天下の政事をお執りになったで、広成の父島が左大臣であったことを言ったもの。○家の予と択び給ひて 家の子であるとしてお選びになって。「て」で主格が変わる。以上は「朝廷」であるが、以下は広成。○勅旨戴き持ちて 「勅旨」は、遣唐大使としての勅命。○反して 漢字の一字の音を示す反切の名を用いて、ここでは「勅旨」と当てた漢字の読み方を言っているもので、憶良の施した注である。○唐の遠き境に 「唐」は、旧訓もろこしを、『攷証』は「からくに」と改めている。当時の用例が多いからである。唐という遠い地に。○遣され罷り坐せ 「罷り」は尊い所より退去する意。「坐せ」は、後世の「坐せば」にあたる条件法で古格。以上、第二段。○海原の辺にも奥にも 「辺」は既出。海岸寄り。航路として可能な限り選ぶ所。「奥」は沖で遣唐使の船の通らざるを得ない所で、航路の全体。○神留り領き坐す 「神留り」は、神のとどまる意で、祝詞などに多い語。「領き坐す」は我がものとして領していらせられるで、天皇のこの国土を治しめすに対する語。○諸の大御神等 境を異にする海に領く神々がいられ、その神々は天皇に仕えていられるというのが、上代の信仰であって、したがって、その神々は勅使を保護されるのである。○船の舳に導き申し 「船の舳」は船首で、船の向かうほう。「申し」は敬語で、これは広成が勅使だからである。○反して船の舳を 「ふねのへ」と読まない為のもの。祝詞にある古語に従わせようとしてである。○天地の大御神たち あらゆる天神地祇で、その天皇に対しての関係は、上の海原の神と同様である。○倭(121)の大国霊 「倭」は大和国。「大国霊」は奈良県天理市新泉に坐す神で、大和神社の祭神で、皇室の特に尊信していられた神であり、大和の人である広成とも関係が深い神である。○ひさかたの天のみ虚ゆ 「ひさかたの」は、天の枕詞。「天のみ虚」は、神の常にいます所。「ゆ」は、より。○天翔り見渡し給ひ 「天翔り」は、神々が加護のためになさるとしていたこと。「見渡し」は、高きより広く見渡す意で、船の進行とともに天翔って見渡して、いつも船より離れず加護をなされ。○事をはり還らむ日には 遣唐大使のすべき事が終わって我が国へ還る時には。○船の舳に御手うち懸けて 上の「導き申し」を進展させ、船の進行を速かにする意。○墨繩を延へたる如く 「墨繩」は、大工が木材に直線のしるしを付ける際に用いる工具で、「延へ」は、繩を長く延ばす意。一直線にの譬喩。○あちかをし値嘉の岫より 「あちかをし」は、同音の関係で値嘉の枕詞としたものであるが、語義は不明である。「を」は感動、「し」は強意の助詞であるが、「あちか」は不明である。「値嘉」は肥前国松浦郁の海中の島で、唐への航路では、我が行く船には我が国最後、帰る船には最初の船着き場所であった。今の平戸五島だろうという。今北松浦郁に小値賀《おちか》島の名がある。岫は岬と同じ。○大伴の御津の浜辺に 「大伴」は今の大阪付近一帯の総地名。「御津の浜|辺《び》」は、既出。難波の港。○直泊に御船は泊てむ 「直泊」は直航して泊まるさま。「御船は泊てむ」は、御船は着こう。以上、第三段。○恙なく幸く坐して早帰りませ 「恙なく」は、凶事の物忌なく。「幸く坐して」は、無事に往かれて。「はや帰りませ」は、早くお帰りなされ。題詞に言っていることで、一首の中心。第四段。
【釈】 神代から言い伝えていたことには、我が日本の国は尊き神の儼然と威力を示している国で、言霊の活躍している国だと語り継ぎ言い継ぎ続けて来た。今の世の人もすべて、目の前にそのことを見ており知っている。人が多く満ちてはいるが、高光る日の朝廷《みかど》は、神として御寵愛の盛んなままに、国家の政事を執った家の子としてお選びになって、君は勅命を戴きもって、唐《もろこし》の遠い地に遣されて、我が国を退去なさるので、海原の海岸寄りにも沖にも、神留まり領していらっしゃる諸の大御神達は、船の舳先にいて御案内を申し、天地の大御神達や大和《やまと》の大国霊の神は、天上から天《あま》翔って、お見渡しになられ、事あらば加護をされようとし、大使としての事が終わって還られる日には、またさらに大御神達は、船の舳先に御手を腰けて助け、墨繩を引き延べたように、値嘉の岬から大伴の御津の浜へと、直航して御船は着くことであろう。無事に平安であらせられて、早く帰っていらっしやい。
(122)【評】 この歌は遣唐使関係の多くの歌の中でも特色の多いものであり、憶良の歌の中でも代表的なものの一首である。事としては題の「好去好来の歌」ということと、結尾の一句「恙なく幸く坐して早帰りませ」に尽きている、単なる祝いの心よりのものであるが、その祝いを強く重いものとしている構想に、憶良独自のものがあって、それがこの歌を特色づけているのである。
起首で突然、「大倭の国は皇神の厳しき国」と言い、それと対立させて「言霊の幸はふ国」と言い、それを神代よりの信仰とし、「今の世の人も悉目の前に見たり知りたり」と、その信仰は実現しているものだと力強く言っている。一見国柄を讃美している言葉のごとく聞こえるが、作意はそこにはなく、遣唐使の難航路を守護する神威の力を、広成の乗る官船の上に招来しようとの心より言っているものである。遣唐使は無論勅使である。勅使に対しては我が国の神々は、天皇に奉仕する心をもって加護されるべきである。しかしその加謹は、言霊と微妙なる関係をもつものである。今その加護のさまを言葉として言いあらわせば、言霊の威力が加わって、加護はその言葉通りのものとなるとしたのである。この二つの信仰の浴け合って一つとなったものが、この歌の中心をなして、「諸の大御神等船の舳に導き申し」という事実になり、また、「大御神等船の舳に御手うち懸けて」という事実にもなり、さらに「天地の大御神たち倭の大国霊ひさかたの天のみ虚ゆ天翔り見渡し給ひ」という事実にもなるのである。これらの言葉は、儀礼に近いもののごとく思われるのであるが、この当時にあっては胸に根強く植えつけられていた信仰だったので、憶良のこのように解し、このように言っている言葉は、広成にとってはその場合柄、無上の祝いだったろうと思われる。すなわちこの祝いをしている主体は、最初に言っている「大倭の国」で、対象は遣唐使としての広成だからで、憶良は神意の現前を促しているにすぎないという強く重い祝いだからである。結尾の一句が、言霊の幸いを頼んで、初めて憶良自身の祝いとして言っているものである。
反歌
895 大伴《おほとも》の 御津《みつ》の松原《まつばら》 かき掃《は》きて 吾《われ》立《た》ち待《ま》たむ 早《はや》帰《かへ》りませ
大伴 御津松原 可吉掃弖 和礼立待 速歸坐勢
【語釈】 ○御津の松原 巻一(六三)「御津の浜松待ち恋ひぬらむ」という憤良の歌がある。海岸の松原で、印象的なものだったと見える。○かき掃きて 「かき掃き」は、「かき」は接頭語、「掃き」は、掃き清めてで、憤良自身する意である。広成に対する敬意からの言い方である。○吾立ち待たむ 「立ち」は接頭語であるが、この場合、気分をあらわす働きをしている。
【釈】 大伴の御津の松原を掃き清めて準備をし、そこに吾は待っていよう。早く帰っていらっしゃい。
【評】 長歌の結句の「早帰りませ」を結句に据えて、練り返しの形にしたものである。しかしそれと同時に憶良自身の個人的な親しみも持たせて、反歌としての展開も付けたものである。
896 難波津《なにはづ》に 御船《みふね》泊《は》てぬと 聞《きこ》え来《こ》ば 紐《ひも》解《と》き放《さ》けて 立《た》ち走《ばし》りせむ
難破津尓 美船泊農等 吉許延許婆 紐解佐氣弖 多知婆志利勢武
【語釈】 ○御船泊てぬと聞え来ば 「聞え来ば」は、奈良京へ伝わって来たならば。○紐解き放けて 「紐」は衣の紐。「解き放けて」は、解き放し。衣の紐は結んでいるのが礼で、また普通でもあるが、それをする間もなくということを、わざとするように誇張して言ったもの。○立ち走りせむ 「立ち走り」は一語で、「立ち」は接頭語。走って行って迎えよう。
【釈】 難波津に御船が着いたということが伝わって来たならば、衣の紐も結ばずに、走って行って迎えよう。
【評】 上の歌を進めて、無事に難波津に帰り着いたという、待望の頂点になってのことを想像して言っているものである。「解き放けて立ち走りせむ」はその歓喜の具象化で、昂奮と誇張をもって言っているもので、反歌の結とするに足りるものである。
天平五年三月一日。良の宅に対面して、献れるは三日なり。山上憶良
謹上 大唐大便卿記室
天平五年三月一日。良宅封面、獻三日。山上憶良
(124) 謹上 大唐大使卿記室
【解】 「天平五年三月一日」は、憶良が「好去好来の歌」を作った日付。「良の宅に対面して、献れるは三日なり」は、広成が憶良の宅を訪問して、その際この歌を献ったので、その日は三日だという意味で、献る際憶良の書き添えたものと取れる。広成の憶良の家を訪問したのは、広成のほうが身分は高いが、憶良は早く渡唐をしたことのある経験者でもあり、また学者でもあったから、広成が何らか参考になることを訊ねようとしたことも不思議はない。なお身分が高いといっても、広成と憶良の差はさしたるものではなかった。「大唐大使卿」は広成、「記室」は書記で、いずれも敬っての宛名である。
痾《やまひ》に沈みて自《みづから》哀《かなし》む文 山上憶良作
【題意】 憶良が高齢にして宿痾に悩まされているのを哀しんで作った文である。作の年月はないが、文中に「七十有四」という語がある。また氏名の上に官もないこと、次の歌が、「老いたる身に病を重ね、年を経て辛苦《たしな》み」とあり、左注に「天平五年六月作れる」とあることも、この文の作られた時の参考となる。長文であるから、便宜上一部分ずつを解くこととする。
窺《ひそか》に以《おもひみ》るに、朝夕山野に佃《かり》し食ふ者すら、猶ほ災害無くして世を度《わた》ることを得《う》。【謂ふこころは、常に弓箭を執り六斎を避けず、値《あ》ふ所の禽獣、大小と、孕めると孕まざるとを論ぜず、並に皆殺し食ひ、此を以ちて業とする者をいふ。】昼夜に河海に釣漁する者すら、尚慶福ありて俗を経ることを全くす。【謂ふこころは、漁夫潜女各勤むる所あり、男は手に竹竿を把《と》りて能く波浪の上に釣り、女は腰に鑿籠を帯びて深き潭の底に潜き採る者をいふ。】況や我|胎生《たいさう》より今日に至るまでみづから善を修むる志あり、曾て悪を作《な》すの心無し。【謂ふこころは諸悪作す莫れ、諸善奉行せよの教を聞くをいふ。】所以《ゆゑ》に三宝を礼拝して、日として勤めざるは無く、【毎日誦経し、発露し懺悔するなり。】百神を敬ひ重みして、夜として闕《か》くること有る鮮《な》し。【謂ふこころは、天地の諸神等を敬ひ拝むをいふ。】
窺以、朝夕佃2食山野1者、猶無2災害1而得v度v世。【謂、常執2弓箭1、不v避2六齋1、所値禽獣不v論2大小、孕及1v不v孕並皆殺食、以v此爲v業者也。】晝夜釣2漁河海1者、尚有2慶福1而全v経v俗。【謂、漁夫潜女各有v所v勤、男者手把2竹竿1能釣波浪之上1、女者腰帯2鑿籠1潜採深潭之底1者也。】況乎我從2胎生l迄2于今日1、自有2修v善之志1、曾無2作v惡之心1。【謂、聞2諸惡莫v作諸善奉行之教1也。】所以礼2拜三寶1、無2日不1v勤、【毎日誦経、(125)発露懺悔也。】敬2重百神1、鮮2夜有1v闕。【謂、敬2拜天地諸神等1也。
【語釈】 ○佃し食ふ者 「佃」は猟で、猟を生業とする者。〇六斎を避けず 「六斎」は、「斎」は仏教により殺生を禁じることで、『令』には、毎月六日を禁じていたのである。「避けず」はその令をも守らない意。○俗を経ることを全くす 「俗」は仏教でいう一般の世間で、別条なく世に生きている。○潜女 海底に潜って漁りをする女。○鑿籠 鑿と籠。「鑿」は岩に付着している貝類を剥ぐ為の物。「籠」は貝類を入れる類の物。○胎生 母の胎中で発育して生まれること。○諸悪作す莫れ、請善奉行せよ 『法句経』述仏品の偈の文にあるもので、仏教の合倫理的の要領とされている語。〇三宝 仏法僧で、ほとけの意。如来と、その教えと、教えに入った者。○発露し懺悔するなり 我が罪咎を露《あら》わして俄悔する意で、仏法の行。○百神 我が天神地祇。以上、病を仏説の因果応報より思い、悪因なくしての感巣だと見て哀しんだもの。
嗟乎|※[女+鬼]《はづか》しきかも、我何の罪を犯して、此の重き疾に遭へる。【謂ふこころは、いまだ過去に造れる罪か、若しくは是現前に犯せる過かを知らず。罪過を犯すことなくば何ぞ此の病を獲めや。】初め痾に沈みて已来《このかた》、年月稍多し。【謂ふこころは十余年を経るをいふ。】是の時に年|七十有四《ななそぢあまりよつ》、鬢髪|斑白《まだら》にして、筋力|〓羸《よわ》く、但《ただ》に年の老いたるのみにあらず、復《また》斯《こ》の病を加ふ。諺に曰はく、痛き瘡《きず》に塩を灌《そそ》き、短き材を端《はし》を截《き》るといふは、此の謂なり。四支《てあし》動かず、百節《ふしぶし》皆|疼《いた》み、身体|太《はなはだ》重く、猶|鈞石《おもり》を負へるが如し。【二十四|銖《しゆ》を一両と為し、十六両を一斤となし、三十斤を一|鈞《きん》となし、四鈞を一石となす、合せて一百二十斤なり。】布に懸りて立 たまく欲りすれは、翼折れたる鳥の如く、杖に倚りて歩まむとすれば、足|跛《な》へたる驢に比《たぐ》ふ。
嗟乎※[女+鬼]哉、我犯2何罪1、遭2此重疾1。【謂、未v2過去所v造之罪、若是現前所v犯之過1。無v犯2罪過1、何獲2此痾1乎。】初沈v痾已來、年月稍多。【謂、經2十余年1也。】是時年七十有四、鬢髪斑白、筋力〓羸、不2但年老1。復加2斯病1。諺曰、痛瘡灌v塩、短材截v端、此之謂也。四支不v動、音節皆疼、身體太重、猶v負2鈞石1。【二十四銖爲2一兩1、十六兩爲2一斤1、三十斤爲一鈞1、四鈞爲2一石1、合一百二十斤。】懸v布欲v立、如2折v翼之鳥1、倚v杖且v歩、比2跛v足之驢1。
【語釈】 ○※[女+鬼] 愧に同じ。○現前 現在。仏語。○痛き瘡に塩を濯き 当時行なわれていた諺で、どちらも長歌に出たものである。老の苦しみの上にさらに病の苦しみの添う意で言っている。〇四支 両手両足。○百節 体の中の節々。○鈞石 甚だ重い意で、注の一斤は今の百八十匁、一鈞は四貫四百匁、一石はその四倍。○布に懸りて立たまく欲りすれば 天井から布を吊るし、それにつかまって立とうとするが。以上病苦の状態(126)を言ったもの。
吾、身は已に俗に穿《つらぬ》き、心も亦塵に累《わづら》はさるるを以ちて、禍の伏すところ、祟の隠るるところを知らまく欲りして、亀卜の門、巫祝の室、往きて問はずといふこと無し。若しくは実、若しくは妄、その教ふる所に従ひ、幣帛を奉り、祈祷をせずといふこと無し。然れどもいよいよ苦しきを増すことあり、かつて減差《い》ゆることなし。
吾以2身已穿v俗、心亦累1v塵、欲v知2禍之所v伏、祟之所1v隱、龜卜之門、巫祝之室、無v不2往問1。若實若妄、随2其所1v教奉2幣帛1、無v不2祈祷1。然而弥有v増v苦、曾無2減差1。
【語釈】 ○俗に穿き 俗世間に居て。○心も亦塵に累はさるるを以ちて 心が俗世間のことに煩わされて明らかではないので。○禍の伏すところ 病の潜んでいる所で、病源。○祟の隠るるところ 「巣」は鬼神の祟りで、病。○亀トの門 うらないをする者の家。○巫祝の室 巫祝は神がかりをする巫女神職で、病源を神によって知ろうとして。室は家。○若しくは実、若しくは妄 その教えることが、実のようでもあり、でたらめのようでもあるが。○幣帛を奉り、祈挿をせずといふこと無し 神事を行なってもらわないということはない。以上、神事の憑み難い嘆き。
吾聞く、前の代に多《さは》に良き医《くすりし》有り。蒼生《たみくさ》の病息《やまひ》を救療《いや》しき。楡〓《ゆふ》、扁鵲《へんさく》、華他《けた》、秦の和《わ》、緩《くあん》、暮稚川《かつちせん》、陶隠居《たういんこ》、張仲景《ちやうちゆうけい》等の若《ごと》きに至りては、皆是れ世に在りし良き医、除き愈《いや》さずといふこと無しといへり。【扁鵲、姓は秦、字は越人、渤海の郡の人なり。胸を割き、心を採りて易《か》へて置き、投《い》るるに神薬を以てすれば、即ち寤《さ》めて平《つね》の如し。華他、字は元化、沛国の※[言+焦]の人なり。若し病の結積して沈重内に在る者あらむには、腸を刳りて病を取り、縫ひて復膏を摩《さす》り、四五日にして差《いや》す。】件の医を追ひ望むとも、敢て及《し》く所に非らじ。若し聖の医|神《くす》しき薬に逢はば、仰ぎ願くは五つの蔵を割刳し、百の病を抄探し、膏肓《かうくわう》の※[こざと+奥]《ふか》き処に尋ね達《いた》り、【膏は※[隔の旁]なり、心の下を膏と為す、攻《をさ》むるも可《よ》からず、達《はり》も及ばず、薬も至らざるなり。】二人《ふたり》の豎の逃れ匿るるを顕さまく欲りす。【謂ふこころは、晋の景公疾あり。秦の医緩視て還りしは、鬼に殺さる謂ふべし。】
吾聞、前代多有2良医1。救2療蒼生病患1。至v若2楡〓、扁鵲、華他、秦和、緩、暮稚川、陶隱居、張仲景等1、皆是在v世良醫無v不2除愈1也。【扁鵲姓秦、字越人、渤海郡人。割v胸、採v心易而置之、投以2神藥1、即寤如v平也。華他字元化、沛国※[言+焦]人也。若有2病結積沈重在v内者1、(127)刳v腸取v病、縫復摩v膏、四五日差之。】追2望件醫1、非2敢所1v及。若逢2聖醫神藥1者、仰願割2刳五藏1、抄2探百病1、尋2達膏肓之※[こざと+奥]處1、【膏※[隔の旁]也、心下爲膏。攻之不v可、達之不及、藥不v至焉。】欲v顯2二豎之逃匿1。【謂、晋景公疾、秦醫緩視而還者、可v謂2爲v鬼所1v〓也。】
語釈】 ○楡〓 『周礼』に出ている。黄帝時代の良医。○扁鵲 『史記』に扁鵲伝がある。○秦の和緩 泰時代の和と緩と二人の良医。和のことは『国語晋書』に、綴のことは『左伝』成公十年の伝に出ている。その要は、晋景公が病んで、医を秦に求めると、秦伯は医緩を遣わした。まだ着かないうちに、景公の夢に病が二人の童子と化して話し合うには、一人は緩が来たら自分を傷つけようから逃げようと言うと、他の童子は、我は肓の上、膏の下にいるからどうすることも出来なかろうと言うと見た。緩が来て公を診察して、病は手の施しようがない。肓の上、膏の下にある。鍼も届かず薬も送り込めないと言ったというのである。下の注にこれが出る。○葛稚川 『晋書列伝』に出ている。○陶隠居 『梁書列伝』に出ている人。○張仲景 『漢書』に出ている人。〇五つの蔵を割刳し、百の病を抄探し 「五蔵」は、五臓。「抄探」は、探して匙ですくう意。○膏肓の奥(こざとへん)き他に尋ね遺り 「膏」は、心臓。「肓肯」は横隔膜。いずれも病の籠もる所で、良医の達すなわち鍼も届かず、薬もそこまでは行かない所。○二聖 「竪」は童子で、上の成公の所に出た。病を擬人した二童子。以上、良医に逢って、我が病源を突き止めたい願い。
命根既に尽きて、其の天年を終るすら、尚哀しと為す。【聖人賢者の、一切の含霊《ごんらう》、誰か此の道を免れめや。】何《いか》に況《い》はめや生録《さうろく》いまだ半ならずして、鬼の為に枉殺せられ、顔色壮年にして病の為に横困《たしな》めらるるものをや。世に在る大きなる患、いづれか此より甚しからむ。
命根既盡、終2其天年1、尚爲v哀。【聖人賢者一切含靈、誰2免2此道1乎。】何況生録未v半、爲v鬼枉〓、顔色壯年、爲v病横困者乎。在v世大患、孰甚2于此1。
【語釈】 ○一切の含霊 一切の霊を有する物すなわち命あるもの。○生録 生禄に同じ。寿命。○鬼の為に枉殺せられ 病の為に虐げられて死ぬ。○横困めらる 床に横たわって苦しめられる。以上転じて、中道にして死ぬ者のあわれさを言う。
志恠記に云ふ、広平の前の大守北海の徐玄方が女、年十八歳にして死《みまか》りき。其の霊憑馬子に謂ひて曰はく、我が生録を案ふるに、当に寿八十余歳なるべし。今妖鬼に枉殺せられて、已に四年を経たり。此の憑馬子に遇ひて、乃ち更に活くる事を得たりといへる、是なり。内教に云ふ、瞻浮(128)州の人は寿百二十歳なりといふ。謹みて案ふるに此数必しも此を過ぐるを得ずといふに非ず。故《かれ》、寿延経に云ふ、比丘あり名を 難達と曰ふ。命終る時に臨みて、仏に詣《いた》りて寿を請《ねが》ひ、則ち十八年を延べたりといふ。但し善く為《をさ》むる者は天地と相|畢《を》ふ。其の寿夭は業報の招く所にして、其の脩短に随ひて半と為るなり。未だ斯の算に盈たずして※[しんにょう+湍の旁]《すみやか》に死去す。故に未だ半ならずと曰ふなり。任徴君曰はく、病は口|従《よ》り入る。故《かれ》君子は其の飲食を節すといふ。斯に由りて言へば、人の疾病に遇へるは、必しも妖鬼ならず。夫れ医方諸家の広き説、飲食禁忌の厚き訓、知り易く行ひ難き鈍き情、三つの着目に盈ち耳に満つること、由来久し。抱朴子曰はく、人但其の当に死すべき日を知らず、故《かれ》憂へざるのみ。若し誠に羽※[隔の旁+羽]して期を延ぶるを得べきことを知らば、必ず将に之を為むといふ。此を以ちて観れは、乃ち知りぬ、我が病は蓋しこれ飲食の招く所にして、みづからをさ治《をさ》むること能はざるものか。
志恠記云、廣平前大守北海徐玄方之女、年十八歳而死。其靈謂2馮馬子1曰、案2我生録1、當2壽八十餘歳1。今爲2妖鬼1所2横〓1、已經2四年1。此遇2馮馬子1、乃得2更活1、是也。内教云、瞻浮州人壽百二十歳。謹案此數非2必不1v得v過v此。故、壽延經云、有2比丘1名曰2難達1。臨2命終時1、詣v佛請v壽、則延2十八年1。但善爲者天地相畢。其壽夭者業報所v招、隨2其脩短1而爲v半也。未v盈2斯※[竹/卞]1而※[しんにょう+端の旁]死去。故曰v未v半也。任徴君曰、病従v口入。故君子節2其飲食1。由v斯言之、人遇2疾病1、不2必妖鬼1。夫醫方諸家之廣説、飲食禁忌之厚訓、知易行難之鈍情、三者盈v目滿v耳、由來久矣。抱朴子曰、人但不v知2其當死之日1、故不v憂耳。若誠知2羽※[隔の旁+羽]可1v得v延v期者、必將爲v之。以v此而觀、乃知、我病蓋斯飲食所v招而、不v能2自治1者乎。
【語釈】この一段は小字の注であるが、便宜上大字とする。〇志恠記 『隋書経籍志』に載っている書であるが、伝わらない。○徐玄方が女 この話は『捜神後記』巻四、『法苑珠林』巻九十二、『太平広記』巻三百七十五にも載っている。(『攷証』)。○内教 仏道。ここは経典。○瞻浮州(129) 仏語で、人間の住んでいる世界。須弥山の南方、海中にあるという国。○寿延経 不明の経。○善く為むる者 十分に道を作める者。○天地と相畢ふ 天地とともに寿命を永遠にする。○寿夭は業報の招く所 長命と短命とは宿業の報いとしてみずから招くもの。○脩垣 長短と同じで、宿業の長短。○王微音 梁の玄坊、字は元昇のこと。徴君は尊称。○鈍き情 愚かなる心。〇三つの者 上の「広き説」「厚き訓」「鈍き情」を承けたもの。○抱朴子 上に出た。晋の葛稚川の著書。下のことは、その内篇勤求篇に出る。○羽※[隔の旁+羽] 羽化して、空中を飛ぶ意で、仙人となること。○期を延ぶ 寿命を延ばす。以上、命を延べた例と、病源を合理的に思索したこと。
帛爵公の略説に曰はく、伏して思ひみづから励ますに、斯の長生を以ちてすといふ。生は貪倉るべく、死は畏るべし。天地の大徳を 生と曰ふ。故《かれ》、死《みまかれ》る人は生ける鼠に及かず。王侯たりとも一日気を絶たは、金《くがね》を積むこと山の如くなりとも、誰か富めりと為さめや 。威勢海の如くなりとも、誰か貴しと為さめや。遊仙窟に曰はく、九泉の下の人は、一銭にだに直《あたひ》せずといふ。孔子の曰はく、之を 天に受けて、変易すべからざる者は形なり。之を命に受けて、益を請ふべからざる者は寿なりといふ。【鬼谷先生の相人書に見えたり。】故《かれ》、生の極めて貴く、命の至りて重きことを知る。言はまく欲りして言窮まる。何を以ちてか之を言はむ。慮《おもひはか》らまく欲りして慮絶ゆ。何に由りてか之を慮らむ。
帛公略説曰、伏思自勵、以2斯長生1。々可v貪也、死可v畏也。天地之大穂曰v生。故死人不v及2生鼠1。離v爲2王侯1一日絶v氣、積v金如v山、誰爲v富哉。威勢如v海、誰爲v貴哉。遊仙窟曰、九泉下人、一銭不v直。孔子曰、受2之於天1、不v可2變易1者形也。受2之於命1、不v可v請v益者壽也。【見2鬼谷先生相人書1。】故知2生之極貴、命之至重欲v言々窮。何以言v之。欲v慮々絶。何由慮v之。
【語釈】 ○帛公の略説 帛公は人名、略説はその著書の名と取れるが、いずれも不明。○一日気を絶たば 一旦死んだならば。○遊仙窟 唐の張文成の撰で、仙女に逢った物語。〇九泉の下の人 死者。○鬼谷先生の相人書 鬼谷先生は、戦国時代の論客蘇秦の師とした人で、仮托の人物かという。相人書は書名と思われるが、今は伝わらない。以上、生の貴さ。
惟《ただ》以《おもひみ》れば人賢愚と無く、世古今と無く、咸悉《ことごと》に嗟歎す。歳月競ひ流れて、昼夜も息まず。【曾子の曰はく、(130)往きて反らざる者は年なりといふ。宣尼が川に臨める歎も亦是なり。】老疾相催して、朝夕に侵し動く。一代の歓楽未だ席前に尽きざるに、【魏文が時賢を惜める詩に曰はく、未だ西苑の夜を尽さず、劇《にはか》に北※[亡+おおざと]の塵と作《な》るといふ。】千年の愁苦更に座後に継ぐ。【古詩に曰はく、人生百に満たず、何ぞ千年の憂を懐かむといふ。】
惟以人無2賢愚1、世無2古今1、咸悉嗟歎。歳月競流、晝夜不v息。【曾子曰、徃而不v反者年也。宣尼臨v川之歎亦是矣也。】老疾相催、朝夕侵動。一代懽樂未v盡2席前1、【魏文惜2時賢1詩曰、未v盡2西苑夜1、劇作2北※[亡+おおざと]塵1也。】千年愁苦更繼2坐後1。【古詩曰、人生不v滿v百、何懷2千年憂1矣。】
【語釈】 ○曾子 孔子の高弟の一人。○宜尼が川に臨める嘆 「宜尼」は孔子の諡号。「川に臨める」は、論語「子在2川上1曰、逝者如v斯夫、不v舎2晝夜1」を指したもの。○老疾相催して 老と疾とが相俟って。○席前 宴席の前。○魏文 魏の文帝のことかというが、下の詩とともに出典が明らかでない。○未だ西苑の夜を尽さす 西苑での観花の楽しみが尽きないのに、早くも身は葬られて北(ぼう)の土と化すの意で、北ぼうは漢以来の墓地で、後墓地の意となったもの。○人生百に満たず 『文選』『古詩源』などに載っている古詩。以上、人生の短さの嘆き。
夫《か》の群生品類のごときは、皆尽くること有る身を以ちて、並に窮無き命を求めずといふこと莫し。この所以《ゆゑ》に道人方士、みづから丹 経を負ひ名山に入りて、薬を合すは、性を養ひ神を怡《よろこば》ばしめて、長生を求むるなり。抱朴子に曰はく、神農云ふ、百病愈えずは安《いか》にぞ長生を得むといふ。帛公は又曰はく、生は好き物なり、死は悪しき物なりといふ。若し幸あらずして長生を得ずは、猶生涯病患無きを以ちて、福大なりと為さむか。
若2夫群生品類1、莫v不d皆以2有v盡之身1、並求c無v窮之命u。所以道人方士、自負2丹經1入2於名山1、而合v藥者、養v性怡v神、以求2長生1。抱朴子曰、神農云、百病不v愈、安得2長生1。帛公又曰、生好物也、死惡物也。若不v幸而不v得2長生1者、猪以d生涯無2病患1者u、爲2福大1哉。
【語釈】 ○群生品類 一切の有情の物。○道人力士 ともに仙術を学び得た人。○丹経 丹薬すなわち仙薬の製法を記した書。○神農 神話時代の皇帝で、人身牛首だと伝えている。初めて人に医薬を教えた人。○生は好き物なり、死は悪しき物なり 『左伝』に出ている。以上、長生と無(131)病の願い。
今吾病に悩まされ、臥坐することを得ず。向東向西《かにかくに》せむ術を知ること莫し。福無きの至りて甚しき、すべて我に集まる。人願へば天従ふといふ。如《も》し実あらば、仰ぎ願はくは頓《にはか》に此の病を除き、頼《さきはひ》に平《つね》の如くなるを得む。鼠を以て喩と為すは、豈恥愧ぢざらめや。【已に上に見ゆ。】
今吾爲v病見v惱、不v得2臥坐1。向東向西莫v知v所v爲。無v福至甚、惣集2于我1、人願天從。如有v實者、仰願頓除2此病1、頼得v如v平。以v鼠爲v喩、豈不v愧乎。【已見v上也。】
【語釈】 ○人願へば天従ふ 『尚書』、周書泰誓の語。○鼠を以て喩と為す 上の、死者を喩えて「生ける鼠に及《し》かず」を指したもの。以上、最後に、天にむかって訴えたもの。
【評】 このような詩も歌も含まない純粋の散文で本集の中に収められているのは、この一篇があるのみである。なぜにこうした全く形式の異なったものを編者が集中に収めたかはわからない。強いて憶測すると、本編は長篇ではあるが、内容は純抒情的なものであり、この前後に排列されている老を嘆く歌と内容を同じゅうしているものなので、そこに繋がりを認めて、資料として得られたままに収めたものではないかと思われる。とにかくこの一篇は億良という人の性情を濃厚にあらわしているもので、彼が意識せずに描いた自我像という感の強いものである。
この篇のあらわしているものは、憶良がいかに死ぬことが厭やな人であったかということと、いかに解剖分析の好きな人であったかということとである。
この篇の語っていることは、表面的に見れば憶良が病苦に悩み、どうかしてそれを癒したいと思った、その熱意を語っているものである。これは普通のことで、怪しむに足りないことである。憶良自身もそのつもりで書いているものと思われる。しかし一皮剥ぐと、憶良の思っていることは、単に病苦を癒したいという程度のものではなく、そうすることによって長命を得たいということであって、その心が絶えず纏わり着いており、それが主体となり熱意の源となっていることは、説明するまでもなく文字の上に明らかである。この点は憶良自身心付かずに書いていたのではないかと思われる。長命したいということも怪しむべき性質のものではないが、その時は憶良は、自身言っているごとく七十四の高齢だったのである。しかもその病苦は長い間の痼疾でもあったのである。常人であればその年齢でその状態に置かれていれば、無論死は苦痛より解放してくれる救いであって、その病苦を癒やし、さらに長命をしたいなどということは思いもしないことである。これはわが国民共通の性情で、可否を超えたものである。ひとり憶良は、死などいうことは思いも寄らず、極度にそれを厭い、それより遠ざかろうとし(132)てわれと心を励ましているのであるが、それをするにあたっての目標は、すべて漢籍の上にある文献上の人々で、漢土においても特殊な人とされている者ばかりである。漢土人の生命に対する執着の強さは、その仙術を重んじ、それを実行している人の多いのでも窺われるが、憶良はそれを普通人のごとく見、それに及ばざるを愧じる心をもって物を言い続けているのである。生命に対する執着の強さにおいては、憶良は日本人ばなれのしている、異常な特殊の人であったと思われる。
他の一面は憶良のもつ分析探求構成など、言いかえると学究的な面である。本篇の中心をなしているものは長命をしたいという、人間の根本的な本能で、これを叙事的にあらわそうとすれば格別、抒情的に言おうとすれば短い言葉で尽くされてしまうべき性質のもので、長く言おうとすれば繰り返すよりほかに法もないものである。しかるに憶良はその捉えては言い難いものを捉えて一つの体系を付け、それに秩序を立てて構成を施して、このような長篇としているのである。そのことだけでも非凡な力量というべきである。しかもその一部一部はことごとく漢籍よりの引用で、その引用は、彼自身言わんと欲することを、古人の口をかりて権威をもって言っているという形のものである。現在より見ると煩わしく老獪にさえみえるのであるが、憶良自身はそうした感はもたず、それであればこそわが思うことは人間の真実だという確信をもってしていたことと思われる。その多読と、その自身に必要な部分を敏感に豊富に捉えている点だけでも、憶良の非凡さを思わない訳にはゆかない。全篇の秩序と構成については、一言ずつ触れているから省略する。
以上がこの一篇によって思われる憶良の性情の輪郭である。これを要約すると、彼が日常生活の上で実感となって来たことに対し、彼独自の性情をとおして、一方ではそれを大観し綜合し、強い力をもった観念とするとともに、他方では同時にこれを細かく分析し、実証によって具象化することである。言いかえると感性と知性とが同時に強く明らかに働くということである。これを彼の歌の方面と対比すると、この文において行なっていることがやがて歌の上でも行なっていることであって、文のほうが歌よりもより多く明瞭にその状態を示しているのである。
俗道の仮合は即ち離れ、去り易くして留り難きを悲み歎く詩一首 井に序
【語釈】 ○俗道 人間世界の道理。○仮合は即ち離れ 「仮合」は仏語で既出。地水火風の四大がかりに結合したものが人間で、それはまた当然分離するもので分離は死。○去り易くして留り難き 人間は死に易くて生きてい難いこと。
竊に以《おもひ》みるに、釈慈の教を示すは、【謂ふこころは、釈氏慈氏をいふ。】先に三帰【謂ふこころは、仏法僧に帰依するをいふ。】五戒を開きて、法界を化し、【謂ふこころは、一に殺生せず、二に偸盗せず、三に邪淫せず、四に妄語せず、五に飲酒せざるをいふ。】周孔の訓を垂るるは、前に三綱、【謂ふこころは、君臣父子夫婦をいふ。】五教を張り、以ちて邦国を済《すく》ふ。【謂ふこころは、父は義、母は慈、兄は友、弟は順、子は孝なるをいふ。】故知る、引導は二つなれども、悟を得るは惟《これ》一(133)つなり。但おもひみるに 世に恒《つね》の質無し、所以《これゆゑ》に陵と谷と更変《かは》る。人に定まれる期《とき》無し、所以《これゆゑ》に寿と夭と同じからず。目を撃つ間、百齢已に尽き、臂を申《の》ぶる頃《あひだ》に、千代亦空し。旦《あした》に席上の主と作《な》れども、夕には泉下の客と為《な》る。白馬走り来るとも、黄泉には何《いか》にか及《し》かむ。隴上の青き松は、空しく信の剣を懸け、野中の白楊は、但悲しき風に吹かる。是《ここ》に知る、世俗|本《もと》隠遁の室無く、原野唯長夜の台有ることを。先聖已に去り、後賢も留らず。如《も》し贖ひて免るべきこと有らば、古人誰か価の金無からむや。未だ独り存《ながら》へて、遂に世の終を見たる者あるを聞かず。所以《これゆゑ》に維摩大士は、玉体を方丈に疾《や》ましめ、釈迦能仁は、金容を双樹に掩へり。内教に曰はく、黒闇の後に来るを欲《ほ》りせずは、徳天の先に至るに入ること莫れといへり。【徳天は生なり、黒闇は死なり。】故《かれ》知る、生るれは必ず死あることを。死若し欲りせずば、生れざるに如《し》かず。況はめや縦《よ》し始終の恒の数を覚《さと》るとも何ぞ存亡の大きなる期《とき》を慮らめや。
俗の道の変化するは猶目を撃つが如く、人の事の経紀するは臂を申ぶるが如し。空しく浮べる雲と大虚を行き、心と力と共に尽きて寄《やど》る所なし。
竊以、釋慈之示教、【謂、釈氏慈氏。】先開2三歸【謂、歸2依佛法僧1】五戒1、而化2法界1、【謂d一不2〓生1、二不2偸盗1、三不2邪淫1、四不2妄語1、五不c飲酒u也】周孔之垂v訓、前張2三綱【謂、君臣父子夫婦】五教1、以濟2邦國1。【謂、父義母慈兄友弟順子孝】故知、引導雖v二、得v悟唯一也。但以世無2恒質1、所以陵谷更變。人無2定期1、所以壽天不v同。撃v目之間、百齡已盡、申v臂之頃、千代亦空。且作2席上之主1、夕爲2泉下之客1。白馬走來、黄泉何及。隴上青松、基懸2信釼1、野中白楊、但吹2悲風1。是知、世俗本無2隱遁之室1、原野唯有2長夜之臺1。先聖已去、後賢不v留。如有2贖而可v免者1、古人誰無2價金1乎。未v聞d獨存、遂見2世終1者u。所以維摩大士、疾2玉體于方丈1、釋迦能仁、掩2金容乎雙樹1。内教曰、不v欲2黒闇之後來1、莫v入2徳天之先至1。【徳天者生也、黒闇者死也。】故知、生必有v死。々若不v欲不v如v不v生。況乎縱覺2始終之恒數1何慮2存亡之大期1(134)者也。
俗道變化猶v撃v目、人事經紀如v申v臂。空与2浮雲1行2大虚1、心力共盡無v所v寄。
【語釈】 ○釈茲 「釈」は注に釈氏とあり、釈迦。「慈」は、同じく慈氏とあり、弥勒《みろく》。漢訳。○三帰 「帰」は拠りどころで、その注にある。〇五戒を開きて 「五戒」は注にある。五戒の道を開いて。○法界を化し 仏法の世界を指導し。○周孔 周公と孔子で、孺道。〇三綱、五教を張り 「張り」は、教を立てて。○邦国を済ふ 国を救っている。○引導は二つなれども 引導は人を導くことで指導と同じ。二は、仏教と儒教。以上、第一段。○世に恒の質無し 世界には恒久性がない。○陵と谷と更変る 岡と谷とが変わり合うで、詩経に、「高岸為v谷、深谷為v陵」に拠ったもの。○人に定まれる期無し 人には定まった生存期間がないで、寿命が定まらない。○寿と夭と同じからず 長生きの者と若死にの者とで一様でない。○目を撃つ間、百齢已に尽き 瞬きをする間に長い年齢が尽きてしまった。○臂を申る頃に 手を伸す間に。○席上の主 客を招いての席の主人。○泉下の客 墓中の人。○白馬走り来るとも、黄泉には何にか及かむ 白馬の走るごとき時も、死の国にはどうして行くことが出来ようかで、死ねば世とは無関係な甲斐なきさまとなる。○隴上の青き松は、宜しく信の剣を懸け 『史記』呉太伯世家に出ている故事で、季札が上国に使する時徐君を過ぎると、徐君は心に季札の剣を欲しいと思った。季札もそれと知ったが、場合柄知らぬさまをした。帰途の時には徐君はすでに故人となっていたので、季札はその剣を解いて、徐君の塚の樹に感けて去ったというので、「隴上」は塚。「信の剣」は、心の誠をあらわす剣。○野中の白楊は、但悲しき風に吹かる 『文選』の古詩に、「古墓犂為v田、松柏摧為v薪、白楊多2悲風1、肅(草冠)々愁2殺人1」から取ったもの。白楊は墓に植える木。○原野唯長夜の台有ることを 「長夜の台」は、長い夜を眠る家で、墓所。野原に墓所があるだけだ。○贖ひて免るべきこと有らば 代償の金を出して死から免れることができるのであったら。○玉体を方丈に疾ましめ 維摩のことで、玉体は維摩を尊んでの称。方丈は僧の正室。疾ましめは、維摩経の記事。○釈迦能亡は、金容を双樹に掩へり 「能仁」は釈迦の漢訳。「金容」は玉体と同じく尊んでの称。「双樹」は沙躍双樹で、「掩へり」は、身を隠したで、寂滅を婉曲にいったもの。維摩釈迦にしても無常をまぬかれない意。○内教 ここは涅槃経。○黒闇 徳天。注がある。○始終の恒の数を覚るとも何ぞ存亡の大きなる期を慮らめや 「始終の恒の数」は、一貫しての不変な点、すなわち人生の無常なことは悟っていようとも、存亡の大きなる期すなわち死の来る大切な時は思い知り得ようか。○俗の道の変化するは猶目を撃つが如く 世の中の道の変化するのは、瞬きをする間のように速かで。○人の事の経紀するは臂を伸ぶるが如し 「経紀」は経過と同じく変化の意で、人事の変化は手を伸ばす間のように速かであるというので、いずれも無常迅速なこと。○宜しく浮べる撃(?)と大虚を行き 空しく浮んでいる雲とともに、空漠なる空であるこの世に生きて行き。○心と力と共に尽きて寄る所なし 心力も体力もともに尽きて、何のたよる所とてもない。
【評】 これは上の文のもっていた生の執着を諦めさせられて、無常迅速の世界に身を投げ出し、虚無的なさみしい心を抱いて、成行きに任せようとした心のものである。憶良の最後に到達した心境というべきものである。注意されることは、憶良は儒道の書はもとより仏典にもよく通じていたと思われるが、儒道も仏道もその実践的な道徳方面を体得しているだけで、その奥に大きく存在しているはずの信仰の面には入り込まなかったとみえることである。死生の問題になると、儒道を離れて仏道を対(135)象として考えていたようであるが、捉えているところは無常ということで、この無常は、単に彼を悲しませるだけのものだったのである。詩の結句の、「心と力と共に尽きて寄る所なし」というのはその直接な表現である。このさみしい限界は、当時の儒道仏道の状態にもよろうが、憶良自身の性情の劃したものというほうが重かろうと思われる。すなわち飽くまでも現実的で、現実に即しての知識は貪り求めて豊富に蓄えているが、自身に対する執着があまりにも強かったため、精神方面には心が向けられなかったのではないかと思われる。
老いたる身に病を重ね、年を経て辛苦《たしな》み、及児等を恩ふ歌七首 【長一首短六首】
【題意】 この歌の最後に制作時を記して、「天平五年六月丙申朔三日戊戌作」とある。巻六、天平五年の部にある(九七八)「士《をのこ》やも空しかるべき」は辞世の歌のごとき形となっているが、それには制作の月日がないので、それのあるものとしてはこの歌は最後のものである。「児等」は歌で見ると幼い子どもである。「痾に沈みて自哀む文」に七十有四とあったので、年号との関係上、ふさわしからぬことである。筑前の国庁にあって偲んだ子どもも幼かったが、ここにある子は「五月蠅なす騒く児等」で、それらよりも一段と幼い者に思える。妻が年若いと老齢の人も児を設けることはありうることである。憶良もそのような状態ではなかったかと思われるが、もとより想像にすぎない。
897たまきはる 現《うち》の限《かぎり》は【謂ふこころは、瞻浮州の人寿一百二十年なるをいふ。】 平《たひら》らけく 安《やす》くもあらむを 事《こと》もなく 喪《も》もなくあらむを 世間《よのなか》の 憂《う》けく辛《つら》けく いとのきて 痛《いた》き瘡《きず》には 鹹塩《からしほ》を 灌《そそ》ぐちふが如《ごと》く ますますも 重《おも》き馬荷《うまに》に 表荷《うはに》打《う》つと 云《い》ふことの如《ごと》 老《お》いにてある 我《わ》が身《み》の上《うへ》に 病《やまひ》をと 加《くは》へてあれば 昼《ひる》はも 歎《なげ》かひ暮《く》らし 夜《よる》はも 息衝《いきづ》きあかし 年《とし》長《なが》く 病《や》みし渡《わた》れば 月《つき》累《かさ》ね 憂《うれ》ひ吟《さまよ》ひ ことごとは 死《し》ななと思《おも》へど 五月蠅《さばへ》なす 騒《さわ》く児等《こども》を 棄《う》つてては 死《しに》は知《し》らず 見《み》つつあれば 心《こころ》は燃《も》えぬ かにかくに 思《おも》ひわづらひ 哭《ね》のみし泣《な》かゆ
(136) 靈剋 内限者【謂、瞻浮州人壽一百二十年也。】 平氣久 安久母阿良牟遠 事母無 母裳无阿良牟遠 世間能 宇計久都良計久 伊等能伎提 痛伎瘡尓波 鹹塩遠 灌知布何其等久 益々母 重馬荷尓 表荷打等 伊布許等能其等 老尓弖阿留 我身上尓 病遠等 加弖阿礼婆 晝波母 歎加比久良志 夜波母 息豆伎阿可志 年長久 夜美志渡礼婆 月累 憂吟比 許等々々波 斯奈々等思騰 五月蠅奈周 佐和久兒等遠 宇都弖々波 死波不知 見乍阿礼婆 心波母延農 可尓可久尓 思和豆良比 祢能尾志奈可由
【語釈】 ○たまきはる現の限は 「たまきはる」は既出。枕詞。「現《うち》」は形容詞としては「うつし」となる。その語幹|現《うつ》の転音。現実に生きている、すなわち命。「限」は、間。生きている間は。○瞻浮州 上の「痾に沈みて」の文に既出。○平らけく安くもあらむを 平穏に、安穏にありたいのに。○事もなく喪もなくあらむを 「事」は何事。「喪」は、凶事で、用例が少なくない。○世間の憂けく辛けく 「憂けく」は、形容詞憂しの名詞形。憂いことの意。「辛けく」も同じく、辛いこと。○いとのきて痛き瘡には鹹塩を灌ぐちふが如く (八九二)および「痾に沈みて」の文にも出た、当時の諺。取り分けても痛い瘡に、鹹い塩を濺ぐと言っているごとくで、「ちふ」は、という。苦しい上にさらに苦しさの加わる意で、下の老体に加うるに病苦のあることの譬喩。○ますますも重き馬荷に表荷打つと云ふことの如 「ますますも」は、さらに一層にで、下の「打つ」にかかる。「表荷打つ」は、「表荷」は、荷の上にさらに積む荷で、「打つ」は、添える意。すでに重い馬の荷の上に、さらに一層に表荷を添えるということのようにで、これも当時の諺で、後世の重荷に小付《こづけ》と同じ意である。上の「いとのきて」と対句として、譬喩としての感を強めたもの。○老いにてある我が身の上に 「に」は、「ぬ」の連用形。老いてしまっている。○病をと加へてあれば 「と」は、後世だと単に「病を」というだけの場合であるが、上の「老いにて」と重ねる関係より添えていっているもので、当時の用法である。巻四(六六〇)「汝《な》をと吾《あ》を人ぞ離《さ》くなる」とあるのと同じで、他にも例がある。○年長く病みし渡れば 「年長く」は多年。「し」は、強意の助詞。「渡れば」は、継続しているのでで、(137)「痾に沈みて」でいっている「十余年」にわたっての病。○月累ね憂ひ吟ひ 「月累ね」は月の多くを累ねて。「憂ひ吟ひ」は、(八九二)に出た。憂い、坤吟し。○ことごとは死ななと思へど 「ことごと」は、巻十三(三三四六)に「ことさけば国にさけなむ」とあり、妻が夫に任地で死なれ、子供を連れて故里へ帰る途中での嘆きで、同じ放けるならば、故里で放けてもらいたいの意。事がこのようであるの意、すなわち同じことならばと取れる。「な」は、願望の助詞。事態がこのようであれば死にたいと思うが。〇五月蠅なす騒く児等を 「五月蠅なす」は、五月の蠅のごとくで、意味でかかる枕詞。「騒く児等」は、幼少の児で、「等《ども》」は必ずしも複数をあらわさないから、一人《ひとり》かそれ以上かはわからない。○棄つてては死は知らず 「棄《う》つ」は棄《す》つの古語。「棄《う》つてて」は、「打棄《うちう》てて」の約言。「打」は接頭語で、見棄てては。「死《しに》」は死ぬこと。「知らず」は、知られずで、出来ない。○見つつあれば心は燃えぬ 「見つつ」は、児等を。「心は燃え」は、心が熱くなるで、わが苦しみと児の愛《かな》しさからの心悶えを綜合し具象したもの。○かにかくに思ひわづらひ とやかくと気を揉んでで、上を繰り返したもの。○哭のみし泣かゆ はげしくも泣かれる。
【釈】 命のある間は、平穏に安穏にありたいのに何事も凶事もなくいたいのに、世の中の憂いこと辛いことには、取りわけて痛い瘡に鹹い塩を濺ぐというように、さらに一層に、重い馬の荷の上に、表荷を添えると言っているように、年老いてしまっているわが身の上に病が加わっているので、昼は嘆きつづけて日を暮らし、夜は溜息をつき明かし、多年の間を病み続けているので、幾月もの間を憂え呻いているので、同じことならば死にたいと思うけれども、騒いでいる幼い児を見棄てて死ぬことが出来ず、そのさまを見つづけていると、心が熱くなって来た。とやかくと思い煩って、はげしくも泣きに泣かれる。
【評】 七十四の憶良の、その死に先立つことさして久しくない頃の述懐であり、その後の歌として明らかなのは、短歌の一首があるだけであるから、憶良がその心の委曲を語った最後のものと思われる。ここに言っていることは、老齢に加うるに病苦の甚しいものがあり、おなじことならば死にたいと思うが、弁別のつかない幼い児を見ると、死ぬことも出来ないという嘆きである。この嘆きは無知な庶民のこうした際の嘆きといささかの異なりもないものである。その学問をもって起用され、国守としての官に久しくあり、七十四の老齢に至っている憶良であるから、その最後に持った心境は、何らかの特色があるのではないかと想像されるが、その実は全く常凡なもので、それらしいものも持ってはいないのである。それにまたこの歌の詠風は、素朴で率直でその点では他に例のないものであって、おのずから一種の歌品をなしているのは、これが憶良の心の生地《きじ》であったろうと思わせるものである。こうした常凡な、庶民と選ぶところのない心をもっている憶良が、上来、執拗に問題にしていた現世執着は、何らかの必要に駆られたものであって、そこにはこの歌で初めて出て来る幼い児も関係していたのではないかと思われる。その執着も老疾の自然の成行きとして心身ともに衰えて来ると、この歌ではいさぎよく見切りをつけて、一言も触れず、ただ悲しみを述べているだけになっているのは、学者たるに愧じないことと言える。幼い児にはそれを托すべき母があったろうと思われるが、それについては反歌を通じても触れていないのは、そこに何らかの理由があったのかも知れぬが、それも憶良の人柄を思わせることである。要するにこの歌は、憶良自身の心やりとして、無条件に、その平常の心を述べたも(138)ので、人としての憶良の生地をあらわしているものである。
反歌
898 慰《なぐさ》むる 心《こころ》はなしに 雲隠《くもがく》り 鳴《な》き往《ゆ》く鳥《とり》の 哭《ね》のみし泣《な》かゆ
奈具佐牟留 心波奈之尓 雲隱 鳴徃鳥乃 祢能尾志奈可由
【語釈】 ○慰むる心はなしに 後世だと、心慰むことはなしにと言うべき場合で、当時の言い方。例の多いものである。○雲隠り鳴き往く鳥の 雲に隠れつつ鳴いてゆく鳥のごとくの意で、鳥は音の高いものでなくてはならず、鶴《たづ》を思ってのことと取れる。「哭」にかかる序詞。
【釈】 心の慰むことはなくて、雲に隠れて鳴いてゆく鳥の音の、我も声を立てて泣きに泣かれる。
【評】 長歌の結末の「かにかくに」以下三句の心を、語を換えて繰り返したもので、反歌の古い型に従ったものである。他寄のない、長歌に依拠して存在する歌である。
899 術《すべ》もなく 苦《くる》しくあれば 出《い》で走《はし》り 去《い》ななと思《おも》へど 児等《こら》に障《さや》りぬ
周弊母奈久 苦志久阿礼婆 出波之利 伊奈々等思騰 許良尓佐夜利奴
【語釈】 ○術もなく苦しくあれば すべき法もなく病が苦しいので。○出で走り去ななと思へど 家を出て走って行きたいと思うけれどもで、「な」は願望の助詞。長歌の「死ななと思へど」を語を換えて繰り返したもの。○児等に障りぬ 「障《さや》り」は、「障《さは》」りの古語で、遮られるの意。心が残って出来ないということを、上を承けて具象的にいったもの。
【釈】 する法もなく病が苦しいので、家を出て走って行きたいと思うけれども、幼い児等に遮られてしまう。
【評】 これも長歌に依拠して存在しうる歌であるが、上の歌とは距離をもった躍動した作である。三句以下技巧があるがごとくみえるが、激情がおのずからに綜合され、具象されたものである。力量の現われた歌である。
900 富人《とみびと》の 家《いへ》の子等《こども》の 著《き》る身《み》無《な》み 腐《くた》し棄《す》つらむ ※[糸+施の旁]錦《きぬわた》らはも
(139) 富人能 家能子等能 伎留身奈実 久多志須都良牟 ※[糸+施の旁]綿良波母
【語釈】 ○富人の家の子等の 「富人」は、当時は貨幣がまだ一般化せず、物資が主体であったから、下の「絹綿」など多く持った人。○著る身無み 「無み」は、なくして。着る体がなくしてで、これは物資の多い割合に、着る体の少ないことを、「無み」と誇張していっているもの。○廃し兼つらむ 「腐し」は、腐らせる意で、腐らせ棄てるであろうところの絹綿と続く。絹や綿は腐るべき物ではないのに、それをこのようにいっているのは、無用な物にしているということを、上に続けて誇張していったもの。○※[糸+施の旁]綿らはも 「※[糸+施の旁]」は、「あしぎぬ」すなわち悪しき絹また「ふとぎぬ」すなわち太絹とも訓み、一段劣った物で、富人の子の着る物としたのである。「綿」は、当時は木綿綿は産せず、綿といえば蚕より取った、今の真綿だったのである。これは巻三(三三六)「白縫筑紫の綿は身に著けて」に出た。ここもそれである。「※[糸+施の旁]綿らはも」は、「はも」は、詠歎。
【釈】 富人の家の子どもの、着る体がなくて、腐らせて棄ててしまうであろう絹や綿はなあ。
【評】 この歌は、長歌とは連絡のないものであるが、次の歌とは連作の形となっており、憶良の幼い児がその頃着る物に不自由を感じていたところから、児との繋がりにおいて言い出して来たものである。言っていることは、我が児を標準にして富人の子を羨んでいるごとくにみえるが、心としては羨みではなく「貧窮問答」の極貧者の心と同じく、一種の憤りを言ったものであろう。誇張を用い、鋭い調べで言っているところ、羨みなどと消極的のものではなく、積極的な憤りと感じられるものである。この歌は長歌とのつながりが稀薄なため独立した歌とも取れるものである。
901 麁妙《あらたへ》の 布衣《ぬのぎぬ》をだに 著《き》せがてに かくや歎《なげ》かむ せむ術《すべ》を無《な》み
麁妙能 布衣遠陀尓 伎世難尓 可久夜歎敢 世牟周弊遠奈美
【語釈】 ○麁妙の布衣をだに 「麁妙」は、粗末な妙で、妙は、織物の総称。「布衣をだに」は、「布」は上の歌の絹に対させたもの。○著せがてに 「がてに」は本来清音「かてに」であったが、後に混用されるようになった。(八五九)に例があった。着せ得ず。○かくや歎かむ 「や」は疑問の係助詞で、詠歎をあらわすもの。このように嘆くのかなあ。○せむ術を無み 著せるべき法がなくて。
【釈】 麁い妙の布の衣だけでも着せることが出来ず、このように歎くのであろうかなあ。着せてやるべき法がなくて。
【評】 上の歌の連作で、関連をさせて見るべきものである。事の割合に嘆きの仰々しいのは、憶良の批評精神が加わっていて、それのさせていることと思われる。当時の国守は期が満ちて帰京すると富んでいるのが普通であった。憶良が甚だ貧しく、子(140)どもの布衣にも事欠くということは、彼としては衷心一種の矜りを感じていたことであろう。家庭の人となっていた憶良だが、公人としての心の消えないものがあったのだ。
902 水沫《みなわ》なす 微《いや》しき命《いのち》も 栲繩《たくなは》の 千尋《ちひろ》にもがと 願《ねが》ひ暮《くら》しつ
水沫奈須 微命母 栲繩能 千尋尓母何等 慕久良志都
【語釈】 ○水沫なす微しき命も 「水沫」は、水の沫の転音。その消え易い意は、「命」の譬喩。人の命の脆さを仏典で、泡沫夢幻に譬えているその慣用のもの。「微しき」は謙辞。○栲繩の千尋にもがと 「栲繩」は、栲の椒維を縒り合わせて作った繩。「の」は、のごとく。その長い物が用いられていたところから、長さの譬喩としたもの。これは枕詞となっているものであるが、ここはそれではない。「千尋」は、「尋」は現在も用いている語。男が両手を伸ばした丈で、身の丈に匹敵する長さ。「千尋」はその千倍。「に」は、ここは状態を示すもので、のごとくというにあたる。「もが」は、願望の助詞。「と」は、と思って。○願ひ暮しつ 「暮し」は、終日を送る意で、続けるということを具象的に言ったもの。
【釈】 水の沫の消え易いような微しい命も、栲繩の千尋のごとくに長くあってくれよかしと、願い続けた。
【評】 この歌は、長歌でいっていることを、批評的に見て要約したもので、長歌を言いかえて操り返した形のものである。反歌としては典型的のものと言える。批評的というのは、水沫なす命だと理の上では知っているが、情としては長くもがもと願いくらしたというので、自身の思っていることを大観し、その矛盾していることを嘆きをもって言っているからである。「痾に沈みて」の文も、それにつぐ詩も、根本はここにあって、知と情の甚しく不一致なことを示していたが、その同じ心も、ここで長歌の反歌として見ると、それは老いて扶養の賛任をもっている幼い児どもが関係していたのだと知られるのである。憶良自身の執着と見えたものは、児どもに駆られてもたされた執着が大きく働きかけていたので、思想よりも余儀なさよりのものだったのである。平凡に見える歌であるが、憶良としては心の籠もったものである。
903 倭文手纏《しづたまき》 数《かず》にもあらぬ 身《み》にはあれど 千年《ちとせ》にもがと 思《おも》ほゆるかも 【去《い》にし神亀二年之を作りき。但し類を以ちての故に更に此《ここ》に載す。】
倭文手纏 數母不在 身尓波在等 千年尓母何等 意母保由留加母 【去神龜二年作之。但以v類故更載2於茲1。】
(141)【語釈】 ○倭文手纏 「倭文」は、上代の布織物で、さまざまな染糸をもって縞に織ったもので、普通の布よりは貴ばれたもの。「手纏」は、腕に装飾として巻いたもので、良い物は金属をもって作ったので、倭文の手纏は値の低いものであった。ここは「数にもあらぬ」の譬喩。「いやしき」とも続けている。○数にもあらぬ 物の数にも入らないの意で、貴くないことを具象的に言ったもの。現在も用いられている。○千年にもがと 「千年」は、命の長さを誇張して言ったもの。「もが」は、願望の助詞。○注は自注で、本来関係のない歌であるが、心の通うものがあるゆえにここに載せるというのである。神亀二年は、天平五年より六年前である。
【釈】 倭文の手纏のごとく、物の数にも入らないつまらない我が身ではあるが、千年の長き命も欲しいものだと思われることであるよ。
【評】 長命を願う本能と、社会的地位とは何の関係もないものであるが、それをさも当然のことのように組合わせている歌である。この歌を作った時は、憶良はすでに相応な位地にいたのであるが、それを「数にもあらぬ」と言っているのは、自卑よりのことではなく、立身の念が熾んであったからのことである(この歌で見ると、歌意は実感であれば十分であって、その適不適は問おうとしない風があり、それがこの歌のような根本的に無理のあるものとなったと見られる。「類を以ちて」と言っているが、その類は長命のことで、ここに反歌の一首として加えるべきものではない。これは憶良の作歌態度を示しているだけのものである。
天平五年六月丙申朔三日戊戌作
【解】 この日付については題意で言った。
男子《おのこ》名は古日《ふるひ》といふを恋ふる歌三首 【長一首短二首】
【題意】 「男子」は、憶良の子で、幼くて死んだ子である。「名は古日」と子の名前を題詞に入れていることは、第三者を予想してのものではなく、挽歌である関係上、その子を重んじてのことと取れる。なおこの歌には左注がある。
904 世《よ》の人《ひと》の 貴《たふと》み願《ねが》ふ 七種《ななくさ》の 宝《たから》も我《われ》は 何《なに》為《せ》む 我《わ》が間《なか》の 生《うま》れ出《い》でたる 白玉《しらたま》の 吾《わ》が児《こ》古日《ふるひ》は 明星《あかぼし》の 明《あ》くる朝《あした》は 敷妙《しきたへ》の 床《とこ》の辺《べ》去《さ》らず 立《た》てれども 居《を》れども 共《とも》に(142)戯《たはぶ》れ 夕星《ゆふづつ》の 夕《ゆふべ》になれば いざ寝《ね》よと 手《て》を携《たづさは》はり 父母《ちちはは》も 上《うへ》はな離《さか》り 三枝《さきくさ》の 中《なか》にを寝《ね》むと 愛《うつく》しく 其《し》が語《かた》らへば 何時《いつ》しかも 人《ひと》と為《な》り出《い》でて 悪《あ》しけくも 善《よ》けくも見《み》むと 大船《おほふね》の 思《おも》ひ憑《たの》むに 思《おも》はぬに 横風《よこかぜ》の にふふかに 覆《おほ》ひ来《きた》れば せむ術《すべ》の たどきを知《し》らに 白妙《しろたへ》の 手襁《たすき》を掛《か》け 真十鏡《まそかがみ》 手《て》に取《と》り持《も》ちて 天《あま》つ神《かみ》 仰《あふ》ぎ乞《こ》ひ祷《の》み 地《くに》つ祇《かみ》 伏《ふ》して額《ぬか》づき かからずも かかりも 神《かみ》のまにまにと 立《た》ちあざり 我《わ》が乞《こ》ひ祷《の》めど しましくも 快《よ》けくは無《な》しに 漸漸《やくやく》に 容貌《かたち》つくほり 朝朝《あさなさな》 言《い》ふこと止《や》み たまきはる 命《いのち》絶《た》えぬれ 立《た》ちをどり 足《あし》摩《す》り叫《さけ》び 伏《ふ》し仰《あふ》ぎ 胸《むね》打《う》ち嘆《なげ》き 手《て》に持《も》てる 吾《あ》が児《こ》飛《と》ばしつ 世間《よのなか》の道《みち》
世人之 貴慕 七種之 寶毛我波 何爲 和我中能 産礼出有 白玉之 吾子古日者 明星之 開朝者 敷多倍乃 登許能邊佐良受 立礼抒毛 居礼抒毛 登母尓戯礼 夕星乃 由布弊尓奈礼婆 伊射祢余登 手乎多豆佐波里 父母毛 表者奈佐我利 三枝之 中尓乎祢牟登 愛久 志我可多良倍婆 何時可毛 比等々奈理伊弖天 安志家口毛 与家久母見武登 大船乃 於毛比多能無尓 於毛波奴尓 横風乃 尓布敷可尓 覆来礼婆 世武須便乃 多抒佼乎之良尓 志路多倍乃 多須吉乎可氣 麻蘇鏡 弖尓登利毛知弖 天神 阿布藝許比乃美 地祇 布之弖額拜 可加良受毛 可賀利毛 神乃末尓麻尓等 立阿射里 我乞能米登 須臾毛 余家久波奈之尓 漸々 可多知都久保利 朝々 伊布許登夜美 靈剋 伊乃知多延奴礼 立乎抒利 足須里佐家婢 伏仰 武祢宇知奈氣吉 手尓持流 安我舌登婆之都 世間之道
【語釈】 ○世の人の貴み願ふ七種の宝も我は何為む 「貴み願ふ」は、尊重して得たいと願うところの。「七種の宝」は、仏典にいう七種の珍宝で、(143)その七種は一定していず、経典によって異なっている。阿弥陀経では金、銀、瑠璃、※[王+皮]璃、※[石+車]※[石+渠]、赤珠、※[石+馬]※[石+瑙の旁]であり、異なっても少異にすぎない。「何為む」は「為」の下に『略解』は、「に」を訓み添えて、「何せむに」としたが、古く「何せむ」と訓んだのに従うべきである。我は何にしようで、我にはそれより遥かに貴い物を持っているの意。これは(八〇三)「銀《しろがね》も金《くがね》も玉も何為むに」と、同じ意のものである。これは形から言うと、五七、五七、四で、これと同じ続きが以下に二か所あって、明らかに意図して用いているものである。以上で一段の形となっている。○我が間の生れ出でたる白玉の吾が児古日は 「我が間」は、我ら夫婦の間。「の」は、下への続きでいうと、「に」とあるのが普通にみえるが、「に」と続けると夫婦のほうを主とした形になるので、「の」として「古日」のほうを主としたのである。「白玉の吾が児古日」は白玉のは、白玉のごとく貴き古日で、白玉は、真珠をさしている場合が多いが、ここは貴い玉の意のもの。古日と特にその名を挙げているのは、愛し重んじた意である。愛子を掌中の珠という成語を心に置いての続け方である。○明星の明くる朝は 「明星」は、明けの明星で、今の金星。この星は宵には西に現われ、明け方は東に回る。同音の関係を兼ねて「明け」の枕詞。○敷妙の床の辺去らず 「敷妙の」は既出、枕詞。「床」は室の一部に敷妙というとおり妙を敷き、あるいは畳を敷いて、夜は寝所に、昼は座所とした。「床の辺去らず」は親の座所のあたりを離れずの意を具象的に言ったもの。○立てれども居れども共に戯れ 立っている時でも坐っている時でもで、いかなる時でも。これは親の行動。「共に戯れ」は、古日が戯むれで、甘えて纏わる意。以上三句は、五四七という形となっている。○夕星の夕になれば 「夕星」は、宵の明星で、「夕」の枕詞で、意を兼ねていることは「明ぼし」と同じ。○いざ寝よと手を携はり さあ寝ようと言って手を握って。古日の行動。○父母も上はな離り 父母も床の上のほうへ離れては寝るなで、古日を夫婦の裾のほうに寝かしていたと取れる。〇三枝の中にを寝むと 「三枝」は、植物の名で、枝が三つに分れているところから、中の枝の意で中の枕詞。その物については定解がない。意味で「中」にかかる枕詞と取れる。「中にを寝む」とは、両親の間に寝ようで、以上古日の言。「を」は、強意の助詞。○愛しく其が語らへば 「愛しく」は可愛ゆく。「其」は、上に出たものを受けて、それと指定する代名詞。「語らへば」は語るの継続。可愛ゆくもそれがいつも言っているので。○何時しかも人と為り出でて 「何時しかも」は、いつになったらばで、早くと待つ意の語。「人と為り出で」は、一人前の人となり立って。○悪しけくも善けくも見むと 「悪しけく」「着けく」は、いずれも名詞形。悪い者であろうとも善い者であろうとも見ようと。○大船の思ひ馮むに 「大船の」は憑むの枕詞。思い馮んでいるに。以上第二一段。○思はぬに横風の 「思はぬに」は意外にも。「横風」は、横様に吹く風で、暴風。病の突発したことの譬喩としたもの。横風は航海者の最も怖れる横浪を立てる横風と思われる。それだと上の「大船の思ひ馮むに」に繋がりをもったものとなる。○にふふかに これは『新訓』のものである。原文「尓母布敷可尓布数可尓」であるが、「母」は紀州本にはなく、また、終わりの「布敷可尓」は西本願寺本外三本には「四字古本無之」とあるのに従って削ったのである。『新訓』は、訓を施していない。仮名であるから、「にふふかに」と訓めるが、他に用例のない語である。『略解』は宣長の説として、「尓波可尓母」と改め、「にはかにも」だとしている。上よりの続きで想像しての説であるが、意としてはその範囲のことと思われる。憶良のしばしば試みる日常語かも知れぬ。○覆ひ来れば 「覆ひ」は、上の「横風」の状態で、吹きを強く言いかえたもの。○せむ術のたどきを知らに 何としたらよいか見当も知られず。○白妙の手(衣偏+強)を掛け 白い布の襷を掛けて。神祭りをする時の礼装。○真十鏡手に取り持ちて 「真十鏡」は真澄みの鏡。「手に取り持ちて」は、神霊をそれに下し申そうとしてのこと。○天つ神仰ぎ乞ひ祷み地つ祇伏して額づき 「祷み」は祷り、「額づき」は額を地につけるで、拝をし。○かからずもかかりも神のまにまにと このようでなく、病が本復しようとも、またこの通りで本復し(144)得ずともの意。「神のまにまにと」は、一切は神の御心次第であると思って。三句は、神は必ず加護を垂れ給うことと信じ、自身の望を言い立てることは非礼なことだとする上代からの信仰で、その上に立って神意を和めまつる祭事を祈る意。また、以上三句は、五四八である。○立ちあざり我が乞ひ祷めど 「立ちあざり」は、集中には他に例がないが、平安朝時代には少なくなく、「あざり」は乱れる意で、取り乱しにあたる。○しましくも快けくは無しに 「しましく」は、しばしの古形、「快けく」も、快しの名詞形。しばらくも快いことはなくて。○漸漸に容貌つくほり 「漸漸に」は、次第に。「つくほり」は、これも他に用例のない語で、解し難い。『代匠記』は痩せすぼる意かと言い、『古義』は、衰えて折れかがむようのさまかと言い、また、平安朝時代の「くづをれ」と関係のある語ではないかとも言っている。次の「言ふこと止み」と対させてある関係上、衰えるという範囲の語で、当時行なわれていたものと見える。これらの解に従う。○朝朝言ふこと止み 「朝朝《あさなさな》」は、日々を具象的にいったもの。「言ふこと止み」は、衰えの甚しいことを具象的にいったもの。○たまきはる命絶えぬれ 「たまきはる」は、上に出た。「命絶えぬれ」は、已然の条件法。絶えぬれば。以上、第三段。○立ちをどり足摩り叫び 躍り上り、地だんだを踏んで叫びで、極度に悲しむことを、具象的にいったもの。○伏し仰ぎ胸打ち嘆き 伏しつ仰ぎつ胸を打って。上の二句と同じ。○手に持てる吾が児飛ばしつ世間の道 「手に持てる」は、酷愛していることを具象的にいったもので、上に言った掌中の珠で、起首の「白玉の」と照応させてある。「飛ばしつ」は、たちまち喪った意、同じく具象的にいったもの。「世間の道」は、世の中を常なきもの、悲しきものとして言ったもので、「貧窮問答」の結尾と同一である。以上第四段。
【釈】 世間の人が貴んで得たがっているかの七種の宝も我は何にしよう。我ら夫婦の間に生まれて来た白玉のごとき我が子の古日は、夜の明けて来る朝は、室《へや》の内の床のあたりを離れず、親達が起った時でも坐った時でも、一しょにいて甘え纏わり、また夕方になると、さあ寝ようと親達の手を握って、父母《ちちはは》も上のほうへ離れては寝なさるな、我は其中に寝ようと、可愛くもそれが言い言いするので、早く一人前になり立って、悪い者であろうとも尊い者であろうとも見ようと思い頼んでいるに、意外にも横浪を立てる暴風がにわかに覆って来たので、どうしたらよいかの見当も付けられず、白布の襷を掛け、真十鏡を手に取り持って、天の神々を仰いで乞い祷り、地の神々を伏して拝み、この有様から脱れ得るのも、脱れ得ないのも、神の御心次第のことと思って、取乱してわが乞い祷るけれども、しばらくの間も快《よ》いことはなくて、次第次第に顔形がおとろえ、朝々に物を言うことも止み、命が絶えてしまったので、躍りあがり地だんだを踏んで喚《わめ》き、伏しつ仰ぎつ胸を打って溜息をつき、わが手に持っていたわが子を喪ってしまった。常なくも悲しい世の中の道理《ことわり》として。
【評】 この歌は内容から見ると死者を悲しんだ歌であり、反歌はその死者の安穏を願ったもので、性質からいうと明らかに挽歌である。挽歌は集中の例で見ると、臣下がその主人を悲しんだもの、夫がその事をあわれんだものが主題で、子が親を悲しんだものはなく、兄が弟を悲しんだものが一首あるだけで、家族の方面はじつにさみしいものである。この歌のごとく、親が子を悲しんだものはこの一首だけで、その意味でも珍しいものである。加えて憶良の歌としても、この歌のように感情そのもののみで終始させ、しかも無条件にその心を尽くしているのは、その全作品を通じてこの一首があるのみで、親の愛をとお(145)して子の状態をこまごまと叙し、それによってしみじみと悲歎を現わしている詠み方をしているのはこの一首があるだけで、歌人としての憶良を見る上では、この歌は「貧窮問答」と相並ぷ代表作と目すべきものである。
この歌の詠み方で注意されることは、長歌の定型となっていた五七の連続を破って、いわゆる破調を用いている個所が、一首中に三か所もある。また、ただこの歌のみにある語として、「横風のにふふかに」「立ちあざり」「容貌つくほり」なども用いられている。憾良がなぜにそうしたことをこのようにまで試みたのかということは、彼の極度に実感を重んじる性情から見て、こうすることが自身の感をより適切に現わし得ることとして行なったごとで、他意あってのことではなかろう。これは文芸的に見れば、五七の連続の繰り返しの単調に陥るのを救ったこととなり、また新語の試用も、歌語の範囲を拡張することになるのであるが、それは憶良の思念以外のことで、事の成行きとしておのずからにそう見られることに立ち到ったのである。第一こうした性質の歌が他の人々から読まれ、文芸品として鑑賞されようと憶良自身思念したと想像することは、ての時代の歌界から見て困難なことと言わなくてはならない。
この歌は制作年代が記してなく、したがっていつの作かは不明である。いま、制作年代の明記ぎれている上の歌とこの歌とを比較すると、作風の上にかなり際やかな相違が見られる。この歌は排列順は最後になっているが、制作したのはかなり以前であったろう。大体憶良の長歌は多弁にすぎるがごとく見られるが、それは取材が知性的のもので、説明を必要とする場合に限ってのことで、純感情を語る時には、反対に簡潔であり、また簡潔であらせようとして飛躍を用いている跡が明らかである。この歌はその純感情的なものであるにもかかわらず、甚しく平面的で、後年の作に見る簡潔と飛躍が認められない。また調べも、憶良の晩年の作に見られる太さと強さがなく、反対に細く低いものである。さらにまた破調、新語なども、晩年の作には憶良的常套が認められるのに、この歌には新味がむしろすぎるほど多く感ぜられているのである。それらの点からこの歌はかなり以前のものと思え、これと晩年の作とを並べて見て、憶良の作風の推移を示している珍しい料という感が起こる。
この歌には憶良の歌文に出勝ちな仏教が、影もさしていない。場合柄ありそうに思えるのに、ないということは注意される。また詠み方が平面的ではあるが、要所要所に際やかな曲折を付け、さながら段を変えたごとくにしている。また語句の照応の上に意を用いていて、技巧上の注意を行き届かせている。これらは「語釈」で触れたから繰り返さない。
反歌
905 稚《わか》ければ 道行《みちゆ》き知《し》らじ 幣《まひ》はせむ 黄泉《したべ》の使《つかひ》 負《お》ひて通《とほ》らせ
和可家礼婆 道行之良士 末比波世武 之多敝乃使 於此弖登保良世
(146)【語釈】○稚ければ道行き知らじ 「稚し」は、古くは、幼い者をも籠めていう語であって、ここはそれである。「道行き」は一語で、死後行くべき冥途への道の行き方で、道案内を知るまい。○幣はせむ 「幣」は贈物で、人に物を頼む時にするものとなっていた。○黄泉の使 「葉泉」は下方で、古来死後に行く国は地下にありとしていた。使は冥途の神の使で、死者を連れに来た者の意で言ったもの。○負ひて通らせ 「負ひて」は、背に負ってで、歩くべきをいたわってすること。「通らせ」は、通れの敬語の命令形。【釈】 幼い者なので、冥途の途の案内を知るまい。贈物はしよう。冥途よりの迎いの使よ、わが子を背に負ってその道を通ってくだされよ。
【評】 熊凝の歌に出ていたように、死後も、現世とは異なった状態での生活があると信じていたので、その上に立っての心である。したがって、子を憐れむ心からの合理的な想像であって、情痴よりの空想とは言えないものである。一首の心細かさも、その憐れみの現われである。長歌と同じく、純粋に感情のみの言で、したがってあわれ深い歌である。
906 布施《ふせ》おきて 吾《われ》は乞《こ》ひ祷《の》む 欺《あざむ》かず 直《ただ》に率去《ゐゆ》きて 天路《あまぢ》知《し》らしめ
布施於吉弖 吾波許此能武 阿射無加受 多太尓率去弖 阿麻治思良之米
【語釈】 ○布施おきて 「布施」は、仏語で、仏や僧に贈る品の称。○吾は乞ひ祷む 神に対していう語で、上に出た。○欺かす直に率去きて 「欺かず」は、路に迷わせず。「ず」は連用形で、迷わせずして。「直に率去きて」は、まっすぐに連れて行って。○天路知らしめ 「天路」は、天へ行く路にも、天そのものにもいう語。ここは天で、死後の霊のとどまる所として言っているもの。「知らしめ」は、命令形で、知らしめよの意。その霊の居るべき所を教えよの意である。
【釈】 布施を差出して我は天つ神に乞い祷む。路に迷わせずして、まっすぐに連れて行って、その居るべき天を知らしめよ。
【評】 この歌は作者が未詳だと編者が言っている。歌の内容は、死後の国に対してある混乱のあったことを示している。「布施」は仏語であるのに、「乞ひ祷む」のは天の神であって、その乞い祷む内容は、「欺かず直に率去きて天路知らしめ」であって、死後に行く国は天上であり、また連れ往くのは天の神である。つい前代までは、死後高天原に往かれるのは、そこを本土とするきわめて高貴の人々に限られていたのに、ここはそれとは見えない。「欺かず」といい、「率去き」と言っているのは、仏説の仏の国のにおいが高い。そうした時代の気分を反映したのだと思われる。達者に、強い調べでは言っているが、死者より身分重い人が半ば儀礼として言ったかの感のある歌である。
(147) 右の一首は、作者いまだ許ならず。但し歌を裁る体、山上の操に似たるを以ちて、此の次《ならび》に載す。
右一首、作者未v詳。但以3裁謌之體、似2於山上之操1、載2此次1焉。
【語釈】 ○歌を裁る 歌を作る。○山上 山上憶良。○操 風調。○似たるを以ちて 編者の意見。
(150) 萬葉集 巻第六概説
一
本巻は、『国歌大観』(九〇七)より(一〇六七)に至る百六十首を収めてあり、歌体としては、長歌二十七首、旋頭歌一首、短歌百三十二首であり、比較的長歌の多い巻である。
部立としては、全巻雑歌であり、際立って多いのは、行幸の際の賀歌、それに準ずべき新京の讃歌、旧都に対しての哀感であり、ついで宴歌、羈旅の歌、惜別の歌、風物といううち月に対しての歌などであり、その他のものはいささかである。雑歌は範囲の広いものであるが、本巻に収められているものは、概していうと、面正しいものばかりである。
二
本巻の編輯は整備したものである。それは歌の排列がすべてその制作年代を逐っており、資料に記載のなかったものは、その事件を考証することによって推定し、左注の形をもって付け加えてあることと、作者もほとんど皆明らかで、これも疑いのある少数のものには、そのことを推定して、同じく左注に付け加えるという方法を取っていることである。
さらに言えば、年代は、巻首の歌は、「養老七年癸亥夏五月、芳野離宮に幸せる時」に始まり、巻末は、「天平十六年」の歌につぐに田辺福暦歌集の歌をもってしているが、これはその歌に扱っている材料によって、年次を推定してのものである。すなわち奈良朝初期より中期にわたっての雑歌ということになる。
また、雑歌としての前後の関係より見ると、巻第一は、奈良宮時代に入ると、僅に一首で終わっており、巻第三は、奈良朝初期の一部分にとどまり、巻第五は、全巻雑歌であるが、これは特殊なものであるから除外するとすれば、時代的には、あるいは重複はもっているが次第にその重点を置く時代を下降せしめて、この巻をもって、奈良朝中期までを、一応纏めた形となっているのである。なお、巻第八も、その一半は雑歌であるが、これは制作年次の代わりに、春夏秋冬の四季によって分類したものであり、その作者は、遠く溯って近江朝より奈良朝中期にわたっての人であって、特殊の分類法によって纏めたものであるから、巻第一を準拠とした本巻の排列法を本流と見れば、これはむしろ拾遺とも見做しうるものである。
本巻の編纂者は、大伴家持であろうと推定されている。その根拠は(九五五−九七〇)に至る十六首は、大伴旅人を中心としての歌群で、旅人が大宰帥として大宰府に在任していた時期より、大納言に任ぜられて奈良の邸に帰ってまでの歌である。旅人の歌は他の巻にも分載されており、巻第五は特別のものと(151)して除外しても、なお巻第三、四、八にもあるが、本巻のものは主立ったものである。問題となるのは、旅人に対する称であって、ここでは旅人を、「帥大伴卿」「大納言大伴卿」の敬称をもってしているのである。この敬称は、本巻には節度使藤原宇合に対して用いている以外にはなく、格別と言いうるものなのである。そういうことをするのは、子の家持以外にはなかろうということを根拠として、編纂者は大伴家持だろうと推定されるのである。
もっとも、この推定には条件が付いている。それは、天皇(聖武)の御製歌一首
妹に恋ひ吾《あが》の松原見わたせば潮干の潟に鶴《たづ》鳴き渡る (一〇三〇)
右の一首、今案ずるに、吾の松原は三重郡にあり。河口の行宮を去ること遠し。若し疑ふらくは朝明《あさけ》の行宮におはしましし時、製《つく》りませる御歌にて、伝ふる者之を誤れる歟。
の左注が問題となるのである。その故は、この御製は、その前の(一〇二九)の大伴家持の歌と同時のものとして扱われており、そちらに歌詞が添っていて、(天平)十二年冬十月、藤原広嗣が反を謀り、軍を発《おこ》したので、天皇は伊勢国に行幸せられ、家持は内舎人として供奉しており、河口の行宮で歌を作っているが、御製はそれに並べられているのである。本巻を家持の編纂とすれば、御製が何処で詠まれたものであるかは、明らかに知っているはずであるから、少なくとも見るがごとき左注は加えなかった訳である。したがってこの左注は、家持が一応の編纂を終わった後、何びとかによって追記されたものであろうと解さなければ、上の推定は成立たなくなるのであって、大体そのように解されているのである。
転じて、本巻の編纂に先立って行なわれた、資料蒐集という点から観ると、内舎人であった大伴家持としては、これらの資料を得るに便宜があり、したがって容易だったろうと思われるもの、また、家持でなくては得がたかったろうと思われるものの多くがあって、そのことも家持編纂説を支持しうることと思われる。
本巻の一半を占めているものは、行幸の供奉をして作った賀歌、またその際に感じた郷愁の歌である。行幸の際は賀歌を献ること、また献らないまでも作ること、またその際個人的に作る郷愁の歌などが、すべて記録されて一まとめのものとなり、宮中に保存されていたらしいことは、巻第一の歌より察しられる。元正、聖武両帝は行辛が少なくなく、本巻を見ても、吉野離宮、紀伊国、難波宮、播磨国印南郡、伊勢国、美濃国、多芸、不破、その他もあり、したがって歌の数も多い。内舎人であった家持が、それらの歌を見たいとの憧れを抱いていたならば、さして困難なく見られたことであろう。また巻中の聖武天皇の御製の歌、また応詔の歌のごときも、同様の経路より知ることを得たろう。さらにまた、田辺福麿の、奈良宮より久邇宮、久邇宮より難波宮へと遷都されるごとに作った讃歌、故京を悲しむ歌は、巻中でも目立つものであるが、その二十一首は、田辺(152)福麿の歌集より抄出したものである。福麿は、家持としては同時代の人であり、歌人としては尊まれていたが、身分は低かったとみえるから、人を介してその歌集を見ることは、困難ではなかったろうと思われる。
大伴旅人を中心としての歌群は、家持としては我が家のものであった。また、大伴坂上郎女の歌は、本巻には多く、その中にはさしたる出来ばえでないものも混じっている。それらは家持以外の人には知り易くないものであったろう。
以上は巻中でも目ぽしいものであって、家持が資料として入手した経路は、ほぼ辿り得らるるもののごとく思われる。編纂者家持説に対して、薄弱には似ているが、支持となりうるものと思われる。
奈良朝初期より中期へかけての雑歌は、すでに巻第三、五に出ており、触れて言っているので、本巻ではいささかを言い添えることとする。
本巻に多い、行幸の際の賀歌は、先例によってすべて長歌形式をもってしているが、それに盛っている思想感情は、これを前朝の柿本人麿のものに較べると、著しく異なっている。人麿のものの主体をなしているのはほとんど信仰と称すべきもので、天皇を遠く仰ぎ見るべきものとして、代えるに離宮をもってしている趣のものであった。しかるにこの朝に移ると、離宮を単に離宮その物となし、風景と融け合って、その中心をなすもののごとくなっている。山部赤人の賀歌の中には、賀の心を述べる長歌よりも、反歌として風景を讃えるもののほうが主のごとくなり、またその風景も、個人的観賞のものとさえなったものがある。信仰が後退し、風景が前進しているのであって、これは独り赤人だけにとどまらず、すべての人を通じての傾向となっているのである。この傾向は、久邇宮の新京を讃える歌には一段と明らかで、巻第一(五二)「藤原宮の御井の歌」に見られるごとき信仰は拭うがごとく失せている。時代の生活感情がそうならしめたものと思われる。
しかし、個々人の日常生活に対しての信仰は衰えてはいない。(九七一)「藤原宇合卿の西海道節度使に遣さるる時、高橋連虫麿の作れる歌」は、宇合の旅の無事を祝って、情熱を傾けて作ったすぐれたものであり、また同じ時に、(九七三)「天皇(聖武)酒を節度使の卿等に賜へる御歌」は、同じく祝いの御心のものであって、これは集中でも注意される特殊のものである。(九八八)「市原王、宴に父安貴王を祷ぐ歌」は、寿を祝うもの、(九八九)「勝原王の打酒の歌」は、酒を清める心のもので、いずれも信仰の範囲のものであり、時代的に見て軽からぬ調べをもったものである。
本巻は長歌が多く、その理由は、行幸の際の賀歌が多いからであることはすでに言ったが、そればかりではなく、他に今一つの理由がある。それは人々に、心の委曲を尽くして言おうとする要求が起こっていたからで、その事に堪える人は、進んでそれを試みようとしていたからであると思われる。これは巻第(153)五、大伴旅人の連作、山上憶良の長歌についてすでに言ったことであって、本巻でも、上に言った高橋虫麿の長歌、また、田辺福麿の(一〇四七)「寧楽の故郷を悲しみて作れる歌」などは、そのことを示しているものといえる。これらはいずれも、事に即しつつ、心というよりは、むしろ気分までも現わそうとしているような歌で、散文的表現の一歩手前のものと見られるものである。
また本巻には月の歌が多い。風物として他の物はなく、月があるだけであるから、この当時新しい題材で、また流行したものかと思われる。従来も月の歌がなくはなく、中には美観として作ったものもあるが、多くは、女が男を待つ夜、時刻の移りを見るものとするか、夜道をする頼りのものとしての歌であった。それが本巻では、美観の対象としてのものとなりきっている。前代は早寝早起きが常となっており、必要なく夜更かしをすることはなかったと見えるのに、奈良朝中期には、夜を享楽の時として楽しく更かす風が起こって来たその反映と解される。また月を月読命として崇めることは、深くは浸潤しなかったかとも思われるが、本巻では、可隣な愛すべきものとし、(九八三)の注によると、月の別名を「ささらえ壮士《をとこ》」と称し、愛すべき少男に擬していたことが知られる。時代の生活感情によって歌風の移って来た跡を示していることである。
(一〇一九−一〇二三)は、石上乙麿が、宮中の女官を姦した罪で、土佐国に流された時のもので、長歌三首より成っており、前二首は、時の人の乙麿を隣れんだ心のものであり、後の一首は、乙麿が悲しみつつも罪を畏んだ心のものであって、三首で一つの物語を展開させているものである。伝統の久しい形式であるが、謡い物の匂いのあるもので、歌の散文的傾向を示している点で、時代の好尚に繋がりをもったものといえる。
本巻の雑歌の感味を総括して言えば、前代の人々のもっていた、生活に対しての深い熱意ある欲求が衰え、単に眼に見る美観に心惹かれたものとなり、明るく軽い貴族的なものとなっている。さすがに生活から遊離させてはいないので、新たなる文芸的香気のあるものとはしている。これは屡述したように、時代の生活感情に従わせられてのことといえる。
(160) 雑歌
養老七年癸亥夏五月、芳野|離宮《とつみや》に幸《いでま》せる時、笠朝臣金村の作れる歌一首并に短歌
【題意】 続日本紀、元正紀に、この行幸のことは載っており、「養老七年夏五月癸酉(九日)行2幸芳野宮1。丁丑(十三日)車駕還v宮」とある。金村は行幸の供奉に加わっており、賀歌として作ったのである。金村は、巻二(二三二)左注を初めとしてしばしば出た。
907 滝《たぎ》の上《へ》の 御舟《みふね》の山《やま》に 水枝《みづえ》さし しじに生《お》ひたる 栂《つが》の樹《き》の いや継《つ》ぎ嗣《つ》ぎに 万代《よろづよ》に かくし知《し》らさむ 三芳野《みよしの》の 蜻蛉《あきづ》の宮《みや》は 神柄《かむから》か 貴《たふと》かるらむ 国柄《くにから》か 見《み》が欲《ほ》しからむ 山川《やまかは》を 清《きよ》み清《さや》けみ 諾《うべ》し神代《かみよ》ゆ 定《さだ》めけらしも
瀧上之 御舟乃山尓 水枝指 四時尓生有 刀我乃樹能 弥繼嗣尓 萬代 如是二二知三 三芳野之 蜻蛉乃宮者 神柄香 貴將有 國柄鹿 見欲將有 山川乎 清々 諾之神代從 定家良思母
【語釈】 ○滝の上の御舟の山に 「滝」は、吉野川の一区域の名称で、巻一(三六)、人麿の「滝の宮処《みやこ》」と称している所である。事としては吉野川の流れが岩に激して、激流となっている所で、滝はそうした所の総称で、名詞。「上」は、ほとりの意のもの。「御舟の山」は、吉野郡吉野町中荘字樋口の東南、菜摘の東南方にある山。今もその名をとどめている。集中他にも、また『懐風藻』にも出ている。○水枝さししじに生ひたる 「水枝」は、「瑞枝」で、瑞はみずみずしく、生々《いきいき》としている意。瑞枝は瑞穂と同系の語。ここは題詞の「五月」の若葉した状態を讃えたもの。「さし」は、枝を出している意。「しじに」は、繁くで、ここは木立の多い意。○栂の樹のいや継ぎ嗣ぎに 「栂《とが》」は、栂《つが》とも呼んでいる常磐木で、巻一(二九)に出た。諸本異同がないので、この時代には転じて「とが」と呼んでいたとみえる。最初よりここまでは、離宮との関係において、栂の木の若々しくまた強い状態をいって、それをもって賀の心を暗示したものであるが、同時に他方では、「栂」と「継ぎ」とその音の近似しているところから、全体を「継ぎ」の序詞ともしているものである。音が近似しているとは言え、その程度が少なく、強いたところのあるものである。これは、「樛の木のいやつぎつぎに」は人麿の句であり、すでに名高く、成句のようになっていたので、それにより懸って、この強いたことをして(161)いるものと解される。「いや継ぎ嗣ぎに」は、ますます御代を重ね重ねしてで、将来をいったもの。○万代にかくし知らさむ 「万代」は、万年で、永久ということを具象的にいったもの。「かく」は、現在見るごとく。「二二知三」は、旧訓「ににしらみ」で、訓み難くしたのを、『代匠記』が今のごとく改めたもの。「二二」は、算数の九九からの戯書で、「四」すなわち「し」で、強めの助詞。これは「二五《とを》」「十六《しし》」「八十一《くく》」などと同系のものである。「知らさ」は、「知らす」の未然形。統治の意の「知る」の敬語。「三」も、上の「二二」の関係で用いた用字と取れる。〇三芳野の蜻蛉の宮は 「三」も、上に関係させた用字。「蜻蛉の宮」は、蜻蛉野にある宮の意で、離宮をその所在の地名によって呼んだもので、これは型となっていた呼び方である。「蜻蛉」は、巻一(三六)「花散らふ秋津の野辺に」と出、離宮のあった所の一帯の地名である。○神柄か貴かるらむ 「神柄」は、下の「国柄」と対させて言ったもので、同じ心の繰り返しとなっているものである。上代信仰として、この国土は神の生み給いし御子であって、国土であるとともに神であると信じていた。巻二(二二〇)で、人麿は讃岐国を讃え、「玉藻よし讃岐の国は 国柄か見れども飽かぬ 神柄かここだ貴き 天地日月と共に 満《た》りゆかむ神の御面《みおも》」と言っており、この事は他にもある。「神柄」は、吉野国であるところの神の意のもの。「柄」は、家柄、人柄と続けるその柄と同じ意で、ここは神に続けたもの。神の位というにあたる。「か」は、疑問。神の位が貴くある為であろうか。○国柄か見が欲しからむ 「国柄」の「国」は、古くは一劃の狭い土地をいうに用いた称で、ここはそれである。「見が欲し」は、見ることを欲しいで、見たいという意をあらわした語。土地が見たいと思わせるのであろうかで、上の二句と対句として、吉野という所を好い土地として、古の御代に離宮をお造りになられたことを、敬意からわざと疑問の形にして言ったもの。○山川を津み清けみ 「山川」は、山と川で、山は主として御舟の山。河は吉野川。「清み清けみ」は、原文「清々」。旧訓「さやけくすめり」。「すめり」で終止形にすることをあたらずとして、諸注改訓を試みている。『代匠記』は、「さやにさやけみ」または「すがすがしみ」かと言い、『童蒙抄』は、「きよくきよく」または「きよくさやかに」としている。『考』『略解』『古義』は、いずれも上の「滑」を誤字だとして、改めての上で訓を施しているが、文字は諸本異同のないものである。今の訓は『全釈』のものである。巻一(五)「むら肝の心を痛み」、(六)「山越しの風を時じみ」を初め、「……を……み」という形は集中に多いものである。ここもそれであり、山が清く河が清《さや》かなのでの意。これは、自身の感覚を通しての意。○諾し神代ゆ定めけらしも 「諾し」は、「諾」は、承認する意の副詞で、成程というにあたる。「し」は、強め。「神代」は、遠い古という意を具象化して言ったもの。離宮のことは、巻一(三六)で言った。その初めは明らかではなく、応神天皇の御代ではないかと想像されている。「ゆ」は「より」。「定め」は、離宮の位置を言ったもの。「らし」は、眼前を証としての強い推量で、離宮を目に見ていることをあらわしたもの。「も」は、詠歎。
【釈】 滝のあたりの御舟の山に、今、瑞枝《みづえ》を張って繁くも生い立っている栂《とが》の木の、その栂というにゆかりのある、ますますも御代を継ぎ嗣ぎに御統治になってゆくだろうところのみ芳野の蜻蛉の宮は、ここの土地であられるところの神の位が貴い為であろうか、神であるところの土地の位が見たく思わせる為であろうか、我が見ても山が清く、河が清《さや》かであるので、なるほど、遠い古の御代から、ここに離宮をかくお定めになったのであろうよ。
【評】 天皇に賀歌を献ずることは、詔があって歌を献ずる折はもとより、行幸など適当な機会があれば、その事に堪える臣下の進んでしていたこととみえる。天皇に献ずる賀歌については、巻一(三六)「吉野宮に幸しし時、柿本朝臣人麿の作れる歌」に(162)ついて言ったが、わが国のものは中国のそれと明らかに異なっており、帝王の統治者としての徳を讃えるということは、恐れあり憚りあることとして避けて触れず、ただ御稜威の限りなさを讃えることに終始しているのである。上にいった人麿の歌にしても、場合柄、冒頭に吉野の風景の美をいい、結末に賀詞を添えているが、中心をなしているのは、大宮人、山の神、河の神の相競って天皇に奉仕していることを言っているのであって、それがすなわち御稜威の限りなさなのである。しかるにこの金村の賀歌は、その中心をなしているものは、「神柄か貴かるらむ 国柄か見が欲しからむ 山川を清み清けみ 諾し」というのであって、全く吉野の風景の讃美である。冒頭と結末とは相応じて、蜻蛉の宮の神代より定められたことを言っているものであるが、その定められたのは、中心をなしている吉野の風景の美の為だとしているのであって、全首風景の讃美なのである。人麿が持統天皇に賀歌を献じた時とこの時とは、年代としては幾何の距離もないのであるが、その短い間に、人麿が皇室に対してもった信仰は著しく後退し、ここには天皇の御稜威に対しては触れるところがなく、代わって風景の讃実のみとなって来たのである。この歌は金村の個人的のものではなく、改まっての賀歌であり、また人麿の歌の影響も思はせられるものであるのに、このように急角度に変わっているということは、時代の趨勢がこれでなくてはならなくなってゐた為と思われる。一首の詠風が平面的で、平静な感激のないものとなっているのは、その内容との関係からとはみられるが、同時に時代的好尚の反映であり、むしろそれが主であろうと思われる。
反歌二首
【解】 「二首」は、寛永本にないが、元暦本、外四本にある。
(163)908 毎年《としのは》に かくも見《み》てしか み吉野《よしの》の 清《きよ》き河内《かふち》の たぎつ白波《しらなみ》
毎年 如是裳見壯鹿 三吉野乃 清河内之 多藝津白波
【語釈】 ○毎年にかくも見てしか 「毎年に」は、年ごとにの意の語で、ここは自身に即して、末長くということを具体的に言ったもの。「かくも」は、「も」は、詠歎。このようにで、現に自分のしていることを、綜合的に言ったもの。「てしか」は、願望の助詞。巻五(八〇六)に出た。見たいものである。○み吉野の清き河内の 「河内」は、巻一(三九)「山川もよりて奉《つか》ふる神《かむ》ながらたぎつ河内に船出せすかも」について言った。通説としては、河の湾曲した所、河の行き繞っている所の称とされているが、その歌でも、またこの歌でも、河の流れそのものの内という意に解さないと意の通じないものとなる。ここは、下の「白波」の立つ場所として言っているからである。また「清き」という修飾の語も、流れそのものに対して言ったものと見て生きて来るもので、土地に対してのものと見ては、適当を欠いた語と見られるからである。「河内」は二義をもった語であったと解される。○たぎつ白波 沸きかえる白波よと、詠歎を籠めたもの。
【釈】 年ごとに、今のように見たいものである。み吉野の清い流れの内に沸き立っている白波よ。
【評】 「毎年にかくも見てしか」は、自分に即させながら離宮との永遠の繋がりにおいて言っているもので、賀の心のあるものである。「清き河内のたぎつ白波」は、「滝」を捉え、その美景を言うことによって吉野川の美を具象化したものである。一首、実際に即して、賀の心と吉野の美とを綜合的に言い得たもので、長歌の精神を圧搾していっている形のものである。長歌にないところの躍動と生趣とをもち得ている歌である。金村は優に長歌の作れる人であるが、しかし多くは上の歌のように平面的になり、あるいは散文的になって、その趣を発揮し得ているものは少ない。それに較べると短歌は、自在で、要を得ていて、出来ばえの好い物が少なくない。これはその好い物の一例となりうるものである。
909 山《やま》高《たか》み 白木綿花《しらゆふばな》に 落《お》ちたぎつ 滝《たぎ》の河内《かふち》は 見《み》れど飽《あ》かぬかも
山高三 白木綿花 落多藝追 瀧之河内者 雖見不飽香聞
【語釈】 ○山高み白木綿花に 「山高み」は、山が高いのでで、吉野川の流れている地盤の状態を言ったもの。それは、地盤が高いと、流れがおのずから滝となるので、滝の原因として言っているのである。「白木綿花」は、巻二(一九九)「木綿花の栄ゆる時に」に出た。「木綿」は、穀《かじ》すなわち杼栲で、その皮より取った繊維。その白いところから「白」を添えたのである。その繊維で造った花で、何に用いた物であるかは明らかでない。(164)後の平安朝に、男踏歌《おとことうか》の時、頭に綿を被《かず》いたことから推して、神事に用いられたものではないかという。「に」は、その状態をあらわす語で、「と」にあたり、のごとくの意である。○落ちたぎつ滝の河内は 「落ち」は、水が高きより流れ落つる意。「たぎつ」は、沸きかえるで、連体形で、下へ続く。「滝の河内」は、「河内」は上の歌と同じく、滝となっているその流れの内の意。「は」は、差別して取り立てた意。○見れど飽かぬかも いくら見ても飽かないことであるよで、当時、絶讃の意で用いられていた語。「かも」は、詠歎。
【釈】 河の地盤となっている山が高いので、白木綿花の状態に流れ落ちて沸きかえる、この滝の流れの所は、いくら見ても飽かないことであるよ。
【評】 上の歌の「たぎつ白波」だけを承けて、繰り返し讃えたものである。すなわち賀の心から離れて、風景に寄ってゆく心だけを高潮させたのである。「山高み」は、「落ちたぎつ」ことを強めようとしてのものであるが、一首の上からいうと、その状態の起こる理由を説明した跡を見せているものである。「白木綿花に」は、たぎつ状態の譬喩であるが、その為に強く具象化されているところがあり、これは効果的である。「見れど飽かぬかも」は、対象が動的なものであるが為に、妥当に感じられる。しかし、全体として見ると、この歌は、上の歌の持っているだけの綜合力が働いていず、その為説明的気分の伴ったものとなって、思い入った形をもって詠んではいるが、感の稀薄なものとなっている。散文的な気分が伴ったが為である。
或本の反歌に曰く
【解】 或本には、反歌が全部異なっているので、それを挙げたのである。
910 神柄《かむから》か 見《み》が欲《ほ》しからむ み吉野《よしの》の 滝《たぎ》の河内《かふち》は 見《み》れど飽《あ》かぬかも
神柄加 見欲賀藍 三吉野乃 瀧乃河内者 雖見不飽鴨
【語釈】 ○神柄か見が欲しからむ 長歌の「神柄か貴かるらむ 国柄か見が欲しからむ」を繰り返したものであるが、「貴かるらむ」を捨てて「見が欲しからむ」を取っているのは、風景の美ということを高潮させようとしてのことである。この境となられている神の位の、かく見たく思わせるのであろうかというので、その境は、長歌では「国」であったのを、ここでは「滝の河内」としている。すなわちそこの佳景を神自体と見たのである。○滝の河内は 西本願寺本、寛永本「滝河内者」、元暦本、外六本、「滝」の下に「乃」または「之」がある。上の二首と同じく「河内」は、流れそのものである。
【釈】 ここの境となっていられる神の位の、かく見たいと思わせることであろうか。み吉野の、ここの滝の流れの内は、いくら(165)見ても飽かないことであるよ。
【評】 「神柄か見が欲しからむ」は、長歌との関係において自然になっている語であって、独立しての歌としては、おそらくは当時にあっても強いるところのあったものと思われる。その意味で、反歌としての条件を具えた語である。しかしこの語には賀の心はなく、結句の「見れど飽かぬかも」と照応して、「滝の河内」の光景を絶讃しただけのものである。すなわち反歌としては時代色の濃厚なものである。この歌は、躍動の味わいはもっていないが、思い入りの深さをもっているもので、綜合性の働いている、前の反歌の第一首目に対しうるものである。「或本」とはいうが、伝唱の結果、小異を生じたという性質のものではなく、金村が後になって、反歌だけを新たに詠み変えたので、「或本」のほうはそれが伝わっていたのかと思われる。このことは、以下の二首も同様である。
911 み吉野《よしの》の 秋津《あきづ》の川《かは》の 万世《よろづよ》に 絶《た》ゆること無《な》く また還《》かへり見《み》む
三芳野之 秋津乃川之 万世尓 斷事無 又還將見
【語釈】 ○み吉野の秋津の川の 「秋津の川」は、「秋津」は上に出た「蜻蛉の宮」の所在地で秋津の野。「川」は、そこを流れている川で、すなわち吉野川。これは上に「み吉野」とあるがゆえに言いかえたものとも取れ、また、その土地の者は吉野川をそのように呼んでいたが為とも取れるのであるが、主なる意図は、吉野川をそう言いかえることによって、「滝」を暗示しようとした為と取れる。「の」は、のごとくの意のもの。○万世に絶ゆること無く 「万世」は、万年で、永久の意を具象したもの。「絶ゆること無く」は、中絶することなく。○また還り見む またまた立ち還って来て見ようで、その見ようとするものは、譬喩としている秋津の川である。
【釈】 み吉野の秋津の川のごとくにも、永久にわたって中絶することなく、我はまたまた立ち還ってこの川の佳景を見よう。
【評】 上の歌を承けて、吉野川の佳景を讃えたものである。形は単純であるが、その単純は、技巧を用いて複雑味を持たせたもので、それがこの歌の特色をなしている。「み吉野の秋津の川」は、「万世に断ゆること無く」の譬喩になっているのであるが、「又還り見む」との関係において、その対象となり、主語となっているものである。「万世に絶ゆること無く」は、自身のことを言っているもので、「万世に」という語は、誇張に過ぎた、妥当を欠いたものである。しかし「秋津の川の」に続いている関係上、川の流れを言っているもののごとく感じられ、それによって妥当感をもたせられもするものである。この際どい言い方をしているのは、秋津の川に対する強い憧れを、これによって具象しようが為である。「又還り見む」は、巻一(三七)「吉野宮に幸しし時」の人麿の賀歌の反歌の結句と同じである。人麿がそれを言っているのは離宮に対してであるのに、金村は吉(166)野川の風景に対して言っているので、これはまさしく時代の推移を示しているものである。吉野川を「秋津の川」と言い、それによって「滝」を暗示したのも技巧である。これらの技巧は、感性の細かさというよりも、むしろ細心な工夫によるもので、そこに時代の反映の見られるものである。
912 泊瀬女《はつせめ》の 造《つく》る木綿花《ゆふばな》 み吉野《よしの》の 滝《たぎ》の水沫《みなわ》に 開《さ》きにけらずや
泊瀬女 造木綿花 三吉野 瀧乃水沫 開來受屋
【語釈】 ○泊瀬女の造る木綿花 「泊瀬女」は、泊瀬の女の意で、大和女《やまとめ》、河内女《こうちめ》など同系の語の多いものである。「造る木綿花」は、前に言った。木綿花は泊瀬女の手工品であったことが知られる。○滝の水沫に 「水沫に」の「に」は、(九〇九)の「白木綿花に」の「に」と同じく、その状態に。○開きにけらすや 旧訓「さききたらずや」。『代匠記』の訓。「けら」は、助動詞「けり」の未然形。「ず」は打消。「や」は反語。咲いているではないかの意。駕き怪しんで言った形のもの。
【釈】 泊瀬の女の造るところの木綿花が、吉野川の滝の水沫と咲いているではないか。
【評】 これも「滝の河内」を讃えたものであるが、これは「滝の水沫」の美しさの第一印象を言ったもので、長歌とは全然つながりをもたず、独立した趣のあるものである。「泊瀬女の造る木綿花」は、事としては「水沫」の譬喩であるが、詠み出した上では反対に、「水沫」のほうが「木綿花」となっているのである。しかもその「木綿花」は、「泊瀬女の造る」を添えていることによって印象の強いものとしているので、「開きにけらずや」という驚き怪しんだことが自然なものとなっている。一首、感性のみで終始させているので、誇張が自然なものとなり、調べが躍動して来て、以上五首中の傑出したものとなっている。
車持朝臣|千年《ちとせ》の作れる歌一首 并に短歌
【題意】 「千年」は、統日本紀に見えず、伝不明である。
913 味織《うまごり》 あやにともしく 鳴神《なるかみ》の 音《おと》のみ聞《き》きし み吉野《よしの》の 真木《まき》立《た》つ山《やま》ゆ 見降《みおろ》せば 川《かは》の瀬《せ》毎《ごと》に 明来《あけく》れば 朝霧《あさぎり》立《た》ち 夕《ゆふ》されば かはづ鳴《な》くなへ 紐《ひも》解《と》かぬ 旅《たび》にしあれば (167)吾《あ》のみして 清《きよ》き川原《かはら》を 見《み》らくし惜《を》しも
味凍 綾丹乏敷 鳴神乃 音耳聞師 三芳野之 眞木立山湯 見降者 川之瀬毎 開來者 朝霧立 夕去者 川津鳴奈拜 紐不解 客尓之有者 吾耳爲而 清川原乎 見良久之惜蒙
【語釈】 ○味織あやにともしく 巻二(一六二)に出た。「味織」は、立派な織物で、綾と続き、それを副詞の「あや」に転じて、その枕詞としたもの。「あやに」は、譬えようもなく。「ともしく」は、羨ましくで、ここは吉野の佳景に対しての憧れをあらわしたもので、なつかしくというにあたる。○鳴の音のみ聞きし 「鳴神の」は、雷神ので、意味で「音」にかかる枕詞。「音」は、評判で、同じく吉野の佳景に対してのもの。「のみ」は、ばかり。評判だけを聞いていた。○み吉野の真木立つ山ゆ 「み吉野」は、上の全部を修飾としてのもので、そのみ吉野の意のもの。「真木」は、「真」は美称で、立派な木の総称。その代表として檜を言っている例が多い。「山」は反歌で、「み船の山」とわかる。標高四八七米あり、その辺りの高山である。「ゆ」は、より。○見降せば川の瀬毎に 「川」は、吉野川。「瀬」は、淵に対してのもので、流れの早い所。「毎に」は、瀬のそれぞれにという意ではなく、高所より見降してのことであるから、流れの全体が目に入る、その全体という意をあらわそうとしてのものと取れる。すなわち強めの意のもの。○明来れば朝霧立ち 佳景として言ったもので、それとともに次の「夕されば」に対させたもの。○夕さればかはづ鳴くなへ 「夕されば」は、夕方が来ればで、物音の高く聞こえる時刻。「かはづ」は、河鹿で、初夏よりのもの。清流に棲んで鳴く。細く澄んだ声で、心に沁みるものがある。「鳴くなへ」は西本願寺本など流布本「鳴奈辨詳」。「辨」は、元暦本、外五本「拝」。「詳」は、元暦本、外五本はない。『新訓』は、「鳴奈拝」とし、今のごとく訓んでいる。「なへ」は、とともにというにあたり、二事が同時に行なわれることを示す副詞。ここは、「見降せば」「朝霧立ち」「かはづ鳴く」とともにの意である。○紐解かぬ旅にしあれば 「紐解かぬ」は、夜、寝るに、衣の紐を解かない意で、家に在って妻と寝る時の状態に対させたもの。油断をしない心よりのこと。「旅にし」の「し」は、強め。○吾のみして 「吾のみ」は、吾一人だけで、すなわち妻がいずに。「して」は、在りて。○清き川原を見らくし惜しも 「清き川原」は、吉野川を総括して言ったもの。「清き」は、朝霧、河鹿などを、清しと感じて言ったもの。「見らく」は、「見る」を名詞形としたもので、見ること。「し」は強め。「惜しも」の「惜し」は、妻に見せ聞かせないことに対しての心残り。「も」は、詠歎。
【釈】 何と言いようもなくなつかしく、ただ評判にだけ聞いていた吉野の、この真木の立っている山から見おろすと、吉野川の川瀬の全体にわたり、夜が明けて来れば朝霧が立ち、夕方になれば河鹿が鳴くので、それらを見たり聞いたりするとともに、衣の紐も解かずまろ寝をして、旅なので、吾一人だけいて、この清い河原を見るということは、残念なことであるよ。
【評】 吉野の風景に対して限りなき憧れをもってい、親しくそれを限にする機会を得ると、吉野川の清らかさに満足し、それとともに、その佳景を妻にも見せられないのを残念に思うというのてある。歌としては羈旅の範囲のものであるが、いわゆる旅愁には触れていず、それとしては楽観的なものであり、その楽観の原因が自然の佳景にあるという点は、この時代の特質で(168)ある。また、妻をいうに、きわめて婉曲であり、ほとんど暗示にとどめて、反歌によってやや明らかにしているのは、この歌の特色である。詠み方としては常凡であるが、真実性があって、それによって生かされているのは、作者の人柄である。この歌には左注があって、或本には前の歌と同じく養老七年行幸の際のものだと言っているのに、撰者はそれに疑いを残して作の年月は審《つまびら》かでないと言っている。行幸の供奉に加わっての歌とすると、賀の心のあるのが普通であろうが、それは供奉の者を代表して申すものであろうから、千年の歌名がそこまで至っていなければ、ないのも怪しむには足らず、また個人的のものとして詠めば、このような歌になったとしても、これまた怪しむには足りないことである。しかしこの歌の、「真木立つ山ゆ見降せば」というのは、歌柄から見て、展望をする為に山に登ったものとは定められず、また反歌で見ると、その山は高い「み船の山」であり、そこに逗留していたとみえるから、果たして行幸の供奉としてであったかどうかを疑わしめるところがある。何らかの官命を帯びて、み船の山に逗留していた時の作かも知れぬ。妻の上を言うのを憚るのも、身分が低く、官命を帯びての場合であれば、自然のことと言える。撰者の疑いを持つのも当然のことに思える。
反歌一首
914 滝《たぎ》の上《うへ》の み船《ふね》の山《やま》は 畏《かしこ》けど 思《おも》ひ忘《わす》るる 時《とき》も日《ひ》もなし
瀧上乃 三船之山者 雖畏 思忘 時毛日毛無
【語釈】 ○滝の上のみ船の山は 上の歌に出た。○畏けど 後世の「畏けれど」にあたる古格。これは上よりの続きで見れば、恐ろしいけれどもというので、山そのものに対しての感じを直写したものと取れる。山を神とする信仰は一般にあったので、その神に対しての感ということもありうるものであるが、ここはそれに触れてのものとは思えない。○思ひ忘るる時も日もなし 「思ひ忘るる」は、家にある妻に対しての心で、ここもまた省いてある。「時も日もなし」は、逗留の日のやや久しいことをあらわしている言い方。
【釈】 滝のあたりのこのみ船の山は恐ろしいけれども、我はそれにも紛れず、家にある妻を忘れる時とても日とてもない。
【評】 み船の山中に逗留していての感と取れる。山中が恐ろしいので、ますます妻を思わせられるのであるが、その恐ろしさ
に圧倒されないのを怪しむごとくに言い、それも妻を思う心の深さからだとしているので、人柄をあらわした作である。
或本の反歌に曰く
(169)915 千鳥《ちどり》鳴《な》く み吉野川《よしのがは》の 川音《かはおと》の 止《や》む時《とき》なしに 思《おも》ほゆる公《きみ》
千鳥鳴 三吉野川之 川音 止時梨二 所思公
【語釈】 ○千鳥鳴くみ吉野川の 「千鳥鳴く」は、長歌の「かはづ」を展開させたもの。み吉野川の修飾。○川音の 元暦本、西本願寺本など「音成」。金沢本、外三本、「音」の上に「川」があり、また成」は、金沢本、外一本にはない。「の」は、のごとくの意のもので 初句よりこれまでは止む時なし」の譬喩。○止む時なしに思ほゆる公 「公」は、長歌との関係から、妹を指しているものと取れる。妹を「君」と称するのは、古くはなく、この時代頃から稀れに見えるものである。これもそれである。下に詠歎が籠められている。
【釈】 千鳥の鳴く吉野川の川音のやまないごとく、我もやむ時もなく思われるところの妹よ。
【評】 その人柄のもつ感傷気分が、調べとなって現われ、訴へる力をもったものとなっている歌である。
916 茜《あかね》刺《さ》す 日《ひ》並《なら》べなくに 吾《わ》が恋《こひ》は 吉野《よしの》の川《かは》の 霧《きり》に立《たち》ちつつ
茜刺 日不並二 吾戀 吉野之河乃 霧丹立乍
【語釈】 ○茜刺す日並べなくに 「茜刺す」は、赤色を発するで、意味で日にかかる枕詞。「日並べ」は、日を連ね。「なく」は、打消「ず」の名詞形。○吾が恋は 「恋」は、憧れで、ここは上よりの続きで、妻に対してのもの。○霧に立ちつつ 「霧に」は、「霧」は、憧れの苦しさから吐《つ》く溜息の、霧に似ているところから捉えたもの。用例の多いものである。「に」は、の状態に。「立ち」は、目の前に立つ意。「つつ」は、継続。
【釈】 旅の日を重ねているというのではないのに、妻に対する我が憧れの溜息は、吉野の川の霧の状態に立ち立ちして。
【評】 恋または嘆きの溜息を霧に譬えることは慣用されていたもので、すでに出た。ここではそれを、現在いる吉野川の川霧に較べたところに特色があると言える。この歌は、これまでのものと異なって、激しい恋を言っているのであり、調子も強いものであるが、一首の歌としてもつ力は、最も弱いものとなっている。類歌によるところが多い為である。新風を詠もうとしていた消息に触れうるものと言える。この二首は、前の反歌に較べると、技巧は加わっているが、味わいとしては劣ったものである。時を置いて新たに作った故と思われる。その点、上の金村と同じである。結果はとにかく、作者の歌に対する執着を示しているものである。
(170) 右、年月審かならず、但、歌の類を以つてこの次《ならび》に載す。
或本に云ふ、養老七年五月、芳野離宮に幸せる時の作。
右、年月不v審、但、以2謌類1載2於此次1焉。
或本云、蕃老七年五月、幸2干芳野離宮1之時作。
【解】 撰者としての用意を語ったものである。この注によって、千年の歌も、「或本」というがごとく広く伝わっていたことが知られる。
神亀元年甲子冬十月五日、紀伊国に幸せる時、山部宿禰赤人の作れる歌一首 并に短歌
【題意】 続日本紀、聖武紀に、「神亀元年冬十月丁亥朔辛卯、天皇幸2紀伊国1。癸巳、行至2紀伊国那賀郡玉垣|勾《まがりの》頓官1。甲午、至2海部《あまべ》郡玉津島頓宮1。留十有余日。戊成、造2離宮於岡東1。壬寅。又詔曰、登v山望v海、此間最好。不v労2遠行1足2以遊覧1。故改2弱浜《わかのはまの》名1為2明光《あかてりの》浦1、宜下置2守戸1勿上v令2荒穢1。春秋二時、差2遣官人1|奠2祭《まつる》玉津島之神、明光浦之|霊《みたま》1。云々」とある。赤人のこの歌は、その行幸の供奉の中に加わっていて作ったものと思われる。この事については左注がある。
917 やすみしし わご大王《おほきみ》の 常宮《とこみや》と 仕《つか》へまつれる 雑賀野《さひがの》ゆ 背向《そがひ》に見《み》ゆる 奥《おき》つ島《しま》 清《きよ》き渚《なぎさ》に 風《かぜ》吹《ふ》けば 白浪《しらなみ》騒《さわ》き 潮《しほ》干《ひ》れば 玉藻《たまも》苅《か》りつつ 神代《かみよ》より しかぞ尊《たふと》き 玉津島山《たまつしまやま》
安見知之 和期大王之 常宮等 仕奉流 左日鹿野由 背ヒ尓所見 奥嶋 清波瀲尓 風吹者 白浪左和伎 潮干者 玉藻苅管 神代從 然曾尊吉 玉津嶋夜麻
【語釈】 ○やすみししわご大王の 「やすみしし」は、天皇、次いでは皇太子、皇子に対する讃え詞。「わご」は、「わが」の転音で、既出。○常宮と仕へまつれる 「常宮」は、「常」は永久の意のもので、永久の宮。事実としてはしばらくの間の頓宮にすぎぬのであるが、尊んで申す称。「と」は、として。「仕へまつれる」は、御奉仕申し上げるで、意味の広い語である。大宮を御造営申すこともあらわしうる語であるが、ここは供奉としての日夜の奉仕である。○雑賀野ゆ背向に見ゆる 「雑賀野」は、「雑賀」という地名は残っており、和歌山市和歌浦町西北方にあたる地である。(171)「野」は、雑賀を籠めての野。「ゆ」は、より。ここに地名を言っているのは、大宮を申すには、その在る地をいうのがことを鄭重にすることで、礼であるとともに、以下言わんとしていることは、赤人自身のことであるから、宮を避けて言うべきでもあって、かたがた必要なものである。「背向」は、背向《そむか》いの転、背《そ》は背後《うしろ》である。頓宮より和歌浦は東南方にあたっているので、この「背向」は大宮を標準として、広い意味で言っているものと取れる。○奥つ島清き渚に 「奥つ島」は、沖の島で、下にいう玉津島である。今は玉津島は陸地続きとなっているが、当時は沖の島であって、地勢が変わったのである。「清き渚」は、奥つ島の渚で、今も海水のきわめて清らかである。○風吹けば白浪騒き 下の二句と対句となっており、「苅りつつ」の「つつ」がこれにも関係させてあって、永遠にわたって繰り返している状態として言っているもの。○潮干れば玉藻苅りつつ 「潮干れば」は、干潮の時刻が来れば。「玉藻」は、藻を讃えての称。「苅りつつ」は、「苅り」は、海人《あま》がその職業として苅っている意。「つつ」は、継続で、上に言ったように、永遠にわたって練り返して行なっていることとしてのもの。以上四句、赤人は眼前の状態となっている風に騒ぐ白浪、干潮の海人の藻苅りのさまに感動し、そのことの永遠性を感じたのである。○神代よりしかぞ尊き玉津鳥山 「神代」は、上を承けてのもので、遠い古という心だけではなく、神のこの地を産み給いし時の意で言っているもの。「しか」は、当時は、「かく」と通じて用いていた。これもそれで、このように。「尊き」は、風景に対して讃えた語であるが、その愛でたさの限りないのに、上の「神代」を絡ませ、「尊き」という語をもって讃えたのである。感性だけの語ではなく、信仰の伴ったものである。「尊き」は、上の「ぞ」の結で、連体形として下へ続く。「玉津島山」は、和歌山市和歌浦の玉津島神社のうしろにある奠供《てんぐ》山などの山々。「島山」は、島は陸より見ると山に見えるところから言い馴らしている語。下に詠歎が含められている。
【釈】 安らかに天下を御支配になられる我が大君の、永久の宮としてお仕え申しているところの、この雑賀野から背面に見られる、あの沖の島の清い渚には、風が吹くと白浪が騒ぎ、潮が干ると海人が玉藻を苅りつづけて、神代の昔からこのように尊いところのあの玉津島山よ。
【評】 この長歌は、その素材としては、玉津島の愛でたさを讃えることにあるが、その讃え方は、天臭を賀しまつる精神をもってしたもので、自然をとおして賀の心を徹底させたものであ(172)る。起首より「雑賀野ゆ背向に見ゆる」までは、一見作者の位置を言っているもののごとくみえるのであるが、その位置は、すべて大宮を標準としたもので、一語一語、緊密に大宮に関係させているのは、賀の精神からである。それを際立たないものにしているのは、赤人の歌才と用意とである。「奥つ島清き渚に」以下は、玉津島に即しての讃えであるが、その頂点としているのは、「神代よりしかぞ尊き」であり、それに先立ち、「風吹けば白浪騒き 潮干れば玉藻苅りつつ」をもってしているが、この対句は、眼前の光景に永遠性を看取してのもので、その永遠性の由って来たるのは「神代」である。これは我が国初の、二神国産みに対する信仰があって初めて言えるもので、それがなければ看取の出来ないものである。「風吹けば」「潮干れば」と、眼前の光景を叙し、「つつ」の一助詞によってただちに「神代」に繋ぎ行き、客観と主観と、平面と立体とを渾然一体としているところは、卓抜なものというべきである。これは人麿の歌に最も濃厚に現われている精神で、巻三(三〇四)「大王《おほきみ》の遠《とほ》の朝廷《みかど》とあり通ふ島門《しまと》を見れば神代し念ほゆ」はその適例であって、赤人のここの心もその範囲のものである。この歌は短いものではあるが、精神の緊張と、内容の充実と相俟ち、清純な調べをもって自然を生かして来ているところ、赤人の長歌方面を代表しうる一首である。
反歌二首
918 奥《おき》つ島《しま》 荒磯《ありそ》の玉藻《たまも》 潮干《しほひ》満《み》ちて 隠《かく》ろひゆかば 思《おも》ほえむかも
奥鴫 荒礒之玉藻 潮干滿※[人偏+弖] 隱去者 所念武香聞
【語釈】 ○奥つ島荒磯の玉藻 「奥つ島」は、上に出た。「荒磯」は、海岸の岩石の現われ連なっている所の称。「玉藻」は、呼び懸けてのもの。○潮干満ちて 「潮干」は、干潮。「満ちて」は、西本願寺本「満伊」。「伊」は、元暦本、外二本「※[人偏+弖]」となっている。旧訓は、「満」で切って「満ち」、「伊」は下へ続けて「いかくれゆかば」である。『新訓』は、元暦本などに従い、今のごとくに訓んでいる。「い隠れ」という例は、巻一(一七)「山の際《ま》に隠るまで」があるが、赤人のここの歌は、そうした古語を用いて屈折をもたせたものではなく、順直に、平明を期しているものとみえるから、『新訓』に従うべきである。「満ちて」は、満潮となって。○隠ろひゆかば思ほえむかも 「隠ろひ」は、「隠る」の継続を現わす語。「隠ろひゆかば」は、隠れ隠れして行ったならば。「思ほえむかも」は、恋しく思われるであろうよで、「かも」は詠歎。
【釈】 沖の島の荒磯に生えている玉藻よ。今の干潮が満潮となって、隠れ障れして行ったならば、恋しく思われることであろうよ。
【評】 干潮より満潮に移ろうとしている時に、沖の島である玉津島を見渡して、次第に潮に隠れ去ろうとする藻に対しての感である。見えているものが見えなくなり、有る物のなくなる時が、そのものに対する愛情の最も高まる時である。今は藻に対してそうした心を寄せているのである。海の光景は、奈良京の人の心を引くことの多いものであったから、それも伴っていよう。感傷にすぎるがごとくであって、自然に感じられるのはそれらの為である。この歌は反歌ではあるが、賀の心はなく、純粋の自然鑑賞である。しかし若の浦は天皇の酷愛し給う所であるから、そこの美を讃えるのは、賀の心につながりうるものとも言えよう。
919 若《わか》の浦《うら》に 潮《しほ》満《み》ち来《く》れば 潟《かた》を無《な》み 葦辺《あしべ》をさして 鶴《たづ》鳴《な》き渡《わた》る
若浦尓 塩滿來者 滷乎無実 葦邊乎指天 多頭鳴渡
【語釈】 ○潟を無み 「潟」は、干潟で、今は鶴の求食《あさ》っていた所としてのもの。「無み」は、ないゆえに。○葦辺をさして鶴鳴き渡る 「葦辺」は、海岸は葦の茂生しているのが普通で、これは海岸を具象的に言ったもの。「鳴き渡る」は、「渡る」は、広い範囲を一方から他方まで行くことで、鳴きながら飛び渡ってゆく意。これは玉津島より、他の海岸に向かってである。
【釈】 若の浦に潮が満ちて釆たので、今までの干潟がないゆえに、そこに求食《あさ》っていた鶴は、他の海岸の葦辺に向かって、鳴きながら飛び渡ってゆく。
【評】 前の歌に続いてのもので、これは満潮となって来た時の光景である。満潮で潟がなくなった為、そこにいた鶴が他へ飛んで行くというようなことは、当時の海岸には普通なことであったとみえ、それを詠んだ歌はかなりに多くある。この歌は、海の大景の上に鶴の行動だけを捉え、純客観的に、はっきりと言っている為におのずから画致があり、行動を言っているので動きがあるが、それを時間的に言っているので、落ちつきと静かさとがある上に、赤人の清純な調べによって十分に綜合し得ているので、それらが相俟って魅力をかもし出しているのである。歌品としてはむしろ前の歌のほうがまさっているが、一般性の多いゆえにこの歌のほうが人口に膾炙している。
右、年月を記さず。但玉津島に従駕すと称《い》へり。因りて今、行幸の年月を検注して以つて之に載す。
右、年月不v記。但※[人偏+稱の旁]v從2駕玉津嶋1也。因今檢2注行幸年月1以載v之焉。
(174)【解】 撰者の注で、題詞の年月は、資料とした原典にはないものであるが、作の内容から推して、撰者が加えたものだと断わったのである。
神亀二年乙丑夏五月、芳野離宮に幸《いでま》せる時、笠朝臣金村の作れる歌一首并に短歌
【題意】 この行幸の事は、続日本紀、聖武紀に載っていない。漏れたのである。
620 あしひきの み山《やま》も清《さや》に 落《お》ちたぎつ 吉野《よしの》の川《かは》の 河《かは》の瀬《せ》の 浄《きよ》きを見《み》れば 上辺《かみべ》には 千鳥《ちどり》数鳴《しばな》き 下辺《しもべ》には かはづ妻《つま》喚《よ》ぶ 百磯城《ももしき》の 大宮人《おほみやびと》も をちこちに しじにしあれば 見《み》る毎《ごと》に あやにともしみ 玉葛《たまづずら》 絶《た》ゆることなく 万代《よろづよ》に かくしもがもと 天地《あめつち》の 神《かみ》をぞ祷《いの》る 恐《かしこ》かれども
足引之 御山毛清 落多藝都 芳野河之 河瀬乃 淨乎見者 上邊者 千鳥數鳴 下邊者 河津都麻喚 百礒城乃 大宮人毛 越乞尓 思自仁思有者 毎見 文丹乏 玉葛 絶事無 萬代尓 如是霜願跡 天地之 神乎曾祷 恐有等毛
【語釈】 ○あしひきのみ山も汁に 「あしひきの」は、山の枕詞。「み山」は、「み」は、美称。「山」は、吉野の山。「清に」は、ここは下の「たぎつ」につづく副詞で、音の状態。ここは、さやいでの意。○落ちたぎつ吉野の川の 「落ちたぎつ」は、「落ち」は、水が急傾斜をもって流れる意のもの。「たぎつ」は、沸き立つ意。離宮のある滝《たぎ》の辺りの景。○上辺には千鳥数鳴き 「上辺」は、上流。下の「下辺」と対させたもの。「数《しば》」は現在の屡《しばしば》で、屡はそれを畳んだ語。○百磯城の大宮人も 「百機城の」は、大宮の枕詞。「大宮人」は、今は供奉の廷臣全部の称。金村もその中の一人である。「も」は、もまたの意で、上の「千鳥」「かはづ」に並べた意のもの。○をちこちにしじにしあれば 「をちこち」は、遠近。「しじに」は、繁にで、その人数の多い意。「し」は、強め。○見る毎にあやにともしみ 「見る毎に」は、上の全体、すなわち吉野川の景と、供奉の人々を見るたびごとにで、自身を第三者の立場に立たせての言。「あやにともしみ」は、(九一三)に出た。譬えようもなくなつかしいので。○玉葛絶ゆることなく 巻三(三二四)に出た。「玉葛」は、「玉」は美称。「葛」は、その蔓の切れるところから「絶ゆ」につづく枕詞。「絶ゆることなく」は、上の状態の永続すること。○万代にかくしもがもと 「万代に」は、万年にで、永遠に。「かくしもがも」は、「かく」は、このように。「し」は、強め。「もが」は「も」を伴っての願望。「と」は、と思って。このようにのみあってくれよと思ってで、二句、上の二句を繰り返して(175)強めたもの。この四句は、離宮と、行幸の事に対しての賀で、上来、周囲を描くことによってそれらを暗示的に現わして、それに対して言っているものである。○天地の神をぞ祷る恐かれども 「天地の神」は、天神地祇で、あらゆる神々。「恐かれども」は、恐れ多いけれどもで、その神に対しての敬い。
【釈】 吉野のみ山もさやぐまでに音高く流れ落ちて沸き立つ吉野川の、その川瀬の清らかなのを見ると、上流には千鳥がしきりに鳴き、下流には河鹿が妻を喚んでいる。行幸の供奉の大宮人もまた、遠くまた近く多くの人々がいるので、それらすべてのさまを見るたびごとに、譬えようもなくなつかしく、このさまが中絶することなく、永遠にわたってこのようにのみあってくれよと思って、我は天地《あめつち》の神々を祷ることであるよ、恐れ多くはあるけれども。
【評】 金村のこの賀歌は、巻首の賀歌と同系列のもので、一に吉野の美を言っているものである。起首から、一首の半ば近い「かはづ妻喚ぷ」までは、吉野川の美観の描写である。行幸に関してのことは、「百磯城の大宮人も をちこちにしじにしあれば」だけであり、そしてそれは風景の美をたすける点景のごとき扱いを受けているのである。天皇につながる直接の賀の心は認められないものである。「見る毎にあやにともしみ」以下は、一見賀の心のもののごとくみえるが、実は絶景と多くの大宮人とのかもし出す愛でたさの永久を祈っているもので、そこに昭代を賀している心があるといえば言えもするが、しかしそれも間接なもので、要するに特殊な風景そのものの永続を願うにほかならぬものである。結末の「天地の神をぞ祷る恐かれども」に続き、それによって高揚させているのであるが、この語は、人麿ならば決して言わないものに思われる。天皇は神々を超えての絶対の尊い神にましますというのが古来の信仰であって、人麿は機会あるごとにそれを繰り返し言っているからである。この賀歌の精神の推移は、金村個人のことという面もあろうが、歌の上で見ると、自然の鑑賞という、歌としてはその文芸性の面を過重するところから、賀歌という実用性の面を過小にしたが為で、天皇を絶対の存在とする人麿の信仰とは距離の遠いものである。要するに時代が移るとともに信仰が薄れ、実用性のものであった賀歌が単に儀礼的なものとなり、それとともに文芸性のものに移ったのである。
反歌二首
921 万代《よろづよ》に 見《み》とも飽《あ》かめや み吉野《みよしの》の たぎつ河内《かふち》の 大宮《おほみや》どころ
萬代 見友將飽八 三芳野乃 多藝都河内之 大宮所
【語釈】 ○万代に見とも飽かめや 「万代に」は、永久に。「見とも」は、見ようとも。「とも」といふ助詞は、動詞、助動詞の終止形につづくの(176)が普通で、「見る」だけは例外である。「飽かめや」の「や」は、反語。飽こうか、飽きはしない。○たぎつ河内の大宮どころ 「たぎつ河内」は、沸き立つ流れの繞らしている内。「大宮どころ」は、大官すなわち皇居のある所の意であるが、大宮そのものをも言い、ここはそれである。
【釈】 永久にわたって見ていようとも、見飽きるということがあろうか、ありはしない。このみ吉野の、沸き立つ流れの繞らしている内の大宮は。
【評】 これは長歌の内容を要約して練り返しているもので、反歌としては典型的のものである。ここに至って初めて大宮どころを言って、賀歌の体にかなわしめたのである。短歌形式をもって言ったほうが、さわやかに、力強く心を現わせるところは、時代的である。反歌としてのみ存在しうる歌である。
922 人皆《ひとみな》の 寿《いのち》も吾《われ》も み吉野《よしの》の 滝《たぎ》の床磐《とこは》の 常《つね》ならぬかも
人皆乃 寿毛吾母 三吉野乃 多吉能床磐乃 常有沼鴨
【語釈】 ○人皆の寿も吾も 「人皆」は、元暦本、外一本は「皆人」とあるが、集中「人皆」のほうが用例が多い。それに従う。「人皆」は、反歌として上の歌の意を承けたものである関係上、供奉の廷臣全部をさしたものと取れる。「寿」は、寿命。「吾も」は、我の寿命も。○滝の床磐の 「滝」は、離宮のある辺りの、吉野川の名称。そこはことに巨岩の多い所である。「床磐」は、巨きな岩の、上部が平らで、床に似た形のものの称。永久にあるものとして言っている。「の」は、のごとく。○常ならぬかも 「常」は、恒久不変の意。「ならぬかも」は、「ぬ」は打消、「か」は疑問、「も」は詠歎の、それぞれ助辞。あらぬものかと、嘆きをもって言い、あってくれよと、願望の意を現わしたもので、「あれかし」というと同意である。「あれかし」を強く言おうとして、屈折を付けて粘りをもたせたもの。集中、用例の少なくないものである。恒久であってくれよで、この願は、限りなくも行幸の供奉を仕えまつり、この愛でたいさまを目にしたいとの意で、賀の心よりのものである。
【釈】 供奉の人々の寿命も、我が寿命もまた、み吉野のこの滝の辺りの床砦のごとく、恒久であってくれよ。
【評】 前の歌を承けたもので、「見とも飽かめや」を延長させて、限りなく見たい心を言ったものである。個人的のことを言って いるごとくで、賀の心のものである。この歌は、反歌としてでなくては全く存在し難いものである。
山部宿禰赤人の作れる歌二首 并に短歌
【題意】 年月がなく、撰者がそれを問題としていないところを見ると、前の歌と同時のものとみえる。なおこのことについては、(177)左注がある。
923 やすみしし わご大王《おほきみ》の 高知《たかし》らす 吉野《よしの》の宮《みや》は 畳《たたな》づく 青垣隠《あをがきごも》り 河次《かはなみ》の 清《きよ》き河内《かふち》ぞ 春《はる》べは 花《はな》咲《さ》き撓《をを》り 秋《あき》されば 霧《きり》立《た》ち渡《わた》る その山《やま》の いや益益《ますます》に この川《かは》の 絶《た》ゆること無《な》く 百磯城《ももしき》の 大宮人《おほみやびと》は 常《つね》に通《かよ》はむ
八隅知之 和期大王乃 高知爲 芳野宮者 立名附 青垣隱 河次乃 清河内曾 春部者 花咲乎遠里 秋去者 霧立渡 其山之 弥益々尓 此河之 絶事無 百石木能 大宮人者 常將通
【語釈】 ○高知らす吉野の官は 「高知らす」は、「高」は、讃え詞。「知らす」は、知るの敬語で、御支配になる意。○畳づく青垣隠り 「畳づく」は、畳まり付くの意で、ここは、山の重畳している状態を言ったもの。「青垣」は、青い色の垣で、青山が垣のごとき状態をもって、四方を繞らしている意。「隠り」は、宮がその内に籠もっている意。神の宮は清浄なるべき所として、その周囲から隔離する為に垣を繞らすのが習いとなっているのであるが、吉野の官は、畳づく青山がその垣となっているというので、宮を讃えるには最もふさわしい語である。これは同意のものがすでに人麿にあった。○河次の清き河内ぞ 「何次」は、河の続いていることで、山並《やまなみ》に対する語。ここは河の流れで既出。「清き河内ぞ」は、清浄なる河内の地であるよの意で、「河次」も青山と同じく、宮のある河内を清浄ならしめているとして言ったもの。これも同意のものが人麿にある。四句、宮を中心として、青山が外郭の垣をなし、河次がさらに内部を繞っているとして、宮を讃えたもの。○春べは花咲き撓り 「春べ」は、春の頃。「撓《をを》り」は、撓《たわ》みの古語で、用例の多いもの。「咲き撓り」は、枝も撓むまで咲きで、山の状態。○秋されば霧立ち渡る 「秋されば」は、秋が来れば。「霧立ち渡る」は、霧が立ち続くで、これは河の状態。○その山のいや益益に 「その山の」は、畳づく山のごとく。「いや益益に」は、今を標準として、いよいよますますにといい、結句の「通はむ」に続けたもので、山の盛んなごとく、供奉の大宮人の数も加わっての意のもの。○この川の絶ゆること無く この川水のごとく、中絶することなく。○常に通はむ 恒久にわたって、供奉として京の大宮よりこの吉野の離宮に通おうで、天皇の御上は憚って申さず、臣下の行動によって行幸のことを暗示したもの。
【釈】 やすみししわが大王《おおきみ》の御支配になられるところの吉野の宮は、周囲に重畳する山並《やまなみ》を御守りの青垣として、その内に籠もり、河の流れの行き繞る、その清き河内にあるものぞ。春の頃にはその山は、枝も撓むまでに花が咲き、秋が来るとその河には霧が立ち続く。その山のごとくにいよいよますます盛んに、この川のごとくに中絶することなく、大宮人は供奉として、京の大宮よりこの離宮《とつみや》にと通おう。
【評】 伝統の賀歌の精神を十分にもち、それにふさわしい緊張した態度をもって詠んだものである。その結果として、一首は(178)綜合が完全に、立体的な簡潔なものとなり、語の続きは緊密となって、感動よりも意力の見えるものとなっている。したがって全体に沈静なものとはなっているが、賀の心よりの風景の描写の美しさがあり、持ち味の清純な調べがある為に、窮屈な感は起こさせないものである。これを前の金村の歌と較べると、金村は時代の趨勢である新風に無自覚に乗っているのに、赤人は人麿を伝統として、倣って離れず、旧風を守っているのである。赤人も一方には新風を拓いているのであるが、歌の本質を解し、旧風を守るべき時には守っていたのである。これは個性というよりも識見の範囲のことである。(九一七)に並びうる作である。
反歌二首
924 み吉野《よしの》の 象山《きさやま》の際《ま》の 木末《こぬれ》には 幾許《ここだ》も騒《さわ》く 鳥《とり》の声《こゑ》かも
三吉野乃 象山際乃 木末尓波 幾許毛散和口 鳥之聲可聞
【語釈】 ○象山の際の木末には 「象山」は、吉野郡吉野町。吉野離宮址の前方に立ち、吉野群山の一山。「際《ま》」は、間、あるいは中。「木末」は、木のうれの約。○幾許も騒く 「幾許」は、甚だ多く。「も」は、詠歎。
【釈】 み吉野の象山の中の木立の末《うれ》には、甚だ多くも騒いでいる鳥の声であるよ。
【評】 長歌の反歌としてのものであるが、長歌の賀の精神に直接につながるところはないものである。しかし吉野の地の風景に感動するということは、間接にはつながりを持ちうるものと言える。こうしたものを反歌としたことには、時代の風があるというべきである。感動は、幽寂な境における諸島の鳴く聲の、京の平常とはちがって甚だ感を引くものであったということであるが、事は平凡であり、また単純でもあって、赤人の感性によって初めて強い感動となりうるものである。ここには個人性がある。この歌は自然の形象そのものだけに全感動を托して、主観の一語をも鋏まないものであるが、これは高市黒人の系統を引いて、赤人の開拓した境で、この歌はこれにつぐものとともに、その典型的なものと言える。「み吉野の象山の際の木末には」と、地名を二つまで重ねて重く言っていることは、「幾許も騒く鳥の声かも」という、語としては誇張のあるものを、自然な感のあるものと化していることで、これは構成上の用意と言えるが、同時にこの重い地名は、「鳥の声」にも重みを加えるものとなって、沈静の感を起こさせ、気分を深化させるものとなっているのである。また、一首のもつ澄んだ調べは、赤人の主観の直接な現われであって、これはこの歌に限ってのものではないが、この歌にあってはそれが取材と融け合って、魅力の大部分をなしているのである。
(179)925 ぬば玉《たま》の 夜《よ》の深《ふ》けぬれば 久木《ひさぎ》生《お》ふる 清《きよ》き河原《かはら》に 千鳥《ちどり》数鳴《しばな》く
烏玉之 夜乃深去者 久木生留 清河原尓 知鳥數鳴
【語釈】 ○ぬば玉の夜の深けぬれば 「ぬば玉の」は、夜の枕詞。「深けぬれば」は、「ぬれ」は、完了。更けて来たのでで、物音の際立って聞こえる時として言ったもの。○久木生ふる清き河原に 「久木」は、今の「あかめかしわ」であろうというが、異説もある。山野に自生する落葉喬木。菓は大きさ三、四寸。先が尖り、三尖五尖となっている。夏、緑葉色の花を開く木。「久木生ふる」は、そうした久木が生えているところの。「清き河原に」は、清らかな吉野川の河原に。この二句の続きは、「清き」は、河原自体のもっているもので、「久木」はその河原の点景にすぎないものだということである。さらにいうと、「久木」は「清き」に必然的な関係はないことである。深夜、こうした光景の見えるのは、眼に見たからであって、月明とか、少なくとも強い星明りによらなければならないことである。○千鳥数鳴く 千鳥がしばしば鳴いているで、千鳥はその声の低く澄んだもので、それが瀬の音に紛れずに聞こえるのは、「夜の深けぬれば」の条件の為である。
【釈】 夜が深けて来たので、久木の生えている、清らかな河原に、千鳥がしばしば鳴く。
【評】 前の歌を承けたものである。昼の山に対して夜の河、木に遊ぶ諸鳥に対して河原に鳴く千鳥として同じく賀の心をもって吉野の景を讃たものである。讃えるのに、そこに棲む小鳥の鳴き声のみを選んでいるのは、赤人の心が特にそれに引かれたので、性情より発しているもので、すなわち反歌は個人的な所好を加えたのである。河原の千鳥を聞いた場所は、「久木生ふる」所で、これは供奉の者の詰める舎の辺りにあったものか、あるいは赤人が夜の河原を愛でてそうした所へ出て行っていたのかはわからない。とにかく夜目に見て言っているのであるから、月か星の明りで見たものと思われる。千鳥は夜も鳴く習性をもっている鳥であるから、その声は普通のものである。したがって「ぬば玉の夜の深けぬれば」と重く断わっているのは、それまでは河瀬の音に紛れて聞こえずにいた千鳥の声が、夜更けて次第に瀬の音が沈むと、その低い声だけが浮かび上がって聞こえて来るというので、その声によって吉野の夜の幽寂と清澄を極めていることをあらわしたものである。瀬音に触れず、「清き河原」と特に「清き」を添えて言っているのは、その心からである。綜合力の強く働いた、単純な形に微細を織り込み、強さを内に蔵して、沈静な趣を尽くした歌である。前の反歌と相並んで、赤人の面目を発揮しているものである。なおこの歌は、「夜の深けぬれば」を、「千鳥数鳴く」の環境と見ず、その原因と見れば、さらに遙かに複雑なものとなって来るのであるが、そう解すると全く個人的な感のものとなり、反歌としての賀の心を失なって来るので、上のごとくに解したのである。
926 やすみしし わご大王《おほきみ》は み吉野《よしの》の 蜻蛉《あきづ》の小野《をの》の 野《の》の上《へ》には 跡見《とみ》居《す》ゑ置《お》きて み山《やま》(180)には 射目《いめ》立《た》て渡《わた》し 朝猟《あさかり》に 鹿猪《しし》履《ふ》み起《おこ》し 夕狩《ゆふかり》に 鳥《とり》踏《ふ》み立《た》て 馬《うま》竝《な》めて 御猟《みかり》ぞ立《た》たす 春《はる》の茂野《しげの》に
安見知之 和期大王波 見吉野乃 飽津之小野笶 野上者 跡見居置而 御山者 射目立渡 朝※[獣偏+葛]尓 十六履起之 夕狩尓 十里※[足+搨の旁]立 馬並而 御※[獣偏+葛]曾立爲 春之茂野尓
【語釈】○蜻蛉の小野の 「小」は、美称。蜻蛉野は、吉野離宮の周囲の野の称。○野の上には跡見居ゑ置きて 「野の上」の「上《へ》」は、上《うへ》の転音。野そのものを指して言ったもので、単に「野に」というと心は同じであり、感を強めたもの。「は」は、下の「山」に対させたもの。「跡見」は、狩猟に関する語で、獣の通った足跡を見て、その行方を尋ねることで、ここはその事を受持としている人々。「居ゑ置き」は、配置したというに当る。○み山には射目立て渡し 「み山には」は、「み」は、美称。山のほうには。「射目」は、狩猟の時、鳥獣を射るところ。上の「跡見」に対するもの。「立て渡し」は、広い範囲に設備して。○朝猟に鹿猪履み起し 「朝猟」は、朝する猟で、猟をするに好適な時間。同じ意昧で、下の「夕狩」に対させてある。「鹿猪」は、宍《しし》すなわち肉で、その肉を食用とする獣の総称であるが、「鹿猪」はその代表であるところから称となったもの。「履み起し」は、木草の中に寝てい、潜んでいるのを、履んで起こす意で、追い出すことを具体的に言ったもの。朝猟は獣を目的とする意。○夕狩に鳥踏み立て 「鳥踏み立て」は、同じく鳥を追い出すことを具体的に言ったもの。鳥は夕方早く塒につくので、夕狩の目的とするもの。以上四句は、狩猟の型となっていることを、対句の形で言ったもの。○馬竝めて御猟ぞ立たす 「居竝めて」は、乗馬を連ねてで、馬上の人は大宮人。「御猟」は、天皇の猟としての敬語。「立たす」は、猟を催すことを「立つ」と言っている。その敬語。これは上の「ぞ」を終止形で結んだもので、当時の語法。○春の茂野に 「茂野」は、草の茂っている野。猟は本来は、草の枯れた冬季を最適の時とするのであるが、ここは、行幸中の臨時の御催しとしてのことで、「茂野」という時期にさせられたのである。
【釈】 やすみししわご大王は、吉野の蜻蛉の野の、その野のほうには跡見を配置し、み山のほうには射目を広い範囲に設けて、朝猟には鹿猪《しし》を追い出し、夕狩には鳥を飛び立たせ、乗馬を連ねて御猟を催させられることであるよ、春の草の茂った野に。
【評】 狩猟は当時にあっては、男子最上の興味としていたものであるから、天皇には行幸中の御慰みの一つとして、離宮を繞らす蜻蛉野において御催しになり、赤人は陪観者の立場にあって詠んだものとみえる。赤人の詠む態度は、これを盛事として、讃えの心をもって詠もうとしたので、したがって御猟の規模の盛んなことを叙するにとどまり、猟の興味の頂点である、鳥獣の現われて来るところには及ぼうとしていないのである。大景を客観的に、落ちついて詠んでいるところにその特色は見えるが、歌としてはさしたる節《ふし》のないものである。
(181) 反歌一首
927 あしひきの 山《やま》にも野《の》にも 御猟人《みかりびと》 得物矢《さつや》手狭《たばさ》み 散動《さわ》きたり見ゆ
足引之 山毛野毛 御※[獣偏+葛]人 得物矢手挾 散動而有所見
【語釈】 ○御猟人 跡見、射目、大宮人など、猟に関係している人の全部を言ったもの。天皇への奉仕として行なっているので、その意で敬って「御」を添えている。○得物矢手挟み 「得物矢」は、幸矢《さつや》に当てた字。「幸《さつ》」は、山|幸《さち》、海|幸《さち》など、獲物を幸《さち》として言ったので、「幸《さつ》」はその転音。「手狭み」は、「手」は、接頭語とも、指の意ともいう。指というに従う。指に挟んでで、矢を番《つが》えている状態。○散動きたり見ゆ 「散動」は、訓が定まっていない。旧訓「みだれ」。『代匠記』は「とよみ」。『攷証』、『古義』は、「さわぎ」。いずれにも訓みうる文字であるが、距離を置いて、盛んなさまが形として見えたものと取り、「さわき」に従う。「たり」は、下に「見ゆ」の続く場合は、動詞、助動詞の終止形をもってするのが、この時代の格である。
【釈】 山にも野にも、奉仕の御猟人は、幸矢《さつや》を弓に番えて、一面に乱れ立っているのが見える。
【評】 御猟場の、まさに獲物が現われて活動に移ろうとする直前の、緊張した状態を描いたもので、長歌の心を押し進めたものである。反歌として要を得たものである。静中動を含んだ、機微な空気をあらわしている。
右、先後を審にせず。但便を以ての故に、この次に載す。
右、不v審2先後1。但以v便故、載2於此次1。
【解】 「先後を審にせず」とは、上の長歌との先後である。上の歌は「五月」のものとなっており、これは「春の茂野」とあるので、この歌は果たしてこの年のものであるかも審かでないと言える。撰者の用意を示したものである。
冬十月、難波宮に幸《いでま》せる時、笠朝臣金村の作れる歌一首 并に短歌
【題意】 この行幸は、続日本紀、聖武紀に、「神亀二年冬十月庚申、天皇幸2難波宮1」とある時である。
928 押照《おして》る 難波《なには》の国《くに》は 葦垣《しがき》の 古《ふ》りにし郷《さと》と 人皆《ひとみな》の 念《おも》ひ息《やす》みて つれもなく ありし(182)間《あひだ》に うみをなす 長柄《ながら》の宮《みや》に 真木柱《まきばしら》 太高《ふとたか》しきて 食《を》す国《くに》を 治《をさ》め給《たま》へば 奥《おき》つ鳥《とり》 味経《あぢふ》の原《なら》に もののふの 八十伴《やそとも》の雄《を》は 廬《いほり》して 都《みやこ》なしたり 旅《たび》にはあれども
忍照 難波乃國者 葦垣乃 古郷跡 人皆之 念息而 都礼母無 有之間尓 績麻成 長柄之宮尓 眞木柱 太高敷而 食國乎 治賜者 奥鳥 味經乃原尓 物部乃 八十伴雄者 廬爲而 都成有 旅者安礼十方
【語釈】 ○押照る難波の国は 「押照る」は、隈なく照る意で、難波が地勢の関係上、日光が隈なく照るので、讃えの意での枕詞という解に従う。「難波」は後の摂津。「国」は、古くは狭い一劃の地をも称した語で、既出の例が多い。ここもそれで、下の「郷《さと》」と同意語として用いているもの。○葦垣の古りにし郷と 「葦垣」は、葦を編んで造った垣で、垣としては粗末なもの。その古びやすいところから、「古り」にかかる枕詞。「古りにし郷と」は、「に」は、完了で、古くなってしまった里としてで、この「郷」は、下の「長柄」「味経」などである。古くなってというのは、長柄宮は古は皇居であったが、年経て衰えてしまっていた意で言っているもの。○人皆の念ひ息みて 「人皆」は、すべての人で、既出。「息みて」は、止《や》めてで、思ひ止《や》めては、問題とせずしての意。○つれもなくありし間に 「つれもなく」は、同情なくで、「も」は、詠歎。没交渉にしていた間にの意。○うみをなす長柄の宮に 「うみを」は、績《う》んだ麻《を》で、麻の皮の繊維をつむいで糸としたもので、当時の織物の主要材料。「なす」は、のごとくで、その丈の長いところから「長」にかかる枕詞。「長柄の宮」は、日本書紀、孝徳紀に、「元年冬十二月乙未朔癸卯、天皇遷2都難波長柄豊碕1」とある宮で、旧く孝徳天皇の皇居であり、聖武天皇はそれを改築して離宮となされたのである。その他は明らかではないが、大阪城の付近(法円坂町一帯)とする説と、大淀区豊崎本圧という説とがある。高津宮の旧址に近い。○真木柱太高しきて 「真木柱」は、檜の柱。檜は建築用材の中で最も貴い物で、「真木柱」は、ここでは宮柱をあらわしているもの。「太」「高」は、いずれも讃える詞で、「しき」に続くもの。「しき」は、敷きで、大体支配の意に用いるが、意味の広い語で、ここは造営の意。真木柱をもって、太く高く御造営になってで、結局、結構に御造営になっての意。「太高」は、語感としては「真木柱」にも繋がりをもつ語である。これは事としては、古の長柄豐碕宮を御改築になったことである。○食す国を治め給へば 「食す国」は、御支配になる国で、わが国の全土。「治め給へば」は、御支配になれば。この二句は、難波宮へ御遷都のように聞えるが、天皇は行幸のしばらくの間も、その大宮において大権を行なわせられるので、行幸ということを、大権のほうを主として、尊んで言っている語。○奥つ鳥味経の原に 「奥つ鳥」は、沖の鳥で、その味鳧《あじかも》と続け、「味」の枕詞としたもの。「味経の原」は、日本書紀、孝徳紀に、「白雉元年春正月辛丑朔、車駕幸2味経宮1、観2賀正礼1」とあり、又、「二年十二月晦、於2味経宮」1,請2二千一首余僧尼1、使v読2一切経1」ともあって、ここに豐碕宮の別宮があったのである。今、大阪市天王寺区に味原町、下味原町があり、そこだという。聖武天皇はこの味経宮をも御改築になられた。○もののふの八十伴の雄は 「もののふ」は、物の部《ふ》で、部は朝廷へその職業をもって奉仕する集団の意。「八十伴」は、「八十」は、多くの数。「伴」は、集団。「雄」は、「緒」で、集団の長。全体では、物の部《ふ》である多くの奉仕集団の長で、廷臣の全部というこ(183)とを、その木質を言うことによって具体化した称。○廬して都なしたり 「廬して」は、廬を作っての意で、「廬」は、供奉としてそこにとどまる為の仮の家。「都なしたり」は、原文「都成有」。旧訓「みやことなせり」。『代匠記』は、「みやこなしたり」。『考』は「みやことなれり」と改めている。『新訓』は『代匠記』に同じ。これに従う。都の状態と変わらせているの意。供奉の廷臣が多く、そのさまの賑わしいということは、やがて天皇の御稜威の現われであるから、強く積極的であるほうが、賀の心にかなうと取れる。○旅にはあれども 「旅」は、その家を離れた地の総称であるが、ここは、その家のある都を主とし、行幸の供奉としている地の意で言ったもの。
【釈】 難波国は、今は古の郷であるとして、すべての人が問題とせず、没交渉にしていた間に、天皇は長柄宮に、真木柱で結構にも御改築を遊ばされ、御支配の全国土をここにお治めになる御状態にいらせられるので、味経の原には、供奉の廷臣のことごとくがそれぞれ廬を作って、そこを都と変らせている、行幸の供奉としての旅ではあるけれども。
【評】 難波宮に行幸のあった時、供奉の中に加わっていた金村が、その地で作った賀の歌である。構想は、賀の歌の本質として天皇の御稜威を讃えたもので、それをするに、難波宮の荒廃していたことと、それを御改築になり、今また行幸があったので、その荒廃していた処が、都の状態と一変したということを対照し、それによって讃えの心を現したもので、賀歌としては要を得たものである。対照の上からは、難波宮の古と今とを際やかにすることが大切であるが、事、天皇に関するので、尊敬の心より距離を置き、おおまかな言い方をしている。荒廃を言うに、「人皆の念ひ息みてつれもなくありし間に」と、直接目に見てのこととせず、また御改築を言うに、「真木柱太高しきて」というにとどめ、現在の行幸を言うには、「食す国を治め給へば」と、鄭重なる言い方をしているのは、すべてその用意からのことで、一首の中心たるべき旧観の一変ということは、供奉の者の舎のある「味経の原」に譲っているのは、すべてこの用意からと取れる。供奉の臣下のほうも、天皇との関係上おおまかにせざるを得ないが、此方はつとめて誇張を加え、「もののふの八十伴の雄」と、廷臣の全部を挙ってのことであるかの如く言い、また、自身等の舎をいうに、「味経の原」の「原」と関係させて「廬」と言い、それを「都なしたり」と誇張し、さらに「旅にはあれども」を言い添えてその感を強めているのである。これら総て自然を失うまいとしての続けではあるが、誇張して感を強めようとする意図の伴っているものであり、その意図がすなわち賀の心なのである。一首平面的に過ぎ、魄力の足らざるものがある。これは大体金村の人柄によることであるが、他の個人的な心を詠んだものよりも一層であるのは、歌の性質上、細心にならざるを得なかった為かと思われる。
反歌二首
929 荒野《あらの》らに 里《さと》はあれども 大王《おほきみ》の しきます時《とき》は 都《みやこ》となりぬ
(184) 荒野等丹 里者雖有 大王之 敷座時者 京師跡成宿
【語釈】 ○荒野らに里はあれども 「荒野」は、人の立ち入ったことのない野。「ら」は、音調の為に添えたもの。「に」は、の状態にの意。「里」は、長歌の「難波の国」。○大王のしきます時は 「しきます」は、長歌にあったものと同意。宮を御造営になり、行幸なさったことを言っているもので、ここは行幸を主としたもの。○都となりぬ 「なりぬ」は、変わった。
【釈】 人跡のない野の状態で里はあったけれども、大君の行幸遊ばされる時は、賑わしい都と変わった。
【評】 長歌の意を要約して、天皇の御稜威を讃えたもので、反歌の型に従ってのものである。この心は天皇に対する賀歌の基本となっているもので、したがって類歌の少なくないものである。事の性質上、明るさはもっているが、さわやかさまでは至っていない。その点は長歌と同様である。
930 海未通女《あまをとめ》 棚無《たなな》し小舟《をぶね》 榜《こ》ぎ出《づ》らし 旅《たび》のやどりに 楫《かぢ》の音《と》聞《きこ》ゆ
海未通女 棚無小舟 榜出良之 客乃屋取尓 梶音所聞
【語釈】 ○海未通女 海人《あま》の女の意。「海人《あま》」は、部族の名から、漁業をする者の総称に転じたもの。「未通女」は、女を愛する意から若い者として言いかえたもの。○棚無し小舟 巻一(五八)に出た。「棚」は、舟の側板の意で、それのない舟は一枚板で、それを舟底とも舷ともしたもの。「小舟」は、小さい舟。小さい舟を具体的に言ったもの。○榜ぎ出らし 「らし」は、眼前を証としての推量。証は下の「音」。○楫の音開ゆ 「楫」は、今の櫓。
【釈】 海人の女が、その業をするために、棚無し小舟を漕ぎ出すのであろう。我が旅の宿りに、櫓を使う音が聞こえる。
【評】 この歌は、反歌とはいうが、賀の心をもったものではなく、個人的興味だけのものである。奈良の宮人にとっては、海の景は、官命で旅をする時とか、海近い所へ行幸のあった際、供奉に加わるとかいう特別の場合以外には接しられず、したがって珍しく興味の多いことだったのである。歌としては平凡なものであるが、生活に即しての実感である。しかしこれを反歌として添えるということは、賀歌の精神の衰えと見なくてはならない。
車持朝臣千年の作れる歌一首 并に短歌
(185)931 鯨魚《いさな》取《と》り 浜辺《はまべ》を清《きよ》み うち靡《なび》き 生《お》ふる玉藻《たまも》に 朝《あさ》なぎに 千重浪《ちへなみ》より 夕《ゆふ》なぎに 五百重波《いほへなみ》よる 辺《へ》つ浪《なみ》の 益《いや》しくしくに 月《つき》にけに 日《ひ》に日《ひ》に見《み》とも 今《いま》のみに あき足《た》らめやも しらなみの い開《さ》きめぐれる 住吉《すみのえ》の浜《はま》
鯨魚取 濱邊乎清三 打靡 生玉藻尓 朝名寸二 千重浪縁 夕菜寸二 五百重波因 邊津浪之 益敷布尓 月二異二 日日雖見 今耳二 秋足目八方 四良名美乃 五十開廻有 住吉能濱
【語釈】 ○鯨魚取り浜辺を清み 「鯖魚取り」は、鯨を取るで、意味で海、あるいはその延長の浜へも続く。ここは浜。「浜」は、砂より成っている海岸で、岩より成っている磯に対させて用いている。「清み」は、清いので。○うち靡き生ふる玉藻に 「うち靡き」は、玉藻の状態。「玉藻」は、藻をたたえての称。○朝なぎに千重浪より 「朝なぎ」は、海の朝の凪。「千重浪」は、千重に続いて来る浪で、絶えざる浪を具象的に言ったもの。この語は多くの場合、激浪に対して言っているが、ここは、朝なぎの海のものとして言っているので、漣であり、またその漣は、上に続いて玉藻に寄せるものである。○夕なぎに五百重波よる 「五百重波」は、千重浪と心としては同じで、また成語でもある。語だけを変えたもの。二句、上の二句に対句としたもので、感を強める為に繰り返した意のもの。○辺つ浪の益しくしくに 「辺つ浪の」は、「辺」は、沖に対しての岸寄り。「の」は、のごとくで、岸寄りの浪のごとくに。この「浪」は、上の「千重浪」「五百重波」を承けたもの。「益しくしくに」は、「しく」は、繁くで、「しくしく」は、それを重ねて強めたもの。この上、限りなく繁くで、下の「見る」に続く。○月にけに日に日に見とも 「け」は、日。「見とも」は、未来の仮定。月に日に、日々に見ようともで、「あき足る」に続く。○今のみにあき足らめやも 「今のみ」は、現在だけ。「あき足らめやも」は、飽き足ろうか、飽き足りはしないで、「や」は、「む」の已然形「め」について反語をあらわす。「も」は、詠歎。○しらなみのい開きめぐれる住吉の浜 「しらなみ」は、上の浪を感覚的に言いかえたもの。「い開き」は、「い」は、接頭語。「開き」は、高まる意。日本書紀、神代紀に、「秀起浪穂《さきたてるなみほ》之|上《へに》云々」とあり、注に「秀起此云2左岐陀弖屡《さきたてる》1」とあって、「さき」はその「秀」である。「めぐれる」は、下の住吉の浜の周囲に隈なく立っているの意。「住吉の浜」は、今の大阪市住吉区一帯、住吉神社の浜で、下に詠歎が含まれている。
【釈】 浜辺が清いので、靡いて生えているところの藻に、朝凪には千重と続くさざ浪が寄って来、夕凪には五百重と続くさざ浪が寄って来る。その浪のごとくに、この上限りなく度《たび》を重ねて、月に日に、日々に見ようとも、現在だけで飽き足ろうか飽き足りはしない。白浪の高まって寄りめぐらしているところのこの住吉の浜よ。
【評】 歌で見ると、千年が初めて住吉の浜に立ち、そこの浜辺に生えている藻に、引続いてさざ彼の寄せている状態を見て、上の金村の反歌の二首目の心と同じく、海珍しい心から感興に堪えられず、その心を長歌形式をもって詠んだものである。自(186)然の可憐な光景というにすぎないものを、長歌形式をもって詠むということは、その事がすでに珍しいことである。長歌はこの時代には古い形式となり、行幸の賀など、儀礼の心をもって改まって対うべき際にその形式を用いたが、個人的のことになると、余程強い感動を起こした場合でないと用いてはいない。その意味でこの歌は、取材に合わせては形式が珍しいのであるが、これは千年が、その嘱目した光景から強い感動を受けたことをあらわしているものと言うべきであろう。この歌は、謡い物の脈を濃厚に引いているものである。「益しくしくに、見とも」と言っているところから見ると、千年は初めてその景を目にしたのであるが、それを叙するには、「朝なぎに千重浪より夕なぎに五百重波よる」と、すでに朝夕に見ているがごとき言い方をしている。これは対句というよりも、むしろ、古風な謡い物の型として用いている繰り返しを倣ったものと言える。またその「波」を承けて、「辺つ浪の」と譬喩として、抒情に転じてゆく敏活さにも、同じく謡い物の風がある。形式としてはそのように古いが、心としては、純叙景のみをもって一首としているところ、また感性の柔らかく細かいところも新しいものである。藻に寄せて来るさざ波の趣を眼目としているごときは、人麿にも見えたものであるが、その調べの柔らかく細かいのと相俟って、本質的のものと言える。すぐれた作とは言えないが、特色のあるものである。
時の窮まりなさを言ったもの。如く 「長き」
反歌一首
932 白浪《しらなみ》の 千重《ちへ》に来寄《きよ》する 住吉《すみのえ》の 岸《きし》の黄土粉《はにふ》に にほひて行《ゆ》かな
白浪之 干重來縁流 住吉能 岸乃黄土粉 二寶比天由香名
【語釈】 ○白浪の千重に来寄する 「来寄する」は、寄り来るの意の、上代の言い方で、一般的のもの。長歌を承けて言っている。○岸の黄土粉に 「黄土粉」は、埴生の文字に代えたものである。「埴」は、黄色また赤色の土に通じて用いる称で、「生」は、それの出る所の意であるが、合して埴その物の称としたものである。「はにふ」は、「黄土粉」の文字を当てているのは、住吉の開眼にある物の性質をあらわそうとしてである。○にほひて行かな 「にほふ」は、意味の広い語で、ここは染まる意。「行かな」は、「な」は自己に対しての願望。衣を染まらせて行こうよという意。旅衣をその途中の地のなつかしいものである花の汁、埴などで染めるのは当時の風で、例の多いものである。住吉の埴で染めることは、巻一(六九)「草枕旅行く君と知らませば岸の埴生《はにふ》ににほはさましを」があった。
【釈】白波が千重と続いて寄せて来るこの住吉の、岸の黄土粉《はにう》に我が旅衣を染まらせて行こうよ。
【評】 長歌で、「今のみにあき足らめやも」と言っているが、実際としてはそれは憧れにすぎず、一たび見ただけで千年はそこを立ち去らなければならなかった。反歌はその心残りを具象したものである。「白浜の千重に来寄する住吉」といって、白浪(187)のさまを住吉の修飾語としているのは、その心残りの対象物を、形を変えて今一度繰り返したのである。「岸の黄土粉ににほひて行かな」は、その白浪のさまを思い出させるものを、記念物として身に着けて立ち去ろうというので、同じく心残りを具象化したものである。反歌としての働きを十分に尽くし得ている歌である。したがって反歌として初めて存在しうるもので、長歌から離すとその魅力の大部分を失う歌である。
山部宿禰赤人の作れる歌一首 井に短歌
933 天地《あめつち》の 遠《とほ》きが如《ごと》く 日月《ひつき》の 長《なが》きが如《ごと》く おし照《て》る 難波《なには》の宮《みや》に わご大王《おほきみ》 国《くに》知《し》らすらし 御食《みけ》つ国《くに》 日《ひ》の御調《みつき》と 淡路《》あはぢの 野島《のじま》の海人《あま》の 海《わた》の底《そこ》 奥《おき》ついくりに 鰒珠《あはびだま》 さはに潜《かづ》き出《で》 船《ふね》並《な》めて 仕《つか》へ奉《まつ》るし 貴《》たふとし見《み》れば
天地之 遠我如 日月之 長我如 臨照 難波乃宮尓 和期大王 國所知良之 御食都國 日之御調等 淡路乃 野嶋之海子乃 海底 奧津伊久利二 鰒珠 左盤尓潜出 船並而 仕奉之 貴見礼者
【語釈】 ○天地の遠きが如く 「遠き」は、永遠の意で、時をあらわしたもの。天と地との永遠なるがごとくで、時の窮まりなさを言ったもの。○日月の長きが如く 「長き」は、長久で、日と月の照り続く時の窮まりのなさを言ったもので、上二旬と同じ心を語を換えていって強めたもの。○おし照る難波の宮に 上の(九二八)に出た。離宮としての官。○わご大王国知らすらし 「国」は、我が全国土。「知らす」は、知るの敬語で、
ここは御支配の意。この「知らす」は、(九二八)の場合と同じく、行幸としていらせられることな言ったもの。「らし」は、眼前を証としての推量で、その証は、結句の「資し見れば」である。我が大君は全国土を御支配になるらしい。○御食つ国日の御調と 「御食つ国」は、「御食」は、天皇の御膳の物。「つ」は、の。「国」は、一つの国。天皇の御謄の物を奉る国は定められていたもので、その意味で言った称である。『延喜式』に、「凡諸国貢2進御厨御贄1結番者、和泉国子巳、紀伊幽丑午酉、淡路国寅未戍、近江国卯、若狭国辰申亥。毎v当2件日1依v次貢進。預計2行程1莫v致2闕怠1」とある。すなわちここに挙げてある国が「御食つ国」である。「日の御調」は日は、貢進するべき日で、上に「結番」として定められている日である。「御調」は、国民一般の奉仕すべきこととなっていた租庸調の調であって、稲以外に、土地に従って、その手業《てわざ》として貢進すべき物で、ここは島国の淡路国の海人《あま》が、漁りの獲物としての魚介類である。「と」は、として。○淡路の野島の海人の 「野島」は、兵庫県津名郡岩屋の西部の漁村といい、また北淡町野島あたりともいう。○海の底奥ついくりに 「海の底」は、深さにおいても遠さにおいても、至り極まる所を「奥」というので、深さの意で「奥」に続けて、その枕詞としたもの。「奥ついくり」は、「奥」は、上の「奥」を、同音の「沖」に転じたもので、「奥つ」は沖の。「いくり」は、巻二(一三五)に出た。「い」は、接頭語。「くり」は、海中にある暗礁。「に」は、にある。○鰒珠さはに潜(188)き出 「鰒珠」は、鰒の貝の中にある珠で、真珠。ここは、御膳の物としての鰒の意で言っているが、鰒珠を尊んだところから、鰒そのものをもこのように呼んでいたとみえる。同じ意として美しい語を選んだものと思われる。「さはに」は、沢山に。「潜ぎ出」は、浪に潜《かず》き入って採り出して。○船並めて仕へ奉るし貴し見れば 「船並めて」は、その鰒を乗せた船を漕ぎ並べて。「仕へ奉る」は、奉仕をするで、すなわち貢進する。「し」は、強め。「貴し見れば」は、倒句になっていて、「見れば」は、上のさまを見れば。「貴し」は、大君は貴くましますの意で、庶民の労苦してお仕え申すことは、すなわち大君の貴さであるとしたもの。「御食つ国」以下これまでが、「国知らすらし」の「らし」の証となるものである。
【釈】 天と地との永遠なるがごとく、日と月との照りの長久なるがごとく、この難波の宮において、我が大君は全国土を御支配になられるらしい。それは、御膳の物を貢進する国と定められている国の、その定められた日の御調《みつき》として、淡路の国の野島の海人が、沖の暗礁にある鰒を浪を潜《かず》き入って採り出して.それを乗せた船を漕ぎつらねて貢進して来るさまに、大君の貴さを見れば。
【評】 天皇が難波の宮に行幸された際、その供奉の中に加わっていた赤人が、賀歌を奉るべき折として詠んだものである。賀歌は、その場合に即して、天皇の御稜威を讃えることを本質とするものである。赤人はその際目にしたところの、淡路国の野島の海人が、定められている御食の鰒を奉る船の打続くのをもって、この際の御稜威の現われとしては絶好のものとして、その一事を詠むことによって賀歌としようとしたのである。これを絶好のものとしたのは、しばしば言ったがように、平常を大和の奈良に過ごしている廷臣にとっては、海の景観はきわめて珍しいものであり、ことに貢物としての鰒を乗せた淡路の船が、日々に難波の海に入り来るのを見るのは、言い難い魅力あるものであったろうと察しられる。それをもって御稜威の現われとすることは、ひとり赤人の心だけのことではなく、廷臣全部のうべなうことであって、それを言うことはすなわち全部を代弁することとしたのであろう。しかしこれを歌とするに当っては、赤人を思わせる用意をもってしている。鰒の貢船の入り来るのは(189)、事としては言い難い興味であったろうが、その興味を制して御稜威そのものに代え、冒頭の、「天地の遠きが如く」より「国知らすらし」に至るまで、この場合としては荘重というよりも、むしろそれに過ぎる八句を据え、ついで中段には、その天皇の御稜威の具象的な現われとして、言わんとしている淡路の海人の鰒船のことを、十句をもって言っているのである。結尾は直接の賀詞で、「貴し見れば」の一句だけであるが、これは一方では冒頭に応じ、他方では中段に応じて、簡潔に力強く結び得ているものである。態度として興味的な材を御稜威に変えているのみならず、取材として平面的となるべきものを、立体的な深みあるものとし、簡潔にしながらも流動性を持ち得ているところは、すぐれた作と称すべきである。
反歌一首
934 朝《あさ》なぎに 楫《かぢ》の音《と》聞《きこ》ゆ 御食《みけ》つ国《くに》 野島《のじま》の海人《あま》の 船《ふね》にしあるらし
朝名寸二 梶音所聞 三食津國 野嶋乃海子乃 船二四有良信
【語釈】 ○船にしあるらし 「らし」は、上の歌と同じであるが、これはその船の頻繁に通って来ることを証としてのことと取れる。
【釈】 朝風の海に櫓を漕ぐ音が聞こえる。それは、御食つ国である野島に住む海人の、御調《みつき》を貢進する船であるらしい。
【評】 長歌の眼に見る船に対させて、これは眼には見えず梶の音だけ聞こえる船をいうことによって、長歌の「船並めて」に拡がりをもたせた作であり、反歌としては長歌の繰り返しの系統のものである。朝凪の海であるとはいえ、梶の音が聞こえて船が見えないというのは、当時の航海はあくまでも海岸に接して漕いだのであるから、こうしたことは当然ありうることで、実際に即して言っているのである。
三年丙寅秋九月十五日、播磨国|印南《いなみ》郡に幸せる時、笠朝臣金村の作れる歌一首 并に短歌
【題意】 「郡」は、西本願寺本「野」。紀州本、外三本「郡」とある。続日本紀、聖武紀、神亀三年秋九月壬寅(二十七日)、に「以2正四位上六人部王(中略)等二十七人1為2装束司1、以2従四位下門部王(中略)等一十八人1為2造頓宮司1、為v将v率2描磨国印南野1也」とあり、「冬十月辛亥(七日)行幸」とあり、「癸亥(十九日)行還至2難波宮1」とあり、この題詞とは符合しない。また日本紀略には、神亀三年「冬十月辛亥(七日)行2幸播磨国印南野1。」甲寅(十日)至2印南野|邑美《おふみ》頓宮1。」「癸亥(十九日)還至2難波宮1」とあって、これとも符合しない。しかし大体の時は異ならないので、行幸に関係しての官命で旅したこともあり得よう。
(190)932 名寸隅《なきずみ》の 船瀬《ふなせ》ゆ見《み》ゆる 淡路島《あはぢしま》 松帆《まつほ》の浦《うら》に 朝《あさ》なぎに 玉藻《たまも》苅《か》りつつ 暮《ゆふ》なぎに 藻塩《もしほ》焼《や》きつつ 海未通《あまをとめ》女 ありとは聞《き》けど 見《み》にゆかむ よしの無《な》ければ 大夫《ますらを》の 情《こころ》はなしに 手弱女《たわやめ》の 念《おも》ひたわみて 徘徊《たもとほ》り 吾《われ》はぞ恋《こ》ふる 船梶《ふなかぢ》をなみ
名寸隅乃 船瀬從所見 淡路嶋 松帆乃浦尓 朝名藝尓 玉藻苅管 暮菜寸二 藻塩燒乍 海未通女 有跡者雖聞 見尓將去 餘四能無者 大夫之 情者梨荷 手弱女乃 念多和美手 徘徊 吾者衣戀流 船梶雄名三
【語釈】○名寸隅の船瀬ゆ見ゆる 「名寸隅」は、播磨国明石郡の明石と加古河との間にある地で、現在の明石市北端の海浜地、魚住《うおずみ》町、大久保町辺といわれる。瀬戸内海の航路の重要な泊《とまり》の一つである。「船瀬」は、船が風波を避ける為に碇泊する所の称であるが、これは転じて地名となったもの。「ゆ見ゆる」は、より見られるで、播磨灘を越して見渡される意。○淡路島松帆の浦に 「松帆の浦」は、淡路の北端、津名郡、淡路町松屋崎の沿岸の称。○朝なぎに玉藻苅りつつ 朝の凪には藻を苅りつづけ。○暮なぎに藻塩焼きつつ 「藻塩焼き」は、上代の製塩法で、藻を乾かして簀の上に積み、それに汐水を汲みかけて沁ませ火に焼いた上で水を垂らして塩分を溶解させ、その上澄を釜で煮るのである。夕の凪にはそれをしつづけで、以上四句、海人《あま》の女の手業《てわざ》を言ったもの。○海未通女ありとは聞けど 「海未通女」は、(九三〇)に出た。「ありとは聞けど」は居るとは開いているが。○見にゆかむよしの無ければ 「よしの無ければ」は、方法がないのでで、結句の「船梶をなみ」ということであるが、たといそれがあろうとも、官命を帯びている際であるから、そうした行動の自由はないはずである。ここはそうしたことは忘れて言っている形のものである。○大夫の情はなしに 「大夫の情」は、思い立ったことはなし遂げる強い心。○手弱女の念ひたわみて 「手弱女」は、「手」は、接頭語。女は弱い者としての称。「念ひたわみ」は、心がくずおれ。○徘徊り吾はぞ恋ふる 「徘徊り」は、「た」は接城詰。「もとほり」は、往きつ戻りつする意。「恋ふる」は、憧れることで、連体形。「ぞ」の結。○船梶をなみ 船も、漕ぐ梶もないので。
【釈】 名寸隅の船瀬から見られる淡路の松帆の浦には、朝の凪ぎには藻を苅りつづけ、夕の凪ぎには藻塩を焼きつづけて、海人の女がいるとは聞いているが、それを見に行くべき方法がないので、強い男の雄ごころはなくて、弱い女のように思いくずおれて、うろうろとさ迷って我は憧れていることであるよ、行くべき船も梶もないので。
【評】 上に言ったがごとく、官命を帯びている際のことであるから、自身の自由なる遊覧などは許さるべくもない時である。それにもかかわらずこの歌は、そうしたことも全く忘れ去っているごとき態度で詠んでいるもので、海未通女《あまをとめ》に対する憧れの限りなさを言っているものである。海人《あま》の女のいかなる者であるかは、金村は知らぬはずはなく、またそうした者は松帆の浦(191)まで渡らずとも名寸隅の辺りにもいたことであろう。それを松帆の浦の海女に限って憧れ、この種のものとしては適《ふさ》わしくない長歌にまでしているのは、そこに何らかの理由があってであろう。強いていえば、当時知識階級に盛行していた神仙思想からの連想で、海を越しての彼方の島に住んでいるという海未通女が、仙女であるかのような想像を起こしたのではないか。それ程ではなくても、未見の女を、未見であるがゆえに空想化し、仙女をその空想の資料として、強い憧れを起こしたのではないかと想像される。こうした不自然な憧れが、本集の編者に承認されている点から見ても、時代との関係を思わせられるからである。「大夫の情はなしに、手弱女の念ひたわみて」という対句は新味のあるものであるが、全体としては力の足りない、その心を生かし得ていない作である。
反歌二首
936 玉藻《たまも》苅《か》る 海未通女《あまをとめ》ども 見《み》に去《ゆ》かむ 船梶《ふなかぢ》もがも 浪《なみ》高《たか》くとも
玉藻苅 海未通女等 見尓將去 船梶毛欲得 浪高友
【語釈】 ○船梶もがも 「もが」は、「も」を伴った願望の意のもの。船と梶とがほしい。○浪高くとも たとい浪は高かろうともで、危険を冒しても行こうの意。播磨灘は内海の航路中でも、難航の場所であるから、これは実際に即しての語である。
【釈】 玉藻を苅っている海未通女を見に行こう。その為の船と梶とがほしい。それだと、たとい浪が高くとも行こう。
【評】 長歌を要約して繰り返した形のものであるが、さらに積極的に進めて新意をもたせてある。「浪高くとも」は、そこに力点を置いてあり、また実際にも即したものであるから、憧れのいかに強いかを具象した形となっているものである。
(192)937 往《ゆ》きめぐり 見《み》とも飽《あ》かめや 名寸隅《なきずみ》の 船瀬《ふなせ》の浜《はま》に しきるしらなみ
徃廻 雖見將飽八 名寸隅乃 船瀬之濱尓 四寸流思良名美
【語釈】 ○往きめぐり見とも飽かめや 「往きめぐり」は、往きつ来つして。「見とも」は、「見」の未然形から「とも」に続くのは、この時代の格。見るともの意。「や」は、已然形について反語をあらわす。飽こうか、飽きはしない。○しきるしらなみ 「しきる」は、頻《しき》るで、ここは頻りに寄せる。「しらなみ」は、白浪で、下に詠歎を含んでいる。
【釈】 往きつ来つして幾度見るとも、飽こうか、飽きはしない。この名寸隅の船瀬の浜に頻りに寄せるところの白浪よ。
【評】 「名寸隅の船瀬の浜に」と、地名を二つまで重ねて修飾し、「しきるしらなみ」と言っているので、「往きめぐり見とも飽かめや」の詠歎が十分に裏づけられて、その感動をあらわしている。一首の調べもそれにふさわしいものである。これは海に対する憧れの心からである。長歌とは、この憧れを通して繋がっているが、むしろ独立した歌という趣のほうが濃厚なものである。反歌としては綜合力の弱さを示している。
山部宿禰赤人の作れる歌一首 并に短歌
【題意】 上の歌と同じ時のものである。
938 やすみしし 吾《わ》が大王《おほきみ》の 神《かむ》ながら 高知《たかし》らせる 稲見野《いなみの》の 大海《おほみ》の原《はら》の 荒妙《あらたへ》の 藤井《ふぢゐ》の浦《うら》に 鮪《しび》釣《つ》ると 海人船《あまぶね》散動《さわ》き 塩《しほ》焼《や》くと 人《ひと》ぞさはなる 浦《うら》をよみ 諾《うべ》も釣《つり》はす 浜《はま》をよみ 諾《うべ》も塩《しほ》焼《や》く あり通《かよ》ひ みますもしるし 清《きよ》き白浜《しらはま》
八隅知之 吾大王乃 神隨 高所知流 稻見野能 大海乃原笶 荒妙 藤井乃浦尓 鮪釣等 海人船散動 塩燒等 人曾左波尓有 浦乎吉美 宇倍毛釣者爲 濱乎吉美 諾毛塩燒 蟻牲来 御覽母知師 清白濱
(193)【語釈】 ○神ながら高知らせる 「神ながら」は、神そのままにで、上の「大王」を承け、神の神ながらと続いている。「高知らせる」は意味の広い語で、国を御支配になるの意にも、また宮を天高くお構えになる意にも用いている。ここは、国とすれば「稲見野の大海の原」を御支配になる意となるが、同時にその「大海の原」は、上の(九三五)の題詞で言った、「甲寅至2印南|邑美《おふみ》頓宮1」とあるその頓宮を意味させたもので、略して言っているものとも解せるのである。場合に即して頓宮をいっているものと解す。○稲見野の大海の原の 「稲見野」は、広範囲にわたっての大名。「大海の原」は、その一部の小名である。「大海」は、上に引いた「邑美」で、訓は、『和名抄』に、「明石郡邑美郷、訓於布美」とあり、高山寺本には「注於保見」とあって、「邑」を「おふ」とも「おほ」とも訓んだのである。頓宮はここにあったのである。現、明石市、魚住、岩岡付近。○荒妙の藤井の浦に 「荒妙の」は、藤にかかる枕詞。「荒」は、「和《にぎ》」に対する語で、繊維の荒い妙で、藤の繊維もそれに属するところから、意味でかかるもの。「藤井の浦」は、その名は今は伝わっていない。頓宮に近い浦であったとみえる。○鮪約ると海人船散動き 「散動」は、巻二(二二〇)人麿の歌、及び(九二七)赤人の歌に用例がある。鮪を釣るとて、海人の船がさかんに漁をしていて。○塩焼くと人ぞさはなる 「さはなる」は、旧訓「さはにある」。『考』の訓。塩を焼くとて、人が多くいることよの意。塩を焼くのは、浜でのことで、女の手業《てわざ》。したがって「人」は、海女《あま》。○浦をよみ諾も釣はす 「浦をよみ」は、浦が良いので。「諾も」は、「諾」は、承認する意で、なるほどというにあたる。「も」は、詠嘆。○あり通ひみますもしるし 「あり通ひ」は、熟語。「あり」は、継続しての意。用例の少なくない語。「みますも」は、大王の御覧になるのも。「しるし」は、著明の意で、明らかである。ここに継続して通って、この景を御覧になる大御心も明らかである。○清き白浜 「清き」は、白浜の持つ感。「白浜」は、砂の白い浜。下に詠歎がある。
【釈】 やすみしし吾が大王の、神とますままに、高くもお構えになられたところの、この稲見野の大海《おおみ》の原の大宮の、それに近い藤井の浦には、鮪を釣るとて海人《あま》の船がさかんに漁をしており、塩を焼くとて海人《あま》の女は多くもいることよ。浦が良いので、なるほど釣はするのである。浜が良いので、なるほど塩は焼くのである。吾が大王の継続してお通いになって、ここを御覧になる大御心も明らかである。清らかにも砂の白い浜であるよ。
【評】 稲見野の邑美の宮の行幸に供奉した赤人の奉賀の心より詠んだ歌であるが、天皇に献じるという改まったものでなかったことは、反歌の著しく個人的なものである点から察しられる。一首全体としては、邑美の頓宮に接している海と海辺の愛でたいことを讃えているのであるが、その一切を天皇を中心として、天皇との関係において讃えているのであって、そこには一点の個人的感情をまじえていないのである。すなわち奉賀の心をとおして風景を讃えているという、複雑な微妙な感情を、それとなく十分にあらわしているのである。ここにこの歌の特色がある。一首三段から成っており、一段は起首より「藤井の浦に」までの八句である。「やすみしし吾が大王の 神ながら高知らせる」は、「稲見野の大海の原」という土地の所在をいい、または支配関係をいったものとしては、荘重にすぎて不調和なものとなり、邑美の頓宮を讃えるものと見、宮を略しているのは、それに続く第二段が、海と浜辺の佳景を讃えるものであり、またそこに頓宮を営ませられたのも、その佳景を愛でられる為であって」中心は佳景にある関係から、わざと婉曲に言ったものと解せられるからである。第二段は「諾も塩煩く」までの八句(194)である。事象としては格別のものではないが、当時の奈良の京の人にはきわめて興味深いものであったことはすでにしばしば言った。この段で注意されることは、「浦をよみ諾も釣はす 浜をよみ諾も塩焼く」という赤人の感じ方である。これは海人のその職業にいそしんでいるのは、土地の好適な為であることを認めて、海人に対して喜んだ心で、廷臣の赤人としては、庶民の実際生活に触れ得ている、珍しいものである。そしてこの心は、第三段において特殊な展開をしているのである。第三段は「あり通ひ見ますもしるし清き白浜」の三句である。この三句は複雑味をもったもので、一方では第一段に緊密につながっていて、奉賀の心を十分にあらわしているものである。同時に他方では、第二段にも緊密につながって、天皇の御眼から見ると、海人の勤労生活は、海辺の浜の佳景に溶け入るものとなって、それあるが為にますます美観の加わるものとなって来ている。そしてこれは天皇より見られてのこととしているので、特殊なことであり、したがって奉賀の心ともなるのである。赤人の作風である。沈静と清澄とをもつとともに、単純の中に複雑味をもたせている作である。
反歌三首
939 奥《おき》つ浪《なみ》 辺波《へなみ》安《しづ》けみ いざりすと 藤江《ふぢえ》の浦《うら》に 船《ふね》ぞ動《さわ》ける
奥浪 邊波安実 射去爲登 藤江乃浦尓 船曾動流
【語釈】 ○奥つ浪辺波安けみ 「奥つ浪辺波」は沖の浪も、岸寄りの汲も。「安《しづ》けみ」は、静かなので。海の凪ぎ尽くした状態。○いざりすと 漁りをするとて。○藤江の浦に 長歌では「藤井の浦」と言っているが、巻三(二五二)では同じ所を「藤江の浦にすずき釣る」と言っており、二様に呼んでいたものと取れる。〇船ぞ動ける 「動ける」は、騒いでいるで、船人《ふなびと》の声を主として言ったもの。これは上の「安《しづ》けみ」と照応したもので、海上が静かなので、そのために声が聞こえて来る意である。ここに力点を置いた形である。
【釈】 沖の浪も岸寄りのほうの汲も、凪いで静かなので、海人《あま》が漁りをするとて、藤江の浦へ出た船が、騒いでいることである。
【評】 凪ぎ尽くした海へ海人が漁りに出ているさまを陸上から見て、船で騒いでいる声の聞こえるのに興味を感じた心である。長歌を繰り返した系統のものである。
940 いなみ野《の》の 浅茅《あさぢ》押靡《おしな》べ さ宿《ぬ》る夜《よ》の け長《なが》くしあれば 家《いへ》ししのはゆ
不欲見野乃 淺茅押靡 左宿夜之 氣長在者 家之小篠生
(195)【語釈】 ○いなみ野の浅茅押靡べ 「いなみ野」は、原文「不欲見野」とあり、「不欲《いな》」は否の意で、義訓である。宮は大海《おおみ》の原にあり、その原は稲見野の一部であるから言いかえたものと取れる。「不欲見野」は野を見たくない意を示した用字で、そこに厭いたことを暗示している。「浅茅」は、疎らに生えた茅。「押靡べ」は、押して靡かせてで、野宿をする状態を具象的に言ったものである。○さ宿る夜のけ長くしあれば 「さ宿る」は、「さ」は接頭語。「け長く」は、「け」は日で、日が多くなったので。○家ししのはゆ 「家」は、妻のいる家で、それを婉曲に言ったもの。「し」は、強め。
【釈】 稲見野の浅茅を押靡かせて、その上に寝る夜が多くなったので、都の家が思いやられる。
【評】 この歌は、行幸の供奉ということを外にし、単なる旅のように、夜《よる》寝る時の状態だけを取り立てて、その侘びしさを強調したものである。赤人は身分の低い人であるが、「け長く」というように幾日にもわたってのことであるから、廬くらいは設けたのではないかと思われる。それだと「浅茅押靡べ」は誇張のあるものである。これは、全く私的の心のもので、長歌の賀とは繋がりのないものである。こうした反歌の添った歌は、改まっての賀歌とはなり得ないものである。
941 明石潟《あかしがた》 潮干《しほひ》の道《みち》を 明日《あす》よりは 下咲《したゑ》ましけむ 家《いへ》近《》ちかづけば
明方 潮干乃道乎 從明日者 下咲異六 家近附者
【語釈】 ○明石潟潮干の道を 「潮干の道」は、潮干の時だけ通行の出来る道で、都への帰路としていっている。○明日よりは下咲ましけむ 「明日」は、還幸が明日と定まった日のもの。「下咲ましけむ」は、「下」は心中。「咲ましけむ」は、形容詞「笑まし」の未然形「笑ましけ」と推量の「む」で、心中に笑ましいことであろうの意。心うれしい意を具象的に言いかえた語。○家近づけば 恋しい都の家が近づくので。
【釈】 明石潟の潮干の時の道を明日からは心中に笑ましくして歩くことであろう。都の家が近づくので。
【評】 明日は都へ向って発足ができるとわかった日の心うれしさを言ったものである。漠然とした取りとめのないうれしさで、言葉ともなり難いものであるのに、赤人は静かに帰路を辿る自身を想像の中に浮かべ、路の中でも最も風景のよい明石渇の潮干の道を歩ませ、しかも一歩一歩家の近づくことを思って、心中ひそかに笑ましくしている自身を捉えているのである。実際に即してのこの心細かい想像力は、驚嘆に値するものである。この時代の心細かい歌風の先縦をなすもので、特色ある歌である。
辛荷《からに》の島を過ぐる時、山部宿禰赤人の作れる歌一首 并に短歌
(196)【題意】 「辛荷の島」は、播磨国揖保部室津の港の南方一海里にある島で、三礁相連なって三山をなしている。『播磨風土記』には、昔韓人の船が難破して、その荷がこの島に漂着したがゆえに負った名だという、地名伝説を伝えている。
942 あぢさはふ 妹《いも》が目《め》かれて 敷妙《しきたへ》の 枕《まくら》もまかず 桜皮《かには》纏《ま》き 作《つく》れる舟《ふね》に 真梶《まかぢ》貫《ぬ》き 吾《わ》が榜《こ》ぎ来《く》れば 淡路《あはぢ》の 野島《のじま》も過《す》ぎ 印南都麻《いなみつま》 辛荷《からに》の島《しま》の 島《しま》の際《ま》ゆ 吾宅《わぎへ》を見《み》れば 青山《あをやま》の そことも見《み》えず 白雲《しらくも》も 干重《ちへ》になり來《き》ぬ こぎたむる 浦《うら》の尽《ことごと》 往《ゆ》き隠《かく》る 島《しま》の埼埼《さきざき》 隅《くま》も置《お》かず 憶《おも》ひぞ吾《わ》が来《く》る 旅《たび》の日《け》長《なが》み
味澤相 妹目不數見而 敷細乃 枕毛不卷 櫻皮纏 作流舟二 眞梶貫 吾榜來者 淡路乃 野嶋毛過 伊奈美嬬 辛荷乃嶋之 嶋際從 吾宅乎見者 青山乃 曾許十方不見 白雲毛 千重尓成來沼 許伎多武流 浦乃盡 徃隱 嶋乃埼々 隈毛不置 憶曾吾來 客乃氣長弥
【語釈】 ○あぢさはふ妹が目かれて 「あぢさはふ」は、「あぢ」は味鳧《あぢじも》。「さは」は沢、「ふ」は経で、味が沢山に飛ぶ意で、その状態としての「群れ」の約「め」が同音の関係で目にかかる枕詞。「妹が目」は、妹の容姿の意。「かれて」は、旧訓「しば見ずて」。宣長の訓。離れてで 旅に来たことを現わしたもの。○敷妙の枕もまかず 「敷妙の」は、枕の枕詞。「まかず」は、枕をすることを纏くという、その打消で、妻と枕も交わさずの意。上二句を繰り返したもの。○桜皮纏き作れる舟に 「桜皮」は山樺とも、樺桜とも呼んだが、今は白樺と呼んでいる木の皮。その皮は質が強靱なところから、曲物《まげもの》などの器具を綴じるに用いている。「桜皮纏き作れる舟」というのは、主として板の継目のようなところを、桜皮で巻いて堅固にしたのであろうと思われるが、それ以上はわからない。○真梶貫き吾が榜ぎ来れば 「真梶」は、「真」は物の完備をあらわす語で、ここは、舟の左右に取付けた擢。そうした設備の舟は、大きい部類の舟である。「貫き」は、梶を取付けた状態を言ったもの。「吾が榜ぎ来れば」は、「吾が」は、榜ぐのは舟子《かこ》であるが、わが命令でさせていることなので、自身のこととして言ったもの。「来れば」は、往けばとは差別があり、向かっている目的地を重んじていう時の語。これは行幸の供奉ということを背後に置いたものである。○淡路の野島も過ぎ 難波津から瀬戸内海を西航する時、第一に寄港する主要な地。「も」は、並べる意のもので、諸所に寄港をしたことをあらわすもの。○印南都麻辛荷の島の 「印南都麻」は諸説あるが、播磨国加古川の河口にあった小島という解に従う。いわゆる高砂《たかさご》である。印南都麻と辛荷の島との意。○島の際ゆ吾宅を見れば 「際」は、間。「吾宅」は、「わがいへ」の約。島の間から、わが家のほうを顧みればで、顧みるのは遠ざかりゆくにつけ名残りを惜しむ意。○青山のそことも見えず 「青山の」は、下の続きで見ると、青山のうちのの意で、遠く青山が連亙していて、そのうちのいずれの意である。「そことも見えず」は、その何処《どこ》ということも見分けられずで、「も」は詠歎。○白雲も千重になり来ぬ 「白雲も」の「も」は、青山に並べたもの。(197)「千重」は、深いことを具象化したもの。「なり来ぬ」は、変わって来たで、重なって来たの意。○こぎたむる浦の尽 「こぎたむる」は、榜ぎめぐる意。これは、下二段活用の連体形である。巻三(三五七)同じく赤人の歌に、「奥つ島榜ぎ廻《み》る舟は」とあり、「たむ」も「みる」もおなじ意の語である。「浦の尽」は、「浦」は、海の陸に入り込んだ所で、浦という浦はことごとくで、上に続いて、当時の舟行のさまを言っているもの。それは風波の危険を避けるため、できる限り陸地より遠ざかるまいとするので、浦があればその地形に従って、榜ぎめぐる方法を取ったのである。○往き隠る島の埼埼 「往き隠る」は、榜いで行くと、船がその陰に隠れるさまとなるところの。「隠る」は、四段活用の連体形。「島の埼埼」は、島の岬という岬ごとに。○隅も置かず憶ひぞ吾が来る 「隅」は、隈で、曲がり角。曲がり角はそこを曲がってしまうと後ろが見えなくなるので、名残りを惜しむ情の高まる場所。「も」は、一隈さえもの意のもの。「置かず」は、残さず。「憶ひぞ吾が来る」は、家を恋しく思って来ることであるよ。○旅の日長み 旅に過ごす日数が多いので。
【釈】妹が姿から離れて、枕を交わすこともせずに桜皮《かには》を巻いて作った舟に、左右の櫂を取付けて、吾が榜いで来ると、淡路の野島も過ぎて、印南都麻と辛荷の島との間から、わが家を振返って見ると、遠く立ち続く青山のうちの、そのどことさえも見分けられず、白雲も千重と深くも重なって来た。榜ぎめぐつてゆく浦のことごとく、榜いでゆくと船が隠れる島の岬という岬ごとに、その一まがりも洩らさずに、家恋しい思いをして吾は行くことであるよ、旅の日数が重なるので。
【評】 この歌は船で難波津を発して、瀬戸内海を西に向かって航し、播磨国の辛荷の島へ着くまでの間の旅愁を詠んだものである。上来の赤人の長歌は綜合力が極度に働いており、事の全体を明らかに感じさせる趣をもっているのに、この歌は珍しくもその趣が稀薄で、起首から結尾まで強い感傷をもって旅愁そのもののみを漂わしている趣のものである。これがおそらくは赤人の本質で、綜合力の強く働くと見えるのは、意志力を奮い立ててしていたので、手放しで思うがままに心を言えば、こうした風になる人ではなかったかと思われる。しかしそのようにしながらも、同時に本質として持っている細心さは紛れず、この歌にあっても、部分をとおして全体を現わすことはほぼ十分にしており、おのずからに綜合を遂げているのである。そしてその点がこの歌の味わいをなしているのである。例せば、この歌には二か所まで「来る」という語「吾が榜ぎ来れば」「憶ひぞ吾が来る」を用いている。「来る」は当時は目的地に向かって行くことをあらわす語であった。また西航は辛荷の島をもって打切っているから、目的地は播磨国の大海が原の頓宮であったろうと思わせる。また、「桜皮纏き作れる舟に真梶貫き」といぅ船は、官位の低い赤人としては格別の場合でないと乗れるものではない。このことも行幸の供奉としてではないかと思わせる。次に、結尾の「旅の日長み」ということも注意される。行幸の日数はおおよそ限度がある。難波津から辛荷の島までの距離はいくばくもない。赤人の言うのは奈良京を離れてからの日数であるから、西航以前すでに難波宮に相応の間を奉仕していたのではないかと思わせる。「こぎたむる浦の尽、往き隠る島の埼埼」と、感傷をとおしてとはいえ、航海のさまを委《くわ》しくいう赤人が、このように旅愁を味わされているのであるから、しかるべき事情での長い日数があったと思わせられる。一篇の作(198)為としては単なる旅愁であって、格別なことのないものであるが、これら部分的なふしぶしが絡みつくことによって言うがごとく一篇の綜合を助け、同時に微細な味わいをかもし出しているのである。赤人の長歌としては特殊なものといえる作である。
反歌三首
943 玉藻《たまも》苅《か》る 辛荷《からに》の島《しま》に 島廻《しまみ》する 鵜《う》にしもあれや 家《いへ》念《も》はざらむ
玉藻苅 辛荷乃嶋尓 嶋廻爲流 水烏二四毛有哉 家不念有六
【語釈】 ○島廻する鵜にしもあれや 「島廻」は、旧訓「あさり」。『古義』の改めたもの。意は島めぐりで、下の「鵜《う》」が、餌としての魚を獲ようとして、小さい辛荷の島を飛びめぐつている意で、漁りということを具体的に言ったもの。「鵜」は原文「水烏」で義訓。「あれや」の「や」は、ここは反語で、鵜でもないので、の意。○家念はざらむ 家を恋しがらずにいられようか。
【釈】 人が藻を苅っているところの辛荷の島に、島を飛びめぐつて漁りをしているあの鵜でもないので、家を恋しがらずにいられようか。
【評】 辛荷の島に船を寄せているおりから、鵜の余念なく漁りをしているさまを見て、自身と対照させて羨んだ心である。初句より四句まで鵜のその業《わざ》を力強く言っているので、結句の「家念はざらむ」が重い響のあるものとなっている。長歌と緊密につながりつつ展開をもったもので、反歌の任を十分に尽くしたものである。綜合力の働いた反歌である。
944 島隠《しまがく》り 吾《わ》が榜《こ》ぎ来《く》れば ともしかも 倭《やまと》へ上《のぼ》る 真熊野《まくまの》の船《ふね》
嶋隱 吾傍來者 乏毳 倭邊上 眞熊野之船
【語釈】 ○島隠り吾が榜ぎ来れば 「島隠り」は船が島に隠れる状態に。「来れば」は前に出た。島をめぐつて漕ぎ進んで行けばの意。○ともしかも 「ともし」は羨しの意。「かも」は詠歎。以下の事に対しての感。○倭へ上る真熊野の船 「倭へ上る」は倭の都へ向かって上るで、「上る」は都に対してのみの語。貢船と見ていっていると取れる。「真熊野の船」は、「真」は接頭語で、紀伊の熊野の船で、船の型からの称。同系の語に松浦《まつら》船、足柄小舟《あしがりおぶね》、伊豆手《いずて》船などがある。下に詠歎がある。
【釈】 辛荷の島がくれにわが船を漕ぎ進めて行くと、羨しいことであるよ、大和の都へ向かって行くところの熊野型の船よ。
(199)【評】 辛荷の島を過ぎて、そこを後ろにした状態となった時、おりから反対の航路を取って来る熊野型の船とすれちがった際の感傷である。「島隠り」という語、「倭へ上る」という語は、いずれも誇張をもった語であるが、それが自然なものに感じられるのは、上よりの旅愁が裏付けをしているのと、また一首の調べが強く張っているからである。「島隠り吾が榜ぎ来れば」と、感傷をもって事を叙して来て、一転、「ともしかも」と強く抒情をして言い切り、「倭へ上る真熊野の船」と、旅愁の全部をそれに投げ懸けて、名詞をもって結んだ形は、赤人としては珍しいまでの昂奮を表しているものである。しかし同時にその細かい感性が一語一語に沁みていて、昂奮と微細感とを調和させており、赤人の手腕を思わせるものとなっている。前の歌とも緊密に続いていて、反歌の趣を発揮している。
945 風《かぜ》吹《ふ》けば 浪《なみ》か立《た》たむと 伺候《さもらひ》に 都多《つた》の細江《ほそえ》に 浦隠《うらがく》り居《を》り
風吹者 浪可將立跡 伺候尓 都太乃細江尓 浦隱居
【語釈】 ○風吹けば浪か立たむと 風が吹くので、浪が立って來ようかと思って。○伺候に 旧訓「まつほどに」。『代匠記』の訓。「伺候」は、動詞「侍《さむら》ふ」の連用形で名詞形。「侍ふ」は、臣下が君側に候《うかが》う意の語で、それを航海中の船の風浪に対しての意のものに転じさせた語。○都多の細江に浦隠り居り 「都多の細江」は地名で、現在も存している。姫路市の西南方、飾磨川《しかまがわ》の河口の地で、旧津田、柵江の二村付近、現在、姫路市飾磨区、今在家あたりを言ふ。「浦隠り居り」は、乗る船が、浦に隠れているで、隠れるのは風浪を避けるため。「浦」は場合上、河口よりある程度潮った安全な地帯にいたであろうから、実際は飾磨川であるが、川にも海の名称を用いる習いから浦と言ったもの。
【釈】 風が吹くので、浪が立とうかと危く思って、わが乗る船は、郡多の細江に浦隠れをしている。
【評】 この歌の言っていることは、航海中はきわめて普通なことで、事としては取り立てて言うほどのものではない。それをしみじみとした調べで言っているのは旅愁と航海の不安とが絡み合った気分をあらわそうとしたものだからである。『新考』は、「都多の細江」は、「辛荷の島」よりは東方の地なので、歌の順序が誤っていることを注意している。これらを独立した歌と見れば、そう見るべきであるが、上の二首は反歌として長歌と緊密に繋がっており、動かし難いものである。この一首は昂奮した長歌と反歌とを組合わせて一体としているという構成の面から見ると、反対に銷沈した心をあらわしたもので、直接のつながりのないものであり、したがってなきを妨げぬものであるが、しかし作者その人のほうからいえば、添えたいものであったろうと思われる。順序を変えてこのよぅな形にしてあるのはこのようにしている所に、作に中心を置くとともに、作者にも置こうとした跡が見え、そこに別種の興味が感じられる。
(200) 敏馬浦《みぬめのうら》を過ぐる時、山部宿禰赤人の作れる歌一首 并に短歌
【題意】 「敏馬浦」は、摂津国武庫郡灘村で、今の都賀浜以西小野にわたる海浜である。巻三(二五〇)「玉藻苅る敏馬を過ぎて夏草の野島が埼に船近づきぬ」に出ており、難波津より西に向かう海路の経過地点で、そこから淡路の野島に向かうのである。どういう用を帯びての航海かはわからない。なお左注がある。
946 御食《みけ》向《むか》ふ 淡路《あはぢ》の島《しま》に 真向《ただむか》ふ 敏馬《みぬめ》の浦《うら》の 奥《おき》べには 深海松《ふかみる》採《と》り 浦《うら》みには 名告藻《なのりそ》苅《か》る 深海松《ふかみる》の 見《み》まく欲《ほ》しけど 名告藻《なのりそ》の 己《おの》が名《な》惜《を》しみ 間使《まづかひ》も 遣《や》らずて吾《われ》は 生《い》けりともなし
御食向 淡路乃嶋二 直向 三犬女乃浦能 奥部庭 深海松探 浦廻庭 名告藻苅 深見流乃 見卷欲跡 莫告藻之 己名惜三 間使裳 不遣而吾者 生友奈重二
【語釈】 ○御食向ふ淡路の島に 「御食」は、「御」は美称。「食」は、食物の総称で、御食として向かう粟と続く枕詞。○ま向ふ敏馬の浦の 「真向ふ」は真向かいに向かっているで、以上、敏馬の位置をいったもの。航路としての関係からである。神戸市灘区岩屋に式内|※[さんずい+文]売《みぬめ》神社がある。この付近か。○奥べには深海松採り 「奥べ」は沖のほう。「深海松」は海の深いところに生える海松の一種。「採り」は海人が食料として採る意。○浦みには名告藻苅る 「浦み」は浦の辺りで、海岸。「名告藻」は今、ほんだわらと呼ぶ海草。同じく海人が食料として刈り取るもの。○深海松の見まく欲しけど 「深海松の」はその「み」を「見」と畳音にしての枕詞。「見まく」は「見む」に「く」を添えて名詞形としたもの。見ること。「欲しけど」は、後世の「欲しかれど」にあたる当時の格。見たいことであるけれども。見たいのは反歌にある「君」で、妻。○名告藻の己が名惜しみ 「名告藻の」は、その「な」を「名」と畳音にしての枕詞。「己が名惜しみ」は、自分の名誉の傷つくのを惜しんで。廷臣で、大夫たる者は、妻のことなど念とすべきではないという古来よりの心からのもの。○間使も過らずて吾は 「間使」は双方の間に立って往復する使。「遣らずて」は、遣らずして。○生けりともなし 「生けり」の「り」は、時の助動詞。「とも」は、助詞。生きているともないで、生きている気もしないの意。
【釈】 淡路の島に真向かいに向かっているこの敏馬の浦の、沖のほうには海人が深海松を採り、浦の辺りには同じく名告藻を刈っている。その深海松に因みのある、妻を見ることを吾もしたいけれども、その名告藻に因みのある、大夫たる名を傷けることを惜しんで、使をさえも遣らなくて吾は、妻を思う心から生きている気もしない。
(201)【評】 難波津から船出をして、瀬戸内海を西航する旅に上り、まだいくばくも進まない敏馬の浦で、大夫たる面目を保とうと、妻に逢わずに発足した心残りを詠んだものである。二段とし、一段は「己が名惜しみ」までの十二句で、ここでは眼前の風物に寄せて妻に逢わずに来た理由をいい、第二段はそれ以下の三句で、中心たるその事の嘆きの深さをいっているのである。第一段で注意されることは、「深海松の」「名告藻の」の二つの枕詞である。名告藻を比喩としている歌は古から相応に多くあり、常套とさえなっているものであるが、これを枕詞として用いたのは新味のあることである。深海松を枕詞としたのはおそらく他に例がなく、一層の新味があるものである。この歌はその二つの枕詞を対句的に用いているもので、単に技巧として見れば非凡なものである。しかしこの技巧は、赤人としても容易に生んだものではなく、巻二(一三一)柿本人麿の「石見国より妻に別れて上り来し時の歌」を心に置き、起首よりそれまでの八句を費やして初めて生かし得ているものなのである。これを全体との振合いから見ると、第二段には特別なところがなく、一篇はこの二つの枕詞を生かすことが頂点となっているがごとき感のあるものである。恋情を自然の風物に托してあらわすことは古来よりの風で、奈良朝時代に入ると甚しく流行したものであるが、赤人もそれをするために過当の努力をしたことが知られる。この一篇はいわゆる技巧倒れとなった感のあるものである。
反歌一首
947 須磨《すま》の海人《あま》の 塩焼衣《しほやきぎぬ》の なれなばか 一日《ひとひ》も君《きみ》を 忘《わす》れて念《おも》はむ
爲間乃海人之 塩燒衣乃 奈礼名者香 一日母君乎 忘而將念
【語釈】 須磨の海人の塩焼衣の 「須磨」は、現神戸市須磨一帯の地、敏馬に接した地で、関係のあるところ。そこは製塩をする地として聞こえてもいた。「塩焼衣」は、塩を焼く時に着る衣で、仕事の性質上、粗末な物を用いたので、その意味で、萎《な》えすなわち古びてくたくたになった意の古語「なれ」に続けて、二句を「なれ」の序詞としたもの。○なれなばか 「なれ」は、上の意の「なれ」を、同音の「馴れ」に転じさせたもの。「な」は完了の助動詞「ぬ」の未然形。「ば」は仮定。「か」は疑問で、馴れたならばで、「か」は結句へ回したもの。「馴れ」は意味が広く、逢い見ることに馴れる意にも取れ、また別れていることに馴れる意にも取れる。ここは、航行をしている時であるから、別れていることに馴れる意と取れる。ことに長歌の結末「生けりともなし」を承けたものとすると、心理的にもそう取れる。○一日も君を忘れて念はむ 「一日も」は、せめて一日でも。「君」は、妻を指したもの。「妹」を「君」と呼ぶのはこの時代から始まった風で、ある程度例のあるもの。女性に対しては敬語を用いるのが習いとなっていたから、その延長のものと見られる。「忘れて念はむ」は、思い忘れむのこの当時の言い方。「か」は、これに続く。
【釈】 須磨の海人の塩を焼く時に着る衣《きぬ》の萎れている、それに因みある我も別れていることに馴れたならば、せめて一日でも妻(202)を思い忘れていられようか。
【評】 長歌の「生けりともなし」に緊密に続け、「なれなばか一日も君を忘れて念はむ」と、活路を求めようとしての嘆きであって、心としての展開をもったものである。また、「須磨の海人の」と、土地としても地続きの海浜としているので、その点でも展開がある。三句以下は、屈折の多い言葉続きで鬱結した情を吐き出している趣がある。一首、長歌にもまさって技巧的なものである。反歌としての心を尽くしながら、長歌よりもはるかに心の直接性をあらわしているものである。
右、作歌の年月未だ詳ならず。但、類を以つての故にこの次に載す。
右、作謌年月未v詳也。但、以v類故載2於此次1。
【解】 撰者の注である。問題としているところは、作の年月の明らかでないことだけである。
四年丁卯春正月、諸王諸臣子等に勅して、授刀寮《じゆたうれう》に散禁せしむる時作れる歌一 首并に短歌
【題意】 題詞は、左注の要約ある。「諸王諸臣子等」は、いずれも「授刀寮」の職員で、「諸王」は長官である王達、「諸臣子」は、その部下の臣下である。「授刀寮」は、「授刀舎人寮」の略称で、天皇親衛の舎人を掌る所である。授刀寮のことは、続日本紀に出てをり、「慶雲四年七月丙辰、始置2授刀舎人寮1」とあり、また、「天平神護元年二月甲子、改2授刀衛1爲2近衛府1」とある。「散禁」は、刑罰の一種の名で、後の禁足というにあたる。歌はその散禁せられた中の一人の作ったものである。
948 真葛《まくず》はふ 春日《かすが》の山《やま》は 打靡《うちなび》く 春《はる》さりゆくと 山峡《やまかひ》に 霞《かすみ》たな引《び》き 高円《たかまと
》に 鶯《うぐひす》鳴《な》きぬ もののふの 八十《やそ》とものをは 雁《かり》が音《ね》の 来継《きつ》ぐこの頃《ごろ》 かく継《つ》ぎて 常《つね》にありせば 友《とも》なめて 遊《あそ》ばむものを 馬《うま》なめて 往《ゆ》かまし里《さと》を 待《ま》ち難《がて》に 吾《わ》がせし春《はる》を かけまくも あやに恐《かしこ》く 言《い》はまくも ゆゆしからむと 予《あらかじめ》 かねて知《し》りせば 千鳥《ちどり》鳴《な》く その佐保川《さほがは》に 石《いは》に生《お》ふる 菅《すが》の根《ね》取《と》りて しのふ草《ぐさ》 解除《はら》へてましを 往《ゆ》く水《みづ》に 禊《みそ》ぎてましを 天皇《おほきみ》の 御命《みこと》恐《かしこ》み 百磯城《ももしき》の 大宮人《おほみやびと》の 玉鉾《たまほこ》の 道《みち》にも出《い》でず 恋《こ》ふるこの頃《ごろ》
(203) 眞葛延 春日之山者 打靡 春去徃跡 山ヒ丹 霞田名引 高圓尓 鶯鳴沼 物部乃 八十友能壯者 折木四哭之 來繼比日 如此續 常丹有脊者 友名目而 遊物尾 馬名目而 徃益里乎 待難丹 吾爲春乎 决卷毛 綾尓恐 言卷毛 湯々敷有跡 豫 兼而知者 千鳥鳴 其佐保川丹 石二生 菅根取而 之努布草 解除而益乎 徃水丹 潔而益乎 天皇之 御命恐 百磯城之 大宮人之 玉鉾之 道毛不出 戀比日
【語釈】 ○真葛はふ春日の山は 「真葛」は「真」は美称。葛の這っているで、春日山の状態として言ったもの。○打靡く春さりゆくと 「打靡く」は、春の木草《きぐさ》の若く靡きやすい意で、春の枕詞。「春さりゆくと」は、「さり」は夕さればなどのそれと同じく動き来る意。「ゆく」は去るで、「さりゆく」は来て去る意である。これは今日から見ると、春が来てまた去る意と取れるが、この当時としてはそうではなく、春の眼前の時を言っているものである。時は来ると同時に移り去るものと認め、それをそのままに言おうとしてのもので、意味としては春さり来ればと異ならないものである。「と」は、とて。以上、授刀寮に正月以来散禁されている人の、春の闌《た》けて来るのを見ての心。○山峡に霞たな引き 「山峡」は諸本「山上」、元暦本のみ「上」は「ヒ」で、『新訓』はそれを取り、「ヒ」は「かひ」で「峡《かひ》」に当てたものとしている。これに従う。山の峡に霞が靡き。○高円に鶯鳴きぬ 「高円」は、山としても言い、野としても言っている。上と対させてある関係上、野と取れる。○もののふの八十とものをは 二句、上の(九二八)に出、そこでは文武百官の意であるが、ここは授刀舎人の総称で、「もののふ」は職掌としての武夫。「八十とものを」は多数の伴の男《お》の意と取れる。「を」に、「壮」の字を当てているのは、「男」の意であろう。すなわちこの語は同時代に二様の意に用いられていたのである。○雁が音の 原文「折木四哭之」で、「折木四」は「雁《かり》」に当てたものである。これは戯訓で、北村節信によって初めて明らかにされた訓である。これは西域から中国を通じて我が国に渡来した樗蒲《ちよぼ》(後世賭博の別名となる)という遊戯の具の采《さい》を、我が国では「かり」と呼んでおり、その采は小さい折木の四つであった所から、「折木四」、あるいは「切木四」と書いて「かり」と訓ませたのである。なおその采は杏仁を薄く削《へ》いだような物であり、表裏を白と黒で塗りつぶし、白いほうの二つには雉、黒いほうの二つには犢《こうし》を描いてあって、それを投げて模様の出工合によって勝負を決したのである。巻十に、「三伏一向」と書いて「つく」と訓ませ、巻十三に「一伏三向」と書いて「ころ」と訓ませているのは、その遊戯の上での名称だったのである。その流行の程が察しられる。「哭」は「ね」。「雁がね」はここは雁の意のもので、春のものであるから帰雁である。○来継ぐこの頃 「来継ぐ」は、帰雁が通り続ける意。「この頃」は、原文「皆」で、諸本異同がなく、したがって解し難くしていた。『考』は、「皆」は、「比日」の二字の一字となったものとし、『略解』はそれを承けて「このごろ」と訓んだ。これは用字も訓も例のあるものである。以上が、散禁されていて見た戸外の光景である。○かく継ぎて常にありせば 原文「如此」は諸本「石此」とあるが、『略解』の誤写説に従う。「かく継ぎて」は上の「来継ぐ」を承けて、このように帰雁が続いて。「常に」はいつも。「ありせば」は仮設。○友なめて遊ばむものを 「なめて」は「並《な》めて」で、連ねて。友を連ねて遊ぼうものを。○馬なめて往かまし里を 「馬」は乗馬。「往かまし」の「まし」は「ありせば」の帰(204)結。「里」は、都に対させての里で、今の郊外というにあたる。「を」は、詠歎で、ものを。乗馬を連ねて出懸けるであろうところの郊外であるものを。○待ち難に吾がせし春を 「難に」は「難」は可能をあらわす語。「に」は打消でしばしば出た。待ち得ずにわがしていた春の季節であるものをで、「かく継ぎて」以下の春に対しての憧れを総収したもの。○かけまくもあやに恐く 心に及ぼし思うことも、譬えようもなく畏くの意で、天皇皇子の上を言う時の成句。○言はまくもゆゆしからむと 「ゆゆし」は忌み憚るで恐れ多い意。言うことも恐れ多いことになろうとで、上の二句を繰り返していい、その事を重くしたもの。以上授刀舎人が、職務懈怠の咎めを蒙り、勅によって散禁を命じられたことを言っているもので、舎人からいうと久しく散禁させられている現状。○予かねて知りせば 「予」も「かねて」も、前もってで、畳んで強く言ったもの。「知りせば」は、知っていたならばで、仮設。○千鳥鳴くその佐保川に 「千鳥鳴く」は佐保川の修飾。「その」は、かのというに近く、意味の軽いもの。「佐保川」は、最寄りの川として言ったものであるが、下の続きから見ると、清らかな川として言っていると取れる。春日山から発して佐保の里を流れている渓流だからである。○石に生ふる菅の根取りて 「石に生ふる」は、岩間に生えているで、生え場所の清らかなことを言ったもの。「菅の根」は、「根」は添えて言っている語で、菅。岩を岩根、垣を垣根というと同系の語。菅は下の続きで祓えの具であることがわかる。○しのふ草解除へてましを 「しのふ草」は偲ぷ種《ぐさ》の字にあたるもので慕わしいものの意であり、その指していることは左注にある春日野へ行って打毬の遊びをしたいと思ったことである。すなわち遊楽を思う心ということを言いかえた語である。「解除へて」は祓えてで、身に着いている罪穢を祓え去る神事。「まし」は上の「知りせば」の帰結。「を」は詠歎で、ものを。遊楽を思う心を、罪穢と同じように祓え去ってしまおうものを。以上菅をもって懈怠の咎めを蒙る原因のものを祓い去ってしまおうものをと、後悔した心を言ったもの。菅の葉をもって祓えをすることは、大祓の祝詞に、「天つ菅曾《すがそ》を、本《もと》苅り断ち、宋苅り切りて、八針《やはり》に取辟《とりさ》きて、天つ祝詞の太祝詞|事《ごと》を宣《の》れ」とあって、定まった儀式となっていた祓えの具である。○往く水に禊ぎてましを 「往く水」は川の流れ。「禊ぎ」は身滌《みそそぎ》の約で、身に着いた罪穢を水で洗い去って流す神事。この祓えと禊とは相関係していることで、巻三(四二〇)「石田王の卒せし時」の歌に、「天《あめ》なるささらの小野《をの》の 七相《ななふ》菅手に取り持ちて 久堅の天の川原に 出で立ちて潔身《みそ》ぎてましを」とある。以上、後悔の情。○天皇の御命恐み 「天皇の御命」は、勅としての散禁の刑。「恐み」は、恐れて。○百磯城の大宮人の 「百磯城の」は宮の枕詞。「大宮人」は、朝廷の百官の称であるが、ここは授刀舎人の称としたもので、自尊の心からのもの。○玉鉾の道にも出でず 「玉鉾の」は、道の枕詞。巻一(七九)に出た。「道にも」は道にさえも。○恋ふるこの頃 戸外に憧れているこの頃であるよの意で、下に詠歎がある。「この頃」は春の闌けて遊楽の好季節であることを言ったもの。
【釈】 春日の山には、春が移って来たとて、その山峡《やまかい》には霞が靡いて、高円の野には鶯が鳴いた。武夫《もののふ》の多くの男の子は、帰る雁の空に来続けているこの頃、このように来続けていつもいるのであったら、友と連れ立って遊ぼうものを、乗馬を連ねて出懸けよう郊外であるものを、待って待ちきれずにわがしていた今の春であるものを。心に懸けて思うことも譬えようもなく畏く、口にして言うことも恐れ多いこうした事になろうと、前もって知ったならば、千鳥の鳴くあの佐保川に、岩の間に生えている菅を取って、遊楽を思う心を祓え去ってしまおうものを、流れる水に禊ぎをして、洗い去ろうものを。大君の勅を畏んで、大宮人ともある者が、道にさえも出ずに、戸外の春に憧れているこの頃であるよ。
(205)【評】 この歌の作因は左注で明らかにされている。大宮の警衛を任務としている授刀寮の人々が、正月、春日野へ行って打毬の遊びをしていると、おりから、にわかに天気が変わり雷を伴っての雨が降って来た。大宮に走せ参ずべき人々はそれが出来なかったため、職務懈怠の罪に問われて授刀寮内に禁足されて外出の許されない身となった。その期間が長く、戸外は春が深くなって来て、しきりに遊意をそそられるところから、戸外に対する憧れと、かりそめの遊戯の意外な成行きになった愚痴とを詠んだものである。出来上がった歌から見ると、起首から「待ち難に吾がせし春を」までの二十句は、戸外の春に対しての憧れで一段。「往く水に禊ぎてましを」までの十四句は、打毬の遊びをしたくなって制し得なかった悔で第二段、結尾までの七句は、恐懼と憧れとを一つに総収した第三段で、形の上からは立派に整ったものである。しかし読後の感からいうと、作因となっている事情は遠く背後に隠れて歌の上には直接に現われて来ず、あらわされているものは、耽美の情の充たされない愚痴が、調子低く縷々として述べられているにすぎないものとなっている。さらにいうと甘美に似た言葉はじつに多いが、他の胸に触れうる一般性の認められる情緒は全くなく、したがって味わいのきわめて稀薄なものなのである。本来長歌は叙事に抒情を伴わせたもので、叙事をすることによって抒情を徹せしめようとしているものである。本集の長歌はすべてその範囲のものである。しかるにこの歌は叙事を除外し、単に抒情のみを遊離させ、抒情の言葉を多くすることによってそれを徹せしめようとするという、長歌の本来より見ると跛行的なものであって、それがこの歌を無味なものとしているのである。これはしかしこの歌の作者だけのことではなく、時代を通じての傾向で、多少の差こそはあるが各作者の持っているもので、この歌の作者はその傾向が甚しいというだけのことである。時代が泰平になり、生活態度に緊張を要さなくなると、環境と自身とを綜合して考える精神が衰えてきた当然の成行きと見られる。
反歌一首
949 梅柳《うめやなぎ》 過《す》ぐらく惜《を》しみ 佐保《さほ》の内《うち》に 遊《あそ》びしことを 宮《みや》もとどろに
梅柳 過良久惜 佐保乃内尓 遊事乎 宮動々尓
【語釈】 ○梅柳過ぐらく惜しみ 「梅柳」は、梅の花と柳の若葉。「過ぐらく」は、「過ぐ」に「く」を添えて名詞形としたもので、過ぐること。盛りの過ぎる意。「惜しみ」は、惜しいので。○佐保の内に遊びしことを 「佐保の内」は佐保川と佐保山との間の地の称で、左注には「春日野」である。春日野の称はそこまで及ぼしていたとみえる。「遊びしこと」は上よりの続きでは、梅柳を見たことであるが、左注では打毬の遊びをしたのである。事実を枉げて、風流なことに言い做したものである。○宮もとどろに 「宮も」は大宮さえも。「とどろに」は、大きな音響をあらわ(206)す意の副詞で、ここは盛んに言い騒がれる意を言いさしにしたもの。
【釈】 梅の花と柳の若葉の盛りの過ぎることが惜しいので、佐保の内に遊んだことを、大宮もとどろくまでに言い騒がれた。
【評】 この反歌は明らかに事実を枉げて、春日野で打毬に耽っていたことを、風流な遊びに言い做したものである。これは風流ということが重んじられ、そのためとあれば大方のことは許される風となっていたので、それをかりて事を小さくし、その対照として「宮もとどろに」といって、結果の不釣合であることをいったものである。長歌の悔悟の情のみえるのとは反対な意のものである。当時の官人の、職責に対する覚悟の足りなかったことを明らかに示しているものである。
右、神亀四年正月、数王子及び諸臣等、春日野に集ひて、打毬の楽を作《な》す。その日忽に天|陰《くも》り雨ふり雷電す。この時宮中に侍従及び侍衛無し。勅して刑罰に行ひ、皆授刀寮に散禁して、妄に道路に出づるを得ざらしむ。時に悒憤して即ちこの歌を作る。作者いまだ詳ならず。
右、神龜四年正月、數王子及諸臣等、集2於春日野1而作2打毬之樂1。其日忽天陰雨雷電。此時宮中無2侍從及侍衛1。勅行2刑罰1、皆散2禁於授刀寮1、而妄不v得v出2道路1。于v時悒憤即作2斯謌1。作者未v詳
【解】 「打毬」は、毬を翫ぶ遊びとは知れるが、そのさまは明らかではない。『代匠記』は、和名抄では蹴鞠とは異なるといい、日本書紀では同じで明らかでないと言っている。「侍衛」はすなわち授刀舎人の任である。「悒憤」は、憂え憤る意。歌にはその趣は見えていない。
五年戊辰、難波宮に幸せる時作れる歌四首
【題意】 「五年」は神亀五年である。目録には、この題詞に続けて、「車持朝臣千年」と作者名があるが、こちらではそれが左注となっている。目録は後よりのものと取れる。この行幸のことは、続日本紀には出ていない。また行幸の時の歌というが、歌は四首とも相聞であって、雑歌の範囲のものではない。このことはすでに往々あったことである。
950 大王《おほきみ》の 界《さかひ》賜《たま》ふと 山守《やまもり》居《す》ゑ 守《もる》る云《と》ふ山《やま》に 入《い》らずは止《や》まじ
(207) 大王之 界賜跡 山守居 守云山尓 不入者不止
【語釈】 ○大王の界賜ふと 「界」は境界の意で名詞。その界は、下の「山」についてのもの。「腸ふと」は、給うとてで、お立てになるとての意。大君が御領のゆえに境界をお立てになるとて。○山守居ゑ守る云ふ山に 「山守」は山を守る者すなわち山の警衛をする役人。「居ゑ」は、置いて。「守る云《と》ふ山」は原文「守云山」。旧訓「もるといふ山」。『考』の訓。守ると人が言っている山で、噂に聞く形のもの。○入らずは止まじ 「入る」は山守の目を掠《かす》め禁を犯して入る意で、すなわち盗伐。盗伐をしなくてはやむまい。
【釈】 大君の境界をお立てになり、山の警衛の役人を置いていると聞く山に、我は盗伐をしに入らずにはやむまい。
【評】 神聖なる山に対して、甚しく不敬な念を抱いた形であるが、これはすべて譬喩で、「大王」というのは、この作者よりいうと、それほどまでに思われる貴い身分の人、「山」というのは、その娘、「山守」というのは、娘の母あるいは侍女を譬えてあるので、「入る」は、その娘をひそかにわがものとする譬である。すなわち心は相聞の範囲のもので、体は完全な譬喩歌である。この昏喩は構想そのものが譬喩となっており、文芸性の多いもので、その意味では時代の先駆をなしているものである。しかし、譬喩が粗野で、荒さをもっている点では、古風を脱しないものである。行幸の供奉の際の歌としてあるが、行幸には何のかかわりもない相聞である。
951 見渡《みわた》せば 近《ちか》きものから 石隠《いそがく》り かがよふ珠《たま》を 取《と》らずはやまじ
見渡者 近物可良 石隱 加我欲布珠乎 不取不已
【語釈】 ○見渡せば近きものから 「見渡せば」はここは海に対してである。「近きものから」は、距離は近くありながら。○石隠りかがよふ珠を 「石《いそ》」は石の古語。「隠り」は連用形。この石は下の「珠」の着いているもので、海中の岩。海中の岩に隠れて。「かがよふ」は輝く。「珠」は鰒珠で真珠。鰒珠は鰒の貝の中にあって、露出している物ではなく、したがって水中の物が水面まで輝やくというようなことはないことである。しかし名高い古伝説に、大きな鰒珠のそうした状態をあらわしていたということがあるので、そういうことを心に置いて言ったものと取れる。○取らすはやまじ 採ってわが物としなければやむまい。
【釈】 海の上を見渡すと、距離は近いながら、海中の岩に隠れて輝いているその鰒珠を、探ってわが物としなければやむまい。
【評】 「珠」は美しい女の譬喩で、珠を尊重する風習から、古くから用いるものである。しかし海中の鰒珠の大きな物が水面まで耀いているということは、古伝説にはあるが歌に捉えた例はないので、そこには新味がある。女の美しさとともに身分の貴(208)いことをあらわそうとしてのものと取れる。「石」はその女を保護している親の譬喩である。これも相聞の譬喩歌で、また譬愉は完全なものである。「石隠りかがよふ珠」という続けは、細かい心の働いたものである。調べに荒さはあるが、全体に美しく、当時としての新風の歌である。
952 韓衣《からころも》 服楢《きなら》の里《さと》の 島《しま》まつに 玉《たま》をし付《つ》けむ 好《よ》き人《ひと》もがも
韓衣 服楢乃里之 嶋待尓 玉乎師付牟 好人欲得
【語釈】 ○韓衣服楢の里の 「韓衣」は、「韓」は「唐《から》」の字に当て、当時の外国の総称であるが、ここはその中でも重んじていた唐の意のもの。「韓衣」は、唐風に仕立てた衣。当時好んで着たとみえ、後には単に衣《ころも》の意で用いられる語ともなった。「服楢」は、着馴《きなら》らすと続けたもので、その「馴ら」を、京の奈良に転じたもので、「韓衣服」は、奈良の序詞。「楢の里」は、この歌の作者の住んでいる地としていっている。○島まつに 「島」は築庭《つきにわ》の当時の称。巻三(四五二)妹として二人《ふたり》作りし吾が山斎《しま》は」以下しばしば出た。「まつ」は松の木で、築庭の植木としての物。島まつは熟語。○玉をし付けむ好き人もがも 「玉をし付けむ」は、「玉」は美しく貴い物として言ったもの。「し」は、強め。「付けむ」は、結び着けようところのと下へ続く。わが愛している松の木に、愛でたい玉を結び着けて、ますます愛すべき木とするの意。これは当時、神に物を供える時を初めとし、人に物を贈り、また書状を贈る時には、滑らかな木の枝に結び着けることが一般の風習となっていたから、連想しやすいことだったのである。「好き人もがも」は「好き人」は教養あり、身分もある人を尊んでの称。「もが」は、「も」を伴った願望の意のもの。
【釈】 わが住む奈良の里の、この築庭の愛でたい松の木に、それに適《ふさ》わしい愛でたい玉を結び着けて、ますます愛でたい物とする好き人の欲しいことであるよ。
【評】 島は一時代前まではきわめて稀れなものであったと見え豪奢な蘇我入鹿が島を築いて住んでいたところから島大臣《しまのおとど》と呼ばれ、その邸が後天武天皇の離宮となり、皇太子日並皇子尊に賜わって、島宮と呼ばれていたことは前に出た。この時代には大伴旅人も山斎《しま》を持っているなど、やや一般化していたとみえる。この歌の作者も、「島まつ」を愛している人で、身分のある人とみえる。この「島まつ」は、作者の愛している娘の譬喩としたもの。「玉をし付けむ」は、「好き人」のその娘に心を寄せて、夫婦関係を結ぶことの譬喩である。一首、娘を待った親の、良縁を願っていることを譬喩をもってあらわしているので、譬喩が完全であり、したがって婉曲でもあるところから、その意のないものとしても受取られうるほどの歌である。しかし上の二首もすでにそうしたものであって、この歌は取材が新しく、また高雅でもあるところから、その感が一段と強いというにすぎないだけで、作意は譬喩歌と取れる。作者は、左注によると笠金村の歌集中のものであるから、大体金村の作と思われる。(209)金村の歌に通じてみえるところは、空想的で、憧れの情が強く、情熱があり、積極的でもあって、才分も豊かなものがあるから、想像を駆ってこうした歌を詠むということもありうることに思える。三首とも文芸性の多い、新味の豊かな作である。
953 さ牡鹿《をしか》の 鳴《な》くなる山《やま》を 越《こ》え去《ゆ》かむ 日《ひ》だにや君《きみ》に はた逢《あ》はざらむ
竿牡鹿之 鳴奈流山乎 越將去 日谷八君 當不相將有
【語釈】 ○さ牡鹿の鳴くなる山を 「さ牡鹿」の「さ」は接頭語。牡鹿の鳴くのは、牝を恋うて喚ぶのであるとしていったもの。季節は秋である。これはあわれ深いこととして前代から歌にされていることである。○越え去かむ日だにや君に 「越え去かむ日」は、事としては、今居る地を離れて旅立とうとする日であって、そのことを具体的にいったもの。その地は、奈良京からであっても、また難波宮から奈良へ還るのであっても、いずれは山を越すのであるから、言いうることである。ここは難波宮からの時と取れる。「だにや」は、「だに」は、でもというにあたる。「や」は、疑問。「君」は妻とする女であって、この敬称は当時の新風習であった。○はた逢はざらむ 「はた」は、またという意に、詠歎歎を籠めての語。
【釈】 牡鹿が妻恋いをして、鳴いているあわれ深い山を越えてここから離れ去ろうとする日でも、やはりまた君に逢わないのであろうか。
【評】 「君」というのは妻に対しての称であるが、妻の範囲は広く、同棲している関係は稀れで、また親疎の程度もさまざまであるから、関係している女というだけでも称しうる語である。この歌の「君」はそうした女と取れる。「日だにや君にはた」といっているのは、同じ地にいる間も逢うことのなかったことを思わせる言い方だからである。また、「さ牡鹿の鳴くなる山」は、表面は単に山の状態としていっているものであるが、その「さ牡鹿」は作者自身を暗示しているもので、強い感傷と訴えとを托したものだからである。さらにまたこの歌は、一首の調べが細く澄んだもので、作者の感傷の直接の現われと思わせるのである。それらの点から見て、この歌は前の三首と繋がりをもっているもので、身分の高い女で、ただ憧れを寄せていただけの人に、よそながら別れ去る悲しみを詠んだものではないかと取れる。それだとこの四首は、やや散漫であるが、繋がりをもっていて、連作の関係になっているものと見られる。金村の歌として見て、優れたものと言えるものである。
右、笠朝臣金村の歌の中に出づ。或は云ふ、車持朝臣千年作れり。
右、笠朝臣金村之歌中出也。或云、車持朝臣千年作之也。
【解】 撰者の注で、諸本異同がない。『略解』は、「歌」の下に「集」の字のあったのが脱けたのではないかと言っている。これ(210)は他の例によってのことである。金村の歌であろうということは上に言った。千年の歌という伝は、この歌が当時注意されるものであったところから起こったものかと思われる。
膳王《かしはでのおほきみ》の歌一首
【題意】 「膳王」は、巻三(四四二)に出た膳部王《かしわでのおおきみ》と同じであろうとされている。それだと長屋王の御子、御母は吉備内親王で、神亀元年二月従四位下、天平元年二月、父王の事に坐してともに自尽された人で、その事は続日本紀に詳しい。
954 朝《あした》には 海辺《うみべ》にあさりし 暮《ゆふ》されば 倭《やまと》へ越《こ》ゆる 雁《かり》しともしも
朝波 海邊尓安左里爲 暮去者 倭部越 鴈四乏母
【語釈】 ○朝には海辺にあさりし 「海辺」は、海の辺りで、あさりをする水際。海を珍しく快い所としていったもの。○暮されば倭へ越ゆる 「倭へ」は倭へ向かってで、雁の飛ぶ方角であるが、大袈裟な言い方は、王自身京の恋しい心から、迎えていったのである。なほ倭は東の方角である。「越ゆる」は、山を飛び越える意で、山へ向かって飛んだのをこのようにいうのも、同じく迎えてである。○雁しともしも 「し」は強め。自身と比較しての強め。「ともし」は羨し。「も」は、詠歎。
【釈】 朝の中は珍しく快い海の水際であさりをして、夕べが来ると、倭へ向かって山を飛び越えてゆく雁は、羨しいことであるよ。
【評】 歌の上の場所は、倭に近い海辺であるから、難波であり、行幸の供奉ということが自然であろう。王自身、海の景色を喜びつつも、奈良の邸を恋しく思う心を、雁に寄せて言われているものである。単純な心をもって詠まれたものであるが、抒情の心が不足なく具象されているので、おのずから含蓄のあるものとなっている。
右、作歌の年審ならず。但歌の類を以て便にこの次に載す。
右、作歌之年不v審也。但、以2歌類1便載2此次1。
【解】 撰者の問題とした点は、作歌の年である。王を膳部王とし、その最終と思われる年に当てたものとみえる。
大宰少弐石川朝臣|足人《たりひと》の歌一首
(211)【題意】 「石川足人」は、巻四(五四九)の題詞で、神亀五年任を遷されて都へ還ったことが出ている。ここも同じ年のことであるから、その遷任以前のことである。なお以下十四首は、旅人を中心とした大宰府の歌で、巻五の撰者の編集当時には収録し得なかったと思われるものである。
955 刺竹《さすたけ》の 大宮人《おほみやびと》の 家《いへ》と住《す》む 佐保《さほ》の山《やま》をば 思《おも》ふやも君《きみ》
刺竹之 大宮人乃 家跡住 佐保能山乎者 思哉毛君
【語釈】○刺竹の大宮人の 「刺竹の」は、大宮、皇子、舎人壮《とねりおとこ》、葉隠《はごも》りなどにかかる枕詞であるが、意は諸説があって定まらない。「刺す」は瑞枝さすのそれと同じく、芽をふいて伸びる意で、若竹の勢よく、清々《すがすが》しいごとくと大宮を讃えたものという解が比較的穏やかに聞こえる。「竹の根の根足る宮」という古事記の歌謡の句もつながりがあると言えよう。大宮から他へ及んだもので、葉隠りは別である。ここは「大宮人」にかかる。○家と住む佐保の山をば 「家と住む」は、家として住んでいるで、「佐保」の特色をいったもの。「佐保」は、巻三(三〇〇)以下しばしば出た。現在の奈良市の西北部、法蓮町と法華寺町にわたる地。廷臣の邸宅が多く、大伴家の邸も古くからそこにあったのである。「佐保の山」は、佐保を山寄りの関係から広く言いかえたもので、邸よりも風光のほうを主としての言い方である。そのほうが婉曲で礼にもかない、またみやびてもいるからである。○思ふやも君 「思ふ」は、恋しく思う意。「やも」は「や」の疑問に、「も」の詠歎を続けたもの。「君」は旅人をさしての呼びかけ。
【釈】 大宮人が家として住んでいる所の都の佐保の山を恋しくお思いになりますか君。
【評】 老いたる旅人が、大宰帥として久しく辺境にとどまっていることをいたわって、慰めの心をもって問いかけたものである。少弐として同じ大宰府にいた足人が、歌をもって言っているのであるから、京へ遷任することになった喜びが旅人への同情となって、別れを予期しての作かと思われる。一首の柔らかな調べがそうした心を十分にあらわしているといえる。奈良京といわず、また佐保ともいわずに、「佐保の山」といっているのは、細かい用意の伴っていることである。
帥大伴卿の和ふる歌一首
【題意】 「帥大伴拗」は、旅人に対しての最上の敬称である。本巻の撰者のしたものではないかといわれている。
956 やすみしし 吾《わ》が大王《おほきみ》の 食国《をすくに》は 大和《やまと》もここも 同《おや》じとぞ思《おも》ふ
(212) 八隅知之 吾大王乃 御食國者 日本毛此間毛 同登曾念
【語釈】 ○やすみしし吾が大王の しばしば出た。○食国は 原文「御食国」。類聚古集外三本「御」がない。旧訓「みけくに」。『考』の訓。「食《を》す」は食うの敬語で、身に入れ給う国の意で、国を支配する意で慣用された語。御領国。○大和もここも同じとぞ思ふ 「大和」は、足人の「佐保の山」といったのを、大君を主として広く言いかえたもの。「ここ」は、筑紫の意。「同《おや》じ」は、同《おな》じの古語。
【釈】 やすみししわが大君の御支配になられる国は、大和でも、この筑紫でも、同じだと思っていることである。
【評】 足人は旅人の老齢にして辺境の任にあることをいたわり、私的生活の面に力点を置いていったのであるが、旅人はそれを斥け、公的生活の面に力点を置いて和《こた》えたのである。歌はいささかの昂奮も帯びず、淡如として平生の素懐を語っている趣のもので、そのことは「同じとぞ思ふ」ということを中心としていっているところに現われている。旅人の歌は、歌に遊ぼうとの意識をもってのものは別だが、その他のものは、率直に淡泊に実情を詠んでおり、これなどもその範囲のものである。人を動かす力のある歌である。
冬十一月、大宰官人等、香椎廟《かしひのべう》を拝《をろが》み奉《まつ》り訖《を》へて退り還りし時、馬を香椎浦に駐《とど》めて、各《おのもおのも》懐《おもひ》を述べて作れる歌
【題意】 「冬十一月」は年号がないので、前よりの続きで、神亀五年と思われる。「香椎廟」は、香椎宮に仲哀天皇と神功皇后を合祀してあるところからの称。香椎は仲哀天皇の討(旁可)志比宮があったところで、崩御の地でもある。和名抄に、「筑前国糟屋郡香椎」とあり、今の福岡市香椎町で博多湾に面している。
帥大伴卿の歌一首
957 いざ児等《こども》 香椎《かしひ》の潟《かた》に 白妙《しろたへ》の 袖《そで》さへ沾《ぬ》れて 朝菜《あさな》採《つ》みてむ
去來兒等 香椎乃滷尓 白妙之 袖左倍所沾而 朝菜採手六
【語釈】 ○いざ児等香椎の潟に 「いざ」は誘う意。「児等」は部下の者を親しんでの称で、呼びかけ。「潟」は遠浅の干潟になっている所の称。そのおりから干潮で、干潟になっていたと取れる。○白妙の袖さへ沾れて 「白妙の」はここは枕詞ではなく、参拝の時の服色と取れる。「袖さへ」(213)は袖までも、袖の濡れるのもかまわずに、すなわち心一ばいに。○朝菜採みてむ 「菜」は副食物の総称であって、ここは食用に堪える海藻を意味させたもの。「朝菜」は、朝餉の副食物で、その時が朝餉以前であり、晨朝の参拝であったことに即した語と取れる。
【釈】 さあ皆の者よ。おりからの香椎の干潟で、その白妙の袖までも濡れて朝莱を摘もうよ。
【評】 朝菜を摘むというごとき、海人《あま》としては平凡極まることが、官人にとっては珍しい大きな慰みになっていたことは、行幸の供奉の歌に多いのでもわかる。それがすでに風流だったのである。この歌で、旅人が昂奮した口気をもっていっているのもその心からで、「いざ児等《こども》」と呼びかけ、「袖さへ沾れて」と刺激的にいっているのはそのためである。これは長官としては時宜に適した挨拶で、一行はその心を解して喜んだものと思われる。旅人の上品な明るい心の現われている歌である。
大弐|小野老《をののおゆ》朝臣の歌一首
【題意】 「小野老」は、巻三(三二八)に「大宰少弐」とあり、天平二年正月旅人邸における梅花の宴の際も「少弐」とある(巻五〔八一六〕)ので、この時はまだ大弐ではなかったと思われる。後の官名を記したのであろう。
958 時《とき》つ風《かぜ》 吹《ふ》くべくなりぬ 香椎潟《かしひがた》 潮干《しほひ》の浦《うら》に 玉藻《たまも》苅《か》りてな
時風 應吹成奴 香椎滷 潮干※[さんずい+内]尓 玉藻苅而名
【語釈】 ○時つ風吹くべくなりぬ 「時つ風」は満潮になる時に、それに伴って吹き起こる風の称。「吹くべくなりぬ」は吹きそうになって来たで、二句、満潮のけはいとなって来たの意。○香椎潟潮干の浦に 香椎潟の、今干潮となっている浦に。○玉藻苅りてな 「玉藻」は上の歌の「朝菜」と同じ物で、食用としての藻に、「玉」の美称を添えたもの。「苅りてな」の「な」は、自己に対しての願望で、未然形に続く。
【釈】 満潮に伴う時つ風が、吹き立ちそうなけはいとなって来た。香椎潟の今の干潮の浦に、我は玉藻を苅ろう。
【評】 上の旅人の歌に対して.一行を代表して歌をもって答えた形のものである。「時つ風吹くべくなりぬ」は、海の遊びをするのは今のうちだとの意で、旅人の勧めを強めたものである。以下も同じで、旅人の「香椎の潟に」といったのを、「香椎潟潮干の浦に」といい、「朝菜採みてむ」を、「玉藻苅りてな」といって応じたのである。要を得た、また重みをもった歌である。
豊前守|宇努首男人《うののおびとをひと》の歌一首
(214)【題意】「字努」は氏、「首」は姓、「男人」は名。『姓氏録』大和国諸蕃に、百済君国の男、弥奈曾富弥《みなそほみ》の後とある。また『政治要略』二十三に、養老四年、大隅、日向の隼人が乱を起こした時、豊前守宇野首男人を将軍として征討させ、大勝をした事が載っている。養老四年からこの神亀五年までは九年間であり、国守の任期としては珍しくも長いことになる。
959 往《ゆ》き還《かへ》り 常《つね》に我《わ》が見《み》し 香椎潟《かしひがた》 明日《あす》ゆ後《のち》には 見《み》む縁《よし》もなし
徃還 常尓我見之 香椎滷 從明日後尓波 見縁母奈思
【語釈】 ○往き選り常に我が見し 「往き還り」は、その任所である豐前の国庁と大宰府との間の往復。公務を帯びてのことである。「常に」はいつも。○香椎潟 上の「見し」に続くもので、呼びかけ。○明日ゆ後には見む緑もなし 「明日ゆ後には」は、明日より後にはで、現に香椎潟を見ていての感で、明日はそこを立ち去る意の言。「見む縁もなし」は見るべき縁《ゆかり》もないというので、永久に関係の絶えてしまう意でいっているもの。
【釈】 豊前の国庁と大宰府との往復に、いつも見たところの香椎潟よ。明日から後には見るべき縁《ゆかり》もない。
【評】 豊前守としての任が解けて京へ上る途中、香椎潟の見えるところに一日を過ごし、その風光を愛でる心から別れを惜しみ、その風光と自身との関係を大観しての嘆きである。作歌の手腕としてはむしろ平凡なむのであるが、対象となっているものは自然の佳景であり、永久の別れを意識しての嘆きなので、人の胸に沁みるものがある。
帥大伴卿、遙に芳野離宮を思ひて作れる歌一首
960 隼人《はやひと》の 湍門《せと》の磐《いはほ》も 年魚《あゆ》走《はし》る 吉野《よしの》の滝《たぎ》に 尚《なほ》如《し》かずけり
隼人乃 湍門乃磐母 年魚走 芳野之瀧尓 尚不及家里
【語釈】 ○隼人の湍門の磐も 「隼人の湍門」は、くわしくいうと隼人の国の薩摩の湍門で、「集人」は、古くは後の薩摩国の名であり、薩摩は一地方の名だったのである。ここは省いていった形のもの。「湍門」は、薩摩国|出水《いずみ》郡の黒瀬戸であり、現在は阿久根市と長島の間の海峡である。一説には関門海峡ともいう。「磐」は海中にある物。「も」は並べる意のもので、詠歎を含んでいる。隼人の国の歎門の磐も好くはあるがの意。これは遠く聞こえていた風景であって、巻三(二四八)「隼人《はやひと》の薩摩の迫門《せと》を雲居なす遠くも吾は今日見つるかも」によっても知られる。旅人のここ(215)を見たのは、大宰帥はその職務として筑紫の九国二島を巡察すべきことになっているので、その途次のこととしてである。○年魚走る吉野の滝に「吉野の滝」は吉野川の滝で、「滝」は離宮の辺りの激流になっている所の称である。そこは岩石の多いところなので、水と岩と相俟っている所という関係で、「湍門の磐」に比較したのである。○尚如かずけり 「尚」はやはり。「如かず」の「ず」は、ここは連用形であり、「けり」の詠歎に続いて、後の「如かざりけり」にあたる当時の格。及ばないことであるよの意。
【釈】 隼人の薩摩の湍門の磐も好くはあるが、これに似通うところのある、鮎が走り泳いでいる吉野川の滝には、やはり及ばないことであるよ。
【評】 隼人の湍門の磐と、吉野川の滝の巌とは、いずれも水によって趣をなしているもので、似通うところがある関係上、それを並べて評したもので、旅人でないと思い寄らないような歌である。吉野の滝のほうが優っているとするのは、あるいは故郷の恋しいというところも関係しているかもしれぬが、大体はそうした一般的な人情からではなく、旅人の素質からきているのではないかと思われる。それは、巻三(三一六)「昔見し象《きさ》の小河を今見ればいよよ清《さや》けくなりにけるかも」というのがあり、旅人は吉野の風景を酷愛していたとみえる。吉野の特色はその幽寂なところにある。今も比較の対象としている吉野川をいうに、年魚走るを添えているのも、その心からであろう。落ちついた、品のある歌である。
帥大伴卿、次田《すきた》の湯泉《ゆ》に宿りて、鶴《たづ》の喧《な》くを聞きて作れる歌一首
【題意】 「次田の温泉」は、今は福岡県筑紫郡二日市町天神山の麓にあって、すい田《た》と呼んでいる(武蔵温泉)。大宰府からはいくばくの距離もない所である。歌で見るとこの時は、旅人は妻大伴郎女に死別していくばくもない時であったとみえる。
961 湯《ゆ》の原《はら》に 鳴《な》く蘆鶴《あしたづ》は 吾《わ》が如《ごと》く 妹《いも》に恋《こ》ふれや 時《とき》分《わ》かず鳴《な》く
湯原尓 鳴蘆多頭者 如吾 妹尓戀哉 時不定鳴
【語釈】 ○湯の原に鳴く蘆鶴は 「湯の原」は今は名は残っていないが、温泉の湧き出す原の意で、そう呼ばれていたと取れる。「蘆鶴」は鶴で、歌語となっていたもの。○吾が如く妹に恋ふれや 「恋ふれや」は、後の「恋ふればや」にあたる古格で、「や」は疑問。○時分かす鳴く 鳴く時を分かたずに、すなわち絶えず鳴いている。
【釈】 湯の原に鳴いている鶴は、我のごとくにも、その事を恋うているのであって、あのように絶えず鳴いているのか。
(216)【評】 温泉に近い湯の原に、絶えず鳴いている鶴の声に心を寄せて、自分の亡き妹を恋うて泣いている心より迎えて、鶴にそうした事情があって鳴いているのかと思いやったのである。老体に入って、長い伴侶であった妻に旅で先立たれた寂莫の感が、こうした状態に陥らしめたのである。「鳴く」を繰り返しいっているところは旅人としても素朴な、むしろ荒さをもった歌である。
天平二年庚午、勅して擢駿馬使大伴|道足《ちたり》宿禰を遣せる時の歌一首
【題意】「擢駿馬使」は、駿馬を抜擢するための使で、臨時に諸国に遣わされたものである。「大伴道足」は、その使を命じられて大宰府に下って来たのである。道足は、正四位下で、大伴氏一族の間にあっては旅人についでの高位の人である。歌は左注によって、この道足を歓待するために旅人の家で宴を張った際、葛井《ふじゐの》連広成の詠んだものである。
962 奥山《おくやま》の 磐《いは》に蘿《こけ》生《む》し 恐《かしこ》くも 問《と》ひ賜《たま》ふかも 念《おも》ひあへなくに
奥山之 磐尓蘿生 恐毛 問賜鴨 念不堪國
【語釈】 ○奥山の磐に蘿生し 奥山の岩に苔が生えてで、見る目の恐ろしさから「恐く」と続け、その「恐く」の意を転じて序詞としたもの。○恐くも 「恐く」は下の続きで、尊い人に対すると恐れ多く感じる意のものである。上を承けての転じ方の少ないものである。以上は、巻七(一三三四)「奥山の石《いは》に蘿《こけ》生《む》し恐《かしこ》けど思ふ情《こころ》をいかにかもせむ」とある古歌を踏んだもの。「も」は詠歎。○問ひ賜ふかも 「問ひ賜ふ」は左注によって初めて意の明らかになるもので、宴席に集まっている人々が広成に、即座に歌を作れと言ったのに対して答えたもので、歌が作れたかと問われるの意。「かも」は詠歎。○念ひあへなくに 「念ひ」は、歌を思うで、作ろうとして考える意。「あへなく」は、「あへ」は能う意。「なく」は打消「ず」の未然形の「な」に「く」の添って名詞形となったもの。「に」は詠歎。詠めずにいることであるのに。
【釈】 奥山の岩に苔が生えて見る目の恐ろしい、それに因みのある恐れ多くも、歌を作れと問われることであるよ。詠めずにいることであるのに。
【評】 これは広成が、即座に歌を作れと人々から言われて、その出来ないことを断わった心のもので、断わりを言うのを歌の形式をもってし、しかも即座にしたので、その機才が喝采されて、その意味で伝えられたものである。しかしそうした事は、左注があるがゆえに初めてわかることで、この歌だけではわからないことである。すなわちこの歌は、一首の歌として見る資格のないものなのである。それが法外に喝采されたということは、歌と宴席との関係によってのことである。本来酒には歌は(217)離れられないもので、杯な勧めるにもまず歌がなければならず、また酒興を添えるにも歌でなくてはならなかった。この場合にも広成の要望された歌は、必ずしも歌として優れている必要はなく、ただその席上の人々の興を買いうれば十分だったので、歌が詠めないということを歌の形式をもって言った当意即妙さは、なまなかの歌よりもかえって喝采を博し得たのである。これが時代の趨勢で、歌はその量は増したが質は低下させることとなった。
右、勅使大伴道足宿禰を帥の家に饗す。此の日会集の衆諸、駅使《はゆまづかひ》葛井連広成を相誘ひ、歌詞を作るべしと言ふ。登時《そのとき》広成声に応じて、即ち此の歌を吟《うた》へりき。
右、勅使大伴道足宿祢饗2于帥家1。此日合集衆諸、相2誘驛使葛井連廣成1、言v須v作2謌詞1。登時廣成應v聲即吟2此謌1。
【解】 「駅使」は、公の文諸を送達する使で、葛井広成は、おりからその使となって京から大宰府に来合わせていたのである。「葛井連広成」は、神亀五年五月正六位上より外従五位下に進んだ人で、駅使としては身分の高い人である。何らかの事情の伴っての使であったかと思われる。
冬十一月、大伴坂上郎女、帥の家を発して道に上りて、筑前国|宗形《むなかたの》郡|名児山《なごやま》を超ゆる時作れる歌一首
【題意】 「坂上郎女」は大宰府の旅人の家に来ていたのであるが、天平二年十二月旅人が京へ還るに先立って、「十一月」に発足したのである。「名児山」は『筑前統風土記』に、「宗像郡名児山、田島の西の山なり。勝浦の方より田島へ越す嶺なり。田島の方の東の麓を名児浦といふ。晋は勝浦潟より名児山を越え、田島より垂水越をして、内浦を通り、蘆屋へゆきしなり。これ昔の上方へ行く大道なり」とある(福岡県宗像郡津屋崎町勝浦と玄海町田島との間の山)。郎女の通った順路が知られる。
963 大汝《おほなむち》 少彦名《すくなひこな》の 神《かみ》こそは 名《な》づけそめけめ 名《な》のみを 名児山《なごやま》と負《お》ひて 吾《わ》が恋《こひ》の 千重《ちへ》の一重《ひとへ》も なぐさめなくに
(218) 大汝 小彦名能 神社者 名著始鷄目 名耳乎 名兒山跡負而 吾戀之 千重之一重裳 奈具佐米七國
【語釈】 ○大汝少彦名の 「大汝」は大己貴神、すなわち大国主神。「少彦名」は神産巣日神の御子で、指の股から生まれ給うたという小さい神。この二神が相扶けて、最初わが国土を経営されたということは、上代に広く行き渡っていた伝えであった。○神こそは名づけそめけめ 「名づけ」は名をつけることであるが、名は物が存在するとともに付けられるもので、「名づけ」は意味の重いことである。ここは名の起源を想像しただけのもので、それほどの重さはないものである。この二神のことは集中にも出ており、巻三(三五五)「大汝小彦名の座しけむ志都《しつ》の石室《いはや》は幾代経ぬらむ」があり、また、巻七(一二四七)人麿歌集の歌として、「大穴牟遅少御神《おほなむちすくなみかみ》の作らしし妹背の山は見らくしよしも」がある。○名のみを名児山と負ひて 「名のみを」は単に名だけをで、実が伴わない意で下に続く。「名児山」は、「名児」が、「和《なご》む」に通うところから、その名によって和《なご》むことを求めたのである。和むは、下の「恋」の苦しさの和《なご》む意である。上代は名はその物の魂であり、その物にふさわしい力を持っているものとしてきわめて尊んでいたので、ここにいっていることはまじめな要求であって、決して軽い心よりのものではない。○吾が恋の千重の一重も 「吾が恋」は、わがなつかしく思う心で、大宰府に残して来た人すなわち兄の旅人に対しての心。「千重の一重」は千分の一で、いささかということを具象的にいったもの。○なぐさめなくに 慰めぬことであるのに。「名のみを」以下は、巻七(一二一三)名草山ことにしありけり吾が恋ふる千重の一重もなぐさめなくに」がある。
【釈】 大汝と少彦名の神こそは、この山の名を付けはじめられたのであろう。しかるに、単に名だけを名児山と持っているだけで、わがなつかしく思う心の苦しみの千分の一をも、和《なご》め慰めないことであるよ。
【評】 名児山は大宰府より遠くない所にある山であるが、それを越すと大宰府が視界から消えるので、それに刺激されて後に残して来た兄旅人が心許なく感じられるとともに、名児山という名に刺激されて、物の名に対する信仰心からこうした歌を詠んだものとみえる。物の名に対する信仰はきわめて古い時代より伝わって来ているもので、そうした借仰は主として女性によって保持されるものである上に、郎女は信仰心の深い人であったことが他の歌でも知られるのて,ここても名児山という名によって兄を案じる心の和められることを要求したのである。しかし詠んだ歌は古い歌の二首を綴り合わせた安易なものであり、結局は「なぐさめなくに」という失望をいっている軽いものなのである。信仰と、その信仰の必ずしも頼めるものではないことを同時に示している点が、この時代の実情で、それがまた周囲の人に親しく感じられたのであろう。
同じき坂上郎女、京に向ふ海路に、浜の貝を見て作れる歌一首
964 吾《わ》が背子《せこ》に 恋《こ》ふれば苦《くる》し 暇《いとま》あらば 拾《ひり》ひて去《ゆ》かむ 恋忘貝《こひわすれがひ》
(219) 吾背子尓 戀者苦 暇有者 拾而將去 戀忘貝
【語釈】 ○吾が背子に恋ふれば苦し 「背」は女より男に対しての総称。「吾が」も「子」も親しんで添えたもので、これはその意の最高の称。兄の旅人。「恋ふれば苦し」は、なつかしく思うので、心が苦しい。○暇あらば拾ひて去かむ 「暇あらば」は海路は天候次第のもので、自由に出来ないところからのこと。「拾ひて」は下の「忘貝」。「去かむ」は持ち行かむで、身に着けていて、その力を受けようの意。○恋忘れ貝 「忘貝」は巻一(六八)に出た。物を忘れさせる霊力を持っている貝としていたので、名に対する上代信仰を承けての心である。上の歌の名児山と同じである。「恋」は恋を忘れさせる、すなわちその苦しみを失わせる意で添えた語。三句以下は、巻七(一一四七)「暇あらば拾ひに行かむ住吉《すみのえ》の岸に寄るとふ恋忘貝」によったもの。
【釈】 わが背子をなつかしく思うので心が苦しい。自由に出来る暇があったならば、拾って身に着けて持って行こう、恋忘貝を。
【評】 名の持つ力を信仰するところも、古歌を踏んで詠んでいるところも、前の歌と全く同じである。境と物は異なるが、心はいつも同じだということは、坂上郎女の人柄というよりもむしろ女性に共通した心と見るべきである。
冬十二月、大宰帥大伴卿の京に上る時、娘子《をとめ》の作れる敬二首
【題意】 題詞については、左注が詳しく補っている。
965 凡《おほ》ならば かもかもせむを 恐《かしこ》みと 振《ふ》りたき袖《そで》を 忍《しの》びてあるかも
凡有者 左毛右毛將爲乎 恐跡 振痛袖乎 忍而有香聞
【語釈】 ○凡ならばかもかもせむを 「凡」はおおよそ、普通というにあたり、旅人の身分についていっているので、普通の身分の人であるならば。「かもかも」は原文「左毛右毛」。今の、とにもかくにもにあたる古語。別れを惜しんでその人の衣を摺り、旅中の用具を贈るなどしたので、それらを思ってのこと。「を」は詠歎。○恐みと 旧訓「かしこしと」。『古義』の訓。恐れ多いことだと。○振りたき袖を忍びてあるかも 「振りたき」は一語で、言痛《こちた》し、恋痛《こひた》し(巻二〔一三○〕「ゆくゆくと恋痛き吾弟」)と同型の語で、振ることを痛くしたい意と取れる。別れを惜しんで袖を振ることはしばしば出た。「忍びてある」は怺《こら》えているで、時間を含んでいる語。「かも」は詠歎。
【釈】 普通の人であるならば、ああもこうもしようものを。恐れ多いことだと、いたくも振りたい袖を、怺えていることであるよ。
(220)【評】 その心の赤裸々に現われている歌で、続く一首と相俟って娘子の全幅を髣髴させるものである。おそらく長く愛顧を蒙った帥との別れに臨み、その当時の風に従って記念になるべきことをああこうと思ったが、自身の身分を省みて一切を遠慮してさしひかえ、今見送りをすると路の上に立っても、きわめて普通にする袖を振ることも、したくて堪らないのをじっと怺えて、ただ帥を見詰めている心の躍動の現われである。言っている言葉そのものは一遊行婦としての心であるが、それを通して正直な、わきまえの十分にある、しかも情熱と感激に富んだ女の心の動きの跡が現われていて、可憐な面白さが見えてくる。
966 大和路《やまとぢ》は 雲隠《くもがく》りたり 然《しか》れども わが振《ふ》る袖《そで》を 無礼《なめし》と思《も》ふな
倭道者 雲隱有 雖然 余振袖乎 無礼登母布奈
【語釈】 ○大和路は雲隠りたり 「大和路」は大和へ向かう道で、今旅人の行こうとしている路。「雲隠りたり」は、「隠り」はこの時代の四段活用。雲に連なって先が隠れて見えなくなっているというので、そのはるばると遠く続いていることを具象的にいったもの。○然れども 上の事を翻して、異なることを言う時にのみ用いる接続詞である。この場合、異なることは「わが振る袖」であるが、これは上二句とは何のつながりもないもので、接続し難い。強いて求めると上の歌の「振りたき袖を忍びてあるかも」で、それとならば緊密につながる。作意としてはそうしたものであろう。二首連作と見ればこれは許され難いことではなく、宴席に侍して即興の歌を詠み馴れていたと想像される娘子には、むしろ普通のことであったかとも思われる。○わが撮る袖を無礼と思ふな 「わが振る袖を」は、娘子は感に堪えられなくなってついに袖を振ったのであって、それをまた省みていったもの。「無礼」は巻十二(二九一五)に「妹登曰者 無礼恐」の用例があり、継体紀、安閑紀、欽明紀などに「軽」を「なめし」と訓んでいる。宜命に仮名書き例がある。「思ふな」は旅人に対しての訴え。
【釈】 君が行くべき大和往還は、はるばると続いて先が雲に隠れている。振るまいと怺えたけれども、その往還を望むと堪えられなくなって、わが振る袖を無礼とは思い給うな。
【評】 この歌は前の歌と同時のもので、連作の形となっているものである。前の歌で娘子は、身分のあまりなる懸隔に対して遠慮をし、何もせず何も言わず木石のように見送りをしていたが、感傷が高まって来て、その思慮を圧し、そのようにしている心中を弁明すると、そのために感傷はさらに高まり、帥が別れて去るべき道そのものさえも、遠く雲に紛れているのを見ると、ついに忍んでいた袖を振ることをせずにはいられなくなり、袖を振っての上にその弁明をしたのである。思慮を圧しつくして感傷に陥らしめたのは「大和路は雲隠りたり」という光景であるが、それと「わが振る袖」との間には飛躍がありすぎて続かないので、上の歌の「忍びてあるかも」を介入させて続けた形のものである。この続け方は当時の連作としては問題となる(221)ものであるが、作渚の娘子に力点を置いて見ると、大和路の光景が思慮を忘れさせたことを示していることで、その情熱の動きの自然さと敏活さを暗示によってあらわしていることで、味わいの深いものである。二首、実感に密接に即して、そのために味わいをなしている作で、この当時としては上代的な、庶民的な作である。
右、大宰帥大伴卿、大納言に兼任して、京に向ひて道に上る。此の日馬を水城《みづき》に駐《とど》め、府家を顧み望む。時に卿を送る府吏の中に、遊行女婦《うかれめ》あり。其の字を児島《こじま》と曰ふ。ここに娘子、此の別れ易きを傷《いた》み、彼の会《あ》ひ雑きを嘆き、涕を拭ひ、自ら袖を振る歌を吟《うた》ひき。
右、大牢帥大伴卿、兼2任大納言1、向v京上v道。此日馬駐2水城1、顧2望府家1。于v時送v卿府吏之中、有2遊行女婦1。其字曰2兒嶋1也。於v是娘子傷2此易1v別、嘆2彼難1v會拭v涕、自吟2振v袖之謌1。
【解】 「水城」は、濠を掘り水を湛えて城塞としたもので、敵に対しての防備のための物である。日本書紀天智紀に、「三年、於2対馬島、壱岐島、筑紫国等1置2防人与1v烽、又於2筑紫1築2大堤1貯v水、名曰2水城1」とある、その水城である。大宰府の西北十町福岡県筑紫郡大宰府町水城に御室川を中心に東西五百数十間の長堤の遺址がある。「府家」は、大宰府の庁。「遊行女婦」は和名抄に、「遊女、楊子漢語抄云、遊行女児和名宇加礼女又云阿曾比」とあり、巻一(六九)「清江娘子《すみのえのをとめ》」というがあって、同じ者である。貴族の出入りする地に住み、旅情を慰めた者であった。相応の教養をもっていたとみえる。「袖を振る歌を吟ふ」は、別れの歌を謡ったの意。
大納言大伴卿の和《こた》ふる歌二首
967 日本道《やまとぢ》の 吉備《きび》の児島《こじま》を 過《す》ぎて行《ゆ》かば 筑紫《つくし》の児島《こじま》 念《おも》ほえむかも
日本道乃 吉備乃兒嶋乎 過而行者 筑紫乃子嶋 所念香裳
【語釈】 ○日本道の吉備の児島を 「日本道」は大和へ通う追で、ここは帰途の意。「児島」は備前国(今の岡山県児島市、玉野市、岡山市の一部にわたる地)にあり、今は半島となっているが、古くは島であって、海路としての経過地点。○過ぎて行かば 通って行く時には。○筑紫の児島(222)念ほえむかも 「筑紫の児島」は、「筑紫」は大宰府肝を上との関係で地理的にいったもの。「児島」は遊行婦の名で、これは親しんでの呼び方。「念ほえむかも」は、「かも」は詠歎で、思い出されることであろうよの意。
【釈】 大和への道の、吉備の児島をわが船の過ぎて行く時には、筑紫に住んでいる児島の思い出されることであろうよ。
【評】 歌をもって児島が別れを悲しんだので、それに対して旅人も歌をもって和えたので、その第一首に対してのものである。
心は我もそなたを忘れまいということであるが、それを具象化するに同名の関係で帰路の経過地点である児島を捉え、それに寄せているのは、それが永遠性をもっている土地であるがゆえに、おのずからいつまでも忘れまいという含蓄をもってくる。この具象化のために吉備の児島に対して「筑紫の児島」という称を設け、「念ほえむかも」とおおらかにいっているのは、旅人の人柄と詩情を思わせるものがある。
968 大夫《ますらを》と 念《おも》へる吾《われ》や 水茎《みづくき》の 水城《みづき》の上《うへ》に 泣《なみだ》拭《のご》はむ
大夫跡 念在吾哉 水莖之 水城之上尓 泣將拭
【語釈】 ○大夫と念へる吾や 「大夫」は勇気あり教養ある男子の称で、したがって女々しい行ないはしないもの。既出。「念へる吾」は自任している我。「や」は疑問。○水茎の水城の上に 「水茎の」は畳音の関係で「水城の」の「水」にかかる枕詞。定解はないが、本居宜長の瑞々《みずみず》しい茎すなわち稚《わか》茎だと解しているのが注意される。食料を貴ぶ心から稚茎の美味を讃えたのだと取れるからで、また古くは今よりもはるかに多種類の草を食用としたとみえるからである。「上」は堤の上。○泣拭はむ 「泣」は涙に当てた字。大夫は涙など出すべきではないとするその涙である。「拭はむ」は、上の「や」が添って拭おうかで、哀感に堪えずそぞろに涙を出したことをいったもの。
(223)【釈】 大夫だと思っている我が、この水城の堤の上でそぞろなる涕を拭うのであろうか。
【評】 児島の第二首目に対する和えである。児島が大和路の雲隠れているのを見ると、思慮が保ちきれないというのに対し、旅人も、水城の上に立つと、大夫と思っている我も漠が出るが、それを拭おうかと、地歩を占めて応じているのである。事としては時宜に適させたものであるが、この歌は言外にじつに深い味わいをもっている。それはこの歌の調べで、豊かに清らかで、旅人その人の全幅を思わせるものがある。思うにこの際の旅人の心は、単に児島に限られたものではなく、大宰府在任期間の感がおのずからに綜合されてきて、それが、この歌に流れ込み、こうした調べをなしたのではないかと思われる。旅人の作を通じても代表的な一首である。
三年辛未、大納言大伴卿、寧楽の家に在りて故郷を思ふ歌二首
【題意】 「三年」は旅人が奈良に帰った翌年である。「寧楽の家」は、(九五五)の「佐保」にある旅人の家である。「故郷」は歌によると、「神名火《かむなび》」であり、そこは淵瀬の定まらない河のある所である。「神名火」は神の森の意の普通名詞であって、大和国でこの名をもって呼ばれた地は、三輪と飛鳥と葛城である。ここは河のある地であり、その河は淵瀬の定まらない河であるところから、飛鳥川と取れるので、飛鳥の里である。飛島に大伴家の故宅があったのである。なお、巻三(三三四)旅人の「萱草吾が紐に付く香具山の故《ふ》りにし里を忘れむが為」とあり、そこでは香具山といっているが、香具山は飛鳥と接しているので、同じ地と取れる。
969 須臾《しましく》も 去《ゆ》きて見《み》てしか 神名火《かむなび》の 淵《ふち》は浅《あ》せにて 瀬《せ》にかなるらむ
須臾 去而見牡鹿 神名火乃 淵者淺而 瀬二香成良武
【語釈】 ○須臾も去きて見てしか 「須臾」はしばらくの間で、ちょっとの間《ま》。既出。「去きて」は下の神名火。「てしか」は願望。○神名火の淵は浅せにて 「神名火の淵」は飛鳥川の淵。「浅せにて」は原文「浅而」で、訓がさまざまで定まっていない。これは『古義』の訓で、今はこれに従う。「浅せ」は水が浅くなる意で、「に」は完了。浅くなって。○瀬にかなるらむ 「か」は、疑問。「らむ」は、現在の推畳。瀬に変わるであろうか。
【釈】 ちょっとの間でも、そこへ行って見たいものである。神名火の川は、淵は浅くなって、瀕に変わるのであろうか。
【評】 旅人は上に引いた歌でもわかるように、大宰府にいた時でも故宅のある飛鳥の里へ心を寄せていたのである。それが奈良へ帰って来て年を越えても近間の飛鳥へ行かず、「須臾も去きて見てしか」といっているのは、病弱の身となり、思うままに(224)は行動ができなかったためであろう。その事はこれに続く歌でも察しられる。行って親しく見たいと思う第一は、飛鳥川の淵瀬の変化で、現に想像していることも神名火の淵が瀬に変わっていようというはかないことで、これは古い記憶をなつかしむ以外の何ものでもない。老いて昔を思うのは人の通情であるが、旅人の思うのは自然の風物であるところにその人柄が出ている。
970 指進《さしずみの》の 栗栖《くるす》の小野《をの》の 萩《はぎ》の花《はな》 散《ち》らむ時《とき》にし 行《ゆ》きて手向《たむ》けむ
指進乃 栗栖乃小野之 芽花 將落時尓之 行而手向六
【語釈】 ○指進の 『考』の訓である。福井久蔵氏は『枕詞の研究と釈義』で、これは大工の用いる墨斗《すみさし》であろう。それを繰って墨糸を出す意から、「繰る」と続け、同音で「栗《くる》」へ続けたのだろうと言っている。○栗栖の小野の 「小」は美称。「栗栖」という地名は和名抄に「大和国忍海郡栗栖」とあるが、忍海部は今の北葛城郡新庄町御所付近であって、飛鳥とは数里離れていてあたらない。一方栗栖という地名は諸所にあって、栗の木の多い地の名と思われるから、飛鳥の内にもその名の地があって、伝わらなかったと取れる。平群地方説もある。○萩の花 「萩」は原文「芽」で、集中用例のある字である。○散らむ時にし 「し」は強めで、散るであろう時にというのであるが、「し」によって、萩の花が過ぎてしまうまでにはの意でいったと取れる。○行きて手向けむ 「行きて」は栗栖へ行って。「手向けむ」は、神に物を供えようで、神祭りをしようの意。祭をする心は広いもので、限っては言えないが、故郷の栗栖野でしようとするので、その地に関係の深い神を祭ろうと思ったとみえる。
【釈】栗栖の野に咲く萩の花の散り過ぎる頃までには、行ってその地で祭をしよう。
【評】上の歌に続けて、飛鳥に心を寄せたものである。歌そのもののほうに力点を置いて見ると、四句までの栗栖野の萩の花と、結句の「行きて手向けむ」とに直接なつながりがあり、萩の花を手向の料にしようとするがごとくに見えるが、旅人のその際の心に力点を置くと、双方の関係は間接なものとなり、第一には、栗栖野の萩の花の散り過ぎないうちに、行ってそれを見たいということで、第二には、それとともに栗栖野の神の祭をしたいということで、双方とも旅人の心に懸かっていることなので、それらを同時にしたいという心をいったものと取れる〈これはやや久しい間の希望だったということは、巻三(四五五)余明軍の「かくのみにありけるものを芽子《はぎ》の花咲きてありやと問ひし君はも」から察しられる。すなわちこの歌を詠んだ時は旅人は病中で、歌でいっている希望は充たせなかったのである。「萩の花散らむ時にし」は、それまでの間には行きたいものだという心許なさを伴っての心なのである。そういう際に深く思っていた「手向」であるから、長い地方官を終えて無事に帰った報賽をするというような、軽くないものであったかと思われる。おのずからなるあわれを湛えた歌である。
(225) 四年壬申、藤原|宇合《うまかひ》卿の西海道|節度《せちど》使に出さるる時、高橋連虫麿の作れる歌一首 并に短歌
【題意】「四年壬申」は、続日本紀に「天平四年八月丁亥、従三位藤原朝臣宇合為2西海道節度使1」とある時である。「藤麻宇合」は、巻一(七二)に出た。藤原不比等の第三子である。「節度使」は、巻四(六二一)に出た。諸道に遣し、軍務等の事を検定せしめられる職で、天平四年に初めて置かれた職である。「高橋連虫麿」は、巻三(三ニー)に出た。伝は未詳であるが、奈良朝の初期、養老の頃、当時常陸守であった藤原宇合の下僚として、『常陸風土記』の編纂にあずかり、天平の頃は字合とともに奈良にあったと推察されている。虫麿の歌集というものがあり、それから長歌十三首、短歌十九首が本集に収められており、その長歌は民間の伝説を詠んだものが多く、これは虫麿によって拓かれた新生面で、その特色となっている。本集の代表的歌人の一人である。
971 白雲《しらくも》の 竜田《たつた》の山《やま》の 露霜《つゆじも》に 色《いろ》づく時《とき》に 打越《うちこ》えて 旅《たび》行《ゆ》く公《きみ》は 五百重山《いほへやま》 い行《ゆ》きさくみ 賊《あた》守《まも》る 筑紫《つくし》に至《いた》り 山《やま》のそき 野《の》のそき見《み》よと 伴《とも》の部《べ》を 班《あか》ち遣《つかは》し 山彦《やまびこ》の 応《こた》へむ極《きは》み 谷潜《たにぐく》の さ渡《わた》る極《きは》み 国方《くにがた》を 見《め》し給《たま》ひて 冬《ふゆ》ごもり 春《はる》さり行《ゆ》かば 飛《と》ぶ鳥《とり》の 早《はや》く来《き》まさね 竜田道《たつたぢ》の 丘辺《をかべ》の路《みち》に 丹躑躅《につつじ》の 薫《にほ》はむ時《とき》の 桜花《さくらばな》 開《さ》きなむ時《とき》に 山《やま》たづの 迎《むか》へ参出《まゐで》む 公《きみ》が来《き》まさば
白雲乃 龍田山乃 露霜尓 色附時丹 打超而 客行公者 五百隔山 伊去割見 賊守 筑紫尓至 山乃曾伎 野之衣寸見世常 伴部乎 班遣之 山彦乃 將應極 谷潜乃 狹渡極 國方乎 見之賜而 冬木成 春去行者 飛鳥乃 早御来 龍田道之 岳邊乃路尓 丹管士乃 將薫時能 櫻花 將開時尓 山多頭能 迎參出六 公之來益者
【語釈】○白雲の竜田の山の 「白雲の」は立つと続き、「竜」に転じての枕詞。「竜田の山」はしばしば出た。大和国と河内国との境にあり、生駒郡三郷村の西方。京から難波への往還にあたっている山。今は、歌で見ると、当時難波津から船で遠い旅に立つ人を、この山の麓まで見送り、帰る人を同じくここまで出迎えることとなっていたことが知られる。○露霜に色づく時に 「露霜」は今の水鮨。それによって秋の木の葉が色づ(226)くのであるが、それを竜田山そのものが色づくようにいっている。竜田山の紅葉は古来有名で、大観だったのである。虫麿は現在その山の麓にいて、嘱目としていっているのであるが、実は字合の行を壮んにする意からのものである。○打越えて旅行く公は 竜田山を越して旅に行く君はで、宇合を指していったもの。〇五百重山い行きさくみ 「五百重山」は多くの山ということを具象化していったもの。「い行きさくみ」は、「い」は接頭辞。「さくみ」は巻四(五〇九)に「い行きさぐくみ」と出たのと同じく、「さく」は裂くで、「裂くむ」と再活用した語で、裂き分ける意と取れる。この二句は、筑紫まで行く途中の勇敢なさまを想像していっているのであるが、難波津から筑紫までの路は船と定まっていて、事実とはちがったものである。行を壮んにしようとの心から、故意に誇張したものであるが、技巧としては眼前の竜田山につながりがあって、そのわりには突飛ではなく聞こえる。○賊守る筑紫に至り 「賊」はここは唐またはその関係のもので、外敵。「守る」は防備するで、上の「水城」「防人《さきもり》」などは、すべてそのためのもの。「筑紫」は題詞の「西海追」で、外敵に対する防禦地となっていた。○山のそき野のそき見よと 「そき」は、退きで、速い涯《はて》。「山のそき野のそき」は山の最終点、野の最終点で、筑紫全土隈なくということを具体的にいったもの。「見よと」は検分せよと言ってで、宇合が下す命令。○伴の部を班ち遣し 「伴」は人々。「部」は部族で、兵の各部族。「班ち」は分かちの古語。諸方面に分遣して。○山彦の応へむ極み 「山彦」は山にいる男性の霊で、声を発するものとした上代信仰よりの称。「応へむ極み」は、人の声に応えをするその限りの地までの意で、山の尽きる地点までということを具象的にいったもので、「山のそき」を繰り返して強めていったもの。○谷潜のさ渡る極み 「谷潜」は蟇《ひきがえる》。「さ渡る」は、「さ」は接頭語で、「渡る」は広い範囲にわたって行く意。蟇はいかなる行き難い場所をも行き尽くすものとしていったもの。「極み」は限り。蟇の行き尽くす限りは、いかなる行き難い場所をも隈なくという意で、「野のそき」を繰り返し具象的にいったもの。この二句は巻五(八〇〇)に出ており、祝詞祈年祭の語であり、上の二句と対句としたもの。○国方を見し給ひて 「国方《くにがた》」は、「国形《くにがた》」、「国体《くにがた》」の文字も当てており、国の情勢の意である。「見《め》し」は、「見」に、敬語の助動詞「す」を添えて敬語とし、転音の関係で、見《め》に転じたもの。「給ひて」はさらに敬語を添へて重くしたもの。これは節度使として検察することで、以上を総括したもの。○冬ごもり春さり行かば 「冬ごもり」は「春」の枕詞。既出。「春さり行かば」は、「さり」は移る意。「行かば」は、来ればと同じ意で用いていた当時の語法。春が来たならば。○飛ぶ鳥の早く来まさね 「飛ぶ鳥の」は「早く」の譬喩。飛ぶ鳥のごとくにも。「来まさね」は来るの敬語「来ます」に、他に対する願望の助詞「ね」の添ったもの。以上第一段。○竜田道の丘辺の路に 「竜田道」は竜田越えの道。「丘辺の路」は、丘となっている辺りの路で、虫麿が現在いる竜田山の麓の京寄りの方面の状態。○丹躑躅の薫む時の 「丹躑躅」は、花の赤い躑躅。「薫ふ」は色|艶《つや》の状態をいう語で、艶やかに咲くという意。「時の」の「の」は、同類の名詞を並べていうのに用いる助詞で、時にして、それとともにというにあたるもの。○桜花開きなむ時に 桜花も咲くであろう時に。以上四句、現在いる所の春の光景を想像していっているものであるが、出迎えに来る時を、それにふさわしい愛でたい季節としようとする心からの想像であって、単に美しく言おうとしてのものではない。なおこの想像は、現に見送りをしている竜田山の秋の「色づく時に」といっているのと、おのずからに対照をなしているものである。○山たづの迎へ参出む 「山たづの」は巻二(九〇)に出た。「山たづ」は接骨木《にわとこ》で、その葉の対生しているところから、向かいと続き「迎へ」の枕詞としたもの。「参出む」は、参り出むで、「参」は貴い所へ出る意の語であるから、現在用いている罷り越すの敬語である。○公が来まさば 「来ます」は来るの敬語。君がお還りになったならば。以上第二段。
【釈】 竜田山の、水霜によって色づいている愛でたい時に、この山を越して旅に行く君は、その行手に横たわっている五百重と(227)重なっている山を踏み裂きわけて、外敵の防禦なしている筑紫に行き着き、山の涯《はて》野の涯まで検視せよと命じて、兵の各部族を諸方面に分遣して山地は山彦が人声に応《こた》えをする限りのその尽きる所まで、またいかなる所にまでも這い行く蟇の行き尽くす限りまで、残る隈もなく筑紫の情勢を検視なされて、春が来たならば、飛ぶ鳥のごとくに早く還って下されよ。この竜田の山越え道の丘のあたりの路に、赤躑躅の艶やかに咲く時であって、それとともに桜の花も咲くであろう愛でたい時に、我はお出迎えにと参り出よう、君がお還りになられるならば。
【評】 宇合が節度使という重要な公務を帯びて筑紫へ発足した時、多年恩顧を蒙っている者として虫麿が、当時の習いとなっていたと思われる、大和国の国境の竜田山の麓まで見送りをし、こうした際の習いとなっていた賀の歌を贈ったのである。賀の歌はしばしば言ったように、言霊の力によって、賀する語《ことば》のごときことが賀せられる人の上に起こると信じてのもので、そうした信仰は容易には移るものではないから、この時代にも、賀する者賀される者の間には、そのことが明らかに意識されていたことと思われる。したがってこの歌は儀礼的な改まったものだったのである。この歌は一読文芸性の勝ったもののごとく見えるのであるが、それは虫麿の才情が、無意識の間におのずからにそうさせているのであって、彼が意識して行なおうとしていたことは、賀の歌の精神にかなわしめよう、実用性を遂げようとしていたところにあると思われる。最も文芸性の豊かに見えるのは、現に送別をしている竜田道の丘辺の路の秋の光景であり、またそこで歓迎しようと思っている想像に浮かぷ春の光景であるが、送別の際はあくまで縁起をよくし、不吉に類することは絶対に避けるのが礼となっているのであるから、送別の際、竜田山の全山が黄葉となっていたとしたら、それを捉えて行を壮んにする料に供するのは当然のことである。これは実用性よりのことで文芸性のためのものではない。歓迎の時を春としているのも、拠るところのあることで架空のものではなかろう。その時を楽しく美しいものに想像するのも、これまた同じ心からのことである。一席の中心は、宇合が重大なる責務を過漏なく果たすことであって、その上では言葉をつくした言い方をしている。まず部下をして山のそき野のそきまでも検せしめることをいい、それを十分に果たさせる上で山彦と谷潜とを捉えて対句としている。谷潜は用例のあるものであるが、それをこのように対句の形にしているのは虫麿の創意からのもので、才情の見えるものである。しかしこれも事を力強くしようとする必要からのもので、実用性の範囲のものである。これに続けて、「国方を見し給ひて」と、部下にさせた一切を宇合に総収せしめている敏活なる移りは、じつに巧妙である。なほ余事であるが、「山たづの」という枕詞は、巻二巻首の磐姫皇后の御歌にも用いられているもので、編集当時は誤読されていたものを、虫暦は正解して用いている。谷潜を自由に運用しているのとともに虫暦のその方面の教養を思わせられるものである。一篇全体として見ると、自在にして流麗であるが、同時に冗語がなく綜合が確かであり、古典を捉え来たって駆使しているが、同時にみずみずしく感覚的であって、柔らかに豊かな趣を湛えているところ、まさにこの時期の新風である。
(228) 反歌一首
972 千万《ちよろづ》の 軍《いくさ》なりとも 言挙《ことあ》せず 取《と》りて来《き》ぬべき 男《をのこ》とぞ念《おも》ふ
千萬乃 軍奈利友 言擧不爲 取而可來 男常曾念
【語釈】 ○千万の軍なりとも 「千万の」は多数のということを具象的にいったもの。「軍」は兵で、ここは敵兵である。いかに多くの敵兵があろうとも。○首拳せす 「言挙」は範囲の広い語である。巻十三(三二五〇)「あきつ島倭の国は、神柄《かむから》と言挙せぬ国」とあるのは、この国は神の守護し給う国で、その神は一切を知り給うゆえに、一切を神に委《ゆだ》ねまつり、自身の願望は言い立てないとの意で、信仰のあらわれた形である。また、古事記、景行の巻、日本武尊伊吹山の条に、「白猪逢2于山辺1、其大如v牛。爾為2言挙1而詔云々」とあるのは、尊は信仰上、禁忌となっている言挙をなされたがために、その身に持たれている威力を減じられ、山神の化身である白猪に悩まされるに至り給うたことを言っているもので、これは一層信仰的である。ここの「言挙」は、実行に先立って、希望、抱負を揚言する意で、「言挙せず」は、それをしない意である。これは実行を重んじて、言説を賤しむ心である。「せず」は連用形で、下へ続く。○取りて来ぬべき男とぞ念ふ 「取り」は、殺す意。「来ぬ」の「ぬ」は完了の助動詞で、強めるために用いるもの。「男」は大丈夫。「念ふ」は「ぞ」の結で、連体形。
【釈】 たとい千万の敵兵があろうとも、言挙はせずに打殺して、還って来るべき大丈夫と思っていることである。
【評】 長歌の精神を総括し、それに展開を与えて繰り返したもので、反歌として典型的なものである。展開というのは、宇合の任務は節度使であるのに、この歌ではただちに外敵に赴く大将軍のごとき言い方をしているからである。しかし勇敢に責務を果たすようにと賀する精神からいえば、長歌と異ならないものである。言っている事柄はじつに誇張したものであるが、一首の調べは当然なことをいっているように落ちついた、自然な、したがって重厚味をもったもので、誇張を忘れさせようとするがごときものである。これは虫麿の真情の発露であるがためで、それ以外には説明のできないものである。優れた作である。
右|補任《ふにん》の文を檢《かんが》ふるに、八月十七日、東山、山陰、西海節度使に任《よさ》しき。
右、檢2補任文1、八月十七日、任2東山々陰西海節度使1。
【解】 「補任の文」というのは、後世には伝わらないが、当時、公卿補任の事を記したそうした書があって、それには日付があったとみえる。続日本紀、聖武紀に、「正三位藤原朝臣房前為2東海東山二道節度使1、従三位丹比真人県守爲2山陰道節度使1、従三位(229)藤原朝臣宇合為2西海道節度使1。」とある。
天皇、酒を節度使の卿等に賜へる御歌一首 并に短歌
【題意】 「天皇」は聖武天皇。「節度使の卿等」は、上の歌の注に引いた藤原房前、同宇合、丹比県守の三人である。「酒を賜へる御歌」は、酒には歌が伴うことが習いとなっているので、大御酒を賜うにつけ、節度使を祝う大御心を詠まれたものである。すなわち「御歌」は、「酒を賜へる」御主旨をも示されているのである。
973 食国《をすくに》の 遠《とほ》の朝廷《みかど》に 汝等《いましら》が かく退去《まか》りなば 平《たひら》けく 吾《われ》は遊《あそ》ばむ 手抱《たむだ》きて 我《われ》は御在《いま》さむ 天皇《すめら》朕《わ》が うづの御手《みて》もち 掻撫《かきなで》でぞ ねぎたまふ 打撫《うちなで》でぞ ねぎたまふ 還《かへ》り来《こ》む日《ひ》 相飲《あひの》まむ酒《き》ぞ この豊御酒《とよみき》は
食國 遠乃御朝庭尓 汝等之 如是退去者 平久 吾者將遊 手抱而 我者將御在 天皇朕 宇頭乃御手以 掻撫曾 祢宜賜 打撫曾 祢宜賜 將還來日 相飲酒曾 此豊御酒者
【語釈】 ○食国の遠の朝廷に 「食国」はしばしば出た。天皇の御支配になる国で、「食す」は敬語。「遠の朝廷」は、巻三(三〇四)に出た。京より遠方にある、天皇の政事を行なう所の意で、国庁ということを具体的にいった称。○汝等がかく退去りなば 「汝等」は三人の卿《まへつぎみ》を呼び懸けられたもの。「かく」は、さしあたっての状態をさされたもの。「退去《まか》り」は、尊い所より去る意で、ここは京より地方へ行く意。○平けく吾は遊ばむ 「平けく」は平安と熱する語で、安らけくの意。「吾は遊ばむ」は安心しようということを最も具体的に仰せられたもの。○手抱きて我は御在さむ 「手抱き」は、「手」は御手。「抱き」の訓につき『古事記伝』は、「抱は書紀などに伊陀久とも宇陀久とも牟陀久とも訓るが中に、万葉十四に可伎武大伎とあれば、これに依て牟陀伎弖と訓べし」といっており、春日政治氏は、ムダクが最も古形であろうと考証している。抱《いだ》く意で、「手抱《たむだ》きて」は、手を拱《こまぬ》いてで、すべきことのないという意を、最も具体的にあらわしたもの。拱手という語より出たものと思われる。「御在《いま》さむ」は、敬語。天皇が自身のことを敬語をもって言われたので、これは皇位をきわめて尊貴なものとしてのことである。以上第一段。○天皇朕がうづの御手もち 「天皇《すめら》」はすめろぎ、すめらぎというと同じく、皇位にあられる方の御自称。「すめ」は統《す》め、「ら」は接尾語か。「うづ」は神代紀、祝詞に用例があり、尊貴の意の古語。「もち」は「もて」の意。この当時の語格。○掻撫でぞねぎたまふ 「掻撫で」は「掻」は接頭語。「撫で」は、愛撫して。「ねぎ」は労《ねぎら》うで、慰労して。○打撫でぞねぎたまふ 「打」は「掻」と同じく接頭語。上の二句の繰り返しである。以上第二段。○還り来む日相飲まむ酒ぞ 「還り來む日」は、節度使の責務を果たして、京へ還って来た日に。「相飲まむ酒《き》ぞ」は、「酒《き》」は旧訓「酒《さけ》」、(230)『略解』の訓で黒酒《くろき》白酒《しろき》などあり、酒の古語。「相飲まむ」は天皇と節度使とともどもに飲む酒であるぞで、その「酒《き》」は今は行を壮んにするために賜わっている物で、還って来た時には、喜びとして再び飲もうと仰せられるのである。これは「酒」をとおして節度使のその責務を果たすようにと祝わせられたのである。○この豐御酒は 「この」は、眼前の今賜わせられた酒。「豊」は、豊かな形容。「御酒」は現在も神に供える酒に用いている。以上第三段。
【釈】 わが御支配になる国土の、京より遠方の国庁に、そなたらがこのように罷るならば、吾は心安らかに遊んでいよう。我はすべき事なく手を拱《こまぬ》いていらせられよう。天皇《すめら》なる朕が、尊貴なる御手をもって、そなたらの身を撫でて労《いたわ》って下さるぞ。撫で労って下さるぞ。そなたらが責務を果たして還って来る日に、ともどもに飲むところの酒であるぞ、この豊御酒は。
【評】 この酒は、日常の興味を旨としての物とは異なり、祭礼の時神前で飲む物と、同じ性質の、賀のための物である。酒には歌が伴うべきものになっており、御歌も同じく賀の精神をいっているものである。第一段の「手抱きて我は御在さむ」までは、節度使を絶対に信頼されていることで、言いかえると激励されることである。第二段「打撫でぞねぎたまふ」までは、御力を授けられることで、防人《さきもり》に立つ子にその親のしているのと同じ心よりのことである。第三段の「この豊御酒は」までは、いわゆる待酒《まつざけ》で、古くより定まっている儀式で、これまた激励の心をもってのものである。言葉は簡潔であるが含蓄をもったもので、その含蓄は古くより伝わって来ている特殊の信仰で、説明を超えたものだったのである。なおこの歌に類したものが、巻十九(四二六四)にあり、それは遣唐便に賜わったものである。宣命などと同じく一つの型をなしていたものと思われる。
反歌一首
974 大夫《ますらを》の 去《ゆ》くとふ道《みち》ぞ 凡《おほろ》かに 念《おも》ひて行《ゆ》くな 大夫《ますらを》の伴《とも》
大夫之 去跡云道曾 凡可尓 念而行勿 大夫之伴
【語釈】 ○大夫の去くとふ道ぞ 「大夫」は既出。「去くとふ」は行くといわれている。「道」は道路の意ではなく、任務という意のもので、用例のある語。大夫のみの負いうるといわれている任務ぞの意で、節度使の任務の重大なものであることをいったもの。○凡かに念ひて行くな 「凡」は上に出た。普通のことと思って向かっては行くな。上二句を語を換えての繰り返し。○大夫の伴 「伴」は人々で、呼懸け。汝ら大夫の人々よ。
【釈】 大夫の負うという任務であるぞ。世の常のことと思って向かうな。大夫の人々よ。
【評】 長歌と同じく激励の意ではあるが、それを進展させて強く命令したものである。二句と四句とで切って、繰り返しに近(231)い言い方をした素朴なもので、それがすなわち力となっているものである。
右の御歌は、或は云ふ、太上天皇の御製なりといふ。
右御謌者、或云、太上天皇御製也。
【解】 「太上天皇」は元正天皇である。こうした異伝は、これに類した型の歌が以前から宮中にあったということに関係してのことである。
中納言安倍広庭卿の歌一首
【題意】 「安倍広庭」は巻三(三〇二)に出た。右大臣|御主人《みうし》の子で、神亀四年中納言となり、天平四年七十四で没した。この歌はその年のものである。この巻の歌はすべて題詞が添って作歌事情を明らかにしているのに、この歌にはそれのないことにつき『代匠記』は、これは上の歌を承けたもので、広庭が勅使として節度使の宴に臨んだ時のものだろうと言っている。
975 かくしつつ 在《あ》らくを好《よ》みぞ たまきはる 短《みじか》き命《いのち》を 長《なが》く欲《ほ》りする
如是爲管 在久乎好叙 靈剋 短命乎 長欲爲流
【語釈】 ○かくしつつ在らくを好みぞ 「かくしつつ」はこのようにすることを繰り返してで、現にしていることをさして、その永続を望んでいる意。「在らく」は「在る」に「く」を続けて名詞形としたもので、「在る」は生存していること。「好み」は好いので。「ぞ」は、係辞。○たまきはる短き命を 「たまきはる」は命にかかる枕詞。語解は定説がないが、「靈来経《たまきふ》る」の「経る」の転音となったもので、霊が身に宿って宿りつづけていることで、その状態が「息《い》」であるとしての続きかと思われる。靈と身を二元的に考え、霊の身を離れることを死とし、また息《いき》をすることを息吹《いぶ》きと言っているからである。「短き命」は人の命は短いものだとする意でいったもの。○長く欲りする 「欲りする」は動詞「欲り」と「する」と結合した語。連体形で、「ぞ」の結。
【釈】 このようにしつつ生存していることが好いので、短いものである人の命を、長く保たせたいと思うことであるよ。
【評】 『代匠記』の解に従えば、宴席における賀の歌で、それとするときわめて自然なものである。酒宴のたのしさを、人の命の短さを惜しむ心に結びつけているのは、七十四の中納言としては個人的にも妥当感のあることである。賀歌であるから、そ(232)の心が通じさえすればよいものである。事柄の関係から伝わったのであろう。
五年葵酉、草香山《くさかやま》を越ゆる時、神社忌寸老麿《もりのいみきおゆまろ》の作れる歌二首
【題意】 「草香山」は、大和国と河内国との国境にある山で、生駒山の西麓である。今は枚岡市に日下《くさか》町の名がある。暗《くらがり》峠と呼び古くは大和京から難波に通ずる要路となっており、竜田越えよりは近路であったが、路が険岨なため通行が少なかった。「神社忌寸老麿」は、「忌寸」は姓。伝は未詳である。
976 難波潟《なにはがた》 潮干《しほひ》のなごり 委曲《つばら》に見《み》む 家《いへ》なる妹《いも》が 待《ま》ち問《と》はむため
難波方 潮干乃奈凝 委曲見 在家妹之 待將多米
【語釈】 ○難波潟潮干のなごり 「なごり」は名残の字を当て、波の引いた跡に残る魚介海藻の総称である。ここは潮の干た跡である。○委曲に見む 「委曲に」はつまびらかに。「見む」は原文「見」で、「見む」は「将見」とあるのが例となっているから、「む」は訓添えである。それでないと通じないからのことである。『定本』の訓。○家なる妹が待ち問はむため 「家なる妹」は家にある妹。「待ち問はむため」は、わが帰りを待って、海への憧れから、その様子を尋ねるのに話して聞かせるために。
【釈】 難波潟の潮干のなごりの魚介海藻のさまをつまびらかに見よう。家にいる妹が、わが帰りを待って、海への憧れから、その様子を問うのに話して聞かせるために。
【評】 題詞によって草香山を越える時の作ということが知られるために、興味のもてる歌である。もし題詞がないと難波津での作とみえ、無味なものとなるからである。興味というのは、題詞があるために、老麿はその事を絶えず胸の中に抱いていること、またその妻は海に憧れを抱いて、それを老麿に語っていたことが背後にあって、老麿は今難波の海を遠望するとともに、それらが胸に閃めいてきたことが連想されることである。この歌は作者の心に極度にまで力点を置き、歌そのものはほとんど問題としていないような作で、時代的に見ると時代ばなれをしたものである。
977 直超《ただごえ》の この径《みち》にして 押照《おして》るや 難波《なには》の海《うみ》と 名附《なづ》けけらしも
直超乃 此徑尓師弖 押照哉 難波乃海跡 名附家良思蒙
(233)【語釈】○直超のこの径にして 「直超」は真っ直ぐに越えることで、山路は普通まがりくねっているのに、草香山は反対に其っ直ぐだったのである。「この径にして」は、このわが歩いている細路において。○押照るや難波の海と 「押照るや」は難波の枕詞で、「押照る」とも用いていた。「や」は間投助詞である。語義はあまねく照っているで、難波の海を讃えた語であり、それが慣用された結果固定して枕詞となったものである。○名附けけらしも 「けらし」は、「けるらし」の約。「らし」は眼前を証としての推量で、「も」は詠歎。
【釈】 直超のこの草香山の細い山路にあって昔の人は、押照るや難波の海と名付けたのであったらしいことよ。
【評】 これは老麿が.草香山の頂上に立って、難波の海を遠望し、その一面に光り照っているところからこのような直感をしたのである。「この径にして名附けけらしも」というのは大胆な独断であるが、この時代は地名の起源伝説を豐富に含んでいる古事記や日本書紀の撰進された時からいくばくも離れていない時代であるから、こうした推量を好む雰囲気があり、その中にあってのこととてある得意を感じてしたものかと思われる。また古くは大和川がこの山の裾を流れていて、難波から淀川を溯って来る船はこの山の裾で碇泊したと考証されているので、草香山と難波とのつながりは密接に感じられ、それにも刺激されているところがあるかもしれぬ。歌としては常凡なものであるが、時代を思わせられる作である。
山上臣憶良、痾《やまひ》に沈める時の歌一首
【題意】 「痾に沈める」は、重病を意味する語である。この年の憶良は、多分七十四であったろうと思われる。なおこの歌は、憶良の作にして年代の明らかなものの最後となっているもので、多分は辞世の歌であったろうとされてもいる。作をした事情は左注にある。
978 士《をのこ》やも 空《むな》しかるべき 万代《よろづよ》に 語《かた》り続《つ》ぐべき 名《な》は立《た》てずして
土也母 空應有 萬代尓 語續可 名者不立之而
【語釈】 ○士やも空しかるべき 「士《をのこ》」は『代匠記』の訓。『攷証』は「士《をとこ》」としている。広く男子を指した称で、集中両様に用いられている。「をとこ」は、若盛りの意で用いられている例があるから、「をのこ」に従う。「や」は反語で、「空しかるべき」にかかる。「も」は詠歎。「空しかるべき」は「空し」はここは生き甲斐のない意で、国家に対して事功のない意でいっているもの。男子たるものが、国家に対して事功を立てずにいるべきであろうか、いるべきではないと強くいったもの。○万代に語り続ぐべき 「万代」は永久ということを具象的にいったもの。「語り続ぐ」は、上代にあっては事を伝えゆく唯一の方法であって、ここもその意。○名は立てずして 「名」は名声で、上を承けて功労者としてのそれ。「は」(234)はここは名を強めるためのもの。「立てずして」は、揚げぬ状態にあって。「万代」以下は「空し」の内容をいっているもので、憶良自身をいったもの。
【釈】 男子たる者が国家に対して生き甲斐もなくあるべきであろうか、ありはしない。永久に人の語り継いで行くだろう名を揚げずにいて。
【評】 憶良のこの歌を詠んだ時の事情は左注にくわしい。藤原八束の使として河辺東人が病気見舞に来た時に、進んで即座に詠んだものであって、平常胸中にあったものを刺激のあるままに吐露した歌で、憶良の全幅を示したものである。この時は天平五年で、巻五「痾に沈みて自|哀《かなし》む文」を作った年であるから、年は七十四、年来の痼疾の癒えず、再起の出来難いことを覚悟していたことと思われる。憶良の名というのは、国家に対しての実務上の功績であって、それ以外の何ものでもない。またこれは士《おのこ》たる者のすべてを通じて本懐とすべきことで、自明なことともしていたのである。学問によって微官から身を起こし、誠実と恪勤によって立身し、ついに大国の国守となったが、その本懐とするところはいささかも弛まず、最期の床にあってもなお強く自身を鞭打っているのである。じつに異常な執着である。この執着は個人的のものではなく、国家に対してのものなのである。一方憶良の身を置いている環境では、藤原氏はすでに氏族権力を獲得しようとして、策略によってそれを遂げているのみならず、進んで同族の中で個人的権力の争奪を行なおうとしていた時代であることを思うと、憶良の初一念を守って動かず、純粋を保って生涯を終始していたことは、尊敬を深めさせることである。一首のもつ沈痛な調べは、国家に対してもつ限りなき執着の具象化されたものであって、それ以外のものではなく、その調べに憶艮の面目があると言える。
右の一首は、山上憶良臣病に沈みし時、藤原朝臣八束、河辺朝臣東人をして疾《や》む所の状《さま》を問はしめき。ここに憶良臣、報の語已に畢り、須《しまらく》ありて涕を拭ひ、悲み嘆きて、この歌を口吟《くちずさ》みき。
右一首、山上憶良臣沈v痾之時、藤原朝臣八束、使2河邊朝臣東人1。令v問2所v疾之状1、於v是憶良臣、報語已畢、有v須拭v涕、悲嘆、口2吟此謌1。
【解】 「藤原朝臣八束」は、房前の第三子である。当時は無位の青年であったが、尊敬されていたとみえる。「河辺朝臣東人」は、称徳天皇の神誕景雲元年従五位下に進み、光仁天皇の宝亀元年石見守となった人。「疾む所の状を問はしめ」は、病気見舞。「報の語已に畢り」は、見舞に対する挨拶を終えて。「須《しまらく》ありて涕を拭ひ」は、歌に詠もうとする悲しみの情が胸に衝き上げて来て、それが歌になるまでの間のさまである。「涕を拭ひ」は歌を吟むためである。
(235) 大伴坂上郎女、姪《をひ》家持の佐保より西の宅《いへ》に還るに与ふる歌一首
【題意】 「姪」は古くは男女を通じて用いた語で、現在だと甥《おい》である。「佐保」は古くより大伴家の邸のあった地で、しばしば出た。今は郎女のいる邸として言っている。「西《にし》の宅」は、佐保の邸を中心としての称で、そこより西にある家の意の称であろう。家持の住んでいた所で、別宅と思われる。
979 吾《わ》が背子《せこ》が 著《け》る衣《きぬ》薄《うす》し 佐保風《さほかぜ》は いたくな吹《ふ》きそ 家《いへ》に至《いた》るまで
吾背子我 著衣薄 佐保風者 疾莫吹 及家左右
【語釈】 ○吾が背子が著る衣耕し 「吾が背子」は女より男を指しての愛称で、しばしば出た。家持を指したもの。「著《け》る」は「著《き》る」の連用形「著《き》」に、完了の助動詞「り」が結合し、転音で「著《け》る」となったもので、著ている。「衣薄し」は、寒い季節で、還りは夜で寒さが加わって来たのを案じてのこと。○佐保風はいたくな吹きそ 「佐保風」は佐保の地に今吹いている風の称で、明日香風、泊瀬風など同系の語の多いもの。「いたくな吹きそ」は風に呼びかけて禁止したもの。○家に至るまで 西の宅《いえ》に行き着くまでの間を。
【釈】 わが背子が着ている衣は薄い。佐保風よ強くは吹くなよ。家に行き着くまでの間を。
【評】 寒い季節、本邸のほうへ来ていた家持が、夜、風の吹く中をその住まいの西の宅へ還ろうとする時に、叔母としての郎女の詠んだものである。線が細く、調べが柔らかで、事を言っているものではあるが、むしろ気分のほうを主としているごとき詠み方をしたものである。この時代の貴族の好尚から生まれた新風で、盛行して、次の平安朝時代にも及んだのである。
安倍朝臣虫麿の月の歌一首
【題意】 「安倍虫麿」は巻四(六六五)に出た。天平九年外従五位下に進み、天平勝宝四年中務大輔従四位下で卒した。
980 雨隠《あまごも》り 三笠《みかさ》の山《やま》を 高《たか》みかも 月《つき》の出《い》で来《こ》ぬ 夜《よ》は更《くだ》ちつつ
雨隱 三笠乃山乎 高御香裳 月乃不出來 夜者更降管
【語釈】 ○雨隠り三笠の山を 「雨隠り」は雨を防ぎ隠れるで、笠にかかる枕詞。「三笠の山」は、『新考』は藤原定家の『顕註密勘』により、春日山の別名で、連山中の主峯の名であり、今とは名が異なっていることをいい、それでないとこの歌は通じないと言っている。春自大杜背後の山。
(236) ○高みかも月の出で来ぬ 「高みかも」の「か」は係助詞。高いゆえであろうか。「月の出で来ぬ」は月が山に遮られて出て来ないで、「来ぬ」は連体形。出て来ないことであるよ。○夜は更ちつつ 「更つ」は下降するで、更けゆきつつ。
【釈】 三笠の山が高いゆえであろうか、月が出て来ないことであるよ。夜は更け行きつつ。
【評】 従前から月に関係した歌はかなりまであったが、大体、妹の家へ通う路を照らすもの、旅の夜を照らすもの、時刻を測るものというように、実生活に利用する上の月で、鑑賞の対象としての月ははとんどなかった。この歌をはじめとしてこれに続く月の歌はすべて鑑覚の月であって、家に居て楽しんで見ているものである。このことは時代的にいうと、奈良朝にはじまったことであって、それが次の平安朝時代に続くのである。一首の歌として見ても、巻一(四四)「吾妹子をいざみの山を高みかも大和《やまと》の見えぬ国遠みかも」に類似していて、それを踏襲したものと思われる。歌の時代関係を思わせられる。
大伴坂上郎女の月の歌三首
981 ※[獣偏+葛]高《かりたか》の 高円山《たかまとやま》を 高《たか》みかも 出《い》で来《く》る月《つき》の 遅《おそ》く光《て》るらむ
※[獣偏+葛]高乃 高圓山乎 高弥鴨 出來月乃 遅將光
【語釈】 ○※[獣偏+葛]高の高円山を 「※[獣偏+葛]高の」は『代匠記』は、巻七(一〇七○)「ますらをの弓末《ゆずゑ》振り起し※[獣偏+葛]高《かりたか》の野辺《のべ》さへ清く照る月夜かも」により、高山を含んでいる地名であろうと言っている。それだと添上郡で、今の鹿野苑の辺りの名かとされている。「高円山」は、今の春日山の南に続いている山。○高みかも 上の歌と同じ。○出で来る月の遅く光るらむ 「出で来る月」は、高円山より出て来る月。「遅く照るらむ」は山に遮られて出が遅れて照ることであろうよの意で、「らむ」は、連体形。意味としては「光る」は「出る」と置き換えうる形のものである。
(237)【釈】 ※[獣偏+葛]高の高円山か高いゆえであろうか、その山から出て光る月が、高さに遮られて、遅くなって照ることであろうよ。
【評】 高円山を東に望む地にいての歌であるから、佐保の邸でのことかと思われる。第三句までは上の歌と地名は異なっているが形は同じである上に、作意も同じである。同じ席にいて同じ対象を座興的に詠み合ったものかも知れぬ。郎女のほうが巧みではあるが、言うほどの物ではない。
982 烏玉《ぬばたま》の 夜霧《よぎり》の立《た》ちて おほほしく 照《て》れる月夜《つくよ》の 見《み》れば悲《かな》しさ
烏玉乃 夜霧立而 不清 照有月夜乃 見者悲沙
【語釈】 ○烏玉の夜霧の立ちて 「烏玉の」は夜の枕詞。「夜務の立ちて」は、夜霧が現われていて。○おほほしく照れる月夜の 「おほほしく」は、物のはっきりしない意で、ここは朧ろにというにあたる。「照れる月夜」は、「月夜」は文字通りにも、単に月の意味でも用いられているが、ここは文字通りの月夜。「の」は、下の「悲しさ」に続いている。○見れば悲しさ 「見れば」は、「悲しさ」の感じを強めるために加えた語で、事を気分化させようとしてのもの。「悲しさ」の「さ」は、詠歎で、悲しいことよ。
【釈】 夜霧が立って来て、そのために朧ろに照るものとなって来た月夜の、見ると、悲しいことであるよ。
【評】 霧は霞とは異なって、眼の前まで迫って来るものなので、そうした夜の月は、全面的にほの白く、あるいは青白く照って来て、きわめて物柔らかな感じを帯びて来るものである。そうした月夜の感じは、女性の郎女の心に言い難く親しい、むしろ涙ぐましいものであって、「見れば悲しさ」と言わせたものと取れる。気分の表現に向かっていた新風の歌として優れたものと言える。気分とはいうがこの歌は、初句から四句までは、眼前の叙述で、気分は結句だけであり、伝統としての素朴を失ってはいない。気分は結句だけで、「見れば」はそれを生かすためのもので、この歌としてはなくてはならないものである。
983 山《やま》のはの ささらえ壮子《をとこ》 天《あま》の原《はら》 門《と》渡《わた》る光《ひかり》 見《み》らくし好《よ》しも
山葉 左佐良榎壯子 天原 門度光 見良久之好藻
【語釈】 ○山のはのささらえ壮子 「山のは」は山の端で、ここは月の出て来る位置。「ささらえ壮子」は、左注に、月の別名だといっている。「ささら」は巻三(四二〇)「天なるささらの小野」、今一か所出ていて、これは天にある野の名であるが、他方日本書紀允恭紀「ささらがた(細(238)綾形)錦の紐を解き放けて」、また巻十四(三四四六)「妹なろがつかふ河瀬のささら荻」などの用例があって細小の意のものもある。「え壮子」を修飾している語であるから、細小の意と解される。「え壮子」は、古事記神代の巻に、「あなにやしえ男を」とあり、愛男《えおとこ》の意である。「ささらえ壮子」は熟語で、小さく愛らしい男である。これは月を譬えた語である。○天の原門渡る光 「天の原」は広々した天。「門《と》度《わた》る」の「門」は地形が門のように両方から寄って来て狭くなった所の称。ここは天についていっているので、両方が山に劃らている空で、大和の空などはそれである。「渡る」は渡ってゆく。「光」は壮子の美しさを讃えたもの。○見らくし好しも 「見らく」は動詞「見る」の名詞形。「し」は強め。「好しも」の「も」は詠歎で、好さよ。
【釈】 山の端に現われたささらえ壮子の天の原の門《と》を渡って行く、かがやく美しさを見ることの好さよ。
【評】 これも月を鑑賞した作であるが、特殊な事情の添っての作である。左注によると、ある人が郎女に、月の別名をささらえ壮子というと話すと、郎女はその別名に興味をもち、それを詠み込む形で一首にしようとしたのがこの歌で、いわば一種の題詠ともいえるものである。興味というのは、月をその名のようなものと見ると、天の川を渡って織女に逢う彦星に近いものとなり、女性の即女として甚しく身近い栽親しいものに思えたのである。その興味の深かったことは、この歌の調べの甚だ張って冴えていることが、有力に立証している。「光」はささらえ壮子の美貌を讃えての語であるが、それが自然でこなれ切っているところも、おそらく昂揚した心からほとんど無意識に出たものだろうと思わせる。郎女の才情と手腕の偲ばれる作である。
右の一首の歌は、或は云はく、月の別名をささらえをとこと曰ふ。此の辞に縁《よ》りて此の歌を作りき。
右一首謌、或云、月別名曰2佐散良衣壯士1也。縁2此辭1作2此謌1。
【解】「或は云はく」は、ある人が作者に向かって言うことにはで、ささりら壮子といふ珍しい語を用いた次第を断わったものである。したがって作者である郎女自身の添えたものである。もし郎女以外のものとすると、側近者で、そうしたことに興味をもっていた家持でなくてはならない。
豊前国の娘子《をとめ》の月の歌一首 【娘子|字《な》を大宅《おほやけ》といふ、姓氏いまだ詳ならず】
984 雲隠《くもがく》り 行方《ゆくへ》を無《な》みと 吾《わ》が恋《こ》ふる 月《つき》をや君《きみ》が 見《み》まく欲《ほ》りする
(239) 雲隱 去方無跡 吾戀 月哉君之 欲見爲流
【語釈】 ○雲隠り行方を無みと 「雲隠り」は雲に隠れてで、おりからの月の状態。「行方を無みと」は、行方がないとしてで、見えないということを言いかえたもの。○吾が恋ふる月をや君が 「月をや」の「や」は疑問の係助詞。「君」は男。○見まく欲りする 「見まく欲り」はしばしば出た。「する」は、「や」の結。見たいと思うことであるか。
【釈】 雲に障れて行方が知れないとして、わが見たいと憧れている月を、君も見たいことだと思うのか。
【評】 女より男に贈った形の歌である。離れてくらしている男女が、月を見て互いに相思い合うというのは、平安朝時代には常識化した心持で、この時代にもそれがあったとしても怪しむにたりない。そうした月が雲隠れをしたということは、相思う心を遮られたことで、そのために女は不安を感じ、男の心を確かめようとした心の歌と取れる。それだと譬喩歌であるが、譬喩の複雑したものは雑歌へ入れる例が上にもあったので、これもその扱いをしたものとみえる。なおこの譬喩は拡がりをもちうるもので、むかえて解すれば他の解も盛れる。豐前の娘子の歌が都へ伝わったのは、譬喩が婉曲でしたがって柔らかみのあるところが、都の新風に近いものとして迎えられたのであろう。
湯原王の月の歌二首
【題意】 「湯原王」は巻三(三七五)以下しばしば出た。志貴皇子の王子である。
985 天《あめ》に坐《ま》す 月読壮士《つくよみをとこ》 幣《まひ》はせむ 今夜《こよひ》の長《なが》さ 五百夜《いほよ》継《つ》ぎこそ
天尓座 月讀壯子 幣者將爲 今夜乃長者 五百夜繼許増
【語釈】 ○天に坐す月読壮士 「天に坐す」の「坐す」はいるの敬語。「月読壮士」の「壮士」は、若盛りの男子の称で、尊んでの称である。月が常に瑞々《みずみず》しく美しいところからいったものである。呼びかけ。○幣はせむ 「幣」は、巻五(九〇五)に出た。贈物の意で、事を頼む際にはそれをするのが礼となっていたのである。○今夜の長さ五百夜継ぎこそ 「五百夜」は限りなく多くの夜ということを具象的にいったもので、上を受けて長さの上でいったもの。「こそ」は願望の助詞。
【釈】 天上にまします月読壮士よ。贈物はしよう。今夜の長さを五百夜の長さほどにも続けて下され。
【評】 円かに照り渡っている月を愛でたのしんで、その点で夜の短さを思いやっている心である。月を愛でること、それをす(240)るに甚しく昂奮した気分をもってしていることは、いずれも時代風俗である。「天に坐す月読壮士」は、一見、月を尊んでいるようであるが、上代の月読尊として畏敬しての心ではなく、若い男と見て、その美観を讃えているものであって、「天に坐す」もその延長である。「幣はせむ」も、「五百夜」も、いずれも美観に溺れての昂奮の心よりのものである。詠み口のおおらかなのは当時の最高貴族に共通のもので、王の持ち味である。
986 愛《は》しきやし まぢかき里《さと》の 君《きみ》来《こ》むと 大能備《おほのび》にかも 月《つき》の照《て》りたる
愛也思 不遠里乃 君來跡 大能備尓鴨 月之照有
【語釈】 ○愛しきやしまぢかき里の 「愛しきやし」は、愛しきすなわち愛すべきの意の形容詞に詠歎の助詞「やし」の結合したもので、既出。これは大体女を讃える場合に用いられている語で、またこれに体言の続くのが常道であるから、ここは「里」へ続くのである。「まぢかき里」は原文「不遠里」で、義訓とする解に従う。以上一、二句は、下の「君」を修飾している句である。○君来むと 「君」は男子に対する敬称であるが、この時期には女に対しても用いるようになり、少ないながらにその例の幾つかがある。ここも「愛しきやし」との関係からいえば女と取れる。「来むと」は、来ようとしてで、これは約束してのこととも取れ、また約束なく、先方のそぞろに思い立って来るのとも取れる。後の意のものと解す。○大熊備にかも月の照りたる 「大能備」は他に用例のない語で、語義にいろいろあって定まらない。『代匠記』は大きにのびやかにの意であろうと言っている。下の「照り」の状態をいう副詞と見るのが妥当に思われるからこれに従う。「かも」は疑問。「照りたる」は照っていることよ。
【釈】 可愛ゆい、あの間近い里の君が来ようとして、このように大きにのびやかに月が照っているのであるか。
【評】 甚しく気分を主にしての作であるので、容易げに見えて意味の捕捉し難いところがある。王は間近い里に女を持っていて、女のほうからおりおり王の許へ通って来るという関係になっていたとみえる。そうした関係は必ずしも珍しいものではなかったのである。作因は、王はいつも女の住む里を思慕の情をもって見やっていたのであるが、一夜月が大きくのぴやかに、すなわち広く柔らかく照っているので、こうした月夜には女が来はしないかと、女の里のほうを見やって心待ちにしたことを詠んだものと解される。そう見ると「愛しきやし」が「里」に続くことも、「君」が女であることも自然なものとなり、また、心としては相聞であるが、形としては月を中心としていることも自然となって来るからである。したがって全体としては雑歌の範囲のものである。気分を主とし、技巧に長《た》けている王の歌であるから、このように解する。
藤原八束朝臣の月の歌一首
(241)987 待《ま》ち難《がて》に わがする月《つき》は 妹《いも》が着《き》る 三笠《みかさ》の山《やま》に 隠《かく》れてありけり
待難尓 余爲月者 妹之着 三笠山尓 隱而有來
【語釈】 ○待ち難にわがする月は 「難に」は、「難」は可能の意の下二段の動詞。「に」は打消の助動詞「ず」の連用形。待って待ちきれなくする月は。○妹が著る三笠の山に 「著る」は古くは笠を被《かぶ》ることを言った。妹が被《かぶ》るで、「笠」の枕詞。○隠れてありけり 「けり」は詠歎。隠れていることであるよ。
【釈】 待って待ち切れずにわがしている月は、三笠の山に隠れていることであるよ。
【評】 月の出を待って、待ちきれない心である。月を美しいものとして憧れる心から、人間に引きつけ、気分化して、「妹が着る」という枕詞、「隠れてありけり」という擬人に近い言い方をしているのである。技巧として意識的にいっている匂いは少ないが、一歩手前まで迫っているものである。
市原王、宴に父安貴王《あきのおほきみ》を祷《ほ》く歌一首
【題意】 「安貴王」は志貴皇子の子孫、春日王の子。「市原王」は巻三(四一二)に出た。独子であったことが、後の(一〇〇七)でわかる。「宴」は下の「祷く」ことをするためで、祷くのは父王の寿である。「祷く」の「く」は当時清音であった。
988 春草《はるくさ》は 後《のち》はうつろふ 巌《いはほ》なす 常磐《ときは》に坐《いま》せ 貴《たふと》き吾君《わぎみ》
春草者 後波落易 巖成 常磐尓座 貴吾君
【語釈】 ○春草は後はうつろふ 「うつろふ」は原文「落易」の義訓。ここは衰え枯れる意。草を命の限られたものとして、「巌」に対させている。○巌なす常磐に坐せ 「巌なす」は巌のごとくに。「常磐」は本来は床岩で、上面の床のごとく平らかに大きい岩であるが、その永久性をもつところから永久の意に用いられていた詞で、祝詞に「堅磐《かきは》に常磐に斎《いは》ひ奉《まつ》り」というように例が多い。「坐せ」はいるの敬語で、命令形。○貴き吾君 「吾君」は尊み親しんでの称で、ここは父を指したもので、呼びかけ。
【釈】 春の草は後には枯れ易い。巌のごとく永久にいらせられよ。貴き父君よ。
(242)【評】 賀の歌は、その言う語の必ず効果のあることを信じて詠むもので、したがって、きわめて良心的であるべきものである。この歌もそれで、春草に対照させて巌の永久性を高調し、そのごとく長寿にいませと祷いだので、事としては何の技巧も用いていないが、それがすなわち本旨なのである。しかし調べとしては、二句で切り、四句で切り、「貴き吾君」と名詞をもって結んで、荘重なものとしているのである。実用性を徹底せしめた歌である。
湯原王の打酒の歌一首
【題意】 「打洒」ということはここにあるだけで、他には見えないことである。その事柄は歌によって知られる。酒を打つとは、洒を飲むに先立って、それに宿っている悪い霊を、刀の刃をもって切り払うことの称で、定まっている呪法だったのであろう。
989 焼刀《やきたち》の かど打放《うちはな》ち 大夫《ますらを》の 祷《ほ》く豊御酒《とよみき》に 吾《われ》酔《ゑ》ひにけり
燒刀之 加度打放 大夫之 祷豊御酒尓 吾醉尓家里
【語釈】 ○焼刀のかど打放ち 「焼刀」は鉄を火に焼いて鍛えて作った太刀で、そうした物は鋳た物よりは鋭利なので、鋭利な太刀ということを具象的にいったもの。「かど」は太刀の角となっている所で切尖の称。「打放ち」は「打」は接頭語で、「放ち」は鞘より抜き放つ意。○大夫の祷く豊御酒に 「大夫」はここは武勇なる男子。「祷く」は酒を打つしぐさをしたもの。「豊御酒」は(九七三)に出た。酒を讃えての称。○吾酔ひにけり 「けり」は詠歎で、吾は酔ったことであるよと酔いの喜びをいったもの。
【釈】 鋭利なる焼刀の切尖を抜き放って、大夫の打って祷いだ豊御酒に、吾はたのしく酔ったことであるよ。
【評】 洒を打つということは、後世では珍しいことであるが、この当時にあってはきわめて普通なことであったと思われるのに、それを捉えて重々しくいっているのは、「吾酔ひにけり」との関係において、そのことが大切であるとともに、見る目に快いことであったがためと思われる。酔いのたのしさを詠んだ歌は少ない。この意味でこの歌は珍しいものである。調べがさわやかに強く、感を十分に生かしきっている歌で、王の力量の帽を思わせる作である。
紀朝臣|鹿人《かひと》、跡見《とみ》の茂岡《しげをか》の松の樹の歌一首
【題意】 「紀鹿人」は、続日本紀、聖武紀に、天平九年正六位上より外従五位下、十二年主殿頭「十二年外従五位上、十三年大炊(243)頭とある。「跡見の茂岡」は、西本願寺本「見茂岡」。紀州本外二本は「跡見」。「跡見」は、桜井市|外《とび》山(吉隠を中心とした一帯)、及び、磯城郡、富雄町地方など異説が多い。巻八(一五六〇)大伴坂上郎女の「跡見田庄にて作れる歌」があり、大伴家の領地であったと知られる。「茂岡」は地名。
990 茂岡《しげをか》に 神《かむ》さび立《た》ちて 栄《さか》えたる 千代松《ちよまつ》の樹《き》の 歳《とし》の知《し》らなく
茂岡尓 神佐備立而 榮有 千代松樹乃 歳之不知久
【語釈】 ○茂岡に神さび立ちて 「神さび」は既出。神々しく。○千代松の樹の歳の知らなく 「千代松の樹」は、「千代」は千年で、松の樹齢とされている。その千年を待つ松の樹で、「松」は掛詞になっている。巻九(一七九五)に「嬬松の木」、(一〇四一)に「君松の樹」という語もこの時期には行なわれて、その延長した語。「知らなく」は既出。知られないことよ。
【釈】 茂岡に神々しく立って栄えている、千年という限りない齢を将来に待ち持っている松の樹の、現在の年のすでに知られないことよ。
【評】 老松を讃えたものであるが、老木に神格を認めて尊むことは伝統の久しいものであるから、この歌にもその心が絡んでいよう。「跡見」は巻八(一五六〇)で大伴家の領地であることが知られる。その関係からこの歌は、そこにある老松に寄せて大伴氏を祝ったものかとも思われる。この時期としては古風な歌である。
同じき鹿人、泊瀬の河辺に至りて作れる歌一首
991 石走《いはばし》り たぎち流《なが》るる 泊瀬川《はつせがは》 絶《た》ゆることなく 亦《また》も来《き》て見《み》む
石走 多藝千流留 泊瀬河 絶事無 亦毛來而將見
【語釈】 ○石走りたぎち流るる 「石走り」は、既出。石の上あるいは石の間を走って。旧訓「石《いし》走る」。『代匠記』は、枕詞としたのを、『古義』は、動詞とした。続く「たぎち」が助詞であるから、動詞と見るべきである。「たぎち流るる」ははげしく流れるところので、渓流のさま。○泊瀬川 大和川の上流で、泊瀬地方を流れる間の称。○絶ゆることなく亦も来て見む 「絶ゆることなく」は、上を承けてはその流れの絶えることのない意であるが、下の「亦も來て見む」への続きとしては、泊瀬川は見ても見飽かないので、この後も我は絶えることなくの意で、このほうを主としたものである。上三句は状態描写であるとともに序詞となっている。これは巻一(三七)「見れど飽かぬ吉野の河の常滑《とこなめ》の絶ゆる事なく復《また》(244)かへり見む」をはじめ類歌があって、それを踏襲したものである。
【釈】 岩の上を激して流れる泊瀬川よ、吾もこの流れの絶えることなくまたも来て見よう。
【評】 これは泊瀬川の谷川の渓流の面白さを讃えたもので、憧れの心を詠んだものである。上に引いた歌と形は似ているが、心は距離をもったものである。上の歌の「かへり見む」は吉野宮で、賀の心よりであるが、これは単に風景そのものにすぎないからである。古歌の風を慕う心が窺われる。
大伴坂上郎女、元興寺《ぐわんごうじ》の里を詠める歌一首
【題意】 「元興寺」は、崇峻天皇の元年、蘇我馬子が、飛鳥の衣縫の造の祖|樹葉《このは》の家を壊して法興寺とした寺で、わが国最初の寺である。後に元興寺と改めた。奈良遷都とともに新京に遷すことになったが、実行したのは養老二年で、地は奈良左京五条七坊、今の芝新屋町である。しかし以前の元興寺も存せられて本元興寺と呼び、今では安居院と称している。ここは奈良の元興寺で新元興寺と呼び、その辺りを旧所在地に因んで飛鳥の里と呼んでいた。
992 古郷《ふるさと》の 飛鳥《あすか》はあれど 青丹《あをに》よし 平城《なら》の明日香《あすか》を 見《み》らくし好《よ》しも
古郷之 飛鳥者雖有 青丹吉 平城之明日香乎 見樂思好裳
【語釈】 ○古郷の飛鳥はあれど 「古郷」は「平城《なら》」に対させての古都また旧住地。「飛鳥」は奈良との対照上広くいったもの。「あれど」は下の「好し」に関係させ「好し」をそちらへ譲った語法で例の少なくないもの。好くあれどの意。○青丹よし平城の明日香を 「青丹よし」は枕詞。「平城の明日香」は上にいった新元興寺のある辺りの当時の称。○見らくし好しも 「見らく」は動詞「見る」の名詞形。「し」は強め。「も」は詠歎。
【釈】 故郷の飛鳥は好いところであるが、平城《なら》も見るに好いところであるよ。
【評】 かなり強い感動を起こして詠んだと見え、言葉は単純であるが、調べが張っている。新元興寺に詣でた時の歌と思われるが、仏に関してのことは何もいわず、ただ寺のある土地のみを讃えているのは、新味讃美の一つの現われと見るべきであろう。これは当時の人の共通の心だからである。平城の飛鳥をいうに、故郷の飛鳥をいい、それにもまさっているという言い方は、郎女の心に郷愁の念の強いもののあったことを暗示していることで、そこに女性の心が窺われる。「飛鳥」という地名を二回いっているのも、それらの感のさせている、必然的なものにみえる。
(245) 同じき坂上郎女の初月《みかづき》の歌一首
993 月《つき》立《た》ちて ただ三日月《みかづき》の 眉根《まよね》掻《か》き け長《なが》く恋《こ》ひし 君《きみ》にあへるかも
月立而 直三日月之 眉根掻 気長戀之 君尓相有鴨
【語釈】 ○月立ちてただ三日月の 「月立ちて」の「立ち」は、月の初めて現われる意で、太陰暦ではその日が一日である。朔《ついたち》は「月立つ」の連用形の名詞となったもの。「ただ」はわずかにで、月立ちてわずかに三日目の意で三日と続け、その三日を名詞「三日月」に転じているから、「月立ちてただ」は、「三日月」の序詞である。「三日月の」の「の」は、のごときで、下の眉の譬喩。三日月を女の眉の譬喩としたのは、当時唐風を模して、眉を三日月形に剃り、また黛《まゆずみ》で描くことが流行していたからである。漢詩の蛾盾である。○眉根撞き 「眉根」の「根」は岩根などのそれと同じく接尾語。「掻き」は、眉の痒くなるのは思う人に逢える前兆だと信じていたことで、既出。○け長く恋ひし君にあへるかも 「け長く」の「け」は、日で、長い間。「かも」は詠歎。
【釈】 三日月のごときわが眉を痒くて掻いて、果たして長い間を恋うていたところの君に逢っていることであるよ。
【評】 題詞は「初月の歌」とあるが、歌は妻である女が、久しく逢えずにいた夫である男に逢い得た喜びであって、まさしく相聞の歌である。思うに、これは「初月」という題での題詠で、これに統く家持の歌も同題で、これまた相聞の歌であり、さらにまた家持は、この年には十六歳であったろうと推定されているところから、伯母の郎女が年少の家持に短歌の作法を指導したのではないかと推測されている。もしそれだとすると、その指導したことは歌の上に明らかである。それは二つのことで、第一は初月は眼前の実物で、それを見ている態度で詠むのであるが、必ずしもそれに即そうとはせず、それによって連想される情趣的なことを詠むことである。第二には、その情趣は、自身の体験として得たもので、個人的なものであるが、それと同時に他人も体験しうる一般性をもったものだということである。これを歌そのものの上でいうと、郎女としては、初月を見ると、それを自身の眉根の形を連想させるものとしてその譬喩に用い、転じてその眉根が痒くて掻くという、自身のことであると同時に当時の人だと誰でも体験していることに展開させ、再転させてその前兆どおり、待ちこがれている夫に逢えたことにしたのである。これは当時の女性としては最も喜ばしい、一般性をもったことなのである。これは穿ちすぎた解のごとくであるが、この歌に続いている家持の歌は、男女の相違があるだけで、題の扱い方は全く同一であるのでも知られることであり、またこの歌のみとしても、郎女の平常の、柔らかく屈折はもちながらも、単純にして率直で、冴えを失っていないのにくらべて、この歌は技巧がありすぎ、一首としての綜合統一がたりず、したがって調べの冴えに遠いことも、全く作為のものであることを思わせるからである。この解があたっているとすれば、このことはやがてこの時期の歌の傾向を力強く語っているものである。(246)それは前代とはちがって実感より情趣に移ろうとしているこであって、それをするには実感よりある程度の遊離をもち、一般性のある情趣を詠もうとしていたことである。さらにいえば万葉集初期の、実感そのものを魄力によって綜合統一しようとした風と、平安朝時代の、実感は背後に押しやり、情趣のみを詠もうとする風の中間に立っていたということである。
大伴宿繍家持の初月の歌一首
994 振仰《ふりさ》けて 若月《みかづき》見《み》れば 一目《ひとめ》見《み》し 人《ひと》の眉引《まよびき》 念《おも》ほゆるかも
振仰而 若月見者 一目見之 人之眉引 所念可聞
【語釈】○振仰けて若月見れば 「振仰けて」は、「振」は接頭語。「仰け」は義訓で、放《さ》けすなわち身を反《そ》らして仰ぎ望む形で、見ればに続く。仰いで三日月を見れば。○一目見し人の眉引 「人」は女。「眉引」は黛を引いた眉で、眉の意。○念ほゆるかも なつかしく思われることであるよで、恋の心。
【釈】 身を反らして三日月を見ると、ただ一目見たことのあった女の眉引が思われて、なつかしいことであるよ。
【評】 上の歌でいったように、「初月」を、同じ態度同じ方法で詠んだものであり、異なるところは男としての体験を扱っていることだけである。家持の歌としては、年代の明らかなものでは最初の作だと推定されているもので、明るく暢びやかで品ももってはいるが、郎女の歌とくらべれば幼稚にして単純で、固くなって詠んでいる感のするものである。上の歌との関係は蔽うべくもなく明らかである。
大伴坂上郎女、親族と宴《うたげ》せる歌一首
995 かくしつつ 遊《あそ》び飲《の》みこそ 草木《くさき》すら 春《はる》は生《お》ひつつ 秋《あき》は落《ち》り去《ゆ》く
如是爲乍 遊飲與 草木尚 春者生管 秋者落去
【語釈】○かくしつつ遊び飲みこそ 「かくしつつ」は、「かく」は眼前の宴。「つつ」は継続。「遊び飲み」は、楽しく遊んで、酒を飲む意で、「飲む」だけで酒をあらわすことは他にも用例がある。「こそ」は、願望の助詞。○草木すら春は生ひつつ 「すら」は一事を挙げて他を類推させ(247)る意の助詞で、草木でも知れるように。「生ひつつ」は生命をもちつつで、「つつ」は上と同じ。○秋は落り去く 「落り」は、葉の散る意であるが、衰え死ぬことを具象的にいったもの。
【釈】 このようにしつつ、楽しく遊んで酒を飲みたいものであるよ。草木でも知れるように、春は新しく生命を得つつ秋には枯れて死んで行く。
【評】 大伴氏一族の者が集まって酒宴を催すことが恒例となっていたとみえる。天平三年、氏の上《かみ》であった旅人の没した後は、家持が跡を継ぐべきであるが、年若なので、郎女が家刀自としてその家を処理しており、恒例の宴席には、主人として酒を勧める歌を詠んだとみえる。「かくしつつ遊び飲みこそ」は、恒例の酒宴としてはその事を強く意識した言葉で、軽く明るい心のものではない。「草木すら」以下は、広い世界の上に、草木と人間とを同列に立たせ、草木の春秋の栄枯を人間に引き当てて比較した心のもので、人間の生命の短さを暗示したもので、全体としては生きている間をたのしく過ごしたいという心である。仏教的の心から生まれた享楽主義で、時代的な心であったことは、その言葉の単純で、暗示でたりた点かりも窺われるが、一首の調べに投げやりな棄てばちな匂いがあって、言っているごときたのしい気分ではなかったことが感じられる。あるいは廷臣としての豪族大伴氏の状態をも反映させている語であり、「親族」の者にはこの歌の心が黙会されたものではなかろうか。
六年甲成、海《あまの》犬養宿禰岡麿、詔に応ずる歌一首
【題意】 「海犬養岡麿」は、伝未詳である。「詔に応ずる」は、天皇より歌を詠めという詔を蒙って、それに応ずる意である。天皇の御前に在って、即座に詠んだものと取れる。
996 御民《みたみ》吾《われ》 生《い》ける験《しるし》あり 天地《あめつち》の 栄《さか》ゆる時《とき》に あへらく念《おも》へば
御民吾 生有驗在 天地之 榮時尓 相樂念者
【語釈】 ○御民吾生ける験あり 「御民」の「御」は美称で、天皇の民であるとして添えたもの。この称は(九七三)「天皇《すめら》朕《わ》が」に対するものである。この語は巻一(五〇)「藤原宮の※[人偏+殳]民の作れる歌」に、「其を取るとさわぐみ民も」とあり、古来の成語である。「生ける験あり」は、「生ける」は、生きあるで生きている。「験」は甲斐で、生き甲斐があると強く言い切ったもの。○天地の栄ゆる時に 「天地」は国家を言いかえた成語で、具象的に荘重感をもたせたもの。「栄ゆる時」は御稜威の現われている時。○あへらく念へば 「あへらく」は、「あふ」を名詞形にして強めたもの。「念へば」は感を強めることを主として添える語で、用例の多いもの。
(248)【釈】 御民の吾は生き甲斐のあることである。天地が御稜威で栄えている御代に遭っていることを思うので。
【評】 岡麿の名はこの歌にあるのみで、他には見えず、また特に詔を蒙っていることから見ると、天皇の側近に仕えていた身分低い人と思われる。歌は平常心に抱いていたことを、たまたま機会を得たままに一気に詠み上げた趣のあるものである。心は天平時代を讃えたものであるが、その時代としては前古に例のない盛時だったので、これは当時の人に共通な感情で、岡麿に限ったものではなく、代弁したにすぎないものである。「御民吾生ける験あり」は、自身の生存価値を一に「み民」の上に認めていることで、個人的のごとき言葉であって実は没個人的なものである。そしてこれが身分低い者としての賀の心を徹底させているのである。この歌の調べのもつ雄渾荘重な響はやがて岡麿の感情そのもので、それが類いなき賀歌を成している。
春三月、難波宮に幸《いでま》せる時の歌六首
【題意】 続日本紀、聖武紀に、天平六年「三月辛未、行2幸難波宮1。とあり、また「戊寅、車駕発v自2難波1宿2竹原井頓宮1。庚辰、車駕還v宮」とある。
997 住吉《すみのえ》の 粉浜《こはま》の四時美《しじみ》 開《あ》けも見《み》ず 隠《こも》りてのみや 恋《こ》ひわたりなむ
住吉乃 粉濱之四時美 開藻不見 隱耳哉 戀度南
【語釈】 ○住吉の粉浜の四時美 「住吉」はしばしば出た。今の大阪市住吉区住吉神社の辺りの海岸一帯の称。「粉浜」は住吉の西北方にその名が残っている。浜は磯に対しての称で、砂地の海岸の称。「四時美」は、蜆すなわち蜆貝で、諸書に出ており、今と同じである。蜆は水中にあっては殻を開《あ》けているところから「開け」と続け、それを心を打開ける意の「開け」に転じて序詞としたもの。元暦校本には、「四時美」が「四時華」となっており、「とこなつ」と義訓されて、それが後の『八雲御抄』『夫木抄』などに取られたところから、自然有力なものとなっている。しかし「華」は元暦校本一のみであり、「四時華《とこなつ》開《さ》く」は、当時「とこなつ」という称があったかどうか疑わしく、三月の行幸の季節に咲くことも疑わしいと考証されている。さらにまた「四時華《とこなつ》開《さ》く」とすると、初二句は序詞ではなく叙景となってきて、この際の歌としては特殊にすぎるものともなるので、今のように「美」の字に従う。○開けも見ず「開け」は心を打明ける意で、恋の上の訴え。「も」は詠歎。「見ず」は試えみずで、「ず」は連用形で下へ続く。○隠りてのみや恋ひわたりなむ 「隠りてのみ」は心に籠めてばかり。「や」は、疑問の係助詞。「恋ひわたりなむ」は恋い続けていることであろうか。
【釈】 住吉の粉浜にいる蜆の口を開けている、それに因みあるわが心を打明けることもせずに、思うことを心に籠めてばかり恋(249)いつづけていることであろうか。
【評】 住吉の浜へ御出遊になった時、御供をして詠んだものとみえる。硯をいうに地名を二つまで重ねていっているのは、食料としていた蜆ではあるが、それが水中に口を開けているのはよほど珍しく、それを捉えて序詞としたということは、作者はもとよりそこにいる人々の興を引いたことであろう。恋の相手はその土地の女で、三句以下は常套的なものである。歌としては相聞であるが、行幸の際の歌というので雑歌に入れたものである。
右の一首は、作者いまだ詳ならず。
右一首、作者未v詳。
【解】 作者を歌の後に記す書き方は、原本に従ったものと取れる。この歌は作者の名が逸せられたのである。
998 眉《まゆ》の如《ごと》 雲居《くもゐ》に見《み》ゆる 阿波《あは》の山《やま》 懸《か》けて榜《こ》ぐ舟《ふね》 泊《とまり》知《し》らずも
如眉 雲居尓所見 阿波乃山 懸而榜舟 泊不知毛
【語釈】 ○眉の如雲居に見ゆる阿波の山 「眉の如」は描いた眉のような形にで、遠く海上に見える山の譬喩。漢詩文にある、遠山眉という語の影響があろう。「雲居に見ゆる」は「雲居」は遠天。ここは水と接している空。「阿波山」は、阿波国(徳島県)の山。○懸けて榜ぐ舟 「懸けて」は関係させてで、ここはそちらへ向かって。「榜ぐ舟」は榜いで行く舟で、当時の舟は小さい上に、遠く望んでのことであるから、きわめて小さく見える舟である。○泊知りずも 「泊」は、舟の行き着く所。「知らず」は知られず。「も」は、詠歎。これは舟の頼りなげに、さみしく見える心を、具象的に言いかえたもので、「も」の詠歎もその意よりのもの。
【釈】 眉のごとくに速い空に見えている阿波国の山よ。それを目懸けて榜いでゆく小さい舟の、泊る所の知られないことよ。
【評】 春の晴れ渡った日、難波の海を隔てて遠く眉のように見える阿波の山のほうに向かって当時の小さい舟の漕いでゆくのを大観して、その景のもたらす快くしてさみしい感情を、説明なしにあらわそうとしたものである。「泊知らずも」は説明に近い句であるが、広い海に島も見えないことをあらわしたともいえるものである。調べは落ちついているが弛んではいず、一種の品をもったもので、感にふさわしいものである。
(250) 右の一首は、船王の作。
右一首、船王作。
【解】 「船王」は舎人親王の子、淳仁天皇の御兄である。続日本紀、聖武紀、神亀四年に無位より従四位下となり、淳仁紀、天平宝字二年には従三位、三年親王となり三品。四年信部卿(中務卿)。六年二品。称徳紀、天平宝字八年には諸王に下し、讃岐国に流された。なお王の事は続日本紀にくわしい。
999 千沼廻《ちぬみ》より 雨《あめ》ぞ零《ふ》り来《く》る 四極《しはつ》の白水郎《あま》 網手綱《あみたづな》乾《ほ》せり 沾《ぬ》れあへむかも
從千沼廻 雨曾零來 四八津之白水郎 網手綱乾有 沾將堪香聞
【語釈】 ○千沼廻より雨ぞ零り来る 「千沼」は史上にも歌にもしばしば現われている地で、和泉より摂津へかけての海岸一帯(今の大阪市南部かり泉大津市にわたる)の称である。「廻」はあたり。「雨ぞ零り来る」は、左注によると、天皇住吉の浜を遊覧されての還御の途中、にわか雨にあったと取れる。〇四極の白水郎網手綱乾せり 「四極」は住吉から喜連町に行く間の地の名。「白水郎」は海人《あま》で、漢風の用字。泉郎とも書く。「網手綱」は旧訓「あみてなは」。『代匠記』の訓。網に付ける綱で、網引《あびき》をする時などに用いる物。直接に手に扱う物であるから「手」を添えた。網の手綱の意。「乾せり」は乾してあるので、網を朽ちさせないためにすること。晴天を利用してのことである。○沾れあへむかも 「あへ」は原文「堪」であるが、多くは「敢」の字を用い、意は堪える、あるいは事をなしきる窓。「沾れあへむ」は、沾れてしまおうの意。「かも」は詠歎。
【釈】 千沼のほうから雨が降って来ることであるよ。四極の海人は網の手綱を干してある。濡れてしまうことであろうよ。
【評】 左注によると、天皇還御の途が四極の地に懸かった時、天候がにわかに変わって雨が襲って来ようとした。天皇はそれを御覧になられ、供奉の守部王に、これを歌に詠めと詔があったので詠んだものである。矚目の景を捉えようとすれば幾らもあったろうと思われるのに、網手綱という軽い物を捉え、しかも干してあるのが濡れてしまおうという細かい心づかいをすることをもって一首としているのである。海人の生活状態はよほど目新しいものであって、それも関係していようが、実生活に即しての気分の動きというものに人々が興味をもっていたことを示しているものにみえる。これは伝統のあるものであるが、新しく細かくと展開してきていることは時代的といえる。
右の一首は住吉の浜に遊覧して宮に還り給へる時、その道の上《ほとり》にて、守部王の詔に応じて作れる(251)歌。
右一首、遊2覽住吉濱1還v宮之時、道上守部王應v詔作謌。
【解】 「守部王」は続日本紀、聖武紀に、天平十二年、無位守部王従四位下を授けるとあり、同年中に従四位上に進んでいる。
1000 児等《こら》があらば 二人《ふたり》聞《き》かむを 奥《おき》つ渚《す》に 鳴《な》くなる鶴《たづ》の 暁《あかとき》の声《こゑ》
兒等之有者 二人將聞乎 奥渚尓 鳴成多頭乃 曉之聲
【語釈】 ○児等があらばこ人聞かむを 「児等」は家にある妻の愛称で、「等」は接尾語。「二人聞かむを」は二人でともに聞こうものをで、感探きものをただ一人で聞く嘆き。○奥つ渚に鳴くなる鶴の 「奥つ渚」は沖のほうにある洲で、鶴が小魚を漁りよい場所としている所。「鳴くなる」は、鳴いていると確かにいったもの。○暁の声 鳥類は、朝早く食を求める習性のもので、ここもそれであり、その声は哀切な響をもっている。下に詠歎が含まれている。
【釈】 妻がここにいるならば、二人で一し上に聞こうものを。沖のほうの洲に鳴いている鶴の、暁に鳴く声よ。
【評】 暁、沖のほうの洲から、鶴の哀切な声の聞こえて来るのを聞いて、妻に聞かせてやれないのを惜しんだ心である。佳景を見て、愛する者に見せてやりたいと思うのは共通の情で、しばしば出ているもので、これもその範囲のものである。この時代の歌には暁は最も妻の思われる時としており、今は旅であるから、一段とその感が深い時である。しかるにこの歌には自身のことは全くいわず、ただ妻にあわれ深い声を聞かせたいことをいっているだけであるが、強い思い詰めた調べをもってしているので、旅愁の十分に湛えられたものとなっている。王の打上がった態度と、すぐれた歌才を思わせるにたりる作である。
右の一首は守部王の作。
右一首、守部王作。
1001 大夫《ますらを》は 御※[獣偏+葛]《みかり》に立《た》たし 未通女等《をとめら》は 赤裳《あかも》すそ引《ひ》く 清《きよ》き浜《はま》びを
大夫者 御※[獣偏+葛]尓立之 未通女等者 赤裳須素引 清濱備乎
(252)【語釈】 ○大夫は御※[獣偏+葛]に立たし 「大夫」は供奉の廷臣を尊んでの総称。「は」は「未通女等」に対させたもの。「御※[獣偏+葛]」の「御」は、天皇の御猟ゆえに尊んでのもの。「立たし」は「立つ」の敬語。「立つ」は、旅立つの立つなどと同じく、その事を行なう意。時は三月であるから、さして猟期に後れた時ではなかったので、男子の第一の遊興とする猟があったのである。○未通女等は赤裳すそ引く 「未通女等」は供奉の女官の総称。「赤裳」は赤色の裳で、当時女の一般に用いた色であるが、制の色でもあったと取れる。「すそ引く」は、裾を地に引いて歩む意で、逍遙していることを具体的にいったもの。○清き浜びを 「浜び」は浜べと同じ。住吉の清らかな浜の辺りを。
【釈】 大夫のほうは御猟にお仕え申し上げ、未通女《をとめ》のほうは赤裳の裾を引いて逍遙している。清らかな浜べを。
【評】 行幸の供奉の男女の臣の全部が、心長閑かに、楽しく日を過ごしていることを、眼に見る女官の状態を主としていっているもので、まさに賀の歌の形のものである。「赤裳すそ引く清き浜びを」に感性の冴えが見え、それがおのずかり賀の心をあらわしていると言える。間接ながら個性の際やかに現われた歌である。
右の一首は、山部宿禰赤人の作。
右一首、山部宿祢赤人作。
1002 馬《うま》の歩《あゆみ》 押《おさ》へ駐《とど》めよ 住吉《すみのえ》の 岸《きし》の黄土《はにふ》に にほひて行《ゆ》かむ
馬之歩 抑止駐余 住吉之 岸乃黄土 余保比而將去
【語釈】 ○馬の歩押へ駐めよ 「馬の歩」はわが乗馬の歩。「抑止」は旧訓「おさへ」。『代匠記』は「おして」と改め押返すなどの押しと同意だとしている。いずれにしても進むのに反対の力を加える意で同じである。旧訓のおおまかなのに従う。「駐めよ」は自分の馬に添っている従者に命じた語とも、また馬をつらねている同輩に勧めた語とも取れる。従者に命じたものと解す。○住吉の岸の真土に これは、巻一(六九)以下しばしば出た。住吉の海岸には黄土粉があって、白い衣を染めるに適していたところから、たのしい旅の記念としてそれをしたのである。 ○にほひて行かむ 「にほふ」は色の艶やかなことをあらわす語で、「にほひて」は旅の衣を染めて艶やかにしての意。
【釈】 わが乗馬の歩みを押さえとどめよ。住吉の海岸の黄土にわが旅衣を染めて艶やかにして進もう。
【評】 これは従者に命じる用事を、歌をもっていっているものである。上代からあったことで、新しい風ではない。しかし上代のものは、改まった場合、日常語をもってしては不適当だとしての事であったとみえる。しかるにこの歌などはその必要のないものにみえる。それは歌が実用性より文芸性のものとなり、それとともに軽く扱われるようになったためとみえる。文芸と()いうことに重点を置いて見れば、この歌はその事例とともに、軽いながら一応の感をもったものとなっている。
右の一首は、安倍朝臣|豊継《とよつぐ》の作。
右一首、安倍朝臣豐継作。
【解】 「安倍豊継」は、続日本紀、聖武紀、天平九年外従五位下より従五位下を授くとある。
筑後守外従五位下|葛井連大成《ふぢゐのむらじおほなり》、遙に海人《あま》の釣船を見て作れる歌一首
【題意】 「葛井大成」は、巻四(五七六)に出た。神亀五年正六位上より外従五位下。天平二年、大伴旅人邸の梅花の宴に、同じく「筑後守」として列している。なお「外」というのは中央の奉仕者以外に賜わる位である。
1003 海※[女+感]嬬《あまをとめ》 玉《たま》求《もと》むらし 奥《おき》つ浪《なみ》 恐《かしこ》き海《うみ》に 船出《ふなで》せり見ゆ
海※[女+感]嬬 玉求良之 奥浪 恐海尓 船出爲利所見
【語釈】 ○海※[女+感]嬬玉求むらし 「海※[女+感]嬬」は海人の女。女を処女《をとめ》というのは、女を尊む習いからである。「玉」は鰒玉《あわびだま》。鰒は海底の物で、潜り入って取るのである。「らし」は眼前を証としての推量で、証は下の「船出せり」である。○奥つ浪恐き海に 「奥つ浪」は沖の浪。「恐き」は沖のほうは浪の高いのが普通であるところからいったもの。○船出せり見ゆ 「見ゆ」は動詞助助詞の終止形に接するのが当時の通則である。
【釈】 海人の処女《おとめ》が、海底の鰒玉を求めるのであろう。沖のほうの浪の高く恐ろしい海に、船出をしているのが見られる。
【評】 京よりの官人の、海人の沖遠く漁業をしているのを見て、驚嘆の心をもって詠んだものである。大成《おおなり》は旅人の大宰帥時代すでに筑後守であったのに、海を珍しくも恐ろしくも感ずる心をもっていて、海人としては普通の業を驚嘆して見たのである。題詞には「遙に海人の釣船を見て」とあるのに、「玉求むらし」といっているのは、美化してのことである。作因は驚嘆にあるので、それを具象化しようとの心からであろう。一首の調べは作因にふさわしいものである。
※[木+安]作村主益人《くらつくりのすぐりますひと》の歌一首
(254)【題意】 「※[木+安]作益人」は、伝は詳かではなく、左注によって、その内匠寮大属であったことだけが知られる。内匠寮は「うちのたくみのつかさ」といい、聖武天皇の神亀五年八月初めて置かれた役所で、中務省に属し、巧匠技巧の事を掌り、公事の舗設をも兼ね行なった。職制は、頭一人、助一人、大允一人、少允二人、大属一人、少属二人などである。益人はその大属であって、従八位以上といふ卑官である。頭は佐為王《さいのおおきみ》である。「村主」は姓。
1004 念《おも》ほえず 来《き》ましし君《きみ》を 佐保川《さほかがは》の 河蝦《かはづ》聞《き》かせず 還《かへ》しつるかも
不所念 來座君乎 佐保川乃 河蝦不令聞 還都流香聞
【語釈】 ○念ほえす来ましし君を 「念ほえず」は思われずで、「ず」は連用形、下へ続く。思い懸けずもにあたる。左注によると、大属の益人が長官の佐為王を招いたので、王は益人の家を訪れたのであるが、益人はその事を身にすぎた光栄とし、「念ほえず」すなわち思い懸けずも来られたものといったのであって、卑下の心よりの言である。「来ましし」は、原文「来座」。旧訓「来ませる」。『新考』の訓。結句「還しつる」と時を合わせるためである。来たの敬語。「君」は佐為王。「を」は詠歎。○佐保川の河蝦聞かせず 「佐保川」は巻一(七九)に出た。春日山に発し、佐保の南を流れ、大安寺を経て、大和川に合流する川。益人の家はその流れに接していたことが、下の続きで知られる。「河蝦」は今の河鹿。清流に棲み、初夏より鳴き、その声が低く、澄んでいて、あわれが深い。「聞かせず」は、河鹿は夕暮になって鳴くものなので、その時にならずしてで、この「ず」も連用形。○還しつるかも 「かも」は詠歎。還してしまったことではあるよで、嘆いていっているもの。
【釈】 思い懸けずもいらして下さった尊い君であるものを、佐保川の河鹿の声を聞かせずして還してしまったことではあるよ。
【評】 この歌の作因と作意は、左注で知られる。卑官の益人が頭の佐為王の入来を甚しき光栄に感じ、唯一のもてなしものとして、家の内にいて聞かれる佐保川の河鹿の聲を聞かせようとしていたのに、王は河鹿の鳴き出す夕暮を待たずにして帰られたので、益人はそれを嘆いて読んたのである。歌は言うほどのものではないが、あるあわれのあるもので、詠み方の素朴なのも作意にかなったものである。
右は、内匠大属※[木+安]作村主益人、聊飲饌を設け、長官佐為王を饗せしに、いまだ日の斜《くだ》つに及《いた》らずして、王既に還帰《かへ》りき。時に益人、厭かずして帰るを怜惜《かな》しみて、仍《よ》りてこの歌を作りき。
右、内匠大屬※[木+安]作村主益人、聊設2飲饌1、以饗2長官佐爲王1、未v及2日斜1、王既還歸。於v時益人、怜2惜不v※[厭のがんだれなし]之歸1、仍作2此謌1。
(255)【解】 「佐為王」は葛城王(橘諸兄)の弟。続日本紀、元明紀、和銅七年、無位より従五位下、天平八年、兄葛城王とともに臣籍に下り、橘宿禰を賜わり、九年正四位下、中宮大夫兼右兵衛率をもって卒した。
八年丙子夏六月、芳野離宮に幸せる時、山部宿禰赤人、詔に応じて作れる歌一首 并に短歌
【題意】 続日本紀、聖武紀、天平八年に「六月乙亥行2幸于芳野離宮1。」秋七月「庚寅車駕還v官。」とある。
1005 八隅《やすみ》知《し》し 我《わ》が大王《おおきみ》の 見《め》し給《たま》ふ 吉野《よしの》の宮《みや》は 山《やま》高《たか》み 雲《くも》ぞ棚引《たなび》く 河《かは》速《はや》み 湍《せ》の声《と》ぞ清《きよ》き 神《かむ》さびて 見《み》れば貴《たふと》く 宜《よろ》しなへ 見《み》れば清《さや》けし この山《やま》の 尽《つ》きばのみこそ この河《かは》の 絶《た》えばのみこそ ももしきの 大宮所《おほみやどころ》 止《や》む時《とき》もあらめ
八隅知之 我大王之 見給 芳野宮者 山高 雲曾輕引 河速弥 湍之聲曾清寸 神佐備而 見者貴久 宜名倍 見者清之 此山乃 盡者耳牡 此河乃 絶者耳社 百師紀能 大宮所 止時裳有目
【語釈】 〇八隅知し我が大王の 天皇の尊称で、しばしば出た。○見し給ふ吉野の宮は 「見《め》し」は見るの敬語「見《み》し」の転音で、それに「給ふ」の敬語が添ったもので、御支配になられるの意。○山高み雲ぞ棚引く 山が高いので、雲がたなびいていることであるで、高い山の状態。○河速み湍の声ぞ清き 河の流れが早いので、瀬の音が清いことであるで、山川の状態。以上吉野の離宮の地勢を讃えたもので、第一段。○神さびて見れば貴く 「神さびて」は神にふさわしいさまを発揮してで、山は神であるとする信仰から、上の「山」を受けてその神性を讃えたもの。「見れば」は、風景を神性とする繋ぎのもので、重いもの。「貴く」は神性の貴さ。○宜しなべ見れば清けし 「宜しなべ」は、宜しいことの並ぷ意で、宜しさが揃っての意の副詞。流れの速さと湍《せ》の声《と》の清さを讃えたもので河の神性を讃えたもの。「清けし」は、川を神としているのでそれを讃えたもの。以上山川の神性を讃えるもので、第二段。○この山の尽きばのみこそ 「この山の尽きば」は、この山がなくなったならばで、山が平地となるというあり得べからざることを仮想してのもの。「のみ」は強め。「こそ」は係助詞。○この河の絶えばのみこそ 「この河の絶えば」も、この河がなくなったならばで、上と同じく、あり得べからざることの仮想。○ももしきの大宮所 「ももしきの」は百磯城ので、既出。「大宮所」は大宮の意。○止む時もあらめ 「止む時」はなくなる時。「も」は詠歎。「あらめ」の「め」は已然形で、上の二つの「こそ」の結。なくなる時もあろうで、「この山の」以下、絶対にないことをいって、大宮の永遠を賀したもので、第三段。
【釈】 八隅知しわが大君の御支配になられるところの吉野の宮は、山が高いので雲が引いていることである。河の流れが速いの
で、瀬の音が清いことである。山である神は、神にふさわしきさまを発揮して、その有様は見ると貴く、河である神は、宜しき(256)ことを揃えていて、その有様を見ると清《さや》かである。この山がもしなくなる時があったならば、この河がもしなくなる時があったならば、その時こそは百磯城の大宮もなくなる時であろう。
【評】 天皇の吉野の離宮へ行幸になられた時、供奉の中に加わっていた赤人が、天皇の詔を蒙って献じた賀歌であって、賀歌という中でも最も改まってのものである。賀は天皇に対して申すものであるが、直接に天皇に触れて申すのは恐れ多しとして、間接に、吉野宮の永遠を賀することによって天皇を賀する態度は、すでに人麿が示していることで、これもそれに倣ったものである。吉野宮の永遠を賀するには、吉野の山と河とを引合いとし、それと永遠を等しくすることをいって賀するのが習いとなっているが、今はその山と川との神であることをいうことによって強化し、吉野宮は、その山の尽き川の絶える時に、失せようと、逆説を用いて賀しているのである。一首の構成は、歌の性質上きわめて単純であるが上に、さらに一段一段の進行が平板でもあるが、この平板は、赤人としては避け難いものだったのである。すなわち第一段の山と川は風景としてのそれであり、第二段の山と川は、神性の現われとしてのもので、一つの物に二つの面をもたせ、それを結び合わせて深化させようとしたがためである。
第三段ではさらにまたその山と川とを総収して賀としたのであるから、これを形から見ると勢い平板とならざるを得なかったのである。しかしそれがために、風景は永遠性を持った神となり、それとともに大宮を擁護し、その永遠性を大宮とともにあるものとしたので、深化という上では極度までのものとしたのである。すなわち平板をそれと反対な深い立体的なものと化しているのである。これを目立たせずに遂げているのは赤人の老熟した手腕である。赤人の歌で作の年月の明らかなものとしてはこれが最後である。それとしてふさわしい作である。
反歌一首
1006 神代《かみよ》より 吉野《よしの》の宮《みや》に あり通《かよ》ひ 高知《たかし》らせるは 山河《やまかは》をよみ
自神代 芳野宮尓 蛾通 高所知者 山河乎吉三
【語釈】 ○神代より吉野の宮に 「神代」は吉野宮の初めて営まれた時としていったものであるが、これは古ということを具象的にいおうとしたもの。吉野宮は応神天皇より以前には溯れないものである。○あり通ひ高知らせるは 「あり通ひ」の「あり」は、このように継続の意をあらわすもので、用例がある。継続して通って。天皇の御事であるが、敬語は下へ譲ったもの。「高知らせる」は、「高」は讃え詞にも高大にの意にも用いており、「知らす」も意味広く、ここは御処分になるの意の敬語。高大にお構えになられるは。○山河をよみ 山と河が好いゆえで。
【釈】 神代のごとき古より、吉野宮に継続してお通いになり、宮殿を高くお構えになりらるのは、山と河が好いゆえである。
(257)【評】 吉野宮を、遠い古よりのものであるとするのは、長歌の将来に対して過去の遠さをいったので、賀の心の進展である。「山河をよみ」は、自然の風光の美しいがゆえだというので、長歌の心を引き下げて、この当時の好尚と同じにしたものである。長歌に即させて変化を付けてはいるが、長歌の持つ深い心のない、軽い憾みのあるものである。
市原王、独子《ひとりご》を悲しめる歌一首
【題意】 「市原王」は、巻三(四一二)に出、また上の(九八八)にも出た。安貴王の子。天平宝字七年、造東大寺長官となられた。「独子」は、王自身のことで、兄弟がなかったのである。
1007 言《こと》問《と》はぬ 木《き》すら妹《いも》と背《せ》 あり云《と》ふを ただ独子《ひとりご》に あるが苦《くる》しさ
不言問 木尚妹與兄 有云乎 直獨子尓 有之苦者
【語釈】 ○言問はぬ木すら妹と背 「言問はぬ」は物を言わないところので、下の「木」を人間に対させていったもの。非情ということを具象化していったもの。「すら」は、一事を挙げて他を類推させる助詞。「木すら」は木のような物でさえも。「妹と背」は、「妹」は男より女を指す総称。「背」は女より男を指す総称で、女と男の意。これは夫婦という意に慣用されているが、ここは男女の兄弟で、単に兄弟の意でいっているもの。木の兄弟というのは、同じ根より、一本以上の幹の生えている物で、二本松、二本杉などの称のあるものである。○あり云ふを 旧訓「ありといふを」。これは「ありてふ」「ありちふ」とも訓めるものである。『考』の訓。「を」は詠歎。あるということであるものを。○ただ独子にあるが苦しさ 「独子」は、兄弟のない一人子。これにつき『代匠記』は、市原王の子と解しているが、『新考』はそれを正し、王自身のことだといっている。従ふべきである。「苦しさ」は苦しいことよ。
【釈】 物も言わない非情の木でさえも、兄弟があるということであるものを、われはただ独子《ひとりご》であることの苦しさよ。
【評】 王が兄弟のなくただ独子であることを深く嘆き、「苦しさ」といわれたものである。王の造東大寺長官となられたのは、仏教に造詣潔いためであろうといい、上の(九八八)は父安貴王の寿を祈ったものであり、第三(四一二)は、妻である能登内親王を敬愛する心を詠まれたものであって、いずれも王の人柄の偲ばれるものである。この歌もおおらかに素朴に詠んで、感を十分にあらわされた歌である。
忌部首《いみべのおびと》黒麿、友の※[貝+余の笠の下が示]《おそ》く来るを恨むる歌一首
(258)【題意】 「忌部黒麿」は、続日本紀、孝謙紀、宝字二年正六位より外従五位下、同三年連の姓を賜わり、同六年内史局(図書局)助となっている。「※[貝+余の笠の下が示]く来る」は、約束した時より遅くなって来る意。
1008 山《やま》のはに いさよふ月《つき》の 出《い》でむかと 我《わ》が待《ま》つ君《きみ》が 夜《よ》はくだちつつ
山之葉尓 不知世輕月乃 將出香常 我待君之 夜者更降管
【語釈】 ○山のはにいさよふ月の 「山のは」は山の端で、月の出て来る所。「いさよふ」は躊躇する意で、月が出ようとして出ずにいる状態。月の出を待つ時の感。○出でむかと我が待つ君が 「出でむかと」は、月が出ようかと思って。「我が待つ」は、上に続いては月を待つのであるが、同時に下の「君」に続いて、待っている君となっている。この二句は、出ようかとわが待っているごとく来るのを待っている君がの意で、さらに下への続きから見ると、来ずしての意が略かれているものである。○夜はくだちつつ 「くだち」は更けてで、「つつ」は継続、下に「あり」の意が含まれている。
【釈】 山の端に、出ようとしてたゆたっている月が、出て来ようかと思って待っているごとくに、わが待っている君は来ずして、夜が更け更けして行く。
【評】 題詞のごとく友が来ようと約束して置いて、時刻が過ぎても来ない時に、促すために贈った歌とみえる。おりから月の出の遅い頃で、まだ出ずにいる時刻だったので、その月を待つに寄せて詠んだので、詠んだ人も贈られた人もそれを興としたのであろう。巻七はこの時代より古い時代の歌集で、この当時作歌の参考とされていたもののようであるが、その(一〇七一)に「山の末《は》にいさよふ月を出でむかと待ちつつ居《を》るに夜ぞ降《くだ》ちける」があり、その歌を思い浮かべて「君」を絡《から》ませようとしたのであるが、手腕がたらぬために第四句のごとき無理のあるものとなったのである。後世の本歌取りの歌の初一歩のごとき趣をもった歌である。
冬十一月、左大弁葛城王等に、姓|橘氏《たちばなうぢ》を賜へる時、御製歌一首
【題意】 この題詞のことは左注にくわしいので、そちらに譲る。要は、葛城王等が臣籍に下り、橘の氏を賜わった際、聖武天皇が橘に寄せての賀の御製歌を賜わったのである。
1009 橘《たちばな》は 実《み》さへ花《はな》さへ その葉《は》さへ 枝《え》に霜《しも》降《ふ》れど、いや常葉《とこは》の樹《き》
(259) 橘者 實左倍花左倍 其葉左倍 枝尓霜雖降 益常葉之樹
【語釈】 ○橘は来さへ花さへ 「橘」は当時きわめて賞美された木で、垂仁天皇の朝、田道間守が詔を蒙って常世の国から将来したという伝えをもった木である。「さへ」は、あるが上にさらに加わる意の助詞で、までというにあたる。「実さへ」は、木そのものを土台として、その実までも。橘の実は酒の肴としても珍重した。「花さへ」は花までも。花は五弁の小さい白花で初夏に咲き、香がよい。愛でて鬘に貫《ぬ》いたことが歌に多い。○その葉さへ その葉までも。葉は常緑で艶があり、これまた愛するに足りるものである。以上、橘の木の愛でたさを強くあらわそうとして、実、花、葉と分解し、その一つ一つに「さへ」を添えて、合理的な範囲で誇張したもの。○枝に霜降れど 「枝《え》」は旧訓「枝《えだ》」、『古義』の訓。「え」「えだ」は古くから並存しているが、「え」のほうが用例が多く、ここは音数の上からもそのほうが自然である。枝の上に霜が降ったけれどもで、眼前の状態をいったもの。題詞で時は十一月だったのである。○いや常葉の樹 「いや」はますます。「常葉の木」は常緑の木すなわち常磐木で、衰えを知らぬ木であるよの意で、「樹」の下に詠歎を含んだもの。「枝に」以下は橘の木を綜合して讃えたもの。
【釈】 橘の木は実までも、花までも、その葉までもことごとく愛でたく、枝に霜が降ったけれども、ますます常緑を発揮している衰えを知らぬ樹であるよ。
【評】 御製のあった事情は歌詞と左注によって委しく知られる。葛城王等一族に橘の氏を賜わった際、それを機会にこの一族を祝おうとして、橘の木そのものを讃えることによってその意をあらわされた御製である。上三句で分解し、下二句で綜合して、これ以上は言いようもないまでに事を尽くされたもので、調べも流麗に張りをもった明るいものにされている。賀の歌として力のあるものである。
右、冬十一月九日、従三位葛城王、従四位上佐為王等、皇族の高名を辞して、外家の橘姓を賜ふこと已に訖《をは》りぬ。時に太上天皇、皇后、共に皇后宮にありて肆宴を為し、即ち橘を賀《ほ》く歌を作《よ》み給ひ、并《あは》せて御酒《みき》を宿禰等に賜ひき。或るは云ふ、この歌一首は太上天皇の御歌なり。但し天皇皇后の御歌各一首ありといへど、その歌遺落して未だ探り求むることを得ず。今案内を檢《かんが》ふるに八年十一月九日、葛城王等、橘宿禰の姓を願ひて表を上《たてまつ》る。十七日を以ちて、表の乞に依りて、橘宿禰を賜ひきといへり。
右、冬十一月九日、從三位葛城王、從四位上佐爲王等、辭2皇族之高名1、賜2外家之橘姓1已(260)訖。於v時太上天皇、々后、共在2于皇后宮1以爲2肆宴1、而即御2製賀v橘之謌1、并賜2御酒宿祢等1也。或云、此謌一首太上天皇御哥。但天皇々后御謌各有2一首1者。其謌落未v得2探求1焉。今檢2案内1、八年十一月九日、葛城王等願2橘宿祢之姓1上v表。以2十七日1依2表乞1賜2橘宿祢1。
【解】 「葛城王」は敏達天皇の曾孫、栗隈《くりくまの》王の孫、美努《みの》王の子であり、「佐為王」は葛城王と同腹の弟で、母は県犬養三千代である。三千代は初め美努王に嫁して二王を生んだが、藤原不比等に嫁して光明皇后を生んだのである。二王は皇后には異父兄である。「葛城王」は橘諸兄として活躍した人で、作者としても後にしばしば出る。続日本紀、孝謙紀、天平勝宝元年左大臣で正一位となり、翌二年朝臣の姓を賜わり、同八年致仕、翌天平宝字元年に薨じた人で、「佐為王」は、聖武紀、天平九年正四位下中宮大夫兼右兵衛率として卒した人である。「外家の橘姓」は、外家は母方で三千代の家、橘姓は三千代が元明天皇の朝に橘宿禰の姓を賜わったのである。その顛末は、葛城の王の今回の願いの上表文の中に委しく、上表文は続日本紀、聖武紀に収められている。その三千代は故人となり、従一位を贈られてもいるので、葛城王は母の後を継ごうとして、先例に倣って臣籍降下を願ったのである。「案内」は、役所内にある記録で、事務上の控の称。
橘宿禰奈良麿、詔に応ずる歌一首
【題意】 「橘奈良麿」は葛城王の長男。天平十二年に無位から従五位下に叙せられたのであるから、この時は無位で、随って弱冠であったと思われる。「詔に応ずる歌」は、上の御製歌に応じてお受けをする意の歌である。
1010 奥山《おくやま》の 真木《まき》の葉《は》凌《しの》ぎ 零《ふ》る雪《ゆき》の 零《ふ》りは益《ま》すとも 地《つち》に落《お》ちめやも
奥山之 眞木葉凌 零雪乃 零者雖盆 地尓落目八方
【語釈】 ○奥山の真木の葉凌ぎ零る雪の 「真木」は杉檜など良材の総称で、その「葉」は葉の中の最も強いもの。「凌ぎ」は圧伏して。「零る雪の」は、現在降っている雪ので、十一月の眼前としていっているもの。「真木の葉」といっているのは、御製の橘に応じさせて、同じく橘をいおうとして、それとの対照として代表的に強い木を捉えたのであり、「葉」も同様である。また「雪」も、御製の霜に応じて、それを一段と強めたのである。○零年りは益すとも この雪が一段と降りまさることがあろうともで、降るのは「其木の葉」との対照で橘の葉であり、その葉は御製の(261)「葉」に応じさせたものである。○他に落ちめやも 「地に落ち」は、御製の「実」に応じさせてあって実であり、省いているのである。実は眼前の物だからである。「や」は上を反語とする助詞。「も」は詠歎で、実は他に落ちようか、落ちはしない。
【釈】 奥山の杉檜などの葉を圧伏して降っている雪が、橘の実の上にさらに降りまさろうとも、その実は土に落ちるようなことがあろうか、ありはしない。
【評】 御製は橘氏を橘の木に寄せて賀していられるので、応ずる歌も同じく、賀の言葉を身に受けて、それを必ず実際にあらわそうといって応じたのである。主格の橘に触れて直接にいった一語もないので、一首譬喩の形に見えるが、これはその場合に即させていっている自然の成行きであって、技巧としてのことではない。したがって独立させては解し難い歌ともなっているのである。しかし技巧に近い趣が自然に添って来ている。三、四句の続きの「零る雪の零りは益すとも」は、実際は繰り返しであるが、四句の「零り」に「古り」の意をもたせると、上三句はその序詞となり、「古りは益すとも」は、将来橘氏がいかに古くなってゆこうともの意のものとなって来るのである。それだと結句の「地に落ちめやも」は、零落しようか、決してしないの心のものとなって来る。またそれであるとしても応じる歌の心は通るのであり、一段と強い心のものになり得もするのであるから、年若い奈良麿の心にはそのような動きがあったのではないかと思われる。しかしこの歌は御製に即して応じたものと見るべきであるから、このことは自然に帯び得た拡がりと見るべきであろう。
冬十二月十二日、歌※[人偏+舞]所《うたまひどころ》の諸王臣子等、葛井《ふぢゐの》連広成の家に集ひて宴せる歌二首
【題意】 「十二月十二日」は歳末に近い日で、歌に関係する日。「歌※[人偏+舞]所」は雅楽寮で、治部省に属した役所であり、文武の雅曲、正楽、雑楽に関する一切を掌る所である。「諸王臣子」は何人かの王と臣下で、歌※[人偏+舞]所に属している舞生である。「葛井広成」は、上の(九六二)に出た。文雅の人であったことは『懐風藻』の作者の一人であることでも知られる。富裕な人であった。
此来《このごろ》古舞盛に興りて、古歳|漸《やや》に晩《く》れぬ。理宜しく共に古情を尽して、同《とも》に古歌を唱ふべし。故《かれ》此の趣に擬《なぞら》へて、輙《すなはち》古曲二節を献る。風流意気の士、儻《も》し此の集《つど》ひの中に在らば、争ひて念を発し、心々に古体に和《こた》へよ。
比来古※[人偏+舞]感興、古歳漸晩。理宜d共盡2古情1、同唱c古謌u。故擬2此趣1輙獻2古曲二節1。風流意氣之士儻有2此集之中1、爭發v念心々和2古體1。
(262)【解】「古※[人偏+舞]」は、わが国の古来よりの舞で、倭舞、筑紫舞、諸県《もろがた》舞の類。「盛に興りて」は、一時外来の楽曲に圧倒されていたのが、盛んに復興してきたというので、天平六年天皇が朱雀門で歌垣を御覧になられ、十五年には後の孝謙天皇が五節の舞をされたことなど、その趨勢を語るものである。「古歳」は、十二月新歳に対させていっているので、逝かんとしている年。「漸に晩れぬ」は次第に押しつまってきた。「理」は、共通の人情としてで、下を指す。「古情を尽して」は、古を憶う心を尽くして。「古歌を唱ふべし」は、それにふさわしい古い歌を謡って、心をやるべきである。「故此の趣に擬へて」は、そうした理由から、この際の心を果たしうるものに擬して。「古曲二節を献る」は、古風な歌の二首を諸君に贈るで、歌は次のもの。「風流意気の士」は、風流を解し、意気を尚ぶ人。「儻し此の集ひの中に在らば」は、わざと逆説的にいって、そこにいる総ての人を刺激した言い方。「念を発し」は、古情を起こして。「古体に和へよ」は、わが古風な歌に和えて作れよ。
1011 我《わ》が屋戸《やど》の 梅《うめ》咲《さ》きたりと 告《つ》げやらば 来《こ》てふに似《に》たり 散《ち》りぬともよし
我屋戸之 梅咲有跡 告遣者 來云似有 散去十方吉
【語釈】 ○我が屋戸の梅咲きたりと告げやらば 「屋戸」は、ここは庭前である。「咲きたり」は咲いている。「告げやらば」は、相手は親しく往復している、風流を解する人と取れる。○来てふに似たり 「来てふ」は旧訓。「来といふ」とも「来ちふ」とも訓めるが、古今集恋四「月夜よし夜よしと人に告げやらば来てふに似たり待たずしもあらず」があり、後のものながら謡い物としての型に従っての作と思われるから、これに従う。○散りぬともよし 散ってしまってもかまわない。
【釈】 わが庭前の梅が咲いていると知らせてやったならば、見に来よというのと同じである。その上は散ってしまってもかまわない。
【評】 この歌は序でいっている「風流意気の士」に贈ったもので、その士は、その日作者の家に集まっている人々なのである。この歌で問題になるのは、序でいっている「古曲」「古体」といっていることで、この歌はすなわちそうしたものなのであるが、これは広成が客に対して卑下していっている語だと解される。この時期は歌が著しく文芸的となり、人々が新を追って動いていた時だから、古は時代おくれの拙いといぅことを意味させた語と思われる。この序には、五十字(漢字)の中に六字までは古の字を用い、それを技巧としているのであるから、厳格な意味でいう新古と解するのは行き過ぎとすべきである。事実歌は新しいもので、この時期に著しく進展した自然鑑賞という中でも、愛づべき自然を捉えて生活の中に溶かし入れようとする点まで進んだので、次の平安朝時代と選ぶところのないまでのものである。また詠み方も、四句「来てふに似たり」と大きく飛(263)躍し、結句「散りぬともよし」とさらに大きく飛躍して、一首の心を暗示的にしたという巧妙なものである。多分漢詩の影響であろう。結句「散りぬともよし」は、巻五大伴旅人の梅花の宴で(八二一)笠沙弥が川じく結句に用いていたもので、もしそれを踏襲したとすれば、これまた一種の技巧である。
1012 春《はる》さらば ををりにををり 鶯《うぐひす》の 鳴《な》く吾《わ》が島《しま》ぞ 息《や》まず通《かよ》はせ
春去者 乎呼理尓乎呼里 ※[(貝+貝)/鳥]之 鳴吾嶋曾 不息通爲
【語釈】 ○春さらば 春が来たならば。現在の十二月よりいったもの。○ををりにををり 「ををり」は、巻三(四七五)「山辺には花咲きををり」とあり、枝が撓む意である。ここはそれを重ね、一つを副詞的にして強めたもので、撓みに撓んで。撓むのは下の鴬が撓ませるのである。○鴬の鳴く吾が島ぞ 鴬の来るのは梅の花で、常識となっていた。「島」は庭の当時の称で、既出。「ぞ」は終助詞。鳴いているわが庭であるよ。○息まず通はせ 「通はせ」は通うの敬語で命令形。客一同に言っているもの。
【釈】 春が来たならば、梅の枝がその重さで撓に撓んで、鴬が鳴いているわが庭であるよ。絶えず見に通いたまえよ。
【評】 これは明らかに庭を対象として、客への振舞としていっているものである。二句より四句までの、梅の花は上の歌で打ち切り、鴬を中心として、感覚的にいっているところは、同じく巧みである。なお『代匠記』は、続日本紀、聖武紀、天平二十年八月に、天皇が広成の邸に行幸され、群臣を引いて宴飲され、その夜はその邸に宿られたことを引いている。広成の邸はそれに堪えるものだったのである。
九年丁丑春正月、橘少卿并に諸大夫等、弾正|尹《かみ》門部《かどべの》王の家に集ひて宴せる歌二首
【題意】 「橘少卿」は、橘佐為の敬称。兄の諸兄を大卿と称したのに対させて称したのである。卿は三位以上に対しての敬称であるが、当時従四位上だった佐為にそれを用いたのは他にも例がある。「弾正尹」は、弾正台の長官。弾正台は風俗を粛清し、内外の非違を糺弾する役所。「門部王」は、巻三(三一〇)に出た。
1013 予《あらかじめ》 公《きみ》来《き》まさむと 知《し》らませば 門《かど》に屋戸《やど》にも 珠《たま》敷《し》かましを
豫 公來座武跡 知麻世婆 門尓屋戸尓毛 珠敷益乎
(264)【語釈】 ○予公来まさむと知らませば 「公」は少卿。「ませ」は「まし」の未然形。○門に屋戸にも 「屋戸」は、屋の前。現在だと、門にも屋戸にもというのであるが、「も」を、下のものにだけ添えるのは当時の格で、用例の多いもの。○珠敷かましを 「珠」は玉石で、「珠敷く」は、「玉敷ける家」巻十一(二八二五)にもあり、結構なる家という意を具象的にいったもの。現在の盛砂《もりずな》をするということを連想させる語である。ここは、貴い客を迎えるにふさわしく、家を清らかにする意。「まし」は上の「ませば」の帰結。「を」は詠歎。
【釈】 前もって、公がお出でになろうと知ったならば、門《かど》にも屋の前にも、それにふさわしいように珠を敷いて置こうものを。
【評】 客に対して主人としての挨拶というにすぎない歌であり、現在だと取乱していてという挨拶の言葉を歌としたものである。そのほうが鄭重だとしてのことで、歌の実用性時代の脈を引いたものである。
右の一首は、主人門部王 【後、姓大原真人氏を賜へり】
右一首、主人門部王 後腸2姓大原真人氏1也
【解】 細注は、門部王は後に臣籍に下られた意であり、多分天平十一年四月だろうという。
1014 前日《をとつひ》も 昨日《きのふ》も今日《けふ》も 見《み》つれども 明日《あす》さへ見《み》まく 欲《ほ》しき君《きみ》かも
前日毛 昨日毛今日毛 雖見 明日左倍見卷 欲寸君香聞
【語釈】 ○前日も昨日も今日も 常にということを、具象的にいうことによって強めようとしたもので、古くから型となっていたもの。○見つれども 逢っているけれどもの意で、官人として顔の合う機会のあることをいったもの。○明日さへ見まく欲しき君かも 「さへ」はあるが上に添える意の助詞。「見まく欲しき」は、見んことの欲しきで、下の「君」を讃えたもの。「かも」は詠歎。初句より四句までは、「見れど飽かぬ」という、最上の讃え詞となっている成語を具体化した形のものである。
【釈】 前日《おとつい》も昨日も今日も、常に逢っては来たけれども、明日さえも逢いたいと思うところの君であるよ。
【評】 上の主人としての挨拶に答えて、不意に訪問した客を代表して、答礼としていったものである。不意の訪問は、一に君が懐かしくして、限りなく逢いたいと思うがためであるというので、この場合の答礼として要を得たものである。
右の一首は、橘宿禰|文成《あやなり》 即ち少卿の子なり
(265) 右一首、橘宿祢文成 即少卿之子也
【解】 少卿の子文成が、客を代表して答礼を述べたのである。その座にいる年少の者が代表して歌を詠むことは、上の(一〇一〇)の場合にもあったことである。それが風となっていたかと思われる。
榎井王《えのゐのおほきみ》、後に追和せる歌一首 志貴親王の子なり
【題意】 「榎井王」は、注にあるように志貴皇子の子とする以外には、文献に見えない。「後に追和」は、歌で見ると、佐為王に代わって答えの挨拶をしているもので、同座していたと見える。
1015 玉《たま》敷《し》きて 待《ま》たましよりは たけそかに 来《き》たる今夜《こよひ》し 楽《たの》しく念《おも》ほゆ
玉敷而 得益欲利者 多鷄蘇香仁 來有今夜四 樂所念
【語釈】 ○玉敷きて待たましよりは 「玉敷きて」は、主人の門部王が、「珠敷かましを」といっているのを承けたもので、言われるように玉を敷いて待っていよう時よりはの意で、客として答えたもの。「まし」は仮想の助動詞。○たけそかに ここにあるのみで、他には用例の見えない語である。下の「来たる」に続く関係から、副詞とは取れるが、語義はわからない。したがって諸説があるが、前後の関係から、突然にという意の当時の口語であろうと思われる。挨拶の歌であるから、その場合に適切なものであれば口語であってもよい訳である。○来たる今夜し楽しく思ほゆ 「し」は強めで、そのほうがかえってというほどの意がある。
【釈】 玉を敷いて待たれていたろうよりも、突然に来ている今夜のほうが、かえって楽しく思われる。
【評】 これは宴をしている時の歌ではないかと思われる。答えの挨拶の心のものではないが、「今夜し楽しく念ほゆ」は、宴の楽しさを喜んだものと取れるからである。なお追和は、その事を聞いてゆかしむ心よりのものもあるが、この場合はそれほどのことではない。
春二月、諸大夫等、左少弁巨勢宿奈麿朝臣の家に集ひて宴《うたげ》せる歌一首
【題意】 「巨勢宿奈麿」は、続日本紀、聖武紀、神亀五年正六位下より外従五位下、天平元年従五位下、五年従五位上となる。歌は左注に、「蓬莱仙媛」の作ったものとしている。宴席の興を添えようがためのことで、主人宿奈麿の作ったものと思われる。
(266)1016 海原《うなはら》の 遠《とほ》き渡《わたり》を 遊士《みやびを》の 遊《あそ》ぶを見《み》むと なづさひぞ来《こ》し
海原之 遠渡乎 遊士之 遊乎將見登 莫津左比曾來之
【語釈】 ○海原の遠き渡を 「海原」は広い海。「遠き渡」の「渡」は、河でも海でも、渡り場所を指す意の名詞で、船でいえば、一定の航路というにあたる。広い海の、はるばると遠い海路をの意。これは、左注の「蓬莱仙媛」が、蓬莱の山よりこの国へ来るまでの海路を自身いっているもの。「蓬莱」は、「常世《とこよ》」ともいい、常住不変の国の山で、その国は、地名も方位も知られぬ海のかなたにある理想国。中国伝来の思想で、道教のものである。不老不死を願う本能と、その持つ文芸的色彩の魅力とによって、当時盛行したもので、巻五大伴旅人の歌にしばしば出た。○遜士の遊ぶを見むと 「遊士」は、本来は、宮びすなわち宮廷のさまをもった男の意で、粗野に対する都雅の人の意であるが、転じて風流人の意ともなっていた。ここは風流人。当時の上流の人の誇りをもっての総称。「遊ぶを見むと」は、遊楽するさまがゆかしく、見ようと思って。○なづさひぞ来し 「なづさひ」は水の抵抗を凌ぐ意の語で、水上を苦労して。「ぞ」は係助詞。「し」は「ぞ」の結で、連体形。
【釈】 広い海の、はるばると遠い海路を、この国の遊士《みやびお》の遊楽するさまのゆかしく、それを見ようと思って水上を辛苦して來たことであるよ。
【評】 これは蓬莱仙媛の歌である。蓬莱は当時の憧れの代表的なものであったが、そこに住むと想像される女性の仙媛は、一層憧れをそそる者であった。その仙媛が、こちらで憧れるにも劣らず、あちらもこちらに憧れ、その仙力によって遊士《みやびお》の遊ぶさまを見ようとして、なずさって来たということは、宴席に集《つど》ったいわゆる遊士を喜ばせるには十二分の機知である。上よりの歌で見ても、この頃には頻繁に酒宴が催され、古くは洒に伴うべきものとして欠き難かった賀の意味の歌が減り、酒興を添える歌のみとなってきた傾向が見えるが、この歌のごときは、その傾向の代表的なものといえる。この歌には左注が添い、歌を披霹した次第をいっている。
右の一首は、白紙に書きて屋の壁に懸け着《つ》けたり。題《しる》して曰はく、蓬莱《とこよ》の仙媛《やまひめ》の化《な》れる嚢蘰《ふくろかづら》なり。風流秀才の士の為にす。これ凡客《たふぁびと》の望み見らえざらむかといふ。
右一首、書2白紙1懸2着屋壁1也。題云、蓬莱仙媛所v化嚢蘰、爲2風流秀才之士1矣。斯凡客不v所2望見1哉。
【解】 「題して曰はく」は、歌を書いた白紙に記していうには。「蓬莱の仙媛」は蓬莱の山に住んでいる仙人の女。蓬莱山は本来(267)は中国の伝説で、東海の中にある山で、不老不死の仙人の住んでいる所。これを「とこよ」と訓むのは、永久不変の常世の国と結びついたのである。当時仙人にもまして仙媛が喜ばれていたのである。「化れる嚢蘰なり」は、仙媛か化して嚢蘰になって、ここに懸かっているというのである。仙人は神変力をもっていて、何にでも自在に身を変えることができるとされていたので、このことはたやすいことだったのである。嚢蘰は他に所見のない物で、どういう形の物かわからない。蘰は蔓性植物を輪にして、頭髪の上に載せる物で、儀式の意をもった酒宴の席に用いるものであって、女子の作る物であったとみえるから、この場合にはふさわしい物である。「風流秀才の士の為にす」は、すぐれた人にはその趣が解せるから、そうした人のために示すのだの意で、これはその嚢蘰なる物が平凡な物だったので、それを弁護するための洒落《しやれ》である。「凡客の望み見らえざらむか」は、上を強めるための繰り返しである。一切は宴席の興を添えるための洒落で、仙郷に憧れていた知識階級としては気の利いたものとはいえようが、この当時の廷臣の生活態度が、いかに弛緩し、いかに享楽的なものであったかを示しているものである。
夏四月、大伴坂上郎女、賀茂神社を拝み奉りし時、便《すなは》ち相坂《あふさか》山を超え、近江の海を望み見て、晩頭に還り来て作れる歌一首
【題意】 「賀茂神社」は、現在京都市に鎮座する賀茂別雷神社と賀茂御祖神社の二社で、天武天皇の六年創建されたという。祭は四月である。「夏四月」は祭の時と思われる。「相坂山」は京都市と滋賀県大津市との堺をなす山。「近江の海」は琵琶湖。「晩頭」は夕暮。「遣り来て」は引き返して来て。
1017 木綿畳《ゆふだたみ》 手向《たむけ》の山《やま》を 今日《けふ》越《こ》えて 何《いづ》れの野辺《のべ》に 廬《いほり》せむ吾等《われ》
木綿疊 手向乃山乎 今日越而 何野邊尓 廬將爲吾等
【語釈】 ○木綿畳手向の山を 「木綿畳」は、木綿を畳んだ物で、神に手向ける物。ここは「手」の枕詞。「手向の山」は相坂山の別名。土地堺の山は、すべて手向けをして越すところから、この名は諸所にあるが、相坂山は要路にあたる山であるから、特にこう呼ばれたとみえる。○今日越えて 長途の旅であるごとき感動をもっての言い方。ここで見ると、越えてさらに東方に進んだがようであるが、実は題詞の通りに引き返したのである。○何れの野辺に廬せむ吾等 旅では行く先々で野に廬を結んで宿るのが当時の風で、特別のことではない。「廬せむ」は宿らむの意。「吾等」を「われ」に当てるのは例のあることで、従者をも併せての意。
【釈】 手向の山を今日越えて、どこの野に今夜は宿るのであろうか、われは。
(268)【評】 題材によって見ると、相坂山から引き返して、夕暮、京都府の平野を望んで、そのどこに宿るのだろうかと心許なさを感じた折の心で、その境はわかる。しかし一首の歌として見ると、郎女の特色の出ていない、いわゆる羈旅の歌の型に倣って詠んだごとき作である。郎女にはその境が支配しきれなかったとみえる。第三句と題詞との間に矛盾のある点など如実にそのことを示している。
十年戊寅、元興寺《ぐわんごうじ》の僧《ほうし》の自らを嘆く歌一首
【題意】 「元興寺」は、上の(九九二)に出た。奈良京の明日香の寺である。「僧」は左注によって、その寺にある多くの僧の中の一人と知られる。
1018 白珠《しらたま》は 人《ひと》に知《し》らえず 知《し》らずともよし 知《し》らずとも 吾《われ》し知《し》れらば 知《し》らずともよし
白珠者 人尓不所知 不知友縱 雖不知 吾之知有者 不知友任意
【語釈】 ○白珠は人に知らえす 「白珠」は、当時は鰒玉の称としていたが、左注によると、僧が自身の仏法上の知に譬えたものであるから、広く美玉をさしたものと取れる。「知らえず」は、知られずで、認められずの意。白珠のごとく尊き、わが仏法の上の知は、人に認められない。○知らずともよし 「よし」は、ままよというにあたる。人が知らなかろうとも、ままよ。○知らずとも吾し知れらば 「知らずとも」は、人が知らなかろうとも。「知れらば」は、知れりすなわち知りありの動詞の未然形。知っていたならば。○知らずともよし 人が知らなかろうともままよ。
【釈】 白珠のごとく貴いわが仏法の上の知は、人に知られない。人が知らなかろうともままよ。人が知らなかろうとも、自身十分に知っていたならば、人が知らなかろうともままよ。
【評】 左注によって作因が知られるが、それがなくとも解せられる歌である。この僧は、元興寺の寺中の衆僧の中で、自分の仏法上の知は他を抜いていると信じているのに、それが認められぬのを憤り、我と我を慰めて詠んだ歌である。この不満は、いつの代いかなる方面の人も、その大部分は等しく抱いているもので、最も一般性のある心の一つである。しかし寺という所は一般社会とは異なって、本来情実というもののなかるべき所で、ここに高下があるとすれば、一に知能によって定めらるべき所であるのに、この僧は、そこにも情実があって、知能が公平に認められないとして憤っているので、一般社会よりはもっともなことと同感の出来るところがある。歌は珍しくも旋頸歌の形をもって詠んだものである。この形は短歌以前のもので、この集では人麿歌集のものが代表しており、この時代には坂上郎女がわずかに試みているにすぎないものである。この僧はそ(269)の古い形をもって、詠んでおり、しかも口唱時代の名残を濃厚にとどめて、同語の繰り返しを極度に用いている。その点から見ると、時流に従うことをいさぎよしとせず、異を樹てようとする風があるといえる。その繰り返しも、単に口唱風の技巧というのではなく、執拗に自身の心を述べようとする要求よりのもので、それと口唱風の繰り返しとを合致させているのである。要するに一癖ある僧と見え、その認められない憤りも、この一癖あることに関係をもっているのではないかと思われる。それはとにかく、歌の心の一般性をもっているところから、人口に膾炙している歌である。
右の一首は、或るは云ふ、元興寺の僧、独覚めて智多けれども、未だ顕聞するところあらず。衆諸狎侮す。これによりて、僧この歌を作りて、みづから身の才を嘆くなり。
右一首、或云、元興寺之僧、獨覺多v智、未v有2顯聞1、衆諸狎侮。因v此、僧作2此謌1、自嘆2身才1也。
石上乙麿《いそのかみのおとまろ》卿の土佐国に配せられし時の歌三首 并に短歌
【題意】 「石上乙麿」は、巻三(三六八)に出た。左大臣石上麻呂の第三子で、神亀元年、正六位下となりさらに従五位下に進んだのを初めとして、天平十年には従四位下、左大弁と累進しており、才識に富んだ人である。しかるに続日本紀、聖武紀、天平十一年三月の条に「石上朝臣乙麻呂、坐v※[(女/女)+干]2久米連若売1、配2流土左国1、若売配2下総国1焉」という重譴を蒙ることとなった。これは若売は藤原字合の妻であり、贈右大臣百川の母という身分だったからである。宇合は天平九年に没しているからその後のことである。乙麿は天平十三年九月の大赦で許されたらしく、爾来官位が進んで、天平勝宝二年に中納言従三位兼中務榔として没した。土佐にあった間の詩集に『銜悲藻』二巻があるというが、これは伝わらない。『懐風藻』に四首収められている。
1019 石上《いそのかみ》 振《ふる》の尊《みこと》は 弱女《たわやめ》の 惑《まとひ》によりて 馬《うま》じ物《もの》 繩《なは》取附《とりつ》け 肉《しし》じ物《もの》 弓欠《ゆみや》囲《かく》みて 王《おほきみ》の命《みこと》恐《かしこ》み 天離《あまざか》る 夷《ひな》べに退《まか》る 古衣《ふるころも》 又打《まつち》の山《やま》ゆ 還《かへ》り来《こ》ぬかも
石上 振乃尊者 弱女乃 或尓縁而 馬自物 繩取附 肉自物 弓笶圍而 王 命恐 天離 夷部尓退 古衣 又打山從 還來奴香聞
(270)【語釈】 ○石上振の尊は 石上乙麿を地名によって呼び換えた尊称。「石上」は、大和国山辺郡の地名で、今、石上神宮のある地。石上氏はもと物部氏で、代々この地に住んでいたところからの称。「振」は布留《ふる》とも書き、石上の内の小字である。石上氏には外に朴井《えい》氏もあり、これまた地名である。乙麿の本居が振にあったところから、区別する意で、「石上振」と呼んでいたものとみえる。人をその住地によって呼ぶのは尊んでのことである。「尊」は、至貴に対して用いる文字との定めがあるが、私的にはそれに拘わらなかった例が多い。乙麿を、こうした称をもって呼ぶ人は、身分低く関係の深い人でなくてはならない。○弱女の惑によりて 「弱女」は、既出。女の総称としてのもので、久米連若売をさしている。「惑」は、心惑いで、過ちというにあたる。弱女に対しての過ちによって。男女間の関係は、特別な事情が伴ったものでない限りは問題とはされなかった。この作者からいうと、世間にあり勝ちな軽いことだという心をもっていっているもの。○馬じ物繩取附け 「馬じもの」は既出。馬のごとくの意で、「繩」にかかる枕詞。「繩取附け」は、罪人を縛めること。これは庶民の罪人にすることで、四位の乙麿に対して行なったとは思われない。罪人としての意を誇張して、具象的にいったものと取れる。○肉じ物弓矢囲みて 「肉じ物」は、「肉」はその肉を食用とする獣の総称で、主として猪鹿。狩野の猪鹿のごとくの意で、下の枕詞。「弓矢囲みて」は、弓矢をもって囲んでで、上と同じく罪人として武士の警固することを誇張していったものと取れる。以上四句、上の罪の軽きに対し、咎の重きを対照的にいおうとしたもの。○王の命恐み 天皇の詔の恐いゆえにで、それを絶対なものとし、「弱女《たわやめ》の」以下の気分を一掃した形の続け。○天離る夷べに退る 「天離る」は既出。「夷」の枕詞。「夷べ」は夷のほうでここは土佐国。「退る」は、尊い所より去る意で、京より夷へ行く意。以上第一段。○古衣又打の山ゆ 「古衣」は、洗って砧で打つ意で、打つの転音「つち」へかかる枕詞。「又打の山」は、真土山とも書く。大和国と紀伊国との国境にある山で、要路にあたっている山。しばしば出た。乙麿の護送される路は、大和国から紀伊国に入り、そこから船だったのである。「ゆ」はより。○還り来ぬかも 「ぬかも」は、打消の詠歎で顔望の意をもつもの。用例の少なくないもの。還って來ぬかなあ。以上第二段。
【釈】 石上振の尊は、色の過ちによって、罪人として繩を取り付け、武士が弓矢を持って取囲んで、天皇の詔を恐んで、夷のほうへと退《まか》って行く。越えて行く又打《まつち》の山から還って来ないのかなあ。
【評】一首は、土佐国へ配流される乙麿を、その通路に立って見送っている人の作ったものにしている。作者は乙麿自身で、それ以外の人ではなかろう。この構想は乙麿にとっては甚だ有利なものである。それは事件としては、乙麿が藤原宇合の未亡人と関係を結んだというだけのことで、国家的の角度から見れば問題ともならないものであるが、それが時の権臣宇合の子の百川にとっては不利なことであり、また藤原氏の出である皇后にとっても好ましからぬことだというので、配流という重譴を蒙ることになったのである。乙麿としては心中穏かならぬものがあったろうと思われるが、勅勘という以上、恐懼して従うより他なき次第である。したがってこの際の乙麿の心は、自身では言われぬ性質のものである。しかし何らかの形で漏らしたいと思い、乙麿を「石上振の尊」という至貴に対する尊称をもって呼ぶ庶民の心としていっているのである。すなわち平凡な男女関係によって罪科に処せられたという以上は知らぬ者の口を通して言わせるという態度を取ったのである。そしてそれがまた真相でもあったのである。「弱女の惑によりて 馬じ物繩取り附け 肉じ物弓矢囲みて」は、乙麿の心の端的と思われる。(271)「馬じ物」以下の対句は、いったがごとく誇張したものでああろうが、そこに乙麿の実感があったといえる。「王の命恐み」と罪科を結び、「還り来ぬかも」と総収したのは、これまた乙麿の心をいわせているものである。さらにまたこの一首の形は、歌としては最も古い形である叙事的抒情の物語風のもので、この時代には広く庶民間に行なわれていたと思われる形式を択んでいる。これは庶民にはふさわしい形式であり、同時に事の全体をもあらわしうるものである。要するに一首の構想も形式も、乙麿としては述しく技巧的なものである。しかし現われているところは、語は素朴で、調べはゆるやかで、おのずから哀愁を漂わしているので、一見無技巧なものにみえるのであるが、これも無論甚しい技巧なのである。
1020・1021 王《おほきみ》の 命《みこと》恐《かしこ》み さし並《なら》ぶ 国《くに》に出《い》でますや 吾《わ》が背《せ》の公《きみ》を 繋巻《かけま》くも ゆゆし恐《かしこ》し 住吉《すみのえ》の 荒人神《あらひとがみ》 船《ふな》の舳《へ》に うしはきたまひ 付《つ》きたまはむ 島《しま》の埼前《さきざき》 依《よ》りたまはむ 礒《いそ》の埼前《さきざき》 荒《あら》き浪《なみ》 風《かぜ》に遇《あ》はせず 草《くさ》つつみ 疾《やまひ》あらせず 急《すむやけ》く 還《かへ》したまはね 本《もと》の国《くに》べに
王 命恐見 刺並 國尓出座耶 吾背乃公矣 繋卷裳 湯々石恐石 住吉乃 荒人神 船舳尓 牛吐賜 付賜將 嶋之埼前 依賜將 礒乃埼前 荒浪 風尓不令遇 草管見 身疾不有 急 令變賜根 本國部尓
【語釈】 ○王の命恐み 前の歌に出た。○さし並ぷ国に出でますや 「さし並ぶ」は、西本願寺本は「刺並之」であるが、元暦本外二本には「之」がない。『新訓』は「之」のないのに従い「さし並ぶ」と訓んでいる。これに従う。「さし並ぶ」は、並ぶ意で、「隣り」の枕詞。ここは隣の国の意で「国」へ懸っている。「国に出でますや」の「国」は土佐国。紀伊から海路土佐へ向かうのである。「出でます」は「出づ」の敬語。「や」は感動の助詞。この二句により、歌の作者は紀伊国の人か、あるいは、紀伊国で詠んだ形となっている。○吾が背の公を これは男同士でもきわめて親しい間では用いている例があるが、本来は妻の夫に対しての愛称である。ここは男かと思われる。それは「君」に「公」という尊い字をあてていることで、これは上の歌と同じく身分の低いことを意識しての用字だからである。なおここは、五七の定型を破って七音一句としている。『略解』によれば、本居宣長は、上の「出でますや」を「出でます」とし、「や」は「はしけやし」のそれであり、前後が脱落したものと見ている。不明なことであるから原文に従う。○繋巻くもゆゆし恐し 「繋巻くも」は既出。「ゆゆし」「恐し」はいずれも恐ろし。連体形の古形で「荒人神」を説明している。○住吉の荒人神 古事記に「底筒男命、中筒男命、上筒男命三柱神者、墨江之三前大神也」とあり、この神は専ら海路を守護し(272)給う神であることは、神功紀の新羅征討の条、また遣唐使奉幣祝詞でも、まずこの神を祈願することで明らかである。「荒人神」は現人神で、人として姿をあらわし給う神の意で、摂津風土記には、「昔息長足比売天皇世、住吉大神現出而巡2行天下1云々」とあり、そうしたことが語り継がれていたとみえる。○船の舳にうしはきたまひ 「舳」は舳先で、船の向かうほう。「うしはき」は天皇のわが全国土を、知らしめすに対し、神々のその分担される所を御支配になられる語で、ここは住吉大神が海路を御支配になられる意ある。その意で、大神が舶先に鎮座ましまして。○付きたまはむ島の埼前 「付きたまはむ」は、乙麿の乗る船のお着きになるであろうところの。「島の埼前」は、当時の航海は危険を避けるために、寄りうる陸には必ず寄ることにしていたので、島がある限り、その埼々に着けたのである。○依りたまはむ礒の埼前 「依りたまはむ」も上と同じく、船のお寄りになるであろうところの。「礒」は海岸の岩で、岩は船を避難させうる物である。岩ある海岸のその埼ごと。○荒き浪風に遇はせず 荒い浪にも、荒い風にも逢わせずで、すなわち危険の惧れなく。○草つつみ疾あらせず 「草つつみ」は原文「草管見」で、旧訓「くさつつみ」で、他に訓み方がない。この語は他に所見のないものである。「つつみ」は凶事で、恙なくであり、それだと通じやすい。本居宣長は『玉勝間』で「草」は「莫」の誤写で「つつみなく」だとしている。今は原文に従って不明としておく。航海の無事、病のないのは一に神意にあるとしていっているもの。○急く還したまはね 「急く」は、速《すみやか》にの古語で、仮名書きのあるもの。「還したまはね」は、「ね」は他に対しての願望をあらわす助詞。○本の国べに 以前の国のほうにで、すなわち大和の本国に。
【釈】 天皇の詔のかしこさに、この国と並んでいる土佐国にお出でになるわが背の君を、口にして申上げることも恐れ多い住吉の現人神よ、君の乗る船の舳先に鎮座ましまし、君の船のお着きになるであろう島の埼ごと、君の船のお寄りになるであろう礒の埼ごと、すなわち航路の中は、荒い浪にも荒い風にもお逢わせなさらず、また病もなく御加護になられ速かにお還し下されよ、本国の大和のほうに。
【評】 この歌は、陸路を紀伊国まで護送された乙麿が、そこから配所である土佐国まで海路を護送されようとして船出をする際に、その国の人で、乙麿を「公」という文字を用いて呼ぷ身分低い人が、航海中の無事を海の守護神である住吉の神に祈り、あわせて将来の病なきこと、早く赦免になることまでも祈った心のものである。この歌を一個の構成の上から見ると、一見何の技巧もないごとくみえるが、上の歌に劣らない用意をもってしているものである。紀伊国にいて乙麿をわが背の公と呼んでいる人は、その国の庶民でなくてはならない。そうした人に祈りをさせることは乙麿を高めることである。またこの歌では事件そのものには触れず、一に祈りに終始させていることは、京より遠い所とて事件の関心が少なく、単に乙麿に同情していることとなって、心理的に自然である上に、乙麿からいうと、歌として上の歌を進展させたことともなって来る。これは作者の乙麿であることを裏付けることである。次にこの歌の祈りの言葉には問題がある。それは巻十九(四二四五)「天平五年、入唐使に贈る歌」との関係である。ここに引くと、「(上略)遣はさる吾が背の君を 懸けまくのゆゆし恐き 住吉《すみのえ》の吾が大御神 船《ふな》のへにうしはき座し 船《ふな》どもに御《み》立ち座して さしよらむ礒の崎々 こぎはてむ泊々に 荒き風波に遇はせず 平けく率て(273)かへりませ もとの国家《みかど》に」というのであって、この歌のほうが年代が早いので、紀伊国の庶民はこれを模したことになる。入唐使に贈るという特殊な歌であるが、住吉の神に祈る言葉は、紀伊国の庶民が伝承していたとしても、歌のこの当時の伝承状態からいえば少しも不自然ではなく、さらにまた、この祈りの言葉は入唐使に対しては自然であるが、乙麿の紀伊より土佐までの航路には不自然なものである。それをも顧みず、ほとんどそのままに襲用しているのは、庶民としては自然なこととなって来る。詩才の豊かな乙麿であるから、そうした用意があったとしても不当ではなく思われる。要するにこの歌は技巧なきに似て相応に技巧をもった作である。
この歌には、大きな問題がある。それは起首「王の命恐みさし並ぶ国に出でますや 吾が背の公を」の五句である。簡単にいうと、仙覚本はこれだけを独立した一首の短歌としており、『国歌大観』はそれを踏襲し、それ以下を別の歌としているのである。本居宣長がこれを一首の歌として続け、それ以来今のごとき形となったのである。(一〇二〇)(一〇二一)と二つの番号を付けてあるのはそのためである。
1022 父君《ちちぎみ》に 吾《われ》はまな子《ご》ぞ 妣刀自《ははとじ》に 吾《われ》は愛児《まなご》ぞ 参昇《まゐのぼ》る 八十氏人《やそうぢびと》の 手向《たむけ》する 恐《かしこ》の坂《さか》に 幣《ぬさ》奉《まつ》り 吾《われ》はぞ追《お》ふ 遠《とほ》き土佐道《とさぢ》を
父公尓 吾者眞名子叙 妣刀自尓 吾者愛兒叙 參昇 八十氏人乃 手向爲 恐乃坂尓 幣奉 吾者叙追 遠杵土左道矣
【語釈】 ○父君に吾はまな予ぞ 「父君」は麻呂で、養老二年に没した。「吾」は乙麿自身。「まな子」は下の「愛児」で、愛する児。「ぞ」は終助詞。○妣刀自に吾は愛児ぞ 「妣」は故人に用いる字。「刀自」は主婦で、敬称。流人の身となって、父母を思慕したもの。以上一段。○参昇る八十氏人の 「参昇る」は、参り上るで、いずれも賤しい所より貴い所へ行くことをあらわす語。ここは夷より京へ上る意である。「八十氏人」は、「八十」は多数を具象的にいったもので、多くの氏の人で、さまざまの人々というにあたる。○手向する恐の坂に 「手向する」は、原文「手向為等」。「等」は、元暦本外二本はない。「手向する」は幣を捧げるで、道中の無事を祈ってのこと。「恐の坂」は地名であるが、一般性をもった名で、諸所にあったと思われる。「恐」は形容詞|恐《かしこ》しの語幹で名詞であり、下の「坂」の性質をいっているものである。峠の坂には神が祀られており、峠を越えて行こうとする人はその神に幣を捧げて守護を乞うことが常となっていたので、そうした坂を神威を讃える意で名付けた名と取れるからである。日本書紀、天武紀に、大和国と河内国の国境にある「懼坂《かしこのさか》」の名が出ている。ここは紀伊国である。 ○幣奉り吾はぞ追ふ 「幣奉り」は上の「手向する」と同じ。「ぞ」は係助詞。「追ふ」は次の駅、次の泊りをさして行くことをあらわす語。連体形。○遠き土佐道を 「遠き」は先の遠い。「土佐道」はここは土佐国へ行く道の意。「を」は、であるのに。
(274)【釈】 父君にとりては吾は愛子である。妣刀自にとっては吾は愛子である。京のほうへと参り上《のぼ》る多くの氏の人々が、手向をして越えて行く恐の坂に、幣を捧げて吾は、次の目ざす所へと行くことであるよ。先の遠い土佐街道であるのに。
【評】 これは乙麿白身の作であることを明らかに示しているものである。作った場所は「土佐路」すなわち土佐街道であるが、次の反歌は船で紀伊の小浜を過ぎる際のものであるから、土佐賂は紀伊国の中にあるものである。すなわち紀伊国から土佐国へ向かっての発船場所である地に護送されつつ詠んだものである。起首の四句は、亡き父母を思慕したもので、それで一段としている。次は「恐の坂」での抒情で、多くの人々は自分とは反対に、わが過ぎて来たほうすなわち京のほうへ向かって行くのに、自分だけ一人は、先の遠い土佐路を次の駅へと向かってゆくというのである。きわめて簡潔に、哀情を言わずして泌み出させている作である。上の二首とは全く趣の変わったもので、圧搾した形において沈痛な気分をあらわしているものである。
反歌一首
1023 大埼《おほさき》の 神《かみ》の小浜《をばま》は 小《せま》けども 百船人《ももふなびと》も 過《す》ぐと云《い》はなくに
大埼乃 神之小濱者 雖小 百船純毛 過迩云寞國
【語釈】 ○大埼の神の小浜は 「大埼」は和歌山県海草郡下津町大崎の地。土佐国への発船地となっていた。「神の小浜」は大埼の付近の地。○小けども 形容詞が、助詞「ど」「ども」へ接する場合には「け」より接するのが当時の通則。狭い所であるけれども。○百船人も過ぐと云はなくに 「百船人」は百と多くの、すなわちあらゆる。「船人」は船乗《ふなのり》で、あらゆる船乗も。「過ぐ」は空しく通り過ぎる、すなわち素通りする。「云はなくに」は、いわないことであるにで、「に」は詠歎。こうした場合の「云ふ」は意味が軽く、過ぐとせなくにと異ならない。
【釈】 大埼の神の小浜は狭い所であるけれども、あらゆる船乗が素通りをせずに、このように繁く集まって来ているのであるに。
【評】 大崎の神の小浜で陸路は尽きて、そこから海路に移ろうとする時に、狭い船着き場所に多くの船の集まっているのを見、その中にまじっている流人としての自身を強く意識させられて、悲痛な感をもっていっているものである。その感は言外に置いている。長歌とのつながりは、陸と海と境が異なるにつれて一つの感の新たに繰り返されるところにある。
【総評】 「土佐の国に配せられし時の歌三宮」と題して一つづきのものとしてあるが、この三首は明らかに連作であって、意識して構成したものであり、また効果をあげ得ているものでもある。構成というのは、配流ということと、それに伴う感情の全貌を、これら三首の長歌を連ねることによって現わそうと意図し、縦にはいわゆる道行きの形にし、横には境の異なるごと(275)に作話を変えて、変化と統一をもたせてその意図を遂げようとしていることである。第一首は大和、第二首は紀伊、第三首は紀伊から土佐へ向かっての海路として、次第に土地を展開させているのは、まさしく道行きである。この歌体は民謡の長歌集である巻十三には例の多いもので、また柿本人麿にも用いられていて、この時代としては親しみの深いものだったのである。また第一首と二首はその土地の庶民という第三者の作とし、第三首に至って初めて乙麿自身の作としているのは、許されうる限りの変化をもたせようとしてのことである。以上は要するに、連作によって物語りをしようとしているもので、歌を主とすれば歌の散文的展開であり、文芸という上から見れば、国語によっての散文を要求する心があって、その欠を補おうとする中間的な試みといえるものである。これはすでにいったがごとく、巻五の大伴旅人、山上憶良などによって試みられていたことであるが、石上乙麿はそれを一歩前進させたといえる。乙麿がこの方面に力を向けたならばさらに成果を収め得たことであろう。『懐風藻』に載っている乙麿の小伝を見ても、それに堪えうる人であったろうと思われる。
秋八月二十日、右大臣橘家に宴《うたげ》せる歌四首
【題意】 「右大臣橘家」は、橘は橘諸兄を尊んでわざと名を略しての称。諸兄は葛城王の臣籍に下っての氏名。「右大臣」になったのは天平十年正月である。
1024 長門《ながと》なる 奥《おき》つ借島《かりしま》 奥《おく》まへて 吾《わ》が念《も》ふ君《きみ》は 千歳《ちとせ》にもがも
長門有 奥津借嶋 奥眞經而 吾念君者 千歳尓母我毛
【語釈】 ○長門なる奥つ借島 「長門なる」は長門国にあるで、作者は長門守なので、その任地。「奥つ」は、沖ので下の借島の位置。「借島」は今はその名が伝わっていず、したがって明らかに知れない。推量より山口県阿武郡田万川町江崎の沖の加礼島、下関市西北海上の蓋井島、下関東方海上説、萩市鶴江台などの諸説がある。「奥」を三句の「奥」にかけての序詞。○奥まへて この語も今は伝わっていず、語義に諸説がある。「奥」は心の奥の意にも、時の奥としての将来という意味にも用いられている。新村出氏は、名詞「奥」を動詞とし、「奥ま」「奥み」とマ行四段に活かせた語があり、「奥む」は用例は見えないが、ありうる語であり、それを「踏む」を「踏まへて」とすると同様に「奥まへて」としたものではないかといっている。これに従って「奥」を心のそれとし、心深くの当時の語と解する。「君」は主人の諸兄をさしたもの。○千歳にもがも 「もがも」は願望の助詞。千年の齢をも保たれたいものだと、齢を賀したもの。
【釈】 長門国にある沖のほうの借島の、その沖に因みある奥まえてすなわち心深くも、吾が思っている君は千年という齢をも保
(276)たれたいもののである。
【評】 酒宴の席では、献杯をする際に歌をもって相手を賀するのは定まった儀式となっていたので、これもその心よりのものである。巻十一(二七二八)「淡海《あふみ》の海《み》奥つ鳥山奥まへて我が思《も》ふ妹が言《こと》の繁けく」がある。これにはなお類歌もあり、一つの型となっていたとみえる。こうした際の歌は古歌を襲する例が多いので、これもそれであろう。実用性の歌で、巧拙は多く思わなくてもよかったのである。この歌の序詞は任国の地名を捉えているが、それは当然のことだったのである。巧みとまではいえないものである。
右の一首は、長門守|巨曾倍対馬《こそべのつしまの》朝臣。
右一首、長門守巨曾倍對馬朝臣。
【解】 対馬は巻八には「津島」とあり、続日本紀、聖武紀、天平四年に、山陰道節度使判官巨曾倍津島に外従五位下を授くとある。
1025 奥《おく》まへて 吾《われ》を念《おも》へる 吾《わ》が背子《せこ》は 千年《ちとせ》五百歳《いほとせ》 ありこせぬかも
奥眞經而 吾乎念流 吾背子者 千年五百歳 有巨勢奴香聞
【語釈】 ○奥まへて吾を念へる吾が背子は 「吾が背子」は、最も親しんでの称。心深く吾を思っているわが親しい君はで、特別な親近をあらわしての呼び方。○千年五百歳 いずれも長寿という意を具象化した語で、重ねることによって意を強めたもの。○ありこせぬかも 「あり」は生きている意。「こせ」は、希望の助助詞「こす」の未然形。くれるという意の古語。「ぬ」「かも」は打消によって願望をあらわす助詞。
【釈】 心深く我を思っているところの、わが親しい君は、限りなく長く生きていて貰いたいものだ。
【評】 右の対馬の歌に対して和えた歌で、温和な、情の深い、長者の風格を示している、品のある歌である。
右の一首は、右大臣の和《こた》ふる歌。
右一首、右大臣和哥。
1026 百磯城《ももしき》の 大宮人《おほみやびと》は 今日《けふ》もかも 暇《いとま》を無《な》みと 里《さと》に去《ゆ》かずあらむ
(277) 百磯城乃 大宮人者 今日毛鴨 暇无跡 里尓不去將有
【語釈】 ○百磯城の大宮人は 「百機城の」は宮の枕詞。既出。「大宮人」は宮廷に仕える男女を通じての称。○今日もかも暇を無みと 「も」はもまた。「かも」は疑問。「無み」はなきゆえに。「と」は、として。○里に去かずあらむ 「里」は大宮に対しての私宅の称。「去かず」は大宮を主として、私宅に行かずにで、退出せずに。
【釈】 大宮人である夫は、今日もまた、公務が忙しくて暇がないゆえにとて、私宅に退出しないことであろうか。
【評】 この歌は左注にある「故豊島采女」の作である。采女が宮中にいて、傍観者として詠んだ歌としても一首の心は通るが、それでは作因が薄弱にすぎ、したがって無味なものとなり、宴席の興とはなりかねるものとなる。采女は前《さきの》采女であり、大宮人の妻となって里住みをしており、連日夫の来なかったのを恨んでの歌と見るべきである。恨みが婉曲で、主人の右大臣の伝えるにふさわしい歌である。
右の一首は、右大臣伝へ云ふ、故豊島采女《もとのとしまのうねめ》の歌。
右一首、右大臣傳云、故豊嶋采女謌。
【解】 「豊島采女」は、大体この時代の采女であったろうと想像される以上にはわからない。諸兄がこの歌を何らかの経路で記憶していて、その宴席で語ったのを、他の歌と同じく記録する者があってとどまったものと思われる。記録したというのは、作者名を歌の後に記しているのは、記録の形に従ったものと解されるからである。
1027 橘《たちばな》の 本《もと》に道《みち》踏《ふ》み 八衢《やちまた》に ものをぞ思《おも》ふ 人《ひと》に知《し》らえず
橘 本尓道履 八衢尓 物乎曾念 人尓不所知
【語釈】 ○橘の本に道踏み 「橘」は当時奈良の大路に、今日の都会の街路樹のごとく植わっていたもの。「本」は下。「道踏み」は、道を踏み歩いて。〇八衢にものをぞ恩ふ 「八」は多くの数の意のもの。「衢」は「道股《ちまた》」で道の岐れ目。「に」はのごとく。八衢のごとくに、さまざまに。「ものをぞ思ふ」は、嘆きをすることであるよで、嘆きは恋の上のもの。○人に知らえす 「人」は、恋の相手。「知らえず」は、「知られずして」で「ず」は、連用形。
【釈】 街路樹の橘の木下の道を踏み歩いて、その八衢のごとくにさまざまに嘆きをすることであるよ。相手には知られずして。
(278)【評】 この歌は、左注で撰者が正しているように、巻二(一二五)三方沙弥の「橘の蔭履む路の八衢に物をぞ思ふ妹にあはずて」が、伝承の成行きとして転靴したものである。伝承する人の都合の好いようにわざとされる場合もある。一、二句の転靴は、序詞が叙事になって悪化されたもの。結句は女の抒情に変えようとしたものである。転靴させたものは采女ではなかろう。
右の一首は、右大弁高橋安麿卿語りて云ふ、故《もと》の豊島采女の作れると云ふ。但し或る本に云はく、三方沙弥の妻苑の臣を恋ひて作れる歌なりといふ。然らばすなはち、豊島の采女、当時当所にして此の歌を口吟《くちずさ》めるか。
右一首、右大辨高橋安麿卿語云、故豊嶋采女之作也。但或本云、三方沙弥戀2妻苑臣1作歌。然則、豊嶋采女、當時當所口2吟此謌1歟。
【解】 「高橋安麿」は、養老二年従五位下となり、天平十年大宰大弐ともなった人。この歌は当日その宴に列していて、諸兄の上の歌によって思い出して語ったものとみえる。安麿はこの歌を豊島采女の作と思っていたのである。「但し」以下は、撰者の注である。「一本」というのは、本集か、あるいは本集の原本となったものか明らかでない。「当時当所にして」は、その時その所にあってで、そのような心を抱いていた時、歌にあるような場所での意。
十一年己卯、天皇の高円野《たかまとのの》に遊※[獣偏+葛]し給ひし時、小き獣|都里《さと》の中に泄《に》げ走りき。ここに適勇士に値《あ》ひて生きながら獲《と》らえぬ。即ち此の獣を御在所《みあらか》に献《たてまつ》るに副へたる歌一首 【獣の名、俗に牟射佐妣《むざさび》と云う。】
【題意】 「天皇」は聖武天皇。「高円野」は、春日山の南に続く野にも山にもいう。ここに離宮があった。「都里」は山地に対しての称で、大伴氏の邸のあった佐保あたりか。「泄げ」は逃げで、御猟場から逃げ出す意。「俗」は漢語に対して邦語を称する語。「むざさび」は巻三(二六七)に出た。
1028 大夫《ますらを》の 高円山《たかまとやま》に 迫《せ》めたれば 里《さと》に下《お》りける ※[鼠+吾]鼠《むざさび》ぞこれ
大夫之 高圓山尓 迫有者 里尓下來流 牟射佐※[田+比]曾此
(279)【語釈】 ○大夫の高円山に迫めたれば 「大夫」は御猟のことを仕える人々。「迫めたれば」は追い立てたので。○里に下りける※[鼠+吾]鼠ぞこれ 「ぞ」は終助詞で、指示するもの。「これ」は、指示を強めた意。
【釈】 御猟を仕うる勇士が高円山で追い立てたので、里に下りて来たところの※[鼠+吾]鼠でございます、これは。
【評】 人に物を贈る時には、その物の好い物であることか、苦労して得たものであるかを言い添えることが礼となっているので、※[鼠+吾]鼠を御覧に供するにつけ、その由緒と珍しさとを申上げようとしたものである。(鼠+吾)鼠は吉野の山中などでは今もさして珍しとはしない獣であるが、天皇には御覧になったことがなかろうとし、御猟の一興として献ろうとしたものとみえる。儀礼の歌にすぎないものであるが、それとしてはさわやかさを持っている。
右の一首は、大伴坂上郎女の作れる。但し未だ奏を経ずして小き獣死に斃れぬ。これに因りて歌を献ることは停めき。
右一首、大伴坂上郎女作之。但未v※[しんにょう+至]v奏而小獣死斃。因v此獻v謌停之。
十二年庚辰冬十月、大宰少弐藤原朝臣広嗣、謀反して軍を発《おこ》せるによりて、伊勢国に幸《いでま》せる時、河口の行宮《かりみや》にて内舎人《うどねり》大伴宿禰家持の作れる歌一首
【題意】 「藤原朝臣広嗣、謀反して軍を発せる」は、続日本紀に委しい。要をいうと、この乱は藤原氏同族間の軋轢より起こったものである。藤原不比等の子四人は四家に分かれた。藤原氏としては根を張ったことであるが、同時に同族間の勢力争いを惹き起こす基ともなった。南家の豊城、仲麿、北家の永手らが、式家の嫡子広嗣を大宰府に遠ざけたのであるが、これには僧玄肪、吉備其傭が天皇の謀臣として参与していた。広嗣はそれを恨み、君側の茨を除かんことを上表したが、容れられなかったので、天平十二年五月、ついに反を起こしたのである。「伊勢国に幸せる時」は、その十月、征討の官軍が西に向かうとともに、天皇には十二月二十九日、東に向かって行幸され、まず伊勢国壱志郡河口の頓宮に到り、ついで鈴鹿郡赤坂の頓宮に到り、さらに桑名郡石占の頓宮に到り給うた。転じて美濃国不破の頓宮に到り、十二月十五日、山城国恭仁宮に到って、そこを京都とされた。この行幸は広嗣に呼応する者がありはしないかと思い、それを避けるためのことであった。広嗣は十一月一日誅に伏したのであるが、なお奈良へは還幸されなかったのである。「内舎人」は、雑役警衛にあたる職である。家持時に年二十三であった。
1029 河口《かはぐち》の 野辺《のべ》に廬《いほ》りて 夜《よ》の歴《ふ》れば 妹《いも》が袂《たもと》し 念《おも》ほゆるかも
(280) 河口之 野邊尓廬而 夜乃歴者 妹之手本師 所念鴨
【語釈】 ○河口の野辺に廬りて 「河口」は上に出た行宮の所在地。三重県一志郡白山町川口小字|御城《おんじよう》の医王寺付近とつたえられる。そこは山村で、古は大和国への通路を監視するための関のあった所で、宮を関宮とも称した。「廬りて」は廬を名詞にして「廬して」という訓もある。動詞と見る。廬を結んで夜の居所として。○夜の歴れば 天皇が河口の宮に停まられたのは十日間である。○妹が袂し念ほゆるかも 「袂」は手枕としての手を椀曲にいったもの。「し」は強め。「念ほゆるかも」は、恋しく思われることよ。
【釈】 河口の野に廬を結んで、そこに幾夜かを経たので、京である妹の手枕が恋しく思われることであるよ。
【評】 行幸の背後にある事件はその当時としては重いものであるが、歌は年若い家持の十一月の夜々の侘びしさの実感である。素直な心を一本気に詠んだもので、おのずからある品をもったものである。
天皇の御製歌一首
1030 妹《いも》に恋《こ》ひ 吾乃松原《あがのまつばら》 見渡《みわた》せば 潮干《しほひ》の潟《かた》に たづ鳴《な》き渡《わた》る
妹尓戀 吾乃松原 見渡者 潮干乃滷尓 多頭鳴渡
【語釈】 ○妹に恋ひ吾乃松原 「妹に恋ひ」は、妹に恋いてわれのいるの意で、われにかかる枕詞。意味よりかかる原始的なものであるが、他に用例のないものである。「吾乃松原」は今はその名が伝わっていない。したがって諸説があるが、定説となりうるものはない。問題になりうるのは『古義』が引いている天平年間の『大安寺伽藍縁起流記資財帳』に、「伊勢国三重郡赤松原百町」とあるその「赤松原」であり、「赤」と「吾」とを転靴と見て、三重郡にあった地名とすることである。これは左注にも関係させてのことである。伝わらなかったのは、それに値する地ではなかったからである。○潮干の潟にたづ鳴き渡る 潮干になった潟に向かって、あさりするために鶴が、こちらから鳴いて飛び渡ってゆく。
【釈】 吾乃松原を見渡すと、潮干の潟に向かって、鶴が鳴いて飛び渡ってゆく。
【評】 天皇の御在所《みあらか》からやや離れて、一方には松原があり、それに並ぶ形となって伊勢の海が展けているという大景であって、その松原を御覧になったおりから、そこから鶴が飛び立って海のほうへ鳴き渡って行ったのである。鶴は松原に住むかあるいは憩っているものであり、「潮干の潟」は親しく御覧になっているものではないが、鶴がそのようなさまを見せる時は、潮干の時であることを知られてのことである。大景を鶴に集め、「妹に恋ひ」という新しい枕詞を添えてもあるので、おおらかではあるが細かい味わいを伴っていて、品位のある御製である。
右の一首は、今|案《かんが》ふるに、吾松原は三重郡にあり。河口の行宮を相去ること遠し。若し疑ふらくは、朝明《あさけ》の行宮におはしましし時、製《つく》りませる御歌にして、伝ふる者之を誤れる歟。
右一首、今案、吾松原在2三重郡1。相2去河口行宮1遠矣。若疑、御2在朝明行宮1之時、所v製御謌、傳者誤v之歟。
【解】 「吾松原」は三重郡であるから、その都(ママ米田)にある「朝明の行宮」での御製であろうと、編者として疑ったのである。現在の「三重郡」は明治二十九年朝明郡と合併されたもので、その当時は四日市の付近で海に面していた。また続日本紀には「十一月丙午従2赤坂1発到2朝明郡1」ともあるのである。この案は編者の付けたものとみえるが、編者を家持とすると、自身供奉に加わっていたのであるから、そこに不自然がある。しかし行幸の際のこうした記録は、それを職とする者がいたので、その記録をこの巻の資料として、それを重んじて扱おうとすれば、自然このような作歌の場所の誤りも起こりうることである。誤りは記録係にあり、案は編者の慎重な態度からのことと解される。
丹比屋主真人《たぢひのまひとやぬし》の歌一首
【題意】 「丹比屋主」は、天平十八年従五位上で備前守。天平勝宝元年左犬舎人頭になった。神亀元年正六位から従五位下、従駕の一人で、それについては左注がある。
1031 後《おく》れにし 人《ひと》を思《しの》はく 四泥《しで》の埼《さき》 木綿《ゆふ》取《と》り垂《し》でて 好住《さきく》とぞ念《おも》ふ
後尓之 人乎思久 四泥能埼 木綿取之泥而 好住跡其念
【語釈】 ○後れにし人を思はく 「後れにし人」は我に後れている人で、旅にあって家に残っている妻をさしたもの。「思はく」は「思《しの》ふ」に「く」の接して名詞形となったもの。〇四泥の埼 『延喜式』に「伊勢国朝明郡志※[氏/一]〔二字傍点〕神社」とあり、今は三重郡。今の四日市北方大字羽津の海岸。これは次の句の「垂で」へ同音でかかる枕詞。眼前の物を捉えて序詞とし、意義と語調と二つの用をたらせることは、この時期に入って少なからず行なわれていることで、これは枕詞の上にそれを行なっているものである。○木綿取り垂でて 「木綿」は祈りをする時神に捧げる物。「取り垂で」は、「取り」は接碩語。「垂で」は垂らすの古語で、木の枝に結びつけて垂らすのが定めである。祈ることを具象的にいったもの。○好住とぞ念ふ(282)「好住」は西本朗寺本は「将住」。「将」は元暦本外四本は「好」。巻五(八九四)「好去好来の歌」と同じく、妻の無事でいることを「さきく」あることとして「好住」の字を当てたのである。「ぞ」は係助詞。
【釈】 我におくれて家にある事について思いやることは、四泥の埼で、その四泥というように木綿を垂でて無事であれよと祈ることである。
【評】 旅にあって家にいる妻を思う心であるが、妻恋しいというようなことは言わず、妻の無事を祈っているだけで、その場合にふさわしい態度である。妻をいうに「後れにし人」と、婉曲な呼び方をしているのも、その態度にふさわしい。「四泥の埼」を捉えて、そこの神を暗示するとともに、形の上では「垂で」の枕詞としているのも、時様に即した技巧で、歌才を示しているものである。複雑な、屈折をもった詠み方で、老熟した歌である。
右は案ふるに、この歌はこの行の作にあらざるか。然いふ所以は、大夫に勅して、河口の行宮より京に還らしめ、従駕せしむることなし。何ぞ思泥埼《しでのさき》を詠《なが》めて歌を作ることあらめや。
右案、此謌者、不v有2此行之作1乎。所2以然言1、勅2大夫1從2河口行宮1還v京、勿v令2從駕1焉。何有d詠2思泥埼1作uv謌哉。
【解】 「この行」はこの際の行幸である。「大夫」は屋主の敬称。この左注につき『代匠記』と『古義』とは多くの考証をしている。確信をもっていっている注であるから、上のものと同じく編者の加えたものと解し、責は資料にあるものと認める。
狭残《さざ》の行宮にて大伴宿禰家持の作れる歌二首
【題意】 「狭残」という地名は続日本紀、聖武紀に載っていないので、不明である。次の歌で見ると海岸に近い所なので、河口より壱志郡、鈴鹿郡、朝明郡、桑名郡と経て、美濃の国当伎郡に到り給うまでのいずれかの海岸の地と思う他はない。一志郡松ケ崎村(現松阪市)、鈴鹿市土師町、多気郡三和町大淀、という諸説がある。
1032 天皇《おほきみ》の 行幸《みゆき》の随《まにま》 吾妹子《わぎもこ》が 手枕《たまくら》巻《ま》かず 月《つき》ぞ歴《へ》にける
天皇之 行幸之隨 吾妹子之 手枕不卷 月曾歴去家留
(283)【語釈】 ○天皇の行幸の随 「天皇」は旧訓「すめろぎ」。荒木田久老の『槻の落葉』での改訓。当代の天皇皇太子の称。「行幸《みゆき》」は旧訓。「随」は旧訓「ままに」、『略解』は「まに」であるが、縦中の用例は「まにま」が多く、「まに」と訓む証はない。ままに任せて。○手枕巻かず 「巻かず」は枕とせず。○月ぞ歴にける 十月に発して十一月に入っていたのである。
【釈】 天皇の行幸のままに任せて従駕をし、妻の手枕をせずに月を経たことであるよ。
【評】 自分の職を順直に受け入れて、他意なく、一本気で物をいっているさまが、調べの上に現われている。しかし歌としては輪郭的なもので、手腕が見えない。
1033 御食《みけ》つ国《くに》 志摩《しま》の海部《あま》ならし 真熊野《まくまの》の 小船《をぶね》に乗《の》りて 奥《おき》べ榜《こ》ぐ見《み》ゆ
御食國 志麻乃海部有之 眞熊野之 小船尓乘而 奥部榜所見
【語釈】 ○御食つ国志摩の海部ならし 「御食つ国」は上の(九三四)に「御食つ国|野島《のじま》の海人《あま》」と出た。天皇の御饌として、特に定められている品を、貢として献ずる国。志摩国は古事記に「島之速贄《しまのはやにへ》」という語があって、神代より海の物を献じていた国である。「ならし」は「なるらし」の転、眼前を証としての推量。○真熊野の小船に乗りて 「真熊野の小船」は、「真」は美称、「熊野」は紀伊国の熊野で、「小船」に続けているのは、熊野で造る型の小船の意。○典べ榜ぐ見ゆ 「榜ぐ」は終止形。「見ゆ」は終止形から続くのが本集の通則だからである。
【釈】 天皇の御食膳に海の物を献じて奉仕する国の、志摩の海人であるらしい。熊野で造る型の小船に乗って、沖をこいでいるのが見える。
【評】 上の(九三四)の赤人の歌に負うところの多い歌である。臣民の奉仕のさまをいうことは天皇に対して賀となることで、これもその心よりのものである。家持にふさわしい歌である。一首印象的であり、調べにも強さと豊かさが添っていて、従前の家持の歌とくらべると相応な飛躍を遂げている。古歌のすぐれたものを摂取して自身を進歩させようとする心の現われが見える。
美濃国|多芸《たぎ》の行宮《かりみや》にて大伴宿禰|東人《あづまひと》の作れる歌一首
【題意】 「美濃国多芸の行宮」は、「多芸」は郡名で、今は養老郡である養老町に多岐《たぎ》の名の大字を残している。この行宮に行幸になったことは、続日本紀に天平十二年十一月「己酉、到2美濃国|当伎《たぎ》郡1」とあり、停られたのは五日間である。「大伴東人」(284)は天平宝字五年に従五位下として武部(兵部)少輔となり、七年少納言。宝亀元年周防守、五年弾正弼となった。
1034 古《いにしへ》ゆ 人《ひと》の言《い》ひける 老人《おいひと》の 変若《を》つ云《と》ふ水《みづ》ぞ 名《な》に負《お》ふ滝《たぎ》の瀬《せ》
從古 人之言來流 老人之 變若云水曾 名尓負瀧之瀬
【語釈】 ○古ゆ人の言ひける 昔から人の言っているで、下へ続く。○老人の変若つ云ふ水ぞ 「変若つ」は巻三(三三一)を初めとしてしばしば出た。元へ立ちかえることで、若がえる意に用いている。「云ふ」は、「と云ふ」「ちふ」とも訓み得られる。「ぞ」は、指示の助詞。年寄の若がえるという水であるぞ。以上の事は、続日本紀、元正妃、養老元年十一月の天皇の詔にくわしい。要は、天皇が九月美濃の不破の行宮に幸され、数日をとどまって多度山の美泉を覧られた。その水で手や面を洗うと滑らかになり、また痛む処はすべて癒えた。またこの水に浴みする者は、白髪が黒くなり、脱けた髪も生え、見えない眼も見えるようになり、その他何の病も平癒する。瑞書《ずいしよ》にいう醴泉で、老を養うにあたり、大瑞であるゆえに、霊亀を改めて養老とするというのである。○名に負ふ滝の瀬 「滝の瀬」は、激流をなしている浅い流れで、眼前に見ての言。
【釈】 以前から人の言っていた、年寄も若がえるという水であるぞ。その評判をもっている滝の瀬であるぞこれは。
【評】 評判にだけ聞いてなつかしがっていた滝を、行幸の供奉で見ることを得ての感激しての心である。旅行の困難な時代とて類歌の多いものである。心の躍った跡を相応にあらわしている。
大伴宿禰家持の作れる歌一首
1035 田跡河《たどかは》の 滝《たき》を清《きよ》みか 古《いにしへ》ゆ 宮仕《みやづか》へけむ 多芸《たぎ》の野《の》の上《へ》に
田跡河之 瀧乎清美香 從古 宮仕兼 多藝乃野之上尓
【語釈】 ○田跡河の滝を清みか 「多跡河」は、養老の滝に発して、養老町西部(もと上多度村)、海津郡、南濃町北部(もと下多度村)を流れ揖斐川に入る河の称。今は養老川という。「清みか」は、清きゆえにかで、「か」は疑問の係助詞。家持は霊泉ということには触れず、単に風景としていっているのである。○古ゆ宮仕へけむ 「宮仕へ」は日常の奉仕にも、大宮を造営することにもいった。ここは造営で、古の元正天皇の御代から行宮を営まされたことであろうか。「けむ」と推量にしているのは、敬意からのことである。○多芸の野の上に 「多芸」は当時の郡の名としてのもの。「上」は、感を強めるために添えたもの。
【釈】 田跡河の激流が清いゆえに、それを愛で給うとて、古から大宮を御営ませになったことであろうか。この多芸の野に。
(285)【評】 多芸宮を讃えたもので、行幸の際天皇に献る賀の歌の型に従ったものである。祥瑞を信ずる思想の盛行していた中にあって、それを濃厚にあらわはしている多芸宮な讃えるに、吉野宮などと同様に単に風景のみをいっているのは、いかがである。言うを好まなかったのか、言い悩んだのかのいずれかであろう。平凡ではあるが一首の姿が清らかで、家持を思わせる歌である。
不破《ふは》の行宮にて大伴宿禰家持の作れる歌一首
【題意】 「不破の行宮」への行幸は、続日本紀に「十二月癸丑朔、到2不破郡不破頓宮1」とあって、上の多芸の宮の行幸に続いてのことである。所在は不明である。古の国府のあった地の、今の不破郡垂井町府中・宮代かという。
1036 関《せき》なくは 還《かへ》りにだにも うち行《ゆ》きて 妹《いも》が手枕《たまくら》 巻《ま》きて宿《ね》ましを
關無者 還尓谷藻 打行而 妹之手枕 卷手宿益乎
【語釈】 ○関なくは 「関」は、不破の関で、これはいわゆる三関の一であり、『軍防令義解』に「三関者、謂2伊勢鈴鹿、美濃不破、越前|愛発《あらち》1是也」とある。その関のさまを、巻二十(四三七二)の防人歌で、「荒男《あらしを》も立しやはばかる不破の関|越《く》えて吾はゆく」といっている。○還りにだにも 「還り」は名詞で、『代匠記』は俗に立ち帰りという詞だといって考証している。立ち帰りは現在も語として存し、志す所へ行き、立ったまま用を弁じて帰る意である。立ち帰りにだけでも。○うち行きて 「うち」は接頭語。
【釈】 不破の関がなかったなりば、立ち帰りにだけでも行って、妹が手枕をして共寢をしようものを。
【評】 行幸の供奉をしている場合でも、家の妹を思うことは憚らずいっている歌が多く、むしろ普通のことになっていたとみえる。この歌はそうしたものの中でも一本気なもので、形の上では余裕がありげに見えるが、気分の上ではせっば詰まったものがあって、不破の関を眼にしたために感傷を高められ、それが実感となって詠んでいる趣のあるものである。家持の人柄を思わせる歌である。
十五年癸未秋八月十六日、内舎人大伴宿禰家持、久邇京《くにのみやこ》を讃《ほ》めて作れる歌一首
【題意】 「久邇京」は、巻三(四七五)に出た。京都府相楽郡加茂、木津、山城の諸町にわたり、木津川(泉川)が、東西に貫流する地域、すなわち瓶原《みかのはら》盆地である。皇居址は、小字立川の京城芝の地といわれる。奈良京よりここへ遷都になったのは続日本(286)紀、聖武紀に天平十二年十二月「丁卯、皇帝在v前、幸2恭仁宮1、姶作2京都1矣。太上天皇皇后在v後而至。」またつづいて「十三年春正月癸未朔、天皇始御2恭仁宮1受v朝」とある。諸所の行宮へ行幸になられた後、奈良には還幸されずにただちに久邇の宮へ幸せられたのである。これは広嗣に気脈を通ずる不平分子の奈良にあることを惧れて、それを避けようとされてのことかと思われる。しかし十六年には難波京に遷られ、その年のうちに再び久邇京に、さらに紫香楽《しがらき》京に遷られ、十七年には三たび久邇京に遷られて、その年のうちに遂に奈良京に遷られるというように、頻々と遷都のことが行なわれたのである。以下、新京を讃える歌と旧都の荒廃を悲しむ歌の続出するのは、一に政治上の不安定が背後にあってのことである。
1037 今《いま》造《つく》る 久邇《くに》の王都《みやこ》は 山河《やまかは》の 清《さや》けき見《み》れば うべ知《し》らすらし
今造 久迩乃王都者 山河之 清見者 字倍所知良之
【語釈】 ○今造る久邇の王都は 「今造る」は、新たに御造営になる。今は新来《いまき》、新参《いままいり》など用例の多い語である。「久邇の王都」は、「王都」は、宮所で大宮を主としての語。大宮の造営は天平十二年十二月に着手したので、今は三年目であるが、まだ完成はせず、工事中だったのである。○山河の清けき見れば 山と河の清かなのを見れば。山は高きをいうのが普通であるが、河をいう清けさの中に籠めたもの。○うべ知らすらし 「知らす」は、天下を御支配になる意で、天皇としては当然なことなので、お住まわせになるというをこのように言ったもの。ここで知ろしめされるのは御もっともなことであろう。
【釈】 新たに造営している久邇の都は、山と河の清らかなのを見れば、ここで知ろしめされるのは御もっともなことであろう。
【評】 都を賀するにその四国の風景の美しさを讃えることによってするのは、定まった型となっていたことである。これもそれで、「山河の清けき見れば」といってしている。実際は、何事か事件の起こった時には山河に拠った不便な地のほうが便利だろうと慮ってのことで、家持はむろん承知していたことなのである。それをこのように言い做すところに賀の心があるとしたのであろう。儀礼だけのものではない調べをもった歌である。
高丘河内連《たかをかのかふちのむらじ》の歌二首
【題意】 「高丘河内」は、祖先は百済の公族で帰化人である。初は楽浪《ささなみ》河内といったが、神瓶元年高丘連を賜わった。和銅五年、播磨の国大司として功績を賞せられ、養老五年退朝の後東宮に侍することを命ぜられ、天平三年、外従五位下、勝宝六年正五位下、後宿禰を賜わった。
(287)1038 故郷《ふるさと》は 遠《とほ》くもあらず 一重山《ひとへやま》 越《こ》ゆるがからに 念《おも》ひぞ吾《わ》がせし
故郷者 遠毛不有 一重山 越我可良尓 念曾吾世思
【語釈】 ○故郷は遠くもあらず 「故郷」は久邇京に遷ったので、奈良をいっているのである。「遠くもあらず」は、新京は山城国の中でも最も大和国に近くいくばくの距離もない。○一重山越ゆるがからに 「一重山」は、八重山、五百重山などに対する語で、ただ一重の山。峠一つというにあたる。「越ゆるがからに」は、越えて行く地であるがゆえに。○念ひぞ吾がせし 「念ひ」は、嘆き。「ぞ」は係助詞で、嘆きを吾はしたことであった。これは、奈良に家族を残してあって、公務を終えての後に家族に逢いに行って帰った困難を思っての愚痴である。
【釈】 故里は遠い所ではない。山を一つ越して往復する所であるがゆえに、吾は嘆きをしたことであった。
【評】 廷臣は遷都とともに新京に移らなければならないが、身分の高くない者は住宅が間に合わず、家族は旧京にとどめて置くのが普通であつた。この人もそれで、公務の余暇に奈良山を越えて旧都の妻に逢いに行った、その道の苦労であった愚痴を漏らしたものである。親しい間で漏らし合う性質の事柄である。この次の歌とともに家持に示したものであろう。軽い、何というほどのことでもない心で、詠み方もそれにふさわしいものであるが、情理が備わっていて、小味ながらに味わいのある、上手な歌である。
1039 吾《わ》が背子《せこ》と 二人《ふたり》し居《を》れば 山《やま》高《たか》み 里《さと》には月《つき》は 照《て》らずともよし
吾背子與 二人之居者 山高 里尓者月波 不曜十方余思
【語釈】 ○吾が背子と二人し居れば 「吾が背子」は、男の友を最も親しんで呼んだ称。「し」は強意の助詞。○山高み 山が高いので。久邇は山間の盆地であるが、月の出を遮るのは東方の和束《わづか》山などであろう。○里には月は照らずともよし 「里」は、廷臣が宮中に対して私宅の称ともしているが、ここは住んでいる村里であろう。「よし」は、ままよの意。
【釈】 親しい君と、二人で居れば、山が高いので、この里には月が出なかろうとも、構いはしない。
【評】 心合いの友と対座していて、おりから月の夜頃なので、その出るのも待ちながらも、東の山裾で出の遅いことを思い、そのもどかしさを言い紛らしたものである。日常生活に即したきわめて淡い心のもので、何びともほとんど歌材とはしまいと思われる物を捉えて対座の喜びをあらわすものとしているのである。上の歌と同じく、その手腕によって詠み生かして味わい(288)あるものとしているのである。目立たない歌ではあるが、老手と思わせるものである。
安積親王《あさかのみこ》、左少弁藤原|八束《やつか》の朝臣の家に宴《うたげ》し給ひし日、内舎人《うどねり》大伴宿禰家持の作れる歌一首
【題意】 「安積の親王」は、巻三(四七五)の題詞に出た。聖武天皇の皇子で、天平十六年二月、十七歳をもって薨じた。これはその前年である。「藤原八束」は、上の(九七八)の左注に出た。この時は二十八歳であった。家持は二十六歳である。
1040 久堅《ひさかた》の 雨《あめ》はふりしけ 念《おも》ふ子《こ》が 屋戸《やど》に今夜《こよひ》は 明《あか》して去《ゆ》かむ
久堅乃 雨者零敷 念子之 屋戸尓今夜者 明而將去
【語釈】 ○久堅の雨はふりしけ 「久堅の」は、天の枕詞で、ここは「雨」に転じたもの。「ふりしけ」は、しくは物の重なり続く意で、「しけ」は命令形。雨よふり続け。○念ふ子が 「念ふ」は慕う意、「子」は、広く人に対して用いる愛称で慕わしい人のである。ここは誰を指しているのかが間題となっている。『代匠記』は、主人の八束であるとし、『攷証』はそれに従って、男同士も子と呼んだと考証している。一方、『略解』は、相聞の古歌ではないかといい、『新考』は、接待に出た侍女を指していったのではないかと疑っている。主人の八束を指しているものと取れる。○屋戸に今夜は明かして去かむ 「屋戸」は、宿の意のもの。この宿に今夜は明かして帰ろう。
【釈】 雨よ降り続いてくれ。そしたら慕っている人の家に、今夜は明かして帰ろう。
【評】 八束が、安積親王を主客としてその家で宴をした時に、家持がそうした場合の常として、宴の楽しいことを主人に対して述べるのが礼となっているので、その心よりいったものである。しかし宴は改まってのものではなく、また主客とも年若い人であったから、改まった形の挨拶とするのをふさわしくないとし、砕けた、気の利いたものとし、それを興にもしようと思ったとみえる。おりからの雨を捉えて「ふりしけ」といい、それにかこつけて「明して去かむ」といっているのは、しゃれた礼の述べ方といえる。主人を「念ふ子」といっているのも、同じくしゃれた言い方をしようとしてのことと取れる。男性に対しても通じるが、女性のほうが一層適切だという呼び方は、そこにしゃれがあるとしたものと思われる。大体家持は気の利いた詠み方は出来ない人で、この歌もそれとしては決して巧みなものではないが、作意はそこにあったのであろう。
十六年甲申春正月五日、諸卿大夫、安倍蟲麿朝臣の家に集ひて宴せる歌一首作者審らかならず
【題意】 「諸卿大夫」は、卿は官参議以上、位三位以上。大夫は四、五位に用いる敬称。「安倍蟲麿」は、巻四(六六五)に出た。(289)天平十三年外從五位下、播磨守となった人で、天平勝宝四年、中務大輔従四位下で卒した。
1041 吾《わ》が屋戸《やど》の 君《きみ》松《まつ》の樹《き》に ふる雪《ゆき》の 行《ゆ》きには去《ゆ》かじ 待《ま》ちにし待《ま》たむ
吾屋戸乃 君松樹尓 零雪乃 行者不去 待西將待
【語釈】 ○吾が屋戸の君松の樹に 「屋戸」は、庭の意のもの。「君松の樹」は、君を待つ松の樹で、「松」を掛詞にしたもの。「君|松浦《まつら》山」「千代松の樹」「嬬《つま》松の樹」など例の多いもの。○ふる雪の 今降っている雪の意で、時は正月五日で、眼前の景を捉えたと思われるもの。初句よりこれまでは、「雪」を同音の「行き」に続けての序詞。○行きには去かじ 「行き」は名詞。行くということのほうはで、「去かじ」を強くいうために繰り返したもの。家から出てゆくことは決してしまい。○待ちにし待たむ 待ちに待とうで、家にあって待とうを強くいったもの。
【釈】 わが庭の君を待つというに因みある松の樹に今降っている雪の、その行きということは決してすまい、ひたすらに来られるのを待とう。
【評】 これは、その家で宴を催すことになって諸卿大夫の集うのを待っていた主人役の安倍蟲麿が、その日あいにくにも雪が降り出して来て、これでは来られるかどうかと危ぶまれた時の心を詠んだものと取れる。初句より三句までは、懸念の対象となった雪を、庭前の松の樹によって具象化し、それに「君」というほとんど成語となっているものを添えて、さらに自身の心持をも具象化した、心としては複雑なものであるが、それを形の上では「行き」の序詞にするという技巧を用いたものである。「行き」は、雪によって宴が危まれた所から、迎えに行こうかと思った意のものであるが、それを「去かじ」を強めるための料とし、さらに「待ちにし待たむ」と、反対なことを強めていうことによって、必ず来られようと思い定めたのである。これは客の諸卿大夫が、雪を愛でて、かえって喜んで来られようと思う心を背後に置いての心と取れる。したがって、「雪」と「行き」のかかりも空疎ではない。また四、五句は、巻二 (八五)磐姫皇后の「君が行け長くなりぬ山たづね迎へか行かむ待ちにか待たむ」を連想させるもので、この形はやや久しきにわたって行なわれていた謡い物の形で、これまた技巧のあるものである。一首独立した歌として見ると、言うにたりない作であるが、時宜に適した歌としようとし、複雑した条件の下に詠んだ、いわゆる実用性の歌として見ると、技巧に長けた歌というべきである。その日の会衆を喜ばせ得たものであろう。歌詞の下の細字をもって記してある「作者審らかならず」という注は、主人蟲麿の作ということを認め難かったためのものと思われる。
同じ月十一日、活道岡《いくぢのをか》に登り、一株の松の下に集ひて飲《うたげ》せる歌二首
(290)【題意】 「活道岡」は、巻三(四七八)に、「活道山木立の繁《しげ》に」と出た。久邇京の東、西和束町字白栖東方にある、丘陵付近といわれる。また、恭仁大橋上方の王廟山とする説もある。大樹の下で酒宴をするのは古くより行なわれた風である。正月十二日という厳寒の季節であることが注意される。
1042 一《ひと》つ松《まつ》 幾代《いくよ》か歴《へ》ぬる 吹《ふ》く風《かぜ》の 声《おと》の清《きよ》きは 年《とし》深《ふか》みかも
一松 幾代可歴流 吹風乃 聲之清者 年深香聞
【語釈】○一つ松幾代か歴ぬる 「一つ松」は一|本《ぽん》松の意で、古くから用例のある語。「幾代か」は、どれほどの代で、いかに多くの代を。○吹く風の声の清きは 松を吹く風の音の澄んでいるのはで、松風の音が澄んで聞こえるのは。「清き」は、旧訓「すめる」であったのを、『新考』が改めたもので、新村出氏は『総釈』で、集中「清」はすべて「きよし」で、「すむ」と訓んでいるのはこの一か所のみだと注意している。「すむ」という例はなかったのである。○年深みかも 「年深み」は年が績もったゆえ。「か」は疑問。【釈】 この一本松はどれほどの代を経たのであろうか。松風の音の澄んでいるのは、年の積もったゆえなのであろうか。
【評】 その下に集まって宴をしながら、頭上の老松を讃えて詠んだ歌で、情景が明らかである。まず松の老いた愛でたさを讃え、ついで松風の澄んでいる愛でたさを讃えているのであるが、それがおおらかな、ゆとりのある調べによって生かされて、感動の細かいものまでも讃え織り込んだ趣のある歌となっている。鳥の声、水の音などを詠んで生趣あるものとして来るのはこの時代の特色の一つであるが、この歌は松風の音を微妙に生かしている感がある。魅力の多い作である。正月の宴歌であるから、賀の心も籠めてのものであろう。
右の一首は、市原王の作。
右一首、市原王作。
【解】 市原王は、巻三(四一二)及び(九八八)に既出。
1043 たまきはる 寿《いのち》は知《し》らず 松《まつ》が枝《え》を 結《むす》ぶ情《こころ》は 長《なが》くとぞ念《おも》ふ
靈剋 壽者不知 松之枝 結情者 長等曾念
(291)【語釈】 ○たまきはる寿は知らず 「たまきはる」は、巻一(四)「たまきはる内大野」以下にしばしば出た。「命」「うち」の枕詞。「寿は知らず」は、わが寿命のほどは知れないで、生命というものを意識しての心。○松が枝を結ぶ情は 松の枝を結ぶことは巻二(一四一)に出た。また、草を結ぶことは巻一(一〇)を初め少なからずある。いずれも魂を結び合せることによって、命を固め、離れまいとし、再会を期しうるという上代信仰よりのこと。○長くとぞ念ふ 命長かれと思ってのことである。
【釈】 わが寿命のほどは知られない。今松の枝を結ぶ心は、命長かれと思ってのことである。
【評】 われとわが寿を祈る心で、一つの松の枝を結んで詠んだ歌である。正月の宴席でのことであるから、心理の自然はあることといえる。上代の信仰に従ってのことであるから、その信仰を力強くあらわすための説明ならば、格別、弁明めいたことをいうのはいかがである。その信仰を疑うかのように聞こえるからである。「たまきはる寿は知らず」は、そうした感を起こさせずにはやまないものである。そこにこの時代の気分と、家持の人柄とが窺える。市原王には遠く及ばない作である。
右の一首は、大伴宿禰家持の作。
右一首、大伴宿祢家持作。
寧楽の京《みやこ》の荒れたる墟《あと》を傷み惜みて作れる歌三首 作者審らかならず
【題意】 奈良京は天平十二年に遷都されて以後、ただ荒れゆくばかりであったと見える。大宮人はすべて新京に移った後に、たまたま残って住んでいる人があって、懐旧の念に堪えずに詠んだものである。作者の明らかでないのは、その作を伝え聞くほどの人が皆同感し、伝え伝えて行く中にその名を失ったためか、あるいはまたあらわすを憚ったためであろう。
1044 くれなゐに 深《ふか》く染《し》みにし 情《こころ》かも 寧楽《なら》の京師《みやこ》に 年《とし》の歴《へ》ぬべき
紅尓 深染西 情可母 寧樂乃京師尓 年之歴去倍吉
【語釈】 ○くれなゐに 「くれなゐ」は、紅花《べにばな》で、菊科の二年生草木。その花冠から採った紅色の染料で、当時一般に用いられていた物。くれないの色に。○深く染みにし情かも くれないは濃くあざやかに、また持久的に染み着くので、そのように染み着いたわが心であろうかと、わが心の状態を譬喩をもっていったもの。「かも」は疑問の係助詞。○寧楽の京師に年の歴ぬべき 奈良京を離れられずして、ここでいつまでも過ごしてゆきそうなことよで、「べき」は係の結。
(292)【釈】 くれないの色に深くも染み着いているわが心なのであろうか。我は奈良京が離れられず、ここでいつまでも過ごしてゆきそうであることよ。
【評】 故京の奈良にとどまっている人の作だということを明らかに示している歌である。「くれなゐに深く染みにし」という譬喩は、いかにも巧妙なものである。今は荒墟となっている奈良の古都に、古の華やかさなつかしさを捉えて、その何とも忘れ難い意を、綜合的に捉えて、さらに感性的に具象した譬喩で、思い付きの器用さなどとは性質を異にしたものである。しかし安易に余裕をもっていっているもので、豊かなる資質から流れ出したものという趣をも持っている。またそれと「寧楽の京師に年の歴ぬべき」との、一見距離のあるごとくにみえて緊密に溶け合っているところも、綜合力のいかに巧みに働いているかを示している。「くれなゐ」の染料を用いているところは、古都にとどまりがちであった女性を連想させて、作者は女性ではなかったかと思わせるが、それだとこの綜合感立体感は女性には珍しいまでなのである。
1045 世間《よのなか》を 常《つね》なきものと 今《いま》ぞ知《し》る 平城《なら》の京師《みやこ》の 移《うつ》ろふ見れば
世間乎 常無物跡 今曾知 平城京師之 移徙見者
【語釈】 ○世間を常なきものと 世間を恒久性のなく、絶えず変化し流転するものとしての意で、仏説。○今ぞ知る 今こそ知ったことだの意で、体験として悟った意。○平城の京師の移ろふ見れば 「移ろふ」は、移る、すなわち推移するで、盛んであったものの衰えてゆくのを見ると。
【釈】 世間は無常なものであるということを、今こそ知ることであるよ。奈良京が衰えてゆくのを見ると。
【評】 奈良京の繁栄は、前古に比類のないもので、当時の人の最大の誇りであったので、その都が古都となって衰えてゆくのを眼に見ることは、正反対に言い難い驚きであり悲しみであったことがたやすく察しられる。この大きな対象と大きい感を言うのに、単に知識としてもっていた仏設の無常観が、眼に見る事実となって現われたといってあらわしているのは適切で、綜合力と感性とのある作である。
1046 石綱《いはづな》の また変若《を》ちかへり あをによし 奈良《なら》の都《みやこ》を またも見《み》むかも
石綱乃 又變若反 青丹吉 奈良乃都乎 又將見鴨
【語釈】○石綱のまた変若ちかへり 「石綱」は、石に這う蔦で、「綱」は「蔦」の古語であり、日本書紀、顕宗紀「室寿の詞」にも、また祝詞に(293)も、「蔦」に「綱」の字を用いている。蔦類は這い伸びてまた元へ返る物であるところから、意味で変若《を》ちへかかる枕詞。「変若ち」は、若返る意で、五巻(八四七)(八四八)に出た。○あをによし奈良の都を しばしば出た。○またも見むかも 「か」は、疑問助詞。
【釈】 石綱のように我はまた若返って、盛んな奈良の都をまたも見られようか。
【評】 荒墟となっている奈良の都を眼にし続けている人の、再びこれが以前の都のようになることはあるまいと、嘆きをもって諦めている心である。我も「また」若がえることは出来ず、あおによし奈良の都は「またも」見られようかと、「また」によって出来難いことを並列し、さらに「あをによし」によって古の栄えた奈良を暗示するなど、心細かい技巧を用いている歌である。切実を求めての用意が、かえってこの感を反対なものにしている趣がある。
寧楽の故郷を悲みて作れる歌一首 并に短歌
【題意】 故郷はいわゆる故里で、廷臣として都を中心としていえば故京であって、ここはそれである。
1047 八隅《やすみ》知《し》し 吾《わ》が大王《おほきみ》の 高敷《たかしか》かす 日本《やまと》の国《くに》は 皇祖《すめろぎ》の 神《かみ》の御代《みよ》より 敷《し》きませる 国《くに》にしあれば 生《あ》れまさむ 御子《みこ》の嗣《つ》ぎ継《つ》ぎ 天《あめ》の下《した》 知《し》らしいませと 八百万《やほよろづ》 千年《ちとせ》を兼《か》ねて 定《さだ》めけむ 平城《なら》の京師《みやこ》は 炎《かぎろひ》の 春《はる》にしなれば 春日山《かすがやま》 三笠《みかさ》の野辺《のべ》に 桜花《さくらばな》 木《こ》の晩《くれ》がくり 貌鳥《かほどり》は 間《ま》なく数鳴《しばな》く 露霜《つゆしも》の 秋《あき》さり来《く》れば 射駒山《いこまやま》 飛《と》ぶ火《ひ》が※[山+鬼]《たけ》に 萩《はぎ》の枝《え》を しがらみ散《ち》らし さを鹿《しか》は 妻《つま》呼《よ》び動《とよ》む 山《やま》見《み》れば 山《やま》も見《み》がほし 里《さと》見《み》れば 里《さと》も住《す》みよし 物《もの》のふの 八十伴《やそとも》の緒《を》の 打《うち》はへて 思《おも》へりしくは 天地《あめつち》の 依《よ》りあひの限《かぎり》 万世《よろづよ》に 栄《さか》えゆかむと 思《おも》へりし 大宮《おほみや》すらを 恃《たの》めりし ならの京《みやこ》を 新世《あらたよ》の 事《こと》にしあれば 皇《おほきみ》の 引《ひき》のまにまに 春花《はるはな》の うつろひ易《かは》り 群鳥《むらとり》の 旦立《あさだ》ち往《ゆ》けば さす竹《たけ》の 大宮人《おほみやびと》の 踏《ふ》み平《なら》し 通《かよ》ひし道《みち》は 馬《うま》も行《ゆ》かず 人《ひと》も往《ゆ》かねば 荒《あ》れにけるかも
(294) 八隅知之 吾大王乃 高敷爲 日本國者 皇祖乃 神之御代自 敷座流 國尓之有者 阿礼將座 御子之嗣繼 天下 所知座跡 八百萬 千年矣兼而 定家牟 平城京師者 炎乃 春尓之成者 春日山 御笠之野邊尓 桜花 木晩※[穴/牛] ※[白/ハ]鳥者 間無數鳴 露霜乃 秋去來者 射駒山 飛火賀※[山+鬼]丹 芽乃枝乎 石辛見散之 狹男牡鹿者 妻呼令動 山見者 山裳見※[白/ハ]石 里見者 里裳住吉 物負之 八十伴緒乃 打經而 思煎敷者 天地乃 依合限 萬世丹 榮將徃迹 思煎石 大宮尚矣 恃有之 名良乃京矣 新世乃 事尓之有者 皇之 引乃眞尓眞荷 春花乃 遷日易 村鳥乃 旦立徃者 刺竹之 大宮人能 踏平之 通之道者 馬裳不行 人裳徃莫者 荒尓異類香聞
【語釈】〇八隅知し吾が大王の 既出。○高敷かす日本の国は 「高」は高大にの意の形容詞。「敷かす」は、敷くの敬語で、御支配になる。「日本」は、大和に当てた字。○皇祖の神の御代より 皇祖の神の御代以来であるが、事としては、神武天皇以来。○敷きませる国にしあれば ここにあって御支配なされる国なので。「し」は強意の助詞。○生れまさむ御子の嗣ぎ継ぎ 御誕生になられるだろう御子が相継いで。「生《あ》れ」は生まれる子のほうを主に立てての語。○天の下知らしいませと 「天の下」は、国家を具象的にいったもの。「知らしいませ」は、知るの敬語に、いるの敬語「いませ」を接続させて鄭重にいったもの。「いませ」は命令形で、御支配になられよと仰せになって。〇八百万千年を兼ねて 八百万千年の将来へも及ぼして。この数は永遠ということを具象的にいったもの。○定めけむ平城の京師は ここにしも定められたであろうところの奈良の都は。「定めけむ」は、推量。敬意よりのもの。○炎の春にしなれば 「炎の」は春の枕詞。春の季節と移って来ればで、「し」は強意の助詞。以上奈良の風光の美を、春秋に別け、それぞれ山野にからませていっている。○春日山三笠の野辺に 奈良京の第一の遊覧地。○桜花木の晩がくり 「木の晩」は、木が茂って小暗くなっている所で、「がくり」はそこに隠れて。桜花が満開して茂っている中に隠れての意。「隠る」は古くは四段活、既出。巻三(二五七)「桜花|木《こ》の晩《くれ》茂《しげ》に」と出た。○貌鳥は間なく数鳴く 「貌鳥」は巻三(三七二)に既出。『考』は後の呼子鳥で、今の郭公鳥だという。春の鳥で、鳴き続ける習性をもった鳥の意である。「間なく数鳴く」は、間断なく頻りに鳴く。○露霜の秋さり来れば 「露霜」は、露の霜のごとく凍った意とも、露と霜との意ともいい、定まらない。意味で秋にかかる枕詞。「秋さり来れば」は、秋と移って来れば。○射駒山飛ぷ火が(山+鬼)に「射駒山」は「生駒山」で、大和国と河内国の国境の山。奈良京からは、春日山は東、生駒山は西である。「飛ぶ火」は、烽火で、異変のある際、警報として挙げたものである。この飛ぶ火の事は、続日本紀、元明紀に、「和銅五年春正月壬辰、廃2河内国高安烽1、始置2高見烽及大倭国春日烽1、以通2平城1也」とあって、その高見の烽は晴峠の北方で、すなわち生駒の烽である。○萩の枝をしがらみ散らし 「しがらみ」は、搦みで、さお鹿が萩の茂っている間を押分けて歩く状態を具象的にいったもの。「散らし」は、枝に咲く花を散らし。○さを鹿は妻呼び動む 「さを鹿」は、「さ」は接頭語で、牡鹿が妻を呼んで啼きとよもす。○山見れば山も見がほし 「山」は上の春日山、射駒山も籠めた意味の広いもので、大和国を繞らす山。「見がほし」は、見ることの望ましい、その好さを讃えたもの。○里見れば里も住みよし 「里」は奈良の大宮(295)を中心として京の中をいっているもので、「住みよし」は、住み心地が好いと、里を讃えたもの。以上、第一段。○物のふの八十伴の緒の 巻三(四七八)に既出。文武百官を具体的にいった称。○打はへて思へりしくは 「打はへて」は、「打」は接頭語、「はへて」は、延《は》えてで、心いっぱいというにあたる。心に思いつめていることに「下延へ」という語があり、「はへ」は同じである。「思へりしく」は、「思へりし」の名詞形で.以前に思っていたことには。○天地の依りあひの限 巻二(一六七)に既出。天と地とがより合って、初めの一つに復る最後までで、永遠ということを想像によって具象的にいった語。○万世に栄えゆかむと 永遠に栄えてゆくだろうと。○思へりし大宮すらを 「すら」は一を挙げて他を類推させる助詞。「を」は詠歎の助詞で、思って来た大宮でさえあるのに。○恃めりしならの京を 頼みして来た奈良京であるのに。○新世の事にしあれば 「新世」は、新しき時代の意で、面目の新たになる時代のことなので。「し」は強意の助詞。○皇の引のまにまに 天皇の導き給うままにで、遷都のこと。○春花のうつろひ易り 「春花の」は、春花のごとくで、その移ろい易い意で移ろいの枕詞。「うつろひ易り」は、移り変わりで、移ろいの意味を変えて受けている。○群鳥の旦立ち往けば 「群島の」は、群鳥のごとくで、鳥は朝々一しょに塒を立つ意で、旦立ちへかかる枕詞。「旦立ち往けば」は朝、奈良を発足して新京へ向かって行ったので。○さす竹の大宮人の 上の(九五五)に出た。○踏み平し通ひし道は 「踏み平し」は、踏んで、歩くことによって平らにする意で、繁くという意を具象化したもの。「通ひし道」は大宮へ通った道。○馬も行かす人も往かねば 「馬」は大宮人の乗馬。○荒れにけるかも 「に」は完了。荒れたことであるよ。
【釈】 安らかに御支配になられるわが大君の、高大に御支配になられる大和国は、皇祖の神の御代から、ここで御支配になっている国なので、御生誕になられるであろう御子の代々も、同じくここで天下を御支配になられよと、永遠の後をも兼ねて定められたであろうこの平城京は、春の季節がめぐつて来れば、春日山の三笠の野には、桜花が満開して小暗い茂った中に籠もって、貌鳥は絶え間なく頻りに鳴く。秋の季節がめぐつて来ると、生駒山の飛ぶ火が岳には、萩の枝を押分けると身に絡ませて花を散らして、牡鹿は妻を呼ぶ声を響かせる。山を見れば、山は景色が好さに見たい。里を見れば、里も住み好い。大宮の文武百官が、心一ばいに思っていたことには、天地のあらん限り、永遠に栄えて行くだろうと思っていた大宮でさえあるのに、頼んで来たところの奈良京であるのに、新時代の事であるので、天皇の導くに従ってこの京から移って、朝早く新しい京へ向かって行ったので、これまで大宮人の踏み平《な》らして通った大宮への路は、乗馬も行かず、人も行かないので、荒れてしまったことであるよ。
【評】 福麿はこの時期を代表する歌人の一人で、ことに長歌のほうにその手腕を示している人である。この歌はその題材から見ても、またその用意から見ても、彼の力作と見られるもので、したがってその歌風の特色の窺われるものである。一と口にいうと、福麿の長歌は散文的の傾向が著しい。これはひとり彼だけのことではなく、歌によって散文的要求を充たそうとすることは、すでに旅人や憶良などの試みて来たことであって、序を設けての上で、短歌の連作によっての問答をさせ、さらに長歌によっての問答をさせるなども、意識してのことかどうかは知らず、一にその要求に駆られてのことと思われる。福麿は同じ系統の上に立ち、問答体という伝統的の手法を避け、自身の直接の抒情という形において、散文的要求を充たそうとしている(296)のである。こうした態度を取れば、心としては抒情であるが、方法としては叙事となってゆき、対象と自身との間に相応の距離を置き、感性のみならず知性をも相応にまじえ働かせるようになるのは当然であって、それでなければその心が遂げられないのである。この歌はすなわちそれであって、その一首の構成の上に、また部分部分の描写の上に、知性を働かせている跡は歴然たるものであるが、その結果において、どれほどまで抒情味を徹底させ得ているかということになると、その点は明らかに問題になるのである。抒情味の徹底が最後の問題であることは言うまでもないことである。
今簡単に構成の上の用意を見ると、前古無比の奈良京が忽ちにして荒廃に帰したということは、当時の人としてはじつに駭目傷心のことであるだろうと察しられる。それをいうに、奈良京の繁栄と荒廃とを対照させる形にし、前段の繁栄を叙するに力を傾けて、こちらに多くの言葉を用い、後段の荒廃のほうは、大宮へ通う大路が荒れて、そこに隻影も見えない寂寞さを眼に見たこととしているのは、要を得たものである。さらに前段について見ても、第一に京としての奈良の地が歴史的にいかに貴い地であるかを、元明天皇の奈良の遷都の勅によっていい、ついでその地がいかに自然の景観にすぐれているかを極力叙しているのである。これは古来型となっていることに倣ったにすぎないとはいえ、春日野の春の貌鳥の啼く音と、飛ぶ火が岳の秋の牡鹿の鳴く声を、その景観の頂点に置いているということは、物の音に時代の好尚が傾いていた時ではあるが、それを捉えて進展させている福麿の感覚の添ったものと思われる。最後に奈良京そのものをいうにも、大宮を避けて、宮人の住宅の心地よいことをいっているのも、要を得ているものといえる。後段一転して奈良京の荒廃を叙して、傷心の中心に入っているのである。ここで初めて大宮に触れ、「物のふの八十伴の緒の」以下、言葉の限りを尽くして大宮を讃えて、その「大宮すらを」と続けているところはじつに巧妙であるが、「新世の事にしあれば春花のうつろひ易り」と事の全体を解釈した言葉に接しると、高潮させられて来た感がにわかに(足+質)かせられたような感になる。「新世」とはこの当時の政治上の不安を避けるための遷都ということで、事実としてはまさにその通りで、またこれは人々の周知のことであったろう。これは事件の真を伝えることを目的としての文であれば、言わざるを得ないことであるが、今はそれとは直接のつながりはなく、それによって起こされた遷都の悲しみを言おうとするものであり、その悲しみを強調するための方便として叙事をすればするという場合である。この言葉は叙事を超えて論議の圏内にも入り込みかねない態度のものである。何のこだわりもなく淡々として説明しているこの言葉は、言葉としては美しいが、前後に不釣合な冷静なもので、しかもそれが眼目をなすごとき重大なものであるために、索然とした感を起こさせる。結尾の、大宮大路の荒れたさまを、眼をとおして直接に見た印象として叙しているのは、要を得た巧みなものというべきである。
いったがように一首の構成も、部分部分の叙事も、その一部を除いての他はすべて巧妙であるが、「新世の事にしあれば」の一部に見せているあまりにも知性的な態度が、やがてこの歌全体の感味を暗示するものとなり、これがまた福麿の弱所をも語るものとなるのである。すなわち一方には抒情味が豊かであ(297)るが、同特に他方には知性的な面があり、それが強く働くために、対象と自身との間に距離が付きすぎ、結局、抒情的に綴った散文のごとき趣を帯びて来るのである。構成の整然として一糸乱れないごときところもその知性のためであり、また一首全体が平面的となり、語句の変化は豊かだが、感情の躍動の跡の見えないのも同じく知性のためであるといえる。要するに福麿の拓き得た散文化の面は、散文化にすぎるものとなり、散文の一歩手前のごとき弱点を持ったものとなったのである。
反歌二首
1048 立《た》ち易《かは》り 古《ふる》き京《みやこ》と なりぬれば 道《みち》のしば草《くさ》 長《なが》く生《お》ひにけり
立易 古京跡 成者 道之志婆草 長生尓異煎
【語釈】 ○立ち易り 「立ち」は接頭語。「易り」は、変わりで、京が変わる意。○古き京となりぬれば 「古き京」は以前の京で、奈良が古き京。「なり」は、変わる意。○道のしば草長く生ひにけり 「しば」は雑草の総称で、今いう芝もその中に含んだもの。【釈】京が変わって、奈良は以前の京となってしまったので、道に生える雑草が、踏む人もないがままに、長く生えたことであるよ。
【評】 長歌の結末の、「踏み平し通ひし道は、馬も行かず人も往かねば、荒れにけるかも」を受けて、繰り返しの形で前進させ細かくいったもので、反歌としては古い型のものである。大宮へ通う大路に「しば草長く生ひ」ということは異常なことで、「古き京となりぬれば」という大きな事柄を十分支えうるものである。栄えた跡に草が生えるということは感の深いことで、したがって類想のあるものであるが、この歌はその種の中にあっても優れたものである。長歌とは異なって、悲哀に浸っていて、それをただちに訴えた形のものである。
1049 なつきにし 奈良《なら》の京《みやこ》の 荒《あ》れ行《ゆ》けば 出《い》で立《た》つ毎《ごと》に 嘆《なげ》しまさる
名付西 奈良乃京之 荒行者 出立毎尓 嘆思益
【語釈】 ○なつきにし奈良の京の 「なつき」は、馴れ着きで、現在も口語に用いられている。○荒れ行けば 荒廃に向かって行くので。○出で立つ毎に嘆しまさる 「出で立つ」は、家を出て外に立つごとに。「嘆し」の「し」は、強意の助詞。「まさる」は、増して行くで、荒廃の目に立(298)って深くなることを暗示している語。
【釈】 馴染んできた奈良京が荒廃に向かって行くので、家を出て外に立ち、そのさまを目に見るたびごとに嘆きが加わってゆくことであるよ。
【評】 これは、前の歌の「道」を離れて、広い範囲にわたって、同じく荒廃を悲しんだ心である。「出で立つ毎に」と、直接目に見る印象としていっているので、「荒れ行けば」も「嘆しまさる」も生動している。前の歌と同じく、悲哀に浸りつつ詠み出したもので、感性の細かさと手腕とを示しているものである。
久邇の新京を讃《ほ》むる歌二首并に短歌
【題意】 「久邇宮」は、上の(一〇三七)に出た。大宮の造営は天平十二年十二月に始まり、同十六年二月には難波宮に遷られたのであった。この地は現在の京都府相楽郡木津町の東北一里の地で、大宮は今の木津川(泉川)の北岸に臨み、東には布当川《ふたぎがわ》(和束《わづか》川)が流れている。鹿背《しかせ》山は南の方を劃っていて、その向こうにやや遠く奈良山を望む地勢である。続日本紀、天平十三年九月に、「従2賀世山西道1以東為2左京1、以西為2右京1」とあって、京と鹿背山との関係が知られる。
1050 明《あき》つ神《かみ》 吾《わ》が皇《おほきみ》の 天《あめ》の下《した》 八島《やしま》の中《なか》に 国《くに》はしも 多《おほ》くあれども 里《さと》はしも 沢《さは》にあれども 山並《やまなみ》の 宜《よろ》しき国《くに》と 川次《かはなみ》の 立《た》ち合《あ》ふ郷《さと》と 山代《やましろ》の 鹿背山《かせやま》の際《ま》に 宮柱《みやばしら》 太敷《ふとし》き奉《まつ》り 高知《たかし》らす 布当《ふたぎ》の宮《みや》は 河《かは》近《ちか》み 湍《せ》の音《と》ぞ清《きよ》き 山《やま》近《ちか》み 鳥《とり》が音《ね》慟《とよ》む 秋《あき》されば 山《やま》もとどろに さを鹿《しか》は 妻《つま》喚《よ》びとよめ 春《はる》されば 岡辺《をかべ》も繁《しじ》に 厳《いはほ》には 花《はな》さきををり あな怜怜《おもしろ》 布当《ふたぎ》の原《はら》 いと貴《たふと》 大宮《おほ》どころ 諾《うべ》しこそ 吾《わ》が大王《おほきみ》は 君《きみ》ながら 聞《き》かしたまひて 刺竹《さすたけ》の 大宮《おほみや》ここと 定《さだ》めけらしも
明津神 吾皇之 天下 八嶋之中尓 國者霜 多雖有 里者霜 澤尓雖有 山並之 宜國跡 川次之 立合郷跡 山代乃 鹿脊山際尓 宮柱 太敷奉 高知爲 布當乃宮者 河近見 湍音叙清 山近見 (299)鳥賀鳴慟 秋去者 山裳動響尓 左男鹿者 妻呼令響 春去者 岡邊裳繁尓 巖者 花開乎呼理 痛※[立心偏+可]怜 布當乃原 甚貴 大宮處 諾己曾 吾大王者 君之隨 所聞賜而 刺竹乃 大宮此跡 定異等霜
【語釈】 ○明つ神吾が皇の 「明つ」は、現つで、現実にます神の意。これは神は幽世《かくりよ》にましますのに対しての語で、天皇を申す称であり、日本書紀、孝徳紀を初め、出雲国造神賀詞、公式令詔書式などに出ていて、古くよりの称である。下の「吾が皇」と同意語である。○天の下八島の中に 「天の下」は国土の全体を具象的にいったもの。「八島」は、わが国を大八洲というその八島で、「天の下」と同意語である。なお「八」は、多くのという意を具象的にいった語である。○国はしも多くあれども 「国」は、狭い意の国。「し」と「も」は強意の助詞。○里はしも沢にあれども 「里」は、郷にあたるもの。「しも」は、上と同じ。○山並の宜しき国と 「山並」は、山の並び立っていること。「宜しき」は、状態の好いの意で、形勝の意。「と」は、とて。○川次の立ち合ふ郷と 「川次」は、川のさまで、流れというに異ならない。山並に対させての語。「立ち合ふ郷」は、「立ち」は接頭語、「合ふ」は合流する意。「郷」は里。「と」は、とて。久邇の里は、泉川、沢田川、和束《わづか》川などの合流地点の近くにある。これも上の「山」に対する「川」を、形勝としていっているものである。○山代の鹿背山の際に 「山代」は山城国。「鹿背山の際」は、鹿背山の間《あいだ》。木津町の東北方、木津川の南岸の山。○官柱大敷き奉り 「宮柱」は大宮の柱。「太敷き」は太く建てで、「奉り」は、天皇のなさることに対しての敬語。○高知らす布当の宮は 「高知らす」は既出。しろしめす。「布当の宮」は、地名によっての宮号。○河近み湍の音ぞ清き 河が近いので瀬の晋が清く聞こえることよ。河は泉川。○山近み鳥がさ慟む 山は鹿背山。「慟」は動と同じ。○秋されば山もとどろにさを鹿は妻喚びとよめ 既出。○暮されば岡辺も繁に 「繁に」は、繁く一面にの意の古語で、副詞。○巌には花さきををり 厳には花が咲いて撓んでおりで、これは躑躅の花の状態と思われる。○あな※[立心偏+可]怜布当の原 「※[立心偏+可]怜」は訓が定まらず、諸説がある。集中の例では、「おもしろ」と「あはれ」とに当ててある。新村出氏は『総釈』で、「※[立心偏+可]怜《あはれ》」と訓むのはしめやかに哀感を含んだ場合で、「※[立心偏+可]怜《おもしろ》」と訓むのは晴々しく、風趣のある場合である。ここは「※[立心偏+可]怜《おもしろ》」と訓むべきだろうといっている。「布当の原」は、久邇の宮のある周囲の野。下に詠歎の意がある。○いと貴大宮どころ 「いと貴」は、甚だ貴しであるが、この「貴」は、風景を讃めていっているもの。「大宮どころ」は、大宮のある所で、上の布当の宮を言いかえたもの。いずれも下に詠歎の意がある。○諾しこそ吾が大王は 「諾」はなるほどにあたる語でしばしば出た。「し」は、強意の助詞。○君ながら開かしたまひて 「君ながら」は、他に用例のない語である。「君」は上の「大王」を承けて繰り返したもの。「ながら」、皇子随、神随などと同じ形のもので、「之」は「な」に当てたものと解される。「から」はゆえで、君であるゆえに。「聞かしたまひて」は聞くの敬語聞かすに、敬語の助動詞を接続させたもの。廷臣の奏上するのをお聞き入れになられて。○刺竹の大宮ここと定めけらしも 「刺竹の」は既出。「定めけらしも」は、「らし」は「こそ」の結であるが、終止形である。集中の例は、「こそ」の係を連体形「らしき」で結んでいるのが多く、それがこの時代の格であるのに、ここは終止形であることが注意される。
【釈】 現つ神にましますわが大君の、天下の島々の中には、国という国は多くあるけれども、里という里は多くあるけれども、(300)山の並んださまの勝れた国であるとして、川の流れの落ち合う好い里であるとして、この山城国の鹿背山の間に、宮柱を太くお据えになって知ろしめす布当の宮は、河が近いので瀬の音が清いことである、山が近いので鳥の音が高いことである。秋が来ると、山も轟くまでに牡鹿が妻恋いの声を響かせ、春が来ると、岡の辺りに繁く一面に、厳には花が咲き撓んで、あわれおもしろい布当の原よ。まことに風景の貴い大宮処よ。なるほどわが大君は、君であるがゆえに廷臣のここをと奏上するのをお聞き入れなされて、大宮をここと定められたのであろうよ。
【評】「久邇の新京を讃むる歌」と題してあって、題のごとく布当の宮を中心としてその周囲の山川の景観を讃えたものである。景観とはいっても、川では瀬の音、山では鳥の声という、この時代の好尚である聴覚をとおしてのものであり、さらに山に重点を置いてその春秋の形勝をいっているのであるが、秋の「山もとどろにさを鹿は妻喚びとよめ」は明らかに誇張であって、これまた聴覚のものである。直接視覚をとおしていっているかと思われるものは、春の「岡辺も繁に厳には花さきををり」だけであるが、これも多分は躑躅の花だったろうと想像させる程度の気分化した言い方である。そしてそれが「あな※[立心偏+可]怜」「いと貴」とまでいわせるおもなる刺激となったのかともみえる言い方である。要するに、この歌の中心をなしている景観の讃美は、福麿個人の気分をとおしてのものであって、それがやがて、「諾しこそ吾が大君は君ながら聞かしたまひて」というように、時代全般の気分でもあり、また天皇の御気分でもあるとしているのである。この歌の本来の作因は賀の心よりのものであり、遷都を機として天皇を賀そうとしたものである。この歌の起首と結末はそのことを明らかに見せている。しかるに出来上がった歌から見ると、さながら天皇が久邇の地に遊覧でもされた折のもののように見え、賀の心はほとんど現われていない。人麿の賀の歌とははるかに遠く、赤人、金村の行幸の際の賀の歌の、景観讃美の傾向の加わったものにくらべても、さらにその度の高まったものである。賀という実用性の精神が隠れて、文芸性(301)のみが高まって来た跡を明瞭に示している歌で、その点が注意される。
反歌二首
1051 三日《みか》の原《はら》 布当《ふたぎ》の野辺《のべ》を 清《きよ》みこそ 大宮処《おほみやどころ》【一に云ふ、此《ここ》と標《しめ》刺《さ》し】 定《さだ》めけらしも
三日原 布當乃野邊 清見社 大宮處【一云此跡標刺】 定異等霜
【語釈】 〇三日の原布当の野辺を 「三日の原」は、広範囲の称。「布当の野辺」は、三日の原の一部で大宮のある辺りの称。今の加茂町、法花寺野を中心とする地名といわれる。○清みこそ 清いがゆえにで、長歌の「※[立心偏+可]怜」「貴」を綜合しての語。清しは上代以来最も貴んだものである。「こそ」は係助詞。○大宮処定めけらしも 長歌の結末と同じ。〇一に云ふ、此と標刺し この一句は細井本、寛永本にはないが、元暦本外七本には四句の下にある。「標」は占有のしるしとしての物、「刺し」は木などを立てる意で、意味としては定めると異ならない。
【釈】 三日の原の、この布当の野辺が清らかであるがゆえに、大宮処をここと定めたのであろう。
【評】 長歌の意を要約して繰り返したもので、反歌としては古い型のものである。四句の「ここと標刺し」のほうは、長歌の結句といささか形を変えようと試みて、捨てたのが残っていたものではなかろうかと思われる。全体と不調和になるものである。
1052 山《やま》高《たか》く 川《かは》の湍《せ》清《きよ》し 百世《ももよ》まで 神《かみ》しみ往《ゆ》かむ 大宮所《おほみやどころ》
山高來 川乃湍清石 百世左右 神之味將往 大宮所
(302)【語釈】 ○山高く川の湍清し 「山」は、諸本原文「弓」となっており、異同がなく、訓は「やま」となっているものである。『考』が「山」の誤りだとして改めているに従う。長歌との関係で鹿背山であり、「川」は、同じく布当川である。○百世まで神しみ往かむ 「百世」は、百代の後までも続いて。「神しみ」は、他に用例のない語である。『代匠記』は神さぶと同意の語だとしている。その意以外の語ではなかろう。神々しくなってゆくだろうところの意で下へ続く。○大宮所 大宮の所在地の意で、詠歎を含んでいる。
【釈】 山が高く川の瀬の音が清い。百代に続いて神々しくなってゆくことだろう大宮所よ。
【評】 以上の長歌も反歌も大宮の風景を讃えるのみで、賀の心はなかったが、この歌は、その山と川とを堅固な、また清らかなものとし、めでたい地相と見做し、「百世まで神しみ往かむ大宮所」と、明らかに賀の心のものとしている。調べもそれにふさわしい澄んだ所がある。さすがに賀の心から離れきってはいなかったのである。
1053 吾《わ》が皇《おほきみ》 神《かみ》の命《みこと》の 高知《たかし》らす 布当《ふたぎ》の宮《みや》は 百樹成《ももきな》す 山《やま》は木高《こだか》し 落《お》ちたぎつ 湍《せ》の音《と》も清《きよ》し 鶯《うぐひす》の 来鳴《きな》く春《はる》べは 巌《いはほ》には 山下《やました》耀《ひか》り 錦《にしき》なす 花《はな》咲《さ》きををり さを鹿《しか》の 妻《つま》呼《よ》ぶ秋《あき》は 天霧《あまぎら》ふ しぐれを疾《いた》み さ丹《に》つらふ 黄葉《もみち》散《ち》りつつ 八千年《やちとせ》に あれつがしつつ 天《あめ》の下《した》 知《し》ろしめさむと 百代《ももよ》にも 易《かは》るましじき 大宮処《おほみやどころ》
吾皇 神乃命乃 高所知 布當乃宮者 百樹成 山者木高之 落多藝都 湍音毛清之 鶯乃 來鳴春部者 巖者 山下耀 錦成 花咲乎呼里 左壯鹿乃 妻呼秋者 天霧合 之具礼乎疾 狹丹頬歴 黄葉散乍 八千年尓 安礼衝之乍 天下 所知食跡 百代尓母 不可易 大宮處
【語釈】 ○吾が鬼神の命の わが大君にして神の命ので、「みこと」は尊称。○高知らす布当の宮は 「高知らす」は既出。しろしめすで、ここは住ませられる。○百樹成す山は木高し 「成」は、旧訓「なす」。この訓は諸説があって定まらない。「なる」(元暦本)、盛の略字として「もる」(古義)、「もり」(新考)である。『新訓』の『なす」に従う。下の「山」の状態をいったもので、百樹を生じているの意と取れる。巻十三(三二三四)「水門《みなと》成す海も広し」と同じ続け方である。○落ちたぎつ湍の音も清し 「落ちたぎつ」は既出。流れ下って泡立つで、激流のさま。○巌には山下耀り 「山下」は、山を木立ごと一緒にして見て、山膚に近い所の称。「耀り」は、木や草の赤く色づいた物の形容で、山下耀りは集中の用例からいうと、秋の紅葉を形容する語であるが、ここは春の花に対して用いている。○錦なす花咲きををり 「錦なす」は、錦のようにで、花(303)にかかる枕詞。「花咲さををり」は、花が咲き撓んでおり。○さを鹿の妻呼ぶ秋は 壯鹿がその妻を恋うて呼ぷ時の秋は。○天霧ふしぐれを疾み 「霧ふ」は動詞|霧《き》るの連族状態で、「天霧ふ」は、空が霧に籠もって。「しぐれを疾《いた》み」は、「疾み」は、時雨が激しいので。○さ丹つらふ黄葉散りつつ 「さ丹つらふ」は、「さ」は接頭語、「丹つらふ」は赤く色に現われるで、「黄葉」の形容。「黄」は当てた字で、黄とは限らない。〇八千年にあれつがしつつ 「八千年」は、永久という意を具象的にいったもの。「あれつがしつつ」は、「生れ継ぐ」は、巻一(五三)「藤原の大宮つかへあれつぐや」と出た。「生れ」は生誕。「継がし」は継ぐの敬語。生誕をお続けになられつつで、限りなく御代を重ねて。○百代にも易るましじき大宮処 「ましじ」は打消推量の助動詞。百代も変わるべくもない大宮処であるよ。
【釈】 わが大君にして神の命のしろしめされる布当の宮は、百樹の生じている山は、木立が老いて高い。流れ下って泡立つ川瀬の音も清い。鴬がおとない来て鳴く春の頃には、厳には、山膚を光らせて錦のような花が咲き撓み、牡鹿が妻を呼び立てる秋には、空を霧に籠め時雨が激しく降るので、赤い色になった黄葉が散りつづけていて、八千年にわたって生誕をお続けになられつつ天下をお治めになろうと、百代の限りなきにわたって、変わるべくもない大宮処であるよ。
【評】 この歌も上の歌と同じく恭仁京を讃えたもので、その讃え方も山と川、さらに山の春と秋との景観を讃えることによって京を讃えている点は全く同一である。方法は同一であるが、その訴える精神態度は著しく異なっている。上の歌は賀の精神は言ったごとくきわめて稀薄で、景観そのものを讃えることを眼目としたものであったが、この歌は景観を讃えてはいるが、それは天皇を賀する心をとおして讃ているのである。さらにいえば、山の春秋の美しい景観を、その永遠性という観点より捉え、その永遠性を皇室につないで讃えているのである。この賀歌の態度は、人麿などの取っていたものと全く同一のもので、それ以後の人々からは次第に捨てられていたものであり、福麿は上の歌にあってはことに際立って捨てていたのであるが、この歌では一躍最も古い態度に立ちかえって詠んでいるのである。起首の「吾が皇神の命の」という尊称が、すでに天皇を目標とした賀歌であることを示している。単純な尊称であるが、伝統と変遷をもった含蓄ある称である。結末の「八千年にあれつがしつつ天の下知ろしめさむと」はこれに照応するもので、首尾一貫、古風な賀歌の態度である。中心をなしている山の春秋の景観は、各六句ずつを費やしている対句形式のものであるが、ここでは上の歌では主体とした、聴覚より来る「鴬」と「さを鹿」とを、「鴬の来鳴く春べは」「さを鹿の妻呼ぶ秋は」と、単に季節の修飾をするのみの軽いものとし、中心は「錦なす花咲きををり」「さ丹つらふ黄葉散りつつ」と花やかないつの年も変わらぬものとし、ことに、「黄集散りつつ」の継続からただちに「八千年にあれつがしつつ」の継跳に接続させて、それとこれと不離な一体なものとしていっている辺りなど、福麿の意図していたところを明らかに示しているものである。そしにもまして意図を示しているのは、この歌は上の歌の平面的なのを避け、立体的に簡潔に詠んでいる点であるが、これは景観を避け、抒情を旨としたところからのおのずからの成行きで、初めからもっていた意図のさせたものである。語句が絢爛なため、意図が蔽われようとする傾きがあるが、福麿とすると力作で、注意さ(304)れるべきものである。
反歌五首
1054 泉《いづみがは》川 往《ゆ》く瀬《せ》の水《みづ》の 絶《た》えばこそ 大宮処《おほみやどころ》 遷《うつ》ろひ往《ゆ》かめ
泉川 徃瀬乃水之 絶者許曾 大宮地 遷徃目
【語釈】 ○泉川往く瀬の水の絶えばこそ 「往く瀬」は、流れゆく瀬で、流れを具象的にいったもの。泉川(木津川)の流るる水の絶えることがあったならばで、絶無のことを譬としたもの。○大宮処遷ろひ往かめ 「大者処」は、大宮の所在地。「還ろひ」は、遷るの連続で、易《かは》る意。「め」は「こそ」の結。
【釈】 この泉川の流れる水が絶えることがあったならば、大宮所も推移することがあろう。
【評】 長歌の結末を繰り返した常套的なものであるが、眼前の泉川を捉えることによって強化している。しかしこの譬喩は類の多いものである。
1055 布当山《ふたぎやま》 山並《やまなみ》見《み》れば 百代《ももよ》にも 易《かは》るましじき 大宮処《おほみやどころ》
布當山 々並見者 百代尓毛 不可易 大宮處
【語釈】 ○布当山山並見れば 「布当山」は、布当にある山の称と取れる。
(305)【釈】 布当山の山の並びの動ぎないさまを見ると、百代にわたって変易のあるべくもない大宮処であるよ。
【評】 長歌の最初の部分の山と結末の部分とを結び合わせて、長歌よりも一段とあらわに賀の心をいったものである。平凡には似ているが、反歌の働きをつくしている歌である。
1056 ※[女+感]嬬《をとめ》らが 続麻《うみを》繋《か》くとふ 鹿背《かせ》の山《やま》 時《とき》の往《ゆ》ければ 京師《みやこ》となりぬ
※[女+感]嬬等之 続麻繋云 鹿脊之山 時之徃者 京師跡成宿
【語釈】 ○※[女+感]嬬らが続麻繁くとふ 「続麻」は、続んだ麻糸で、続むというは鹿の皮をなしている繊維を糸とすること。「繋くとふ」は、懸けるというで、懸けるのは糸を整理するために※[手偏+(上/下)]《かせ》という道具にかけるのである。二句、序詞。○鹿背の山 「鹿背」は、上からの続きは※[手偏+(上/下)]《かせ》]である。※[手偏+(上/下)]は続麻を巻きつける道具で、『皇大神宮儀式帳』にも載っている上古よりあった退具である。これを山の名の鹿背に転じている。○時の往ければ 時の動きを、時のほうを主としていったもので、時節が移って釆たので。
【釈】 おとめらが続麻を懸けるという(手偏+上/下)に因みある鹿背の山よ。時節が移って来たので京と変わった。
【評】 京である久邇の地を、立ち帰り批評的に見て、山間の盆地の京となったことに驚異の感を起こしたことをいったものである。僻地が京となることは古くはしばしばあったことなので類歌があり、陥るところは皇威を讃えることになるのである。この歌もその心よりのものである。「※[女+感]嬬らが続麻繋くとふ」は、麻は大体山地の物であり、また続麻は庶民の女の一般にしていたことであるから山間の僻地ということを具象化しているもので、序詞であるとともに土地の描写ともなっているものである。
1057 鹿背《かせ》の山《やま》 樹立《こだち》を繁《しげ》み 朝《あさ》さらず 来鳴《きな》きとよもす 鶯《うぐひす》の音《こゑ》
鹿脊之山 樹立矣繁三 朝不去 寸鳴響爲 ※[(貝+貝)/鳥]之音
【語釈】 ○鹿背の山樹立を繁み 庇背の山は樹立が繁くあるので。○朝さらす来鳴きとよもす 「朝さらず」は、毎朝漏れなくで、巻三(三七二)「朝離らず雲居たな引き」に既出。「とよもす」は、響かせるところので、そこの静寂を背後にしてのもの。○鴬の音 詠歎を含めている。
【釈】 鹿背の山は樹立が繁くあるので、朝々漏れなく来ては鳴き響かせている鷲の声よ。
【評】 反歌としては繋がりの少ないものであるが、長歌に「山は木高し」とあり、「鴛の来鳴く春べ」ともあるので、それを延(306)長させて、京の景観のめでたさを讃えた歌といえるものである。「来鳴きとよもす」は、辺りの静寂を暗示している感がある。
1058 狛山《こまやま》に 鳴《な》く零公鳥《ほととぎす》 泉河《いづみがは》 渡《わたり》を遠《とほ》み ここに通《かよ》はず【一に云ふ、渡《わたり》遠《とほ》みや 通《かよ》はざるらむ】
狛山尓 鳴霍公鳥 泉河 渡乎遠見 此間尓不通【一云、渡遠哉不通有武】
【語釈】 ○狛山に鳴く霍公鳥 「狛山」は、久邇京の西方、山城町|上狛《かみこま》、泉川の北岸に、川に臨んでいる山(神童寺山)。「霍公鳥」は、詠歎を合めていっているもの。○泉河渡を遠み 「渡」は渡瀬で、橋がなく、徒渉をする一定の場所。「遠み」は、遠いゆえに。泉川の渡瀬が遠いゆえにで、作者は河を隔てて、狛山と反対の側、すなわち南岸にいるのである。○ここに通はず 「ここ」は、作者の現にいる南岸。「通はず」は、霍公鳥が通って来ないで、霍公鳥を擬人していったもの。霍公鳥の声の遠いのを恨んでいっているのである。○一は云ふ、渡遠みや通はざるらむ 「や」は、疑問の係助詞。渡瀬が遠いゆえにここまでは通《かよ》って来ないであろうかで、四、五句にあたるものである。
【釈】 狛山に鳴いている霍公鳥よ、泉河の渡瀬が遠いので、ここまでは通《かよ》って来ない。一は云う、ここまでは通って来ないのであろうか。
【評】 作者が泉川の徒渉地点の辺り、狛山とは対岸の地にいて、狛山に鳴く霍公鳥の遠音を聞いて、飽き足りぬ心から詠んだものと思われる。「渡を遠み」は場所柄からの思いつきで、軽い機知のものである。反歌としては繋がりのないもので、上の鴬との関係から加えたものであろう。一は云うは、福麿自身の別案であろう。鴬と霍公鳥の歌は、全体の上から見るとないほうがよいものである。
春の日、三香原の荒れたる墟を悲み傷みて作れる歌一首 并に短歌
【題意】 久邇宮が荒墟になるまでの推移は続日本紀にくわしい。久邇が京となったのは天平十二年十二月で、同十五年には紫香楽《しがらき》の宮を造営した。これは近江の国甲賀郡で、久邇からは遠くない処である。その翌十六年には、難波宮を京とする勅が下ったが、そこもしばらくの間で、翌十七年正月には、紫香楽の新京に遷られ、その五月には久邇宮に還られて、ついで平城京に行幸されたので遷都より遷都と続いていたのである。久邇宮が荒墟となっての春というのは、十六年難波宮に遷られた後のことと思われる。
1059 三香《みか》の原《はら》 久邇《くに》の京師《みやこ》は 山《やま》高《たか》み 河《かは》の瀬《せ》清《きよ》み 住《す》みよしと 人《ひと》は云《い》へども 在《あ》りよしと (307)吾《われ》は念《おも》へど 古《ふ》りにし 里《さと》にしあれは 国《くに》見《み》れど 人《ひと》も通《かよ》はず 里《さと》見《み》れば 家《いへ》も荒《あ》れたり 愛《は》しけやし かくありけるか 三諸《みむろ》つく 鹿背山《かせやま》の際《ま》に さく花《はな》の 色《いろ》めづらしく 百鳥《ももとり》の 声《こゑ》なつかしく 在《あ》りが欲《ほ》し 往《す》みよし里《さと》の 荒《あ》るらく惜《を》しも
三香原 久迩乃京師者 山高 河之瀬清 住吉迹 人者雖云 在吉跡 吾者雖念 故去之 里尓四有者 國見跡 人毛不通 里見者 家裳荒有 波之異耶 如此在家留可 三諸着 鹿脊山際尓 開花之 色目列敷 百鳥之 音名束敷 在杲石 住吉里乃 荒樂苦惜哭
【語釈】 〇三香の原久邇の京師は 京師を貴ぶ心から「三香の原」を冠して鄭重に重くいったもの。○山高み河の瀬清み 「清み」は原文「清」、旧訓は「きよし」であったのを、『代匠記』の改めたもの。山が高いので、河が清いのでで、下の「住みよし」の理由をいったもの。○住みよしと人は云へども 住み好い所と人は言っているけれど。○在りよしと吾は念へど 「在り」は居りで、住みと同意。居り好いと吾は思っているけれども。○古りにし里にしあれば 「古りにし里」は、故里で、古京。「し」は強意の助詞。○国見れど人も通はず 「国」は一区劃をなしている、やや広い土地の意のもので、ここは古京をさしたもの。「人」は、廷臣。○里見れば家も荒れたり 「里」は、廷臣の住宅地。「家」は住宅で、「荒れたり」は、空屋となっている。○愛しけやしかくありけるか 「愛しけやし」は、「愛しき」に、「やし」の詠歎の助詞の接続したもの。愛すべきの意で名詞に接続するのが普通であったが、やや以前から独立しても用いられ、巻五(七九六)「愛しけやしかくのみからに」の例がある。『代匠記』は惜しいかなの意だと解している。広い意味の詠歎をあらわす語と取れる。あわれというに近い。「かくありけるか」は、このようであったのかと、眼前の荒廃したさまを綜合して、驚きと怪しみの感をいったもの。〇三諸つく鹿背山の際に 「三諸」は神の社、「つく」は齊《いつ》くで、御室を設けて神を斎いていると。鹿背山の状態をいって枕詞としたもの。「際」は間。○さく花の色めづらしく 「さく花」は、現にそこに咲いている花。「の」は、のごとくの意のもの。「めづらしく」は愛《め》ずらしくで、愛すべくで、全体では、現に咲いている花の色のごとくに愛すべしという意で、下の「里」を讃えているもの。○百鳥の声なつかしく 諸々の鳥の声のごとくなつかしくで、意は上と同じ。○在りが欲し住みよし里の 「在りがほし」は、そこに居ることを欲《ほ》しいで、「在り」は名詞形。「欲し」は連体形。居りたいことだと思う。「住みよし里の」は、「よし」は原文「吉」で、「よき」とも訓めるが、意図的に同音を畳んでいる歌であるから「よし」の訓みに従う。住みよいところの里の。○荒るらく惜しも 「荒るらく」は、「荒る」を名詞形としたもの。荒廃することの惜しさよ。
【釈】 三香の原の久邇京は、山が高いので、河が清いので、住み好い処だと人は言っているけれども、居りたい処だと我は思っているけれども、故里となった里であるので、広く京を見渡すけれども、廷臣も通わず、住宅地を見ると家は荒れている。ああこのようになっていたのであるのか。お社のある鹿背山の間に、今咲いている花の色のようにも愛すべく、鳴いている諸々の鳥(308)の声のようにもなつかしい、居つきたいことに思う住みよい里の、荒れることの惜しさよ。
【評】 上の新京としての久邇を讃えた歌と、古京としての久邇を悲しみ傷む歌とをくらべると、福麿の精神態度の著しく異なっている点が注意を引く。異なるというのは、同じ地の同じ自然が全く異なった面貌を持ったものになっていることである。上の歌では山と川、山の春秋の景観は、その清くおもしろいさまを永遠に保ち繰り返して、新京を象徴するものとなっていたのに、一たび古京となり、思い出の地となると、山と川は「在りよし」と思わせる、生活上の一付属物となり、またおりから咲いている花も鳴いている百鳥も、「在りが欲し住みよし」と思わせる同じ意味のものにすぎなくなっていることである。これが当時の人の本心で、新京を讃える気分は憧れにすぎないものであり、実際の心は、頻繁につづく遷都で安定感がもてず、ひたすら安定を欲していたのであったろうと思われる。この点については続日本紀、天平十六年閏正月の条に、久邇京と難波京とのいずれがよいかということで、詔をもって廷臣の全部に問われ、また市についても問われ、久邇京のほうがよいと答える者のほうが多かったことを委しく伝えているのでも窺われる。久邇京を「在りよし」とする心は、この時代の心で、福麿はそれを代弁するにすぎないものであったと見える。さらに言えば時代は、日常生活の安定を求めるにすぎないという消極的のものだったのである。
憧れより離れて実感を言おうとすると、福麿の歌風は一変して、その歌風のごとく見えていた絢爛一方の歌は、素朴な平淡なものとなっている。この歌は明らかに謡い物の系統のものである。語は平易に、句は短く、対句を用いて繰り返しつつ、平明にその心を尽くそうとしているのである。これを表現技巧として見れば、むしろこのほうが手腕の見えるものではあるが、その勝れているのは実感に即したものだからと思われる。才分の豊かな、帽の広い福麿の、絢爛と同時に持ち得ていた素朴な面を見せた作である。
反歌二首
1060 三香《みか》の原《はら》 久邇《くに》の京《みやこ》は 荒《あ》れにけり 大宮人《おほみやびと》の 遷《うつ》ろひぬれば
三香原 久迩乃京者 荒去家里 大宮人乃 遷去礼者
【語釈】 ○遷ろひぬれば 「遷ろひ」は遷るの連続で、ここは遷都とともに移転をしたので。
【釈】三香の原の久邇京は荒廃してしまったことである。遷都とともに百官が移転したので。
【評】長歌とは趣を変えて、大宮を中心に、荒廃した久邇京を 全体として捉え、その荒廃の理由をいい、詠歎の情を調べに托(309)してそれを基調としているものである。単純平明な歌ではあるが、味わいをもった作である。
1061 咲《さ》く花《はな》の 色《いろ》は易《かは》らず 百石城《ももしき》の 大宮人《おほみやびと》ぞ 立《た》ち易《かは》りける
咲花乃 色者不易 百石城乃 大宮人叙 立易奚流
【語釈】 ○咲く花の色は易らす 咲いている花の色は、以前に変わっていないで、題詞の「春の日」によって、眼前に咲いている春の花である。○百石城の大宮人ぞ立ち易りける 「立ち易り」は、上に出た、「立ち」は、接頭語。「易り」は、居た者が居なくなった、すなわち移り去ったこと。「ける」は、上の「ぞ」の結。
【釈】 咲いている花の色は以前に変わらない。しかしそこに居た大宮人は、易わって、居なくなってしまったことであるよ。
【評】 上の歌の心を前進させ、大宮そのもののみをいっているものである。開落の速かな花の咲いているのと、居なくなった大宮人との対照は、常套のものとはいえ、眼前の印象としていっているものなので、感のあるものとなっている。深くはないが常凡のものではない。
難波の宮にて作れる歌一首 并に短歌
【題意】 難波宮はしばしば出た。孝徳天皇の長柄豊碕《ながらとよさき》の宮で、また地名によって味生《あじふ》の宮とも呼び、離宮となっていた宮である。天平十六年閏正月、天皇は久邇官から行幸され、二月には京と定められたが、その月の中に紫香楽の宮に行幸され、七月、難波宮に遮幸されたが、天平十七年正月元日には紫香楽の新京に遷られたのであった。難波宮が帝都となったのはしばらくの間にすぎなかったのである。
1062 やすみしし 吾《わ》が大王《おほきみ》の 在《あ》り通《がよ》ふ なにはの宮《みや》は いさなとり 海《うみ》片就《かたつ》きて 玉《たま》拾《ひり》ふ 浜辺《はまべ》を近《ちか》み 朝《あさ》はふる 浪《なみ》の声《と》さわき 夕《ゆふ》なぎに 櫂《かぢ》の声《と》きこゆ 暁《あかとき》の 寝覚《ねざめ》に聞《き》けば 海石《いくり》の 潮干《しほひ》の共《むた》 ※[さんずい+内]渚《うらす》には 千鳥《ちどり》妻《つま》呼《よ》び 葭《あし》べには 鶴《たづ》が音《ね》動《とよ》む 視《み》る人の 語《かたり》にすれば 聞《き》く人《ひと》の 視《み》まく欲《ほ》りする 御食《みけ》向《むか》ふ 味原《あぢふ》の宮《みや》は 見《み》れど飽《あ》かぬかも
(310) 安見知之 吾大王乃 在通 名庭乃宮者 不知魚取 海片就而 玉拾 濱邊乎近見 朝羽振 浪之聲※[足+參] 夕薙丹 櫂合之聲所聆 曉之 寐覺尓聞者 海石之 塩干乃共 ※[さんずい+内]渚尓波 千鳥妻呼 葭部尓波 鶴鳴動 視人乃 語丹爲者 聞人之 視卷欲爲 御食向 味原宮者 雖見不飽香聞
【語釈】 ○在り通ふなにはの宮は 「あり通ふ」は既出。継続して通うで、離宮としての行幸はしばしばあった。○いさなとり海片就きて 「いさなとり」は海の枕詞。「海片就きて」は、海に一方が就いていてで、一方が海に面していること。「山かたつきて」「谷かたつきて」の用例がある。○玉拾ふ浜辺を近み 「玉拾ふ」は、「玉」はここは、海中の小石、貝など、玉の材料となる物。「浜」は礒に対する称で、砂より成る海岸。「近み」は、近いゆえに。○朝はふる浪の声さわき 「朝はふる」は、「朝」は時刻。「はふる」は羽振るで、鳥が羽根を振って翔ることで、勢のいい浪の形容。○夕なぎに櫂の声きこゆ 「夕なぎ」は、上の「朝はふる」に、時刻とともに浪の動静を対させたもの。「櫂」は原文「櫂合」。「かぢ」は『考』の訓である、『攷証』は、「合」の字は、当時は櫂を幾つか取りつけてあり、それを漕ぎ合わせて船を進めたので、「合」は義で添えた字だとしている。以上、第一段。○暁の寝覚に聞けば 「暁の寝覚」は、早起きが風となっていた時代なので、朝の目覚めと同じ。○海石の潮干の共 「海石」は、海中の石。「共」は、ともに。海石が潮干とともに現われるので、下の(さんずい+内)渚の形容。○(さんずい+内)渚には千鳥妻呼び 「(さんずい+内)渚」は、(さんずい+内)は捕で、入江になっている所にある洲。「千鳥妻呼び」は、千鳥が習性として鳴きかわすのを、声のやさしさから、そのように聞き做したもの。○葭べには鶴が音動む 「薩べ」は、海岸を具象的にいったもの。「鶴が音動む」は、鶴の鳴く声が高く響くで、いずれも潮干によって獲られる食餌をあさって鳴く声。以上、第二段。○視る人の語にすれば 「視る人」は、以上の情景を眼に見る人で、「語にすれば」は、話とすれば。どちらも山間の京に住む人々。○聞く人の視まく欲りする 「聞く人」は、上の「語」を聞く人。「見まく」は、見るの名詞形。見たいことにするで、どちらも山国の京に住んでいる、海珍しい人々。○御食向ふ味原の宮は 「御食向ふ」は、御食物として向かうで、味の枕詞。「味原の宮」は小範囲の地方で呼ぶ、難波の宮別名。○見れど飽かぬかも 最上の讃え詞としての成語。
【釈】 安らかに天下をしろしめすわが大君の、継続して行幸なさる難波宮は、一方は海に面していて、玉を拾う砂浜が近いので、朝は勢よく寄せる浪の音が高く、夕べの凪には櫂の音が聞こえる。暁の目覚めに聞くと、海の中の石が、潮干とともに現われるし、浦の洲には、千鳥がその妻を呼んでおり、海岸の葦の辺りには、鶴が高音《たかね》を響かせている。これを見る人が話にすると、聞く人が見たいことにする、この味原の宮は見ても見ても見飽かぬことであるよ。
【評】 これは難波へ遷都の後、新京として讃える心をもって詠んだ歌ではなく、古来よりの離宮としての難波宮へ行幸の際、たまたま供奉の中に加わってその地を見るを得た時の歌と思われる。「在り通ふなにはの宮」といい、「視る人の語にすれば聞く人の視まく欲りする」という言い方は、その宮その地に心の距離を置いての語で、新京というごとき親しいつながりを感じてのものではないからである。いうところは難波の景観だけであるが、その景観は海だけで、しかも海のもつ特殊な音や声(311)だけである。朝の浪の音、夕べの櫂の音、また暁の千鳥の声、鶴の声だけで、その他には何もない。海を珍しいものにし、物の声や音をなつかしいものにする、福麿の個人的興味のみのものである。渕干の浦洲の千鳥の描写は、特に心を引かれたものであると見え、生彩をもった言い方をしている。無条件で詠んでいるために、安らかに暢びやかで、楽しい気分を漂わしている。
反歌二首
1063 在《あ》り通《がよ》ふ 難波《なには》の宮《みや》は 海《うみ》近《ちか》み 漁童女《あまをとめ》らが 乗《の》れる船《ふね》見《み》ゆ
有通 難波乃宮者 海近見 漁童女等之 乘船所見
【語釈】 ○在り通ふ 主格は天皇で、長歌を受けて省いている。○漁童女 海女をおとめと呼ぶのは、慣用である。信仰の伴っての称と取れる。
【釈】 継続して行幸になられる難波宮は、海が近いゆえに、海人《あま》のおとめらの乗っている船が大宮より見られる。
【評】 長歌の「櫂の声《と》きこゆ」を、視覚のものとして繰り返したものである。大宮から海人おとめの乗っている船の見えるということは、海珍しい心には印象的である。類想の多いものである。
1064 潮《しほ》干《ふ》れば 葦辺《あしべ》にさわく 白鶴《あしたづ》の 妻《つま》呼《よ》ぷ声《こゑ》は 宮《みや》もとどろに
塩干者 葦邊尓※[足+參] 白鶴乃 妻呼音者 宮毛動響二
【語釈】 ○白鶴 「白」の字は、義をもって添えたものと取れる。「鶴」は名詞としての場合はすべて「たづ」であり、「あしたづ」は「たづ」と同意話になっており、また「白鶴」という用字は他にはないものだからである。○宮もとどろに 「とどろに」は副詞で、とどろくまでに聞こえるの意を言いさしにしたもの。
【釈】 潮が干ると、餌を獲ようとして海邊の葦の辺りに鳴きさわぐ鶴の高音《たかね》は、大宮も轟くばかりに聞こえる。
【評】 長歌の、「葭べには鶴が音|動《とよ》む」を展開させ、それを大宮の内にあって聞き、妻呼ぶ声と想像したものである。類歌の少なくないものであるが、調べが張って暢びやかでもあるので、新しい感のあるものとなっている。福麿としては珍しいというよりも駕異に近いまでの、内部的のつながりのあるものだったのであろう。
(312) 敏敏浦《みぬめのうら》を過ぐる時作れる歌一首并に短歌
【題意】 「敏馬浦」は、上の(九四六)に出た。
1065 八千桙《やちほこ》の 神《かみ》の御世《みよ》より 百船《ももふね》の 泊《は》つる停《とまり》と 八島国《やしまぐに》 百船人《ももふなびと》の 定《さだ》めてし みぬめの浦《うら》は 朝風《あさかぜ》に 浦浪《うらなみ》さわき 夕浪《ゆふなみ》に 玉藻《たまも》は来《き》よる 白沙《しらまなご》 清《きよ》き浜《はま》べは 去《ゆ》き還《かへ》り 見《み》れども飽《あ》かず 諾《うべ》しこそ 見《み》る人《ひと》毎《ごと》に 語《かた》りつぎ 偲《しの》ひけらしき 百世《ももよ》経《へ》て 偲《しの》はえ往《ゆ》かむ 清《きよ》き白浜《しらはま》
八千桙之 神之御世自 百船之 泊停跡 八嶋國 百船純乃 定而師 三犬女乃浦者 朝風尓 浦浪 左和寸 夕浪尓 玉藻者來依 白沙 清濱部者 去還 雖見不飽 諾石社 見人毎尓 語嗣 偲家良思吉 百世歴而 所偲將牲 清白濱
【語釈】 〇八千桙の神の御世より 「八千桙の神」は上の(九六三)に、「大汝《おほなむち》少彦名の神」とあったその大汝の神の一名で大国主の神を初めとして名が五つあったその一つである。この名で呼ばれるのは初めてである。二句、国初よりということを、具体的にいったもの。○百船の泊つる停と 「百船」は、あらゆる船。「泊つる停と」は、ここを、行き着いて碇泊する所として。〇八島国百船人の 「八島国」は、わが全国、「百船人」は、あらゆる船人。○定めてしみぬめの浦は 難波津を発して瀬戸内海を航行する船の、第一夜を泊まる所と定めてあった。○夕浪に玉藻は来よる 夕風に立つ浦浪に、沖の玉藻が寄せられて来る。以上、第一段。○白沙清き浜べは 白い砂の清らかな浜辺は。「まなご」は、砂の古語。「浜」は砂浜。○去き還り見れども飽かず 「去き」は、難波津より西南への航路。「還り」は、その反対。以上、第二段。○諾しこそ見る人毎に 「諾しこそ」は、既出。「諾」は、なるほどと承認する意。「し」は、強意。「こそ」は係の助詞。「見る人毎」は、船にいる総ての人が。○語りつぎ偲ひけらしき 「語りつぎ」は、敏馬の浦の美観を話し継ぎ。「偲ひけらしき」は、「偲ふ」は、賞美して思慕する意。「けらしき」は、けるらしきで、連体形で、「こそ」の結。○百世経て偲はえ往かむ 「百世経て」は、百代の後もで、永久に。「偲はえ往かむ」は、人々に偲ばれて行くであろう。○清き白浜 清らかな、砂白きこの浜よの意で、美観を綜合しての繰り返し。
【釈】 八千桙の神の御世以来、ここを過ぐるあらゆる船の、行き着いて碇泊する所として、全国のあらゆる船人の定めて来ていたこの敏馬の浦は、朝風には浦浪が騒ぎ、夕風には沖の玉藻が寄って来る。白い砂の清らかなここの浜辺は、往きにも還りにも(313)見るけれども見飽かない。なるほど見人ごとに話し継いで、賞美し、思慕したことであろう。この後も永久に賞美し思慕されよう。この清らかな砂白い浜よ。
【評】 瀬戸内海を航行する者にとっては、敏馬の浦は第一日の航程であって、格別な注意をつなぐ地ではない。しかるに福麿はここを頂点としているごとく、また「白沙清き浜べ」を敏馬の浦の頂点として捉え、「去き還り見れども飽かず」と言って、「清き白浜」を操り返し讃えているのである。そのほかに捉えているのは朝風に立つ浦浪と、夕風に寄る玉藻という、海としてはきわめて常凡なものであるのに、それらに対して最大級の讃歎をしているのである。多分海珍しい心から、遊覧者として敏馬の浦まで行った時の感を詠んだものであろう。浜べの白砂の清らかさに特に心を引かれた点が生きている。
反歌二首
1066 まそ鏡《かがみ》 みぬめの浦《うら》は 百船《ももふね》の 過《す》ぎて往《ゆ》くべき 浜《はま》ならなくに
眞十鏡 見宿女乃浦者 百船 過而可徃 濱有七國
【語釈】 ○まそ鏡みぬめの浦は 「まそ鏡」は、真澄鏡の転音で、見の枕詞。「浦」を重くいおうとしてのもの。○百船の過ぎて往くべき 「過ぎて」は、見過ぐしてすなわち立ち寄らずに。「行くべき」は行かれるようなの意。
【釈】 敏馬の浦は、船という船の限りの、寄らずに行かれるような浜ではないことよ。
【評】 長歌の結末の「清き白浜」を受けて、それを繰り返し進展させようとしたものである。しかし讃歎に我と溺れて、当然もたなければならないはずの客観性までも失い、敏馬を碇泊地とするのは、浜の美観のためのごとき歌となって、進展がその甲斐のないものとなっている。
1067 浜《はま》清《きよ》み 浦《うら》愛《うる》はしみ 神世《かみよ》より 千船《ちふね》の湊《はつ》る 大和田《おほわだのはま》の浜《はま》
濱清 浦愛見 神世自 千船湊 大和太乃濱
【語釈】 ○浜清み浦愛はしみ 浜が清いゆえに、また浦が美しいゆえに。○神世より千船の湊る 「神世」は、長歌の「八千桙の神の御世」を言いかえたもの。「千船」は、長歌の、「百船」を同じ意で、進めていったもの。「湊る」は、旧訓「とまる」。『考』の訓。長歌の「泊《は》つる停《とまり》」の「泊(314)つる」を、文字を換えての義訓である。○大和田の浜 「大和田」は、本来は大曲で、海の大きく湾曲した所の称で、巻一(三一)「志賀の大わだ淀むとも」と出たそれである。ここは地名で、現在その名の伝わっているのは、神戸市兵庫区の海岸の南端、和田の岬である。下に詠歎がある。
【釈】 その浜が清いゆえに、その浦が美しいゆえに、遠い国初の時から、ここを過ぐる船という船のことごとくが、行き着き場所としている大和田の浜よ。
【評】 これは心としては前の歌を承けて一歩進め、形としては長歌の起首の、「八千桙の神の御世より百船の泊つる停《とまり》」を繰り返していっているものである。敏馬の浦の、白砂の浜の清らかさに、いかに心を引かれたかが、その調べの張って躍っていることによって感じられる。
右の二十一首は、田辺福麿の歌集の中に出づ。
右廿一首、田邊福麿之謌集中出也。
【解】 田辺福麿は伝が詳かでない。天平二十年の春、左大臣橘家の使者として、造酒司令史の福麿が、越中国の国庁に守大伴家持を訪れたことが、記録として最も明らかなものである。歌集は伝わらないが、以上の二十一首は明らかに同一手から出たものであるから、自作のみの集であったろうと思われる。
萬葉集評釋 巻第七
(316) 萬葉集 巻第七概説
本巻は、三五〇首をもって一巻としたものである。『国家大観』の番号をもっていえば、(一〇六八)より(一四一七)に至るものである。
三五〇首中、その二六首が旋頭歌で、他はすべて短歌である。長歌は一首も含んでいない。
作者は、その最も明らかなるものは、「右の七首は藤原卿の作、いまだ年月を審にせず」と注記した七首、それにつぐものは、「右は柿本朝臣人麿の歌集に出づ」と、同じく注記してあるもので、その他はすべて不明である。不明という事を建前としているのは、編集当時、誰と明らかであったと思われる「藤原卿」をさえ、左注の形をもってしているのでも窺われる。
分類は、「雑歌」「譬喩歌」「挽歌」と、本集の三部立のすべてを網羅している。「譬喩歌」は、巻第三に出たものと同じ意味のもので、「相聞」の中の恋の歌の、修辞上譬喩を用いているものの称であり、歌の性質と修辞法とを同一視して、修辞のほうに力点を置いたものである。
この分類と歌数との割当は、「雑歌」は二二九首、「譬喩歌」は一〇八首、「挽歌」は一三首である。さらにその各々について言えば、「雑歌」は賀の歌が著しく少なく、自然鑑賞の歌が最大部分を占めている。船旅の歌が相応に多いのであるが、その内容は、羈旅とはいえ、その侘びしさを言ったものはほとんどなく、新たなる風光に対しての喜び憧れのものであって、自然鑑賞の歌と言いかえ得られるものである。次に「譬喩歌」は、恋の歌はその本質として、語としては言い現わしかねる憧れの情の、ある自然現象に刺激され、それによって初めて具象しうる傾向のあるものなので、譬喩歌と称しうるもののあることは当然のことである。しかし部立としての譬喩歌は、その本質に名付けたものではなく、文芸として、修辞の上でいう譬喩であって、本巻の「譬喩歌」もその意味でのものである。本巻の譬喩歌も、巻第三の場合と同じく、文芸的に意識して用いている歌は、奈良京、もしくはそれに近い時代の歌と思われる少数にとどまり、多くは無意識に用いているものとみえる。中には、単に序詞の中に自然現象を用いているにすぎないものもあって、名と実と伴わない趣のあるものである。
本巻の資料となっている歌の出所は、左注として注記あるものと、しからざるものとの二種である。注記あるものは、上に言った「柿本朝臣人麿の歌集」と、「古歌集」と称するもので、その他のものは出所不明のものである。
「柿本朝臣人麿の歌集」は、人麿の歌に対しての備忘録であって、自身の歌と、他人の歌で記憶に存しさせようと思うものとを、差別を設けずに記録したものであって、したがって人麿の歌かどうか明らかでないということが定説となっていて、厳密に言えばそのように言うより他ないものであるが、実際は、他(317)人の作かどうかの疑われる歌は、数える程の少数であって、本巻に収められているものは、全部人麿の作と思われる。人麿以外の何びとにも作れない歌だと明らかに感じられるからである。一方、巻一・二では、「柿本朝臣人麿の作れる歌」と明記しているのに、この巻のごとく「歌集に出づ」と、単に出所をいうにとどめているのは、そこに何らかの差別があったろうかという疑いを起こさせる。
例せば、巻一・二の皇室に関しての挽歌のごときは、それぞれその邸に伝えられていたものとも取れるが、自身の妻、知人の妻、あるいは路上に倒れ死していた人に対しての挽歌に至っては、その歌集によった歌と思うより他ないものである。
すなわち資料とした書は同一だったのである。同一の書から採録しながらこのように差別を付けているのは、一に編集者の態度の相違からである。「人麿歌集に出づ」ということは、作者の問題よりも編集者の問題となるべきものと思われる。
次に「古歌集」あるいは「古集」は、集中の注記にその名をとどめているのみの書で、何びとかが蒐集してあった書を資料に当てたのである。内容はそれより取られている歌によって想像するより他ない。今本巻の歌について見ると、「古歌集に出づ」と注記ある歌の最も古いものは、近江朝の作かと思われるものであって、それ以上には溯れない。近江朝というのも近江の海を取材としていることからの推量であって、巻一・二のその時代のものとすると新味のあるものである。これは「古歌集」に採録されるまでの間に、すでに変化されていたからのことと取れる。最も新しいものは、奈良京の歌とほとんど差別の認められないものであって、溯らせて見ても、遷都直前を限度とすべきものである。「古歌集」という名は、遷都已往の歌ということで、新を逐うてやまぬ時代の人の命名と思われる。
注記のない歌は、いかなる本から取ったものであるかわからない。この部分で特に目立つことは、謡い物の色彩の濃厚なものの多いことである。謡い物とみえる歌は、概して取材の庶民的であり、表現も実際に即して叙事的に、調べも直線的に太いものであって、本巻としては最も古風なものである。謡い物の蒐集は、好んでされていたとみえる例があるので、こうした書は少なくなく、編集者はそれらの多くを資料としたとみえる。
本巻の編集者が何びとであるかということは、他巻と同じく不明である。しかしその編集態度は甚しく謙虚で、必要以上に用心深く、また分類を好む傾向の著しいもののあることは編集者を臆測せしめる手懸りとなる。
最も注意されるのは、(一一九五)の左注に、「右の七首は藤原卿の作、いまだ年月を審にせず」とあるものである。歌は七首とも同時のもので、聖武天皇が神亀元年十月、紀伊の和歌の浦に行幸された際従駕した時のもので、都にある妻の許に贈ったものである。藤原卿は『代匠記』は藤原房前であろうと言っているが、『全註釈』は藤原麻呂であろうと言い、贈られたのは大伴坂上郎女であろうと言っている。それだとすると、そうした他聞を憚る歌を資料として用いうる者は、大伴家持以外にはなかったであろぅ。また、これ程には有力なものではないが、(318)(一一二九)「倭琴に寄する」と題する一首は、歌そのものから見て、大伴旅人以外の人の作ではなかろうと思わせるものである。これも世に流布すべき性質の歌ではないから、それを資料となし得たのは同じく家持のみではないかと思わせる。本巻は大体作者不明の作を集めたものであるから、それに引かれてわざと不明にしたのかとも取れるが、しかし作者の明らかな歌をもそのような扱いをしているということは、編集者の特殊な態度と目されることで、少なくともそこに甚しい謙虚と用心深さが認められ、他の場合に見られる大伴家持の態度を連想させて来る。
これらとはやや趣を異にするが、本巻の編集者は、柿本人麿の作に対しては格別な敬意を払った扱い方をしている。譬喩歌の最初に人麿歌集の歌を据えるのは当然であるが、その扱い方は特別であって、例せば「衣に寄する」「玉に零する」など人麿の歌のみを一まとめにした上で、他人の歌はまた「衣に寄する」「玉に寄する」と題を設けて排列しているのである。これは編集態度としては明らかに異常なものである。これは甚しく謙虚であることと繋がりのあるものである。
相聞の歌を修辞の上から区別して、譬喩歌という部立を設けたことは、巻第三に始まっていることで、それをしたのは大伴家持だろうということはその時いった。本巻には雑歌挽歌があり、それに並ぶべき相聞はなく、相聞はすべて譬喩歌で終始させており、一〇八首という多数を蒐集している。これは家持がその所好に従ってのことと思う他はないことである。
また旋頭歌は、従前の編集法では、これを短歌の中に加えて、それと異ならない扱いをしている。本巻ではそれを一つの標目として、重い扱いをしている。これも不当に分類を好む家持の態度に繋がりをもってのものであろう。
なお、丹念に題によっての分類整理をしつつ、同時に他方では、同一作者の歌と知れた歌は、題の異なるにもかかわらず、その並びに載せ、また、全く別の歌であるのに、その二句が同一なために異伝として載せるなど、他の場合でも時として行なっていることを本巻でも繰り返している点なども、家持を連想させるものである。
以上の諸点から、本巻の編集者は大伴家持だろうと思わせられる。
最後に、本巻の特色について簡単に触れる。
本巻の歌として特に注意される点は、雑歌の部に、国民的意識を詠んだ歌の絶無ともいうべきことと、自然現象を鑑貨的態度で詠んだものの著しく多いことである。これは奈良朝時代の好みを反映しているものである。人麿歌集の歌が甚だ多く取られているにもかかわらず、そのような感を与えるものとなっているのは、編集者の責任とすべきであろう。また本集の大きい特色である相聞の歌が、譬喩歌のみとなって、間接な微温的なものとなっていることも、奈良朝時代の好みを反映したもので、これまた編集者の責任とすべきである。挽歌は著しく少数である。その少数の挽歌さえも、挽歌本来の立場に立って、故人の霊を慰めようとするものではなく、後に遺された者の悲しみを(319)言うことが目的となっているもので、その点平安判吋代の哀傷歌とほとんど異ならないものとなっている。これは旧来の信仰が後退したがためで、全く時代の責任である。わずかに人麿の作の中に、信仰を持続しているものがあるが、本巻としては例外のごとくみえるものとなっている。
ただ一つ注意されるのは、人麿の旋頭歌である。本集の旋頭歌は、その衰退期を示しているもので、その数においてもすでに少なく、旧風の長歌、新風の短歌とは匹敵が出来ず、その中間的存在として命脈を保っているにすぎないものである。その命脈を保たせているのは人麿で、彼の旋頭歌の一半をなす二三首が本巻に一括されて出ていて、それとしての面目を発揮しているのである。
人麿の旋頭歌のいかなるものであるかということは、彼以後の人のたまたま詠んでいるそれと比較すると、一目瞭然たるものである。彼以後の人の旋頭歌は、概していうと、その内容は短歌一首よりもむしろ少なく、形容としては、短歌よりも七言句の一句多いことを利として、緩く暢びやかに、謡い物としての調子を発揮させているものである。言いかえると極度に抒情的である。人麿の旋頭歌はそれとは正反対で、叙事を主体とし、叙事によって抒情を遂行しようとしているのである。これは長歌の詠み方と同一なものである。すなわち人麿の旋頭歌は短い長歌であって、かなりに複雑した事象の中核に躍り入り、単純な形をもってそれを詠み生かしているのである。彼の旋頭歌こそ時代的に見て長歌と短歌との中間にあって、その任務を果たし得ているものである。編集者か人麿尊重の心より 奈良朝時代からいうと完全に古風なものとなった旋頭歌の多くを採録したことは、偶然にも本巻に一魅力を加えうることとなったのである。
(324) 雑歌
天《あめ》を詠める
1068 天《あめ》の海《うみ》に 雲《くも》の波《なみ》立《た》ち 月《つき》の船《ふね》 星《ほし》の林《はやし》に 榜《こ》ぎ隠《かく》る見《み》ゆ
天海丹 雲之波立 月船 星之林丹 榜隱所見
【語釈】 ○天の海に雲の波立ち 「天の海」は、天の蒼くして広いことの、海を連想させるところからいっているもの。「雲の波立ち」は、白雲《しらくも》が湧いてきたのを、その白さと、動く状態とから、海の波を連想していっているもの。航海の上では、海にいささかでも波が立てば、船はその最寄りの陸の、風波を凌ぎうる所へ避けるのがきまりとなっている。ここもその心でいっているもの。○月の船 天を渡る月に、海を渡る船を連想してのもの。当時の船は、造船術の幼稚であったため、概して小さく、細長い形のものであった。この船を連想させる月は、弦月である。ここの月もそれである。○星の林に榜ぎ隠る見ゆ 「星の林」は、星の多くて、月を紛らすさまを、実際の航海の時、船はできる限り陸に沿って漕ぐところから、海岸にある林を連想してのものである。月があって同時に星が繁くあるというのはいかがのようであるが、月は弦月であるから、さして不自然ではない。
【釈】 天の海に、白雲の波が立ってきて、航路が危険になってきたので、月の船はそれを避けようとして、今、星の林に榜ぎ隠れてゆくのが見える。
【評】 この歌は、左注によって人麿歌集のものであり、人麿の作と思われる。「天《あめ》」は古くは空とは差別しており、高天原の
(325)在る所である。また月は、月読命であって、いすれも神聖なものである。それがここでは文芸的のものとされており、しかも作者は、上代信仰を代表的に濃厚にもっていた人麿であることが注意される。これは思うに人麿の若い頃の作で、一方では現実に即する心が強く、あくまでも現実的であると同時に、他方では浪漫的な心を強くもっていた人麿は、おのずからこの種の文芸的な歌を詠んでおり、それが必ずしも少なくはなく、これもその一つなのである。『代匠記』は、『懐風藻』の文武天皇御製の月の詩の、「月舟移2霧渚1、楓※[楫+戈]泛2霞浜1」を引いている。こうした心は人麿のみのものではなく、当時の漢文学の影響として、相応に広くもたれていたものとみえる。作因は、弦月が星の繁くある廻りにかかっているおりから、白雲も動いているのを、航海のさまを連想したところにあり、さすがに働きは見えるが、これを人麿の歌として見ると、取材に縋るところが多く、したがって平面的なものとなり、魄力の足りないものである。人麿としては作歌経路を表している程度のものである。
右の一首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
右一首、柿本朝臣人麿之謌集出。
【解】 柿本朝臣人麿歌集は、本集にはしばしば出てくる名で、本巻にも続いて出ている。名のごとく人麿の作歌集の名であるが、純粋に人麿の作歌のみではなく、中には他人の作で、備忘のために記入したものもまじっているということが定説となっている。しかしその歌はほとんど全部人麿の作であろうと思われるものである。このことは文献的には証明し難いことであるが、その歌風から見て、人麿の独得の歌風にして、他とは紛るべくもないものをもっているところからである。「柿本朝臣人麿の作れる歌」と明記したものと、ここのごとく「柿本朝臣人麿の歌集に出づ」に左注としたものの間に、差別があるらしくみえるのは、一に撰者の態度いかんによって起こってきているものである。「作れる歌」と明記しているものは、それに関連する史実があり、あるいは史実的なものがあって、疑う余地のないものであるが、個人的なものは、疑えば疑い得られるところから、極度に正確を期する心をもって「歌集の中に出づ」としていると思われる。これは巻第六、田辺福麿の歌の総てに対し、「田辺福麿の歌集の中に出づ」と、撰者家持とは同時代の人であり、ある程度の交渉ももった間柄であるにもかかわらず、明徴のないということの理由で、作者を注記の形にしているのと、揆を一にしたことと思われる。
月を詠める
1069 常《つね》は曾《かつ》て 念《おも》はぬものを 此《こ》の月《つき》の 過《す》ぎ匿《かく》れまく 惜《を》しき夕《よひ》かも
(326) 常者曾 不念物乎 此月之 過匿卷 惜夕香裳
【語釈】 ○常は曾て念はぬものを 「曾」は、『代匠記』の訓。「さね」と訓む説もある。意味は同じ。已往を総括していう副詞で、打消で受けるのが例となっている○平常は決して思わないのに。○此の月の過ぎ匿れまく 「此の月の」は、今、眼の前に見ている月。「過ぎ」は、空を移り過ぎ。「匿れまく」は「匿る」の名詞形。匿れることので、山に入る意。○惜しき夕かも 「夕」は、夜の意。「かも」は詠歎。
【釈】 平常は、決して思わないのに、今は、この月の空を移り過ぎ、山に匿れることの惜しい夜であるよ。
【評】 月下で楽しい宴を張っていて、興の尽きないのに月は傾いてきた頃、その席の主人である人が客に対して挨拶として詠んだ歌と思われる。「常は曾て念はぬものを」は明らかに誇張であるが、それによって挨拶の心を徹底させているのであるから、一概に非難はできない。三句以下も、月は面白いものとしていってはいるが、燈火の少ない時代で、月は同時に照明の用をしているのであるから、それが隠れると宴は続け難くなる関係もあって、一首実用性の気分のかなり濃厚に絡んでいる歌である。それとして見ると、素朴な、おおらかな、品のある歌である。
1070 大夫《ますらを》の 弓上《ゆずゑ》振《ふ》り起《おこ》し ※[獣偏+葛]高《かりたか》の 野辺《のべ》さへ清《きよ》く 照《て》る月夜《つくよ》かも
大夫之 弓上振起 ※[獣偏+葛]高之 野邊副清 原月夜可聞
【語釈】 ○大夫の弓上振り起し 「大夫の」は、ここは、下の猟《かり》をする者としていっているもので、男子。仮名書きの例のある訓。「弓上」は、弓を立てて、その下方を本、上方を末としての称で、弓の上方。「振り起し」は、「振り」は接頭語。「起し」は、立てる意で、弓を射る時の構え。「猟」と続き、それを地名としての「借」に転じたもので、初二句序詞。○※[獣偏+葛]高の野辺さへ清く 「※[獣偏+葛]高」は、巻六(九八一)に出た。大和国添上那、今の鹿野苑の辺りかという。「さへ」は、一つのものに他を添える意の助詞。作者の立っている所はもとより、遠く※[獣偏+葛]高のほうの野辺までもの意。○照る月夜かも 「月夜」は、月とも取れるが、文字通り月夜とも取れる。ここは月夜のほうが作意と思われる。
【釈】 男子が弓未を起こして猟りをするのに因みある名の※[獣偏+葛]高のほうの野までも、清くも照っている月夜であるよ。
【評】 『新考』は、巻六(九八一)「※[獣偏+葛]高の高円山を高みかも」により、高円山の上に立って、ここもとのみならず、遙かに※[獣偏+葛]高の野辺さえもといっているのだと解している。「さへ」の助詞が一首に拡がりをもたせたので、そのようにも解せる。それだとその辺りは狩猟もできる地であったろうから、「大夫の弓上振り起し」という序詞は、一首の作意のさわやかさを愛でての心と気分のつながりをもちうるものとなって、歌柄が大きく強く、働きのあるものとなる。この山地の月の清らかさをあら(327)わし得ている歌である。
1071 山《やま》の末《は》に いさよふ月《つき》を 出《い》でむかと 待《ま》ちつつ居《を》るに 夜《よ》ぞ降《くだ》ちける
山末尓 不知夜歴月乎 將出香登 待乍居尓 夜曾降家類
【語釈】 ○山の末にいさよふ月を 「山の末」は、月が山より離れようとしている部分。「いさよふ」は、躊躇しているで、月の出を待つ心よりの感。○出でむかと待ちつつ居るに 出るだろうかと思って待ち待ちしているうちに。○夜ぞ降ちける 「降ち」は『考』の訓。夜が深くなったことであるよ。
【釈】 山の端に、出ようとして躊躇している月を、もう出るだろうかと待ち待ちしているうちに、夜が深くなったことであるよ。
【評】 この歌は、月の出を鑑賞の心より待っているのではなく、妻の許へ通おうとして、夜道を照らすものとして待っている心のものであることは、「待ちつつ居るに夜ぞ降ちける」という、焦燥と感傷との心より感じられる。月が出ようとしていさよっている間に、夜が降《くだ》つということは、普通の心ではなく感傷の心であり、また「待ちつつ居るに」も、同じくこの場合普通の心のものではなく、焦燥の心の言わせるものである。歌としては相聞の範囲のものである。詠み方は、技巧のないごとくであって有るものと言えるのであるが、この技巧は実際に即しているところから、おのずからそのように見えるものであって、当時の生活にあっては、意識して用いたものではなかろうと思われる。厭味のない、感のある歌である。
1072 明日《あす》の夕《よひ》 照《て》らむ月夜《つくよ》は 片《かた》よりに 今夜《こよひ》によりて 夜長《よなが》からなむ
明日之夕 將照月夜者 片因尓 今夜尓因而 夜長有
【語釈】 ○明日の夕照らむ月夜は 「月夜」は、月。明日の夜、今夜のように照るであろう月は。○片よりに今夜によりて 「片より」は、偏りで、現在の口語と同じ。偏りに今夜に寄って来てで、したがって明夜の分も今夜に加わって。○夜長からなむ 夜長くあらなむで、今夜の夜が長くあって欲しい。「あらなむ」は、他に対しての希望。
【釈】 明日の夜、今夜のように照るであろう月は、偏りに今夜へ寄って一しょになって、今夜が長くあって欲しい。
【評】 月下で楽しい宴をして、奥の尽くることをしらない喜びで、上の(一〇六九)と心を同じゅうするものである。上の歌(328)を主人《あるじ》の挨拶とすれば、これは客の和《こた》え歌のごとき形のものである。もとより独立してありうる歌である。連想の少なくない歌で、その場合に触れていっていないのは、謡い物の系統のものだからである。その点は上の歌も同様である。
1073 玉垂《たまだれ》の 小簾《をす》の間《ま》通《とほ》し 独《ひとり》居《ゐ》て 見《み》る験《しるし》なき 暮月夜《ゆふづくよ》かも
玉垂之 小簾之間通 獨居而 見驗無 暮月夜鴨
【語釈】 ○玉垂の小簾の間道し 「玉垂の」は、玉を緒をもって貫き垂らしているものだろうと想像されるだけで、未詳であった。『全註釈』は「玉」は「竹玉《たけたま》」のそれと同じく、竹を小さく切って緒で貫いたもので、上代の簾はそれを並べて垂らした物であったと解している。意味で「緒」と続き「小」の枕詞。「小」は美称。「簾」は、簾だれ。「通し」は、透間を通してで、下の「見る」に続く。簾は、家の出入口に垂れていたのである。○独居て 「独」は妻である女が、夫を対象としていっているものと取れる。○見る験なき碁月夜かも 「験」は、甲斐。「碁月夜」は、夕月であるよの意で、「かも」は詠歎。簾だれ越しに見る夕月をあわれ深いものとして、ともに見る人のいないのを飽き足らず思う心である。
【釈】 家の簾だれの透間を通して、ただ一人でいて見ると、見る甲斐のない思いをする、あわれ深い夕月であるよ。
【評】 夫の通《かよ》って来ようとする頃、おりからの夕月の簾だれ越しのほのかな光に対し、そのあわれさと夫を待つ心とから、夫の一しょにいて見ないのを惜しむ心である。おだやかな、あわれ深い、魅力のある歌である。この魅力は純粋な心をもって実感に即していっているところからのもので、技巧とはかかわりのないものである。
1074 春日山《かすがやま》 押《お》して照《て》らせる 此《こ》の月《つき》は 妹《いも》が庭《には》にも 清《さや》けかりけり
春日山 押而照有 此月者 妹之庭母 清有家里
【語釈】 ○春日山押して照らせる 「押して」は、『代匠記』の訓。強く限なくの意。春日山を隈なく照らしている月は。○此の月は この今宵の月は。○妹が庭にも清けかりけり 「妹が庭にも」は、妹が家の前庭にもまたで、この妹が家は、春日山の裾、春日野のほうにあり、春日山が出ると、一つづきに照らされる位置にあることが知られる。「清けかりけり」は、「けり」は、詠歎。
【釈】 春日山を強く照らしている今夜の月は、妹が家の前庭にもまた、清《さや》かに照らしていることであるよ。
【評】 東のほうの春日山に月が昇って、山の全面を清かに照らしている頃、それを愛でつつも、春日野のほうにある妻の家へ(329)通《かよ》って来ると、その月は、その家の前庭にも同じように照らしているのを見て、そこの月光を中心にして讃えた心のものである。妻の家の所まで来て、その庭を照らしている月の第一印象をいったものである。おおらかな詠み方をしながらも、おのずからに微細な感をも織り込み得ていて、平面感に終わっていない歌である。この味わいは実感に即するところからのもので、技巧からのものではない。
1075 海原《うなばら》の 道《みち》遠《とほ》みかも 月読《つくよみ》の 光《ひかり》すくなき 夜《よ》は更《くだ》ちつつ
海原之 道遠鴨 月讀 明少 夜者更下乍
【語釈】 ○海原の道遠みかも 「海原の道」は、月は海のもので、海の上の遠い道を渡ってこの国土に来るものとしていっている。これは上代よりの信仰である。「遠みかも」は「遠み」は、遠いゆえ。「かも」は、疑問。○月読の光すくなき 「月読」は、本来は神としての月読尊であるが、転じて月の意となったもの。「光すくなき」は月の光の少ないことなのかで、「すくなき」は連体形で係の結。出たばかりの月の、光の少ないのをいったもの。○夜は更ちつつ 「更ち」は、『考』の訓。「つつ」は継続。夜は深くなりつついるに。
【釈】 遠い海の空を渡ってこの国土まで来る、その道が遠いがゆえに、月の光はこのように少ないことなのか。冴えるべく夜は深みつついるに。
【評】 海上の月に対して、その冴えてくるべき夜更けであるにもかかわらず、光の少ないのを見て、訝かった心を詠んでいるものである。雲をいわず、曇りをいってもいないので、その光の少ないのは潮気のためと取れる。これは海の月としては有りがちな、むしろ普通のことであるのに、それを訝かっているのは、大和国のような高原地帯の澄んだ月をのみ見馴れている人の、たまたま海上の月を見たために起こったことと思われる。「光すくなき」の理由として「海原の道遠みかも」と感じたのは、信仰としてもっていたものが、今感覚をとおして思い出されてきたもので、素朴な連想と取れる。海というものを知ることの少ない大和の人を思わせる歌である。
1076 百《もも》しきの 大宮人《おほみやびと》の 退《まか》り出《い》でて 遊《あそ》ぶ今夜《こよひ》の 月の清けさ
百師木之 大宮人之 退出而 遊今夜之 月清左
【語釈】 ○百しきの大宮人の退り出でて 「百しきの」は枕詞で、既出。「大宮人」は、既出。大宮人自身も、朝廷を尊ぶ心よりいい、庶民は無論(330)いった。ここは庶民ではなく、大宮人のいったものと思われる。「退り出でて」は、貴い所より賤しい所へ行くことをいう語で、ここは大宮を退出して。○遊ぷ今夜の月の清けさ 「遊ぶ」は、歌舞音楽、文筆などに興ずることをいう、意味の広い語。ここは酒宴と取れる。
【釈】 百しきの大宮人が退出して、集い遊んでいる今夜の月の清かなことよ。
【評】 大宮人が、夜、月下に集まって酒宴をしている際、その大宮人の一人が、月に寄せてそこにいる大宮人の全体を賀する心で詠んだもので、謡い物として謡った歌と思われる。月に力点を置いていっているため、賀の語がおのずから画致を帯びてきて、情景を兼ねあらわした快く明るいものとなっている。
1077 ぬば玉《たま》の 夜渡《よわた》る月《つき》を 留《とど》めむに 西《にし》の山辺《やまべ》に 塞《せき》もあらぬかも
夜干玉之 夜渡月乎 將留尓 西山邊尓 塞毛有粳毛
【語釈】○ぬば玉の夜渡る月を 「ぬば玉の」は、夜の枕詞。「夜渡る月を」は、夜空を渡って行く月を。○留めむに 留めむためにの意。月を愛でて、その隠れゆくのを惜しむ心からのこと。○西の山辺に塞もあらぬかも 「西の山辺」は、月の隠れゆく山。「塞」は、関で後世のものと同じく、重要な路に設けて、行政上、濫りに人の通行を許さぬようにした役所。ここは月を愛でる心から、その通行志禁じる心でいっているもの。「も」は、詠歎。「あらぬかも」は、打消の詠歎で、願望をあらわすもの。ないのかなあ、あってくれよの意。
【釈】 夜空を渡ってゆく月の、この愛でたいものを引き留めようがために、その隠れてゆく西の山辺に、関がないものであろうかなあ、あってくれよ。
【評】 上の歌と同じく月下で宴を張っており、興は尽きないのに月は傾いてきた頃、その中の一人が、謡い物として謡ったものと取れる。「西の山辺に塞もあらぬかも」は、月に親しむあまり、機知を働かせていっているものである。明るく軽く気の利いている点が喜ばれて、伝唱されるにいたったものであろう。上にもいったように、月はその場合必要なものであったので、この心には実感が伴っていて、そのために厭味のないものとなっている。
1078 此《こ》の月《つき》の 此間《ここ》に来《きた》れば 今《いま》とかも 妹《いも》が出《い》で立《た》ち 待《ま》ちつつあらむ
此月之 此間來者 且今跡香毛 妹之出立 待乍將有
(331)【語釈】 ○此の月の此間に来れば 「此の月」は、現に眼に見ている月。「此間《ここ》に来れば」は、原文「此間来者」。旧訓は「このまに来れば」。『略解』の訓。諸注さまぎまの訓を試みている。ここまで移って来たのでというので、「此間」は、目じるしになつている場所。たとえば一本の立木のようなもので、月がそれへ懸かると、それによって時刻を測定するのである。これは現在でも行なわれていることで、古くはよほど鋭敏に感じられたことと思われる。○今とかも 「今と」は、今は夫の来る時だとて。「かも」は疑問。○妹が出で立ち待ちつつあらむ 「出で立ち」は、家より外に出て立って。「待ちつつ」は、我を待ち待ちして。
【釈】 この月が、ここへ廻ってきたので、今は夫の来る時刻だと思って、妹は家の外へ出て立って、我を待ち待ちしていようか。
【評】 月のある夜、妻の許へ通って行く夫の、途中で妻の状態を思いやっての心である。自身のことには触れず、一に妻のほうばかりをいっているのは、愛情のさせる自然な言い方で、この時代の歌の型ともいえるものであるが、同時に表現法としても効果的なものである。当時の夫婦生活にあっては一般性のある魅力のあるものであったろうと思われる。これは明らかに相聞の歌である。
1079 まそ鏡《かがみ》 照《て》るべき月《つき》を 白妙《しろたへ》の 雲《くも》か隠《かく》せる 天《あま》つ霧《きり》かも
眞十鏡 可照月乎 白妙乃 雲香隱流 天津霧鴨
【語釈】 ○まそ鏡照るべき月を 「まそ鏡」は、譬喩の意で「照る」の枕詞。「照るべき月を」は、「を」は、ものを。○白妙の空か隠せる 「白妙の」は、白い栲の布の意で、転じて白の意にも用いているもの。「雲か隠せる」は、「か」は疑問の係助詞。「る」はその結。○天つ霧かも 「天つ」は、天ので、霧を地上のものとして、それに対させたもの。天に立つ霧の隠していることなのか。【釈】 照るべき月であるのに、白い霧が隠している今であろうか。それとも天に立つ霧が隠しているのだろうか。
【評】 月の出ている時、空に薄い白雲の、霧かとも見えるものが懸かっていて、その月を蔽って見せないのに対して、憧れの心をもっていっているものである。月の形は見えているが、白く蔽うものがあって、光を発しさせないのに対して、そのものを雲か霧かと惑わされることはありうることである。「まそ鏡」は、枕詞ではあるが譬喩に近く、「白妙の」は、譬喩ではあるが枕詞に近いものであって、いずれも慣用されているものを畳んで用いているのは、心としては月の美しさと、それに対する憧れであるが、言い方は一般性をもっていて、謡い物の匂いの濃いものである。
1080 久方《ひさかた》の 天照《あまて》る月《つき》は 神代《かみよ》にか 出《い》で反《かへ》るらむ 年《とし》は経《へ》につつ
(332) 久方乃 天照月者 神代尓加 出反等六 年者經去乍
【語釈】 ○久方の天照る月は 「久方の」は、天の枕詞。「天照る月」は、天に照っている月で、現に仰いで見ているもの。○神代にか出で反るらむ 「神代にか」は、「神代」は一切の物が初めて生まれ出でた時としていっているもので、例せば月は、伊弉諾尊の右手に持ち給う白銅鏡《ますみのかがみ》から、月弓《つくゆみ》尊として生まれ給うたというがごときである。「か」は係助詞。「出で反《かへ》るらむ」は、立ち反《かえ》って出るのであろうかの意で、思い忘れるを、「忘れて念ふ」というなど、当時の言い方と同じ言い方のものである。その初めに立ち帰るというのは、新しく瑞々《みずみず》しくなることである。○年は経につつ 月の天にある年は、限りなく経過を続けていて。
【釈】 天に照っている月は、その初めて生まれた神代に立ち帰って出てくるのであろうか。年を経過し続けていて。
【評】 月の山を離れて出て来た時の、その新しく瑞々しい光を讃えたものである。物を讃える時、その起源の遠さによってその尊さを感じることは型となっていたことであるが、これはそれを延長させて、尊さを清らかさにしているのである。そこに時代の移りがある。今からみると簡潔にすぎ、飛躍がありすぎる感があるが、この当時の神代に対する信仰は、これで不足を感ぜしめなかったろうと思われる。
1081 烏玉《ぬばたま》の 夜渡《よわた》る月《つき》を ※[立心偏+可]怜《おもしろ》み 吾《わ》が居《を》る袖《そで》に 露《つゆ》ぞ置《お》きにける
烏玉之 夜渡月乎 ※[立心偏+可]怜 吾居袖尓 露曾置尓鷄類
【語釈】 ○烏玉の夜渡る月を (一〇七七)に出た。○※[立心偏+可]怜み 『代匠記』の訓。面白いので。○吾が居る袖に露ぞ置きにける 「吾が居る」は、吾が眺めている。「袖」は、衣を代表させたもの。「露」は、秋のもの。「ぞ」は係助詞で、「ける」はその結。
【釈】 夜空を渡ってゆく月が面白いので、眺めて立っているわが衣の袖に、秋の夜露が置いたことである。
【評】 女がかよって来る夫を待ちかねて、月夜屋外に立っている歌としては、これと類想のものが少なくない。この歌は完全に自然観賞のもので、その意味で新味のあるものとなっている。詠み方が素朴で、大柄でもあるので、四、五句は相応の味わいのあるものとなっている。
1082 水底《みなそこ》の 玉《たま》さへ清《さや》に 見《み》つべくも 照《て》る月夜《つくよ》かも 夜《よ》の深《ふ》けぬれば
(333) 水底之 玉障清 可見裳 照月夜鴨 夜之深去者
【語釈】 ○水底の玉さへ清に見つべくも 「水底」はここは川の水底。「玉」は、小石。「さへ」は、そうした見難いものまでも。「清に」は『代匠記』の訓で、はっきりとの意。「見つべくも」は、「つ」は完了、「べく」は可能の助動詞。見えそうなほどに。○照る月夜かも夜の深けぬれば 「月夜」は、月。「夜の深け」は、月光の澄みまさる時刻としてのもの。
【釈】 川の水底の小石までも、はっきりと見られそうに澄んでいる月であるよ。夜が更けてきたので。
【評】 秋の夜更けての月の清らかさを讃えたものである。「水底の玉さへ」というのは、大和のような高原の、渓流の趣をもった浅い流れに対していえることで、したがって、空気の澄んだ高原の月ということを思わせるものである。しかしこれは、作者は意識せず、ただ実感としていっているものである。結句は、月光の澄んできたのを暗示するとともに、作者の月に陶酔したさまをも暗示し得ていて、働きのある句である。調べが強く張っていて、作者の感動を直接に伝えている歌である。
1083 霜《しも》ぐもり 為《す》とにかありむ 久堅《ひさかた》の 夜渡《よわた》る月《つき》の 見《み》えぬ念《おも》へば
霜雲入 爲登尓可將有 久堅之 夜渡月乃 不見念者
【語釈】 ○霜ぐもり為とにかあらむ 「霜ぐもり」は、霜のふる前に、水蒸気が空に漲って曇る意。「為とにかあらむ」は、するというのであろうか。○久堅の夜渡る月の見えぬ念へば 「見えぬ念へば」は、「念へば」は、意味は軽く、感を強めることを主としたもの。
【釈】 霜ぐもりがするというのであろうか。夜空を渡っている月の、見えないのを思うと。
【評】 月の見えないのを、霜ぐもりがしようとしてのことだろうかと解しただけの歌である。霜は普通晴れた寒い夜のもので、明け方霜の下りる時には、靄が一面にかかってくるのを現在でも霜ぐもりと呼んでいる。この歌の霜ぐもりも大体それと同じものとすると、夜は澄んでいた月の低くなったのが、明け方見えなくなり、同時に地面には薄靄が立ちはじめているので、それとこれとを結び着けた心持である。月光をたよりに妻の許へかよって行った男が、明け方帰ろうとした際の発見とすれば、ありうべきこととなる。取材があまりにも単純なので、何らかの背景がなければ歌とするほどのことでもなく、また人も伝えなかったろうと思われるから、多分そのような一般性のある背景があってのものであろう。それとしても淡い歌である。
1084 山《やま》の末《は》に いさよふ月《つき》を 何時《いつ》とかも 吾《わ》が待《ま》ちをらむ 夜《よ》は深《ふ》けにつつ
(334) 山末尓 不知夜經月乎 何時母 吾待將座 夜者深去乍
【語釈】 ○何時とかも吾が待ちをらむ 「何時と」は、いつ出るものとて。「かも」は、疑問。「吾が待ちをらむ」は、吾はこのように待ち続けているのであろうか。○夜は深けにつつ 夜は更け更けして行く。
【釈】 山の端に、出ようとして躊躇している月を、いつ出るものとして、吾はこのように待っているのであろうか。その間《ま》にも夜は更け更けしてゆく。
【評】 上の(一〇七一)の歌と、心としても、境としても同じものである。異なるところは、この歌のほうが焦燥の感が強いことである。妻の許へ行こうとする男が、月が出なくては路が歩けないのに、月の出の遅い填で、あせる心には夜はみるみる更けるのに、待つ月は出そうで出ない。それを「何時とかも吾が待ちをらむ」とじれているのが、実感ゆえに語は単純だが生きて含蓄のあるものとなっているのである。これも同じく相聞の範囲の歌である。
1085 妹《いも》があたり 吾《わ》が袖《そで》振《ふ》らむ 木《こ》の間《ま》より 出《い》で来《く》る月《つき》に 雲《くも》なたなびき
妹之當 吾袖將振 木間從 出來月尓 雲莫棚引
【語釈】 ○妹があたり吾が袖振らむ 妹が家の辺りに向かって、我は袖を振ろうで、遠く居て、心を示すためのしぐさとしてである。○木の間より出で来る月に 木と木の間から出て来る月にで、この木立は月の出る所にあるものであるから、山の上のものでなくてはならない。実際は山の木立を離れて出て来る月に。○雲なたなびき 「な」は禁止の助詞であるが、それをこのようにいっているのは、人麿の歌を踏襲しているためである。それは評の部分でいう。既出。雲よ靡くなで、これはわが袖を振るのを妹に見せようがためである。
【釈】 妹が家の辺りへ向かって、吾は袖を振ろう。山の木立を離れて出て来る月に、雲よ靡くな。
【評】 月の出る頃は、夫が妻の許へ通う時刻であるが、男は何らかの差支えがあって通えないので、せめて妻に向かって懐かしい心だけでも示そうとして、袖を振ろうとするおりから、山の木立を、離れて月が出てきたのである。そこで妻にわが振る袖を見せようと思って、雲よ月に懸かって暗くはするなと希望したのである。この歌は、巻二(一三二)人麿の、「石見のや高角山《たかつのやま》の木の間よりわが振る袖を妹見つらむか」を連想させる。『古義』はこのことをいい、思い合わすべしといっている。この歌の三句「木の間より」は、いったがごとくある程度の強いたところのあるものであるが、上に引いた人麿の歌が一般化したところから、後世の本歌取のごとき心をもってわざとこのようにいったものと思われる。謡い物の匂いの濃厚な歌である。
(335)1086 靭《ゆき》懸《か》くる 伴《とも》の雄《を》広《ひろ》き 大伴《おほとも》に 国《くに》栄《さか》えむと 月《つき》は照《て》るらし
靭懸流 件雄廣伎 大伴尓 國將榮常 月者照良思
【語釈】 ○靭懸くる伴の雄広き 「靭」は、矢を盛る器。「懸くる」は、「靭取負ふ」とも、「帯ぶ」ともいっているのと同じく、背に負う意で、「靭懸くる」は、武装をしているの意。朝廷奉仕の武官としての武装である。「伴の雄」は、「伴」は部族、「雄」は「緒」で、長の意であったのが、後には単に男の意となった。ここはそれで、六月祓の祝詞に、「朝廷《すめらみかど》に仕へ奉《まつ》る領巾《ひれ》懸《か》くる伴男《とものを》、手襁《たすき》懸くる伴男、靭負ふ伴男、剣《たち》佩く伴男、伴男の八十伴男」とあるそれである。「広き」は、その数の多い意。○大伴に 「大伴」は、大伴氏の意であるが、ここは皇室に対しての職務の面からいっているもの。大伴によって。○国栄えむと 「国」は天皇のしろしめす国で、国家。国家が栄えるであろうとて。○月は照るらし 「月」は、そのおりから天上に照っていたもので、初句より四句までのことを示して照っているのであろうで、「らし」は強く推量する意の助動詞。この月は少なくとも満月に近いものと取れる。
【釈】 靭を負っている部属の男の多い大伴によって、わが国は栄えて行こうとて、月は照っているのであろう。
【評】 大伴氏の一族が相会して、月の明らかに照っている夜、酒宴を張っていた席上で、その中の中心になっている人が、大伴氏の遠祖道臣命が、武臣として皇孫を守護して忠勤を尽くしてよりこの方のことを思い、その関係をとおして国家の将来を賀した歌である。この月は単なる風物ではなく、天上にある永遠のものとし、また国初以来の一切のことを知っているものとして見ているもので、すなわち神と異ならないものとしてである。この歌は歌柄から見ると大伴氏の歌ともいうべきものであるが、作者の知られないのは訝しい。作風はさして古いものとはみえないからである。
大伴氏は時代関係によって次第に勢力が衰え、壬申の際の功労によって勢力を盛り返したが、これも一時的のものであったから、勢い一族のまとまりが好く、また大伴氏としての意識も強くされていたとみえるから、宴席でこうした歌の謡われることも多かったろうと思われる。
雲を詠める
1087 痛足河《あなしがは》 河浪《かはなみ》立《た》ちぬ 巻目《まきもく》の 由槻《ゆつき》が嶽《たけ》に 雲居《くもゐ》立《た》てるらし
痛足河 々浪立奴 卷目之 由槻我高仁 雲居立有良志
【語釈】 ○痛足河 奈良県桜井市大三輪町穴師を流れる川。巻目山から出て、三輪の北を流れて初瀬川に注ぐ小沢である。○河浪立ちぬ 「河浪」(336)は河の浪。にわかに一陣の風が吹き起こつて浪の立った状態。○巻目の由槻が嶽に 「巻目山」は、三輪山の東に続いている連山の称で、由槻が嶽はその中の高峰、標高五六五メートルである。○雫居立てるらし 「雲居」は、空の意のものと、雲の意のものとある。雲の意のものは、「居」は雲の状態をあらわすもの。「立てるらし」は、烈風によって立っているらしい。
【釈】 痛足河ににわかに河浪が立った。巻目の由槻が嶽には雲が立っているらしい。
【評】 次の歌とともに人麿歌集のものである。人麿はこの辺りに妻があったとみえ、痛足、巻向、三輪などを詠んだ歌が多い。ここの二首もそれで、たまたま痛足河のほとりに居て、にわかに吹き起こった風に河浪の高くなったのに眼を注ぎ、それとともにその辺りの高峰の由槻が嶽に雲の立つさまを想像した心である。一切の原因である風には触れず、それによって起こされた眼に見る河浪の状態、見ない高峰の雲の状態と、変化させられての動きのほうに心を向けているのである。それも興味的に軽く見たり思ったりしているのではなく、ある驚きをもって全心を向けてのことであるのは、その調べの張ってゐる上に直接に現われている。人麿の日常の心の動きのさまをさながらに示しているような作である。
1088 足引《あしひき》の 山河《やまがは》の瀬《せ》の 響《な》るなへに 弓月《ゆつき》が嶽《たけ》に 雲《くも》立《た》ち渡《わた》る
足引之 山河之瀬之 響苗尓 弓月高 雲立渡
【語釈】 ○足引の山河の瀬の響るなへに 「足引の」は、山の枕詞。「山河」は、山の河で、上の歌の痛足河。「響る」は、鳴るで、「河浪立ちぬ」(337)と眼に見ていていったのを、今はそこを離れて、その河浪を音として聞いていることをあらわしたもの。「なへに」は、並べにで、同時に、あるいは伴っての意。○弓月が嶽に雲立ち渡る 「立ち渡る」は、一面に立ち広がってくるで、上の歌で想像していた弓月が嶽を、今は限に見ていっているもの。
【釈】 足引の山河の河瀬が音高く響くのに伴って、弓月が嶽には一面に雲が立ち続いてくる。
【評】 上の歌と連作となっているもので、作者の位置としては痛足河より離れて弓月が嶽に近く、その見える所に来、時間としては、嵐の活動が一層激しくなった時である。この歌は、作者としての態度方法は上の歌と同様であるが、嵐の威力が加わるとともに感動も高まり、その状景の中に没入し、一体となりつつも、同時に他方ではその状景とある距離をもち、十分な具象化を遂げているのである。取材が日常的なものであるために、人麿の作歌の消息を上の歌とともに明らかにみせている。籠もった味わいのある魅力多い作である。
右の二首は、柿本朝臣人麿歌集に出づ。
右二首、柿本朝臣人麿之謌集出。
1089 大海《おほうみ》に 島《しま》もあらなくに 海原《うなばら》の たゆたふ浪《なみ》に 立《た》てる白雲《しらくも》
大海尓 嶋毛不在尓 海原 絶塔浪尓 立有白雲
【語釈】 ○大海に島もあらなくに 「も」は詠歎。「なく」は打消「ず」の名詞形。「に」は、詠歎。大海に島もないことよ。○海原のたゆたふ浪に 「たゆたふ浪」は、動揺だけしている浪。○立てる白雲 立ち昇っている白雲よで、下に詠歎がある。
【釈】 大海の上に島もないことよ。広い海原の動揺している浪の上に立ち昇っている白雲よ。
【評】 素朴な詠み方をした歌であるが、怪しいまでに印象のはっきりした歌である。作者の驚異の感が伝わって来るためである。「大海に島もあらなくに」は、大和国にばかり住んでいて、雲といえば山に立つものと思っていた人の最初の驚異である。「海原のたゆたふ浪に」と、さらに海を見直して、その拠りどころのないことを思って、「立てる白雲」と驚異しているのは、その作者としては実感そのままの直写である。作者のその心に引かれて、その光栄が強く印象づけられる結果となるのである。
右一首、伊勢の従駕に作れる。
(338) 右一首、伊勢従駕作。
【解】 伊勢への行幸は『代匠記』は藤原時代から奈良時代へかけて、持統天皇の六年、聖武天皇の天平十二年の二度であると考証し、持統天皇の際のものだろうといっている。その間にもあったが、この巻は天平十二年までは下らないようにみえ、作風としてもやや古い風とみえるのである。
雨を詠める
1090 吾妹子《わぎもこ》が 赤裳《あかも》の裾《すそ》の 染《し》み※[泥/土]《ひ》ぢむ 今日《けふ》の※[雨/(月+永)]※[雨/沐]《こさめ》に 吾《われ》さへ沾《ぬ》れな
吾妹子之 赤袈裙之 將染※[泥/土] 今日之※[雨/(月+永)]※[雨/沐]尓 吾共所沾名
【語釈】○染み※[泥/土]ぢむ 訓は諸注さまざまであるが、『代匠記』に従う。「染み」は、雨がしみ込み、「※[泥/土]ぢ」は漬かりで、雨にぐしょ濡れになるで、同意語を畳んだもの。○今日の※[雨/(月+永)]※[雨/沐]に 「※[雨/(月+永)]※[雨/沐]」は、和名抄に「こさめ」と出ている字で、詩経などにも出ている字である。○吾さへ沾れな 「吾さへ」は吾までもで、夫である男が自身屋内にいての想像。「な」は自身に対しての希望。
【釈】 わが妻の赤裳の裾にしみ込んでぐしょ濡れになるであろう今日の小雨に、こうして屋内にいる自分までも濡れたい。
【評】 小雨の降りつづいている日に、夫である男が、離れて住んでいる妻を思いやっての心である。一首、謡い物の匂いをもったものであるから、想像の中心になっている「赤裳の裾の染み※[泥/土]ぢむ」は、何らかの事があって外出を余儀なくされていることを知っていての思いやりではなく、日常生活の上でありうべきこととしての思いやりと取れる。「赤裳の裾」という感覚的のことを思いやっていること自体がそのことを思わせる。「吾さへ沾れな」は可愛ゆさといたわり心とのまじったものて、健康ないや味のない心よりのものである。一般性の多い歌である。
1091 徹《とほ》るべく 雨《あめ》はな零《ふ》りそ、吾妹子《わぎもこ》が 形見《かたみ》の服《ころも》 吾《われ》下《した》に着《け》り
可融 雨者莫零 吾妹子之 形見之服 吾下尓着有
【語釈】 ○徹るべく雨はな零りそ 「徹るべく」は、『考』の訓。濡れとおりそうなまでに雨は降るなと、雨に命じたもの。○形見の服 「形見」(339)は、離れている人の身代わりとするものの総称で、ここは女の「服」である。肌寒い頃は、朝の別れに女の下の衣を借りて着て帰ることが普通なくらいになっていて、ここもそれである。○吾下に着り 「下に」は、衣の下にで、下着として。「着り」は、『略解』の訓。動詞「着」に、助動詞詞「り」の接続した語で、仮名書きの例のあるもの。
【釈】 濡れとおりそうなまでには雨は降るなよ。妻の身代わりのものとしての衣を、吾は下着として着ている。
【評】 「吾下に着り」は、旅に出ているおりなど、長期にわたってもありうることであるが、この歌はそうした暗く重い場合ではなく、明るく軽い心のもので、朝の別れに妻の衣を借りて帰る途中、小雨に遭った際のものである。それだと珍しくない普通のことで、一般性のあることである。謡い物となっていたものと思われる。
山を詠める
1092 鳴《な》る神《かみ》の 音《おと》のみ聞《き》きし 巻向《まきむく》の 檜原《ひばら》の山《やま》を 今日《けふ》見《み》つるかも
動神之 音耳聞 卷向之 檜原山乎 今日見鶴鴨
【語釈】 ○鳴る神の音のみ聞きし 「鳴る神」は、雷。その威力を讃えての称。音の枕詞。「音のみ聞きし」は、『考』の訓。評判。評判にばかり聞いていた。 ○巻向の檜原の山を 「巻向」は、(一〇八七)に「巻目」とあったのと同じで、二様に称えていたとみえる。「檜原の山」は、巻向山の南を檜原の山と呼び、それが三輪山に連なっているところから三輪の檜原とも呼ばれていた。○今日見つるかも 「かも」は、詠歎。今日初めて見たことであるよ。
【釈】 評判ばかりを聞いていた巻向の檜原の山を、今日はじめて見たことであるよ。
(340)【評】 巻向の檜原の山をはじめて見た時の感動で、その感動のいかに強いものであったかは、一首の調べの緊張していることが直接にあらわしている。そのものとしては、巻向の櫓原は三輪の檜原ともいい、泊瀬の檜原ともいって、名のごとく、檜の大森林であったと思われる。しかしこの感動は、単に大森林というだけではなく、森林は神の降るところで、神座そのものでもあったので、信仰心の強い人麿は、その心も伴っての感動であったろうと思われる。この心は下の二首にもつながっている。
1093 みもろの 其《そ》の山なみに 児《こ》らが手《て》を 巻向山《まきむくやま》は 継《つぎ》の宜《よろ》しも
三毛侶之 其山奈美尓 兒等手乎 卷向山者 繼之宜霜
【語釈】 ○みもろの其の山なみに 「みもろ」は、御室で、神座であり、普通名詞である。集中では、飛鳥の雷岳(神岳《かみおか》)のことも、三輪山のことも「みもろ」と呼んでいる。ここは三輪山である。四音一句。「山なみ」は、山並で、山続きで、眺めての姿についての称。北に続いているのである。○児らが手を巻向山は 「児ら」は「ら」は接尾語で、妻の愛称。「手を巻く」は手を枕とするで、その「巻く」を地名に転じての枕詞。○継の宜しも 「継の」は『考』の訓。「継」は、名詞で、続きの好いことよ。「も」は詠歎。
【釈】 みむろ山のその山続きにある、思う女の手を巻くというに因みある巻向山は、山続きの好いことであるよ。
【評】 上の歌の檜原の山に続けて、その主体である巻向山を讃えたものである。その讃え方は、山そのものをいうのではなく、山の位置の三諸山《みもろやま》に続いていることを讃えているのである。三輪の神は、大和国に斎く神々のうち、皇室の守護神としてもっとも尊崇されていた神である。その神の鎮座される三輪山に接していることをもって巻向山を讃えていることは、信仰心の深かった人麿としては自然なことである。しかし人麿はそれだけにはとどめず、巻向山をいうに「児らが手を」という枕詞を添えていっている。この枕詞は巻十にも用例があるが、多分人麿の創意より成るものと思われる。信仰と同時に夫婦関係をも合わせ言うということは、まさに人麿的であって、他人のしないことといえる。個性的な讃え方というべきでもある。
1094 我《わ》が衣《ころも》 色服《いろぎぬ》に染《し》めむ 味酒《うまさけ》 三室《みむろ》の山《やま》は 黄葉《もみち》せりけり
我衣 色服染 味酒 三室山 黄葉爲在
【語釈】 ○我が衣色服に染めむ 「色服染」は、原文は諸本異同のないものであるが、訓は諸注それぞれである。この訓は『新訓』のものである。「色服」は染色した衣で、白色の衣に対させての語である。「染めむ」は、染めようと、その美しさを慕ってのもの。○味酒三室の山は 「味酒」(341)は、神に供える酒をみわというのて、同意語でその枕詞となっているのを、さらに三輪と同意語の三室冠したもの。○黄葉せりけり 『新訓』の訓。「けり」は既定のことに対しての感歎で、黄葉していることであったで、その黄葉を白色の衣に摺って、その色に染めようの意。
【釈】 我が白い衣を美しい色の衣に染めよう。三室の山は黄葉をしていることであった。
【評】 巻向の檜原の山、巻向山、三室の山の黄葉と一つづきの地を、次第に中心を変えて詠んでいるので、同時に作った一種の連作と取れる。「黄葉せりけり」は、初めて見ての語とはいえないが、少なくともある期間を見ずにいての新しい発見ということを示している語であるから、その意でも最初の歌とつながりうるものである。この歌にあっては、「味酒三室の山は」は、重い響をもったもので、単に風景としての軽いものではなく、信仰の対象としての文字通り三室の山である。その尊い山の黄葉の色を我が衣に染めつけるということは、美しさを慕うとともに信仰心を充たすことで、その意味では上の「巻向山」につながりのあるものである。この歌も人麿の個人的な心の強く働いているもので、調べもそれにふさわしく緊張している。
右の三首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
右三首、柿本朝臣人麿之謌集出。
1095 三諸《みもろ》つく 三輪山《みわやま》見《み》れば 隠口《こもりく》の 始瀬《はつせ》の檜原《ひばら》 念《おも》ほゆるかも
三諸就 三輪山見者 隱口乃 始瀬之檜原 所念鴨
【語釈】 〇三諸つく三輪山見れば 「三諸つく」は、「三諸」は上に出た神の御室。「つく」は、斎《いつ》くで、三室のあるの意であるが、神のほうを主としていったもの。○隠口の始瀬の檜原 「隠口の」は、始瀬の枕詞。巻一(四五)に出た。「始瀬の檜原」は、三輪山の後方に続いている檜原で、それを初瀬方面から見ての称。○念ほゆるかも 連想されることであるよで、「かも」は詠歎。
(342)【釈】 御室のある三輪山を見ると、それに関連して、その後方の初瀬の檜原が思われてくることであるよ。
【評】 大和国全体の守護神である三輪の大神の御室のある三輪を見ると、神の降られるところとしての初瀬の檜原が連想されるというのは、上の人麿の歌と同じく信仰心よりの連想である。初瀬の檜原は、その見る方面によって名を異にし、巻向の檜原とも、三輪の檜原とも呼んでいるのを、特に初瀬の檜原と呼んでいるのは、初瀬方面の人の心である。部落精神の強かった時代とて、こうした言い方が必然的なものであり、それを聞く人にも特殊な親しみがあったことと思われる。
1096 昔者《いにしへ》の 事《こと》は知《し》らぬを 我《われ》見《み》ても 久《ひさ》しくなりぬ 天《あめ》の香具山《かぐやま》
昔者之 事波不知乎 我見而毛 久成奴 天之香具山
【語釈】 ○昔者の事は知らぬを 「昔者の事」は、下の香具山に古の代にあったこと。「知らぬを」は知り得ないが。○我見ても久しくなりぬ 我が見た間も、すでに久しくなったで、その久しさを実証的にいったもの。○天の香具山 「天の」は、神聖な山として、添えて呼ぶことになっていたもの。下に詠歎がある。
【釈】 古のことは知らないが、我が見てからも久しくなった。天の香具山よ。
【評】 天の香具山の辺りに住んでいる人の讃え歌である。香具山は神聖な山とされ、山そのものにも信仰よりの伝説があり、神事との関係も深いところから、他の山とは比較を超えた尊くも親しい山となっていたのである。それをいうに、一に時間的にいっているのは、それがやがて信仰に繋がりゆくことだったのである。その時代にはきわめて一般性のある歌だったろうと思われる。おおらかな詠み方をしているのは、それで十分に通じたからである。
1097 吾《わ》が勢子《せこ》を こち巨勢山《こせやま》と 人《ひと》は云《い》へど 君《きみ》も来《き》まさず 山《やま》の名《な》にあらし
吾勢子乎 乞許世山登 人者雖云 君毛不來益 山之名尓有之
【語釈】 ○吾が勢子をこち巨勢山と 「吾が勢子をこち」は、「巨勢」へかかる七音の序詞。「こち」は、こちらで、妻のいる方。「こせ」は動詞「来す」の命令形で、いらっしやい。吾が背子にこちらへいらっしやいというので、その「こせ」を地名の巨勢に転じさせたもの。この序詞は、形は序詞であるが、内容は実際である。「巨勢山」は、巻一(五四)に出た。大和国から紀伊国への通路の山。○人は云へど 世間の人はいって(343)いるが。○君も来まさず 「君」は、吾が勢子。「来まさず」は敬語。○山の名にあらし 我には関係がなく、ただ山の名なのであろう。
【釈】 わが背子にこちらへいらっしやいと言っている巨勢山だと人は言うけれども、君はいらっしやらない。我にはただ山の名なのであろう。
【評】 巨勢山の辺りに住んでいる人妻である女が、その夫の疎遠にして通って来ないのを嘆いた心のものである。この嘆きは当時の夫婦生活にあってはありがちなもので、一般性をもったものである。また当時は、物の名に対して深い信仰をもち、物の名は名のごとき力を蔵しているものだと信じており、「名にこそありけれ」「言にしありけり」など、名に実の伴わないことを嘆いた歌が少なくない。これもその範囲のもので、この作者は「巨勢山」というその住地の山の名によって、その山は、「吾が勢子をこち巨勢」という力を蔵しているものと頼んでいるものであるが、「君も来まさず」という状態なので、「山の名にあらし」と、失望に近い嘆きをしているのである。「吾が勢子をこち巨勢」は、技巧にはかかわりのない生活実感である。「来せ」を「巨勢」に掛詞にしているのは技巧に似ているが、これは謡い物の上では普通のことになっていた序詞と同じ形のものであるから、言い馴れている形であって、意識しての技巧とはいえないものである。この歌は、巨勢地方に民謡として謡われていたものではないかと思われる。相聞の歌であって、一般性をもったものでもあり、語の機知があり、調べが明るくて、民謡としての条件を備えているものだからである。
1098 紀道《きぢ》にこそ 妹山《いもやま》ありと云《い》へ み櫛上《くしげ》の 二上山《ふたがみやま》も 妹《いも》こそありけれ
木道尓社 妹山在云 三櫛上 二上山母 妹許曾有來
【語釈】 ○紀道にこそ妹山ありと云へ 「紀道」は、紀伊国そのものをも、紀伊国へ行く路にも用いている。ここは後のもの。「妹山」は、古くはその名のない山で、紀伊国伊都郡の西端の紀の川の南岸に背山のあるのに対して、設けた名であるともいい、また、背山と相対して、紀の川の北岸にあったろうともいって、明らかではない。山に妹背のあるということは上代にあっては広範囲にわたってあったことで、後より設けていったとしても、遅速の問題だけで、さしたることではない。とにかくここは、そうした山があると聞いて、信じていっているものである。 ○み櫛上の二上山も 「み櫛上の」は、「み」にあたる原文のない本が多い。大矢本、京都大学本の「三ィ」とあるに従う。『考』は「三」は「玉」の誤りかとしている。「み」は、美称。「櫛上」は櫛匣《くしげ》で、櫛を入れておく箱。螺鈿などで装飾したものもあった。その蓋《ふた》を「二《ふた》」に転じての枕詞。「二上山」は、巻二(一六五)「二上山を弟世《なせ》と吾が見む」に出た。大和国北葛城都、西葛城山脈中の一嶺。峰が二つ並び、男岳女岳となっている。○妹こそありけれ 「妹」は、その女岳。
(344)【釈】 紀州往還にこそ妹山があると人が言っているが、現に眼に見る二上山も、妹山があることである。
【評】 耳に聞く話としても、目に見る事としても、山にも妹があると、力を籠めていっているものである。妹というのに憧れる心を、山に寄せてあらわしているものである。妹を求めている若い人の謡い物であったろう。「こそ」を二つ用いている点など、素朴を極めたものである。
岳《をか》を詠める
1099 片岡《かたをか》の この向《むか》つ峰《を》に 椎《しひ》蒔《ま》かば 今年《ことし》の夏《なつ》の 陰《かげ》に比《そ》へむか
片岡之 此向峯 椎蒔者 今年夏之 陰尓將比疑
【語釈】 ○片岡のこの向つ峰に 「この」は、後世の「かの」にあたる古格。「片岡」は、地名。奈良県北葛城郡、今の王寺町、香芝町、上牧村辺の地であろうという。「向つ峰」は、向いの、すなわち正面にある峰で「峰」は高い稜線。○椎蒔かば 椎の実を蒔いたならばで、蒔こうとするのは、下の続きで春である。○今年の夏の陰に比へむか 「今年の夏の陰」は、今年の夏、山の木立が繁って作るところの緑蔭。「比へむか」は、定本の訓。「比へ」は、擬すの意で、巻八(一六四二)たなぎらひ雪もふらぬか梅の花咲かぬが代《しろ》にそへてだに見む」がある。「か」は疑問。椎が生い立って、今年の夏の緑蔭に擬せられるものとなろうか。
【釈】 片岡の、あの真向いの峰に椎の実を蒔いたならば、今年の夏、緑蔭に擬せられるものとなるであろうか。
【評】 椎の実を蒔いて、育って緑蔭を作るものとなることを想像するのは、可能性のある当然のことであるが、春蒔く実がその夏に緑蔭に擬せられるものとなるということは不可能なことである。急の間《ま》に合うことは不可能であるが、本来可能性のあるという上に立ってそのことを想像するのはいわゆる憧れで、欲望としては不自然なものではない。そうした憧れは、老いたる者が幼い者に対してもち、男女間では一層もっている。この歌はそうした心を譬喩としていったもので、庶民生活に即して具象したものと思われる。
河を詠める
1100 巻向《まきむく》の 痛足《あなし》の川《かは》ゆ 往《ゆ》く水《みづ》の 絶《た》ゆることなく 又《また》反《かへ》り見《み》む
(345) 卷向之 病足之川由 徃水之 絶事無 又反將見
【語釈】 ○巻向の痛足の川ゆ往く水の 「痛足の川」は、(一〇八七)に出た。「ゆ」は、移動の経路を示すもので、間を通って。「往く水の」は、往く水のごとく断絶することなくで、譬喩。○又反り見む またも立ち帰ってここを見よう。
【釈】 巻向の痛足の川をとおって往く水のように、我は将来も絶えることなく、また立ち帰って見よう。
【評】 巻一(三七)「見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなく復かへり見む」に酷似した形をもった歌である。しかし心からいうと、この歌は吉野宮へ行幸になった際の賀歌で、「かへり見む」というのは吉野宮であるが、今の痛足の川の歌は主格となるものが明らかではない。「巻向の痛足の川ゆ往く水の」は、「絶ゆることなく」に譬喩として序詞の形をもって続いているものだからである。しかし一首の調べは緊張したもので、熱意をもって詠んでいるものであることを直接に示している。言葉の上から見ると、主格となっているものは痛足の川そのもので、その光景に感動していることとなるのであるが、それとしては飽き足りない感がある。前後の歌から見ると、人麿はこれらの歌を作った当時、痛足川のほとりに新たに通い初めた妻があったらしいので、この歌はその妻に対してのものと思われる。妻に対しての夫の歌は、将来の誠実を誓うことが建前になっている。誓言とすれば、妻の家の辺りの痛足川の水の永遠を譬とすることはきわめて自然なことで、また相対しての歌であるから、主格を省いた詠み方をすることも自然である。もとより第三者の見ることなどは予想しない歌で、相手に通じさえすればよいものなのである。この歌はそうした条件の下での作と思われる。
1101 黒玉《ぬばたま》の 夜《よる》さり来《く》れば 巻向《まきむく》の 川音《かはと》高《たか》しも あらしかも疾《と》き
黒玉之 夜去來者 卷向之 川音高之母 荒足鴨疾
【語釈】 ○黒玉の夜さり来れば 「黒玉の」は、夜の枕詞。「夜さり来れば」は、夜と移って来れば。○巻向の川音高しも 「巻向の川音」は、痛足川の瀬の音。○あらしかも疾き 「かも」は疑問。あらしの風が激しいからであろうか。
【釈】 夜と時が移って来れば、巻向にある川の瀬の音が高いことである。あらしが激しいためなのであろうか。
【評】 巻向山の山中に宿って、夜が更けて物音が絶えるに伴って、痛足川の瀬の音の高まってきたのに感動した心である。川の瀬の音に対して心を動かすということは一般性のものであるが、この歌のもつ感動はかなり強いもので、それが特色をなしているものである。痛足川の瀬の音を、「巻向の川音」と言いかえると、その感が大きくなる。これはそれを意識してのもの(346)と思われる。「あらしかも疾き」は、実際にあらしが激しく吹いていれば、当然川瀬の音を圧するものとなろうから、こうした言い方をすべきではなかろうから、これは「かも」を添えていっているのでも明らかなよぅに、瀬の音の高さをあらわすためのものと思われる。「黒玉の夜」の中に「川音高しも」を置き、その高さを誇張をもっていっているのは、単なる興趣ではなく、自然の威力を感じ、それをあらわそうとしたものと思われる。この歌は一読それを感じさせるものである。
右の二首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
右二首、柿本朝臣人麿之謌集出。
1102 大王《おほきみ》の 御笠《みかさ》の山《やま》の 帯《おび》にせる 細谷川《ほそたにがは》の 音《おと》の清《さや》けさ
大王之 御笠山之 帶尓爲流 細谷川之 音乃清也
【語釈】 ○大王の御笠の山の 「大王の」は、御料としての御笠と続け、それを山の名に転じての枕詞。枕詞より続く「御笠」は、高貴の方の、後《うしろ》より差し翳させる絹傘である。「御笠の山」は、春日の三笠山で、既出。○帯にせる 「帯」は、下の「細谷川」が山の腰を繞っている状態を譬えていったもの。上代には、山はすなわち神だと信仰していたのであるから、この譬喩はその信仰につながっているもので、したがって連想し易く、類例も少なくないものである。○細谷川の音の清けさ 「細谷川」は、細き谷川。巻十(一八六一)「能登川の水底さへに照るまでに三笠の山は咲きにけるかも」があり、能登川と取れる。春日山に発し、西流して大安寺にて岩井川と合し、佐保川にそそぐ。「清けさ」は、「さ」は、詠歎。谷川であるから、実際に即しての感である。
【釈】 大君の御笠というに因みあるこの三笠の山が、帯として腰に繞らしている細い谷川の、その瀬の音の清《さや》かなことよ。
【評】 細谷川の音の清かなのを讃えたものではあるが、単に興趣としてだけではなく、三笠山に上代信仰よりの神性を感じ、賀の心も伴わせたものと思われる。「大王の」という枕詞も、それに繋りをもってのものと取れる。
1103 今《いま》しくは 見《み》めやと念《おも》ひし み芳野《よしの》の 大川《おほかは》よどを 今日《けふ》見《み》つるかも
今敷者 見目屋跡念之 三芳野之 大川余杼乎 今日見鶴鴨
【語釈】 ○今しくは見めやと念ひし 「今しく」は、旧訓。続日本紀の天平宝字八年の宜命に、「今之紀乃間方《いましきのまは》、念見定牟仁《おもひみさだめむに》」とあり、今という意の(347)古語である。体言を形容詞風に活用させたものの名詞形で、同形の語が他にもある。「見めや」は反語。○み芳野の大川よどを 「大川よど」は、大きな川|澱《よど》で、あとに出る六田の淀であろう。澱のできるところは川の流れに変化のある、したがって面白い所である。
【釈】 今は年老いたので、見られようか見られはしまいと思っていた吉野川の大きな川澱を、今日見たことであるよ。
【評】 旅行はたやすくなかった時代とて、吉野の風景にあこがれつつも見るを得ずに老いた人が、思いがけずもそれのかなった喜びで、心は明らかである。歌は洗練されており、繊細味をもったもので、当時としては新味をもったものである。
1104 馬《うま》並《な》めて み芳野川《よしのがは》を 見《み》まく欲《ほ》り 打越《うちこえ》え来《き》てぞ 滝《たぎ》に遊《あそ》びつる
馬並而 三芳野河乎 欲見 打越來而曾 瀧尓遊鶴
【語釈】 ○馬並めて 「馬並めて」は、乗馬を連ねてで、友と連れ立っての意で、大宮人の状態である。○打越え来てぞ 「打」は接頭語。「越え」は、山を越える意で、山というのは、巻一(七五)「宇治間山《うぢまやま》朝風寒し」とあるその宇治間山と取れる。山は吉野郡吉野町千股にあり、飛鳥地方から吉野上市へ出る路にあるもの。○滝《たぎ》に遊びつる 「滝」は、早瀬の称であるが、その代表的のものは吉野離宮に近くあるもので、ここもそれと取れる。「つる」は「ぞ」の結。
【釈】 乗馬を連ねて友とともに吉野川を遊覧したいことだと思って、今日は思いのごとく、宇治間山を越えて来て、名高い滝に遊んだことであるよ。
【評】 前の歌と同系統のもので、異なるところはこの作者は老いてはいないことである。したがってその喜びも、明るく軽いところがある。それぞれの生活に即しているといえる。
1105 音《おと》に聞《き》き 目《め》には未《いま》だ見《み》ぬ 吉野川《よしのがは》 六田《むつた》のよどを 今日《けふ》見《み》つるかも
音聞 目者未見 吉野川 六田之与杼乎 今日見鶴鴨
【語釈】 ○音に聞き目には未だ見ぬ 評判には聞いているが、眼にはまだ見ないところので、「ぬ」は、連体形。○吉野川六田のよどを 「六田のよど」は、上市の下流で、吉野川の川幅が広くなり、川淀をなしている所の称。吉野町六田(南岸)、大淀町北六田(北岸)がある。上の「み芳野の大川よど」もここを指しているかと思われる。ここは後世も名所となった所である。
(348)【釈】 評判には聞いていて、目にはまだ見ない吉野川の六田の澱を、今日は見たことであるよ。
【評】 憧れていた吉野川の名所の一つである六田の淀を見得た喜びである。上の二首、この歌、これに続く一首は、取材も心も通うところのあるものであり、歌風も似ているので、上の歌に「馬並めて」とある一行で、同じ時に詠んだものではないかと思われる。
1106 かはづ鳴《な》く 清《きよ》き河原《かはら》を 今日《けふ》見《み》ては 何時《いつ》か越《こ》え来《き》て 見《み》つつ偲《しの》はむ
川豆鳴 清川原乎 今日見而者 何時可越來而 見乍偲食
【語釈】 ○かはづ鳴く清き河原を 「かはづ」は、河鹿。この二句は、吉野川を具体的にいったものと思われるが、それは下の「越え来て」によってのことで、それがないと察し難い言い方である。○今日見ては 「は」は、下の「見つつ」に対させたもの。○何時か越え来て いつまた山を越えて来てかで、この「越え来て」は、上の「打越え来て」と同じ意のものと取れる。○見つつ偲はむ 「見つつ」は、「つつ」は継続で、久しく見る意。「偲はむ」は、賞美をしよう。
【釈】 河鹿の鳴いているこの清い河原をこのように見て、この見飽かない光景を、いつの時にまた宇治間山を越えて来て、見つつ賞美することであろうか。
【評】 「かはづ鳴く清き河原」で吉野川を鑑貸し、「何時か越え来て見つつ偲はむ」と感じているのであるが、この感はこの場合としては突飛なものである。こうした感を起こすのは、この遊覧は一人のことではなく、上の歌の「馬並めて」という状態で何人か同行してのことで、そのことが興味の一半をなしていたところから、こうした状態での遊覧を再びするのはむずかしいと思っての感であろう。それだとその日の喜びを詠んだものとなり、自然なものとなる。その心よりのものであろう。
1107 泊瀬川《はつせがは》 白木綿花《しらゆふばな》に おちたぎつ 瀬《せ》を清《さや》けみと 見《み》に来《こ》し吾《われ》を
泊瀬川 白木綿花尓 墮多藝都 瀬清跡 見尓來之吾乎
【語釈】 ○泊瀬川白木綿花に 「泊瀬川」は、巻一、(七九)に出た。桜井市、旧上郷村地域に発し、泊瀬の渓谷を流れ、三輪山の南方を過ぎて平野に出る川である。この川は、渓谷の川である。「白木綿花」は、巻六(九〇九)に出た。木綿で造った白い造花。巻六(九一二)「泊瀬女の造る木(349)綿花」と出、泊瀬には関係のある物でもある。「に」は、の状態にの意で、ごとくというにあたる。○おちたぎつ瀬を清けみと 「おちたぎつ」は、しばしば出た。落ちて、泡立ち流れる意で、山川の状態をいったもの。「清けみと」は、「清けみ」は、清けきゆえにで、清かだから。「と」は、と思って。○見に来し吾を 「を」は詠歎。見に来た吾よで、あくまでも見ようとの心でいっているもの。
【釈】 泊瀬川の、白木綿花のごとくにも流れ落ちて泡立つ瀬の、清《さや》かであると思って、見に来た吾よ。
【評】 渓流の清けさに強く心を引かれたと見え、それをいっている歌が多いが、この気分は表現し難いもので、状態をとおして気分まで言い得た歌は少ない。この歌は、四句までは状態をいい、結句「見に来し吾を」によって気分をあらわそうとしているものである。さらにいうと、初句から四句までは、あこがれていた状態の現前していることをいい、結句は、この状態はあこがれてわざわざ見に来たものであるから、あくまでも見ようということを暗示的にいったもので、それによって景のもつ清けさを自身の気分として現わそうとしたのである。結句は一見わざとらしい感のあるものであるが、作者としてはここに力点を置いてあって、このようにいうより他になかったものと思われる。熱意の籠もった、素朴な、ある重量をもった歌である。
1108 泊瀬川《はつせがは》 流《なが》るる水尾《みを》の 湍《せ》を早《はや》み 井提《ゐで》越《こ》す浪《なみ》の 音《おと》の清《きよ》けく
泊瀬川 流水尾之 湍乎早 井提越浪之 音之清久
【語釈】 ○流るる水尾の湍を早み 「水尾」は、水脈とも書く。水路で、水のやや高くなって流れるところの称。「早み」は、早いので。○井提越す浪の 「井提」は、現在の井堰《いせき》。これは傾斜をもって流れて落ちてゆく水を、分けて他へ導くために一応湛えさせようとして、流れを瀬切らせる設備。泊瀬川の流れが早いので、水の大部分は井堰を越して浪となって落ちるのである。○音の清けく 形容詞「きよけ」に「く」が接続して名詞形となったもの。滑きことよ。
【釈】 泊瀬川の水脈が早いので、流れを瀬切って構えてある井堰を越えて落ちる浪の音の清いことよ。
【評】 滝《たぎ》の音、川瀬の音など、川水の音のさわやかなことを讃えた歌は多い。これは井堪を越して落ちる水の音で、快さの範囲は同じであるが、種類の異なったものである。大体変化のない、深い音である。音の起こる状態を委しく描いているのは、その音のもつ特殊な快さを、具象的にあらわそうとしてのもので、文芸的なものである。上の歌と同系統である。
1109 さ檜《ひ》の隈《くま》 檜《ひ》の隈川《くまがは》の 瀬《せ》を早《はや》み 君《きみ》が手《て》取《と》らば 縁《よ》らむ言《こと》かも
(350) 佐檜乃熊 檜隈川之 瀬乎早 君之手取者 將縁言毳
【語釈】○さ檜の隈檜の隈川の 「さ檜の隈」は、「さ」は接頭語、「檜の隈」は、巻一(一七五)に出た。高市郡、今の真弓村の南、野口、栗原、平田にわたる地名。「檜の隈川」は、高取山に発し、檜前《ひのくま》、真弓、見瀬を経て、畝傍山の西を流れ、曾我川に合流する川。○瀬を早み 瀬が早いゆえに。これは、檜の隈川は橋がなく、越すには徒渉することになっており、今もそれをしようと、河瀬の中に立っていての心である。作者は女で、女として瀬が早いので、危うさを感じての心である。この徒渉ということは、上代にはむしろ普通のことで、一般性のあり、説明を要さないことだったのである。○君が手取らば 「君」は、作者である女と一しょに徒渉をしている男を指したもの。「手取らば」は、危うさを脱れようがために、力ぐさとして男の手を取ったならばの意。○縁らむ言かも 訓は諸注さまざまであるが、『新訓』に従う。「縁らむ言」は、言縁らむを、言の方を主にしていったもので、噂が集まろうかの意。
【釈】 檜の隈の檜の隈川の徒渉地点の河瀬が早いゆえに、力ぐさに君が手を取ったならば、さまざまな噂が集まって来るのであろうか。
【評】 この歌は、作者は女となっているが、取材となっている事柄も、それに対する女の危惧と不安も、当時としては一般性をもっていたもので、女の生活を代弁している一首と思われる。「さ檜の隈檜の隈川の」は謡い物的であり、以下もそれに準じうる平明なものである点から見て、檜の隈地方に謡われていた謡い物であったろう。これは明らかに相聞の歌である。
1110 斎種《ゆだね》蒔《ま》く 新墾《あらき》の小田《をだ》を 求《もと》めむと 足結《あゆひ》出《い》で沾《ぬ》れぬ この川《かは》の湍《せ》に
湯種蒔 荒木之小田矣 求跡 足結出所沾 此水之湍尓
【語釈】 ○湯種蒔く新墾の小田を 「斎種」は、斎み浄めた稲の種の意である。上代は食料を得る上には、さまざまの信仰が伴っていて、農作物の上にもその多くがあり、その中の一部は現在にも伝わっている。稲についても、種その物、種蒔、苗植、水口祭、害虫除けと、つぎつぎに神事が続いていた。斎種もその一つで、種その物を斎い浄めて豊年を期したのである。「新墾の小田」は、「小田」は、「小」は美称で、田。新墾の田である。斎撞を蒔いて早苗とするには、新墾の田によるべきだとしていた信仰のあったことが知られる。○求めむと 探し求めようとして。新墾すべき早苗田の場所は、その求むべき方角は、神意によって定められていたかと思われ、また必要上、水利の便のよい所でなくてはならない。これらのことを頭に入れてのことである。○足結出で沾れぬ 「足結」は、上代の袴をくくし上げて、膝頭の下で紐で結わえることの称。労働に便なためにするのである。「出で」は、語の続きがやや唐突なところから、誤写説もあり、訓も定まっていないが、文字は諸本異同がなく、訓は『新訓』の「出で」が最も自然であるから従う。足結をして家を出ての意である。「沾れぬ」は、その足結が濡れたで、濡らしたのは下の川である。(351)○この川の湍に この川の瀬を徒渉したためにで、場所を探すのに流れに沿ってしていることを示しているものである。濡れた所を足結としているのは、浅くない流れを渉ったことを具象的にあらわしているものである。
【釈】 斎種を蒔く新墾すべき早苗田を探そうとして、足結をして家を出て、その足結を濡らした。この川を渉るがために。
【評】 早苗田の場所の選定ということは、農民に取ってはその年の仕事の最初のもので、また最も緊張して向かった仕事であったことは察しやすい。当時の国民は、きわめて一少部分を除いてはすべて農業をしており、他の勤労をしている者でも、農業を全くしなかった者はなかろうから、この歌にいっていることは、代表的に一般性をもったことであったろう。また当時の農業は、一に守護神の神意に従ってのものであるから、型がきまっていて、ここにいっていることは何らの説明も要さなかったことと思われる。この歌は純粋な農業労働の歌で、その意味で珍しいものである。全体として重苦しいものではなく、どちらかというと明るさのあるもので、気の利いたところもある。また求める小田は、求めつついる道程のもので、求められたのではなく、その労働は明日に続くべきものとなっている。歌柄から見て、謡い物として行なわれていたものであろうと思われるが、その意味でこの歌は、この当時の農民の生活気分を代弁しているものと解される。
1111 古《いにしへ》も かく聞《き》きつつや 偲《しの》ひけむ この古河《ふるかは》の 清《きよ》き瀬《せ》の音《と》を
古毛 如此聞乍哉 偲兼 此古河之 清瀬之音矣
【語釈】 ○古も 「古」は、広く古の時代をさしているもので、古の人々もまた。○かく聞きつつや偲ひけむ 「や」は、疑問の係助詞。「偲ふ」は、ここは眼前のものを賞美する意のもの。○この古河の 「この」は、眼前を指したもの。「古河」は、初瀬にもあり、石上《いそのかみ》にもあつて、巻十二(三〇一三)「石上袖振《いそのかみそでふる》河の」とある。ここは石上と思われる。山辺郡の今の天理市|布留《ふる》で、石上神宮の東にあたる。
(352)【釈】 古の人もまた、このように聞き入りつつも賞美したことであろうか。この古河の清い瀬の音を。
【評】 河瀬の音の清らかなのに聞き入って賞美している心である。作者は賞美のあまり、これは自身だけのことではなく、古人も同様にしたことだろうと、不変な人間性を悠久なものにつないだのである。この瀬の音は清いばかりではなく、静かなものでもあったろうが、それを酷愛する心、また歴史的に感じようとする心は、我が国の特色といえるものである。歌としては、文芸性の多い、新風のものである。
1112 はね蘰《かづら》 今《いま》する妹《いも》を うら若《わか》み いざいざ河《かは》の 音《おと》の清《さや》けさ
波祢蘰 今爲妹乎 浦若三 去來率去河之 音之清左
【語釈】 ○はね蘰今する妹を 「はね蘰」は、巻四(七〇五)に出た。少女が年ごろに達した時に用いる髪飾だろうと想像されているだけある。大体かずらは、植物で輪を造り、頭髪の上に戴くもので、これもその範囲のものであろう。「今する」は、あらたに、すなわち初めて用いているという意で、「妹」がようやく年ごろに達したことを具象化していったもの。○うら若み 「うら」は心で、うぶなのでというにあたる。これは男女間についていっているもの。○いざいざ河の音の清けさ 上の「いざ」は、上を承けて、男がいざと、情事関係に誘う意のもので、この「いざ」を「いざ河」の「いざ」へ畳音の関係でかけたものである。すなわち初句より「いざ」までは、序詞である。「いざ河」は、率河と書き、春日山より発し、猿沢他の南をめぐって柏木池の近くで佐保川へ注ぐ川。
【釈】 はねかずらを初めて用いる妹がうぷなゆえに、事を知らないので、いざと情事に誘う、そのいざに因みある名の率河の瀬の音の清かであることよ。
【評】 「はね蘰今する妹」という言葉は、早婚な当時のこととて、男の目にはきわめて印象的に見えることであったらしく、用例の少なくないものである。これもそれを三句以上まで言い続け、しかも「いざ」といういわゆる際どいことへまでもっていった上で、「いざ河の音の清けさ」という、きわめてかけ離れたものと結びつけているのである。この序詞の用い方、対照の際やかさは、まさに典型的な謡い物である。それでいてこの歌には統一された味わいがあって、一首全体としてみると、「はね蘰今する妹」の可憐にして清純なのと、小渓流のいざ河の瀬の音の、低くして清らかなのとは、溶合して侵し合わないものがある。さらにいうと、調和しそうもない人事と自然とが、生き生きとした状態において微妙に調和しているのである。奈良京の人の歌と思われるが、この歌を謡う人も聞く人も、人事と自然を渾融させようとし、またさせていた気分が窺われるのである。その意味で注意を引く歌である。
(353)1113 この小川《をがは》 白気《きり》ぞ結《むす》べる 流《なが》れゆく 八信井《はしりゐ》の上《うへ》に 言挙《ことあげ》せねども
此小川 白氣結 流至 八信井上尓 事上不爲友
【語釈】 ○この小川白気ぞ結べる 「白気」を「きり」と訓んだのは、仙覚以来である。二句より四句までの訓は定まらず、語注さまざまである。この歌の訓は、『略解』の訓に従ったものである。この小川の上に霧が結んでいることであると、訝かった心である。冬の寒い頃は、川の上にだけ霧の立つことは普通のことであるのに、それを訝かっているのは、そこに意外を感じたのである。○流れゆく八信井の上に 「井」は上代は、広く飲用水を汲む場所の称で、川の水を飲料にしている地では、水汲み場所を定めて、そこを井と称していたのである。「八信井」は、走り井で、流れゆく水を飲料としている所での称である。「流れゆく走り井」は、上の「小川」の一部が、すなわちそれである。「上に」は、ほとりに。○言挙せねども 「言挙」は、言葉に出して自身の意見を主張し、または議論をすること。これは古来禁忌としていることで、我が国では自身を主張せずとも、神々は照覧し、しかるべく守護しているとする信仰につながりをもってのことである。この歌では、小川に霧の結ぶということは、そこで言拳をした場合のことであるとし、それをしないのだけれども霧が立っていると訝かった形になっている。嘆きをすると霧が立つという歌は集中に少なくはない。その霧は荒い息の冷たい外気のために凝ったものであろうから、言挙によっても同じく霧は立ちうるはずである。ここは、霧は言挙より立つものとし、今はそれをしないのに立っていると訝かっているのである。
【釈】 この小川に霧が結んでいることである。流れてゆく走り井のほとりで、我は言拳をしないけれども。
【評】 この歌は言ったように二句から四句までの訓が定まらないので、はっきりとはいえないが、しかし大意は上にいったものとさしてかけ離れたものではなかろぅと思う。しかしその大意の背後にあるもので、同時に大意の内容をなしているものはわからない。窺えることは、走り井のある小川に霧の立つということは、その井のほとりで言拳をした時に起こりうることだとすること、その部落の共有の水汲み場所は、言挙といぅ禁忌になっていることは特にすべからざる場所だということ、あるいはまた、水を汲むのは若い女子のすることで、男子である作者がそこで言挙をするということは甚しく避くべきことであるというような信仰があって、そうしたものがこの歌の背後にあるのではないかと思われる。こうした歌の存在しているのは、伝唱を通してのことであるか、または記録によってのことであるかはわからないが、とにかく一股性のある歌として存在したことは確かである。明らかにされるのを待つ他はない。
1114 吾《わ》が紐《ひも》を 妹《いも》が手《て》もちて 結八川《ゆふやがは》 又《また》還《かへ》り見《み》む 万代《よろづよ》までに
吾紐乎 妹手以而 結八川 又還見 万代左右荷
(354)【語釈】 ○吾が紐を妹が手もちて 我が衣の紐を、妹が手をもって結うと続け、その「結ふ」を地名としての「結」にかけた序詞。夫の衣の紐を妻が結ぶことは集中の用例が多く、夫婦相逢って別れる時には、そうすることが習わしとなっていたのである。それをするのは、妻の魂を夫に添えて離れなくするという信仰よりのことであったのは、夫がその紐を解くことを甚しく忌んでいた歌のあるので知られる。○結八川 所在が不明である。『代匠記』は、前後の歌は大和国でのものであるから、続きの部分も国別としてある関係上、大和の国内の川と思われるが、不明だといっている。ようするに有名になるべき条件を備えていないためと思われる。○又還り見む万代までに またも立ち帰って来て見よう、永久にというので、結八川に対しての愛着をいっている形であるが、それとしては言いかたが事々しい。「妹」を関係させていっているものと取れる。
【釈】 我が衣の紐を妹の手をもって結うに因みある結八川よ。またも立ち帰って見よう、永久に。
【評】 この歌の詠み方は、上の(一一〇〇)人麻呂歌集の「巻向の痛足の川ゆ往く水の」と全く同じである。裏面は結八川に対する愛着であるが、心はその川のほとりに住んでいる妹に対してのものであろう。「吾が紐を妹が手もちて」は、実瞭のことで、それを序詞の形でいったものと取れる。さらにいうと、そうした状態で別れをする時、男が女に対して自身の真実を誓った歌である。それであればこそ「万代までに」と言わなければならなかったのである。またこのことが一般性をもったものなので、伝唱もされたものと解せる。
1115 妹《いも》が紐《ひも》 結八河内《ゆふやかふち》を 古《いにしへ》の 人《ひと》さへ見《み》きと こを誰《たれ》か知《し》る
妹之紐 結八河内乎 古之 并人見等 此乎誰知
【語釈】 ○妹が日も結八河内を 「妹が紐」は、結うと続け、「結」の枕詞としたもの。妹の衣の紐を夫が結う意で、心は前の歌と同じく信仰よりのことである。「結八河内」は、結八河の河内で、河内は河岸に立って見渡せる範囲の称。○古の人さへ見きと 「人さへ」は、『古義』の訓。我が今見るばかりでなく、古の人までも見たと。○こを誰か知る 「こを」は、後世のそをで、上の四句を指したもの。「誰か知る」は、誰が知ろう、知る者はなく、我のみが知っている。
【釈】 妹が紐を結うに因みあるこの結八河の河内を、今の我のみではなく古の人までも見た、そのことを誰が知ろう、我が知っているだけである。
【評】 前の歌と同じ作者で、同じ時、妹と別れて、妹が住んでいる結八川の河内を眺めて、しみじみと妹の可愛ゆい心から詠んだものである。今我がもっている妹を可愛ゆく思う心は、古人も同じくもっていたもので、この結八川の河内の地を、我と同じ心をもって見たに相違ない。そのことは今のわが心からはっきりと知られることで、人には知られなくても我には知られるというのである。さらに言えば、自分の体験をとおして、見ぬ古人のこともはっきりと知られるという、静かに思い入った深い心の歌である。この歌の詠み方には著しく特色がある。語づかいの簡潔で、しかも含蓄の多いことはほとんど類のないものだからである。三句以下などことにそうである。これは明らかに漢詩の影響を受けたもので、それを十分に摂取し消化したためと思われる。当時の知識人の歌であることは疑いがない。なお上の歌と同時のものということは、「妹が紐結八河内」という枕詞で、これは「吾が紐を妹が手もちて」に照応させたもので、いずれもこの作者の創意よりのものである。この自在な歌才から推すと「結八川」という所在不明の川は、あるいは作者の設けた想像の名であるかも知れぬ。二首相聞である。
露を詠める
1116 烏玉《ぬばたま》の 吾《わ》が黒髪《くろかみ》に ふりなづむ 天《あめ》の露霜《つゆじも》 取《と》れば消《け》につつ
烏玉之 吾黒髪尓 落名積 天之露霜 取者消乍
【語釈】 ○烏玉の吾が黒髪に 「烏玉の」は、枕詞。女がその髪の毛を愛でる心で、いっているもの。○ふりなづむ天の露霜 「ふりなづむ」は、「なづむ」は、滞るで、ここは溜まるというにあたる。降って来て溜まる意。「天の露霜」は、「天の」は、天上より来るものとして添えた語、「露箱」は、水霜。○取れば消につつ 「取れば消につつ」は、手に取れば、消え消えする。
【釈】 吾が黒髪の上に、降って来ては溜まる水霜を、手に取れば消え消えする。
【評】 若い女が寒い夜の夜更けに戸外に立って、通《かよ》って来る夫を待って立ち続けている心である。叙事の勝った古風な、重量感をもった歌なので、謡い物として適したものである。相聞である。
花を詠める
1117 島廻《しまみ》すと 礒《いそ》に見《み》し花《はな》 風《かぜ》吹《ふ》きて 波《なみ》はよるとも 取《と》らずは止《や》まじ
島廻爲等 礒尓見之花 風吹而 波者雖縁 不取不止
【語釈】 ○島廻すと礒に見し花 「島廻る」は、島そのものもいい、島めぐりをもいう語である。ここは島めぐり。「礒に見し花」は、「礒」は、岩の海岸。「見し花」は、見かけた花で、「花」は、女を譬えたもの。○風吹きて波はよるとも 風が吹いて波が立ち、船が寄せ難かろうともの意で、(356)花である女の得難い意を譬えたもの。○取らずは止まじ 「取らずは」は、花を取るに、女を得ることを譬えたもの。
【釈】 島めぐりをするとて、磯の上にわが見かけた花よ。風が吹いて波が立ち、船が寄せ難かろうとも、手折らずにはやむまい。
【評】 相聞の範囲の歌で、譬喩歌である。譬愉歌であるために拡がりをもちうるもので、謡い物として謡われていたものと思われる。
葉を詠める
1118 古《いにしへ》に ありけむ人《ひと》も 吾等《わ》が如《ごと》か 三輪《みわ》の檜原《ひばら》に 挿頭《かざし》折《を》りけむ
古尓 有險人母 如吾等架 弥和乃檜原尓 挿折兼
【語釈】 ○古にありけむ人も 古の代にいたであろう人もまた。○吾等が如か 吾がするがごとくに。「か」は、疑問の係助詞。〇三輪の檜原に挿頭折りけむ 「三輪の檜原」は既出。「挿頭」は、髪さしで、古くは草木の花、または木の枝を髪に挿したのである。これは信仰である。挿頭を折るのは信仰よりのことで、三輪の檜原といっているのは、三輪の神を守護神と仰ぐ心からである。
【釈】 古に生きていたであろう人も、今吾がするごとく、三輪の檜原で挿頭を折ったことであったろうか。
【評】 痛足川のほとりの女の許へかよって行っていた折、守護神である三輪の社へ女とともに詣でるようなことがあって、そういう際の礼として三輪の檜原の檜の枝を揺頭に折った時の感である。三輪の神は建国当時からの皇室の守護神であるから、皇室の臣民の守護神であることはいうまでもない。信仰心のことに深かった人麿は、挿頭としての檜の枝を折るとともに、そのことは三輪の神を中心として古代の人のすべての人のしたことだと感じ、その人々と自身と一体であるごとき深き繋がりを感じたのである。これは信仰を通してのみ感じ得られる深い人生味である。「吾」を「吾等」という複数の文字であらわしているのは、一緒にいたのは痛足川の女ではないかと思わせ、それだとこの場合、最も自然であり、また情味深いことである。単純な形での抒情ではあるが、人麿の信仰心の具象的な現われで、したがって拡がりのある、味わい深い作である。
1119 往《ゆ》く川《かは》の 過《す》ぎにし人《ひと》の 手折《たを》らねば うらぶれ立《た》てり 三輪《みわ》の檜原《ひはら》は
徃川之 過去人之 手不折者 裏觸立 三和之檜原者
(357)【語釈】 ○往く川の過ぎにし人の 「往く川の」は、その水の過ぎることから、「過ぎ」の枕詞。「過ぎにし人」は、この世を去った人で、すなわち古の人。○手折らねば 挿頸として今はその枝を折らないので。○うらぶれ立てり三輪の椅原は 「うらぶれ」は、憂えしおれる。「立てり」は檜原の状態。
【釈】 今は世を去った人が、挿頭としてその枝を折らないので、しおれて立っている。この三輪の檜原は。
【評】 上の歌との連作である。「往く川の過ぎにし人の手折らねば」は、一見、妙な言葉である。死んだ人が手折らないのは当然にすぎることだからである。人麿の心は、古の人は挿頭としたが、今の人はしない。したがって今は挿頭とする人が居ないということを、このように言っているのである。婉曲な言い方ではあるが、しかし重々しい言い方をしているので、その心持は十分に現われている。「うらぶれ立てり」は、人々の信仰の衰えて来たことを、挿頭とされてきた三輪の檜原の檜が悲しんでいる心をいっているものである。檜は、同じ常磐木の松杉などにくらべると、木のさまがさぴしげであるから、視覚的にいえば妥当性のあるものである。この歌は上の歌とは異なって複雑した心を気分化して詠んでいるものであるが、しかし言葉つづきは直線的で、沈痛な気分の籠もっているものである。人麿の信仰心を濃厚に示している歌である。
右二首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
右二首、柿本朝臣人麿謌集出。
蘿《こけ》を詠める
1120 み芳野《よしの》の 青根《あをね》が峰《みね》の 蘿席《こけむしろ》 誰《たれ》か織《お》りけむ 経緯《たてぬき》なしに
三芳野之 青根我峯之 蘿席 誰將織 經緯無二
【語釈】 ○青根が峰 離宮のあった宮滝から南方に見える山で、吉野山中の最高峰、金峯山の東北につづく山。標高八五八メートル。○蘿席 「蘿」は蘚苔類、地衣類の総称。「席」は敷物の総称で、集中にも綾席(綾で造った席)、稲席(藁で織った席)などがある。羅席はそれらに擬して、地に生えている蘿を席と見立てた称で、熟語。○誰か織りけむ 席は人の織るものなので、その心から訝かった形にして、驚嘆の情をいったもの。○経緯なしに 経糸も緯糸もない緻密なありさまにの意で、当時の布の織方は粗く、経緯の差別のありありとしていたのに較べての賞讃。
【釈】 み吉野の青根が峰の蘿席は、誰がこのように織ったのであろうか。経糸も緯糸もない緻密なありさまに。
(358)【評】 吉野山には仙女が住んでいるということは、神仙思想の流行から、飛鳥時代以来信ぜられていたことである。この歌は青根が峰の蘿を讃めたのであるが、その讃め方は、蘿の美についてではなく、実用品の席を連想した上で、その織り方の尋常でないことを怪しみをもって讃めたものである。仙女もその女であるゆえに物を織ることをいっている詩歌があり、所も吉野であるから、この歌も仙女を背後に置いていっているものと思われる。巻八(一五一二)大津皇子の「経《たて》もなく緯《ぬき》も定めず未通女等《をとめらが》が織れる黄葉《もみち》に霜な零《ふ》りそね」があり、この歌と同系統のもので関係のあるものにみえる。皇子の歌に較べるとこの歌は、取材としては素朴であり、実際に即する度も強いものであるが、詠み方としてはかえって巧緻で、皇子の歌の影響を受けたものかと思われる。
草を詠める
1121 妹等許《いもらがり》 我《わ》が通《かよ》ひ路《ぢ》の 細竹《しの》すすき 我《われ》し通《かよ》はば 靡《なび》け細竹原《しのはら》
妹等所 我通路 細竹爲酢寸 我通 靡細竹原
【語釈】 ○妹等許 「等」は接尾語で、「許」は、妹のもと。○細竹すすき 「細竹」は文字通り小竹。「すすき」は、禾本科の一種である今の薄の称でもあるが、また、草の叢生したものの称でもある。ここはその後のもので、小竹の叢がりで、一語。『古義』は今|篠芒《しのがや》と称している物だという。呼懸け。○我し通はば靡け細竹原 「し」は読添え。強者の助詞。「靡け」は、靡けよと命じた形で、歩く妨げをするなの意。「細竹原」は、「細竹すすき」を語をかえての繰り返しで、呼懸け。
【釈】 妹のもとへと我が通って行く路にある篠芒よ。我がかよって行ったならば、靡いて妨げをするな、細竹原よ。
【評】 妹を思う心の延長として、その妨げになるものに対して無理な注文をするのは、一般性をもった心で、人麿の「靡けこの山」はその代表的なものである。この歌もその系統のもので、何びとをも微笑させるものであったろう。平明で、華やかで、調子がよく典型的な謡い物である。広く謡われたものと思われる。
鳥を詠める
1122 山《やま》の際《ま》に 渡《わた》る秋沙《あきさ》の 行《ゆ》きて居《ゐ》む その河《かは》の瀬《せ》に 浪《なみ》立《た》つなゆめ
山際尓 渡秋沙乃 行將居 其河瀬尓 浪立勿湯目
(359)【語釈】 ○山の際に渡る秋沙の 「山の際」は、山の間。「に」は、後世の「を」にあたるもの。「渡る」は、飛び渡ってゆく。「秋沙」は、今あいさといい、秋来て春去る渡り鳥。小鴨に似ている。○行きて居むその河の瀬に そこまで行って、下りているだろうところの河瀬にで、河瀬は、食餌としての小魚をあさる目的地。○浪立つなゆめ 浪よ立つな、決してと、強く禁止した語で、秋沙を憐れむ心からいっているもの。
【釈】 山の間を飛び渡って行く秋沙の、行って下りているだろうその河の瀬に、浪よ立つな、決して。
【評】 「山の際に渡る秋沙の」と、秋沙としてはやや特殊な言い方をしているのは、渡り鳥である秋沙の、秋、初めて渡って来たのを見懸けて、その山の間を渡るのに、遠く来たことを思いやって隣れむ心からいっているものである。この時代の歌には鳥に関係したものが多く、鳥の種類も多い。秋沙なども後世の歌には見られないものである。
1123 佐保河《さほがは》の 清《きよ》き河原《かはら》に 鳴《な》く千鳥《ちどり》 河津《かはづ》と二《ふた》つ 忘《わす》れかねつも
佐保河之 清河原尓 鳴知鳥 河津跡二 忘金都毛
【語釈】 ○鳴く千鳥河津と二つ 「河津」は、河鹿で、しばしば出た。「千鳥と河津と」の意を、上の「と」は用いずに、下にだけ添えるのは、当時の語格で、例の多いもの。○忘れかねつも 「かね」は、得ずの意で、現在の口語にも用いている。「も」は、詠歎。
【釈】 佐保河の清い河原に鳴くところの千鳥の声と、河鹿の声との二つが、なつかしくて忘れ得ないものであるよ。
【評】 佐保川の辺りに住んでいる人の、旅にあって京を思った心である。風光を思うと、その中でも生き物の鳴き声が思われ、ことにその声の幽かにして憐れむべきものが思われてくるということは、奈良京時代の一つの特色ともいえるものである。この歌もそれである。詠み方もその心にふさわしく平明なものである。
1124 佐保川《さほがは》に 小驟《さをど》る千鳥《ちどり》 夜更《よくだ》ちて 汝《な》が声《こゑ》聞《き》けば 宿《い》ねかてなくに
佐保川尓 小驟千鳥 夜三更而 尓音聞者 宿不難尓
【語釈】 ○小驟る千鳥 「小驟」は訓が定まらない。字書に「少(シ)疾(キヲ)曰(フ)v驟(ト)」とあり、馬の疾走する状態をいう字である。「さをどる」「さばしる」など訓まれている。いずれも千鳥の状態をいう語としては用例のないものである。「さをどる」に従う。「さ」は接頭語。千鳥は呼懸け。○夜更ちて汝が声聞けば 「夜更ちて」は、『考』の訓。「汝」は、『代匠記』の訓。○宿ねかてなくに 『考』の訓。「かて」は、可能。「なく」は打消「ず」(360)の名詞形。「に」は、詠歎。
【釈】 佐保川に躍って遊んでいる千鳥よ。夜更けて汝れが鳴くと、我は眠ることが出来ないことであるよ。
【評】 佐保川の辺りに住み、昼は千鳥の躍って遊んでいるのを見て親しんでいる人が、夜はその細くあわれな、感傷を誘う声に催されて、物思いをして眠られない歎きをいっているものである。物思いとはいえ、独り寝の床に人を思う甘いものであることは、千鳥の声との関係で察しられる。天平期の歌である。
故郷《ふるさと》を思《しの》ふ
1125 清《きよ》き湍《せ》に 千鳥《ちどり》妻《つま》喚《よ》び 山《やま》の際《ま》に 霞《かすみ》立《た》つらむ かむなびの里《さと》
清湍尓 千鳥妻喚 山際尓 霞立良武 甘南備乃里
【語釈】 ○清き湍に千鳥妻喚び 「清き湍」は、飛鳥についていっているので、飛鳥川の清き瀬。「妻喚び」は『代匠記』の訓。千鳥の鳴き声を、妻を喚んでのものと想像するのは、その声のあわれさからで、慣用に近いものであるが、ここは実感としていっているもの。○山の際に霞立つらむ 「山の際《ま》」は、山の問で、飛鳥には山が多いので、いずれの山ともわからない。「際」は、霞の濃く見えるところである。○かむなびの里 「かむなび」は、神の杜の称で、普通名詞。「神なびの里」は、飛鳥も竜田もそう呼んでいる。ここは故郷すなわち故京としてで、飛鳥である。
【釈】 その清い河瀬には、千鳥が声やさしく妻を喚び、山の間には霞が立っているであろう、神なびの里は。
【評】 奈良京にいて、故京となった飛鳥の里をなつかしく思って想像した心である。時は春の初めで、想像に浮かんでくるものは、近景としては千鳥の鳴き声、遠景としては、山の間にだけ目立って見える霞という、可憐なほのかな、平穏な光景である。これが奈良京の人の好みだったのである。
1126 年月《としつき》も 未《いま》だ経《へ》なくに 明日香川《あすかがは》 湍瀬《せぜ》ゆ渡《わた》りし 石走《いはばし》も無《な》し
年月毛 未經尓 明日香川 湍瀬由渡之 石走無
【語釈】 ○年月も未だ経なくに 年月《としつき》というほどはまだ経過しないことであるのにで、飛鳥からの遷都を背後に置いてのもの。○湍瀬ゆ渡りし (361)「湍瀬」は、幾つかの瀬。「ゆ」は、経過の地点を示すもので、を通って。「渡りし」は、渡って行った。○石走も無し 「石走」は、「いはばし」「いはばしり」と両様の訓がある。ここは後のもので、石橋であり、川の瀬に飛び石を並べて、それを踏んで渡るもの。既出。
【釈】 遷都の後、年月もまだ経ないことであるのに、明日香川の湍瀬をそれによって渡った石橋もない。
【評】 飛鳥の故京となるとたちまちに荒れてしまったことを、その地に行って見て悲しんだ心である。飛鳥川は湍瀬の定まらない流れの変化のはげしい川であるから、したがって石橋の変化もはげしかったとみえる。故京となるとともになくなったのは自然である。
井を詠める
1127 落《お》ちたぎつ 走《はし》り井《ゐ》の水《みづ》の 清《きよ》くあれば 廃《お》きては吾《われ》は 去《ゆ》きかてぬかも
隕田寸津 走井水之 清有者 癈者吾者 去不勝可聞
【語釈】 ○落ちたぎつ走り井の水の 「落ちたぎつ」は、流れ落ちて泡立つところの。「走り井」は、湧く水でも川の水でも、その流れるところに井すなわち飲用水の汲み場所として設備してあるところの称。○清くあれば 『略解』の訓。○廃きては吾は あとに残してはで、そこを立ち離れようとする際の心。○去きかてぬかも 立ち去ることが困難であるよで、「かてぬ」は既出。「かも」は詠歎。
【釈】 流れ落ち泡立っているところの走り井の水の清くあるので、その好もしさから、あとに残して吾はここを立ち去り難いことであるよ。
【評】 「落ちたぎつ走り井」というのは、山寄りなど、傾斜をもった地盤にある湧き水かまたは小川で、その水の飲用に適したものの称である。飲用水は生活上の基本のものであるが、上代の大和国にあっては得やすくなかったことが、集中の歌によって知られる。したがって大和国の人にとっては、ここにあるような井は貴くも好もしく、わが物人の物の差別も思わせないものであったろう。この歌の作者は、その走り井のある土地の人か、通りがかりの余所の人かはわからないが、大和国の人である限り、こうした感は平等にもったろうと思われ、したがって一般性をもった歌で、謡い物となりうる歌である。
1128 あしびなす 栄《さか》えし君《きみ》が 穿《ほ》りし井《ゐ》の 石井《いはゐ》の水《みづ》は 飲《の》めど飽《あ》かぬかも
(362) 安志妣成 榮之君之 穿之井之 石井之水者 雖飲不飽鴨
【語釈】○あしぴなす栄えし君が 「あしび」は、馬酔木の字を当ている。ここはその花を意味させたもの。大和地方には多い木で、白い壺状の小さい花が房をなして春咲く。「なす」は、のごとく。そのごとく栄えし君が。花そのものとしては華やかとは言い難いものであるのに、それを栄えの譬喩に捉えているのは、井のほとりには水を保護するものとして必ず木を育てていたので、このあしびはそうした関係のものであったろう。「栄えし君」は、物の豊かに、賑わしく暮らした君で、この作者には尊ぶべき人で、今は故人となっている人。○穿りし井の石井の水は 「穿りし井」は、掘り井戸で、今、井戸といっているもの。「石井」は、石で組立てた井の総称。○飲めど飽かぬかも 見れど飽かぬと同じく、絶讃した語。
【釈】 あしぴの花のごとくにも栄えていた君が掘った井の、この石井の水は、幾ら飲んでも飽かないことであるよ。
【評】 上代の井は大体流れ川の一部であり、また部落の共同のものであったから、この穿りし井の石井というのは、「栄えし君」の個人的のものであったかと思われる。作者は井のほとりのあしびが花の咲いている晩春の頃、たまたまその井の水を飲むことがあって、それとともに知合いであった「栄えし君」という故人を思い出してなつかしんだ心である。情景ともにそなえている、清らかな感をもった歌である。
倭琴《やまとごと》を詠める
【解】 「倭琴」は日本在来の六絃の琴である。巻五(八一〇)に出た。上代としても古風な物だったのである。
1129 琴《こと》取《と》れば 嘆《なげ》き先立《さきだ》つ 蓋《けだ》しくも 琴《こと》の下樋《したひ》に 嬬《つま》も匿《こも》れる
琴取者 嘆先立 蓋毛 琴之下樋尓 嬬哉匿有
【語釈】 ○琴取れば嘆き先立つ 「琴取れば」は、琴を弾こうとして、手に取れば。「嘆き先立つ」は、琴を弾くと、その音に催されて嘆きが起こるるものとし、その嘆きが、弾かない前から起こる意をいったもの。○蓋しくも 推量の意をあらわす副詞「けだし」に、「く」の接続した詞。おそらくは。○琴の下樋に嬬や匿れる 「下樋」は、琴の表板の間のうつろとなっているところの称。「嬬」は、ここは故人となっている人。「や」は、疑問の係助詞。「匿れる」は、嬬の魂の籠もっているかと思っていっているのであるが、これはもののうつろとなったところには神霊が籠もるという上代信仰に立っての感。
【釈】 琴を弾こうと手に取ると、嘆きが先立って起こってくる。おそらくは琴の下樋に亡き嬬の魂が隠れているのであろうか。
(363)【評】 嬬を喪った嘆きをもっている人が、心をまぎらすために琴を弾こうとして膝に載せると、琴によって事を思い出すことがあって、新たに嘆きが起こってきた。その嘆きを、琴に隠れている嬬の魂のさせるものかと、上代信仰よりの連想でいっているのである。心理が自然で、詠み方が甚だ老熟しており、老境の人の思われる作である。品が高く味わいのある歌である。
芳野にて作れる
1130 神《かむ》さぶる 磐根《いはね》こごしき 三芳野《みよしの》の 水分山《みくまりやま》を 見《み》れば悲《かな》しも
神左振 磐根己凝敷 三芳野之 水分山乎 見者悲毛
【語釈】 ○神さぶる磐披こごしき 「神さぶる」は、神の威力をあらわしているで、神々しい。「磐根」は、磐で、「根」は接尾語。「こごしき」は、凝固しているで、峻しい意。水分山につづく。〇三芳野の水分山を 「水分山」は、水分神社のあるところから、山の名となったもの。神社は一目干本の上方にある。水分の神は水を配分する神で水神である。祈年祭の祝詞に出ている神で、今は子守神社という。○見れば悲しも 「悲し」は、意味の広い語で、悲しい意、恋しい意、賞美の意にも用いる。ここは賞美で、感歎するにあたる。
【釈】 神々しい磐の凝り固まって険しいところの、このみ芳野の水分山は、見ると感歎されるよ。
【評】 水分山を見て、その岩石の重畳しているさまの神々しさを感歎した心である。上代の巨石は神霊の宿るものとし、神そのものとして信仰したのであった。ここも磐根に神性を感じていっているもので、風景としてではない。これは古くは説明を要さないことだったのである。古風な歌である。
1131 皆人《みなひと》の 恋《こ》ふるみ芳野《よしの》 今日《けふ》見《み》れば 諾《うべ》も恋《こ》ひけり 山川《やまかは》清《きよ》み
皆人之 戀三芳野 今日見者 諾母戀來 山川清見
【語釈】 ○皆人の恋ふるみ芳野 知っているすべての人が、見たがって憧れている吉野を。○今日見れば諾も恋ひけり 今日我も来て見ると、その恋うているのももっともであった。○山川清み 山も川も清いので。
【釈】 皆人の憧れているみ吉野を今日我も来て見ると、その憧れるのはもっともであったよ。山も川も清らかなので。
【評】 実感をいっているものであるが、口頭で言うのを歌の形にした程度のものである。輪郭を言っているにすぎないもので(364)あるが、素朴に、正しい形でいっている。
1132 夢《いめ》のわだ 言《こと》にしありけり うつつにも 見《み》てけるものを 念《おも》ひし念《おも》へば
夢乃和太 事西在來 嬉毛 見而來物乎 念四念者
【語釈】 ○夢のわだ言にしありけり 「夢のわだ」は、巻三(三三五)に出た。吉野川の、離宮の所在地にある淵の名。「わだ」は湾形を成している淵の称。下市町新住説、丹生川上流説もある。「言」は、ここは名の意。「し」は、強意の助詞。夢のわだというのは、ただ名だけのことなのであったで、名は実の伴うべきものであるのに、名だけのものであったというのである。○うつつにも見てけるものを 「うつつ」は現前で、夢に対させたもの。「見てけるものを」は、見てしまったのに。○念ひし念へば 念いに念っていればで、念いを強くいったもの。
【釈】 夢のわだというのは、ただ名だけのものなのであった。我は夢とは反対の現前に見てしまったのに。見たいと思いに思っていれば。
【評】 吉野の名所の一つである夢のわだを見ての感である。上代は物の名には、その名に伴う実があるとする信仰があったので、夢のわだと、夢という名をもったわだは夢でなくては見られないものとしていたのに、現前に見てしまったので、不可能を遂げ得たがごとき喜びを感じたのである。もっともそれには「念ひし念へば」という条件を伴わせているのである。信仰を背後に置いての実感であって、技巧はまじえていないものである。「し」の強めを重ね、屈折と粘りをもっていっているのは、実感の強さをあらわそうがためである。
1133 皇祖神《すめろぎ》の 神《かみ》の宮人《みやびと》 冬薯蕷葛《ところづら》 いや常《とこ》しくに 吾《われ》かへり見《み》む
皇祖神之 神宮人 冬薯蕷葛 弥常敷尓 吾反將見
【語釈】 ○皇祖神の宮人 「皇祖神」は、皇祖に限っての称と、皇祖以来を継承された天皇を申す称で、現代まで及ぼしている。ここは後者で、現代の天皇を申しているもの。「神の宮人」は、神の宮に仕える人で、宮人自身その職を尊んでの自称である。○冬薯蕷葛 本居宣長の訓。今は野老という。葉も根も山の芋に似た蔓草。根を食用とする。同音で「常」にかかる枕詞。○いや常しくに吾かヘリ見む 「いや」は、いよいよ。「常しく」は、名詞「常」を形容詞風に活用させた語で、永久に。「吾」は、神の宮人。「かへり見む」は、立ち帰ってここを見ようで、対象は吉野官である。
(365)【釈】 皇祖の神の宮人なる吾は、いや常しえに行幸の供奉をして、この宮を立ち帰って見よう。
【評】 行幸の供奉をして、吉野離宮へ参っている宮人が、自身の位地を通して宮を賀した歌である。天皇には直接に触れず「皇祖神の神の宮人」という自身の職をあらわす語をとおして、間接に、しかし荘重にあらわし、また、行幸の永久に続くことを賀するに、「冬薯蕷葛いや常しくに」と、これまた重くいっているのは、要を得た賀歌である。風景に触れないのは古風で、老成者の風がある。
1134 吉野川《よしのがは》 石迹柏《いはとかしは》と ときはなす 吾《われ》は通《かよ》はむ 万世《よろづよ》までに
能野川 石迹柏等 時齒成 吾者通 万世左右二
【語釈】 ○吉野川石迹拍と 「石迹柏と」は、諸説があって定まらない。『代匠記』は「石迹《いはと》」は石門《いはと》で、石のある川門《かはと》。「柏」は、「磐」だといい、本居宣長は、「迹柏」は、「常磐《とこしは》」の転音で、「石《いは》の常磐」と重ねたものだといい、『略解』『古義』はこれに従っている。『新考』は「石迹」は、石門で、吉野川の南岸には岩が連なっているのをいったもの、「柏と」は堅磐門《かしはと》で、同じ物を語を換えて重ねたもので、初二句は三句「常磐」の序詞であろうといっている。この句は、吉野離宮との関係においていっているものであるから、滝の辺りの実景に即したものであり、また語《ことば》としても平明を期したものであろうと思われる。「石迹」は、『代匠記』『新考』のいうごとく「石門《いはと》」と思われるが、意は、吉野川の両岸の岩と岩とが相迫り、川幅を狭くしていて、川門と同じく岩門というべき状態になっているのを称したのではないかと思われる。「柏」は、「堅磐《かたしは》」で、そうなっているところの磐は堅磐と称すべきものであるから、その約として「柏《かしは》」といっているもので、岩門の堅磐の意であろうと思われる。「と」は、並ぶ意の助詞で、ともにの意。○ときはなす 常磐のごとくで、永久にの意。○吾は通はむ万世までに 宮人の吾は供奉としてここに通おう、万代の後までと、供奉ということを通しての賀の心を述べたもので、その点上の歌と同じである。
【釈】 吉野川の、離宮に近い滝《たぎ》の辺りの、石門《いわと》と堅磐《かしわ》との永久であるごとくに、吾もまた供奉をしてここに通おう。万年と限りない後まで。
【評】 前の歌と同じく、吉野離宮の行事に供奉をしての賀歌である。第二句は語義に疑いのあるもので明らかではないが、永久の譬として岩を捉えていっていることだけは明らかである。これは常套的なことで、人麿の賀歌にもあったことである。この当時の人には問題にならなかったことなので、いずれ明らかにされることと思われる。
山背にて作れる
(366)1135 宇治河《うぢがは》は よど瀬《せ》無《な》からし あじろ人《びと》 舟《ふね》呼《よ》ばふ声《こゑ》 をちこち聞《きこ》ゆ
氏河齒 与杼湍無之 阿自呂人 舟召音 越乞所聞
【語釈】 ○宇治河はよど瀬無からし 「よど瀬」は、水の淀んでいる瀬で、静かな瀬で、それがないのだろう。あれば徒渉が出来るの意でいうもの。○あじろ人 網代人で、網代を構えて氷漁《ひお》を掬《すく》い取ることをしている人。氷漁を掬うのは大体九月から十二月までで、氷漁が琵琶湖から宇治川を下る季節である。方法は、夜、篝を焚いて、氷漁を寄せ集めて採ったのである。○舟呼ばふ声をちこち聞ゆ 「呼ばふ」は、呼ぶの継続。「をちころ」は、そちこちで、網代人が家に帰ろうとしてのためで、夜のことである。
【釈】 宇治川には、徒渉のできる淀んだ瀬がないのだろう。網代人が夜家へ帰ろうとして、川の中の網代から、舟を呼び続ける声がそちこちに聞こえる。
【評】 旅人の第一印象として、視覚を働かせることの出来ない闇の夜、浪音の荒い宇治川の川の上から起こってくる網代人の舟を呼び立てる声々によって、その川の流れのいかに荒いものであるかを想像した心のものである。事としてみるときわめて自然であるが、一首の歌としてみると、闇の中より起こる声がおのずから甚だ効果的なものとなって、魅力の多い歌となっている。「よど瀬無からし」という推量は、むしろ蛇足の感がある。
1136 宇治河《うぢがは》に 生《お》ふる菅藻《すがも》を 河《かは》早《はや》み 取《と》らず来《き》にけり ※[果/衣]《つと》に為《せ》ましを
氏河尓 生菅藻乎 河早 不取來尓家里 ※[果/衣]爲益緒
【語釈】 ○生ふる菅藻を 「菅藻」は、河に生ずる藻で、葉は菅に似て(367)いて、食用とする物だという。○河早み取らず来にけり 「河早み」は、河の流れが早いゆえに。「取らず来にけり」は、採らずに来てしまったことだ。○※[果/衣]に為ましを 「※[果/衣]」は家苞《いえづと》で、家苞にしようものをで、「まし」は仮設。「を」は詠歎。
【釈】 宇治川に生えている菅藻を、川の流れの早いゆえに、採らずに来てしまった。採れたら家苞にしようものを。
【評】 旅人として宇治川を舟で渡った人が、流れの中に菅藻を見かけて、家苞として採りたいと思い、流れの早さのゆえにそれの出来なかったことを、あとになっても残念に思っている心である。庶民的なところに特色があるが、さしたる歌ではない。
1137 うぢ人《びと》の 譬《たとへ》のあじろ 吾《われ》ならば 今《いま》は生《な》らまし 木積《こづみ》ならずとも
氏人之 譬乃足白 吾在者 今齒生良増 木積不成友
【語釈】 ○うぢ人の譬のあじろ 「うぢ人」は、宇治の人。「譬のあじろ」は、「あじろ」は網代で、譬としている網代よと、詠歎を含めてのもの。その譬は、当時一般に知られていたものとみえるが、伝わらないので、まったくわからない。下の続きによって想像すると、網代へ、木積すなわち木屑《きくず》が寄って来たということを土台とした伝説ではなかったかと思われる。もしそうしたものであったとすれば、巻三(三八五−三八七)の柘《つみ》の枝《え》の伝説が連想される。それは昔吉野の味稲《うましね》という男が、吉野川で梁《やな》をかけて漁りをしていると、柘(桑)が流れて来てかかった。家へ持ち帰ると、枝は美女と変じ、味稲と同棲して、後彼を伴って仙宮へ飛遷したというのである。この神仙譚はひろく民間に伝わったらしいので、宇治へも伝わり、それとともに形も変わって、柘の枝は宇治川に多く流れて来る木積となって、架空な恋愛譚となっていたのではないかと想像される。「うぢ人の譬」といえば通じたということは、この種の譚でなくてはならない。今はかりにそうしたものとする。○吾ならば 譚の主人公柘の枝のごとき者を自身に擬して、それがもし自分であるとすればで、女性であろう。○今は生らまし 「生」は、『古葉類聚砂』のものである。諸本さまざまになっているが、これが最も古い形である。「生」は「香青生《カアヲナル》」など「なる」に用いているから、今のごとく訓む。「今は」は、以前に対させたもので、以前よりも心の昂じてきている今は。「ならまし」は、「なる」は変える意で、「まし」は「吾ならば」の仮説の帰結。○木積ならずとも 「木積」は、木の屑。宇治川に臨んだ田上山《たなかみやま》(巻一〔五〇〕に出る)は有名な製材所であったから、宇治川に流れ下る物が多かったとみえる。木積は「譬」の主人公の化身しての形で、吾はその木積ではなくても。原文「不成」は諸本「不来」であるが、『考』の誤写説に従う。
【釈】 宇治の人の網代に寄せての譚《はなし》よ。その譬の主人公がもし吾であるとしたならば、今は吾も身を変えて男に靡こう。その主人公のように木屑にはならなくても。
【評】 一首の作因となっている「網代の譬」が不明なので、強いて設けた譚によっての解で、架空のものである。しかしおそらくはこれと甚しくは異ならないもので、ある男にひそかに心を寄せている女が、「譬」を身に引き当てて、吾もそのようにし(368)たいとの心をいったものと取れる。そうした心は聞く男からは好まれるものなので、民謡として謡われていて、それが採録されたのではないかと思われる。
1138 うぢ河《がは》を 船《ふね》渡《わた》せをと 喚《よ》ばへども 聞《きこ》えざるらし ※[楫+戈]《かぢ》の音《おと》もせず
氏河乎 船令渡呼跡 雖喚 不所聞有之 ※[楫+戈]音毛不爲
【語釈】 ○船渡せをと喚ばへども 「船渡せを」は、「を」は詠歎。「船」は、橋がないための渡船。「喚ばへども」は、上に出た。喚び続けるけれども。○※[楫+戈]の音もせす ※[楫+戈]は、今の艫櫂の類。「も」は、詠歎。
【釈】 宇治河を、船を渡せよと我が喚び続けるけれども、舟子には聞こえないのであるらしい。※[楫+戈]の音も聞こえない。
【評】 旅人として宇治川を越えようとする人の心である。「喚ばへども聞えざるらし」は、宇治川の瀬の音が高く、喚び声がそれに紛らされてしまうためで、行動をとおしてそのことを自然に具象化させているのである。そのために情景ともに生かされて、深みのあるものとなっている。古風な歌である。
1139 ちはや人《びと》 うぢ川浪《かはなみ》を 清《きよ》みかも 旅《たび》去《ゆ》く人《ひと》の 立《た》ちかてにする
千早人 氏川浪乎 清可毛 旅去人之 立難爲
【語釈】 ○ちはや人うぢ川浪を 「ちはや人」は、「ち」は靈力、「はや」は男猛で、心猛き人。氏々にそうした人が多い意で、氏の枕詞。「うぢ川浪」は、宇治川の川浪。○清みかも 「清み」は、清いゆえ。「かも」は、疑問。○立ちかてにする 「かてに」は、「かて」は、可能の意、「に」は、打消「ず」の連用形。立ち去り難くしている。
【釈】 宇治川の川浪が清いゆえにか、旅する人の心引かれるとみえて立ち去り難くしていることよ。
【評】 この歌は、宇治川を興趣の対象として見た唯一のものであるが、それも旅人の状態をとおして第三者の推量としていっている間接なものである。「ちはや人」という枕詞は「うぢ川浪」の荒くして清いのに調和するものがあり、興趣とはいっても時代的特色のあるものである。
(369) 摂津にて作れる
1140 しなが鳥《どり》 猪名野《ゐなの》を来《く》れば 有間山《ありまやま》 夕霧《ゆふぎり》立《た》ちぬ 宿《やど》はなくして
志長鳥 居名野乎來者 有間山 夕霧立 宿者無而
【語釈】 ○しなが鳥猪名野を来れば 「しなが鳥」は、名が伝わっていず、何鳥の称であったかわからない。諸説があるが定められない。枕詞とみえる。それだと「ゐ」にかかるのであろう。「猪名野」は、猪名川両岸一帯の野、摂津国河辺郡、旧園田村の辺りの野。今、尼崎市に入る。伊丹の南、神崎の北にあたっている。「来れば」は、京より西下する途中で、西方に目的地を置いての言い方。○有間山 神戸市兵庫区有馬町、有馬温泉付近の山、猪名野より西方にあたる。
【釈】 しなが鳥猪名野を行くと、有馬山には暮れようとして夕霧が立った。宿るべき所はないのに。
【評】 上代の旅行としては普通な状態で、特殊なものではない。地名を二つまであげているのは、宿るべき家がなく野宿を予想するところから、旅情のわびしさが高められたがためで、それが効果をあげている。調べの簡古に力強いために生かされている歌である。
一本に云ふ、猪名《ゐな》の浦廻《うらみ》を榜《こ》ぎ来《く》れば
一本云、猪名乃浦廻乎、榜來者
【語釈】 ○猪名の浦廻 猪名川の河口付近の称。「廻」は湾曲している所の称。これは第二、三句で、海上での歌である。当時の航海法は、陸に寄って漕ぎ、夜は上陸して寝ることになっていたので、一首の心として無理のないものである。
【評】 この一本の歌は、上の歌の別伝ではなく、他の作者によって作られたものである。作因は、この歌にある通り海上を漕いで出て、夕暮、その夜を寝るべき上陸地点を求めようとしている時の心である。その時この歌の作者は、上の歌を記憶していて、それに縋りつつ自身のその際の心をいったので、このことは集中に例の少なくないことである。上の歌の適切さがない。
1141 武庫河《むこがは》の 水脈《みを》を急《はや》みか 赤駒《あかごま》の 足《あ》がく激《たぎ》ちに 沾《ぬ》れにけるかも
武庫河 水尾急嘉 赤駒 足何久激 沾祁流鴨
(370)【語釈】 ○武庫河の水脈を急みか 「武庫河」は、兵庫県三田市北部に発し、宝塚市を経て、南流して尼崎市と西宮市との境界をなして海に注ぐ。「水脈」は川の中流の、水の盛りあがって流れる所。「急みか」は、旧訓「はやみか」。『新訓』は、類聚古集、外二本には原文に「嘉」が無いのに従い、「急」を「はやけみ」と訓んでいる。自身、事の原因を推量しての助詞であり、「何を何み」に「か」の接続する例もあるので、「嘉」の有無にかかわらず、一首全体の上から今のごとく訓む。水脈が早いゆえか。○赤駒の足がく激ちに 「赤駒」は、作者の乗っている馬。馬で渉るのである。「激ち」は、駒の足掻きによって起こる水の騒ぎで、名詞。○沾れにけるかも 我が身は濡れてしまったことであるよ。
【釈】 武庫河の水脈が早いゆえなのか、我が乗って渉る赤駒の足掻きによって起こる水の騒ぎで、わが身は濡れてしまったことであるよ。
【評】 これも上の歌と同じ系統のもので、当時の旅行としてはきわめて普通のことである。旅中、着ている衣服の濡れるということは、その世話をする妻のいないという関係から、旅情を刺激されることであったとみえ、そうした歌が多い。この歌はそこまではいっていないが、その範囲のもので、一般性の多いものである。歌柄も一脈の明るさをもっているので、謡い物として謡われていたと思われる。
1142 命《いのち》を 幸《さき》く吉《よ》けむと 石流《いはそそ》く 垂水《たるみ》の水《みづ》を むすびて飲《の》みつ
命 幸久吉 石流 垂水々乎 結飲都
【語釈】 ○命を幸く吉けむと 訓はさまざまである。『新訓』の訓。「命を」の「を」は、詠歎。「幸く吉けむと」は、無事で好くあるだろうと思って。○石流く垂水の水を 「石流く」は、岩にそそぐところので、垂水の状態。「垂水」は、垂れ落ちる水で、現在の滝と同意の語。摂津国豊能郡垂水村に垂水神社があり、そこにある滝としてここに収めてあるが、下の続きからみると普通名詞としても通じ、そのほうが妥当性が多い。美水を飲むと長寿を保ちうるとすることは神仙思想の影響のあるものであるが、奈良遷都後はそれが一般の信仰となり、その意の歌が多い。これもそれである。○むすぴて飲みつ 手に掬《むす》んで飲んだ。
【釈】 我が命の無事で好くあるだろうと思って、岩にそそぐ垂水の水を、手に掬んで飲んだ。
【評】 小さい垂水だと、山寄りの土地だと必ずしも稀れなものではないが、この作者はそれを珍しく思い、また美水だとしているのは、京の中に住んでいる人であったろう。美水を飲めば、そのために命の無事長久が得られると信じていた心が、澄んだ静かな調べと、繊細味をもった詠み方をとおして現われている。奈良時代の歌と思われる。摂津の垂水の歌としたのは編者の解ではないかと疑われる。
(371)1143 さ夜《よ》更《ふ》けて 堀江《ほりえ》こぐなる 松浦船《まつらぶね》 梶《かぢ》の音《と》高《たか》し 水脈《みを》早《はや》みかも
作夜深而 穿江水手鳴 松浦船 梶音高之 水尾早見鴨
【語釈】 ○さ夜更けて堀江こぐなる 「堀江」は、難波堀江であり、日本書紀、仁徳紀十一年に、「冬十月、掘2宮北之郊原1引2南水1以入2西海1。因以号2其水1曰2掘江1」とあるものである。淀川の下流天満川がそれで、海上の船の溯れるようにしたものである。「なる」は、上の動詞をしかと定めるの助動詞。○松浦船 肥前国松浦で造る船で、船の型に特色があるところからの称と取れる。○梶の音高し水脈早みかも 梶の音が高い。水脈が早くなっているゆえであろうかと疑ったもの。早いのは満潮で海水が堀江に逆流するなど、臨時のことである。
【釈】 夜更けて堀江を漕いでいる松浦船の梶の音が高い。堀江の水脈が早くなって、それに逆らって漕ぐゆえであろうか。
【評】 堀江に近い辺りに夜を居て、松浦船の梶の音の高いのに耳を傾けての心である。土地の人にとっては注意をも引かないほどの平凡なことであるのに、強く訝かっていっているのは、堀江や松浦船を珍しく感じる難波宮に仕えている人であろう。
1144 悔《くや》しくも 満《み》ちぬる潮《しほ》か 住江《すみのえ》の 岸《きし》の浦廻《うらみ》ゆ 行《ゆ》かましものを
悔毛 滿奴流塩鹿 墨江之 岸乃浦廻從 行益物乎
【語釈】 ○満ちぬる潮か 残念にも満潮になったことよで、「か」は詠歎。○岸の浦廻ゆ 「浦廻」は、浦の湾曲した所で、「ゆ」は、「を」にあたるもの。岸の浦伝いをしての意。○行かましものを 「まし」は、仮設の帰結。「ものを」は、詠歎で、行こうと思っていたのに。
【釈】 残念にも満潮となってきたことであるよ。住江の海岸の浦伝いをして行こうと思っていたのに。
【評】 住吉の海を初めて見、その海の珍しいのと、風景の愛《め》でたいのとに心引かれ、海岸を浦伝いをして行けるならば、見物しようと思っていた人が、満潮となって出来なくなったのを残念がった心である。これは明らかに奈良の宮人の難波に下った時の作である。詠み方に力はないが、細かい心をあらわしているもので、これが新風だったのである。
1145 妹《いも》が為《ため》 貝《かひ》を拾《ひり》ふと 陳奴《ちぬ》の海《うみ》に 沾《ぬ》れにし袖《そで》は 乾《ほ》せど干《かは》かず
爲妹 貝乎拾等 陳奴乃海尓 所沾之袖者 雖涼常不干
(372)【語釈】 ○妹が為貝を拾ふと 「妹が為」は、京に置いてきた妹に、家苞とするために。「貝」は、波打際にある物をいっている。「と」は、として。○陳奴の海に 以前は河内国であったが、霊亀二年和泉国とした。住吉の南方の海。○沾れにし袖は乾せど干かず 波に濡れた袖は、乾したけれどもかわかないで、「涼」は曝す意の字で、乾すに当てたもの。乾せばかわくはずであるのに、このようにいっているのは、嬬を思う感傷の心より誇張していっているのである。平常、濡れた衣を乾すのは妻のすることであるのに、妻がしないのでかわかない意である。
【釈】 京にいる妻のために、貝を拾うとて、陳奴の海の浪に濡らしたわが衣の袖は、乾すけれどもかわかない。
【評】 旅にあってその事を恋うる心を詠んだもので構想のきわめて多いものである。それとしては一首明るい心のもので、「乾せど干かず」に、妻恋しい心を托しているのは細かい技巧である。奈良京の人の歌である。
1146 めづらしき 人《ひと》を吾家《わぎへ》に 住吉《すみのえ》の 岸《きし》の黄土《はにふ》を 見《み》む因《よし》もがも
目頼敷 人乎吾家尓 住吉之 岸乃黄土 將見因毛欲得
【語釈】 ○めづらしき人を吾家に 「めづらしき人を」は、愛すべき人をの意で、これは男女いずれからもいえる語であるが、ここは女より男を指していっているもの。「吾家《わぎへ》」は、「わがいへ」の約音で、吾家に住みと続き、初二句は住みの序詞。当時の結婚は男が女の家に通うのであるが、その結婚状態を住むといっていたのである。○住吉の岸の黄土を 巻一(六九)に出た。住吉の海岸に、黄土の粘土が大きく露われており、珍しい物として、それをもって白い衣を染めるところから、一つの名所となっていた。○見む因もがも 「因」は、方法。「もがも」は、願望。見る方法がほしいことであるよの意で、見る機会の得られそうもない人の憧れの心をいったものである。これは旅行をし難いものにしていた女の心と取れ、序詞と照応をもっているものである。
【釈】 愛すべき人をわが家に通い住まわせるという、その住むに因みある住吉の岸の黄土を、見る方法のほしいものであるよ。
【評】 住吉の岸の黄士に対する女の憧れであるが、その憧れを強く起こしたのは、「めづらしき人を吾家に住み」といっているところの夫が難波へ行っているために、それに刺激されてのことと思われる。初二句の序詞は唐突な感のあるものであるが、妻である女が、その時の実感に即してのものとみれば、自然なものである。歌才ある妻が、細かい心を織り込んで、実際に即しつつも、文芸的な結果を生み得た歌と取れる。これは摂津での歌ではなく、奈良京で詠んだもので、住吉の地名のある関係からそちらの歌としたものである。
1147 暇《いとま》あらば 拾《ひり》ひに往《ゆ》かむ 住吉《すみのえ》の 岸《きし》によるとふ 恋忘貝《こひわすれがひ》
(373) 暇有者 拾尓將徃 住吉之 岸因云 戀忘貝
【語釈】 ○暇あらば拾ひに往かむ 難波宮に供奉している宮人の、公務にとらわれていての心。○住吉の岸によるとふ 住吉の海岸に、浪に運ばれて寄るというところの。○恋志貝 「忘貝」は、巻一(六八)「大伴の御浄の浜なる忘貝」に出た。貝の名で、物の名に神秘性を感じる信仰から、それを身に着けていると物思いを忘れると信仰されていた貝。ここはそれに「恋」を冠したもので、恋を忘れさせる貝としていっているのである。物思いのおもなるものは恋であるから、説明を加えた程度の名である。
【釈】 もし暇があるならば、我は拾いに行こう。住吉の海岸に寄っているというところの恋を忘れさせる忘貝を。
【評】 「暇あらば拾ひに往かむ」は、公務が忙しくて、近い住吉までも行く暇のない人であり、拾おうとする物は恋忘貝で、旅にあって家の妻の恋しいために、その苦しみを忘れようとしているのである。こうした人は、臨時の事として難波宮に仕えている人で、行幸の従駕の人であろう。あくまで実際に即した言い方である。しかし旅愁をいうに、直接に強く訴えることをせず、恋忘貝に寄せて間接にあらわしているのは、信仰の伴ってのこととはいえ、余裕をもった心である。これは奈良京に住む人の心である。
1148 馬《うま》双《な》めて 今日《けふ》吾《わ》が見《み》つる 住吉《すみのえ》の 岸《きし》の黄土《はにふ》を 万世《よろづよ》に見《み》む
馬雙而 今日吾見鶴 住吉之 岸之黄土 於万世見
【語釈】 ○馬双めて 馬を連ねてで、同輩とともどもにの意で、難波宮から行ったことと取れる。○今日吾が見つる 今日吾が見たところの意で、初めてということを余意としたもの。
【釈】 同輩と馬を連ねて行って、今日初めて見たところの住吉の岸の黄土を、永久に見よう。
【評】 住吉の岸の黄土に対して限りなき興味を感じた心である。奈良の宮人の、京以外の土地を知らなかったことは、平安朝時代の宮人と異ならなかったとみえる。さすがに明るく、好奇心の強い点が異なっているといえよう。
1149 住吉《すみのえ》に 往《ゆ》くといふ道《みち》に 昨日《きのふ》見《み》し 恋忘貝《こひわすれがひ》 言《こと》にしありけり
住吉尓 徃云道尓 昨日見之 戀忘貝 事二四有家里
(374)【語釈】 ○往くといふ道に 往く道にということを、わざとよそよそしくいったもの。それは結句の「言にしありけり」に照応させるためである。○昨日見し恋忘貝 昨日見て拾った恋忘貝はで、これも単に「見し」だけにとどめているのは、その甲斐のなかったところから、わざとよそよそしくいったもの。○言にしありけり 「し」は、強め。「けり」は、詠歎、単に言葉だけのもので、その実のないものであるよで、この句は成句である。
【釈】 住吉に行く道だという道で、昨日見たところの恋忘貝は、あれは単に言葉だけのものであったことよ。
【評】 昨日恋忘貝を見たが、それにつづく今日は、現に恋の苦しみをしているといった歌である。忘貝に対する従来の呪力信仰を疑うところ、それをいうにあくまでも細かい言い方をしているところは、奈良の宮人の態度である。
1150 住吉《すみのえ》の 岸《きし》に家《いへ》もが 奥《おき》に辺《へ》に よする白浪《しらなみ》 見《み》つつ思《しの》はむ
墨吉之 岸尓家欲得 奥尓邊尓 縁白浪 見乍將思
【語釈】 ○住吉の岸に家もが 「家もが」は、自分の家をほしいで、「もが」は願望。○奥に辺に 沖のほうに、岸のほうに。○見つつ恩はむ 「思はむ」は『新訓』の訓。賞美しようの意。
【釈】 住吉のこの海ぎしに、わが住む家がほしい。沖のほうに、岸のほうに寄せて来る白浪を、見つつ賞美しよう。
【評】 海を珍しむ心である。落ちついて、おおらかな態度で全体を捉え、柔らかい調べで詠んでいる。態度としては古風であるが、調べの柔らかさは新風である。
1151 大伴《おほとも》の み津《つ》の浜辺《はまべ》を 打曝《うちさら》し より来《く》る浪《なみ》の 行方《ゆくへ》知《し》らずも
大伴之 三津之濱邊乎 打曝 因來浪之 逝方不知毛
【語釈】 ○大伴のみ津の浜辺を 「大伴」は、大阪市の東部から南方へかけての、一帯の広い地の名。大伴氏の領地であったところからの名であろう。「み津」は、難波の津を尊んでの称。「浜」は、砂の海岸。地名を二つ重ねて、浜辺を重くいったもの。○打曝し 「打」は、接頭語。「曝し」は、洗いというに同じく、浪の砂浜に寄せる状態を具象的にいったもの。○より来る浪の行方知らずも 「行方知らずも」は、成行きが知られないで、浪の消えることをいったもの。「も」は詠歎。
【釈】 大伴のみ津の浜を洗って、沖から寄って来る浪の、その成行きの知られないことよ。
(375)【評】 沖より浜へ寄せて来る浪の、引いて消える変化に、怪しみの心を寄せ、それをいうに地名を二つ重ねて重くいい、また「打曝し」と、力強い具象化を伴わせて感を深めたものである。興趣ではあるが、海珍しさよりの軽いものではなく、眺め入っての深さをもったものである。作歌精神の緊張を反映して、歌柄が大きく、調べがさわやかで、美しさをもった歌である。巻三(二六四)の人麿の「物の部の八十氏河のあじろ木に」の歌の影響を受けたものかと思われるが、こちらは明るく広くて、趣が異なっている。
1152 梶《かぢ》の音《おと》ぞ ほのかにすなる 海未通女《あまをとめ》 奥《おき》つ藻《も》苅《か》りに 舟出《ふなで》すらしも
梶之音曾 髣髴爲鳴 海未通女 奥藻苅尓 舟出爲等思母
【語釈】 ○梶の音ぞほのかにすなる 「すなる」は、しているで、「なる」は、指定の助動詞。○奥つ藻苅りに 「奥つ藻」は、沖の藻で、藻は食料とする海草の総称。○舟出すらしも 「らし」は、強い推量。「も」は、詠歎。
【釈】 梶の音がほのかにしている。海人の娘が、沖のほうの藻を苅りに、舟出をするのであろうよ。
【評】 梶の音のほのかにするのを耳にして、海上の状態を想像している歌である。時は明け方で、作者は家の内にい、海は朝凪の時と思われる。物の音によって、その状態を想像することは、上にもしばしば出たことで、奈良京の人の好みである。海珍しい心が、耳をとおして現われている。
一に云ふ、夕されば 梶《かぢ》の音《おと》すなり
一云、暮去者 梶之音爲奈利
【釈】 夕暮になると梶の音がしている、で、初二句がこのようになっている一本があったのである。
【評】 夕暮に藻苅り船を出すということは、事として不合理である。宴席などで、その処と時とにふさわしい歌を謡うというような必要から、不合理も顧みずに謡ったのが、たまたま記録されたという経路をもった歌であろう。
1155 住吉《すみのえ》の 名児《なご》の浜辺《はまべ》に 馬《うま》立《た》てて 玉《たま》拾《ひり》ひしく 常《つね》忘《わす》らえず
(376) 住吉之 名兒之濱邊尓 馬立而 玉拾之久 常不所忘
【語釈】 ○住吉の名児の浜辺に 「名児」は、今の大阪市道頓掘の南、今宮、木津、難波の辺の総名であろうというが、明らかではない。○馬立てて玉袷ひしく 「馬立てて」は、乗馬の歩みを留めて。「玉」は、海より打ち上げられた見や小石。「拾ひしく」は、「拾ひし」に「く」を接続させて名詞形としたもので、同系統の語が多い。○常忘らえす 「常」は、いつもで、永く。「忘らえず」は、忘れられないで、その楽しさを思い出した意。
【釈】 住吉の名児の砂浜の辺りに乗馬の歩みを留めて、海より打ち上げられている美しい貝や小石を拾ったことは、いつになっても忘れられない。
【評】 奈良京の人の、住吉の海岸に遊んだ時の楽しさを、あとになっても思い出していることをいったものである。海岸の美しい小石を玉と称し、それを拾うことをいっている歌は他にもあって、この興味は一般的なものだったとみえる。官人として大和国に住んではいるが、その海に対しての憧れと愛着とは、本能的な強いものであったとみえる。印象も調べもさわやかで、快い作である。これは摂津での歌ではない。
1154 雨《あめ》は零《ふ》る 假廬《かりほ》は作る いつのまに 吾児《あご》の潮干《しほひ》に 玉《たま》は拾《ひり》はむ
雨者零 借廬者作 何暇尓 吾兒之塩干尓 玉者將拾
【語釈】 ○雨は零る假廬は作る 「雨は零る」は、現に雨が降っている意。「假廬は作る」は、「假廬」は、仮初の廬、すなわち仮小屋で、宮人とはいえ身分の低い者は、その寝起きする小屋は自身作ったのである。以上、きわめて忙しいことを具象的にいったもの。○いつのまに いつの暇《いとま》にかと、疑いをもっていったもの。○吾児の潮干に 「吾児」は、「吾」は、諸本異同のないもので、「あ」と訓むより他はない字である。『新訓』は「阿胡」の字を当てて「あご」と訓んでいる。吾児は所在不明である。『新訓』にしたがう。○玉は拾はむ 「玉」は、前に出た海辺の小石。玉は拾おうかで、予期している楽しみの出来ない意のもの。
【釈】 雨は降っている。今宵寝る仮小屋を作ることはする。この忙しさでは、いつの暇に吾児の海の潮干に行って、楽しみにしていた玉は拾おうか。
【評】 実際に即しての感をいっている歌ではあるが、古風な歌は、同じくそうした態度を取りつつも、その実際を綜合しての感をいおうとし、細かい部分は、その感を生かすためにいっているのである。この歌は、その綜合が少なく、実際を分解し、(377)細叙することによって感をあらわそうとしている。これは奈良京に移っての新風であり、この歌はその傾向の甚しいものである。これは広くいえば、散文を要求する心に、歌が副《そ》おうとするからのことであって、時代の要求の反映といえることである。
1155 奈呉《なご》の海《うみ》の 朝開《あさけ》のなごり 今日《けふ》もかも 礒《いそ》の浦廻《うらみ》に 乱《みだ》れてあらむ
奈呉乃海之 朝開之奈凝 今日毛鴨 礒之浦廻尓 乱而將有
【語釈】 ○奈呉の海の朝開のなごり 「奈呉」は、名児に同じ。「朝開」は、朝明《あさあけ》の約。朝の明け方。明け方は干潮の時で、ここは、その意でのもの。「なごり」は波残で、潮の引いた跡に海水の残っている称で、その場には潮の引くのに置き残された藻や貝類や小魚などが多く、それも籠めての称。事が終わって面影だけの残っている意。名残りは、転じてのものである。下に詠歎の意がある。○今日もかも 「か」は、疑問の係助詞。「も」の詠歎の接したもの。今日もまた。○礒の浦廻に乱れてあらむ 「礒」は、岩石の海岸。「浦廻」は、浦の辺り。「乱れて」は、上にいった海草や貝類などの状態。
【釈】 奈呉の海の明け方の波残よ。今日もまたかつて見た時のように、礒の浦の辺りにはさまざまの海の物が散乱していることであろうか。
【評】 海に遠い人には、明け方の干潮の時、満潮の時には見られない海中のさまざまの物の浦べに散乱しているさまがきわめて珍しく面白いものである。この作者は一度そうした光景を目にしたことが忘れられなく、ある日の明け方、今朝もまたあのようだろうかと思いやってゆかしんでいる心である。奈良の京宮人の、難波宮へ従駕した人の歌である。思い出の歌としては、気分の生かされているものである。奈良での作。
1156 住吉《すみのえ》の 遠里小野《とほざとをの》の 真榛《まはり》もち すれる衣《ころも》の 盛《さかり》過《す》ぎゆく
住吉之 遠里小野之 眞榛以 須礼流衣乃 盛過去
【語釈】 ○住吉の遠里小野の 「遠里小野」は、住吉の南方の平地。中世|瓜生野《うりゆうの》といい、今は大阪市住吉区と堺市とに遠里小野《おりおの》町という町名となっている。瓜生野と、遠里小野《おりおの》と音に転じたものの転靴かという。○真榛もち 「榛」は、榛《はん》の木とも萩とも解される語である。榛《はん》の木は染めるための染料としたもので、また染めると褪せ難いものでもあるから、下の「すれる」「盛過ぎゆく」から見て萩の花である。「真」は、ものの十分であることをあらわす語であるから、ここは盛りの萩の花の意。「もち」は、後世の「もて」にあたる古格。○すれる衣の盛過ぎゆく 「すれる」は、
(378) 摺れるで、花摺りとした意。白い衣を摺ったのである。「盛過ぎゆく」は、色の美しさの褪せてゆく。
【釈】 住吉の遠里小野の咲き盛った萩の花をもって摺ったわが衣の、その色の美しさの褪せてゆく。
【評】 難波宮への行幸に従駕した宮人が住吉に遊び、遠里小野の萩を見て、その面白さの記念に、当時の風として、旅衣を萩の花で摺ったのであるが、摺衣のこととて早くも褪色するのを見て惜しんだ心である。事がすべて自然であるために、気分が生きていて、美しさとあわれのある歌となっている。奈良京での作である。
1157 時《とき》つ風《かぜ》 吹《ふ》かまく知《し》らに 阿胡《あご》の海《うみ》の 朝明《あさけ》の潮《しほ》に 玉藻《たまも》苅《か》りてな
時風 吹麻久不知 阿胡乃海之 朝明之塩尓 玉藻苅奈
【語釈】 ○時つ風吹かまく知らに 「時つ風」は、時を定めて吹く風で、湖の干満に先立つ風。「吹かまく」は、「吹かむ」の名詞形。「知らに」の「に」は、打消「ず」の連用形。吹くかもしれない。○阿胡の海の朝明の潮に 「阿胡の海」は、上に出た。「朝明の潮」は、明け方の干潮に。○玉藻苅りてな 「な」は、誘う意。
【釈】 時つ風が吹いてくるかもしれない、さあ阿胡の海の明け方のこの干潮に、海の玉藻を苅ろう。
【評】 明け方の干潮時、追って満潮に先立つ時つ風が吹いて来て、危険になるかもしれないという限られた気ぜわしい時に、海めずらしい心に駆り立てられて、干潮の間に玉藻を苅りたい昂奮している心である。昂奮している気分が強くあらわれてといて、そうしたいささかな、言うにも足りないぼどのことを、もっともなものとしている。相応に手腕のある作といえる。
1158 住吉《すみのえ》の 奥《おき》つ白浪《しらなみ》 風《かぜ》吹《ふ》けば 来《き》よする浜《はま》を 見《み》れば浄《きよ》しも
住吉之 奥津白浪 風吹者 來依留濱乎 見者淨霜
【語釈】 ○来よする浜を 「来よする」は、寄り来るの意の当時の言い方。「浜」は、砂浜。
【釈】 住吉の沖の白浪が、風が吹くと吹き送られて寄って来るところの浜の、見れば清らかなことであるよ。
【評】 住吉の浜に風によって寄せて来る白浪の大景を「浄しも」と感じて詠んでいるもので、その心も、また落ちついて詠(379)んでいる態度もうなずけるものである。しかし平面的で、画のようになりすぎ、躍動の趣は捉え得られなかった歌である。奈良時代のともすると魄力の弱さをあらわすことのある例を示している歌である。
1159 住吉《すみのえ》の 岸《きし》の松《まつ》が根《ね》 うち曝《さら》し より来《く》る浪《なみ》の 音《おと》の清《きよ》らに
住吉之 岸之松根 打曝 縁來浪之 音之清羅
【語釈】 ○松が根うち曝し 「松が根」は、根を主としての言い方。住吉には古より波打際に松があったのである。「うち曝し」は、前に出た。洗って。○音の清らに 「滑らに」は、原文「清羅」で、諸注それぞれの訓を試み、誤写説を出している。「清らに」は『新訓』の訓みで、「に」は読添えである。清らにありの意で、これは用例のあるもので、最も自然な訓である。
【釈】 住吉の岸の老松の根を洗って、寄って来る浪の音の清らである。
【評】 前の歌と同じく住吉の浜を讃えたものであるが、この歌は、松が根を洗う浪の音によってその心を具象化したもので、視覚と聴覚とを一つにした、細かく複雑な味をもったものである。調べが自然に順直で、その複雑なものを統一させている。「清らに」の言いさしが、調べの力で効果的のものとなっている。
1160 難波潟《なにはがた》 潮干《しほひ》に立《た》ちて 見渡《みわた》せば 淡路《あはぢ》の島《しま》に たづ渡《わた》る見《み》ゆ
難波方 塩干丹立而 見渡者 淡路嶋尓 多豆渡所見
【語釈】 ○難波潟 大阪湾の一部。淀川川口近辺の海。○淡路の島 淡路国。難波からは西方。
【釈】 難波潟の干潮の海に立って見渡すと、淡路島に向かって鶴の飛んで行くのが見られる。
【評】 京の宮人の、海めずらしさから干潮の潟に立った時の嘱目の光景である。海上にも海上の空にも、眼を引く他の一物もなく、ただ一羽の鶴が翔《か》けているだけであって、それが「渡る見ゆ」と言うごとくすでにかなり遠ざかって、かすかになっでおり、おのずからに見送られるのであるが、その向こうに、はるかに遠く淡路の島が横たわっているのである。それを見た通りに、「淡路の島にたづ渡る見ゆ」と言ったのである。しかるにこの淡路の島を捉えていったがために、それと対照されての鶴の、遠ざかり小さくなろうとしつつある姿が怪しいまでに生動するものとなり、一首きわめて魅力ある歌となっているのであ(380)る。素朴な、率直に詠んだ歌で、その意味では古風な歌であるが、細かい味わいをもっていて、その意味では新風の歌である。
羈旅《たび》にて作れる
【解】 以上、吉野、山背、摂津と土地の明らかな歌についで、土地の分類をしない歌九十首を集めたものである。中には土地の明らかなもの、また地名のないものもある。明らかな中では紀伊国の歌が最も多い。また旅の追憶もある。羈旅とはいっても、旅情のわびしさのみではない点が後世とは異なる。
1161 家《いへ》離《さか》り 旅《たび》にしあれば 秋風《あきかぜ》の 寒《さむ》き暮《ゆふべ》に 雁《かり》鳴《な》き渡《わた》る
離家 旅西在者 秋風 寒暮丹 鴈喧度
【語釈】 ○旅にしあれば 「し」は、強意。○雁 来る雁。
【釈】 家を離れて、旅に過ごしていると、秋風の寒いこの夕べに、雁が鳴いて渡って行く。
【評】 旅にあって、秋風の肌寒い夕べに雁を聞いて、旅情を刺激された心である。旅情については直接にはいわず、環境を描くことによって暗示しているのがこの歌の趣である。暗示というのは、「秋風の寒き暮」は独寝の肌寒さを感じて、妻恋しさの情の募る時とされており、また「雁鳴き渡る」は、いわゆる雁信を連想させられることで、妻の消息の気になるものである。それらの風物をきわめて自然な状態で描き、感傷にすぎない程度のしみじみした調べをもっていっているので、調べに生かされて暗示が直接なものになってきているのである。古風な、品のある歌で、奈良時代以前の歌と思われる。
1162 円方《まとかた》の 湊《みなと》の渚鳥《すどり》 浪《なみ》立《た》てや 妻《つま》呼《よ》び立《た》てて 辺《へ》に近《ちか》づくも
(381) 圓方之 湊之渚鳥 浪立也 妻唱立而 邊近着毛
【語釈】 ○円方の湊の渚鳥 「円方」は、巻一(六一)に出た。伊勢国の、松阪の東方黒部の地であろうといい、早くから陸地になったのである。「湊の渚鳥」は、湊にある渚すなわち海の水の浅い所に棲んでいる鳥の総称。そのような所は食餌としての小魚などの獲やすいため、鶴、千鳥などの類が棲みついたのである。○浪立てや 「立てや」の「や」は、疑問で、後世の立てばにやにあたる古格。○妻呼び立てて辺に近づくも 「妻」は雌鳥で、雄鳥が喚び催して、岸に近づいて来るよで、「も」は詠歎。
【釈】 円方の港の洲に棲んでいる鳥は、浪が立って来たのであろうか、その雌鳥を喚び催して、岸へ近づいて来るよ。
【評】 湊の渚鳥が鳴きながら小さな移動をするのを見て、雄鳥が雌鳥に対して、浪の立つのを避けさせようとして警《いまし》めてするのだろうと感じたのは、特殊な解である。作者は海に馴れない旅人で、また旅にあるがために妻をしのぶ心が切実であるところから発した感と思われる。庶民的な生活気分の現われている歌である。
1163 年魚市《あゆち》がた 潮《しほ》干《ひ》にけらし 知多《ちた》の浦《うら》に 朝《あさ》榜《こ》ぐ舟《ふね》も 沖《おき》による見《み》ゆ
年魚市方 塩干家良思 知多乃浦尓 朝榜舟毛 奥尓依所見
【語釈】 ○年魚市がた潮干にけらし 「年魚市がた」は、尾張国の今の熱田港で、名古屋市熱田区の南方の低地帯である。
「潮干」は、ここは朝の干潮。○知多の浦に朝榜ぐ舟も 「知多」は、知多半島。「浦」はその西海岸の北部、知多郡上野町、横須賀町、知多町にかけての海。○沖による見ゆ 普通の漕法で、岸寄りを漕いでいた舟が、沖のほうへ寄って行くさまが見えるで、これは干潮で陸寄りは漕げなくなるためである。
【釈】 年魚市潟は干潮になったのであろう。知多の浦で、朝を漕いでいる舟も、沖のほうに漕ぎ寄るのが見られる。
【評】 旅人として知多半島にいる人が、朝の海を眺めていての心である。当時の旅行は、船によるのが最も便利だったので、この旅人もその意味で船に強い関心をもっていたところから、こうしたことに注意したのだろう。したがってこの歌の心は、旅をする人は共感のあったものと思われる。実感の歌で、興味よりのものではない。現在からはある距離のある心である。
1164 潮《しほ》干《ふ》れば 共《とも》に潟《かた》に出《い》で 鳴《な》く鶴《たづ》の 声《こゑ》遠《とほ》ざかる 礒廻《いそみ》すらしも
塩干者 共滷尓出 鳴鶴之 音遠放 礒廻爲等霜
(382)【語釈】 ○潮干れば共に潟に出で 潮が干ると干潟には食餌の小魚が獲られるので、友とともに出て。○鳴く鶴の 鳴いている鶴の。○声遠ざかる 鳴き声が遠ざかって行くで、眼に見る景を耳に転じさせてのもの。○礒廻すらしも 「礒廻」は、礒めぐり。これは鶴が食餌を追ってすることである。
【釈】 潮が干ると友とともに干潟に出て鳴いている鶴の、その声が今は遠ざかってゆく。礒めぐりをするのであろう。
【評】 鶴の生活状態に興味をもっている旅人の歌である。鶴の干潟に出る心も、礒廻をする心も解している点は庶民の心であるが、他方には「声遠ざかる」と、海上を遠ざかりゆく鶴の声に興味を感じ、それを重く扱っているところはある程度の身分ある人の心である。単純な歌であるが、作者を反映しているところに別種の趣がある。
1165 暮《ゆふ》なぎに あさりする鶴《たづ》 潮《しほ》満《み》てば 沖浪《おきなみ》高《たか》み 己妻《おのづま》喚《よ》ばふ
暮名寸尓 求食爲鶴 塩滿者 奥浪高三 己妻喚
【語釈】 ○暮なぎにあさりする鶴 「暮なぎ」は、夕凪の海で、下の続きで干潮時の静かな海と知れる。○潮満てば沖浪高み 満潮となってくると、沖の浪が高いゆえに。○己妻喚ばふ 「己妻」は、おのがつまで、仮名書きがある。「喚ばふ」は、喚ぶの連続。
【釈】 干潮の夕凪の海に求食《あさり》をしている鶴が、満潮となって沖の浪が高いので、己が妻を警めて喚びつづけている。
【評】 上の「円方の渚鳥」と同じ心の歌である。このほうが事が細かく、詠み方も巧みにはでになっているところからみると、上の歌を進展させたものではないかと思われる。よく行なわれたことだからである。一首としての感はこのほうが薄い。
1166 古《いにしへ》に ありけむ人《ひと》の ※[不/見]《もと》めつつ 衣《きぬ》に摺《す》りけむ 真野《まの》の榛原《はりはら》
古尓 有監人之 ※[不/見]乍 衣丹※[手偏+皆]牟 眞野之榛原
【語釈】 ○古にありけむ人の 古の人の。広くいったもので指す人はない。○※[不/見]めつつ衣に摺りけむ 「※[不/見]めつつ」は、探し探ししてで、探すのは好いものをと思ってである。「けむ」は連体形。○真野の榛原 巻三(二八〇)に出た。今は神戸市に属し、長田区東尻池町、酉尻池町、真野町一帯。詠歎を含めたもの。
【釈】 古の人が、好い色をと探しつつ衣に摺ったであろう、この真野の萩原よ。
(383)【評】 真野の榛原に立ち、その萩の花の美しさを讃めた心である。物を讃めるには、今だけのことではなく、由緒の久しいものであることをいうのが型となっている。今もそれで、美しさの上に、深いゆかしみを添えているのである。美しいと見ると身に着けずにはいられなかったのは、上代の心である。
1167 あさりすと 礒《いそ》に吾《わ》が見《み》し 莫告藻《なのりそ》を いづれの島《しま》の 白水郎《あま》か苅《か》るらむ
朝入爲等 礒尓吾見之 莫告藻乎 誰嶋之 白水郎可將苅
【語釈】 ○あさりすと礒に吾が見し 「あさり」は、食を求めることで、主として鳥獣の上でいい、人にあっては漁《すなど》りの意でいう。ここは、漁りの意のもの。舟で漁りをするとて、岩にわが見懸けたところの。○莫告藻を 「莫告藻」はほんだわらで、食料とするもの。○いづれの島の白水郎か苅るらむ いずれの島の白水郎が苅り取るのだろうかで、「らむ」は、現在の推畳。「苅る」は、わが物とする意の譬。
【釈】 漁りをするとて、舟の上から我が見懸けたことのあった、岩に着いている莫告藻を、どこの島の白水郎《あま》が苅ってわが物としているであろうか。
【評】 「莫告藻」を女に譬えていることは、海人を「白水郎」とわざと男をあらわす文字にしているので知られる。それだとこれは相聞の歌で、譬喩歌である。きわめて単純で、平明なところから見て、海岸地方で謡い物とされていたものかと思われる。
1168 今日《けふ》もかも 沖《おき》つ玉藻《たまも》は 白浪《しらなみ》の 八重《やへ》折《を》るがうへに 乱《みだ》れてあらむ
今日毛可母 奥津玉藻者 白浪之 八重折之於丹 乱而將有
【語釈】 ○今日もかも 「かも」は疑問で、今日もまた前のように。結句「乱れてあらむ」に続く。○沖つ玉藻 沖の藻で、作者がさきに見た物。○白浪の八重折るがうへに 「八重《やへ》折《を》る」は、白浪が幾重にも、折れるがごとく崩れる意。○乱れてあらむ 「む」は、推量で、乱れていよう。
【釈】 今日もまた沖の藻は、白浪の幾重にも折れて崩れる上に、乱れているのであろうか。
【評】 沖のほうへ出て、白浪の上に乱れ漂っている青い藻のさまを、美観として眺めた人が、のちにその美観を反芻し、眼の前に描いて憧れている心である。これは海を珍しみ、美しと見る京びとの心である。広く清らかな海の上に、白浪に漂う青い藻だけを捉えて、その美観を楽しむ心は、洗練をもった感性で、奈良京の人の好い方面を示している歌といえる。調べも豊かで(384)ある。
1169 近江《あふみ》の海《うみ》 湊《みなと》は八十《やそ》あり いづくにか 君《きみ》が舟《ふね》泊《は》て 草《くさ》結《むす》びけむ
近江之海 湖者八十 何尓加 公之舟泊 草結兼
【語釈】 ○近江の海湊は八十あり 「湊は八十あり」は、類聚古集、外七本は「湖者八十」。「湖」を、「みなと」に当てた例は巻三(二五三)に出た。「八十」の訓は、諸注さまざまである。「八十あり」と「あり」を読添えたのは『新訓』である。「天《あま》の川|河門《かはと》八十あり」(二〇八二)、「近江の海|泊《とまり》八十あり」(三二三九)などの例により、それに従う。「湊」は、水が門のごとく陸に入り込んだ所で、舟を寄せる所である。舟の大小にはかかわりがない。琶琶湖の舟は、漁業と通運とのもので、大津宮時代には舟も多く湊も多かったので、これは湖岸の実際である。○いづくにか君が舟|泊《は》て 「いづくにか」は、いずれの港にかで、「か」は疑問の係助詞。「君」は、妻より夫を指したもの。「泊て」は、既出。船が目的地へ着く意。○草結びけむ 草を結ぶのは、身の無事を祈るまじないで、旅中では、無事で再びここに帰って来られるようにとの意ですることである。この場合も、船から上がると、その心で誰もすることとしてしたのである。
【釈】 近江の海は、港は八十と多くある。いずれの港で君の舟路は終わって、安泰を祈っての草結びをしたであろうか。
【評】 「近江の海」と言い出しているところからみて、琵琶湖のほとりに住んでいた夫妻とみえる。当時の旅は利用のかなう限りは船によろうとしたのであるから、旅をする夫が湖水を越えるに舟をもってしたのは普通のことである。土地の関係から、近江朝時代の歌ではないかと思われる。「湊《みなと》は八十あり」という訓は、訓としては多少の疑いのあるものであるが、夫の旅を気づかっている妻の、路の様子を全く知らない心からの想像とすれば、「あり」を読み添えた、概念として知っていることをいう形のものが、最も実際に即したものとなろう。「草結びけむ」は、近江朝時代だと、その上代信仰が濃厚だったと思われるから、きわめて自然なものとなる。実際生活に即しての心やりの歌で、文芸としてのものではない。調べはおおらかで、太く緩やかに波打っている。
1170 ささなみの 連庫山《なみくらやま》に 雲《くも》居《ゐ》れば 雨《あめ》ぞ零《ふ》るちふ かへり来《こ》わが背
佐佐浪乃 連庫山尓 雲居者 雨曾零智否 反來吾背
【語釈】 ○ささなみの連庫山に 「ささなみ」は、既出。近江国(滋賀県)滋賀郡の旧号。「連庫山」は、その名が伝わらない。『大日本地名辞書』(385)は、狭々波山《ささなみやま》の一峰で、志賀の大渡《おおわだ》の山であろうという。○雲居れば 雲が懸かっていれば。○雨ぞ零るちふ 「ちふ」は、「といふ」の転。山近い土地に住む人の、山に懸かる雲の様子で天気の変化を予測することは今もしていることであり、ここもそれである。○かへり来わが背 帰り来たまえわが夫よで、命令と呼懸け。夫が他へ出懸けた後の、妻の心。
【釈】 楽浪《ささなみ》の連庫山に雲が懸かっていると、雨が降るということである。帰って来たまえわが夫よ。
【評】 これは明らかにその地に行なわれていた謡い物と思われる。この種《しゆ》の民謡は今も少なくないものである。
1171 大御舟《おほみふね》 泊《は》ててさもらふ 高島《たかしま》の 三尾《みを》の勝野《かちの》の なぎさし思《おも》ほゆ
大御舟 竟而佐守布 高嶋之 三尾勝野之 奈伎左思所念
【語釈】 ○大御舟泊ててさもらふ 「大御舟」は、天皇の御乗船を尊んでの称。「泊てて」は、二首前に出た。「さもらふ」は、ここは乗船を待っている意。連体形で、下へ続く。○高島の三尾の勝野の 「高島」は、今の高島郡で、琵琶湖の西岸。「三尾」は、今の高島町、安曇川町付近、「勝野」は、その南部で、沼沢地。○なぎさし思ほゆ 「なぎさ」は、渚。「し」は強め。「思ほゆ」は、思われる。
【釈】 大御舟が目的地として着いて、御乗船を待っている高島の三尾の勝野の渚が、ゆかしく思われる。
【評】 この歌は、大津宮にまします天皇が、高島の三尾の勝野を目的地としての船での遊覧があり、宮人の一部の者が供奉をして船出をした後、供奉に漏れて宮にとどまっている人が、ゆかしんで思いやった心である。「大御舟泊ててさもらふ」と臣下のことのみをいって天皇には触れず、また「高島の三尾の勝野のなぎさし」と、地名を三つまでも重ねて渚を重くいっているのは、すべて敬意よりのことである。明らかに近江朝時代の歌である。臣下を対象としていっているので、重みはないが、品のある歌である。
1172 何処《いづく》にか 舟乘《ふなのり》しけむ 高島《たかしま》の 香取《かとり》の浦《うら》ゆ こぎ出《で》来《こ》し船
何處可 舟乘爲家牟 高嶋之 香取之浦從 己藝出來船
【語釈】 ○何処にか舟乗しけむ 「舟乗」は、乗船の意で、名詞。何処から船を漕ぎ出して来たのであろうか。○高島の香取の浦ゆ 「高島」は上に出た。「香取の浦」は、高島に属している浦。「ゆ」は、を通って。
(386)【釈】 何処から漕ぎ出して来たのであろうか。今高島の香取の浦を通って漕ぎ出して来た船は。
【評】 琵琶湖の湖辺に住んで、湖上を往来する船に興味と関心をもっている人の、岸沿いを漕ぐ船の、物に遮られて見えなかった船が香取の浦から漕ぎ出してはじめて視野に入ったのに対して、なつかしく眺めた心である。湖辺に住み着いている人にのみ感じられる事柄で、その地の者には親しみの感じられる歌であったろう。
1173 斐太人《ひだびと》の 真木《まき》流《なが》すとふ にふの河《かは》 言《こと》は通《かよ》へど 船《ふね》ぞ通《かよ》はぬ
斐太人之 眞木流云 尓布乃河 事者雖通 船曾不通
【語釈】 ○斐太人の真木流すとふ 「斐大人」は、飛騨国の人の意で、転じて工匠、杣人の総称となったもの。「賦役令」に「斐陀《ヒダ》国庸調倶(ニ)免(ジテ)、毎(ニ)v里点(ズ)2匠丁十人(ヲ)1云々」その他があるので知られる。ここは、杣人の意である。「真木」は、檜杉などの良材の称で、ここは吉野山から伐り出すもの。「流す」は運搬の方法としてする事で、今も行なわれている。○にふの河 丹生河で、吉野川の上流とする説と、岐阜県丹生川村の川とする説がある。○言は通へど船ぞ通はぬ 「通へど」は丹生河は山川のこととて川幅が狭く、岸と岸とで言葉が通じるけれども。「船ぞ通はぬ」は、「通ふ」は下流から上のここまで溯る意で、上の通うと同語であるが、内容はことにしている。「ぞ」は係助詞。
【釈】 杣人が真木を流すという丹生河は、岸と岸で言葉は通うけれど、船は通わないことだ。
【評】 四、五句が中心である。言と船というかけ離れているものを、「通ふ」という、同語異義のもので繋ぎ合わせて、それに興じているものである。明らかに謡い物である。初句から三句までは実際に即したものであるから、丹生地方で謡われていたものであろう。羈旅の歌というよりも、旅人が興味を覚えて採録したという関係のものだろう。
1174 霰《あられ》零《ふ》り 鹿島《かしま》の崎《さき》を 浪《なみ》高《たか》み 過《す》ぎてや行《ゆ》かむ 恋《こひ》しきものを
霰零 鹿嶋之埼乎 浪高 過而夜將行 戀敷物乎
【語釈】 ○霰零り鹿島の崎を 「霞零り」は、その音のかしましと続く意で、「かしま」にかかる枕詞。「鹿島の崎」は、常陸国(茨城県)鹿島郡の南端にあり、建御雷神を祀る地。○浪高み過ぎてや行かむ 「浪高み」は、海の浪が高いゆえに。「過ぎてや行かむ」は、寄らずに通り過ぎて行くのだろうかと、遺憾に思う心。「や」は疑問の係助詞。○恋しきものを 恋しいところであるのに。
(387)【釈】 鹿島の崎に、漁が高いので船が寄せられず、通り過ぎて行くのであろうか。恋しいところであるのに。
【評】 京より公務を帯びて東国に下り、当時の風として行路は船により、鹿島の海を船で渡る時の歌である。鹿島の崎に上陸し、鹿島の神に奉斎をしようと志していたのが、浪のために出来ない嘆きである。調べに思い詰めた屈折したものがあって、その気分をあらわしている。
1175 足柄《あしがら》の 筥根《はこね》飛《と》び超《こ》え 行《ゆ》く鶴《たづ》の ともしき見《み》れば 大和《やまと》し念《おも》ほゆ
足柄乃 筥根飛超 行鶴乃 乏見者 日本之所念
【語釈】 ○足柄の筥根飛び超え 「足柄の」は、相模国(神奈川県)足柄上下の郡。「筥根」は、箱根の山。「飛び超え」は、筥根は険山で、自身悩んで越したことを心に置いていっているもの。○行く鶴の 京のほうへ行く鶴の。○ともしき見れば大和し念ほゆ 「ともしき」は、「ともし」は乏しい意と、羨しい意とある語。ここは羨しい意のもので、その連体形。羨しいものを見ると。「大和」は、その家のある京。「し」は、強意の助詞。「念ほゆ」は、恋しく思われる。
【釈】 足柄の箱根の山の峰を飛び越えて西のほうへ行く鶴の、その羨しいものを見ると、大和が恋しく思われる。
【評】 旅にあって、恋しい家のほうへ自由に飛んで行く鳥を見て羨やむことは、上代にあっては最も普通のことで、したがって類想の歌が多い。この歌もそれであるが、「足柄の筥根飛び超え」には、その山の越え難い険山であるために自然さがあって、生きた歌となっている。
1176 夏麻《なつそ》引《ひ》く 海上潟《うなかみがた》の 沖《おき》つ洲《す》に 鳥《とり》はすだけど 君《きみ》は音《おと》もせず
夏麻引 海上滷乃 奧洲尓 鳥者簀竹跡 君者音文不爲
【語釈】 ○夏麻引く海上潟の 「夏麻」の「麻」は、巻二(一五七)「山辺真蘇木綿《やまべまそゆふ》」など麻《あさ》のこともいい、また民俗学の研究によると、麻をもって作った綱の称ともされ、現在も漁業をする人々の間に、地方的には行なわれているという。それによると「夏麻」は、魚《な》つ麻《そ》に当てた字で、魚を獲《と》る時に用いる綱、すなわち網引《あびき》をする時などの綱と思われる。意味で、海の意の「う」にかかる枕詞。あるいは麻は苧《お》に績《う》む意により「う」にかかるともいう。「海上潟」は、下総国に名が残っており(千葉県海上郡)、上総国にもあったので(千葉県市原郡)、古くは両国に跨がった地(388)名だったのである。○沖つ洲に 沖のほうにある洲に。○鳥はすだけど君は音もせす 「鳥」は、水鳥で、小魚を餌とする鳥。「すだく」は、多く集まる意。「君」は、妻より夫を指してのもの。「音もせず」は、便りすらもしないの意。
【釈】 この海上潟の沖のほうの洲に、水鳥のほうは多く集まって騒いでいるけれど、君のほうは便りすらもしない。
【評】 海上潟に住んで漁業をしている女の、その潟の沖の洲に、水鳥の鳴き騒いでいるのを見て、それが刺激となって、夫である男の、足を遠くしているのみならず、便りもしないことを悲しんで詠んだ歌である。上代の夫婦関係にあっては、このようなことは最も多く、一般性をもったものである。歌もその土地に即して、自然に平明にいってある上に、語もこなれきっている。調べも静かさがあって、その心を生かしているものである。謡い物の条件を備えているもので、海上地方に謡われていた謡い物と思われる。
1177 若狭《わかさ》なる 三方《みかた》の海《うみ》の 浜《はま》清《きよ》み い往《ゆ》きかへらひ 見《み》れど飽《あ》かぬかも
若狹在 三方之海之 濱清美 伊徃變良比 見跡不飽可聞
【語釈】 ○若狭なる三方の海の 「三方の海」は、福井県三万郡、三方駅の西北にある三方湖。○浜清み 砂浜が清いので。○い往きかへらひ 「い」は接頭語。「かへらひ」は、還るの継続。
【釈】 若狭国にある三方の湖の砂浜が清いので、往きつ還りつしつづけて見るが、見飽かないことであるよ。
【評】 京の人の公務を滞びて若狭に下り、はじめて三方湖を見ての感である。「い往きかへらひ」は、この歌にあっては働きをもった語である。
1178 印南野《いなみの》は 往《ゆ》き過《す》ぎぬらし 天伝《あまづた》ふ 日笠《ひがさ》の浦《うら》に 波《なみ》立《た》てり見《み》ゆ
印南野者 徃過奴良之 天傳 日笠浦 波立見
【語釈】 ○印南野は往き過ぎぬらし 「印南野」は、播磨国(兵庫県)印南郡の野。巻一(一四)以下しばしば出た。「往き過ぎぬらし」は、通過したのであろう。これは、瀬戸内海を舟行している人の、海路よりの推量である。○天伝ふ日笠の浦に 「天伝ふ」は、意味で「日」にかかる枕詞。「日笠の浦」は、今はその名が伝わっていない。『代匠記』は、日本書紀推古紀の十一年、征新羅将軍当麻皇子につき、「麻当皇子到2播磨1時、従(389)妻《つま》舎人姫王薨2於赤石1。仍葬2于赤石|檜笠《ひがさ》岡上1云々」とあるを引き、明石郡明石の辺りだとしている。それだと印南野よりも難波に近い地であり、この舟行は瀬戸内海を西より東に、すなわち、京に向かって還る途上ということになる。○波立てり見ゆ 「見ゆ」は、終止形に描統するのが当時の語格である。
【釈】 印南野は通過してしまったのであろう。日笠の涌に波の立っているのが見える。
【評】 公務を帯びて西南に遣されていた官人が、その事が終わっての帰途で、船が難波津へ近づこうとする時の感であろう。いつの間にか印南野が過ぎたといい、日笠の浦の浪が見えるというのも、事よりも気分のほうが主になっているもので、大きくはないが躍動が見えるからである。新風の歌といえるものである。
一に云ふ、飾磨江《しかまえ》は こぎ過ぎぬらし
一云、思賀麻江者 許藝須疑奴良思
【語釈】 ○飾磨江 飾磨川の河口にある江。この河は巻十五(三六〇五)「わたつみの海に出でたる飾磨川」とあり。海上からも見える川だったのである。この川の位置も、印南野と同じ関係である。別伝とみえる。
1179 家《いへ》にして 吾《われ》は恋《こ》ひむな 印南野《いなみの》の 浅茅《あさぢ》が上《うへ》に 照《て》りし月夜《つくよ》を
家尓之弖 吾者將戀名 印南野乃 淺茅之上尓 照之月夜乎
【語釈】 ○家にして吾は恋ひむな 「家にして」は、わが家にあってで、今旅にいて、家に帰った後に。「吾は恋ひむな」は、「な」は感動の助詞。恋うることであろうよと、忘れ難い心をいったもの。○印南野の浅茅が上に 「浅茅」は、低く生え続いている茅草。○照りし月夜を 「照りし」は、今照っている月を、あとより思い出しての意でいうために、過去としたもの。「月夜」は、月。
【釈】 わが家に帰って、我は忘れ難く恋うことであろうよ。印南野の浅茅の上に照っていたこの月を。
【評】 陸路の旅をして、夜を印南野で過ごした場合の心である。旅にあって旅愁をいわず、風景という中でも、浅茅の上に照っている月という、静かに清らかなものに深くも心を動かして、家に帰った後にも忘れ難いことだろうというのは、自然に対する感受力と、個性に即する強さとを示しているものである。奈良時代の、好い方面をあらわしている歌である。
(390)1180 荒礒《ありそ》超《こ》す 浪《なみ》を恐《かしこ》み 淡路島《あはぢしま》 見《み》ずや過《す》ぎなむ 幾許《ここだ》近《ちか》きを
荒礒超 浪乎恐見 淡路嶋 不見哉將過去 幾許近乎
【語釈】○荒穣超す浪を恐み 「荒磯」は、岩より成る海岸。「恐み」は、恐ろしさに。これは舟行していて、船を岸に寄せるには、浪が高いと危険が伴うからである。○淡路島見ずや過ぎなむ 「淡路島」は、瀬戸内海の航路として、敏馬と明石の間の寄港地となっていた。西下東上いずれにしても、海を横切って寄港するのである。「見ずや過ぎなむ」は、寄らずに行き過ぎることであろうか。○幾許近きを 「幾許」は、甚しく。「を」は、詠歎。
【釈】岩石の海岸を乗り越す浪の恐ろしさに、船を着け得ず、淡路島を上陸してみずに通り過ぎることであろうか。船との間は甚しく近いのに。
【評】 明石海峡は浪の高い所で、淋戸内海の航行者には難路とされていた。この歌はそのことは覚悟していたとみえ、淡路島に上陸の出来ない遺憾さだけをいっている。当時の瀬戸内海航行者には共感を喚びうる歌であったろう。
1181 朝霞《あさがすみ》 止《や》まずたなびく 竜田山《たつたやま》 船出《ふなで》せむ日《ひ》は 吾《われ》恋《こ》ひむかも
朝霞 不止輕引 龍田山 船出將爲日者 吾將戀香聞
【語釈】○朝霞止まずたなびく 「朝霞止まず」は、霞を朝立つものとし、それがいつまでも消えずに懸かっているで、霞の懸かっているさまを、朝より後の時間にみていっているもの。春のことと取れる。○竜田山 大和国と河内国との国境の山で、大和国(奈良県)生駒郡、今の三郷村にある。上代、大和国より難波に出る要路にあたっていた。作者は今そこを越えようとしているのである。下に詠歎が含まれている。○船出せむ日は吾恋ひむかも 「船出せむ日」は、難波津から船出をするだろう日にはで、遠い海路を予想していっているもの。「恋ひむかも」は、恋うるのは、山。「かも」は詠歎。
【釈】朝霞がいつまでも懸かっている竜田山よ。難波津から船出をする日には、我はこの山を恋うることであろうなあ。
【評】 作者は今、大和京から難波津へと、海路の旅をしようとして竜田山を越えているのである。当時の人には、海路の旅は不安の伴ったものであり、またそうした旅は大体遠方を志すものでもあるので、緊張した心をもっていたと思われる。霞の軽くかかっている竜田山の佳景をなつかしく思うとともに、いよいよ海路に出る日には、この今見る竜田山を恋しく思うだろう(391)かと、感傷を籠めて眺めやっているのである。上の「家にして吾は恋ひむな」と、形は異なっているが、眼前の佳景に深く心を動かして、将来も忘れられまいとする心は同じである。
1182 海人小船《あまをぶね》 帆《ほ》かも張《は》れると 見《み》るまでに 鞆《とも》の浦廻《うらみ》に 浪《なみ》立《た》てり見《み》ゆ
海人小船 帆毳張流登 見左右荷 鞆之浦廻二 浪立有所見
【語釈】 ○海人小船帆かも張れると 海人の乗っている小船が、白い帆を張っているのかと。○鞆の浦廻に浪立てり見ゆ 「鞆の浦廻に」は、備後国沼隈郡、今の広島県、福山市鞆町の海浜。「浦廻」の廻は接尾語。「浪立てり」は、終止形で、「見ゆ」に接続する。浪の立っているのが見える。
【釈】 海人の小船が白い帆を張っているのかと見るほどに、鞆の浦に白浪の立っているのが見える。
【評】 鞆の浦は、輔戸内海の航路の中でも、風景の好い所として聞こえた地である。この歌は航海者として鞆にあり、陸から海上を眺め渡しての感である。「海人小船帆かも張れる」というのは、譬喩というよりは、その一歩手前の連想であって、そのために素朴であり、感としては、かえって深いものとなっている。
1183 好去《まさき》くて 亦《また》還《かへ》り見《み》む ますらをの 手《て》に巻《ま》き持《も》てる 鞆《とも》の浦廻《うらみ》を
好去而 亦還見六 大夫乃 手二卷持在 鞆之浦廻乎
【語釈】 ○好去くて 諸注、訓がさまざまである。『略解』の訓。巻九(一七九〇)に「其好去有欲得《マサキクアリコソ》」などの例がある。無事であって。○亦還り見む また立ち還って見よう。○ますらをの手に巻き持てる 男子の、弓を射る時に手に巻いて持っているで、鞆と続く。「鞆」は、巻一(七六)に出た。弓を射る時、左の臂に結びつけ、弦の臂に触れるのを防ぎ、あわせてそれに弦の触れる音で敵を威《おど》す具で、皮で作った円形の物。二句、「鞆」にかかる序詞。鞆の浦は地形が鞆に似たところからの名かという。○浦廻 「廻」はあたり。
【釈】 無事であって、また無事に立ち還って見よう。男子の弓を射る時、手に巻いて持っているところの鞆に因む名のこの鞆の浦のあたりを。
【評】 京の官人が何らかの公務を帯びて、船で西下する途中、柄の浦の佳景をはじめて目にした時の感である。佳景に刺激さ(392)れ、再び見ようとの心から生命感に触れて、我とわが生命を賀し、また鞆の浦をいうに「ますらをの云々」の序詞を設けているが、これは自身持っていたもので、親しくいさぎよく感じていたものであろうから、これもまた自然である。一首の調べに緊張よりくるさわやかさがあって、それが感じを生かしている。
1184 鳥《とり》じもの 海《うみ》に浮《う》き居《ゐ》て 沖《おき》つ浪《なみ》 さわくを聞《き》けば あまた悲《かな》しも
鳥自物 海二浮居而 奥浪 驂乎聞者 數悲哭
【語釈】 ○鳥じもの海に浮き居て 「鳥じもの」は、巻二(二一〇)以下既出。鳥であるようにで、枕詞ではあるが譬喩の意の勝ったものである。「海に浮き居て」は、船に乗っていて。○沖つ浪さわくを聞けば 沖のほうの浪の騒ぐ音を聞くとで、荒れ模様の不安をいったもの。○あまた悲しも 「あまた」は、数の多いことであるが、転じて甚しくの意にも用いたもの。「も」は詠歎。
【釈】 鳥であるように海に浮いて居て、沖のほうの浪の立ち騒ぐ音を聞くと、甚しくも悲しいことであるよ。
【評】 造船法が幼稚で風波を凌ぎ難いところから、当時の航海は、よくよく天候を見定めての上でなければ発船しなかった。「沖つ浪さわくを聞けば」は予測しなかったのである。不安に襲われて、自身を客観視しての心細さがよく現われている。「鳥じもの海に浮き居て」は適切な表現である。
1185 朝《あさ》なぎに 真梶《まかぢ》榜《こ》ぎ出《い》でて 見《み》つつ来《こ》し み津《つ》の松原《まつばら》 浪越《なみご》しに見ゆ
朝菜寸二 眞梶榜出而 見乍來之 三津乃松原 浪越似所見
【語釈】 ○朝なぎに真梶榜ぎ出でて 「朝なぎ」は、朝凪。「真梶」は、船の両舷に十分に艪櫂を着けて。○見つつ来し 振り返って見つつ目的に向かったで、「見し」は過去の思い出。「し」は連体形。○み津の松原 「み津」は、難波津を尊んでの称。「松原」は、み津の浜辺のもので、既出。○浪越しに見ゆ 浪を越した彼方に見えるで、帰航の喜び。
【釈】 朝凪に真梶を用いて漕ぎ出して、名残りを惜しんで振り返り見つつも目的地に向かって行った、あのみ津の松原が、今浪越しに見える。
【評】 み津の浜松は、発船する者にも着船する者にも目標となるもので、悲喜の情を寄せる対象物となっていた。この歌は着()船の喜びの対象である。み津が眼前のものとなってきた時の感で、喜びとはいっても、安心して落ちついた上でのもので、静かに明るいものである。「見つつ来しみ津」などいう続きも、その感にふさわしい。
1186 あさりする 海未通女《あまをとめ》らが 袖《そで》とほり 沾《ぬ》れにし衣《ころも》 干《ほ》せど乾《かは》かず
朝入爲流 海未通女等之 袖通 沾西衣 雖干跡不乾
【語釈】 ○あさりする 「あさり」は、上に出た。ここは、藻を刈るなどで、漁獲以外のことと取れる。○抽とほり沾れにし衣 海上の手業のために、海水が袖をとおしてぐしょ濡れにした衣。
【釈】 藻刈などをする海人《あま》の娘らの、海水が袖をとおしてぐしょ濡れにした衣は、干すけれども乾かない。
【評】 海岸生活にあってはきわめて普通なことであるが、それを見た人にとっては見馴れないことであるのと、女を憐れむ心からいっているもので、京の人の海辺の旅をしての心である。
1187 網引《あびき》する 海子《あま》とや見《み》らむ 飽浦《あくうら》の 清《きよ》き荒礒《ありそ》を 見《み》にこし吾《われ》を
網引爲 海子哉見 飽浦 清荒礒 見來吾
【語釈】 ○繩引する海子とや見らむ 「網引」は、巻三(二三八)に出た。漁りのための大きい網を海に張り、陸で大勢で協力してその網を引くこと。「や」は、疑問の係助詞。「見らむ」は、人が我を見ていることだろう。○飽浦の 訓が定まらない。『新考』の訓。本居宜長は、『玉勝間』で、巻十一(二七九五)「紀の国の飽等の浜の忘れ貝」とあるにより、その飽等であろうとし、海士《あま》郡|賀田《かた》の浦の南方に田倉崎という所があり(和歌山市加太町田倉崎)、そこの称だと里人は伝えているといっている。○見に来し吾を 「を」は詠歎の助詞で、吾であるのに。
【釈】 網引をする海子《あま》と、人は我を見ていることであろうか。飽浦の清い荒礒を見に来た我であるのに。
【評】 人麿歌集の歌で、人麿には、巻三(二五二)「荒栲の藤江の浦にすずき釣る泉郎《あま》とか見らむ旅|去《ゆ》く吾を」があり、境は異なっているが心は通っている。海子の群れにまじっていて、自己を意識し、第三者の見る眼を推量したものである。宮人としての矜りをいったもので、京の人に共通の感情だったとみえ、他にも類想の歌がある。
(394) 右の一首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
右一首、柿本朝臣人麿之謌集出。
1188 山《やま》越《こ》えて 遠津《とほつ》の浜《はま》の 石《いは》つつじ 吾《わ》が来《く》るまでに 含《ふく》みてあり待《ま》て
山超而 遠津之濱之 石管自 迄吾來 含而有待
【語釈】 ○山越えて遠津の浜の 「山越えて」は、遠いの意で、遠の枕詞。「遠津の浜」は、巻十一(二七二九)「霰降り遠津大浦に寄する浪」とあると同所かという。所在は不明で、和歌山市新在家里神、滋賀県伊香郡西浅井村大浦、高知市種崎等、諸説がある。○石つつじ 岩間に咲くつつじ。○吾が来るまでに含みてあり待て 「吾が来るまでに」は、訓は定まらない。仮名書きの例による。立ち帰って来る時まで。「含みて」は、蕾んでで、今は蕾の固い時。「あり待て」は、存在して待っていよで、命令。
【釈】 山を越えて遠く行くに因みある遠津の浜の石つつじは、吾がここへ立ち帰って来るまで、蕾のままで吾を待っていよ。
【評】 遠津の浜を往路として幾日かの旅をし、また帰路としてそこを通る予定の旅人が、この浜で見懸けた蕾の石つつじを見て、愛惜する心である。花に対していった心のものである。「吾が来るまでに含みて」は、感傷の心よりの希望とも、可能のこととも取れるが、後者と取れる。「山越えて」も、形は枕詞であるが、実感を托したものである。一首素朴ではあるが、細かい心があって、奈良京の官人の公務を帯びての旅先の歌と思われる。
1189 大海《おほうみ》に 嵐《あらし》な吹《ふ》きそ しなが鳥《どり》 猪名《ゐな》の湊《みなと》に 舟《ふね》泊《は》つるまで
大海尓 荒莫吹 四長鳥 居名之湖尓 舟泊左右手
【語釈】 ○嵐な吹きそ 「嵐」は、航海者の最も怖れるもの。○しなが鳥猪名の湊に 「しなが鳥猪名」は、上の(二四〇)に出た。猪名川の河口で、尼ケ崎市東方、神崎から長洲あたりかという。
【釈】 大海に大風よ吹くな。猪名の港に、我が船が泊まるまで。
【評】 猪名の港は、難波津から発した船の泊《は》てる所としていっている。「大海」は難波の海で、「嵐」を怖れるところから強めていっているもので、「嵐」もその心よりのものであり、航海中最もおそるべきものだからである。今は、嵐を想像して、港に(395)着くまでの平穏を願った心であって、祈りの意に近いものである。
1190 舟《ふね》泊《は》てて かし振《ふ》り立《た》てて 廬《いほり》せむ 名子江《なこえ》の浜辺《はまべ》 過《す》ぎかてぬかも
舟盡 可志振立而 廬利爲 名子江乃濱邉 過不勝鳧
【語釈】 ○舟泊ててかし振り立てて 「舟泊てて」は、上の歌に出た。「かし」は、和名抄に出ており、舟を岸に繋ぎ留めるための杙の称である。船に載せていた。「振り立て」は、杙を打つことをあらわしている語。かしを振るは、今も舟人の日常語になっていると『略解』は注している。○廬せむ 廬を結んで入る意。○名子江の浜辺過ぎかてぬかも 「名子江」は、所在不明である。「過ぎかてぬかも」は、通り過ぎは出来ないことよで、「かてぬ」は既出、不能の意。佳景に対しての心。
【釈】 舟を泊まらせて、かしを振り立てて繋いで、今夜の廬を結ぼう。この名子江の浜辺の景色は通り過ぎの出来ないことであるよ。
【評】 京の官人の、船での旅をしていて、途中佳景に逢った時の心である。初句より三句までは、舟人のすることを自身の口をとおして委しくいっているものである。そのことに興味をもってのことであろうが、一首の歌としては、あまりにも興味をもちすぎ、そのため散文的なものにし、効果を薄くしている。これは奈良時代の一つの傾向である。
1191 妹《いも》が門《かど》 出入《いでいり》の河《かは》の 瀬《せ》を早《はや》み 吾《わ》が馬《うま》つまづく 家《いへ》思《も》ふらしも
妹門 出入乃河之 瀬速見 吾馬爪衝 家思良下
【語釈】 ○妹が門出入の河の 「妹が門出」は、出で入りする意で「入」に続け、地名としての「入の河」の「入」の序詞としたものと取れる。巻九(一六九五)人麿歌集の歌に、「妹が門入り出づみ川の常滑に」とあり、「妹が門入り」は「出づ」の序詞であり、その型のものと取れるからである。「入の河」は所在が明らかでない。山城国にはこの名の野がある(京都府乙訓郡大原野村上羽の入野神社のほとりの善峯川かという)が、諸所にありうる名であり、歌の排列順の大体定まっている上からも、それとは定め難い。○瀬を早み 瀬が早いので。○吾が馬つまづく わが乗馬が躓く。○家思ふらしも 家の妻が我を思っているのであろうで、「も」は詠歎。旅にいる夫の乗馬の躓くのは、家にいる妻が夫を思う心の通じてのこととする俗信があってのものである。家の妻が我を思うことを、このような語続きでいうのが、型となっていたのである。
(396)【釈】 妹が門を出で入りするに因みある入の河を渉って行くと、河の瀬が早いので、わが乗馬が躓く。家の妻が我を思っているのであろうよ。
【評】 家の妻が旅にいる夫を案じると、その心が通って、夫の乗馬が躓き、あるいは行き悩むということは、広く行なわれていた信仰であったとみえ、それに触れている歌が少なくない。この歌はその一首で、巧みな歌である。「妹が門出入の河」は、夫より妻を思ったものであるが、それは第二にし、「馬つまづく家思ふらしも」に重点を置いているもので、旅愁を上品に婉曲にいったものである。しかしこの歌の「家思ふらしも」には問題がある。「瀬を早み」を、理由をいったものではなく、状態をいったもので、瀬が早くしてであると解しても、陥るところ、「馬ぞつまづく」の理由である。それだと「家思ふらしも」と矛盾する。一つのことに二つの理由があることになるからである。迎えていえば、古くからの信仰が、それ自体だけでは立ち難い状態となり、何らかの理由を求めていたのが、無意識に影響しているのではないかと思われる。それであるとすれば、時代の推移を示していることになる。この歌、巧みではあるが感が乏しく、どこか誘い物ということを思わせるものである。
1192 白栲《しろたへ》に にほふ信士《まつち》の 山川《やまがは》に 吾《わ》が馬《うま》なづむ 家《いへ》恋《こ》ふらしも
白栲尓 丹保布信士之 山川尓 吾馬難 家戀良下
【語釈】 ○白栲ににほふ信士の 「白栲」は、白色の意のもの。「にほふ」は、艶《つや》を発している意で、白色の艶を出すことは、其土の特色であるところから真土と続け、それを待乳山に転じたもので、初句から「にほふ」まで八音は待乳の序詞。実景を序詞の形でいったものと思われる。待乳山は京より紀伊国へ出る要路にある山で、既出。○山川に 「山川」は山の川で、今の落合川と思われる。○吾が馬なづむ 乗馬が渉り悩むで、山川で急流なため。○家恋ふらしも 家の妻が我を恋うているのであろうよ。
【釈】 白色に艶を発している真土に因む名の待乳山の、その山の川を渉とて、我が乗っている馬は行き悩んでいる。家の妻が我を恋うているのであろうよ。
【評】 上の歌と作意はまったく同じで、境が異なっているだけである。しかしこの歌のほうが事も心も自然なので感が深い。待乳山の実景を序詞とした点、「信士の山川」は名高い道なので、名をいわない点、また得乳山は国境の山なので、それを越した時は旅愁も際やかで、「家恋ふらしも」も自然である点など、すべてがよく纏まっている。奈良時代の歌である。
1193 背《せ》の山《やま》に 直《ただ》に向《むか》へる 妹《いも》の山《やま》 こと聴《ゆる》せやも 打橋《うちはし》渡《わた》す
(397) 勢能山尓 直向 妹之山 事聽屋毛 打橋渡
【語釈】 ○背の山に直に向へる妹の山 「背の山」は、巻一(三五)に出た。和歌山県伊都郡かつらぎ町の西端にあり、紀の川の北岸の山。大和国から紀伊国へ下る要路にあたり、越えて行くべき山である。「直に向へる」は、直接に向かっているで、相対している意。「妹の山」は、現在は、伊都郡かつらぎ町西渋田、紀の川の南岸に、背山と川を隔てて立っている山の称であるが、本居宣長は『玉勝間』九巻でこれを疑い、妹山は実際にはなく、背山に対かってかりに設けた名であるといい、『新考』は、それを進めて、妹山は背山と並んでいるちょっとした山であり、京の人の興味より名付けた名であって、土地の人とはかかわりがなかったため伝わらなかったのであろうといっている。この続きの歌によってみても、一つづきの山であったと思われる。○こと聴せやも打橋渡す 「こと」は、言で、「聴す」は求婚を承諾する意。「や」は疑問の係助詞。「も」は、詠歎。背山の求婚を妹山が承諾をしたのであろうか。「打橋」は、一枚板で、低い岸から岸へ渡す橋で、架けはずしの出来るかりそめの橋。「渡す」は、妹山が背山の通いやすいように渡すで、二つの山の間の谷川へ架かった橋に対しての作者の解。
【釈】 背の山に直接に向かっているところの妹山は、背山の求婚を承諾したのであろうか、背山の通いやすいようにと間の川に打橋を渡したことである。
【評】 山に神格を認めた上代信仰の延長とし、山を人格視し、男女、親子とすることは、全国的に拡がっていた信仰である。背山と妹山とはそれであって、作者の興味をもったのはその点ではなく、二つの山の問にある谷川に架かっている打橋だったのである。それをしたのは妹山だとしたのは、男性には一般性のある興味で、ことにその路を通る旅人にあってはもちやすい興味であったろう。
1208 妹《いも》に恋《こ》ひ わが越《こ》えゆけば 背《せ》の山《やま》の 妹《いも》に恋《こ》ひずて あるがともしさ
妹尓戀 余越去者 勢能山之 妹尓不戀而 有之乏左
【解】 上の(一一九四)以下、(一二〇七)「粟島に」までの十四首は、元暦本、西本願寺本、外四本は、寛永本とは排列の順序が異なっている。本書もそれに従う。歌の番号だけは、便宜上『国歌大鶴』に従う。
【語釈】 ○妹に恋ひわが越えゆけば 「妹」は、京にいる者。「越え行けば」は、妹を目的として行くので、京へ向かって背の山を越して行くことで、紀伊より京への帰路。○背の山の妹に恋ひすて 「背の山」は、その名によって我に擬したもの。「妹」
は、妹山で、京の妹に擬してのもの。「恋ひずて」は、後世の恋いずしてにあたる古格。憧れずしての意で、それをしないのは、相並んで一緒にいるからである。○あるがともしさ 「ともしさ」は、形容詞に「さ」が着いて体言としたもの。いるのが羨ましいことよ。
(398)【釈】 妹にあこがれて我が越えて行くと、この背の山は妹山と並んでわがごとくあこがれをせずにいることの羨ましいことよ。
【評】 背山妹山は上にいった信仰の伴った名であるから、その意味で実感を誘うものがあったのであろう。この作者は紀伊より京への帰路で、背の山を越すと大和に入るのであるから、妻恋しい心の一段と高まっていたおりである。軽い興味だけでいっているものではなかったろうと思われる。
1209 人《ひと》ならば 母《はは》の最愛子《まなご》ぞ 麻《あさ》もよし 紀《き》の川《かは》の辺《へ》の 妹《いも》と背《せ》の山《やま》
人在者 母之最愛子曾 麻毛吉 木川邊之 妹与背之山
【語釈】 ○人ならば母の最愛子ぞ 「人ならば」は、下の「妹と背の山」に対する仮想。「最愛子」は、用字のごとく、最愛の子の意で、他にも用例のあるもの。親といわず「母」といっているのは、夫妻同居せず、子は母といるだけであったことを背後にしてのもの。○麻もよし紀の川の辺の 「麻もよし」は、「麻裳」に「よし」の詠歎を続けたもの。着と続け、紀に転じての枕詞。「紀の川」は、吉野川の紀伊へ入っての名。○妹と背の山 「妹」と「背」は、広く妹は女、背は男の称で、夫婦間でもいい、兄妹間でもいった。ここは兄妹の意である。ことにここは同腹の兄妹で、親しい間柄である。
【釈】 これがもし人であったならば、母親の最愛の子である。紀の川のほとりに並んでいるこの妹と背の山は。
【評】 旅人としてはじめて妹山と背山とを見た人の心である。この人は夫妻を連想せずに、若い兄妹を連想したのである。親の子に対する歌は比較的少ないので、その意味で特色のあるものである。一首、美しく明るく、奈良京の人の歌とみえる。愛する子どもをもっており、心に懸かっているところからの連想であろう。
1210 吾妹子《わぎもこ》に 吾《わ》が恋《こ》ひ行《ゆ》けば ともしくも 並《なら》び居《を》るかも 妹《いも》と背《せ》の山《やま》
吾妹子迹 吾戀行者 乏雲 並居鴨 妹与勢能山
【語釈】 ○吾が恋ひ行けば 京にいる妹を恋うて、そちらへ向かって行けば。○妹と背の山 夫妻としての山。
【釈】 京の妻を恋うてそちらへ向かってゆくと、羨ましくもーしょに並んでいることであるよ。妹と背の山は。
【評】 (一二〇八)と全く同想である。この歌のほうが、詠み方が率直で、おおまかで、謡い物に近いところがある。この道を(399)通る京の人は、誰しも似た感を起こしたので、謡い物として謡ったのであろう。
1211 妹《いも》があたり 今《いま》ぞ吾《わ》が行《ゆ》く 目《め》のみだに 吾《われ》に見《み》えこそ こと問《と》はずとも
妹當 今曾吾行 目耳谷 音耳見乞 事不問侶
【語釈】 ○妹があたり今ぞ吾が行く 妹が家の辺りを、今我は行くことであるで、「行く」は「ぞ」の結。○目のみだに吾に見えこそ 「目のみだに」は、旧訓「目にだにも」。『代匠記』の訓。「目」は、顔というのを、その最も印象的な目に代表させていっている語。「のみだに」は、だけでもせめて。「こそ」は願望で、せめて顔だけでも見せてくれよ。○こと問はずとも ものはいわなかろうとも。
【釈】 妹の家の辺りを、今我は過ぎて行くことである。せめて顔だけなりとも我に見せてくれよ。ものはいわなかろうとも。
【評】 男が昼、夫婦関係を結んでいる女の家の辺りを過ぎる時の感である。女はその事を、母にも秘密にしており、男もそれを知っていての心である。こうした夫婦関係は、上代にあっては普通なことで、母に打明けるというのは時を経た後のことだったのである。これは相聞の歌で、羈旅には関係のない歌である。関係をつければ、男は急に旅立ちをすることになり、女に暇乞いをする余裕のなかった時のことである。
1212 足代《あて》過《す》ぎて 糸鹿《いとか》の山《やま》の 桜花《さくらばな》 散《ち》らずあらなむ 還《かへ》り来《く》るまで
足代過而 絲鹿乃山之 櫻花 不散在南 還來万代
【語釈】 ○足代過ぎて 「足代」は、宜長の訓。紀伊国|在田《ありた》郡(現、有田市)にある地。『日本後紀』大同元年に「改2紀伊国|安諦《アテノ》郡1為2在田郡1。以3詞渉2天皇(ノ)諱(ニ)1也」とある。平城天皇の諱が安殿であったからのことである。○糸鹿の山の桜花 「糸鹿の山」は、有田市糸我町の南にある山。湯浅町との境に糸我峠がある。○散らずあらなむ 「なむ」は願望の助詞。○還り来るまで 『古義』の訓。旅をして還って来るまで。
【釈】 足代を過ぎてのこの糸鹿の山の桜花は、散らずにいてくれ。旅を終えて還って来るまで。
【評】 旅はどの程度のものかわからないが、桜花は散り易いものであるから、おそらくは愛惜の心から、不可能なことを望んでいるものであろう。「足代過ぎて糸鹿の山」という続きは、いわゆる道行《みちゆき》風の言い方である。一首、明るく軽く、暢びやかで、謡い物風である。
(400)1213 名草山《なぐさやま》 ことにしありけり 吾《わ》が恋《こ》ふる 千重《ちへ》の一重《ひとへ》も なぐさめなくに
名草山 事西在來 吾戀 千重一重 名草目名國
【語釈】 ○名草山ことにしありけり 「名草山」は、和歌山市、中腹に紀三井寺のある山。「ことにしありけり」は、既出。ただに名だけのことで、実が伴わないものであったと、已往の詠歎を添えて強くいったもの。○吾が恋ふる千重の一重も 吾の家を恋うる心の、その千分の一をもで、これも既出。○なぐさめなくに 慰めないことであるよ
【釈】 名草山というのは、ただに名だけのことであった。吾が家を恋うる心の千分の一をも慰めないことであるよ。
【評】 紀伊国に旅をして、家恋しい心をもっている人が、名草山を見て、物の名には神秘性があって、名のごとき実をあらわすものだという信仰から、名草山にその旅愁を慰める実のないことを嘆いたものである。信仰があるゆえの喚きであって、上代では実感だったのである。類歌の少なくないものであるが、そのことがこの信仰の一般性を示しているのである。
1214 安太《あだ》へ行く 小為手《をすて》の山《やま》の 真木《まき》の葉《は》も 久《ひさ》しく見《み》ねば 蘿《こけ》生《む》しにけり
安太部去 小爲手乃山之 眞木葉毛 久不見者 蘿生尓家里
【語釈】 ○安太へ行く小為手の山の 「安太」は、和名抄に、「紀伊国在田郡英多」とある地。和歌山県有田郡吉備町北部から、有田市東北部にかけての地という。「小為手の山」は、本居宣長は、在田郡に推手《おして》村(現在、有田郡清水町押手。もと安諦《あだ》村)というがあり、そこかといっている。(401)この村は伊都郡の堺で、山奥である。路順は、伊都郡のほうから在田郡の方へ向かって行くのである。○真木の葉も 「真木」は、檜、杉など。○久しく見ねば羅生しにけり 「羅」は、さがりごけで、木の枝にさがる物。久しい間見ないので、その間にさがりごけが生えたで、「けり」は詠歎。
【釈】 安太へ行く途中のこの小為手の山の檜の葉も、久しく見ないので、さがりごけが生えたことであった。
【評】 羈旅の歌というが、これはその地方の人の、たまたま小為手の山越しの道を通り、以前|通《とお》った時には見なかった羅が、檜に生えているのを見て、感を発したのである。実際に即してのもので、こうしたことは、山村の者でないと心づかない性質のものである。「安太へ行く小為手の山」は、上の「足代過ぎて」と同じく道行きの心で、そうした興味の一般化していたことを示すものである。
1215 玉津島《たまつしま》 よく見《み》ていませ 青丹《あをに》よし 平城《なら》なる人《ひと》の 待《ま》ち問《と》はば如何《いか》に
玉津嶋 能見而伊座 青丹吉 平城有人之 待問者如何
【語釈】 ○玉津島よく見ていませ 「玉津島」は、巻六(九一七)に出た。和歌山市和歌浦、今の玉津島神社の東の奠供山という山である。「いませ」は、行けの敬語。○青丹よし平城なる人の 「青丹よし」は、奈良の枕語。「平城なる人」は、奈良京にある人で、今ものを言い懸けられている人の妻で、その人を尊む意から、枕詞を添えて鄭重に婉曲にいったもの。○待ち問はば如何に 君の帰りを待って、ここのさまを尋ねたらば、いかに語り給うかの意。
【釈】 玉津島をよく見てお帰りなさい。奈良京にいる人が、君のお帰りを待って、ここのさまを尋ねたならば、どうお話しなさいます。
【評】 奈良京から玉津島へ来た身分ある人の、帰りを急ごうとしているのに対し、引留める心で言っているものである。引留める人は、帰りを急ぐのは家を思う心からであろうとし、その対象となっている家の人は、帰ればここの風景の美を聞こうとするだろうといって、それを口実としているのである。作者は女性で、遊行婦の類であろう。おおらかな明るい物言いに、女性らしい細かい感性を織り込んでいる。
1216 潮《しほ》満《み》たば 如何《いか》にせむとか 方便海《わたつみ》の 神《かみ》が手《て》渡《わた》る 海部未通女《あまをとめ》ども
(402) 塩滿者 如何將爲跡香 方便海之 神我手渡 海部未通女等
【語釈】 ○潮満たば如何にせむとか 潮が満ちて来たならば、どうしようとするのであろうかと、干潮の沖へ出て、海人《あま》の娘たちのその生業をしているさまを見やって危ぶんでいったもの。○方便海の神が手渡る 「方便海」を「わたつみ」と訓んでいるのは旧訓であるが、他に用例のない用字であるところから、諸注問題にしている。『代匠記』は心得難い字であるといい、経典によって解を試みている。「神が手は」は、「神」は海を支配する神で、「手」は譬喩である。巻七(一三〇一)「海神《わたつみ》の手に纏き持てる玉」があり、これは海中の岩礁に着いている鮑の玉である。ここもそれと同じく海中の岩礁を譬えたもの。「渡る」は、その上を行動しているので、そうするのは同じく鮑貝を獲るためである。○海部未通女ども 海人の娘たち。
【釈】 潮が満ちて来たならば、どうしようとするのだろうか。海の神の手の上で行動している海人の娘たちは。
【評】 京の海を見馴れない人が、海人の娘たちが干潮の時を窺って、沖のほうの岩礁に着いている鮑を採っているのを眺め、海の怖ろしさからその岩礁を海神の手と見て、もし満潮となってきたならばどうするだろうかと危ぶんでいる心である。海人としては日常の生業であるのを、怖れをもって見るのは京の人の心である。今日からいうと、「方便海の神の手渡る」という言い方は奇抜なものに感じられるが、海にわたつみの神を感じるのは、海の変化の測り難く怖ろしいのと、舟運に待つことが今日よりも多く、したがって関係が密接であったところから、おそらく最後まで残った信仰であったろう。また海に立っている岩礁に、神の手を連想することも、一切を具象的に、また感覚的に感じる習性をもっていた時代とて、今日想像するほどかけ離れたものではなかったろう。一たびこうした言葉が出来ると、それに倣う者のあったことは、上に引いた用例でも察しられる。この言葉は時代が生んだものだったのである。一首の歌として、時代の相違よりする距離はあるが、印象の鮮明な歌である。
1217 玉津島《たまつしま》 見《み》てし善《よ》けくも 吾《われ》は無《な》し 京《みやこ》に往《ゆ》きて 恋《こ》ひまく思《おも》へば
玉津嶋 見之善雲 吾無 京徃而 戀幕思者
【語釈】 ○見てし善けくも吾は無し 「見てし」の「し」は、強め。「善けく」は、「善し」を名詞形としたもの。善いこと。○恋ひまく思へば 「恋ひまく」は、恋ひむの名詞形。
【釈】 玉津島をこのように見て、善いことも我はない。京に帰って、ここを恋うだろうことを思うと。
【評】 風景に対する愛と憧れが、負担になることをいっているものである。心象を批評的にみ、分解をしようとするところは、奈良の人の心であろう。
1218 黒牛《くろうし》の海《うみ》 紅《くれなゐ》にほふ 百礒城《ももしき》の 大宮人《おほみやびと》し あさりすらしも
黒牛乃海 紅丹穗經 百礒城乃 大宮人四 朝入爲良霜
【語釈】 ○黒牛の海紅にほふ 「黒牛の海」は、海南市、黒江の海で、今の黒江湾紀三井寺の南。「紅」は、下の「大宮人」の裳の色で、「にほふ」は、色の映発する意。熊牛の海が紅の色で映えている。○百礒城の大宮人し 「大宮人」は、上の紅の関係で大宮に仕える女官。「し」は、強め。○あさりすらしも 「あさり」は、ここは漁りで、海珍しい女官が慰みとして藻や貝を採集すること。【釈】 黒牛の海が紅の色に映えている。従駕の女官が、漁りをしているのであろう。
【評】 行幸に従駕した多くの女官が、紅の裳を着けて、海岸に出て、興味として藻を引き貝を拾っているさまを、距離を置いて眺めやっている心である。「黒牛の海紅にほふ」は、全景を色で総合し対照してあらわしているものである。黒牛は地名であるが、文字とすればそうした感じを起こさせるもので、作者は意識してのことである。七音の初句を用いていることもそのことを示しているものである。三句以下はその分解と説明である。平凡ではあるが必要なものである。この歌以下七首は、左注によって藤原卿の歌である。また歌より見て紀伊国へ従駕した時の作である。それについては左注でいう。
1219 若《わか》の浦《うら》に 白浪《しらなみ》立《た》ちて 沖《おき》つ風《かぜ》 寒《さむ》き暮《ゆふべ》は 大和《やまと》し念《おも》ほゆ
(404) 若浦尓 白浪立而 奥風 寒暮者 山跡之所念
【語釈】 ○若の浦に 「若の浦」は、和歌山市の和歌浦。そこへ行幸のあったのは、聖武天皇で、神亀元年十月で、巻六(九一七)山部赤人の賀歌を作った時である。○沖つ風寒き暮は 「沖つ風」は、海上を吹く風。「寒き暮」は、十月のことと思える。○大和し念ほゆ 「大和」は、平城。「し」は強意。「念ほゆ」は、思われるで、思うのは妹である。
【釈】 和歌の浦に白浪が立って、沖から吹く風の寒い夕方は、大和が恋しく思われる。
【評】 旅愁を妹に訴えようとした歌と思える。巻一(六四)志貴皇子の「葦辺行く鴨の羽がひに霜ふりて寒き暮夕は大和し念ほゆ」と、四、五句は同じである。意識してのものであろう。
1220 妹《いも》が為《ため》 玉《たま》を拾《ひり》ふと 紀《き》の国《くに》の 由良《ゆら》の岬《みさき》に この日《ひ》暮《く》らしつ
爲妹 玉乎拾跡 木國之 湯等乃三埼二 此日鞍四通
【語釈】 ○妹が為玉を拾ふと 「妹」は、奈良京にいる妻。「為」は土産にするため。「玉」は、海より打上げられる浜辺の貝や小石。○由良の岬 日高郡の由良の港の北側の突角(下山の鼻)。
【釈】 京にいる妹が苞にするために、紀伊国の由良の岬で、今日の一日を暮らした。
【評】 「妹が為玉を拾ふ」ということは、実に類想の多いことで、この歌は「紀の国の由良の岬」という地名によって救われているものである。消息の歌というにすぎないものである。しかしこの歌には明るく暢びやかに打上がったところがあり、貸族ら(405)しい風格を示している。
1221 吾《わ》が舟《ふね》の 梶《かぢ》はな引《ひ》きそ 大和《やまと》より 恋《こ》ひ来《こ》し心《こころ》 いまだ飽《あ》かなくに
吾舟乃 梶者莫引 自山跡 戀來之心 未飽九二
【語釈】 ○梶はな引きそ 「梶」は、今の船櫂で、今の艪にあたる。「引く」は、舟を漕ぐには、艪を押しつ引きつするところから、漕ぐことを具象的にいった語。「な引きそ」は、漕ぐなで、舟を留めていよの意。
【釈】 我が舟の艪を引かずにここに留めていよ。大和から憧れて来たここの風景に、まだ心は満足しないことであるのに。
【評】 舟で浦伝いをしつつ、風光の好い所に舟を留めて賞美しているおりの心で、舟子に命じた言葉としてのものである。「大和より恋ひ来し心」は、風光に対する強い憧れ心で、舟子に説明する形でいっているものである。歌才の相応にあったことを思わせる作である。
1222 玉津島《たまつしま》 見《み》れども飽《あ》かず いかにして つつみ持《も》ち去《ゆ》かむ 見《み》ぬ人《ひと》の為《ため》
玉津嶋 雖見不飽 何爲而 ※[果/衣]持將去 不見人之爲
【語釈】 ○玉津島見れども飽かす 玉津島は幾ら見ていても飽かない佳い景色である。○いかにしてつつみ持ち去かむ どのような方法で、物に包んで持って行こうか。○見ぬ人の為 「見ぬ人」は、京にいる妻で、「為」は、見せるために。
【釈】 玉津島は幾ら見ていても飽かない佳景である。どういう方法で物に包んで持って行こうか。これを見ずにいる京の妻に見せるために。
【評】 珍しい風景に接すると、親しい人に見せてやりたいと思い、どうかして持ってゆきたいということは、一般性のあるもので、したがって類歌が少なくない。しかしこの歌の場合は、物は玉津島であり、調べは熱意よりの躍動のないものなのであるから、その心が生かされていない。妻に対しての情を示そうとする歌とみえる。
1194 紀《き》の国《くに》の 狭日鹿《さひか》の浦《うら》に 出《い》で見《み》れば 海人《あま》の燈火《ともしび》 浪《なみ》の間《ま》ゆ見《み》ゆ
(406) 木國之 狹日鹿乃浦尓 出見者 海人之燎火 浪間從所見
【語釈】 ○狭日鹿の浦に これは巻六(九一七)に「雑賀野《さいかの》」と出ており、その野は聖武天皇行幸のおり、頓宮の建てられた所で、「浦」はその野につづく海である。和歌浦の西北。和歌山市雑賀崎。○浪の間ゆ見ゆ 波間をとおして見える。
【釈】 紀伊国の狭日鹿の浦に出て見ると、夜の漁りをする海人の舟に燃す火が、浪の間をとおして見える。
【評】 海上の夜の漁火は、そのものとしても印象的のものであるが、海珍しい心に捉えられ、さらに地名を二つ重ねた旅情の表現に、相応に趣のあるものとなっている。「浪の間ゆ見ゆ」は成句であるが、燈火の遠く隠見するさまをあらわしている。
1195 麻衣《あさごろも》 着《け》ればなつかし 紀《き》の国《くに》の 妹背《いもせ》の山《やま》に 麻《あさ》蒔《ま》け吾妹《わぎも》
麻衣 著者夏樫 木國之 妹背之山二 麻蒔吾妹
【語釈】 ○麻衣着ればなつかし 「麻衣」は、上代はもとより、庶民は近世までも四季を通じて常用服とした。「着れ」は「着あり」の約、己然形。着ていると。「なつかし」は、その麻衣が。○紀の国の妹背の山に 前出。○麻蒔け吾妹 「麻蒔け」は、訓は諸注さまざまであるが、要するに「まけ」と「まく」である。旧訓は「麻まけ」で命令形。この歌も前の六首と同時のもので、紀伊の行幸地から京の妹の許に寄せたものと思われる。それだと時は十月で、春、種を蒔く麻としては実際と離れたものとなり、心持を譬喩をもっていったものとなる。その関係から三、四句の「紀の国の妹背の山に」も、同じく事実ではなく譬喩で、名前の示しているように夫婦間をいう意味のものと取れる。
【釈】 麻衣を着ていると、その庶民的な点がなつかしい。紀伊国の妹背の山に、すなわち我ら夫婦の間に、このなつかしさの種()になる麻の種を蒔けよ、我妹。
【評】 この歌は譬喩歌であるが、技巧上の要求からのそれではなく、相手は気がねをするところから、率直にいうことを憚って、必要から譬喩の形を選んだものと思われる。藤原卿から見ると、京にいる妹は、心が打上がっていて、貴族的で、打解けたところが足りないのが不甘心であった。それを矯めたいところから、おりから紀伊国にいるので、その国の枕詞となっている「麻裳よし」を「麻衣」とし、それを庶民的ななつかしさのあるところから、男女打解けたところから生まれるなつかしさの譬喩とし、また同じく紀伊国にある妹背の山を、夫妻の譬喩とし、夫妻の間になつかしさの生まれるように、その穫すなわち麻衣となる麻の種を蒔けよと望んだのである。言葉としては複雑なものになるが、相互間ではただちに感じ合える性質のものであったろう。なお、こうした歌を贈られる妹の位置、教養なども思わせられるものである。
右の七作は、藤原卿の作。いまだ年月を審にせず。
右七首者、藤原卿作。未v審2年月1。
【解】 「藤原卿」は、誰ともわからない。.『代匠記』は、大職冠ならば内大臣藤原卿というべきだから、それではない。その他では南卿と北卿とだが、南卿の武智麿は作歌が不得意だったとみえ、集中に一首もない。北卿の房前だろうといっている。また『全註釈』は本巻が大伴氏と関係深いので、坂上郎女の夫であった、麻呂ではないかといっているが、これらは推測で問題を残している。「年月を審にせず」といっているが、七首中の歌によって、紀伊の和歌の浦の行幸に従駕した時の作であることは明らかで、それは聖武天皇神亀元年十月のことである。本巻の編者にとってそれは最近のことで、おそらくは作者も年月も知っていることで、何らかの心からわざとこのようにいったのではないかと思われる。また、これら七首の歌を贈られた妹と呼ばれている女性は、最後の歌で見ると、身分あり教養の高い人であったと思われる。そうした人が夫妻間のこうした歌を他に漏らしたということは、編者と何らかのつながりのある人と思われる。その人の名もいっていないのである。これらのことも藤原卿の何びとであったかを暗示するものといえよう。
1196 ※[果/衣]《つと》もがと 乞《こ》はば取《と》らせむ 貝《かひ》拾《ひり》ふ 吾《われ》を沾《ぬ》らすな 沖《おき》つ白浪《しらなみ》
欲得※[果/衣]登 乞者令取 貝拾 吾乎沾莫 奥津白浪
【語釈】 ○※[果/衣]もがと 『略解』の訓。「もが」は、願望の助詞。苞を下さいと。○乞はば取らせむ 「乞はば」は、家妻が乞うたならば。「取らせ(408) む」は、与えむ。○沖つ白浪 沖の白浪よで、呼懸け。
【釈】 海べのみやげをほしいと、家の妻が乞うたならば与えようと思う貝を拾っている我を、寄せ来て濡らすな、沖の白浪よ。
【評】 干潮の海べに出て、妻のために貝を拾っている旅人の、沖に見える白浪に怖れをもち、妻を思う心に同感を求めているものである。平明で、暢びやかで、謡い物を思わせる歌である。
1197 手《て》に取《と》るが からに忘《わす》ると 礒人《あま》のいひし 恋忘貝《こひわすれがひ》 言《こと》にしありけり
手取之 柄二忘跡 礒人之曰師 戀忘貝 言二師有來
【語釈】 ○手に取るがからに忘ると 手に取ると、そのゆえに忘れるとで、手に取っただけで物思いを忘れると。物思いは下の「恋」。旅にあって家妻を恋うる心。○言にしありけり ただ言葉だけで、実の伴わないことであることよで、前出。
【釈】 手に取るだけで物思いは忘れると海人《あま》のいったこの恋忘貝は、ただ言葉だけで実の伴わないものであった。
【評】 同想の歌のすでに何首もあったものである。この歌は海人の言葉をそのままに繰り返し、それに対しての失望をいうという、単純な率直なものであるために、おのずから作者の善良さが現われて、それが味となっているもので、そこに特色がある。
1198 求食《あさり》すと 礒《いそ》に住《す》む鶴《たづ》 あけゆけば 浜風《はまかぜ》寒《さむ》み 自妻《おのづま》喚《よ》ぶも
求食爲跡 礒二住鶴 曉去者 濱風寒弥 自妻喚毛
【語釈】 ○求食すと礒に住む鶴 「礒」は、岩。「住む」は、居着いている。○浜風寒み自妻喚ぶも 「浜風」は、沖から浜に向かって吹いて来る風。「寒み」は、寒いので。「自妻喚ぶも」は、「自妻」は、熟語として、用例の少なくないもの。「も」は詠歎。
【釈】 求食《あさり》をするとて岩の上に住み着いている鶴が、夜が明けて行くと、浜風が寒いので、自分の妻を喚び立てることよ。
【評】 上の(一一六五)「夕なぎにあさりする鶴潮満てば沖浪高み己妻喚ばふ」と、その心も形も似ていて、暮れを朝にしただけのものである。「あけゆけば浜風寒み自妻喚ぶも」は、当時の生活実感を濃厚に反映させているもので、秋より冬へかけての寒い頃は、夕ぐれの風と明け方の風の肌寒さは特に妻を思う刺激となったのである。鶴に寄せての心であるが、一首理詰め(409)で、一般性をもったものである点から、浜べに行なわれていた謡い物であったろうと思わせるものである。
1199 藻苅舟《もかりぶね》 沖《おき》榜《こ》ぎ来《く》らし 妹《いも》が島《しま》 形見《かたみ》の浦《うら》に 鶴《たづ》翔《か》ける見《み》ゆ
藻苅舟 奥榜來良之 妹之嶋 形見之浦尓 鶴翔所見
【語釈】 ○藻苅舟沖榜ぎ来らし 藻苅舟が、沖より漕いで来るのであろう。○妹が鳥形見の浦に 「妹が島」は、未詳。和歌山市|加太《かだ》の沖に浮かぷ今の友島の旧称かという。田辺市説もある。「形見の浦」も未詳。妹が島を友島とすれば、今の加太町の海岸の称で、近く接してはいるが、別の所である。この続きは、「形見の浦」を主に、「妹が島」はそれに添えた形である。心としてはやや遠く離れて二つの地を見渡していっているものであるから、二つの地が一線となって重なって見えれば、妹が島につづく形見の浦にという関係ともなりうる。○鶴翔ける見ゆ 浜にいた鶴が、舟の近づくのに驚いて舞い立ったらしく、ここから見える意。
【釈】 藻苅舟が沖のほうからそこへ漕ぎ寄って来るのであろう。妹が島に因みある名の形見の浦に、その舟に驚いて、鶴の翔けているのが見える。
【評】 浜辺に住んでいる者の軽い興味より詠んだ歌である。興味は、事としては今まで見えなかった鶴が、にわかに海の空に舞い立ったにすぎないが、そこが「形見の浦」であるところから、その近くの「妹が島」を捉え、二つを繋ぎ合わせることに興味をもち、そのほうを主としていっているものである。明るく軽く、調子のよい歌である。その土地の謡い物であったろう。
1200 吾《わ》が舟《ふね》は 沖《おき》ゆな離《さか》り 向《むか》へ舟《ぶね》 片待《かたまち》ちがてり 浦《うら》ゆ榜《こ》ぎ会《あ》はむ
吾舟者 從奥莫離 向舟 片待香光 從浦榜將會
【語釈】 ○沖ゆな離り 「沖ゆ」は、沖を通過して。「な離り」は、海岸より遠ざかるなで、わが舟は沖のほうへ離れては行くなの意。○向へ舟 こちらへ向かって来る舟。○片待ちがてり 「片待つ」は、片は片設《かたま》く、片付くなどの片と同義で、偏る意で、ひたすら待つ。「がてり」は、一方をしながら、同時に地方をも兼ねる意で、がてらと同じ。片待つかたわら。○浦ゆ榜ぎ会はむ 「浦ゆ」は、浦を通過してで、上の「沖ゆ」に対させたもの。
【釈】 わが舟は沖へは遠ざかるな。向かって来る舟をひたすら待ちながら、浦を漕いで行って行き逢おう。
(410)【評】 京の人が、船で浦伝いをして遊覧していての心である。海に親しみのない心は、船上の人となると海が新しい世界のような感がし、海上でたまたま見かける未知の人にも一種の親しみを覚えるのは、察しやすいことである。この歌の心はそれである。舟人に命令する形でいっているのは、例の多いことである。
1201 大海《おほうみ》の 水底《みなそこ》とよみ 立《た》つ浪《なみ》の よらむと思《おも》へる 礒《いそ》の清《さや》けさ
大海之 水底豊三 立浪之 將依思有 礒之清左
【語釈】 ○水底とよみ立つ浪の 大海の水底まで響いて立つ浪ので、底鳴りのする大浪。○よらむと思へる 寄ろうとしているで、「思へる」は、「忘れむや」を「忘れて思へや」というなどと同じく、語感を強めるために添えているもの。○礒の清けさ 「礒」は、岩石の海岸。「清けさ」は、清けきことよ。
【釈】 大海の水底までも響いて立つ大浪の、寄ろうとしている礒のさやかなことよ。
【評】 海の大浪の壮大美をいっているものである。本来捉えて言い難いものであるのに、実状に即していうことによって生かしている。作者の立っているのは礒の上で、大浪はその礒に向かって進行しつついるので、作者は将来に礒にぶつかって砕けるのを予想しているのである。そしてその様を「清けさ」と感じたのである。調べも、その壮大な形にふさわしく、清々しく重く、立体感をもったものである。
1202 荒礒《ありそ》ゆも 益《ま》して思《おも》へや 玉《たま》の浦《うら》 離《はな》れ小島《こじま》の 夢《いめ》にし見ゆる
自荒礒毛 益而思哉 玉之裏 離小嶋 夢石見
【語釈】 ○荒礒ゆも 「荒礒」は、岩石の高く現われた海岸で、「ゆも」は、よりも。○益して思へや 「思へや」は、思えばにやで、「や」は疑問の係助詞。まさって思っているのであろうか。○玉の浦離れ小島の 「玉の浦」は、本居宜長は『玉勝間』巻九で、那智の下の粉白浦(東牟凝郡那智勝浦町|粉白《このしろ》)から、十町ばかり西南にある海だといい、「離れ小島」は、その玉の浦の南の海中に、ちりぢりに岩のあるのを言ったものであろうといっている。○夢にし見ゆる 「し」は、強め。「見ゆる」は、「や」の結。
【釈】 荒礒の面白さよりも、まさって思っているからであろうか。玉の浦の離れ小島が、夜の夢に見えることであるよ。
(411)【評】 荒礒を面白く思っている人の、離れ小島を夢に見たので、そちらのほうを一層面白く思っていたのであろうかと訝かった心である。夢というものを深く信じていた時代であるから、「夢にし見ゆる」ということは軽からぬことだったのである。荒礒を風景として面白く感じるというのは、京の人の心である。また荒礒は、いったがごとく岩石であるから、離れ小島をちりぢりの岩だとすれば、その比校は合理的なものとなってくる。目に見てはいずれを面白いとも定めかねたのに、夢に出たことによって、離れ小島のほうを一段と思っていたことを知ったというのは、眼前に明らかに見たものよりも、遠くかすかに見えたもののほうに一段と心が引かれていたということで、浪曼的な心といえるものである。新傾向の歌というべきである。
1203 礒《いそ》の上《うへ》に 爪木《つまき》折《を》り焚《た》き 汝《な》が為《ため》と 吾《わ》が潜《かづ》き来《こ》し 沖《おき》つ白玉《しらたま》
礒上尓 爪木折燒 爲汝等 吾潜來之 奥津白玉
【語釈】 ○礒の上に爪木折り焚き 「爪木」は、爪折った木で、細い木の枝。「折り焚き」は折って焚く時の状態を細叙したもの。これは海人が海中にくぐっての身の冷えを暖めることで、その労苦を具象的にいったものである。これは下の続きでみると、海人のことではなく、作者自身のしたことである。○汝が為と吾が潜き来し 「汝」は、下の「白玉」を与える人を指したのであるが、親しんでの称であるから、妻と取れる。「吾が潜き来し」は、吾が海水を潜いて採って来た。○沖つ白玉 「沖」は、海の奥、すなわち海底の。「白玉」は、鰒玉で、すなわち真珠であるぞよ。
【釈】 礒の上で、冷えた体を爪木を折って焚いて暖めて、汝のためにと、吾が海の水に潜って取って来た海底の真珠であるぞよ。
【評】 これは海べに旅をした夫が家に帰って、海の苞として真珠をその妻に贈る時に、贈物に添える歌として詠んだものである。贈物に添える歌は、その物は自身労苦して得たものだということを詠むのが型となっている。この歌で、汝がためと思って自身海人と同じ苦しい思いをしたといっているのは、型に従ってのことである。また、真珠は女子の最も愛好したものであった。作為の歌としては気の利いたものである。
1204 浜《はま》清《きよ》み 礒《いそ》に吾《わ》が居《を》れば 見《み》む者《ひと》は 白水郎《あま》とか見《み》らむ 釣《つり》もせなくに
濱清美 礒尓吾居者 見者 白水郎可將見 釣不爲尓
【語釈】 ○浜清み礒に吾が居れば 「浜清み」は、浜が清いゆえにの意で、それを愛でて、ということを余意としたもの。○見む者は 原文「見者」。『略解』の訓であるが、「見」の下に「人」が脱したかとしている。『新訓』は「者」を「ひと」に当てたものとし、「は」を読み添えている。(412) ○釣もせなくに 釣もしないことだのに。
【釈】 浜が清いゆえに、愛でて、礒の上に吾が居るので、見る人は、海人と見ることであろうか。釣もしないことだのに。
【評】 海辺に来た京人の心で、京人としての自尊心よりいっているものである。類想が少なくなく、前にも出た。
1205 沖《おき》つ梶《かぢ》 やくやく渋《し》ぶを 見《み》まくほり 吾《わ》がする里《さと》の 隠《かく》らく惜《を》しも
奥津梶 漸々志夫乎 欲見 吾爲里乃 隱久惜毛
【語釈】 ○沖つ梶 沖に漕ぎ出ての梶、すなわち艪櫂で、その船の水にある位置を冠しての称。巻二(一五三)「沖つかいいたくなはねそ」に同じ。沖で押している艪。○やくやく渋ぶを 「やくやく」は、巻五(九〇四)「漸漸《やくやく》に容貌《かたち》つくほり」とあり、漸次に。「渋ぶを」は、原文、諸本異同がない。「渋ぶ」は、『代匠記』精撰本の当てた字で、押しくたびれて渋る意だとしている。用例のない動詞なので、語注異説を立てているが、いずれも誤写だとして文字を改めてのものである。『新訓』は渋ぶに従っている。沖に漕ぎ出ての艪櫂は、風も波も高いので漕ぐに困難で渋るのに。○見まくほり吾がする里の 吾が見まく欲りする里のの当時の言い方で、吾が見たいと思う里の。この里は別れて来た里で、心の残る里。○隠らく惜しも 「隠らく」は、隠るの名詞形。「も」は詠歎。
【釈】 沖に漕ぎ出しての艪櫂は、波風の強さに漸次漕ぎ渋るのに、吾は見たいと思う里の、隠れてゆくことの惜しさよ。
【評】 京の官人の、海近い里の、心の残る里に別れて、海路を取って他に移動する際の心である。「沖つ梶やくやく渋ぶを」は、特色のある句である。海路でただちに沖に向かって漕ぎ出すのは、地形の関係で余儀ないことであったとみえるが、特別なことである。「やくやく渋ぶを」は、その海路の困難を具象的にいっているもので、心細かい描写であり、事も言葉も異色のあるものである。京の官人と思わせる理由である。「見まくほり吾がする里」も、旅でのこととすると、何らか特別の関係のある里と思われるが、それ以上はわからない。あくまで個性的な、主観の勝った歌で、客観味の足りない歌であるが、それでいて部分的には細かい描写をしているのである。羈旅の歌には詠歎の勝った謡い物風のものが多いのに、この歌は対蹠的にその反対なものである。
1206 沖《おき》つ波《なみ》 辺《へ》つ藻《も》纏《ま》き持《も》ち 依《よ》り来《く》とも 君《きみ》に益《まさ》れる 玉《たま》寄《よ》らめやも
奥津波 部都藻纏持 依來十方 君尓益有 玉將緑八方
(413)【語釈】 ○沖つ波辺つ藻纏き持ち 「辺つ藻」は、海岸寄りに生えている藻。沖から来る波が、辺に生えている藻を巻き込んで、持って。○依り来とも 寄って来ようとも。○君に益れる玉寄らめやも 「君に益れる玉」は、「君」は、女より男を指したもの。「玉」は、藻の中には、稀れに鰒玉がまじっていることがあるので、それを君の譬にしたもの。「寄らめやも」は、「や」は、反語で、寄って来ようか来はしないで、「も」は、詠歎。
【釈】 沖から来る浪が、海岸寄りに生えている藻を巻き込んで寄って来ようとも、君にまさる玉が藻とともに寄って来ることなどあろうか、ありはしない。
【評】 玉の譬喩が唐突である。こうした言い方は特別の場合にすることで、その場合には面白かったところから伝えられたのであろう。京の身分ある人が海べで遊びをしている際、その土地の遊行婦ともいうべき者が、眼前の海の状態よりの連想として詠んだというようなことであれば、自然なものとなってくる。そうした範囲の歌かと思われる。
一に云ふ、沖《おき》つ浪《なみ》 辺浪《へなみ》しくしく 寄《よ》り来《く》とも
一云、奥津浪 邊浪布敷 縁來登母
【解】 沖よりの浪と、岸寄りの浪とが、重ねに重ねて寄って来ようともで、初二句だけが異なっているのである。上の歌のほうが作意にかなっている。
1207 粟島《あはしま》に こぎ渡《わた》らむと 思《おも》へども 明石《あかし》の門浪《となみ》 いまだ騒《さわ》けり
(414) 粟嶋尓 許枳將渡等 思鞆 赤石門浪 未佐和來
【語釈】 ○粟島にこぎ渡らむと 「粟島」は、巻三(三五八)その他にも出た。今はその名は残っていない。「こぎ渡らむ」は、明石方面よりである。○明石の門浪 「門浪」は、海峡の浪で、浪の荒い所である。○いまだ騒けり 「いまだ」に打消の続かないもので、他にも例がある。
【釈】 粟島に漕ぎ渡ろうと思っているが、明石の海峡の浪はまだ騒いでいる。
【評】 日和の見定めがつかない限り、発船の出来なかった時代に、浪の鎮まりかねるのを、もどかしく待ち遠しくしている心で、「いまだ騒けり」がよく利いている。当時の航海者には共感を喚びうる歌であったろうと思われる。
1225 わたの底《そこ》 沖《おき》こぐ舟《ふね》を 辺《へ》によせむ 風《かぜ》も吹《ふ》かぬか 波《なみ》立《た》てずして
綿之底 奥己具舟乎 於邊將因 風毛吹額 波不立而
【語釈】 ○わたの底沖こぐ舟を 「わたの底」は、海の底の深いところを沖とも称したので、畳語の関係で「沖」にかけた枕詞。巻一(八三)「海の底沖つ白浪」その他にも出た。「沖こぐ舟」は、沖を漕いでいる舟。○辺によせむ風も吹かぬか 「辺」すなわち岸寄りに吹き寄せる風が吹かないかなあで、「ぬか」は、「ぬ」は打消の助動詞、「か」は疑問の助詞で、願望。既出。○波立てずして 波を立てないで。
【釈】 沖を漕いでいるわが船を、岸寄りに吹き寄せる風が吹かないのかなあ。波は立てないで。
【評】 この歌は、岸にいて沖を漕ぐ船を見ている人の心とも取れるが、自身、沖を漕ぐ船にいる人の心である。一首切実の感のあるものだからである。当時の航海はしばしばいったように出来るだけ岸に寄って漕いだもので、沖を漕ぐのは特別な余儀ない場合に限られたことで、今もそれである。「わたの底沖こぐ船」と、沖に恐怖感のある枕詞を冠しているのはそのためである。「辺によせむ風も吹かぬか」は、辺という安全地帯を慕ってのことで、心よりの願望である。「波立てずして」と重くいっているのは、風には波が伴うが、波が高いと危険で岸には寄れない。船が岩にぶつかって破壊する怖れがあるからで、航海者の最も注意を要することだったのである。一首の心は、航海者にとっては一般性をもっていたが、切実なものだったのである。舟人の謡い物ではなかったかと思われる。
1224 大葉山《おほばやま》 霞《かすみ》たなびき さ夜《よ》ふけて 吾《わ》が船《ふね》泊《は》てむ とまり知《し》らずも
(415) 大葉山 霞蒙 狹夜深而 吾船將泊 伴不知文
【語釈】 ○大葉山霞たなびき 「大業山」は、所在が知れない。和歌山県説、滋賀県脱がある。「霞」は、霧をも称した。ここは夜霧。「たなびき」は、原文「蒙」。旧訓「たなびき」。この歌は、巻九(一七三二)に重出し、そちらでは、二句「霞棚引」となっているので、それに拠る。夜霧を全面的に被っていてで、はっきりと見えない意。夜更けの状態として下へ続く。○吾が船泊てむとまり知らずも わが船の碇泊他の知られないことよで、「も」は詠歎。
【釈】 大業山に、夜霧がたなびいて、夜《よる》が更けて、わが船は碇泊地の知られないことであるよ。
【評】 何らかの必要に駆られて夜も航海している際の歌である。大葉山に夜霧が懸かって夜更けたことが知られるが、今夜の碇泊地の予定も立てられないというので、そこの海路に熟している船人の歌と思われる。歌としては平明で、暢びやかで、謡い物を思わせるものであるが、それとしては調べにしめやかさがある。新風の謡い物であろう。
1225 さ夜《よ》ふけて 夜中《よなか》の潟《かた》に 鬱《おほほ》しく 呼《よ》びし舟人《ふなびと》 泊《は》てにけむかも
狹夜深而 夜中乃方尓 欝之苦 呼之舟人 泊兼鴨
【語釈】 ○さ夜ふけて夜中の潟に 「夜中」は、諸本文字の異同はないから、誤写説は従えない。楠守部は、『山彦冊子』巻一で近江国高島の東方に「夜中」という地名があるから、そこの潟であろうといっている。地名とすると最も妥当であるが、近江の湖に潟というのはどうであろう。上を承けて真暗い潟と繰り返して強めたものと解する。○鬱しく呼びし舟人 「欝しく」は、よくは解らない意で、はっきりしないように。「呼びし舟人」は、助けを求めた舟人。○泊てにけむかも 碇泊し得たことであったろうか。
【釈】 夜がふけて、夜中の真暗な潟で、はっきりしないように助けを呼んでいた舟人は、碇泊することを得たであろうか。
【評】 海辺に住んでいる人が、深夜、真暗い潟のほうで、はっきりしない声で助けを呼ぶのを聞いて、気の毒には思うが、舟人ならぬ身でどうすることも出来ずにいたが、その声も聞こえなくなった後、どうしたのであろう、岸に着けたのだろうかと、無事を願う心から想像したものである。夜の暗の海上からの救いをもとめる声は、惻々と人を打つものがある。海岸生活の深刻な一断面で、時代の新古を超えたものである。
1226 神《みわ》が崎《さき》 荒石《ありそ》も見《み》えず 浪《なみ》立《た》ちぬ 何処《いづく》ゆ行《ゆ》かむ よき道《ぢ》は無《な》しに
(416) 神前 荒石毛不所見 波立奴 從何處將行 与奇道者無荷
【語釈】 ○神が崎荒石も見えず浪立ちぬ 「神が崎」は、巻三(二六五)に出た。新宮市三輪崎の地か。「荒石」は、岩石の海岸の称。「見えず浪立ちぬ」は、岩石を越して、それも見えないまでに浪が高く立った。○何処ゆ行かむ いずこを通って向こうへ行ったものであろうか。○よき道は無しに 「よき道」は、避《よ》け路で、避《よ》けるという語は、現在も口語として存している。避け道はないのに。
【釈】 神が崎は荒磯も隠されて見えないまでに、浪が高く立った。いずこを通って行ったものであろうか。避ける路はないのに。
【評】 山裾と海との間の一本道を行き、浪がそ道てある荒磯に打上げて来るのに当惑しての心である。これも海辺生活の実際に即したもので、文芸性を念としたものではない。しかし一首の歌としての感の上からいうと、文芸性を志した歌よりもかえって感の強いものがある。ここにわが和歌の性格の一面がある。前の歌この歌など、その通例に数えられる。
1227 礒《いそ》に立《た》ち 沖《おき》べを見《み》れば 海藻苅舟《めかりぶね》 海人《あま》榜《こ》ぎ出《い》づらし 鴨《かも》翔《か》ける見《み》ゆ
礒立 奥邊乎見者 海藻苅舟 海人榜出良之 鴨翔所見
【語釈】 ○海藻苅舟海人榜ぎ出づらし 「海藻」は、和布、荒布など海藻の総称。それを苅るのは女子の業であった。
【釈】 礒に立って沖のほうを見ると、海女が海藻苅舟を漕ぎ出すのであろう。それに驚いて鴨の飛び立って翔けるのが見られる。
【評】 上の(一一九九)の、「藻苅船、鶴翔ける見ゆ」とは、境と鳥が異なっているが、心は全く同じである。実際に即した歌の常として、いずこの地にも適用が出来るので、こうした替歌が生まれるのである。
1228 風早《かざはや》の 三穂《みほ》の浦廻《うらみ》を 榜《こ》ぐ舟《ふね》の 船人《ふなびと》動《さわ》く 浪《なみ》立《た》つらしも
風早之 三穗乃浦廻乎 榜舟之 船人動 浪立良下
【語釈】 ○風早の三穂の浦廻を 巻三(四三四)に「かざはやの美保の浦廻の白つつじ」と出た。「風早の」は、実状を枕詞としたもの。「三穂」は和歌山県日高郡美浜町日の御崎の東北にあって、今は三尾という。「浦廻」の「廻」は、接尾語。○船人動く 「動く」は、旧訓。立ち騒ぐ意。○浪立つらしも 「らし」は、「動く」を証としての推量。「も」は、詠歎。
(417)【釈】 風早の三穂の浦を漕いでいる舟の、船人が騒いでいる。風が立ってきたのであろうよ。
【評】 当時の航海の実際に即したもので、海辺河辺では随所にあった現象と思われる。陸上にいて船人の騒ぎを聞いての感で、その人は「らし」と推量することであるから、風はまだあらわなものではなかったのである。しかしこの推量は、「も」の詠歎を添えていうべきものだったのである。船人と作者の気分との一つになっているものである。海辺に生まれた歌ではあるが、調べは美しく躍動したものである。取材の一般性によって謡い物となり、謡われつつ磨かれたのであろう。この歌は、下総国まで伝わり、巻十四(三三四九)「葛飾《かつしか》の真間《まま》の浦廻をこぐ舟の船人さわく浪立つらしも」となっている。
1229 吾《わ》が舟《ふね》は 明石《あかし》の湖《みなと》に 榜《こ》ぎ泊《は》てむ 沖《おき》へな放《さか》り さ夜《よ》ふけにけり
吾舟者 明旦石之湖尓 榜泊牟 奥方莫放 狹夜深去來
【語釈】 ○明石の湖に 「湖」は、訓がさまざまである。『童蒙抄』は、「みなと」かとしている。巻三(二五三)「一に云う、湖《みなと》見ゆ」とあり、その後にも出た。例のある訓である。これは明石川の河口で、風波を避けるに便利な場所であったとみえる。
【釈】 わが船は、明石の港に榜ぎつけて泊まろう。沖のほうへは離れるな。夜がふけてしまったことであるよ。
【評】 巻三(二七四)「吾が船は枚の湖《みなと》に榜ぎ泊てむ奥へなさかりさ夜ふけにけり」があって、地名が異なっているのみである。これは高市黒人の歌で、それが謡い物として伝わったものである。
1230 ちはやぶる 金《かね》のみ崎《さき》を 過《す》ぐるとも 吾《われ》は忘《わす》れじ 志珂《しか》の皇神《すめがみ》
千磐破 金之三崎乎 過鞆 吾者不忘 壯鹿之須賣神
【語釈】 ○ちはやぷる金のみ崎を 「ちはやぶる」は、神威を激しくあらわす意で、枕詞としてしばしば出たが、ここは枕詞ではなく、「金のみ崎」の状態としていったもの。「金のみ崎」は、筑前国宗像郡田島の北端の岬角で(福岡県宗像郡玄海町鐘崎)、玄海灘に面している。この灘は航路の上では聞こえた難所で、それは金のみ崎に祀られている神が荒ぶる神で、その威力を振るうがゆえだと信じられていた。○過ぐるとも 過ぎて行こうともで、航海者が金のみ崎のほうへ向かって行こうとも。○吾は忘れじ志珂の皇神 「志珂」は、福岡県糟屋郡志賀町で、博多湾の西方に突出した半島。「皇神」は、尊い神で、そこに祀ってある海神社の三座の神。祭神は住吉の神と同じく水を掌る神である。航海者は今その神を祭っているのである。
(418)【釈】 神威を激しくあらわす金のみ崎のうしはく荒海を越えて行こうとも、吾は忘れまい、この志珂の皇神の御庇護を。
【評】 航海者の海神に対する信仰はきわめて深いものであることは、現在の進んだ造船術航海法をもった時代でも讃岐の金刀比薙神社に対する信仰の盛んなのを見ても知られる。この当時のさまは思いやられる。この歌は遠い航海をしようとする船人が、博多湾の志珂の海神の庇護を蒙ろうと祭をした時の心で、これより向かって行こうとしている、金のみ崎の神のうしはく玄海灘の難所を越える時も、吾は一に志珂の神の庇護を信じ頼もう、との心をいっているものである。大事を前にして静かに心を整えているという範囲の歌で、航海者には強く共感されたものであろう。
1231 天霧《あまぎら》ひ 日方《ひかた》吹《ふ》くらし 水茎《みづぐき》の 岡《をか》の水門《みなと》に 波《なみ》立《た》ち渡《わた》る
天霧相 日方吹羅之 水莖之 岡水門尓 波立渡
【語釈】 ○天霧ひ日方吹くらし 「天霧ひ」の「霧ひ」は、動詞霧るの連続動作をあらわす語で、天が曇ってきて。「日方」は、風位を示す称。古くは東南風の称といい、今も大体あたっているという。○水茎の岡の水門に 「水茎の」は、瑞々しい茎ので、それの生えている意で岡の枕詞。「岡の水門」は、福岡県|遠賀《おんが》郡蘆屋町、遠賀川の河口の港。上代史に関係の多い港で、大きな港であった。今は底が浅くなっている。○波立ち渡る 波は日方によって立ったもの。
【釈】 空が曇ってきて、日方が吹くのであろう。岡の港に波が盛んに立ちつづいている。
【評】 陸上にいて、やや遠く港のほうを見渡した心である。陸上ではそれとも心付かないが、風に敏感な海は早くも波の立っ(419)ているのを見て、空の曇りに伴っての日方が吹くのだろうと推量したのである。これは岡の港と日方との方位の関係を心に置いてのことである。この歌は風景として愛でていっているものではなく、航海者としての関心からいっているものと解される。当時の岡は要津であって、海辺の者はいずれもこうした注意をしていたので、その意味でこの歌は一般性をもち、謡い物として行なわれていたものだろうと思われる。形としては、その地の人にとっては平明なものであり、調べはきわめてさわやかな、快いものだからである。現在から見ると風景の歌とみえ、その意味での魅力のあのものであるが、これはその土地の実生活の生んだものと思われる。
1232 大海《おほうみ》の 波《なみ》は畏《かしこ》し 然《しか》れども 神《かみ》を斎祀《まつ》りて 船出《ふなで》せば如何《いか》に
大海之 波者畏 然有十方 神乎齋祀而 船出爲者如何
【語釈】 大海の波は長し 「畏し」はおそろしい。○神を斎祀りて 神を祭って、無事を祈って。○船出せば如何に 「如何に」は、いかにあらんの意で、人に相談した形のものである。乗船者の楫取などに対しての語であろう。
【釈】 大海の波はおそろしい。しかし、神を祭って無事を祈っての上で船出をしたならばどうであろう。
【評】 船を傭って出そうとする人の、その船の楫取などとの問答の一節である。航海の実情を知悉しているところから、天候に懸念する楫取と、その知識はなく、信仰にたよろうとする人の、事を急ぐ心をもっての問答で、複雑した事を単純にいっているものとみえる。当時の実際生活に即した歌で、一般性をもったものである。
1235 未通女《をとめら》らが 織《お》る機《はた》の上《うへ》を 真櫛《まぐし》もち かかげ栲島《たくしま》 波《なみ》の間《ま》ゆ見《み》ゆ
未通女等之 織機上乎 眞櫛用 掻上栲鳴 渡間從所見
【語釈】 ○織る機の上を 機にかかっている糸はたて糸であるから、それをいったもの。○真櫛もち 「其」は接頭語。櫛をもって。○かかげ栲島 「かかげ」は、掻き上げる。「たく」は意味の広い語で、集中にも用例が多い。ここは取り上げる意で、上の「かかげ」を語をかえて繰り返したものと取れる。機を織るのは、用具は時代によって異なるが、基本は一定していて今と異ならない。たて糸の乱れを整理するためにすることと取れるが、細かいことはわからない。ここはその「たく」を島の名の「栲」に転じたもので、「かかげ」までは栲の序詞である。すなわち四句の半ばまでを序詞としたのである。○栲為 所在は不明である。『新考』は肥前国平戸の北方にある度島ではないかといっている。島根県八束郡八束村(420)の大根島かともいう。○波の間ゆ見ゆ 波間をとおして見える。
【釈】 娘たちがその織っている機の上を、櫛をもって掻き上げ、たくことをする、それを名とした栲島が、波間をとおして見える。
【評】 航海中、遠く波間に見えてきた小さな可憐を島を、栲島だと知った乗船の人が、それの可憐なさまから、娘たちが機を織る時の「かかげたく」ことを連想して、その興味からこうした長序を設けたものと思われる。口唱時代の古い序詞は、その大半は語戯で、懸かるほうと懸けられるほうとの変化を際やかなものとし、その際やかさに興じたものである。この序詞は際やかなものではなく、さりとて理詰めのものでもなく、可憐を旨とした事細かな繊細なものである。序詞としては明らかに新風である。舟人の歌ではなく、作歌に熟した乗客の歌と思われる。軽い興味よりのものであるが心引かれる。
1234 潮《しほ》早《はや》み 礒廻《いそみ》に居《を》れば あさりする 海人《あま》とや見《み》らむ 旅《たび》ゆくわれを
塩早三 礒廻荷居者 入潮爲 海人鳥屋見濫 多比由久和礼乎
【語釈】 ○潮早み礒廻に居れば 潮が早いゆえに船出がされずに礒に居れば。「廻」は接尾語。○あさりする 原文「入潮為」は、義で当てている文字。漁りをする。
【釈】 潮が早いゆえに船出がされず礒にいるので、漁りをする海人だと人は見るであろうか。旅をする我であるのに。
【評】 類想の歌がすでに何首も出た。もっともこの歌は、風光を珍がってとどまっているのではなく、必要に制せられてのものである。
1235 浪《なみ》高《たか》し いかに梶取《かぢとり》 水鳥《みづとり》の 浮寝《うきね》やすべき 猶《なほ》や榜《こ》ぐべき
浪高之 奈何梶執 水鳥之 浮宿也應為 猶哉可榜
【語釈】 ○いかに梶取 「いかに」は、いかにせんと問い懸けたもの。「梶取」は、艪を取る者で、舟子の頭。呼び懸け。○水鳥の浮寢やすきべき 「水鳥の」は、譬喩の意で浮へかかる枕詞。「浮寝」は、水上に浮かんで寝ることで、水路でも夜は陸に上がって寝ることになっていたが、この場合は、浪が高いので危険で、船を岸に寄せられないのである。船中に寝るべきであろうか。○猶や榜ぐべき もっと漕ぎ続けるべきであろうか。
【釈】 浪が高い。どうするのか梶取よ。今夜は水鳥のように浮寝をするべきであろうか。それともなお漕ぎ続けるべきであろう(421)か。
【評】 普通ならば上陸すべき時刻に、梶取はそれをしようとせず、浪の高い海を漕ぎつづけているので、乗船者は不安を感じ、船の主権をもっている梶取に、これからどうするのかと尋ねた形の歌である。こうしたさし迫った事を、歌で相談する形でいうのは例の多いもので、これもそれである。一句で切り、二句で切り、また四句で切って、短文を連ねてあるのみならず、同型の句の繰り返しもしているもので、この類のものとしても特殊なものである。これは言いかえると歌を口語的発想とし、極度に散文化したのであるが、歌を実際生活に即したものとする以上、当然生まれるべき傾向である。これを一首の歌としてみると、口頭の語をもっていっているよりも一段と明晰でまた単純でもあって、効果的である。またそれは調べが張っているがためにそうなったのであるが、それは同時に他方では、乗客のその時の不安な感の具象ともなっているのであって、散文では遂げられないことを遂げているのである。問題となりうる歌である。
1236 夢《いめ》のみに 継《つ》ぎて見《み》えつつ 小竹島《しのしま》の 礒《いそ》越《こ》す波《なみ》の しくしく念《おも》ほゆ
夢耳 繼而所見 小竹嶋之 越礒波之 敷布所念
【語釈】 ○夢のみに 旧訓「いめにのみ」、『代匠記』の訓。これは仮名薔きの例に従ってのものである。夢ばかりに。○継ぎて見えつつ 原文、諸本異同がない。これでは音数が足りないので、三句の小をこちらへ取り入れ、さらに「小」を誤写として、いろいろの訓を試みている。『新訓』は「つつ」を読み添えている。『古義』は、「小」を「乍」の誤写であろうとして、その参考として巻九(一七二九)「暁の夢所見乍《いめにみえつつ》梶島の石《いそ》越す浪のしきてし念ほゆ」を引き、その上で「つつ」と訓んでいるのを、『新訓』は、それを調べの上の一つの型と見て、それによって読み添えたのであろう。これに従う。○小竹島の礒越す波の 「小竹島」は、所在不明。愛知県知多郡南知多町篠島説がある。また「小」を誤字とみて「竹島」とし、滋賀県高島郡とする説もある。結句「しく」へかかる序詞で、眼前の景を捉えてのもの。○しくしく念ほゆ 「しくしく」は、重なる意の動詞「しく」を重ねて副詞としたもの。しきりに思われるで、対象は家の妹。
【釈】 夢ばかりに続いて見え見えして、小竹島の礒を越して寄せる波のように、しきりに家の妹が思われる。
【評】 小竹島の所在は不明であるが、続きの歌の排列から見て、近江の湖辺と思われる。旅にあって家の妻を思うという類歌の多いもので、夢に見えるのは妻の我を思うためで、我も同じくしきりに思われる心を、眼前を序としていっているのである。妹を暗示にとどめていわずにいるのが注意される。全体に心細かく、調べにしめやかな点のあるのが新風を思わせる。
(422)1237 静《しづ》けくも 岸《きし》には波《なみ》は よりけるか これの屋《や》通《とほ》し 聞《き》きつつ居《を》れば
靜母 岸者波者 縁家留香 此屋通 聞乍居者
【語釈】 ○静けくも岸には波は 「静けくも」は、旧訓「しづかにも」。『考』の訓。形容詞「しつけし」の副詞形。「岸には」の「は」、「波は」の「は」は、いずれも強め。○よりけるか 「ける」は、「来ある」の約で、来ている。「か」は感動の助詞。○これの屋通し 屋内にいて、家越しの波の音を。
【釈】 静かにも、岸には波が寄って来ていることであるよ。この家を通して聞きつついると。
【評】 前後が近江国の歌であるから、この歌もそれで、「岸」も「波」も琵琶湖のものであろう。作者は旅人として、水辺の家に居て、あるかないかの波が岸に寄せて来て」低く立てる音に、聞き入っている心である。取材としてはじつに平凡きわまるものであり、詠み方も素朴に自然にいってあるだけで何の奇もないのであるが、この歌はじつに魅力をもったものである。京の人で、湖のそうした波の音は珍しくなつかしいものに思う心と、前後を截断して、卒然とその心を捉えたものに集中してゆく態度とが、その波の音を生かしきっているからである。時代を超えうる作である。
1238 竹島《たかしま》の 阿渡白波《あとしらなみ》は 騒《さわ》けども 吾《われ》は家《いへ》思《おも》ふ いほり悲《かな》しみ
竹嶋乃 阿戸白波者 動友 吾家思 五百入※[金+施の旁]染
【語釈】 ○竹島の阿渡白波は 「竹島」は、近江国高嶋郡。「阿渡白波」は、「阿渡」は、阿渡川で、今の安曇《あど》川(滋賀県高島郡安曇川町船木あたり)という。その川の白波。○騒けども 川の波が騒がしいけれども。○いほり悲しみ 「いほり」は旅人の夜寝るために設けた仮小屋。「悲しみ」は、悲しいので。侘びしさを強くいったもの。
【釈】 高島の阿渡川の白波は騒がしいけれども、我はそれに紛れず家を恋しく思っている。夜の小屋が悲しいので。
【評】 旅人としての高島の阿渡川のぽとりに小屋を掛けて宿っての心である。この歌は、巻九(一六九〇)「高島の阿度川波は騒けども吾は家思ふ宿悲しみ」となって出ている。巻二(一三三)人麿の「小竹の葉はみ山もさやにさやげども吾は妹思ふ別れ来ぬれば」の影響をうけたものである。
(423)1239 大海《おほうみ》の 礒《いそ》もとゆすり 立《た》つ波《なみ》の よらむと念《おも》へる 浜《はま》の浄《きよ》けく
大海之 礒本由須理 立波之 將依念有 濱之淨奚久
【語釈】 ○大海の礒もとゆすり 「礒」は、岩で、「もと」は、その根もと。大海の岸近く立っている岩の根もとを揺り動かして。○よらむと念へる浜の浄けく 「浄けく」は、浄くあることよで、体言。
【釈】 大海の中に立っている岩の根もとを揺すり動かして立つ波の、寄ろうとしている浜の清らかさであることよ。
【評】 (一二〇一)「大海の水底《みなそこ》とよみ立つ浪の寄らむと思へる礒の清《さや》けさ」が伝唱されて拡がったものである。この歌の謡われた地は、海中に大岩が立ち、海岸が砂浜となっているところから、その地形に適切なものにしようとして改めたものと取れる。優れた歌の伝播力をもっていたことを明らかに思わせる歌である。
1240 珠《たま》くしげ 見諸戸山《みもろとやま》を 行《ゆ》きしかば 面白《おもしろ》くして 古昔《いにしへ》念《おも》ほゆ
殊匣 見諸戸山矣 行之鹿齒 面白四手 古昔所念
【語釈】 ○珠くしげ見諸戸山を 「珠くしげ」は美しい櫛笥で、その筥の身と続く意で、「見」の枕詞。「見諸戸山」は、山城国字治市にあって、今三宝戸寺のある山だという。三輪山説もあり、明らかではない。○行きしかば 行ったところ。○面白くして古普念ほゆ 「面白くして」は、広く感興の深い意。「古昔念ほゆ」は、そこの古のことが思われる。
【釈】 見諸戸山を踏み歩いたところ、興が深くて、そこの古のことが思われる。
【評】 「面白くして古昔念ほゆ」は、おおらかな綜合感で、その心の通じくるものである。「面白くして」は直接に佳景をいっているものではなく、佳景の与える快さであろうが、それが自然その地に関係のある伝説で、平常は忘れていることを思い出させる誘因となるのは、一般性のあることである。
1241 黒玉《ぬばたま》の 黒髪山《くろかみやま》を 朝《あさ》越《こ》えて 山下露《やましたつゆ》に ぬれにけるかも
黒玉之 玄髪山乎 朝越而 山下露尓 沾來鴨
(424)【語釈】 ○黒玉の黒髪山を 「黒玉の」は、「黒」にかかる枕詞。黒髪山の名は今も残っている。奈良市法蓮町の北、大和国より山城国へ越える山で、佐保より行く間道にあたっているとのことである。○朝越えて 旅立をして行くものと取れる。○山下露にぬれにけるかも 「山下露」は、山の木の下露。「ぬれにけるかも」は、ぬれたことだなあと、強く詠歎したもの。
【釈】 黒髪山を朝越えて、我は山の木の下露に濡れたことであったなあ。
【評】 黒髪山を朝越えて来て、木の下露に濡れたことを強い感傷をもっていっているから、しかるべき事情の伴ってのことであろうが、それには触れていない。国境の山で、朝越えたのであるから、遠い旅立であったかも知れぬ。調べの張っているのが、その感傷の程度を示している。「黒髪山」という名、「山下露」という語は一脈のなまめかしさがあり、迎えれば、妻の許よりの帰路ということも思わせる。印象の鮮明な、調べの美しい歌であるから、謡い物として謡われたものかとも思われる。
1242 足引《あしひき》の 山《やま》行《ゆ》き暮《く》らし 宿《やど》借《か》らば 妹《いも》立《た》ち待《ま》ちて 宿《やど》貸《か》さむかも
足引之 山行暮 宿借者 妹立待而 宿將借鴨
【語釈】 ○足引の山行き暮らし 「足引の」は、山の枕詞。「山行き暮らし」は、「山」は漠然といったもので、それと指すところのないもの。「行き暮らし」は、目的を定めずに一日を歩き暮らして。○宿借らば 「宿」は、その夜の宿りで、見懸けた家で、一宿を頼んだならば。○妹立ち待ちて宿貸さむかも 「妹」は、ここは愛人の意であるが、下の続きで未知の女。「立ち待ちて」は、門に立って我が行くを待っていてで、これは普通としてはあり得べからざることである。「宿貸さむかも」は、「かも」は疑問の助詞で、我に宿を貸すであろうか。
【釈】 山を一日歩き暮らして、そこにある家に一宿を頼んだならば、妹が門に立って待ち構えていて、宿を貸すであろうか。
【評】 これはこの作者の、心中に描いた空想像であって、架空なものであるが、しかし全然根拠のないものではない。根拠というのは、藤原時代から神仙思想が瀰漫していて、山中には仙女が住んでいて、人界の男と婚を通じるという噂が拡がっていたのである。この種のことに繋がりのある歌が集中に少なくなく、この歌もその一片である。奈良時代にあってはこうした歌は、ある程度まで一般性をもっていたのである。
1243 見渡《みわた》せば 近《ちか》き里廻《さとみ》を たもとほり 今《いま》ぞ吾《わ》が来《く》る 礼巾《ひれ》振《ふ》りし野《の》に
視渡者 近里廻乎 田本欲 今衣吾來 礼巾振之野尓
(425)【語釈】 ○見渡せば近き里廻を 「見渡せば」は、見渡しにすれば、直線的にすればの意。「近き里廻を」は、「近き」は、上を承けて、それだと近いの意。「里廻」は、「廻」はあたり、里であるのに。里は妻の家のある里。○たもとほり今ぞ吾が来る 「たもとほり」は、「た」は接頭語。「もとほり」は、廻り路をしてで、その里の中を通るまいと避けてのこと。「今ぞ吾が来る」は、「ぞ」は係助詞で、今ようやくその野まで来たことである。○礼巾振りし野に ひれは古くは儀礼の物であったから、「礼巾」の字を当てたのである。別れの時に、妻が送って来て、領巾を振ったことのあった野に。
【釈】 直線的に見渡すと近い里であるのに、廻り路をして、今ようやく来たことである。妻が別れを惜しんで領巾を振った野に。
【評】 実際に即した歌なので、心は単純であるが、事情が複雑している。「今ぞ吾が来る礼巾振りし野に」は、女をなつかしがっての行動であるが、その言い方からみて、礼巾を振ったのは普通の別れの際のことではなく、男が旅に立つ別れの時で、「今ぞ吾が来る」も、旅を終えてのことと思われる。「近き里廻をたもとほり」も、妻は隠し妻で、人目に着くことを怖れてのことと取れる。ことに「たもとほり」は、志す野は里のあちらがわにあるので、里の中を通っては行けないからのことと取れる。このように解さないと、一首に筋が立たなくなるからである。
1244 未通女等《をとめらが》が 放《はな》りの髪《かみ》を 木綿《ゆふ》の山《やま》 雲《くも》なたなびき 家《いへ》のあたり見《み》む
未通女等之 放髪乎 木綿山 雲莫蒙 家當將見
【語釈】 ○未通女等が放りの髪を 「放りの髪」は、童女の時は髪を垂らしているのが風であって、それを放りといった。現在のお下げである。一人前になると、それを上げて結ったので「結《ゆ》ふ」と続けている。この結うは、男童であれば成年式に匹敵する少女の成女式で、男より見れば印象的のことだったのである。初二句は結うと同音の「木綿」の序詞。○木綿の山 大分県速見郡掲布院町、今の由布岳で、別府温泉の西方に立っている。 ○雲なたなびき 上の(一二二四)「大葉山霞たなびき」と同じ。雲よ懸かるな。○家のあたり見む わが家の辺(426)りを見ようで、家は木綿の山の山裾にあったものとみえる。
【釈】 未通女らが放りにしている髪を結う、その結うに因みある木綿の山に雲よ懸かるな。わが家のあたりを見よう。
【評】 木綿の山の山裾に家をもっている男が、旅立をして、遠くは行かない頃に、家恋しさからそちらを振り返って見ると、山に雲が腰かっていて、それに妨げられて見えない嘆きである。「未通女等が放りの髪を」の序調は、気分の上で家につながりをもっているものかと思える。それだとその里には若妻があって、恋しさをそそっていることとなる。旅情の範囲のものであるが、序詞によって明るいものにされている。謡い物ではなかったかと思われる。
1245 志珂《しか》の白水郎《あま》の 釣船《つりぶね》の綱《つな》 堪《あ》へなくに 情《こころ》に念《おも》ひて 出《い》でて来《き》にけり
四可能白水郎乃 釣船之※[糸+弗] 不堪 情念而 出而來家里
【語釈】 ○志珂の白水郎の釣船の綱 「志珂」は既出。博多湾頭の志珂の島。「白水郎」は、その地は古来、海人をもって聞こえていた。「釣船の綱」は、釣船を一と所に繋いでおくための綱。その強くない意で「堪へなく」の序詞。○堪へなくに情に念ひて 「堪へなくに」は、『新訓』の訓。「堪《あ》へ」は、「敢へ」で、堪える、出来るの意で、「堪へ」という仮名書きは集中には見えないのである。「堪へなく」は、「堪へず」の名詞形で、「に」を続けて副詞形としたもの。上よりの続きは、綱が強くなく浪に堪えない意で、受けるほうは、それを悲しみに堪えない意に転じているのである。「念ひて」に続く。悲しみに堪えなく心に思って。○出でて来にけり 家を出て釆たことであった。
【釈】 志珂の海人が釣船をつなぐに用いる綱の浪に堪えない、その堪えない悲しみを心に思って、家を出て来たことであった。
【評】 古風の歌のよさを示している歌である。詠み方は、「志珂の白水郎の」と眼前を捉えているが、その続け方をはじめ総てがおおらかで、露骨的ではなく、綜合感立体感のあるものである。調べもしめやかさがある。京の官人の志珂の地へ来ての歌と取れる。それだと「出でて来にけり」は京のわが家で、故郷を思った心である。
1246 志珂《しか》の白水郎《あま》の 塩《しほ》焼《や》く煙《けぶり》 風《かぜ》を疾《いた》み 立《た》ちは上《のぼ》らず 山《やま》にたなびく
之加乃白水郎之 燒塩煙 風乎疾 立者不上 山尓輕引
【語釈】 ○塩焼く煙 「塩焼く」は、製塩業として藻塩を焼く意。○風を疾み立ちは上らす 風が烈しいゆえに、空には立ち上らずして。
(427)【釈】 志珂の海人の塩を焼くところの煙は、風が烈しいので、空には立ち上らずして、山に靡いている。
【評】 その土地の人から見ると、あまりにも平凡で、何の注意にも値しない光景を、このように純客観的に詠んでいるのは、こうした光景を目新しく感じる京の人でなくてはならない。作意はそれだけのものであったろう。しかし一首の歌として見ると、印象が鮮明であり、調べが品があって、心を引かれるところから、その光景に人事を連想し、煙を力弱い女性、風を環境とし、一首を隠喩と見る解が起こったのである。しかしそれは後のことで、この時代には羈旅の歌とみて、編者もその扱いをしているのである。すぐれた歌である。
右の件《くだり》の歌は、古集の中に出づ。
右件謌者、古集中出。
【解】 「右の件の歌」というのは、何の歌よりか明らかでない。上に「藤原卿作れる」の後を受けての注とすると、三十六首である。古集というのはどういう集か不明である。他に古歌集と称するものもある。同一のものであろう。
1247 大穴道《おほなむち》 少御神《すくなみかみ》の 作《つく》らしし 妹背《いもせ》の山《やま》は 見《み》らくし吉《よ》しも
大穴道 少御紳 作 妹勢能山 見吉
【語釈】 ○大穴道少御神の 「大穴道」は、大国主神の一名。素盞嗚尊の末で、出雲国中興の神。「少御神」は、少彦名神で、大穴道神を援け、相共にわが国土を経営して、基礎を固めた神。巻三(三五五)、巻六(九六三)などに既出。○作らしし 『考』の訓。敬語であるべきで、過去のことだからである。作者は人麿で、当時こうした信仰が一般に行なわれていたのである。 ○妹背の山は 妹山背山で、既出。○見らくし吉しも 「見らく」は、見るの名詞形。「し」は、強め。「吉し」は 意味の広い語で、ここは上よりの続きで、楽しい。
【釈】 大穴道と少御神の二柱の神がお作りになったこの妹山と背山とは、見る眼に楽しいことだ。
【評】 紀伊国へ旅した時、眼に見て詠んだものとみえる。妹背の山を讃えたのは、風景としてではなく、その妹背という関係を讃えたもので、「見らくし善しも」と力強くいっているのは、その睦ましげな状態をいったものである。神代に対しての信仰の深さでは、代表的な人である人麿が、このようにいっているのは、当時出雲族の伝説が大和京でも根を張って、一般の常識となっていたがためであろう。その意味で、この歌は注意される。一首の姿が安らかで、艶を帯びて美しい。心も姿も人麿で(428)ある。
1248 吾妹子《わぎもこ》と 見《み》つつ偲《しの》はむ 沖《おき》つ藻《も》の 花《はな》咲《さ》きたらば 吾《われ》に告《つ》げこそ
吾妹子 見偲 奥藻 花開在 我告与
【語釈】 ○我妹子と見つつ偲はむ 「吾妹子と」の「と」は読み添え。「見つつ」は継続で、あくまで見る意。「偲はむ」は、ここは賞美しよう。○沖つ藻の花咲きたらば 「沖つ藻は、沖のほうにある藻。○吾に告げこそ 「告げこそ」は、原文「告与」の「与」を乞に当てたので、用例がある。願望の助詞。
【釈】 吾妹子とともに見つつ賞美しよう。沖の藻の花が咲いたならば、吾に告げてくれよ。
【評】 「吾妹子」というのは、海べに住んでいる女で、上の歌と排列上で関係があるとすれば、紀伊国の女ではなかろうか。とにかく海べへ旅をして、かりそめに関係した女に、後より贈ったものとみえる。歌もそれにふさわしい平明なものである。その種《しゆ》の関係は、当時にあっては普通のことだったのである。
1249 君《きみ》が為《ため》 浮沼《うきぬ》の池《いけ》の 菱《ひし》採《つ》むと 我《わ》わが染《し》めし袖《そで》 沾《ぬ》れにけるかも
君爲 浮沼池 菱探 我染袖 沾在哉
【語釈】 ○君が為 「君」は、女より男に対しての称。奈良京時代に近い頃から、往々男より女に対しても用いたが、人麿時代には例が見えない。○浮沼の池の 池の名と取れるが、所在不明。「浮沼」の「うき」は、泥の意の古語で、「ぬ」は沼の古語で、現在も伝わっている。泥沼の池の意で、狭い地域での称であったろう。○菱採むと 「菱」は、菱科の水生植物で、泥沼に生ずる。夏白色四弁の花を着け、菱形の実を結ぶ。その実の肉は白色で食料となる。○我が染めし袖 花汁で染めた袖。○沾れにけるかも 濡れてしまったことであるよで、濡れると花汁で染めた色は褪せてしまうからの詠歎。
【釈】 君に食べさせようがためにと浮沼の池で菱の実を採むとて、我が花汁で染めた袖が、濡れてしまったことであるよ。
【評】 人に物を贈り、また与える時には、その物を得るために労苦したことをいうのが、情愛を示すこととなっていた。ここもそれで、女が夫としている男に詠みかけたものである。平明な歌であるが、調べが暢びやかに美しく、謡い物のごとき匂い(429)のあるものである。人麿が女に代わって詠んだものではないかと思われる。
1250 妹《いも》が為《ため》 菅《すが》の実《み》採《と》りに 行《ゆ》きし吾《われ》 山路《やまぢ》に惑《まど》ひ この日《ひ》暮《くら》しつ
妹爲 菅實採 行吾 山路惑 此日暮
【語釈】 ○妹が為菅の実採りに 「菅の実」は、山菅の実で、瑠璃の小球。夏季に熟す。女子の装飾にして愛した物とみえる。○山路に惑ひこの日暮しつ 「山路に惑ひ」は、『古義』の訓。山中で迷い歩いて。
【釈】 妹のために菅の実を採りに行った我は、山の中で迷い歩いて、今日の日を暮らしてしまった。
【評】 上の歌と同じく、妹に菅の実を与えようとして、その労苦を訴えることによって情愛を示したものである。熟した歌である。
右の四首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
右四首、柿本朝臣人麿之歌集出。
【解】 日常生活の歌で、羈旅には関係なくみえるが、こうしたことは旅先でもありうることであるから、何らかの拠り所があってここに加えたのであろう。
問答
【標目】 問答は、間の歌と答の歌とを一組にしたものの称で、一首独立した歌を標準とし、特殊な形であるとして区別して題としたものである。巻十、十一、十二、十三、十四にもあるものである。相聞の歌は本来実用性のもので、贈と答とあるべきものであり、雑欲の範囲のものにも自然ありうるものである。ここにあるものは、相聞の贈答を文芸的に発展させた趣のあるものである。なほ以下十七首の歌は、左注に「古歌集に出づ」とあるもので、この題も古歌集にすでにあったものと思われる。
1251 佐保河《さほがは》に 鳴《な》くなる千鳥《ちどり》 何《なに》しかも 川原《かはら》をしのひ いや河《かは》のぼる
(430) 佐保河尓 鳴成智鳥 何師鴨 川原乎思努比 益河上
【語釈】 ○佐保河に鳴くなる千鳥 「佐保河」は、しばしば出た。「鳴くなる千鳥」は、「なる」は上のことを確かに指定する助動詞。「千鳥」は呼び懸け。鳴いている千鳥よ。○何しかも 「し」は、強意。「かも」は、疑問の係助詞。「も」は詠歎。○川原をしのひ 「しのひ」は、思慕して。○いや河のぽる ますます河を上ってゆくのかで、「のぼる」は連体形。
【釈】 佐保河に鳴いている千鳥よ。何だって川原を思慕して、ますます上流へ上って行くのか。
【評】 答歌と相俟って心が明らかになる。千鳥は男、川原は女で、いずれも譬喩である。この譬喩は、女が佐保河のほとりに住んでいるからのことで、女に懸想してしきりに言い寄って来る男に、訝かりの心をもって問いかけた形のもので、心としてはきわめて自然である。完全な譬喩で、文芸性の多いものである。古歌集とはいうが、時代的にみ、古いものではないことを思わせられる歌風である。
1252 人《ひと》こそは 凡《おほ》にも言《い》はめ 我《わ》が幾許《ここだ》 しのふ川原《かはら》を 標《しめ》結《ゆ》ふなゆめ
人社者 意保尓毛言目 我幾許 師努布川原乎 標結勿勤
【語釈】 ○人こそは凡にも言はめ 「人」は、千鳥の立場で言ったもので、女を指す意をもつ。「凡」は、おおよそで、深く思わない意。「も」は、詠歎。「いはめ」は、河原に対して。○我が幾許しのふ川原を 「幾許」は、数の多い意にもいい、程度の甚しい意にもいう語。ここは後のもので、助詞「を」は、詠歎で、のに。我は甚しくなつかしく思う川原であるのに。○標ふなゆめ 「標結ふ」は、領有の標《しるし》として、繩などを張り渡すことで、それのある物は犯すことが出来なかった。ここはそれで、川原に標を結って、立ち入れなくする意。「な」は打消、「ゆめ」は、決して。
【釈】 人はおおよそに言うであろうが、我が甚しく思慕している川原であるのに、標を結って立ち入れないようにはするな、決して。
【評】 川原である女が、千鳥である男に対して「何しかもしのふ」と訝かったのに対し、千鳥である男は、そのようになおざりなことをいわれるが、我は甚しく「しのふ川原」であるのにと訴え、標を結うようなことは決してするなと、繰り返して訴えているのである。女が自身を川原に譬えているのに、「人」と底を割った言い方をしているのは、思い詰めての訴えであることを示し、また「標結ふな」と、人に対してでないと言えないことを言うのに照応させるためである。余裕のない歌であるが、拙いとはいえないものである。
(431) 右の二首は、鳥を詠める。
右二首、詠v鳥。
1253 ささなみの 志賀津《しがつ》の白水郎《あま》は 吾《われ》無《な》しに 潜《かづき》はなせそ 浪《なみ》立《た》たずとも
神樂浪之 思我津乃白水郎者 吾無二 潜者莫爲 浪雖不立
【語釈】 ○ささなみの志賀津の白水郎は 「ささなみ」は、琵琶湖南一帯の地名。「志賀津」は、志賀の津。「白水郎」は、ここは琵琶湖の漁者。○吾無しに潜はなせそ 「吾無しに」は、我の一しょにいない時に。「潜はなせそ」は、潜はするなと命令したもの。○浪立たすとも 浪の立たない日は、潜をするに適当な日で、そうした日であろうとも。
【釈】 ささなみの志賀の津の海人は、吾が一しょにいない時には、潜はするなよ。たといそれをするに適当した浪の立たない日であろうとも。
【評】 「吾」というのは女で、「白水郎」は夫である男、「潜」は、男が他の女と関係することを譬えたものと取れる。一夫多妻の時代で、しかも妻は同棲してはいなかったのであるから、男は自由をもっていて、「浪立たず」という状態で漁色も出来たのである。女より男に訴えたものであろう。志賀の津は近江宮のあった地であるから、宮人ということを暗示したものであろう。
1254 大船《おほふね》に 梶《かぢ》しもあらなむ 君なしに 潛《かづき》せめやも 波《なみ》立《た》たずとも
大船尓 梶之母有奈牟 君無尓 潜爲八方 波雖不起
(432)【語釈】○大船に梶しもあらなむ 大船に梶すなわち艪櫂も添ってあってほしい。○君なしに潜せめやも 「君」は、女を指したもの。この称は問題となるものである。「潛せめやも」は、「や」は反語で、潜をしようか、しない。
【釈】 大船に艪櫂も添っていてほしい。それであれば、君がいなくて、潛きをすることなどがあろうかありはしない。たとい波は立たなくても。
【評】 「大船に梶しもあらなむ」は独立した文で、女から白水郎に譬えられた男が、我と自身を譬えて言っているものである。どういうことを譬えたのかについては、諸注さまざまの解を下しているが、その解は大体複雑な内容のもので、肯きかねるというよりはむしろ解し難いものである。女の訴えは、中心が「吾無しに」であって、それが「潜」の原因となっているのである。男もそれを中心として、君とともにいれば、「潛せめやも」という状態になるといっているのである。「大船に梶しもあらなむ」は家に夫婦同棲してゐる状態を漁りの関係から譬えていったもので、そうした状態になり得たら、「君なしに潛きせめやも波立たずとも」という状態になりうるので、潛をするのは独り住みをしているわびしさのことだと訴え返しているのである。夫婦関係は結んでいるが、晴れて同棲するのは、身分の関係、その他の事情から必ずしも自由ではなかったのである。女を君と称するのは、溯った時代にはなかったことであるのに、この歌でそれを用いているのは、後より変えたものともいえるが、女の身分が高くて、同棲が困難だということを暗示しているものともみられる。一首として、男のほうが下手《しもて》に出ていっている趣のあるものである。その点も上の解を支えるものである。
右の二首は白水郎を詠める。
右二首、詠2白水郎1。
時に臨める
【標目】 一つの標目で、集中ここにあるだけのもので、古歌集にあったものと思われる。時にあたっての意で、後世の、折に触れてというのに似たものであるが、以下十二首は相聞の歌である。すなわち、折に触れて発した相聞の情を詠んだものである。
1255 月草《つきぐさ》に 衣《ころも》ぞ染《し》むる 君《きみ》が為《ため》 綵色衣《しみいろごろも》 摺《す》らむと念《も》ひて
月草尓 衣曾染流 君之爲 綵色衣 將摺跡念而
(433)【語釈】 ○月草に衣ぞ染むる 「月草」は、今の露草の古名。夏、藍色の花が咲き、色が美しく、布に什き易いところから上代は衣を擢る料に用いた。「衣」は、下の「君」の衣。「染《し》むる」は、「染《そ》む」の古語。下二段活用。○綵色衣 訓が定まらない。『新訓』は『代匠記』『考』と同じく、「いろどりごろも」と訓んでいる。『全註釈』は、綵は色に染めた糸をいう字で、日本書紀に「しみ」と訓んでいるといい、今のごとく訓んでいるのに従う。
【釈】 露草で衣を染める。君のために色美しい衣を摺ろうと思って。
【評】 上代は身分のある女も、夫の衣はすべて自身で織り、仕立て、また染めもしたので、露草の季節に美しい藍色に摺るということは、妻としての喜びだったのである。「月草に衣ぞ染むる」と力を籠めて言い出しているのは、その喜びの表現である。「君が為綵色衣」と繰り返しているのは、その美しい色の夫にふさわしいことを思ってのことで、それが喜びの中心である。独詠であって贈歌ではない。
1256 春霞《はるがすみ》 井《ゐ》の上《うへ》ゆ直《ただ》に 道《みち》はあれど 君《きみ》にあはむと たもとほり来《く》も
春霞 井上從直尓 道者雖有 君尓將相登 他廻來毛
【語釈】 ○春霞井の上ゆ直に 「春霞」は、懸かって居るの意で、「ゐ」にかかる枕詞。「井の上」は、「井」は飲用水で、井戸をも流れ川をもいった。大体部落共同のものであった。「上」は、ほとり。「ゆ」は、より。「直に」は、じかにで、下の「道」に続く。○君にあはむとたもとほり来も 「君」は、女より男を指しての称。「たもとほり」は、既出。迂回してで、廻り道をして。「来」は、自分の家へ向かって行く意。
【釈】 井の辺《ほと》りから、じかに家に帰る道はあるけれども、君に逢おうと思って、まわり道をして帰って来ることよ。
【評】 上代は飲用水を汲むのは娘の役と定まっていたので、この作者もそれをしているのである。歌は、水を汲んで家へ帰る途中の心で、井から家へまっすぐに道は続いているのであるが、その娘は同じ部落の中に言い交わしている男があるので、ひょっと顔が見られようかと頼んで、わざと男の家のあるほうの道へと、まわり道をして行くというのである。外出の自由でなかった若い女としてはきわめて自然な、可憐な心である。「春霞」という枕詞は、季節に関係をもったものであるが、気分としての繋がりをもちうるものであり、また「来」という動詞も働きのあるものである。一般性のある、魅力ある歌で、謡い物としての資格の十分あるものである。
1257 道《みち》の辺《べ》の 草深百合《くさふかゆり》の 花咲《はなゑみ》に 咲《ゑ》まししからに 妻《つま》と云《い》ふべしや
(434) 道邊之 草深由利乃 花咲尓 咲之柄二 妻常可云也
【語釈】○道の辺の草深百合の 「草深」は、草の丈の高い意。券二(四)「その草深野《くさふかの》」と出た。草の高い中にある百合の意で、上代の簡潔な言い方である。○花咲に 「花咲」は花の蕾のわれて咲く意で、「に」は、のごとく。以上三句は譬喩。○咲まししからに 「咲ましし」は、『略解』の訓。「咲ます」は、咲むの敬語。下の「し」は時の助動詞。女に対しては敬語を用いる習慣よりのもの。「から」は、ゆえに。○妻と云ふべしや 「や」は、反語。わが妻となるといえようかいえはしないの意。
【釈】 道のほとりの丈高い草の中にまじって咲いている百合の花のように、我を見て咲みを見せられたがゆえに、わが妻となるといえようかいえはしない。
【評】 男が路の上でふと女に行き逢った時、女が男に対してにこやかな咲みを見せたのを思って、あのようだと求婚したならば妻となるだろうかと思い、いや、あれだけではそうも思えないと、思いかえしている男の心である。「道の辺の草深百合の花咲に」は、女と逢った道の実境を捉えて譬喩としたものであるが、自然で含蓄があり、語としても美しく簡潔で、「妻と云ふべしや」という反語を用いての強い否定を、消そうとする力をもっている。その微妙な関係が一首の味わいをなしている。古歌集の歌であるが、このような清新と細緻とは後世の歌にも見やすくないものである。
1258 黙然《もだ》あらじと ことのなぐさに 云《い》ふ言《こと》を 聞《き》き知《し》れらくは あしくはありけり
黙然不有跡 事之名種尓 云言乎 聞知良久波 少可者有來
【語釈】○黙然あらじと 「黙然」は、黙っていることで、黙ってはいられまいと思って。女が、男の求婚に対して、余りすげなくも出来まいと思って。○ことのなぐさに云ふ言を 「ことのなぐさ」は、言《こと》の慰《なぐさ》で、口先だけの気やすめ。「云ふ言を」は、我にいう語《ことば》を。○聞き知れらくは 「知れらく」は、名詞形で、聞き知っていることはで、それと見抜いていることは。○あしくはありけり 原文の文字は、諸本異同のないものであるが、「少可」の訓はさまざまであり、誤写説が出、「奇《あやし》」でありとし、「苛《からく》」でありとしている。『全註釈』は、準十一(二五八四)「かくばかり恋せしむるは小可者在来《アシクハアリケリ》」の用例があり、「少可」は不可と同じだとして今のごとく訓んでいる。これに従う。よくないことであった、面白くないことであったで、思い出しての男の心。
【釈】 黙ってはいられまいと思って、女が口先だけの気やすめにいっている言葉を、それと見抜いていたことは、面白くないことであった。
(435)【評】 男が女に求婚して、女からほどよく婉曲に断わられて、それと察して別れて来た後に、その時のことを思い出しての心である。男女間には例の多いことであるが、こうした実相に深く喰い入って、それをありのままに誇張なくあらわしている歌は、実に稀れであり、例の求め難いものである。上の「道の辺の草深百合の」に並びうる作である。着実の相はたやすく時代を超える例となりうる歌である。
1259 佐伯山《さへきやま》 卯《う》の花《はな》もてる かなしきが 手《て》をし取《と》りてば 花《はな》は散《ち》るとも
佐伯山 于花以之 哀我 手鴛取而者 花散鞆
【語釈】 ○佐伯山。所在不詳。広島県説、大阪府説がある。○卯の花もてるかなしきが 原文の文字は、諸本異同がなく、訓はさまざまで、『代匠記』初稿本は「もちし」と訓んでいるが、このように訓むと、下の続きに無理を生じて、問題となる。『大系』が「之」は連体格を示す助辞とみて、「もてる」と訓んだのに従う。「かなしき」は、愛すべきの意の形容詞で、名詞形。愛すべき子が。○手をし取りてば 原文は諸本「子鴛取而者」。『代匠記』は、「子」は「手」の誤とし、今のごとくに改めた。この誤写説は、証はないが、一首の心から、また文字の類似の上から認めなければならないものに思える。「取りてば」は、「取らば」を強めるために、その連用形に、完了の助動詞「て」を接しさせたもので、手を取ったならばで、ここで言いさしにした形。○花は散るとも 「花」は、手に持つ卯の花。「散るとも」は、散ろうともで、かまわぬの余意をもったもの。
【釈】 佐伯山に卯の花を持っている可憐な女の、その手を取ったならば、持っている花は散ろうともままよ。
【評】 佐伯山の麓で、山の卯の花を折って手にしている可憐な女を見懸け、その土地の男の烈しい愛情を抱いた心のものである。「佐伯山」の所在の不明なのは、その地方的の山であるためで、また一首全体も、単純で、露骨であって、その土地の謡い物ということを濃厚に思わせるものである。結句に重く据えている「花は散るとも」も、意味としては重くはなく、二句「卯の花もちし」の、その可憐さを繰り返していったにすぎないもので、ことに謡い物的である。
1260 時《とき》ならぬ 斑《まだら》の衣《ころも》 服《き》ほしきか 島《しま》の榛原《はりはら》 時《とき》にあらねども
不時 斑衣 服欲香 嶋針原 時二不有鞆
【語釈】 ○時ならぬ斑の衣 「時ならぬ」は、その季節ではないで、下の「斑の衣」の修飾句。「斑の衣」は、濃淡の一様でない衣で、花汁で斑に摺った衣。○服ほしきか 「か」は、詠歎。着たいことよ。○島の榛原 「島」はしばしば出た。高市郡明日香村島の庄。「榛原」は、萩原。○時(436)にあらねども 萩の花の咲く季節ではないけれどもで、萩の花をもって衣を摺る関係からいっているもの。
【釈】 その季節ではない花摺の斑の衣を着たいことであるよ。島の萩原の萩は、花の季節ではなく、したがって摺り難くはあるけれども。
【評】 島の里の辺りに住んでいる男の心である。「島の榛原時ならねども」というのは、島の娘で、まだ婚期には達していない者を隠喩したもの。「斑の衣」は、美しい衣として我が身に着ける意で、妻の隠喩である。早婚時代のこととて、こうした感を起こす男が多くあったと思える。心も形も平明で、まさしく謡い物風である。謡われていたものかと思える。上の「佐伯山」の歌に較べると、同じ範囲の歌ではあるが、こちらは婉曲で、大和国の歌と思わせるところがある。譬喩歌としては上乗のものである。
1261 山守《やまもり》の 里《さと》へ通《かよ》ひし 山道《やまみち》ぞ 茂《しげ》くなりける 忘《わす》れけらしも
山守之 里邊通 山道曾 茂成來 忘來下
【語釈】 ○山守の里へ通ひし山道ぞ 「山守」は、山番で、他人に盗伐などされぬよう守っている者。「里へ通ひし」は、里に妻をもって、その許へ通っていた。職としては里へ下れないのを通うというので、妻の許ということを暗示したもの。○茂くなりける 草が茂く生えてきたことであるよで、これは通わなくなったことを暗示している。○忘れけらしも 「忘れ」は、その事を忘れた意。「らし」は、「茂く」を証としての推量。「も」は、詠歎。
【釈】 山守の里へ通っていた山道は、草が茂く生えて来たことであるよ。妻を忘れてしまったのであろう。
【評】 これは山守が、里に妻をもって、足繁く通っているのを見ていたその里の人が、山守の足の絶えたことを具象的にいったものである。第三者としてこういうごとに深い興味をもち、噂話にしていたのを歌にした形のもので、当時としては一般性をもった歌である。「忘れけらしも」と、「も」の詠歎を添えていっているので、その里の妻に同情を寄せている形にはなっているが、要するに興味としての噂話である。それにしても、婉曲な言い方をして興味を露骨には示すまいとしているところに、部落生活の善良さの現われているものである。
1262 あしひきの 山椿《やまつばき》さく 八《や》つ峰《を》越《こ》え 鹿《しし》待《ま》つ君《きみ》が いはひ嬬《づま》かも
(437) 足柄之 山海石榴開 八峯越 鹿待君之 伊波比嬬可聞
【語釈】 ○あしひきの山椿さく八つ峰越え 「あしひきの」は、山の枕詞。「山椿」は、山にある椿の称。「さく」は、椿の花は一年の間、夏を除けばいつも咲く花であるが、下の続きの猟の関係から、秋冬の頃である。「八つ峰」は、多くの峰で、「越え」は、山奥に入っての意。○鹿待つ君が 「鹿」は、猪鹿に通じての称。「待つ君」は、それを獲ようとして待ち構えている君で、その人は猟人であり、「君」と呼んでいるのは、妻としてである。○いはひ嬬かも 「いはひ」は、斎いで、猟の幸運を神に祈願するために斎戒し、妻との同衾を禁じることが猟人には行なわれており、その扱いを受けている妻である。この語はここにあるのみである。「かも」は詠歎。
【釈】 山椿の咲いている多くの峰を越えて猪鹿を獲ようと待ち構えている君の、我はその斎い妻であることよ。
【評】 上代の猟の位置は、今よりもはるかに重く、それを職業としている人も多かった。海上での業と同じく危険が多く、また幸不幸も多い職業であるところから、信仰の伴っていたことは当然である。また部落の年々に行なう春秋の祭にも、直接神事に携わる者は、ある期間妻を遠ざけ、食事も別火《べつび》を用いていたのであるから、斎い嬬ということは格別のことではなかったのである。歌は猟人の妻が、その夫の出猟中、緊張して信仰生活を続けている心を詠んだものである。「あしひきの山椿さく八つ峰越え」と、その事に合わせてはきわめて美しい言い方をし、「鹿待つ君」と、これまた美しさを失わない言い方をしているのは、その夫を思う情の具象である。この歌は案外拡がりをもっていたものではないかと思われる。一夫多妻時代とて、斎い嬬ならぬ斎い嬬は幾らもあったろうと思われるからである。この歌は心が単純で、形が美しいところから見て、まさしく謡い物とされ、猟人の集団に謡われ、上の意味で他の方面にも拡がっていたものではなかったか。
1263 暁《あかとき》と 夜烏《よがらす》鳴《な》けど この山上《をか》の 木末《こぬれ》のうへは いまだ静《しづ》けし
曉跡 夜烏雖鳴 此山上之 木末之於者 未靜之
【語釈】 ○暁と夜烏鳴けど 暁となったとて、夜烏は鳴いているけれども。烏は夜明けに早く鳴く鳥。○この山上の木末のうへは 「山上」は女の家のある所。「木末」は、梢。「うへ」は、今は、諸島の鳴くところとして、特に細かくいったもの。○いまだ静けし まだ静かであるで、諸鳥が目を覚まして鳴かない意。
【釈】 暁がきたとて夜烏は鳴くけれども、この岡の梢の上は、諸鳥が目覚まさず、まだ静かである。
【評】 夜かよって来た夫の、夜の明けきらない中に帰ろうとするに対して、妻が別れを惜しんで、まだ早いからとて留めてい(438)る心の歌で、閨にあっての語を歌とした形のものである。閨にあって時刻を鳥の鳴き声によって感じるというのは、上代にあっては普通のことであったが、「木末のうへはいまだ静けし」というのは、その家の実際に即したもので、小鳥のいかに多いかをも暗示している、味わいのある句である。
1264 西《にし》の市《いち》に ただ独《ひとり》出《い》でて 眼《め》並《なら》べず 買《か》ひにし絹《きぬ》の 商《あき》じこりかも
西市尓 但独出而 眼不並 買師絹之 商自許里鴨
【語釈】 ○西の市にただ独出でて 奈良京は、東西の市があって、「東の市」は、巻三(三一〇)「東の市の植木の」とあった。「東の市」は左京で、今の奈良市辰市。「西の市」は右京で、今の郡山市九条の市田付近だという。○眼並べず 眼を並べずで、わが眼だけで、他人の眼をも並べて十分に見ずにの意。○買ひにし絹の商じこりかも 「買ひにし絹」は、買って来た網。「商じこり」は、「商」は商いの意の古語。「じ」は、「鳥じ物」などの場合の「じ」と同じく、「の」にあたるもの。「こり」は懲りで、名詞。仕損いの意。一語で、商いの仕損い。商いは、物々交換時代とて、交換の仕損いで、損をする意。他に用例のない語。「かも」は、詠歎。【釈】 西の市へ、自分独りで出て行って、他人の眼をも並べてよく見ずに買った絹は、商いの仕損いであったことだ。
【評】 西の市で買った絹を後から見て、思ったより悪い品であることに心付き、一しょに居る者がなくて、独りでした目利きが間違って、買い損いのようであったと悔いた心である。絹を買う人は、当時としては貧しい人ではないが、しかし庶民階級の人で、その日常生活に即しての歌である。後世だと狂歌の範囲に属するものであるが、古くは歌の本道に立ってのものとして詠みもし、また味われもしていたものである。
1265 今年《ことし》行《ゆ》く 新島守《にひしまもり》の 麻衣《あさごろも》 肩《かた》のまよひは 誰《たれ》か取《と》り見《み》む
今年去 新嶋守之 麻衣 肩乃問乱者 誰取見
【語釈】 ○今年行く新島守の 「今年行く」は、今年交替として出て行くで、下の島守のこと。防人《さきもり》は三年交替で、ここもその意のものである。「新島守」は、新規の防人で、防人は壱岐対馬をはじめ、辺海の防備にあたる者の称である。防人は後には東国の者のみに限られたが、ここもそれとみえる。○麻衣 これは防人に限らず、一般の常服であった。○肩のまよひは誰か取り見む 「まよひ」は、※[糸+比]い。経緯の糸が乱れ片寄る意で、織り目の損われること。「肩のまよひ」は、肩の辺りがことに目立つ意でいっているのである。「取り見る」は、熟語で、世話する意。「誰か(439)取り見む」は、誰が世話をするのであろうかと、その母妻などの、その人のないのを憐れんでの心。
【釈】 今年行く新規の防人の麻衣の、その肩の辺りのほつれは、誰が繕うのであろうか。
【評】 防人、または防人の家族の詠んだ歌は、その国の国司の手に取纏め、兵部省を経て朝廷へ献ずるもので、本来他へ漏れるべき性質のものではなかった。この歌はなんらかの経路で、その途中で漏れ、その心のあわれさから伝唱されて、記録されるに至ったものとみえる。京の歌と異ならないのは、伝唱される中に京の風に改められたものと思われる。防人は命を賭しての任であったが、母などはただ麻衣のまよいを気にしているので、第三者から見ると、そこに言い難いあわれがあったのである。
1266 大舟《おほぶね》を 荒海《あるみ》に榜《こ》ぎ出《い》で 弥船《やふね》たけ 吾《わ》が見《み》し児《こ》らが 目見《まみ》はしるしも
大舟乎 荒海尓榜出 八船多氣 吾見之兒等之 目見者知之母
【語釈】 ○大舟を荒海に榜ぎ出で 「荒海《あるみ》」は、あらうみの約音。船人としてきわめて困難なさまをいったもの。○弥船たけ 「弥」は、いやで、いよいよ。「たけ」は船を漕ぎ煽る意で、後世にも行なわれた語。いよいよ船を漕ぎ煽ってで、以上、甚しい困難をしての意の譬喩。○吾が見し児らが目見はしるしも 「児ら」は、「ら」は接尾語で、児は愛する女を親しんでの称。「目見」は、目に見るで、顔かたちを感覚的にいった語。他には用例のないものである。「しるしも」は、著しもで、はっきりと眼に浮かぷの意。「も」は詠歎。
【釈】 大船を荒海に漕ぎ出して、いよいよ船を漕ぎ煽るごとき苦労をして、我が逢って来た可愛ゆい女の顔は、はっきりと眼に浮かぶことよ。
【評】 三句を費やしてのこの譬喩は、事に合わせては特色のあるものであるが、作者は平常体験としてもっているもので、親しく適切に感じたものと思われる。すなわち航海を業としている人である。「目見はしるしも」も、特色のある語で、これもまたそれを親しく適切とするところからのものである。一首、航海者のその生活をとおして生んだ歌で、その荒く率直なところが、同業者には魅力となったものであろう。謡い物であったとみえる。
所に就《つ》きて思を発《おこ》す 旋頭歌
【標目】 「所に就きて」は、上の「時に臨める」と並びうるもので、「時」と「所」とを区別したものである。「旋頭歌」は、既出。
(440)1267 ももしきの 大宮人《おほみやびと》の 踏《ふ》みし跡所《あとどころ》 沖《おき》つ波《なみ》 来《き》よらざりせば 失《う》せざらましを
百師木乃 大宮人之 踏跡所 奥波 來不依有勢婆 不失有麻思乎
【語釈】 ○踏みし跡所 踏んだ跡のある所よで、詠歎がある。続きで見れば、そこは砂浜である。○沖つ波来よらざりせば 「来よる」は、寄せて来る。沖の波がもしもここに寄せて来なかったならばと仮想していっているもので、満潮の時には沖の波の必ず寄せて来る所。○失せざらましを 「失せ」は、上の「踏みし跡」で、砂の上の足跡。「まし」は、上の「せば」の帰結。「を」は、ものを。
【釈】 百しきの大宮人が、踏んだ跡のある所よ。沖の波がもしも寄せて来なかったならば、その跡の失せずにいようものを。
【評】 海辺の地に行幸のことのあった後、その土地に住んでいる民の詠んだ形のものである。土地はいずこともわからないが、紀伊国の和歌の浦のような所であろう。とにかくそこの民は行幸のあったことを甚しく忝く感じ、その形見を保存したいと願い、大宮人の海べの砂の上に残した足跡をまで形見と思い、沖から寄せて来る波の妨ぐ術もないものに、それの消されることを嘆いた心のものである。大宮人に対する限りもなき尊敬よりいっているものである。謡い物ということを強く思わせる形のものである。
右の十七首は、古歌集に出づ。
右十七首、古謌集出。
【解】 資料としての古歌集は、他の巻にも出ているが、以上を見てもそのいかに注意すべきものであるかが思われる。十七首中の一首、「西の市に」は、明らかに奈良時代のものと知られるが、他はわからない。問答の「白水郎を詠める」は、大津宮時代のものかとも思われるが、明らかではない。詠み方の幅が広く、一方にはおおらかに稚拙で、古風を思わせるものがあると思う、他方には微細に繊細で、新風を思わせるものがある。また明らかに庶民の歌もあって、わずかに十七首であるが変化に富んでいる。最も注意されることは、際立った秀歌のまじっていることである。心を引かれる資料である。
1268 児《こ》らが手《て》を 巻向山《まきむくやま》は 常《つね》にあれど 過《す》ぎにし人《ひと》に 行《ゆ》き纏《ま》かめやも
兒等手乎 卷向山者 常在常 過徃人尓 徃卷目八方
(441)【語釈】 ○児らが手を巻向山は 「児らが手を」は、巻の枕詞で、既出。この枕詞は結句へ照応しているものである。「巻向山」も既出。三輪山の東方に続いた山。その麓の穴師河のほとりに人麿の妻の住んでいたことは上に出た。○常にあれど 永遠に存在しているが。○過ぎにし人に行き纏かめやも 「過ぎにし人に」は、世を去ってしまった人には。「行き纏かめやも」は、行ってその手を枕とされようか、されないで、「や」は反語。
【釈】 その子の手を枕とするに因みある巻向山は永遠に存在しているが、世を去ってしまった人には、行って手枕をすることが出来ようか、出来はしない。
【評】 巻向山の麓の穴師河のほとりに住んでいた妻が早世してしまった後の哀しみである。追慕の情からその地へ行っての作である。巻向山の何の異なるところなく立っているのを見ると、その麓にあって早くも世を去った人と対照されて、それが新たに哀しみを刺激するものとなり、人間の無常を感じさせるものとなったのであるが、その無常をいうに、「過ぎにし人に行き纏かめやも」と言っているのは、人麿独自のものである。心としては自明なことであるが、それを感覚的に具象化していい、しかも初句の枕詞をも溶かし込んで、その心を徹しさせているところは、他の人には出来ないものである。一首の調べも引締まって、一種の沈痛味をかもし出している。
1269 巻向《まきむく》の 山辺《やまべ》響《とよ》みて 往《ゆ》く水《みづ》の 水沫《みなわ》の如《ごと》し 世《よ》の人《ひと》吾等《われ》は
卷向之 山辺響而 徃水之 三名沫如 世人吾等者
【語釈】 ○山辺響みて往く水の 「響み」は鳴り響いて。「往く水」は、上の(一一〇〇)に出た「痛足《あなし》の河」である。○水沫の如し 水の泡のようだというので、その脆く消えやすいことを生命に喩えたのであるが、仏典の語を捉えたものである。○世の人吾等は 「世の人」は、現世の人。(442)「吾等」は、「等」を添えて複数としているのは、その意でいっているのである。
【釈】 巻向の山を鳴り響かして流れて行く川の、その流れに浮かぶ水泡のごとくである、現世に生きている我らの命は。
【評】 地理の関係から見て、上の歌の連作で、亡き妹をとおして人間の生命そのものを痛感した心である。事には直接に触れず、調べの強さをもってその時の感を具象しているものである。
右の二首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
右二首、柿本朝臣人麿之謌集出。
物に寄せて思を発《おこ》す
【標目】 きわめて普通のことで、とくに断わるほどのものではない。古歌集にこのようにあったことと思われる。
1270 隠口《こもりく》の 泊瀬《はつせ》の山《やま》に 照《て》る月《つき》は 盈※[日/仄]《みちかけ》しけり 人《ひと》の常《つね》なき
隱口乃 泊瀬之山丹 照月者 盈※[呉の口が日]爲焉 人之常無
【語釈】 ○隠口の泊瀬の山に 「隠ロの」は枕詞。「泊瀬の山」は、上代共同墓地とされていた。ここは月の在り場所としてであるが、そのことも関係させてあるとみえる。○照る月は盈※[日/仄]しけり 満ちつ欠けつしたことであったで、現在照っている月に変転を感じてのもの。○人の常なき 人間には永遠性がないことである。
【釈】 泊瀬山に今照っている月は、満ち欠けをしたことであった。人間には永遠性のないことだ。
【評】 泊瀬山に照っている月を見て、思い入って人の生死を感じた心であるから、共同墓地という感の伴っているものと思われる。その当時にあっては墓地ということは言わずとも当然感じ得られるものとしたのであろう。感想にすぎないものであるが、深い思い入れが引締った調べによって生かされていて、一種のさびた感のあるものとなっている。
右の一首は、古歌集に出づ。
右一首、古歌集出。
(443) 行路
【標目】 羈旅の歌で、上の「所に就きて」の範囲のものである。人麿歌集の歌であるから、それにあった題であろう。
1271 遠《とほ》くありて 雲居《くもゐ》に見《み》ゆる 妹《いも》が家《いへ》に 早《はや》く至《いた》らむ 歩《あゆ》め黒駒《くろこま》
遠有而 雲居尓所見 妹家尓 早將至 歩黒駒
【語釈】 ○遠くありて雲居に見ゆる 遠く離れていて、空にあるともみえる妹の家に。「見ゆる」は、思われるという意を感覚的にいったもの。○歩め黒駒 歩めよ、黒駒よと、その乗馬に命じたもの。
【釈】 遠く離れていて空にあるともみえる妹の家に、早くも着こう。歩めよ、わが乗る熊駒よ。
【評】「行路」と題してあるので、旅にあって妻どいをした時の歌と取れる。妻を遠方にもっていることは、上代にあっては珍しくないことであるから、この妹も遠方にいたものであろう。しかし「雲居に見ゆる」という描写は、事実そのものとみるべきではなく、憧れの心理の多分にまじっているものとすべきで、「見ゆる」という語はそれを示しているのである。人麿の一面の華やかさの現われている歌である。巻十四(三四四一)に、同じ人麿の作として、「間遠くの雲居に見ゆる妹が家にいつか到らむ歩めわが駒」がある。
右の一首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
右一首、柿本朝臣人麿之謌集出。
旋頭歌
【標目】 旋頭歌は、歌体の名であるが、ここと、巻十、十一では、分類上の標目としている。以下二十四首のうち二十三首までは人麿歌集のもので、人麿のこの方面のものとしては代表的に多く集められているのである。旋頭歌は歴史的にいうと短歌より一時代前のもので、後より興った短歌に圧倒されて衰運に向かった歌体である。さらにいうと、歌が集団の謡い物であった時代には、好適な歌体とされていたのであるが、徐々に個人的の読み物となってくると、新興の短歌のほうがより好適な歌体とされて、それに席を譲らなければならなかったのである。人麿時代には旋頭歌はすでに時代遅れな古風なものとなって廃っていて、人麿(444)はその最後の作者だったかの観がある。人麻呂は一面には保守的な人であり、謡い物風な詠み方を愛していた人なので、旋頭歌という古風な歌体に愛着を感じているとともに、短歌にくらべては暢びやかで、したがって謡い物の調子の多いこの歌体そのものをも愛好していたのだろうと思われる。この推測は、以下二十三首の作によってのもので、人麿の旋頭歌は、その短歌の自身の実際に即したものであるのとは趣を異にし、実際からはある程度の遊離をもち、さまざまな人の、さまざまな立場に立っての歌となっているのである。一と口にいえば、想像で題詠をしているような形のものである。人麿は一面浪曼的で、想像力の豊かな人であるから、その方面を旋頭歌の形に托し、作歌興味より詠んだものと思われるのである。しかし人麿ならでは出来ない独自の味わいのある、他の歌体のものに見劣りのしないものとしているのである。
1272 劔大刀《つるぎたち》 鞘《さや》ゆ納野《いりの》に 葛《くず》引《ひ》く吾妹《わぎも》 真袖《まそで》もち 着《き》せてむとかも 夏草《なつくさ》苅《か》るも
劔 從鞘納野迩 葛引吾妹 眞袖以 着點等鴨 夏草苅母
【語釈】 ○劔大刀鞘ゆ納野に 「劔大刀」は、元暦校本は「剱従」とあるが、仙覚本は「従」を「後」とし、「剱後《たちのしり》」と訓んでいる。『全註釈』が原形に返しているのに従う。剱の太刀を鞘をとおして収める意で入りと続け、地名としての「納」の序詞としたもので、八音の序詞。「納野」は、「入り」という地名は、往還より横へ入り込んだ所の称で、諸所にある。どことも知れない。○葛引く吾妹 「葛」は、その蔓の繊維を織物の材料とするためのもの。「引く」は、蔓を取る状態。「吾妹」は、女の愛称。下に詠歎がある。○真袖もち着せてむとかも 「真袖」の「真」は、物の揃っていることをあらわす語で、「真袖」もちは、両手を使ってということを美しく言いかえたもの。当時の窄袖は長くて、掌を蔽うほどの物であったから、そのように見えもするのである。下の「苅るも」にかかる。「着せてむとかも」は、「て」は、完了、「かも」は疑問で、我に衣として、着せようと思ってか。○夏草苅るも 原文は諸本異同がないが、訓はさまざまである。旋頭歌の一つの型として、第六句は第三句の繰り返しとなっている場合が多く、これもそれで、「葛引く」の繰り返しで、「葛」を「夏草」に、「引く」を「苅る」と語をかえたものである。
【釈】 剱大刀を鞘をとおして入れるに因みあるこの納野に、葛を引いている吾味よ。両手をもって、わが衣として着せようと思ってか、夏草を苅っていることよ。
【評】 妻が夫のために麻や葛から繊維を取り、織って仕立てて着せるということは、庶民の世界にあっては普通のことであった。これは納野の辺りに住んでいる妻が、夏の日そのことをしているさまを夫が見懸けて、うれしくも可愛ゆくも思って見やっている心である。「剱大刀鞘ゆ」という序詞は、当時としては見馴れていたことで格別なことではなく、妹が働いている夏の日の納野には、気分に繋がりのあるものである。「真袖もち」は、可憐な手をもって、荒い業をしているのを隣れむ心からの語で、見る目の印象としても自然なものである。才気の溢れた作である。
1273 住吉《すみのえ》の 波豆麻《はづま》の公《きみ》が 馬乗衣《うまのりごろも》 さひづらふ 漢女《あやめ》を坐《ま》せて 縫《ぬ》へる衣《ころも》ぞ
住吉 波豆麻公之 馬乘衣 雜豆臈 漠女乎座而 縫衣叙
【語釈】 ○住吉の波豆麻の公が 「波豆麻」は、不明である。文字は諸本異同のないものである。上よりの続きから見て、「公」を重くいうために地名を二つ重ねたとみると自然であるが、そういう地名は伝わっていず、結局不明である。地名と見ておく。「公」は男の敬称で、その地の領主ともいうべき人であろう。○馬乗衣 『新訓』の訓。馬に乗る時の衣。下の続きで特別の仕立て方のものと知れる。大陸風を摸した、当時としては新しい物であったとみえる。下に詠歎がある。○さひづらふ漠女を坐せて 「さひづらふ」は、鳴るの連続状態。漢女の言語の解し難さの形容。「漢女」は、漢国より渡来した女の称で、上代我が国の機織裁縫の幼稚だった時代、それらの手芸の進歩していた中国から聘した女で、事は彼の朝廷と我が朝廷との間で行なわれたのである。これは人麿時代より遥か以前の事である。人麿時代には「漢女」は、そうした事を職業とする女の称となっていたことと思われる。ここはその意もので、「さひづらふ漢女」で、専門に裁縫をする、すなわちその業の上手な女の意と取れる。「坐せて」は、居させてで、雇って。○縫へる衣ぞ 「ぞ」は、他に対して指示する意。
【釈】 住吉の波豆麻の公の馬乗衣であるよ。専門職の漢女を雇って縫った衣であるぞ。
【評】 「公」と呼ばれる人に属して、側近している者が、「公」とは無関係な者が、馬乗衣を見て、その見知らない物であるところから、これはどういう衣だと訊かれたのに対し、誇りをもって説明した言葉である。前後もなく簡単な言葉をもって、一つの特殊な生活状態を、具体的にあらわし得ている歌で、人麿の自由な才を思わせる作である。謡い物の旋頭歌が、ここでは叙事歌になっている。
1274 住吉《すみのえ》の 出見《いでも》の浜《はま》の 柴《しば》な苅《か》りそね 未通女等《をとめらが》が 赤裳《あかも》のすその ぬれて往《ゆ》かむ見《み》む
住吉 出見濱 柴莫苅曾尼 未通女等 赤裳下 閏將徃見
【語釈】 ○住吉の出見の浜の 「出見の浜」は、『大日本地名辞書』は、住吉の森の西の松林のあたりを、出見の浜と呼ぶといっている。この名は今も残っているが、住吉ではなく、住吉の地続きである。○柴な苅りそね 「柴」は、雑草、小灌木の総称。ここは雑草と取れる。「な苅りそね」は、「ね」は、他に対しての願望。苅るなよの意。○赤裳のすその 裳は女子の下半身に着ける衣裳。赤色が普通である。○ぬれて往かむ見む 「ぬれて往かむ」は、柴のある所を路として、その露に濡れながら行くだろうさまをの意。
【釈】 住吉の出見の浜の柴を、そのように苅るなよ。ここを通る未通女等の赤裳の裾の、その柴の露に濡れながら行くさまを我(446)は見よう。
【評】 出見の浜で柴を苅っている男に言いかけた形のものであるが、こうしたことは実際には出来るものではなく、そう思ったというにすぎないもので、興味よりのものである。「赤裳のすそのぬれて往かむ見む」は、感覚的の興味で、人麿に限ったものではないが、かなり強くもっていたとみえ、他でもいってるものである。限られたことのごとくで、その実拡がりをもちうる取材である。この歌の調べは暢びやかで、かなり謡い物風である。
1275 住吉《すみのえ》の 小田《をだ》を苅《か》らす子《こ》 賤《やつこ》かもなき 奴《やつこ》あれど 妹《いも》が御為《みため》と 私田《わたくしだ》苅《か》る
住吉 小田苅為子 賤鴨無 奴雖在 妹御爲 私田苅
【語釈】 ○住吉の小田を苅らす子 「苅らす子」は、原文「苅為子」。「苅らす」は、苅るの敬語。「子」は、年若い者にたいしての愛称で、呼び懸け。○賤かもなき 「賤」は、続きの「奴」と同じ、家《や》つ子《こ》の意で、その家に隷属している下部《しもべ》。奴隷の場合もあるが、それでない場合もあって、意の広い語。「か」は、疑問の係助詞。○奴あれど妹が御為と 「妹が御為と」は、旧訓「為に」。「と」も「に」も、訓み添えである。『童蒙抄』の訓。「妹」は、家が別であり、したがって経済も別である。「御為」の「御」は、敬語。女に対してはする風習にしたがってである。○弘田苅る 「私田」は、『代匠記』の訓。「私田」は、口分田、位田、職田以外の墾田の称である。これは公の許を得て開墾した田は、一定の期間その人の私有になっていたのであり、そのことをするに堪えるのは有力者だったのである。「苅る」は、上代は関係の深い者同士は、田畑の労働は相助け合うのが普通となっており、その事は地方的には現在も続いていて、「結《ゆひ》」という名であらわされている。ここもそれで、夫が妹の家のために労働するというのである。奴を使わずに自身するのは、そのことを鄭重にすることで、妹を思う心からのことである。
【釈】 住吉の田を苅っていらせられる若い君よ、そうしたことをさせる奴がなくてのことなのか。いや、奴はあるが、妹の家のおためと思って、その私田を苅っているのだ。
【評】 秋の日の畔を通りかかった年取った人が、見知り越しの身分ある若い人が稲苅をしているのを見て、訝かって問うた片歌《かたうた》と、その答として、これは妹の家のおためと思ってわざと奴を使わず、自身しているのだと朗らかに答えた若い人との片歌を組み合わせて、その問答を一首としたものである。一首の中心は、奴を使わずに、特に自身でしているという点にあって、そこに年を取った人と、若い人との心の距離が現われて、興味をなしているのである。片歌の問答を組み合わせて旋頭歌としたこの形は、旋頭歌の発生を示していることで、これはその一つの例ともなるものである。なお、それに関連したことは、第二首目よりこの歌に至るまでの三首は、すべて二人の人が相対していて、前の二首は、その一人のいうことが歌となっている(447)ことである。言いかえると、片歌をもっていうことの、その繰り返しの二首分が旋頭歌となっているということである。これは後にも続くことである。
1276 池《いけ》の辺《べ》の 小槻《をつき》が下《もと》の 細竹《しの》な苅《か》りそね 其《それ》をだに 君《きみ》が形見《かたみ》に 見《み》つつ偲《しの》はむ
池邊 小槻下 細竹苅嫌 其谷 公形見尓 監乍將偲
【語釈】 ○池の辺の小槻が下の 「池」は感慨用の貯水池と思われる。「小槻」の「小」は披頭語。堤には槻の木を植えた例が他にもある。○細竹な苅りそね 原文の「嫌」は、「そね」に義をもって当てた字で、上に「莫」があって脱したものかと『代匠記』はいっている。次の歌もそうなっているからである。「な、そね」は、禁止に願望の添ったもの。これは、細竹を苅っている人に、女が頼む形のものである。○其をだに君が形見に 「其」は、それだけでも。「君が形見に」は、「君」は、女より夫としての男を指したもの。「形見」は、現在、近く居ない人の、身代わりとして見るものの総称。「に」は、になして。池の辺の細竹を形見にするというのは、そこを人目を避ける所として、夫婦として密会したことの記念の意。これは上代にあっては珍しくはない風だったのである。「其をだに」より続いて、男はまったく疎くなったのか、遠く去ったのか、あるいは死んだのかはわからないが、とにかくまったく縁のないものとなった意。○見つつ偲はむ 「偲はむ」は、ここは懐かしく思おう。
【釈】 池の辺りの槻の木の下の細竹を、そのようには苅り取るなよ。それだけでもせめて君の形見にして、見つつ懐かしもう。
【評】 これは細竹を苅る男に、直接に呼び懸けてのものではなく、女のその心をもって思ったことをいったものである。「池の辺の小槻が下の細竹」というのは、そこをそうした場所として選ぶのは、村落としては一般性をもったことであったろう。「形見に」といっているのは、おそらく疎くなったことで、これもまた一般性をもったことといえる。謡い物としての色彩をおびた歌である。
1277 天《あめ》なる ひめ菅原《すがはら》の 草《くさ》な苅《か》りそね みなのわた か黒《ぐろ》き髪《かみ》に あくたし付《つ》くも
天在 日賣菅原 草莫苅嫌 弥那綿 香烏髪 飽田志付勿
【語釈】 ○天なるひめ菅原の 「天なる」は、天に在るで、「日」にかか枕詞。「ひめ菅原」は、下の続きから見ると、姫菅の原である。姫菅はどういう菅かわからない。地名としても、実状から名づけられたものである。○草な苅りそね 上に出た。草は苅らないでくれ。○みなのわたか黒き髪に 「みなのわた」は、蜷《みな》の腸《わた》で、蜷は今の「にな」。食料で、その黒さより「黒」の枕詞。巻五(八〇四)に出た。「か黒き」は、「か」は接(448)頭語。髪の黒さを讃えたもので、若い娘の髪を讃えたもの。○あくたし付くも 「あくた」は、芥。「し」は、強意。「付くも」の「も」は、原文「勿」。「勿《もつ》」の下略。草にまじっている芥が付くことであるよ。
【釈】 天にある日に因む、この姫菅原の草は苅らないでくれ。その美しい黒髪にごみが付くことであるよ。
【評】 姫菅原というのは、男女の住んでいる土地のもので、女がそこで草を苅っているのを、通りかかった男が認めて声をかけた形のものである。同じ部落の者同士としてであろう。男のいっていることは、「か黒き髪にあくたし付くも」で、草のごみで美しい髪のよごれるのをいたわっていることである。これは実際に即して黒髪の美を讃えていることで、さらにいうと婉曲に懸想の心をほのめかしたものである。姫菅原は草の苅場所にすぎない。庶民生活における若い男の心理を敏感に捉えている作で、人麿の幅が思わせられる。
1278 夏影《なつかげ》の 房《つまや》の下《した》に 衣《きぬ》裁《た》つ吾妹《わぎも》 うら設《ま》けて 吾《わ》が為《ため》裁《た》たば やや大《おほ》に裁《た》て
夏影 房之下迩 衣裁吾妹 裏儲 吾爲裁者 差大裁
【語釈】 ○夏影の房の下に 「夏影」は、夏の木蔭で、暑いころの涼しい所。「房《つまや》」は、夫婦の寝室で、「下に」は、夏蔭を中心にして、その下にある房の意。夏蔭の下になっている涼しい房で。○衣裁つ吾妹 衣を仕立てようとして裁っている吾妹よ、と呼び懸けたもの。○うら設けて吾が為裁たば 「うら設けて」は、「うら」は心で、心設けをしてで、腹づもりをして。「吾が為裁たば」は、吾が着るために裁つならば。○やや大に裁て 「やや大に」は、少し大型に。「裁て」は命今形。早婚時代であったので、結締後、体が発育した意でいっているものと取れる。
【釈】 夏蔭となっている下の涼しい嬬屋で衣を裁っている吾妹よ。腹づもりをして、吾がために裁つのならば、少し大型に裁てよ。【評】 この夫婦は、初めから同棲しているものとしてであろう。やや身分の高い者はそうもしたのである。呼び懸けていう語を歌としたもので、中心となっているのは「やや大に裁て」ということである。呼び感けの語を純客観的のものとして細かい描写をし、若い夫婦間の情愛を漂わしているもので、美しく魅力ある歌である。こうした技巧は人麿以外にはもてなかったと思わせる。
1279 梓弓《あづさゆみ》 引津《ひきつ》の辺《べ》なる 莫告藻《なのりそ》の花《はな》 採《つ》むまでに 逢《あ》はざらめやも 莫告藻《なのりそ》の花《はな》
梓弓 引津邊在 莫謂花 及採 不相有目八方 勿謂花
(449)【語釈】 ○梓弓引津の辺なる 「梓弓」は、引くと続いて、その枕詞。「引津」は、福岡県糸島郡志摩村、船越から岐志にかけての海岸で、韓国に渡る船の泊まり処として聞こえていた所だという。「辺なる」は、辺りにある。○莫告藻の花 「莫告藻」は今のほんだわらで、食用とする。海の深所に生える藻であるが、花は咲かない。したがって「花」は空想上の物で、あてのないものである。○採むまでに逢はざらめやも 「採むまでに」は、上の「花」を承けたもので、ありうべからざることで、いつの日にかはという意の譬喩である。実物としていったもの。「逢はざらめやも」は、「や」は、反語で、逢わないことがあろうか、逢うと強くいったもの。○莫告藻の花 第三句を繰り返したもので、旋頭の古い型である。
【釈】 この引津のあたりにある莫告藻の花よ。その花を採むまで、すなわちいつの日にかは、また逢う時がなかろうか、必ずある。その莫告藻の花よ。
【評】 引津の賑わしい船着き港で、旅人としてその土地の女と関係を結んだ男が、女と別れる際、別れかねる心をもっていったものである。「莫告藻の花」は、含蓄をもった巧妙な譬喩である。一見平凡にみえるが、すぐれた歌才を示しているものである。明らかに謡い物の型に従っての詠み方である。
1280 うち日《ひ》刺《さ》す 宮路《みやぢ》を行《ゆ》くに 吾《わ》が裳《も》は破《や》れぬ 玉《たま》の緒《を》の 念《おも》ひ委《しな》えて 家《いへ》に在《あ》らましを
撃日刺 宮路行丹 吾裳破 玉緒 念委 家在矣
【語釈】 ○うち日刺す宮路を行くに 「うち日刺す」は、宮の枕詞。既出。「宮路」は、皇居への通路で、大宮人の皇居へ出入りする路。「行くに」は、歩くにつけて。○吾が裳は破れぬ 上を承けて、限りなくも歩いたことを具象的にいったもの。一つの路を限りなく歩くということは尋常なことではなく、またその甲斐のないことを示しているもので、これは恋以外にはないことである。男に憧れる女を暗示している。○玉の緒の念ひ委えて 「玉の緒」は玉を貫く緒で、下の「委え」にかかる枕詞。「念ひ委えて」は、諸注「委」の訓を異にしてさまざまである。『考』は「委」は「萎」に通じる文字だとして今のごとく訓み、『全註釈』も同様である。これに従う。思いしおれて。○家に在らましを 家にいようものを。
【釈】 大宮への通い路を限りなく歩くので、わが裳は破れた。これだと、思いしおれて家に居ようものを。
【評】 大宮人と関係した女が、男の疎遠にするのを恋うての心で、当時としてはあり勝ちなことであり、したがって扱い方も普通なものであるが、一首の調べに力があって、沈痛に近い感を起こさせる作である。この調べは、人麿のこの取材に対する気分の現われである。興味に発して真実に至っている作である。
1281 君《きみ》が為《ため》 手力《たぢから》労《つか》れ 織《お》れる衣服《ころも》ぞ 春《はる》さらば いかにかいかに 摺《す》りてば吉《よ》けむ
(450) 公爲 手力勞 織在衣服叙 春去 何々 摺者吉
【語釈】 ○手力労れ 「手力」は、腕ぢから。○春さらばいかにかいかに 「春さらば」は、春を染料となる花の咲く時としてである。「いかにかいかに」は、旧訓「いかにいかに」。どういう色にと、いろいろ選択する意。○摺りてば吉けむ 「摺りてば」は、摺らばを強めていったもの。「吉けむ」は、好いであろうか。
【釈】 君のためにとわが腕ぢからが労《つか》れて織り上げた衣であるよ。春が来て花が咲いたならば、どういう色に摺ったらば好いであろうか。
【評】 若い妻が夫のために機を織り上げた時の感である。夫の衣を織るのは妻の責任になっていたので、「手力労れ」は、労苦をいうのが目的ではなく、喜んで労苦した愛情をいおうとしたもので、「春さらばいかにかいかに」はさらに楽しい予想である。この心には、離れて起居している夫であることも関係している。時を超えて生きうる心である。
1282 橋立《はしだて》の 倉椅山《くらはしやま》に 立《た》てる白雲《しらくも》 見《み》まく欲《ほ》り 我《わ》がするなべに 立《た》てる白雲《しらくも》
橋立 倉椅山 立白雲 見欲 我爲苗 立白雲
【語釈】 ○橋立の倉椅山に 「橋立」は、「橋」は、梯子《はしご》の古語。「立」は、立てることで、熟語の名詞。上代の倉は床が高く、出入りするには梯子を立ててしたので、意味で「倉」にかかる枕詞。「倉椅山」は、桜井市、多武峰の東に連なり、宇陀郡との境に立っている今の音羽山の古名であろうという。○立てる白雲 立ち昇っている白雲よの意で、呼び懸け。○見まく欲り吾がするなべに 「見まく欲り」は、見たい(451)と思ってで、既出。「なへ」は、と同時に。上を承けて、見たいと思うと同時に。
【釈】 倉椅山の上に立ち昇っている白雲よ。見たいと我が思うと同時に立ち昇っている白雲よ。
【評】 形としてはきわめて単純な歌であるが、心としてはきわめて特色のあるものである。「橋立の倉椅山に立てる白雲」は、眼前に見た光景である。「見まく欲り我がするなべに立てる白雲」は、語を変えて繰り返した形のものであるが、それをするにあたって、「見まく欲り我がするなべに」といふ説明を付けたのであるが、この説明がきわめて特色のあるものなのである。語を追って読めば、にわかに忽然と立ち昇った白雲のようであるが、事実はそうではなく、上三句でいっているようにすでに立ち昇っているところの白雲で、それにこのような説明をしたのである。基本的な事実は、人麿が倉椅山の近くへ来た時に、その山の上に立ち昇る白雲を見たいとの心をおこし、見ると思いどおりに白雲の立ち昇っていたのを、このような言い方をしたのである。さらにこれを人麿の心理からいうと、その胸に希望した自然現象が、希望そのままに眼前に展開しているのを認めた時の感動である。言いかえると、我と自然と一体になり得た瞬間の深い感動で、それをこのように具象化したのである。したがってこの歌は、一面においては甚しく主観的なものであると同時に、他面には客観的であった人麿の人柄を、典型的にあらわしている歌なのである。人麿その人を赤裸々にして投げ出したような作である。
1283 橋立《はしだて》の 倉椅川《くらはしがは》の 石走《いはばしり》はも 壮子時《をざかりに》に 我《わ》が渡《わた》りてし 石走《いはばしり》はも
橋立 倉椅川 石走者裳 壯子時 我度爲 石走者裳
【語釈】 ○倉椅川の 多武峰から北流し、桜井市倉橋を過ぎる川。○石走はも 「石走」は、川の上に踏石のように石を据え、橋としたもの.「は」は事物を強く指定する係助詞。「も」は詠歎の助詞。「はも」は、ここでは回想の意をもつ。○壮子時に我が渡りてし 「壮子時」は、若盛りの時。「渡りてし」は、「て」は完了の助勒詞で、渡ったことのあった。
【釈】 倉椅川のあの踏石よ。若盛りの時に我が渡ったことのあった踏石よ。
【評】 倉椅川の瀬に、橋代に据えてある踏石を見て、若い時、それを踏み渡ったことのあったのを思い出しての詠歎である。「壮子時に」と特に断わっているのは、恋愛関係からのことであったろう。詠歎の勝った歌で、形も古いものである。
1284 橋立《はしだて》の 倉椅川《くらはしがは》の 河《かは》の静菅《しづすげ》 わが苅《か》りて 笠《かさ》にも編《あ》まず 川《かは》の静菅《しづすげ》
(452) 橋立 倉椅川 河靜菅 余苅 笠裳不編 川靜菅
【語釈】 ○河の静菅 「河の」は、上を承けて、河のほとりのの意でいっているもの。「静菅」は、下の続きで、菅の一種とはわかるが、どういう特色のある物の称かはわからない。眼前にある物で、呼び懸けの形。○わが苅りて笠にも編まず 我は苅って笠にも編まなかった。この二句は譬喩で、菅は女、笠は自身の妻にする意で、この譬喩は例の多い、一般性をもったものである。
【釈】 倉椅川の川のほとり生えている静菅よ。我は苅って、身に着ける笠にも編まなかった。川の静菅よ。
【評】 倉橋川の川ほとりの静菅を見て、以前、この土地の女で、妻としようと思った女を、そのままにしてしまったことせ思い出し、謡い物にもしていた菅と笠との譬喩に托していったものである。愛情を籠めた言い方はしているが、要するに思い出で、さっばりした心の上に立ってのものである。
1285 春日《はるひ》すら 田《た》に立《た》ち疲《つか》る 公《きみ》は哀《かな》しも 若草《わかくさ》の ※[女+麗]《つま》なき公《きみ》が 田《た》に立《た》ち疲《つか》る
春日尚 田立羸 公哀 若草 ※[女+麗]無公 田立羸
【語釈】 ○春日すら たのしい春の日でさえもなお。○田に立ち疲る公は哀しも 「田に立ち疲る」は、耕作のために田に立って、疲れたさまをしている。「疲る」は終止形で「公」に続いている上代の語格のもの。「公」は、知人をさしていると取れる。下の関係からである。「哀しも」は、疲れているさまに対してのあわれみ。疲れたさまにたいしてのことである。○若草の※[女+麗]なき公が 「若草の」は、※[女+麗]の枕詞。「※[女+麗]なき公」は、妻をもっていない人だということを作者は知っていていっているのである。当時の生活では、知人でない限り妻の有無は知れなかったからである。○田に立ち疲る 第二句を繰り返したもので、一首の眼目である。
【釈】 たのしい春の日でさえもなお、田に立ち働いて、疲れたさまをしている公は哀れであるよ。妻のいない公が、田に立ち働いて、疲れたさまをしている。
【評】 知人である男が、春日の労働をしているのを見、その懶げに疲れたさまをしているのを見て憐れみ、そうしたさまをしているのは、妻がないので、働く張りもないからだと解したのである。当時の夫婦関係は、人には秘密にしていたので、いったがように妻の有る無しは他人にはわからないことであるのに、明らかに「※[女+麗]なき」といっているので、「公」は知人であり、さらにまたそれを「疲る」の理由とし、「哀しも」と嘆いているのであるから、この「※[女+麗]」は、近く故人となったような事情の人であったかと思われる。当時の生活では相応な人でも自身耕作をし、また夫婦は同棲していないのであるから、独りで耕作し(453)ていることは疲れの理由とはならないのである。一首の中心である「※[女+麗]なき公が田に立ち疲る」は、かなり主観的な、同情しての解で、個性的なものである。一首、平明に似て、解しやすくない感のあるのは、個性的なものである関係からである。
1286 山城《やましろ》の 久世《くせ》の社《やしろ》の 草《くさ》な手折《たを》りそ わが時《とき》と 立《た》ち栄《さか》ゆとも 草《くさ》な手折《たを》りそ
開木代 來背社 草勿手折 己時 立雖榮 草勿手折
【語釈】 ○山城の久世の牡の 京都府久世郡城陽町久世にある神社。○草な手折りそ 「草」は、社の境内に生えているもの。「な手折りそ」は、折ってわがものとするな。草は軽い物ではあるが、神に属した物として憚かって、自由にはするなの意で、神に奉仕している女を隠喩したものと取れる。大きな社には巫女などが奉仕していたので、そうした範囲の者であろう。○わが時と立ち栄ゆとも わが盛りの時として。草についていったものであるが、隠喩のほかでは、女の若盛りとして。「立ち栄ゆとも」は、たとい美しく栄えていようとも。
【釈】 山城の久世の社の境内の草は折り取るなよ。その草が、今を盛りとして美しく栄えていようとも、その草を折り取るなよ。
【評】 草を神に属した巫女の譬喩と取るほかはない歌である。一首の作意は、作者自身、久世の社に奉仕する女を見て心を動かしたが、神に対する畏みからそれを制した形のもので、前半は、その神に属する者であることをいって戒め、後半は、「わが時と立ち栄ゆとも」と、心を動かせられた直接原因をいって、繰り返して警めたのである。他奇のない平明な作で、謡い物系統のものである。
1287 青《あを》みづら 依網《よさみ》の原《はら》に 人《ひと》もあはぬかも 石走《いはばし》る 淡海県《あふみあがた》の 物語《ものがたり》せむ
青角髮 依網原 人相鴨 石走 淡海縣 物語爲
【語釈】 ○青みづら依網の原に 「青みづら」は、語義に諸説がある。「つら」は蔓の古語で、青い蔓で、そのはびこつたさまが網に似ているところから、よい網の意の依網にかかる枕詞とする解に従う。「依網の原」は、この地名は諸所にあるから定め難い。『考』は河内国|丹比《たじひ》郡|依網《よさみ》の池のあるあたりの原かとしている。下の「淡海県」との関係から比較的妥当性のあるものに思える。三河説、摂津説もある。○人もあはぬかも 「あはぬかも」は、逢はぬか、逢ってくれよと願望する意で、しばしば出た。原を一人で歩いていて、さびしさからの心である。○石走る淡海県の 「石走る」は淡海の枕詞。「淡海県」は、近江地方。○物語せむ 話をしようで、近江国へ旅をした人か、またそこに住んでいた人かで、今依網の原む歩きつつしきりに近江国のことを思い出しているのである。
(454)【釈】 この依網の原で、誰か人に逢えぬかなあ、逢いたいものだ。それだと見て来た近江地方の話をしよう。
【評】 依網の原を歩きつつ、近江地方で見て来たことで胸が一ばいになっている男の、おのずから漏らした独語の形のものである。前後を截断し去っての一独語で、何とも解し難い形のものであるが、一首、怪しいまでに印象が強く魅力的であるために、何事かを連想せずにはいられないような歌である。人麿は巻一(二九)で近江大津宮の址に立って感慨深い歌を詠んでおり、その他にもすぐれた歌がある。また、他の人も近江の荒都の歌は詠んでいて、この時代にあっては淡海県の話は一般性をもっていたものである。ここの「淡海県の物語せむ」もその意味のものと思われる。作中の男はもとより仮想のものであるから、依網の原も同じく仮想のもので、ただ近江国へ旅をして帰って来た男の、通り路ということを暗示しうれば足りるとしたのであろう。すぐれた手腕を示している歌である。
1288 水門《みなと》の 葦《あし》の末葉《うらば》を 誰《たれ》か手折《たを》りし 吾《わ》が背子《せこ》が 振《ふ》る手《て》を見《み》むと 我《われ》ぞ手折《たを》りし
水門 葦末葉 誰手折 吾背子 振手見 我手折
【語釈】 ○水門の葦の末葉を 「水門」は港で、海はもとより河口もそれとしていた。舟が小さいので、したがって港も小さくて足りたのである。この港は小さいものである。葦は水辺に多いもので、ここもそれであり、末葉はその先のほうの葉である。○誰か手折りし 誰が折ったのかで、訝かって問うたもの。「か」は疑問の係助詞。これはその港にいる一人が、他の人々に問うた形のもの。○吾が常背子が振る手を見むと 「吾が背子」は、夫の愛称で、舟子《かこ》を夫としている女の言。「振る手を」は、他に用例はないが、袖振るということから類推して、別れに臨んでするしぐさと取れる。「見むと」は、見ようと思ってで、舟出をする際、名残りを惜しんでするしぐさを十分に見ようと思って。
【釈】 港の葦の末葉を、誰がこのように折ったのか。吾が背子の舟出をする時、名残りを惜しんで手を振るのを見ようと思って、我が折ったのだ。
【評】 上の(一二七五)「住吉の小田を」と同じく問答体のもので、旋頭歌の原始形態である。内容は港である限りいずこにも通用のできる一般性をもったもので、民謡の条件を備えたものである。葦の末葉を手折りつくすということは、たとい小さな港であっても不可能なことで、誇張をしたものである。その誇張がこの歌の興味の中心で、それがまた民謡の条件なのである。巧みな歌である。
1289 垣《かき》越《こ》ゆる 犬《いぬ》呼《よ》び越《こ》して 鳥猟《とがり》する公《きみ》 青山《あおやま》の 茂《しげ》き山辺《やまべ》に 馬《うま》休《やす》め君《きみ》
垣越 犬召越 鳥※[獣偏+葛]爲公 青山 菓茂山邊 馬安公
【語釈】 ○壇越ゆる犬呼び越して 「垣越ゆる」は、垣を潜って越すで、犬の習性。「呼び越して」は、呼び寄せて。猟犬を連れての意。○鳥猟する公 「鳥猟」は、鷹狩をすることで、網、弓矢、鷺など用いてした。相応の身分ある人の慰みとしてのことである。「公」は、妻より夫を指してのもので、呼び懸け。○青山の茂き山辺に 木立の茂った山の辺りに。○馬体め君 「馬」は、乗馬。「休め」は、休ましめよで、命令形。「公」は呼び懸け。過労をしたもうなの意。
【釈】 垣を潜って越す犬を喚び寄せて、鷹狩に出たもう君よ。青山の木立の茂っているあの山辺で馬を休ませたまえよ君よ。
【評】 相応に身分ある夫婦で、同棲をしている間柄とみえる。夫が遊びとしてする鷹狩に逸り立って出かける際、その逸っているのに不安を感じて、休み休み、ゆるゆるとし給えという心をもっていったものである。歌としては淡い心のもので、日常生活の上で、口頭で言うべきことを、歌の形としていったもので、叙事的効果を挙げているものである。
1290 海《わた》の底《そこ》 沖《おき》つ玉藻《たまも》の 名告藻《なのりそ》の花《はな》 妹《いも》と吾《われ》 此《ここ》に何《いか》にありと 莫告藻《なのりそ》の花《はな》
海底 奥玉藻之 名乘曾花 妹与吾 此何有跡 莫語之花
【語釈】 ○海の底沖つ玉藻の 「海の底」は「沖」の枕詞。既出。「沖つ玉藻の」は、沖に生える玉藻の。○名告藻の花 「花」は語調として添えたただけのもので、意味はない。なのりそには花のないことは上にいった。呼び懸け。○妹と音吾此に何にありと 「此に何にありと」は、『新訓』の訓。ここにどのようなさまでいるかということで、密会している意。○莫合藻の花 なのりそは、告るな、すなわち秘密にせよの意を懸け、その意でいっているもので、呼び懸け。
【釈】 沖の玉韻のなのりその花よ。妹と吾とここにいかなるさまでいるかということを、人に言うなという名の花よ。
【評】 男女人目を避けて海辺で密会をしている時の男の歌という形のものである。上代の男女生活にあっては、こうした方法での密会は稀れなことではなく、むしろ一般的なものであった。また海草のなのりそに、な告りそ、すなわち秘密にせよの意を懸けることも一般化されていた。この歌はそれらの上に立ってのもので、そして詠み方も平明なものであるから、謡い物としての典型的なものである。詠み方は平明なばかりでなく、同時に美しく婉曲で、謡い物の率直と露骨を好む傾向とは距離のあるものである。言いかえると謡い物の文芸化されたものである。その意味において注意される歌である。
(456)1291 この岡《をか》に 草《くさ》苅《か》る小子《わらは》 然《しか》な苅《か》りそね 在《あ》りつつも 君《きみ》が来《き》まさむ 御馬草《みまくさ》にせむ
此岡 草苅小子 勿然苅 有乍 公來座 御馬草爲
【語釈】 ○然な苅りそね そのように苅るなよで、「ね」は、他人への願望の助詞。〇在りつつも 「在り」は、存在の意。「つつ」は継続で、そのままにして置いての意。○君が来まさむ御馬草にせむ 君が来ます時の御乗馬のまぐさにしよう。
【釈】 この岡に草を苅る童よ、そのように苅り取るなよ。その草はそのままにして置いて、君が来ます時の御乗馬のまぐさにしよう。
【評】 女がその家のあたりの岡の草を苅っている童に、呼び懸けていっている形のものである。単純、平明で、また類歌もある。謡い物系統の歌である。
1292 江林《えばやし》に 宿《やど》る猪鹿《しし》やも 求《もと》むるによき 白栲《しろたえ》の 袖《そで》纏《ま》き上《あ》げて 猪鹿《しし》待《ま》つ我《わ》が背《せ》
江林 次宍也物 來吉 白栲 袖纏上 宍待我背
【語釈】 ○江林に ここのほかには用例のない語であるが、続きから見て、江に臨んだ林ととれる。江は入江と同じく、本来海の陸に湾入した所の称であるが、上代は湖にも言っている。一方は水になって、越えることの出来ない林。○宿る猪鹿やも求むるによき 「宿る」は、夜を寝ていること。「猪鹿」は、その肉を食用とする野獣の総称で、猪鹿の類。「や」は疑問の助詞で、「も」は詠歎。「求むる」は、獲るで、獲りやすいのであろうか。○白栲の袖纏き上げて 「白栲」は、白い栲の布の意。「袖纏き上げて」は、まくり手をしてで、力業をする時の身構え。○猪鹿待つ我が背 猪鹿の出て来るのを待っている我が夫よ。
【釈】 入江沿いの林に夜を寝ている猪鹿は、逃げ路が限られているが、獲りやすいのであろうか。白栲の袖をまくり手にして身構え、猪鹿の出て来るのを待っているわが夫よ。
【評】 猟夫の妻の、その夫の猟をしている後ろ姿を見やって、その勇ましいさまを讃えているものである。江林に宿っている猪鹿の出て来るのを待つというので、暁の早い時刻、待っている場所は、江とは反対側である。妻のいる所は、夫の後方やや距離のある所であろう。遁げ路のない猪鹿は、猟夫のいる方面を突破するよりほかないので、猛り立って向かって来るのを、猟夫はもとより妻も承知していて、それをする夫の後ろ姿を見やり、「白栲の袖纏き上げ」ているさまを頼もしく感じて、見守(457)っている心である。すなわち妻の眼を通して猟夫の勇ましさを讃えている歌で、他には類例のないものである。庶民の労働生活を同情をもって捉え、妻の抒情を通して叙事的にあらわすという新生面を拓いたものである。人麿の振幅を思わせられる。
1293 霰《あられ》降《ふ》り 遠江《とほつあふみ》の 阿跡川楊《あとかはやなぎ》 苅《か》れども 亦《また》も生《お》ふと云《い》ふ 阿跡川楊《あとかはやなぎ》
丸雪降 遠江 吾跡川楊 雖苅 亦生云 余跡川楊
【語釈】 ○霰降り遠江の 「霰降り」は、音をたてる意で、「音《と》」にかかる枕詞。「遠江」は続きの阿跡川のある地で、近江国高島郡である。『新考』は、そこは琵琶湖の東方にあって、近江の中では、奈良よりは遠い地であるから、遠つ淡海といったのであろうといっている。○阿跡川楊 阿跡川(安曇川)の川楊で、川辺に生えるもので、しだれた柳ではない。○苅れども亦も生ふと云ふ 苅るけれども、苅杙からまた新芽を出してくると人がいうで、これは楊には共通のことである。
【釈】 遠い近江の阿跡川の川楊よ。苅り取るけれども、苅杙からまた生えてくると人の言う、阿跡川の川楊よ。
【評】 これは実感を直写した歌である。人麿はなんらかの用を帯びて阿跡川のあたりに行き、川楊についてここにいっている事柄を聞き、深い感動を起こして詠んだ歌と取れる。楊が苅杙から新芽を出すということは、きわめて平凡な事柄で、刺激になどなることではない。それに対して感動したということは、生命に対して強い執着をもっていることの反映である。その点は多くの挽歌の上に十分現われている。前半は阿跡川楊を讃え、後半の繰り返しの形において、「苅れども亦も生ふと云ふ」と言っているのに余情深く現われている。単純にして拡がりをもった、多くの人の胸にしみ入る作である。
1294 朝《あさ》づく日《ひ》 向《むか》ひの山《やま》に 月《つき》立《た》てり見《み》ゆ 遠妻《とほづま》を 持《も》ちたる人《ひと》は 看《み》つつ偲《しの》はむ
朝月日 向山 月立所見 速妻 持在人 看乍偲
【語釈】 ○朝づく日向ひの山に 「朝づく日」は、朝になってくる日で、人が等しく向かい見る意で、向かいの枕詞。「向ひの山」は、前面の山。○月立てり見ゆ 月の現われたのが見える。○遠妻を持ちたる人は 「遠妻」は、遠方に住んでいる妻。上代にはむしろ普通のことであった。「持ちたる人は」は、もっている人は。○看つつ偲はむ 月を見つつ、妻をなつかしみ思おうで、月に対して人を連想することは、共通の人情である。
【釈】 前面の山に月の出ているのが見える。遠妻をもっている人は、この月を見つつ、その人を懐かしく思おう。
(458)【評】 月に対して親しい人を思うというのは、後には一種の常識ともなり、題詠の題ともなったものである。この歌は、実際に即していっているもので、真実味があるため、清新さをも感じさせるものである。遠妻をもっている人の多かった上代には、一般性をもった歌であったろう。人麿もその一人で、自身の実感を客観化したものでもあろうか。印象が鮮明であるが、しみじみした哀調がある。
右の二十三首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
右廿三首、柿本朝臣人麿之謌集出。
1295 春日《かすが》なる 三笠《みかさ》の山《やま》に 月《つき》の船《ふね》出《い》づ 遊士《みやびを》の 飲《の》む酒杯《さかづき》に かげに見《み》えつつ
春日在 三笠乃山二 月船出 遊士之 飲酒坏尓 陰尓所見管
【語釈】 ○春日なる三笠の山に 既出。京の東にあって、月の出る山。○月の船出づ 「月の船」は、月の形の船に似ているところからの語で、弦月に対しての称。空を海とする心を背後においてのもの。○遜士の飲む酒杯に 「遊士」は、風雅を解する人で、文化人を讃えての称。「飲む酒杯」は、酒を飲んでいる杯。○かげに見えつつ 光を見せ続けている。
【釈】 春日にある三笠の山に、月が船のごとくに出る。風雅な人の酒を飲んでいる杯の中に光を見せ続けていて。
【評】 これは奈良時代の作で、この時期のものとしてこの一首があるのみである。上の人麿の作歌態度とは著しく異なってきて、人麿の実生活に即していたものが、ここでは遊離したものとなり、庶民的な態度が貸族的になってきている。月を風雅の対象とするのは新風であるが、その風雅も月を盃中のものとすることに興味を感じて、細かく幽かに扱うという傾向やものである。時代の推移を思わせられる。
譬喩歌
【標目】 この標目は巻三に出ていて、説明をした。本巻の外、巻十、十一、十三、十四の諸巻にも出ている。相聞の歌を修辞上(459)から、譬喩を用いているもの、いないものと分類し、その用いるものに対しての名である。ここには人麿歌集のもの十五首その他のもの九十二首を集めてある。
衣《ころも》に寄する
【標目】 衣を材料として、それに全面的に相聞の心を寄せて詠んだものの称である。部分的に用いているものは類別して「寄物陳思」と称している。以下十五首は人麿歌集の歌である。
1296 今《いま》つくる 斑衣《まだらごろも》は 面就《おもづ》きて 吾《われ》に念《おも》ほゆ 未《いま》だ服《き》ねども
今造 斑衣服 面就 吾尓所念 未服友
【語釈】 ○今つくる斑衣は 「今つくる」は、新しく拵えている。「斑衣」は、上の(一二六〇)に出た。花で摺った衣で、斑になるよりの称。美しい物としていっている。○面就きて 旧訓「めにつきて」。『略解』にある宜長の訓。「面」は体を代表させたもの。「就きて」は親しみなずくで、似合うというにあたる。わが似合うものとして。○吾に念ほゆ 吾には思われるで、「吾に」は、後世だと、「面」の上にあるべきもの。○未だ服ねども まだ身につけては着ないけれども。
【釈】 新しく拵えている斑衣は、わが身に似合うものと思われる。まだ身につけては着ないけれども。
【評】 「今つくる斑衣」は、懸想中の美しい女によそえたもの。「未だ服ねども」は、まだわが妻としないけれどもの譬喩である。「面就きて吾に念ほゆ」は庶民的な、健康や心構えで、これが一首の魅力をなしている。豊かな、安らかな感をもった作である。
1297 紅《くれなゐ》に 衣《ころも》染《し》めまく 欲《ほ》しけども 著《しる》くにほはばや 人《しと》の知《し》るべき
紅 衣染 雖欲 著丹穗哉 人可知
【語釈】 ○紅に衣染めまく欲しけども 「紅」は、べに花を染料とした色で、華やかな派手な色。「染めまく」は、染めむの名詞形。「欲しけども」は、欲しけれどもの古格で、しばしば出た。紅色に衣を染めたいものだと思うけれども。○著くにほはばや人の知るべき 「着くにほはば」は、あまりはっきりと色が現われたならば。「や」は疑問の係助詞。「人の知るべき」は、人目につくことであろうか。
(460)【釈】 紅色に衣を染めたいものと思うけれども、あまりはっき牡と色が現われたならば、人目につくことであろうか。
【評】 派手な美しい色に衣を染めたいと思うが、人目について変ではなかろうかと躊躇している心持で、服色が身分をあらわしていた時代とて、自然な懸念である。「紅」は美しい女、「衣」は妻の譬喩で、「人の知るべき」は、夫婦関係は人には秘密にしていた時代なので、いずれも無理のない、しっくりした譬喩である。若々しい心で、形も美しく艶がある。
1298 かにかくに 人《ひと》は云《い》ふとも 織《お》り次《つ》がむ わがはた物《もの》の 白麻衣《しろあさごろも》
干各 人雖云 織次 我廿物 白麻衣
【語釈】 ○かにかくに人は云ふとも 「かにかくに」は原文「千各」で、「千」は諸本同じなのを、『古義』が「干」の誤写としたもので、『新訓』の訓。とやかくと。「人は云ふとも」は、周囲の人が批評しようともで、女が織った麻衣に対していうのである。家族の衣服の料の布は、女が織ることになっていたので、部落生活をしている女にとっては、それが恰好な話題で、好んでよしあしの批評をしたのである。○織り次がむ 織り続けて行こう。○我がはた物の白麻衣 「はた物」は、機に懸けてある物。「白麻衣」は、麻布で、特に「衣」を添えたもの。譬喩の心からである。
【釈】 とやかくと周囲の人は見て批評するとも、かまわずに織り続けよう。わが機に懸けてあるこの白麻の衣は。
【評】 庶民の若い女が、機を織りつつ思った心を言った形のもので、部落生活にあってはきわめて自然なものである。「かにかくに人は云ふとも」は、女がもった男に対して、母親をはじめ周囲の者が好感を寄せずに非難することの譬喩である。「織り次がむ」は、関係を持続しようの譬喩、「白麻衣」は男の譬喩で、「衣」には特に身につける物の意が寄せてある。はじめて男をもった女の、利害を問題としない一本気が、やや昂奮をおびた、張った調べであらわされている。
玉に寄する
1299 あぢむらの とをよる海《うみ》に 船《ふね》浮《う》けて 白玉《しらたま》採《と》ると 人《ひと》に知《し》らゆな
安治村 十依海 船浮 白玉採 人所知勿
【語釈】 ○あぢむらのとをよる海に 「あぢむら」は、小鴨の類で、「むら」は群棲するものであるからで、熟語。「とをよる」は、旧訓「なをよる」、『仙覚抄』が改めている。誤写ととれる。巻三(四二〇)「なゆ竹のとをよる皇子」と出た。撓み寄るの意で、ここはあじむらが一列に、撓ん(461)だ形になって陸に向かって寄って来る状態をいったもの。○船浮けて 船を浮かべてで、「船」は漁船。○白玉採ると人に知らゆな 「白玉」は、鰻玉で、「採る」は、海人が海底に潜り入って採るのである。「人に知らゆな」は、『略解』の訓。他人に知られるなで、自身に対しての禁止。
【釈】 あじ群が一列となって撓み寄る形で寄って来る海に船を浮かべて、我は海底の白玉を採っているということを他人には知られるな。
【評】 「あぢむらのとをよる海」は多くの人々の立ち働いている里、「白玉採る」は、美しく貴い女の許へかよっていること、「人に知らゆな」は、人々に悟られるなの、それぞれ譬喩である。この歌は海人の立場に立っていっている形のものであるが、作意としては、海人にそうしたことをさせて、陸上から見ている身分ある人の心としてのものである。海を見渡している態度での言い方であり、「とをよる」ともいっているからである。譬喩は一応その任を尽くしてはいるが、間接な感のあるのは、事を主とせず、気分を通して捉えた譬喩という趣のものだからである。したがって一首おおらかで、上品で、貴族的な匂いのあるものとなっている。詠み方を自然に変化させている点が注意される。
1300 遠近《をちこち》の 礒《いそ》の中《なか》なる 白玉《しらたま》を 人《ひと》に知《し》らえず 見《み》むよしもがも
遠近 礒中在 白玉 人不知 見依鴨
【語釈】 ○遠近の礒の中なる 「遠近」は、あちらこちらの意に用いた古語。「礒」は、石の古語で、海辺のもの。「中なる」は、中にあるで、下の「白玉」の所在。○白玉を 美しい小石の意のもの。○人に知らえず見むよしもがも 「人に知らえず」は、『略解』の訓。他人に知られずして。「見むよし」は、同じく『略解』の訓。「もがも」は、願望。見る方法のほしいものだなあ。
【釈】 あちこちの海辺の石の中にある美しい玉を、他人に知られずして見る方法のほしいものだなあ。
【評】 上代の人の玉に対する憧れはその特色とも言うべきもので、大和の山国の人が、海の白玉に対して抱いていた愛好の情の格別であったのも自然である。この歌の心は大和にあっては何の無理もない心である。「遠江の礒の中なる白玉」は、白玉は美しく貴い女、「遠近の礒」は、その白玉を厳重に保護している貴い人々の譬喩で、一首は、眼にする方法はないが、たしかにあると想像される貴い家の娘に対して、いわゆる見ぬ恋の心をいったものである。男が身分高い女に憧れたのは、上代は一般性のあったことである。
1301 海神《わたつみ》の 手《て》に纏《ま》き持《も》てる 玉《たま》ゆゑに 礒《いそ》の浦廻《うらみ》に 潜《かづき》するかも
(462) 海神 手纏持在 玉故 石浦廻 潜爲鴨
【語釈】 ○海神の手に纏き持てる 「海神」は、海を領有する神。「手に纏き持てる」は、手玉として腕に巻いて持っている。○玉ゆゑに 「玉」は、鰒玉で、海中の岩などに着いているのを、手玉の位置になぞらえたもの。玉を得たいために。○礒の浦廻に 「礒」は、岩石の海岸。鰒の着いている所。「浦廻」は、浦のあたり。○潜するかも 「潜」は、鰒を獲るために水に潜ることで 名詞。「かも」藤井詠歎。
【釈】 海の神が手玉として手に巻いて持っている玉のゆえに、礒となっている浦で潜りのわざをすることであるよ。
【評】 鰒玉を採ろうと潜りをしている海女の立場に立っていっているもので、一般性をもっている事柄なので、きわめて自然な歌である。「海神の手に纏き持てる玉」とは、勢力のある親の愛護している娘の譬喩、「礒の浦廻に潜する」は、その娘に由縁のありそうな人々にすがって、娘に近づこうとする手蔓をもとめて苦労する意の譬喩である。この歌は本義と譬喩と完全に調和しているものである。
1302 海神《わたつみ》の 持《も》てる白玉《しらたま》 見《み》まく欲《ほ》り 千遍《ちたび》ぞ告《の》りし 潜《かづき》する海人《あま》
海神 持在白玉 見欲 干遍告 潜爲海子
【語釈】 ○海神の持てる白玉 上の歌と同じ。○見まく欲り 見たいことだと思って。「見る」は、逢う意。○千遍ぞ告りし 『考』の訓。「ぞ」は、係助詞。「告り」は、言う意。千たびも言ったことであった。○潜する海人 白玉を採るための潜りをしている海人に。
【釈】 海を領有する神のもっている白玉を見たいことだと思って、千たびも言ったことであったよ。潜りを業とする海人に。
【評】 この歌も上のものと同じく、鰒玉を求める人が、それを採ることを生業としている海人に催促をする心をいっているもので、意の通じるものである。「海神の持てる白玉」は、上の歌と同じで、「見まく欲り」は、逢って我がものとすること、「潜する海人」は、その白玉に接近しうる機会をもっている女で結婚の仲介者である。一首は、貴い家の娘に逢おうとして、仲介者を頼み、限りなく催促をするが、埒のあかない心いられを言っているものである。これは相応に複雑した事柄で、直写しようとすればとても一首の歌に収めきれないものであるのに、このように単純に言いおおせているのは、全体が譬喩になっているからで、その意味で譬喩歌の面目を発揮しているものである。この歌は、上の歌と連作の関係になっている。
1303 潜《かづき》する 海人《あま》は告《の》れども 海神《わたつみ》の 心《こころ》し得《え》ねば 見《み》ゆと云《い》はなくに
(463) 潜爲 海子雖告 海神 心不得 所見不云
【語釈】 ○潜する海子は告れども 「告れども」は、『童蒙抄』の訓。必ず玉を得られると引き受けて言うけれども。○海神の心し得ねば 「心し得ねば」は、『考』の訓。「心し得ねば」は、「し」は、強意の助詞。同意を得ないので。○見ゆと云はなくに 「云ふ」は、こうした続きで用いる場合には、「念ふ」と同じく、意味にはかかわりなく、ただ語調を強めるためのものであって、これは慣用されている、例の多いものである。ここもそれで、意味としては、「見えなくに」と同じである。玉は見られないことであるよ。なお、この「云ふ」は、譬喩のほうでは態味をもっていて、その点微妙なものである。
【釈】 潜りをする海人は、玉は必ず見られるというけれども、海神の同意を得ないので、見られないことであるよ。
【評】 上の歌と連作になっていて、「潜する海人」「海神」は上と同じで、「玉」は省かれている。手引きをする女は、娘に逢えるといって我を手引きしたけれども、親の同意を得てのことではないので、娘は逢うとはいわないことであるよと嘆いた心である。この歌も譬喩を用いているために、複雑した内容を言いおおせているもので、その点、上の歌にもまさっている。完全な譬喩歌の三首の連作で、手腕を思わせるものである。
木に寄する
1304 天雲《あまぐも》の 棚引《たなび》く山《やま》の 隠《こも》りたる 吾《わ》がした心《ごころ》 木《こ》の葉《は》知《し》るらむ
天雲 棚引山 陰在 吾下心 木葉知
【語釈】 ○天雲の棚引く山の 意味で「隠り」にかかる序詞であるが、同時に下の「木の葉」にも照応している句である。○隠りたる吾がした心 「隠在」は、旧訓「かくれたる」。『代匠記』の訓。隠しているの意。「吾がした心」は、原文は「吾忘」。『略解』で本居宜長は、「下心」の誤写であるとした。前後の続きより見て従ふべきである。内心。○木の葉知るらむ 木の葉は知っているだろうで、木の葉は、檜の葉の撓《しな》え、しおれたようなさまをしているので、そこに吾が下心の反映を感じていっているのである。木の葉を檜の葉と見るのは「天雲の棚引く山」との関係からである。『古義』はこの歌と類想のものとして、巻三(二九一)「真木の葉のしなふ背の山しのばずて吾が越え去けば木の葉知りけむ」をあげている。
【釈】 天雲の懸かっている山のように隠している吾が内心を、檜の葉は知って、同情してしおれているのであろう。
【評】 片恋の心を檜の葉に寄せていっているものである。捉え難いものを鋭敏な感情をもって捉えて、素朴な形でいって、その心を暗示しているものである。目立たない作であるが、高手ということを思わせる。序詞と木の葉とから見て、山地にあっ(464)ての作かと思われる。
1305 見《み》れど飽《あ》かぬ 人国山《ひとくにやま》の 木《こ》の葉《は》をし 己《わ》が心《こころ》から なつかしみ念《おも》ふ
雖見不飽 人國山 木葉 己心 名着念
【語釈】 ○見れど飽かぬ人国山の 「見れど飽かぬ」は、人にかかる枕詞。「人国山」は、『代匠記』に大和の吉野にある山としているが、和歌山県田辺市北方の山かともいう。吉野説に従う。下の「木の葉」の在り場所としての山である。木の葉をいうに、そのある山の名をあげているのは、特殊なことである。「人国」は、人の国で、自分の国とは関係のない他国の意であるから、他人の所属のものという意味をもたせたものと取れる。『略解』もこの点に触れていっている。○木の葉をし 『考』の訓。「し」は強意の助詞。吉野のことであるから、木の葉は檜の葉であろう。○己が心から 『考』の訓。わが心のせいでというので、反省に近い心でいったもの。○なつかしみ念ふ 『代匠記』の訓。なつかしく思うことだ。
【釈】 見ても飽かない人というに因みある人国山の木の葉を、わが心のせいで、なつかしく思うことだ。
【評】 上の歌と連作になっているもので、実感を詠んだものとみえる。吉野の人国山の檜の葉をなつかしく思い、そう思うとしては特殊なものであるから、「己が心から」と断わっているものである。その意味では自然な歌である。この歌も「木の葉」は女の譬喩である。「人国山」は、人の国で、我に関係のない所の意をもたせて、他人の妻という譬喩になっている。したがって「己が心から」は、なつかしがりなどすべからざる人として、自責の意でいっているものである。また、「見れど飽かぬ」という新しい枕詞も、間接に木の葉に関係させてある。表面からみると、一首味わいの淡い、さりげない歌であるが、譬喩のほうからみると、全面的に譬喩になっていて、細心な用意をもってのものだと知られる。二首、人麿の歌としては、調べを抑えてわざと低くしているものと思われる。その時の気分がそうさせたのであろう。
花に寄する
1306 この山《やま》の 黄葉《もみち》の下《した》の 花《はな》を我《われ》 はつはつに見《み》て さらに恋《こひ》しも
是山 黄葉下 花矣我 小端見 反戀
【語釈】 ○この山の黄葉の下の 「この山の」は、眼前にある山を指したもの。「黄葉の下」は、下の花の位置。○花を我 「花」は、なんであるか(465)をいっていない。山に咲く秋の草花で、黄葉との対照で、小さい目立たないものである。○はつはつに見てさらに恋しも 「はつはつに」は、わずかにで、ほのかにという意。「さらに恋しも」は、『童蒙抄』の訓。
【釈】 この山の黄葉の下に咲いている花をほのかに見て、我は今更に恋しいことよ。
【評】 この歌も、上の二首と同じく実感を直写したものと思える。山を蔽っている賑わしい黄葉の下に、ほのかに咲いている秋の草花を認めて、その花は前から心を引かれているものであったが、さらに心を引かれたというのである。賑やかな黄葉と対照されることによって、花の幽けさが一層強調され発揮されていたからである。やや特殊な心であるが、いわれれば誰にも承認の出来る性質のものである。これは表面で、作意としては「花」は身分の低い、存在の明らかに認められていない女の譬喩で、「黄葉」はその女とともにいる身分ある華やかな女の譬喩である。例せば多くの女官たちと、その召使程度の女ともいうべきであろう。人麿がそうした女に心を引かれた時の作と思われる。譬喩が婉曲で、したがって解し難くみえるような歌であるが、しかし作意は明らかである。
川に寄する
1307 この川《かは》ゆ 船《ふね》は行《ゆ》くべく ありといへど 渡瀬《わたりせ》ごとに 守《まも》る人《ひと》あり
從此川 船可行 雖在 渡瀬別 守人有
【語釈】 ○この川ゆ船は行くべくありといへど 「この川ゆ」はこの川をとおって。「船は行くべくありといへど」は、船は漕いで行き得られる状態だと人はいうけれども。○渡瀬ごとに守る人あり 「渡瀬」は、河の徒渉地点で、浅瀬になっている所である。船のとおって行くべき個所としては、やや無理な感がある。しかし船次第であろう。「守る人」は、番をしている人があるで、自由には行けぬ意。
【釈】 この川をとおって、船を漕ぎ行きうる状態だと人はいうけれども、渡瀬ごとに番をする人がある。
【評】 この歌は、身分高い女の許へ案内を教える者の言葉を頼りに、忍んで通おうとした男の、心を遂げ得ずして帰った心である。「川」は女の室へ通う路、「船」は男自身、「渡瀬」は路の要所、「守る人」は娘を監督する人たちで、一首全部譬喩である。複雑したことを平明にいっている、伎倆の歌というべきものである。
海に寄する
(466)1308 大船《おほふね》の 候《さもら》ふ水門《みなと》 事《こと》しあらば 何方《いづへ》ゆ君《きみ》が 吾《わ》を率《ゐ》凌《しの》がむ
大船 候水門 事有 縱何方君 吾率凌
【語釈】○大船の候ふ水門 原文「大船」は元暦校本による。他の諸本は「大海」とある。「候ふ」は、ここは留まって、海の模様を窺ってもやっている意。「水門」は港で、河口または湾口。大船が一面に留まって、海の模様を窺っている港。○事しあらば 『略解』の訓。「事」は事件で、暴風など。「し」は、強め。「あらば」は起ったならば。○何方ゆ君が どちらのほうから君がで、港は出口もなくなっているところからのこと。○音を率凌がむ 吾を連れてその変事を凌ぐのであろうか。
【釈】 大船が一面に留まって海の模様を窺っているこの港の内で、もし暴風などの変事が起ったならば、どちらのほうから、君は吾を連れてその変事を凌ぐのであろうか。
【評】 大船が一面に繋留されている港に男女の乗っている小船もまじっている状態にあって、女が男に向かって、もしこの港にいられないような変事が起こったならば、君はどこをとおって、我を連れて変事を凌ぐのだろうと問うた形である。特殊な状態には似ているが、多少なりとも遠路を歩く時には、出来うる限り海路によっていた上代にあっては、一般性のある状態であったろう。譬喩の上からいうと、「水門」は女の家、「大船」は女の家族、「事」は男女関係に対しての強い妨害であって、男女関係に対して監視などの強い妨害のありそうなのを懸念している女が、もしそんなことがあったら、君は我をどのようにして連れ出して逃げてくれるのかと、男の決心を促したものである。結婚は自由でありながら親権は強かった時代とて、こうしたことは一般性をもったものであったと思われる。この歌は謡い物系統のものである。
1309 風《かぜ》吹《ふ》きて 海《うみ》は荒《あ》るとも 明日《あす》といはば 久《ひさ》しかるべし 君《きみ》がまにまに
風吹 海荒 明日言 應久 公隨
【語釈】 ○明日といはば久しかるべし 「明日といはば」は、空模様の十分見とおせないために、明日まで待っていようといったならば。「久しかるべし」は、待ち遠いことであろう。○君がまにまに 君の心任せに、今夜船出をしよう。
【釈】 風が吹いて海が荒れるようなことがあろうとも、明日まで待って、空模様を見とおしてというのでは、待ち遠いことであろう。君の心任せに、今夜船出をしよう。
(467)【評】 これも上の歌と同じく航海の歌で、同じく女が男に言ったものである。男が女に、今夜逢おうと言って来たのに対し、女は親の警戒がきびしく、不安の念があるが、さりとて好い機会の来るのを待ってといったのでは、男は待ち遠な気がしよう。言われる通りに今夜逢おうと承諾した心である。前の歌と連作の形になっているものである。こうした心は、妻をもっている男の総てが、聞きたいと思っているもので、典型的な謡い物である。調べも張りと屈折があって、謡い物にふさわしいものである。
1310 雲隠《くもがく》る 小島《こじま》の神《かみ》の 恐《かしこ》けば 目《め》こそへだてれ 心《こころ》へだてや
雲隱 小嶋神之 恐者 目間 心間哉
【語釈】 ○雲隠る小島の神の 「雲隠る」は、上代の四段活用のものの連体形。神の状態と下の小島の状態とにわたるもの。「小島の神」は、小島はどこともわからぬ。海の神ととれる。○恐けば 「恐け」は形容詞の已然形。恐ろしいので。○目こそへだてれ 「目」は、「見え」の約で、逢うこと。「へだてれ」は、隔てているけれども。守誕神としての小島の神に対する信仰から、ある期間、男女逢わないということがあったとみえる。例の少なくないものである。○心へだてや 「や」は反語で、心は隔てようか隔てはしない。
【釈】 雲に隠れている小島の神が恐ろしいので、君に逢うことは隔てているけれども、心は隔てようか、隔てはしない。
【評】 海辺に住んでいる女の、その海を護る神に対する信仰より、夫を隔てているということを、女を護る母の恐ろしさに譬えたものである。上代にあっては適切な譬喩だったのである。「海に寄する」というのは、「小島の神」を海上の神とする関係よりのことと思われる。
右の十五首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
右十五首、柿本朝臣人麿之歌集出。
衣に零する
【解】 「衣に寄する」という題は、上にあり、(一二九六)以下三首がそれである。人麿の歌集の歌と他の歌とを区別して、二重にした形となっている。
(468)1311 橡《つるばみ》の 衣《きぬ》は人《ひと》皆《みな》 事《こと》なしと いひし時《とき》より 服欲《きほ》しく念《おも》ほゆ
橡 衣人皆 事無跡 曰師時從 欲服所念
【語釈】 ○橡の衣は人皆 「橡」は、櫟の実で、どんぐりの古名。「衣」は、どんぐりの実の煮汁で染めた衣で、灰褐色である。これは賤者の服色となっていた。服色には制度があって、それによって身分をあらわしていたので、「橡の衣」は賤者の意となる。「人皆」は、世間の人が皆。○事なしといひし時より 「事なしと」は、心配事がない。身分の高さに伴う面倒がなくて、気楽だと。「いひし時より」は、「人皆」が言った時から。「人」のほうを主としての言い方。○服欲しく念ほゆ 着たいと思われる。
【釈】 橡の衣を着ている者は、世間の人が皆、心配事がなくて気楽だと言った時から、我も着たいものに思われる。
【評】 「橡の衣」は、賤者の女、「服欲しく」は、妻にしたいの譬喩である。身分高い人で、身分の関係から、また夫妻関係の上でも気苦労をさせられている人が、賤者を妻にすれば気楽だと聞いて、心を動かされていることを言っているものである。しかしこの橡の衣は、必ずしも賤者の女とせず、賤者そのものとして、身分の高い者がそのために悩まれて、身分の束縛のない賤者を羨やむ心のものとしてもとおるもので、そのほうがあるいは作意ではなかったかと思われるものである。いずれにもせよ根本は、他人の境遇の好く見えるという心持のもので、一般性のあるものである。謡い物としての条件を備えた歌である。
1312 凡《おほろか》に 吾《われ》し念《おも》はば 下《した》に服《き》て 穢《な》れにし衣《きぬ》を 取《と》りて着《き》めやも
凡尓 吾之念者 下服而 穢尓師衣乎 取而將着八方
【語釈】 ○凡に吾し念はば 「凡に」は、疎略に。「吾し念はぼ」は、吾が思っているのであったらで、思うのは下の衣。「し」は強意。○下に服て穢れにし衣を 今まで下着として着て、よごれた衣をで、「に」は完了。○取りて着めやも 「取りて」は、手に取って。「着めやも」は、下着に対させてのことで、上着として着ようか着はしないで、「や」は反語。
【釈】 疎略に吾が思っているのであったら、下着として着てよごれた衣を取って、上着に着ようか着はしない。
【評】 「下に服《き》て穢れにし衣」は、人目を忍んで逢っていた妻で、その関係の久しくなっている者の譬喩。「取りて着」は、その妻を表立って家に迎える意の譬喩で、これは上代としては一般に行なわれていた習わしである。男がそういうことをする際、(469)女に対して、我が情愛の一とおりのものではないことを示す意のものである。事の性質上、この譬喩は熟した、適切なものである。
1313 紅《くれなゐ》の 深染《こぞめ》の衣《ころも》 下《した》に着《き》て 上《うへ》に取《と》り着《き》ば ことなさむかも
紅之 深染之衣 下着而 上取着者 事將成鴨
【語釈】 ○紅の深染の衣 「紅」は、染料の中の代表的に美しいもの。「深染」は、濃い染め方の意の名詞で、もっとも美しいもの。○下に着て 下着として着ていて。○上に取り着ば 上着として着たならば。「取り」は接頭語。○ことなさむかも 言《こと》為《な》すで、言い騒ぐ意。「かも」は疑問。
【釈】 紅の濃染の衣を、今まで下着に着ていて、上着として着たならば、人が言い騒ぐことであろうか。
【評】 「紅の深染の衣」は美しい女の譬喩。「下」と「上」は忍び妻と、表立った妻の譬喩で、上の歌と同じである。今まで隠していた美しい女を、表立っての者にしたならば、周囲の人々がとやかく言うだろうかと懸念した心である。この懸念は軽いもので、むしろ興味に近いものであることは、「紅の深染」という譬喩でわかる。自然で、明るさと美しさのある歌である。
1314 橡《つるばみ》の 解濯衣《ときあらひぎぬ》の 恠《あや》しくも 殊《こと》に服欲《きほ》しき この暮《ゆふべ》かも
橡 解濯衣之 恠 殊欲服 此暮可聞
【語釈】 ○橡の解濯衣の 「橡の衣」は上に出た。「解濯衣」は、その解いて濯った物で、賤しい衣の、しかも古くなった物である。○恠しくも殊に服欲しき 「恠しくも」は、我とわが思いを訝かったもの。「殊に服欲しき」は、別しても着たい気のする。○この暮かも 「この暮」は、今夜。「かも」は詠歎。
【釈】 橡染めの賤しい衣の、さらに解いて濯った古い衣の、怪しくも、別して着たい気のする今夜ではあるよ。
【評】 ある身分のある人が、一夜妙に粗末な着馴らした衣を着てみたくなったということは、窮屈な生活をしている人にはありうる、自然な心持といえる。譬喩としては、「橡の解濯衣」は、身分の賤しい、古くから関係していた女である。平常はそれほどにも思わずにいた女が、一夜不思議にもなつかしく思われてきたということは、男女関係でも身分がら窮屈な生活をしている人としては、きわめて自然なことで、譬喩としてのほうがはるかに自然である。「殊に」という一副詞の力をもっていると(470)ころは、一首、実感に即した心持をいっているからである。
1315 橘《たちばな》の 島《しま》にし居《を》れば 河《かは》遠《とほ》み 曝《さら》さず縫《ぬ》ひし 吾《わ》が下衣《したごろも》
橘之 嶋尓之居者 河遠 不曝縫之 吾下衣
【語釈】 ○橘の島にし居れば 「橘の島」は、巻二に多く出た。日並皇子尊の宮地であった大和国高市郡明日香村大字橘の、今の島の庄である。「し」は、強め。「居れば」は、ここは上との続きで、そこを住地としているのではなく、出先としていればの意と取れる。○河遠み 河が遠いので。これは下の布を曝す関係からいっているものである。島は飛鳥川に遠くはないので、広い意味でいうと不自然な語である。河に臨んでいないのでというほどの意を、誇張していったものと取れる。○曝さず縫ひし吾が下衣 衣は仕立てる前に、その布を必ず曝すことにしていたので、河の便が悪いために、それをせずに縫ったわが下着であるの意。
【釈】 橘の島に来ている身なので、河が遠いゆえに、曝さずに縫ったわが下着であるよ。
【評】 「橘の島にし居れば」は、そこを出先として臨時に滞在している人の、下のことをいうに先立ち、そのことの理由としていっているものと取れる、単にそこに住んでいることを断わった言としては改まりすぎ、事々しすぎて不自然である。「河遠み」は、土地不案内で、様子が知れない意の譬喩、「曝さず」は、するべき手続きをせずしての譬愉、「下衣」はかりそめの妻の譬喩である。一首は、橘の島を出先として滞在しているので土地不案内で様子が知れず、仲介者もなく、選択も遂げずして関係を結んだ吾がかりそめの妻よの意である。作者の生活に即しての実感を譬喩を用いて詠んだものである。当時の生活にあってはこれは例の多いことで、共鳴者の多いところから伝わった歌であろう。
糸に寄する
1316 河内女《かふちめ》の 手染《てぞめ》の糸《いと》を 絡《く》り反《かへ》し 片糸《かたいと》にあれど 絶《た》えむと念《おも》へや
河内女之 手染之絲乎 絡反 片絲尓雖有 將絶跡念也
【語釈】 ○河内女の手染の糸を 「河内女」は、河内国の女で、この国は古来帰化人が多く、染織の技が発達していた。この国を特にいっているのは、この国で詠んだ歌と取れる。「手染の糸」は、手ずから染めた糸で、手染は上代の女の普通にしていたことである。○絡り反し 「絡る」は染(471)めた糸を枠に繰り取ることで、そうした糸の二筋を縒り合わせて強いものにし、はじめて機糸にするのである。枠に繰り取って移すことを絡り反しといっているのである。○片糸にあれど 「片糸」は縒り合わせない前の糸の称で、上の枠に繰られている糸。これは細く、したがって弱いものである。○絶えむと念へや 「絶えむ」は、糸が切れる意。「や」は反語。絶えようと思おうか絶えようとは思わない。
【釈】 河内国の女が手ずから染めた糸を、枠に繰り取っている片糸ではあるけれども、しかし切れようとは思わない。
【評】 河内女が、織物をする下拵えとして、染めた片糸を縒り合わせる前の、それを一応枠に繰り取るという工作をしつつ詠んだ形の歌である。今放っている「片糸」を片思いの譬喩とし、「絶えむ」を思い切る譬喩とし、さらに「手染めの糸を絡り反し」に、我と思いそめたことを繰り返し思っての譬喩ともしているのである。すなわち河内女われの、我と思いそめた恋を繰り返し思って、片恋ではあるが思い切ろうか切らないといっているのである。全部が譬喩で、心細かい歌であるが、糸を繰るという静かな細かい仕事には調子の合うもので、明らかに労働歌とみられるものである。
玉に寄する
1317 海《わた》の底《そこ》 沈《しづ》く白玉《しらたま》 風《かぜ》吹《ふ》きて 海《うみ》は荒《あ》るとも 取《と》らずは止《や》まじ
海底 沈白玉 風吹而 海者雖荒 不取者不止
【語釈】 ○海の底沈く白玉 「沈く」は、沈んでいる意。「白玉」は、鰒玉。
【釈】 海の底に沈んでいる白玉は、風が吹いて海が荒れようとも、我は採らずには止むまい。
【評】 「海の底沈く白玉」は、家の奥溌く保護されている娘の譬喩、「風吹きて海は荒る」は、親の保謹の厳重な譬喩、「取ちずは止まじ」は、妻とせずには措くまいの譬喩である。類歌の多いもので謡い物であったとみえる。
1318 底《そこ》清《きよ》み 沈《しづ》ける玉《たま》を 見《み》まく欲《ほ》り 千遍《ちたび》ぞ告《の》りし 潜《かづき》する白水郎《あま》
底清 沈有玉乎 欲見 干遍曾告之 潜爲白水郎
【語釈】 ○底清み沈ける玉を 「底清み」は、海の底が清くして。「沈ける玉を」は、沈んでいる玉を。○見まく欲り 手に取って見たく思い。
(472) ○千遍ぞ告りし潜する白水郎 幾度となく採れと言ったことであった、潜りをする白水郎に。
【釈】 海の底が清くして、そこに沈んでいるところの玉を見たく思い、千たびと多く、採って来るように言ったことであった、潜りをする白水郎に。
【評】 「玉」を娘に、「白水郎」を仲介者に替え、男が仲介者に事の運びを付けるように催促した心である。この歌の三句以下は、上の(一三〇二)の、「海神の持てる白玉《しらたま》」と三句以下は同じである。上の歌が謡い物として謡われているうちに、変化してこのようになったのだとみえる。これは例の多く、普通となっていたことである。
1319 大海《おほうみ》の 水底《みなそこ》照《て》らし 石着《しづく》く玉《たま》 斎《いは》ひて採《と》らむ 風《かぜ》な吹《ふ》きそね
大海之 水底照之 石着玉 齋而將採 風莫吹行年
【語釈】 ○大海の水底照らし石着く玉 大海の水底を照らして沈んでいるところの玉をで、「石着く」は沈んでいる意。○斎ひて採らむ 斎戒して海幸を祈って、玉を採ろうで、猟、漁りなど、危険と幸不幸の伴う業は、すべて祈願して向かうのであった。○風な吹きそね 風よ吹いてくれるなで、「ね」は、他に対しての願望。
【釈】 大海の水底を照らして沈んでいるところの鰒玉を、我は斎戒しての上で探ろう。風よ吹いてくれるな。
【評】 「玉」を親の固く保護している娘に譬え、自分を海人に譬えたもので、類想の多いものである。「大海の水底照らし石着く玉」をはじめ、一首の形が華やかで、調べも張っている。謡い物と思われる歌である。
1320 水底《みなそこ》に 沈《しづ》く白玉《しらたま》 誰《た》が故《ゆゑ》に 心《こころ》尽《つく》して 吾《わ》が念《も》はなくに
水底尓 沈白玉 誰故 心盡而 吾不念尓
【語釈】 ○水底に沈く白玉 海の底に沈んでいる白玉よで、呼び懸け。○誰が故に これは成句で、下に打消しを伴い、誰のゆえでもなく、汝のゆえにの意をなすもの。ここは対象は白玉である。○心尽して吾が念はなくに 上をうけて、誰のゆえにも全心を尽くして吾は思っているのではない、白玉汝のゆえだのにで、「に」は、詠歎。
【釈】 海の底に沈んでいるところの白玉よ。汝のほかの誰のために、全心を尽くして念っている我ではないのに。
(473)【評】 「白玉」を娘に譬え、それに対して呼び懸けて、わが全心を尽くして思っているのは汝であって、それ以外の何ものでもないものをと訴えたものである。「誰が故に」以下は、多くの中より一人の人だけを選択して心を尽くして思っているという、屈折をもった言い方で、譬喩を超えようとしているものである。この三句以下が新味をもっている。
1321 世間《よのなか》は 常《つね》かくのみか 結《むす》びてし 白玉《しらたま》の緒《を》の 絶《た》ゆらく思《おも》へば
世間 常如是耳加 結大王 白玉之緒 絶樂思者
【語釈】 ○世間は常かくのみか 「常」は永久で、いつの時も。「かくのみか」は、このようでばかりあるのかで、「か」は疑問。○結びてし白玉の緒の 「結びてし」は、『考』の訓。結んであったで、「て」は完了。「白玉の緒」は、白玉と白玉とを貫いて一つに結び合わせておいた緒。○絶ゆらく思へば 「絶ゆらく」は、絶ゆの名詞形。「思へば」は、語感を強める意をもったもの。
【釈】 世間はいつの時もこのようにばかりあるものなのか。白玉と白玉とを貫き結んでおいた緒の絶えることを思うと。
【評】 白玉の緒の切れたのを発見しての驚嘆で、白玉を極度に重んじた時代とて、不自然ではない。「結びてし白玉の緒」は夫婦関係の譬喩で、「絶ゆらく」はその切れたことの譬喩であって、それに対して「世間は常かくのみか」と、深く嘆きつつ諦めようとしている心である。男女いずれにもありうることであるが、女の歌であろう。恨み憎みをいわず、世間の常として諦めようとするところに、上代の女性の心がみえる。
1322 伊勢《いせ》の海《うみ》の 白水郎《あま》の島津《しまづ》が 鰒玉《あはびだま》 取《と》りて後《のち》もか 恋《こひ》の繁《しげ》けむ
伊勢海之 白水郎之嶋津我 鰒玉 取而後毛可 戀之将繁
【語釈】 ○伊勢の海の白水郎の島津が 「島津」は不明であって、したがって諸説がある。海人の名で、この当時一般に知られていた伝説の主人公であったとみえる。それは三句以下よりの想像であるが、ひどい苦労をして鰒玉を獲て、獲た後もまたそれについて苦労をさせられたという筋のものであったかと思われる。○鰒玉 上よりの続きで、島津が獲た物。○取りて後もか恋の繁けむ 「か」は、疑問の係助詞。それを獲た後もまた、恋の多いことであろうか。
【釈】 伊勢の海の海人の島津の採った鰒玉であって、採った後もまた、以前のように恋の多いことであろうか。
(474)【評】 「鰒玉」は作者の思っている女の譬喩で、島津が獲た鰒玉はおそらく立派なもので、それに較べうるものとしての譬喩であろう。「取りて後もか恋の繁けむ」は、女がわがものとならない以前は、憧れの心が甚しかったが、わがものになったら、恋の心が一層甚しくなって来ようかと想像しているのである。これは女が気にいっている者であればきわめて自然な心である上に、当時の夫婦は別居していたのであるから、一段と自然な心である。作者の生活実感としての歌であるが、拡がりをもちうるものである。
1323 海《わた》の底《そこ》 奥《おき》つ白玉《しらたま》 縁《よし》を無《な》み 常《つね》かくのみや 恋《こ》ひ渡《わた》りなむ
海之底 奥津白玉 縁乎無三 常如此耳也 戀度味試
【語釈】○海の底奥つ白玉 「海の底」は、「奥」の枕詞。「奥つ白玉」は、深い所にある鰒玉。○縁を無み 採るべき方法がないので。○常かくのみや恋ひ渡りなむ いつもこのようにばかり恋い続けることであろうかで、「や」は疑問の係助詞。
【釈】 海の深い所に沈んでいる鰒玉を、採るべき方法がないので、いつもこのようにばかり憧れつづけていることであろうか。
【評】 「海の庶奥つ白玉」は、母親の護りのきわめて厳しい娘の譬喩。「縁を無み」は、仲介者がなく、近づき難いことの譬喩で、思いを寄せている男の、なすべき術《すべ》のない嘆きをいったものである。上代にあってはきわめて一般的な心のものである。
1324 葦《あし》の根《ね》の ねもころ念《も》ひて 結《むす》びてし 玉《たま》の緒《を》といはば 人《ひと》解《と》かめやも
葦根之 懃念而 結義之 玉緒云者 人將解八方
【語釈】○葦の根のねもころ念ひて 「葦の根の」は「根」を「ね」に畳音でかけた枕詞。「ねもころ念ひて」は、懇切に思って。○結びてし玉の緒といはば 「結びてし玉の緒」は、玉と玉とを貫いてくくり合わせた玉の緒。「といはば」は、であると告げたならば。○人解かめやも 「や」は反語で、他人がその緒を解こうか解きはしない。
【釈】 懇切に思って結んだところの玉の緒だといったならば、他人がそれを解こうか解きはしない。
【評】 「玉の緒」は夫婦関係、「解く」はそれを破約させる譬喩で、上に出た。一首は、女は当時の風として、母には告げずに男と夫婦関係を結んだが、これは早晩母に告げなくてはならないことであった。女はそれをしたら、母が不服をいいはしない(475)かと案じているのに対し、男が慰め、力づけとしていっている言葉である。母の不服は大体男の身分か人柄に関してのものである。男は真実に思い合ってのことだといえば大丈夫だと教えているのである。庶民社会の心で、一般性のあったことと思われる。
1325 白玉《しらたま》を 手《て》には纏《ま》かずに 匣《はこ》のみに 置《お》けりし人《ひと》ぞ 玉《たま》なげかする
白玉乎 手者不纏尓 匣耳 置有之人曾 玉令詠流
【語釈】 ○白玉を手には纏かすに 「手には纏かずに」は、白玉を緒に貫き、手玉として腕に巻かずにで、これは白玉をそれにふさわしい扱いをせずにの意。○匣のみに置けりし人ぞ 匣の中にばかり藏《しま》って置いた人で、これも白玉を愛することではあるが、白玉そのものからいえば、愛せられすぎて疎んぜられたと同じ結果になることである。「ぞ」は、係助詞。○玉なげかする 玉を嘆かせることである。
【釈】 白玉を手には巻かずに、匣の中にばかり蔵《しま》って置いた人は、その玉を嘆かせることである。
【評】 「白玉」は娘の譬喩、「匣のみに置けりし人」は、娘の望んでいるにもかかわらず、男との結婚を許さない母の譬喩である。作者は娘と婚約をした男となる。一首は、娘を男に添わせずに、厳しく監督している母は、その娘を嘆かせていることだと恨んだ心である。娘の結婚に対して、親としての母の権力は強大なものであったから、それに対して男の恨む場合は多く、その意味で一般性があって伝えられた歌と思われる。第三者の立場に立って批評的にみての心で、散文に近い態度のものである。
1326 照左豆《てりさづ》が 手《て》に纏《ま》き古《ふる》す 玉《たま》もがも その緒《を》は替《か》へて 吾《わ》が玉《たま》にせむ
照左豆我 手尓纏古須 玉毛欲得 其緒者替而 吾玉尓將爲
【語釈】 ○照左豆が この語は解し難いものである。諸説があるが、いずれも推測にすぎないものである。歌は個人的そのものとみえるから、作者の知人の名であろう。○手に纏き古す玉もがも 「纏き古す玉」は、久しくも巻いている玉で、作者からいうと羨むべきよい玉だったのである。「もがも」は、願望。○その緒は替へて吾が玉にせむ 玉を貫いている緒は、取り替えてわが手玉としよう。
【釈】 照左豆が手に巻き古している玉を欲しいものである。その緒は取り替えて、わが手玉にしよう。
(476)【評】 「照左豆が手に纏き古す玉」は、照左豆の妻の譬喩である。美女だと思って羨んでいたとみえる。「その緒は替へて」は、夫婦関係を結びかえての譬喩である。上代の夫婦は、古来別居であったが年月が終わると同棲したのであるから、「手に纏き古す玉」は同棲時代の妻であって、したがってその家へ出入りする人々の間には、羨望されている美女であったとみえる。それだと、「その緒は替へて吾が玉にせむ」は、真実にそうしようと思っているというのではなく、そうした気を起こさせるような美女だという、明るい心からの賞讃の言葉と取れる。この歌はそうした範囲の心持のもので、無邪気な明るいもので、狭い部落で謡い物となっていたものではなかったかと思われる。しかしこの譬喩には幅があるので、真実の心よりのものと解し、同感する者もあって、伝わったかも知れぬ。要するに軽い歌である。
1327 秋風《あきかぜ》は 継《つ》ぎてな吹《ふ》きそ 海《わた》の底《そこ》 奥《おき》なる玉《たま》を 手《て》に纏《ま》くまでに
秋風者 繼而莫吹 海底 奥在玉乎 手纏左右二
【語釈】 ○秋風は継ぎてな吹きそ 「継ぎてな吹きそ」は、すでに吹いた後、続いては吹くなと願う心のもの。これは海の潜りをする上で、海の荒れを怖れていっているのである。○海の底奥なる玉を 「海の底」は「奥」の枕詞。「奥なる玉」は、深い所にある玉。○手に纏くまでに 潜いて得て、手玉として手に巻くまでは。
【釈】 秋風はこのうえにも続いて吹くことはするな。海の深い所にある玉を潜いて採って、手玉としてわが手に巻くまでは。
【評】 「奥なる玉」は、母親の護っている娘、「秋風」は娘の妻となることの妨げをする母親の干渉、「手に纏く」は妻とすることの、いずれも譬喩である。一般的なことをおおらかに言ったもので、「秋風」という季節に関係させた語も、風の荒れやすいことをいうためで、特殊なものではない。
日本琴に寄する
【解】 日本琴は、巻五(八一〇)の前文に出た。我が国固有の琴で、長さ五尺ぐらいから六尺二寸ぐらいといい、六絃であった。膝に載せて弾くものである。
1328 膝《ひざ》に伏《ふ》す 玉《たま》の小琴《をごと》の 事《こと》無《な》くは はなはだ幾許《ここだ》 吾《わ》れ恋《こ》ひめやも
(477) 伏膝 玉之小琴之 事無者 甚幾許 吾將戀也毛
【語釈】 ○膝に伏す玉の小琴の 「膝に伏す」は、琴は、膝に載せて弾くのであり、また琴の形が細長いので、そのように見えるところからいったもの。「玉の小琴」は、「玉」も「小」も美称である。初二句は、「琴」を、同音の「事」に続けての序詞。○事無くは 変事がなかったならば。○はなはだ幾許。『古義』の訓。甚だ多く。副詞を二つ重ねて強めたもの。○吾れ恋ひめやも 「や」は反語で、我は恋いようか恋いはしない。
【釈】 膝の上に伏している玉の小琴の、その琴に因むことが起こらなかったならば、甚しく多くも我は恋いようか。恋いはしない。
【評】 「玉の小琴」は妻の譬喩で、この世に亡い者となったために甚しくも恋わしめているというので、心は明らかである。この歌は上来の物に寄せて思いを述べているのとは甚しく詠み方を異にしているもので、その時の気分をあらわそうとしたことが、おのずから譬喩歌の形になったものである。作歌過程からいうと、日本琴を膝に載せて弾いていると、それが生前の妻を連想させるものとなり、妻を思うとともに甚しい思慕の情が起こってきて、その情の強さに我と訝かりを感じたのである。そしてまたそれに対しても反省も起こってきて、妻が亡き者とならなかったらこのように強い思慕は起こらなかったろうと思ったのである。実際に即しての感で、また瞬間的のものでもあって、譬喩歌に共通な、概念に近いことを譬喩をかりていうのは、全く趣を異にしたものである。「膝に伏す玉の小琴」は妻の譬喩であるのに、それを序詞の形にして、譬喩ともいえないもののごとくしているのも、作者としては当然のことであり、「事無くは」によって、そのすでに故人となっていることをあらわすという不十分な言い方も、事柄を主にしてのものでないから、これまた当然である。これを譬喩歌とすれば、甚だ新しい傾向のものである。一首の歌としては、心は極度に枯れきっていて、老体の感情であるが、形は反対に甚しく自由で、洗練を極めているものである。詠風からみて大伴旅人を思わせずにはおかないものである。編者がわざと作者名を秘したのではないかとも思われる。
弓に寄する
1329 陸奥《みちのく》の 安太多良真弓《あだたらまゆみ》 弦《つら》着《は》けて 引《ひ》かばか人《ひと》の 吾《わ》をことなさむ
陸奥之 吾田多良眞弓 着絃而 引者香人之 吾乎事將成
【語釈】 ○陸奥の安大多良真弓 陸奥の安太多良より産すを真弓で、ここでは貢物として京にある物。「安太多良」は福島県二本松市にある山で、
(479) 和銅年間、国郡の名を二字とする制に従って安達となった。「其弓」は、「真」は美称で、この弓は古くは名高い物で、産地は今の二本松付近という。○弦着けて 「弦」は、つるの古語。「着け」は、弦を張る意の古語。弦は平常は張らず、用いるに先立って張るもの。引くのである。○引かばか人の吾をことなさむ 「引かばか」は、弦を引くのと、男の女に言い寄る意の引くとを懸けてある。続きは序詞風である。「か」は疑問の係助詞。「人」は周囲の人々。「ことなさむ」は、上に出た。言い騒ぐ、うるさく噂をしよう。
【釈】 陸奥の安太多良真弓に弦を張って引く、その引くことを吾がしたならば、周囲の人々はうるさい物言いをすることであろうか。
【評】 京にあって、平常あだたら真弓を扱う範囲の男が、心に思う女があって言い寄ろうと思いながら、周囲の人々の物言いを憚って躊躇している心で、「弦着けて」までの三句は「引かば」の序詞で、眼前の物を捉えて序詞とするという型に従ってのものである。女を弓に譬え、引くを言い寄る意に懸けることは慣用ともなっていたので、この歌は、「安太多良真弓」を女に、「弦着けて引かば」を女に接近して言い寄る譬喩としたのである。当時の生活では弓は日常の物となっており、また調べも、語もそのものの調子を主としたものとなっていて、明らかに謡い物ということを思わせる歌である。
1330 南淵《みなぶち》の 細川山《ほそかはやま》に 立《た》つ檀《まゆみ》 弓束《ゆづか》纏《ま》くまで 人《ひと》に知《し》らえじ
南淵之 細川山 立檀 弓束纏及 人二不所知
【語釈】 ○南淵の細川山に 奈良県高市郡明日香村の東南方に、南淵山と細川山が並び立っている。ここは南淵山の中の細川山としている。○立つ檀 「檀」は弓材とした。○弓束纏くまで 「弓束」は、弓の中央部の、弓を引く時握る部分の称。「纏くまで」は、原文が一定せず、『古葉略類(480)聚抄』は「纏及」となっているので、それに従っての『新訓』の訓。諸本「級」の一字になっている。弓束は革などで巻いた。完全な弓材となるまで。○人に知らえじ 他人にそうした木のあることは知られまい。
【釈】 南淵の細川山に立っている檀の木、あれが成木して、弓束を巻けるようになるまでは、他人にそれと知られまい。
【評】 「檀」は少女の譬喩、「弓束纏くまで」は、成人してわがものとなるまではの譬喩で、「南淵の細川山」は、女の住地に関係をもった地である。作者は、弓に関係ある生業をしているものと思われ、「細川山」をいっているところから、猟夫などではないかと思われる。それだと謡い物であったろう。
山に寄する
1331 磐畳《いはだたみ》 恐《かしこ》き山《やま》と 知《し》りつつも 吾《われ》は恋《こ》ふるか 同等《なみ》ならなくに
磐疊 恐山常 知管毛 吾者戀香 同等不有尓
【語釈】 ○磐疊恐き山と 「磐畳」は、岩が畳まり重なっている意で、名詞。「恐き山と」は、恐しい山とはで、身分の高い人を喩えたもの。○知りつつも 知りながらも。○吾は恋ふるか 「か」は、詠歎。○同等ならなくに 「同等」は、『新訓』の訓で、用例のあるもの。「なみ」は、並みで、並ぶの名詞形。同列の身分。「ならなくに」は、ならぬことなのに。
【釈】 岩の重疊している、恐ろしい山とはよく知りながらも、吾は恋うることであるよ。同列の身分ではないのに。
【評】 高い身分の女に思いを寄せて、訴えている歌である。「磐疊恐き山」だけが譬喩になっている歌である。上代は大きな岩に対して神性を感じていたので、当時としては適切な譬愉であったろう。「同等ならなくに」は「恐き山」を繰り返したものである。
1332 磐《いは》が根の 凝《こご》しき山《やま》に 入《い》り初《そ》めて 山《やま》なつかしみ 出《い》でかてぬかも
石金之 凝木敷山尓 入始而 山名付染 出不勝鴨
【語釈】 ○磐が根の凝しき山に 「磐が根」は岩。「凝しき山」は、凝り固まっている山。○入り初めて 立ち入りはじめて。○山なつかしみ出でかてぬかも 「山なつかしみ」は、山がなつかしいので。馴れるままに懐かしくなったので。「出でかてぬ」は、「かてぬ」は、「かて」は可能、
(480) 「ぬ」は打消しで、出来ぬ。「かも」は、詠歎。山を出ることが出来ぬよの意。
【釈】 岩の凝り固まった山に立ち入りはじめて、その山が懐かしいので、出ることが出来ないことであるよ。
【評】 これは身分高い女に関係を結んでいる男の訴えで、「磐が根の凝しき山」は身分の高い女、「入り初めて」は、夫婦関係がつき始めたこと、「出でかてぬ」は、関係を絶ち難いことで、いずれも譬喩である。心理の時間的推移をいったものである。上代の階級制度の時代には、身分ということが結婚の上に強く働いていた。上の歌もこの歌もそれに関してのものであるが、二首の歌で見ても、そのことは実際にはさして強く意識されていず、表面的な、一とおりのものであったかにみえる。
1333 佐保山《さほやま》を 凡《おほ》に見《み》しかど 今《いま》見《み》れば 山《やま》なつかしも 風《かぜ》吹《ふ》くなゆめ
佐穗山乎 於凡尓見之鹿跡 今見者 山夏香思母 風吹莫勤
【語釈】 ○佐保山を凡に見しかど 「佐保山」は、しばしば出た。奈良市法蓮町の北にある山で、奈良時代は住宅地であった。「凡に見しかど」は、おおよそに見ていたけれども。○今見れば山なつかしも 今見ると、以前とは異なって懐かしく見えることよ。○風吹くなゆめ 「風吹くな」は、風は佐保山を損なうものとして、吹くなと禁じたもの。花紅葉などの関係よりである。「ゆめ」は、強い禁止の副詞。
【釈】 佐保山を、以前は大凡に見ていたけれども、今見ると、以前とは異なって、懐かしいことであるよ。山を損なう風はゆめゆめ吹くなよ。
【評】 「佐保山」は、女に譬えたもので、固有名詞をもって譬えているのは、女はそこに住んでいるゆえと取れる。「凡に見しかど今見れば山なつかし」は、その女とは以前より関係していたが今は次第になつかしくなったというので、心理の時間的推移をいったもの。「風吹くなゆめ」は、女に障ることがあるなで、全部譬喩である。この全部が譬喩になっている点、心理の時間的推移を主としている点、調べが心細かいのにふさわしく細かくなっている点など、奈良時代の作と思われる。この歌は地理的にもそのことが明らかである。これはこの前の歌にもいえることである。
1334 奥山《おくやま》の 石《いは》に蘿《こけ》生《む》し 恐《かしこ》みと 思《おも》ふ情《こころ》を いかにかもせむ
奥山之 於石蘿生 恐常 思情乎 何如裳勢武
(481)【語釈】 ○奥山の石に蘿生し 「奥山の石」は、上代では神性を感じていたものであるのに、それに苔が生えると、一段と神さびるので、恐れあるの意で「恐」と続け、その序詞としたもの。○恐みと思ふ情を 「恐みと」は、旧訓。高い身分に対して恐ろしいと思う心を。○いかにかもせむ 傾かしく思う心を、どうしたものであろうかで、「かも」は疑問。
【釈】 奥山の石に蘿が生えて恐ろしいに因みある、あなたの高い身分を恐ろしいと思う心を、どうしたものであろうか。
【評】 高い身分の女に関係を結んでいる男の、ある時女に訴えた形の歌である。「奥山の石に蘿生し」は、身分高い女の譬喩で、それを序詞にしたものである。一首、文字通りに見ると甚だ平凡なものであるが、関係の成り立っている男女間でこのようなことをいう場合には、相手の答を予期していうのがむしろ普通である。ここでは女がそれを打消すことを予期していっているのである。この歌もそうしたもので、またそれと解されて伝えられたものではないかと思われる。
1335 思《おも》ひあまり いたもすべ無《な》み 玉《たま》だすき うねびの山《やま》に 吾《われ》は標《しめ》結《ゆ》ふ
思※[縢の糸を貝に] 痛文爲便無 玉手次 雲飛山仁 吾印結
【語釈】 ○思ひあまりいたもすべ無み 「思ひあまり」は、恋しい思いが、心に余って。「いたもすべ無み」は、「いたも」は、いともと同じ。甚しくも。「すべ無み」は、方法がなくて。○玉だすきうねぴの山に 「玉だすき」は、「うね」の枕詞。「うねびの山」は、畝傍山。○吾は標結ふ 「標」はわが所有を標示する物。普通は繩で、ここもそれである。「結《ゆ》ふ」は、結いめぐらす。
【釈】 恋しい思いが心に余って、なんとも方法がないので、畝傍の山に立ち入って、我は標を結う。
【評】 女の身分の高いのに対して遠慮していたが、ついにしき(482)れなくなって関係を結んだ男の心である。「玉だすきうねびの山」は、男より見て、身方の高い女の譬喩。畝傍山は女山《めやま》という伝《つた》えがあるから、尊い山とする上に、そうした意味も絡ませてあるかと思われる。「吾は標結ふ」は、その女と関係を結んだ譬喩であるが、これは譬喩とも言い難いまで一般化したものである。この歌では「畝傍の山」が適切な具象化となっていて力がある。譬喩の匂いの少ない、心の直写に近いものである。
草に寄する
1336 冬隠《ふゆごもり》 春《はる》の大野《おほの》を 焼《や》く人《ひと》は 焼《や》き足《た》らねかも 吾《わ》が情《こころ》焼《や》く
冬隱 春乃大野乎 燒人者 燒不足香文 吾情熾
【語釈】 ○冬隠春の大野を焼く人は 「冬隠」は、「春」の枕詞。「春の大野を焼く」は、春、農耕にかかる前、その年の畑に当てるべき野の枯草を焼くわざで、焼畑《やきばた》といって現在地方によっては行なっている。「人」は、一人の人。部落共同でもしたが、ここは小規模の焼畑である。○焼き足らねかも 焼き足らねばかもの意で、条件法。「か」は疑問の係助詞。焼き不足だとするのだろうか。○吾が情焼く 「吾」は、焼畑をする人を見ている女。「情焼く」は、人を甚しく思うと、心が熱してきて燃えるように感ずることを誇張していったもの。
【釈】 春の大野を焼いている人は、焼き不足だとするだろうか、わが心までも焼くことよ。
【評】 この歌では、草は譬喩となっていず、関係があるというにすぎないものである。冬から早春へかけて部落民である夫が焼畑をするさまを、やや距離をおいて眺めていての心で、中心となっていることは、その夫が女を疎遠にし、気ばかり揉ませていることを言おうとするにある。「吾が情焼く」すなわちそれで、今は「焼き足らぬかも」という条件を付けていっているのである。事としては嘆きであるが、機知の働いた明るいものである。機知は謡い物で最も好まれるもので、枕詞序詞の何割かはその上に立ってのものである。この歌にあるようなことは、当時の結婚にはきわめてありふれたことで、歌の形と相俟って、明らかに部落の謡い物であったことを思わせるものである。
1337 葛城《かづらき》の 高間《たかま》の草野《かやの》 早《はや》知《し》りて 標《しめ》指《さ》さましを 今《いま》ぞ悔《くや》しき
葛城乃 高間草野 早知而 標指益乎 今悔拭
(483)【語釈】 ○葛城の高間の草野 「葛城」は、葛城山。「高間」は、今は奈良県御所市高天で、金剛山中腹の高原。○早知りて標指さましを 「早知りて」は、「早」は、早く。「知り」は、領有して。「標指す」は、わが所有のしるしの標を立てるで、「指す」は竹や木の類を立てること。○今ぞ悔しき 「今」は、人の領有するものとなったことを背後に置いてのもので、手後れとなった意。「悔しき」は、残念なことよ。
【釈】 葛城山の高間の草野へは、早く領有して、標を立てて置くべきであったのに。今は残念なことであるよ。
【評】 「草野」は、女の譬喩で、「葛城の高間」は、その女の住地であるところから添えているもの。事の性質も取材も、上代にあってはきわめて一般性をもったもので、謡い物となりうる歌である。
1338 吾《わ》が屋前《やど》に 生《お》ふる土針《つちはり》 心《こころ》ゆも 想《おも》はぬ人《ひと》の 衣《きぬ》に摺《す》らゆな
吾屋前尓 生土針 從心毛 不想人之 衣尓須良由奈
【語釈】 ○吾が屋前に生ふる土針 「屋前」は巻三(四一〇)に既出。庭の意。「土針」は、多年生の草で、つくばねそう。一根一茎で、茎の端に四枚の葉が集まって傘を張ったようで、五、六月頃、淡黄緑色の花をつける。染料となるのは紫色の茎であろう。また、唇形花科のメハジキとする説もある。○心ゆも想はぬ人の 「心ゆ」は、心をとおして、真心から。「想はぬ人」は、土針を思わない人。○衣に摺らゆな 「摺らゆな」は、染料として摺られるなと禁じた意。
【釈】 わが庭に生えている土針は、真心から汝を思わない人の衣に摺られることはするなよ。
【評】 「土針」は、娘の譬喩で、婚期に達し、そのことが予想される程度の若い娘。「衣に摺らゆな」は、その人の身に属するもの、すなわち妻となることの譬喩。娘に対して母親の諭した心である。親ごころのあわれの深い歌である。
1339 鴨頭草《つきくさ》に 衣《ころも》色《いろ》どり 摺《す》らめども 変《うつろ》ふ色《いろ》と いふが苦《くる》しさ
鴨頭草丹 服色取 ※[手偏+皆]目伴 移變色登 ※[人偏+稱の旁]之苦沙
【語釈】 ○鴨頭草に衣色どり摺らめども 露草で衣を色どって摺ろうけれども。○変ふ色といふが苦しさ 「変ふ」は、ここは褪せる意で、褪せる色だと人がいうので、その点が心苦しいことである。
【釈】 露草の花で表を色どって摺ろうとは思うけれども、その色は褪せる色だと人がいうので、それが心苦しいことだ。
(484)【評】 女が自分の衣を、つゆ草で摺ろうかと思っている際、褪めやすい色だと人のいうのを気にしている心で、若い娘としては自然な心である。「鴨頭草」は男の譬喩、「衣色どり摺らめ」は、わが衣と一体にする意で、妻になろうとする譬喩である。当時の結婚にあっては、男に真実の心が足りないと、完全に破滅するのであるから、女の警戒心の強く働くのは当然であった。また男の人柄は、他人の噂によって知るよりほかはなかったので、「いふが」もこの場合重いものである。十分に譬喩になっている可憐な歌である。
1340 紫《むらさき》の 糸《いと》をぞ吾《わ》が搓《よ》る あしひきの 山橘《やまたちばな》を 貫《ぬ》かむと念《おも》ひて
紫 絲乎曾吾搓 足檜之 山橘乎 將貫跡念而
【語釈】 ○紫の糸をぞ吾が搓る 「紫の糸」は、紫は上代では最高の色としていたので、ここは、最上の糸の意。「ぞ」は係助詞。「搓る」は、片糸を搓り合わせて、強い物とする意。○あしひきの山橘を 「あしひきの」は、山の枕詞。「山橘」は、今の薮柑子。山地に自生する小灌木で、夏、花を開き、秋、赤く実を熟させる。○貫かむと念ひて 「貫く」は、実を連ね貫いて、玉の緒のごときさまにすることで、愛翫を目的としてのことである。
【釈】 紫の最上の糸を吾は搓り合わせることであるよ。美しい山橘の実を貫きとおすにふさわしい糸としようと思って。
【評】 「山橘」は、男の譬喩。愛翫としてのものであるが、上代、玉を貫いたものを最高の実とした風の延長である。「貫かむ」は、吾が願いをもって貫いて、一つの異なったものとならせる意で、結婚の譬喩。「紫の糸をぞ吾が搓る」は、その結婚に対しての、女としての心設けである。譬喩としての新しさはあるが、繊細と華美とを覘ったもので、奈良京の女性の好尚を思わせるものである。
1341 真珠《またま》付《つ》く 越智《をち》の菅原《すがはら》 吾《わ》が苅《か》らず 人《ひと》の苅《か》らまく 惜《を》しき菅原《すがはら》
眞珠付 越能菅原 吾不苅 人之苅卷 惜菅原
【語釈】 ○真珠付く越智の菅原 「真珠つく」は、「真」は美称で、珠を付ける緒と続き、その枕詞。「越智」は、近江国坂田郡にもあり。大和国高市郡にもあって、今の高取町、越智岡、橿原市新沢付近である。ここは大和のほうと思われる。「菅原」はその地にあるもの。○吾が苅らず 吾が苅らずして。「ず」は連用形。○人の苅らまく惜しき菅原 「苅らまく」は、苅るの名詞形。人の苅るのが惜しく思われる菅原。
(485)【釈】 越智の菅原よ。自分が苅らずにいて、人の苅るのが惜しく思われるその菅原よ。
【評】 「管」は女の譬喩、「苅る」はわがものにする譬喩で、これは慣用されて一般化しているものであった。「越智の菅原」はその地の女で、それと指すところのある者。男はひそかに心を寄せてはいたが、関係も結ばずにいるうちに、女は他の男のものとなったので、残念に感じた心である。こうしたことは当時には至る所にあったことで、また譬喩も一般化したものであるところから簡単な詠歎だけで心が通じ、地名さえ変えればどこへでも通用のできるもので、広く謡われた謡い物だったろうと思われる。二句と五句に菅原を繰り返しているこの形は、謡い物としては典型的なものである。
1342 山《やま》高《たか》み 夕日《ゆふひ》隠《かく》りぬ 浅茅原《あさぢはら》 後《のち》見《み》むために 標《しめ》結《ゆ》はましを
山高 夕日隱奴 淺茅原 後見多米尓 標結申尾
【語釈】 ○山高み夕日隠りぬ 山が高いゆえに、夕日が早くも隠れたというので、あたりの小暗くなったことを暗示しているもの。○浅茅原 丈の低い茅原。○後見むために標結はましを 「後見むために」は、後に来て見る目じるしのために。「標結はましを」は、この「標」は目じるしの意のもので、目じるしを結いつけて置こうものをで、暗くなって出来なくなった後の仮想。
【釈】 山が高いので、夕日が早くも隠れて暗くなったこの浅茅原は、後に来て見るために目じるしを結って置こうものを。
【評】 男が高い山の裾に心引かれる浅茅原を見出だしたが、その時は日の暮れで、たちまちに暗くなり、後にまた来る目じるしのものも着けられなかったというので、地勢も、その時の気分も無理なく受け入れられるものである。譬喩の上からいうと、「浅茅原」は女で、「標結はましを」は、女の住所を確かめることで、それも出来なかったこと、したがって「山高み夕日隠りぬ」は、慌しく別れねばならぬ何らかの事情を、気分を主としていったものと取れる。すなわち事柄としては、野ではからずも心引かれる女を認め、交渉があって、何らかの妨げのあったため、女の住所も訊かずに別れた後の心である。「浅茅原」「標」は普通の譬喩であるが、そのものに縋らずに、気分を通して扱っているために、おのずから拡がりをもった、奥行のある歌となっている。新風の歌である。
1343 言痛《こちた》くは かもかもせむを 石代《いはしろ》の 野辺《のべ》の下草《したくさ》 吾《われ》し苅《か》りてば
事痛者 左右將爲乎 石代之 野邊之下草 吾之苅而者
(486)【語釈】 ○言痛くはかもかもせむを 「言痛し」は、言痛《こといた》しの約で、人の物言いの甚しいことで、「言痛くは」は、もし人の物言いがひどかったならば。「かもかもせむを」は、「かもかも」は、とにもかくにもで、どのようにもしようで、「を」は、詠歎の間投助詞。どのようにもよいようにしようよ。○石代の野辺の下草 「石代」は、紀伊国の磐代(和歌山県日高郡南部町、西岩代、東岩代)かとされている。巻二(一四一)有間皇子の結松をした地。「下草」は、樹木の下に生えた草。○吾し苅りてば 吾が苅ったならばで、「し」は強意の助詞。「て」は完了の助動詞「つ」の未然形。
【釈】 人の物言いがひどかったならば、何とか然るべくしようよ。石代の野の木下の草を、我の苅り取っての上ならば。
【評】 これは石代地方の歌とみえる。その地では、石代の野の下草は苅ってはならないとされており、したがって苅れば問題とされたのである。男の歌で、そのしてはならないとされていることをしようとして、快心を述べた形の歌である。「石代の野べの下草」は、親の厳重に護っている女の譬喩で、その女に求婚する男の訴えである。我に身を許すのであったら、それに伴って起こる問題は、いかようにも然るべく処理しよう、心配はするなといっているのである。その地にあっては、譬喩歌というよりは、心情を直写した誓ともいうべきものである。
一に云ふ、紅《くれなゐ》の うつし心《ごころ》や 妹《いも》にあはざらむ
一云、紅之 寫心哉 於妹不相將有
【解】一書にはこのようにあるというので、三句以下がすっかり変わっているのである。これは異伝というのではなく、全く別の歌で、別伝としたのは編者の誤解である。このことは諸注のいっていることである。
【語釈】 ○紅のうつし心や 「紅の」は、紅を染料として物に移す意で、うつしの枕詞。「うつし心」は、現し心で、正気なたしかな心。「や」は反語。○妹にあはざらむ 妹に逢わずにいることであろうか。
【釈】 人の物言いがひどかったならば、どのようにでもしようものを。正気な確かな心で、妹に逢わずにいられようか。
【評】 妹との関係を人に口やかましく言い立てられている男の、それを憚って妹に逢わずにいたが、ついに反抗心を起こして、人の物言いなどはどうでもするべきだ。こんな状態でいるのは正気なことなのかと、我とわが身を訝かった心である。「紅の」という枕詞は、草に関係がある譬喩とみるべきものではない。
1344 真鳥《まとり》住《す》む 卯名手《うなて》の神社《もり》の 菅《すが》の根《ね》を 衣《きぬ》にかきつけ 着《き》せむ児《こ》もがも
(487) 眞鳥住 卯名手之神社之 菅根乎 衣尓書付 令服兒欲得
【語釈】 ○真鳥住む卯名手の神社の 「真鳥住む」は、「真鳥」は、鷲。それの住んでいるで、下の「神社」の状態。「卯名手の神社」は、大和国高市郡(橿原市)の雲梯《うなて》神社。祭神は事代主神で、三輪神社についで神代よりの神社。神社を「もり」と言うのは、古くは社《やしろ》というものがなく、忌み斎った大木を神霊の降り給うものとしたために、「もり」がやがて後の神社にあたるものだったからである。○菅の根を 下の続きで、これを染料としてのものである。菅の実は、それともなり得ようが、根はいかがであろうかと疑われている。しかし諸本異同がない。○衣にかきつけ着せむ児もがも 「かきつけ」は、摺り付けで、摺り衣にして。「児」は、女の愛称。「もがも」は、願望。
【釈】 鷲の住んでいる雲梯の神社《もり》の菅の根を、衣に摺り付けて、我に着せる女のほしいことであるよ。
【評】 「菅の根を衣にかきつけ着せむ」は妻のすることで、妻になる譬喩である。菅の根を染料とすることは例の見えないものだと諸注いっている。すればなるものであるが、しても美しくないから好んではしなかったという範囲のことであろう。また菅は山野に自生する幾らでもある草であるから、そのものとしても貴くはなかったのである。ここの菅は、「卯名手の神社」のもので、当然神に属している神聖なもので、それを採ることは禁じられているものである。すなわち採れば神罰を蒙る菅である。そうしたもので衣を摺って着せる児は、思う男のためにはいかなる危険をも冒そうという女である。これは男の内心の熱望を譬喩した心の歌で、男も、また予想されている女も、同じく卯名手の神を守護神と仰いでいる庶民でなければならない。その地方の謡い物で、感深く謡われていたものであろう。
1345 常《つね》ならぬ 人国山《ひとくにやま》の 秋津野《あきづの》の かきつばたをし 夢《いめ》に見《み》しかも
常不 人國山乃 秋津野乃 垣津幡鴛 夢見鴨
【語釈】 ○常ならめ人国山の 「常ならぬ」は、世の常ならぬ人の意で、人にかかる枕詞。「人国山」は、上の(一三〇五)に出た。奈良県吉野町説と和歌山県田辺市北方の山とする説がある。○秋津野の この野は人国山を吉野とすれば吉野離宮のほとりにあった野で、しばしば出た。和歌山説をとれば、田辺市秋津町となるが、今は吉野に従う。以上三句は、かきつばたの所在をあらわすためのもので、それとしては特殊なまで鄭重な言い方である。○かきつばたをし夢に見しかも 「かきつばた」は、現在のものと同じ。「し」は強意の助詞。「夢に見し」は、上代は相思う霊の感応よりのことと信じていたので、こちらで思う心があちらに通じての証と感じて喜んだ心。「かも」は詠歎。
【釈】 世の常ではない人に因む人国山の、秋津野にあるかきつばたの花を、その心の我に通って夢に見たことであるよ。
(489)【評】 「かきつばた」は女の譬喩であるが、紫を服色上尊貴な色とした関係上、貴い女に譬えたとみえる。「常ならぬ」という枕詞は新しいものであり、「人国山の秋津野の」と、その所在を言うに地名を二つ重ねて重く言っているのも、その貴さをあらわすためであろう。離宮に近い秋津野に関係のある貴い女に心を寄せている男の、その心が女にも通い、女も我を思っていて夢に入って来たことを喜んでいる心である。譬喩の用い方、その言いあらわし方からみて、吉野宮の行幸に従駕した男の、同じくそれをなしている女官に心を寄せた折の歌ともいうべきものにみえる。品位ある歌である。
1346 をみなへし 佐紀沢《さきさは》の辺《へ》の 真田葛原《まくずはら》 何時《いつ》かも絡《く》りて 我《わ》が衣《きぬ》に着《き》む
姫押 生澤邊之 眞田葛原 何時鴨絡而 我衣將服
【語釈】 ○をみなへし佐紀沢の辺の 「をみなへし」は、咲きと続き、佐紀の枕詞。「佐紀沢の辺の」は、『古義』の訓。「生」を「さき」にあてたのは、巻十六(三八八五)に用例がある。「佐紀」は、大和国生駒郡都跡村で(今、奈良市内)、佐紀沢はそこの沢。○真田葛原 「真」は美称。葛の原。詠歎を含んでいる。○何時かも織りて 「かも」は、疑問。「絡りて」は、繰り寄せてで、葛の蔓を引くことを具象的にいったもの。「着む」は、葛の繊維を糸とし、織って衣とする意で、これは現在も行なっている。
【釈】 佐紀沢の辺りの葛原よ。いつの時にあの葛を繰り寄せて、その糸を織ってわが衣として着るのであろうか。
【評】 「真田葛原」を、思いを寄せている女に、「我が衣に着む」を、我が妻にすることに譬えたものである。「佐紀沢」は、女の家のある所に関係させたものである。葛原という普通のものをいうに、心を籠めて鄭重にいっているのは、女に対する心持の具象化である。庶民の心で、楽しんでいるものである。
1347 君《きみ》に似《に》る 草《くさ》と見《み》しより 我《わ》が標《し》めし 野山《のやま》の浅茅《あさぢ》 人《ひと》な苅《か》りそね
於君似 草登見從 我標之 野山之淺茅 人莫苅根
【語釈】 ○君に似る草と見しより 「君」は、ここは女に対しての敬称。「君に似る草」は、様子の似ている草で、草に親しんでいる生活をとおしての感じ。○我が標めし野山の浅茅 「標めし」は、わがものと標をしたで、したのは「野山の浅茅」で、広範囲にわたってのもので、誇張がある。誇張が心情である。○人な苅りそね 人よ苅ってくれるな。
(490)【釈】 君に似ている愛すべき草だと我が見てから、わが物と標をした野や山の浅茅を、人は苅ってくれるな。
【評】 労働に親しんでいる若い男の、草苅りわざをとおしての心である。「浅茅」を女に、「苅る」を関係を結ぶことの譬喩にするのはすでに常識化していて、譬愉とも思わずに言っているもので、作者からいうと心情の直写であったろう。「我が標めし野山の浅茅」は、誇張ではあるが善良なる心の自然の発露で、そこに趣がある。気分を主としての詠み方のもので、新しい時代の新風である。謡い物であったろう。
1348 三島江《みしまえ》の 玉江《たまえ》の薦《こも》を 標《し》めしより 己《おの》がとぞ念《おも》ふ 未《いま》だ苅らねど
三嶋江之 玉江之薦乎 從標之 己我跡曾念 雖未苅
【語釈】 〇三島江の玉江の薦を 「三島江」は、摂津国三島郡三箇牧村で、現在、高槻市、唐崎、三島江、柱本、三島町鳥飼付近、淀川下流にある入江。「玉江」は、「玉」は美称で、三島江を繰り返したもの。「露」は入江に沿って生えているもので、蓆の材料。○標めしより己がとぞ念ふ 「標めしより」は、標示した時から。「己がと」は、わが物と。「ぞ」は係助詞。○未だ苅らねど まだ苅り取らないけれども。
【釈】 三島江のその玉江の薦を、わが物と標示した時から、すでにわが物と思っていることである。まだ苅り取らないけれども。
【評】 「薦」を心を寄せている女に、「苅る」を、妻とするに譬えてある。「三島江」は、女の住所を暗示している。「標めし」は下の続きで婚約と知れ、女がまだ一人前にならないためと思われる。この歌は心に含みがあるが、おおまかで、語が華やかで、謡い物の色彩を濃厚に帯びている。三島江の辺りの謡い物であったかと思われる。
1349 かくしてや なほや老《お》いなむ み雪《ゆき》零《ふ」》る 大荒木野《おほあらきの》の 小竹《しの》にあらなくに
如是爲而也 尚哉將老 三雪零 大荒木野之 小竹尓不有九二
【語釈】 ○かくしてやなほや老いなむ 「かくして」は、このように在って。「や」は疑問。「なほ」は、このままにの意の副詞。「や」は詠歎。○み雪雫る大荒木野の 「み雪」の「み」は美称。「大荒木野」は、大和国字智郡、荒木神社のある所(五条市今井町荒木山南方の地)かという。吉野川の右岸。○小竹にあらなくに 篠ではないことであるのに。
【釈】 このようにしていて、このままに我は老いてゆくことであろうか。雪の降っている大荒木の野の篠では我はないことであるのに。
(490)【評】 夫をもっていない女が、それを甚しい不幸と感じ、すでに老いてもいるのに、このままに老いてゆくことだろうかと、雪の降っている大荒木の野の篠の佗びしいさまを見て、それにわが身を思いよそえて嗅いたものである。「小竹」は、譬喩というよりは、実感を刺激したものである。類歌のあるもので、広く行なわれた歌である。
1350 淡海《あふみ》のや 矢橋《やばせ》の小竹《しの》を 矢《や》はがずて 信《まこと》ありえめや 恋《こひ》しきものを
淡海之哉 八橋乃小竹乎 不造笑而 信有得哉 戀敷鬼呼
【語釈】 ○淡海のや矢橋の小竹を 「淡海」は、近江。「や」は感動の間投助詞で、「の」に接続するは稀れである。「矢橋」は、草津市矢橋町で、瀬田町北方の地。○矢はがずて 矢に矧《は》がずして。小竹を矢にはぐのは、それに鏃や羽根を付けること。○信ありえめや 「信」は、真実にの意の副詞。「ありえめや」は、「や」は反語で、いられようか、いられない。
【釈】 近江の矢橋に生えている篠を、矢に矧がずには、ほんにいられはしない、恋しいのに。
【評】 「小竹」は女、「矢はぐ」は妻にする譬喩である。矢橋に住んで、矢を矧ぐことを職としている若い男の、心中に思っている女があって、矢の材料としている小竹に女を連想し、矧ぐことに結婚を連想しての心で、譬喩とはいえ、それとも意識せず、心情を直写すると同じ心をもって言っているものである。初めより昂奮した心をもって言い出し、「信ありえめや」と思い迫ると、譬喩からは全く離れ、「恋しきものを」と、ただちに心中の女に訴えるに至ったのである。譬喩歌として見れば破綻であるが、本来実感の直写と選ぶところのないもので、自然な成行きである。したがってこの破綻が一首の趣をなしている。部分的に譬愉を用いてあるゆえの譬喩歌である。
1351 月草《つきくさ》に 衣《ころも》は摺《す》らむ 朝露《あさつゆ》に.ぬれての後《のち》は うつろひぬとも
月草尓 衣者將摺 朝露尓 所沾而後者 徙去友
【語釈】 ○月草に衣は摺らむ 「月草」は美しい色の花で、既出。「衣は摺らむ」は、わが衣を摺ろうで、女のすること。○朝露にぬれての後は 「ぬれての後」は、旧訓。濡れた後は。○うつろひぬとも 「うつろふ」は、ここは色の褪せることで、「ぬ」は完了。褪せてしまおうとも。
【釈】 月草の花でわが衣を摺ろう。朝霧に濡れた後では、色が褪せてしまおうとも。
(491)【評】 「月草」は美しくて褪せやすい意で、美しくて真実の頼めない男の譬喩。「衣は摺らむ」は、わが衣を摺ろうで、妻となる譬喩である。「朝露にぬれての後」は、たちまちにという意を、月草の摺衣は濡れるとたちまち褪せるという事実によって具象化したもので、技巧のあるものである。女が男の美しさにのみ心引かれて、後は思わずに身を任せるという耽美気分のもので、歌も美しく明るいものである。奈良京に入っての気分と思われる。
1352 吾《わ》が情《こころ》 ゆたにたゆたに 浮蓴《うきぬなは》 辺《へ》にも奥《おき》にも よりかつましじ
吾情 湯谷絶谷 浮蓴 邊毛奥毛 依勝益士
【語釈】 ○ゆたにたゆたに 「たゆた」の「た」は接頭語で、ゆたにを重ねて強めたもの。ゆたゆたと動揺する意で、下の「より」にかかるもの。○浮蓴 「蓴」は今の蓴菜《じゆんさい》で、沼に生じる睡蓮科の多年水草、葉は水上に浮き、若い茎葉はぬらぬらとしていて、食料になる。「浮」はその状態の形容。○辺にも奥にも 「辺」は、岸、「奥」は、沖。沼についてもいっていた。○よりかつましじ 「かつ」は、可能の意の動詞。「ましじ」は、打消「し」の推量の助動詞で、「まじ」の古形。寄ることが出来なかろう。
【釈】 わが心は、ゆたゆたと動揺して、沼の蓴菜と同じく、岸にも沖にもよることが出来ないであろう。
【評】 女の歌で、その心が決定に迷い、どちらとも定められないころ、沼の蓴菜を見て、その浮いて漂っているさまに自分の心の状態を捉えていっているものである。男に求婚をされて諾否の定められない期間、あるいは男に疎んぜられて、諦めようか否かに迷って、決定の付きかねる頃などに通じうるもので、したがって一般性のある歌である。「よりかつましじ」という語は、集中でも古い時代の語で、用例の少ないものである。庶民の女性の間に久しく伝えられた歌であろう。
稲に寄する
1353 石上《いそのかみ》 布留《ふる》の早田《わさだ》を 秀《ひ》でずとも 繩《なは》だに延《は》へよ 守《も》りつつ居《を》らむ
石上 振之早田乎 雖不秀 繩谷延与 守乍將居
【語釈】 ○石上布留の早田を 「石上」は、天理市石上で、石上神宮のある地。「布留」は、そこの一つの字。「早田」は、早稲田で、わせ稲を作ってある田。山地で発育がおくれるために、早稲を作るのである。「を」は詠歎で、なるを。○秀でずとも 穂を出さずとも。○繩だに延へよ
(492) 「繩」は、標で、人の所有を示すしるしのもの。「だに」は、それだけでもと、軽きをいふ助詞。「延へよ」は、引き渡せよで、命令形。○守りつつ居らむ 「守る」は、稲が熟して獲れるまで、猪など野獣に荒らされないように番をする意で、「つつ」は、継続。
【釈】 石上の布留の早稲田なので、穂は出さなかろうとも、所有を示す標《しめ》として、繩だけでも引き渡せよ。我は番をしつつも居よう。
【評】 「早田」は、娘の譬喩。「石上布留」は、その娘の住地。「秀でず」は、娘がまだ幼く、婚期に達していない譬喩。「繩だに延へよ」は、わが妻となるべき者だということだけでも明らかにしておけよの意の譬喩で、これは娘の母が、その娘の夫となるべき男にいうものと取れる。親ごころのあわれさを述べた素朴な歌である。類歌のあるもので、石上地方に謡われた歌と思われる。
木に寄する
1354 白菅《しらすげ》の 真野《まの》の榛原《はりはら》 心《こころ》ゆも 念《おも》はぬ吾《われ》し 衣《ころも》に摺《す》りつ
白菅之 眞野乃榛原 心從毛 不念吾之 衣尓※[手偏+皆]
【語釈】 ○白菅の真野の榛原 巻三(一一八〇)、巻七(二六六)に出た。「白菅」は、湿地に生ずる一種の菅。「真野」は、古は摂津国武庫郡。今は神戸市に属し、長田の南に接している地。「榛原」は、萩原で、これは名あるものとなっていた。○心ゆも念はぬ吾し 「心ゆも」は、「心ゆ」は、心をとおしてで、心の奥から。「念はぬ吾し」は、その人を思っていない吾が。「し」は強意の助詞。○衣に摺りつ 「衣」は人の衣で、それに「榛原」の萩を我が摺った。
【釈】 白菅の生えている真野の萩原の萩をもって、心の底から思ってはいない我の、その人の衣に摺った。
【評】 「榛原」は女自身の譬喩、「真野」は女の住地である。「衣に摺り」は、男の求婚に応じたことの譬喩。一首は、女がさして思わない男の求婚に応じてしまった後の心で、その事だけをいったものである。自由結婚の時代ではあったが、こうしたことはありうることであり、また自己責任のこととて、感想もあったはずである。ただ事だけをいっている。感のあらわれていない、散文的傾向の歌である。新風の歌の、巧みならぬものである。
1355 真木柱《まきばしら》 作《つく》る杣人《そまびと》 いささめに 仮廬《かりほ》の為《ため》と 造《つく》りけめやも
(493) 眞木柱 作蘇麻人 伊左佐目丹 借廬之爲跡 造計米八方
【語釈】 ○真木柱作る仙人 「其木柱」は檜の柱。身分ある人の家のもので、少なくとも家の中心となる柱である。「作る仙人」は、それの仕上げをしている樵夫で、そのことは樵夫の仕事だったとみえる。○いささめに かりそめに、軽い心をもって。○仮廬の為と造りけめやも 「仮廬の為と」は、仮小屋に用いるものとして。「造りけめやも」は、「や」は反語で、仕上げをしたろうか、しはしない。
【釈】 檜の柱の仕上げをする樵夫は、かりそめに、仮小屋のためのものとして仕上げをしたろうか、しはしない。
【評】 譬喩を用いて、具象的に単純にいっているために、おのずから拡がりをもって、多くの吻合に通用しうる歌となっている。「真木柱」は、男が妻とする女を譬えたもの、「杣人」は自身を譬えたものとすると、男が、結婚前後、そうした女に対して、自身の夫としての誠実を誓った歌と解される。女を重んじて、心して選んだことをいい、その心の変わるべからざることを言外にしたものとすると、適切な誓言になる。一首素朴で直截で、相応の重量をもっていることも、それにふさわしい。「仮廬」の例などから、「杣人」は譬喩ではなく、杣人自身ではないかとも取れ、それだと一層適切の度が加わる。その間に生まれた歌で、その社会で謡われていたものかとも思われる。それとしては整いすぎたものであるが、伝唱の間に磨かれるのであるから、必ずしも不自然とはいえぬ。
1356 向《むか》つ峯《を》に 立《た》てる桃《もも》の樹《き》 成《な》らめやと 人《ひと》ぞ耳言《ささめ》きし 汝《な》が情《こころ》ゆめ
向峯尓 立有桃樹 將成哉等 人曾耳言爲 汝情動
【語釈】 ○向つ峯に立てる桃の樹 「向つ峯」は、向かいの高み。「立てる桃の樹」は、実のなる意で、「成る」にかかる序詞。○成らめやと人ぞ耳言きし 「成る」は、結婚の成立する意にもいうが、夫婦関係の過ちなく持続してゆく意にもいう語。ここは後者で、「や」は反語。未遂げられようか、遂げられまいと。「人ぞ耳言きし」は、「人」は周囲の人々。「ぞ」は係助詞。「耳言きし」は、人の聞くのを憚ってささやいていた。○汝が情ゆめ 「ゆめ」は、斎めであるが、慎しめの意に移したもので、その命令形。
【釈】 向かいの高みに立っている桃の木のその実のなるに因みある、我らの間のなるすなわち未遂げられることがあろうか、なかろうと人がささやき合っていたことだ。あなたの心を慎しみなさいよ。
【評】 山間の部落の男が、自分と関係を結んでいる女の行動に対し、同じ部落の人がひそかに不信の情を漏らしているのを聞き、女に警告した言葉である。夫婦同棲してはいず、自由で、またある程度乱雑でもあったので、こうした事実は多かったろ
(494)う。土地の地勢、部落生活の気分など、単純な言葉をとおしてよくあらわれている。個人的にみえるのは新傾向のためで、謡い物であったろう。
1357 足乳根《たらちね》の 母《はは》が其《その》業《なり》の 桑《くは》すらに 願《ねが》へば衣《きぬ》に 着《き》るといふものを
足乳根乃 母之其業 桑尚 願者衣尓 着常云物乎
【語釈】 ○足乳根の母が其業の 「足乳根の」は、「母」の枕詞。「其業の」は、産業とする。○桑すらに 「桑」は、養蚕を言いかえたもの。「すら」は軽きを挙げて他を類推させる助詞。桑でさえもなお。○願へば衣に着るといふものを 「願へば」は、その桑に願えば。「衣に着る」は、わが衣として着る意。「といふものを」は、ことであるのにで、詠歎。
【釈】 母がその産業としている桑でさえもなお、それに願えばわが衣として着ることであるのに。
【評】 娘がその男を夫として承認してもらおうと、心中に思っていることを独語した歌である。「桑すらに願へば衣に」というのが、男をわが夫にの譬喩になっているのであるが、本来譬喩を主としてそれに縋っての歌ではなく、心持を主としての歌で、譬喩はその具象の方便として捉えた形のものである。「願へば衣に」は、養蚕ということは、飼育方法の幼稚な時代には生育が困難で、したがって神に祈願してすることであったから、「願へば」はこの場合、事実としても重いものであった。同時に結婚のほうでも、娘の選択する男に対して、母の承認がないと事が面倒になるので、これまた重いことであった。「願へば」はその意味で、母の承認を乞う意ももっているのである。この複雑したことを綜合して単純な形でいおうとするので、勢い気分本位のものとなり、したがって何か無理のある歌のごとくになるのである。庶民の娘の結婚期の心情の、すなおに、しかし熱意を帯びたものがよくあらわれている。
1358 はしきやし 吾家《わぎへ》の毛桃《けもも》 本《もと》繁《しげ》み 花《はな》のみ吹《さ》きて 成《な》らざらめやも
波之吉也思 吾家乃毛桃 本繋 花耳開而 不成在目八方
【語釈】 ○はしきやし吾家の毛桃 「はしきやし」は、「愛しき」に、「やし」の詠歎の添ったもの。毛桃にかかる修飾語。「毛桃」は、桃の一種。実に毛のあるもので、ここは木の称。詠歎を含んだもの。○本繋み 「本」は、幹。「繁み」は、繁くしてで、一つ根もとから幾本も立っている形。○成らざらめやも 「成る」は、実のなる意。「や」は、反語。
(495)【釈】 愛すべき我が家の毛桃の木よ。幹が繁くて、花だけが多く咲いて、実はならないことがあろうか、ありはしない。
【評】 女がその家へ通わせている男をもち、愛してはいるが幾分の不安を感じつつ、今花盛りの毛桃の木に対して、その木の状態に男の全面を連想している心である。譬愉として言おうとしたのではなく、おのずからそれになって来ているので、「毛桃」は男、「花のみ咲き」は様子のよいこと、「なる」は未遂げる譬喩になっている。中心は、「成らざらめやも」である。これは起こって来る不安を押し返そうとする心で、上からの続きで、愛しつつもつ不安であり、いわゆる愛するがゆえの不安である。若妻の心が出ている。
1359 向《むか》つ岡《を》の 若楓《わかかつら》の木《き》 下枝《しづえ》取《と》り 花《はな》待《ま》つい間《ま》に 嘆《なげ》きつるかも
向岳之 若楓木 下枝取 花待伊間尓 嘆鶴鴨
【語釈】 ○向つ岡の若楓の木 「向つ岡」は、上の(一〇九九)(一三五六)に出た。「楓」は桂科の落葉喬木で、山野に自生する。早春、葉の伸びない間に紅色の花を付ける。若木の楓の木よの意。○下枝取り 「下枝」は、下枝《したえだ》。「取り」は、手に取ってで、その木に対しての親しみを、具象的にあらわしたもの。○花待つい間に嘆きつるかも 「い間」は、「い」は接頭語。「に」は「を」に通ずる意のもので、花の咲くのを待つ間を。「嘆きつるかも」は、嘆いたことであるよ。
【釈】 向かいの岡の上に立っている若木の楓の木よ。その下枝を手に取って、花の咲くのを待つ間を嘆いたことであるよ。
【評】 譬義を離れて、これだけで意の通じる歌である。「若楓の木」は、妻にと思っている娘で、まだ婚期に達しない者の譬喩。「花」は、その婚期の譬喩である。早婚時代であるから、こうした嘆きが一般性のあるものだったのである。喩義としても、安らかに意の通じるもので、作歌力を思わせる歌である。
花に寄する
1360 気《いき》の緒《を》に 念《おも》へる吾《われ》を 山《やま》ちさの 花《はな》にか君《きみ》が 移《うつ》ろひぬらむ
氣緒尓 念有吾乎 山治左能 花尓香公之 移奴良武
【語釈】 ○気の緒に念へる吾を 「気の緒」は、呼吸の続く間で、命。それに「に」を添えて副詞としたもので、命とともにで、絶え間なく。「吾
(496) を」は、吾だのに。○山ちさの花にか 「山ちさ」は、九州中国の山地に自生する紫草科の落葉喬木で、七月ごろ、白色小弁の花を開く。「花に」は、花のごとくに。「か」は疑問の係助詞。○君が移ろひぬらむ 君の心は変わったのであろうか。
【釈】 絶え間なく思っている我だのに、山ちさの花のごとくに君の心は変わったのであろうか。
【評】 夫から疎んぜられている妻が、山ちさの花の移ろい方になっているのを見て、その花のさまに夫の心を捉えて嘆いたものである。心が自然で、嘆きが落ちついていて、人柄を思わせる歌である。個人的な作である。
1361 住吉《すみのえ》の 浅沢小野《あsざはをの》の かきつばた 衣《きぬ》に摺《す》りつけ 着《き》む日《ひ》知《し》らずも
墨吉之 淺澤小野之 垣津幡 衣尓※[てへん+皆]着 將衣日不知毛
【語釈】 ○住吉の浅沢小野の 「浅沢小野」は、大阪市住吉区住吉神社の東南方の低地の称で、地は依羅池《よさみのいけ》に連なっている。○衣に摺りつけ着む日知らずも 「衣に摺りつけ」は、花摺りにする意。「知らず」は、知られないことよ。
【釈】 住吉の浅沢小野の杜若は、わが衣に花摺りとして着る日の、いつとも知られないことよ。
【評】 「かきつばた」は、思いを寄せている美しい女の譬。「浅沢小野」は、その母の住地。「衣に摺りつけ着む」は、わが物の、すなわち妻とする譬。譬喩歌として詠んだものである。謡い物であろう。
1362 秋《あき》さらば うつしもせむと 吾《わ》が蒔《ま》きし 韓藍《からあゐ》の花《はな》を 誰《たれ》か採《つ》みけむ
秋去者 影毛將為跡 吾蒔之 韓藍之花乎 誰採家牟
【語釈】 ○秋さらばうつしもせむと 「移し」は、原文「影」で、諸本異同のないものである。『略解』で本居宣長は「移」の誤写であるとしているが、「影」のままでもうつすと訓みうることを諸注がいっている。「うつし」は、花を染料とするため、一応紙などに移しておくことで、一般に行なわれたこと。それをしようと思って。○吾が蒔きし韓藍の花を 「韓藍の花」は、今の鶏頭花。○誰か採みけむ 誰が摘みさったのであろうか。
【釈】 秋が来たならば、わが衣を染めるためのうつし染めにしようと我が蒔いておいた鶏頭花を、誰が摘み去ったのであろうか。
【評】 文字通り、本義のままにみても、安らかに一首の心は通り、一と通りの趣のある歌である。「秋さらばうつしもせむと吾が蒔きし韓藍の花」は、婚期に達しない前から、わが妻と思っていた娘の譬愉。「誰か採みけむ」は、他人が妻としてしま(497)った譬喩で、喩義としてもあらかた意の通じる歌である。平明な、一般性をもった歌で、謡い物とみえる。
1363 春日野《かすがの》に 咲《さ》きたる芽子《はぎ》は 片枝《かたえだ》は 未《いま》だ含《ふふ》めり 言《こと》な絶《た》えそね
春日野尓 咲有芽子者 片枝者 未含有 言勿絶行年
【語釈】 ○春日野に咲きたる芽子は 「春日野」は、萩をもって聞こえていた。しばしば出た。○片枝は未だ含めり 片方の枝はまだ蕾んでいるで、一|本《もと》の萩を対象としていったもの。○言な絶えそね 便りを絶やさないでくれで、「ね」は、他に対しての願望の助詞。
【釈】 春日野に咲いている萩は、十分には咲かず、片枝はまだ蕾んでいる。便りは絶やさないでくれよ。
【評】 これは、「萩」を娘に、「未だ含めり」を、婚期には達していないことに譬えたものである。春日野のあたりに許婚の成年前の娘をもっている男が、萩の花の咲き初めたころ、その娘の許を訪ねて、娘の母などに言った形のものである。「芽子」「片枝」などは譬喩ともなくいったもので、「言な絶えそね」は、喩義本義にかかわりなくいったものである。自分からは通っては来られないが、連絡だけは怠らないでくれの意である。奈良京の歌で、細かく静かである。個人的な歌である。
1364 見《み》まく欲《ほ》り 恋《こ》ひつつ待《ま》ちし 秋芽子《あきはぎ》は 花《はな》のみ咲《さ》きて 成《な》らずかもあらむ
欲見 戀管待之 秋芽子者 花耳開而 不成可毛將有
【語釈】 ○見まく欲り恋ひつつ待ちし秋芽子は 「見まく欲り」は、見たいことに思って。「秋芽子」は、「秋」を添えることによって花を暗示した称。○花のみ咲きて成らずかもあらむ 「成らず」は、実のならないこと。萩の実は問題とならないもので、これをいっているのは、事としては強いたものである。「かも」は、疑問。
【釈】 見たいことに思って、恋い続けていた秋の萩は、花だけが咲いて、実のほうはならないのであろうか。
【評】 「秋芽子」を女に、「なる」を結婚の成立に譬えたもので、少女時代から成年になったら妻にしようと思っていた娘が、美しい成年にはなったが、結婚は出来ないのではなかろうかというので、男の独語した形の歌である。萩に対して実を問題にしているのは不自然だといったが、これは「なる」に両義をもたせて譬喩にする必要からのことである。少女と許婚の関係になり、成年になるのを待ちわびる歌が多いのは、そうした社会風習の多かった反映であろう。謡い物の趣の濃い歌である。
(498)1365 吾妹子《わぎもこ》が 屋前《やど》の秋芽子《あきはぎ》 花《はな》よりは 実《み》になりてこそ 恋《こ》ひまさりけれ
吾妹子之 屋前之秋芽子 自花者 實成而許曾 戀益家礼
【語釈】 ○屋前 (一三三八)に出た。○花よりは実になりてこそ恋ひまさりけれ 美しい花の時よりも、じみな実になった時のほうが、恋しさが増さってきたことだ。
【釈】 妻の家の庭にある秋の萩は、美しい花であった時よりも、じみな実となっている今のほうが、わが恋しさは増さってきたことである。
【評】 「花」は結婚前で、「実」は結婚後の譬喩であって、結婚前の華やかに感じられた時期よりも、結婚後のじみになった今のほうが、わが心はより多く引かれると、妻の家に行った時、庭の萩を見て、それに寄せて妻を讃えた心である。妻を讃えることは、夫婦たがいに誠実を誓い合うことをした風習の範囲内のもので、愛想、世辞という軽いものではなかったのである。今いう家庭愛で、一般性をもった、上の歌と同系統のものである。
鳥に寄する
1366 明日香川《あすかがは》 七瀬《ななせ》の淀《よど》に 住《す》む鳥《とり》も 意《こころ》あれこそ 波《なみ》立《た》てざらめ
明日香川 七瀬之不行尓 住鳥毛 意有社 波不立目
【語釈】 ○明日香川七瀬の淀に 「七瀬」は、多くの瀬ということを、「七」によって具象化したもの。「瀬」は、川の水脈。「淀」は、水の淀んで、早くは流れない所で、水鳥の住むに適した所。○意あれこそ波立てざらめ 「意あれこそ」は、用意をもっているのでで、条件法。「波立てざらめ」は、波をたてずにいるのであろうで、「め」は、「こそ」の結。
【釈】 明日香川の数多ある瀬の淀に住んでいる水鳥も、用意があるので波を立てないのであろう。
【評】 明日香川のあたりに住んでいる男が、女も見て知っている水鳥を例に取って、女に水鳥のもつ心を婉曲に要求しているものである。「水鳥」は女、「波立てざらめ」は騒がずにいようという譬喩である。『略解』は男が求婚した場合だという。結婚を強いる場合、結婚後、多妻の関係より起こるいざこざの場合など、いずれにも適用の出来るものである。気分を主としての(499)譬喩で、おおまかなものだからである。
獣に寄する
1367 三国山《みくにやま》 木末《こぬれ》に住《す》まふ むささびの 鳥《とり》待《ま》つが如《ごと》 われ待《まち》ち痩《や》せむ
三國山 木末尓住歴 武佐左妣乃 此待鳥如 吾俟將痩
【語釈】 〇三国山 越前国(福井県)坂井郡三国町、三国港東北の山地か。○木末に住まふむささびの 「木末」は、梢。「住まふ」は、住むの継続。「むささび」は、巻三(二六七)に出た。猫に似て、体側に飛膜を待った獣で、梢に住んでいて滑空する。木の実や宿鳥を捕えて食とする。○鳥待つが如 ひたすらに鳥の来るのを待つごとくに。○われ待ち痩せむ 我は君を待つことで痩せよう。【釈】 三国山の木立の梢に住みつづけているむささびの、宿鳥の来るのを待つがごとくに、我は君を待って、思いに痩せることだろう。
【評】 三国山のあたりに住んでいる人妻の、疎遠にしている男を思う心である。自身を「むささび」に、男を「鳥」に譬えているのは、興味、婉曲を求める心からではなく、一に適切を求めてのもので、粗野な趣をもったものである。明らかに地方の謡い物である。
雲に寄する
1368 石倉《いはくら》の 小野《をの》ゆ秋津《あきづ》に 立《た》ち渡《わた》る 雲《くも》にしもあれや 時《とき》をし待《ま》たむ
石倉之 小野從秋津尓 發渡 雲西裳在哉 時乎思將待
【語釈】 ○石倉の小野ゆ秋津に 「石倉」は、吉野山中の子守神社の南方にある地とする説と、和歌山県田辺市秋津町とする説があり、ともに今もその名をとどめている。今は吉野に従う。「小野」はそこの野で、「小」は美称。「ゆ」は、より。「秋津」は、吉野離宮の前にある野。既出。石倉は男の住地で、秋津は女の任地。○立ち渡る雲にしもあれや 「しも」は、強意の助詞。「あれや」の「や」は反語で、雲でもないので、の意。○時をし待たむ 「時」は、妹に逢える時。時任せにして、妹に逢える時を待っていられようか。「時」は上を承けていっているもので、吉野山中は雲が多く、風も荒いので、雲の往来は頻繁にある。雲は時任せにしていれば、不足なく往来できるので、その意でのものである。
(500)【釈】 我がいる石倉の野から秋津へと、今現われて渡ってゆく雲でわが身はないので、かよって行く時を待っていられようか。
【評】 石倉に住んでいる男の、秋津に住んでいる妻を思っているおりから、自分のいる地から妻のいる地のほうへ動いてゆく雲を見て、わが身もあの雲のように時任せにして、妻に逢える時を待っていられようかと思ったのである。遠隔の地に妻をもっている男の、空を自由に行く雲を羨むのは常識化した心持であるが、ここは単に雲の自由な状態だけではなく、雲の「時」の自由をももっているかのようにみえるのを羨んだ心で、そこに新意がある。この新意はいったがごとく、吉野山中の実況に即してのもので、第三者には間接に感じられるが、その地の者には親しいものであったろう。当時の夫婦関係では一般性をもった心であり、調べも張ったものであるから、吉野山中では謡い物となり得ていたものであろう。
雷に寄する
1369 天雲《あまぐも》の 近《ちか》く光《ひか》りて 響《な》る神《かみ》の 見《み》れば恐《かしこ》し 見《み》ねば悲《かな》しも
天雲 近光而 響神之 見者恐 不見者悲毛
【語釈】 ○天空の近く光りて響る神の 「天雲の」は、『全註釈』が元暦校本等の訓に従ったものである。従来「天雲に」と訓んできた。天雲が身に近く光って、鳴るところの神で、雷の状態。貴人に譬えたものである。○見れば恐し見ねば悲しも 「見れば恐し」は、相逢えば恐ろしい。「見ねば悲しも」は、相逢わねば悲しいことだ。
【釈】 天雲の身近く光って鳴るところの神のごとき君の、逢うと恐ろしく、逢えないと悲しいことだ。
【評】 身分貴い人に関係している女の歌である。結句の「見ねば悲しも」は男の心ではないからである。「響る神」は貴い人を譬えたものであるが、この譬喩は古くからあって一般化しているもので、譬喩という意識の少ないものであったろう。結句で突然喩義を離れていることも、このことを示している。「天雲の近く光りて」は、実際を捉えた感覚的なものであり、四、五句の対句となっていることは、いずれも謡い物ということを思わせるものである。女の歌としては線が太く、ふさわしく感じられないが、これは謡い物として謡っている間に、その型に引きつけられた結果であろう。
雨に零する
1370 甚《はなはだ》も 零《ふ》らぬ雨《あめ》故《ゆゑ》 庭潦《にはたづみ》 いたくな行《ゆ》きそ 人《ひと》の知《し》るべく
(501) 甚多毛 不零雨故 庭立水 太莫逝 人之應知
【語釈】 ○甚も零らぬ雨故 甚しくは降らない雨であるゆえに。「故」は、理由を示しているもの。○庭潦いたくな行きそ 「庭潦」は、巻二(一七八)に「にはたづみ流るる涙」と出た。夕立などでにわかに立ち現われて流れる水の称であるが、ここでは雨の溜まり水の意でいっていると取れる。その状態が似ているところから、混同して用いられる称となったのであろう。「いたくな行きそ」は、ひどくは流れて行くなと禁止した命令。○人の知るべく 人がそれと知るであろうに。
【釈】 甚しくは降らない雨であるがゆえに、雨の溜まり水はひどくは流れて行くな。人がそれと知るであろうに。
【評】 男に関係を結んで、まだ幾程もない女が、男を警めていった歌である。中心は結句の「人の知るべく」で、二人の関係の人に知られることを惧れるところにある。「甚も零らぬ雨」は、男女相逢ったことの多くはない譬喩、「庭潦」は男の譬喩である。一首、我は幾らも逢ってはいないのに、君はそのように繁々とは来るな。人に知られるであろうにと言うので、おりからの雨に寄せていったものと思われる。譬喩が解しやすくないのは、実際に即していったもので、譬喩としての心が強くは働いていないからだと取れる。結句の本義に転じているのも、そのためと思われる。
1371 久堅《ひさかた》の 雨《あめ》には着《き》ぬを 恠《あや》しくも 吾《わ》が衣手《ころもで》は 干《ふ》る時《とき》なきか
久堅之 雨尓波不着乎 恠毛 吾袖者 干時無香
【語釈】 ○久堅の雨には着ぬを 「久堅の」は、天の枕詞が、転じて雨の枕詞となったもの。「雨には着ぬを」は、雨の中にはこの衣は着ないのにで、「を」は詠歎。○恠しくも吾が衣手は干る時なきか 「衣手」は、涙を拭うものとしての関係でいっているもの。「なきか」の「か」は、感動の助詞。
【釈】 雨の中にはこの衣は着ないのだのに、訝かしくもわが袖は、乾く時のないことだなあ。
【評】 男の疎遠を恨んでの妻の歌である。「雨」を涙の譬喩としている。衣の袖を涙を拭うものとして、その濡れることによって涙を暗示することは、すでに人麿の歌にも出ている。これはそれを一歩進めたものである。心も調べも繊巧であって、奈良京の歌風を示しているものである。
月に零する
(502)1372 み空《そら》行《ゆ》く 月読壮士《つくよみをとこ》 夕《ゆふ》さらず 目《め》には見《み》れども よる縁《よし》も無《な》し
三空徃 月讀壯士 夕不去 目庭雖見 因縁毛無
【語釈】 ○み空行く月読壮士 「み空行く」は、空を渡って行く。「月読壮士」は、「月」は月読尊であるところからの称。「壮士」は若盛りの男の称で、月が日々に新しくなり、若く感じられるところから添えたもの。○夕さらす目には見れども 「夕さらず」は、夕には漏れずで、毎夕。○よる縁も無し 「よる」は、寄るで、関係を付ける。「縁」は、手蔓。
【釈】 空を渡って行く月読壮士は、毎夕目には見ているけれども、関係をつける手蔓がない。
【評】 「月読壮士」は、身分の高い男の譬喩、「よる縁も無し」は、身を任せたいと思っているが、身分の隔たりから、近づく術《すべ》もない嘆きの譬喩で、女の歌である。月を「月読壮士」ということは、奈良京に遷る前後からの称で、信仰の対象となっていたものが、文芸的にみられるようになったことを示すものであるが、この歌では、地上の男性となり、恋の対象ともなっているのである。これは美しく繊細で、奈良京の歌である。
1373 春日山《かすがやま》 山《やま》高《たか》からし 石《いは》の上《うへ》の 菅《すが》の根《ね》見《み》むに 月《つき》待《ま》ちがたし
春日山 ゝ高有良之 石上 菅根將見尓 月待難
【語釈】 ○春日山山高からし 「高からし」は、下の「月待ちがたし」との関係においていっているもので、東に出る月の、山に遮られて、早くはその光が見られない意でいっているもの。作者は春日山の西にあって言っているのである。○石の上の菅の根見むに 「石の上の」は、石の上に生えているところの。「菅の根」は、菅は山菅で、根を採るを目的とするもの。神事にも用いたもので、石の上の清浄な場所の意と取れる。尊い菅の根の意。○月待ちがたし 月の光の照らして来るのを待ちきれぬ。
【釈】 春日山は山が高いのであろう。岩の上に生えている菅の棋を見ようとするに、山を離れるに遅い月の光が待ちきれぬ。
【評】 「石の上の菅の根」は、女の譬喩。「月」は機会の譬喩。尊く思う女を見ようとして、その機会の捉えかねる嘆きをいったものである。奈良京の歌であるが、それとしては気分の足りないものである。
1374 闇《やみ》の夜《よ》は 苦《くる》しきものを 何時《いつ》しかと 吾《わ》が待《ま》つ月《つき》も 早《はや》も照《て》らぬか
(503) 闇夜者 辛苦物乎 何時跡 吾待月毛 早毛照奴賀
【語釈】 ○何時しかと吾が待つ月も 「何時しかと」は、「し」は強意。早くとの意で、既出。○早も照らぬか 早く照らないのか、照れよで、希望。
【釈】 闇の夜は苦しいものであるのに、いつかいつかと我が待っている月は、早く照らないのか、照ってくれよ。
【評】 闇の夜を侘びしく思い、月の出を待つというのは、照明の乏しかった時代とて、それによって連想すればさまざまのことの連想されるものである。これは女の歌として、「闇の夜」を恋の恨み、「月」を男に譬えたものである。気分を重んじた歌風で、奈良京のものである。
1375 朝霜《あさじも》の 消《け》やすき命《いのち》 誰《た》が為《ため》に 千歳《ちとせ》もがもと 吾《わ》が念《も》はなくに
朝霜之 消安命 爲誰 千歳毛欲得跡 吾念莫國
【語釈】 ○朝霜の消やすき命 「朝霜の」は、意味で、「消え」の約音「消《け》」にかかる枕詞。「消」は、消滅する意で、死を具象的にいった語。「命」は、わが命。○誰が為に千歳もがもと 「誰が為に」は、上の「誰が故に」と同じく、誰のためにでもない、君のためにで、下に打消が続く。「千歳もがもと」は、「もがも」は、願望で、千年も生きていたいものだと。○吾が念はなくに 「なく」は、打消の助動詞「ぬ」の名詞形。「に」は、詠歎。吾は思わないことであるよ。
【釈】 この消え失せやすい脆いわが命を、君ならぬ誰のために千年も生きたいものだとは、吾は思わないことであるよ。
【評】 夫婦間の愛の、飽くことを知らない心を、命の長生を願う心によって具象したもので、類想の少なくないものである。しかし実感であるが故に、調べが重くなり、それが哀切の情を具象したものとなっている。この歌には左注が添っている。
右の一首は、譬喩歌の類にあらず。但し聞《やみ》の夜《よ》の歌人の所心の故に並にこの歌を作りき。因りてこの歌を以ちて、この次《ならび》に載す。
右一首者、不v有2譬喩謌類1也。但闇夜歌人所心之故、並作此謌。因以2此歌1載2於此次1。
【解】 撰者の注である。この歌は譬喩歌ではない。但し上の「闇の夜」は、この歌を作った人の思いすなわち作であるがゆえに、(503)この並びに載せるというのである。本巻の資料とした本に、二首同一人の作ということが記してあったのである。
赤土《はに》に寄する
1376 大和《やまと》の 宇陀《うだ》の真赤土《まはに》の さにつかば そこもか人《ひと》の 吾《わ》を言《こと》なさむ
山跡之 宇※[こざと+施の旁]乃眞赤土 左丹著者 曾許裳香人之 吾乎言將成
【語釈】 ○大和の宇陀の真赤土の 「宇陀」は、今の宇陀郡の地。「真赤土」は、純粋な赤土で、黄を帯びた赤い粘土。陶瓦にし、また染色用にした。○さにつかば 「さ」は接頭語。「につかば」は、丹付かばで、丹が衣に着いたならば。この句の解は諸説があるが、文字通りのものと解する。接近したしるしが現われたなりば。○そこもか人の吾を言なさむ 「そこも」は、その点で、上の丹のつくこと。「か」は、疑問の係助詞。「人」は、周囲の人。「言なす」は、言い騷ぐで、既出。
【釈】 大和の宇陀の真赤土のその丹が衣に着いたならば、それにつけて周囲の人が、自分を言い騷ぐであろうか。
【評】 「宇陀の真赤土」は、その土地で評判の娘の譬喩。「さにつかば」は、接近した証拠がみえたならばの譬喩で、男がその評判娘と関係を結んで、人に知れるのを惧れている心で、きわめて一般性のある心である。詠みかたも大まかで、調子がよく、宇陀地方の謡い物ということを明らかに示している歌である。
神に寄する
1377 木綿《ゆふ》懸《か》けて 祭《まつ》る三諸《みもろ》の 神《かむ》さびて 斎《いは》ふにはありず 人目《ひとめ》多《おほ》みこそ
木綿懸而 祭三諸乃 神佐備而 齋尓波不在 人目多見許曾
【語釈】 ○木綿懸けて祭る三緒の 「木綿懸けて」は、「木綿」は、楮の繊維で、神に捧げる幣《ぬさ》。「懸けて」は、物に懸ける意で、捧げるさま。「三諸」は御室で、神座。木綿を物に懸けて捧げて祭る神座。「の」は、ごとく。○神さびて斎ふにはあらず人目多みこそ 「神さびて」は、神々しく。「斎ふにはあらず」は、潔斎しているのではないで、神事を行なうために潔斎している期間は、男女とも異性を近づけなかったので、そういう訳ではないの意。人目が多いゆえである。
(504)【釈】 木綿を懸けて祭る神の御座のように、神々しく潔斎しているのではない。人目が多いゆえである。
【評】 女の歌で、言い寄る男にいった言葉である。心には許しているが、人目を惧れてのことだというので、類想の多いものである。神事が譬喩となっている。
1378 木綿《ゆふ》懸《か》けて 斎《いは》ふ此《こ》の神社《もり》 超《こ》えぬべく 念《おも》ほゆるかも 恋《こひ》の繁《しげ》きに
木綿懸而 齋此神社 可超 所念可毛 戀之繁尓
【語釈】 ○木綿懸けて斎ふ此の神社 「神社《もり》」は、杜であり、森林を神座とした所の称。木綿を懸けて浄めているこの神社で、「神社」は義をもって当てた字。○超えぬべく念ほゆるかも その忌垣をも越えそうに思われることよというので、絶対にすまじきこともしそうな気がされると、制し難い激情を具象化していっているもの。
【釈】 木綿を懸けて浄めてあるこの神社の、その忌垣をも越えそうにも思われることである。恋の繁さによって。
【評】 男の歌である。恋の激情のわりなさをいうに、信仰上絶対の禁忌となっていた神の忌垣も越しそうだというのは、当時としては哀切なものだったのである。譬喩ではあるが、それ以上のものだったのである。『代匠記』は上の歌と問答のものかといっている。独立した歌ともみられるものであるが、つながりがないとは言えないものである。
河に寄する
1379 絶《た》えず逝《ゆ》く 明日香《あすか》の川《かは》の よどめらば 故《ゆゑ》しもある如《ごと》 人《ひと》の見《み》まくに
不絶逝 明日香川之 不逝有者 故霜有如 人之見國
【語釈】 ○絶えず逝く明日香の川の 絶えず流れている明日香川の水の。○よどめらば 旧訓。もし淀んだならば。○故しもある如人の見まくに 「故しもある如」は、「故」は理由、「しも」は強意で、しかるべき理由のあるように。「人の見まくに」は、「人」は、周囲の人。「見まく」は、見るの名詞形。「に」は詠歎で、人が見ることであろうに。
【釈】 絶えず流れている明日香川の水が、もし淀んでいたならば、然るべき理由のあるように、人が見ることであろうに。
(506)【評】 やや疎遠にしている夫に、妻が恨んで贈った歌と取れる。人も認めている間で、妻のいうのは人の批評を気にしている形のものである。「絶えず逝く明日香の川」は、平常通って来る夫の譬喩、「よどめらば」は、疎遠の譬喩である。その川の近くに住んでいた人々である。譬喩が自然で、言葉少なく含蓄があって、老熟した詠み方である。その人々の位置、年齢などをおのずから思わせられる。
1380 明日香川《あすかがは》 瀬瀬《せぜ》に玉藻《たまも》は 生《お》ひたれど しがらみあれば 靡《なび》きあはなくに
明日香川 湍瀬尓玉藻者 雖生有 四賀良美有者 靡不相
【語釈】 ○しがらみあれば靡きあはなくに 「しがらみ」は、上に出た。木石で設けた柵で、水を塞き湛えて、池へ導くためのもの。「あはなく」は、合わぬことの意で、名詞形。「に」は、詠歎。
【釈】 明日香川の瀬ごとに藻は生えているけれども、しがらみがあって隔てをなしているので、藻と藻とは靡き合わないことであるよ。
【評】 明日香川の上流と下流の藻が、柵のために隔てられているのを眺めての感である。眺めているのは男で、相思い合っている妻をもっているが、妨害をする者があって、思うように逢えずにいる心を、藻と柵の上に感じたのである。「玉藻」は自分たちの譬喩、「しがらみ」は妨害者の譬愉である。全部譬喩から成っている歌であるが、気分で捉えたものなので、自然で、ゆとりさえあるものである。若い心で詠んだ歌である。
1381 広瀬川《ひろせがは》 袖《そで》つくばかり 浅《あさ》きをや 心《こころ》深《ふか》めて 吾《わ》が念《おも》へるらむ
廣瀬河 袖衝許 淺乎他 心深目手 吾念有良武
【語釈】 ○広瀬川 大和国(奈良県)北葛城郡にある川で、葛城川の下流。他の川と合流して大和川となる。○袖つくばかり浅きをや 「袖つくばかり」は、「浅き」を具象的にいったものである。「つく」は「漬く」で、みずくのそれで、水に浸ることである。川を徒渉する時、垂らしている手の、長い袖口が水にひたるくらいにの意であろう。「浅きをや」は、瀬の浅いのをで、「や」は疑問の係。○心深めて吾が念へるらむ 「心深めて」は、心を深くしてしんそこから。「念へるらむ」は、念っているのであろう。
【釈】 広瀬川の、徒渉すると、衣の袖が水にひたるはどに浅いのを、心を深くして我は思っているのであろうか。
(507)【評】 妻である女が、その夫の自分を思う心に疑いを抱きはじめた嘆きである。夫婦関係が結ばれると、男の心は浅くなり、女の心は反対に深くなるのが普通であるから、こうした嘆きは多くの人妻に通有なものだったろうと思われる。広瀬川の水の浅さを男の心の浅さの譬喩にしているのは、その土地に住んでいた人たちとみえる。「袖つくばかり」は浅さを具体的にあらわそうとしているものであるが、その状態がはっきりしかねる憾みがある。徒渉をする時の状態で、きわめて普通のことであったろうとは思われる。その土地の謡い物だったであろう。
1382 泊瀬川《はつせがは》 流《なが》る水沫《みなわ》の 絶《た》えばこそ 吾《わ》が念《も》ふ心《こころ》 遂《と》げじと思《おも》はめ
泊瀬川 流水沫之 絶者許曾 吾念心 不遂登思齒目
【語釈】 ○泊瀬川 大和国(奈良県)磯城郡初瀬の地を流れている川で、既出。渓流である。○流る水沫の絶えばこそ 「流る水沫」は、終止形から体言に続いていて、他にも例のあるものである。水上を流れている水泡で、渓流の常態である。「絶えばこそ」は、絶えないものに対しての仮想で、条件法。「こそ」は、係助詞。○吾が念ふ心遂げじと思はめ 「念ふ心」は、思っていること。「遂げじと思はめ」は、遂げられまいと思おう。
【釈】 泊瀬川の水上を流れている水泡が、もし絶えることがあったら、その時にこそ、我が思っている事も遂げられまいと思おう。
【評】 求婚した男の、相手の女が容易に応じなかった時、迫っていった言葉である。女は瞥戒を必要とする立場に立たされているので、このような言葉を聞かされることが多かったろうと思われる。泊瀬の谿谷に住んでいる男女である。「水沫の絶えばこそ」と、ありうべからざることを条件としていうのは、一つの型となっているもので、例の多いものである。泊瀬地方の謡い物だったとみえる。
1383 なげきせば 人《ひと》知《し》りぬべみ 山川《やまかは》の たぎつ情《こころ》を 塞《せ》かへてあるかも
名毛伎世婆 人可知見 山川之 瀧情乎 塞敢而有鴨
【語釈】 ○なげきせば人知りぬべみ 「なげき」は、長い息をつくことで、嘆きを語源的にいったもの。「人知りぬべみ」は、人が知るであろうから。○山川のたぎつ情を 山川の激流するごとく沸きたつ心を。○塞かへてあるかも 「塞かへ」は、「塞き敢へ」の約で、強いて塞き止めている(508)ことよ。
【釈】 長い息をついたならば、人がそれと知るだろうから、山川の激流するごとく沸きたつ心を、強いて塞きとめていることであるよ。
【評】 恋の上での嘆きをもっている男の、それと人に察しられまいとつとめている心である。「山川のたぎつ」が譬喩である。面目を重んじる強い心が、強い調べで生かされている歌である。古風の歌のよさを発揮しているものである。
1384 水隠《みごも》りに 息《いき》づき余《あま》り 早川《はやかは》の 瀬《せ》には立《た》つとも 人《ひと》に言《い》はめやも
水隱尓 氣衝餘 早川之 瀬者立友 人二將言八方
【語釈】 ○水隠りに息づき余り 「水隠り」は、水中に隠れることで、ここは身を水に潜らせること。「息づき余り」は、息をついて、その勢いが余って。○早川の瀬には立つとも 「早川」は、流れの早い川。「瀬」は、水脈。「立つとも」は、現われようともで、息をつく勢いの余りが、早川の瀬となって現われようとも。○人に言はめやも このことを他人に漏らそうか、漏らしはしないで、「や」は、反語。
【釈】 水中に潜っていて、つく息の勢いが余って、早川の瀬となって現われようとも、このことを人に漏らそうか、漏らしはしない。
【評】 恋の上の苦しみをしている男が、あまりに苦しい時は他人に訴えたくなる心を意識し、面目として、どんなに苦しくても断じて人には漏らすまいと決心した時の心である。譬喩は仮想として言っているものであるが、それにしても特殊なものである。「水隠りに息づき」は、漁業をしている者には珍しくないことであるが、その続きの、「余り早川の瀬には立つとも」は、明らかに想像で、甚しい誇張である。謡い物は誇張が聞く人に喜ばれる。この誇張はそれと繋がりをもっていて、最初から謡い物として作ったものであろう。しかし根本の心は男の面目を重んじる心で、庶民の社会にそうした心が重んじられていたことを反映したものであろう。
埋木《うもれぎ》に寄する
1385 真鉋《まがな》もち 弓削《ゆげ》の河原《かはら》の 埋木《うもれぎ》の 顕《あらは》るましじき 事《こと》にあらなくに
眞※[金+施の旁]持 弓削河原之 埋木之 不可顯 事尓不有君
【語釈】 ○真鉋もち 「真」は美称。「飽」は、かんな。今のかんなとちがって台木がなく、槍のようで柄がついている。やりかんな。「もち」は、もって。弓を削る意で、「弓削」にかかる枕詞。○弓削の河原の埋木の 「弓削の河原」は、大阪府八尾市の西を流れている長瀬川の河原で、弓削を経て大和川に合流する。「埋木」は、そのあたりから出たのである。「の」は、のごとく。○顕るましじき事にあらなくに 「ましじき」は、「ましじ」の連体形。「顕る」は、男女関係で、秘密にはしているが、顕われまいことではないことなのに。
【釈】 弓削の河原の埋木のように、顕われまいことではないのに。
【評】 弓削の河原の付近に住んでいる男女で、その関係を秘密にして行こうと注意しているおりから、埋木が顕われたことを知ってわが身に引き当て、女が男に向かって倶れをもっていった形のものである。秘密の譬喩としての埋木は、実際にそうしたものに触れるのでなければ捉えられるものではないからである。譬喩の滑新さによって生かされている歌である。「真鉋もち」という枕詞は、弓削がその名のごとく弓を作ることに関係のある地であれば、これは珍しいとはいえないものである。
海に寄する
1386 大船《おほふね》に 真梶《まかぢ》繁貫《しじぬ》き こぎ出《い》でにし 沖《おき》は深《ふか》けむ 潮《しほ》は干《ひ》ぬとも
大船尓 眞梶繋貫 水手出去之 奥者將深 潮者干去友
【語釈】 ○大船に真梶繁箕き 大船に左右の艪を十分にとり付けて。完備した船よそいの慣用句。○こぎ出でにし沖は深けむ 漕ぎ出した沖は、水が深いことであろう。○潮は干ぬとも たとい湖が干ようとも。
【釈】 大船に左右の艪を十分に取りつけて、漕ぎ出した沖は水が深いことであろう。たとい潮が干ようとも。
【評】 結婚して間のない頃、男が女に対して自分の将来の真実を誓った歌である。「大船に真梶繁貫きこぎ出でにし」は、軽率にではなく、十分の覚悟をもって結婚した意。「沖は深けむ」は、将来のわが心は深いことだろうの意。「潮は干ぬとも」は、何事が起ころうともの意で、一首全部譬喩である。ある程度の身分があり、教養のある、落ちついた人を思わせる歌である。
1387 伏超《ふしこえ》ゆ ゆかましものを 守《まも》らふに 打濡《うちぬ》らさえぬ 浪《なみ》数《よ》まずして
(510) 伏超從 去益物乎 間守尓 所打沾 浪不數爲而
【語釈】 ○伏超ゆゆかましものを 「伏超」は、集中、他に用例のない語である。地名で、『略解』は、土佐国安芸郡の海岸にあるといい、『古義』は、それを実証して、さらに他にあろうといっている。這って越す意で付けられた名と取れる。険岨な丘で、立って歩いては越せない所である。「ゆ」は、を通ってで、から。「ゆかましものを」は、行けばよかったものを。伏超のほうの路を通って行けばよかったものを。○守らふに打濡らさえぬ 「守らふ」は、見守るの継続で、下の続きから見て、浪の合間を窺いつついるに。「打濡らさえぬ」は、濡らされたで、浪をかぶった意。○浪数まずして 「数む」は数える意であるが、ここは十分に注意していなくてで、数むはその意にも用いられたのであろう。
【釈】 伏超のほうの路を、行けばよかったものを。海岸の路を選び、浪の合間を窺いつついて、濡らされた。浪に十分に注意せずにいて。
【評】 旅行をする者が、山路の遠く険阻なのを避け、近く楽な海辺の路を選んで、しかも注意が足りなくて、浪をかぶって濡らされてしまった悔いを言っている歌である。喩義で十分に独立しうるものである。本義としては、親の許にいる女の許に忍んで通う男の、忍びそこなって見付けられ、ひどい目に遭わされて、悔いた歌である。「伏超ゆゆかましものを」は、じれたくても安全な方法を選べばよかった譬愉、「守らふに打濡らさえぬ」は、家人の隙を窺っているうちに見付けられてひどい目に遭わされた譬喩、「浪数まずして」は、注意が足りなくてという譬喩で、こちらも遺漏のないものである。丹念に譬喩を用いているのは、事を尽くしていわないとあらわせない性質の事柄でもあるが、これほどまでにいわないと、興味を感じない庶民の心を反映させているがためで、このほうが基本になっているのであろう。地方の庶民の謡い物である。
1388 石灑《いはそそ》く 岸《きし》の浦廻《うらみ》に 寄《よ》する浪《なみ》 辺《へ》に来寄《きよ》らばか 言《こと》の繁《しげ》けむ
石灑 岸之浦廻尓 縁浪 邊尓來依者香 言之將繁
【語釈】 ○岩灑く岸の浦廻に寄する浪 「石灑く」は、浪が岸の岩にそそぐで、岸の状態。「岸の浦廻に寄する浪」は、そうした岸となっている浦へ寄せて来る浪がで、「廻」は、湾曲しているところ。○辺に来寄らばか 岸辺に寄って来たならばで、「か」は、疑問の係助詞。○言の無けむ 人の噂が多いことであろう。
【釈】 石に浪のそそぎかかる岸になっている浦に寄せて来る浪の、岸辺に寄って来たならば、人の噂が多いことであろうか。
【評】 女が海の浪の岸に寄せて来る状態を見て、自分に言い寄っている男を連想している形の歌である。「寄する浪」は男、(511)「辺」は自分の譬喩である。浪の状態をそうしたことの譬喩にすることがもともと無理なので、語の多いわりには心が現われず、結局「言の繁けむ」といふ本義をもって補う形になった歌である。こうした歌が伝えられていたのは、これに似た光景に親しみを感ずる海べの人々の間であったろう。
1389 礒《いそ》の浦《うら》に 来寄《きよ》る白浪《しらなみ》 反《かへ》りつつ 過《す》ぎかてなくは 涯《きし》にたゆたへ
礒之浦尓 來依白浪 反乍 過不勝者 雉尓絶多倍
【語釈】 ○礒の浦に来寄る白浪 「礒の浦」は、岩より成っている岸に抱かれた浦に寄って来る白浪。○反りつつ 立ち帰りつつ。○過ぎかてなくは 『略解』の訓。「過ぎ」は、経過で、浦をたち去る意。「かてなくは」は、たち去ることが出来ないならば。○涯にたゆたへ 「涯」は、原文、元暦校本など四本は「誰」、西木願寺以後の本は「雉」である。『略解』で、本居宣長は、巻四(五二九)「佐保河の涯のつかさの」とあるその「涯」の誤写であろうとしている。字形の上から見てもありうることと思える。『新訓』はそれに従っている。「たゆたへ」は、たゆたっていよで、命令形。
【釈】 岩に囲まれている浦に寄って来る白浪の、立ち帰りつつも、ここを去ることが出来ないのならば、岸にゆたっていよ。
【評】 岸に寄せて来た浪の、たち返りながらも躊躇しているさまをいったもので、「白浪」は男の譬喩、「涯」は女の譬喩で、逢って別れる後朝に、男が名残りを惜しんで帰りかねるさまをしているのに対し、女も同じ心をもっていっている言葉という形である。しかしそれとしては心が細かく、語も緩やかすぎて、実感からは距離のありすぎるものとなっている。第三者が、男女のそうしたさまを見て同情していったものという感のするものである。実感からある程度遊離させ、細かく美しい気分を湛えて文芸的にしようとするのが奈良京の新風で、この歌はその影響を受けての海岸地方の謡い物だったとみえる。
1390 淡海《あふみ》の海《うみ》 波《なみ》恐《かしこ》みと 風《かぜ》守《まも》り 年《とし》はや経《へ》なむ 榜《こ》ぐとはなしに
淡海之海 浪恐登 風守 年者也將經去 榜者無二
【語釈】 ○淡海の海波恐みと 「恐みと」は、「と」は、と言って。○風守り 「風」は、波を立たせるものとしていっている。「守り」は、窺う意で、風の凪ぎる時を窺って。○年はや経なむ 「や」は、疑問の係助詞。年を過ごすことであろうかで、年を越すにあたる。○榜ぐとはなしに 漕ぐことはせずに。
(512)【釈】 近江の海の波が恐ろしいといって、風の凪ぎを窺って、年をも越すことであろうか。船を漕ぐことをもせずに。
【評】 「波」と「風」とは、周囲の妨げ、「榜ぐ」は、相逢うことの譬喩である。「年はや経なむ」は、久しいという意を感傷より誇張したもので、謡い物の手法である。湖辺の謡い物であったろう。古風な歌である。
1391 朝《あさ》なぎに 来《き》よる白浪《しらなみ》 見《み》まく欲《ほ》り 吾《われ》はすれども 風《かぜ》こそ寄《よ》せね
朝奈藝尓 來依白浪 欲見 吾雖爲 風許増不令依
【語釈】 ○朝なぎに来よる白浪 朝凪の海に、沖から寄せて来るところの白浪を。○見まく欲り吾はすれども 見たいことだと吾は待っているけれども。○風こそ寄せね 風が浪を寄せて来ないことであるよ。
【釈】 朝風に伴って寄って来る白浪を見たいと思い、吾は待っているけれども、風が寄せて来ないことであるよ。
【評】 朝凪の海に白浪を見たいと思うことは、事としてはありうべからざる無理なことである。「朝凪」は、女の周囲に何の妨害もない状態の譬喩で、「白浪」は男の譬喩である。こうした状態の時に男が来てくれればよいと女の心待ちにする気分を、見なれている海に寄せていったものである。単純な歌ではあるが、気分をもった新風のものである。
浦の沙に寄する
1392 紫《むらさき》の 名高《なたか》の浦《うら》の まなごぢに 袖《そで》のみ触《ふ》れて 寝《ね》ずかなりなむ
紫之 名高浦之 愛子地 袖耳觸而 不寐香將成
【語釈】 ○柴の名高の浦の 「紫の」は、色として名高い意で、「名高」の枕詞。「名高の浦」は、紀伊国海草郡で、和歌の浦の南方、今の海南市の一部。名高町の海岸。○まなごぢに 「まなご」は、細かい砂。「ぢ」は、路で、まなごの中に付いている道。○袖のみ触れて寝ずかなりなむ 袖だけが女に触れてで、親しみを具体的にいったもの。「寝ずか」の「か」は、疑問の係助詞。共寝は出来ないことになるのであろうか。
【釈】 名高の浦のまなごの路の上で、袖だけは触れたが、共寝は出来ないことになるのであろうか。
【評】 海岸の真砂の上に付いた路を行き交わして、ふと袖が触れ合った女に心引かれた男の、それだけのことで終るのだろう(513)かと、心残りを感じた歌である。一般性のあるものである。「まなごぢ」が女の譬喩になっている。まなごは愛子で、その意が絡んでいる。「紫の名高の浦」という語も、その女に陰影となりうるもので、一首、柔らかく、気分の勝っているものである。その土地の謡い物ではあるが、奈良京の新風の影響のあるものである。
1393 豊国《とよくに》の 企救《きく》の浜辺《はまべ》の まなごぢの 其直《まなほ》にしあらば 何《なに》か嘆《なげ》かむ
豊國之 聞之濱邊之 愛子地 眞直之有者 何如將嘆
【語釈】 ○豊国の企救の浜辺の 「豊国」は、豊前豊後の古名。今の福岡、大分県。「企救」は、今の福岡県北九州市小倉区の浜で、瀬戸内海の西口の要衝。○まなごぢの 「まなごぢ」は、上の歌のと同じで、「の」は、のごとく。○真直にしあらば 「真直」は、まっすぐで、曲がったことをしない意。「し」は強意。○何か嘆かむ なんで嘆こうか、それで十分であるの意。
【釈】 豊国の企救の浜辺にある真砂の路のように、まっすぐでさえあれば、なんで嘆こうか。
【評】 企救の浜辺に住んでいる男の、妻の真実に対して疑いを抱いての嘆きである。夫妻は別居して、それぞれある程度の自由をもっていたので、双方信じようとしつつ信じかねる嘆きをもたせられる場合が多かったとみえる。当時の庶民の結婚生活にあっては、このことは一般性のあるものだったのである。「まなごぢ」は妻の譬喩、「真直」は真実の譬喩である。「まなごぢの真直」と同音を畳んだ形になっているので、初句より三句までは序詞ともみえる。しかし一首の心は深刻なもので、少なくとも重く言わなければその心の通らないものである。その点から「まなごぢの」をまなごじのごとくの意でいったものと解する。序詞が意味でもつながっているともいえるが、作意はそこまで微細婉曲なものではなく、大体としては素朴なものだからである。古風に立脚した歌が、ある程度新風の影響をうけて柔らかな詠み方をまじえたもので、序詞的な続け方は、その筋囲内でしているというのが作意であろう。その土地の謡い物であったろう。
藻に寄する
1394 潮《しほ》満《み》てば 入《い》りぬる礒《いそ》の 草《くさ》なれや 見《み》らく少く 恋《こ》ふらくのおほき
塩滿者 入流礒之 草有哉 見良久少 戀良久乃太寸
(514)【語釈】 ○潮満てば入りぬる礒の草なれや 「潮満てば」は、満潮となれば。「入りぬる礒」は、潮の中に隠れ入る岩。「草なれや」は、「草」は藻。「なれや」は後世の「なればにや」にあたる古格で、「や」は疑問の係助詞。条件法。○見らく少く恋ふらくのおほき 「見らく」は、見るの名詞形。見るは夫婦相逢う意。「恋ふらく」は、恋ふらの名詞形。見ない時の心。
【釈】 潮が満ちて来ると、隠れ入る岩に生えている草であろうか。相違うことは少なく、恋うることの多いことであるよ。
【評】 海辺に住んでいる男の、海の岩に着いている藻の、潮の満ちるごとに隠れてゆくのに対し、その妻と自身との関係を連想したものである。その妻は妨げの起こりやすい事情の下にいる者で、逢う喜びの少なく、憧れる苦しみの多い状態が、そうした連想を誘ったのである。「草」は妻、「潮」は妻の周囲の譬喩である。事として一般性のあるもので、形は一首の調べが甘く、四、五句は謡い物に少なくない対句法を用いてあって、明るいものである。謡い物の条件を備えた歌である。
1395 奥《おき》つ浪《なみ》 寄《よ》する荒礒《ありそ》の 名告藻《なのりそ》は 心《こころ》の中《うち》に 疾《やまひ》となれり
奥浪 依流荒礒之 名告藻者 心中尓 疾跡成有
【語釈】 ○奥つ浪寄する荒磯の名告藻は 「荒磯」は、岩より成る海岸。「名告藻」は、ほんだわら。ここは秘密の意で用いている。○心の中に疾となれり 「心の中に」は、わが心の中に。「疾」は、訓は定まらない。これは『代匠記』精撰本の訓である。悩みとなっている。
【釈】 沖の浪の寄せる荒礒の名告藻は、わが心の中に悩みとなっている。
【評】 海辺に住んでいる男の、妻との関係を絶対秘密にしていることに、苦しさを感じてきた心である。「奥つ浪寄する荒磯」は、周囲の物言いの騒がしい譬喩、「名告藻」は秘密の譬喩である。「名告藻は疾となれり」という言い方は、気の利いたもので、謡い物として喜ばれるべきものである。事は一般性があり、言い方も謡い物にふさわしいところがあるが、しかし一首全体としてみると個人的な言い方のものであって、はたして謡い物になり得たかどうかを疑わせるものである。新風の影響を受けた詠み方のもので、それとして謡われたものかもしれぬ。
1396 紫《むらさき》の 名高《なたか》の浦《うら》の 名告藻《なのりそ》の 礒《いそ》に靡《なび》かむ 時《とき》待《ま》つ吾《われ》を
紫之 名高浦乃 名告藻之 於礒將靡 時待吾乎
(515)【語釈】 ○紫の名高の浦の 上の(一三九二)に出た。○礒に靡かむ時待つ吾を 「吾を」の「を」は、詠歎の意のもので、「よ」というにあたる。
【釈】 名高の浦の名告藻の、海岸の岩に靡き寄るであろう時を待っている我であるよ。
【評】 「名告藻」を女に、「礒」を自身に喩えたもので、女が我に如き従って来る時を待っている心である。求婚しての後の心である。明るい歌である。その地の謡い物であろう。
1397 荒礒《ありそ》越《こ》す 浪《なみ》は恐《かしこ》し しかすがに 海《うみ》の玉藻《たまも》の 憎《にく》くはあらずて
荒礒超 浪者恐 然爲蟹 海之玉藻之 憎者不有手
【語釈】 ○しかすがに それはそうではあるがの意の副詞。○あらずて 後世の、あらずしてにあたる古格。
【釈】 海岸の岩を越して打ち上げる浪は恐ろしい。それはそうであるが、その海の玉藻は憎くはなくて。
【評】 「荒礒越す浪」は、娘を保護している親、「玉藻」は、娘の譬喩である。海辺に住む男の、娘と関係していて、その親の厳しさを怖れつつも、娘を諦めかねている心のものである。
船に寄する
1398 ささなみの 志賀津《しがつ》の浦《うら》の 船乗《ふなのり》に 乗《の》りにし情《こころ》 常《つね》忘《わすら》らえず
神楽聲浪乃 四賀津之浦能 船乘尓 乘西意 常不所忘
【語釈】 ○ささなみの志賀津の浦の 「ささなみ」は、琵琶湖の南岸の地名。「志賀津」は、滋賀の港。巻二(二一八)及び上の((一二五三)に出た。○船乗に 「船乗」は、船に乗ったことで、名詞。「に」は、のごとく。○乗りにし情 心に乗るは、相手の人がこちらの心に乗り移っていて離れない意で、相手を深く思うことをあらわした上代の語である。ここもわが心に乗ってしまった妹の心で、事としては深く妹を思う心である。○常志らえず いつの時も忘れられない。
【釈】 ささなみの志賀津の浦で船に乗ったように、我に乗ってしまった妹の心は、いつの時も忘れられない。
【評】 琵琶湖の船乗業者の謡い物とみえる。「船乗に」までは 「乗り」の譬喩であるが、形としては完全に序詞である。序詞よ
(516)り本義への変化の面白さが、謡い物として興味の中心となっているのである。単純平明で、謡い物としても古風な形のものである。
1399 百《もも》伝《つた》ふ 八十《やそ》の島廻《しまみ》を 榜《こ》ぐ船《ふね》に 乗《の》りにし情《こころ》 忘《わす》れかねつも
百傳 八十之嶋廻乎 榜船尓 乘尓志情 忘不得裳
【語釈】 ○百伝ふ八十の島廻を 「百伝ふ」は、首に伝わり行く八十の意で、「八十」の枕詞。「八十の島廻を」は、「八十」は、甚だ多くというを具象的にいったもの。「島廻」は、島のめぐり。○榜ぐ船に 下の「乗り」と続いて、以上三句、その序詞。○乗りにし情 「乗りにし」は、上の歌と同じく、我に乗ってしまった妹の心。○忘れかねつも 忘れられないことよ。
【釈】 八十と多くの島々のめぐりを漕いでゆく、船に乗るに因みある故に乗ってしまった妹の心は、忘れられないことよ。
【評】 「八十の島廻」といっているので、上と同じく琵琶湖のものと知られる。前の歌は船出をした時のもの、この歌は船を漕ぎつづけている時のもので、そこに時間的の展開がある。「乗りにし情」を中心としたものである。
1400 島伝《しまづた》ふ 足速《あしばや》の小舟《をぶね》 風《かぜ》守《まも》り 年《とし》はや経《へ》なむ あふとは無《な》しに
嶋傳 足速乃小舟 風守 年者也經南 相常齒無二
【語釈】 ○島伝ふ足速の小舟 「島伝ふ」は、島より島を伝うで、舟の航海する形容。「足速」は、「足」は、舟の速力の称で、現在も用いられているもの。速力の早い小舟。○風守り年はや経なむ 風の凪を窺って、年を越すのであろうか。○あふとは無しに 逢うことはせずに。
【釈】 島より島を伝って漕いでゆく速力の早い小舟が、風の凪を窺って船がかりして、年を越すのだろうか。逢うことはせずに。
【評】 「足速の小舟」は、男、「風」は、女の周囲に妨げをするものの譬喩で、上の(一三九〇)「淡海の海浪恐み」と三句以下は同じである。それを歌いかえたものとみえる。「足速の小舟」は、じれったい気分を盛ろうとしたのである。
1401 氷霧《みなぎら》ふ 奥《おき》つ小島《こじま》に 風《かぜ》を疾《いた》み 船《ふね》寄《よ》せかねつ 心《こころ》は念《おも》へど
(517) 水霧相 奥津小嶋尓 風乎疾見 船縁金都 心者念杼
【語釈】 ○水霧ふ奥つ小島に 「水霧ふ」は、水が霧となり続けているで、水煙《みずけむり》が立ちとおしている。「奥つ小島」は、沖にある小島。○風を疾み船寄せかねつ 風が強いので、船が寄せられなかった。○心は念へど 心では、寄せたいと思うけれども。
【釈】 水煙が立ちとおしている沖の小島に、風が強いので、舟が寄せられなかった。心では寄せたいと思うけれども。
【評】 当時の航海では、沖を通らなければならない時、そこに島があれば、船を寄せて風を見定めるのは普通のことであった。また、風があって、浪が岸を打つ場合には、船が寄せられないことも普通であった。一首、本義としても完全に心の通るものである。「奥つ小島」を女に、「船」を我に、「風を疾み」を、女に逢わせまいとして守っている親に喩えたもので、喩義としても無理なく心の通じるものである。古風な歌である。熟した力のある歌である。
1402 こと放《さ》けば 沖《おき》ゆ放《さ》けなむ 湊《みなと》より 辺《へ》つかふ時《とき》に 放《さ》くべきものか
殊放者 奥從酒嘗 湊自 邊着經時尓 可放鬼香
【語釈】 ○こと放けば沖ゆ放けなむ 「こと放けば」は、「こと」は、如と語源を同じくし、同じに、同様だの意。日本書紀の歌の「こと愛では早くは愛でず」の同じ構成の語をはじめ、用例の少なくない語である。「放けば」は、遠ざけるならばで、同じ遠ざけるならば。「沖ゆ放けなむ」は、沖を通っている時に遠ざけてはしいで、「なむ」は、希望の終助詞。○湊より辺つかふ時に 湊を通って、岸に着こうとしつつある時に。○放くべきものか 遠ざけるべきであろうか、ないで、「か」は反語。
【釈】 同じ遠ざけるならば、沖を通っている時に遠ざけてほしい。湊を通って岸に着こうとしつつある時に、遠ざけるべきであろうか、ない。
【評】 男が求婚をして、相応に時を過ごして、約束が成り立とうとした間際になって、女から断わられたのを腹立っての心である。「沖」と「辺」とを以前と今との譬喩にしている。海辺に住んでいる者同志のものである。詠み方は素朴で、不器用であるが、それが実感を生かすものとなっていて、古風の歌のよさを示しているものである。
旋頭歌
1403 み幣帛《ぬさ》取《と》り 神《かみ》の祝《はふり》が 鎮斎《いは》ふ杉原《すぎはら》 たき木《ぎ》伐《き》り 殆《ほとほと》しくに 手斧《てをの》取《と》らえぬ
(518) 三幣帛取 神之祝我 鎭齋杉原 燎木伐 殆之國 手斧所取奴
【語釈】 ○み幣帛取り神の祝が 「み幣帛取り」は、「み」は美称。「幣帛」は、古くは麻や楮を用いた。それを棒の先に付けて祓いをした。「取り」は、手に取って。「祝」は、神職の階級の称で、祓いを職とする者。○鎮斎ふ杉原 「鎮斎ふ」は、きよめる。「杉原」は、杉の林で、杉は神霊の降られる神木。○たき木伐り 杉原を薪として伐ってで、盗伐をしたのである。○殆しくに 「殆」は、「ほとほと」すなわち、はとんどの古語、「しく」はそれを体言化するためのもの。今少しのことでというにあたる。○手斧取らえぬ 手斧を取られたであるが、「ほとほとしくに」が冠せられているので、取られそうになった。盗伐すると刑としてその場で用具を奪われるのが風習となっていた。
【釈】 幣を取って、神職の祝が潔めをする杉原。そこへ立ち入って薪を伐って、今少しで手斧を奪われることだった。
【評】 本義として十分に成立つもので、しかも庶民的な、特殊なものである。「神の祝」を、娘を守っている親に、「杉原」を娘に、自身を盗伐者に、「手斧取らえぬ」を、懲らしめのための制裁に喩えたもので、娘の許に忍び入り、発見されて、さんざんな目に逢わされようとしたことを言ったものである。事柄と、その譬喩とは極度に懸け離れて、不自然にみえるものであるが、作意としては、そこに苦笑、あるいは放笑を予期してのものと取れる。またこの点からみて、この歌は謡い物であったろうと思われる。対照を懸け離れたものとし、そのために笑いを求めようとするのは、謡い物の一つの条件だからである。叙事の色彩の浅いのは、古い旋頭歌の型である。興味の多い作である。
挽歌
1404 鏡《かがみ》なす 吾《わ》が見《み》し君《きみ》を 阿婆《あば》の野《の》の 花橘《はなたちばな》の 玉《たま》に拾《ひり》ひつ
鏡成 吾見之君乎 阿婆乃野之 花橘之 珠尓拾都
【語釈】 ○鏡なす吾が見し君を 「鏡なす」は、意味で「見」にかかる枕詞。「吾が見し君」は、夫としてわが逢ってきた君。○阿婆の野の この野の名は伝わっていない。『代匠記』は日本書紀、皇極紀の童謡の、「遠方《をちかた》のあばのの雉子《きぎす》」の歌をあげ、『延喜式』にある大和国添上郡|率《いさ》川阿波神社(奈良市率川神社)のある春日野のつづきかといっている。ほかに明日香付近、初潮付近、吉野などの説がある。上代の火葬所だったとみえる。○花橘の玉に拾ひつ 「花橘」は、花の咲く時の橘の称。「玉」は、その花の蕾の玉に似ていて、上代の女子は玉に擬して、糸に貫いて愛玩し(519)たところからの称。蕾は白い。「に」は、のごとく。「拾ひつ」は、君をうけるもので、君の火葬後の骨を拾った。
【釈】 夫として相逢った君を、阿婆野の花橘の蕾の玉のごとくに拾った。
【評】 挽歌は本来、死者の霊を慰めることを目的とするもので、古いものはすべてそれである。慰めるには、悲しむことと、永く忘れないことをいうを主とした。この歌は妻として夫を対象としたもので、骨を拾うという深刻なことをする場合のものであるが、夫の骨を、奈良京の人の深く愛していた橘の蕾に喩えて美化することをしているだけで、他には触れていない。この美化は、その霊を慰めるというよりも、わが思い出をなつかしむものといえる歌である。霊に対する感覚が後退し、耽美の心が前進したことを示しているものである。しかし「君を玉に拾ひつ」という対照には悲哀が籠もっていて、それに耽美の心がからんでいるといえる。繊細な気分のある歌である。
1405 秋津野《あきづの》を 人《ひと》の懸《か》くれば 朝《あさ》まきし 君《きみ》が思《おも》ほえて 嘆《なげ》きはやまず
蜻野※[口+立刀] 人之懸者 朝蒔 君之所思而 嗟齒不病
【語釈】 ○秋津野を人の懸くれば 「秋津野」は、吉野離宮のあった辺り一帯の地の称か。「人の懸くれば」は、人が口にしていえば。○朝まきし君が思はえて 「朝まきし」は、『管見抄』の訓。火葬をするのは夜で、翌朝骨を拾って、ただちに撒き散らしたのである。朝その野に撒き散らした。「君が思はえて」は、火葬された君が思われて。○嘆きはやまず 我が嘆きはやまない。
【釈】 秋津野という名を人が口にすると、火葬の翌朝、その野に撒き散らした君のことが思われて、我が嘆きはやまない。
【評】 妻の歌とみえ、また夫の死後やや時を経過しての心とみえる。火葬所であり、また散骨をした所の秋津野の名を人がいうと、遺骨を拾って撒き散らした時が最も強い悲しみとなっていて、それが思い出されて、いつまでも嘆かれるというのである。実感に即して、素朴に詠んでいる歌である。前の歌よりやや古風なもので、感が生きている。
1406 秋津野《あきづの》に 朝《あさ》居《ゐ》る雲《くも》の 失《う》せ去《ゆ》けば 昨日《きのふ》も今日《けふ》も 亡《な》き人《ひと》念《おも》ほゆ
秋津野尓 朝居雲之 失去者 前裳今裳 無人所念
【語釈】 ○秋津野に朝居る雲の 「秋津野」は、前の歌と同じく火葬所としてのもの。「朝居る雲」は、夜火葬に付した、その翌朝、その野にかか
(520)っている雲で、それを火葬の煙と決めていっているもの。○失せ去けば 消えて行ったので。雲がそこにいる間は、夫がとどまっていると思ったのが、消えると、全くいなくなったと思うので。○昨日も今日も亡き人念ほゆ 悲しみが深刻なものとなって、昨日も今日も、日々亡き人が思われる。
【釈】 秋津野に、朝とどまっている雲が消え去ったので、火葬にした昨日も形見のなくなった今日も、世に亡き夫が思われる。
【評】 これも妻の歌である。「朝居る雲の失せ去けば」は、火葬の翌朝、骨を拾いに行って、親しく目にしたこととして言っているのであろう。火葬所である秋津野にかかっている雲を、夫を火葬した煙そのものと見、夫との距離を近く感じたのであるが、その雲が散ってしまうと、にわかに夫との距離が遠くなり、完全にこの世の人ではないと感じて、深い悲しみを覚えたのである。その時の感じが、いつまでも忘れられず、それを通して君が思われるというのである。具体的な、感覚的なものによって死を感じている心がよくあらわされている。実感を詠んだ歌である。
1407 隠口《こもりく》の 泊瀬《はつせ》の山《やま》に 霞《かすみ》立《た》ち 棚引《たなび》く雲《くも》は 妹《いも》にかもあらむ
隱口乃 泊瀬山尓 霞立 棚引雲者 妹尓鴨在武
【語釈】 ○隠口の泊瀬の山に しばしば出た。ここは泊瀬山を共同の火葬場、また墓地としていっているものである。○霞立ち棚引く雲は 「霞立ち」は、下の「棚引く雲」を形容したもので、霞と現れてたなびいている雲で、雲は上の歌と同じく火葬の煙である。【釈】 泊瀬の山に、霞と現われて靡いている雲は、わが妹であろうか。
【評】 雲を妹の火葬の煙と見つつ、悲しみのあまり、訝って見ているのである。巻三(四二八)人麿の歌に、「隠口の泊瀬の山の山の際にいさよふ雲は妹にかもあらむ」がある。その影響を受けて詠んだ歌であろう。
(521)1408 狂言《たはごと》か 逆言《およづれごと》か 隠口《こもりく》の 泊瀬《はつせ》の山《やま》に 廬《いほり》せりといふ
狂語香 逆言哉 隱口乃 泊瀬山尓 廬爲云
【語釈】 ○狂言か逆言か 「狂言」は、ものに狂った言葉。「逆言」は、いつわりの言葉。いずれも用例のあるもの。○廬せりといふ 人の死後、新喪の間は、仮小屋を構えて、死体をその中に置いたのである。それをしていると人が言う。
【釈】 ものに狂った言葉なのか、あるいはいつわりの言葉なのか。妹は泊瀬の山に仮小屋を構えて、そこにいると言っている。
【評】 前の歌と同じく、夫が妻を思った歌である。当時の夫婦生活はしばしば出たように、夫婦別居しており、またその関係も他人には秘密にしていたので、妻の死を夫の知らなかったということは、特別なことではなかったのである。この歌もそれで、妻の死をはじめて聞いた時のことで、共同基地である泊瀬山の仮小屋に妻の死体を移してあると人がいうと、夫はあまりの意外さに、「狂言か逆言」かと訝かったのである。その事を聞いた瞬間の心持を、反射にいったものである。
1409 秋山《あきやま》の 黄葉《もみち》あはれと うらぶれて 入《い》りにし妹《いも》は 待《ま》てど来《き》まさず
秋山 葉葉※[立心偏+可]怜 浦觸而 入西妹者 待不來
【語釈】 ○秋山の黄葉あはれと 「あはれ」は、面白しとして愛でる意。「秋山」は、下の続きで、死んだ妹が、秋山に葬られたのであるが、おりから黄葉の頃なので、妹はそれを愛でて自身そこに入ったものとしての言。○うらぶれて入りにし妹は 「うらぶれて」は、心しおれての意で、死者の相貌を、生者とみていったもの。「入りにし」は、秋山に入って行った。○待てど来まさず 「待てど」は、生者としての言。「来まさず」は、女に慣用している敬語。
【釈】 秋山の黄葉が面白いと、心しおれて入って行った妹は、待っているけれども来られない。
【評】 故人となった妹を、秋山に葬った後の夫の作である。二首を比較すると、人麿のもつ深い情愛と、それをあらわす立体味がこちらにはなく、代わりに耽美、合理を好む気分が現われて、表現も平面的になっている。「あはれと」といい、「うらぶれて」と言っているのはすなわちそれである。ことに「うらぷれて」は死者としていっているもので、一首の気分の統一を破ってさえいるものである。歌風の時代的推移を元しているものといえる。
(522)1410 世間《よのなか》は まこと二代《ふたよ》は 行《ゆ》かざらし 過《す》ぎにし妹《いも》に 逢《あ》はなく念《おも》へば
世間者 信二代者 不徃有之 過妹尓 不相念者
【語釈】 ○世間はまこと二代は行かざらし 「まこと」は、実際。「二代は行かざらし」は、世間を時の運行の上からみた言で、人の上からいうと、二度とは来ないようだの意。巻四(七三三)「空蝉の代やも二行く」とあるのと同じで、明白なことをいまさらに悟っていっているもの。「ざらし」は、ざるらし。○過ぎにし妹に 世を去った妹に。○逢はなく念へば 「なく」は、打消し「ず」の名詞形。逢わないことを思うと。
【釈】 世の中というものは、実際二度とは来ないもののようである。世を去った妹に、再び逢わないことを思うと。
【評】 世の中に対して、平常は二代行くものと信じ、また一脈の疑いをもっていた人が、死んだ妹を思う心から、あるいは何らかの形で逢えるかもしれぬとの感を起こしていて、それのかなわないところから、失望していっている歌である。実感の吐露で、何の理屈もないものである。「行かざらし」「念へば」というのが、その気分をあらわしている。奈良朝時代は従来の信仰が後退し、それによっては救われなくなっていたようである。その時代の歌と思われる。
1411 福《さきはひ》の いかなる人《ひと》か 黒髪《くろかみ》の 白《しろ》くなるまで 妹《いも》が声《こゑ》を聞《き》く
福 何有人香 黒髪之 白成左右 妹之音乎聞
【語釈】 ○福のいかなる人か 幸いのいかに大いなる人がで、「か」は、疑問の係助詞。○黒髪の白くなるまで 「なる」は、変わる意。黒い髪が白い髪に変わるまでで、老年になるまでということを具象的にいったもの。○妹が声を聞く 妹のものいう声を聞くことか、で、声によって妹のなつかしさをいったもの。
【釈】 幸いのいかに大いなる人が、黒髪の白く変わる老境までを、妹の物いう声を聞くのであろうか。
【評】 若くして妻と死別した男が、老境に入るまでその妻と同棲しうる人の幸いを羨み、怪しみの心をもって嘆きいっているものである。夫妻の偕老ということを、人間至上の幸福としていっているものである。妹の物いう声をなつかしさを代表としていっているのは、きわめて特殊なことで、従来に例のないものである。奈良朝時代に入って、これに類した歌がはじめて見える。その時代の歌と思われる。すぐれた作である。
(523)1412 吾《わ》が背子《せこ》を 何処《いづく》行《ゆ》かめと さき竹《たけ》の 背向《そがひ》に宿《ね》しく 今《いま》し悔《くや》しも
吾背子乎 何處行目跡 辟竹之 背向尓宿之久 今思悔裳
【語釈】 ○吾が背子を何処行かめと 「吾が背子」は、妻より夫に対しての最大愛称。「何処行かめと」は、どこへ行こうか、行きはしまいで、「め」は「む」の已然形で、反語。「行く」は他の女の許へ行く意である。すなわち夫の愛を頼み、独占し得ていると信じての心である。一夫多妻の習いの上代にあっては、これはもちやすくない自信で、この夫婦の状態をあらわしている語である。「と」は、と思って。○さき竹の背向に宿しく 「さき竹」は、裂いた竹で、竹を事に使用するに先立ってすること。裂いた竹を積み重ねた状態から、背向にかかるのか。枕詞。「背向」は、背中合わせ。「宿しく」の「し」は過去の助動詞「き」の連体形、「く」をつけて名詞形としたもの。背中合わせに寐たことの意で、何かの折にしたことの思い出。○今し悔しも 「今」は、夫の死後を暗示したもの。「し」は、強意。「も」は、詠歎。今は残念なことであるよ。
【釈】 吾が背子は、われ以外のどこへ行こうか行きはしないと思って、背中合わせに寐たことのあったのが、今となっては残念なことであるよ。
【評】 夫の死後、妻の悲しみの中に思い出したある夜の記憶である。女にふさわしい思い出である。「背向に宿しく」は、「何処行かめと」と思う心からのことで、悪意よりのことではなく、媚態なき甘えとか拗ねとかいう範囲のものである。単純な一事を捉えて、その夫妻の生活状態の全面を髣髴させている趣のあるものである。叙事によって抒情を遂げる古風な詠み方の歌で、庶民の間には後までも伝わった風である。庶民生活の中より生まれた歌で、甚だすぐれた歌である。
1413 庭《には》つ鳥《とり》 かけの垂尾《たりを》の 乱尾《みだれを》の 長《なが》き心《こころ》も 念《おも》ほえぬかも
庭津島 可鷄乃垂尾乃 乱尾乃 長心毛 不所念鴨
【語釈】 ○庭つ鳥かけの垂尾の 「庭つ鳥」は、庭の鳥で、現在の家禽。意味で「かけ」の枕詞。「かけ」は、鶏の古名。鳴き声からの命名。「垂尾」は、「重り」は、古くは四段活用で、尾羽をいったもの。○乱尾の 「乱れ」は当時下二段活用。乱れている尾羽で、雄鶏の尾羽の状態。さらにその長いところから、「長き」に続け、初句よりこれまではその序詞。○長き心も念ほえぬかも 「長き心」は、短き心に対させた語で、気長な、ゆったりした心。「念ほえぬ」は、思われぬで、上から続いて、そうした心をもてそうに思われぬの意。
【釈】 鶏の、あの垂れている尾羽で、乱れている尾羽の、長い、それに因む気長な、ゆったりした心は、我はもてそうに思われないことよ。
(524)【評】 「長き心も念ほえぬ」と、嘆きをもって言っているだけの歌で、何ゆえのこととも触れてはいない。気分そのもののみを言っているものである。したがっていかような解釈も盛れる歌である。序詞は眼前を捉えた形のものである。家に籠もり、庭を見やっていて、そこに無心にいる鶏の雄の尾羽に目を留め、それに刺激されていったとみえるものである。亡妻を思って、命も堪えられぬような感を、独語したと取れば取れるが、それとしても余裕がありすぎる。極度に気分を重んじて、美しく表現しようとする傾向の中にあって詠んだ歌である。奈良朝時代の才気のある歌であるが、その弱所を示している歌といえる。
1414 薦枕《こもまくら》 相纏《あいま》きし児も あらばこそ 夜《よ》の更《ふ》くらくも 吾《わ》が惜《を》しみせめ
薦枕 相卷之兒毛 在者社 夜乃深良久毛 吾惜責
【語釈】 ○薦枕相纏きし児も 「薦枕」は、薦で作った枕。「高」の枕詞ともなっており、またこの歌では長いものとみえる。「相纏きし児」は、「纏く」枕とする意。「児」は女の愛称。一緒に枕をして寝た愛人。○あらばこそ あらばは、生きているのならば。○夜の更くらくも 「更くらく」は、更くるの名詞形。
【釈】 薦枕を一緒に枕にして寝た愛人が生きているのだったら、夜の更けてゆくことを我は惜しみもしよう。
【評】 妻に死別した後、嘆いて夜を更かしていた男の、夜の更けたことに心づいた時の歌である。「吾が惜しみせめ」は、妻とは離れて住んでいたので、通って行って夜の明け近く、別れの思われる心である。実際に即した素朴な歌である。
1415 玉梓《たまづさ》の 妹《いも》は珠《たま》かも あしひきの 清《きよ》き山辺《やまべ》に 蒔《ま》けば散《ち》りぬる
玉梓能 妹者珠氈 足氷木乃 清山邊 蒔散漆
【語釈】 ○玉梓の妹は珠かも 「玉梓の」は、「使」の枕詞。転じて使その者の意にも用いられているが、ここは「妹」の枕詞となっている。諸説があるが、要するに解し難いものである。「珠」は、火葬しての白骨を譬えたもの。「かも」は、疑問。○あしひきの清き山辺に 「あしひきの」は、枕詞。「清き山辺」は、滑浄な山辺で、火葬した場所。○蒔けば散りぬる 火葬にした骨を地上に撒《ま》くと、散って失せたことであるよ。
【釈】 昧は珠であるのか。清浄な山地に撒けば、散って失せてしまったことであるよ。
【評】「妹は珠かも蒔けば散りぬる」と、手から離れて紛れ失せてゆく状態に心を集め、事よりも気分を主としていっているも(525)のである。気分は悲哀であるが、それを緩和させた形において具象させているところに、歌としての新味がある。奈良朝の新歌風で、よく熟した清らかな気分をもった歌である。
或本の歌に曰ふ
1416 玉梓《たまづさ》の 妹《いも》は花《はな》かも あしひきの この山《やま》かげに 撒《ま》けば失《う》せぬる
玉梓之 妹者花可毛 足日木乃 此山影尓 麻氣者失留
【語釈】 ○この山かげに 「山かげ」は、山の蔭になっている所で、山は火葬所。
【釈】 妹は花なのであろうか。この山の蔭に撒くと、失せてなくなったことであるよ。
【評】 「妹」を「花」に、「清き山辺」を「この山かげ」にかえただけの歌である。同じく散骨をする人の、その季節が花の咲く時であり、その場所が山蔭であるところから、上の歌を記憶していて、自分の歌としたものである。これは口唱時代には普通のことである。「花」に喩えて、「失せ」といっているのは適切ではない。これは余儀なき成行きである。
羈旅の歌
1417 名児《なご》の海《うみ》を 朝《あさ》榜《こ》ぎ来《く》れば 海中《わたなか》に 鹿子《かこ》ぞ鳴くなる あはれその鹿子《かこ》
名兒乃海乎 朝榜来者 海中尓 鹿子曾鳴成 ※[立心偏+可]怜其水手
【語釈】 ○名児の海を朝榜ぎ来れば 「名児の海」は、上の(一一五三)(一一五五)に出た。今の大阪市道頓堀の南、今宮、木津、難波あたりの総名かという。富山県高岡市伏木町辺との説もある。「朝」は、朝凪にの意。○海中に鹿子ぞ鳴くなる 「海中」は、「榜ぎ来れば」に対させたもので、同じ海上のやや距離ある所をいっているもの。「鹿子」は鹿の愛称。それは下の続きからである。「ぞ」は係助詞。「鳴くなる」は、『考』は、原文の「鳴」は「喚」の誤写だとし、以後諸注が従っている。一首の作意から推量しての説である。原文に従う。朝凪の海上に鹿の声が聞こえたのである。海上とはいっても、船は岸寄りを漕いでいるのであるから、岸との距離はほとんどないのである。○あはれその虚子 ああ、その鹿よと、思わぬ所で聞いたのに対しての感動。
(526)【釈】名児の海の朝凪に我が船を漕いで来ると、海の中で、鹿子の鳴き声がすることである。ああその鹿子よ。
【評】 岸寄りを漕いでいる船の中にいて、岸で鳴く鹿の声を聞いた感である。鹿の鳴き声そのものは珍しいものではないが、海の上という特殊な所にいて聞いたのであるから、甚しく珍しい、思いがけないものに聞こえたのである。また旅人としている状態と、鹿の哀切な声とは通うところがあって、言い難い感がしたのである。事を叙し、「あはれその鹿子」を抒情の全部としているところに、その心が十分に現われている。奈良朝の人には喜ばれた歌であったろう。今でも生きている。
(6) 萬葉集 巻第八概説
本巻は、『国歌大観』の番号の(一四一八)より(一六六三)に至る二四六首を収めた巻である。歌体は大体短歌で、中に長歌六首、旋頭歌四首をまじえているのみである。短歌の中に重出歌が二首ある。(一六〇六)(一六〇七)で、これはすでに巻四に出ているものである。
これらの歌はすべて、一定の条件のもとに蒐集した資料である。その条件は三つであって、第一は、四季の雑歌であること、第二は、四季の相聞であること、第三は、それらの作者名のすべて明瞭であることの三条件である。
以上の三条件を備えた歌を蒐集し、春の雑歌、春の相聞というように八つの小部立に分類し、これを年代順に排列したのがすなわち本巻である。
これは本巻で初めて試みられた編纂方法で、本巻の特色となっているものであるが、この方法は本巻だけではなく、巻第十にも繰り返されているものである。しかし巻第十は、柿本人麿歌集の歌を除くと、すべて作者名の不明な歌ばかりで、その点が異なっているのである。
本巻を読んでわれわれが最も注意させられることは、同種類の歌が年代順に排列され、しかも春夏秋冬に四回繰り返されているので、かれとこれとがおのずから対照され、比較されて、歌風の時代的推移変化の跡が、簡単に看取されることである。
古い時代とは、明日香岡本官の舒明天皇に始まり、近江大津宮、清御原宮、藤原宮までの時代で、新しい時代とは奈良宮の天平十五年八月までである。しかし比率的にいうと、古い時代のものはきわめて少なく、大部分は奈良朝時代のものである。したがって実際をいうと、古い時代のものは、新しい奈良朝時代の歌のいかなるものであるかを、簡単にまた明瞭に示すがために取り入れられているかの観のあるものである。
古いといい新しいといっても、その間は一世紀くらいであるが、これを歌の上から見ると、歌風は著しく変わっている。いずれは作歌の上のことで、作者が実生活の上から受けた感動をどのように表現しているかという範囲のことで、平たくいえば、作者の取材を扱う態度の相違ということである。これを最も見やすい、自然現象の扱い方の上について見れば、古い時代にあっては自然が大きく作者は小さいのであるが、新しい時代になると反対に、作者が大きく自然は小さいのである。これは作者個々人の問題ではなく、実際生活の実情がそのようにさせていることなのである。
古い時代にあっては、貴族も庶民と同じく、自身の生命は、農耕によって保たれているものであるということを、直接感情として意識していた。あらがねの土は、わが生命を保たせてくれる歓喜すべきものであったが、同時にその上には、これを破(7)壊しようとする兇暴なる風雨が伴っている。これは畏怖すべきものである。古い時代の人は、この歓喜と畏怖との相まじっている国土の上に、無力なる自身を意識させられ、体験としつつ生存していたのである。自然が限りなく大きく、自身がきわめて小さかったのは睹やすいことであった。自然に絡んでの歌を作る場合には、この感情は蔽おうとしても蔽えず、触れまいとしてもおのずから触れざるを待なかった気分である。それが身に着いたものであり、我そのものだったからである。
奈良朝中期の貴族とて、その生命が農耕によって支えられているものであるということは、もとより意識していたに相違ない。しかし彼らは、親しくその事に当たって、身をもって体験しつつある庶民の実感とは著しい距離をもっていたものであることは、その作歌が明らかに実証している。彼らのもっていたものは知識であって感情ではなかったのである。何がそのような距離をつけたかということは、社会的に身分が確保されて来て、農耕は庶民のすること、自分たちはその支配者であるという意識が、いつか自然の実体から遠ざからしめたのである。すなわち社会的に貴族であるという意識が、人間的にもっていた自然を失わしめたのである。
この間の消息は、彼らの作歌を見ると端的に現われている。
彼らは古い時代の同族が認めていた自然の神格を忘れて、代わりに自然の上に自身らのする男女関係恋愛関係を認めはじめていたのである。これは四季を通じてのことで、冬より春へかけては、梅の花と雪の上にそれを認めた。梅の花は女で、雪は男であって、雪は降って来て梅の花を咲かせようとする。梅は一応はそれを拒んで咲くまいともし、または待ち喜んで咲きもする。そして雪と梅の花と一つになって、紛れ合って、いずれがそれとも差別のつかない状態になると、喜んで見ほれるのである。これはやや以前よりあった傾向で、次第に濃厚となったのである。雪が降らなくなって鷲が来ると、今度は鴬を男と見て、同じ心持を繰り返している。初夏の橘の花とほととぎすに認めた男女関係は、最も濃厚なものである。香の高い橘の花は女を連想しやすく、哀愁を帯びた鳴き声をするほととぎすは男を連想しやすかったのであろう。橘の花の代わりに卯の花にも女を連想している。一夫多妻時代とて、これまたたやすくされたのであろう。秋の萩と牡鹿との関係は、橘とほととぎすとに対をなすものである。萩の花は女で、鹿は男で、その絡み合いは、濃厚である。時雨と黄葉との関係は、雪と梅の花と同様であって、一段と際やかなものである。染めよう、染められまいとして、ついに染められるのである。雁は使であってそれ以外のものではない。
これを要約すると、古い時代には神そのものであり、少なくとも神性をもっていた自然は、奈良朝中期には単に可憐なものとなり、さらに進んで人間の男女生活を模倣している自然と化し来たったのである。人間に従属し、人間生活を美化するだけのものとなり終わったのである。
巻第三では、編者は特に譬喩歌という部を設けている。名と(8)しては部であるが、じつは相聞の一部であり、譬喩を設けて恋情を詠んだにすぎぬものであった。中には枕詞、序詞にして、譬喩の意で下につながるものをも捉えて、この部に加えてもいたのである。
それをしたと異ならない時代において、他方には本巻のごとき歌が存在していたのである。本巻の歌は、これを譬喩歌と見ようとすればそう見られるものが実に多く、そのやや巧みなものは、雑歌と相聞の差別がつけにくく、編者のつけている差別も、誤っているのではないかと疑われるものが実際にある程度はある。
しかしこれは、誤りというよりも、むしろ当然のことである。人間と自然とを一つの気分に融合させてしまうと、実際にその間に差別が付けられなくなる。今、相聞の歌について見ても、その二句あるいは三句を序詞としているとすると、その序詞はこの時代の要求に従って必ず眼前を捉えているものである。加えてその序詞は、これもこの時代の要求として、一首全体の上に気分として調和をもっていなければならない。そうなるとその歌は、いわんとすることは恋情であるが、いっていることは眼前の叙述にいささかの恋情めいたものを絡ませた程度にすぎないものとなり終わるのである。これを相聞と見るには、あまりにも雑歌に接近したものである。他方、雑歌として詠んである歌も、それに人間的気分をもたせることが多いので、迎えて見ると相聞かと思われるものが多いので、上にいった相聞も、あるいは雑歌のやや気分をもたせすぎたものではないかと思わしめるものである。
気分の範囲は狭い。一つの気分を詠み生かそうと思うと、勢い微細となり、繊細となりまた隠約なものとなる。また表現の形の上からいうと、相聞は、雑歌にわたり、雑歌は、相関にわたって、横の拡がりをもったものとなってくる。いわゆる余情を重んじた形となってゆく。相聞と雑歌の混淆はじつはこのためであって、まことに当然のことである。
編者は本巻と巻第十の二巻を、四季の雑歌と相聞とのみで編んでいる。この時代には挽歌はすでに無力なものとなっていた。歌を一種の気分の所産と解し、したがって取材の範囲も狭きを妨げないものとしていた奈良朝中期にあっては、歌というものはこれで十分であるとし、またこれに尽きるものとしていたのではなかろうか。
自身の生存問題が不断の関心事となり、それに没頭しつつも、歌をそれとの関係において必要欠くべからざるものと観じていた時代には、一方ではその美化を念としつつも、第一義としての実用性という上に立って作歌をしていた。溯っての時代の歌はすべてそれであった。日常生活が安易となるに伴って、歌は実用性の面が後退し、美化という従属的の面のみが前進して、奈良朝中期に至ると、純文芸性のものとなってきた。その推移変化の跡を部分的にではあるがこの巻は示しているのである。
本巻の編者は、大伴家持だろうと推定されている。そのおもなる理由は、採録している歌の数である。最も歌数の多い人は、(9)大伴氏を除いては、山上憶艮の十四首、山部赤人の六首、聖武天皇、湯原王、笠金村の各々五首であるのに、大伴氏一族のものは、旅人は同じく五首であるが、坂上郎女は二十首、田村大嬢のごときも五首、家持は五十一首の多きに上っているのである。さらにまた、奈良朝の歌には、その作られた時、作因など、かなりに明らかにされているが、大伴氏一族の歌に限って、いうに足りないほどの作にも委しい左注を加えて、その作因を明らかにしているのである。これらのことは、家持以外の者にはできないことと思われるのである。この他にまた、本巻の編集態度は、家持の編纂だと推定されている巻第三、四、六の三巻と揆を一にしており、別手に成ったものとは思われないことも、相俟って家持編纂ということを推定させているのである。なおその点については、そのことを暗示する歌について述べているので、繁を避けてここには繰り返さない。
(20)他田広津娘子の歌一首 183
大伴宿禰駿河暦の歌一首 183
紀少鹿女郎の歌一首 184
大伴田村大娘、妹坂上大娘に与ふる歌一首 185
大伴宿禰家持の歌一首 185
(21) 春雑歌《はるのざふか》
志貴皇子《しきのみこ》の懽《よろこび》の御歌《みうた》一首
【題意】 「志貴皇子」は、巻一(五一)巻二(二三〇)に出た。この名の皇子は天智天皇の皇子にも天武天皇の皇子にもあっていずれか明らかでない。これは天智天皇の皇子と思われる。光仁天皇の御父で、薨去は、霊亀元年九月であることが巻二の歌で知られるが、続日本紀によれば、霊亀二年八月としている。なお巻二(二三〇)によって、宮は春日にあったことが知られる。
「懽」というのは、いついかなるものであったかはわからない。天武天皇以来、皇位はその御血脈の方が継承されたので、皇子は世に現われなかったが、皇室の待遇は薄くはなかったことが続日本紀で知られる。
1418 石灑《いはそそ》ぐ 垂水《たるみ》の上《うへ》の さ蕨《わらび》の 萌《も》え出《い》づる春《はる》に なりにけるかも
石灑 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成來鴨
【語釈】 ○石灑ぐ 「灑」は類聚古集による。諸本「激」となっており、「いはばしる」である。いずれも用例のあるもので、定め難い。一首の気分との調和の上から見て「灑」に従う。「垂水」にかかる枕詞。○垂水の上のさ蕨の 「垂水」は、垂れ落ちる水で、滝の古名。『代匠記』はこれを固有名詞と見、摂津国豊島郡(大阪府吹田市垂水、垂水神社付近)にありとし、継承されてきたが、近来は普通名詞と見るようになった。地名とすると下の続きが不穏当のものとなるからである。普通名詞としての用例が多く、宮は春日にあったのであるから、小さな垂水は見やすいものでもあったろう。「上」は落ち口の上。○なりにけるかも 「なり」は、移りかわる意。「に」は完了。「けるかも」は、過去の助動詞に「かも」の詠歎の接続したもので、強い感動を託したもの。初出のものである。
【釈】 垂水の落ち口の上の蕨が、萌え出して来る春になってきたことであるなあ。
【評】 歌で見ると、「垂水」は平常見なれているもので、また「さ蕨」のその上にあることも知っていられたものと思われる。長い冬が続いて、まだ春とも覚えぬある日、冬枯の蕨が芽を出しているのを見出で、それに明らかに春のきざしを捉えると、そこに言い難い深い懽びを感じられたのであって、その感が結句の「なりにけるかも」によってあらわされているのである。(22)形としては春の立ちかえってきた懽びであるが、単にそれだけではなく、余って溢れるもののあることな感じさせる。その点を強調すると、皇子の胸に深い懽びがあって、それがたまたま目に入った萌え出したさ蕨によって具象されたものとも見られる。言いかえるとその時の気分がさ蕨を譬喩としてあらわされているとも見られるのである。しかしこれは余情を強調したものであって、強調にすぎるともいえるものである。歌そのものは、春の立ちかえった懽びをおおらかに詠まれた形のもので、在来の豊かな気分を、たまたま発見されたさ蕨という素朴な物に集中して詠み生かしたので、おのずから余情が添い、その余情が読む人の連想を喚ぶものと思われる。きわめて気品の高い作である。
鏡王女《かがみのおほきみ》の歌一首
【題意】 「鏡王女」は、巻二(九一)に出た。藤原鎌足の嫡室である。天武天皇の十二年七月薨じられた。
1419 神奈備《かむなび》の 伊波瀬《いはせ》の社《もり》の 喚子鳥《よぶこどり》 いたくな鳴《な》きそ 吾《わ》が恋《こひ》まさる
神奈備乃 伊波瀬乃社之 喚子鳥 痛莫鳴 吾戀益
【語釈】 ○神奈傭の伊波瀬の社の 「神奈備」は、神の社で、名詞。神霊の降り給う所。飛鳥と竜田の神奈傭とが代表的なものであったが、ここは竜田。「伊波瀬の社」は、奈良県生駒郁斑鳩町立田の西南方であるという。○喚子鳥 今のかっこう鳥かという。それだと、初夏に渡って来る鳥で、鳴く時は長く同一の場所にあって、訴えるような声で繰り返し鳴き続ける。○いたくな鳴きそ吾が恋まさる 「いたくな鳴きそ」は、甚しくは鳴くなと、禁止したもの。「いたく」とは、いつまでも繰り返して鳴くからである。「吾が恋まさる」は、その声に刺激されて募ってくる意。
【釈】 神奈備の伊波瀬の社に鳴いている喚子鳥よ。そのように甚しくは鳴くな。わが人を恋い待つ心が増さってくる。
【評】 「神奈備の伊波瀬の社」は、喚子鳥の鳴いている場所をいっているのであるが、それとともにその声を重くいおうとしてのものである。喚子鳥をカッコウとすれば、今でも物思わしい人は思いをそそられる感がしよう。実感の直写とはみえるが、線の太い、荒さを思わせる歌である。
駿河采女《するがのうねめ》の歌一首
(23)【題意】 「駿河采女」は、駿河国から召された采女である。巻四(五〇七)の歌もある。
1420 沫雪《あわゆき》か はだれに零《ふ》ると 見《み》るまでに 流《なが》らへ散《ち》るは 何《なに》の花《はな》ぞも
沫雪香 薄太礼尓零登 見左右二 流倍散波 何物之花其毛
【語釈】 ○沫雪かはだれに零ると 「沫雪」は、沫のごとき雪で、雪の状態の柔らかなのをいったもの。主として春の雪をいっているが、冬の雪にもいう。「か」は、係助詞。「はだれ」は、まだらともいう。雪の薄く降る状態。○流らへ散るは何の花ぞも 「流らへ」は、流るの継統。「流る」は、古くは雨の降り、風の吹く状態にもいった。縦の移動にもいったのである。ここは、空から花の散り続けている状態。「散る」は、「流らへ」を繰り返して、強くいったもの。「何の花ぞも」は何の花ぞで、雪に似た純白な花は梅の花であるが、その盛んに散るさまを訝《いぶか》っていったもの。
【釈】 沫雪が斑らに降るのかと見えるほどに、空から落ちつづけて散っているのは、何の花であるぞ。
【評】 白梅の花が盛んに散っているさまを見て、ふと何の花だろうかと訝った心である。事として見ず、状態として見て、その印象をいっているのは、気分を重んじる傾向になっていたからで、それが奈良京の新風だったのである。梅の花の散り方としては誇張されたものであるが、気分になし得ているので、わざとらしさや厭味のないものとなっている。
尾張連《をはりのむらじ》の歌二首 名闕く
【題意】 「尾張連」は、「尾張」は、氏。「連」は、姓で、名はわからない。
1421 春山《はるやま》の 開《さ》きのををりに 春菜《わかな》採《つ》む 妹《いも》が白紐《しらひも》 見《み》らくしよしも
春山之 開乃乎爲里尓 春菜採 妹之白紐 見九四与四門
【語釈】 ○春山の開きのををりに 「開きのををり」は、「開き」は「咲き」で、名詞形。「ををり」は、巻三(四七五)にも「花咲乎為里《ハナサキヲヲリ》」と出ている字である。「ををり」は、花の重みで枝が撓む意。「花」は桜で、桜が咲き撓んで。○春菜採む妹が白紐 「春莱」は、旧訓「わかな」。野生の雑草の食料になりうる物の総称。「妹」は、女の総称としてのもの。「白紐」は、衣の上着に結んでいいる紐。○見らくしよしも 「見らく」は、「見(24)る」の名詞形。「し」は、強意。「よし」は、愛でたい意。
【釈】 春の山の桜の枝も撓んでいるところに若菜を摘んでいる妹の、衣の白紐が見る目によいことよ。
【評】 桜の花の盛りに咲いている山を背後にして、若菜を摘んでいる妹を、やや距離を置いて見やって、それとこれとを一体として感じているものである上に、桜の色と対照させて妹の白紐を印象の中心としているものである。気分という中でも、色彩の与える気分を中心としている特殊なものである。この歌には柔らかな気分以外の何ものもない。奈良京の新傾向の尖端を行っている歌といえるものである。
1422 打靡《うちなび》く 春《はる》来《きた》るらし 山《やま》の際《ま》の 遠《とほ》き木末《こぬれ》の 咲《さ》き往《ゆ》く見《に》れば
打靡 春來良之 山際 遠木末乃 開徃見者
【語釈】 ○打靡く春来るらし 「打靡く」は、春の草木の柔らかく靡く意で、春の枕詞。○山の際の遠き木末の 「山の際」は、山と山の間の。「遠き木末」は、奥まったほうの、木の梢。○咲き往く見れば 次第に咲き拡がってゆくのを見れば。
【釈】 春が来ているのであろう。ここから見える山あいの奥まったほうの梢が、次第に花と咲き拡がってゆくのを見ると。
【評】 春の来たのを喜ぶ心であるが、「山の際」以下、現象に即して細かにいっているので、事実がおのずから気分となり、そのために生かされて、味わいのあるものとなっている。前の歌と同系のものである。
中納言|阿倍広庭《あべのひろには》卿の歌一首
【題意】 「阿倍広庭」は、巻三(三〇二)に出た。右大臣|御主人《みうし》の子で、天平四年二月、七十四で薨じた。
1423 去年《こぞ》の春《はる》 いこじて植《う》ゑし 吾《わ》が屋外《やど》の 若樹《わかぎ》の梅《うめ》は 花《はな》咲《さ》きにけり
去年春 伊許自而殖之 吾屋外之 若樹梅者 花咲尓家里
【語釈】 ○いこじて植ゑし 「いこじ」は、「い」は接頭語。「こじ」は、根を掘り取る意で、今も「こぐ」という語になって行なわれている。「植(25)ゑし」は、移し植えた恋。○花咲きにけり 「けり」は、詠歎で、喜びの心をあらわしたもの。
【釈】 去年の春、根こぎにして移し植えたわが庭の若木の梅は、この春は花が咲いたことであるよ。
【評】 梅の木は、奈良京の初め頓には、まだ新味をもっていた木で、鑑賞の上で代表的なものであった。花の咲いた喜びは、その意からである。言いあらわしの平明なのは、新風であるが、大まかな点は、古風の残っているものである。
山部宿禰赤人の歌四首
1424 春《はる》の野《の》に すみれ採《つ》みにと 来《こ》し吾《われ》ぞ 野《の》をなつかしみ 一夜《ひとよ》宿《ね》にける
春野尓 須美礼採尓等 來師吾曾 野乎奈都可之美 一夜宿二來
【語釈】 ○すみれ採みにと来し吾ぞ 「すみれ」は、菫である。『略解』は、衣を摺る料《しろ》にしたのであろうといっている。その用に堪える花はすべてその染料に当てたとみえるから、紫の色をした菫は愛されも重んじもされたろう。妻のためのことと思われる。○野をなつかしみ その野がなつかしさにで、菫の花の咲いている野に、強い愛着を感じた意である。野は広く、花は限りなくあることを背後に置いての言葉と取れる。〇一夜宿にける 「一夜」は、その夜の意。「ける」は係の結。寝たことであった。
【釈】 春の野に、染料としての菫を摘みに来た吾は、その野のなつかしさに、一夜をそこで寝たことであった。
【評】 菫に対する深い耽美《たんび》気分を、できるだけ抑制した静かな形であらわした歌である。「春の野にすみれ採みにと来し吾ぞ」は、染料としてそのある野に採みに行った意で、これは実用としてのことである。しかるにその野に行って、魅力の多い紫色をした、しかも可憐な花の咲き拡がっているのを見ると、立ち去ることかできなくて、一夜をその野に寝てしまったというので、ここに至って初めて耽美気分をいっているのであるが、す(26)べてを過去のこととし、しかも気分そのものをあらわそうとはせず、自身の行動の変化を叙することによって、間接に暗示する形であらわしているのである。調べもそれにふさわしい、静かな澄んだものである。一首甚しい耽美気分をいっているがごとくにみえて、読後それとも言い切れないものを残すのほ、取材の扱い方と調べとがさせているのである。人口に膾炙《かいしゃ》しているほどにすぐれている作ではないが、赤人の面目をもっている歌である。
1425 あしひきの 山桜花《やまざくらばな》 日《ひ》並《なら》べて かく咲《さ》きたらば いと恋《こ》ひめやも
足比奇乃 山櫻花 日並而 如是開有者 甚戀目夜裳
【語釈】 ○日並べてかく咲きたらば 「日並べて」は、日を重ねてで、幾日も。「かく咲きたらば」は、このように咲き続けているのであれば。○いと恋ひめやも 「いと」は、甚しく。「恋ひ」は、憧れ。「や」は、反語。「も」は、詠歎。
【釈】 山桜の花は、日を重ねてこのように咲いているのであれば、かく甚しく憧れようか、憧れはしないことだ。
【評】 其盛りの山桜花を眺めつつ、その盛りの短いことを思い、限りない憧れの心を寄せているものである。「かく」といい、「いと」といい、さらに「めや」といって、その憧れの程度をあらわしているのである。これは平安朝に入ると限りなく繰り返された心であるが、その時代の散るを惜しむという意識は、ここには強く働かず、眼前の花に心を打ち込んで、「見れど飽かぬ」を憧れにまでもってゆくという、積極的な心としていっているのである。時代の相違といえる。線は細いが調べが張っていて、品をもった歌である。
1426 吾《わ》が背子《せこ》に 見《み》せむと念《おも》ひし 梅《うめ》の花《はな》 それとも見《み》えず 雪《ゆき》の零《ふ》れれば
吾勢子尓 令見常念之 梅花 其十方不所見 雪乃零有者
【語釈】 ○吾が背子に見せむと念ひし 「吾が背子」は、本来女より男を最も親しんで呼ぶ称であるが、転じて男同志の間にも用いられるに至ったもので、用例が少なくない。これはそれである。「見せむと念ひし」は、見せようと思っていたで、美しいものを、親しい者とともに見ようとするのは本能で、これもその範囲のことである。対象は梅の花で、新味をもっていたものである。○それとも見えす雪の零れれば 「それとも見えず」は、梅は白梅であるので、下の「雪」と紛れて、梅の花とも見分けられない意。「零れれば」は、「零る」と完了の助動詞「り」の各已然形に、助詞「ば」の接したもの。
(27)【釈】 わが親しい友に見せようと思っていた梅の花は、その花とも見わけられない。花の上に雪が降っているので。
【評】 庭の白梅の花に、雪の降って釆て積もっているのに対し、予期に反した嘆きをいっているものである。梅の花に対する深い愛着が根本になり、それの人間生活にまで拡がったものを、眼前の雪によって綜合し、単純化したものである。清純な、ある深みをもった歌で、赤人という人を思わせる作である。
1427 明日《あす》よりは 若菜《わかな》採《つ》まむと 標《し》めし野《の》に 昨日《きのふ》も今日《けふ》も 雪《ゆき》はふりつつ
從明日者 春菜將採跡 標之野尓 昨日毛今日毛 雪波布利管
【語釈】 ○明日よりは若菜採まむと 「若菜」は、「菜」は副食物の総称で、ここは野に自生する雑草で、食料に堪える物の総称である。古くはそうした雑草の範囲は、今日よりは広く、種類が多かったとみえる。「若菜」は、実用品であり、またそれを摘むことは興味のあるもので、一種の行楽であったともみえるが、若菜は神事にも用いた物で、その上での必要品であったとも取れる。ここは、「明日よりは」と日を限り、また「標めし野」ともいっているので、自身の食料のために、また行楽の意で摘む物ではなく、神事関係の物ではないかと思われる。○標めし野に 「標め」は、わが占有している物とのしるしを付けることで、最も一般的な方法は繩を引き渡すことである。ここはそれかと思われる。それをしておいた野にの意。自生の雑草であるから、野の随所に摘める物で、標をする必要のないことに思われるのに、それを重くいっているので、上のことを思わせられる。○昨日も今日も雪はふりつつ この語《ことば》も、若菜を自家の物、行楽のための物とすると、「昨日も今日も」という言い方は、事に合わせては誇張のある、不自然なものとなる。神事の必要品として、その上での焦燥と思われる。
【釈】 明日からは、若菜を摘もうと思って、あらかじめ標《しめ》をしておいた野に、昨日も今日も、雪が降りつづけていることであるよ。
【評】 若菜摘みということを中心に、「明日」「昨日」「今日」と、細かく刻んだ日を関係させ、それによって焦燥の感をあらわしたものである。この作者の歌としては、事というよりも、事を刻んで言いすぎているものであり、感を主としていおうとする風とは対蹠的に異なっているものである。しかしこれを、この当時一般に行なわれていた神事関係の若菜摘みとし、その事は触れていうに及ばないものであり、いうことのほうがかえって不自然なものであったとすれば、この言い方は、これよりほかには方法のない、妥当なものとなり、事に対しての焦燥感を具象したものとなってくる。上の三首に較べて、性質を異にした歌である。
(28) 草香山の歌一首
【題意】 「草香山」は、大和国と河内国との国境の山で、生駒山の西方にあり、奈良から難波への通路にあたっている。今は難波より奈良へ向かって越す山としていっている。大阪府枚岡市に日下町の名が残っている。
1428 押照《おして》る 難波《なには》を過《す》ぎて 打靡《うちなび》く 草香《くさか》の山《やま》を 夕暮《ゆふぐれ》に 吾《わ》が越《こ》え来《く》れば 山《やま》もせに 咲《さ》ける馬酔木《あしび》の 悪《あ》しからぬ 君《きみ》を何時《いつ》しか 往《ゆ》きて早《はや》見《み》む
忍照 難波乎過而 打靡 草香乃山乎 暮晩尓 吾越來者 山毛世尓 咲有馬醉木乃 不惡 君乎何時 徃而早將見
【語釈】 ○押照る難波を過ぎて 「押照る」は、難波の枕詞。巻三(四四三)に出た。「難波を過ぎて」は、難波を途中の地として通過してで、海路を終えて、奈良に向かう意と取れる。○打靡く草香の山を 「打靡く」は、草の状態として、それにかかる枕詞。○夕暮に吾が越え来れば 「来れば」は、現在だと、「往けば」という意であるが、奈良を目的地として、そこを中心としている関係上、当時の語法としていっているもの。○山もせに咲ける馬酔木の 「山もせに」は、「せに」は「狭に」で、山も狭いまでに、すなわち全面的に。「馬酔木」は、旧訓「つつじ」。『略解』の訓。今のあせぼで、既出。花は大部分のものは白色で、小さな壷の形をしたものが群らがり咲いて、房をなし、咲くのは春である。山野に自生する木であるが、畿内地方にはことに多い木である。この二句は、上よりの続きは、その花の白色なところから、「夕碁」の微光の中でも印象的に見える意で続き、下へは、「馬酔木」の「あし」を、同音反復で「悪し」に続け、その序詞としたものである。○悪しからぬ君を何時しか 「悪しからぬ」は、『童蒙抄』の訓。「悪しからぬ君」は、憎くない妹。「何時しか」は、いつかいつかで、早くの意。○往きて早見む 京の家へ往って早く見ようで、「早」は、上の「何時しか」を、語を変えて繰り返したもの。
【釈】 難波の地を途中の地として通り過ぎて、草香山を夕暮れに越して京の家へと向かって行くと、そこの山も狭いまでに咲いている馬酔木の、その名に因む悪しくはない君を早く、その家に行って早く見よう。
【評】 この長歌は、民謡集である巻十三に多い、いわゆる道行風《みちゆきふう》の歌である。その経過する地点を次々にいい、その地点で心に触れ来たる事象を、妹に繋《つな》ぎ繋ぎする形式のもので、庶民階級には特に親しまれていたと思われる形のものである。この歌では、その心に触れてきた事象は、草香山に一面に咲いていた馬酔木の花である。これは春の花で、「夕暮に吾が越え」といっているので、春の夕影の中に、その白い花は印象的に見えたものと取れる。花の種類の少なかった上代では、馬酔木の花を(29)美しく魅惑的な物と見ていたとみえ、その心をいった歌が少なくなく、この作者も同じ感を起こして、長い旅路で恋うていたその妹を連想させられたことと思われる。この歌も型に従ってそれをしているが、その繋ぎ方は最も間接な序詞という方法によって繋ぎ、「馬酔木の悪しからぬ」という言い方をしているのである。これはきわめてこなれた、巧みな方法というべきである。「悪しからぬ」という消極的な言い方も、この場合、巧みなものというべきである。また、「君を何時しか」といい、続けて「往きて早」と、語を換えて繰り返しているのも、これまた民謡的な言い方で、この場合結尾であるので、ことに利いているものである。長歌形式ではあるが、純民謡的なもので、したがって特殊な、愛すべき長歌である。
右の一首は、作者|徴《いや》しきに依りて名字を顕《あらは》さず。
右一首、依2作者微1、不レ顯2名字1。
【解】 撰者には作者の名字がわかっているのであるが、名字は、いっているように姓もない身分の卑しい者であるゆえに、わざとあらわさないというのである。それはこの巻の歌は、すべて奈良京における廷臣の歌のみであるから、それとの釣合上あらわさないという意に取れる。歌の排列は、撰者からいうと年代順になっており、この歌は、その作の年代からいうと、ここにあるべきものとしたとみえる。こうした断わりを添えてこの歌を採録しているのは、編集者の歌に対する愛着が、この歌を捨てるに忍びなかったためと思われる。庶民の歌才と、撰者の歌に対する愛着を思わせる注である。
桜花の歌一首 并に短歌
1429 ※[女+感]嬬《をとめ》らが 挿頭《かざし》のために 遊士《みやびを》が 蘰《かづら》のためと 敷《し》きませる 国《くに》のはたてに 咲《さ》きにける 桜《さくら》の花《はな》の にほひはもあなに
※[女+感]嬬等之 頭挿乃多米尓 遊士之 蘰之多米等 敷座流 國乃波多弖尓 開尓鷄類 櫻花能 丹穗日波母安奈尓
【語釈】 ○挿頭のために 「挿頭」は下の「蘰」とともに、上代は儀式の物であったが、後には装飾となり、また宴遊の際の物となった。ここは後(30)の意のもの。○遊士 風雅を解する人。○敷きませる国のはたてに 「敷きませる」は、天皇の領したもうの意。「国」をいうために冠させたもの。「国」は、国土。「はたて」は涯《はて》の意で、「はたてに」は、涯までにで、全土にわたって。○にほひはもあなに 「にほひ」は、色の現われる意。「はも」は、詠歎。「あなに」は、「あな」は、甚しい感歎。「に」は助詞。
【釈】 若い女たちの挿頭になるために、またみやびおが蘰になるためにと、天皇の領したもう国土の涯までも咲いている桜の花の色のいみじさよ。
【評】 この歌は左注によって、酒宴の席上で誦したものと思われるが、思想的に見て特殊なものである。最も美しい意味で春の花を代表している桜花は、おとめらとみやびおを飾るために存在している物で、それ以外の物ではないとしているのである。すなわち宴席のおとめの挿頭、みやびおの蘰になるのが存在目的であって、そしてこの花は天皇の領したもう全国土に咲いているというのである。そういって、最後に、「にほひはもあなに」と絶讃しているのである。
反歌
1430 去年《こぞ》の春《はる》 あへりし君《きみ》に 恋《こ》ひにてし 桜《さくら》の花《はな》は 迎《むか》へけらしも
去年之春 相有之君尓 戀尓手師 櫻花者 迎來良之母
【語釈】 ○去年の春あへりし君に 「あへりし君」は、「君」は男の総称で、逢った君の意。主格は下の「桜の花」で、桜の花が逢った君。「逢ふ」は、人が桜の花を愛でてその下に来たのを、桜を擬人していっているのである。○恋ひにてし桜の花は 「恋ひにてし」は、用例の稀れな続きである。「に」は完了の助動詞「ぬ」の連用形、「て」は接続助詞、「し」は強意の助詞で、「てし」と接続する形は宜命に多いものである。恋うてで、桜の花が君を恋うて。○迎へけらしも 桜の花が君を迎えに来たらしい。
【釈】 去年の春、逢ったことのある君を恋うて、桜の花は、君を迎えに釆たのであるらしいよ。
【評】 長歌で、人と桜の花との間に密接不可分の関係を付けたのをうけ、ここでは桜の花のほうを主格としてさらに人間に結びつかせたのである。「迎へけらしも」は、長歌で、「咲きにける桜の花」といっているので、時の上でそれに相応させたものである。謡い物にふさわしい奇抜な言い方をしたので、それとしての新風を高度に示しているものである。
右の二首は、若宮《わかみや》の年魚麿《あゆまろ》の誦《うた》へる。
(31) 右二首、若宮年魚麿誦之。
【解】 この長歌と反歌との二首は、若宮年魚麿の誦った歌を記録したものだというのである。年魚麿の誦ったために残った歌は、すでにしばしば出ており、巻三(三八七)「仙柘枝《やまびとつみのえ》の歌三首」の中の一首、「古《いにしへ》に梁打つ人の」、続いて(三八八)「羈旅の歌一首并に短歌」など、集中でも特殊に属する歌を伝えているのである。歌を博く記憶していて謡った人とみえる。ここの二首の歌のごときは最も新しい歌と思われるが、年魚麿によって初めて紹介されたものとみえる。編集者がこれを採録している心は、上の草香山の歌と同じであったろう。
山部宿禰赤人の歌一首
1431 百済野《くだらの》の 萩《はぎ》の古枝《ふるえ》に 春《はる》待《ま》つと 居《を》りし鶯《うぐひす》 鳴《な》きにけむかも
百濟野乃 芽古枝尓 待春跡 居之※[(貝+貝)/鳥] 鳴尓鷄鵡鴨
【語釈】 ○百済野の萩の古枝に 「百済野」は、奈良県北葛城郡広陵町百済付近の野。曽我川、葛城川、二川に挟まれた野である。今、百済寺がある。「萩の古枝」は、萩の去年の枝で、葉のない小枝ばかりの物。○春待つと居りし鶯 「春待つと」は、春の来るのを待つとて。「居りし」は、とまっていた。○鳴きにけむかも すでに鳴いたことであろうかと、春が来たところから推量したもの。
【釈】 百済野の去年の萩の古枝に、春の来るのを待ってとまっていた鶯は、もう鳴いたことであろうかなあ。
【評】 眼前の春の光景を見て、まだ冬であった頃、ふと見かけた百済野の萩の古枝の中にいた鶯を思い出して、あの鶯もすでに鳴いたであろうかと想像した心で、「鳴きにけむかも」ということによって立ち返って来た大和の春光を思わしめる歌である。目に見ぬ鶯の状態を想像するだけで、自身には全く触れず、広い春光を思わせるという、赤人の隠微なものを詠み生かす手腕を十分に示している作である。印象の鮮明さも、同じく赤人のみのものである。
大伴坂上郎女の柳の歌二首
1432 吾《わ》が背子《せこ》が 見《み》らむ佐保路《さほぢ》の 青柳《あをやぎ》を 手折《たを》りてだにも 見《み》しめてもがも
(32) 吾背兒我 見良牟佐保道乃 青柳乎 手折而谷裳 見綵欲得
【語釈】 ○吾が背子が見らむ佐保路の 「吾が背子」は、本来女よりその夫を親しんで呼ぶ称であるが、ここは単に親しい男に対しての称としてのものである。それはこの歌は、郎女が兄旅人のいる大宰府にあっての歌で、夫はなかったからである。「見らむ」は、「見るらむ」の古形。「佐保路」は、ここは佐保へ往く路の意のもので、下の「青柳」の位置をいっているものである。「佐保」は、しばしば出た奈良の佐保で、そこは郎女にとっては、父安麿以来の邸宅のある地で、大宰府にある身にとっては、なつかしい故郷への路なのである。○青柳を 道に沿って立っていた物と取れる。○手折りてだにも見しめてもがも 「手折りてだにも」は、折り取ってだけでもしてで、折り取った枝だけでも。「手」は接頭語。「見しめてもがも」は、「見しめ」は、訓はさまざまで、定まらない。『定本』は「見しめ」と訓んでいる。日本書紀に、「綵絹」を「しみのきぬ」と訓んでいるのを証として、「綵」を「しめ」の訓仮字としたのである。「もがも」は、願望。
【釈】 わが背子が見るであろうところの、佐保への往還の青柳を、折り取ったものだけでも見せて欲しい。
【評】 大宰府にいて、奈良京へ上ろうとする近親の男の人に向かって詠んだ歌である。故郷である奈良の佐保のあたりの恋しさから、そこへ往く路に添って立っている青柳を思い浮かべ、せめてその枝の折ったものでも見せて欲しいというのである。安らかに、撓《たお》やかにいって、その気分をばあらわしているもので、才情を示している歌である。
1433 打上《うちのぼ》る 佐保《さほ》の河原《かはら》の 青柳《あをやぎ》は 今《いま》は春《はる》べと なりにけるかも
打上 佐保能河原之 青柳者 今者春部登 成尓鷄類鴨
【語釈】 ○打上る佐保の河原の 「打上る」は、「打」は接頭語。「上る」は、高地へ向かって行く状態で、下の「佐保」の地勢を叙したもので、上りとなっている。「佐保の河原」は、佐保川の河原。○今は春べとなりにけるかも 「春べ」は、春の方であるが、春の意でいっているもの。「なりにけるかも」は、上の(一四一八)に出た。
【釈】 上《のぼ》りになっている佐保川の河原の青柳は、今は春のさまとなってきたことであるよ。
【評】 前の歌に続けて、佐保路の青柳に思いを集めていっているものである。「今は」というのは、その時の日取りからいっているもので、今頃はというと同じく、その地に馴れている身とて、想像によって、目に見ると同じ確信をもって言いうることである。「春べとなりにけるかも」と、力をきわめてその愛でたさ美しさをいっているのは、とりもなおさず故郷なつかしさの心なのである。路傍の青柳に対して異常なる昂奮をいうことによって、思郷の念の強さを暗示しているのは、前の歌にも(33)まさった才情の現われである。
大伴宿禰|三林《みはやし》の梅の歌一首
【題意】 「三林」は、伝が未詳。歌もこの一首のみである。
1434 霜雪《しもゆき》も いまだ過《す》ぎねば 思《おも》はぬに 春日《かすが》の里《さと》に 梅《うめ》の花《はな》見《み》つ
霜雪毛 未過者 不思尓 春日里尓 梅花見都
【語釈】 ○霜雪もいまだ過ぎねば 霜や雪の季節もまだ過ぎないのに。○思はぬに 思い寄らないのに。
【釈】 霜や雪の降る季節もまだ過ぎないのに、思いもかけず、春日の里に梅の花の咲いているのを見た。
【評】 一つの事実を、軽く平明に叙した歌である。こうした傾向の歌が奈良京時代には相当に多く見えるのである。これは従前の、事実を通して気分をあらわすという風を古しとして、事実の起こさせた気分のほうを主として、それをあらわすために事実をいうという新風に繋がりをもった風である。すぐれた作者は、この気分本位の作風によって新味を発揮し得たが、劣った作者は、ただ事実を軽く扱うことよりほかはできなかったので、勢いこの歌に見るがごときものとなってきたのである。さすがに厭味のないのは、実際に即した詠み方をしているからである。
厚見王《あつみのおほきみ》の歌一首
【題意】 「厚見王」は、系譜未詳である。奈良時代末期の人。巻四(六六八)に出た。
1435 かはづ鳴《な》く 甘南備川《かむなびがは》に 影《かげ》見《み》えて 今《いま》か咲《さ》くらむ 山振《やまぶき》の花《はな》
河津鳴 甘南備河尓 陰所見而 今香開良武 山振乃花
(34)【語釈】 ○かはづ鳴く甘南備河に 「かはづ」は、今の河鹿。清い渓流に住み、初夏の頃から涼しい声に鳴く。「甘南傭河」は、上の(一四一九)に出た。「甘南備河」は、甘南備である山に沿って流れる河の称で、竜田の竜田川にも、雷岳の飛鳥川にもいえる称である。ここはそのいずれかわからない。○形見えて 「見えて」は、その影が映って見えて。○今か咲くらむ山振の花 「今か」の「か」は、疑問の係。今は咲いていようか。「山振」は、山吹。
【釈】 河鹿の鳴く甘南備河に影が見えて、今は咲いていようか、岸の山吹の花は。
【評】 山吹の花の咲く頃、以前に見たことのある甘南備河の岸の山吹の花を思い出した歌である。「かはづ鳴く甘南傭河」という清らかさを思わせる渓流と、その水に影を映して咲く山吹の花とを一緒にして、印象の鮮明な一幅の画に近い光景を描き出しているのである。平面的で、印象的である画のような歌が、全体としては柔らかみを帯び、また立体感に近いある深みをも帯びている点がこの歌の特色である。これは思い出の歌であって、当然気分本位のものとなっているので、その気分本位ということが、おのずからそうした趣を帯びさせたのである。これは言いかへると、奈良京時代の新風というものが、いかなるものであるかということを、実証的に示している歌といえるものである。河鹿の鳴く季節と山吹の咲く季節とはある程度のずれがあって、不自然な取合わせであるが、さして目立たないのも、気分本位のさせていることである。この歌は平安朝時代に愛された作である。
大伴宿禰|村上《むらかみ》の梅の歌二首
【題意】 宝亀二年に従五位下・肥後介となり、同三年従五位上で阿波守となった人である。
1436 含《ふふ》めりと 言《い》ひし梅《うめ》が枝《え》 今朝《けさ》零《ふ》りし 沫雪《あわゆき》にあひて 咲《さ》きにけむかも
含有常 言之梅我枝 今旦零四 沫雪二相而 將開可聞
【語釈】 ○含めりと言ひし梅が枝 「含めり」は、蕾んでいるの意。「言ひし」は、人がいったで、その人の家の梅。「梅が枝」は、梅の花の意で、歌語と見るべきもの。○今朝零りし沫雪にあひて 「沫雪」は、沫のような、大形の雪で、春の雪。「あひて」は、梅を擬人に近い意でいっているもの。
【釈】 まだ蕾んでいると人がいった、その家の梅の枝は、今朝降った雪に逢って咲いたであろうか。
(35)【評】 梅の花に対してのあこがれであるが、そのあこがれはむしろ、「沫雪にあひて咲きにけむ」という情趣にある。梅と鶯、萩と鹿というごとく、自然物そのものの中に人間性を連想して、そこに情趣を感じようとする傾向の中のものである。自然を人間生活に取り入れようとする、人間中心の気分の現われで、当時の人のもった生活気分を反映したものである。
1437 霞《かすみ》立《た》つ 春日《かすが》の里《さと》の 梅《うめ》の花《はな》 山《やま》の下風《あらし》に 散《ち》りこすなゆめ
霞立 春日之里 梅花 山下風尓 落許須莫湯目
【語釈】 ○霞立つ春日の里の 「霞立つ」は、同音の反復で「春日」にかかる枕詞であるが、文字の上での繋がりももち、叙述ともなっているものである。○山の下風に散りこすなゆめ 「山の下風《あらし》」は、『童蒙抄』の訓。用例のある訓である。「山」は、春日山。「こす」は、希求の意。助動詞のやうに使用したもの。「散りこすな」は、散るな。
【釈】 春日の里の梅の花は山から吹き下ろすあらしのために散るなよ、けっして。
【評】 歌の型に従っていうことによって、一般的な心がある程度の趣あるものになっている歌である。短歌形式の長所と短所を同時に示しているものである。
大伴宿禰駿河麿の歌一首
【題意】 「駿河麿」は、巻三(四〇〇)に出た。
1438 霞《かすみ》立《た》つ 春日《かすが》の里《さと》の 梅《うめ》の花《はな》 はなに問《と》はむと 吾《わ》が念《おも》はなくに
霞立 春日里之 梅花 波奈尓將問常 吾念奈久尓
【語釈】 ○霞立つ春日の里の梅の花 意は上の歌と同じであるが、これは、下の「はな」に同音反復の関係でかけている序詞である。しかし単に音の上だけのものではなく、「春日の里」な女の住地、「梅の花」は女を暗示するものにして、気分の上で繋がりをつけているものである。季節も関係させている。○はなに問はむと吾が念はなくに 「はなに」は、花にで、花は実《み》に対させての語。実意に対しての仇ごころの意である。「念はなくに」は、思ってはいないことだ。
(36)【釈】 春日の里に今咲いている梅の花の、それに因みあるところの花に、すなわち仇ごころで、我は物をいおうとは思っていないことだ。
【評】 女に求婚をする際、わが実意を誓う心のものである。「霞立つ春日の里の梅の花」という序詞が、歌としては眼目をなしている。表面は畳語としてのものであるが、いったがごとく気分の上で繋がりをもたせ、相応に複雑なものになし得ているからである。しかしこれを誓の心のものとすると、軽い力の少ないものである。立体感を必要とするものであるのに、気分化しようとして平面的なものにしたからである。新風をねらって、その弱所の方をあらわしている歌である。これは春の歌ではなく、相聞の歌である。序詞の取材を大きく認め、春の歌としたものである。自然を譬愉とする関係上、譬喩を本義に引付けて見れば、季節の歌とも見られるからである。これは後世になるほどふえて来るものであり、この時代にすでにあったのである。
中臣朝臣|武良自《むらじ》の歌一首
【題意】 「武良自」の伝は不明である。『私注』に「中臣系図に正六位上尾張掾武良自とあるものであらう。意美麿の孫、広見の子であるから、宅守とは従兄弟といふことになる」といっている。
1439 時《とき》は今《いま》は 春《はる》になりぬと み雪《ゆき》零《ふ》る 遠山《とほやま》の辺《へ》に 霞《かすみ》たなびく
時者今者 春尓成跡 三雪零 速山邊尓 霞多奈婢久
【語釈】 ○時は今は春になりぬと 「時は今は」は、「今」をきわめて強くいったもの。「なりぬと」は、「たなびく」にかかる。○み雪零る遠山の辺に 「み雪」の「み」は美称で、雪に白いという意を枕詞風にいったもの。「遠山の辺」は、旧訓「とほきやまべ」。『略解』の訓。「遠き山」という特定の山ではなく、遠山を総括したものだからである。
【釈】 時節は今は春となったとて、雪の降る遠山の辺りに霞がなびいている。
【評】 春の来た喜びを、強くいおうとしているものである。事象として一般的な捉え方をしただけのものであるが、一、二句には心の躍動が見え、「み雪零る」の誇張もよくこなれていて、気分となろうとしている歌である。
河辺朝臣|東人《あづまひと》の歌一首
(37)【題意】 「東人」は、神護景雲元年従五位下。宝亀元年石見守となる。山上憶良沈痾の際、藤原八束の使者として見舞をした人である。巻六(九七八)左注に既出。
1440 春雨《はるさめ》の しくしく零《ふ》るに 高円《たかまと》の 山《やま》の桜《さくら》は いかにかあるらむ
春雨乃 敷布零尓 高圓 山能櫻者 何如有良武
【語釈】 ○春雨のしくしく雫るに 「しくしく」は、旧訓「しきしき」。『考』の訓。重ね重ねで、しきりに。○高円の山 しばしば出た。春日山の南に、谷を隔てて立っている山。
【釈】 春雨はしきりに降るので、高円の山の桜は、どのようにあるであろうか。
【評】 「いかにかあるらむ」は、春雨を花を催すものと見て、その咲き出すことを思いやったもので、山桜に対しての憧れの心である。当時の常識を、常識的ににいったものてあるが、歌としての趣をもっているといえる。
大伴宿禰家持の鶯の歌一首
1441 打霧《うちき》らし 雪《ゆき》は零《ふ》りつつ しかすがに 吾家《わぎへ》の苑《その》に 鶯《うぐひす》鳴《な》くも
打霧之 雪者零乍 然為我二 吾宅乃苑尓 ※[(貝+貝)/鳥]鳴裳
【語釈】 ○打霧らし雪は零りつつ 「打霧らし」は、「打」は接頭語。「霧らし」は、零るという自動詞を他動詞としたもので、霧で空を曇らせて。「零りつつ」は、「つつ」は連続。○しかすがに しかするからに、の約といわれる語。しかし、さすがに。○吾家の苑に鶯鳴くも 「吾家」は、「わがいへ」の約音。
【釈】 空は曇って雪が降り統けつつ、しかしさすがに、わが家の苑には、鴬が鳴いているなあ。
【評】 冬より春への推移を、喜びをもっていっているものである。すでに上に何首か同じ心をいったものがあったが、それらはいずれも、単に事象として説明的にいっているにすぎなかったのに、この歌は気分としていおうとするために、冬の景と春の景との交錯したさまを、そのまま身に引きつけていい、調べもそれにふさわしく、撓《しな》やかに粘り強いものとしているので、(38)面目の異なったものとなっているのである。家持としては、初期の作と思われるが、これが彼の持ち味で、やがてこの時代の新風ともなったものである。
大蔵少輔|丹比屋主真人《たぢひのやぬしまひと》の歌一首
【題意】 「真人」は姓、「屋主」は名。神亀元年従五位下。天平十八年備前守。天平勝宝元年左大舎人頭となった。「大蔵少輔」となったことは続日本紀には見えない。巻六(一〇三一)に出た。
1442 難波辺《なにはべ》に 人《ひと》の行《ゆ》ければ 後《おく》れ居《ゐ》て 若菜《わかな》採《つ》む児《こ》を 見《み》るが悲《かな》しさ
難波邊尓 人之行礼波 後居而 春菜採兒乎 見之悲也
【語釈】 ○難波辺に人の行ければ 「難波辺」は、難波のほうで、難波は今の摂津国一円をさしての称である。「人」は、妻の立場からその夫をさしていっているもので、夫というにあたる。「行ければ」は、行っているのでで、廷臣として官命を帯びての旅と取れる。○後れ居て若菜採む児を 「後れ居て」は、後に残って居てで、留守をしていての意。「児」は女性に対する愛称で、この場合屋主とその女の関係を示すもの。○見るが悲しさ 「悲しさ」は、あわれに感じた意。
【釈】 難波国のほうへとその夫が旅をしているので、後に残っていて、若菜を摘んでいるその妻を見るのがあわれであることよ。
【評】 初句より四句までは叙事で、結句「見るが悲しさ」は総収しての説明で、古風な詠み方である。特殊な取材であるが、これは実際に即したものだからである。「児」という女性が、屋主に近親の者だったろうと思われる。またこの夫妻は、同棲していたものとみえる。
丹比真人乙麿《たぢひのまひとおとまろ》の歌一首 屋主真人の第二子なり
【題意】 天平神護元年、正六位上から従五位下に昇っている人である。
1443 霞《かすみ》立《た》つ 野《の》の上《へ》の方《かた》に 行《ゆ》きしかば 鶯《うぐひす》鳴《な》きつ 春《はる》になるらし
(39) 霞立 野上乃方尓 行之可波 ※[(貝+貝)/鳥]鳴都 春尓成良思
【語釈】 ○霞立つ野の上の方に 「霞立つ」は、眼前の景としていったもの。「野の上」は、「上」は、ここは土地をさしていっているので、野にというと同じ。○行きしかば 行きしにと同意で、並び行なわれた古形。
【釈】 霞の立っている野のほうに行ったところ、鴬が鳴いた。春になることであろう。
【評】 鶯の声に春の来たことを知って喜ぶ心であるが、調べの力が伴わないため、叙事だけに終わっている歌である。しかしその叙事は実際に即したものであるために、ある程度の味わいはもち得ている。
高田女王の歌一首 高安の女なり
【題意】 「高田女王」の伝は不明である。巻四(五三七)題詞に出た。注の「高安の女」というのは、「高安王」の女の意かと取れる。それだと大原真人高安といった人である。高安王は巻四(五七七)(六二五)の題詞に出た。
1444 山振《やまぶき》の 咲《さ》きたる野辺《のべ》の つぼすみれ この春《はる》の雨《あめ》に 盛《さか》りなりけり
山振之 咲有野邊乃 都保須美礼 此春之雨尓 盛奈里鷄利
【語釈】 ○つぼすみれ 一種の菫《すみれ》の名。山野に自生する多年生の物で、春、白い小花を開く。
【釈】 山吹の咲いている野の壷菫は、この降っている春雨に催されて、盛りに咲いていることであるよ。
【評】 山吹の咲いている野に、白く細かい花の壷菫を捉え、その花が春雨によって盛りに咲いているとして心を寄せているのは、女性的な心である。これも抒情の気分が弱いために、事象のほうのみの目立つ歌となり、そのため、野の形容としていった山吹のほうが、中心の壷菫を圧倒しそうな感のあるものとなっている。
大伴坂上郎女の歌一首
1445 風《かぜ》交《まじ》り 雪《ゆき》は零《ふ》るとも 実《み》にならぬ 吾宅《わぎへ》の梅《うめ》を 花《はな》に散《ち》らすな
(40) 風交 雪者雖零 實尓不成 吾宅之梅乎 花尓令落莫
【語釈】 ○風交り雪は雫るとも 風まじりに雪が降ろうともと、想像としていったもの。巻五(八九二)山上憶良の「風|雑《まじ》り雨降る夜の 雨雑り雪降る夜は」に形響されたものとみえる。○実にならぬ吾宅の梅を 実はならないところのわが家の梅をで、実のならない木だと、木の性質をいったもの。「実に」は、下の「花に」と対させた語で、本来夫婦関係の信用のできる、あてになるの意をあらわす譬喩の語である。○花に散らすな 花の間に散らすなと、禁止した語で、花として見ようの意であるが、「実に」との関係上、夫婦関係の信用のできない、当てにならぬの意をあらわす語で、むだにの意で、副詞である。すなわちむだに散らすなの意。
【釈】 風まじりに雪が降ろうとも、実にはならないわが家の梅を、むだに散らすな。
【評】 その家の庭に咲いている梅の花に対して、実にはならない梅である。花として鑑賞しよう。風まじりに雪が降るということもありうることだが、そうしたことがあっても、むだには散らすなと、花に対って希望している心である。心としては、一応それでとおるが、すべて未来の想像としていっているもので、迂遠な不自然な感のあるものである。言葉としても「実にならぬ」は、この場合いう必要のない、強いて設けていっているものである。また、「風交り雪は零るとも」も、梅の花の咲く季節としては誇張にすぎ、また、憶良の句の影響のあるもので、わざとらしい感のあるものである。要は、すべて梅の花に対して、「花に散らすな」といおうがために設けていっているものと取れる。今、「梅」を娘に皆え、「実に」「花に」を、娘に求婚している者のあるのを知って、それに対して腕曲に警戒を求めたものと見ると、かえって自然なものとなってくる。作意はそうしたものであったろう。それだと譬喩歌であるが、梅の花を詠んだごとき形をしているところから、雑歌の部に加えたのであろう。これは往々あることで、そのいずれとも取れるものは、つとめて雑歌に入れようとする編集者の態度から出たことと思われる。
大伴宿禰家持の春※[矢+鳥]《きぎし》の歌一首
1446 春《はる》の野《の》に あさる雉《きぎし》の 妻恋《つまごひ》に 己《おの》があたりを 人《ひと》に知《し》れつつ
春野尓 安佐留※[矢+鳥]乃 妻戀尓 己我當乎 人尓令知管
【語釈】 ○春の野にあさる※[矢+鳥]の 「あさる」は、求食の文字を当てている語で、食餌を求める意。○妻恋に 妻を恋しがる意で、名詞。その鳴く(41)のは妻が恋しいからのこととし、鳴き声を立てることを言いかえた語。○己があたりを人に知れつつ 「己があたり」は、自分のいる辺りで、その居場所。「人」は、鳥を食物として獲ようとしている人で、これは猟夫というよりも広い意味のものと思われる。「知れつつ」は、知られ知られする意。知られると獲られて命を失うこととして、憐れんでいっているもの。
【釈】 春の野に求食《あさり》をしている雉の、妻恋しさに鳴き声を立てて、自分のいる辺りを人に知られ知られしている。
【評】 春の野の木草の茂みの、人に見えない安全な所に求食《あさり》をしている雉の、高い鳴き声を立てるのを聞いて、危み、その鳴き声を妻恋しさのことと解して隣れんだ心のものである。その鳴くのは妻恋しさからであるとするのは、一般の常識になっていたことと思われる。この歌は、雉を自身の譬愉として詠んだほどのものではなく、広い意味での哀れからのものと思われる。こうしたことを取材としたのは、自身の体験を反映させてのことではあるが、つき詰めた心よりのことではなく、詩情としての気分からと思われる。気分としてもつ拡がりが、この歌の趣となっている。
大伴坂上郎女の歌一首
1447 尋常《よのつね》に 聞《き》くは苦《くる》しき 喚子鳥《よぶこどり》 声《こゑ》なつかしき 時《とき》にはなりぬ
尋常 聞者苦寸 喚子鳥 音奈都炊 時庭成奴
【語釈】 ○尋常に聞くは苦しき 「尋常」は、下の「時」と対させているもので、その「時」は左注によって「三月一日」すなわち春の闌けた時とわかり、それを特別な時としていっているものである。「苦しき」は、同じく下の「なつかしき」に対させたもので、その反対なものである。いずれも「喚子鳥」の鳴き声より受ける感じで、なつかしからぬということを強調していっているものである。喚子鳥の声は、声そのものとしてはおもしろいものではない。○喚子鳥 上に出た。かっこう鳥である。○声なつかしき時にはなりぬ 鳴き声のなつかしく感じられる季節になってきたで、「は」は、時を強めているもの。「時」のほうを主として、「時」のために、その鳴き声が異なった感じを与えるものと変わって来たというのである。その「声」は、訴えの心から、相手を喚び続けているごとき感じのもので、それが、聞く心に親しみをもつということで、言いかえると、我も人恋しく、訴えたい心の起こる時ということを暗示的にいったものである。
【釈】 尋常の時には、聞いてもなつかしくない喚子鳥の、その声のなつかしく思われる時節となってきた。
【評】 左注に「三月一日」と作の日が添えてあるが、この歌はそれがないと、作意を正確には捉えられないほど婉曲なものである。これは太陽暦でいうと四月の上旬で、春が闌《た》けて心が暢《の》びやかになり、人恋しいごとき心の動き来たる時である。今は(42)それを背後に置き、喚子鳥の鳴き声より受ける感じの相違によって、その心を暗示的にあらわしているのである。その漠然としている気分の如きを、同じく漠然とした喚子鳥の鳴き声によって具象化しているということは、尖鋭な感性と、豊かな歌才とが相倹って初めてできることで、目立たない歌ではあるが、郎女の面目を示しているものというべきである。
右の一首は、天平四年三月一日、佐保の宅にて作れる。
右一首、天平四年三月一日、佐保宅作。
【解】 「天平四年」は、歌の排列が年代順になっているので、その意でも注意されるものである。「三月一日」は、この歌にとっては必要な日付である。「佐保の宅」は、前にも出ており、父安麿の代からの邸である。また、佐保の辺りには、喚子鳥が多かったとみえ、集中、それに関しての歌が少なくない。
春相聞《はるのさうもん》
大伴宿禰家持、坂上家《さかのうへのいへ》の大嬢《おほいらつめ》に贈れる歌一首
【題意】 「坂上家の大嬢」は、巻三(四〇三)題詞以下しばしば出た。坂上家の大嬢は、大伴宿奈麿の女で、母は坂上郎女であり、共に坂上の家に住んでいた。大嬢は敬称で、後に家持の妻となった。
1448 吾《わ》が屋外《やど》に 蒔《ま》きし瞿麦《なでしこ》 何時《いつ》しかも 花《はな》に咲《さ》きなむ なぞへつつ見《み》む
吾屋外尓 蒔之瞿麥 何時毛 花尓咲奈武 名蘇經乍見武
【語釈】 ○吾が屋外に蒔きし瞿麦 「屋外」は、庭。「瞿麦」は、山野に自生する多年生の草で、大和撫子をいう。秋、淡紅色の花を開く。可憐な花である。○何時しかも花に咲きなむ 「何時しかも」は、「し」は強めで、「か」は疑問の係。いつになったならばで、早くの意。「花に咲きなむ」は「花に」は、花と咲くであろうか。○なぞへつつ見む 「なぞへ」は、なぞらえで、大嬢になぞらえる意。
(43)【釈】 わが庭に蒔いた大和撫子は、いつになったらば花に咲くのであろうか。咲いたらば妹になぞらえてみよう。
【評】 撫子は、早いのは夏頃から咲きはじめ、秋をその季節とする花である。今は春の季節にいっているのであるから、蒔いて間もない頃のことと取れ、したがってその花と咲くのが待ち遠いことともなる。「瞿麦」は、「なぞへ」というとおり大嬢に擬してあり、「吾が屋外に蒔きし」は、わが家の人として、同棲するということを譬えたものである。対象に正面から向かい、純情をもっていっている歌で、措辞上の技巧というほどのものもなく、また気分として詠もうとするねらいもないものであるが、態度が正直で、全心的であるがために、おのずからに気分になってくるところのある歌である。人柄よりくる味わいというべきである。
大伴|田村家《たむらのいへ》の毛《け》の大嬢の、妹坂上大嬢に与ふる歌一首
【題意】 「田村家の毛の大嬢」は父宿奈麿とともに田村の家に住んでいた。巻四(七五六)題詞に既出。「毛」は名前の一字かといわれるが、明らかでない。『代匠記』は「之」の誤りかといっている。
1449 茅花《つばな》抜《ぬ》く 浅茅《あさぢ》が原《はら》の つぼすみれ 今《いま》盛《さか》りなり 吾《わ》が恋《こ》ふらくは
茅花抜 淺茅之原乃 都保須美礼 今盛有 吾戀苦波
【語釈】 ○茅花抜く浅茅が原のつぽすみれ 「茅花」は、茅《ちがや》の花。古くは、食うと肥える物としていたことが、(一四六〇)の歌に見える。今も子供は好んで食べる。「抜く」は、食べようがためのこと。下の浅茅が原の修飾。「浅茅が原」は、丈低い茅草の生え続いている原。「つぼすみれ」は、上の(一四四四)に出た。これは、その花の「盛り」の意で、下の「盛り」へ続き、その内容を転じさせているもので、初句より三句までは序詞。○今盛りなり吾が恋ふらくは 「盛り」は、下の「恋ふらく」の状態。「恋ふらく」は、「恋ふ」の名詞形で、恋うること。「恋ふ」は、異母妹をなつかしく思う意である。
【釈】 茅花を抜く浅茅が原に咲いている壷董の盛りであるように、わが心も今盛りである。妹をなつかしく思うことは。
【評】 姉妹とはいえ、母を異にすると居も異にしているから、その間には隔てがあり、ことに母同志は、父を中心として競争者の位置に置かれているから、むしろ疎遠であるのが普通であったようにみえる。田村大嬢は、すでに生母のない関係もあろうが、妹思いで、こうした歌を多く詠んでいる。この歌は、序詞が働いている。「浅茅が原」は田村の家に接した地で、「茅花(44)抜く」は、大嬢自身のしていること、「つぼすみれ」は眼前に見ている物で、すべて自身の愛好している物を捉えて序詞としたのである。したがって序詞が気分となり、抒情となっているのである。このことは新傾向である。相応な手腕をもった人というべきである。
大伴宿禰坂上郎女の歌一首
【題意】 原文「大伴宿祢坂上郎女謌一首」。『考』は、「宿祢」の下に「家持贈」の三字が脱しているとしている。このままでは、「郎女」に「宿祢」の姓を添えていったものとなり、他に例のないものとなる。また歌は、家持の歌と見られる証がある。脱字説はにわかに従うべきものでないが、必ずしもありうべからざるものでもない。『考』の説に従うこととする。
1450 心《こころ》ぐき 物《もの》にぞありける 春霞《はるがすみ》 たなびく時《とき》に 恋《こひ》の繁《しげ》きは
情具伎 物尓曾有鷄類 春霞 多奈引時尓 戀乃繋者
【語釈】 ○心ぐき物にぞありける 「心ぐき」は、一語で、心の鬱《うつ》して晴れない意の形容詞。○春霞 「霞」は、霧と差別を立てず、秋のものも霞といったために、差別しての語。○恋の繁きは 「繁きは」は、恋の募っているのはの意。
【釈】 心の鬱して晴れないものであることよ。霞のたなびいている時に、恋の心の募っていることは。
【評】 春の霞の一面にかかっている状態と、恋の情の募っていることとを一体として感じ、それを心ぐきものとして嘆いているのは、極度に気分を重んじている心である。表現も大まかでみずみずしく、年若い日の家持を思わせるものである。郎女の心細かく、冴えて、何らかの屈折を帯びている歌風とは、明らかにある距離が感じられる。巻四(七八九)家持の藤原久須麿に贈った「情《こころ》ぐく念ほゆるかも春霞たなびく時にことの通へば」と酷似している。気分を重んじる家持の歌には、かうした同型の歌を詠むことはありやすいことで、二首別手より出たものとは思われない。家持は早くから坂上大嬢に心を寄せていたのであるが、母の郎女は好ましく思わなかったとみえ、その間に相応の屈折のあったことは、彼の歌からたやすく想像される。この歌はそれを心に置いて、郎女に婉曲に訴えたものだろうと思われる。なおこの歌は、上の(一四四五)の郎女の「風交り雪は寄るとも」と繋がりのあるものではないかとも思われる。
(45) 笠女郎《かさのいらつめ》、大伴家持に贈れる歌一首
【題意】 「笠女郎」は、巻三(三九五)以下に出た。家持との贈答歌が二十九首の多きに及んでいる。
1451 水鳥《みづとり》の 鴨《かも》の羽色《はいろ》の 春山《はるやま》の おぼつかなくも 念《おも》ほゆるかも
水鳥之 鴨乃羽色乃 春山乃 於保束無毛 所念可聞
【語釈】 ○水鳥の鴨の羽色の 「水鳥の」は、鴨の枕詞。「鴨の羽色の」は、緑ということを具象的にいったもので、「春山」の形容。○春山の 春山は当然霞のかかっているものとして、そのおぼろとなっている意で、「おぼつかなく」に続け、ここまでの三句は序詞。○おぼつかなくも念ほゆるかも 「おぼつかなく」は、現在用いている語である。上より続く意を転じて、恋の上で家持の心の頼りなげに見える意を恨んだものとしている。「念ほゆるかも」は思われることよ。
【釈】 鴨の羽根の色の緑をしている春山が、霞がかかっておぼつかなく見える、それに因みあるおぼつかなく頼りなげに君の心の思われることよ。
【評】この歌は巻三の連作につながりをもつものと思われる。女郎と家持の関係は、女郎の強烈な思慕にもかかわらず、家持は冷淡に逃げ腰になっていたので、女郎は時には強く恨み、時には婉曲に訴えているのであるが、この歌はおそらく最も婉曲な訴えである。いわんとしていることは、「おぼつかなくも念ほゆるかも」というほのかなものであるが、その序詞として用いている「水鳥の鴨の羽色の春山の」は、類いなく清新なものである。眼前の奈良の春山を捉えたものであるが、明らかに漢詩の影響を受けたもので、漢土には河としても鴨緑江の名があり、また李白の詩の句に、江水を形容して鴨頭緑ともいっているので、それを取って山の形容に転じさせたものとみえる。序詞ではあるが、単なる叙述と見ても通じうるものであり、譬喩とも取られるものである。それを序詞としているのであって、序詞としてはきわめて飛躍の少ない、微妙なものである。謡い物の愛好した序詞を、極度に文芸化した、それとしても新しいものである。序詞のそうした傾向、また一首としての極度の婉曲は、言いかえると事象を捨てて気分のみをいおうとしたことで、奈良朝時代の新風の尖端を行っているものである。この時期を代表する女流歌人は大伴坂上郎女とこの笠女郎である。郎女の聡明と、おちつきと、また階級よりくる気品の点では、女郎は及ばない。しかし女郎のもつ庶民に近い熱意と奔放とまた世代の若さよりくる溌剌さとは、郎女のもち得なかったものであり、さらにまたいかなる境をも詠み生かす詩情の豊かさにおいては、女郎のほうが遙かにまさっているといえる。この歌もそのことの一端を示しているものである。
(46) 紀女郎《きのいらつめ》の歌一首 名を小鹿と曰ふ
【題意】 「紀女郎」は、巻四(六四三)に出た。
1452 闇夜《やみ》ならば うべも来《き》まさじ 梅《うめ》の花《はな》 咲《さ》ける月夜《つくよ》に 出《い》でまさじとや
闇夜有者 宇倍毛不來座 梅花 開月夜尓 伊而麻左自常屋
【語釈】 ○闇夜ならばうべも来まさじ 「うべ」は、うべなう意で、もっともだというにあたる。「来まさじ」は、「来じ」の敬語。男に対してのもの。闇の夜であらば、わが方へ来まさぬのももっともである。○梅の花咲ける月夜に 上と対照して、眼前をいったもの。○出でまさじとや 「出でまさじ」は、「来まさじ」を語を換え、婉曲にしたもの。「とや」は、「と」は、というの意。「や」は、疑問。
【釈】 闇の夜なればわが方へ来られないのももっともである。梅の花の咲いている月夜のこのような夜にも、お出でにならないというのだろうか。
【評】 夫の通って来ないのを、恨みをもって促しているものである。促すのに、「闇夜ならばうべ」と、承認し、「梅の花咲ける月夜」と、自然の美観に託していい、さらに、「出でまさじとや」と、わが方と限らぬごとき言い方をしているのは、老獪《ろうかい》な言い方である。これは年齢のさせることであろうが、一つには、相手の男を子供扱いにしていることである。実感に即していっているので、背後のものが自然に絡んでくるのである。
天平五年癸酉春閏三月、笠朝臣金村の入唐使に贈れる歌一首 并に短歌
【題意】 この年の遣唐使は、続日本紀、天平四年八月に、「以2従四位上多治比真人広成1為2遣唐大使1、従五位下中臣朝臣名代為2副使1」とあるもので、ここにある「天平五年閏三月」は、節刀を授けられた時で、四月に難波を出発。巻五(八九四)山上憶良の「好去好来の歌」もこの時のものである。「入唐使」は、唐を主としての言い方で、妥当ならぬ語であるが、当時慣用されていたと見え、他にも用例がある。笠金村は巻二(二三二)左注、巻三(三六四)題詞などに出た。なおこの時の歌は、巻九(一七九〇―一)、巻十九(四二四五―六)にもある。
1453 玉襷《たまだすき》 懸《か》けぬ時《とき》なく 気《いき》の緒《を》に 吾《わ》が念《おも》ふ公《きみ》は うつせみの (世《よ》の人《ひと》なれば 大王《おほきみ》の) (47)命《みこと》恐《かしこ》み 夕《ゆふ》されば 鶴《たづ》が妻《つま》喚《よ》ぶ 難波《なには》がた み津《つ》の埼《さき》より 大舶《おほふね》に 其梶《まかぢ》繁貫《しじぬ》き 白浪《しらなみ》の 高《たか》き荒海《あるみ》を 島伝《しまづた》ひ い別《わか》れ往《ゆ》かば 留《とど》まれる 吾《われ》は幣《ぬさ》引《ひ》き 斎《いは》ひつつ 公《きみ》をばやらむ 早《はや》還《かへ》りませ
玉手次 不懸時無 氣緒尓 吾念公者 虚蝉之 (世人有者 大王之) 命恐 夕去者 鶴之妻喚 難波方 三津埼從 大舶尓 二梶繁貫 白浪乃 高荒海乎 嶋傳 伊別徃者 留有 吾者幣引 齋乍 公乎者將徃 早還万世
【語釈】 ○玉襷懸けぬ時なく 「玉襷」は、「懸け」の枕詞。「懸けぬ時なく」は、心に懸けない時とてはなく。○気の緒に吾が念ふ公は 「気の緒に」は、呼吸の緒のごとく長く続く意で、命のある限りの意の副詞句。○うつせみの命恐み この続きは、他に用例のないものである。この歌は個人的の心やりのものではなく、尊んでいる人の改まっての事のある際、儀礼の心をもって詠んでいるものであるから、用例のない続きということは問題となる。『代匠記』は、「うつせみの」の下に、「世の人なれば大王の」という二句の脱したものではないかといい、証として、同じ金村の作で、巻九(一七八五)には、「虚蝉乃 代人有者 大王之 御命恐美」、また(一七八七)「虎蝉乃 世人有者 大王之 御命恐弥」を挙げている。従うべきであろう。それだと「うつせみ」は現し身で、現に生きている身なので、天皇の勅を恐み負って。○夕されば鶴が妻喚ぶ 夕方が来れば、鶴がその妻を喚び立てるで、鶴に人間性を反映させたもので、広い意味で、難波がたを形容したもの。○難波がたみ津の埼より 「み津」は、「津」すなわち船の発着所に、公の港として「み」の美称を添えたもの。難波の潟の、み津の埼からで、船の発する所を鄭重にいったもの。○大舶に真梶繁貫き 「大舶」は、大きな船で、遣唐使の船は大船四艘と定まっていた。「真梶」は、原文「二梶」で、「二」は、完備の意で、船の左右に、十分に取付けてある梶。「繁貫き」は繁く付けで、「貫く」は、付けることを具象的にいったもの。○白浪の高き荒海を 「荒海《あるみ》」は、「あらうみ」の転音。○島伝ひい別れ往かば 「島伝ひ」は、上代の航海法として、島より島へと伝って航することになっていたので、航海という意を具象化したもの。「い別れ」は、「い」は接頭語。「別れ」は、我と別れる意。○留まれる吾は幣引き 「留まれる」は、後に残っている。「幣引き」は、下の「斎ひ」のためのことで、「幣」は榊に付けてある麻、木綿、布の類で、「引き」はそれらを神霊の宿っているものとし、引いて身に付けて、神と自身に繋がりを付けて。○斎ひつつ公をばやらむ 「斎ひつつ」は、無事を祈願しつつ。「やらむ」は、往かしめよう。○早還りませ 早く還って来たまえよ。
【釈】 心にかけて思わない時とてはなく、呼吸の続く限りわが思っている君は、現し身のこの世の人なので、天皇の勅を恐み負って、夕方になると鶴が妻を喚び立てる難波潟のみ津の埼から、大船に、左右の梶を繁くも取りつけ、白波の高い荒海へ、島伝いにして別れて往ったならば、後に残っている吾は、幣を手に引いて、君の無事を祈願しつつも君をば旅立たせよう。早く還っ(48)て来たまえよ。
【評】 この歌が長歌形式を選んでいるのほ、その必要のあってのことと取れる。長歌はこの当時にあっては古風なもので、よほどまで改まってその情を抒べる時、または儀礼として、それによらなければ敬意を欠くと思う時に用いたものと思われる。これはその後の場合であろう。この歌は、憶良の「好去好来の歌」と同じく、広成の無事を祈ってのものであるが、憶良は身に体している上代信仰の上に立ち、広成を天皇の改まっての御使と見、天神地祀も天皇に仕えまつる心をもって、広成の身を守ることをいっているのに、金村は一般の人情の上に立ち、別れを悲しみ、無事を祈ることをいっているのみである。また、憶良は広成に接近して、先輩のごとき態度をもって物をいっているのに、金村は、きわめて尊敬はしているが、遠く距離を置いていっているのである。これは双方の人柄の相違と、広成に比較しての身分の相違の度の大きいことをも示しているものといえよう。なおこの歌は、広成の出発よりやや前に詠んだ態度のもので、船出に対していっていることは、すべて推量としてのものであり、したがって散漫な、曖昧な物言いのまじっているものである。金村は好んで長歌を作っているが、複雑な事象に対すると、それを綜合する気魄に不足するものがあり、多くの場合、散漫となり、統一性の足りないものとなる傾きがある。熱意が余って、知性の伴いかねるためと思われる。この歌はその本質からいうと、賀の歌であり、巻一、二の分類法によると「雑歌」の中に入れられるべきものである。それを「相聞」の部に入れてあるのは、往来存問の歌と見、単に儀礼として贈ったものと解したためかと思われる。それだと、一首の中心となっている「早還りませ」という語のもつ精神が認められなくなって釆ていたことを示していると見なくてはならない。これは言いかえると、歌の実用の面が忘れられて、単に、文芸になってきたことを語ることで、時代の推移として重大なこととなる。
反歌
1454 波《なみ》の上《うへ》ゆ 見《み》ゆる小島《こじま》の 雲隠《くもがく》り あな気《いき》づかし 相別《あひわか》れなば
波上從 所見兒嶋之 雲隱 穴氣束衝之 相別去者
【語釈】 ○波の上ゆ見ゆる小島の 「小島」は、『新考』は、小島であるとし、「児」は借字としている。これに従う。波の上を通して見える小島が、雲に隠れると続け、初二句は序詞。○雲隠りあな気づかし 「雲隠り」は、入唐使の乗船が遠ざかって、雲に隠れてで、遙かに見送っていたことを暗示してのもの。「あな気づかし」は、「あな」は、ああ。「気づかし」は、ため息がつかれる。○相別れなば 別れて往ったならば。
(49)【釈】 波の上を通して見える小島が、雲に隠れるのに因みある、君の乗船が雲に隠れて、ああ、ため息がつかれる。別れて往ったならば。
【評】 長歌を展開させて、船出を見送った時のこととし、見送っている船が雲に隠れて見えなくなった瞬間の心持を捉えていっているのである。送別の際は不吉なことはいってはならぬことになっているので、悲しみを「あな気づかし」でくい止めているのである。一首気分本位の歌で、「波の上ゆ見ゆる小島の」という海路に関係のあることを「雲隣り」の序詞とし、その「雲隠り」で、主格である乗船の見えなくなったことを暗示するという言い方をしているのである。これは新傾向の詠み方で、長歌とは相応に距離のあるものである。想像で詠んだことの明らかな歌である。
1455 たまきはる 命《いのち》に向《むか》ひ 恋《こ》ひむゆは 公《きみ》がみ舶《ふね》の 梶柄《かぢから》にもが
玉切 命向 戀從者 公之三舶乃 梶柄母我
【語釈】 ○たまきはる命に向ひ 「たまきはる」は、命の枕詞。「命に向ひ」は、「向ひ」は向かい合う、匹敵するの意で、命がけに。○恋ひむゆは 恋うるよりは。○公がみ舶の梶柄にもが 「梶柄」は、梶の柄でありたいで、「もが」は膜望の助詞。君の身近にいたいの意。
【釈】 命をかけて恋うていようよりは、君の御乗船の梶の柄でありたいものだ。
【評】 上の反歌と時間的展開がある。純抒情の単純な形式のものである。「梶柄にもが」は、君が身を離れずに添っていたいということを具体的にいったもので、この場合としては心の利いたものである。
藤原朝臣|広嗣《ひろつぐ》、桜花を娘子に贈れる歌一首
【題意】 「藤原広嗣」は、巻六(l〇二九)に出た。藤原宇合の第一子。天平十年大宰少弐となり、同十二年九月謀坂、同十一月肥前国松浦郡で斬られた。「娘子」は、誰とも知れない。
1456 この花《はな》の 一《ひと》よの内《うち》に 百種《ももくさ》の 言《こと》ぞ隠《こも》れる おほろかにすな
此花乃 一与能内尓 百種乃 言曾隱有 於保呂可尓爲莫
(50)【語釈】 ○この花の一よの内に 「一よ」ほ、他に用例のない語で、『代匠記』が一弁の意かというに従う。○百種の言ぞ隠れる 多くの語が籠もっていることであるというので、わが言おうとする多くの思いが籠めてあるということを、言いかえたもの。この言い方は、桜の花の枝にこの歌を結いつけてあって、心としては恋情を示すだけのことであるから、このようにいったものと取れる。消息を花の枝に結いつけて贈ることは、巻二(一一三)額田王の「み吉野の玉松が枝《え》ははしきかも君が御言《みこと》を持ちて通はく」が、その事を明らかに示している。神に物を捧げる場合はもとより、人に物を贈る時の型になっていたのである。○おほろかにすな 「おほろか」は、おろそかで、十分に心を汲めの意。
【釈】 この花の一弁の内に、多くの語が籠もっていることである。おろそかには見るなよ。
【評】 求婚の歌であるが、訴える心をもったものではなく、その心のあることを表示すれば足りるとして詠んだものである。これは広嗣と娘子との身分の懸隔がさせているものと思われる。しかしそれとすると、美しい桜の枝を用い、それに事の一切を託している方法は、才の働いたことで、その人柄を思わせるものがある。「おほろかにすな」は、我に応ぜよの意で、地歩を占めての言い方である。
娘子《をとめ》の和《こた》ふる歌一首
1457 この花《はな》の 一《ひと》よのうちは 百種《ももくさ》の 言《こと》持《も》ちかねて 折《を》らえけらずや
此花乃 一与能裏波 百種乃 言持不勝而 所折家良受也
【語釈】 ○百種の言持ちかねて 百種の言を保ち得ずしてで、保ち得ないというのは、一よとしては身に余るの意で、わが身にはすぎる喜びとして受け入れた心である。○折らえけらすや 折られたのではないかで、「折らえ」は、花自体が、百種の言の重さに堪えずに折れた意で、娘子としては、君の心のままに従おうとの心をいっているものである。
【釈】 この花の一弁の内には、君が百種の言の重さを保ち得ず、わが身には余ることだとして、すでに折られてしまっているのではないか。
【評】 娘子の歌も才の利いているものである。「言持ちかねて折らえけらずや」は、一見、贈歌の心を拒んだがごとく見えるところがあって、その実喜んで応じる心をあらわしているものである。君が言を籠もらせると同時に、花はすでに折られて、わが心を示しているというのは、贈歌にも劣らず心の働いたものである。
(51) 厚見王、久米女郎《くめのいらつめ》に贈れる歌一首
【題意】 「厚見王」は、巻四(六六八)、巻八(一四三五)に出た。「久米女郎」は、伝が不明である。
1458 屋戸《やど》にある 桜《さくら》の花《はな》は 今《いま》もかも 松風《まつかぜ」》疾《はや》み 地《つち》に落《ち》るらむ
屋戸在 櫻花者 今毛香聞 松風疾 地尓落良武
【語釈】 ○屋戸にある桜の花は 「屋戸」は、女郎の家の庭。「桜の花」も、下の「松風」も、王は熟知する物としていっている。すなわち夫婦関係にあるのである。○今もかも 「かも」は、疑問。○松風疾み地に落るらむ 「疾み」は強いので。「らむ」は、現在の推量。
【釈】 妹が庭の桜の花は、そこに吹き通う松風が強いので、今は地に散っているのであろうか。
【評】 「桜の花」を、女郎に、「松風」を、他の男に、「地に落る」を、その男に靡く心に譬えていっているものである。「今もかも」といい、「落るらむ」といって、急迫した心をあらわしているのは、そのようなことを思わしめる事情があり、それに即していっているものである。相聞の歌としてそうした心をいうとしては、婉曲な言い方というべきである。
久米女郎の報《こた》へ贈れる歌一首
1459 世間《よのなか》も 常《つね》にしあらねば 屋戸《やど》にある 桜《さくら》の花《はな》の ちれるころかも
世間毛 常尓師不有者 室戸尓有 櫻花乃 不所比日可聞
【語釈】 ○世間も常にしあらゎば 「世間」は、人間世界の意で、下の「桜の花」に対照させているもの。「も」は、もまた。「常にしあらねば」は、「し」は、強め。不変ではないので。この二句は、王の女郎に対する態度の不信なのを譬えていっているもの。○屋戸にある桜の花の 贈歌を受けてのもので、自身の譬。○ちれるころかも 散った頃であろうかの意。自身の庭の桜に対していっているものなので、妥当でない言い方にみえるが、贈歌の「今もかも地に落るらむ」をそのままに受け入れ、いわれるとおり、散っている頃かもしれぬと、わざとよそよそしい言い方をして、王をいやがらせているもので、要するに恨みをいっているものである。
(52)【釈】 人間の世界も不変ではないので、わが庭にある桜の花の、それと同じように、散っている頃でもあろうか。
【評】 当時の夫婦関係は、かなりまで自由なものであり、ことに男はそうであったので、女の立場からいえば、この歌にあるような気分は、特別なものではなく、むしろ普通のものであったかと思われる。王の贈歌は、女郎の心境に対して不安をもち、それをなだめようとは思うが、しかし手の着けようのないものと見ての心、女郎の報えは、王にそむきたくない心は十分にもっているが、恨みの心は、やさしく訴えることのできない状態にいることをあらわしているものである。贈報二首で、一つの物語を展開している趣のあるものである。
紀女郎、大伴宿禰|家持《やかもち》に贈れる歌二首
1460 戯奴《わけ》【変してわけと云ふ】が為《ため》 吾《わ》が手《て》もすまに 春《はる》の野《の》に 抜《ぬ》ける茅花《つばな》ぞ 食《め》して肥《こ》えませ
戯奴【變云和気】之爲 吾手母須麻尓 春野尓 抜流茅花曾 御食而肥座
【語釈】 ○戯奴が為 「戯奴」の訓は、注として「変してわけと云ふ」といっている。「変して」は「反して」と同じで、漢土で字音を注するための反切法の意で、それを漢字の訓の意に用いたもの。「わけ」は、奴の意で、戯れにいう意で、「戯」を添えている。一人称にも二人称にも用いる。ここは二人称として、家持をさしていっているものである。○吾が手もすまに 「すまに」は、休めずに、忙しくの意。「抜ける」にかかる。○春の野に抜ける茅花ぞ 「春の野に抜ける」といっているのは、次の歌によると、「茅花」を贈ったのは夏であるから、春、抜いて、乾してあったものと取れる。○食して肥えませ 「食して」も、「肥えませ」も、敬語。「肥えませ」は、命令形。上代では、茅花は、それを食うと肥えると信じられ、薬用としたものと見える。
【釈】 そなたのためにと、わが手も休めずに、春の野に抜いたところの茅花であるよ。これを召し上がって、お肥えなされよ。
【評】 女郎が家持に茅花の乾した物を贈るに添え、口状の代わりに詠んだ歌で、これは、型となっていたことである。また物を贈るには、わが労苦して獲た物だというのも型となっていたことである。「食して肥えませ」が眼目であるが、敬語を重ねた事々しい言い方のもので、贈り物の茅花に合わせては尋常ならぬものである。家持が健康が勝れないというようなことを口実にして足遠く疎遠にしているのを恨んで、皮肉な言い方をしたものだろうと思われる。疎遠にしていたことは次の歌からも知られるからである。それだと初句の「戯奴」にも照応しうることとなり、一首が纏まってもくる。女郎は家持よりは年長であったろうと考証されている。そうしたことも関係していよう。
(53)1461 昼《ひる》は咲《さ》き 夜《よる》は恋《こ》ひ宿《ぬ》る 合歓木《ねぶ》の花《はな》 君《きみ》のみ見《み》めや 戯奴《わけ》さへに見よ
晝者咲 夜者戀宿 合歡木花 君耳將見哉 和氣佐倍尓見代
【語釈】 ○昼は嘆き夜は恋ひ宿る 下の「合歓木の花」の状態をいったもの。合歓木は、山野に自生する落葉喬木。夏、淡紅の花を開く。その葉は、夜は相合って眠るがごときさまをする。「昼は咲き」は、その花。「夜は恋ひ宿る」は、夜はその葉が相合うのを、恋うて共寝すると解していっているもの。ここは花のこととしていっているが、感の上でのことで、後世にも一般にはそう感じられていた。○君のみ見めや戯放さへに見よ 「君」は、主人の意で、自身のことであり、下の「戯奴」に対させて、わざと戯れていっているのである。「君のみ見めや」は、「や」は反歌。主人の我だけが見ようか。「戯奴さへに見よ」は、奴のそなたまでも見よで、命令したもの。
【釈】 昼は花と咲き、夜は恋うて共寝をする合歓木の花は、主人の我のみが見ようか、奴のそなたまでも見よ。
【評】 これは合歓木の花に添えた歌で、こちらが主であったとみえる。率直に訪うて来よと促したのであるが、合歓木の扱い方は才の利いたものである。消息を時の花や木に結びつけるという儀礼が、その花や木のほうが主になっている形で、これは上の広嗣の場合も同様である。
右は、合歓の花并せて茅花を折り攀ぢて贈れるなり。
右、折2攀合歓花并茅花1贈也。
【解】 「攀ぢ」は、当時は引き寄せる、または折るの意で用いられていた語である。
大伴家持、贈り和《こた》ふる歌二首
1462 吾《わ》が君《きみ》に 戯奴《わけ》は恋《こ》ふらし 給《たば》りたる 茅花《つばな》を喫《は》めど いや痩《や》せにやす
吾君尓 戯奴者戀良思 給有 茅花乎雖喫 弥痩尓夜須
【語釈】 ○吾が君に戯奴は恋ふらし 「吾が君」は、「吾が」は、親しんで添えたもの。「君」は、下の「戯奴」に対させたもので、仕える主人を(54)呼ぶ称。御主人というにあたる。○給りたる茅花を喫めど 給わった茅花を食ったが。○いや痩せにやす ますますやせてゆく。【釈】わが御主人に、この奴は恋うているのであろう。賜わった茅花ほ食ったが、ますます痩せてゆく。
【評】 贈歌に対して辻棲を合わせて詠んでいるが、通り一遍の挨拶で、熱意の見えないものである。その際の作者の必要が詠ませた歌で、巧拙以外のものである。
1463 吾妹子《わぎもこ》が 形見《かたみ》の合歓木《ねぶ》は 花《はな》のみに 咲《さ》きて蓋《けだ》しく 実《み》にならじかも
吾妹子之 形見乃合歡木者 花耳尓 咲而蓋 實尓不成鴨
【語釈】 ○形見の合歓木は 「形見」は、その人の形をして見るもので、身代わりの品の称。女郎の贈ったのは合歓木の花であるが、歌によってその物の性質を捉えて言いかえたもの。○花のみに咲きて蓋しく 花に咲くだけで、多分。○実にならじかも 実にはならないのではなかろうかで、「花」は上手な口前、「実」は実意の譬喩。
【釈】 吾妹子が、身代わりとして贈られた合歓木は、花にだけ咲いて、すなわち口頭の美しい語だけであって、多分は実にはならない、すなわち実意のないものではなかろうか。
【評】 この歌は、明らかに、逃げ口上のものであるが、しかし積極的に、地歩を占めていっているものである。歌としては、合歓木の花を「形見」の「木」と代えて、そこから恋の成語の「花」と「実」を引き出して、辛くして遁げ口上を纏めた形の歌である。女郎の歌にくらべては遠く及ばないものである。
大伴家持、坂上大嬢に贈れる歌一首
1464 春霞《はるがすみ》 たなびく山《やま》の 隔《へな》れれば 妹《いも》にあはずて 月《つき》ぞ経《へ》にける
春霞 輕引山乃 隔者 妹尓不相而 月曾經去來
【語釈】 ○春霞たなびく山の これは左注によって、久邇京(京都府相楽那、加茂、山城、木津町にわたる一帯)より奈良のほうを望んでいっているものである。久邇の遷都は天平十二年十二月であるから、その翌年の春のことと思われる。○隔れれば 「隔る」は「隔つ」の古語。「れ」は(55)完了の助動詞「り」の已然形。隔てているので。○妹にあはずて月ぞ経にける 「妹」は、坂上大嬢。「あはずて」は、逢わずしてで、奈良の邸にいるためである。「月ぞ経にける」は、月が経過したことであるよで、きわめて逢うことの稀れな意でいっているもの。
【釈】 春霞のなびいている山が間を隔てているので、妹に逢わずして、月をも経過したことであるよ。
【評】 事を事として素直にいっているのみであるが、その調べがおのずからに潤いを帯びていて、事がただちに気分化して親しくまつわってくるものがある。単純を極めた歌であるが、空疎を感じさせないのは、この調べのためである。これは家持の人柄から発しているもので、作者としては無意識のものである。
右は、久邇《くに》の京より寧楽の宅に贈れる。
右、従2久迩京1贈2寧樂宅1。
【解】 「寧楽の宅」は、佐保の宅で、大嬢は母と同棲していたことと思われる。
夏雑歌《なつのざふか》
藤原|夫人《ぶにん》の歌一首 【明日香滑御原御宇天皇の夫人なり。字を大原の大刀自と曰へり。すなはち新田部皇子の母なり。】
【題意】 「藤原夫人」は、巻二(一〇三)題詞に出た。藤原鎌足の第二女五首重娘で、天武天皇の夫人の一人である。夫人は後宮職員令に、「妃二員、夫人三人、嬪四員」とあり、人臣の出としては最高の位置である。「大原の大刀自」は、住地によって呼んだ尊称。新田部皇子の母である。
1465 霍公鳥《ほととぎす》 いたくな鳴《な》きそ 汝《な》が声《こゑ》を 五月《さつき》の玉《たま》に 相貫《あひぬ》くまでに
霍公鳥 痛莫鳴 汝音乎 五月玉尓 相貫左右二
(56)【語釈】 ○霍公鳥いたくな鳴きそ 「霍公鳥」は、呼びかけてのもの。「いたくな鳴きそ」は、そのように甚しくは鳴くなと禁止したもので、その理由は下にいっている。○汝が声を五月の玉に 「五月の玉」は、五月五日、種々の香料を綿の袋に入れ、それに菖蒲、橘花などつけた緒を垂れて、室内にかけて邪気を払ったのであるが、その緒につける玉である。○相貫くまでに 「相」は慣用で添える語で、貫く時までは。
【釈】 霍公鳥よ、そのように甚しくは鳴くな。そなたの声を玉として、五月の玉に貫く時までは。
【評】 霍公鳥の声を酷愛する歌は、天武天皇の御代頃から見え出し、時代の降るに伴って次第にその度を高め、奈良時代に至っては夏の景物の代表的なものとなっている。漢文学の影響と、その静かにして幽かな美が、時代的にも愛好されるに至ったからである。霍公鳥の声を薬玉として貫こうという歌は類歌が多いが、この歌はその最も古いものに思われる。愛すべく捉え難い声の具象化として、愛すべき五月の玉を連想したのは、巧妙な想像であるが、貴族の女性としては実感に近いものでもあったろう。一首、美しさとともに女性らしい知性が働き、調べもそれにふさわしく、明るく品位のある歌である。
志貴皇子の御歌一首
1466 神名火《かむなび》の 磐瀬《いはせ》の社《もり》の 霍公鳥《ほととぎす》 毛無《ならし》の岳《をか》に 何時《いつ》か来鳴《きな》かむ
神名火乃 磐瀬乃社之 霍公鳥 毛無乃岳尓 何時來將鳴
【語釈】 ○神名火の磐瀬の社の 上の(一四一九)に出た。○霍公鳥 呼びかけ。○毛無の岳に何時か来鳴かむ 「毛無の岳」は、所在が不明である。その名が伝わっていないためである。推定説が多いが、大日本地名辞書は竜田村(現、生駒郡斑鳩町)の南の小吉田、車瀬、目安の辺をいう。神奈備山とは竜田川を隔ててその東にある地で、岩瀬の社はまたその北にあるといっている。皇子はある期間そこに住んでいたとみえる。なお「毛無」は草木の生えない土地の意である。「何時か来鳴かむ」は、いつになったら鳴いて来るであろうかで、早く来よと待つ心である。
【釈】 神名火の磐瀬の社に鳴いている霍公鳥よ。わが毛無の岳には、いつになれば来て鳴くのであろうか。
【評】 磐瀬の社へ行って、そこに鳴いている霍公鳥を聞いた時、わがいる毛無の岳へはいつ来るだろうと、その時の早からんことを願った心のものである。「磐瀬の社」「無毛の岳」という地名の重い響と霍公鳥の優婉な声とがおのずから対照的となり、一首にある深みを帯びさせている。調べも重くさわやかで、その心を生かすものとなっている。単純な、品位の高い歌である。
弓削皇子の御歌一首
(57)【題意】 「弓削皇子」は、巻二(一一一、一一九)に出た。天武天皇第六皇子。文武天皇の三年七月薨じた。
1467 霍公鳥《ほととぎす》 無《な》かる国《くに》にも 行《ゆ》きてしか その鳴《な》く声《こゑ》を 聞《き》けば苦《くる》しも
霍公鳥 無流國尓毛 去而師香 其鳴音乎 聞者辛苦母
【語釈】 ○無かる国にも行きてしか 「無かる」は、形容詞「無し」の連体形。「国」は、狭い意で用いるもので、土地というにあたる。「てしか」は、希望。○開けば苦しも 「苦し」は、心が苦しいで、せつないというにあたる。
【釈】 霍公鳥のいない土地へ行きたいものであるよ。その鳴く声を聞くと、心が苦しいことだ。
【評】 感傷的な気分になっていた時、霍公鳥の哀調を帯びた声にその感傷を募らせられる感がして、それをそのままに詠んだものである。すなわち素朴に、実感を直写したのである。霍公鳥の声を酷愛していた時代とて、新しいことをいったごとくにみえるが、実感がそうさせたので、他意あってのものではない。その時代としても古風な歌である。
小治田広瀬《をはりだのひろせの》王の霍公鳥の歌一首
【題意】 「小治田」は、広瀬王の住所として、人の添えて称したもの。奈良県高市郡明日香村で、推古天皇の皇居のあった地。「広瀬王」は、巻一(四四)左注に出た。系譜が明らかでない。和銅元年従四位上で、大蔵卿。養老二年正四位下。同六年卒した。天武紀十年川島皇子らが勅によって帝紀および上古の諸事を定められた際、その事に関係している。
1468 霍公鳥《ほととぎす》 声《こゑ》聞《き》く小野《をの》の 秋風《あきかぜ》に 萩《はぎ》咲《さ》きぬれや 声《こゑ》の乏《とも》しき
霍公鳥 音聞小野乃 秋風尓 芽開礼也 聲之乏寸
【語釈】 ○声聞く小野の 「聞く」は、聞こえるで、声のするに同じ。「小野の」は、「小」は、美称で、野ではの意。○秋風に萩咲きぬれや 「秋風に」は、秋風に催されての意。「咲きぬれや」は、咲きぬればやで、疑問条件法。「や」は、疑問で反語に近いもの。○声の乏しき 「乏しき」は、稀れになったことだ。
(58)【釈】 霍公鳥の声のよくする野でほ、秋風に催されて萩が咲いたのであろうか、そうでもないのに鳴く声の稀れになったことだ。
【評】 晩夏のころ、家近い野で、よく鳴いた霍公鳥の声の稀れになったのを惜しみ、萩が咲いたというのであろうか、そうでもないのにと、ふと訝かしく思った心である。霍公鳥が特殊なものではなく、人間生活に取入れられて、距離の認められなくなっている心である。作者が知識人であるためでもあろう。
沙禰の霍公鳥の歌一首
【題意】 「沙彌」は、単にそれだけであるから、僧としての階級を示すだけのものと取れる。沙彌は巻二(一二三)題詞、巻三(三三六)題詞に出た。本巻は作者の明らかな歌を集めたものであるが、例外と見られる。
1469 足引《あしひき》の 山霍公鳥《やまほととぎす》 汝《な》が鳴《な》けば 家《いへ》なる妹《いも》し 常《つね》に思《しの》はゆ
足引之 山霍公鳥 汝鳴者 家有妹 常所思
【語釈】 ○山霍公鳥 山にいるほととぎす。呼びかけ。
【釈】 山にいる霍公鳥よ。そなたが鳴くと、家にいる妹が、いつもなつかしく思われる。
【評】 仏道修行のために山に籠もっているが、その寂寥《せきりよう》に堪えられなくて、ほととぎすの声を聞くと家の妹がいつも思われるというのである。僧侶であるが俗人と同じく妻帯した者は必ずしも少なくはなかったのである。
刀理宣令《とりのせんりやう》の歌一首
【題意】 「刀理宣命」は、巻三(三一三)に出た。養老五年、従七位下で、退朝の後東宮に侍せしめられた。懐風藻には、正六位上、年五十九とある。
1470 物部《もののふ》の 石瀬《いはせ》の社《もり》の 霍公鳥《ほととぎす》 今《いま》しも鳴《な》きぬ 山《やま》の常陰《とかげ》に
(59) 物部乃 石瀬之社乃 霍公鳥 今毛鳴奴 山之常影尓
【語釈】 ○物部の石瀬の社の 「物部の」は、八十氏と続くと同じ意で、五十の意の「い」に続く枕詞。「石瀬の社」は、(一四一九)に出た。○今しも鳴きぬ 「しも」は強意の助詞で、今が今鳴いた。○山の常影に 「常陰」は、諸説がある。『代匠記』初稿本は、常に日のささない陰をいうのであろうといっている。それだと石瀬の社に近い竜田山の真下などであろう。
【釈】 石瀬の社にいる霍公鳥は、今の今鳴いた。わがいるこの山の常影に。
【評】 作者は竜田山の常陰ともいうべき所にいて、思いがけず霍公鳥の声を聞いた時の感である。石瀬の社のほととぎすとしているのは、そこには多くいるものとしてであろう。感動をあらわすに、主観語は一語もまじえず、その声の聞こえた地点だけを純客観的にいっている歌で、一種の手本とも称しうるものである。「物部の」を「い」の枕詞としている点、「常陰」という語を用いている点など、他に用例のないものなので、ここにも一癖あるといえる。
山部宿禰赤人の歌一首
1471 恋《こひ》しけば 形見《かたみ》にせむと 吾《わ》が屋戸《やど》に 植《う》ゑし藤浪《ふぢなみ》 今《いま》咲《さ》きにけり
戀之家姿 形見尓將爲跡 吾屋戸尓 殖之藤浪 今開尓家里
【語釈】 ○恋しけば形見にせむと 「恋しけば」は、仮名書きとなっており、他の用例として、巻十四(三四五五)「恋しけば来ませ我が背子|垣内柳《かきつやぎ》うれつみからし我立ち待たむ」がある。「恋しけ」は、形容詞の活用形で、恋しかったらば。「形見にせむと」は、その人の身代わりにしようと思って。○植ゑし藤浪今咲きにけり 「藤浪」は、藤の状態を具象化した名で、ここは藤の花。「けり」は、詠歎。
【釈】 恋しかったらば、その人の身代わりとして見ようと思って、わが庭に植えておいた藤の花が、今咲いたことであるよ。
【評】 この歌は、いっているところは単純であるが、その単純は気分化していっているがためで、したがって余情をもった作である。事としては、関係は結んだが、その後は逢える望みのない女を思うことであるが、それはすべて背後に押しやり、直接には一語も触れていない。「恋しけば形見にせむと」は、そのことをあらわしているものであるが、「植ゑし藤浪」は、それだけにとどまらず、その女と相逢った時を思わせる唯一の物という関係のものにみえる。すなわち微細な味わいをもったものである。「今咲きにけり」と、それを中心とし、詠歎をもっていっているのは、それによってその女が現前するごとく感じ(60)てのものとみえる。一首、細かい気分を織り込み、おのずから、それを漂わしている歌である。奈良朝中期以後の、気分本位の歌の傾向は、すでに赤人が開いているとみえる歌である。
式部大輔石上堅魚《しきぶのたいふいそのかみのかつをの》朝臣の歌一首
【題意】 「式部大輔」は式部省の次官。「石上堅魚」は、神亀三年従五位上。天平八年正五位上となったことが知られる。この歌を作った時の事情は左注に委しい。
1472 霍公鳥《ほととぎす》 来鳴《きな》き響《とよ》もす うの花《はな》の 共《とも》にや来《こ》しと 問《と》はましものを
霍公鳥 來鳴令響 宇乃花能 共也來之登 問麻思物乎
【語釈】 ○霍公鳥来鳴き響もす 霍公鳥が、今来てまた鳴きとよもしていると、眼前の光景をいっているもの。これは左注により城の山の上でのことである。○うの花の共にや来しと 「うの花の」の「の」は、「と」の意のもので、用例の少なくない助詞。「共にや来しと」は、一緒にこの国へ来たのであったかといって。これは霍公鳥に対って尋ねる言葉。渡り鳥の霍公鳥の来るおりから、卯の花も咲くので、鶯の来る時梅が咲くなどと同じ関係を認めてのことである。「や」は疑問の係助詞。○問はましものを 霍公鳥に尋ねようものをで、「まし」は仮設をあらわす助動詞。「を」は詠歎。
【釈】 霍公鳥が来て、辺りも響《とよ》むまでに鳴いている。卯の花と一緒にこの国へ来たのかといって、できるならあの霍公鳥に尋ねてみようのに。
【評】 情趣を愛好する当時の知識人の間には、ほととぎすと卯の花とは、離れ難い関係のあるものだということが常識化していた。この歌はその常識の上に立ってのものである。そこには霍公鳥は「来場きとよもす」という状態であったが、卯の花のほうはなかったので、そこに眼を着けて、「共にや来しと問はましものを」ということを作意としてこの歌を詠んだのである。それで一応意味は通るが、ずいぶんもって回った、わざとらしい歌である。しかしこれは、そういわなくてはならない必要に駆られてのことである。必要というのは左注で明らかなように、作者堅魚は、その時は大伴旅人の妻の死を弔うために、勅使としてさしつかわされたのであって、この場合身分高い老廷臣旅人に対して慰めの歌を詠まなければならなかったのである。しかしそれをするには、自身の現在の立場からも、また旅人と自分との身分の隔たりからも、秘力婉曲な物言いにしなければな(61)らなかった。それで、今鳴いている霍公鳥を旅人に擬し、霍公鳥とは離れられない関係のものだが、そこには見えない卯の花を故人に擬して、霍公鳥の鳴いているのは卯の花を恋うてのこととしたのである。「来鳴きとよもす」霍公鳥の心を察し、それをもっともとすることが即ち旅人に対しての慰めで、もって回った、わざとらしい形は、じつは巧みな表現だったのである。
右は、神亀五年戊辰、大宰帥大伴卿の妻大伴郎女、病に遇ひて長逝せり。時に勅使式部大輔石上朝臣堅魚を大宰府に遣して、喪を弔ひ并せて物を賜ひき。その事既に畢りて、駅使及び府の諸卿大夫等、共に記夷城《きのき》に登りて望遊せし日、すなはちこの歌を作りき。
右、神龜五年戊辰、大宰帥大伴卿之妻大伴郎女、遇v病長逝焉。于v時勅使式部大輔石上朝臣堅魚遣2大宰府1、弔v喪并賜v物也。其事既畢、驛使及府諸卿大夫等、共登2記夷城1而望遊之日、乃作2此謌1。
【解】 「大伴郎女」の死は、巻五(七九三)を初めとしてしばしば出ていることである。高位の者に「長逝」というごとき凶事のあった際は、勅使をつかわして喪を弔いあわせて物を賜わることは定まっていたことで、格別のことではなかった。駅使は勅使で、駅馬を給わって旅をするからの称。「府の諸卿大夫」は大宰府の官人で、卿は帥および大弐、大夫は小弐である。「記夷城」は、城の山の城を二字に書いたもので、その山は筑前(福岡県筑紫都筑紫野町原田)と肥前(佐賀県三養基郡基山町)との国境にあって、大宰府よりは西南にあたり、今は坊中山という。
大宰帥大伴卿の和ふる歌一首
1473 橘《たちばな》の 花《はな》散《ち》る里《さと》の 霍公鳥《ほととぎす》 片恋《かたこひ》しつつ 鳴《な》く日《ひ》しぞ多《おほ》き
橘之 花散里乃 霍公鳥 片戀爲乍 鳴日四曾多寸
【語釈】 ○橘の花散る里の霍公鳥 「橘」は、下の「霍公鳥」に伴う花としていっているもので、前の歌の「うの花」に換えたもの。「うの花」と同じく、郎女を思いよそえている物である。「花散る里」は、「花散る」は、郎女の死を思いよそえ、「里」は、前の歌の「山」を換えたもので、大宰府を思いよそえたもの。「霍公鳥」は、自身を思いよそえたもの。○片恋しつつ鳴く日しぞ多き 「片恋」は、一方的の恋で、相手なく恋うる(62)意で、ここは雀公鳥が、相手の橘をなくしてする恋。「しつつ」は、継続。「鳴く日しぞ多き」は、「し」は、強意、「ぞ」は係で、鳴いている日の多いことよで、「鳴く」に、わが泣くをよそえたものである。
【釈】 橘の花の散る里の霍公鳥は、相手なく片恋をしつつ、鳴いている日の多いことであるよ。
【評】 堅魚の歌の暗示しているものを十分に解し、その慰めを受け入れて、悲しみを訴えているもので、贈歌との関係のさせ方は緊密なものである。しかし一首の歌としては境を変えて、霍公鳥は同じく自身であるが、贈歌の郎女に擬した卯の花を「橘の花」とし、郎女の死を「花散る」とし、その悲しみをする場所の大宰府を「里」として、「花散る里」としているのである。一首全体として見ると、心はおおらかで、率直で、姿は余裕をもちつつ、しめやかに美しく、雅馴《がじゆん》と気品をもったものである。贈歌とは比較すべくもない境地である。
大伴坂上郎女、筑紫の大城山《おほきのやま》を思《しの》ふ歌一首
【題意】 「大城山」は、福岡県筑紫郡大野町の東、四王寺山脈中の大野山で、山頂に大城があったところからの称である。大宰府の背後にある山である。「思ふ」は、郎女が兄旅人とともに大宰府にいたが、兄に先立って、天平二年十二月に帰京したことは、巻六(九六三)で知られるので、これはその翌年の夏、京にあっての作である。
1474 今《いま》もかも 大城《おほき》の山《やま》に 霍公鳥《ほととぎす》 鳴《な》き響《とよ》むらむ 吾《われ》なけれども
今毛可聞 大城乃山尓 霍公鳥 鳴令響良武 吾無礼杼毛
(63)【語釈】 ○今もかも 「今も」は「今を強調したもの。「かも」は、疑問の係助詞。○吾なけれども われが居ないけれどもで、居た時には深く愛ではやしたことを背後に置いてのもの。
【釈】 今頃は、大城の山で、霍公鳥は辺りを響《とよ》もすまでに鳴いているのであろうか。愛ではやすわれは居ないけれども。
【評】 愛好して聞いた霍公鳥を思い出してなつかしむ心で、一般性を.むった心である。結句の「吾なけれども」は、女性特有の心で、それによって生かされている。品のある歌である。
大伴坂上郎女の霍公鳥の歌一首
1475 何《なに》しかも 幾許《ここだく》恋《こ》ふる 霍公鳥《ほととぎす》 鳴《な》く声《こゑ》聞《き》けば 恋《こひ》こそまされ
何奇毛 幾許戀流 霍公鳥 鳴音聞者 戀許曾益礼
【語釈】 ○何しかも幾許恋ふる 「何しかも」は、原文「何奇毛」で、「何哥毛」とある本もある。『全註釈』は「何之可毛」の誤りかといっている。「し」は強意。「かも」は疑問の係助詞で、何だって。「幾許」は甚しく。何だってこのように甚しく人を恋うるのであるか。○鳴く声聞けば恋こそまされ 鳴く声を聞いていると、次第に人を恋うる心の慕ってくることである。
【釈】 何だってこのように甚しくも人を恋うるのであるか。ほととぎすの鳴く声を聞いていると、次第に人を恋うる心の募ってくることである。
【評】 ほととぎすの哀調を帯びた声を聞いているうちに、思いがけずも人恋しい心が湧き上がってきて、われとそれを訝かって、「何しかも幾許恋ふる」と自問し、ついで、それと心づき、「霍公鳥鳴く声聞けば」と自答した形のものである。ほととぎすの声を愛することが基本にはなっているが、今はそれには触れず、それのもたらす思わぬ心理現象を捉えていっているものである。郎女としては珍しい、純知性的な、荒い歌である。
小治田《をはりだの》朝臣|広耳《ひろみみ》の歌一首
【題意】 「小治田広耳」につき『代匠記』は、この名は続日本紀には見えないが、「広千」という人はある。「耳」と「千」とは草体に書くと字形が似ているから、誤写ではないかといっている。また『私注』は「耳」のままでチと訓むことができるといっ(64)ている。広千だと、天平五年正六位上から外従五位下。同十三年尾張守。同十五年讃岐守となった人である。「広耳」は、後の(一五〇一)にも出ている。
1476 独《ひとり》居《ゐ》て 物《もの》念《おも》ふ夕《よひ》に 霍公鳥《ほととぎす》 此間《こ》ゆ鳴《な》き渡《わた》る 心《こころ》しあるらし
獨居而 物念夕尓 霍公鳥 從此間鳴渡 心四有良思
【語釈】 ○独居て物念ふ夕に 「物念ふ」は、嘆き。「夕」は、夜で、逢い難い妻を恋しく思っていることを暗示的にいったものと取れる。○此間ゆ鳴き渡る ここをとおって鳴き渡って行くで、行く方角は妻のいる方。○心しあるらし 「し」は、強意。心あってのことであろう。
【釈】 独りでいて嘆きをしている夜に、霍公鳥はわがいる上の空を鳴いて渡ってゆく。心あってのことであろう。
【評】 離れて住んでいる相思の間で、鳥に思いを託してそなたの空にやるというのは、常識に近いものとなっていた。「心しあるらし」は、その範囲のものであるが、自身とは直接に関係させず、鳥そのもののこととし、一方自身のことも、妻に逢い難く恋しく思っていることを暗示の形にとどめている点が、この歌の新しさである。一首全体としても、しめやかで、心細かく、情趣的である。奈良朝中期の歌風である。
大伴家持の霍公鳥の歌一首
1477 うの花《はな》も 未《いま》だ咲《さ》かねば 霍公鳥《ほととぎす》 佐保《さほ》の山辺《やまべ》に 来鳴《きな》き響《とよ》もす
字能花毛 未開者 霍公鳥 佐保乃山邊 來鳴令響
【語釈】 ○うの花も未だ咲かねば 「卯の花」は、霍公鳥の来るとともに咲く物としてのもの。「も」は詠歎。「咲かねば」は、咲かぬにと同じ。(65)○佐保の山辺に 「佐保」は、家持の邸のあった地で、「山辺」は、そこの佐保山の辺り。
【釈】 卯の花はまだ咲かないのに、それとともに来たるべきものの霍公鳥は早くも釆て、佐保山の辺りを響もし鳴いている。
【評】 霍公鳥の思いがけずも早く来たのに対しての喜びの心である。他意なく素直に詠んでいるものである。「佐保の山辺に」と、その位置をいっているので、一首が成り立っている。
大伴家持の橘の歌一首
1478 吾《わ》が屋前《やど》の 花橘《はなたちばな》の 何時《いつ》しかも 珠《たま》に貫《ぬ》くべく その実《み》なりなむ
吾屋前之 花橘乃 何時毛 珠貫倍久 其實成奈武
【語釈】 ○屋前 「やど」と訓むこと巻三(四一〇)に述べた。意味の広い語で、家の庭の意。○花橘 花の咲いている時の橘の称。○何時しかも いつになればかで、早くの意。「かも」は疑問の係。○珠に貫くべくその實なりなむ 「珠に貫く」は、五月の薬玉の玉に貫く意で、既出。「なりなむ」は、実がなるのであろうか。
【釈】 わが家の庭の花橘は、いつ、薬玉の玉に貫《ぬ》けるように、その実がなるだろうか。
【評】 橘の歌というよりも、五月の節供の行事を、限りなく楽しいものとして憧れている心である。若い心を若いがままに他意なく詠んだ歌である。
大伴家持の晩蝉《ひぐらし》の歌一首
【題意】 「晩蝉」は、蝉の一種で、今の蜩《かなかな》。盛夏に鳴く。鳴くのは明け方か夕方かである。ここは夕方である。
1479 隠《こも》りのみ 居《を》れば欝悒《いぶせ》み なぐさむと 出《い》で立《た》ち聞《き》けば 来鳴《きな》く晩蝉《ひぐらし》
隱耳 居者欝悒 奈具左武登 出立聞者 來鳴日晩
(66)【語釈】 ○隠りのみ居れば鬱悒み 「隠りのみ」ほ、家に引籠もってばかりで、盛夏の暑さに侘びてのことと取れる。「鬱悒み」は、いぶせく感ずるゆえに。○なぐさむと出で立ち開けば 「なぐさむと」は、上のいぶせさを慰めようと思って。「出で立ち聞けば」は、家の外へ出て、耳を澄ましているとで、「聞けば」は、下の「晩蝉」をいおうとしてのものである。○来鳴く晩蝉 来て鳴く晩蝉よで、「来鳴く」は、晩蝉はだしぬけに近く鳴くもので、その心をもっていっているもの。
【釈】 家に引籠もってばかりいたので、いぶせさを感じたゆえに、心を慰めようと思って外へ出て耳を澄ましていると、近く来て鳴く晩蝉よ。
【評】 蜩を聞いた境地だけを叙述して、抒情の語をまじえていない歌で、若い頃の家持としては異色ある作である。境地の叙述によって、蜩のもたらす気分をあらわそうとしたのは要を得たことであるが、その叙述が綿密にすぎて、それだけで独立しているごとき感を起こさせる。綜合力が伴いかねたのである。家持の歌風、持ち味ともいうべきものが、ややはっきりし出してきている作として、この歌は注意される。
大伴|書持《ふみもち》の歌二首
【題意】 「大伴書持」は、巻三(四六三)に出た。家持の弟で、天平十八年秋卒したことが、家持の歌によって知られるだけである。
1480 吾《わ》が屋戸《やど》に 月《つき》押照《おして》れり 霍公鳥《ほととぎす》 心《こころ》あらば今夜《こよひ》 来鳴《きな》き響《とよ》もせ
我屋戸尓 月押照有 霍公鳥 心有今夜 來鳴令響
【語釈】 ○月押照れり 「押照る」は、押しなべて照るで、隈なく照るの意。○霍公鳥 呼びかけたもの。○心あらば今夜 事番をわきまえる心があるならば、鳴くにふさわしい今夜。○来鳴き響もせ 来て盛んに鳴けよと命令したもの。
【釈】 わが家の庭に月が隈なくも照っている。霍公鳥よ、事をわきまえる心があるならば、鳴くに良い夜だとして、今夜ここに来て盛んに鳴けよ。
【評】 霍公鳥に憧れている心であるが、むしろ月と霍公鳥と相俟っての佳景に憧れているものである。若く躍る気分が調べとなって現われている。
(67)1481 我《わ》が屋前《やど》の 花橘《はなたちばな》に 霍公鳥《ほととぎす》 今《いま》こそ鳴《な》かめ 友《とも》にあへる時《とき》
我屋前乃 花橘尓 霍公鳥 今社鳴米 友尓相流時
【語釈】 ○花橘に 花の咲いている橘で、上の歌の「月」をうけて、境を変えたもの。これは霍公鳥の来て鳴く木となっている。○今こそ鳴かめ 「め」は推量の助勒詞「む」の已然形、「こそ」を受けた結。勧誘、遠まわしな命令の意味をあらわす。今こそは鳴いてくれよ。○友にあへる時 書持の所へ、友が客として来ているこの時。
【釈】 わが家の庭の花橘の木に、霍公鳥は今という今は来て鳴いてくれよ。友が来て遇っているこの時に。
【評】 上の歌と連作になり、一つの心をおし進めているものだ。霍公鳥を待つのは、主人として客である友をもてなそうとする心よりのことで、二首とも儀礼を旨とした歌である。調べの張って躍っているのも、その場合柄のことと思われる。月夜、橘の花のかおる時、友とともに、霍公鳥を聞く情趣に浸ろうとする、若い貴族の生活がうかがわれる。
大伴|清繩《きよなは》の歌一首
【題意】 「清繩」は、伝未詳。
1482 皆人《みなひと》の 待《ま》ちしうの花《はな》 落《ち》りぬとも 鳴《な》く霍公鳥《ほととぎす》 吾《われ》忘《わす》れめや
皆人之 待師宇能花 雖落 奈久霍公鳥 吾將忘哉
【語釈】 ○皆人の待ちしうの花 「皆人」は、用例の少なくない語。「人皆」と並び行なわれているが、力点の置き方が異なるので、意味も多少異なっている。これは「人」に力点がある。「待ちしうの花」は、霍公鳥との関係において待ったもの。○落りぬとも 『代匠記』の訓。散ってしまおうともで、未来のこととしていっているもの。今は卯の花もあり、したがって霍公鳥も鳴いているのである。○鳴く霍公鳥吾忘れめや 「鳴く」は、現在。「や」は、反語。
【釈】 すべての人の一様に咲くのを待っていた卯の花が散ってしまおうとも、鳴いている霍公鳥の声を吾は忘れようか、忘れはしまい。
(68)【評】 霍公鳥の鳴くのを聞いて、そのなつかしく忘れ難い心をいおうとしたものである。しかしそれをいうに、当時の通念であった霍公鳥と卯の花との関係にすがっていおうとしたがために、卯の花のほうにカが入りすぎて、それが主となったかの形となり、一首の統一が付きかねる形に陥った歌である。
奄君諸立《あむのきみもろたち》の歌一首
【題意】 「諸立」は伝未詳である。
1485 吾《わ》が背子《せこ》が 屋戸《やど》の橘《たちばな》 花《はな》をよみ 鳴《な》く霍公鳥《ほととぎす》 見《み》にぞ吾《わ》が来《こ》し
吾背子之 屋戸乃橘 花乎吉美 鳴霍公鳥 見曾吾來之
【語釈】 ○吾が背子が 男同志で親しんでの称。○花をよみ 花がよいゆえにで、よいと見るのは、下の「霍公鳥」である。○鳴く霍公鳥見にぞ吾が来し 「鳴く」は、花を慕って来て鳴く意。「見にぞ」は、その霍公鳥を見にで、「ぞ」は係。
【釈】 君が庭の橘は花が良いゆえに、それを慕って来て鳴く霍公鳥を見に、吾は来たことだ。
【評】 橘の花に電公鳥が鳴く頃、親しい友の家を訪ねて、挨拶として詠んだ歌である。鄭重にいおうとしたものであるが、「霍公鳥見に」という続きは無理である。
大伴坂上郎女の歌一首
1484 霍公鳥《ほととぎす》 いたくな鳴《な》きそ 独《ひとり》居《ゐ》て 寐《い》の宿《ね》らえぬに 聞《き》けば苦《くる》しも
霍公鳥 痛莫鳴 獨居而 寐乃不所宿 聞者苦毛
【語釈】 ○霍公鳥いたくな鳴きそ ほととぎすよ、甚しくは鳴くなよと、呼びかけて命令した形。○独居て寐の宿らえぬに 「独居て」は、夫を対象としたもので、夫が来ず、独りで居て。「寐の宿らえぬに」は、「寐」は、眠りで、名詞形。「宿らえぬに」は、眠れないのにで、安眠ができずにいるのにの意。夫恋しい思いに、ということを、暗示的にいったもの。○聞けば苦しも 「苦しも」は、「も」は、詠歎。霍公鳥の声は、人恋(69)しい思いをさせるものなので、その心が募ってきて苦しい意。
【釈】 霍公鳥よ、そのように甚しくは鳴くなよ。夫が乗ずに独りで居て、その恋しさに安眠がされずにいるのに、汝の鳴く声を
聞くと、その心が募ってきて苦しいことよ。
【評】 気分が直接に調べとなって、調べによって全部をあらわしているような作である。「いたくな鳴きそ」の「いたく」がいかにもよく利いている。たのしんで聞いていたのが、聞くに堪えられなくなった推移をも思わせる働きをしている。明敏な人柄と手腕との相俟ってのものである。
大伴家持の唐棣花《はねず》の歌一首
【題意】 「唐棣花」は、薔薇科の灌木で、にわうめ、また、にわざくらともいう。晩春より初夏にかけて淡紅の五弁の花が咲く。染料に用いた。
1485 夏《なつ》設《ま》けて 咲《さ》きたる唐棣花《はねず》 ひさかたの 雨《あめ》うち零《ふ》らば 移《うつ》ろひなむか
夏儲而 開有波祢受 久方乃 雨打零者 將移香
【語釈】 ○夏設けて 「設けて」は巻二(一九一)に出た。夏を待ち設けて。○咲きたる唐棣花 「唐棣花」については諸説があるが、現在の庭梅だとする『代匠記』の解に従う。それだと花は薄紅で、晩春から初夏へかけて咲く。○移ろひなむか 「移ろふ」は、花の上では色あせ、散り、萎えるなど、衰える意。
【釈】 夏を待ち設けて咲いたこの唐棣花は、雨が降ったならば色あせて衰えるであろうか。
【評】 はねずの低く可憐に咲いている花に対して、雨が降ったならばと危ぶんでいる心である。心に触れるものを素直に受け入れ、正直にいっている態度のうかがえる作である。
大伴家持の、霍公鳥の晩《おそ》く喧《な》くを恨むる歌二首
1486 吾《わ》が屋前《やど》の 花橘《はなたちばな》を 霍公鳥《ほととぎす》 来喧《きな》かず地《つち》に 落《ち》らしめむとか
(70) 吾屋前之 花橘乎 霍公鳥 來不喧地尓 令落常香
【語釈】 ○来鳴かず地に落らしめむとか 「来喧かず」は、「ず」は連用形。来鳴かずして。花橘は霍公鳥の好んで来る木としているところから、その来ないことは、花橘を甲斐ないものにするとしていっているもの。「落らしめむ」は散って行かせようとするのかで、「か」は疑問。
【釈】 わが家の庭の橘の花を、霍公鳥は、来鳴かずして、いたずらに土に散って行かせようとするのであろうか。
【評】 霍公鳥の晩《おそ》くまで来ないことを恨んでの心だと題しているが、歌の上では、霍公鳥に対しての恨みはいわず、それと深い関係のありとする橘の花の、あり甲斐なくいたずらになってゆくのを憐れむことのほうが主となっている歌である。「地に落らしめむとか」は、感傷の心をもって誇張していっているもので、この言い方に隣れみの心をこめているのである。家持の心優しさの現われている歌であるが、この優しさは意識してのものではなく、おのずからのものであることは、その感傷のほどよいものであることにも現われている。心を尽くしていっているところに味わいがある。
1487 霍公鳥《ほととぎす》 念《おも》はずありき 木《こ》の暗《くれ》の かくなるまでに なにか来喧《きな》かぬ
霍公鳥 不念有寸 木晩乃 如此成左右尓 奈何不來喧
【語釈】 ○霍公鳥念はずありき 「霍公鳥」は、呼びかけ。「念はずありき」は、案外なことであったの意。○木の暗のかくなるまでに 「木の暗」は、木の枝葉の茂って、その下の暗くなることの称。「かくなる」は、このように深くなってくるで、眼前の状態。○なにか来喧かぬ どうして来て鳴かないのであろうかで、「か」は疑問の係。
【釈】 霍公鳥よ、案外なことであった。木下の暗さのこのように深くなるまで、どうして来て鳴かないのであるか。
【評】 来るものと決めて待っていた霍公鳥の来ないのを、怪しみをもっていっているものであるが、その怪しみだけを、他意なく一本気にいっているところに魅力がある。霍公鳥に対していっている言葉であるが、その言い方が口語的であることも、その心を示しているものである。「念はずありき」が、十分にこなれて溶け入っている。二首、家持という人を思わせられるものである。
大伴家持の霍公鳥を懽《よろこ》ぶ歌一首
(71)1488 何処《いづく》には 鳴《な》きもしにけむ 霍公鳥《ほととぎす》 吾家《わぎへ》の里《さと》に 今日《けふ》のみぞ鳴《な》く
何處者 鳴毛思仁家武 霍公鳥 吾家乃里尓 今日耳曾鳴
【語釈】 ○何処には鳴きもしにけむ 「何処には」は、どこかにはで、「は」は「我家の里」と対させたもの。「鳴きもしにけむ」は、「に」は完了の助動詞「ぬ」の連用形。鳴いたことであったろう。○今日のみぞ鳴く 「今日のみぞ」は、今日を強める意で、今日初めて鳴く。
【釈】 どこかには鳴いたことであったろう。霍公鳥はわが家のある里には、今日初めて鳴く。
【評】 上の「晩く喧くを恨むる歌」につながりをもった歌で、これは待ち得た懽《よろこ》びである。恨むといい、懽ぶといっても、霍公鳥そのもののほうに力点を置き、それに随順してのものであって、自身の心を立ち入らせて、注文は付けていないのである。これは自然界を大きく認め、ある距離を置いての心である。奈良朝時代の歌は、次代の平安朝に接近しているとはいうが、それは前代と比較してのことであって、平安朝とは明らかに距離のあることが、霍公鳥に対しての上でもうかがわれる。この取材は厭味に陥りやすいものであるのに、それのないのは、家持の人柄にもよろうが、時代の精神というほうが、より大きかったためと思われる。
大伴家持の橘花を惜しむ歌一首
1489 吾《わ》が屋前《やど》の 花橘《はなたちばな》は 落《ち》り過《す》ぎて 珠《たま》に貫《ぬ》くべく 実《み》になりにけり
吾屋前之 花橘者 落過而 珠尓可貫 實尓成二家利
【語釈】 ○落り過ぎて 「過ぎて」は、経過してで、「落る」を語を変えて畳んだもの。○珠に貫くべく実になりにけり 「珠に貫く」は、五月の節供の薬玉にまじえ貫くべく。「実になり」は、実と変わる意。「けり」は、詠歎。
【釈】 わが家の庭の花の咲いている橘は、散り終わって、今は五月の薬玉の玉に貫けるように、実になって来たことであるよ。
【評】 上の(一四七八)「吾が屋前《やど》の花橘の何時《いつ》しかも珠に貫くべくその実なりなむ」とつながりをもったもので、期待していたことの実現したのを喜ぶ心のものである。庭上の橘の木に、時の推移するに伴って喜びを発見している心である。二首とも取材としては平凡な単調なものであるが、生活気分の上からいえば、そのようにもいえないものである。家持の生活を重んじ(72)る気分の、風雅を通して現われている歌と見られる。
大伴家持の霍公鳥の歌一首
1490 霍公鳥《ほととぎす》 待《ま》てど来喧《きな》かず 菖蒲草《あやめぐさ》 玉《たま》に貫《ぬ》く日《ひ》を いまだ遠《とほ》みか
霍公鳥 雖待不來喧 菖蒲草 玉尓貫日乎 未遠美香
【語釈】 ○菖蒲草玉に貫く日を 原文「菖蒲草」は、諸本「蒲草」、『代匠記』は「菖」が脱しているといい、諸注が従っている。菖蒲で、香草であるところから、邪気を払う力がありとして、その根を細かく刻み、五月五日の節供の薬玉にまじえて貰いた。ここはそれである。霍公鳥は、その節供の日に渡って来るものとしていた。例の人事の愛でたさと自然の愛でたい景物とを関係させようとする心からのことである。○いまだ遠みか まだ遠いゆえにかで、「か」は疑問。
【釈】 霍公鳥は待っているが来鳴かない。菖蒲の根を薬玉にまじえて貫く日が、まだ遠いせいなのか。
【評】 ほととぎすを待ちつつも、その来る月とされている五月の節供の日が遠いせいかと思って、諦めようとしている心である。情趣を追いつつも理には従おうとする心である。
大伴家持、雨の日に霍公鳥の喧くを聞ける歌一首
(1491) うの花《はな》の 過《す》ぎば惜《を》しみか 霍公鳥《ほととぎす》 雨間《あまま》も置《お》かず 此間《こ》ゆ喧《な》き渡《わた》る
字乃花能 過者惜香 霍公鳥 雨間毛不置 從此間喧渡
【語釈】 ○うの花の過ぎば惜しみか 「過ぎば」は、時期が経過したならばで、散らば。「惜しみか」は、惜しいゆえかで、霍公鳥は、卯の花とともに来たりともに去るものとしているところから、その花が散れば鳴けないとして、時を惜しむ意でいっているもの。これは一般の心である。「か」は、疑問の係。○雨間も置かず 「雨間」は、晴天と対照させて雨の降っている間をもいい、また雨天と対照させて雨の霽《は》れ間の意にも用いている。ここは前者である。「置かず」は、よそにせずで、かかわらずというに同じ。「ず」は、連用形で、下へ続く。○此間ゆ喧き渡る 「此間ゆ」は、ここをとおって。
(73)【釈】 卯の花の時期が経過したならばと惜しむゆえなのか、霍公鳥は、雨の降っている間であるにもかかわらずに、ここを通って鳴き渡ってゆくことよ。
【評】 この歌の、卯の花と霍公鳥との関係も、上の歌と同様で、人間の情趣を求めるからの想像であるが、霍公鳥もそれを承認しているとしていっているものである。「雨間も置かず喧き渡る」はすなわちそれで、今日から見ると情趣にすぎるものであるが、これは時代の気分で、家持は素直に受け入れたにすぎぬものである。しかしさすがに、「惜しみか」と疑問の形にして、ある緩和は与えている。
橘の歌一首 遊行女婦《うかれめ》
【題意】 「遊行女婦」は、巻六(九六五〜六六)児島があった。これもそれで、奈良に居たものと取れる。名は挙げていない。
1492 君《きみ》が家《いへ》の 花橘《はなたちばな》は なりにけり 花《はな》なる時《とき》に 逢《あ》はましものを
君家乃 花橘者 成尓家利 花有時尓 相益物乎
【語釈】 ○花橘はなりにけり 「花楠」は、ここは橘。「なり」は、実になる意。「けり」は、詠歎。○花なる時に 花の咲いている時に。○逢はましものを 「逢ふ」は、橘に逢う意。「まし」は、仮設、「を」は、詠歎。
【釈】 君の家の橘は、今は実となったことであった。花の咲いている時に見たかったのに。
【評】 ある遊行女婦が、「君」と呼ばれる男の家に来て、庭の橘を見て詠んだ形のものである。挨拶の心より詠んだものと思われるが、「花なる時に逢はましものを」は、以前にも招きを受けたかったという心をもたせたもので、媚態を思わしめる。遊行女婦の歌は珍しいとして採ったものかと思われる。
大伴|村上《むらかみ》の橘の歌一首
【題意】 「村上」は(一四三六)に出た。
(74)1493 吾《わ》が屋前《やど》の 花橘《はなたちばな》を 霍公鳥《ほととぎす》 来鳴《きな》き動《とよ》めて 本《もと》に散《ち》らしつ
吾屋前乃 花橘乎 霍公鳥 來鳴令動而 本尓令散都
【語釈】 ○来鳴き動めて 「動めて」ほ、動ましめてで、その動ましたのは橘の花である。来て鳴いて、花を動ましめて。○本に散らしつ 「本」は木の下。
【釈】 わが家の庭の橘の花を、霍公鳥が来て鳴いて動ましめて、その花を木の下に散らした。
【評】 「来鳴き動めて本に散らしつ」は、その状態を眼前に見てのものと取れる。「動めて」はこの場合重いもので、「動めて」「散らしつ」と続き、この微細な推移は眼に見なくては捉え難いと思われるからである。眼前の事とすると相当の興のあることで、一首の内容とするに足りるものである。
大伴家持の霍公鳥の歌二首
1494 夏山《なつやま》の 木末《こぬれ》の繁《しげ》に 霍公鳥《ほととぎす》 鳴《な》き響《とよ》むなる 声《こゑ》の遙《はる》けさ
夏山之 木末乃繁尓 霍公鳥 鳴響奈流 聲之遙佐
【語釈】 ○夏山の木末の繁に 「繋」は「繋し」の語幹で、名詞形。巻十八(四〇五一)「多胡の埼木の暗|之気《しげ》に」の仮名書きがある。繋みの意。
【釈】 夏山の木の梢の繁みに、霍公鳥の鳴き立てている声の遠いことよ。
【評】 夏山の木立に隠れて姿を見せずに、遠く鳴いているほととぎすの声が、辺りが静寂であるために、はっきりと、しかし幽かに聞こえて来るのに、深い興を感じた心である。上に出た多くの霍公鳥は、いずれも身近かにいたもので、人間のかもし出した情趣の境のものであったが、これは広い自然の中にいるもので、そうした霍公鳥に対すると心が高揚してきて、情趣から離れて、霍公鳥そのものとして直接に自身の心に受け入れている。家持としては歌柄が大きく、調べが張って来て、おのずから古風な詠み方をしている。古風とはいっても、好んで細叙をし、ことに「声の遙けさ」と、その幽かな声に聞き入ろうとするところは新風である。
(75)1495 足引《あしひき》の 木《こ》の間《ま》立《た》ちくく 霍公鳥《ほととぎす》 かく聞《き》き初《そ》めて 後《のち》恋《こ》ひむかも
足引乃 許乃間立八十一 霍公鳥 如此聞始而 後將戀可聞
【語釈】 ○足引の木の間立ちくく 「足引の」は、山の枕詞であるのを、山そのものの意に転用したもの。「立ちくく」は、「立ち」は接頭語。「くく」は、潜るの古語で、他にも用例のあるものである。連体形で、山の木立の間を潜るところの。○かく聞き初めて後恋ひむかも 「かく聞き初めて」は、このように聞き初めてで、「かく」は現に鳴いているのを、感として言いかえたもの。「後恋ひむかも」は、後までも恋しく思うであろうかなあで、「かも」は、疑問と詠歎。
【釈】 山の木立の間を潜り飛んでいる霍公鳥の声を、このように聞き初めて、後になっても恋しく思うであろうかなあ。
【評】 上の歌と連作である。この歌で、そのほととぎすはいわゆる山ほととぎすであり、それとしては早朝のものであったことが知られる。「後恋ひむかも」は、その心よりのもので、里ではまだ当分聞かれないとしてのことである。「足引の木の間立ちくく」という細叙は、その物を愛してのことで、それ以下の抒情と統一はもったものであるが、この歌は気分を主としたもので、上の叙述を主とした歌にくらべると著しく調子が低くなっている。この二首の示す傾向の間を、家持は柔軟性をもって出入していたのである。
大伴家持の石竹花《なでしこ》の歌一首
1496 吾《わ》が屋前《やど》の 瞿麦《なでしこ》の花《はな》 盛《さか》りなり 手折《たを》りて一目《ひとめ》 見《み》せむ児《こ》もがも
吾屋前之 瞿麥乃花 盛有 手折而一目 令見兒毛我母
【語釈】 ○瞿麦の花 わが国在来の野生のもので、河原撫子。○見せむ児もがも 「児」は、女の愛称。「もがも」は願望。
【釈】 わが家の庭の撫子の花は今盛りである。折って一目でも見せる女がほしいものだなあ。
【評】 家持は、巻三(四六四)で、「秋さらば見つつ思《しの》へと妹が植ゑし屋前の石竹|開《さ》きにけるかも」と詠んで、その亡妻を悲しんでいる。時は天平十一年、二十歳を超ゆるいくばくもない時である。この巻は天平十三年頃を終わりとしているので、ここ(76)にいう「児」は、あるいはその亡妻であるかもしれない。
筑波山に登らざりしを惜しむ歌一首
1497 筑波根《つくばね》に 吾《わ》が行《ゆ》けりせば 霍公鳥《ほととぎす》 山《やま》びこ響《とよ》め 鳴《な》かましやそれ
筑波根尓 吾行利世波 霍公鳥 山妣兒令響 鳴麻志也其
【語釈】 ○筑波根に吾が行けりせば 「筑波根」は、常陸国の筑波山。「行けり」の「り」は完了の助動詞。「せ」は、過去の助動詞の「き」の未然形。我の登っていたとするならばで、仮設していっているもの。○霍公鳥山びこ響め 「山びこ」は、山彦で、上の霍公鳥が山に反響を呼んで。○鳴かましやそれ 「まし」は、実際に反したことを仮設する意のもので、実際は鳴かなかったのを、鳴きもしようと仮想し、「や」の反語で、それを覆して、必ず鳴いたにちがいない、の意となるのである。甚しく屈折させた言い方である。「それ」は、語調を強めるために添えた語で、意味はない。
【釈】 筑波根にもし自分も行っていたとしたならば、ほととぎすは山彦を起こして、必ず鳴いたにちがいない。
【評】 左注によって高橋蟲麿の作と知れる。常陸の国庁にあって、同僚が筑波山に登ったが、聞こうと思ったほととぎすが鳴かなかったと話した時、それに答える心で詠んだものと思われる。作意は、ほととぎすの鳴かなかったのは、自分を誘って同行しなかったからだ。自分がいたら、きっと盛んに鳴いたにちがいない、というので、戯談の形で恨みをいったものである。詠み方は全体に屈折が多く、ことに結句は甚しいが、作意がそうしたものだからである。才気の豊かな、鋭く冴えた歌である。
右の一首は、高橋連蟲麿の歌の中に出づ。
右一首、高播連蟲麿之謌中出。
夏相聞《なつのさうもん》
大伴坂上郎女の歌一首
(77)1498 暇《いとま》無《な》み 来《こ》ざりし君《きみ》に 霍公鳥《ほととぎす》 吾《わ》かく恋《こ》ふと 行《ゆ》きて告《つ》げこそ
無暇 不來之君尓 霍公鳥 吾如此戀常 徃而告社
【語釈】 ○暇無み来ざりし君に 「暇無み」は、暇がないゆえにで、公事の忙しいため。「来ざりし君」は、夜を通って来なかったところの夫。○霍公鳥 呼びかけたもの。これは夜、その家の空で鳴いているもの。○吾かく恋ふと行きて告げこそ 「かく恋ふと」は、このように恋うているといって。「行きて」は、夫のいる空へ飛んで行って告げてくれで、「こそ」は願望の助詞。
【釈】 暇がないゆえにわが方へは来なかったところの夫に、霍公鳥よ、吾がこのように恋うているといって、あちらへ行って告げてくれよ。
【評】 「暇無み来ざりし」は、消息によってかあるいは判断によって、明らかに承知していたのである。「吾かく恋ふと」はそれに矛盾するものであるが、これには「霍公鳥」が関係しているのである。ほととぎすの鳴き声は恋情をそそるもので、それを聞いているうちにそうした矛盾した気分になったとしたもので、「行きて告げこそ」もそれにつながりがあるのである。鳥を恋の使とすることは伝統の久しいもので、漢土の故事なども絡んでいようが、霍公鳥をそれとすることはこの時期の発見で、当時にあっては興味の深いものであったろう。
大伴|四綱《よつな》の宴《うたげ》に吟《うた》へる歌
【題意】 「四綱」は、巻四(五七一)にも出て、大宰府で防人佑であった人である。「宴に吟へる」は、宴席には必ず歌のあるべきものだったので、その意のものである。
1499 事《こと》繁《しげ》み 君《きみ》は来《き》まさず 霍公鳥《ほととぎす》 汝《なれ》だに来鳴《きな》け 朝戸《あさど》開《ひら》かむ
事繁 君者不來益 霍公鳥 汝太尓來鳴 朝戸將開
【語釈】 ○事繁み君は来まさす 「事繁み」は、その続きから、公務が多いので。「君は来まさず」は、「君は」は、その宴席へ来るべき人で、「来まさず」は、「来ず」の敬語。位置ある人とみえる。○霍公鳥汝だに来鳴け 「霍公鳥」は、呼びかけ。「汝だに来鳴け」は、せめてお前だけでも(78)来て鳴けよ。○朝戸開かむ 朝戸を開けて迎えよう。当時は早起きであったので、宴が夜更けに及べば、このようにいうのも不自然ではなかったろうと旭われる。祭礼の夜は、御酒を飲んで徹夜するのが普通であった。
【釈】 公務が多いので、待つ君はいらせられない。霍公鳥よ、せめてお前だけでも来て鳴けよ。朝戸をあけて迎えよう。
【評】 宴席の歌は、初めは儀礼のものであったが、次第に興味中心のものに移り、相聞の歌といううち、諧謔味を含んだものを喜ぶようにまでなった。この歌は興味の範囲のものではあるが、その対象が霍公鳥という風雅なものであり、全体として見て品位のあるものである。宴の性質によるところもあろうと思われる。
大伴坂上郎女の歌一首
1500 夏《なつ》の野《の》の 繁《しげ》みに咲《さ》ける 姫百合《ひめゆり》の 知《し》らえぬ恋《こひ》は 苦《くる》しきものぞ
夏野之 繁見丹開有 姫由理乃 不所知戀者 苦物曾
【語釈】 ○繁みに咲ける姫百合の 「繁み」は、名詞。「姫首合」は、山野に自生する百合の一種で、花は夏咲き、黄と赤の二種がある。鬼百合に較べると、茎も花も小さい。三句まで、意味で「知らえぬ」にかかる序詞。○知らえぬ恋は苦しきものぞ 「知らえぬ」は、『略解』の訓。相手にそれと知られぬで、共に十分心を汲んでもらえない場合にもいえる。「ぞ」は、強意の助詞。
【釈】 夏の野の草の繁みに咲いている姫百合の人に知られない、その知られない恋は苦しいことである。
【評】 心は明らかで、序詞によって生かされている歌である。夫婦間での訴えとも取れる。上代の妻は、常に夫に対しての憧れをもたされていたからである。
小治田朝臣広耳の歌一首
【題意】 「広耳」は(一四七六)に出た。
1501 霍公鳥《ほととぎす》 鳴《な》く峯《を》の上《うへ》の うの花《はな》の 厭《う》きことあれや 君《きみ》が来《き》まさぬ
霍公鳥 鳴峯乃上能 宇乃花之 ※[厭のがんだれなし]事有哉 君之不來益
(79)【語釈】 ○霍公鳥鳴く峯の上のうの花の 霍公鳥が鳴く山の上にある卯の花ので、同音反復で「厭」にかかる序詞。ほととぎすと卯の花との関係はしばしば出た。○厭きことあ九や 「厭きこと」は、我を不快に思うこと。「あれや」は、あったのであろうかで、疑問の条件法。○者が来まさぬ 君がいらせられないことである。
【釈】 霍公鳥が鳴く山の頂に咲いている卯の花の、その卯に因む憂いと思われることがわれにあったのであろうか、君のいらせられないことであるよ。
【評】 女の立場に立っての歌である。当時の夫婦生活にあっては、女はこうした心はもたされやすい心であったろう。この巻の歌よりも古いものである巻十(一九八八)に、「鶯の通ふ垣根の卯の花の厭きことあれや君が来まさぬ」がある。この時代は古歌を踏襲することのかなりに行なわれていた時代であるから、初二句を替えて宴席などで謡ったものであろう。
大伴坂上郎女の歌一首
1502 五月《さつき》の 花橘《はなたちばな》を 君《きみ》が為《ため》 珠《たま》にこそ貫《ぬ》け 散《ち》らまく惜《を》しみ
五月之 花橘乎 爲君 珠尓貫 零卷惜美
【語釈】 〇五月の花橘を 五月に入って咲いている橘の花を。五月の節供の薬玉には、楠の実を玉にまじえて貫くことをしているが、−方、花を貫くことも、これを初め他にもある。この花は遅く咲くものであったと取れる。○君が為珠にこそ貫け 「君」は、妻より夫を敬って呼ぶ称となっていた。ここもそれと取れる。「珠にこそ貨け」は、旧訓「たまにこそぬけ」。『代匠記』は、「尓」の下に「社」が脱しているとして加えている。京都大学本には赭で「社」があるが他にはない。「つらぬく」の用例はないから、旧訓に従う。○散らまく惜しみ 散ることの惜しさに。
【釈】 五月の橘の花を、君がためにと珠として貫く。散ることの惜しさに。
【評】 五月の節供の折、薬玉に付ける料として、橘の花を緒に貫いて贈るのに添えた歌とみえる。儀礼の歌で、型に従って詠んたものである。「散らまく惜しみ」は、花を用いた理由であるが、ある情趣のあるものである。
紀朝臣豊河の歌一首
【題意】 「豊河」は、天平十一年正六位上から、外従五位下を授けられている。
(80)1503 吾妹子《わぎもこ》が 家《いへ》の垣内《かきつ》の 小百合花《さゆりばな》 ゆりと云《い》へるは 不欲《いな》と云《い》ふに似《に》る
吾妹兒之 家乃垣内乃 佐由理花 由利登云者 不欲云二似
【語釈】 ○吾妹子が家の垣内の小首合花 「吾妹子」は、女を親しんで呼ぶ。一般的の称。「垣内」は、垣根の内。「小百合」の「小」は、美称の接頭語。初句から三句までは、「百合」の同音反復で「ゆり」にかかる序詞である。○ゆりと云へるは 「ゆり」は、後《のち》という意の古語で、集中用例の少なくないものである。後に逢おうと答えたのはの意で、「ゆり」は、今の、いずれその中《うち》というにあたる。○不欲と云ふに似る 「不欲」は、諸本「不謌」または「不歌」。『略解』で、本居宣長は「謌」は「許」の誤写としたのを、『新訓』は「欲」とし、否と拒む意としたのである。否と拒むのに似ているの意。
【釈】 吾妹子が家の垣の内に咲いている小百合の花の、それに因みある、後に逢おうといっているのは、否と拒むのに似ている。
【評】 「ゆりと云へるは不欲と云ふに似る」は、語は簡単であるが、求婚ということを中に置いての男女の心理の機微を、いみじくもあらわしているものである。結婚前の女の心理として、本来消極的である上に、警戒心が強く働くところから、一応躊躇するのは当然なことである。反対に男は、積極的である上に、情熱的となっているので、女のその態度をあきたらずとして、否といったのに似ていると感じるのも、これまた当然である。序詞のかかり方は、同音反復で、音楽的のものであるが、「家の垣内の小百合花」に、隔てがあって越えられない所の美しいものという意味で、男の憧れの気分を絡ませてある。一首、複雑した細かい気分のものを十分に統一し、具象化しているもので、古風の実際に即する態度と、奈良朝の、気分を重んじる新風との調和し得ているものである。豊河の歌は集中この一首があるだけであるが、歌才が思わせられる。
高安の歌一首
【題意】 「高安」は、(一四四四)題詞の下の注に出た。高安王であろうとされている。王は天平十一年大原真人の姓を賜わって、大原真人高安となり、天平十四年十二月に卒した人である。本巻は大体奈良朝初頭から、天平十三年頃までのものを年代順に排列しているので、編集時代、すでに臣籍に下っていたところから、「王」の字を削ったのではないかといわれている。
1504 暇《いとま》無《な》み 五月《さつき》をすらに 吾妹子《わぎもこ》が 花橘《はなたちばな》を 見《み》ずか過《す》ぎなむ
暇無 五月乎尚尓 音妹兒我 花橘乎 不見可將過
(81)【語釈】 ○暇無み五月をすらに 「暇無み」は、公事のために暇がないゆえに。「五月をすらに」は、「すら」は一事を挙げて他を類推する意の助詞で、最も楽しかるべき五月でさえも。○吾妹子が花橘を 妹が家の橘の花を。○見ずか過ぎなむ 「過ぎなむ」は、見なくて経過するのであろうか。
【釈】 公事のために暇がないので、最も楽しい五月でさえも、吾妹子が家の橘の花を見ずに過ごすのであろうか。
【評】 五月の橘の花の咲く一年中の楽しい時を、妹が家へも行けずにいる心をいったものであるが、公務の忙しいためであるとして諦め、嘆きとまではしないおおらかさのある歌である。巧拙をいうほどの歌ではないが、身分ある人でないと、もてない気分のある歌である。
大神女郎《おほみわのいらつめ》、大伴家持に贈れる歌一首
【題意】 「大神女郎」は、巻四(六一八)に出、家持に相聞歌を贈っている。関係のあった人である。
1505 霍公鳥《ほととぎす》 鳴《な》きし登時《そのとき》 君《きみ》が家《いへ》に 行《ゆ》けと追《お》ひしは 至《いた》りけむかも
霍公鳥 鳴之登時 君之家尓 徃跡追者 將至鴨
【語釈】 ○鳴きし登時 「登時」は、その時で、即時に。「すなはち」の訓もあるが、この文字は集中の散文にも用いられ、また続日本紀にも用いられていて、いずれもその時と訓まれるものである。○行けと追ひしは 君の所へ行けと追いやったのは。○至りけむかも 君の所へ着いたであろうかで、「かも」は疑問。
【釈】 霍公鳥が鳴いたその時に、君の家へ往けよと命じて追いやったのは、命じたとおりに行ったことであったろうか。
【評】 表面はみやぴた戯れをいっているごとく、軽く言い流している形のものであるが、心としては家持の疎くしているのを恨んだものである。霍公鳥の鳴き声を聞くと、それに催されて人を思うということが、一種の常識のごとくなってきていて、我に君を思わせるほととぎすは、君にも我を思わせるはずだ。それだのに、ほととぎすの鳴く季節に、君は我に疎遠にしていると恨む心を、このように言いなしているのである。ほととぎすは恋の使だとする通念の上に立ってのもので、この当時はこうしたことは余情というよりも常識に近いものであったろうと思われる。それにしても才走った歌で、「至りけむかも」は利いた句である。
(82) 大伴|田村大嬢《たむらのおほいらつめ》、妹坂上大嬢に与ふる歌一首
【題意】 「田村大嬢」は、巻四(七五六)に出た。宿奈麿の娘で、父とともに田村の里に住んでおり、「坂上大嬢」にほ異母姉である。田村ほ奈良京の中であったろう。
1506 古郷《ふるさと》の 奈良思《ならし》の岳《をか》の 霍公鳥《ほととぎす》 言《こと》告《つ》げやりし 何如《いか》に告《つ》げきや
古郷之 奈良思之岳能 霍公鳥 言告遣之 何如告寸八
【語釈】 ○古郷の奈良思の岳の 「奈良思の岳」は、(一四六六)に出た。竜田に近い所の称と考証されているが明らかではない。「古郷」は、以前住んでいた地、あるいは以前より関係のある地の総称である。ここの「古郷」は、宿奈麿の領地が奈良思にあり、この歌を作った時には田村大嬢はそこへ行っていたものとみえる。○霍公鳥 上の奈良思の岳に鳴いていたもので、大嬢の聞いて妹恋しい思いを起こしたもの。○言告げやりし 言を告げてやったのはの意。「言」は、ほととぎすの鳴き声を聞くと人恋しい思いを起こすものとし、その鳴き声はすなわち、君を思っているという言葉と同じだとしてのもの。○何如に告げきや どのように告げたのでしょうかと、尋ねる意で、「や」は、疑問の助詞。「何如に」の疑問に、さらに「や」の続いているもの。
【釈】 故郷であるここの奈良思の岳にいる霍公鳥に、便としてあなたに告げるべきことをいってやったのは、どのように告げたのでしょうか。
【評】 田村大嬢がたまたま故郷の奈良思へ釆て、心をさびしくしている折、その近くに住んでいる坂上大嬢の、たよりをしてくれないのを恨んで贈ったものである。ほととぎすを恋の便としていることは上の歌と同じで、男女間であったのが、姉妹間となっているだけである。上の歌にくらべるとこれはおおらかで重く、厚みをもっていて、遥かに気品の高いものである。人柄のいたすことである。二首ともこの時代の新風のものである。
大伴家持、楠の花を攀《よ》ぢて坂上大嬢に贈れる歌一首 并に短歌
1507 いかといかと ある吾《わ》が屋前《やど》に 百枝《ももえ》刺《さ》し 生《お》ふる橘《たちばな》 玉《たま》に貫《ぬ》く 五月《さつき》を近《ちか》み あえぬがに 花《はな》咲《さ》きにけり 朝《あさ》にけに 出《い》で見《み》る毎《ごと》に 気《いき》の緒《を》に 吾《わ》が念《も》ふ妹《いも》に まそ鏡《かがみ》 清《きよ》き月(83)夜《つくよ》に ただ一目《ひとめ》 見《み》せむまでには 散《ち》りこすな ゆめと云ひつつ 幾許《ここだく》も 吾《わ》が守《も》るものを うれたきや しこ霍公鳥《ほととぎす》 暁《あかとき》の うら悲《がな》しきに 追《お》へど追《お》へど 尚《なほ》し来鳴《きな》きて 徒《いたづら》に 地《つち》に散《ち》らせば すべをなみ 攀《よ》ぢて手折《たを》りつ 見《み》ませ吾妹子《わぎもこ》
伊加登伊可等 有吾屋前尓 百枝刺 於布流橘 玉尓貫 五月乎近美 安要奴我尓 花咲尓家里 朝尓食尓 出見毎 気緒尓 吾念妹尓 銅鏡 清月夜尓 直一眼 令覩麻而尓波 落許須奈 由米登云管 幾許 吾守物乎 宇礼多伎也 志許霍公鳥 曉之 其悲尓 雖追雖追 尚來鳴而 徒 地尓令散者 爲便乎奈美 攀而手折都 見末世吾妹兒
【語釈】 ○いかといかと 『考』が、「いか」は、如何で、「如何に」の語幹だけを副詞として用いたものだと解している。「いかと」は、いかにあらんと思ってで、下の橘に対しての懸念で、畳んで、その尋常でないことをあらわしたもの。○ある吾が屋前に 「ある吾が」は、上に続いて、思っている。○百枝刺し生ふる橘 「百枝刺し」は多くの枝を出して。「生ふる橘」は、育っている橘で、従前よりの状態。○玉に貫く五月を近み 「玉に貫く」は、薬玉の緒に貫く。「五月を近み」は五月の節日が近いので。○あえぬがに花咲きにけり 「あえ」は、木の実や花が、重く、ぽたぽたと落ちる意の動詞「あゆ」の連用形。「ぬ」は、完了で、強めたもの。「がに」は、ほどにというにあたる。「けり」は詠歎で、花のいちめんに咲ききった状態。○朝にけに 「け」は、時で、朝に、時にの意で、いつも始終の意。○気の緒に吾が念ふ妹に 「気の緒に」は、上の(一四五三)に出た。命の続く間は大切にしようと思っている妹に。○まそ鏡清き月夜に 「まそ鏡」は、真澄《ますみ》鏡の約。意味で「清」にかかる枕詞。「清き月夜」は、橘の花を見るに最も適した時で、当時の感性を示すもの。○ただ一目見せむまでには ただ一目でも見せるまでは。○散りこすなゆめと云ひつつ 「散りこすな」は、「こす」は、希求の意。散ってくれるな。「ゆめと云ひつつ」は、けっしてと思いつつ。○幾許も吾が守るものを 甚しく注意して番をしているのに。○うれたきやしこ霍公鳥 「うれたき」は、慨きの文字を当てている。憤ろしきの意。「や」は、詠歎。「しこ」は醜で、相手を卑しめ罵る意の語。「醜の大夫《ますらを》」など出た。○暁のうら悲しきに 夜の明け方の心さびしい時に。これは常識のごとくになっていたことで、単に暁というに近い。気分としては、自身にもほととぎすにもつながるものである。またその時刻は、習性として、鳥の最も活動する時である。○すべをなみ攀ぢて手折りつ 「すべをなみ」は、防ぐ術のなさに。「攀ぢて手折りつ」は、引き寄せて折った。○見ませ吾妹子 「見ませ」は、女性に対しての慣用の敬語。「吾妹子」は、呼びかけ。
【釈】 どんなであろう、どんなであろうと、懸念しているわが家の庭に、繁くも枝を出して育っている橘は、その花を緒に貫くべき五月が近いので、ぽたぽたと落ちるほどに花が咲いたことである。いつも立ち出でて見るごとに、命の続く限りはとわが思(84)っている妹に、清い月の夜に、ただ一目でも見せるまでは、散ってくれるなよけっしてと思い思いして、甚しくも注意して我が番をしているのに、いまいましくも醜い霍公鳥が、夜の明け方の心ざみしい時に、追っても追ってもなおも来て鳴いて、甲斐なくも地に散らすので、防ぐ術のなさに、枝を引き寄せて折った。見たまえ吾妹子よ。
【評】 梢の花に添えて、妻の坂上大嬢に贈った歌で、挨拶としてのものである。長歌という形は、この当時より溯った時代にあっても、改まっての場合の物で、軽い場合のものではなかった。また歌そのものとしても、叙事を主として抒情を伴わせたものであって、言いかえると、叙事をしなければ抒情が徹しない場合のものであった。この歌は橘の花を贈るに添えた挨拶という軽いものであり、また叙事を必要とする何ものもないほどのものである。それに長歌形式を選んだのは、橘の花にまつわる気分をいおうとしたからで、気分本位の長歌という、古くはなくして新たに生み出した範囲のものである。一首として軟弱で冗漫なのはそのためである。「うれたきやしこ霍公鳥」以下結末までは、若い家持の昂奮した気分をあらわし得ていて、個人的・散文的に傾きすぎる嫌いはあるが、相応の味わいのあるものである。作歌動機からいえば、それで足りるものともいえよう。気分本位の新しい長歌という角度から見れば、初歩的な問題の作と称すべきである。
反歌
1508 望《もち》降《くだ》ち 清《きよ》き月夜《つくよ》に 吾妹子《わぎもこ》に 見《み》せむと念《も》ひし 屋前《やど》の橘《たちばな》
望降 清月夜尓 吾妹兒尓 令覩常念之 屋前之橘
【語釈】 ○望降ち 十五夜を降る、すなわち過ぎて。月光のおちついてくる頃の意。○屋前の補 わが家の庭の橘の花ぞ、これはの意。
【釈】 十五夜を過ぎて後の清い月夜に、吾妹子に見せようと思っていた、わが家の庭の橘の花であるよ、これは。
【評】 贈物に添えての挨拶とすれば、これだけでも足りるものである。気分が柔らかく、おちついていて、一つの風格をなしているもものである。長歌の部分的繰り返しで、新風の見えないのである。
1509 妹《いも》が見《み》て 後《のち》も鳴《な》かなむ 霍公鳥《ほととぎす》 花橘《はなたちばな》を 地《つち》に散《ち》らしつ
妹之見而 後毛將鳴 霍公鳥 花橘乎 地尓落津
(85)【語釈】 ○後も鳴かなむ 「も」は、詠歎。「鳴かなむ」は、旧訓「なきなむ」。『考』の訓。「なむ」は、未然形に接して希望をあらわす終助詞。鳴いてほしいの意。
【釈】 妹が見ての後にこそ鳴いてほしい。霍公鳥はその前に橘の花を地に散らした。
【評】 上の歌と同じく、長歌の部分的繰り返しにすぎないものである。「後も鳴かなむ」は多少の進展があるが、この場合の言葉として適切と思われないものである。
大伴家持、紀女郎に贈れる歌一首
【題意】 「紀女郎」は、上の(一四五二)、巻四(六四三)に出た。
1510 瞿麦《なでしこ》は 咲《さ》きて散《ち》りぬと 人《ひと》は言《い》へど 吾《わ》が標《し》めし野《の》の 花《はな》にあらめやも
瞿麥者 咲而落去常 人者雖言 吾標之野乃 花尓有目八方
【語釈】 ○瞿麦は咲きて散りぬと 「瞿麦」は、女郎に譬えたもの。「咲きて散りぬと」は、咲いて散ってしまったとで、「咲きて」は、感を強めるために添えていう当時の用法で、「散りぬ」を主としたもの。「散りぬ」は、事が終わった意で、他人の物となった意の譬。○吾が標めし野の わが所有と標《しめ》をしたところの野で、妻の譬。○花にあらめやも 「花」は、瞿麦。「や」は、反語。
【釈】 瞿麦の花は、咲いて散ってしまったと人はいうけれども、それは、わが物と標をした野の瞿麦であろうか、ありはしまい。
【評】 紀女郎と家持との関係を示す相聞歌は少なくはなかった。女郎のほうが年長で、家持を余裕をもって扱っていたらしい消息が、その歌によって知られる。この歌で見ると、女郎は他に夫を持ち、その事は人の噂に上るものとなっていたとみえる。当時の夫掛関係は、かなりまで遊離していたもので、したがって家持がそのことを聞いて咎める態度も、斟酌をもってのものである。歌の性質上、これには女郎は答えなくてはならないものであるが、しなかったとみえる。すればここにないはずはないからである。こうした間の消息は、後世の心をもって批評し難いものがある。
(86) 秋雑歌《あきのざふか》
崗本天の御製歌《おほみうた》一首
【題意】 「崗」は「岡」と同じで、高市岡本の宮に御代を知ろしめした天皇で、舒明天皇である。しかるにその皇后でましました斉明天皇も、同じ地に宮を定められたので、岡本宮とだけでは二帝のいずれであるかが明らかではないのである。このことは本集の編集当時すでに問題になっていたことで、巻四(四八七)の左注にもそれに触れていっている。
1511 夕《ゆふ》されば 小倉《をぐら》の山《やま》に 鳴《な》く鹿《しか》は 今夜《こよひ》は鳴《な》かず 寐宿《いね》にけらしも
暮去者 小倉乃山尓 鳴鹿者 今夜波不鳴 寐宿家良思母
【語釈】 ○夕されば小倉の山に 「夕されば」は、夕方になるといつもの意でのもの。「小倉の山」は、歌から見ると宮に近い山であるが、その名は伝わっていない。忘れられたものと取れる。桜井市内の山、忍坂山、倉橋山、多武峰の端山などの諸説がある。○鳴く鹿は 鳴くところの鹿はで、「は」は他の所にいる鹿と差別したもの。鹿の鳴くのは牡鹿で、その鳴くのは牝鹿を恋うてのことだというのが、歌の上の常識のごとくなっているが、そのことの目立つようになったのは奈良遷都頃からのことで、以後次第に濃厚となったものである。これは秋の夜寒の妻恋しい頃、悲しげな声をして鳴くところからの連想で、自然発生的のものであるから、発生の時代は溯らせうるものである。しかしこの事は、無条件に溯せうるものかどうかは問題である。これは、奈良朝時代の概念化する手前のものと見、そのもの悲しげな声に憐れみを誘発させられてのものと解する。○今夜は鳴かず 「今夜は」は、今夜のみはの意。「鳴かず」は、悲しみがなく鳴かないの意と解する。○寐宿にけらしも 「寐」は、寐るの名詞形。「宿」は、寝るで、同意の語を重ねて感を強めたもの。「に」は完了。「けらし」は「けるらし」の約、過去の推量で、「も」は詠歎。これは、安らかに眠ったことであろうよの意と解する。
【釈】 夕べになると、いつも小倉の山にもの悲しげに鳴く鹿は、今夜に限って鳴かない。安らかに寝たことであろうよ。
【評】 秋の静寂な夜頃、いつも小倉の山から、細くもの悲しげに聞こえて来た鹿の声を耳に留められ、憐れみを感じていらせられたのが、一夜、その声が聞こえないのに安らかな感がされ、今夜は眠ったのであろうと思いやって喜ばれた心である。一読、文字が消えて作意そのもののみが浮かび上がって来るような感のする作で、おおらかで、自然で、静かで、しかも充実してい(87)るものである。「寐宿にけらしも」という結句は、味わいの尽きないものである。巻九の巻首に「暮《ゆふ》されば小椋《をぐら》の山に臥す鹿の今夜《こよひ》は鳴かず寐《い》ねにけらしも」があり、雄略天皇の御製歌となっている。三句の「鳴く」が「臥す」となっているだけであるが、「鳴く」のほうが遥かに自然で、一首が透徹して、簡古の趣がある。伝唱されている中に流動したものと思われる。この御製の「鳴く」と「寐宿」に恋愛気分があるかないかということは大きな問題であるが、読後の直接の感としては、そうした匂いは全然感じられずただ気分の憐れみが感じられるのみで、それすらやや迎えての感のするものである。きわめて優れたものとして数えらるべき一首である。
大津皇子の御歌一首
【題意】 「大津皇子」は、巻二(一〇五)に出た。天武天皇の第三皇子。朱鳥元年十二月、年二十四にして死を賜わって死んだ。
1512 経《たて》もなく 緯《ぬき》も定《さだ》めず をとめ等《ら》が 織《お》れる黄葉《もみち》に 霜《しも》な零《ふ》りそね
經毛無 緯毛不定 未通女等之 織黄葉尓 霜莫零
【語釈】 ○経もなく緯も定めず 縦糸もなく、また横糸も定めずして。これは下の「黄葉」を錦に譬え、布を織るには縦と横の糸が原料であるのに、それもなくて織るという意で、神秘的なこととしていっているのである。「ず」は連用形で、「織れる」に続く。○をとめ等が織れる黄葉に 「をとめ等」は、仙女らである。これは当時、次第に盛行してきた道教の神仙思想よりのもので、仙女は山に住む不老不死の者である。機織りをするのは女のことであるところからの連想である。「等」は褐数で、山全体を錦とすることを暗示したもの。「織れる黄葉」は、織れる錦のごとき黄葉で、錦は暗示としている。これは下の続きが、「黄葉」であることを必要としているためである。皇子の懐風藻の詩に、「天紙風筆画2雲鶴1、山機霜杼織2葉錦1」とあるのと同想である。なおこの想は漢詩にもあるものである。○霜な零りそね 霜は降ってくれるなで、黄葉の霜に散ることを惜しんでのことである。「ね」は他に対しての願望。
【釈】 縦糸もなく横糸も定めずして山の仙女らが織ったところの黄葉に、霜は降ってくれるな。
【評】 秋の山の紅葉の麗わしいさまを見渡してその散ることを惜しんで、「霜な零りそね」ということを眼目にして詠んだ歌である。紅葉の麓わしさを錦に譬えるのは、知識人の間では常識になっていたといえる。この歌はその錦をいうに及ばないものとして暗示にとどめ、その錦をいうに、「経もなく緯も定めずをとめ等が織れる」物としているのである。この想像は、当時知識人の間には一般化しようとしていた神仙思想を捉えて、それを眼前の紅葉につなぎ、その神秘性を文芸化したものであって、(88)まさに皇子の独創と思われるものである。形から見てもこなれきった、さわやかなもので、おおらかな調べで貫いているものである。二十四にして命を終わった皇子の才情のほどを思わせられる作である。
穂積《ほづみの》皇子の御歌二首
【題意】 「穂横皇子」は、巻二(二四)に出た。天武天皇第五皇子。文武天皇慶雲二年以来、知太政官事となられ、霊亀元年薨じた。
1513 今朝《けさ》の朝《あさ》け 雁《かり》がね聞《き》きつ 春日山《かすがやま》 もみちにけらし 吾《わ》が情《こころ》痛《いた》し
今朝之旦開 鴈之鳴聞都 春日山 黄葉家良思 吾情痛之
【語釈】 ○今朝の朝け雁がね開きつ 「朝け」は、朝明けの約。「雁がね」は、雁の音。○もみちにけらし 「もみち」は、ここは動詞としてのもの、「ち」は清音。「に」は、完了。○吾が情痛し 「痛し」は、悲しという意を感覚的に言いかえたもの。「痛し」は、秋は心を感傷させる意でいっているものである。
【釈】 今朝の明け方に雁の鳴く声を聞いた。春日山は黄葉をして来たことであろう。わが心は悲しみに痛い。
【評】 雁を聞いた叙述、春日山の黄葉の想像、秋のもたらす感傷と、三つのそれぞれ独立した短文を重ねて一首の歌としたものである。結果から見ると、それらがいみじくも綜合されて、渾然と融け合い、きわめて自然なものとなっている。この結果をもたらしているのは一に調べの力で、調べはすなわち皇子の綜合力の強さの現われである。一首の形から見ると分解であって、感からいうと綜合であるという微妙な境を如実に示している作というべきである。この皇子の才情も非凡なものである。
1514 秋萩《あきはぎ》は 咲《さ》くべくあるらし 吾《わ》が屋戸《やど》の 浅茅《あさぢ》が花《はな》の 散《ち》りぬる見《み》れば
秋芽者 可咲有良之 吾屋戸之 淺茅之花乃 散去見者
【語釈】 ○秋萩は咲くべくあるらし 「秋萩」は、「秋」は花の咲く時として、花を主とする意で添えていうもの。○浅茅が花の 「浅茅」は、丈の低い茅花《つばな》で、「花」は、茅の花は早春芽を出す時に、その葉の中に包まれているもので、薬用として食べたものである。今は秋で、花の咲く時で(89)はないから、この「花」はほうけて、白い綿毛となったものをさしたものと取れる。○散りぬる見れば 「散りぬる」は、綿毛に包まれた実が、くずれて散ってゆくさまである。
【釈】 萩の花が咲き出しそうになっていることであろう。わが家の浅茅の花の散ってゆくのを見ると。
【評】 眼前の浅茅の状態から、見ぬ萩の花の状態を連想し、それに憧れを寄せた心である。自然に対して、一つの物の衰えを見る時、それを嘆くことよりも、それに代わって栄えてゆく物を連想して、そちらに心を転じさせてゆくのは、新興時代の積極的な生活気分の反映といえるものである。
但馬皇女《たじまのひめみこ》の御歌一首 一書に云ふ、子部王の作
【題意】 「但馬皇女」は、巻二(一一四)に出た。天武天皇の皇女。母は藤原鎌足の女氷上娘で、和銅元年に薨じた。穂積皇子とは異腹で、恋愛関係のあった皇女である。「子部《こべの》王」は、伝未詳。
1515 事《こと》繁《しげ》き 里《さと》に住《す》まずは 今朝《けさ》鳴《な》きし 雁《かり》に副《たぐ》ひて ゆかましものを
事繁 里尓不住者 今朝鳴之 鴈尓副而 去益物乎
【語釈】 ○事繁き里に住まずは 「事繁き」は、「事」は「言《こと》」に当てた文字で、用例の多いもの。他人の物言いの意。「繁き」は、うるさいというにあたる。「住まずは」は、住まずしての意で、「は」は、軽い感動の意で添えたもの。○今朝鳴きし雁に副ひて 「今朝鳴きし」は、過去のこととして思い出していったもの。「副ひて」は、伴ってで、一しょにの意。○ゆかましものを 「まし」は、仮設。「を」は、詠歎。
【釈】 人の物言いのうるさい里には住んでいずして、今朝鳴いたあの雁に伴って、我も行ったろうものを。
【評】 「事繋き里」というのは恋愛関係が周囲の話題になっている所の意と取れる。皇女と上の穂積皇子との関係は、巻二(一一四〜一一六)に出ており、その範囲のものと思われる。「今朝鳴きし推に副ひて」と、思い出としていっているのは特殊なことである。その点から見て、上の穂積皇子の「吾が情痛し」は、皇女に贈った歌で、皇女はその答として詠んだものかとも思われる。それだと自然なものになる。しかしそうしたつながりを離れて、皇女が何らかの物言いを新たに聞いた際の心としても結構通じるもので、そのほうが一首の歌としてはむしろ味わいが多いともいえる歌である。
(90) 一に云ふ、国にあらずは
一云、國尓不有者
【解】 第二句の「里」が「国」になっている本があるというのである。国は狭い地域の称にも用いたが、里よりは広い。あるいは子部王が、何らかの折そのように詠み替えて、それも伝えられていたのかもしれぬ。
山部王、秋葉を惜しむ歌一首
【題意】 「山部王」については、『代匠記』が詳しく考証しているが、この巻は年代順に排列してある関係上、但馬皇女と長屋王の中間の人と見なければならないので、結局系譜は不明である。
1516 秋山《あきやま》に もみつ木《こ》の葉《は》の 移《うつ》りなば 更《さら》にや秋《あき》を 見《み》まく欲《ほ》りせむ
秋山尓 黄反木葉乃 移去者 更哉秋乎 欲見世武
【語釈】 ○もみつ木の葉の 「もみつ」は、動詞で四段活用。黄葉する。○移りなば 散ったならばの意。○更にや秋を見まく欲りせむ 「や」は、疑問の係。「見まく」は、名詞形。さらにまた、秋を見たいと思うことであろうか。
【釈】 秋山のもみじしている木の葉が散ったならば、さらにまた、秋を見たいと思うことであろうか。
【評】 気分を主として、安易に詠んだ歌である。秋山の黄葉の同意語として「秋」を用いたことが注意される。
長屋王の歌一首
【題意】 「長屋王」は、巻一(七五)に出た。高市皇子の子で、天平元年讒に遇って自尽した。年五十四。
1517 味酒《うまさけ》 三輪《みわ》の祝《はふり》が 山《やま》照《て》らす 秋《あき》の黄葉《もみち》の 散《ち》らまく惜《を》しも
味酒 三輪乃祝之 山照 秋乃黄葉乃 散莫惜毛
(91)【語釈】 ○味酒三輪の祝が 「味酒」は、うまき酒で、古語は神酒を「みわ」といったので、その意味で地名三輪にかかる枕詞。「三輪」は、大和の中央にある三輪山で、大物主の神を祀る山。山そのものが社である。「祝」は、本来は階級の称で、神主《かむぬし》につぐ職であるが、ここは神職を総括しての称。祝の祀る意で「山」に続く。○山照らす 山を照らしている。
【釈】 三輪の神職が祀っている山を照らしている秋の黄葉の、散ることの惜しさよ。
【評】 王が黄葉の頃、三輪神社に詣でて三輪山の黄葉を讃えてのものである。大和時代の三輪の神は皇室の守護神であるとともに、広い地域の者より崇敬されていた上に、三輪山そのものが神社だったのである。「三輪の祝が山照らす」は、神威の赫灼たると、秋の黄葉の麗わしいのとを融合させた言い方のものである。歌柄が大きく、調べがおおらかで、その心に調和したものである。おちついているとともに、若い美しさがある。
山上臣憶良の七夕の歌十二首
【題意】 「七夕」は現在も行なわれている行事で、天の川を隔てて牽牛星と織女星の二星が、一年に一度七月七日の夜に相逢う日というのである。本来漢土の伝説でわが国に渡来したもので、その時期は明らかでないが、天武天皇時代までは溯りうるものである。天の川は無数の恒星の聚合体で、川のごとく見えるものであり、牽牛星は鷲座の星、織女星は琴座の星である。牽牛といい織女といい、いずれも農民のすることであるところから、天文を愛する漢土の民間で生まれた伝説とみえる。一年に一回相逢うことについては、荊楚歳時記に、「天河之東有2織女1、天帝之子也。年々織杼労役、織2成雲錦天衣1。天帝憐2其独処1、許v嫁2河西牽牛1。即嫁後遂廃2織※[糸+壬]1。天帝怒責、令v帰2河東1。但使2其一年一度相会1」とあって、きわめて空想的のものである。わが国に渡来した頃は神仙道の渡来した頃で、それと相俟って行なわれたが、七夕のほうが一段と歓ばれて、集中にはこれを題とした歌が二百首近くもあり、ことに人麿歌集に多い。
(92)1518 天漢《あまのがは》 相向《あひむ》き立《た》ちて 吾《わ》が恋《こ》ひし 君《きみ》来《き》ますなり 紐《ひも》解《と》き設《ま》けな
天漢 相向立而 吾戀之 君來益奈利 紐解設奈
【語釈】 ○天漢相向き立ちて 「天漢」の「漠」は、漢水という河名より転じての用字。銀河ともいう。二星互いに河に向かい合って立って。○吾が恋ひし君来ますなり 「吾が」は、織女に代わっていっている形のもの。「君」は、彦星。「来ます」は、「来る」の敬語。「なり」は、詠歎の意の助動詞。○紐解き設けな 「紐」は、衣服の紐。「設け」は、設けるで、共寝をする準備。「な」は、自身に対しての希望。
【釈】 天の河に互いに相向かって立って、わが恋うていた君がいらせられることであるよ。衣の紐を解いて共寝の準備をしようよ。
【評】 織女の心を想像してのものである。「紐解き設けな」を中心としたもので、露骨な想傑である。高天が原の伝説に慣れているところから、天上を地上に等しく思う心と、恋愛と共寝を同意義に感じていた当時の風からいったものと思われる。題詠としても素朴な作である。
一に云ふ、河に向ひて
一云、向河
【解】 二句を替えて、刺激的なのをやや綬和させたのである。憶良自身したとみえる。
右は、養老八年七月七日、令《のりごと》に応《こた》ふる。
右、養老八年七月七日、應v令。
【解】 「養老八年」につき、『代匠記』は、「八」は誤りで、「六」であろうとし、『考』は、聖武天皇の御即位は、「養老八年二月」であり、同時に神亀と改元されたので、「八年七月」歌は、「神亀元年七月七日」であるから、その前でなければならないからである。「令」は、「七」であろうとしている。それは、聖武天皇の御即位は、「養老八年二月」であり、同時に神亀と改元されたので、「八年七月」は存在しないゆえであり、また次の歌は、「神亀元年七月七日」であるから、その前でなければならないからである。「令」は、東宮の拝命である。憶良は養老五年正月、勅によって、退朝の後東宮に侍せしめられたのであるから、その年より東宮の即位されるまでの間でなければならないとしてである。
(93)1519 久方《ひさかた》の 天《あま》の河瀬《かはせ》に 船《ふね》泛《う》けて 今夜《こよひ》か君《きみ》が 我許《わがり》来《き》まさむ
久方之 漢瀬尓 船泛而 今夜可君之 我許來益武
【語釈】 ○久方の天の河瀬に 「久方の」は、天の枕詞。「天の河瀬」は、旧訓である。底本の原文「瀕」の文字がない。類聚古集、大矢本によって補う。○船泛けて 「泛けて」は浮かべて。○今夜か君が我許来まさむ 「今夜」は、七月七日。「か」は、疑問の係。「君」は、彦星。「我許」は、わがもとで、「我」は織女。「来まさむ」は、「来む」の敬語。
【釈】 天の河の河瀬に船を浮かべて、今夜は夫の君が、わがもとにいらせられるであろうか。
【評】 上の歌と同じく、織女の立場に立っての心である。同じく夫を待つ心であるが、この歌は心のおちついたもので、趣が一変している。作者のその時々の心情の反映である。
右は、神亀元年七月七日の夜、左大臣の宅《いへ》。
右、神龜元年七月七日夜、左大臣宅。
【解】 「左大臣」は、長屋王である。王は、神亀元年二月、聖武天皇の即位とともに右大臣より左大臣となった。「宅」は、佐保にあって、文雅の客を招いて詩宴を張ったことが懐風藻にある。
1520 牽牛《ひこぼし》は 織女《たなばたつめ》と 天地《あめつち》の 別《わ》れし時《とき》ゆ いなうしろ 河《かは》に向《む》き立ち 思《おも》ふ空《そら》 安《やす》けなくに 嘆《なげ》く空《そら》 安《やす》けなくに 青浪《あをなみ》に 望《のぞみ》は絶《た》えぬ 白雲《しらくも》に 涙《なみだ》は尽《つ》きぬ かくのみや いきづきをらむ かくのみや 恋《こ》ひつつあらむ さ丹塗《にぬり》の 小船《をぶね》もがも 玉纏《たままき》の まかいもがも【一に云ふ、小棹《をさを》もがも】 朝《あさ》なぎに い掻《か》き渡《わた》り 夕潮《ゆふしほ》に【一に云ふ、夕《ゆふ》べにも】 いこぎ渡《わた》り 久方《ひさかた》の 天《あま》の河原《かはら》に 天《あま》飛《と》ぶや 領巾《ひれ》かたしき 真玉手《またまで》の 玉手《たまで》さし交《か》へ 余宿《あまたい》も 寐《ね》てしかも【一云ふ、いもさねてしか】 秋《あき》にあらずとも【一云ふ、秋《あき》待《ま》たずとも】
(94) 牽牛者 織女等 天地之 別時由 伊奈宇之呂 河向立 思空 不安久尓 嘆空 不安久尓 青浪尓 望者多要奴 白雲尓 H者盡奴 如是耳也 伊伎都枳乎良牟 如是耳也 戀都追安良牟 佐丹塗之 小船毛賀茂 玉纏之 眞可伊毛我母【一云、小棹毛何毛】 朝奈藝尓 伊可伎渡 夕塩尓【一云、夕倍尓毛】 伊許藝渡 久方之 天河原尓 天飛地 領巾可多思吉 眞玉手乃 玉手指更 餘宿毛 寐而師可聞【一云、伊毛左祢而師加】 秋尓安良受登母【一云、秋不待登毛】
【語釈】 ○牽牛は織女と 「牽牛」は彦星で、男星の意。牽牛を日本化した名である。「織女」も、棚機つ女の意で、これも日本化したものてある。○天地の別れし時ゆ 天地開闢の時からで、遠い昔からということを強調したもの。○いなうしろ河に向き立ち 「いなうしろ」は、「いなむしろ」の転音。寝《い》な筵《むしろ》の意で、古くは獣皮も用いたところから、皮と続け、河に転じさせたものという。「河」は天の河。 ○思ふ空安けなくに 「思ふ空」は、思う心。「安けなくに」は、安らかではなくて。○嘆く空安けなくに 同意の一語だけを変えての繰り返し。○青浪に望は絶えぬ 「青浪」は、天の河の浪で、大河としての形容。「望は絶えぬ」は、見通しが利かない。○白雲に涙は尽きぬ 間を隔てている白雲に、逢い難い悲しみの涙を流し尽くした。○さ丹塗の小船もがも 「さ丹塗」は、「さ」は接頭語。「丹塗」は、赤い塗料をもって塗ることで、当時の普通のこと。「もがも」は、願望。○玉纏のまかいもがも 「玉纏のまかい」は、玉を飾りとした櫂で、「ま」は美称。〇一に云ふ、小棹もがも 「小棹」は、「小」は、美称。「棹」は、櫂に代えて船を漕ぐ物。○朝なぎにい掻き渡り 「朝なぎ」は、朝の凪ぎで、海にのみある現象である。天の河を海のごとく感じていっているもの。「い掻き」は、「い」は、接頭語。「掻き」は、船を進める方法。○夕潮にいこぎ渡り 「夕潮」は、同じく海としてのもの。「いこぎ」は、い榜ぎで、「い」は接頭語。○一に云ふ、夕べにも ー本には、「夕潮に」が、「夕べにも」になっているというのである。○久方の天の河鹿に 「天の河原」は、天の河の河原で、彦星が織女と共寝をする所としていっているもの。野外を連想するのは、上代の風習としては、さして斡特殊なことではなかったからである。○天飛ぶや領巾かたしき 「天飛ぶや」は、空を飛行するで、「や」は、詠歎。「領巾」を説明したもの。「領巾」は、織女の身に着けている物で、その領巾には天上を飛行させる威力があるとしているのである。これは織女を仙女としているからである。「かたしき」は、一枚だけを敷いてで、独寝の意に用いるが、今はただ敷くの意。○真玉手の玉手さし交へ 「真玉手」は、「真」は美称。「玉手」は、玉のごとき手で、織女の手を讃《ほ》めたもの。古事記、上巻、八千矛神の歌の、「ま玉手玉手さし纏《ま》き」から取ったもの。この歌謡は当時愛唱されていたものとみえる。巻五(八〇四)に、同じく憶良が用いている。「さし交へ」は、互いに差しかわしてで、共寝ということを、織女のほうを主としていっているもの。○余宿も寐てしかも 「余宿」は、『考』の訓。幾たびも共寝をする意の名詞。「てしかも」は、「てしか」の願望に、「も」の詠歎の接したもの。○一に云ふ、いもさねてしか 「いも」は、「あまたい」の「い」を下の句に属さしめた訓と思われる。○秋にあらすとも 「秋」は、七月七日の夜を言いかえたもので、二星の相逢うを許されている夜。○一に云ふ、秋待たずとも 意を明らかにしただ
けのもの。
【釈】 彦星は織女とともに、天地の開闢の時から、天の河に向かって立って、思う心は安らかではなくて、嘆く心は安らかでは(95)なくて、遥かなる青浪に見通しは利かず、隔てる白雲に悲しみの涙も尽きた。このようにばかり溜め息をついていることであろうか、このようにばかり恋いつづけていることであろうか。丹塗の船がほしいものである、玉を飾った櫂がほしいものであるよ(樟がほしいものである)。朝凪に掻いて渡って、夕潮に(夕べにも)榜いで渡って、天の河の河原に、織女の空を飛行する領巾を敷き、その真玉のごとき手の、玉のごとき手を互いに差しかわして、幾たびも共寝をしたいものである。秋ではなくても(秋を待たずとも)。
【評】 この一首は、左注によると、「七月七日の夜、憶良天の河を仰ぎ観て」とある歌であるが、歌そのものは憶良自身の直接の抒情は一句もなく、純客観的に、天の河の岸辺に立っている彦星の、織女を恋いあせるさまを想像して、彦星の抒情の言葉を通してそのさまを叙述しているものである。すなわち事件を主体として、抒情によって叙述しようとする、謡い物に共通の型に従って作っているものである。その点は、巻十六(三八八五〜八六)の「乞食者の詠《うた》二首」と全く揆を一にしている。謡い物はその性質として、事柄に興味を持たせようとして、わざと事件を大げさにいい、あるいは諧謔をまじえるなどのことをするのであるが、彦星と織女の伝説はきわめて単純なものである上に、固定した動きの取れないものであるので、事件的興味は添えられないものである。それを添えようとすれば、固定した形を歪めて、言葉の上で大げさにするか、あるいは周知の謡い物の文句を取入れることに別種の親しみを添えでもするより他はないのである。憶良のこの歌はかなり露骨にそれを行なっている。部分的にいうと、起首の「天地の別れし時ゆいなうしろ河に向き立ち」が、すでに七月七日の夜の埒を越えたもので、結句の「秋にあらずとも」の照応によってそのことを明らかにしている。それに続く「思ふ空安けなくに 嘆く空安けなくに」、および後半の「さ丹塗の小船もがも 玉纏のまかいもがも」は、巻十三(三二九九)と、その最後の「まかい」が「小※[楫+戈]《をかぢ》」となっているだけが違うだけで、他は全然同一である。これは巻十三のものが憶良のこの歌から取ったともいえ、反対に憶良が巻十三のものから取ったともいえる。さらにまた双方とも、今一つあった他の歌から取ったともいえるものである。そのいずれであるにもせよ、流動を常とする謡い物にあっては普通のことで、先後は言い難いものである。筆者には、憶良が他より取ったものと思われる。それはこれらの文句は憾良的ではない点と、この歌には他にもそれと同様なものがある点とからそのように解されるのである。「青浪に望は絶えぬ 白雲に涙は尽きぬ」の対句は、明らかに漢詩的であって、前後とは甚しく不調和なものである。のみならずこういえば、天の河は河ではなくて大海となってくる。これは故意にした誇張であって、その突飛さによって興味をもたせようとしたものと取れる。「朝なぎに」「夕潮に」は、それを徹底させたものである。「天飛ぶや 領巾かたしき」は、明らかに織女を仙女としたのである。漢土の伝説には仙女としたものもあるが、わが国には受け入れられなかった。織女が仙女であれば天の河を飛び越えるのはたやすいことで、一年に一夜の交会というあわれは成立たなくなるからである。憶良は、その矛盾をあえてしているので、これも故意であろう。「真玉手の玉手さし交へ」は、古事記の(96)八千矛の神の歌の句で、その踏襲された例の少なくないところから見て、一般に謡われていたものと思われる。ここはそれをあらわに取入れたものである。「余宿も寐てしかも」ほ、まさに典型的な謡い物の文句である。要するにこの一首は、事件の展開のない、したがって謡い物とはなり難い題材を、強いて事件本位の謡い物の型にならって詠もうとしたもので、その結果、言葉本位のものとなり、さまざまな不自然と誇張をあえてするに至った作である。憶良としてはいわゆる柄にないもので、明らかに失敗の作である。
反歌
1521 風雲《かぜくも》は 二《ふた》つの岸《きし》に かよへども 吾《わ》が遠嬬《とほづま》の【一に云ふ、はし嬬《づま》の】 ことぞ通《かよ》はぬ
風雲者 二岸尓 可欲倍杼母 吾遠嬬之【一云、浪之嬬乃】 事曾不通
【語釈】 ○風雲は二つの岸に 「風雲」は、風や雲はで、これは遠方へ音信を通じる方便として考えられたもので、漢籍に用いられている熟語。「二つの岸」は、天の河のあなたこなたの岸。○かよへども 往来するけれども。○吾が遠嬬の 「遠嬬」は、遠方に住んでいる妻で、彦星より見た織女。○一に云ふ、はし嬬の かわいい妻の。○ことぞ通はぬ 言葉は通じない。
【釈】 風や雲は天の河の双方の岸に往来するけれども、わが遠方にいる嬬の言《こと》の便りは通って来ないことであるよ。
【評】 「風雲」の譬喩は、天上の世界のこととて妥当である。長歌との関係も緊密である。
1522 たぶてにも 投《な》げ越《こ》しつべき 天漢《あまのがは》 隔《へだ》てればかも あまた術《すべ》なき
多夫手二毛 投越都倍吉 天漢 敝太而礼婆可母 安麻多須辨奈吉
【語釈】 ○たぷてにも投げ越しつべき 「たぶて」は、礫《つぶて》の古言。天の河の河幅の狭さを具象的にいったもの。長歌では海のようにいったのを、ここでは普通の河としているのである。○隔てればかもあまた術なき 「隔てれ」は、「隔つ」に完了の助動詞「り」の接続したもの。「かも」は疑問の係。「あまた術なき」は、甚しくもすべき方法のないことよ。
【釈】 礫でも投げ越されそうな天の河が中を隔てているのでか、甚しくもすべき方法のないことであるよ。
(97)【評】 彦星の立場に立っての歌である。この歌は上の反歌とは全く内容が異なっている上に、鬱屈《うつくつ》した気分がにじんでいて、作者の実感に繋がりのあるものと思われる。「隔てればかも」という点が、実感につながるのかもしれぬ。この歌は上の長歌の反歌とは見えない。同時の作であったにもせよ、独立した歌として詠んだものであろう。
右は、天平元年七月七日の夜、憶良、天河を仰ぎ観る。【一に云ふ、帥の家にて作れる】
右、天平元年七月七日夜、憶良仰2觀天河1。【一云、帥家作】
【解】 「天平元年」は、憶良の筑前守時代である。「一に云ふ」の、「帥の家」は、大宰帥大伴旅人の家である。旅人の家に七月七日の夜、七夕の会があって、その席で作ったものをいうのであろう。ありうることと思われる。
1523 秋風《あきかぜ》の 吹《ふ》きにし日《ひ》より 何時《いつ》しかと 吾《わ》が待《ま》ち恋《こ》ひし 君《きみ》ぞ来《き》ませる
秋風之 吹尓之日從 何時可登 吾待戀之 君曾來座流
【語釈】 ○秋風の吹きにし日より 「秋風」は、七月一日より吹くものとしていた。その日よりの意で、この歌を作ったのは、左注によると「七月八日」である。○何時しかと吾が待ち恋ひし 「何時しか」は、それはいつか、早くとの意で、「し」は強意。「と」は、と思って。○君ぞ来ませる 「君」は、織女より見た彦星。「来ます」は、「来る」の敬語。「る」は完了の助動詞「り」の連体形。
【釈】 秋風の吹き立った七月一日の日から、いつぞ、早くと思って待ち恋うていたところの君が、いらせられたことであるよ。
【評】 七月七日の夜の織女に代わって詠んだ心のものである。一首の姿が典雅で、実感を披瀝するという憶良の風がなく、用意をもって題詠をした趣の多い歌である。題詠をそれとして扱う余裕を示してきた歌である。
1524 天漢《あまのがは》 いと河浪《かはなみ》は 立《た》たねども 伺候《さもら》ひ難《がた》し 近《ちか》きこの瀬《せ》を
天漠 伊刀河浪者 多々祢杼母 伺候難之 近此瀬呼
【語釈】 ○いと河浪は立たねども 「いと」は、いたく。「立たねども」にかかる。○伺候ひ難し 「さもらふ」は、見守って、様子をうかがうで、(98)ここは河浪の様子をうかがって待っている意。○近きこの瀬を 「瀬」は、渡る勘所。「を」は詠歎で、のに。
【釈】 天の河はいたくは河浪が立たないけれども、渡る機会をうかがうことができない。距離の近い瀬であるのに。
【評】 彦星の立場に立っての歌である。天の河は、七月七日、許された時でなければ渡れないことを背後に置き、その日以前の心をいっているもので、「伺候ひ難し」は、待ち難いということを、水路に関係のある語に言いかえたもので、上からの続きは、さもらってはいるが、さもらい難くしているの意で、飛躍のあり過ぎる語といえる。
1525 袖《そで》振《ふ》らば 見《み》もかはしつべく 近《ちか》けども 渡《わた》るすべなし 秋《あき》にしあらねば
袖振者 見毛可波之都倍久 雖近 度爲便無 秋西安良祢波
【語釈】 ○袖振らば見もかはしつべく 「袖振らば」は、袖を振るのは、男女やや離れていて思いを交わす当時の風習。ここもそれである。「見もかはしつべく」は、「も」は詠歎で、顔を見合わせられそうに。
【釈】 袖を振ったならば、顔を見合わせそうに近いけれども、この天の河は渡る方法がない。許されている秋ではないので。
【評】 これも上の歌と同じく、彦星の心を詠んだものである。七月七日でないと渡れないことを背後に置き、その以前の心を詠んだもので、上の題を説明的に繰り返したものである。こちらは、「袖振らば見もかはしつべく」という感覚的の明るさがある。一首平明で、集会での題詠にふさわしいものである。
1526 玉《たま》かぎる ほのかに見《み》えて 別《わか》れなば もとなや恋《こ》ひむ あふ時《とき》までは
玉蜻? 髣髴所見而 別去者 毛等奈他戀牟 相時麻而波
【語釈】 ○玉かぎるほのかに見えて 「玉かぎる」は、玉のほのかにきらきら光る意で、「ほのか」にかかる枕詞。巻一(四五)に出た。「ほのかに見えて」は、ちょっと逢っただけでで、織女がその逢い方のはかなさを嗅いた意。以上二句、成句に近いもの。○もとなや恋ひむ 「もとな」は、由なくで、副詞。「や」は、疑問の係。○あふ時までは 来年の七月七日までは。
【釈】 ちょっと逢っただけで、別れたならば、由もない恋をすることであろうか。来年の逢う時までは。
(99)【評】 七月七日の夜の明けようとし、二星の別れの迫った時の、織女の心として詠んだものである。やさしくは詠んであるが、題詠という範囲内のもので、第一首目と同系統のものである。同じく題詠でも、男性の立場に立って詠む時には、憶良的の匂いを発して来るが、女性の立場に立つと消極的になり、勝手のちがうごとき詠み方をしてきている。
右は、天平二年七月八日の夜、帥の家の集会。
右、天平二年七月八日夜、帥家集會。
【解】 「帥の家」は、大宰帥大伴旅人の家。「八日」は何らかの事情で一日延ばしたものとみえる。この年の十月、旅人は大納言となって京に帰ったので、七夕の集会は最後のものだったのである。
1527 牽牛《ひこぼし》の 嬬《つま》迎《むか》へ船《ぶね》 榜《こ》ぎ出《い》づらし 天《あま》の河原《かはら》に 霧《きり》の立《た》てるは
牽牛之 迎嬬船 己藝出良之 天漢原尓 霧之立波
【語釈】 ○嬬迎へ船 「嬬」は、織女で、彦星がわが方に迎えようとしての船。上代の貴族は、初めから妻をわが方に迎えることもしたので、それを天上に想像したのである。七夕の歌としては例のないものである。○霧の立てるは 「霧」は、天の河を漕ぎ渡る船の立てる水煙で、これは天の河に浮雲のかかったところからの想像である。
【釈】 彦星の嬬迎えをする船が漕ぎ出したのであろう。天の河原に霧の立っているのは。
【評】 この歌は天の河を仰いでいるおりから、そこへ薄雲がかかって来たのを見ての想像で、初めて感性を土台とした歌を詠んだのである。「嬬迎へ船」も新しく、気分の動きのある歌である。憶良も心に余裕がある場合には、こうした艶を帯びた歌も詠めたのである。
1528 霞《かすみ》立《た》つ 天《あま》の河原《かはら》に 君《きみ》待《ま》つと い往《ゆ》き還《かへ》るに 裳《も》の裾《すそ》ぬれぬ
霞立 天河原尓 待君登 伊往還尓 裳襴所沾
【語釈】 ○霞立つ天の河原に 「霞」は、古くは霧と通じて用いていた称で、区別がなかった。「春の野に霧立ち渡り」(八三九)、「朝霞|香火屋《かびや》が(100)下に鳴くかはづ」(二二六五)、およびこの歌などで、その事が知られる。ここは今だと、霧のかかっている天の河原にの意○。君待つとい往き還るに 「君」は、彦星。「待つと」は、来るのを待ってで、その来るのは七日の夜であるから、夜を待ちかねる意である。「い往き還るに」は、「い」は接頭語。往きつ還りつするに。
【釈】 霧のかかっている天の河原に、君の来るのを待つとて、往きつ還りつするに、わが裳の裾は霧に浦れた。
【評】 これは織女に代わって詠んだものである。想像の世界ではあるが、憶良としては心の細かく働いているもので、「霞立つ」「裳の裾ぬれぬ」によって、おちついた、余情のあるものとしている。
1529 天《あま》の河《がは》 浮津《うきつ》の浪音《なみと》 さわくなり 吾《わ》が待《ま》つ君《きみ》し 舟出《ふなで》すらしも
天河 浮津之浪音 佐和久奈里 吾待君思 舟出爲良之母
【語釈】 ○浮津の浪音 「浮津」は、他に用例のない語である。「津」は、船の発着場の総称であり、それに「浮」を添えているのは、天の浮橋などと同じく、天上のものだからと取れる。憶良の造語であろう。
【釈】 天の河の浮津の浪の音が騒がしいことである。わが待っている夫の君が舟出をするのであろうよ。
【評】 前の歌と同じく、織女の彦星を待つ心である。これは上の歌ほど細心な用意をもったものではないが、感としてはかえって強いものである。分解を離れて、直覚に立ったからのことである。以上三首は左注のないところから見ると、独り心やりに詠んだものとみえる。集会などの条件を離れて詠むと、妥当な、味わいのある造語が現われ、細心の技巧も現われて、際やかによいものとなっている。憶良と社交ということが思わせられる。
大宰の諸卿大夫并に官人等、筑前国|蘆城駅家《あしきのうまや》に宴《うたげ》せる歌二首
【題意】 「諸卿」は帥と大弐。「大夫」は少弐以下。「官人」は下僚。「蘆城駅家」は今の福岡県筑紫都筑紫野町阿志岐の地。大宰府から東南一里ばかりの地である。「駅家」は、駅馬を飼う家であるが、旅館の性質も帯びていたとみえる。
1530 をみなへし 秋萩《あきはぎ》まじる 蘆城《あしき》の野《の》 今日《けふ》を始《はじ》めて 万代《よろづよ》に見《み》む
(101) 娘部思 秋芽子交 蘆城野 今日乎始而 萬代尓將見
【語釈】 ○をみなへし秋萩まじる蘆城の野 女郎花と萩とがまじって咲いている蘆城の野は。○今日を始めて万代に見む 「始めて」は、初めとして。「万代」は、いつまでもということを誇張していう成語。
【釈】 女郎花と秋萩とのまじって咲いている蘆城の野は、今日を初めとして、今後いつまでも見よう。
【評】 宴席での歌で、初めは儀礼として宴を喜ぷ心であったのが、興味本位のものに転じ、相聞の詠が多かったが、これはその土地の風景を愛でるものとなっている。改まった場合であったからでもあろう。初めて蘆城野を見た心であるから、下僚の官人の歌であったかと思われる。それだと「万代」という甚しく誇張した言葉も、不自然ではなくなる。
1531 珠匣《たまくしげ》 蘆城《あしき》の河《かは》を 今日《けふ》見《み》ては 万代《よろづよ》までに 忘《わす》らえめやも
珠匣 葦木乃河乎 今日見者 迄萬代 將忘八方
【語釈】 ○珠匣蘆城の河を 「珠匣」は、蓋を開く意で「あく」の枕詞になっているから、類音のあしきに転じたもの。「蘆城の河」は、大宰府東北の宝満山に発し蘆城野を流れて筑後川に注ぐ宝満川。
【釈】 蘆城の河を今日見てからは、いつまでも忘れられようか、忘れられないことである。
【評】 心としては上の歌と同じで、「蘆城の野」を「蘆城の河」に転じて、その喜びを繰り返していったものである。喜びを述ベるのが主で、野も河もその方便にすぎないものである。
右の二首は、作者いまだ詳かならず。
右二首、作者未v詳。
【解】 本巻は、作者の明らかなる歌を集めたものである。この二首も、作者はわかっていたが、身分の低いためにあらわさなかったのかもしれぬ。
笠朝臣金村の伊香山《いかごやま》にて作れる歌二首
(102)【題意】 「笠金村」は、巻三(三六四)題詞、上の(一四五三)に出た。「伊香山」は、滋賀県伊香郡、今の木之本町|大音《おおと》(旧伊香具村)付近にある山である。賤ケ岳の南麓で、余吾の湖に面している。
1532 草枕《くさまくら》 旅《たび》行《ゆ》く人《ひと》も 往《ゆ》き触《ふ》れば にほひぬべくも 咲《さ》ける萩《はぎ》かも
草枕 客行人毛 徃觸者 尓保此奴倍久毛 開流芽子香聞
【語釈】 ○草枕旅行く人も 「草枕」は、枕詞。「旅行く人も」は、旅をしている心忙しい、花をめでる暇のない人も。○往き触れば 「触る」は、下二段活用で、行きずりに触れたならば。○にほひぬべくも咲ける萩かも 「にほふ」は、色の映発する意で、衣が花の色に染まりそうにも咲いている萩の花であるよ。
【釈】 旅をする心忙しい人も、行きずりに触れたならば、衣が染まりそうにも咲いている萩の花であるよ。
【評】 伊香山の山路を埋めるように咲いている萩を愛でた心である。「往き触ればにほひぬべくも」は想像であるが、萩で衣を摺ることは一般にしていたことなので、自然な想像である。明るく、感覚的な、気分を主とした歌である。
1533 伊香山《いかごやま》 野辺《のべ》に咲《さ》きたる 萩《はぎ》見《み》れば 公《きみ》が家《いへ》なる 尾花《をばな》し念《おも》ほゆ
伊香山 野邊尓開有 芳子見者 公之家有 尾花之所念
【語釈】 ○伊香山野辺に咲きたる 伊香山の麓の野に咲いている。「野辺に」と、地形を添えていっているのは、下の「公が家」に照応させるためである。○公が家なる尾花し念ほゆ 「公」は意味の広い語で、その時の金村とどういう関係の人か明らかでない。したがって諸説があるが、公務の旅で、彼よりも身分の高い人が同行しており、その人をさして詠みかけたものと取れる。「公が家なる尾花」は、その人の家にある尾花で、共に目にした物。「念ほゆ」ほ、思われる。
【釈】 伊香山の麓の野に咲いている萩を見ると、公が家にある尾花が思われる。
【評】 萩を見て尾花を連想するのは、突飛な感がするが、これは実際に即していっているための自然な成行きである。当時尾花が愛されたことは、下に出る憶良の秋の七草の歌でも明らかで、鑑賞の対象としては自然だったのである。したがってこれだけでも一首の心は通じるが、「公が家なる尾花」と特に限っていっているのは、公と呼んでいる人の旅愁を汲んで、きわめて(103)婉曲にそれを慰めようとしたのであろう。情味の感じられる歌であるから、そのように解せられる。
石川朝臣|老夫《おきな》の歌一首
【題意】 「石川老夫」は、伝が未詳である。
1534 をみなへし 秋《あき》の萩《はぎ》折《を》れ 玉桙《たまぼこ》の 道行裏《みちゆきつと》と 乞《こ》はむ児《こ》の為《ため》
娘部志 秋芽子折礼 玉桙乃 道去裏跡 爲乞兒
【語釈】 ○をみなへし秋の萩折れ 女郎花と萩の花とを折れよと命令したもの。「秋の萩」は、花の咲いている萩で、萩の花。○玉桙の道行裏と 「玉桙の」は、道の枕詞。既出。「通行裏と」は、土産にあたる語で、道行きをした土産として。○乞はむ児の為 「児」は、妻の愛称。乞う妻に与えるために。
【釈】 女郎花と萩の花とを折れよ。道行きをした土産として乞う妻のために。
【評】 旅より家への帰途、家近くなった野で、従者に命じた形の歌である。他人に対して、妻を「児」という称で呼ぶのは、きわめて心置きのない間でないとできないことだからである。用向きを歌をもって足すことは、例の多いものである。
藤原宇合卿の歌一首
【題意】 「藤原宇合」は、巻一(七二)に出た。藤原不比等の第三子、式家の祖である。天平九年に薨じた。
1535 吾《わ》が背子《せこ》を 何時《いつ》ぞ今《いま》かと 待《ま》つなへに 面《おも》やは見《み》えむ 秋《あき》の風《かぜ》吹《ふ》く
我背兒乎 何時曾且今登 待苗尓 於毛也者將見 秋風吹
【語釈】 ○吾が背子を 夫の愛称にも、親しい男同士の愛称にも用いている。夫である。○何時ぞ今かと待つなへに いつ来ますぞ、今にも来ますかと待っている折しも。○面やは見えむ 「面」は顔、「やは」は反語で、顔が見られようか、見られない。○秋の風吹く 「秋の風」は、七月一(104)日から吹くものとしていた。そうした風が吹いている。
【釈】 わが背子を、いつ来ますぞ、今にも来ますかと待っている折しも、その顔が見られようか見られはしない。秋の風が吹いている。
【評】 妻が夫を、焦燥をもって待っている範囲の歌とはわかるが、「面やは見えむ秋の風吹く」がわかりかねるものである。『考』は七夕の歌で、織女が彦星を待ちこがれているものと解している。それだと、結句の「秋の風吹く」は、七日以前の、吹きはじめたばかりの秋風の意と取れ、一首の心がわかる。すなわち、いつぞ今かと待つとともにその顔が見られようか。しかし秋の風が吹いているので、幾日という間もなく見られるの意となる。迎えすぎた解という搬いはあるが、現在のところそう解すれば筋のとおる歌となるが、それでないとわからない歌となるからである。とにかくこの歌は相聞の範囲のものであるのに、雑歌の中に入れてあるので、七夕の歌と見られる。また宇合の薨じたのは天平九年で、気分本位の歌を詠むことが行なわれていた時代でもある。織女の立場に立ち、事件を背後に押しやって小さく扱い、気分を主と立てた歌を詠んだとしても怪しむに足りない。作歌当時これで承認されていた歌であるから、「秋の風吹く」に気分の拡がりをもたせ、『考』に従って解することにする。
縁達師《えんだちほふし》の歌一首
【題意】 「縁達師」は伝未詳。『代匠記』は縁達は僧の名、師は法師かと言っている。『私注』は縁は百済系の姓、達師が名で、百済系の帰化人であろうとしている。
1536 暮《よひ》に逢《あ》ひて 朝《あした》面《おも》無《な》み 隠野《なばりの》の 萩《はぎ》は散《ち》りにき 黄葉《もみち》はや続《つ》げ
暮相而 朝面羞 隱野乃 芽子者散去寸 黄葉早續也
【語釈】 ○暮に逢ひて朝面無み 若い女が夜男と共寝をして、朝は羞しいのでの意で、隠れるの古語「なばり」にかかる序詞。これは巻一(六〇)長皇子の「暮《よひ》にあひて朝面無みなばりにか」と、全く同形のものがある。○隠野の 三重県名張市付近の野。ここは京より伊勢へ通じる要路にあたっている。○黄葉はや統げ 黄葉よ、早く続けよと命令したもの。
【釈】 女が夜男と共寝をして、朝羞しくして隠れるに因みあるこの名張の野の、萩は散ってしまった。黄葉よ早く続けよ。
(105)【評】 名張野を通った時の歌である。三句までは明らかに踏襲したもので、成句に近いものである。四、五句との続きが極度に離れているようであるが、必ずしもそうではなく、可隣なうら若い女と、萩黄葉の愛すべき風物との間に、時代的に一脈のつながりを感じていたろうと思われる。それを思わせるのは、この歌の調べの張っているからで、健康にさわやかに詠んでいるので、それによって統一感が強められるからである。作者自身意識して、謡い物の型を追って詠んだものと思われる。
山上臣憶良、秋の野の花を詠める歌二首
1537 秋《あき》の野《の》に 咲《さ》きたる花《はな》を 指《ゆび》折《を》りて かき数《かぞ》ふれば 七種《ななくさ》の花《はな》 其の一
秋野尓 咲有花乎 指折 可伎數者 七種花 其一
【語釈】 ○かき数ふれば 「かき」は接頭語で、物を数えることを強くいう意で添えるもの。数え立てれば。〇七種の花 七種類の花があるよの意。○其の一 連作ということを明らかに示すために添えた自注。漢詩、日本書紀の歌謡などに例のあるものである。
【釈】 秋の野に咲いている花を、指を折り屈めて数え立てると、七種額の花であるよ。
【評】 特異な歌である。形としては一首の歌であるが、内容としては部分的のもので、独立のできないものである。「其の一」は、その内容についていっているもので、その一部分の意である。連作は古くから行なわれていることで、長歌にさえもあるもので、短歌にはまして多く、ことに人麿の作には多い。しかしそれらは一首が独立していて、それとともに他との繋がりももっているものであるが、憶良のこの作はその独立性のないことにおいて特異なものである。
1538 萩《はぎ》が花《はな》 尾花《をばな》葛花《くずばな》 瞿麦《なでしこ》の花《はな》 をみなへし 又《また》藤袴《ふぢばかま》 朝顔《あさがほ》の花《はな》 其の二
芽之花 乎花葛花 瞿麥之花 姫部志 又藤袴 朝※[白/八]之花 其二
【語釈】 ○尾花葛花 「尾花」は、薄の穂の称。上(一五三三)の金村の歌に出た。「葛花」は、葛の花で、花をいうのは初めてである。○又藤袴 「又」は、語調のため添えたもの。「藤袴」は、河畔の地に野生する多年生の草で、丈四尺ぐらい。秋、淡紫色の筒状の袴を思わせる花が開く。○朝顔の花 「朝顔」は、今の何であるかは問題となっていて定まらない。その説は四つに分れており、第一は、今の牽牛子《あさがお》(ケニゴシと普読もす(106)る)であるとするのであるが、これは漢種の渡米したものであって、野生の草ではなく、牽牛子を朝顔と称するようになったのは平安朝に入ってのことで、憶良の時代にいわなかったというのである。第二は木槿《むくげ》であるが、これは漢種で、しかも木であって草ではないとするのである。第三は、桔梗だとするのである。証は、『新撰字鏡』に「桔梗【阿佐加保、又云、岡止々支】」とあるによってである。この書は証としては薄弱というが、桔梗は問題となりうるものであろう。第四は、旋花(ひるがお)だとする説である。これほ文献の上には証がないが、その物として最も可能が多いとして『新考』は主張している。要するに桔梗と旋花とが最も有力であるが、証があるだけに桔梗が有力で、牧野富太郎氏も最近桔梗を主張した。
【釈】 略す。
【評】 上の歌を受けたもので、その一が総説、その二のこれは細説で、相俟って一つの内容をなしているものである。旋頭歌としているのは、詠みやすいためと取れる。七種の選出は憶良の趣味によったもので、尾花、葛花、藤袴などは、特殊性をもっているものである。短歌、旋頭歌の形式が、文芸ということから離れ、単に形式として利用されているものである。これは後世になるほど盛んになった傾向である。
天皇の御製歌二首
【題意】 「天皇」は、歌が年代順に排列されている関係上、当代の天皇で、聖武天皇である。
1539 秋《あき》の日《ひ》の 穂田《ほだ》を雁《かり》がね くらやみに 夜《よ》のほどろにも 鳴《な》き渡《わた》るかも
秋日乃 穗田乎雁之鳴 闇尓 夜之穗杼呂尓毛 鳴渡可聞
(107)【語釈】 ○秋の日の穂田を雁がね 「穂田」は、稲の穂となった田。秋の日の穂田を刈りと続け、「雁」に転じたもので、初二句は序詞。実景を序詞として、気分化したのである。「雁がね」は、雁。○くらやみに 旧訓。○夜のほどろにも 「ほどろ」は、巻四(七五四)に既出。夜の明け方、未明の意。
【釈】 秋の日の穂田を刈りに因みある雁は、くらやみの、未明の空に、鳴き渡ることであるよ。
【評】 秋の夜の、まだ明けないくらやみの頃、穂田のあたりを鳴いて渡ってゆく雁を聞かれて、一種のあわれを感じられたものである。「くらやみに夜のほどろにも」と畳んで、そのあわれをあらわしている。「秋の日の穂田」を序詞の形にされたのも、気分をいおうとされたがためである。実際に即しつつ、気分をいおうとされたことの明らかな御製である。
1540 今朝《けさ》の朝明《あさけ》 雁《かり》が音《ね》寒《さむ》く 聞《き》きしなへ 野辺《のべ》の浅茅《あさぢ》ぞ 色《いろ》づきにける
今朝乃旦開 鴈鳴寒 聞之奈倍 野邊能淺茅曾 色付丹來
【語釈】 ○今朝の朝明 「朝明《あさけ》」は、朝明けの約。○雁が音寒く開きしなへ 「雁が音」は、雁の声。「聞きしなへ」は、聞いたのに伴って。○色づきにける 「色づく」は、紅葉する意。「ける」は、「ぞ」の結。
【釈】 今朝の夜明けに、雁の声を寒く聞いたのに伴って、野の浅茅は、色づいたことであるよ。
【評】 秋が深くなった頃の夜明けの気分である。鳴く雁の声が身にしみて寒く聞こえ、繁く置く露に濡れた浅茅はにわかに色づいてきたと感じられるのは、すべて季節のもたらす気分であるが、それを事実として、事実に即しつつ気分化された作である。その気分化の直接の現われは、一首のもつ調べのさわやかさであって、この調べが事象を統一して、さわやかな味わいとしているのである。上の作とともに、詩情の豊かな、気品ある御製である。
大宰帥大伴卿の歌二首
1541 吾《わ》が岳《をか》に さを鹿《しか》来鳴《きな》く 初萩《はつはぎ》の 花嬬《はなづま》問《と》ひに 来鳴《きな》くさを鹿《しか》
吾岳尓 棹壯鹿來鳴 先芽之 花嬬問尓 來鳴樟壯鹿
【語釈】 ○吾が岳にさを鹿来鳴く 「吾が岳」は、旅人の住んでいる岳の意で、大宰府の近くにある岳。「さを鹿」は、牡鹿。○初萩の花嬬問ひに (108)「初萩」は、旧訓。咲き初めたばかりの萩。「花嬬」は、新婚当座の妻の称。巻十八(四一一三)……なでしこがその花妻にさ百合花後も逢はむと……」とある。鹿と萩との間に男女関係を認めて喜ぶのは、鶯と梅、霍公鳥と卯の花などと同じく、この時代の好尚の一つで、一般化していたものであった。これはその上に立ってのものである。ここは初萩という花嬬を妻問いしに。○来鳴くさを鹿 二句を語順を換えて繰り返したもの。
【釈】 わが岳に牡鹿が来て鳴いている。初萩という花嬬を妻問いしにと、来て鳴いている牡鹿よ。
【評】 萩の花の咲きはじめる頃、間近の丘の上に鳴く牡鹿の声を聞いての感である。初二句に、まずおおまかに事をいい、ただちに気分に移って、「初萩の花嬬問ひに来鳴く」と解して興を感じているのである。おちついた迫らない態度を保ちつつ、美しく繊細な情趣を湛えている作で、老いた旅人の歌人としての風懐を思わせられる歌である。
1542 吾《わ》が岳《をか》の 秋萩《あきはぎ》の花《はな》 風《かぜ》を痛《いた》み 散《ち》るべくなりぬ 見《み》む人《ひと》もがも
吾岳之 秋芽花 風乎痛 可落成 將見人裳欲得
【語釈】 ○風を痛み 風がはげしいので。○見む人もがも 「もがも」は、願望。
【釈】 わが岡の萩の花は、風がはげしさに散りそうになってきた。見る人のあってほしいことであるよ。
【評】 萩の散りそうなのを惜しみ、そのある中に人に見せたいというのである。旅人の心のうかがわれる作である。調べも静かに、しめやかである。老いた旅人には花の散るのを惜しむ歌が多く、これもその一つである。
三原王の歌一首
【題意】 「三原王」は、舎人皇子の子で、清原夏野の祖父である。養老元年無位から従四位下を授けられ、弾正尹、治部卿、大蔵卿、中務卿を経て、天平勝宝四年正三位をもって薨じた。
1543 秋《あき》の露《つゆ》は 移《うつし》にありけり 水鳥《みづとり》の 青葉《あをば》の山《やま》の 色《いろ》づく見《み》れば
秋露者 移尓有家里 水鳥乃 青羽乃山能 色付見者
(109)【語釈】 ○秋の露は移にありけり 「移」は、染料を紙、布、綿などに染ませたものの称で、物を染めるには、それをさらに染めようとする物に移すのである。秋の露は木草の葉を染める移《うつし》なのであったよ。○水鳥の青葉の山の 「水鳥の」は、その羽の青い物が多いところから、青にかかる枕詞。「青葉の山」は、青葉で蔽われている山。○色づく見れば 「色づく」は、青葉が、紅や黄に色づくで、黄葉《もみじ》する意。
【釈】 秋の露は移《うつし》なのであったよ。それが置くと、青葉の山が、紅や黄に色づくのを見ると。
【評】 秋の露が繁くなる頃には、山の青葉が黄葉するのを見て、女が移《うつし》を用いて物を染めるさまを連想し、秋の露は青葉にとっての移であったのだと、驚きをもっていっているものである。美しい自然現象と人間生活の間に気分のつながりを見出だして楽しむというこの時代の新傾向の範囲のもので、その意味では特に新しいとはいえないが、「秋の露は移」といい、「水鳥の青葉の山」という言い方が清新なために、さわやかに快い感を与えるものとなっている。魅力ある歌である。
湯原王の七夕の歌二首
【題意】 「湯原王」は、巻三(三七五)、その他にも出た。天智天皇の孫、志貴皇子の子である。
1544 牽牛《ひこぼし》の 念《おも》ひますらむ 情《こころ》より 見《み》る吾《われ》苦《くる》し 夜《よ》の更《ふ》けゆけば
牽牛之 念座良武 從情 見吾辛苦 夜之更降去者
【語釈】 ○牽牛の念ひますらむ 「ます」は、敬語の助動詞。お思いになられるで、連体形。○情より 情よりも。○見る吾苦し 下界から仰ぎ見ている吾のはうが苦しい。「苦し」は、心苦しいで、気の毒だ。○夜の更けゆけば 一年に一夜の逢瀬の、その夜が更けてゆくのでで、別れの時刻が近づこうとするので。
【釈】 彦星の悲しく思っていらっしゃるだろう心よりも、仰ぎ見ている吾のほうがさらに心苦しい。一年に一夜の逢瀬の夜が尽き、更けてゆくので。
【評】 七夕の夜、天上を仰いで、二星の心を思いやった心である。二星と自身との間の距離がなくなって、同じ地上に住んでいる、敬愛する貴人を思いやっているごとき親しいものとなっている。詠み方が自然で、調べも柔らかなので、まさに誇張のない実感であったろうと思わせる。自然界の現象の美しくあわれなものを気分化して、自身との繋がりをつけ、自身の生活に取入れる傾向の、いかに高まってきていたかを思わせる作である。
(110)1545 織女《たなばた》の 袖《そで》続《つ》ぐ三更《よひ》の 五更《あかとき》は 河瀬《かはせ》の鶴《たづ》は 鳴《な》かずともよし
織女之 袖續三更之 五更者 河瀬之鶴者 不鳴友吉
【語釈】 ○織女の袖続ぐ三更の 「袖続ぐ」は、袖と袖とを続ける意で、共寝ということを婉曲に具象化したもの。「三更」は、「更」は、上代の夜の時間をあらわす称で、今の二時間にあたる。夜を五更に分ち、初更は八時、二更は十時、三更は十二時、四更は午前二時、五更は四時である。「三更」を「よひ」と称したので、それに当てた字。〇五更は 「あかとき」は、午前四時の称。○河瀬の鶴は鳴かずともよし 「河瀬」は、天の河の河瀬。「鶴」は、地上と同じく天上でも水辺にいるものとしていったもの。「鳴かずともよし」は、鳴かなくとも好いで、鶴も他の鳥類と同じく、朝早く鳴くものとし、鳴けば夜明けで、別れねばならない時なので、鳴くなということを、柔らげていっているものである。
【釈】 織女が彦星と、袖と袖とを連ねている宵の、その暁には、天の河の河瀬の鶴は、鳴かなくともよい。
【評】 これは織女を中心としてのものである。天の河の河瀬に鶴を想像しているのは、上の歌と同じく天上を親しみ、気分化したものである。「袖続ぐ三更」といい、「鳴かずともよし」という、婉曲にして上品な具象化は王の人柄よりのものである。
市原王の七夕の歌一首
【題意】 「市原王」は、巻三(四一二)に出た。安貴王の子で、天平十五年従五位下。摂津大夫、造東大寺長官などになった。
1546 妹許《いもがり》と 吾《わ》がゆく道《みち》の 河《かは》しあれば 附目緘結跡《つけめしめゆふと》 夜《よ》ぞ更降《くだ》ちける
妹許登 吾去道乃 河有者 附目緘結跡 夜更降家類
【語釈】 ○妹許と吾がゆく道の 妹のもとへと思って、わが行く道にの意で、彦星になっていっているもの。○河しあれば 「河」は、天の河。「し」は強意。○附目緘結跡 訓が定まらず、諸説があり、誤写説もあって、さまざまに訓まれている。前後の続きで、天の河を徒渉するための準備と取れる。一方「緘結」は、巻四(五三〇)「赤駒の越ゆる馬柵《うませ》の緘《しめ》結《ゆ》ひし」の用例があり、「しめゆふと」と訓むべきである。問題は「附目」だけである。これは文字どおり「つけめ」で、事は、徒渉をするに袴を濡らすまいとしていつもしていることで、袴の裾に付いている紐の付目を高く括りあげて、その紐で結わえることと思われる。それをするとて。これは、徒渉の準備ということで、徒渉そのことをもあらわしたものと取(111)れる。○夜ぞ更降ちける 夜が更けてしまったことであるよ。
【釈】 妹の家へとわが来る道に河があるので、袴の裾の紐の付目をくくりあげて結わえて渉って来るとて、夜が更けてしまったことであるよ。
【評】 男が女のもとへ行った時、その真実をあらわすために、来る途中の労苦を訴えることが風となっていたとみえ、その心を詠んだ歌が少なくない。この歌もその心のもので、彦星が織女のもとへ行った時、遅くなった言いわけをし、他意のない心をあらわしたものとみえる。彦星自身、途中で手間取ったことをもどかしく感じた心としては、一首が暢びやかすぎ、ことに四句より五句への続きが飛躍のありすぎるものとなるからである。この歌も、天上の彦星を、地上の庶民と少しも異ならない者としての心である。題詠の趣のある歌である。
藤原朝臣|八束《やつか》の歌一首
【題意】 「藤原八束」は、巻三(三九八)、巻六(九八七)に出た。房前の第三子で、後に真楯と改名した。天平神護二年大納言をもって薨じた。
1547 さを鹿《しか》の 萩《はぎ》に貫《ぬ》き置《お》ける 露《つゆ》の白珠《しらたま》 あふさわに 誰《たれ》の人《ひと》かも 手《て》に巻《ま》かむちふ
棹四香能 芽二貫置有 露之白珠 相佐和仁 誰人可毛 手尓將卷知布
【語釈】 ○さを鹿の萩に貫き置ける露の白珠 牡鹿が萩の枝に貫いて置いた露のその白珠よ。朝の萩原に露の繁く美しく置いているのを讃えたもので、「萩」は牡鹿の妻で、昨夜来て逢って、別れを惜しんで泣いた涙が、露のさまをして残っていると見て、その涙の露を白珠だと見たのである。あわれ深いものとしてである。○あふさわに この語は、集中、今一か所用例のあるのみのものである。それは巻十一(二三六二)「山城の久世《くせ》の若子《わくご》が欲しといふ余《われ》あふさわに吾《われ》を欲しといふ山城の久世」で、人麿歌集の歌である。意味はこれら二首から推量して、諸説があるが、大体、だしぬけに、やたらにというにあたろうという。副詞。○誰の人かも 「かも」は、疑問と詠歎。いかなる人であればか。○手に巻かむちふ 「手に巻かむ」は、「白珠」を手玉として巻こう。「ちふ」は、という。
【釈】 牡鹿が、その妻である萩の上に、別れる時、貫いて残して置いた白珠よ。だしぬけに、どういう人であるのか、わが手玉として手に巻こうという。
(112)【評】 萩原の朝露の白珠のように美しいのを見て、手玉にしたいという人のあるのを見て、その露は牡鹿の別れを惜しんでの涙である、だしぬけにそのようなことをいうのは、いかにもあわれを知らない人であると、訝かり怪しんで咎めた心のものである。「あふさわに誰の人かも」という強い言葉が、非難の心をあらわしている。この歌は、上に引いた人麿歌集の歌と同じく旋頭歌であるが、これはこの当時はきわめて稀れなものである。一首の構成もその歌と同じであり、ことに「あふさわに」という、他には用例のない語を用いていることも、人麿歌集の歌が心にあって、それにならったものだということを思わせる。しかし内容としては、人麿は事件を扱っているのに、これは牡鹿と萩という情趣の上に立って、それを強調したものであって、全然異なっている。時代的推移の明らかな点が注意される。
大伴坂上郎女の晩《おそ》き萩《はぎ》の歌一首
1548 咲《さ》く花《はな》も をそろはうとし 晩《おくて》なる 長《なが》き心《こころ》に 尚《なほ》如《し》かずけり
咲花毛 乎曾呂波※[厭のがんだれなし] 奥手有 長意尓 尚不如家里
【語釈】 ○をそろはうとし 「をそろ」は、巻四(六五四)「恋ふといはばをそろと吾をおもほさむかも」の用例がある。早熟、軽はずみ、気ぜわしい意。「うとし」は、親しくない。○晩なる長き心に 「晩」は、広く晩い意に転じたもの。「長き心」は、気の長い意。○尚如かずけり やはり及ばないことであった。
【釈】 咲く花でも、軽はずみに早く咲くものは親しく思えない。おそく咲く気の長い物には、やはり及ばないことであった。
【評】 遅咲きの萩を眺めて、讃えていっているものである。遅咲きがよいと思うと同時に、ただちに男女関係が連想され、男もやはりそうだと感じたので、それが絡んで出ているのである。ある年齢に達した聡明な女性の心というべきである。安らかで、冴えた歌である。
典鑄正《いもののかみ》妃朝臣|鹿人《かびと》、衛門大尉《ゑもんのたいじやう》大伴宿禰|稲公《いなきみ》の跡見《とみの》庄に至りて作れる歌一首
【題意】 「典鑄正」は典鑄司の長官。正六位上相当。「紀鹿人」は、巻六(九九〇)に出た。奈良朝末期の人。「衛門大尉」は衛門府の三等官、従六位下相当。「大伴稲公」は、巻四(五六七)に出た。旅人の異母弟。「跡見庄」は、巻四(七二三)に出た。(113)大伴氏の領地で、坂上郎女の住んだ坂上の里に近い所とみえる。稲公はそこに住んでいたのである。
1549 射目《いめ》立《た》てて 跡見《とみ》の岳辺《をかべ》の 瞿麦《なでしこ》の花《はな》 総手折《ふさたを》り 吾《われ》は持《も》ちゆく 寧楽人《ならびと》の為《ため》
射目立而 跡見乃岳邊之 瞿麥花 總手折 吾者將去 寧樂人之爲
【語釈】 ○射自立てて跡見の岳辺の 「射目」は、狩猟の時、弓を射る人がかくれてねらう場所の称で、「立てて」は、立たしめて。獣の足跡を見る意で、「跡見」の枕詞。○瞿麦の花 上に出た。詠歎を含む。○総手折り 「総」は、仮名書きのあるもの。たくさんにの意の副詞で、用例のあるもの。現在の「ふっさり」は、その転かという。○寧楽人の為 「寧楽人」は、寧楽京にいる人で、瞿麦の花を珍しがる人としていっているもの。
【釈】 跡見の丘辺に咲いている瞿麦の花よ。たくさんに折って吾は持って行く。奈良京にいる人のために。
【評】 跡見の庄を訪うたことを喜ぶ心のもので、主人に対して挨拶の心で詠んだものとみえる。旋頭歌の形で詠んでいるが、旋頭歌は人麿歌集のものは叙事性をもった複雑なものであったが、この時代のものは抒情性のものとなり、短歌よりもさらに単純になっていたようである。この歌もそれで、暢びやかで、謡い物風である。その点が便利とされたのであろう。
湯原王の鳴く鹿の歌一首
【題意】 「湯原王」は巻三(三七五)に出た。天智天皇の皇孫。志貴皇子の子。
1550 秋萩《あきはぎ》の 散《ち》りの乱《まが》ひに 呼《よ》び立《た》てて 鳴《な》くなる鹿《しか》の 声《こゑ》の遙《はる》けさ
秋芽之 落乃乱尓 呼立而 鳴奈流鹿之 音遙者
(113)【語釈】 ○秋萩の散りの乱ひに 「散りの乱ひ」は、散って乱れることで、用例のあり、成句となっているもの。「に」は、につけての意で、風の吹き立って来たことを暗示している。目に近く見た光景である。○呼び立てて鳴くなる鹿の 「呼び立てて鳴くなる鹿」は、牡鹿が牝鹿を呼び立てて鳴いているで、萩の花の盛んに放るのに驚いて、警める意。○声の遙けさ 声の遙かなことよと、泳歎をもっていったもの。鹿の声は細いものなので、遥かとはいってもさして遠くはなく、したがってその鹿は目には見てはいないが、同じ萩原のやや奥まったところにいるのである。
【釈】 萩の花が、吹き立つ風に散って乱れるのにつけ、牡鹿がその牝鹿を呼び立てて鳴いている声の、遥かに聞こえることよ。
【評】 広い萩原に立って、眺望を楽しんでいられた際の、瞬間的な光景である。光景の中心は、吹き立った秋風であるが、それは背後に置いて、秋風に伴って起こった萩の花の盛んに散ること、また、それに驚いて牡鹿の牝鹿を呼び立てることをいったのである。「散りの乱ひ」の目前の景と、「声の遙けさ」のやや遠い景を対させ、萩原の広さを暗示にしているのも、用意をもってのことである。一首、気分を主としたもので、事実はその具象化のもので、調べも内容にふさわしく柔らかなものである。新歌風の典型的なものである。
市原王の歌一首
1551 時《とき》待《ま》ちて ふりし時雨《しぐれ》の 零《ふ》り零《ふ》りぬ 明《あ》けむ朝《あした》か 山《やま》のもみたむ
待時而 落鍾札能 零零奴 開朝香 山之鍾黄變
【語釈】 ○時待ちてふりし時雨の 時節を待って降り出した時雨が.。古くは時雨は、晩秋から初冬にかけての雨の称であった。○零り零りぬ 原文の「零零奴」は大方の舌写本に「雨令零収」とある。『考』は、「雨令」は、「零」の一字を誤写したものとして、「零」と改めた。『新訓』は、これに従っている。「ぬ」は、原文「収」であるが、『新訓』は、「奴」の誤写としている。ありうべき範囲のこととして従う。降りに降った。○明けむ朝か 「か」は、疑問の係。時雨は夜であったことをあらわしている。○山のもみたむ 「もみつ」は、古くは四段活用と上二段括用であった。ここは四段活用である。葉黄しよう。
【釈】 その降るべき季節を待っていた時雨が、降りに降った。この夜の明ける朝には、山がもみじすることであろうか。
【評】 訓に問題の多い歌であるが、『考』と『新訓』とによって、原形に復したかと思われる歌である。季節感の濃厚な歌であるが、季節にも人事に近い心を認めて、時雨には「時待ちて」といい、黄葉には、「明けむ朝」と時雨を待っていることを絡ませている。時代感情である。それとしては実際に即した、素朴な詠み方である。
(114) 湯原王の蟋蟀《こほろぎ》の歌一首
1552 ゆふ月夜《づくよ》 心《こころ》もしのに 白露《しらつゆ》の 置《お》くこの庭《には》に 蟋蟀《こほろぎ》鳴《な》くも
暮月夜 心毛思努尓 白露乃 置此庭尓 蟋蟀鳴毛
【語釈】 ○ゆふ月夜心もしのに 「ゆふ月夜」は、夕月の出ている日暮れ方で、そうした時にの意で下へ続く。「心もしのに」は、巻三(二六六)に出た。心が感傷のために萎える意。「鳴く」に続く。○蟋蟀鳴くも 「蟋蟀」は、今のこおろぎで、きりぎりすとも呼んだ。『万葉辞典』は、こおろぎの種類の総称で、また、まつむし、すずむしをもこめての総称だともいっている。「も」は詠軟。
【釈】 夕月の出ている日暮れ方、心が愁えに萎えるまでに、白露の置いているこの庭に、橋畔が鳴くことよ。
【評】 夕月夜に、蟋蟀の置いている庭にこおろぎが繁く鳴いているという、きわめてありふれた小景であるが、それらが実景に即しつつも気分によって完全に統一づけられているために、その結果、膨らみも拡がりももち、また重みも添って、一つの世界のごとき感のあるものとなっている。「心もしのに」という、事に合わせては相当に大げさのことをいっているのが、しっとりと自然なものとなって浴け合っているのは、気分本位の歌だからである。奈良朝末期の典型的な歌の一首である。
衛門大尉大伴宿禰稲公の歌一首
1553 時雨《しぐれ》の雨《あめ》 間《ま》なくし降《ふ》れば 三笠山《みかさやま》 木末《こぬれ》あまねく 色《いろ》づきにけり
鍾礼能雨 無間零者 三笠山 木末歴 色附尓家里
【語釈】 略す。
【釈】 しぐれの雨が絶え間なく降るので、三笠山は、梢があまねくも色づいたことであるよ。
【評】 巻十(二一九六)「時雨の雨間なくしふれば真木の葉もあらそひかねて色づきにけり」があり、その影響を受けたものと思われる。「真木の薬もあらそひかねて」は、やや以前までは、木の葉は時雨に染められまいとして争うものだということを背後にしての歌である。今は反対に、時雨に染められることを喜び待っている心をいっているもので、作者としては、そこに新(116)意があるものとしたのであろう。これらはいずれも作者の歌心のいわせているものではなく、時代の生活気分の反映として、一般化している心をいっているものなのである。
大伴家持の和《こた》ふる歌一首
1554 皇《おほきみ》の 三笠《みかさ》の山《やま》の 黄葉《もみちば》は 今日《けふ》の時雨《しぐれ》に 散《ち》りか過《す》ぎなむ
皇之 御笠乃山能 秋黄葉 今日之鐘礼尓 散香過奈牟
【語釈】 ○皇の 天皇のおかざしになるみ笠の意で「三笠」に続く枕詞。貴人の背後から大きなきぬがさを差しかけたのである。○散りか過ぎなむ 「か」は、疑問の係。「なむ」の「な」は完了の助動詞「ぬ」の未然形、「む」は未来の推量。間もなく散り終わることであろうか。
【釈】 三笠の山の黄葉は、今日の時雨の雨のために、間もなく散り終わることであろうか。
【評】 「和ふる歌」とはいうが、前の歌とは繋がりのないほどのものである。唱和風となっていたところからのものであろう。
安貴《あきの》王の歌一首
【題意】 「安貴王」は、巻三(三〇六)に出た。春日王の子で、奈良中期の人である。
1555 秋《あき》立《た》ちて 幾日《いくか》もあらねば この宿《ね》ぬる 朝明《あさけ》の風《かぜ》は 手本《たもと》寒《さむ》しも
秋立而 幾日毛不有者 此宿流 朝開之風者 手本寒母
【語釈】 ○幾日もあらねば 「あらねば」は、「あらぬに」と同じ意のもので、しばしば出た。○この宿ぬる朝明の風は 「この宿ぬる」は、「この」は、眼前をさしたもの。「宿ぬる」は、寝たところので、「朝明」と続くもの。寝てのこの朝明の意。「朝明」は、朝明け。○手本寒しも 「手本《たもと》」は、手首のあたり。「も」は、詠歎。
【釈】 秋が立ってまだ幾日も経ないのに、寝てのこの朝明けの風は、手元が寒いことであるよ。
(117)【評】 季節感をいっただけの歌である。「この宿ぬる」は、枕詞に近い語であるが、この歌にあっては重い働きをしている。軽く、自在である。
忌部首《いみべのおびと》黒麿の歌一首
【題意】 「忌部黒麿」は、巻六(一〇〇八)に出た。奈良中期の人。
1556 秋田《あきた》刈《か》る 仮廬《かりほ》もいまだ 壊《こぼ》たねば 雁《かり》がね寒《さむ》し 霜《しも》も置《お》きぬがに
秋田苅 借廬毛未 壞者 鴈鳴寒 霜毛置奴我二
【語釈】 ○秋田刈る仮廬も 「仮廬」は、仮庵の約で、番小屋。秋田を刈るために設けた小屋の意であるが、これは稲が熟しかける頃は、猪鹿の類に荒されないために設けた番小屋で、そこで寝起きをしたのである。○いまだ壌たねば 「壊たねば」は、上の歌と同じく、壊たぬに。番小屋の取片付けもまだしないのにで、稲刈も終わらないことを具体的にいったもの。○雁がね寒し霜も置きぬがに 「雁がね」は、雁の鳴き声。「置きぬがに」は、「ぬ」は、完了の助動詞で、強め。「がに」は、ほどに。
【釈】 秋田を刈る小屋もまだ取片付けもしないのに、雁の鳴き声が寒く聞こえる。霜も置きそうなほどに。
【評】 農民の立場に立ち、季節の推移の慌しさを、眼前の事象に即していっているものである。当時の廷臣は、身分の低い者は農民に接触し、またそれに近い生活をしていたとみえるから、「秋田刈る仮廬もいまだ壊たねば」ということは、実際に即しての感であったろう。古風な詠み方であるが、感のあるものである。
故郷の豊浦寺《とよらでら》の尼の、私《わたくし》の房《つまや》に宴《うたげ》せる歌三首
【題意】 「豊浦寺」は、奈良県高市郡明日香村豊浦の地にある寺で蘇我稲目がその邸を寺としたわが国最初の尼寺である。「故郷」は、その地が飛鳥だからである。「私の房」は、寺に付属している私室である。「宴せる」は、この当時は僧尼も俗人とさして異ならない生活をしていたので、恠《あや》しまれなかったことである。
1557 明日香河《あすかがは》 逝《ゆ》きみる丘《をか》の 秋萩《あきはぎ》は 今日《けふ》零《ふ》る雨《あめ》に 散《ち》りか過《す》ぎなむ
(118) 明日香河 逝廻丘之 秋芽子者 今日零雨尓 落香過奈牟
【語釈】 ○明日香河逝きみる丘の 「逝きみる」は、行き廻《めぐ》る。「丘」は雷丘である。明日香河がその裾を流れて廻る丘。
【釈】 明日香河がその裾を流れ廻る丘の萩の花は、今日降っている雨に散ってしまうことであろうか。
【評】 豊浦の里にあって、そこに近い雷丘の萩の花を懐かしみ、おりからの時雨に散るであろうかと惜しんだ心である。京が飛鳥地方にあった時代は、雷丘は尊く、畏い丘であったのに、故郷となったこの時代には、萩の花の多い丘とされていたかにみえる。宴歌としては美しいものである。
右の一首は、丹比真人国人《たぢひのまひとくにひと》。
右一首、丹比眞人国人。
【解】 「丹比国人」は、続日本紀、天平十年民部少輔となった。奈良中期の人。巻三(三八二)に出た。
1558 鶉《うづら》鳴《な》く 古《ふ》りにし郷《さと》の 秋萩《あきはぎ》を 思《おも》ふ人《ひと》どち 相見《あひみ》つるかも
鶉鳴 古郷之 秋芽子乎 思人共 相見都流可聞
【語釈】 〇鶉鳴く古りにし郷の 「鶉鳴く」は、鶉は荒れた地に住むところから、意味で「古り」にかかる枕詞。「古りにし郷」は、飛鳥地方は以前都であったからの称。○思ふ人どち相見つるかも 「思ふ人どち」は、思い合っている人どうしで、客の国人《くにひと》と主人の僧尼。「相見つるかも」は、萩の花を一緒に見たことだなあ。
【釈】 鶉の鳴いている故里となってしまった里の萩の花を、思い合っている人どうしで一緒に眺めたことだなあ。
(119)【評】 主人として、客の歌に和えたものである。国人はそこからは、やや離れている雷丘の萩を思いやったのであるが、これは萩の花を眼前のものとして、国人と一緒に眺め得たことを喜びとしているもので、和え歌としての要を得たものである。自然で、しめやかで、こうした場合の歌としては良いものである。「鶉鳴く」という枕詞が、生きた叙述となっている。
1559 秋萩《あきはぎ》は 盛《さか》り過《す》ぐるを 徒《いたづら》に 挿頭《かざし》に挿《さ》さず 還《かへ》りなむとや
秋芽子者 盛過乎 徒尓 頭刺不插 還去牟跡哉
【語釈】 ○盛り過ぐるを 「を」は、詠歎。○徒に 甲斐なきものにして。○挿頭に挿さず 挿頭に挿して、十分に惜しまずして。「ず」は、連用形。宴席では時の花を挿頭にするのが風であった。○還りなむとや 京へ還ってしまおうとするのであろうかで、「や」は、疑問の係。「する」が省かれている。
【釈】 萩の花は盛りが過ぎているものを。それを甲斐なくも、挿頭に挿して十分に惜しまずに、還ってしまおうとするのであろうか。
【評】 これは主人として別れを惜しむ心のものである。儀礼の歌である。
右の二首は、沙弥尼等《さみにども》。
右二首、沙弥尼等。
【解】 「沙弥尼」は、沙弥の女性形。佐佐木氏『評釈』に「小戒を受けて出家したが、まだ具足戒を受けて比丘尼とならぬ女子をいふ」とある。俗人と同じ生活をしていたのである。
大伴坂上郎女、跡見田庄《とみのたどころ》にて作れる歌二首
【題意】 「跡見」は、(一五四九)に出た。「田庄」は、領地で、秋の収穫期にはそこに行ったものとみえる。
1560 妹《いも》が目《め》を 始見《はつみ》の埼《さき》の 秋萩《あきはぎ》は この月《つき》ごろは 散《ち》りこすなゆめ
(120) 妹目乎 始見之埼乃 秋芽子者 此月其呂波 落許須莫湯目
【語釈】 ○妹が目を始見の崎の 「妹が目を」は、妹が姿をで、始見に意味でつづく枕詞。「始見の埼」は、跡見にある山の埼の名と取れるが、所在は不明である。「始見」を「みそめ」と訓む説、跡見の誤りとして「とみ」とする説などがある。○この月ごろは散りこすなゆめ 「月ごろ」は、数月来という意で用いられているが、ここは明らかに短い期間である。巻四(七二三)同じくこの郎女の長歌の中に、「かくばかりもとなし恋ひば古郷にこの月ごろもありかつましじ」がある。今月より来月へかけてというほどの意でも用いていたと取れる。「散りこすなゆめ」は、(一四三七)に出た。散ってくれるな、けっしてと命令したもの。既出。
【釈】 始見の埼に咲いている萩の花は、我がここにとまる月頃は、散ってくれるな、けっして。
【評】 始見の埼は、郎女の跡見の家に近い所であったとみえる。萩の花を愛でる心であるが、ここは旅情を慰める唯一のものとして切望する心である。「妹が目を」という枕詞は、他にも例のあるものであるが、ここは家に残している娘を絡ませたものかと思われる。娘を思う歌があるからである。
1561 吉名張《よなばり》の 猪養《ゐかひ》の山《やま》に 伏《ふ》す鹿《しか》の 嬬《つま》呼《よぶ》ぶ声《こゑ》を 聞《き》くがともしさ
吉名張乃 猪養山尓 伏鹿之 嬬呼音乎 聞之登聞思佐
【語釈】 ○吉名張の猪養の山に 「吉名張」は、巻二(二〇三)に出た。桜井市初瀬町|吉隠《よなばり》の地。また、その東北方、角柄《つのから》の国木山一帯かともいわれる。「猪養の山」は、今はその名が伝わっていない。跡見とは数里を隔てている。○嬬呼ぶ声を開くがともしさ 「嬬呼ぶ声」は、牡鹿の鳴くのは、牝鹿を恋うて呼ぶものとしていっているもの。「ともしさ」は、「ともし」は、意味の広い語で、ここは羨ましい意と取れる。
【釈】 吉名張の猪養の山に寝ている牡鹿の、その嬬を恋うて呼ぶ声を聞くのが羨ましいことよ。
【評】 吉隠の人から、何らかの形で、猪養の山は鹿の鳴くことを聞かされて、それに対して詠んだものと思われる。吉隠の猪養の山は、古くから名の通っている山であるから、それに対しての懐しさもあり、また、郎女自身家を離れて旅にあるので、夫を思う心もあったものと思われる。「嬬呼ぶ声」にはその心が絡んでいよう。二首とも心やりの程度のものである。
巫部麻蘇娘子《かむなぎべのまそのをとめ》の雁の歌一首
(121)【題意】 娘子の伝は不明。巻四(七〇三)に出た。家持と関係のあった娘子で、この歌も家持に贈ったものである。
1562 誰《たれ》聞《き》きつ 此間《こ》ゆ鳴《な》き渡《わた》る 雁《かり》がねの 嬬《つま》呼《よ》ぶ声《こゑ》の ともしくもありき
誰聞都 從此間鳴渡 鴈鳴乃 嬬呼音乃 乏蜘在寸
【語釈】 ○誰開きつ 誰が聞いたかで、初句切れ。『新考』は、男女間で事をいう場合に、「誰が故に」というのは、君以外の誰のゆえに、君のゆえにこその意で、ここも君は聞いたかの意を、婉曲にいったものと解している。○此間ゆ鳴き渡る雁がねの 「此間ゆ」は、ここを通って鳴いて渡ってゆく雁の。○嬬呼ぶ声の 雁の鳴き声の哀切なのを、嬬を呼ぶ声と解してのもの。○ともしくもありき 原文、古写本の多くは「之知左守」とあり、流布本には「守」を「寸」としている。誤写説が多く、訓が定まらない。『略解』で本居宣長は「之」は「乏」の誤写で、「知」は「蜘」の略字、「左」は「在」の、「寸」は「可」の誤写とし、「乏蜘在可」だとし、「ともしくもあるか」としている。『新訓』はその上に立ち、「寸」はそのままにして、「ともしくありき」と訓んでいる。一首の心から穏当のものとして従う。「ともし」は、羨ましくあったことだったで、呼ばれる嬬を羨望したのである。
【釈】 君は聞いたか。ここをとおって鳴いて渡って行く雁の、その嬬を呼ぷ声を。我は羨ましく聞いたことであった。
【評】 季節のものとしての雁の声のあわれさを親しい人に言いやって、同感を求めた形の歌である。いわゆる折節のもののあわれをかわし合う範囲のもので、その意味では雑歌である。しかしこの歌は、それに寄せて男女間の恨みを訴えてあって、そのほうが主で、作意からいうと相聞の歌である。「誰聞きつ」と尋ねているのは、「嬬呼ぶ声」であって、娘子はそれを「ともし」と聞いて、それに対しての同感を求めているのである。率直にいぅと、家持に疎遠にされていることを嘆き、雁のごとく嬬呼ぶ声を聞かせてもらいたいというのである。自然の風物を気分化する傾向の中にあって詠んだもので、そのために、相聞ながらも雑歌と見られるものとなっているのである。
大伴家持の和ふる歌一首
1565 聞《き》きつやと 妹《いも》が問《と》はせる 雁《かり》がねは 真《まこと》も遠《とほ》く 雲隠《くもがく》るなり
聞津哉登 妹之問勢流 鴈鳴者 眞毛遠 雪隱奈利
(122)【語釈】 ○妹が問はせる 「問はせる」は、「せ」は尊敬の助動詞。「る」は完了の助動詞。女性には敬語を用いる風習よりのもの。○真も遠く 「其も」は、まことにもで、「遠く」は、その鳴く声が遠く。○雲隠るなり 「雲」は、遠方にあるものとして、上の「遠く」を練り返した形のもの。「なり」は、詠歎。
【釈】 聞いたのかと、妹がたずねられた雁の鳴く声は、まことにも遠く、雲に隠れていることである。
【評】 「真も遠く雲隠るなり」は、わずかに聞いたという意を、わざとそれは逸らしてしまって触れずにいるのである。相聞の歌としては甚しくもつれないものであるが、単なる雑歌と見れば、これでも一とおりの挨拶にはなりうるのである。家持はあくまでも正直な人であったが、女性に対しては相応に我儘な人だったと見え、それが歌の上に少なからず現われている。これもそれである。
日置長枝《へきのながえ》娘子の歌一首
【題意】 「日置」は、氏。「ひおき」の約音である。「長枝」は、名。伝は未詳。
1564 秋《あき》づけば 尾花《をばな》が上《うへ》に 置《お》く露《つゆ》の 消《け》ぬべくも吾《わ》は 念《おも》ほゆるかも
秋付者 尾花我上尓 置露乃 應消毛吾者 所念香聞
【語釈】 ○秋づけば尾花が上に置く露の 「秋づけば」は、秋めいて来ればで、三句まで「消」にかかる序詞。○消ぬべくも吾は念ほゆるかも 「消ぬべくも」は、消は死の意で、死にそうにもで、恋の切ないこと。
【釈】 秋めいて来ると、尾花の上に置く露の、その消えるに因みある、命も消えて死にそうにわれは思われることであるよ。
【評】 恋の訴えで、相聞の歌である。序詞は、その季節の眼前のさまを捉えてのものであって、一首のさみしい気分と緊密に関係しているものであるから、そこに力点を置いて、雑歌の部に入れたものと思われる。巻十(二二四六)「秋の田の穂の上に置ける白諸の消ぬべくも吾は念ほゆるかも」と似通っている。「消」を掛詞にすることは、恋の上では流行しやすいことであり、気分本位の単調な歌に取入れればおのずから類歌となる訳である。純情な、訴える力をもった歌である。
大伴家持の和ふる歌一首
(123)1565 吾《わ》が屋戸《やど》の 一《ひと》むら萩《はぎ》を 念《おも》ふ児《こ》に 見《み》せず殆《ほとほと》 散《ち》らしつるかも
吾屋戸乃 一村芽子乎 念兒尓 不令見殆 令散都類香聞
【語釈】 ○一むら萩を 一群の萩の花を。○念ふ児に 娘子を愛しての称。○見せす殆 「ず」は、連用形。「殆」は、現在のほとんどの古語。
【釈】 わが庭の一群の萩の花を、念う児の汝に見せずに、ほとんど散らしてしまったことであるよ。
【評】 一首、秋のあわれをいったのみのものである。娘子の歌は恋の訴えであるのに、「秋づけば尾花が上に置く露の」といったのだけを捉え、それを秋のあわれとし、同じく秋のあわれをいうことをもって和えとしたのである。言いかえると、娘子の歌は実用性のものであるのに、それを文芸性のものに転換させたのである。これは自然の事象を仮りて風流にいおうとする歌にあっては、可能なことなのである。「一むら萩」は新味のある語である。
大伴家持の秋の歌四首
1566 久堅《ひさかた》の 雨間《あまま》も置《お》かず 雲隠《くもがく》り 鳴《な》きぞゆくなる 早田雁《わさだかり》がね
久堅之 雨間毛不置 雲隱 鳴曾去奈流 早田鴈之哭
【語釈】 ○久竪の雨間も置かず 「久堅の」は、天を雨に通わしての枕詞。「雨間も置かず」は、雨の降っている間も休まずに。○雲隠り鳴きぞゆくなる 雲のあなたを鳴いてゆくことであるよで、「ぞ」は係。○早田雁がね 「早田」は、早稲田ので、刈りと続けて、「雁」に転じた序詞。そのおりからの景を序詞の形にしていったものである。「雁がね」は、雁。
【釈】 雨の降る間をも休まずに、雲に隠れて鳴いてゆくことであるよ。早稲田を刈る頃の雁は。
【評】 秋の季節感を詠んだものである。風物の美しさではなく、風物といううちにも、雁が慌しく、雨の日の雲の中を鳴いてゆくのに、いたわりと憐れみを感じた心である。若い、安静ではあり得ない心がにじんでいる。「早田雁がね」は、季節に即して素朴な言い方をしているので、軽浮の感がない。
1567 雲隠《くもがく》り 鳴《な》くなる雁《かり》の ゆきて居《ゐ》む 秋田《あきた》の穂立《ほだち》 繁《しげ》くし念《おも》ほゆ
(124) 雲隱 鳴奈流雁乃 去而將居 秋田之穗立 繋之所念
【語釈】 ○雲隠り鳴くなる雁の 雲隠れに鳴いている雁の。○ゆきて居む秋田の穂立 「穂立」は、穂の立ち揃っていることをいう語。行って下りるであろうところの秋田の穂立は。○繁くし念ほゆ 「繁く」ほ、穂立のさまで、「し」は強意。繁っていることと思われる。
【釈】 雲に隠れて鳴いている雁の、行って下りているであろうところの秋田の穂立が、繁っているものに思われる。
【評】 結句の「繁くし念ほゆ」が、徹底の足りないものに思われる。作意としては、上の歌と同じく雁にいたわりと憐れみを感じていて、雁も下りて憩う時があるとし、その憩う所は穂立が繁っていて、安静に憩いうるところであろうと思いやり、それを願うに近い心でいったものと思われる。この歌は、巻七(一一二二)「山の際に渡る秋沙の行きて居むその河の瀬に浪立つなゆめ」と、その心も構成も似通っている。その影響を受けたものであろう。それだと、「繁くし念ほゆ」は「浪立つなゆめ」に通うものとなってくる。一首の形から見ると、四句までは「繁く」の序詞のように見え、「繁く」は恋の心となるが、それではいかにも不徹底なものとなり、一首としても不自然な唐突なものとなる。作意ではなかろう。事に即しつつ気分を主として詠んだ歌である。心のあらわでないのは、それに関係している。
1568 雨隠《あまごも》り 情《こころ》いぶせみ 出《い》で見《み》れば 春日《かすが》の山《やま》は 色《いろ》づきにけり
雨隱 情欝悒 出見者 春日山者 色付二家利
【語釈】 ○雨隠り情いぶせみ 「雨隠り」は、雨のために家に籠もっている意で、名詞。「いぶせみ」ほ、心が結ぼれているゆえに。○色づきにけり 「色づく」は、黄葉しかける意。「に」は、完了。「けり」は、詠歎。
【釈】 雨隠りをして心が結ぼれているので、外に出て見ると、春日の山は色づいてきたことであるよ。
【評】 実際に即した歌である。自身雨に隠っている間に、その雨で春日山は黄葉しかけていたという発見が、すでに気分となっているからである。心理の自然に従ったものなので、おのずから静かに、おちつきをもった、味わいのあるものとなっている。
1569 雨《あめ》晴《は》れて 清《きよ》く照《て》りたる この月夜《つくよ》 又《また》更《さら》にして 雲《くも》なたな引《び》き
(125) 雨※[日+齊]而 清照有 此月夜 又更而 雲勿田菜引
【語釈】 ○この月夜 詠歎を含んでおり、呼びかけに近いもの。○又更にして雲なたな引き 「して」は、意昧の軽いもので、なくても心の通るもの。「雲」は、呼びかけ。「な」は、禁止で、「そ」を伴わないもの。
【釈】 雨が晴れて清く照っているこの月夜よ。またさらに、雲よ棚引くことはするな。
【評】 秋雨の降り続く頃、一夜晴れてさやかな月夜となったのを喜び、その続くことを願った心である。単純な、明るい年頃で、若々しさを見せている歌である。
右の四首は、天平八年丙子秋九月に作れる。
右四首、天平八年丙子秋九月作。
【解】 家持の歌で、年代の明記してあるのは、これが初めてである。『代匠記』は、この「天平八年」を家持の年齢に関係させて考証している。それは家持は、天平十二年の作から内舎人と書いており、『延喜式』に、舎人には二十一歳以上の者を補すと定められているから、この時は二十歳以前であったろうというのである。
藤原朝臣八束の歌二首
1570 此間《ここ》に在《あ》りて 春日《かすが》や何処《いづく》 雨障《あまつつみ》 出《い》でて行《い》かねば 恋《こ》ひつつぞ居《を》る
此間在而 春日也何處 雨障 出而不行者 戀乍曾乎流
【語釈】 ○此間に在りて春日や何処 「此間」は、京以外の地と取れる。「春日」は、春日野から春日山を籠めての広い地域の称。「や」は、疑問。ここに居て、春日はどちらであろうかで、雨に籠もっていて方角を失ったのである。巻三(二八七)「ここにして家やも何処《いづく》」、巻四(五七四)「此所《ここ》に在りて筑紫《つくし》や何処《いづく》」とあって、成句に近いものである。○雨障出でて行かねば 「雨障」は、雨に障害されることで、単に仙籠もっていることにも、雨のために健康を損じることにもいっている。ここは前者。巻四(五一九)に出た。○恋ひつつぞ居る 雨によって試薬することとしてのもの。
【釈】 ここにいて、春日はどの方角であろうか。雨に妨げられて、家を出て行かないので、そこのさまを恋いつついることであ(126)る。
【評】 雨に籠もって、春日の黄葉に憧れつついる心である。張った調べをもって詠んでいるが、その割合に気分が現われていない感がある。綜合力が足りず、気分化ができなかったためと思われる。
1571 春日野《かすがの》に しぐれ零《ふ》る見《み》ゆ 明日《あす》よりは 黄葉《もみち》かざさむ 高円《たかまと》の山《やま》
春日野尓 鍾礼零所見 明日從者 黄葉頭刺牟 高圓乃山
【語釈】 ○明日よりは黄葉かざさむ 「明日よりは」は、今日の時雨に黄葉して、明日からは。「黄葉かざさむ」は、黄葉を、高円の山が挿頭とするであろう。山が花や黄葉を挿頭とするというのは、巻一(三八)柿本人麿の吉野の離宮に行幸の際に詠んだ歌の中にあるものである。○高円の山 春日山の南に、谷を隔てて立っている山で、そのあたりの連山の中の最高峰である。したがって黄葉の早い山である。
【釈】 春日野には時雨の降っているのが見える。明日からは、黄葉を挿頭とするであろう。高円の山は。
【評】 高円の山の黄葉に対するあこがれである。春日野の時雨を見ての連想であるから、「黄葉かざさむ」は相応に飛躍のあるものであるが、自然に感じられる。この歌は気分が統一しており、したがって調べも自然で、それが飛躍を無理ならぬものにする力になってもいる。山が黄葉をかざすということは、人麿には信仰の現われとなっていたのであるが、この歌では単なる興趣となっている。その点、時代の推移の急であったことを思わせる。
(127) 大伴家持の白露の歌一首
1572 吾《わ》が屋戸《やど》の 草花《をばな》が上《うへ》の 白露《しらつゆ》を 消《け》たずて玉《たま》に 貫《ぬ》くものにもが
吾屋戸乃 草花上之 白露乎 不令消而玉尓 貫物尓毛我
【語釈】 ○草花が上の 「をばな」は、旧訓。この用字例は、集中に三か所ある。『古義』は、「草」は集中「かや」に当てており、かやは薄であるといっている。薄はその用途の多い上で、草の代表物の意でこの字を用い、『延喜式』にも用いている。○貫くものにもが 「もが」は、願望。
【釈】 わが家の庭の、尾花の上に置いている白露を、消さずして玉に貫けるものであったらなあ。
【評】 薄の穂に宿っている秋の露は特に美しいものである。「消たずて玉に」と見ほれた心は明らかである。当時の玉に対する愛情はしばしば出た。家持らしいまっすぐな、澄んだ気分である。
大伴|利上《としかみ》の歌一首
【題意】 「利上」は、他には見えず、伝は未詳である。『代匠記』は、「利」は「村」の誤写ではないかといっている。「村上」ならば(一四三六、一四九三)に出た。
1573 秋《あき》の雨《あめ》に ぬれつつ居《を》れば 賤《いや》しけど 吾妹《わぎも》が屋戸《やど》し 念《おも》ほゆるかも
秋之雨尓 所沾乍居者 雖賤 吾妹之屋戸志 所念香聞
【語釈】 ○秋の雨にぬれつつ居れば 雨をしのぐ便もない所を歩いているので。家を遠く離れていた場合と思われる。○賎しけど 「賤しけ」は、後の「賎しけれ」にあたる古格。已然形、しばしば出た。下の「屋戸」の状態をいったもの。○吾妹が屋戸 「屋戸」は、宿。「し」は、強怠。
【釈】 秋雨に濡れながらこうしていると、賤しくはあるが、吾妹が家の思われることであるよ。
【評】 実際に即しての歌である。『略解』は旅での歌だろうといっているが、遠い旅ではなかろう。「賤しけど」といっているのは、儀礼の言葉で、同行の人に対かって、その侘びしさを訴える形で、いたわりをいったものと思われる。実際に即しているがために、おのずから拡がりをもってくる歌である。
(128) 右大臣橘の家にて宴《うたげ》せる歌七首
【題意】 「右大臣橘の家」は、橘諸兄の家を尊んでの称である。この「宴」は、左注によって、天平十年八月と知られる。諸兄が右大臣であったのは、天平十年正月から十五年五月までであった。また諸兄は、京都市綴喜郡井手に別業を営み、井手の右大臣とも称せられた。歌から見るとその別業での宴とみえる。なお、巻六(一〇二四〜二七)の四首は、題詞によってこれと同時のものと知れる。
1574 雲《くも》の上《うへ》に 鳴《な》くなる雁《かり》の 遠《とほ》けども 君《きみ》に逢《あ》はむと たもとほり来《き》つ
雲上尓 鳴奈流雁之 雖遠 君將相跡 手廻來津
【語釈】 ○雲の上に鳴くなる雁の 意味で、「遠」にかかる序詞。○遠けども ここまでの路は速いけれども。井手の別業をさしていると取れる。○君に逢はむとたもとほり来つ 「君」は、主人の諸兄。「たもとほり」は「た」は、接頭語で、「もとほり」は、迂回すること。迂回して来たのは、京から井手までの路の状態を総括していったもので、たやすい路ではなかったことを婉曲にいったもの。
【釈】 雲の上に鳴いている雁の遠い、それに因みある遠い路ではあったが、君に逢おうと思って、迂回して来た。
【評】 宴に対しての挨拶の歌であるが、この歌と次のと二首は作者名がないので、主人の挨拶か、客の挨拶か不明である。歌そのものとして見て、相当に高く地歩を占めていっているものである。結句の「たもとほり来つ」は、「速けども」を受けたもので、路の状態をいったものではあるが、それとしてはある曖昧さを感じさせるものである。ある程度の無埋をして、あるいは都合をつけてというような意味を含ませたものではないかと思われる。一首、おのずから暢びやかに、品が備わっていて、他の人々の作と趣を異にしている。主人諸兄の客のすべてに対する挨拶と思われる。
1575 雲《くも》の上《うへ》に 鳴《な》きつる雁《かり》の 寒《さむ》きなへ 萩《はぎ》の下葉《したば》は 黄変《もみ》ちせむかも
雲上尓 鳴都流鴈乃 寒苗 芽子乃下葉者 黄變可毛
【語釈】 ○鳴きつる雁の寒きなへ 鳴いた雁の声の寒いのに伴って。○萩の下葉は 萩の下葉のほうは。○黄変ちせむかも 訓が定まらない。「黄変」は動詞で、「もみち」に当てた例は上の(一五五一)に出た。助動詞を読み添えるべきであるが、『代匠記』精撰本の訓にしたがう。「か(129)も」は、詠歎。
【釈】 雲の上で鳴いた雁の声の寒いのに伴って、萩の下葉は黄葉するであろうなあ。
【評】 宴席の礼として、興を添えようとして詠んだ歌で、眼前の景を捉えて詠んだものである。おりから雁の声がしたので、それを庭の萩に関連させて、萩が雁の声に催されて黄葉しようといったのである。これは当時の一般感情であるが、「寒きなへ萩の下葉」と続けている点は、その気分の動きの敏活さを思わせられる。一首としても安らかで、品のある歌である。
右の二首。
右二首。
【解】 下にあるべき作者名は、原本になかったか、または脱落したのである。この二首が、他の人々の歌とともに控えとなって諸兄の邸にあったとすれば、なくても不思議はない。編集当時のものであるから、脱落と見るよりそのほうが自然であろう。
1576 この岳《をか》に 小牡鹿《をじか》履《ふ》み起《おこ》し うかねらひ かもかもすらく 君《きみ》故《ゆゑ》にこそ
此岳尓 小壯鹿履起 宇加※[泥/土]良此 可聞可聞爲良久 君故尓許曾
【語釈】 ○この岳に小牡鹿履み起し 「この岳」は、ここの岳で、邸のあたりのもの。「小牡鹿」は、「小」は美称。「履み起し」は、巻六(九二六)に「履み起し」とあり、草木《くさき》の蔭に潜んで臥しているのを、踏み立てて起こす意で、狩り出すことを具象的にいったもの。○うかねらひ 窺狙《うかねら》いで、鹿の様子をうかがいつ狙いつしてで、そのする事がさまざまな意で、下の「かもかも」に続けた序詞。狩猟は代表的な慰みで、おりからその季節に入っていたのである。○かもかもすらく 「かもかも」は、原文「可聞可開」。『代匠記』は、下の「開」は「聞」の誤写としている。後世のああもこうもにあたる古語。「すらく」は、するの名詞形。○君故にこそ 一に君のためにこそあれの意。
【釈】 この岳に牡鹿を踏み起こして狩り出し、うかがい、狙いつしてとやかくする、それに因みある、わがああもこうもしている事は、一に君のためである。
【評】 この人は長門守、諸兄から庇護をこうむっていることを恩に感じ、その恩に酬いようとして平常努力していることを、この宴に連なり得たのを絶好の機会として訴えたものである。序詞は突飛なもののごとくみえるが、そこの場所、季節、また(130)宴会にも関係のあるものとして捉えたものとみえる。地方官ということも関係していよう。宴は私のものであり、客も多くはないので、このような個人的なこともいえたものとみえる。古風な歌で、拙くはないものである。
右の一首は、長門守|巨曾倍《こそべの》朝臣津島。
右一首、長門守巨曾部朝臣津嶋。
【解】 この人は巻六(一〇二四)に出た。奈良朝中期の人。
1577 秋《あき》の野《の》の 草花《をばな》が末《うれ》を 押靡《おしな》べて 来《こ》しくもしるく 逢《あ》へる君《きみ》かも
秋野之 草花我末乎 押靡而 來之久毛知久 相流君可聞
【語釈】 ○草花が末を押靡べて 「草花」は、上の(一五七二)に出た。「押靡べ」は、押し靡けてで、掻き分けて。○来しくもしるく逢へる君かも 「来しく」は、「来し」を名詞形にしたもの。来たこと。「しるく」は、著しくで、その甲斐が著しく。「君」は、諸兄。
【釈】 秋の野の尾花の穂を掻き分けて来たことの甲斐が著しくて、このように逢っている君であるよ。
【評】 この歌は、主人《あるじ》諸兄の第一の作の、「君にあはむと」とあるのに和《こた》える心をもって、我もまた「草花が末を押靡べて来しく」といい、「逢へる君」といって、喜びの心を述べた歌である。儀礼の心のもので、宴席の歌としての要を得たものである。
1578 今朝《けさ》鳴《な》きて 行《ゆ》きし雁《かり》がね 寒《さむ》みかも この野《の》の浅茅《あさぢ》 色《いろ》づきにける
今朝鳴而 行之鴈鳴 寒可聞 此野乃淺茅 色付尓家類
【語釈】 ○寒みかも 寒いせいでかで、「かも」は、疑問の係。
【釈】 今朝鳴いて渡って行った雁の声が寒かったせいなのか、この野の浅茅は色づいてきたことである。
【評】 この歌は、主人諸兄の第二の作、「萩の下葉は黄変ちせむかも」に和えたもので、いわれるところの秋のあわれは、すでに「浅茅」の上には現われているといい、それを合理化するために、諸兄の「鳴きつる雁」を「今朝鳴きて」にしているのである。宴席の歌とはいうが、その席での雰囲気を重んじ、敏感に、微細にわたって気分を交流させていたさまがうかがわれ(131)る。歌が社交上の実用品で、そこに重点のあった消息がうかがわれる。
右の二首は、阿倍朝臣蟲麿。
右二首、阿倍朝臣蟲麿。
【解】 「阿倍蟲麿」は、巻四(六六五)に出た。奈良朝中期の人である。
1579 朝戸《あさと》あけて 物《もの》念《おも》ふ時《とき》に 白露《しらつゆ》の 置《お》ける秋萩《あきはぎ》 見《み》えつつもとな
朝扉開而 物念時尓 白露乃 置有秋芽子 所見喚鷄本名
【語釈】 ○朝戸あけて物念ふ時に 「朝戸」は、朝の戸。上代の戸は開戸《ひらきど》であった。早起きの風習であったから、夜の明け方頃のことと思われる。「物念ふ」は、嘆きの意で、普通恋の上でいっているが、ここはそれではなく、夜明け、夕暮と同じくもの思わしい時としていっているのである。○白露の置ける秋萩 美しくあわれで、もの思いの刺激となる意で捉えたもの。○見えつつもとな 「もとな」は、ここは、よしないの意で、目に付きつつ一段とものを思わせてよしないことだの意。
【釈】 朝戸を開《あ》けて、もの思わしくいる時に、白露の置いている萩の、美しくあわれなのが、一段と心を刺激して由ないことだ。
【評】 これは宴席での歌ではなく、一夜をその邸で明かしての朝の歌である。夜明け方をもの思わしい時とし、白露の宿った萩の花をさらにもの思わしさを誘うものとしているのは、気分を主としてのことである。「もとな」と、物思わしい気分を厭わしいもののようにいっているのは、言薬の上のあやで、作意としてはたのしい気分を反語的にいっているものと解される。
(1580) さ牡鹿《をしか》の 来立《きた》ち鳴《な》く野《の》の 秋萩《あきはぎ》は 露霜《つゆじも》負《お》ひて 散《ち》りにしものを
棹壯鹿之 來立鳴野之 秋芽子者 露霜負而 落去之物乎
【語釈】 ○さ牡鹿の来立ち鳴く野の 「来立ち」は、来てというと同じく、「立ち」は感を強めるためのもの。牡鹿が来て鳴いている野の。○秋萩は 萩の花はで、これは牡鹿の最も愛している妻。○露霜負ひて散りにしものを 「露霜」は、水霜。「負ひて」は、繁く帯びて。「散りにしものを」は、散ってしまったのにで、「を」は詠歎。
(132)【釈】 牡鹿が来て鳴いている野の萩の花は、水じもを繁く帯びて散ってしまったのに。
【評】 萩の花を妻としている牡鹿が、その萩の花が時の移りで散ってしまった野に来て鳴いているさまを、気分としてあらわそうとしているものである。あまりにも既成の気分にすがりすぎているために、具象に力がなく、その気分も微弱なものとなっている。これも宴席での歌ではない。
右の二首は、文忌寸馬養《ふみのいみきうまかひ》。
右二首、文忌寸馬養。
【解】 「文馬養」は、壬申の功臣文意寸禰麿の子で、百済の王仁の子孫である。天平宝字元年鋳銭長官となった人である。
天平十年戊寅秋八月二十日。
天平十年戊寅秋八月廿日。
【解】 この日付は、巻六(一〇二四)にもあるものである。一つに纏まったものを二分し、こちらには季語のあるものを収めている。
橘朝臣奈良麿の結集《けつじふ》せる宴《うたげ》の歌十一首
【題意】 「橘朝臣奈良麿」は、巻六(一〇一〇)に出た。諸兄の長子で、母は藤原不比等の女である。天平宝字元年七月、権臣藤原仲麿を除こうとして乱を起こした人である。終末は明らかでない。邸は歌によると佐保にあった。結集は漢語で、集める意の熟字。橘氏はこの時、宿禰の姓であった。朝臣は天平勝宝二年正月に賜わっているので、後の称で記したのである。
1581 手折《たを》らずて 散《ち》りなば惜《を》しと 我《わ》が念《おも》ひし 秋《あき》の黄葉《もみち》を かざしつるかも
不手折而 落者惜常 我念之 秋黄葉乎 插頭鶴鴨
【語釈】 ○秋の黄葉をかざしつるかも 「かざし」は、冠にさし、あるいは髪に飾ることであるが、これはこの時代には、平生にすることではなく、(133)儀式または宴席の時に限ったこととなっていた。ここも、宴をするということを、この語によってあらわしているのである。「かも」は、詠歎。
【釈】 折り取って愛でずに散って行ったならば惜しいと我が思った秋の黄葉を、今日はこのようにかざしたことであるよ。
【評】 主人の奈良麿が、客に対して挨拶として詠んだ歌である。黄葉を愛で惜しむことを主とした宴ということが、やがて風雅の遊びということだったのである。明るく暢びやかな、宴歌にふさわしいものである。
1582 めづらしき 人《ひと》に見《み》せむと 黄葉《もみちば》を 手折《たを》りぞ我《わ》が来《こ》し 雨《あめ》の零《ふ》らくに
希將見 人尓令見跡 黄葉乎 手折曾我來師 雨零久仁
【語釈】 ○めづらしき 原文「布将見」。『略解』で本居宜長は、「布」は「希」の誤写であるとしたものである。これは用例の多い字である。文字どおり稀れに見る珍重すべきの意のもの。○人に見せむと 「人」は、今日の客で、客をもてなす意。○雨の零らくに 「零らく」は、零るの名詞形。雨の降ることであるのにで、労苦をしての意で、それがやがてもてなしである。
【釈】 珍しい人々に見せようと思って、黄葉を我は折って来たことであるよ。雨の降っていることだのに。
【評】 上の歌に続けてのもので、そちらでは宴を張り得た喜びをいい、これはそれにつけ、客をもてなそうと思って心を尽くしたことをいっているものである。二首、挨拶の歌として要を得た品位ももち得ているものである。
右の二首は、橘朝臣奈良麿。
右二首、橘朝臣奈良麿。
1583 黄葉《もみちば》を 散《ち》らすしぐれに ぬれて来《き》て 君《きみ》が黄葉《もみち》を かざしつるかも
黄葉乎 令落鍾礼尓 所沾而來而 君之黄葉乎 插頭鶴鴨
【語釈】 ○君が黄葉をかざしつるかも 「君が黄葉を」は、上の奈良麿の「手折りぞ我が来し」といっている黄葉。「かざしつるかも」は、同じく奈良麿の初めの結句をそのままに用いたものである。
【釈】 黄葉を散らしている時雨に濡れて釆て、君が心づくしの黄葉をかざしにしたことであるよ。
(134)【評】 主人の挨拶の歌に対して、客としての挨拶をしたものである。その二首を一首に纏めた上に、「黄葉を散らすしぐれにぬれて来て」によって、余所にはすでに黄葉がないのに、この家にのみある心づくしの黄葉という意をも添えている。心細かく、行き届いた歌である。
右の一首は、久米女王《くめのおほきみ》。
右一首、久米女王。
【解】 「久米女王」ほ、系統は詳かでない。続日本紀、天平十七年正月無位から従五位下を賜わっている。
1584 めづらしと 吾《わ》が念《おも》ふ君《きみ》は 秋山《あきやま》の 初黄葉《はつもみちば》に 似《に》てこそありけれ
希將見跡 吾念君者 秋山乃 始黄葉尓 似許曾有家礼
【語釈】 ○めづらしと 原文「布将見」で、上の奈良麿の歌の場合と同じ。
【釈】 珍しいとわが思っている主人の君は、秋山の初黄葉に似ていることである。
【評】 奈良麿の「めづらしき人に見せむと黄葉を」といったのをうけて、それに和える心をもって、めずらしき人とは主人の君であるといい、「黄葉」を「初黄葉」に転じて効果的にしたのである。
右の一首は、長忌寸《ながのいみき》の娘《をとめ》。
右一首、長忌寸娘。
【解】 「娘」は娘子と同じである。伝未詳。
1585 奈良山《ならやま》の 峯《みね》の黄葉《もみちば》 取《と》れば散《ち》る しぐれの雨《あめ》し 間《ま》なく降《ふ》るらし
平山乃 峯之黄葉 取者落 鍾礼能雨師 無間零良志
(135)【語釈】 ○奈良山の峯の黄葉 「黄葉」は、奈良麿の「手折りてぞ来し」といっているもので、それを奈良山のものとしているのは、奈良麿の邸が、それに近いからのことと思われる。○取れば散る 手に取ればすぐに散るで、取るのは挿頭とするためである。○しぐれの雨し間なく降るらし 時雨が絶え間なく降っているのであろうで、「し」は強意。
【釈】 奈良山の峰の黄葉は、挿頭にしようと手に取ると散る。山には時雨の雨が絶え間なく降っているのであろう。
【評】 奈良麿の二首の歌に対しての和えで、黄葉は主人の折ってきた物であることと、挿頚にすることと一つにして、それにつけての連想をいって展開を付けているものである。連想としての奈良の峰の絶え間ない時雨は、美しくさびしいもので宴席の興となりうるものである。
右の一首は、内舎人県犬養《うどねりあがたのいぬかひ》宿禰|吉男《よしを》。
右一首、内舎人縣犬養宿祢吉男。
【解】 「県犬養吉男」は、天平宝字二年従五位下。後、肥前守、上野介、伊予介。県犬養氏は、諸兄の母三千代の家で、親戚である。
1586 黄葉《もみちば》を 散《ち》らまく惜《を》しみ 手折《たを》り来《き》て 今夜《こよひ》かざしつ 何《なに》か念《おも》はむ
黄葉乎 落卷惜見 手折來而 今夜插頭津 何物可將念
【語釈】 ○何か念はむ 何の思うところがあろうかで、心残りのないの意。
【釈】 黄葉の散ることを惜しんで、折って来て、今夜かざしとした。今は何の心残りがあろうか。
【評】 これも主人の二首の歌を一緒にして、それに加えた形のもので、「何か念はむ」は、今夜の宴に深い満足を感じた心である。率直な挨拶の歌である。
右の一首は、県犬養宿禰|持男《もちを》。
右一首、縣犬養宿祢持男。
【解】 「持男」は、伝が未詳である。吉男と近親関係の人であろう。
(136)1587 足引《あしひき》の 山《やま》の黄葉《ももちば》 今夜《こよひ》もか 浮《うか》び去《ゆ》くらむ 山河《やまがは》の瀬《せ》に
足引乃 山之黄葉 今夜毛加 浮去良武 山河之瀬尓
【語釈】 今夜もか浮び去くらむ 今夜のうちにも、散って浮かんでゆくことであろうかで、眼前に見る、脆《もろ》く散るところからの推量。
【釈】 山の黄葉は、今夜にも散って、浮かんで行くことであろうか。山河の瀬に。
【評】 「奈良山の峯の黄葉取れば散る」に繋がりをもった歌である。その歌は「間なく降る」時雨を連想したのであるが、これは「浮び去くらむ山河の瀬に」を連想しているのである。この歌はそれに、「今夜もか」という条件を付けて、眼前との関係を緊密にしている。この点がこの歌の長所である。気分本位の歌であるが、空疎ではなく、その気分を生かし得ているものである。
右の一首は、大伴宿禰|書持《ふみもち》。
右一首、大伴宿祢書持。
【解】 「書持」は上の(一四八〇)巻三(四六三)に出た。家持の弟である。
1588 奈良山《ならやま》を にほはす黄葉《もみち》 手折《たを》り来《き》て 今夜《こよひ》かざしつ 散《ち》らば散《ち》るとも
平山乎 令丹黄葉 手折來而 今夜插頭都 落者雖落
【語釈】 ○にほはす黄葉 「にほはす」は、美しい色にさせる意。○散らば散るとも 散るならば散ってもよいで、「よし」を省略した語。
【釈】 奈良山を美しい色にさせた黄葉を折って釆て、今夜はかざしとした。この上は、散るならば散ってもよい。
【評】 二首前の「何か念はむ」と同想のもので、その夜の宴に十分に満足した意をいって主人に感謝したものである。しかし「奈良山をにほはす黄葉」は、平凡に似て平凡ではないものである。
右の一首は、三手代人名《みてしろのひとな》。
(137) 右一首、三手代人名。
【解】 「三手代」は、氏で、「人名」は、名。この氏は他にも出ている。
1589 露霜《つゆじも》に 逢《あ》へる黄葉《もみち》を 手折《たを》り来《き》て 妹《いも》とかざしつ 後《のち》は散《ち》るとも
露霜尓 逢有黄葉乎 手折來而 妹插頭都 後者落十方
【語釈】 ○露霜に逢へる黄葉を 水霜に逢って深く染まっている黄葉。○妹とかざしつ 「妹」は、男より女に対しての総称であるから、この場合、上の久米女王、長忌寸の娘などをさしているものと取れる。女性とともに黄葉をかざすことを、その宴の興の頂点とする意。○後は散るとも 「後は」は、この宴の後で、後では散ろうとも惜しくはなかろう。
【釈】 霜に逢って深く染まっている黄葉を折って来て、妹とともにかざした。この後は、散ろうとも惜しくはなかろう。
【評】 主人に対して宴の楽しいことをいっているものである。「妹とかざしつ」と、そこに宴の楽しさの頂点を置き、「後は散るとも」と.黄葉の散るを惜しまないことをいっているのは、気分尊重の心をあらわそうとしたものである。
右の一首は、秦|許遍麿《こへまろ》。
右一首、秦許邊麿。
【解】伝未詳。
1590 十月《かみなづき》 しぐれにあへる 黄葉《もみちば》の 吹《ふ》かば散《ち》りなむ 風《かぜ》のまにまに
十月 鍾礼尓相有 黄葉乃 吹者將落 風之隨
【語釈】 ○十月 神嘗月で、新穀を供えて神を祭る月の意かという。これは独立句で、時は十月、という意のもので、下の全体にかかるもの。○吹かば散りなむ風のまにまに 風が吹いたならば散るであろう、その風に任せての意で、広い意味でいっているもの。
【釈】 時は十月、時雨に逢って染まっている黄葉ほ、風が吹いたならば散るであろう。その風に任せて。
(138)【評】 挿頭としている黄葉の散るのを、十月という季節の上に移して、広く十月の季節感をいっているものである。眼前の黄葉とのつながりに置いて、宴歌としての興もあるものであるが、同時にそれより離れようとする気分のあるものである。「十月」に重点を置き、「吹かば散りなむ」とやや奇抜な続け方をしているあたり、場合がら特色のある歌である。漢詩の影響の濃厚なことを思わせられる歌である。
右の一首は、大伴宿禰|池主《いけぬし》。
右一首、大伴宿祢池圭。
【解】 「池主」は、父祖は明らかでない。天平十八年家持が越中守となった時、その掾であった。同二十一年越前掾に転じた。天平勝宝五年左京少進となって京に帰った。天平宝字元年、橘奈良麿が反を謀った時、その事に関与しているが終末は明らかでない。集中に歌二十九首がある。
1591 黄葉《もみちば》の 過《す》ぎまく惜《を》しみ 思《おも》ふどち 遊《あそ》ぶ今夜《こよひ》は あけずもあらぬか
黄葉乃 過麻久惜美 思共 遊今夜者 不開毛有奴香
【語釈】 ○過ぎまく惜しみ 「過ぎまく」は、過ぎむの名詞形で、散り去ること。○あけすもあらぬか 「あらぬか」は、「ぬか」は打消の疑問で、あってくれよの希望。夜が明けずにいないのかなあの意。
【釈】 黄葉の散り去ろうとすることを惜しんで、心合いの者同士の遊んでいる今夜は、明けないでいないのかなあ。
【評】 その夜の宴を喜んでいる心で、事の全体を気分化して捉え、きわめておおらかに詠んでいるものである。これらはすべて作意が限られていて、主人の客を喜ばせようとする心、客の喜ぷ心を、もてなしの黄葉に託していっているもので、歌としての巧拙はむしろ二の次になっているものである。その多くは微細な点を捉えようとしているのに、この歌は反対にきわめておおらかな言い方をしている。これでも十分心はとおるのである。作者の人柄によることである。
右の一首は、内舎人大伴宿禰家持。
右一首、内舎人大伴宿祢家持。
(139) 以前は、冬十月十七日、右大臣橘卿の旧宅に集ひて宴飲せり。
以前、冬十月十七日、集2於右大臣橋卿之舊宅1宴飲也。
【解】 「以前は」は、以上の歌は。「冬十月十七日」は、『新考』は、上の歌に「天平十年戊寅秋八月二十日」とあって、それに続いてのものであるから、同年と認むべきだといっている。年代順に排列しているからである。「旧宅」は上の「橘の家にて宴せる歌七首」(一五七四―八〇)は、諸兄の新築の邸でのことで、それに対して以前の邸を「旧宅」と称していたとみえる。「冬十月」の歌を「秋」に入れているのは、すべて「黄葉」の歌だからである。
大伴坂上郎女、竹田の庄にて作れる歌二首
【解】 「竹田庄」は、巻四(七六〇)に出た。奈良県檀原市東竹田。大伴家の領地である。
1592 然《しか》あらぬ 五百代小田《いほしろをだ》を 刈《か》り乱《みだ》り 田廬《たぶせ》に居《を》れば 京師《みやこ》し念《おも》ほゆ
然不有 五百代小田乎 苅乱 田廬尓居者 京師所念
【語釈】 ○然あらぬ 訓には諸説がある。『代匠記』は、「しかとあらぬ」と訓み、巻五(八九二)「貧窮問答」の「しかとあらぬ鬚かき撫で」を証とし、はかばかしからぬの意としている。『全註釈』は、巻十二(三一四〇)「愛しきやし然ある恋にもありしかも」を証とし、「しかある」という語が存在したとし、ここには「と」にあたる字がないといって上のごとく訓んでいる。さほどでもないの怠。〇五百代小田を 令の制では、三首六十歩を一段とし、一段を五十代とする。拾芥抄では七十二歩を十代とするとある。歩は坪である。五百代をかりに文字どおりに解すと十段である。○刈り乱り 刈り散らしで、秋の収穫期の状態。○田廬に居れば 田中の廬に暮らしておればで、収穫期には領主として監督に出たのである。○京師し念ほゆ 京がなつかしく思われる。
【釈】 さしたるものでもない五百代の田を刈り散らして、田中の廬にくらしていると、京がなつかしく思われる。
【評】 領地に事務を執りに出ている時の感で、心は明らかである。「然あらぬ五百代小田」「田廬」などという語は、「京肺」との対比からいっているもので、もとより誇張があろうが、熟しきった、おちついた語となっていて、郎女の力量を思わせるものである。
(140)1593 隠口《こもりく》の 泊瀬《はつせ》の山《やま》は 色《いろ》づきぬ しぐれの雨《あめ》は 降《ふ》りにけらしも
隱口乃 始瀬山者 色附奴 鍾礼乃雨者 零尓家良思母
【語釈】 ○隠口の泊瀬の山は 「隠口の」は、泊瀬の枕詞。既出。「泊瀬の山」は、桜井市初瀬町および同市旧朝倉村付近の北方の連山の称で、今は竹田庄から望んでいっているもの。
【釈】 泊瀬の山々は色づいてきた。時雨が降ったのであろうよ。
【評】 竹田庄にあって、その辺りの高山である泊瀬の山を望んで、山が黄葉しはじめたのを発見した心である。季節感をいったにすぎない歌であるが、おちついた、老熟した歌で、艶を失っていないところに趣がある。
右は、天平十一年己卯の秋九月に作れる。
右、天平十一年己卯秋九月作。
仏の前の唱歌《さうが》一首
【題意】 事は左注に委しい。仏前で唱えた歌で、仏に供えたものである。神に神楽の歌を供えると同じ心をもってのものと取れる。作者は不明である。
1594 しぐれの雨《あめ》 間《ま》なくな降《ふ》りそ 紅《くれなゐ》に にほへる山《やま》の 散《ち》らまく惜《を》しも
思具礼能雨 無間莫零 紅尓 丹保敝流山之 落卷惜毛
【語釈】 ○間なくな降りそ 絶え間なく降るなと、今降っている時雨に対して命じた形のもの。○紅ににほへる山の 「紅」は、黄葉の色の形容。集中もみじに「紅葉」を当てた例は三つあるのみで、他はすべて「黄葉」であるが、事としては「紅」といっていたのである。「にほへる」は、色の美しいことで、「山」は、山の黄葉の意。○散らまく惜しも 「散らまく」は、「散らむ」の名詞形。
【釈】 しぐれの雨よ、絶え間なくは降るな。くれないに色美しい山の、散ることの惜しさよ。
(141)【評】 さみしく時雨の降っている時に、山全体をくれないにしている美しい黄葉の、そのために散って失せてゆくことを惜しむ心であって、まさにこの時代の秋のあわれの代表的なものである。歌は作者はわからないが、典雅な貴族的なものである。こうした心は、仏も嘉《よみ》みし給うものとして供えているところに、この時代の仏に対する心の一端がうかがわれる。仏に対して、神に対すると同じ心をもっていたことは、後にも出て来るものである。
右は、冬十月、皇后宮《きさきのみや》の維摩講《ゆゐまこう》に、終日《ひねもす》大唐《もろこし》高麗《こま》等の種々の音楽を供養し、爾乃《すなはち》此の歌詞《うた》を唱《うた》ひき。弾琴《ことひき》は市原王、忍坂《おさか》王【後姓を賜へる大原真人赤麿なり。】歌子《うたびと》は田口朝臣|家守《やかもり》、河辺朝臣|東人《あづまひと》、置始《おきそめの》連|長谷《はつせ》等十数人なり。
右、冬十月、皇后宮之維摩講、終日供2養大唐高麗等種々音樂1、尓乃唱2此謌詞1。彈琴者市原王、忍坂王【後賜姓大原真人赤麿也。】謌子者、田口朝臣家守、河邊朝臣東人、置始連長谷等十數人也。
【解】 「皇后官」は、型武天皇の皇后、すなわち光明皇后である。「維摩講」は、法会として維摩経を講ずることで、藤原鎌足が興福寺で始めたものであり、その忌辰に行なうのが例となったのである。七日にわたってするので、十日より十六日までである。「市原王」は、巻三(四二一)に出た。安貴王の子。「忍坂王」は、系統が未詳。天平宝字五年正月、無位より従五位下となっている。「歌子」は、歌人とも書き、歌を謡う人の称である。「田口朝臣家守」は、伝が未詳。「河辺朝臣東人」は、巻六(九七八)左注、上の(一四四〇)に既出。「筐始連長谷」は、伝未詳である。
大伴宿禰|像見《かたみ》の歌一首
【題意】 「大伴像見」は、父祖は詳かでない。奈良末期の人。巻四(六六四)に出た。
1595 秋萩《あきはぎ》の 枝《えだ》もとををに 降《ふ》る露《つゆ》の 消《け》なば消《け》ぬとも 色《いろ》に出《い》でめやも
秋芽子乃 枝毛十尾二 降露乃 消者雖消 色出目八方
【語釈】 ○枝もとををに降る露の 「とをを」は、「たわわ」の古語で、撓《たわ》むまでに。「降る露の」は、他に用例は見えないが、日常語としては用(142)いられていての用字と取れる。感性の上からほありうる語だからである。初句よりこれまでは、その消える意で、「消」の序詞。○消なば消ぬとも 死ぬなら死ぬとも。○色に出でめやも 「色」は、表面。「や」は、反語。
【釈】 萩の花に枝も撓むまでに降る露の消える、その消えに因みある、わが命も消えるなら消えようとも、表面にあらわそうか、あらわしはしない。
【評】 序詞の材料が秋の景物である関係から秋の雑歌に入れてあるが、歌は明らかに相聞である。分類の標準のこの曖昧なのは、序詞に対する見解が異なってきたためと思われる。序詞は本来口誦時代のもので、眼前の景物を捉えることを条件としたものではなかったのであるが、時代が文芸時代となり、序詞の使用が減るとともに、序詞そのものも主として眼前の景物を捉えるものというごとく解されるに至ったためであろう。これは歌を、事とせず気分としようとする傾向に繋がりをもってのことである。
大伴宿禰家持、娘子《をとめ》の門《かど》に到りて作れる歌一首
1596 妹《いも》が家《いへ》の 門田《かどた》を見《み》むと うち出来《でこ》し 情《こころ》もしるく 照《て》る月夜《つくよ》かも
妹家之 門田乎見跡 打出來之 情毛知久 照月夜鴨
【語釈】 ○妹が家の門田を見むと 「妹」は、女に対する総称としてのもので、誰とも知れない。「門田」は、門に続いているところの田。「見むと」は、見ようと思って。秋の稔り田を見ることは、興味あることだとすることが、一般に承認されていて、その上に立ってのこととみえる。○うち出来し情もしるく 「うち出来し」は、「うち」は「出」の接頭語。家を出て、ここまで来たの意。「情もしるく」は、情の甲斐が著しくあって。○照る月夜かも 「月夜」は、月の意のもの。「かも」は、詠歎。
【釈】 妹が家の門田を見ようと思って、家を出て来た、その心の甲斐が著しくあって、このように照っている月よ。
【評】 取材となっているものが「門田」であり、「月夜」であるという理由で秋の雑歌へ入れているが、作意は相聞で、上の歌と同じ扱いをしたものである。「妹が家の門田を見むと」は、明らかに口実で、求婚をしようとしてのことである。「情もしるく照る月夜かも」は、この心は空の月も感応しているものである、妹もわが心を汲め、ということを婉曲に訴えたものである。求婚の歌としてはきわめて生ぬるいものであるが、何事も気分としていおうとする時代的要求に従ってのことである。品位をもって、細かい心をいや味なく言いおおせているもので、若い家持の歌才を思わせるに足るものである。
(143) 大伴宿禰家持の秋の歌三首
1597 秋《あき》の野《の》に 咲《さ》ける秋萩《あきはぎ》 秋風《あきかぜ》に 靡《なび》ける上《うへ》に 秋《あき》の露《つゆ》置《お》けり
秋野尓 開流秋芽子 秋風尓 靡流上尓 秋露置有
【語釈】 略す。
【釈】 秋の野に咲いている萩の花の、秋風に靡いている上に、秋の露が置いている。
【評】 萩の露が、こぼれようとしてこぽれずにいる状態をいうことによって、それに対かっている一種の気分をあらわそうとしているものである。歌は気分で、事象はその気分を具象化するだけのものであるということを、如実に示しているごとき歌である。これは言いかえれば、家持のねらっていた新風の歌の、いかなるものであったかを示すものである。一首説明的で、具象化の拙いものである。「秋」という字を四回まで繰り返しているのは、もとより意識してのことであろうが、説明の感を強める以外のものではない。
1598 さ牡鹿《をしか》の 朝《あさ》立《た》つ野辺《のべ》の 秋萩《あきはぎ》に 玉《たま》と見《み》るまで 置《お》ける白露《しらつゆ》
棹壯鹿之 朝立野邊乃 秋芽子尓 玉跡見左右 置有白露
【語釈】 略す。
【釈】 牡鹿が朝佇んでいる野の萩の花に、玉かと見るまでに置いている白露よ。
【評】 平面的な、動きのない歌である。秋の野の情趣を展開させようとして想像で詠んだものとみえる。「さを鹿の朝立つ野辺の秋萩」は、牡鹿が萩の花を妻どいしての朝を思わせるもので、一つの情趣である。「玉と見るまで置ける白露」は、主として白露の清らかさをいっているものであるが、牡鹿の朝の別れの涙をも思わしめるものである。いずれも立入ってはいわず、余情にとどめているので、いや味には陥らなかったという際どいものである。どちらに中心があるかもしれぬような詠み方をしているので、結局平面的な、働きのないものとなったのである。この歌は気分というよりも情趣をねらったものである。
1599 さを鹿《しか》の 胸別《むなわけ》にかも 秋萩《あきはぎ》の 散《ち》り過《す》ぎにける 盛《さかり》かも去《い》ぬる
(144) 狹尾壯鹿乃 胸別尓可毛 秋芽子乃 散過鷄類 盛可毛行流
【語釈】 ○胸別にかも 「胸別」は、胸で押し別ける意で、鹿の萩原などを歩くことを、具体的にいったもの。「かも」は、疑問の係。○散り過ぎにける 「散り過ぎ」は、散り終わる。○盛かも去ぬる 花の盛りの時期が過ぎ去ったのであるか。
【釈】 牡鹿が胸で押し別けて歩むために、萩の花は散り終えたことであろうか。それとも、花の盛りの時期が過ぎ去ったためであろうか。
【評】 秋の野の萩の花の少なくなったのに対して、その理由を思った心で、そのためか、またはこのためかと、二つの凝間を設けて一首にしたもので、古くよりある型である。巻一(四四)「吾妹子をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも」を初めとして、他にもあるものである。大体謡い物系統の昂揚した心を詠むに適した型とみえるのに、この歌は自然な、平淡なものにしている。「さを鹿の胸別にかも」は新味のあるものである。
右は、天平十五年癸未秋八月、物の色を見て作れる。
右、天平十五年葵未秋八月、見2物色1作。
【解】 「天平十五年」には、家持は二十六歳であった。「物の色」は、風物と同意の語である。第三首目は実景からの連想とみえるが、第一、第二の歌は想像と選ぶところのない境を扱ったものである。これを実景の作とすれば、家持がいかに気分化に力点を置いたかを示しているものである。
内舎人石川朝臣|広成《ひろなり》の歌二首
【題意】 「広成」は、奈良朝末期の人。巻四(六九六)に出た。
1600 妻恋《つまごひ》に 鹿《か》鳴《な》く山辺《やまべ》の 秋萩《あきはぎ》は 露霜《つゆじも》寒《さむ》み 盛《さかり》過《す》ぎゆく
妻戀尓 鹿鳴山邊之 萩芽子者 露霜寒 盛須疑由君
【語釈】 ○鹿鳴く山辺の 「鹿」は旧訓「しか」を、『略解』は本居宜長の説として「か」と改めている。鹿を「か」の音に当てたのがあり、調べ(145)の上からもそういったとみえる。用例は少なくない。
【釈】 妻恋いをして牡鹿が鳴く山辺にある萩の花は、水霜が寒いので、盛りが過ぎてゆく。
【評】 牡鹿と萩の花とに、直接なつながりは付けてはいないが、取合わせはしてあり、また萩の花も衰え方のものを捉えているので、情趣的にしようとする心は働いている。しかし全体として見ると、秋の山辺の風光を直写しようとしているもので、古風な詠み方の脈を引いている歌である。やすらかに統一されていて、相応な趣のある歌である。
1601 めづらしき 君《きみ》が家《いへ》なる はなすすき 穂《ほ》に出《い》づる秋《あき》の 過《す》ぐらく惜《を》しも
目頬布 君之家有 波奈須爲寸 穗出秋乃 過良久惜母
【語釈】 ○めづらしき君が家なる 「めづらしき」は、親愛なるというにあたる。「家なる」は、家にある。○はなすすき 薄の穂を花と見て、褒めていっている称で、この称は集中ここのみで、他はすべて「はた薄」である。「はた」は幡で、穂のさまを旗に似ているとしての称である。後世はすべて花薄となった。○穂に出づる秋の過ぐらく惜しも 薄が穂を出す秋の過ぎてゆくことの惜しさよで、「過ぐらく」は「過ぐる」の名詞形。
【釈】 親愛なる君の家にある花薄の、このように穂と出る秋の季節の過ぎてゆくことの惜しさよ。
【評】 「君」というのは友で、秋その家を訪い、おりから庭にある薄の出穂の美しさを讃えたもので、挨拶の歌である。尾花を愛した歌はしばしば出ており、この時代の好尚となっていたことが知られるが、この歌は「はなすすき」という称で呼び、さらに「穂に出づる秋」といって、それが秋の代表物であるがごとくいっているのは、特異なことである。薄がこのように酷愛されたのは、あるいは薄が代表的に生活に関係深い草であるということを通して、愛も深まったのではないかとも思われる。
大伴宿禰家持の鹿の鳴《ね》の歌二首
1602 山《やま》びこの 相響《あひとよ》むまで 妻恋《つまご》ひに 鹿《か》鳴《な》く山辺《やまべ》に 独《ひとり》のみして
山妣姑乃 相響左右 妻戀尓 鹿鳴山邊尓 獨耳爲手
【語釈】 ○山びこの相響むまで 山彦が反響するまでに高く。○妻恋ひに鹿鳴く山辺に 「鹿鳴く」は、「鹿《か》」は『略解』の訓。「山辺」は、左注(146)によると天平十五年で、山城国恭仁への遷都は天平十三年だったので、恭仁京でのことである。その京には家持は妻を伴って乗ず、旧都の奈良に残していたのである。○独のみして ただ独りのみで。下に「あり」が略されている。
【釈】 山彦が反響するまでに高く、妻恋いをして牡鹿の鳴く山辺に、我は独りでだけ居て。
【評】 妻と逢い難い地に離れ住んでいて、さみしい秋の頃、鹿の妻恋いに高鳴きをする声に、妻恋しい情を刺激されての嘆きである。自身の妻恋しさは余情としているが、十分に感じられる歌である。それはこの歌は実感の直写で、調べもそれにふさわしく張ったもので、気分を重んじるというようなことを超えたものだからである。さらにいうと、対他的の意識を離れ、単に心やりとして詠む場合には、実感の直写という古風な詠み方に立ち帰ったのである。正直な、生一本の心の現われた歌である。
1603 この頃《ごろ》の 朝《あさ》けに聞《き》けば あしひきの 山《やま》呼《よ》び響《とよ》め さ牡鹿《をしか》鳴《な》くも
頃者之 朝開尓聞者 足日木箆 山呼令響 狭尾壯鹿鳴喪
【語釈】 ○この頃の朝けに聞けば 「朝け」は、朝明けで、夜明け方の心さみしく感じられる時。○山呼び響め 山に呼びかけ響かせてで、その声の甚だ高い意。
【釈】 この頃の夜明け方に聞くと、山に呼びかけ響かせて、牡鹿が鳴くことよ。
【評】 この歌は、その境も心も上の歌と同じもので、その心を深めたものである。上の歌は、「妻恋ひに鹿鳴く」と説明的な語を添えているのであるが、この歌は、それはいうまでもないこととして省き、他方、鹿の鳴く声のほうを強調して、「山呼び響め」といっているのである。しかしそれを、「この頃の朝け」のこととして、連続してのこととしているのである。これはその妻に久しく逢わない嘆きを代弁させているもので、暗示であり、気分である。上の歌は古風であるが、これは新風である。この気分は上にしばしば出た気分本位の歌とは趣を異にしている。それらの歌は気分の歌にしようと意図し、そのために実感からある程度の遊離を敢えてしたのであるが、この歌は実感を徹底させ、深化させるために、実感に即しながら気分化したものだからである。一見、空疎に近いがごとくみえるが、鹿の鳴くのは妻恋いをするのだということが常識になっていたことを思うと、充実した、歌品の高い作である。
右の二首は、天平十五年癸未八月十六日に作れる。
(147) 右二首、天平十五年癸未八月十六日作。
大原真人|今城《いまき》、寧楽《なら》の故郷《ふるさと》を傷み惜しむ歌一首
【題意】 「大原今城」は、前の今城王で、大原真人の姓を賜わった人で、奈良朝末期の人。巻四(五三七)に出た
1604 秋《あき》されば 春日《かすが》の山《やま》の 黄葉《もみち》見《み》る 寧楽《なら》の京師《みやこ》の 荒《あ》るらく惜《を》しも
秋去者 春日山之 黄葉見流 寧樂乃京師乃 荒良久惜毛
【語釈】 ○黄葉見る 「見る」は、連体形で、下へ続く。○荒るらく惜しも 「荒るらく」は、「荒るる」の名詞形。荒廃する意。「も」は詠歎。
【釈】 秋が来ると、春日の山の黄葉を見る奈良京の、荒れてゆくことの惜しいことよ。
【評】 年代順に排列している歌で、「天平十五年」に続くものであるから、新京の恭仁京に在って、故郷としての奈良を思った心のものである。奈良京は、京として前古未曾有の完備したものであったので、その荒廃してゆくさまを見ることは、当時の人としてはきわめて感深いものであったろう。この歌はその故京を惜しむ心を「秋されば春日の山の黄葉見る」ということであらわしているのである。これは当時の好尚に従っていっていることではあるが、事の性質上、このようにいうより他なかったことだろうと思われる。奈良京師の綜合感が、さみしさを通して現われているよい作である。
大伴宿禰家持の歌一首
1605 高円《たかまと》の 野辺《のべ》の秋萩《あきはぎ》 このごろの 暁露《あかときつゆ》に 咲《さ》きにけむかも
高圓之 野邊乃秋芽子 此日之 曉露尓 開兼可聞
【語釈】 ○このごろの暁露に 「暁露」は、明け方の露で、露の最も印象的な時として、感性で捉えた語。巻二(一〇五)に出た。○咲きにけむかも 萩の花を露のために咲くものとして思いやっていったもの。
【釈】 高円の野の萩の花は、この頃の繁くも置く明け方の露のために、咲いたであろうか。
(148)【評】 これも上の歌と同じく、奈良の故京を思いやったもので、恭仁京に在っての心である。この歌は、奈良の故京の荒廃ということには全く触れず、なつかしいものとして高円の野の萩の花を思いやったもので、「このごろの暁露に」が、思慕の情を具象して味わいあらしめている。よい抒情である。
秋相聞《あきのさうもん》
額田王、近江天皇を思ひて作れる歌一首
1606 君《きみ》待《ま》つと 吾《わ》が恋《こ》ひ居《を》れば 我《わ》が屋戸《やど》の 簾《すだれ》動《うご》かし 秋《あき》の風《かぜ》吹《ふ》く
君待跡 吾戀居者 我屋戸乃 簾令動 秋之風吹
【解】 この歌は、巻四(四八八)に、題詞も歌も全く同じものが出ている。重出である。
鏡王女の作れる歌一首
1607 風《kぜ》をだに 恋《こ》ふるはともし 風《かぜ》をだに 来《こ》むとし待《ま》たば 何《なに》か嘆《なげ》かむ
風乎谷 戀者乏 風乎谷 將來常思待者 何如將嘆
【解】 この歌は、この順序で、巻四(四八九)に出て居り、同じく重出である。
弓削皇子の御歌一首
【題意】 「弓削皇子」は、上の(一四六七)に出た。
1608 秋萩《あきはぎ》の 上《うへ》に置《お》きたる 白露《しらつゆ》の 消《け》かもしなまし 恋《こ》ひつつあらずは
秋芽子之 上尓置有 白露乃 消可毛思奈萬思 戀管不有者
【語釈】 ○秋萩の上に置きたる白露の 「消」にかかる序詞。既出。○消かもしなまし 「消」は、死の意。「かも」は、疑問。「まし」は、仮説の帰結で、できるならばそうしようの意。死んでしまうべきであったろうか。○恋ひつつあらずは 「つつ」は、継続。「あらずは」は、巻二(八六)に出た。このように恋い続けていずに。
【釈】 萩の花の上に置いている露の消える、それに因む、我も死んでしまうべきであったろうか。このように恋い続けていずに。
【評】 これは類想の多い謌で、古歌とされている巻十(二二五四)は、この歌と一音も異ならないものであり、また同巻(二二五六)は、「秋の穂をしのに押し靡《な》べ置く露の消《け》かもしなまし恋ひつつあらずは」。同じく(二二五八)は、「秋萩の枝もとををに置く露の消《け》かもしなまし恋ひつつあらずは」で、ただ序詞の露の置き所、状態がいささか異なっているにすぎないのである。この酷似した類歌の多いということは謡い物の性格である。こうした恋の上の悩みは、当時の結婚にあっては一般的のことであり、また第三句までを序詞とし、その素朴を美しく、その調子を流暢なものとしていることも、いずれも謡い物の性格をあらわしていることである。この歌も、何らかの経路で、謡い物であったものが皇子の歌として伝えられるに至ったのではないかと疑われる。巻十の歌は古歌とはいっても、謡い物の性格として絶えず流動し、新しい時代の調子に変わった時に記録されるということはありうることであるから、新古の差別は明らかに付け難いものである。したがってこの歌に、古歌にはふさわしくない気分化と美しさのあるということも、それをもって新風の証とはし難いといえる。
丹比真人の歌一首 名闕く
【題意】 「丹比真人」は、氏と姓で、名は脱している。これと同じ形の題詞が、巻二(二二六)にあり、また巻九(一七二六)にもある。年代順に排列しているのであるから、編集者にはこれで足りる人ではなかったかと思われる。今では誰ともわからない。
1609 宇陀《うだ》の野《の》の 秋萩《あきはぎ》しのぎ 鳴《な》く鹿《しか》も 妻《つま》に恋《こ》ふらく 我《われ》には益《ま》さじ
宇陀乃野之 秋芽子師弩藝 鳴鹿毛 妻尓戀樂苦 我者不益
【語釈】 ○宇陀の野の秋萩しのぎ 「宇陀の野」は、大和国宇陀郡、今の榛原町大宇陀町付近の野。巻二(一九一)日並皇子尊の舎人の歌に、「毛《け》ごろもをとき片設《かたま》けて幸《いでま》しし宇陀の大野は思ほえむかも」があり、この野は皇子尊の御狩場だったのである。狩場ということは猪鹿が多いからのことで、その意味で聞こえた野であったと取れる。「しのぎ」は、凌駕で、押分けて。○鳴く鹿も 鳴くのは妻恋いのため。○妻に恋ふらく (150)「恋ふらく」は、「恋ふ」の名詞形。
【釈】 宇陀の野に萩の花を押し分け歩いて鳴いている鹿も、妻に恋うことは、我にはまさるまい。
【評】 秋、萩の花の咲く頃、妻恋いをする牡鹿を比較にして、女に訴えたものである。「宇陀の野」は女に関係のある地か、あるいは鹿の多い野として想像で捉えたものかわからない。一首の調べが張って強く、実情と思わせるものがある。古風な歌である。
丹生《にふの》女王、大宰帥大伴卿に贈れる敬一首
【題意】 「丹生女王」は、系統は未詳である。「大伴卿」は、旅人で、同じ題詞が巻四(五五三−四)に出た。大宰府へ贈ったものである。
1610 高円《たかまと》の 秋野《あきの》の上《うへ》の 瞿麦《なでしこ》の花《はな》 うらわかみ 人《ひと》のかざしし 瞿麦《なでしこ》の花《はな》
高圓之 秋野上乃 瞿麥之花 丁壯香見 人之插頭師 瞿麥之花
【語釈】 ○秋野の上の瞿麦の花 「秋野の上」の「上」は、ここは、その土地をさしていっているもの。○うらわかみ 『新訓』の訓。年若い時に。○人のかざしし 「人」は、旅人。「かざしし」は、ここは愛ではやしてした意。
【釈】 高円の秋の野に咲く瞿麦の花よ。若い時に君が挿頭とした瞿麦の花よ。
【評】 秋、何らかの幸便のあった際、京の女王から大宰府の旅人へ瞿麦に添えて贈った歌である。表面は、淡い風雅の消息であるが、女王と旅人とは若い時関係があって、老の心からそれを思い出して、それとなき懐かしみの惰を寄せたものと思われる。その意味からは瞿麦の花は女王自身を思い寄せたものと取れる。古風な旋頭歌にしたのもその心にふさわしい。
笠縫《かさぬひの》女王の歌一首 【六人部王の女、母を田形皇女と曰ふ】
【題意】 「六人部王」は、系統未詳。巻一(六八)に身人部王と出た人であろう。神亀元年正四位上。天平元年正四位上で卒した。「田形皇女」は、天武天皇の皇女で、穂積皇子、紀皇女の同母妹、神亀元年二品、神亀五年に薨じた。
(151)1612 あしひきの 山下《やました》響《とよ》み 鳴《な》く鹿《しか》の 言《こと》乏《とも》しかも 吾《わ》が情《こころ》づま
足日木乃 山下響 鳴鹿之 事乏可母 吾情都末
【語釈】 ○あしひきの山下響み鳴く鹿の 「山下」は、山の木の下陰に。「響み」は、響いてで、高く鳴く意。「鳴く鹿の」は、叙述として「言」に接したもの。以上三句は、形としては序詞に似ているが、秋の眼前を叙したものである。○言乏しかも 「乏し」は、羨し。上に接して、鹿の言の羨ましいことであるよ。鹿の鳴くのは妻恋いであるとしているところから、その声を、その意の言と聞いてのことである。「乏し」の終止形から「かも」に続けた古格。○吾が情づま 「吾が」は、親しんで添えたもの。「情づま」は、心中で思っている夫で、呼びかけ。
【釈】 山の木の下陰に響いて鳴いている鹿の、その言葉の羨ましいことであるよ。わが心中の夫よ。
【評】 女王が、忍んで関係している人で、疎遠にしている人のもとへ、疎遠を恨んで贈った歌である。初句より三句までは女王の住所のあたりの状態で、牡鹿の高く鳴くのを、はげしく妻恋いをしているのだと聞き、自身に引き当てて甚だ羨ましく感じたといい、それを訴えにしているのである。鹿の鳴く声を言と聞くのは、気分としては格別なことではなく、むしろ自然といえる。多少の無理はあっても、それは心を婉曲に、いやしくなくあらわそうとする要求からのことで、用意をもってのものである。「吾が情づま」も同じ用意よりのものである。一首、含みがあり、立体味をもった訴えで、上品な歌である。
石川|賀係女郎《かけのをみな》の歌一首
【題意】 伝が不明である。「賀係」は氏か、または名か知れない。
1612 神《かむ》さぶと 不許《いな》にはあらず 秋草《あきくさ》の 結《むす》びし紐《ひも》を 解《と》くは悲《かな》しも
神佐夫等 不許者不有 秋草乃 結之紐乎 解者悲喪
【語釈】 ○神さぷと不許にはあらず 「神さぶ」は、神にふさわしいさまをされる意であるが、転じて、物の古くなったことにもいう。ここは年老いた意。年老いたからとて。「不許にはあらず」は、否と拒むのではない。○秋草の結びし紐を 「秋草の」は、眼前の物で、秋草は風のために絡まり結ばれている意で、「結び」にかかる枕詞。用例のないものである。「結びし紐」の「紐」は、衣服の紐で、平常結びも解きもする物であるが、ここは男女関係の上でいっているもので、男には逢うまいと思って結んだ紐の意。○解くは悲しも 「解く」は男に逢う意で、それは不本意で悲(152)しい。「も」は詠歎。
【釈】 わが年が老いたからとて、君を嫌って拒むのではない。男には逢うまいと思って結んだ紐を解くのは悲しいことであるよ。
【評】 男に許そうとして、やや年した女の、平生の衷情を訴えた歌である。「神さぷと不許にはあらず」は、巻四(七六二)紀女郎の歌にもあり、成句のごとくなっていたものである。「秋草の結びし紐を解くは悲しも」は、否まんとして否み得ざる嘆きで、独身でいる中年の女を連想させる沈痛味に近いものがある。
賀茂《かも》女王の歌一首 【長屋王の女、母を阿倍朝臣と曰ふ。】
【願意】 「賀茂女王」は、巻四(五五六)に出た。伝は、この小字の注が、知られうる全部である。
1613 秋《あき》の野《の》を 朝《あさ》行《ゆ》く鹿《しか》の 跡《あと》もなく 念《おも》ひし君《きみ》に あへる今夜《こよひ》か
秋野乎 旦徃鹿乃 跡毛奈久 念之君尓 相有今夜香
【語釈】 ○秋の野を朝行く鹿の その足跡の意で、「跡」と続き、その序詞となっているもの。○跡もなく念ひし君に 「跡もなく」は、夫婦関係は結んだが、それきりで、後が全く絶えてしまっていた君に。○あへる今夜か 「か」は、詠歎で、喜びをあらわしたもの。
【釈】 秋の野を朝に歩みゆく鹿の足跡の、そのあとの全く絶えてしまったと思っていた君に、思わずも逢う今夜ではあるよ。
【評】 当時の夫婦関係にあっては、この歌のような状態が稀れなものではなかったろうと思われる。序詞がその季節をあらわすとともに、きわめて自然で、また気分のつながりをもったものてある上に「朝」と「今夜」の照応もあって、全体の上に大きく働いている。一首、おおらかで、気品のある歌である。
右の歌は、或は云ふ、椋橋部《くらはしべ》女王の作れりと。或は云ふ、笠縫女王の作れりと。
右謌、或云、椋橋部女王作。或云、笠縫女王作。
【解】 「椋橋部女王」は、巻三(四四一)長屋王のために挽歌を作っていられる一人である。「笠縫女王」は、上の(一六一一)に出た。
(153) 遠江守|桜井《さくらゐの》王、天皇に奉れる歌一首
【題意】 「桜井王」は、天武天皇の曾孫、長皇子の孫、河内王の子で、奈良朝中期の人。和銅七年無位から従五位下を授けられ、天平三年には従四位下となった。天平十六年には大原真人桜井となり恭仁宮の留守をしているので、天平十一年に兄の高安王が大原真人の姓を賜わった頃、この人も姓を賜わり、臣籍に下ったのであろう。「天皇」は、聖武天皇。
1614 九月《ながつき》の その初雁《はつかり》の 使《つかひ》にも 念《おも》ふ心《こころ》は 聞《きこ》え来《こ》ぬかも
九月之 其始鴈乃 便尓毛 念心者 所聞來奴鴨
【語釈】 〇九月のその初雁の 「その」は、九月を繰り返して初惟を強めたもの。「初雁」は、初めて渡って来る雁で、待っているものとしていっている。○便にも 「使」は、上の「雁」に続き、雁の使の意のもの。上代交通の不便な時は、空を自由に渡るものを羨み、それを使としようとした。雲や鳥、雨までも使とする歌がある。雁の使はその延長で、『漢書』の前漢の蘇武の故事より出たものである。「使にも」は、その使にさえも。○念ふ心は聞え来ぬかも 「念ふ心」は、天皇の王を思いたまう心は。「聞え来ぬかも」は、聞こえて来ないか、来よかしと希望する語法。「聞え」の原文は諸本「可聞」であるが『代匠記』によって「所聞」の誤りとするのに従う。
【釈】 九月のその初雁の便にも、大君の我をお思いになる心は、聞こえて来ないのかなあ。
【評】 「九月のその初推の便にも」は、秋の季節になって、京から何らかの命のある時と待っていた意を、雅《みや》びやかに言いかえたもので、「初雁」に、その時を憧れ待っていた意を寄せたもの。「念ふ心は聞え来ぬかも」は、天皇のわれを念としたもうてのお沙汰がない嘆きで、多分地方官より京官に召し上げ給う意であろう。平安朝時代の叙任の日の奏文にあたる歌と思われる。それは次の報和の御歌と相俟って知られる。それとしてはじつにおおらかで、気品が保たれていて、いささかのいや味もない。当時の君臣間がうかがわれる。
天皇の賜へる報和《みこたへ》の御歌一首
1615 大《おほ》の浦《うら》の その長浜《ながはま》に 寄《よ》する浪《なみ》 寛《ゆた》けき公《きみ》を 念《おも》ふこの頃《ころ》 【大の浦は遠江国の海浜の名なり。】
大乃浦之 其長濱尓 縁流浪 寛公乎 念比日 【大浦者遠江國之海濱名也】
(154)【語釈】 ○大の浦のその長浜に寄する浪 「大の浦」は、『和名類聚抄』の、遠江《とおとうみ》国の郷名に、飲宝とある所で、今の磐田市の南方にあたる地という(旧於保村は、今福田町と磐田市とに入る)。「長浜」は、長い浜。「寄する浪」は、その浪の豊かな意で、「寛けき」にかかり、初句より三句まではその序詞。○寛けき公を念ふこの頃 「寛けき公」は、ゆったりとしている公で、王の風格を愛でられたもの。「念ふこの頃」は、念っているこの頃であるよというので、「この頃」は、王のいう「九月」と関係のあるもの。
【釈】 大の浦のその長浜に寄せている浪に因みある、ゆったりしている君を思っているこの頃であるよ。
【評】 「寛けき公を念ふこの頃」は、地方官として長く忍耐していた君を思っているこの頃であるで、王のいうところは心にかけているとの意である。贈歌によく照応させて、「その初雁」に対して「その長浜」といい、「念ふ心は聞え来ぬかも」に、「念ふこの頃」と照応させているのであるが、全体として言葉少なく、含みを多くした高貴な物言いである。一首の姿の暢びやかに豊かなところは、皇室に伝わる歌風とも称すべき特殊なものである。
笠女郎《かさのをとめ》、大伴宿禰家持に贈れる歌一首
【題意】 「笠女郎」は、巻三(三九五)及び上の(一四五一)に出た。
1616 朝毎《あさごと》に 吾《わ》が見《み》る屋戸《やど》の 瞿麦《なでしこ》の 花《はな》にも君《きみ》は ありこせぬかも
毎朝 吾見屋戸乃 瞿麥之 花尓毛君波 有許世奴香裳
【語釈】 ○花にも君はありこせぬかも 「花にも」の「も」は、詠歎。「ありこせぬかも」は、「こせ」は希求の意、上の(一四三七)に出た。「ぬかも」は願望。あってくれぬか、あってくれよの希望である。しばしば出た。
【釈】 朝ごとにわが見る庭の、その瞿麦の花で君はあってくれぬか、あってほしい。
【評】 疎遠にして逢いに釆ない家持に、甘え気分で訴えた歌である。女郎の歌としては平凡なものであるが、三句以下は、まつわりつくがごとき調べをもっている。
山口女王、大伴宿禰家持に贈れる歌一首
【題意】 「山口女王」は、伝未詳。巻四(六一三)に出た。
(155)1617 秋萩《あきはぎ》に 置《お》きたる露《つゆ》の 風《かぜ》吹《ふ》きて 落《お》つる涙《なみだ》は 留《とど》めかねつも
秋芽子尓 置有露乃 風吹而 落涙者 留不勝都毛
【語釈】 ○秋萩に置きたる露の風吹きて 「落つる」と続いて、三句まではその序詞。○落つる涙は留めかねつも 「落つる涙」は、家持を思ってのもの。「は」は、強め。「留めかねつ」は、「留む」は、四段にも、下二段にも活用した語。とどめ得られなかったで、「も」は詠歎。
【釈】 萩の花に置いている露の、風が吹いて落ちる、それに因みある、我の君を思って落ちる涙は、とどめ得られなかったことよ。
【評】 家持の疎遠にするのを嘆いた歌である。「秋萩に置きたる露の風吹きて」は、眼前の光景を捉えて序詞にしたのであるが、序詞にしたということが、事とせずに気分としようとしたことなので、おのずからに拡がりをもち、「露」と「涙」と別物ではなく、一体の物のごとくに感じさせる結果となっている。したがって歌柄が細くなって来ているが、抒情気分は十分にとおったものとなっている。当時の新風である。
湯原王の娘子《をとめ》に贈れる歌一首
【題意】 「湯原王」は巻三(三七五)、上の(一五四四)にも出た。「娘子」は、誰ともわからないが、巻四(六三一)以下、王と多くの贈答をした娘子がある。それと同人ではないかと思われる。
1618 玉《たま》に貫《ぬ》き 消《け》たず賜《たば》らむ 秋萩《あきはぎ》の うれわわら葉《ば》に 置《お》ける白露《しらつゆ》
玉尓貫 不令消賜良牟 秋芽子乃 宇礼和々良葉尓 置有白露
【語釈】 ○玉に貫き消たず賜らむ 「玉に貫き」は、玉として緒に貫いてで、下の「白露」をいったもの。「消たず」は、消さずしてで、「ず」は連用形。「賜らむ」は、「たまはらむ」で、くれよの意の敬語で、女に対してのもの。○秋萩のうれわわら葉に 「秋萩」は、花の咲いている萩。「うれ」は、末で、枝の先端。「わわら葉」は、ここにあるだけで、他に用例の見えない語で、不明である。巻五(八九二)に「海松《みる》の如《ごと》わわけさがれる」の布のちぎれた状態をいう「わわけ」と同語ではないかという。それだと萩の枝の先の葉の、まばらに見えるのをいう称と取れる。そうした葉には朝露は、大きな玉に結び、したがって美しい。
(156)【釈】 玉として緒に貫いていただきましょう。秋萩の枝の、先のわわら葉に宿していた白露を。
【評】 王が娘子とともに朝、繁く露を宿している萩を見ていた時に、口頭の語に代えて詠みかけた歌であろう。「うれわわら葉に置ける白露」は、わわら葉が不明であるが、かりに疎らな葉とすると、その時の露のうち、最も大きく最も美しいものだったので玉を連想して、戯れの形で娘子にいったのであろう。形は戯れであるが、心ほ朝露の美しさを愛でた、本気なものである。いうような意味だとするとこの四、五句は、鋭敏な王の感情と、修辞の巧みさを示しているものである。
大伴家持、姑《をば》の坂上郎女の竹田庄に至りて作れる歌一首
【題意】 「姑」は、叔母にも、妻の母にもいった称である。ここは後者と取れる。「竹田庄」は、巻四(七六〇)、上の(一五九二)に出た。郎女は例の秋の収穫期でそこへ行って逗留していたので、大嬢もー緒に伴っていたことが、後の歌で知られる。
1619 玉桙《たまぼこ》の 道《みち》は遠《とほ》けど はしきやし 妹《いも》を相見《あひみ》に 出《い》でてぞ吾《わ》が来《こ》し
玉桙乃 道者雖遠 愛哉師 妹乎相見尓 出而曾吾來之
【語釈】 ○玉桙の道は遠けど 「玉桙の」は、道の枕詞。「道は遠けど」は、奈良から竹田庄まではいくばくの距離もないが、労をいうのは、思う心の深さをあらわすことだったからである。○はしきやし妹を相見に 「はしきやし」は、いとしい。「妹を相見に」は、妻に逢いに。○出でてぞ吾が来し 家を出て来たことであるよと、強くいったもの。
【釈】 道は遠いけれども、いとしい妹に逢いに出て来たことであるよ。
【評】 妹の家を訪れた際の挨拶の歌で、型となっている儀礼である。「玉桙の道は遠けど」も、型の範囲のものである。『代匠記』は、この歌には秋に関するものがないので、秋相聞に収めるのは不適当だといっている。しかし左注には「秋八月」とあって、作ったのは秋なので、それによってこの部へ収めたとみえる。これは分類の標準を、歌そのもののみに置かず、作った時をも関係させているということで、歌とともに実際をも重んじたことなのである。実際を重視した時代精神の反映といえることである。
大伴坂上郎女の和ふる歌一首
(157)1620 荒玉《あらたま》の 月《つき》立《た》つまでに 来《き》まさねば 夢《いめ》にし見《み》つつ 思《おも》ひぞ吾《わ》がせし
荒玉之 月立左右二 來不益者 夢西見乍 思曾吾勢思
【語釈】 ○荒玉の月立つまでに 「荒玉の」は、年にかかる枕詞であるが、これは月に転じさせたもの。「月立つまでに」は、月が改まるまでもで、月を越して匆々《そうそう》の訪問だったとみえる。すなわち月のかわるまでに。○来まさねば 「来ねば」の敬語。○夢にし見つつ 「し」は強意。「つつ」は継続。夢に見るのは、先方がこちらを思うゆえにも見、こちらが先方を思うゆえにも見るものとしていた。ここは後者である。○思ひぞ吾がせし 恋しく思いつづけていたことであった。
【釈】 月の改まるまでいらっしゃらないので、夢に見つづけて恋しく思っていたことであるよ。
【評】 家持の歌は大嬢に対して詠んだのであるが、母の郎女が代わって和えたのだとみえる。こうした儀礼の歌は、誰であってもよかったのである。初句より四句までも心細かな物言いをしている上に、家持の結句の「出でてぞ吾が来し」に対させて、「思ひぞ吾がせし」と同型を用いているところ、郎女を思わせるものがある。
右の二首は、天平十一年己卯八月に作れる。
右二首、天平十一年己卯秋八月作。
巫部麻蘇娘子《かむなぎべのまそのをとめ》の歌一首
【題意】 「巫部麻蘇娘子」は伝未詳。巻四(七〇三)、上の(一五六二)に出た。
1621 吾《わ》が屋前《やど》の 萩《はぎ》の花《はな》咲《さ》けり 見《み》に来《き》ませ 今《いま》二日《ふつか》ばかり あらば散《ち》りなむ
吾屋前之 芽子花咲有 見來益 今二日許 有者將落
【語釈】 略す。
【釈】 わが家の庭の萩の花が咲いている。見にいらっしゃい。今二日はどしたならば、散ってしまいましょう。
(158)【評】 だれに贈った歌ともないが、上の(一五六二−三)は、家持と贈答した歌のあるところから見て、家持に贈って来たものであろう。不注意から落としたのか、故意に略したかのいずれかである。この歌は、この当時としては特色のあるものである。それはいっていることが、あくまで実際に即している上に、その言い方が、日常の用足しの言い方と全く同一であることで、この言い方がことに注意されるのである。上代の歌はすべて実際に即したもので、大体この歌と同じものであったが、それにしても謡い物としての要素を多分にもっていた。この歌は謡い物の要素の少ないもので、日常語と多く異ならないものである。言いかえれば、上代の実用性を主にした歌風が、そのままに著しく散文化した形のものである。この当時の新風の歌の間に、一面にはこうした新風が行なわれていたということは、歌というものの性格を語っていることといえる。
大伴田村大嬢、妹坂上大嬢に与ふる歌二首
1622 吾《わ》が屋戸《やど》の 秋《あき》の萩《はぎ》咲《さ》く 夕影《ゆふかげ》に 今《いま》も見《み》てしか 妹《いも》が光儀《すがた》を
吾屋戸乃 秋之芽子開 夕影尓 今毛見師香 妹之光儀乎
【語釈】 ○秋の萩咲く夕形に 「秋の」は、萩の咲く上では添える必要のないもので、秋という感を強めるために添えたものである。「夕影に」は、夕べの光に。○今も見てしか妹が光儀を 「今も」の「も」は、詠歎。「てしか」は、願望をあらわす。「妹が光儀を」は、妹をそうした光景の中に立たせての妹の姿を。
【釈】 わが家の庭の、秋の萩の咲いているおりからの夕べの光の中に、今見たいものであるよ。妹の姿を。
【評】 田村大嬢が贈った歌である。「秋の萩咲く夕影」は、秋の清らかにしてさみしい気分を代表的にあらわしている時間で、そぞろに人懐かしい思いのさせられる時刻でもある。田村大嬢はそうした光景に対していると、仲むつましい妹の坂上大嬢に逢いたい心を起こしたのである。それをいうに、自身の逢いたいという感情は努めて控え目にし、相手を主と立てて、そちらをいうことによって自身の感情を暗示するということは、礼儀として取っていた態度である。この歌もそれであるが、結果から見ると、田村の大嬢の柔らかくして鋭敏な詩的想像が、音楽性を帯びて展開されたごときものとなっている。魅力のある作である。
1623 吾《わ》が屋戸《やど》に もみつ蝦手《かへるで》 見《み》る毎《ごと》に、妹《いも》を懸《か》けつつ 恋《こ》ひぬ日《ひ》はなし
(159) 吾屋戸尓 黄變蝦手 毎見 妹乎懸管 不戀日者無
【語釈】 ○もみつ蝦手 「もみつ」は、『代匠記』の訓。紅葉するで、動詞。四段および上二段にも活用したが、ここは四段である。「蝦手」は、仮名書きもあり、今の楓。薬が蝦の手に似ているからの称であろうという。○妹を懸けつつ 妹を心にかけつつ。
【釈】 わが屋戸の紅葉する楓を見るごとに、妹を心にかけつつ、逢いたいと恋わない日とてはない。
【評】 楓の美しく紅葉するのを見るごとに、坂上大嬢を連想するというのは、気分の範囲のものである。しかしこの歌は前の歌のごとく気分として描き出そうとはせず、事として叙しているものである。新風以前の素朴な詠み方のものである。姉としての心はむしろこの歌の方が現れている。
坂上大娘、秋の稲の蘰《かづら》を大伴宿禰家持に贈れる歌一首
【題意】 「大娘」は「大嬢」と同じ。「秋の稲の蘰」は、「秋の稲」は、穂となる稲で、「蘰」は、それをもって作った物である。蘰は本来信仰上の物であったのが、この時代には儀式用の物となっていたようである。その時々の植物の枝、花をもって作った。稲の穂で作ることは特別のことではなかったとみえる。実際に髪の上に戴いたのではなかろう。
1624 吾《わ》が業《なり》なる 早田《わさだ》の穂立《ほだち》 造《つく》りたる 蘰《かづら》ぞ見《み》つつ しのはせ吾《わ》が背《せ》
吾之業有 早田之穗立 造有 蘰曾見乍 師者波世吾背
【語釈】 ○吾が業なる 「業」は、本来は農業のことで、転じて広く職業のことをもいった。わが生業である。○早田の穂立 早稲の田の稲穂で、「穂立」は、穂の出揃った状態で、穂というに同じ。○造りたる蘰ぞ 造ってあるこの蘰ぞの意。○見つつしのはせ吾が背 「見つつ」は、その蘰を見つつ。「しのはせ」は、「偲へ」の敬語で、命令形。思い給えよ。「吾が背」は、呼びかけ。
【釈】 わが生業である早稲田の稲の穂で、わが造ったところのこの蘰であるぞ。これを見つつわれを思い給えよ、わが背よ。
【評】 大嬢が母と一緒にいる竹田の庄から、佐保の家持へ贈ってきた蘰に添えてあった歌である。歌は贈物に添える歌の型に従って、労苦して造ったものだといっているのであるが、それをいうに、「吾が業なる早田の穂立造りたる」と、自身農業をしているごとく誇張しているのがすなわち労苦である。大嬢は作歌に慣れず、苦渋した詠み方で、ことに四句の句割れはその甚しいものである。
(160) 大伴宿禰家持の報《こた》へ贈れる歌一首
1625 吾妹児《わぎもこ》が 業《なり》と造《つく》れる 秋《あき》の田《た》の 早穂《わさほ》の蘰 見れど飽かぬかも
吾妹兒之 業跡造有 秋田 早穂乃蘰 雖見不飽可聞
【語釈】 ○吾妹児が業と造れる 「造れる」は、下の秋の田で、贈歌の語をそのままに受入れ、誇張しての労苦を認めた形である。それがすなわち謝意である。○早穂の蘰 「早穂」は、早稲の穂で、「早田の穂立」を言いかえたもの。○見れど飽かぬかも 最大の讃《ほ》め言葉で、成句。
【釈】 吾妹子が生業として作っている秋の田の、早稲の蘰のは、見ても見ても見飽かないことであるよ。
【評】 正直にすなおに、大嬢のいうままを受入れて、謝意を表した歌である。調べがそれにふさわしい。家持の人柄を思わせられる。
又、身に著けたる衣《きぬ》を脱ぎて、家持に贈れるに報ふる歌一首
1626 秋風《あきかぜ》の 寒《さむ》きこの頃《ごろ》 下《した》に著《き》む 妹《いも》が形見《かたみ》と かつもしのはむ
秋風之 寒比日 下尓將服 妹之形見跡 可都毛思努播武
【語釈】 ○下に著む 下は、「衣」の下で、これは下着である。上代は下着は、男女とも同じ物であった。○妹が形見とかつもしのはむ 「形見」は、離れている人の身代わりとして見るもの。「かつ」は、一方では。「も」は、強め。「しのはむ」は、偲ぼう。
【釈】 秋風の寒いこの頃を、下着として着よう。妹の身代わりのものだと、同時に一方では偲ぼう。
【評】 口頭でいう謝意を、そのまま歌の形としたごとき歌である。上の歌と同じ態度のものである。
右の三首は、天平十一年己卯秋九月|往来《かよ》はせり。
右三首、天平十一年己卯秋九月徃來。
【解】 「往来」は、存問往来の意で、書信の往復を言う。大嬢は竹田の庄に居たのである。
(161) 大伴宿禰家持、非時《ときじき》藤の花|并《あは》せて萩《はぎ》の黄葉《もみち》の二つの物を攀ぢて、坂上大嬢に贈れる歌二首
【題意】 「非時」は、その季節ではない意で、左注によると「六月」すなわち夏季に咲いた藤と黄葉した萩である。「攀ぢ」は、ここは折る意である。
1627 吾《わ》が屋前《やど》の 時《とき》じき藤《ふぢ》の めづらしく 今《いま》も見《み》てしか 妹《いも》が咲容《ゑまひ》を
吾屋前之 非時藤之 目頬布 今毛見壯鹿 妹之咲容乎
【語釈】 ○音が屋前の時じき藤の わが家の庭の季節はずれの藤ので、意味で「めづらし」にかかる序詞。受けるほうに変化が乏しいので、譬喩を序詞の形にしたものといえる。○めづらしく今も見てしか 「めづらしく」は、珍しく、したがって愛ずらしい意。「てしか」は、願望。○妹が咲容を 「咲容」は、笑顔《えがお》。
【釈】 わが家の庭に季節はずれに咲いた藤の、めずらしく、今見たいものであるよ。妹の笑顔を。
【評】 これは贈物に添える歌という儀礼の心の全くないもので、歌のほうに贈物を添えた形のものである。三、四句の「めづらしく今も見てしか」の、続きはやや曖昧であるが、この歌の四、五句は、上の田村大嬢の「今も見てしか妹が光儀《すがた》を」と同じであって、それをここに用いようとしたところから起こったものかもしれぬ。田村大嬢の歌は坂上大嬢のもとにあったのであるから、家持は示されて知っていたとしても不自然ではない。また他人の歌の語を取入れることは、若い頃の家持には珍しくないことだったからである。それであったとしても、当事者の間にはむしろ興味あることであったろう。
1628 吾《わ》が屋前《やど》の 萩《はぎ》の下葉《したば》は 秋風《あきかぜ》も いまだ吹《ふ》かねば かくぞ黄変《もみ》てる
吾屋前之 芽子乃下葉者 秋風毛 未吹者 如此曾毛美照
【語釈】 ○いまだ吹かねば 「吹かねば」は、吹かぬにと同じ意のもの。○かくぞもみてる 「ぞ」は係。「黄変つ」は、上代は四段活用であり、その已然形「もみて」に、完了の助動詞「り」の接続したもので、結の連体形。
【釈】 わが庭の萩の下葉は、まだ秋風も吹かないのに、このように黄葉していることよ。
【評】 これは萩の下葉の時ならぬ黄葉の珍しさをいっているだけのものである。
(162) 右の二首は、天平十二年庚辰夏六月|往来《ゆきかよは》せり。
右二首、天平十二年庚辰夏六月徃來。
【解】 この二首を秋相聞の部に収めたのは無理である。取材も秋ではない。歌の性質によって、漠然と並べたのであろう。
大伴宿禰家持、坂上大嬢に贈れる歌一首 井に短歌
1629 ねもころに 物《もの》を念《おも》へば 言《い》はむすべ せむすべもなし 妹《いも》と吾《われ》 手《て》携《たづさ》はりて 朝《あした》には 庭《には》に出《い》で立《た》ち 夕《ゆふべ》には 床《とこ》打払《うちはら》ひ 白妙《しろたへ》の 袖《そで》さしかへて さ寐《ね》し夜《よ》や 常《つね》にありける あしひきの 山鳥《やまどり》こそは 峯向《をむか》ひに 嬬問《つまど》ひすと云《い》へ うつせみの 人《ひと》なる我《われ》や なにすとか 一日《ひとひ》一夜《ひとよ》も 離《さか》り居《ゐ》て 嘆《なげ》き恋《こ》ふらむ ここ念《おも》へば 胸《むね》こそ痛《いた》き そこ故《ゆゑ》に 情《こころ》なぐやと 高円《たかまと》の 山《やま》にも野《の》にも うち行《ゆ》きて 遊《あそ》び往《ある》けど 花《はな》のみ にほひてあれば 見《み》る毎《ごと》に まして思《おも》ほゆ いかにして 忘《わす》れむものぞ 恋《こひ》といふものを
叩々 物乎念者 將言爲便 將爲々便毛奈之 妹与吾 手携而 旦者 庭尓出立 夕者 床打拂 白細乃 袖指代而 佐寐之夜也 常尓有家類 足日木能 山鳥許曾波 峯向尓 嬬問爲云 打蝉乃 人有我哉 如何爲跡可 一日一夜毛 離居而 嘆戀良武 許己念者 胸許曾痛 其故尓 情奈具夜登 高圓乃 山尓毛野尓母 打行而 遊徃杼 花耳 丹穗日手有者 毎見 益而所思 奈何爲而 忘物曾 戀云物乎
【語釈】 ○ねもころに 原文西本願寺本以下「叩々」とある本が多いが、紀州本は「叮々」とある。『略解』は「叮々」の誤写とし、「ねもころに」と訓んだ。木村正辞は『訓義弁証』で、「叩々」は懇々と同義であると、証を挙げていっている。丁寧に。○せむすべもなし 以上第一段。○夕には床打払ひ 「床打払ひ」は、床は敷き通しにしてあったので、自然塵の積もるのを、寝る前にその塵を払う意窓。○白妙の袖さしかへて 白い(163)織物の袖をさしかわして。手枕をし合ってで、共寝のさま。○さ寐し夜や常にありける 「さ」は、接頭語。「や」は、疑問。「常」は、平常。共寝をした夜が、平常にあっただろうか。巻五(八〇四)憶良の長歌の「世間《よのなか》の住《とどま》り難きを哀しめる歌」の中の「赤駒に倭文鞍《しづくら》うち置き 匍ひ乗りて遊び歩きし 世間《よのなか》や常にありける」の影響を受けているとみえる。以上第二段。○あしひきの山鳥こそは 「山鳥」は、雉鶏類の鳥で、雉に似てやや大きく、全身黄赤の鳥。「こそ」は、係。取立てる意のもの。○峯向ひに嬬問ひすと云へ 「峯向ひ」は、谷を隔てて峯と峯と向かい合っている状態。「嬬問ひ」は、意味の広い語で、ここは夫婦夜を相会う意。「云へ」は、後世の「云へど」の古格で、已然形がただちに条件をあらわしているもの。雄鳥と雌鳥と、谷を隔てて向かい合っている峯と峯とにいて、夜を相会うというが、の意。これは山鳥の習性と言い伝えられていることで、集中にはここにあるのみだが、平安朝には例が少なくなく、古くからの言い伝えだったとみえる。○うつせみの人なる我や 「うつせみの」は、人、世などの枕詞。「や」は、詠歎。○なにすとか一日一夜も 「なにすとか」は、いかでかの意の古語で、「か」は疑問。○嘆き恋ふらむ 以上、弟三段。○ここ念へば胸こそ痛き 「ここ」は、この点で、別居していること。「胸こそ痛き」は、嘆きのきわめて甚しいことを感覚的にいったもの。以上、第四段。○そこ故に情なぐやと 「そこ」は、その点であるが、上代は「ここ」と「そこ」と意味の上には差別なく用いている。その嘆きのゆえに。「なぐやと」は、慰むかと思って。○うち行きて遊び往けど 「うち」は、接頭語。「遊び往けど」は、『古義』の訓。上に引いた憶良の歌の中に用例のある語。○花のみにほひてあれば 花ばかりが美しく咲いているので。○見る毎にまして思はゆ その花を見るごとに、花に似た大嬢が連想されて、家にいる時にもまして大嬢が恋しく思われるの意。以上、第五段。○いかにして忘れむものぞ恋といふものを 「恋といふものを」は、どうしたら忘れられるのであろうか恋というものをで、第六段で、第一段に照応させたもの。
【釈】 繰り返してものを思うと、言いあらわしようも、する術《すべ》もない。妹とわれと手をつないで、朝には庭に出て立ち、夕べは床の塵を払って、白い織物の袖を交《か》わし合った夜が、平常にあったことであろうか。山鳥こそは、谷を隔てて峯と峯に離れて相会うことをするというが、人であるわれが、何だって一日一夜でも、離れていて嘆き恋うのであろうか。この点を思うと、苦しさに胸が痛い。その点の慰むこともあろうかと思って、高円の山や野に行って遊んで歩くが、花だけが美しく咲いているので、それを見るたびに御身が連想されて、家にいた時にもまして御身が思われる。どのようにしたならば忘れられるものであろうか、恋というものは。
【評】 家持と大嬢とは夫婦関係となっており、家持としては同棲をしたい念の強いものがあるのであるが、それが何らかの事情でできずにいる、その間の懊悩の情を大嬢に訴えたものである。この事は巻四にも出ていた。妨げがあるとすれば、大嬢の母、家持の姑である坂上郎女の思わくであろう。家持がその間の事については何もいっていないのは、大嬢にはいうを要さなかったからであろう。歌は同棲を可能なこととし、それのできない嘆きを綿々と訴えているもので、家持の個人的な心で、他人とはほとんどつながりのないものである。内容としては長歌形式をかりる必要のないもので、長歌としたのは家持の興味からであろう。一首の歌として見ると、構成は整然としており、憶良にならった跡の見える、用意あるものであるが、このことは半面からいうと、平板で作為的だということで、長歌としては致命的なことである。しかし全体が抒情で貫いたもので、家(164)持の正直な心をも言い続けているので、それによって救われているのである。若き日の家持の、長所と短所とがあらわに出ている作である。
反歌
1630 高円《たかまと》の 野辺《のべ》の容花《かほばな》 面影《おもかげ》に 見《み》えつつ妹《いも》は 忘《わす》れかねつも
高圓之 野邊乃容花 面影尓 所見乍妹者 忘不勝裳
【語釈】 ○野辺の容花 「容花」は、現在どの花であるか不明であり、したがって諸説がある。集中、容花を取材とした歌は、これを加えて四首あり、諸説はそれを資料としての推測説である。歌に現われているところから推すと、美しい花で、女を連想させるものであり、昼咲いて、夕方はしぼむ花であり、また、山野、河原、水中にも自生する草であるところから、昼顔ではないかという。○面影に見えつつ妹は 容花を見ると、その美しさから連想されて、妹が面影に立って見え見えして。
【釈】 高円の野に咲いている容花を見ると、それとの連想から、面影に見え見えして、妹は忘れられないことであるよ。
【評】 長歌の結末の部分を繰り返したもので、反歌としては古い型である。初二句は「容花面影に」と序詞と異ならない続け方をしたものである。続けに飛躍のあるのはそのためで、長歌の支持によって成り立っている歌である。
大伴宿禰家持、安倍女郎《あべのをとめ》に贈れる歌一首
【題意】 「安倍女郎」は、伝未詳である。巻三(二六九)、巻四(五〇五〜六・五一四・五一六)の作者も同名であるが、その人は人麿、黒人などと時代を異にしているごとく見えるから、これとは別であろう。
1631 今《いま》造《つく》る 久邇《くに》の京《みやこ》に 秋《あき》の夜《よ》の 長《なが》きに独《ひとり》 宿《ぬ》るが苦《くる》しさ
今造 久迩能京尓 秋夜乃 長尓獨 宿之苦左
【語釈】 ○今造る久邇の京に 「今造る」は、新しく造るで、京としての造。久邇京の造営は、天平十二年十二月から同十五年十二月までである。(165)ここは京としては整わない、したがって侘びしい状態としていっているもの。
【釈】 新しく造営している久邇京に、秋の夜の長いのに、独りで寝ていることの苦しさよ。
【評】 夫婦関係としての訴えである。こうした訴え方は、相応に関係が久しく、心置きなくというよりも、むしろ甘え気分でいうものと思われる。家持と女郎の関係はそうしたものであったろう。歌としてはきわめて普通のものである。
大伴宿禰家持、久邇の京より寧楽の宅《いへ》に留まれる坂上大娘に贈れる歌一首
【題意】 「久邇の京より」は、家持は新京へひとりで行っていたのである。「寧楽の宅」は佐保にある宅で、坂上郎女もそこに住み、家持は郎女の宅からは西宅と呼ばれた宅に住んでいたのである。大娘は母の家に居たか西宅に居たかはわからない。
1632 あしひきの 山辺《やまべ》に居《を》りて 秋風《あきかぜ》の 日《ひ》にけに吹《ふ》けば 妹《いも》をしぞ念《おも》ふ
足日木乃 山邊尓居而 秋風之 日異吹者 妹乎之曾念
【語釈】 ○山辺に居りて 久邇京は山に囲まれた地であるから、家持の家も山寄りの地だったとみえる。○日にけに吹けば 日々に吹くので。
【釈】 山寄りの宅に住んでいて、秋風が日々に吹くので、妹が恋しく思われることであるよ。
【評】 秋風のさみしさと肌寒さから、妹が恋しく思われるというのは、常套の語となっていた。心としては挨拶程度のものであるが、調べが一本気な純粋な気持をあらわすものとなっているので、心がそのために生趣あるものとなっている。
或者《あるひと》の尼に贈れる歌二首
(166)【題意】 「或者」は、だれであるかわからない。本巻は、作者の明らかな歌の集であり、また年代順に排列しているのであるから、編集者にはそのだれであるかがわかっていたろう。「尼」も同様である。
1633 手《て》もすまに 植《う》ゑし萩《はぎ》にや かへりては 見《み》れども飽《あ》かず 情《こころ》尽《つく》さむ
手母須麻尓 殖之芽子尓也 還者 雖見不飽 情將盡
【語釈】 ○手もすまに植ゑし萩にや 「手もすまに」は、手も休めずにの意で、苦労をしての意の副詞。上の(一四六〇)に出た。「や」は、疑問の係。○かへりては かえってで、現在用いていると異ならない意のもの。○見れども飽かず情尽さむ 「見れども飽かず」は、きわめて賞美する意の成句。「情尽さむ」は、気を揉むの意。
【釈】 手も休めずに苦労をして植えた萩のために、かえって、見ても飽かないで、心尽くしをするのであろうか。
【評】 尼を、おりから庭に咲いている萩の花に譬えて、懸想の心をほのめかした歌である。当時にあってはこのようなことは格別のことではなかったのである。「手もすまに植ゑし萩」は、その尼の保護者として、最初から面倒を見てきたことの譬、「見れども飽かず情尽さむ」は、尼が美しくなって、はなはだ気にかかる者となったの譬で、懸想とはいうものの、年した、しかるべき身分の男が、若い女に対して愛想をいっている趣のあるものである。世話をしたのでかえって苦労の種になったと、戯れ半分にいったものと取れる。
1634 衣手《ころもで》に 水渋《みしぶ》つくまで 植《う》ゑし田《た》を 引板《ひきた》吾《わ》がはへ 守《まも》れる苦《くる》し
衣手尓 水澁付左右 殖之田乎 引板吾波倍 眞守有栗子
【語釈】 ○衣手に水渋つくまで 「衣手」は、袖。「水渋」は、水垢で、水の上に浮かぶ金属の銹のようなもの。ここは田の水についていったもの。「つくまで」は、沁みつくまでで、苦労をしての意。○引板吾がはへ 「引板」は、今の鳴子で、稲の実の熟したのを荒らしに来る鳥獣を、それを鳴らして追う具。「はへ」は、延えで、繩を長く張り渡しての意で、繩は引板を鳴らすための設備。○守れる苦し 番をしているのは苦しい。
【釈】 わが袖に水垢の沁みつくまでに苦労をして植えた田を、今は鳴子の繩を張り渡して、鳥獣に荒らされまいとして番をしていることは苦しい。
(167)【評】 上の歌と同じ範囲のもので、この歌は尼を秋田の稲に譬え、尼に言い寄る男を鳥獣に、自身を引板を設けて番をしていることに譬えたものである。「田」も「引板」も、おりから眼前に見ているものである。この歌には懸想の心はなく、反対に尼を保護しようとする心が現われている。
尼、頭句《はじめのく》を作り、并《あは》せて大伴宿禰家持の、尼に誂《あと》らへらえて末の句等を続《つ》ぎて和《こた》ふる歌一首
【題意】 「頭句」は、本来は冒頭の句であるが、ここは初句より三句までの称とし、「末句」を四、五句の称としている。後世の上句、下句にあたる称である。しかし頭句、末の句は、集中の例を見ても一定せず、頭句は、短歌では初句だけにも、初二句にもいい、長歌では六句までをいってもいる。また発句という称があり、短歌の初句、初二句をいっている。「誂らへらえて」は、頼まれてで、代作を頼まれたのである。「末の句等を続ぎて」は、「末の句」は、ここでは四、五句であるが、集中の例に、三、四、五の三句をも、また五句だけをもいっている。「等」は接尾語。「和ふる」は、上の二首に対しての和えである。
1635 佐保河《さほがは》の 水《みづ》を塞《せ》き上《あ》げて 植《う》ゑし田《た》を 【尼の作れる】 刈《か》る早飯《わさいひ》は 独《ひとり》なるべし 【家持続ぐ】
佐保河之 水乎塞上而 殖之田乎 【尼作】 苅流早飯者 獨奈流倍思 【家持續】
【語釈】 ○佐保河の 春日山から発し、大安寺を経て南流、諸川を合して大和川となる河。○水を塞き上げて 水を塞き止めて、水位を上げて、田へ引いて。○植ゑし田を 植えた田の稲を。○尼の作れる 以上を尼が作って、そのあとの詠み続けられないために、家持に続いでくれるようにと誂えたのである。○刈る早飯は 「刈る」は、上の「田」を刈る意。「早飯」は、早稲をもって炊いだ飯で、その田の最初の飯と取れる。○独なるべし 食べるのはただ独りであろうで、その人は労苦して田を作った人。
【釈】 佐保河の水を塞き止めて田に引いて、労苦して植えた田の稲を、刈って炊ぐその早稲の飯は、食べる者はただ独りであろろう。
【評】 保護者である身分高い人から二首の歌を詠みかけられたので、尼は返しをしなければならない立場に置かれて、それをしようとし、第一首の懸想の心の歌は避けて、第二首目の、監督に心を労しているという歌のほうに対して、何事かをいおうとしたのである。「佐保河の水を塞き上げて植ゑし田を」は、保護者のいわれるのをそのままに受け入れ、自分を稲に譬え、全く保護者の労苦によって今の身となり得たことをいったのであるが、その続きが詠めずに、家持に頼んだのである。これは作歌に堪えない者の普通にしていることで、黙認されていたことである。家持は「刈る早飯は独なるべし」と続けたのである。(168)「早飯」は他に用例のない不明な語であるが、文字どおり早稲の米をもって炊いだ飯と解すると、その田の稲の中の最初の稲、すなわち初穂とも称すべき稲で炊いだ飯の意である。初穂は神前に供える物で、最も尊んだものである。それを口にするは、田の作り主、すなわち保護者独りで、他の誰でもないの意味で、第二首目に対しての返しとなるとともに、第一首目の懸想の歌にも、返しうる結果となるのである。保護者の歌もなかば戯れとみえるものであるが、返しは完全に風雅の遊びとしたものとみえる。この歌のできたのは、尼が作歌に不堪だったということよりの成行きで、きわめて偶然なものであるが、その結果は、風雅の遊びとして一種の興味のあるものと目され、しだいに発展するに至ったのである。これが直接の原因であるかどうかはもとより不明であるが、連歌史の上からいうと、文献としてはこれが連歌形式の最古の、したがって最初のものとなっているのである。連歌より俳諧、俳句への発展を思うと、感の深い一首である。「或者」は尼の保護者であり、尼と家持とは親しかったとみえるので、その人が誰であるかは家持は知っていて、わざと名を秘したのであろう。尼は、歌で見ると佐保に住んでおり、また作歌に不堪であるところから、新羅から帰化して大伴家に寄住しており、早く死んだ理願尼ではないかと想像されている。
冬雑歌《ふゆのざふか》
舎人娘子《とねりのをとめ》の雪の歌一首
【題意】 「舎人娘子」は、伝未詳。巻一(六一)に出た。巻二(一一八)に、舎人親王に和えた歌がある。
1636 大口《おほくち》の 真神《まがみ》の原《はら》に 零《ふ》る雪は いたくな零《ふ》りそ 家《いへ》もあらなくに
大口能 眞神之原尓 零雪者 甚莫零 家母不有國
【語釈】 ○大口の真神の原に 「大口の」は、口の大きい意で、狼を真神と称したところから、その枕詞。「真神の原」は、今は名は伝わってはいない。高市郡明日香村飛鳥寺の南方一帯。
【釈】 大口の真神の原に降っている雪は、甚しくは降るなよ。家もないことだのに。
【評】 真神の原を通っていたおりから、雪に逢っての心である。「大口の真神の原」という地名と、「家もあらなくに」が、降り(169)出した雪を怖るべきものにしている。しかしそこは当時の京に近い所だったのである。娘子の心のものではあるが、雪は鑑賞の対象物ではなかったのである。歌柄が大きく、調べが気分を現わしている。
太上天皇《おほきすめらみこと》の御製歌《おほみうた》一首
【題意】 「太上天皇」は、御譲位後の天皇に対しての尊称で、ここは元正天皇である。巻六(九七四)左注に出た。草壁皇子の皇女で、霊亀元年即位、神亀元年太上天皇となり、天平二十年崩じられた。左註により、聖武天皇と御同列で、左大臣長屋王の邸へ行幸された際のものである。
1637 はたすすき 尾花《をばな》逆葺《さかふ》き 黒木《くろき》もち 造《つく》れる室《むろ》は 万代《よろづよ》までに
波太須珠寸 尾花逆葺 黒木用 造有室者 迄萬代
【語釈】 ○はたすすき尾花逆葺き 「はたすすき」は、幡薄で、薄の穂が幡に似ていると上ろからの称で、尾花を修飾している。「尾花」は、穂を出した薄の称で、繰り返したのはその物を讃めてのことである。「逆葺き」は、薄で屋根を葺くには、普通、根に近いほうを下に向けて葺くのであるが、この場合は反対に、穂のほうを下に向けて葺いてあったもの。○黒木もち造れる室は 「黒木《くろき》」は、白木《しろき》に対しての称で、材木の皮を剥がない物の総称。「もち」は、用いて。「造れる室」は、造ってある家はの意で、これは行幸を仰ぐために、清浄な御座所を設けようと、特に造ったもの。「室」といっているのは、古風な建て方をしているものなので、特に家の古い称を用いたもの。○万代までに 「万代」は、永久の意で、永久にあることだろうの意で、その物を愛でて賀せられたのである。
【釈】 幡すすきの尾花を逆葺きにし、黒木を用いて造ったこの室は、永久に存することであろう。
(170)【評】 長屋王の造った室は、神事を行なう際、新たに室を造る例にならって、清浄なる御座所を設けようとしてのこととみえる。太上天皇はそこには触れず、御座所のみやぴていることを愛でられ、「万代までに」と賀せられたのであるが、その賀の詞は、室をとおして長屋王その人の家に対しての賀の心を籠めてのものと取れる。肆宴の歌で、客として王に対しての挨拶の御製である。「尾花逆葺き」ということに力点を置いて詠まれているのは、おりから薄が穂を出した填で、興味を添えようとして特にしたことを、それと認めて嘉《よ》みされたものだと取れる。
天皇の御製歌一首
【題意】 天皇は、聖武天皇。
1638 青丹《あをに》よし 奈良《なら》の山《やま》なる 黒木《くろき》もち 造《つく》れる室《むろ》は ませど飽《あ》かぬかも
青丹吉 奈良乃山有 黒木用 造有室者 雖居座不飽可聞
【語釈】 ○奈良の山なる 奈良山にあるで、長屋王の邸は佐保にあったので、最も近い山としていわれたもの。黒木の出場所として、奈良山をこのように重くいわれたのは、奈良という地名に心を寄せられてのことと思われる。○ませど飽かぬかも 「ませど」は、旧訓「をれど」。『略解』は「ませど」と改めている。天皇は自身に対して敬語を用いる風があるから、ここもそれと見る。「見れど飽かぬ」の成句から出たものと思われるが、適切な語である。
【釈】 奈良の山にある黒木を用いて造ってあるこの室は、いらせられても飽かないことであるよ。
【評】 太上天皇は、主人の長屋王のほうに重点を置いての歌を詠まれたが、天皇は専らに自身のことをいっていられる。しかし室をとおしてのことであるから、おのずから挨拶の心も伴って来るのである。いずれも現在の位直に即しての言い方である。儀礼の歌であるから、それが当然である。おおらかでほあるが、行き届いた御製である。
右は、聞かくは、左大臣長屋王の佐保の宅に御在して肆宴せる御製なりといへり。
右聞之、御2在左大臣長屋王佐保宅1肆宴御製。
【解】 「聞かくは」ほ、伝聞したところによるとで、敬意より断定を避けたもの。「左大臣長屋王」は、巻一(七五)、巻三(二(171)六八)、上の(一五一七)に出た。王の左大臣であったのは、神亀元年から天平元年までであった。「佐保の宅」は、「作宝楼」と称した。「肆宴」は、豊の明りで、歌のあるべき時である。
大宰帥大伴卿の、冬の日に雪を見て京《みやこ》を憶ふ歌一首
1639 沫雪《あわゆき》の ほどろほどろに 零《ふ》りしけば 平城《なら》の京《みやこ》し 念《おも》ほゆるかも
沫雪 保杼呂保杼呂尓 零敷者 平城京師 所念可聞
【語釈】 ○沫雪のほどろほどろに 「淡雪」は、沫に似て大きく柔らかな雪。「ほどろほどろに」は、「ほどろ」は、「はだら」「はだれ」と同意の語で、斑にで、雪の薄く降る状態。それを重ねて、「に」を添えて副詞としたもの。雪の降った後の状態。○雫りしけば 降って地に敷けば。「降りしく」は、降り積もることをもあらわす語。○平城の京し念ほゆるかも 「も」は、強恵。奈良京が恋しく思われることであるよ。
【釈】 深雪がはだらはだらに地に降り敷いたのを見ると、奈良京が思われることであるよ。
【評】 大宰府にあって、雪のはだれに降った庭を、屋内から見やっての感である。その程度の雪は、明るく清らかである上に、またそうした日はもの静かである。自然物のうち、雪ほどどこの地で見ても異ならないものはない。京恋しい思いを抱いている旅人が、そうした雪の状態に刺激されて、京恋しい思いを新たにしたということは、最も自然なことである。調べが暢びやかで、静かに、艶を帯びて波打っていて、ただちに気分そのものとなっている感がある。しかも重量のあり、品のある歌である。
(172) 大宰帥大伴卿の梅の歌一首
1640 吾《わ》が岳《をか》に 盛《さか》りに咲《さ》ける 梅《うめ》の花《はな》 残《のこ》れる雪《ゆき》を まがへつるかも
吾岳尓 盛開有 梅花 遺有雪乎 乱鶴鴨
【語釈】 ○吾が岳に 大宰府の旅人の邸内をいったもの。○梅の花 詠歎を籠めたもの。○残れる雪をまがへつるかも 「残れる雪」は、消え残っている雪で、近く降った雪。「まがへつるかも」は、それを、梅の花と見まがえたことであったなあ。
【釈】 わが岡に盛りに咲いている梅の花よ。消え残っている雪を、梅の花かと見まがえたことであったなあ。
【評】 屋内から広い庭を見やった時、消え残っているしら雪を、咲き盛っているしら梅の花かと、ふと見誤った心である。梅が雪に似ているということはほとんど常識のようになったが、実際に即しての、したがって条件つきの類似であって、真実性のはっきり現われているものである。調べもそれにふさわしいおちついているものである。梅の花そのものがまだ新鮮味をもっていた時代であるから、その当時にあっては清新な感のある歌であったろう。
角《つの》朝臣|広辨《ひろべ》の雪の梅の歌一首
【題意】 「角広辨」は、伝が未詳である。「ひろべ」という訓は、本居宣長の施したもので、未定のものである。「ひろなり」「ひろわき」の訓もある。武内宿禰の子の紀角宿禰の子孫である。
1641 抹雪《あわゆき》に 降《ふ》らえてさける 梅《うめ》の花《はな》 君《きみ》がり遣《や》らば よそへてむかも
沫雪尓 所落開有 梅花 君之許遣者 与曾倍弖牟可聞
【語釈】 ○沫雪に降らえてさける 深雪の降るのに催されて咲いたの意。沫雪と梅の花との間に、情趣的なつながりを感じていた時代のもの。○君がり遣らば 君の許へ贈ったならば。「君」は、ここは、男より女をさしたもの。○よそへてむかも 「よそへ」は、意味の広い語で、ここは、ことよせる、擬《なぞら》えるの意。「て」は、完了で、強めたもの。「かも」は、疑問。
【釈】 沫雪の降るに催されて咲いた梅の花を、君のもとに贈ってやったならば、我になぞらえるであろうかなあ。
(173)【評】 男が女に心を寄せていて、なんらかの方法でそれを知らせたいと思っている折、沫雪に咲かせられた梅の花を見て、それを自身に思いくらべ、あの梅を折って贈ってやったならば、それと察しるだろうかと思って独語した形の歌である。気分本位の歌で、しかもかすかな心動きを捉えていっているものなので、曖昧に感じられる歌である。相聞に入れるべき歌である。
安倍朝臣|奥道《おきみち》の雪の歌一首
【題意】「安倍奥道」は、天平宝字六年、正六位上から従五位下に進み、神護景雲二年左兵衛督に進んだが、のち罪を得て、宝亀二年無位から本位の従四位下に復されたという経歴のある人である。後諸官を経て、五年に卒した。
1642 たな霧《ぎ》らひ 雪《ゆき》も零《》ふらぬか 梅《うめ》の花《はな》 咲《さ》かぬが代《かひ》に そへてだに見《み》む
棚霧合 雪毛零奴可 梅花 不開之代尓 曾倍而谷將見
【語釈】 ○たな霧らひ 「たな」は、いちめんに。「霧らひ」は、曇る。いちめんに曇って。「たなぐもり」「とのぐもり」などと同意である。○雪も零らぬか 雪が降らないのか、降ってくれよの意をあらわす語法。○咲かぬが代に 「代」は、代わり。○そへてだに見む 「そへ」は、擬《なそら》え。「だに」は、だけでも。せめて擬えてでも見よう。
【釈】 空いちめんに曇って、雪が降らないかなあ。梅の花の咲かない代わりに、せめて擬えて見よう。
【評】 梅に対しての憧れである。憧れが知性的に屈折をもって語られているので、憧れそのものをいおうとしているかの感のするものとなっている。時代の影響であろう。
若桜部《わかさくらべの》朝臣|君足《きみたり》の雪の歌一首
【題意】 「君足」は、伝未詳。
1643 天霧《あまぎ》らし 雪《ゆき》も零《》ふらぬか いちしろく このいつ柴《しば》に 零《ふ》らまくを見《み》む
天霧之 雪毛零奴可 灼然 此五柴尓 零卷乎將見
(174)【語釈】 ○天霧らし 天が曇って。○いちしろく いちじるしくで、はっきりと。「いちしろし」は清音。○このいつ柴に零らまくを見む 「この」は、眼前。「いつ柴」は、「いつ」は、「いつ藻」「いつ橿」などのそれで、茂っている。「柴」は、雑木の称で、茂っている闊葉樹。「零らまく」は、「零らむ」の名詞形で、降るさま。
【釈】 空が曇って、雪が降らないかなあ。あの茂った闊葉樹に、はっきりと雪の降るさまを見よう。
【評】 雪の降るさまを美観として、降らない雪に対して憧れている心である。「このいつ柴」と、眼前にある茂った闊葉樹の緑の上に、白く際やかに降るさまを想像することは、憧れではあるが空疎ではない。前の歌と同系統のものであるが、気分としては遙かに進んだものである。
三野《みのの》連|石守《いそもり》の梅の歌一首
【題意】 「三野石守」は、伝未詳。大伴旅人の従者で、天平二年旅人が京に還ろうとする際、先発した従者の中にその名が見える。
1644 引《ひ》き攀《よ》ぢて 折《を》らば散《ち》るべみ 梅《うめ》の花《はな》 袖《そで》にこきれつ 染《し》まば染《し》むとも
引攣而 折者可落 梅花 袖尓古寸入津 染者雖染
【語釈】 ○引き攀ぢて折らば散るべみ 「引き攀ぢ」は、枝を引き寄せて。「散るべみ」は、『代匠記』の訓。散りそうなので。○袖にこきれつ 「こきれ」は、扱《こ》き入れの約。扱くは、花を手でしごいてもぎ取る意。「入れ」は、袖に入れる。○染まば染むとも 染むならば、染んでもよい。染むは、梅は白梅であるから、色ではない。それだと梅の花のもつ香気である。
【釈】 枝を引き撓《たわ》めて折ったならば、花が散りそぅなので、梅の花を、袖にしごき落として入れた。その香気が袖に染むならば染もうともよい。
【評】 梅を酷愛する心をいおうとしている歌であるが、愛するにはあくまで身に着けなければならないとしているのである。「袖にこきれつ」は、当時の袖は窄いものであったので、想像に難いくらいである。「染まば染むとも」も、それに関係しての懸念であろう。細かい気分としようとして、そこまで至り得なかった歌である。
巨勢《こせ》朝臣|宿奈麿《すくなまろ》の雪の歌一首
(175)【題意】 「巨勢宿奈暦」は、奈良朝中期の人。巻六(一〇一六)に出た。
1645 吾《わ》が屋前《やど》の 冬木《ふゆき》の上《うへ》に 零《ふ》る雪《ゆき》を 梅《うめ》の花《はな》かと 打見《うちみ》つるかも
吾屋前之 冬木乃上尓 零雪乎 梅花香常 打見都流香裳
【語釈】 ○冬木の上に 「冬木」は、落葉樹の、冬落葉している木の総称。
【釈】 わが庭の冬木の上に降っている雪を、梅の花かと見たことであるよ。
【評】 上の旅人の歌(一六四〇)とおなじく、雪を梅の花かと見たというのである。旅人は見まがえた気分そのものを主としていっているのに、これは降っている雪を梅の花かと思ったというので、事を主としていっているのである。感の薄いのはそのためである。新風の形だけのものである。
小治田《をはりだ》朝臣|東麿《あづままろ》の雪の歌一首
【題意】 「東麿」は、伝未詳。
1646 ぬば玉《たま》の 今夜《こよひ》の雪《ゆき》に いざぬれな 明《あ》けむ朝《あした》に 消《け》なば惜《を》しけむ
夜干玉乃 今夜之雪尓 率所沾名 將開朝尓 消者借家牟
【語釈】 ○いざぬれな 「いざ」は、誘う意の副詞。「な」は、希望の助詞。○明けむ朝に消なば惜しけむ 「惜しけむ」は、形容詞「惜し」の未然形。「惜しけ」に「む」の添ったもの。
【釈】 今夜降っている雪の中に立ち出て、さあそれに濡れようよ。夜が明けての朝、消えたらば惜しいことであろう。
【評】 雪の美観に対してのあこがれをいおうとするものであるが、夜の見えない雪に対しての心であるから、憧れそのものをいっているものである。「消なば惜しけむ」は、その強調である。事よりも気分をいおうとする傾向の上に立って、強いて境を設けている歌である。
(176) 忌部首《いみべのおびと》黒麿の雪の歌一首
【題意】 「忌部黒暦」は、巻六(一〇〇八)と上の(一五五六)に出た。
1647 梅《うめ》の花《はな》 枝《えだ》にか散《ち》ると 見《み》るまでに 風《かぜ》に乱《みだ》れて 雪《ゆき》ぞ散《ち》りくる
梅花 枝尓可散登 見左右二 風尓乱而 雪曾落久類
【語釈】 ○枝にか散ると 枝に散っているのかとで、「か」は、疑問。雪が枝にまつわりつつ降る状態である。
【釈】 梅の花が、その枝から散っているのかと見るまでに、風に乱れて雪の散って来ることであるよ。
【評】 雪の散るのを梅の花のそれかと見るという、連想の多いことをいっているものである。「枝にか散る」と、風に乱れて降る雪の、枝にまつわりつつ降る微細なさまを捉えているのが作者の興である。しかし微細を求めたにすぎないもので、結果から見れば効果的のものではない。
紀少鹿《きのをしかの》女郎の梅の歌一首
【題意】 「紀少鹿」は、巻四(六四三)以下に出た紀女郎で、家持と関係のあった人。
1648 十二月《しはす》には 沫雪《あわゆき》零《ふ》ると 知《し》らねかも 梅《うめ》の花《はな》咲《さ》く 含《ふふ》めらずして
十二月尓者 沫雪零跡 不知可毛 梅花開 合不有而
【語釈】 ○十二月には沫雪零ると 「十二月には」は、「は」は、差別をあらわすもの。冬の十二月を、春の一月に近い月として、十二月には早くも春のものの淡雪が降るということを。○知らねかも 知らねばかもの古格。「かも」は、疑問の係。○含めらずして つぼんで居ずして。
【釈】 十二月には早くも、春の沫雪の降るものだということを知らないのであろうか、梅の花は咲いていることよ。蕾んでは居ずして。
【評】 十二月に咲いている梅の花に対しての心である。梅の花は沫雪に逢うと咲くものだという当時の言いならわしの上に立(177)って、梅の花の警戒心の足りないことを憐れんでいる心である。これは「梅の花」に女を、「沫雪」に誠意のない男を連想してのことである。相聞の歌に近いものである。
大伴宿禰家持の雪の梅の歌一首
164) 今日《けふ》零《ふ》りし 雪《ゆき》に競《きほ》ひて 我《わ》が屋前《やど》の 冬木《ふゆき》の梅《うめ》は 花《はな》咲《さ》きにけり
今日零之 雪尓競而 我屋前之 冬木梅者 花開二家里
【語釈】 ○雪に兢ひて 雪と競争して、早くも。雪に催されて咲くということの上に立ってのこと。
【釈】 今日降った雪と兢争して、わが庭の冬枯れの梅は花が咲いたことだ。
【評】 雪の降った日に、早くも梅の花の咲いたのを発見して、驚歎した心である。雪に催されてといっても、事としては同じであるが、梅のはうを主として「兢ひて」といっているのである。そこに新しさと、気分の拡がりがある。上に出た人々は、気分を出そうとして屈折をもった詠み方をしている中にあって、きわめて単純に率直に詠んで、気分化に近い歌としていること
が知られる。
西池《にしのいけ》の辺《ほとり》に御在《おはしま》して、肆宴《とよのあかり》きこしめせる歌一首
【題意】 「西池」は、平城宮の西の池で、そこに宮殿があった。「御在」は、天皇がそこにお出ましになったこと。「肆宴」は、宴を備されたことである。続日本紀、聖武紀には、西池でこのような記事が出ており、『代匠記』はそれによっての考証をしているが、この場合のものと思われる記事はない。折々あったこととみえる。
1650 池《いけ》の辺《べ》の 松《まつ》の末葉《うらば》に 零《ふ》る雪《ゆき》は 五百重《いほへ》零《ふ》りしけ 明日《あす》さへも見む
池邊乃 松之末葉尓 零雪者 五百重零敷 明日左倍母將見
【語釈】 ○池の辺の松の末葉に 「池」は、眼前の池で、どことも知れない。「末葉」は、梢にある葉。〇五首重零りしけ 「五百重」は、幾重にもで、厚くという意を具象的にいったもの。「零りしけ」は、降って積もれで、命令。○明日さへも見む 今日だけではなく明日も見よう。
(178)【釈】 池のほとりの松の、梢の葉の上に降る雪は、幾重も降り積もれよ。明日さえ見よう。
【評】 眼前に降っている雪の美観を褒めた歌で、印象の鮮明な歌である。「松の末葉に零る雪」といっているのは、いささか降る雪が、松の葉の色と雪の色との対照によって目にとまる意で、巧みである。「五百重零りしけ」は、美観に飽かない心である。「零る雪は」「零りしけ」と重ねたのも働きがある。一首として、印象の鮮明な上に、豊かさがあり、余裕もあって手腕ある人の作である。左注によると古歌で、その場合にふさわしい宴歌として誦したものである。
右の一首は、作者未だ詳ならず。但し竪子《ちひさわらは》阿倍朝臣蟲麿の之を伝へて誦《よ》める。
右一首、作者未v詳。但竪子阿倍朝臣蟲麿傳2誦之1。
【解】 「竪子」は、元服以前の者で、宮中に奉仕している者の職名。「蟲麿」は、巻四(六六五)及び上の(一五七八)に出た。天平九年九月正七位上から外従五位下に昇った人なので、竪子という称は問題とされている。
大伴坂上郎女の歌一首
1651 沫雪《あわゆき》の この頃《ごろ》続《つ》ぎて かく降《ふ》れば 梅《うめ》の初花《はつはな》 散《ち》りか過《す》ぎなむ
沫雪乃 比日續而 如此落者 梅始花 散香過南
【語釈】 略す。
【釈】 沫雪がこの頃このように続けて降るので、梅の初咲きの花は散り失せてしまうことであろうか。
【評】 実際に即しての心で、「続ぎてかく降れば」といい、「初花」と条件を付けているので、花を危ぶむ心がとおったものとなっている。軽い心のものであるが、生きている。手腕というよりは、作者の人柄からのことである。
他田広津娘子《をさだのひろつのをとめ》の梅の歌一首
【題意】 「娘子」の伝は不明。
(179)1652 梅《うめ》の花《はな》 折《を》りも折《を》らずも 見《み》つれども 今夜《こよひ》の花《はな》に なほ如《し》かずけり
梅花 折毛不折毛 見都礼杼母 今夜能花尓 尚不如家利
【語釈】 ○折りも折らずも 手に折っても、また折らず木のままにも。○なほ如かずけり 「如かず」は、及ばず。「けり」は、詠軟。
【釈】 梅の花は、手に折っても、折らずにも見たけれども、今夜見る花には、やはり及ばないことであるよ。
【評】 ある夜の梅の花に対して、このように愛でたい花は、かつて見たことがないと讃えたので、挨拶の歌を思わせるものである。梅花の宴の歌とすれば最もふさわしいもので、そういう歌であろう。
県犬養娘子《あがたのいぬかひのをとめ》の、梅に依りて思を発《おこ》せる歌一首
【題意】 「娘子」の伝は不明。「梅に依りて思を発す」は、梅の花に託して思いを陳べる意で、相聞の歌と異ならないものである。
1653 今《いま》の如《ごと》 心《》こころを常《つね》に 念《おも》へらば 先《ま》づ咲《さ》く花《はな》の 地《つち》に落《お》ちめやも
如今 心乎常尓 念有者 先咲花乃 地尓將落八方
【語釈】 ○今の如心を常に念へらば 「今の如」は、今のごとくに。「常に」は、永久に。「念へらば」は、念っていたならば。○先づ咲く花の地に落ちめやも 「先づ咲く花」は、他の花に魁《さきが》けて咲く花で、梅の花。これはその時の花である。「の」は、のごとく。「地に落ちめや」は、「地に落ち」は、散ること。「や」は反語で、散ろうか、散りはしない、と強くいったもの。この句は、巻六(一〇一〇)「奥山か真木《まき》の葉|凌《しの》ぎ零《ふ》る雪の零りは益すとも地に落ちめやも」の例がある。
【釈】 ただ今のごとくに、心を常に思っているのであったらば、魁けて咲いている花のごとくに、地に散り落つることがあろうか、ありはしない。
【評】 女が初めて男と相違った夜、おりから衆花に先立って咲いている梅の花を譬喩にして、夫婦関係の永久に渝らないことを誓った心の歌である。誓は自身もし、男にも要求している、共同の性質のものであるが、それをするに、「今の如心を常に念へらば」と条件を付けているのは、男に対して危倶の念を抱いているからのことである。これは女の本性に即してのことである。実際に即しての歌なので、盛り上がってくる力のある歌である。これは明らかに相聞の歌である。
(180) 大伴坂上郎女の雪の歌一首
1654 松蔭《まつかげ》の 浅茅《あさぢ》が上《うへ》の 白雪《しらゆき》を 消《け》たずて置《お》かむ ことはかもなき
松影乃 淺茅之上乃 白雪乎 不令消將置 言者可聞奈吉
【語釈】 ○松蔭の浅茅が上の白雪を 消え残っている雪である。○消たずて置かむことはかもなき 「消たずて置かむ」は、消さずして残して置こうで、「置かむ」は「こと」に続くもの。「ことはかもなき」は、「こと」は上から続いて、「置かむこと」で、置こう方法はの意。「かも」は疑問の係助詞。方法はないものであろうか。「ことはかもなき」は、例のない続け方であるために、諸注問題とし、さまざまの解を下しているものである。
【釈】 松の下蔭の浅茅の上にある雪を、消さずに置こう方法はないものであろうか。
【評】 雪の美観を愛する心であるが、この雪は、降り敷いた雪が次第に消えて、日光のささない松蔭の浅茅の上に、わずかに残っている雪に心を留め、その消え失せるのを愛惜する心のものである。最後に残ったいささかなものに対する格別の愛情は、人間に共通なものであるが、雪が対象になっているところに新味がある。消え残った雪と説明せず、具体的に描いて暗示しているところに味わいがある。気分本位の歌であるが、詠み方の上で気分をあらわそうとする末梢的なものではなく、本質的なもので、感情の平叙が奥行ある気分となっているものである。郎女の鋭敏な感性のあらわれている歌である。四、五句の続きは、取材が幽情であり、それを平叙しようとした関係から、余儀ないものと見られる。
冬相聞《ふゆのさうもん》
三国真人人足《みくにのまひとひとたり》の歌一首
【題意】 「三国人足」は、慶雲二年従五位下。養老四年正五位下となっている。奈良朝前期の人。
1655 高山《たかやま》の 菅《すが》の葉《は》しのぎ 零《ふ》る雪《ゆき》の 消《け》ぬといふべしも 恋《こひ》の繁《しげ》けく
(181) 高山之 菅葉之努藝 零雪之 消跡可曰毛 戀乃繁鷄鳩
【語釈】 ○高山の菅の葉しのぎ雫る雪の 菅の葉を押し伏せて降る雪ので、初句よりこれまで、意味で「消」に続く序詞。○消ぬといふべしも 死んだというべきであるよで、死んだと同然であるよの意。○恋の繁けく 「繁けく」は、繁しの名詞形で、繁きことよと詠歎した意。
【釈】 奥山の菅の葉を押し伏せて降る雪の、その消に因む、我も死んだというべきであるよ。恋の繁きことよ。
【評】 序詞は用例の多いものであるが、四、五句には心の躍動が見える。ことに四句には、実感と思わせる新味がある。
大伴坂上郎女の歌一首
1656 酒杯《さかづき》に 梅《うめ》の花《はな》浮《うか》べ 念《おも》ふどち 飲《の》みての後《のち》は 散《ち》りぬともよし
酒杯尓 梅花浮 念共 飲而後者 落去登母与之
【語釈】 ○梅の花浮べ 巻五(八四〇)「春柳|蘰《かづら》に折りし梅の花誰か浮べし酒盃《さかづき》の上に」があり、風雅な事として新たに流行したとみえる。○念ふどち 思い合っている同士で、下の歌で見ると、近親の者同士である。○散りぬともよし 散ってしまおうともよいで、梅の花は庭前の物とみえる。巻五(八二一)笠沙弥「青柳梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし」がある。
【釈】 酒杯に梅の花を浮かべて、相思う者どうし飲んでの後は、散ってしまおうともよい。
【評】 郎女が主人となって、近親の者を招いて梅花の宴を催した際、挨拶として詠んだものである。今夜のこの宴で、歓びを尽くせよという心を、梅の花に託していったものである。大宰府の梅の花の宴での歌の句を二か所まで取入れてあるのは、その宴を慕ってのことで、客もそれと頷いたものであろう。機才の見える歌である。
和ふる歌一首
【題意】 作者は誰ともわからない。わざと包んだのであろう。
1657 官《つかさ》にも 許《ゆる》したまへり 今夜《こよひ》のみ 飲《の》まむ酒《さけ》かも 散《ち》りこすなゆめ
(182) 官尓毛 縱賜有 今夜耳 將飲酒可毛 散許須奈由米
【語釈】 ○官にも許したまへり 朝廷でもこうした宴はお許しになっているで、その理由は左注で明らかにしている。○今夜のみ飲まむ酒かも 「かも」は、反語になっていて、今夜だけ飲む酒であろうか、そんなことはない。○散りこすなゆめ 散ってくれるな、けっしてで、梅の花に対していっているもの。梅を省いているのは、郎女の「散りぬともよし」に和えた関係からである。
【釈】 朝廷でもお許しになっている。今夜だけ飲む洒であろうか、そんなことはない。梅の花は散ってくれるな、けっして。
【評】 郎女の主人としての挨拶に対して、客として返事したものである。歓びを尽くせよというのに対して、この歓びは繰り返そう、幾たびもと、同じく梅の花に絡ませていったのである。結句は独立した歌としては無理であるが、こうした場合の歌としては通りうるものである。
右は、酒は、官禁制していはく、京中の閭里、集宴することを得ざれ。但《ただ》し親々一二飲楽するは聴許《ゆる》すといへれば、これによりて和ふる人この発《はじめ》の句を作れり。
右、酒者、官禁制※[人偏+稱の旁]、京中閭里不v得2集宴1。但親々一二飲樂聽許者。縁v此和人、作2此發句1焉。
【解】 「官禁制して」は、禁酒令で、このことは天平九年と天平宝字二年とに発しられた。年代順から見て、ここはその初めのものと取れる。要は、疫旱が並び行なわれているので、多人数の集宴は禁じる。ただし親しい一、二の者の飲楽は許すというのである。「発の句」は、ここは初二句の意である。
藤皇后《とうのおほきさき》の天皇に奉れる御《み》歌一首
【題意】 「藤皇后」は、藤は藤原を漢風に書き、音で訓ませたので、尊んでのこと。光明皇后である。藤原不比等の女で、母は県犬養宿禰三千代。天平元年八月皇后となり、天平宝字四年崩じた。「天皇」は、聖武天皇。
1658 吾《わ》が背子《せこ》と 二人《ふたり》見《み》ませば 幾何《いくばく》か この零《ふ》る雪《ゆき》の 懽《うれ》しからまし
(183) 吾背兒与 二有見麻世波 幾許香 此零雪之 懽有麻思
【語釈】 ○吾が背子と二人見ませば 「吾が背子」は、天皇。「見ませば」は、仮設で、下の「まし」と照応させたもの。もし見たならば。○幾何か どれくらいかで、「か」は、疑問。
【釈】 わが背子と、もし二人で見るのであったならば、どのくらいこの降っている雪がおもしろいことであろうか。
【評】 降る雪の楽しいのに対して、天皇と一緒であったらさらにどんなにか楽しいことであろうかというので、純粋で、明るく、家庭的で、庶民と異ならないものである。為政者としての天皇と、個人としての天皇とが、いかに截然と分かれていたかを、こうして歌を通しうかがわれる感がある。
他田広津娘子《をさだのひろつのをとめ》の歌一首
1659 真木《まき》の上《うへ》に 零《ふ》り置《お》ける雪《ゆき》の しくしくも 念《おも》ほゆるかも さ夜《よ》訪《と》へ吾《わ》が背《せ》
眞木乃於尓 零置有雪乃 敷布毛 所念可聞 佐夜問吾背
【語釈】 ○真木の上に零り置ける雪の 「真木」は、檜・杉など代表的な常磐木の称。「零り置ける」は、降って積もっているで、その重なる意で、「しく」に続く序詞。○しくしくも念はゆるかも 「しく」は、重なるという意。○さ夜訪ヘ吾が背 今夜訪い来よ、わが夫よ。
【釈】 真木の菓の上に降り置いている雪の重ね重ねとなっているに因みある、重ね重ねにも君の思われることであるよ。今夜を訪い来たまえよわが背よ。
【釈】 夫に、今宵訪い来よと促している歌である。「真木の上に零り置ける雪の」という序詞は、眼前を捉えたもので、一首の気分に重く働いており、「さ夜訪へ吾が背」という、簡潔にして柔らかい結句と、調和するものとなっている。相聞の歌としては明るい、気分の統一のある、目につく歌である。
大伴宿禰駿河麿の歌一首
【題意】 「駿河麿」は、巻三(四〇〇)、上の(一四三八)に出た。
(184)1660 梅《うめ》の花《はな》 散《ち》らすあらしの 音《おと》のみに 聞《き》きし吾妹《わぎも》を 見《み》らくしよしも
梅花 令落冬風 音耳 聞之吾妹乎 見良久志吉裳
【語釈】 ○梅の花散らすあらしの 「あらし」ほ、上代は荒い風の称で、秋の風に限ったものではなかった。意味で「音」と続いて、その序詞。○音のみに聞きし吾妹を 「音」は、評判で、評判にだけ聞いていたところの吾妹をで、「吾妹」は、愛称。○見らくしよしも 「見らく」は、見るの名詞形で、その意を強めたもの。「し」は、強意。相逢うことのよさよ。
【釈】 梅の花を散らすあらしの音の、その音すなわち評判にだけ聞いていた吾妹を、今宵相見ることの喜ばしさよ。
【評】 妻となるべき女と初めて逢った夜の挨拶の歌で、その喜ばしさをいっているものである。「梅の花散らすあらしの」は、眼前を捉えて序詞としたものであるが、奈良朝中期の序詞は、それが叙述であるとともに、一首の上に気分のつながりをもつべきものとなっていたので、その意味ではこの序詞は、気分としてはふさわしくなく、時代おくれの古風なものである。喜びの中心を、女の評判の高い点に置いているのも、場合柄ふさわしいとはいえない。「吾妹」というのは、坂上郎女の末娘であろうとされている。
紀少鹿《きのをしかの》女郎の歌一首
1661 久方《ひさかた》の 月夜《つくよ》を清《きよ》み 梅《うめ》の花《はな》 心《こころ》開《ひら》けて 吾《わ》が念《おも》へる君《きみ》
久方乃 月夜乎清美 梅花 心開而 吾念有公
【語釈】 ○久方の月夜を清み 「久方の」は、天から月に転じての枕詞。「月夜」は、月。「清み」は、清いので。○梅の花心開けて 「梅の花」は、「開けて」に枕詞として続くもの。眼前を捉えてのものである。「心開けて」は、心がうち解けて、楽しく。○吾が念へる君 わが思っている君よで、詠歎をこめたもの。
【釈】 月が清いので、梅の花のように心がうち解けて楽しくわが思っている君よ。
【評】 月が清く心よいのに、梅の花も開いている夜、かねてから心解けて思っている男が訪ねて来たので、女郎はひどく喜んで、その男に挨拶として詠んだ歌である。これと繋がりがあるとみえる同じ女郎の歌が、上の(一四五二)に出ている。それ(185)は「闇夜《やみ》ならば宜《うべ》も来まさじ梅の花咲ける月夜に出でまさじとや」というので、この歌はその恨みとは反対な有様なのである。一首の心躍った調べが、その時の歓喜を直接にあらわしている。「梅の花心開けて」を諸注問題としている。「梅の花」はいったがごとく眼前の景を捉えて枕詞としたもので、女郎の創意よりのものである。「心開けて」も同じく創意のものであって、これは心結ぼれに対させての心解けと同じく、心閉じに対させて心開けてといったものと取れる。そしてこれは男に対しての平常の心持なのである。歌才の豊かな人で、即座にこのような語を案出し得たのである。佳景とともに待つ人を迎え得たという、この当時の人の陶酔を感ずる境地である。
大伴田村大娘、妹坂上大娘に与へし歌一首
1662 沫雪《あわゆき》の 消《け》ぬべきものを 今《いま》までに ながらへ経《ふ》るは 妹《いも》にあはむとぞ
沫雪之 可消物乎 至今尓 流經者 妹尓相曾
【語釈】 ○沫雪の消ぬべきものを 「沫雪の」は、沫雪のごとくの意で「消」にかかる枕詞。「消ぬべきものを」は、死んでしまうべきであるのに。田村大娘が重病に罹っていたとみえる。○今までにながらへ経るは 今まで生存しているのは。○妹にあはむとぞ「妹」は、坂上大娘。「あはむとぞ」は、逢おうと思ってであるで、下に「ある」の意が略されている。
【釈】 沫雪のごとく消えて死ぬべきであるのに、今まで生き続けているのは、妹に逢おうと思ってのことであるよ。
【評】 甚しく感傷的な歌で、調べもそれにふさわしくしみじみとしたものであるところから見て、単に妹恋しいための誇張とは取れない。田村大嬢が病中に詠んだものか、あるいはまた坂上大嬢が病気見舞に行った時、相対していて詠んだ歌ではないかと思わせる。「沫雪の」という枕詞は、季節に関係させたものとみえる。「ながらへ経るは」と、気分の上で繋がりをもたせているのではないかと思われる。このことは序詞にはむしろ普通なことであるが、ここでは枕詞にもそれをしているごとく思わせる。歌才のある人だから、そうしたことが安らかにできたとしても恠《あや》しむには足りない。
大伴宿禰家持の歌一首
1663 沫雪《あわゆき》の 庭《には》に零《ふ》りしき 寒《さむ》き夜《よ》を 手枕《たまくら》纏《ま》かず ひとりかも宿《ね》む
(186) 沫雪乃 庭尓零敷 寒夜乎 手枕不纏 一香聞將宿
【語釈】 略す。
【釈】 沫雪が庭に降り敷いて寒い夜を、妹の手枕をせずして、独りで寝ることであろうか。
【評】 類歌の多いものである。正直に、率直に詠んでいるので、作となっている。おのずからに気分の伴ったものとなり、人を頷かせるに足りる
(187) 萬葉集評釋 巻第九
(188)萬葉集 巻第九概説
一
本巻は『国歌大観』(一六六四)より(一八一一)に至る一四八首を収めた巻である。
これを雑歌、相聞、挽歌の三部立に分類してある。これは巻第一、二両巻のもっている基本的部立にあたるもので、集中この名においての部立を一巻としてもっているのは本巻のみである。巻第三と巻第七とは同じ部立ながら相聞が譬喩歌となっており、また巻第十三は三部立以外に、譬喩歌に加うるに問答歌という分類になっているのである。これは言いかえると古い名称を伝えようとしているということである。
歌体も長歌、旋頭歌、短歌がある。ここにも古い形があるといえる。その割合は、長歌二二首、旋頭歌はただ一首で、他は短歌である。
また、これを各部立の割合から見ると、雑歌一〇二首、相聞二九首、挽歌一七首である。
本巻には作者名の示されている歌が四〇首ばかりある。この作者名は、同時に歌の制作年代を示しているものである。最も古いものは、巻首の「泊瀬朝倉宮御宇天皇御製歌一首」と題するものである。これは異伝のあるもので、編集者自身左注でそのことを言っているものである。それにもかかわらずこのようなことをしているのは、巻第一の巻首にならおうとする心あってのこととみえる。第二首目よりの二首は舒明天皇の時代のものとなっている。それより一躍藤原朝に下り、最後は奈良朝中期まで及んでいるのであるが、中心はむしろこの後の期間にあるとみえる。
二
本巻の歌でその出所の知れているものは、柿本人麿歌集、笠金村歌集、高橋蟲麿歌集、田辺福麿歌集所収のものだけで、その他はわからない。これは言いかえると、これらの歌集は編集者の資料の中にあったが、これらは本巻の歌の一部で、他の大部分の歌の出所となった書名はわからないのである。その中には古歌集、類聚歌林などの名は見えるが、これらは参考書にすぎないもので、そこには書名の知れない、あるいは書名のない写本の多くがあったのである。編集者のそれら無名の写本に対する態度は、きわめて良心的で、題詞、氏名の書き方なども原本のままにして置き、いささかも改めようとしなかったとみえる。本巻の作者名には略称で、他には例のないものの混じているのも、一にそのためと思われる。「大宝元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇の紀伊の国に幸せる時の歌十三首」のごときは、行幸の際の歌として特にそれだけが独立した写本となっていたことを思わせるもので、資料の状態を思わせる適例である。
(189) 三
本巻で最も目を惹く歌は、柿本人麿歌集と高橋蟲麿歌集の歌である。人麿歌集の歌はすでにしばしば触れて言っているので繰り返さないが、蟲麿歌集についてはいささか言うべきであろう。蟲麿の歌は本巻に初めて出たのではないが、伝説に取材したいわゆる伝説歌は、本巻のものが初出である。
伝説歌は、庶民の間に伝わっている、庶民の興味を引く伝説の歌である。上代からすでにあった古事記、日本書紀所載の国土開発の物語、また祝詞式に収められている信仰上の物語の、謡い物とさして距離のない形をもって伝えられているものの庶民化したもので、時代の推移とともに当然生まれ来たるべきものだったのである。さらにまた、奈良朝時代は復古精神の高まっていた時代であった上に、一方には歌の形式をもって叙事的表現を行なおうと試みていた時代でもあるので、庶民の共同の興味であった伝説は、まさに長歌化されるべき機運になっていたのである。しかしそれを捉えて文芸化し、これを優れた作品となし得たのはひとり高橋蟲麿だけであった。稀有の天分というべきである。
蟲麿の伝説歌のおもなるものは、「水江の浦島の子を詠める歌」「菟原処女の墓を見る歌」「勝鹿の真間娘子を詠める歌」などで、その取材の異なるに従ってその色合いが著しく異なり、自在に変化しうる才分のほどを思わせられるのであるが、基本的には一貫したところをもっている。これはそれらの事蹟のあった地に行き、形見となるべき何ものかを親しく見ることによって感を発したとすること、ついでその事蹟を言うに、事蹟そのものをのみ取り上げてこれを細叙することをせず、事蹟の与える気分を主とし、その気分を通して事境を言おうとすることである。したがってその結果としての作品は、一方では現実性をもったものとなるとともに、作者の気分を濃厚にあらわしたものとなるのである。すなわち、事は印象描写的な簡潔なものとなり、その印象は著しく感覚的な、華やかに生趣豊かなものとなっているのである。名は伝説歌であるが、その伝説は蟲麿に感じられ、また生かされた、蟲麿の伝説歌となっているのである。ここにその魅力があるのである。現実と気分を渾融させるこの詠み方は、ひとり蟲麿のみのものではなく、奈良朝時代の共通な詠み方で、蟲麿はそれを高度にもち得たのである。
蟲麿の伝説歌は、興味よりのもので、他に思う所があってのものではない。この興味は眼前矚目の事象に展開してゆき、「筑波嶺に登りて※[女+燿の旁]歌会をする日作れる歌」「上総の末の珠名娘子を詠める歌」などとなって、その魅力よりいえば伝説歌に勝るものとなっている。さらにまた、自身の直接抒情である「河内の大橋を独り去く娘子を見る歌」のごときは、その味わいの純粋に清新な点で、長歌という形式の持ち易く離れ難いものにしている古典臭を全く払拭し、蟲麿自身のものとして生み出した長歌ともいうべき趣をもっている。このことは同時にまた、蟲麿の長歌全体にわたっても言いうることなのである。
蟲麿についての詳しいことは本文に譲り、ここには、本巻の(190)双璧は柿本人麿歌集の歌と高橋蟲麿歌集の歌であり、これがやがて本巻の生命であることを言うにとどめる。
萬葉葉巻第九 目次
〔省略〕
(196) 雑歌《ざふか》
泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇《はつせのあさくらのみやにあめのしたしらしめししおほはつせわかたけのすめらみこと》の御製歌《おほみうた》一首
【題意】 「大泊瀬稚武天皇」は、雄略天皇。宮号の下に天皇の御名を入れることは、巻二にあり、大体巻一、二にならったものである。
1664 暮《ゆふ》されば 小椋《をぐら》の山《やま》に 臥《ふ》す鹿《しか》の 今夜《こよひ》は鳴《な》かず 寐《い》ねにけらしも
暮去者 小椋山尓 臥鹿之 今夜者不鳴 寐家良霜
【語釈】 この題は、巻八(一五一一)「岡本天皇の御製歌」と、第三句が異なっているのみであるから、略す。そちらの第三句は「鳴く鹿は」である。
【釈】 夜が来ると、小椋の山に寝るところの鹿の、今夜は鳴かない。寝てしまったらしい。
【評】 この御製の歌には左注が添っていて、撰者自身、岡本天皇の御製歌と同歌異伝であると認め、「その正指を審にせず」といっているのである。この巻の原拠とした本には、まさしくここに見るごとくになっていたからである。この二首の御製歌は、形としては第三句がいささか異なっているのみであるが、心としてはかなりな距離があるといえる。岡本天皇の御製は、「鳴く鹿は」と、親しくその悲しげな鳴き声を聞いて憐れまれ、そこに力点を置いたものである。「は」と、強めの意の助詞を用いているのもそのためである。この御製の「臥す鹿の」は、小椋の山を寝どころとしている鹿のという意で、臥すということに力点を置いたものである。すなわち感覚をとおしての感と、心をもって推量した事という相違があって、その間に相応な距離があるのである。岡本天皇の御製は古僕を極めたものであるが、この御製はある程度の新しさがある。岡本天皇の御製が伝承されて、いつか変化をきたした際に記録されたのがこの御製で、作者を雄略天皇としたのは、古の尊い方に結びつけようとする要求からのことであろう。こうした御製を伝承したということ自体が、鹿に妻恋いを連想することを好んだ人々であって、その意味からは、岡本天皇の御製も同じく伝説の範囲のものであったかもしれぬのである。
(197) 右は、或本に云ふ、岡本天皇の御製なりと云へり。正指を審にせず。因りて以ちて累《かさ》ね載す。
右、或本云、崗本天皇御製。不v審2正指1。因以累載。
【解】 「或本」というのは、巻八の原拠とした本である。「正指」は、正しさ。
岡本宮御宇《をかもとのみやにあめのしたしらしめしし》天皇の紀伊国に幸《いでま》せる時の歌二首
【題意】 「岡本宮御宇天皇」は、舒明天皇の飛鳥岡本宮と、斉明天皇の後の岡本宮との二代にわたっての称である。舒明天皇の紀伊国への行幸のことは、日本書紀に見えない。斉明天皇の紀伊国への行幸は、天皇の四年十月十五日、紀の温湯に幸し、五年正月三日に還幸されたことが日本書紀に出ている。巻二(一四一)「有間皇子」の歌の事件はその間のことであった。
1665 妹《いも》が為《ため》 吾《われ》玉《たま》拾《ひり》ふ 奥《おき》べなる 玉《たま》寄《よ》せ持《も》ち来《こ》 奥《おき》つ白浪《しらなみ》
爲妹 吾玉拾 奧邊有 玉縁持來 奧津白浪
【語釈】 ○妹が為吾玉拾ふ 「妹が為」は、京に置いて来た妻に、苞《つと》とするために。「玉」は、海岸にある美しい小石や貝。「拾ふ」は、「ひりふ」と「ひろふ」仮名書きがあり、「ひりふ」のほうが多い。○奥べなる玉寄せ持ち来 「奥べなる」は、沖のほうにある。「玉寄せ持ち来」は、下の「白浪」に命じた語。○奥つ白浪 沖の白浪よと、呼びかけたもの。
【釈】 妻の苞のために、吾は玉を拾っている。沖のほうにある玉を、寄せてここへ持って来よ。沖の白浪よ。
【評】 行幸に従駕して、平生の憧れである海辺へ行き、妹を思って、その愛玩する玉を拾うということは、当時の宮人としては理想的なたのしさであったろう。心は裕《ゆた》かに暢びやかで、調べもそれにふさわしいゆったりしたものである。「玉寄せ持ち来」という注文が不自然なものではなくなっている。謡い物とされる条件を具備している歌である。
1666 朝霧《あさぎり》に 濡《ぬ》れにし衣《ころも》 干《ほ》さずして ひとりや君《きみ》が 山道《やまぢ》越《こ》ゆらむ
朝霧尓 沾尓之衣 不干而一哉君之 山道將越
(198)【語釈】 ○朝霧に濡れにし衣 これは従駕の宮人の妻が、その夫の旅を思いやっての心で、当時の旅は、朝はきわめて早かったので、このような想像は自然だったのである。「朝霧」といっているのは、行幸の季節が十月だったからである。「干さずして」は、衣を干すのは妻のすることなので、妻がいないので干さずに着て。○ひとりや君が山道越ゆらむ 「ひとり」は、従駕としては事に合わない。妻が自身の立場から、我を離れて旅にいるの意でいっているもの。「や」は、疑問の係。「山道」は、大和から紀伊への途中の山で、道の難儀を思いやってのもの。
【釈】 朝霧に濡れた衣を、干す妻がいないので、そのままに着て、我を離れて一人で、君は山路の難儀な路を越すことであろうか。
【評】 従駕の夫を旅立たせた後の妻の心である。妻の立場に立って、従駕ということには触れず、「朝霧に濡れにし衣」と、夫の衣のことを思いやり、「山道越ゆらむ」といたわって思いやっているところ、実際に即した、行き届いた心であるが、全体としてはおおらかで、おちついて、艶を帯びている歌である。
右の二首は、作者《つくれるひと》未だ詳ならず。
右二首、作者未v詳。
大宝元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇の紀伊の国に幸《いでま》せる時の歌十三首
【題意】 「大宝」は、文武天皇の御代の年号。「太上天皇」は、御譲位後の天皇の尊称で、ここは持統天皇。「大行天皇」は、天皇崩御の後、いまだ謚号《しごう》を奉らない間の尊称で、ここは文武天皇である。この言い方は、元明天皇の朝の記録によったからであろう。なお持統、文武の両朝は、宮は同じく藤原宮であるから、宮号によっては言い難いので、このような言い方をしたのであろう。この行幸のことは、続日本紀、文武紀に、「大宝元年九月丁亥(十八日)、天皇幸2紀伊国1。冬十月丁未(八日)、車駕至2武漏温泉1。戊午、車駕自2紀伊1至」とある。なお巻一(五四)「大宝元年辛丑の秋九月 太上天皇紀伊国に幸しし時の歌」がある。また、巻二(一四六)「大宝元年辛丑 紀伊国に幸しし時 結び松を見る歌一首」があり、それは柿本人麿歌集の歌である。人麿も従駕したことが知られる。
1667 妹《いも》が為《ため》 我《われ》玉《》たま求《もと》む おきべなる 白玉《しらたま》寄《よ》せ来《こ》 おきつ白浪《しらなみ》
爲妹 我玉求 於伎邊有 白玉依來 於伎都白浪
【語釈】 ○我玉求む (一六六五)の「玉拾ふ」と異なっている部分。「拾ふ」のほうが直接で、「求む」は、知性的である。○白玉寄せ来 同じ(199)く上の「玉寄せ持ち来」と異なる部分。「白玉」は、鰒《あわび》玉。岸辺の小石の連想としての「玉」よりも、知性的である。「よせ来」は、「寄せ持ち来」の細かさと具象性とのないものである。
【釈】 京にいる妻の苞のために、我は玉を求めている。沖のほうにある鰒玉を寄せて来よ。沖の白浪よ。
【評】 上の歌の別伝である。上の歌は実際に即しつつ、情感に浸ってゆるやかにいっているのに、これは知性をまじえ、誇張を加えて、忙しくいっている。取材は同じであるが、一首の感味はかなり距離のあるものである。時代の差と、伝承者の気分の相違からくるのである。
右の一首は、上に見ゆること既に畢りぬ。但し歌の辞|小《すこ》しく換り、年代相違へり。因りて以ちて累ね載す。
右一首、上見既畢。但謌辞小換、年代相違。因以累載。
1668 白埼《しらさき》は 幸《さき》く在《あ》り待《ま》て 大船《おほふね》に 真梶《まかぢ》繁貫《しじぬ》き 又《また》かへり見《み》む
白埼者 幸在待 大船尓 眞梶繁貫 又將顧
【語釈】 白埼は幸く在り待て 「白埼」は、和歌山県日高郡由良町大引由良港の西北の岬である。「幸く」は、変わることなく、「在り待て」は、熟語で、待ち続けていよ。白埼を生あるものとして呼びかけてのもの。擬人ではなく、土地を生あるものとした上代信仰の脈を引いてのこと。○大船に真梶繁貫き 「真梶繁貫き」は、左右の艪を繁く取付けてで、官船を讃えていったもの。○又かへり見む 成句で、見飽(200)かない心をいったもの。
【釈】 白埼は変わらずに待ち続けていよ。大船に左右の艪を繁く取付けて、また立ち帰り見よう。
【評】 行幸に従駕した人の、白埼を遊覧して、帰りしなに詠んだ形のものである。「白埼は幸く在り待て」は、白崎に対しての賀である。「大船に真梶繁貫き」は、その人のその時に乗っていた官船の叙述で、自身よりも船のほうを重視し、こういう船に乗った人に訪われることは、白埼もさぞ光栄に感ずることだろうとの心からいっているもので、これまた白埼に対する賀である。「又かへり見む」は、自身の白埼に対する愛着で、かねて上の賀の心を総収したものでもある。一首、含蓄の多い心であるが、余裕をもって、さりげなくさわやかに詠んであるもので、高手を思わせる。「白埼は幸く」と畳音を用いているところなど、ことに巻一(三〇)人麿の「楽浪の志賀の辛崎幸くあれど」を思わせる。一首全体の心も、その歌に通うところがある。この歌を初めとして以下数首、作者が明らかではなく、それ以下との関係から推して、人麿歌集の歌ではないかといわれているものである。問題となりうる作である。
1669 三名部《みなべ》の浦《うら》 潮《しほ》な満《み》ちそね 鹿島《かしま》なる 釣《つり》する海人《あま》を 見《み》てかへり来《こ》む
三名部乃浦 塩莫滿 鹿嶋在 釣爲海人乎 見變來六
【語釈】 ○三名部の浦潮な満ちそね 「三名部の浦」は、和歌山県日高郡|南部《みなべ》町の海一帯の称。岩代より東南一里半である。なお、下の「鹿島」は、南部町|埴田《はねた》に属し、海上八町余の所にあり、郡中の勝地である。「潮な満ちそね」は、潮よ満ちるなよで、舟で鹿島へ渡ろうとして、満潮をおそれる心よりの呼びかけ。「ね」は、他に対しての願望の助詞。○鹿島なる釣する海人を見てかへり来む 鹿島にいる、釣をしている海人のさまを見て帰って来よう。
【釈】 三名部の浦は、潮が満ちてくれるな。鹿島にいる、釣をしている海人のさまを見て帰って来よう。
【評】 大和京の大宮人の海を珍しみ、海上近く見える鹿島へ渡り、海人の釣をするさまを見たいとの好奇心を起こしたが、さすがに海を怖れる心をもっての歌である。「潮な満ちそね」と、三名部の浦に訴え、「見てかへり来む」と、限度を付していっている点に、実際に即しての細かい心がある。軽い憧れであるが、その心躍りが調べとなって現われているために、立体感をもった、さわやかな歌となっている。軽くして満ちた、力量のある作である。
1670 朝開《あさびら》き 榜《こ》ぎ出《い》でて我《われ》は 湯羅《ゆら》の埼《さき》 釣《つり》する海人《あま》を 見《み》てかへり来《こ》む
(201) 朝開 滂出而我者 湯羅前 釣爲海人乎 見反將來
【語釈】 ○朝開き榜ぎ出でて我は 「朝開き」は、朝に船出する意の語。○湯羅の埼 和歌山県日高郡由良町の西十町余に由良港があり、その港の西北方に突出している岬。今、神谷崎《かんやざき》という。
【釈】 朝の船出をし、榜ぎ出して行って我は、湯羅の埼で釣をしている海人のさまを、見て帰って来よう。
【評】 海と海人の生活とに対する好奇心は、上の歌と同様で、行こうとする場所が異なっているだけである。「朝開き榜ぎ出でて我は」という続きは、相応に緊張した言い方であるが、その対象は、「釣する海人を見て」であって、好奇の心のいかに強かったかを具象化するためのものである。余裕ある心から自然に生み出した、特殊な技巧である。上の歌もこれも、「見てかへり来む」といっているのは、従駕の官人という意識から離れ得ないことを示しているもので、あくまで実際に即した心である。
1671 湯羅《ゆら》の前《さき》 潮《しほ》干《ひ》にけらし 白神《しらかみ》の 礒《いそ》の浦《うら》みを 敢《あ》へて榜《こ》ぐなり
湯羅乃前 塩乾尓祁良志 白神之 礒浦箕乎 敢而滂動
【語釈】 ○潮干にけらし 干潮となったのであろうで、下の「敢へて榜ぐなり」を照応させたもの。○白神の礒の浦みを 「白神」は、和歌山県有田郡湯浅町栖原にある栖原山を、白神山ともいうので、その山裾が自神の礒であるという。「礒」は、岩石より成る海岸。「浦み」は、「み」はあたり。○敢へて榜ぐなり 「敢へて」は、押しきってで、できないことを強いてする意。「榜ぐなり」は旧訓以来「榜ぎとよむ」とよまれてきていたが、佐竹昭広氏の訓により改められた。「動神」(巻七、一〇九二)を「なるかみ」と訓むことなどによっている。今はこれにしたがう。押しきって漕ぐことであるよ。これは、海岸寄りを漕ぐことになっている舟が、潮が引いて漕ぎにくくなったからである。
【釈】 湯羅の埼は、干潮になったのであろう。今、白神の礒の浦を漕ぎ進んでいるわが舟の舟人は、漕ぎにくいのを押しきって漕ぐことであるよ。
【評】 この歌は、不明なところをもったものである。一つは、「白神の礒」と「湯羅の埼」との地理的関係の不明であり、いま一つは、作者は白神の磯近い陸上にいて、榜ぐ舟を見ているのか、または自身その舟中にいるのかが不明なことである。これはいずれでも通ずるからである。いずれにもせよ「敢へて榜ぐなり」が一首の中心で、これは第三者として傍観して興味を感じるという性質のものではなく、また声調も緊迫しているところから、作者が実感として感じているものと思われる。それだと作者は舟中の人で、「白神の礒の浦み」は、発船地から湯羅の埼へ行く途中の地であることになる。そのように解すると、上(202)の歌と連作になっているものと思われ、事自体としてはさしたるものでもないのに、力を入れて詠んでいるのが自然なものとなってくる。力量の見える作で、前の二首と別手より出たものとはみえない。
1672 黒牛潟《くろうしがた》 潮干《しほひ》の浦《うら》を 紅《くれなゐ》の 玉裳《たまも》すそひき 行《ゆ》くは誰《た》が妻《つま》
黒牛方 塩干乃浦乎 紅 玉裙須蘇延 徃者誰妻
【語釈】 ○黒牛潟潮干の浦を 「黒牛潟」は、和歌山県海南市黒江船尾にある潟。「潮干の浦」は、大宮人の海草や魚介などを獲って遊ぶ格好の場所。○紅の玉裳すそひき 紅の裳の裾を曳いてで、女子の歩くさまをいう成句に近いもの。「玉」は美称。ここは従駕の女官である。○行くは誰が妻 歩いて行くのは誰の妻であろうぞと、その夫である人を羨《うらや》む心を通して、女官の美しさを讃えたものである。
【釈】 黒牛潟の潮干の浦を、紅の裳の裾を曳いて歩いて行くのは、誰の妻であろう。
【評】 潮干の浦へ出て遊んでいる従駕の女官を、同じく従駕の官人として、やや距離を置いて眺めていての心である。黒牛潟は和歌浦湾の一部で、海のきわめて美しい所で、それを背景としての女官の姿は画のごとく印象的であったろうと想像されるが、この歌はそれを「黒牛潟」の「黒」と「紅」との対照によって、それにも劣らずきわやかに鮮明に印象づけている。「行くは誰が妻」と、羨望《せんぼう》をとおして官能的にその美を暗示しているのは、きわめて巧妙である。一首全体として相応に官能的であるが、余裕をもって自然にいっているので、そうした歌に伴いやすい厭味がいささかもない、手腕ある作である。
1673 風莫《かぜなし》の 浜《はま》の白浪《しらなみ》 徒《いたづら》に ここに寄《よ》りくる 見《み》る人《ひと》なしに
風莫乃 濱之白浪 徒 於斯依久流 見人無
【語釈】 ○風莫の浜の白浪 「風莫の浜」は、所在が不明である。西牟婁郡瀬戸鉛山村(現、白浜町綱不知)とする説もあるが、訓は諸説があって定まらない上に、「莫」は誤写であろうとして、「暴」を当て、また「早」だともして、「かざはや」を主張している。舟人の地勢より名づけた称とすれば、「風早」と同じく、ありうる称である。○ここに寄りくる 「くる」は連体形で、係がなくて終止としているもので、例のあるものである。
【釈】 風莫の浜の白浪は、むだにここへ寄せて来ることであるよ。見て愛でる人もないのに。
【評】 風莫の浜の白浪の美観をたたえたものである。浜というので砂浜で、したがって浪の広く寄せて来る所であったろうと(203)思われる。「徒に見る人なしに」というのは、浪に対しては誇張にすぎるようであるが、いう人も聞く人も、いずれも海のない大和国の人々であるから、それが実感であったろう。自然の美観を愛で惜しむ心を、「見る人なしに」という語であらわしている歌は、集中に相応に多く、成句に近いものである。人間中心の心の意識的な現われと見られるものである。
一に云ふ、ここに寄り来も
一云、於斯依來藻
【解】 一本には、第四句が、このようになっているというのである。終止形で結び、詠歎を添えたもので、このほうが古風である。原形ではなかったか。
右の一首は、山上臣憶良の顆聚歌林に曰はく、長忌寸意吉麿《ながのいみきおきまろ》、詔に応《こた》へてこの歌を作るといへり。
右一首、山上臣憶良類聚謌林曰、長忌寸意吉麿、應v詔作2此謌1。
【解】 「類聚歌林」は、巻一(六)の左注に出た。「意吉麿」は、藤原宮時代の人で、歌才のすぐれた人である。「詔に応へて」は、たぶん持統天皇の詔があったので、天皇が風莫の浜を遊覧され、従駕の意吉麿に詔を下されたのであろう。上の「一に云ふ」は、類聚歌林をさしたものと思われる。
1674 我《わ》が背子《せこ》が 使《つかひ》来《こ》むかと 出《い》で立《た》ちし この松原《まつばら》を 今日《けふ》か過《す》ぎなむ
我背兒我 使將來歟跡 出立之 此松原乎 今日香過南
【語釈】 ○我が背子が使来むかと わが夫よりの使が来ようかと思って。○出で立ちしこの松原を 家を出て立って待ったこの松原を。○今日か過ぎなむ 「か」は、疑問の係。「過ぎなむ」は、通り過ぎるのだろうで、別れ去る意。
【釈】 わが夫からの使が来ようかと思って、家を出て立って待っていたこの松原を、今日は通り過ぎて行くのであろうか。
【評】 行宮《あんぐう》が移されるか、あるいは還幸になられるかで、思い出のまつわっている松原と別れをする日、ある女官が心の中で、ひそかに思ったことを詠んだ形の歌である。女官の宿っていた所は松原に接した所で、「出で立ちし」は他の女官の目を忍(204)ぶためのことであったろう。筋のとおっているという程度の歌 である。
1675 藤白《ふぢしろ》の み坂《さか》を越《こ》ゆと 白栲《しろたへ》の 我《わ》が衣手《ころもで》は 濡《ぬ》れにけるかも
藤白之 三坂乎越跡 白栲之 我衣手者 所沾清香裳
【語釈】 ○藤白のみ坂を越ゆと 「藤白のみ坂」は、海南市藤白から海草郡下津町へ越える山。旧熊野街道にあたっている。「み」は接頭語で坂を尊んで添えたもの。ここは、有間皇子の絞殺された名高い地である。○白栲の我が衣手は濡れにけるかも 「白栲の」は、枕詞。わが袖は濡れたことであるよを強くいったもの。
【釈】 藤白のみ坂を越すとて、わが袖は濡れたことであったことよ。
【評】 藤白の坂を越える時、旅情を詠んだ形のものである。衣や袖の濡れるのを甚しいことに感じ、「濡れにけるかも」という強い言葉をもってあらわしている歌は、集中に何首もある。この言葉が侘びしさをあらわすに最も適切なものと思われていたかにみえる。この歌も大体その範囲のもので、少なくともその形のものである。藤白の坂は有間皇子の絞殺された地である。事はこの時よりは四十余年前であるが、京からこの地に来た人は、感を新たにして、皇子を悲しむ歌を詠んでいる。この歌の作者もそれが胸に浮かんだことだろうと想像することは、むしろ自然である。この歌はその心をもって見れば、それとも取れるものである。一首の取材があまりにも単純で、しかも相応に強い感を詠んだものとみえるからである。表面は単なる旅情の形にし、皇子を悲しむ心をその旅情の中に溶かし込んでいるものと思われる。
1676 勢《せ》の山《やま》に 黄葉《もみち》常敷《つねし》く 神岳《かみをか》の 山《やま》の黄葉《もみち》は 今日《けふ》か散《ち》るらむ
勢能山尓 黄葉常敷 神岳之 山黄葉者 今日散濫
【語釈】 ○勢の山に黄葉常敷く 「勢の山」は、巻一(三五)に出た。和歌山県伊都郡かつらぎ町背の山にある。紀の川の右岸にある山で、大和国より紀伊国に行く要路にあたっている。「常敷く」は、絶えず散り敷いている。○神岳の山の黄葉は 「神岳の山」は、飛鳥の雷岳《いかずちのおか》で、飛鳥の神南備山《かむなびやま》であり、神岳の山とも呼んだ。この山は藤原京に近く、また信仰上きわめて尊まれてもいたので、当時の宮人には感銘の深い山である。○今日か散るらむ 「か」は、疑問の係。「らむ」は、現在の推量。
【釈】 背の山には黄葉が絶えず散り敷いている。神岳の山の黄葉は、今日頃は散っていることであろうか。
(205)【評】 背の山を越えながら、そこにたえず散っている黄葉を見 て、心を別れてきた京に寄せ、散るに間のないものと見てきたた神岳の山の黄葉も、今はこのように散っていようかと思いやったのである。旅愁であるが、妻には触れず、美しい自然の風物に寄せたもので、この時代としては文芸性の目立つ歌である。新しい風であったろうと思われる。
1677 大和《やまと》には 聞《きこ》えゆかぬか 大我野《おほがの》の 竹葉《たかば》刈《か》り敷《し》き 廬《いほり》せりとは
山跡庭 聞徃歟 大我野之 竹葉苅敷 廬爲有跡者
【語釈】 ○大和には聞えゆかぬか 「大和」は妻のいる家。旅愁をいうために、わざと遠くたよりない称に言いかえたもの。「聞えゆかぬか」は、 原文「聞徃歟」。何らかの語を補わないと一首が通じないものとなる。その点からいうと、打消の助動詞「ぬ」を補うのが最も自然である。このことは例の多いものである。聞こえてゆかないのかなあというのであって、聞こえてくれよと希望する意をもつもの。○大我野の竹葉刈り敷き 「大我野」は、和歌山県橋本市の東家《とうけ》、市脇あたりだったという。いわゆる相賀台《おうがだい》の地。「竹葉刈り敷き」は、下の「廬」の状態で、床《ゆか》の代わりに竹の葉を刈って敷いていることをいったもの。○廬せりとは 仮小屋を作って、寝るとはで、上代の旅として、従駕の人でも身分の低い者には普通のことであった。
【釈】 大和の妻に、この有様が聞こえていってくれぬかなあ。大我野の竹の葉を刈って敷いて、廬をしているということは。
【評】 行幸の従駕とはいっても、身分高い少数の人は別格、その他の者は行く先々で、夜は小屋がけをして寝たのである。この作者は大我野で一夜それをし、竹あるいは笹の葉を床代わりに敷いて円寝をし、その佗びしさから京の妻を思い出しての心である。場合がら何とも言いようもないところから、せめてこの侘びしさを妻から知ってもらいたいものだと思ったのである。「竹葉刈り敷き」は、作者としては侘びしさの具体化としていっているのであるが、実際に即しているところから、新味のあるものとなっている。一首としても、訴えの気分のよくまとまった、味わいのあるものである。
1678 紀《き》の国《くに》の 昔弓雄《むかしゆみを》の 響矢《なりや》用《も》ち 鹿《しか》取《と》り靡《な》べし 坂《さか》の上《うへ》にぞある
木國之 昔弓雄之 響矢用 鹿取靡 坂上尓曾安留
【語釈】 ○紀の国の昔弓雄の 「紀の国」は、下の「弓雄」の住地としていっているものであるが、紀の国にも聞こえしの意で、讃えの意をもたせ、そのほうを主としているもの。「昔」は、昔のの意。「弓雄」は、ここよりほかには用例のない語である。文字によって見れば、弓取の意と取れる。(206)昔の猟は、弓矢をもってしたのであるから、猟夫ということを具象的にいった語と解される。○響矢用ち 音響を発するかぶら矢をもって。巻十六(三八八五)鹿を狩る状態を叙した歌に、「ひめ鏑《かぷら》八つ手挟《たばさ》み」とあり、鹿を射るには鏑矢《かぶらや》を用いたものとみえる。○鹿取り靡べし坂の上にぞある 「取り靡べし」は、獲《と》り靡《なび》かせたで、さかんに獲ったというにあたる。「坂の上にぞある」は、ここはその坂の上であるの意で、その土地に伝わる話を聞き、その境に立つての感歎である。
【釈】 紀の国の昔の猟夫が、鏑矢をもって鹿を獲り靡かせた、ここはその坂の上であることよ。
【評】 従駕の一人が、いずれかの山地の部落で、昔その地に甚だすぐれた猟夫があり、一人で多くの鹿を獲りつくしたことがあったと聞かされ、ここがその場所だという坂の上に立っての心である。この種の武勇談は一般的興味の強いもので、その土地では土地の誇りとして語り継ぐのが普通で、これもそれであろう。取材としては珍しいものであるが、実際に即する心をもっていた当時であるから、旅の歌としてこういうもののあるのはむしろ当然といえる。
1679 紀《き》の国《くに》に 止《や》まず通《かよ》はむ 妻《つま》の社《もり》 妻《つま》寄《よ》し来《こ》せね 妻《つま》といひながら
城國尓 不止將徃來 妻社 妻依來西尼 妻常言長柄
【語釈】 ○紀の国に止まず通はむ この紀の国に、大和から絶えず通って来ようで、その理由を下でいっている。○妻の社 妻という地にある森。妻は、和歌山県橋本市妻にある森。また、海草郡西山東村平尾(現在、和歌山市に入る)は、『和名類聚抄』の郷名に「都麻《つま》」とある地で、そこかともいう。妻という地名は諸所にあるものである。「社」は森で、神霊の宿る所として、森がすなわち社だったのである。呼びかけ。○妻寄し来せね 「寄し」は、寄せる。「来せ」は、他動詞下二段活用「来す」の未然形。「ね」は希望をあらわす助詞。○妻といひながら 「ながら」は、巻二(一九九)「皇子《みこ》ながら任《よさ》したまへば」と同じ。妻というその名のままに。物は名のとおりの力を有しているという信仰があった。
【釈】 紀伊国へ止まずに通おう。妻の森よ、妻を寄せて下されよ。妻というのであるから。
【評】 紀伊国へ旅をして、妻の森のあたりを通行する時、妻の森という地名に興味を感じ、物の名はその名のとおりの力をもっているものだといわれているところから、明るい戯れ心で詠んだ歌であろう。同行の者があって、謡って聞かせて共に明るく笑ったというような歌と思われる。三、四、五句とも、妻という語を入れて繰り返していることがそれを思わせる。物の名に対する信仰の上に立っての歌で、それによって一首が成り立っているのであるから、全然戯れとはいえないものであるが、その信仰が力あるものであったら、こうした詠み方は同時にできないものである。戯れに近いものというべきである。
(207) 一に云ふ、妻賜はにも 妻と云ひながら
一云、嬬賜尓毛 嬬云長良
【解】 妻を賜わりたいものだ、妻という名のままに、「にも」は「なも」に同じ。「に」は願望の助詞。
右の一首は、或は云ふ、坂上|忌寸人長《いみきひとをさ》が作れりと。
右一首、或云、坂上忌寸人長作。
【解】 「人長」は、伝未詳。
後《おく》れたる人の歌二首
【題意】 「後れたる人」は、従駕の夫に残されて、京にいる人で、すなわちその妻である。
1680 麻裳《あさも》よし 紀《き》べ行《ゆ》く君《きみ》が 信士山《まつちやま》 越《こ》ゆらむ今日《けふ》ぞ 雨《あめ》な零《ふ》りそね
朝裳吉 木方徃君我 信士山 越濫今日曾 雨莫零根
【語釈】 ○麻裳よし紀べ行く君が 「麻裳よし」は、紀の枕詞。「紀べ」は、紀の国の方面。「君」は、夫。○信士山越ゆらむ今日ぞ 「信土山」は、大和国と紀伊国の国境の山で、巻一(五五)、巻三(二九八)、巻四(五四三)に既出。「ぞ」は終助詞。○雨な零りそね 雨よ降ってはくれるなで、「ね」は、他に対する願望。
【釈】 紀伊の方面へ行く君が、信土山を越えるだろう今日であるよ。雨よ降ってはくれるな。
【評】 行幸は九月下旬であるから、「雨」を憂うるのは、実際に即してのことである。純情のおおらかに現われている歌である。
1681 後《おく》れ居《ゐ》て 吾《わ》が恋《こ》ひ居《を》れば 白雲《しらくも》の 棚引《たなび》く山《やま》を 今日《けふ》か越《こ》ゆらむ
後居而 吾戀居者 白雲 棚引山乎 今日香越濫
(208)【語釈】 ○後れ居て我が恋ひ居れば 「居れば」は、居るにと同意のもの。○白雲の棚引く山を 雲の靡きわかっているところの山をで、「山」は、上と同じく信土山と取れる。夫との隔たりを感じる心からの言い方である。○今日か越ゆらむ 今日は夫が越すであろうかで、上の意を強めたもの。
【釈】 後に残って、我は恋うているに、夫は白雲の靡きかかっている高い山を、今日は越えるのであろうか。
【評】 上の歌は夫の上だけを思っているものであるが、これはむしろ、自身のほうを主としているものである。信土山を「白雲の棚引く山」と感じるのも、その心ざみしさからであり、「今日か越ゆらむ」もそれである。前の歌には老成した妻の心が現われているのに、これには若々しい妻の心が現われている。純情のものであることは同じである。
忍壁皇子《おさかべのみこ》に献《たてまつ》れる歌一首 仙人《やまびと》の形《かた》を詠める
【題意】 この歌を初めとして、以下二十八首の歌に対し、左注として、「右柿本朝臣人麿の歌集に出づる所」と断わってある。そのうち三首だけは作者の名があるが、他はすべてないのである。「右」という語は、それについで歌数があれば、事はきわめて明瞭であるが、ないので、「右」は、右の一首であるか、あるいは全体であるかを疑わせる余地のあるものである。この語の用例から見ると、一首の場合は、上の歌のごとく、「右の一首は」というようにいっているのであるから、全体に対して用いたものと解せる。加えて、この巻は、上の行幸の従駕の歌のごとき、事の性質の特別なものだけは例外として、その他はすべて、作者の明らかな歌を集めることを建前としている巻であり、その確かめ難いものは「某の歌集に出づ」として、その出所を明らかにしている。ここもそれであるが、編者は人麿の歌と認めていたと見え、この一連に続く(一七一〇−一一)に対しては、「右の二首、或は云ふ、柿本朝臣人麿の作」というがごとく、「或は云ふ」を添えてその間の差別を明らかにしているのである。すなわち二十八首のうち三首を除いての二十五首は、編者は人麿の歌と認め、左注によって、そのことを明らかにしたとしているものに思われる。さらにまた、編者は人麿歌集の歌に対しては特別の扱いをし、その原形を変えまいとする用意をもっていたとみえる。そのことは巻七所載の人麿歌集の歌に対してもすでに見えていて、他人の歌には施している分類をせず、原形のままに載せていたのであるが、ここにも同様の用意をもって臨み、人麿歌集中にある人麿以外の人の作をも、その歌集にあるがままに載せ、また、同じ題詞の歌で、二か所に分けてあるものも、そのままに載せるという慎重な態度を取っているのである。ここにある題詞は、人麿歌集のものと思われる。さらにまた、人麿歌集の歌は他人の作をもまじえたものとされているが、他人の作はここに見るごとく一々断わっているのであるから、作者名のない歌は人麿の歌と見るべきであることを示しているといえる。「忍壁皇子」は、巻二(一九四)に出た。天武天皇の第九皇子で、慶雲二年五月に薨じた。国史の編纂、大宝律令の制定にも関係されている人で(209)ある。「仙人の形」は、「仙人」は、道教でいう仙術を得て山に住む人。「形」は、絵である。皇子の殿にそうした絵があり、それに題する意で詠んで、興として献じたものとみえる。
1682 常《とこ》しへに 夏冬《》なつふゆ行《ゆ》けや 裘《かはごろも》 扇《あふぎ》放《はな》たぬ 山《やま》に住《す》む人《ひと》
常之倍尓 夏冬徃哉 裘 扇不放 山住人
【語釈】 ○常しへに夏冬行けや 「常しへに」は、永久に。「夏冬行けや」は、「夏冬」は、夏と冬とが。「行けや」は、進行するのであろうかで、疑問条件法。永久に夏と冬とが進行している国なのかと、四季のうち二季のみの国なのかと訝かったもの。○裘扇放たぬ 仙人の服装をいったもので、身には裘を着、手には扇を持って、どちらも放さずにいる意。これは今も天狗の絵などに見る形である。「裘」は冬の物、扇は夏の物である。○山に住む人 仙人は山に住むとされているところからのもの。
【釈】 永久に夏と冬とが進行しているのであろうか。冬の裘と夏の扇とを放さない。この山に住む人は。
【評】 神仙道は持統天皇の御製にも出ていて、この時代には、上流の知識階級にはかなりなまでに浸潤していたと思われる。学問に長《た》けていた皇子の殿に、仙人の絵があったというのも、その間の消息を語るものであろう。人麿のこの作は、皇子の興を買おうとしての即興で、それ以上のものではない。しかしこの歌には仙人を尊ぶ心は全くなく、訝かしい人として見ている心のみである。のみならず山に繞らされている大和の地形は、夏冬は凌ぎにくい厭わしい季節で、春と秋とによって救われていたのである。その地にあって、裘と扇とを離さずに持っている仙人の生活は、けっして羨むべきものではない。この歌はその点だけを捉えていっているもので、むしろ仙人を斥けている心のものである。そこに人麿の神仙道に対する態度がみえるのであるが、こうした歌を皇子に献じるということは、人麿の皇子に対する態度をも示しているものといえる。
舎人皇子に献《たてまつ》れる歌二首
【題意】 「舎人皇子」は、巻二(一一七)に出た。天武天皇の第三皇子。養老四年知太政官事。天平七年十一月薨じ、太政大臣を贈られた。淳仁天皇の御父である。皇子の知遇をこうむったのも、忍壁皇子と同じ事情よりとみえる。
1683 妹《いも》が手《て》を 取《と》りて引《ひ》きよぢ ふさ手折《たを》り 吾《あ》が挿《かざ》すべき 花《はな》咲《さ》けるかも
(210) 妹手 取而引与治 ※[手偏+求]手折 吾刺可 花開鴨
【語釈】 ○妹が手を取りて引きよぢ 「妹が手を取りて」は、引き寄せると続き、同意の「引きよぢ」に転じて、その序詞としたもの。「引きよぢ」は、引き寄せる意で、既出。○ふさ手折り 原文「※[手偏+求]手折」は古くから「うち手折り」と訓まれてきたが、『寧楽遺文』に「腕」のことを「手※[手偏+求]」としているものがあり、「腕」は「たぶさ」と訓めるので、「※[手偏+求]」を「ふさ」と訓むべきであるとした竹岡正夫氏の説に従う。「ふさ」はふさふさとの意。巻十七(三九四三)に「布佐多乎里家流」の仮名書き例、巻八(一五四九)に「総手折」の用例がある。○吾が挿すべき花咲けるかも 「挿すべき花」は、かざしとするべき花で、何の花ともわからないが、眼前の花を挿したものと取れる。
【釈】 妹の手を取って引き寄せる、それに因《ちな》みのある、引き寄せてふさふさと手折って、わがかざしとするべき花が咲いたことである。
【評】 歌から見て、宴席の興として詠んだものだろうと思われる。宴席の装飾として、その時の花を挿花とする風があり、また宴席の風として花をかざしにしたのであるが、その席上の花を折って用いることも許されていたのである。この歌は、そうした宴席にある花をかざしとしようとして詠んだものとみえる。それとしては儀礼の心のあらわでないものであり、加えて「妹が手を取りて」の序詞によって、その場合にふさわしい興を添えようともしているものである。卑下せず、興にすぎず、ある地歩を占めて喜びの心をあらわしているという、宴歌としてはむしろ珍しいものである。人麿という人を思わせるところがある。
1684 春山《はるやま》は 散《ち》り過《す》ぎぬとも 三輪山《みわやま》は 未《いま》だ含《ふふ》めり 君《きみ》待《ま》ちかてに
春山者 散過去鞆 三和山者 未含 君待勝尓
【語釈】 ○春山は散り過ぎぬとも 「春山は」は、下の三輪山に対させたもので、花の咲く春の山のすべては。「散り過ぎぬとも」は、花が散りおわったとしても。○三輪山は未だ含めり 「三輪山」は、しばしば出た。「含めり」は、蕾んでいる。○君待ちかてに 「かて」は、可能の意の動詞。「に」は、打消の助動詞「ず」の連用形。君を待ち得ずして。
【釈】 春山はすべて散り過ぎたにしても、三輪山の花は、まだ蕾んでいる。君を待ち得ずして。
【評】 皇子に三輪山の花の遊覧をお勧め申した心のものである。三輪山は皇室守護の畏い神の山で、その山の花が、皇子の御来覧を待って咲かずにいるという心でいっているのである。これは人麿の平常の心で、いわゆる常の心をもっていっているものと思われる。
(211) 泉河《いづみがは》の辺《ほとり》にて間人《はしひとの》宿禰の作れる歌二首
【題意】 「泉河」は、木津川であり、しばしば出た。「間人宿禰」は、名は略されている。伝は未詳である。人麿の筆録してあった歌であるが、その意は知れない。
1685 河《かは》の瀬《せ》の 激《たぎ》つを見《み》れば 玉《たま》もかも 散《ち》り乱《みだ》れたる 川《かは》の常《つわ》かも
河瀬 激乎見者 玉鴨 散乱而在 河常鴨
【語釈】 ○河の瀬の激つを見れば 河の瀬の泡立って流れるさまを見れば。○玉もかも散り乱れたる 旧訓「たまもかもちりみだれてある」。『全註釈』の訓。次の歌の連作と見ての訓である。「かも」は、疑問。○川の常かも この河の平常のさまなのか、の意。
【釈】 河の瀬の泡立って流れるさまを見ると、玉が散り乱れているのであろうか。それとも、これがこの河の平常なのであろうか。
【評】 木津川の豊かな水流が、山河のさまをあらわし泡立って流れているのに対して、驚歎しての心である。「常かも」と疑っているのは、その川を初めて見たからの感で、強い感動はそのためのものである。
1686 彦星《ひこぼし》の 頭挿《かざし》の玉《たま》の 嬬恋《つまごひ》に 乱《みだ》れにけらし この河《かは》の瀬《せ》に
孫星 頭刺玉之 嬬戀 乱祁良志 此河瀬尓
【語釈】 ○彦星の頭挿の玉の 「彦星」は、七夕の牽牛星。「頭挿の玉」は、天人のこととて、玉の着いた頭挿をしていると想像してのこと。○嬬(212)恋に乱れにけらし 「嬬恋」は、棚機つ女を、その逢い難さから恋うる意。「乱れにけらし」は、「に」は、完了で、乱れ散ったのであろう。
【釈】 彦星の頭挿の玉が、嬬恋の嘆きのために、乱れて散り落ちたのであろう。この河の瀬に。
【評】 上の歌と連作となっているもので、水の泡立ち流れるのを玉と見ただけでは心足らず、玉としても地上の物ではなく天上の物であるとし、彦星の嬬恋の嘆きを連想したのである。その時が秋で、七月七日に近い時であったためであろう。こうした空想は人麿の歌にも多く、その時代の風だったのである。
鷺坂にて作れる歌一首
【題意】 「鷺坂」は、京都府久世郡城陽町久世で、久世神社のある坂の名。大和から近江へ行く街道にあたる。
1687 白鳥《しらとり》の 鷺坂山《さぎさかやま》の 松影《まつかげ》に 宿《やど》りて行《ゆ》かな 夜《よ》も深《ふ》けゆくを
白鳥 鷺坂山 松影 宿而徃奈 夜毛深徃乎
【語釈】 ○白鳥の 意味で鷺にかかる枕詞。○宿りて行かな 「な」は、自身に対する希望。旅の途中として、行く先を念頭に置いての語。○夜も深けゆくを 「も」は、詠歎。夜が更けてゆくものをで、夜道をしてのこと。
【釈】 この鷺坂山の松の下陰に宿って行くとしようよ。夜が更けて行くものを。
【評】 大和と近江との間の街道を、夜道をしていた時の心である。きわめて平静な態度でいっているのと、「白鳥の鷺坂山の松影」という、語感の清らかなものを言い続けているので、その語感に心惹かれて、夜道を続けようと思っていたのを、ふとそこで宿る気になったとみえる。「行かな」といい、「夜も深けゆくを」と弁明するごとくいっているのも、明らかにその心動きを示している。人麿の心の機微をうかがわしめる作である。目立たないが、優れた作である。
名木河《なぎがは》にて作れる歌二首
【題意】 「名木河」は、『和名類聚抄』に、「山城国久世郡那紀」とある地であり、今の宇治市伊勢田町の辺かという。
1688 ※[火三つ]《あぶ》り干《ほ》す 人《ひと》もあれやも 濡衣《ぬれぎぬ》を 家《いへ》にはやらな 旅《たぴ》のしるしに
(213) ※[火三つ]干 人母在八方 沾衣乎 家者夜良奈 羈印
【語釈】 ○※[火三つ]り干す人もあれやも 「※[火三つ]り干す」は、火にあぶって乾かすで、下の「濡衣」である。「人」は、そうしたことをするのは妻であるから、その意でいっているもの。「あれやも」は、「やも」は反語で、あろうか、ありはしないと強くいったもの。濡衣をあぶって干してくれる人がいようか、いはしない。○濡衣を家にはやらな 「濡衣」は、雨に濡れた衣。「家にはやらな」は、妻の許へやりたい。○旅のしるしに 旅の佗びしさのしるLとしての意。
【釈】 火にあぶって乾かしてくれる者があろうか、ありはしない。雨に濡れた衣を妻の許に届けてやりたい。旅の侘びしさのしるしとして。
【評】 旅中、雨にあって、着ている衣の濡れた時、その侘びしさから妻を恋しく思い、甘え訴える心から、この侘びしさを示すために、この濡衣をこのまま家に届けてやりたいと思ったのである。事としてはどれほどでもない、いささかなものであるが、粘り強く、心をこめて、情痴に近いまでの言い方をしているものである。人麿という人を思わせる。なお題詞には、「二首」とあるが、次の歌は「名木河」での作ではなく、ここに何らかの錯誤がある。しかるに、(一六九六)の題詞には、「名木河にて作れる歌三首」とあり、取材はこの歌と明らかに繋《つな》がりがあり、しかも連作となっているものである。編者は資料としての人麿歌集には手を加えていないとみえるから、人麿歌集がすでにこのようになっていたものと思われる。
1689 ありそ辺《べ》に 著《つ》きて榜《こ》がさね 杏人《からひと》の 浜《はま》を過《す》ぐれば 恋《こほ》しくありなり
在衣邊 著而榜尼 杏人 濱過者 戀布在奈利
【語釈】 ○ありそ辺に著きて榜がさね 「ありそ辺」は、荒磯辺で、岩石の現われている海岸。「著きて榜がさね」は、接近して榜ぎなさいで、「榜がさね」の「さ」は敬語、「ね」はあつらえの助詞である。○杏人の浜を過ぐれば 「杏人」は、他に用例のない語で、旧訓。諸注、誤写説を立て、また改訓を試みてもいる。杏は「からもも」で、その下略としての旧訓である。旧訓に従う。○恋しくありなり 助動詞「なり」は、古くは動詞の終止形を受けた。
【釈】 荒磯辺に接近させて舟をお榜ぎなさい。杏人の浜を榜ぎ過ぎて行くので、恋しい気がする。
【評】 たぶん、琵琶湖を舟行している時の作で、舟子にいった言葉を歌の形にしたものである。「杏人の浜」が不明であるために、一首がはっきりしない。『考』は、「杏」を、「唐」の誤写ではないかとしている。誤写はとにかく、意としてはそれで、(214)帰化人の称ではないかと思われる。それだと、そうした人の住んでいる浜を、「杏人の浜」と呼ぶことは自然なことで、また当時の帰化人は、学問伎芸をもっている者が多く、公からも尊重されていたので、人麿がそうした人の住んでいた地に対して漠然たる憧れを抱き、「恋しく」といったとすれば、これまたありうることに思える。舟子に対して敬語を用いるのは、その舟が身分ある人の物であれば、ありうることである。人麿が解し難い歌を詠むはずはないが、旅の歌で、その土地の人事的事情の実際に即していっているために難解となったのだと思われる。
高島にて作れる歌二首
【題意》 「高島」は、近江国の郡名(現在の滋賀県高島郡)。琵琶湖の西岸である。
1690 高島《たかしま》の 阿渡川波《あとかはなみ》は 騒《さわ》けども 吾《われ》は家《いへ》思《おも》ふ 宿《やどり》かなしみ
高嶋之 阿渡川波者 驟鞆 吾者家思 宿加奈之弥
【語釈》 ○阿渡川渡は 「阿渡川」は、今の安曇《あずみ》川で、東流して琵琶湖に入る。阿渡川の波は。○宿かなしみ 「宿」は、宿っているところ。「かなしみ」は、悲しんで。旅寝の佗びしさに感傷して。
【釈】 高島の阿渡川の川波は、騒いでいるけれども、われは妻のいる家を思っている。旅の宿りを悲しんで。
【評】 周囲の騒がしさに刺激されて、かえって心中にさみしさを深めるという、心理の微妙な境を捉えたものである。巻二(一三三)「小竹《ささ》の葉はみ山もさやにさやげどもわれは妹思ふ別れ来ぬれば」と、心理を同じゅうしている。それに較べると沈痛な味がないのは年齢の若さのさせることである。しかし優れた調べである。
1691 客《たび》なれば 三更《よなか》を指《さ》して 照《て》る月《つき》の 高島山《たかしまやま》に 隠《かく》らく惜《を》しも
客在者 三更刺而 照月 高嶋山 隱惜毛
【語釈】 ○三更を指して照る月の 「三更」は、夜半。「指して」は、向かってで、月光のますます光を増してくる時としていっているもの。「三更《よなか》」を地名とする説もある。○高島山に隠らく惜しも 「高島山」は、その名が伝わっていないので、今の何山かわからない。「高島」の地の西方、(215)岳山を主峰とする連山とする説がある。「隠らく」は、隠るの名詞形で、隠れること。中天になろうとする月の、山に隠れるということは、見る人の位置によって起こることで、山裾に接したところにいれば、起こりうることである。実際に即して詠んでいるのである。
【釈】 侘びしい旅であるので、夜半に向かってますます照らしてくる月の、高島山に隠れることの惜しさよ。
【評】 侘びしい旅の夜では月がせめてもの慰めであるのに、それの早くも隠れるのを嘆いた心である。夜中になろうとする月が、山に隠れるということは、月を中心とすれば不自然なことになるが、見る人を中心とすればありうることで、ここはそれである。自身の実際に即していっている歌である。調べが張って、感となっている。
紀伊の国にて作れる歌二首
1692 吾《わ》が恋《こ》ふる 妹《いも》はあはさず 玉《たま》の浦《うら》に 衣《ころも》片敷《かたし》き ひとりかも寐《ね》む
吾戀 妹相佐受 玉浦丹 衣片敷 一鴨將寐
【語釈】 ○妹はあはさず 「あはさず」は、逢わずの敬語。女に対しての慣用のもの。○玉の浦に衣片敷き 「玉の浦」は、和歌山県東牟婁郡、那智山の下の粉白浦より、十町ばかり西南にある地といい、また、下里町の浦神湾ともいい、不明である。「衣片敷き」は、自身の片袖を下に敷く意で、独寐《ひとりね》を具象的にいったもの。○ひとりかも寐む 「かも」の「か」は疑問、「も」は詠歎。
【釈】 わが恋うている妹は、逢っては下さらない。この玉の浦に、わが片袖を下に敷いて、独寐をすることであろうか。
【評】 「吾が恋ふる妹はあはさず」という言い方は、以前に関係があって、その地に行ったらば逢おうと予期していた女とみえる。その予期に反した嘆きを、直写したものである。語が美しく艶があり、調べも張っているので、魅力のあるものとなっている。すぐれた手腕である。
1693 玉匣《たまくしげ》 あけまく惜《を》しき あたら夜《よ》を 袖《ころもで》離《か》れて ひとりかも寐《ね》む
玉匣 開卷惜 ※[立心偏+(メ/広)]夜矣 袖可礼而 一鴨將寐
【語釈】 ○玉匣あけまく惜しき 「玉匣」は、しばしば出た。「玉」は、美称。「匣」は、櫛笥。開けと続いて、明けの枕詞。「あけまく」は、「明けむ」の名詞形。夜の明けること。○あたら夜を 惜しい夜を。○袖離れて 妹が袖を離れてで、共寐をせずして。
(216)【釈】 夜の明けることの惜しい、このあたら夜を、妹が手枕をせずして独寐をすることであろうか。
【評】 上の歌と連作である。初句より三句までの美しさは、上の歌と同様である。後年の人麿のこの種の歌にまつわりがちな暗さがなく、嘆きをも楽しんでいるかのごとき趣がある。年齢の若かったためと思われる。
鷺坂にて作れる歌一首
1694 細領巾《たくひれ》の 鷺坂山《さぎさかやま》の 白《しら》つつじ 吾《われ》ににほはね 妹《いも》に示《しめ》さむ
細比礼乃 鷺坂山 白管自 吾尓尼保波尼 妹尓示
【語釈】 ○細領巾の 「細」は、栲《たく》に当てた字。栲の領巾の意で、その白く細いところが、鷺の頭にある白く長い毛に似ているので、その意で、鷺の枕詞。○吾ににほはね 「にほふ」は、色に現われる意で、ここは、花と開く意。「ね」は、他に対しての願望で、わがために咲き出てくれよ。○妹に示さむ 「妹」は、家にいる妹で、苞として持ち帰って示そう。
【釈】 栲の領巾をしているごとき鷺坂山の白つつじは、花と咲き出てくれよ。そしたら苞として妹に示そう。
【評】 京への帰路、鷺坂山で、咲くに間のない白つつじを見て、家に待っている妹につながりをつけた心である。何ほどでもないことが、人麿の情感によって生かされ、じつに豊かな美しい歌となっている。「吾ににほはね」というのは、事としては無理なものであるが、この歌にあっては自然な、しかも魅力あるものとなっている。高手というべきである。
泉河にて作れる歌一首
1695 妹《いも》が門《かど》 入《い》り泉河《いづみがは》の 床《とこ》なめに み雪《ゆき》残《のこ》れり 未《いま》だ冬《ふゆ》かも
妹門 入出見川乃 床奈馬尓 三雪遺 未冬鴨
【語釈】 ○妹が門入り泉河の 「妹が門入り」は、「出づ」と続き、「出づ」を「泉河」の「いづ」に転じての七音の序詞。「泉河」は、上に出た。○床なめに 「床なめ」は、巻一(三七)に出た。「床」は、上面の平らな床《とこ》のような大岩。「なめ」は、滑らかになっている。○み雪残れり 雪が消え残っているで、そうした所の雪は、いつまでも残っているのが常である。「み」は、接頭語。○未だ冬かも まだ冬なのであろうかと、春(217)にあって訝《いぶ》かって見た意。
【釈】 妹が門を入り出でするに因みある、泉河の床なめには、雪が消えずに残っている。まだ冬なのであろうか。
【評】 泉河の床なめにあるいささかの残雪に対する感である。「妹が門入り」という七音の序詞は、旅にあって妹を思う心を絡ませたもので、旅愁を隠微にあらわしているものである。一首全体としても、いささかの景が詠み生かされて、豊かなものとなっている。
名木河にて作れる歌三首
【題意】 「名木河」は、上に出た。この三首の歌は、連作という中でも、きわめて緊密な連絡をもっているもので、一首の独立性を軽く見、三首によって一つの心をいおうとするがごときものと思われる。なおこの三首は、上の(一六八八)「※[火三つ]り干す人もあれやも」につながっている。
1696 衣手《ころもで》の 名木《なぎ》の川辺《かはべ》を 春雨《はるさめ》に 吾《われ》立《た》ち濡《ぬ》ると家《いへ》念《おも》ふらむか》
衣手乃 名木之川邊乎 春雨 吾立沾等 家念良武可
【語釈】 ○衣手の名木の川辺を 「衣手の」は、枕詞であるが、続きは定解がない。袖が穢《な》えて和《な》ぐ意の和《な》ぎを、同音で名木に続けたという解が穏やかである。○家念ふらむか 家の者は思っているだろうかで、「か」は、疑問。
【釈】 衣手の和ぎという名木川の川辺を、春雨に自分が立ち濡れていると、家の者は思っているであろうか。
(218)【評】 適当な雨着のなかった時代とて、雨にあうことを甚しくも佗びしいこととしていた歌は集中に多い。これは旅であり、ことに春雨であるから、さらに侘びしく感じたことであろう。その佗びしさをせめて妻から察してもらいたいと思い、どうであろう、知っていてくれるだろうかと思った心である。若い心よりの感傷である。単純に直叙したものであるが、一首の調べがしみじみとしていて、その感をあらわしている。「衣手の」という枕詞は、続きには多少の不安があるが、「吾立ち濡ると」につながりがあって、これも感を強めるものとなっている。
1697 家人《いへびと》の 使《つかひ》なるらし 春雨《はるさめ》の よくれど吾《われ》を 濡《ぬ》らす念《おも》へば
家人 使在之 春雨乃 与久列杼吾等乎 沾念者
【語釈】 ○家人の使なるらし 「家人」は妻で、妻よりの使であるらしいと、春雨を推量したのである。自然界の鳥をはじめ、風や雲に使を想像した時代なので、その範囲のものであるが、しかし春雨は珍しいものである。○よくれど吾を濡らす念へば 「よく」は避《よ》くで、現在も口語に用いる。避けるけれども我にまつわって濡らすことを思うと。
【釈】 家の妻の使であるらしい。この春雨の、避けるけれども、我にまつわって濡らすことを思うと。
【評】 上の歌の連作で、独立させては通じ難いおそれのある歌である。上の歌で、「家念ふらむか」と思いやって歌っているのであるが、その線に沿っての飛躍をし、春雨を家人の使であるらしいと推量したのである。その推量の土台となるのは、「よくれど吾を濡らす」で、目にも留まらない細かい雨のまつわり着くがごとく、避けるけれどいつかわが身を濡らしていることによってである。無論感傷の昂じたうえでの空想であるが、明るく、相応にしつこいところのある人麿の情感は、それを当然な、常凡なこととして、安易な、軽い態度でいっているのである。理としてはついて行きがたいものであるにもかかわらず、一首の歌として読むと、そうは思わせない、自然な心理のごとく感じさせるところのある歌である。連作であるためにとおる心である。
1698 ※[火三つ]《あぶ》り干《ほ》す 人《ひと》もあれやも 家人《いへびと》の 春雨《はるさめ》すらを 間使《まづかひ》にする
※[火三つ]干 人母在八方 家人 春雨須良乎 間使尓爲
【語釈】 ○※[火三つ]り干す人もあれやも 濡れた衣をあぶって干す人がいるのだろうか、いはしないで、「やも」は、反語。○春雨すらを間使にする(219)「春雨すらを」は、春雨のようなものまでもの意で、本来、心のないものとしての言。「間使」は、双方の間に立つ使。
【釈】 わが濡れた旅衣を、火にあぶって乾す人もいようか、いはしない。それをわが家の妻は、春雨のようなものまでも使としてよこして、われを濡らすことであるよ。
【評】 上の二首は、春雨を確かに妻よりの使だと解し、懐かしんでいる心をいったものであるが、ここでは恨みをまじえてきて、その春雨に濡れたあとの佗びしさをいっているのである。しかしこの侘びしさは、甘え訴える心よりいっているもので、旅愁の範囲のものである。三首全く内面的な、気分のものであるが、実際に即してのものであるために、その気分も境も伝え得ているものである。人麿の抒情的な傾向と、その関係においての立体的な詠み方とが春雨という微細なものを取材として、繊細にあらわされているもので、その面を濃厚に示している連作である。人麿の連作は、そのあるものは、どの程度まで意識して試みているかを疑わせるものもあるが、この三首は、その意識のいかに徹底していたかをも示しているものである。なお上の(一六八八)は、この歌に接して結尾をなす関係のものである。
宇治河にて作れる歌二首
1699 巨椋《おほくら》の 入江《いりえ》響《とよ》むなり いめ人《びと》の 伏見《ふしみ》が田井《たゐ》に 雁《かり》渡《わた》るらし
巨椋乃 入江響奈理 射目人乃 伏見何田井尓 鴈渡良之
【語釈】 ○巨椋の入江響むなり 「巨椋の入江」は、山城国久世郡の北部(現在、京都府宇治市)にあった東西五十町、南北四十町にわたる池で、平日は「巨椋の池」と呼んでいたが、霖雨の際は、宇治河の水と連なって江湾となるので、「入江」とも称せられた。近年干拓され、宇治市に小倉町の名をとどめている。「響むなり」は、続きで、入江に下りていた雁の群れが一度に舞い立った響である。○いめ人の伏見が田井に 「いめ人」は射部《いめ》人で、狩猟の時、跡見部《とみべ》によって狩り立てられる猪鹿を、待伏せしていて射る団体の称。その人々は、伏していて射るので、「伏し」と続けて、その枕詞。「伏見」は、京都市の伏見で、桂川と宇治河とが合流する地。「田井」は、田のある所の称で田圃《たんぼ》というにあたる。○雁渡るらし 上の「響む」についての推量。
【釈】 巨椋の入江の水面が動《とよ》むことであるよ。これはそこから伏見の田圃にと、雁の群れが一時に舞い立って飛び渡るのであろう。
【評】 巨椋の入江のほとりにいて、そこに起こった状態を見るがままにいっているものである。大景をさわやかに詠んだ歌である。事を単純に、地名を二つ用いて印象を鮮明にし、高い調べをもってこの大景を十分に支配しきり、自身の気分に化し、(220)立体的に詠んでいるものである。平面的に詠みながらも立体感をもたせているのは、人麿の手腕である。上の春雨を対象とした作と較べると、別人であるかのように見えて、人麿の心の振幅を思わせられる。
1700 秋風《あきかぜ》の 山吹《やまふ》き瀬《せぜ》々の 響《とよ》むなへ 天雲《あまぐも》翔《かけ》る 雁《かり》を見《み》るかも
金風 山吹瀬乃 響苗 天雲翔 雁相鴨
【語釈】 ○秋風の山吹き瀬々の響むなへ この二、三句の訓は、諸説があって定まらない。これは定本の訓である。定まらないのは、このように訓むと二句は句割れとなって、ほとんど例のみえないものとなるからである。しかしそれを避けると「山吹の瀬の」という固有名詞となり、意の通じかねるものとなるからである。この訓に従うと、秋風が山を吹いて、山川の瀬々が響をあげるに伴って。 ○天雲翔る雁を見るかも 原文は「翔」の下に、「雁」のある本とない本とがある。ある本のほうが多い。ないほうによると補読をしなければならない。今はある本に従う。それだと、天雲を翔り飛ぶ雁を見ることよである。
【釈】 秋風が山を吹き、山川の瀬々が響をあげるに伴って、天雲を翔り飛ぶ雁を見ることよ。
【評】 疑問の多い歌であるが、作意だけは知られる。人麿がどこかの山にいた折、にわかに荒い秋風が吹き立って、そのいる山を吹き、山川の瀬々は響をあげ、それに伴って天上では、乱れ立つ雲の中を雁が翔って行くのを見たというので、自然界の大きな力をもって動乱するさまを、子細に見やって、その力を身に感じている心である。人麿には他に似た作があり、また人麿ならでは捉えていわない境でもある。今は作意以上には知り難い。
弓削《ゆげ》皇子に献《たてまつ》れる歌三首
【題意】 「弓削皇子」は、巻二(一一一)に出た。天武天皇の第六皇子。文武天皇三年に薨じた。歌を献じた事情は、他の皇子達に対すると同様の事情からと思われる。
1701 さ夜中《よなか》と 夜《よ》は深《ふ》けぬらし 雁《かり》が音《ね》の 聞《きこ》ゆる空《そら》ゆ 月《つき》渡《わた》る見《み》ゆ
佐宵中等 夜者深去良斯 鴈音 所聞空 月渡見
【語釈】 ○さ夜中と夜は深けぬらし 夜中と、夜は更けたらしい。「さ」は、接頭語。○雁が音の聞ゆる空ゆ 雁の音の聞こえる空を通ってで、(221)「ゆ」は、経過点を示すもの。○月渡る見ゆ 月の移っているのが見えるで、初二句の推量は、その月の位置よりのもの。
【釈】 夜中と夜は更けたらしい。雁の声の聞こえる空を過ぎて、月の移っているのが見える。
【評】 ここの三首は、すべて雁を対象としたものである。秋の月の夜、人麿が皇子に侍している時、おりから雁が鳴き過ぎたので、皇子の命があってか、あるいは人麿が進んでか、眼前の景を捉えて作ったものと思える。歌柄がすべておちついた静かなもので、他意なく作ったものだからである。この歌は、雁の声が聞こえたので空を見上げると、月の中空に移っていることに心づき、ただそれだけをいったものである。取材が単純である上に、調べがしめやかに澄んでいるので、秋の夜中のそうした折の気分が、調べによって生かされている歌である。情景が一般性をもっているところから、後に類歌が詠まれている。
1702 妹《いも》があたり 茂《しげ》き雁《かり》が音《ね 夕霧《ゆふぎり》に 来鳴《きな》きて過《す》ぎぬ ともしきまでに
妹當 茂苅音 夕霧 來鳴而過去 及乏
【語釈】 ○妹があたり茂き雁が音 「妹があたり」は、妹が家のあたりに。「茂き雁が音」は、数多くの雁が。○夕霧に来鳴きて過ぎぬ 夕霧の籠めている空へ鳴いて来て、鳴き去った。○ともしきまでに 「ともし」は、ここは羨ましいで、羨ましいまでに。雁の音を十分に聞きうるのを羨む意である。
【釈】 妹の家のあたりに、数多くの雁が、夕霧の中を鳴いて来て、鳴き去った。羨ましいまでに。
【評】 夕霧の籠めている空を、やや距離遠く、数多《あまた》の雁の鳴き連れて過ぎたのに、快いあわれを感じた心である。「妹があたり」といっているのは、その距離を具象化するためで、それ以上のものではない。また、このようにいっているために、結句の「ともしきまでに」が、身に近いものとなり、感深くなるのである。「妹」といい「雁が音」といっているが、情趣だけのもので、恋の心の絡んでいないのは、この歌は皇子に献るためのもので、いわんとしているところは情趣だけだからである。事としては、夕霧の中を雁が鳴き過ぎたというだけであるが、柔らかく豊かに、味わいあるものとしている。
1703 雲隠《くもがく》り 雁《かり》鳴《な》く時《とき》に 秋山《あきやま》の 黄葉《もみち》片待《かたま》つ 時《とき》は過《す》ぎねど
雲隱 鴈鳴時 秋山 黄葉片待 時者雖過
(222)【語釈】 ○黄葉片待つ 「片待つ」は、ひたすら待つ。○時は過ぎねど 原文「時者雖過」。『略解』で本居宣長は、「過」の上に「不」の脱したものとし、「すぎねど」と訓み、『新訓』は、それに従っている。黄葉する季節は過ぎない、すなわち来ないけれども。
【釈】 雲に隠れて雁の鳴く声のする時に、秋山の黄葉するのをひたすらに待つ。その季節は来ないけれども。
【評】 順序を追って現われてくる美しい風物に憧れ心を寄せている歌である。雁と黄葉との間に人事的気分を介入させて喜ぶ奈良朝的のものとはなっていず、自然をあるがままに大きく受け入れている心である。結句は説明的で、なくてもさしつかえないものである。自然を大きく感じているがゆえに、おのづからに出たものと見れば、そうも見られるが、それにしても意識的にすぎているといえるところのあるものである。人麿に何らかの心あってのものではないかと思わせる余地がある。あるいは秋を叙任の期とし、その取りなしを哀訴する心よりのものではないかと思われるのである。
舎人皇子に献れる歌二首
1704 ふさ手折《たを》り 多武《たむ》の山霧《やまぎり》 茂《しげ》みかも 細川《はそかは》の瀬《せ》に 波《なみ》のさわける
※[手偏+求]手折 多武山霧 茂鴨 細川瀬 波驟祁留
【語釈】 ○ふさ手折り多武の山霧 「ふさ手折り」は、(一六八三)に既出。ふさふさと手折って撓《たわ》むの意で、「たむ」と続けた枕詞。「多武」は、奈良県桜井市の南方、飛鳥《あすか》の東方の高峰、多武峯。○茂みかも 茂きゆえであろうかで、茂みは深みの意。○細川の瀬に波のさわける 「細川」は、多武の峰から発する谷川で、多武の山の西南を流れて稲淵川に入り、飛鳥川となる小川である。「波のさわける」の、「る」は、「か」の給で完了の助動詞「り」の連体形。騒いでいることよ。瀬の音の高いのを、波の状態でいったもの。
【釈】 多武の峰の山霧が深いゆえであろうか、細川の瀬に立つ波が騒いで音の高いことであるよ。
【評】 皇子に献った歌で、捉えていっていることは、多武の山と細川の、その日立った秋霧の状態という、微細なものである(223)から、これは皇子が目にしていられるものでなくては意味をなさない。皇子の少なくともその日の御座所がその辺りにあって、そこへ伺候した人麿が挨拶代わりに詠んだという関係のものと思われる。歌は、細川のその日の瀬の音が、平常より高いということに心を寄せ、それは多武の山に立つ山霧にこもって聞こえるからであろうといっているので、感覚の微細に働いた歌である。こうしたことは、そこの状態を見馴れている者でないと興味を感じないことで、二人の間にのみ通じる心である。一首の調べが張っていて、心をこめて詠んだものである点から見て、皇子と人麿の関係が思わせられる。瀬の音のやや高いということを捉えて、相応に大きい光景を鮮明にあらわし、沈静な趣のある歌としているのは、人麿の手腕である。
1705 冬《ふゆ》ごもり 春《はる》べを恋《こ》ひて 植《う》ゑし木《き》の 実《み》になる時《とき》を 片待《かたま》つ吾等《われ》ぞ
冬木成 春部戀而 殖木 實成時 片待吾等叙
【語釈】 ○冬ごもり春べを恋ひて 「冬ごもり」は、巻一(一六)に既出。春の枕詞。「春べ」は、春頃。春頃の成行きを待ち望んで。これは下の「木」の状態についてである。○植ゑし木の 移植した木ので、今は秋で、秋の季節にしたこと。○実になる時を片待つ吾等ぞ 「実になる」は、その木は実を目的とする木。「片待つ」は、ひたすら待つ。「吾等」は、文字どおり複数で、その意を文字であらわしたもので、これは他にも用例がある。実を結ぶ時をひたすら待っているわれらであります、の意。
【釈】 春の頃を待ち望んで、移植したところの木の、実になる時をひたすらに待っているわれらであります。
【評】 これは、その時は秋で、木を移植して、その木が春になって、花が咲き実を結ぶことを、ひた心待ち望んでいる一同であるといっているので、いっていることは明らかである。しかしこれは何事かを譬喩的にいっているもので、その本義の何であるかは、皇子と人麿以外にはわからないことである。舎人皇子は皇子の中でも勢力のある人であり、人麿はきわめて身分が低かったらしく、また、「吾」を「吾等」といっているので、代弁者という形である。秋、移植した木の、春、花が咲き実の結ぶのを片待つということは、常識的に考えると、春を定期の叙任の時とし、その時の推挙支持を皇子に乞いたいとの心をほのめかしたものではないかと思われる。上の弓削皇子に献った歌の最後のものである「雲隠り雁鳴く時に」も、そうした心が絡んでいるようにみえるので、これもそうしたものではないかと思われるのである。身分低い官人は、一に有力なる人の庇護によっていたとみえ、山上憶良でさえもそうした歌を詠んでいるのであるから、人麿がしかるべき機会にこうしたことをほのめかしてもあやしむには足りず、むしろ儀礼に近いものとしていたかもしれぬ。この歌を歌集の中にとどめていたことから見ても一般性のあったことと思われる。
(224) 舎人皇子の御歌一首
1706 ぬばたまの 夜霧《よぎり》は立《た》ちぬ 衣手《ころもで》の 高屋《たかや》のうへに 棚引《たなび》くまでに
黒玉 夜霧立 衣手 高屋於 霏※[雨/微]麻天尓
【語釈】 ○衣手の 「た」にかかる枕詞。巻一(五〇)「衣手の田上山の」がある。○高屋のうへに 「高屋」は、地名説もあるが、ここは高い屋の意で、多武の山の辺りにある皇子の邸をさしたものと取れる。「うへ」は、辺り。
【釈】 夜霧が立った。この高屋の辺りになびくまでに。
【評】 人麿の、上の「多武の山霧」に応じて作られたものとみえる。人麿歌集に収めてある点から見てのことである。眼前を捉えてきわめておおらかに詠まれたもので、挨拶程度のものである。
鷺坂にて作れる歌一首
1707 山代《やましろ》の 久世《くせ》の鷺坂《さぎさか》 神代《かみよ》より 春《はる》は張《は》りつつ 秋《あき》は散《ち》りけり
山代 久世乃鷺坂 自神代 春者張乍 秋者散來
【語釈】 ○神代より 古よりという意を具象的にいったものであるが、この国土は神の所生だとする意を関係させてのもの。○春は張りつつ秋は散りけり 「張り」は、木草の芽を出すこと。「つつ」は、継続で、神代より今までのこと。「散り」は「張り」に対照させたもので、木の葉。「けり」は、詠歎。
【釈】 この山城の久世の鷺坂は、神代の古から今に至るまで、春は芽を出しつつ、秋はこのように散ったことである。
【評】 秋、木の葉の散る頃、鷺坂へ立っての感である。「山代の久世の鷺坂」は、鷺坂としては最上の重い言い方であって、讃えの心よりのことである。「神代より」以下は、鷺坂を永遠の時の上に泛《う》かべて見、鷺坂そのものに永遠を感じて、その意味で、同じく讃えていっているものである。人麿は根本的には、世上の一切を時の上に泛かべて見る傾向の強い人であるが、この歌はそれの直接に現われているものである。後世になるとこれが無常観となり、悲哀感となってくるのであるが、人麿にはそれがなく、自身の生命に対して強い執着をもっていた人で、その執着をとおして、時の推移を痛感していたのである。いわ(225)ば執着の裏書ともいうべきものである。これは時代的関係というよりも人麿の個人性によるものである。この歌は、その心の閃《ひらめ》きで、熱意をもってのものである。
泉河の辺《ほとり》にて作れる歌一首
1708 春草《はるくさ》を 馬咋山《うまくひやま》ゆ 越《こ》え来《く》なる 雁《かり》の使《つかひ》は 宿《やどり》過《す》ぐなり
春草 馬咋山自 越來奈流 鴈使者 宿過奈利
【語釈】 ○春草を馬咋山ゆ 春の草を馬が咋うと続け、その「咋ひ」を、咋山の咋に転じて、七音の序詞としたもの。「咋山」は、神名式に「山城国綴喜郡咋岡神社」とあるところで、今の京都府綴喜郡(現、田辺町)字飯岡にある小山である。「ゆ」は、経過地点を示すもの。○雁の使は宿過ぐなり 「雁の使」は、雁に使を連想したもので、今旅にいるところから、使といえば京にいる妻よりのものである。「宿」は、宿っているところ。「なり」は、指定の助動詞。
【釈】 春草を馬が食う、その食うに因みある咋山の上を越えて来る雁の使は、わが宿を通り過ぎて行く。
【評】 泉河で雁を見て、旅愁に触れたという程度のものであるが、具象が巧みである。「春草を馬咋山」と続けた序詞は奇抜なものにみえるが、当時の旅行には馬は離されぬ付き物であったから、連想しやすかったとみえる。
弓削皇子に献れる歌一首
1709 御食向《みけむか》ふ 南淵山《みなぶちやま》の 巌《いはほ》には 落《ち》りしはだれか 削《けづ》り残《のこ》れる
御食向 南淵山之 巖者 落波太列可 削遺有
【語釈】 ○御食向ふ南淵山の 「御食向ふ」は、御食として供えるで、御肴《みな》か、あるいは蜷《みな》と続けての「南」の枕詞。「南淵山」は奈良県高市郡明日香村にある山で、今は稲淵という。皇子の殿より近く見える山。○落りしはだれか 「はだれ」は、巻八(一四二〇)に出た。はだれの雪。薄く降る雪。○削り残れる 「削り」は、原文「削」で、諸本同様であるが、『考』は、「消」の誤写としている。削り成したような巌の襞《ひだ》に消え残っている雪を、このようにいったもの。「る」は、「か」の結。
(226)【釈】 南淵山の巌には、降ったはだれ雪が、削り残されているのであろうか。
【評】 皇子の殿から望んで、近い南淵山の巌の壁に消え残っている雪を、巌との関係で「削り残れる」といったので、その巧みさで生かされている歌である。「御食向ふ」という枕詞も、たぶん殿との関係をあらわしているもので、ここにも巧みさがある。微細な物を生かして拡がりをもたせている。
右は、柿本朝臣人麿の歌集に出づるところ。
右、柿本朝臣人麿之謌集所v出。
【解】 「右は」とあるだけで、歌数を挙げていないから、どの歌からということが不明である。その中には他人の作もあるところからこのような言い方をしたものであろう。仙人の形を詠んだ歌以下は論なく人麿である。大宝元年の紀伊国の行幸の歌も、その作風から見て人麿かと思われるが、問題となる点もある。
1710 吾妹児《わぎもこ》が 赤裳《あかも》ひづちて 植《う》ゑし田《た》を 刈《か》りて蔵《をさ》めむ 倉無《くらなし》の浜《はま》
吾妹兒之 赤裳※[泥/土]塗而 殖之田乎 苅將藏 倉無之濱
【語釈】 ○赤裳ひづちて 「赤裳」は、田植の服装としては不自然のごとく感じられるものであるが、田植は農事の上では最も重大なものであり、斎《いわ》って行なったもので、神事に准じて礼装としての物と取れる。これは他にも例のあるものである。「ひづち」は、泥によごれて。語義をあらわした用字である。○刈りて蔵めむ 「蔵めむ」は、保存するところの意。上代は稲は、刈ったままに保存したのである。以上四句は、「倉」と続き、(227)その序詞となっているものである。○倉無の浜 所在未詳。『和爾雅』には大分県中津市竜王町にある竜王浜だという。
【釈】 吾妹子が、赤裳を泥に汚して植えた田を、刈って保存する倉に因む名の倉無の浜よ。
【評】 倉無の浜にあって詠んだ形の歌である。初句より四句まで序詞という特殊なものである。序詞は本来謡い物時代の修辞法で、一語二義の変化の際やかさを興味とするものである。この歌は結句に至ってその転廻を示すという、形から見ると序詞の興味を典型的に発揮させようとしているものである。これを歌として見ると、こうした歌は倉無の浜の者にだけ興味のあるもので、その地に無関係の者にはさして興味のないものである。したがって倉無の浜の謡い物であったろうと思われる。謡い物は作者の不明を立前とするものであるから、これが人麿の作ということは疑わしいことである。左注もそれに触れていっている。作歌技巧を問題とする時代、この歌の序詞を巧妙だと見、その意味で人麿の作ではないかということが言い出されたという関係のものかと思われる。
1711 百伝《ももづた》ふ 八十《やそ》の島廻《しまみ》を 榜《こ》ぎ来《く》れど 粟《あは》の小島《こじま》し 見《み》れどあかぬかも
百傳 八十之嶋廻乎 榜雖來 粟小嶋志 雖見不足可聞
【語釈】 ○百伝ふ八十の島廻を 「百伝ふ」は、百と伝う八十の意で、「八十」の枕詞。「八十」は多くということを具象化していった語。「島廻」は、島の辺り。○来れど 向かって行く意で、ここは難波へ向かって。○粟の小島し この島の名は、巻十五(三六三一)天平八年遣新羅の使人の歌に、「何時しかも見むと思ひしあはしまを」とあり、周防国(山口県)玖珂郡麻里布の浦を行った時の歌であるから、そこにある島と知れ、また勝地とも知れるが、今の何島であるかは不明である。「し」は強意の助詞。
【釈】 八十と限りない島の辺りを榜いで来たが、粟の小島は、見ても飽かないことであるなあ。
【評】 類型的な歌であって、人麿を思わせる点の見えない歌である。
右の二首は、或は云ふ、柿本朝臣人麿の作れる。
右二首、或云、柿本朝臣人麿作。
【解】 人麿作という言い伝えがあったというので載せた歌で、歌集のものではなかったのである。
(228) 筑波山に登りて月を詠める一首
1712 天《あま》の原《はら》 雲《くも》なき夕《よひ》に ぬばたまの 宵渡《よわた》る月《つき》の 入《い》らまく惜《を》しも
天原 雲無夕尓 烏玉乃 宵度月乃 入卷※[立心偏+(メ/広)]毛
【語釈】 ○雲なき夕に 「夕」は、夜。○宵渡る月の入らまく惜しも 「宵渡る」は、夜の空を過ぎてゆく。「入らまく」は、「入らむ」の名詞形。隠れ入ることの惜しさよ。
【釈】 天の原に雲のない夜に、夜空を過ぎてゆく月の、入ろうとすることの惜しさよ。
【評】 大景を単純に捉えて、充実したものとしている。「天の原雲なき夕に」は、あるがままをいっているごとき句であるが、これほど要を得て、さわやかにいったものは稀れである。「入らまく惜しも」も、平凡には似ているが、その山をいっていないのは、山の遠い茫漠たる関東の平野をあらわし得ているもので、これまた要を得た、気分を伴わしめ得たものである。感動の足りない憾《うら》みはあるが、安らかに詠んで大景をこれほどに支配し得ている手腕は、非凡というべきである。編者はこの巻では、行幸の際の歌を除いては、作者の詳《つまびら》かでない歌は収めてはいないのであるが、ここに初めてそれを見せているのである。歌風で大体時代が知られるので、捨てるに忍びなかったものとみえる。
芳野の離宮に幸《いでま》せる時の歌二首
1713 滝《たぎ》の上《うへ》の 三船《みふね》の山《やま》ゆ 秋津辺《あきつべ》に 来鳴《きな》きわたるは 誰喚子鳥《たれよぶこどり》
瀧上乃 三船山從 秋津邊 來鳴度者 誰喚兒鳥
【語釈】 ○滝の上の三船の山ゆ 「滝」は、激流。「三船の山」は、吉野の離宮の上流のほう(吉野町菜摘の東南)にある山。「ゆ」は、通って。○秋津辺に来鳴きわたるは 「秋津辺」は、離宮のある秋津野の辺《あた》り。従駕の者はそこに宿っていた。「来鳴きわたる」は、来て鳴いて渡るのは。○誰喚子鳥 誰を呼ぶ喚子鳥かで、喚子鳥は、今のかっこう鳥。「喚」は、掛詞となっている。
【釈】 滝の上の三船の山をとおって、秋津辺りへ来て鳴いて渡るのは、誰を喚ぶ喚子鳥なのか。
(229)【評】 秋津辺は従駕の人々の居た所である。呼子鳥には恋愛を連想し、妻が呼ぶのだということはすでに常識になっていたとみえる。淡い旅愁を感じている人々の上へ、山のほうから呼子鳥が鳴いて飛んで来たので、あれは誰を喚ぶ呼子鳥なのかと、明るい微笑《ほほえ》みをもって顔を見合ったことであろう。明るく、浅く、柔らかな歌風が、時代を思わせる。
1714 落《お》ちたぎち 流《なが》るる水《みづ》の 磐《いは》に触《ふ》れ よどめるよどに 月《つき》の影《かげ》見《み》ゆ
落多藝知 流水之 磐觸 与杼賣類与杼尓 月影所見
【語釈】 ○落ちたぎち流るる水の 高きより低きに向かって落ちて、たぎり立つ水ので、激湍《げきたん》を具象的にいったもの。○磐に触れよどめるよどに 流れが大岩にぶつかって、その根もとによどんでいる澱《よど》にで、山河の常態を具象したもの。
【釈】 高きより落ちて、たぎり立って流れる水が、大岩に触れて、その裾によどんでいる澱の水に、月が見える。
【評】 落ちたぎつ水と、よどめる澱とを対照して、それによって澱の静かさをあらわした上に、さらにその澱に映じている夜の月を加えて、静けさを極度に強調した歌である。あらわそうとしている吉野の山中の夜の静寂であるが、言い方は、実際に即して、素朴に、平淡にいっているので、ここにも一種の対照があって、対照をとおしてねらっている気分があざやかに浮かび上がっている。人麿のただちに自身の気分の奥所に強く食い入ろうとしたのとは対蹠的に、事象と自身の気分とを繋ぎ合わせ、柔らかに融かし合おうとする、客観的傾向のものとなっている。主観より客観へ、波打つ感動より柔らかな気分へと、移行しようとする傾向を見せている作風である。上の二首も同傾向のものである。
(230) 右の三首は、作者いまだ詳ならず。
右三首、作者未v詳。
槐本《ゑにすのもと》の歌一首
【題意】 「槐本」は、訓も定まらず、誰とも知られない。ただ、氏と思われるだけである。この略称は、資料とした古記のもので、編者は、それに拠《よ》ったのである。これについては左注を添えている。
1715 楽浪《ささなみ》の 比良山風《ひらやまかぜ》の 海《うみ》吹《ふ》けば 釣《つり》する海人《あま》の 袂《そで》かへる見《み》ゆ
楽浪之 平山風之 海吹者 釣爲海人之 袂變所見
【語釈】 ○楽浪の比良山風の 「楽浪」は、琵琶湖の南方の総地名。「比良山」は、京都府と滋賀県との境に立つ山で、伊吹山と相対している。「比良山風」は、比良山から吹き下ろす風。湖岸から見て、いっているのである。○海吹けば 「海」は、琵琶湖。○袂かへる見ゆ 「かへる」は、ひるがえる。
【釈】 楽浪の比良山の山風が吹き下ろして海を吹くと、海に釣をしている海人の袖のひるがえるのが見える。
【評】 「比良山風の海吹けば」という大きく漠然としたものを捉え、それを「釣する海人の袂」という、湖上に見るものとしては一点景にすぎない小さい物につないで、そのひるがえるのによって、風を具象しているのである。上の「よどめるよどに月の影見ゆ」と同じく、対照によって感を生かそうとしているものである。巻三(二五一)人麿の「粟路の野島が前の浜風に妹が結びし紐吹きかへす」と、構想は似ているが、人麿の主観的なものとは異なって、客観的事象を主として、興味を生かそうとしているものである。むしろ、上の歌に似通うものである。
山上の歌一首
【題意】 「山上」は、山上臣憶良の略称である。そのことは左注によって明らかである。
1716 白波《しらなみ》の 浜松《はままつ》の木《き》の 手向草《たむけぐさ》 幾世《いくよ》までにか 年《とし》は経《へ》ぬらむ
(231) 白那弥乃 濱松之木乃 手酬草 幾世左右二箇 年薄經濫
【語釈】 ○白波の浜松の木の 「白波の」は、白波の寄せる意で、「浜」へ続くもの。叙述を枕詞風にしたもの。「浜松」は、浜べに立つ松。○手向草 手向の祭をした材料で、すなわち幣である。麻布の類である。○幾世までにか年は経ぬらむ 幾世まで年は経過したことであろうかで、その幣の古びたことをいったもの。
【釈】 白波の寄せる浜の松の木の上にある手向の幣は、幾代まで年は経たことであろうか。
【評】 この歌は、左注にあるように、巻一(三四)に出、それは紀伊国に行幸のあった際、従駕していられた川島皇子の作となっており、「或は云ふ、山上臣憶良の作れる」とあるものである。それには、「一に云ふ、年は経にけむ」とある。その「或は」は、すなわちこの本なのである。もっともそちらは、これとの異なるところは、句が、「浜松が枝の」とあるのに、これは「木」となっているだけである。
右の一首は、或は云ふ、川島の皇子の作りませる歌。
右一首、或云、川嶋皇子御作謌。
春日の歌一首
【題意】 「春日」は、「春日蔵首老《かすがのくらびとおゆ》」で、巻一(五六)に出た。
1717 三川《みつかは》の 淵瀬《ふちせ》も落《お》ちず さで刺《さ》すに 衣手《ころもで》湿《ぬ》れぬ 干《ほ》す児《こ》は無《な》しに
三川之 淵瀬物不落 左提刺尓 衣手潮 干兒波無尓
【語釈】 ○三川の淵瀬も落ちず 「三川」は、諸説あり、所在が不明である。「落ちず」は、漏らさず。○さで刺すに 「さで」は、漁用の小網で、現在も行なわれている。「刺す」は、さでは挿し込んで使うからの称で、使う意。○干す児は無しに 「児」は女の愛称。妻も含めた広い意のもの。濡れた衣を干すのは女のすることとなっていた。
【釈】 三川の、淵も瀬も漏らさずにさでを使うので、わが袖は濡れた。干すべき児は無いのに。
【評】 旅先で、興として川狩をした時の歌と取れる。三川の不明なのは、そうした地の川だからである。淡い旅愁を、素朴に(232)詠んだにすぎないものである。
高市《たけち》の歌一首
【題意】 「高市」は、高市連黒人と取れる。巻一(三二)(七〇) に出た。
1718 率《あども》ひて 榜《こ》ぎ行《ゆ》く舟《ふね》は 高島《たかしま》の 阿渡《あと》の水門《みなと》に 泊《は》てにけむかも
足利思代 榜行舟薄 高嶋之 足速之水門尓 極尓監鴨
【語釈】 ○率ひて 連れ立って。船を連ねて。巻二(一九九)「御軍士《みいくさ》をあどもひたまひ」とあり、他にもある。○高島の阿渡の水門に 「高島の阿渡」は、上の(一六九〇)に出た。安曇川の河口付近、船木浜か。「水門」は、河口。○泊てにけむかも 停泊しただろうなあで、「かも」は、詠歎。
【釈】 連れ立って榜いで行く舟は、高島の阿渡河の河口に停泊しただろうなあ。
【評】 旅人として琵琶湖の湖岸に立って、湖上を眺めていると、幾艘か連れ立って榜いで行った船が、阿渡河の河口の辺でふと見えなくなったので、あの河口に停泊したのだろうと思いやった時の感である。軽い安定感を覚えるとともに、その感は一方では、旅人としての自身にある寂寥感《せきりようかん》を起こさせて、黙っては過ごせなかったものとみえる。それは黒人には、巻一(五八)に「いづくにか船泊てすらむ安礼《あれ》の崎こぎたみ行きし棚無し小舟」があり、それと似通うところがあるからである。この歌のほうは、不安と寂寥の高潮したもので、今の歌はこれに較ぶべくもない、明るく軽いものであるが、しかし一脈の寂寥感のある点は通っている。
春日蔵の歌一首
【題意】 「春日蔵」は、「蔵」は蔵首《くらびと》の略で、姓の一字だけを記したのである。
1719 照《て》る月《つき》を 雲《くも》な隠《かく》しそ 島《しま》かげに 吾《わ》が船《ふね》泊《は》てむ 泊《とまり》知《し》らずも
照月遠 雲莫隱 嶋陰尓 吾船將極 留不知毛
【語釈】 ○島かげに吾が船泊てむ 「島かげに」は、船を繋ぐのは風波の凌《しの》ぎやすい地を選ぶのであるから、その意のもの。「泊てむ」は、上の歌(233)と同じく、「む」は連体形で、下へつづく。○泊知らずも 「泊」は、停泊地。「知らず」は、月光がなければ知られない意で、「も」は、詠歎。
【釈】 照っている月を、雲よ隠すな。島のかげにわが船を停泊させようとする、その停泊地が知られない。
【評】 月光に乗じて、船をやり、ある島で停泊地を得ようとしている時、頼りとする月光の隠れようとするのを見た心である。風波に対する抵抗力の乏しい船を安全地域に繋ぐということは、航海上重大なことだったのである。したがってこの歌には類歌が少なくない。
右の一首は、或本に云ふ、小弁の作なりと云へり。或は姓氏を記し、名字を記すことなく、或は名号を※[人偏+稱の旁]《い》ひて、姓氏を※[人偏+稱の旁]はず。然れども古記に依りて、便《すなは》ち次《ついで》を以ちて載す。およそかくの如き類、下皆これに放《なら》へ。
右一首、或本云、小辨作也。或記2姓氏1無v記2名字1、或※[人偏+稱の旁]2名号1不v※[人偏+稱の旁]2姓氏1。然依2古記1便以v次載。凡如v此類、下皆放v焉。
【解】 「小弁」は、伝が知られない。「姓氏を記し」は、「春日蔵」のごときは、「春日」は氏、「蔵」は姓の略記である。「名字を記すことなく」は、以上の歌はすべてそれである。「名号を※[人偏+稱の旁]ひて、姓氏を※[人偏+稱の旁]はず」は、以下の歌がそれである。「古記に依りて便ち次を以ちて載す」は、古記にあるままの順序をもって載せて行くというのである。この古記の記し方は、その当時はこれでわかるものとしたもので、狭い範囲を対象としてのものか、あるいは採録者の備忘のためのものであったろうと思われる。「下皆これに放へ」は、以下も同様である。
元仁《ぐわんにん》の歌三首
【題意】 「元仁」は、いかなる人か知られない。漢風の字ではないかともいう。以下六首は、吉野へ遊んだ歌のみを採録したものである。
1720 馬《うま》竝《な》めて 打群《うちむ》れ越《こ》え来《き》 今《いま》見《み》つる 芳野《よしの》の川《かは》を 何時《いつ》かへり見《み》む
馬屯而 打集越來 今見鶴 芳野之川乎 何時將顧
(234)【語釈】 ○馬竝めて打群れ越え来 「馬竝めて」は、友と乗馬を列ねて。「越え来」は、京から吉野へと山を越えて来て。○今見つる 今見たで、第一印象をいったもの。
【釈】 乗馬を列ねて、打群れて山を越えて来て、今見たところの吉野の川を、いつまた見ることだろうか。
【評】 集中を欠いて、平面的な叙事が多くなっているので、感の乏しい歌となっている。そのために、「今」という言葉が生かしきれないものとなっている。
1721 苦《くる》しくも 晩《く》れゆく日《ひ》かも 吉野川《よしのがは》 清《きよ》き河原《かはら》を 見《み》れど飽《あ》かなくに
辛苦 晩去日鴨 吉野川 清河原乎 雖見不飽君
【語釈】 ○晩れゆく日かも 旧訓。
【釈】 苦しくも暮れて行く日であるよ。吉野川の清い河原を、見ても見飽かないことであるのに。
【評】 初二句は、類型がなくはないが、感動をあらわし得ているので、三句以下の類型的の語が、そのために生気を帯びたものとなっている。
1722 吉野川《よしのがは》 河浪《かはなみ》高《たか》み たぎの浦《うら》を 見《み》ずかなりなむ 恋《こほ》しけまくに
吉野川 河浪高見 多寸能浦乎 不視歟成甞 戀布眞國
【語釈】 ○河浪高み 「高み」は、高いゆえに。○たぎの浦を 「たぎ」は、激流。「浦」は、激流が彎曲して、海の浦のごとき形をしているところの称。当時の人は、池や河に対して、海の名を流用して喜んでいた。これもそれである。○見ずかなりなむ 見ずに終わるのであろうかで、川浪が高いと見られないというのは、舟を泛《う》かべなくてはよく見られない意と取れる。○恋しけまくに 「恋しけ」は、形容詞「恋し」の未然形。「まく」は、推量の助動詞「む」の名詞形。「に」は、詠歎で、恋しく思うことであろうにと、未来を推量したもの。
【釈】 吉野川の河浪が高いゆえに、激流の彎曲している辺りを見ずに終わることであろうか。あとで恋しく思うことであろうに。
【評】 佳景を十分に鑑賞し得ない嘆きであるが、事情を尽くしていおうとしたために、叙述になりすぎ、それも徹しないものとなって、感の乏しいものとなっている。
(235) 絹の歌一首
【題意】 「絹」は、略称で、何びととも知れない。
1723 河蝦《かはづ》鳴《な》く 六田《むつた》の河《かは》の 川楊《かはやぎ》の ねもころ見《み》れど 飽《あ》かぬ河《かは》かも
河蝦鳴 六田乃河之 川楊乃 根毛居侶雖見 不飽河鴨
【語釈】 ○河蝦鳴く六田の河の川楊の 「河蝦」は、河鹿《かじか》。「六田の河」は、巻七(一一〇五)に出た。吉野川が奈良県吉野郡吉野町上市の西、六田と同郡大淀町北六田の地を流れている時の称。六田は下市町の下流である。「川楊」は、川岸の柳。以上は根と続き、「ねもころ」の「ね」の序詞。実景を序詞の形にしたもの。○ねもころ見れど飽かぬ河かも 懇《ねんご》ろに、よくよく見るけれども、見飽かない河であるよ。
【釈】 河鹿の鳴いている六田の川の川柳の、その根に因みある、懇ろによくよく見るけれども見飽くことのない河であるよ。
【評】 吉野川そのものの感じよりも、吉野川から受けた自身の感をいおうとし、それをあらわす方法として序詞を設けている。序詞としては実景を捉えたものであるが、一首の上からはそれが主となって、肝腎の川のほうはむしろ従となっているのはそのためである。実感をいおうとしつつ遊離を示している歌である。
島足《しまたり》の歌一首
【題意】 「島足」は、いかなる人とも知られない。
1724 見《み》まく欲《ほ》り 来《こ》しくもしるく 吉野川《よしのがは》 音《おと》の清《さや》けさ 見《み》るにともしく
欲見 來之久毛知久 吉野川 音清左 見二友敷
【語釈】 ○見まく欲り来しくもしるく 「見まく欲り」は、見たいことと思い。「来しくもしるく」は「来しく」は「来し」の名詞形。「しるく」は、甲斐があって。巻八(一五七七)に出た。○吉野川音の清けさ 「清けさ」は、清かなことよで、川を音によった讃えることは当時の風である。○見るにともしく 「ともしく」は、珍しくしてで、下に「あり」の意がある。
【釈】 見たいことに思って来たことの甲斐があって、吉野川の川音の清かなことよ、見るに珍しくて。
(236)【評】 上の歌よりもさらに、自身の気分だけをいおうとして、その気分を分解し、説明しているものである。「来しくもしるく」「見るにともしく」と、同音の語を重ねているのは、謡い物系統の語呂を喜ぶ心からのもので、意識してのものとみえる。
麿の歌一首
【題意】 左注によって人麿歌集の歌と知れる。最後に載せてあり、また詠み口も似ているので、人麿の略称かと思われる。
1725 古《いにしへ》の 賢《さか》しき人《ひと》の 遊《あそ》びけむ 吉野《よしの》の河原《かはら》 見《み》れど飽《あ》かぬかも
古之 賢人之 遊兼 吉野川原 雖見不飽鴨
【語釈】 ○古の賢しき人の遊びけむ 「賢しき人」は、賢い人ということをあらわす当時の成語で、既出。神仙道が重んじられていた時代で、吉野山は神仙の棲む所だということが信じられていたので、古、その道を休し得た人の居た所というごとき言い伝えがあってのことと思われる。
【釈】 古の賢い人が遊んだというこの吉野川の河原は、見ても見飽かないことであるよ。
【評】 吉野川の河原を見て、言い伝えとなっている古の賢い人の遊んだ所だと思ってなつかしむというのは、この当時としては深みのある心で、上の五首とは類を異にしている。人麿の詠み口ではあるが、それとしては凡作である。
右は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
右、柿本朝臣人麿之謌集出。
【解】 以上六首は、人麿の歌集にあったものだというのである。人麿はこの一行とともに吉野に遊び、その時に人々の詠んだ歌を心覚えのために歌集に記入していたのである。略称を用いているのもそれゆえのことである。人麿当時の身分低い人の歌が大体どのようなものであったかを示しているといえる。
丹比《たぢひ》真人の歌一首
【題意】 「丹比真人」は、氏と姓とだけで、名は記していない。誰とも知れない。
(237)1726 難波《なには》がた 潮干《しほひ》に出《い》でて 玉藻《たまも》刈《か》る 海《あま》の未通女《をとめ》ら 汝《な》が名《な》告《の》らさね
難波方 塩干尓出而 玉藻苅 海未通等 汝名告左祢
【語釈】 ○海の未通女ら 旧訓。『考』は「あまをとめども」。呼びかけて求婚する場合であるから、単数であるべきだとし、「ら」は接尾語としてである。○汝が名告らさね 「告らす」は、敬語。「ね」は、願望で、名をいって下さい。これは求婚して承諾を乞う意。
【釈】 難波潟の潮干の海へ出て、藻を刈っている海人の娘よ、われに名をお聞かせなさい。
【評】 大和の宮人の、はなはだ海を珍しく思う心の延長として、海人の娘に魅力を感じ、求婚をするというのは、宮人の側からは心理の自然のあることであったとみえ、他にも同想の歌がある。求婚とはいえ、旅の慰みで、軽い心よりのものだったのである。詠み方の素朴なことも、心理の自然を裏書しているといえる。
和《こた》ふる歌一首
1727 あさりする 人《ひと》とを見《み》ませ 草枕《くさまくら》 旅行《たびゆ》く人《ひと》に 妾《われ》は及《し》かなく
朝入爲流 人跡乎見座 草枕 客去人尓 妾者不敷
【語釈】 ○あさりする人とを見ませ 「あさりする人」は、海人の自身を説明したもの。「人とを」の「を」は詠歎。○妾は及かなく 原文「妾者不敷」。諸注、訓が定まらない。『略解』は、「妾」を「妻」とある本に従い、「敷」は「教」の誤写とし、「妻とは教《の》らじ」としてい、『新考』は「妾《わ》が名は教らじ」としている。『全註釈』は、「妾」を女の謙譲の称とし、「敷」は「及《し》く」に用いている例があるとして、今のごとくに訓み、わが身分は及ばないことよの意で、拒んだものとしている。『略解』の旅人であるがゆえに拒むというのは、意としては通じやすいが、そのために誤写説を設けた迎えての解である。旅人を貴い人として、拒んだのだとする『全註釈』の解に従う。
【釈】 漁りをしている人と見給えよ。旅をしている人に、妾は及ばない身分であることよ。
【評】 女が旅人から求婚されて拒むのは、型となっていることなので、結句は拒む意のものであることは明らかである。男の感情一点張りなのに対して、女は「あさりする人とを見ませ」と理知的な、屈折のある言い方をして拒んでいるのであるから、結句の屈折ある言い方も妥当なものに思える。「妾」という卑称を示す用字も、それを支持するといえる。
(238) 石川卿の歌一首
【題意】 「石川卿」も、「卿」ではあるが、氏のみなので、誰とも知れない。「宇合」の前に置いている点から見て、天平宝字六年、七十五で薨じた石川年足かという。宇合よりは六年の年長である。
1728 慰《なぐさ》めて 今夜《こよひ》は寐《ね》なむ 明日《あす》よりは 恋《こ》ひかも行《ゆ》かむ 此間《こ》ゆ別《わか》れなば
名草目而 今夜者寐南 從明日波 戀鴨行武 從此間別者
【語釈】 ○慰めて今夜は寐なむ 心を慰めて今夜は共寝をしようで、別れの前夜。○恋ひかも行かむ 「かも」は疑問。恋いつつ旅を続けることであろうか。○此間ゆ別れなば 「此間ゆ」は、ここからで、旅中のある場所。
【釈】 心を慰めて今夜は寝よう。明日からは、恋いつつ旅を続けることであろうか。ここから別れたならば。
【評】 宮人として旅をして、ある地で契った女と別れを惜しむ心のものである。別れの歌としては心の淡いものであるが、これは双方の身分に関係してのことであろう。歌としては相聞の範囲のものであるが、雑の中に収めているのは、古記にある順を追ったからと取れる。
宇合《うまかひ》卿の歌三首
【題意】 「宇合」は、藤原宇合である。巻一(七二)、巻六(九七一)に既出。不比等の三男、藤原式家の祖。二首目は女の歌であり、詠んだ場所も、海浜と石田というようにかけ離れている。藍紙本には、「飯女歌三首」とある。
1729 暁《あかとき》の 夢《いめ》に見《み》えつつ 梶島《かぢしま》の 石《いそ》越《こ》す浪《なみ》の しきてし念《おも》ほゆ
曉之 夢所見乍 梶嶋乃 石超浪乃 數弖志所念
【語釈】 ○暁の夢に見えつつ 明け方の夢に見え見えして。「暁」と限っているのは、明け方は眠りが浅く、夢を記憶している時であるから、感となるのである。実際に即した語である。「夢」に見える人は、旅にあって思う京の妻で、いうに及ばないとしてである。○梶島の石越す浪の 「梶島」は、所在不明。「石越す浪」は、海べの岩を越す浪で、「敷き」と続き、二句序詞。この序詞は眼前の実景。○しきてし念ほゆ 「しき」(239)は、重ね野ねで、しきりに。「し」は、強意。「念ほゆ」は、夢の中の人。
【釈】 暁の夢に妻は見え見えして、梶島の岩を越す浪のしきるのに因みある、しきりにも恋しく思われる。
【評】 旅にあって京の妻を恋うという、ほとんど内容の定まったものであるが、この歌は、「暁の夢に見えつつ」とあくまで実際に即しているとともに、一方では妹ということをいわず暗示にとどめる言い方をしている。したがって一首、実感としておちついた味わいをもちながら、その実感が柔らかく、情趣のあるものとなっている。この風は新風で、それに向かって移りつつあることを示しているものである。
1730 山科《やましな》の 石田《いはた》の小野《をの》の 柞原《ははそはら》 見《み》つつや公《きみ》が 山道《やまぢ》越《こ》ゆらむ
山品之 石田乃小野之 母蘇原 見乍哉公之 山道越良武
【語釈】 ○山科の石田の小野の 「山科の石田」は、京郡市伏見区石田町辺り。「小野」は、野。○柞原 「柞」は、ぶな科の落葉喬木で、小楢《こなら》。紅葉が美しいものである。○山道越ゆらむ 「山道」は、大和京から東国へ下るには、山科から逢坂山へかかるのであるから、その上り道。「らむ」は、「や」の結。
【釈】 山科の石田の野の、おりから紅葉の美しい柞原を見つつ、君は山道を越していることであろうか。
【評】 これは「公」という人の旅立った後、女がその公の旅中のさまを思いやった歌である。石田の柞原を見ることを羨んでいる明るい心で、何の不安も感じているものではない。これは男に対する関係の深くないことを示していることで、遊行婦の類ではないかと思われる。しかしそれにしては、歌がおちついて、品のあるものである。この程度の歌を詠む遊行婦もありうることと思える。
1731 山科《やましな》の 石田《いはた》の社《もり》に 手向《たむけ》せば 蓋《けだ》し吾妹《わぎも》に 直《ただ》にあはむかも
山科乃 石田社尓 布麻越者 蓋吾妹尓 直相鴨
【語釈】 ○山科の石田の社に 「石田の社」は、「神名式」に、「久世郡石田神社」がある。「社」は、森がすなわち社だったのである。○手向せば この用字と訓には諸説がある。原文「布麻」は藍紙本などの古本によったものであるが、西本願寺本以後「布靡」としている。『考』は、「布靡」(240)は、幣は布や麻であったから、布なびかすと書き幣に当てたもので、幣は手向の料であるから、義訓で「たむけ」と訓むべきであり、「越」は「勢」の誤写で、「たむけせば」だとしているのである。『全註釈』は、「越」は、その布麻を森に打越すのでこの字を用いたとみえるといい、原文のまま同じく「たむけせば」と訓んでいる。手向は、道中にあって、身の障《さわ》りのないことを祈る行事である。○蓋し吾妹に直にあはむかも 「蓋し」は、おそらく、たぶん。「直に」は、直接にで、再びというにあたる。
【釈】 山科の石田の社に手向をしたならば、たぶん吾味に直接に逢えることであろうかなあ。
【評】 仮設していっている歌である。旅人として石田の社の前を過ぎる時であれば、そこは逢坂山に近く、国境を越える時であるから、むろん手向をするものと思われる。これは道中の無事を祈るのが主ではなく、無事で妹に逢えることが主であり、また軽い心でいっているものであるから、「吾妹」は、上の歌に出た男を「公」と呼んでいる女で、その女に対していっているものと思われる。「直に」は、夢に対させたもので、直接に、再びという意のもので、その女がかりそめの関係のものだということを思わせる。明るい気分でいっている歌である。
碁師《ごし》の歌二首
【題意】 「碁師」は、どういう人であるか不明である。『代匠記』は、「師」は法師の略称であるとし、巻四(五〇〇)の「碁檀越《ごのだんをち》」を称したのではないかという。『新考』は碁打ちの意だとしている。『全註釈』は、「碁」は、元暦校本、藍紙本には碁であるが、類聚古集、伝壬生隆祐本などには「基」とある。正倉院文書には、現にこの称がある。法号の一字に師を添えての略称であるとして、「基師」と改めている。
1732 大葉山《おほばやま》 霞《かすみ》たなびき さ夜《よ》ふけて 吾《わ》が舟《ふね》泊《は》てむ 泊《とまり》知《し》らずも
母山 霞棚引 左夜深而 吾舟將泊 等万里不知母
【語釈】 ○大葉山霞たなびき 巻七(一二二四)の重出。「大葉山」は、紀伊国の山と知られるだけで、所在は知れない。海近い山で、航海の目標となるものである。和歌山市境の大旗山及び、有田郡広川町西広の大場山が擬せられている。近江国の説もある。「霞」は、ここは霧で、古くは通じて呼んだ。
【釈】 大葉山に霧が懸り、夜が更けて、わが舟を碇泊させるべき碇泊地が知られないことよ。
(241)【評】 旅行は、つとめて海路によろうとし、また夜は、舟を安全な地に着けて、上陸して寝ることとしていたところから、この歌にあるような場合は、きわめて多かった。したがってこの歌は、流用される範囲が広かったのである。巻七の歌は作者不明となっており、ここでは碁師となっている。碁師が古歌を誦し、それが記録されたとすれば、事は最も単純であるが、しかし定められないことである。
1733 思《おも》ひつつ 来《く》れど来《き》かねて 水尾《みを》が崎《さき》 真長《まなが》の浦《うら》を 又《また》かへり見《み》つ
思乍 雖來々不勝而 水尾埼 眞長乃浦乎 又顧津
【語釈】 ○思ひつつ来れど来かねて 「思ひつつ」は、下の真長の浦の風景の愛でたさを思いつつ。「来れど来かねて」は、目的地のほうへ進んで来たが、心残りから来かねて。「来」というのは、舟行と取れる。○水尾が崎真長の浦を 「水尾が崎」は、滋賀県滋賀郡の北端にある、琵琶湖に突出している岬で、今は明神崎と呼んでいる。「真長の浦」は、その北方にある浦で、舟行して来て、水尾が崎を繞《めく》ると、その浦は視界から隠れるのである。○又かへり見つ 再び真長の浦を振返って見た。
【釈】 そこの風景の愛でたさを思いつつ来たが、心が引かれて行きかねて、水尾が崎を繞ろうとして、真長の浦を再び振返って見た。
【評】 琵琶湖を舟行した際の歌である。当時の航海法として岸寄りを航行したので、船中から陸上の眺めを楽しみ、特に真長の浦に心が引かれ、水尾が崎を繞ると、そこが見えなくなるので、見収めとして顧みた心である。奈良の人にとっては、海はもとより、湖も珍しい、好奇の対象となっていたものである。明るい、気分本位の歌である。
小弁の歌一首
【題意】 「小弁」は、名か官名か不明である。『古義』は官名で、太政官の左右の弁官で、左右の小弁のそれではないかという。それだと「すなきおほともひ」である。巻三(三〇五)、上の(一七一九)の左注に出た。
1734 高島《たかしま》の 阿渡《あと》の湖《みなと》を 榜《こ》ぎ過《す》ぎて 塩津《しほつ》菅浦《すがうら》今《いま》か榜《こ》ぐらむ
高嶋之 足利湖乎 滂過而 塩津菅涌 今香將滂
(242)【語釈】 ○高島の阿渡の湖を (一六九〇)(一七一八)などに既出。高島郡の安曇川の河口を。○塩津菅浦 「塩津」は、滋賀県伊香郡西浅井村塩津。琵琶湖の北端にある。越前に越える道の塩津山のある地である。「菅浦」は、同じく琵琶湖の北部にある浦である。西浅井村菅浦の地。
【釈】 高島の安曇川の河口を榜ぎ過ぎて、塩津、菅浦の辺りを今は榜いでいるのであろうか。
【評】 知人が琵琶湖を舟で、南方から北方へ向かって榜ぎ出して行った、その行程を思いやっている心である。時刻からいって、今はちょうど北端を榜いでいる頃だろうと想像したのである。三つの地名は、作者に印象深い土地なので、それを思い浮かべつついっているのである。旅立った人かと思われる。
伊保麿《いほまろ》の歌一首
【題意】 「伊保麿」も、氏が知れず、したがって誰ともわからぬ。
1735 吾《わ》が畳《たたみ》 三重《みへ》の河原《かはら》の 礒《いそ》のうらに かくしもがもと 鳴《な》く河蝦《かはづ》かも
吾疊 三重乃河原之 礒裏尓 如是鴨跡 鳴河蝦可物
【語釈】 ○吾が畳三重の河原の 「吾が畳」は、重ねて敷く意で「三重」にかかる枕詞。「三重の河原」は、三重県三重郡(現、四日市市)にあって、今の内部《うつべ》川の河原。○礒のうらに 石のかげにの意。○かくしもがもと 「かくしもがもと」は、「しも」は、強意、「がも」は、陥望の助詞。「と」は、とて。このようにばかりあってほしいといって。これは河鹿の鳴き声を、迎えてそのように聞きなしたのである。河鹿が、現状を喜んでいるとしてである。○鳴く河蝦かも 鳴いている河鹿であることよ。
【釈】 三重の河原の石のかげに、いつもこのようにばかりありたいものといって、鳴いている河鹿であることよ。
【評】 旅びととして三重の河原に立ち、そこに鳴いている河鹿の声を愛でての心である。河鹿は清流でないと棲まないものであるから、河原の清らかさが思われる。また、河鹿の鳴くのは、初夏より秋へかけてであるから、季節も快適な時でもある。奈良時代の人は、楽器の音はもとより、自然界の禽獣の鳴き声、水の音などに異常なまでに愛着をもち、その意の歌を多く詠んでいる。この作者はその愛着を河鹿の音につなぎ、単に愛でて聞いているというだけではなく、その声を、河鹿自身が、その生存を喜んでいる声と聞きなしたのである。これは珍しく、例の少ないものである。言いあらわしも、その心にふさわしいもので、「吾が畳三重の河原」というのも、気分としては自分と河鹿とにつながりをつけたものである。「かくしもがもと鳴く」(243)というのは、河鹿を擬人化したという程度のものでなく、むしろ作者の生活気分を反映したものとみえる。安らかに人生の深所に触れ得ている歌である。
式部大倭《しきぷおほやまと》の芳野にて作れる歌一首
【題意】 「式部大倭」の「式部」は、次の歌の「兵部」と同じく、官省を略記したもの。「大倭」は、氏であろう。
1736 山《やま》高《たか》み 白木綿花《しらゆふはな》に 落《お》ちたぎつ 夏身《なつみ》の川門《かはと》 見《み》れど飽《あ》かぬかも
山高見 白木綿花尓 落多藝津 夏身之川門 雖見不飽香聞
【語釈】 ○山高み白木綿花に落ちたぎつ 「山高み」は、山が高いゆえに。「白木綿花に」は、「白木綿花」は、白い楮をもって造った造花。「に」は、ごとくに。「落ちたきつ」は、水が高きより低きに落ちて激するで、「たぎつ」は、連体形。○夏身の川門 「夏身」は奈良県吉野郡吉野町菜摘、離宮より上流の地点。「川門」は、両岸が迫って川幅の狭くなっている所の称。
【釈】 山が高いので、水が白木綿花のごとくに、落ちて激するこの夏身の川門は、見ても見飽かないことよ。
【評】 夏身の辺りは、吉野川が高岩を繞って彎屈している所で、水勢がはげしくて最も渓流の趣をあらわしている所である。巻六(九〇九)笠金村の作「山高み白木綿花に落ちたぎつ滝の河内は見れど飽かぬかも」があり、それとの繋がりの深いものである。どちらが先後ともわからない。金村の歌が先にあれば、夏身を見てこのような歌にすることは、きわめてありやすいことである。
(244) 兵部川原《ひやうぶかはら》の歌一首
【題意】 兵部省の官人の川原氏と取れる。
1737 大滝《おほたぎ》を 過《す》ぎて夏箕《なつみ》に 傍《そ》ひてゐて 浄《きよ》き川瀬《かはせ》を 見《み》るが明《さや》けさ
大瀧乎 過而夏箕尓 傍爲而 淨川瀬 見何明沙
【語釈】 ○大滝を過ぎて 「大滝」は、離宮の所より上流で、吉野川が落下する状態になっていた地点の称。この滝は、後に崩壊してなくなったという。○夏箕に傍ひてゐて 「夏箕」は、大滝よりもさらに下流である。「傍ひてゐて」は、河に添ってとどまっていて。○浄き川瀬を見るが明けさ 「浄き川瀬」は、夏箕川の急湍。「明けさ」は、心のさわやかなことよで、ここは詠歎をあらわす。
【釈】 大滝を通り過ぎて、さらに夏箕の川門に添ってとどまっていて、清い河瀬を見ると、心さわやかなことであるよ。
【評】 古風な詠み方で、叙事を主として大まかにいい、さらに「見るが明けさ」と大まかな抒情をしているが、この詠み方が吉野川の佳景を全面的に思わせるものとなっていて、甚だ効果的である。古風の歌の長所を発揮し得ている作である。
上総《かみつふさ》の末《すゑ》の殊名《たまな》の娘子《をとめ》を詠める歌一首 并に短歌
【題意】 「末」は周淮で、本来は郡名。この郡は、今は君津郡の一部となっている。「珠名」は、娘子の名。人名の後に添う「な」は、愛称の例が多く、これもそれとみえる。作者は、以下左注によって高橋蟲麿である。蟲麿が上総《かずさ》の歌を詠んでいるのは、常陸《ひたち》の国庁の官人となっていて、養老三年、常陸の国司藤原宇合が按察使として、安房《あわ》・上総・下総《しもうさ》を管したことがあるので、それに関係してこの地に往来したためかという。蟲麿は巻三(三二一)、巻六(九七一)に出た。奈良朝初期の代表的歌人の一人である。以下二十三首はその作である。
1738 水長鳥《しながどり》 安房《あは》に継《つ》ぎたる 梓弓《あづさゆみ》末《すゑ》の珠名《たまな》は 胸別《むなわけ》の 広《ひろ》き吾妹《わぎも》 腰細《こしぼそ》の すがる娘子《をとめ》の その姿《かほ》の 端正《きらきら》しきに 花《はな》の如《ごと》 咲《ゑ》みて立《た》てれば 玉桙《たまぼこ》の 道行《みちゆ》く人《ひと》は 己《おの》が行《ゆ》く 道《みち》は行《ゆ》かずて 召《よ》ばなくに 門《かど》に至《いた》りぬ 指並《さしなら》ぶ 隣《となり》の君《きみ》は あらかじめ 己妻《おのづま》離《か》れて 乞《こ》は(245)なくに 鎰《かぎ》さへ奉《まつ》る 人皆《ひとみな》の かく迷《まと》へれば 容艶《かはにほ》ひ 縁《よ》りてぞ妹《いも》は たはれてありける
水長鳥 安房尓繼有 梓弓 末乃珠名者 胸別之 廣吾妹 腰細之 須輕娘子之 其姿之 端正尓 如花 咲而立者 玉桙乃 道徃人者 己行 道者不去而 不召尓 門至奴 指並 隣之君者 預 己妻離而 不乞尓 鎰左倍奉 人皆乃 如是迷有者 客艶 緑而曾妹者 多波礼弖有家留
【語釈】 ○水長鳥安房に継ぎたる 「水長鳥」は、未詳である。鳰鳥《におどり》かという。枕詞で、安房にかかるのは、水中に長くいて、浮かび出ると「あ」と長き息をする意かといっている。「安房に継ぎたる」は、安房に続いていると「末」の位置をいったもの。養老二年、上総国の平群、安房、朝夷、長狭の四郡を割いて、安房国としたが、天平十三年上総国にあわせ、天平宝字元年、また旧に復した。ここはおおまかにいったもので、安房方面より末に向かって行くとと、道行き風に叙しているのである。○梓弓末の珠名は 「梓弓」は、本末《もとすえ》ある意で、「末」にかけた枕詞。○胸別の広き吾妹 「胸別」は、ここは胸で、胸で物を押し分けるところから出た称であろう。「吾妹」は三人称の愛称。胸幅の広いことを、女の美貌の第一条件としていっているのは、ここにあるのみである。○腰細のすがる娘子の 「腰細」は、腰の細い意で、漢籍には、細腰、柳腰などの語がある。「すがる」は、蜂の一種で、じがばちといい、地中に巣を営む。今は「すがれ」とも呼ぶ。長さ八分ばかり、色が黒く、腰がきわめて細い。「すがる娘子」という語は、二句の続きから見て、そういう語が行なわれていたのであろうと『新考』はいっている。微小な虫が、取立てていわれているのは、現在もしているように、その幼虫が食料とされたからではなかろうか。「の」は、にしての意で、下へ続く。○その姿の端正しきに 「姿《かほ》」は、本来容貌全体の称であったのが、顔をその代表的の部分とするところから、転じて顔の意となった語で、ここは顔の意のもの。「端正しきに」は、旧訓「うつくしけさに」。『童蒙抄』の訓。日本霊異記、日本書紀に例のある語。きわめて美しい意。○花の如咲みて立てれば 「立てれば」は、門《かど》に立っていると。○玉桙の道行く人は 「玉桙の」は、道の枕詞。「道行く人」は、旅びとの意で、女の家が街道筋に近くあったことをあらわしたもの。「は」は、下の「隣の君は」に対させたもの。○己が行く道は行かずて 自身の向かうべき道は行かずしてで、旅の身ということも忘れて。○召ばなくに門に至りぬ 「召ばなくに」は、「なく」は、打消の助動詞「ず」の名詞形。娘子が招きもしないのに、その門に来てしまう。○指並ぶ隣の君は 「指並ぶ」は、「さし」は接頭語。「並ぶ」は、家の並ぶ意で、意味で「隣」へかかる枕詞。「君」は、主人を貴んでいったもの。○あらかじめ己妻離れて 娘子と約束のない以前から、自分の妻と関係を絶って。○鎰さへ奉る 「鎰」は、門、櫃などのそれで、その家の最も大切な物。「さへ」は、までも。「奉る」は、与うの敬語で、女に対しての慣用。○容艶ひ縁りてぞ妹は 「容艶ひ」は、訓が定まらない。「艶」は「にほふ」に当てた用例が集中に多い。色の美しい意で、ここは、顔に愛嬌を湛えての意。「縁りて」は、靡いて。○たはれてありける 「たはれ」は、婬れで、色情をほしいままにして。「ける」は「ぞ」の結。
【釈】 安房に続いている末の珠名は、胸部の広い女で、腰の細いすがる娘子であって、その顔がきらきらと輝くようなのに、花のごとく笑んで門に立っていると、旅をしている人は、自分の行くべき道は行かずに、招きもしないのに、娘子の門に来てしま(246)う。軒並びの隣の主人の君は、その約束もない前から自分の妻と遠ざかって、乞いもしないのに、その家の鎰《かぎ》までも捧げる。すべての人がこのように心を迷わせているので、顔に愛嬌を湛えて靡いて、娘子は色情をほしいままにしていたことである。
【評】 この歌は、民間の美貌の一婬婦の、その日常生活を捉えて詠んだもので、作者との関係は、漠然とした噂話と、一|瞥見《べつけん》という程度のものであって、そこには事件と称しうるほどのものはないのである。このような庶民生活の小事相を捉え、それを純叙事的に扱った長歌は、長歌の歴史の上にかつてなかったことで、全く蟲麿によって創始されたことである。長歌は歴史的に見ると、しだいに短歌に圧倒されて衰運に向かっていたのであるが、奈良初期、復古気分の擡頭するのに伴って、山上憶良は盛んに作り、その一傾向として、大伴旅人の短歌の連作によって試みようとしたのと同じく、叙事的というよりはむしろ物語的情景をあらわそうとしたのであった。しかしそれは抒情的な歌を連結することによって、結果としてはそのようなものになる作をしたというにすぎず、しかもその例も「貧窮問答」があるにすぎないのであった。しかるに蟲麿は、一躍、直接な、純叙事的なこのような作を試み、しかもこのような題材を扱ったということは、長歌の歴史からいうと全く劃期的なものなのである。この試みは蟲麿からいえば、一に興味によってのことで、その以外には何の企画もない、純粋な詩的衝動によってのことと思われる。それは作そのものの直接に感じさせることである。この歌は、道行き風の言い方で末の珠名を捉え、「胸別の広き吾妹 腰細のすがる娘子」という、文献にはかつて見ない、全くその土地から生まれた語をもって、一美女を簡潔に、具体的に浮かび上がらせ、「花の如咲みて立てれば」というきわめて魅力的な語で、その娘子の行動のほとんど全部としようとしているのである。これは比類のない描写力である。以下に続く男の状態も、「乞はなくに鎰さへ奉る」は、要を得た簡潔な描写である。結尾の、「たはれてありける」は、やや蛇足の感のあるものであるが、これは起首に照応させ、物語風の趣をもたせようとした要求よりのもので、余儀ないことというべきであろう。蟲麿は伝記の伝わらない、身分の低い人であったとみえるが、とにかく支配階級の人である。そうした人が、実際においては、じつに典型的な誇るべき民間歌人の業をしたのである。
反歌
1739 金門《かなと》にし 人《ひと》の来立《きた》てば 夜中《よなか》にも 身《み》はたな知《し》らず 出《い》でてぞあひける
金門尓之 人乃來立者 夜中母 身者田菜不知 出曾相來
【語釈】 ○金門にし人の来立てば 「金門」は、門。上代の門は金具を用いていたからの称という。「人」は、男。「来立てば」は、婚《よば》いをすると。○身はたな知らず 「たな知らず」は、全く知らずで、何事も忘れての意。○出でてぞあひける 「あひ」は、男女相逢う意のもの。「ける」は、(247)「ぞ」の結。
【釈】 門に男が来て婚《よば》いをすると、夜中でも、何事も忘れて、出て相逢ったことである。
【評】 長歌の結句の「たはれてありける」を承けて、それを採り返す形において具体的にしたものである。結句の形を長歌に近からしめたのもそのためである。この反歌によって、珠名の平凡な一女子であることを明らかにし、作意を徹底させているのである。
水江の浦島の子を詠める一首 并に短歌
【題意】 「水江の浦島の子」は、「水江」はもと地名、「浦島」は名、「子」は、男にも添える風があり、他にも例のあるもので、愛称と取れる。浦島の子の事の最初に文献に現われたのは、日本書紀、雄略紀、二十二年七月であり、ついでは丹後国風土記である。雄略紀では丹波の人となっているが、和銅六年丹波国の五郡を割いて丹後国を置かれたため国が異なったのである。伝説の骨子は、この歌にあるごときものであるが、物語そのものの興味よりしだいに展開し、道家、仏家の思想が加わって、しだいに複雑なものとなっている。その点については、『代匠記』『古義』が委《くわ》しく考証している。なおこの歌では、浦島の子の生地は、丹波でも丹後でもなく、住吉となっている。伝説の常として、その主人公の生地、人となりのごときは、いかにも流動するものであり、同じく海岸である住吉が、その生地とされたのは、奈良時代、住吉が段盛《いんせい》であった関係上当然のことといえる。蟲麿の時代、住吉説は有力なものであったとみえる。なお、浦島の子というごとき古伝説が、事新しく取上げられているのは、奈良朝時代は神仙思想が流布して一般化した時代とて、その上での絶好の話題とて、浦島の子のことは人の口に上り、勢力ある民間伝説となっていたがためと思われる。蟲麿は、浦島の子の生地となっている住吉に行き、その家のあったという跡を目にして、現存しているものである民間伝説を取上げているのである。
1740 春《はる》の日《ひ》の 霞《かす》める時《とき》に 墨吉《すみのえ》の 岸《きし》に出《い》でゐて 釣船《つりふね》の とをらふ見《み》れば 古《いにしへ》の 事《こと》ぞ念《おも》ほゆる 水《みづ》の江《え》の 浦島《うらしま》の児《こ》が 堅魚《かつを》釣《つ》り 鯛《たひ》釣《つ》り衿《ほこ》り 七日《なぬか》まで 家《いへ》にも来《こ》ずて 海界《うなさか》を 過《す》ぎて榜《こ》ぎ行《ゆ》くに 海若《わたつみ》の 神《かみ》の女《をみな》に 邂《たまさか》に い榜《こ》ぎ向《むか》ひ 相《あひ》あとらひ こと成《な》りしかば かき結《むす》び 常世《とこよ》に至《いた》り 海若《わたつみ》の 神《かみ》の宮《みや》の 内《うち》の重《へ》の たへなる殿《との》に 携《たづさは》り 二人《ふたり》(248)入《い》り居《ゐ》て 老《お》いもせず 死《し》にもせずして 永《なが》き世《よ》に ありけるものを 世間《よのなか》の 愚人《おろかびと》の 吾妹子《わぎもこ》に 告《の》りて語《かた》らく 須臾《しましく》は 家《いへ》に帰《かへ》りて 父母《ちちはは》に 事《こと》も告《の》らひ 明日《あす》の如《ごと》 吾《われ》は来《き》なむと 言《い》ひければ 妹《いも》がいへらく 常世辺《とこよべ》に 復《また》帰《かへ》り来《き》て 今《いま》の如《ごと》 逢《あ》はむとならば この篋《くしげ》 開《ひら》くな勤《ゆめ》と そこらくに 堅《かた》めしことを 墨吉《すみのえ》に 還《かへ》り来《きた》りて 家《いへ》見《み》れど 家《いへ》も見《み》かねて 里《さと》見《み》れど 里《さと》も見《み》かねて 恠《あや》しと そこに念《おも》はく 家《いへ》ゆ出《い》でて 三歳《みとせ》の間《ほど》に 垣《かき》も無《な》く 家《いへ》滅《う》せめやと この筥《はこ》を 開《ひら》きて見《み》てば 本《もと》の如《ごと》 家《いへ》はあらむと 玉篋《たまくしげ》 少《すこ》し開《ひら》くに 白雲《しらくも》の 箱《はこ》より出《い》でて 常世方《とこよべ》に たなびきぬれば 立《た》ち走《はし》り 叫《さけ》び袖《そで》振《ふ》り 反側《こいまろ》び 足《あし》ずりしつつ 頓《たちまち》に 情《こころ》消失《けう》せぬ 若《わか》かりし 膚《はだ》も皺《しわ》みぬ 黒《くろ》かりし 髪《かみ》も白《しら》けぬ ゆなゆなは 気《いき》さへ絶《た》えて 後《のち》つひに 寿《いのち》死《し》にける 水《みづ》の江《え》の 浦島《うらしま》の子《こ》が 家地見《いへどころみ》ゆ
春日之 霞時尓 墨吉之 岸尓出居而 釣船之 得乎良布見者 古之 事曾所念 水江之 浦嶋兒之 堅魚釣 鯛釣矜 及七日 家尓毛不來而 海界乎 過而傍行尓 海若 神之女尓 逅尓 伊許藝〓 相誂良比 言成之賀婆 加吉結 常代尓至 海若 神之宮乃 内隔之 細有殿尓 携 二人入居而 耆不爲 死不爲而 永世尓 有家留物乎 世間之 愚人乃 吾妹兒尓 告而語久 須臾者 家歸而 父母尓 事毛告良比 如明日 吾者來南登 言家礼婆 妹之答久 常世邊 復變來而 如今 將相跡奈良婆 此篋 開勿勤常 曾己良久尓 堅目師事乎 墨吉尓 還來而 家見跡 宅毛見金手 里見跡 里毛見金手 恠常 所許尓念久 從家出而 三歳之間尓 垣毛無 家滅目八跡 此筥乎 開而見手齒 如本 家者將有登 玉篋 小披尓 白雲之 自箱出而 常世邊 棚引去者 立走 叫袖振 反側 足受利四管 頓 悟消失奴 若有之 皮毛皺奴 黒有之 髪毛白斑奴 由奈由奈波 氣左倍絶(249)而 後遂 壽死祁流 水江之 浦嶋子之 家地見
【語釈】 ○春の日の霞める時に これは結末に照応させてあり、作者が住吉に行っていた時の眼前の景である。心楽しく、人を空想に誘う季節としてもいっていることが、下の続きで思われる。○墨吉の岸に出でゐて 「墨吉」は、今の大阪市住吉であるが、ここは浦島の子が生地としてのもの。「岸」は、同じく浦島の子が漁夫として出入りしたところ。○釣船のとをらふ見れば 「釣船」も、実景ではあるが、浦島の子の関係においてもいっているもの。「とをらふ」は、他に用例の見えない語で、語義が明らかでない。「撓《とを》む」という動詞の語幹を活用したもので、進行せず、一つ所に動揺している状態をあらわす語かという解に心を引かれる。上からの続きで、その範囲の語と思われる。○古の事ぞ念ほゆる 「古の事」は、以下の浦島の子のこと。「念ほゆる」は、思われてくるで、自然の順序をもって重くいっているものである。「ゆる」は、上の「ぞ」の結、連体形。以上、第一段。○水の江の浦島の児が 上にいった。○堅魚釣り鯛釣り衿り 「堅魚」は、今と同じ。鯛と並ぶ代表的な海魚としていたものである。「鯛釣り矜り」は、「矜り」は、みずから得意となる意で、上の堅魚をもこめてのもの。漁夫としての喜びをいったもの。○七日まで家にも来ずて 「七日」は久しい間の意であるが、この語はこの種の伝説に共通のものである。上の「釣り矜り」を具象化し、それとともに海を遠く行ったこともあらわしているもので、細かい心理を含んでいる。○海界を過ぎて榜ぎ行くに 「海界」は、ここは、海の限界の意で、古くは海岸より望んで、遠く横たわる水平線を海の果てとし、その彼方は神秘の世界と信じていたと思われる。「過ぎて榜ぎ行くに」は、神秘の世界へ、得意なままに、それとも心づかずに榜ぎ進んで行くと。○海若の神の女に 「海若」は、本来は海を領する神の名であるが、転じて海の称となったもの。上代信仰では、海も海の神も同一であるから、転じやすいものである。ここは海の意。○邂にい榜ぎ向ひ 「邂に」は、偶然に。「い榜ぎ」は、「い」は接頭語。「向ひ」は、旧訓「わしらひ」。『略解』の訓。『新考』は、「〓」は趨の俗字で、「むかひ」と訓みうる字だといっている。「榜ぎ向ひ」は、浦島の子の舟と神の娘の舟と相向かい合いになって。○相あとらひこと成りしかば 「相あとらひ」は、旧訓「あひかたらひ」。『古義』の訓。相誘い合って。「こと成りしかば」は、「こと」は、婚事で、「成りしかば」は、成立したので。○かき結び常世に至り 「かき結び」は、「かき」は、接頭語。「結び」は、同伴して。「常世」は常住不変の国。これは古くは、人が死後に往く国の称であったが、後、転じて、不老不死の仙郷となり、海の彼方にあるものとされていた。ここはそれである。○海若の神の宮の内の重のたへなる殿に 「重」は障壁で皇居には内の重、中の重、外《と》の重と幾重もの障壁があるとした。ここはそれで、奥の囲い。「たへなる」は、結構なるで、この意味で用いたのはこれが初めである。○老いもせず死にもせずして 不老不死の状態にあっての意で、これは仙郷の特色である。本来、神は永生の存在であるから、海若の神の国と仙郷とは結合しやすい性質のものである。○世間の愚人の 「愚人」は、『新訓』の訓。世にも愚かなる人ので、浦島の子を言いかえたもの。これは作者が仙郷に憧れるところから発している批評の語である。○吾妹子に告りて語らく 「吾妹子」は三人称。「語らく」は、「語る」の名詞形。語ることには。○父母に事も告らひ 「事」は、現在の状態。○明日の如吾は来なむと 「明日の如」は、明日というようにすぐにで、現在の口語の、明日にもというにあたる。「来なむ」は、きっと帰って来ようと。○常世辺に復帰り来て 「常世辺」の「辺」は、この常世の方に。「帰り」は、再び帰って来て。○今の如逢はむとならば 現在の状態のように逢って、すなわち連れ添っていようと思うならば。○この篋開くな勤と 「筐」は、『考』の訓。「くしげ」は、櫛笥で、櫛を容れる箱。櫛は女の霊魂のこもっている物で、それを容れてある箱であるが、ここは仙郷の呪術をこめてある箱である。「開くな勤と」は、開くと呪術が破れるとして禁止したので、「勤」は、けっしてと強くいった副詞。神仙道で(250)も、人間が神仙となるには仙術を得なければならないとしていたので、この箱はその仙術を具象化したものなのである。この当時の人の神仙道に対する信仰と、上代からの禁忌の信仰とを反映させたものである。○そこらくに堅めしことを 「そこらく」は、そこばくと同義の語で、数の多いこと。ここは幾たびも、くれぐれもというにあたる。「堅めしことを」は、「こと」は、言で、堅く禁じた言を。○怪しとそこに念はく 「そこに」は、その点についてで、用例の多いもの。それで。「念はく」は、思うことには。○家ゆ出でて三歳の間に 「三歳」は、上の「七日」と同じくこの種の伝説に共通の時。三年のあいだに。○垣も無く家滅せめやと 「滅せめや」は、「や」は、反語。失せてしまおうか、そうしたはずはない。「と」は、と思っての意のもの。この「と」は、下の「家はあらむと」の「と」と重なるので問題とされているが、事としては、「念はく」以下、下の「家はあらむと」まで一続きのもので、事が長いので、中間に「と」によって休止を置き、さらに思い続けて、同じ形をもって重ねたもので、古典に例のあるものである。○玉篋少し開くに 「玉筐」は、「玉」は、美称。「筐」は、上に出た。○白雲の箱より出でて 「白雲」は、霊力そのものの形である。上代の人は雲に神秘性を感じており、その例は古典に多い。ここもそれである。○常世辺にたなびきぬれば 常世の国のほうへ靡いて行ったのでというので、それを見て浦島の子は、神の娘にいわれた禁忌を思い出したのである。○立ち走り叫び袖振り 「立ち走り」は、後を追う意。「叫び」は、呼び留める意。「袖振り」は、男女間で意志を通じるしぐさで、ここは同じく招き寄せようとする意のものである。○反側び足ずりしつつ 「こい」は、寐ること、転がることの古語「こゆ」の連用形で、ここは転がる意。「反側《こいまろ》び」は、同意語を畳んで強めたもの。「足ずりし」は、地団太を踏むというにあたる語。いずれも甚しく口惜しいことをあらわすしぐさ。「つつ」は、継続。○頓に情消失せぬ たちまちに正気を失ってぼんやりしてしまったで、あまり激動してのこと。○若かりし膚も皺みぬ 若かつた皮膚に皺が寄ってしまったで、常世の国の霊力の、身を離れたこと。○ゆなゆなは気さへ絶えて 「ゆなゆな」は、ここにあるのみで、他には見えない語である。『全註釈』は、「ゆ」は、「ゆり」(後)に同じく、それに朝な夕ななどの「な」を接尾語として添えた語で、それを重ねたもの。後々は、の意としている。「気さへ絶えて」は、気息まで絶えてで、上を承けて、老衰の極に陥った意。○後つひに寿死にける 「寿死にける」は、死をあらわす上代の語法のもの。連体形で、下へ続く。○浦島の子が家地見ゆ 「家地」は、家のあった所、すなわち家跡。「見ゆ」は、見られるで、住吉の海岸近い所に、その時代、そうした言い伝えの所があって、作者はそれを見ているのである。
【釈】 春の日のいちめんに霞んでいる時に、住吉の海岸に出ていて、釣船の波に揺られ揺られしているのを見ると、古にあったことの思い出させられることであるよ。水の江の浦島の子が、堅魚を釣り、鯛を釣って、その釣れるのに得意となり、七日間という永い間を家には帰らずに、海の境界をも越えて榜ぎ進んで行くと、海の神の娘に、偶然にも榜ぎ向かって、互いに婚事を話し合い、事が成立したので、同伴して常世の国に行き、海の神の宮の、奥の囲いの結構な殿の内に、連れ合って二人で入っていて、老いもせず死にもしないで、常世の国に住んでいたのであったのに、世にも愚かなる人の、その愛する妻に告げて語ることには、しばらくの間をわが家に帰って、父母に現在の事態を話し、明日というくらいにも早く吾は帰って来ようといったので、妻のいうことには、この常世の国へまた帰って来て、現在のように連れ添っていようと思うならば、この箱をけっして聞くなといって、くれぐれも禁じた言葉であるのに、住吉に帰って来て、家を見るが家も見ることができないので、里を見るが、里も見(251)ることができないので、恠《あや》しいことだとそれで思うことには、家から出て三年のあいだに、垣もなくなり、家も失せてしまうということがあろうか、そういうはずはないと思い、それはこの箱がさせていることであろう、これを少し開けて見たならば、以前のように家はあることだろうと思って、箱を少し開けると、白雲が籍の中から出て、常世の国のほうへ靡《なび》いて行ったので、禁じられたことを思い出し、それを取り戻そうと、走って追い、叫んで呼び留め、袖を振って招き、口惜しさに転がり転がりし、地団太を踏みつづけて、たちまちに、正気を失ってぼんやりとしてしまった。若かった膚も皺が寄ってしまった、黒かった髪も白くなってしまった。後々は気息《いき》までも絶えて、後ついに死んでしまったところの、水の江の浦島の子の家のあった跡が見える。
【評】 わが国の伝説の中の代表的な一つである浦島伝説を捉えて、その時代の形をそのままに叙した、珍しい歌である。それを取上げる動機として、蟲麿自身住吉に遊び、海岸より釣船を見、また、浦島の家の跡どころを見て、昔のことを思い出したという形にしているが、歌として見ればこれは、伝説に真実性をもたせようとしたことで、技巧といえるものである。浦島の伝説は、これを内容からいっても、大本は同じであるが、部分的には流動を続け、またその住地も変化を続けていたとみえる。内容の根本は、人間が常に人生的に不如意不満足を感じ、どこかにもっと幸福な地があろう、どうかすれば得られようとする憧憬の情より生み出した想像で、人間の根本性情に根ざしたものである。それが漢土より渡来した神仙道と絡み合い、融化して出来上がった伝説である。道教のわが国に渡来したのは仏教よりも早かったろうともいわれているので、その伝説として一応の形を備えた時は古いことと思われる。その甚しく伝播したのは、人間の根本性情に触れるものだったからで、部分的の変化は、その時代時代の生活感情に親しいものとしようとする要求からである。現にここにある形にしても、丹後風土記とは異なっている。そちらでは魚が獲られずに亀を獲、それを船中に置くと美人と化して結婚したというので、これは神婚説話の系統のものである。風土記の撰進された時期とこの時期とは幾何《いくばく》の距離もないのであるが、古い信仰の神婚ということは消えて、神仙道のみのものとなったのである。しかし同じく信仰の禁忌ということのほうは守られて、禁止されていた箱の蓋を開いたということが、最後の破滅にはなっている。その櫛笥も、後には単なる玉手箱となったもので、これらはすべてその時代の信仰を反映しているものである。ここにある伝説も、庶民的な素朴さをもったものである。仙郷に三年を過ごすと、浦島は両親が恋しくなったのである。仙郷でいかに充足した幸福な生活を送っていても、個人的な生活だけではあき足らず、親を思う情に駆り立てられるというのは、これは当時の庶民の一般感情の反映である。漢土の神仙とは一致しない、いわば国民性ともいえるものである。さらにまた、住吉に帰ってみて、あの常世の国のさまは、この櫛笥のもつ呪力のさせていることで、真実のものではない。今もそれを身にしているのでこのようなさまが見えるのだということが、無意識に本能的に働いて、以前の真実のさまが見たく、その恋しさから開けるのである。これは言いかえると、常世の国の幸福に神性を感じ、おちつきかねるものとし、それよりもむしろ平凡な真実のさまに幸福があるとする心があってさせたことである。これは神仙郷の幸福も比較上(252)のもので、絶対なものではないとする心である。さらにいえば、佗びしさのある現実生活が、否定しきれないものであるとする庶民生活の反映であって、庶民からいうと、櫛笥の蓋を開けることが、心理的に自然なこととする心理を反映したものと思われる。蟲麿はこれら庶民の心を肯定しつつ、同時に一方では知識人としての自身の感情を加えて、浦島を「世のなかの愚人」と評しているのだと思われる。この歌を作る時の蟲麿の態度は、古事を伝える物語の形に従って、平坦に、明晰《めいせき》に、静かに委曲を尽くしていて、上の珠名のことをいう時の花やかな態度は忘れたごとくにしている。しかしそこには批評の精神が働いていて、それを取材の扱い方の上に示している。浦島には仙郷を慕う精神などはいささかもなく、海界を越えたのは「鯛釣り矜り」で、調子に乗って夢中になっていたからの成行きにすぎない。仙郷の歓楽は描いてはいない。力点を置いているのは、「恠しとそこに念はく」以下、「立ち走り叫び袖振り 反側び足ずりしつつ」であるが、これは禁忌とそれを破る咎ということは、この時代も厳存していたわが国の信仰だったからと思われる。要するに仙郷というものを軽視しているごとき角度から扱っているのである。口では重視するごとくいっているが、実情としては軽視している心がこのような扱い方をしているので、そこに蟲麿の批評がある。このことは丹後風土記と対照すると明らかで、単にその当時の伝説を叙したというのではなく、批評的精神の伴ってのものだと思われる。
反歌
1741 常世辺《とこよべ》に 住《す》むべきものを 剣刀《つるぎたち》 己《な》が行《こころ》から おそやこの君《きみ》
常世邊 可住物乎 釼刀 己之行柄 於曾也是君
【語釈】 ○常世辺に住むべきものを 「常世辺」は、上に出た。不老不死の国のほうに。○剣刀己が行から 「剣刀」は、剣の刀の意で、鋭利な刀。刃《な》の意から「な」にかかる枕詞。巻四(六一六)に出た。「己が行から」は、原文は古本の多くは「己之行柄」であり、西本願寺本以後は「行」が「心」となっている。「己」は大己貴《おおなむち》神などの例で「な」と訓め、「行」も『類聚名義抄』に「こころ」とあるのにより、「ながこころから」と訓む説に従う。自分の心からで、箱を開けたこと。ここに句切があり、「なり」の意が略されている。○おそやこの君 「おそ」は巻二(一二六)に出た。鈍の字を当てる。愚かな意。「や」は、感動の助詞。「この君」は、尊んでの称で、愚かなことや、その君は。
【釈】 不老不死の国に住んでいるべきであるものを。自分の心からのことである。愚かなことや、その君は。
【評】 浦島の子を、好意をもって罵った心である。「世間の愚人」といつたのを、語をかえて繰り返した意のもので、まさに奈良朝の心である。飛躍があって、独立させては解しかねるほどのものである。
(253) 河内《かふち》の大橋を独り去《ゆ》く娘子《をとめ》を見る歌一首 井に短歌
【題意】 「河内の大橋」は、歌にいう「片足羽《かたしは》河」の橋で、その大きなところから、このような名をもって呼ばれたのである。片足羽河は、石川であるともいい、また大和川であるともいって、定まらない。石川は河内国の南方から発し、北流して大和川に濺《そそ》ぐ川で、それに架かっている橋とすると、河内の国府へ通う橋であるが、歌で見ると立派すぎる。当時の大和川は、河内に入ると北流しているから、奈良から難波へ通う街道として、竜田山を越えてこの河を渡るとすると、華麗な橋が架かっていても不自然ではない。大和川の橋だろうという。
1742 級照《しなて》る 片足羽河《かたしはがは》の さ丹塗《にぬり》の 大橋《おほはし》の上《うへ》ゆ 紅《くれなゐ》の 赤裳《あかも》すそ引《ひ》き 山藍《やまあゐ》用《も》ち 摺《す》れる衣《きぬ》服《き》て ただ独《ひと》り い渡《わた》らす児《こ》は 若草《わかくさ》の 夫《つま》かあるらむ 橿《かし》の実《み》の 独《ひと》りか宿《ぬ》らむ 問《と》はまくの 欲《ほ》しき我妹《わぎも》が 家《いへ》の知《し》らなく
級照 片足羽河之 左丹塗 大橋之上從 紅 赤裳數十引 山藍用 摺衣服而 直獨 伊渡爲兒者 若草乃 夫香有良武 橿實之 獨歟將宿 問卷乃 欲我妹之 家乃不知久
【語釈】 ○級照る片足羽河の 「級照る」は、階段をなして日が照るで、日本書紀、推古紀の聖徳太子の歌に「しなてる片岡山に」とあるのにより、ここは「片」にかけた枕詞。○さ丹塗の大橋の上ゆ 「さ丹塗」は、「さ」は接頭語。「丹」は、ここは赤色。赤色の塗料をもって塗った。官船を丹塗にしたと同じで、防腐料であるとともに美観を添える意もあったろう。「上ゆ」は、上を通って。「ゆ」は、経過の点をあらわす語で、「を」というにあたる。○山藍用ち摺れる衣服て 「山藍」は、たかとうだい科の多年生草木で、山の陰地に生える。その葉を青色の染料とした。青色に物の形を摺った、白色の衣。○ただ独りい渡らす児は 「い渡らす」は、「い」は、接頭語。「渡らす」は、「渡る」の敬語。女子に対しての慣用。「児」は、女子の愛称。○若草の夫かあるらむ 「若草の」は、「つま」の枕詞。「らむ」は、現在の推量。現に夫を持っているだろうか。○橿の実の独りか宿引む 「橿の実の」は、一球一個の物であるから、意で「独り」にかかる枕詞。一人寝をしていようか。○問はまくの欲しき我妹が 「問はまく」は、「問はむ」の名詞形。「我妹」は、三人称で、親しんでの称。○家の知らなく 「知らなく」は、「知らぬ」の名詞形で、ここは下に詠歎を含んでいる。女の家を尋ねるのは求婚の意であるから、その心を軽く絡ませていっているもの。
【釈】 この片足羽河の丹塗の大橋の上を通って、紅の赤裳の裾をひいて、山藍の摺り染めの衣を着て、ただ独りで渡って行かれる可愛ゆい女は、夫を持っているのであろうか。独身で一人寝をしていようか。尋ねてみたい気のする可愛ゆい女の、家を知ら(254)ないことであるよ。
【評】 長歌としてはきわめて軽いものであるが、しかし一首の歌として見ると、優れた作と称しうるものである。これを単に取材の上から見れば、あるいは短歌の一首をもって詠みうるものであり、連作として二首とすれば優に詠まれる量である。それをこのような長歌としているのである。長歌としたのは、気分をあらわそうとしたからのことである。蟲麿の時代には、事よりも気分をあらわそうとする傾向に向かってきていたが、そのために、ある作は事象が空疎になり、またある作は事象をも尽くそうとするところから冗漫に陥って、かえって感の稀薄になる傾きがあった。この作は事象と気分が一致していて、簡潔に安らかにその双方をあらわしている。奈良朝中期の特徴を典型的に示し得ている作である。蟲麿の手腕を思わせるに足りる。
反歌
1743 大橋《おほはし》の 頭《つめ》に家《いへ》あらば 心悲《うらがな》しく 独《ひと》り去《ゆ》く児《こ》に やど借《か》さましを
大橋之 頭尓家有者 心悲久 獨去兒尓 屋戸借申尾
【語釈】 ○大橋の頭に家あらば 『略解』の訓。「頭」は詰で、橋のたもと。「家あらば」は、わが家がもしあったならばで、仮設しての言。作者も旅だったのである。○心悲しく独り去く児に 「心悲しく」は、『代匠記』の訓。たよりなく悲しげにして。○やど借さましを 今宵の宿りを借そうものをで、「まし」は、上の「あらば」の帰結。その時刻の、夜の宿りを思わせる時であったことを暗示しているもの。
【釈】 大橋の詰に、もしもわが家があるのであったら、たよりなく悲しげにして独りで行く可愛ゆい女に、今夜の宿を借そうものを。
【評】 反歌に至って、その女のたよりなく悲しげにしているさまと、時刻の夕方近いことをあらわし、「やど借さましを」と、隣れみの情を起こしたことにまで展開させている。長歌には幾分か男女関係が絡んでいたが、反歌は単に人としての立場からの隣れみの情になっている。やや年の長《た》けた男の、若い女に対しての心理を、暗然のうちに示しているものといえる。長歌から切り放し難い反歌で、相俟って一つの境をあらわしているものである。
武蔵《むざし》の小埼《をざき》の沼《ぬま》の鴨を見て作れる歌一首
【題意】 歌にある「埼玉」は、行田市埼玉を中心に熊谷市、羽生市とにわたる。「小埼の沼」は行田市にあったのである。
(255)1744 埼玉《さきたま》の 小埼《をざき》の沼《ぬま》に 鴨《かも》ぞ翼《はね》きる 己《おの》が尾《を》に 零《ふ》り置《お》ける霜《しも》を 掃《はら》ふとにあらし
前玉之 小埼乃沼尓 鴨曾翼霧 己尾尓 零置流霜乎 掃等尓有斯
【語釈】 ○鴨ぞ翼きる 「翼きる」は、羽根を強く羽ばたきさせることで、水分を払う時にする。「きる」は、「ぞ」の結で、連体形。○己が尾に零り置ける霜を 自分の尾羽の上に、降って置いている霜を。○掃ふとにあらし 「にあらし」は、旧訓。
【釈】 埼玉の小埼の沼に、鴨が強く羽ばたきをしていることであるよ。自分の尾羽の上に降ってたまっている霜を、掃い落とそうとするのであろう。
【評】 旋頭歌という静かなおちついた形式を用い、前半では、「鴨ぞ翼きる」と、はっきりと事象をいい、後半では、その結末に「あらし」という詞を用いて、それによって一首全部を推量にしているのである。それによって作者は、晩秋の夜寒の頃、埼玉の小埼の沼のほとりに宿り、明け方のことに寒さの加わる頃、床の上に目をあいていて、鴨の翼きる音に、自身も身に沁む寒さを感じている気分をあらわしているのである。事象と気分とのつながりをじつに巧妙に扱っている。また、旋頭歌という、大体としては単調に陥りやすい歌形を、変化の多いものにしているのも、同じく巧妙である。すぐれた手腕である。
那賀《なか》郡の曝井《さらしゐ》の歌一首
【題意】 「那賀郡」は、武蔵国にも常陸国にもあるが、ここは常陸である。常陸国風土記の那賀郡の条に、「自v郡東北挾2粟河1而置2駅家1。当2其以南1、泉出2坂中1。水多流尤清。謂2之曝井1。縁v泉所v居村落婦女、夏月会集、浣v布曝乾」とあって、今の水戸市愛宕町滝坂の清泉のある所だという。「曝井」は衣をさらすところからの称、井は泉である。
1745 三栗《みつぐり》の 中《なか》に向《むか》へる 曝井《さらしゐ》の 絶《た》えず通《かよ》はむ 彼所《そこ》に妻《つま》もが
三栗乃 中尓向有 曝井之 不絶將通 彼所尓妻毛我
【語釈】 ○三栗の中に向へる曝井の 「三栗の」は、一毬に三個入っている栗で、その中の栗の意で、「中」にかかる枕詞。「中」は、那賀郡(現在、那珂郡那珂町)で、ここは、その郡の役所の称で、それに向かい合いになっている曝井で、眼前の景。「曝井」は、絶えず水の湧く井で、「絶えず」に続け、初句より三句までを序詞の形にしたもの。○絶えず通はむ彼所に妻もが 「絶えず通はむ」は、絶えず通って来よう。「彼所」は、(256)古くは「此所」を通じて用い、これもそれである。「妻もが」は、「もが」は、願望の助詞で、この地に妻を欲しいものだ。
【釈】 那賀に向かっている曝井の水の絶えないのに因《ちな》みある、絶えず我も通って来よう。この地に妻を欲しいものだ。
【評】 旅びととして曝井を見、その佳景に心が引かれて、その地に関係をつけたい心を起こし、この地に気に入った妻を欲しいものだというのである。那賀の地のなつかしい気分をいおうとしたもので、「妻もが」はその具象化である。全体として旅の歌らしい、軽く明るいものである。
手綱の浜の歌一首
【題意】 「手綱の浜」は、常陸国多賀郡松岡村(現在の茨城高萩市)の中に手綱の字が存している。常陸国の北端である。
1746 遠妻《とほづま》し 高《たか》にありせば 知《し》らずとも 手綱《たづな》の浜《はま》の 尋《たづ》ね来《き》なまし
遠妻四 高尓有世婆 不知十方 手綱乃濱能 尋來名益
【語釈】 ○遠妻し高にありせば 「遠妻」は、遠方に住む妻。上代の結婚にあっては、例の多いこと。「し」は、強意の助詞。「高」は、「題意」でいった多賀郡であるが、『和名類聚抄』に、「多珂郡多珂」とある。ここはその多珂で、郡の役所があったとみえる。「ありせば」は、仮設。○知らずとも 妻の家へ行く道を知らなかろうとも。○手綱の浜の尋ね来なまし 「手綱の浜の」は、同音反復で、「尋ね」にかかる序詞。「尋ね来なまし」は、尋ねて来ようものをで、「来」といっているのは、妻の家を中心としての言い方である。「まし」は、「せば」の帰結。
【釈】 わが遠妻が、この多賀の地にあったならば、ここへの道は知らなかろうとも、手綱の浜の名に因む、尋ねて来ようものを。
【評】 旅びととして、上の歌と同じく多賀の地になつかしみを感じ、この地にわが遠妻があったならば、どのようにでもして通って来ようというのである。手綱の浜の序詞は巧みである。軽く明るい心のもので二首とも挨拶の歌の類であろう。
春|三月《やよひ》、諸卿大夫等《まへつぎみたち》の難波に下りし時の歌二首 并に短歌
【題意】 「春三月」は、いつの年であるか不明である。蟲麿の歌集にこのようにあったとみえる。『全註釈』は、下の(一七四九)に「君がみ幸」とあるところから推して、聖武天皇の天平六年三月十日の行幸に関係あることとし、それに先立って下検分ないし準備のために下ったのではないかといっている。諸卿大夫は等しくまえつぎみである。蟲麿は下官として随行したのであろう。
(257)1747 白雲《しらくも》の 竜田《たつた》の山《やま》の 滝《たぎ》の上《うへ》の 小※[木+安]《をぐら》の嶺《みね》に 咲《さ》きををる 桜《さくら》の花《はな》は 山高《やまたか》み 風《かぜ》し息《や》まねば 春雨《はるさめ》の 継《つ》ぎてし零《ふ》れば 秀《ほ》つ枝《え》は 散《ち》り過《す》ぎにけり 下枝《しづえ》に 残《のこ》れる花《はな》は 須臾《しましく》は 散《ち》りな乱《みだ》れそ 草枕《くさまくら》 旅行《たびゆ》く君《きみ》が 還《かへ》り来《く》るまで
白雲之 龍田山之 瀧上之 小※[木+安]嶺尓 開乎爲流 櫻花者 山高 風之不息者 春雨之 繼而零者 最末枝者 落過去祁利 下枝尓 通有花者 須臾者 落莫乱 草枕 客去君之 及還來
【語釈】 ○白雲の竜田の山の 「白雲の」は、立つと続き、同音「竜」の枕詞。「竜田の山」は、奈良県生駒郡三郷村立野の西方の竜田山で、大和京より難波へ出る要路で、いわゆる竜田越え。○滝の上の小※[木+安]の嶺に 「滝」は、上代は山川の激流の、水のたぎり立つ所の称であって、ここもそれである。川は竜田川で、路に沿って上ると、亀が瀬と呼ぶ所があるが、その辺りであろうという。「小※[木+安]の嶺」は、今はその名は伝わっていない。竜田山中の一蜂で、亀が瀬に近い辺りのものである。○咲きををる桜の花は 「ををる」は、巻二(一九六)に既出。「咲きををる」は、花の咲き撓《たわ》む意で、満開の花の豊かなさまをいったもの。○山高み風し息まねば 山が高いゆえに、風が吹きやまないので。「し」は強意の助詞。高山は風の多いものとし、風は花を散らすものとしてである。○継ぎてし零れば 「継ぎてし」は、「し」は、強意。続いて降っているので。これも、雨は花を散らすものとしてである。○秀つ枝は散り過ぎにけり 「秀つ枝」は、上の枝で、花の速く咲く部分。下の「下枝」に対させている。「散り過ぎにけり」は、散り尽くしてしまったことよで、「けり」は、詠歎。○下枝に残れる花は 「下枝」は、花の遅い部分。「残れる」は、散り残っている花は。○須臾は散りな乱れそ 「須臾」は、「しばらく」の古語。「散りな乱れそ」は、散り乱れるなで、命令した形。○草枕旅行く君が 「草枕」は、旅の枕詞。「旅行く君」は、京より難波へ下る諸卿大夫。○還り来るまで 難波での任務を果たして、京へ還るとて、ここへ来る時までは。
【釈】 竜田の山の、この滝の上方に立つ小※[木+安]の嶺に、咲き撓んでいる桜の花は、ここは山が高いゆえに、風が吹きやむ時がないので、また、春雨が続いて降っているので、咲くに速い上枝の花は、散りつくしてしまったことであるよ。下枝のほうに咲き残っている花は、しばらくの間は、散り乱れるな。任務を帯びて旅へ行く君の、事が終えて還って来る時までは。
【評】 難波に下る諸卿大夫一行に、随員として添っていた蟲麿が、竜田越えをする時、山に咲き残っている花を、いま一度諸卿大夫に見せたいというのであって、上官に対しての挨拶程度の歌である。いかに蟲麿にしても対象がきまりきっていて、格別にいうことがないところから、事を精細にいって、それによって心を尽くしたことにしようと思ったとみえる。対象が山桜であるから、そのことが厭味なくできたのである。才人の歌というにとどまる作である。
(258) 反歌
1748 吾《わ》が行《ゆき》は 七日《なぬか》は過《す》ぎじ 竜田彦《たつたひこ》 ゆめこの花《はな》を 風《かぜ》にな散《ち》らし
吾去者 七日者不遇 龍田彦 勤此花乎 風尓莫落
【語釈】 ○吾が行は七日は過ぎじ 「行」は、旅行きで、難波にある間。わが旅行きは、七日以上になることはあるまいで、任務の予定に即したものと思われる。○竜田彦 「彦」は、男性の尊称で、姫に対する語。竜田の風の神で、祈ろうとして呼びかけたもの。竜田の立野の小野に祀られている竜田神社。○ゆめこの花を風にな散らし 「ゆめ」は、強い禁止で、けっしてこの花を風に散らすなで、「な」の助詞のみで禁止にする古形。
【釈】 わが旅行きの間は、七日間を越すことはあるまい。竜田の神よ、けっしてこの花を、風には散らすな。
【評】 長歌の結末で、「須臾は散りな乱れそ」といったのを承けて、所がら竜田の神にそのことを祈った、合理的な心利いた反歌である。これによって、長歌も生かされてくる感がある。叙述より抒事へと、気分の流動の自在であったことが思われる。
1749 白雲《しらくも》の 立田《たつた》の山《やま》を 夕暮《ゆふぐれ》に 打越《うちこ》え行《ゆ》けば 滝《たぎ》の上《うへ》の 桜《さくら》の花《はな》は 咲《さ》きたるは 散《ち》り過《す》ぎにけり 含《ふふ》めるは 咲《さ》き継《つ》ぎぬべし こちごちの 花《はな》の盛《さかり》に 見《み》ざれども かにかくに 君《きみ》がみ幸《ゆき》は 今《いま》にしあるべし
白雲乃 立田山乎 夕晩尓 打越去者 瀧上之 櫻花者 開有者 落過祁里 含有者 可開繼 許知期智乃 花之盛尓 雖不見 左右 君之三行者 今西應有
【釈】 ○夕暮に打越え行けば 夕暮れに、難波の方へと越えて行けばで、前の歌と同じ場所であるが、時間は異なって、休憩と遊覧より、旅行へ移っている。○含めるは咲き継ぎぬべし 「含めるは」は、蕾んでいるものは。「咲き継ぎぬべし」は、続いて咲くであろうで、「べし」は、推量。○こちごちの花の盛に 「こちごち」は、後世の「をちこち」にあたる語で、「をち」という語が成立しなかった時代の古語で、巻二(二一〇)、巻三(三一九)に既出。そちこちで、全面の意。○見ざれども 見ないけれども。ここは、この五音の一句のみで、長歌の定型である七音の句の接していないものである。すなわち破調である。意識的に行なったものであるか、または筆録の際落としたものであるかはわからない。この前後の歌の詠み口から見て、落としたのではないかと思われる。このことのため、ここの訓みには古くから諸説がある。○かにかくに君がみ幸は と(259)にかくに天皇の行幸はで、行幸は難波宮へである。○今にしあるべし 「し」は、強意。「べし」は、適当の意の助動詞。
【釈】 白雲の立田の山を、夕暮れに難波の方へ越えて行くと、激流のほとりの桜の花は、咲いたものは散ってしまったことであるよ。蕾んでいるのは、続いて咲くことであろう。そちこちの全面の盛りに花は見ないけれども、とにかく、天皇の難波宮への行幸は、今こそその時期というべきである。
【評】 前の歌と連作である。前の歌は、自分たちを中心として見た竜田山の桜であるが、この歌は、天皇に御覧に入れたいということを中心としての桜である。対象は同一であるが、角度は全く異なっている。あくまで実際に即した心で、天皇に御覧に入れるとしては、「こちごちの花の盛」が望ましいものであるが、それはすでに過ぎ去っているので、諦めて、「かにかくに君がみ幸は今にしあるべし」と、桜の美感に対する執着を強くいっているのである。語は渋いが、心のとおった歌である。長歌の連作は、本集では柿本人麿がしているのみである。蟲麿のこの作は軽いものではあるが、その意味では珍しいものである。
反歌
1750 暇《いとま》あらば なづさひ渡《わた》り 向《むか》つ峰《を》の 桜《さくら》の花《はな》も 折《を》らましものを
暇有者 魚津柴比渡 向峯之 櫻花毛 折末思物緒
【語釈】 ○暇あらばなづさひ渡り 「暇あらば」は、仮設で、下の「まし」と照応させたもの。「なづさひ」は、巻三(四三〇)に出た。水に浸って行って。○向つ峰の桜の花も 「向つ峰」は、向かいの蜂で、ここは川の向こうにある、前の歌の小※[木+安]の嶺。
【釈】 暇があるならば、この谷川を渡って行って、川向こうの峰の桜の花を折り取って愛でようのに。
【評】 再び桜花に対する鑑賞に帰ったのであるが、行手を急ぐ忙しい間の願望とし、それにとどめているものである。長歌との関係の緊密なものである。この反歌は、この長歌に属してのものであるが、「なづさひ渡り」「向つ峰」は、上の長歌にもわたっているものである。連作関係からでもある。
難波に経宿《やど》りて明る日還り来る時の歌一首 并に短歌
【題意】 「経宿」は、一夜を宿る意の語。「七日は過ぎじ」という予定であったのが、何らかの都合で慌しく還ることとなったとみえる。
(260)1751 島山《しまやま》を い往《ゆ》き廻《めぐ》れる 河副《かはぞひ》の 丘辺《をかべ》の道《みち》ゆ 昨日《きのふ》こそ 吾《わ》が越《こ》え来《こ》しか 一夜《ひとよ》のみ 宿《ね》たりしからに 峰《を》の上《うへ》の 桜の花《さくらはな》は 滝《たぎ》の瀬《せ》ゆ 落《お》ちて流《なが》る 君《きみ》が見《み》む その日《ひ》までには 山下《あらし》の 風《かぜ》な吹《ふ》きそと 打越《うちこ》えて 名《な》に負《お》へる社《もり》に 風祭《かざまつり》せな
嶋山乎 射徃廻流 河副乃 丘邊道從 昨日己曾 吾超來牡鹿 一夜耳 宿有之柄二 峯上之 櫻花者 瀧之瀬從 落墮而流 君之將見 其日左右庭 山下之 風莫吹登 打越而 名二負有社尓 風祭爲奈
【語釈】 ○島山をい往き廻れる 「島山」は、島にある山、また、山をなしている島の称。大和京の官人は、海をなつかしむ心から、いささかの水にも海での称を移して用いていたことは、すでに例の多いものである。ここもそれで、竜田川を隔てて見る山を、川を海に擬《なぞ》らえて「島山」と呼んでいるのである。「い往き廻れる」は、「い」は接頭語。水が流れ廻っているで、水は竜田川で、今の大和川。○河副の丘辺の道ゆ 河の北岸に添っての丘の辺の道で、その道は竜田越えの道である。「ゆ」は、を通って。○昨日こそ吾が越え来しか 「越え来しか」は、難波へ向かって越えて行ったで、難波を目的地としての言い方。「しか」は、「こそ」の結、過去の助動詞「き」の已然形。これで切れず、「ば」「ど」の助詞が添って前提法を成す余意がある。つい昨日、われは越えて行つたが。○一夜のみ宿たりしからに 「から」は、ゆえ。ただ一夜寝てあったがゆえにで、その間に。○峰の上の 「峰」は、小※[木+安]の嶺と取れる。その頂の。○滝の瀬ゆ落ちて流る 「滝の瀬」は、激流の瀬で、大和川の亀が瀬の辺り。「ゆ」は、から。「落ちて流る」は、散り落ちて流れて行く。以上、桜花の推移の慌しさをいったもので、一段。以下、終わりまで二段。○君が見むその日までには 「君が見む」は、上の「君のみ幸」と繋がりをもったもので、天皇の御覧になられようその日までのうちには。○山下の風な吹きそと 「山下」は、旧訓「やまおろし」。『古義』の訓。古くは用例の見えない語だというのである。「風な吹きそと」は、風よ吹くなとてで、風を花を散らすものとしていっている。○打越えて名に負へる社に 「打越えて」は、上に出た。「名に負へる社」は、風を掌る神と名を負っている神の社にで、神は竜田の神、社は竜田山の東麓立野にある。この神は崇神天皇が祀られ、天武天皇がさらに厳かに崇められて、毎年四月七月の両度風祭を行なわれていた。五穀成就のために風の適度ならんことを祈らせられるのである。○風祭せな この「風祭」は、花を散らさぬようにする祭である。「な」は自身の願望をあらわす助詞。必ずしようというほどの意。
【釈】 島山を行き廻っている河の、その河添いの丘の辺りの道を通って、つい昨日われは難波へと越えて行ったのであったが、ただ一夜そこに寝たがゆえに、この峰の上の桜の花は、激流の瀬から、散り落ちて流れて行く。天皇の御覧になられるであろうその日までのうちには、花を散らす嵐の風よ吹くなと、ここの山を越して、風の神と名を負うている社で、風の吹かぬことを祈る祭をしよう。
(261)【評】 取材としては、上の二首の長歌と同じく竜田山の桜の花の散るのを惜しむことであるが、心としては、この歌ではそれを惜しむのは、天皇の御覧になるまで散らせたくないとしてであって、作因は全く異なっている。取材そのものはすでに繰り返しいっているもので、新たに加うべきものもなく、また散らせたくないということも念願にすぎないことであるから、これを事として見れば前二首よりもはるかに単純なもので、短歌一首でも足りるほどのものである。しかるに結果から見ると、前二首よりも事としても華やかであり、調べとしても張って、全体としてはるかに充実した作となっている。これは作因によることで、天皇にどうでもこの愛でたい花を御覧に入れたいという熱意に駆られてのことで、すなわち気分が内容をなしているのである。しかし手腕のすぐれた蟲麿は、気分をそのままに露出するようなことはせず、これをあくまで具象化してあらわしている。第一段は、早咲きの花の散るのを惜しむ心であるが、それはすでにいっていることなので、ここでは竜田越えの道に添った大和川の激流に散り込んで、流れ去る花をいうことによってそれをあらわしている。竜田越えの道の状態までもつぶさにいっているのは、細かい気分の具象化としてのことであって、単に興味をねらっての叙景ではない。第二段は一首の眼目で、第一段はこのためのもので、天皇の御覧になるまで、この花を散らす風の吹かないように、竜田の神に風祭をしようというのである。竜田の神に対する信仰は深いものであったから、これは今日からは想像しやすくなく強い実感をもってのものであったろうと思われる。年々両度の風祭は、天皇が庶民のために行なわれる祭である。蟲麿が今しようとするのは、庶民に近い卑官の者が、天皇に山桜の美観を御覧に入れたいとの心よりのもので、そこに蟲麿の心もあるが、時代の推移も思わせられる。
反歌
1752 い行《ゆ》きあひの 坂《さか》の麓《ふもと》に 咲《さ》きををる 桜《さくら》の花《はな》を 見《み》せむ児《こ》もがも
射行相乃 坂之蹈本尓 開乎爲流 櫻花乎 令見兒毛欲得
【語釈】 ○い行きあひの坂の麓に 「い行きあひ」は、「い」は、接頭語。「行きあひ」は、あちこちから来る人の行き逢う意で、名詞。「坂の麓」の修飾。竜田越えについてである。○咲きををる 咲いて撓《たわ》んでいる。○見せむ児もがも 「児」は、女を親しんでの称で、京にいる妻と取れる。「もが」は願望の助詞。
【釈】 あちこちの人の行き逢う坂の麓に咲き撓んでいるこの桜の花を、見せるあの女がいればよいがなあ。
【評】 佳景にあって、愛する者に見せてやりたいという念を起こすのは共通の人情で、これもそれである。長歌と場所の続きも自然である。初二句は実景であろうが巧みで、一首全体としても、安らかで、豊かで、華やかである。
(262) 検税使大伴卿の筑波山に登りし時の歌一首 并に短歌
【題意】 「検税使」は、その国の正倉に、正税の租稲として蔵めてある稲と、正税帳と符合するか否かを検する臨時の使である。「大伴卿」は、旅人であろうかといわれている。それはこの歌の作者蟲麿は、養老年中藤原宇合が常陸守であった時代に、その下僚として常陸の国庁にあって、案内役をしたとみえるからである。この時代「卿」をもって称すべき大伴氏は旅人であるが、旅人が検税使に任ぜられたことは記録にはない。
1753 衣手《ころもで》 常陸《ひたち》の国《くに》 二竝《ふたなら》ぶ 筑波《つくば》の山《やま》を 見《み》まく欲《ほ》り 君《きみ》が来《き》ますと 熱《あつ》けくに 汗《あせ》かきなけ 木《こ》の根《ね》とり 嘯《うそぶ》き登《のぼ》り 峰《を》の上《うへ》を 君《きみ》に見《み》すれば 男神《をのかみ》も 許《ゆる》し賜《たま》ひ 女神《めのかみ》も 幸《ちは》ひ賜《たま》ひて 時《とき》となく 雲居《くもゐ》雨零《あめふ》る 筑波根《つくばね》を 清《さや》に照《てら》して いふかりし 国《くに》のまほらを 委曲《つばらか》に 示《しめ》し賜《たま》へば 歓《うれ》しみと 紐《ひも》の緒《を》解《と》きて 家《いへ》の如《ごと》 解《と》けてぞ遊《あそ》ぶ 打靡《うちなび》く 春《はる》見《み》ましゆは 夏草《なつくさ》の 茂《しげ》くはあれど 今日《けふ》の楽《たの》しさ
衣手 常陸國 二並 筑波乃山乎 欲見 君來座登 熱尓 汗可伎奈氣 木根取 嘯鳴登 峯上乎 公尓令見者 男神毛 許賜 女神毛 千羽日給而 時登無 雲居雨零 筑波嶺乎 清照 言借石 國之眞保良乎 委曲尓 示賜者 歡登 紐之緒解而 家如 解而曾遊 打靡 春見麻之從者 夏草之 茂者離在 今日之樂者
【語釈】 ○衣手常陸の国 「衣手」は、襞《ひだ》と続いて、常陸の枕詞。○二竝ぶ筑波の山を 「二竝ぶ」は、二つの峰が並ぶ。上代信仰では、山そのものがすなわち神で、二つ並んでおれば男女二柱の神、小さいのが添えば御子神としたのである。ここは男女二神の並ぶ意である。○見まく欲り君が来ますと 見たいことと思って君がいらせられたとて。「君」は、大伴卿で、そう呼んでいる者は蟲麿で、国守より命じられて案内役をしたとみえる。○熱けくに汗かきなけ 「熱けく」は、「熱し」の名詞形で、「寒けくに」と同類の語。熱さにの意。その時は夏であったことが、下の続きで明らかである。「汗かき」は、今もいう。「なけ」は、原文「奈気」で、諸本同一である。『代匠記』は、「気」の下に「伎」の脱したのではないかといっている。下二段連用形で、自然に長い息をつく意。すなわち脱字はないと考えられる。熱さと、嶮しさに悩み、嘆きの出る意を、具象的にいったもの。○木の根とり嘯き登り 「木の根とり」は、地上にあらわれている木の根に取りすがりで、険しい山を登る時のさま。「嘯き」は、(263)「うそ」は、太息の古語。「ふき」は、口を細めて吐き出す意で、息苦しい時にすること。「なけ」と同意語である。上の二句を繰り返したもの。○男神も許し賜ひ 「男神」は、筑波山の西の峰。「許し賜ひ」は、登臨をお許しになり。この男神女神の称は風土記にあるもので、また、男神には登臨を許さないこともある。○女神も幸ひ賜ひて 「女神」は、東の峰の称。「幸ひ賜ひ」は、「ち」は霊力で、「ちはひ」は霊力を発揮すること。幸いを与え給いて。○時となく雲居雨零る 「時となく」は、いつという定まりなく。「雲居」は、「居」は動詞で、雲がかかり。「雨零る」は、連体形。高山の常である天候の変動を、神威の現われとして怖れていっているもの。○筑波根を清に照して 「清に照して」は、晴天であるのを、男女の神が清《さや》かに照らし給うたとしているのである。○いふかりし国のまほらを 「いふかりし」の「ふ」は清音、いぶかしくありしで、それまで明らかでなかった。「まほら」は、「ま」は真で、美称。「ほ」は秀で、すぐれたところ。「ら」は接尾語。国の最上の処。○委曲に示し賜へば 「委曲に」は、詳細に。「示し賜へば」は、男女の二神が大伴卿にお示しになれば。○歓しみと紐の緒解きて 「歓しみ」は、形容詞から転成した動詞で、うれしいこと。「と」は、として。「紐の緒解きて」は、衣の紐を解いて、打寛いで。○家の如解けてぞ遊ぶ 「家の如」は、自分の家にいる時のごとくに。「解けて」は、心うち解けて。「遊ぶ」は、「ぞ」の結、連体形。○打靡く春見ましゆは 「打靡く」は、春の枕詞。「春見ましゆは」は、「春」は、秋とともに登山の好季としているところからいっているもの。「見まし」の「まし」は、仮設。「ゆ」は、よりで、春との比較を示すもの。○夏草の茂くはあれど今日の楽しさ 「夏草の茂くはあれど」は、夏草が茂っているという難点はあるけれども。「今日の楽しさ」は、「さ」は、詠歎、今日の楽しいことよで、夏のために視界を遮る霞がなく、展望のかなう楽しさをいったもの。
【釈】 常陸国の、男女並び立っている筑波の山を、見たいと思って君がいらしたとて、熱さに汗をかき太息をつき、嶮しさに木の根に取りすがり太息をついて登って、山の上を君に見せると、男神もその事をお許しになられ、女神も霊力をおあらわしになって、いつと定まりなく雲がかかり雨が降るところの筑波の山を、今清かに照らして、明らかでなかったこの国の最上の所を詳細にお示しになられたので、うれしいこととして衣の紐を解いて打寛ぎ、わが家にいるがように心うち解けて遊ぶことであるよ。登山の好季とする春見るよりは、夏草が茂っているけれども、今日のこの楽しさよ。
【評】 構成が整然として、事と心との委曲を尽くした作である。第一は、大伴卿の筑波登山の希望。第二は、蟲麿の案内役として、夏の熱い日の労苦。第三は、山頂の喜び。第四は、苦しかった夏季の、かえって眺望としては好季節であった喜びとし、第三の山頂に力点を置いての構成である。事としては単純であるが、その事とともにあり、事を支配している心は注意されるものである。それは蟲麿の上代信仰を深く身に体していることである。この歌にみえる筑波山はまさに神霊であり、その登山のかなったことも神霊の許しであり、展望のかなったことは特別なる加護であったとして、一切が神霊の手中にあって行ない得たことであったと、それに対して深き歓びを感じている心である。この歓びは、それと対蹠的な怖れをも感じているところよりきているもので、信仰によって初めて感じられるものなのである。奈良朝時代に入っては、その作歌から見て、上代の信仰はやや弛緩したかに見え、特別な場合は格別、平生にあっては潜在の形となろうとしていたようである。これは遷都以前にあってもすでにその傾向を見せていたことで、その間にあって柿本人麿のもっていた信仰が際立っていたのである。その人麿(264)に似たものを、この時代の蟲麿がもっていたのである。二人とも有識者であり、身分は低い人であったとみえるが、そうした人の問に上代信仰はさながらに護持されていたようである。山上憶良も、その身分は二人よりはやや高いが、出身は同じく低かった人で、二人と同じく上代信仰の信奉者だったのである。このことは注意されるべきものに思われる。この一首、精細ではあるが冗句なく、不足なく渾然とした趣をもっているのは、この信仰が主体となって事を支配しているがためであろう。表現の素朴に、一脈の暖かさを帯びているのも、この心の致すところであろうと思われる。
反歌
1754 今日《けふ》の日《ひ》に いかにか及《し》かむ 筑波嶺《つくばね》に 昔の人《むかしひと》の 来《き》けむその日《ひ》も
今日尓 何如將及 筑波嶺 昔人之 將來其日毛
【語釈】 ○今日の日にいかにか及かむ 「いかにか及かむ」は、旧訓「いかがおよばむ」。『新考』の訓。どうしてかなおうかで、「か」は疑問の係。○昔の人の たれとさす人がなくいっているので、広く「昔の人」を貴しとしていっているものと取れる。
【釈】 今日の登山に、どうして及ぼうか。この筑波嶺に、昔の貴い人の登ったであろうその日とても。
【評】 これは大伴卿に対して、案内役としての蟲麿が、挨拶の心より詠んだものである。「今日の日にいかにか及かむ」が作為で、以下はその説明で、筑波嶺に今日のような晴天はなかったということを、大伴卿その人の徳として、男女の神が卿を嘉《よ》みしてこのような晴天を与え賜うたとしたのである。「昔の人」は貴い人で、大伴卿はそれにもまさる加護を受けられたというのである。じつに婉曲な、巧妙な挨拶である。
霍公鳥《ほととぎす》を詠める一首 并に短歌
1755 鶯《うぐひす》の 生卵《かひこ》の中《なか》に 霍公鳥《ほととぎす》 独《ひと》り生《うま》れて 己《な》が父《ちち》に 似《に》ては鳴《な》かず 己《な》が母《はは》に 似《に》ては鳴《な》かず うの花《はな》の 咲《さ》きたる野《の》べゆ 飛《と》び翻《かけ》り 来鳴《きな》き響《とよ》もし 橘《たちばな》の 花《はな》を居散《ゐち》らし 終日《ひねもす》に 喧《な》けど聞《き》きよし 幣《まひ》はせむ 遠《とほ》くな行《ゆ》きそ 吾《わ》が屋戸《やど》の 花橘《はなたちばな》に 住《す》みわたれ鳥《とり》
(265) ※[(貝+貝)/鳥]之 生卵乃中尓 霍公鳥 獨所生而 己父尓 似而者不鳴 己母尓 似而者不鳴 宇能花乃 開有野邊從 飛翻 來鳴令響 橘之 花乎居令散 終日 雖喧聞吉 幣者將爲 遐莫去 吾屋戸之 花橘尓 住度鳥
【語釈】 ○鶯の生卵の中に 「生卵」は、『和名類聚抄』の訓で、古くして後まで続いた語。鶯の巣のその卵の中にの意。これは、以下に続いているものであるが、霍公鳥はその習性として、自分の卵を鶯の中へ交じえ生んで置き、鶯をして孵化せしめるのである。この事は家持の歌にもあり、古くより言い伝えられていることだとの意をいっている。『新考』は漢籍によって教えられたのではないかといい、これに関係のある杜甫の杜鵑の詩を挙げている。○霍公鳥独り生れて 霍公鳥が自分一羽だけ生まれてで、他は皆鶯だからである。○己が父に似ては鳴かず 「己」は、訓が種々あるが、上の(一七四〇)と同じく「な」と訓む。「己が父」は、その巣に生まれた関係からは鶯であるが、その父に似た声では鳴かない。○野べゆ 野辺を通って。○飛び翻り来鳴き響もし 飛びかけって来て、鳴き響かせ。○橘の花を居散らし 橘は家の庭木で、鑑賞用の物。「居散らし」は、とまっていて、散らして。○終日に喧けど聞きよ」 一日じゆうを鳴いているが、それでも聞きよい。以上一段。以下終わりまで。○幣はせむ遠くな行きそ 「幣はせむ」は、贈物はしようで、機嫌を取る意。呼びかけで、終わりまで続く。「遠くな行きそ」は、遠い所へは飛び去るなよ。○吾が屋戸の花橘に わが庭の、花の咲いている橘の木に。○住みわたれ鳥 住み続けていよ、鳥よ。
【釈】 鶯の巣のその卵の中にまじって、霍公鳥はただ一羽だけ生まれて、自分の父に似た声では鳴かず、自分の母に似た声では鳴かない。卯の花の咲いている野べを通って、飛びかけって来て鳴き響かせ、橘の花にとまって散らして、一日じゆうを鳴いてはいるけれども、聞き好い。贈物をしよう。遠くへは飛んで行くなよ、わが庭の花さく橘に、住み続けていよ、鳥よ。
【評】 霍公鳥の歌としてはきわめて特色の濃いものであるとともに、作者蟲麿の気分もあらわしている歌である。それは主として第一段の 「喧けど聞きよし」までである。ここでいっていることは、語は単純であるが、心持は単純とはいえない。「鶯の生卵の中に霍公鳥独り生れて 己が父に似ては鳴かず」は、これは愛していっているのでもなく、興じていっているのでもなく、明らかに訝かっていっているものである。作者には霍公鳥に親しみ難い心があるのである。「橘の花を居散らし」も、「喧けど聞きよし」との対照において行なっている点もあるが、むしろ訝かりの延長としての憎しみの情をもっているものである。すなわち第一段は、作者の個性的気分をあらわしているものである。しかしその結末の、「終日に喧けど聞きよし」は、声に対する特別な愛好で、これは時代的気分である。第二段は、この結果の延長であるが、これはまた相応に強烈なもので、「幣はせむ 住みわたれ鳥」とまでいっているのであって、ここにも個性的気分があるといえる。大体は気分本位の歌であるのに、同時に他方では、簡潔ながら精細に叙事化しているために、充実した、立体味のある作となっている。軽い作ではあるが、手腕の思われるものである。
(266) 反歌
1756 かき霧《き》らし 雨《あめ》の降《ふ》る夜《よ》を 霍公鳥《ほととぎす》 鳴《な》きて行《ゆ》くなり ※[立心偏+可]怜《あはれ》その鳥
掻霧之 雨零夜乎 霍公鳥 鳴而去成 ※[立心偏+可]怜其鳥
【語釈】 ○かき霧らし雨の降る夜を 「かき霧らし」は、「かき」は、接頭語。「霧らし」は、霧が覆って。「雨の降る夜を」は、霍公鳥がそうした時にも鳴くのは、この地にとどまっている時が尽きようとしているので、時を惜しんでのことだとし、あわれを感じていた。ここもそれがある。○霍公鳥鳴きて行くなり 「鳴きて行く」は、ここより他へ行く意で、長歌の結末とは反対のこと。「なり」は、詠歎。○※[立心偏+可]怜その鳥 「※[立心偏+可]怜」は、感に堪えない意の感動詞。「その鳥」は、詠歎をもっての繰り返し。
【釈】 霧が覆って来て雨のふっている夜を、霍公鳥は、ここからどこぞへ鳴いて行くことである。ああ、その鳥よ。
【評】 雨の降る夜を、どこかよそへと鳴いてゆく霍公鳥に、その季節が過ぎて、別れて行くあわれさを感じ、それとはいわず、語に感動をこめることによってその感をあらわしているものである。長歌の結末の「住みわたれ鳥」といった希望とは反対の状態である。「※[立心偏+可]怜その鳥」は、長歌の結句と形を通わせたもので、意図をもってのものである。
筑波山に登る歌一首 并に短歌
1757 草枕《くさまくら》 旅《たび》の憂《うれへ》を なぐさもる 事《こと》もありやと 筑波嶺《つくばね》に 登《のば》りて見《み》れば 尾花《をばな》ちる師付《しづく》の田井《たゐ》に 雁《かり》がねも 寒《さむ》く来鳴《きな》きぬ 新治《にひはり》の 鳥羽《とば》の淡海《あふみ》も 秋風《あきかぜ》に 白浪《しらなみ》立《た》ちぬ 筑波嶺《つくばね》の よけくを見《み》れば 長《なが》きけに 念《おも》ひ積《つ》み来《こ》し 憂《うれへ》は息《や》みぬ
草枕 客之憂乎 名草漏 事毛有哉跡 筑波嶺尓 登而見者 尾花落 師付之田井尓 鴈泣毛 寒來喧奴 新治乃 鳥羽能淡海毛 秋風尓 白浪立奴 筑波嶺乃 吉久乎見者 長氣尓 念積來之 憂者息沼
【語釈】 ○草枕旅の憂を 「旅」は、常陸の国庁に長く仕えていること。○なぐさもる事もありゃと 「なぐさもる」は、「なぐさむる」と並び行(267)なわれていた語。○尾花ちる師付の田井に 「尾花ちる」は、薄《すすき》の穂の飛び散る意で、眼前をいったものではあるが、珍しいものである。「師付」は、筑波山の東麓の地で、新治郡志筑村。現在、石岡市の西南恋瀬川(もと信筑《しずく》川)流域の地。「田井」は、田。○新治の鳥羽の淡海も 「新治」は、今の新治郡ではない。この郡は文禄年中、茨城郡の一部を割いて立てたもので、その以前の郡である。今の真壁郡、下妻市の中。「鳥羽の淡海」は、『大日本地名辞書』は、真壁郡明野町のうち旧上野府、鳥羽村と、同郡関城町のうち旧黒子村、下妻市のうち旧騰波江村、大宝村にわたる間の卑湿の地がそれだといっている。「淡海」は、ここは沼。筑波山の西方にあたる。○筑波嶺のよけくを見れば 「よけく」は、名詞形で、よいこと。○長きけに念ひ積み来し 「長きけ」は、「け」は時で、長い間に。「念ひ積み来し」は、思い積もらせてきた。○憂は息みぬ 「憂」は、起首に応じさせたもの。「息みぬ」は、失せた。
【釈】 旅の憂えが慰むこともあろうかと思って、筑波嶺に登って見ると、尾花が飛び散る師付の田には、雁が声寒く鳴いて来た、新治の鳥羽の淡海には、秋風に白浪が立った。筑波嶺の好いことを見ると、長い間に思い積もらせてきた憂えは失せた。
【評】 軽い心をもって詠んだ明るい歌である。中心は山上よりの展望に置いているが、「尾花ちる師付の田井に 雁がねも寒く来鳴きぬ 新治の鳥羽の淡海も 秋風に白浪立ちぬ」は、山上より見下ろした東と西との代表的の景で、物としては雁の声と秋風という形のないものであるが、それが作者の感情によってはっきりと捉えられ、溶かし生かされて、清新な、魅力ある特殊な景物であるかのようになっている。大景としてのものであるが、小さく捉えているところに作者の好みがあるといえる。この作者のものとしては、平面的な、散文的なものであるが、そこに軽い一種の美を発揮している。
(268) 反歌
1758 筑波嶺《つくばね》の 裾廻《すそみ》の田井《たゐ》に 秋田《あきた》刈《か》る 妹《いも》がり遣《や》らむ 黄葉《もみち》手折《たを》らな
筑波嶺乃 須蘇廻乃田井尓 秋田苅 妹許將遣 黄葉手折奈
【語釈】 ○裾廻の田井に 「廻」は、まわり、あたりの意。裾のまわりの田に。○妹がり遣らむ 「妹」は、女の三人称で、愛称。妹の許に。○黄葉手折らな 「な」は、自身に対しての希望。
【釈】 筑波嶺の裾の田に秋の稲を刈っている、あの女のもとにやる黄葉を折ろうよ。
【評】 「秋田刈る妹」を景物の一つとして認め、下山をしようとした時の心として詠んだものである。長歌の展開となっており、同じく軽く明るい心よりのものである。
筑波嶺に登りて※[女+燿の旁]歌会《かがひ》をする日に作れる歌一首 并に短歌
【題意】 「※[女+燿の旁]歌会」は、常陸国風土記にも出ており、その注に「俗云2宇太我岐1又云2加我※[田+比]1也」とあって、「俗」とは国語の意であり、京の方面で「歌垣」と称しているものと同じなのである。歌垣の古文献に出ている代表的なものは、古事記では清寧天皇の巻、日本書紀では武烈紀にあるもので、これは一事二伝であり、最も具体的なものである。しかしこれは二男一女を争う形のもので、やや特殊なものである。古事記、神武天皇の巻のものは尋常のもので、その面影がうかがわれる。要するに多数の男女が一所に集まり、男は歌をもって女を挑み、女も同じく歌をもって応答をすることである。結婚に対しての意思表示を、歌をもって行ない合うのは普通のこととなっていたので、歌垣の特色は、多数の男女が一しょに集まってその事をするという一点にあったのである。「※[女+燿の旁]歌」の文字については『代匠記』は、文選の左太沖が魏都賦に、「或(ハ)明発而※[女+燿の旁]歌《アケボノマデニシテテウカス》」とあり、夜を徹して行なったのであり、「※[女+燿の旁]」は、『玉篇』に「往来の貌」とあって、「※[女+燿の旁]歌」は男女互いに唱和する歌の意だとしている。なお李善の注には、「※[女+燿の旁]歌は巴の土人の歌也」とあるのも引いていて、要するにわが「かがひ」は、かの※[女+燿の旁]歌に形の上で通うところがありとし、それに「会」の文字を添えて借用したのである。「筑波嶺に登りて」は、単に山としてではなく、神である山としてであり、またその時は、歌で見ると、「しぐれ降《ふ》り」という秋であり、さらに、「今日のみは」とあって一日と定まっていたのである。他の歌垣に触れている記録によると、時は春秋、場所は山でなければ市《いち》であるが、市は社のある所である。神に関係ある地を選み、(269)春秋二季日を定めて、男女多数の者が相|集《つど》って事を行なうということは、神事でなくてはならない。筑波嶺のものも同じくその範囲の事と思われる。歌で見るとその夜は性の解放が行なわれて、平日の夫婦関係が認められなかったことが知られる。風土記はそのことに触れて、「世の諺に曰はく、筑波峰の会に娉《つまどひ》の財を得ざる者は、児女とせずといへり」とある。信仰の伴った神事であったことがうかがわれる。上代のわが民は全部農業を営んでおり、したがって守護神の加護の第一は五穀の豊穣であった。豊穣とは穀物が穀物を生むことである。物を生む上で最も明瞭な生殖作用が、豊穣の呪術となり、神事化されて神前の乱婚となったということは、見やすい推移である。これは全国的に行なわれていたことで、筑波嶺のものはたまたま蟲麿によって伝えられたのである。
1759 鷲《わし》の住《す》む 筑波《つくば》の山《やま》の 裳羽服津《もはきつ》の その津《つ》の上《うへ》に 率《あども》ひて 未通女《をとめ》壮士《をとこ》の 往《ゆ》き集《つど》ひ かがふ※[女+燿の旁]歌《かがひ》に 他妻《ひとづま》に 吾《われ》も交《あ》はむ 吾《わ》が妻《つま》に 人《ひと》も言問《ことど》へ この山《やま》を うしはく神《かみ》の 昔《むかし》より 禁《いさ》めぬ行事《わざ》ぞ 今日《けふ》のみは 目《め》ぐしもな見《み》そ ことも咎《とが》むな 【※[女+燿の旁]歌は東《あづま》の俗語にかがひと曰ふ】
鷲住 筑波乃山之 裳羽服津乃 其津乃上尓 率而 未通女壯士之 徃集 加賀布※[女+燿の旁]謌尓 他妻尓 吾毛交牟 吾妻尓 他毛言問 此山乎 牛掃神之 從來 不禁行事叙 今日耳者 目串毛勿見 事毛咎莫 【※[女+燿の旁]謌者東俗語曰2賀我比1】
【語釈】 ○鷲の住む 事実を捉えて、枕詞風に修飾したもの。○裳羽服津のその津の上に 「裳羽服津」は、地名ではあるが、その名は伝わらず、どことも明らかではない。「かがひ」をする場所であるから、山上で、それにふさわしい場所でなくてはならぬ。西の蜂の男神は登らせないのであるから、東の峰の女神の一部とは知れる。また、「津」という称を繰り返しているので、そこは津と称すべき地形であったと知られる。津は本来は海の船の発着地の称であるが、この時代は海以外の水にもその称を流用していたから、水辺であったと知られる。女神の山上に水の湧いて湛えている凹地があり、それが裳羽服津と称されており、その津の上方に。○率ひて 誘い合って。○かがふ※[女+燿の旁]歌に 「かがふ」は、『代匠記』は掛け合いの約だとしている。歌垣に関する他の記事から見ると、男は歌をもって女を挑む、女は同じく歌をもってそれに答えるので、歌をもってする結婚交渉であり、したがって屈折のあるものである。歌とはいっても事の範囲が決まっているので、簡単なもので足り、既成のものでも足りたであろう。『全註釈』は、本巻(一八〇七)「ゆきかぐれ」と関係のある語だろうといっている。『代匠記』に従うと、掛け合う掛け合い歌で。○他妻に吾も交はむ 「交はむ」は『古義』の訓。交接しよう。神事としていっているのである。○吾が妻に人も言問へ 「言問へ」は、物をいえよというので、求婚である。○この山をうしはく神の 「うしはく」は、領する意で、これは天皇の民を治《し》らすに対する語である。この筑波の山を領する(270)神の。○昔より禁めぬ行事ぞ 古来、禁じない事であるぞで、神の許している事ぞの意。消極的な言い方であるが、神事ということをあらわしている語である。○今日のみは目ぐしもな見そ 「今日のみは」は、今日だけはで、神事ということをあらわしたもの。「目ぐし」は、ここは見る目苦しい意の形容詞で、見る目苦しいとは、見るなと、夫である男が、人妻を挑むについて、そこにいる妻の心をはばかっていったもの。○ことも咎むな 「こと」は、言で、人妻に対しての挑みの歌も咎めるなよと、上を承けて、繰り返して懇ろに諭したもの。○東の俗語 「東」は、広い範囲である。ここは常陸国をそのようにいったものか、広い範囲でいったものか不明である。「俗語」は、ここは地方語。この語は文語に対して口語、また漢語に対して国語をもいう。
【釈】 鷲の住んでいる筑波の山の、裳羽服津のその津の上へ、誘い合って若い女若い男の行き集《つど》ってかがう※[女+燿の旁]歌で、人妻にわれも交接しよう、わが妻に他の男もつまどいをせよ。この山を領する神の、昔から禁じない行事であるぞ。今日だけはわが振舞いを、見る目苦しいとも見るなよ。わがいう歌をも咎めるなよ。
【評】 この歌は、その取材の特殊な点においても、また※[女+燿の旁]歌会の中心まで入って、その実相を捉えていっている点でも、他に例のない珍しいものである。実際生活に即して、それを代弁することが、上代の歌謡の根本性格であった上から見て、地方の庶民生活の中の主立ったものであるこうした事は、歌材として取上げられていてしかるべきであるが、それが無かったのは、こうした事はその地方の人でなければ知らないことであるのに、そこにはこれを扱いうる人がなかったからである。その点からいうと、常陸の国庁に高橋蟲麿がいたということは、幸福なことであった。この人は庶民生活に興味をもち、上代信仰をも護持しており、また神事とはいえ、事が男女生活に関係しているところからこうした事に心が寄って、こうした歌を残すに至っ
たのである。歌は簡潔な、短いものであるが、手腕は冴えており、「かがふ※[女+燿の旁]歌に」までで、事の輪郭を明らかに叙し、一転して、その※[女+燿の旁]歌に加わっている一人の夫の抒情に託して、※[女+燿の旁]歌の真相を写しているのである。「この山をうしはく神の 昔より禁めぬ行事ぞ」といいながらも、同時に他方では自身の振舞いを妻に対してはばかって、「目ぐしもな見そ ことも咎むな」といっているところ、情味があって、厭わしく感じられないものとしている。この事柄は、たとい蟲麿と同じ心があったにもせよ、その手腕のない人は、扱えないもので、扱っても厭わしいものになるであろう。そのきわどい取材を、気品を失わせず、簡潔に含蓄をもたせて詠み生かしているのは、一に蟲麿の手腕である。
反歌
1760 男神《をのかみ》に 雲《くも》立《た》ち登《のぼ》り しぐれ降《ふ》り 沾《ぬ》れ通《とほ》るとも 吾《われ》還《かへ》らめや
男神尓 雲立登 斯具礼零 沾通友 吾將反哉
(271)【語釈】 ○男神に雲立ち登りしぐれ降り 「男神」は、雄蜂であり、登るを許されぬ峰。「雲立ち登りしぐれ降り」は、秋の季節として、ありうべき天候の変をいっているもの。○沾れ通るとも吾還らめや 「沾れ通るとも」は、わが衣が濡れとおろうともで、侘びしい想像。身に沁むのとを一つにしたもの。「吾還らめや」は、「や」は反語で、われはいたずらに帰ろうか、帰りはしないで、神事としての熱意の伴っているものと取れる。
【釈】 男神に、雲が立ち登って時雨《しぐれ》がふって、たといわが衣が濡れとおろうとも、われはいたずらに帰ろうか帰りはしない。
【評】 長歌の結末の「目ぐしもな見そ ことも咎むな」を承けて、その夜のさまをいっているもので、妻にそのようにはいったが、相手になる女が得られずにいる心である。長歌の蠱惑的《こわくてき》なのに対して、陰鬱な趣があって、それを緩和しているものである。昼の※[女+燿の旁]歌を夜にし、登るを許されない男神をいっているのも技巧である。
右の件の歌は、高橋連蟲麿の歌集の中に出づ。
右件謌者、高橋連蟲麿謌集中出。
【解】 「右の件の歌」というのは、上の「上総の末の珠名娘子を詠める歌」(一七三八)以下、長歌十首、短歌十三首にわたっていっているものと取れる。これは歌風より見ても明らかである。
鳴鹿《しか》を詠める歌一首 并に短歌
1761 三諸《みもろ》の 神南備山《かむなびやま》に 立《た》ち向《むか》ふ 三垣《みかき》の山《やま》に 秋芽子《あきはぎ》の 妻《つま》をまかむと 朝月夜《あさづくよ》 明《あ》けま(272)く惜《を》しみ あしひきの 山響《やまびこ》勤《とよ》め 喚《よ》び立《た》て鳴《な》くも
三諸之 神邊山尓 立向 三垣乃山尓 秋芽子之 妻卷六跡 朝月夜 明卷鴦視 足日木乃 山響令動 喚立鳴毛
【語釈】○三諸の神南備山に 御室である神の降り給う森のある山で、いずれも普通名詞であるが、ここは明日香の雷の岡である。○立ち向ふ三垣の山に 「立ち向ふ」は、向かって立っている。「三垣の山」は、皇居の垣をなしている山で、皇居は明日香の清見原宮である。○秋芽子の妻をまかむと 秋萩であるその妻を巻こうと思って。「まく」は、手で巻くこと。これは牡鹿が萩の花を妻としているという心からいっているのである。この情趣的連想は、この時代まで溯りうるものなのである。○朝月夜明けまく惜しみ 「朝月夜」は、明け方の月夜で、「明けまく惜しみ」は、夜の明けることを惜しんで。夜が明けると、妻と逢うことができないとしてである。○あしひきの山響動め 反響を起こさしめてで、その鳴き声の思い迫って高い意。○喚び立て鳴くも 「喚び立て」は、その妻すなわち秋萩を喚び立て。「も」は、詠歎。
【釈】 御室の神南備山に向かって立っている皇居の御垣をなしている山に、秋萩の花であるその妻と共寐をしようとて、朝月夜の明けることを惜しんで、山彦を響かせて、その妻を喚び立てて鳴くことよ。
【評】 秋の夜明けのもの思わしい頃、丘の上で牡鹿の高く鳴く声を聞いて、牡鹿が妻である萩の花を訪うて来て、夜の明けるのを惜しんで、その妻を喚び立てているのだと聞きなしたのである。甚しい感情移入である。起首に地名があり、全体もおおらかなので、古風な歌とは思わせるが、一首を貫いている気分は奈良朝時代と異ならないものである。奈良朝の情趣的歌風の淵源が思わせられる。謡い物風な一本調子なものでありながら、主格となるべき鹿をいっていないという詠み方のものである。
反歌
1762 明日《あす》の夕《よひ》 あはざらめやも あしひきの 山彦《やまびこ》動《とよ》め 呼《よ》び立《た》て鳴《な》くも
明日之夕 不相有八方 足日木乃 山彦令動 呼立哭毛
【語釈】 ○明日の夕あはざらめやも 明日の夜逢わないことがあろうか、逢えよう。
【釈】 明日の夜は逢わなかろうか、逢えよう。それを山彦を響かせて、その妻を呼び立てて鳴くことよ。
(273)【評】 長歌の結末を承けて繰り返しているもので、三句以下は形が全く同じである。謡い物の形である。この歌にも鹿はない。
右の件の歌は、或は云ふ、柿本朝臣人麿の作なりと。
右件謌、或云、柿本朝臣人麿作。
【解】 そうした伝があるので記したものとみえる。歌風は人麿とは異なって、調べが弱く、姿が痩せ、気分のみのものである。なぜにそうした伝があったかと怪《あや》しまれる。
沙彌女王の歌一首
【題意】 「沙彌女王」は、伝未詳。歌もこれのみである。
1763 倉橋《くらはし》の 山《やま》を高《たか》みか 夜《よ》ごもりに 出《い》で来《く》る月《つき》の 片待《かたま》ち難《がた》き
倉橋之 山乎高歟 夜※[穴/牛]尓 出來月之 片待難
【語釈】 ○倉橋の山を高みか 「倉橋の山」は、奈良県桜井市倉橋東南の音羽山とも、多武峯とも、その北方の山ともいわれている。「高みか」は、高いゆえなのか。○夜ごもりに 夜中過ぎに。○片待ち難き 待ち遠いことである。「片待つ」はひたすらに待つ意。
【釈】 倉橋の山が高いゆえであろうか。夜中過ぎに出てくる月の、待ち遠しいことであるよ。
【評】 この歌は、左注にあるように、結句の異なったものが、巻三(二九〇)に出ており、作者が異なっている。この歌のほうが、意が明らかである。なお、第三句を巻三では「夜隠《よなばり》に」と訓んでおいた。
右の一首は、間人《はしひとの》宿禰|大浦《おほうら》の歌の中に既に見えたり。但し末の一句相換り、また作歌の両主、正指に敢へず。因りて以ちて累《かさ》ね載す。
右一首、間人宿祢大浦謌中既見。但末一句相換、亦作謌兩圭不v敢2正指1。因以累載。
【解】 「正指に敢へず」は、正しく指すことができず、定め難い。
(274) 七夕の歌一首并に短歌
1764 久堅《ひさかた》の 天《あま》の河瀬《かはせ》に 上《かみ》つ瀬《せ》に 珠橋《たまはし》渡《わた》し 下《しも》つ瀬《せ》に 船《ふね》浮《う》け居《す》ゑ 雨《あめ》降《ふ》りて 風《かぜ》吹《ふ》かずとも 風《かぜ》吹《ふ》きて 雨《あめ》降《ふ》らずとも 裳《も》湿《ぬ》らさず 息《や》まず来《き》ませと 玉橋《たまはし》渡《わた》す
久堅乃 天漢尓 上瀬尓 珠橋渡之 下湍尓 船浮居 雨零而 風不吹登毛 風吹而 雨不落等物 裳不令濕 不息來益常 玉橋渡須
【語釈】 ○天の河瀬に 従来「あまのがはらに」と訓んだのを、『全註釈』は今のごとくに改めた。事としても、下の続きとしてもそのほうが自然だとしてである。○珠橋渡し 「珠橋」は、美しく飾った橋。○雨降りて風吹かずとも 「雨降りて」だけが主で、「風吹かずとも」は、軽く添えた形である。『略解』で本居宣長は、「風吹かず」の原文「風不吹」の「不」は、「者」の誤写とし、「風は吹くとも」としている。○風吹きて雨降らずとも 上と同じく、「風吹きて」の意のもの。『略解』は、上と同じく「雨は降るとも」としている。○裳湿らさず息まず来ませと 「裳」は、ここは彦星の物である。本来女子の物であるから、不自然である。「湿らさず」は、天の河を徒渉せずに。「息まず来ませ」は、たえず通い来たまえよとで、七夕の一夜ということを無視したもの。
【釈】 天の河の河瀬の、上の瀬には、美しく飾った橋を渡し、下の瀬には、船を浮かべ据えて、雨が降って、風が吹かなかろうとも、風が吹いて、雨が降らなかろうとも、裳を濡らさずに、絶えず通って来たまえと思って、美しく飾った橋を渡す。
【評】 棚機つ女に代わって詠んだ形の歌である。内容はきわめて単純で、これに添っている反歌にも劣っている。いっていることも類想的で、何らの新味もないものである。詠み方は、この短い歌に対句を二回まで用い、平坦に叙してあって、まさに典型的な謡い物である。
反歌
1765 天漢《あまのがは》 霧《きり》立《た》ち渡《わた》る 今日今日《けふけふ》と 吾《わ》が待《ま》つ君《きみ》し 船出《ふなで》すらしも
天漢 霧立渡 且今日々々々 吾待君之 船出爲等霜
【語釈】 ○霧立ち渡る 「霧」は、船の進行に伴う水煙。○今日今日と吾が待つ君し 「今日今日と」は、七月七日の夜。「し」は、強意の助詞。(275)ここは七夕の一夜の制を守っている、普通のものである。○船出すらしも 霧によっての推量。
【釈】 天の河に霧が立ち渡っている。今日は今日はとわが待っている君が、船出をしたのであろう。
【評】 長歌の内容とは調和のない、船で天の河を渡るという普通のものである。類歌の少なくないものである。
右の件の歌は、或は云ふ、中衛大将藤原北卿の宅にて作れるなりと。
右件謌、或云、中衛大將藤原北卿宅作也。
【解】 「中衛」は、巻五(八一一左注)に出た。神亀五年に初めて置かれ、大同二年に右近衛となった。「大将」は、その長官としての称である。「藤原北卿」は、藤原|房前《ふささき》で、彼が大将になった時は、『公卿補任』によれば天平二年十月一日とあるが、くわしいことは明らかでない。この歌は、その家での七夕の宴に作られた歌だと伝えられていたのである。しかし作者はたれとも伝わらなかったのである。
相聞
振田向《ふるのたむけ》宿禰の筑紫の国に退《まか》る時の歌一首
【題意】 「振田向宿禰」は、伝未詳。「振」は、氏で、「田向」は名である。「退る」は、筑紫に向かって退出するで、その地の官に任ぜられたのである。
1766 吾妹子《わぎもこ》は 釧《くしろ》にあらなむ 左手《ひだりて》の 吾《わ》が奥《おく》の手《て》に 纏《ま》きて去《い》なましを
吾妹兒者 久志呂尓有奈武 左手乃 吾奧手二 纏而去麻師乎
【語釈】 ○釧にあらなむ 「釧」は、ひじまきとも呼び、腕輪で、手首や臂《ひじ》の辺りに巻いた物である。玉、貝、石、銅などを材料とした。玉や貝は、緒に貫いたのである。「なむ」は、願望の助詞。○左手の吾が奥の手に 「の」は、ここは、同意語を重ねる意のもの。「奥の手」という語は、ここに出ているのみである。左手を右手よりも尊んでの称と取れる。上代の信仰の一つで、左手は右手よりも不浄に触れることが少ないとしてのこ(276)とかと思われる。この風習は現に欧州に残っているという。○纏きて去なましを 巻いて伴って行こうものをで、「まし」は、仮設の「あらなむ」の帰結。
【釈】 吾妹子は釧であってほしいものだ。それだと、わが左手である奥の手に巻いて、共に行こうものを。
【評】 愛する人と別れなければならない時、その人を身に着けうる品にして伴って行きたいということは、思い寄りやすいことで、類想の多いものである。しかし釧にしたいということは初めてである。釧はこの時代にはすでに古風の物となっていて、大体、記憶の世界の物であったろうと思われる。奥の手ということも、他に用例のないところから、同じ範囲のものであったろう。相聞の歌にこうしたことをいっているのは田向の人柄よりのことである。この当時にあっても、古くしてかえって目新しい歌であったろう。
抜気大首《ぬきけのおほびと》の筑紫に任《まけ》らえし時、豊前の国の娘子《をとめ》紐児《ひものこ》を娶りて作れる歌三首
【題意】 「抜気大首」は、伝未詳。「抜気」は氏であろうが、『姓氏録』に見えない。「大首」も姓か、名か不明である。
1737 豊国《とよくに》の 香春《かはる》は吾宅《わぎへ》 紐児《ひものこ》に いつがり居《を》れば 香春《かはる》は吾家《わぎへ》
豐國乃 加波流波吾宅 紐兒尓 伊都我里座者 革流波吾家
【語釈】 ○豊国の香春は吾宅 「豊国」は、今は豊前国。「香春」は、福岡県田川郡|香春《かわら》町。ここは豊前国から大宰府へ通ずる要路にあたっている。「吾宅」は、わが家の約。最も楽しい所としていっているもので、詠歎を含んでいる。○紐児にいつがり居れば 「紐児」は、題詞にある娘子の名。「いつがり」は、「い」は、接頭語。「つがる」は、一つに繋がっている意で、夫婦関係を具象化していったもの。「つがる」は現在も口語として用いており、同じ意である。
【釈】 豊国のこの香春はわが家であるよ。紐児とつがり合っていると、香春はわが家であるよ。
【評】 「豊国の香春は吾宅」といい、それを繰り返して、香春という地を特に重くいっているところから、その地が筑紫の任地ではなく、公務を帯びての旅先であったろうと思われる。それだと紐児は当時の風として、しかるべき人の旅情を慰める相手をしていた、その土地の女であったとみえる。そう解すると以下の二首も自然なものとなってくる。歌は、謡い物の風を濃厚にもったものであるから酒宴の席などに謡ったものではないかと思われる。歓喜の情を、躍動をもってあらわしている、古風な歌である。
(277)1768 石上《いそのかみ》 ふるの早田《わさだ》の 穂《ほ》には出《い》でず 心《こころ》の中《うち》に 恋《こ》ふるこの頃《ごろ》
石上 振乃早田乃 穗尓波不出 心中尓 戀流比日
【語釈】 ○石上ふるの早田の 「石上ふるの早田の」は、穂の序詞。「石上ふる」は、大和国山辺郡の地名で、石上の中の地。今の石上神宮のある地である。現在の天理市に、石上町、布留町がある。「早田」は、早稲田で、わせの稲を作ってある田。○穂には出でず 「穂」は、「秀《ほ》」の意で、表面。「出でず」は、あらわさずしてで、「ず」は、連用形。○心の中に恋ふるこの頃 心の中でのみ恋うているこの頃であるよの意。
【釈】 石上の布留の早稲田の穂、すなわち表面にはあらわさずに、心の中で恋うているこの頃であるよ。
【評】 歌で見ると、誰を恋うているともわからない。序詞が繋がりをもったものとすれば、故郷の妻であるが、それとしては婉曲にすぎるともいえる。題詞にある通り紐児を恋うたものとするべきであろう。それだと序詞は、言い慣れているままに気やすく用いたものである。旅先でかりそめに逢った紐児に、深く心を引かれるが、身分の関係上、いかんともすることができず、ひそかに悶々《もんもん》の情を漏らしたものとみえる。
1769 かくのみし 恋《こ》ひし渡《わた》れば たまきはる 命《いのち》も吾《われ》は 惜《を》しけくもなし
如是耳志 戀思度者 靈剋 命毛吾波 惜雲奈師
【語釈】 ○かくのみし恋ひし渡れば 「し」は、二つながら強め。このようにばかり恋い続けていればで、自身の状態を総括していったもの。○たまきはる命も 「たまきはる」は、「命」の枕詞。既出。○惜しけくもなし 「惜しけく」は、「惜し」の名詞形。
【釈】 このようにばかり恋いつづけておれば、命も我は惜しいこともない。
【評】 前の歌と連作の形のもので、ますます募ってきた恋情に対しての嘆きである。「命も吾は惜しけくもなし」は成句に近いもので、類想の多い歌である。
大神《おほみわ》大夫の長門守に任《まけ》らえし時、三輪河の辺《ほとり》に集《つど》ひて宴《うたげ》する歌二首
【題意】 「大神大夫」は、三輪朝臣|高市《たけち》麿で、高市麿が長門守となったのは、大宝二年正月である。この人は壬申の乱の功臣であ(278)り、硬骨の忠臣と称せられた人である。卒後従三位を贈られている。懐風藻に詩が一首載っており、「年五十」とある。巻一(四四)の左注に出ている。「三輪河」は、初瀬河の三輪山の辺りを流れる時の称。
1770 三諸《みもろ》の 神《かみ》の帯《お》ばせる 泊瀬河《はつせがは》 水尾《みを》し絶《た》えずは 吾《われ》忘《わす》れめや
三諸乃 神能於姿勢流 泊瀬河 水尾之不断者 吾忘礼米也
【語釈】 ○三諸の神の帯ばせる泊瀬河 「三諸の神」は、ここは三輪山で、神がすなわち山なのである。「帯ばせる」は、「帯ぶ」の敬語に完了の助動詞「り」の連体形が接続したもの。○水尾し絶えずは 「水尾」は、水脈で、水の盛り上がって流れる部分の称。ここは水流というと同じ。「し」は、強意。「絶えずは」は、絶えずにあらばの意。初句よりこれまでは、永久にということを、現在いるところの不変のものによって具象化して、強く言いあらわしたもの。○吾忘れめや 「や」は、反語。われ、諸君を忘れようか忘れはしないの意で、別宴にあって、客高市麿の、主人としての会衆に対しての挨拶。
【釈】 三諸の神が帯びたまう泊瀬河の、この水流が絶えないならば、われ諸君を忘れようか、忘れはしない。
【評】 三輪河のほとりまで見送って来た人々が、いよいよ別れる時として別宴を張った時、客の高市麿が挨拶として詠んだ歌である。こうした際には不吉なことをいわないのが礼になっている。高市麿のいっていることは、同僚としての誠実の永久に渝《かわ》るまいということで、初句より四句まではその永久を眼前の景に即させていったものである。「三諸の神の帯ばせる」は、神かけてという心のもので、誓ってというに同じである。一首の調べが重く、太く、その心にふさわしいものである。
1771 おくれ居《ゐ》て 吾《われ》はや恋《こ》ひむ 春霞《はるがすみ》 たなびく山《やま》を 君《きみ》が越《こ》えいなば
於久礼居而 吾波也將戀 春霞 多奈妣久山乎 君之越去者
(279)【語釈】 ○おくれ居て吾はや恋ひむ 「おくれ居て」は、後に残っていて。「吾はや」の「や」は詠歎の強い疑問。係助詞。吾は君を恋うることであろうか。○春霞たなびく山を 「春霞たなびく」は、時は正月で、眼前の景。「山」は、大和より難波へ向かう途中の連山。
【釈】 後に残っていて、吾は恋うることであろうか。春霞のかかっている山を、君が越えて行ったならば。
【評】 主人側の送別の歌で、同じく儀礼のものである。一首として、歌柄が大きく、余裕があり、美しさももっていて、品位をもっているものである。初二句は慣用されているものであるが、三句以下は、それとなく旅の無事を祈る心、嘆きを包んだ心のみえるものである。
右の二首は、古集の中に出づ。
右二首、古集中出。
【解】 古集は巻七(一二四六)に既出。
大神《おほみわ》大夫の筑紫の国に任《まけ》らえし時、阿倍《あべ》大夫の作れる歌一首
【題意】 「大神大夫」は、上の歌と同じく、高市麿であろう。しかし高市麿が筑紫へ赴任したことは史に見えない。「阿倍大夫」は、時代的に見て、阿倍広庭と思われる。広庭は、巻三(三〇二)に出た。御主人《みうし》の子で、神亀元年従三位となっており、天平四年七十四歳で薨じた。高市麿より二歳年少である。
1772 おくれ居《ゐ》て 吾《われ》はや恋《こ》ひむ 稲見野《いなみの》の 秋芽子《あきはぎ》見《み》つつ 去《い》なむ子《こ》故《ゆゑ》に
於久礼居而 吾者哉將戀 稻見野乃 秋芽子見都津 去奈武子故尓
【語釈】 ○稲見野の秋芽子見つつ 「稲見野」は、播磨国|印南《いなみ》郡の野(現在、兵庫県印南郡、高砂市から明石市へかけての平野)で、しばしば出た。「秋芽子見つつ」は、おりからの萩の花を見ながらで、京より筑紫方面の旅を、秋の季節にしたことが知られる。○去なむ子故に 「子」は、女に対しての愛称で、高市麿の妻が、広庭からいうとそういう称を用うべき関係であったとみえる。
【釈】 後に残っていて、吾は恋うることであろうか。稲見野の萩の花を見ながら、旅して行くだろう子のゆえに。
【評】 題詞によると、広庭に「子」と呼ばれる女は、高市麿の妻であり、広庭は親しい縁者であったとみえる。また高市麿の(280)長門へ下ったのは正月であるのに、この女のそちらへ向かっての旅をするのは萩の花の咲く秋だったのである。妻が夫の任地に後から行くということは特別なことではなかったから、この場合もそれであったろうと思われる。「稲見野の秋芽子見つつ」は、陸路を取っての旅をすることにはなりかねる。当時の航海は海岸に接して漕いだのであるから、船上からも必ずしも見られなくはなく、また、夜は上陸して寝たのであるから、日程の定めのない女の旅であれば、名高い稲見野の萩を見ようと思えば、心のままに見られたことであろう。とにかくこれは推量としていっていることで、「吾はや恋ひむ」との対照として、たのしい心をもって旅をする子であろうのにと、送別の歌の型に従っていっているものである。情味のみえる歌である。
弓削皇子に献れる歌一首
【題意】 この題詞は、上の(一七〇一)に出ており、それと同じく、ここも柿本朝臣人麿歌集にあるもので、以下三首同様である。
1773 神奈備《かむなび》の 神依板《かみよりいた》に する杉《すぎ》の 念《おも》ひも過《す》ぎず 恋《こひ》のしげきに
神南備 神依板尓 爲杉乃 念母不過 戀之茂尓
【語釈】 ○神奈備の 神霊の降る杜で、明日香か三輪かである。○神依板にする杉の 「神依板」は、神霊の依りつく板で、神事を行なう前、神霊を招請しようとして、板を叩いて祈ると、その板に依られるとする信仰があったのである。本居宣長は『略解』で、杉を神依板にするということは、琴の板といって、杉の板を叩いて神を請招することがある。今も伊勢の祭礼にはこのことをする。琴頭《ことがみ》に神の御影が降り給うのであるといっている。「する杉の」は、作る杉ので、同音反復で、「過ぎず」の序詞。○念ひも過ぎず 「念ひ」は、嘆き。「過ぎず」は、過ぎ去らないで消えないの意。
【釈】 神霊の降る杜の、神の依りつく板につくるところの杉の、その杉に因みある、嘆きの過ぎ去らず消えない。わが恋の繁くあるので。
【評】 恋の嘆きをいっているものであるが、「命も吾は惜しけくもなし」という類の感傷とは異なって、あくまでも熱意と執着をもっての嘆きである。「神奈備の神依板にする杉の」という、「過ぎず」に対しての序詞は、きわめて飛躍の大きいもので、単に謡い物風に見ても特殊なものであるが、この歌にあってはそれは副次的なものとなって、嘆きとの繋がりを覘《ねら》いとしたものである。それは上代の信仰では、男女関係は一々神意によって定まるものとしていたので、神事の上では重いものである神依(281)板は、その嘆きは神の喜び給わぬことだということを暗示するものとなるからである。すなわちこの序詞は、単に序詞にとどまらず、一首の気分に重い役をしているのである。四、五句もこの重い序詞に圧倒されず、一首重く暗く、盛り上がる力をもったものとなっているのである。弓削皇子に献ったのは、皇子の興を誘いうるとの自信をもってのことであったかと思われる。
舎人皇子に献れる歌二首
1774 たらちねの 母《はは》の命《みこと》の 言《こと》にあれば 年《とし》の緒《を》長《なが》く 憑《たの》め過《す》ぎむや
垂乳根乃 母之命乃 言尓有者 年緒長 〓過武也
【語釈】 ○たらちねの母の命の 「たらちねの」は、母の枕詞。「母の命」の「命」は、最も尊んでの称。ここは娘が、夫婦関係を結んでいる男に対して、自分の母のことをいうに用いているもので、今日から見ると不自然の感があるが、上代は夫婦別居していたので、子からいえば、親というは母親のみのごとく思われ、また娘には結婚について母は絶対の権力をもっていたのである。それは結婚そのことについては、あらかじめ親の承認を受ける要はなかったが、結婚後も娘は母のもとに居て、そこへ夫を通わせたのであるから、結婚後、事後承認がなければそれができなかったのである。したがってその時になって、男の身分人柄などについて、母子の間に問題が起こりがちだったのである。○言にあれば 『新訓』の訓。娘が事後承認を得ようとしたのに対して、母のいった語をさしているもので、下の続きから見て、母は、しばらく時期を待てと、条件つきで承認したのである。○年の緒長く憑め過ぎむや 「年の緒」は年で、「緒」は長く続くものの意で添えた語。「憑め過ぎむや」は、「や」は反語で、頼みにさせて過ごすようなことがあろうか、ありはしないで、むだ頼みなどさせようかと、強くいったもの。
【釈】 垂乳根の母の命がいわれることなので、何年も長く憑みにさせて過ごすようなことがあろうか、ありはしない。
【評】 じつに複雑した事象を扱った歌である。娘が当時の習慣に従って、母に知らせずに男と結婚し、夫をその家へ通わせようとして、承認を得るために打明けると、母は自身としては承認するが、父を初め周囲の者に対して打明けることはしばらく時機を待ってのことにしようといったのである。それを娘は、その夫である男に話したところ、男はある不安を感じ、その時機というのはいつのことであろうか、ひどく先の事ではなかろうかと危んだのに対して娘は、わが母のいうことである、何年も先などということがあろうかと打消した、その打消しの語《ことば》だけを歌としたのがすなわちこれである。これは上代生活では普通のことであるが、今日から見るとじつに複雑な心情を複雑そのままに捉え、機微な一点だけをいうことによって全体をあらわしているものである。のみならず、「たらちねの母の命」という尊称で、娘がその母を憑みぬいている態度をあらわし、「憑め過ぎむや」と男がある不安を感じて駄目を押したのに対して、言下に強く打消しているところに、女の純真な、疑いを知らぬ面影を思い浮かべさせるに足るものがある。前の歌の抒情的なのに較べて、叙事的な面を十分に発揮している歌である。
(282)1775 泊瀬河《はつせがは》 夕渡《ゆふわた》り来《き》て 我妹子《わぎもこ》が 家《いへ》の金門《かなと》に 近《ちか》づきにけり
泊瀬河 夕渡來而 我妹兒何 家門 近舂二家里
【語釈】 ○家の金門に 原文「家門」。訓が定まらない。『略解』の訓。用例の多いのと、三音に訓もうとするところからのものである。金門は金属を用いてある門の意。
【釈】 泊瀬河を夕べに徒渉して来て、妹が門に近づいたことであるよ。
【評】 夕べ、妻のもとへ通う男の、途中の悩みと喜びとを叙したものである。印象がはっきりし、調べが躍動していて、明るくさわやかな感じを与える。また趣が一変している。
右の三首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
右三首、柿本朝臣人麿之歌集出。
石川大夫の任を遷さえて京《みやこ》に上る時、播磨娘子《はりまのをとめ》の贈れる歌二首
【題意】 「石川大夫」は、石川朝臣|君子《きみこ》かといふ。巻三(二四七)、同(二七八)に出た。霊亀元年播磨守となっているので、この歌はその時代のものとみえる。「播磨娘子」は、その地に居た遊行婦の類であろう。
1776 絶等寸《たゆらき》の 山《やま》の峰《を》の上《へ》の 桜花《さくらばな》 咲《さ》かむ春《はる》べは 君《きみ》し思《しの》はむ
絶等寸笶 山之峯上乃 櫻花 將開春部者 君之將思
【語釈】 ○絶等寸の山の峰の上の 「絶等寸の山」は、今はその名が伝わらず、したがって明らかではない。『新考』は、国府は今の姫路の東方にあったので、そこに近い山とすれば、今の姫山、播磨風土記でいう日女道《ひめじ》丘であろうかという。○君し思はむ 原文は、仙覚系統の本は「君乎将思」とあるが、古本の藍紙本、元暦校本などは「君之」となっているので、『全註釈』はそれに従っている。君がこの地を思い出すだろうといい、あるいは我をも思ってくれようとの心を寄せているのである。
【釈】 絶等寸の山の上の桜花が咲くであろう春の頃には、君はそれを思い出されることであろう。
(283)【評】 今は別れれば、それきり思い出してももらえなかろうという嘆きを、きわめて婉曲に訴えているものである。これは国守と自分との身分の距離を意識してのことである。共に愛《め》でたことのある国府付近の山の、春の桜に寄せていっているのは心細かく、気の利いていて、遊行婦にふさわしい。
1777 君《きみ》なくは 何《な》ぞ身《み》装飾《よそ》はむ 匣《くしげ》なる 黄楊《つげ》の小梳《をぐし》も 取《と》らむとも念《おも》はず
君無者 奈何身將装餝 匣有 黄楊之小梳毛 將取跡毛不念
【語釈】 ○君なくは何ぞ身装餝はむ 「君なくは」は、君が居ないのであれば。「身装餝はむ」は、わが身を美しくしようと思って装おうで、それは君に見られようためのことだとの意。○匣なる黄楊の小梳も 「匣なる」は、櫛笥の中にある。「黄楊の小梳」は、「小」は、美称。黄楊の櫛は、すぐれた品とした物で、用例の多いもの。「も」は、さえも。○取らむとも念はず 手にして梳ろうとさえも思わないで、三句以下、装おいとしては最も簡単なこととしていったもの。
【釈】 君がいなかったならば、何で身を装おうことをしようか。櫛笥の中にある黄楊の櫛さえも、手に取ろうとも思わない。
【評】 一般性をもった心で、三句以下の実際に即しての具象に味わいのある歌である。たれの胸にも訴えるところのあるものであるが、今の別れの際には最も適切なものである。遊行婦の歌としては含蓄のある優れたものである。
藤井連《ふぢゐのむらじ》の任を遷さえて京《みやこ》に上る時、娘子《をとめ》の贈れる歌一首
【題意】 「藤井連」は、藤井大成と広成とあって、そのどちらであるか不明である。国司もいずれの国とも知れない。「娘子」は前の歌のそれと同性質の者であろう。
1778 明日《あす》よりは 吾《われ》は恋《こ》ひむな 名欲山《なほりやま》 石《いは》踏《ふ》み平《なら》し 君《きみ》が越《こ》え去《い》なば
從明日者 吾波孤悲牟奈 名欲山 石踐平之 君我越去者
【語釈】 ○恋ひむな 「な」は、感動の助詞。○名欲山 所在不明である。大分県|直入《なおり》郡の山とし、現在の竹田市の木原山、あるいは三宅山を当てる説がある。○石踏み平し 踏んで平らにしてで、踏みつけての意を強調したもの。
(284)【釈】 明日からは、我は恋しく思うことであろうよ。名欲山の岩を踏み平して、君が越えて行ったならば。
【評】 送別の宴での挨拶の歌であろう。「名欲山」は、京への道の、第一に越えるべき山とみえる。「踏み平し」は、一行の多いことと、勢のあることとを尊んでいっているものである。儀礼の心の勝ったものである。
藤井連の和ふる歌一首
1779 命《いのち》をし まさきくもがも 名欲山《なほりやま》 石《いは》践《ふ》み平《なら》し またまたも来《こ》む
命乎志 麻幸久母願、名欲山 石踐平之 復亦毛來武
【語釈】 ○命をしまさきくもがも 原文「命乎志麻勢久可願」。訓はこれに従えば「いのちをしませひさしくもがも」と訓むほかなく、初句七音となり、しかも意が通じかねる。諸注誤写説を立てている。『古義』は、「勢」は「幸」の誤りで、「幸」は「勢」の旁《つくり》の消えたものとして後より改めた字で、「麻幸《まさきく》」であったろうとしている。「可」は、「母」の誤写であろうとしている。これは『代匠記』『考』も等しくいっていることである。『新訓』も『古義』に従っている。もとより問題の残る説であるが、原文のままでは通じ難いので、今はこれに従うこととする。「もが」は、「も」を伴っての願望の助詞。わが命を無事であらせたいことであるよで、「し」は、強意。「もがも」は、願望の助詞。○名欲山石践み平し 贈歌の語をそのままに取ったもので、和え歌としての体。○またまたも来む 旧訓。
【釈】 わが命を無事であらせたいことであるよ。名欲山の岩を踏み平して、またもまたも来よう。
【評】 初二句に問題があるが、大意としては異なるまいと思われる。和え歌の型に従って詠んだだけのもので、特殊なところのない歌である。
鹿島《かしま》郡|苅野《かるの》橋にて大伴卿に別るる歌一首 并に短歌
【題意】 「鹿島郡苅野橋」は、常陸国鹿島郡軽野郷にあったもの。この郷は近年まで軽野村と称して、神《ごう》の池の南方にあった。現在、茨城県鹿島郡|神栖《かみす》村の一部。ここは利根川を隔てて下総国に面している。「大伴卿」は、上の(一七五三)の「検税使大伴卿」で、常陸国の検税の事を終えて、軽野橋から船出をし、下総の海上《うなかみ》の津をさして、海路を取った際のことである。作者は、左注によって、筑波登山の案内をした高橋蟲麿で、見送りに来たのである。
(285)1780 牡牛《ことひうし》の 三宅《みやけ》の滷《かた》に さし向《むか》ふ 鹿島《かしま》の埼《さき》に さ丹塗《にぬり》の 小船《をぶね》を設《ま》け 玉纏《たままき》の 小梶《をかぢ》繁貫《しじぬ》き 夕潮《ゆふしほ》の 満《みち》のとどみに み船子《ふなこ》を あどもひ立《た》てて 喚《よ》び立《た》てて み船《ふね》出《い》でなば 浜《はま》もせに 後《おく》れな居《を》りて 反側《こいまろ》び 恋《こ》ひかも居《を》らむ 足摩《あしずり》し 哭《ね》のみや泣《な》かむ 海上《うなかみ》の その津《つ》を指《さ》して 君《きみ》がこぎ行《ゆ》かば
牡牛乃 三宅之滷尓 指向 鹿嶋之埼尓 狭丹塗之 小船儲 玉纏之 小梶繁貫 夕塩之 滿乃登等美尓 三船子呼 阿騰母比立而 喚立而 三船出者 濱毛勢尓 後奈居而 反側 戀香裳將居 足垂之 泣耳八將哭 海上之 其津乎指而 君之己藝歸者
【語釈】 ○牡牛の三宅の滷に 「牡牛《ことひうし》」は、特に大きな牛で、「三宅」にかかる枕詞。「三宅」は、地名であるが、本来は屯倉すなわち貢物を蔵しておく倉の意で、それがあるところから地名となったものとみえる。牡牛はその貢物を運ぶためのもので、その関係から枕詞にしたのであろう。この作者の始めたものであろう。「三宅の滷」の「滷」は、原文諸本「酒」。誤写説が多く訓もさまざまである。字形から「滷」の誤写とする説に従う。「※[さんずい+内]《うら》」の誤りとする説もある。「三宅」は、古くは下総国海上郡三宅郷があり、今も海上村にその地名がある。銚子市三宅町一帯の地。○さし向ふ鹿島の埼に 「さし向ふ」は、「さし」は接頭語で、向き合っている。「鹿島の埼」は、題詞の苅野橋のある軽野村を含んでいる一帯の地。鹿島郡南端の岬で、銚子市三宅町と利根川をはさんで相対している。○さ丹塗の小船を設け 「さ丹塗」は、「さ」は接頭語。「丹塗」は、赤い塗料をもって塗った意で、官船の特色であった。「小船」は、「小」は美称。「設《ま》け」は、準備して。大伴卿一行の乗船である。○玉纏の小梶繁貫き 「玉纏」は、玉を飾りとして付けた。「小梶」の「小」は、美称。「梶」は、艪。「繁貫き」は、船の左右に多く取付け。「玉纏」は、その船を貴む心からの形容である。○夕潮の満のとどみに 夕方の満潮時の満潮の極点に。航海には最も安全な時である。「満」も「とどみ」も名詞で、簡潔な続け方である。○み船子をあどもひ立てて 「み」は尊んでの接頭語。「あどもひ」は、誘い。○喚び立てて 船子たちを喚び立ててで、その位置に着かせて。○浜も世に後れな居りて 「浜もせに」は、「せ」は狭《せ》で、いっぱいに。「後れな居りて」は、「な居りて」は、原文「奈居而」。旧訓「なをりて」。『略解』は、「奈」の次に「美」の脱したものとして、「なみ」すなわち「竝み」であるとしている。『全註釈』は旧訓に復し、「な」は助詞で、後に現われる「なむ」の「な」で例のあるものである、本集には「なむ」の係助詞はないが、「なも」はあって、「なむ」の前身ではないか、上にある語を提示する義であろうといっている。これに従う。後に残っていて。○反側び恋ひかも居らむ 「反《こい》」は終止形「こゆ」で、伏す意の古語、「こいまろび」は、伏し転びであり、激情に堪えかねてすること。○足摩し哭のみや泣かむ 「足摩」の「摩」は、諸本「垂」。旧訓「あしずり」。『略解』は、「垂」は、「摩」の誤写としている。従うべきである。「足摩し」は、地だんだを踏むことで、口惜しさの意を具象したもの。「泣《ね》」は、泣くこと。泣きにのみ泣くであろうか。○海上のその津を指して 海上の津すなわち港を力強くいったもの。
(286)【釈】 下総の三宅の潟に、向かい合いになっているこの常陸の鹿島の埼に、丹塗のみ船を準備し、愛でたい艪を左右に繋くも取付けて、夕潮の、満潮の極点に、み船子を誘い立てて、喚び立てて持場に着かせて君のみ船が出たならば、この苅野橋のある浜いっぱいに、われらは後に残っていて、伏し転《まろ》んで恋い続けていることであろうか。地だんだを踏んで、泣きにのみ泣くであろうか。下総の海上の津をさして、君のみ船が榜いで行ったならば。
【評】 検税使大伴卿が、常陸の国庁における任務を果たし、海路、隣国の下総国へ向かおうとするのを、高橋蟲麿は国庁の官人として、他の多くの者とともに、卿の船の出る鹿島の埼の苅野橋の辺まで見送りに来て、儀礼としての惜別の歌を、一同に代わって詠んだ形のものである。この歌について注意されることは、作者がこうした詠み方をするについての用意のほどである。惜別の情とはいうが、大伴卿と作者とは、身分の相違があまりにも甚しいので、一般的な、対等に近いような物言いは許されず、深い尊敬をもって抒《の》べなくてはならない。また、惜別の情は、相別れる時が最も強い時で、その時の情を抒べるべきであるが、行く人は海路であり、送る人は陸上にいるので、その時の情を抒べても、これを呈する方法がない。あるとしても不自然なものとなってくる。加えて、それらの情は、実際に即した形において抒べないと、その心を徹せしめることができないものである。蟲麿は少なくとも、以上の条件を心において、この歌を詠んでいるのである。起首、卿の現におられ、自分らもいる「鹿島の埼」をいうに、「牡牛の三宅の滷に」と、下総国の地を先にしていっているのは、卿を主とし、卿の向かわれる地を重んじていっているので、結末の「海上のその津を指して」と照応させているのである。卿に対する敬意よりである。「さ丹塗の小船」「玉纏の小梶繋貫き」は、「玉纏」は単なる修飾であるが、そうまでしているのは、卿の乗船を讃えようがためで、同じく敬意からである。転じて、「夕潮の満のとどみに……喚び立ててみ船出でなば」に至ると、中心が異なってきて、「夕潮の満のとどみ」は、航海に最も安全な時間という上では、敬意に繋がりをもつものであるが、その時は今、目前に迫っている時であり、またその時が来ればそれがすなわち卿と別れる時で、その時の迫っている今は、作者としては惜別の情を抒べる上で、許されている最高潮の時なのである。「み船出でなば」と、推量の形にしているのは異様にみえるのであるが、じつはこれは作者からいうと合理的なことなのである。続いて、「反側び」といい、「足摩し」といって、その思慕の限りなさと、思慕の遂げ難い悲しみとを連ねて、それをもってただちに惜別の情としているのは、大伴卿に対しては最も適当な方法なのである。一首の形が甚だ精細でかつ華やかなのは、大伴胸に対する敬意とこの作者の持ち味の一つになったためである。また調べは、この作者としては粘り強いものであり、同時にしかも屈折の少ない一本調子のものであるのは、以上の用意をもっての作であることに伴う必然的なことと思われる。儀礼の作ではあるが、それを思わせない熱意と情味をもった歌である。
反歌
(287)1781 海《うみ》つ路《ぢ》の なぎなむ時《とき》も 渡《わた》らなむ かく立《た》つ波《なみ》に 船出《ふなで》すべしや
海津路乃 名木名六時毛 渡七六 加九多都波二 船出可爲八
【語釈】 ○海つ路のなぎなむ時も 「海つ路」は、海の路。ここは今、内水路の方にいて、外海を見やっていっているのである。「なぎなむ時も」は、凪ぎなむ時にも。「なむ」は、完了の助動詞「ぬ」の未然形に推量の助動詞「む」のついたもの。○渡らなむ 「なむ」は、願望の助詞。○船出すべしや 「や」は、反語。
【釈】 海の航路の、凪ぐであろう時にでも渡っていただきたい。このように波の立つ時に、船出をすべきであろうか、すべきではない。
【評】 反歌は長歌とは趣の異なったものである。旅立つ人を送る時には不安な情はいわないのが型となっている。無事を祈るべき時だからである。鹿島の埼と海上の津とはいくぱくの距離もなく、利根川の河口を横切りさえすれば海岸沿いの航路で、危険の惧れなどはなかったろうと思われる。それにもかかわらずこのように不安を感ずる情を抒べているのは、旅人に対する尊敬の情と、自身の実情とに駆られてのことと思われる。歌の形も、長歌とは異なって、技巧を外にしたものである。
右の二首は、高橋連蟲麿の歌の中に出づ。
右二首、高橋連蟲麿之謌中出。
妻に与ふる歌一首
【題意】 左注によって、作者は人麿である。「妻」は、たれとも知れぬ。
1782 雪《ゆき》こそは 春日《はるび》消《き》ゆらめ 心《こころ》さへ 消《き》え失《う》せたれや 言《こと》も通《かよ》はぬ
雪己曾波 春日消良米 心佐閇 消失多列夜 言母不徃來
【語釈】 ○雪こそは春日消ゆらめ 「雪こそ」は、今の春の日ざしに消えているであろうと推量したもの。妻の里を思いやつてのもので、大和に居た妻とすると、旅にあっての推量と取れる。○心さへ消え失せたれや 「心さへ」は、心までも。「消え失せたれや」は、後世の「消え失せたれば(288)にやあらむ」にあたるもので、疑問条件法で、「や」は、強い疑問である。消え失せたのであろうか、そうしたことはなかろうに。○言も通はぬ 便りも通って来ないことであるで、「ぬ」は、連体形。
【釈】 雪こそは春の日に消えていることでもあろうが、心までも消え失せたのであろうか、そんなことはなかろうに、便りも通ってこないことである。
【評】 人麿が春、山の雪が解ける頃、旅にあって、大和にいる妻に贈ったものとみえる。夫婦間で軽く心をかわし合う歌であるから、背後の事情は知る由がない。一首の口気から見て、大和以外の地すなわち旅からのものと察しるだけである。いっていることは、妻の無沙汰をしている恨みで、それをいうに、妻のいる地の山の雪の春日に消えているだろうことを想像し、それを前提として、まさか心までも消え失せたのではなかろうにといって無沙汰を恨んでいるのである。この歌は人麿の相聞の歌としては類を絶したものである。相聞の歌といえば、いつも熱意を打込んで、盛り上がるような歌を詠んでいるのに、この歌はそれらとは反対に、微笑をふくんであっさりと皮肉をいっているような歌である。皮肉というよりもむしろ、駄々をこねているというべきかもしれぬ。人麿にもこうした面があったのである。もっとも物言いは、相手次第で決定させられることであるから、この事はこうした物言いで、十分心の通じる人だったのである。
妻の和《こた》ふる歌一首
1783 松反《まつがへ》り しひてあれやは 三栗《みつぐり》の 中《なか》ゆ上《のば》り来《こ》ず 麿《まろ》と云《い》ふ奴《やつこ》
松反 四臂而有八羽 三栗 中上不來 麿等言八子
【語釈】 ○松反りしひてあれやは 難解な句として、諸注解き悩んでいる。唯一の参考になるのは、巻十七(四〇一四)の「松反りしひにてあれかもさ山田の翁《をぢ》がその日に求め逢はずけむ」で、作者は大伴家持で、明らかに人麿の歌の影響を受けて正しく使用していたろうと思われるものである。この歌は、「放逸せる鷹を思ひ、夢に見て感悦して作れる歌」と題する長歌の反歌で、大意は、家持の鷹飼の山田の翁というが、鷹を扱う方法を誤って逃がしてしまい、鷹のこととて待っていればひとりでに帰って来るかとも思ったが、とにかく山田の翁は捜しに出かけて、終日捜したが見つけられなかったことをいっている歌である。この歌から推して「松反り」は鷹狩の語で、鷹は待っていると帰って来るという意の語であろうと『全註釈』は解している。「しひてあれやは」の「しひて」につき、橋本進吉は、これは「強ひて」ではなく、「目しひ」「耳しひ」の「しひ」ではないかといったのに従い、『全註釈』は、渋っての意だとしている。「あれやは」は、「や」は反語で、いるのであるか、そんなはずはないのにの意。帰りを待っているのに、渋っているのか、そんなはずはないのに。○三栗の中ゆ上り来ず 「三栗の」は「中」の枕詞。「中ゆ上り来ず」は、(289)原文「中上不来」。諸注、訓はそれぞれで、誤写説もある。『新訓』は「なかにのぼりこず」と「に」を読み添えているが、『全註釈』は「ゆ」を読み添えている。「中」を時と見ず、所と見てのことである。人麿のその時行っていた土地の名と思われる。所在は不明であるが、諸所にありうる名である。○麿といふ奴 諸注、訓がさまざまである。『新訓』の訓。「麿」は人麿の略称。「奴」は、当時奴隷階級があって、奴婢はその家の所有物になっていたので、卑しんでいう称であるが、ここは格別の親しさから戯れて用いているものである。巻八(一四六〇)紀女郎が大伴家持を「戯奴《わけ》」と呼んでいるのと同じである。
【釈】 帰りを待っているのに、帰り渋っているのであるか、そういうはずもなかろうに。中から京へ上って来ない、麿という奴は。
【評】 集中での難解な歌の一つで、諸注明らかにしかねている。『全註釈』の解は、問題となるところもあると思うが、比較的解しやすいものとなっているので、大体それに従った。甘え心の、訴えに近いものをもっていながら、それは内に包んで、わざとそっけのない言い方をしている歌である。いわゆる気の合った仲の物言いで、人麿の夫婦生活を思わせられる。
右の二首は、柿本朝臣人麿の歌集の中に出づ。
右二首、柿本朝臣人麿之謌集中出。
入唐使《にふたうし》に贈れる歌一首
【題意】 「入唐使」は、遣唐使で、そう称すべきであるが、唐を主とした語が古くから行なわれていたのである。
1784 海若《わにつみ》の 何《いづ》れの神《かみ》を 斎祈《いの》らばか 往《ゆ》くさも来《く》さも 船《ふね》の早《はや》けむ
海若之 何神乎 齋祈者歟 徃方毛來方毛 舶之早兼
【語釈】 ○海若の何れの神を 海を掌る神は種類が多く、阿曇氏の祭っている綿津見の神、津守氏の祭っている住吉の神などである。いずれの神が最も神威が強いかと、不安のために惑うのである。○斎祈らばか 訓が定まらない。神を祈るといい、まつるとはいわなかった。○往くさも来さも 「さ」は方向で、往路も帰路も。○船の早けむ 「早け」は形容詞の未然形。「む」は助動詞。海上が平穏であろう。
【釈】 海を掌るいずれの神を祈ったならば、往く路も帰る路も、海上が平穏で、君の船は早いのであろうか。
(290)【評】 遣唐使に直接関係をもった人の歌で、おそらく女性の歌と思われる。それは相手と対等な地歩を占め、圏内にあっての不安をいったものであり、心弱いものだからである。
右の一首は、渡海の年記未だ詳ならず。
右一首、渡海年記未v詳。
神亀五年戊辰秋八月の歌一首 并に短歌
【題意】 左注により、作者は笠金村で、その歌集中にあった歌と知られる。題詞は、歌集にあったものである。歌は越の国へ行く夫を送った女の歌で、頼まれて代作したものとみえる。
1785 人《ひと》と成《な》る 事《こと》は難《かた》きを わくらばに 成《な》れる吾《わ》が身《み》は 死《しに》も生《いき》も 君《きみ》がまにまと 念《おも》ひつつ ありし間《あひだ》に うつせみの 世《よ》の人《ひと》なれば 大王《おほきみ》の 御命《みこと》恐《かしこ》み 天離《あまさか》る 夷《ひな》治《をさ》めにと 朝鳥《あさどり》の 朝立《あさだち》しつつ 群島《むらどり》の 群立《むらだ》ち行《ゆ》けば 留《とま》り居《ゐ》て 吾《われ》は恋《こ》ひむな 見《み》ず久《ひさ》ならば
人跡成 事者難乎 和久良婆尓 成吾身者 死毛生毛 公之隨意常 念乍 有之間尓 虚蝉乃 代人有者 大王之 御命恐美 天離 夷治尓登 朝鳥之 朝立爲管 群鳥之 群立行者 留居而 吾者將戀奈 不見久有者
【語釈】 ○人と成る事は難きを 人身を享けて生まれてくる事は、難いことであるのに。これは仏説をそのままにいっているもので、山上憶良「貧窮問答」(巻五、八九二)にも出ているものである。○わくらばに成れる吾が身は 「わくらばに」は、偶然に。「成れる吾が身は」は、人と成って生まれてきているわが身はで、自身を重んずる意識をもっていっているもの。○死も生も君がまにまと 「まにま」は、旧訓「ままにと」。まにま、まにまに、まま、はいずれも同意語で、訓は調べによって決定されるのである。死も生も、君が心次第とで、妻として夫に対する心。○うつせみの世の人なれば 「うつせみの」は、「世」の枕詞。世の中の人であるので。これは天皇の治下の者で、夫をさしていっている。○大王の御命恐み 勅命を受けてで、慣用句。○天離る夷治めにと 「天離る」は、天と離れていて遠いで、「夷」の枕詞。夷は、地方の総称。ここは越の国をいっていることが反歌で知られる。「と」は、とて。○朝鳥の朝立しつつ 「朝鳥の」は、朝の鳥のごとくで、鳥は習性として朝の目覚めが(291)早いところから、早くの譬喩として「朝立」の枕詞となったもの。「朝立」は、朝の旅立ち。「つつ」は、継続で、眼前の状態。○群鳥の群立ち行けば 「群鳥の」は、鳥の群れて飛ぶごとくで、これも鳥の習性を譬喩としての「群立ち」の枕詞。「群立ち行けば」は、一行が群れて旅立って行くので。「行けば」は「行くに」と同じ。○留り居て吾は恋ひむな 「留り居て」は、後に京にとどまっていて。「恋ひむな」の「な」は、詠歎。○見ず久ならば 相見ないで久しかったならば。
【釈】 人の身と生まれることは難いことであるのに、偶然にも人と成ったわが身は、死ぬも生きるも君が心のままだと思い続けていた中に、この世の人のことなので、君は天皇の詔をこうむって、遠い地方の国を治めるとて、朝鳥のごとく早く朝立ちをして、群鳥のごとく一行と群れて立って行くので、後にとどまっていて、我は君を恋うることであろうよ。見ないで久しかったならば。
【評】 この歌は、夫が地方官に任ぜられて、赴任するのを送る妻の歌で、金村は何らかの関係からその妻に頼まれて代作したものである。この歌のごとく儀礼の範囲に属する歌の代作は、頼む者も頼まれる者も怪《あや》しまないことになっていたのは、集中の歌の題詞や左注でうかがわれる。歌が社交上の実用品であったことの脈を引いている風で、非難すべきことではなかったのである。金村の長歌は、時には統制力を欠き、熱情をそのままに抒べる傾向が勝つために、具象化の伴わないものになり、したがって調べは、実情から遊離して単に語そのものの調子になろうとする弱所がある。この歌はそれの際立っているものである。前半の仏説によっていっていることは、後半とは密接にはつながり得ないものである。また後半の旅立ちのさまは、類想の多いもので、ことに「朝鳥の」「群鳥の」といっている辺りは、当時謡い物として行なわれていたであろうと思われる古事記神代の巻の、八千矛の神の歌の影響を受けているものであることは明らかである。ほとんど創意のない作である。
反歌
1786 み越路《こしぢ》の 雪《ゆき》降《ふ》る山《やま》を 越《こ》えむ日《ひ》は 留《とま》れる吾《われ》を 懸《か》けてしのはせ
三越道之 雪零山乎 將越日者 留有吾乎 懸而小竹葉背
【語釈】 ○み越路の雪降る山を 「み越路」は、「み」は、接頭語。「越路」は、越の国へ行く路で、北陸道へ行く路。「雪降る山」は、その途中の山で、近江国から愛知《あらち》山を越えて越前国へ出るのである。歌を詠んでいるのは「八月」であるから、概念でいっているものである。○懸けてしのはせ 「懸けて」は、心にかけて。「しのはせ」は、「しのへ」の敬語で、命令形。
【釈】 越の国へ行く街道で、雪の降っている山を越える日には、京にとどまっている我を心にかけて、思い給えよ。
(292)【評】 長歌の結末をうけて、直接夫に訴えたものである。「雪 降る山」は越の国というよりの概念で、この歌全体の弱所を最も明瞭にあらわしているものである。
天平元年己巳冬十二月の歌一首 并に短歌
【題意】 歌は、金村が官命を帯びて布留の里に滞在していることをいっているものである。それにつき『考』は、続日本紀、天平元年十一月、京及び畿内の班田司を任ずる記事があるので、金村もその班田司に加わっていたのだろうといっている。
1787 うつせみの 世《よ》の人《ひと》なれば 大王《おほきみ》の 御命《みこと》恐《かしこ》み 礒城島《しきしま》の 大和《やまと》の国《くに》の 石上《いそのかみ》 布留《みふる》の里《さと》に 紐《ひも》解《と》かず 丸寐《まろね》をすれば 吾《わ》が著《き》たる 衣《ころも》は穢《な》れぬ 見《み》る毎《ごと》に 恋《こひ》はまされど 色《いろ》に出《い》でば 人《ひと》知《し》りぬべみ 冬《ふゆ》の夜《よ》の 明《あか》しも得《え》ぬを 寐《い》も宿《ね》ずに 吾《われ》はぞ恋《こ》ふる 妹《いも》が直香《ただか》に
虚蝉乃 世人有者 大王之 御命恐弥 礒城嶋能 日本國乃 石上 振里尓 紐不解 丸寐乎爲者 吾衣有 服者奈礼奴 毎見 戀者雖益 色二山上復有山者 一可知美 冬夜之 明毛不得呼 五十母不宿二 吾齒曾戀流 妹之直香仁
【語釈】 ○礒城島の大和の国の 「礒城島の」は、崇神天皇の礒城の瑞籬宮と欽明天皇の礒城島の金刺宮とがあった関係から、大和を讃えた意でかかる枕詞。礒城島は泊瀬渓谷へ入ろうとする一帯の地で、泊瀬川に臨み、三輪山に対しているので、礒城のある島の意の地名だという。○石上布留の里に 「石上」は、大和国山辺郡(奈良県天理市)。布留はその中の一つの里。地名を三つまで重ねて鄭重にいっているのは、官命を重んじてのことである。○紐解かず丸寐をすれば 「紐解かず」は、衣の上紐を解かずして。「丸寐」は、昼の衣のままに寝ることで、この語は今日も行なわれている。○吾が著たる衣は穢れぬ 「穢《な》れ」は、着古して、萎え、皺み、汚れること。○見る毎に恋はまされど 「見る毎に」は、穢れた衣を見るごとに。「恋はまされど」は、妻を恋うる心が増してくるけれどもで、衣の手入れをするのは妻の役であるから、その連想よりのこと。○色に出でば 「出で」は、原文「山上復有山」で、これを今のごとく訓んだのは『代匠記』である。これは『王台新詠』にある句で、「出」を山を二つ重ねたものとし、その隠語として用いているもので、金村はその意で用いたのである。○冬の夜の明しも得ぬを 冬の夜の、寒く長くして明かしかねるのに。その寒さと長さを、気分としていったもの。○寐も宿ずに吾はぞ恋ふる 「寐」は、睡眠で、名詞。寝ても睡眠せずに、吾は恋う(293)ていることであるで、「ぞ」は係。○妹が直香に 「直香」は、本体で、恋うる対象。
【釈】 この世の人なので、天皇の勅命をこうむって、大和国の石上の布留の里に、衣の上紐も解かずに丸寝をしているので、わが着ている衣は穢れた。それを見るたびに、手入れをしてくれるべき妻の恋しさが増さってくるが、顔に出せば周囲の人に知れそうなので、冬の夜の寒く長くて明かしかねるのに、寝ても睡眠もせずに、吾は恋うていることである、妹の本体に。
【評】 金村は身分が低くて、その職が記録に値せぬものであったとみえて、残っているものがない。ここも冬の十二月、京より近い布留の里へ行って、同僚とともに「紐解かず丸寐をすれば」という劇務にあたっているところをみれば、班田に関係した公務であったかと思われる。一首の作意は、「寐も宿ずに吾はぞ恋ふる妹が直香に」という旅愁であるが、これは甘い感傷よりのものではなく、合理的なもっともなものである。この歌の前半、「吾が著たる衣は穢れぬ」までは、公務に打込んで、他念なき金村である。軽い公務であるにもかかわらず、「うつせみの世の人なれば大王の御命恐み」と、一官人としての自身をはっきり意識し、また公務を執る場所の「布留の里」をいうにも、「礒城島の」以下四句を用いて荘重にいって、その職務を重んじていることをいい、その成行きとして最後に、劇務のために「衣は穢れぬ」といっているのである。後半も、「見る毎に」という経過において、初めて思ってくる妹であり、それも場合柄として周囲に包んでいたのであるが、最後に、冬の夜の寒くして長く、眠れないのに圧倒されて、「吾はぞ恋ふる妹が直香に」というに至ったのである。金村の責任観念の強さのあらわれている歌で、その人となりを思わせるものである。歌としては、その時の事情を重視し、自身を軽視したものなので、勢い叙述が主となって、散文的な趣のあるものとなっているが、これは余儀ないことである。しかし一首の統一感にある程度の薄弱が感じられるが、これは金村の弱所である。前の作とは比較にならぬよいものである。
反歌
1788 布留山《ふるやま》ゆ 直《ただ》に見渡《みわた》す 京《みやこ》にぞ 寐《い》も宿《ね》ず恋《こ》ふる 遠《とほ》からなくに
(294) 振山從 直見渡 京二曾 寐不宿戀流 遠不有尓
【語釈】 ○布留山ゆ直に見渡す京にぞ 「布留山」は、布留にある山で、石上神宮の東方の山。「ゆ」は、より。「直に見渡す」は、直接に、遮る物もなくで、距離は一里余りである。「京」は、奈良京。「に」は、意は「を」と同じ。○遠からなくに 遠くはないことであるのにで、第二句「直に見渡す」を繰り返したほどのもの。
【釈】 布留の山の上から、直接に見渡す京を、寝ても眠れずに恋うていることであるよ。遠くはないことであるのに。
【評】 「寐も宿ず恋ふる」と、長歌の結末につながりをつけていっているが、心としては長歌の後半全体を総括し、個人的な感情に重点を置いていっているものである。そのため長歌に較べると動きがあって、明るく伸びやかである。
1789 吾妹子《わぎもこ》が 結《ゆ》ひてし紐《ひも》を 解《と》かめやも 絶《た》えば絶《た》ゆとも 直《ただ》に逢《あ》ふまでに
吾妹兒之 結手師紐乎 將解八方 絶者絶十方 直二相左右二
【語釈】 ○吾妹子が結ひてし紐を 妻が結んだ衣の上紐をで、「て」は完了。夫妻の別れる時に、妻が、夫の紐を結ぶのは風となっていたことで、これは妻の霊を結びこめる咒《ましな》いである。○解かめやも 「や」は、反語。解こうか、解きはしないと強くいったもの。解けば妻の霊力が身から離れるのである。○絶えば絶ゆとも直に逢ふまでに 紐が切れるならば切れようとも、直接に相逢う時までは。
【釈】 吾妹子が、旅立ちの際、わがために結んだ衣の紐を解こうか解きはしない。切れるならば切れようとも、直接に逢う時までは。
【評】 妻が結んだ衣の紐を解くということは、妻の霊力から離れるということとともに、他の女と親しむという意をもったことであった。ここも、冬の夜の旅寝の続く侘びしさから、他の女と親しもうかという念の起こらないではないが、それを強く自制した心である。長歌の結末の、「吾はぞ恋ふる妹が直香に」の延長で、それに続く欲望の自制である。反歌としては要を得た、味わいのあるものである。
右の件の五首は、笠朝臣金村の歌の中に出づ。
右件五首、笠朝臣金村之謌中出。
(295)【解】 「歌」の次に「集」の字が脱したのであろうと、諸注いっている。諸本ともない。
天平五年癸酉、遣唐使の舶《ふね》、難波を発《た》ちて海に入る時、親母《はは》の子に贈れる歌一首 并に短歌
【題意】 天平五年の遣唐使は、天平四年八月、従四位上多治比真人広成を遣唐大使とし、従五位下中臣朝臣名代を副使として、判官四人、録事四人が定められた。五年閏三月、節刀を授けられ、夏四月、難波津を進発したので、この歌はその時のものである。「親母」も「子」も誰とも知られない。この際の歌は、巻五(八九四)、巻八(一四五三)、巻十五(四二四五)にも見える。
1790 秋芽子《あきはぎ》を 妻問《つまど》ふ鹿《か》こそ 一子《ひとりご》に 子《こ》持《も》てりといへ 鹿児《かこ》じもの 吾《わ》が独子《ひとりご》の 草枕《くさまくら》 旅《たび》にし行《ゆ》けば 竹珠《たかだま》を 繁《しじ》に貫《ぬ》き垂《た》り 斎戸《いはひべ》に 木綿《ゆふ》取《と》り垂《し》でて 斎《いは》ひつつ 吾《わ》が思《おも》ふ吾子《わこ》 真幸《まさき》くありこそ
秋芽子乎 妻問鹿許曾 一子二 子持有跡五十戸 鹿兒自物 吾獨子之 草枕 客二師徃者 竹珠乎 密貫垂 齋戸尓 木綿取四手而 忌日管 吾思吾子 眞好去有欲得
【語釈】 ○秋芽子を妻問ふ鹿こそ 「妻問ふ」は意味が広く、求婚する、結婚する、男女相語らうなどの意がある。ここは求婚するで、秋萩を懸想《けそう》して鳴く鹿は。○一子に子持てりといへ 独子という状態で子を持っているという。これは事実で、鹿は一回に一頭よりは生まないのである。「いへ」は已然形で、条件法である。○鹿児じもの吾が独子の 「鹿児じもの」は「鹿児」は鹿の児。「じもの」は、名詞に続いて、その名詞に形容詞の働きをもたせるもので、鹿の児のごとく。これは同系の語が多く、いずれも枕詞であるが、これは譬喩の意の濃厚なものである。○草枕旅にし行けば 「旅」は、唐。「し」は、強意。○竹珠を繁に貫き垂り 「竹珠」は竹を短く輪に切ったもので、「繁に貫き垂り」は、それを繁く緒に貫いて、頸にかけることで、祭典をする時の古来よりの式である。○斎戸に木綿取り垂でて 「斎戸」は、浄めた神酒《みき》を入れた甕。「木綿」は、楮《こうぞ》、麻の繊維。「取り垂で」は、結び垂らしで、これは祭典に神に供える物で、古来よりの式である。○斎ひつつ吾が思ふ吾子 「斎ひつつ」は、物忌みを続けて。「吾子」は、呼びかけ。○真幸くありこそ 訓は、『略解』で、本居宣長の試みたものである。「好去」は、巻四(六四八)に「奈何好去哉《イカニサキクヤ》」、巻十三(三二二七)に「好去通牟《サキクカヨハム》」とあり、それに「真」を添えて「まさきく」に当て、「欲得」は、「がも」に慣用しているので、同じく願望の「こそ」に当てたのである。十分に無事であってくれよ。
【釈】 萩の花を懸想して鳴く鹿は、独子の状態で子を持っているという。その鹿の児のごときわが独子が、遠い旅に行くのでわ(296)れは竹珠を繁く緒に貫いて頸に垂れ、浄めた神酒《みき》を盛った甕《かめ》に木綿を結び垂らして、物忌みをしながら思っている吾子よ。無事であってくれよ。
【評】 どういう人か知らぬが、身分のあり教養のある母性を思わせられる歌である。前半は、「草枕旅にし行けば」までで、そこでいっていることは、一に子の可愛ゆさである。遣唐使の一行に加わっているので、子とはいってもある年輩に達していることは明らかであるのに、さながら幼い子に対うがごとき心をもっている。可愛ゆさは「独子」という一語にこめて、他には何事もいわないのであるが、その独子をいうに、世に子の少ないものといわれている鹿を捉え、それとの対照において「吾が独子の」といって、語少なくその可愛ゆさを深化させている。「旅にし行けば」を繋《つな》ぎにして、後半に移り、「真幸くありこそ」を重点とし結尾ともしているのであるが、ここでは祭典のさまを具《つぶ》さに叙して、「斎ひつつ吾が思ふ吾子」と呼びかけて、最後の祈りに近い語に続けているのである。遣唐使の一行に加わりうることは、この時代にあっては甚だ名誉のことであったが、この母親はそのようなことは問題ともせず、また旅立ちの場合であるから、不安の情は訴えられないので、ただ母親という狭い立場に立って、母としての切情を述べているのである。それを語少なに、しかも声低く、それでいて幾分の余裕のあるがごとくいっているので、おのずから気品のある歌となっているのである。
反歌
1791 旅人《たびびと》の 宿《やど》りせむ野《の》に 霜《しも》降《ふ》らば 吾《わ》が子《こ》羽《は》ぐくめ 天《あめ》の鶴群《たづむら》
客人之 宿將爲野尓 霜降者 吾子羽※[果/衣] 天乃鶴群
【語釈】 ○旅人の宿りせむ野に 「旅人」は、ここはわが子をさしたもの。「宿りせむ野」は、唐の野を思いやっていっているもの。旅といえばいかなる身分の人も、いかなる場合でも野宿するものとしていっているのである。○霜降らば これは夏の四月に、晩秋初冬を思いやっての語である。また、野に蔽う物なく、身を露出させて寝ることとしていっているのである。○吾が子羽ぐくめ天の鶴群 「吾が子羽ぐくめ」は、下の鶴に対しての命令で、わが子を、その翼をもって覆えよで、寒い目にあうのを憐れんでの心である。「天の鶴群」は、「天の」は天を飛ぶ物なので冠した語。「鶴群」は、見て知っていたものと思われる。
【釈】 旅びとである一行が宿りをしよう野に霜が降ったならば、わが子を翼をもって覆うてくれよ、天を翔《か》ける鶴の群れよ。
【評】 夏四月に難波津を進発する、遣唐使に加わっているわが子が、晩秋初冬の頃、唐の野に旅人として野宿をし、直接に霜(297)に打たれることを想像している心である。教養をもっているとはいえ、当時の女性の常識がいかに狭く限られたものであったかが思われる。こうした心からいうと、「吾が子羽ぐくめ天の鶴群」は、詩情などというものとは繋がりのない、想像しうる唯一の切情だったのである。
娘子《をとめ》を思ひて作れる歌一首 并に短歌
【題意】 作者は、左注によって、田辺福麿《たなべのさきまろ》である。「娘子」は、何びととも知れぬ。
1792 白玉《しらたま》の 人《ひと》のその名《な》を 中々《なかなか》に 辞《こと》の緒《を》下延《したば》へ 逢《あ》はぬ日《ひ》の 数多《まね》く過《す》ぐれば 恋《こ》ふる日《ひ》の 累《かさな》り行《ゆ》けば 思《おも》ひ遣《や》る たどきを知《し》らに 肝《きも》向《むか》ふ 心《こころ》摧《くだ》けて 珠《たま》だすき 懸《か》けぬ時《とき》なく 口《くち》息《や》まず 吾《わ》が恋《こ》ふる児《こ》を 玉釧《たまくしろ》 手《て》に取《と》り持《も》ちて まそ鏡《かがみ》 直目《ただめ》に見《み》ねば 下檜山《したひやま》 下《した》逝《ゆ》く水《みづ》の 上《うへ》に出《い》でず 吾《わ》が念《も》ふ情《こころ》 安《やす》からぬかも
白玉之 人乃其名矣 中々二 辞緒下延 不遇日之 数多過者 戀日之 累行者 思遣 田時乎白土 肝向 心摧而 珠手次 不懸時無 口不息 吾戀兒矣 玉釧 手尓取持而 眞十鏡 直目尓不視者 下檜山 下逝水乃 上丹不出 吾念情 安虚歟毛
【語釈】○白玉の人のその名を「白玉の」は、白玉のごときで、「人」の譬喩。巻五(九〇四)山上憶良の歌に「白玉の吾が児|古日《ふるひ》」に似ている。「人」は、題詞の娘子《おとめ》。「名」は、その身の代わりとしてのものであるが、ここは娘子の本体に対させていっているもので、面影というに近い。白玉のごとき娘子のその名を。この二句は、十句を隔てて「珠だすき懸けぬ時なく」に続く。○中々に辞の緒下延へ 「中々に」は、なまなかにというにあたる。「辞の緒」は、熟語。「緒」は、長く続く物なので、辞の状態として添えたもの。娘子を懇ろにいう語。「下延へ」は、「下」は、心のうち。「延へ」は、根を張る意で、心の中に深く思う意。なまなかに懇ろな語で、心深く思っているといって。○思ひ遣るたどきを知らに 思いを晴らす方法が知られずに。○肝向ふ心摧けて 「肝向ふ」は、臓腑の向かい合っているで、その所在として「心」にかかる枕詞。「心摧け」は、心乱れて、分別も失せての意。○珠だすき懸けぬ時なく 「殊だすき」は、「懸く」の枕詞。「懸けぬ時なく」は、心にかけない時はなく。○口息まず吾が恋ふる児を 「口息まず」は、口にその名をやまずいって。他に用例のある語。「吾が恋ふる児」の「児」は、娘子の愛称。○玉釧手に取り持ちて 「玉釧」は、玉の釧で、臂に巻くところから、「手」にかかる枕詞。「手に取り持ち」は、娘子を親しく手の中に持つ物とする意。○ま(298)そ鏡直目に見ねば 「まそ鏡」は、「見」の枕詞。「直目に見ねば」は、直接にわが目に見なければ。○下檜山下逝く水の 「下檜山」は、黄葉の色づいた山。「したひ」は四段動詞「したふ」の連用形。巻二(二一七)「秋山の下へる妹」とあるに同じ。従来下樋のある山、すなわち山上の水を山下に導くために、樋を地下に伏せてある山とし、普通名詞あるいは、摂津国風土記、能勢郡にある下樋山とされていたが、「檜」のヒは甲類。「樋」は乙類のヒであることから、下樋山ではなく前記の解によるべきとした木下正俊氏の説に従う。「下逝く水の」は、黄葉の山の下を流れる水のごとくで、二句、意味で「上に出でず」にかかる序詞。○上に出でず吾が念ふ情 表面にあらわさずして、わが思っている心で、「ず」は連用形。○安からぬかも 訓が定まらず、諸注さまざまである。『古義』の訓で、『新訓』の従っているもの。「虚」は「から」で、「ぬ」の打消を読み添えたものだと、『全註釈』はしている。
【釈】 白玉のごとき娘子の、その名をなまなかに懇ろな語で心深く思っているといって、逢わない日が多く過ぎたので、わが恋うる日が累《かさ》なって行くので、思いを晴らす方法が知られずに、心が乱れて分別も失せ、心にかけて思わない時はなく、その名を口に絶やさずにわが恋うている児を、親しくこの手の中に持つものとし、直接に見るものとしなければ、下樋山の下を流れ行く水のごとく、表面にあらわさずにわが思うている心は安からぬことであるよ。
【評】 相逢おうと許し、その約束もした娘子が何らかの事情で、実際には逢おうとしないのに対して、煩悩《ぼんのう》をきわめている心を詠んだものである。この時代の男女関係にあっては、きわめてありふれたことで、短歌で足りるほどの事柄であるのに、そうした気分をあらわそうとして、語を尽くして言い続けているものである。起首、「白玉の人のその名を」といって、深く愛する女と、その女と距離をもっている関係とを、まず客観的にいい、それに続く十句を挿句の形にして、愛するが逢えずにいる苦しい気分の叙述としているのである。それをするに、「逢はぬ日の」以下、二句対を二回までも続けていっているのである。その上でようやく「珠だすき懸けぬ時なく」によって、起首の一、二句に続いて行くのであるが、ここでも「玉釧」以下の二句対があり、続いて「下檜山下逝く水の」の序詞があって、一首さながら、語そのものによって懊悩の気分を具象しようとしているものにみえる。枕詞の多いことも異常なまでで、この感を強めている。福麿は家持と同時代の人であり、相応に手腕をもっている人と思われるのに、このように弱所ばかりを示した作をしているのは、当時の新傾向であった、歌は気分の具象だということを表面的に解し、具象は一に語を尽くすことにあるとして、古典的な語句、修辞法を濫用したのだと思われる。大体新傾向の気分の歌は、実情の中核を個性的にあらわすところにあるのを、福麿はその逆をいったのである。
反歌
1793 垣《かき》ほなす 人《ひと》の横言《よこごと》 繁《しげ》みかも 逢《あ》はぬ日《ひ》数多《まね》く 月《つき》の経《へ》ぬらむ
(299) 垣保成 人之横辞 繁香裳 不遭日数多 月乃經良武
【語釈】 ○垣ほなす人の横言 「垣ほなす」は、「ほ」は秀《ほ》で、茅などの頂で、その数の多いところから、そのごとくと、人の横言の譬喩とした枕詞。「横言」は、横あいからの差し出口。○繁みかも 多いゆえであろうか。「かも」は、疑問の係。
【釈】 垣の秀のごとく、人の横あいからの差し出口が多いゆえであろうか。娘子のわれに逢わぬ日が多く、月も経てしまったことであろう。
【評】 長歌の心を総括して繰り返したもので、反歌としては古い形のものである。真率ではあるが、平坦で、長歌と調和しかねるものである。独立した歌ともみえる。
1794 立易《たちかは》り 月《つき》重《かさ》なりて 逢《あ》はねども さね忘《わす》らえず 面影《おもかげ》にして
立易 月重而 雖不遇 核不所忘 面影思天
【語釈】 ○立ち易り月重なりて 月が変わって、重なって。○さね忘らえず 「さね」は、真実にで、副詞。「忘らえず」は、忘れられず。○面影にして 面影に見えて。
【釈】 月が変わって重なって、長く逢わないけれども、まことに忘れられない。面影に見えて。
【評】 上の歌と同じく、長歌全体に対しての繰り返しである。措辞の上に細かい用意が見えて、おのずからに新味を帯び得ている。
右の三首は、田辺福麿の歌集に出づ。
右三首、田邊福麿之謌集出。
【解】 「福麿」は、巻六(一〇六七)にも出、上の(一八〇六)にも出た。
(300)挽歌
宇治若郎子《うぢのわきいらつこ》の宮所《みやどころ》の歌一首
【題意】 「宇治若郎子」は、応神天皇の皇太子で、宮は宇治にあった。「宮所」は、ここは古く宮のあった址《あと》としての称。その址は今は不明である。皇子のことは記紀に委しく出ている。歌は以下五首、人麿歌集のものである。
1795 妹《いも》ら許《がり》 今木《いまき》の嶺《みね》に 茂《しげ》り立《た》つ 嬬松《つままつ》の木は 古人《ふるひと》見《み》けむ
妹等許 今木乃嶺 茂立 嬬待木者 古人見祁牟
【釈】 ○妹ら許今木の嶺に 「妹ら許」は、「ら」は接尾語で、妹のもとへ今来るの意で、「今木」の枕詞。ただし「木」のキは乙類、「来」は甲類で音韻は異なるが、類音の関係でつづくのであろうという。「今木の嶺」は、『山城志』には、宇治|彼方《をちかた》町の東南、今離宮山というといっているが、『代匠記』『古事記伝』は、これは古書には見えないもので、後のものであろうといっている。『新考』は新説を立て、山城国風土記に、宇治は、「本名曰2許之国1矣」とあるが、「許」は「杵《き》」の誤りであろう。それは、杵《き》の名は今も郡名に残っており、和名抄、山城国郡名に、「紀伊 岐」とあるのがすなわちそれだといい、宇治は今は久世郡に属しているが、古くは紀伊郡に属していて、宇治を中心とする一区城の地を「きの国」と称し、宇治の山を「きの嶺」と称したのであろう。したがってここは、「妹ら許今」までの七音が、「木」の序詞であろうというのである。要するに不明とするほかはない。○嬬松の木は 「嬬松」は嬬を待つで、「嬬」は「松」の序詞。○古人見けむ 「古人」は、若郎子を尊んで間接にいったもの。「見けむ」は、見たであろう。
【釈】 妹のもとへ今来たというに因みある今木の嶺に茂り立っている、嬬を待つというに因むこの松の木は、古の人が見たことであろう。
【評】 若郎子の宮所であった今木の嶺の松の木を、皇子が見たものであろうと推量することによって由縁を感じ、皇子の形見になぞらえてなつかしんだ心である。上代の心からいうと、それほどの由縁でも形見とするに足りたのである。皇子の在世の時代からははるかに下つての代であるが、対象は齢《とし》長い松であるから、その上でも自然である。「妹ら許」という枕詞、「嬬」という序詞は、事柄に合わせては不自然に感じられるが、皇子をなつかしむ気分をまつわらせるために、自身の最もなつかしく思っているこうした語を、修飾として用いたと見ると、気分の繋がりのあるものにはなる。一首の調べが張って、作意を生(301)かしているので、こうした語がそのわりには目立たないものとなっている。人麿的な歌である。
紀伊國にて作れる歌四首
【題意】 紀伊国へ行って、亡妻を思った歌である。それはその地に亡妻の思い出がまつわっているためで、第三首目は黒牛潟、第四首目は玉津島の地名が出ている。人麿歌集には大宝元年十月、持統天皇と文武天皇との紀伊国へ行幸の時の歌(巻二、一四六)があるから、その時随行した女官の一人が、人麿と夫婦関係を結んでいたと見れば、事情は最も自然である。ここの歌の対象となっている人は、そうした人であったろう。
1796 黄葉《もみちば》の 過《す》ぎにし子《こ》らと 携《たづさは》り 遊《あそ》びし礒《いそ》を 見《み》れば悲《かな》しも
黄葉之 過去子等 携 遊礒麻 見者悲裳
【語釈】 ○黄葉の過ぎにし子らと 「黄葉の」は、木の葉の黄変を、盛りの過ぎたこととし、「過ぎ」と続けた枕詞。「過ぎにし」は、この世を過ぎたで、死んだ意。「に」は完了、「し」は過去の助動詞。「子ら」の「ら」は、接尾語で、「子」は、ここは妹の愛称。○携り 手を携えて。
【釈】 世を去った可愛ゆい妹と手を携えて、遊んだことのあった磯を見ると、悲しいことであるよ。
【評】 妹とともに、楽しい思い出を残している磯に、妹のない後、再び一人立っての心である。最初に胸に衝き上げてきた感だけを捉え、他の何ものをもまじえさせず、直線的に詠んでいるもので、調べもそれにふさわしい強いものである。人事の推移の悲しみがおのずからに現われてきて、愴然《そうぜん》として磯に立っていた面影まで浮かびくる感がある。
(302)1797 潮気《しほけ》立《た》つ 荒礒《ありそ》にはあれど 行《ゆ》く水《みづ》の 過《す》ぎにし妹《いも》が 形見《かたみ》とぞ来《こ》し
塩氣立 荒礒丹者雖在 徃水之 過去妹之 方見等曾來
【語釈】 ○潮気立つ荒礒にはあれど 「潮気立つ」は、潮の気の立つで、海気の立つ。「荒礒」は、岩石の高く現われている海岸。○行く水の過ぎにし妹が 「行く水の」は、意味で「過ぎ」にかかる枕詞。○形見とぞ来し 「形見」は、既出。「ぞ」は係。「来し」は、「し」は、結で、連体形。
【釈】 潮の気の立っている岩石高い海岸ではあるが、死んだ妹の形見であるとして来たことである。
【評】 前の歌を前進させたものである。この歌には前の歌の「見れば悲しも」という感傷の直写はなく、その代わりに「荒礒にはあれど」というやや知性的な面が現われているが、そのために重量感が加わって、感慨の深さを湛えたものとなっている。この歌では注意させられることは、巻一(四七)「真草苅る荒野にはあれど黄葉《もみちは》の過ぎにし君が形見とぞ来し」に、心も形も酷似していることである。人麿の手腕をもってしても、おのずから型ともいうべきものができようとしていたことを示すものである。短歌の性格を語っているものといえる。
1798 古《いにしへ》に 妹《いも》と吾《わ》が見《み》し ぬばたまの 黒牛潟《くろうしがた》を 見《み》ればさぶしも
古家丹 妹等吾見 黒玉之 久漏牛方乎 見佐府下
【語釈】 ○古に妹と吾が見し 「古」は、下の続きから見て、大宝元年の行幸の時のことと取れる。○ぬばたまの黒牛潟を 「ぬばたまの」は、「黒」の枕詞。「黒牛潟」は、紀伊国海草郡黒江(和歌山県海南市(303)黒江、舟尾《ふのお》)で、既出。○見ればさぶしも 「さぶし」は、楽しまぬ意。「も」は、詠歎。
【釈】 以前に、妹とわれとともに見た黒牛潟を見ると、心慰まぬことよ。
【評】 第一首目の歌と同じく思い出の綜合感を、「見ればさぶしも」という詠歎を中心にして詠んでいる。前の磯とは異なった境なので、感が新たになったためであろう。「ぬばたまの黒牛潟を」という印象的な地名が、さして目立たないものとなっているのは、調べの力である。
1799 玉津島《たまつしま》 礒《いそ》の浦《うら》みの 真砂《まなご》にも にほひて行《ゆ》かな 妹《いも》が触《ふ》れけむ
玉津嶋 礒之裏未之 眞名仁文 尓保比去名 妹觸險
【語釈】 ○玉津島礒の浦みの 「玉津島」は、和歌山市和歌の浦の島で、巻七(一二一五)に既出。「浦み」の「み」はあたり、めぐりの意。○真砂にもにほひて行かな 「真砂」は、砂。「も」は、詠歎。「にほひて」は、美しい色にしてで、衣を好い色にしての意。砂では染まらないが、衣に着けることをそのようにいったもの。「行かな」の「な」は、自身に対しての願望。○妹が触れけむ 妹が身に触れたであろうで、砂を妹の形見と見てのこと。
【釈】 玉津島の磯の、浦にある真砂で、わが衣を美しい色にして行こうよ。この砂に、妹が触れたことであったろう。
【評】 磯の浦の砂に、妹が身を触れたであろうと推量し、その砂を妹の形見と見て、わが衣に着け、ここを去ろうというのである。形のある物を通さないと魂は通わないとする上代の信仰からのことであるが、浦の砂を形見と見ることは、人麿の濃情からのことで、歌としても感覚的で立体感をもった、特殊なものである。
右の五首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
右五首、柿本朝臣人麿之謌集出。
足柄《あしがら》の坂を過ぎて、死《みまか》れる人を見て作れる歌一首
【題意】 「足柄の坂」は、足柄の嶺を神奈川県足柄上郡南足柄町矢倉沢から、地蔵堂を経て静岡県駿東郡小山町竹の下へ越える坂で、東海道の道路である。「死れる人」は、行路病者で、上代は死の穢れを忌むことが甚しかったところから、取収める者がな(304)かったのである。作者は以下七首、田辺福麿である。
1800 小垣内《をかきつ》の 麻《あさ》を引《ひ》き干《ほ》し 妹《いも》なねが 作《つく》り著《き》せけむ 白妙《しろたへ》の 紐《ひも》をも解《と》かず 一重《ひとへ》結《ゆ》ふ 帯《おび》を三重《みへ》結《ゆ》ひ 苦《くる》しきに 仕《つか》へ奉《まつ》りて 今《いま》だにも 国《くに》に退《まか》りて 父母《ちちはは》も 妻《つま》をも見《み》むと 思《おも》ひつつ 行《ゆ》きけむ君《きみ》は 鳥《とり》が鳴《な》く 東《あづま》の国《くに》の 恐《かしこ》きや 神《かみ》のみ坂《さか》に 和細布《にぎたへ》の 衣《ころも》寒《さむ》らに ぬばたまの 髪《かみ》は乱《みだ》れて 国《くに》問《と》へど 国《くに》をも告《の》らず 家《いへ》問《と》へど 家《いへ》をも云《い》はず 益荒夫《ますらを》の 行《ゆき》の進《すす》みに 此処《ここ》に臥《こや》せる
小垣内之 麻葉引干 妹名根之 作服異六 白細乃 紐緒毛不解 一重結 帯矣三重結 苦伎尓 仕奉而 今谷裳 國尓退而 父妣毛 妻矣毛將見跡 思乍 徃祁矣君者 鳥鳴 東國能 恐耶 神之三坂尓 和靈乃 服寒等丹 鳥玉乃 髪者乱而 邦問跡 國矣毛不告 家問跡 家矣毛不云 益荒夫乃 去能進尓 此間偃有
【語釈】 ○小垣内の麻を引き干し 「小垣内」は、「小」は、美称の接頭語。「垣内」は、家を繞《めぐ》らしている垣の内で、囲いの内というにあたる。「麻」は、作った物。「引き干し」は、茎を引き抜いて、日に干して。織物の材料としての繊維を作る順序。○妹なねが作り著せけむ 「妹なね」は、「なね」は、女性に対しての愛称。「作り著せけむ」は、衣に作って着せたであろうで、「けむ」は、連体形で下へ続く。夫の衣服を作るのは妻の役で、その労苦がやがて情愛であったので、情愛を具象するために言いつらねたもの。○白妙の紐をも解かず 「白妙の」は、上をうけて、白妙の衣の意。麻織の白布の衣で、身分の低い者の常服。「紐をも解かず」は、「紐」は、その衣の上紐で、「解かず」は夜も丸寝をしてで、劇務にあたることを具象的にいったもの。○一重結ふ帯を三重結ひ 本来、一廻りに結ぶべき帯を、三重廻して結ぶで、甚しくも痩せ衰えたことを具象的にいったもの。これは他にも用例があって、成句に近いものである。この二句は、上をうけて、劇務をあらわしたものである。○苦しきに仕へ奉りて 「苦しぎに」は、苦しき職に。「仕へ奉りて」は、公に対して御奉仕をして。この二句は、上を総括して、推量よりいっているものである。その職というのは、当時庶民中から、いささか身分才幹のある者は公に召して、兵士、役丁に使っていたので、その類の者と見なしたのである。○今だにも国に退りて 「今だにも」は、せめて今の間でもで、しばらくの暇を賜わった者と見たのである。「退り」は、貴い所より賤しい所へ行く意で、京より郷里へ行って。○父母も妻をも見むと 国へ退る目的。○思ひつつ行きけむ君は 「行きけむ」は、向かって行く国を中心としての言い方。「君」は、相手が死者であるよりの敬称。○鳥が鳴く東の国の 「鳥が鳴く」は、「東」の枕詞。○恐きや神のみ坂に 「恐きや」の「や」は、(305)感動で、神の修飾。「神のみ坂」は、神霊のいます坂で、「み」は美称。これは坂に対しての一般的信仰で、足柄の坂に限ったものではない。○和細布の衣寒らに 「和細布の」は、原文「和霊乃」で、諸本異同のないものである。旧訓「にぎたまの」である。「にぎたま」は荒み霊に対するにぎみ霊で、霊魂の温和な方面をあらわす称である。ここは「衣」の性質をあらわす語として用いているもので、強いていえば温和なる死者の衣と続けるべきであるが、この一首中には、死者を尊む心から、死という語は用いていない。ここに突然、死を超えての「和霊」という語を用いたのは不自然である。『考』は、「霊」は「細布」の誤写だとして、「にぎたへの」としている。和細布は荒妙に対する語で、繊維の細く柔らかい布の称で、この場合、事実としては妥当とはいえないが、死者を尊む心からいったものとすれば通る。誤写説は迎えてのものであるが、比較的無難であるから、これに従っておく。○ぬばたまの髪は乱れて 「ぬばたまの」は、「黒」の枕詞であるのを、黒そのものとして、髪へ続けたもの。○益荒夫の行の進みに 「益荒夫」は、勇気あり思慮ある男子の称で、ここは死者を尊んでいっているもの。「行の進み」は、前進する進行中にで、旅の途中でということを、死者を尊む心から、大夫的なように言いかえたもの。○此処に臥せる 「臥せる」は、臥すの古語「こゆ」の敬語で、これも死者を尊んでのもの。「る」は、完了の助動詞「り」の連体形で、終止形の代わりに用いて詠歎をあらわしたもの。
【釈】 家の囲い内の麻を引いて干し、可愛ゆい妻が仕立てて着せたであろうところの白妙の衣の、その紐をも解くことをせずに、一重廻して結ぶべき帯を、三重廻して結ぶまでに痩せ衰えて、苦しい職に御奉仕申上げて、今の間だけでも生国に下って、父母をも妻をも見ようと、思いつづけて来たであろう君は、東の国の、畏き神のみ坂で、和妙の衣は寒そうに、黒髪は乱れて、生国を尋ねるけれども生国をもいわず、家の所在を問うけれども家をもいわず、益荒夫の前進する進行中に、ここに臥していられることであるよ。
【評】 福麿が東海道を下ったのは、何らかの公務を帯びてのことであったろう。足柄峠の険を越えようとする時、同じ方向をとって先立って来た旅人の、その坂道に行倒れとなって死んでいるのを見たのであるから、場合がら感傷を起こしたのは当然のことである。上代に溯るほど、死者に対する恐怖と、それより発する畏敬の念は深かつた。福麿のこの歌は、その畏敬の念で一貫しているものである。彼はこの死者を、東国より召されて公に仕えている兵士、役丁の類と定め、今は公よりしばらくの暇を賜わって帰省する途上の者としたのである。これは当時にあっては、庶民に対する最上の敬意である。また死者が極度に衰えていたのは、事実としては日数を経過したためであろうが、それをはげしい公務よりの過労のためと見なしたのである。これは一段の畏敬である。それを前半とし、後半は、死者に対する哀れみから、国を問い家を問うことにしているが、結末は、「益荒夫の行の進みに此処に臥せる」と、行倒れになっていることを、当時の理想的の男子とした益荒夫の、積極的精神の、やむにやまれぬ成行きと見なしたのである。これは前半に照応させて、それを高調したものである。一首、実際には即しているが、死者に対する畏敬の念という、一種の解釈で一貫したものである。これは福麿自身、官人ではあったが、身分が低く、また同じく旅人であったところから、いわゆる身につまされるものがあったためにこのような解釈をしたので、その意味では個(306)性的なものである。これを一首の歌として見ると、事実よりも解釈に重点を置いたものであるために、一首が散文的・平面的なものとなり、勢い哀隣の情の足りないものとなっているのは、余儀ない成行きである。実際、路上の死人を対象とした歌は、集中何首かがあるが、この歌は直接訴えてくる悲哀感の比較的少ないものである。語句の葦麗なのも、悲哀感を削ぐことであるが、一方の畏敬の情を徹しさせようとしてのことであって、これまた余儀ないことである。
葦屋《あしのや》の処女《をとめ》の墓を過ぐる時、作れる歌一首 并に短歌
【題意】「葦屋の処女の墓」については、『大日本地名辞書』『新考』に詳しい。葦屋は、今神戸市の東方にある芦屋市で、葦屋の処女はそこに住んでいたからの称である。そこはもと菟原《うない》郡であったから、菟原の処女ともいう。この葦屋の処女に関しての伝説があった。伝説は下の(一八〇九)高橋蟲麿の歌に詳しいが、要は、処女が美女であったところから思いを寄せる男が多かったが、最も熱烈なのは菟原壮士《うないおとこ》と血沼《ちぬ》壮士で、争って譲らないところから、処女は入水して死んだという。二男が一女を争ういわゆる三角関係で、伝説としては典型的なものである。処女が死ぬと、二人の男も後を追って死んだので、人々が憐れんで三人の墓を造ったというので、その中の処女の墓がすなわち題詞となっているものである。墓は今は武庫郡の内の、住吉川の西から生田川の東にわたって、各十余町を距てている。一つは神戸市東灘区住吉町|呉田《ごでん》、一つは神戸市東灘区御影町|東明《とうみよう》、いま一つは神戸市灘区|味泥《みどろ》にあったが、味泥のものは明治年間に削られて民宅となった。東明にあるものが処女の墓、呉田にあるものは信太男《しのだおとこ》(血沼壮士)の塚、味泥にあったものは菟原男の塚とされていた。東明の処女の墓は南面し、東の呉田、西の味泥のものは、いずれも中央の墓に向かっていた。そこはいずれも旧西海道に近く、人の往来の多いところから、いつかそうした伝説が生まれたものとみえる。墓はいずれも前方後円の瓢形《ひさごがた》のもので、上代この地を領していた豪族のものとみえるという。
1801 古《いにしへ》の ますら壮士《をとこ》の 相競《あひきほ》ひ 妻問《つまど》ひしげむ 葦屋《あしのや》の 菟原処女《うなひをとめ》の 奥津城《おくつき》を 吾《わ》が立《た》ち見《み》れば 永《なが》き世《よ》の 語《かたり》にしつつ 後人《のちびと》の 偲《しのひ》にせむと 玉桙《たまほこ》の 道《みち》の辺《べ》近《ちか》く 磐《いは》構《かま》へ 作《つく》れる塚《つか》を 天雲《あまぐも》の 退部《そきへ》の限《かぎり》 この道《みち》を 行《ゆ》く人《ひと》毎《ごと》に 行《ゆ》きよりて い立《た》ち嘆《なげ》かひ 或人《わびびと》は 啼《ね》にも哭《な》きつつ 語《かた》り継《つ》ぎ 偲《しの》ひ継《つ》ぎ来《こ》し 処女《をとめ》らが 奥津城《おくつき》どころ 吾《われ》さへに 見《み》れば悲《かな》しも 古《いにしへ》思《おも》へば
(307) 古之 益荒丁子 各競 妻問爲祁牟 葦屋乃 菟名日處女乃 奧城矣 吾立見者 永世乃 語尓爲乍 後人 偲尓世武等 玉桙乃 道邊近 磐構 作冢矣 天雲乃 退部乃限 此道矣 去人毎 行因 射立嘆日 或人者 啼尓毛哭乍 語嗣 偲繼來 處女等賀 奧城所 吾并 見者悲喪 古思者
【語釈】 ○古のますら壮士の 猛き若盛りの男で、菟原壮士と血沼壮士とである。原文「丁子」は、二十一歳に達した男の称。○相競ひ妻問ひしけむ 「競《きほ》ひ」は、きそい、争って。「妻問ひ」は、求婚。上代は娘に直接に求婚したので二人同時にするのは格別のことではなかった。○葦屋の菟原処女の 「葦屋」は、古くは摂津国菟原郡の葦屋で、葦屋は郷名で、菟原郡は今は武庫郡に属しているが、六甲山の南麓一帯の地で広範囲の称である。「菟原」は古くは「うなひ」といい、後「うはら」と転じたのである。処女は、広い地名によって「菟原処女」とも呼ばれ、葦屋に住んでいたところから、「葦臣の処女」とも呼ばれていたのである。○奥津城を吾が立ち見れば 「奥津城」は、墓を具体的にいった語。「奥」は、遠い所で、ここは地下をそういったもの。「つ」は、の。「城」は、建造物の称。○永き世の語にしつつ 「永き世」は、永久。「語」は、言い伝え。尊いこと、あわれなこと、おもしろいことなど、記憶すべき事を伝える唯一の方法。「つつ」は、継続。○後人の偲にせむと 後の人の思慕にしようと思ってで、上の二句の繰り返し。「語」「偲」は、いずれも名詞形。○玉桙の道の辺近く 「玉桙の」は、「道」の枕詞。「道の辺近く」は、旧西海道近く。○磐横へ作れる塚を 「磐構へ」は、大石をもって構えてで、大きな墳墓の構造を叙したものである。「塚」は、墓で、土を盛り上げた墓の称。大石を構えて作ってあるところの塚をで、これをした動機は上にいう「語にしつつ」「偲にせむと」であるが、墓は本来そうした性質のものではない。上代人は、人は死後にも別種の生活があると信じ、その生活の場所として大きな墓を営んだものである。文武天皇の時代、仏教の影響から、死者を火葬することが行なわれると、それが上代の信仰に影響して、大きい墓は必要のないものと思われてきたのである。この二句は火葬以後に生まれた伝説ということを示しているのである。○天雲の退部の限 「退部」は、彼方に退いている辺りで、空の雲の果てまで。これは「天雲の向伏す極」と同意の成句で、全国土ということを具象的にいったもの。○行きよりてい立ち嘆かひ 「行きよりて」は、歩み寄って。「い立ち」は、「い」は接頭語。「嘆かひ」は、嘆きの継続。○或人は啼にも哭きつつ 「或」は「惑」と通じて用いられた字。巻五(八〇〇)の題詞「令v反2或情1」はその例である。「或人」は侘びしい心を抱いている人で、感傷的になっている人。○処女らが 「ら」は、接尾語。○吾さへに 現在の吾までも。
【釈】 昔の勇ましい若盛りの男が、相争って求婚をしたという、その葦屋の処女の墓を吾が見ると、永い世にわたっての言い伝えに続け、後の世の人の思慕にしようと思って、街道の辺り近く、大石を構えて作ってある塚を、天雲の遠退いている果てまでのわが全国土の人で、この海道を通る人ごとに、その塚まで歩み寄って嘆きつづげ、佗びしい心を抱いている人は泣きに泣きつづけて、そのあわれさを話し伝え、慕い続けてきたところの、この処女の墓を、今の世の自分までも、見ると悲しいことであるよ。昔を思うので。
【評】 この歌は、葦屋の処女の伝説を扱ったものであるが、伝説そのものには触れようとせず、伝説の表象となっている処女(308)の墓に対しての感動だけを叙したものである。感動とは、その事件のもっているあわれさである。そのあわれさは、まずその事件のあった当時の人を感動させ、これを後の世に伝えようと思って墓を作ると、世にありとある人のうち、その海道を通るほどの人は、その当時の人と同じくことごとく感動し、さらに今の世に至っても、われも同じく感動するといって、事件のもつあわれさの、時代を超えて感動させていることをいっているもので、純抒情的のものである。事件そのものに触れようとしていないのは、そのことは周知のことで、その必要はないものとしたのであろう。しかし抒情の上では、人事のあわれさの限りない力をもったものであることを、具象的にいおうとしているもので、一つの見地に立っているものである。この態度は、巻三(四三一)山部赤人の真間の手児名の墓を見ての歌と同系のものである。
反歌
1802 古《いにしへ》の 小竹田壮士《しのだをとこ》の 妻問《つまど》ひし 菟原処女《うなひをとめ》の 奥津城《おくつき》ぞこれ
古乃 小竹田丁子乃 妻問石 菟會處女乃 奧城叙此
【語釈】 ○小竹田壮士の 「小竹田」は、和泉国の地名で、信太郷(現、大阪府泉北郡|信太《しのだ》村)。血沼壮士のことで、血沼は大地名である。○菟原処女の奥津城ぞこれ 「菟原」は大地名で、葦屋はその一部である。「奥津城ぞこれ」は、墓であるぞ、これは、と強く提示したもの。
【釈】 古の小竹田壮士が求婚をした、その菟原処女の墓であるぞ、これは。
【評】 長歌の結末の「古思へば」をうけて、その思った古の状態を眼前に思い浮かべて、そのあわれさをいま一度|反芻《はんすう》した心のものである。小竹田壮士のほうだけをいっているのは、後の高橋蟲麿の歌で、処女はこの壮士のほうに心を引かれていたことをいっているので、それを心に置いてのことであろう。長歌にふさわしい反歌である。
1803 語《かた》り継《つ》ぐ からにも幾許《ここだ》 恋《こほ》しきを 直目《ただめ》に見《み》けむ 古壮士《いにしへをとこ》
語繼 可良仁文幾許 戀布矣 直自尓見兼 古丁子
【語釈】 ○語り継ぐからにも幾許 「語り継ぐからにも」は、人が語り継いでいるゆえにもで、「から」は、ゆえ。昔話として聞くのでも、というにあたる。「幾許」は、甚しくで、下に続く。○恋しきを 処女が恋しいのにで、処女に憧れ心を起こすのに。○直目に見けむ古壮士 直接に処(309)女を目に見たであろう古の壮士はで、ましてどんなであったろうの余意を含んだもの。
【釈】 語り継ぐのを聞くゆえにも、甚しくも処女の恋しいのに、直接に目に見たであろう、古の壮士は。
【評】 長歌の「語り継ぎ」をうけた形にしてあるが、心としては、心に思い浮かべた伝説の、魅力ある一点を自身につないで詠歎したもので、これも長歌にふさわしい反歌である。
弟《おと》の死去《みまか》れるを哀《かなし》みて作れる歌一首 并に短歌
1804 父母《ちちはは》が 成《な》しのまにまに 箸向《はしむか》ふ 弟《おと》の命《みこと》は 朝露《あさつゆ》の 消易《けやす》き寿《いのち》 神《かみ》の共 《むた》争《あらそ》ひかねて 葦原《あしはら》の 瑞穂《みづは》の国《くに》に 家《いへ》なみや 又《また》還《かへ》り来《こ》ぬ 遠《とほ》つ国《くに》 黄泉《よみ》の界《さかひ》に 蔓《は》ふ蔦《つた》の 各《おの》が向向《むきむき》 天雲《あまぐも》の 別《わか》れし行《ゆ》けば 闇夜《やみよ》なす 思《おも》《あぢ》ひ迷《まと》はひ 射《い》ゆししの 意《こころ》を痛《いた》み 葦垣《あしがき》の 思《おも》ひ乱《みだ》れて 春鳥《はるとり》の 啼《ね》のみ鳴《な》きつつ 味《あぢ》さはふ 夜昼《よるひる》知《し》らず 蜻※[虫+廷]火《かぎろひ》の 心《こころ》燎《も》えつつ 悲悽《なげ》く 別《わかれ》を
父母賀 成乃任尓 箸向 弟乃命者 朝露乃 銷易杵壽 神之共 荒競不勝而 葦原乃 水穏之國尓 家無哉 又還不來 遠津國 黄泉乃界丹 蔓都多乃 各々向々 天雲乃 別石徃者 闇夜成 思迷匍匐 所射十六乃 意矣痛 葦垣之 思乱而 春鳥能 啼耳鳴乍 味澤相 宵晝不知 蜻※[虫+廷]火之 心所燎管 悲悽別焉
【語釈】 ○父母が成しのまにまに 「成しのまにまに」は、生むがままに、兄と弟になって。○箸向ふ弟の命は 「箸向ふ」は、ここよりほか用例のない語である。二本の箸の離れず向かうごとくと、譬喩として「弟」にかかる枕詞かと思われる。形としては「御食向ふ」と同類である。「弟の命」は、「弟」は、旧訓「なせ」。『代匠記』の訓。巻十七(三九五七)「な弟《おと》のみこと」その他がある。「命」は敬称で、死者に対してだからである。○朝露の消易き寿 「朝露の」は、意味で「消え」にかかる枕詞。「消易き寿」は、失せやすい寿命を。仏説を思わせる語である。○神の共争ひかねて 「神」は、人の死生を支配するものとしていっている。巻十一(二四一六)「ちはやぶる神の持たせる命」とある思想で、わが国古来の信仰である。「共」は、「共に」の古語で、上に続いて、神意の発動と共にの意であるが、転じて、神意のままにの意でも用いられていた語であ(310)って、ここはそれである。「争ひかねて」は、人として神意に争うことはできなくて。神意のままのもので、人としては争うことができなくて。○葦原の瑞穂の国に これはわが国の古名で、讃えての称である。ここは、この愛でたい国土に。○家なみや又還り来ぬ 「家なみや」は、「や」は疑問の係であるが、強い詠歎の意をあらわすもので、家がないのであろうかあるのに、再び還っては来ないことだの意で、「ぬ」は連体形。これは死後のある時間、喪をまもって、心に蘇生を期していたが、そのことのないのを悲しんでの心である。以上一段で、以下二段。○遠つ国黄泉の界に 「遠つ国」は、意味で「黄泉」にかかる枕詞。「界」は、地域。○蔓ふ蔦の各が向向 「草ふ蔦」は、這う蔦で、蔦は、本《もと》は一つであるが、枝は向き向きに別れてゆく意で、「向向」にかかる枕詞。「各《おの》が向向」は、銘々の向かうべき方向に。○天雲の別れし行けば 「天雲の」は、ちりぢりになる意で、「別れ」の枕詞。「別れし」の「し」は強意。別れて黄泉に行ったので。○闇夜なす思ひ迷はひ 「闇夜なす」は、闇夜のごとくにで、「迷ひ」にかかる枕詞。「思ひ迷はひ」は、「思ひ」は、嘆き。「迷はひ」は、『代匠記』の訓。「迷はひ」は、迷《まと》ふに「ふ」をつけて、その継続をあらわしたもの。惑い続け。○射ゆししの意を痛み 「射ゆ」は、射らるる意の古語。連体形と見られる。「しし」は、猪鹿の総称で、矢で射られた猪鹿の痛みの意で、「痛み」にかかる枕詞。用例のある語である。「意を痛み」は、甚だ悲しく。○葦垣の思ひ乱れて 「葦垣の」は、葦を編んで作った垣の、乱れやすい意で「乱る」の枕詞。「思ひ乱れて」は、嘆き乱れて。○春鳥の啼のみ鳴きつつ 「春鳥の」は、春の鳥は鳴き声が高いところから、意味で「鳴き」にかかる枕詞。「啼のみ鳴きつつ」は、泣きに泣きつづけて。○味さはふ夜昼知らず 「味さはふ」は、語義が不明で、諸説があって定まらない。「目」の枕詞となっている。ここは続きも異なっていて、例のないものである。「夜昼知らず」は、夜昼の差別も知られずに。○蜻※[虫+廷]火の心燎えつつ 「蜻※[虫+廷]火の」は、陽炎《かげろう》で、意味で「燎え」にかかる枕詞。「心燎えつつ」は、甚しい悲しみのため、胸が燃えるように感じることで、その継続。○悲悽く別を 旧訓で、「天雲の別れし行けば」といったのを、いま一度繰り返したもの。
【釈】 父母が生んだがままに、箸のごとく相向かって離れぬ弟の君は、本来失せやすい寿命を、神意のままの死生で、争うことができなくて、この愛でたい全国土に、宿るべき家がないのでか、再び還って来ないことである。遠い国の黄泉《よみ》の国に、銘々の向かうべき所として、別れて行くので、闇夜のごとく嘆き惑いつづけ、矢に射られた猪鹿のごとくに悲しみに心が痛く、葦垣のごとくに咲き乱れて、春鳥のごとくに泣きにのみ泣きつづけ、夜と昼の差別も知られず、心が燃えつづけて嘆いてはいる、この別れを。
【評】 弟の死を悲しんでの歌で、心を尽くして詠んでいるものである。挽歌は死者の霊魂を慰めることを目的とするもので、深く悲しむことがすなわち慰めることだからである。一首二段とし、第一段は、「家なみや又還り来ぬ」までで、それが前半である。「又還り来ぬ」は、死者を叙したものであるが、歌で見ると、それ以後は心が転じて、極悲を叙したものとなっている関係上、埋葬以前のことで、「還り」には「甦り」の意があったものと思われる。上代の葬儀は、身分は低かろうとも、ある期間は地上に留めて置いたからである。「父母の成しのまにまに 箸向ふ弟の命は」という言い方は、事としては当然であるが、この本質に立入っての言い方は、精神の緊張をもたなければいえないものである。「神の共争ひかねて」ということも、上代の深い信仰とはいえ、たやすからぬもので、さればこそ「黄泉の界」に対しての現《うつ》し世を、「葦原の瑞穂の国」というご(311)とき、事に合わせては不自然と思われる大きく麗わしい称を用い、現し世に対する執着をあらわしているのである。「又還り来ぬ」は、これをうけてのもので、死の余儀なさを思いながらも、諦めかねる心をいっているもので、実情のこもった悲しみである。第二段「遠つ国黄泉の界」以下は、死者として埋葬するに際しての心を、できうる限り鄭重な語をもって述べたものである。五、七、二句をつらねるごとに、その一句には必ず枕詞を据えて、九回まで繰り返している。意識し用意してのこととみえるが、これは他に例の見えないものである。一首の歌として見て、深い悲哀を湛えながらも、同時に華麗な趣をもったもので、この時代には著しく少なくなっている挽歌の代表的なものである。なおこの歌には、歌の性質上、この時代の信仰状態が絡みついている。大体は上代信仰をそのままに継承しているが、それに仏説が介入し、生命の短さを嘆く心、黄泉に対する観念には、明らかにそれがみえる。
反歌
1805 別《わか》れても またも逢《あ》ふべく 念《おも》ほえば 心《こころ》乱《みだ》れて 吾《われ》恋《こ》ひめやも
別而裳 復毛可遭 所念者 心乱 吾戀目八方
【語釈】 ○念ほえば 「念ほえ」は、「念ほゆ」の未然形で、思われるならば。○吾恋ひめやも 「や」は、反語。「も」は、詠歎。
【釈】 別れてもまた逢えることと思われるならば、心が乱れて恋いようか、恋いはしない。
【評】 前半の「又還り来ぬ」を承けたもので、喪の期間は、死者ではあるが、生者に近い心をもって扱っていたので、「別れてもまたも逢ふべく」という言い方をしているのである。死者と見て絶望を意識した嘆きである。
一に云ふ、意《こころ》尽《つく》して
一云、意盡而
【解】 第四句の別伝である。心をあれこれと使つてである。「乱れて」の綜合的なほうが感が深い。
1806 あしひきの 荒山中《あらやまなか》に 送《おく》り置《お》きて 還《かへ》らふ見《み》れば 情《こころ》苦《くる》しも
(312) 蘆檜木笶 荒山中尓 送置而 還良布見者 情苦喪
【語釈】 ○荒山中に 「荒山中」は、「荒山」は、人跡の至らない山で、その山の中に。これは墓所をいったもので、古代の墓所は、山地を選んだのである。○送り置きて 「送り」はいわゆる野辺送りで、葬っての意。「置きて」は、後に残して。○還らふ見れば惰苦しも 「還らふ」は、還るの継続。埋葬の事をした人々の還ってゆく意。「見れば」は、作者がその状態を見ているので、すなわち最後に残っていてのこと。「情苦し」は、死者をあわれむ心から、心苦しさを感じる意。
【釈】 人跡の至らない山の中に、死者を送って後に残して、人々の還るのを見ると、心苦しいことである。
【評】 これは後半をうけて、さらに時を延長させ、埋葬後の悲しみをいっているものである。死者を荒山中に葬って、場所柄のあわれさから立ち去りかねていると、会葬した人々の続いて帰ってゆくのを見て、それに刺激されて悲しみの加わってきた心で、実感のこもった歌である。反歌は二首とも、長歌とは異なって、素朴に率直に詠んでいるので、しみじみしたあわれがある。
右の七首は、田辺福麿の歌集に出づ。
右七首、田邊福麿之謌集出。
勝鹿《かつしか》の真間娘子《ままのをとめ》を詠める歌一首 并に短歌
【題意】 「勝鹿の真間娘子」は、巻三(四三一〜四三三)山部赤人の長歌に出たもので、他にも出ている。「勝鹿の真間」は、今は市川市に属している。「娘子」は呼名を手児奈といった。「手児」は東国で若い女を呼ぶ普通名詞で、「奈」は愛称である。上代の伝説中の人である。作者は高橋蟲麿である。
1807 鶏《とり》が鳴《な》く 吾妻《あづま》の国《くに》に 古《いにしへ》に ありける事《こと》と 今《いま》までに 絶《ナい》えず言《し》ひ来《く》る 勝鹿《かつしか》の 真間《まま》の手児奈《てこな》が 麻衣《あさぎぬ》も 青衿《あをくび》著《つ》け 直《ひた》さ麻《を》を 裳《も》には織《お》り著《き》て 髪《かみ》だにも 掻《か》きは梳《けづ》らず 履《くつ》をだに 穿《は》かず行《ゆ》けども 錦綾《にしきあや》の 中《なか》に裹《つつ》める 斎児《いはひご》も 妹《いも》に及《し》かめや 望月《もちづき》の 満《た》れる面《おも》わに 花《はな》の如《ごと》 咲《ゑ》みて立《た》てれば 夏虫《なつむし》の 火《ひ》に入《い》るが如《ごと》 水門入《みなといり》に 船《ふね》漕《こ》ぐ如《ごと》く 行《ゆ》(313)きかぐれ 人《ひと》の言《い》ふ時《とき》 幾許《いくばく》も 生《い》けらじものを 何《なに》すとか 身《み》をたな知《し》りて 波《なみ》の音《と》の 騒《さわ》く湊《みなと》の 奥津城《おくつき》に 妹《いも》が臥《こや》せる 遠《とほ》き代《よ》に ありける事《こと》を 昨日《きのふ》しも 見《み》けむが如《ごと》も 念《おも》ほゆるかも
鷄鳴 吾妻乃國尓 古昔尓 有家留事登 至今 不絶言來 勝壯鹿乃 眞間乃手兒奈我 麻衣尓 青衿著 直佐麻乎 裳者織服而 髪谷母 掻者不梳 履乎谷 不著雖行 錦綾之 中丹裹有 齋兒毛 妹尓將及哉 望月之 滿有面輪二 如花 咲而立有者 夏蟲乃 入火之如 水門入尓 船己具如久 歸香具礼 人乃言時 幾時毛 不生物呼 何爲跡歟 身乎田名知而 浪音乃 驟湊之 奧津城尓 妹之臥勢流 速代尓 有家類事乎 昨日霜 將見我其登毛 所念可聞
【語釈】 ○鶏が鳴く吾妻の国に 「鶏が鳴く」は、「あづま」の枕詞。「吾妻の国」は、大和の人の東国に対しての称で、大体は足柄山以東の称で、時には広く伊勢以東をも称し、狭く関東をも称した。ここは、その狭いものである。上の(一八〇〇)に出た。○古にありける事と 「古」は、山部赤人もすでにそういっていることで、広い意味でいっているもの。「事と」は、事として。美人の結婚に関しての物語というだけのものなので、時代を想像する必要がなかったとみえる。○今までに絶えず言ひ来る 「言ひ来る」は、語り継いで来ているで、その事の真実を裏書するもの。○麻衣に青衿著け 「麻衣」は、麻の繊維を織った衣で、庶民の服であった。それ以上は絹で、これは貴族の物であった。「青衿《あをくぴ》」は、『代匠記』精撰本の訓。「くび」は襟の古名で、『和名類聚鈔』に「衣のくび」とある。青い襟を着け。○直さ麻を裳には織り著て 「直さ麻」は、ここにあるのみの語。「直」は、純粋で、他の物をまじえぬ意。「さ」は接頭語。「麻《を》」は、麻を糸としたもの。「裳」は女の腰に着ける衣裳。○髪だにも掻きは梳らず 髪さえも、掻き梳らずに。「は」は、強調したもの。○履をだに穿かず行けども 履さえも穿《は》かずに出歩くけれどもで、すなわち裸足で歩くこと。以上、身なりをかまわぬことを列挙しているが、これは庶民としては普通のことが、蟲麿の見た時代も同様であったろうと思われる。それを特にいっているのは、手児奈の美貌を引き立てるために対照としていったのである。○錦綾の中に裹める 「錦綾」は、衣類として代表的に貴い物。「中に裹める」は、着せてあるということを、包んであると言いかえたもの。○斎児も妹に及かめや 「斎児」は、大切にして人に触れさせなくして可愛ゆがっている娘で、豪家の秘蔵娘というにあたる。「妹に及かめや」は、「妹」は三人称の愛称で、手児奈。「及かめや」は、反語で、及ぼうか、及びはしないで、その美しきの比較。○望月の満れる面わに 「望月の」は、望月のごとくで、譬喩の意で、「満る」の枕詞。「満《た》れる」は、充足して欠けたところのない。「面わ」は、「わ」は、接尾語で、顔の円形であるところからのもの。面というに同じ。○花の如咲みて立てれば 上の(一七三八)「末の珠名娘子」に出た句。○夏虫の火に入るが如 「夏虫」は、燭蛾。物を獲ようとして夢中になることの(314)譬喩で、その代表とされているもの。○水門入に船漕ぐ如く 「水門入」は、港口、河口へ船を漕ぎ入れる意で、名詞。これは夕方のことで、多くの船が一時に集まって来るように。以上の対句は、手児奈に言い寄る男の多い譬喩。○行きかぐれ人の言ふ時 「行きかぐれ」は、「行き」は、男が手児奈のもとへ目ざして来る意。「かぐれ」は、ここにだけある語で語義は明らかでない。本居宣長は『古事記伝』四十三で、「かぐれ」は、妻をよばうことを、このようにいう古語があったのであろうと説いている。前後の関係から見て、その意のものと取れる。「かがひ」が東国の語であると同じく、「かぐれ」も東国の語で、求婚を意味する語であったろう。「人の言ふ時」は、男が手児奈にいう時。○幾許も生けらじものを 「幾許」は、『代匠記』の訓。用例の多い語である。どれほどの間も。「生けらじものを」は、『古義』の訓。生きてはいられなかろうものをで、「を」は詠歎。この二句は、作者蟲麿が、人間の命そのものの短いことを嘆いていっているもので、そうした命を、手児奈はさらに我と縮めた意で、下へ続く。○何すとか どうするとしてかで、「か」は疑問の係で、四句をへだてて「妹が臥せる」に続く。これは蟲麿が、手児奈の所行を解し難いこととして、訝《いぶ》かった形でいっているのである。手児奈の所行は、物語として人々が周知なことなので、わざと触れずにいるが、要は、多くの男から同時に求婚されて、当惑のあまり入水して死んだということで、蟲麿はそれに深く感動しているのであるが、憐れみの心と、故人のことなので、わざと訝かりの形にしたのである。○身をたな知りて 「たな知り」は、「たな」は動詞に付いて、全く、すっかりという意をもった語で、巻一(五〇)「身もたな知らず」、その他の用例がある。わが身を見とおしてというにあたる。さらにいえば、生存の価値に見きわめをつけてという意である。○波の音の騒く湊の 「湊」は、ここは真間川の河口で、川と海の浪の音の騒がしい湊ので、下の奥津城の所在。その湊が手児奈の入水した場所とみえる。○奥津城に妹が臥せる 「奥津城」は墓で、既出。「妹」は三人称で、愛称。手児奈をさす。「臥せる」は、臥すの古語「こゆ」の敬語で、上の「か」の結で、連体形。「何すとか」以下は、どうしようとして、自分の身に見きわめをつけて、浪の音の騒がしい湊の墓に、手児奈は臥せることになられたのか、と入水して死んだのを憐れむあまり、その心の解せられないかのように、訝かりの形で、婉曲にやさしくいっているのである。○昨日しも見けむが如も 「し」は、強意。「も」は、詠歎。つい昨日見たことのようにも。○念ほゆるかも 思われることであるよで、起首に照応させたもの。
【釈】 東の国に古にあった事だとして、今に至るまで絶えず言い継いで来ている、葛飾《かつしか》の真間の手児奈が、麻をもって織った衣に、青い衿《えり》をつけ、麻ばかりで織った裳を着て、髪さえも梳《くしけず》らずに、履《くつ》さえも穿《は》かずに出歩いているけれども、錦や綾の中に包んでいる秘蔵娘も、この女に及ぼうか及びはしない。望月のように整いつくしている顔に、花のように笑みを湛えて立っていると、夏の蛾の火に飛び入って来るがように、湊入りに船を漕ぎ入れるように、多くの男が言い寄って来る時に、どれほどの間も生きていられそうもない人の命であろうものを、どうするとしてのことか、その身を見きわめて、波の音の騒がしい湊の、墓の中に臥していられることである。遠い昔にあった事を、さながら昨日目に見たことのように思われることである。
【評】 この歌は高橋蟲麿が常陸の国庁にあった時、何らかの場合下総の葛飾の真間へ行き、その土地の伝説となっている手児奈の墓を見、伝説に心を動かして詠んだものである。伝説そのものは大体この歌でわかる。その頂点をなしている所は、手児奈が多くの男から同時に言い寄られ、思案に余り、途方にくれて、入水して自殺したことで、伝説が魅力あるものとなってい(315)たのは、その点のあわれさであったとみえる。これは上の葦屋の娘子と全く性質を同じゅうしているもので、この当時の一つの型となっていたものとみえる。蟲麿がこの点についてはわざと触れようとせず、ただ主観的批評をして、一方ではそれを憐れみ感動しつつも、同時に他方ではそれを訝かしく不可解に思う心をほのめかしているのは、そこに蟲麿の生活的態度があり、それがおそらくこの歌の作因の重いものとなっていたろうと思われる。それは一と口にいうと、真間の辺りの人々の手児奈を憐れむのは、彼女は集団生活の犠牲になったものと見、それを余儀ない、しかし悲しいことと見てのことであろう。地方の部落といううち、ことに真間というような舟着き場で、手児奈が属していた庶民階級にあっては、集団生活の気分がよほど濃厚なものであったろうと思われる。手児奈に言い寄る多くの男は、すべてその土地の者で、彼女はそのすべてを知っていたことであろう。その中の一人に応じ、他のすべてを拒むということは、手児奈にはきわめて困難なことであったが、しかしそれはしなくてはならないことだったのである。彼女はその困難に堪えられず、ついに死を決するに至ったので、その点葦屋の娘子と全く同様である。当時の奈良京はすでに集団生活の気分から離れて、個人生活の気分に入っていたことは、この時代の歌風によっても明らかなことである。その奈良京の知識人である蟲麿には、手児奈の生活態度が、不可解というよりはむしろ誤ったものに感じられたのである。「何すとか身をたな知りて 波の音の騒く湊の 奥津城に妹が臥せる」というのは、故人に対する敬意として、入水ということを直接にいわなかったばかりではなく、その生活態度の相違からいわずにはいられなかった重大なことだったのである。これが手児奈を憐れむ心に大きく繋がり、作因の刺激となったとみえる。一首の構成の上にも、蟲麿の特色が見える。起首、「古にありける事」と明らかに時の距離をつけ、結尾にも「遠き代にありける事を」と照応させているが、一転して手児奈の身なりに入り、「麻衣に青衿著け」以下、つぶさにその粗末なことを叙し、「錦綾の中に裹める 斎児も妹に及かめや」と豪家の娘との比較をしているのである。手児(316)奈の衣裳は、おそらく蟲麿がその時真間の辺りで親しく見たものの写生で、庶民としては普通なものであろう。これを豪家の娘の錦綾と比較するのは単に、手児奈の美を引き立てる対照法とはいいきれないもので、蟲麿の心に貧民に対する特別の同情があってしていることと思われる。手児奈の衣裳の描写は、これをそれだけ切り離して見れば、異色のある目立つものである。一首全体の上から見ると、統一感を欠く趣のあるもので、ここにも蟲麿の個人的な生活感情がまじっているといえるものである。結末の「何すとか」以下は一首の頂点であるが、これは上にいったがごとくである。蟲麿は伝説を扱っている歌人であるが、その扱い方は、伝説そのものを生かそうとするところにはなく、伝説に取材して、それに個人的批評を加えて再現したもので、一種の抒情歌というべきである。そこに蟲麿の面目がある。なお赤人の扱っている手児奈とこれとは、伝説そのものの内容にすでにある流動と推移が認められる。
反歌
1808 勝鹿《かつしか》の 真間《まま》の井《ゐ》を見《み》れば 立《た》ち平《なら》し 水《みづ》汲《く》ましけむ 手児奈《てこな》し念《おも》ほゆ
勝壯鹿之 眞間之井乎見者 立平之 水※[手偏+邑]家武 手兒名之所念
【語釈】 ○勝鹿の真間の井を見れば 「莫間の井」は、古の井は、飲用に堪える良水を湛えたところの称で、多くは流れ川、しからざれば山下水で、堀井は稀れである。ここも部落全体の物で、水量の多い物であったろう。○立ち平し 「平し」は、踏んで。○水汲ましけむ手児奈し念ほゆ 「汲まし」は、「汲む」の敬語。女性であり故人であるゆえのこと。飲用水を汲むことは、女の役となっていたのである。
【釈】 葛飾の真間の井を見ると、そこを踏んで、飲用水を汲まれたであろう手児奈が思われる。
【評】 長歌の結尾の「昨日しも見けむが如も」をうけて、眼前に手児奈のさまを思い浮かべた心である。有効な反歌である。
(317) 菟原処女《うなひをとめ》の墓を見る歌一首 并に短歌
1809) 葦屋《あしのや》の 菟原処子《うなひをとめ》の 八年児《やとせご》の 片生《かたおひ》の時《とき》ゆ 小放《をはなり》に 髪《かみ》たくまでに 並《なら》び居《ゐ》る 家《いへ》にも 見《み》えず 虚木綿《うつゆふ》の こもりて坐《を》れば 見《み》てしかと 悒憤《いぶせ》む時《とき》の 垣《かき》ほなす 人《ひと》の誂《と》ふ時《とき》 血沼壮士《ちぬをとこ》 菟原壮士《うなひをとこ》の 廬屋《ふせや》焼《た》く 進《すす》し競《きほ》ひ 相結婚《あひよば》ひ しける時《とき》は 焼大刀《やきだち》の 手頭《たがみ》おし撚《ね》り 白檀弓《しらまゆみ》 靱《ゆき》取負《とりお》ひて 水《みづ》に入《い》り 火《ひ》にも入《い》らむと 立向《たちむか》ひ 競《きほ》ひし時《とき》に 吾妹子《わぎもこ》が 母《はは》に語《かた》らく 倭文手纏《しづたまき》 賤《いや》しき吾《わ》が故《ゆゑ》 大夫《ますらを》の 争《》ふ見《あらそみ》れば 生《い》けりとも 逢《あ》ふべくあれや ししくしろ 黄泉《よみ》に待《ま》たむと 隠沼《こもりぬ》の 下延《したば》へ置《お》きて 打嘆《うちなげ》き 妹《いも》が去《い》ぬれば 血沼壮士《ちぬをとこ》 その夜《よ》夢《いめ》に見《み》 取《と》り続《つづ》き 追《お》ひ行《ゆ》きければ 後《おく》れたる 菟原壮士《うなひをとこ》い 天《あめ》仰《あふ》ぎ 叫《さけ》びおらび 地《つち》をふみ 牙喫《きか》み建《たけ》びて 如己男《もころを》に 負《ま》けてはあらじと 懸佩《かきはき》の 小剣《をだち》取《と》り佩《は》き 冬薯蕷葛《ところづら》 尋《と》め行《ゆ》きければ 親族共《やからどち》 い行《ゆ》き集《つど》ひ 永《なが》き代《よ》に 標《しるし》にせむと 遠《とは》き代《よ》に 語《かた》り継《つ》がむと 処女墓《をとめづか》中《なか》に造《つく》り置《お》き 壮士墓 《をとこづか》 此方彼方《こなたかなた》に 造《つく》り置《お》ける 故縁《ゆゑよし》聞《き》きて 知《し》らねども 新喪《にひも》の如《ごと》も 哭泣《ねな》きつるかも
葦屋之 菟名負處女之 八年兒之 片生乃時從 小放尓 髪多久麻弖尓 並居 家尓毛不所見 虚木綿乃 ※[穴/牛]而座在者 見而師香跡 悒憤時之 垣廬成 人之誂時 智努壯士 宇奈比壯士乃 廬八燎 須酒師競 相結婚 爲家類時者 燒大刀乃 手頴押祢利 白檀弓 靫取負而 入水 火尓毛將入跡 立向 競時尓 吾妹子之 母尓語久 倭文手纏 賤吾之故 大夫之 荒爭見者 雖生 應合有哉 宍串呂 黄泉尓將待跡 隱沼乃 下延置而 打歎 妹之去者 血沼壯士 其夜夢見 取次寸 追去祁礼(318)婆 後有 菟原壯士伊 仰天 ※[口+立刀]於良妣 ※[足+昆]地 牙喫建怒而 如己男尓 負而者不有跡 懸佩之 小釼取佩 冬※[草がんむり/叙]蕷都良 尋去祁礼婆 親族共 射歸集 永代尓 標將爲跡 遐代尓 語將繼常 處女墓 中尓造置 壯士墓 此方彼方二 造置有 故縁聞而 雖不知 新喪之如毛 哭泣鶴鴨
【語釈】 ○八年児の片生の時ゆ 「八年児」は、八歳ぐらいの児の意。八年は古くは多くの年の意であったが、しだいに文字どおりの意になった語。「片生」は、「片」は、「真」すなわち十分に対する語で、不十分の意。「生」は、発育で、未成年というにあたる。この語はここにあるのみである。「ゆ」は、から。○小放に髪たくまでに 「小放」は、「小」は接頭語。「放」は、放り髪ともいい、放るは結ぶに対する語で、髪を垂らしている称。後世の振分髪と称するものである。「髪たく」は「たく」は「束ねる」の古語で、長く伸びた髪を束に結うことである。巻二(一二三)「たけばぬれたかねば長き妹が髪」に出た。一人前の女となろうとする頃、放髪を束ねて結うことで、男子の元服にあたる女子の成女式だったのである。以上は、童女の成女に至るまでということを、その髪によって具象的にあらわしたものである。○並び居る家にも見えず 並んでいる隣家の者にも見られずにで、深窓に育って。○虚木綿のこもりて坐れば 「虚木綿の」は、ここと、日本書紀、神武紀の国見をされる条に、「雖2内木綿之真※[しんにょう+乍]国1」とにある語で、「こもり」「真狭《まさ》き」にかかる枕詞であるが、語義は諸説があって定まらない。『古義』は、苧手巻《おだまき》の、内方《うちへ》を虚《うつ》ろに巻いた物をいうかといっている。それだと、楮などの繊維の糸を整理するために、竹の管《くだ》などに巻いた物の称で、内部は虚ろでもあるから「こもり」の譬喩となり、また真狭きの譬喩ともなり得て、一応意味は通じる。今はこれに従う。「こもりて坐れば」は、家の内にこもっているので。○見てしかと悒憤む時の 「てしか」は、願望。「悒憤む」は、心が結ぼれて晴れない意。「の」は、ここは、同意の語を重ねいう時、接続の意で用いる助詞で、「にして」「とともに」にあたる意のもの。男が処女を見たいものだと思って、心結ぼれて晴れぬ時にして。○垣ほなす人の誂ふ時 「垣ほ」は上の(一七九三)に出た。垣のごとく取り囲んで。「人」は、若い男。「誂ふ」は、妻問いで、求婚をする時に。○血沼壮士菟原壮士の この二人は、上の(一八〇一)の題詞でいった。求婚者の中の代表的の者。「血沼壮士」は和泉国の者、「血沼」は今の大阪府堺市から岸和田市にわたっての地。「菟原壮士」は処女と同郷の者。○廬屋焼く進し競ひ 「廬屋」は、伏星。「焼《た》く」は、『定本』の訓。伏星でたく火の煤《すす》となる意で、「すす」に続けた枕詞。「すすし」は他に用例を見ない語である。「すす」は、進む意の体言で、「し」はそれを動詞化するために添えたものと取れる。意は進んでであろう。進んで競争して。○相結婚ひしける時は 求婚をした時はで、「時は」は、上の「人の誂ふ時」を進展させ強めたもの。○焼大刀の手頭おし撚り 「焼大刀」は、焼いて鍛えた大刀で、鋭利な大刀、「手頭」は、柄。この語は古事記、日本書紀に用例のあるもの。「おし撚《ね》り」は、「おし」は強意の接頭語。「撚り」は、撚《ひね》りの転音。まさに切り合おうとするさま。○白檀弓靭取負ひて 「白檀弓」は、檀を材として作った弓で、塗ってない物。「靱」は、矢を入れる具で、後世の箙《えびら》。「取負ひ」は、「取」は接頭語。「負ひ」は背に負いで、これは矢を射合わせようとしての準備。以上四句、求婚の二男子が処女を争う上で、互いに死を賭している心を具象的にあらわしているもの。○吾妹子が母に語らく 「吾妹子」は、三人称で、愛称。「語らく」は、「語る」の名詞形で、語ることには。○倭文手纏賤しき吾が故 「倭文手纏」は、縞に織った布で作った手纏すなわち腕輪。これは上代は貴い物であったが、当時は賤しい物とされていたので、「賤しき」の枕詞。「賤しき吾が故」は、「賤しき」は、卑下しての語。賤しい自分のために。○逢ふべくあれや 「逢ふべく」は、結婚すべく。「あれや」は、反語法。○ししくしろ黄泉に待たむと(319)「ししくしろ」は、「しし」は宍で、肉。「くし」は串で、「ろ」は接尾語。肉の串に挿した物で、よい味の意で黄泉に続く枕詞。「黄泉に待たむと」は、黄泉の国で男を待とうと。「待たむと」の対象は、血沼壮士だったことが、下の続きで知られる。他国の人で、この場合結婚し難いとしたのであろう。○隠沼の下延へ置きて 「隠沼の」は、草木に蔽われている沼で、水の出口のわからない沼。水が下を這って出る意で、「下延へ」の枕詞。「下延へ」は、「下」は心。「延へ」は思いを通わすことで、心の中で血沼壮士に思い通わしておいて。○妹が去ぬれば 「妹」は処女。「去ぬれば」は、この世を去ったので。水死したので。そのことは巻十九(四二一一)大伴家持の歌に出ている。○血沼壮士その夜夢に見 「夢」は魂の通うゆえに見るものだと信じられていた。血沼壮士がその夜夢に見てで、処女は明らかに血沼壮士を思っていたのである。○取り続き追ひ行きければ 続いて、処女の後を追って死んだので。○菟原壮士い 「い」は主語に接して、音調を強める助詞で、接尾語と同じ働きをするものである。○天仰ぎ叫びおらび 「おらび」は泣き叫ぶこと。深く嘆くさま。○地をふみ牙喫み建びて 「地をふみ」は、原文「※[足+昆]地」。訓は諸注さまざまで定まらない。『全註釈』は、「※[足+昆]」は、『新撰字鏡』に、「足のうら」「くひひす」とあり、足の裏、踵の義の字であるから、ここは地を強く踏む意で使用されていると解される、といっている。これに従う。地団太を踏む意。「牙喫み」は、歯噛みをし。「建びて」は、どなって。甚しく怒ったさま。○如己男に 字のように自分と同じ程度の男に。○懸佩の小剣取り佩き 「懸佩の」は、「懸」は接頭語、「佩の」は、腰に帯びることで、佩き物の。「小剣取り佩き」は「小」は美称。「取り」は接頭語。大刀を帯びて。○冬薯蕷葛尋め去きければ 「冬薯蕷葛」は、『略解』の訓。「ところ」は、野老で、ところ芋。「つら」は、蔓で、冬、蔓を探って根を尋ねる意で「尋め」に続く枕詞。「尋め行きければ」は、処女の屍を尋ねて死んで行ったのでで、同じく水死したので。○親族共い行き集ひ 「親族共」は、処女と、二人の壮士の親戚。「い行き」の「い」は接頭語。○知らねども新喪の如も哭泣きつるかも 「知らねども」は、我は知らない人々であるが。「新喪」は新たに人を喪った時のように。「哭泣きつるかも」は、はげしく泣いたことであるよ。
【釈】 葦屋の菟原処女は、八歳くらいの未発育の時から、振分髪に髪を束ねる時に至るまでを、並んでいる隣家の者にも顔を見られずに、家の内に籠もっていたので、若い男が見たいものだと思ってもどかしがっている時で、垣のように取り囲んで求婚をする時、血沼壮士と菟原壮士とが、心はずんで競争して求婚をした時には、焼大刀の柄をひねり、白檀弓を手に、箙を背に負って、このためには水にも入ろうと、立ち向かって競争をした時に、愛すべき処女のその母に語ることには、つまらないわが身のために、大夫の争うのを見ると、生きていたからとて結婚をすることができようかできはしない、黄泉の国へ行って待っていようといって、心のうちで血沼壮士に思いを通わしておいて、嘆いて死んで行ったので、血沼壮士はその夜そのことを夢に見て、続いて後を追って死んだので、後に残った菟原壮士は、天を仰いで叫び、泣き叫び、地団太踏んで歯噛みをし、どなって、自分と同じ程度の男に負けてはいまいと、佩き物の大刀を帯びて、処女の跡を尋ねて死んで行ったので、三人の親族どもが寄り集まって、後の世の証拠にしようとて、遠い世に語り継ぐ料にしようとて、処女塚をまん中に造って残し、壮士塚をこちらとあちらとに造って残しておいた、その理由と由緒とを聞いて、我は誰も知らない者ではあるが、新たに喪った人の喪の時のように泣きに泣いたことであるよ。
(320)【評】 この歌は題詞のごとく、蟲麿が処女の墓を見、また結末のごとく、初めてその墓の「故縁」を聞いて、深くも感動して詠んだ形のもので、その事のあわれさがおのずからに古の物語を伝うるに至らしめた形のものである。全体が事件そのものの紹介で、上の勝鹿の真間の娘子の場合のように、自己の感想を加えるものとなっていないのは、事のあわれさがそれをさせる余地のないものだとしているとともに、蟲麿自身の心も、深くその事にひきつけられて、それができなかったことを示しているのである。すなわち蟲麿は、心の全幅をもってこの伝説を伝えているのである。この伝説は、その性格においては真間の手児奈のそれと酷似しているものではあるが、事態はそれとは異なって、明瞭に、また微細に伝えられていたものである。伝説の構成からいうと、第一段は、「見てしかと悒憤む時の 垣ほなす人の誂ふ時」までである。この段で注意をされることは、「小放に髪たくまでに 並び居る家にも見えず」ということである。貴族の娘ならば知らず、庶民の娘としてはこの態度は異常にみえる。これは男の好奇心を煽ろうがためのことで、「垣ほなす人の誂ふ時」を、合現化しようがためのものとみえる。すなわち伝説の彩《あや》である。もとより作者の設けたものではなく、伝説のもっていたもので、このことは伝説の後世的のものであることを示しているものといえる。第二段は、「立向ひ競ひし時に」までで、血沼壮士と菟原壮士とが、互いに生を賭して処女を争うことをいっているものである。この二男一女を争うことは伝説に多いもので、型ともなっているもので、真間の手児奈の場合も、漠然とはしているが同様である。実際に多かったための反映とみえる。ここで注意されることは、二壮士のこのような烈しい態度は、根本は処女を得ようとしての熱意からであるが、純粋にそればかりではなく、二人の壮士各自の、競争者に負けまい、引けを取るまいとする面目を重んずる心が伴って、それが大きく働いていることである。その点は続きの「如己男に負けてはあらじ」というのでも明らかである。すなわち恋のために死のうとするよりも、面目のために死のうとする心なのである。それほどまでに面目を重んずる心は、集団生活を重んずるがゆえに起こってくるのであって、個人生活を重んずる心からは、これほどせっぱっまった心は起こってはこなかろう。しかしこの面目は、集団生活の中における個人生活というものが意識されて、それとこれと一つになることによって強化されたところから、初めて起こってくるものとみえる。言いかえると、集団生活とはいえ、原始的なものではなく、やや後世的なものとなり、個人生活へ移りつつある時代のものである。これを男女の社会的位置に関係させると、男子の地位が高まり、女子の地位が低くなった時代のものといえるのである。これはこの伝説の成立時期を語るものであって、処女は、この時期の社会的生活情調の犠牲とならざるを得なかったのである。第三段は、「打嘆き妹が去ぬれば」までで、処女が自害によって事を解決することである。処女が自害するよりほかに途《みち》がないとし、これを母に語り、母もそれを斥けなかった理由については上にいった。これは主としては、集団生活を背後に置いての男子の面目を重んじての争いは、妥協のないこと、また女子の社会的地位の薄弱さは、進んで犠牲となるよりほかはないとする心からのことで、伝説はそれについては何の説明もしていないのであるが、これは伝説の成立時代には説明を要さないこととし、女性の事の真相を真覚する力の深さが、おのずからにさせたこととして、伝説の持続者は、そこに最も深いあわれを感じていたこととみえる。しかし伝説は、死の理由をそれだけにとどめず、女性の深い信仰心を取込んでいる。「黄泉に待たむと」がそれである。処女にとっては黄泉の国における別種の存在は、疑うべくもない事実であって、そこに救いを認めていたのである。「下延へ置きて」も、同じく信仰であって、黄泉の国での同棲を信じてのものである。この信仰は、血沼壮士は処女に近いものをもち得たが、菟原壮士はもち得なかったことによっても、女性特有のものであったことが知られるのである。第四段は、「冬薯蕷葛尋め行きければ」までである。ここでは血沼壮士は、信仰に助けられて恋の上の救いを得たが、菟原壮士は、面目そのもののために殉じた形となっており、伝説はまた、その点に重きを置き、これを強調している跡が見えて、そこに伝説成立の時代を示しているものがある。さらにいえば、伝説は、古風な血沼壮士を軽く扱い、新風の菟原壮士を重く扱っているのであり、そこに別種のあわれを認めているかのようである。第五段は、それ以下で、蟲麿自身の伝説に対する感激をいっている形のものであるが、ここで蟲麿はその作歌態度をも示している。蟲麿はこの時初めて処女の墓を見、その放縁を聞いたこととしているが、見たのは初めてでも、聞いたのはおそらく以前からであろう。初めてのこととしているのは、その感激の強さをあらわそうがためと思われる。感激は事実によって具象化するよりほかあらわす方法はないのであるが、しかしここにあらわしている事象は、蟲麿が耳によって聞いた事実ではなく、全円的に心の中に描き、築き上げている事象であって、蟲麿にょって存在させられているものなのである。骨子は伝説と異なっていなかろうが、この伝説のもつ生趣は、一に蟲麿のものなのである。それを耳によって聞いたままのごとく言いなしているのは、歌は実際に即すべきものとするこの時代の歌風のいわせていることにすぎないのである。事実この歌における蟲麿の具象化の手腕は非凡なもので、一方には強い熱意をもつとともに、他方には微細な用意を保っているものである。例せば、第一、二段で、「時」という一語を襲用して、それによって立体的に事を進めてきている点は、巧妙なものである。「悒憤む時の人の誂ふ時」「相結婚ひしける時は」「立向ひ競ひし時に」といっているごとき、それである。また第三、四段の「隠沼の下延へ置きて」「血沼壮士その夜夢に見」の続きのごときも、同じくそれである。「処女墓造り置き、壮士墓造り置ける」の「置き」のごときも、用意ある措辞である。これらの技巧は、全体は抒情的に、したがって立体的にいおうとしつつ、部分的には、叙事的に、したがって平面的にいおうとしている態度からきているもので、語句の圧搾、簡浄化は、その結果としてのものである。言いかえれば気分の具象化で、当時の新風に従ったにすぎないものであるが、その手腕の高さは、全篇を絢爛《けんらん》なものとし、一見、その手法を捕捉せしめないもののごとくにしているのである。魅力ある作である。
(322) 反歌
1810 葦屋《あしのや》の 菟原処女《うなひをとめ》が 奥津城《おくつき》を 往《ゆ》き来《く》と見《み》れば 哭《ね》のみし泣《な》かゆ
葦屋之 宇奈比處女之 奧槨乎 徃來跡見者 哭耳之所泣
【語釈】 ○往き来と見れば 西海道を往復するごとに見ると。
【釈】 葦屋の菟原処女の墓を、その道を往復するごとに見ると、泣きにのみ泣かれる。
【評】 長歌の結末を操り返したもので、その実際に即したものであることを強めるとともに、あわれの限りないことをいって、そこに力点を置いたもの。長歌の熱意は失せた作である。
1811 墓《つか》の上《うへ》の 木《こ》の枝《え》靡《なび》けり 聞《き》くが如《ごと》 血沼壮士《ちぬをとこ》にし 依《よ》りにけらしも
墓上之 木枝靡有 如聞 陳努壯士尓之 依家良信母
【語釈】 ○墓の上の木の枝靡けり 「墓」は、題詞の処女の墓。「木の枝」は、上に引いた家持の追加の歌によると、黄楊《つげ》の木と知れる。その枝で、それが一方に靡いている。○聞くが如 話に聞くごとくにで、話というのは長歌の「隠沼の下延へ置きて」ということである。○血沼壮士にし依りにけらしも 血沼壮士のほうに処女の心は寄っていたのであろう。「し」は強意。「に」は完了。「らし」は強い推量。
【釈】 処女の墓の上の木の枝は、一方に向かって靡いている。話に聞くごとくに、これで見ると処女の心は、血沼壮士のほうに寄っていたのであろう。
【評】 上にいったように「下延へ置きて」に、あわれの中心があるとして、その点を進めていっているものである。墓の上の木の枝の靡き方は、死者の霊力によるものだとするのは、家持の歌では、木は黄楊で、処女の黄楊の櫛《くし》から生えた木だとしていたものであるから、いわゆる形見の木で、もっともな連想である。蟲麿の聞いた伝説も異なったものではなかったろうが、わざとおおらかな言い方をしたものとみえる。淡いながら味わいのある反歌である。
右の五首は、高橋連蟲麿の歌集の中に出づ。
右五首、高橋連蟲麿之謌集中出。
(323) 萬葉集評釋 卷第十
(324) 萬葉集 巻第十概説
一
本巻は『国歌大観』(一八一二)より(二三五〇)に至る五三九首を収めた巻である。歌体は、長歌三首、旋頭歌四首を除くと他はすべて短歌で、歌体の上でも新時代の集ということを示しているものである。
編纂方針の上からいうと、巻第八と全く同一で、全部を四季分けにし、さらに各季を雑歌と相聞に分けたもので、その割合は、春雑歌七八首、同相聞四七首、夏雑歌四二首、同相聞一七首、秋雑歌二四三首、同相聞七三首、冬雑歌二一首、同相聞一八首であって、秋が断然多く、春がこれにつぎ、夏、冬という順序になっている。ここにも秋季に心を寄せているという特色を見せている。
本巻と巻第八とを区別している点は、作者の明不明ということである。巻第八は作者の明らかな作を収め、本巻には不明なものばかり集めてある。その不明な中に、柿本朝臣人麿歌集の歌を収めて、これを不明扱いをしているのは、編集者としては意見のあったことであろうが、現在から見ると解し難いことである。
二
本巻の資料となっているものは、柿本朝臣人麿歌集と、古歌集または古集と称しているもので、これはすでにしばしば出た。この二資料の物は全体から見ると僅少の部分であって、他は大体、奈良時代に入って蒐集されていた書によったものとみえる。それというが、歌に折々左注が添って、別伝を注記したものがあるからである。その中のある物は、作者自身の別案であったとみえるが、多くは異本があったからのこととみえる。すなわち比較的新しい歌であるにもかかわらず、伝える者の異なるにつれて部分的に異なっており、筆録者はその異なるままに筆録したからである。作者の不明なのは、それを伝える者が、作者には多くの関心をもたず、歌そのものにのみ関心をもっていたところから、早くも忘れ去っていたためであろう。これは歌に対する時代の関心の反映であって、聞く者も強いて作者を知ろうとはしなかったゆえと思われる。
奈良朝時代は、これを歌の上から観ても、相応に個性の尊重され出していた時代で、特殊な作風が、それのゆえに愛好されていたかにみえる。それにもかかわらず、作者不明の歌が本巻のように多かったことは一見異様に感じられるのであるが、これはやがて当時の歌の、社会的位置を示していることであろう。奈良時代は、生活が一応の安定を得ると、知識階級は生活気分(325)が変わってきて、著しく享楽気分、耽美気分が加わってきた。歌はその時代の生活気分に親しいものでなければおもしろくなく、また必ず親しいものを生み出してくる。奈良朝時代は歌風の相応にはげしく変わった時代である。一方またこの時代は社交が重んじられ、社交には宴遊が伴い、宴遊には宴歌が伴った。知識階級の人々は、新歌風の歌を詠まざるを得なくなり、その参考書は必要欠くべからざるものとなったろうと思われる。この需要を充たそうとしたものがすなわち新歌風の歌の蒐録書だったのである。需要者の態度はおそらくその点に集中されており、位置高い人の作、または特殊の事情の伴っている作は別として、その作が作歌の参考になるものであれば、作者が誰であるかは強いて問題ともしない心があったろう。あるいは参考とする上では、不明なもののほうがかえって有利だとする心があったのかもしれぬ。その時代の作の一半が、作者不明となっているのは、たぶんこうした理由からではなかったかと想像される。
とにかく本巻の主体となっている歌は、奈良朝に入ってのもので、編集者は作者の不明なものをも、明らかなものと同等の価値を認めて、本巻のごとき存在を与えているのである。本巻の編集者の態度も、多くの蒐集筆録者と同様のもので、その集大成者だったともいえよう。
三
本巻が、その歌の取材から見て、自然詠の多いことは、巻第八と同様であって、必ずしも本巻の特色とはいえないことであるが、その扱い方、すなわち歌風との関係において、触れていわずにはいられないことである。
自然詠の多くなったということは、奈良朝時代の生活気分の反映である。享楽気分、耽美気分の濃厚な生活は、その環境である自然を美化して、享楽の対象としようとするのは当然なことである。前代の生活にあっても無論自然詠はあった。しかしそれは奈良朝の自然詠とは明らかに異なったものである。前代の自然は時には美しい面を見せるものであったが、多くの場合には侘びしい面をも見せるものであって、人間とはある距離をもち、人力ではいかんともし難い威力をもった存在であった。奈良朝の時代はそうしたものではなくなった。この時代の自然は人間とは距離がなくなり、同時に威力もなくなって、常に人間に接近し、交流をもっているものとなってきた。例せば奈良京の人にとっては、春日野、高円が最も親しい地となり、飛鳥地方はすでに旅扱いされる地となっていた。それよりも親しいのはわが屋の庭にある花木となってきて、取材の大部分を占めるものとなっている。これは奈良朝時代になって初めて現われてきたことで、自然そのものよりいえば、自然は甚しく小規模のものとなったのであるが、人間を主としていえば、人間が初(326)めて自然を親しい、愛すべきものと見るようになってきたことである。
そうした自然を歌の上で扱う扱い方に至っては、じつにきわやかに奈良朝時代の特色を見せている。それはすでに巻第八に現われていることであるが、四季の風物の中で、そのやや目立つ、魅力的なものは、すべて男女的関係をもっているものとされているのである。雪や雨は梅の花を開かせようとするものであり、梅は拒んで開くまいとするが、つい力及ばずに開くのである。秋の時雨と黄葉も同様である。これも男女関係である。また咲いた梅に来る鶯も同様である。橘や卯の花の咲く時に来る霍公鳥も同様である。秋萩の花と牡鹿の関係は代表的な男女関係である。また萩の花は雁が来ると散って、時代を黄葉に譲らなければならないのである。要するに四季の美しくあわれな風物は、すべて男女関係をもっていて、一年はその間断なき連続なのである。
こうした気分をもって自然を扱うようになったのは、これでないと奈良朝時代の人々にはおもしろくなかったのである。これは一二、二三の歌風を学んでの風というごとき、歌風の新奇を慕っての変化ではなく、もっと根本的な、したがって一般的なもので、時代の生活気分の反映として生まれたものだったのである。さらにいえば、自然を擬人して喜ぶというごとき小規模のものではなく、時代の人々のもっていた享楽気分、耽美気分を、その環境としての自然界へ延長させ、投入させて、そこに醸し出される文芸的気分に陶酔しようとしたのである。そのいかに徹底し、一般化していたかは、本文に譲ることとする。
しかしこの気分の歌の上にいかに具象されているかについては一言したい。この時代の詠み方は大体において一致していて、前代とは明らかに異なっている。これを自然詠についていえば、前代にはその捉えて詠もうとする対象に感興の全部がありとして、極力それのみをあらわそうとした。その際作者の主観はあらわには出すまいとし、それは調べの形によってあらわすのを型のごとくとしていたからである。しかるにこの時代になると、対象そのものを直接にあらわそうとはせず、対象の醸し出した感興をあらわすことを目標とするように変わってきたのである。しかしこの感興は、主観の説明ではなく、具象されたところの感興でなくてはならなかった。具象された感興とは、感興を醸し出させた対象にほかならない。しかしその対象は、主観を濾過したところの対象で、眼に見たままのそれではないのである。このようにいえば、いたずらに語を弄するがようであるが、しかしこれは事実であって、この時代の人々は、感興はそれを惹き起こさせた客観そのものでもなく、また客観より遊離した主観でもなく、まさにその中間に即不即の形で独立している一つの境で、その表現がすなわち歌だとしているのである。手腕ある作者によってこれが行なわれている際には、出来上がった歌は、譬喩という知性的の匂いを帯びず、また、情熱的という単純に陥らず、明不明の中間的の、厚みあり陰影ある流動の形において表現されているのである。現在いう象徴詩というものと同じ趣のものとなっているのである。
(327) これが奈良朝時代の人々には最も親しさと楽しさを与える形体であって、そしてそれがまた、その時代の人々の生活気分の反映でもあったのである。奈良朝中期以後は、和歌史上では頽廃期ということが定評のごとくになっているが、如上の意味において、その前にも、また後にもない特色ある和歌を生んでいたのである。また和歌に文化史的の眼を向けて観たならば、一概に頽廃期と断定はできない時代でもあったのである。
なお柿本人麿歌集の歌を、作者不明の巻に収めている点については、ここでは触れないこととする。
(334) 春雑歌《はるのざふか》
【題意】 本巻の歌は、すべて小題を立てて分類しているのに、以下七首の歌に限ってそれがない。本巻のような編集法をしている巻では、編者は人麿歌集の歌に限って、特別な扱いをしている。本巻もそれと同じにしたのである。ここの歌はすべて霞の歌で、後にこれと同じく「霞を詠める」という題を立ててあるのを見ても、このことは明らかである。人麿歌集に題がなかったので、原形を変えまいとしたのかもしれぬ。
1812 ひさかたの 天《あめ》の香具山《かぐやま》 この夕《ゆふべ》 霞《かすみ》たなびく 春立《はるた》つらしも
久万之 天芳山 此夕 霞霏※[雨/微] 春立下
【語釈】 ○ひさかたの天の香具山 「ひさかたの」は、「天」の枕詞。「天の」は、香具山を讃えて添える語で、慣用されているもの。「香具山」は、三山の一で、人麿のいた藤原京のほとりの山。既出。○この夕霞たなびく 初春の薄霞で、昼は紛れて目につかないほどのものも、夕方、山を背景にしているために薄白く見えるのを、夕方になってにわかに立ったもののごとくいっているのである。○春立つらしも 「春立つ」は、暦の上の立春という語からきているものと取れる。「らしも」は、推量に詠歎の添ったもの。
【釈】 ひさかたの天の香具山に、この夕方、霞がたなびいている。春が立つらしい。
【評】 藤原京に住んでいる人麿が、初春の夕方、京近い香具山に、ほの白く霞のかかっているのを発見して、その来るのを待(335)っていた春の、ゆくりなく身近かに来ていることを示された感がして、喜んだ心である。京近く三山のあるうち、特に香具山を捉えて、「ひさかたの天の香具山」と重い言い方をし、「この夕霞たなびく」と、今にわかに立ったもののごとく感覚的な言い方をして、「春立つらしも」と、その喜びを言外に置いている詠み方は、単に実景をいっただけのものではなく、その形がすでに気分となっているものである。調べの暢びやかに豊かなところは、さらに気分そのものの具象である。若い人暦を思わせるに足りる歌である。
1813 巻向《まきむく》の 檜原《ひはら》に立《た》てる 春霞《はるがすみ》 おほにし思《おも》はば なづみ来《こ》めやも
卷向之 檜原丹立流 春霞 欝之思者 名積米八方
【語釈】 ○巻向の檜原に立てる春雪 「巻向の檜原」は、巻向山中の檜原で、三輪山に続く地。奈良県磯城郡大三輪町穴師(旧纏向村)。巻七(一〇九二)に出た。人麿の妻のいた地である。「春霞」は、古くは霞と霧の差別がなかったので、特に断わった称。以上三句、霞のはっきりしない状態から「おほ」につづけて、その序詞。○おほにし思はば 「おほに」は、漠然と、おおよそに。「し」は、強意の助詞。おおよそに思うのであったらで、思う対象は妻。○なづみ来めやも 「なづみ」は、骨を折って。「や」は、反語。「も」は詠歎。
【釈】 巻向の檜原にかかっている霞のはっきりとしていない、それに因みある、おおよそに妹を思うのであったならば、このように骨を折って訪うて来ようか、来はしないことよ。
【評】 巻向の檜原に霞が深くかかっている頃、その地にいる妻を訪うて、そうした時、自分の真実を示すために、労苦してきたことをいうのが型となっている、その範囲での歌である。互いに眼前に見ている檜原の霞を捉え、それを一方ならず思う意の「おほに」の序にしているのが技巧であるが、それが重みをもったものであるにかかわらず、こうした際の歌に伴いやすい誇張のない「おほに」としっくり溶け合って、一首をおちついた、しかも艶のあるものにしている。これは相聞の範囲の歌である。
(336)1814 古《いにしへ》の 人《ひと》の植《う》ゑけむ 杉《すぎ》が枝《え》に 霞《かすみ》たなびく 春《はる》は来《き》ぬらし
古 人之殖兼 杉枝 霞霏※[雨/微] 春者來良芝
【語釈】 ○古の人の植ゑけむ 「古の人」は、広く漠然といったもの。「植ゑけむ」は、植えたであろうと推量しているので、「けむ」は連体形。これは眼に見ている老杉をこのように推量しているのである。○杉が枝に 「枝」は、杉の四方に張った枝で、意味としては杉というのと同じであるが、それを感覚的に言いかえたもの。○春は来ぬらし 「ぬ」は完了で、春は来たらしい。
【釈】 古の人が植えたであろう杉の木の枝に、霞がかかっている。春は来たらしい。
【評】 心としては、霞を見て春の来たことを推量するもので、類型的なものである。しかしそれをいうに、対照法を用いて感覚的に、同時に深みある言い方をしているところに、人麿の特色がある。特に杉の木を捉えているのは、その暗縁と、霞のほの白さを対照させてきわだたせようがためで、杉といえば足りることを、杉が枝といっているのも、その心よりのことである。また、事実としては老杉であるのを、「古の人の植ゑけむ」と、人事的に、しかも遠い古にまでも溯りうるものに言いかえ、それと今年の春のしるしとして新たに現われてきた霞とを結び合わせているのは、これまた対照法を用いて悠久な時の気分を絡ませようとしたのである。普通の人であれば一首の取材ともなりかねるほどのものを捉え、人麿の気分に溶かして詠み生かした歌で、目には立たないが、人麿独自の、いわゆる渋い歌である。
1815 子《こ》らが手《て》を 巻向山《まきむくやま》に 春《はる》されば 木《こ》の葉《は》凌《しの》ぎて 霞《かすみ》たなびく
子等我手乎 卷向山丹 春去者 木葉凌而 霞霏※[雨/微]
【語釈】 ○子らが手を巻向山に 「子ら」は、「ら」は接尾語で、「子」はここは、女に対しての愛称。その手を纏《ま》く、すなわち枕とする意で、「巻」にかかる枕詞。「巻向山に」は、巻向山全体にの意。○春されば 春が来たので。○木の葉凌ぎて 「凌ぎて」は、ここは押し分けてで、霞のいちめんに蔽っているのを、強めて、くぐり入ってとしたもの。
【釈】 可愛ゆい女の手を巻くに因《ちな》みある巻向山に、春が来たので、木の葉を押し分けくぐり入って、霞が靡いている。
【評】 春が深くなって、巻向山に全面的に霞のかかっているのを、快く眺めやっての心である。「木の葉凌ぎて」は、霞の深(337)さよりの推量で、深さの具象化である。「子らが手を」は、そこに妻をもっているところより浮かんだ枕詞で、「木の葉凌ぎて」と気分の上で溶け合って、相俟って一首を渾然としたものにしている。
1816 玉《たま》かぎる 夕《ゆふ》さり来《く》れば さつ人《ひと》の 弓月《ゆつき》が嶽《たけ》に 霞《かすみ》たなびく
玉蜻 夕去來者 佐豆人之 弓月我高荷 霞霏※[雨/微]
【語釈】 ○玉かぎる夕さり来れば 「玉かぎる」は、玉のもつ光がほのかで、夕方の光に似ているところから、意味で「夕」にかかる枕詞。「夕さり来れば」は、夕方と時が移って来ればで、夕さればと同じ。二句、巻一(四五)に出た。○さつ人の弓月が嶽に 「さつ人の」は、猟人の持つ弓の意で、「弓月」にかか枕詞。
【釈】 光ほのかな夕方となると、猟人の弓という弓月が嶽に霞がたなびく。
【評】 巻向の妻の家に、春の日、昼から夕方へかけていて、夕暮れ、その山中の最高峰である弓月が嶽の霞が目に立ってきたのに興を感じての歌である。捉え方は第一首目の香具山の夕霞と同じで、異なるのは、これは春が深くなって、霞が高い峰に及んでいる点である。「玉かぎる夕さり来れば」と、夕方の微光の美しさをいうために枕詞を用いて強くいい、また、弓月が嶽も「さつ人の」と枕詞を添えて重く言っているのは、調べによって、感覚を通しての気分を具象するためである。きわめて単純な取材が、充足した一首となっている。
(338)1817 今朝《けさ》行《ゆ》きて 明日《あした》は来《こ》ねと 言《ゝ》ひしがに 朝妻山《あさつまやま》に 霞《かすみ》たなびく
今朝去而 明日者來年等 云子鹿丹 旦妻山丹 霞霏※[雨/微]
【語釈】 ○今朝行きて 下の続きで、朝、夫が妻の家から帰ろうとする時、妻のいった語で、今朝は帰って行って。○明日は来ねと云ひしがに 原文「明日者来年等云子鹿丹」。「年」は、定本ほか大方の諸本「牟」となっているが、『全註釈』は、元暦校本、類聚古集は「年」となっているとして、それらに従ったものである。この二句は、諸注訓み難くしている。古く「子鹿丹」を「しかすがに」と訓み、それを動かし難いものに見、それでは意の通じないところから誤写説が出て、とどまるところを知らない形である。『全註釈』のこの訓は、比較的すなおなもので、現在のところ最も進んだものである。「明日は来ねと」は、上をうけて、妻のいった語。「云ひしがに」は、「がに」は、ばかりに、ほどにの意の助詞で、いったほどにで、全体では、今朝は帰って、明日はいらっしゃいといったほどにで、朝の妻の状態で、「朝妻」の序詞。「がに」より「朝妻」への続きに曖昧さがあるが、今はこれに従う。○朝妻山に 奈良県南葛城郡葛城村字朝妻(現、御所《ごせ》市朝妻の地)にある山で、金剛山に連なっている。
【釈】 今朝は帰って行って、明日はいらっしゃいといったほどに、その朝妻山に霞が靡《なび》いている。
【評】 霞のかかっている朝妻山を見、その名に興味をもち、朝妻の状態を想像して序詞としたものである。一首の興味は序詞にあるのであるが、暖味なところがあるのは残念である。明るい、謡い物の脈を引いた歌である。
1818 子《こ》らが名《な》に 懸《か》けの宜《よろ》しき 朝妻《あさつま》の 片山《かたやま》ぎしに 霞《かすみ》たなびく
子等名丹 關之宜 朝妻之 片山木之尓 霞多奈引
【語釈】 ○子らが名に懸けの宜しき 「子らが名に」は、「子ら」は、妻の愛称で、「ら」は接尾語。「名に」は、名として。「懸けの宜しき」は、関係させていうに好いで、意味で「朝妻」にかかる序詞。○朝妻の片山ぎしに 「朝妻」は、上の歌と同じ。「片山ぎし」は、山の一方が断崖になっているところの称。
【釈】 可愛ゆい妻の名として、懸けていうに好い朝妻山の、こちらの断崖面に、霞がかかっている。
【評】 これは前の歌と連作関係になっており、朝妻山の裾の辺りを行きながら、こちらに向いた断崖面に、霞のかかっているのに興を起こしての歌である。断崖面はおそらく赤い粘土層で、それにほの白くかかっている霞が印象的だったのであろう。そ(339)れをいうにも朝妻という名に序詞を添えずにはいられないところに、人麿の風がある。
右は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
右、柿本朝臣人麿謌集出。
鳥を詠める
18189 打靡《うちなび》く 春《はる》立《た》ちぬらし 吾《わ》が門《かど》の 柳《やなぎ》のうれに 鶯《うぐひす》鳴《な》きつ
打罪 春立奴良志 吾門之 柳乃宇礼尓 ※[(貝+貝)/鳥]鳴都
【語釈】 ○打靡く春立ちぬらし 「打靡く」は、「打」は、接頭語。「靡く」は、春は草木の柔らかく靡く意でかかる「春」の枕詞。○吾が門の柳のうれに 「門の柳」は、用例の多いもので、「柳」はしだれ柳。漢土より渡来した木で、鑑賞用の物だったのである。「うれ」は、枝の末端。
【釈】 草木のなびく春が来たのであろう。わが門の柳の枝の末に、鶯が鳴いた。
【評】 春の来たのを喜ぶ心であるが、静止的で、平面的であり、「柳のうれに」と特に「うれ」を捉えていっているのは、実際的というよりも、繊細味を好む気分のものである。また、「打靡く春立ちぬらし」と初二句でいった上で、春の景を叙しているのも、暦の意識が強く働いていることを示しているものである。奈良朝に入っての好尚を見せている歌である。
1820 梅《うめ》の花《はな》 咲《さ》ける岡辺《をかべ》に 家《いへ》居《を》れば 乏《とも》しくもあらず 鶯《うぐひす》の声《こゑ》
梅花 開有岳邊尓 家居者 乏毛不有 ※[(貝+貝)/鳥]之音
【語釈】 ○家居れば 後世の、家居し居ればで、家居るは熟語。○乏しくもあらず 少なくはないの意。
【釈】 梅の花の咲いている岡の辺りに暮らしているので、少なくはないことだ。鶯の声は。
【評】 山寄りに住んでいる人の、その住地に対しての自足の心である。自身を小さく、自然を大きく、そしてその自然を美の(340)拡がりのごとく見て、そこに喜びを感じている心で、知識人の心である。歌も平面的に、平静で、おおらかさをもっている。梅と鶯がいや味ないものになっているのは、おおらかさのためである。奈良朝に入っての、身分高くない人の歌と思われる。
1821 春霞《はるがすみ》 流《なが》るるなへに 青柳《あをやぎ》の 枝《えだ》喙《く》ひ持《も》ちて 鶯《うぐひす》鳴《な》くも
春霞 流共尓 青柳之 枝喙持而 ※[(貝+貝)/鳥]鳴毛
【語釈】 ○春霞流るるなへに 「春霞」は、上に出た。「流るる」は、水だけではなく、雨、雪の降る状態、風の吹く状態にもわたっていっている。横にも縦にも、継続して動くことをあらわす語。「なへに」は、共に。春霞の動いているのとともに。○青柳の枝喙ひ持ちて 「枝喙ひ持ちて」は、青柳の細い枝に縋って、とまっている状態を、鶯のほうを主としていったもの。これは正倉院の御物にある花喰い鳥の模様などを連想したものと思われる。実際には、枝をくわえては鳴けないからである。
【釈】 春の霞が動くとともに、若葉した柳の細い枝を嘴にくわえ持って、鶯が鳴いている。
【評】 霞のしろじろと移動している中に立っている青柳の枝に鶯がとまっていて、枝とともに揺れながら、その枝を口にくわえて身を保ちつつ鳴いているというのである。眼に見た景と、記憶にある模様とが絡み合い、一つの気分となったものを詠んだ歌である。軽い静かな歌で、画の静に動を与えたような歌である。題画の歌とするとふさわしいものである。
1822 吾《わ》が背子《せこ》を な巨勢《こせ》の山《やま》の 喚子鳥《よぷこどり》 君《きみ》喚《よ》びかへせ 夜《よ》の深《ふ》けぬとに
吾瀬子乎 莫越山能 喚子鳥 君喚變瀬 夜之不深刀尓
【語釈】 ○吾が背子をな巨勢の山の 「吾が背子」は、夫の愛称。「な巨勢の山」は、「な越し」すなわち越して行くなと続け、越しを巨勢に転じた(341)もので、「な越し」までは序詞である。事としては、夫は巨勢山を越して帰ってゆくので、それをやりたくない心で、実情を序詞の形にしたものである。「巨勢の山」は、奈良県南葛城郡の丘陵。○喚子鳥 今のかっこう鳥で、鳴き声が人を喚ぶようなところからの名。呼びかけ。○君喚びかへせ 「君」は、上のわが背子。「喚びかへせ」は、わがもとに呼び返せよ。○夜の深けぬとに 「とに」は、うちに、ほどに。
【釈】 わが背子が越しては行くなという名に因みある巨勢の山の喚子鳥よ。君を呼び返せよ。夜の更けないうちに。
【評】 巨勢に住む女の、山を越してかよって来る男の、夜の更けないうちに帰って行ったのに対し、心を残しての歌である。「巨勢」に、「来せ」「越せ」と懸けている用例は少なくなく、物の名はその名のごとき神秘力をもっているものだとする上代の信仰につながりのあるからのことである。「喚子鳥」も同様である。作者が女性であるので、この信仰はことに深かったろうと思わせる。「夜の深けぬとに」は、心残りからばかりではなく、夜道の山越えに対する不安も伴なってのものである。この歌は、謡い物の色彩のかなり濃厚なものである。巨勢の地に行なわれていた謡い物ではなかったか。雑歌ではなく相聞の範囲のものである。
1823 朝《あさ》ゐでに 来鳴《きな》く貌鳥《かほどり》 汝《なれ》だにも 君《きみ》に恋《こ》ふれや 時《とき》終《を》へず鳴《な》く
朝井代尓 來鳴杲鳥 汝谷文 君丹戀八 時不終鳴
【語釈】 ○朝ゐでに 「ゐ」は井で、飲用水の総称。「ゐで」は「ゐぜき」に同じで、「せき」は、堰で、水の流れを堰きとめる物。流れ川を堰でとめて飲用水にしている所である。「朝」は、それを見た時刻をあらわしている。朝の井堰に。○来鳴く貌鳥 貌鳥は諸説があって定まらない。歌で見ると、間断なく鳴く習性をもった鳥なので、かっこう鳥ではないかという。それだと喚子鳥と同じになる。かっこう鳥は初夏の頃に渡って来る鳥で、春の鳥とは言い難いので、その点で疑問が残る。これは上の歌についてもいえることである。疑問を残しておく。呼びかけ。○汝だにも君に恋ふれや 「汝だにも」は、お前のごとき者さえも。「君に恋ふれや」は、已然条件法で、君を恋えばにや。「君」は夫で、作者はその妻。○時終へず鳴く 終える時なく、やまず鳴いているで、「鳴く」は「や」の結、連体形。この句も、貌鳥のかっこう鳥のごとく鳴くことを示している。
【釈】 朝の井堰の上に来て鳴いている貌鳥よ、お前のごとき者までも君を恋うるのであろうか、終わる時もなく鳴いている。
【評】 夫を待ち続けている女が、女の役として、朝、井である流れ川へ水を汲みに来ると、井堰の上に貌鳥が来て鳴きつづているので、やるせない心からそれをうれしく思い、お前のごとき者までも君を恋うて鳴くのかといったのである。極度に実際生活に即した、庶民的な歌である。素朴で、直截で、声の太さがある。
(342)1824 冬《ふゆ》ごもり 春《はる》さり来《く》らし あしひきの 山《やま》にも野《の》にも 鶯《うぐひす》鳴《な》くも
冬隱 春去來之 足比木乃 山二文野二文 ※[(貝+貝)/鳥]鳴裳
【語釈】 ○冬ごもり春さり来らし 「冬ごもり」は、巻一(一六)に出た。「春」にかかる枕詞。「さり来らし」は、移って来るらしい。
【釈】 春が移って来るらしい。山にも、野にも、鶯が鳴いている。
【評】 春を楽しい時として、概念的に憧れを抱き、その春の現われを広く山野の鶯に認めて喜んでいる心である。平明をきわめた詠み方であるが、調べには繊細ながら張ったものがあって、憧れ気分を具象している。
1825 紫《むらさき》の 根延《ねは》ふ横野《よこの》の 春野《はるの》には 君《きみ》を懸《か》けつつ 鶯《うぐひす》鳴《な》くも
紫之 根延横野之 春野庭 君乎懸管 ※[(貝+貝)/鳥]名雲
【語釈】 ○紫の根延ふ横野の 「紫」は、紫草で、その根を紫色の染料としたもの。「根延ふ」は、根を張っている。「横野」は、地名で、今の大阪市生野区巽大地町で、そこに『延喜式』神名帳に載っている横野神社がある。○春野には 春の野にはで、横野を季節的に言いかえたもの。○君を懸けつつ 「君」は、作者の夫。「懸けつつ」は、心に懸けつつで、恋しがりつつ。
【釈】 紫草の根を張っている横野の、この春野には、君を恋しがりつつ鶯が鳴いている。
【評】 横野に住んでいる人妻が、その逢い難い夫を恋しがっているおりから、その野に鳴きつづけている鶯の声を聞き、自分の心から迎え聞いて、鶯も君を恋しがっているのだと感じたので、上の貌鳥と同じく感情移入の歌である。これらは譬喩という対立的の心を超えて、物は即我であるとする心よりのものである。また、その住む横野を、「紫の根延ふ」という、貴い美しさを連想させるものをもって修飾し、我をも鶯という可隣なものによってあらわしているのは、作者の生活に対する気分をあらわしているものである。女性の歌で、一首、上代的の気分を伝えて保っているものである。
1826 春《はる》されば 妻《つま》を求《もと》むと 鶯《うぐひす》の 木末《こぬれ》を伝《つた》ひ 鳴《な》きつつもとな
(343) 春之在者 妻乎求等 ※[(貝+貝)/鳥]之 木末乎傳 鳴乍本名
【語釈】 ○春されば 原文「春之在者」。「在」は「去」とある古写本もあるが、元暦本その他は「在」なので、『全註釈』はそれに従い、「春しあれば」と訓んでいる。「春されば」はきわめて熟した語なので、「之在者」は「されば」に当てた用字とみておく。春となったので。○妻を求むと 鶯が一羽で鳴いているのを、妻を求める声と聞いたのである。これはしやすい連想である。○木ぬれを伝ひ鳴きつつもとな 「木ぬれを伝ひ」は、梢から梢へと枝移りして。「鳴きつつもとな」は、「もとな」は由《よし》なくで、由なくも鳴きつづけている。
【釈】 春となったので、妻を得ようとて鶯は、梢から梢へと枝移りして、由なくも鳴きつづけている。
【評】 妻のない男が、春になると妻欲しい心が動いているおりから、鶯がしきりに枝移りをしているのを見て、自身の心を移入して、鶯も妻を求めて、由もなく鳴きつづけているのだと、隣れんだのである。気分のほうが勝ちすぎて、巧みだとはいえない歌であるが、そこに個性的なところが見えて、奈良時代の新しい歌と思わせるものである。
1827 春日《かすが》なる 羽易《はがひ》の山《やま》ゆ 佐保《さほ》の内《うち》へ 鳴《な》き往《ゆ》くなるは 誰喚子鳥《たれよぶこどり》
春日有 羽買之山從 狹帆之内敞 鳴往成者 孰喚子鳥
【語釈】 ○春日なる羽易の山ゆ 「羽易の山」は、巻二(二一〇)に出、人麿が死んだ妻が現われていると聞き、探しに行った山である。名が伝わらず、したがって所在不明で、諸説があるが、いずれも推測のものである。「ゆ」は、そこをとおって。○佐保の内へ 「佐保の内」は、佐保山と佐保川の間の(奈良市法蓮町辺り)一帯の地の称。○誰喚子鳥 「喚」は、掛詞になっており、誰を喚ぷ喚子鳥なのか。喚子鳥をかっこう鳥としても、鳴きながら飛ぶということは不自然である。
【釈】 春日にある羽易の山をとおって、佐保の内へ鳴いて飛んで行くのは、誰を喚ぶ喚子鳥なのか。
【評】 喚子鳥がかっこう鳥であるないは問題であるが、喚子鳥は片恋をする鳥だということは次の平安朝時代へも継承されたことで、ここもそれである。春日の羽易をとおって佐保の内へ鳴いて行くというのは、喚子鳥としては特殊の路で、その時に聞いた喚子鳥という狭い意味のものではなく、この歌の作者の感情の移入されている喚子鳥と取れる。さらにいえば、この喚子鳥は作者の片恋の嘆きを代弁して鳴いているのである。歌とすれば、作者の気分を具象している喚子鳥であるが、単なる感情的気分の具象ではなく、作者の知性の加わった複雑な感情を気分的に具象したものなのである。奈良時代の新しい傾向の歌である。
(344)1828 答《こた》へぬに な喚《よ》び響《とよ》めそ 喚子鳥 《よぶこどり》 佐保《さほ》の山辺《やまべ》を 上《のば》り下《くだ》りに
不答尓 勿喚動曾 喚子鳥 佐保乃山邊乎 上下二
【語釈】 ○答へぬにな喚び響めそ 喚んでも答がないのに、高く喚び立てることはするなで、命令。○喚子鳥 呼びかけ。○佐保の山辺を上り下りに 「佐保の山辺」は、上の歌の佐保の内で、山寄りの高地。「上り下りに」は、喚子鳥が、その高地へ上るにつけ、下るにつけて。
【釈】 喚んでも答がないのに、高く喚び立てることはするなよ。喚子鳥よ。佐保の山辺を上り下りするにつけて。
【評】 『代匠記』は、この歌は上の歌と連作だといっている。従うべき解である。この歌では作者は、前の歌よりも一段と感情移入していて、この歌では喚子鳥はまさしく作者自身である。作者は佐保の山辺に懸想した人があり、そこへ往復しているが、甲斐がないので、片恋を嘆きつつその高地へ上りつ下りつしているのである。それで我とその苦しい恋をやめよと諌めている心を、喚子鳥に寄せていっているのである。この歌は暗示に終始しているもので、譬喩歌としてはその上乗なものである。
1829 梓弓《あづさゆみ》 春山《はるやま》近《ちか》く 家居《いへゐ》して 続《つ》ぎて聞《き》くらむ 鶯《うぐひす》の声《こゑ》
梓弓 春山近 家居之 續而聞良牟 ※[(貝+貝)/鳥]之吾
【語釈】 ○梓弓春山近く 「梓弓」は、張ると続き、春に転じて、その枕詞。「春山近く」は、春の山に近い辺りにで、そこを鶯の多いところとしてのもの。○家居して 住んでいて。○続ぎて聞くらむ 絶えず聞いていよう。
【釈】 梓弓春山に近い辺りに住んでいて、絶えず聞くであろう。鶯鴛の声を。
【評】 京に住んでいる人が、山近く住んでいる人に贈った歌で、春山に近い家とて、京では稀れにしか聞かない鶯を、絶えず聞いているだろうと、憧れの心をいったものである。自然を美しく楽しいものとし、また重いものとしている心で、奈良朝の上流人の心である。
1830 うち靡《なび》く 春《はる》さり来《く》れば 小竹《しの》の末《うれ》に 尾羽《をは》うち触《ふ》れて 鶯《うぐひす》鳴《な》くも
(345) 打靡 春去來者 小竹之末丹 尾羽打觸而 ※[(貝+貝)/鳥]鳴毛
【語釈】 ○小竹の末に 小さい竹の先に。○尾羽うち触れて 「尾羽」は、尾の羽根。「触れ」は、使役で、下二段活用。鶯の小竹にとまっている格好を叙したもの。
【釈】 うち靡く春が来たので、小竹の先に尾羽を触れてとまって、鶯が鳴いている。
【評】 矚目したことを叙した形のものであるが、鶯の小竹の先にとまっている格好を甚だ可愛ゆいものに感じ、それを「尾羽うち触れて」といっているのである。「うち靡く春」と一体となって、印象的である。微細感を喜ぶ心よりの歌で、上の(一八一九)の「柳のうれに鶯鳴きつ」、(一八二一)の「枝喙ひ持ちて鶯鳴くも」と同系のものである。奈良朝時代の歌で、すでに時代的好尚となっていたとみえる。
1831 朝霧《あさぎり》に しののに濡《ぬ》れて 喚子鳥《よぶこどり》 三船《みふね》の山《やま》ゆ 鳴《な》き渡《わた》る見《み》ゆ
朝霧尓 之努々尓所沾而 喚子鳥 三船山從 喧渡所見
【語釈】 ○朝霧にしののに濡れて 「しののに」は、今、しっぽりとというにあたる。朝霧のかかっている中を飛んでいるところから、推量しているものである。○三船の山ゆ鳴き渡る見ゆ 「三船の山」は、今、吉野離宮の址近く、菜摘(奈良県吉野郡吉野町菜摘)の東南方にあり、御舟山と呼ばれている。「ゆ」は、とおって。「鳴き渡る」は、鳴いて飛んでゆくで、「渡る」は、終止形。
【釈】 朝霧にしっぽりと濡れて、喚子鳥が、三船の山をとおって鳴いて飛んでゆくのが見える。
【評】 吉野の離宮近い辺りに宿って、朝、霧の甚だ深い中を、喚子鳥の鳴きながら飛んでゆくのを見ての歌である。景そのものがすでに気分であるが、作者は「しののに濡れて」とさらに誇張した言い方をしている。この誇張は気分化である。喚子鳥は片恋をする鳥であり、「三船の山ゆ鳴き渡る」は、京の方角をさしてのこととみえる。それだと喚子鳥は作者自身であって、それをきわめて婉曲にあらわしているのである。一見、単なる叙景で、それが同時に気分の表現となっているという、奈良朝時代の歌である。その中でもこれは、品位のあるものである。
(346) 雪を詠める
1832 うち靡《なぴ》く 春《はる》さり来《く》れば しかすがに 天雲《あまぐも》霧《き》らひ 雪《ゆき》は降《ふ》りつつ
打靡 春去來者 然爲蟹 天雲霧相 雪者零管
【語釈】 ○しかすがに それはそうではあるが、と打返す意の副詞で、したがって、しかし、という余意をもっている。
【釈】 うち靡く春となってくると、そうではあるが、雲が掻き曇って、雪が降り降りする。
【評】 季節そのものの中に含まれている矛盾性を痛感した心である。季節の移り目に、二つの季節が相交錯するのは、季節感の最も強く起こる時であるが、憧れの季節である春にはことにその感の強いもので、この歌はそれである。この感は、暦の知識によって強められている意味もあろう。類想の歌が多く、一般性をもったものとなっている。奈良朝時代の心である。
1833 梅《うめ》の花《はな》 降《ふ》り覆《おほ》ふ雪《ゆき》を 裹《つつ》み持《も》ち 君《きみ》に見《み》せむと 取《と》れば消《け》につつ
梅花 零覆雪乎 裹持 君令見跡 取者消管
【語釈】 ○梅の花降り覆ふ雪を 梅の花の上に降り積もっている雪を。○裹み持ち 「裹み」は、物に包んで。「持ち」は、添えた語。○君に見せむと取れば消につつ 「君」は、作者は妻で、その夫。「取れば」は、手に取れば。「消に」は、「に」は完了、「つつ」は継続。
【釈】 梅の花を降り蔽っている雪を、物に包んで、君に見せようと思って手に取ると、消えつ消えつする。
【評】 事は明らかである。巻八(一六一八)「湯原王、娘子に贈れる歌」に、「玉に貫き消たず賜《たば》らむ秋萩のうれわわら葉に置ける白露」があり、物も男女の位置も異なってはいるが、清らかな、小さい、亡びやすい物に心を引かれる点は同じで、時代的好尚に近いものとなっていたかに見える。
1834 梅《うめ》の花《はな》 咲《さ》き散《ち》り過《す》ぎぬ しかすがに 白雪《しらゆき》庭《には》に 降《ふ》り重《し》きにつつ
(347) 梅花 咲落過奴 然爲蟹 白雪庭尓 零重管
【語釈】 ○咲き散り過ぎぬ 咲いて、散り去ったで、春の季節のまさしく現われていることをいったもの。○降り重きにつつ 「重き」は、敷きで、積もる意。
【釈】 梅の花は咲いて散り去った。それはそうであるが、白雪は庭に降り積もり降り積もりしている。
【評】 上の(一八三二)と同じく、季節の矛盾性に対する嘆きである。梅の花を春の物、白雪を冬の物としていっているのは、季節感の固定を示しているものである。
1835 今更《いまさら》に 雪《ゆき》降《ふ》らめやも かぎろひの 燃《も》ゆる春《はる》べと なりにしものを
今更 雪零目八万 蜻火之 燎留春部常 成西物乎
【語釈】 ○今更に雪降らめやも 「今更に」は、今は新たに。「や」は、反語。○かぎろひの燃ゆる春べと 「かぎろひ」は、陽炎。「燃ゆる」は、「かぎろひ」の「ひ」に火を感じてである。「春べ」は、春の頃。○なりにしものを なったのにで、「に」は完了の助動詞。「し」は過去の助動詞。
【釈】 今になって新たに雪が降ろうか。陽炎の燃える春となったものを。
【評】 上の歌と同じく、季節の矛盾性に対しての感であるが、この歌では訝《いぶか》りや嘆きを超えて、憤りとなっているものである。憤りは、春に対する憧れの強さの反面である。純抒情の歌であるが、現に降っている春の雪に対しての感であるために、心はおのずからに単純で、形も直線的であり、調べも張っていて、空疎な感を起こさせない歌である。
1836 風《かぜ》交《まじ》り 雪《ゆき》は降《ふ》りつつ しかすがに 霞《かすみ》たなびき 春《はる》さりにけり
風交 雪者零乍 然爲蟹 霞田菜引 春去尓來
【語釈】 ○風交り雪は降りつつ 風がまじって雪が降り降りしてで、今の吹雪である。巻五(八九二)山上憶良の歌に類似の句法が出たもの。○春さりにけり 「に」は、完了、「けり」は、詠歎。
(348)【釈】 風がまじって雪が降りつつ、そうではあるが、霞がたなびいて春が来たことである。
【評】 同じく季節の矛盾性を詠んでいる歌であるが、この作者は、冬の光景の中に春の光景を捉えて、その捉え得た春を喜んでいるのである。憧れではなく、現在の喜びで、その点が異なっている。上の数首の歌に較べると、古風な歌である。
1837 山《やま》の際《ま》に 鶯《うぐひす》鳴《な》きて うち靡《なび》く 春《はる》と念《おも》へど 雪《ゆき》降《ふ》り重《し》きぬ
山際尓 ※[(貝+貝)/鳥]喧而 打靡 春跡雖念 雪落布沼
【語釈】 ○山の際に 山と山との間に。○雪降り重きぬ 「重きぬ」は、敷きぬで、地上に積もった。
【釈】 山と山との間には鶯が鳴いて、うち靡く春だと思うが、ここには雪が降り積もった。
【評】 同じく季節の矛盾性を扱ったものである。この作者は、矛盾している事象そのものをいうことが主になっていて、それに伴う感の動きを見せることが少ない。固定した季節感を持っていたためと思われる。
1838 峰《を》の上《うへ》に 降《ふ》り置《お》ける雪《ゆき》し 風《かぜ》の共《むた》 ここに散《ち》るらし 春《はる》にはあれども
峯上尓 零置雪師 風之共 此間散良思 春者雖有
【語釈】 ○峰の上に降り置ける雪し 「峰の上」は、「峰」は、左注によって筑波山の山頂である。「降り置ける雪し」は、降り積もっている雪がで、山の他の部分の雪は消えて、山頂のものだけが残っているのをさしたもの。「し」は、強意の助詞。○風の共ここに散るらし 「風の共」は、山頂より吹き下ろして来る風とともに。「ここに」は、作者の今いる所で、峰を仰ぐ位置。「散るらし」は、飛び散ってくるのであろう。○春にはあれども 「は」は、強意のもの。今は雪の降るべくもない春ではあるけれども。
【釈】 山頂に降り積もっていた雪が、吹き下ろす風とともにここに飛び散ってくるのであろう。今は雪の降るべくもない春ではあるけれども。
【評】 高山に馴れない作者が、春、筑波山に登り、たまたまそこで見かけた雪の状態の珍しいのに興をもっての歌である。京の人で、その方面に旅していた人とみえる。
(349) 右の一首は、筑波山にて作れる。
右一首、筑波山作。
1839 君《きみ》がため 山田《やまだ》の沢《さは》に 恵具《ゑぐ》採《つ》むと 雪消《ゆきげ》の水《みづ》に 裳《も》の裾《すそ》ぬれぬ
爲君 山田之澤 惠具採跡 雪消之水尓 裳裾所沾
【語釈】 ○君がため 「君」は、妻より夫をさしての称。○山田の沢に恵具採むと 「山田」は、丘陵地帯にある田。「沢」は、浅く水の溜まっている地の称。これは山田のある部分が沢となっている所。「恵具」は、莎草《かやつりぐさ》科の多年生草本で、烏芋《くろくわい》という。池沼などの水中に生じる物で、その塊茎を食料とする。ここは、採むといい、また雪消の頃なので、その芽であったとみえる。○雪消の水に裳の裾ぬれぬ 「雪解の水」は、沢の水のその時の状態で、水が多くなっていた意のもの。「裳の裾ぬれぬ」は、沢に立入った結果で、侘びしさとしていったもの。
【釈】 君に差し上げるために、山田の沢の恵具を摘むとて、雪解けの水でわが裳の裾は濡れた。
【評】 これは妻が夫のもとへ、恵具を贈ってやるのに添えたもので、挨拶の歌である。品物を贈る際、贈り主の心のこもった物であることをいうのは、古来よりの風習となっていることで、「裳の裾ぬれぬ」は、儀礼としてその労苦をいったのである。相手を重んずる心より起こった風習である。
1840 梅《うめ》が枝《え》に 鳴《な》きて移《うつ》ろふ 鶯《うぐひす》の 羽《はね》白妙《しろたへ》に 沫雪《あわゆき》ぞ降《ふ》る
梅枝尓 鳴而移徙 ※[(貝+貝)/鳥]之 翼白妙尓 沫雪曾落
【語釈】 ○梅が枝に鳴きて移ろふ 「梅が枝」は、梅の花の咲いている枝。「移ろふ」は、「移る」の継続。木伝いを続けている意。○羽白妙に沫雪ぞ降る 「白妙」は、ここは白色の意で、まっ白く。「沫雪」は、沫のごとき雪で、作の大きい柔らかな、消えやすい雪をいう。大体春の雪にいうが、冬の雪にもいう。「降る」は、「ぞ」の結で、連体形。
【釈】 梅の花の咲いている枝に、鳴いて木伝いを続けている鶯の、羽をまっ白にして沫雪の降っていることである。
(350)【評】 この歌も、事象としては季節の矛盾性であって、春のものの梅の花が咲き、鶯が来て鳴いているのに、冬のものの雪が降っているのである。しかるにこの作者は、その矛盾性を認めないのみならず、矛盾性そのものを溶合させて、かえって美観と感じているのである。作者は事象をいっているごとくであるが、じつは美観をいおうとしているもので、そのために相応な無理をしているのである。「羽白妙に沫雪ぞ降る」ということは、実際にはありうべからざることである。またそうした大雪の時には、「鳴きて移ろふ鶯」も眼に映じそうにも思われない。それを当然のことのように続けているのは気分のさせていることなのである。動的な事象をいいながら、静的な感を与えているのも、同じく作者の気分のさせることである。耽美気分の濃厚な作で、時代も関係していよう。手腕のある作者の歌である。
1841 山《やま》高《たか》み 降《ふ》り来《く》る雪《ゆき》を 梅《うめ》の花《はな》 散《ち》りかも来《く》ると 念《おも》ひつるかも
山高三 零來雪乎 梅花 落鴨來跡 念鶴鴨
【語釈】 ○山高み降り来る雪を 「山高み」は、山が高いゆえにで、高山は降る雪の多いところ。「雪を」は、雪であるのにで、「を」は詠歎。○散りかも来ると 「かも」は、疑問の係。
【釈】 山が高いゆえに、降ってくる雪であるのに、梅の花が散ってくるのかと思ったことであるよ。
【評】 高山の裾に住んでいる人が、春に憧れる心から、降って来る雪を、梅の花の散ってくるのかと見まがえたと、嘆きをもっていっているものである。雪と梅の花とを、見まがえるのは、ほとんど常識化していたものである。京の友に贈った歌で、誇張しての愚痴である。
一に云ふ、梅《うめ》の花《はな》 咲《さ》きかも散《ち》ると
一云、 梅花 開香裳落跡
【解】 四句がちがうだけである。「咲きかも散る」は、散るを主としての語で、例の多いものである。
1842 雪《ゆき》を除《お》きて 梅《うめ》にな恋《こ》ひそ あしひきの 山片付《やまかたつ》きて 家居《いへゐ》せる君《きみ》
(351) 除雪而 梅莫戀 足曳之 山片就而 家居爲流君
【語釈】 ○雪を除きて梅にな恋ひそ 「雪を除きて」は、「除き」は、「置き」で、ここは、さしおいて。雪を愛《め》でたいものとしての心。○山片付きて 「片付き」は、片よって接してで、山に密着してというにあたる。「片付きて」は、山裾で、一方は山に付いている意。○家居せる君 「君」は、上の歌の作者で、呼びかけ。
【釈】 愛でたい雪をさしおいて、梅の花を恋うることはするな。山に一方を接して家居をしている君よ。
【評】 左注に、「右の二首は問答」とある。山辺の友から上の歌を贈られた人が、京から答えた形の歌である。上の歌も誇張しての愚痴であったが、これも春の季節に、冬のものである雪を愛でよというので、風流を強いたものである。奈良朝時代の知識人の、社交の歌で、どちらもある程度のいや味をもったものである。
右の二首は問答。
右二首問答
霞を詠める
1843 昨日《きのふ》こそ 年《とし》は極《は》てしか 春霞《はるがすみ》 春日《かすが》の山《やま》に はや立《た》ちにけり
昨日社 年者極之賀 春霞 春日山尓 速立尓來
【語釈】 ○年は極てしか 「極て」は、終わるで、昨日こそ旧年は終わったのだ。
【釈】 昨日こそ旧年は終わったのだ。春霞は春日の山に早くも立ったことである。
【評】 時の移りが速やかで、旧年が去ると同時に春のけはいが春日山に現われたと喜んでいるのである。喜びの心からではあるが、時の推移をこのように明るく迎えている歌は少ない。春日山をいっているので、明瞭に奈良京の歌である。時代色といえる。三句以下語つづきが軽く美しい。
(352)1844 寒《ふゆ》過《す》ぎて 暖《はる》来《きた》るらし 朝日《あさひ》さす 春日《かすが》の山《やま》に 霞《かすみ》たなびく
寒過 暖來良思 朝烏指 滓鹿能山尓 霞輕引
【語釈】 ○寒過ぎて暖来るらし 「寒」は、冬、「暖」は春に当てた字。感覚を重んじる心からである。○朝日さす春日の山に 「朝日さす」は、その時の実際としていっているものである。下の霞を発見した時だからで、条件的なものである。原文「烏」は太陽の異名、漢籍に「金烏」という。
【釈】 冬が過ぎて春が来ているようである。朝日のさしている春日山に、霞がたなびいている。
【評】 上の歌と同じ心、同じ境である。この歌は朝日のさす時春日山を望んで、そこに微かにかかっている霞が、光線に照らし出されているのを認めて、まさしく春が来ているのだと思っての喜びである。同じ喜びではあるが実際に即して細かく深く感じた喜びである。「朝日さす」が、適切に、重く働いている。
1845 鶯《うぐひす》の 春《はる》になるらし 春日山《かすがやま》 霞《かすみ》たなびく 夜目《よめ》に見《み》れども
※[(貝+貝)/鳥]之 春成良思 春日山 霞棚引 夜目見侶
【語釈】 ○鶯の春になるらし 「鶯の春」は、鶯が時を得がおに盛んに囀る春の意で、春の盛り近い時ということを、具象的に言いかえた語である。○夜目に見れども 「夜目」は、現在も口語に用いている語で、よくは見えない時としていっているもの。
【釈】 鶯の時を得がおに鳴く春になることであろう。春日山に霞がたなびいている。夜目に見るけれども、それとわかるほどに。
【評】 春日山を夜望んで、山を背にたなびいている霞が、夜目にもそれと見えるほど深くなっているところから、鶯の盛んに囀る春になるだろうと思って喜んだ心である。夜目に霞を認めて、その濃度を思う感覚もさることながら、春の盛り近い季節を「鶯の春」という語であらわしているのはじつに巧みである。奈良朝時代の耽美気分が、単に憧れという幼稚なものではなく、すでに身についたものであることを証明しているごとき歌である。
柳を詠める
(353)1846 霜枯《しもが》れし 冬《ふゆ》の柳《やなぎ》は 見《み》る人《ひと》の ※[草冠/縵]《かづら》にすべく 萌《も》えにけるかも
霜干 冬柳者 見人之 ※[草冠/縵]可爲 目生來鴨
【語釈】 ○霜枯れし冬の柳は 落葉したしだれ柳はの意。○見る人の 見るほどの人ので、「人」は、大宮人階級である。○※[草冠/縵]にすべく萌えにけるかも 「※[草冠/縵]」は、しばしば出た。植物をわがねて頭に戴くようにした物で、魔除けに始まり、神事を行なう時の物、風流の遊びの時の物となった。ここは風流の遊びの時のもの。「萌え」は、旧訓。「めばえ」とも訓めるが、「もえ」の用例もある。「に」は、完了。「けるかも」は、過去の助動詞「ける」に、詠歎の「かも」の接したもの。
【釈】 霜枯れしていた冬の柳は、見るほどの人が、※[草冠/縵]にするように、若葉してきたことであるよ。
【評】 若葉して来た柳の美しさを讃えた心である。しだれ柳は鑑賞用の物であった上に、※[草冠/縵]にするには格好の物でもある。大宮人として風流の遊びの※[草冠/縵]を連想するのは自然である。初二句は重すぎ、三句は説明的で、巧みとはいえない歌である。
1847 浅緑《あさみどり》 染《そ》め懸《か》けたりと 見《み》るまでに 春《はる》の楊《やなざ》は 萌《も》えにけるかも
淺緑 染懸有跡 見左右二 春楊者 目生來鴨
【語釈】 ○浅緑染め懸けたりと うす緑色に、染《そ》めて、懸けてあると。○春の楊は萌えにけるかも 「楊」は、河楊をあらわす字で、ここはそれである。
【釈】 うす縁の色に染めて懸けてあると見るほどに、春の河楊は若葉をしたことであるよ。
【評】 若葉した河楊を、やや遠くより眺めての感である。自然の美しさをいうに、「浅緑染め懸けたりと」と、人事を譬喩としていっているので、この連想がこころよかったのである。美しくして同時に親しかったのである。それだけが特色の歌である。
1848 山《やま》の際《ま》に 雪《ゆき》は降《ふ》りつつ しかすがに この河楊《かはやぎ》は もえにけるかも
山際尓 雪者零管 然爲我二 此河楊波 毛延尓家留可聞
(354)【語釈】 ○山の際に雪は降りつつ 「山の際」は、山と山の間。山間には雪が降りながら。現状としていっているもの。○しかすがに そうではあるが。○この河楊は 「この」は、眼前をさしているもの。
【釈】 山と山との間には雪が降りながら、それであるが、この河楊は、芽ぶいたことであるよ。
【評】 山と山との間から河が流れ下っており、山のほうでは雪が降っているのに、眼前に立っている河楊の芽ぷいているのを見て、感を発した歌である。季節の矛盾性などということを超えて、眼前の春を喜んでいる心で、積極的な心である。素朴な、技巧を解さない、庶民的な歌であるが、おのずから味わいをもっている。
1849 山《やま》の際《ま》の 雪《ゆき》は消《け》ざるを みなひあふ 川《かは》の副《そ》へれば 萌《も》えにけるかも
山際之 雪者不消有乎 水飯合 川之副者 目生來鴨
【語釈】 ○みなひあふ 原文は、諸本一様で、別伝はない。用例のないもので、諸注訓み難く、解し難いところから、誤写説を立て、それぞれ改字している。『全註釈』(旧版)は、このままに、「みなひあふ」と訓み、解を加えている。それは『類聚名義抄』に、「湾」その他二字に「みなあひ」の訓があり、これは水の合いの意で、水の寄り集まる所の意であろうといい、「みなひ」は、「みのあひ」の約音で、これは動詞であり、それにさらに「合ひ」を接しさせて、水の寄り集まる意を示した語だというのである。現在のところ最も妥当な解と思われる。『古義』は「水飯」は「激」の誤写とし、「たぎちあふ」と訓み、それが行なわれているが、この語の用例はないといっている。○川の副へれば 「副」を『古義』は「楊」の誤写とし、「川のやなぎは」と訓んでいる。この歌には主格がないところからの説であるが、佐伯梅友氏は、上の歌と連作であろう、それだとさしつかえなかろうといっている。
【釈】 山と山との間の雪は消えないのに、それであるが、水が寄り集まっている川が添っているので、芽ぷいたことであるよ。
【評】 上の歌と連作と見れば、自然な歌となる。上の歌では見たままの状態をいい、この歌はその状態に解を与えた形になるからである。「みなひあふ」という語は問題となるものであろうが、歌柄の庶民的なところから推して、庶民間にそうした語が行なわれていたと見ても無理のないものである。上の歌よりもさらにおちついた作である。
1850 朝旦《あさなさな》 吾《わ》が見《み》る柳《やなぎ》 鶯《うぐひす》の 来居《きゐ》て鳴《な》くべき 森《もり》に早《はや》なれ
朝旦 吾見柳 ※[(貝+貝)/鳥]之 來居而應鳴 森尓早奈礼
(355)【語釈】 ○朝旦吾が見る柳 毎朝をわが見る柳で、家近くあるしだれ柳。鑑賞用のものである。呼びかけ。○鶯の来居て鳴くべき 鶯が来て、居ついて、鳴くような。○森に早なれ 「森」は、木の茂り。「なれ」は、変われで、命令形。
【釈】 朝々をわが見るものにしているこの柳よ。鶯が来て、居ついて、鳴くような森に早くなってゆけよ。
【評】 家の前とか庭に鑑賞用に植えてあるしだれ柳の、わずかに若葉してきたのに対して、朝々その葉のひろがるのを待って見やりつつ抱いた空想である。軽く明るい憧れであるが、連想としてのものなので、空疎ではない。
1851 青柳《あをやぎ》の 糸《いと》の細《くは》しさ 春風《はるかぜ》に 乱《みだ》れぬい間《ま》に 見《み》せむ子もがも
青柳之 絲乃細紗 春風尓 不乱伊間尓 令視子裳欲得
【語釈】 ○糸の細しさ 「糸」は、しだれ柳の長く垂れた枝が糸に似ているところからの称。「細しさ」は、繊細な美しさで、詠歎がこもっている。○乱れぬい間に 「い間」は、「い」は接頭語で、間に。○見せむ子もがも 「子」は、女の愛称、「もが」は、「も」を伴っての願望の助詞。
【釈】 青柳の糸の繊細な美しさよ。春風に乱れない間に、見せてやる可愛ゆい女の欲しいことである。
【評】 愛でたい風物を見る時、愛する者とともに見たいという念を起こすのは共通の人情である。この作者は青柳の糸のくわしさを、可愛ゆい女に見せようというので、きわめて都市的で、しかも「乱れぬい間に」という条件までも付けているのである。子は青柳の糸から連想される空想の女であろう。理屈のない、さりとていや味もない、耽美気分のかすかな動きを捉えての歌である。奈良朝の歌である。
1852 ももしきの 大宮人《おほみやびと》の ※[草冠/縵]《かづら》ける 垂柳《しだりやなぎ》は 見《み》れど飽《あ》かぬかも
百礒城 大宮人之 ※[草冠/縵]有 垂柳者 雖見不飽鴨
【語釈】 ○ももしきの大宮人の 「ももしきの」は、「大宮」を讃えての枕詞。「大宮人」は、大宮に奉仕する百官の称。○※[草冠/縵]ける ※[草冠/縵]を動詞として、「※[草冠/縵]く」とし、完了の助動詞「り」の連体形「る」の接したもの。※[草冠/縵]としている。○垂柳は見れど飽かぬかも 「垂柳」は、※[草冠/縵]としている物で、「見れど飽かぬかも」は、垂柳を讃えているのである。
(356)【釈】 ももしきの大宮人の※[草冠/縵]としている垂柳は、見ても飽くことを知らないことであるよ。
【評】 大宮人が風流の遊びをする時、時の物としてしだり柳の※[草冠/縵]をしているのを見た人の、※[草冠/縵]の材料としているしだり柳を讃えたものである。讃えた人は、大宮人ではないが、無関係の庶民でもなく、たぶん遊びをしている家に仕えている人などであろう。しだり柳が大宮人の※[草冠/縵]にされているため、一段と美を加えていると見た心で、善意に満ちた明るい歌である。上の(一八四七)の「浅緑」と心は同じで、そのさらに深いものである。
1853 梅《うめ》の花《はな》 取《と》り持《も》ちて見《み》れば 吾《わ》が屋前《やど》の 柳《やなぎ》の眉《まよ》し 念《おも》ほゆるかも
梅花 取持而見者 吾屋前之 柳乃眉師 所念可聞
【語釈】 ○梅の花取り持ちて見れば 梅の花を折って、手に持って見ればで、深く愛する時にすること。この「梅の花」は、下の「吾が屋前の柳」に対させたもので、旅で見るものである。○吾が屋前の柳の眉し 「柳の眉」は、柳の若葉の形が、眉墨で描いた女の眉の形に似ているところからの称。若葉の意。「し」は、強意の助詞。
【釈】 梅の花を折って手に持って見ていると、わが家の庭の柳の眉が思われることであるよ。
【評】 旅にあって、梅の花を手にしてしみじみと見ると、わが家の庭のしだれ柳の若葉が連想されるということは、きわめて自然なことである。しかし柳の葉を「柳の眉し」と言いかえているのは、単に葉というだけではなく、その葉のごとき眉をした妻ということを暗示しようがためである。それをするに柳眉《りゆうび》という漢語によって、さりげなくしているのは、奈良朝の知識人だからである。事として直接にいわず、気分としてかすかにいい、そうした言い方を喜ぶのは、奈良朝に入っての傾向である。ややわざとらしさはあるが、巧みである。
花を詠める
1854 鶯《うぐひす》の 木伝《こづた》ふ梅《うめ》の 移《うつ》ろへば 桜《さくら》の花《はな》の 時《とき》片設《かたま》けぬ
※[(貝+貝)/鳥]之 木傳梅乃 移者 櫻花之 時片設奴
(357)【語釈】 ○木伝ふ梅の 枝移りをして鳴く梅の花が。○移ろへば 移るの継続で、散って行けば。○時片設けぬ 「時」は、咲く時。「片設けぬ」は、近づいてきた。巻二(一九一)に既出。
【釈】 鶯が枝移りをして鳴く梅の花が散ってゆけば、桜の花の咲く時が近づいてきた。
【評】 春の美しく楽しい光景が、つぎつぎに展開するのに浸って、陶酔している気分を詠んだものである。調べの柔らかなのは、憧れではなく、陶酔の具象化だからである。陶酔とはいえ、実際に即しているので、おのずから限度があり、おちついたものとなっている。
1855 桜花《さくらばな》 時《とき》は過《す》ぎねど 見《み》る人《ひと》の 恋《こひ》の盛《さか》りと 今《いま》し散《ち》るらむ
櫻花 時者雖不過 見人之 戀盛常 今之將落
【語釈】 ○時は過ぎねど 花の咲いている時節は過ぎないけれども。○恋の盛りと 愛で憧れる盛りであるとして。○今し散るらむ 「し」は、強意。
【釈】 桜花は、花の時節はまだ過ぎないけれども、見る人の愛で憧れる盛りの時であるとして、今を散るのであろう。
【評】 桜の花のまだ衰えず、盛りの美しさをもちながら散るのに同感している心である。同感したのは、恋の盛りに惜しまれつつ散る点である。感性的に美しいものの亡びるのを嘆かず、また知性的に物の推移などということをいわず、恋の盛りを慰めとして散るというのは、物の他とのつながりを最も重大視する、集団生活の中から生まれてきた心持で、後世でいうもののあわれの中核に触れている心持である。一つの解釈であるが、作者は解釈とも思わず、直感的にいっているものであろう。擬人に近い言い方であるが、そうした臭味もないものである。平凡に似て特色のある歌である。
1856 我《わ》が刺《さ》しし 柳《やなぎ》の糸《いと》を 吹《ふ》き乱《みだ》る 風《かぜ》にか妹《いも》が 梅《うめ》の散《ち》るらむ
我刺 柳絲乎 吹乱 風尓加妹之 梅乃散覽
【語釈】 ○我が刺しし柳の糸を 「我が刺しし」は、「刺しし」は、諸注、解を異にしている。『略解』の挿木として地に刺した柳という解に従う。(358)柳は古くから挿木したのである。わが挿木にした柳の木の枝を。○吹き乱る風にか妹が 「乱る」は、四段活用、連体形。「か」は疑問の係。○梅の散るらむ 「梅」は、梅の花。「らむ」は、現在の推量で、結。
【釈】 わが挿木をした柳の木の枝を吹き乱しているこの風で、妹が家の梅の花は散っているのであろうか。
【評】上代の人は、人と人との間に魂の交流することを信じていた。夢を甚しく重んじたのもその現われである。この信仰は推移して、興味的色彩を帯びてきたかにみえるが、しかし軽いものではなかったろう。この歌はその心の絡んでいるもので、男がその家のしだれ柳の枝を吹き乱している春風に対し、この風は妹の家の梅の花を散らすだろうと思い入っているのである。対象となっているのは柳と梅の花という美しいものであるが、趣そのものに興じているのではなく、風が吹き通うということに感じているのである。趣はおのずからそれに付随してくるのである。奈良朝の気分本位の歌である。この気分は今に直接には感じられないものである。
1857 毎年《としのは》に 梅《うめ》は咲《さ》けども うつせみの 世《よ》の人《ひと》君《きみ》し 春《はる》なかりけり
毎年 梅者開友 空蝉之 世人君羊蹄 春無有來
【語釈】 ○毎年に 「毎年」は、毎年の意で、「毎年、謂2之等之乃波1」と巻第十九(四一六八)に注のある語。○うつせみの世の人君し 「うつせみの」は、「世」の枕詞。「世の人」は、この世の中の人で、生きの身は常なきものとしていったもの。「君」は、敬称であるが、どういう人かわからぬ。「し」は、強意。原文「羊蹄」は和名抄に羊蹄菜を「し」と訓んでいるのによる。○春なかりけり 「春」は、梅の花に対させていっているもので、季節としての春である。楽しい時としていっている。「なかりけり」は、「けり」は詠歎で、君と呼ばれる人は、春以前に故人となったのを嘆いたもの。
【釈】 年々に梅の花は咲くけれども、うつしみのこの世の中の人である君は、春のなかったことであるよ。
【評】 春になり梅の花の咲くのを見て、春以前に故人となった尊敬していた人を思い出して、嘆いた形の歌である。事の性質上、大まかな言い方で十分心の尽くせるものである。しかし春という語も、君という称も、意味が広いので、迎えて解するといかような解も盛れる歌である。
1858 うつたへに 鳥《とり》は契《は》まねど 繩《しめ》延《は》へて 守《も》らまくほしき 梅《うめ》の花《はな》かも
(359) 打細尓 鳥者雖不喫 繩延 守卷欲寸 梅花鴨
【語釈】 ○うつたへに鳥は喫まねど 「うつたへに」は、ことさらに、特にの意の古語。「鳥は喫まねど」は、鳥はその花を食いはしないけれどもで、鳥は花を食うものという上に立っていっているもの。これは鳥が田畑の五穀などを食うことからの連想である。○繩延へて守らまくほしき 「繩延へて」は、標繩《しめなわ》を張ってで、それをすると他人の立入ることを禁じ得たからである。「守らまくほしき」は、守ることをしたいところの。
【釈】 ことさら鳥は食むものではないけれども、標繩を張って守ることをしたいところの梅の花であるよ。
【評】 梅の花を酷愛し珍重する心であるが、その方法が特別である。鳥はことさら梅の花を食みはしないと知りながら、それにしても不安を感じ、標繩を張って番をしたい気がするというのである。鳥が梅の花を食みそうに思うことも、標繩を張れば大丈夫だと思う信仰も、たぶん直接農業を営んでいる庶民の心であろう。梅は外来の木で、初めは貴族だけの鑑賞用のものであったが、しだいに庶民階級の者も植えることになり、初めて梅の木を植えて花を咲かせた庶民が、それを珍重するあまりに、扱い方に惑っての心と思われる。庶民としては本気であるが、貴族から見ると滑稽で、その意味で伝わった歌であろう。
1859 馬《うま》並《な》めて 高《たか》き山《やま》べを 白妙《しろたへ》に 艶《にほ》はしたるは 梅《うめ》の花《はな》かも
馬並而 高山部乎 白妙丹 令艶色有者 梅花鴨
【語釈】 ○馬並めて高き山べを 「馬並めて」は、旧訓「うまなめて」。『略解』は、原文「馬並而」の「馬」は「忍」の誤写として、「おしなべて」と訓み、本居宣長も同説だといっているもの。「高き山べを」は、高い山のほうを。○白妙に艶はしたるは 「白妙に」は、ここは白色の意。「艶はしたるは」は、美しい色にしているのは。
【釈】 多くの人が乗馬を連ねて、遠い山のほうを、その衣の色の白い色で美しくしている、あれは梅の花なのか。
【評】 平地から高い山のほうを眺め、一と続きに白くなっているのを見て、ふと、白色の衣を着ている多くの人が、乗馬を連ねているさまに似ているのかと思ったが、心づいて、あれは梅の花なのかと思った心である。初句より四句までの想像は突飛な感のあるものであるが、この歌の作者は上の歌と同じく庶民で、貴族階級の人々の、そうした状態で旅行しているさまを見ているところから連想した想像と思われる。この歌も上の歌と同じく、その想像の滑稽味のある点で伝えられたものと思われる。
(360)1860 花《はな》咲《さ》きて 実《み》はならねども 長《なが》きけに 念《おも》ほゆるかも 山吹《やまぶき》の花《はな》
花咲而 實者不成登裳 長氣 所念鴨 山振之花
【語釈】 ○花咲きて実はならねども 山吹の花の特性をいったものである。この「花」と「実」とは、恋の上にも用いられている語で、花は、求婚時代、実は、結婚の意となっている。『略解』は、その意でいっているものとしている。○長きけに念ほゆかも 「け」は、時の間という意をあらわす語で、長き時にわたっての花と思われることであるよで、その盛りの長いのを愛する意。
【釈】 花が咲いて実にはならないけれども、長い時にわたって美しい花と思われることであるよ。山吹の花は。
【評】 山吹の花に対して、その美しさと盛りの長さを愛でている形の歌である。それにしては、実のならないということを欠点のごとくいっているのが、ややわざとらしい感がある。『略解』の解しているごとく、花と実に恋の心をもたせ、女が求婚を否みはしないが、しかし実行もせずに長い時を過ごしているもどかしさをいったものとすれば、「花咲きて実はならねども」の説明が必要な、したがって自然なものとなってくる。気分を主として、かすかな詠み方を喜んだ歌とみえる。それだと完全な譬喩歌である。
1861 能登河《のとがは》の 水底《みなそこ》さへに 光《て》るまでに 三笠《みかさ》の山《やま》は 咲《さ》きにけるかも
能登河之 水底并尓 光及尓 三笠之山者 咲來鴨
【語釈】 ○能登河の水底さへに光るまでに 「能登河」は、春日山中石切峠付近から発し、三笠山と高円山との間を西流して岩井川をあわせ、佐保川に注ぐ。「水底さへに」は、水底までも照るほどに。○三笠の山は咲きにけるかも 「三笠の山は」は、三笠の山の桜の花はの意で、主格としての桜を省略したものである。この省略は、前後の関係からこれで通じるとしてである。
【釈】 能登河の水底までも照るほどに、三笠の山の桜の花は咲いたことであるよ。
【評】 三笠山の桜の美を詠んだ歌である。著しく技巧的な歌であるが、しかしその技巧を没した形をもっているもので、その点がすなわち技巧なのである。技巧を没しているというのは、この歌は一見平面描写をしているがごとくである。それは三笠山の裾を流れる能登河の細い渓流を見ると、桜の花が映って水底までも照っているのを発見し、仰ぎ見ると三笠山の桜は満開(361)であるというので、自然の順序を追って桜の印象を叙しているがごとく見える点である。しかし他方からいうと、能登河という細い渓流に映った桜花によって、初めて三笠山の桜の花を見たごとくいうのも不自然であり、しかもそのような狭い範囲の花の影を、三句を費やして精叙することも、全体の振合いからいうと不自然である。しかしこれは意図をもってのもので、四、五句は一転して、「三笠の山は咲きにける」という、広い範囲を精描したものと対照し、その狭と精を、広と粗とに押し拡げようとしてである。これは平面描写というような細心なものではなく、気分本位に、立体感を盛り上がらせようとし、その具象法として平面描写を行なっているのである。その最も直接な現われは、「三笠の山は咲きにける」という続け方である。この歌の主格は桜の花で、ここで当然いうべきであるのを、省略しても通じるとしてわざと省略しているのであるが、これはそれにとどまらず、このようにいうことによって、三笠の山は全山さくら花であり、三笠の山自体が桜花であるかのごとき感を起こさせるものとしているのである。一首、気分本位で構成し、感覚的印象を盛り上げて立体感を出そうとし、放胆な詠み方をしているものである。奈良朝時代の気分本位の歌の、華やかな方面を、代表的に示している感のある歌である。
1862 雪《ゆき》見《み》れば いまだ冬《ふゆ》なり しかすがに 春霞《はるがすみ》立《みた》ち 梅《うめ》は散《ち》りつつ
見雪者 未冬有 然爲蟹 春霞立 梅者散乍
【語釈】 略す。
【釈】 残雪のあるのを見ると、まだ冬である。そうではあるが、春の霞が立って、梅の花は散りつついる。
【評】 上に何首も出た季節の矛盾性を扱っている歌であるが、この歌は、矛盾を矛盾としてあるがままに認めているだけで、ほとんど何の感傷も示していない歌である。
1863 去年《こぞ》咲《さ》きし 久木《ひさぎ》今《いま》咲《さ》く 徒《いたづ》らに 土《つち》にやおちむ 見《み》る人《ひと》なしに
去年咲之 久木今開 徒 土哉將墮 見人名四二
【語釈】 ○去年咲きし久木今咲く 去年咲いた久木の花が、今また咲いている。「久木」は、巻六(九二五)に出た。あかめがしわとも、きささげともいう。あかめがしわは、夏季、黄緑色の花が咲き、きささげは初夏、緑色の花が咲く。いずれも春の花ではないので、問題となる。○徒らに(362)土にやおちむ 甲斐なくも地に散ることであろうかで、「や」は疑問の係。○見る人なしに この花を見る人がなくして。
【釈】 去年咲いた久木の花が、今年また咲いている。咲いた甲斐なくも地に散ることであろうか。見る人もなくて。
【評】 この久木は、平常は人の立ち寄らない、目立たない所にあるもので、作者は何か特別のついでがあって、たまたま花の咲いているのを見かけたという関係のものである。今その花を見ると、去年も偶然にこの木の花の咲いているのを見かけたことを思い出し、今年もこのように、人にも見られずに、甲斐なく散ってゆくのだろうかと憐れんだ心である。人に見はやされないと、花もその甲斐がないとする、いわゆる、もののあわれに通ずる心よりの憐れみである。
1864 あしひきの 山《やま》の間《ま》照《て》らす 桜花 この春雨《はるさめ》に 散《ち》り去《ゆ》かむかも
足日木之 山間照 櫻花 是春雨尓 散去鴨
【語釈】 ○あしひきの山の間照らす桜花 山と山との間の地を、全面的にかがやかして咲いている桜の花はで、作者の一たび目にしたもの。○この春雨に散り去かむかも 今降っている春雨で、散りゆくことであろうかと、想像して惜しんでのもの。
【釈】 あの、山と山との間をかがやかして咲いている桜花は、今降っている春雨で散ってゆくことであろうか。
【評】 春雨に桜の花の散るのを思いやって惜しむという、きわめて一般的な心で、またただ素直に詠んだものでもあるが、「山の間照らす桜花」は、作者が親しく目にしたことのあるもので、それを思い浮かべて惜しんでいるなど、事ではなく、気分となっている。調べもそれにふさわしい柔らかなものである。やはり奈良朝時代の歌である。
1865 うち靡《なび》く 春《はる》さり来《く》らし 山《やま》の際《ま》の 遠《とほ》き木末《こぬれ》の 咲《さ》きゆく見《み》れば
打靡 春避來之 山際 最木末之 咲徃見者
【語釈】 ○うち靡く春さり来らし 「うち靡く」は、春の枕詞。「春さり来らし」は、春の季節と移ってくるのであろうで、これは山についていっているのである。○山の際の遠き木末の 山と山との間より見える、山深く遠いほうにある木末の。○咲きゆく見れば 山深いほうへ咲き進んで行くのを見ればで、山は気温が低く、山が高くなるに伴って低くなるので、低いほうから高いほうへとしだいに咲き進んでゆくのである。
(363)【釈】 春になってくるらしい。山と山との間から見える、山深く遠いほうにある木の梢が、しだいに花と咲いて、咲き進んでゆくのを見ると。
【評】 作者は山裾の、そこからは山峡を通して、山奥のほうが見えるところに住んでいるのであるが、春の遅いこうした所にも春が来るのであろうといって、その証として山峡を通して見られる奥山の木立の梢が花となり、その花がしだいに山深いほうへと咲き進んでゆくのをいっているのである。山桜の幾日かにわたってしだいに咲き登ってゆく状態を、体験として詠んでいる歌で、昂奮せず、静かな気分をもって、このように詠むということは、きわめて例の少ない、むしろ特殊なことである。「遠き木末の咲きゆく見れば」は、自然であって、同時に簡潔で、巧みな言い方である。
1866 春雉《きぎし》鳴《な》く 高円《たかまと》の辺《べ》に 桜花《さくらばな》 散《ち》りて流《なが》らふ 見《み》む人《ひと》もがも
春※[矢+鳥]鳴 高圓邊丹 櫻花 散流歴 見人毛我母
【語釈】 ○春雉鳴く高円の辺に 「春雉鳴く」は、※[矢+鳥]子は春鳴くものなので、ここでは眼前を捉えての修飾である。「高円」は、地名で、山にも野にもいっている。ここは広く高円の辺りに。○散りて流らふ 「流らふ」は、「流る」の連続状態で、雨が降り、風が吹くにもいう。ここは、花が散って落ちつついる意。○見む人もがも 「がも」は、願望の助詞。共に見る人が欲しいで、ひとり見るには惜しい。
【釈】 雉子が鳴いている高円の辺りに、桜花が散って落ちつついる。共に見る人が欲しい。
【評】 高円の桜花の散るさまの美しさを独りで眺めて、その美しさを人にも見せたいと思った心である。気分をとおしての叙景で、美しく豊かである。「春雉鳴く」という修飾が、その境を力強く生かしている。
1867 阿保山《あほやま》の 桜《さくら》の花《はな》は 今日《けふ》もかも 散《ち》り乱《みだ》るらむ 見《み》る人《ひと》なしに
阿保山之 佐宿木花者 今日毛鴨 散乱 見入無二
【語釈】 ○阿保山の 「阿保山」は、奈良市佐保田町の西不退寺の丘陵だと、『大日本地名辞書』はいっている。○桜の花は 原文、「佐宿木花者」。今のように訓むについては、「宿木」は鳥の宿る木、すなわちトクラと訓めるのをまたクラともいったという説。また神の宿る神座としての樹木の意から「宿木」と表記し、神座を意味するクラの語に当てて訓んだとする説などがある。○今日もかも散り乱るらむ 「かも」は疑問の係。
(364)【釈】 阿保山の桜の花は、今日は散り乱れているであろうか。見る人もなくて。
【評】 作者は阿保山の桜の盛りのさまを見た人で、「今日もかも」はその記憶からの推量である。作者としては心を尽くした歌であるが、客観化のあまりにも少ない作である。
1868 かはづ鳴《な》く 吉野《よしの》の河《かは》の 滝《たぎ》の上《うへ》の 馬酔木《あしび》の花《はな》ぞ 末《はし》に置《お》くなゆめ
川津鳴 吉野河之 瀧上乃 馬醉之花曾 置末勿勤
【語釈】 ○かはづ鳴く吉野の河の 「かはづ」は、河鹿で、奈良時代にはその声が甚だ愛された。初夏から鳴くものであるから、ここは吉野川の修飾としてのものとみえる。○滝の上の馬酔木の花ぞ 「滝」は、激流の称であるが、ここは転じて地名となったもので、吉野の離宮のほとりである。「ぞ」は、指定の助詞で、強く指定したもの。○末に置くなゆめ 諸注、訓がさまざまである。これは『古義』は「末」は「士」の誤写としたのであるが、『全註釈』は、「末」は義をもって「地」に当てたのだろうとしている。『注釈』は玉篇に「末」は「端也」とあるを引き、「山末」をヤマノハと訓む例などをあげ、ハシと訓むべきことをいっている。これに従う。「末《はし》に置く」は粗末に扱う意で、それに「な」と「ゆめ」との禁止を続けて、強く命令したもの。
【釈】 かわずの鳴く吉野の川の滝の上の、馬酔木の花という特殊のものであるぞ。けっして粗末には扱うな。
【評】 吉野へ遊んだ人が、吉野川の第一の佳景とされている「滝の上の馬酔木の花」を苞《つと》として折って来て、それを友に贈る時に添えた歌である。贈物をする時には、その物の良い物であることか、あるいは労苦して得た物であるかをいうのが礼となっているので、これはその馬酔木のはなはだ特殊なものであることをいって、さらに「末に置くなゆめ」と、強く要望までしているのである。これはそうした物を尊むことを知っている人だと解してのことで、こういうのも礼の範囲になっていたからのことである。心合いの友だったのであろう。
1869 春雨《はるさめ》に 争《あらそ》ひかねて 吾《わ》が屋前《やど》の 桜《さくら》の花《はな》は 咲《さ》きそめにけり
春雨尓 相爭不勝而 吾屋前之 櫻花者 開始尓家里
【語釈】 ○春雨に争ひかねて 春雨と争ったが、争い得ずして。これは、春雨は桜を咲かせようとして降り、桜は咲くまいと争ったが、かなわな(365)くなってという意で、奈良朝時代には一般性をもった通念となっていたのである。男女関孫を移入しての心持である。
【釈】 春雨に争いかねて、負かされて、わが家の庭の桜の花は、咲きそめたことであるよ。
【評】 庭桜の咲きそめたのを眺めての心である。初二句は奈良朝時代には常識に近くなっていたものであるが、春雨のあと、咲きそめた桜を見ると、耽美気分から男女関係を連想させられて、いまさらのごとく新鮮味を感じさせられて、いわゆる、自然は人を模倣すの感を起こしたのであろう。
1870 春雨《はるさめ》は 甚《いた》くな降《ふ》りそ 桜花《さくらばな》 いまだ見《み》なくに 散《ち》らまく惜《を》しも
春雨者 甚勿零 櫻花 未見尓 散卷惜裳
【語釈】 ○いまだ見なくに散らまく惜しも 「なく」は、打消の助動詞「ず」の未然形に、「く」の添った名詞形。見ないことなのに。「散らまく」も、「散らむ」の名詞形。
【釈】 春雨は甚しくは降るなよ。我は桜花をまだ見ないことなのに、散るであろうのは惜しいことだ。
【評】 降り続いている春雨に呼びかけてのもので、類歌の多いものである。謡い物の派を引いた歌で、明るく、軽く、四、五句など調子の好さを喜んだような歌である。
1871 春《はる》されば 散《ち》らまく惜《を》しき 梅《うめ》の花《はな》 片時《しまし》は咲《さ》かず 含《ふふ》みてもがも
春去者 散卷悟 梅花 片時者不咲 含而毛欲得
【語釈】 ○春されば散らまく惜しき 「春されば」は、「され」は、已然形で、「ば」は、定まっている条件を示すもの。春が来れば。「散らまく惜しき」は、散るだろうことの惜しい。○梅の花 「梅」は、「桜」とある古写本もあるが、元暦校本、類聚古集、西本願寺などは「梅」。上よりの続きから、「梅」のほうが妥当である。○片時は咲かず含みてもがも 「片時は咲かず」は、しばらくの間は咲かずしてで、「ず」は連用形。「含みてもがも」は、蕾んでいて欲しいで、「もがも」は願望。
【釈】 春が来れば、散るだろうことの惜しい梅の花は、しばらくは咲かずして、蕾んでいてほしいものだ。
(366)【評】 春の近い頃、梅の花の蕾がふくらんで、まさに開こうとするのに対しての心である。春が来れば梅の花は散るものとし、咲くを待つよりも散ることのほうを惜しんでいる心で、さらにいえば、未来の楽しさを夢みるよりも、楽しくなくても現状に満足しようとする心である。「片時は」と合理的な条件を付けているのもそのためである。老人の心といえる。
1872 見渡《みわた》せば 春日《かすが》の野辺《のべ》に 霞《かすみ》立《た》ち 咲《さ》き艶《にほ》へるは 桜花《さくらばな》かも
見渡者 春日之野邊尓 霞立 開艶者 櫻花鴨
【語釈】 ○咲き艶へるは 咲いて、美しい色をしているものは。
【釈】 見渡すと、春日の野辺に霞が立って、咲いて美しい色をしているのは桜花であろうか。
【評】 春日野を遊楽の場所としてきた奈良京の人が、遠望しての第一印象をいったものである。単純に率直に讃美の心をいっているので、おのずから趣あるものとなっている。
1873 何時《いつ》しかも この夜《よ》の明《あ》けむ 鶯《うぐひす》の 木伝《こづた》ひ散《ち》らす 梅《うめ》の花《はな》見《み》む
何時鴨 此夜之將明 ※[(貝+貝)/鳥]之 木傳落 梅花將見
【語釈】 ○何時しかも いつであるか、早く。「かも」は、疑問。○鶯の木伝ひ散らす 鶯が枝移りして、そのために散らすところの。
【釈】 早くこの夜の明ければよい。鶯が枝移りをして、そのために散らす梅の花の美しさを見よう。
【評】 まだ夜の明けない頃、屋内にいての想像である。この作者は、梅の花の散るのを惜しまないのみならず、鶯の木伝い散らすさまのおもしろさを想像して、夜明けを待っているのである。ものの趣には限界がない。こういわれると同感しうる心が誰にもある。梅の花が主で、鶯は副である。
月を詠める
(367)1874 春霞《はるがすみ》 たなびく今日《けふ》の 夕月夜《ゆふづくよ》 きよく照《て》るらむ 高松《たかまつ》の野《の》に
春霞 田菜引今日之 暮三伏一向夜 不穢照良武 高松之野尓
【語釈】 ○夕月夜 原文「暮三伏一向夜」。この用字の解は、『箋註和名抄』にあり、巻六(九四八)でいった。「三伏一向」は、当時行なわれた※[木+四]戯と称する遊戯の語で、四本の木片の一面は黒く、他面は白く塗った物を投げ、その三本が裏、一本が表の出た場合は「つく」と称したので、戯訓として「つく」に当てたのである。反対に「一伏三向」の時は「ころ」と称し、これも戯訓に用いている。「夕月夜」は、夕月と同意語である。呼びかけ。○高松の野に 「高松」は、「高円」を当時こうも呼んだので、『新考』が考証している。春日の高円で、高地であるがために、霞はかかっていない所としていっている。
【釈】 春霞のなびいている今日の夕月よ。さやかに照っていることであろう。高松の野には。
【評】 春の夕月が、霞の中におぼろに出ているのに対して、高地の高松の野には、さやかに照っているだろうと、遊覧場所として見なれている高松の野の空に想像してゆかしんだのである。後世は春のおぼろ月を愛するのであるが、奈良朝の人は、春の月でも澄んでいるもののほうを好んだのである。調べが気分を伝え得ていて、思い入つた心の感じられる歌である。
1875 春《はる》されば 樹《き》の木《こ》の暗《くれ》の 夕月夜《ゆふづくよ》 おぼつかなしも 山陰《やまかげ》にして
春去者 紀之許能暮之 夕月夜 欝束無裳 山陰尓指天
【語釈】 ○春されば樹の木の暗の 「春されば」は、春となったので。「樹の木の暗」は、「樹」は、木立。木の枝葉が繁って、光がとおさなかったことで、木下闇というにあたる。春がきたので、樹が木下闇となったところの。○夕月夜 夕月で、呼びかけ。○おぼつかなしも 明白でないことよ。○山陰にして 山陰なので。
【釈】 春が来たので、樹立の枝葉の茂りで暗い夕月よ。明白でないことよ。山陰なので。
【評】 山陰にあって、春の夕月に対しての感である。「おぼつかなしも」は、事に関係させての感とも、単に気分としての語とも取れる。心がおちついて、細かく働いている歌であるから、気分としての語と見て、おぼつかなさを楽しんでいると解すべきであろう。上には朧月よりも晴れた月を好む歌があったが、これは反対に、木の暗のかすかな月光を好んでいるのである。
(368) 一に云ふ、春《はる》されば 木《こ》のかげ多《おほ》き 暮月夜《ゆふづくよ》
一云、春去者 木陰多 暮月夜
【解】 上の歌の別伝で、二句、「樹の木の暗」が、「木のかげ多き」となっているのである。このほうが心は解しやすいが、それとともに、事に関係しての感という色合いが加わってくる。すなわち出歩いて、歩き難さの心と思われる。流動しての結果かと思われる。
1876 朝霞《あさがすみ》 春日《はるひ》の晩《く》れば 木《こ》の間《ま》より うつろふ月《つき》を 何時《いつ》とか待《ま》たむ
朝霞 春日之晩者 從木間 移歴月乎 何時可將待
【語釈】 ○朝霞春日の晩れば 「朝霞」は朝霞のかかっているで、状態を叙したもの。「春日の晩れば」は、春の日が暮れたならば。○木の間より移ろふ月を 木の間をとおして移動してゆく月を。○何時とか待たむ いつなのかと待とうで、待ち遠なことだの意。
【釈】 朝霞のかかっている春の日が暮れたならば、木の間をとおって移動する夕月を見られようか、待ち遠なことだ。
【評】 春の景物のうち、木の間を渡る夕月を最も楽しいものとし、朝よりその時を待ち遠に感じているという、特殊な趣味の歌である。奈良朝時代の気分を尊重する風の中にあっての歌で、理屈はないのである。しかし、さすがに他を頷かせうるものをもっている。
雨を詠める
1877 春《はる》の雨《あめ》に ありけるものを 立《た》ち隠《かく》り 妹《いも》が家道《いへぢ》に この日《ひ》暮《くら》しつ
春之雨尓 有來物乎 立隱 妹之家道尓 此日晩都
【語釈】 ○春の雨にありけるものを 春の雨であったのにで、春雨は降り出すと長く続いてやまないものとしていったもの。○立ち隠り 「立ち」(369)は接頭語。「隠り」は、雨から隠れてで、雨宿りして。○妹が家道にこの日暮しつ 「妹が家道」は、妹の家へ行く道、すなわち、途中。
【釈】 すぐにはやまない春の雨であったのに、雨宿りをして、妹の家へ行く途中で、今日の日を暮らした。
【評】 雨宿りをして一日を過ごし、最後に、春雨であったのにと心づいて歎息した心である。事を事としてのみいっている古風な歌である。
河を詠める
1878 今《いま》往《ゆ》きて 聞《き》くものにもが 明日香川《あすかがは》 春雨《はるさめ》零《ふ》りて たぎつ瀬《せ》の音《と》を
今徃而 聞物尓毛我 明日香川 春雨零而 瀧津湍音乎
【語釈】 ○聞くものにもが 「が」は、「も」を伴つての願望の助詞。「がも」と同じ。○たぎつ瀬の音を 「たぎつ瀬の音」は、たぎり流れる瀬の音で、春雨で水嵩の増した流れ。
【釈】 今行って、聞きたいものである。明日香川の春雨が降って水嵩が増して、たぎり流れる瀬の音を。
【評】 奈良遷都直後の人は、故京の明日香に対しての郷愁は深いものであったとみえ、その意の歌が少なくない。またこの時代の人は、河瀬の音に深い愛好を感じていて、その意の歌も多い。山川の趣をもった明日香川は、雨でただちに瀬の音が高まったと見えるのに、その雨が春雨であるから、一段と郷愁をそそられるものがあったろう。気分の歌ではあるが、その気分の動きにはもっともなところがあって、この歌を軽くないのみならず、一種の深みあるものにしている。
煙を詠める
1879 春日野《かすがの》に 煙《けぶり》立《た》つ見《み》ゆ ※[女+感]嬬《をとめ》らし 春野《はるの》の菟芽子《うはぎ》 採《つ》みて煮《に》らしも
春日野尓 煙立所見 ※[女+感]嬬等四 春野之菟芽子 採両※[者/火]良思文
(370)【語釈】 ○※[女+感]嬬らし おとめを複数とし、「し」を添えて強めたもの。おとめが集団的に行ない、またおとめに限る事であったとみえる。○春野の菟芽子 「菟芽子」は、巻二(二二一)に出た。今の嫁菜の古名。これはいわゆる若菜の範囲のもので、若菜の羮は長寿を保たせる物として、後世でも重んじた。ここもその心のものである。○採みて煮らしも 野で採んで、煮るのであろうで、「煮らし」は、動詞「煮る」に、助動詞「らし」の接したもの。「らし」は終止形接続の助動詞、上一段活用動詞の終止形は古くは語幹だけで終わっていたらしいという(『古典大系』)。また上代では「らむ」「べし」などと同じく連用形に接続したともいわれている(『注釈』)。「も」は、詠歎。
【釈】 春日野に煙の立つのが見られる。あれはおとめたちが、春の野の嫁菜を摘んで、煮るのであろうよ。
【評】 春日野に煙の立つのを遠望して、おとめたちが嫁菜を摘んで煮ているのだろうと推量したのである。春の若莱を食べることは、それをすると長寿を保ちうるという信仰からのことで、これは根深いものであったと思われる。また若菜を摘むのは若い女のすることであった。この時代は神仙思想のかなり広く浸み渡っていた時代で、その方面からいうと、仙女は不老不死の仙薬として若菜を摘んで食べることが、巻十六、竹取の翁の歌に詳しくいわれている。作者の想像には、仙女のそうしたことが絡んでいたとみえる。もっともそれは気分のつながりとしてのもので、そうしたことは、それとなく幽かにいうことを好んだ詠み方において絡ませているものと思われる。現在から見るときわめて平凡な歌ではあるが、この当時としてはただちにそれと感じられる、相応に巧みな歌に見えたものであろう。
1880 春日野《かすがの》の 浅茅《あさぢ》が上《うへ》に 念《おも》ふどち 遊《あそ》ぶ今日《けふ》の日は 忘らえめやも
(371) 春日野之 淺茅之上尓 念共 遊今日 忘目八方
【語釈】 ○浅茅が上に 「茅」は茅草で、「浅」は丈の低い意。「上」は、その上でで、丈低いものである茅草を敷いて。○念ふどち 思い合う人たち。○遊ぶ今日の日は 諸注、訓はさまざまである。『定本』の訓。○忘らえめやも 「や」は反語。
【釈】 春日野の浅茅を敷いて、思い合う人たちが遊んでいる今日という日は、忘れられようか、忘られはしない。
【評】 上代人は好んで野遊びをしている。家が狭く室内の集会はできにくかつたからでもあろう。春日野は奈良京の人には絶好な野遊びの場所だったのである。この歌は、そういう際には、代表的な人が挨拶の意をもって詠むことになっていたので、これはそれであろう。要を得た歌である。
1881 春霞《はるがすみ》 立《た》つ春日野《かすがの》を 往《ゆ》き還《かへ》り 吾《われ》は相見《あひみ》む いや毎年《としのは》に
春霞 立春日野乎 往還 吾者相見 弥年之黄土
【語釈】 ○往き還り 往き還りしてで、下の続きから見ると、長くということを具象的にいったもの。○吾は相見む 「相」は、接頭語で、見よう。○いや毎年に 一段と毎年にで、永久にの心。
【釈】 春霞の立つ春日野を、往き還りして吾は見よう。今後も毎年に。
【評】 春の春日野に遊んで、楽しく心満ち足りたところから、今後も永久にこのようにしようと、我とわが身を賀した心である。奈良京の宮人の心の、端的な現われである。
1882 春《はる》の野《の》に 心《こころ》のべむと 思《おも》ふ共《どち》 来《こ》し今日《けふ》の日《ひ》は 暮《く》れずもあらぬか
春野尓 意將述跡 念共 來之今日者 不晩毛荒粳
【語釈】 ○春の野に心のべむと 「のべむと」は、『代匠記』精撰本の訓で、『新訓』も従っている。心を伸ばそうと。○来し今日の日は 『古義』の訓。○暮れずもあらぬか 暮れずにはいてくれぬかで、いてくれよとの願望。
(372)【釈】 春の野へ、心を伸ばそうと、思い合う人たちが来た今日は、暮れずにはいてくれないかなあ。
【評】 これも野遊びの時の挨拶の歌で、興は尽きないのに、日は暮れようとする時に詠んだものである。もし主客とがあれば、客方の歌である。
1883 ももしきの 大宮人《おほみやびと》は 暇《いとま》あれや 梅《うめ》を挿頭《かざ》して ここに集《つど》へる
百礒城之 大宮人者 暇有也 梅乎挿頭而 此間集有
【語釈】 ○ももしきの大宮人は 「ももしきの」は、「大宮」の枕詞。大宮人は、男女百官の総称だが、ここは男だけであろう。○暇あれや 「や」は疑問の係助詞。○梅を挿頭して 宴会をする時には時の花を挿頭にするのが風となっていた。礼儀から興味に移ってきていた。○ここに集へる 「ここ」は、庶民の見る場所であるから、野辺である。「集へる」は、「や」の結、連体形。
【釈】 ももしきの大宮人は暇があるのであろうか。梅の花を挿頭《かざし》として、ここに集まっている。
【評】 大宮人の野遊びのさまを見かけた庶民の心で、感じたことは「暇あれや」と訝かったことである。これは庶民の多忙な営みに比較しての素朴な訝かりである。しかし直覚的な批評ともいえるものである。とにかく、距離をもって見ての語である。
旧《ふ》りにしを歎く
1884 冬《ふゆ》過《す》ぎて 春《はる》し来《きた》れば 年月《としつき》は 新《あら》たなれども 人《ひと》は旧《ふ》りゆく
寒過 暖來者 年月者 雖新有 人者舊去
【語釈】 ○冬過ぎて春し来れば 原文「寒」と「暖」を「冬」「春」と訓むのは前の(一八四四)に出た。○年月は新たなれども 年と月とは新しいものとなるけれども。
【釈】 冬が過ぎて春が来ると、年と月とは新しいものとなったけれども、人のほうは古くなってゆく。
【評】 老齢の人の新年に際して感じた心である。人間共通の感情で、時を超えたものである。四、五句、対照法で、全体が漢(373)文口調である。作者を思わせる。
1885 物《もの》皆《みな》は 新《あらた》しき良《よ》し ただ人《ひと》は 旧《ふ》りぬるのみし 宜《よろ》しかるべし
物皆者 新吉 唯人者 舊之 應宜
【語釈】 ○ただ人は ひとり人間は。○旧りぬるのみし宜しかるべし 古くなった者だけが、よいようであるで、「べし」は推量の助動詞。
【釈】 すべての物は新しいものが良い。ひとり人は、古くなったものだけがよいようである。
【評】 老齢の人の、我と慰めた心である。この歌は上の歌よりも際立った対照法を用い、同じく漢文口調であるところから、前の歌の作者と同一人で、二首、『代匠記』のいうごとく連作と思われる。
逢へるを懽《よろこ》ぶ
1886 住吉《すみのえ》の 里《さと》行《ゆ》きしかば 春花《はるばな》の いやめづらしき 君《きみ》にあへるかも
住吉之 里行之鹿齒 春花乃 益希見 君相有香聞
【語釈】 ○住吉の里行きしかば 「里行きし」の原文は、諸本「里得之」。訓は、「里を得し」であるが、それでは意が通じないところから、『考』は、「得」は、「行」の草体を誤ったものだろうとして今のごとく改めたものである。以後の注はすべて従っている。住吉の里へ行った時で、「住吉」を旅先の、勝れた地としていったもの。○春花のいやめづらしき 「春花の」は、春の花のごとくで、譬喩の意で「めづらし」にかかる枕詞。「いやめづらしき」は、いよいよ愛でたいで、枕詞と続けて旧知の女と思われる。○君に逢へるかも 「君」は、女性であるがゆえの敬称。
【釈】 住吉の里へ行った時、春花のようにいよいよ愛でたい君に逢ったことであるよ。
【評】 奈良京にいる人が、住吉へ旅をして、偶然にも旧知の女に逢って、挨拶として贈った歌である。「春花のいやめづらしき君」は、もし男性だとすれば、よほど身分の高い人にいう語で、それだとすれば、所在も知らずにいたということは礼を失したことで、女性であって初めて妥当となる語だからである。喜んでの挨拶であるが、挨拶という感のあらわな歌である。「春花の」の枕詞によって、春雑歌に加えてある。
(374) 旋頭歌
1887 春日《かすが》なる 三笠《みかさ》の山《やま》に 月《つき》も出《い》でぬかも 佐紀山《さきやま》に 咲《さ》ける桜《さくら》の 花《はな》の見《み》ゆべく
春日在 三笠乃山尓 月母出奴可母 佐紀山尓 開有櫻之 花乃可見
【語釈】 ○月も出でぬかも 月が出ないのかなあで、出てくれよと願望したもの。○佐紀山 「佐紀」は、平城宮の北方の地名。佐保山の西に続く低い山。○見ゆべく 見えるように。
【釈】 春日の三笠の山に、月が出ないのかなあ。佐紀山に咲いている桜の花の見えるように。
【評】 佐紀山に近い所で宴を張っていて、夕方うす暗くなった時に、宴歌として詠んだものと思われる。旋頭歌は短歌よりはるかに謡い物的で、また実際に謡う上でも、短歌より伸びやかなので、宴歌には適した形である。奈良朝は復古気分の興っていた時代であるから、一度は衰えた旋頭歌が、そうした場合には喜ばれたことと思われる。
1888 白雪《しらゆき》の 常敷《つねし》く冬《ふゆ》は 過《す》ぎにけらしも 春霞《はるがすみ》 たなびく野辺《のべ》の 鶯《うぐひす》鳴《な》くも
白雪之 常敷冬者 過去家良霜 春霞 田菜引野邊之 ※[(貝+貝)/鳥]鳴焉
【語釈】 ○白雪の常敷く冬は 「常敷く」は、永く敷いているで、冬の特色をいったもの。
【釈】 白雪が絶えず地に敷いている冬は過ぎたらしい。春霞のたなびいている野べの鶯が鳴いている。
【評】 春の来た喜びをいったものである。それをいうに、本の三句は冬の特色をいい、その去ったことを添え、末の三句は春の特色をいい、その来たことをいって、対照法を利用して言い現わしている。これは旋頭歌の形式を利用しているためである。しかし全体として、一種の説明となっているのも同じく旋頭歌の形式のさせていることで、その得失は言い難いものである。
譬喩歌
(375)1889 吾《わ》が屋前《やど》の 毛桃《けもも》の下《した》に 月夜《つくよ》さし 下心《したごころ》吉《よ》し うたてこの頃《ごろ》
吾屋前之 毛桃之下尓 月夜指 下心吉 菟楯頃者
【語釈】 ○毛桃の下に月夜さし 「毛桃」は、桃の一種で、実の外皮に毛の多い物。これは最も普通なものであった。「下」は、木の下。「月夜さし」は、月光が枝葉を漏れてさして。○下心吉しうたてこの頃 「下心」は、内心というにあたる。「吉し」は、良しで、快い意。「うたて」は、以前とちがつての意の副詞。「この頃」は、この頃はで、以前と比較してのもの。
【釈】 わが家の庭の毛桃の木の下まで月がさして、内心気持がよい。以前とはちがってこの頃は。
【評】 「下心吉しうたてこの頃」が内容で、この頃は以前とはちがつて内心気持がよいというのが全体である。何で気分がよいのかについては全く語っていない。「吾が屋前の毛桃の下に月夜さし」は、その気分の前に展《ひら》けている景で、気分がよいので、それも同じく気分よく感じられるという範囲のものである。作者はたぶん永い間恋の悩みをしていたのが、この頃はそれが成立ちそうに思われての気持よさであろう。しかしこれは想像にすぎないものである。こうした気分そのものをいうのみの歌は、奈良朝時代の新風である。気分の原因をなす事件を暗示にとどめる歌を譬喩歌とすると、この種の歌はすでに何首かあった。
春相聞
【解】 以下の七首は、左注があって、「柿本朝臣人麿の歌集に出づ」とあるものである。相聞の歌はすべて「……に寄す」として分類しているのに、この七首にはそれをしていない。人麿歌集の歌に限って、分類を加えず、原形のままにしているのである。
1890 春日野《かすがの》に 友鶯《ともうぐひす》の 鳴《な》き別《わか》れ かへります間《ま》も 思《おも》ほせ吾《われ》を
春日野 友※[(貝+貝)/鳥] 鳴別 眷益間 思御吾
【語釈】 ○春日野に友鶯の 「友鶯」は、鶯の連れ立っているように見えるところから、友とみなしての称。詩的解釈の称である。春日野で、友鶯(376)が鳴いてと続き、「鳴き」にかかる序詞。眼前を捉えてのものである。○鳴き別れかへります間も 「鳴き別れ」は、男が別れを惜しんで泣いて別れてで、「別れ」は連用形で下へ続く。「帰ります」は、「帰る」の敬語。女が男に対して用いているものである。家に帰られるしばらくの間でもで、男が女の家を訪うたのである。○思ほせ吾を 「思ほせ」は、「思へ」の敬語で、命令形。思い給えよ吾を。
【釈】 春日野で、友鶯が鳴いている。それに因《ちな》みある、別れを惜しんで泣いて別れて、家へ帰られる間をも、思い給えよ吾を。
【評】 作者は春日野に住んでいる女で、男が訪れて、別れようとする時に、女が愛のかわらないようにと訴えた歌である。敬語を二つまで続けているのも異様であるし、一首の調べがたどたどしく、一貫しての力はもっていない。作歌に慣れない女の、その場での咄嗟の作という趣をもったものである。人麿歌集の歌なので、一応人麿の作ではないかとの感を起こさせるが、作風から見て、全く趣を異にしたものである。人麿歌集の中にも、全く無関係の人の作が記憶のために記されたものもありうることだが、あるいは人麿が関係した女の歌で、人麿に贈ったものであるかもしれぬ。それだとさらに可能性が多くなる。
1891 冬《ふゆ》ごもり 春《はる》咲《さ》く花《はな》を 手折《たを》りもち 千遍《ちたび》の限《かぎり》 恋《こ》ひ渡《わた》るかも
冬隱 春開花 手折以 千遍限 戀渡鴨
【語釈】 ○冬ごもり春咲く花を 「冬ごもり」は、「春」の枕詞。「春咲く花」は、美しさのほうに重点を置き、梅とも桜とも限らないものである。これは思う女の譬喩としてのもので、その美しさを強くあらわそうとしてのものである。○千遍の限恋ひ渡るかも 「千遍」は、千度。「限」は、及びうる最後の点の意で、千度までも。「恋ひ渡るかも」は、恋いつづけることよ。
【釈】 冬ごもり春を咲く美しい花を折って持って、千度までも恋いつづけていることであるよ。
【評】 「春咲く花を手折りもち」は、美しい女で、距離をもった、つながりのない女を連想して、その関係においていっているもので、「千遍の限恋ひ渡る」も、漠然たる憧れの強さをいったものである。一首、自身の心やりの歌である。漠然たる気分をそのままに、他に通じると通じないとは問題にせず、強く言い放つ態度は、人麿以外には見られないものである。具象化は、おのずからに添ったというべきである。
1892 春山《はるやま》の 霧《きり》に惑《まと》へる 鶯《うぐひす》も 我《われ》にまさりて 物《もの》念《おも》はめや
(377) 春山 霧惑在 ※[(貝+貝)/鳥] 我益 物念哉
【語釈】 ○春山の霧に惑へる 「霧」は、上代は霞と通じて用いていて、その間に差別がなかった。ここは後世の霞の意のものである。春山の霞の中に、行くべき方角を失って惑っている。○物念はめや 「物念ふ」は嘆きで、「や」は反語。
【釈】 春山の霞の中に、その行くべき方角に惑っている鶯も、我にまして嘆きをしていようか、してはいない。
【評】 女に懸想をして、よる術《すべ》もなく当惑している折、春山の深い霞の中に鳴いている鶯の声を聞いて、捉えて自身の譬喩にしたものである。この歌の魅力は、譬喩の新鮮で美しい点にもあるが、それにも勝るのは、調べの強さで、その熱意と、もてあまして投げ出そうとするがごとき気息が、調べによって具象されている点にある。
1893 出《ゝ》でて見《み》る 向《むか》ひの岡《をか》に 本《もと》繁《しげ》く 咲《さ》きたる花《はな》の 成《な》らずは止《や》まじ
出見 向岡 本繁 開在花 不成不止
【釈】 ○出でて見る向ひの岡に 家を出ると見るものになっている向かいの岡に。○本繁く咲きたる花の 「本」は、木の幹。「繁く」は、繁くしてで、幾本も群がり立っている木。「咲きたる花の」は、今咲いている花で、果樹である。以上四句は、花の実となる意で、「成る」の序詞。○成らずは止まじ 「成る」は、花の実と成るを、恋の成立する意の成るに転じさせたもので、わが恋を成立たせなければやめまい。
【釈】 家を出ると見るものになっている向かいの岡に、幹が繁く立っている木に、今咲いている花の実と成る、それに因みあるわが恋も成らせずにはやめまい。
【評】 この歌も、片恋の悩みに、眼前に見る繁く咲いている花に刺激されて、花に関係のある「成らずは止まじ」という慣用されている成句を思い起こし、我もその心をもとうと思った心のものである。初句より四句までを序詞としているのは、「成らずは」を力強いものとしようがためのもので、修辞的技巧のものではなく、必要よりのものである。一成句を生かそうための歌であるが、調べの力はそれを概念的なものにしていない。
1894 霞《かすみ》たつ 春《はる》の永日《ながひ》を 恋《こ》ひ暮《く》らし 夜《よ》の深《ふ》けゆけば 妹《いも》にあへるかも
(378) 霞發 春永日 戀暮 夜深去 妹相鴨
【語釈】 ○夜の深けゆけば妹にあへるかも 「夜の深けゆけば」は、旧訓。女と相逢う約束をしてあって、その時問が来て。「妹にあへるかも」は、初めて妹に逢ったことであるの意。
【釈】 霞の立つ春の永い日を恋い暮らして、夜が更けて、妹に逢ったことである。
【評】 初句より四句までは時間の推移をいったものである。これはいかにその時間の来るのを待ったかという気分をあらわしたもので、喜びの心からのものである。結句の「妹に逢へるかも」は、それによって初めて逢う妹であることをおのずからあらわすものとなっている。一首、喜びの気分の表現である。上の「冬隠り」の歌からこの歌までの四首は、一人の女との関係を連作にしたものとみえる。連作としてもすぐれたものである。
1895 春《はる》されば 先《ま》づ三枝《さきくさ》の 幸《さき》くあらば 後にもあはむ な恋《こ》ひそ吾妹《わぎも》
春去 先三枝 幸命在 後相 莫戀吾妹
【語釈】 ○春されば先づ三枝の 「春されば」は、春が来れば。「先づ三枝の」は、「さき」は掛詞になっており、まず咲く三枝ので、二句、同音反覆で、「幸」の序詞。「三枝」は、『新撰姓氏録』『日本書紀』『和名類聚抄』などの古書に出ているもので、古くから名高い草木であるが、その名が伝わっていない。諸説があるが、一定しない。「三枝」は、枝の形状の特色であろうし、春早く花の咲くものであることは、この歌でも知られる。今は未定とするほかはない。
【釈】 春が来れば、まず花が咲く三枝に因みある、幸くつつがなくあったならば、後にも逢おう。我を恋うるなよ妹よ。
【評】 妻と別れようとする時の歌である。ある期間の別れで、おちついた詠み方をしているので、長途の旅に立った時などであろう。「後にも逢はむ」と慰め、「な恋ひそ吾味」と、妹の心を傷めて健康を損じることを気づかう、妹中心の歌である。序詞は眼前を捉えたものかと思われる。それだと春の初め三枝の咲いている頃である。
1896 春《はる》されば しだり柳《やなぎ》の とををにも 妹《いも》は心《こころ》に 乗《の》りにけるかも
(379) 春去 爲垂柳 十緒 妹心 乘在鴨
【語釈】 ○春さればしだり柳の 「しだり柳」は、その枝の長く撓《たわ》む意で、「とをを」にかかる序詞。○とををにも 「とををに」は、撓むまでにの意の副詞で、「乗り」に続く。○妹は心に乗りにけるかも 妹はわが心の上に乗っていることであるよ。
【釈】 春になるとしだり柳の枝が撓む、それに因みある、その重さで撓むまでに、妹はわが心に乗っていることであるよ。
【評】 眼前を捉えて序詞として、妹が心にかかって離れないことをいっているものである。四、五句は、巻二(一〇〇)「東人の荷向《のささき》の箱の荷の緒にも妹は情《こころ》に乗りにけるかも」があるが、人麿のこの歌は、その同じことを、眼前の自然を捉えて序詞にすることによって、美しく気分化しているのである。単純な歌であるが、感性と手腕とを思わせるものである。
右は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
右、柿本朝臣人麿謌集出。
鳥に寄す
1897 春《はる》されば 百舌鳥《もず》の草潜《くさぐき》 見《み》えずとも 吾《われ》は見遣《みや》らむ 君《きみ》があたりをば
春之在者 伯勞鳥之草具吉 雖不所見 吾者見將遣 君之當乎婆
【語釈】 ○百舌鳥の草潜 「百舌鳥」は、今も親しまれている小鳥。「草潜」は、「潜」は、くぐるの意の古語で、上二段活用の語。「草潜」は、草に潜る意で、名詞。百舌鳥は、秋季にはよく活動するが、春季は人里近くは見えないところから、草の中に潜り入っていると解したのではないかという。「見えず」にかかる序詞。○見えずとも吾は見遣らむ 見えなかろうとも、我は見やろう。○君があたりをば 「君」は夫で、夫が住んでいる辺りをば。
【釈】 春になると百舌鳥が草潜りをしていて見えなくなる、それに因みある、たとい見えなかろうとも、我は見やろう。君が住む辺りをば。
【評】 妻が夫を恋うての歌である。特色は序詞にある。「春されば百舌鳥の草潜」は、眼前を捉えてのもので、春の野の実際に即したものである。親しく農耕をしている者の間にのみ通じるもので、この男女の身分を暗示しているものである。「見え(380)ずとも」以下も、抒情を通じてこの男女の住む辺りの状態をおのずから描き出しているもので、一首、庶民生活を暗示的に漂わしている。そこに趣がある。
1898 容鳥《かほどり》の 間《ま》なく数鳴《しばな》く 春《はる》の野《の》の 草根《くさね》の繁《しげ》き 恋《こひ》もするかも
容鳥之 間無数鳴 春野之 草根乃繁 戀毛爲鴨
【語釈】 ○容鳥の間なく数鳴く 「容鳥」は、かっこう鳥かという。既出。「間なく数鳴く」は、間断なくしきりに鳴くで、「春の野」の修飾。○春の野の草根の繁き 「草根」は、草で、根は接尾語。意味で「繁き」と続き、初句から、これまではその序詞である。
【釈】 かっこう鳥が間断なくしきりに鳴く春の野に生えている草の、その繁きに因みある、繁く暇のない恋をしていることであるよ。
【評】 これは男の片恋の嘆きである。三句余りを序詞としている歌で、特色はそこにある。容鳥をかっこう鳥とすると、それは片恋をしている鳥である。とにかく問なく数鳴いているのである。その鳴いている春の野は、春草が繁く生えていて、それらが無理なく続けられて序詞となっているのである。序詞ではあるが気分の具象となっているもので、一首の主体となっている。新傾向の歌である。調べに冴えはないが、心を尽くし得ている歌である。
花に寄す
1899 春《はる》されば 卯《う》の花《はな》ぐたし 吾《わ》が越《こ》えし 妹《いも》が垣間《かきま》は 荒《あ》れにけるかも
春去者 宇乃花具多思 吾越之 妹我垣間者 荒來鴨
【語釈】 ○春されば卯の花ぐたし 「ぐたし」は、本来は清音であるが、熟語のために濁音となっているもの。朽ちさせる意で、ここは下の続きで、卯の花を踏みしだいて朽ちさせる意である。卯の花は春の花ではないから誤写だという解がある。ここは「春されば」は、思い出として広くいっているものであるから、不自然とまではいえないものである。○吾が越えし妹が垣間は わが乗り越えた妹の家の垣間で、卯の花はその垣間に添っていたのである。これで忍んで通う関係だったと知られる。「垣間」は、垣の間をいう。
(381)【釈】 春になると、卯の花を踏みしだいて朽ちさせて、わが乗り越えた妹の家の垣根は、荒れたことであるよ。
【評】 何らかの事情で、やや久しく通うことのできなかった妹の家の垣根の、荒れてしまっているのを見ての感傷である。「春されば卯の花ぐたし」は、通っていた頃の記憶の中で、最も印象の深いもので、たぶんは通いはじめた当座の記憶でもあろう。
1900 梅《うめ》の花《はな》 咲《さ》き散《ち》る苑《その》に 吾《われ》ゆかむ 君《きみ》が使《つかひ》を 片待《かたま》ちがてり
梅花 咲散苑尓 吾將去 君之使乎 片待香花光
【語釈】 ○咲き散る苑に 「咲き散る」は、咲いて散るであるが、散るに重点を置いての語。○片待ちがてリ 「片待ち」は、ひたすらに待つ意。「がてり」は、事を兼ねる意で、かたがたというにあたる。
【釈】 梅の花の散っている苑に我は行こう。君からの使いをひたすらに待つのを兼ねて。
【評】 ある程度身分ある家の娘の歌である。気分が少なく、画面を想像させる歌である。あるいは題画の歌ではないか。
1901 藤浪《ふぢなみ》の 咲《さ》ける春野《はるの》に 蔓《は》ふ葛《かづら》 下《した》よし恋《こ》ひば 久《ひさ》しくもあらむ
藤浪 咲春野尓 蔓葛 下夜之戀者 久雲在
【語釈】 ○藤浪の 「藤浪」は、藤が地に這い拡がっている状態からの称で、転じて藤の花の意となった。○蔓ふ葛 「葛」は、草生植物の総称で、ここは上の藤浪の蔓である。這っている蔓は、咲いている花に対しては下になっている意で、「下」にかかる序詞。○下よし恋ひば 「下」は、下ごころ。「よ」は、よりの意の助詞。「し」は、強意。心の中に恋うていたら。○久しくもあらむ 時間のかかることであろう。
【釈】 藤の花の咲いている春の野に這っているその蔓の、花の下となっているのに因みある、我も下ごころに恋うていたら、時間のかかることであろう。
【評】 懸想の心を抱きながら言い出せずいる男が、藤の花の下に這っている蔓を見て、自分の状態を連想し、それを序詞として、もどかしさを嘆いた歌である。序詞は気分の具象になっているものである。藤の花の下になっている蔓という特殊な点に(382)着目しているのが、もどかしさをあらわすものになっている。
1902 春《はる》の野《の》に 霞《かすみ》たなびき 咲《さ》く花《はな》の かくなるまでに 逢《あ》はぬ君《きみ》かも
春野尓 霞棚引 咲花之 如是成二手尓 不逢君可母
【語釈】 ○咲く花のかくなるまでに 「かくなる」は、このように盛りになるまでも。
【釈】 春の野には霞がたなびいて、咲く花がこのように盛りになるまでも、来ない君であるよ。
【評】 男の足遠くしている嘆きである。春の野の状態を言いつづけているのは、女がたまたま野に出て、春の深くなっているのを感じたからで、そこに女の身分、生活が出て、淡いながら味わいとなっている。詠み方も暢びやかに静かで、貴族的である。
1903 吾《わ》が背子《せこ》に 吾《わ》が恋《こ》ふらくは 奥山《おくやま》の 馬酔木《あしぴ》の花《はな》の 今《いま》盛《さかり》なり
吾瀬子尓 吾戀良久者 奧山之 馬醉花之 今盛有
【語釈】 ○吾が恋ふらくは 「恋ふらく」は、「恋ふ」の名詞形。○馬酔木の花の 「の」は、のごとくで、「盛」の譬喩。眼前を捉えていっているもの。
【釈】 わが背子にわが恋うていることは、この奥山の馬酔木の花のように、今盛りである。
【評】 この作者は、上の歌の作者とはちがって庶民である。「奥山の馬酔木の花」は、庶民でなくては捉えられない譬喩である。「吾が背子に吾が恋ふらく」は、じつに素朴で、直截で庶民の口吻である。そこに味わいがある。上の歌と対照して、貴族と庶民との距離が遠くなってきているのがみえる。
1904 梅《うめ》の花《はな》 しだり柳《やなぎ》に 折《を》りまじへ 花に供養《そな》へば 君《きみ》に逢《あ》はむかも
(383) 梅花 四垂柳尓 折雜 花尓供養者 君尓相可毛
【語釈】 ○梅の花しだり柳に 梅の花を、しだり柳の枝にで、いずれも早春の代表的に美しい物。○花に供養へば 「花に」は、供華《くげ》としてで、仏に供える花。「供養へば」は、用字によって仏に対してのものである。○君に逢はむかも 「かも」は、疑問。
【釈】 梅の花をしだり柳の枝に折りまぜて、供華として仏に供えて祈ったならば、君に逢えることであろうか。
【評】 仏に供華をしたならば、その功徳で足遠くしている夫に逢えようかと、心を動かした歌である。仏が神と同じく身近かなものになっていたが、ある距離をもっていたことがうかがわれる。身分ある女らしいことも関係しているといえよう。仏に恋を祈る歌として時代的に珍しいものである。
1905 をみなへし 咲《さ》く野《の》に生《お》ふる 白躑躅《しらつつじ》 知《し》らぬこともち 言《い》はれし吾《わ》が背《せ》
姫部思 咲野尓生 白管自 不知事以 所言之吾背
【語釈】 ○をみなへし咲く野に生ふる白躑躅 「白」を「知ら」と同音反復で懸けたもので、初句よりこれまでは序詞。巻四(六七五)に類似の序詞がある。○知らぬこともち言はれし吾が背 「知らぬこともち」は、身に覚えのないことをもってで、この作者との関係をいったもの。実際に関係があるが、冷淡にしているので、恨みの心からわざと皮肉にいったもの。「言はれし吾が背」は、言い騒がれたわが夫よ。
【釈】 女郎花の咲く野に生えている白躑躅の、その白に因みある、知らない、覚えのないことのために人に言い騒がれた、わが背よ。
【評】 疎遠な夫に贈った歌である。恨みを皮肉にいったものであるが、婉曲に徹底させていて、じつに巧みである。その序詞も、花の名を二つまで重ねて美しくしているのは、皮肉を婉曲化する上に役立たせている。才女の口吻で、その才が夫を疎遠にさせていたのかもしれぬ。
1906 梅《うめ》の花《はな》 吾《われ》は散《ち》らさじ あをによし 平城《なら》なる人《ひと》の 来《き》つつ見《み》るがね
梅花 吾者不令落 青丹吉 平城之人 來管見之根
(384)【語釈】 ○吾は散らさじ 吾は散らすまいで、心持としていっているもの。事実としては不可能なことである。○平城なる人の 原文「平城之人」。『略解』は、「之」は「在」の誤写としてこのように訓んでいる。誤写はとにかく、このように訓ませようとしての字と思える。奈良に住んでいる人で、指す人があつてのもの。○来つつ見るがね 「来つつ」は継続。「見るがね」は、見る料に、見るために。
【釈】 梅の花を吾は散らすまい。奈良に住んでいる人の来て見る料に。
【評】 奈良以外の人の、奈良に住んでいる人に、梅の頃、訪い来たまえと誘う心で贈った歌である。この当時は、梅はさして珍しい物ではなかったので、梅の花は誘う口実である。「散らさじ」は、訪問を切望する心、「来つつ」は、その花の好いことを暗に知らせたもので、風流を誇りとし合う間の歌である。
1907 かくしあらば 何《なに》か植《う》ゑけむ 山吹《やまぶき》の 止《や》む時《とき》もなく 恋《こ》ふらく念《おも》へば
如是有者 何如殖兼 山振乃 止時喪哭 戀良苦念者
【語釈】 ○かくしあらば何か植ゑけむ 「かくしあらば」は、このようにあるのだったらで、四、五句の内容を指示したもの。「何か植ゑけむ」は、何だつて植えたのだったろうと、悔いての心。○山吹の止む時もなく 「山吹の」は、上の「植ゑけむ」とあるもので、今花の咲いているものであるが、同時にそれを、同音反復で「止む」の枕詞としているものである。「止む時もなく」は、絶えずで、山吹の花の盛りの久しいことを絡ませてある。○恋ふらく念へば 「恋ふらく」は、「恋ふ」の名詞形。恋うることを思うとで、山吹の花の美しさの連想から、恋ごころを刺激される意。
【釈】 このようにあるのだったら、何だって植えたのだったろう。山吹の花のそれに因みある、やむ時もなく恋うることを思うと。
【評】 女に贈った歌である。庭に植えた山吹の花の盛り久しいのを見ると、その花に刺激されて絶えず恋の苦しみをしているといい、植えたことをいたく悔いるというのは、無論誇張しての訴えである。それがさして誇張に見えないのは、事としていわず、気分としていっているがためで、この歌では重いものである山吹を、枕詞の形にして扱い、「恋ふらく」の対象をいわないのもそのためである。この気分は、意識して技巧として行なっているものである。
霜に寄す
(385)1908 春《はる》されば 水草《みくさ》の上《うへ》に 置《お》く霜《しも》の 消《け》つつも我《われ》は 恋《こ》ひ渡《わた》るかも
春去者 水草之上尓 置霜之 消乍毛我者 戀度鴨
【語釈】 ○水草の上に置く霜の 「水草」は、水中、水辺の草の総称。実景としてのものと取れる。「置く霜の」は、意味で「消」と続き、初句より三句までは序詞。○消つつも 「消つつも」は、消え失せつつで、死ぬほどにしつつも。
【釈】 春になると、水草の上に置く霜が消える、それに因みある、我も消え失せつつも恋い続けていることであるよ。
【評】 女に訴えた歌である。序詞は眼前を捉えたものとみえる。しかし類型によってのことである。意図をもってのもので、感動の伴わないものである。
霞に寄す
1909 春霞《はるがすみ》 山《やま》にたなびき おほほしく 妹《いも》を相見《あひみ》て 後《のち》恋《こ》ひむかも
春霞 山棚引 欝 妹乎相見 後戀毳
【語釈】 ○春霞山にたなびき 意味で「おほほしく」にかかる序詞。○おほほしく 巻二(一七五)以下しばしば出た。はっきりとせずで、わずかにの意。
【釈】 霞が山にたなびいておぼつかない、それと因みある、おぼつかなく妹と逢って、後になって恋うることであろうよ。
【評】 男が初めて相逢った女と別れしなに、女に贈った歌と思われる。序詞は眼前を捉えたものとみえる。「おほほしく」は、大体灯のない所で逢ったからで、当時にあっては普通のことであった。気分的な詠み方の歌である。
(386)1910 春霞《はるがすみ》 立《た》ちにし日《ひ》より 今日《けふ》までに 吾《わ》が恋《こひ》止《や》まず 本《もと》の繁《しげ》けば
春霞 立尓之日從 至今日 吾戀不止 本之繁家波
【語釈】 ○春霞立ちにし日より 久しい間ということを具体的にいった形であるが、同時に、「立ちにし日」は、女と逢った日としていっているもの。○本の繁けば 「本」は、木の幹。「繁けば」は、「繋け」は、形容詞「繁し」の已然形。「ば」は助詞。幹が多いのでで、木立の繁っている状態。心の深いことを具象化していったもの。
【釈】 春霞の初めて立った日から、今日に至るまでの久しい間を、わが恋はやむ時もない。心が深いので。
【評】 女に贈った歌である。初句より三句まで、幾何《いくばく》でもない時の推移をいうに費やしているのは、当人同士の間にだけ意味のあるものだからである。「木の繁けば」は、春の眼前を捉えての譬喩であろうが、唐突である。非力な人の作である。
一に云ふ、片念《かたもひ》にして
一云、片念尓指天
【解】 五句の別伝である。このほうが訴えが直接になる。作者の別案である。
1911 さ丹《に》つらふ 妹《いも》を念《おも》ふと 霞《かすみ》立《た》つ 春日《はるひ》もくれに 恋《こ》ひわたるかも
左丹頬經 妹乎念登 霞立 春日毛晩尓 戀度可母
【語釈】 ○さ丹つらふ 「さ丹つらふ」は巻三(四二〇)に既出。「さ」は接頭語。「丹つらふ」は、くれないに現われる意で、紅顔というにあたる。顔の美を讃えるの意で、「妹」にかかる枕詞。○霞立つ春日もくれに 「霞立つ」は、「春」の枕詞。「春日」は明るい春の日。「くれに」は暗いごとくにで、副詞。物思いのためにそのように覚える意。
【釈】 美しい顔いろをした妹を思うとて、霞の立つ春の日も、暗く覚えるまでに恋いつづけていることであるよ。
【評】 女に贈った歌と思われる。率直に、平明に眼前の景に寄せていっているが、一首、感覚的で、華やかで、調べも暢びやかである。「霞立つ春日もくれに」は、簡潔で、美しい。いい意味での貴族的な歌である。
(387)1912 たまきはる 吾《わ》が山《やま》の上《うへ》に 立《た》つ霞《かすみ》 立《た》つとも坐《う》とも 君《きみ》がまにまに
靈寸春 吾山之於尓 立霞 雖立雖座 君之隨意
【語釈】 ○たまきはる吾が山の上に 「たまきはる」は、定解のない枕詞で、「霊来|経《ふ》る」の転で、霊がわが肉体に宿っているの意ではないか。内、命、幾世などにかかるのであるが、ここは「吾」にかかる。「吾が山」は、作者の家近い山。○立つ霞 下の「立つ」へ、同音反復で続き、初句よりこれまでは序詞。○立つとも坐とも 旧訓は「たちてもゐても」。『略解』の訓。「坐《う》」は、すわる意の古語で、終止形。立っていようとも、坐っていようともで、どのようになりともを、具象的にいったもの。○君がまにまに 「君」は、夫。「まにまに」は、心任せにで、下に、しようの意がある。
【釈】 わが家近くの山の上に立っている霞の、それに因みある、立っていようとも坐っていようとも、わが一切は君が心任せにしよう。
【評】 女が夫として持った男に対して、わが一切は君の心任せにしようと誓った語である。これは夫婦間の歌の最も基本的なものである。序詞は眼前を捉えたものであるが、「吾が」の枕詞として「たまきはる」を用いているのは、誓言の歌として適当な語としてであろう。
1913 見渡《みわた》せば 春日《かすが》の野辺《のべ》に 立《た》つ霞《かすみ》 見《み》まくのほしき 君《きみ》が容儀《すがた》か
見渡者 春日之野邊 立霞 見卷之欲 君之容儀香
【語釈】 ○春日の野辺に立つ霞 「霞」の「み」を、同音反復で「見」に続け、初句からこれまでは序詞。○君が容儀か 「君」は、夫。「か」は、詠歎。
【釈】 見渡すと、春日の野辺に立っている霞、その霞に因みある、見たいと思うところの君がすがたであるよ。
【評】 女がたまたま霞の立っている春日野を見渡して、その好景の連想から夫の姿を見たくなったというので、自然な心理である。風景を序詞の形として、気分の上でのつながりのものとしたのも、自然な、無理のない技巧である。序詞と見ず、譬喩として見ると、事を主とした歌になって、気分を主としたこの作風からは、かえって間接なものになる。
(388)1914 恋《こ》ひつつも 今日《けふ》は暮《くら》しつ 霞《かすみ》立《た》つ 明日《あす》の春日《はるひ》を 如何《いか》にくらさむ
戀乍毛 今日者暮都 霞立 明日之春日乎 如何將晩
【語釈】 ○霞立つ明日の春日を 「霞立つ」は、「春」の枕詞。意味でかかるものであるから叙述と異ならない。
【釈】 恋いながらも今日は暮らした。霞の立つ明日の春日をどうして暮らそうか。
【評】 素朴な抒情である。素朴に徹しているところにある程度の好さがある。
雨に寄す
1915 吾《わ》が背子《せこ》に 恋《こ》ひて術《すぺ》なみ 春雨《はるさめ》の 降《ふ》る別《わき》知《し》らに 出《い》でて来《こ》しかも
吾背子尓 戀而爲便莫 春雨之 零別不知 出而來可聞
【語釈】 ○恋ひて術なみ 恋うてやるせなさに。○降る別知らに 降っているかいないかの差別も知らずに。「に」は、打消の助動詞「ず」の古い時代の連用形。○出でて来しかも 家を出て来たことよ。
【釈】 わが背子を恋うてやるせなさに、春雨の降っているかいないかの見さかいもつかずに家を出て来たことよ。
【評】 女の歌で、春雨の降っている中を、濡れながら夫の家に来て、言いわけとしていっている歌である。庶民階級の男女で夫婦関係が公のものとなっている仲では、こうしたことも有りうることである。女の物言いの情熱的で、率直をきわめているのも、庶民を思わせる。味わいのある歌である。
1916 今更《いまさら》に 君《きみ》はい往《ゆ》かじ 春雨《はるさめ》の 情《こころ》を人《ひと》の 知《し》らざらなくに
今更 君者伊不徃 春雨之 情乎人之 不知有名國
【語釈】 ○君はい往かじ 「君」は、妻より夫をいっているもの。「い往かじ」は、「い」は接頭語で、「往かじ」は、帰るまい。○春雨の情を人の(389) 「春雨の情」は、春雨というものの性質で、春雨は降り出すと容易にやまないものであることを。「人の」は第五句へ跨がっている語で、誰でもの意。○知らざらなくに 知らないことはないのにで、知っているという意を、否定を二つ重ねる語法で強くいったもの。
【釈】 いまさらに君はお帰りになるまい。春雨というものの性質を、誰でも知らないことはないのに。
【評】 夫が妻の家を訪うて、帰ろうとしていると春雨が降り出したので、夫はしばらく晴れ間を待っている時、妻が夫を引留めようとしていった歌である。心は明らかで、女の引留めようとする気分と、それを支持するために付ける理屈が、よくこなれて纏《まとま》っている。才女の少なくなかったことが知られる。
1917) 春雨《はるさめ》に 衣《ころも》はいたく 通《とほ》らめや 七日《なぬか》し降《ふ》らば 七日《なぬか》来《こ》じとや
春雨尓 衣甚 將通哉 七日四零者 七日不來哉
【語釈】 ○衣はいたく通らめや 「通る」は、濡れとおる意。「や」は、反語で、濡れとおろうか、通りはしない。○七日し降らば七日来じとや 「七日」は、多くの日ということを具象的にいったもの。「し」は、強意。「来じとや」は、来まいというのであろうかで、下に、「いふ」が略されている。
【釈】 春雨で衣がひどく濡れとおることがあろうか、ありはしない。もし七日降り続いたならば、七日来まいというのであろうか。
【評】 これは夫から、今日は春雨が降るから行かれないと、断わりの使が来た時に、妻が返事として答えた歌である。あまえ心から昂奮して詠んだ形のものであるが、この妻は前の妻よりさらに一段と才が利き、情よりも理の勝った女である。「七日し降らば七日来じとや」は、皮肉に近いものにさえなっている。この時代の人は雨を甚しくいやがっている。雨具が幼稚で好ましからぬ物だったからでもあろう。
1918 梅《うめ》の花《はな》 散《ち》らす春雨《はるさめ》 多《さは》に降《ふ》る 旅《たび》にや君《きみ》が 廬《いほり》せるらむ
梅花 令散春雨 多零 客尓也君之 廬入西留良武
【語釈】 ○梅の花散らす春雨多に降る 眼前の光景である。「梅の花散らす」は、春雨を憎む心よりのものである。○旅にや君が廬せるらむ 旅(390)にいる夫は、廬をしていることであろうかで、「や」は疑問の係。「廬」は、やや身分のある人だと、夜を宿るために設ける仮小屋。
【釈】 梅の花を散らす春雨が多量に降っている。旅にある君は廬をして籠もっているのであろうか。
【評】 心は明らかである。「廬せるらむ」という想像は、旅はそうしたものとする漠然たるものであろう。旅の侘びしさを思つてのものであるが、ある程度の安心をもち得ての想像である。時代がさせることである。この歌の詠み万は、取材としては詠歎になるべき性質のものであるが、著しく散文的で、口語的発想ともいえるものである。独詠ではあるが、こうした詠み方の起こっていたことを思わせるものである。
草に寄す
1919 国栖等《くにすら》が 春菜《はるな》採《つ》むらむ 司馬《しば》の野《の》の しばしば君《きみ》を 思《おも》ふこのごろ
國栖等之 春莱將採 司馬乃野之 數君麻 思比日
【語釈】 ○国栖等が春菜採むらむ 「国栖」は、古事記中巻、日本書紀巻十に出ており、古くは「くにす」といい、後「くず」となった。吉野離宮のやや上流に、国※[木+巣]《くず》村(現在吉野町の一部)がある。「春菜」は、若菜。○司馬の野の 所在未詳。国栖の付近の野かという。「司馬」を、同音反復で、「しばしば」の「しば」に続けて、初句よりこれまでその序詞。○しばしば君を思ふこのごろ 「君」は、夫。
【釈】 国栖らが春菜を摘むであろう司馬の野の、その名に因みある、しばしばも君を思うこの頃である。
【評】 春になって、今までよりもおりおり夫のことが思われるという独詠である。「国栖等が春菜採むらむ司馬の野」は、現在の想像で、やや特殊な場所であるだけに、当事者の間には親しい感のあるものであったろう。それだと君と称せられている人の住所が、その方面だったのであろう。熟した含蓄のある歌であるが、取材の関係上、第三者には淡い味わいのものである。
1920 春草《はるくさ》の 繁《しげ》き吾《わ》が恋《こひ》 大海《おほうみ》の 方《へ》にゆく浪《なみ》の 千重《ちへ》に積《つも》りぬ
春草之 繁吾戀 大海 方徃浪之 千重積
【語釈】 ○春草の繁き吾が恋 「春草の繁き」は、「吾が恋」へ意味でかかる序。○大海の方にゆく浪の 「方にゆく」は、岸に寄るで、意味で「千(391)重」にかかる序詞。
【釈】 春草の繁っているごときわが恋は、大海の浪の岸に寄るごとく千重に積もった。
【評】 男の女に贈った歌であろう。意味で設けた序詞を二つ重ねて、大げさにその恋を訴えたものである。拙い歌である。
1921 おほほしく 公《きみ》を相見《あひみ》て 菅《すが》の根《ね》の 長《なが》き春日《はるひ》を 恋《こ》ひ渡《わた》るかも
不明 公乎相見而 菅根乃 長春日乎 孤悲渡鴨
【語釈】 ○おほほしく公を相見て はっきりせぬさまで公と逢つてで、初めて逢った印象とみえる。上の(一九〇九)にも出た。
【釈】 はっきりしないさまで公と逢って、長い春の日を恋いつづけていることであるよ。
【評】 初めて男と相逢った女が、その翌日、男に贈った形の歌である。上の(一九〇九)と男女の相違があるだけである。実情を単純に、おおらかに詠んだもので、気分がとおっている。後世の後朝《きぬぎぬ》の歌との相違が思われる。
松に寄す
1922 梅《うめ》の花《はな》 咲《さ》きて散《ち》りなば 吾妹子《わぎもこ》を 来《こ》むか来《こ》じかと 吾《わ》が松《まつ》の木《き》ぞ
梅花 咲而落去者 吾妹乎 將來香不來香跡 吾待乃木曾
【語釈】 ○梅の花咲きて散りなば 「咲きて散りなば」は、眼前の景であるが、花を恋の上で、一時のできごころの譬喩として心を絡ませ、下の「松の木」に対させてある。○吾妹子を来むか来じかと 吾妹子がわが方に通って来るだろうか、来ないだろうかとて。これは、女のほうから男の家へ通って来るという仲だったのである。これは稀れにはあることで、必ずしも格別のことではなかったのである。○吾が松の木ぞ 吾は来るを待っている、その松の木であるぞで、松は掛詞になっており、「ぞ」は提示する意の助詞。この「松の木」につき『新考』は、この歌を松の木に結びつけて贈ったのだといい、巻二(一一三)額田王の「み吉野の玉松が枝ははしきかも」を例とし、文を木の枝に結びつけて贈るのは古くから行なわれていた風だといっている。なお松は、上の「梅の花」と対させ、恋の上でいう「実《み》」と同じく、永久に変わらぬものという意を絡ませたものである。
(392)【釈】 梅の花が咲いて散ったならば、あなたを、来るだろうか来ないだろうかと思い、来るを待っているその松の木であるよ。
【評】 男が自分の家へ女を来させて逢った翌日、上の歌と同じく、後朝の歌の心で贈ったものである。特別な事情に即してのものであり、また歌を松の枝に結びつけて贈るにつけ、その松に自身のかわらぬ心をもたせ、その関係で眼前の梅の花と対照させるなど、複雑な、技巧的な歌である。この類の歌は、相手に効果的に詠もうということを主とした、いわゆる実情のもので、純文芸のものとしてではない。技巧に達した歌である。
雲に寄す
1923 白檀弓《しらまゆみ》 今《いま》春山《はるやま》に 行《ゆ》く雲《くも》の 行《ゆ》きや別《わか》れむ 恋《こひ》しきものを
白檀弓 今春山尓 去雲之 逝哉將別 戀敷物乎
【語釈】 ○白檀弓今春山に 「白檀弓」は、白い、塗ってない檀の弓。「今」は、今弦を張ると続けて、「春」に転じた七音の序詞。「春山に」は、春山に向かって。○行く雲の 「行く」を同音反復で「行き」に続け、初句からこれまで序詞。○行きや別れむ 「行き」は、相手が旅に行く意。「や」は疑問の係。別れて行くのだろうか。○恋しきものを 我は恋しいのに。
【釈】 白檀弓に今弦を張るに因みある、その春山に向かって行く雲に因みある、君は別れて行くのだろうか。我は恋しいのに。
【評】 旅に行く人を送る歌で、別れを惜しむ情を主としているものである。送られる人と送る人との関係が明らかではないが、きわめて親しい間とみえる。序詞が主になっていて、序詞の中にまた序詞があるという特殊なもので、これを実際に即させたものである。「白檀弓」は、旅をするには護身のために弓を携えるのが普通になっていたから、この序詞では眼前を捉えたものである。続いて「春山に行く雲の」も、同じく眼前の景で、時は春であり、山は旅立つ人の越えるべき山で、これは気分を絡ませたものである。三句きわめて充実したもので、それを安らかに続けているのはすぐれた技巧である。「恋しきものを」は、慣用されているもので、成句といえるものであるが、一首に調和しうる重いものとなっている。いい歌である。
※[草冠/縵]《かづら》を贈る
(393)1924 大夫《ますらを》の 伏《ふ》し居《ゐ》嘆《なげ》きて 造《つく》りたる しだり柳《やなぎ》の ※[草冠/縵]《かづら》せ吾妹《わぎも》
大夫之 伏居嘆而 造有 四垂柳之 ※[草冠/縵]爲吾妹
【語釈】 ○大夫の伏し居嘆きて 「大夫の」は、堂々たる男子と自尊しての語。「伏し居嘆きて」は、伏して嘆き、居て嘆きしてで、嘆くのは妹を思うての恋の嘆きで、上をうけて、それを心外としての意のもの。これは人に物を贈るには、苦労して得た物ということを言い添えるのが礼になっているので、それに託しての恋の訴えである。○しだり柳の※[草冠/縵]せ吾妹 「しだり柳」は、当時は鑑賞のための物で、ある程度貴かったもの。「※[草冠/縵]せ」は、※[草冠/縵]をせよで、命令形。
【釈】 堂々たる男子が、伏しては嗅き、居ては嘆きして造った、このしだり柳の※[草冠/縵]をせよ、吾味よ。
【評】 相手の吾妹に効果がありさえすればよいとして詠んだ歌で、文芸としての批評の埒外のものである。作者としては目的を果し得た歌であったろう。
別を悲しむ
1925 朝戸出《あさとで》の 君《きみ》が容儀《すがた》を よく見《み》ずて 長《なが》き春日《はるひ》を 恋《こ》ひやくらさむ
朝戸出乃 君之儀乎 曲不見而 長春日乎 戀八九良三
【語釈】 ○朝戸出の君が容儀を 「朝戸出」は、朝の戸を開けて外出する意で、ここは妻のもとへ通って来ていた夫の朝の帰りの意。「君」は、夫。○よく見ずて よく見ずして。人目に立たぬように、薄暗いうちに帰るのが習いとなっていたので、実際をいったものである。
【釈】 朝戸出の君の容儀をよくは見なくて、長い春の日を恋い暮らすことであろうか。
【評】 夫の帰る時か、または帰った直後に、夫に贈った歌である。「長き春日を恋ひやくらさむ」は、夜になれば必ず来るものと信じていっている語である。詠み方がおおらかなのでそう思わせる。婉曲にそのことを促したものと見るのは無理であろう。
(394) 問答
1926 春山《はるやま》の 馬酔木《あしぴ》の花《はな》の 悪《あ》しからぬ 公《きみ》にはしゑや よそるともよし
春山之 馬醉花之 不惡 公尓波思惠也 所因有好
【語釈】 ○春山の馬酔木の花の 「馬酔木の花」は、当時重んじられていたことが集中の歌で知られる。二句、同音反復で、「悪し」にかかる序詞。○悪しからぬ公にはしゑや 「悪しからぬ公には」は、憎くはない君には。「しゑや」は、感動の語で、よし、ままよ、の意。間投詞。巻四(六五九)に既出。○よそるともよし 「よそる」は、訓は諸注それぞれで定まらない。『新訓』の訓。言い寄せられる。噂を立てられる意。
【釈】 春山の馬酔木の花の、そのあしに因みある、憎くはない君には、よしままよ、噂を立てられようとも好い。
【評】 女が男の求婚に対して承諾の意を詠んだ歌である。これに対する男の歌が次にあるので、この求婚は仲介者を立てて言い入れたものとみえる。問答としては問にあたる歌なのである。答歌によると男は、年老いた人であり、女も「公」という敬称を用いているので、身分の隔たりのある問と取れる。「悪しからぬ」も、「よそるともよし」も、内心に喜んでいるのではなく、思い諦めてという条件つきのものであろう。「しゑや」の間投詞は、ことにそれを思わせる。「春山の馬酔木の花の」は、他にも用例のあるものである。一首、当時としてはやや特殊な結婚方法を扱ったもので、女の微細な気分をそれとなくあらわして、客観味を帯びさせているところは、優れた男の作者が意図して作った歌ではないかと思わせる。
1927 石上《いそのかみ》 布留《ふる》の神杉《かむすぎ》 神《かむ》びにし 吾《われ》や更更《さらさら》 恋《こひ》にあひにける
石上 振乃神杉 神備西 吾八更々 戀尓相尓家留
【語釈】 ○石上布留の神杉 石上の布留の神社(石上神宮)の、神霊の憑《よ》ります神木としての杉。老杉であったとみえる。巻三(四二二)に既出。初二句、「神び」に同音でかかる序詞。○神びにし 神様風になったで、ここは年老いた意。「神び」は、宮び、鄙《ひな》びなどと同系の語。○吾や更更恋にあひにける 「吾や」の「や」は、詠歎の係。「更更」は、今更の意を重ね、強めたもの。「あひにける」の「ける」は「や」の結。
【釈】 石上の布留の神社の神杉に因みある、神様風に老いたわれが、いまさらに恋に逢ったことではあるよ。
(395)【評】 右の女の歌に対して男の答えたものである。女の歌に直接には触れず、老齢に入つての恋を我と怪しみ訝かる心をいっているだけで、これは間接には訴えになるものである。序詞としての布留の社の神杉を捉えているのは、男女ともこの神の庇護を受けている者であることと、その神の照覧の下でのことであるとして、誠実を誓う意を絡ませたものである。地歩を占めての答歌である。
右の一首は、春の歌にあらざれども、猶和なるを以ちて、故この次《なみ》に載す。
右一首、不v有2春謌1、而猶以v和、故載2於茲次1。
【解】 この歌は春季の歌ではないが、答歌であるから、この並びに載せるというのである。原拠にした本に従ったものだということを、編者として断わったのである。
1928 狭野方《さのかた》は 実《み》にならずとも 花《はな》のみに 咲《さ》きて見《み》えこそ 恋《こひ》の慰《なぐさ》に
狭野方波 實尓雖不成 花耳 開而所見社 戀之名草尓
【語釈】 ○狭野方は 「狭野方」は地名として一か所巻十三(三三二三)に出ていて、近江国琵琶湖東岸の、坂田郡入江村にある野の名かといわれているが、植物の名としては所見のないものである。下の続きから見て、植物とすると通じるが、それでないと通じ難くなる。したがって誤写説が出ているが、臆測に終わるものばかりである。このままで強いて解すると、狭野方に産する特殊の植物で、そのように呼ばれるものがあって、今は不明になったと解するか、あるいは狭野方出身の女で、出身地名を呼び名とされていた者かとするほかはない。前者より後者のほうが自然に(396)思われる。○実に成らずとも ここの「実」は恋の上の譬喩語で、下の「花」と対したもので、実は恋の成立、花は口頭の承諾という意味のものである。結婚はできずとも。○花のみに咲きて見えこそ 「花」は上にいった。「こそ」は願望の助詞。口頭の承諾だけでも聞かせて呉れよ。○恋の慰に わが恋の気休めに。
【釈】 狭野方そなたは、結婚はできずとも、口頭の承諾だけでも聞かせてくれよ。わが恋の気休めに。
【評】 歌の物言いが、はなはだ直截で、露骨で、庶民的である。この歌の作者は、庶民の豪家の主人で、狭野方は、出身地名で呼ばれていた召使の女の名であろう。主人が召使の女に懸想《けそう》をして、このような言い方をしたものと見ると、意味は簡明に通じる。今はそう解しておく。問の歌である。
1929 狭野方《さのかた》は 実《み》になりにしを 今更《いまさら》に 春雨《はるさめ》降《ふ》りて 花《はな》咲《さ》かめやも
狹野方波 實尓成西乎 今更 春雨零而 花將咲八方
【語釈】 ○実になりにしを 実になってしまっているものをで、妻となっていることをいったのである。妻は、人の妻で、夫持ちの意である。○春雨降りて 春雨は花を咲かせるものとしていっているので、他の男に言い寄られての意。○花咲かめやも 「や」は、反語。いわれる口頭の承諾などできようか、できはしない。
【釈】 狭野方は人妻となっているものを、いまさらに他の男に言い寄られて、口頭の承諾などできようか、できはしない。
【評】 右の歌の答歌で、右の歌は同じく直截露骨とはいっても、下手《したて》に出ているが、これはさらに直截露骨で、高飛車にすげなく断わっている。女の貞操観念のさせることで好感がもてる。しかしさすがに「狭野方は」と卑下した言い方をもってしている。二首、「花」という譬喩語があるので、春の歌としているのである。
1930 梓弓《あづさゆみ》 引津《ひきつ》の辺《べ》なる 莫告藻《なのりそ》の 花《はな》咲《さ》くまでに 逢《あ》はぬ君《きみ》かも
梓弓 引津邊有 莫告藻之 花咲及二 不會君毳
【語釈】 ○梓弓引津の辺なる 「梓弓」は、「引き」の枕詞。「引津」は、福岡県糸島郡志摩村付近の海浜。船越から岐志にかけての湾入をいま引津浦と呼ぶ。○莫告藻の花咲くまでに 「莫告藻」は、海藻で、ほんだわら。「花咲くまでに」は、これは花の咲かない藻で、永久にないことの意で、(397)久しい間の意で用いているもの。○逢はぬ君かも 「君」は、ここは男より女をさしての称である。それは、この歌は問の歌で、次の答歌は女の歌になっているからである。
【釈】 梓弓を引くに因む引津のほとりの莫告藻の、花の咲くまでの久しい間を我に逢わない妹であるよ。
【評】 女が男を疎遠にして、避けて逢わないことを恨んだ歌である。この歌は巻七(一二七九)人麿歌集の旋頭歌「梓弓引津の辺なる莫告藻の花 採むまでに逢はざらめやも莫告藻の花」を短歌に詠みかえたものと思われる。また、次の答歌から見ると、明らかに謡い物となっていたものである。
1931 川《かは》の上《へ》の いつ藻《も》の花《はな》の 何時《いつ》も何時《いつ》も 来《き》ませ吾《わ》が背子《せこ》 時《とき》じけめやも
川上之 伊都藻之花之 何時々々 來座吾背子 時自異目八方
【語釈】 この歌は巻四(四九一)に出ているもので、重出である。
【釈】 略す。
【評】 右の問歌は古歌の詠みかえ、この答歌は古歌そのままである。この二首で見ると、問答の本来は、人々が二つに別れていわゆるかけ合いで謡ったもので、それには古歌の人口に膾炙《かいしや》しているもののほうが謡いやすく、興味も深かったとみえる。文芸的なものはその進展したものなのである。
1932 春雨《はるさめ》の 止《や》まず降《ふ》る降《ふ》る 吾《わ》が恋《こ》ふる 人《ひと》の目《め》すらを 相見《あひみ》せなくに
春雨之 不止零々 吾戀 人之目尚矣 不令相見
【語釈】 ○止まず降る降る 「降る降る」は、旧訓。原文「零々」は、訓が定まらない。「降り降り」と訓む説もある。○人の目すらを 「人」は夫。「目すら」は、顔だけをも。○相見せなくに 「なく」は、打消「ず」の名詞形。「に」は詠歎。見させないことよ。
【釈】 春雨はやまずに降り続いて、わが恋うている夫の顔だけをも見せないことであるよ。
【評】 雨をひどく厭った時代で、夫の来ないのは雨のせいだと、雨を恨んだ心である。当時の生活気分が出ている。
(398)1933 吾妹子《わぎもこ》に 恋《こ》ひつつ居《を》れば 春雨《はるさめ》の 彼《そ》も知《し》る如《ごと》く 止《や》まず降《ふ》りつつ
吾妹子尓 戀乍居者 春雨之 彼毛知如 不止零乍
【語釈】 ○彼も知る如く 諸注、訓が定まらない。『新訓』の訓。「彼《そ》」は其で、指示代名詞で、集中、他に二例ある。そも知っているようにであるが、何をさしているかというと、春雨か吾妹子かのどちらかである。吾妹子と見るべきである。春雨が、そなたも知っているように。
【釈】 吾妹子に恋いつづけているに、春雨が、そなたも知っているように、降りつづけている。
【評】 これも妻と同じく平和な、問題のない生活気分である。「恋ひつつ」と「降りつつ」と対照させているのみである。答歌であるが、問歌の繰り返しに近い。
1934 相念《あひおも》はぬ 妹《いも》をやもとな 菅《すが》の根《ね》の 長《なが》き春日《はるひ》を 念《おも》ひ暮《くら》さむ
相不念 妹哉本名 菅根乃 長春日乎 念晩牟
【語釈】 ○妹をやもとな 「妹をや」は、「を」は、詠歎で、妹であるのに。「や」は、疑問の係。「もとな」は、由《よし》なく。○念ひ暮さむ 片思いをして過ごすのであろうか。
【釈】 相思わぬ妹であるのに、由なく長い春の日を思って過ごすのであろうか。
【評】 問の歌で、謡い物とすると、これでも心の足りる程度のものである。謡い物と文芸との中間的な歌である。
1935 春《はる》されば 先《ま》づ鳴《な》く鳥《とり》の鶯《うぐひす》の 言《こと》先立《さきだ》ちし 君《きみ》をし待《ま》たむ
春去者 先鳴鳥乃 ※[(貝+貝)/鳥]之 事先立之 君乎之將待
【語釈】 ○春されば先づ鳴く鳥の鶯の 春になるとまず鳴く鳥の鶯のごとくにで、「言先立ちし」の譬喩。○言先立ちし 「言」は、言葉。「先立ちし」は先に言い出したで、先に言い寄った。○君をし待たむ 君を待っていよう。
(399)【釈】 春になるとまず鳴く鳥の鶯のように、言葉を先に言い出した君を待っていよう。
【評】 答歌であるが、問歌とはしっくりしないものである。男は女の愛の足りないのを恨んでいるのに、女はあくまで従順にしているからである。しかしありうる齟齬《そご》とはいえる。譬喩が巧みである。問歌と同じく眼前の春を捉えて、関係を結んだ最初の時にまで溯っていっているのは、要を得たものである。この問答は貴族的である。
1936 あひ念《おも》はず あるらむ児《こ》故《ゆゑ》 玉《たま》の緒《を》の 長《なが》き春日《はるひ》を 念《おも》ひ暮《くら》さく
相不念 將有兒故 玉緒 長春日乎 念晩久
【語釈】 ○あるらむ児故 「児」は、女の愛称。「故」は、理由を示す語で、児であるのに。○玉の緒の長き春日を 「玉の緒の」は、意味で「長き」にかかる枕詞。○念ひ暮さく 「暮さく」は、「暮す」の名詞形。嘆き暮らすことよ。
【釈】 相思いはせずにいる児だのに、玉の緒の長い春の日を嘆き暮らすことよ。
【評】 問答二首を組合わせているのに、ここは三首で、この一首は遊離している。問歌と心は全く同じでもあるから、これを問歌としての組合わせもある意で、原拠とした本に載っていたのであろう。歌としてはこのほうが気分が豊かで、屈折ももっており、答歌に釣合うものである。
夏雑歌
鳥を詠める
1937 大夫《ますらを》の 出《い》で立《た》ち向《むか》ふ 故郷《ふるさと》の 神名備山《かむなびやま》に 明《あ》け来《く》れば 柘《つみ》のさ枝《えだ》に 夕《ゆふ》されば 小松《こまつ》が末《うれ》に 里人《さとびと》の 聞《き》き恋《こ》ふるまで 山彦《やまびこ》の 答《こた》ふるまでに 霍公鳥《ほととぎす》 妻《つま》恋《ご》ひすらし さ夜中《よなか》に鳴《な》く
(400) 大夫之 出立向 故郷之 神名備山尓 明來者 柘之左枝尓 暮去者 小松之若末尓 里人之 聞戀麻田 山彦乃 答響萬田 霍公鳥 都麻戀爲良思 左夜中尓鳴
【語釈】 ○大夫の出で立ち向ふ 「大夫」は、立派な男子で自身をいっているもの。「出で立ち向ふ」は、その家を出て第一に向かうで、これは尊んですること。○故郷の神名備山に 「故郷」は、古京の意で、ここは飛鳥。「神名備山」は、飛鳥のそれで、雷の岳。土地の守護神である。○明け来れば柘のさ枝に 「明け来れば」は、次の「夕されば」に対させたもので、終日を具象的にいったもの。「柘」は、山桑で、山野に自生する物。「さ枝」は、小枝。○夕されば小松が末に 夕方になると小松の梢に。○里人の聞き恋ふるまでに 「里人」は、故郷の人。「聞き恋ふるまで」は、聞いて恋しく思うまで。「山彦の答ふるまでに」に対させたもの。○霍公鳥妻恋ひすらし 霍公鳥は妻恋いをして鳴くのだろうで、この推量は、霍公鳥は渡り鳥であるところから、故郷があり、故郷には妻があって、絶えず鳴き続けるのは妻恋しさのためだとしたのである。これは作者が現在旅にいて妻恋いをしているところからの推量で、この歌の眼目である。○さ夜中に鳴く 終日につづけて夜中に鳴いている。
【釈】 立派な男子が、家を出ると第一に向かう故里の神名備山に、夜が明けると山桑の木の小枝で、夕方になると小松の小枝で、里人が恋しく聞くまで、山彦が答をするまでに、霍公鳥はその故里に残している妻を恋うのであろう。夜中に鳴いている。
【評】 左注で古歌集の歌と知れ、また歌でも飛鳥を故郷としているところから、奈良朝初期の作と知られる。奈良京の官人が、初夏霍公鳥の鳴く頃、何らかの公務で飛鳥の里に逗留していて、家恋しい感を抱いているおりから、そこの雷の岳に、霍公鳥が朝から夜にかけて鳴きとおしているのを聞き、渡り鳥である霍公鳥だから、彼も自分と同様故郷に妻を残していて、その恋しさに鳴くのだろうと推量して、その心から霍公鳥を隣れんで詠んだ歌である。歌材とすると微妙な気分の動きで、時代的に見ると新しいものである。しかしこれは、叙事を主眼とする長歌に詠むには、事があまりにも単純で、叙事的興味の盛りようのないものである。この歌はそれを顧みずに扱っているものである。霍公鳥の鳴く場所を、信仰の対象である雷の岳としたのは、作者としては心あつてのことかもしれぬが、それは現われず、また霍公鳥が恋しさに堪えずしきりに鳴くことを、対句を設けて精叙しているが、これは語のみが大きく重くなって、主である感のほうを消し去る結果となっている。要するに取材と表現形式の調和しない、そのため失敗した作となっているのである。奈良朝初期は復古気分がしだいに強くなってきた時代で、長歌も再興してきた時代であるから、この作者もその機運の中にあって詠んだものであろう。それにしてもこの歌は、長歌としても古風なもので、作者の感じた微妙な気分とは、距離のありすぎるものである。
反歌
(401)1938 旅《たび》にして 妻恋《つまご》ひすらし 霍公鳥《ほととぎす》 神名備山《かむなびやま》に さ夜《よ》ふけて鳴《な》く
客尓爲而 妻戀爲良思 霍公鳥 神名備山尓 左夜深而鳴
【語釈】 ○旅にして妻恋ひすらし 霍公鳥を旅にある鳥だとしたもので、長歌の内容を要約して、進展させていったもの。
【釈】 旅にあって、故郷の妻を恋うているのであろう。霍公鳥は、神名備山に夜ふけて鳴いている。
【評】 長歌の内容全部を、要約して直截にいった感のあるものである。鳴き場所としての神名備山が、この歌で初めて多少なりとも生きてくる趣がある。
右は、古歌集の中に出づ。
右、古謌集中出。
【解】 古歌集の名は、巻二(八九)以下しばしば出た。この歌のごとく奈良朝初期の歌を集めたものとみえる。
1939 霍公鳥《ほととぎす》 汝《な》が初声《はつこゑ》は 吾《われ》にもが 五月《さつき》の珠《たま》に 交《まじ》へて貫《ぬ》かむ
霍公鳥 汝始音者 於吾欲得 五月之珠尓 交而將貫
【語釈】 ○霍公鳥 呼びかけ。○汝が初声は吾にもが 「初声」は、珍重してのもの。「もが」は、願望の助詞。吾に得させよ。○五月の珠に交へて貫かむ 「五月の珠」は、五月五日の節供の日、身に着ける薬包に付ける珠で、「交へて貫かむ」は、初声を薬玉に交じえて貫こう。これは初声を愛する珠のごとく感じてのことである。
【釈】 霍公鳥よ、お前の初声は吾に得させよ。五月の薬玉に交じえて貫こう。
【評】 奈良朝時代の、情趣を重んずる生活から生まれた気分で、霍公鳥の初声を重んずる気分からさらに進んで、それを珠のごとく感じ、珠同様の扱いをしようというのである。「五月の珠に」と思うのは、理性を求める心も働いているのである。すべて時代の好尚である。
(402)1940 朝霞《あさがすみ》たなびく野辺《のべ》に あしひきの 山霍公鳥《やまほととぎす》 何時《いつ》か来鳴《きな》かむ
朝霞 棚引野邊 足檜木乃 山霍公鳥 何時來將鳴
【語釈】 ○朝霞たなびく野辺に 「朝霞」は、春のもので、「朝」はその印象の強い時で、「野辺」も同様である。○あしひきの山霍公鳥 「山霍公鳥」は、霍公鳥は山から出て来るものとして、初ほととぎすの意でいっているもの。○何時か来鳴かむ 「何時か」は、いつになったらばで、早くの意。
【釈】 朝霞のたなびいている野辺に、山霍公鳥はいつ来て鳴くだろうか。
【評】 朝霞の濃くかかっている、春深い頃の野を見やって、初夏の初ほととぎすの声を待ち望んでいる心で、耽美気分よりの憧れである。実景より離れずに、誇張なく詠んでいるところに時代色がある。「春雑歌」の範囲の歌である。
1941 朝霞《あさがすみ》 八重山《やへやま》越《こ》えて 喚子鳥《よぶこどり》 吟《な》きや汝《な》が来《く》る 屋戸《やど》もあらなくに
旦霞 八重山越而 喚孤鳥 吟八汝來 屋戸母不有九二
【語釈】 ○朝霞八重山越えて 「朝霞」は、深く立つ意で、八重の枕詞。「八重山」は、幾重も重なっている山。○喚子鳥吟きや汝が来る 「喚子鳥」は、呼びかけ。「吟きや汝が来る」は、「吟」は、呻吟と熟する字で、鳴きに当てたもの。「や」は疑問の係であるが、感動の意をもったもの。鳴いてお前は来るのであるかで、そのことに感動してのもの。○屋戸もあらなくに ここにはお前の宿もないことであるのに。
【釈】 朝霞の八重という、八重に重なる山を越えて、喚子鳥よ、お前は鳴いて来るのであるか。ここには宿もないことであるのに。
【評】 山裾の野にいて、山のほうから鳴いて来る喚子鳥を聞いての心である。人を喚ぶごとく鳴く声を聞くと、喚ぶべき相手があって、その相手を慕って遠く八重山を越えて苦労して来たのだろうと感じ、そしてここに相手のいそうな宿もないのにと深く隣れんだのである。喚子鳥の扱い方は、擬人の一歩手前で、それに出入りしているものである。純気分の歌であるが、喚子鳥の擬人はその鳴き声からのことで、合理性のあるものである。一首の歌として厚味があり、屈折もあって、純気分とはいえ手薄の感のない、豊かな歌である。これも喚子鳥は春の鳥で、「春雑歌」の範囲のものである。
(403)1942 霍公鳥《ほととぎす》 鳴《な》く声《こゑ》開《き》けや 卯《う》の花《はな》の 咲《さ》き散《ち》る岳《をか》に 田草《くさ》引《ひ》く※[女+感]嬬《をとめ》
霍公鳥 鳴言聞哉 宇能花乃 開落岳尓 田草引※[女+感]嬬
【語釈】 ○霍鳥鳴く声聞けや 「聞けや」は、従来「聞くや」と訓まれていたのを、『全註釈』が改めたものである。ここは已然条件法で、ほととぎすの鳴く声を聞いたのかで、それによって時節を知ったのかの意と解しているのである。時節を知るというのは、ここは農耕の時節で、このことは上代では常識となっていたようである。○卯の花の咲き散る岳に 「卯の花」はほとぎすの来る時に咲く花で、今は作者のいる所、また、下の続きで山田のある所である。大和には地形の関係で山田が多かつたのである。○田草引く※[女+感]嬬 「田草」は、従来「くず」と訓まれていた。『全註釈』は用字と即して「くさ」と改めている。田の草である。「引く」は取るで、今の「田の草とり」である。
【釈】 ほととぎすの鳴く声を聞いてか、卯の花の咲き散る岳で、田の草を取っている娘よ。
【評】 作者は卯の花の咲き散る岳へ、ほととぎすの声を聞こうと思って来たのであろう。するとそこの山田で、娘が田の草を取っているのを見かけて、ほととぎすの声でその時節だと知つてのことだろうと解したのである。歌は自身を後へ引き下げ、娘子を立てて詠んでいるもので、この方法はほとんど固定して型のごとくなっているものである。歌は歌材が珍しいばかりでなく、庶民と貴族との生活がおのずから対照されてきて、美しさとある深みのあるものとなっている。
1943 月夜《つくよ》よみ 鳴《な》く霍公鳥《ほととぎす》 見《み》まく欲《ほ》り 吾《われ》草《くさ》取《と》れり 見《み》む人《ひと》もがも
月夜吉 鳴霍公鳥 欲見 吾草取有 見人毛欲得
【語釈】 ○月夜よみ 月がよいゆえに。○鳴く霍公鳥見まく欲リ 鳴く霍公鳥の姿を見たいと思って。○吾草取れリ 「草取れり」は、『代匠記』の訓。吾は草を取っているで、ほととぎすを見やすいためのことである。○見む人もがも 「見む人」は、吾とともに見る人。「もが」は願望で、ほととぎすを見る人がほしいものである。
【釈】 月がよいので鳴く霍公鳥の姿を見たいと思って、われは見やすいために草を取っている。見る人がほしいものである。
【評】 霍公鳥の声を愛する心から、その姿も見たく思い、見やすいために草を取っていると、さらに共にほととぎすの姿を見る人がほしくなった心である。耽美の心よりの憧れを実際に即していっているもので、時代的な手法である。四句がすでに飛(404)躍のある続け方であるのに、結句は一段と甚しいので、一首の心がたどり難い感のあるものとなっている。気分の表現の上で、統一がないと意を成さない性質のものである。作意はここにいったごときものと思われる。
1944 藤浪《ふぢなみ》の 散《ち》らまく惜《を》しみ 霍公鳥《ほととぎす》 今城《いまき》の岳《をか》を 鳴《な》きて越《こ》ゆなり
藤浪之 散卷惜 霍公鳥 今城岳※[口+立刀] 鳴而越奈利
【語釈】 ○藤浪の散らまく惜しみ 「藤浪」は、藤の花。○今城の岳を 奈良県吉野郡大淀町に、この名の大字《おおあざ》があるので、そこの山かという。藤の多い岳であったとみえる。○鳴きて越ゆなり 「なり」は、詠歎。
【釈】 藤の花の散ることを惜しんで、霍公鳥は、今城の岳を鳴いて越えてゆくよ。
【評】 作者は今城の岳の藤の花の散るのを惜しんでいるおりから、霍公鳥がその岳の上を鳴いて越してゆくのを見ての感である。ほととぎすと藤の花にも情趣的のつながりを認めていたとみえる。
1945 朝霧《あさぎり》の 八里山《やへやま》越《こ》えて 霍公鳥《ほととぎす》 卯《う》の花辺《はなぺ》から 鳴《な》きて越《こ》えけり
旦霧 八重山越而 霍公鳥 宇能花邊柄 鳴越來
【語釈】 ○朝霧の八重山越えて 上の(一九四一)に初句「朝霞」と出た。○卯の花辺から 卯の花の咲いている辺りを通って。そこは作者の居た位置。○鳴きて越えけり 「越えけり」は、『全註釈』の訓。鳴いて越えて行つたで、鳴くのは卯の花との別れを惜しむ意で、それをした上で越えて行ったので、二句の「越えて」の説明である。
【釈】 朝霧の八重という、八重に重なる山を越して、霍公鳥は卯の花の咲いている辺りを通って、鳴いて越えて行った。
【評】 渡り鳥であるほととぎすの、この土地を去らねばならぬ時のあわれをいった歌である。ほととぎすは八重山を越して遠く去るのであるが、その時には、深い縁をもっている卯の花の咲いている辺りを通って、名残りを惜しんで鳴いた上で、八重山を越えて去ったというのである。純気分の歌である。それをいうに、作者は卯の花の咲いている辺りにいて、ほととぎすの鳴くのを聞き、八重山を越え去ったのを親しく目にしたという、実際に即した言い方をし、しかも素朴な語つづきをもっていっているのである。この矛盾した二つのものを一つにして詠む手法が、いかに時代的なものになっていたかを、典型的に示して(405)いる作である。
1946 木高《こだか》くは 曾《かつ》て木《き》植《う》ゑじ 霍公鳥《ほととぎす》 来鳴《きな》き響《とよ》めて 恋《こひ》まさらしむ
木高者 曾木不殖 霍公鳥 來鳴令響而 戀令益
【語釈】 ○木高くは曾て木植ゑじ 「木高くは」は、木を高くはで、作者の家の木の状態。「曾て」は、過去にあったことをいう語である、か、転じて、けっしてという意になったもの。下に否定が伴う。けっして木を植えまい。○霍公鳥来鳴き響めて 霍公鳥が高い木に来て、鳴きとよませて。○恋まさらしむ わが恋うる心を募らせる。
【釈】 高い木はけっして植えまい。霍公鳥がそうした木に来て鳴きとよませて、わが人に恋うる心を募らせる。
【評】 中心は、ほととぎすの鳴き声を聞いていると、恋ごころが募って来て堪えられないというのであるが、それをいうには実際に即して、強く率直にいっているので、叙事味の勝った、記述のようになっている。個性的であることが重んじられた奈良朝としては、これも当然な行き方である。
1947 あひ難《がた》き 君《きみ》にあへる夜《よ》 霍公鳥《ほととぎす》 他時《こととき》よりは 今《いま》こそ鳴《な》かめ
難相 君尓逢有夜 霍公鳥 他時從者 今社鳴目
【語釈】 ○あひ難き君にあへる夜 珍しい人に逢っている今夜はで、「君」は客である。○霍公鳥 呼びかけ。○他時よりは今こそ鳴かめ 「他時より」は、平常の時の意で、「今」は、客のいる時。「今こそ鳴かめ」は巻八(一四八一)に出た。勧誘の意。今こそ鳴けばよいのに。
【釈】 珍しい君に逢っている今宵は、霍公鳥よ、ほかの時よりは今こそ鳴けばよいのに。
【評】 客が来て酒宴をしていた時、主人方が客をもてなすために詠んだ歌で、宴歌である。初夏の宴席であれば、この当時は当然の儀礼であったろう。
1948 木《こ》の晩《くれ》の 暮闇《ゆふやみ》なるに 【一に云ふ、なれば】 霍公鳥《ほととぎす》 何処《いづく》を家《いへ》と 鳴《な》き渡《わた》るらむ
(406) 木晩之 暮闇有尓 【一云、有者】 霍公鳥 何處乎家登 鳴渡良武
【語釈】 ○木の晩の暮闇なるに 「木の晩」は、木の茂って暗いこと。「暮闇なるに」は、夕闇であるのに。○一に云ふ、なれば 「なるに」の異伝であるが、同意語として並び行なわれたものである。○何処を家と鳴き渡るらむ どこをその家として、鳴いてゆくのであろう。
【釈】 木の茂って暗い夕闇であるのに、霍公鳥は、どこをその家として鳴いて行くのであろうか。
【評】 作者が木下闇の夕闇の路を通って、その家に帰る時に、霍公鳥の鳴いて飛んでゆく声を聞き、霍公鳥のほうを主として詠んだ歌である。気分を婉曲にあらわそうとする歌風に従っての歌である。
1949 霍公鳥《ほととぎす》 今朝《けさ》の朝明《あさけ》に 鳴《な》きつるは 君《きみ》聞《きみき》きけむか 朝宿《あさい》か寐《ね》けむ
霍公鳥 今朝之旦明尓 鳴都流波 君將聞可 朝宿疑將寐
【語釈】 ○今朝の朝明に鳴きつるは 今朝の朝明けに鳴いた声は。この当時は朝起きるのが早かった。○君聞きけむか 「君」は、女より夫をさしてのもの。聞いたであろうか。○朝宿か寐けむ 「朝宿」は、朝の熟睡。朝の熟睡をして寝ていたろうか。
【釈】 霍公鳥が今朝の朝明けに鳴いた声は、君は聞いたであろうか。朝の熟睡をしていたろうか。
【評】 「今朝」というその日に、妻より夫に贈った歌である。「朝明」という時刻は、この時代には物思わしい時刻としていたことが他の歌で知られる。ここもそれで、妻は夫恋しい心を抱いてほととぎすを聞いたのである。「君聞きけむか」は、君にもその感があったかで、「朝宿か寐けむ」はわが上など思わずにいたのかというので、きわめて何気ない語に、夫の疎遠を恨む心をからませていったものである。才女を思わせる歌である。「相聞」に属させるべき歌である。この一首、古本系統の古写本では次の(一九五〇)の後にきている。今は『国歌大観』の番号順に従う。
1950 霍公鳥《ほととぎす》 花橘《はなたちばな》の 枝《えだ》に居《ゐ》て 鳴《な》き響《とよも》せば 花《はな》は散《ち》りつつ
霍公鳥 花橘之 枝尓居而 鳴響者 花波散乍
【語釈】 ○鳴き響せば 高く鳴き立てるので、その響で。
(407)【釈】 霍公鳥が、花の咲いている橘の枝にとまっていて、高く鳴くので、花は散りつづけている。
【評】 光景そのものがすでに美しい気分である。作歌欲をそそられてすなおに叔した歌である。
1951 慨《うれた》きや 醜《しこ》ほととぎす 今《いま》こそは 声《こゑ》の嗄《か》るがに 来鳴《きな》き響《とよ》めめ
慨哉 四去霍公鳥 今社者 音之干蟹 來喧響目
【語釈】 ○慨きや 「慨き」は、心痛きで、嘆かわしい意。連体形。「や」は感動の助詞。○醜ほととぎす 「醜」は、ものをさげすみ罵る意の語で、用例の多いもの。いやな霍公鳥だ。○今こそは声の嗄るがに 「今」は、その鳴くべき時。「こそ」は、その強調。「嗄るがに」は、嗄れるほどに。○来鳴き響めめ 来て高く鳴けばよいのに。「響む」は他動詞下二段活用、その未然形「響め」に推量の助動詞(勧誘)「む」の接続したもの。「こそ」の結で「め」となった。(一九四七)に既出。
【釈】 嘆かわしい、いやな霍公鳥だ。今こそ声の嗄れるほどに来て高く鳴けばよいのに。
【評】 霍公鳥の声を待ちこがれているのに、その季節が来ても来ないので、反動的に怒りを発して憎んだ心である。憎しみは愛の半面で、その強いほど快い。この歌はその意味でおもしろい。
1952 今夜《このよひ》の おぼつかなきに 霍公鳥《ほととぎす》 鳴《な》くなる声《こゑ》の 音《おと》の遙《はる》けさ
今夜乃 於保束無荷 霍公鳥 喧奈流聲之 音乃遙左
【語釈】 ○今夜のおぼつかなきに 「今夜」は、『新訓』の訓。「おぼつかなき」は、はっきりしないことだのにで、暗い意。○鳴くなる声の音の遙けさ 「鳴くなる声」は、鳴いている声。「音」は、声を対させていう場合には、響というにあたる。ここはそれである。「遙けさ」は、遠いことだ。
【釈】 今夜の暗くはっきりしないことだのに、霍公鳥の鳴いている声の、その響の遠いことだ。
【評】 暗い夜の遠く微かな霍公鳥の声は、そのものが一種の気分であって、それだけで充足したものである。この歌は、それをそのままにあらわしたものである。作歌に熟した人の作ではない。
(408)1953 五月山《さつきやま》 卯《う》の花月夜《はなづくよ》 ほととぎす 聞《き》けども飽《あ》かず 又《また》鳴《な》かぬかも
五月山 宇能花月夜 霍公鳥 雖聞不飽 又鳴鴨
【語釈】 ○五月山卯の花月夜 「五月山」は、五月の山。「卯の花月夜」は、卯の花を照らしている月夜。○ほととぎす 上をうけて、そこに鳴いている霍公鳥。○又鳴かぬかも 旧訓「またなかむかも」。『略解』の訓。用例の多きによったものである。「鳴かぬか」は、鳴かないのか、鳴いてくれよの意で、反語によって願望の意をあらわすもの。「も」は、詠歎。
【釈】 五月の山の、卯の花を照らす月夜の霍公鳥は、聞いても飽かない。また鳴いてくれぬかなあ。
【評】 境は格別なものではないが、印象の鮮明なことは類のないものである。「五月山卯の花月夜ほととぎす」と、名詞だけを三つ続けて、一助詞をも用いていないのであるが、それがいささかの無理もなく、鮮明に印象されて来るのである。意識しての技巧ではあろうが、その跡を留めず、自然に、しかも余裕あるごとくみえるのは、この時代の風である感性を主として、気分を立体的にあらわそうとする手法のものだからである。知性が働けば説明的になってこうしたことはできないのであるが、この歌にあっては知性が表面にあらわれていないので、こうしたことが安らかにいえているのである。しかし実際を離れていないことは知性的ともいえる。目につく歌である。
1954 霍公鳥《ほととぎす》 来居《きゐ》も鳴《な》かぬか 吾《わ》が屋前《やど》の 花橘《はなたちばな》の 地《つち》に散《ち》らむ見《み》む
霍公鳥 來居裳鳴香 吾屋前乃 花橘乃 地二落六見牟
【語釈】 ○来居も鳴かぬか 来てとまって、鳴いてくれぬか、鳴いてくれよ。○花橘の地に散らむ見む 「花橘」は、花の咲いている橘で、「地に散らむ見む」は、霍公鳥の響で、橘の花の散るであろうのを見よう。
【釈】 霍公鳥は、来てとまって鳴いてくれぬか、鳴いてくれよ。わが家の庭に咲いている橘の花が、声の響で地に散るだろうのを見よう。
【評】 上の(一九五〇)は、このことの事実となっているもので、この歌はそれを憧れとしているものである。賞すべき情景を眼前に見て、快い気分に浸ろうというのである。同様のことではあるが、事実としては見たのよりも、想像として描くほう(409)が一歩前進したものである。
1955 霍公鳥《ほととぎす》 厭《いと》ふ時《とき》なし 菖蒲《あやめぐさ》 ※[草冠/縵]《かづら》にせむ日《ひ》 こゆ鳴《な》き渡《わた》れ
霍公鳥 厭時無 昌蒲 ※[草冠/縵]將爲日 從此鳴度礼
【語釈】 ○厭ふ時なし いつ聞いても、いやな時はない。しかしの意を含んで下へ続く。○菖蒲※[草冠/縵]にせむ日 菖蒲をもって造った※[草冠/縵]をする日で、これは五月五日の節供の日である。これは薬玉とともに邪気を払う咒《まじな》いとして行なったことである。この日は、代表的に楽しい日としたのである。○こゆ鳴き渡れ ここを通って鳴いて飛び行けよで、命令形。ほととぎすとしては初声の頃である。
【釈】 霍公鳥の声は厭う時とてはない。しかし菖蒲草を※[草冠/縵]にする日には必ず、ここをとおって鳴いて行けよ。
【評】 五月の節供を、菖蒲草を※[草冠/縵]にする日と言いかえているのは、すでに情趣である。その日ほととぎすの初声を聞きたいというのは、さらに情趣を添えようとするものである。しかしいずれも未来の想像である。情趣、気分を慕ってやまない心である。
1956 大和《やまと》には 啼《な》きてか来《く》らむ 霍公鳥《ほととぎす》 汝《な》が鳴《な》く毎《ごと》に 無《な》き人《ひと》念《おも》ほゆ
山跡庭 啼而香將来 霍公鳥 汝鳴毎 無人所念
【語釈】 ○大和には啼きてか来らむ これは大和の人で、現在旅にいて、その旅先で妻などを喪つた人の、霍公鳥の鳴く頃の推量である。当時、人が死んで冥界の者となると、その霊魂は霍公鳥の形を取って、生前最も心を寄せていた地へ来るものだという信仰があって、その上に立っていっているものである。○霍公鳥 呼びかけ。○汝が鳴く毎に無き人念ほゆ お前の鳴くごとに、故人が思われる。「無き人」は妻と思われる。
【釈】 大和国には、故人の霊魂である霍公鳥が啼いて来ることであろうか。この地の霍公鳥よ、お前の鳴くごとに故人が思われる。
【評】 当時の信仰のからんでいる歌なので、やや間接な感のある歌である。ほととぎすに対しての信仰は、信仰上のこととて明らかにはし難いが、必ずしも察し難くはない。上代は死者は幽冥界に存在を続け、この世に交渉をもっているとし、また死者の霊魂は鳥の形を取って、地上に現われるとし、また霊魂の現われるのは夜間でもあるとしていた。このことは集中の歌で(410)も知られる。ほととぎすの遠くから来て遠くへ去る鳥である点、夜間に鳴く鳥である点などは、この信仰に結びつきやすいことから、そうした信仰が生まれたものかと思われる。この信仰のうち、霊魂が鳥の形をとることを除くと、他の点は現在も保たれていて、年々に営む孟蘭盆《うらぼん》の行事はすなわちそれである。この歌の作者を大宰帥時代の大伴旅人に擬すると、この心は察しやすい。
1957 卯《う》の花《はな》の 散《ち》らまく惜《を》しみ 霍公鳥《ほととぎす》 野《の》に出《い》で山《やま》に入《い》り 来鳴《きな》きとよもす
宇能花乃 散卷惜 霍公島 野出山入 來鳴令動
【語釈】 ○卯の花の散らまく惜しみ 散ることが惜しいので。霍公鳥と卯の花とは深い関係のある間だとされていた。○野に出で山に入り 「野」も「山」も、卯の花の在り場所としていっている。○来鳴きとよもす 「来鳴き」の「来」は軽く添えたもの。高く鳴き立てる。
【釈】 卯の花の散ることが惜しいので、霍公鳥は、その花のある野に出て来、山に入って、高くも鳴き立てる。
【評】 卯の花の散る頃の霍公鳥に対する気分である。一般化してのものとみえる。「野に出で山に入り」は漢詩口調で、この当時は取入れやすいものであったろう。今でも新味がある。
1958 橘《たちばな》の 林《はやし》を植《う》ゑむ 霍公鳥《ほととぎす》 常《つね》に冬《ふゆ》まで 住《す》み渡《わた》るがね
橘之 林乎殖 霍公鳥 常尓冬及 佳度金
【語釈】 ○橘の林を植ゑむ 橘の林を造ろうの意。○常に冬まで 「常に」は、永久、「冬まで」はその説明で、語をかえての繰り返し。○住み渡るがね 住み続ける料に。ほととぎすが好んで橘に来るところから、そこに男女関係のごときものを感じるのと、橘の常緑の木であることを理由としてのこと。
【釈】 橘の林を造ろう。その木を好む霍公鳥が、永久に、冬までも、住み続けている料に。
【評】 渡り鳥の霍公鳥を居つかせようとの思いつきである。渡り鳥であることに男の性分を認め、常緑の木であることに女の性分を認め、「住み渡る」という、男が妻としての女の家に居つく意の語を用いて、そのことを明らかにしている。気分化して、婉曲に上品にいっているため、さりげない、底を割らないものになっている。貴族的な歌である。
(411)1959 雨《あめ》霽《は》れし 雲《くも》に副《たぐ》ひて 霍公鳥《ほととぎす》 春日《かすが》をさして 此《こ》ゆ鳴《な》き渡《わた》る
雨※[日+齊]之 雲尓副而 霍公鳥 指春日而 從此鳴度
【語釈】 〇雨霽れし雲に副ひて 雨があがった後の、移動する雲に伴って。○春日をさして此ゆ鳴き渡る 春日の山地をさして、ここをとおって鳴いて飛んでゆくで、「此」は、作者のいる所で、奈良京であろう。
【釈】 雨があがった後の、移動する雲に伴って、霍公鳥は、春日のほうをさして、ここをとおって鳴いて飛んで行く。
【評】 光景そのものの快さに満足して、ただ叙述だけをしている歌である。しかし感性は十分に働かせているものである。雨あがりの空に一羽の霍公鳥を捉えて、「春日をさして」といっているのは、特殊さがある。「雲に副ひて」も、霍公鳥の鮮明に、しかも低く飛んでいることをあらわしているもので、感性の鋭敏に働いた捉え方である。それも、実際を離れずにしていることなので、明るさを添えているだけで、いささかの厭味もない。快い作である。
1960 物《もの》念《も》ふと 宿《い》ねぬ朝明《あさけ》に 霍公鳥《ほととぎす》 鳴《な》きてさ渡《わた》る 術《すべ》なきまでに
物念登 不宿旦開尓 霍公鳥 鳴而左度 爲便無左右二
【語釈】 ○物念ふと宿ねぬ朝明に 「物念ふと」は、嘆きがあるとてで、恋の上のこととみえる。「宿ねぬ朝明に」は、睡眠をしない夜の夜明けに。○霍公鳥鳴きてさ渡る 「さ」は、接頭語。霍公鳥が鳴いてわが家の空をゆくで、霍公鳥の声は感傷をそそるものとしてである。○術なきまでに やる瀬ないまでに。
【釈】 嘆きをするとて睡眠せずに夜を過ごした夜明けに、霍公鳥が鳴いてわが家の空をゆく。やるせないまでに。
【評】 霍公鳥の声に感傷気分を募らせられたことを説明した歌である。気分だけにとどめて、事には触れまいとしてはいる。心やりの独詠である。
1961 吾《わ》が衣《ころも》 君《きみ》に着《き》せよと 霍公鳥《ほととぎす》 吾《われ》を領《うしは》き 袖《そで》に来居《きゐ》つつ
(412) 吾衣 於君令服与登 霍公鳥 吾乎領 袖尓來居管
【語釈】 ○吾が衣君に着せよと 「吾が衣」は、『代匠記』の訓。「君」は、女よりその夫をさしての称。夫の衣を作るのは妻の役で、ここもそれである。○霍公鳥吾を領き 「吾を領き」は、原文「吾乎領」。「領」は、諸注、訓が定まらない。『新訓』の訓。『新考』は、「令」に通じる字で、日本書紀には「うながす」と訓んでいると考証している。用字のままに訓むのに従う。領有し、支配する意の語で、集中に用例の少なくないものである。霍公鳥が吾に命じてという意を、支配者の権威をもって命令してと、極度に誇張したもの。○袖に来居つつ わが袖に来てとまりつづけているの意。
【釈】 わが衣を君に着せよと、霍公鳥は吾に権威をもって命令して、わが袖に来てとまり続けている。
【評】 妻が夫に衣を贈る時に添えた歌である。そういう時にはしかるべき理由をつけるのが型になっていて、これもそれである。この場合の理由は特殊なもので、妻の恋の上の訴えを、婉曲に、したがって無理にこじつけた形でいっているのである。衣はむろん新しい物であるのに、「君が衣」といっているのは、男女衣を取り換えて着るのは、いわゆる形見で、相手の霊魂をわが身に添わせ合うことで、ここも暗にそれを要求しているのである。「吾を領き袖に来居つつ」は、霍公鳥は恋ごころを募らせる鳥である。その霍公鳥が、どうすることもできないまでにわが身にまつわりついていて離れないの意で、君を思う思いに、どうにも堪えられないとの意を、このようにこじつけていっているのである。気分を具象しようとして、おりからの霍公鳥によってしているものである。苦心しての具象とみえるが、巧みとはいえないものである。
1962 本《もと》つ人《ひと》 霍公鳥《ほととぎす》をや 希《めづら》しみ 今《いま》や汝《な》が来《く》る 恋《こ》ひつつ居《を》れば
本人 霍公鳥乎八 希將見 今哉汝來 戀乍居者
【語釈】 ○本つ人霍公鳥をや 「本つ人」は、古なじみの人で、年々同じ鳥が来るのだとして、霍公鳥を修飾する語。「や」は、疑問の係。○希しみ 原文「希将見」。「希」は「稀」で、義をもって当てた字。珍しがって。○今や汝が来る 「や」は、上と同じく疑問の係。今にも汝は来るだろうか。○恋ひつつ居れば 汝を恋いつづけているので。
【釈】 古馴染の霍公鳥を珍しがってか、今にも汝は来ることだろうか。恋いながらいるので。
【評】 霍公鳥の季節に、年をした人が、年下の縁故ある人に、来訪を促した歌である。霍公鳥を珍しがって来るようなことがありはしないかと思ってといっているが、「本つ人霍公鳥」は、年をした人が自身を霍公鳥に擬したもので、疑問を二つまで用(413)いていっているのは、遠慮していっているのである。気分的な柔らかな言い方は時代的で、「恋ひつつ居れば」も同じくそれである。年をした人の気分のよく現われた歌である。
1963 かくばかり 雨《あめ》の降《ふ》らくに 霍公鳥《ほととぎす》 卯《う》の花山《はなやま》に 猶《なほ》か鳴《な》くらむ
如是詐 雨之零尓 霍公鳥 宇乃花山尓 猶香將鳴
【語釈】 ○雨の降らくに 雨の降ることであるのに。○卯の花山に 卯の花の咲いている山に。○猶か鳴くらむ それでも鳴いているのであろうか。
【釈】 これほどに雨の降ることであるのに、霍公鳥は、卯の花の咲いている山に、それでも鳴いているのであろうか。
【評】 霍公鳥の、雨のひどく降るにもかかわらず、卯の花の咲く山に鳴いているのを、この土地を去らねばならぬ時が来たので、別れを惜しんで鳴いているのだと感じて、燐れんだ心である。気分の拡がりのある歌だといえる。
蝉《ひぐらし》を詠める
1964 黙然《もだ》もあらむ 時《とき》も鳴《な》かなむ ひぐらしの 物念《ものも》ふ時《とき》に 鳴《な》きつつもとな
黙然毛將有 時母鳴奈式 日晩乃 物念時尓 鳴管本名
【語釈】 ○黙然もあらむ時も鳴かなむ 「黙然」は、黙っている意であるが、転じて、何事もなくている意となったもの。「あらむ」の「む」は、連体形。「なむ」は、他に対する希望の終助詞。○ひぐらしの 夏の終わりから秋へかけて鳴く蝉。○物念ふ時に鳴きつつもとな 「物念ふ時」は嘆きのある時。「つつ」は、継続。「もとな」は、巻二(二三〇)、上の(一八二六)に既出。よしなく、いたずらにというにあたる。
【釈】 何事もなくている時に鳴いてほしい。蜩が、嘆きをしている時によしなく嶋きつづけて。
【評】 蜩の鳴き続ける声に感傷を募らせられた気分をいおうとしたものである。気分の出ているものである。
(414) 榛《はり》を詠める
1965 思《おも》ふ子《こ》が 衣《ころも》摺《す》らむに にほひこそ 島《しま》の榛原《はりはら》 秋《あき》立《た》たずとも
思子之 衣將摺尓 々保比与 嶋之榛原 秋不立友
【語釈】 ○思ふ子が衣摺らむに 「思ふ子」は、下の続きで見ると、男である。「子」は男の愛称。○にほひこそ 「にほひ」は、美しい色に現われることで、ここは花の咲くこと。「こそ」は、願望の助詞。美しく花は咲いてくれよ。○島の榛原 「島」は、奈良県高市郡明日香村島の庄。地名とも、水に臨んだ地の総称とも取れる。ここは女の住地であるから地名と取れる。それだと巻七(一二六〇)に既出。「榛原」は「榛」は、はんの木とも、萩とも取れる字である。上に「にほひこそ」とあり、下に「秋立たずとも」とあるので、萩である。
【釈】 思う男の衣を摺ろうに、美しい色の花と咲いてくれよ。島の萩原は秋は立たなかろうとも。
【評】 島の榛原の辺りに住んでいる女の、男のためにと、夏の頃、秋の萩の花にあこがれている心である。原の美しさを思う明るい気分の歌である。
花を詠める
1966 風《かぜ》に散《ち》る 花橘《はなたちばな》を 袖《そで》に受《う》けて 君《きみ》がみ跡《あと》と 思《しの》ひつるかも
風散 花桶※[口+立刀] 袖受而 爲君御跡 思鶴鴨
【語釈】 ○君がみ跡と 原文「為君御跡」。諸注「跡」を誤写として、さまざまに訓んでいる。『新訓』の訓。跡に残したものとして、すなわち形見としての意。○思ひつるかも 君を偲んだことである。
【釈】 風に散る橘の花をわが袖に受け留めて、君がみ跡に残したものと思って、亡き君を偲んだことである。
【評】 心の明らかな歌である。君は亡き人で、作者は妻であろう。「風に散る花橘を袖に受けて」が、自然で、わざとらしさがないのみならず、美しく哀れである。感のとおった好い歌である。
(415)1967 かぐはしき 花橘《はなたちばな》を 玉《たま》に貫《ぬ》き 送《おく》らむ妹《いも》は 羸《みつ》れてもあるか
香細寸 花橘乎 玉貫 將送妹者 三礼而毛有香
【語釈】 ○かぐはしき花橘を 香気のよい橘の花を。○羸れてもあるか 「羸れ」は、病み窶れで、巻四(七一九)に既出。「か」は、詠歎のこもった疑問の助詞。
【釈】 香気のよい橘の花を玉として緒に貫いて贈ろう妹は、病みやつれてもいることか。
【評】 五月五日の節日に、貴族階級の夫婦間では、橘の花を緒に貫いて贈答し合ったとみえ、これも夫が例によってそうした物を妻に贈ろうとして、おりから妻の病みやつれていることを眼に思い浮かべた心である。代表的に楽しい日に、それにはふさわしくない状態を思っての気分である。多くをいわず、気分をその一歩手前の状態をいうことにとどめたものである。貴族的な歌である。
1968 霍公鳥《ほととぎす》 来鳴《きな》きとよもす 橘《たちばな》の 花《はな》散《ち》る庭《には》を 見《み》む人《ひと》や誰《たれ》
霍公鳥 來鳴響 橘之 花散庭乎 將見人八孰
【語釈】 ○来鳴きとよもす 来て高く鳴き立てるところので、「とよもす」は連体形。○見む人や誰 「や」は、疑問の係。見よう人は誰であるか、君であるの意で、君とともに見ようの意でいっているもの。
【釈】 霍公鳥が来て高く鳴き立てる橘の、花の散る庭のさまをともに見る人は誰であろうか、君をおいてはない。
【評】 風流を解していると思っている男が、その友人に、来訪を求める心で贈った歌である。霍公鳥が庭の橘に来てとまって、鳴き声でその花を散らす趣を共に見ようというので、事としては格別のものではないが、「見む人や誰」といって、君以外にはこの趣を解しうる者はないとそそのかしているのである。風流を競う者同士の社交の歌である。
1969 吾《わ》が屋前《やど》の 花橘《はなたちばな》は 散《ち》りにけり 悔《くや》しき時《とき》に 逢《あ》へる君《きみ》かも
(416) 吾屋前之 花橘者 落尓家里 悔時尓 相在君鴨
【語釈】 ○逢へる君かも 訪問された君であるよで、「君」は、友。
【釈】 わが家の庭の橘の花は、散ってしまったことだ。残念な時に訪問された君であるよ。
【評】 主人として、訪問した友に対して、挨拶の心をもって詠んだ歌である。社交上の歌である。
1970 見渡《みわた》せば 向《むか》ひの野辺《のべ》の 石竹《なでしこ》の 散《ち》らまく惜《を》しも 雨《あめ》な降《ふ》りそね
見渡者 向野邊乃 石竹之 落卷惜毛 雨莫零行年
【語釈】 ○見渡せば向ひの野辺の 見渡すと向かいの野辺に見えるで、家の内にいてのこと。○散らまく惜しも 散ろうことが惜しい。○雨な降りそね 「そね」は、原文「行年」。「行」の用字が問題になっている。「ね」は、願望。
【釈】 家から見渡すと、向かいの野辺に見える石竹の、散るのが惜しい。雨よ降ってくれるな。
【評】 平凡な野趣を愛している心である。石竹が雨に散るというのはいかがである。気分の語である。
1971 雨間《あまま》あけて 国見《くにみ》もせむを 故郷《ふるさと》の 花橘《はなたちばな》は 散《ち》りにけむかも
雨間開而 國見毛將爲乎 故郷之 花橘者 散家武可聞
【語釈】 ○雨間あけて 「雨間」は、雨の降っている間。巻八(一四九一)に既出。雨が晴れてというにあたる。○国見もせむを 「国見」は、高きに登って、広い展望を楽しむこと。「故郷」は、大体故京で、飛鳥とみえる。
【釈】 雨が晴れて国見をしようのに、故郷の橘の花は、この雨のために散ってしまったことであろうか。
【評】 故郷へ行って、なつかしさから遊覧をしようとしていた人の、長雨に降りこめられていての感である。おりからの見ものである橘の花が、この雨で散ってしまったろうかと推量しているのである。気分の歌であるが、実際を離れないために、気分が誇張されていない点が好い。
(417)1972 野辺《のべ》見《み》れば 瞿麦《なでしこ》の花《はな》 咲《さ》きにけり 吾《わ》が待《ま》つ秋《あき》は 近《ちか》づくらしも
野邊見者 瞿麥之花 咲家里 吾待秋者 近就良思母
【語釈】 ○瞿麦の花 夏の末より秋へかけて咲く花。
【釈】 野辺を見ると、瞿麦の花が咲いたことであるよ。われの待っている秋は、近づくらしいよ。
【評】 秋の近づくことを認めて喜んだ心である。奈良京の人は、一年のうち、春にもまして秋を喜んでいたようである。
1973 吾妹子《わぎもこ》に あふちの花《はな》は 散《ち》り過《す》ぎず 今《いま》咲《さ》ける如《ごと》 ありこせぬかも
吾妹子尓 相市乃花波 落不過 今咲有如 有与奴香聞
【語釈】 ○吾妹子にあふちの花は 「吾妹子に」は、「逢ふ」と続き、「あふち」の枕詞。「あふち」は、棟科の落葉喬木。今はせんだんという。四、五月頃、淡紫色の花が咲く。○散り過ぎず 散り去らずしてで、「ず」は、連用形。○ありこせぬかも あってくれぬか、あってくれよで、反語の形の願望。
【釈】 吾妹子に逢うに因みある棟の花は、散り去らずして、今咲いているがようにあってくれぬか、あってくれよ。
【評】 棟の花を酷愛しての心である。紫の色を尊重した時代とて、その淡紫色は愛されるべきものであり、花の形も小さいので、あわれも伴っていたことであろう。「吾妹子に」という枕詞は、気分の上の繋《つな》がりをもちうるものである。溺愛している気分であるが、厭味のないものである。
1974 春日野《かすがの》の 藤《ふぢ》は散《ち》りにて 何《なに》をかも 御狩《みかり》の人《ひと》の 折《を》りて挿頭《かざ》さむ
春日野之 藤者散去而 何物鴨 御狩人之 折而將挿頭
【語釈】 ○春日野の藤は散りにて 「散りにて」は、「に」は「去ぬ」の連用形「いに」の約である。○御狩の人 「御狩」は、五月五日にする薬狩で、薬用として鹿の落角を拾う狩である。本来は神事で礼装をしてしたのであるが、後には一種の行楽となった。
(418)【釈】 春日野の藤は散ってしまって、何を御狩の人は挿頭《かざし》とするのであろうか。
【評】 大宮人の御狩の日の礼装を美しい物に見ている庶民の心である。この歌は、藤の花の挿頭を印象深く見ていた庶民の、その花の今年は散って無いところからの感である。美しさを慕う心よりの歌である。
1975 時《とき》ならず 玉《たま》をぞ貫《ぬ》ける 卯《う》の花《はな》の 五月《さつき》を待《ま》たば 久《ひさ》しかるべみ
不時 玉乎曾連有 宇能花乃 五月乎待者 可久有
【語釈】 ○時ならず玉をぞ貫ける その時節ではなくして、玉を緒に貫いたことである。これは白い卯の花の枝に咲きつづいているのを見て、五月五日の節供の薬玉を連想していったのである。○卯の花の 「卯の花」は、四月頃に咲く。○五月を待たば久しかるべみ 「五月を待たば」は、五月五日の節供を待ったならば。「久しかるべみ」は、「べみ」は、理由を示すもので、待ち遠しいだろうから。
【釈】 その時ではなくて、玉を緒に貫いたことであるよ。卯の花が、五月五日の薬玉の時を待ったならば、待ち遠しいだろうから。
【評】 四月頃、卯の花の咲いたのを見ると、その花と枝の状態から、五月の薬玉を連想して、卯の花はその日が待ち遠いので、今からこのように咲いているのだとしたのである。五月の節供にあこがれる気分よりの連想である。
問答
1976 卯《う》の花《はな》の 咲《さ》き散《ち》る岳《をか》ゆ 霍公鳥《ほととぎす》 鳴《な》きてさ渡《わた》る 公《きみ》は聞《き》きつや
宇能花乃 咲落岳從 霍公鳥 鳴而沙度 公者聞津八
【語釈】 ○咲き散る岳ゆ 「咲き散る」は、散るを主とした語で、散っている。「岳ゆ」は、岳を通って。○鳴きてさ渡る 「さ」は、接頭語。卯の花が散ると霍公鳥はこの地を去らねばならぬので、悲しんで、鳴いてゆく。○公は聞きつや 「公」は、妻より夫をさしたもの。
【釈】 卯の花が散っている岡を通って、霍公鳥が悲しんで鳴いて渡って行く。公《きみ》は聞いたのか。
(419)【評】 卯の花が散ると、霍公鳥はこの地を去らねばならぬということは、常識となっていたとみえる。そのあわれ深い霍公鳥が、わが住んでいる岡を通って、そちらへ鳴いて行ったが、公は聞いたのかというので、夫のあわれを汲む心の有るか無いかを危ぶむ心をからませての問である。夫の自分に対する心の足りないのをかすめていったものである。
1977 聞《き》きつやと 君《きみ》が問《と》はせる 霍公鳥《ほととぎす》 しののに沾《ぬ》れて 此《こ》ゆ鳴《な》き渡《わた》る
聞津八跡 君之問世流 霍公島 小竹野尓所沾而 從此鳴綿類
【語釈】 ○君が問はせる 「君」は、妻。「問はせる」は、「問ふ」の敬語「問はす」に、完了の助動詞「り」の連体形の添ったもの。○しののに沾れて 「しののに」は、「しとどに」の古語。しっとりと濡れて。雨か霧で濡れたのを、あわれを知るわが涙に濡れての意にしていつたもの。○此ゆ鳴き渡る ここを通って、そちらへ鳴いて行く。
【釈】 聞いたかと君がお尋ねになった霍公鳥は、わがあわれを知る涙にしっとりと濡れて、ここを通ってそちらへ鳴いて行く。
【評】 答の歌で、問よりも巧みである。二首、相応に手腕ある作者が、文芸的な意図の下に作った歌とみえる。気分を婉曲に、かすかに具象する技巧は、二首とも高度なものである。
譬喩歌
1978 橘《たちばな》の 花《はな》散《ち》る里《さと》に 通《かよ》ひなば 山霍公鳥《やまほととぎす》 響《とよ》もさむかも
橘 花落里尓 通名者 山霍公鳥 將令響鴨
【語釈】 ○橘の花散る里に 「橘の花散る」は、きわめて美しい女の譬喩で、「里」は、その女の家の譬喩。○通ひなば 女のもとへ通ったならば。○山霍公鳥響もさむかも 「山霍公鳥」は、山から出たばかりのほととぎすで、わが物と感じている男の譬喩。「響もさむかも」は、警戒の心から言い騒ぐであろうかの譬喩。
【釈】 橘の花の散っている里、すなわち美しい女のいる家へ通って行ったならば、その橘をわが物としている山霍公鳥、すなわち周囲の者が、警戒の心から言い騒ぐことであろうか。
(420)【評】 譬喩が美しく、無理のないものである。「里」は家としても、文字どおり里としても通じる。したがって「山霍公鳥」も、家族とも、その土地の者ともなるのである。歌が貴族的なものであるから、「家」と「家族」にすべきであろう。人間生活を自然の事項によって表現するということは、いわゆる文芸的には高度のものであろうが、それにも限度があって、この歌のように極度に近いところまでもってゆくと、感銘の上からはかえって浅いものとなり、底の見えたものとなってくる。問題となるものである。
夏相聞
鳥に寄す
1979 春《はる》されば
※[虫+果]※[贏の貝が虫]《すがる》なす野《の》の 霍公鳥《ほととぎす》 ほとほと妹《いも》に 逢《あ》はず来《き》にけり
春之在者 酢輕成野之 霍公鳥 保等穗跡妹尓 不相來尓家里
【語釈】 ○春されば※[虫+果]※[贏の貝が虫]なす野の 「春されば」は、春となると。「※[虫+果]※[贏の貝が虫]」は、似我蜂で、現在のすがる。既出。「なす」は、「鳴らす」の古語で、巻十一(二六四一)「時守の打鳴《うちな》す鼓」、その他の用例がある。ここは羽を鳴らす意。春になると、すがるが羽を鳴らすで、春の野の状態。○霍公鳥 夏の状態で、眼前をいっているもの。「霍公鳥」は、同音反復で、「ほと」にかかり、以上三句序詞。○ほとほと妹に逢はず来にけり 「ほとほと」は、ほとんどの古形。あぶなくもで、「逢はず」に続く。逢うや逢わずに帰って来たことよ。
【釈】 春になるとすがるが羽を鳴らす野の霍公鳥の、ほとんど、妹に逢わずに帰って来たことであるよ。
【評】 妹の家へ通って行ったが、何らかの事情で、逢うか逢わないかのあっけない状態で帰って来ての嘆きである。上代の夫婦関係にあっては有りやすいことだったのである。序詞は同音関係でかかるものであるが、気分の繋がりをもっているものである。「野」は妹の家へ行く途中のもので、春はすがるの羽を鳴らす野の霍公鳥は、男が親しく見聞きしているものである。すなわち春から夏にかけて通い続けていた野で、霍公鳥はたぶんその夜に聞いたものであろう。間接ながら緊密につながっている働きのあるものである。
(421)1980 五月山《さつきやま》 花橘《はなたちばな》に 霍公鳥《ほととぎす》 隠《かく》らふ時《とき》に 逢《あ》へる君《きみ》かも
五月山 花橘尓 霍公鳥 隱合時尓 逢有公鴨
【語釈】 ○五月山花橘に 五月の山の橘の花に。○隠らふ時に 「隠らふ」は、隠るの継続。
【釈】 五月の山の橘の花に、霍公鳥が隠れ続けている時に、逢っている君であるよ。
【評】 女が男に逢っている季節の好さを喜んだ心であるが、これはやがて逢い得た喜びを.強くいっているものである。初めて逢った時の心とみえる。「花橘に霍公鳥隠らふ」は、単に好季節というだけではなく、ほととぎすと橘の花とは関係の深いものとして、それを自分たちにも繋いでいたのである。「隠らふ」はその気分の深さをあらわすものである。「五月山」も、その逢った場所を暗示しているものとみえる。実際に即しつつ気分をあらわしている歌である。
1981 霍公鳥《ほととぎす》 来鳴《きな》く五月《さつき》の 短夜《みじかよ》も 独《ひとり》し宿《ぬ》れば 明《あ》かしかねつも
霍公鳥 來鳴五月之 短夜毛 獨宿者 明不得毛
【語釈】 ○明かしかねつも 明かし得られなかったで、眠れずに、夜の長さに侘びた意。
【釈】 霍公鳥が来て鳴く五月の短い夜も、独りで寝れば、眠れずに夜の明かしにくかったことであるよ。
【評】 「来鳴く五月」は、短か夜の状態であるとともに、その霍公鳥の鳴き声に恋ごころを刺激された気分をからませているものである。淡泊に詠んでいるが、気分を籠もらせ得ている歌である。
蝉《ひぐらし》に寄す
1982 ひぐらしは 時《とき》と鳴《な》けども 恋《こ》ふるにし 手弱女《たわやめ》我《われ》は 時《とき》わかず泣《な》く
日倉足者 時常雖鳴 於戀 手弱女我者 不定哭
(422)【語釈】 ○ひぐらしは時と鳴けども 「時と」は、鳴くべき時としてで、夏の終わりから秋へかけてのもの。○恋ふるにし 原文「於戀」は、元暦校本、類聚古集、紀州本による。諸注、訓が定まらない。『定本』の訓。巻十七(三九六二)「孤布流尓思情《こふるにしこころ》は燃えぬ」と仮名書きの用例がある。「し」は強意の助詞。西本願寺以後「於」は「我」とあるのを、「独」の誤写として「独恋《かたこひ》に」と訓む説(伊藤博氏)があり、『注釈』『古典大系本』は従っている。○手弱女 「手」は、接頭語。弱き者である女で、大夫に対する語。○時わかず泣く 「時わかず」は、これも諸注、訓が定まらない。『略解』の訓。上の「時と鳴けども」に対させた語で、時の見さかいなく泣く。
【釈】 ひぐらしは、鳴くべき時と鳴くのであるが、恋のなやみのために手弱女の我は、見さかいなく泣く。
【評】 恋の悩みをしている女が、蜩の鳴く声に刺激されて悲しみを深めた時の心である。「手弱女我は」という意識的な言い方は、その際の昂奮した心から、蜩に我を対照していっているものである。心理的自然はあるが、知性の働いた、説明的な歌である。
草に寄す
1983 人言《ひとごと》は 夏野《なつの》の草《くさ》の 繁《しげ》くとも 妹《いも》と吾《われ》とし 携《たづさ》はり宿《ね》ば
人言者 夏野乃草之 繁友 妖与吾師 携宿者
【語釈】 ○人言は 他人の噂は。○夏野の草の繁くとも 夏野の草のごとくに繁くあろうとも。○妹と吾とし携はり宿ば 「し」は、強意。「携はり宿ば」は、共に寝たならばで、下に嬉しかろうの意が省かれている。
【釈】 他人の噂は、夏の野の草のように繁くあろうとも、妹と我と共寝をしたならば。
【評】 他の噂の高いのに妨げられて、妹に逢えずにいる男の昂奮しての心である。集団的生活を重んじて、個人的行動の許されなかった部落生活から生まれた嘆きである。「夏野の草の」という譬喩も生活環境を示しているものである。
1984 このごろの 恋《こひ》の繁《しげ》けく 夏草《なつくさ》の 刈《か》り掃《はら》へども 生《お》ひしくが如《ごと》
※[しんにょう+西]者之 戀乃繁久 夏草乃 苅掃友 生布如
(423)【語釈】 ○恋の繁けく 「繁けく」は、繁しの名詞形で、繁きことは。○生ひしくが如 「しく」は続くで、続いて生えるがごとくである。
【釈】 この頃のわが恋の繁きことは、夏草の、刈り払うけれども、続いて生えるがごとくである。
【評】 心やりの歌である。「夏草の刈り掃へども生ひしくが如」は、生活実感として捉えたもので、適切な力あるものである。
1985 真田葛《まくず》延《は》ふ 夏野《なつの》の繁《しげ》く かく恋《こ》ひば まこと吾《わ》が命《いのち》 常《つね》ならめやも
眞田葛延 夏野之繁 如是戀者 信吾命 常有目八面
【語釈】 ○真田葛延ふ夏野の繁く 「真田葛」の「真」は接頭語。「田葛」は山野に自生して、蔓の這いひろがる葛。葛の這いひろがっている夏野のごとく繁くで、「繁く」は、葛の状態。○かく恋ひば 「かく」は心の状態をさしたもので、このようにわが恋うたならば。○まこと吾が命常ならめやも 「常」は、不変、永続で、ほんとうにわが命は永続きをしようか、しはしない。
【釈】 葛の這い広がっている夏野のごとくに繁く、このように恋うたならば、ほんとうにわが命は永続きをしようか、しない。
【評】 素朴な古風の歌である。情熱的で、率直な詠み方をしているところ、庶民的である。譬喩も庶民のものである。
1986 吾《われ》のみや かく恋《こひ》すらむ 杜若《かきつばた》 丹《に》つらふ妹《いも》は 如何《いか》にかあらむ
吾耳哉 如是戀爲良武 垣津旗 丹頬合妹者 如何將有
【語釈】 ○杜若丹つらふ妹は 「杜若」は、譬喩の意で「丹つらふ」にかかる枕詞。「丹つらふ」は、丹の色に出る意で、紅顔の意に用いられている語である。杜若の花は紫であるから、この承《う》け方は無理である。この語は本義から転じて、美しという意にも用いられていたとみえる。
【釈】 自分だけが妹に恋うているのであろうか。杜若のような美しい妹は、どう思っているのであろうか。
【評】 男が関係を結んだ女を、ひたすらに思うあまりに、ふと、こんなに思うのは自分だけで、女はそれほどではないのではなかろうかという、不安というよりは愚痴に近い心を起こしたのである。若い単純な心よりのものである。「杜若丹つらふ妹」は、杜若は当時は野草であって、また美しい花だったので、この男女の生活環境を暗示するものとなる。愛すべき歌である。
(424) 花に寄す
1987 片搓《かたよ》りに 糸《いと》をぞ吾《わ》が搓《よ》る 吾《わ》が背子《せこ》が 花橘《はなたちばな》を 貫《ぬ》かむと思《も》ひて
片搓尓 絲※[口+立刀]曾吾搓 吾背兒之 花橘乎 將貫跡母日手
【語釈】 ○片搓りに糸をぞ吾が搓る 糸を搓るのは、下の花橘を貫く緒を作ろうとしてのことで、それをするには二筋の糸をそれぞれに搓つて強くした上で、さらにそれを搓り合わせて強い緒にするのである。「片搓り」は、その一筋の糸を搓る工作の称である。ここは、その片搓りをした時のことをいっているもので、嘆きをもって強くいっているのである。それは夫に対しての自分の状態は片思いで、合わせ搓り、すなわち相思いには較べられない弱いものであるとしてである。○吾が背子が花橘を貫かむと思ひて 「吾が背子が花橘」は、五月五日の節日に、吉例として夫に贈る薬玉に付ける物としての、橘の蕾を緒に貫いた物である。「貫かむと思ひて」は、橘の蕾を貫く緒としようと思って。
【釈】 片搓りに一筋の糸を吾《われ》は搓っていることである。わが背に贈る花橘を貫く緒にしようと思って。
【評】 これは妻が夫に、五月五日の節日に、橘の蕾を緒に貫いた物を贈るのに添えた歌である。貴族階級のこととて、自身花橘を緒に貫く工作をしたということで、労苦して得た物という儀礼に果たしたとしたのであろう。いわんとしていることは、「片搓りに糸をぞ吾が搓る」である。これは事としては、工作の一過程をいったもので、特殊のものではなく、したがって厭味にも皮肉にもならないものである。特殊さは、その点を捉えたということで、それによって夫の愛の足りないことを婉曲に訴えたのであり、後世ではこういうことも、儀礼の範囲に入り得たものであるから、貴族社会ではこの時代にも、あるいはその趣をもったものであったかもしれぬ。気分を婉曲に具象するという歌風の中にあっては、巧みな歌といえるものである。
1988 鶯《うぐひす》の 通《かよ》ふ垣根《かきね》の 卯《う》の花《はな》の 厭《う》き事《こと》あれや 君《きみ》が来《き》まさぬ
※[(貝+貝)/鳥]之 徃來垣根乃 宇能花之 厭事有哉 君之不來座
【語釈】 ○鶯の通ふ垣根の 鶯がその隙間を潜って出入りする垣根で、実際を捉えてのもの。○卯の花の 「卯の花」は、その垣根に添って今咲いている物。「卯」を、同音の「厭」と懸けたもので、初句よりこれまでは、その序詞。○厭き事あれや 「厭き事」は、おもしろからぬこと。「あれや」は、疑問の条件法で、あったであろうか。○君が来まさぬ 「君」は、夫。「来まさぬ」は、「来ぬ」の敬語。「ぬ」は「や」の結。連体形。
(425)【釈】 鶯のその際間を潜って出入りする垣根の卯の花に因みある、厭《う》いおもしろくないことがあったのであろうか。君の来給わぬことであるよ。
【評】 初句より三句までの序詞は、女の家の実景を捉えて、同音反復で懸けたものであるが、「鶯の通ふ垣根」は、春の頃、男自身そこより出入りしたことを絡ませたものであり、「卯の花」は、現在の夏の物で、それを「厭」に転じることによって、男と関係した時の推移、気分の推移を暗示したものである。この序詞は、巻八(一五〇一)「霍公鳥鳴く峯《を》の上のうの花の厭《う》きことあれや君が来まさぬ」と酷似しているが、この序詞のほうが、気分を絡ませている点で進んでいるものである。
1989 卯《う》の花《はな》の 咲《さ》くとはなしに ある人《ひと》に 恋《こ》ひや渡《わた》らむ 独念《かたもひ》にして
宇能花之 開登波無二 有人尓 戀也將渡 獨念尓指天
【語釈】 ○卯の花の咲くとはなしに 「花の咲く」は、恋の上の譬喩語として「花」と「実」という、その「花」と同意語で、「卯の」は時の花として添えていっているもの。卯の花の咲くように、恋の好意を示すとはなく。○ある人に 「人」は女で、いる女に。○恋ひや渡らむ 「や」は、疑問の係。恋い続けることであろうか。
【釈】 卯の花の咲くように、我に恋の好意のあるともなくいる女に、恋い続けることであろうか。片思いの状態で。
【評】 片思いをしての男の独語である。「卯の花の咲くとはなしにある人に」は、いかにもかすかな言い方で、しかし心の明らかなもので、巧みである。「独念にして」は、それに合わせては底を割った説明である。
1990 吾《われ》こそは 憎《にく》くもあらめ 吾《わ》が屋前《やと》の 花橘《はなたちばな》を 見《み》には来《こ》じとや
吾社葉 憎毛有自 吾屋前之 花橘乎 見尓波不來鳥屋
【語釈】 略す。
【釈】 吾のほうは憎くもあろう。わが家の庭の橘の花を見には来まいと思うのであろうか。
【評】 橘の花の咲いている頃、足を遠くしている夫に贈った歌である。「吾こそは憎くもあらめ」は、甘え心かわざと誇張し(426)ていったもので、「見には来じとや」は、見に来たまえというのを、わざと逆にいったものである。信じ合っている夫婦間の歌である。
1991 霍公鳥《ほととぎす》来鳴《きな》き動《とよ》もす 岡《をか》べなる 藤浪《ふぢなみ》見《み》には 君《きみ》は来《こ》じとや
霍公鳥 來鳴動 岡邊有 藤浪見者 君者不來登夜
【語釈】 ○霍公鳥来鳴き動もす 霍公鳥が来て、高く鳴き立てているで、「藤浪」を対象としてである。○藤浪見には 「藤浪」は藤の花。
【釈】 霍公鳥が来て高く鳴き立てている、岡の辺に咲いている藤の花を見には、君は来まいとするのであろうか。
【評】 上の歌と作意は同じものであるが、このほうは、訴え方が婉曲である。「岡べなる藤浪」は、女の家の辺りのもので、それは霍公鳥も来て愛で騒いでいるものであるといって、それを「見には君は来じとや」といって、その折の佳景に託して婉曲に来訪を促しているのである。伝統のある古い訴え方であるが、一肢化するとともに、婉曲という点で進展を示している。
1992 隠《こも》りのみ 恋《こ》ふれば苦《くる》し 瞿麦《なでしこ》の 花《はな》に咲《さ》き出《い》でよ 朝旦《あさなさな》見《み》む
隱耳 戀者苦 瞿麥之 花尓開出与 朝旦將見
【語釈】 ○隠りのみ恋ふれば苦し 「隠り」は、下の続きで、夫婦関係を結んでいる女が、そのことを母に秘密にしているのを、男の立場からいっているもので、母に秘密にばかりして恋うているのは苦しいで、男の語。○瞿麦の花に咲き出でよ 瞿麦の花のごとくに、咲き出でよで、「咲き出で」は、母に打明けよの譬喩。○朝旦見む 「朝旦」は、日々という意であるが、瞿麦の花は朝咲くものとして、その意味で言いかえたもの。「見む」も同じく「逢ふ」を、花の上のこととしていったもの。気安く日々逢おうの意。
【釈】 母に秘密にばかりして恋うているのは苦しい。瞿麦の花のごとくに咲き出でて母に打明けよ。その花を朝々見るごとくに日々に逢おう。
【評】 結婚後、ある期間を経た時、男が女に命じる心で詠んだものである。「瞿麦の」以下は、その時の花を譬喩にして、複雑な事相を単純に、美しくあらわしたものである。その事は当時としては自明な事柄であったので、これで十分通じたものとみえる。作意は実用性のものであるが、それとしてはじつに巧みである。日常生活と文芸とが融合して一体となっているとい(427)える。
1993 外《よそ》のみに 見《み》つつを恋《こ》ひむ 紅《くれなゐ》の 末《すゑ》採《つ》む花《はな》の 色《いろ》に出《い》でずとも
外耳 見筒戀牟 紅乃 末採花乃 色不出友
【語釈】 ○外のみに 『略解』の訓。よそながらの状態のみに。○見つつを恋ひむ 同じく『略解』の訓。「を」は、感動の助詞。「つつ」は、継続で、昂奮しての語。○紅の未採む花の 「紅の」は、紅色の。「末採む花」は、紅花。紅花は末の、すなわち先のほうに咲く花を摘んで、臙脂《えんじ》を製するので、その扱い方を説明した語。紅花の別名となったもの。紅花は菊科紅藍属の越年生草本。二句、その色の鮮やかなところから「色に出づ」の譬喩。○色に出でずとも 「色に出づ」は、表面にあらわすで、恋を打明けていわずとも。
【釈】 よそながらの状態でばかり女を見つつ恋うていよう。紅色の末を摘む花のように、色に出る、すなわち表面にあらわすことはせずとも。
【評】 男の歌である。女に恋しながら、打明けずにいつまでも心中の恋としていようと決心した心である。若い心からか、他に事情があってかはわからない。「紅の末採む花の」という譬喩が魅力をなしている。眼前に見ている物であるが、女の美しさに気分の上でつながりをもっているものである。臙脂を製することに関係している庶民階級の歌である。
露に寄す
1994 夏草《なつくさ》の 露別衣《つゆわけごろも》 著《つ》けなくに 我《わ》が衣手《ころもで》の 干《ふ》る時《とき》もなき
夏草乃 露別衣 不著尓 我衣手乃 干時毛名寸
【語釈】 ○夏草の霧別衣 夏草の露を分ける衣で、朝の労働服とみえる。○著けなくに 着ないことなのに。○我が衣手の干る時もなき わが袖の涙の乾く時もないことだ。「干る」は奈良時代は上二段活用であった。
【釈】 夏草の露を分ける衣を着ているのではないことなのに、わが袖は涙で乾く時もないことだ。
【評】 恋の嘆きをしている男の歌である。露分衣という語は新しく美しいが、庶民的な粗《あら》さと誇張があり、謡い物を思わせる。
(428) 日に寄す
1995 六月《みなづき》の 地《つち》さへ割《さ》けて 照《て》る日《ひ》にも 吾《わ》が袖《そで》乾《ひ》めや 君《きみ》に逢《あ》はずして
六月之 地副割而 照日尓毛 吾袖將乾哉 於君不相四手
【語釈】 ○地さへ割けて 地までも干割れて。○吾が袖乾めや 「や」は、反語。
【釈】 六月の地までも干割れて照っている日にも、私の涙で濡れている袖は乾こうか、乾きはしない。君に逢わずにいるので。
【評】 「六月の地さへ割けて照る日にも」は、眼前を捉えたもので、その捉え方の大きく、言い方の直線的に、力のある点は、特色のあるものである。まさしく庶民的なものである。上の歌よりも謡い物の匂いの強いものである。
秋雑歌
七夕
【解】 以下三十八首は、左注に「柿本朝臣人麿歌集に出づ」とあるものである。
1996 天《あま》の河《がは》 水《みづ》さへに照《て》る 舟競《ふなぎほ》ひ 舟《ふね》こぐ人《ひと》に 妹《いも》ら見《み》えきや
天漢 水左閇而照 舟競 舟人 妹等所見寸哉
【語釈】 ○水さへに照る 原文「水左閇而照」。諸注、訓が定まらない。西本願寺本の訓。『全註釈』は、下の(二〇〇五)に「然叙手而在《しかぞてにある》」の用例によって「に」に当てたものとしている。天の河の水までも照るで、天の河の岸に牽牛を待って立っている織女の美しさを、第三者として叙しているもの。○舟競ひ 舟を競い漕ぐ意であるが、ここは勢よく漕ぐ意に用いている。○舟こぐ人に 天の河を渡る牽牛。○妹ら見えきや 「妹ら」は、「ら」は接尾語。「妹」は織女。「や」は疑問。妹は見えたであろうか。
【釈】 天の河の水までも照って、織女は立って待っている。勢よく舟を漕いでいる人に、その妹は見えたであろうか。
(429)【評】 七月七日の天の河の状態を想像して目に描いた歌である。第三者として二星の逢うまでの状態を、努めて気分的・感覚的にあらわそうとしたもので、星の名をいわず、「水さへに照る」といい、「舟競ひ舟こぐ人」とだけいっているのはその意のもので、意図も技巧もすぐれている。そのわりに感の稀薄なのは、題材のためというべきである。
1997 久方《ひさかた》の 天漢原《あまのかはら》に ぬえ鳥《どり》の うら歎《な》けましつ ともしきまでに
久方之 天漢原丹 奴延鳥之 裏歎座都 乏諸手丹
【語釈】 ○ぬえ鳥のうら歎けましつ 「ぬえ鳥の」は、ぬえ烏は、今、とらつぐみと称する鳥で、細く悲しげな声で鳴くところから、意味で「うら歎け」にかかる枕詞。「うら歎けましつ」は、心中に泣いていられたで、忍び音に泣く意の敬語法。巻十七(三九七八)に「ぬえ鳥のうらなけしつつ下恋に」と、仮名書きの例がある。織女の状態としていっているもの。○ともしきまでに 「ともしき」は、羨ましいまでにで、上の歌と同じく、第三者として織女の状態を見て、男性として羨望をいったもの。
【釈】 久方の天の河原に、ぬえ鳥のように、忍び音に泣いていられた。見る目も羨ましいまでに。
【評】 前の歌の続きで、第三者として傍観して、目を織女に移して、その状態を精叙し、傍観者としての感を添えたものとみえる。二首連作とみえるからである。独立歌と見ると「ともしきまでに」は牽牛の心である。気分的に詠んでいるので、どちらとも取れる歌である。
1998 吾《わ》が恋《こひ》を 嬬《つま》は知《し》れるを 行《ゆ》く船《ふね》の 過《す》ぎて来《く》べしや 事《こと》も告《つ》げなむ
吾戀 嬬者知遠 徃船乃 過而應來哉 事毛告火
【語釈】 ○吾が恋を嬬は知れるを 「嬬」は織女で、牽牛の心。○行く船の過ぎて来べしや 「行く船」は、天の河を漕ぐ船。「過ぎて来べしや」は、織女のいる辺りを通り過ぎて、黙って帰って来られようか、来られないで、「や」は反語。○事も告げなむ 「事」は、寄れない事情で、その日は許されている七月七日ではない意で、それを織女に告げ知らせようの意。その事情は織女も弁えているはずであるが、女性の常として、時には弁えもなくなる意でいっているもの。
【釈】 わが恋のほどは妻も知っているものを。わが船が向こう岸に寄らずに通り過ぎて帰れようか帰れない。寄らない事情を告(430)げ知らせよう。
【評】 この歌は、牽牛が織女と共寝することを許されているのは、七月七日の一夜のみであるが、平常、天の河に船を漕ぐことは自由であったと解して、その上に立ってのものである。こう解さないとわからない歌である。牽牛の船が織女のいる岸近くまで来て、そのまま行き過ぎるのを見ては、弁えているはずの織女も弁えを忘れて恨むだろうとの心で、牽牛としても特殊な心である。作者の体験の生んだ想像であろう。
1999 朱《あか》ら引《ひ》く 敷妙《しきたへ》の子《こ》を 屡見《しばみ》れば 人妻《ひとづま》ゆゑに 吾《われ》恋《こ》ひぬべし
朱羅引 色妙子 數見者 人妻故 吾可戀奴
【語釈】 ○朱ら引く敷妙の子を 「朱ら引く」は、「ら」は接尾語。「朱」は紅色で、「引く」はいちめんに拡がる意。ここは紅顔の意で、子にかかる枕詞。「敷妙」は、織り目の細かい織物で、美しく柔らかい意で、「子」を讃えたもの。「子」は、女の愛称で、織女。○屡見れば たびたび見ると。○人妻ゆゑに吾恋ひぬべし 「人妻ゆゑに」は、「ゆゑ」は、原因をあらわす語で、人妻であるのにで、懸想などすべくもないのにの意。「恋ひぬべし」は、「ぬ」は、完了の助動詞で強意。恋をしそうである。
【釈】 紅顔の、敷妙のような美しいかわゆい女をたびたび見ると、人妻であるのに、吾は恋をしそうである。
【評】 最初の二首の歌と同じく、第三者として織女を見、その美しさに魅惑された心である。「人妻ゆゑに吾恋ひぬべし」は、地上の心より類推していっているものである。心理的で、統一力の強い、気分の濃い歌である。
2000 天漢《あまのがは》 安《やす》の渡《わたり》に 船《ふね》浮《う》けて 秋《あき》立《た》つ待《ま》つと 妹《いも》に《つ》告げこそ
天漢 安渡丹 船浮而 秋立待等 妹告与具
【語釈】 ○天漢安の渡に 「安」は、記紀に出ている高天原にある河で、「渡」は、渡し場。天の河と安の河とを一つにしている言い方である。しやすい想像である。○船浮けて 「浮け」は、浮かべる意。下二段活用。彦星が船の準備をして。○秋立つ待つと 秋の立つのを待っていると。○妹に告げこそ 「こそ」は希求の助詞。原文「与具」、訓に諸説がある。与えよの意で、「与」で「こそ」をあらわした例は幾つもあり、それに「具へよ」の意で「具」を添えたものである。
(431)【釈】 天の河の安の渡し場に船を準備して、逢うを許されている秋の立つのを我は待っていると、妹に告げてくれよ。
【評】 歌としては平凡であるが、「天漢安の渡に」は、特色がある。漢土のものである七夕伝説を、完全にわがものとしていた語である。牽牛星、織女星という漢土では庶民的な星を、彦星、棚機つ女とおおらかなものにしたのも同様で、それを一段と徹底させたものである。模倣にとどめず、摂取して創造に近いものにしている趣がある。人麿にふさわしい解である。
2001 蒼天《おほぞら》ゆ 通《かよ》ふ吾《われ》すら 汝《な》がゆゑに 天《あま》の河路《かはぢ》を なづみてぞ来《こ》し
從蒼天 徃來吾等須良 汝故 天漢道 名積而叙來
【語釈】 ○蒼天ゆ通ふ吾すら 大空を通って往来する吾でさえ。星の本来の性質をいったもの。○汝がゆゑに 「汝」は、織女をさしたもの。あなたのゆえには。○天の河路をなづみてぞ来し 天の河の河路を苦労して来たで、「し」は、「ぞ」の結。連体形。織女に逢う方法として定められていることに従っての意。
【釈】 大空を通って往来することのできる吾でさえ、そなたのゆえには、天の河の河路を苦労して来たことである。
【評】 地上の夫婦間にあって、夫がその妻のもとへ通って行った時、途を難渋して来たことをいって、その真心を示すのを、彦星も織女に向かってする形の歌である。この歌は、「蒼天ゆ通ふ吾」の、「天の河路」をなずんで来たと、彦星も恋のためには侘びしい制約を受けなければならないことをいっている点に特徴がある。柄の大きい、要を得たすぐれた想像である。
2002 八千戈《やちほこ》の 神《かみ》の御代《みよ》より ともし※[女+麗]《づま》 人《ひと》知《し》りにけり 継《つ》ぎてし思《おも》へば
八千戈 神自御世 乏※[女+麗] 人知尓來 告思者
【語釈】 ○八千戈の神の御代より 「八千戈の神」は、大国主の神の一名で、国土開発の神である。遠い神代からの意で、七夕をわが国のものとしていったもの。○ともし※[女+麗] 類い稀れな美しい妻。○継ぎてし思へば 続けて思っているので、「し」は強意の助詞。
【釈】 八千戈の神の御世から類い稀れな美しい者として愛している妻は、人が知ってしまったことだ。続けて思っているので。
【評】 彦星の歌で、自分と棚機つ女との関係は、神代以来のもので、秘密にすべき夫婦も神代以来人に知られてしまったとして、それは、自分が妻を続けて思っているからだとしたのである。伝説の全体を客観的に捉え、それに「継ぎてし思へば」の(432)抒情を添え、それによって纏めた形の歌である。「八千戈の神の御代より」が、大きな働きをしている。わが国の伝説とするとともに、二星の特別な関係をもあらしているものである。「人知りにけり」は地上の類推であるが、ここでは一脈諧謔味を帯びた感のするものとなっている。
2003 吾《わ》が恋《こ》ふる にほへる面《おもわ》 今夕《こよひ》もか 天河原《あまのかはら》に 石枕《いはまくら》纏《ま》く
吾等戀 丹穗面 今夕母可 天漢原 石枕卷
【語釈】 ○にほへる面 原文「丹穂面」。従来「にのほの面」と訓んでいたのを、『全註釈』は「にほへる」と動詞に改めた。「丹穂」を動詞に当てた用例が多いからである。美しい色をした顔で、織女。○今夕もか 「も」は、詠歎。「か」は、疑問の係。○石枕纏く 石の枕をすることであろうか。
【釈】 わが恋うている、美しい色をしている顔の人は、今宵も、天の河原で石の枕をしていることであろうか。
【評】 彦星が織女のもとへ通う途中での想像である。すでに久しく恋いこがれていたこととて、天の河原の石を枕として共寝をするであろうかと思ったのである。「吾が恋ふるにほへる面」「石枕纏く」は、顔と枕の続きが感覚的である。
2004 己《おの》が夫《つま》 乏《とも》しき子《こ》らは 泊《は》てむ津《つ》の 荒磯《ありそ》枕《ま》きて寐《ね》む 君《きみ》待《ま》ちかてに
己※[女+麗] 乏子等者 竟津 荒磯卷而寐 君待難
【釈】 ○己が夫乏しき子らは 原文「※[女+麗]」は夫《つま》に当てたもの。「乏しき子ら」は、「乏しき」は、めずらしく思う。「子ら」は、「ら」は接尾語で、「子」は、女の愛称。第三者として女をいっているもの。○泊てむ津の 諸注、訓が定まらない。『古義』の訓。舟が着くであろう船着き場ので、船は彦星のもの。○荒礒枕きて寐む 「荒礒」は、河岸に現われている石。「枕きて寐む」は、枕として共寐をするであろう。○君待ちかてに 「君」は、織女の立場に立っての彦星。「待ちかてに」は、君を待ちかねて。「かてに」は巻二(九五)以下にたびたび出た。
【釈】 己が夫をめずらしく思うかわゆい女は、夫の船の着くであろう船着き場の石を枕として共寐をするであろう。夫を待ちかねていて。
【評】 これは、第三者の立場に立って、七日の夜の織女を思いやったものである。上の歌と同じく共寝ということを中心にし(433)て、ことに執拗《しつよう》に扱ったものである。こうした状態を女性の真実と解していったのであろう。
2005 天地《あめつち》と 別《わか》れし時《とき》ゆ おのが※[女+麗]《つま》 然《しか》ぞ手《て》に在《あ》る 秋《あき》待《ま》つ吾《われ》は
天地等 別之時從 自※[女+麗] 然叙手而在 金待吾者
【語釈】 ○天地と別れし時ゆ 天地開闢の昔から。○おのが※[女+麗] わが妻はで、彦星の織女をいっているもの。○然ぞ手に在る 「然ぞ」は、「ぞ」は、係。「然」は、このように。「手に在る」は、原文「手而在」で、諸注、訓が定まらない。これは旧訓である。「而」を「に」に当てた例は、上の(一九九六)に出た。わが物として手に持っているで、漢籍の手中、掌中を訳したものと思われる。「在る」の「る」は、「ぞ」の結。○秋待つ吾は 「秋待つ」は、許されて相逢う時の秋を待っている、吾は。
【釈】 天地開闢の昔から、わが妻は、このようにわが年中のものとなっていることである。相逢う秋を待っている。我は。
【評】 天地開闢の時からの妻で、今もつゆ渝《かわ》らない仲だということは、夫婦関係としては絶対の誇りである。神仙思想が行なわれ、仙郷が憧憬の的となっていた時代であるが、これはそれをも遙かに越えたもので、この歌はその意味でも魅力の伴っていたものであろう。調べの張ったさわやかな歌である。
2006 彦星《ひこぼし》は 嘆《なげ》かす※[女+麗]《つま》に 言《こと》だにも 告《つ》げにぞ来《き》つる 見《み》れば苦《くる》しみ
孫星 嘆須※[女+麗] 事谷毛 告尓叙來鶴 見者苦弥
【語釈】 ○嘆かす※[女+麗]に 「嘆かす」は、嘆くの敬語。恋しさの嘆きをされる妻に。○言だにも 慰めの語だけでも。○見れば苦しみ そのさまを見ると苦しいゆえに。
【釈】 彦星は、恋しさの嘆きをしていられる妻に、慰めの語だけでも告げに来たのだ。そのさまを見ると苦しいので。
【評】 第三者として、七月七日の夜以前のさまを叙したものである。共寝をすることは七日の夜一夜と限られているが、顔を見、ものをいうだけは、平常でも許されていたとしているのである。根本的なことは伝来のままであっても、枝葉的なことは、当時の男女間の風習を移して自由に付け加えていたとみえる。この歌は心やさしい想像である。
(434)2007 久方《ひさかた》の 天《あま》つ印《しるし》と 水無《みな》し川《がは》 隔《へだ》てて置《お》きし 神代《かみよ》し恨《うら》めし
久方 天印等 水無川 隔而置之 神世之恨
【語釈】 ○久方の天つ印と 「印」は、意味の広い語であるが、ここは標の意である。地上の標《しめ》は大体、その地または物に繩を張って、人がそこに踏み入り、また触れることを禁じたしるしのものである。「天つ印」は、天上の標の意。「と」は、として。これは、彦星と織女とにとつて、天の川が天上の標となっている意でいったもの。○水無し川 水の無い川で、天の川を言いかえたもの。天上の川であるから水が無いといえるととともに、「天つ印」としていっている関係上、越そうと思えばたやすく越せる、水の無い川のほうが合理的だからでもある。後の意のほうが重い。○隔てて置きし神代し恨めし 「神代し」の「し」は強意の助詞。隔てておいた古の代が恨めしい。
【釈】 天上の、標《しめ》として、水の無い川を隔てとして置いた神代が恨めしい。
【評】 彦星の歌として詠んだものと思われる。天の川を標と解し、越そうと思えばたやすく越せる水無し川と言いかえ、標があるために神代以来越せないとして恨んでいるのである。これは渡来の七夕伝説には全く無いもので、完全に日本化したものである。そのことの定められたのを神代のこととしているのも同様である。人麿らしい解で、また人麿でないとできないものである。
2008 ぬばたまの 夜霧隠《よぎりがく》りに 遠《とほ》くとも 妹《いも》が伝《つた》へは 早《はや》く告《つ》げこそ
黒玉 宵霧隱 遠鞆 妹傳 速皆与
【語釈】 ○夜霧隠りに遠くとも 夜霧に隠れての遠い路であろうとも。○妹が伝へは 訓は諸説がある。旧訓「いもしつたへば」。『考』の訓。織女が使に命じた語。○早く告げこそ 早く告げてくれ。「こそ」は(二〇〇〇)に出た。
【釈】 夜霧に隠れての道は遠かろうとも、妹よりの口状は、早く告げてくれ。
【評】 彦星が棚機つ女のもとへ使をやり、夜霧の籠めている空を見やりながら、その帰りを待ち遠しくしている心である。地上の延長である。
2009 汝《な》が恋《こ》ふる 妹《いも》の命《みこと》は 飽《あ》き足《た》りに 袖《そで》振《ふ》る見《み》えつ 雲隠《くもがく》るまで
(435) 汝戀 妹命者 飽足尓 袖振所見都 及雲隱
【語釈】○汝が恋ふる妹の命は 「汝」は、彦星に呼びかけてのもので、「妹の命」は、女を最高の敬称で呼んだもの。女性に対しての故であるが、この称は第三者としても身分の低い、彦星の従者ともいうべき者を想像してのものである。○飽き足りに袖振る見えつ「飽き足りに」は、十分満足するまでに。「袖振る」は、離れていて心を通じさせるしぐさとなったもので、ここは七日の夜が明けて、別れて帰って行く彦星を見送って、名残りを惜しんでしているものである。「見えつ」は、従者には見られたで、彦星は見返らなかったのである。○雲隠るまで 彦星が遠ざかって、その姿が雲に隠れるまで。
【釈】 あなたが恋うている妹の命は、十分に満足するほどに袖を振っているのが見られた。あなたの姿が雲に隠れるまで。
【評】 七日の夜が明けて、彦星がそのいるべき所へ帰る途中、彦星の従者格の者が、彦星に告げた語である。それは彦星があまりに女々しくはしまいとして振り返らずにいる心中を察して、慰めの心からいったものである。従者格の者の一語を通じて、全面の状態をあらわしている歌で、劇的手腕を思わせる作である。
2010 夕星《ゆふづつ》も 通《かよ》ふ天道《あまぢ》を 何時《いつ》までか 仰《あふ》ぎて待《ま》たむ 月人壮子《つきひとをとこ》
夕星毛 徃來天道 及何時鹿 仰而將待 月人壯
【語釈】 ○夕星も通ふ天道を 「夕星」は、夕方の星で、金星。「も」は、それさえも。「通ふ天道を」は、金星は宵は東に現われ、夜明けには西に見えて、一夜に空を自由に渡るので、そうした天上の道であるのに。○何時までか仰ぎて待たむ 「か」は、疑問の係で、いつまで空を仰いで待っているのであろうか。○月人壮子 「月人」は、月を人と見てのもの。「壮子」は、若い男の称で、早い頃の月。
【釈】 金星でさえも自由に通う天の道であるのに、いつまで空を仰いでその出を待っていることであろうか、若い月の男を。
【評】 これは七夕の歌には直接のつながりのない、月の前を待っている歌である。月を夕づつと比較し、夕づつでさえも自由に通う天道なのにともどかしがっているのは、この種の歌としては珍しいものである。若い人麿のもっていた闘志ともいうべきものが思われる。
2011 天《あま》の河《がは》 い向《むか》ひ立《た》ちて 恋《こ》ふとにし 言《こと》だに告《つ》げむ ※[女+麗]《つま》といふまでは
(436) 天漢 已向立而 戀等尓 事谷將告 ※[女+麗]言及者
【語釈】 ○天の河い向ひ立ちて 「い向ひ」は、「い」は、接頭語。ここは、彦星の七日の夜以前の状態。○恋ふとにし 諸注訓み悩んでいる。『代匠記』精撰本は「恋ふるとに」と訓んでいるが、他は誤写説を立てている。『全註釈』は、「恋ふとにし」と訓んでいる。『代匠記』の訓だと、「と」が「時」の意となるが、「等」は、助詞と見るほかはない。それで「と」は上をうけたもの。「し」は読み添えるとして、このように訓んでいるのである。それとすると「に」が不用のものとなり、問題が残る。作意は前後の関係で、「恋ふと」であろう。今は訓み難いものとして、そう解しておく。○事だに告げむ 語だけでも伝えよう。○※[女+麗]といふまでは 逢って、妻と呼ぶまでは。
【釈】 天の河に向かって立って、恋うているという語だけでも伝えよう。逢って妻と呼ぶまでは。
【評】 七日の夜以前の、彦星の織女に対する心である。三句は 訓み難いが、作意は辿れる。人麿の作としては凡作である。
2012 白玉《しらたま》の 五百《いほ》つ集《つどひ》を 解《と》きも見《み》ず 吾《われ》は干《ほ》しかてぬ 逢《あ》はむ日《ひ》待《ま》つに
水良玉 五百都集乎 解毛不見 吾者干可太奴 相日待尓
【語釈】 ○白玉の五百つ集を 「白玉」は、好い珠玉で、「五百つ集」は、その多くを緒に貫いて集めた物。これは手脚に礼装として着けた物である。わが国の神代の棚機つ女は、神の御衣を織る女で、そのような礼装をしていたことが記紀にあるので、織女をそれに擬しているのである。○解きも見ず 解きもせずで、夜も衣裳を脱いで寝ない意。○吾は干しかてぬ 「かてぬ」は巻二(九八)などしばしば出た。「ぬ」は打消の助動詞の終止形の古格。涙を干すことができない。○逢はむ日待つに 彦星に逢う日を待つので。
【釈】 白玉の五百つ集の手脚の礼装を解いて寝ることもせず、恋しさの涙を干すことができない。君に逢う日を待つので。
【評】 これは織女の七日の夜以前の心をいったものである。「白玉の五百つ集を解きも見ず」は、織女を神代の棚機の女としたもので、これも完全に日本化したものである。華麗な趣をもった歌である。
2013 天《あま》の河《がは》 水陰草《みづかげぐさ》の 秋風《あきかぜ》に 靡《なび》かふ見《み》れば 時《とき》は来《き》にけり
天漢 水陰草 金風 靡見者 時來々
(437)【語釈】 ○天の河水陰草の 「水陰草」は、水辺に生えている草の総称。○秋風に靡かふ見れば 「靡かふ」は、靡くの継続。○時は来にけり 逢いうる時が来たことだで、「に」は、完了。「けり」は、詠歎。
【釈】 天の河の水辺に生えている草の、秋風に靡きつづけているさまを見ると、逢いうる時が来たことだ。
【評】 彦星の心となって詠んだものである。おおらかに喜びをいったものであるが、語つづきが充実しているので、趣の多いものとなっている。
2014 吾《わ》が待《ま》ちし 秋芽子《あきはぎ》咲《さ》きぬ 今《いま》だにも にほひに行《ゆ》かな 遠方人《をちかたびと》に
吾等待之 白芽子開奴 今谷毛 尓寶比尓徃奈 越方人迩
【語釈】 ○吾が待ちし秋芽子咲きぬ 妻に逢える頃のものとして待っていた萩の花が咲いた。○今だにもにほひに行かな 「今だにも」は、今からでもで、七月七日以前ではあるがの意のもの。「にほひに」は、美しく色に出ることで、ここは妻どいということを表面にあらわして。「行かな」は、「な」は願望で、行きたいものだ。○遠方人に 遠方にいる人、織女のもとに。
【釈】 その時のものとしてわが待っていた萩の花が咲いた。今からでもそれと表面にあらわして行きたいものだ。遠方にいる人のもとに。
【評】 七月七日が近づいた頃の彦星の心である。「今だにもにほひに行かな」は、心理的にも、表現の上でも巧みである。「にほひに」は、逢うを許されている時だから憚りのない心と、萩の花に衣の染まる意もからみうるものだからである。美しい想像である。
2015 吾《わ》が背子《せこ》に うら恋《こ》ひ居《を》れば 天《あま》の河《がは》 夜船《よぶね》榜《こ》ぐなる 梶《かぢ》の音《おと》聞ゆ
吾世子尓 裏戀居者 天漢 夜船滂動 梶音所聞
【語釈】 ○うら恋ひ居れば 内心恋しく思っていると。○夜船榜ぐなる 夜船を漕いでいる。
【釈】 わが背子を内心恋うていると、天の河に、夜船を漕いでいる音が聞こえる。
【評】 七月七日の夜の織女の心である。ここの織女は、地上の若妻と異ならないもので、上の歌の彦星と対をなしている。
(438)2016 ま気《け》長《なが》く 恋《こ》ふる心ゆ 秋風《あきかぜ》に 妹《いも》が音《おと》聞《きこ》ゆ 紐《ひも》解《と》き行《ゆ》かな
眞氣長 戀心自 白風 妹音所聽 紐解徃名
【語釈】 ○ま気長く恋ふる心ゆ 「ま気」は、「ま」は接頭語。「気」は、時。「心ゆ」の「ゆ」は、よりであるが、下のことの理由をあらわしているもので、よって、というにあたる。長い時を恋うている心によって。○秋風に妹が音聞ゆ 「妹が音」は、妹が音信であるが、実際の声ではなく、心である。風は便りを伝えるものだとする意のものである。緊張している心に感じるものである。○紐解き行かな 「紐解き」は、衣の紐を解いてで、衣を装わずに、打解け姿のままで。「行かな」は、行きたいと自身にする願望。
【釈】 長い間を恋うている心であるによって、吹き変わる秋風に妹の音信が聞こえる。衣の紐を解いたままで行きたい。
【評】 七月七日近い頃の、彦星の恋に昂奮した心である。「秋風に妹が音聞ゆ」は、含蓄のある語である。「ま気長く恋ふる心」からのことで、それがさらに待望していた秋を知らせる秋風に刺激されてのものであり、加えて妹も同じ心を抱いているとしての結果であって、合理化の伴っているものである。一方、風の便りという語もあって、それも絡んでのものである。そうした語が、安らかに自然に一首の中にこなれているので、味わいとなっているのである。人麿のみがもちうる技巧である。
2017 恋《こひ》しくは 気《け》長《なが》きものを 今《いま》だにも 乏《とも》しむべしや 逢《あ》ふべき夜《よ》だに
戀敷者 氣長物乎 今谷 乏之牟可哉 可相夜谷
【語釈】 ○恋しくは気長きものを 「恋しく」は、動詞「恋ふ」に過去の助動詞「し」と体言の「く」が接して名詞となったもの。恋していたことは。「気長き」は、上に出た。「を」は、詠歎。○今だにも乏しむべしや 「今だにも」は、相逢っている今だけでもで、七日の夜。「乏しむべしや」は、「乏しむ」は、不満足にさせる。「べしや」は、反語で、不満足にさせるべきであろうか、ありはしない。○逢ふべき夜だに 逢うべきことになっている今夜だけでもで、第三句「今だにも」を繰り返したもの。
【釈】 恋していたことは、時長く続いていたことであるものを。今だけでも不満足にさせるべきであろうか、ありはしない。逢うことを許されている夜だけでも。
【評】 彦星が織女と逢っている夜の語である。飽くことを知らないのが恋の心である。逢って歓びを尽くしながらも不足を感じての愚痴である。
(439)2018 天《あま》の河《がは》 去歳《こぞ》の渡《わたり》で 遷《うつ》ろへば 河瀬《かはせ》を踏《ふ》むに 夜《よ》ぞ深《ふ》けにける
天漢 去歳渡代 遷閇者 河瀬於蹈 夜深去來
【語釈】 ○去歳の渡で 「渡」は、渡り場。「で」は、接尾語。徒渉地点は、流れの浅い所を選ぶのであった。○遷ろへば 「遷ろふ」は、遷るの継続。傾斜地帯にある川は、流れの変化に伴って浅瀬も変化するのである。○河瀬を踏むに 新しい河瀬を踏み渡るのに。○夜ぞ深けにける そのために時間を要して夜が更けたことである。「ける」は、「ぞ」の結。
【釈】 天の河の去年の徒渉地点が変わったので、新しい河瀬を踏み渡るのに、夜の更けたことである。
【評】 彦星が棚機つ女を訪うて、その遅くなったことを弁明し、途中の苦労を訴えたものである。地上の男女と同様である。天の河も飛鳥地方の河の趣をそのままに移したものである。「去歳の渡で」があるので、天上のこととなっているのである。
2019 古《いにしへ》ゆ 挙《あ》げてし服《はた》も 顧《かへり》みず 天《あま》の河津《かはづ》に 年《とし》ぞ経《へ》にける
自古 擧而之服 不顧 天河津尓 年序經去來
【語釈】 ○古ゆ挙げてし服も 「古ゆ」は、古から。「挙げてし服も」は、「挙ぐ」は、糸を機にかけて、織る設備にすること。「服」は、機物《はたもの》で、布の称。○顧みず 見返りもせずに。「ず」は、連用形。○天の河津に 天の河の津、すなわち船着き場に。
【釈】 古からしかけてある織るべき布も見返りもせずに、天の河の津に、年を経たことである。
【評】 棚機つ女の、永久に恋に心を奪われている嘆きである。七夕の伝説では、織女は天帝の衣を織るのを職とする女であるが、牽牛に逢い初めると、その職を忘れてしまったので、罰として逢うことを禁じられたというのであるが、ここではまた、夫の衣を織ることを忘れてしまっているのである。あわれとともに、おかし味のある歌である。
2020 天《あま》の河《がは》 夜船《よぶね》を榜《こ》ぎて 明《あ》けぬとも あはむと念《おも》ふ夜《よ》 袖《そで》易《か》へずあれや
天漢 夜船滂而 雖明 將相等念夜 袖易受將有
(440)【語釈】 ○夜船を榜ぎて明けぬとも 夜船を漕いで、そのことで夜が明けようとも。漕ぐに手間取るもどかしさをいったもの。○あはむと念ふ夜 七日の夜。○袖易へずあれや 原文「袖易受将有」。これは諸本同じで、文字通りに訓むと、「袖易へずあらむ」で、袖を易えるは、袖を交わして共寝をすることで、共寝をしないであろうとなり、上と照応せず、意味の通じないものとなる。旧訓は「将有」を「あれや」としている。「や」は反語で、それだと共寝をせずにいようか、いないとなり、上のもどかしがる気分と調和し、昂奮の情をあらわした自然なものとなる。『代匠記』は「有」の下に「哉」があって脱したものとし、「あれや」にしている。旧訓を支持する形になる。脱字説はいかがであるが、この歌のように作意の明瞭なものを、それを臆測として否認することによつて、意の通じないものにするのもいかがである。旧訓と『代匠記』の説に従う。
【釈】 天の河を渡る夜船を漕いで、たとい夜が明けようとも、逢おうと思っている今夜は、袖を交わさずにいようか、いわしない。
【評】 想像の世界の彦星のこととて、ここでは天の河を船で渡る者となり、夜の更けるのに焦燥している者となっている。「袖易へずあれや」という昂奮は、その焦燥によって合理化されている。想像の形ではあるが、一首実感化されているのは地上の体験を移したものだからである。
2021 遠妻《とほづま》と 手枕《たまくら》交《か》へて 寝《ね》たる夜《よ》は 鶏《とり》が音《ね》な鳴き 明《あ》けば明《あ》くとも
遙※[女+漢の旁]等 手枕易 寐夜 鷄音莫動 明者雖明
【語釈】 ○遠妻と手枕交へて 「遠妻」は、遠方に住んでいる妻で、逢い難い妻。ここは織女。「手枕交へて」は、手枕をさし交わして。○鶏が音な鳴き 鶏が音は鳴き立てるな。○明けば明くとも 夜が明けるなら明けてもで、下に「よし」の意が省かれている。
【釈】 遠く住んで逢い難い妻と手枕をさし交わして寝ている夜は、鶏が音は鳴き立てるな、夜が明けるなら明けたとて。
【評】 彦星の心として詠んだものである。地上の体験を、さながらに天上界に移したもので、遠妻の一語によって七夕となっている。夜明けを告げる鶏が音を憎むのは常套である。
2022 あひ見《み》らく 飽《あ》き足《た》らねども いなのめの 明《あ》け行《ゆ》きにけり 舟出《ふなで》せむ※[女+麗]《つま》
相見久 ※[厭のがんだれなし]雖不足 稻目 明去來理 舟出爲牟※[女+麗]
(441)【語釈】 ○あひ見らく飽き足らねども 「見らく」は、見るの名詞形。「見る」は、ここは、男女相逢う意。○いなのめの明け行きにけり 「いなのめの」は、「明け」にかかる枕詞。語義は定説がない。「明け行きにけり」は、「けり」は、詠歎。すっかり明けてしまったことである。○舟出せむ※[女+麗] 「※[女+麗]」は呼びかけ。
【釈】 相逢っていることは、飽き足りないけれども、夜は明けてしまったことである。船出をしよう、妻よ。
【評】 七日の夜が明けて、別れねばならぬ前に、彦星が織女にいった語である。ありうべき境を想像したものである。
2023 さ宿《ね》そめて 幾何《いくだ》もあらねば 白妙《しろたへ》の 帯《おぼ》乞《こ》ふべしや 恋《こひ》も過《す》ぎねば
左尼始而 何太毛不在者 白栲 帶可乞哉 戀毛不過者
【語釈】 ○さ宿そめて幾何もあらねば 「さ宿」は、「さ」は接頭語。「宿」は寝で、共寝。「幾何も」は、幾らもに同じ。何ほどの時も。○白妙の帯乞ふべしや 「白妙の帯」は、白い織物の帯で、彦星の物。「乞ふべしや」は、「や」は反語で、白妙の帯を請求すべきであろうか、ないの意。○恋も過ぎねば 「過ぎねば」は、過去のものとならない、すなわちやまないのに。
【釈】 共寝をし始めて、まだ幾らの時でもないのに、白妙の帯を請求すべきであろうか、ない。わが恋はやまないのに。
【評】 上の彦星の歌と問答の関係となっているものである。夫婦の恋情を対させていう場合には、人麿は女のほうを濃情に、露骨にしている。
2024 万世《よろづよ》に 携《たづさは》りゐて あひ見《み》とも 念《おも》ひ過《す》ぐべき 恋《こひ》にあらなくに
万世 携手居而 相見鞆 念可過 戀尓有莫國
【語釈】 ○万世に携りゐて 永久に一緒にいて。○あひ見とも 動詞「見る」から、助詞「とも」に続く場合は連用形についた古格。あい見ていようとも。○念ひ過ぐべき 「過ぐ」は、過ぎ去るで、なくなる意。思いがなくなるような。○恋にあらなくに 恋ではないことだ。
【釈】 永久に一緒に居て相逢っていようとも、思いのなくなるような恋ではないことだ。
【評】 彦星の心となって詠んだものである。わが恋は万世にわたって一緒にいても尽きるものでないといって、年にただ一夜(442)しか逢えない恋の悲しみを言外に置いているもので、そこに力点を置いているものである。調べの強さもそれをあらわしている。単なる恋の心をいったものと見ても通るような心広い言い方をしているのは、一種の技巧というべきである。
2025 万世《よろづよ》に 照《て》るべき月《つき》も 雲隠《くもがく》り 苦《くる》しきものぞ 逢《あ》はむと念《おも》へど
万世 可照月毛 雲隱 苦物叙 將相登雖念
【語釈】 ○万世に照るべき月も雲隠り 永久に照るべき月も、雲に隠れて。これは彦星が自身の心を、眼前の光景に寄せていった形のもので、気分の具象である。心としては、自分らの関係を万世にわたって照る楽しい月とし、それではあるが照り難い時があってというので、「雲隠り」は一年一夜という制限を嘆かわしいものとしていっているのである。○苦しきものぞ 彦星の心の直写。○逢はむと念へど 自由に逢おうと思うのだけれども。
【釈】 万世にわたって照るべき月も、雲に隠れることがあって、苦しいものであるよ。逢おうとは思うのだけれども。
【評】 上の歌に続けての彦星の歌で、これは明らかに椰機つ女に向かっていった形のものである。気分の歌であるために暗示的となり、語にも飛躍がある。自分たちの関係の永遠なのを喜ぶとともに、他面その制約を苦しく思う嘆きである。この歌も広い意味でいっているかのようで、その実狭い意のものである。上の歌とともにすぐれた技巧である。
2026 白雲《しらくも》の 五百重隠《いほへがく》りて 遠《とほ》けども 夜《よひ》去《さ》らず見《み》む 妹《いも》があたりは
白雲 五百遍隱 雖逮 夜不去將見 妹當者
【語釈】 ○白雲の五百重隠りて 「五百重」は、幾重にもということを具象的にいったもの。白雲の幾重もの彼方に隠れてで、彦星より見る織女の居場所。○遠けども 後世の遠けれどもにあたる古格。○夜去らず見む 「夜《よひ》去らず」は、夜ごと欠かさずに。
【釈】 白雲の幾重もの彼方に隠れて遠いけれども、夜ごと欠かさずに見よう。妹の住んでいる辺りは。
【評】 彦星の平常の心をいったもの。「白雲の五百重隠りて」が自然なものとなっている点に特色があるが、要するに凡作である。
(443)2027 我《わ》が為《ため》と 織女《たなばたつめ》の その屋戸《やど》に 織《お》る白布《しろたへ》は 織《お》りてけむかも
爲我登 織女之 其屋戸尓 織白布 織弖兼鴨
【語釈】 ○我が為と織女の 「我が為と」は、夫の我に着せるための物として。「織女」は、棚機で布を織る女で、職業名。○織りてけむかも 「て」は、完了、「けむ」は、過去の推量で、織り上げたであろうか。
【釈】 我に着せるためとして、織女のその家で織っている白布は、織りあげたであろうか。
【評】 彦星が七日の夜、織女に尋ねた形のものである。地上の生活よりの想像で、夫婦間の話題としては、衣服のことは軽からぬものだったのである。
2028 君《きみ》に逢《あ》はず 久《ひさ》しき時《とき》ゆ 織《お》る機《はた》の 白《しろ》たへ衣《ごろも》 垢《あか》づくまでに
君不相 久時 織服 白栲衣 垢附麻弖尓
【語釈】 ○君に逢はず 「君」は、彦星で、君に逢わずにいるで、「ず」は連用形。○久しき時ゆ 『略解』の訓。「ゆ」は、よりで、ここは久しい間を。○織る機の白たへ衣 織る機の白たえの衣はで、この白たえ衣は、上の歌の白布を受けたものと取れる。彦星の衣である。○垢づくまでに 「垢づく」は、よごれる意のもので、体の垢がつくと限らないものと取れる。よごれるほどになったの意で、夫恋しい心から、手につかなかった意。
【釈】 君に逢わずにいる久しい間を、わが織る機の君の白たえの衣は、そのままでよごれるほどに。
【評】 上の彦星の問に対して、織女の答えた歌と取れる。作意は、そのままになっていて、汚れるほどになったといっているのであるが、それは君恋しい心から手につかなかったということを言外に置いていっているのである。「君に逢はず久しき時ゆ」は、機だけのことではなく、むしろ君恋しい心を主としてのことで、「垢づくまでに」と言いさしにしているのも、その照応である。媚態をもっていっているもので、彦星としては咎められない範囲のものであったろう。人麿の想像に浮かぶ織女である。
2029 天《あま》の河《がは》 梶《かぢ》の音《おと》聞《きこ》ゆ 彦星《ひこぼし》と 織女《たなばたつめ》と 今夕《こよひ》逢《あ》ふらしも
(444) 天漢 梶音聞 孫星 与織女 今夕相霜
【語釈】 ○天の河梶の音聞ゆ 天の河に近い所にいる第三者としていっているものである。
【釈】 天の河に梶の音が聞こえる。彦星と織女とは、今夜相逢うのであろうよ。
【評】 天の河に近くいる人で、二星の事情を熟知している人の、七月七日の夜の印象としていっているものである。単純きわまる歌であるが、不思議な魅力をもった歌である。魅力というのは気分と調べが微妙に調和して人に沁み入るものとなっていて、一読、地上にいる者にも、心を澄ますと、ここにいう梶の音が聞こえるような感を起こさせるからである。迎えていうのではなく、この歌にはそうした力があるのである。若い人麿の力の十分に出ている歌である。
2030 秋《あき》されば 川《かは》ぞ霧《き》らへる 天《あま》の川《がは》 川《かは》に向《むか》ひ居《ゐ》て 恋《こ》ふる夜《よ》多《おは》し
秋去者 川霧 天川 河向居而 戀夜多
【語釈】 ○秋されば川ぞ霧らへる 「秋されば」は、秋になると。「川ぞ霧らへる」は、諸注、訓がまちまちで、脱字説が多い。『新訓』の訓。「霧らへる」は、霧らいあるの約で、「霧らふ」は「霧《き》る」の連続をあらわす語。「る」は完了の「り」の連体形。霧が立ちつづけている。○恋ふる夜多し 『新訓』の訓。彦星の心。
【釈】 秋になると、川には霧が立ちつづけていることである。その天の川に向かっていて、妹を恋うる夜が多い。
【評】 彦星の歌である。秋になって天の川に川霧が立つと、逢い得られる七日が近づいたと思って、恋が募るという上に立ってのものであるが、しかしこの歌は、こうしたことを背後にやり、感性と気分だけをあらわそうとした歌とみえる。「秋されば川ぞ霧らへる」が一首の基本で、それに続くことは、「川に向ひ居て恋ふる夜多し」で、天の川をおおい籠めている霧そのものによって恋を刺激されているのである。一切が霧のために朧ろになり、なんのけじめも見えないということが恋を募らせるのであって、思念は忘れ去っているのではないが、それよりも霧の与える感じの方がはるかに大きいのである。一首の構成から見て、作意としてはそうしたものであったろうとみえるのである。若い人麿の想像としていっていることで、作意に従うほかはない。味わいのある作である。川という字が三つまであるが、いずれも必要のものにみえる。
2031 よしゑやし 直《ただ》ならずとも ぬえ鳥《どり》の うら嘆《な》け居《を》りと 告《つ》げむ子《こ》もがも
(445) 吉哉 雖不直 奴延鳥 浦嘆居 告子鴨
【語釈】 ○よしゑやし直ならずとも 「よしゑやし」は、「よし」に、「ゑやし」の感動を付けたもの。「直ならずとも」は、直接には逢わなかろうともで、七日の夜以前の心。○ぬえ鳥のうら嘆け居りと 「ぬえ鳥の」は、枕詞。「うら嘆け」は、内心に嘆いている。上の(一九九七)に出た。○告げむ子もがも 告げに行く者をほしいことだで、「がも」は、願望の助詞。
【釈】 よしや直接に逢うことはできなかろうとも、わが内心嘆いていることを告げに行く者のほしいことだ。
【評】 七日の夜以前の織女の心を詠んだものである。心を通わすだけの慰めでもほしいというのである。
2032 一年《ひととせ》に 七夕《なぬかのよ》のみ 逢《あ》ふ人《ひと》の 恋《こひ》も過ぎねば 夜《よ》は深《ふ》けゆくも
一年迩 七夕耳 相人之 戀毛不過者 夜深徃久毛
【語釈】 ○恋も過ぎねば 尽きないのに。「ねば」は、「ぬに」と同意語。
【釈】 一年の間に、七日の夜だけ逢う人の恋も尽きないのに、夜は更けてゆくよ。
【評】 第三者として、七日の夜の更けてゆくのを隣れむ心である。
一に云ふ、尽《つ》きねば さ夜《よ》ぞ明《あ》けにける
一云 不盡者 佐宵曾明尓來
【解】 別伝で、四句の半ばから異なっているのである。恋も尽きないのに、夜が明けたことであるよで、時刻を変えただけである。憐れみの心とすると、本文のほうが余意があってよい。
2033 天《あま》の河《がは》 安《やす》の川原《かはら》に 定《さだ》まりて 神《かみ》の競《きほ》ひは 年《とし》待《ま》たなくに
天漢 安川原 定而 神競者 磨待無
(446)【語釈】 ○天の河安の川原に 「天の河」は、わが国の神代の高天原にある河としたもの。「安の川原」は、高天原より天孫降臨の際、八百万の神が会議をして、一切の事を定めた所である。安の川のことは、上の(二〇〇〇)にも出た。○定まりて 彦星も織女も高天原の者であるから、一年に一夜だけ逢うを許すということは、その時の会議で定まって。○神の競ひは 諸注、訓が定まらず、じつにさまざまである。「神」は、彦星と織女とをさしての称。神代に高天原にいた人々はすべて神であったから、この称は妥当なものである。「競ひは」は、ここは、八百万の神の定めと、自分たちの限りなく逢いたいと思う心との争いは。○年待たなくに 諸注、訓が定まらない。「年」は原文「磨」。旧訓。年を待たないことであるのに。
【釈】 天の河の安の川原で、七月七日の夜に逢うことが定まって、彦星と織女のその定めと争う心は、年を待たないことであるのに。
【評】 二星の、一年に一夜という定めに従っている心を思いやって、どんなにか苦しく思ってのことだろうと、同情した心である。同情は、「年待たなくに」の余意として、その詠歎の中に籠め、それを重点とした歌である。一年に一夜という制限を、安の川原で八百万の神の立てたもの、二星がそれを守って永久に背かずにいるものという解は、上にも出たが、人麿という人を思わせるものである。しかもそれとともに、そこに起こる苦しみにも深く同情している点も、同じく人麿である。複雑したことを気分を通して捉えていっているので、四句はおのずから難解な趣をもったものとなっている。
この歌一首は、庚辰の年之を作れり。
此謌一首、庚辰年作之。
【解】 「庚辰の年」は、天武天皇の九年と推定される。人麿歌集の中で年代の記されている唯一の例である。奈良遷都に先立つこと三十年で、人麿の死を遷都前後、五十歳ぐらいとの推量からいうと、二十歳頃の作である。多分自注であろう。
右は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
右、柿本朝臣人麿之謌集出。
【解】 「右は」は、上の三十八首である。
2034 棚機《たなばた》の 五百機《いほはた》立《た》てて 織《お》る布《ぬの》の 秋《あき》さり衣《ごろも》 誰《たれ》か取《と》り見《み》む
(447) 棚機之 五百機立而 織布之 秋去衣 執取見
【語釈】 ○棚機の五百機立てて 「棚機」は、織女を棚機つ女という、その意でいっているもの。「五百機立てて」は、「機」は、布を織る機具のこともいい、また、布に織るようにした糸のことをもいう。ここは後のほうである。「立て」は、機具に糸をしかけることの称。多くの機糸を機具にしかけて。○秋さり衣 秋になると着る衣。○誰か取り見む 「取り見む」は、手に取って見るで、着る意。たれが着るだろうか。
【釈】 棚機つ女が多くの機糸を機具にしかけて織る布の、その秋になると着る衣は、たれが用いるのであろうか。
【評】 地上にいて棚機つ女を想像しての歌で、七日ということは問題としていないものである。ここでは織女は伝説の通りに機を織る女で、天上のこととて五百機を織るとし、それはすべて夫の彦星の秋さり衣であるとして、彦星を羨望する心をほのめかしている。人麿の歌とは異なって、天上の落ちついた心をもった主婦型の女となっている。距離をもって興趣的に感じているのである。
2035 年《とし》にありて 今《いま》かまくらむ ぬばたまの 夜霧隠《よぎりがく》りに 遠妻《とほづま》の手《て》を
年有而 今香將卷 烏玉之 夜霧隱 遠妻手乎
【語釈】 ○年にありて今かまくらむ 「年にありて」は、一年の内にありてで、一年目というにあたる。用例のある語。「今かまくらむ」は、今枕としているであろうか。○夜霧隠りに 夜霧に隠れて。○遠妻の手を 遠く離れている妻の手を。
【釈】 一年目に、今、枕としているのであろうか。夜霧に隠れて、遠方にいる妻の手を。
【評】 七日の夜、天上の彦星を想像した歌である。「ぬばたまの夜霧障りに」は、その夜目撃した形のものであるが、それが作者の気分にはまって、親しい気分を起こさせたので捉えたものである。喜びの条件をいったもので、喜びそのものではない。
2036 吾《わ》が待《ま》ちし 秋《あき》は来《きた》りぬ 妹《いも》と吾《われ》 何事《なにごと》あれぞ 紐《ひも》解《と》かざらむ
吾待之 秋者來沼 妹与吾 何事在曾 紐不解在牟
【語釈】 ○秋は来りぬ 「秋」は、七月七日を広く言いかえたもの。○何事あれぞ紐解かざらむ 「何事あれぞ」は、「何事あればぞ」で、何事が(448)あったらで、疑問の条件法である。未然形でいうべきを已然形でいっているもの。「紐解かざらむ」は、紐を解いて共寝をしないでやもうかで、強い、反語に近い言い方。
【釈】 わが待っていた秋が来た。妹とわれと、何事があったら、紐を解いて共寝をせずにやもうか。
【評】 彦星の心を想像しての歌である。強さがあるが、これは自身の地上の心を移入してのものである。
2037 年《とし》の恋《こひ》 今夜《こよひ》尽《つく》して 明日《あす》よりは 常《つね》の如《ごと》くや 吾《わ》が恋《こ》ひ居《を》らむ
年之戀 今夜盡而 明日從者 如常哉 吾戀居牟
【語釈】 ○年の恋今夜尽して 「年の恋」は、一年間の恋。「今夜尽して」は、七日の夜に晴らして。○常の如くや 「常」は、平常、「や」は疑問の係。
【釈】 一年間の恋を今夜晴らして、明日からは平常のようにわれは恋うて居ることであろうか。
【評】 七月七日の夜、彦星が織女と逢っている時、織女に対して訴えた形のものである。嘆きの言い方がおおらかで、外部的であるのは、そうした言い方が趣があるとしてのことであろう。
2038 逢《あ》はなくは け長《なが》きものを 天河《あまのがは》 隔《へだ》てて又《また》や 吾《わ》が恋《こ》ひ居《を》らむ
不合者 氣長物乎 天漢 隔又哉 吾戀將居
【語釈】 ○逢はなくはけ長きものを 「逢はなくは」は、逢わないことは。「け長きものを」は、時久しい気がするのにで、過ぎた一年間をいったもの。○隔てて又や 「又」は、また同じように。「や」は疑問の係。
【釈】 逢わないことは、時久しい気がするに、天の河を隔ててまた同じようにわれは恋うているのであろうか。
【評】 前の歌と同じ場合を想像してのもので、彦星の織女に対しての訴えである。題材によりかかっている態度の歌である。
2039 恋《こひ》しけく 気長《けなが》きものを 逢《あ》ふべくある 夕《よひ》だに君《きみ》が 来《き》まさざるらむ
(449) 戀家口 氣長物乎 可合有 夕谷君之 不來益有良武
【語釈】 ○恋しけく 形容詞「恋しけ」に「く」を接しての名詞。○逢ふべくある夕だに君が 「逢ふべくある」は、逢うことを許されている。「夕だに」は、七日の夜でも。○来まさざるらむ 「来ます」は、来るの敬語。いらせられないのであろうか。
【釈】 恋しいことは、時久しく思われることだのに、逢うことを許されている夜でも、君がいらせられないのであろうか。
【評】 七日の夜、織女が、彦星の来ることの遅いのを恨んでの心である。この歌では織女は、理屈まじりに愚痴をいう、地上の女の延長となっている。
2040 牽牛《ひこぼし》と 織女《たなばたつめ》と 今夜《こよひ》逢《あ》ふ 天河門《あまのかはと》に 波《なみ》立《た》つなゆめ
牽牛 与織女 今夜相 天漢門尓 波立勿謹
【語釈】 ○天の河門に 「河門」は、河の流れが門のように狭くなっている所の称で、船で渡るに便利な地形。○波立つなゆめ 「ゆめ」は、強い禁止。安全に船を渡せよの意。
【釈】 彦星と織女と今夜逢う、その天の河の河門には、波よ、けっして立つな。
【評】 地上の人の、七日の夜の天上を想像して、二星の歓会を祝う心である。古風な快い歌である。
2041 秋風《あきかぜ》の 吹《ふ》きただよはす 白雲《しらくも》は 織女《たなはたつめ》の 天《あま》つ領巾《ひれ》かも
秋風 吹漂蕩 白雲者 織女之 天津領巾毳
【語釈】 ○天つ領巾かも 「天つ」は、天ので、天上の織女の物として添えたもの。「領巾」は、しばしば出た。女の装飾とした布で、頸にかけて、前方に二つにして垂らしていたもの。本来は呪力をもった、護身用のものだったとみえるが、後には礼装の一つとなり、装飾となった物。ここは装飾の意でいっているもの。「かも」は、疑問に詠歎の添ったもの。
【釈】 秋風が吹き漂わしている白雲は、織女の天の領巾であろうか。
【評】 七夕の前後、秋風に吹き漂わされている細くちぎれた白雲を見ての連想である。この織女は漢土の伝説そのままのもの(450)であり、また雲の連想も漢土的である。一方、美しく興趣的なところは奈良朝の気分である。奈良朝の歌風のあらわれている歌である。
2042 屡《しばしば》も 逢《あ》ひ見《み》ぬ君《きみ》を 天《あま》の河《がは》 舟出《ふなで》速《はや》せよ 夜《よ》の深《ふ》けぬ間《ま》に
數裳 相不見君矣 天漢 舟出速爲 夜不深間
【語釈】 ○屡も逢ひ見ぬ君を 度々は逢わない君なのに。「君」は、織女より彦星を指してのもの。○舟出速せよ 「舟出」は、織女のもとへ来るためのことで、対岸の彦星への命令。
【釈】 たびたびは逢わない君だのに、天の河の舟出を速やかになさい。夜の更けないうちに。
【評】 七日の夜、彦星を待つ織女の心を詠んだもので、織女が対岸の彦星に早く舟出をせよと促しているのである。情熱的な織女が想像されている。
2043 秋風《あきかぜ》の 清《きよ》き夕《ゆふべ》に 天《あま》の河《がは》 舟《ふね》こぎ渡《わた》る 月人壮子《つきひとをとこ》
秋風之 清夕 天漢 舟滂度 月人壯子
【語釈】 ○天の河舟こぎ渡る 「舟」は、弦月の形が、当時の小さい舟に似ているところから、月を譬えていったもの。「こぎ渡る」は、上を承けて、弦月が天の河を横ぎつて移る形を譬えたもの。「渡る」は終止形とも、連体形とも取れるが、ここは終止形。舟と月人とは同じものだから、一応切れていると取れる。○月人壮子 月を若い男に譬えたもの。(二〇一〇)に既出。下に詠歎がある。
【釈】 秋風の清い夕べに、天の河を舟でこぎ渡っている。月人壮子は。
【評】 上の(二〇一〇)の「夕星《ゆふづつ》も」と同じく、これは月の歌である。「天の河」を重く扱っているところから見て、七夕の宴などで詠んだ歌で、その関係からここに入れてあったのであろう。
2044 天《あま》の河《がは》 霧《きり》立《た》ち渡《わた》り 牽牛《ひこぼし》の 楫《かぢ》の音《おと》聞《きこ》ゆ 夜《よ》の深《ふ》けゆけば
(451) 天漢 霧立度 牽牛之 ※[楫+戈]音所聞 夜深徃
【語釈】 ○霧立ち渡り 「霧」は、下の楫を使うために立つ飛沫である。
【釈】 天の河に霧が立ち渡って、彦星の使う楫の音が聞こえる。夜が更けてゆくと。
【評】 七日の夜の夜更けに、天上を仰いで天の河に霧のかかったのを見て、彦星の船の楫からのものと思うと、それよりの連想で楫の音が聞こえるというのである。上の人麿の歌集の(二〇二九)では、「天の河楫の音聞ゆ」と、直覚的に、何の経路も経ずして聞こえたのであるが、この歌では細心の用意をしての上のこととなっている。時代の推移と、作者の人柄とより来ることである。
2045 君《きみ》が舟《ふね》 今《いま》こぎ来《く》らし 天《あま》の河《がは》 霧《きり》立《た》ち渡《わた》る この川《かは》の瀬《せ》に
君舟 今滂來良之 天漢 霧立度 此川瀬
【語釈】 ○君が舟今こぎ来らし 「君が舟」は、織女が彦星の舟をさしたもの。「来らし」は、下の「霧」を証としての推量。○この川の瀬に 「この」は、織女の眼前の川の瀬で、「天の河」の繰り返し。
【釈】 わが君の舟は、今こいで来るのであろう。天の河に霧が立ち続いている。この天の河の川瀬に。
【評】 七日の夜、彦星を迎えようとし、天の河の河べに立っている織女の心である。「こぎ来らし」「霧立ち渡る」といって、舟は見えないものにしているのは、意識しての技巧であろう。
2046 秋風《あきかぜ》に 河浪《かはなみ》立《た》ちぬ しましくは 八十《やそ》の舟津《ふなつ》に み舟《ふね》とどめよ
秋風尓 河浪起 ※[斬/足] 八十舟津 三舟停
【語釈】 ○しましくは しばらくの古形。原文「※[斬/足]」は「暫」と通用する文字。○八十の舟津に 「八十」は、多くということを具象的にいったもので、用例の少なくないもの。「舟津」は、舟の発着する所で、安全な場所。○み舟とどめよ 「み舟」は、織女より彦星の舟を尊んでいったもの。「とどめよ」は、危険を避けよとの命令。
(452)【釈】 秋風で河浪が立った。しばらくの間は、多くある津に君がみ舟をおとめなさい。
【評】 これも織女が天の河の岸に立って彦星の舟の着くのを待つ心である。「八十の舟津」は大陸的で、わが国で想像される河の趣ではない。二星を中国の伝説とし、中国の地形に絡ませたものである。人麿歌集の歌は国家的の立場から、七夕伝説を日本化したが、奈良朝では反対に、中国へ引戻すことに興味を持ったのである。文芸的の見地からである。奈良朝趣味の作である。
2047 天《あま》の河《がは》 河音《かはと》清《さや》けし 牽牛《ひこぼし》の 秋《あき》こぐ船《ふね》の 浪《なみ》のさわきか
天漢 河聲清之 牽牛之 秋滂船之 浪※[足+參]香
【語釈】 ○河音清けし さやかに、はっきり聞こえる。○秋こぐ船の 「秋」は、七月七日の夜をわざと広く言いかえたもの。○浪のさわきか 船の立てる浪の騒ぐ音なのかで、「清けし」の説明。
【釈】 天の河の水音がさやかだ。彦星が秋に、漕ぐ船の立てる浪の騒ぎなのか。
【評】 「川音清けし」を事実としていい、「浪のさわきか」と疑問を添えて説明していて、構成は合理的であるが、一方捉え方も、語の続けも大げさで、結果から見ると纏まった気分も印象も与えない歌となっている。漢詩の手法を模倣したものとみえる。奈良朝に見られる一つの風である。
2048 天《あま》の河《がは》 河門《かはと》に立《た》ちて 吾《わ》が恋《こ》ひし 君《きみ》来《き》ますなり 紐《ひも》解《と》き待《ま》たむ
天漢 河門立 吾戀之 君來奈里 紐解待
【語釈】 ○河門に立ちて 舟着き場に立って。○紐解き待たむ 「紐」は、下紐で、帯を解いて待とうというにあたる。
【釈】 天の河の舟着き場に立って、わが恋うていた君がいらせられることだ。下紐を解いて待とう。
【評】 巻八(一五一八)山上憶良の、「養老八年七月七日、令に応ず」と注のある、「天の河相向き立ちて吾が恋ひし君来ますなり紐解き設けな」と同じ歌で、いささかの流動の跡を示しているものである。平明と露骨を喜ぶ宴席などで誰かが謡ったのであろう。
(453) 一に云ふ、天の河 川に向き立ち
一云、 天河 川向立
【解】 このほうが拙い。
2049 天《あま》の河《がは》 河門《かはと》に座《を》りて 年月《としつき》を 恋《こ》ひ来《こ》し君《きみ》に 今夜《こよひ》逢《あ》へるかも
天漢 河門座而 年月 戀來君 今夜會可母
【語釈】 ○年月を恋ひ来し君に 「年月を」は、長い間をで、一年間を。「君」は、彦星。
【釈】 天の河の舟着き場に居て、一年間をわが恋うて来た君に、今夜は逢ったことであるよ。
【評】 織女の喜びを直写したものである。「河門に座りて年月を」と平明な語の強化が目立つ歌である。
2050 明日《あす》よりは 吾《わ》が玉床《たまどこ》を 打払《うちはら》ひ 君《きみ》と宿《い》ねずて 独《ひとり》かも寐む
明日從者 吾玉床乎 打拂 公常不宿 孤可母寐
【語釈】 ○明日よりは 七日の夜にいっているもの。○吾が玉床を打払ひ 「玉床」の「玉」は美称。「床」は、共寝をした床で、それ故に尊んでいったもの。「打払ひ」は、床の塵を払う意で、浄めて大切にすること。○独かも寐む 「かも」は、疑問の係で、詠歎をもったもの。
【釈】 明日からは、わが玉床の塵を払って、君と共寝をせずに、独で寝ることであろうか。
【評】 七日の夜明け、彦星と別れる時に織女が訴えた形の歌である。夫の寝る床を浄めて大切にすることは上代からの風で、後世にも守られていたことである。「吾が玉床」は、共寝の床の意で、巧みである。地上の夫婦間のさまを、さながらに天上に移したものである。
2051 天《あま》の原《はら》 往《ゆ》きてを射《い》むと 白檀弓《しらまゆみ》 ひきて隠《かく》せり 月人壮子《つきひとをとこ》
(454) 天原 徃射跡 白檀 挽而隱在 月人壯士
【語釈】 ○天の原往きてを射むと 「天の原」は、天の原に。「往きてを射むと」は、諸注、訓がさまざまである。「新訓」の訓。「を」は感動の助詞。往つて射ようとて。○白檀弓 壇を材とした弓で、塗ってない物。○ひきて隠せり 「ひきて」は、弓を射ようとして引き絞って。「隠せり」は、隱している。初句よりこれまでは、弦月が、低く出て、雲に隠れ、そして空高く登ろうとしている状態の譬喩である。○月人壮子 月の異名で、上の白檀弓の言いかえ。
【釈】 天の原へ往つて射ようとて、白檀弓を引き絞って、隠している。月人壮子は。
【評】 弦月の歌である。秋の夜弦月の澄んだ色をして低く山上などに現われたのが、おりからの薄雲に蔽われたのを、月人壮子の白檀弓と見、空へ登って何か射ようとしているのだと見たのである。三日月を白檀弓に譬えた歌は、巻三(二八九)間人大浦にあるが、これはさらに細かく動き添えたもので、興味的なものである。平面的で、深みのないものであるが、その範囲では巧緻な歌である。七夕には関係のない歌である。
2052 この夕《ゆふべ》 零《ふ》り来《く》る雨《あめ》は 彦星《ひこぼし》の 早《はや》こぐ船《ふね》の 櫂《かい》の散沫《ちり》かも
此夕 零來雨者 男星之 早滂船之 賀伊乃散鴨
【語釈】 ○この夕 七日の夜。○早こぐ船の 急いでこぐ船の。○櫂の散沫かも 櫂の立てる水の飛沫であろうか。
【釈】 この七日の夜を降って来る雨は、彦星が天の河を急いでこぐ櫂の飛沫なのであろうか。
【評】 七日の夜をいささかこぼれて来る雨に対しての連想である。自然な、親しい、美しい連想である。伊勢物語の「我が上に露ぞ置くなる天の川と渡る船の櫂の雫か」は、これから出たものである。
2053 天《あま》の河《がは》 八十瀬《やそせ》霧《き》らへり 彦星《ひこぼし》の 時《とき》待《ま》つ船《ふね》は 今《いま》しこぐらし
天漢 八十瀬霧合 男星之 時待船 今滂良之
【語釈】 ○八十瀬霧らへり 「八十瀬」は、多くの瀬々。「霧らへり」は、霧が立ち籠めている。○時待つ船は 逢いうる時、すなわち七月七日を待っている船は。○今しこぐらし 「今し」は、『略解』の訓。「し」は強意の助詞。「らし」は、上の「霧らへり」を証としての推量。
(455)【釈】 天の河の多くの瀬々に霧が立ち籠めている。彦星の、逢いうる時、すなわち七月七日の夜を待っている船は、今こいでいるのであろう。
【評】 七日の夜、天の河に全面的にかかって来た薄雲に対しての連想で、その薄雲を彦星の船の水けむりであろうと思つたものである。「八十瀬」は大げさな言い方であるが、語の興味で用いたのであろう。いかようにも言いかえうる場合だからである。
2054 風《かぜ》吹《ふ》きて 河浪《かはなみ》立《た》ちぬ 引船《ひきふね》に 渡《わた》りも来《き》ませ 夜《よ》のふけぬ間《ま》に
風吹而 河浪起 引般丹 度裳來 夜不降間尓
【語釈】 ○引船に渡りも来ませ 「引船」は、船に綱を付け、陸上から引き寄せる船の称で、それだと安全である。「渡りも」の「も」は、詠歎。「来ませ」は、来よの敬語で、織女の彦星に対してのもの。
【釈】 風が吹いて、河浪が立って来た。引船で渡って入らせられませ。夜の更けないうちに。
【評】 織女の心となって詠んだものである。「風吹きて河浪立ちぬ」も、「引船」も、地上の河からの連想であるが、この場合新味のあるものである。
2055 天《あま》の河《がは》 遠《とほ》き渡《わたり》は 無《な》けれども 公《きみ》が舟出《ふなで》は 年《とし》にこそ待て
天河 遠渡者 無友 公之舟出者 年尓社候
【語釈】 ○遠き渡は無けれども 「渡」は、渡り場で、「遠き渡」は、長い渡り場。天の河の河幅は広くないけれども。○年にこそ待て 「年に」は、一年にわたって。
【釈】 天の河は、長い渡り場はないけれども、公の舟出は、一年にわたって待っている。
【評】 織女の嘆きをいったものである。渡りやすい河を渡れないのは、一年一夜という掟があるためであるのをいっているのであるが、掟に対しての苦しみには触れず、ただすなおにしたがって、嘆いている心である。伝説が末期的に無力なものになっていたと思われる。
(456)2056 天《あま》の河《がは》 打橋《うちはし》渡《わた》し 妹《いも》が家道《いへぢ》 止《や》まず通《かよ》はむ 時《とき》待《ま》たずとも
天漢 打橋度 妹之家道 不止通 時不待友
【語釈】 ○打橋渡し 「打橋」は、板を渡す橋で、自由に架け外しの出来る橋。天の河を小さい河としてのもの。○妹が家道 「家道」は、家に行く道。○時待たずとも 「時」は、逢いうる時で、七月七日の夜。
【釈】 天の河に打橋を渡して、妹の家への道を絶えず通おう。逢うを許されている七月七日の夜を待たないでも。
【評】 これは彦星の心である。掟に対して反逆を企てるという強い心のものではなく、掟というものを半ば忘れて、その力を認めないごとき安易な心である。恋の上でのことではあるが、奈良朝時代の生活気分にあるつながりをもっての心といえよう、人麿の掟を重んじた心に較べると、格段の相違である。
2057 月《つき》累《かさ》ね 吾《わ》が思《おも》ふ妹《いも》に 逢《あ》へる夜《よ》は 今《いま》し七夜《ななよ》を 続《つ》ぎこせぬかも
月累 吾思妹 會夜者 今之七夕 續巨勢奴鴨
【語釈】 ○月累ね 一年ということを、感を強くしようとして言いかえたもの。○逢へる夜は 逢っている七日の夜は。○今し七夜を 「今」は、さらに。「し」は、強意。「七夜」は、多くの夜で、幾夜も。○続ぎこせぬかも 続いてくれないのかなあで、続いてくれよの意。「こせぬかも」は、巻二(一一九)以下しばしば出た。
【釈】 月を累ねてわが思っている妹に逢っている今夜は、さらに幾夜も続いてはくれぬものか、続いてくれよ。
【評】 彦星の相対している織女に訴えた形のものである。類想の多いものである。これも二星の特別の恋を普通の男女とほとんど異ならないものにしている。「七夜」が七夕の縁語になっている。
2058 年《とし》に艤《よそ》ふ 吾《わ》が舟《ふね》こがむ 天《あま》の河《がは》 風《かぜ》は吹《ふ》くとも 浪《なみ》立《た》つなゆめ
年丹裝 吾舟滂 天河 風者吹友 浪立勿忌
(457)【語釈】 ○年に艤ふ吾が舟こがむ 一年目に装いをするわが舟をこごう。○風は吹くとも浪立つなゆめ 風は吹こうとも、波はけっして立つなと命じたもので、浪もわが心を汲めの意。
【釈】 一年目に装いをするわが舟をこごう。天の河は、たとえ風は吹こうとも、浪は立つな、けっして。
【評】 七日の夜、舟をこぎ出そうとする際の彦星の心で、祈りに近い心をもっているものである。「風は吹くとも浪立つなゆめ」がすなわちそれであるが、矛盾したことを対照させている技巧が、祈りの心を消している。奈良朝的である。
2059 天《あま》の河《がは》 浪《なみ》は立《た》つとも 吾《わ》が舟《ふね》は いざこぎ出《い》でむ 夜《よ》の深《ふ》けぬ間《ま》に
天河 浪者立友 吾舟者 率滂出 夜之不深間尓
【語釈】 ○浪は立つとも たとえ浪は立とうともと推量したもの。秋の夜の習いとして、夜となると風が吹き浪が立つのをありがちなこととしての推量である。○いざこぎ出でむ 「いざ」は、ここは、我と我を励ましているもの。
【釈】 天の河にたとえ浪は立とうとも、わが舟は、いざこぎ出そう。夜の更けないうちに。
【評】 前の歌と連作の形をもったものである。形も調べも平坦にすぎて、心躍りがあらわれて来ない。
2060 直《ただ》今夜《こよひ》 逢《あ》ひたる児《こ》らに 言問《ことと》ひも いまだせずして さ夜《よ》ぞ明《あ》けにける
直今夜 相有兒等尓 事問母 未爲而 左夜曾明二來
【語釈】 ○直今夜逢ひたる児らに 「直」は、まさにというにあたる副詞。「今夜」は、七日の夜。「逢ひたる児らに」は、「児」は、織女に対する愛称。「ら」は、接尾語。○言問ひもいまだせずして 「言問ひ」は、ものをいうこと。ここは、しみじみとした話。○さ夜ぞ明けにける 「さ」は、接頭語。「ける」は、「ぞ」の結、連体形。嘆きを籠めてのもの。
【釈】 まさに今夜逢った、かわゆい妻に、物言いもまだしなくているのに、早くも夜の明けたことであるよ。
【評】 早くして逢い得たのに、物言いをする間もなく別れねばならぬ悲しみをいっているもので、七夕の歌には適切でない想像である。しかし一首の歌として見ると、空想では得やすくない熱意をもったものである。作者の体験を天上に移そうとして、移しかねたものであろう。「直今夜逢ひたる児らに」と言い出している初二句は、特にそれを思わせる。
(458)2061 天《あま》の河《がは》 白浪《しらなみ》高《たか》し 吾《わ》が恋《こ》ふる 公《きみ》が舟出《ふなで》は 今《いま》し為《す》らしも
天河 白浪高 吾戀 公之舟出者 今爲下
【語釈】 ○天の河白浪高し 織女の目より見た光景。○今し為らしも 「らし」は、証を挙げての推量となっているが、この歌には証にあたるものがない。このように用いられるようになったのである。
【釈】 天の河に白浪が高い。あれは、わが恋うている公が舟出を、今するのであろう。
【評】 七日の夜、織女の彦星を思っての不安で、連想の多い平凡な歌である。
2062 機《はたもの》の ※[足+搨の旁]木《ふみき》持《も》ち行《ゆ》きて 天《あま》の河《がは》 打橋《うちはし》渡《わた》す 公《きみ》が来《こ》む為《ため》
機 ※[足+搨の旁]木持徃而 天漢 打橋度 公之來爲
【語釈】 ○機の※[足+搨の旁]木持ち行きて 「機」は、機具で、機織り機械。「※[足+搨の旁]木」は、足で踏むようになっている板で、それを踏むと、経糸に緯糸を織り込む動力が起こるのである。狭い板である。○天の河打橋渡す 「打橋」は、架け外ずしをする橋。天の河に打橋を架ける。
【釈】 機具の※[足+搨の旁]木を持って行って、天の河に打橋を架ける。公が渡って来るために。
【評】 機の※[足+搨の旁]木は、狭い、丈の短い板で、それが打橋になる天の河は、たやすく跨ぎ越せる溝川程度のものとなる。想像の世界のことではあるが、これでは打橋の要もないのである。明らかに戯咲歌の範囲のものである。宴歌として、笑いを目標に詠んだものであろう。ここでは七夕伝説は、すでに童話とされている。
2063 天《あま》の河《がは》 霧《きり》立《た》ち上《のぼ》る 棚機《たなばた》の 雲《くも》の衣《ころも》の 飄《かへ》る袖《そで》かも
天漢 霧立上 棚幡乃 雲衣能 飄袖鴨
【語釈】 ○霧立ち上る 地上より天の河に雲がかかって来るのをいったもの。○雲の衣の飄る袖かも 「雲の衣」は、織女を神女として、仙女の連想からいったもの。「雲衣」は初唐詩にいくつか用例のある語で、その翻訳であろうと小島憲之氏は言っている。「飄る」は、翻る意。「か」は、(459)疑問。
【釈】 天の河に河霧が立ちのぼる。あれは神女である織女の、雲の衣の翻る袖なのであろうか。
【評】 天の河にかかって来た雲を仰いで、その雲を織女の柚かと思った心である。この織女は人間を超えた神女となっている。雲を河の関係から霧とし、その動きを霧の湧くこととし、さらに神女に関係させて、衣の中でも翻りうる袖としたのは、合理的に心を細かく働かせたのである。神仙を重んじた点と、漢詩風のこの言い方とに、奈良朝の風がある。
2064 いにしへに 織《お》りてし機《はた》を この暮《ゆふべ》 衣《ころも》に縫《ぬ》ひて 君《きみ》待《ま》つ吾《われ》を
古 織義之八多乎 此暮 衣縫而 君待吾乎
【語釈】 ○いにしへに織りてし機を 「いにしへ」は、往きにし方で、広く過去をさす語。ここは以前にというにあたる。「織りてし機」は、織ってあった布で、「て」は、完了。原文「義之」を「てし」と訓むことは巻三(三九四)に既出。○君待つ吾を 「を」は、問投の助詞で、「ぞ」に近い。
【釈】 以前に織り上げてあった織物を、この夕方衣に縫って、君を待っている吾である。
【評】 この織女は、地上の心まめやかな妻となっている。夫の衣の世話をするのは妻としての責任で、重いものであった。「この暮衣に縫ひて」は初二句とともに、地上の主婦を思わせるものである。この織女は、主婦としての矜りを見せている。
2065 足玉《あしだま》も 手玉《ただま》もゆらに 織《お》る機《はた》を 公《きみ》が御衣《みけし》に 縫《ぬ》ひあへむかも
足玉母 手珠毛由良尓 織旗乎 公之御衣尓 縫將堪可聞
【語釈】 ○足玉も手玉もゆらに 「足玉」は、緒に貫いた玉の、足に巻きつけてある物の称。「手玉」は、同じく手のもの。これは上代、身分のある女のしていた風俗である。「ゆらに」は、揺れる形容。○公が御衣に縫ひあへむかも 「公」は、彦星。「御衣」は、「御」は、美称。「衣」は、着るの古語「け」の敬語「けす」の名詞形で、お召し物というにあたる。「縫ひあへむかも」の「あへ」は、可能の意で、縫いおおせられようで、「か」は、疑問。縫いおおせられようか。
【釈】 足玉も手玉もゆらゆらと、わが織っているこの織物を、君のお召し物に縫いおおせられようか。
(460)【評】 この歌で想像されている織女は、上代の身分高い女である。妻が夫の衣を自身で織り、縫うということは、上代よりずっと続いていることで、織女は今、足玉手玉を揺らめかしつつ機を織っており、心の中で、これを七月七日夫の来られる時までに、縫い上げられようかと、いささか不安を感じている心である。心は地上の家刀自と異ならないのである。貴族的な華麗な生活振りで、おおらかではあるが、心敏い織女を思い浮かべての歌である。材料の扱い方も、詠み方も心利いた歌である。
2066 月日《つきひ》択《え》り 逢《あ》ひてしあれば 別《わか》れむの 惜《を》しかる君《きみ》は 明日《あす》さへもがも
擇月日 逢義之有者 別乃 惜有君者 明日副裳欲得
【語釈】 ○月日択り逢ひてしあれば 「月日択り」は、七月七日を選んで。「逢ひてしあれば」は、「て」は、完了。「あれば」は、現に逢っているので。その日を二星の自由意志から選んだものとしていったもの。○別れむの惜しかる君は 「別れむの」は、『代匠記』は「別れの」と訓んでいるが、『全註釈』は、三句の四音は古歌に例が少ないからと、今のごとく訓んでいる。巻十四(三五〇七)「絶えむの心我が思はなくに」を用例としてである。これに従う。○明日さへもがも 明日までも居てほしい。
【釈】 月日を選んで逢っている今宵なので、別れることの惜しい君は、明日までも居ってほしい。
【評】 織女の七日の夜の訴えである。「月日択り」といっているので、いかなる訴えもできる訳である。伝説の本質は、個性的に、享楽気分を重んじる奈良朝時代に、早くも忘れられたのである。
2067 天《あま》の河《がは》 渡瀬《わたりせ》ふかみ 船《ふね》泛《う》けて こぎ来《く》る君《きみ》が ※[楫+戈]《かぢ》の音《おと》聞《きこ》ゆ
天漢 渡瀬深弥 泛船而 棹來君之 ※[楫+戈]音所聞
【語釈】 ○渡瀬ふかみ 「渡瀬」は、徒渉して渡る瀬で、そこが今日は水が深いので。
【釈】 天の河の徒渉すべき瀬が水が深いので、船を泛《うか》べてこいで来る君の艪の音が聞こえる。
【評】 織女が七日の夜、天の河を近づいて来る彦星の艪の音に耳を澄ましている心である。捉え方が外面的で、日常の些事をいっているようである。
(461)2068 天《あま》の原《はら》 振《ふ》り放《さ》け見《み》れば 天《あま》の河《がは》 霧《きり》立《た》ち渡《わた》る 公《きみ》は来《き》ぬらし
天原 振放見者 天漢 霧立渡 公者來良志
【語釈】 ○天の原振り放け見れば 天の原を身を反らして見るとで、地上から仰ぎ見る心。○霧立ち渡る 「霧」は、船の立てる水けむりで、しばしば出た。○公は来ぬらし 「公」は三人称としての敬称。「ぬ」は、完了で、君は来たらしい。
【釈】 天の原を身を反らして望むと、天の河には霧が立ち続いている。彦星の君の船が来たらしい。
【評】 地上より天の河を仰いでの推量と思われる。「公は来ぬらし」の推量は、織女の心と見ると、この句としては妥当であるが、初句より四句までの描写は、地上より見た光景としなければいかにも不自然であり、また結句の「らし」も、上を承けてのものであるから、地上よりの推量と見るほうが一首としては比較的妥当である。作意はそれであろう。類想の多いもので、詠み方も拙い。
2069 天《あま》の河《がは》 瀬毎《せごと》に幣《ぬさ》を 奉《たてまつ》る こころは君《きみ》を 幸《さき》く来《き》ませと
天漢 瀬毎幣 奉 情者君乎 幸來座跡
【語釈】 ○瀬毎に幣を奉る 「瀬」は、上に出た渡瀬で、徒渉する浅瀬で、その瀬ごとに、天の河は河幅が広く、河原と渡瀬とが交互に連続していると想像してである。「幣を奉る」は、「幣」は、土地の神に祈りをする際捧げる麻布など。「奉る」は、それを捧げることが祭なのである。○こころは君を幸く来ませと 「こころ」は、祭をする心。「君を」は、彦星を。「幸く来ませと」は、土地の神の祟りなく、無事に来ませと思ってであるの意。
【釈】 天の河の渡瀬ごとに、我はその瀬の神に幣を奉って祭をする。その心は、君を無事にいらっしゃいと思ってである。
【評】 織女の歌である。地上では、境を異にした地に入るごとに、その地の神を祭って通行するので、これはそれを天の河に移し、織女が彦星に代わってするのである。夫婦としてのあわれのある歌である。
2070 久堅《ひさかた》の 天《あま》の河津《かはつ》に 舟《ふね》泛《う》けて 君《きみ》待《ま》つ夜《よ》らは 明《あ》けずもあらぬか
(462) 久堅之 天河津尓 舟泛而 君待夜等者 不明毛有寐鹿
【語釈】 ○天の河津に 「天の河津」は、天の河の河津で、舟着き場である。○舟泛けて 織女が舟で迎えに出ているのである。○君待つ夜らは 「夜ら」の「ら」は、接尾語。君の来るのを待っているこの夜はで、七月七日の夜。○明けずもあらぬか 明けずにはいてくれぬものか、いてくれよで、「あらぬか」の「ぬか」は願望をあらわす。巻二(一一九)、上の(二〇五七)などに既出。
【釈】 天の河の舟着き場に舟を泛《うか》べて、君の来るのを待っているこの夜は、明けずにはいてくれぬものか、いてくれよ。
【評】 織女が彦星を、その舟の着く天の河の舟着き場に舟を泛べて迎えに出て待っても来ないので、今夜は夜が明けずにいてくれぬかと焦躁の気分を詠もうとしているものであるが、事を尽くしていっているため、調べに、気分化せず、訴える力の足りない歌となっている。
2071 天《あま》の河《がは》 なづさひ渡《わた》り 君《きみ》が手《て》も いまだ枕《ま》かねば 夜《よ》の深《ふ》けぬらく
天河 足沾渡 君之手毛 未枕者 夜之深去良久
【語釈】 ○なづさひ渡り 原文「足沾渡」。『代匠記』は「足ぬれ渡り」、『略解』は、「あぬらし渡り」であるが、『全註釈』は今のごとくに訓んでいる。巻十一(二四九二)「にほ鳥の足沾来《ナズサヒコシヲ》人見けむかも」の「足沾」の訓につき、巻十二(二九四七)「念ふにし余りにしかば」の左注として、「柿本人麿歌集に云ふ、にほ鳥のなづさひ来しを人見けむかも」といい、「足沾」の仮名書きを示しているのによってである。前後に調和する訓である。意は、足を沾《ぬ》らして渡って。○君が手もいまだ枕かねば 「君」は、彦星より織女をさしたもの。大体奈良時代に入っての称。「枕かねば」は、枕としないのに。○夜の深けぬらく 「深けぬらく」は、「深けぬ」の名詞形。感を強めるためのこと。
【釈】 天の河を足を沾らして渡って、まだ妹が手を枕として寝ないのに、夜の更けたことよ。
【評】 この歌は、彦星が織女と逢って、途中の労苦を訴え、兼ねて逢っていられる時の短さを嘆いたものである。「天の河」を地上の河の名に代えると、ただちに地上の恋となるものである。こうした場合の歌とすると複雑味のあるものである。
2072 渡守《わたりもり》 船《ふね》渡《わた》せをと 呼《よ》ぶ声《こゑ》の 至《いた》らねばかも 梶《かぢ》の音《おと》のせぬ
渡守 船度世乎跡 呼音之 不至者疑 梶聲之不爲
(463)【語釈】 ○渡守船渡せをと 「渡守」は、渡《わたし》を守《も》る者の称。この渡は船によるもので、後世の渡守《わたしもり》である。呼びかけで、呼ぶのは彦星。「を」は詠歎の助詞で、「よ」と同じ。○呼ぶ声の至らねばかも 「至らねばかも」は、渡守《わたしもり》に届かないのであろうかで、「か」は、疑問の係。
【釈】 渡守よ、船を渡せよと呼ぶ声が届かないのであろうか、梶の音の聞こえぬことよ。
【評】 この天の河は渡し船で渡れるものであり、渡守もいるものとして想像されている。「至らねばかも」は、河の浪音に紛れて渡守の耳に入らぬとしているのである。巻七(一一三八)「うぢ河を船渡せをと喚《よ》ばへども聞えざるらし※[楫+戈]《かぢ》の音もせず」があり、その状態が酷似している。多分宇治河を天の河に移したのであろう。
2073 まけ長《なが》く 河《かは》に向《む》き立《た》ち 在《あ》りし袖《そで》 今夜《こよひ》纏《ま》かむと 念《おも》はくがよさ
眞氣長 河向立 有之袖 今夜卷跡 念之吉沙
【語釈】 ○まけ長く河に向き立ち在りし袖 「まけ長く」は、「ま」は、接頭語。「け」は、時で、時長く。久しい時日を。「河に向き立ち」は、天の河に向かって立ちで、これは織女が彦星を恋うてのこと。「在りし」は、居た人の袖で、袖で織女を暗示したもの。○今夜纏かむと念はくがよさ 「今夜」は、七日の夜。「纏かむと」は、枕としようとするで、袖を纏くとは、手を枕とすること。「念はくがよさ」は、旧訓「おもへるがよさ」。「念はく」は、原文「念」。「思ふ」の名詞形で、「恋」を「恋ふらく」と訓むと同例である。「よさ」は、よくあることよ。
【釈】 久しい間を我を恋うて河に向かって立っていた人の袖を、今夜枕としようと思うことのよくあることよ。
【評】 七月七日の夜、織女に逢いに行こうとする時の彦星の心である。彦星に、事象として言うという従来の型から離れ、一に気分としていわせようとしているのである。すなわち事象の気分化という新法である。それをするにも全く事象を離れることはできないので、最少限にしているのである。「まけ長く河に向き立ち在りし袖」は、一年間を天の河の岸に立って彦星を恋い続けていた織女で、これ以上には事象を省けず、またかすかにもできない言い方である。袖で織女そのものを暗示し、同時にその袖を手枕の手ともして下へ関係させているのである。「今夜纏かむと念はくがよさ」も、共寝ということを恋の頂点とし、思っている織女と、思われている彦星との陶酔を想像している形にして気分化しているのである。事象の気分化を徹底的に行なおうとして、行ない得ている歌である。これは奈良朝時代の新風で、人麿以後初めてここに現われているものである。
2074 天《あま》の河《がは》 渡瀬《わたりせ》毎《ごと》に 思《おも》ひつつ 来《こ》しくもしるし 逢《あ》へらく念《おも》へば
(464) 天河 渡湍毎 思乍 來之雲知師 逢有久念者
【語釈】 ○渡瀬毎に 「渡瀬」は、徒渉する川筋で、天の河にはそれが幾つもあるとしてのもの。○思ひつつ来しくもしるし 「思ひつつ」は、妹を恋いながら。「来しくもしるし」は、「来しく」は、「来し」の名詞形。「しるし」は、効のある意の形容詞。○逢へらく念へば 「逢へらく」は、「蓬へり」の名詞形。「念へば」は、思うと。
【釈】 天の河の幾つもある渡瀬を渡って、妹を恋いながら来たことの甲斐がある。このように逢っていることを思うと。
【評】 彦星が織女に逢った時の喜びをいっているものである。途中の労苦はいっているが、この歌には訴えの心はなく、ただ喜びをあらわすだけの明るいものである。二星の七日の夜に逢えるのは当然のことで、「来しくもしるし逢へらく念へば」は不自然である。これでは地上の夫の、逢い難くしている妻に逢い得た喜びと異ならないものである。しばしば出た、七夕伝説の本質を忘れた歌である。
2075 人《ひと》さへや 見継《みつ》がずあらむ 牽星《ひこぼし》の 妻《つま》よぶ舟《ふね》の 近《ちか》づき往《ゆ》くを
人佐倍也 見不繼將有 牽牛之 嬬喚舟之 近附徃乎
【語釈】 ○人さへや見継がずあらむ 「人さへ」は、天上の織女を主として、下界の人までもの意のもの。「や」は、反語。「見継がずあらむ」は、見続けずにいられようかで、見続けるのは下の彦星の舟のゆかしさからである。○牽牛の妻よぶ舟の 「妻よぶ」は、妻問いと同意語で、求婚する意。ここは妻のもとへ通う舟の。○近づき往くを 織女のいる対岸に近づいて行くのを。
【釈】 下界の人までも、見続けずにいられようか。彦星の求婚の舟の天の河を渡って、織女のいる岸に近づいて行くのを。
【評】 地上から、天の河を横切ろうとする牽牛星を眺めて、織女が喜んで見続けていようと思いやり、下界の自分までも見続けずにはいられないというのである。目に見る事象を主としての歌ではあるが、作者の気分も重く扱っているものである。気分に属する初二句から難解の趣をもっているが、これは当然のことといえる。取材の新よりも、個性的の感を重んじようとする歌風の歌である。
一に云ふ、見つつあるらむ
一云、見乍有良武
(465)【解】 第二句の別伝である。上の「や」の疑問をうけて、見つづけているであろうかで、こうすると初句の「人」は作者自身ではなく、広く下界の人ということになる。一首の意は通じやすくなるが、味わいは淡く劣って来る。通じやすくしようとして、他人が改めたのであろう。
2076 天《あま》の河《がは》 瀬《せ》を早《はや》みかも ぬばたまの 夜《よ》は闌《ふ》けにつつ 逢《あ》はぬ牽牛《ひこぼし》
天漢 瀬乎早鴨 烏珠之 夜者闌尓乍 不合牽牛
【語釈】 ○瀬を早みかも 瀬が早いゆえであろうかで、彦星が天の河を徒渉するとしていっているもの。○夜は闌けにつつ 「闌けにつつ」は、「に」は完了で、夜がふけ行きつつ。瀬を渡りかねるためのものである。○逢はぬ牽牛 織女に逢わずにいる彦星であるよで、彦星の下に、「かも」の結の「なる」が省かれている。
【釈】 天の河の瀬が早くて渡りにくいゆえであろうか。夜がふけて行きつつ、まだ織女に逢わない牽牛である。
【評】 上の歌と同じく、地上から天の河を仰ぎ、牽牛星が天の河を渡り終わらずにいるのを認めて、「瀬を早みかも」と思いやって憐れんだ心である。事象で、詠み生かしにくいものである。
2077 渡守《わたりもり》 舟《ふね》はや渡《わた》せ 一年《ひととせ》に 二《ふた》たび通《かよ》ふ 君《きみ》にあらなくに
渡守 舟早渡世 一年尓 二遍徃來 君尓有勿久尓
【語釈】 ○渡守舟はや渡せ 「渡守」は、上に出た。天の河に渡船があるとしてのもの。○君にあらなくに 「君」は、彦星。「あらなくに」は、ないことであるのに。
【釈】 渡守よ、君を早く船で渡せよ。一年に二度と通って来る君ではないことであるのに。
【評】 天の河を渡船で渡れる河と想像したのである。織女の語である。
2078 玉葛《たまかづら》 絶《た》えぬものから さ宿《ぬ》らくは 年《とし》のわたりに ただ一夜《ひとよ》のみ
(466) 玉葛 不絶物可良 佐宿者 年之度尓 直一夜耳
【語釈】 ○玉葛絶えぬものから 「玉葛」は、「玉」は、美称。葛は蔓草の総称で、意味で絶えぬの枕詞。「絶えぬものから」は、夫婦関係は絶えないものながら。○さ宿らくは 「さ」は、接頭語。「宿らく」は、「寝る」の名詞形。共寝をする意。○年のわたりに 「わたり」は、経過で、「年のわたり」は、一年を経過する間に。
【釈】 玉葛のように、夫婦関係は絶えないものながら、共寝をすることは、一年を経過する間にただ一夜だけである。
【評】 彦星の嘆きとして詠んだものであろう。満足もなく、しかし失望もないところから起こる憧れが、七夕に美しく具象化され、それが魅力となっているのである。彦星の嘆きの範囲でのものである。
2079 恋《こ》ふる日《ひ》は け長《なが》きものを 今夜《こよひ》だに 乏《とも》しむべしや あふべきものを
戀日者 食長物乎 今夜谷 令乏應哉 可相物乎
【語釈】 ○恋ふる日はけ長きものを 恋うる日は、久しい間であるものを。○今夜だに乏しむべしや 今夜だけなりとも、物足りない思いをなすべきであろうか、ないで、「や」は反語。○あふべきものを 逢うべく定まっている日であるものを。
【釈】 恋うる日の、久しい間であるものを。今夜だけなりとも、物足りない思いをすべきであろうか、ない。逢うべき日であるものを。
【評】 彦星の、織女にいった形のものである。この心は上の(二〇一七)の人麿歌集の歌に出ており、それを拙く改めたものである。
2080 織女《たなばた》の 今夜《こよひ》逢《あ》ひなば 常《つね》の如《ごと》 明日《あす》を隔《へだ》てて 年《とし》は長《なが》けむ
織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者將長
【語釈】 ○常の如明日を隔てて 「常の如」は、いつものようにで、例年の通りにというにあたる。「明日を隔てて」は、明日を境として。○年は長けむ 一年を待てば長いことであろう。
(467)【釈】 織女の、今夜彦星と逢ったならば、いつものように、明日を境として、また逢うまでの一年は長いことであろう。
【評】 地上にあって、特に織女を憐れんだ心のものである。恋の上のあわれは、妻のほうに多いものとしての歌か、または女の歌かであろう。
2081 天《あま》の河《がは》 棚橋《たなはし》渡《わた》せ 織女《たなばた》の い渡《わた》らさむに 棚橋《たなはし》渡《わた》せ
天漢 棚橋渡 織女之 伊渡左牟尓 棚橋渡
【語釈】 ○棚橋渡せ 「棚橋」は、板を渡した橋。「渡せ」は、渡せよで、織女の近くにいる第三者間の語。○織女のい渡らさむに 「い」は、接頭語。「渡らさむ」は、渡らむの敬語。女性に対してのゆえのもの。
【釈】 天の河に棚橋を渡せよ。織女がお渡りになろうに、棚橋を渡せよ。
【評】 天上にも、地上のように牽牛織女以外の人々がいて、織女の近くにいる人々が、七日の夜、織女が彦星のもとへ通うものとし、それには天の河に橋がないと困るだろうと察し、織女が渡られるために棚橋を渡せと、一人が他の一人に命令したのである。また、天の河は棚橋を渡すと越せる河ともしたのである。女から男のもとに通うことも、棚橋を渡すような狭い川も女には越せないことも、地上では珍しくないことである。それをさながらに天上に移しての想像である。第二句を第四句で繰り返す、謡い物に多い形の歌である。七夕の宴の席で、宴歌として謡ったものであろう。
2082 天《あま》の河《がは》 河門《かはと》八十《やそ》あり 何処《いづく》にか 君《きみ》がみ船《ふね》を 吾《わ》が待《ま》ち居《を》らむ
天漢 河門八十有 何尓可 君之三船乎 吾待將居
【語釈】 ○天の河河門八十あり 「河門」は、河幅の狭くなっている所の称で、船の渡り場所としていっている。「八十」は、多く。○何処にか いずれの河門にか。
【釈】 天の河には、河門が多くある。いずれの河門に、君のみ船を我は待っていようか。
【評】 七月七日の夜、織女が天の河まで出迎えをしようとして、心惑いをした心である。天の河をこのような河と想像した歌は、上の(二〇四六)「八十の舟津」というのが出た。
(468)2083 秋風《あきかぜ》の 吹《ふ》きにし日《ひ》より 天《あま》の河《がは》 瀬《せ》に出《い》で立《た》ちて 待《ま》つと告《つ》げこそ
秋風乃 吹西日從 天漢 瀬尓出立 待登告許曾
【語釈】 ○秋風の吹きにし日より 「秋風」は、七月一日立秋の日からの風の称で、「日より」は、立秋の日から。「に」は完了。○瀬に出で立ちて待つと告げこそ 「瀬」は、渡り瀬で、彦星が渡って来る瀕のある所。「告げこそ」は、「こそ」は願望の助詞で、彦星に告げてくれよと、他人に頼む意。
【釈】 秋風が吹いた日から天の河の渡り瀬の所に立ち出て待っていると告げてくれよ。
【評】 織女が、彦星のいるほうへ行く人に、伝言として頼んだ語と取れる形のものである。この作者に想像された織女は、地上の庶民の妻とほとんど異ならない者だったのである。物の言い方は、婉曲味はあるが情熱的で、賢い中年の女のようである。
2084 天《あま》の河《がは》 去年《こぞ》の渡瀬《わたりせ》 荒《あ》れにけり 君《きみ》が来《き》まさむ 道《みち》の知《し》らなく
天漢 去年之渡湍 有二家里 君之將來 道乃不知久
【語釈】 ○去年の渡瀬荒れにけり 去年、彦星が徒渉して来た渡り瀬は、瀬が変わって荒れてしまった。○君が来まさむ道の知らなく 「君」は、彦星。「来まさむ」は、「来む」の敬語。「道」は、ここは渡り瀬。「知らなく」は、「知らず」の名詞形で、知られないことよ。
【釈】 天の河の、去年夫の徒渉して来た瀬は変わって、荒れてしまったことだよ。今夜いらっしゃる道の知られないことよ。
【評】 七月七日の夜、織女が去年のように、彦星の迎えに一年振りに天の河の徒渉する場所へ来て見たところ、去年とは瀬が変わってしまっているので、今年は何所を徒渉して来られるかわからずに、当惑している心である。ただちに中心へ飛び入り、織女の平常の生活振りまであらわしている、手に入った、巧みな詠み方である。余裕をもって詠んでいる。
2085 天《あま》の河《がは》 瀬瀬《せぜ》に白浪《しらなみ》 高《たか》けども 直《ただ》渡《わた》り来《き》ぬ 待《ま》たば苦《くる》しみ
天漢 湍瀬尓白浪 雖高 直渡來沼 待者苦三
(469)【語釈】 ○高けども 後世の高けれどもにあたる古格。○直渡り来ぬ ひたすらに渡って来た。○待たば苦しみ 「待たば」は、訓が定まらない。「待てば」「待たば」いずれでも通じる。「待たば」は、仮名書きの例のあるもの。浪の鎮まるものを待ったならば。「苦しみ」は、苦しいゆえにで、彦星自身の心。
【釈】 天の河の渡瀬ごとに白浪が高かったけれども、ひたすらに渡って来た。浪の鎮まるのを待ったならば、苦しいゆえに。
【評】 彦星が織女に逢った時、道の労苦を訴えた形のものである。これは大体、夫としての誠意を示すためのもので、「待たば 苦しみ」はその意の頂点を示しているものである。地上の夫婦関係を濃厚に反映させているものである。
2086 牽牛《ひこぼし》の 嬬《つま》喚《よ》ぶ舟《ふね》の 引綱《ひきづな》の 絶《た》えむと君《きみ》を 吾《わ》が念《おも》はなくに
牽牛之 嬬喚舟之 引綱乃 將絶跡君乎 吾念勿國
【語釈】 ○嬬喚ぶ舟の 彦星が妻問いをする舟ので、既出。○引綱の 舟を引き寄せるために着けた綱で、曳船の綱。曳船は安全を期してのことである。引綱の「絶え」と続けて、初句よりこれまでは「絶え」の序詞である。○絶えむと君を吾が念はなくに 「絶えむと君を」は、絶えを夫婦関係に転じて、関係を絶えようと君をで、君と関係を絶えようとの意。「君」は、男より女をさしたもの「念はなくに」は、思ってはいぬことであるよ。
【釈】 彦星が妻問いをする舟に着けてある引綱の、その絶えにちなみある、夫婦関係の絶えようと、君を我は思っていないことであるよ。
【評】 この歌は男が女に、その真ごころを誓っていっている形のものである。七夕は序詞として用いているにすぎない。この序詞は二星の永遠な関係を捉えたもので、気分として本義につながりのあるものである。奈良朝時代の序詞である。この歌は明らかに相聞である。巧みな歌である。
2087 渡守《わたりもり》 舟出《ふなで》し出《い》でむ 今夜《こよひ》のみ 逢《あ》ひ見《み》て後《のち》は 逢《あ》はじものかも
渡守 舟出爲將出 今夜耳 相見而後者 不相物可毛
【語釈】 ○渡守舟出し出でむ 「渡守」は、天の河の渡場の渡守。「舟出し出でむ」は、舟出をして出かけよう。○今夜のみ逢ひ見て後は 「今夜」(470)は、七日の夜で、今は彦星が織女に逢って別れて来た時。今夜だけ相逢って、今後は。○逢はじものかも 逢うまいというのであろうか、そうではないで、この「か」は反語を成しているものである。
【釈】 渡守よ、舟出をして此所を出かけよう。今夜だけ相逢って、今後は逢うまいという関係であろうか、そうではない。
【評】 七日の夜明け、織女に別れて天の河の渡場まで来た彦星が、今更に名残りが惜しまれて、躊躇をしていたが、思い切って舟出を命じ、我と我を慰め励ます心でいっているものである。単純な一首であるが、庶民的な彦星と、その場の劇的な気分の動きとを暗示するものがあって、それが趣を成している。物語に向こうとする傾向を示している歌ともいえる。
2088 吾《わ》が隠《かく》せる 楫《かぢ》棹《さを》なくて 渡守《わたりもり》 舟《ふね》貸《か》さめやも 須臾《しまし》はあり待《ま》て
吾隱有 ※[楫+戈]棹無而 渡守 舟將借八方 須臾者有待
【語釈】 ○吾が隠せる楫棹なくて わが隠してある梶や棹がなくては。○渡守舟貸さめやも 「舟貸す」は、舟を使わせる、すなわち出す意でいっているもの。「や」は、反語。○須臾はあり待て 「新訓」の訓。「あり待て」は、このままに待ち給え。
【釈】 わが隠してある楫も棹もなくては、渡守が舟を出そうか、出しはしない。今しばらくこのままに待ちたまえ。
【評】 七日の夜が明けて、彦星は帰らなければならない時、織女が名残りを惜しんで引き留めようとしてのものである。地上の心というよりも、情痴に陥った所作であるが、それが興味あることとして迎えられたのであろう。前の歌と同じく、劇的とも、あるいは物語的傾向をもった歌ともいえるものである。奈良朝時代の好尚は、しだいにそちらへ向かって行ったのである。宴歌とみえる。
2089 天地《あめつち》の 初《はじ》めの時《とき》ゆ 天《あま》の河《がは》 い向《むか》ひ居《を》りて 一年《ひととせ》に ふたたび逢《あ》はぬ 妻恋《つまごひ》に 物念《ものおも》ふ 人《ひと》 天《あま》の河《がは》 安《やす》の川原《かはら》の あり通《がよ》ふ 出々《でで》の渡《わたり》に そほ船《ふね》の 艫《とも》にも舳《へ》にも 船《ふな》よそひ 真梶《、あかぢ》繁抜《しじぬ》き 旗芒《はたすすき》 本葉《もとは》もそよに 秋風《あきかぜ》の 吹《ふ》き来《く》る夕《よひ》に 天《あま》の河《がは》 白浪《しらなみ》凌《しの》ぎ 落《お》ちたぎつ 早瀬《はやせ》渉《わた》りて 若草《わかくさ》の 妻《つま》が手《て》枕《ま》かむと 大船《おほふね》の 思《おも》ひ憑《たの》みて こぎ来《く》らむ その夫《つま》の(471)子が あらたまの 年《とし》の緒《を》長《なが》く 思《おも》ひ来《こ》し 恋《こひ》を尽《つく》さむ 七月《ふみづき》の 七日《なぬか》の夕《よひ》は 吾《われ》も悲《かな》しも
乾坤之 初時從 天漢 射向居而 一年丹 兩遍不遭 妻戀尓 物念人 天漢 安乃川原乃 有通 出々乃渡丹 具穗船乃 艫丹裳舳丹裳 船装 眞梶繁拔 旗荒 本葉裳具世丹 秋風乃 吹來夕丹 天河 白浪凌 落沸 速瑞渉 稚草乃 妻手枕迹 大船乃 思〓而 滂來等六 其夫乃子我 荒珠乃 年緒長 思來之 戀將盡 七月 七日之夕者 吾毛悲焉
【語釈】 ○一年にふたたび逢はぬ 一年に二度とは逢わないところの。○妻恋に物念ふ人 妻恋のために嘆きをする人。以上、彦星の全貌を叙したもの。○天の河安の川原の 天の河に、高天原の安の河があるとしてのもので、上に出た。○あり通ふ出々の渡に 「あり通ふ」は、継続して通う意。「出々の渡」は、他に用例のない語である。『童蒙抄』は、「世々」の誤写かとしている。『全註釈』は、古事記中巻、宇遅の和紀郎子の歌の句の、「渡りせに立てる梓弓真弓」、日本書紀の「渡りでに立てる」を語例として挙げ、また上の(二〇一八)「去年の渡で」も、語例となるといっている。「出」は「瀬」と同意語で、並用されていたのであろう。多くある渡り場所に。○そほ船の艫にも舳にも 「そほ船」は、赤土で塗った船で、良い船。既出。上代の船にあっては普通のことであった。「艫にも舳にも」は、船の全面に。○船よそひ真梶繁抜き 船を装って、梶を多く取り付けて。○旗芒本葉もそよに 「旗芒」は、穂を出した薄で、穂が旗に似たところからの称。既出。「本葉も」は、本のほうの葉までも。「そよに」は、そよそよと動揺する形容。○秋風の吹き来る夕に 七月七日の夜を、具象的にいったもの。○若草の妻が手枕かむと 「若草の」は、妻の枕詞。「妻が手枕かむと」は、諸注、訓が定まらない。『略解』の訓。妻の手を枕として寝ようと。○あらたまの年の緒長く 「あらたまの」は、年の枕詞。「年の緒」は、「緒」は、長く続く意で添えたもの。一年の長い間。○思ひ来し恋を尽さむ 嘆いて来た恋を霽《は》らそうとする。
【釈】 天地の開闢の時から、天の河に向かっていて、一年に二度とは逢わない妻を恋うて嘆きをしている人、その人は天の河の安の川原の、昔から継続して通う数多ある渡り場所に、丹塗《にぬり》の船の艫にも舳にも船飾りをして、多くの楫を取り付けて、穂薄の本のほうの葉までがそよそよと揺れて、秋風の吹いている夕べに、天の河の白浪を冒し、水の流れ落ちて激する早瀬を渡って、若草の妻の手枕をして寝ようと、大船のように頼み思って、漕いで行くであろうその夫である人が、一年の長い間を嘆いて来た恋を霽らすであろう七月の七日の夜は、吾もまた感傷されることであるよ。
【評】 七月七日の夜、天上の彦星を思いやり、その夜の歓会に同感した心のものである。この作者の想像に浮かんで来るのは、彦星に限られていて、その恋も陶酔的のものではなく「思ひ来し恋を尽さむ」という素朴なものである。彦星が、天地開闢の時からのものであり、天の河が安の河であるのは、先行の人麿歌集と同じである。また、彦星が身分高い人と想像されるのも、(472)同じく先行のあるもので、想像には創意はない。一首の構成ははっきりしており、叙述も想像に浮かんだ通りを剋明に行なっていて、心を尽くして詠んでいる歌である。しかし結果から見ると特別な感銘は与えず、長歌形式を用いる要のないもののごとくみえる。奈良朝時代に入って長歌が復興した機運のなかにあっての作であろう。
反歌
2090 高麗錦《こまにしき》 紐《ひも》解《と》きかはし 天人《あめびと》の 妻《つま》問《と》ふ夕《よひ》ぞ 吾《われ》も偲《しの》はむ
狛錦 紐解易之 天人乃 妻問夕叙 吾裳將偲
【語釈】 ○高麗錦紐解きかはし 「高麗錦」は、高麗国より渡来した物で、上代は高貴な品で、貴族が紐にした程度だったのである。紐は衣の上紐である。「解きかはし」は、解き合って。○天人の妻問ふ夕ぞ 「天人」は、天上の人。ここは彦星である。「妻問ふ夕」は、結婚する夕べ。○吾も偲はむ 長歌の結句を言いかえたもの。
【釈】 高麗錦の紐を解き合って、天人の彦星が、結婚をする夜であるぞ。吾もゆかしんで思おう。
【評】 長歌の結末を語を換えて繰り返したもので、反歌としては型のごときものである。
2091 彦星《ひこぼし》の 川瀬《かはせ》を渡《わた》る さ小舟《をぶね》の 得《え》行《ゆ》きて泊《は》てむ 河津《かはつ》し念《おも》ほゆ
彦星之 河瀬渡 左小舟乃 得行而將泊 河津石所念
【語釈】 ○さ小舟の 「さ」は、接頭語。小さい舟。○得行きて泊てむ 「得行きて」は、諸注、訓が定まらない。『代匠記』の訓。巻十一(二五七四)「面忘れだにも得すやと」の例がある。行き着き得て。○河津し念ほゆ 「河津」は、川の舟つき場。
【釈】 彦星の川瀬を渡る小舟が、行き着き得て止まるであろうところの河津が思われる。
【評】 反歌とすると、前の歌と順序が前後している。前の歌は長歌の結尾の繰り返しで、これはさかのぼって今一たび思い返した形のものである。しかし「さ小舟」といっているのは、長歌と矛盾するものである。
2092 天地《あめつち》と 別《わか》れし時《とき》ゆ 久方《ひさかた》の 天《あめ》つしるしと 定《さだ》めてし 天《あま》の河原《かはら》に あらたまの 月《つき》を(473)累《かさ》ねて 妹《いも》にあふ 時《とき》候《さもら》ふと 立《た》ち待《ま》つに 吾《わ》が衣手《ころもで》に 秋風《あきかぜ》の 吹《ふ》き反《かへ》らへば 立《た》ちて坐《ゐ》て たどきを知《し》らに 村肝《むらぎも》の 心《こころ》いさよひ 解衣《ときぎぬ》の 思《おも》ひ乱《みだ》れて 何時《いつ》しかと 吾《わ》が待《ま》つ今夜《こよひ》 この川《かは》の 行《ゆ》くごと長《なが》く あり得《え》てしかも
天地跡 別之時從 久方乃 天驗常 定大王 天之河原尓 璞 月累而 妹尓相 時候跡 立待尓 吾衣手尓 秋風之 吹反者 立座 多土伎乎不知 村肝 心不欲 解衣 思乱而 何時跡 吾待今夜 此川 行長 有得鴨
【語釈】 ○久方の天つしるしと 「久方の」は、天の枕詞。「天つしるしと」は、天上の標、すなわち越ゆべからざる境として。上の(二〇〇七)に出た。○定めてし天の河原に 神が定めた天の河。○あらたまの月を累ねて 「あらたまの」は、年の枕詞を、「月」に転じてかけたもの。「月を累ねて」は、彦星が織女と逢うべき七月をいうために、年を言いかえたもの。○妹にあふ時候ふと 「妹」は、織女。「あふ時」は、七月七日。「候ふ」は、様子をうかがっていると。○秋風の吹き反らへば 「反らへ」は、反るの連続で、ひるがえる。秋風に吹きひるがえるので。○立ちて坐てたどきを知らに 立ったり坐ったりして、手のつけ所も知られなくて。○村肝の心いさよひ 「村肝の」は、心の枕詞。「心いさよひ」は、原文「心不欲」。『古義』は誤写として、「心不知欲比」と改めている。『全註釈』は、心が活動を欲しない義で、このままでそのように訓めるといっている。心がためらって、動かず。○何時しかと吾が待つ今夜 早くと待っている今夜で、すなわち七日の夜。○この川の 眼前の川で、天の河。○行くごと長くあり得てしかも 原文「行長有得鴨」。文字が省略されているので、読み添えをしなくてはならぬ。『代匠記』は原文に即して、「行くごと長くあり得てむかも」と訓んでいる。『代匠記』以後の注はすべて文字を改めている。『全註釈』(改造社版)は、「得鴨」を、「得てしかも」と訓んでいる。意はいずれも、あり得たいものだで、同じであるが、「得てむ」と未来にするよりも、「得てし」と過去にするほうが強い。これに従う。流れの長いごとく夜が長くあり得たいものだ。
【釈】 天と地とが別れた開闢の時から、天上の、越ゆべからざる標として定められた天の河原に、幾月か累ねて、妻に逢う季節をうかがうとして、立って待つわが袖に、秋風が吹きひるがえるので、立ったり居たりして、手のつけようも知られずに、心はためらって働かず、思い乱れて、早く来よと待っている今夜は、この天の河の流れのごとく長くあり得たいものだ。
【評】 上の長歌と同じく、七月七日の夜の彦星を取材としたものであるが、詠み方は全く異なって対蹠的である。上の歌は事象を主としたものであるのに、これは気分を主としたものだからである。上の歌の、第三者として彦星を想像したのとは違い、これは彦星そのものになって抒情をしているのである。この彦星は、天地の初めから、天上の標となっている天の河の岸に立(474)ち、標の禁忌の解かれた七月七日の夜を専念に待っており、その解かれる夜を待ち得た気分をいうにとどめているのである。重点を置いているのは、待つ意と待ち得た喜びとの対照で、事象は背後よりその気分にまつわる程度である。上の歌の古風なものに対し、これは奈良朝時代に生み出した新風である。
反歌
2093 妹《いも》に逢《あ》ふ 時《とき》片待《かたま》つと ひさかたの 天《あま》の河原《かはら》に 月《つき》ぞ経にける
妹尓相 時片待跡 久方乃 天之漢原尓 月叙經來
【語釈】 ○時片待つと 「時」は、七月七日の夜。「片待つと」は、ひたすらに待つとて。
【釈】 妹に逢う時をひたすら待つとて、天の河原に、幾月をも累ねたことであるよ。
【評】 長歌の前半を総括して繰り返したものである。七月七日が来て、その日を待った苦しさを思い返したもので、気分のつながりの微妙なものをもった反歌である。
花を詠める
2094 さを鹿《しか》の 心《こころ》相念《あひおも》ふ 秋芽子《あきはぎ》の しぐれの零《ふ》るに 散《ち》らくし惜《を》しも
竿志鹿之 心相念 秋芽子之 鍾礼零丹 落僧惜毛
【語釈】 ○さを鹿の心相念ふ 「さを鹿」は、「さ」は、接頭語で、牡鹿。「心相念ふ」は、心に念い合っているので、その相手は、下の秋芽子である。○秋芽子の 「秋」を添えて「芽子」をいっているのは、萩の花というのを、季節関係であらわした称。○しぐれの零るに散らくし惜しも 「散らくし」は、「散らく」は、「散る」の名詞形。「し」は、強意。「も」は、詠歎。
【釈】 牡鹿の心に思い合っている萩の花の、時雨の雨で散ることの惜しさよ。
【評】 牡鹿と萩の花とを「心相念ふ」というのは、秋の景物に人間的の解釈をしたものである。萩の花の咲く頃は、おりから(475)牡鹿は妻恋いをして、萩原を離れずにいるので、それを基本とし、さらに萩の花を秋の代表の花、妻恋いをする牡鹿も、秋のあわれを代表するものとして、双方の間に心の交流があると見てのことである。自然を人間的に解釈するのは上代の風で、それに耽美的解釈を取入れたもので、この耽美性は、文芸性への進展である。この歌は萩の花の散るのを惜しんでの心であるが、そのことを牡鹿が悲しむだろうとの心に絡ませているのである。この歌は人麿歌集のもので、こうした心の発生時期も思わせている歌である。
2095 夕《ゆふ》されば 野辺《のべ》の秋芽子《あきはぎ》 うら若《わか》み 露《つゆ》に枯《か》れつつ 秋《あき》待《ま》ち難《がた》し
夕去 野邊秋芽子 末若 露枯 金待難
【語釈】 ○夕されば 夕方になるとで、四句「露に」に続く。○うら若み 「うら」は、枝や芽の末端。「若み」は、若いので。○露に枯れつつ 露にいためられつつで、憐れみの心から誇張していったもの。○秋待ち難し 花の咲くべき秋の季節を待つことができない。
【釈】 夕方になると、野辺の秋萩の枝先が若いので、置く露に痛められつつ、花の咲くべき秋を待つことができない。
【評】 夏の末ごろ、花にはまだ間のある頃の萩の若枝が、おりからの繁く置く夕梅雨に撓《しな》って、弱げに痛々しげに見えるのを憐れんだ心である。その撓っているのを衰えたと見、「枯れつつ」と誇張していっているのである。萩の若枝の露を帯びたさまは清らかなものであるから、それに引かれて感傷しての誇張である。この誇張が一首の中心で、気分の歌である。
右の二首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
右二首、柿本朝臣人麿之謌集出。
【解】 その作風から見て、若い時代の人麿の歌ということを、明瞭に思わせるものである。
2096 真葛原《まくずはら》 なびく秋風《あきかぜ》 吹《ふ》く毎《ごと》に 阿太《あだ》の大野《おほの》の 芽子《はぎ》の花《はな》散《ち》る
眞葛原 名引秋風 毎吹 阿太乃大野之 芽子花散
【語釈】 ○真葛原なびく秋風 「真葛原」は、「真」は、接頭語。「葛原」は葛の生え続いている原。それが靡く秋風の。○阿大の大野 大和国宇(476)智郡(現、奈良県五条市東阿田、西阿田、南阿田付近)で、吉野川の右岸の野。
【釈】 葛原の靡く秋風が吹くたびごとに、阿太の大野の萩の花が散る。
【評】 真葛原と阿太の大野とは同じ野で、葛と萩の花との印象から、語を変えて繰り返したものである。真葛原を靡かして秋風が吹き渡ると、阿太の大野の萩の花が散るというのは、中心になっている萩の花という小さな静的な物が、大野と秋風という大きな動的なものと対照されることになって、そこに一種格別な気分を生み出して来る。「真葛原」「阿太の大野」も、この対照の感を強めるものである。また、「吹く毎に」というのも、風が鎮まり、吹き立つことを対照しているものである。作者は意識して行なっている対照であるが、少しも表面にはあらわさず、さりげないさまでいっているのである。これは、いっていることは事象であるが、あらわそうと意図していることは、事象が醸し出す一種の気分にあるからである。奈良朝時代の新風にしたがっての歌であるが、手腕の練達した、いわゆる渋い歌である。
2097 雁《かり》がねの 来喧《きな》かむ日《ひ》まで 見《み》つつあらむ この芽子原《はぎはら》に 雨《あめ》な零《ふ》りそね
雁鳴之 來喧牟日及 見乍將有 此芽子原尓 雨勿零根
【釈】 ○雁がね 雁の意。○見つつあらむ 「む」は連体形。○雨な零りそね 雨は降ってくれるなと、願望したもの。雨が萩の花を散らすとしてである。
【釈】 雁が来て鳴くだろう日までは、見つづけていようと思う萩原に、雨は降ってくれるな。
【評】 秋の興趣の、絶え間のない状態で続くことを願う気分のものである。今は萩原の花に興じているのであるが、それが散り終わると、代わって新たなる興趣として雁が鳴いて来ることを予想し、これとそれとの間に、絶え間のなかれと願っている心である。奈良朝時代の心である。
2098 奥山《おくやま》に 住《す》むと云《い》ふ鹿《しLか》の 初夜《よひ》さらず 妻《つま》問《と》ふ芽子《はぎ》の 散《ち》らまく惜《を》しも
奥山尓 住云男鹿之 初夜不去 妻問芽子乃 散久惜裳
【語釈】 ○初夜さらず妻問ふ芽子の 「初夜《よひ》さらず」は、宵ごとに。「妻問ふ」は、妻問いをするで、妻として通って来る。○散らまく惜しも 散(477)ることの惜しさよ。
【釈】 奥山に住んでいるといぅ鹿が、宵ごとに妻問いをする萩の花の、散ることの惜しさよ。
【評】 萩の花の散るのを惜しむ心ではあるが、その萩の花を、鹿が妻としている花と概念的なものにせず、奥山に住んでいる鹿が、遙々と、しかも宵ごとに通って来るものとして、そのあわれさを絡ませて惜しんでいる心である。概念からの進展しての事実で、気分の深化を求める心である。
2099 白露《しらつゆ》の 置《お》かまく惜《を》しみ 秋芽子《あきはぎ》を 折《を》りのみ折《を》りて 置《お》きや枯《か》らさむ
白露乃 置卷借 秋芽子乎 折耳折而 置哉枯
【語釈】 ○白露の置かまく惜しみ 白露が萩の花の上に重く置くことを、花のために惜しんで。○秋芽子を折りのみ折りて 折るだけは折ってで、白露から保護しようとのこと。
【釈】 白露の置くことを惜しんで、萩の花を折るだけ折って、そのまま置いて枯らすのであろうか。
【評】 萩の花が置く白露を、重げにして撓《たわ》んでいるのを憐れんで、保護する気で折ったが、さてどうすることもできず、枯らしそうになったのに心づいた時の心持である。人の気分とものの本質との齟齬ともいうべき心である。気分的であるとともに知性的であった奈良朝の心である。
2100 秋田《あきた》苅《か》る 仮廬《かりほ》の宿《やどり》 にほふまで 咲《さ》ける秋芽子《あきはぎ》 見《み》れど飽《あ》かぬかも
秋田苅 借廬之宿 丹穗經及 咲有秋芽子 雖見不飽香聞
【語釈】 ○秋田苅る仮廬の宿 秋の稲を刈るために設けた仮小屋の宿が。○にほふまで 美しい色に映えるまでに。○咲ける秋芽子 小屋のほと(478)りに咲いている萩の花は。
【釈】 秋の稲を刈り取るために設けた仮小屋の宿が美しい色に映えるまでに咲いている萩の花の、見ても見飽かないことであるよ。
【評】 実景を讃えた歌であるが、秋田のほとりに設けた仮廬が、秋萩の色でにおうという、特殊な美より発する気分をとおして讃えているのである。職業歌とも、庶民の歌ともいえないものである。
2101 吾《わ》が衣《ころも》 摺《す》れるにはあらず 高松《たかまつ》の 野辺《のべ》行《ゆ》きしかば 芽子《はぎ》の摺《す》れるぞ
吾衣 揩有者不在 高松之 野邊行之者 芽子之揩類曾
【語釈】 ○我が衣摺れるにはあらず わが衣は、花摺に摺ってあるのではない。○高松の野辺行きしかば 「高松」は、高円をこうも呼んだのである。春日山の南に続く地で、(一八七四)に既出。○芽子の摺れるぞ 萩の花のほうが摺ったのであるよ。
【釈】 わが衣は、我が摺ったのではない。高松の野を歩いたので、萩の花のほうが摺ったのであるよ。
【評】 萩の花の色が沁みている衣を着ていた人が、人に向かって断わった形の歌である。一般の人の常服は麻の衣で、摺っても鮮かには摺れなかったので、このようなことがいえたのである。「芽子の摺れるぞ」は、耽美の心から誇っていっているので、聞く者もなつかしかったのである。すべて萩の花に対する深い愛好が背後にあってのものである。
2102 この暮《ゆふべ》 秋風《あきかぜ》吹《ふ》きぬ 白露《しらつゆ》に 争《あらそ》ふ芽子《はぎ》の 明日《あす》咲《さ》かむ見む
此暮 秋風吹奴 白露尓 荒爭芽子之 明日將咲見
【語釈】 ○この暮秋風吹きぬ 萩の花の咲く季節としていっているもの。○白露に争ふ芽子の 露は花を咲かせようとし、萩は咲くまいとして争う、その芽子の。これは当時一般にそう感じられていることで、おそらく露を男、萩を女と見、夫婦関係を連想しての心である。○明日咲かむ見む 争いかねて明日は咲くであろう花を見よう。
【釈】 この夕べ、秋風が吹いた。咲かせようとして置く白露に、咲くまいとして争う萩の、明日は咲くであろうのを見よう。
(479)【評】 「この暮秋風吹きぬ」は、知性的のものである。「白露に争ふ芽子の」以下は人間生活に自然現象を移入したもので、耽美気分の具象である。矛盾した二つの傾向が一首の歌の中に、安らかに、当然のことのように詠まれているのである。奈良朝に入って初めてあらわれた風である。
2103 秋風《あきかぜ》は 冷《すず》しくなりぬ 馬《うま》並《な》めて いざ野《の》に行《ゆ》かな 芽子《はぎ》の花《はな》見《み》に
秋風 冷成奴 馬並而 去來於野行奈 芽子花見尓
【語釈】 ○いざ見に行かな 「いざ」は、我と誘う意。「な」は、自身への希望。
【釈】 秋風は涼しくなった。友と馬を連ねて、いざ野に行きたいものだ。萩の花を見に。
【評】 我と我にいった形の歌である。「秋風は冷しくなりぬ」が、一首の根抵となっている。大和国は山に囲まれた盆地で、夏は暑い国であるから、この語の中には、強い快さが籠められていたろう。
2104 朝顔《あさがほ》は 朝露《あさつゆ》負《お》ひて 咲《さ》くと云《い》へど 暮陰《ゆふかげ》にこそ 咲《さ》きまさりけれ
朝杲 朝露負 咲雖云 暮陰社 咲益家礼
【語釈】 ○朝顔は 「朝顔」は、巻八(一五三八)山上憶良の歌の「朝貌の花」についていった。要するに未詳である。
【釈】 朝顔は、朝露を帯びて咲くといわれているが、夕方の光に一段と咲き益って見える。
【評】 朝顔は、朝咲く花としてそうした名を付けられているが、自分の見た所では、夕影の時のほうが一層美しく咲く花だというので、常識に抗議した形の歌である。抗議ということが、作者にも人にも興味があっての歌ではないかと思われる。朝顔という名に女の顔を連想し、朝の顔よりも夕べの顔のほうが魅力的だという心もからませてあろうか。
2105 春《はる》されば 霞隠《かすみがく》りて 見《み》えざりし 秋芽子《あきはぎ》咲《さ》けり 折《を》りて挿頭《かぎ》さむ
春去者 霞隱 不所見有師 秋芽子咲 折而將插頭
(480)【語釈】 ○春されば霞隠りて 春になると霞に隠れて。萩は野のもので、春は霞が野に全面的に低く籠めるところからいっているもの。
【釈】 春になると霞に隠れて見えなかった、その秋萩が咲いている。折って挿頭としよう。
【評】 萩の花を愛して、「折りて挿頭さむ」といっているのであるが、愛するのには理由があることをいっている。「春されば霞隠りて見えざりし」がすなわちそれで、一年を興味の上から春と秋とし、春の霞に隠れてものの見えない時よりも、秋のはっきりと、目を遮るもののない時のほうを好いとし、この心を野の萩に集め、そうした野にある萩が、花が咲いているとして愛しているのである。春秋の争いにからむ心で、秋をよしとする心を、春をいうことによってあらわしている、さりげない言い方のものである。気分を重んずる心の歌で、あらわし方もそれに似合わしいものである。
2106 沙額田《さぬかた》の 野辺《のべ》の秋芽子《あきはぎ》 時《とき》なれば 今《いま》盛《きかり》なり 折《を》りて挿頭《かざ》さむ
沙額田乃 野邊乃秋芽子 時有者 今盛有 折而將插頭
【語釈】 ○沙額田の野辺の秋芽子 「沙額田」は近江国(滋賀県)坂田郡にある筑摩《つくま》狭額田かとも、また大和国生駒郡の額田(大和郡山市の額田部北町、額田部南町、額田部寺町)に「さ」の接頭語を添えたものかともいう。どちらでも意は通じる。○時なれば今盛なり その季節なので、今花盛りである。
【釈】 沙額田の野の秋萩は、その季節なので、今花盛りである。折って挿頭としよう。
【評】 たまたま沙額田の野を過ぎた人の歌で、明るい歌である。譬喩の意などないものとみえる。
2107 殊更《ことさら》に 衣《ころも》は摺《す》らじ 女郎花《をみなへし》 佐紀野《さきの》の芽子《はぎ》に にほひて居《を》らむ
事更尓 衣者不揩 佳人部爲 咲野之芽子尓 丹穗日而將居
【語釈】 ○女郎花佐紀野の芽子に 「女郎花」は、意味で咲きにかかる枕詞。「佐紀」は、奈良京の北方の地名。巻一(八四)題詞に既出。○にほひて居らむ 「にほひ」は、美しい色になって居よう。
【釈】 わざわざわが衣を摺ることはしまい。女郎花が咲くというにちなむ、この佐紀野の萩の花に包まれて美しい色になって居よう。
(481)【評】 佐紀野の萩の花の中にまじっていて、わが白い衣もその花に照らされて、美しい色になっていると感じ、その気分に満足している心である。気分尊重の濃厚な歌である。
2108 秋風《あきかぜ》は 急《と》く急《と》く吹《ふ》き来《こ》 芽子《はぎ》の花《はな》 散《ち》らまく惜《を》しみ 競《きほ》ひ立《た》つ見《み》む
秋風者 急々吹來 芽子花 落卷惜三 競立見
【語釈】 ○秋風は急く急く吹き来 「急く急く」は『新訓』の訓。「急く」は、風速についていっているもので、強くというに同じ。「急く急く」は、畳んで強めたもの。「吹き来」は、命令。○芽子の花散らまく惜しみ 「散らまく」は、「散らむ」の名詞形。「惜しみ」は、惜しいゆえにで、惜しいので、にあたる。萩の花自身の意。○競ひ立つ見む 原文「競竟」。旧訓「おぼろおぼろに」。『考』は、「竟」は、「立見」の二字を、誤写によつて一字にしたものとし、「きそひたちみむ」と訓んだのを、『新訓』が今のごとく改めたのである。萩の花が秋風に張り合って立つで、これは萩の枝のおのずから垂れ伏しているのが、風にあおられて立ちあがるさまで、それを花が風に散らされるのを惜しんでのことと見たのである。
【釈】 秋風は強く強く吹いて来よ。萩の花が散ることが惜しいので、その風に散らされまいとして、張り合って立ちあがるさまを見よう。
【評】 萩の花を酷愛するところから、それに人間性を投入し、露が花を開かせようとするのに、萩はそれに抗争するのと同じく、ここでは、秋風は花を散らそうとするのに、萩はそれに抗争することとしている。これは当時一般に思われていたこととみえる。この歌はその上に立ち、萩の枝のおのずから撓《たわ》んで垂ふれ伏しているのが、風に吹き煽られて立ちあがるのを、花を散らされまいとして争ってのしぐさだと解し、そのさまをおもしろく感じ、見たいと思っている心である。感性が鋭敏に働き、心だけでなく目も一緒に働いている、めずらしい歌である。遙かに下っての時代の謡い物を思わせる作である。
2109 吾《わ》が屋前《やど》の 芽子《はぎ》の若末《うれ》長《なが》し 秋風《あきかぜ》の 吹きなむ時《とき》に 咲《さ》かむと思《おも》ひて
我屋前之 芽子之若末長 秋風之 吹南時尓 將開跡思手
【語釈】 ○吾が屋前の芽子の若末長し 「若末《うれ》」は、この用字のごとく、茎の末の若い部分の称。○咲かむと思ひて 擬人している。
【釈】 わが庭前の萩の若末《うれ》は長く伸び立っている。秋風の吹くだろう時に咲こうと思って。
(482)【評】 庭の萩の茎が長く伸び立っているのを見ると、そのさまが、さも早く花を咲かせたいと思っているらしく見えるところからの心である。純気分の歌である。たれにも無理なく感じられる快い歌である。
2110 人《ひと》皆《みな》は 芽子《はぎ》を秋《あき》と云《い》ふ よし吾《われ》は 尾花《をばな》が末《うれ》を 秋《あき》とは言《い》はむ
人皆者 芽子乎秋云 縱吾等者 乎花之末乎 秋跡者將言
【語釈】 ○人皆は芽子を秋と云ふ 「秋と云ふ」は、秋の興趣の代表物というの意。○よし吾は尾花が末を 「よし」は、ままよというにあたり、それはそれとしての意の副詞。「尾花」は薄の穂を出したものの称で、「末」はその穂先。穂先の若く蘇芳色をしたのを讃えていっているもの。
【釈】 人は皆萩の花を秋の代表物だという。ままよ、吾は尾花の穂先を、秋の代表物といおう。
【評】 自身の感性より好しとするものを主張して、他と争おうとする心で、上の(二一〇四)「朝顔は」と同系のものである。個人性を重んじる時代気分のあらわれといえる。「尾花が末」の美は、主張に値する特殊な美をもっているものである。しかしこのように強く主張するのは、作者のすぐれた感性のさせることである。「吾」は原文「吾等」で、必ずしも自分のみではない意を示している。
2111 玉梓《たまづさ》の 公《きみ》が使《つかひ》の 手折《たを》り来《け》る この秋芽子《あきはぎ》は 見《み》れど飽《あ》かぬかも
玉梓 公之使乃 手折來有 此秋芽子者 雖見不飽鹿裳
【語釈】 ○玉梓の公が使の 「玉梓の」は、使の枕詞。「公」は、夫。○手折り来る 「手折り」は、折り。「来《け》る」は、動詞「来」に完了の助動詞「り」の接続したもの。原文「来有」で、折って持って来ているで、途中で折ったのである。
【釈】 公の使が途中で折って持って来ているこの萩の花は、見ても飽かぬものであるよ。
【評】 使は途中で、美しい萩を見かけたままに折ったので、妻である女に贈物にしようとまでのものではないのであるが、女は、君の使の持って来たと物思う心から、特殊の美しさを感じたのである。使への返事に書き添えた歌であろう。相聞に近い歌である。
(483)2112 吾《わ》が屋前《やど》に 咲《さ》ける秋芽子《あきはぎ》 常《つね》ならば 我《わ》が待《ま》つ人《ひと》に 見《み》せましものを
吾屋前尓 開有秋芽子 常有者 我待人尓 令見猿物乎
【語釈】 ○常ならば 「常」は、永く咲き続けているものであるならばと、仮設したもの。○我が待つ人に見せましものを 「我が待つ人」は、女の夫。「見せましものを」は、上の仮設に応じさせたもので、「を」は詠歎。
【釈】 わが庭前に咲いている萩の花が、いつまでも咲き続くものであるなら、わが待っている人に見せようものを。
【評】 足遠くしている夫を、庭の萩を見るにつけてなつかしんだ心で、相聞の範囲の歌である。
2113 たきそなひ 植《う》ゑしも著《しる》く 出《い》で見《み》れば 屋前《やど》の早芽子《はつはぎ》 咲《さ》きにけるかも
手寸十名相 殖之毛知久 出見者 屋前之早芽子 咲尓家類香聞
【語釈】 ○たきそなひ 原文「手寸十名相」。旧訓「手もすまに」であったのを、『仙覚抄』が今のごとくに改めたが、用例のない語で、語義は明らかにはしなかった。『全註釈』は、古事記下巻、雄略天皇御製の、「白妙の蘇弖岐蘇那布《ソデキソナフ》たこむらに虻《アム》かきつき」の岐蘇那布は、着具うで、ここの「きそなひ」はそれと同じ語だろうという。これは熟語の動詞で、「た」は接頭語であり、身を使いよく身支度する意で、ことに手を使うに便宜なようにしたのだろうという。苦労をしての意を具象的にいったもの。○植ゑしも著く 原文は諸本「殖之名知久」で、「名」は「毛」の誤りとした『略解』に従う。植えた甲斐があって。○早芽子 早咲きの萩。
【釈】 身支度までして植えた甲斐があって、戸外へ出て見ると、庭の早咲きの萩が咲いたことであるよ。
【評】 苦労して移植した庭の萩の、花の咲いているのを発見した喜びで、素朴に喜びを直写した歌である。気分とまでは思わず、調べも重く、古風な歌である。
2114 吾《わ》が屋外《やど》に 植《う》ゑ生《おふ》したる 秋芽子《あきはぎ》を 誰《たれ》か標《しめ》刺《さ》す 吾《われ》に知《し》らえず
吾屋外尓 植生有 秋芽子乎 誰標刺 吾尓不所知
(484)【語釈】 ○植ゑ生したる秋芽子を 植えて育てて来た秋芽子を。○誰か標刺す 「か」は、疑問の係。「標刺す」は、わが物としてのしるしを立てるのか。○吾に知らえず 我に知れないように。
【釈】 わが屋外に植えて育てて来た秋萩を、たれがわが物としてのしるしを立てるのか。我に知れないように。
【評】 「秋芽子」は娘、「標刺す」は、男が言い寄って娘の承認を得たらしいことの譬喩で、したがって「吾」は娘の母である。上代の婚姻にあっては、これは最も普通のことで、母親の立場から見ていっているものである。譬喩歌に属するものが紛れて入ったのである。
2115 手《て》に取《と》れば 袖《そで》さへに揉ふ 女郎花《をみなへし》 この白露《しらつゆ》に 散《ち》らまく惜《を》しも
手取者 袖并丹覆 美人部師 此白露尓 散卷惜
【語釈】 ○手に取れば袖さへにほふ 「手に取れば」は、折って手に持てば。「袖さへにほふ」は、手はもとより袖までも美しい色となる。○この白露に散らまく惜しも 「この白露に」は、現に花の上に置いている白露で、「散らまく」は、「散らむ」の名詞形。
【釈】 折り取ると袖までも、美しい色になる女郎花の、今置いている白露で散ることの惜しさよ。
【評】 美しい女郎花の、朝露で散りそうに見えるのを惜しむ心である。「手に取れば袖さへにほふ」は、女郎花の色の美しさをあらわすために、想像を事実としていっているものである。感覚をとおして美しさを生かそうとする態度の明らかな歌である。
2116 白露《しらつゆ》に 争《あらそ》ひかねて 咲《さ》ける芽子《はぎ》 散《ち》らば惜《を》しけむ 雨《あめ》な降《ふ》りそね
白露尓 荒爭金手 咲芽子 散惜兼 雨莫零根
【語釈】 ○白露に争ひかねて咲ける芽子 「白露に争ひかねて」は、白露の咲かせようとするのに対し、咲くまいと争ったが、争いかねて咲いた芽子ので、上の(二一〇二)の「白露に争ふ芽子の」というのと同意である。○雨な降りそね 雨は降ってくれるなよと頼む意で、雨は散らすものとしてである。
【釈】 咲かせようとする白露に、咲くまいと争うことができずして咲いた萩の、散ったらば惜しいだろう。雨は降ってくれるな。
(485)【評】 可隣な萩の花を、雨に散るものとして惜しんでいる心である。その可憐をいうに、「白露に争ひかねて咲ける」といったのであるが、自然で、わざとらしい感はないものとなっている。
2117 娘子《をとめ》らに 行相《ゆきあひ》の早稲《わせ》を 苅《か》る時《とき》に なりにけらしも 芽子《はぎ》の花《はな》咲《さ》く
※[女+感]嬬等尓 行相乃速稻乎 苅時 成來下 芽子花咲
【語釈】 ○娘子らに行相の早稲を 「娘子らに」は、行き逢うと続く意で、その枕詞。「行相」は、人の行き逢う所で、道を言いかえたもの。巻四(五四六)「珠桙の道の去きあひに」、その他の例がある。「行相の早稲を」は、往還ばたに作ってある早稲を。○苅る時になりにけらしも 刈り取る時節となってきたのだろう。○芽子の花咲く その時節を知らせる萩の花が咲くの意。
【釈】 娘子らに行き違うにちなむ、往還ばたに作ってある早稲を、刈る時になったのであろう。その頃のものである萩の花が咲いている。
【評】 これは庶民の歌で、年々、萩の花の咲くのを暦代わりにして、行相の早稲を刈っている人の、今年もその時となったと、ある感慨をもっていっているものである。農耕の上での時期を、自然界の現象によって知ることは、現在もある程度行なわれていることである。生活の実際に即した歌で、職業歌の範囲のものである。枕詞が美しい。
2118 朝霧《あさぎり》の たなびく小野《をの》の 芽子《はぎ》の花《はな》 今《いま》か散《ち》るらむ いまだ飽《あ》かなくに
朝霧之 棚引小野之 芽子花 今哉散濫 未※[厭のがんだれなし]尓
【語釈】 ○朝霧のたなびく小野の 「朝霧」は、秋は常に立つもの。「小」は接頭語。○今か散るらむ 「か」は疑問の係。「散るらむ」は、現在の推量。
【釈】 朝霧のたなびいている野の萩の花は、今は散っているであろうか。まだ見飽かないことであるのに。
【評】 朝霧の籠めている中に萩の花の散っていることを想像して、愛情を寄せている歌である。気分を主とした作であるが、「いまだ飽かなくに」と実感を基礎としているので、空疎な感はない。
(486)2119 恋《こひ》しくは 形見《かたみ》にせよと 吾《わ》が背子《せこ》が 植《う》ゑし秋芽子《あきはぎ》 花《はな》咲《さ》きにけり
戀之久者 形見尓爲与登 吾背子我 殖之秋芽子 花咲尓家里
【語釈】 ○恋しくは形見にせよと 我を恋しく思ったならば、身代わりとして見よといって。○花咲きにけり 花が咲いたことだで、「けり」は、詠歎。
【釈】 我を恋しく思ったらば、これを形見として見よといって、わが夫が植えた秋萩が、花が咲いたことである。
【評】 夫を遠い旅にやって、家に残っている妻の心である。夫が恋しかったら形見に見よといった萩が、花が咲いたといって、恋の極まりを暗示しているものである。相聞の歌である。
2120 秋芽子《あきはぎ》に 恋《こひ》尽《つく》さじと 念《おも》へども しゑや惜《あたら》し また逢《あ》はめやも
秋芽子 戀不盡跡 雖念 恩惠也安多良思 又將相八方
【語釈】 ○秋芽子に恋尽さじと 萩のために、恋の悩みをしまいとで、そうしたことを恥と感じる心である。○しゑや惜し 「しゑや」は、間投詞で、巻四(六五九)、上の(一九二六)に出た。ああ。「惜し」は、惜しむべくあるの意。○また逢はめやも 再び今年のこの花に逢おうか、逢いはしないで、「や」は、反語。
【釈】 萩の花のために、恋の悩みはしまいと思うけれども、ああ、惜しいことだ。この花にまた逢おうか、違いはしない。
【評】 盛りの萩の花の美観に対して、限りなき愛惜を感じながら、同時にそれを心外に感じる、当時の大夫振りの心である。「恋尽さじと」と否定し、「しゑや惜し」と、愛惜を肯定し、「また逢はめやも」とさらにその心を支持しているのである。耽美気分を斥けようとして斥けられない心が、屈折をもち、熱意をもった強い調べでいわれているのである。奈良朝時代の気分と作者の個性とのもつれ合ったおもしろい作である。
2121 秋風《あきかぜ》は 日《ひ》にけに吹《ふ》きぬ 高円《たかまと》の 野辺《のべ》の秋芽子《あきはぎ》 散《ち》らまく惜《を》しも
秋風者 日異吹奴 高圓之 野邊之秋芽子 散卷惜裳
(487)【語釈】 ○日にけに吹きぬ 「日にけに」は、日にことにで、日増しに強く。
【釈】 秋風は日増しに強く吹いた。高円の野の萩の花の散ることの惜しさよ。
【評】 高円の野は、代表的の遊楽の地であった。そこの萩の散っていることを思いやっての心で、実際に即しているので、淡いながら一応の味わいはある。
2122 大夫《ますらを》の 心《こころ》は無《な》くて 秋芽子《あきはぎ》の 恋《こひ》のみにやも なづみてありなむ
大夫之 心者無而 秋芽子之 戀耳八方 奈積而有南
【語釈】 ○大夫の心は無くて 「大夫」は、思慮があり、勇気があって、実行を重んずる男子の称で、上代の理想。この作者もそれをもって任じているのである。大夫の心を失って。○秋芽子の恋のみにやも 「恋」は、上の「恋尽さじと」のそれと同じ。「や」は、疑問の係助詞で、反語。○なづみてありなむ 「なづむ」は、停滞するで、実行の反対。「ありなむ」は、「やも」の結びで、停滞しているべきであろうか、あるべきではない。
【釈】 大夫の心を失って、萩の花に対する恋にばかり停滞しているべきであろうか、いるべきではない。
【評】 萩の花に溺れている男が、あるとき自身の状態に反省を加えて、大夫である我がこんな状態であるべきではないと、自責した心である。しかし余意として、自責は自責のみに終わったことを示しているもので、それがこの歌の味わいとなっている。心は二首前の「秋芽子に恋尽さじ」と同じである。
2123 吾《わ》が待《ま》ちし 秋《あき》は来《きた》りぬ 然《しか》れども 芽子《はぎ》の花《はな》ぞも 未《いま》だ咲《さ》かずける
吾待之 秋者來奴 雖然 芽子之花曾毛 未開家類
【語釈】 ○芽子の花ぞも 「ぞも」は、「ぞ」は係で、「も」は、詠歎。○未だ咲かずける 「咲かず」の「ず」は、連用形で、ただちに「けり」の助動詞に続くのは古格である。「ける」は結。
【釈】 わが待っていた秋は来た。けれども、萩の花はまだ咲かないことである。
(488)【評】 単純をきわめた歌である。詠み方も古風である。「然れども」は他にも用例のあるもので、特殊な語ではなかった。
2124 見《み》まく欲《ほ》り 吾《わ》が待《ま》ち恋《こ》ひし 秋芽子《あきはぎ》は 枝《えだ》もしみみに 花《はな》咲《さ》きにけり
欲見 吾待戀之 秋芽子者 枝毛思美三荷 花開二家里
【語釈】 ○枝もしみみに 「枝も」の「も」は、詠歎。「しみみに」は、繁くの意の副詞。巻三(四六〇)に出た。
【釈】 見たいものに思って吾が待っていた秋萩は、枝に繁く花の咲いたことだ。
【評】 萩の花を初めて見い出だした時の喜びである。「見まく欲り」以下の叙述と調べは、一にその喜びの具象である。
2125 春日野《かすがの》の 芽子《はぎ》し散《ち》りなば 朝東風《あさごち》の 風《かぜ》に副《たぐ》ひて ここに散《ち》り来《こ》ね
春日野之 芽子落者 朝東 風尓副而 此間尓落來根
【語釈】 ○朝東風の風に副ひて 「東風《こち》」は、東風の称。「朝東風」は、朝の東風。「風に副ひて」は、風に伴って一緒に。○ここに散り来ね 「ここ」は、春日野の西方にある地で、佐保辺りである。「ね」は、願望の助詞。
【釈】 春日野の萩が散ったならば、朝の東風に伴って、ここに散って来てくれよ。
【評】 佐保辺りに住んでいる人が、春日野の萩の散るのを思いやって惜しんだ心である。「朝東風の」以下は、その惜しむ心を気分化したもので、したがって誇張の伴っているものであるが、細かい用意と静かな明るい調べでいっているので、わざとらしさの目立たないものとなっている。気分より発した技巧だからである。
2126 秋芽子《あきはぎ》は 雁《かり》に逢《あ》はじと 言《い》へればか【一に云ふ、言へれかも】 声《こゑ》を聞《き》きては 花《はな》に散《ち》りぬる
秋芽子者 於鴈不相常 言有者香【一云、言有可聞】 音乎聞而者 花尓散去流
【語釈】 ○雁に逢はじと言へればか 雁には逢うまいといっているからなのかで、「か」は疑問の係。一見、突飛にみえる語であるが、「逢ふ」は(489)男女相逢うをあらわす語で、雁を男、萩を女と見てのもので、雁の来る頃には萩は散るところからの例の情趣的な解である。○一に云ふ、言えれかも いえればかもで、「も」の詠歎の添っている点が異なっているだけである。○声を聞きては花に散りぬる 「声」は、雁の声。「花に」は、花として散ったことだで、「ぬる」は結。「花」は「実」に対する語で、実すなわち関係を結ばずしての意がある。
【釈】 萩は雁には逢うまいといっているからなのか、雁の声を聞くと、花として散って行く。
【評】 雁の鳴く頃に萩の花の散るのを、それに解を加えた歌である。重点を置いているのはその解で、相応に複雑したものであるが、言い方はじつにあっさりとしていて、ともすると見落としそうなまで微かな言い方である。これはいおうとする事自体が気分で、それに似合わしい敝かな言い方をしないと生きて来ない性質のものだからである。新傾向に徹した形をもった歌である。
2127 秋《あき》さらば 妹《いも》に見《み》せむと 植《う》ゑし芽子《はぎ》 露霜《つゆじも》負《お》ひて 散《ち》りにけるかも
秋去者 妹令視跡 殖之芽子 露霜負而 散來毳
【語釈】 ○霧霜負ひて 「露霜」は、みずしもで、それを負つてで、萩の花を主とした言い方。
【釈】 秋になると、妹に見せようと思って植えた萩は、水霜を負って、散ってしまったことである。
【評】 事は明らかである。妹は萩の花を見ず、その萩の花は水霜を負って散ってしまったというので、この花は妹に気分のつながりのあるものとみえる。妹は故人となったのを、萩に寄せて気分として詠んだものとみえる。それだと新しい挽歌である。
雁を詠める
2128 秋風《あきかぜ》に 大和《やまと》へ越《こ》ゆる 雁《かり》がねは いや遠《とほ》ざかる 雲隠《くもがく》りつつ
秋風尓 山跡部越 雁鳴者 射失速放 雲隱筒
【語釈】 ○大和へ越ゆる 大和へ向かって山を越えるで、難波辺りなどにいてのこと。
【釈】 秋風の空を、大和国のほうへ山を越えてゆく雁は、ますます遠ざかってゆく。雲に隠れながら。
(490)【評】 大和のほうへ向かって、山を越えて飛んでゆく雁を、雲隠れの声になるまでも見送っているのである。旅愁のさせることであるが、それには直接には触れていっていない。素朴な形であるが、旅愁を気分としてあらわそうとしているものである。新風の範囲の歌である。
2129 明闇《あけぐれ》の 朝霧隠《あさぎりがく》り 鳴《な》きて行《ゆ》く 雁《かり》は吾《わ》が恋《こひ》 妹《いも》に告《つ》げこそ
明闇之 朝霧隱 鳴而去 鴈者言戀 於妹告社
【語釈】 ○明闇の朝霧隠り 「明闇」は、明け方の暗さの称、夕暗に対する語。「隠り」は、隠れて。○雁は吾が恋 原文「鴈者言恋」の「言」は元暦校本に「吾」とあるが、「言」のままで「われ」と訓める字で、巻十一(二五三三・二五三四)などに用例がある。「雁」は、使をする鳥とされていた。「吾が恋」は、妹に対しての恋。○妹に告げこそ 「こそ」は、願望の助詞。
【釈】 明け方の闇い時の朝霧に隠れて飛んで行く雁は、吾が恋うていることを、妹に告げてくれ。
【評】 旅にあって、故郷の妻を恋うている心のものである。「明闇の朝霧隠り」は、実景としていっているものであるが、朝の目覚め時は、夕暮と並んで最も妻を思わせられる時であるのと相俟って、景そのものが気分となりうるものである。雁に伝言を頼むのも自然である。冴えた味わいはないが、行き届いた旅愁である。
2130 吾《わ》が屋戸《やど》に 鳴《な》きし雁《かり》がね 雲《くも》の上《うへ》に 今夜《こよひ》鳴《な》くなり 国《くに》へかも行《ゆ》く
吾星戸尓 鳴之雁哭 雲上尓 今夜喧成 國方可聞遊群
【語釈】 ○国へかも行く 「国」は、作者の国と取れる。「かも」は、疑問の係。国を雁の棲息地とすると、春の帰雁で、「かも」は不自然となり、また途中で停滞していることも、同じく不自然だからである。
【釈】 わが家の辺りで鳴いた雁が、雲の上で今夜は鳴いている。わが故郷のほうへ行くのであろうか。
【評】 作者は遠い旅にいる人で、夜、空高く鳴いて飛ぶ雁を聞いた時の歌である。その雁を聞くと、あれは前に家の辺りに下りて鳴いていた雁と同じだと思い、その雁はわれに伝言でもありはしないかと寄って来た雁ででもあったかのように思い、そして今空高く、遠くへ飛ぶ態勢を取っている雁を、その延長から、わが故郷のほうへ行くのだろうかと思いやったとみえる。(491)穿ちすぎた解のようであるが、事として説明せず、事に伴う気分のみをいおうとする傾向の歌を詠む時代とて、このような心よりのものではないかと取れる。文字面からだけ見ると、取りとめのない感のする歌であるが、そうした歌ではなかろうかと思われるからである。
2131 さを鹿《》しかの 妻問《つまど》ふ時《とき》に 月《つき》をよみ 雁《かり》がね聞《きこ》ゆ 今《いま》し来《く》らしも
左小壯鹿之 妻問時尓 月乎吉三 切木四之泣所聞 今時來等霜
【釈】 ○さを鹿の妻問ふ時に 「妻問ふ」は、男鹿の鳴き声によっているものと取れる。○月をよみ 「よみ」は、良いゆえにで、明るいので。○雁がね聞ゆ 「切木四」を「かり」と訓むことは巻六(九四八)に述べた。
【釈】 牡鹿が妻問いをする鳴き声の聞こえる時に、月が明るいので、雁の鳴くのが聞こえる。今来るのであろう。
【評】 秋の、月の明るい夜、地には牡鹿の鳴く声が聞こえ、空には遠く雁の声のするのを聞いて、初雁が来るのだろうと推量したのである。月光と声だけの世界で、その声はいずれも哀切味のあるものである。景そのものがすでに気分になっている。景を叙するだけで満足が出来たものと思われる。
2132 天雲《あまぐも》の 外《よそ》に雁《かりがね》 聞《き》きしより はだれ霜《じも》降《ふ》り 寒《さむ》しこの夜《よ》は
天雲之 外鴈鳴 從聞之 薄垂霜零 寒此夜者
【語釈】 ○天雲の外に 「外に」は、遙かなところで、天雲の遙かな空に。○はだれ霜降り 「はだれ」は巻八(一四二〇)に既出。「はだれ霜」は、まだらに置く霜で、薄霜。「降り」は、置くを言いかえたもの。感としてである。
【釈】 天雲の遙かな空に雁の声を聞いてから、薄霜が降って、寒いことだ、今夜は。
【評】 秋の一夜、にわかに冷気の襲って来た感をいったものである。遠く鳴く雁の声に続いて、薄白く霜が見えて来て、寒さが迫って来るのを、感を主として叙したものである。感の伝わり来るところのある歌である。
一に云ふ、いや益々《ますます》に 恋《こひ》こそ増《まさ》れ
(492) 一云、弥益々尓 戀許曾増焉
【解】 四、五句の別伝である。本文の緊張した感のないものである。他の人の作りかえたものとみえる。
2133 秋《あき》の田《た》の 吾《わ》が苅《か》りばかの 過《す》ぎぬれば 雁《かり》が音《ね》聞《きこ》ゆ 冬《ふゆ》片設《かたま》けて
秋田 吾苅婆可能 過去者 鴈之喧所聞 冬方設而
【語釈】 ○吾が苅りばかの過ぎぬれば 「吾が苅りばか」は、稲刈りの、その受持と定められている土地の範囲で、言いかえると稲刈り仕事。「吾が」を添えているのは、部落で組合を作って仕事をしたところから、受持の範囲がきまっていたからのこととみえる。「過ぎぬれば」は、終わると。上代は稲はそのままに貯えていたので、稲刈は最終の仕事であった。○冬片設けて 「片設く」は巻二(一九一)、上の(一八五四)に既出。冬がどうやらそのさまをあらわして、冬が近づいてきての意。
【釈】 秋の田の刈り取りの、吾が受持の範囲のことが終わると、雁の鳴いて来る声が聞こえる。どうやら冬のさまになって。
【評】 農業をしている人の、一年間の仕事の最後のものである稲刈り仕事を終わった後の気分である。喜びとか安心とかいうまとまった気分ではなく、ほっとした気分になると、おりから雁の渡って来る鳴き声が聞こえ、辺りを見ると、どうやら冬のさまをあらわしているというのである。察しられる気分である。農民自身の歌ではなく、取材として扱ったものであろう。
2134 葦辺《あしべ》なる 荻《をぎ》の葉《は》さやぎ 秋風《あきかぜ》の 吹《ふ》き来《く》るなへに 雁《かり》鳴《な》き渡《わた》る
葦邊在 荻之葉左夜藝 秋風之 吹來苗丹 鴈鳴渡
【語釈】 ○葦辺なる萩の葉さやぎ 葦の側にある荻の葉が、騒がしく鳴って。葦も荻も水辺のもので、難波辺りの景。○吹き来るなへに 「なへに」は巻一(五〇)、上の(一八二一)に出た。
【釈】 葦の側にある荻の葉が騒がしく鳴って、秋風が吹いて来るとともに、雁が鳴いて行く。
【評】 難波辺りの水辺の興趣を、そのままに詠んだ形のものである。「荻の葉さやぎ」は、葦の葉よりも荻の葉のほうが音が騒がしいからで、細かい感じ方である。「雁鳴き渡る」は、それとは反対に広い景で、対照によって全体をあらわしている。(493)気分を主にした歌である。
一に云ふ、秋風《あきかぜ》に 鴈《かり》が音《ね》聞《きこ》ゆ 今《いま》し来《く》らしも
一云、秋風尓 鴈音所聞 今四來霜
【解】三句以下の別伝である。「今し来らしも」は、初雁が今来たのであろうである。本文のほうは、一首の統一感が強く、それが味わいをなしているのであるが、別伝のものはその統一感がなく、散漫なものとなっている。平面的に羅列した趣のものだからである。甚しく劣っている。
2135 押照《おして》る 難波堀江《なにはほりえ》の 葦辺《あしべ》には 雁《かり》宿《ね》たるらむ 霜《しも》の降《ふ》らくに
押照 難波穿江之 葦邊者 鴈宿有疑 霜乃零尓
【語釈】 ○押照る難波堀江の 「押照る」は、難波の枕詞。「難波堀江」は、難波にある堀江で、河水を海に疏通させる水路。今の天満川かという。○雁宿たるらむ 「らむ」は、原文「疑」。旧訓「かも」とあるのを『全註釈』は「らむ」と改めている。巻十二(三二一三)「君之|行疑《ユクラム》宿可|借疑《カルラム》」の用例によってである。○霜の降らくに 「降らく」は、降るの名詞形。意を強めたもの。「に」は、詠歎。
【釈】 難波の堀江の岸の葦の辺りには、雁が寐ていることであろう。霜が降ることなのに。
【評】 秋の夜寒の頃、難波に旅寝をしている奈良京の人の歌と取れる。侘びしい心から雁を想像して憐れんでいるのである。自身を詠み生かし得ている歌である。
2136 秋風《あきかぜ》に 山《やま》飛《と》び越《こ》ゆる 雁《かり》がねの 声《こゑ》遠《とほ》ざかる 雲隠《くもがく》るらし
秋風尓 山飛越 鴈鳴之 聲遠離 雲隱良思
【語釈】○雲隠るらし 雲に隠れるのであろうで、この雲は、山の上の空にかかっているものである。
【釈】 秋風に山を飛び越えてゆく雁の、その声が遠ざかって行く。雲に隠れるのであろう。
(494)【評】 雁が山の上を飛んでゆくさまを見送り、耳を澄まして鳴き声を追って、その微かになったのを、雲に隠れたからであろうと推量した心である。このように雁に心を寄せているのは、郷愁の心からで、山は故郷の方角にあるものと取れる。事としていわず、気分としてあらわそうとしている歌である。
2137 朝《あさ》に行《ゆ》く 雁《かり》の鳴《な》く音《ね》は 吾《わ》が如《ごと》く 物《もの》念《おも》へかも 声《こゑ》の悲《かな》しき
朝尓徃 鴈之鳴音者 如吾 物念可毛 聲之悲
【語釈】 ○朝に行く 用例のない語つづきである。朝を鳴き行くで、朝は恋の思いの多い時とされていた。○吾が如く物念へかも 「かも」は、疑問の条件法。われのごとく嘆きをしているからであろうか、そのために。
【釈】 朝を鳴いて行く雁は、われのように物思いをしているのであろうか。声の悲しいことであるよ。
【評】 旅にあって郷愁を感じている人の、朝の目覚めに雁の鳴いてゆく声を聞いての感である。朝は恋の思いの多い時だとして、それを背後に、自身の実感としていっているのである。物思いの内容を割っていわない所に作意がある。
2138 鶴《たづ》が音《ね》の 今朝《けさ》鳴《な》くなへに 雁《かり》がねは 何処《いづく》指《さ》してか 雲隠《くもがく》るらむ
多頭我鳴乃 今朝鳴奈倍尓 鴈鳴者 何處指香 雲隱良武
【語釈】 ○鶴が昔の 鶴の音であるが、鶴の意でいっているもの。「雁がね」は、雁と同様である。
【釈】 鶴が今朝鳴くのに伴って、雁はどこを目ざして、雲に隠れて飛び行くのであろうか。
【評】 難波辺りの水辺の作で、光景のめずらしさから詠んだものであろう。鶴も雁も声だけである。朝凪ぎの海での近く遠い声は、一種の気分となって来たとみえる。
2139 ぬば玉《たま》の 夜《よ》渡《わた》る雁《かり》は おほほしく 幾夜《いくよ》を経《へ》てか 己《おの》が名《な》を告《の》る
野干玉之 夜渡雁者 欝 幾夜乎歴而鹿 己名乎告
(495)【語釈】 ○ぬば玉の夜渡る雁は 「ぬば玉の」は、夜の枕詞。「夜渡る雁は」は、夜空を行く雁はで、これは姿は見えず、鳴き声によって所在の知れるもの。○おほほしく (一九〇九)に出た。はっきりしない意の形容詞で、上を承けてその感じをいったもの。○幾夜を経てか己が名を告る 「幾夜を経てか」は、幾夜を飛び続けたならばで、「か」は、疑問の係。「己が名を告る」は、雁は「かり、かり」と自分の名を名告る鳥だとされているので、自分の名を名告る、すなわちはっきりと鳴くのかの意。
【釈】 夜空を行く雁は、覚束なく、それともしれないのに、幾夜を飛び続けたら、自分の名を名告って鳴くのか。
【評】 人が夜空を声を立てずに飛ぶ雁に向かって、もどかしがって鳴けよと促した形の歌である。しかし作意は譬喩歌で、女が求婚する男に問いかけたものである。雁は男で、女の家の辺りへ幾夜か来て立っているが、名告りをしないので、誰ともしれないとして女が問うたのである。譬喩としては巧みである。
2140 あらたまの 年《とし》の経行《へゆ》けば あどもふと 夜渡《よわた》る吾を 問《と》ふ人《ひと》や誰《たれ》
璞 年之經徃者 阿跡念登 夜渡吾乎 問人哉誰
【語釈】 ○あらたまの年の経行けば 「あらたまの」は、年の枕詞。「年の経行けば」は、「行けば」は「行くに」と同意語で、並用されていたもの。幾年も住んでいるのにと、雁が自身をいったもの。○あどもふと 「あど」は、何とで、なんと思っているのかと。「あどもふ」は、率いる意もあるが、それとは別である。○夜渡る吾を 夜空を渡る吾をと、雁が自身をいっているもの。○問ふ人や誰 「や」は疑問の係。「誰」は、たれなのであるか。
【釈】 幾年もここに住んでいるのに、何と思ってのことかと、夜渡る吾を尋ねる人はたれなのであるか。
【評】 上の女の問に対して男の答えた歌である。雁としてであって、「あらたまの年の経行けば」は、多年の馴染であるから、雁すなわちわが心は知っているはずであるとしてで、「あらたまの」は、「ぬばたまの」に対させたもの。「夜渡る吾を」は、問の歌の語をそのまま取って、夜々ここへ来る吾をで、「問ふ人や誰」は、いまさらいぶかり尋ねるのは恨みであるの意である。これも雁として、問の歌に即しつつ、問われたのをただちに恨みかえしているという、譬喩としては巧みなものである。問答歌で、手腕ある作者の興味より作ったものである。
鹿鳴《しか》を詠める
2141 この頃《ごろ》の 秋《あき》の朝明《あさけ》に 霧隠《きりがく》り 妻《つま》呼《よ》ぶ雄鹿《しか》の 声《こゑ》の亮《さや》けさ
(496) 比日之 秋朝開尓 霧隱 妻呼雄鹿之 音之亮左
【語釈】 ○声の亮けさ 「亮けさ」は、はっきりしていることよで、よく透る意。
【釈】 この頃の秋の朝明けに、霧に隠れて妻を呼んでいる牡鹿の声のよく透ることよ。
【評】 秋の野の、季節のものとして立つ朝霧の中から聞こえて来る牡鹿の鳴き声の、はっきりとよく透る声をいっているものである。そこにあるものは朝霧と鹿の声とだけで、それもある距離をもったものである。対象がおのずから気分となっているのである。「この頃の」と連続してのこととしているのも、気分におちつきを与えている。
2142 さを鹿《しか》の 妻《つま》整《ととの》ふと 鳴《な》く声《こゑ》の 至《いた》らむ極《きは》み 靡《なび》け芽子原《はぎはら》
左男壯鹿之 妻整登 鳴音之 將至極 靡芽子原
【語釈】 ○妻整ふと 「妻」は、萩の花をさしている。「整ふ」は、散乱しているものを統一する意で、多くの妻を一つ心にならせること。多妻時代の心である。巻三(二三八)「網子調ふる」の用例がある。○鳴く声の至らむ極み 鳴く声が届く果てまで。○靡け芽子原 従え、萩原よとの命令。「芽子原」は、整えられる妻である。
【釈】 牡鹿が、心離れている妻を取り鎮めようとして鳴く声の届く限りはそれに従えよ、萩原よ。
【評】 萩原に鳴いている牡鹿の声を聞いて起こした気分である。萩は終わりに近く、しきりに花が散りこぼれているのと、多妻時代の心とから、その声を妻を整える声だと聞いたのであろう。「至らむ極み靡け芽子原」は、この気分を進展させたものである。萩原は気分化されて、美しいものとなって現われている。
2143 君《きみ》に恋《こ》ひ うらぶれ居《を》れば 敷《しき》の野《の》の 秋芽子《あきはぎ》凌《しの》ぎ さを鹿《しか》鳴《な》くも
於君戀 裏觸居者 敷野之 秋芽子凌 左小壯鹿鳴裳
【語釈】 ○君に恋ひうらぶれ居れば 「君」は、女より男をさしての称。「うらぶれ」は、憂えしおれて。○敷の野の秋芽子凌ぎ 「敷の野」は、奈良県磯城郡の辺りの野かというが「敷」の「き」は甲類、「磯城」の「城」は乙類で疑問があるとされている。「凌ぎ」は、押分けて。○さを鹿鳴くも 牡鹿が妻を恋うて啼いているよで、女とは反対の状態。
(497)【釈】 君を恋うて憂えしおれていると、敷の野の萩の花を押し分けて、牡鹿はその妻恋いをして啼いているよ。
【評】 夫を恋うている女が、住んでいる敷の野を見ると、自分とは反対に、牡鹿がその妻を恋うてさまよい鳴いているというのである。無論女は感傷を深められたであろうが、それには触れず、目に見たことの叙述にとどめているのである。気分そのままをあらわそうとする態度からのことである。
2144 雁《かり》は来《き》ぬ 芽子《はぎ》は散《ち》りぬと さを鹿《しか》の 鳴《な》くなる声《こゑ》も うらぶれにけり
鴈來 芽子者散跡 左小壯鹿之 鳴成音毛 裏觸丹來
【語釈】 ○雁は来ぬ芽子は散りぬと 雁が来ると萩は散るといわれているので、その関係で続けたもの。芽子は牡鹿の妻である。
【釈】 雁が来た、萩が散ったと牡鹿の鳴くところの声が、憂えしおれて来たことだ。
【評】 単純な形の歌であるが、恋のあわれを通じて、時の推移するさみしい気分が現われている。
2145 秋芽子《あきはぎ》の 恋《こひ》も尽《つ》きねば さを鹿《しか》の 声《こゑ》い継《つ》ぎい継《つ》ぎ 恋《こ》ひこそ益《まさ》れ
秋芽子之 戀裳不盡者 左牡鹿之 聲伊續伊繼 戀許増益焉
【語釈】 ○秋芽子の恋も尽きねば 萩の花に対してのわが恋も尽きないのに。○さを鹿の声い継ぎい継ぎ 「い継ぎ」は、「い」は、接頭語で、牡鹿が鳴く声が続き続きして。牡鹿の鳴くのは、妻としての萩の花が失せたからである。○恋ひこそ益れ 牡鹿の声に刺激されてわが恋が増さって来る。
【釈】 萩の花に対するわが恋が尽きないのに、牡鹿もその妻である萩の散り失せたのを悲しんで、声を続け続け鳴くので、わが恋は増さって来ることだ。
【評】 萩の花の散り過ぎた頃の心である。自身の恋を主としたものであるが、牡鹿が妻として追慕して悲しみ鳴くと、それに刺激されてますます恋が増さるという、その気分のつながりに中心を置いた歌である。「声い継ぎい継ぎ恋ひこそ」という語続きは巧みである。
(498)2146 山《やま》近《ちか》く 家《いへ》や居《を》るべき さを鹿《しか》の 声《こゑ》を聞《き》きつつ 宿《い》ねかてぬかも
山近 家哉可居 左小壯鹿乃 音乎聞乍 宿不勝鴨
【語釈】 ○家や居るべき 「家居る」は、熟語で、住む意。「や」は、係で、反語。○宿ねかてぬかも 「かてぬかも」は巻二(九八)に既出。
【釈】 山近くに住むべきであろうか、住むべきではない。牡鹿の妻恋いをする声を聞き続けて、夜も熟睡の出来かねることであるよ。
【評】 牡鹿の声に刺激されて、夜も眠れないというのである。詠み方が素朴なので、実感と思わせる歌である。
2147 山《やま》の辺《べ》に いゆく猟夫《さつを》は 多《おほ》かれど 山《やま》にも野《の》にも さを鹿《しか》鳴《な》くも
山邊尓 射去薩雄者 雖大有 山尓文野尓文 沙小壯鹿鳴母
【語釈】 ○いゆく猟夫は多かれど 「いゆく」は、「い」は、接頭語。「猟夫」は、猟師。
【釈】 山のほうに入って行くと猟夫は多くあるけれども、山にも野にも、牡鹿は妻恋いをして鳴いている。
【評】 恋に鳴く牡鹿を隣れむ心であるが、そこまでは立ち入らず、広くその周辺だけを叙している歌である。広くいっているので、憐れみが生きている。
2148 あしひきの 山《やま》より来《き》せば さを鹿《しか》の 妻《つま》呼《よ》ぶ声《こゑ》を 聞《き》かましものを
足日木笶 山從來世波 左小壯鹿之 妻呼音 聞益物乎
【語釈】 ○山より来せば 「山より」は、山の路から。「来せば」は、「せ」は、過去の助動詞「き」の未然形で、古くは存して今は行なわれないものである。来たならばの意。仮設で、下の「まし」に呼応する。作者はある平地から平地へと来たのであるが、そこへ来るには、平地続きの路と山越えの道とあって、作者は平地続きの路のほうを来たのである。
【釈】 山路のほうから来たならば、山で牡鹿の妻を呼ぶ声を聞いたであろうものを。
(499)【評】 極度に日常生活に即した歌で、詠み方も素朴単純である。いかにあわれを愛していたかの実情の窺われる歌である。軽いものながら味わいがある。
2149 山辺《やまべ》には 猟夫《さつを》のねらひ 恐《かしこ》けど 牡鹿《をじか》鳴《な》くなり 妻《つま》の眼《め》を欲《ほ》り
山邊庭 薩雄乃祢良比 恐跡 小壯鹿鳴成 妻之眼乎欲焉
【語釈】 ○猟夫のねらひ恐けど 「ねらひ」は、射ち取ろうとしての狙い。「恐けど」は、恐いけれどの古格。恐ろしくあるけれども。○妻の眼を欲り 妻に逢いたくて。「妻」は牝鹿。「眼を欲り」は、相手の見てくれることが欲しくてで、逢いたいということを、相手の方を主としていう語。
【釈】 山辺では、猟師の射ち取ろうとしての狙いが恐ろしいけれども、牡鹿は鳴いていることだ。牝鹿が見たくて。
【評】 上の「山の辺に」の歌と同じく恋のあわれである。牡鹿に男性の心を移入して、広く拡がりをもたせた歌である。
2150 秋芽子《あきはぎ》の 散《ち》りゆく見《み》れば おほほしみ 妻恋《つまごひ》すらし さを鹿《しか》鳴《な》くも
秋芽子之 散去見 欝三 妻戀爲良思 棹壯鹿鳴母
【語釈】 ○散りゆく見れば 「散りゆく」は、原文「散去」。訓はさまざまである。『古義』の訓。○おほほしみ 心が結ばれるので。
【釈】 萩の花の散ってゆくのを見ると、悲しさに心が結ぼれて、妻恋をするのであろう。牡鹿が鳴くことよ。
【評】 萩の花の散る頃、牡鹿の鳴くのを聞いての気分である。「おほほしみ妻恋すらし」は、作者の気分の移入であるが、悲しみが妻恋をさせるというので、妻恋の心理に触れているものである。妻恋を若い心よりの享楽と見ず、悲しい心より相寄り合おうとする心としているのである。これは個人的な心情ではなかったろうと思われる。
2151 山《やま》遠《とほ》き 京《みやこ》にしあれば さを鹿《しか》の 妻《つま》呼《よ》ぶ声《こゑ》は 乏《とも》しくもあるか
山遠 京尓之有者 狭小壯鹿之 妻呼音者 乏毛有香
(500)【語釈】 ○京にしあれば 「京」は、皇居のある所。「し」は、強意。「あれば」は、居るので。○乏しくもあるか 「乏し」はここは少ない意。「か」は、詠歎。
【釈】 山に遠い京に住んでいるので、牡鹿が妻を呼ぶ声は、少ないことであるよ。
【評】 「山遠き京」は、難波宮であろう。「さを鹿の妻呼ぶ声」の少ないのをさみしく思う心である。こうしたあわれが、日常生活の必要物に近いもののごとくなっていたとみえる。
2152 秋芽子《あきはぎ》の 散《ち》り過《す》ぎゆかば さを鹿《しか》は わび鳴《なき》せむな 見《み》ねば乏《とも》しみ
秋芽子之 散過去者 左小壯鹿者 和備鳴將爲名 不見者乏焉
【語釈】 ○わび鳴せむな 「わび鳴」は、熟語。わびしさに鳴く意で、「な」は、感動の助詞。○見ねば乏しみ 「見ねば」は、妻としての萩を見ないと。「乏しみ」は、乏しきにで、乏しいものは見たいところから、見たさにの意でいっているもの。
【釈】 萩の花が散り失せてしまったならば、牡鹿は侘びしさに鳴くのであろうよ。妻としての萩を見ないと、見たさに。
【評】 萩の花が散りつくしてしまった後の牡鹿の心を思いやった心である。その物が存在しなくなると、一段とその物を見たくなるという、人間の心理を移入しての憐れみである。作者自身の気分とつながりをもっての憐れみであろう。
2153 秋芽子《あきはぎ》の 咲《さ》きたる野辺《のべ》は さを鹿《しか》ぞ 露《つゆ》を別《わ》けつつ 嬬問《つまどひ》しける
秋芽子之 咲有野邊者 左少壮鹿曾 露乎別乍 嬬問四家類
【語釈】 ○咲きたる野辺は 旧訓「さけるのべには」。『代匠記』の訓。咲いているこの野には。○露を別けつつ嬬問しける 露を踏み分け踏み分け、嬬問をしたことであるよで、「ける」は、上の「ぞ」の結。
【釈】 秋萩の花の咲いている野には、牡鹿が、露を踏み分けながら嬬問をしたことであるよ。
【評】 夕方、露の繁く置いている頃、牡鹿が、萩の花の咲いている野へ向かって歩いて行くのを見送っている心である。秋萩の花を牡鹿の妻とし、牡鹿は嬬問をしに行ったのだと見たのであるが、これは例の人間の気分の投入である。「咲きたる野辺は」と「は」で強調し、「露を別けつつ」と細かい描写をしているので、現実性が添い、それが同時に気分ともなっているので(501)ある。気分本位の歌であるが、現実性があるために厭味に陥らない。
2154 何《な》ぞ牡鹿《しか》の わび鳴《なき》すなる げだしくも 秋野《あきの》の芽子《はぎ》や 繁《しげ》く散《ち》るらむ
奈何社鹿之 和備鳴爲成 蓋毛 秋野之芽子也 繁將落
【語釈】 ○何ぞ牡鹿のわび鳴すなる 「何ぞ」は、何とてで、「ぞ」は、係。「わび鳴」は、上に出た。「なる」は、「ぞ」の結。○けだしくも あるいはと推量する意。
【釈】 何だつて牡鹿はわび鳴をしているのであろうか。あるいは、秋の野の萩の花が繁く散っているのであろうか。
【評】 牡鹿の遠く鳴く鳴き声に哀音を感じての推量である。本来鹿の声は哀調を帯びているのを、周囲との関係から妻恋と聞き、わび鳴と聞きなすのであるが、それを事相そのもののごとく感じていたのが、こうした歌から感じられる。文芸的の心もまじってはいようが、きわめて少ない。時代相といえよう。
2155 秋芽子《あきはぎ》の 咲《さ》きたる野辺《のべ》に さを鹿《しか》は 散《ち》らまく惜《を》しみ 鳴《な》き行《ゆ》くものを
秋芽子之 開有野邊 左壯鹿者 落卷惜見 鳴去物乎
【語釈】 ○散らまく惜しみ鳴き行くものを 「散らまく」は、「散らむ」の名詞形。「ものを」は、感動。
【釈】 萩の花の咲いている野辺に、牡鹿は、その散ることを惜しんで、鳴いて行くことだ。
【評】 萩の花の咲いている野の方へ、鳴きながら行く牡鹿を見ての心である。心とは、あの鳴くのは、萩の花の散る時のあることを思ってのことだろうというのである。これは理とすればきわめて平凡なことであるが、気分とすると、深い愛があって初めて生まれて来るものである。この歌は気分のもので、それであればこそ、このような単純な詠み方をしているのである。奈良朝時代の、気分そのものを表現しようとする歌風の根柢に、こうした愛があって、単に技巧よりりものではなく、また文芸的理念よりのものでもなかったことが思われる。
2156あしひきの 山《やま》の常陰《とかげ》に 鳴《な》く鹿《しか》の 声《こゑ》聞《き》かすやも 山田《》守《やまだも》らす児《こ》
(502) 足日木乃 山之跡陰尓 鳴鹿之 聲聞爲八方 山田守酢兒
【語釈】 ○山の常陰に 「常陰」は、巻八(一四七〇)に出た。山の陰になる所の称。○声聞かすやも 「聞かす」は、聞くの敬語。相手が女ゆえのこと。「やも」は、疑問の助詞。○山田守らす児 「守らす」は、守るの敬語。「児」はここは女を親しんでの称で、呼びかけ。
【釈】 この山の常陰に鳴く牡鹿の声をお聞きになりますか。山田の番をしていられる児よ。
【評】 稲の熱する頃の山田の番をしている若い女に対して、男が呼びかけて問うた歌である。問うことは、この山の常陰に、妻恋をして鳴く牡鹿の声をお聞きになるかというので、これは表面は、秋のあわれを代表する、興趣深いものをなつかしむ心のもので、たれにでも問いうる性質のものであるが、裏面には、妻恋をして鳴く牡鹿に、男自身を絡ませ、懸想の心をほのめかしたものである。それが一首の余情となっている。相聞に近い心のものである。
蝉《せみ》を詠める
2157 暮影《ゆふかげ》に 来鳴《きな》く日《ひ》ぐらし 幾許《ここだく》も 日毎《ひごと》に聞《き》けど あかぬ声《こゑ》かも
暮影 來鳴日晩之 幾許 毎日聞跡 不足音可聞
【語釈】 ○暮影に来鳴く日ぐらし 「暮影」は、夕方の光で、夕方を、光に力点を置いての称。「日ぐらし」は、かなかな。詠歎をもっていっている。○幾許も 旧訓「ここだくの」。『考』の訓。「幾許」は、数の多くで、ここは鳴き声の分量であるから、たくさんとか、随分にとかいうにあたる。
【釈】 夕方の光の時に来て鳴く蜩よ。たくさんに、日ごとに聞いているけれども、飽かない声であるよ。
【評】 蜩の声を愛している心である。夕影の涼しい声は、この時代の気分にかないそうなものに思える。
蟋《こほろぎ》を詠める
【題意】 「蟋」は、蟋蟀と熟して用いられている。巻八(一五五二)に出た。今日のこおろぎと同じである。平安朝時代にはきりぎりすと称せられるようになった。
(503)2158 秋風《あきかぜ》の 寒《さむ》く吹《ふ》くなへ 吾《わ》が屋前《やど》の 浅茅《あさぢ》がもとに 蟋蟀《こほろぎ》鳴くも
秋風之 寒吹奈倍 吾屋前之 淺茅之本尓 蟋蟀鳴毛
【語釈】 略す。
【釈】 秋風が寒く吹いて来るのにつれて、わが家の庭の浅茅のもとで蟋蟀が鳴くよ。
【評】 秋の季節感を、蟋蟀によってあらわしている歌である。蟋蟀を秋風に吹かれて鳴くものとし、また浅茅のもとのものとして、条件を付けることによって感じをはっきりさせている。おちついた、気分の細かく働いた歌である。
2159 影草《かげくさ》の 生《お》ひたる屋外《やど》の 暮陰《ゆふかげ》に 鳴《な》く蟋蟀《こほろぎ》は 聞《き》けど飽《あ》かぬかも
影草乃 生有星外之 暮陰尓 鳴蟋蟀者 雖聞不足可聞
【語釈】 ○影草の生ひたる屋外の暮陰に 「影草」は、家の陰に生える雑草の称。「屋外」は、家の外、庭先。「暮陰」は、夕明り。
【釈】 影草が生えている庭先の夕明りに鳴いている蟋蟀は、聞いても飽かないことである。
【評】 これは蟋蟀の鳴いている場所へ立ち寄って、静かに聞き入っている心である。その居場所と時とを詳しくいっているのは、事相としてのものではなく、その環境が蟋蟀の声のもつ気分によく調和しているとしてであって、それがやがて蟋蟀の声の感じなのである。「聞けど飽かぬ」はその気分である。それにしても上の歌だけの気分はあらわれていない。
2160 庭草《にはくさ》に 村雨《むらさめ》ふりて 蟋蟀《こほろぎ》の 鳴《な》く声《こゑ》聞《き》けば 秋《あき》づきにけり
庭草尓 村雨落而 蟋蟀之 鳴音聞者 秋付尓家里
【語釈】 ○庭草に村雨ふりて 「村雨」は、一しきりづつ降る俄雨。○秋づきにけり 「秋づき」は、「づく」は名詞に続き、その名詞の状態をあらわす語で、熟して用いられる。秋らしくなる意。
【釈】 庭草の上に村雨が降って、鳴く蟋蟀の声を聞くと、秋らしくなったことだ。
(504)【評】 庭の上が急に秋らしくなって来たという季節感である。 蟋蟀の鳴くのはその草のもとである。軽い驚きの歌である。庭草の村雨に濡れた色に、秋を感じるのは、鋭敏だといえる。
蝦《かはづ》を詠める
2161 み吉野《よしの》の 石本《いはもと》さらず 鳴《な》く河蝦《かはづ》 うべも鳴きけり 河《かは》を清《さや》けみ
三吉野乃 石本不避 鳴川津 諾文鳴來 河乎淨
【語釈】 ○み吉野の石本さらず 「み吉野」は、吉野川。下で説明している。「石本」は、石の裾で、石は河中の物。旧訓。「きらず」は、「朝さらず」「夕さらず」などのそれと同じく、石本ごとに。○鳴く河蝦 鳴く河鹿よで、詠歎したもの。○うべも鳴きけり 「うべ」は、諾《うへな》う意の副詞で、もっともである。「けり」は、詠歎。○河を清けみ 「清けみ」は、清かであるゆえに。河鹿は清流でないと棲まないものである。
【釈】 吉野川の河中の石の裾ごとに鳴いている河鹿よ。鳴いているのももっともであるよ。河が清かなので。
【評】 秋、吉野川に鳴いている河鹿を愛でた心である。「石本さらず」といい、「河を清けみ」といって、その繁く、声の清らかなことをあらわしている。四、五句のあらさに実感が出ている。気分としきらないところに、生動が見られる。
2162 神名火《かむなび》の 山下《やました》響《とよ》み 行《ゆ》く水《みづ》に 河蝦《かはづ》鳴《な》くなり 秋《あき》と云《い》はむとや
神名火之 山下動 去水丹 川津鳴成 秋登將云鳥屋
【語釈】 ○神名火の山下響み 「神名火」は、どこであるか不明であるが、山裾を河の流れている関係から、飛鳥の神名火すなわち雷岳であろう。「山下響み」は、山の裾を響かせて。○行く水に 飛鳥川の流れに。○秋と云はむとや 秋が来たと告げ知らせようとしてであろうか。
【釈】 神名火の山の山裾を響かせて流れてゆく水に、河鹿が鳴いていることだ。秋が来たということを告げ知らせようとしてであろうか。
【評】 雷岳の裾で、飛鳥川の河鹿を聞いての感である。「秋と云はむとや」は、河鹿は秋のものだということが成立していたとみえる。河鹿は初夏から鳴くものであるが、そのさみしく澄んだ声から秋のものとしていたことは、この時代の季節感の根(505)拠を示しているものといえる。飛鳥川を神名火の裾で捉えているのも、結句に気分の絡みのあるものであろう。
2163 草枕《くさまくら》 旅《たび》に物念《ものも》ひ 吾《わ》が聞《き》けば 夕片設《ゆふかたま》けて 鳴《な》く河蝦《かはづ》かも
草枕 客尓物念 吾聞者 夕片設而 鳴川津可聞
【語釈】 ○旅に物念ひ吾が聞けば 「物念ひ」は、家恋しい嘆き。「聞けば」は、嘆きをして耳を澄ましておればの意。○夕片設けて 夕べになろうとして。巻二(一九一)及び上の(一八五四)(二一三三) に既出。
【釈】 旅にあって、家恋しい嘆きをして耳を澄ましていると、夕べにならうとして、鳴く河鹿であるよ。
【評】 旅にいて、旅愁の募る夕方、おりからの河鹿の声で、さらに募らせられた心である。それをいうに、概念的にはしまいとして、実際に即する形で気分としていっているのである。「旅に物念ひ吾が聞けば」は、事としては語続きに飛躍があるが、気分としては自然に続くものである。「夕片設けて鳴く河蝦」も、事であるとともに、そのことがすでに感傷なのである。素朴な形でいっているが、新傾向の歌風である。
2164 瀬《せ》を速《はや》み 落《お》ち激《たぎ》ちたる 白浪《しらなみ》に 河蝦《かはづ》鳴《な》くなり 朝夕《あさよひ》毎《ごと》に
瀬呼速見 落當知足 白浪尓 川津鳴奈里 朝夕毎
【語釈】 ○瀬を早み落ち激ちたる白浪に 瀬が速いので、流れ落ちて沸き立つ白浪の中に。
【釈】 瀬が速いので、流れ落ちて沸き立つ白浪の中に、河鹿が鳴いていることだ。朝夕ごとに。
【評】 渓流の白浪の騒ぐ中に、声の低い河鹿の音を聞きとめて、驚異の感を起こした心である。加えいうべき何事もないとして、見たままをいい、驚異の感は強い調べに託してあらわしているのである。「朝夕毎に」は、その地にとどまっていて、連続してその感を味わった意で、気分を実際から遊離させまいとしてである。
2165 上《かみ》つ瀬《せ》に 河蝦《かはづ》妻《つま》呼《よ》ぶ 夕《ゆふ》されば 衣手《ころもで》寒《さむ》み 妻《つま》まかむとか
(506) 上瀬尓 河津妻呼 暮去者 衣手寒三 妻將枕跡香
【語釈】 ○上つ瀬に河蝦妻呼ぶ 上の瀬のほうに、河鹿が妻を呼んでいるで、「上つ瀬」は作者の位置を示したもの。「妻呼ぶ」は、河鹿の声の哀調からの連想である。○夕されば衣手寒み 夕方になると衣が寒いので。「夕されば」は、作者が河鹿の音を聞いている現在。「衣手寒み」は、作者の現状でもある。○妻まかむとか 妻の手を枕としようとしてであろうか。
【釈】 上の瀬のほうに、河鹿が妻を呼んで鳴いている。夕方となって、衣が寒いので、妻の手を枕にしようとてであろうか。
【評】 旅人として夕方河のほとりで河鹿の声を聞いている感である。「上つ瀬に」と実際に即して言い出しているが、以下はすべて作者の感情移入で、河鹿を相手に「衣手寒み」というようなことまでいっているのである。一方ではこうしたことがかえっておもしろいとされていたかもしれぬ。歌を純文芸のものと限らない気分も、一方には存在していたからである。
鳥を詠める
2166 妹《いも》が手《て》を 取石《とろし》の池《いけ》の 浪《なみ》の間《ま》ゆ 鳥《とり》が音《ね》異《け》に鳴《な》く 秋《あき》過《す》ぎぬらし
妹手呼 取石池之 浪間從 鳥音異鳴 秋過良之
【語釈】 ○妹が手を取石の池の 「妹が手を」は、取ると続き、「取《とろ》」にかかる枕詞。「取石の池」は、大阪府泉北郡取石村(現在、高石町|土生《はぶ》に小池をのこしている)にあった池。『代匠記』は、続日本紀、聖武天皇の頓宮のあった地で、土地の人は今も登呂須《とろす》の池と呼んでいるといっている。○浪の間ゆ 浪の間を通して。○鳥が音異に鳴く 「鳥」は、水鳥。「異に鳴く」は、平常とはちがった声で鳴いている。○秋過ぎぬらし 「過ぎ」は、経過で、秋が経過したらしいで、ここは秋が終わって冬になったのではなく、秋そのものが深くなったらしいの意。
【釈】 妹が手を取るにちなみある取石の池の浪の間を通して、水鳥の声が平常とはちがった声で鳴いている。秋が深まったらしい。
【評】 作者は取石の池に馴れている人で、その池に棲んでいる水鳥の声を聞き馴れている人である。この歌は水鳥の鳴き声の変化から季節の推移を感じた心である。「鳥が音異に鳴く」は、気分としていっているもので、したがって迎えれば広く取れる。渡り鳥の水鳥の新たなのが来ての声とも取れるが、作意はそれではなく、平常棲み馴れている水鳥が、季節の推移に動かされて、平常とは異なった声で鳴くというのであろう。それであればこそ感となり、一首の中心ともなったのである。鳥の姿は見(507)えず、声だけ聞こえた心である。半ばは作者の解で、気分本位の歌である。
2167 秋《あき》の野《の》の 尾花《をばな》が末《うれ》に 鳴《な》く百舌鳥《もず》の 声《こゑ》聞《き》くらむか 片聞《かたき》く吾妹《わぎも》
秋野之 草花我末 鳴百舌鳥 音聞濫香 片聞吾妹
【語釈】 ○尾花が末に鳴く百舌鳥の 尾花の穂先にとまって鳴いている百舌鳥の。○声聞くらむか 「らむ」は、現在推量の助動詞。「か」は、疑問の助詞。声を聞いているのだろうかと、その聞いている状態に対して疑っていったもの。百舌鳥の声は高く、むろん聞けば聞こえるものなので、これはわざといっているものである。○片聞く吾妹 「片聞く」は、原文「片聞」。本居宣長は『略解』で、「聞」は「待」の誤写だとし、以後の注も多く従っている。『全註釈』は以前に復させている。「片聞く」は、片思い、片敷くなどと同系の語で、動詞に接続して、その動作の不完全をあらわすもので、ろくに耳に入れないの意だとしている。吾がいうことをろくに耳に入れない吾妹は。
【釈】 秋の野の尾花の穂先にとまって鳴いている百舌鳥の声を、聞いているのであろうか。吾がいうことをろくに耳に入れない吾味は。
【評】 男が吾妹と呼ぶ愛人とともに秋の野にいる時、おりから百舌鳥が、近くの尾花の穂先にとまって鳴いているのを、女は聞き入った格好をしているのを見て、皮肉まじりにからかって詠んだ形の歌である。皮肉まじりというのは、「片聞く」は、男が求婚をした頃、女は女性の習いとして容易に男のいうことに応じなかったことを暗示しているもので、それを言い出したのは、そのことが記憶に新しいからであろう。しかしこれは、現在、隔てのない仲になっているからいえることで、むろんからかいなのである。じつに才の利いた歌である。
露を詠める
2168 秋芽子《あきはぎ》に 置《お》ける白露《しらつゆ》 朝《あさ》な朝《さな》 珠《たま》としぞ見《み》る 置《お》ける白露《しらつゆ》
冷芽子丹 置白露 朝々 珠年曾見流 置白露
【語釈】 略す。
【釈】 秋萩に置いている白露。朝々珠であると見ることである。置いている白露よ。
(508)【評】 心は類型的で、形は謡い物風であり、調子を張らせたものである。宴歌かと思われる歌である。
2169 夕立《ゆふだち》の雨《あめ》降《ふ》る毎《ごと》に【一に云ふ、打|零《ふ》れば】 春日野《かすがの》の 尾花《をばな》が上《うへ》の 白露《しらつゆ》念《おも》ほゆ
暮立之 雨落毎【一云、打零者】 春日野之 尾花之上乃 白露所念
【語釈】 ○夕立の雨降る毎に 「夕立の雨」は、夕方俄に降る雨。○一に云ふ、打零れば 雨が降ると。
【釈】 夕立の雨が降るごとに(一に云う、雨が降ると)、春日野の尾花の上に宿る白露が念われる。
【評】 夕立の雨は、夕方の雨で、この称は東北地方には残って、それに対し朝立の称もある。これを、「春日野の尾花が上の」と限っているのは、奈良京の人の実際に即させたのである。夕暮の微光の中にきらめく、尾花の上の雫は、時代的気分を負いうるものである。「打零れば」の、その時に即したもののほうが、気分としても強くなる。
2170 秋芽子《あきはぎ》の 枝《えだ》もとををに 露霜《つゆじも》置《お》き 寒《さむ》くも時《とき》は なりにけるかも
秋芽子之 枝毛十尾丹 露霜置 寒毛時者 成尓家類可聞
【語釈】 ○枝もとををに 巻八(一五九五)に既出。枝も撓《たわ》むまでに繁く。
【釈】 秋の萩の枝も撓むまでに繁く水霜が置いて、寒くも季節は変わって来たことであるよ。
【評】 「秋芽子の枝もとををに」は、萩の葉に置く露霜は印象的であり、また萩の枝は撓みやすい物なので、感としていうには要を得たものである。一首の語続きに屈折があり、調べにも強さがあって、秋深く肌寒くなった気分をあらわしている。
2171 白露《しらつゆ》と 秋《あき》の芽子《はぎ》とは 恋《こ》ひ乱《みだ》れ 別《わ》くこと難《かた》き 吾《わ》が情《こころ》かも
白露与 秋芽子者 戀乱 別事難 吾情可聞
【語釈】 ○白露と秋の芽子とは恋ひ乱れ 白露が萩の花の上に置くさまの印象的なのを見て、露は萩を恋うて置き、萩は露を恋うて宿すとし、その乱れ合っているのを「恋ひ乱れ」といっているのである。自然現象に人間性を移入して解する一つの現われである。○別くこと難き吾が情かも(509)何方がどうとも判別の出来ないわが心であるよで、恋い合うものの一つとなっているのを讃える意でいっているもの。
【釈】 白露と萩の花とは、互いに恋い乱れ合っていて、どちらがどうとも判別の出来ないわが心であるよ。
【評】 白露と秋の萩の花とのさまを見て、心あって恋い合い、恋い乱れている仲だと解したのである。他より来て置く白露が男性、受け身になっている萩の花は女性である。奈良朝時代には起こりやすい連想である。この解が中心となっている歌であるが、それを既定のことのごとくさりげなくいい、しかもそれを讃える心を、「別くこと難き吾が情」という言い方であらわしているのは、事としていわず、気分としていおうとする歌風によつてである。巧みな歌である。
2172 吾《わ》が屋戸《やど》の 尾花《をばな》おし靡《な》べ 置《お》く露《つゆ》に 手《て》触《ふ》れ吾妹子《わぎもこ》 散《ち》らまくも見《み》む
吾屋戸之 麻花押靡 置露尓 手觸吾妹兒 落卷毛將見
【語釈】 ○尾花おし靡べ 「おし」は、接頭語。「靡べ」は、靡かせて。○手触れ吾妹子 手を触れよ吾妹子と命令したもの。○散らまくも見む 「散らまく」は、「散らむ」の名詞形。
【釈】 わが家の庭の尾花を靡かせて置いている露に、手を触れよ吾妹子よ、我はその零れ散るさまを見よう。
【評】 秋の朝、夫が妻とともに庭に出ていた折の歌である。尾花を撓《しな》わせて一ぱいに置いている露の美しさを見て、零れ散るさまを見ようという連想は自然なものである。それをするに、可憐な妹の手で、尾花を揺り動かさせようとするのも、これまた自然で、一脈の色気のあるものである。清らかな好みである。
2173 白露《しらつゆ》を 取《と》らば消《け》ぬべし いざ子《こ》ども 露《つゆ》に競《きほ》ひて 芽子《はぎ》の遊《あそび》せむ
白露乎 取者可消 去來子等 露尓爭而 芽子之遊將爲
【語釈】 ○いざ子ども 「いざ」は、誘う意。「子ども」は、身分の下の者を親しんで呼ぶ称で、呼びかけ。○露に競ひて芽子の遊せむ 露と競って、萩の遊びをしようというので、露に競うのは、萩の花の上に置いている露と競って、我らも萩の花に親しんで、萩の遊すなわち萩の花の前で、それを鑑賞する宴を開こうの意。
【釈】 白露は手に取ったらば消えてしまうだろう。さあ皆の者どもよ、我らもこの露と競って萩の花に親しみ、鑑賞する宴を開(510)こう。
【評】 奈良朝時代は、さまざまの名を設けて宴を聞いた時代であるから、「芽子の遊」という名があっても恠《あや》しむには足りない。新しく思いついた名としても妥当なものである。歌は主人、あるいは長者が、目下の者に対して、「芽子の遊」をしようと命じる心のものである。芽子と露の関係を重くいっているのは、夕露で、夕べの時刻をあらわすためのものである。「露に競ひて」は、萩の花と露との間に男女関係のあることを認めてのものである。心の細かい歌である。
2174 秋田《あきた》苅《か》る 仮廬《かりほ》を作《つく》り 吾《わ》が居《を》れば 衣手《ころもで》寒《さむ》く 露《つゆ》ぞ置《お》きにける
秋田苅 借廬乎作 吾居者 衣手寒 露置尓家留
【語釈】 ○秋田苅る仮廬を作り 秋の田を刈るために寝起きする仮小足を作って。上代は住宅と耕作する田とは遠いのが普通であった。
【釈】 秋の田を刈るための仮小屋を作って、われがそこにいると、袖に寒く露が置いたことである。
【評】 田の畔に仮小屋を作って、そこに寝起きしている農民の歌である。「衣手寒く露ぞ置きにける」は、屋根が粗いので、露が漏れて落ちるのが実情である。素朴な、実感を直写した歌である。小倉百人一首の天智天皇の御製というのは、これが改作されて後撰和歌集へ収められていたものである。
2175 この頃《ごろ》の 秋風《あきかぜ》寒《さむ》し 芽子《はぎ》の花《はな》 散《ち》らす白露《しらつゆ》 置《お》きにけらしも
日來之 秋風寒 芽子之花 令散白露 置尓來下
【語釈】 ○芽子の花散らす白露 萩の花を咲かしめるものとした露を、散らすものともしていたのである。風だとしないのは、心あってのことであろう。
【釈】 この頃の秋風は寒い。萩の花を散らす白露は、花の上に置いたらしい。
【評】 家の中にいて、朝か夕べかの風の寒さにつけての連想である。「芽子の花散らす白露」が一首の中心になっている。露と萩の花との関係に人事気分をからませて、そこに趣を感じていたとみえる。
(511)2176 秋田《あきた》苅《か》る 苫手《とまで》揺《うご》くなり 白露《しらつゆ》し 置《お》く穂田《ほだ》なしと 告《つ》げに来《き》ぬらし
秋田苅 苫手搖奈利 白露志 置穂田無跡 告尓來良思
【語釈】 ○秋田苅る苫手揺くなり 「秋田苅る」は、下の続きで、秋田刈る仮廬の省略である。「苫手揺くなり」は、「苫」は、『倭名類聚鈔』によると、菅、茅を編んだ物で、屋を覆う物だとある。簾の類で、仮小尾の屋根はもとより、壁代にも用いたとみえる。「手」は、接尾語。「揺くなり」は、人が訪う時、簾を潜って入るのを連想して、何ものかが訪うたとしていっているもの。○白露し置く穂田なしと 白露が、身を置く穂田がないと。「穂田」は穂になった田で、秋田。「なしと」は、刈り取られてしまったからである。「し」は、強意の助詞。○告げに来ぬらし いいに来たらしいで、いうのは恨みである。
【釈】 秋の田を刈る小屋の苫が揺れている。白露が、わが身を置く穂田がないと恨みをいいに来たらしい。
【評】 農民の歌である。秋田刈りという最後の大仕事を終えて、夕方、長く寝起きした仮小屋を引き上げようとする直前の心である。「苫手揺くなり」といい、「白露し」といっているのは、夕風が立って、白露が置きそうな頃と思われる。「白露し置く穂田なしと」は、白露を隣れんでいっているごとくみえる語であるが、そうしたものではなく、農民として楽しく明るい心よりいっている戯言と取れる。そこにおもしろさがある。第三者の構えて詠んだ歌とは取れない。農民の歌とみえる。
一に云ふ、告《つ》げに來《く》らしも
一云、告尓來良思母
【解】 結句の別伝。告げに来るらしいというのであるが、本文の「来ぬらし」のほうが、率直で、事に似合わしく、感がある。
山を詠める
2177 春《はる》は萌《も》え 夏《なつ》は緑《みどり》に 紅《くれなゐ》の 綵色《しみいろ》に見《み》ゆる 秋《あき》の山《やま》かも
春者毛要 夏老緑丹 紅之 綵色尓所見 秋山可聞
(512)【語釈】 ○春は萌え 春は木々が芽を出し。○紅の綵色に 「綵色」は、染め色で、染めた色。集中に用例のある語。
【釈】 春は萌え色に、夏は縁に、今は紅の染め色に見える、秋の山ではあるよ。
【評】 山々を近く眺めて生活している大和の人にとって、春夏秋と変わる山の色は楽しいものであったとみえる。この歌はその中でも最も美しく鮮やかに見える秋の山を、綵色に譬えて讃えているのである。
黄葉《もみち》を詠める
2178 妻隠《つまごも》る 矢野《やの》の神山《かみやま》 露霜《つゆじも》に にほひそめたり 散《ち》らまく惜《を》しも
妻隱 矢野神山 露霜尓 々寶比始 散卷惜
【語釈】 ○妻隠る矢野の神山 「妻隠る」は、屋と続き、矢の枕詞。「矢野」は、諸国にある地名である。『全註釈』は「神山」とあるところから、島根県西簸川郡四纏村(現在の、出雲市矢野町)に矢野の字があり、そこには矢野神社がある。この神社は出雲国風土記にも、『延喜式』神名にも出ているので、そこではないかといっている。人麿歌集の歌ということも関係しての推量である。三重県度会郡玉城町矢野説もある。○露霜ににほひそめたり 「露霜」は、水霜。末の葉を黄変させるものとしていっている。「にほひ」は、美しい色になる意で、すなわち黄変すること。「そめたり」は、始めている。○散らまく惜しも 散ることの惜しさよで、既出。
【釈】 妻隠る屋にちなみある、矢野の神山は、水霜で美しい色になりはじめた。散るのは惜しいことだ。
【評】 「妻隠る矢野の神山」という語続きは、人麿らしい特色があるが、他は心としては普通のものである。調べが豊かで、重量をもっている点は、人麿独自のものである。
2179 朝露《あさつゆ》に にほひそめたる 秋山《あきやま》に しぐれな降《ふ》りそ 在《あ》り渡《わた》るがね
朝露尓 染始 秋山尓 鍾礼莫零 在渡金
【語釈】 ○朝露ににほひそめたる 朝の露によって、美しい色になりはじめた。○しぐれな降りそ 「時雨」は、続き続きふる夕立で、黄葉を散らすものとしてである。命令。○在り渡るがね 存在し続けるがために。
(513)【釈】 朝露によって美しい色になりはじめた、秋の山に時雨は降るな。存在し続けるがために。
【評】 黄葉しはじめた秋山の美を、長く持続させたいと望む心で、普通のことを正面からまっすぐにいっているだけであるが、句々充実していて、調べが通っているため、「時雨な降りそ」という平凡な語が、調べによって生動して、力強いものとなっている。「在り渡るがね」も、説明の臭いのない、祈りに近い感のある語となっている。上の歌と内容は似ているが、味わいは異なって、変化を示している。
右の二首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
右二首、柿本朝臣人麿之哥集出。
2180 九月《ながつき》の しぐれの雨《あめ》に 沾《ぬ》れとほり 春日《かすが》の山《やま》は 色《いろ》づきにけり
九月乃 鍾礼乃雨丹 沾通 春日之山者 色付丹來
【語釈】 ○しぐれの雨に 感を強めようとして重語にしたものである。○沾れとほり 「とほり」は、山の木立全体を対象として、人の衣なぞのように強調したもの。
【釈】 九月の時雨の雨が、すっかり濡れとほって、春日山は色づいてしまったことだ。
【評】 秋の黄葉は、時雨に強いられてするものだという、双互の間に男女的気分を連想した上に立っていっているものである。「しぐれの雨」と単語を用い、また、「沾れとほり」という木立に対しては特殊な語を用いていっているのは、男の強く強いる気分をあらわそうとしてのもので、「色づきにけり」にも、女の靡き終わった当座の気分をあらわしているのである。調べの柔らかさも、その気分よりのことである。
2181 雁《かり》がねの 寒《さむ》き朝明《あさけ》の 露《つゆ》ならし 春日《かすが》の山《やま》を にほはすものは
雁鳴之 寒朝開之 露有之 春日山乎 令黄物者
【語釈】 ○雁がねの 雁の鳴き声の。○にほはすものは 「にほはす」は、旧訓。「もみたす」という旧訓もある。黄葉するのを「にほはす」とい(514)う用例は多い。「もみたす」はありうる語であるが、他に用例のないものである。作者は「にほはす」に当てて用いた字と思われる。
【釈】 雁の声の寒く聞こえたこの朝明けの露なのであろう。春日の山を黄葉に染めたものは。
【評】 これも上の歌と同じく、春日山がいささか黄になったのを認めての歌である。この歌の作者は、黄葉させたものは露であるとしているが、そこには男女間の気分よりの連想はなく、その露は「雁がねの寒き朝明」のものであるとしている。これは秋の深くなったことをあらわしているもので、露の秋深い頃のものであることをいっているのである。その露で黄葉させたのは、季節の推移にしたがってのことである。「露ならし」と推量の形においてそれをいっているのである。春日山の黄葉を讃える心ではあるが、静かに思い入ってのもので、上の作者とは異なった態度からである。
2182 この頃《ごろ》の 暁露《あかときつゆ》に 吾《わ》が屋前《やど》の 芽子《はぎ》の下葉《したば》は 色《いろ》づきにけり
比日之 曉露丹 吾屋前之 芽子乃下葉者 色付尓家里
【語釈】 ○暁露に 朝露の意であるが、暁は、夜のしらじら明けで、朝よりも早い頃。○芽子の下葉 下葉から黄葉するものとしていっている。
【釈】 この頃の暁露で、わが家の庭の萩の下葉は、色づいたことであるよ。
【評】 暁ごろ、庭の花のない萩を静かに眺めやっての心である。取材としては平凡のものであるが、それとしては充実した感をもっている作者の気分がさせているからのことである。「暁露」「芽子の下葉」はいずれも新しい語ではないが、作者の気分の細かさを示すものとなっている。
2183 雁《かり》がねは 今《いま》は来鳴《きな》きぬ 吾《わ》が待《ま》ちし 黄葉《もみち》はや継《つ》げ 待《ま》たば苦《くる》しも
雁鳴者 今者來鳴沼 吾待之 黄葉早繼 待者辛苦母
【語釈】 ○黄葉はや継げ 「黄葉」は、呼びかけたもの。「はや継げ」は、早く続いて来よで、雁に続くのである。他より来るものとしていっている。
【釈】 雁は今は来て鳴いた。我が待っていた黄葉よ、早く雁に続いて来よ。待っていたならば苦しいことだ。
【評】 黄葉を待つ心である。「黄葉はや継げ」は、黄葉を雁と同じく他より来るものと見ていっているのである。それまでな(515)かった物の新たに現われるのであるから、気分の上から見れば言い得られることである。気分生活をしている作者が思わせられる。二句と四句で切って、すでに待ったとして「吾が待ちし」といい、この上待つのではと、「待たば」を繰り返しているのである。気分という中でも、しつこい気分の持主である。その意味では個性的な歌である。
2184 秋山《あきやま》を ゆめ人《ひと》懸《か》くな 忘《わす》れにし その黄葉《もみちば》の 思《おも》ほゆらくに
秋山乎 謹人懸勿 忘西 其黄葉乃 所思君
【語釈】 ○ゆめ人懸くな 秋山のことを、けっして人よ口に出すなで、「ゆめ」は、強い禁止である。直接、人に対しての語と取れる。○忘れにしその黄葉の 忘れていた黄葉がで、去年の黄葉であろう。「その」は、強調させたもの。○思ほゆらくに 思い出されることだのに。
【釈】 秋山のことを、決して人よ口には出すな。忘れていたその黄葉が思い出されることだのに。
【評】 他人との対談の一節を歌にした形のものである。山に囲まれている大和国の人の歌であるから、「秋山をゆめ人懸くな」という禁止は、外出不可能な状態の時でなければいわない語と取れる。病中とか、余儀ない事情に捉われている人の語であろう。「忘れにしその黄葉の」は、病中の人であろう。それだと一種のあわれのある歌である。興趣へのあこがれとしては詠み方が単純にすぎる。
2185 大坂《おほさか》を 吾《わ》が越《こ》え来《く》れば 二上《ふたがみ》に黄葉《もみちば》流《なが》る しぐれ降《ふ》りつつ
大坂乎 吾越來者 二上尓 黄葉流 志(516)具礼零乍
【語釈】 ○大坂を 「大坂」は、大和から河内へ越える坂で、二上山の北方に接している坂である。北葛城郡香芝町に大字逢坂の名が残り、同町穴虫に大坂山口神社がある。○二上に黄葉流る 「二上」は、二上山で、巻二(一六五)に既出。北葛城郡に属し、西葛城山脈中の一嶺。「流る」は、ここは、空を伝わって落ちる状態をいっているもの。
【釈】 大坂を吾が越えて来ると、二上山には黄葉が散って流れている。時雨が降りつづいていて。
【評】 時雨に打たれて散る黄葉の趣がある。山を背景にして散る黄葉を、ほどよい距離で大観している歌なので、印象が鮮明である。形の単純なのがこの歌を生かしているのであるが、それは地名を二つまで用いているからのことである。
2186 秋《あき》されば 置《お》く白露《しらつゆ》に 吾《わ》が門《かど》の 浅茅《あさぢ》がうら葉《は》 色《いろ》づきにけり
秋去者 置白露尓 吾門乃 浅茅何浦葉 色付尓家里
【語釈】 略す。
【釈】 秋になると、置く白露で、わが門の浅茅の葉先のほうは、色づいたことであるよ。
【評】 季節感をいったものである。ちがやの葉先に白露が宿っていて、その対照からちがやの色づいたのを感じた心で、感性の細かさがある。実際に即しているので、平明ではあるが、空疎ではない。
2187 妹《いも》が袖《そで》 巻来《まきき》の山《やま》の 朝露《あさつゆ》に にほふ黄葉《もみち》の 散《ち》らまく惜《を》しも
妹之袖 卷來乃山之 朝露尓 仁寶布黄葉之 散卷惜裳
【語釈】 ○妹が袖巻来の山の 「妹が袖」は、纏きと続いて、巻の枕詞。「巻来の山」は、所在不明である。誤写説がある。○朝露ににほふ黄葉 朝露で染められている黄葉。
【釈】 妹が袖を纏くにちなみある巻来の山の、朝露に染められている黄葉の散るであろうことの惜しさよ。
【評】 「巻来の山」は、この作者の妹の住地の山とすると、枕詞とのつながりもつき、「朝露ににほふ」も、「散らまく」も、(517)気分のあるものとなる。その意味のもで、恋の気分よりの歌と思われる。
2188 黄葉《もみちば》の にほひは繁《しげ》し 然《しか》れども 妻梨《つまなし》の木《き》を 手折《たを》りかざさむ
黄葉之 丹穗日者繁 然鞆 妻梨木乎 手折可佐寒
【語釈】 ○にほひは繁し 「にほひ」は、美しい色合いで、名詞。「繁し」は、いろいろの種類がある。○妻梨の木を 「妻梨」は、「妻」は序詞で、梨の木。「君松の木」などと同じ言い方である。梨の木の黄葉で、このような語を用いているのは、作者が妻を喪った人だからとみえる。○手折りかざさむ 折って挿頭そうで、挿頭を挿す際のこと。
【釈】 黄葉の色合いはさまざまである。しかしながら妻無しという名をもった梨の木の黄葉を折って挿頭としよう。
【評】 人々が集まって宴を張り、庭の黄葉を好みにしたがって折って挿頭とする時、妻を喪った人の詠んだ形の歌である。場合柄、おもしろく思われた歌であろう。
2189 露霜《つゆじも》の 寒《さむ》き夕《ゆふべ》の 秋風《あきかぜ》に もみちにけりも 妻梨《つまなし》の木《き》は
露霜乃 寒夕之 秋風丹 黄葉尓來毛 妻梨之木者
【語釈】 ○もみちにけりも 「も」は、感動の助詞。○妻梨の木は 上の歌と同じ。
【釈】 水霜の置く寒い夕べの秋風で、もみじしたことであるよ。妻梨の木は。
【評】 秋風のひどく寒い夕べの風に、梨の木の黄にもみじしたのを見出だしての心である。「妻梨」に妻の無い心を絡ませ、初句から三句まで力を籠めて秋風のことをいっているのは、妻の無い身のわびしい気分を、それによってあらわしているのである。特殊な気分を、実景に即して具象しているもので、譬喩歌である。上の歌の作者と同じ人かもしれぬ。
2190 吾《わ》が門《かど》の 浅茅《あさぢ》色《いろ》づく 吉隠《よなばり》の 浪柴《なみしば》の野《の》の 黄葉《もみち》散《ち》るらし
吾門之 淺茅色就 吉魚張能 浪柴乃野之 黄葉散良新
(518)【語釈】 ○吉隠の浪柴の野の 「吉隠」は、巻二(二〇三)、巻八(一五六一)に既出。奈良県磯城郡、今の桜井市初瀬町の内にある。「浪柴の野」は、さらにその地域内にあったのであるが、今は明らかでない。
【釈】 わが門の浅茅が色づいている。吉隠の浪柴の野の黄葉は、散っているらしい。
【評】 平地にある自分の家の浅茅の色づいたのを見て、高地の吉隠の秋の深さを思いやった心である。浪柴の野という、今はその名の伝わっていない野を特に思いやっているのは、深く記憶に残っているからである。季節の移り目に、曾遊の地の風物のさまを思いやるということは自然なことで、そのこと自体が一種の興味のあることである。この歌はそうした気分の表現である。作者と吉隠との関係は、この場合問題にならないものである。
2191 雁《かり》がねを 聞《き》きつるなへに 高松《たかまつ》の 野の上《へ》の草《くさ》ぞ 色《いろ》づきにける
鴈之鳴乎 聞鶴奈倍尓 高松之 野上乃草曾 色付尓家留
【語釈】 ○高松の野の上の草ぞ 「高松」は、(一八七四)に出た。「高円」である。「野の上」は、「上」は、感を強めたもの。
【釈】 雁の音を聞いたとともに、高松の野の草は黄に色づいたことである。
【評】 季節の推移に思い入つた心である。地名によって生かされた歌である。
2192 吾《わ》が背子《せこ》が 白《しろ》たへ衣《ごろも》 往《ゆ》き触《ふ》れば 染《にほ》ひぬべくも もみつ山《やま》かも
吾背兒我 白細衣 徃觸者 應染毛 黄變山可聞
【語釈】 ○白たへ衣 白い衣で、庶民の常服。○往き触れば 「往き触れば」は、旧訓。「触る」は下二段として用いられていた。○染ひぬべくももみつ山かも 「染ひぬべく」は、染まりそうなまでに。「もみつ」は、四段活用。終止形からも名詞に続いた。もみじしている山よ。
【釈】 わが背子の白い衣が、そこへ往って触れたならば、染まりそうにももみじしている山よ。
【評】 妻である女が、近くの黄葉した山に対して、その美しさを讃えたものである。「往き触れば染ひぬべくも」は、男はおそらく山の仕事もしようし、女は衣を染めるのは普通であるから、心理的の自然があり、感覚的でもあって、譬喩としてきわ(519)めて適切なものである。この歌は庶民のものと思われる。その率直で、生趣のあるところが、貴族の歌風とは異なっているからである。
2193 秋風《あきかぜ》の 日《ひ》にけに吹《ふ》けば 水茎《みづぐき》の 岡《をか》の木《こ》の葉《は》も 色《いろ》づきにけり
秋風之 日異吹者 水莖能 岡之木葉毛 色付尓家里
【語釈】 ○日にけに 日に殊にで、日に増して。○水茎の岡の木の葉も 「水茎の」は、岡の枕詞として用いられているが、その関係は明らかでない。「岡」は、普通名詞で、今日と同じもの。
【釈】 秋風が日に増して吹くので、岡の木の葉も色づいたことである。
【評】 吹き続く秋風で、低い岡の木も黄葉したというので、高い山の黄葉を背後に置き、そのつながりを気分としての歌である。黄葉のあまねきことをあらわしている心である。
2194 雁《かり》がねの 来鳴《きな》きしなへに 韓衣《からころも》 立田《もたつた》の山《やま》は もみちそめたり
鴈鳴乃 來鳴之共 韓衣 裁田之山者 黄始有
【語釈】 ○韓衣立田の山は 「韓衣」は、唐より渡来した形の衣で、愛用され、一般化したため、衣の意で用いられるに至ったもので、裁ち縫いの「たつ」と同音で、「立田」の枕詞。「立田の山」は、巻一(八三)以下しばしば出た。
【釈】 雁が来て鳴いたのに伴って、立田山の木は黄葉をし始めて来た。
【評】 雁と黄葉との間の関係を、名高い立田山に結びつけたものである。当時の人には立田山は、その名だけですでに魅力があったのであろう。したがって「韓衣」という枕詞も感のあったものと思われる。
2195 雁《かり》がねの 声《こゑ》聞《き》くなへに 明日《あす》よりは 春日《かすが》の山《やま》は もみち始《そ》めなむ
鴈之鳴 聲聞苗荷 明日從者 借香能山者 黄始南
(520)【語釈】 ○明日よりは 雁の声を聞いた日の明日で、その関係は、季節感を超えたもののように緊密である。しだいに人事的になったことを暗示しているといえる。
【釈】 雁の鳴く声を聞くに伴って、明日からは、春日山は黄葉しはじめるだろう。
【評】 雁と黄葉の関係で常套的な心であるが、「明日よりは」に新意ありとしての作であろう。「声聞くなへに」と「明日よりは」の続きにも、多少の無理があって、そのことを思わせる。季節感だけでは満足できず、男女関係にまで発展させようとする心のあるものと思わせる。
2196 しぐれの雨《あめ》 間《ま》なくし降《ふ》れば 真木《まき》の葉《は》も 争《あらそ》ひかねて 色《いろ》づきにけり
四具礼能雨 無間之零者 眞木葉毛 爭不勝而 色付尓家里
【語釈】 ○真木の葉も争ひかねて 「真木」は、杉・檜の類を讃めての称。「も」は、さえも。「争ひかねて」は、時雨は木の葉を染めようとし、木の葉は染められまいとして争う、その争いに堪え得ずして、すなわち負かされて。○色づきにけり 杉・檜は秋が深くなると褐色を帯びて来る。
【釈】 時雨が絶え間なく降るので、常磐木の杉・檜の葉も、染められまいと争うに堪えられなくて、色づいたことであるよ。
【評】 「真木の葉も争ひかねて」が作意である。実際に多少それに近いことがあるにもせよ、事としていっているのではなく、気分としていっているのである。男女関係の上では、黄葉しそうもない真木も、時雨が甚しく降れば堪えられないものであるとして、そこに人間性があるとしているのである。興味としていわず、真相としていっているので、ある重みがある。
2197 いちしろく しぐれの雨《あめ》は 降《ふ》らなくに 大城《おほき》の山《やま》は 色《いろ》づきにけり
灼然 四具礼乃雨者 零勿國 大城山者 色付尓家里
【語釈】 ○いちしろく 目に立って。○大城の山は 福岡県筑紫郡大野町の東、大宰府の背後にある四王寺山脈の山で、注に詳しい。
【釈】 目に立っては時雨は降らないことだのに、大城の山は色づいたことである。
【評】 黄葉は時雨がさせるものだという概念が成り立っていて、その角度より見ての感動である。概念が感動を制しているので(521)はなく、反対に刺激しているのである。品のある詠み方である。
大城の山と謂へるは、筑前の国|御笠《みかさ》の郡に在る大野《おほの》山の頂の号《な》を大城と曰へるものなり。
謂2大城山者1、在2筑前國御笠郡1大野山頂號曰2大城1者也。
【解】 大城の山という名が広く知られているものではないところからの注で、多分作者自身付けたものであろう。作者は大宰府に居たことのある人である。「大野山」は、巻五(七九九)に出た。
2198 風《かぜ》吹《ふ》けば 黄葉《もみち》散《ち》りつつ 少《すくな》くも 吾《あが》の松原《まつばら》 清《きよ》からなくに
風吹者 黄葉散乍 小雲 吾松原 清在莫國
【語釈】 ○少くも 原文、元暦校本は「少雲」で、『新訓』の訓。この語は、これに続く語の内容の少ないことをいう副詞で、最後に必ず打消しの語をもって受けるもので、定まった形をもったものである。ここは、「吾の松原清からなくに」と続き、吾の松原が、少なく清いのではないことだで、大いに清いということを、消極的な言い方をしたものである。相聞の歌には例が少なくなく、巻十一(二五二三)「少くも心のうちに吾が思はなくに」の言い方は三例あり、いずれも大いに思う意である。この解は、『全註釈』が明らかにしたものである。○吾の松原 三重県三重郡にあるという。
【釈】 風が吹くと、黄葉が散りつづけて、大いに吾の松原は清いことだ。
【評】 「少くも」以下の言い方は、型となっていた言い方のものであるが、集中の用例など見ると、叙景に用いているのはこれが初めてである。松原の中へ、秋風に散らされる黄葉が点じて来る美しさであるから、美観とはいえ、華麗なものではなくて、むしろ清らかさの勝った美観である。しかし感じからいうと大いに美しいので、これを気分的にあらわそうとすれば、適当な言い方というべきであろう。「吾の松原」は巻六(一〇三〇)に出ていて、参照すべきものに思われる。
2199 物念《ものも》ふと 隠《こも》らひをりて 今日《けふ》見《み》れば 春日《かすが》の山《やま》は 色《いろ》づきにけり
物念 隱座而 今日見者 春日山者 色就尓家里
(522)【語釈】 ○物念ふと隠らひをりて 「物念ふと」は、原文「物念」で、「と」は、読み添え。物思いをするとて。「隠らひ」は、籠もるの連続で、家に龍もりつづけていて。
【釈】 嘆きがあるとて家に籠もり続けていて、今日屋外に出て見れば、春日山は色づいたことである。
【評】 見馴れている春日山に対して驚きを感じた気分で、その驚いた気分そのものをあらわそうとした歌である。奈良朝時代の人でなければ、こうした境を捉えて歌材とすることはあるまいと思われるものである。実際に即してはいるが、物思いも春日山も、この歌では方便にすぎないものである。生きた歌である。
2200 九月《ながつき》の 白露《しらつゆ》負《お》ひて あしひきの 山《やま》のもみたむ 見《み》まくしもよし
九月 白露負而 足日木乃 山之將黄變 見幕下吉
【語釈】 ○九月の白露負ひて 九月の露を帯びて。○山のもみたむ 山の木のもみじしているだろうのを。「もみつ」は、四段に活用していた語である。○見まくしもよし 見ることは良い。
【釈】 九月の露を帯ひて、山のもみじしているだろうのを、見るのは良いことだ。
【評】 露の繁く置くころの黄葉の山を思いやって、憧れの心を寄せている歌である。「白露負ひて」といい、「山のもみたむ」といっている語続きは清らかで、憧れの心にふさわしい。
2201 妹許《いもがり》と 馬《うま》に鞍《くら》置《お》きて 射的山《いこまやま》 うち越《こ》え来《く》れば 紅葉《もみち》散《ち》りつつ
(523) 妹許跡 馬※[木+安]置而 射駒山 撃越來者 紅葉散筒
【語釈】 ○射駒山うち越え来れば 「射駒山」は、生駒山で、奈良県生駒郡と、大阪府枚岡市との間の、奈良から難波へ行く通路にあたる山。「来れば」は、妹の家を中心としての言い方で、奈良の方面にいる妻。
【釈】 妹のもとへ行こうとして、馬に鞍を置いて、生駒山を越えて来ると、紅葉が散りつついる。
【評】 難波に遣わされている官人が、奈良方面にいる妻のもとへ通う心を詠んだものである。楽しく明るい気分をあらわすために、自身の状態を描いているものである。妻問いのため遠距離を歩くことは、上代にはむしろ普通のことで、例の多いものである。
2202 黄葉《もみち》する 時《とき》になるらし 月人《つきひと》の 楓《かつら》の枝《えだ》の 色《いろ》づく見《み》れば
黄葉爲 時尓成良之 月人 楓枝乃 色付見者
【語釈】 ○月人の楓の枝の 「月人」は、月を「月人|壮子《をとこ》」といったのと同じく、月を擬人したもの。「楓の枝」は、月の中に楓の木がありとする伝説によるもので、これは巻四(六三二)「月の内の楓の如き」に出た。楓はかつら科の落葉喬木で、かえでとは異なるものである。
【釈】 黄葉する時になるらしい。月人の物である楓の枝の黄葉するのを見ると。
【評】 秋の月の光の澄んで来るのを見て、地上でも黄葉する時になったらしいと推量した心である。「月人の楓の枝の色づく」という言い方は、奈良朝の知識人の間では常識に近いものになっていたろうと思われる。気分を重んじる人々には好まれそうな伝説であり、それをいうにもさり気ない言い方をしているからである。
2203 里《さと》もけに 霜《しも》は置《お》くらし 高松《たかまつ》の 野山司《のやまづかさ》の 色《いろ》づく見《み》れば
里異 霜者置良之 高松 野山司之 色付見者
【語釈】 ○里もけに 「けに」は、格別に。○高松の野山司の 「高松」は、高円で、上の(二一九一)に既出。「野山司」は、その辺りでの小高い所で、周辺を支配するごとき形をなしている所の称。巻四(五二九)「佐保河の岸のつかさ」と出、他にもある。「野山司」は、その辺りの野や山を通じての小高い所。
(524)【釈】 里のほうも格別に霜が置いているだろう。この高松の野山司が黄葉するのを見ると。
【評】 高円に登って、そこの野山司の黄になっているのを見て、これでは里のほうも霜が深いだろうと想像した心である。季節感の歌であるが、「野山司」と、その認めた実際に即していっているもので、その感が生きて、しみじみしたものとなっている。
2204 秋風《あきかぜ》の 日《ひ》にけに吹《ふ》けば 露《つゆ》重《しげ》み 芽子《はぎ》の下葉《したば》は 色《いろ》づきにけり
秋風之 日異吹者 霧重 芽子之下葉者 色付來
【語釈】 ○霧重み 「重み」は、繁く置いてで、状態としていったもの。
【釈】 秋風が日増しに寒く吹くので、露が繁く置いて、萩の下葉は黄葉したことだ。
【評】 季節感で、類歌のあるものだ(二一九三)。「秋風の日にけに吹けば」は、秋が深くなるのでの意をいったものであるが、成句を用いたために、「露重み」との続きが、かえって不自然に感じられるものとなった。
2205 秋芽子《あきはぎ》の 下葉《したば》もみちぬ あらたまの 月《つき》の経去《へゆ》けば 風《かぜ》を疾《はや》みかも
秋芽子乃 下葉赤 荒玉乃 月之歴去者 風疾鴨
【語釈】 ○あらたまの月の経去けば 「あらたまの」は、年より月に転じての枕詞。「月の経去けば」は、月が重なったことをいったもの。○風を疾みかも 「疾みかも」は、強くなったゆえかという意で、「かも」は、疑問。
【釈】 秋萩の下葉が赤らんで来た。月が過ぎて行ったので、風が強くなったゆえであろうか。
【評】 ここでは萩の下葉の赤くなったのを、秋風の強くなったためかとしている。紅葉の原因を求めようとする心が働いている跡が見える。気分化を喜ぶ心の一方には、こうした心も働きはじめていたのである。
2206 まそ鏡《かがみ》 南淵山《みなぶちやま》は 今日《けふ》もかも 白露《しらつゆ》置《お》きて 黄葉《もみち》散《ち》るらむ
眞十鏡 見名淵山者 今日鴨 白露置而 黄葉將散
(525)【語釈】 ○まそ鏡南淵山は 「まそ鏡」は、「見」と続き、その枕詞。「南淵山」は、奈良県高市郡明日香村大字稲淵にあり、今は稲淵山という。飛鳥川の上流に臨んでいる山。○今日もかも 「も」は、詠歎。「かも」は、疑問の係助詞。
【釈】 まそ鏡を見るにちなむ南淵山は、今日は、白露が置いて黄葉が散っているであろうか。
【評】 南淵山をなつかしんで、その山の黄葉の静かに散るさまを眼に描いていっている心である。南淵山は飛鳥の故郷の山で、その意味から見馴れ親しんでいるからのことと思われる。「まそ鏡」の枕詞も、「白露置きて」も、気分を主としての語で、一首としても気分のまとまりのよいところから来る厚みのある歌である。
2207 吾《わ》が屋戸《やど》の 浅茅《あさぢ》色《いろ》づく 吉隠《よなばり》の 夏身《なつみ》の上《うへ》に 時雨《しぐれ》ふるらし
吾屋戸之 淺茅色付 吉魚張之 夏身之上尓 四具礼零疑
【語釈】 ○吉隠の夏身の上に 「吉隠」は、上の(二一九〇)に出た。「夏身」は、吉隠の内の地名であるが、所在は不明である。「上」は、辺り。
【釈】 わが家の浅茅は色づいた。吉隠の夏身の辺りは、時雨が降っているだろう。
【評】 上の(二一九〇)「吾が門の浅茅色づく」と、作意も、構成も全く同一で、「浪柴の野」が「夏身」となり、「黄葉散るらし」が「時雨ふるらし」に変わっているのみである。多分作者は同じ人で、一つの気分を反芻して飽かなかったのであろう。作者からいうと連作の形になっていたのかもしれぬ。
2208 雁《かり》がねの 寒《さむ》く鳴《な》きしゆ 水茎《みづぐき》の 岡《をか》の葛葉《くずは》は 色《いろ》づきにけり
雁鳴之 寒鳴從 水莖之 岡乃葛葉者 色付尓來
【語釈】 ○寒く鳴きしゆ 「鳴きしゆ」は、寒く鳴いた時から。○水茎の岡の葛葉は 「水茎の岡」は、(二一九三)に出た。「葛葉」は、葛の葉。
【釈】 雁が声寒く鳴いた時から、岡の葛の葉は色づいたことだ。
【評】 雁の鳴き声と葛の葉の黄葉との間に関係を認めたものである。気分の歌で、実際を離れないために、味わいあるものとなっている。
(526)2209 秋芽子《あきはぎ》の 下葉《したば》の黄葉《もみち》 花《はな》に継《つ》ぐ 時《とき》過《す》ぎ行《ゆ》かば 後《のち》恋《こ》ひむかも
秋芽子之 下葉乃黄葉 於花繼 時過去者 後將戀鴨
【語釈】 ○花に継ぐ 花に続いて、その美しさを見せているで、下葉の黄葉を讃えたもの。○時過ぎ行かば 黄葉の期間が過ぎたならばで、すなわち散ってしまったならば。
【釈】 秋萩の下葉の黄葉の美しさが、その花の美しさに続いている。この黄葉の時期が過ぎて散ったならば、後になって恋うるであろうか。
【評】 花の過ぎた後、萩の下葉の黄葉したのを眺めて、それの散るであろう後を思いやっている心である。萩の下葉の黄葉の美しさは限度のあるもので、さして美しいとはいえないものである。それに対して愛着を感じているのは、耽美気分のさせることで、耽美とはいえ、しめやかな幽かなものである。実際に即していっているので、ようやく受け入れられるものである。
2210 明日香河《あすかがは》 黄葉《もみちば》流《なが》る 葛城《かづらき》の 山《やま》の木《こ》の葉《は》は 今《いま》し散《ち》るらし
明日香河 黄葉流 葛木 山之木葉者 今之落疑
【語釈】 ○明日香河黄葉流る 「明日香河」は、下の続きで見ると、「葛城の山」の黄葉を流して来るものである。これは大和の明日香河 としては通じないことになる。山田孝雄氏が考証して、この「明日香河」は、二上山から流れ出し、河内国の石川に注ぐ飛鳥河だといっている。○葛城の山の木の葉は 葛城の山は大和と河内の国境にある山
(527)で、金剛、葛城、二上などの連嶺の総称である。○今し散るらし 「し」は、強意。「らし」は、原文「疑」。用例のある字で(二二〇七)にも出た。
【釈】 明日香河には黄葉が流れている。葛城山の木の葉が今散っているであろう。
【評】 河内国の明日香河に立ち、浮かんで流れて来る黄葉を見て、その河の水源である大和国の葛城山の黄葉であろうと思いやったのである。上代は国の異なるということは、距離の遠さを感じさせたのであるから、そういう気分も伴ってのものであろう。
2211 妹《いも》が紐《ひも》 解《と》くと結《むす》びて 立田山《たつたやま》 今《いま》こそ黄葉《もみち》 はじめたりけれ
妹之紐 解登結而 立田山 今許曾黄葉 始而有家礼
【語釈】 ○妹が紐解くと結びて 妹が衣の紐を、また解こうとて、今結んでの意と取れる。上代の夫妻は、相逢った時は妻は夫の衣の紐を、夫は妻の紐を解き、別れる時にもまた同じように結んだ。結ぶのは、信仰よりのことで、わが魂を結び籠めて、相手の身とともにあらしめるためであった。ここは、結んでその家を立つの意で、初二句「立つ」にかかる序詞。この序詞は異説の多いものである。○立田山 しばしば出た。○今こそ黄葉はじめたりけれ 「黄葉」は、動詞とも名詞とも取れる。名詞として解す。もみじをし始めたことである。
【釈】 妹が衣の紐を、また解こうとて、今結んでその家を立つにちなむ立田山は、今こそは黄葉をしはじめたことである。
【評】 立田山の初もみじを目にした喜びをいったものである。立田越えをする旅人として、ゆくりなく発見したものとみえる。序詞はこの時代の男にとっては、妻に逢って別れるごとにしている普通のことであるが、この作者は立田越えをして旅に向かう際とて、妻を思うとともに、妻との別れの際のことが鮮かに心にあって、その意味でいっているものである。すなわち気分のつながりのあるものである。「今こそ黄葉はじめ」という、黄葉の美しさを讃える心にも、逢い難いことになったために魅力の増している妻を思う気分が絡んでいるものとうかがわれる。気分本位の歌である。
2212 雁《かり》がねの 来喧《きな》きにLより 春日《かすが》なる 三笠《みかさ》の山《やま》は 色《いろ》づきにけり
鴈鳴之 喧之從 春日有 三笠山者 色付丹家里
【語釈】 ○雁がねの来喧きにしより 「雁がね」は、雁。「来喧きにしより」は、原文「喧之従」。読み添えの必要のある字であり、紀州本と、『代(528)匠記』精撰本とはこのように訓んである。例の多い語で妥当性が多い。来て鳴いた日から。
【釈】 雁が来て鳴いた時から、春日の三笠の山は黄葉したことである。
【評】 雁の声と黄葉との間に緊密な関係を認めた心のものである。男女関係である。そうした気分だけを主とした歌であるから、そうした解はまだ新味があったものとみえる。
2213 この頃《ごろ》の 暁露《あかときつゆ》に 吾《わ》が屋戸《やど》の 秋《あき》の芽子原《はぎはら》 色《いろ》づきにけり
比者之 五更露尓 吾屋戸乃 秋之芽子原 色付尓家里
【語釈】 ○秋の芽子原 「芽子原」は、邸内に設けた萩の植込みの称。
【釈】 この頃の暁の露で、わが邸内の秋の萩原は色づいたことである。
【評】 邸内の萩原の色づいたのを、この頃の朝露のためだとしているので、黄葉の理由をいうことを主としているものである。朝露と萩の黄葉との関係を認めてのものではあるが、それだけではない心である。上にもこの傾向のものがあった。
2214 夕《ゆふ》されば 雁《かり》の越《こ》えゆく 竜田山《たつたやま》 時雨《しぐれ》に競《きほ》ひ 色《いろ》づきにけり
夕去者 鴈之越徃 龍田山 四具礼尓競 色付尓家里
【語釈】 ○雁の越えゆく 「雁」は、黄葉させるものとしていっている。○時雨に競ひ 時雨と先を争って。時雨も黄葉させるものであるが、その催し立てるのに後れまいとして。
【釈】 夕べになると、雁が越えてゆく竜田山は、時雨と先を争って色づいたことである。
【評】 竜田山が全体に色づいて来たさまを叙した形の歌である。「雁の越えゆく」「時雨に競ひ」は、いずれもさりげなく竜田山の状態をいったもののごとくであるが、雁も時雨も木の葉を黄葉させるものとしてであって、雁の越えてゆくという、雁と関係を結んでいる竜田山は、時雨と競って、それを待たぬさまに黄葉したというので、作者にこの時代の気分を通していっているのである。複雑した気分を、きわめてさりげないさまでいっている歌である。
(529)2215 さ夜《よ》ふけて 時雨《しぐれ》な降《ふ》りそ 秋芽子《あきはぎ》の 本葉《もとは》の黄葉《もみち》 散《ち》らまく惜《を》しも
左夜深而 四具礼勿零 秋芽子之 本葉之黄葉 落卷惜裳
【語釈】 ○本葉の黄葉 「本葉」は、本は末に対しての語で、根もとのほうの葉で、すなわち下葉である。
【釈】 夜ふけて、時雨よ降るな。秋萩の本葉の黄葉の散るのは惜しいことだ。
【評】 夜ふけて時雨の荒く降る音を聞いて、萩の下葉の黄葉の、そのために散らされるのを惜しんで、時雨に降るなと命じている心である。実際がおのずからに一種の気分になっている境である。実際と遊離しないところに味わいがある。
2216 故郷《ふるさと》の 初《はつ》もみちばを 手折《たを》りもち 今日《けふ》ぞ吾《わ》が来《こ》し 見《み》ぬ人《ひと》の為《ため》
古郷之 始黄葉乎 手折以 今日曾吾來 不見人之爲
【語釈】 ○故郷の 奈良京から、飛鳥方面をさしての称。○見ぬ人の為 故京の黄葉を見ない人に見せようがために。
【釈】 故郷の飛鳥の初黄葉を折って、今日われは京へ来たことである。見ずにいる人のために。
【評】 奈良にいる人で、飛鳥へ行った人が、苞としてその地の初黄葉を折って来て、心合いの友へ贈る時に添えた歌である。奈良の人には飛鳥は故郷としてなつかしかったので、そこの初黄葉といえば、さらになつかしい物であったろう。儀礼を超えた心のあるものである。
2217 君《きみ》が家《いへ》の ともしき黄葉《もみち》 早《はや》く降《ふ》る 時雨《しぐれ》の雨《あめ》に 沾《ぬ》れにけらしも
君之家乃 之黄葉 早者落 四具礼乃雨尓 所沾良之母
【語釈】 ○ともしき黄葉 原文「之黄葉」。諸注、訓み難くして、さまざまに訓んでいる。『全註釈』は、「之」は、「乏」の誤写であろうとして、このように訓んでいる。誤写とすればありうべきものであるから、比較的妥当のものである。「ともしき」は、ここは珍しいで、賞美した意。○早く降る 時期早く降る。
(530)【釈】 君の家の美しい黄葉は、時早く降る時雨に濡れていることでしょう。
【評】 友の家を訪ねて、その家の黄葉の早いのをめずらしがって愛でて、挨拶として贈った形の歌である。二句には問題があるが、四、五句は挨拶以外の語とはみえないから、問題とはいえ小さいものである。風流の心を交わす範囲の心である。
2218 一年《ひととせ》に 二《ふた》たび行《ゆ》かぬ 秋山《あきやま》を 情《こころ》に飽《あ》かず 過《すぐ》しつるかも
一年 二遍不行 秋山乎 情尓不飽 過之鶴鴨
【語釈】 ○一年に二たび行かぬ 「行かぬ」は、時の運行をいっているもので、下の「秋山」をいっているもの。一年に二度とは立ち帰って運行しないの意。巻四(七三三)「空蝉の代やも二行《ふたゆ》く」と出た。○秋山を 秋の山なのにで、「を」は、詠歎。○情に飽かず過しつるかも 心飽くまで見ずに、その時期を過ごしたことであるよ。
【釈】 一年に二度とは立ち帰り運行しない秋山であるのに、心飽くまで見ずに、その期間を過ごしたことであるよ。
【評】 黄葉の時期の過ぎた後の感慨である。大事件のごとく、思い入った形でいっていることは、耽美の気分の満たされなかった嘆きである。恋愛の上などで、ともすればもたされるような意識を、黄葉を対象としてもったのである。あの程度の誇張はあろうが、自然の美観に対して絶えざる飢えを抱いていたとみえる。
水田《こなた》を詠める
【題意】 「水田《こなた》」は、『倭名類聚鈔』に「古奈太」とある訓である。また、熟田の称でもあるという。熟田は墾田の二年目よりの称で、転じて水田の称ともなったとみえる。
2219 あしひきの 山田《やまだ》作《つく》る子《こ》 秀《ひ》でずとも 繩《なは》だに延《は》へよ 守《も》ると知《し》るがね
足曳之 山田佃子 不秀友 繩谷延与 守登知金
【語釈】 ○山田作る子 「子」は、その若者を親しんでの称。呼びかけ。○秀でずとも繩だに延へよ 「秀づ」は、穂を出すことで、まだ実らずと(531)も。「繩」は、所有をあらわす標で、繩だけでも張りなさい。○守ると知るがね 番をしていると人が知るために。
【釈】 山田を作っている若者よ。稲はまだ穂は出さなくても、繩だけでも張りなさい。番をしていると人が知るために。
【評】 実際としては不自然な感のある歌である。「山田作る子」は、夫となろうとする男、「秀でずとも」は、婚期以前の女で、今からその関係を顕わして置けよと勧めたのであろう。すなわち譬喩歌である。
2220 さを鹿《しか》の 妻《つま》喚《よ》ぶ山《やま》の 岡辺《をかべ》なる 早田《わさだ》は苅《か》らじ 霜《しも》は降《ふ》るとも
左小壯鹿之 妻喚山之 岳邊在 早田者不苅 霜者雖零
【語釈】 ○早田は苅らじ 早稲の田は刈るまいで、刈る時は妻問の時。
【釈】 牡鹿が妻問をする山の、その岡のほとりにあるわが早稲の田は刈るまい。霜が降ろうとも。
【評】 「早田は苅らじ」は、妻問をする牡鹿を隣れんで驚かすまいとする心からであるが、これは農民の心ではなく、第三者の風流心である。実際に即した形でいっているので緩和されている。
2221 我《わ》が門《かど》に 禁《も》る田《た》を見《み》れば 佐保《さほ》の内《うち》の 秋芽子《あきはぎ》すすき 念《おも》ほゆるかも
我門尓 禁田乎見者 沙穗内之 秋芽子爲酢寸 所念鴨
【語釈】 ○我が門に禁る田を見れば 「禁る田」は、猪鹿に荒らされまいと番をしている田で、番をするのは、稲が実った時のことである。○佐保の内の秋芽子 「佐保の内」は、佐保川を中心とした一帯の地域で、大伴氏の邸宅などのあった所。「秋芽子すすき」は、秋萩や薄で、秋の趣をあらわした物。
【釈】 わが門の、人が番をしている実って来た稲田を見ると、佐保の内の秋萩や薄のさまが思われることよ。
【評】 京からある距離をもった部落内に住んでいる人が、門田の稲の実って来たのを見ると、佐保の内の秋の景趣が連想されるというのである。大伴氏などに縁故のあるみやび心をもった人の歌で、その気分の察しられる作である。
(532) 河を詠める
2222 夕《ゆふ》さらず 河蝦《かはづ》鳴《な》くなる 三輪河《みわがは》の 清《きよ》き瀬《せ》の音《と》を 聞《き》かくし宜《よ》しも
暮不去 河蝦鳴成 三和河之 清瀬音乎 聞師吉毛
【語釈】 ○夕さらず河蝦鳴くなる 夕方ごとに河鹿が鳴くところの。○三輪河の清き瀬の音を 「三輪河」は、初瀬河の下流で、三輪山の付近を流れる時の称。○聞かくし宜しも 「聞かく」は、聞くの名詞形。「し」は、強意。「宜しも」は、快さよ。
【釈】 夕方ごとに河鹿が鳴くところの三輪河の、清い瀬の音を聞くことの快さよ。
【評】 三輪河のほとりに住んでいる人の、山河の瀬音を愛でての歌である。この時代の人は音に対して敏感であった。夕方の物音の際やかな時、河鹿の音のまじった山河の清い瀬の音に聞き入っている気分である。
月を詠める
2223 天《あめ》の海《うみ》に 月《つき》の船《ふね》浮《う》け 桂楫《かつらかぢ》 かけて榜《こ》ぐ見《み》ゆ 月人壮子《つきひとをとこ》
天海 月船浮 桂梶 懸而滂所見 月入壯子
【語釈】 ○桂楫かけて榜ぐ見ゆ 「桂楫」は、月中にある桂の木で作った楫で、「かけて」は、船に取り着けて。○月人壮子 月を若い男に譬えた(533)語で、上の(二〇一〇)に既出。
【釈】 天の海に、月の船を浮かべて、桂の楫を取り着けて榜いでいるのが見える。その月人壯子は。
【評】 巻七(一〇六八)人麿歌集の歌に、「天の海に雲の波立ち月の船星の林に榜ぎ隠る見ゆ」があった。また、懐風藻文武天皇の御製に「楓※[楫+戈]泛2霞浜1」の句もある。この歌の語句は、奈良朝の知識人には一般化しているものだったとみえる。「榜ぐ見ゆ」と感覚的にしているところに多少の新味のあるものである。
2224 この夜《よ》らは さ夜《よ》深《ふ》けぬらし 雁《かり》がねの 聞《きこ》ゆる空《そら》ゆ 月《つき》立《た》ち渡《わた》る
此夜等者 沙夜深去良之 鴈鳴乃 所聞空從 月立度
【語釈】 ○この夜らは 「夜ら」の「ら」は、接尾語。○聞ゆる空ゆ 「ゆ」は、聞こえる空をとおって。○月立ち渡る 「立ち」は、接頭語。
【釈】 この夜は夜更けたらしい。雁の鳴き声の聞こえる空をとおって、月がとおり過ぎて行く。
【評】 月の状態で、夜の更けたことを推量した心である。巻九(一七〇一)「さ夜中と夜は深けぬらし雁が音の聞ゆる空ゆ月渡る見ゆ」という人麿の歌を踏襲したものとみえる。人麿の歌の緊張と透徹とのない歌である。
2225 吾《わ》が背子《せこ》が 挿頭《かざし》の芽子《はぎ》に 置《お》く露《つゆ》を 清《さや》かに見《み》よと 月《つき》は照《て》るらし
吾背子之 插頭之芽子尓 置露乎 清見世跡 月者照良思
【語釈】 ○吾が背子が挿頭の芽子に 「吾が背子」は、男同士で親しんでの称。「挿頭の芽子に」は、挿頭にしているところの萩の花にで、挿頭は、この時代には宴会の時にすることになっていた。○置く露を 宿る露をで、これはありうべからざることで、誇張した語。○清かに見よと月は照るらし はっきり見よとて月は照るらしいというので、月を心あるものとしていったもの。宴会は、月の宴か、または月下での宴であったとみえる。
【釈】 わが背子が挿頭にしている萩の花に宿る露を、はっきり見よというので、月は照っているらしい。
【評】 ある人が、多分月の宴を催して人々を招いていた時、客の一人が主人に対して、宴会の楽しいことを、挨拶の心をもっていった歌である。わが背子と呼ばれている人は主人とみえる。いわゆる宴歌で、儀礼の歌であるが、静かで、細心なものであ(534)る。「さやかに見よと」は、事としてはありうべくもないが、 月下の気分としては言いうるものである。
2226 心無《こころな》き 秋《あき》の月夜《つくよ》の もの念《おも》ふと 寐《い》の宿《ね》らえぬに 照《て》りつつもとな
無心 秋月夜之 物念跡 寐不所宿 照乍本名
【語釈】 ○心無き秋の月夜の 察し心のない秋の月がで、「照りつつ」に続く。○もの念ふと寐の宿らえぬに 嘆きをするとて寝ても眠れないのに。○照りつつもとな 「もとな」は巻三(三〇五)及び上の(一九六四)などに既出。照りつづけて由ないことだ。
【釈】 察し心のない秋の月の、嘆きをするとて寝ても眠れないのに、照りつづけて由ないことだ。
【評】 秋、もの思いのある夜、月の照るのを憎んでいる心である。月に対してこのような感を抱くのは、従来には見られないことで、漢文学より来たものであろう。当時として新味あるものだったとみえる。
2227 念《おも》はぬに 時雨《しぐれ》の雨《あめ》は 降《ふ》りたれど 天雲《あまぐも》霽《は》れて 月夜《つくよ》清《さや》けし
不念尓 四具礼乃雨者 零有跡 天雲霽而 月夜清焉
【語釈】 ○天雲霽れて月夜清けし 「月夜」は、月。たちまちに雲が霽れて、月がさやかである。
【釈】 思いがけず時雨は降ったけれども、たちまち雲が霽れて、月がさやかである。
【評】 秋の月夜に、卒然と時雨が襲って来、来るとともに移って行って、また、月が照って来た変化のおもしろさをいった歌である。気分の変化のおもしろさを通しての叙景で、説明的になっているのはそのためである。生趣がある。
2228 芽子《はぎ》が花《はな》 咲《さ》きのををりを 見《み》よとかも 月夜《つくよ》の清《きよ》き 恋《こひ》益《まさ》らくに
芽子之花 開乃乎再入緒 見代跡可聞 月夜之清 戀益良國
【語釈】 ○咲きのををりを 「咲きのををり」は巻八(一四二一)に出た。咲き盛って、枝の撓《たわ》んでいるのを。「咲き」も「ををり」も、名詞形。(535)○見よとかも 「かも」は、疑問の係助詞で、条件。見よというのであろうか。○月夜の清き 「月夜」は、月。「清き」は、「かも」の結、連体形で、清きことよ。○恋益らくに 「恋」は、萩の花に対してのもの。「益らく」は、「増る」の名詞形。「に」は、詠歎。恋の増さることであるに。
【釈】 萩の花の咲き盛って枝の撓んでいるのを見よとてのことであろうか、月の清いことであるよ。恋が増さることであるのに。
【評】 月下の萩の花を見ての感じである。昼の光で見るよりもさらに魅力を感じさせられて、それに理由を求めて、「月夜の清き」といっているのは、時代の風である。さすがに「かも」の凝問を添えてはいる。「恋益らくに」は、重い句で、これがあるために、全体が実感で、深みのあるものとなって来ている。気分本位の歌で、力量のある作である。
2229 白露《しらつゆ》を 玉《たま》になしたる 長月《ながつき》の 在明《ありあけ》の月夜《つくよ》 見《み》れど飽《あ》かぬかも
白露乎 玉作有 九月 在明之月夜 雖見不飽可聞
【語釈】 ○白露を玉になしたる 「玉になしたる」は、玉に変化させているで、露が月光でほのかに煌《きら》めいているの意。○在明の月夜 夜明けの月。
【釈】 白露を玉と変えている九月の在明の月は、見ても飽かないことであるよ。
【評】 季節感の歌である。陰暦九月の夜明けのほの暗い頃、地はかすかに煌めく露、空は細い在明月のみで、他にはもののない境に浸っている気分で、調べもその気分を活かそうとする、単純な静かなものである。気分を重んじる心がなければ詠もうともせず、詠めもされない範囲の歌である。
風を詠める
2230 恋《こ》ひつつも 稲葉《いなば》掻《か》き別《わ》け 家《いへ》居《を》れば 乏《とも》しくもあらず 秋《あき》の夕風《ゆふかぜ》
戀乍裳 稻葉掻別 家居者 乏不有 秋之暮風
【語釈】 ○恋ひつつも 恋うるのは風で、暑さからである。「つつ」の連続で強めている。○稲葉掻き別け 下の「家」の状態で、「掻き別け」は、稲葉と稲葉の間の狭い所で、田の畔を具象的にいったもの。秋田を守るための仮庵の周囲のさま。○家居れば 家居をすればで、「家」は、秋田の番小屋である。○乏しくもあらず 少ないことない。○秋の夕風 涼しい風としていっていっているもの。
(536)【釈】 恋いながらも、稲葉を掻き別けての家居をしていると、乏しくはない。秋の夕風は。
【評】 秋田の番小屋に過ごしている農民の歌である。労働については何事もいわず、夕風の涼しさに救われる喜びだけをいっているものである。「稲葉掻き別け家居れば」は、仮小屋の状態描写ではなく、そこの暑さをあらわそうとしてのものである。残暑の頃の青草の照り返しは堪え難いものである。田の畔に作った小屋であれば察しられる。「掻き別け」は誇張のある語であるが、堪え難い暑さを気分としてあらわしたものとすれば自然なものとなる。「恋ひつつも」からこの句へ続けているのはその心からである。農民でなければ知り難い境であるが、しかしそれとすれば手腕のありすぎる歌である。上の(一八二〇)「梅の花咲ける岡辺に家居れば乏しくもあらず鶯の声」と酷似した形のものである。その歌にならっての作かもしれぬ。
2231 芽子《はぎ》が花《はな》 咲《さ》きたる野辺《のべ》に ひぐらしの 鳴《な》くなるなへに 秋《あき》の風《かぜ》吹《ふ》く
芽子花 咲有野邊 日娩之乃 鳴奈流共 秋風吹
【語釈】 ○鳴くなるなへに ひぐらしの鳴くのは夕方であるから、夕方ということもあらわしている。
【釈】 萩の花が咲いている野辺に、ひぐらしが鳴くにつれて、秋の風が吹いて来る。
【評】 季節感の歌である。「秋の風」は、ひぐらしの鳴くにつれて吹く夕風の涼しいのを、秋の風といっているので、季節の移り目の感の際やかな時の心である。
2232 秋山《あきやま》の 木《こ》の葉《は》もいまだ もみたねば 今朝《けさ》吹《ふ》く風《かぜ》は 霜《しも》も置《お》きぬべく
秋山之 木葉文未 赤者 今旦吹風者 霜毛置應久
【語釈】 ○もみたねば 「もみたぬに」と同意の古語で、並び行なわれた。○霜も置きぬべく 霜も置きそうにで、下に「あり」が省かれている。
【釈】 秋山の木の葉もまだ黄葉しないのに、今朝吹く風は、霜も置きそうである。
【評】 季節の移り目におりおりある、際立った変化に驚いたものである。
芳《かをり》を詠める
(537)【題意】 「芳」は、大矢本などには「かをり」と訓があり、歌で見ると茸である。食料としていたとみえる。
2233 高松《たかまつ》の この峯《みね》もせに 笠《かさ》立《た》てて 盈《み》ち盛《さか》りたる 秋《あき》の香《か》の宜《よ》さ
高松之 此峯迫尓 笠立而 盈盛有 秋香乃吉者
【語釈】 ○高松のこの峯もせに 「高松」は、高円で、上の(一八七四)に既出。「峯もせに」は、「せ」は狭《せ》で、峯も狭いとするほどに。○笠立てて盈ち盛りたる 「笠立てて」は、松茸の形。「盈ち盛りたる」は、一面に満ちて、盛んに生えている。○秋の香の宜さ 「秋の香」は、一語。松茸の特質をいったもの。「宜さ」は、宜いことだで、詠歎を籠めたもの。
【釈】 高松のこの峯も狭いほどに、笠と立てて、一面に、盛んに生えている秋の香の宜さよ。
【評】 上代の歌には食物を詠んだものが比較的多く、後には例のないまでである。しかし芳と詠んだものはこの一首のみである。作意は、高松の峯で発見した喜びで、松茸といわず、「笠立てて」といい、「秋の香」といって、その特色を描き出し、またその多さをいっているのは、すべて喜びの気分の具象化である。めずらしいのみならず、心の躍りのあらわれている快い作である。
雨を詠める
2234 一日《ひとひ》には 千重《ちへ》しくしくに 我《わ》が恋《こ》ふる 妹《いも》があたりに 時雨《しぐれ》ふれ見《み》む
一日 千重敷布 我戀 妹當 爲暮零礼見
【語釈】 〇一日には千重しくしくに 「一日には」は一日のうちには。「千重」は、幾重にもを強調したもの。「しくしくに」は、重ね重ねに。○妹があたりに時雨ふれ見む 妹が家の辺りに、時雨よ降れよ、それを見ようと、時雨を想像して命じたもの。
【釈】 一日のうちには、幾重にも重ね重ねに我が恋うている、妹の家のあたりに時雨よ降れ。それを見よう。
【評】 妹を恋うる気分そのものの表現である。捉えていることは「時雨ふれ見む」で、事としては、時雨を見たからとて何の詮もないことである。しかもその時雨も、想像よりいっているものである。一に気分よりのものである。それをいうに、「一日(538)には千重しくしくに」と、いかにもわざとらしい、成句に近い語をもって言い出しているのであるが、これがあるために「時雨ふれ見む」という純気分の語が生かされて来ているのである。奔放であるとともに統一があって、技巧としても超凡なものである。人麿以外の者には詠めない歌で、若き日の人麿を思わせるに足りる歌である。
右の一首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
右一首、柿本朝臣人麿之謌集出。
2235 秋田《あきた》苅《か》る 旅《たぴ》の廬《いほり》に 時雨《しぐれ》ふり 我《わ》が袖《そで》沾《ぬ》れぬ 干《ほ》す人《ひと》無《な》しに
秋田苅 客乃廬入尓 四具礼零 我袖沾 干人無二
【語釈】 ○秋田苅る旅の廬に 「旅」は、範囲の広い語で、家を離れた所だと、近い所でも用いた称で、用例のある語である。「廬」は、庵に入っていることで、ここは小屋住み。○干す人無しに 「干す人」は、衣のことを扱うのは妻の務めとしていたので、妻を言いかえたもの。妻が居ないのにの意。
【釈】 秋田を刈るための旅の小屋住みに時雨が降って、わが衣は濡れた。干す妻は居ないのに。
【評】 農民の歌である。秋田を刈る小屋住みの侘びしさをいつたものであるが、その侘びしさは妻が一緒にいないことなのである。小屋住みは、稲が実ると猪鹿の番をすることから始まるので、秋田を刈るまでには相当永い期間にわたったのである。実感を直截に述べた歌である。
2236 玉襷《たまだすき》 かけぬ時《とき》なし 吾《わ》が恋《こひ》は 時雨《しぐれ》しふらば 沾《ぬ》れつつも行《ゆ》かむ
玉手次 不懸時無 吾戀 此具礼志零者 沾乍毛將行
【語釈】 ○玉襷かけぬ時なし 「玉襷」は、「かけ」の枕詞。「かけぬ時なし」は、心にかけない時はないで、思いとおしている。○吾が恋は 我の妹に対しての恋は。
【釈】 心にかけていない時はない、わが恋は。時雨が降ったら、濡れながら行こう。
(539)【評】 これは広い意味でいっているものではなく、例せば今夜というように限られた意味でいっているものである。「沾れつつも行かむ」は、適当な雨具のなかった時代とて、生やさしいことではなかったのである。この歌の形は目に着くものである。三句の「吾が恋は」は、意義からいうと初句の上にあるべきもので、このように三句にあっても、なおその心のあるものである。次の平安朝時代には、これは型のようになった形だからである。この時代として新味ある構成である。また、初二句は古い語であり、「わが恋」といって妹をいわずにいる新しさがあるなど、形としては特殊なものである。しかし心は、実感の直写で、平明である。
2237 黄葉《もみちば》を 散《ち》らす時雨《しぐれ》の 降《ふ》るなへに 夜《よ》さへぞ寒《さむ》き 独《ひとり》し寝《ぬ》れば
黄葉乎 令落四具礼能 零苗尓 夜副衣寒 一之宿者
【語釈】 ○夜さへぞ寒き 「夜さへ」は、昼も時雨で寒いが、夜までも独寝で寒いで、「ぞ」の係、「寒き」は結で、連体形。
【釈】 黄葉を散らす時雨の降るに伴って、昼のみならず夜までも寒いことであるよ。独寝をしているので。
【評】 「夜さへぞ寒き」という語を中心とした歌である。「独し寝れば」の説明によって平凡なものになるが、とにかくその句に興味をもっての作である。この歌は、前の歌と同じく、語そのものの興味に動かされているものである。
霜を詠める
2238 天《あま》飛《と》ぶや 雁《かり》のつばさの 覆羽《おほひば》の 何処《いづく》漏《も》りてか 霜《しも》の降《ふ》りけむ
天飛也 鴈之翅乃 覆羽之 何處漏香 霜之零異牟
【語釈】 ○天飛ぶや 「天飛ぶや」は、天を飛ぶで、「や」は、感動の助詞。雁の枕詞ともするが、ここは状態描写である。○覆羽の 空を覆う羽根のの意。雁が列をつくり、羽根を連ねて飛ぶさまを誇張していった称である。○何処漏りてか どこの隙間を漏ってかで、「か」は疑問の係。○霜の降りけむ 霜が降ったことであろうか。
【釈】 天を飛ぶ雁のつばさの、あの空を覆う羽根の、どこを漏れて霜が降ったのであろうか。
(540)【評】 覆羽という語は、この歌の作者の造語ではなかろうか。雁の翼が空を覆うということは甚しい誇張で、感性というよりもむしろ気分から出たものに思われるからである。また、歌の中でこの語の意義の解せるように、説明に近い語を連ねていることも、それを思わせる。この歌はそれを中心とし、さらに「何処漏りてか」とその気分を伸展させることによって纏めた一首である。奈良朝時代は気分本位の歌を詠んだ時代であるが、その気分は、作者のものであるとともに、一方では事象より昇華したものの謂であって、事象と緊密に結び合っていて離れないものであった。しかるにこの作者の気分は、事象より遊離したもので、単に作者個人の気分にすぎないものになっているのである。すなわち客観性のない気分である。この歌はそうした気分よりの作である。一見おもしろそうで、その実味わいがなく、事実らしくみえながら、全くそれのないのは、一にそのためである。気分本位の歌風の陥りやすい弱所を示している歌である。
秋相聞
【解】 以下の五首は、左注によって、柿本人麿歌集の歌で、例によって特別扱いをしているものである。
2239 秋山《あきやま》の したひが下《した》に 鳴《な》く鳥《とり》の 声《こゑ》だに聞《き》かば 何《なに》か嘆《なげ》かむ
金山 舌日下 鳴鳥 音谷聞 何嘆
【語釈】 ○したひが下に 「したひ」は、木の葉の紅に染まる意の動詞の名詞形。巻二(二一七)「秋山の下へる妹」がある。紅に染まっている下に。○鳴く鳥の 「声」と続き、初句よりこれまではその序詞。○声だに聞かば 懸想をしている女の声だけでも聞けたら。
【釈】 秋山の紅に染まっている下に鳴いている鳥の声の、それにちなみある、思う人の声だけでも開けたなら、何で嘆こうか。
【評】 思っている女があるが、声を聞くだけの接近もできずに恋いつづけている人を、たまたま秋山の紅に染まっている下に鳴いている鳥の声を聞くと、それによって連想させられ、嘆きを深くした心である。序詞が大きな働きをしている。これがあるために、「声だに聞かば」という片恋が、実感味をもったものとなって来るとともに、すでにある期間連続して今に及んでいるものだという立体感を与えるものとなる。さらにまた、「秋山のしたひが下に鳴く鳥」は、その女の美しさと声とを、気分の上で連想させるものになり、これが最も重いものになって来るのである。序詞が語つづきの興味から離れて、一首全体に気(541)分の上のつながりをもつものになったのは、奈良朝時代に入っての新傾向であるが、人麿はそれ以前にその道を拓いていることを、この歌など明瞭に示している。この点が心を引く。
2240 誰《た》そ彼《かれ》と 我《われ》をな問《と》ひそ 九月《ながつき》の 露《つゆ》に沾《ぬ》れつつ 君《きみ》待《ま》つ吾《われ》を
誰彼 我莫問 九月 露沾乍 君待吾
【語釈】 ○誰そ彼と我をな問ひそ 「誰そ彼と」は、誰であるか、彼はと、その人の明らかにわからないのを訝かって問う場合の語。薄暗い中でのことである。この語は後には薄暮の称となったが、ここはその語源的なもの。「我をな問ひそ」は、我を訝かり問うなで、問うたのを恨んでの語。問うたのは、下の待っている君である。○九月の露に沾れつつ 「九月の露」は、肌寒い頃の夜露。「沾れつつ」は、濡れながら、戸外に立つことの久しい意。○君待つ吾を 「君」は、女より男をさしたもので、待っていた男。「吾を」は、吾ぞの意。
【釈】 あれはたれだと私を訝かって尋ねて下さいますな。九月の夜露に濡れながら、君を待っている私ですのに。
【評】 女が男の通って来るのを待って戸外に立っていると、男は来たが、暗い中の人影をたれともわからず、そうした折のこととて訝かってたれだと問うたのに対して、女の恨んでいった語である。こうしたことは上代の男女生活にはありがちな、むしろ普通のことであったろう。歌は形は単純だが、劇的な味わいのあるもので、また平明である。謡い物系統のもので、そうした興味から詠んだのであろう。
2241 秋《あき》の夜《よ》の 霧《きり》立《た》ち渡《わた》る 夜《よ》な夜《よ》なに 夢《いめ》にぞ見《み》つる 妹《いも》がすがたを
秋夜 霧發渡 ※[穴/夕]々 夢見 妹形矣
【語釈】 ○夜な夜なに 原文、紀州本、西本願寺本など「夙」とあり、諸注、訓み難くして、さまざまな訓をしており、誤写説も出ている。『全註釈』は、類聚古集には、「風」とあり、これは「※[穴/夕]」の誤写であろうとしている。「※[穴/夕]」は長夜の義の字で、秋の夜だからこの字を使ったのだろうといっている。それだと意味が明らかに通じる。
【釈】 秋の夜の、霧の立ち渡る夜々に、夢に見たことであった。妹の姿を。
【評】 男が女に逢った夜、夜頃の侘びしさを訴えた心のものである。「霧立ち渡る夜な夜な」は、紛れるものもない佗びしい(542)気分をあらわしているもので、そうした場合の歌としては効果的なものである。
2242 秋《あき》の野《の》の 尾花《をばな》が末《うれ》の 生《お》ひ靡《なぴ》き 心《こころ》は妹《いも》に 依《よ》りにけるかも
秋野 尾花末 生靡 心妹 依鴨
【語釈】 ○生ひ靡き 生い立って、靡いてで、「生ひ」は「靡き」を強めるためのもの。実際的である。初句からこれまでは、「依り」の譬喩である。○心は妹に依りにけるかも わが心は妹のほうに寄ってしまったことであるよ。
【釈】 秋の野の尾花の末が生い立って靡いているように、心は妹に寄ってしまっていることであるよ。
【評】 女と関係が結ばれた当座、女に対して自分の真実を誓った心の歌である。歌で誓いをするのは古くからの風だったのである。譬喩は眼前に見合っているもので、平凡なのがすなわち切実だったのである。その場合を生かしている歌である。
2243 秋山《あきやま》に 霜《しも》ふり覆《おほ》ひ 木《こ》の葉《は》散《ち》り 歳《とし》は行《ゆ》くとも 我《われ》忘《わす》れめや
秋山 霜零覆 木葉落 歳雖行 我忘八
【語釈】 ○歳は行くとも 年が移って行こうともで、いつまでもの意でいっているもの。
【釈】 秋山に霜が一面に降り覆って、木の葉は散って、年は移って行こうとも、我は妹を忘れようか忘れはしない。
【評】 これも上の歌と同じく、女に真実を誓った歌である。初句より四句までは、いつまでもということを強くあらわそうとしてのものである。これをいった時は霜の降る以前で、実際に即した言い方である。上の歌の連作で、語を変えて繰り返したものとも取れる。このようにいうのが効果的な相手だったとみえる。
右は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
右、柿本朝臣人磨之謌集出。
(543) 水田《こなた》に寄す
【題意】 「水田」を「こなた」と訓むことは上の(二二一九)に出た。
2244 住吉《すみのえ》の 岸《きし》を田《た》に墾《は》り 蒔《ま》きし稲《いね》の しが苅《か》るまでに 逢《あ》はぬ公《きみ》かも
住吉之 岸乎田尓墾 蒔稻乃 而及苅 不相公鴨
【語釈】 ○住吉の岸を田に墾り 住吉の海岸(大阪市住吉区)を新たに田に開墾して。実際に即していっているものとみえる。奈良朝時代は、新たに開墾した田はある期間租を免じ、また私田ともさせたので、豪族は競ってそれをした。従来見捨てられている海岸の地が、この意から開墾されていわゆる墾田となったのである。○しが苅るまでに 旧訓「しかもかるまで」。『新訓』の訓。本居宣長が『略解』で誤写説を立て、後の注はそれにしたがっていたものである。「しか」は、このようにで、現に刈るさまになっているのをさしてのもの。
【釈】 住吉の岸を田に開墾して蒔いた稲が、このように刈るようになるまでも、逢わない君であることよ。
【評】 女の歌で、男の久しく逢いに来ないのを嘆いた心である。初句から四句までは、久しい間ということを、眼前に見ている稲につけていっているもので、その言い方に特色がある。男を「公」という字でいってるので、この女は、開墾をさせている豪族の娘で、男も同じくそうした身分の者であろう。
2245 釼《たち》の後《しり》 玉《たま》纏《ま》く田井《たゐ》に 何時《いつ》までか 妹《いも》を相見《あひみ》ず 家《いへ》恋《こ》ひ居《を》らむ
釼後 玉纏田井尓 及何時可 妹乎不相見 家戀將居
【語釈】 ○釼の後 釼の尻鞘の意で、鞘の尻へ装飾として玉を纏いたので、その意味で「玉纏く」にかかる枕詞。○玉纏く田井に この語つづきは、語注、解し悩んで、さまざまの解をしている。『全註釈』は、玉を纏く手と続け、手を「田」に転じたもので、「釼の後玉纏く」は田にかかる序詞だとしている。「田井」は、「井」は、接尾語で、田は、後の続きで、秋の田圃で、作者は収穫期であるために、そこへ行っている身分ある人とみえる。
【釈】 釼の尻鞘を纏く、その玉を纏く手に因みある田圃に、いつまで、妹と逢わないで、家を恋うていることであろうか。
(544)【評】 ある身分をもっている人が、その領地へ、秋の収穫期に監督のために行き、暫く逗留する必要のあるところから家にいる妻を恋うている心である。序詞に特色がある。「玉纏く」は、「釼の後」にも意味でつながり、「田」にもつながっている。「田」は「手」に音が通い、妹に気分としてつながっているものであろう。「釼の後」はむろん自分のことで、玉という美しい物で双方を結びつけていると見られるものである。作者はその心で用いているのであろう。奈良朝時代の序詞である。
2246 秋《あき》の田《た》の 穂《ほ》の上《へ》に置《お》ける 白露《しらつゆ》の 消《け》ぬべく吾《われ》は 念《おも》ほゆるかも
秋田之 穗上置 白露之 可消吾者 所念鴨
【語釈】 ○秋の田の穂の上に置ける白露の 「消」にかかる序詞で、成句のごとくなっていたもの。○消ぬべく吾は念ほゆるかも 死んでしまいそうにも吾は思われることである。
【釈】 秋の田の穂の上に置いている白露のように、消え失せてしまいそうにも吾は思われることである。
【評】 女の訴えである。心も形も平明で、謡い物と思われる歌である。序詞は成句に近く、また序詞が一首を決定している歌で、類歌の多いものである。部落生活をしている者の歌で、心も環境も一般性のあるところから、類歌も生まれ、謡い物ともなったことと思われる。
2247 秋《あき》の田《た》の 穂向《ほむき》のよれる 片《かた》よりに 吾《われ》は物念《ものおも》ふ つれなきものを
秋田之 穗向之所依 片縁 吾者物念 都礼無物乎
【語釈】 ○秋の田の穂向のよれる 秋の実った稲は穂が重く、風の向きで一方に寄るので、譬喩の意で「片より」にかかる序詞。巻二(一一四)「秋の田の穂向のよれるかたよりに」がある。○片よりに 偏ってで、意は、ひたすらにである。○つれなきものを 相手は冷淡であるのに。
【釈】 秋の田の稲の穂向のように、ひたすらに吾はものを思っている。相手は冷淡であるのに。
【評】 これも心の広い歌で、男ならば結婚前、女ならば結婚後もする嘆きであろう。明らかに謡い物とみえる。
2248 秋《あき》の田《た》を 仮廬《かりいほ》つくり 慮《いほり》して あるらむ君《きみ》を 見《み》むよしもがも
(545) 秋田※[口+立刀] 借廬作 五百入爲而 有藍君※[口+立刀] 將見依毛欲得
【語釈】 ○秋の田を仮廬つくり 秋の田を刈る仮廬を作ってで、「仮」は掛詞となっている。○廬して 廬住みをして。○見むよしもがも 逢う方法が欲しいものだで、「もが」は、願望の助詞。
【釈】 秋の田を刈る仮小屋を作って小屋住みをしているだろう君に、逢う方法のほしいものだ。
【評】 農民の妻の歌である。妻とはいってもこの女は、男と関係を結んでいるという程度のものであることが、「あるらむ君を」というので知られる。また秋の仮小屋住みは相応長い期間のものであるから、こうした心も起こるのである。謡い物として行なわれうる性質の歌である。第二句の掛詞もそれだとすれば不自然ではない。
2249 鶴《たづ》がねの 聞《きこ》ゆる田井《たゐ》に 廬《いほり》して 吾《われ》旅《たび》なりと 妹《いも》に告《つ》げこそ
鶴鳴之 所聞田井尓 五百入爲而 吾客有跡 於妹告社
【語釈】 ○鶴がねの聞ゆる田井に 「鶴」は渡鳥で、秋の終わりに渡って来る。「田井」は田圃で、鶴の関係から海寄りと取れる。○吾旅なりと妹に告げこそ 「旅なりと」は、家を離れているとで、「旅」は、上に出た。「告げこそ」は、「こそ」は、願望の助詞で、妻に告げてくれで、人に伝言を頼んだのである。
【釈】 鶴の声の聞こえる田圃に小屋住みをして、吾は旅にいると妻に知らしてくれよ。
【評】 この歌の妹も、離れて暮している関係上、長期の小屋住みということも知らせる機会がなく、人にそのことの伝言を頼んだのである。部落民の謡い物であったろう。
2250 春霞《はるがすみ》 たなびく田居《たゐ》に 廬《いほ》づきて 秋田《あきた》苅《か》るまで 思《おも》はしむらく
春霞 多奈引田居尓 廬付而 秋田苅左右 令思良久
【語釈】 ○春霞たなびく田居に 「春霞たなびく田居」は、春、農耕の始まる頃から、田のほとりの仮小屋住まいをしたとみえる。上代は住地は山寄り、耕田は平地で、したがって距離の遠いところから、そのようにしたとみえる。農閑の時は無論家に帰ったことだろう。○廬づきて 小屋住(546)みをし始めて。○思はしむらく 「思はしむ」の名詞形で、妻を思わしめることよと、詠歎していったもの。
【釈】 春の霞のたなびいている田圃に、仮小屋住みをしはじめて、秋田を刈るまでの久しい間を、思いをさせることであるよ。
【評】 これは男の農民の歌である。職業歌といえるものであるが、広く全体にわたってその気分をいっているものである。「春霞たなびく田居に」といい、「思はしむらく」といっているのは、いずれも気分的な言い方である。気分的というだけではなく、それとしても一脈の余裕のみえる作であるから、多分は第三者の歌であろう。
2251 橘《たちばな》を 守部《もりべ》の里《さと》の 門田早稲《かどたわせ》 苅《か》る時《とき》過《す》ぎぬ 来《こ》じとすらしも
橘乎 守部乃五十戸之 門田早稻 苅時過去 不來跡爲等霜
【語釈】 ○橘を守部の里の 「橘を」は、それを大切にして守る意で、「守り」へかかる枕詞。「守部の里」は、所在不明である。地名としては所々にある。○門田早稲 女の家の門田の早稲。○苅る時過ぎぬ 「苅る時」は、下の続きで、男が来ようと約束した時である。○来じとすらしも 男は釆まいとしているらしい。
【釈】 橘を守るという、守部の里の門田の早稲を刈る掛は過ぎ去った。来まいとしているらしい。
【評】 女が、男の約束してあるにもかかわらず、来そうもないのを恨んだ歌である。心細かい歌で、「橘を守部の里の」は、「門田早稲」を重くいおうとしてのもので、また「門田早稲」は、「苅る時過ぎぬ」をいおうがためである。このように心を籠めていっているのは、「苅る時」がすなわち男の来ようと約束していた時で、それを暗示的にあらわそうがためである。そのことを十分にあらわし得ているがために、「来じとすらしも」の「らし」という、一見相応に飛躍のある語が、自然な妥当の語となっているのである。全体としては気分を主とした作であるが、実際を離れまいとしているので、気分は華麗な、自在性をもった形になっているのである。手腕のある作で、男性の歌だろうと思わせるものである。
露に寄す
2252 秋芽子《あきはぎ》の 咲《さ》き散《ち》る野辺《のべ》の 夕露《ゆふつゆ》に 沾《ぬ》れつつ来《き》ませ 夜《よ》は深《ふ》けぬから
秋芽子之 開散野邊之 暮露尓 沾乍來益 夜者深去韓
(547)【語釈】 ○咲き散る野辺の夕霧に 「咲き散る」は、散るを主とした成句で、しばしば出た。「夕露」は、ここは夜の露で、これまた花とともに酷愛していたもので、趣は同じ。○沾れつつ来ませ 「沾れつつ」は、濡れながらで、本来は侘びしとしたことを、反対に楽しいことに言いかえたもの。「来ませ」は、来よの敬語。妻より夫にいっている。○夜は深けぬから 「から」は、夜が更けたゆえに。仙覚本には「鞆」とあるが、元暦校本、紀州本には「韓」とあるので、『全註釈』の改めたもの。
【釈】 萩の花の咲いて散る野辺の夕方の露に、濡れながらいらせたまえ。夜が更けたから。
【評】 妻よりその夫に、今宵は必ず来ませよと、使をもって贈った歌である。自分が逢いたいゆえにとはいわず、その越えて来るべき野の萩の花の露に濡れるのが夫にとっては快いことときめていっているものである。しかし「夕露」と「夜は深けぬから」とは調和のないものである。気分を重んずる階級の歌である。
2253 色《いろ》づかふ 秋《あき》の露霜《つゆじも》 な降《ふ》りそね 妹《いも》が袂《たもと》を 纏《ま》かぬ今夜《こよひ》は
色付相 秋之盛霜 莫零根 妹之手本乎 不纏今夜者
【語釈】 ○色づかふ秋の霧霜 「色づかふ」は、色づくの連続で、草木の葉の色づかせる意。「露霜」の性質をいったもの。○妹が袂を纏かぬ今夜は 妹が手を枕としない今夜はで、独寝の意。
【釈】 草木を色づかせる秋の水霜は、降ってくれるなよ。妹が手を枕としない今夜は。
【評】 独寝をしている夜だ、この上に寒くあってくれるなというのである。それにしては詠み方がいかにも華やかで大げさだ。気分を重んじる詠風からのことであるが、そのために実際から遊離しようとしているのである。実際を生かすための詠風が、実際を忘れようとする境に近づいているのである。
2254 秋芽子《あきはぎ》の 上《うへ》に置《お》きたる 白露《しらつゆ》の 消《け》かもしなまし 恋《こ》ふるにあらずは
秋芽子之 上尓置有 白露之 消鴨死猿 戀尓不有者
【語釈】 ○秋芽子の上に置きたる白露の 「消」の序詞で、既出。○恋ふるにあらずは 『全註釈』は今のごとく訓んでいる。恋うていずして。
(548)【釈】 萩の花の上に置いている白露の消えるように、我も消えて死ぬべきであったろうか。恋うていずに。
【評】 巻八(一六〇八)弓削皇子の歌に「秋芽子の上に置きたる白露の消かもしなまし恋ひつつあらずは」がある。結句の幾分の差は、謡い物として謡われていたところからの流動であろう。謡い物にふさわしい歌である。
2255 吾《わ》が屋前《やど》の 秋芽子《あきはぎ》の上《うへ》に 置《お》く露《つゆ》の いちしろくしも 吾《われ》恋《こ》ひめやも
吾屋前 秋芽子上 置露 市白霜 吾戀目八面
【語釈】 ○置く霧の 「の」は、のごとく。○いちしろくしも吾恋ひめやも 「いちしろく」は、いちじるしくの古形。「しも」は、強意。「や」は、反語。
【釈】 わが家の庭の萩の花の上に置いている露のように、著しく目立って吾は恋いようか、恋いはしない。
【評】 女の歌とみえる。上代の夫婦関係は、それを持続させてゆく上から、ある期間は秘密にしなければならなかった。これは庭の萩の花の上に置く白露の目立つのを眺め入って、表面にあらわれそうになる恋ごころを強く制した心である。平凡な譬喩であるが、実際に即しているために深みのあるものとなっている。
2256 秋《あき》の穂《ほ》を しのにおし靡《な》べ 置《お》く露《つゆ》の 消《け》かもしなまし 恋《こ》ひつつあらずは
秋穂乎 之努尓押靡 置露 消鴨死益 戀乍不有者
【語釈】 ○秋の穂をしのにおし靡べ 「秋の穂」は、稲の穂。「しのに」は、しなうまでに。巻三(二六六)に既出。○置く露の 「消」と続き、初句より二句までその序詞。
【釈】 秋の稲の穂をしなわせるまでに、おし靡かせて置いている露の、その消えるように、我も消えて死ぬべきであったろうか。恋いつづけていずに。
【評】 二首前の歌と序詞の初二句が異なるだけである。謡い物は眼前の実際に合うように、原歌の一部を変えるのが普通となっていた。これもそれであろう。原歌が一般性をもったもので、これも一首として存在しうるものとなっている。
(549)2257 露霜《つゆじも》に 衣手《ころもで》濡《ぬ》れて 今《いま》だにも 妹許《いもがり》行《ゆ》かな 夜《よ》は深《ふ》けぬとも
露霜尓 衣袖所沾而 今谷毛 妹許行名 夜者雖深
【語釈】 ○衣手濡れて 「衣手」は、袖であるが、衣の意でいったもの。○今だにも妹許行かな 「今だにも」は、今からでもで、時の遅さをいったもの。「行かな」の「な」は、自身に対しての願望。
【釈】 水霜に衣を濡らして、今からでも妹の所へ行こうよ。着けば、夜は更けようとも。
【評】 これも一般性をもったもので、詠み方も平明で、謡い物と思われる歌である。細かさはあるが、気分の作ではない。
2258 秋芽子《あきはぎ》の 枝《えだ》もとををに 置《お》く露《つゆ》の 消《け》かもしなまし 恋《こ》ひつつあらずは
秋芽子之 枝毛十尾尓 置露之 消毳死猿 戀乍不有者
【語釈】 ○枝もとををに 「とををに」は、撓《たわ》み撓むまでにで、副詞。「とを」は「たわ」の古語。
【釈】 秋萩の枝も撓み撓みするまでに置いている露の、その消えるように、我も、消えて死ぬべきであったろうか。恋いつづけていずに。
【評】 これも(二二五六)の序詞の初二句を変えただけの歌である。流行歌の勢力と、その追随のさまが思われる。
2259 秋芽子《あきはぎ》の 上《うへ》に白露《しらつゆ》 置《お》く毎《ごと》に 見《み》つつぞしのふ 君《きみ》が光儀《すがた》を
秋芽子之 上尓白露 毎置 見管曾思怒布 君之光儀呼
【語釈】 ○秋芽子の上に白露 「秋芽子」は、今野に見る紅色の花で、「白露」は、そのものとして清らかな上に、花の色を含んで艶を帯びたもの。○見つつぞしのふ 「しのふ」は、思慕するで、「ぞ」の結。連体形。○君が光儀を 「君」は、男。
【釈】 萩の花の上に、白露が置くごとに、見つつ思慕することである。君が姿を。
(550)【評】 女が男の姿の魅力的なのに、限りなく心を引かれているという歌である。男が女の美しきを讃える歌は多いが、女が男を讃える歌はきわめて少なく、これはその少ないものである。しかしその美しさは、萩の花の上に置く白い露から連想されるもので、清らかさを主体とし、それに一脈の艶を含んだもので、純気分よりのものであり、こうしたことに伴いやすい厭味のないものである。「置く毎に」は朝夕のことで、間断なくというに近い。こうしたことを女が取材するということは、そのこと自体が時代の生活気分を反映していることである。
風に寄す
2260 吾妹子《わぎもこ》は 衣《きぬ》にあらなむ 秋風《あきかぜ》の 寒《さむ》きこのごろ 下《した》に著《き》ましを
吾妹子者 衣丹有南 秋風之 寒比來 下著益乎
【語釈】 ○衣にあらなむ あってほしいで、仮設。○下に著ましを 「下に」は、人目を包む意より。「まし」は、上の仮設の帰結。「を」は、詠歎。
【釈】 吾妹子は、衣であってほしい。それだと、秋風の肌寒いこの頃、下に着て居ようものを。
【評】 その人の身に付いた物は形見として、その人同様に思い、また、下の衣は男女通わして着もしたので、この歌は当時にあっては、直接に感じられたものである。しかしこの歌には、形見という気分は見えず、「寒きこの頃」が目的となっている。形見には信仰が伴っているので、その衰えを示している感がある。
2261 泊瀬風《はつせかぜ》 かく吹《ふ》く三更《よは》は 何時《いつ》までか 衣《ころも》片敷《かたし》き 吾《わ》が独《ひとり》宿《ね》む
泊瀬風 如是吹三更者 及何時 衣片教 吾一將宿
【語釈】 ○泊瀬風かく吹く三更は 「泊瀬風」は、泊瀬の地に吹く風で、泊瀬は泊瀬川に沿った寒い地である。「三更」は、夜中。○何時までか 「か」は、疑問の係。○衣片敷き 「片敷」は、自身の衣のだけを敷いて、重ねるべき相手の衣がなくて寝る意で、独寝の状態。
【釈】 泊瀬風のこのように寒く吹く夜中は、いつまで、わが衣だけを片敷いて、我は独寝をすることであろうか。
(551)【評】 泊瀬の渓谷に住んでいる男の、秋風の寒い夜、独寝をしていて、こうした状態がいつまで続くのであろうかと嘆いた心である。「何時までか」の一語によって、その妻の無いことを暗示し得ているのは、実際に即していっているからである。「三更は」の「は」が、よく利いている。
雨に寄す
2262 秋芽子《あきはぎ》を 散《ち》らす長雨《ながめ》の 降《ふ》るころは 独《ひとり》起《お》き居《ゐ》て 恋《こ》ふる夜《よ》ぞおほき
秋芽子乎 令落長雨之 零比者 一起居而 戀夜曾大寸
【語釈】 略す。
【釈】 萩の花を散らす長雨の降る頃は、一人で起きていて、夫を恋うる夜の多いことであるよ。
【評】 妻の、遠く離れて逢い難い夫を思う歌である。「長雨の降るころは」と、一年の中のさみしい季節を捉えていい、「恋ふる夜ぞおほき」と、平常は諦めているごとくいっているのが、その境涯をよくあらわしている。境涯から生まれる気分であるから、境涯を離れてはいえないものである。特殊な気分をいいつつ、その境涯を暗示し得ているのであるから、相応な歌というべきである。
2263 九月《ながつき》の 時雨《しぐれ》の雨《あめ》の 山霧《やまぎり》の いぶせき吾《わ》が胸《むね》 誰《たれ》を見《み》ば息《や》まむ
九月 四具礼乃雨之 山霧 烟寸吾吉※[匈/月] 誰乎見者將息
【釈】 ○山霧の 雨に伴って起こるもので、意味で、「いぶせき」に続き、初句からこれまでその序詞。○いぶせき吾が胸 「いぶせき」は、心の晴れず、気のふさぐ意。「吾が」は、原文「吾吉」で、旧訓。諸注、問題としている字で、衍字説が有力であるが、『全註釈』は、「吉※[匈/月]」を自分の胸の意で書いたのだろうといっている。○誰を見ば息まむ 誰に逢ったらぽこの思いは息むだろうで、「誰」は、たれでもなく、君の意である。
【釈】 九月の時雨に伴って立つ山霧の気のふさぐ、それに似た、気のふさいでいるわが胸は、たれに逢ったら息むのであろう、たれでもない君である。
(552)【評】 女の歌である。この歌の序詞は、「山霧の」という特殊な語をもったもので、一首と気分のつながりのあるという程度のものではなく、譬喩として一首の中心である「いぶせき」にかかっているものである。のみならず、実景としての序詞が、一首の作因をなしているといえるものである。「誰を見ば息まむ」は、気の利きすぎたものである。初句から四句までが単調なので、これによって転回し得たといえるものである。
一に云ふ、十月《かむなづき》 時雨《しぐれ》の雨《あめ》降《ふ》り
一云、十月 四具礼乃雨降
【解】 初二句の別伝である。上の歌を十月に謡いなどする時改めたのであろう。三句との続きが鈍くなり、序詞の味が減って来る。
蟻《こほろぎ》に寄す
2264 蟋蟀《こほろぎ》の 待《ま》ち歓《よろこ》ぶる 秋《あき》の夜《よ》を 寐《ぬ》るしるしなし 枕《》と吾《まくらわれ》は
蟋蟀之 待歡 秋夜乎 寐驗無 枕与吾者
【語釈】 ○蟋蟀の待ち歓ぶる 蟋蟀が、わが時として待って、待ち得て歓んで鳴いている。「歓ぶ」は当時上二段活用の動詞、ここは連体形。○秋の夜を 秋の夜だのにで、「を」は、感動の助詞。○枕と吾は 独寝のさまを婉曲にいったもの。
【釈】 蟋蟀は、わが時として待ち、待ち得て歓んで鳴いている秋の夜だのに、吾は寝る甲斐もない。枕と吾とで。
【評】 夫の来るのを待って、待ち得ずして独寝をしている女が、閨近く、夜の来たのを歓ぶように蟋蟀の鳴いているのを聞いて、蟋蟀と自身とを対照して、彼を羨み、我を嘆く意をいったものである。気分を主として詠んだ歌で、実際とも離れずにいるので、一首が豊かで、また自在で、そこが味いとなっている歌である。「待ち歓ぶる」「枕と吾は」は、いずれも巧みな句である。
蝦《かはづ》に寄す
(553)2265 朝霞《あさがすみ》 鹿火屋《かひや》が下《した》に 鳴《な》く河蝦《かはづ》 声《こゑ》だに聞《き》かば 吾《われ》恋《こ》ひめやも
朝霞 鹿火屋之下尓 鳴蝦 聲谷聞者 吾將戀八方
【語釈】 ○朝霞鹿火屋が下に 「朝霞」は、「霞」は、上代は霧と差別がなく、後世だと当然霧というべき場合にも用いている。ここもそれで、朝の霧の意であり、「鹿火星」に直接に関係しているものである。「鹿火屋」は、いかなる物であるかが定まらず、古来じつに説が多く、列挙に堪えないまでである。大体、家屋の称とする説と、家屋以外のものの称とする説とで、それすら定まらないのである。賀茂真淵は『冠辞考』で、稲田を荒らす猪鹿を追うために、引板を鳴らし、夜すがら榾《ほだ》を焚いている仮庵の称だとしている。鹿火星という用字ともつながりがあり、諸説中最も妥当なものに思える。それだと「朝霞」は、その鹿火星の上に立っている、夜すがら焚いていた火の煙と取れる。「下に」は、下の続きで、河鹿の鳴いているところであるから清流で、鹿火屋はその清流の上に作ってあったのである。○鳴く河蝦 鳴いている河鹿で、「声」と続き、初句からこれまではその序詞である。○声だに聞かば吾恋ひめやも 声だけでも聞けたならば、吾は恋いようか、恋いはしないで、「声」は片恋をしている女の声で、接近する機会さえもない深い悩みをいったもの。
【釈】 朝霧のかかっている鹿火屋の下で鳴いている河鹿の声の、その声にちなみある、思う女の声だけでも聞けるならば、吾は恋いようか恋いはしない。
【評】 男の片恋の嘆きで、「声だに聞かば吾恋ひめやも」が中心である。これは上の(二二三九)人麿歌集の「声だに聞かば何か嗅かむ」と異ならないもので、格別のものではない。「朝霞鹿火屋が下に鳴く河蝦」は、序詞として奇抜に感じられるものである。しかしこれも主となるのは「鳴く河暇」で、「鹿火屋」もその時代にあっては特殊なものではなかったろうから、奇抜さはむしろ河蝦の所在としていっている点にある。作意からいうと、この序詞は気分より捉えたもので、気分としては、「鳴く河蝦」に思う女を連想し、「朝霞鹿火屋が下に」に、その女の環境を連想したのであって、「声だに聞かば」という嘆きは、その環境のさせているものとしたのであろう。気分より捉えた序詞とはいうが、譬喩として捉えている点が濃厚であって、それとしては気分的だという程度のものである。要するに新奇で、厚みのある、魅力ある序詞である。
雁に寄す
2266 出《い》でて去《い》なば 天飛《あまと》ぶ雁《かり》の 泣《な》きぬべみ 今日今日《けふけふ》といふに 年《とし》ぞ経《へ》にける
(554) 出去者 天飛雁之 可泣美 且今日々々々云二 年曾經去家類
【語釈】 ○出でて去なば 家を出て行つたならばで、旅の遠い所とみえる。○天飛ぶ雁の泣きぬべみ 空を飛ぶ雁のように泣きそうになる故にで、雁は譬喩。○今日今日といふに 今日は今日はといって、一日延ばしにしているうちに。○年ぞ経にける 一年を経たことである。「ける」は、「ぞ」の結。
【釈】 自分が家を出て旅へ行ったならば、妻は空を飛ぶ雁のように泣きそうなので、今日は今日はといっているうちに、年が過ぎたことである。
【評】 「出でて去なは」というのは、どういう事情であるかわからないが、延ばせば延ばせる性質のものであるから、旅へ出稼ぎをするというような、生活上の必要に迫られてのことであろう。それをしようと思いつつ、妻の心細げにしているのを見ると、振り切っては出られない嘆きとみえる。庶民が旅へ稼ぎに出て、久しく故郷へ帰れない嘆きをしている上代歌謡がある。この種のことは稀れではなかったとみえる。一般性をもった歌だったろうと思われる。
鹿に寄す
2267 さを鹿《しか》の 朝《あさ》伏《ふ》す小野《をの》の 草《くさ》若《わか》み 隠《かく》ろひかねて 人《ひと》に知《し》らゆな
左小牡鹿之 朝伏小野之 草若美 隱不得而 於人所知名
【語釈】 ○朝伏す小野の草苦み 「小野」は、「小」は接頭語。「草若み」は、草が若いゆえにで、春の丈の低い草。三句まで、意味で「隠ろひかねて」にかかる序詞。○隠ろひかねて 「隠ろひ」は、隠るの連続。隠れ得ずしてで、忍んで通って来る男が、その身を隠すことをいったもの。○人に知らゆな 人に見つかるなの意。
【釈】 牡鹿が朝を臥している野の草が若いので身が隠せない、そのように君も隠れることができずに、人にそれと知られるな。
【評】 女が、忍んで通って来る男に注意した歌である。序詞は、心としては譬喩に異ならないものである。こうした状態は上代はめずらしいものではなかったろう。「草若み」は春の若草で、季別けをすれば春であるが、牡鹿を秋の季のものとするところから、ここへ収めたのである。明るい可憐な歌で、実感からのものともみえない。謡い物ではなかったか。
(555)2268 さを鹿《しか》の 小野《をの》の草伏《くさぶし》 いちしろく 吾《わ》が問《と》はなくに 人《ひと》の知《し》れらく
小壯鹿之 小野之草伏 灼然 吾不問尓 人乃知良久
【語釈】 ○小野の草伏 「小」は、接頭語。「草伏」は、草に臥すことで、それをした跡は草が荒らされてはっきりしている意で、「いちしろく」と続け、初二句はその序詞。○いちしろく吾が問はなくに 「いちしろく」は、目に立つほどには。「問はなくに」は、妻問いはしないことであるに。○人の知れらく 「人」は、世間の人。「知れらく」は、知れりの名詞形で、詠歎をもったもの。世間の人が知っていることよ。
【釈】 牡鹿が草に臥した跡の人目に立つ、そのように人目に立つほどには妻問いをしないことだのに、人が知っていることよ。
【評】 部落生活をしている男女の、秘密にしている関係の漏れやすいことを嘆いた歌は多い。これもそれである。「さを鹿の小野の草伏」という序詞は目新しいものである。上の歌の場合と同じく、こうしたことは特別なことではなかったとみえる。これも序詞によって生かされている歌で、男女の生活環境がこの歌に短い語であらわされている。上代としては一般性をもった歌である。
鶴《たづ》に寄す
2269 この夜《よ》らの 暁《あかとき》降《くだ》ち 鳴《な》く鶴《たづ》の 念《おもひ》は過《す》ぎず 恋《こひ》こそまされ
今夜乃 曉降 鳴鶴之 念不過 戀許増益也
【語釈】 ○この夜らの暁降ち 「この夜らの」は、旧訓。「ら」を読み添えたのである。四音にするほどの特殊な取材ではないから、これに従う。「ら」は接尾語。「暁降ち」は、「降ち」は、盛りの過ぎた意で、夜を主として、暁のほうへ降ちての意で、明け方近くなった意。○鳴く鶴の 鳴く鶴のごとく。鶴の鳴きつづけるのを譬喩としたもの。○念は過ぎず わが嘆きは過ぎ去らないで、やまないでの意。「ず」は連用形。嘆きは恋の上のもの。○恋こそまされ 妻に対する恋のみが募って来るで、旅にあって妻を思った心。
【釈】 この夜が味方になった時に鳴く鶴のように、嘆きは過ぎ去らずに恋が募ることである。
【評】 難波というような海べへ旅をして、京の妻を恋うて眠り難くしていた人が、夜明け近く、鶴の鳴き続ける声に刺激され(556)て、妻恋しい心を募らせられた心である。旅ということにも妻にも触れず、ただ鶴の声を聞いての気分だけをいい、他は暗示にとどめている歌である。気分本位の詠み方で、それによって厚みをもって自身の状態をあらわしているのである。鶴は秋来る渡り鳥なので、秋の李に入れてある。
草に寄す
2270 道《みち》の辺《べ》の 尾花《をばな》が下《した》の 思草《おもひぐさ》 今更《いまさら》に何《な》ぞ 物《もの》か念《おも》はむ
道邊之 乎花我下之 思草 今更尓何 物可將念
【語釈】 ○尾花が下の思草 「思草」は、集中ここにあるのみの草である。前田曙山(園芸文庫第三巻)によって明らかになった。これは今、なんばんぎせると呼んでいる草で、尾花の下にのみ生える草で、秋の頃淡紫色の花をつける。その花は横を向いて咲くので、人の物思いをするさまを連想しての名だろうという。なんばんぎせるは南蛮煙管で、これも花の形からの称である。「念はむ」に同音でかかり、初句からこれまで、その序詞。○今更に何ぞ物か念はむ 今更に何で嘆きなどしようかで、現にしている嘆きを押し返そうとする心。
【釈】 道のほとりの尾花が下に咲いている思草よ、今更になんで物思いなどしようか。
【評】 女の歌である。その夫とはすでに短くない関係をもっているのであるが、夫の態度から物思いをさせられているおりから、たまたま道の辺の思い草を見、その花のさまと名とから刺激され、現にもっている心を強く押し返そうとしたのである。この序詞は、この歌にとっては重いもので、花のさまからは一首の作因となり、名からは同音反復の序詞となっているのである。しかも結果から見ると、女が道に立って、思草の花に見入って、新しい覚悟をしているさまを浮かばせるものとなっている。気分と実際の状態とを十分にあらわし得ている歌である。
花に寄す
2271 草《くさ》深《ふか》み こほろぎ多《さは》に 鳴《な》く屋前《やど》の 芽子《はぎ》見《み》に公《きみ》は 何時《いつ》か来《き》まさむ
草深三 蟋多 鳴屋前 芽子見公者 何時來益牟
(557)【語釈】 ○草深みこほろぎ多に 「草深み」は、草が高いのでで、蟋蟀が集いやすく多くの意。
【釈】 草が高いので、こほろぎが多く鳴いているわが家の庭の萩の花を見に、公はいついらせられるであろうか。
【評】 妻が夫の来訪を促して贈った歌である。秋の景物といううち、草が高く立ち、こほろぎが繁く鳴いて、萩の花が咲いているという、しめやかな、哀れのある景物をもって誘うのが効果的になっていたとみえる。貴族間の一つの傾向となっていたらしい。
2272 秋《あき》づけば 水草《みくさ》の花《はな》の あえぬがに 思《おも》ふと知《し》らじ 直《ただ》に逢《あ》はざれば
秋就者 水草花乃 阿要奴蟹 思跡不知 直尓不相在者
【語釈】 ○秋づけば水草の花の 「秋づけば」は、秋めいて来ると。「水草の花」は、水草、あたは水辺の草の花で、何草ともしれぬ。「花」は夏を盛りとするものの意でいっている。○あえぬがに 「あえぬ」は、「あえ」は「あゆ」の連用形で、「ぬ」は完了。「あゆ」は、熟して落ちる意で、「がに」は、ほどに。巻八(一五〇七)に既出。○思ふと知らじ わが思っているとは君は知るまい。○直に逢はざれば じかに逢わずにいるので。
【釈】 秋めいて来ると、水草の花が咲き切って落ちそうにするほどに思っているとは知らないであろう。じかに逢わずにいるので。
【評】 久しく夫に逢えずにいる妻の、恋しさに堪え切れない心の訴えで、来訪を促した歌である。「水草の花」は、女の家の庭などの物で、男もよく知っている物であろう。「あえぬがに思ふと知らじ」は、じつに巧みな譬喩である。感覚的で、清新で、魅力のあるものである。したがって「思ふと知らじ」が力強い訴えとなるのである。「直に逢はざれば」は、総収しての繰り返しではあるが、心は口ではとてもいえないという意と、必ず違いに来たまえということを婉曲にいった二重の意味があって、働きのある句である。年若い人の歌ではない。濃情な、手管のある、歌才の豊かな、その人を思わせる範囲の歌である。
2273 何《なに》すとか 君《きみ》を厭《いと》はむ 秋芽子《あきはぎ》の その初花《はつはな》の 歓《うれ》しきものを
何爲等加 君乎將※[厭のがんだれなし] 秋芽子乃 其始花之 歡寸物乎
【語釈】 ○何すとか君を厭はむ 「何すとか」は、何だってというにあたる。「か」は、疑問の係。○秋芽子のその初花の 咲くとうれしい萩のそ(558)の初花のようにで、響喩。
【釈】 なんだって君を厭いなどしようか。秋萩のその初花のようにうれしいのに。
【評】 初めて男と相逢った女が、男から、我を厭っているのではないのかと問われたのに対しての答である。言下に男の問を否定して、躍る心をもって詠んだものであることが、一首の調べで感じられる。「秋芽子のその初花」のという譬喩は眼前のもので、この場合に必ずしも適したものでないところにかえって魅力がある。もっとも「初花」は初めて男に逢ったことを暗示してはいる。
2274 展転《こいまろ》び 恋《こ》ひは死《し》ぬとも いちしろく 色《いろ》には出《し》でじ 朝《あさ》がほの花《はな》
展轉 戀者死友 灼然 色庭不出 朝容※[白/ハ]之花
【語釈】 ○展転び恋ひは死ぬとも 「展転び」は、巻三(四七五)に出た。「こい」は上二段活用の動詞「こゆ」の連用形。横臥すること。「転び」は、転がることで、ころげ廻って。字は漢語の展転に当てたもの。○朝がほの花 巻八(一五三八)、上の(二一〇四)にも出た。桔梗の花で、その色の派手なところから、「いちしろく色には出でじ」の譬喩の心でいっているもの。
【釈】 ころげ廻って、恋い死にをしようとも、はっきりと表面に顕わすことはしまい。朝がおの花のように。
【評】 女の歌である。上代は夫婦関係は、ある期間、人に知られるとその関係が弛むという信仰があったので、その上に立っての歌である。結句の「朝がほの花」は、こうした苦悶をしている女が、たまたま朝がおの派手な色をしているのを見、それに刺激されて、その覚悟を思い返し、あの朝顔の花のようにはしまいと思ったのであり、その生活の実際に即しての心理の移りを示しているもので、結句のこの位置にあるのが自然である。しかし同じことでも、歌そのものに重点を置いていうと、朝がおの花のごとくいちしろく色には出でじという順序になるべき性質の語である。現に平安朝時代には、この歌のごとく、譬喩の語を名詞形とし、結句に据えてあるのが、甚しく新味あるものとして讃えられたのである。この集としてもこうした形はめずらしいものである。この歌ではそれを心理的に自然なものとして、無意識に行なっているとみえる。その意味でこの点が注意を引く。
2275 言《こと》に出《い》でて 云《い》はばゆゆしみ 朝《あさ》がほの 穂《ほ》には咲《さ》き出《い》でぬ 恋《こひ》もするかも
(559) 言出而 云者忌染 朝※[白/ハ]乃 穗庭開不出 戀爲鴨
【語釈】 ○云はばゆゆしみ いつたならば、憚りあるゆえに。○朝がほの穂には咲き出でぬ あらわには咲き出さないようなで、朝がおの莟を捉えて譬喩としたもの。花に穂というのは、巻十一(二七八三)「含《ふふ》める花の穂に咲きぬべし」があり、ここはその含める花である。
【釈】 口へ出していったならば憚りがあるので、朝がおのあらわには咲き出さない、すなわち蕾のような恋をすることである。
【評】 男の歌とみえる。恋を包んでいる嘆きの歌は多い。「朝がほの穂には咲き出でぬ」は新味ある撃喩である。この皆喩は朝がおのようにあらわには咲き出さないの意にも取りうるものであるが、作意はもっと消極的な、蕾のようなといぅのであろう。
2276 雁《かり》がねの 初声《はつこゑ》聞《き》きて 咲《さ》き出《い》でたる 屋前《やど》の秋芽子《あきはぎ》 見《み》に来《こ》吾が背子《せこ》
鴈鳴之 始音聞而 開出有 屋前之秋芽子 見來吾世古
【語釈】 略す。
【釈】 雁の初声を聞いて咲き出した、わが家の庭の秋萩を見にいらっしゃい、わが背子よ。
【評》 庭の萩の花にことよせて、夫の来訪を促した歌である。雁の来る頃には、萩の花は終わるものとしている歌が幾らもあった。季節が合わない。雁に夫を、秋萩に自身をなぞらえようとする心からのことであろう。それにしても不備である。
2277 さを鹿《しか》の 入野《いりの》のすすき 初尾花《はつをばな》 何時《いつ》しか妹《いも》が 手《て》を枕《まくら》かむ
左小壯鹿之 入野乃爲酢寸 初尾花 何時加妹之 手將枕
【語釈】 ○さを鹿の入野のすすき 「さを鹿の」は、その入る野とつづけて入野の枕詞。「入野」は、京都市右京区大原野町の、上羽、灰方付近で、そこに入野神社があるという。そこの薄。○初尾花 上に続いて、薄の初尾花で、最初に穂を出したもの。それを待つ意で、「何時しか」と続き、初句よりこれまでその序詞。○何時しか妹が手枕をかむ 諸注、訓み難くして誤写説を立てている。これは『万葉総索引』の訓である。「何時しか」は、いつであろうか、早くで、「か」は疑問の係。「手を枕かむ」は、手を枕にすることだろうで、いつ妹の手を枕にするのだろうかと、待ち(560)遠にする心。
【釈】 牡鹿の入る、入野の薄のその初尾花の、いつ見られるにちなむ、いつのことか早くと、妹の手を枕にするだろう時が待たれる。
【評】 妹と目ざしている女と、共寝のできる時期を待ち遠しくしている心である。序詞は主文に心のつながりをもっているもので、「入野」はこの男女の住地、またはそれに近いところ、「初尾花」は、その女を暗示しているもので、女がまだ少女で、婚期に違していないことを暗示しているものである。早婚時代とてこれに類似の歌は少なくない。特別な心ではなく、一般性をもっていたものと思われる。序詞は調子がよく、四、五句は露骨で、その地方の謡い物という形のものである。巻七(一二七二)人麿歌集の歌に、「釼大刀鞘ゆ納野に」というがある。何らかの理由で、取材されやすい地であったとみえる。
2278 恋《こ》ふる日《ひ》の け長《なが》くしあれば み苑園《そのふ》の 辛藍《からあゐ》の花《はな》の 色《いろ》に出《い》でにけり
戀日之 氣長有者 三苑圃能 辛藍花之 色出尓來
【語釈】 ○け長くしあれば 「長く」は、日の重なる意で、恋うる時が久しいので。「し」は、強意の助詞。○み苑圃の辛藍の花の 「み苑圃」は、草花や蔬菜を作る所の称。「辛藍の花」は、鶏頭花で、それのごとくで、二句譬喩で、「色」の序詞。○色に出でにけり 「色に」は、面に。「けり」は、詠歎。
【釈】 恋うる時が久しいので、わが園の鶏頭の花のように面に出てしまったことである。
【評】 女の歌で、秘密にしている恋のあらわれた嘆きである。「み苑圃の辛藍の花の」の譬喩に、ある程度の新味のあるものである。
(561)2279 吾《わ》が郷《さと》に 今《いま》咲《さ》く花《はな》の 女郎花《をみなへし》 堪《あ》へぬ情《こころ》に なほ恋《こ》ひにけり
吾郷尓 今咲花乃 娘部四 不堪情 尚戀二家里
【語釈】 ○今咲く花の女郎花 新たに咲き出した女郎花で、少女の一人前になったことを譬えたもの。○堪へぬ情に 「堪へぬ情」は、恋うまいとするが、しきれぬ心に。○なほ恋ひにけり やはり恋うてしまったで、「けり」は、詠歎。
【釈】 わが里に新たに咲き出した女郎花よ。恋うまいとするが、しきれない心に、やはり恋うてしまったことだ。
【評】 男の歌で、その住んでいる辺りの少女の、美しい一人前の女になって来たのを見て恋情を催し、それまでの心に較べて不似合に感じ、制しはしたが制しきれない心になったというのである。恋の歌とすると特色のあるもので、気分と実際の状態との無理なくあらわされている歌である。部落民の集団的生活をしている関係から、気がねともいうべきものがにじんでいる、細かい気分のある歌である。
2280 芽子《はぎ》が花《はな》 咲《さ》けるを見《み》れば 君《きみ》にあはず 真《まこと》も久《ひさ》に なりにけるかも
芽子花 咲有乎見者 君不相 眞毛久二 成來鴨
【語釈】 ○君にあはず 君に逢わずしてで、連用形。
【釈】 萩の花の咲いているのを見ると、君に逢わずに、ほんとうに久しくなったことであるよ。
【評】 「真も久に」という語で生かされている歌である。夫に逢えずにいるのを恨んでいる心ではなく、ただ思い入っている心であるから、夫は遠い旅にでもいるものと思われる。一首の単純に、素直な詠み方であることもそれを思わせる。
2281 朝露《あさつゆ》に 咲《さ》きすさびたる 鴨頭草《つきくさ》の 日《ひ》斜《くだ》つなへに 消《け》ぬべく念《おも》ほゆ
朝露尓 咲酢左乾垂 鴨頭草之 日斜共 可消所念
(562)【語釈】 ○朝露に咲きすさびたる 「朝露」は、花を咲かせるものとしていっている。「咲きすさびたる」は、盛んに咲いているで、花の数の多きよりいったもの。「すさぶ」は、集中ここにだけある語。勢が盛んになる意。○日斜つなへに 日が傾くにつれて。○消ぬべく念ほゆ 消えそうに思われるで、露草の花の萎《しぼ》むのを、感じとしていったものである。
【釈】 朝露に濡れて、盛んに咲き満ちている露草が日が傾くにつれて、萎んで消えそうに思われる。
【評】 恋の悩みをしている女の歌である。歌の形は、女が家の辺りにある露草の花を終日眺めくらして、朝は露に濡れて生き生きと咲き満ちている花が、夕方近く萎んでゆくのを見、おりから自身も、夕方のものさびしさに恋の悩みが募って死ぬような気がするところから、露草の花の状態をいうことによって、自身の気分を全面的にあらわそうとしたものである。恋ということには触れないのみならず、われということさえいわず、ただ露草の状態だけをいってそれをあらわしているので、譬喩ということは完全に超えたもので、いわゆる象徴の歌である。気分表現の傾向の限度にまで迫ろうとしている歌である。
2282 長《なが》き夜《よ》を 君《きみ》に恋《こ》ひつつ 生《い》けらずは 咲《さ》きて散《ち》りにし 花《はな》ならましを
長夜乎 於君戀乍 不生者 開而落西 花有益乎
【語釈】 ○生けらずは 生きていないで。○花ならましを 花であったらよかったろうものをで、上に省いてある仮説の帰結。
【釈】 長夜を君に恋いつつ生きていないで、咲いて散って行った花であったらよかったろうものを。
【評】 女の歌で、類歌の多いものであり、平凡である。
2283 吾妹子《わぎもこ》に 相坂山《あふさかやま》の はだ薄《すすき》 穂《ほ》には咲《さ》き出《い》でず 恋《こ》ひ渡《わた》るかも
吾妹兒尓 相坂山之 皮爲酢寸 穏庭開不出 戀度鴨
【語釈】 ○吾妹子に相坂山の 「吾妹子に」は、逢うと続き、相坂山の枕詞。「相坂山」は、山城(京都市)と近江(大津市)との境の山。○はだ薄 「はだ」は、原文「皮」。穂を孕んでいる時期の薄の称。「穂には咲き出でず」に、譬喩の意でかかり、初句よりこれまでその序詞。○穂には咲き出でず 表面にはあらわさないのを、序詞の関係で「咲き」といったもの。「出でず」は、連用形。
(563)【釈】 吾妹子に逢うという逢坂山のはだ薄のように、穂にはあらわさないで恋いつづけていることよ。
【評】 男の歌である。序詞ははだ薄の譬喩を主としたものであるが、その所在である「吾妹子に相坂山の」は、語意にすがって設けたもので、すべて理詰めである。こうした傾向もあったことを思わせる歌である。
2284 いささめに 今《いま》も見《み》が欲《ほ》し 秋芽子《あきはぎ》の しなひにあらむ 妹《いも》がすがたを
率尓 今毛欲見 秋芽子之 四搓二將有 妹之光儀乎
【語釈】 ○いささめに今も見が欲し 「いささめに」は、ちょっとでも。「今も」の「も」は、夜に並べての意。「見が欲し」は、旧訓「見てしか」。これは、『考』の訓。見たい。○秋芽子のしなひにあらむ 秋芽子のようにしなやかだろうで、「しなひ」は「しなふ」の名詞形に「に」を添えた副詞。
【釈】 ちょっとでも今も見たいものである。秋萩のようにしなやかであろう妹の姿を。
【評】 男が庭に咲き撓《たわ》んでいる萩の枝振りから、妹の姿を連想しての心である。軽い気分の歌であるが、実際に即していっているので、魅力のあるものとなっている。
2285 秋芽子《あきはぎ》の 花野《はなの》の薄《すすき》 穂《ほ》には出《い》でず 吾《わ》が恋《こ》ひわたる 隠妻《こもりづま》はも
秋芽子之 花野乃爲酢寸 穗庭不出 吾戀度 隱嬬波母
【語釈】 ○秋芽子の花野の薄 秋萩の花盛りの野にまじつている薄で、(564)「穂」の序詞。○隠妻はも 「隠妻」は、人に秘密にしている妻。「はも」は、詠歎。
【釈】 萩の花盛りの野にまじっている薄のごとく、我も穂には出さずに恋いつづけている隠妻は、ああ。
【評】 秋萩の花野の薄が作因をなしているとみえる。「花野」という美しい語が「隠妻」に気分のつながりを感じさせる。明るい恋である。
2286 吾《わ》が屋戸《やど》に 咲《さ》きし秋芽子《あきはぎ》 散《ち》り過《す》ぎて 実《み》になるまでに 君《きみ》に逢《あ》はぬかも
吾屋戸尓 開秋芽子 散過而 實成及丹 於君不相鴨
【語釈】 略す。
【釈】 わが屋戸に咲いた秋萩が散ってしまって、実になるまでの久しい間を、君に逢わないことであるよ。
【評】 女の歌で、初句より四句まで丹念にいっていることが、すなわち嘆きの気分である。
2287 吾《わ》が屋前《やど》の 芽子《はぎ》咲《さ》きにけり 散《ち》らぬ間《ま》に 早《はや》来《き》て見《み》べし 平城《なら》の里人《さとびと》
吾屋前之 芽子開二家里 不落間尓 早來可見 平城里人
【語釈】 ○早来て見べし 「見べし」は、「見」は、連用形で、連用形から助動詞「べし」に続けるのは古格である。「べし」は、希望の意のもの。○平城の里人 「里人」は、官人に対させた称。呼びかけ。
【釈】 わが庭の萩が咲いている。散らないうちに、早く来て御覧なさい。平城の里人よ。
【評】 萩の花を見に来てくれといぅ案内状である。「早来て見べし」は、親しい間だが疎遠にしている友に、逢いたさを主にしていっている形である。当人同士の関係がその言い方を決定させる範囲の歌である。
2288 石走《いはばし》の 間々《まま》に生《お》ひたる 貌花《かほばな》の 花《はな》にしありけり 在《あ》りつつ見《み》れば
(565) 石走 間々生有 ※[白/ハ]花乃 花西有來 在筒見者
【語釈】 ○石走の間々に生ひたる 「石走」は、川の中に橋の代わりに置いてある飛石の称。「間々に生ひたる」は、その飛石のあいだあいだに生えている。○貌花の 「貌花」は巻八(一六三〇)に出た。何の花か不明。昼顔の花かという。同音「花」に続き、初句よりこれまではその序詞。○花にしありけり 「花」は、ここは文字通り美しい意のもの。花は実に対させて、その真実とは反対に浮気の意にも用いるが、ここはそれではない。「し」は、強意。「けり」は、詠歎。○在りつつ見れば 「在り」は、現在の状態。「つつ」は、連続。夫婦関係を続けていて見ればの意。
【釈】 石橋のあいだあいだに生えている昼顔の、その花の美しさであることよ。夫婦関係を続けていて見れば。
【評】 男の、関係を結んだ女を讃えた心の歌である。懸想した時期に、美しいと思ったその感銘が、いつまでも続いているというので、それを得難いこととして讃えているのである。序詞は特色のあるものである。「石走の間々に生ひたる貌花」は、その河は多くの場合水が涸れていて河原の状態になっている河で、また貌花も、派手な花の少なかった上代には、特に目につく花であったろうと思われる。この序詞は、懸想時代の思い出を代表しているという、密接なつながりをもったものであろう。「花にしありけり」の強い詠歎がそれを思わせる。気分本位であるが、気分を印象的に扱ったというべきである。
2289 藤原《ふぢはら》の 古《ふ》りにし郷《さと》の 秋芽子《あきはぎ》は 咲《さ》きて散《ち》りにき 君《きみ》待《ま》ちかねて
藤原 古郷之 秋芽子者 開所落去寸 君待不得而
【語釈】 ○藤原の古りにし郷の 藤原の古くなった里で、奈良へ遷都の後のこと。○君待ちかねて 「君」は、夫。「かねて」は、得ずしてで、君より見てもらおうとして待っていた萩が、待ち得ずしての意。
【釈】 藤原の古くなった里の秋萩は咲いて散ってしまった。君から見てもらおうと待っていたが、待ち得ずして。
【評】 奈良遷都とともに、夫は新京へ移ったが、妻は藤原の故京に残っていて、秋萩の季節の過ぎた頃、奈良にいる夫へ贈った歌である。君に見ていただこうと待っていた秋萩は、見られずに散りつくしたといって、夫の久しく無沙汰をしているのをそれとなく嘆いて訴えた心である。この訴へ方は型のごとくなっていたものであるが、詠み方がおおらかであるためにおのずから品が添い、あわれ深いものとなっている。
2290 秋芽子《あきはぎ》を 散《ち》り過《す》ぎぬべみ 手折《たを》り持《も》ち 見《み》れどもさぶし 君《きみ》にしあらねば
(566) 秋芽子乎 落過沼蛇 手折持 雖見不怜 君西不有者
【語釈】 ○秋芳子を散り過ぎぬべみ 秋萩が散り終わりそうなので。
【釈】 秋萩の花が、散り終わりそうなので、折って手にして見るけれども、楽しくはない。君ではないので。
【評】 女の、男に贈った歌である。萩の花に結びつけたものと思える。「秋芽子を散り過ぎぬべみ」は、夫が来訪したらともに見ようと待っていたが、来そうもないのでの心よりのもので、「君にしあらねば」は、せめてこれなりと見給えという代わりに、立ち入って、拗ねていっている形のものである。濃情にみえる歌であるが、むしろそれを超えた、しつこい、神経的な歌である。相聞の歌のこととて、おのずから個性的になっている。
2291 朝《あした》咲《さ》き 夕《ゆふべ》は消《け》ぬる 鴨頭草《つきくさ》の 消《け》ぬべき恋《こひ》も 吾《われ》はするかも
朝開 夕者消流 鴨頭草乃 可消戀毛 吾者爲鴨
【語釈】 ○夕は消ぬる 夕方には萎《しぼ》んでしまうで、上に出た。○鴨頭草の 上の「消」を承けて、下の「消」に続けたもので、初句よりこれまでは、その序詞。
【釈】 朝咲いて、夕べは萎んで消えてゆく露草の、その消えて死にそうな恋を我はしていることであるよ。
【評】 序詞を生命としている歌であるが、その取材はすでに繰り返されて古くなっているところから、形を新しくしようとしたものである。しかしその変え方は、従来の感性的だったのを概念的にしたのである。ありうべきことであるが、それをすると次の時代の平安朝と異ならなくなるのである。その範囲のものである。
2292) 秋津野《あきつの》の 尾花苅《をばなか》り副《そ》へ 秋芽子《あきはぎ》の 花《はな》を葺《ふ》かさね 君《きみ》が仮廬《かりいほ》
※[虫+延]野之 尾花苅副 秋芽子之 花乎葺核 君之借廬
【語釈】 ○秋津野の 吉野離宮辺りの一帯の地の称。○花を葺かさね 「葺かさね」は、葺けの敬語に、「ね」の願望を添えたもの。お書きなさいませよ。○君が仮廬 「仮廬」は、旅宿りをするための仮小屋で、やや身分ある人は、行く先で作ったのである。ここは公務を帯びて逗留する人(567)の物と取れる。
【釈】 秋津野の尾花を刈り添えて、秋萩の花を刈って屋根をお葺きなさいませよ。君が仮小屋は。
【評】 官人で何らかの公務を帯びて秋津野へ行き、そこに逗留することになった夫に対し、その妻が別れる前に贈った形の歌である。京に近い吉野であるが、当時のこととて、そこへ行っている人は家恋しい歌を詠んでいる。その点は妻も同様であったろう。この歌はそうした点には全然触れず、旅の仮小屋の屋根の葺き代《しろ》として、おりからの萩の花と尾花とを想像し、夫もまたそれによって慰められるものとしていっているのである。自然美が距離を置いての鑑賞物ではなく、日常生活の中に融け入っていることを示している歌である。尾花で屋根を葺くおもしろさは、その歌もあって、すでに常識化していたことと思われるが、場合柄やはり注意を引く気分である。
2293 咲《さ》けりとも 知《し》らずしあらば 黙然《もだ》もあらむ この秋芽子《あきはぎ》を 見《み》せつつもとな
咲友 不知師有者 黙然將有 此秋芽子乎 令視管本名
【語釈】 ○咲けりとも知らずしあらば 咲いていたであろうとも、それと知らずにいたならばで、「し」は、強意。○黙然もあらむ 「黙然」は、黙っていること。ここは、心が動いてものをいうとし、黙っているのは心の動かない、すなわち平気でいることとして、平気ということを具象化したものである。平気でいられよう。○見せつつもとな 「見せ」は、贈って来て見せる意。「つつ」は、連続であるが、ここは見せてを、語調でいったものと取れる。「もとな」は、由ないことだ。
【釈】 咲いていたからとて、それと知らずにいたならば、平気でいよう。この萩の花を我に見せて、由ないことだ。
【評】 病臥するか、あるいは何らかの事情で、久しく家に籠もっている人が、人より萩の花を贈られたのに対しての心である。表面は贈ってくれた人を恨む形であるが、心は自由に萩の花を見られない自身の愚痴である。言い方のくどいのが気分の表現になっている。
山に寄す
2294 秋《あき》されば 雁《かり》飛《と》び越《こ》ゆる 竜田山《たつたやま》 立《た》ちても居《ゐ》ても 君《きみ》をしぞ念《おも》ふ
(568) 秋去者 鴈飛越 龍田山 立而毛居而毛 君乎思曾念
【語釈】 ○竜田山 同音で「立つ」に続き、初句から三句までその序詞。○立ちても居ても 行動の全部で、絶えずという意を具象的にいったもの。
【釈】 秋になると、雁が飛び越えてゆく竜田山。その立つという、我は立っても居ても、君を思うことである。
【評】 類歌のあるもので、一般性のある心を平明に詠んでいる点から見て、謡い物かと思われる。序詞に気分を籠もらせてあるとすれば、難波のほうに旅をして逗留している男の、夕方竜田山を越えて京のほうへゆく雁を見て旅愁をそそられ、妻を思っての歌とみえもするが、迎えての解であろう。
黄葉に寄す
2295 我《わ》が屋戸《やど》の 田葛葉《くずは》日《ひ》にけに 色《いろ》づきぬ 来《き》まさぬ君《きみ》は 何情《なにごころ》ぞも
我屋戸之 田葛葉日殊 色付奴 不來座君者 何情曾毛
【語釈】 ○田葛葉日にけに 「田葛」は、葛に当てた字。「日にけに」は、日増しに。○来まさぬ君は 「来まさぬ」は、来ぬの敬語。「君」は、夫。○何情ぞも どういう心。「ぞ」は、強意の助詞、「も」は、詠歎。
【釈】 わが家の葛の葉は、日増しに色が添って来た。見にいらせられない君は、どういうお心なのでしょう。
【評】 夫の来訪を、葛の黄葉に託して促した心である。それをいうに、「来まさぬ君は何情ぞも」と、叱責するごとき恨み方をしているのである。性格からのことであろう。
2296 あしひきの 山《やま》さなかづら もみつまで 妹《いも》にあはずや 吾《わ》が恋《こ》ひ居《を》らむ
足引乃 山佐奈葛 黄變及 妹尓不相哉 吾戀將居
【語釈】 ○山さなかづら 山にある美男かずらで、作者が今目にしている形でいっているもの。
(569)【釈】 山のさなかずらが黄葉するまで、妹に逢わずに、我は恋うているのであろうか。
【評】 山に行くことがあって、山のさなかずらの黄葉しているのを見ると、それが刺激となって、妹を恋いつつ逢わずにいる間の久しさを、今更のごとく思わせられたのである。類歌はあるが、実際に即して率直にいっているので、感のある歌となっているものである。
2297 もみち葉《ば》の 過《す》ぎかてぬ児《こ》を 人妻《ひとづま》と 見《み》つつやあらむ 恋《こほ》しきものを
黄葉之 過不勝兒乎 人妻跡 見乍哉將有 戀敷物乎
【語釈】 ○もみち葉の過ぎかてぬ児を 「もみち葉の」は、散り去る意で、「過ぎ」の枕詞。「過ぎ」は、見過ごすこと。「かてぬ」は、堪えられない意。「児」は、女の愛称。見過ごすに堪えられないかわいい女を。○人妻と見つつやあらむ 「つつ」は連続。「や」は、疑問の係。
【釈】 見過ごすには堪えられないかわゆい女を、人妻として見つついることであろうか。恋しいのに。
【評】 人妻とはいっても、娘時代と同じくその母の家に住んで、かわらない状態を保っているので、以前から思いを寄せていた男には、こうした感は起こりやすいものであったろう。「もみち葉の過ぎかてぬ児を」という語は、新味のあるものである。
月に寄す
2298 君《きみ》に恋《こ》ひ しなえうらぶれ 吾《わ》が居《を》れば 秋風《あきかぜ》吹《ふ》きて 月《つき》斜《かたぷ》きぬ
於君戀 之奈要浦觸 吾居者 秋風吹而 月斜焉
【語釈】 ○しなえうらぶれ 「しなえ」は、萎えで、萎《しお》れる意。「うらぶれ」は、物思いにしおれる意で、ほぼ同意語を畳んで意を強めたもの。
【釈】 夫を恋うて、萎れて、物思いにしおれて吾がいると、秋の風が吹いて、月が傾いてしまった。
【評】 秋の夜、妻である女が夫の頼みなげに見えることを思い続けて夜を更かした心である。漠然としたことを大きく捉えていっている歌であるが、一首の歌として見ると、統一した感があり、落ちついた、しみじみした、味をもった歌となり、欠け(570)るところのないものとなっている。事実を詠もうとしたのではなく、事実より湧く気分を表現しようとしたもので、それを成し遂げているからである。「秋風吹きて月斜きぬ」は事実であるが、事実そのものではなく、気分を表現しようとして、その具象のためにいっている事実で、気分の範囲に属するものである。形には古さがあるが、奈良朝の新風の気分本位の態度で詠んでいる歌である。
2299 秋《あき》の夜《よ》の 月《つき》かも君《きみ》は 雲隠《くもがく》り しましも見《み》ねば 幾許《ここだ》恋《こほ》しき
秋夜之 月疑意君者 雲隱 須臾不見者 幾許戀敷
【語釈】 ○月かも君は 月であるのか、君はで、「君」は、夫。
【釈】 秋の夜の月であるのか、夫は。月が雲に隠れ、暫くでも見えないと、甚しく恋しいことである。
【評】 秋の夜、月に対して、妻がその夫を思っている心である。月を見ていると楽しく、雲が動いて来て暫く隠れると、妙に恋しくなるというのである。月を見ると楽しく心足る気を、「秋の夜の月かも君は」といっているので、全気分をあらわし得ている語である。「雲隠り」以下も、「幾許恋しき」に同じく全気分が出ていて、前半と対し得ている。
2300 九月《ながつき》の 在明《ありあけ》の月夜《つくよ》 在《あ》りつつも 君《きみ》が来《き》まさば 吾《われ》恋《こ》ひめやも
九月之 在明能月夜 有乍毛 君之來座者 吾將戀八方
【語釈】 ○九月の在明の月夜 「月夜」は、月。初二句、同音で「在り」にかかる序詞。○在りつつも 自分が在り経つつで、生きながらえて。○吾恋ひめやも 「や」は、反語で、恋いようか、恋いはしない。
【釈】 九月の在明の月の、我も在り経つつ、君が通っていらっしゃるのであったら、吾は恋いようか、恋いはしない。
【評】 女がその夫から疎遠にされる悩みをしていての心である。「君が来まさば吾恋ひめやも」は普通の心であるが、それに加えていっている「在りつつも」は、深く思い入って、人生そのものにまでも思い到った匂いをもつ語である。「九月の在明の月夜」は、同音で下へかかる序詞であるが、それだけのものではなく、女が悩ましさのため眠られずに見ていたもので、眼前を(571)捉えたものと思われる。九月の在明月は、さみしさとともに清らかなもので、対かっているとものを思い入らせずにはやまないものである。それが「在りつつも」と思わせたのは、その語つづきが示している。すなわち一首は、女が九月の在明の月に眺め入っていての感なのである。恋の歌ではあるが、静かな、深みある気分の表現で、めずらしい歌である。
夜に寄す
2301 よしゑやし 恋《こ》ひじとすれど 秋風《あきかぜ》の 寒《さむ》く吹《ふ》く夜《よ》は 君《きみ》をしぞ念《おも》ふ
忍咲八師 不戀登爲跡 金風之 寒吹夜者 君乎之曾念
【語釈】 ○よしゑやし恋ひじとすれど 「よしゑやし」は、原文「忍咲八師」。『全註釈』は、元暦校本の訓「おしゑやし」に従い、精しく考察して、「よしゑやし」とは別な語だとし、堪え忍んでの意だとしている。今は「よしゑやし」に従うこととする。
【釈】 よしや、恋うまいとするが、秋風の寒く吹く夜は、君を思うことであるよ。
【評】 女の歌である。激しやすく、折れやすい、善良な庶民の心がそのままに詠まれている。謡い物ではなかったかと思われる。
2302 或者《わびびと》の あな情《こころ》なと 念《おも》ふらむ 秋《あき》の長夜《ながよ》を 寐《い》ね臥《ふ》してのみ
或者之 痛情無跡 將念 秋之長夜乎 寐臥耳
【語釈】 ○或者の 旧訓。「或」は、惑に通じて用いている字で、巻九(一八〇一)「或人者《わびびとは》啼《ね》にも哭きつつ」と出た。また「惑」は、巻四(七一七)「独念《かたもひ》に吾は念へば惑《わび》しくもあるか」がある。多感な、風流を解する人。○あな情なと念ふらむ ああ心ないことだと思うだろう。○寐ね臥してのみ 寝てばかりいるで、作者自身の状態。
【釈】 多感な風流を解する人の、ああ心ないことだと思うだろう。秋の長い夜を寝てばかりいる。
【評】 男の歌と取れる。秋の長い一夜の楽しかるべき時を、人と離れてひとり寝てばかりいる人の、いわゆるわび人の思わくを気にしての歌である。こうした自己批評をするのは、作者も同じくわび人で、そしてそのような状態でいるのは何らかの理(572)由があってのことであろう。想像しやすいことは恋の悩みであるが、それを暗示する一語もないので、わかりかねる。編者の資料とした書には、多分相聞の中に加えてあったので、ここへ収めたのではなかろうか。
2303 秋《あき》の夜《よ》を 長《なが》しといへど 積《つも》りにし 恋《こひ》を尽《つく》せば 短《みじか》かりけり
秋夜乎 長跡雖言 積西 戀盡者 短有家里
【語釈】 略す。
【釈】 秋の夜を長いものと人はいうけれども、積もっていた恋を尽くすと、短いものであったことだ。
【評】 男の歌で、久しぶりで逢った女に、夜が明けて帰ろうとする時に詠んだ形のものである。挨拶程度の歌だ。
衣に寄す
2304 あきつはに にほへる衣《ころも》 吾《われ》は著《き》じ 君《きみ》に奉《まつ》らば 夜《よる》も著《き》るがね
秋都葉尓 々寶敞流衣 吾者不服 於君奉者 夜毛著金
【語釈】 ○あきつはににほへる衣 「あきつは」は、巻三(三七六)湯原王の「秋津羽《あきづは》の袖振る妹を」とあったとは異なり、秋つ葉で、黄葉した葉で、「に」は、のように。「にほへる」は、色の美しい意。秋の葉のように美しく染まった衣。○吾は著じ 「吾」は、女で、女が自身のために染めた物だが、自分は着まい。○君に奉らば 君に差し上げたならば。○夜も著るがね 夜も着る料にで、昼は下着に、夜もまた君の身に添う料になるようにの意。「がね」は巻三(三六四)、上の(一九〇六)に既出。
【釈】 秋の葉のように美しく染まった衣を、吾は着まい。君に差し上げたならば、夜も着る物となるように。
【評】 女が美しく染めた衣を夫に贈る時に添えた歌である。「あきつはににほへる衣」は、物を贈る時に、心を籠めた物であることをいう習いにしたがっての語であるが、「夜も著るがね」は、わが形身となろうというので、恋の訴えである。この点を主とした歌で、それをいうまでの心理が情味があって、自然で、巧みである。
(573) 問答
2305 旅《たび》にすら 紐《ひも》解《と》くものを 言《こと》繁《しげ》み 丸寝《まるね》吾《わ》がする 長《なが》きこの夜《よ》を
旅尚 襟解物乎 事繋三 丸宿吾爲 長此夜
【語釈】 ○旅にすら紐解くものを 「旅にすら」は、旅ででも寛いで寝るものなのにで、「を」は、詠歎。○言繁み 噂がうるさいので。○丸寝吾がする長きこの夜を 「丸寝」は、昼の衣のままで、ごろ寝をすること。「長きこの夜」は、この秋の長い夜を。
【釈】 旅ででも衣の紐を解いて寝るのに、噂がうるさいので、ごろ寝を我はしていることである。この秋の長い夜を。
【評】 妻のもとへ通って行き難い事情の下にあった男の、使をもって妻に贈ってやった歌で、行けない断わりをいう心のものである。実用の歌である。
2306 時雨《しぐれ》ふる 暁月夜《あかときづくよ》 紐《ひも》解《と》かず 恋《こ》ふらむ君《きみ》と 居《を》らましものを
四具礼零 曉月夜 紐不解 戀君跡 居益物
【語釈】 ○時雨ふる暁月夜 時雨のおりおり降る、月のある明け方。○紐解かず恋ふらむ君と 紐を解いて寝ずに、物恋いをしているだろう君とで、これは広い意味でいっているもので、恋の相手はたれともわからない意である。○居らましものを 一緒に居たろうものをで、すでに明け方になって、仮想の帰結としていっているもの。
【釈】 時雨のおりおりに降る、月のあるこの明け方に、紐を解いて寝ずに物恋いをしているのだろう君と、それと知ったら、一緒に居たのであろうものを。
【評】 女の答で、男の事務的に率直にいって来たのに対し、「紐解かず」を、物思いのためであろうと逸らし、それだったら一緒に居て上げたろうにと、さすがにいたわって答えているのである。上手な歌である。
2307 もみち葉《ば》に 置《お》く白露《しらつゆ》の 色葉《いろは》にも 出《い》でじと念《おも》へば ことの繁《しげ》けく
(574) 於黄葉 置白露之 色葉二毛 不出跡念者 事之繁家口
【語釈】 ○色葉にも出でじと念へば 「色葉にも」は、原文「色葉二毛」、旧訓「いろはにも」。色葉という語は他に用例がないところから、『考』以下誤写だろうとしている。『全註釈』は色に染まった葉で、ありうる語であろうといい、巻七(一〇九四)「我が衣|色服《いろぎぬ》に染《し》めむ」を参考として挙げている。その解で通じる。色に染まった葉の色を映して、白露がその色を帯びる、それほどにもあらわすまいと思っていると。○ことの繁けく 「こと」は言で、人の物言い。「繁けく」は繁くの名詞形で、繁きことよ。
【釈】 もみじ葉に置いている白露が、色に染まった葉の色を映すほどもあらわすまいと思っていると、人の物言いが多いことである。
【評】 男が女に嘆いて贈った歌である。「色葉にも出でじ」は、感性の働いた巧みな譬喩で、この歌の眼目となっているものである。
2308 雨《あめ》降《ふ》れば 激《たぎ》つ山川《やまがは》 石《いは》に触《ふ》れ 君《きみ》が摧《くだ》かむ 情《こころ》は持《も》たじ
雨零者 瀧都山川 於石觸 君之摧 情者不持
【語釈】 ○激つ山川石に触れ 激しく流れる山川の水が岩に触れて、「摧か」と続き、初句よりこれまでその序詞。○君が摧かむ情は持たじ 君が心を千々に砕くような心は、我はもつまいで、君をひどく悩ませるようなことはしまいの意。
【釈】 雨が降ると激しく流れる山川が、岩に触れて砕けるように、君が心を砕くような心は、我はもつまい。
【評】 上の歌に対しての女の答である。いかなることがあろうとも、君に背くまいという誓いの語である。これは上の歌に対して特に詠んだものではなく、以前からあって記憶に存していた古歌をもって答に代えたのであろう。恋の歌は大体心が広いので、このようなことがたやすく出来、一部を換えれば十分わがものともなるのであって、その例は少なくない。この歌もその範囲のもので、格別なものではない。
右の一首、秋の歌に類《に》ざれども、和なるを以ちて之を戟す。
右一首、不v類2秋謌1、而以v和載v之也。
(575)【解】 撰者の注である。歌の中に秋に関する語がないから、この部立には入れ難いものであるが、「和」すなわち答であって、前の歌と切り離し難いから載せるというのである。
譬喩歌
2309 祝部等《はふりら》が 斎《いは》ふ社《やしろ》の もみち葉《ば》も 標繩《しめなは》越《こ》えて 散《ち》るといふものを
祝部等之 齋經社之 黄葉毛 標繩越而 落云物乎
【釈】 ○祝部等が斎ふ社の 「祝部」は、神官の階級を示す称であるが、総称ともなっていた。ここは総称である。「斎ふ社」は、不浄を払っている社。○標繩越えて 「標繩」は、占有を示し、他人の侵入を禁じるしるしの繩で、ここは神域を示す神聖な物。○散るといふものを 神域から外に散るというのに。
【釈】 祝部等が不浄を払っている社の黄葉も、標繩を越して外へ散るというのに。
【評】 「黄葉」を娘に、「標繩」を、その娘を守っている母親などに譬えたもので、黄葉がそうした状態を示しているのに、我も娘と関係のつけられないことはなかろうとの心をもっていっているものである。「祝部等が斎ふ社の」と黄葉をきわめて重くいい、「散るといふものを」と、婉曲に、詠歎を添えて、言いさしにしているのは、娘に対する懸想の深さよりの心を置いているのである。神に対する信仰の絶対であった上代とて、この譬喩は容易ならぬものだったのである。品位あり、洗煉を経た詠み方で、男の身分を思わせる歌である。
旋頭歌
2310 蟋蟀《こほろぎ》の 吾《わ》が床《とこ》の隔《へ》に 鳴《な》きつつもとな 起《お》き居《ゐ》つつ 君《きみ》に恋《こ》ふるに 寐《い》ねかてなくに
蟋蟀之 吾床隔尓 鳴乍本名 起居管 君尓戀尓 宿不勝尓
【語釈】 ○吾が床の隔に 「床の隔」は、床の隔て、囲いである。「もとな」は、よしがない。○寐ねかてなくに 眠ることが出来ないことなのに。
(576)【釈】 蟋蟀が吾が床の隔てに、鳴きつづけていて、しようがない。起き続けていて君を恋うるので、眠ることのできないことなのに。
【評】 心が明らかで、むしろ明らかすぎる感がある。調べもそれとともに緩やかすぎる。すべて形式から来ることである。旋頭歌が一時代前の謡い物時代のものであることを明瞭に示している歌といえる。
2311 はだ薄《すすき》 穂《ほ》にはさき出《い》でぬ 恋《こひ》を吾《わ》がする 玉《たま》かぎる ただ一目《ひとめ》のみ 見《み》し人《ひと》ゆゑに
皮爲酢寸 穗庭開不出 戀乎吾爲 玉蜻 直一目耳 視之人故尓
【語釈】 ○はだ薄穂にはさき出でぬ 「はだ薄」は、上の(二二八三)に出た。穂を孕んでいる薄で、「穂にはさき出でぬ」は、口へ出してはいわないで、二句譬喩。○玉かぎるただ一目のみ 「玉かぎる」は、玉が耀くで、意味で、「ほのか」にかかる枕詞。ここは、「ただ一目」を「ほのかに」の意として、それにかかっている。○見し人ゆゑに 「人」は、女。
【釈】 はだ薄の穂には出さないような恋をわれはしていることである。玉のかがやくような、ほのかにただ一目見た女のゆえに。
【評】 純抒情の歌で類想の多い歌である。形式から来る調べの緩やかさが、感のそのものをも微温的にしている。「はだ薄」という枕詞が秋につながっているのみである。
冬雑歌
【解】 以下四首は、柿本人麿歌集の歌であり、他の場合と同じく、特別扱いをして、題を付けずにいるものである。
2312 我《わ》が袖《そで》に 霞《あられ》たばしる 巻《ま》き隠《かく》し 消《け》たずてあらね 妹《いも》が見《み》むため
我袖尓 雹手走 卷隱 不消有 昧爲見
【語釈】 ○霰たばしる 「たばしる」は、「た」は、接頭語で、走っている。激しく落ちる状態。○巻き隠し 「巻き隠し」は、袖に巻いて、隠して。
(577)【釈】 わが袖に霰が走っている。巻いて隠して、消さずに置こう。妹が見るために。
【評】 妹のもとに通って行く途中霰に逢い、自身めずらしくおもしろく思うとともに、妹にもそれを見せようと思った心である。軽い心のものであるが、事の心の全体があらわれている。「たばしる」と状態を叙し、「巻き隠し」と詳しく叙し、「見むため」と三段に向かって事を明らかにし、その気分は張って躍った調べに託しているのである。若い人麿の何物もおもしろがり、心を躍らせるさまが断面的にみえる。この生趣は人麿のみのものである。
2313 あしひきの 山《やま》かも高《たか》き 巻向《まきむく》の 岸《きし》の小松《こまつ》に み雪《ゆき》ふりけり
足曳之 山鴨高 卷向之 木志乃子松二 三雪落來
【語釈】 ○山かも高き 山が高いからだろうか。「山」は見馴れている巻向山であるが、その折の光景から怪しんでいったもの。○巻向の岸の小松に 「巻向の岸」は、巻向山の断崖。「小松」は、「小」は接頭語。○み雪ふりけり 「み」は、接頭語。「けり」は詠歎の助動詞。
【釈】 山が高いからだろうか。巻向山の断崖の松の上に、雪が降ったことだ。
【評】 冬の初めの頃、巻向山の断崖に立っている松の上に雪の白く積もっているのを認めて、山が高いからのことだろうかと訝かった心である。訝かりのほうからいっているのは、藤原京から来たので、それが強く感じられたからとみえる。断崖の松の上の雪は印象的で、その理由として山の高さを想像するのも機敏である。何というほどのこともない歌であるが、捉え方、感じ方ともに人麿的である。
2314 巻向《まきむく》の 檜原《ひばら》もいまだ 雲《くも》居《ゐ》ねば 小松《こまつ》が末《うれ》ゆ 沫雪《あわゆき》流《なが》る
卷向之 檜原毛未 雲居者 子松之末由 沫雪流
【語釈】 ○巻向の檜原もいまだ この名は巻七(一〇九二)などに出た。○雲居ねば 雲がかかっていないのに。○小松が末ゆ 「小松」は、松。「末ゆ」は、伸び立った枝先を通して。○沫雪流る 「沫雪」は、沫のような大形の雪。「流る」は降っている状態。
【釈】 巻向の檜原にもまだ雲はかかっていないのに、小松の伸び立った枝先を通して沫雪が流れている。
【評】 空が晴れていながら、沫雪の降っている状態をいった歌である。「巻向の檜原も」は、やや距離を置いて見ているもの(578)で、「いまだ雲居ねば」は、空の晴れていることを具象的にいったものである。「小松」は近い位置にあるもので、「末ゆ沫雪流る」は、その雪のいかに大降りであるかを具象したものである。いささかも説明せず、すべてを具象して感覚に訴えているものである。印象的に感じられるのはそのためである。
2315 あしひきの 山道《やまぢ》も知《し》らず 白樫《しらかし》の 枝《えだ》もとををに 雪《ゆき》の降《ふ》れれば
足引 山道不知 白杜※[木+戈] 枝母等乎ミ尓 雪落者
【語釈】 ○山道も知らず 「山道」は、ここは、山の中の道。「知らず」は、知られず。山の中の道の、辿り行くべき道か知れないの意。○白樫の枝もとををに 「白樫」は、葉に鋸歯があり、葉の裏が灰白色の普通の樫。「とををに」は、撓《たわ》んでいるさまをあらわす副詞。
【釈】 辿り行くべき山路も知られない。白樫の枝も撓んで雪が降っているので。
【評】 雪の相応に深く積もってやんだ山に入り、実際に歩いている状態を通して、そうした境の感をいっている歌である。取材をきわめて少なくし、詠歎風に詠んでいるのは、その境のもつ特殊な気分をあらわそうとしたからのことである。清らかな拡がりをもった境が、調べに導かれて、ただちに気分となって浮かんで来る歌である。気分本位の詠風となった奈良朝時代の先縦をなしているとみえる歌であるが、それとは異なった趣がある。奈良朝時代には、気分によって材を捉えているのであるが、人麿は取材を通して気分にまで到らせているのである。実際に即し、それを単純に捉え、調べによって気分として行く態度を、この歌は明らかに示している。
或は云ふ、枝《えだ》もたわたわ
(579) 或云、枝毛多和々々
【解】 第四句の別伝である。「たわ」は撓で、撓むさまで、それを畳んで強めた形。状態描写で、気分をあらわそうとした作意からは距離のあるものである。
右は柿本朝臣人麿の歌集に出づ。但件の一首は、【或本に云ふ、三方沙彌の作。】
右柿本朝臣人麿之謌集出也。但件一首【或本云、三方沙彌作。】
【解】 「件の一首」は、最後の歌をさしたのである。「三方沙彌」は、巻二(一二三)に出た。上の歌を伝唱して、その際、右のごとく誤ったのが異伝となったのであろう。
雪を詠める
2316 奈良山《ならやま》の 峰《みね》なほ霧《きら》ふ うべしこそ 間垣《まがき》の下《もと》の 雪《ゆき》は消《け》ずけれ
奈良山乃 峯尚霧合 宇倍志社 前垣之下乃 雪者不消家礼
【語釈】 ○峰なほ霧ふ 蜂はまだ曇っている。○うべしこそ 「うべ」は、もっともと諾《うべな》う意の副詞。「し」は強意、「こそ」は、係の助詞。○間垣の下の雪は消ずけれ 「間垣」は、籬で、「ま」は、接頭語。「消ずけれ」は、「ず」は、打消の「ず」の連用形。
【釈】 奈良山の峰はまだ曇っている。籬の下の雪の消えずにいるのはもっともである。
【評】 奈良山に近い佐保辺りに住んでいる人の、薄雪の後、家の内から戸外を見やっての即興である。軽い心のもので、口頭の語を歌の形にしたものである。
2317 こと降《ふ》らば 袖《そで》さへぬれて とほるべく 降《ふ》りなむ雪《ゆき》の 空《そら》に消《け》につつ
殊落者 袖副沾而 可通 將落雪之 空尓消二管
(580)【語釈】 ○こと降らば 「こと」は、巻七(一四〇二)に出た。同じの意で、動詞に冠する副詞。同じ降るならば。
【釈】 同じ降るならば、袖までも濡れて、濡れ通るように降ればよいと思われる雪が、空で消えつついる。
【評】 雪がどんなに降り続くだろうと思つたが、たちまちにやんだことを気分的に詠んだ歌である。「こと降らば」以下四句までは、大降りの雪に逢ったときの連想によるもので、語の多いものは気分をいっているものである。「空に消につつ」は、すでにやんだのを、上との関係でこのようにいっているのである。味わいのある歌ではないが、作者としては一種の気分をあらわし得たとした歌であろう。
2318 夜《よ》を寒《さむ》み 朝戸《あさど》を聞《ひら》き 出《い》で見《み》れば 庭《には》もはだらに み雪《ゆき》降《ふ》りたり
夜乎寒三 朝戸乎開 出見者 庭毛薄太良尓 三雪落有
【語釈】 ○夜を寒み 「寒み」は、ここは状態で、寒くて。○庭もはだらに 「はだら」は、「はだれ」ともいい、うすく降っているさまをいう。
【釈】 夜が寒くて、朝の戸を開けて出て見ると、庭にうっすらと雪が降りつもっている。
【評】 夜の寒かつた朝、雪の降っているのを見て、その理由を知った際の気分である。気分としていっているので、空疎ではない。
一に云ふ、庭《には》もほどろに 雪《ゆき》ぞ降《ふ》りたる
一云、庭裳保杼呂尓 雪曾零而有
【解】 四、五句の別伝である。「ほどろに」は、うっすらと。理由を発見した意味が強くなり、気分は薄くなっている。
2319 夕《ゆふ》されば 衣手《ころもで》寒《さむ》し 高松《たかまつ》の 山《やま》の木毎《きごと》に 雪《ゆき》ぞ降《ふ》りたる
暮去者 衣袖寒之 高松之 山木毎 雪曾零有
【語釈】 ○高松の山の木毎に 「高松」は、高円。「山の木毎に」は、高円山の木ごとに。
(581)【釈】 夕方になると、衣が寒い。高円の、山の木ごとに雪が降っていることだ。
【評】 高円山の裾の辺りに住んでいる人の歌で、夕方寒さに高円山のほうを仰ぐと、山には雪が降っていたというのである。「山の木毎に」という語は実際に即していっているもので、印象鮮明である。夕明りに認めた気分を思わせる。
2320 吾《わ》が袖《そで》に 降《ふ》りつる雪《ゆき》も 流《なが》れ去《ゆ》きて 妹《いも》がたもとに い行《ゆ》き触《ふ》れぬか
吾袖尓 零鶴雪毛 流去而 妹之手本 伊行觸粳
【語釈】 ○降りつる雪も 降った雪も。○流れ去きて 「流れ」は、横ばかりでなく、縦にもいう語で、移動の意。移動して行って。○妹がたもとにい行き触れぬか 「たもと」は、手本で、袖。「い行き」は、「い」は、接頭語。「触れぬか」は、触れないか、触れてくれよで、「ぬか」は願望をあらわす語法。
【釈】 わが袖に降ったところの雪も、移動して行って、妹の袖に、行って触れないのか、触れてくれよ。
【評】 「君が袖に降りつる雪」は、すでに降った雪で、それに対して、「流れ去きて妹がたもとに」という希望は、事実としてはありうべからざることで、気分を述べたものである。しかし根拠のある気分で、上代から心と心とを交流させるには、何物か物を通して初めて可能になるものだと信じられていたので、ここは男の袖に降った雪を、さらに妹の袖に触れさせることによって、妹を思う心を通じさせようというのである。軽くいっているのは、そのことは常識となっていたことだからである。単なる興味よりのものではない。
2321 沫雪《あわゆき》は 今日《けふ》はな降《ふ》りそ 白妙《しろたへ》の 袖《そで》纏《ま》き干《ほ》さむ 人《ひと》もあらなくに
沫雪者 今日者莫零 白妙之 袖纏將干 人毛不有君
【語釈】 ○白妙の袖纏き干さむ 「白妙の」は、袖の枕詞。「纏き干さむ」は、身に纏って干すであろうで、共寝の折の状態。○人もあらなくに 「人」は、上のごときことをする人は妻であって、妻も居ないことだのに。
【釈】 沫雪は、今日は降るな。白妙の袖を、身に纏って干すであろう人は居ないことだのに。
(582)【評】 旅に出ていて、沫雪の降るのに出違った時の心である。「今日はな降りそ」というので、明日は妻とともにいられる旅と知れる。「袖纏き干さむ人」はありうる状態ではあるが、憧れ気分より想像した状態と思われる。気分と感覚と一つになった巧みな語で、これを中心とした歌である。
2322 はなはだも 降《ふ》らぬ雪《ゆき》ゆゑ こちたくも 天《あま》つみ空《そら》は 陰《くも》りあひつつ
甚多毛 不零雪放 言多毛 天三空者 陰相管
【語釈】 ○はなはだも降らぬ雪ゆゑ 甚しくは降らない雪のゆえにで、雪だのにの意。○こちたくも 言痛くで、人の口のうるさい意から転じて、甚しくの意に用いられたもの。○陰りあひつつ 曇りつついる。
【釈】 甚しくは降らない雪だのに、甚しく大空は曇りつづけている。
【評】 大雪の来そうな空模様を見て、懸念している気分である。「こちたくも天つみ空は陰りあひつつ」と、事としては平凡であるのに、極度に仰々しい言い方をしているのは、一枝の不安な気分をあらわそうとしてである。「はなはだも降らぬ雪ゆゑ」は、それに調和させるための言い方である。大降りの雪を思う歌は、上の(二三一七)「こと降らば袖さへぬれて」もあった。生活上の実感で、興味よりのものではない。
2323 吾《わ》が背子《せこ》を 今《いま》か今《いま》かと 出《い》で見《み》れば 深雪《あわゆき》ふれり 庭《には》もほどろに
吾背子乎 且今々 出見者 沫雪零有 庭毛保杼呂尓
【語釈】 ○今か今かと 今は来るか、今は来るかと思って。○庭もほどろに 庭もうっすらと。
【釈】 わが背子を、今は来るか今は来るかと思って戸外に出て見ると、深雪が降った。庭もうっすらと。
【評】 想像を裏切る状態を見出した一瞬間の印象をいったものである。沫雪が降り出していては夫は来ないにきまっているのであるが、そこまではいわず、「庭もほどろに」と、夜の目に見るほの白い雪の印象をいうにとどめているのは、気分本位な詠み方である。感覚的にいって、背後に拡がりをもたせている、巧みな歌である。
(583)2324 あしひきの 山《やま》に白《しろ》きは 我《わ》が屋戸《やど》に 昨日《きのふ》の暮《ゆふべ》 ふりし雪《ゆき》かも
足引 山尓白者 我屋戸尓 昨日暮 零之雪疑意
【語釈】 ○昨日の暮 昨夜ということを、重くいったもの。
【釈】 山に白く見えるのは、わが宿に、昨日の夜降った雪であろうか。
【評】 夜、山寄りの平地に雪の降った翌朝、山に白いもののあるのを見て、昨夜の雪なのかに心づいた時の気分をいったのである。「山に白きは」といっているので、その白さはいささかのものであり、山よりも雪の少ないわが宿のほうは消えていたこと、またその山は近いことなどを思わせる。技巧としていっている語ではなく、感覚的印象としていっているものである。気分をいおうとする詠風につながっているものである。
花を詠める
2325 誰《た》が苑《その》の 梅《うめ》の花《はな》ぞも ひさかたの 清《きよ》き月夜《つくよ》に 幾許《ここだ》散《ち》り来《く》る
誰苑之 梅花毛 久堅之 清月夜尓 幾許散來
【語釈】 ○ひさかたの清き月夜に 「ひさかたの」は、ここは、月にかかる枕詞。○幾許散り来る 「幾許」は、たくさんに。
【釈】 たれの苑の梅の色であろうぞ。清らかな月夜に、たくさんここに散って来る。
【評】 月夜に、わが家の庭に散って来る梅の色を見て、たれの苑の物だろうとゆかしんだ心である。事象そのものがすでに快い歌となっているのである。漢詩の影響を思わせる。
2326 梅《うめ》の花《はな》 先《ま》づ咲《さ》く枝《えだ》を 手折《たを》りては 裹《つと》と名《な》づけて よそへてむかも
梅花 先開枝乎 手折而者 ※[果/衣]常名付所 与副手六香聞
(584)【語釈】 ○梅の花先づ咲く枝を 梅の花の最初に咲いている枝をで、めずらしく愛でたいものとしていっている。作者の現に見ているもの。○手折りては 折ってで、「手」は、接頭語。「は」は、強め。○裹と名づけて 「裹」は、土産物の意となった語。「名づけて」は、かりに称して。自分の家の梅の花ではあるが、土産物として贈られた物だとかりに称して。○よそへてむかも 「よそへ」は、なぞらえる意。「て」は、完了で、強め。その人になぞらえて見ようか。
【釈】 梅の花の最初に咲いた枝を折っては、その人よりの土産物だとかりに称して、その人になぞらえて見ようか。
【評】 その家の梅の最初に咲いた花をなつかしく見て、意中の人と通うところのあることを連想し、これをその人の土産物だということにして、折って傍らに置いてなぞらえて見ようかと想像したのである。児戯に類しているようではあるが、人を思うには、何らかの形あるものによって思うということが、上代からの風になっていたので、その心の伴ってのことである。意中の人は、心合いの友でも、女でも通じる心である。取材がすでに気分のものである。
2327 誰《た》が苑《その》の 梅《うめ》にかありけむ 幾許《ここだく》も 咲《さ》きにたるかも 見《み》が欲《ほ》しまでに
誰苑之 梅尓可有家武 幾許毛 開有可毛 見我欲左右手二
【語釈】 ○誰が苑の梅にかありけむ たれの苑の梅の花であったろうかと、咲いていた邸は忘れて、思い出せず訝かっている意。○見が欲しまでに 「見が欲し」は、後世だと「見が欲しき」と連体形にするところであるが、終止形にしているのは古格である。
【釈】 たれの苑の梅の花であったろうか。たくさんに咲いていることだ。見たく思うまでに。
【評】 思い出となって眼に浮かんで来た梅の花を、いま一度愛でている心である。印象の強かった花その物だけを覚えていて、その在った場所ははっきりしないということは、推察しやすいことである。花よりも、花に伴って起こる気分のほうを重んじ、そこに力点を置いている心で、奈良朝時代の風である。実際に即しての機微を捉えている歌である。
2328 来《き》て見《み》べき 人《ひと》もあらなくに 吾家《わぎへ》なる 梅《うめ》の早花《はつはな》 散《ち》りぬともよし
來可視 人毛不有尓 吾家有 梅之早花 落十方吉
【語釈】 ○来て見べき人もあらなくに 「見べき」は、「見」は連用形。この続きは古格で、上に出た。来て見るべき人もないのに。○梅の早花(585)「早花」は、上の歌と同じく、めずらしく愛すべきものとしていっている。
【釈】 来て見そうな人もないのに。わが家の梅の初花は、散ろうともかまわない。
【評】 梅の初花を愛でるあまり、風流を解する友とともに見たいと思い、そうした人の無いことを思って、歎息していっている心である。自身を風流の士と許している人である。
2329 雪《ゆき》寒《さむ》み 咲《さ》きには咲《さ》かず 梅《うめ》の花《はな》 よしこの頃《ごろ》は しかもあるがね
雪寒三 咲者不開 梅花 縱比來者 然而毛有金
【語釈】 ○雪寒み咲きには咲かず 雪が寒いので、咲くのは咲かないで。「ず」は、連用形。○よしこの頃は 「よし」は、かりに許す意で、ままよ、この頃は。○しかもあるがね 「しか」は、旧訓。上を承けて、そのようにして。「あるがね」は、あるがよい。
【釈】 雪が寒いので、咲くのは咲かないで、梅の花は、ままよこの頃はこのままであってくれよ。
【評】 梅の咲くのを待つ心をもちながら、雪の寒いところから梅をいたわる心を起こして、当分は咲かずにいよといっている心である。いわゆるもののあわれの根本に触れている心である。心深さのある歌である。
露を詠める
2330 妹《いも》がため 末枝《ほつえ》の梅《うめ》を 手折《たを》るとは 下枝《しづえ》の露《つゆ》に ぬれにけるかも
爲妹 末枝梅乎 手折登波 下枝之露尓 沾家類可聞
【語釈】 ○末技の梅を手折るとは 「末枝の梅」は、伸び立った高いところにある梅で、初花ということを、その位置からいったもの。
【釈】 妹のために、初咲きの花のある末枝の梅を折るとしては、下枝の露に濡れたことであるよ。
【評】 妻のもとへ自分の梅の枝を贈るのに添えた歌である。「末枝」「下枝」は語の興味よりの対照であるが、「末枝」は理由があり、「下枝」はその関係よりのものであるから、軽薄なものではない。「露にぬれにけるかも」は、いうほどの苦労ではな(586)いが、強いて言い立てているもので、愛橋ともいえる。拙くは ない歌である。
黄葉を詠める
2331 八田《やた》の野《の》の 浅茅《あさぢ》色《いろ》づく 有乳山《あらちやま》 峯《みね》の沫雪《あわゆき》 寒《さむ》く降《ふ》るらし
八田乃野之 淺茅色付 有乳山 峯之沫雪 寒零良之
【語釈】 ○八田の野の浅茅色づく 「八田」は、奈良県大和郡山市に矢田がある。○有乳山 滋賀県高島郡マキノ町から福井県敦賀市、山中へ越える所の山で、北国越えの要路にあたっている山である。当時|愛発《あらち》の関のあった山である。
【釈】 八田の野の浅茅が色づいた。有乳山の峰には、沫雪が寒く降るらしい。
【評】 八田の野の辺りに住んでいる人が、寒い北国へ向かって旅をしている人を思った歌である。官人としての夫を思いやった妻の歌であろう。類型のあるもので、これだけで気分が感じられる。
月を詠める
2332 さ夜《よ》深《ふ》けば 出《》で来《こ》む月《つき》を 高山《たかやま》の 峰《みね》の白雲《しらくも》 隠《かく》しなむかも
左夜深者 出來牟月乎 高山之 峯白雲 將隱鴨
【語釈】 ○隠しなむかも 「深けば」の未然条件法に応じさせた推量。
【釈】 夜がふけたならば出て来るであろう月を、高山の峰の白雲が隠すのであろうか。
【評】 夜ふけて出る月を待ち、その出る山の雲を気にしている心である。月を美観とせず、月光を利用しようとする心であろう。『代匠記』は、冬に関する一語もないので、なぜにここに入っているか不審だといっている。
(587) 冬相聞
【解】 次の二首は、左注によって柿本朝臣人麿歌集の歌である。特別扱いをしたものである。
2333 降《ふ》る雪《ゆき》の 空《そら》に消《け》ぬべく 恋《こ》ふれども 逢《あ》ふよしを無《な》み 月《つき》ぞ経《へ》にける
零雪 虚空可消 雖戀 相依無 月經在
【語釈】 ○降る雪の空に消ぬべく 「空に」までの八音は、「消」と続き、その序詞。「消ぬべく」は、命死にそうに。○逢ふよしを無み 旧訓。逢う方法がなくて。
【釈】 降る雪が空で消える、それのように、我も命消え失せそうに恋うているけれども、逢う方法がなくて、月を経たことである。
【評】 人麿の作としては他愛のないものである。その調べの張り、真直に迫ろうとするところは、やはり人麿のみのものである。序詞は眼前を捉えたもので、譬喩の心の勝っているものである。これが作因であったとみえる。
2334 沫雪《あわゆき》は 千重《ちへ》に降《ふ》り敷《し》け 恋《こ》ひしくの け長《なが》き我《われ》は 見《み》つつ偲《しの》はむ
阿和雪 千重零敷 戀爲來 食永我 見偲
【語釈】 ○沫雪は千重に降り敷け 「千重に」は、幾重となくで、深く降り重なれと命じたもの。○恋ひしくの 『全註釈』は、「し」は過去の助動詞、「く」は、この語を名詞形にしたもので、恋しかったことの意だといっている。○け長き我は 時の久しい我は。○見つつ偲はむ 「偲はむ」は、ここは、心を慰めようの意。
【釈】 沫雪は深く降り重なれ。恋しかつたことの時久しい我は、見つつ心慰めよう。
【評】 久しい恋に煩悩している折、春の沫雪が降り出すと、ただちにそれを捉え、それに縋って、わが心の慰めとしようと、呼びかけてものをいっているのである。何物にもおもしろみを見出だしうる人麿の感性のさせていることである。しかし単な(588)る沫雪ではなく、「千重に降り敷け」という沫雪で、盛んに降って来る動乱の姿に慰めを見出だそうとするのである。ここに一段の人麿の面目が見える。実際に即しての心であるが、歌としてはめずらしい取材である。
右は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
右、柿本朝臣人麿之謌集出。
露に寄す
2335 咲《さ》き出照《でて》る 梅《うめ》の下枝《しづえ》に 置《お》く露《つゆ》の 消《け》ぬべく妹《いも》に 恋《こ》ふるこの頃《ごろ》
吹出照 梅之下枝尓 置露之 可消於妹 戀頃者
【語釈】 ○咲き出照る梅の下枝に 「咲き出照る」は、咲き出して美しく照るで、梅の花の状態。○置く露の 「消」と続き、初句よりこれまでは、その序詞。
【釈】 咲き出して美しく照っている梅の木の、下枝に置いている露のように命も消えそうに妹を恋うているこの頃であるよ。
【評】 序詞を設けて「消」にかける歌は、すでに数多くあり、ここにも三首まで出ている。譬喩の意でかかる序詞であるから、捉えやすく、したがって流行となっていたとみえる。この序詞も眼前を捉えたものとみえるが、事が細かく、感はそのわりに纏まらないもので、苦心して設けた跡の見えるものである。女に贈ったものである。
霜に寄す
2336 甚《はなはだ》も 夜《よ》ふけてな行《ゆ》き 道《みち》の辺《べ》の ゆ小竹《ざさ》が上《うへ》に 露《しも》の降《ふ》る夜《よ》を
甚毛 夜深勿行 道邊之 湯小竹之於尓 降霜夜焉
【語釈】 ○甚も夜ふけてな行き ひどく夜更けて帰って行くなと、女がその夫にいったもの。○ゆ小竹が上に 「ゆ」は、斎で、斎槻などと同じく清浄な笹。笹は神事に用いる物だからである。○霜の降る夜を 「を」は、詠歎で、夜だのに。
(589)【釈】 このように、ひどくも夜更けて帰って行くな。道の辺りの笹むらの上に霜の降る夜だのに。
【評】 女のもとへ通って来た男が、夜更けて帰ろうとするのを、女の引きとめていった歌である。「甚も夜ふけて」といい、「霜の降る夜を」と繰り返して強調していって、他にはわたっていないのは、年久しい、和熟した夫婦関係を思わせて、その余情が味わいとなっている歌である。実際がおのずから気分を生んでいるのである。
雪に寄す
2337 小竹《ささ》の葉《は》に はだれ降《ふ》り覆《おほ》ひ 消《け》なばかも 忘《わす》れむと云《い》へば 益《ま》して念《おも》ほゆ
小竹葉尓 薄太礼零覆 消名羽鴨 將忘云者 益所念
【語釈】 ○はだれ降り覆ひ 「はだれ」は、薄雪。消えやすい意で、初二句その序詞。○消なばかも忘れむと云へば 「消なば」は、死んだならば。「かも」は、「か」は、疑問の係助詞。「忘れむ」は、男が女を忘れる意でいったもの。死んだならば忘れもしようかというので。○益して念ほゆ 前にも増して男が思われる。
【釈】 笹の葉に薄雪が降り覆って消える、そのように我も命が消えたならば忘れもしようかとあなたがいうので、以前に増して思われる。
【評】 四句の「忘れむと」までは、男が女に逢っていた時、自分の真実を誓っていった語である。女はその語がうれしく、男の帰った後、その語を繰り返し独語して、愛の深まりを感じ、「益して念ほゆ」といっているのである。女の陶酔した気分でいう短い語によって、この男女の全幅の、かなり複雑したものをあらわしている。巧みな歌である。
2338 霰《あられ》ふり いたも風《かぜ》吹《ふ》き 寒《さむ》き夜《よ》や 旗野《はたの》に今夜《こよひ》 吾《わ》が独《ひとり》寐《ね》む
霰落 板敢風吹 寒夜也 旗野尓今夜 吾獨寐牟
【語釈】 ○いたも風吹き 原文「板敢風吹」。「板敢」は、諸注訓み難くして誤写説を立てている。『古義』は「敢」は、「聞」の誤写として、「いたも」に当てた字としている。「いたも」はいたくもで、甚しくもの意である。『新訓』はこれにしたがっている。『全註釈』は、「板」は、諸本同(590)じであるが、細井本は「枝」、紀州本は「坂」であるところから「坂」により、「敢」は巻七(一三八三)「たぎつ情を塞敢而有鴨《せかへてあるかも》」と、ハ行下二段動詞の連用形に用いられている。「坂敢」は、「さかへ」で、この語は日本書紀二十巻用明天皇の巻に、「三輪君逆」の「逆」に、北野神社本は「さかへ」の訓があるので、逆えの意で、「逆ふ」というハ行下二段動詞のあったことが知られるとし、「逆《さか》へ風」であり、向かい風の意であるとしている。誤写説の暗推には比すべくもない説であるが、意義とすると、向かい風は、昼、志すほうに向かって歩いていることで、夜、寝ようとしている折のこととしてはいかがの感がある。今は『新訓』の訓に従うこととする。○寒き夜や 「や」は疑問の係助詞であるが、詠歎の意の強いもの。○旗野に 奈良県高市郡に波多の野がある。今の高取町あるいは明日香村畑の地かという。
【釈】 霰がふり、甚しく風が吹いて寒い夜を、旗野に今夜独りで寝ることであろうか。
【評】 旅人として寒夜旗野に独寝をしようとする際の侘びしい感をいったものである。二句は不明であるが、霰の降る夜のことで、野宿ではなく、少なくとも屋根の下には寝たことだろうと思われる。「吾が独寐む」は、妻を思う感傷である。
2339 吉隠《よなばり》の 野木《のぎ》に降《ふ》りおほふ 白雪《しらゆき》の いちしろくしも 恋《こ》ひむ吾《われ》かも
吉名張乃 野木尓零覆 白雪乃 市白霜 將戀吾鴨
【語釈】 ○吉隠の野木に降りおほふ 「吉隠」は、上の(二一九〇)に出た。桜井市初瀬町の東方にある地。「野木」は、野の立木。○白雪の 野木の上の白雪の目に立つ意で、「いちしろく」と続き、初句からこれまで、その序詞。○いちしろくしも恋ひむ吾かも 「いちしろく」は、人に知られるように。「しも」は、強意。「吾かも」は、「か」は、ここは反語をなすもの。吾だろうか、吾ではないの意。
【釈】 吉隠の野の木を降り覆っている白雪の目に立つ、そのように人に知られるような恋をする吾であろうか、吾ではない。
【評】 吉隠にいて、恋を秘めて悩んでいる男の、野の木に白雪が降って目に立つのに刺激されて、吾はあのように人に知られるような恋はしまいと決心した心である。詞は譬喩の意の濃厚なもので、「恋ひむ吾かも」と秘めるに堪えられないまでの心を示している。一首の調べも強く、その気分をあらわしている歌である。新味のあるものではないが、吉隠の謡い物とはみえない歌である。
2340 一眼《ひとめ》見《み》し 人《ひと》に恋《こ》ふらく 天霧《あまぎ》らし 降《ふ》り来《く》る雪《ゆき》の 消《け》ぬべく念《おも》ほゆ
一眼見之 人尓戀良久 天霧之 零來雪之 可消所念
(591)【語釈】 ○一目見し人に恋ふらく 「一眼見し人」は、男より女をいったもの。「恋ふらく」は、恋うの名詞形。○天霧らし降り来る雪の 空を曇らして、降る雪ので、二句は「消」の序詞。
【釈】 一目見た人を恋うることで、われは、空が曇って降って来る雪の消える、それにちなみある、命消えてゆきそうにも思われる。
【評】 序詞を頼りにした表面的な歌で、謡い物に近いものである。
2341 思《おも》ひ出《い》づる 時《とき》は術《すぺ》なみ 豊国《とよくに》の 木綿山雪《ゆふやまゆき》の 消《け》ぬべく念《おも》ほゆ
思出 時者爲便無 豊國之 木綿山雪之 可消所念
【語釈】 ○術なみ するすべがなくして。○豊国の木綿山雪の 「豊国」は、豊前豊後の総称。「木綿山」は、豊後国速見郡の由布山(現在、別府市と大分郡湯布院町との境の由布岳)。「雪の」を、「消」と続け、二句その序詞。
【釈】 妻を思い出す時には、する術がなくて、この豊国の木綿山の雪のそれのように、命も消えそうに思われる。
【評】 官人として京より豊国へ遣されている人の旅愁であろうが、その地の人の夫婦関係の上の悩みとしても通じるものである。その地の謡い物ともなっていたろうと思われる。
2342 夢《いめ》の如《ごと》 君《きみ》を相見《あひみ》て 天霧《あまぎら》し 降《ふ》り来《く》る雪《ゆき》の 消《け》ぬべく念《おも》はゆ
如夢 君乎相見而 天霧之 落來雪之 可消所念
【語釈】 ○夢の如君を相見て 夢のような気分で君に逢つたで、女が逢い方のはかなかったことを嘆いたもの。
【釈】 夢のようにはかないさまに君と相逢って、空を曇らして降って来る雪のように命も消えゆきそうに思われる。
【評】 (二三四〇)とは初二句が異なるだけで、三句以下は同じである。一般的なことをいっている点も同様で、謡い物と思わせるものである。
(592)2343 吾《わ》が背子《せこ》が 言《こと》愛《うつく》しみ 出《い》でて行《ゆ》かば 裳引《もびき》知《し》らえむ 雪《ゆき》な降《ふ》りそね
吾背子之 言愛美 出去者 裳引將知 雪勿零
【語釈】 ○言愛しみ 言葉を愛でて。○出でて行かば 男の許へと家を出て行ったならば。○裳引知らえむ 「裳引」は、裳の裾が地を曳くことの称。「知らえむ」は、『新訓』の訓。人に知られよう。○雪な降りそね 「ね」は願望。
【釈】 わが背子の語を愛でて、家を出て逢いに行ったならば、裳引の跡で、それと人に知られよう。雪よ降ってくれるな。
【評】 女が男のもとへ逢いに出かけようとして、おりから降り出した雪を見て、不安の感を起こした心である。女より男のもとへということはその時の事情によってはあることで、必ずしも稀れなことではなかった。「裳引知らえむ」は、やや身分のある女は長い裾をつけていたので、裳引の跡の雪に残り、人に知られる懸念も当然のことである。裳引をいってはいるが、出かけて行く理由は「言愛しみ」ということで、その語を喜んで、積極的な気分になっている女で、また「雪」も裳引につけて懸念しているので、雪を犯して行く心をもっている女である。女官階級の女が想像される。一首、余裕のあり、客観味の多いものである点から見て、その人自身の作ではなく、第三者のそうした境を想像しての作ではないかと思わせる歌である。これはありうることだからである。
2344 梅《うめ》の花《はな》 それとも見《み》えず 降《ふ》る雪《ゆき》の いちしろけむな 間使《まづかひ》遣《や》らば
梅花 其跡毛不所見 零雪之 市白兼名 間使遣者
【語釈】 ○それとも見えず それと差別のつかないまでにで、「降る」の修飾。○降る雪の 降る雪のようにで、意味で「いちしろ」に続き、初句よりこれまでは、その序詞。○いちしろけむな 「いちしろけ」は、形容詞の未然形。それに「む」の助動詞、「な」の詠歎の助詞の続いたもの。いちしろくあるだろうな。○間使遣らば 「間使」は、双方の間を往復する使。
【釈】 梅の花がそれともわからないまでに降る雪のように、目に立つことであろうな。間便を遣ったならば。
【評】 男が女のもとへ使を遣ろうと思い、人目に立つかと躊躇した心である。序詞は眼前の実景で、常套的なものである。一首を努めて気分化しようとする要求よりのものではある。
(593) 一に云ふ、零《ふ》る雪《ゆき》に 間使《まづかひ》遣《や》らば それしるけむな
一云 零雪尓 間使遣者 其將知奈
【解】 三句以下の別伝である。「零る雪に」は、雪の降っているのに。「間使遣らば」は、使を遣ったならば。「それしるけむな」は、「それ」は、使を遭ったこと。「しるけむな」は、はっきり人に知られようよで、「な」は、感動の助詞。本文のほうの序詞を実景として、「それ」に力点を置いて説明的にしたものである。本文のおおらかな気分を事柄として、細かく刻んだものとしたのである。別伝とはいうが、改作に近いものである。味わいを浅くしている。
2345 天霧《あまぎ》らひ 降《ふ》り来《く》る雪《ゆき》の 消《け》なめども 君《きみ》に逢《あ》はむと ながらへ渡《わた》る
天霧相 零來雪之 消友 於君合常 流經度
【語釈】 ○天霧らひ降り来る雪の 空が曇って降って来る雪のようにで、初二句は「消」の序詞。○消なめども 『略解』の訓。命も消えそうであるが。○君に逢はむとながらへ渡る 「君」は、女より男をさしたもの。「ながらへ渡る」は、生き続けている。
【釈】 空が曇って降って来る雪のように、命も消えそうではあるが、君に逢おうと思って生き続けている。
【評】 男に甚しく疎遠にされている女の歌である。上代の夫婦関係にあっては例の多いことで、また女のこの嘆きは、女性としては共通の性情よりのものであろう。歌としての特色はないが、哀れのある歌である。
2346 窺覘《うかねら》ふ 跡見山雪《とみやまゆき》の いちしろく 恋《こ》ひば妹《いも》が名《な》 人《ひと》知《し》らむかも
窺良布 跡見山雪之 灼然 戀者妹名 人將知可聞
【語釈】 ○窺覘ふ跡見山雪の 「窺覘ふ」は、『略解』の訓。巻八(一五七六)「小牡鹿《をじか》履《ふ》み起《お》こし窺狙ひ」と出た。狩をする時、野獣の容子を窺い狙う意で、それには野獣の足跡を見ることをし、その役をする狩人を跡見と称した意で、跡見にかかる枕詞。「跡見山」は、大和国磯城郡、今の桜井市の鳥見山かという。ここは、巻四(七二三)の題詞で、大伴氏の領地であったことが知られる。「雪」より、「いちしろく」と続き、初二句、その序詞。
(594)【釈】 野獣の跡を窺覘う、その名の跡見山の雪のように、目に立つほどに恋うたならば、妹が名を人が知るであろうか。
【評】 跡見の女に忍んで通っている男の、人目を憚って足遠くしている心を、女に訴えたものとみえる。「窺覘ふ跡見山雪の」は序詞であるが、その地に寄せて人目を忍ぶ心を訴える心からのもので、この歌にとっては重大な部分である。
2347 海小船《あまをぶね》 泊瀬《はつせ》の山《やま》に 降《ふ》る雪《ゆき》の け長《なが》く恋《こ》ひし 君《きみ》が音《おと》ぞする
海小船 泊瀬乃山尓 落雪之 消長戀師 君之音曾爲流
【語釈】 ○海小船泊瀬の山に 「海小船」は、海人の小舟で、泊《は》つと続けて「泊瀬」の枕詞。○降る雪の 「消《け》」と続けて、初句よりこれまでは、その序詞。○君が音 君が来る物音で、乗馬の音であろう。
【釈】 海小船が泊てる、その泊瀬の山に降る雪の消に因む、時久しく恋うていた君の来る物音のすることである。
【評】 泊瀬の渓谷に住んでいる女が、長い間を疎遠にしていた男の来る乗馬の音などを聞きつけた時の、歓喜の心である。泊瀬の山に「海小舟」という枕詞は、語戯にみえるが、「海小船」は所定めぬものとしているので、この際の男にはその意味で気分のつながりが感じられる。「君が音ぞする」と、距離を置いて捉えた捉え方は巧みである。この一句に心躍りがあらわされている。
2348 和射美《わざみ》の 嶺《みね》行《ゆ》き過《す》ぎて 降《ふ》る雪《ゆき》の 厭《いと》ひもなしと 白《まを》せその児《こ》に
和射美能 嶺徃過而 零雪乃 ※[厭のがんだれなし]毛無跡 白其兒尓
【語釈】 ○和射美の嶺行き過ぎて 「和射美」は、今の岐阜県不破郡閑が原町関が原南方の山。一説に、同郡赤坂町青野あたりともいう。巻二(一九九)「高麗剣和射見が原の」と出た地である。「嶺行き過ぎて」は、男がその女の許へ通うには越えるべき嶺で、越すのは楽ではない意でいったもの。○降る雪の 降る雪に逢ってで、これは一段の苦労をいったもの。○厭ひもなしと 諸注、訓がさまざまである。この訓は元暦校本にあるもので、『新訓』の取っているもの。その苦労の厭いもないわれだと。○白せその児に 「白せ」は、いえよの敬語で、相手が女だからのこと。「その児に」は、そのかわゆい女にで、仲介に立っている者に取次ぎを頼む語。
【釈】 和射美の嶺を通り過ぎて、降る雪に逢っての、その重ね重ねの苦労の厭いもないわれだと、申してくれ。そのかわゆい女に。
(595)【評】 和射美の山の此方に住んでいる男が、山の彼方に住んでいる女のもとへ、冬、雪の日に通って来て、仲介の女に取次ぎを頼んでいる口上である。女のもとへ来るために苦労をして来たことをいうのは、女に真実のほどを告げて愛をもとめる心よりのもので、例の少なくなかったものである。一つの儀礼となっていたとみえる。この歌もその心よりのものである。土地の関係からの新奇さがあり、また取次ぎによってものをいうのも珍しいが、これは双方ある程度の身分のある豪族同士というのでもあろう。和射美の歌で、京に伝わったものであろう。目に着く歌である。
花に寄す
2349 吾《わ》が屋戸《やど》に 咲《さ》きたる梅《うめ》を 月夜《つくよ》よみ 夕々《よひよひ》見《み》せむ 君《きみ》をこそ待《ま》て
吾屋戸尓 開有梅乎 月夜好美 夕々令見 君乎祚待也
【語釈】 ○月夜よみ 月がよいので。○夕々見せむ君をこそ待て 毎夜、見せようと君を待っていることです。「見せむ」は、連体形。
【釈】 私の庭に咲いている梅を、おりから月が良いので、毎夜見せようと君を待っていることです。
【評】 妻がその夫に梅と月との相俟ってよい頃、見に来よと誘った歌である。夫婦関係に立入らない明るい歌で、奈良朝時代の気分のものである。
夜に寄す
2350 あしひきの 山《やま》の下風《あらし》は 吹《ふ》かねども 君《きみ》無《な》き夕《よひ》は 予《かね》て寒《さむ》しも
足檜木乃 山下風波 雖不吹 君無夕者 豫寒毛
【語釈】 ○予て寒しも 「予て」は、前もってで、寝ない前から。
【釈】 山の嵐は吹かないけれども、君の通って来ない夜は、寝ない前から寒いことです。
【評】 冬の夜寒の頃、山裾に住んでいる女の、夜、その夫に贈った歌である。「君無き夕は予て」という言い方は、眼前を捉えて、さりげなくいった形で、巧みな訴え方である。
(6)萬葉集 巻第十一概説
一
本巻は、『国歌大観』(二三五一)より(二八四〇)に至る四九〇首を収めた巻である。歌体は、旋頭歌と短歌で、長歌は含んでいない。旋頭歌は一七首あるのみで、短歌は四七三首の多きに及んでいる。
本巻の部立は相聞であり、その意味で巻首に「古今の相聞往来の歌の類の上」と題してある。この「上」は、巻第十二を「下」とするに対させての称で、この両巻は緊密なるつながりを持っているものである。
作者は、巻頭の旋頭歌一二首、及びそれに続く短歌一四九首に対して、「柿本朝臣人麿の歌集に出づ」と左注の添っている物を除くと、他はすべて不明である。すなわち三二九首は作者不明の歌である。
次に「古今」であるが、時代の先後は、作者と詠風によって決しられるものである。人麿歌集の歌は、大体その制作年代を推量することができるが、他はすべて不明であるので、詠風によって暗推するよりほかはないのである。その詠風であるが、これはある薄弱を伴っているものである。いずれも筆録をとおして残っているのであるが、制作と共に筆録されたのか、またはある流動を経ての後にされたのかは不明である。さらにまた同時代の制作であっても、京に在住する知識人で、新を追って息《や》まなかった人々の作と、部落生活を送って農耕に従っていた、古風以外は知らなかった人々の作とは、その詠風の上に相応な開きができるのである。したがって、古今という語は意味の広い漠然たるものであって、その時代の主流と目される歌の詠風を目標としての称である。古というのは大体人麿歌集の制作された時代、すなわち藤原朝時代で、今というのは奈良朝初期と見て大差がないであろう。年次とすると三、四十年間と思われる。
以上の期間の相聞の歌を蒐集し、旋頭歌と短歌とに限って、整理を加えたのが本巻で、本巻をその「上」とし、巻第十二を「下」としているのである。なお、長歌は巻第十三として続けているので、この三巻はあらかじめ企画を立てて編んだものと見られる。
二
本巻の資料となった本は、書名のわかっているものは柿本朝臣人麿の歌集と古集とで、その他はすべて不明である。何本かの筆録本のあったことは、一首の歌で、「或本に云ふ」「或は云ふ」として、別伝の物を注記していることで知られる。別伝のあるものは、その歌が口誦され、流動を経た時に筆録したものであることを語っているが、これは少数で、他は原形を伝えた(7)ものとみえる。しかし本巻の相聞は、近親者、交友間の相聞は一首も含んでおらず、すべて男女間の恋情のもののみである点からみると、一般性のあるものということを標準として、少なくとも一度の選は受けている歌だと思われる。
三
編集者はそれらの多くの本を資料として、これに大小二個の分類を加えている。大分類は、修辞を標準としての「正《ただ》に心緒《おもひ》を述《の》ぶ」「物に寄せて思を陳ぶ」「譬喩歌」の三部、これに形を標準としての問答の四部である。小分類は、それら大分類したものに、更に取材を標準としての分類を加え、同類の歌を一緒に纏めたのである。この大分類の標目は、すでに巻第三と第四とで用いられているもので、新しいものではない。これについてはその際いっているのでここには繰り返さないが、要するに編集者のその時代として抱いていた文学意識よりのものである。 本巻のこの大分類は、巻第三・第四の短い時期の歌を対象としてのものであったのとは異なり、「古今」という比較的長い時期のものを対象としてのものである関係上、現在から観ると、その分類が、おのずからその時期の歌風の変遷を示すものとなっているという、編集者としてはおそらく意識しなかったろうと思われることを暗示しているものとなっている。ここにはそれに触れて概言することとする。
「正《ただ》に心緒《おもひ》を述ぶ」「物に寄せて思を陳ぶ」「譬喩歌」の三大分類は、これを修辞上より観ると、まさに一線に沿つての三段階をなすもので、緊密なつながりをもっているものである。
「正に心緒を述ぶ」は、古今和歌集の序にいうところのただごと歌で、譬喩を用いずに、その感動を直写した歌の称である。表現形式の美しきをきわめて重大なものとしている歌にあっては、これはその美しさを一応棄てている形のもので、その意味では原始的な、基本的な詠風である。このことは作歌態度についてのことであって、詠んだ歌の価値についていうのではない。「物に寄せて思を陳ぶ」は、古今和歌集の序にたとえ歌といっているもので、譬喩を用いての歌である。そういうと今一つの大分類「譬喩歌」と異ならないようであるが、その間には一線が劃されていて、「物に寄せて」というほうは一首の歌の中に部分的に譬喩を用いているもの、「譬喩歌」のほうは一首全部が譬喩になっているものである。これも大体にそうした傾向をもっているという程度のものである。
「物に寄せて思を陳ぶ」として差別されている歌は、これを実際について見ると、枕詞あるいは序詞を用いた歌ということであって、大体としては序詞を用いた歌ということである。上に詠風の変遷といったのは、この序詞というものに対する態度が、次第に変遷しているということである。これを小さく観れば序詞の用い方の変遷ということであるが、その用い方は作歌態度が決定することであって、これを大きく観れば、序詞をいかに解釈していたかということは、歌そのものをいかに解釈していたかということと同義になることなのである。
当時より溯っての時代の枕詞、その延長とも見られる序詞の(8)一半に近いほどのものは、掛詞すなわち一語二義の関係でその冠せられている詞に接続するのである。謡い物として耳に聴く場合、中途で一語がにわかに語義が転換するのは、著しく興味を強められることであったろう。しかしこのことは、一首の意義を中心として観ると軽いことであって、したがって序詞そのものの位置も軽かったのである。本巻の序詞には、この意味でのものは甚だ少なく、ほとんど例外として混じっている程度にすぎない。すなわち本巻では、そうした序詞は軽視するようになっていたのである。これは言いかえると、時代は耳を主とせず眼を主とするようになっていたということで、当然のことといえる。
本巻の序詞はどういうものになっているかというと、その一半以上は譬喩である。歌は意味を重んずるところから、その意味を強く、また美しくしようとの要求から、知性的に譬喩を捉えて用いている。しかし、これを用いる場合には、譬喩の形においてはせず、一段の工夫をして、序詞の形において用いているのである。しかも譬喩を捉えるには、必ず眼前の実際に即して行なっているので、その譬喩はおのずから知性的の色が薄れ、感性的の匂いを帯びたものとなってくる。序詞という形も、同じく譬喩の知性を感性的に変えることである。標目としては「物に寄せて思を陳ぶ」といっているが、実際はそういうほど、物を重んじている詠風ではなく、物よりも遙かに心を重んじている詠風なのである。
本巻の序詞は、この傾向のものにとどまってはいず、これを通り越して、さらに新しい傾向を示しているものが、相応に多い。新しい傾向というのは、眼前の実際を知性を働かすことによって譬喩として捉え、それに序詞の形を与えたという屈折を経たものではなく、眼前の実際を、最初から感性によって捉え、これをただちに序詞の形にしたものである。この本義との繋がりは、詞の上より観れば即不即、不即不離の微妙なものとなっているのであるが、一首の気分の上より観れば有磯的に融け合っているのである。まさしく感性によって捉えている序詞なのである。これを代表的にもっているのは、柿本朝臣人麿歌集の「物に寄せて思を陳ぶ」の歌で、じつに流通|無礙《むげ》にこれを行なっている。他のものはそれに追随しているにすぎないのであるが、しかしそれが風を成して、序詞の上に新生面を拓いているのである。
この傾向の序詞を用いている歌を観ると、溯っての時代の事象物象を重んじた風から離れて、反対に作者自身の感性を重んじる風に移っているのであるが、しかしその感性は、眼前の実際を離れたものではないので、従前には見られなかった新歌境を、展開してきているのである。感性は統一感の上に立つもので、形としては単純であるが、実際に即してのそれであるので、実際を陰影として抱いた複雑味のあるものとなり、豊かな拡がりをもつ。また、感性は自在な動きをもつところから、その表現としての語続きもおのずから飛躍をもった自在なものとなるのであるが、しかもその中心を貫く感性その物は、統一された単純なもので、その線に沿ってのことであるから、飛躍をもっ(9)た語続きも、難解とはならず、多彩なものとなっているのである。この詠風のできの良い歌を見ると、実際に即しつつも感性を主とした「物に寄せて」の詠風こそ、最も真実な詠風と信じていたろうと思わせられる。
「物に寄せて思を陳ぶ」の、譬喩的の序詞を感性的、あるいは気分的に推移せしめたことが、藤原朝時代より奈良朝初期へかけての歌風の変遷であると見られる。
四
「譬喩歌」は、一首全部を譬喩で成り立たせたものを目標としての称と思われる。譬喩を序詞としたもので、三句のものはむしろ普通であり、四句のものも時にはあるから、それを今一歩前進させれば成り立ちうるものだからである。しかしそうした歌は実際としてはきわめて少なく、それに近い程度にすぎないものである。
目標としている譬喩歌が、はたして発展しうるかどうかということは問題である。譬喩は根本は感性気分に属したものであるが、五句のうち四句以上を譬喩としようとすれば、感性気分だけでは貫き切れず、勢い知性が介入してきて、大きく働くことになってくる。事実、そのできあがった歌を見ると、知性の勝ったものとなり、知性的に詞句をつなぎ合わせたごとき趣をもったものとなる。したがって結果としては興味の浅いものとなり終わるのである。
「譬喩歌」が、「物に寄せて」の歌の、譬喩による序詞と同じ運命のものとなったのは、当然のこととすべきである。
五
「問答」という部立も、初出のものではなく、すでにあったもので、本巻ではそれを重く扱おうとしているところに特色があるのである。
男女間の相聞が問答の形になることは、本来当然のことで、それを重い一つの部立にするということは、新たなる意義をもたせようとしてのこととみえる。今、本巻の問答についてみると、問答のいずれも同一人によって作られたもので、設けての作であるといえる。すなわち文芸的意図のもとにできたもので、実際生活からは離れたものである。
柿本人麿によってなされた長歌、短歌の連作は、大伴旅人、山上憶良などによって継承され、奈良朝初期の一つの風となっている。これは歌によって叙事的展開を遂げさせようとの要求からのことである。本巻の「問答」はそれと同傾向のもので、短歌の二首を問答に組合わせることによって、小規模ながら物語的展開をもたせ、それを楽しもうとしたものとみえる。しかし本巻のものは軽い味わいの物ばかりで、すぐれた物はない。平安朝時代の歌物語の先蹤という程度のものである。
(10)萬葉集巻第十一 目次
古今の相聞往来の歌の類の上
旋頭歌十七首(二三五一〜二三六七) 二
正に心緒を述ぶる歌百四十九首(二三六八〜二四一四) 二一
(二五一七〜二六一八) 九八
物に寄せて思を陳ぶる歌三百二首(実数二百八十二首)
(二四一五〜二五〇七) 四五
(二六一九〜二八〇七)一四七
問答歌二十九首(二五〇八〜二五一六) 九三
(二八〇八〜二八二七) 二四四
譬喩歌十三首(二八二八〜二八四〇) 二五五
(11) 古今の相聞往来の歌の類の上
【標目】 この標目は目録にのみあって、本文にはないが巻十二とともに加えた。これは他の巻の相聞にあたる語で、語を換えたにすぎないものである。「相聞往来」は、文選曹植の文に「往来数相聞」に拠った語で、同意語を繰り返したに近いものである。「古今」は、大体、飛鳥朝から奈良朝中期までを指している。また、「上」は、次の巻第十二を「下」としての称で、二巻一部の意でいっているものである。
旋頭歌
【解】 以下十二首は、左注により柿本人麿の歌集のものである。
2351 新室《にひむろ》の 壁草《かべくさ》苅《か》りに 坐《いま》し給《たま》はね 草《くさ》の如《ごと》 寄《よ》り合《あ》ふ未通女《をとめ》は 公《きみ》がまにまに
新室 壁草苅迩 御座給根 草如 依逢未通女者 公隨
【語釈】 ○新室の 新しく造った家。室は家の古語で、土を掘って屋根で蔽った時代の語。ここはそれではない。○壁草苅りに 「壁草」は、壁とするところの草で、草を編んだ物を壁としたのである。『延喜式』巻の七、践祚大嘗祭式に、「所v作八神殿一宇、(中略)並以2黒木及草1構葺。壁蔀以v草」とある。○坐し給はね 「坐し」は、(12)ここは来るの敬語。「ね」は、他に対する顕望の助詞。○草の如寄り合ふ未通女は その草のなびくようにしなやかに多く寄り集まっている娘は、○公がまにまに 「公」は、その部落の貴い人。「まにまに」は、思うままに靡こうの意。
【釈】 新室の壁草を刈りにいらしてくだされ。その草のなびくようにしなやかに多く寄り集まっている娘は、公のお心のままになりましょう。
【評】 村落の住民で、その家を新築する男が、部落の中の最も身分高い人にいった形の歌である。部落民で家を新築する者のある場合は、部落民は家ごとに手助けの者をやって協力するのが風習になっていたとみえる。このことは山村では最近まで保たれていたことである。手助けに未通女が集まったのは、新築の場合は、その家の長久を祈って神事を行なうのは今も続いていることで、未通女は神事に仕える者となっていたからである。「公」という人の手助けを乞うのも、神事は部落全体が一つになって行なうことを必要としていたからのことである。「公がまにまに」は、階級を重んじる心から、あり得べきこととしていっているものと思われる。家あるじの挨拶の語を通して、特殊な境を展開させているもので、謡い物に似てはいるが、室寿ぎとしてのものとは見えない。しかし前半は状態、後半は興を旨としたもので、壁草を「草の如」と承けて変化させている点は謡い物的であり、手腕の見える作である。
2352 新室《にひむろ》を 踏《ふ》むしづの子《こ》が 手玉《ただま》鳴《な》らすも 玉《たま》のごと 照《て》らせる公《きみ》を 内《うち》にと白《まを》せ
新室 蹈靜子之 手玉鳴裳 玉如 所照公乎 内等白世
【語釈】 新室を踏むしづの子が 「踏むしづの子が」は、旧訓「ふむしづのこし」。『略解』の訓。「踏む」は、上代の庶民の家は、柱は礎石がなく、地を掘って立てたのであるから、その柱を堅固に動《ゆる》ぎのないようにと、その本《もと》を踏み固めることをした。これは神事としてのことである。「しづの子」は、「子」は、若い女の愛称で、「しづ」は、賤の意で、「公」に対していっているもの。踏み固めている賤の娘が。○手玉鳴らすも 「手玉」は、手に巻き着けてある玉で、上代の婦人の礼装である。今は神事を行なうために、礼装として着けている物。「鳴らす」は、踏むには一定の謡い物があって、謡に合わせて踊って鳴らしたのである。○玉のごと照らせる 「公」を修飾したもの。○内にと白せ 室の内へと、御案内を申せよで、主の命じた語。
【釈】 新室を踏み固める賤の娘が、手玉を鳴らしている。玉のごとく照り耀いている公を、内へと申して御案内をなさい。
【評】 上の歌と連作になっている。壁草刈りが室寿ぎとなり、招いた公が来たことになって、時間的に進展しているのである。前半の手玉が、後半の玉のごとくになっている関係も、上の歌と同じである。動的な状態を軽く捉えて、さらに動的な趣を添(13)えている技術は鮮やかである。
2353 長谷《はつせ》の 弓槻《ゆつき》が下《もと》に 吾《わ》が隠《かく》せる妻《つま》 茜《あかね》さし 照《て》れる月夜《つくよ》に 人《ひと》見《み》てむかも
長谷 弓槻下 吾隱在妻 赤根刺 所光月夜迩 人見點鴨
【語釈】 ○長谷の弓槻が下に 「長谷」は、泊瀬。奈良県桜井市初瀬町付近並びに同市旧朝倉村地域など初瀬川一帯の地。弓槻は、「弓槻」が嶽で、巻七(一〇八七)に既出。巻向にあって巻向の弓槻が嶽と呼ばれているのを、ここは泊瀬方面から見ての称である。「下に」は、麓の地に。○吾が隠せる妻 わが秘密にしている妻で、詠歎をもっていっている。○茜さし照れる月夜に 「茜さし」は、茜いろのまじってで、「照れる」の状態。○人見てむかも 「て」は、完了の助動詞で、人が見るであろうかなあと詠嘆したもの。
【釈】 長谷の弓槻が嶽の麓にわが隠し持っているこの妻、明るくも照っている月光で、人が見るであろうかなあ。
【評】 長谷の弓槻が嶽の麓にいる妻の許へ行っていた時、その妻に対《むか》って詠んだ形のものである。心は、その妻を愛する余り、他人にその関係を知られるようなことがありはしないかと不安を感じての心で、妻に真実を誓うという程度を超えての熱愛の心をいったものである。「長谷の弓親が下に」は、その妻を強く重くいおうとしてのもので、抒情である。「照れる月夜に」も、逢っている夜のさまで、昂揚している心の表現としてのもので、これまた抒情である。抒情がおのずから状態描写となって、単純にして複雑味を持ったものとなっている。上の二首は謡い物の味わいをもっていて、旋頭歌という形式を適当とするものであるが、この歌は個人的な抒情で、短歌形式を適当とするものである。しかし短歌形式ではこれだけの客観味を併せあらわすことは困難で、その意味では旋頭歌を必要としたのであろう。その点からいうと、旋頭歌という口誦時代の古い形が、人麿によって新味あるものに変えられているのである。巻七の旋頭歌にもこの傾向の物が多かった。
一に云ふ、人《ひと》見《み》つらむか
一云、人見豆良牟可
【解】 第六句の別伝である。人が見たであろうかで、こういうと、熱愛に伴う不安の情が甚しく稀薄になっている。伝承より起こったことで、作意を十分に解し得なかったからのことである。
(14)2354 健男《ますらを》の 念《おも》ひ乱《みだ》れて 隠《かく》せるその妻《つま》 天地《あめつち》に 徹《とほ》り照《て》るとも 顕《あらは》れめやも
健男之 念乱而 隱在其妻 天地 通雖光 所顯目八方
【語釈】 ○健男の念ひ乱れて 「念ひ乱れて」は、さまざまに考えて。○天地に徹り照るとも 上の歌の「照れる月夜」を承け、月光が天地に徹って照ろうとも。○顕れめやも 「や」は、反語。顕われようか、願われはしない。
【釈】 大夫がさまざまに考えてここに隠してあるその妻、月光が天地に徹って照ろうとも顔われようか、顕われはしない。
【評】 上の男の歌に対して、女の答えた歌だと 『新考』は解している。そう見るとしっくりする。従うべきである。女の歌としては語も調べも強いものであるが、贈歌に従って詠むべき答歌であるから、不自然とはいえない。「天地に徹り照るとも」は、「茜さし照れる月夜に」を仮想として言いかえたものであるから、さしたるものではない。心は、男の心に感激し、あくまでも男に随おうとする誓いである。
一に云ふ、大夫《ますらを》の 思《おも》ひたけびて
一云、 大夫乃 思多鷄備弖
【解】 一、二句の別伝である。大夫が雄々しく考えて。伝承のうちに異なって来たとみえる。男の歌とみてよりのことである。
2355 恵《めぐ》しと 吾《わ》が念《おも》ふ妹《いも》は 早《はや》も死《し》ねやも 生《い》けりとも 吾《われ》に寄《よ》るべしと 人《ひと》の云《い》はなくに
惠得 吾念妹者 早裳死耶 雖生 吾迩應依 人云名國
【語釈】 ○恵しと吾が念ふ妹は 「恵しと」は、旧訓「めぐまむと」。巻五(八〇〇)「妻子見ればめぐし愛《うつく》し」とあり、「愛し」とほぼ同意語である。いとおしいと。○早も死ねやも 「死ねやも」は、『古義』の訓で、読み添えをしたもの。○吾に寄るべしと 「寄る」は、妻として接する意で、妻になりそうだとは。○人の云はなくに 「人」は、恋の仲介に立った人。「なく」は、打消「ず」の名詞形。「に」は、詠嘆。
【釈】 いとおしいとわが思っている妹は、早く死なないのかなあ。生きていようとも、我に寄りそうだとは人のいわないことだ。
(15)【評】 懸想をしている女の応じそうもないことを、仲介の者の告げるのを聞いた時の激語である。「早も死ねやも」は、可愛ゆさの余りにいっているもので、悪意よりのものではないが、それにしてもほかには見えない語である。「恵しと」は、年少のものに対して抱く心であるから、相手が物の聞き分けのない心からいっているのであろう。一首、人麿歌集の歌としては珍しい素朴なもので、それもその場合の反動的な語ということを暗示するものである。
2356 高麗錦《こまにしき》 紐《ひも》の片方《かたへ》ぞ 床《とこ》に落《お》ちにける 明日《あす》の夜《よ》し 来《き》なむとし云《い》はば 取《と》り置《お》きて待《ま》たむ
狛錦 紐片叙 床落迩祁留 明夜志 將來得云者 取置待
【語釈】 ○高麗錦紐の片方ぞ 「高麗錦」は、高麗国より渡来した錦で、珍重したもの。「紐」は、衣の上紐で、両方に着けてあって、胸元で結ぶ。その片方。○明日の夜し来なむとし云はば 「明日の夜」は、今夜に続いての次の夜で、これをいっている時は夜明けとみえるから、現在の言い方からいうと今夜である。「来なむとし云はば」は、来ようと約束をするのならばを、二つの「し」で強くいったもの。○取り置きて待たむ 手許に置いて待とう。
【釈】 高麗錦の紐の片方が、床の上に落ちていることです。今日の夜も、来ようというのでしたら、手許に置いて持ちましょう。
【評】 夜明け近く夫が帰ろうとする時、女のいった形の歌である。夫の身に付いた物が、夜の床の上に落ちていたということは、古物語にもあることで、思い寄りやすいことである。この場合は、夫の身に付いた紐が自然に落ちていたというのは、紐に心があって、夫と妻とを結びつけようとしているのだと妻は解し、その心をもって媚態を示しつついっているものである。後半の力を籠めてしつこい言い方をしているのは、その心をあらわしているものである。想像で描き出した情景と思われる。
2357 朝戸出《あさとで》の 公《きみ》が足結《あゆひ》を 濡《ぬ》らす露原《つゆはら》 早《はや》く起《お》き 出《い》でつつ吾《われ》も 裳《も》の裾《すそ》濡《ぬ》れな
朝戸出 公足結乎 閏露原 早起 出乍吾毛 裳下閏奈
【語釈】 ○朝戸出の公が足結を 「朝戸出」は、朝戸をあけて出るで、夫の妻の家より帰る意。「足結」は、袴を引きあげて、膝の下で結わえる紐の称。歩行や行動を便利にするための物。○濡らす露原 「露原」は、露の置き渡している原で、妻の家よりの帰途。○裳の裾濡れな 「な」は、自身に対する願望。
(16)【釈】 朝戸出をする公の足結を濡らす露原、早く起きて、出て行って私も、裳の裾を濡らしましょう。
【評】 夜明け近く、夫が帰ろうとする前に女の詠んだ形の歌である。夫の帰る時には、平安朝の物語で見ると、女は寝ているのが普通であったとみえる。この時代も同様で、後半は、女がその常習を破って特に見送りをしようというので、作意もそこにあるとみえる。「足結を濡らす露原」は、女の家の環境を短く美しくあらわしている語である。露原という語は、格別には見えない語であるが、しかしほかに例の見えない語である。
2358 何《なに》せむに 命《いのち》をもとな 永《なが》く欲《ほ》りせむ 生《い》けりとも 吾《わ》が念《も》ふ妹《いも》に 易《やす》く逢《あ》はなくに
何爲 命本名 永欲爲 雖生 吾念妹 安不相
【語釈】 ○何せむに命をもとな 「何せむに」は、何にしようとてか。「もとな」は、ここは、いたずらにというにあたる間投の副詞。○易く逢はなくに たやすく逢わないことであるのに。
【釈】 何にしようとてか、命をいたずらに永く願おう。生きていようとも、わが思う妹にたやすく逢わないことであるのに。
【評】 関係を結んでいる女の家へ行き、母親などの妨げに遭って、逢えずに帰った後の詠歎と取れる。たやすく死をいうのは、女に対する愛着の半面である。気分が調べとなっている。
2359 息《いき》の緒《を》に 吾《われ》は念《おも》へど 人目《ひとめ》多《おほ》みこそ 吹《ふ》く風《かぜ》に あらば屡《しばしば》 逢《あ》ふべきものを
息緒 吾雖念 人目多社 吹風 有数々 應相物
【語釈】 ○息の緒に 呼吸の継続で、それがすなわち命であるとして、命がけにの意の副詞。○人目多みこそ 人目が多いことだで、下に「あれ」が省かれている。○吹く風にあらば わが身が吹く風であったならばで、人目に立たず、自由にどこへでも行ける意でいっているもの。
【釈】 命がけに我は妹を思っているが、人目が多いことだ。吹く風であったならば、しばしば逢えることであるのに。
【評】 上の歌の連作とも見られる歌で、人目の多い嘆きである。自由な風を羨む心は新しいものではないが、一首の調べが思い入った静かな嘆きをあらわしていて、その中に溶かし込まれているので、しみじみした感をもったものとなっている。「屡」(17)という語が、特に生きている。
2360 人《ひと》の親《おや》の 未通女児《をとめご》居《す》ゑて 守山辺《もるやまべ》から 朝《あさ》な朝《あさ》な 通《かよ》ひし公《きみ》が 来《こ》ねば哀《かな》しも
人祖 未通女兒居 守山邊柄 朝々 通公 不來哀
【語釈】 ○人の親の未通女児居ゑて 「人の親」は、「人の」は、感を強めるために添えたもので、「人の子」と共に例の多いもの。「親」は、母親の意。子と同棲しているのは母のみだったからである。「居ゑて」は、居させて。「守る」と続け、二句はその序詞。○守山辺から 「守山」は、地名である。『代匠記』は、巻十三(三二二二)「みもろは人の守る山 本辺はあしび花さき 末辺は椿花さく うらぐはし山ぞ 泣く児守る山」とあるを証とし、飛鳥の雷丘の別名であろうといっている。「から」は、「ゆ」と同じく、そこを通って。○朝な朝な通ひし公が 「朝な朝な」は、日々の意のもの。「通ひし公」は、わが方に通って来た公。
【釈】 母親が娘を居させて番をする、その名の守山の辺りを通って、毎日わが方に来た公が、来ないので悲しいことだ。
【評】 娘の求婚を続けていた男の来なくなったのを悲しんだ心である。求婚にとどまっていたことは、「朝な朝な」という語であらわし、また女が心では許したかったが、できなかったことを、「人の親の未通女児居ゑて」という序詞であらわしている。この序詞の、第三者的な言い方をしているところに、女の心が暗示されているといえる。「守山」という地名、「公」という用字も、現実味を帯びさせるものである。ある身分ある家の娘ということを思わせる歌で、目立たないが技巧の多い歌である。
2361 天《あめ》なる 一《ひと》つ棚橋《たなはし》 いかにか行《ゆ》かむ 若草《わかくさ》の 妻《つま》がりといへば 足《あし》を壮厳《かざ》らむ
天在一棚橋 何將行 穉草 妻所云 足壯嚴
【語釈】 ○天なる一つ棚橋 「天なる」は、天にあるで、「日」と続き、「一つ」の枕詞。「一つ棚橋」は、一枚板の棚橋。「棚橋」は、板を棚のように渡した簡単な橋。○いかにか行かむ どのように渡って行こうかと疑ったもの。疑うのは、それを渡るのは相応に危険なこととしていっているのである。○足を壮厳らむ 「壮厳」は、仏語で、よそい飾る意である。諸注「よそひ」「あゆひ」と訓んだのを、『全註釈』は今のごとく訓み、「かざる」というほうが普通であり、そのようにいった用例もあるといっている。足結などを美しい物にする意と取れる。
【釈】 天にある日に因む、あの一枚板の棚橋を、どのように渡ったものであろうか。若草の妻の許へ行くので、足を飾って行こ(18)う。
【評】 男が夜、新たに得たと見える妻の許に出かけようとする際の心である。前半は自問、後半は自答で、旋頭歌の古い形を用いているものである。前半は、妻の許へ通う路のさまを眼に思い浮かべた心である。浮かんで来るのは「一つ棚橋」で、夜の闇に渡るのは危険が予想されるので、「いかにか行かむ」と一応警戒された心である。後半は一転して、そうした心持はきれいに払いのけ、今度は「若草の妻」を眼に思い浮かべ、あの妻の許へ行くのだ、足結を美しい物にして、おしゃれをして行こうと、答える心で思い続けたのである。前半と後半との間に相応な飛躍があるが、しかし心理的には自然であって、推移、つながりの無理ならぬものがある。「天なる」の枕詞、「壮厳」という用字など、この際の気分を暗示しているといえる。「若草の」という枕詞は、ことに重く働いている。極度に気分的な、また技巧のすぐれた、人麿歌集にのみ見られる詠み方の歌である。
2362 山城《やましろ》の 久世《くせ》の若子《わくご》が 欲《ほ》しといふ余《われ》 あふさわに 吾《われ》を欲《ほ》しといふ 山城《やましろ》の久世《くせ》
開木代 來背若子 欲云余 相狹丸 吾欲云 開木代來背
【語釈】 ○山城の久世の若子が 「久世」は、京都府久世郡|城陽《じようよう》町に、今も久世という字がある。「若子」は、若い人に対する敬称で、若様というにあたる。○欲しといふ余 妻に欲しという我を。○あふさわに吾を欲しといふ 「あふさわに」は、突然にの意の古語と取れる。巻八(一五四七)「あふさわに誰の人かも手に巻かむちふ」と出た。○山城の久世 上の「若子」を省いて繰り返したもの。
【釈】 山城の久世の若様が、欲しいという私を。突然に私を欲しいという、山城の久世の若様が。
【評】 久世の若子という身分ちがいの人から、突然に求婚された女の、それを耳にした瞬間の心である。ただ呆れただけで、何の心も起こって来る余裕のない一瞬間の気分をそのままにいっているもので、珍しい歌である。平凡といえばきわめて平凡(19)であるが、こうした境を取材として捉え、生気に満ちた作とすることは、人麿歌集の歌以外には決して見られないことで、そのこと自体がすでに超凡なものである。
右の十二首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
右十二首、柿本朝臣人麿之謌集出。
2363 岡前《をかざき》の たみたる道《みち》を 人《ひと》な通《かよ》ひそ 在《あ》りつつも 公《きみ》が来《き》まさむ 避道《よきみち》にせむ
岡前 多未足道乎 人莫通 在乍毛 公之來 曲道爲
【語釈】 ○岡前のたみたる道を 「岡前」は、岡の突き出た所の称。「たみたる道」は、曲がっている道。○人な通ひそ 世間の人は通うなと禁止したもの。○在りつつも 今のままでいつつで、人通りのないさまをいったもの。○避道にせむ 人目を避ける道にしよう。
【釈】 岡の突き出た所にある曲がった道を、人は通るな。今のままであって、公がいらっしゃる時の人目を避ける道としよう。
【評】 岡の裾に住んでいる女が、男がいつも通って来る道のある岡崎を見やって、男の人目を忍ぶ妨害になろうから、誰も通るなと念じている心である。「在りつつも」というので、おりから人は通らないが、公の姿も見えないことをあらわしている。冴えてはいないが、情景をあらわしている作である。
2364 玉垂《たまだれ》の 小簾《をす》の隙《すけき》に 入《い》り通《かよ》ひ来《こ》ね たらちねの 母《はは》が問《と》はさば 風《かぜ》と申《まを》さむ
玉垂 小簾之寸鶴吉仁 入通來根 足乳根之 母我問者 風跡將申
【語釈】 ○玉垂の小簾の隙に 「玉垂」は、玉を緒に貫いて垂らした物とみえる。「を」と続き、その枕詞。巻二(一九四)、巻七(一〇七三)に既出。「小簾」は、「小」は、接頭語で、すだれ。「すけき」は、隙の意と解されるが、ほかに用例の見えない語である。名詞。○入り通ひ来ね 潜り入って、通って来よで、「ね」は、他に対しての願望。
【釈】 すだれの隙を入って、通って来てくれよ。母が訝かってお問いになったら、風だと申しましょう。
(20)【評】 母の監督がきびしく、男に逢い難くしている女の、男に贈った形のものである。風を羨む歌は上の(二三五九)に出、「吹く風にあらば屡逢ふべきものを」とあった。これはそれを作因としたごとき歌である。明るく、美しく、謡い物として詠んだ歌かと思われる。才の利いた、可憐な作である。
2365 うち日《ひ》さす 宮道《みやぢ》に逢《あ》ひし 人妻《ひとづま》ゆゑに 玉《たま》の緒《を》の 念《おも》ひ乱《みだ》れて 宿《ぬ》る夜《よ》しぞ多《おほ》き
内日左須 宮道尓相之 人妻※[女+后] 玉緒之 念乱而 宿夜四曾多寸
【語釈】 ○うち日さす宮道に逢ひし 「うち日さす」は、宮の枕詞。巻三(四六〇)に既出。「宮道」は、大宮に通じる道。「逢ひし」は、出仕の途中で見かけた。○玉の緒の念ひ乱れて 「玉の緒の」は、乱れる物の意で、その枕詞。巻七(一二八〇)に既出。恋に乱れて。
【釈】 大宮へ出仕の途中で逢った人妻のゆえに、恋しさに思い乱れて寝る夜の多いことであるよ。
【評】 実際生活の気分に即して詠んでいる歌である。「宮道に逢ひし人妻」は、自身の身分、相手の人柄を意識しての語である。「念ひ乱れて宿る夜しぞ多き」は、恋の悩みそのもので、これを進展させようとまでの心のないものである。公人と私人との矛盾を意識している心のもので、奈良朝以前の心を思わせる作である。詠み方も撲実である。
2366 まそ鏡《かがみ》 見《み》しかと念《おも》ふ 妹《いも》も逢《あ》はぬかも 玉《たま》の緒《を》の 絶《た》えたる恋《こひ》の 繁《しげ》きこの頃《ごろ》
眞十鏡 見之賀登念 妹相可聞 玉緒之 絶有戀之 繁比者
【語釈】 ○まそ鏡見しかと念ふ 「まそ鏡」は、「見」の枕詞。「見しか」は、「しか」は、願望をあらわす。「て」が添った「てしか」の形のものが多い。見たいと思う。○妹も逢はぬかも 妹も逢わないのか(21)なあで、逢って欲しいの意。しばしば出た。○玉の緒の絶えたる恋の 「玉の緒の」は、「絶え」と続き、その枕詞。巻三(四八一)に既出。「絶えたる恋」は、以前は関係があって、今は絶えた恋で、上の「妹」との間のこと。○繁きこの頃 繁くあるこの頃よの意。
【釈】 見たいと思う妹も、逢わないのかなあ、逢いたいものだ。絶えた恋の繁くあるこの頃よ。
【評】 上代の夫婦関係においては、男にはこのような場合が多かったことと思われる。取材の関係上、一首が説明的となっていて、したがって感が直接に伝わらない。
2367 海原《うなばら》の 路《みち》に乗《の》りてや 吾《わ》が恋《こ》ひ居《を》らむ 大船《おほふね》の ゆたにあるらむ 人《ひと》の児《こ》ゆゑに
海原乃 路尓乘哉 吾戀居 大舟之 由多尓將有 人兒由惠尓
【語釈】 ○海原の路に乗りてや 「海原の路」は、海路。「乗りて」は、その路によつて進む意の語で、巻十七(三九七八)、古事記上巻などに用例のあるもの。「や」は、疑問の係助詞。○大船のゆたにあるらむ 「大船の」は、その動きのゆっくりしている意で、「ゆた」の枕詞。「ゆたにあるらむ」は、ゆったりとしているだろうで、あせろうとしない意。○人の児ゆゑに 「人の児」は、娘。
【釈】 われは海原の路によって進むように、われは恋うているのであろうか。大船のようにゆったりとしている娘のゆえに。
【評】 恋をしている男の、相手の娘がゆったりしていて、事が進まないのを嘆いた心である。船旅を譬喩に用いているが、上代の旅は可能の限り船によったのであるから、現在想像するよりは、直接感のあるものであったろう。それにしても相聞の歌には珍しいものである。結婚の場合、男のあせり、女の警戒心より躊躇するのは普通のことで、心としては一般性をもったものである。
右の五首は、古歌集の中に出づ。
右五首、古謌集中出。
正《ただ》に心緒《こころ》を述ぶ
【標目】 「正に心緒を述ぶ」は、これにつぐ「物に寄せて思ひを陳ぶ」に対立している称で、他の事物に託さず、直接に心を述べる意である。平安朝時代の「たとへ歌」に対する「ただごと歌」である。なお以下百四十九首は、左注により柿本朝臣人麿歌集(22)のもので、例により特別扱いをしているものである。
2368 たらちねの 母《はは》が手《て》放《はな》れ かくばかり 術《すべ》なき事《こと》は いまだせなくに
垂乳根乃 母之手放 如是許 無爲便事者 未爲國
【語釈】 ○母が手放れ 母が養育の手を放れてで、すなわち一人前となって。○かくばかり術なき事は このようにやるせない事は。○いまだせなくに まだしないことであるのに。
【釈】 たらちねの母の養育の手を放れてから、このようにやるせない事は、まだしないことであるのに。
【評】 初めて恋の苦しさを経験する女の、その苦しさを男に訴えたものである。「たらちねの母が手放れ」は、女としてこの世で、生まれてこの方初めてということを具体的にいったもので、深く思い入っての心である。実際に即しての心で、深いあわれのあるものである。この大観して感性的にいっている詠み方は、人麿歌集に限られるものである。
2369 人《ひと》の寐《ぬ》る 味宿《うまい》は寐《ね》ずて 愛《は》しきやし 公《きみ》が目《め》すらを 欲《ほ》りし嘆《なげ》かふ
人所寐 味宿不寐 早敷八四 公目尚 欲嘆
【語釈】 ○人の寐る味宿は寐ずて すべての人の寐る熟睡はできずに。「味宿」は、安らかな眠りで、熟睡。「寐ずて」は、寐られずに。○愛しきやし公が目すらを 「愛しきやし」は、「愛しき」は愛すべき、「やし」は、詠嘆の助詞。「目すらを」は、「目」は、見られることで、言いかえると逢うこと、「すらを」は、だけを。○欲りし嘆かふ 願って嘆きつづけるで、「嘆かふ」は、嘆くの連続。
【釈】 すべての人の寐る熟睡はできずに、愛すべき君に逢うことだけを願って嘆きつづける。
【評】 若い女の夜ひそかに男を思っている心であるが、いちずで、直截で、いささかの厭味もなく、純粋無垢のものである。きわめて平凡な心であるが、力をもって生きている趣がある。
或本の歌に云ふ、公《きみ》を思《おも》ふに 明《あ》けにけるかも
或本歌云、公矣思尓 曉來鴨
【解】 四、五句の別伝である。公を思っていると夜が明けたことであるよ、というので、このほうは一夜を思い続けたことのほうに重点を置いたものである。本文のほうは、公を恋うることに重点を置き、その気分をあらわそうとしたものであるのに、このほうは、気分よりも事柄に重点を置いているので、本文のもつ厚みのないものとなっている。伝承の際、平明を求める心から改めたものと見られる。
2370 恋《こ》ひ死《し》なば 恋《こ》ひも死《し》ねとや 玉桙《たまほこ》の 路行人《みちゆきびと》の 言《こと》も告《つ》げなく
戀死 戀死耶 玉桙 路行人 事告無
【語釈】 ○恋ひ死なば恋ひも死ねとや 「も」は、詠嘆。恋い死ぬならば恋死にをせよというのであろうかで、「や」は、疑問の係。○玉桙の路行人の 「玉桙の」は、路の枕詞。「路行人」は、路を歩く人で、男の家のあるほうから女の家のあるほうへ来る人。○言も告げなく 「言」は、男の伝言。「告げなく」は、告げないことであるよと嘆いたもの。
【釈】 恋い死ぬならば、恋死にをせよというのであろうか。夫の家のほうより来る路行人が、伝言を告げないことであるよ。
【評】 妻の夫を恨んだ心である。この男女は庶民で、その夫婦関係は人に明らかにしていたのである。交通の少ない時代とて、夫の部落から妻の部落のほうへ来る者があれば、それと知れないはずはなく、知れれば伝言をするのが当り前だと妻は決めているのに、夫はそれをしなかったと、妻は腹立ち嘆いているのである。部落生活の状態、女の情熱的で、赤裸々なところなど、当時にあっては親しい感のするものであったろう。民謡の趣をもった歌である。
2371 心《こころ》には 千遍《ちたび》念《おも》へど 人《ひと》に云《い》はぬ 吾《わ》が恋※[女+麗]《こひづま》を 見《み》むよしもがも
心 千遍雖念 人不云 吾戀※[女+麗] 見依鴨
【語釈】 ○心には千遍念へど 心の中では限りなく思っているが。○見むよしもがも 「見む」は、逢ふ。「よし」は、方法。「もがも」は願望で、逢う方法がほしいものだ。
(24)【釈】 心の中では、限りなく思っているが、人にはいわずにわが恋うている妻に、逢う方法のほしいものだ。
【評】 周囲を憚って逢えずにいる恋妻に逢いたいと願う心で、類歌の多いものである。率直に強い調べでいっているので、そのために特色づけられている。
2372 かくばかり 恋《こ》ひむものとし 知《し》らませば 遠《とほ》く見《み》るべく ありけるものを
是量 戀物 知者 遠可見 有物
【語釈】 ○遠く見るべくありけるものを 関係なく見ているべきであったのに。
【釈】 これほどまでに恋うるものと前もって知ったならば、無関係で見ているべきであったのに。
【評】 若い男が女に逢い初めて、妨げがあって逢えぬ苦しさから、関係を結んだことを後悔している心である。こうしたことは実際に多く、したがって類歌が多いのであるが、この歌はただちに事の中心を捉えて、詠歎で貫いてゐるところに特色がある。訓に問題はあるが、心はそのために不明になる性質の歌ではない。
2373 何時《いつ》はしも 恋《こ》ひぬ時《とき》とは あらわども 夕片《ゆふかた》まけて 恋《こひ》はすべなし
何時 不戀時 雖不有 夕方任 戀無乏
【語釈】 ○何時はしも 『略解』の訓。「Lも」は、強意の助詞で、読み添え。いつといって特にというにあたる。○夕片まけて 「片まく」は、巻二(一九一)に既出。夕方に近くなって。夕方を恋うる人に逢える時刻としてである。○恋はすべなし 恋は、やるせがないで、堪えられない意。
【釈】 いつといって特に恋いない時といってはないが、夕べに近くなると恋は、やるせがない。
【評】 男の通って来るのを待つ女の心である。いつも恋いとおしているが、男の来る時刻の夕べになると恋の心は最も堪えがたいというのである。このあたりの歌は純抒情的なものであるが、中核を捉えて、直截な抒情をしているので、迫りうる感をもったものとなっている。
(25)2374 かくのみし 恋《こ》ひや渡《わた》らむ たまきはる 命《いのち》も知《し》らず 年《とし》は経《へ》につつ
是耳 戀度 玉切 不知命 歳經管
【語釈】 ○かくのみし恋ひや渡らむ 「かくのみし」は、『代匠記』の訓。仮名書きの例によってである。「し」は、強意。○たまきはる命も知らず 「たまきはる」は、命の枕詞。「命も知らず」は、命の続くほども知れないのに。○年は経につつ 年は過ぎて行きつつ。
【釈】 このようにばかり恋い続けているのであろうか。わが命のほども知れないのに、年は過ぎて行きつつ。
【評】 片恋を少なくとも一年以上にわたってしている男の嗅きである。恋の執着を中心に、思い入って身世を大観して嘆いているのである。詠み方もその心にふさわしく直截で、調べも張っているので、おのずから暗さと深みが陰影となって添って来ている。
2375 吾《われ》ゆ後《のち》 生《うま》れむ人《ひと》は 我《わ》が如《ごと》く 恋《こひ》する道《みち》に 逢《あ》ひこすなゆめ
吾以後 所生人 如我 戀爲道 相与勿湯目
【語釈】 ○吾ゆ後生れむ人は 『略解』の訓。われより以後に生まれるであろう人は。○恋する道に逢ひこすなゆめ 「恋する道」は、恋という道であるが、その道は漢語を取り入れたもので、広く用いられ、巻三(三四七)「世間《よのなか》の遊びの道に」、巻五(八九二)「術《すべ》なきものか世間の道」などある。抽象的な内容を示す語である。「逢ひこすな」は、「逢ひ」は、遭遇する。「こす」は、くれるというにあたる、希望をあらわす動詞で、下二段活用。逢ってくれるな、決して。
【釈】 われより後に生まれ出るであろう人は、われがしているように、恋という道には逢ってくれるな、決して。
【評】 これは若い日の人麿が、何らかの機会にその全心を挙げていった歌と思われる。人麿は恋を私生活の全部と認めていた人のようであるが、恋にそれほどの価値を置くと、楽しみよりも、苦しみのほうが多いことは当然である。求めるところが多ければ、不満も同時に多くなるのであるが、しかし満足を感じなければ楽しみはないからである。純真な心をもって、恋の楽しみを追求してゆけば、振幅は自然に大きくなり、最大の楽しみは単に夢となり、反対に最大の苦しみが現実となって来るの(26)は当然のことである。そうした苦しみをしている場合、失望している自身を客観視し、この苦しみはせめて人には味わわせたくはないとの念を発して来たのが、この歌の心である。一見激語であるかのようにみえるが、じつは思い入っていっている衷心よりの語で、人生愛を語っているものである。歌人としての人麿の根本につながっている歌である。
2376) 健男《ますらを》の 現《うつ》し心《ごころ》も 吾《われ》はなし 夜昼《よるひる》と云《い》はず 恋《こひ》しわたれば
健男 現心 吾無 夜畫不云 戀度
【語釈】 ○健男の現し心も 「健男」は、分別あり、実行力ある男子の意で、上代人の自任していた者。「現し心」は、覚醒している心。○恋しわたれば 恋をし続けているので。
【釈】 大夫としての覚醒した心も、我は無い。夜昼の差別もなく、恋をし続けているので。
【評】 「健男の現し心も吾はなし」は、公人として当然もつべき矜持を失っていることを意識し、歎息をもって一気にいった形のものである。その理由は、「夜昼と云はず恋しわたれば」という、個人としての恋情に惑溺しているからのことであるとして、それを一段と嘆いているのである。精神的破産に瀕している自身を意識した心で、人生的な嘆きの歌である。
2377 何《なに》せむに 命《いのち》継《つ》ぎけむ 吾妹子《わぎもこ》に 恋《こひ》せぬ前《さき》に 死《し》なましものを
何爲 命繼 吾妹 不戀前 死物
【語釈】 ○何せむに命継ぎけむ どうしようとて命を生き続けたことだろうか。○死なましものを 「まし」は、仮設の帰結で、死ねばよかったものを。
【釈】 どうしようとて命を生き続けて来たのだろうか。吾妹子に恋をしない前に、死ねばよかったものを。
【評】 片恋の苦悩に堪えかねての独詠である。「吾妹子に恋せぬ前に」といっているので、吾妹子は片恋の相手に対する愛称である。「死なましものを」は成句となっていたものである。恋を生命以上に感じている心で、心としては深刻なものである。
(27)2378 よしゑやし 来《き》まさぬ公《きみ》を 何《なに》せむに 厭《いと》はず吾《われ》は 恋《こ》ひつつ居《を》らむ
吉惠哉 不來座公 何爲 不※[厭のがんだれなし]吾 戀乍居
【語釈】 ○よしゑやし来まさめ公を 「よし」に、「ゑやし」の感動の助詞を添えて強めた語で、「よし」は、よしやとかりに許す意の副詞。ままよにあたる。「来まさぬ公を」は、「を」は、詠嘆で、通ってはいらっしゃらない公であるものを。上を承けて、どうせ通ってはいらっしゃらないと、諦めていっているもの。○何せむに厭はず吾は どうしようとていやにならずに吾は。「何」は、係。○恋ひつつ居らむ 恋いつづけていることであろうか。
【釈】 ままよ、どうせいらっしゃらない公であるものを。どうしようとていやにならずに吾は、恋いつづけているのであろうか。
【評】 男に疎遠にされている女の、自己批評の独詠である。初二句は、男はどうせ来ないものと、過去の仕打ちを思って諦めた心で、三句以下は、それにもかかわらず同時に一方では、懲りもせずに待ちつづけているのを、「何せむに」と我と訝かっている心である。この矛盾は恋の上ではありがちなもので、ことに女に多いものである。一般性のある心である。
2379 見渡《みわた》せば 近《ちか》き渡《わたり》を 徘徊《たもとほ》り 今《いま》や来《き》ますと 恋《こ》ひつつぞ居《を》る
見度 近渡乎 廻 今哉來座 戀居
【語釈】 ○見渡せば近き渡りを 「渡り」は、二つの地点を横ぎる場所の称で、河にいうと共に野にもいった。ここは野である。「を」は、ものを。○徘徊り 「た」は、接頭語で、「もとほり」は、廻り道をして。既出。これは人目を避けるためである。○今や来ますと恋ひつつぞ居る 今はいらっしゃるかと恋いつついることだで、「や」は、疑問の係、「居る」は、結。
【釈】 見渡すと、近い渡り場所であるのに、廻り路をして、今にもいらっしゃろうかと、恋いながらいる。
【評】 野を越しての彼方《かなた》の部落から通って来る男を、こちらの部落の女の待っている心である。男は人目を避けて廻り道をして来るので、いつひょっくり現われるかわからないので、その目に見えない姿を想像して待っているのである。「恋ひつつぞ居る」は、その心をあらわしたもので、そこに重点がある。庶民生活の実際に即しての歌で、その実際が新味となり興味となっている作である。複雑した状態を単純に詠み生かしている歌で、夫、夕べなど事としては大切なものまでも省いている、気(28)分本位の歌である。
2380 愛《は》しきやし 誰《た》が障《さ》ふれかも 玉桙《たまほこ》の 路《みち》見忘《みわす》れて 公《きみ》が来《き》まさぬ
早敷哉 誰障鴨 玉桙 路見遺 公不來座
【語釈】 ○愛しきやし 「愛しき」に「やし」の感動の助詞の添って強められたもので、心としては結句の「公」につづくものであるが、形としては独立句風に用いられているものである。例のある用い方である。なつかしい、というに近い。○誰が障ふれかも 誰が妨げをするのでかで、「かも」は、疑問の係助詞で、「来まさぬ」に続く。○路見忘れて 妨げられている中に、ここへの路を見忘れて。○公が来まさぬ 公がいらっしゃらないことです。
【釈】 なつかしい。誰が妨げをするのであろうか、ここへの路を見忘れて、公のいらっしゃらないことです。
【評】 疎遠にしている夫に贈った歌である。恨みを述べて訴えるのが普通であるのに、「誰が障ふれかも」と夫の周囲の者の責任とし、そうされているうちに君も、「路見忘れて」という状態になったものとして、夫にもある責任を負わせて恨むという、巧みな言い方のものである。二句から三句の間の飛躍は、気分本位の言い方よりのものである。「愛しきやし」が訴えとなり、よく利いている。気分の屈折があって、無理なく言いおおせている、上手な歌である。
2381 公《きみ》が目《め》の 見《み》まく欲《ほ》しけく この二夜《ふたよ》 千歳《ちとせ》の加《ごと》も 吾《わ》が恋《こ》ふるかも
公目 見欲 是二夜 千歳如 吾戀哉
【語釈】 ○公が目の見まく欲しけく 巻十二(二六六六)「妹が目の見巻欲家口《みまくほしけく》」の用例によっての訓。「目」は、姿。「見まく欲しけく」は、どちらも名詞形。公が姿を見たいことを、極度に強めた言い方。○この二夜 「この」は、眼前を指したもの。「二夜」は、逢って後、またの逢いを待った二夜。○千歳の如も吾が恋ふるかも 千年の久しいような気がして、われは恋うていることよというので、来るのを待つての憧れである。
【釈】 君の姿を見たいことだと、この二夜を、千年の久しい間のように憧れていることであるよ。
【評】 夫の来るのを待つ心で、例の多いものである。「この二夜」がじつに働きをもっている。実際を捉えての語で、事とし(29)ては何事でもないが、実際であるがゆえに、異常の働きあるものとなっているのである。作者の手腕である。
2382 うち日《ひ》さす 宮道《みやぢ》を人《ひと》は 満《み》ち行《ゆ》けど 吾《わ》が思《おも》ふ公《きみ》は ただ一人《ひとり》のみ
打日刺 宮道人 雖滿行 吾念公 正一人
【語釈】 略す。
【釈】 立派な宮廷へ行く路を、人はいっぱいになって行くけれども、わが思う公は、ただ一人だけである。
【評】 官人の妻の、その夫に貞実を誓った形の歌である。朝の出仕の宮路においてその夫を捉えていっているのは、上代にあっては夫に対する尊敬と信頼を示すことになり、また最も印象的な言い方でもある。魅力ある歌である。
2383 世《よ》の中《なか》は 常《つね》かくのみと 念《おも》へども 半手《かたて》忘《わす》れず 猶《なほ》恋《こ》ひにけり
世中 常如 雖念 半手不忘 猶戀在
【語釈】 ○世の中は常かくのみと 『考』の訓。巻三(四七二)「世間之常如此耳跡《よのなかしつねかくのみと》」に従ったのである。世の中は通常このようにばかりあるものとの意で、男の最初は真実であるが、次第に疎遠になって行ったことをいったもの。○半手忘れず 「半手」は、『新訓』の訓。この語は集中ここのみである。『総釈』で春日政治氏は、源氏物語、紅葉の賀に、片一方の義で、「かたて」と用いていると考証している。ここも同じ意で、当時用いられていた語と思われる。「忘れず」は、忘れずして。
【釈】 世の中は通常このようにばかりあるものだと思うけれども、片一方では、忘れられずに、やはり恋うていることである。
【評】 男から疎遠にされている女の、諦めながらも忘れられずにいる心である。取材の関係上、説明的になっているが空疎の感はない歌である。「半手」は訓は問題となろうが、意味は用字から察しられる語である。
2384 我《わ》が夫子《せこ》は 幸《さき》く坐《いま》すと 遍《かへ》り来《き》て 我《われ》に告《つ》げ来《こ》む 人《ひと》も来《こ》ぬかも
(30) 我勢古波 幸座 遍來 我告來 人來鴨
【語釈】 ○遍り来て 旧訓。諸注、訓を問題にし諸説があるが、『新訓』『総釈』は旧訓に従い、『総釈』は「遍」は「かへる」と訓みうる文字だとしている。旅より帰って来てで、夫と同じ方面へ行っていた人をいっているもの。○人も来ぬかも 『古義』の訓。「ぬ」は、意味で読み添えをしたのである。人が来ないかなあで、来てくれよの意で、「ぬか」は、願望。
【釈】 わが背子は無事でいらっしゃると、その方面から帰って来て、我に告げに来る人も、来ないのかなあ、来てくれよ。
【評】 夫を遠い旅にやっている妻の、ひたすら幸便を待っている心である。「遍り来て」以下は、予想のできる人があるのではなく、そうした人を空想しているので、「来」を三たびまでも繰り返し、ことに結末は、「来ぬかも」と願望にしているのは、そのためのことである。素朴に、自然な形で詠んでいるもので、あわれのある歌である。
2385 あらたまの 五年《いつとせ》経《ふ》れど 吾《わ》が恋《こひ》の 跡《あと》なき恋《こひ》の 止《や》まず催《あや》しも
麁玉 五年雖經 書戀 跡無戀 不止恠
【語釈】 ○あらたまの五年経れど 「あらたまの」は、「年」の枕詞。「五年経れど」は、夫との交渉の絶えた年数を、事実に即していったもの。○跡なき恋の 「跡なき」は、しかとしない意で、逢うこともない意。○止まず恠しも 『考』の訓。止まずして怪しいことよ。
【釈】 五年という間を経ているが、わが恋の、この逢うこともない恋の、やまずにいる恠しさよ。
【評】 男の歌である。五年という長い間、相手に逢えたこともなく片恋を続けている自身を、我と恠しんでいる心である。「吾が恋の跡なき恋の」と、自身の恋を客観視し、婉曲に美しい言い方をしているのは、男性にして初めてできることである。「あらたまの五年」も、その恋を客観視したもので、現実性を与えているものである。片恋の歌として、品位あり、貫録のある珍しい歌である。
2386 石《いはほ》すら 行《ゆ》き通《とほ》るべき 建男《ますらを》も 恋《こひ》といふ事《こと》は 後《のち》悔《く》いにけり
石尚 行應通 建男 戀云事 後悔在
(31)【語釈】 ○石すら行き通るべき建男も 巌ですら破って通り行くべき大夫でも。○後悔いにけり 後悔をしたことであるで、「に」は完了で、強めたもの。その心弱くされたことを心外に感じての嘆き。
【釈】 巌でも破って通り行くべき大夫も、恋ということに対しては、後悔をしたことである。
【評】 恋の悩みに堪え難くなった時、自身を反省し、大夫としての矜持に立ちかえって、心外な悩みをしたものだと後悔した心である。「石すら行き通るべき」は、成句に近いもので、公人としての男子の抱負であり、「後悔いにけり」というのは私人としてである。公人の責任感のきわめて強かった上代には、公私の矛盾ということはほとんど意識されず、この嘆きは当然のものとなっていたとみえる。したがってこの嘆きは一般性をもったもので、官人のすべてに響くものだったのである。
2387 日《ひ》暮《く》れなば 人《ひと》知《し》りぬべみ 今日《けふ》の日《ひ》の 千歳《ちとせ》の如《ごと》く ありこせぬかも
日※[人偏+弖] 人可知 今日 如千歳 有与鴨
【語釈】 ○日暮れなば人知りぬべみ 原文の「※[人偏+弖]」は「低」と同じで、日が低くなる意よりの訓。日が暮れたら、人が知るであろうからで、昼間、家人の外出している家で女と逢っており、日が暮れると家人の帰って来ることがわかっているゆえに言っているのである。異様であるが、実際に即していっているものと取れる。○千歳の如くありこせぬかも 千歳のように永くあってくれぬのか、あってくれよの意。
【釈】 日が暮れたなら、人が知るであろうから、今日の日が、千年のように永くもあってくれぬのか、あってくれよ。
【評】 男の歌で、心は明らかである。「日暮れなば人知りぬべみ」という簡単な語で、昼間、女の家で、家人の不在中に密会しているという複雑した事情をあらわしている歌である。三句以下も巧みで、一首やすらかに纏まって、気分をもった歌となっている。
2388 立《た》ちて坐《ゐ》て たどきも知《し》らず 念《おも》へども 妹《いも》に告《つ》げねば 間使《まづかひ》も来《こ》ず
立座 態不知 雖念 妹不告 間使不來
【語釈】 ○立ちて坐てたどきも知らず 『古義』の訓。巻十二(二八八一)「立而居為便乃田時《たちてゐてすべのたどき》毛いまはなし」を証としてである。「立ちて坐て」(32)は、立ったり坐ったりして。「たどき」は、「たづき」と同じで、「ず」は、打消の助動詞の連用形で、手の出し所も知られずにで、恋に心を奪われている意。○間使も来ず 「間使」は、双方の間の使。
【釈】 立ちつ居つして、手の出し所も知られないさまに思うけれども、妹に告げないので、使も来ない。
【評】 男の歌で、女と関係は結んだが、その周囲の者から強く隔てられ、便りをすることさえできない状態になって、ひとり懊悩している歌である。事としていわず、気分としてあらわそうとしているもので、事に触れているのは、「妹に告げねば」だけであるが、これも事としては告げられないのである。事を、事に伴う気分をいうことによってあらわすのは、奈良朝時代のことであるが、人麿歌集は早くもそれを行なっているのである。
2389 ぬばたまの この夜《よ》な明《あ》けそ 朱《あか》らひく 朝《あさ》行《ゆ》く公《きみ》を 待《ま》たば苦《くる》しも
烏玉 是夜莫明 朱引 朝行公 待苦
【語釈】 ○ぬばたまのこの夜な明けそ 「ぬばたまの」は、夜の枕詞。「この夜」は、今夜で、夫が来ている夜を、妻のいっているもの。○朱らひく朝行く公を 「朱らひく」は、「ら」は、接尾語。赤色を引くで、朝の光の状態。ここは「朝」の枕詞。「朝行く公を」は、朝帰って行く公を。○待たば苦しも 『代匠記』初稿本の訓。訓は諸説があるが、実際に即した、感性的な訓の意で従う。来るのを待つのは苦しい。
【釈】 この夜は明け行くな。朝になれば帰って行く公を、またと待ったならば苦しいことである。
【評】 妻の歌で、夫の来ている夜、夜明け近くに訴えていったものである。中心は「待たば苦しも」で、ほかに触れていないのは、身分ある女を思わせる。枕詞を二つ用いて、すなおな物言いをしている形も、それを思わせる。
2390 恋《こひ》するに 死《しに》するものに あらませば 我《わ》が身《み》は千遍《ちたび》 死《し》にかへらまし
戀爲 死爲物 有者 我身千遍 死反
【語釈】 ○恋するに 恋は物思いするものとしていっているもので、恋の物思いのために。○死にかへらまし 「死にかへる」は、死を繰り返す意。「かへる」は、反復。
(33)【釈】 恋の物思いのために死ぬものであったならば、わが身は千回も死を繰り返していることであろう。
【評】 女が疎遠にしている夫に訴えた歌であろう。それとすると妥当性のあるものとなる。巻四(六〇三)笠女郎の大伴家持に贈った、「念《おも》ふにし死するものにあらませば千遍《たび》ぞ吾は死にかへらまし」という歌は、明らかにこれに倣《なら》ったもので、これもそうした関係のものと思われる。
2391 たまたまも 昨日《きのふ》の夕《ゆふべ》 見《み》しものを 今日《けふ》の朝《あした》に 恋《こ》ふべきものか
玉響 昨夕 見物 今朝 可戀物
【語釈】 ○たまたまも 旧訓「たまゆらに」。この語は集中ここにあるのみで、したがって訓に諸説がある。荒木田久老は『信濃漫録』で、「たまさかに」の訓をしている。一首の心からいえば妥当であるが、迎えての訓で、拠りどころのないものである。『全註釈』は、用字から見て、玉の響くのは玉と玉とが触れることであるから、玉玉の義と取れるといい、巻四(六五三)「情《こころ》には忘れぬものをたまさかにも見ぬ日さ数多《まね》く月ぞ経にける」を用例としている。現在では最も妥当性のある訓である。偶然にも。○恋ふべきものか 恋うべきであろうかで、「か」は、反語。
【釈】 偶然にも、昨日の夕べ逢ったのであるのに、今日の朝に恋うべきであろうか、恋うべきではない。
【評】 男の歌である。関係を結んでいる女の身辺に、きびしい妨害があって、逢えないものと諦めていたのに、偶然にも機会を掴み得て逢うと、逢ったためにさらに心が募って来たのであるが、とても逢えそうもないと、強く自制している心である。心理の自然があるのと、複雑した事情を、「たまたまも」と、「恋ふべきものか」とで、十分にあらわし得ている、すぐれた技巧のある歌である。技巧とはいうが、事情を事としていわず、気分としていってるために、安らかにあらわし得ているのである。抒情の長所を示している歌である。
2392 なかなかに 見《み》ざりしよりは 相見《あひみ》ては 恋《こひ》しき心《こころ》 まして念《おも》ほゆ
中々 不見有從 相見 戀心 益念
【語釈】 ○なかなかに かえって。副詞で、三句「相見て」に続く。○見ざりしよりは 「見る」は、男女相逢う意で、逢わずに憧れていた時よりは。
(34)【釈】 かえって逢わなかった時よりも、逢ってからは、恋しい心が増さって思われる。
【評】 男の歌で、相応に長い求婚を経て、初めて女に逢った後の心である。類想の多い歌であるが、単純にいっているのでかえって感がある。
2393 玉桙《たまほこ》の 道《みち》行《ゆ》かずして あらませば ねもころかかる 恋《こひ》に逢《あ》はざらむ
玉桙 道不行爲 有者 惻隱此有 戀不相
【語釈】 ○ねもころ ここは、心深い意で、副詞。○恋に逢はざらむ 恋に出違わなかったろうで、恋の相手を見かけることはなかったろうの意。
【釈】 道を行かずにいたのだったら、心深く思いこむ、こうした恋には出逢わなかったろう。
【評】 男の歌である。偶然に路上で見かけた女に恋を感じ、思い入っての悩みをしているところから、自然その原因が顧みられ、あの時路を歩いていなかったならばと、しみじみと思った心である。実際に即した歌で、きわめてありうべきことである。 気分の歌である。「恋に逢はざらむ」は、事と気分とを一つにした言い方で、上手な語である。
2394 朝影《あさかげ》に 吾《わ》が身《み》はなりぬ 玉《たま》かぎる ほのかに見《み》えて 去《い》にし子《こ》故《ゆゑ》に
朝影 吾身成 玉垣入 風所見 去子故
【語釈】 ○朝影に吾が身はなりぬ 「朝影」は、朝の日光に映る影で、その細く長く映るのを、身の痩せた譬喩にしたものである。○玉かぎるほのかに見えて 「玉かぎる」は、玉がほのかに光を発する意で、「ほのか」の枕詞。「ほのかに見えて」は、ちょっと見えて。○去にし子故に 行ってしまった女のゆえにで、途の上で見かけた女の意。
【釈】 朝日に映る影のように痩せたわが身となった。玉の光のようにほのかに見えて、行ってしまった女のゆえに。
【評】 上の歌と取材は全く同じで、そちらは詠歎が主になっているところから、事象には触れていないのに、これは反対に、事象のほうを主としたものである。上の歌だけでは心が尽きず、角度を変えて繰り返した形のものである。連作というべきである。「朝影に吾が身はなりぬ」は巧みであると共に珍しい譬喩であり、それとともにしめやかな気分ももったものである。(35)「玉かぎるほのかに見えて」も、事象ではあるが、女の美しさを連想させる気分の濃厚なもので、「去にし子故に」も同様である。事象とはいっても気分を通してのもので、読後に残すものは気分だといえる詠み方である。この歌は巻十二に重出しており、愛誦されたことを思わせるものである。奈良朝時代の気分本位の詠風に通うところの多いものであるから、その意味で流布したのであろう。知性と感性の一つになって、安らかに流れ出している歌で、魅力のある作である。
2395 行《ゆ》けど行《ゆ》けど 逢《あ》はぬ妹《いも》ゆゑ ひさかたの 天《あめ》の露霜《つゆじも》に ぬれにけるかも
行々 不相妹故 久方 天露霜 沾在哉
【語釈】 ○行けど行けど 逢おうと思って、行きに行くけれども。漠然とした訪ね方である。○天の露霜に 「露霜」は、水霜で、天より降るものではないが、関係のあるものとして「天の」を添えたもの。成語である。
【釈】 逢おうと思って行きに行くけれども、逢わない妹のゆえに、我は空の水霜に濡れたことであるよ。
【評】 極度に気分を主とした言い方であって、背後にある事象の明らかにはし難いものである。「行けど行けど逢はぬ妹」というのは、あらかじめ約束をして訪う妹とは見えず、初句「行けど行けど」も、何回もというごときはっきりした意味のものではなく、昂奮して、漠然と、宛てなく歩き続けているものと思われる。「ひさかたの天の露霜」という極度に誇張した語も、そのことを支持するものである。事象としては取りとめのないものであるが、気分は十分に充実しているので、一首の歌として見ると、空疎でないのみならず、一種の響をもったものともなっているのである。片恋の範囲の歌ではあるが、その相手が十分明らかになっていないという、特殊の恋にみえる。前の二首の歌につながりをもった歌と見ると、自然なものになって来る。そうした歌ではなかろうか。
2396 たまさかに 吾《わ》が見《み》し人《ひと》を 如何《いか》ならむ 縁《よし》を以《も》ちてか また一目《ひとめ》見《み》む
玉坂 吾見人 何有 依以 亦一目見
【語釈】 ○たまさかに 偶然に。○如何ならむ縁を以ちてか 「縁」は、意味の広い語で、ここは方法。「以ちて」は、取ったら。「か」は、疑問の係助詞。
(36)【釈】 偶然にもわが見かけた女であるのを、どういう方法を取ったら、また一目見られようか。
【評】 これも取材としては、上の三首の歌と同じである。最初の「玉桙の道行かずして」の心の結末とすれば、自然なものとなって来る。感情の昂《たか》まっていたのが鎮まり、「如何ならむ縁を以ちてか」と、知的に考えるようになったものと思われる。以上四首、一首一首十分独立はしているので、連作を企図したものではない。しかし一つの事に対して起伏推移する感情を、時間を追って叙しているので、おのずから連作と同じ結果を生み出すに至ったのである。これは、言いかえると、抒情をもって叙事を遂行していることで、新しい傾向といえるものである。
2397 暫《しま》しくも 見《み》ねば恋《こひ》しき 吾妹子《わぎもこ》を 日《ひ》に日《ひ》に来《く》れば 言《こと》の繁《しげ》げく
※[斬/足] 不見戀 吾妹 日々來 事繁
【語釈】 ○吾妹子を 「を」は、ものをの意。○言の繁けく 噂の多いことだで、「繁けく」は、形容詞「繁し」の名詞形。
【釈】 しばらくの間でも、見ないと恋しい妹なのに、毎日来るので、噂の多いことだ。
【評】 この歌は、次の女の歌と贈答関係をもっているもので、女に贈ったものとみえる。二人の関係が盛んに言い立てられている頃、自分はそのためにいささかも動揺させられている者ではないということを、女に知らせようとして贈った歌と取れる。見ずにはいられない妹のために、噂の多いことだと、噂のほうはさりげなく、ほとんど第三者として聞き流しているようにいっているのは、妹の恋しさというよりむしろ可愛ゆさを強調しようがためである。表面から見ると、恋の上ではきわめて普通な心持を、説明的に平坦にいっている歌であるが、裏面の心は、女をしっかりと捉えていようとする心をもつもので、言外の心の多いものである。これは迎えての解ではなく、女の歌と対照すると、そう解さざるを得ない歌である。ある身分ある、教養ももっている人の物言いである。調べは抒情性をもっていて、それとなき訴えを支持している。
2398 年《とし》きはる 世《よ》まで定《さだ》めて 恃《たの》めたる 公《きみ》によりてし 言《こと》の繋《しげ》けく
年切 及世定 恃 公依 事繁
【語釈】 ○年きはる 「年」は、年齢。「きはる」は、極まるで、極限のある意。年齢の極限ので、寿命というにあたる。人の命数は定まっている(37)とする意で、仏説の影響を受けた心である。○世まで定めて 「世」は、生涯で、生涯のこととまで心を定めて。○恃めたる 頼ませているで、自身の頼んでいるのを、相手を主と立てていったもの。○公によりてし言の繁けく 公について、噂の多いことであるで、「し」は、強意の助詞。
【釈】 年齢の尽きる極限の、生涯までもと心を定めて、信頼している公につけて、噂の多いことであるよ。
【評】 上の歌に対しての女の答歌と取れる。女は男のいわんとしていわずにいる心を敏感に感じ、「年きはる世まで定めて恃めたる」といっている。これが男の聞かんとしたことなのである。「公によりてし言の繁けく」は、贈歌によっていっているものである。一首の心としては、男と同じ心を、さらに押し進めて、一本気になっていっているもので、人の噂などには微動もしまいとの心である。二首を合わせると、繊細な心をもった知識人の、淡い歌物語となる。
2399 朱《あか》らひく 膚《はだ》にも触《ふ》れず 寐《ね》たれども 心《こころ》を異《け》しく 我《わ》が念《も》はなくに
朱引 秦不經 雖寐 心異 我不念
【語釈】 ○朱らひく膚にも触れず 「朱らひく」は、赤味を帯びている。「膚にも触れず」は、旧訓「はだもふれずて」。『新訓』の訓。「触れず」は、夫の膚に触れずに。○寐たれども 寐ているけれども。○心を異しく我が念はなくに 心が変わって我が思っているのではないことよ。
【釈】 赤味を帯びている美しい君の膚に触れずに寝ているけれども、心が変わって私は思っているのではないことよ。
【評】 妻が、通って来た夫と共寐をしている時、夫に断わっていった形の歌である。上代には女性は神事に奉仕する場合が多く、その期間は男女関係から遠ざかることになっていた。夫婦関係を結んでいる間のことであるから大体その範囲のことであろう。「朱らひく膚にも触れず」は、そうした際の女の気分をあらわしているものである。
2400 いで如何《いか》に ここだ甚《はなはだ》 利心《とごころ》の 失《う》するまで念《おも》ふ 恋《こ》ふらくの故《ゆゑ》
伊田何 極太甚 利心 及失念 戀故
【語釈】 ○いで如何に 「いで」は、発言する時の言いかけで、さあ。「如何に」は、どういうわけで。四句の「念ふ」につづく。○ここだ甚 「ここだ」は、多量に。「甚」は、はなはだしくで、いずれも副詞で、二つ重ねて、強めたのである。これも「念ふ」へかかる。○利心の失するまで(38)念ふ 「利心」は、鋭い心で、男子の心。「失するまで念ふ」は、無くなるまで物思いをするのかで、以上、我と我に自問した形のもの。○恋ふらくの故 「恋ふらく」は、恋うの名詞形。恋ということをしているがゆえであると、上の自問に対して自答したもの。
【釈】 さあ、どういうわけで、多量に甚しくも、男子の鋭い心も無くなるまでに物思いをするのであるか。恋ということをするがゆえである。
【評】 甚しく気力の衰えている自身に対して怪訝の眼を向け、なぜにこのような状態となっているのかと自問を発し、それに対して、これは恋という事のためであると自答したのである。鋭く、熱意ある調べが気分をあらわしている。恋に溺れている心ではなく、反撥しようとする心で、しばしば出た公人としての大夫が、私人を制そうとするものである。この自問自答の形は伝統のあるもので、技巧として効果をあげている。
2401 恋《こ》ひ死《し》なば 恋《こ》ひも死《し》ねとや 吾妹子《わぎもこ》が 吾家《わぎへ》の門《かど》を 過《す》ぎて行《ゆ》くらむ
戀死 々々哉 我妹 吾家門 過行
【語釈】 ○恋ひ死なば恋ひも死ねとや 上の(二三七〇)に出た。
【釈】 恋い死にをするならば、恋うて死ねというのであろうか、吾妹子は、わが家の門を通り過ぎて行くのであろう。
【評】 取材は庶民的で、印象も明らかすぎるほどのものである。声調もそれに伴ったもので、謡い物として詠んだものとみえる。
いもとほみあやわれ
2402 妹《いも》があたり 遠《とほ》く見《み》ゆれば 恠《あや》しくも 吾はぞ恋《こ》ふる 逢《あ》ふ由《よし》を無《な》み
妹當 遠見者 恠 吾戀 相依無
【語釈】 ○恠しくも 不思議なまでに。○逢ふ由を無み 逢う方法がないので。
【釈】 妹が家のあたりが遠く見えるので、不思議なまでに我は恋うることである。逢う方法がないので。
【評】 女に妨げがあって逢えず、ほとんど諦めた状態になっている男の歌であるの「遠く見ゆれば」に支持されて、「恠しくも」が生かされており、それが中心となっている歌である。心理が説明なしに現われている点は、上手な歌というべきである。
(39)2403 玉久世《たまくせ》の 清《きよ》き河原《かはら》に 身祓《みそぎ》して 斎《いは》ふ命《いのち》は 妹《いも》が為《ため》こそ
玉久世 清河原 身※[禾+祓の旁]爲 齋命 妹爲
【語釈】 ○玉久世の清き河原に 「玉久世」は、ここにあるのみで、ほかに用例のない語である。「久世」は、京都府久世郡久津川村(現、城陽町)に久世の地名がある。「玉」は、美称で、その地と取れる。「清き河原に」は、その地を木津川が流れている。地名に因んで、久世川の清き河原に。『新考』は、山田孝雄氏の解を挙げている。それは『新撰字鏡』に、灘の字の注として、「加波良久世又和太利世又加太」とあるにより、久世は河原とは同義で、水石相交わるところだとするのである。それによると、「玉久世」は、石の玉のように清い河原で、「清き河原に」は、語を変えての繰り返しとなる。○身祓して斎ふ命は 「身祓して」は、流るる水で身を潔めて、不浄を除いて、災禍をまぬがれる行事。「斎ふ命は」は、無事を願うわが命は。○妹が為こそ 妹のためにすることであるで、「こそ」の下に「あれ」が省かれている。
【釈】 玉のごとき久世川の清い河原で禊《みそぎ》をして、身の不浄を除いて災禍を免れようと願うわが命は、妹のためのことである。
【評】 山城の久世の辺りを過ぎる旅人が、久世川の清らかな河原を見て、妹を思う心からわが身を無事に保とうと思い、その河原で身祓をする心をいった形の歌である。身祓は上代信仰の上では重い行事で、いつどこでしてもよいことであった。「玉久世の清き河原に」は、その地の清浄さをいったもので、心理の自然がある。
2404 思《おも》ひ依《よ》り 見《み》ては依《よ》りにし ものにあれば 一日《ひとひ》の間《ほど》も 忘《わす》れて念《おも》へや
思依 見依 物有 一日間 忘念
【語釈】 ○思い依り見ては依りにしものにあれば 旧訓「おもふよりみるよりものはあるものを」。文字表示が不完全で、旧訓も解しやすくないところから、訓に諸説がある。誤写説をほかにし、読み添えによって意を通じさせたものでは、『総釈』の春日政治氏の訓が比較的妥当に思われる。今はそれに従う。「思ひ依り」は、相手に思いが寄って行き。「見ては依りにしものにあれば」は、関係を結んではさらに思いが寄って行った間であるので。○一日の間も忘れて念へや 一日の間でも忘れていようか、いはしない。「忘れて念へや」は、「念へ」は、添えていう古格。「や」は、反語で、忘れめやと同意語。
【釈】 思うので心が寄って行き、さらに逢って心が寄ってしまった間であるので、一日の間でも忘れていられようか、いられはしない。
(40)【評】 訓に動揺があるので、意も明らかとはいえない。男より女に贈った歌で、自身の真実を告げたものである。上のごとく訓むと、初句より三句までは、男がその貞実心の由って来たるところを告げたもので、相手の女にはすべて思い当たることであり、当時者の間では十分納得のできるものであったろう。こうした相聞の歌は本来当事者間のもので、第三者を予想したものではないから、ある程度の不明の伴うのは有りうることといえる。しかし人麿歌集の歌は、そうした歌を蒐集したものではなく、少なくとも一半は人麿の想像裡のものであろうから、一概にそれを言い立てるわけにはゆかない。しかしその手心の加わった歌だとは言いうることである。
2405 垣穂《かきほ》なす 人《ひと》は云《い》へども 高麗錦《こまにしき》 紐《ひも》解《と》き開《あ》けし 公《きみ》なけなくに
垣廬鳴 人雖云 狛錦 紐解開 公無
【語釈】 ○垣穂なす人は云へども 「垣穂なす」は、垣の穂のように。垣は葦や柴で編んだもので、穂はその先端で、多い意の譬喩。「人」にかかる枕詞。「人は云へども」は、人は噂をするけれども。○高麗錦細解き開けし 「高麗錦」は、高麗より渡来した錦で、衣の紐とされたところより、その修飾。「紐解き開けし」は、衣の紐を解いて開けたで、身を許して関係を結んだということを具体的にいったもの。○公なけなくに 公が無いではないものを。
【釈】 垣の穂のように多く人が言い騒ぐけれども、高麗錦の紐を解き開けた、公が無いではないものを。
【評】 女が男にその衷情を訴えた歌である。男との関係を周囲の者からしきりに言い立てられると、苦しく心細く感じ、それとともに、男を頼む心がいっそう強くなり、取り縋るごとき心をもって訴えているものである。身分ある女で、相応の矜持をもっており、「高麗錦紐解き開けし」ということを、絶対のこととしていっているのである。「公なけなくに」も、同じく矜持をもって縋っている語である。
2406 《こまにしき》 紐《ひも》解《と》き開《あ》けて 夕《ゆふべ》だに 知《し》らざる命《いのち》 恋《こ》ひつつあらむ
狛錦 紐解開 夕谷 不知有命 戀有
【語釈】 ○高鷲錦紐解き開けて 意は上の歌と同じ。これは結句「恋ひつつ」にかかる。○夕だに 原文は諸本「夕戸」。旧訓「夕とも」。『考』(41)は「戸」は「谷」の誤写として「夕べだに」と訓んでいる。これに従う。今日の夕べすら。○知らざる命 知られない命で、上の句を承けて、この夕べをも測り難い無常の命で、自身のことをいったもの。仏教思想である。○恋ひつつあらむ その我を恋いつつ居ようと、相手を推量したもの。
【釈】 高麗錦の紐を解いて開けて、今日の夕べすらも測れない命の我を、恋いつづけて居よう。
【評】 上の女の贈歌に対しての男の答歌である。女の一途に頼みとして取り縋ろうとするのに対して、憐れみの心でいっている形のものである。女の語をそのまま取って、「高麗錦紐解き開けて」と現在のことにし、それに対照させて「夕だに知らざる命」といっているので、その心はあらわされている形であるが、明らかに、気取りが見え、厭味である。仏教思想をこのように日常生活に取り入れているのは珍しいものであるから、当時はその珍しさを良いとしたのであろう。この二句が中心となっている歌である。
2407 百積《ももさか》の 船《ふね》こぎ入《い》るるや 占《うら》さして 母《はは》は問《と》ふとも その名《な》は謂《の》らじ
百積 船潜納八 占刺 母雖問 其名不謂
【語釈】 ○百積の船こぎ入るるや 「百積」は、容積の単位の称で、「石」にあたり、百積は百石で、量の多いこと。「こぎ入るるや」の「や」は、ここにつける解と次の句につける解とがある。ここにつけて、感動の助詞と見る。浦と続け、初二句その序詞。○占さして 占いによってその人と指して。○母は問ふともその名は謂らじ 母は尋ねようとも、君の名はいいますまい。男女、相手の名を他人に漏らすと、その関係が不安なものとなるという信仰があって、互いに厳秘にしたのである。
【釈】 百石の積荷をした船を漕ぎ入れるところの浦、それに因みある占いをして、その人と指して、母は尋ねようとも、君の名はいいますまい。
【評】 女が夫婦関係を結んでいる男に、その貞実を誓った歌である。いっていることは仮想であるが、これは事実となりうるもので、なれば女にとっては最も苦痛なことなので、誓言には適当な事柄なのである。「百積の船こぎ入るるや」は、住地の実際より捉えたものと思われるが、それよりも神意の現われとしての占いの厳かさを気分としてあらわそうとしてのものである。その意味ですぐれたものである。類想の多い事柄であるが、序詞によって特色あるものとなっている。
2408 眉根《まよね》かき 鼻《はな》ひ紐《ひも》解《と》け 待《》つらむか 何時《いつ》しか見《み》むと 念《おも》へる吾《われ》を
ま
(42) 眉根削 鼻鳴紐解 待哉 何時見 念吾
【語釈】 ○眉根かき鼻ひ紐解け 「眉根」は、「根」は、接尾語。眉が痒くて掻き。「鼻ひ」は、嚔の出ることで、上一段の動詞、連用形。くしゃみをし。「紐解け」は、紐が自然に解けてで、以上いずれも、人に逢える前兆と信じられていたこと。○待つらむか 女がわれの行くのを待っているであろうか。○何時しか見むと念へる吾を 「何時しか」は、いつであるか、早くで、早くの意。「見む」は逢おう。「念へる吾を」は、思っているこのわれを。
【釈】 眉を掻いたり、くしゃみをしたり、下紐が自然に解けたりして、妹は待っているのだろうか。早く逢いたいと思っているこのわれを。
【評】 男が妻の状態を想像している心である。この想像は根拠のあるもので、上代は人の魂は交流するもので、こちらで思うことは相手の人に、何らかの形で現われるものだと信じていたのである。今も男が、自分の早く逢いたいと思う心は、妻にも通じているはずだとして、想像しているのである。上代には誰にも親しみのある歌だったろうと思われる。謡い物系統の歌である。
2409 君《きみ》に恋《こ》ひ うらぶれ居《を》れば 悔《くや》しくも 我《わ》が下紐《したひも》の 結《ゆ》ふ手《て》徒《いたづら》に
君戀 浦經居 悔 我裏紐 結手徒
【語釈】 ○うらぶれ居れば さびしい気持になっていると。○悔しくも 残念にも。○結ふ手徒に 旧訓「むすびてただに」。『新訓』の訓。「徒に」は、下紐の解けるのは人に恋いられるゆえであるが、その恋う人は来ないので、解ける下紐を結ぶのが無駄になるで、上の「悔しくも」に応じさせたもの。
【釈】 君を恋うて、さびしい気持でいると、残念にも、下紐が解けるだけで、それを結ぶ手数が無駄になる。
【評】 女の歌で、男を恋うる心が通じると見え、下紐は解けるが、しかし男は来ない嘆きである。「悔しくも我が下紐の結ふ手徒に」という言い方は、男も我を恋うていることを背後に置いての言い方で、語続きとしてはかなり飛躍のあるものである。上手な言い方である。
(43)2410 あらたまの 年《とし》は果《は》つれど 敷栲《しきたへ》の 袖《そで》交《か》へし子《こ》を 忘《わす》れて念《おも》へや
璞之 年者竟杼 敷白之 袖易子少 忘而念哉
【語釈】 ○年は果つれど 年は終わるけれども。年の変わり目になる意。○敷栲の袖交へし子を 「敷栲の」は、袖の枕詞であるが、実際をいっているもので、織り方をたたえたもの。「袖交へし子」は、袖を交わして共寝をしたかわゆい女。○忘れて念へや 思い忘れようか、忘れはしない。
【釈】 年は終わって変わろうとするが、敷栲の袖を交わして共寝をした可愛ゆい女を、思い忘れようか、忘れはしない。
【評】 年末に女に贈った歌で、自身の誠実を示そうとした歌と取れる。詠み方の上で、関係している日が浅く、女も年若い、幼げの残っているような人であったことを思わせる。
2411 白細布《しろたへ》の 袖《そで》をはつはつ 見《み》しからに かかる恋《こひ》をも 吾《われ》はするかも
白細布 袖小端 見柄 如是有戀 吾爲鴨
【語釈】 ○白細布の袖をはつはつ 「白綿布の」は、上の歌と同じく讃えの意のあるもの。「袖をはつはつ」は、『略解』の訓。「はつはつ」は、わずかにで、副詞。○見しからに 見たゆえに。
【釈】 白細布の袖をわずかに見たゆえに、このような恋をわれはすることであるよ。
【評】 男の歌で、袖は女の物。人間の遭逢の怪しさをいったもので、上にも力作のあったものである。「はつはつ見しからに」は、ほのかに一目見た意で、それが苦しい恋の原因となったとするのであるが、あるいはそのような見方であったがゆえに、空想化されて苦しい恋になったのかもしれぬ。しかしこれは拡がりとしてのことである。
2412 吾妹子《わぎもこ》に 恋《こ》ひて術《すべ》なみ 夢《いめ》に見《み》むと 吾《われ》は念《おも》へど 寐《い》ねらえなくに
我妹 戀無乏 夢見 吾離念 不所寐
(44)【語釈】 ○恋ひて術なみ 旧訓。恋しくて仕方がないので。
【釈】 吾妹子が恋しくて仕方がないので、夢に見ようと我は思うけれども、眠られないことであるよ。
【評】 心は明らかである。「恋ひて術なみ」と、逢うことを諦めての上の恋しさをいっており、一首の調べもひどく落ちついたところから見て、旅にあっての歌ではないかと思われる。気分をいうのみで、事には触れていないので、そのように取れるのである。とにかく、逢えないものと決めての上の恋しさである。
2413 故《ゆゑ》もなく 吾《わ》が下紐《したひも》を 解《と》かしめつ 人《ひと》にな知《し》らせ 直《ただ》に逢《あ》ふまでに
故無 吾裏紐 令解 人莫知 及正逢
【語釈】 ○故もなく 理由もなくてで、誰が来ようという心当たりもなくて。○解かしめつ 訓は諸注さまざまである。『新訓』の訓。自然に解かせた。これは上にも出たように、人に逢える前兆で、人が来ようと思っている心が通じて起こることとしていた。ここも、誰ともわからない男の心がそのようにさせたのである。○人にな知らせ 人には知らせるなと禁じたもの。誰に向かって禁じたのか不明にみえるが、これは下紐を解かせている男の心が、現に身に通って来ているとして、それを対象にしていっているのである。男女関係は他人に漏らすと、その関係を起こさせている力が失せるものだという信仰があったので、知らぬ男の自分に懸想していることを他人に漏らすのをおそれていっているのである。○直に逢ふまでに 直接に逢うまでは。
【釈】 その人と心当たりもなく、わが下紐を自然に解かせた。女は男に逢う前兆と解したのであるが、そうした男の心当たりはなかったのである。しかし現に誰か知らぬ男の霊力が自分の身に加わっていることと信じ、とにかく男に思われていることに喜びを感じ、その人との関係を成り立たせようと思う心から、それをさせている人よ、他人に我を思うことをいうな。直接に逢うまでは。
【評】 女が思いがけなくその下紐の自然に解けた時の心である。男の霊力を相手にして、我を思っていることを人にはいうな、直接に逢うまではと言いかけたのである。女が男に思われることを喜ぶ心と、女性の強く俗信を信ずる心の上に立った珍しい歌である。相応に複雑したことを、抒情の語を通してあらわしている、非凡な技巧である。
2414 恋《こ》ふること 意《こころ》遣《や》りかね 出《い》で行《ゆ》けば 山《やま》も川《かは》をも 知《し》らず来《き》にけり
(45) 戀事 意追不得 出行者 山川 不知來
【語釈】 ○恋ふること意遣りかね 恋うることの苦しさを紛らし得ずして。○出で行けば 家を出て、恋うる人のほうに向かって来れば。○山も川をも知らず来にけり 『考』の訓。「山も川をも」は、後世だと、山をも川をもであるが、上の「を」を省き、下にだけ添えるのは上代の語格である。「知らず来にけり」は、わからずに来たことであるよと、詠嘆をもっていっているもので、来たのは恋うる女の許である。
【釈】 恋うることを紛らすことができずして、家を出てこちらに向かって来ると、途中の山をも川をもわからずに来たことであるよ。
【評】 男が妻の許へ行き、訴えの心をもっていっているものである。感傷の心よりのものであるが、こうした際の歌の陥り易い、女を喜ばしめようとして、途中の困難を誇張していう跡がなく、「山も川をも知らず」とむしろ反対なことをいっているのは珍しい。結果としては同じであるが、その言い方のさっぱりしているのが魅力となっている。夫婦関係のやや久しい間ということが絡んでいよう。純気分の歌で、張った調べが即表現となっている作である。
物に寄せて思を陳ぶ
【標目】 上の「正に心緒を述ぶ」に対する部立であって、外界の物象を媒として、それに寄せて恋の心をあらわしている歌である。最初の部分は、例のように、柿本人麿歌集のもので、(二五一六)まで百四十九首を収めてある。同部立の他の歌とは特別扱いをしているものである。
2415 処女《をとめ》らを 袖振山《そでふるやま》の 瑞垣《みづがき》の 久《ひさ》しき時《とき》ゆ 念《わも》ひけり吾《われ》は
(46) 處女等乎 袖振山 水垣乃 久時由 念來吾等者
【語釈】 ○処女らを袖振山の 「処女等を」の「を」は、感動の助詞で、「よ」というと異ならない。処女らよ、その袖を振ると続け、振るを振山に懸けたもので、「袖」までの七音は序詞である。「振山」は、石上神宮の所在地(天理市布留)で、その言いかえ。○瑞垣の 神宮の垣を褒めての語。その久しい物であるところから「久しき」に続け、初句よりこれまではまた序詞である。○久しき時ゆ念ひけり吾は 久しい以前から、思っていたわれは。
【釈】 処女らよ、それが袖を振るに因みある振山の瑞垣の久しいように、久しい前から思っていたわれは。
【評】 この歌は、巻四(五〇一)に、「未通女等《をとめら》が袖振る山の水垣の久しき時ゆ憶《おも》ひき吾は」と出ていたものである。初句と結句にいささか変わりがあるが、この変わりは、今の歌のほうが語づかいが古いので原形で、巻四のものは、伝承中解りやすいように変えたものと取れる。
2416 ちはやぶる 神《かみ》の持《も》たせる 命《いのち》をば 誰《た》が為《ため》にかも 長《なが》く欲《ほ》りせむ
千早振 神持在 命 誰爲 長欲爲
【語釈】 ○ちはやぶる神の持たせる 「ちはやぶる」は、いちはやぶるで、勢の激しい意で、神威を讃えたもの。枕詞として用いられているが、形式語ではない。「神の持たせる」は、神のお司りになっている。○命をば 『新訓』の訓。上句より続いて、神のお司りになっている命をばで、人力ではいかんともし難いわが命をば。○誰が為にかも 『新訓』の訓。妹を外にして誰のためにかで、「かも」は、疑問の係助詞で、ここは反語の意をもつ強いもの。○長く欲りせむ 『考』の訓。長かれと思おうか、思いはしない。
【釈】 勢猛き神のお司りになるわが命をば、妹をほかにしての誰のために、長くあれと思おうか、思いはしない。
【評】 妹に対して献身的な愛を誓った歌である。「神の持たせる命」と信じながら、それにもかかわらず長くと思うのは、一に妹のためであって、妹のためには非望の願いをもしているというのである。妹を絶対なものと思い詰めた心で、調べもそれにふさわしい強いものである。
2417 石上《いそのかみ》 布留《ふる》の神杉《かむすぎ》 神《かむ》さびし 恋《こひ》をも我《われ》は 更《さら》にするかも
(47) 石上 振神杉 神成 戀我 更爲鴨
【語釈】 ○石上布留の神杉 「石上布留」は、ここは石上神宮の意のもの。「神杉」は、神社の境内にある神霊の宿り給う神木で、この社の物は杉だったのである。老木であるのが普通で、ここもその意で、譬喩として「神さびし」にかかる序詞。○神さびし恋をも我は 「神さびし」は、神々しくなったで、転じて、古くなったの意に用いる。ここはそれで、下の恋の性質をいったもの。「恋をも我は」は、そうした恋をも我はと、詠嘆していったもの。はるか以前の関係で、その後は絶えていた恋である。○更にするかも 新たにすることであるよ。
【釈】 石上の布留の社の神杉のように、ひどく古くなった恋を我は、新たにすることであるよ。
【評】 男の歌で、若い時に関係があったが、その後はずっと絶えてしまっていた女と、年を経て、何らかの機会から再び関係することになった人が、自身を客観視して、感慨をもつていった心である。「石上布留の神杉」は、その地が関係の復活に何らかのつながりのあってのものとみえる。
2418 如何《いか》ならむ 名《な》に負《お》ふ神《かみ》に 手向《たむけ》せば 吾《わ》が念《も》ふ妹《いも》を 夢《いめ》にだに見《み》む
何 名負神 幣嚮奉者 吾念妹 夢谷見
【語釈】 ○如何ならむ名に負ふ神に どういう名で、また霊験あらたかだという評判を負い持っている神に。○手向せば 「手向」は、旅人が道路で祭をする称で、祭には物を捧げるところから、祭る意となったもの。祭をしたならば。○夢にだに見む 夢にだけでも見られようか。
【釈】 どういう名の神で、霊験があらたかだと評判を負い持っている神を祭ったならば、わが思っている妹を、夢にだけでも見られようか。
【評】 旅人が故郷の妹を思って、せめて夢にでも見たいと思い、土地不案内なところから、神々のうち、どういう神が、そうした方面で霊験があらたかなのだろうかと思っている心である。「如何ならむ名に負ふ神に」というのは旅の実際に即した心で、その点にあわれがある。全体としても昂奮していないところに実感がある。
2419 天地《あめつち》と いふ名《な》の絶《た》えて あらばこそ 汝《いまし》と吾《われ》と 逢《あ》ふこと止《や》まめ
(48) 天地 言名絶 有 汝吾 相事止
【語釈】 ○天地といふ名の絶えてあらばこそ 天地という名が無くなったならばの意。「名」は、物と名とは同一であるとして言いかえているもの。「絶えて」は、「名」の関係でいっている。「絶えてあらば」は、絶えたらば。○汝と吾と逢ふこと止まめ 「汝」は、女を指していっているもの。「め」は、「こそ」の結。
【釈】 天地という物が無くなったならば、その時は汝とわれと逢うことを止めよう。
【評】 男が女に、その夫婦関係の変わらないことを誓ったものである。天地が尽きたらば逢うことを止めようということは例の少なくないものであるのと、一気に、さわやかな調べをもっていっているのとで、実感の表現と思わせる。人麿歌集特有の歌である。
2420 月《つき》見《み》れば 国《くに》は同《おや》じを 山《やま》隔《へな》り 愛《うつく》し妹《いも》は 隔《へな》りたるかも
月見 國同 山隔 愛妹 隔有鴨
【語釈】 ○月見れば国は同じを 「同じ」は、「おなじ」「おやじ」共に仮名書きのあるものである。月を見ると、同じ国土であるのをで、月光の与える感である。○山隔り 山が隔てていてで、山に対しては「隔り」というが普通になっていた。○愛し妹は隔りたるかも 可愛ゆい妻は隔たっていることであるよ。
【釈】 月を見ると、国は同じであるのを、山が二人を隔てていて、可愛ゆい妻は隔たっていることであるよ。
【評】 京からさして遠くない地に旅をして、滞在していての歌である。夜の月に対していると、妻のいる京がはなはだしく近い気がするが、しかし山が隔てとなっていて、隔たっていることであると、気分を主として詠んでいる歌である。事象にはほとんど触れず、ただちに事象の生む気分の中心に入り、それをいうことによって一切をあらわす、人麿歌集特有のものである。奈良朝時代の歌も同じ傾向となっているが、そちらは歌柄が小さく細くなっているのに、人麿歌集は柄が大きく豊かで、調べも暢び暢びとして、他の追随し得ぬものをもっている。
2421 木幡路《こはたぢ》は 石《いは》踏《ふ》む山《やま》の 無《な》くもがも 吾《わ》が待《ま》つ公《きみ》が 馬《うま》躓《つまづ》くを
(49) ※[糸+參]路者 石蹈山 無鴨 吾待公 馬爪盡
【語釈】 ○木幡路は 『定本』の訓。この字は諸注訓み難くして、さまざまに訓んでいる。『代匠記』は、「※[糸+參]」は「繰」の誤字として「くる」と訓み、来るの意としている。『定本』は、字画により、この字は旗布の正幅をあらわす字だとし、巻二(一四八)「青旗の木旗《こはた》の上を」の木旗は正幅の意だろうとし、「木幡」に「※[糸+參]」を当てたのであろうとしている。意は木幡へ通ずる路で、木幡街道は。木幡は京都府の宇治市に近く、古くから名ある地である。○馬躓くを 公の乗馬が躓くのに、と途の不安をいったもの。
【釈】 木幡へ来る街道には、石を踏む山が無くてくれるといい。われが待っている公の乗馬が躓くのに。
【評】 木幡に住んでいる女が、遠くから山路を通って来る男を待ちつつ、その山越えの石の多い路を思って、男の乗馬のつまずくことから起こる不慮の災いを案じている心である。「石踏む山の無くもがも」というのは、その地に住んでいる女でないといわない語と思える。また「馬躓くを」も、様子を熟知している者のみのいう語であろうし、それにまた、不安を感じての語ではあるが、深く思い入っての語とは見えない。木幡は京より近江方面へ出る要路にあたる地で、古くから遊行婦の居た地である。以下にもそれを思わせる歌がある。この歌も、そうした女の立場に立って、代わって詠んだ歌かと思われる。
2422 石根踏み 隔《へな》れる山《やま》は あらねども 逢《あ》はぬ日《ひ》まねみ 恋《こ》ひわたるかも
石根蹈 重成山 雖不有 不相日數 戀度鴨
【語釈】 ○石根踏み隔れる山は 「石根」は、「根」は、接尾語。「隔れる」は、『古義』の訓。山にはへなるというのが例である。岩を踏んで、隔たっている山は。○逢はぬ日まねみ 「まねみ」は、多くて。
【釈】 岩を踏んで隔たっている山はないけれど、逢わない日が多くて、恋をつづけることである。
【評】 心は明らかである。公務を帯びて京近い地へ出張している官人の嘆きである。
2423 道《みち》の後《しり》 深津島山《ふかつしまやま》 暫《しま》しくも 君《きみ》が目《め》見《み》ねば 苦《くる》しかりけり
路後 深津嶋山 ※[斬/足] 君目不見 苦有
(50)【語釈】 ○道の後深津島山 「道の後」は、京を中心として地方へ通じる道の、その遠い所の称。ここは、吉備国の道の後で、備後国。「深津」は、備後国(広島県)の深津郡、今の深安郡にある郷名。福山市付近。「島山」は、普通は島にある山であるが、島でない広い地の山でも、海上から望む時にはこう呼んだ。この語から、この歌は、瀬戸内海の、船の上より見てのことと知れる。この二句、「島」を「暫し」に反復させての序詞。○君が目見ねば 君が姿を見ないと。「君」は、女より男を指しての称であるから、女の立場に立って詠んだものである。
【釈】 道の後の国の深津の島山に因みある、しばしの間でも、君の姿を見ないと苦しいことであった。
【評】 女が、男に逢った時の訴えである。「道の後深津島山」は、女の住地として捉えていっているものであろう。それとすると、そこの女が男に向かっていっているものであるが、「島山」という語は、明らかに矛盾して来るものである。その矛盾をなくするには、瀬戸内海を航行している男が、深津の地で想像で詠んだものとするか、または、そうした男が、深津の女からいわれた語を、女に代わって詠んだとするのかでなければならない。序詞はいかにも達者なものである。瀬戸内海を航行中の若い人麿が、多分は遊行婦などのいる深津の地を過ぎる折、想像で詠んだものではなかろうか。
2424 紐鏡《ひもかがみ》 能登香《のとか》の山《やま》の 誰《たれ》ゆゑか 君《きみ》来《き》ませるに 紐《ひも》開《あ》けず寐《ね》む
紐鏡 能登香山 誰故 君來座在 紐不開寐
【語釈】 ○紐鏡能登香の山の 「紐鏡」は、鏡の背面の鈕に紐の付いている物の称。紐は使う時に手に持つためのもの。「能登香の山」は、『大日本地名辞書』は、「美作名所栞」を引いて、岡山県津山市の東方にある二子山と呼ばれているのがそれで、山上に能等香神が祀ってあり、雨を掌る神だという。「紐鏡」は、その紐を解かない意で莫解きと続き、それと近似音の能登香の枕詞としたもの。「能登香の山の」は、莫解きの山のごとくの意で、下へ続く。○誰ゆゑか 誰に対してかで、「か」は、疑問の係助詞の、意の強いもので、反語をなしている。○君来ませるに紐開けず寐む 「君来ませるに」は、「君」は、夫で、夫がいらしたのに。「紐開けず寐む」は、下紐を解かずして寝ようかで、共寝をしなかろうか、するの意。
【釈】 紐鏡の紐の、莫解きというに因みある能登香の山のように、誰に遠慮して、君がいらしたのに下紐を解かずに寝ようか、そのようなことはしない。
【評】 能登香の山のほとりに住んでいる女が、夫の通って来た時に詠んだ形の歌である。能登香の山を、その名前から譬喩に捉え、「紐開けず寐む」と対照させていっているもので、その心も、その構成も、まさに民謡的なものである。しかしその詠み方は、細心に、屈折をもった、甚しく技巧的なもので、一首の声調も滑らかで、同じく民謡的である。若い日の人麿の興味よ(51)り詠んだ歌と思われる。「紐鏡能登香の山の」は、形は序詞であるが、心は譬喩であるばかりでなく、一首全体へ気分としてまつわっている。気分の表現が同時に事となっているという範囲の歌である。
2425 山科《やましな》の 木幡《こはた》の山《やま》を 馬《うま》はあれど 歩《かち》ゆ吾《わ》が来《こ》し 汝《な》を念《おも》ひかね
山科 強田山 馬雖在 歩吾來 汝念不得
【語釈】 ○山科の木幡の山を 「山科」は、今は京都市の中。「木幡の山」は、伏見山の東南の山で、宇治市木幡の丘陵。上の(二四二一)に出た。○馬はあれど 乗馬はあるけれども。○歩ゆ吾が来し 徒歩で我は来た。○汝を念ひかね なれを思うに堪えかねて。
【釈】 山科の木幡の山を、乗馬はあるけれども、徒歩で我は来た。なれを思うに堪えかねて。
【評】 木幡の里に住んでいる女の許へ通って来た男の、訴えの心をもって詠んだ歌である。そうした歌は、普通、男が自身の誠実を女に示すために、途中の労苦を訴えるのであるが、この歌は、労苦をいうことを超えて、「汝を念ひかね」「馬はあれど歩ゆ吾が来し」というので、馬の支度をする間も、待っていられなかったというのである。これは筋の立たないことで、誇張というよりもむしろ媚びて、機嫌取りのためにいっていることの明らかなものである。一首の声調も明るく軽いもので、謡い物系統の調べを思わせるものである。普通の夫婦関係の歌とは思われない。上の(二四二一)でいったように、木幡の里にいる魅力多い遊行婦を相手にいったもののようである。その歌と繋がりのある歌と見ても不自然ではない。
2426 遠山《とほやま》に 霞《かすみ》たなびき いや遠《とほ》に 妹《いも》が目《め》見《み》ずて 吾《わ》が恋《こ》ふるかも
遠山 霞被 益遐 妹目不見 吾戀
【語釈】 ○遠山に霞たなびき 遠山に霞がなびいて、遠山がいよいよ遠く見える意で、「いや遠」に譬喩としてかかる序詞。○いや遠に妹が目見ずて 「いや遠に」は、ひどく間遠に、すなわち久しく。「目」は、姿。
【釈】 遠山に霞がなびいて、いや遠く見えるように、久しく妹の姿を見なくて、我は恋うていることである。
【評】 官人として旅に滞在していて、妻を思う歌である。「遠山に霞たなびきいや遠に」は、巧みな語つづきである。季節の(52)変わり目の霞を目に見て、それがただちに時間の距離に転じて来るのは、一見平凡に似ているが、豊かな気分をもっていなければできないものである。これが一首の中心でもある。
2427 宇治川《うぢがは》の 瀬瀬《せぜ》のしき浪《なみ》 しくしくに 妹《いも》は心《こころ》に 乗《の》りにけるかも
是川 瀬々敷浪 布々 妹心 乘在鴨
【語釈】 ○宇治川の瀬瀬のしき浪 「宇治」は、原文「是」。この用字につき『訓義弁証』は詳説している。『儀礼覲礼』に「大史是右」とある注に、「古文是為v氏也」とあり、また『後漢書李雲伝』の注に「是与v氏古字通」とあるというのである。人麿の学識に触れている用字である。「しき浪」は打続いて重なって来る浪で、意味で「しくしくに」にかかり、以上その序詞。○しくしくに 重ね重ねで、副詞。○妹は心に乗りにけるかも 妹は、わが心に乗ったことだなあ。
【釈】 宇治川の瀬々の、打続いて重なって来る浪のように、重ね重ね、妹はわが心に乗ったことだなあ。
【評】 旅人として宇治川のほとりに立っての歌である。しき浪のさまを見て妹を思う心を連想したもので、心は明らかである。調べがしめやかで、澄んでおり、思い入っている気分をあらわしている。調べによって生きている歌である。
2428 千早人《ちはやびと》 宇治《うぢ》の渡《わたり》の 速《はや》き瀬《せ》に 逢《あ》はずありとも 後《のち》は我《わ》が妻《つま》
千早人 宇治度 速瀬 不相有 後我※[女+麗]
【語釈】 ○千早人宇治の渡の 「千早人」は、ちはやぶる人で、勇猛なる人。「宇治」へ続くのは、ちはやぶるを、うちはやぶるともいうので、同意語を重ねる意で続けた枕詞。「宇治の渡」は、宇治川の渡津。○速き瀬に 水勢の早い瀬によってで、そうした所は渡り難い意でいっているもの。初句よりこれまでは、超え難い障りがあってということの譬喩の意のものであるが、譬喩の形とはせず、目に見る状態から直接に感じ取った形としたものである。○逢はずありとも後は我が妻 今は逢わずいようとも、後にはわが妻である。
【釈】 宇治川の渡りの早い瀬のために渡りかねて、今は逢えずいようとも、後にはわが妻である。
【評】 この歌は、宇治の辺りに住んでいる男の、同じくその辺りの女と関係を結んだが、強力な妨げが起こって違えずにいる(53)女に、後を誓う心をもって贈った歌である。初句より三句までは、女の周囲の者の譬喩であるが、それは女も知っているものなので、眼前をいうことによって暗示しているのである。初二句は序詞のごとき形にしているが、実は実境の描写で、それがただちに譬喩の暗示となっているのは、この場合そうせざるを得ないもので、そこにかえってすぐれた技巧がある。含蓄あり、力あるすぐれた歌である。
2429 愛《は》しきやし 逢《あ》はぬ子《こ》ゆゑに 徒《いたづら》に 宇治川《うぢがは》の瀬《せ》に 裳裾《モスソ》潤《ぬ》らしつ
早敷哉 不相子故 徒 是川瀬 裳襴潤
【語釈】 ○愛しきやし逢はぬ子ゆゑに 「愛しきやし」は、可愛ゆいで、「子」にかかる枕詞であるが、独立句のごとく用いている。「逢はぬ子ゆゑに」は、我に逢わない女のゆえに。○裳裾潤らしつ 裳の裾を濡らしたで、徒渉の侘びしさをいったもの。「裳」は女の物で、男の物ではない。男の歌であるから、いかがである。
【釈】 可愛ゆい、我に逢わない子のゆえに、いたずらに、宇治川の瀬の徒渉で、裳の裾を濡らした。
【評】 懸想している女の許へ、宇治川を徒渉して逢いに行き、逢えずに帰った夜の愚痴である。結句の「裳裾」は通じない。ふとした誤りともいうべきであろう。
2430 宇治川《うぢがは》の 水泡《みなわ》逆《さか》まき 行《ゆ》く水《みづ》の 事《こと》反《かへ》らずぞ 思《おも》ひ始《そ》めてし
是川 水阿和逆纏 行水 事不反 思始爲
【語釈】 ○水泡逆まき行く水の 水泡が逆捲いて流れて行く水のようにで、三句まで「反らず」にかかる序詞。○事反らずぞ思ひ始めてし 「事反らず」は、この事は中途では引き返さないと決心して思い始めたことである。
【釈】 宇治川の水泡が逆捲いて流れてゆく水のように、決して中途では引き返すまいと決心して思い始めたことであった。
【評】 宇治川の辺りに住んでいる男の、その懸想した女が応じそうもなく、失望に終わろうとする時、我と我を励ましていった心のものである。初句より三句までは序詞の形になっているが、譬喩と異ならないもので、それが一首の重点ともなってい(54)る。昂奮した心と強い調べと相俟って、さわやかな歌となって いる。
2431 鴨川《かもがは》の 後瀬《のちせ》静《しづ》けみ 後《のち》も逢《あ》はむ 妹《いも》には我《われ》は 今《いま》ならずとも
鴨川 後瀬靜 後相 妹者我 雖不今
【語釈】 ○鴨川の後瀬静けみ 「鴨川」は、京都市を流れる賀茂川とする説もあるが、新村出氏は木津川の一部で京都府相楽郡加茂町付近を流れる時の称であるとされた。「後瀬」は、下流。「静けみ」は、静かにで、状態をいったもの。後瀬の「後」を、同音で「後」にかけて、二句までその序詞。○後も逢はむ 後にも逢おうで、夫婦関係の結ばれた上でいっているもの。
【釈】 鴨川の後瀬は静かである、その後にも逢おう。妹には我は、今でなくとも。
【評】 鴨川の渓流をなしている辺りに住んでいる男の、同じ地の女と関係を結び、女の周囲に妨害があって逢い難くしている時に、女を慰めて贈った形のものである。「鴨川の後瀬静けみ」は、上の(二四二八)「千早人宇治の渡の」と同じく、女の周囲の者を恨む語をいうまいとのもので、したがって、「静けみ」といわなければ意味をなさないものである。序詞としてのかかりは「瀬」だけであるが、この「静けみ」が気分の上で「後も逢はむ」に重く関係しているので、その点甚だ巧妙である。四、五句も、柔軟であるとともに屈折をもっていて、上に調和しうるものである。手腕のすぐれた歌である。
2432 言《こと》に出《い》でて 云《い》はばゆゆしみ 山川《やまかは》の 激《たぎ》つ心《こころ》を 塞《せ》きあへてあり
言出 云忌々 山川之 當都心 塞耐在
【語釈】 ○言に出でて云はばゆゆしみ 「言に出でて云はば」は、口に出して人にいうのは憚りがあるので。○山川の激つ心を 山川のように激する心を。○塞きあへてあり 諸注、訓が異なっている。『総釈』の訓。「塞きあへ」は、強いて塞きとめる。「塞き」は、「激つ」の縁語。
【釈】 口に出していうのは憚りがあるので、山川の水のように激する心を、強いて塞きとめていることである。
【評】 片恋の苦しさであるか、あるいは女に妨げがあって逢い難いのか、とにかく恋の苦しさがきわまって胸に余り、口外したい衝動に駆られるが、決して口外しまいと堪えている気分である。周囲の事情には触れず、それより起こる気分だけをいお(55)うとしているもので、人麿歌集の特色をもった歌である。直線的な強い調べが気分の具象となっている。
2433 水《みづ》の上《うへ》に 数《かず》書《か》く如《ごと》き 吾《わ》が命《いのち》を 妹《いも》に逢《あ》はむと 誓約《うけ》ひつるかも
水上 如數書 吾命 妹相 受日鶴鴨
【語釈】 ○水の上に数書く如き吾が命を 「水の上に数書く」は、『代匠記』は、『涅槃経』に「是身無常、念念不v住。猶如2電光暴水幻炎1、亦如2画v水随画随合1」から出ていて、その「画水」以下を取ったのだといっている。最も消えやすいものの譬喩である。「命を」は、命であるのに。○誓約ひつるかも 「誓約ひ」は、斎戒して神意を招じ、神力によって必ずかくあるべしと期することである。
【釈】 水の上に数を記すがごとく消えやすいわが命であるのに、それを、妹に逢おうと思って、神に祈って誓いを立てたことである。
【評】 妹のために長生きをしようとの心である。はかない生命と意識しながらも、妹のためには長生を祈ったという矛盾を感慨をもっていったのである。前半は仏説、後半は上代信仰という矛盾がある。時代相の反映である。仏説の引用は巧みである。
2434 荒磯《ありそ》越《こ》え 外《ほか》ゆく波《なみ》の 外《ほか》ごころ 吾《われ》は思《おも》はじ 恋《こ》ひて死《し》ぬとも
荒礒越 外徃波乃 外心 吾者不思 戀而死鞆
【語釈】 ○荒磯越え外ゆく波の 「荒磯」は、旧訓「あらいそ」。『略解』の訓。海辺の現われている岩。荒磯を乗り越えて、海の外までもゆく波ので、同音反復で、下の「外」へかかる序詞。○外ごころ吾は思はじ 「外ごころ」は、他人を思う心。「吾は思はじ」は、われはもつまいで、当時の語法。
【釈】 荒磯を越して外までもゆく波の、その外ごころは我はもつまい。恋いて死のうとも。
【評】 夫婦関係にはなっているが、女の身辺に障りがあって逢い難くしている男の、女を安心させ、わが誠実を示そうとして贈った歌である。「荒磯越え外ゆく波の」は、住地の関係からいったものであるが、それよりも気分のほうを主としてのものである。そうした場合には、男は外ごころも起こしやすいもので、女の不安もそこにかかっているからである。序詞が主となっている歌といえる。以下七首は、海に寄せてのものである。
(56)2435 淡海《あふみ》の海《うみ》 おきつ白浪《しらなみ》 知《し》らねども 妹《いも》がりといへば 七日《なぬか》越《こ》え来《き》ぬ
淡海々 奧白浪 雖不知 妹所云 七日越來
【語釈】 ○淡海の海おきつ白浪 近江の海の沖の白浪で、「白」を同音反復で、「知ら」にかけての序詞。○知らねども 妹の心は知られないけれどもで、逢うか逢わないか不明な意。○妹がりといへば七日越え来ぬ 妹の許へ行くと思うので、七日も海や山を越えて来た。
【釈】 淡海の海の沖の白浪の、その心は知られないけれども、妹の許へと思うので、七日も海や山を越えて来た。
【評】 近江の湖辺に住んでいる男が、同じく湖辺のやや遠い所に住む女に懸想して、七日を通って思いの遂げられない時に、訴えの心をもって詠んで、女に贈った形のものである。「淡海の海おきつ白浪知らねども」は、その通い路に見る湖を捉えてのもので、沖のほうの状態は知られない意であるが、それに寄せて女の心の知られないことをいっているものである。「妹がりといへば七日越え来ぬ」は、女がそのようであるにもかかわらず、女を深く思い、どうでもと思い詰めていることをあらわしているものである。求婚の歌としては、庶民に似合わしくないまで上品な、気分的なものである。
2436 大船《おほふね》の 香取《かとり》の海《うみ》に 碇《いかり》おろし 如何《いか》なる人《ひと》か 物《もの》念《おも》はざらむ
大船 香取海 慍下 何有人 物不念有
【語釈】 ○大船の香取の海に 「大船の」は、楫取と続け、香取に転じての枕詞。「香取の海」は、巻七(一一七二)「何処にか舟乗りしけむ高島の香取の浦ゆこぎ出来し船」とあり、琵琶湖の中、高島郡に接している海の称で、今は伝わらない。○碇おろし 船を止めて。「碇」の「いか」を、同音反復で「如何」にかけ、初句よりこれまでその序詞。○如何なる人か物念はざらむ どういう人が物思いをしないでいるだろうか。
【釈】 大船の香取の海に碇をおろして、その碇というに因みのある、いかなる人が物思いをしないでいるだろうか。
【評】 香取の海に碇をおろした人が、その碇が縁となって、どういう人が物思いをしないでいられるだろうかと訝かっていった心である。それは、人は誰でも物思いをせずにはいられないものだとする心からの許かりである。これは言いかえると、人々は執着があり、執着は必ず物思いを伴うもので、異語同意だとする心である。「碇おろし如何なる人か」の続きは、同音反復とはいえ飛躍の大きいもので、語つづき自体が興味的なものである。本義の「如何なる人か物念はざらむ」も、心としては(57)沈痛なものであるが、一般的な心であり、一首全体として見ても、心は平明に、調べは滑らかで、むしろ明るい感じを与えるものである。謡い物として詠んだ歌と思われる。気分本位の歌で、口を衝いて出た趣のある、快い作である。
2437 沖《おき》つ藻《も》を 隠《かく》さふ浪《なみ》の 五百重浪《いほへなみ》 千重《ちへ》しくしくに 恋《こ》ひわたるかも
奧藻 隱障浪 五百重浪 千重敷々 戀度鴨
【語釈】 ○沖つ藻を隠さふ浪の 「沖つ藻」は、沖に生えている藻。「隠さふ」は、「隠す」の連続で、隠し続けている浪の。○五首重浪 限りなく立ち続く浪を具象的にいったもの。「五百重」を、それに類する「千重」と続けて、初句よりこれまでは、その序詞。○千重しくしくに 「しくしくに」は、重ね重ねに。○恋ひわたるかも 恋い続けていることであるよ。
【釈】 沖に生えている藻を隠しつづけている五百重の浪のように、千重に重ね重ねに恋いつづけていることであるよ。
【評】 男の、妹を恋いつづけている気分を、海の浪に寄せていったもので、類想の多いものである。しかし沖の浪をいっているのは、ある程度の新味のあるものである。一首の語続きが重く緩やかで、沖の浪のうねるがような調子を帯びている。そこが技巧になっている歌である。謡い物に近い詠み方である。
2438 人言《ひとこと》は 暫《しま》しぞ吾妹《わぎも》 繩手《つなで》引《ひ》く 海《うみ》ゆ益《まさ》りて 深《ふか》くしぞ念《おも》ふ
人事 ※[斬/足]吾味 繩手引 從海益 深念
【語釈】 ○人言は暫しぞ吾妹 人の噂はしばらくの間のものであるぞ、吾妹よ、と呼びかけてのもの。○繩手引く海ゆ益りて 「繩手引く」は、「繩手」は、船の引綱で、袖に着けて陸から引くもの。海の状態としていったもの。「海ゆ益りて」は、海よりも増さって。
【釈】 人の噂はしばらくの間のものであるぞ、吾妹よ。我は、繩手を引く海よりも増さって、深く思っていることである。
【評】 海近い辺りに住んでいる男女で、その関係が人の噂にのぼって、逢い難くしている時、男が女を慰めていったものである。人言はしばしのものであるから、辛抱して待てといい、逢えずにいてもわが心は、海よりも深いと力づけたのである。「繩手引く海ゆ益りて」は新味がある。落ちついた、情味ある歌である。
(58)2439 淡海《あふみ》の海《うみ》 奥《おき》つ島山《しまやま》 奥《おく》まけて 吾《わ》が念《も》ふ妹《いも》に 言《こと》の繁《しげ》けく
淡海 奧嶋山 奧儲 吾念妹 事繁
【語釈】 ○奥つ島山 『延喜式』神名帳に奥津島神社とある。近江国蒲生郡島村(現在、滋賀県近江八幡市)の海岸から十余町の沖である。「島山」は、島にある山。「奥」へ同音反復でかかり、初二句その序。○奥まけて ここに見えるのみの語で、心深めて。巻六(一〇二四)の「奥まへて」と意味は同じ。○言の繁けく 人の噂の繁きことよと、詠嘆したもの。
【釈】 近江の海の奥つ島山、それに因みある、心深めてわが思っている妹に、人の噂の繁きことよ。
【評】 「淡海の海奥つ島山」は、この男女の住地に関係があるとして捉えているものであるが、男としては、奥つ島に祈って結んだ関係という意で捉えて、「奥まけて」に続けたものである。気分をもった序詞である。
2440 近江《あふみ》の海《うみ》 沖《おき》こぐ船《ふね》に 碇《いかり》おろし 蔵《をさ》めて公《きみ》が 言《こと》待《ま》つ吾《われ》ぞ
近江海 奧滂船 重下 藏公之 事待吾序
【語釈】 ○近江の海 「近江」という用字は人麿歌集として初出のものである。従来「淡海」とのみ書いていたのを、この文字にしたのは、奈良朝の初期、諸国の地名に好字を選んで用いさせた時の字ではないかといわれている。○碇おろし 初句よりこれまでは、譬喩の意で「蔵め」にかかる序詞。○歳めて公が言待つ吾ぞ 「蔵めて」は、『新訓』の訓。心を静めてで、乱れての反対。努めてしている意である。心を静めて公の返事を待っているわれであるよ。この「公」は、一首の作意から見ると、男が女に対していっている敬称である。男が女を君と称するのは、奈良朝に近い頃から見え出したことだとされている。しかし人麿歌集には例のないもので、これが初めてであり、したがって問題になることである。男が女に対して敬語を使うのは古くからの慣習であり、ことにこの場合は、女は関係の結ばれていない、第三者的な存在であるから、心理的には不自然とはいえず、ありうべきことといえるものである。
【釈】 近江の海の沖を漕ぐ船が碇をおろしてその動揺を鎮めるように、今は思い鎮めて、公の返事を待っているわれであるよ。
【評】 この歌は、男が求婚をして、心を尽くして相応な間を過ごしたが、女が応じないので、絶望に近い気分で女に贈った歌である。「近江の海沖こぐ船に碇おろし」は、男女とも湖辺の人で、そうしたことを熟知しているところからの譬喩であって、男の動揺している心を強いて取り鎮める意のもので、訴えをもったものである。「公」は問題になる称であるが、一首の作意(59)から見ると、男の女をさしての敬称と見なければ通じなくなる。場合がら、訴えの気分をもっているものであるから、そう解すべきだと思う。「近江」という用字も、このことを支持するものである。そうした場合の歌とすると、適切で、余意をもった、品位ある歌である。
2441 隠沼《こもりぬ》の 下《した》ゆ恋《こ》ふれば すべを無《な》み 妹《いも》が名《な》告《の》りつ ゆゆしきものを
隱沼 從裏戀者 無乏 妹名告 忌物矣
【語釈】 ○隠沼の下ゆ恋ふれば 「隠沼の」は、水草に蔽われて、水の出入り口も知れない沼で、水が表面に見えずに動いている意で、「下」へかかる枕詞。「下ゆ恋ふれば」は、心の中を通して、表面にあらわさずに恋うていると。○すべを無み 心を紛らす術が無いので。○ゆゆしきものを 旧訓。憚るべきことであるのに。
【釈】 隠沼の水のように、心の中でのみ恋うていると、やるせがないので、つい妹の名を口にしてしまった。憚るべきことだのに。
【評】 恋に陶酔している若い男の心である。厳秘にすべき妹の名を、衝動に駆られてつい口にしてしまい、心付いて悔いている心で、心理の自然が味わいをなしている。
2442 大土《おほつち》も 採《と》り尽《つく》さめど 世《よ》の中《なか》の 尽《つく》し得《え》ぬものは 恋《こひ》にしありけり
大土 採雖盡 世中 盡不得物 戀在
【語釈】 ○大土も採り尽さめど 不可能のことを仮想していったもので、下との対照のためである。○恋にしありけり 「けり」は、詠嘆。
【釈】 大地の土も採り尽くすことができようが、世の中の、尽くすことのできないものは、恋というものであるよ。
【評】 嘆きをもっていっている語であるが、警句に近い味わいのものである。「大土も採り尽さめど」は、不可能を想像してのものであるが、大がかりである。仏典などに繋がりのある語であろう。
(60)2443 隠処《こもりど》の 沢泉《さはいづみ》なる 石根《いはね》ゆも 通《とほ》りてぞ念《も》ふ 吾《わ》が恋《こ》ふらくは
隱處 澤泉在 石根 通念 吾戀者
【語釈】 ○隱処の沢泉なる 「隠処《こもりど》」は、『新考』の訓。籠もつたところで、物陰となっているところ。「沢泉」は、沢をなしている泉で、そこにある。○石根ゆも通りてぞ念ふ 「石根」は、岩。「根」は、接尾語。「通りて」は、貫き通りてで、上に「石すら行き通るべき」(二三八六)とあると同じな強い心。○吾が恋ふらくは わが恋うることは。
【釈】 物陰となっているところにある、沢をなしている泉の中にある岩を通って、貫き通るような心をもって思っていることであるよ。わが恋うることは。
【評】 男の、懸想している女に贈った歌である。「隠処の沢泉なる石根ゆも通りて」というのは、中心は、「石根ゆも通りて」にあってこれは「石すら行き通る」と同じ心であるが、その石根の所在である「隠処の沢泉なる」は特殊なものである。これは女の住地が溪谷で、そうした景観を見なれているからのことで、それとともに男としては、「沢泉なる石根」は、その泉の湧き出す物として、われもその泉のように「通りて」の意で、思いの強さをあらわしているのである。すなわち特殊な叙景は、男としてはいう必要のあるものなのである。特殊な実景に即して、気分を細かくあらわそうとしているものである。
2444 白檀弓《しらまゆみ》 石辺《いそべ》の山《やま》の 常磐《ときは》なる 命《いのち》なれやも 恋《こ》ひつつ居《を》らむ
白檀 石邊山 常石有 命哉 戀乍居
【語釈】 ○白檀弓石辺の山の 「白檀弓」は、射を「石」の「い」にかけた枕詞。「石辺の山」は、滋賀県甲賀郡石部町にある磯部山だという。譬喩として「常磐」にかかり、初二句その序詞。○常磐なる命なれやも 「常磐なる」は、永久に存在する。「命なれやも」は、「や」は、係助詞で、反語となっている。命であろうか、それではない。○恋ひつつ居らむ 「恋ひつつ」は、恋の状態を続けつつで、結婚前の心。「居らむ」の「む」は、「や」の結で、いられようか。
【釈】 白檀弓を射るに因む、石辺の山のように、永久に存在する命であろうか、恋いつづけてはいられない。
【評】 石辺の山の麓に住む男の、その地の女に求婚して、女が応じないのにじれて贈った歌である。物言いが直截で、荒く、(61)庶民的な点が特色である。
2445 淡海《あふみ》の海《うみ》 沈著《しづ》く白玉《しらたま》 知《し》らずして 恋《こひ》せしよりは 今《いま》こそ益《まさ》れ
淡海ゝ 沈白玉 不知 從戀者 今益
【語釈】 ○沈著く白玉 海底に付いている白玉で、鰒玉、真珠。「白」を、同音反復で「知ら」へ懸け、初二句その序詞。○知らずして恋せしよりは 「知らずして」は、見ずにいて憧れていた時よりは。○今こそ益れ 関係を結んでの今のほうが恋が増さったことである。
【釈】 近江の海の海底に沈んでいる白玉というに因む、顔を見ずして憧れていた時よりも、相見ての今のほうが恋が増さったことである。
【評】 結婚後、男が女に贈った歌である。やや身分ある者は、結婚するまで顔を合わせることがなかった時代とて、この心は儀礼ではなく、実感の伴ったものだったのである。序詞は同音でかかっているものだが、気分のつながりが深く、譬喩以上のものである。すなおな歌である。
2446 白玉《しらたま》を 纏《ま》きてぞ持《も》てる 今《いま》よりは 吾《わ》が玉《たま》にせむ 知《し》れる時《とき》だに
白玉 纏持 從今 吾玉爲 知時谷
【語釈】 ○纏きてぞ持てる 『略解』の訓。手に巻いて持っていることだ。○知れる時だに その存在を知った時からでも。
【釈】 われは白玉を手に巻いて持っていることだ。今からはわが玉としよう。その存在を知った時からでも。
【評】 白玉は女の譬喩で、男がその女の存在を知るとともに関係を結び、歓喜して歌った形の歌である。「知れる時だに」は、今までその存在を知らなかったのを遺憾に思い、知った今からなりともの意で、「今よりは吾が玉にせむ」と将来を約束する心を強めているものである。内容も詠み方も、宴席にあって、口を衝いて詠んだ形のものである。知ると同時に関係が結べ、昂奮した情に任せて手放しの物言いのできた女は、遊行婦ではなかったかと思われる。上よりずっと近江の湖辺関係の歌であるが、そこは東海方面、北陸方面の要路にあたっていたから自然、遊行婦もいたろうと想像される。
(62)2447 白玉《しらたま》を 手《て》に纏《ま》きしより 忘《わす》れじと 念《おも》ひしことは 何時《いつ》か畢《をは》らむ
白玉 從手纏 不忘 念 何畢
【語釈】 ○忘れじと念ひしことは この歓びを忘れまいと、その時に思ったことは。○何時か畢らむ いつ終わることがあろうか、ありはしないの意で、「か」は、反語となっている。
【釈】 白玉を手に巻いた時から、この歓びは忘れまいと思ったことは、いつ終わりがあろうか、ありはしない。
【評】 前の歌と連作の形となっている。前の歌は女に逢った時、これは別れる時の歌であろう。連作と見ないと「何時か畢らむ」が唐突のものとなって据わらないからである。将来を約束する心を、地歩を占めていっている形である。
2448 ぬば玉《たま》の 間《あひだ》開《あ》けつつ 貫《ぬ》ける緒《を》も 縛《くく》り寄《よ》すれば 後《のち》逢《あ》ふものを
烏玉 間開乍 貫緒 縛依 後相物
【語釈】 ○ぬば玉の 「ぬば玉」は、「ひおうぎ」の実で、真黒な玉。普通枕詞として用いられているが、ここは実物で、玉として扱っているのである。○間開けつつ貫ける緒も 「間聞けつつ」は、玉と玉との間を離し離して貫いた緒も。白玉を緒に貫いた物を貴族の女が愛玩すると同じく、これは庶民の女の愛玩物であったとみえる。○縛り寄すれば 『考』の訓。玉と玉との間を括《くく》って合わせると。○後逢ふものを 後から玉と玉とが一つに合うのに。
【釈】 烏玉を、間を離し離して貫いてある緒も、その玉を括り寄せると、後から一つに合うのに。
【評】 これは男の女に贈ったものである。関係の結ばれている男女が、女のほうに妨げが起こって久しく逢えずにいる時に、何とか工夫をして逢えるようにせよとの心を、婉曲に女にいったものである。「ぬば玉」は自分たち、「間開けつつ」は現在の状態、「縛り寄すれば」は工夫、「逢ふ」は男女相逢う意で、「後逢ふものを」と、詠歎を籠めて訴えているのである。完全な譬喩歌である。「ぬば玉の緒」は、ほかに例のない珍しい取材である。
2449 香具山《かぐやま》に 雲居《くもゐ》たなびき おほほしく 相見《あひみ》し子《こ》らを 後《のち》恋《こ》ひむかも
(63) 香山尓 雲位桁曳 於保々思久 相見子等乎 後戀牟鴨
【語釈】 ○香具山に雲居たなびき 「雲居」は、雲が居て。初二句「おほほし」に譬喩でかかる序詞。○おほほしく相見し子らを 「おほほしく」は、はっきしないで、ほのかに。「相見し子ら」は、相逢った可愛ゆい女で、「子ら」の「ら」は、接尾語。
【釈】 香具山に雲がなびいて、はっきりしない、そのようにほのかに見た可愛ゆい女を、後に恋うることであろうか。
【評】 藤原京の路上ででも見かけた女の可愛ゆさから、後から思い出して恋うることだろうと推量した心である。若い京の男のもちそうな心である。以下六首、雲に寄せてのもの。
2450 雲間《くもま》より さ渡《わた》る月《つき》の おほほしく 相見《あひみ》し子《こ》らを 見《み》むよしもがも
雲間從 狭※[人偏+經の旁]月乃 於保々思久 相見子等乎 見因鴨
【語釈】 ○雲間よりさ渡る月の 「雲間より」は、雲の間を。「より」は、位置を示すもので、「を」の意。「さ渡る」は、「さ」は、接頭語で、移って行く月の。はっきりしない意で「おほほしく」と続き、初二句その序詞。○見むよしもがも 見る方法がないだろうかなあ、見たいものだで、「もがも」は、願望。
【釈】 雲の間を移ってゆく月のはっきりしない、それに因みのある、はっきりしない状態で逢った可愛ゆい女を、見る方法がないものだろうかなあ、見たいものだ。
【評】 心としては、上の歌に続いたがごときものである。二首とも、上に類想の歌があった。
2451 天雲《あまぐも》の 寄《よ》り合《あ》ひ遠《とほ》み 逢《あ》はねども 異手枕《ことたまくら》を 吾《われ》纏《ま》かめやも
天雲 依相遠 雖不相 異手枕 吾纏哉
【語釈】 ○天雲の寄り合ひ遠み 天の雲と雲とが寄り合う所のように遠くて。「寄り合ひ」までの九音は、「遠み」の序詞である。この二句は、「天地の依り合ひの極み」の成句によったもので、その時間の距離をところの距離としたものである。○逢はねども 妹と逢わずにいるが。○異手枕を吾纏かめやも 妹と異なった手枕をわれは巻こうか巻きはしない。「や」は、反語。
(64)【釈】 天雲の寄り合っている所のように遠くて、逢わずにいるけれども、異なった手枕をわれは巻こうか巻きはしない。
【評】 旅に出ている男の、家にある妻にその誠実を誓って贈った形の歌である。「天雲の寄り合ひ遠み」は、「天地の依り合ひの極み」の連想される語で、永久にという気分を与える語である。「異手枕」は、感覚的で、簡潔で、他に用例のないものであって、妻にいう語としては適切な語である。手腕の非凡を思わせる歌である。
2452 雲《くも》だにも しるくし発《た》たば 意遣《こころや》り 見《み》つつもをらむ 直《ただ》に逢《あ》ふまでに
雲谷 灼發 意追 見乍爲 及直相
【語釈】 ○雲だにもしるくし発たば せめて雲でも著しく立ったならば。○意遣り見つつもをらむ 「意遣り」は、苦しい心を遠くへやることで、心紛らしを。「見つつもをらむ」は、原文「見乍為」の為は『考』は「居」の誤りとしたが『全註釈』は「為」のままで「を」と訓めるといっている。雲を見つついよう。○直に逢ふまでに 直接に逢うまでは。
【釈】 せめて雲でも著しく立ったならば、心紛らしを、それを見つつしていよう。じかに逢うまでは。
【評】 旅に出ている男の、家の妻を思っての心である。物思わしい心から空を眺めていたが、雲も見えないので、せめて雲でも立っていれば、見て心紛らしをしようと思ったのである。「雲だにもしるくし発たば」は、慰めのまるきり無い境と、そうした境にも、慰めを求めている気分とが、微妙に具象されている。これが一首の中心である。
2453 春楊《はるやなぎ》 葛城山《かづらきやま》に 発《た》つ雲《くも》の 立《た》ちても坐《ゐ》ても 妹《いも》をしぞ念《おも》ふ
春揚 葛山 發雲 立座 妹念
【語釈】 ○春楊葛城山に 「春楊」は、春の楊を蘰とする意で、葛城にかけた枕詞。「葛城山」は、奈良県北葛城郡から、御所市、五条市に及び、大和河内の国境をなす連山で、藤原京から見られる山。○発つ雲の 同音反復で、「立つ」にかかり、初句よりこれまでその序詞。
【釈】 春の楊をかずらとする、その葛城山に立つ雲のように、立っても居ても、妹を思うことである。
【評】 「春楊葛城山に発つ雲の」の序詞によって成り立っている歌で、四、五句は成句である。目に見る葛城山の景観が明る(65)く快く、それに刺激されての感であろう。
2454 春日山《かすがやま》 雲居《くもゐ》隠《かく》りて 遠《とほ》けども 家《いへ》は念《おも》はず 公《きみ》をしぞ念《おも》ふ
春日山 雲座隱 雖遠 家不念 公念
【語釈】 ○春日山雲居隠りて 春日山が雲に隠れて。「春日山」は、旅にあって、大和国の目標としてのもの。「雲居」は、雲。○遠けども 遠いけれども。○家は念はず公をしぞ念ふ 自分の家は恋しいと思わず、夫のほうが恋しい。
【釈】 春日山が雲に隠れて遠いけれども、自分の家は思わずに、公のほうを思うことである。
【評】 何らかの事情で旅に出ている女が、その夫に贈った形の歌である。旅とはいっても、春日山の見える辺りであるから、奈良山を越して山城の地域に入った辺りであろう。女のこととて遠い感じがして、したがって故郷の空が思われるのであるが、思われるのは自分の家ではなく、夫の上だというのである。女性の本性に触れている心であるが、訴えの心も伴っているものであろう。
2455 我《われ》ゆゑに 云《い》はれし妹《いも》は 高山《たかやま》の 峯《みね》の朝霧《あさぎり》 過《す》ぎにけむかも
我故 所云妹 高山 峯朝霧 過兼鴨
【語釈】 ○我ゆゑに云はれし妹は 我との関係のゆえに、人から噂をされた妹は。○高山の峯の朝霧 消える意の「過ぎ」に続き、この二句その序詞。○過ぎにけむかも 「過ぎ」は、過去のものとなる意で、死の意に慣用されている語。「に」は、完了。「けむ」は、過去の推量。「かも」は、疑問。
【釈】 我との関係のゆえに、人に噂をされたところの妹は、高山の峰にかかる朝霧のように、この世を過ぎて死んでしまったのであろうか。
【評】 旅にあって、故郷の妻の死をやや陵昧な形で聞いた男の感傷である。妻とはいっても、人目を忍んでの関係なので、正確な知らせはなかったものとみえる。関係がそうしたものなので、第一に思い出すのは、「我ゆゑに云はれし」だったのである。「峯の朝霧」は、序詞ではあるが、それを目にしていて、譬喩の心でいっているものである。「かも」の疑問と詠歎が、力強く(66)働いている。
2456 ぬばたまの 黒髪山《くろかみやま》の 山草《やまくさ》に 小雨《こさめ》零《ふ》りしき しくしく思《おも》ほゆ
烏玉 黒髪山 々草 小雨零敷 益々所思
【語釈】 ○ぬばたまの黒髪山の 「ぬばたまの」は、黒にかかる枕詞。「黒髪山」は、奈良市法蓮町の北、佐保山の一部で、大和より山城へ越える間道にあたっている。○山草に小雨零りしき 「零りしき」は、降りしきりで、「しき」が類音の「しく」に反復の形でかかり、初句より四句までその序詞。○しくしく思ほゆ 重ね重ね妹が思われる。
【釈】 ぬばたまの黒髪山の山草に、小雨が降りしきっているように、重ね重ね妹が思われる。
【評】 大和から山城方面へ行く男が、黒髪山を小雨の中に越えつつ、別れて来た妻を思う心である。初句より四句までは序詞で、黒髪山そのものの叙景であり、本義は「しくしく思ほゆ」だけで、主格の省かれているものである。この歌は、叙景がただちに気分となっていて、言いかえると、気分の具象が叙景となっているものである。序詞の形を与えているのはそのためである。本義の「しくしく」も気分の表現で、気分の背後にある事実には全然触れていないものである。この詠み方は、相聞の歌でなくては詠めないもので、その傾向のものも往々あるが、それも大体奈良朝に入ってのことである。奈良朝以前にあって、こうした気分本位の歌を、これほどまでに徹底させた歌はないともいえよう。人麿にして初めて遂げうる、非凡な手腕を示した歌である。
2457 大野《おほの》らに 小雨《こさめ》降《ふ》りしく 木《こ》の下《もと》に 時《とき》と寄《よ》り来《こ》よ 我《わ》が念《おも》ふ人《ひと》
大野 小雨被敷 木本 時依來 我念人
【語釈】 ○大野らに小雨降りしく 「大野ら」は、「ら」は、接尾語で、大野は広い野。耕作地帯であろう。「小雨降りしく」は、小雨が降りしきっているで、「しく」は、終止形。○木の下に時と寄り来よ 「木の下」は、木陰で、雨宿りをしている場所。「時と寄り来よ」は、旧訓。「時と」は、好い機会として、「寄り来よ」は、雨宿りに寄って来よ。○我が念ふ人 女が関係している男を呼びかけたもの。
【釈】 広い野に小雨が降りしきっている。この木陰に、好い機会として寄って来よ。わが思う人よ。
(67)【評】 庶民の女の歌である。広い耕作地帯へ、部落民が何人か出て耕作をしているおりから、小雨が降り出し、女は逸早く木陰へ雨宿りをして、関係している男が雨の中にいるのに呼びかけていった形の歌である。「時と寄り来よ」は、雨宿りという口実があるので、人目を憚る必要がない。好い機会として一緒にいようで、これが一首の中心である。人麿歌集の旋頭歌に多い、劇的な趣をもった歌である。
2458 朝霜《あさじも》の 消《け》なば消《け》ぬべく 念《おも》ひつつ 如何《いか》にこの夜《よ》を 明《あか》してむかも
朝霜 消々 念乍 何此夜 明鴨
【語釈】 ○朝霜の消なば消ぬべく 「朝霜の」は、意味で消にかかる枕詞。「消なば消ぬべく」は、死ぬならば死にゆけと。
【釈】 朝霜のように、命が消えるならば消えてもゆけと思いつつ、どうして今夜を明したものであろうかなあ。
【評】 男の歌である。恋の感傷の甚しいのを、気分として表現しているもので、調べが主になっている歌である。
2459 吾《わ》が背子《せこ》が 浜《はま》行《ゆ》く風《かぜ》の いや急《はや》に 急事《はやごと》益《ま》して 逢《あ》はずかもあらむ
吾背兒我 濱行風 弥急 々事益 不相有
【語釈】 ○吾が育子が 結句へ続く。○浜行く風のいや急に 浜を吹く風の甚だ急にで、「いや」は、ここは甚だの意。海から浜へ吹きあげる風は、障害物がないので急なものである。「急に」を「急事」に続けて、この二句その序詞。○急事益して 至急の用事が増して来て、その忙しさから。
【釈】 わが背子は、浜を吹く風の甚だ急なように、至急な用事が増して来て、逢いに来ないのであろうか。
【評】 海岸に生活している男女間の歌で、女は男の遣いに来るのを待っているが、来ないところから、海に関係しての職業をしている者は、臨時に忙しい用事の起こることとて、今もそうした事があって来ないのだろうと推量した心である。「浜行く風のいや急に」の序詞が、生活地帯も、職業状態をもあらわしているのである。庶民生活の実相を捉えている、技巧のすぐれた歌である。
(68)2460 遠妹《とほづま》の 振仰《ふりさ》け見《み》つつ 偲《しの》ふらむ この月《つき》の面《おも》に 雲《くも》なたなびき
遠妹 振仰見 偲 是月面 雲勿棚引
【語釈】 ○偲ふらむこの月の面に 我を思って、見ているであろうこの月の面に。
【釈】 遠くにいる妻の、ふり仰いで見つつ、我を思っているだろうこの月の面に、雲よたなびくな。
【評】 月に対して遠くいる人を思うというのは、本能的な感情である。旅にいる男の月を仰いで、家にいる妻もこのようにしていようと思って見やっている心である。調べが美しい。以下五首、月に寄せてのもの。
2461 山《やま》の端《は》に さし出《い》づる月《つき》の はつはつに 妹《いも》をぞ見《み》つる 恋《こほ》しきまでに
山葉 追出月 端々 妹見鶴 及戀
【語釈】 ○さし出づる月の わずかにの意の「はつはつ」に続き、初二句その序詞。○はつはつに ほのかに。○恋しきまでに 憧れ心を起こすほどに。
【釈】 山の端にさし出て来る月のように、ほのかに女を見たことである。あこがれ心となるほどに。
【評】 一目ほのかに見たゆえに、憧れ心となるというので、微妙な一点を捉えていっている歌である。「山の端にさし出づる月の」は、譬喩だけではなく、気分となって、女の美しさを暗示している。気分をいおうとしている歌である。
2462 吾妹子《わぎもこ》し 吾《われ》を念《おも》はば まそ鏡《かがみ》 照《て》り出《い》づる月《つき》の 影《かげ》に見《み》え来《こ》ね
我妹 吾矣念者 眞鏡 照出月 影所見來
【語釈】 ○まそ鏡照り出づる月の 「まそ鏡」は、真澄みの鏡の意味で「照る」にかかる枕詞。「照り出づる月」は、照って出て来る月。「の」は、の中に。○影に見え来ね 面影になって見えてくれよ。「ね」は、願望。
(69)【釈】 吾妹子が、われを思うならば、真澄み鏡のように照って出て来る月の中に、面影となって見えてくれよ。
【評】 旅にあって、月に対して妻を思っている歌である。人の深く思う心は、何らかの形を取って相手の身に現われるという信仰があったので、真澄みの鏡に酷似している月の面に、妹の面影の見えて来るということは、連想しやすいことだったのである。「我を念はば、見え来ね」というのはその心のものである。「月の影に」という続きは、語続きとしては上手にすぎて無理のあるものであるが、これでよいとしたのは、周知の信仰に立っての事柄だからである。気分の歌で、したがって動きと飛躍のある、美しく厚みある歌である。
2463 久方《ひさかた》の 天光《あまて》る月《つき》の 隠《かく》りなば 何《なに》なぞへて 妹《いも》を偲《しの》はむ
久方 天光月 隱去 何名副 妹偲
【語釈】 ○何になぞへて 何に擬してで、月以外には擬すべき物のない意。
【釈】 空に照っている月が隠れて行ったならば、何になぞらえて妹を思おうか。
【評】 ほとんど終夜、妹に擬して対していた月が、西に隠れようとする時の心である。気分の歌で、したがって拡がりのあるものである。
2464 若月《みかづき》の 清《さや》かに見《み》えず 雲隠《くもがく》り 見《み》まくぞほしき うたてこの頃《ごろ》
若月 清不見 雲隱 見欲 宇多手比日
【語釈】 ○若月の清かに見えず雲隠り 三日月がはっきりとは見えないで、雲に隠れてで、譬喩の意で「見まく」に続き、初句よりこれまでその序詞。「見まく」以下は、女のことで、同語異義として、転じているからである。○見まくぞほしきうたてこの頃 「見まくぞほしき」は、「見まく」は、「見む」の名詞形で、見たいことであるよ。「うたて」は、いっそうにの意の副詞。さらにこの頃は。
【釈】 三日月がはっきりとは見えずして雲に隠れたように、妹を見たいことであるよ。さらにこの頃は。
【評】 序詞が、譬喩だけではなく、事態の全部を負うているような歌である。しかし同時にそれが気分になっている。人麿歌(70)集の手法である。
2465 我《わ》が背子《せこ》に 吾《わ》が恋《こ》ひ居《を》れば 吾《わ》が屋戸《やど》の 草《くさ》さへ思《おも》ひ うらぶれにけり
我背兒尓 吾戀居者 吾屋戸之 草佐倍思 浦乾來
【語釈】 ○草さへ思ひうらぶれにけり 「草さへ」は、草までも。「思ひうらぶれ」は、嘆きに萎れる。「に」は、完了、「けり」は、詠嘆。
【釈】 わが背子をわれが恋うて過ごしていると、わが家の草までも嘆き萎れてしまったことです。
【評】 妻が疎遠にしている夫に訴えたものである。「草さへ思ひうらぶれ」は、類想のあるものであるが、ここは眼前の実景としてのもので、それに一首の語つづきが、素朴に、直線的に、口語と異ならないものであるために、それに支持されて、実感化されている。技巧の無いのが技巧になっている歌である。
2466 浅茅原《あさぢはら》 小野《をの》に標繩《しめ》結《ゆ》ふ 空言《むなごと》を いかなりと云《い》ひて 公《きみ》をし待《ま》たむ
朝茅原 小野印 空事 何在云 公待
【語釈】 ○浅茅原小野に標繩結ふ 「浅茅原」は、低く茅の生え続いている原。「小野」は、「小」は、接頭語で、「野」は、上の原を繰り返して強めたもの。「標繩結ふ」は、他人の立ち入ることを禁じるしるしとして繩を続らすことで、これは価値ある物、または神聖な場所に対してすることである。浅茅原に標繩を結うということは、無意味な、ありうべくもないことなので、偽りの譬喩として「空言」に続け、この二句その序詞。○空言を 空しい、実の伴わない言葉をで、から約束を。○いかなりと云ひて どういう約束だと周囲の者にいってかで、あてにならないので、いいようもなく当惑する意。
【釈】 浅茅原の野に標繩を結うようなそら言を、どういう約束だと周囲の者にいって、公を待ったものでしょうか。
【評】 夫婦関係を周囲に披露している妻が、夫が来ようといって、から約束にすることがあるのを恨んで、来ようという案内があった時、駄目を押す心をもって答えた歌と取れる。「いかなりと云ひて」は、自身の守らなければならない面目の、守れないところの苦衷の語であるが、「浅茅原」の序詞は、相当強い皮肉である。ある程度身分のある階級の者の、周囲へ対しての体裁面目ということを主にした心のものである。それとして見ると、複雑な、屈折をもった気分を、単純に言いおおせた、巧(71)みな歌である。以下十九首、草に寄する歌である。
2467 路《みち》の辺《べ》の 草深百合《くさぶかゆり》の 後《ゆり》にと云《い》ふ 妹《いも》が命《いのち》を 我《われ》知《し》らめやも
路邊 草深百合之 後云 妹命 我知
【語釈】 ○路の辺の草深百合の 「草深百合」は、草の高く立った中に咲いている百合の花で、同音反復で「後」に続き、初二句その序詞。○後にと云ふ妹が命を 「ゆり」は、後の古語。いずれ後に逢おうというで、下に続く。
【釈】 路のほとりの草の高い中に咲いている百合の、いずれ後に逢おうという妹の命を、我は知ろうか知りはしない。
【評】 女に求婚して、いずれ後にと婉曲に拒まれた男の昂奮しての心である。「妹が命を」は、いつのことか知れたものではないという恨みを、昂奮の余り誇張していったものである。「路の辺の草深百合の」は、女の境遇と美しさを気分として感じさせる語で、「後」への続きも安らかである。上手な歌である。
2468 湖葦《みなとあし》に 交《まじ》れる草《くさ》の 知草《しりぐさ》の 人《ひと》みな知《し》りぬ 吾《わ》が下念《したおもひ》
湖葦 交在草 知草 人皆知 吾裏念
【語釈】 ○湖葦に交れる草の知草の 「湖葦」は、港に生えている葦。港は水門で、河口、江などの称。「知草」は、藺《い》であろうという。以上、同音反復で、「知り」にかかる序詞。○吾が下念 わが心中の思いで、秘密の夫婦関係。
【釈】 港の葦にまじっている知草のように、周囲の人が皆知った。わが秘密な夫婦関係は。
【評】 港に住んでいる女の、男との関係を秘密にしていたのが、いつか人に知れ渡ってしまったことをいっているものである。人に知れることは、信仰上では甚しく忌むべきことにしているのに、そうした感を起こさない点、また、「人みな知りぬ」といっている点は、その土地柄を示しているものである。序詞の知草も、その土地を現わすとともに、集団的生活の、噂好きな気分につながりをもっているものである。
(72)2469 山萵苣《やまちさ》の 白露《しらつゆ》しげみ うらぶれて 心《こころ》に深《ふか》く 吾《わ》が恋《こ》ひ止《や》まず
山萵苣 白露重 浦經 心深 吾戀不止
【語釈】 ○山萵苣の 「山萵苣」は、萵苣は、ちしゃで、野菜で、その山地に自生するものとみえる。○白露しげみ 置く露の繁くて萎れる意で、「うらぶれ」と続き、初二句その序詞。○うらぶれて 萎れて。
【釈】 山萵苣が、置く白露が繁くてしなだれるように萎れて、心に深く我は恋うてやまない。
【評】 男に疎遠にされている女の嘆きである。山ちさの繁く置く露にしなだれているのを見て、その嘆きを強めた形の歌である。山ちさを山地の物とすると、女の住地をもあらわしている、例の手法の序詞である。上の港の女の心と比較すると、著しく陰気で、住地の気分をもあらわそうとしているように思われる。
2470 湖《みなと》に さ根延【ねは》ふ小菅《こすげ》 しのびずて 公《きみ》に恋《こ》ひつつ 在《あ》りかてぬかも
湖 核延子菅 不竊隱 公戀乍 有不勝鴨
【語釈】 ○湖にさ根延ふ小菅 「湖」は、河口。「さ根延ふ」は、「さ」は、接頭語で、根を這わせている。「小菅」は、「小」は、愛称で、菅。その存在のあらわな意で「しのびず」に続け、初二句その序詞。○しのびずて公に恋ひつつ 隠さずして公に恋いつづけて。隠すべきを、隠すに堪えられなくなった意。○在りかてぬかも 生きているに堪えられないことよ。
【釈】 河口に根を這わせている菅のように、人目に隠さずして公に恋いつづけて、生きているに堪えられないことよ。
【評】 情熱の強い、烈しい気性の女が、恋に昂奮して、人目を憚れずに嘆きをあらわし、生きてもいられない気のすることをいっているものである。「湖にさ根延ふ小菅」は、住地をあらわすとともに、女の恋も嘆きも人目かまはずにあらわしている気分を絡ませているものである。
2471 山城《やましろ》の 泉《いづみ》の小菅《こすげ》 おしなみに 妹《いも》が心《こころ》を 吾《わ》が念《おも》はなくに
(73) 山代 泉小菅 凡浪 妹心 吾不念
【語釈】 ○山城の泉の小菅 「泉」は、相楽郡にある郷名で、今の木津町、加茂町、和束町|瓶原《みかのはら》にわたる地。泉川が流れている。菅はその川の物である。菅の靡く意で、「おしなみ」に続け、初二句その序詞。○おしなみに妹が心を 「おしなみに」は、おしなべてと同意で、通り一ぺんにの意の副詞。この語はここにあるのみである。「妹が心を」は、妹の我に対する心を。○吾が念はなくに われは思わぬことよで、詠嘆してのもの。
【釈】 山城の泉の小菅のように、通り一べんに、妹のわれに対する心をわれは思っていないことであるよ。
【評】 旅びととして、山城の泉の女に関係をもった男の、女に贈った形の歌である。地歩を占めた物言いをしているのは、身分に隔たりを意識してのことと取れる。「山代の泉の小菅」は、女を菅によそえて、愛していっているものである。
2472 見渡《みわた》しの 三室《みむろ》の山《やま》の 石穂菅 《いはほすげ》 ねもころ吾《われ》は 片思《かたおもひ》ぞする
見渡 三室山 石穗菅 惻隱吾 片念爲
【語釈】 ○石穂菅 巌の上に生えている菅で、山菅。根と続き、以上その序詞。○ねもころ吾は 心の底からわれは。
【釈】 見渡す所にある三室の山の巌の上に生えている菅の、その根に因む、心の底からわれは片思いをしていることである。
【評】 本義は片思いの嘆きであるが、序詞は特殊なものなのである。三輪山の神聖なことはいうまでもなく、菅は神事に用いる物で、ことに石穂の上に生えている清浄な物である。これは相手の女を気分的にいったもので、女は神社に仕えている、身を清浄に保つべき人であったからと思われる。嘆きはそこから起こるのであろう。
一に云ふ、三諸《みもろ》の山《やま》の 石小菅《いはこすげ》
一云、三諸山之 石小菅
【解】 第二、三句の別伝である。「石小菅」は、岩に生えている愛すべき菅である。伝承の間の変化で、起こりやすい程度のものである。「石小菅」のほうがやさしさがある。作意からいうと、このほうが遠くなるのではないか。
(74)2473 菅《すが》の根《ね》の ねもころ君《きみ》が 結《むす》びてし 我《わ》が紐《ひも》の緒《を》を 解《と》く人《ひと》はあらじ
菅根 惻隱君 結爲 我紐緒 解人不有
【語釈】 ○菅の根のねもころ 「菅の根の」は、同音で「ね」にかかる枕詞。「ねもころ」は、心の底から。○我が紐の緒を 「紐の緒」は、同意語を畳んで強めたもの。下紐。
【釈】 菅の根のねんごろに君が結んだわが下紐を、君をおいては解く人はあるまい。
【評】 男女逢って別れる時には、互いに下紐を結んでやり合い、逢うとまた解き合うのが習いとなっていて、これはしばしば出た。この歌は、女が男に別れる時、誓いの心をもっていったものである。この別れは当分逢えない別れであったとみえる。それでないとわざとらしいものとなるからである。
2474 山菅《やますげ》の 乱《みだ》れ恋《こひ》のみ せしめつつ 逢《あ》はぬ妹《いも》かも 年《とし》は経《へ》につつ
山菅 乱戀耳 令爲乍 不相妹鴨 年經乍
【語釈】 ○山菅の乱れ恋のみ 「山菅の」は、その葉の乱れやすい意で、「乱れ」にかかる枕詞。「乱れ恋」は、思い乱れての恋で、名詞形。心を乱すところの恋で、甚しい恋。「のみ」は、ばかり。
【釈】 山菅のように思い乱れる恋ばかりさせつづけて、逢わない妹であるよ。年は過ぎて行きつつ。
【評】 男が、以前関係があって、ずっと絶えてしまっていた女に、ある時贈った形の歌である。「乱れ恋のみ」といっているのは、男に何らかの理由があったかのようにいおうとする誇張の語である。輪郭的に事を尽くしてはいるが、調子のない歌だからである。「つつ」を二つ重ねているのもわざとらしい。そうした歌とすると一種の技巧のあるものである。
2475 我《わ》が屋戸《やど》の 軒《のき》の子太草《しだぐさ》 生《お》ふれども 恋《こひ》忘《わす》れ草《ぐさ》 見《み》るに未《ま》だ生《お》ひず
我屋戸 甍子太草 雖生 戀忘草 見未生
(75)【語釈】 ○軒の子太草 軒に生える羊歯《しだ》の意であるが、そうした羊歯の種類があるのか、あるいは軒しのぶの類であるか、不明である。○恋忘れ草見るに未だ生ひず 「忘れ草」は、萱草で、身に付けていると物を忘れさせる力があるとして、「恋忘れ草」とも呼んでいた。萱草は軒に生える草ではない。
【釈】 わが宿の軒には羊歯が生えているけれども、恋忘れ草は、見るがまだ生えていない。
【評】 恋の悩みをするのを、我ながら似合わしくないと思う年齢の男が、その住んでいる古家の軒を仰ぎ見ながら、ある時に発した感慨である。「恋忘れ草」は不自然であるが、もともと思想的に、仮想としていっているものである。「見るに未だ生ひず」という物々しい言い方が、感慨の表現となっている。
2476 打《う》つ田《た》にも 稗《ひえ》は数多《あまた》に ありといへど 択《え》らえし我《われ》ぞ 夜《よる》一人《ひとり》宿《ぬ》る
打田 稗数多 雖有 擇爲我 夜一人宿
【語釈】 ○打つ田にも稗は数多にありといへど 「打つ田にも」は、諸注、訓が定まらない。西本願寺本の訓。打って、耕作する田。「稗」は、稲にまじって生えるもので、これはその実が、稲の種籾に過ってまじっているからである。稲を害う物として抜き棄てるのであるが、この歌はそこまではいっていず、ただつまらない物としているだけである。その稗が多くあるというが。○択らえし我ぞ 稗として択り分けられた我は。
【釈】 打って耕作する田にも、稗はたくさんあるというが、稗のように択り分けられた我は、夜を独り寝していることだ。
【評】 部落生活をしている女の、男に疎まれている恨みである。自分を田の稗扱いにして、通っても来ないと、夜、独り寝をして恨んでいる心である。稗の譬喩は農民にとってはきわめて適(76)切なもので、ほかよりはうかがえないほどのものである。「夜一人宿る」も直截である。「稗は数多にありといへど」は、自分のごとき扱いを男から受ける女も多いようだがの意で、我と慰めている心である。謡い物を思わせる歌である。
2477 あしひきの 名《な》に負《お》ふ山菅《やますげ》 おし伏《ふ》せて 君《きみ》し結《むす》ばば 逢《あ》はざらめやも
足引 名負山菅 押伏 君結 不相有哉
【語釈】 ○あしひきの名に負ふ山菅 「あしひきの」は、山の枕詞を山の意に転用したもの。「名に負ふ山菅」は、山の物という名を負いもっている山菅を。○おし伏せて君し結ばば 「おし伏せて」は、強いて伏せてで、下の結ぶことをする状態。「君し結ばば」は、君が山菅を結んだならばで、木の枝、草を結ぶのは、将来も変わらないことを祈っていることで、ここは男女関係。○逢はざらめやも 逢わなかろうか、逢う。
【釈】 山という名を負いもっている山菅を、強いて伏せて、君が結んで将来を誓うのであったら、我は逢わなかろうか、逢う。
【評】 女が、求婚をした男で、こちらが躊躇するさまをしていると、諦めて手を引こうとしている男に、進んで承諾を示す心で贈った歌である。「あしひきの名に負ふ山菅」は、女の住地が山地であるのと、いわゆる山家育ちという謙遜の心から、自身に譬えていっているもの。「おし伏せて」は、君が勇敢にという意をこめていっているものである。「君し結ばば」も、語少なく心を尽くしている語で、一首技巧のすぐれた歌である。
2478 秋柏《あきがしは》 潤和川《うるわがは》べの 細竹《しの》のめの 人《ひと》にしのべば 君《きみ》に勝《あ》へなく
秋柏 潤和川邊 細竹目 人不顔面 公無勝
【語釈】 ○秋拍潤和川べの 「秋柏」は、『新考』は、秋の柏の葉は、露にうるおって美しい意で、うるおう意で、「うる」にかかる枕詞だと解している。「潤和川べの」は、(二七五四)に「閏八川べの」とあるによったのである。播磨国明石郡伊川谷村の大字に潤和《じゆんな》(神戸市垂水区伊川谷町潤名)というがあり、そこかと『新考』はいい、また駿河国富士郡に潤川《うるいがわ》というがあり(静岡県、富士宮市北西に発し、吉原市、富士市の境を流れ、沼川と合して駿河湾に入る潤井川)、そこかともいうが、不明とすべきである。○細竹のめの 「め」は、『考』は、群《むれ》の約だとしている。「しの」を、同音反復で次の「しの」に続け、初句からこれまではその序詞。○人にしのべば 原文「人不顔面」。「不2願面1」は、義をもって当てた字で、諸注、訓がじつにさまざまである。『考』は「人にしのべば」と訓んでいる。他人に恠《あや》しまれまいとして、堪え忍んでおればで、すなわち何げな(77)いさまをしておれば。○君に勝へなく 君恋しさに堪えられないことよで、名詞形。詠歎をもってのもの。
【釈】 秋柏のうるおっている潤和川のほとりの篠の群れに因みのある、他人に怪しまれまいとして堪え忍んでいると、君恋しさに堪えられないことよ。
【評】 第四句が問題になっている歌であるが、『考』の訓に従えば一応明らかになる。初句より三句までも問題が残っているといえる。諸注によって上のごとく解すと、潤和川のほとりに住んでいる男女間のもので、女が夫婦関係の秘密を守りつついる悩みを男に訴えたもので、きわめて一般性をもった心の歌である。本義は四、五句であるが、「人にしのべば公に勝へなく」の対照は、ほかにも例があり、わかりやすく、調子のよい言い方で、その心にふさわしいものである。序詞も、豊かな感をもったものであるが、その豊かさは叙景であって、下へのかかりは同音反復であるから、実際は単純なものである。要するに形は派手で、心はおおまかで、調子のよい歌である。謡い物系統の歌といえるものである。その心をもって作ったものであろう。
2479 さね葛《かづら》 後《のち》も逢《あ》はむと 夢《いめ》のみに うけひぞわたる 年《とし》は経《へ》につつ
核葛 後相 夢耳 受日度 年經乍
【語釈】 ○さね葛 「さね葛」は、今の美男かずら。分かれた蔓が、後には合う意で、「逢ふ」にかかる枕詞。○夢のみに 夢でだけ逢おうとで、「逢はむ」は、上に譲った形。夢の中でだけ逢おうと。○うけひぞわたる 「うけひ」は、誓いをして祈る意で、それをしつづけていることだ。
【釈】 さね葛のように、後には逢おうと思って、今は夢にだけ逢おうと、誓っての祈りをしつづけていることだ。年は経て行きつつ。
(78)【評】 夫婦関係を結んでいる男女の逢い難い嘆きの歌は多い。この歌もそれであるが、嘆きを鎮めて、落ちついてゆっくりと後を待っている心である。落ちつくのは、その期間は長いものであるが、限りのあるものとしてのことらしい。それだと当時にあっては地方官でなくてはならない。国庁の高くない位置の人の心であろう。
2480 路《みち》の辺《べ》の 壱師《いちし》の花《はな》の いちしろく 人《ひと》皆《みな》知《し》りぬ 我《わ》が恋妻《こひづま》は
路邊 壹師花 灼然 人皆知 我戀嬬
【語釈】 ○壱師の花 不明である。今、ぎしぎしと呼ぶ草ではないかという。それだと夏の初めに、淡録の小花を簇《むらが》らせて咲く。同音で「いちしろく」にかかり、初二句その序詞。
【釈】 路のほとりの壱師の花に因みあるいちじるしく、周囲の人は皆知ってしまった。わが恋うている妻は。
【評】 男の歌で、秘密にしていなければならない妻のことを、周囲の人に知られてしまったというのである。しかし嘆きはなく、明るい心でいっているものである。上の(二四六八)「湖葦に交れる草の」も同想の女の歌で、同じく嘆きが無い。夫婦関係に伴う信仰を、忘れかけているごとき心である。陶酔状態でいるためと見るべきであろう。
或本の歌に曰く、いちしろく 人《ひと》知《し》りにけり 継《つ》ぎてし念《おも》へば
或本詞曰、灼然 人知尓家里 繼而之念者
【解】 第四、五句が異なっている。はっきりと人が知ってしまったことだ。続けて思っているので、というのである。こちらには四句にある程度の嘆きがあって、結句は知られたことの説明で、常識化したものとなっている。原文の味わいはない。
2481 大野《おほの》らに たどきも知《し》らず 標繩《しめ》結《ゆ》ひて 在《あ》りもかねつつ 吾《わ》がかへり見《み》し
大野 跡状不知 印結 有不得 吾眷
【語釈】 ○大野らにたどきも知らず 「大野らに」は、広い野に。「たどきも知らず」は、手がかりも知られずに。○標繩結ひて わが物のしるし(79)の繩を張って。○在りもかねつつ 在るにも在り得ない気がしつつで、どうにも安心のできない気がしつつ。○吾がかへり見し その場所をわれは顧みたことだ。
【釈】 広い野に、明らかな手がかりもわからずに標繩を張って、在るにも在り得ない気がして、われはそこを顧みたことだ。
【評】 これは純気分の歌で、一首譬喩から成っている歌である。中心は「標繩結ひて」で、これは女をわが物としようと期した意で、「在りもかねつつ吾がかへり見し」は、そうは期したが、何とも心許ない意を具象したものである。これは初二句に続かせたもので、「大野らにたどきも知らず」は、その女がどういう人であるか、まるきり見当も付けられないことの譬喩である。作因は、思いがけずも甚だ心引かれる女を見て、わが物としたいと思ったが、何の手がかりもない頼りない心と思われる。事実を措いて、そこから起こる気分だけをいうのが人麿歌集特有の詠風であるが、この歌はややそれがすぎて、事実に接しる面の少ないものである。しかしさすがにその境を想像させはするものである。
2482 水底《みなそこ》に 生《お》ふる玉藻《たまも》の うち靡《なび》き 心《こころ》は寄《よ》りて 恋《こ》ふるこのごろ
水底 生玉藻 打靡 心依 戀比日
【語釈】 ○水底に生ふる玉藻の 「うち靡き」の序詞。
【釈】 水底に生えている藻のように、靡いて心は寄って、君を恋うているこの頃であるよ。
【評】 女の男に贈った歌で、誓いの心をもったものである。序詞は住地を示してもいる。すなおな歌である。
2483 敷栲《しきたへ》の 衣手《ころもで》離《か》れて 玉藻《たまも》なす 靡《なび》きか宿《ぬ》らむ 吾《わ》を待《ま》ちがてに
敷栲之 衣手離而 玉藻成 靡可宿濫 和乎待難尓
【語釈】 ○敷栲の衣手離れて 「敷栲の」は、衣の枕詞。「衣手」は、袖。「離れて」は、はなれてで、できずに。○玉藻なす靡きか宿らむ 玉藻のように横たわって寝ているであろうかで、「らむ」は、現在の推量。○吾を待ちがてに 我を待つことができずに。
【釈】 わが手枕ができずに、玉藻のように横たわり寝ていることであろうか。我を待つことができずに。
(80)【評】 妻の許へ行くことのできなかった男が、夜、妻の床の上に寝ている状態を思いやった心である。妻を憐れむ心が主になっているが、自身の恋しさも伴ったものである。自身を抑えて相手のみをいうのは、定まった風で、自身もそれによって生かされているのである。この歌はそれをよく遂げている。
2484 君《きみ》来《こ》ずは 形見《かたみ》にせむと 我《わ》が二人《ふたり》 植《う》ゑし松《まつ》の木《き》 君《きみ》を待《ま》ち出《い》でむ
君不來者 形見爲等 我二人 殖松木 君乎待出牟
【語釈】 ○形見にせむと 「形見」は、その人の代わりとして見る物の総称。○君を待ち出でむ 「待ち出でむ」は、待ちつけて逢うだろう。上代は、物の名には、その名にふさわしい実が伴っているものだとする信仰があったので、「松」は待ちつけ得るものとしていっているのである。
【釈】 君が来なかったならば、君の形見としようとて、二人して植えた松の木よ。その名の通りに、君を待ちつけて逢うことだろう。
【評】 男に疎遠にされている女の、男を思う心である。初めは夫の来ない日の慰めに、形見にしようと思った松の木が、そう思っているだけではおっつかず、松という名の通りに、君を待ちつける物になって、君をここへ来させる物になれというのである。当時としては甚だ気の利いた、いわゆる渋い歌であったろう。
2485 袖《そで》振《ふ》るが 見《み》ゆべきかぎり 吾《われ》はあれど その松《まつ》が枝《え》に 隠《かく》りたりけり
袖振 可見限 吾雖有 其松枝 隱在
【語釈】 ○袖振るが見ゆべきかぎり 男の袖を振るのが見られうる限りをで、男の別れを惜しむしぐさを、女の見送っている意。○吾はあれど われは戸外に出ているが。○その松が枝に隠りたりけり あの松の枝に夫の姿は隠れてしまったことだ。
【釈】 夫の別れを惜しんで袖を振るのが、見られうる限りを戸外にいたが、夫の姿はあの松の枝に隠れてしまったことだ。
【評】 男女の朝の別れを、女が見送りをするという一点に捉え、それを時間的にあらわしたもので、事実を気分化する傾向の段階的なものである。女の目を通して男の状態をいうという、相手を主とした言い方であるが、現われて来るのは女の心情であ(81)る。抒情をとおして叙事をする、人麿歌集特有の詠み方の歌である。
2486 血沼《ちぬ》の海《うみ》の 浜辺《はまべ》の小松《こまつ》 根深《ねふか》めて 吾《わ》が恋《こ》ひわたる 人《ひと》の子《こ》ゆゑに
珍海 濱邊小松 根深 吾戀度 人子※[女+后]
【語釈】 ○血沼の海の浜辺の小松 「血沼の海」は、大阪府堺市から岸和田市にかけての海。古くは、摂津にわたってまでの海の称。「浜辺の小松」は、浜に生えている小松で、「根」と続き、初二句その序詞。○根深めて 心を深くしてで、すなわち思い入つて。○人の子ゆゑに 「人の子」は、「人の」は、「人の親」のそれと同じく軽く添えた語。「子」は、女の愛称。かわゆい女のゆえに。
【釈】 血沼の海の浜辺に生えている小松の根のように、思い入ってわれは恋い続けている。かわゆい女のゆえに。
【評】 一般的な心を、平明に詠んだもので、血沼の海べの謡い物を思わせる歌である。
或本の歌に曰く、血沼《ちぬ》の海《うみ》の 潮干《しほひ》の小松《こまつ》 ねもころに 恋《こ》ひやわたらむ 人《ひと》の子《こ》故《ゆゑ》に
或本謌曰、血沼之海之 塩干能小松 根母己呂尓 戀屋度 人兒故尓
【語釈】 ○潮干の小松 干潮の潟に立っている松で、根が目に着く意で「ね」と続けた序詞。○ねもころに 心の底から。○恋ひやわたらむ 恋い続けるのであろうかで、「や」は、疑問の係。
【評】 伝承されている中に変わって来たとみえる。原文は平明なものではあるが、現に恋をして、喜びも苦しみも持っているものであるが、これは懸想の心だけのもので、楽しみを想像して追おうかというのである。このほうが一段と平明で、一段と謡い物的である。「潮干の小松」は、強いた趣がある。
2487 奈良山《ならやま》の 小松《こまつ》が未《うれ》の うれむぞは 我《わ》が思《おも》ふ妹《いも》に 逢《あ》はず止《や》みなむ
平山 子松末 有廉叙波 我思妹 不相止者
(82)【語釈】 ○小松が末の 「末」は、梢の先の称で、同音で、「うれむぞ」の「うれ」にかかり、初二句その序詞。○うれむぞは 「うれむぞ」は、どうしての意の古語。巻三(三二七)「わたつみの奥《おき》に持ち行きて放つともうれむぞこれが死還生《よみがへ》りなむ」と出た。「は」は、強意の助詞。○我が思ふ妹に逢はず止みなむ わが思う妹に逢わずしてやもうかで、「止みなむ」は「うれむぞ」の結。
【釈】 奈良山の小松の末梢に因みある、どうしてわが思う妹に逢わずにやもうか。
【評】 片思いをして、男の昂奮して、我と我を励ます心のものである。「奈良山の小松」は、女の住む土地と女の状態を暗示しているものである。調べの強さが、その心の直接の現われとなっているものである。
2488 礒《いそ》の上《うへ》に 立《た》てる廻香樹《むろのき》 心《こころ》いたく 何《なに》に深《ふか》めて 念《おも》ひ始《そ》めけむ
礒上 立廻香樹 心哀 何深目 念始
【語釈】 ○礒の上に立てる廻香樹 「礒」は、海岸の岩。「廻香樹」の「樹」は、原文「瀧」。『考』は、「瀧」を「樹」の誤写として、今のごとく訓んだ。巻三(四四六)「吾妹子が見し鞆浦《とものうら》の天木香樹《むろのき》は」があり、それと同じであろうとしての訓である。巻十六(三八三〇)に題としての「天木香」を「室の木」と詠んでいる。むろの木は今、ねず、または、ねずみさしと称する木で、漢名杜松。松杉科の常緑喬木で、山野に自生し、葉は針葉で輪生する。夏、小花を開き、実は杜松子といって薬用とする。在り場所の危うげなところから、気分で「心いたく」と続け、初二句、その序詞。○心いたく 「いたく」は痛くで、心の苦しくも。○何に深めて思ひ始めけむ どうして心の底から思い始めたのであったろうか。
【釈】 海岸の岩の上に生えているねずの木の、見るからに心苦しいように、心苦しくも、どうして心の底から思い始めたのであったろうか。
【評】 海岸の岩の上に、海に臨んで立っているねずの木を、多分船の上から眺めて、その頼りなく危うげなさまに胸を打たれると、ただちに、思い入っての苦しい恋をしている自身の状態が、そのねずの木のさまに通っていると客観視させられ、何だってこのような思いをするようになったのだろうかと詠歎したのである。序詞から本文への移りの気分であるように、一首、純気分の歌で、したがって調べが主体となっている歌である。「心いたく何に深めて」と序詞より続けて来る続きに、籠もった重い響がある。瀬戸内海の船旅をしている際の歌であったろう。
2489 橘《たちばな》の 下《もと》に我《われ》立《た》ち 下枝《しづえ》取《と》り 成《な》らむや君《きみ》と 問《と》ひし子《こ》らはも
(83) 橘 本我立 下枝取 成哉君 問子等
【語釈】 ○橘の下に我立ち下枝取り 橘の木の下に我が立って、下枝を手に取ってで、この枝には実が成るだろうかと思うの意で「成らむや」に続け、初句から三句までを序詞の形としたもの。○成らむや君と問ひし子らはも 「成らむや」は、同音異義で、恋が成り立つであろうかの意。「君と」は、女が男を指しての称で、君よといって。「問ひし子らはも」は、「子ら」は、「ら」は、接尾語で、尋ねたあの可愛ゆい女はよ。
【釈】 橘の木の下に我が立って、その下枝を取って、この実は成るだろうかという、それに因んで、わが恋は成るであろうか君よといって、我に尋ねた、あの可愛ゆい女はよ。
【評】 男の思い出としていっている歌である。この歌の境は特殊なもので、多分一人前になるかならない男女が、橘の木の下で遊んでいて、男は下枝を手に取って、この実は成るだろうかと女に問うと、女は間髪を入れず、成るを恋の成るの意に転じて、私の思いは成るでしょうか君と尋ねた、その時のさまを男は思い出して、あの可愛ゆかった女はよと詠歎しているのである。劇的な情景で、相応に複雑したものを一首の短歌にしている、嘆ずべき技巧のものである。「成らむや」は、歌では女の語となっているが、事としては男のいったことを、女が鸚鵡《おうむ》返しに、同音異義でいったので、序詞に三句を費やしているのもそれを暗示するためである。また、女の語はその年齢をも暗示しているものである。この取材は、人麿歌集に今一度長歌として詠んでいる。巻十三(三三〇九)「物念はず道行き去くも」がそれである。
2490 天雲《あまぐも》に 翼《はね》うちつけて 飛《と》ぶ鶴《たづ》の たづたづしかも 君《きみ》坐《いま》さねば
天雲尓 翼打附而 飛鶴乃 多頭々々思鴨 君不座者
(84)【語釈】 ○翼うちつけて 「うちつけて」は、翼を付けてを強くいったもの。高くというを具象的にいったもの。 ○飛ぶ鶴の 「鶴の」は、次の「たづ」へ同音反復でかかり、初句よりこれまでその序詞。○たづたづしかも 「たづたづし」は、たどたどしの古語で、頼りなくおぼつかない意。
【釈】 空の雲に翼を付けて高く飛んでいる鶴に因みのある、たずたずしいことであるよ。君がいらっしゃらないので。
【評】 妻の夫に贈った歌で、夫のいない時は、頼りない感じのする訴えである。序詞は眼に見ての光景で、そのさまの頼もしげなところから捉えたもので、その意味で気分のつながりのあるものと取れる。
2491 妹《いも》に恋《こ》ひ 寐《い》ねぬ朝明《あさけ》に をし鳥《どり》の ここゆ渡《わた》るは 妹《いも》が使《つかひ》か
妹戀 不寐朝明 男爲鳥 從是此度 妹使
【語釈】 ○をし鳥のここゆ渡るは 「をし烏」は、鴛鴦鳥で、雌雄最も親しくする鳥。「ここゆ渡る」は、ここを通って飛び渡るのは。○妹が使か 妹が我によこした使であろうかで、「か」は、疑問。
【釈】 妹を恋うて寝ねずに過ごした夜明けに、鴛鴦がここを通って飛び渡るのは、妹の使なのであろうか。
【評】 女に何らかの妨げがあって、逢えずに夜を明かした男の感傷である。「妹が使か」は、感傷よりの感であるが、相思う心は何らかの形で感応し合うという信仰があり、また、鳥に使を連想するのは伝統的な感情であるから、さして甚しいものではない。それよりも男は、雌雄むつまじい鴛鴦にそうした感をつないだことに慰みを感じたのである。鴛鴦は夜は樹上に宿る鳥である。
2492 念《おも》ふにし 余《あま》りにしかば 鳰鳥《にほどり》の 足沾《なづさ》ひ来《こ》しを 人《ひと》見《み》けむかも
念 餘者 丹穗鳥 足沾來 人見鴨
【語釈】 ○鳰鳥の足沾ひ来しを 「鳰鳥の」は、かいつぶりのごとくで、枕詞。「足沾ひ来しを」は、巻十二(二九四七)の歌の左注に、この歌が引いてあり、ここは仮名書きで「奈津柴比来乎」と記してあるのによる。「足沾ひ」は、水を分ける意で、甚しく朝露に濡れて来たのを。
【釈】 恋しさを怺《こら》えるに余ったので、鳰鳥のように夜露に濡れて女の家のほうへと来たのを、人が見たであろうか。
(85)【評】 甚しく人目を忍んでいる関係で、男は慎んでいなくてはならないのだが、それがしきれなくて、家を出て来た気分である。逢う逢わないには触れず、人目をおそれることだけをいっている、苦しい気分の表現である。類歌は多いが、気分の具象という点で類を異にしているものである。
2493 高山《たかやま》の 峯《みね》行《ゆ》くししの 友《とも》を多《おほ》み 袖《そで》振《ふ》らず来《き》つ 忘《わす》ると念《おも》ふな
高山 峯行宍 友衆 袖不振來 忘念勿
【語釈】 ○高山の峯行くししの 「しし」は、宍の字をあて、その肉を食用とする猪鹿などの総称。群行する習性があるので、譬喩の意で「友を多み」に続け、初二句その序詞。○友を多み 同行者が多いので。○袖振らず来つ 袖を振る別れもしなくて来た。○忘ると念ふな 妹を忘れてのこととは思うなと弁解した意。
【釈】 高山の峰を行く猪鹿のように、同行者が多いので、見る目を憚って袖も振らずに来た。忘れてのこととは思うな。
【評】 男が、多くの同行者とともにほかへ出かけた後、妻に贈った形の歌である。序詞が特殊であるが、女もそうしたことは熟知しているとして用いているものである。男が狩猟者であれば自然なものである。狩猟者でないまでも、そうしたこともする男として詠んだものであろう。
2494 大船《おほふね》に 真楫《まかぢ》繁貫《しじぬ》き 榜《こ》ぐ間《ほど》も 極太《ここだく》恋《こひ》し 年《とし》にあらば如何《いか》に
大船 眞※[楫+戈]繁拔 榜間 極太戀 年在如何
(86)【語釈】 ○大船に真楫繁貫き 大きな船に、左右の櫓を多く取付けて。官人の海路の状態。○榜ぐ間も 榜いでいる短い間も。○極太恋し 「極太」は、多量より甚しくに転じた副詞。「恋し」は、妹が恋しい。○年にあらば如何に 一年にわたってのことならばどんなであろうかで、「如何に」の下に「あらむ」が略されている。
【釈】 大船に左右の櫓を繁く取付けて榜いでいる短い間さえも、甚しく妹が恋しい。これが一年にわたったならば、いかに恋しいことであろう。
【評】 官人の航海中の気分であるが、「榜ぐ間も」と「間」に中心を置いての気分で、「極太恋し」によって、妻の住地に向かっていることを暗示しているものである。「年にあらば如何に」も、それに伴っての想像で、この恋しさが一年も続くものであったならばというのである。官人の実感である。
2495 たらちねの 母《はは》が養《か》ふ蚕《こ》の 眉隠《まよごも》り 隠《こも》れる妹《いも》を 見《み》むよしもがも
足常 母養子 眉隱 々在妹 見依鴨
【語釈】 ○たらちねの母が養ふ蚕の 「たらちねの」は、母の枕詞。「養ふ蚕」は、蚕。○眉隠リ 繭に当てた字。古くは「まよ」といった。「眉隠り」は、蚕が繭の中に籠もる意で、「隠れる」に反復でかかり、初句よりこれまでその序詞。○隠れる妹を見むよしもがも 「隠れる妹」は、家の中に籠もっている女で、女の常態。「見むよし」は、見る方法。「もがも」は願望。
【釈】 たらちねの母が飼っている蚕の繭隠りをするように、家の内に籠もっている娘を、目に見る方法のほしいものだなあ。
【評】 部落生活をしている者の歌である。男は女に心を寄せて、その家の辺りに立ち、女が家を出て来たら求婚の心を示そうとしているが、出て来ないのを嘆いた心である。序詞は、同音で懸けているものであるが譬喩の意のもので、女の出て来ないのは、母の監督が厳しいためと思い、その気分を絡ませたもので、序詞が生命になっている歌である。蚕は、女の貢物としての真綿を紡《つむ》ぐための業だったのである。
2496 肥人《ひびと》の 額髪《ぬかがみ》結《ゆ》へる 染木綿《しめゆふ》の 染《し》みにしこころ 我《われ》忘《わす》れめや
肥人 額髪結在 染木綿 染心 我忘哉
(87)【語釈】 ○肥人の 「肥人」は、諸注、歴史家の問題としている語であるが、大体明らかになっている。いかなる人かというについては、『令集解』の夷人雑類の一つとして挙げられており、また、『本朝書籍目録』に、「肥人書、唐人書」と並び挙げられているので、わが民族にまじっていた異民族で、肥の国を本拠としていたところからの称である。風俗を異にしていたことが下の続きで知られる。○額髪結へる染木綿の 「額髪」は、『倭名類聚抄』に出ている語で、前髪。「染木綿」は、何らかの色に染めた繊維で、染め得られる点から楮であろうという。それを元結にして結っていたのである。藤原京にいて見てのことで、印象的のものであったろう。「染」を次の「染め」に反復させて、初句よりこれまでその序詞。○染みにしこころ我忘れめや 「染みにしこころ」は、相手に深く思い入った心。「我忘れめや」は、我は忘れようか忘れないで、誓いの心。
【釈】 肥人が額髪を結わえている染木綿のように、深くも思い入った心を我は忘れようか忘れはしない。
【評】 男が女に対してその誠実を誓った歌である。序詞はじつに奇警なものである。肥人は京にあって、何らかの宮廷関係の勤めをもっていたものであったろうか。とにかく、当時の京にあって異風俗を固守していたところから見て、頑強な種族だったとみえる。ここは、その染木綿の珍しさから捉えたもので、珍しくも深く染みにしという意を絡ませているものである。一首、取材は面白く、調べは強くさわやかで、才華を思わせる歌である。
一に云ふ、忘《わす》らえめやも
一云、所忘目八方
2497 隼人《はやひと》の 名《な》に負《お》ふ夜声《よごゑ》 いちしろく 吾《わ》が名《な》は告《の》りつ 妻《つま》と恃《たの》ませ
早人 名負夜音 灼然 吾名謂 ※[女+麗]恃
【語釈】 ○隼人の 「隼人」は喜田貞吉の『隼人考』で考証されている。隼人は、九州南方の種族である。隼は、『唐書倭国伝』に「破邪」とある地で、隼人の名は日本書紀に出ている。薩摩には阿多の隼人が居り、大隅には大隅の隼人がいた。勇猛な種族なので、召されて宮廷の護衛にあたった。○名に負ふ夜声 評判となっている夜の声で、護衛のために、夜、高い声を発したのである。高い声は悪霊を撰う呪力のあるものとしていたのである。高い声の意で「いちしろく」と続け、初二句その序詞。○いちしろく吾が名は告りつ はっきりとわが名は告げたで、女が男に名を告げるのは求婚に応じる意である。○妻と恃ませ 「恃ませ」は、恃めの敬語で、妻として信頼なさいまし。
【釈】 隼人の評判になっている夜声のようにはっきりとわが名を申しました。妻として信頼なさいまし。
(88)【評】 上の男の歌に対して女の答えたもので、われも十分に君の信頼に堪える者だと、誓い返した心である。男が肥人を捉えて「染めにし」の序詞としたのに対し、女も隼人を捉えて「いちしろく」の序詞とし、われも力強くといっているので、技巧としてほとんど劣りを見せないものである。人麿の作か、妻の作かは不明である。並べて見ると、感性の細かさ、調べの冴えで、いささか劣っているようにみえるからである。
2498 剣刀《つるぎたち》 諸刃《もろは》の利《と》きに 足《あし》踏《ふ》みて 死《しに》にし死《し》なむ 公《きみ》に依《よ》りては
釼刀 諸刃利 足蹈 死々 公依
【語釈】 ○剣刀諸刃の利きに 「剣刀」は、剣の刀で、剣。両刃になっているもの。「諸刃の利きに」は、その両刃の鋭利な物に。○足踏みて 足を踏んで。○死にし死なむ 死にに死のうで、死を強めていったもの。○公に依りては 公のためには。
【釈】 剣の刀のその両刃の鋭利なのを足に踏んで死にに死にましょう。公のためには。
【評】 妻が夫に対して、その貞実を誓った歌である。女の貞実を誓う歌は多いが、これはその程度のものではなく、まさに献身的なもので、しかも燃ゆるごとき情熱をもったものである。調べもそれにふさわしく、思い詰めた心の強さをあらわしている。その意味では例のない歌である。
2499 我妹子《わぎもこ》に 恋《こ》ひし渡《わた》れば 剣刀《つるぎたち》 名《な》の惜《を》しけくも 念《おも》ひかねつも
我妹 戀度 釼刀 名惜 念不得
【語釈】 ○恋ひし渡れば 「し」は、強意。恋いつづけているのでで、恋は片恋である。○剣刀名の惜しけくも 「剣刀」は、名が付いているので、(89)名にかかる枕詞。「名の惜しけく」は、わが名の惜しいこともで、「惜しけく」は、名詞。○念ひかねつも 思うことができなくなった。
【釈】 我妹子に片恋を続けているので、剣刀の名のように、わが名の惜しいと思うこともできなくなった。
【評】 片恋の苦しさに堪えていたのも、大夫の面目を重んじてのことだが、それを思いきれなくなったと、心の推移の一段階を捉えていっている歌である。「剣刀名の惜しけく」が中心となっている歌である。藤原朝時代の心である。
2500 朝《あさ》づく日《ひ》 向《むか》ふ黄楊櫛《つげぐし》 旧《ふ》りぬれど 何《なに》しか公《きみ》が 見《み》れど飽《あ》かざらむ
朝月日 向黄楊櫛 雖舊 何然公 見不飽
【語釈】 ○朝づく日向ふ黄楊櫛 「朝づく日」は、朝になる日。喜んで向かう意で、向かうの枕詞。「向ふ黄楊櫛」は、「向ふ」は、それを相手にする意で、扱う黄楊の櫛。黄楊櫛は、現在も用いている物である。櫛は油に浸みて古びやすいところから譬喩の意で「旧り」にかかり、初二句その序詞。○旧りぬれど 夫婦関係が久しくなったが。○何しか公が見れど飽かざらむ どうして公は、見るに、見飽かないのでしょうかで、「か」は、疑問の係。
【釈】 朝の日に向かう、そのように向かって扱う黄楊の櫛の旧くなったように、久しい間柄となったが、どうして公は、見る目に見飽かないことでしょうか。
【評】 夫婦関係のすでに久しくなっている妻が、朝、黄楊の櫛を扱いながら、その夫に、楽しさにほほ笑んでいっている歌である。梳っているのは自分の髪ではなく、夫の寝乱れた髪であろう。夫に鏡を持たせて、背後からいっているものかもしれぬ。気分を主とした歌であるから、作意にそうした境があったかと思われる。枕詞をもった序詞が、複雑な気分を暗示している。巧みな歌である。
2501 里《さと》遠《とほ》み うらぶれにけり まそ鏡《かがみ》 床《とこ》のへ去《さ》らず 夢《いめ》に見《み》えこそ
里遠眷 浦經 眞鏡 床重不去 夢所見与
【語釈】 ○里遠みうらぶれにけり 旧訓。「眷」を「み」に当てたのである。「里遠み」は、住んでいる里が夫のいる所から遠いので。「うらぶれ(90)にけり」は、夫の来ることが稀れで、心がさびれてしまったことだ。○まそ鏡 まそ鏡のごとくにの意で、「床のへ去らず」に枕詞としてかかる。○床のへ去らず夢に見えこそ 「床のへ去らず」は、床の上を去らずして、いつも。「夢に見えこそ」は、夫は夢に見えてくれよ。
【釈】 夫の里が遠いので、心がさびれてしまったことだ。まそ鏡のように床の上を去らずに、夫は夢に見えて下さい。
【評】 この歌は、事の一点より湧く気分をいう詠み方とは異なって、女が意識的に現状を捉えて説明し、それにつけての願望を述べるという、古風な詠み方である。人麿歌集にもこうした面があるのであるが、要するに取材を活かそうとしての変化である。
2502 まそ鏡《かがみ》 手《て》に取《と》りもちて 朝《あさ》な朝《あさ》な 見《み》れども君《きみ》は 飽《あ》くこともなし
眞鏡 手取以 朝々 雖見君 飽事無
【語釈】 ○朝な朝な 「見れ」と続いて、初句より三句まではその序詞。○見れども君は飽くこともなし 見馴れたけれども君は、見飽きることがない。
【釈】 真そ鏡を手に取り持って朝々に見る、そのように見馴れているけれども、君は見飽くことがない。
【評】 単純な、若々しい歌である。序詞は、この夫婦は身分ある者で、初めから夫婦関係が承認されており、夫は毎夜妻の許に通っていることを暗示しているとみえる。さすがに陰影はもっている歌である。
2503 夕《ゆふ》されば 床《とこ》のへ去《さ》らぬ 黄楊枕《つげまくら》 いつしか汝主《きみ》を 待《ま》てば苦《くる》しも
夕去 床重不去 黄楊枕 射然汝主 待困
【語釈】 ○夕されば床のへ去らぬ黄楊枕 夜となると床の上を去らずにいる黄楊枕よと呼びかけたもの。「黄楊枕」は、黄楊の木で作った木枕で、貴族的な物だった。○いつしか汝主を待てば苦しも 諸注、訓がさまざまで、誤写説のあるものである。『新訓』の訓。「汝主」を黄楊枕の関係から、「きみ」に当てた字としたのである。「いつしか」は、いつであろうか、早くと待望する意のもの。早くと君を待つと苦しい。
【釈】 夜になると床の上を去らずにいる黄楊枕よ。早くと君を待つと苦しい。
(91)【評】 女が夜、床にあって、その男の来るのを待ち、待ち遠しい苦しさから、自分とともにいる黄楊枕に呼びかけて、その苦しさを訴えたものである。「夕されば床のへ去らぬ黄楊枕」は、平常もそのようになっているものであるが、自身の気分を移入して、枕そのものも君を待っているようにいったので、それが眼目となっている歌である。
2504 解衣《ときぎぬ》の 恋《こ》ひ乱《みだ》れつつ 浮沙《うきまなご》 生《い》きても吾《われ》は あり渡《わた》るかも
解衣 戀乱乍 浮沙 生吾 有度鴨
【語釈】 ○解衣の恋ひ乱れつつ 「解衣の」は、解きほぐした衣で、意味で「乱れ」にかかる枕詞。「恋ひ乱れ」は、一語。恋うに心が乱れつつ。○浮沙生きても吾は 原文「浮沙生吾」。誤写説のある句である。『新訓』は「生」を「浮」の誤写として「浮きても」としているのを、『全註釈』は原文に従って今のように訓んでいる。「浮沙」は、乾いて軽くなった沙の、ある時間水面に浮かんでいる物の称で、ほかにも用例のある語。浮沙のごとくに生きてわれは。○あり渡るかも あり続けていることよ。
【釈】 解いた衣のように恋い乱れながら、水に浮かぶ沙のようにも生きて私は、あり続けていることだなあ。
【評】 男に忘れられた女の、諦められずに夫を思いつつ、生き甲斐もない生き方をしているのを客観視して、嘆いた心である。「浮沙生きても吾は」という譬喩は、新味とともに沈痛味を帯びたものである。じつに得難い続きである。「恋ひ乱れつつ」と融け合って、深さのあるものとなっている。
2505 梓弓《あづさゆみ》 引《ひ》きて縦《ゆる》さず あらませば かかる恋《こひ》には 遇《あ》はざらましを
梓弓 引不許 有者 此有戀 不相
【語釈】 ○梓弓引きて縦さず 「引きて」は、弦を引き絞ってで、手放す意の縦すと続け、「引きて」までを序詞としたもの。「縦さず」は、男に心を許さずで、承知しない意。○かかる恋には遇はざらましを こうした苦しい恋には出逢わなかったろうものをで、「まし」は、「せば」の結。
【釈】 梓弓を引絞って手放さないように、男に承知をしなかったならば、こうした苦しい恋には遇わなかったろうものをなあ。
【評】 女の歌で、いったん関係を結ぶと、男は自然冷却し、女は反対に恋情がつのって不満足に感じるところから、それを「かかる恋」といって、関係したことを悔いている心である。「梓弓引きて」は、求婚されていた頃は、女の頑固に拒んでいた(92)ことを暗示するものがあり、陰影となっている。
2506 言霊《ことだま》の 八十《やそ》の衢《ちまた》に 夕占《ゆふけ》問《と》ふ 占《うら》正《まさ》に告《の》る 妹《いも》はあひ依《よ》らむ
事靈 八十衢 夕占問 占正謂 妹相依
【語釈】 ○言霊の八十の衢に 「言霊」は、上代信仰のおもなる一つで、人が発する語には、語自体に霊力が宿っており、その語通りの働きを他人に及ぼすものだという信仰である。巻五(八九四)「言霊の幸《さき》はふ国と」とあり、巻十三(三二五四)「敷島の倭の国は 言霊の助くる国ぞ まさきくありこそ」ともある。「八十の衢」は、「八十」は数多くということを具象していった語で、掛詞になっており、上からの続きは、言霊が多く集うで、下のほうは、その多くの衢である。「衢」は、道股で、十字路となっている所で、したがって人の往来の多いところ。○夕占問ふ 「夕占」は、夕方、道に立ち、往来の人の我には関係なく話して行く語の中に、今我がしようと思っている事の、成否吉凶を判断する占いである。「問ふ」は、尋ねる。○占正に告る 神意はまさしくも現われた。○妹はあひ依らむ 妹は我によるだろうと。
【釈】 言霊の八十と集う、八十の衢に立って、我は夕占を問う。占はまさしくも現われた。妹は我によるだろうと。
【評】 信仰として行なう事なので、それに伴う緊張と熱意をもち、重い心をもってあたっているさまが、詠み方、調べの上にさながらに現われている。一首を三段に切り、輪郭だけをいっているところ、現在法で強い調べでいっているのがすなわちそれである。占を問う心は今も根強く伝わり、形を異にしてさまざまに分かれて行なわれている。
2507 玉桙《たまほこ》の 路往占《みちゆきうら》に 占《うらな》へば 妹《いも》に逢《あ》はむと 我《われ》に告《の》りつる
玉桙 路牲占 々相 妹逢 我謂
【語釈】 ○玉桙の路往占に 「玉桙の」は、路の枕詞。既出。「路往占」は、路を往く人の語によってする占いである。
【釈】 路を行ってする占いで占うと、妹に逢うだろうと、我に告げたことである。
【評】 この歌は、事としては上の歌と同じであるが、上の歌は占いの現われた瞬間の心、これはある時間を置いての心である。上の歌によって妹に求婚の交渉をしようと決心し、それを実行に移そうとする時、これは神意の伴っていることだと思って、我と我を励まそうとする心である。二首連作である。
(93) 問答
2508 皇祖《すめろぎ》の 神《かみ》の御門《みかど》を 懼《かしこ》みと 侍従《さもら》ふ時《とき》に 逢《あ》へる公《きみ》かも
皇祖乃 神御門乎 懼見等 侍從時尓 相流公鴨
【語釈】 ○皇祖の神の御門を 天皇の歴代の神霊を祀ってある宮をで、宮中にある皇霊殿を。○懼みと侍従ふ時に 「懼みと」は、畏しとしてで、副詞句。「侍従ふ時に」は、奉仕している折に。○逢へる公かも 「公」は、男を指しての称。
【釈】 皇祖の神霊をお祀りしている宮を、懼れ多しとして奉仕している時に、逢ったところの公であるよ。
【評】 宮中の皇霊殿に奉仕する女官が、奉仕しているおりから、夫婦関係を結んでいる男と顔を合わせた時の歌である。男も職務上、宮に参ったのであろう。場所がら、どちらも語をかわすこともできなかったものとみえる。歌はそのさりげなくよそよそしくすることの余儀なさに触れていっているものである。豊かな余裕をもちながら心を尽くしている、力量ある歌である。
2509 まそ鏡《かがみ》 見《み》とも言《い》はめや 玉《たま》かぎる 石垣淵《いはがきふち》の 隠《こも》りたる妻《つま》
眞祖鏡 雖見言哉 玉限 石垣淵乃 隱而在※[女+麗]
【語釈】 ○まそ鏡見とも言はめや 「まそ鏡」は、見の枕詞。神殿に因みがある。「見とも言はめや」は、顔を見るとも、それといおうか言いはしないで、「見とも」は、「見るとも」の古格。古くは連用形から「とも」に接したのである。顔を見ても、見たともいうまいの意。○玉かぎる石垣淵の 玉の光を発する岩の垣を成している淵で、それに籠もる意で、「隠り」にかかる序詞。巻二(二〇七)人麿の歌に出た。○隠りたる妻 秘密にしている妻は。
【釈】 顔を見たともいおうか、いいはしない。玉が光を発する石垣淵のように、秘密にしている妻は。
【評】 右の女の歌に対しての答である。女の職務上、心ならぬさまをしているというのをいさぎよく受け入れて、もとよりあ(94)くまでも秘密にするべきだと、対他的の心をもっていっているのである。おのずから、男女の差がある。枕詞と、枕詞をもった序詞とを用いて、美しく柔らかくいっている歌である。
右二首
【解】 右の二首で問答となっている意である。以下も同様である。
2510 赤駒《あかごま》の 足掻《あがき》速《はや》けば 雲居《くもゐ》にも 隠《かく》り往《ゆ》かむぞ 袖《そで》巻《ま》け吾妹《わぎも》
赤駒之 足我枳速者 雲居尓毛 隱徃序 袖卷吾妹
【語釈】 ○足掻速けば 「足掻」は、馬の歩み。「速けば」は、後世の速ければにあたる古格。速いので。○雲居にも隠り往かむぞ 「雲居に」は、遙かに遠くということを、具象的にいったもの。「隠り往かむぞ」は、遠ざかり往かむぞを、同じく具象的にいったもの。○袖巻け吾妹 「袖巻け」は、袖振れと反対の語で、袖を巻き収めて、振ることをするなの意。上代の袖は、袖口の部分が長かったのである。「吾妹」は、命令。
【釈】 わが乗る赤駒は歩みが速いので、我はたちまち雲居にも隠れて往くことであろうぞ。袖を巻き収めて、振ることをするな吾妹よ。
【評】 男が別れ際に女にいった歌で、答歌で見ると、男は京から泊瀬渓谷へ通って来ての朝の別れである。「袖巻け吾味」が眼目であるが、男のそれをいうのは、別れを惜しんで袖を振る心持は十分に承知している。赤駒の足掻が早いので、それをしても甲斐がない。そのことはするなと、女をいたわっていっているものである。
2511 隠口《こもりく》の 豊泊瀬道《とよはつせぢ》は 常滑《とこなめ》の 恐《かしこ》き道《みち》ぞ 恋《こ》ふらくはゆめ
隱口乃 豊泊瀬道者 常滑乃 恐道曾 戀由眼
【語釈】 ○隠口の豊泊瀬道は 「隠口の」は、泊瀬の枕詞。「豊」は、讃えての形容語で、豊葦原、豊旗雲などのそれと同じ。「泊瀬道」は、泊瀬に通じる道。○常滑の恐き道ぞ 「常滑」は、床のごとき大石の並んでいる所の称。巻一(三七)「吉野の河の常滑の絶ゆる事なく」と出た。「恐(95)き道」は、危険な道。○恋ふらくはゆめ 我を恋うることは、決してするなで、危険を冒してみだりに通うことはするなの意。
【釈】 立派な泊瀬道は、床のような大石の並んでいる危険な道ですぞ。私を恋うてみだりに通われることは決してなさいますな。
【評】 右の男の歌に対して、泊瀬の女の答えたものである。女も男の心を信頼して、自身のことは全く閑却し、男が自分を思うとて、泊瀬道の危険を冒して怪我でもすることがあっては大事だと思い、その心から、「恋ふらくはゆめ」といっているのである。「恋ふらく」はみだりに通う意を言いかえたものである。関係の久しい、信頼し合った、互いに相手の上ばかり思い合っている特殊な歌である。
2512 味酒《うまさけ》の 三諸《みもろ》の山《やま》に 立《た》つ月《つき》の 見《み》がほし君《きみ》が 馬《うま》の音《おと》ぞする
味酒之 三毛侶乃山尓 立月之 見我欲君我 馬之音曾爲
【語釈】 ○味酒の三諸の山に 「味酒の」は、異語同義で三輪にかかる枕詞であるが、ここは、三輪の山を三諸の山とも称したところから、今は三諸にかけたもの。○立つ月の 現われる月の意で、譬喩として「見がほし」と続け、初句から三句までその序詞。○見がほし君が 見たいと思う君が。○馬の音ぞする 乗馬の立てる音がする。
【釈】 三諸の山に現われる月のように、見たいと思う君の乗馬の音のすることである。
【評】 待っている夫の近づいて来たのを感じての心で、明るい心のものである。「味酒の三諸の山に立つ月の」は、眼前の景を捉えた形のもので、「馬の音」の背景をなすものである。
右三首
(96)【解】 三首一|番《つが》いとなっている意の注である。これが原形であったとみえる。事に中心を置き、問答という部立をやや緩やかに見れば、不自然とはいえない歌である。
2513 雷神《なるかみ》の 少《すこ》し動《とよ》みて さしくもり 雨《あめ》も零《ふ》らぬか 君《きみ》を留《とど》めむ
雷神 小動 刺雲 雨零耶 君將留
【語釈】 ○雷神の少し勤みて 雷鳴が少し鳴り響いて。○さしくもり雨も零らぬか 「さしくもり」は、「さし」は、接頭語。曇って。「雨も零らぬか」は、雨も降らないか、降ってくれよの意。
【釈】 雷が少し響いて、曇って、雨も降らないか、降ってくれ。君をとどめよう。
【評】 妻が、来ている夫をとどめようとする歌である。「少し動みて」と「少し」という条件を付けてあるのは、妻自身いたく動むのは怖しいからである。謡い物系統の明るい軽い歌である。
2514 雷神《なるかみ》の 少《すこ》し動《とよ》みて 零《ふ》らずとも 吾《われ》は留《とま》らむ 妹《いも》し留《とど》めば
雷神 小動 雖不零 吾將留 妹留者
【語釈】 略す。
【釈】 雷が少し響いて、雨が降るというようなことはなかろうとも、われはとどまろう。妹がとどめるならば。
(97)【評】 こちらはさらに明るく軽いものである。まさに謡い物に ふさわしいものである。
右二首
2515 布細布《しきたへ》の 枕《まくら》動《うご》きて 夜《よる》も寐《ね》ず 思《おも》ふ人《ひと》には 後《のち》も逢《あ》はむもの
布細布 枕動 夜不寐 思人 後相物
【語釈】 ○布細布の枕動きて 「布細布の」は、枕の枕詞。「枕動きて」は、している枕が動いてで、しきりに寝返りをすることを客観的にいったもの。○夜も寐ず思ふ人には 夜も眠れずに思っている人には。「人」は、下の続きで、女を指している。○後も逢はむもの 後にも逢おうものを。
【釈】 柔らかい枕が動いて、夜も眠れずに思っている人には、後にも逢おうものを。
【評】 これは男より、その妻である女に贈ったものである。「布細布の枕動きて」という描写はそれにふさわしいものである。夫婦間でこのような誇張した言い方をしているのは、男が、妻に疎遠にしていた後のことと取れる。そのことは答歌が示している。それとすると相応に技巧のある、上手な歌である。
2516 しきたへの 枕《まくら》せし人《ひと》 言《こと》問《と》へや その枕《まくら》には 苔《こけ》生《む》しにたる
敷細布 枕人 事問哉 其枕 苔生負爲
【語釈】 ○しきたへの枕せし人 問歌を受けて繰り返していっているもので、「布綿布の枕動きて」という、そうした枕をした人がと、夫をよそよそしくいったもの。「人」は、「思ふ人には」を承けたもの。○言問へや 物を言いかけられるのであろうかで、「や」は、疑問。○その枕には苔生しにたる 「その枕」は、夫の枕で、これは妻の許にある物。同じく夫の枕ではあるが、所在が異なった別な物である。しかし枕という語で同じ物のような言い方をしたのである。「苔生しにたる」は、古くなったということを譬喩的にいったものであるが、その古いのは、用いたことのない意である。夫の疎遠にしていることを、枕に寄せて恨んだ意。
【釈】 しきたえの枕動きてという枕をした人が、私に物を言いかけるのであろうか、その人の枕は用いたことがないので、苔が生えたことである。
(98)【評】 女の答歌で、巧妙な歌である。枕に寄せて恨みをいおうとしているので、「枕せし人」という語、また「その枕には苔生し」というような続け方となっているのである。男の歌も気分本位の歌であるが、女の歌はさらにそれの進んだものなので、一見解しやすくないものとなっているのである。問の歌を離れては、全く解し難いものである。
右二首
以前の一百四十九首は、柿本朝臣人麿の歌集に出づ。
以前一百四十九首、柿本朝臣人麿之謌集出。
【解】 「以前」は、今の「以上」にあたる語で、すでに用例のあったものである。(二三六八)「たらちねの」以下これまでの歌数と合っている。
正に心緒を述ぶ
【標目】 上に同じ部立があるが、人麿歌集は特別の物として扱い、それ以外の歌について、改めて設けたのである。作者未詳の歌百二首を収めている。
2517 たらちねの 母《はは》に障《さは》らば いたづらに 汝《いまし》も吾《われ》も 事《こと》や成《な》るべき
足千根乃 母尓障良婆 無用 伊麻思毛吾毛 事應成
【語釈】 ○母に障らば 母から妨害を受けるならば。夫婦同棲しない習いから、子はすべて母とともにおり、子にとっては母は権力をもった者だったからである。娘の結婚の相手が気に入らない場合には、母(99)は仲を割こうとし、娘は敵しかねたのである。○いたづらに 無駄になっての意で、副詞。○汝も吾も事や成るべき 「汝」は、男が女を指していっているもの。「事や成るべき」は、結婚が遂げられようかで、「や」は、係助詞、反語をなすもの。
【釈】 たらちねの母の機嫌を損じたならば無駄になって、汝も我も結婚が遂げられようか、遂げられない。
【評】 関係は結んだが、女はまだ母に告げず、したがって逢うに不自由なところから、母を軽視するに似たこともしかねなく見えた時、男が戒めていった語である。女の感情一ぺんになっているのを、男は分別心をもっていて言っているのである。語調の強いのは、訓戒だからである。その場合の用向きをいうことだけに力点を置いた詠み方で、気分も抒情味もないもので、一と口にいうと、散文的である。人麿歌集との対照で、このことが著しく目立つ。
2518 吾妹子《わぎもこ》が 吾《われ》を送《おく》ると 白細布《しろたへ》の 袖《そで》漬《ひ》づまでに 哭《な》きし念《おも》ほゆ
吾妹子之 吾呼送跡 白細布乃 袂漬左右二 哭四所念
【語釈】 ○哭きし念ほゆ 「哭きし」は、泣いたことが。
【釈】 妻がわれを送るとて、白たえの袖の濡れるまで泣いたことが思われる。
【評】 男が旅へ出るなど、当分逢い難い別れをして来た妻を思い出した心である。思い出であるために、おのずから纏まって単純なものとなり、気分の歌となっている。
2519 奥山《おくやま》の 真木《まき》の板戸《いたど》を おし開《ひら》き しゑや出《い》で来《こ》ね 後《のち》は何《なに》せむ
奥山之 眞木乃板戸乎 押開 思惠也出來根 後者何將爲
【語釈】 ○奥山の真木の板戸を 「奥山の」は、意味で真木にかかる枕詞。「真木」は、良木の称で、大体檜である。檜で作った板戸を。○おし開き 上代の戸は開き戸であったところからの言い方。○しゑや出で来ね 「しゑや」は、感動をあらわす詞で、ええっというにあたる。「出で来ね」は、出て来てくれ。女に命じたもの。「ね」は、願望の助詞。○後は何せむ 今でなく後に出るのでは何になろう。
【釈】 その檜の板戸をおし開けて、ええっ、出て来てくれよ。後に出るのでは何になろう。
(100)【評】 男が女の家の戸外に立って、女の戸外へ出て来るのを待っている心で、「後は何せむ」は、夜が明け方近く、人目につく怖れがあるので、あせっていっているのである。母の目を盗ん
で、戸外で逢おうとしているのである。庶民階級の歌で、上代の男女には珍しくない、むしろ普通のことだったのである。謡い物を思わせる歌である。
2520 苅薦《かりこも》の 一重《ひとへ》を敷《し》きて さ眠《ぬ》れども 君《きみ》とし宿《ぬ》れば 寒《さむ》けくもなし
苅薦能 一重※[口+立刀]敷而 紗眠友 君共宿者 冷雲梨
【語釈】 ○苅薦の一重を敷きて 「苅薦」は、苅った薦で、それを編んだ蓆の一重を敷いてで、床の薄い意。○さ眠れども 「さ」は、接頭語。○寒けくもなし 「寒けく」は、形容詞「寒し」の名詞形。
【釈】 薦蓆のただ一重を敷いて寝ているが、君と寝ているので、寒いこともない。
【評】 寒くなった頃の女の歌である。共寝の喜びを、その暖かさに置いている歌は、男女ともに多い。綿という物がなく、防寒の法がなかったのである。庶民の歌で、一般性の多いものである。
2521 杜若《かきつばた》 丹《に》つらふ君《きみ》を いささめに 思《おも》ひ出《い》でつつ 嘆《なげ》きつるかも
垣幡 丹頬經君※[口+立刀] 率尓 思出乍 嘆鶴鴨
【語釈】 ○杜若丹つらふ君を 「杜若」は、その美しい意で、「丹つらふ」にかかる枕詞。「丹つらふ君」は、顔が紅に照りはえている美しい君。○いささめに思ひ出でつつ 「いささめ」は、率爾にで、端な
(101)く、ひょいひょいと思い出しつつ。○嘆きつるかも 溜め息をついたことであった。
【釈】 杜若の美しいように顔の紅に照りはえている君を、ひょいひょいと思い出しつつ、溜め息をついていたことである。
【評】 男と関係を結んで、ほどもない頃の若い女の、男に贈った形の歌である。恋に満足し、陶酔している気分の表現で、「いささめに思ひ出でつつ」はじつに好い続きである。「嘆きつるかも」の訴えも婉曲で、調和している。「杜若」の枕詞は、その花の頃の事であったろう。
2522 恨《うら》みむと 思《おも》ほさく汝《な》は ありしかば 外《よそ》のみぞ見《み》し 心《こころ》は念《おも》へど
恨登 思狭名盤 在之者 外耳見之 心者雖念
【語釈】 ○恨みむと思ほさく汝はありしかば 「思ほさく」は、『代匠記』は、「思ひて背なは」と訓んだのを、『全註釈』は、「狭」は、「さく」にのみ当てる字で、また「背な」は、東国のみの語だとして、今のごとく改めている。「おもほす」の名詞形で、お思いになる。我を恨もうとお思いになってあなたはいたので。○外のみぞ見し よそ見ばかりをしていたことだで、顔をそらしていた意。
【釈】 私を恨もうとお思いになってあなたはいたので、よそ見ばかりしていたことでした。心は思っていますが。
【評】 女が、夫である男に、自分の素振りを怪しまれないために弁明をした歌である。「恨みむと思ほさく汝はありしかば」というのは、男が前夜通って来たが、女は何らかの事情があって逢わなかったというようなことがあり、男はそれを不満に思い、逢って恨もうと、女の許へ来たのである。女はそれと察して、わざと男から顔をそらしていたのであるが、帰った後、根本の心まで疑われるようなことがあってはと懸念して、男に贈った形の歌である。人目をかねることの多かった上代の夫婦生活にあっては、このようなことはありがちなことだったろうと思われる。やや立ち入っての実際に即した歌なので、解し難いものとして、誤写説のある歌である。
2523 さ丹《に》つらふ 色《いろ》には出《い》でず 少《すくな》くも 心《こころ》の中《うち》に 吾《わ》が念《も》はなくに
散頬相 色者不出 小文 心中 吾念名君
【語釈】 ○さ丹つらふ色には出でず 「さ丹つらふ」は、上の「丹つらふ」に、「さ」の接頭語の添ったもので、顔に照りはえるで、意味で「色」(102)にかかる枕詞。「色には出でず」は、顔いろには出さずして。○少くも心の中に吾が念はなくに 少なくも心の中にわが思っていることではないで、大いに思っているの意の成句。こうした言い方は伝統のあるもので、魅力があったとみえる。
【釈】 表面には出さない。少なくも心の中にわが思っていることではないことだ。
【評】 男女いずれの心ともいえるものである。とにかく夫婦関係を結んでいる者の歌である。心の広さ、詠み方の平明は、謡い物的である。
2524 吾《わ》が背子《せこ》に 直《ただ》に逢《あ》はばこそ 名《な》は立《た》ため 言《こと》の通《かよひ》に 何《なに》ぞそこ故《ゆゑ》
吾背子尓 直相者社 名者立米 事之通尓 何其故
【語釈】 ○言の通に何ぞそこ故 「言の通」は、言葉を通わすだけに。「何ぞそこ故」は、「そこ」は、「その」の古語。何だってそのゆえにで、名が立つだろうの意を含めたもの。
【釈】 わが背子に、じかに逢ったならば評判も立とう。言葉を通わすにつけて、何だってそのゆえに。
【評】 部落生活にあっては、部落民の男女関係は好んで噂の種にされた。この歌は、女が言葉を通わすだけの関係なのに、早くも評判を立てられているのに対し、訝かり腹立っている心である。「何ぞそこ故」は、調べが一首の気分をあらわしているものである。
2525 ねもころに 片念《かたもひ》すれか このごろの 吾《わ》が心利《こころど》の 生《い》けるともなき
懃 片念爲歟 比者之 吾情利乃 生戸裳名寸
【語釈】 ○ねもころに片念すれか 心の底から片思いをするゆえであろうか。○吾が心利の 「心利」は、一語で、「利」は、働き。巻三(四五七)に既出。心の働きで、当然具わっているもの。○生けるともなき 「生けると」は、旧訓「いけりと」。『古義』は、本居宣長の説に従い、「いけると」と訓み、「と」は、助詞ではなく名詞だとしているのである。「と」は、上の「利」と同じで、生きている者の働きで、すなわち気働きも失せて、ぼんやりしていることだ。
(103)【釈】 心の奥から、片思いをしているせいであろうか、この頃は、わが本来の心の働きの、生きている者の気働きもないことだ。
【評】 片思いの悩みに心を奪われて、茫然と、死人同様の心になっていることを嘆いた心である。取材の関係もあるが、説明一点張りで、全く具象化のない歌である。
2526 待《ま》つらむに 到《いた》らば妹《いも》が 懽《うれ》しみと 咲《ゑ》まむ姿《すがた》を 往《ゆ》きて早《はや》見《み》む
將待尓 到者妹之 懽跡 咲儀乎 徃而早見
【語釈】 ○懽しみと咲まむ姿を 「懽しみと」は、懽しいゆえにとで、うれしいのでとて。
【釈】 待っていように、行ったならば、妹はうれしいのでとほほ笑むだろう姿を、行って早く見よう。
【評】 妻の許へこれから行こうとする男の気分である。一首楽しい気分よりの想像で、その具象化である。語続きも、気分の動くままを口語的に続けたもので、型よりは離れている。心も形もその当時にあって新しいものであったろう。
2527 誰《たれ》ぞこの 吾《わ》が屋戸《やど》に来喚《きよ》ぶ たらちねの 母《はは》に嘖《ころ》はえ 物《もの》思《おも》ふ吾《われ》を
誰此乃 吾屋戸來喚 足千根乃 母尓所嘖 物思吾呼
【語釈】 ○誰ぞこの吾が屋戸に来喚ぷ 誰であるぞ、このわが屋戸に来て喚んでいるのはで、女がその夫とする男であると知りながら、わざと知らぬさまを装って咎めているもの。○母に嘖はえ 「嘖はえ」は、『古義』の訓。日本書記の神代上に、「嘖譲、此云2挙廬毘《ころひ》1」とあり、烈しく叱る意の古語。母に烈しく叱られて。○物思ふ吾を 「を」は、詠嘆で、物思いをしているわれだのに、とそれとなく男に訴えたもの。
【釈】 誰であるぞ、このわが屋戸に来て喚んでいるのは。たらちねの母に烈しく叱られて、嘆きをしているわれだのに。
【評】 秘密で男に関係している女の、そのことで母から烈しく叱られているおりから、男は戸外に来て呼び出そうとしているので、女は母の手前を繕って、「誰ぞこの」と知らぬ男のさまにしつつ、男に出て行かれないことを暗示したが、男を思う心から、それだけでは男にいう語としては足りないと思い、「母に嘖はえ」といって、苦衷を訴えたのである。女の抒情の語を通して、叙事的というよりも、むしろ劇的な場面を展開させている。こうしたことは例の多い、一般性をもったことであったろう。(104)これと形の似た歌として、巻十四(三四六〇)「誰ぞこの屋の戸押そぶる新嘗にわが背を遣りていはふこの戸を」がある。どちらが先にできた歌かわからないが、はやった型と思われる。謡い物であったろう。庶民の生活である。
2528 さ宿《ね》ぬ夜《よ》は 千夜《ちよ》もありとも 我《わ》が背子《せこ》が 思《おも》ひ悔《く》ゆべき 心《こころ》は持《も》たじ
左不宿夜者 千夜毛有十方 我背子之 思可悔 心者不持
【語釈】 ○さ宿ぬ夜は 「さ」は、接頭語で、共寝をしない夜は。○思ひ悔ゆべき心は持たじ 「思ひ悔ゆべき心」は、後悔するような心は我はもつまい。
【釈】 共寝をしない夜が千夜もあろうとも、わが背子が、後悔するような心は、我は持つまい。
【評】 男に何らかの事情があって、妻に逢い難くしている時、女が男に対して、貞節を誓った心のものである。「思ひ悔ゆべき」は、女が他に心を移し、男をして不貞な女を相手としたと後悔させる意をいったもので、一般に行なわれた語である。夫婦別居していた上に、その関係を秘密にもしていたので、貞節問題は起こりやすかったのである。相手のほうを主として、複雑なことを簡潔に、美しくあらわした語である。
2529 家人《いへびと》は 路《みち》もしみみに 往来《かよ》へども 吾《わ》が待《ま》つ妹《いも》が 使《つかひ》来《こ》ぬかも
家人者 路毛四美三荷 雖徃來 吾待妹之 使不來鴨
【語釈】 ○家人は路もしみみに 「家人」は、下の続きで見ると家々の人で、里人というに近い。「しみみに」は、繁る意の古語「しむ」の連用形「しみ」を畳んで「しみみ」とし、「に」を添えて副詞としたもの。一ぱいに。○使来ぬかも 使が来ないかなあで、来てくれと待つ意のもの。
【釈】 家々の人は、路も一ぱいになって往来しているが、わが待っている妹の使が来ないかなあ、来てくれよ。
【評】 やや身分のある夫婦は、あらかじめ案内をした上で逢っていたようで、その意味で「妹が使」を待ち侘びているのである。一般性をもった歌だったのである。
(105)2530 あらたまの 寸戸《きへ》が竹垣《たかがき》 編目《あみめ》ゆも 妹《いも》し見《み》えなば 吾《われ》恋《こ》ひめやも
璞之 寸戸我竹垣 編目從毛 妹志所見者 吾戀目八方
【語釈】 ○あらたまの寸戸が竹垣 「あらたまの寸戸」は、『代匠記』と『古義』によって一つの解が下され、定解のごとくなったが、『全註釈』はそれを疑って新たなる解を下している。従来の解は、「あらたまの」は、遠江国麁玉郡(近年まで、静岡県引佐郡に麁玉村があったが最近、浜名郡浜北町となり、現在は浜北市にはいった)で、「きへ」は、柵戸であり、そこにある城柵を守る民戸の意であるが、後、転じて地名となったものだというのである。この解の根拠は巻十四、東歌の遠江国の相聞歌の、(三三五三)「あらたまの伎倍《きへ》の林に」、(三三五四)「伎倍人のまだら衾に」の二首にあるのである。『全註釈』は仮名遣法によると、寸戸、伎倍のキは甲類の韻であり、城、柵のキは乙類の韻であるから、その点から柵戸の解は成立しないというのである。またここに遠江国の歌があることも疑問になるというのである。「あらたまの」は、年に冠することから転じて、来経に冠した枕詞。「きへ」は、甲類に酒のキがあるから、明解ではないが、酒部の意ではないかといっている。酒部は酒を醸すことを職とする集団の名であるが、「きへ」と称した証は見えないようである。それだとすれば、その仕事の性質上、一定の期間、一定の場所に集まって事にあたっていたろうから、「竹垣」は、そうした場所の物である。○縞目ゆも妹し見えなば 編目をとおしてなりとも、妹の姿が見られたならば。
【釈】 寸戸の竹垣の編目をとおしてなりとも、妹の姿が見えたならば、われはこのように恋いようか恋いはしない。
【評】 『全註釈』の「寸戸」を酒部とする解は、問題が残るとはいえようが、ありうる語であり、またそれだと一首の意がよく通じる。「寸戸」「伎倍」という語をもった歌は集中三首あるので、語としては特殊なものにみえるが、寸戸そのものとしては当時特殊なものではなく、多くの人の目に見て知っていたものとみえる。酒の醸造は今日でも専門の仕事となっており、少なくとも何人かが、一定の期間一定の場所に集まって、注意深くあたっている事である。また不良酒のできることをおそれるところから、祈祷に近いことをして始めてもいる。上代の酒は、神に供える御酒を主とした物で、神社との繋がりもあったろうから、斎戒して事にあたるというようなこともあったかもしれぬ。この歌は、寸戸の竹垣の内に籠もって、近くいると見える妹にも逢えずにいる男の、妹を恋うての心であるから、寸戸を酒部として、その部に属する一人の男とすると、自然な、無理のない心となる。寸戸の解は『全註釈』の卓見とすべきであろう。また、寸戸を酒部とすると、京はもとより各地に居たはずの人々である。
2531 吾《わ》が背子《せこ》が その名《な》告《の》らじと たまきはる 命《いのち》は棄《す》てつ 忘《わす》れたまふな
(106) 吾背子我 其名不謂跡 玉切 命者棄 忘賜名
【語釈】 ○その名告らじと 夫の名を口外すると、関係が絶えるという信仰からのこと。「その」は、強意。○たまきはる命は棄てつ 「棄てつ」は、完了形であるが、ここは、命も棄てる気でいるという意を強調したもの。○忘れたまふな 我を忘れたもうなと、訴えたもの。
【釈】 わが背子の名は決して口外しまいと、我は命を棄てました。我をお忘れ下さいますな。
【評】 結婚間もない女の、その秘密にしている相手を母から烈しく問われたことを、男に訴えた歌である。「命は棄てつ」と強調しているのは、男の愛の渝《かわ》らないようにと思うためで、それがすなわち「忘れたまふな」の訴えとなるのである。心は純真であるが、歌としては上手ではない。
2532 凡《おほよそ》は 誰《た》が見《み》むとかも ぬばたまの 我《わ》が黒髪《くろかみ》を 靡《なび》けて居《を》らむ
凡者 誰將見鴨 黒玉乃 我玄髪乎 靡而將居
【語釈】 ○凡は誰が見むとかも 「凡は」は、大体はで、下のことを総括していう語。ここも結句までかかる。「誰が見むとかも」は、君以外の誰が見るだろうかと思ってで、君が見るものだと思えばこその意を、婉曲にいったもの。「かも」は、疑問の係。○ぬばたまの我が黒髪を 「ぬばたまの」は、黒の枕詞であるが、ここはその心を働かせて、美しい意でいっている。ぬば玉のような真黒なわが黒髪を。○靡けて居らむ 「靡け」は、下二段活用で、使役。靡かせていよう。
【釈】 大体は、君以外の誰が見るだろうと思って、真黒なわが黒髪を靡かせていようか、君に見せようがためである。
【評】 女が夫である男に贈ったもので、夫の来訪を婉曲に、上品に、しかし媚態をもって促している歌である。黒髪を、女自身最も美しいものとし、心して梳っているのは、ただ君に見せようがためだというので、これは漢籍に成語のごとくなっていることで、それを引いていっているのである。そのために当時者間には厭味のないものとなっていたのである。身分あり教養ある階級の歌である。
2533 面忘《おもわす》れ 如何《いか》なる人《ひと》の するものぞ われはしかねつ 継《つ》ぎてし念《も》へば
面忘 何有人之 爲物焉 言者爲金津 繼手志念者
(107)【語釈】 ○面忘れ如何なる人のするものぞ 面忘れをするというのは、どういう人がすることであろうぞと、怪しんでのもの。○われはしかねつ 我はできずにいる。○継ぎてし念へば 絶えず恋うているのでで、「し」は、強意。
【釈】 面忘れをするというのは、どういう人のすることであろうぞ。我はできずにいる。絶えず恋うているので。
【評】 夫より疎遠にされている女の、夫に訴えて贈った歌である。「面忘れ如何なる人の」というのは、そうした意の謡い物か諺のようなものがあり、女も面忘れしても不思議ではないほどに疎遠にされているところから、それに縋っていっているものである。恨みをいわずに訴えているもので、その意味で巧みな歌である。
2534 相思《あひおも》はぬ 人《ひと》の故《ゆゑ》にか あらたまの 年《とし》の緒《を》長《なが》く わが恋《こ》ひ居《を》らむ
不相思 人之故可 璞之 年緒長 言戀將居
【語釈】 ○相思はぬ人の故にか 相思わない、片恋のみをさせている人のためにかで、「人」は、女を指しているもの。「か」は、疑問の係助詞。○年の緒長くわが恋ひ居らむ 「年の緒」は、年で、「緒」は、その長く続いて行く意で添えた語。語感を強めるものである。「長く」は、何年も。「恋ひ居らむ」は、恋うているのであろうか。
【釈】 相思わない人のために、幾年も長く、われは恋うているのであろうか。
【評】 片恋を久しく続けている男の歌である。男と取るのは、関係の結ばれない相手を多年にわたって恋い続けて、このように静かな嘆き方をするのは、おそらく男のみのもつ心と思われるからである。しかしこの静かさは、知識人のもので、個性的なものである。
2535 凡《おほよそ》の 行《わざ》は念《おも》はじ 吾《われ》故《ゆゑ》に 人《ひと》に言痛《こちた》く 云《い》はれしものを
凡乃 行者不念 言故 人尓事痛 所云物乎
【語釈】 ○凡の行は念はじ すべての所行にわたっては問題としまい。○吾故に人に言痛く このわれのために、人に甚しくも。○云はれしものを いわれたものだのに。
(108)【釈】 すべての所行にわたっては問題としまい。わがために、人に甚しくもいわれたものだのに。
【評】 夫である男が、その事に対してある時思ったことである。その時男は、女の何らかの振舞について不満を感じ、腹立たしく咎めようと思ったのだが、思い返して、女の所行のすべてにわたっては気にしまい。とにかく一時はわがために、人に甚しく非難された女なので、それに免じて勘弁しようと思った心である。夫婦の間に有りがちな、口へ出すまでに到らない衝突で、男の分別心から荒立てなかった心である。特殊な境を捉えていっている上では興味のあるものであるが、心持そのものが知性的なもので、したがって抒情味の少ない、散文的な歌である。しかしこういう境を古い時代に歌としていることは、注意を引くことである。
2536 気《いき》の緒《を》に 妹《いも》をし念《おも》へば 年月《としつき》の 往《ゆ》くらむ別《わき》も 念《おも》ほえぬかも
氣緒尓 妹乎思念者 年月之 徃覽別毛 不所念鳧
【語釈】 ○気の緒に 呼吸の続く限りで、絶え間なく。○年月の往くらむ別も 「年月」は時で、時の移ってゆくその差別で、今日を何月の幾日ということも。
【釈】 呼吸の続く限り、絶え間なく妹を思っているので、年月の移ってゆくその差別も思われないことである。
【評】 男の片恋の苦しい思いをいっているものである。事としていわず、気分としていおうとしているのであるが、気分が具象化されず、説明の形になっているので、漠然とした力のないものになっている。気分としての表現を求めて遂げられなかったのである。
2537 たらちねの 母《はは》に知《し》らえず 吾《わ》が持《も》てる 心《こころ》はよしゑ 君《きみ》がまにまに
足千根乃 母尓不所知 吾持留 心者吉惠 君之隨意
【語釈】 ○母に知らえず 母に知られずに、秘密に。○吾が持てる心はよしゑ 「吾が持てる心」は、男を恋う心。「よしゑ」は、「よし」は、しばらく許す心、「ゑ」は、感動の助詞で、ああ、どうなりとというにあたる。○君がまにまに 君の心のままにで、任せようの意が含まれている。
(109)【釈】 なつかしい母にも知られずに私のもっている心は、ああ、どうなりと、君が随意に任せましょう。
【評】 女が関係を結んで間もなく、男にその全生命を任せようということを誓った歌である。娘からいえば、世に母ほど頼もしい者はないのであるが、その母をもさしおいてというのは、最大な誓いなのである。「母に知らえず吾が持てる心」という続きは、母に秘密に君に寄せている心というのであって、また、それが普通であったのだが、おのずから、母にも増して思う君ということの現われて来る続け方で、微妙な味わいがある。
2538 独《ひとり》寝《ぬ》と 薦《こも》朽《く》ちめやも 綾席《あやむしろ》 緒《を》になるまでに 君《きみ》をし待《ま》たむ
獨寢等※[草がんむり/交]朽目八方 綾席 緒尓成及 君乎之將待
【語釈】 ○独寝と薦朽ちめやも 「独寝と」は、ひとりで寝ていようとも。「薦朽ちめやも」は、「薦」は、寝床としている薦。「朽ちめやも」は、朽ちようか朽ちはしないの意。○綾席緒になるまでに 「綾席」は、藺をさまざまの色に染めて織った席で、今の畳表のごとき物。これを薦の上へ上敷として敷いたのである。「緒になるまでに」は、藺のほうは磨り切れて、編み緒だけになるまでの意で、いつまでもということをいったのである。
【釈】 ひとりで寝ているとも、そのために寝床の薦が朽ちようか朽ちはしない。上敷の綾席が編み緒だけになるまでも、君の来るのを待とう。
【評】 夫に疎遠にされている女の、夜、独寝をしている時の心である。いっていることは、いついつまでも「君をし待たむ」というので、初句より四句までは、その、いついつまでもということを、気分を通して、実際に即させつついっているものである。「薦朽ちめやも」といい、「緒になるまでに」と、細かく刻んで執拗《しつよう》にいっているのは、気分を強くあらわそうとしたがためのものである。庶民的な、野趣のある歌である。
2539 相見《あひみ》ては 千歳《ちとせ》や去《い》ぬる 否《いな》をかも 我《われ》やしか念《も》ふ 君《きみ》待《ま》ちがてに
相見者 千歳八去流 否乎鴨 我哉然念 待公難尓
【語釈】 ○相見ては千歳や去ぬる 「相見ては」は、相逢ってから。千年が過ぎたのであろうかで、「や」は、疑問の係。○否をかも 「を」は、(110)感動の助詞、「かも」は、疑問で、いや、そうではないのか。○我やしか念ふ 「や」は、疑問。「しか」は、然で、上の千歳。我がそのように思うのであるのか。○君持ちがてに 「待ちがてに」は、待つに堪えずして。「がてに」は本来「かてに」であるが、混用されてもいたらしい。
【釈】 相逢ってから、千年が過ぎ去ったのであろうか。否、そうではないのか。我がそのように思うことであるか。君を待ち取り得ずして。
【評】 女の夫を恋うる心で昂奮しているさまを、抒情を通してあらわしている歌である。一首を四段に切り、「千歳や去ぬる」と疑い、「否をかも」と疑い、「しか念ふ」と疑いながらも理由を求め、最後に「待ちがてに」と、其の理由に到達しているという、心の躍動をそのままに、活殺自在にあらわしているものである。しかも一首としていささかの渋滞もなく、安定をもった姿のものとしている。非凡な手腕である。この歌は巻十四(三四七〇)に重出しており、左注に「柿本朝臣人麿歌集に出づ」とある。人麿の作と思われる。それが伝承されて、ここでは作者未詳の歌となっているのである。巻四(六八六)大伴坂上郎女の、「このごろに千歳や往きも過ぎぬると吾や然念ふ見まく欲れかも」は、この歌を摸したもので、その行なわれていたことが思われる。
2540 振分《ふりわけ》の 髪《かみ》を短《みじか》み 青草《あをくさ》を 髪《かみ》にたくらむ 妹《いも》をしぞおもふ
振別之 髪乎短弥 青草乎 髪尓多久濫 妹乎師曾於母布
【語釈】 ○振分の髪を短み 「振分の髪」は、童女の髪の称で、髪を左右に分け、肩の辺りで末を切ったもの。「短み」は、短いゆえにで、短いというのは、一人前の女になると髪を上げて結うのであるが、それをするには、丈が足りず短い意である。○青草を髪にたくらむ 「髪にたくらむ」は、「たく」は、巻二(一二三)「たけばぬれたかねば長き妹が髪」とあり、束ねて上げる意の古語で、ここのは、童女が成女すなわち一人前の女となったことをあらわすことで、男をもてば必ずする習いになっていたのである。青草を髪に束ねて、長さを補っているだろうの意。○妹をしぞおもふ 「妹」は、妻の意のもの。
【釈】 振分の髪を上げるには短いので、青草を束ねて長さを補っているであろう妹を思うことである。
【評】 童女の域を脱したばかりの女を妻とした男が、男をもてば髪上げをせねばならず、それには髪の丈が足りないので、青草で丈を足している妻を思いやって、その状態に可愛ゆさを感じている心である。上代は早婚であったので、これに類したことが少なからずあり、上に引いた巻二の歌もそれである。少女離れしない幼い妻の髪のさまに、特殊の愛を感じているのであ(111)る。「青草を」というのは、何らかの意味があったかもしれぬが、ここは見た目の可愛ゆさとしていっているのであろう。
2541 たもとほり 往箕《ゆきみ》の里《さと》に 妹《いも》を置《お》きて 心《こころ》空《そら》なり 土《つち》は踏《ふ》めども
※[人偏+回]俳 徃箕之里尓 妹乎置而 心空在 土者蹈鞆
【語釈】 ○たもとほり往箕の里に 「たもとほり」は、「た」は、接頭語で、「もとほり」は、あちこち往きつ戻りつしてで、意味で「往き」にかかる枕詞。「往箕の里」は、所在不明である。○心空なり 心が空に飛んでいるで、上の空だというにあたる。○土は踏めども 土は踏んでいるけれども。
【釈】 さまよって行くという往箕の里に妻を置いて、わが心は上の空である。土は踏んでいるけれども。
【評】 往箕の里に新しく妻を得て、甚しく憧れている男の心である。「たもとほり往箕の里」という続きは、その気分にふさわしいものである。「心空なり土は踏めども」は、ほかにも用例があって、成句に近いものといえる。心は広く単純に、調べが明るく張っているので、著しく謡い物の感がする。
2542 若草《わかくさ》の 新手枕《にひたまくら》を 巻《ま》き初《そ》めて 夜《よ》をや隔《へだ》てむ 憎《にく》くあらなくに
若草乃 新手枕乎 卷始而 夜哉將間 二八十一不在國
【語釈】 ○若草の新手枕を 「若草の」は、意味で「新」にかかる枕詞。「新手枕」は、新しい手枕で、新たに得た妻の手枕。○夜をや隔てむ 「夜を隔つ」は、夜に隔てをつける、逢わない夜をまじえる意。「や」は、疑問の係であるが、反語となっているもの。通う夜に隔てをつけようか、つけられない。○憎くあらなくに 原文の「八十一」は九九、八十一から「くく」の音に借りたもの。
【釈】 若草のような新しい手枕を枕とし始めて、通う夜に隔てを置こうか置けはしない。憎くはないことであるのに。
【評】 男が妻を得た当座の喜びで、心は明らかである。「若草の新手枕」は、ほかには用例を見ない新しい語であり、新しさがある。語感が明るく、肌理《きめ》が細かく、語続きに湿いがあって、気分の表現になろうとしている歌である。
(112)2543 吾《わ》が恋《こ》ひし 事《こと》も語《かた》らひ 慰《なぐさ》めむ 君《きみ》が使《つかひ》を 待《ま》ちやかねてむ
吾戀之 事毛語 名草目六 君之使乎 待八金手六
【語釈】 ○吾が恋ひし事も語らひ わが恋うていた事のほうも語らいをしてで、「語らひ」は、語るの連続。○慰めむ君が使を わが慰めとしようと思うところの君が使で、「む」は、連体形。○待ちやかねてむ 「や」は、疑問の係。「かねてむ」は、得ぬのであろうで、「て」は、完了。待ち得ぬのであろうか。
【釈】 わが恋うていたことをも語らいをして、心慰めにしようと思う君からの使を、待ち得ないのであろうか。
【評】 夫を相応に遠い旅にやっている妻の心である。夫と直接逢う望みは全然ないので、それは諦め、せめて夫からの使が来ればと待ち、来れば夫のこちらを恋うていることも聞き、わが恋うていることも話して心やりにしたいと思うが、その使も駄目だろうというのである。事の外郭には触れず、ただ気分だけをいっている歌である。「吾が恋ひし事も」といって夫のほうの心も暗示し、「待ちやかねてむ」で、その遠いことをも暗示している。心の細かい歌である。
2544 寤《うつつ》には 逢《あ》ふよしもなし 夢《いめ》にだに 間《ま》なく見《み》む君《きみ》 恋《こひ》に死《し》ぬべし
寤者 相縁毛無 夢谷 間無見君 戀尓可死
【語釈】 ○寤には逢ふよしもなし 現実には、逢うべき方法もない。○夢にだに間なく見む君 夢にでも絶え間なく見よう、君よと呼びかけた形。○恋に死ぬべし 我は恋死にをしそうです。
【釈】 現実には逢う方法がない。夢にでも絶え間なく見もしよう、君よ。恋死にをしそうです。
【評】 上の歌と同じく、夫を遠い旅にやっている妻が、遠い夫に対《むか》って訴えた歌である。これは上の歌とは異なって、事の全体をいい、事に即して情を述べているものである。伝統的な古い詠み方である。
2545 誰《た》そ彼《かれ》と 問《と》はば答《こた》へむ 術《すべ》を無《な》み 君《きみ》が使《つかひ》を 還《かへ》しつるかも
(113) 誰彼登 問者將答 爲便乎無 君之使乎 還鶴鴨
【語釈】 ○誰そ彼と問はば 誰であるぞ彼はと、家の者が問うたならば。○答へむ術を無み 答えようがないので。
【釈】 誰であるかあれはと、家の者が訝かって問うたならば、返事のしようがないので、君の使を空しく還してしまったことであった。
【評】 関係を家人に秘密にしている女の許へ、男から使が来たので、女は当惑してただ還した後で、男に弁解してやった歌である。初句から三句までの事情の細叙は、女が家の者に秘密にしていることを知らないからのこととしていっているものであろう。ありうべきことではあるが、不自然の感がある。使が秘密に用を弁じる注意が足りなかったとすれば、特殊にすぎる。実際に即しての歌ではないためのことだろう。
2546 念《おも》はぬに 到《いた》らば妹《いも》が 歓《うれ》しみと 咲《ゑ》まむ眉曳《まよびき》 思《おも》ほゆるかも
不念丹 到者妹之 歡三跡 咲牟眉曳 所思鴨
【語釈】 ○念はぬに到らば妹が歓しみと 「念はぬに」は、思いがけずいるところへ。上の(二五二六)に「待つらむに到らば妹が懽しみと」と酷似している。○咲まむ眉曳思ほゆるかも 「眉曳」は、眉を黛《まゆずみ》をもって三日月形に描いたがゆえの称で、眉。顔を代表させた語。
【釈】 思いがけずいるところへ、行ったならば、妹がうれしいとて、ほほえむだろう眉の思われることであるよ。
【評】 上の(二五二六)と、境も心も同じもので、異伝ともみえるほどのものである。しかし、「待つらむに」を「念はぬに」とし、「姿」を「眉曳」とし、「往きて早見む」を「思ほゆるかも」としたのは、事よりも気分を主として一段と印象的にしようとしたもので、進展を期して改めたものであろう。意図としての進展だと思われる点が注意される。
2547 かくばかり 恋《こ》ひむものぞと 念《おも》はねば 妹《いも》が袂《たもと》を 纏《ま》かぬ夜《よ》もありき
如是許 將戀物衣常 不念者 妹之手本乎 不纏夜裳有寸
【語釈】 ○妹が袂を纏かぬ夜もありき 「袂」は、手を言い換えたもの。「纏かぬ」は、枕とせぬ。「ありき」は、過去として思い出した意。
(114)【釈】 これほどまでに恋いようものだとは思わないので、妹が手を枕とせずに寝た夜もあった。
【評】 男が遠い旅に出、逢えないときまると、怪しく妹が恋しくなった心である。ひとり寝をしている夜の心であるが、事情には一切触れず、恋しい気分だけを、思い出に絡ませていっているものである。新風の歌で、その効果を示している作である。
2548 かくだにも 吾《われ》は恋《こ》ひなむ 玉梓《たまづさ》の 君《きみ》が使《つかひ》を 待《ま》ちやかねてむ
如是谷裳 吾者戀南 玉梓之 君之使乎 待也金手武
【語釈】 ○かくだにも吾は恋ひなむ せめてこのようにだけでも、われは恋うていよう。○君が使を待ちやかねてむ 上の(二五四三)に出た。そう思う君の使を、待ち取り得ないのであろうか。
【釈】 せめてこのようにだけでもわれは恋うていようと思う。その君の使を、待ち取り得ないのであろうか。
【評】 上の(二五四三)「吾が恋ひし事も語らひ慰めむ君が使を待ちやかねてむ」と、境も心も同じものであって、異なるところは、それを一歩後退させ、消極的に、暗くしただけの歌である。上の歌もこの歌も、別伝に近いほどに近似しているが、相聞の歌はおのずから範囲が定まっているので、別伝の生まれると同じ心理で、こうした歌を詠むのだとみえる。異なるのは、別伝には無意識でする場合もまじるが、これはすべて意識的だということである。
2549 妹《いも》に恋《こ》ひ 吾《わ》が哭《な》く涕《なみだ》 敷妙《しきたへ》の 木枕《こまくら》通《とほ》り 袖《そで》さへ沾《ぬ》れぬ
妹戀 吾哭涕 敷妙 木枕通 袖副所沾
【語釈】 ○敷妙の木枕通り 「敷妙の」は、枕の枕詞。「木枕」は、薦枕とともに普通に用いた物。「通り」は、伝いということを誇張していったもの。
【釈】 妹を恋うてわが泣く涙は、木枕を通して、袖までも濡れた。
【評】 ひとり寝の床で、妹を恋うて流す涙の尽きないことをいったものである。一首ただ涙の多さだけで、それによって恋の深さをあらわそうとしているもので、言いかえると気分を出そうとしたのだが、気分とはならず、語の誇張に終わった感のあ(115)る歌である。気分本位の詠風の弱所を示した歌といえる。
或本の歌に曰はく、枕《まくら》通《とほ》りて 巻《ま》けば寒《さむ》しも
或本謌曰、枕通而 卷者寒母
【解】 四、五句の別伝である。涙が枕を通って、枕していると冷たいの意である。このほうが統一性がある。
2550 立《た》ちて念《おも》ひ 居《あ》てもぞ念《おも》ふ 紅《くれなゐ》の 赤裳《あかも》裾引《すそひ》き 去《い》にし姿《すがた》を
立念 居毛曾念 紅之 赤裳下引 去之儀乎
【語釈】 略す。
【釈】 立っても恋しく思い、坐っても恋しく思うことである。紅の赤い裳の裾を引いて去って行った後姿を。
【評】 男女初めて相逢った時、何らかの都合で、女が男の許へ来、別れて帰って行く時、その後姿を見送っての印象が、怪しく男の心に残り、それに憑かれているような気分をいったものである。ほかの何事にも触れず、ある瞬間的な印象だけを力強くいっているのは、気分本位の詠風で、この歌は、それを徹底的に行なっているものである。気分のこととて単純に印象的にいい、際やかに効果を収めている歌である。
2551 念《おも》ふにし 余《あま》りにしかば 術《すべ》を無《な》み 出《い》でてぞ行《ゆ》きし その門《かど》を見《み》に
念之 餘者 爲便無三 出曾行之 其門乎見尓
【語釈】 ○念ふにし余りにしかば 「念ふにし」は、恋しく思うにで、「し」は、強意の助詞。「余りにしかば」は、余ったので。「に」は、完了。思い余ってしまったので。○その門を見に 「その」は、妹の意で、妹の家の門を見に。
【釈】 思い余ってしまったので、やるせ無くなって、出て行ったことであるよ。妹の家の門を見に。
(116)【評】 関係して後、女に妨げが起こって、逢い難くしている嘆きである。自身を説明している歌であるが、あくまで実際に即して、抒情的にいっているので、説明気分は消えて、叙事性のものとなっている。独詠ともみえるが、女に訴えて贈ったものであろう。実際感が清新味のあるものにしている。
2552 情《こころ》には 千遍《ちへ》しくしくに 念《おも》へども 使《つかひ》を遣《や》らむ 術《すべ》の知《し》らなく
情者 千遍敷及 雖念 使乎將遣 爲便之不知久
【語釈】 ○千遍しくしくに 何度となく、重ね重ねに。○術の知らなく 方法の知られないことよ。女が家人に秘密にしている関係からのこと。
【釈】 心には幾重となく重ね重ねに思っているけれど、使をやる方法の知られないことだ。
【評】 娘との夫婦関係が、その家の者には秘密になっているので、使をやる方法のないことを嘆いている心である。「千遍しくしくに」というような語を用いているが、一首が説明的なために感の少ない歌である。
2553 夢《いめ》のみに 見《み》てすら幾許《ここだ》 恋《こ》ふる吾《われ》は 寤《うつつ》に見《み》ては まして如何《いか》にあらむ
夢耳 見尚幾許 戀吾者 寤見者 益而如何有
【語釈】 ○略す。
【釈】 夢に見るだけでさえも、甚しく恋うているわれは、現実に見たならば、ましてどんなであろうか。
【評】 女に懸想して言い寄っている男の、明るい心をもって描いている空想を詠んだ形の歌である。独詠に似ているが、それだと、このようにくわしくいう必要はないから、訴えの心をもって女に贈ったものと思われる。「寤に見てはまして如何にあらむ」は、恋の成立を信じられた場合の訴えとしては、相手を動かす効果の上からは、相応に有力なもので、最も巧みな訴えと言いうるものである。その意味で上手な歌である。
2554 相見《あひみ》ては 面隠《おもかく》さるる ものからに 継《つ》ぎて見《み》まくの 欲《ほ》しき公《きみ》かも
(117) 對面者 面隱流 物柄尓 繼而見卷能 欲公毳
【語釈】 ○相見ては面隠さるるものからに 「相見ては」は、『考』の訓。相見るとはずかしさから顔が隠されるものだのに。○継ぎて見まくの欲しき公かも 絶えず相見たく思われる公であるよで、「見まく」は、「見むこと」で、名詞。
【釈】 相見るとはずかしさに顔が隠されるものだのに、絶えず見たいと思うところの君であるよ。
【評】 結婚後間もない頃の若い妻の心である。このように言いあらわせば常凡に似るが、この常凡は、事よりも気分を重んじ、それを実際に即して具象しようとする新詠風によって、詠み生かされたところの常凡である。これは従来無かった境を拓いたものである。
2555 朝《あさ》の戸《と》を 早《はや》くな開《あ》けそ 味《あぢ》さはふ 目《め》がほる君《きみ》が 今夜《こよひ》来《き》ませる
旦戸乎 速莫開 味澤相 目之乏流君 今夜來座有
【語釈】 ○味さはふ目がほる君が 「味さはふ」は、原文「味沢相」。巻二(一九六)に既出。『冠辞考』は、「味」を「あぢ」と訓み、『古義』は、「うま」と訓み、訓が定まらない。語義も未詳である。『冠辞考』の訓に従って置く。「め」にかかる枕詞。「目がほる」は、目が見たいと欲る意で、見まほしと同じである。
【釈】 朝の戸を早く開けるな。見たいと思っている君が、今夜は来ていらせられることだ。
【評】 身分ある女が、召使の女に命じている形の歌である。夫婦関係が公にされているのである。
2556 玉垂《たまだれ》の 小簾《をす》の垂簾《たれす》を 往《ゆ》きかちに 寐《い》はなさずとも 君《きみ》は通《かよ》はせ
玉垂之 小簀之垂簾乎 徃褐 寐者不眠友 君者通速爲
【語釈】 ○玉垂の小簾の垂簾を 「玉垂の」は、緒と続き、「を」にかかる枕詞。玉垂は、玉を緒に貫いて、簾に垂らした物かという。「小簾」の「小」は、接頭語。「垂簾」は、垂れている簾で、すだれ。上代は家の出入口にかけてあったものである。○往きかちに 『代匠記』は「ゆきかてに」と改めている。意義は、「往き」は「来」と通じる語。「かてに」は、得ずしてで、入り来たり得ずしてだとしている。その後の注は、それで(118)は意が通じないとして、誤写説を立てている。『全註釈』は旧訓に従い、「かち」は、可能の意味の助動詞「かつ」の名詞形であろうといい、巻十(二〇一二)「吾は干しかたぬ」そのほかを証に挙げ、この語は四段に活用していて、後、下二段に転じたようだといっている。「に」は打消で、往き得かねてだとしている。ここは下の続きで、君と呼ばれる人の面影を相手としていっているものである。面影は君の許から来、また君の許へ帰ってゆくものとし、「往き」は、君を中心としての言い方であるとして、帰って往くことはできずにの意である。『代匠記』とは逆になる。○寐はなさずとも 「なす」は、寝るの敬語で、「寐は」は、それを添えて強めたもの。おやすみにはならなくても。この語が、面影ということを暗示している。○君は通はせ 君は通っていらっしゃいませ。
【釈】 玉垂の小簾の垂簾をとおって、帰って往くことはできずに、おやすみにはなれずとも、君は通っていらっしゃいませ。
【評】 男と関係を結んでいる女が、自分の周囲に妨害が起こって、男に逢えずにいる頃、目に現われて来る男の面影に対していっている心である。女の厭うことは、そうした面影はいつも消えやすいところから、せめて消えずにいつまでも身に添っていてもらいたいということである。女は面影を、君その人のように感じて、「往きかちに」といい、「寐はなさずとも」といい、また「通はせ」ともいっているのである。面影をそのように感じるのは、夢の姿をその人同様に感じた心と同じで、覚めていて見る夢の姿と同様に感じたのである。当時としては、さして間接な幽かな言い方ではなかったろう。語続きが美しく、気分に調和している。
2557 たらちねの 母《はは》に白《まを》さば 公《きみ》も我《われ》も 逢《あ》ふとはなしに 年《とし》は経《へ》ぬべし
垂乳根之 母白者 公毛余毛 相鳥羽梨丹 年可經
【語釈】 ○母に白さば 母にこの夫婦関係を打明けて申したならばで、女が男に願っていっていること。○逢ふとはなしに 逢うということはできなくなって。○年は経ぬべし 旧訓。年がたつことだろう。
【釈】 我が母に夫婦関係を打明けて申したならば、公も我も逢うということがなくて、年が経ることであろう。
【評】 男が女に、母に打明けて承認を得るようにせよといったのに対して、女が嘆いて答えたものである。女は母がこの男との結婚は不承認だということを十分に感じながら、それと男に感じさせず、男をしてこのような望みを起こさせたということは、女の苦衷の思われることである。「年は經ぬべし」という結句は、婉曲ではあるが心を尽くした、美しく巧みな言い方である。
(119)2558 愛《うつく》しと 思《おも》へりけらし 莫忘《なわす》れと 結《むす》びし紐《ひも》の 解《と》くらく念《おも》へば
愛等 思篇來師 莫忘登 結之紐乃 解樂念者
【語釈】 ○愛しと思へりけらし 可愛ゆいと思っているらしい。○莫忘れと結びし紐の 我を忘れるなと、結んだところの紐の。男女逢って別れる時には、互いに相手の衣の紐を結ぶのが風であった。これは我以外の者は解いてはならないと禁止の意よりのことで、信仰の伴っていたことである。「莫忘れと」は、それを柔らげての語である。○解くらく念へば 「解くらく」は、名詞で、解けることで、自然に解けたのである。下紐の自然に解けるのは、人に思われてのことだという信仰があってしばしば出た。ここもそれである。
【釈】 可愛ゆいと我を思っているらしい。忘れるなとその人の結んだわが下紐の、自然に解けることを思うと。
【評】 妻である女の、下紐が自然に解けた時に思った心である。下紐の解けるのは人に思われているしるしだとはしたが、その相手は誰ともわからないのが普通になっている。ここは、それを見ると、ただちにその人は夫だと思い、同時にその下紐は夫の結んだものであることを思い、夫は今我を「愛しと」思っているらしいと定めているのである。一筋に夫を思っている心で、喜びをもっていっているものである。
2559 昨日《きのふ》見《み》て 今日《けふ》こそへだて 吾妹子《わぎもこ》が 幾許《ここだく》継《つ》ぎて 見《み》まくし欲《ほ》しも
昨日見而 今日杜間 吾妹兒之 幾許繼手 見卷欲毛
【語釈】 ○昨日見て今日こそへだて 昨夜逢って、今日はへだたっている。「へだて」は「へだつ」の已然形。○幾許継ぎて 甚しくも続けて。○見まくし欲しも 「見まく」は、「見む」の名詞形。「し」は、強意で、見たいことだ。
【釈】 昨夜逢って、今日はへだたっている。それだのに吾妹を、甚しくも続けて逢いたいことである。
【評】 一首、説明で終始しているが、「今日こそへだて」によって救われている。
2560 人《ひと》も無《な》き 古《ふ》りにし郷《さと》に ある人《ひと》を 愍《めぐ》くや君《きみ》が 恋《こひ》に死《し》なする
(120) 人毛無 古郷尓 有人乎 愍久也君之 戀尓令死
【語釈】 ○人も無き古りにし郷に 「人も無き」は、住む人もない。「古りにし郷」は、故京で、奈良遷都の後の藤原の称であろう。○ある人を 住んでいる人をで、自身のこと。さびしい気分から客観視しての称。○愍くや君が 「愍く」は、憐れむべくもで、むごくにあたる。「や」は、疑問の係助詞。「君」は、新京にいる夫。○恋に死なする 『新考』の訓。恋死にさせることであるかで、「死なする」は、結。
【釈】 人もいない、古くなってしまった里に住んでいる人を、むごくも君は、恋死にさせることであるか。
【評】 遷都とともに官人である夫は新京に移り、妻は故京に残っていたが、夫は事が多く、路も遠いので、自然足遠になるさびしさに堪えられなくなって、妻が訴えて贈った歌である。「恋に死なする」といっているが、理由は環境のさびしさで、愍くもそれを察しないためだとしているのは、老熟した心である。事を広く捉え、自身を客観視して、静かに、心を尽くしていっている歌で、教養の思われる作である。詠み方は古風であるが、その美を発揮している。
2561 人言《ひとごと》の 繁《しげ》き間《ま》守《も》りて あへりとも 八重《やへ》吾《わ》が上《うへ》に 言《こと》の繁《しげ》けむ
人事之 繁間守而 相十方 八反吾上尓 事之將繁
【語釈】 ○繁き間守りて うるさい隙間をねらっていて。○あへりとも 逢おうとも。○八重吾が上に 「八重」は、旧訓。「八重」は、いやが上にも。
【釈】 人の噂のうるさい隙間をねらって逢っても、いやが上にもわが上に噂がうるさくなることだろう。
【評】 女の歌である。人の噂の高いのを気にしながらも、さすがに隙をねらって逢って、それにつけてまたさらに噂の高まるのをおそれている心である。身分が高いか、または部落生活をしている人には、こうした嘆きがあったろう。
2562 里人《さとびと》の 言縁妻《ことよせづま》を 荒垣《あらがき》の 外《よそ》にや吾《わ》が見《み》む 憎《にく》からなくに
里人之 言縁妻乎 荒垣之 外也吾將見 惡有名國
【語釈】 ○里人の言縁妻を 「里人」は、周囲の人。「言縁妻」は、言葉をもって寄せた妻で、媒介をした妻。○荒垣の外にや吾が見む 「荒垣の」(121)は、編目の粗い垣で、垣の外の意で、「外」にかかる枕詞。「外に」は、関係の遠い者に。「や」は、疑問の係。○憎からなくに 憎くはないことだのに。
【釈】 わが里の人が媒介をして逢わせた妻を、関係の遠い者に我は見ることであろうか。憎くはないことだのに。
【評】 言縁妻という語は、ここにあるだけでほかには見えないものである。言縁せをする「里人」は、同じ部落に住んでいる者で、老女であろう。老女の取り持ちによって妻を得る男は、いわゆるうぶで、自身ではその事をする気働きのない男であろう。したがって、妻とはしたものの、夫婦関係を続けてゆく気働きも足りず、心では「憎からなくに」と思いつつ、実際は「外にや吾が見む」という状態だったとみえる。この歌は当時にあっては、一読ただちに男の全部が感じられ、それと頷いて同感のできるものであったろう。今日では間接なものとなり、特殊にすぎる取材のごとく感じられるものとなったのである。しかしその心の辿れないものではない。
2563 他眼《ひとめ》守《も》る 君《きみ》がまにまに 吾《われ》さへに 夙《はや》く起《お》きつつ 裳《も》の裾《すそ》沾《ぬ》れぬ
他眼守 君之隨尓 余共尓 夙興乍 裳裾所沾
【語釈】 ○他眼守る君がまにまに 人の目につくまいと覘ってで、人目を憚って、朝早く帰る意。「君がまにまに」は、君につれて。○吾さへに夙く起きつつ 『考』の訓。我までも早く起きつつ。○裳の裾沾れぬ 「沾れぬ」は、道の草に置く露に濡れたで、見送りをした意。
【釈】 人目につくまいと覘って帰る君につれて、我までも早く起きつつ、道の草の露に裳の裾が濡れた。
【評】 朝、帰ってゆく夫を送って来た妻の、別れ際に男に贈った歌である。夫はもとより自分も人目を憚るべきであるが、まだ人の外出しない時を利して、夫とともに路の朝露に濡れたのに、一種のうれしさを感じている心である。「裳の裾沾れぬ」という、普通としては侘びしいことにうれしさを感じているところに特殊さがある。気分をいっている歌である。
2564 ぬばたまの 妹《いも》が黒髪《くろかみ》 今夜《こよひ》もか 吾《われ》なき床《とこ》に 靡《なび》けて宿《ぬ》らむ
夜干玉之 妹之黒髪 今夜毛加 吾無床尓 靡而宿良武
(122)【語釈】 ○ぬばたまの妹が黒髪 「ぬばたまの」は、黒にかかる枕詞。○今夜もか 「も」は、詠嘆。「か」は、疑問の係助詞。
【釈】 ぬばたまの妹の黒髪を、今夜、われの居ない床の上に靡かして寝ているのだろうか。
【評】 妻の許へ行けなかった男が、夜、今頃はと思って、妻のさまを推量した心である。床の上へ黒髪を靡かせて寝ているさまを最も印象的に感じているところから、そのさまを思い浮かべたのである。気分の作で、「吾なき床に」で、その気分を鮮明にしている。
2565 花《はな》ぐはし 葦垣越《あしがきご》しに ただ一目《ひとめ》 相見《あひみ》し子《こ》ゆゑ 千遍《ちたび》嘆《なげ》きつ
花細 葦垣越尓 直一目 相視之兒故 千遍嘆津
【語釈】 ○花ぐはし葦垣越しに 「花ぐはし」は、花がうるわしいで、葦の花をたたえる意で「葦」へかかる枕詞。「葦垣越しに」は、葦垣を隔てにして。○相見し子ゆゑ 見かけたかわゆい女のゆえにで、路を通りすがりに見かけた意。○千遍嘆きつ 千遍も嘆いたで、上の「一目」と対させてある。
【釈】 花のうるわしい葦の、その葦垣越しにただ一と目見かけたかわゆい女のゆえに、我は千たびも嘆いた。
【評】 往来を歩きながら、ある家の葦垣の内にいる美しい女を見かけて、強い恋ごころを起こした嘆きである。思いがけなく一と目見たので、好奇心をそそられるところも多かったのである。全体が気分であるために、詠み方が華やかになっているが、それが自然に感じられるのである。「花ぐはし」は、ここでは葦へかかっているが、その葦は葦垣のそれで、強いた感のあるものである。しかしそれは、「子」と愛称をもって呼ぶ女のいる家のものなので、気分としては女に絡むものとなっていて、無理のないものになっている。「一目」も「千遍」も、同じく気分とすると、わざとらしくないものになっている。年若い気分が現われている歌である。
2566 色《いろ》に出《い》でて 恋《こ》ひば人《ひと》見《み》て 知《し》りぬべし 情《こころ》の中《うち》の 隠妻《こもりづま》はも
色出而 戀者人見而 應知 情中之 隱妻波母
【語釈】 ○知りぬべし 旧訓。○情の中の隠妻はも 「情の中の」は、周囲に対させていっているもので、わが心の中のものにしている。「隠妻は(123)も」は、人に秘している妻はなあ。
【釈】 表面にあらわして恋うたならば、人が知ってしまうことであろう。心の中のものにしている、人に秘している妻はなあ。
【評】 人目を包む関係であるゆえに、妻は単に心の中のものであると、自身を嘆き妻を憐れんでいる心である。これは当時としては普通のことで、改めていうには足りないことである。それを情熱を籠めた強い調べをもっていっているのは、妻を慰め、また疎遠にしていることを誤解されまいとして、妻に贈ったものと思われる。独詠とも見られる形の歌であるが、それは男が年若く、女との関係が新しかったからのことであろう。
2567 相見《あひみ》ては 恋慰《こひなぐさ》むと 人《ひと》は云《い》へど 見《み》て後《のち》にぞも 恋《こ》ひまさりける
相見而者 戀名草六跡 人者雖云 見後尓曾毛 戀益家類
【語釈】 ○見て後にぞも恋ひまさりける 「後にぞも」は、「ぞ」の係に、「も」の感動の添ったもの。
【釈】 逢うと恋が慰められるものだと人はいうが、逢った後のほうが恋い増さったことである。
【評】 実感を素朴に説明した歌である。慰むといい、増さると嘆くのも、飽くことを知らない本性の相である。夫婦とはいっても、絶えず恋人としての昂奮を続けていたのである。
2568 おほろかに 吾《われ》し念《おも》はば かくばかり 難《かた》き御門《みかど》を 退《まか》り出《で》めやも
凡 吾之念者 如是許 難御門乎 退出米也母
【語釈】 ○おほろかに吾し念はば 「おほろかに」は、なおざりに。「吾し念はば」は、「し」は、強意。「念はば」は、妹を思わばの意で、妹に対していっているもの。○かくばかり難き御門を 「かく」は、「しか」と通じて用いていて、ここは、あれほどまでに。「難き御門」は、出入りの厳重で、困難な宮廷の御門。○退り出めやも 「や」は、反語。
【釈】 なおざりにわれが思っているのであったら、あれほどまでに出入りの厳重で困難な御門を、退出して来ようか、来はしないことだ。
(124)【評】 宮廷内に夜も詰めているべき官人が、妹の許へ通って来て、訴えていったものである。ここへ来るに苦労をして来たといって、情愛の深さを示すのは型になっていたことで、これもそれである。言を構えて、辛くも官門を出たというのはおそらく真実であろう。これを憚りなくいうのは、奈良朝時代の心と思われる。歌としては力のあるものである。
2569 念《おも》ふらむ その人《ひと》なれや ぬばたまの 夜毎《よごと》に君《きみ》が 夢《いめ》にし見《み》ゆる
將念 其人有哉 烏玉之 毎夜君之 夢西所見
【語釈】 ○念ふらむその人なれや 「念ふらむ」は、我を思っているだろうところの。「その人なれや」は、その人なのであろうかで、「や」は、疑問の係助詞。○夜毎に君が 「君」は、上の「その人」で、男。○夢にし見ゆる 「し」は、強意。「見ゆる」は、結。
【釈】 我を思っているその人なのであろうか。ぬばたまの夜ごとに君が夢に見えて来ることである。
【評】 女が夜ごと、知らない一人の男を夢に見続けるところから、その人は我を思っているのであろうかと、「君」という敬称を用いて、思い入っていっているのである。夢は霊力の見せるもので、先方がこちらを思うと見えるというのは、根深い信仰で、ここもそれである。信仰的気分の歌で、当時にあっては実感として受け入れられた歌であろう。
或本の歌に云ふ、夜昼《よるひる》と云《い》はず 吾《わ》が恋《こ》ひ渡《わた》る
或本哥云、夜晝不云 吾戀渡
【解】 四、五句の別伝である。夜昼といわず絶え間なく、我は恋いつづけているというので、夢に見える知らない人に対して、我も憧れつづけているといっているのである。こちらは夢ということを略しているので、続きが曖昧になっている。本文の歌の「君」も同じ気分のものであるが、それを前進させたのである。このほうは、事を尽くそうとして感を散漫にし、無力なものにしている。
2570 かくのみし 恋《こ》ひば死《し》ぬべみ たらちねの 母《はは》にも告《つ》げつ 止《や》まず通《かよ》はせ
(125) 如是耳 戀者可死 足乳根之 母毛告都 不止通爲
【語釈】 ○かくのみし恋ひば死ぬべみ このようにばかり恋うたならば、死ぬだろうから。「恋ひば」は、母を憚って逢い難くするからのこと。○母にも告げつ 「も」は、詠歎。「告げつ」は、打明けたで、許しを受けたことを余意としたもの。
【釈】 このようにばかり恋うたならば死ぬだろうから、母に打明けました。絶えずお通いなさいませ。
【評】 上代の結婚生活の生んだ歌で、類想の多いものである。複雑した実相が、単純な語で尽くされているために、気分化して、迫る力のあるものとなっている。
2571 大夫《ますらを》は 友《とも》の騒《さわき》に 慰《なぐさ》もる 心《こころ》もあらむ 我《われ》ぞ苦《くる》しき
大夫波 友之驂尓 名草溢 心毛將有 我衣苦寸
【語釈】 ○大夫は友の騒に 「大夫は」は、女より男を尊んでの称で、ここは夫を指している。「友の騒に」は、友達との交際で、笑いさざめくことで。○慰もる 「もる」は、原文「溢」とあるによって訓に諸説がある。『全註釈』は「なぐさふる」と訓んでいるが、今は『代匠記』の訓に従う。○心もあらむ こともあろうの意。○我ぞ苦しき 「我」は、女で、君以外に紛れることとてはなく、苦しいことであるで、「苦しき」は、「ぞ」の結。連体形で、詠嘆を籠めたもの。
【釈】 大夫は、友達との交際で、笑いさざめくことで、心の慰むこともあろう。女の我は苦しいことである。
【評】 疎遠がちにしている夫に対して、来訪をもとめての訴えである。女も相当な年齢となり、夫の疎遠に対しても理解をもち、他の女との関係などとはせず、「友の騒」に慰められて、さみしさなど感じないためであろうとして、女にはそうしたことはなく、君以外には慰めのないことを察してくれと訴えているのである。これは言いかえると、社会的な生活をする男性に較べて、家庭的生活ばかりしている女性の嘆きである。この男女の矛盾は、捉えやすいようにみえるが、他に例のないところから見ても捉えやすくはないのである。知性的にならなければできないことだからである。男に四句を用い、自身は一句にとどめているのも、対照してだからといえ、要を得ている。
2572 偽《いつはり》も 似《に》つきてぞする 何時《いつ》よりか 見《み》ぬ人《ひと》恋《こ》ふに 人《ひと》の死《しに》せし
(126) 僞毛 似付曾爲 何時從鹿 不見人戀尓 人之死爲
【語釈】 ○偽も似つきてぞする 「似つき」は、今、似つかわしいというと同じで、もっともらしくの意。偽りをいうにも、もっともらしくいうものである。○何時よりか 旧訓「いづくにか」。『代匠記』の訓。いつの時からか。「か」は、疑問の係。○人の死せし 人が死んだのか。
【釈】 嘘も似つかわしい言い方をするものです。いつの時から、見たことのない人を恋うのに、人が死んだのですか。
【評】 男が恋を訴えて、今は恋死にをしそうだといって来たのに対し、女が返事として答えた歌である。双方顔を見たことのないというのは、身分ある階級の者とみえる。「見ぬ人恋ふに人の死せし」は、恋の実相を掴んで簡潔に言い得た語である。嘲りに似た語ではあるが、女の真実というものを大切にしている心がいわしめた語で、悪意の感じられないものである。聡明な、若くない女の歌とみえる。魅力ある歌である。
2573 情《こころ》さへ 奉《まつ》れる君《きみ》に 何《なに》をかも 言《い》はず言《い》ひしと 吾《わ》が虚言《ぬすま》はむ
情左倍 奉有君尓 何物乎鴨 不云言此跡 吾將竊食
【語釈】 ○情さへ奉れる君に 「情さへ」は、身はもとより、心までもで、身心の全部。「奉れる君に」は、差上げている君に。○何をかも 「か」は、疑問の係助詞で、反語となっている強いもの。○言はず言ひしと いわないことをいったとてで、何事か夫に不快なことをいったと咎められたのに対し、そのようなことはいわなかったの意。○吾が虚言はむ 「虚言ふ」は、ぬすむの連続をあらわす語で、偽る意。
【釈】 身はもとより、心までも捧げているあなたに対して、何だって、いわないことをいったなどと偽りましょう、そんなことはいたしません。
【評】 妻が夫に対して、「何をかも吾が虚言はむ」というにつけ、身心の全部を捧げている君であるのにと言い添えて、その誠実を誓った歌である。特殊な取材であるが、実際生活の上ではありうることで、また稀れなことでもない。これを取材としたことが特殊なのである。相聞の歌の実際に即しての拡がりを思わせられる歌である。「言はず言ひしと」は巧みな続けである。
2574 面忘《おもわす》れ だにも得《え》為《す》やと 手握《たにぎ》りて 打《う》てどもこりず 恋《こひ》といふ奴《やつこ》
面忘 太尓毛得爲也登 手握而 雖打不寒 戀云奴
(127)【語釈】 ○面忘れだにも得為やと 面忘れだけでもなしうるかと思って。○手握りて打てどもこりず 「手握りて」は、拳を固めての意。「打てどもこりず」は、打つけれども懲りないで、打つのは、恋というものの宿っている自身の体。○恋といふ奴 「恋といふ」は、恋を擬人して、恋という名の。「奴」は、人の家に仕えている奴婢の総称で、賤しめての称。
【釈】 面忘れだけでもなし得るかと思って、拳を固めて打つけれども懲りない、恋という奴は。
【評】 片恋の悩みをしている男の、悩みの余り、悩ませる女よりもまず、悩みをする恋という、自身に宿っているものを憎み、少しでも忘れさせようとする心である。魂は身に宿っているものとしていたので、恋をそのようなものと見たのも不自然ではない。恋を賤しめて「奴」に譬えたのは、自然であるのみならず巧みである。奴はいわゆる賤民で、人格は認めず単に労働力と見做していたもので、命令をきかなければ打って懲らすのが普通だったとみえる。ここもそれである。「面忘れだに」といい、「打てどもこりず」といっているのは、そのことの思い余ってのことだということをあらわしている。熱意をもってすることのおのずから滑稽味を帯びているもので、正しい意味のユーモアに属するものである。恋を奴に譬えることは先例のあるもので、創意ではない。
2575 めづらしき 君《きみ》を見《み》むとぞ 左手《ひだりて》の 弓《ゆみ》執《と》る方《かた》の 眉根《まよね》掻《か》きつれ
希將見 君乎見常衣 左手之 執弓方之 眉根掻礼
【語釈】 ○めづらしき 「希将見」の義訓。○君を見むとぞ 旧訓。「ぞ」は、係助詞で、結の結句の「つれ」は、已然形で、格に合わないところから、諸注問題として、誤写説がある。このような用法も稀れにはあったとすべきであろう。○左手の弓執る方の 左方ということを、男の身に即させていったもの。○眉根掻きつれ 「眉根」は、眉。「掻きつれ」は、痒くて掻いたことであった。当時、左のほうの眉だけ痒いのは、珍しい人に逢う前兆だという俗信が行なわれていたとみえる。
【釈】 珍しい君に逢おうというので、左手の弓を執るほうの眉を掻いたことでした。
【評】 女が、珍しくも来訪した夫を、喜び迎えての挨拶である。「左手の弓執る方の」という言い方が特殊であるが、これはその場合がら、わが左の眉ということを、男を主として言いかえたものである。前兆は相手の心の現われとしていたので、この言いかえは気分としても自然である。左の眉と特にいっているのは珍しいものである。
(128)2576 人間《ひとま》守《も》り 葦垣越《あしがきご》しに 吾妹子《わぎもこ》を 相見《あひみ》しからに 言《こと》ぞさだ多《おほ》き
人間守 蘆垣越尓 吾妹子乎 相見之柄二 事曾左太多寸
【語釈】 ○人間守り葦垣越しに 「人間守り」は、人目のない隙を窺って。「葦垣越しに」は、往来から、葦垣越しに邸内を見る意。○言ぞさだ多き 「さだ」は、原文「左太」。(二七三二)「左太の浦のこのさだ過ぎて後恋ひむかも」とあり、時の古語であるとされている。ここはそれでは通じないので、「定め」の語幹であって、噂の意だとされている。一語二義だとするのである。後世の沙汰は仏典から出た語であるが、これと繋がりのある語ではないか。「言ぞさだ」という続きは、「いねらえぬ」を、「いぞねらえぬ」というと同じ形である。噂が多いことであると、詠嘆を籠めたもの。
【釈】 人目のない隙を窺って、葦垣越しに、吾妹子を見たゆえで、噂が多いことであるよ。
【評】 友と一緒に往来を歩いていて、たまたま妹の門を通った時、友の見る目を避けて、葦垣越しに妹を見たのが原因で、噂が高くなった嘆きである。実際の事情に即させての歌である。一般性のない細かい事情に即させる風が、次第に行なわれていたことを示している歌である。
2577 今《いま》だにも 目《め》な乏《とも》しめそ 相見《あひみ》ずて 恋《こ》ひむ年月《としつき》 久《ひさ》しけまくに
今谷毛 目莫令乏 不相見而 將戀年月 久家眞國
【語釈】 ○今だにも目な乏しめそ 「今だにも」は、せめて今だけでも。「目な乏しめそ」は、「目」は、逢うこと。「な乏しめそ」は、乏しからしめるな。○久しけまくに 「久しけ」は、形容詞の未然形で、それに推量の「む」と「く」が添って名詞形となったもの。「に」は、詠嘆で、久しいだろうことなのに。
【釈】 今だけでも逢うことを乏しくはするな。相逢わずに、わが恋うるだろう年月は、久しいであろうことなのに。
【評】 夫と久しい別れをしようとする前、その妻の嘆いて訴えた歌である。夫は地方官として赴任する人で、そうした際には準備に忙しくて、平常よりもかえって妻を訪うことのできないところからの訴えであろう。事情には触れず気分のみをいっているのは、当事者間ではこれで心が尽くせるからである。
(129)2578 朝寐髪《あさねがみ》 吾《われ》は梳《けづ》らじ 愛《うつく》しき 君《きみ》が手杭《たまくら》 触《ふ》れてしものを
朝宿髪 吾者不梳 愛 君之手枕 觸義之鬼尾
【語釈】 ○朝寐髪 「朝寐髪」は、朝の寝乱れ髪。○愛しき君が手枕 最愛の君の手枕で、女が男の手枕をした意。○触れてしものを 「てし」は、過去完了。
【釈】 朝の寝乱れ髪をわれは梳るまい。最愛の君が手枕の触れたものだのに。
【評】 年若い妻の、朝、夫と別れようとする時の歌である。夫の名残りを惜しむ心を、朝々の習いとしている朝寝髪を梳ることに集中させているもので、美しい歌である。
2579 早《はや》行《ゆ》きて 何時《いつ》しか君《きみ》を 相見《あひみ》むと 念《おも》ひし情《こころ》 今《いま》ぞ和《な》ぎぬる
早去而 何時君乎 相見等 念之情 今曾水葱少熱
【語釈】 ○早行きて 早く行き着いて。○何時しか君を 「何時しか」は、いつであろうか早く。「君」は、ここは、男が女を指したもので、敬称。○今ぞ和ぎぬる 今こそ和ぎ鎮まったことである。
【釈】 早く行き着いて、早く君を見ようと思った心が、今こそ鎮まったことであるよ。
【評】 久しく妻に逢えなかった男の、逢った喜びをその妻にいったものである。挨拶の範囲の歌であるが、つぶさに気分をあらわしている歌である。
2580 面形《おもがた》の 忘《わす》るとあらば あづきなく 男子《をのこ》じものや 恋《こ》ひつつ居《を》らむ
面形之 忘戸在者 小豆鳴 男士物屋 戀乍將居
【語釈】 ○面形の忘るとあらば 「面形」は、顔の形。「忘ると」の「と」は、原文「戸」。『全註釈』は、「戸」は訓仮字とすると甲類の音で、乙(130)類の助詞「と」ではないとして才覚の意の語としたが、かかる例は巻二(一五一)にもあったように、今は助詞とする見解に従う。○あづきなく あじきなくと同じで、道理の無い意の形容詞。○男子じものや 「男子じもの」は、男子たるものが。「や」は、疑問の係助詞で、反語となっている。
【釈】 顔の形の忘れていられるならば、道理なく、男子たるものが恋をつづけていようか、いはしない。
【評】 片恋をしている男が、その悩みに堪えぬ余りに、大夫としての自尊心を振い起こして、それによって恋から放れようとする心である。「面形の」と、相手の女を軽んずるような言い方をし、「あづきなく男子じものや」と畳みかけて自負しているという、力を籠めての語続けをしている。しかし面形という感覚的の語が、結局忘れられないことを暗示している歌で、陰影のある作である。
2581 言《こと》に云《い》へば 耳《みみ》に容易《たやす》し 少《すくな》くも 心《こころ》の中《うち》に 我《わ》が念《おも》はなくに
言云者 三々二田八酢四 小九毛 心中二 我念羽奈九二
【語釈】 ○言に云へば耳に容易し 言葉としていえば、耳に何事でもなく聞こえる。○少くも心の中に我が念はなくに 「少くも」は、下に「念はなく」の否定で受ける語法で、少なく心の中に思っていることではないで、甚だ思っているの意。
【釈】 言葉としていえば、耳に何ほどのことでもなく聞こえる。少なくは、心の中にわが思っていることではないのに。
【評】 女に懸想の心を打明けた男の歌で、地歩を占めての言い方である。語少なく、含蓄をもたせた歌である。初二句も、三句以下も先例のあるもので、その点では、少しの創意もないものである。それで十分心を尽くせたのである。
2582 あづきなく 何《なん》の狂言《たはごと》 今更《いまさら》に 小童言《わらはごと》する 老人《おいびと》にして
小豆奈九 何狂言 今更 小童言爲流 老人二四手
【語釈】 ○あづきなく何の狂言 「あづきなく」は、道理もなく。「何の狂言」は、何というものに狂った言をかで、下へ続く。○今更に小童言する 「小童言」は、童の語で、道理なき言で、今さらに小童言するのであるかで、二句を結んだもの。無分別なことをいう意。「する」は、連体形で、嘆きをもっていったもの。○老人にして 分別ある老人であって。「老人」は、早くから老をいった時代なので、さしたる年齢ではない。
(131)【釈】 道理なく、何というものに狂った言の、今さらに小童のような言をいうのであるか。老人であって。
【評】 分別の熟した年齢の男が、若い者に似た恋をしつつ、我と我を咎めた心である。人としてはありうべきことであるが、世間的に見て有るまじきこととして咎めていることで、大夫は恋などすべきではないと自賛する心と通うものである。初二句、三、四句と、同じ心を語をかえて畳みかけて責めているところに、その気息が現われている。同時にそこに気弱さも窺われる。
2583 相見《あひみ》ては 幾久《いくひさ》さにも あらなくに 年月《としつき》の如《ごと》 思《おも》ほゆるかも
相見而 幾久毛 不有尓 如年月 所思可聞
【語釈】 ○幾久さにも 巻四(六六六)に既出。どれほど久しくも。
【釈】 相逢ってからは、どれほど久しくもないことであるのに、年月と長い間のようにも思われることであるよ。
【評】 一般的な心を、説明的にいった歌である。
2584 大夫《ますらを》と 念《おも》へる吾《われ》を かくばかり 恋《こひ》せしむるは あしくはありけり
大夫登 念有吾乎 如是許 令戀波 小可者在來
【語釈】 ○恋せしむるは 恋をさせるのは。○あしくはありけり 原文「小可者在来」。「小可」は、巻七(一二五八)「聞き知れらくは少可者有来」と出たその少可と同じである。良くないことであった。
【釈】 大夫と思っている我だのに、これほどまでに恋をさせるというのは、良くないことであった。
【評】 片恋のやや久しきにわたった頃、男が愚痴まじりに訴えて贈った歌である。「大夫と念へる吾を」は、大夫は恋などすべき者ではないとして、せずに来たわれであるのにで、それに「恋せしむるは」といって、責任を女に帰し、「あしくはありけり」と、道義的に責めた歌である。一首、気弱い愚痴で、その意味での気分の現われている歌である。
2585 かくしつつ 吾《わ》が待《ま》つしるし あらぬかも 世《よ》の人《ひと》皆《みな》の 常《つね》ならなくに
(132) 如是爲乍 吾待印 有鴨 世人皆乃 常不在國
【語釈】 ○かくしつつ吾が待つしるし このようにしつづけて、待っている甲斐は。すなわち恋の成り立つことは。○あらぬかも 『略解』の訓。「ぬかも」は、願望をあらわす。(二三八四)ほかしばしば出た。あってくれないかなあ、あってくれよの意。○世の人皆の常ならなくに 世の中の人はすべて、永久の命はもっていないことだのに。
【釈】 このようにしつづけて、われが待っている甲斐があってくれないかなあ。世の中の人はすべて、永久の命はもっていないことだのに。
【評】 片恋を永く続けながら、諦めかねている男の、女に訴えて贈った歌である。独詠ともみえるような詠み方をしているのは、事情がそうせざるを得なかったからとみえる。心は常套的なものであるが、調べの低いところが、その気分を生かそうとしている。
2586 人言《ひとごと》を 繁《しげ》みと君《きみ》に 玉梓《たまづさ》の 使《つかひ》も遣《や》らず 忘《わす》ると思《おも》ふな
人事 茂君 玉梓之 使不遣 忘跡思名
【語釈】 ○繁みと君に 『古義』の訓。諸注さまざまに改訓している。人の口がうるさいゆえにと思って。「君」は、男より女を指しての敬称。
【釈】 人の口がうるさいからと思って君に使もやらずにいる。忘れてのこととは思うな。
【評】 男より女に贈ったものであろう。実用の歌で、それ以上のものではない。
2587 大原《おほはら》の 古《ふ》りにし郷《さと》に 妹《いも》を置《お》きて 吾《われ》寐《い》ねかねつ 夢《いめ》に見《み》えこそ
大原 古郷 妹置 吾稻金津 夢所見乞
【語釈】 ○大原の古りにし郷に 「大原」は、奈良県高市郡明日香村の小原。「古りにし郷」は、故京をふる里という、その関係の称で、故京のほとりの里としていっているものである。奈良遷都の後、広く飛鳥地方をふる里と呼んでの称と思われる。○妹を置きて 妹を残して置いてで、奈良京にあっていっているもの。○夢に見えこそ 妹が夢に見えてくれよで、「こそ」は、願望の助詞。
(133)【釈】 大原の古くなってしまった里に妹を残して置いて、我は恋しさに眠り得ずにいる。夢に見えてくれよ。
【評】 遷都の直後には、こうした事はありがちで、むしろ一般的なことであったろう。事を素朴に詠んだものであるが、その事がすでに気分になっているものなので、おのずからに潤いを帯びた歌となっている。
2588 夕《ゆふ》されば 公《きみ》来《き》まさむと 待《ま》ちし夜《よ》の 名残《なごり》ぞ今《いま》も 寐《い》ねかてにする
夕去者 公來座跡 待夜之 名凝衣今 宿不勝爲
【語釈】 ○名残ぞ 「ぞ」は、名残を指示するとともに、係助詞になっている。○今も寐ねかてにする 今も眠ることができずにいるで、「する」は、結。
【釈】 夕方になると、君がいらっしゃろうと思って待った夜の名残りで、今も眠りかねることであるよ。
【評】 何らかの事情で夫に別れた女の、夫を思う気分を詠んだ歌である。その事情には触れず、ただ夜も眠りかねることだけをいっているのである。眠れないのは夫を思ってからのことであるが、そうとはいわず、強いて理由をつけて、「待ちし夜の名残ぞ」といっているのである。貴族的な、気取った言い方をとおして、夫の恋しい気分をいっているのである。それを、一読もっともに、あわれに感じさせるのは、鋭敏な感性と、婉曲に物をいう教養との相俟ってさせていることである。無理なことをもっともに感じさせるという意味においては、すぐれた才を示している歌である。「夕されば」「夜の」という使い分けも、いささかのことではあるが行き届いた表現である。
2589 相思《あひおも》はず 公《きみ》はあるらし ぬばたまの 夢《いめ》にも見《み》えず 誓約《うけ》ひて寐《ぬ》れど
不相思 公者在良思 黒玉 夢不見 受旱宿跡
【語釈】 ○ぬばたまの夢にも見えず 「ぬばたまの」は、夢の枕詞としている。夜のものという関係からである。○誓約ひて寐れど 「誓約ひ」は潔斎して神意を受ける行事であるが、転じて、祈念して事の行なわれることを期する意となった。ここはそれである。
【釈】 我を思わずに君はいるらしい。夜の夢にも見えない。「誓約ひ」をして寝たけれども。
(134)【評】 男より疎遠にされている女の嘆きである。先方がこちらを思えば、必ず夢に見えるという信仰の上に立ち、しかも「誓約ひ」をして寝たけれども見えなかったと嘆いているのである。朝、昨夜のことを思い返しての心である。
2590 石根《いはね》踏《ふ》み 夜道《よみち》往《ゆ》かじと 念《おも》へれど 妹《いも》によりては 忍《しの》びかねつも
石根蹈 夜道不行 念跡 妹依者 忍金津毛
【語釈】 ○石根踏み 「石根」は、岩。岩を踏むというのは、山越しをすることと思える。○忍びかねつも こらえかねることであった。
【釈】 岩を踏んでの夜道は往くまいと思ったが、妹によってのことはこらえ得られなかった。
【評】 女に逢った時の挨拶の歌である。山越しの夜道は危険だと思いつつ、妹に逢いたさに、つい出かけたというのである。実情を訴えたものである。
2591 人言《ひとごと》の しげき間《ま》守《も》ると 逢《あ》はずあらば 終《つひ》にや子《こ》らが 面《おも》忘《わす》れなむ
人事 茂間守跡 不相在 終八子等 面忘南
【語釈】 ○人言のしげき間守ると 人の噂のうるさい隙を窺ってとで、躊躇している意。○終にや子らが 旧訓。「や」は、疑問の係助詞。「子ら」は、「ら」は、接尾語で、かわゆい女の。○面忘れなむ 面を見忘れるであろうか。
【釈】 人の口のうるさい隙を窺ってと思って、逢わずにいるならば、終には妹の顔を見忘れるであろうか。
【評】 男の独詠である。「子ら」は関係を結んでほどもない女で、人の口のうるさいのに躊躇させられていると、自然関係が絶えてしまいそうな不安を感じた心である。男の身分が高く、女との関係はかりそめな、思い入ったものではなかったろうと思わせる口吻である。当時の結婚にあってはありうべきものであったろう。
2592 恋《こ》ひ死《し》なむ 後《のち》は何《なに》せむ 吾《わ》が命《いのち》の 生《い》ける日《ひ》にこそ 見《み》まく欲《ほ》りすれ
(135) 戀死 後何爲 吾命 生日社 見幕欲爲礼
【釈】 ○恋ひ死なむ後は何せむ 「恋ひ死なむ後」は、片恋のために恋死にをした後。「何せむ」は、何にしようかで、何になろうか。
【釈】 恋死にをするだろう後には、何にしようか。わが命の生きている日にこそ、逢いたいことである。
【評】 片恋をしている男の、相手の女に訴えて贈ったものである。心は徹底した現実主義で、調べも高調子で、いずれも誇張を帯びたものである。訴えの歌だからである。巻四(五六〇)大伴百代の「こひ死なむ後は何せむ生ける日の為こそ妹を見まく欲りすれ」は、この歌を取ったもので、魅力ある歌だったとみえる。
2593 しきたへの 枕《まくら》動《うご》きて 寝《い》ねらえず 物《もの》念《おも》ふ此夕《こよひ》 早《はや》も明《あ》けぬかも
敷細 枕動而 宿不所寝 物念此夕 急明鴨
【語釈】 ○しきたへの枕動きて寝ねらえず 「しきたへの」は、枕詞。「枕動きて」は、上の(二五一五)に出た。眠られずして寝返りを打つために動く枕を、反対に、枕が動くために眠られないと言いかえたもの。○早も明けぬかも 『略解』の訓。早く明けないのかなあ、明けてくれよ。
【釈】 しきたえの枕が動いて眠られない。物思いをする今夜は、早く明けないのかなあ。
【評】 男の歌で、物思いのために終夜眠れそうもない気分をいっているものである。何ゆえの物思いともいわず、物思いそのものの状態をいっているのである。「枕動きて寝ねらえず」は、気分よりの語であるが、これが一首を貫いているのである。重い姿をもった歌である。
2594 往《ゆ》かぬ吾《われ》 来《こ》むとか夜《よる》も 門《かど》閉《さ》さず あはれ吾妹子《わぎもこ》 待《ま》ちつつあらむ
不徃吾 來跡可夜 門不閇 ※[立心偏+可]怜吾妹子 待筒在
【語釈】 ○往かぬ吾 旧訓。○来むとか夜も門閉さず 『略解』の訓。来ようかと、夜も門を閉ざさずして。○あはれ吾妹子 「あはれ」は、かわいそうに吾妹子は。
(136)【釈】 往かない我を、来ようかと思って、夜も門を閉ざさずして、かわいそうに吾妹子は待ち続けていよう。
【評】 妻の許へ行くと約束をして置いて、急に何らかの都合で行けなくなった男の心である。「夜も門閉さず」と細かく事を尽くしているところに隣れみがある。
2595 夢《いめ》にだに 何《なに》かも見《み》えぬ 見《み》ゆれども 吾《われ》かも迷《まと》ふ 恋《こひ》の繁《しげ》きに
夢谷 何鴨不所見 雖所見 吾鴨迷 戀茂尓
【語釈】 ○夢にだに何かも見えぬ 夢にだけなりとも、どうして見えないのであろうか。「かも」は、疑問の係。○見ゆれども吾かも迷ふ 「迷ふ」は、正しく認め得ない意で、見えるけれども、正しく認め得ないのか。○恋の繁きに 恋の繁くあるために。
【釈】 夢にだけなりとも、どうして見えないのであろうか。見えるけれども、正しく認め得ないのであろうか。恋の繁くあるために。
【評】 男の歌で、妻ではあるが、逢い難くしている女を恋うての心である。「夢にだに何かも見えぬ」は、直接には逢えなくても、夢にだけでもという心と、先方がこちらを思えば、必ず夢になって見えて来るということを背後にしていっているもので、その見えないことを訝かっての自問である。「見ゆれども吾かも迷ふ」は、先方の愛を訝かった心を押し返して、そういうはずはない、自分が見紛うのであろうかと、さらに訝かって自問を重ねたのである。「恋の繁きに」は、上の全部を否定し、一切を自分のせいにして、恋の繁さの心乱れに帰したのである。複雑した気分を単純な形にしてあらわしたものである。上の(二五三九)「相見ては千歳や去ぬる否をかも我やしか念ふ公待ちがてに」と酷似した構成である。この歌の影響を受けての作であろう。
2596 慰《なぐさ》もる 心《こころ》はなしに かくのみし 恋《こ》ひや渡《わた》らむ 月《つき》に日《ひ》にけに
名草漏 心莫二 如是耳 戀也度 月日殊
【語釈】 ○慰もる 慰むると並び行なわれた語。○月に日にけに 「け」は、日で、月に日に日にで、絶えずいつまでも。
(137)【釈】 心の慰むことはなく、このようにばかり恋い続けることであろうか。月に日に日に。
【評】 男の片恋の苦しさを嘆いた心である。我と心をやるための歌で、総括して詠嘆しているものである。心は平凡であるが、調べには、思い入った気分が現われている。
或本の歌に曰はく、沖《おき》つ浪《なみ》 しきてのみやも 恋《こ》ひ渡《わた》りなむ
或本哥曰、奧津浪 敷而耳八方 戀度奈牟
【解】 三句以下の別伝である。「沖つ浪」は、重ねて寄せる意で、「しき」の枕詞。「しきてのみやも」は、重ねてばかりにで、募るばかりに。「やも」は、疑問で、反語となる場合の多い語であるが、ここは疑問だけである。募るばかりに恋い続けることであろうか。別伝とはいうが、全く別な歌とみえるものである。このほうが形は豊かであるが、気分のとおっている上では、本文のほうがまさっている。
2597 いかにして 忘《わす》るるものぞ 吾妹子《わぎもこ》に 恋《こ》ひは益《まさ》れど 忘《わす》らえなくに
何爲而 忘物 吾妹子丹 戀益跡 所忘莫苦二
【語釈】 ○忘るるものぞ 『古義』の訓。どうしたら忘れるものであろうか。○忘らえなくに 忘れられないことだ。
【釈】 どうしたら忘れるものであろうか。吾妹子に恋は募って行くが、忘れられないことだ。
【評】 素朴な歌である。二句の「忘るるものぞ」を、結句で「忘らえなくに」と繰り返しているところ、謡い物的である。
2598 遠《とほ》くあれど 公《きみ》にぞ恋《こ》ふる 玉桙《たまほこ》の 里人《さとびと》皆《みな》に 吾《われ》恋《こ》ひめやも
遠有跡 公衣戀流 玉桙乃 里人皆尓 吾戀八方
【語釈】 ○遠くあれど公にぞ恋ふる 遠く逢い難い所にいるけれども、その公に我は恋うることである。○玉桙の里人皆に 「玉桙の」は、道の(138)枕詞であるが、ここは里にかけている。道と里との密接な関係から転じさせたものとみえる。「里人皆に」は、身近にいる誰にでもの意で、逢うを中心としての語。
【釈】 遠い所にいるけれども、その君を恋うていることである。里の人皆にわれは恋いようか恋いはしない。
【評】 遠い所へ往って住んでいる男に対して、女が真実を誓う心で贈った歌である。部落生活をしている庶民同士で、誓い方が特殊である。「遠くあれど」と「里人皆」とを対照させているのは、夫婦関係というよりむしろ相逢う機会の有無ということに力点を置いての言い方だからである。四、五句の強い言い方は、いかに実際的であったかを思わせるに足りる。
2599 験《しるし》なき 恋《こひ》をもするか 夕《ゆふ》されば 人《ひと》の手《て》枕《ま》きて 寐《ね》なむ児《こ》ゆゑに
驗無 戀毛爲鹿 暮去者 人之手枕而 將寐兒故
【語釈】 ○験なき恋をもするか 甲斐の無い恋をしていることであるよで、「か」は、詠嘆。○人の手枕きて寐なむ児ゆゑに 他人の手を枕として寝るであろう可愛ゆい女のゆえに。「児」は、愛称。
【釈】 甲斐の無い恋をしていることであるよ。夜になると、他人の手を枕にして寝るであろう可愛ゆい女のゆえに。
【評】 人妻に懸想しての嘆きである。夫婦同棲していず、しかも関係を秘密にしていたので、人妻であることを知らずに懸想することが自然起こりやすかったのである。気分的に詠み生かしている。
2600 百世《ももよ》しも 千世《ちよ》しも生《い》きて あらめやも 吾《わ》が念《も》ふ妹《いも》を 置《お》きて嘆《なげ》かふ
百世下 千代下生 有目八方 吾念妹乎 置嘆
【語釈】 ○百世Lも干世しも生きてあらめやも 「世」は、年。「しも」は、強意の助詞。「や」は、反語。百年も千年も生きていようか、いはしない。下の条件法となっている。○置きて嘆かふ 「嘆かふ」は、『全註釈』の訓。「置きて」は、後に残して来て。「嘆かふ」は、嘆くの継続。
【釈】 百年も千年も生きていようか、いはしない。それだのに、わが思う妹を後に残して来て嘆きつづけている。
(139)【評】 地方官の、長い任地生活をしながら、家に置いて来た妻を思っている心であろう。初句から三句までは仏教の無常観であろう。「吾が念ふ妹を置きて嘆かふ」は、この種の嘆きとしては特殊な言い方で、知識人を思わせるものである。すぐれた歌とはいえないが、特色のあるものである。
2601) 現《うつつ》にも 夢《いめ》にも吾《われ》は 思《おも》はざりき 旧《ふ》りたる公《きみ》に ここに会《あ》はむとは
現毛 夢毛吾者 不思寸 振有公尓 此間將會十羽
【語釈】 ○旧りたる公に 関係の古くなっている公にで、以前関係していた公に。○ここに会はむとは ここで、めぐり逢おうとは。
【釈】 現実にも夢にも私は思いませんでした。時久しくなっているあなたに、ここでお目にかかろうとは。
【評】 女が古く関係していた男と、思い寄らない所でめぐり逢った時の挨拶である。驚き喜んだ気分のさながらに現われている歌である。一脈の人世味の伝わり来るものがある。
2602 黒髪《くろかみ》の 白髪《しろかみ》までと 結《むす》びてし 心《こころ》一《ひと》つを 今《いま》解《と》かめやも
黒髪 白髪左右跡 結大王 心一乎 今解目八方
【語釈】 ○黒髪の白髪までと 黒髪が白髪となるまでといって。これは生涯変わるまいとの意の譬喩で、ほかにも用例のあるもの。○結びてし心一つを 「結びてし」は、日本書紀に「約」を「むすぶ」と訓んでおり、約束をする意。上代は重い語だったのである。「て」は、完了。「心一つ」は、心で、「一つ」は、強調する意で添えた語。しかし「結びてし」に気分のつながりをもったものである。結んだところの心を。○今解かめやも 「今」は、その時ではない中間の今。「解かめやも」は、解くは結ぶの反対で、「や」は、反語。解こうか、解きはしないと強くいったもの。
【釈】 黒髪の白髪となるまで変わるまいといって結んだところの心を、今にして解こうか解きはしない。
【評】 結婚後さして時のたたない妻が、夫から不信の疑いを受けた時、それを弁明しようとして、詠んだ歌である。事柄には触れず、妻としてもっている真実の心持だけをいったものである。言い方は、女のこととて髪に絡ませて「黒髪」「白髪」「結ぶ」「解く」など多くを用いているので、やや華やかな趣をもつたものとなっているが、不自然とまではいえない。別居生活をしているので、こうした葛藤は少なくなかったろう。身分ある階級の者の言い方である。
(140)2603 心《こころ》をし 君《きみ》に奉《まつ》ると 念《おも》へれば よしこの頃《ごろ》は 恋《こ》ひつつをあらむ
心乎之 君尓奉跡 念有者 縱比來者 戀乍乎將有
【語釈】 ○心をし君に奉ると わが心を君に差上げていると。「し」は、強意。○念へれば 念いあればで、念っているので。○よしこの頃は恋ひつつをあらむ 「よし」は、しばらく許す意の副詞。「を」は、感動の助詞。よしこの頃は、恋いつづけて居よう。
【釈】 心を、君に捧げていると思っているので、よし当分は恋いつづけて居よう。
【評】 足遠くしている夫を恨めしく思いながら、強いて抑えようとしている妻の、夫に贈った歌である。とやかく思うのは心のすることであるが、その心はすでに君に捧げているもので、勝手に動かすべきものではないというのは、強いて設けた儀礼的な語である。「よしこの頃は」と余意を残して訴えるのが本心である。才の利いた歌である。
2604 念《おも》ひ出《い》でて 哭《ね》には泣《な》くとも いちしろく 人《ひと》の知《し》るべく 嘆《なげ》かすなゆめ
念出而 哭者雖泣 灼然 人之可知 嘆爲勿謹
【語釈】 ○哭には泣くとも 声を立てて泣くことであるが、単に泣く意に用いられる場合が多い。ここもそれである。○嘆かすなゆめ 「嘆かす」は、敬語。「ゆめ」は、決しての意の禁止。
【釈】 我を思い出して泣くことがあろうとも、はっきりと、人の知りそうな嘆きはなさいますな、決して。
【評】 女から男に、答歌として贈ったものである。「念ひ出でて哭には泣くとも」は、贈歌を承けていっているものと取れる。「人の知るべく」は、関係そのものの上からも、世間体からも避けた意である。女のほうが世馴れている感のする歌である。
2605 玉桙《たまほこ》の 道行《みちゆ》きぶりに 思《おも》はぬに 妹《いも》を相見《あひみ》て 恋《こ》ふる頃《ころ》かも
玉桙之 道去夫利尓 不思 妹乎相見而 戀比鴨
(141)【語釈】 ○道行きぶりに 道での擦れちがいにで、出違った意。○思はぬに妹を相見て 思いがけずに女を見て。
【釈】 往来での擦れちがいに、思いがけずも女を見て、憧れているこの頃であるよ。
【評】 実際に多かったことと見え、類想の歌が多い。これはその中でも素朴なものである。
2606 人目《ひとめ》多《おほ》み 常《つね》かくのみし 候《さも》らはば いづれの時《とき》か 吾《わ》が恋《こ》ひざらむ
人目多 常如是耳志 候者 何時 吾不戀將有
【語釈】 ○人目多み 人目が多いゆえに。○候らはば 隙を窺っていたならば。
【釈】 人目が多くて、常にこのようにばかり隙を窺っているのであったら、いつの時とて我は恋いずにいられようか。
【評】 夫婦関係が秘密になっていることからの嘆きである。熱意をもって事を細叔しているので、おのずからに抒情味の強いものとなっている。
2607 敷細《しきたへ》の 衣手《ころもで》かれて 吾《わ》を待《ま》つと 在《あ》るらむ子《こ》らは 面影《おもかげ》に見《み》ゆ
敷細之 衣手可礼天 吾乎待登 在濫子等者 面影尓見
【語釈】 ○衣手かれて 「衣手」は、袖。「かれて」は、離れてで、袖を分かって。別れてということを、具象的にいったもの。○吾を待つと在るらむ子らは われの往くのを待つとて、いるだろう子はで、「子ら」は、子で、妻の愛称。
【釈】 連ねていた袖を離れて、われが行くを待つとて、いるであろうかわゆい妻は、面影に立って見える。
【評】 妻を思う気分であるが、初句より四句までの語続きは、旅の別れをして、さしあたり逢う望みのない意のものであろう。気分をいっているもので、事情には触れないものである。
2608 妹《いも》が袖《そで》 別《わか》れし日《ひ》より 白妙《しろたへ》の 衣《ころも》片敷《かたし》き 恋《こ》ひつつぞ寐《ぬ》る
(142) 妹之袖 別之日從 白細乃 衣片敷 戀管曾寐留
【語釈】 ○妹が袖別れし日より 妹が袖と別れた日から。○衣片敷き わが衣だけを敷いて。ひとり寝をいう慣用句。
【釈】 妹が袖と別れた日から、わが衣だけを敷いて妹を恋いつつ寝ていることである。
【評】 旅にあっての歌で、女に贈った形のものである。「妹が袖」「衣片敷き」と、夜床に絡ませていっているものである。
2609 しろたへの 袖《そで》は紕《まゆ》ひぬ 我妹子《わぎもこ》が 家《いへ》のあたりを 止《や》まず振《ふ》りしに
白細之 袖者問結奴 我妹子我 家當乎 不止振四二
【語釈】 ○袖は紕ひぬ 「紕ふ」は、織物が古びて、織糸の片寄った状態をいう語。巻七(一二六五)巻十四(三四五三)の「まよひ」に同じ。袖の織糸が片寄ってしまった。○家のあたりを止まず振りしに 「家のあたりを」は家のあたりに向かって。
【釈】 わが袖の織糸は片寄った。我妹子の家の辺りに向かって、やまずに振ったので。
【評】 妹との名残りを甚しく惜しんだ意を、妹に告げてやった歌である。これも旅に行く男の心で、誇張はそのゆえと取れる。
2610 ぬばたまの 吾《わ》が黒髪《くろかみ》を 引《ひ》きぬらし 乱《みだ》れて反《きら》に 恋《こ》ひわたるかも
夜干玉之 吾黒髪乎 引奴良思 乱而反 戀度鴨
【語釈】 ○吾が黒髪を引きぬらし 「引きぬらし」は、「引き」は、接頭語。「ぬらし」の「ぬる」は、巻二(一一八)に既出。その他動詞。女が夫と共寝をする夜は、髪を解いて床の上に靡かすのが習いであり、その意の歌はすでに出た。ここもそれで、待つ夫を待ち得なかったことを背後に置いているもの。解いた髪は乱れる意で、「乱れ」と続き、初句よりこれまではその序詞。○乱れて反に 原文「乱而反」。「反」は、諸注訓み難くして、誤写説を立てているものである。これは『新訓』の訓で、「反」は、「更」で、「かはる」の意より「さらに」に当てたとしているのである。心が乱れてさらに。
(143)【釈】 黒髪を解き靡かして乱れるように、心が乱れてさらに恋い続けていることであるよ。
【評】 夫を待って待ち得ない妻の、恋の乱れた心をいったもので、夫に贈ったものである。一首、気分をいっているもので、「ぬばたまの吾が黒髪を引きぬらし」は、譬喩としての序詞であるが、夜床に夫を待つ意を暗示しているもので、気分の濃厚なものである。「乱れて反に恋ひわたるかも」も、心としては訴えであるが、形は独詠に似たもので、婉曲な言い方である。これも気分的である。身分ある階級の歌で、新風である。
2611 今更《いまさら》に 君《きみ》が手枕《たまくら》 纏《ま》き宿《ね》めや 吾《わ》が紐《ひも》の緒《を》の 解《と》けつつもとな
今更 君之手枕 卷宿米也 吾紐緒乃 解都追本名
【語釈】 ○吾が紐の緒の解けつつもとな 「紐の緒」は、紐を強めていったもので、畳語。「紐」は下紐である。「解けつつ」は、連続。下紐のおのずから解けるのは、人から思われているためとも、また人に逢へる前兆ともした。「もとな」は、筋もたたないことだ。
【釈】 今さらに君の手枕をして寝ようか、そんなことは無い。それだのにわが下紐が解けつづけて、筋もたたないことだ。
【評】 固い決心をもって夫と絶縁した女の心である。「吾が紐の緒の解けつつ」という状態に対して、昂奮を新たにしている心である。極度に強いことをいいつつ、一脈心弱さがまじっていて、それが、陰影をなしている歌である。
2612 しろたへの 袖《そで》に触《ふ》れてよ 吾《わ》が背子《せこ》に 吾《わ》が恋《こ》ふらくは 止《や》む時《とき》もなし
白細布乃 袖觸而夜 吾背子尓 吾戀落波 止時裳無
【語釈】 ○しろたへの袖に触れてよ 「よ」は、「ゆ」と同じく、君の袖に触れた時からで、共寝ということを、婉曲に美しくいったもの。
【釈】 しろたえの君が袖に触れてからは、わが背子を恋うることは、止む時もない。
【評】 夫婦関係を結んだばかりの若い女が、その夫に衷情を訴えたものである。「しろたへの袖に触れてよ」という言い方は、心つつましい言い方であるが、おのずから新味をなしているものである。
(144)2613 夕卜《ゆふけ》にも 占《うら》にも告《の》れる 今夜《こよひ》だに 来《き》まさぬ君《きみ》を 何時《いつ》とか待《ま》たむ
夕卜尓毛 占尓毛告有 今夜谷 不來君乎 何時將待
【語釈】 ○夕卜にも占にも告れる 「夕卜」は、上の(二五〇六)に「言霊の八十の衢に夕占問ふ」と出た。夕方、辻に立って、路行く人の語によってわが事を判ずる占い。「占」は、占い。「告れる」は、現われて告げた。○今夜だに その今夜でさえも。○何時とか待たむ いつ来ますと待とうかで、望みのない嘆き。
【釈】 夕卜にも、また占いにも、霊力が来ると告った今夜でさえもいらっしゃらない君を、いつと待とうか。
【評】 夫に疎遠にされている妻の嘆きで、類想の多いものである。重い調べをもって、思い入っていっているので嘆きが気分となって現われている趣がある。庶民的な歌で、上代の庶民の女性を思わせる。
2614 眉根《まよね》掻《か》き 下《した》いふかしみ 思《おも》へるに いにしへ人《びと》を 相見《あひみ》つるかも
眉根掻 下言借見 思有尓 去家人乎 相見鶴鴨
【語釈】 ○眉根掻き下いふかしみ思へるに 「眉根掻き」は、眉の痒いのは人に逢う前兆だとの信仰よりのもの。「下いふかしみ」は、「下」は、心の中。「いふかしみ」は、形容詞「いふかし」の動詞となった語。心の中で不思議に思っていると。そうした人の心当たりのないからの意。○いにしへ人を 以前に関係のあった人で、昔の夫。
【釈】 眉の痒いのを掻いて、心当たりもないので、心の中で訝かしく思っていると、昔の君に逢ったことであるよ。
【評】 関係の絶えてしまっていた以前の夫の、思いも寄らず訪い来たったのを迎えて、女の驚き喜んでの挨拶である。「眉根掻き」で、その逢ったことを神の引合わせのごとくにいい、「下いふかしみ」で、逢うべき人のないことを暗示している点など、この場合きわめて適切な語である。世馴れた女の歌である。
或本の歌に曰はく、眉根《まよね》掻《か》き 誰《たれ》をか見《み》むと 思《おも》ひつつ け長《なが》く恋《こ》ひし 妹《いも》に逢《あ》へるかも
或本哥曰、眉根掻 誰乎香將見跡 思乍 氣長戀之 妹尓相鴨
(145)【解】 眉のかゆいのを掻いて、誰に逢うのだろうかと思いつついて、年久しく恋うていた妹に逢ったことである。
【評】 これは男の歌で、別伝扱いはしているが、独立した歌で、類歌というべきである。境は似ているが、上の歌に見える細かい心の働きはない、むしろ平凡な歌である。
一書の歌に曰はく、眉根《まよね》掻《か》き 下《した》いふかしみ 念《おも》へりし 妹《いも》が容儀《すがた》を 今日《けふ》見《み》つるかも
一書歌曰、眉根掻 下伊布可之美 念有之 妹之容儀乎 今日見都流香裳
【解】 眉を掻いて、内心、どんな心持でいるだろうとわからずにいた妹の姿を、今日初めて見たことであるよ。
【評】 これは男が、懸想していた女と初めて逢った歓びをいっているもので、上の歌と同じく、これも別伝ではなく独立した歌である。二、三句の「下いふかしみ念へりし」は、本文と形は似ているが、内容は全く別で、本文の「下いふかしみ思へるに」は作者自身の心であるのに、この歌では、相手の女の心中の測り難さをいったものとなっているのである。本文の歌のようなことは、当時の夫婦関係にあっては必ずしも稀れなことではなく、一般性のあることであったろう。したがってその語つづきの巧妙さに魅せられた者は、謡い物時代の風によって、それを取り入れて自身の心を詠むのは平気だったろうと思われる。そうした歌を文芸的な角度から観て、語の類似のやや多いものは別伝と見做したのであろう。上の二首の歌は、口誦文学と記載文学との中間に立っての詠み方のものである。
2615 しきたへの 枕《まくら》を巻《ま》きて 妹《いも》と吾《われ》と 寐《ぬ》る夜《よ》はなくて 年《とし》ぞ経《へ》にける
敷栲乃 枕卷而 妹与吾 寐夜者無而 年曾經來
【語釈】 略す。
【釈】 枕をして、妹とわれと共寝をすることはなくて、年を経たことである。
【評】 人に秘密にしている関係から、妻と逢い難くしていることを嘆いた歌である。「しきたへの枕を巻きて」と、特殊のことのように重くいっているのは、世の常のことのできないことをあらわそうとしてのことで、それが作意である。
(146)2616 奥山《おくやま》の 真木《まき》の板戸《いたど》を 音《おと》速《はや》み 妹《いも》があたりの 霜《しも》の上《うへ》に宿《ね》ぬ
奧山之 眞木乃板戸乎 音速見 妹之當乃 霜上尓宿奴
【語釈】 ○奥山の真木の板戸を 「奥山の」は、真木の所在としてかかる枕詞。「真木」は、主として檜。それをもって造った板戸を。○音速み 「速み」は、鋭く烈しい意の形容詞で、そのゆえに。母などが眼を覚ますのを怖れて開け得ずしての意。○霜の上に宿ぬ 「宿ぬ」は、共寝をした。
【釈】 真木の板戸の音が烈しいので、妹の家のあたりの霜の上に共寝をした。
【評】 家人に関係を秘密にしているのと、家が狭いのとで、戸外で、夫婦相逢うことは、特別のことではなかった。「奥山の真木の板戸」と「霜の上」は、作為を思わせる語である。調べも整っていて、古い趣がある。謡い物として庶民の問に伝わっていたものではなかろうか。
2617 あしひきの 山桜戸《やまざくらと》を 開《あ》け置《お》きて 吾《わ》が待《ま》つ君《きみ》を 誰《たれ》か留《とど》むる
足日木能 山櫻戸乎 開置而 吾待君乎 誰留流
【語釈】 ○あしひきの山桜戸を 「あしひきの」は、山の枕詞。「山桜戸」は、山桜の板をもって造った戸。○誰か留むる 誰が引き留めているのかで、来ないのを、留める者の責任にしたもの。
【釈】 山桜の戸を開けて置いて、我が待っている君を、誰が引き留めているのであるか。
【評】 これは上の歌と対をなしているごとくみえる歌である。こちらは女の歌で、「あしひきの山桜戸を開け置きて」と、華やかさと明るさのあるものとなり、また「誰か留むる」と、嫉妬とはいえ、柔らかみのあるものとなっている。この歌も作為の匂いのあるもので、上の歌よりも濃い。異なる点は、上の歌は古風な重い響をもっているのにこれは軽く滑らかで、新しさを思わせる点である。謡い物であったろうと思われる。
2618 月夜《つくよ》よみ 妹《いも》に逢《あ》はむと 直路《ただぢ》から 吾《われ》は来《き》つれど 夜《よ》ぞふけにける
(147) 月夜好三 昧二相跡 直通柄 吾者雖來 夜其深去來
【語釈】 ○月夜よみ 月が好いので。○直路から 「直路」は、直線的な道で、近道の意。すぐ路と同じ。「から」は、通って。
【釈】 月がよいので、妹に逢おうと思って、まっすぐな近道を通って来たけれども、夜の更けてしまったことだ。
【評】 妹の家への路に立っての心である。「月夜よみ」が、妹を訪う原因になっているのであるが、照明の得やすくなく、用いかねる事情の下では、夜道はできないものだったのである。また妹の家も近くはないことも関係している。「夜ぞふけにける」と嘆いているが、明るい気分をもった歌である。
物に寄せて思を陳ぶ
【標目】 人麿歌集以外の物として、別に扱ったものである。
2619 朝影《あさかげ》に 吾《わ》が身《み》はなりぬ 韓衣《からころも》 裾《すそ》の逢《あ》はずて 久《ひさ》しくなれば
朝影尓 吾身者成 辛衣 襴之不相而 久成者
【語釈】 ○朝影に吾が身はなりぬ 「朝影」は、朝日を受けて地に映る影法師で、細長いところから「痩せ」の譬喩。上の(二三九四)に出た。朝の影法師のようにわが身は痩せた。○韓衣裾の逢はずて 唐風の衣は、裾がはだけて合わないところから、合わずと続け、「裾の」までの八音を「逢はず」の序詞としたもの。「逢はずて」は、女と逢わずして。
【釈】 朝影のようにわが身は細って来た。韓衣の裾の合わないに因みある、妻に逢わずに久しくなったので。
【評】 「朝影に吾が身はなりぬ」は、人麿歌集のものである。「韓衣裾の逢はず」も出所のある語かもしれぬ。とにかく「なりぬ」「なれば」と、結果と原因とを繋ぎ合わせた歌で、語の興味に力点を置いた、謡い物風の歌である。以下八首、衣に寄せての歌。
2620 解衣《ときぎぬ》の 思《おも》ひ乱《みだ》れて 恋《こ》ふれども 何《な》ぞ汝《な》が故《ゆゑ》と 問《と》ふ人《ひと》もなき
(148) 解衣之 思乱而 雖戀 何如汝之故跡 問人毛無
【語釈】 ○解衣の思ひ乱れて 「解衣の」は、解いた衣で、意味で「乱れ」にかかる枕詞。「思ひ乱れて」は、嘆き乱れて。○何ぞ汝が故と 原文「何如汝之故跡」。「汝」の前後への続きが例のないものなので問題として、誤写説も出ている。「何ぞ」は、どうしてかで、結句へ続くもの。「汝が故と」は、汝は相手の男を指したもので、なれのゆえにかといって。この句は不自然な趣のあるものであるが、本歌があって、それによったものである。本歌は巻十二(二九六九)「解衣の念ひ乱れて恋ふれども何の故ぞと問ふ人もなき」で、それにこのような屈折を付けたことが興味だったとみえる。○問ふ人もなき 尋ねる人もないことだ。「なき」は「ぞ」の結。
【釈】 解衣のように嘆き乱れて恋うているけれども、どうしてであろうか、なれのゆえかといって尋ねる人もないことだ。
【評】 女の歌で、男に恋の悩みを訴えたものである。君のためにこのように悩んでいるのであるが、君は、われゆえにする悩みかといって尋ねてもくれないと恨んでいるのである。四、五句は男を対象としてのもので、「汝」も「問ふ人」も男である。本歌に縋って無理な言い方をして喜ぶところは、平安朝時代に通うものである。
2621 摺衣《すりごろも》 著《け》りと夢《いめ》見《み》つ うつつには 誰《たれ》しの人《ひと》の 言《こと》か繁《しげ》けむ
摺衣 著有跡夢見津 寤者 孰人之 言可將繁
【語釈】 ○摺衣著りと夢見つ 「摺衣」は、植物の花、黄土などを摺って美しく染めた衣の称。「著り」は、動詞「著」に、完了の助動詞「り」の接続した形。仮名書きによっての訓。われは摺衣を着ていると夢見た。この夢は、人に言い寄られる前兆と信じられていたのである。○うつつには 現実にはで、「夢」に対させたもの。○誰しの人の言か繁けむ 「誰しの人」は、『古義』の訓。仮名書きによってである。「し」は、強意の助詞で語感を強めるためのもの。「言か繁けむ」は、噂がしげく立つだろうかで、「む」は、「誰」の結。
【釈】 我は摺衣を着ていると夢に見た。実際としては、どういう人との噂が多く立つのだろうか。
【評】 摺衣を着るという夢は、人に言い寄られる前兆だとする俗信があったとみえるが、ここに出ているのみである。「誰しの人」といっているところをみると、それがどういう人から言い寄られることかと気がかりに感じたこととみえる。若い、女の気分にふさわしく美しく安らかに詠まれている歌である。
2622 志賀《しか》の海人《あま》の 塩焼衣《しほやきごろも》 なれぬれど 恋《こひ》といふものは 忘《わす》れかねつも
(149) 志賀乃白水郎之 塩燒衣 雖穢 戀云物者 忘金津毛
【語釈】 ○志賀の海人の塩焼衣 「志賀」は、筑前国の志賀島で、博多湾口にある。「塩焼衣」は、塩を焼く時の衣。仕事の性質上よごれやすい意で、その意の「穢れ」と続け、同音の「馴れ」に転じたもので、初二句序詞。○なれぬれど 馴れたけれどもで、夫婦関係の久しくなった意。
【釈】 志賀の海人の塩焼衣の穢《な》れている、それに因みある、わが夫婦関係も馴れて久しくなったが、恋というものは忘れられないものであった。
【評】 夫婦関係は、他の関係とは異なって、古くなっても飽くことを知らないものであったと、体験をとおして感慨をもっていっているものである。「志賀の海人の塩焼衣」は、実際を捉えての序詞で、海人の女の心ということを暗示しているのである。その土地の謡い物である。
2623 くれなゐの 八塩《やしほ》の衣《ころも》 朝《あさ》な朝《あさ》な なれはすれども いやめづらしも
呉藍之 八塩乃衣 朝旦 穢者雖爲 益希將見裳
【語釈】 ○くれなゐの八塩の衣 「くれなゐ」は、紅花の称で、色の名と転じたもの。「八塩」は幾度もの染汁で、幾たびも染汁に浸した、色の濃い衣。序詞で、穢るの意で、四句「なる」にかかる。○朝な朝ななれはすれども 「朝な朝な」は、毎朝。「なれ」は、馴れて、見馴れはするが。○いやめづらしも ますますかわゆいことよ。
(150)【釈】 くれないの幾たびも染汁に浸した色濃い衣の、穢れるに因みある、朝々見馴れはするが、ますますかわゆいことよ。
【評】 夫が同棲している妻を讃えた心である。見馴れると多くの物はつまらなくなるが、わが妻はその反対だというのである。「くれなゐの八塩の衣」は、序詞として「穢れ」と続けているのであるが、これは、不自然である。他方、妻の美しい譬喩とするときわめて適切なもので、それを主にしたものである。その点から見て、譬喩を序詞の形にし、気分によって譬喩の意を遂げようとしたもので、そのために不自然をも敢えてしているのである。巻十二(二九七一)「大王の塩焼く海人の藤衣なれはすれどもいやめづらしも」を原拠とした歌で、そのために無理をしたものとみえる。意義よりも気分を重んじる歌風によって詠んだもので、上手とは言い難い。
2624 紅《くれなゐ》の 濃染《こぞめ》の衣《ころも》 色《いろ》深《ふか》く 染《し》みにしかばか 忘《わす》れかねつる
紅之 深染衣 色深 染西鹿齒蚊 遺不得鶴
【語釈】 ○紅の濃染の衣 紅の濃く染めた衣で、「色深く」にかかる序詞。○色深く染みにしかばか かわゆさが深くわが身に染み入ったからかで、譬喩的にいったもの。「か」は、疑問の係。○忘れかねつる 忘れることのできないことであった。
【釈】 紅の濃く染めた衣のように、かわゆさが深く身に染み入ってしまったからか、忘れることのできないことであった。
【評】 これも男のその妻を誘えた歌である。序詞は譬喩の意のもので、辛くも、序詞の形を与えた程度のものである。思い入った心であるが、説明に終始しているので、単調の感がある。
2625 逢《あ》はなくに 夕卜《ゆふけ》を問《と》ふと 幣《ぬさ》に置《お》くに 吾《わ》が衣手《ころもで》は 又《また》ぞ続《つ》ぐべき
不相尓 夕卜乎問常 幣尓置尓 吾衣手者 又曾可續
【語釈】 ○逢はなくに 逢わぬことであるに。○夕卜を問ふと幣に置くに 「夕卜」は、上の(二五〇六)(二六一三)にすでに出た。夕べの辻に出て、路行き人の語によって、わが事を占う意。「幣に置くに」は、占いはいかなる方法を取るにもせよ、要するに神意を窺うことなので、そのたびごとに神に幣を供えるのである。「置くに」は、供えるに。○吾が衣手は又ぞ続ぐべき 「衣手」は、袖で、幣には袖を切って供えることに定まっていたとみえる。「続ぐ」は、袖は窄袖で、手先の長くなっている部分を切るので、短くなると縫い足したと見える。ここは、またも縫い足(151)すべきであると、その短くなったのを見ていっているので、心は、幾たびそうした占いをしたことだろうと嘆いたのである。
【釈】 逢わない君であるのに、夕卜をして神意を窺うとて、幣として供えるのに、わが袖は、またも継ぎ足すようになったことだ。
【評】 来ない夫に対して、占いをして待つことを幾度となく繰り返して行なっている妻の嘆きである。この歌で見ると、夕卜を問う時の幣には袖口を切って供えたもののようである。そうした細部のことは、その信仰が衰えるとともに忘れられて、確かめる資料は得難いのである。大体こうした歌を資料とすべきであろう。庶民の歌である。
2626 古衣《ふるごろも》 打棄《うちつ》る人《ひと》は 秋風《あきかぜ》の 立《た》ち来《こ》む時《とき》に もの念《おも》ふものぞ
古衣 打棄人者 秋風之 立來時尓 物念物其
【語釈】 ○古衣打棄る人は 「古衣」は、着古した衣で、古妻の譬喩。「打棄る」は、「打」は、接頭語。「つる」は、棄つの古語「うつ」連体形で、「うつる」であるが、「うちうつる」が、音の接続の関係で、「う」が消えたもの。巻五(八〇〇)「穿沓《うけぐつ》を脱ぎ棄《つ》る如く」がある。○秋風の立ち来む時に 肌寒くなる時にで、衣を必要とする時。○もの念ふものぞ 嘆きをすることであるぞで、「ぞ」は、提示して強めたもの。
【釈】 着古した衣を棄てる人は、秋風の寒く吹き出すだろう時には、侘びしい思いをするものだ。
【評】 古きを疎み、新しきを愛ずるは人情で、上代の多妻時代には、古妻の棄てられる例は多いことであったろう。これはそういう人に対して、世故に通じた第三者の警告している歌である。「秋風の立ち来む時」は、「古衣」の関係でいっているものであるが、心としては、たのしい時の遊び相手に対しての、困難な時の相談相手の意でいっているものである。知性の歌であるが、距離を置いて柔らかくいっているので、厭味が無い。
2627 はね蘰《かづら》 今《いま》する妹《いも》が うら若《わか》み 咲ゑ《》みみ 慍《いか》りみ 著《つ》けし紐《ひも》解《と》く
波祢蘰 今爲妹之 浦若見 咲見慍見 著四紐解
【語釈】 ○はね蘰今する妹が 「はね蘰」は、巻四(七〇五−六)に出た。女の髪にする蘰とは知れるが、その物としてはわからない。少女が一人(152)前の女となった当座、儀式としてする物であったろうといわれている。「今する妹が」は、現在している妹が。○うら若み 心幼いのでで、男女関係を解さないのでの意。○咲みみ慍りみ ほほ笑んだり慍ったりして。○著けし紐解く 「紐」は、衣の紐で、寝るに先立ってすること。
【釈】 はね蘰を現にしている妹が、心が幼いゆえに、ほほ笑んだり慍ったりして、衣につけた紐を解く。
【評】 早婚時代のこととて、心幼い妻に特別の愛情を感じていたとみえ、その類の歌がある程度見える。この歌はその中でも程度の烈しいものである。愛情をもっていっているものではあるが、「咲みみ慍りみ」というごとき描写は、興味も伴っているものである。心身を一元に感じていた時代で、精神と肉体との間に差別を認めなかったので、こうした境も扱ったものとみえる。個人的抒情ではなく、一般の興味をねらった、題詠かと思われる。蘰に寄せた歌。
2628 いにしへの 倭文機帯《しつはたおび》を 結《むす》び垂《た》れ 誰《たれ》といふ人《ひと》も 君《きみ》には益《ま》さじ
去家之 倭文旗帶乎 結垂 孰云人毛 君者不益
【語釈】 ○いにしへの倭文機帯を 「いにしへの」は、古風な。「倭文機帯」は、倭文織の帯。倭文織は、上代の織物の名で、緯としての繊維を赤、青に染めて交ぜ織りにした縞織物で、珍重された物である。それで作った帯。○結び垂れ 帯としての状態。「垂れ」を同音で「誰」に続け、初句よりこれまではその序詞。
【釈】 古風な倭文機の帯を結んで垂れている、その垂れに因む、誰という人も君にはまさるまい。
【評】 妻がその夫を讃えて、いかなる人よりもまさっているといっているのである。「いにしへの倭文機帯を結び垂れ」の序詞は、貴人の服飾であって、気分の上で「君」にからませているものである。日本書紀、武烈紀に、「大君の御帯の倭文機結び垂れたれやし人も相思はなくに」とあり、その系統の歌である。謡い物として行なわれていたとみえる。帯に寄せた歌。
一書の歌に曰はく、古《いにしへ》の 狭織《さおり》の帯《おび》を 結《むす》び垂《た》れ 誰《たれ》しの人《ひと》も 君《きみ》には益《ま》さじ
一書謌曰、古之 狭織之帶乎 結垂 誰之能人毛 君尓波不益
【解】 「狭織の帯」は、幅狭く織った帯で、どういう物かはわからないが、格別のものであったろうと思われる。「誰しの人」は、いかなる人も。この歌は上の歌の別伝というのではなく、上の歌がすでに古歌の謡い物として、流動した形のものであって、こ(153)れもその一つというべきである。すなわち同腹の兄弟のごときものである。ほかにも記録されない物があったかもしれぬ。
2629 逢《あ》はずとも 吾《われ》は怨《うら》みじ この枕《まくら》 吾《われ》と念《おも》ひて 枕《ま》きてさ宿《ね》ませ
不相友 吾波不怨 此枕 吾等念而 枕手左宿座
【語釈】 ○この枕吾と念ひて 「この枕」は、この贈る枕。「吾と念ひて」は、わが身代わりと思っての意。○枚きてさ宿ませ 「枕きて」は、枕として。「さ」は、接頭語。
【釈】 逢わなかろうとも、我は怨むまい。この枕を、我と思って枕にしておやすみなさいませ。
【評】 疎遠にしている夫の許へ、枕を贈ってやる時に添えた歌である。夫の身のまわりの物を贈るのは、妻としては普通だったのである。歌は「怨みじ」といって、きわめて巧みに怨んでいるもので、枕という贈物は、そのものがすでに訴えとなつているものである。身分ある階級の女である。以下三首、枕に寄せた歌。
2630 結《ゆ》へる紐《ひも》 解《と》きし日《ひ》遠《とほ》み しきたへの 吾《わ》が木枕《こまくら》は 蘿《こけ》生《む》しにけり
結紐 解日遠 敷細 吾木枕 蘿生來
【語釈】 ○結へる紐解きし日遠み 『略解』の訓。結んである下紐を解いた日が遠いので。下紐を結ぶのも解くのも夫のすることで、逢った日が遠いので、すなわち久しく逢わないので。○しきたへの吾が木枕は蘿生しにけり 「しきたへの」は、枕の枕詞。「蘿生し」は、久しく逢わないことを誇張していったもの。「けり」は、詠嘆。
【釈】 君の結んだ下紐を、君の解いた日が遠いので、わが木枕には蘿が生えたことであるよ。
【評】 夫の疎遠を怨んで訴えた歌である。「吾が木枕は蘿生しにけり」は、上の(二五一六)に類似しているもので、気分によっての誇張である。「結へる紐解きし日遠み」も、久しく逢わないとの意を、同じ気分によって誇張して具象化したもので、「蘿生し」とほぼ調和しうるものである。才の利いた歌である。
(154)2631 ぬばたまの 黒髪《くろかみ》しきて 長《なが》き夜《よ》を 手枕《たまくら》の上《うへ》に 妹《いも》待《ま》つらむか
夜干玉之 黒髪色天 長夜※[口+立刀] 手枕之上尓 妹待覽蚊
【語釈】 ○ぬばたまの黒髪しきて ぬばたまのような黒髪を身に敷いて。○手枕の上に妹待つらむか 「手枕の上に」は、手枕をして寝ての意。傍らにある枕はせず、仮寝のさまでの意でいっているもの。
【釈】 ぬば玉のような黒髪を身に敷いて、この長い夜を、かりそめに手枕をして寝て、妹は待っているのだろうか。
【評】 妻の許へ行く約束をして、行けなかった男が、夜、その妻を思いやった心である。浮かんで来るのは見馴れている床の上の妻の寝姿で、「ぬばたまの黒髪しきて」が最も印象的のものであったとみえる。「手枕の上に」は、同じく感覚的な語ではあるが、それにとどまらず、妻のつつましい心持を思わせるもので、男にそうした妻と見えていることをあらわしているものである。この語によってこの歌を魅力的なものにしている。
2632 まそ鏡《かがみ》 直《ただ》にし妹《いも》を 相見《あひみ》ずは 我《わ》が恋《こひ》止《や》まじ 年《とし》は経《へ》ぬとも
眞素鏡 直二四妹乎 不相見者 我戀不止 年者雖經
【語釈】 ○まそ鏡直にし妹を相見ずは 「まそ鏡」は、三句「見」にかかる枕詞。「直にし妹を相見ずは」は、直接に妹に逢うのでなければで、「し」は、強意。
【釈】 直接に妹に逢うのでなければ、わが恋はやまないだろう。たとえ幾年経ようとも。
【評】 片恋の苦しさを詠んだものである。心を抑えていっているために、力をもち得ている。以下三首、鏡に寄せての歌。
2633 まそ鏡《かがみ》 手《て》に取《と》り持《も》ちて 朝《あさ》な朝《あさ》な 見《み》む時《とき》さへや 恋《こひ》の繁《しげ》けむ
眞十鏡 手取持手 朝旦 將見時禁屋 戀之將繁
(155)【語釈】 ○まそ鏡手に取り持ちて 意味で、「朝な朝な」にかかる序詞。○朝な朝な見む時さへや 「朝な朝な」は、日々という意を言い換えたもの。「見む時さへ」は、別居している妻を同居させて見る時で、そうなった時でさえも。「や」は、疑問の係助詞。○恋の繁けむ 恋は多いことであろうか。
【釈】 まそ鏡を手に取り持って朝々に見るように、同居して日々に逢うようになった時さえも、恋は多いことであろうか。
【評】 男の歌である。最初は夫婦別居していたのである。妻を自分の家へ迎え取って同居しようと思い、それとともに、そうなって日々一緒にいるようになっても、やはり今のように恋は多いだろうかと、現在の状態から推して想像したのである。取材関係から説明となっているが、「見む時さへや」は、簡潔に、複雑な心をあらわし得ている語である。上の(二五〇二)に上三句同一の類歌があった。
2634 里《さと》遠《とほ》み 恋《こ》ひ侘《わ》びにけり まそ鏡《かがみ》 面影《おもかげ》去《さ》らず 夢《いめ》に見《み》えこそ
里遠 戀和備尓家里 眞十鏡 面影不去 夢所見社
【語釈】 ○恋ひ佗びにけり 恋い悩んでしまったことだ。○まそ鏡面影去らず 「まそ鏡」は、意味で「面影」にかかる枕詞。「面影去らず」は、面影が我より離れずに。○夢に見えこそ 夢に見えてくれで、「こそ」は、願望の助詞。
【釈】 妹の里が遠いので逢い難くして恋い悩んでしまったことだ。面影はわが身を離れずに、夢に見えてくれよ。
【評】 この歌は左注にあるように、上の(二五〇一)人麿歌集の「里遠みうらぶれにけりまそ鏡床のへ去らず夢に見えこそ」の変化したものである。この変化は口誦に伴っての流動で、四句、鏡に伴う信仰よりの叙事を抹殺して説明とし、二句も説明的にして、含蓄を平明化したものである。これは流動には普通のことである。
右の一首は、上に柿本朝臣人麿の歌の中に見えたり。但し句々相|換《かは》れるを以《も》ちて、故《かれ》茲に載す。
右一首、上見2柿本朝臣人麿之歌中1也。但以2句々相換1故載2於茲1。
2635 剣刀《つるぎたち》 身《み》に佩《は》き副《そ》ふる 大夫《ますらを》や 恋《こひ》とふものを 忍《しの》びかねてむ
(156) 釼刀 身尓佩副流 大夫也 戀云物乎 忍金手武
【語釈】 ○剣刀身に佩き副ふる大夫や 「剣刀」は、剣の刀で、剣。「身に佩き副ふる大夫や」は、身に帯びて添えている大夫なる者がで、「や」は、疑問の係助詞で、反語をなすもの。○忍びかねてむ 耐え得ないことであろうか。そんなはずはない。
【釈】 剣を身に帯び添えている大夫たる者が、恋というものを耐え得ないのであろうか、そういうはずはない。
【評】 片恋の悩みをしている男が、大夫としての意気を振い起こして、恋という女々しいものを攘い退けようとする心である。私人としての情を公人としての心をもって抑えようとする努力で、この態度は伝統的なものである。類想の歌が多い。以下三首剣に寄せての歌。
2636 剣刀《つるぎたち》 諸刃《もろは》の上《うへ》に 行《ゆ》き触《ふ》れて 死《し》にかも死《し》なむ 恋《こ》ひつつあらずは
釼刀 諸刃之於荷 去觸而 所〓鴨將死 戀管不有者
【語釈】 ○剣刀諸刃の上に 剣の双方の刃の上に。○行き触れて 進んで触れて。○死にかも死なむ 「かも」は、疑問の係。死にに死のうかで、死を強めていったもの。○恋ひつつあらずは 恋いつつ居ずして。
【釈】 剣の諸刃の上に進んで触れて、死にに死のうか。恋いつつ居ずして。
【評】 片恋の悩みが募って、堪えきれなくなった時に、迸るように言い放ったという形の歌である。上の(二四九八)人麿歌集の歌に「剣刀諸刃の利きに足踏みて死にし死なむ公に依りては」によってのものである。その歌は誓言としてのもので、今の片恋の悩みとは性質を異にしてはいるが、その歌は調べによって生かしているものであるのに、この歌は事だけになってしまった、気息の通わないものとなっている。
2637 うちゑまひ 鼻《はな》をぞ嚔《ひ》つる 剣刀《つるぎたち》 身《み》に副《そ》ふ妹《いも》し 思《おも》ひけらしも
晒 鼻乎曾嚔鶴 釼刀 身副妹之 思來下
【語釈】 ○うちゑまひ 原文「 晒」。諸注、問題として、誤写説のある字である。『考』は字注に微笑とある字だとして「うれしくも」と訓んだ。(157)『全註釈』は今のようにしている。ほほ笑んでで、うれしさからのことである。○剣刀 譬喩として「身に副ふ」にかかる枕詞。
【釈】 ほほ笑んで鼻嚔たことである。剣刀のように我に連れ添っている妹が、我を思ったのらしい。
【評】 男が思わずくしゃみが出たのを、妻が我を思ったらしいとして、うれしく感じた心である。その時の気分をいおうとした歌なので、事情には触れていないが、男がそうしたことを喜ぶのと、「剣刀身に副ふ妹し」と、永く連れ添っている妻のごとくいっているのは、現在旅にあって、妻を思わせられている時だったからであろう。軽い歌であるが、気分としていっているので、おのずから拡がりのあるものとなっている。
2638 梓弓《あづさゆみ》 末《すゑ》の腹野《はらの》に 鳥猟《とがり》する 君《きみ》が弓弦《ゆづる》の 絶《た》えむと念《おも》へや
梓弓 末之腹野尓 鷹田爲 君之弓食之 將絶跡念甕屋
【語釈】 ○梓弓末の腹野に 「梓弓」は、「末」の枕詞。弓の下のほうを本、上のほうを末という意からである。「末」は、地名であるが、所在が明らかでない。諸所にある名だからである。大和国では添上郡の陶、和泉国では陶の邑、山城国では宇治郡の陶野があり、そのほかにもある。「腹野」は、野の名か、また、原野すなわち広い野に当てた字か不明である。いずれでも通じる。原の名であろうか。 ○鳥猟する君が弓弦の 「鳥猟」は、鷹狩。身分ある人の最上の慰みとしてのこと。「君が弓弦の」は、鳥猟を催している君の、手にしている弓弦のごとくで、「絶え」と続き、初句よりこれまではその序詞である。○絶えむと念へや 「絶え」は、男女関係の絶える意。「や」は、反語。
【釈】 梓弓の末の、その末の腹野で鷹狩をする君の、手にする弓の弓弦のように、我も君との関係を絶えようと思おうか、思いはしない。
【評】 本文は「絶えむと念へや」の一句で、他は序詞という、特殊な形をもった歌である。序詞が四句にわたっており、それがまた特殊な事柄なので、序詞という感じは薄れて、叙述という感じが濃厚になっている。こうした序詞は、実際を目撃しなければ生まれないものであるから、実況の叙述を序詞の形としたものと見るべきである。それだと、「君」と呼ばれる人の鷹狩をしているさまを望見している女の、その人と関係のあるところから、その状態の愛でたいのに感激しての心と見るべきである。「君が弓弦の絶えむ」という続け方は、自然というよりも構えてのものにみえる。また、その弓弦は「梓弓」と繋がりをもたせた、巧緻なものでもある。また一首の調べも、調子の張った華やかなもので、恋の上の訴えとしては自然なものでもない。鳥猟をする人は末の地の豪族の子などで、その地の若い女がその人にひそかに心を寄せているという状態だとすれば、こうし(158)た歌がその地の謡い物として生まれうる可能性がある。歌柄から見て、そうした歌ではなかろうかと推量される。
2639 葛城《かづらき》の 襲津彦真弓《そつひこまゆみ》 荒木《あらき》にも 憑《たの》めや君《きみ》が 吾《わ》が名《な》告《の》りけむ
葛木之 其津彦眞弓 荒木尓毛 〓也君之 吾之名告兼
【語釈】 ○葛城の襲津彦真弓 「葛城の襲津彦」は、武内宿禰の子で、仁徳天皇の皇后磐之媛の父である。大和国の西部葛城地方の領主だったので、地名を冠して呼んだ。日本書紀、神功紀、応神紀に、新羅の征討に向かった人で、剛勇の名の聞こえた人である。「真弓」は、「真」は、美称で、弓。襲津彦の持った強い弓の意で、葛城地方で強弓のことを、このように称していたものと取れる。○荒木にも 「荒木」は、新木で、新木の弓。弓は上に譲ったのである。「にも」は、のごとくにもで、新木の弓はことに強いものとしていっているのである。○憑めや君が 「憑めや」は、信頼するのであろうかで、「や」は、疑問の係。「君」は、女が男を指したもの。○吾が名告りけむ 「吾が名」は、妻としての我の名を、他人にあらわしたことであろうと、詠歎していったもの。秘密にしていた妻の名を、他人に現わすのは、世間晴れて男が女を家に迎える意である。
【釈】 葛城の襲津彦真弓の、その新木の弓のごとくにも、強くも信頼してのことであろうか、君はわが名を人にあらわしたことであろう。
【評】 男が秘密にしていた妻の名を他人にあらわしたことを知り、その妻である女がひどく喜んだ心である。一夫多妻のこととて、妻とはいっても絶対に信頼していたのではなく、そのうちの特に信頼のできる妻を選んで、いわゆる嫡妻としてわが家に迎えたのである。これはその選ばれた女の喜びである。「葛城の襲津彦真弓荒木にも」という譬喩は、甚だ特殊なものであるが、葛城地方は山地のこととて狩猟が盛んで、弓に親しみをもっており、強弓のことを、その地方の唯一の矜りであった襲津彦に関係させて呼んでいたこともありうることである。したがって「荒木にも」という譬喩も、一般に通じやすいものだったろう。この歌は、心は素朴で、調べは強く、葛城地方に古くから伝わっていた謡い物であったろうと思われる。以下二首、弓。
2640 梓弓《あづさゆみ》 引《ひ》きみ弛《ゆる》べみ 来《こ》ずは来《こ》ず 来《こ》ばぞそを何《な》ぞ 来《こ》ずは来《こ》ばそを
梓弓 引見弛見 不來者不來 々者其々乎奈何 不來者來者其乎
【語釈】 ○梓弓引きみ弛べみ 梓弓の弓弦を、引いたり弛べたりしてで、引けば弓弦が寄って来、弛べると離れる意で、譬喩として「来ば」「来ず(159)ば」にかかる序詞。○来ずは来ず 「来」は、男の女の許へ来る意で、来ない気ならば、来ないでいよ。○来ばぞそを何ぞ 来る気ならば、それを何でそのようにするぞ。○来ずは来ばそを 来ないならば来ないで、来るならば来るで、どちらとも定めよ。何でそのように。
【釈】 梓弓の弓弦を引いたり弛べたりするように、来ない気ならば来ないでいよ、来る気ならば、何でそのようにするぞ。来ないならば来ないで、来るならば来るで、はっきりさせよ。何でそのように。
【評】 女の男を怨んだ歌である。男がいつも、来るでもなく、来ないでもなく、こちらを思っているのか居ないのかもわからない暖昧な態度を続けているのを怨んで、来ないならばそれとはっきりさせよ、来るならばそれらしくせよ、何だってそのようなあやふやな態度を見せるのかと、昂奮していっている歌である。男を思いつついっているのである。昂奮の余り、同語を反復させ、息を切り切り言い続けている形であり、また男の態度の譬喩として用いている梓弓の関係から見ても、狩猟者の妻という趣をもった歌である。語続きが特殊なので難解のごとくにみえるが、意味は単純である。根本になっている心は、男は結婚後は次第に冷淡になって来るのに、妻は反対にますます情熱が募って来るところから起こる矛盾衝突で、その意味で一般性をもっている心である。
2641 時守《ときもり》の 打鳴《うちな》す鼓《つづみ》 数《よ》み見《み》れば 時《とき》にはなりぬ 逢《あ》はなくも怪《あや》し
時守之 打鳴鼓 數見者 辰尓波成 不相毛恠
【語釈】 ○時守の打鳴す鼓 「時守」は、時刻を見守り、これを知らせる役人である。役所は陰陽寮に属しており、漏刻すなわち水時計によって時刻を知り、また知らせもする所で、漏刻博士があり、その下に「時守」、すなわち守辰丁という者があって事にあたっていたのである。時刻は一昼夜を十二時に分け、一時をさらに四刻に分けて、刻ごとに鐘鼓を鳴らして報じたのである。この漏刻の事は、日本書紀、斉明紀、また天智紀に出ており、天智天皇が皇太子時代に初めて造られ、即位の後は新築の台に置き、鐘鼓の数によってその時刻を知らしめたのである。「打|鳴《な》す鼓」は、「鳴す」は、鳴らすの古語。「鼓」は太鼓。また、鐘、太鼓の総称としても用いる。○時にはなりぬ 「時」は、男の訪い来ると約束した時。「は」は、強め。○逢はなくも恠し 「逢はなく」は、逢いに来ぬこと。「恠し」は、いぶかしいで、不安をあらわしたもの。
【釈】 時守が打鳴らす鐘鼓の数を数えて見ると、約束をした時になった。逢えないことはいぶかしい。
【評】 軽い心のものである。夫婦相逢うのを、大宮で鳴らす時刻によって約束するということは、時代の移りを思わせられることである。鼓に寄せての歌。
(160)2642 燈《ともしび》の かげにかがよふ うつせみの 妹《いも》が咲《ゑまひ》し 面影《おもかげ》に見《み》ゆ
燈之 陰尓蚊蛾欲布 虚蝉之 妹蛾咲状思 面影尓所見
【語釈】 ○燈のかげにかがよふ 燈火の光に輝いている。○うつせみの妹が咲し 「うつせみの」は、現し身ので、「妹」の感を強めるために添えているもの。「咲し」は、「咲」は、「笑まふ」の名詞形。笑顔。「し」は、強意。○面影に見ゆ 面影に立って見える。
【釈】 燈火の光に燿いている現し身の妹の笑顔が面影に立って見える。
【評】 妹を思うとともに、ふと浮かんで来た面影を、そのまま歌としたものである。燈火の光に見た妹の面影というのは、通って行った夜の印象で、美しく感じた記憶であろう。燈火は貴かった時代とて、身分ある階級の者と思わせる。明るい気分そのものを、感覚的に具象した歌で、奈良朝時代の新風である。印象鮮明な、新味ある歌である。燈に寄せる歌。
2643 玉《たま》ほこの 道《みち》行《ゆ》き疲《つか》れ 稲筵《いなむしろ》 敷《し》きても君《きみ》を 見《み》むよしもがも
玉戈之 道行疲 伊奈武思侶 敷而毛君乎 將見因母鴨
【語釈】 ○玉ほこの道行き疲れ 「玉ほこの」は、道の枕詞。「道行き疲れ」は、道を歩いて疲れて。○稲筵 稲藁で編んだ筵。「敷き」と続け、初句よりこれまではその序詞。○敷きても君を見むよしもがも 「敷きて」は、打|頻《しき》ってもで、しげしげと。「君」は、男より女を指しての敬称。「見むよしもがも」は、逢う方法のほしいものだなあ。
【釈】 旅の道を行き疲れて、稲筵を敷いて憩う、その敷きの、打頻ってもあの君に逢う方法のほしいものだなあ。
【評】 男が、逢いはじめた女を思う心であるが、序詞は実際に即していっているもので、旅をしながらの心ということを暗示しているものである。そのほうが感が自然である。軽い心よりのものである。莚に寄せる歌。
2644 小墾田《をはりだ》の 板田《いただ》の橋《はし》の 壊《こぼ》れなば 桁《けた》よりゆかむ な恋《こ》ひそ吾妹《わぎも》
小墾田之 板田乃橋之 壞者 從桁將去 莫戀吾妹
(161)【語釈】 ○小墾田の板田の橋の 「小墾田」は、奈良県高市郡明日香村にある地。推古天皇の皇居のあった地である。飛鳥、豊浦、雷一帯の地の総称。「板田」は、所在不明。『考』は、坂田の誤写だとして、その名は、小墾田の金剛寺を坂田尼寺ともいつたのを証としている。○壊れなば 壊れたならばで、仮想としていっているもの。○桁よりゆかむ 桁を通って行こうで、橋板はなくなつても桁は残ろうとしていったもの。○な恋ひそ吾妹 我を恋うなよ妹よ。
【釈】 小墾田の板田の橋がもし壊れたならば、桁を通って行こう。我を恋うなよ妹よ。
【評】 妻に対して真実を誓って慰めた歌である。妻が恨みをいったのに対して答えた形のものである。大げさな語を派手に詠んだもので、その地方の謡い物と思われるものである。庶民的な歌である。橋に寄せての歌。
2645 宮木《みやき》引《ひ》く 泉《いづみ》の杣《そま》に 立《た》つ民《たみ》の 息《や》む時《とき》もなく 恋《こ》ひわたるかも
宮材引 泉之追馬喚犬二 立民乃 息時無 戀渡可聞
【語釈】 ○宮木引く泉の杣に 「宮木引く」は、「宮木」は、大宮造営の用材。「引く」は、山から引き出す。「泉の杣」は、「泉」は、山城国相楽郡の地名。泉河の流れている地である。「杣」は、「杣山」ともいい、用材を伐り出す山。「追馬喚犬」は馬を追うに「そ」、犬を喚ぶに「ま」といったゆえの戯書。○立つ民の 徴発されて人夫として働く民ので、譬喩として「息む時もなく」にかかる枕詞。○息む時もなく恋ひわたるかも 休む時もなく恋いつづけていることであるよ。
【釈】 宮木を引き出す泉の杣山に、官命で働いている民のように、休む間もなく恋い続けていることであるよ。
【評】 序詞に特色のある歌である。こうした序詞は、その光景を眼前に見ているか、あるいは自身その事にあたっているのでなければ捉えられないものである。「立つ民」の一人が、家を離れて苦しい労働をしているところから、妻を恋うての歌とすれば最も自然である。官命での労働なので、事を序詞の形にしていったとすれば、これまた自然である。それとすれば、苦しい気分を含ませた歌である。杣山での謡い物であったろう。杣に寄せての歌。
2646 住吉《すみのえ》の 津守網引《つもりあびき》の 泛子《うけ》の緒《を》の 浮《う》かれかゆかむ 恋《こ》ひつつあらずは
住吉乃 津守網引之 浮笑緒乃 得干蚊將去 戀管不有者
(162)【語釈】 ○住吉の津守綱引の 「住吉」は、今の大阪市の住吉区を中心とする一帯の地。「津守」は、「津」は、港で、港の番人で、監視人。重要な港として監視の役人を置いたのである。「網引」は、上代の漁法で、海中に網を張り渡し、それを引いて魚を獲る法。ここは、網引をする網の意でいっているもの。○泛子の緒の 「泛子」は、今のうきで、網の一部を水面に出して置くために付けるうきの、その緒の。同音で「浮かれ」にかかり、以上三句その序詞。○浮かれかゆかむ 「浮かれ」は、その任地を離れて浮浪することで、「か」は、疑問の助詞。ここに居ずに、浮浪人となって他へ行こうか。○恋ひつつあらずは ここに恋いつづけていずして。
【釈】 住吉の津の監視人のする、網引の網に付いている泛子の緒の、水に浮いて漂っているように、我も浮浪人となってよそへ行こうか。ここに恋いつづけて居ずして。
【評】 この歌の序詞は、上の歌よりも特殊で、「泛子の緒の浮かれ」の続きは、奇抜を求めて構えたものという感のあるものである。浮かれすなわち本籍を離れて浮浪者となるということは、部落生活を重んじた当時にあってはきわめて重大なことで、泛子とは繋がるべくもないものだったからである。これは突飛な対照を興味とする謡い物系統の続け方といえる。しかし「恋ひつつあらずは」の理由づけは自然である。住吉地方に行なわれた、新しい謡い物であったろう。
2647 東細布《てつくり》の 空《そら》ゆ延《ひ》き越《こ》し 遠《とほ》みこそ 目言《めごと》疎《うと》からめ 絶《た》ゆと間《へだ》つや
東細布 從空延越 遠見社 目言疎良米 絶跡間也
【語釈】 ○東細布の 旧訓「横雲の」。『全註釈』は理由のない訓だとして、今のごとく訓んでいる。東国の細布の意と見、巻十四(三三七三)「多麻河に曝す手作さらさらに」によったのである。手作は武蔵国から調として官に貢した麻布で、京に来ていたものである。試訓であるが、現在としては従うべきである。○空ゆ延き越し 難解の句である。構成から見ると、初二句は「遠み」にかかる序詞とみえる。また、初句との続きから見ると、京で貢物としての「てつくり」を見ての感と取れるから、遠く運んで来たということを、細布の関係から、空を通って引いて来たと、しゃれていったものではないかと思われる。今はそう解して置く。初二句、譬喩として「遠み」にかかる序詞。○遠みこそ目言疎からめ 道が遠いので、逢うことも少なくなるのであろうで、「目言」は逢ったり物をいったりすることで、逢うこと。○絶ゆと間つや それを、こちらが絶えるのだとして、隔てを付けるのであるか。
【釈】 東国の貢物のてつくりの空をとおって引いて来たように路が遠いので、逢うことも少なくなるであろう。それを私が絶えるのだとして、あなたも隔てを付けるのですか。
【評】 初二句の序詞に疑いがあるが、作意は明らかで、女が、男の足遠くしているのを恨み、絶えようと思っているのかと、(163)やや烈しい語で物をいって来たのに対し、疎遠になりがちなのは遠路のせいで余儀ないことだ。察しのないことだと恨み返した形の歌である。序詞は、てつくりが貢物として京へ届く頃で、眼前をいったものとすれば繋がりが付き、それだとその物としても女に関係のある物となる。布に寄せての歌。
2648 かにかくに 物《もの》は念《おも》はじ 飛騨人《ひだびと》の 打《う》つ墨繩《すみなは》の ただ一道《ひとみち》に
云々 物者不念 斐太人乃 打墨繩之 直一道二
【語釈】 ○かにかくに物は念はじ とやかくと物思いはしますまい。○飛驛人の打つ墨繩の 「飛騨人」は、飛騨国の人で、古くから宮廷の造営木工となっていたところから、京では木工の別名となっていたのである。ここはそれである。「打つ墨繩の」は、墨繩は現在もその名で大工が使っており、材木の上に目じるしとして墨の直線を引く物。「打つ」は、その直線を引く動作の称で、現在用いている。譬喩として「一道」に続き、以上二句その序詞。○ただ一道に 「一道」は、宣命に用例のある語。一筋と同義で、ただ一筋に夫を頼もうの意。
【釈】 ああこうと物思いはしますまい。飛騨人の打つ墨繩のように、ただ一筋に夫を頼みましょう。
【評】 夫を恨むことのあった妻が、それをきれいに諦めて、ただ一筋に、夫を頼んで行こうと決心した時の心である。誓言に近いものである。匠に寄せての歌。
2649 あしひきの 山田《やまだ》守《も》る翁《をぢ》が 置《お》く蚊火《かび》の 下焦《したこが》れのみ わが恋《こ》ひ居《を》らく
足日木之 山田守翁 置岐火之 下粉枯耳 余戀居久
【語釈】 ○山田守る翁が置く蚊火の 「山田守る翁」は、山の田を猪鹿などに荒らさせまいとして番をする老人。「置く蚊火」は、その番小屋に置く蚊遣り火。草をくすぶらせて焚く意で、「下焦れ」と続き、初句よりこれまではその序詞。○下焦れのみわが恋ひ居らく 「下焦れ」は、心の中でくすぶり燃えてばかり。「恋ひ居らく」は、恋うていることよで「居らく」は、詠嘆したもの。
【釈】 山田の番をしている老人が、その小屋に置く蚊遣の火のように、心の中でくすぶり燃えてばかり恋うていることであるよ。
【評】 部落生活をしている若者の、言い出せない恋の悩みをいったものである。序詞は譬喩で、譬喩というよりもむしろ、そ(164)れに誘発されて詠んだともいうべき歌である。明るい気分のある歌で、その意味で謡い物かと思われる。
2650 そき板《いた》もち 葺《ふ》ける板目《いため》の あはざらば 如何《いか》にせむとか 吾《わ》が宿始《ねそ》めけむ
十寸板持 盖流板目乃 不合相者 如何爲跡可 吾宿始兼
【語釈】 ○そき板もち葺ける板目の 「そき板」は、木を薄く削いでつくった小坂で、今も用いている屋根板。「板目」は、板と板の合わせ目。合わせる意で、「あは」と続け、初二句その序詞。○あはざらば 旧訓。逢わないならば。○如何にせむとか吾が宿始めけむ どうしようと思って我は、共寝をし初めたのであろうか。
【釈】 そき板をもって葺いてある屋根の板目の合わない、そのように、君と逢わないならば、どうしようと思って、我は共寝をし初めたのであろうか。
【評】 関係を結んだ女が周囲に妨害が起こって、逢い難くなっているその悩ましさから、過去を顧みて、一体こうしたことが続く場合には、どうしようという覚悟をもって、関係を結びはじめたのだろうと思った心である。悩ましさが刺激となって思わせることで、今後どうしたらよかろうかということである。ありうる心持である。序詞は珍しいもので、この場合の気分にはきわめて適切なものである。板葺は萱葺よりも進んだもので、身分をも暗示しているものである。細かい、屈折した気分を盛った、個人的な歌である。
2651 難波人《なにはびと》 葦火《あしび》たく屋《や》の すしてあれど 己《おの》が妻《つま》こそ 常《つね》めづらしき
難波人 葦火燎屋之 酢四手雖有 己妻許増 常目頼次吉
【語釈】 ○難波人葦火たく屋の 「難波人」は、難波地方に住んでいる人の総称。「葦火」は、葦を薪として焚く火。難波は葦の多いところであるから、自然のことである。葦火は煙が多く、したがって家の内が煤けるので、煤ける意の「す」と続き、初二句その序詞。○すしてあれど 「すし」は、煤けるの意の動詞。煤は、その終止形を名詞としたもの。上よりの続きは煤けるであるが、「すし」は、古びることの譬喩である。老いて古びているけれども。○己が妻こそ常めづらしき 「常」は、いつでも。「めづらしき」は、かわゆいことである。「めづらしき」は、「こそ」の結で、「こそ」を連体形をもって結ぶのは古格である。「常」は、用言に接しる場合は「つね」であると『全註釈』は注意している。
(165)【釈】 難波の人の葦火を焚いている家のように、煤け古びてはいるけれども、自分の妻こそは、いつでもかわゆいことである。
【評】 夫婦関係の久しくなった古妻に対しての夫の讃えである。新しい者がかわゆく、古い者は疎ましいのが普通だが、わが妻は馴染むとともに愛情が増して来て、それが古さを思わせないというのである。「難波人葦火たく屋の」という序詞がいかにも適切なもので、「常めづらしき」も強い感をもった語である。それがさわやかな調べで統一されて、気分化されているが、感のある歌である。火に寄せての歌。
2652 妹《いも》が髪《かみ》 上小竹葉野《あげたかばの》の 放《はな》ち駒《ごま》 荒《あ》らびにけらし 逢《あ》はなく思《おも》へば
妹之髪 上小竹葉野之 放駒 蕩去家良思 不合思者
【語釈】 ○妹が髪上小竹葉野の 「妹が髪上」は、たかばと続き、「小竹葉」にかかる七音の序詞。妹が髪を上げて束《たか》ねる意で、少女が一人前の女となった時にする儀式。「小竹葉野」は、野の名とはわかるが、所在は不明。下の続きで、馬の放牧場である。○放ち駒 放ち飼いにしてある駒で、拘束のないところから荒れてゆく意で、「荒らび」にかかり、初句からこれまではその序詞。○荒らぴにけらし 「荒らぶ」は、心が荒れすさむことで、疎くなってゆく意。相手の心が疎くなって来たらしい。○逢はなく思へば 逢わないことを思うと。
【釈】 妹が髪を上げて束ねるに因みある小竹葉野の放ち駒の荒れてゆくように、我に疎くなって来たらしい。逢わないことを思うと。
【評】 小竹葉野の辺りに住んでいる庶民の歌で、男が関係を結んでいる女の許へ通って行くが、逢わないので、心変わりがしたらしいと、恨んで呟いている心である。序詞は、序詞の中に序詞を含んでいるという特殊なものである。放ち駒のほうは、譬喩としてのもので単純であるが、「妹が髪上」は気分のもので、複雑味がある。これは我が初めて髪上げをさせた妹であるのにというので、その繋がりの強かるべきことを暗示しているものだからである。この歌はその技巧から見ると、かなりの洗煉を経ているものである。一方、夫婦関係の中で、女のほうから背くことをいっている歌は少ないが、実際からいうと必ずしも少ないことではなかったろう。それから見て、その地方での謡い物となって謡われていたものだろうと思われる。以下三首、馬に寄せての歌。
2653 馬《うま》の音《おと》の とどともすれば 松陰《まつかげ》に 出《い》でてぞ見《み》つる 蓋《けだ》し君《きみ》かと
(166) 馬音之 跡杼登毛爲者 松陰尓 出曾見鶴 若君香跡
【語釈】 ○とどともすれば とどとでもするとで、「とど」は蹄の音。○蓋し もしや。
【釈】 馬の蹄の音がとどとでもすると、松陰に出て見たことである。もしや君かと思って。
【評】 男を迎え得た時、いかに待っていたかを訴えた歌である。明るくたのしい気分である。謡い物と思われる。
2654 君《きみ》に恋《こ》ひ 宿《い》ねぬ朝明《あさけ》に 誰《た》が乗《の》れる 馬《うま》の足音《あのと》ぞ 吾《われ》に聞《き》かする
君戀 寝不宿朝明 誰乘流 馬足音 吾聞爲
【語釈】 ○誰が乗れる馬の足音ぞ 「誰が乗れる」は、誰が乗っているのかと疑った形でいって、誰でもない君の意をあらわした言い方。
【釈】 君に恋うて眠らない朝明けに、誰が乗っている馬の足音であろうぞ。我に聞かせるのは。
【評】 朝明けの蹄の音は、女の許から帰るもので、それをわが待つ男のよその女の許へ来ての帰りと感じて怨んだ心である。
「誰が乗れる」と「吾に聞かする」とが、その妬みと怨みとを、婉曲に、皮肉にいっているのである。
2655 紅《くれなゐ》の 裾《すそ》引《ひ》く道《みち》を 中《なか》に置《お》きて 妾《われ》や通《かよ》はむ 公《きみ》や来《き》まさむ
紅之 襴引道乎 中置而 妾哉將通 公哉將來座
【語釈】 ○紅の裾引く道を 「紅の」は、赤裳を、美しくいったもの。○中に置きて 隔てにして。
(167)【釈】 紅の裳の裾を引いて行く道を隔てにして、我が通って行こうか、君がいらっしゃるだろうか。
【評】 女の抒情をとおして、気分的に男女の美しくたのしい面を描き出した歌である。取材も表現も、謡い物として作ったものとみえる。
一に云ふ、裾《すそ》漬《つ》く河《かは》を。又曰はく、待《ま》ちにか待《ま》たむ
一云、須蘇衝河乎、又曰、待香將待
【解】 一書には、第二句が「裾漬く河を」となっているというのである。裳の裾が水に漬かる河をで、道が河になっているのである。「又曰はく」は、同じくその書のものは、結句が「待ちにか待たむ」となっているというのである。待ちに待って居ようかというのである。本文の別伝で、謡い物として謡っているうちに変わって来たものとみえる。変わるのは、いつも相当の理由のあってのことであるが、この場合は、本文の歌が余りにも安易であるとして、ある程度の合理性をもたせようとして、道を河にし、また、女の恋に悩みをもたせようとしたと思われる。
2656 天飛《あまと》ぶや 軽《かる》の社《やしろ》の 斎槻《いはひつき》 幾世《いくよ》まであらむ 隠妻《こもりづま》ぞも
天飛也 輕乃杜之 齋槻 幾世及將有 隱嬬其毛
【語釈】 ○天飛ぶや軽の社の 「天飛ぶや」は、天を飛ぶで、「や」は、(168)詠嘆。雁を古くは軽ともいったので、讃める意の枕詞。「軽の社」は、軽に祀られている社で、大和国高市郡、今は橿原市池尻である。『延喜式』神名にある神。○斎槻 神の憑り給う木として神職の斎み浄めている木。老木で、意味で「幾世」につづき、以上その序詞。○幾世まであらむ 「幾世」は、幾年で、いつまでそのままでいるだろう。○隠妻ぞも 「隠妻」は、人に秘密にしている妻で、披露しての妻にできないのを憐れんでいったもの。
【釈】 天飛ぶ軽の社の斎槻のように、いつまでこのようにしているわが隠妻であろうぞ。
【評】 男が久しい関係になっている隠妻に対《むか》って、憐れみ慰めていっている心である。序詞は、男女とも軽の神を守護神としている関係からである。以下八首、神に寄せての歌。
2657 神名火《かむなび》に 神籬《ひもろき》立《た》てて 斎《いは》へども 人《ひと》の心《こころ》は 守《まも》り敢《あ》へぬもの
神名火尓 紐呂寸立而 雖忌 人心者 間守不敢物
【語釈】 ○神名火に神籬立てて 「神名火」は、神の降り給うところの森で、普通名詞。「神籬」は、神霊の憑り給う木として、人の立てる常緑木で、神座。○斎へども 神を祭って穢れのないようにするけれども。○人の心は守り敢へぬもの 「人の心は」は、人の心というものは。「守り敢へぬ」は、守りきれないものであるよ。
【釈】 神の降り給う森に、神の憑り給う神籬を立てて、神を祭って穢れのないようにするけれども、人の心というものは、守り切れないものであるよ。
【評】 女の歌で、男の心が頼み難く見えるところから、神なびにひもろ木を立てて神を祀り、加護を祈ったが、それでも守りきれなかったと嘆いていっているのである。女の行なったことは、上代にあっては最高の努力であって、したがって嘆きも深いのである。夫の心を、「人の心は」と大きな言い方をしているのは、深い嘆きがさせていることである。
2658 天雲《あまぐも》の 八重雲隠《やへぐもがく》り 鳴《な》る神《かみ》の 音《おと》のみにやも 聞《き》きわたりなむ
天雲之 八重雲隱 鳴神之 音耳尓八方 聞度南
(169)【語釈】 ○天空の八重雪隠り鳴る神の 天雲の幾重にも重なった雲に隠れて鳴る雷ので、意味で「音」にかかる序詞。○音のみにやも 「音のみに」は、噂だけを。「や」は、疑問の係助詞。「も」は、詠嘆。○聞きわたりなむ 聞いて過ごしてゆけようか、ゆけはしない。
【釈】 天雲の幾重もの雲に隠れて鳴る神のように、噂だけを聞いて過ごしてゆくことであろうか。
【評】 女の歌で、疎くして、全く来なくなってしまった男に対しての咲きである。「天雲の八重雲隠り鳴る神の」は、女性に関する噂の高さに絡むところのあるものと取れる。恨むべくして恨んではいないことが注意される。
2659 争《あらそ》へば 神《かみ》も憎《にく》ます よしゑやし よそふる君《きみ》が 憎《にく》からなくに
爭者 神毛惡爲 縱咲八師 世副流君之 惡有莫君尓
【語釈】 ○争へば神も憎ます 争いをすると、神様もお憎みになるで、当時の信仰としていっているもの。○よしゑやし ままよの意で、しばしば出た。○よそふる君が 「よそふる」は、世間の人が噂をして、妻になぞらえる意、擬する意。○憎からなくに いやではないことだのに。
【釈】 争うと、神もお憎みになる。ままよ、世間の人がわたしを妻に噂する君が、いやではないことだのに。
【評】 男に求婚され、噂をされている娘が、若い女性のそうした際の通性として、早速には応じる気になれず、これというほどの理由もなくぐずぐずしていたが、それに応じようとした際の心である。内心、その男を憎くはなく思っているのであるが、それと決心するには「争へば神も憎ます」と、神を引合いに出さなければできなかったのである。おとめの心の現われている歌である。
2660 夜並《よなら》べて 君《きみ》を来《き》ませと ちはやぶる 神《かみ》の社《やしろ》を 祈《の》まぬ日《ひ》はなし
夜並而 君乎來座跡 千石破 神社乎 不祈日者無
【語釈】 ○夜並べて 毎夜。○祈まぬ日はなし 「祈む」は、祈るの古語。
【釈】 毎夜君をいらっしゃいと、神威のあらたかな神の社を祈らない日はない。
(170)【評】 きわめて一般性の多い心を、素朴に詠んだものである。 謡い物であろう。
2661 霊《たま》ちはふ 神《かみ》も吾《われ》をば 打棄《うつ》てこそ しゑや命《いのち》の 惜《を》しけくもなし
靈治波布 神毛吾者 打棄乞 四惠也壽之 〓無
【語釈】 ○霊ちはふ神も吾をば 「霊ちはふ」は、神霊の威力の働く意で、神を讃える語。ここにのみある語。○打棄てこそ 「打棄て」は、うちての約言で、「うち」は、接頭語。「うて」は、見棄てる意。連用形。巻五(八九七)「騒く児|等《ども》を棄《う》つてては」と出た。「こそ」は、願望の助詞。見棄ててくだされ。○しゑや命の惜しけくもなし 「しゑや」は、心を決しる時の感情をあらわす語。ええ、もうというにあたる。「惜しけく」は、惜しの名詞形。
【釈】 神霊の威力の働く神も、我を見棄ててくだされ。ええもう命の惜しいこともない。
【評】 恋の恨みがきわまって、自暴自棄になって、死を欲している男の心である。例の無いほどの烈しい心である。しかしそれにつけても、命は神の手にあるもので、神の許しがなければ死ねないとしているのである。信仰を保っていての自棄で、そこに上代の特色がある。
2662 吾妹子《わぎもこ》に 又《また》も逢《あ》はむと ちはやぶる 神《かみ》の社《やしろ》を 祈《の》まぬ日《ひ》はなし
吾妹兒 又毛相等 千羽八振 神社乎 不祷日者無
【語釈】 略す。
【釈】 吾妹子にまたも逢おうと思って、神威あらたかな神の社に祈らない日はない。
【評】 一首おいて前の歌と酷似していて、女が男になっているだけである。ことに四、五句は同じである。謡い物として謡われていたことを語っているといえる。別伝の範囲のものである。
2663 ちはやぶる 神《かみ》の斎垣《いがき》も 越《こ》えぬべし 今《いま》は吾《わ》が名《な》の 惜《を》しけくもなし
(171) 千葉破 神之伊垣毛 可越 今着吾名之 惜無
【語釈】 ○神の斎垣も越えぬべし 「斎垣」は、神域の周囲の垣で、神聖な物で、絶対に越えてはならないと、禁忌されているもの。「越えぬべし」は、越えてしまいそうだで、「ぬ」の完了で強めたもの。いかなる禁忌も犯しそうだという意の譬喩。○今は吾が名の惜しけくもなし 「吾が名」は、わが最も重いものの名も。「惜しけく」は、惜しいこと。
【釈】 神威のあらたかな神の斎垣の、絶対に越えてはならぬものも越えてしまいそうだ。今は、わが最も重んずる名も惜しいことはない。
【評】 この歌も、上の「霊ちはふ」の歌と同じく、思い迫った最後の気分を、吐き出すがごとくにいっているものである。恋の妨げに逢い、昂奮しての激情であることは、上の歌より明らかである。上の消極的なのとは反対にこれは積極的である点が違うのみである。「越えぬべし」と決心をいい、その説明として「惜しけくもなし」と同じ形をもって言い放っているところ、その気息をあらわしている。調べによって活かされている。
2664 夕月夜《ゆふづくよ》 暁闇《あかときやみ》の 朝影《あさかげ》に 吾《わ》が身《み》はなりぬ 汝《な》を念《も》ひかねに
暮月夜 曉闇夜乃 朝影尓 吾身者成奴 汝乎念金丹
【語釈】 ○夕月夜暁闇の 「夕月夜」は、夕月のある夜で、その薄ぐらい意で暁闇にかかる枕詞。「暁闇」は、夜明けの時の闇で、意味で「朝」と続き、初二句その序詞。○朝影に吾が身はなりぬ 朝の影法師のように細長く、わが身は痩せて来た。○汝を念ひかねに あなたを思うに堪えなくして。「に」は、にしての意。
【釈】 夕月夜のような暁の闇の移ってゆく朝の、朝日に映る影法師のようにわが身は痩せて来た。あなたを思うに堪えずして。
【評】 女に片恋の苦しさを訴えた歌である。「朝影に」は慣用に近いものとなっていたかと思われる。「夕月夜暁闇の」という序詞は、夜を薄暗い面において捉えているもので、悩ましい気分を暗示しようとしたものとみえるが、理が勝ち、事が多くなりすぎているので、肝腎の気分のほうがかえって稀薄になり、散漫な感を起こさせるものとなっている。この序詞は巻十二(三〇〇三)にも用例のあるもので、一首創意のないものである。以下十首、月に寄せての歌。
(172)2665 月《つき》しあれば 明《あ》くらむ別《わき》も 知《し》らずして 寐《ね》て吾《わ》が来《こ》しを 人《ひと》見《み》けむかも
月之有者 明覽別裳 不知而 寐吾來乎 人見兼鴨
【語釈】 ○明くらむ別も 夜の明けていよう見さかいもで、「別」は、差別。○寐て吾が来しを 寐過ごして、帰って来たのを。
【釈】 月があるので、夜が明けていよう見さかいも付かずに、寐過ごしてわが帰ったのを、人が見たであろうか。
【評】 例の多くありそうなことで、詠み方も平明なものである。不安をいったものではあるが、明るく楽しげな歌である。謡い物として謡われていたかと思われる。
2666 妹《いも》が目《め》の 見《み》まく欲《ほ》しけく 夕闇《ゆふやみ》の 木《こ》の葉隠《はごも》れる 月《つき》待《ま》つが如《ごと》
妹目之 見卷欲家口 夕闇之 木葉隱有 月待如
【語釈】 ○妹が目の見まく欲しけく 「目」は、顔かたち。「見まく」は、見むの名詞形。「欲しけく」は、形容詞「欲しけ」に「く」の接して名詞形となったもの。
【釈】 妹の顔の見たく思われることは、夕闇に、木の葉に隠れている月を待つようだ。
【評】 男が女の許へ通おうと、夕闇の路を歩いている時の感と思われる。この場合の月は美観としてのものではなく、それを頼りとして歩く実用としての月で、その月が木の葉隠れになると歩けなくなるというそれである。実際に即しての譬喩で、当時にあってはきわめて適切に響くものであったろう。たのしく当惑している男の気分の感じられる歌である。
2667 真袖《まそで》もち 床《とこ》うち払《はら》ひ 君《きみ》待《ま》つと 居《を》りし間《あひだ》に 月《つき》傾《かたぶ》きぬ
眞袖持 床打拂 君待跡 居之間尓 月傾
【語釈】 ○真袖もち床うち払ひ 「其袖」は、両方の袖。「床うち払ひ」は、床の塵を払って。床は部屋の一部に取りつけてあったので、塵が置き(173)やすかったのである。
【釈】 両袖をもって床の塵を払って、君を待っていた間に、月が傾きました。
【評】 夜明け近くになって訪れて来た夫に対して、妻の挨拶の形でいった歌である。待ち遠にしていたと、喜びに恨みをまじえての心のものである。一首、気分の具象で、「居りし間に」は、誇張のあるもので、巧みさもあるものである。物言いが婉曲で、上流階級を思わせるものである。月は実物で、寄せてのものではない。
2668 二上《ふたがみ》に 隠《かく》ろふ月《つき》の 惜《を》しけども 妹《いも》が手本《たもと》を 離《か》るるこの頃《ごろ》
二上尓 隱經月之 雖惜 妹之田本乎 加流類比來
【語釈】 ○二上に隠ろふ月の 「二上」は、二上山で、奈良県北葛城郡当麻村。葛城山脈の中の嶺で、大和の平野から西にあたっている。「隠ろふ」は、隠るの連続で、隠れつついる月。譬喩として「惜し」と続き、以上その序詞。○惜しけども 惜しけれどもの古格。○妹が手本を離るるこの頃 「手本」は、腕で、手枕を言い換えたもの。「離るるこの頃」は、せずにいるこの頃であるよ。詠嘆をもつもの。
【釈】 二上山に隠れつついる月のように、惜しくはあるけれども、妹の手枕をせずにいるこの頃であるよ。
【評】 何らかの事情で妻に違えずにいる男であるが、事情には触れず、気分だけをいっているものである。「惜しけども」という説明的の語が、「二上に」の序詞によって生かされて、気分となし得ている歌である。淡泊な詠み方が特色となっている。
2669 吾《わ》が背子《せこ》が ふりさけ見《み》つつ 嘆《なげ》くらむ 清《きよ》き月夜《つくよ》に 雲《くも》な棚引《たなび》き
背子之 振放見乍 將嘆 清月夜尓 雲莫田名引
【語釈】 ○吾が背子がふりさけ見つつ嘆くらむ わが背子がふり仰いで見つつ、我を思って嘆いているだろうで、「らむ」は、現在の推量。○清き月夜に雲な棚引き 「月夜」は、月で、清い月に、雲よ棚引いてくれるな。
【釈】 わが夫がふり仰いで見つつ、我を思って嘆いているだろうこの清い月に、雲よ棚引いてくれるな。
(174)【評】 月夜、月に対して、遠くいる夫を思い、夫もまた同じような嘆きをしていようと思って、月を思いを交わすものとしている心である。上の(二四六〇)人麿歌集の「遠妻の振仰け見つつ偲ふらむこの月の面に雲なたなびき」を摸した歌である。
2670 まそ鏡《かがみ》 清《きよ》き月夜《つくよ》の 移《ゆつ》りなば 念《おも》ひは止《や》まず 恋《こひ》こそ益《ま》さめ
眞素鏡 清月夜之 湯徙去者 念者不止 戀社益
【語釈】 ○まそ鏡清き月夜の 「まそ鏡」は、意味で「清き」にかかる枕詞。「月夜」は、月。○移りなば 「ゆつる」は、「うつる」で、巻四(六二三)「松の葉に月はゆつりぬ」とある。移って行ったならばで、隠れたならばの意。○念ひは止まず恋こそ益さめ 「念ひ」は、嘆きで、「止まず」は、紛れずに。「恋こそ益さめ」は、反対に恋が益して来よう。
【釈】 真澄みの鏡のようなこの清い月が隠れて行ったならば、妻を思うこの嘆きは紛れずに、恋の方が増して来ることであろう。
【評】 男が旅にあって、夜、清い月に対していると、妻を恋うる嘆きが慰められたにつけ、この月が沈んだならば、この心は失せて、恋の方が増さって来ようと思ったのである。月に慰められたのが重点で、慰められたがゆえにその失せた時が思いやられるという、心理の自然のある歌である。実感としてもった感そのものをあらわした歌である。個性的な作である。
2671 今夜《こよひ》の 在明月夜《ありあけづくよ》 在《あ》りつつも 公《きみ》を置《お》きては 待《ま》つ人《ひと》もなし
今夜之 在開月夜 在乍文 公※[口+立刀]置者 待人無
【語釈】 ○今夜の在明月夜 「今夜」は、訓がさまざまである。集中の例によると、「今夜」は「こよひ」とのみ訓ませている。「在明月夜」は、夜が明けてもある月。同音で下の「あり」にかかり、以上その序詞。○在りつつも このようにありながら。○公を置きては待つ人もなし 公をほかにしては、待つ人とてはない。
【釈】 今夜の在明月夜のように、このようにありながら、公をほかにしては待つ人もない。
【評】 女の、夜夫の通って来るのを待ちつづけ、ついに待ち得なかった時の心である。夫を怨めしく思ったが、思い返して、やはりこうしてあの公を待つよりほかはないと諦めを付けた心である。「今夜の在明月夜」は、その時期を待っていたことを暗示したもので、叙述とすべきものを序詞の形にして気分化したもので、上手な序詞である。
(175)2672 この山《やま》の 嶺《みね》に近《ちか》しと 吾《わ》が見《み》つる 月《つき》の空《そら》なる 恋《こひ》もするかも
此山之 嶺尓近跡 吾見鶴 月之空有 戀毛爲鴨
【語釈】 ○この山の嶺に近しと 「この山」は、眼前の山を指したもので、あの山の。「嶺に近しと」は、下の「月」の位置で、蜂に近い空にいると。○吾が見つる月の空なる 「吾が見つる月の」は、わが見たところの月のようにで、以上「空」にかかる序詞。「見つる」の「つる」は、完了。「空なる」は、心が空にあるで、落ちつかない意。○恋もするかも 恋をしていることであるよと、詠嘆したもの。
【釈】 あの山の峰に近いとわが見たところの月のように、心が上の空の恋をしていることであるよ。
【評】 片恋をしている男の、心が空になっている状態を意識して、深く嘆いた心である。「吾が見つる月の」まで三句以上を費やしている序詞は、「空なる」をいうためのものであるが、同時に叙事であって、「見つる月」が、物思いにとらわれている間に、いつか遠く移っていることを知り、それによって、「空なる」を意識したのである。これは「空なる」を説明にとどめず、事実であることをいい、序詞という形にして気分化したものである。細かい心をもった序詞で、巧みだとすべきである。
2673 ぬばたまの 夜《よ》渡《わた》る月《つき》の 移《ゆつ》りなば 更《さら》にや妹《いも》に 吾《わ》が恋《こ》ひ居《を》らむ
烏玉乃 夜渡月之 湯移去者 更哉妹尓 吾戀將居
【語釈】 ○夜渡る月の移りなば 「夜渡る月」は、夜空を渡る月。「移りなば」は、移って隠れたならば。○更にや妹に吾が恋ひ居らむ さらに新たに、妹を恋い続けることであろうかで、「や」は、疑問の係。
【釈】 夜空を渡る月が隠れたならば、さらにまた妹を恋い続けることであろうか。
【評】 上の「まそ鏡」の歌と、作意は全く同じである。上の歌は思い入っていっているので、気分の集中が行なわれ、ある深みをもったものとなっているが、この歌は思い入りが少なく、ただちに感傷となってしまっているので、浅いものとなっている。境も作意も同じであるが、相応の距離をもったものとなっている。
2674 朽網山《くたみやま》 夕居《ゆふゐ》る雲《くも》の 薄《うす》れ往《ゆ》かば 我《われ》は恋《こ》ひむな 公《きみ》が目《め》を欲《ほ》り
(176) 朽網山 夕居雲 薄徃者 余者將戀名 公之目乎欲
【語釈】 ○朽網山夕居る雲の 「朽網山」は、大分県|直入《なおり》郡にある久住《くじゆう》山の古名だという。豊後国風土記、直入郡には、救※[譚の旁]《くたみ》峯とあり、この山の火山であることをいっている。「夕居る雲」は、夕方、山に下りて来てかかっている雲。○薄れ往かば 訓が問題となり、誤写説も出ている。上からの心の続きが、不明にみえるからである。薄れて行ったならばで、夕方、一旦濃くかかった雲が、時間が立つと次第に薄れてゆく意で、夜になることをあらわしたものと思われる。○我は恋ひむな公が目を欲り 我は恋うることだろうよ。君の顔を見たくてで、「な」は、感動の助詞。
【釈】 朽網山に夕方下りて来てかかっている雲が薄れて行ったならば、我は恋うることであろうよ。公の顔を見たくて。
【評】 朽網山に近く住んでいる女が、夕方、その山に下りている雲を眺めての心で、この雲が薄れる夜になったら、公に逢いたくて恋うることであろうというのである。山にかかる雲の状態の変化は、大体一定しているものなので、その土地の者には、「薄れ往かば」はただちに夜を思わせたのであろう。推量として「公が目を欲り」といっているのは、儀礼めいた語である。しかし女の神経は鋭敏に働いている歌である。その土地の謡い物か、あるいは遊行婦などの歌ではないかと思わせる。以下三首、雲に寄せる歌。
2675 君《きみ》が著《き》る 三笠《みかさ》の山《やま》に 居《ゐ》る雲《くも》の 立《た》てば継《つ》がるる 恋《こひ》もするかも
君之服 三笠之山尓 居雲乃 立者繼流 戀爲鴨
【語釈】 ○君が著る三笠の山に 「君が著る」は、「三笠」にかかる枕詞。古くは笠をかぶることを着るといった。○居る雲の 下りてい(177)雲で、夜の雲。○立てば継がるる 「立てば」は、朝、空に立ちのぼれば。「継がるる」は、後の雲も続いてのぼるで、事実、朝の雲の山を離れる状態は忙しいものである。以上は止む時もない譬喩である。序詞とすれば、「立てば」までがそれで、叙述と序詞の中間的なものである。
【釈】 君が着る三笠の山に夜を下りて居る雲の、朝空に立ち始めると、後から継がれるような、止む時もない恋をすることであるよ。
【評】 女が朝、三笠山を離れる夜の雲の、絶え間なく続く状態を見て、自分の恋を連想して嘆いた形の歌である。すなわち実際に即してはいるが、同時に一方では、物柔らかく、静かな調べをもっていっているので、それによって気分となり、結局、嘆きではあるが明るさをもったものとなっている。巻三(三七三)山部赤人の「高※[木+安]の三笠の山に鳴く鳥の止めば継がるる恋もするかも」と交流するところのあるものである。
2676 ひさかたの 天飛《あまと》ぶ雲《くも》に ありてしか 君《きみ》を相見《あひみ》む おつる日《ひ》なしに
久堅之 天飛雲尓 在而然 君相見 落日莫死
【語釈】 ○ありてしか 「てしか」は、願望の意。巻三(三四三)に出た。○君を相見む 「君」は、ここは男より女を指したもの。○おつる日なしに 漏れる日なしに。
【釈】 身が空を飛ぶ雲であってほしい。それだと君に逢おう。漏れる日なしに。
【評】 空を自由に渡る風や雲を見て羨む心は、例の多いものである。雲を眺めて、その刺激でいっている形のものである。男の心である。
2677 佐保《さほ》の内《うち》ゆ 嵐《あらし》の風《かぜ》の 吹《ふ》きぬれば 還《かへ》りは知《し》らに 歎《なげ》く夜《よ》ぞ多《おほ》き
佐保乃内從 下風之 吹礼波 還者胡粉 歎夜衣大寸
【語釈】 ○佐保の内ゆ 「佐保の内」は、佐保山と佐保川との間一帯の地名。「ゆ」は、を通って。○嵐の風の吹きぬれば 訓はさまざまである。『新訓』の訓。山おろしの風が吹いて来るので。○還りは知らに 原文「還者胡粉」。諸注、訓み悩んで、さまざまに訓んでいるが、『代匠記』は(178)「胡粉」は「白土」であるとして「しらに」と訓んだ。『新訓』の訓。帰りは知らずしてで、嵐の風の寒さに朝の帰りを懶《ものう》くしての意。○歎く夜ぞ多き 嘆く夜の多いことであるよ。
【釈】 佐保の内をとおって嵐の風が寒く吹いているので、朝の帰りを忘れたさまになって、嘆く夜の多いことであるよ。
【評】 佐保の内の妻の許へ通っている男の、冬の頃、嵐が吹くので、人目を思いながらも帰ることを懶くしている心である。実感をおおらかに、しかし心を尽くして詠んでいる歌で、身分ある人らしい気品をもっている。以下三首、風に寄せての歌。
2678 はしきやし 吹《ふ》かぬ風《かぜ》ゆゑ 玉匣《たまくしげ》 開《あ》けてさ宿《ね》にし 吾《われ》ぞ悔《くや》しき
級寸八師 不吹風故 玉匣 開而左宿之 吾其悔寸
【語釈】 ○はしきやし吹かぬ風ゆゑ 「はしきやし」は、愛すべきで、ここは風を讃えての枕詞。「吹かぬ風ゆゑ」は、夏の夜の涼しい風を迎えようとしたが、吹いて来ないのにの意。○玉匣開けてさ宿にし 「玉匣」は、「開け」の枕詞。
【釈】 愛すべき涼しい風の吹かないことなのに、戸を開けて寝てしまった我は悔しいことであるよ。吹いて来ない風のゆえにで、「開けて」は、風を迎えるために戸を開けて。「さ宿にし」は、「さ」は、接頭語。寝てしまった。○吾ぞ悔しき われは悔しいことであるよと、詠嘆したもの。
【評】 この歌は、女が、真実であろうと予想して関係を結んだ男が、真実でないことを知って、関係したことを後悔している心である。事を婉曲にいおうとして、一首全体を譬喩としているのである。譬喩は、男を夏の夜の涼風とし、それに対しての自身の態度を、涼風を迎えようとして、戸を開け放って寝たことにし、涼風は吹かないのに、不用意なことだったとしているのである。「はしきやし吹かぬ風ゆゑ」は、真実のない男であるのに、「玉匣開けてさ宿にし」は、心を許して共寝をしてしまったというのである。これを詠み方としていえば、事を気分としていおうとし、気分の具象化の方法として、隠喩にしたということである。心は無理なく通じる歌である。気分化のすぎた歌といえよう。
2679 窓越《まとご》しに 月《つき》おし照《て》りて あしひきの 嵐《あらし》吹《ふ》く夜《よ》は 公《きみ》をしぞ念《おも》ふ
窓超尓 月臨照而 足檜乃 下風吹夜老 公乎之其念
(179)【語釈】 ○月おし照りて 強く照らして。○あしひきの嵐吹く夜は 山の嵐の寒く吹いて来る夜は。
【釈】 窓越しに月が強く照って、山の嵐の寒く吹く夜は、君のひたすらに思われることであるよ。
【評】 冬の夜の寒さに侘びて、女の夫を恋うる心である。初句より四句までは、寒さをそれといわずに描写しているもので、印象が鮮明なためにおのずから気分となっているものである。「公をしぞ念ふ」も、肌寒さよりのことであるが、それも気分としている。古風に似て新風の歌で、中間的なものである。
2680 河千鳥《かはちどり》 住《す》む沢《さは》の上《うへ》に 立《た》つ霧《きり》の いちしろけむな 相言《あひい》ひ始《そ》めてば
河千鳥 住澤上尓 立霧之 市白兼名 相言始而者
【語釈】 ○河千鳥住む沢の上に立つ霧の 河千鳥が住んでいる沢の上に立つ霧のようにで、水の上に立つ霧の濃い意で「いちしろ」に続け、以上その序詞。○いちしろけむな 「いちしろけ」は、形容詞、「む」は、推量の助動詞、「な」は、感動の助詞。人目に立つことであろうよ。○相言ひ始めてば 語らい始めたならばで、夫婦関係を結んだならばの意。
【釈】 河千鳥の住んでいる沢の上に立つ霧のように、人目に立つことであろうよ。語らい始めたならば。
【評】 女の歌で、男と夫婦関係を結ぼうとする直前、そうなったらさぞ人目に立つことだろうと惧れた心である。序詞は眼前を捉えたもので、譬喩の心の濃厚なものである。光景としても特色のあるものである。霧に寄せての歌。
(180)2681 吾《わ》が背子《せこ》が 使《つかひ》を待《ま》つと 笠《かさ》も著《き》ず 出《い》でつつぞ見《み》し 雨《あめ》のふらくに
吾背子之 使乎待跡 笠毛不著 出乍其見之 雨落久尓
【語釈】 ○笠も看ず出でつつぞ見し 笠も被らずに外に、出て見い見いしたことであるよ。○雨のふらくに 「ふらく」は、「ふる」に「く」が接して名詞形となったもの。
【釈】 わが背子の使を待つとて、笠も被らずに外へ出て見い見いしたことであるよ。雨の降っていることなのに。
【評】 事と気分とが一つに融け合って、期待の明るさを平明にあらわしている歌である。民謡の条件を十分に備えたものである。巻十二(三一二一)に重出する。以下五首、雨に寄せての歌。
2682 韓衣《からころも》 君《きみ》にうち著《き》せ 見《み》まく欲《ほ》り 恋《こ》ひぞ暮《く》らしし 雨《あめ》のふる日《ひ》を
辛衣 君尓内著 欲見 戀其晩師之 雨零日乎
【語釈】 ○韓衣君にうち著せ 「韓衣」は、唐風の衣服で、従来の物より裾の長い仕立て。その仕立てが、貴族より始まって庶民にまで及んだことと思われる。新風の衣服としてである。「うち著せ」は、「うち」は、接頭語で、着せて。○見まく欲り 「見まく」は、「見む」の名詞形。見たく思い。○雨のふる日を これを重く結句に置いていっているのは、雨の日には暇のある生活をしている者同士で、当然来るものとしてのことと取れる。晴れた日は農耕に忙しい庶民とみえる。
【釈】 唐衣を君に着せて見たく思い、待ち恋うて暮らしたことであるよ。雨の降る日を。
【評】 夫の着物は妻が責任として、一切その手でまかなったのである。晴着としての唐衣ができ、それを夫に着せ、そのさまを見たいというのは、妻としては特別な喜びで、夫としても喜びであったろう。農耕のできない雨の日を、当然来そうなものとして、一日中、待ち憧れていたというのは、庶民生活の実際に深く喰い入ったものである。この夫妻は世間晴れてのものと取れる。一些事を捉えて、当時の庶民としては、男女いずれも理想的な、明るく楽しい夫婦生活を示している歌である。上の歌と同じく謡い物で、やや年齢をした者に喜ばれたものと思われる。
(181)2683 彼方《をちかた》の 赤土《はにふ》の小屋《をや》に ひさめ零《ふ》り 床《とこ》さへ濡《ぬ》れぬ 身《み》にそへ吾妹《わぎも》
彼方之 赤土少屋尓 ※[雨/脉]※[雨/沐]零 床共所沾 於身副我妹
【語釈】 ○彼方の赤土の小屋に 「彼方」は、あちらの意で、その住んでいる里を、標準としていったもの。その里から離れた所で、人目に着かない所としていっている。「はにふ」は、黄土にも赤土にもいい、その採れるところの称から、その物の称となったものである。ここは赤土。「小屋」は、古事記に仮名書きのあるもの。赤土をもって壁とした小さい屋。○ひさめ零り 「ひさめ」は、原文「※[雨/脉]※[雨/沐]」で、これは小雨であるが、歌意は続きで見ると大雨である。然るに紀州本には「※[雨/泳]※[雨/沐]」の文字があり、これは大雨で、和名「ひさめ」である。これだと歌意に合う。文字が似ているところから、誤字かまたは誤用ではないかとされている。○床さへ濡れぬ 床までも濡れたで、大雨が地を伝って流れ入ったものとみえる。○身にそへ吾妹 わが身に寄り添えよ吾妹。
【釈】 里より離れた、赤土で塗りめぐらした小屋に大雨が降って来て、床までも濡れた。わが身に寄り添えよ吾妹。
【評】 上代の男女は、人目のない所だと、いかなる所ででも密会することが一般に行なわれていて、身分ある人でも、場合によっては憚らなかった。この歌は庶民のもので、庶民階級ではむしろ普通のことであった。「彼方の赤土の小屋」は、多分耕作地に設けてあった、収穫物の一時の置き場とでもいったものであったろう。構造も、大和に多い赤土をもって塗り固めた、半永久的な物であったろう。耕作に来ていた男女が、そこで密会をしているおりから大雨が降り出し、雨は小屋の内へ流れ入ったので、男が女をいたわっていった形のものである。歌は、抒情をとおしてのものであるが、初句より四句までは客観的描写で、結句が抒情になっているものである。調べも線が太く強く、印象の鮮明を期しているものである。第三者の構えて作ったものということを明らかに思わせるものである。一般性の上に立ち、興味をねらいとして作った謡い物と思われる。健康な、明るい庶民を思わせる、厭味のない歌である。
2684 笠《かさ》無《な》みと 人《ひと》には言《い》ひて 雨《あま》つつみ 留《とま》りし君《きみ》が 容儀《すがた》し念《おも》ほゆ
笠無登 人尓者言手 雨乍見 留之君我 容儀志所念
【語釈】 ○笠無みと人には言ひて 笠がないゆえにと、人にはいって。○雨つつみ留りし君が 「雨つつみ」は、巻四(五一九)に既出。雨を憚って、家に籠もっている意の名詞。「留りし君」は、わが家にとどまっていた君。
(182)【釈】 笠がないゆえにと人にはいって、雨籠りをしてわが許にとどまっていた、君の姿が思われる。
【評】 「人には言ひて」は、人は家の者で、夫婦関係が承認されていなかったからと取れる。「容儀し念ほゆ」は関係が古くはなく、昼間夫の姿を見ることはほとんど無かったところからの印象であろう。これらは実際に即していっているところからの、おのずからなる味わいである。睦まじい新夫婦が思われる。
2685 妹《いも》が門《かど》 行《ゆ》き過《す》ぎかねつ ひさかたの 雨《あめ》も零《ふ》らぬか 其《そ》を因《よし》にせむ
妹門 去過不勝都 久方乃 雨毛零奴可 其乎因將爲
【語釈】 ○雨も零らぬか 「零らぬか」は降らないのか、降ってくれよの意で、願望をあらわす。○其を因にせむ 降ればそれを立ち寄る理由にしよう。
【釈】 妹が門を行き過ぎかねた。雨が降らないかなあ。それだと、それを立ち寄る理由にしよう。
【評】 この夫妻も、上の歌と同じような関係である。昼間、妹が家に立ち寄る口実として、雨を願っているところは、事情が上の歌と前後している。男の歌だけに単純である。
2686 夕占《ゆふけ》間《と》ふ 吾《わ》が袖《そで》に置《お》く 白露《しらつゆ》を 公《きみ》に見《み》せむと 取《と》れば消《け》につつ
夜占間 吾袖尓置 白露乎 於公令視跡 取者消管
【語釈】 ○夕占間ふ 夕占によって神意を窺うで、窺うのは、下の「公」が来るか来ないかである。「夕占」は上の(二五〇六)に出た。○取れば消につつ 手に取れば、消えてしまいしまいする。
【釈】 路に立って夕占を窺っている、わが袖の上に置く白露を、君が来た時見せようと、手に取れば消えてしまいしまいする。
【評】 「夕占問ふ」と、「白露を公に見せむと」とは、事としては矛盾しているものである。しかし気分とすると、待っている公が今にも来るものとすれば自然になる。気分を主としての作であろう。「白露を取れば消につつ」は、例の少なくない語である。この歌では「消につつ」にあわれがある。以下六首、露に寄せての歌。
(183)2687 桜麻《さくらあさ》の 苧原《をふ》の下草《したくさ》 露《つゆ》しあれば 明《あ》かしてい行《ゆ》け 母《はは》は知《し》るとも
櫻麻乃 苧原之下草 露有者 令明而射去 母者雖知
【語釈】 ○桜麻の苧原の下草 「桜麻」は、麻の一種の名とは取れるが、いかなる特色の麻かは未詳である。「苧原」は、苧生で、苧を作ってある所。「下草」は、その苧の下草。○露しあれば 「し」は、強意。露があるので。○明かしてい行け 「明かして」は、夜を明かしてで、下草の朝露は、夜が明けると乾くとしていっているもので、男の露に濡れるのをいたわっての心である。「い行け」の「い」は、接頭語。○母は知るとも 「母」は、女の母で、夫婦関係は母に秘密にしてあり、したがってその事の知られるのは大きいことなのである。たとい母は知ろうともで、強い心からいっているもの。
【釈】 桜麻の苧を作ってある原の下草は、露があるので、夜を明かして帰りなさい。母はそれと知ろうとも。
【評】 女の後朝の別れを惜しんでの心である。男女の関係は、女の母には秘密なものとし、また女の家は麻畑に囲まれていて、出入りの細路は、朝露が深いものとしていっているものである。その家から見て庶民でもある。女のいうところは、男の朝露に濡れるのをいたわって、乾いてから帰れというので、そのためには母に知られてもかまわぬというので、事の軽重を忘れた情痴の語である。それがこの歌の魅力となっている。「桜麻」という語はここにだけあるもので、どういう物かはわからないが、語感の美しいもので、これも魅力の一部をなしている。一首の心としては、実際にはありうべくもなく、聞いて快いだけのものである。語続きも、華やかに美しく、明るいもので、謡い物の匂いの濃厚なものである。若い男の興味をもって謡ったものと思われる。
2688 待《ま》ちかねて 内《うち》には入《い》らじ しろたへの 吾《わ》が衣手《ころもで》に 露《つゆ》は置《お》きぬとも
(184) 待不得而 内者不入 白細布之 吾袖尓 露者置奴鞆
【語釈】 ○待ちかねて内には入らじ 待ち受け得ずして、家の内へ入ることはしまいで、男の来るのを戸外に待っている心。
【釈】 待ち受け得ずして、家の内へ入ることはしまい。わがしろたえの袖に夜露が置こうとも。
【評】 夫の来るのを戸外に立って待っていて、待ちきれなくなった際の心である。どうしても待ち受けようと、我と我を励ました心である。「待ちかねて内には入らじ」と、卒然とその決意を言い出しているところに、その気息が現われている。生きた歌である。
2689 朝露《あさつゆ》の 消《け》やすき吾《わ》が身《み》 老《お》いぬとも 又《また》若《を》ちかへり 君《きみ》をし待《ま》たむ
朝露之 消安吾身 雖老 又若反 君乎思將待
【語釈】 ○朝露の消やすき吾が身 「朝露の」は、消の枕詞。「消やすき吾が身」は、死にやすいわが身。○老いぬとも又若ちかへり 「老いぬとも」は、たとえ老いようともで、仮想。「若ちかへり」は、「若ち」は、もとへ立ち返る意。「かへり」は、繰り返して強めたもので、一語。これは巻三(三三一)、巻四(六五〇)などしばしば出た語で、藤原朝から奈良朝へかけて行なわれた道教の説くところで、仙薬を服すると若返り、不老不死の身となるという、その若返りである。いついつまでもという意でいっているもの。
【釈】 朝露のような死にやすい身であるが、老いてしまおうともまた若返って、君の来るのを待とう。
【評】 女の疎遠にしている夫に訴えた心である。君に限りなき思慕を寄せているというのであるが、それをいうに、「朝露の消やすき吾が身」といぅ仏教の語と、「老いぬとも又若ちかへり」という道教の語とを取合わせていっているものである。いずれもその時代の流行語で、当時としては気の利いた言い方であったろうと思われる。
2690 しろたへの 吾《わ》が衣手《ころもで》に 露《つゆ》は置《お》けど 妹《いも》は逢《あ》はさず たゆたひにして
白細布乃 吾袖尓 露者置 妹者不相 猶豫四手
【語釈】 ○妹は逢はさず 『新訓』の訓。「逢はさず」は、逢わずの敬語で、女性に対しての慣用。○たゆたひにして 「たゆたひ」は、どっちつ(185)かずの状態をいう語で、ここは女が躊躇していて。
【釈】 しろたえのわが袖の上に露は置いたけれど、妹は逢ってくださらない。躊躇していて。
【評】 家人に忍んで逢う関係の妹の家の戸外に立ち、その出て来るのを待ちかねた男の心である。「たゆたひにして」の一句で成り立っている歌である。
2691 かにかくに 物《もの》は念《おも》はじ 朝露《あさつゆ》の 吾《わ》が身《み》一《ひと》つは 君《きみ》がまにまに
云々 物者不念 朝霧之 吾身一者 君之隨意
【語釈】 ○かにかくに物は念はじ とやかくと物は考えまい。○朝露の吾が身−つは 「朝露の」は、消えやすい意で、「吾が身」にかかる枕詞。「一つ」は、「身」を強めていったもの。○君がまにまに 君が心のままに任せようの意。
【釈】 とやかくと物は考えまい。朝露のようなわが身一つは君の心のままに任せよう。
【評】 女が、夫である男の態度に不満を感じて、さまざまな物思いをした果てに、思い諦めて、わが身のことは思うまい、当初の心に立ちかえって、一切を君に任せようと決心した心である。例の多いものであったろう。
2692 夕凝《ゆふごり》の 霜《しも》置《お》きにけり 朝戸出《あさとで》に 甚《はなはだ》践《ふ》みて 人《ひと》に知《し》らゆな
夕凝 霜置來 朝戸出尓 甚踐而 人尓所知名
【語釈】 ○夕凝の霜置きにけり 「夕凝」は、夜の間に凝る意で、名詞。「夕」は、夜である。○朝戸出に 朝の戸を出る意であるが、ここは、夫の朝帰る意でいっているもの。○甚践みて 『新訓』の訓。「甚」は、巻七(一三七〇)「甚も零らぬ雨故」そのほかにも用例がある。ひどく踏みつけて。○人に知らゆな 人に、君の来たことを知られるな。
【釈】 夜の間に凝った霜が、路に置いたことである。朝の帰りにひどく踏みつけて、人に君の来たことを知られるな。
【評】 夜明け方、帰って行こうとする夫に対して、妻の注意したものである。霜に跡をつけるなと注意するのは例の少ないもので、実際に即してのものである。「夕凝の霜置きにけり」と、妻が置き渡している深霜に初めて心付き、転じて夫に注意する(186)ところ、情景が鮮明である。霜に寄せての歌。
2693 かくばかり 恋《こ》ひつつあらずは 朝《あさ》に日《け》に 妹《いも》が履《ふ》むらむ 地《つち》にあらましを
如是許 戀乍不有者 朝尓日尓 妹之將履 地尓有申尾
【語釈】 略す。
【釈】 このようにばかり恋い続けていずして、朝に昼に、妹が踏むであろう地であろうものを。
【評】 妹に逢い難くしている男の、その嘆きを素朴に詠嘆したものである。「妹が履むらむ地」は、実際に即した語で、最も有りやすいように思えて、実は無いものである。謡い物であったろう。地に寄せての歌。
2694 あしひきの 山鳥《やまどり》の尾《を》の 一峯《ひとを》越《こ》え 一目《ひとめ》見《み》し児《こ》に 恋《こ》ふべきものか
足日木之 山鳥尾乃 一峯越 一目見之兒尓 應戀鬼香
【語釈】 ○あしひきの山鳥の尾の 「あしひきの」は、山の枕詞。「山鳥の尾の」は、「尾」は、山鳥の尾は長く印象的なところから、連ねて言い慣れているものである。尾を「峯」に同音で続け、以上その序詞。○一峯越え これは、この歌の作者の行動を叙したもので、その往地から一峯を越して行って。この句は上を承けて、山鳥の習性をいったものと解されてもいる。それは山鳥は夜を宿る時には、雌雄谷を隔てて宿るものだとされているところから、谷を隔てての意をこのように言いかえたものとしてである。それには語としても無理があり、一首の意も漠然とするから、上のように解する。○一目見し児に恋ふべきものか 一目見ただけの可愛ゆい女に、恋うべきであろうか、恋うべきではないで、「か」は、反語。
【釈】 あしひきの山鳥の尾の、その一峯を越して行って、一目見たかわゆい女に、恋うべきであろうか、恋うべきではない。
【評】 たまたま山一つを越した彼方の部落へ行った男が、そこで見かけた女に懸想をして、我とそのあるまじきことを反省して、抑制しようとする心である。懸想には結婚ということが付き物になっていて、当然それを思うべきであるが、他部落の女との結婚は、当時にあっては困難の伴うものであったから、それを思って強く抑制しようとしたのである。実際に即しての歌である。以下五首、山に寄せての歌。
(187)2695 吾妹子《わぎもこ》に あふ縁《よし》を無《な》み 駿河《するが》なる 不尽《ふじ》の高嶺《たかね》の 燃《も》えつつかあらむ
吾妹子尓 相縁乎無 駿河有 不盡乃高嶺之 燒管香將有
【語釈】 ○駿河なる不尽の高嶺の 富士を火山とし、その燃えるのを譬喩として「燃え」につづけての序詞。○燃えつつかあらむ 「燃え」は、甚しく物を思うと、胸が熱して来るので、それを具象的にいった語。「か」は、疑問の係。
【釈】 吾妹子に逢う方法がないので、駿河国にある不尽の高嶺のように、我の胸も燃えつづけているのであろうか。
【評】 序詞が特色となっている歌である。富士の燃えることを譬喩にした謡い物があったとみえ、一首置いて次にもある。謡い物から取った序詞であろう。
2696 荒熊《あらくま》の 住《す》むといふ山《やま》の 師歯迫山《しはせやま》 責《し》ひて問《と》ふとも 汝《な》が名《な》は告《の》らじ
荒熊之 住云山之 師齒迫山 責而雖問 汝名者不告
【語釈】 ○師歯追山 所在不明である。初句よりこれまでは序詞と取れるが、下への続きが不明であるので、その点が問題となっている。○責ひて問ふとも 「責ひて」は、「せめて」と訓んで来た。『全註釈』は、「しひて」と訓み、師歯迫山の「師」と同音反復で続くとしている。これに従う。娘の秘密に関係している男を、人が強く尋ねようとも。尋ねるのは、多分その母である。○汝が名は告らじ 「汝」は、男を指したもので、あなたの名はいいますまい。
【釈】 荒熊が住んでいる山という師歯迫山の名に因みある、強いて問われようとも、あなたの名はいいますまい。
【評】 女が男に誓いの心をもって贈った形の歌である。娘が秘密にしている相手の男を、母などが強いて知ろうとするのは、家として身分の隔たりなく、また娘のためとして信頼できる男をと思ってのことであるが、娘としては、相手の名を漏らすことは禁忌を犯すことで、その関係を中絶させることとして応じなかったのである。一首は、母には背こうとも我慢する。我を思ってくれとの心である。師歯迫山付近に行なわれていた謡い物であったろう。
(188)2697 妹《いも》が名《な》も 吾《わ》が名《な》も立《た》たば 惜《を》しみこそ 布仕《ふじ》の高嶺《たかね》の 燃《も》えつつ渡《わた》れ
妹之名毛 吾名毛立者 惜社 布仕能高嶺之 燎乍渡
【語釈】 ○惜しみこそ 惜しいので。○燃えつつ渡れ 「燃え」は、逢うことを忍んで、憧れに胸を焦がしている意。「渡れ」は、継続で、「つつ」を強くしているもの。
【釈】 妹の名もわが名も、立てば惜しいので、富士の高嶺のように、憧れに胸を燃やしつづけていることだ。
【評】 女に逢わずにいる男の、他意あってのことではないと、女に断わった歌である。実用性の、素朴な歌である。
或る歌に曰はく、君《きみ》が名《な》も 妾《わ》が名《な》も立《た》たば 惜《を》しみこそ 不尽《ふじ》の高山《たかね》の 燃《も》えつつも居《を》れ
或歌曰、君名毛 妾名毛立者 惜己曾 不盡乃高山之 燎乍毛居
【解】 「或る歌」は、ある本の歌で、「本」の脱したものと取れる。これは女の男に逢わずにいる断わりである。別伝としてあるが、実用の歌として、別歌として存在していたのである。形を主として見て、異伝としたのである。
2698 行《ゆ》きて見《み》て 来《き》てぞ恋《こひ》しき 朝香潟《あさかがた》 山越《やまご》しに置《お》きて 宿《い》ねかてぬかも
徃而見而 來戀敷 朝香方 山越置代 宿不勝鴨
【語釈】 ○行きて見て来てぞ恋しき 行って逢って、帰って来てから恋しいことである。○朝香潟 巻二(一二一)「住吉の浅香の浦に」とあるので、そこであろう(大阪府堺市に今、浅香町がある)。女の住地、女の譬喩としたもの。○山越しに置きて 男の住地は朝香潟とは山が隔てていることをいい、それによって隔ての遠いことをあらわしたもの。○宿ねかてぬかも 眠りかねることであるよ。
【釈】 行って逢って、帰って来ると恋しいことである。朝香潟を山越しに置いて、眠られぬことであるよ。
【評】 男が夜、床の上にあって眠られずに思った心持である。女に逢って別れた直後の心である。客観的に、広い物言いのできるのはそうした時で、それがまた自然だからである。朝香潟という地名は諸所にありうるもので、住吉は問題になりうるも(189)のである。とにかく歌柄は庶民的のもので、その潟からさして遠くない地の男の歌であろう。「行きて見て来てぞ恋しき」は、平凡ではあるが、しかし的確無比な語で、感性を絶対なものとする心からのみ生まれるような語である。「朝香潟」もそれに近いものである。潟に寄せての歌。
2699 安大人《あだびと》の 魚梁《やな》うち渡《わた》す 瀬《せ》を速《はや》み 意《こころ》は念《おも》へど 直《ただ》に逢《あ》はぬかも
安太人乃 八名打度 瀬速 意者雖念 直不相鴨
【語釈】 ○安大人の 安太の人の。「安太」は、大和国宇智郡で、吉野川の下流の北岸の地(現在五条市に阿田町の名がある)。上代から川の漁りをしている地で、神武天皇東征の際、阿陀(あだ)で鵜養をしている者に逢われた記事が日本書紀にある。○魚梁うち渡す 「魚梁」は、漁具で、川瀬を横切って簀を仕かけ、下りて来る魚を捕える物の称。主として落鮎を捕る。「うち渡す」は、「うち」は、接頭語で、「渡す」は、上にいった横に渡す。打つともいうが、これは簀を仕かける杙を打つ意。○瀬を速み 瀬が早いので。これは譬喩で、男女関係について、周囲の噂が烈しいのでの意。
【釈】 安太の人の魚梁を仕かけている瀬の早いように、周囲の噂が烈しいので、心では思っているが、直接には逢わないことであるよ。
【評】 男が周囲の噂の烈しいのを憚って、女に逢わずにいるのを、女が他意あってのことと疑おうかと思って、女に理由を諭した歌である。どちらも吉野川沿岸の安太に近い辺りの人であって、譬喩をもっていっても十分心は通じるとしての言い方と思われる。実用のための歌である。部落生活をしている者は、一様にこうした悩みをしたので、その地方の謡い物となっていたろう。以下十七首、河に寄せての歌。
2700 玉《たま》かぎる 岩垣淵《いはがきふち》の 隠《こもり》には 伏《ふ》して死《し》ぬとも 汝《な》が名《な》は告《の》らじ
玉蜻 石垣淵之 隱庭 伏以死 汝名羽不謂
【語釈】 ○玉かぎる石垣淵の 上の(二五〇九)及び巻二(二〇七)に出た。「玉かぎる」は、石の枕詞。「石垣淵」は、岩をなして囲んでいる淵で、意味で、「隠」にかかり、以上その序詞。○隠には 「隠」は、『代匠記』の訓。隠は、夫婦関係を秘密にする意で、名詞形。秘密にするため(190)にはの意で、「は」は、強めの意のもの。秘密を守り切ろうとすれば、甚しく苦しい思いもするものとしていっている。○伏して死ぬとも 原文「伏以死」は「伏雖死」の誤りかと『考』にある。「伏して」は、悩みに堪えずしてうち伏してで、「死ぬ」の状態としてのもの。うち伏して死のうともで、仮想である。○汝が名は告らじ あなたの名はいうまいで、上に出た。
【釈】 玉のほのかにかがやく石垣淵のように、この関係を秘密にするためには、うち伏して死ぬ苦しさがあろうとも、あなたの名はいいますまい。
【評】 女が男に誓った形の歌である。心は、死をもってしても君との関係の秘密は守り遂げましょうというので、言いかえると、この心を汲んで、結んだ関係を永久に持続して下されと訴えているのである。「伏して死ぬとも」と、仮想ながらも強くいっているのは、秘密を破るのは禁忌を犯すことで、絶縁を意味していたことだからである。信仰の上に立ってのことである。
2701 明日香川《あすかがは》 明日《あす》も渡《わた》らむ 石走《いははし》の 遠《とほ》き心《こころ》は 思《おも》ほえぬかも
明日香川 明日文將渡 石走 遠心者 不思鴨
【語釈】 ○明日香川明日も渡らむ 明日香川を明日もまた渡ろう。妹の家が、明日香川を隔てていたのである。○石走の 「石走」は、川の中にある踏石で、橋代わりの物。「遠き」にかかる枕詞。石と石との間を遠しとしての意である。反対に「間近き」にも続く。○遠き心は思ほえぬかも 「遠き心」は、距離を置いて逢う心はで、「思ほえぬかも」は、思われないことであるよ。
【釈】 明日香川を明日も渡ろう。この石走の間の遠いように、距離を置いて逢おうという心は思われないことである。
【評】 明日香川を渡って妹の許に通う男が、その喜びを、明日香川に寄せていっているものである。実際に即していってはいるが、喜びの気分が主となっているので、おのずから気分化され、躍動の趣をもったものとなっている。
2702 飛鳥川《あすかがは》 水《みづ》往《ゆ》き増《まさ》り いや日《ひ》けに 恋《こひ》の増《まさ》らば 在《あ》りかつましじ
飛鳥川 水徃増 弥日異 戀乃増者 在勝申自
【語釈】 ○水往き増り 川水が流れ増さってで、譬喩の意で、四句「恋の増らば」へかかる序詞。○いや日けに恋の増らば ますます日増しに恋(191)が増さったならば。○在りかつましじ 「かつ」は、可能の意の助動詞。「ましじ」は、「まじ」の古形で、生きてはいられまい。巻二(九四)に出た。
【釈】 飛鳥川の水が流れ増さるように、ますます日増しに恋が増さったならば、生きていられまい。
【評】 片恋の悩みをしている男が、雨続きの頃、飛鳥川の水嵩の増さるのを見て、わが恋ももしこのようであったら生きてはいられまいと嘆いた心である。「飛鳥川水往き増り」は、実景を序詞の形にしたものであるが、譬喩の意が甚だ濃いので、序詞とも見えないもので、中間的なものである。「在りかつましじ」は古い語法である。人麿歌集以前の歌と思われる。
2703 真薦《まこも》刈《か》る 大野川原《おほのがはら》の 水隠《みごも》りに 恋《こ》ひ来《こ》し妹《いも》が 紐《ひも》解《と》く吾《われ》は
眞薦刈 大野川原之 水隱 戀來之妹之 紐解吾者
【語釈】 ○真薦刈る大野川原の 「真薦」は、「真」は、美称で、薦。「大野川」は、大和国添下郡、法隆寺の傍を流れる富の小川(現、奈良県生駒郡の富雄川)の下流の名。「川原」は、川と陸とまじっている所。○水隠りに 「水隠り」は、水に隠れていることで、ひそかにの意の譬喩。○紐解く吾は 「紐解く」は、衣の下紐を解くで、共寝をする時に男のすること。「吾は」は、主語で、最後にこれを置くのは、全体の語気を強めるためのもので、例の多いものである。
【釈】 真薦を刈る大野川の川原の水に隠れているように、ひそかに恋うて来た妹の、その下紐を解くよ、われは。
【評】 ひそかに恋うていた妹と、思いがかなって、初めて共寝をする男の歓びの心である。「真薦刈る大野川原の水隠りに」は、ひそかにの譬喩であるが、それとともにこの男女の往地、階級をも暗示しているもので、気分的な言い方である。「妹が紐解く」は、当時の一般の風習で、当時にあっては強い響はない語であったろう。「吾は」も気分のものである。一首全体と(192)して、歓びの表現ではあるが、事に合わせては語続きが大仰《おおぎよう》で、印象的にしようとしたものであり、調べも張らせたものである。謡い物としてその地方に謡われていたものであろう。興味本位 の、それにふさわしい歌である。
2704 あしひきの 山下《やました》動《とよ》み 逝《ゆ》く水《みづ》の 時《とき》ともなくも 恋《こ》ひわたるかも
惡氷木乃 山下動 逝水之 時友無雲 戀度鴨
【語釈】 ○山下動み逝く水の 山の裾をひびきを立てて流れ行く水ので、その間断のない意で「時ともなく」に続き、以上その序詞。○時ともなくも 「も」は、二つとも詠嘆。いつという差別もなくで、すなわち、絶えずも。
【釈】 山の裾をひびきをたてて流れて行く水のように、いつという差別もなく恋いつづけていることである。
【評】 類歌の多いもので、慣用されている句を連ねたに近い歌である。しかし調べは整っている。謡い物であったろう。
2705 愛《は》しきやし 逢《あ》はぬ君《きみ》ゆゑ 徒《いたづら》に この河《かは》の瀬《せ》に 玉裳《たまも》ぬらしつ
愛八師 不相君故 徒尓 此川瀬尓 玉裳沾津
【語釈】 ○愛しきやし 愛すべきで、ここは「君」の枕詞。○玉裳ぬらしつ 「玉裳」は、裳の美称で、自身の物。
【釈】 愛すべき、我に逢わない君のゆえに、いたずらに、こ(193)の河の瀬を渉るとてわが玉裳を濡らした。
【評】 この歌は、上の(二四二九)人麿歌集の「愛しきやし逢はぬ子ゆゑに徒に宇治川の瀬に裳裾潤らしつ」の異伝である。伝誦されて宇治以外の地に行なわれ、「宇治川」が「この川」となり、「裳裾」が「玉裳」となったのである。「玉裳」としたのは、女の歌としたのである。女より男の許に通うこともあったのである。この歌は、戯れの心からわざとこのように変えて謡っていたのを、偶然記録され、そうされたがゆえに、異伝とされたのであろう。
2706 泊瀬川《はつせがは》 速《はや》み早瀬《はやせ》を むすび上《あ》げて 飽《あ》かずや妹《いも》と 問《と》ひし公《きみ》はも
泊湍川 速見早湍乎 結上而 不飽八妹登 問師公羽裳
【語釈】 ○泊瀬川速み早瀬を 「速み」は、巻一(七三)に既出。「速き」というに同じ意。「速み早瀬」は、熟語で、急流。○むすび上げて 手に掬い上げてで、飲むためである。その水の旨さから「飽かず」と続けたので、初句よりこれまではその序詞。○飽かずや妹と 「飽かず」は、意味を転じて男女間の交情のものとし、我に飽きはしないのか妹よの意。○問ひし公はも 「はも」は、眼前に居ない人を思い嘆く意で、「は」と強くいい、「も」の詠歎を添えた助詞。我に問うたことのあったその君はなあ。
【釈】 泊瀬川の急流の水を手に掬い上げて飲み、我に飽かずにいるのか妹よと問うたことのあった、その君はなあ。
【評】 女が遠ざかってしまった男を思い出し、時を経ている関係上、悲しむというよりもむしろなつかしさを感じた心のものである。これはこの二人の間にのみあった特殊な事実で、当然叙述とすべきことを、技巧上序詞の形にしたものである。技巧というのは、「飽かずや」の一語に二義をもたせ、転換させ、屈折を付けようとしたのである。これが思い出の頂点となり、「問ひし公はも」の思い出が生きて来るのである。この結句は、古事記中巻、弟橘比売の入水直前の歌という「さねさし相模の小野にもゆる火のほ中に立ちて問ひし君はも」と同じであり、一首の構成も似ている。魅力多い歌である。
2707 青山《あをやま》の 石垣沼《いはがきぬま》の 水隠《みごも》りに 恋《こ》ひやわたらむ 逢《あ》ふ縁《よし》を無《な》み
青山之 石垣沼間之 水隱尓 戀哉將度 相縁乎無
【語釈】 ○青山の石垣沼の 「青山」は、青い山。「石垣沼」は、岩が垣をなしている沼で、石垣淵と同系の語。○水隠りに 水に隠れているよう(194)にで、上の(二七〇三)に出た。以上、きわめて秘密にの譬喩。
【釈】 青山にある岩垣沼の水に隠れているように、きわめて秘密に恋い続けてゆくのであろうか。逢う方法が無いので。
【評】 譬喩に特色を付けているのであるが、「玉かぎる石垣淵の」という成句を山に移したにすぎないものである。その土地としてこのほうが適切だという関係からでもあろう。前後、川に寄せた歌である中に、この一首は沼である。
2708 しなが鳥《どり》 猪名山《ゐなやま》響《とよ》に 行《ゆ》く水《みづ》の 名《な》のみ縁《よ》そりし 内妻《こもりづま》はも
四長鳥 居名山響尓 行水乃 名耳所縁之 内妻波母
【語釈】 ○しなが鳥猪名山響に 「しなが鳥」は、不明、鳰の一名かとも、尻長鳥かともいう。「ゐ」にかかる枕詞。「猪名山」は、摂津国河辺郡伊丹の南(現在の大阪府池田市北方の山地)にあり、猪名川の水源をなす山。「響に」は、響むの語幹に「に」を接しさせての副詞と取れる。ここにのみある語。猪名山を轟かして。○行く水の 猪名川の水ので、音の高いことより「名」とつづけ、以上三句その序詞。○名のみ縁そりし 「名のみ」は、評判にばかり。「縁そりし」は、寄せられたで、関係があるとされていた。○内妻はも 秘密の妻はなあ、と詠嘆したもの。
【釈】 猪名山を轟かして流れて行く川の水音のように、評判にばかり関係があるとされて来た、あの秘密の妻はなあ。
【評】 男の嘆いての歌で、周囲の人々からは関係があると盛んに噂されたが、その実、口約束にすぎず、逢うこともできずにいる妻を思っての心である。猪名川の水源地の辺りの住民の歌で、部落生活には多い事実とて、その地の謡い物となっていたものであろう。
一に云ふ、名《な》のみ縁《よ》そりて 恋《こ》ひつつやあらむ
一云 名耳所縁而 戀管哉將在
【解】 四、五句の別伝である。評判にばかり関係があると寄せられて、逢わずに恋いつづけていることであろうか。本文のほうが詠み方が古く、強い気分がある。時代的に改められたものとみえる。
2709 吾妹子《わぎもこ》に 吾《わ》が恋《こ》ふらくは 水《みづ》ならば 柵《しがらみ》越《こ》えて 行《ゆ》くべくぞ念《おも》ふ
(195) 吾妹子 吾戀樂者 水有者 之賀良三超而 應逝衣思
【語釈】 ○柵越えて 「柵」は、川の中に木や竹などで柵を作り、水を塞き止める装置。「越えて」は、乗り越えて。
【釈】 吾妹子にわが恋うることは、われが水であったならば、柵を乗り越えて行きそうに思われることだ。
【評】 自身の恋の心を、知性的に説明したものである。感のない詠み方である。後世これが流行して一つの型となったもので、その先行である。
或本の歌の発句《ほく》に云ふ、あひ思《おも》はぬ 人《ひと》を念《おも》はく
或本歌發句云、相不思 人乎念久
【解】 「発句」は、初句、または初二句の称である。これは初二句の別伝で、相思わない人をわが思うことはで、片思いの悩みの募る状態である。このほうは説明気分が薄くなっている。この別伝は、本文が謡い物となっていたことを示している。説明であるために、内容が掴みやすかったからとみえる。
2710 犬上《いぬがみ》の 鳥籠《とこ》の山《やま》なる いさや河《がは》 いさとを聞《き》こせ 我《わ》が名《な》告《の》らすな
狗上之 鳥籠山尓有 不知也河 不知二五寸許瀬 余名告奈
【語釈】 ○犬上の鳥籠の山なるいさや河 「犬上」は、滋賀県犬上郡。「鳥籠の山」は、今の彦根市の正法寺山だという。巻四(四八七)に出た。「いさや河」は、その山の南麓を流れる大堀川である。同音反復で、下の「いさ」にかかり、初句よりこれまでその序詞。 ○いさとを聞こせ 「いさ」は、知らないという意をあらわす間投詞で、慣用されていた語。「とを」の「を」は、感動の助詞。「聞こせ」は、いえの敬語。知らない、とおっしゃい。○我が名告らすな 私の名をおっしゃいますなで、「告らす」は、告るの敬語。
【釈】 犬上の鳥籠の山にあるいさや河の名に因みある、いさとばかり言い給えよ。わが名を告げ給うなよ。
【評】 序詞は、男女の住地を用いているもので、地名を三つまで重ね、きわめて懇ろにいっているものである。これはそのかかる語の「いさ」を気分として強めているものである。四、五句は、妻である女に対して敬語を二つまで重ね、警告をし、さ(196)らに念を押しているもので、これまたきわめて懇ろなる言い方である。男女互いに相手の名を漏らさなくするということは、上代では常識になっていて、警告などするに及ばないものである。それをこのようにいっているのは、その関係を大切に守ろうとする心からである。心は一般性をもったもので、語続きは美しく滑らかで、謡い物として磨き上げられていることを示している歌である。後世から愛された歌である。
2711 奥山《おくやま》の 木《こ》の葉《は》隠《がく》りて 行《ゆ》く水《みづ》の 音《おと》聞《き》きしより 常《つね》忘《わす》らえず
奧山之 木葉隱而 行水乃 音聞從 常不所忘
【語釈】 ○行く水の 「音」と続き、以上三句その序詞。○音聞きしより常忘らえず 噂を聞いてから、いつも忘れられない。
【釈】 奥山の木の葉に隠れて流れてゆく水音のように、噂を聞いた時から、いつも忘れられない。
【評】 女の美しいという評判を聞いてから、憧れ心がやまないというので、類想の多いものである。序詞が気分を成している。
2712 言《こと》急《と》くは 中《なか》はよどませ 水無河《みなしがは》 絶《た》ゆといふことを ありこすなゆめ
言急者 中波餘謄益 水無河 絶跡云事乎 有超名湯目
【語釈】 ○言急くは 人の噂が烈しかったならば。○中はよどませ 中間は澱んでいらっしゃいで、「よどむ」は、川の水の停滞する意で、「ませ」は、敬語。一時は通うことを中止なさいませ。○水無河絶ゆといふことを 「水無河」は、水の無い河で、意味で「絶ゆ」にかかる枕詞。「絶ゆといふことを」は、絶縁するということを。○ありこすなゆめ あってくれるな決して。
【釈】 人の噂が烈しかったならば、一時は通うことを中止していらっしゃい。しかし水無河のように、絶えるということをしてくださるな決して。
【評】 女より男に贈った歌で、女の警戒心と、我慢づよい心から、男に警告したものである。水無河以下も、その警戒心のいわせていることである。男女の天性の差が背後にあって、物語に近い感じを与える歌である。「急く」「よどむ」「水無河」「絶ゆ」など、すべて川の縁語で、それを目立たずに用いている。後の平安朝時代の歌に通うところがあって、その先行をしてい(197)る歌である。落ちついた、おおらかな趣は、後世にはないものである。
2713 明日香河《あすかがは》 行《ゆ》く瀬《せ》を早《はや》み 速《はや》けむと 待《ま》つらむ妹《いも》を この日《ひ》暮《く》らしつ
明日香河 逝湍乎早見 將速登 待良武妹乎 此日晩津
【語釈】 ○行く瀬を早み 「早み」は、早くしてで、同音で、「速」に続き、以上その序詞、譬喩の意もあるもの。○速けむと 我の来るのが早いだろうと思って。○待つらむ妹を 「を」は、詠嘆で、ものを。○この日暮らしつ 行けずにこの日を暮らした。
【釈】 明日香河の瀬の水の早い、そのように我の来るのが早いだろうと待っている妹であろうものを、行けずにこの日を暮らした。
【評】 この歌は、昼間妹を訪うことになっていたのに、都合で行けずにしまったことを、妹を中心として隣れんでいるものである。昼間訪うということはありうることであり、あらかじめ告げてあったこととみえる。とにかく普通のこととしていっているものである。「明日香河行く瀬を早み」は、女の家がその河のほとりにあるところから捉えたものである。忙しい官人生活を思わせる歌である。
2714 もののふの 八十氏川《やそうぢがは》の 急《はや》き瀬《せ》に 立《た》ち得《え》ぬ恋《こひ》も 吾《われ》はするかも
物部乃 八十氏川之 急瀬 立不得戀毛 吾爲鴨
【語釈】 ○もののふの八十氏川の 物部すなわち百官には、多くの氏がある意から、「宇治」にかかる序詞。巻一(五〇)に出た。○急き瀬に立ち得ぬ恋も 急流の中に立って、立っていられないような苦しい恋もで、「立ち得ぬ」までは、譬喩。これは宇治川を徒渉する苦しさを捉えたものである。
【釈】 百官には多くの氏がある、その宇治川の急流に立って、立ってはいられないような苦しい恋を、我はしていることだなあ。
【評】 男の恋の嘆きである。どういう事情よりの嘆きかには触れず、嘆きそのものの気分をいっているものである。譬喩は、その気分を具象しょうとしてのもので、実際に即していつている形である。宇治川には徒渉地点のあったことがほかの歌にも見えるが、そうした所も流れはきわめて急だったとみえる。序詞はその急な気分をあらわしているものである。気分の作にふ(198)さわしい調べをもっていて、苦しい気息を直接に感じさせる趣 がある。
一に云ふ、立《た》ちても君《きみ》は 忘《わす》れかねつも
一云、立而毛君者 忘金津藻
【解】 四、五句の別伝である。立って居ても君は、忘れ得なかったことだで、これは女の心である。本文の気分の歌を、ただちに事実としたものである。本文の歌が謡い物となっており、それを贈歌と見、答歌として謡ったとも見える形のものである。
2715 神名火《かむなび》の 打廻《うちみ》の埼《さき》の 石淵《いはぶち》の 隠《こも》りてのみや 吾《わ》が恋《こ》ひ居《を》らむ
神名火 打廻前乃 石淵 隱而耳八 吾戀居
【語釈】 ○神名火の打廻の埼の 「神名火」は、神の社で、下の続きから見て、飛鳥の雷の岳である。「打廻の埼」は、飛鳥川に向かって突出した埼の名。巻四(五八九)「衣手を打廻の里に」とあった地であろう。○石淵の 岩床になっている淵の。淵の人目に隠れている意で「隠り」にかかり、以上その序詞。○隠りてのみや吾が恋ひ居らむ 秘密にばかりして我は恋うていることであろうか。
【釈】 神名火の川に突出した埼の、この里にある石淵のように、思う人に知られずにのみ、われは恋うているのであろうか。
【評】 男の、懸想している女に打明けかねている悩みである。序詞が特色である。打廻の埼に近く住む男であろう。序詞によって実感としているのである。
2716 高山《たかやま》ゆ 出《い》で来《く》る水《みづ》の 石《いは》に触《ふ》れ 破《わ》れてぞ念《おも》ふ 妹《いも》にあはぬ夕《よ》は
自高山 出來水 石觸 破衣念 妹不相夕者
【語釈】 ○高山ゆ出で来る水の 高山を通って出て来る水で、山川。○石に触れ 意味で「破れ」と続き、以上その序詞。○破れてぞ念ふ 心|推《くだ》けて嘆くことだ。
(199)【釈】 高山を通って流れ出て来る川水の、岩に触れて破《わ》れるように、我も心摧けて嘆きをすることだ。妹に逢わない夜は。
【評】 妹に逢わない夜の嘆きを事情には触れず、気分としていっているものである。序詞から「破れて」までの続きが、素朴にすぎてかえってわざとらしい感を与えるものとなっている。古風の歌の巧みならぬものである。
2717 朝東風《あさこち》に 井堤《ゐで》越《こ》す浪《なみ》の 世〓《せがき》にも 逢《あ》はぬもの故《ゆゑ》 滝《たぎ》もとどろに
朝東風尓 井堤超浪之 世〓似裳 不相鬼故 瀧毛響動二
【語釈】 ○朝東風に井堤越す浪の 「朝東風」は、朝を吹く東風。強い風としていっている。「に」は、によっての意。「井堤」は、堰。川の水を塞き止める設備。「越す浪の」は、朝東風にあおられて堰を乗り越す浪の。○世〓にも 原文「世〓似裳」。この字は諸注訓み難くして、各々誤写説を立てている。『全註釈』は、「〓」は、諸本みな「蝶」であるが、『古葉略類聚鈔』は「〓」であり、これは「〓」の異体字で、「〓」は文選の注に、「城上短墻也」とあり、『倭名類聚抄』にも「城上小垣也」とある。また日本書紀の古訓にも〓に「ひめがき」の訓がある、云々といっている。ほかに例はないが、塞く垣で、木の小柵であろうと解している。それだと井堤の上に立て添えた物であろう。○逢はぬもの故 逢わないのでで、その設備がないので。○滝もとどろに 越してゆく激流も轟くまでである。
【釈】 朝東風に吹きあおられて井堰を乗り越す演が、世〓もないので、越して行く激流も轟くまでである。
【評】 一首全体が隠喩で、すなわち気分である。事情はわからないが、気分を実際に即させて具象する風から見ると、「朝東風に井堤越す浪の」は、浪は自身で、偶然に機会を掴み得て、妨害する者のない自分はの意で、「世〓にも逢はぬもの故」は、侍女のごとき者もいないのでで、「滝もとどろに」は、思うままに逢っているの意であろう。調べも、調子に乗った暢びやかなもので、気分を生かしているものである。自在な、上手な歌である。
2718 高山《たかやま》の 石本《いはもと》たぎち 逝《ゆ》く水《みづ》の 音《おと》には立《た》てじ 恋《こ》ひて死《し》ぬとも
高山之 石本瀧千 逝水之 音尓者不立 戀而雖死
【語釈】 ○高山の石本たぎち逝く水の 高山の岩の根本に激して流れゆく水ので、譬喩として「音」にかかり、以上その序詞。 ○音には立てじ 世間の噂には立てまいで、口外しまいの意。
(200)【釈】 高山の岩の根本に激して流れて行く水のように、人の噂にはしまい。恋うて死のうとも。
【評】 男の歌である。世間の評判を怖れる心から、噂には立てまい、恋うて死のうともと、思い入っていっている歌である。双方の面目を重んじての心である。
2719 隠沼《こもりぬ》の 下《した》に恋《こ》ふれば 飽《あ》き足《た》らず 人《ひと》に語《かた》りつ 忌《い》むべきものを
隱沼乃 下尓戀者 飽不足 人尓語都 可忌物乎
【語釈】 ○隠沼の下に恋ふれば 「隠沼の」は、水の出入り口のない沼で、水が下に通っている意で、「下」にかかる枕詞。「下」は、心の中。○忌むべきものを 憚るべきことであるのに。恋の相手を人に漏らすことは禁忌となっていた。
【釈】 心の中で恋うているので、飽き足らなくて、人に話した。憚るべきことであるのに。
【評】 年若い男の、恋に陶酔してのそぞろ心である。上の(二四四一)人麿歌集の「隠沼の下ゆ恋ふればすべを無み妹が名告りつゆゆしきものを」によった歌である。原歌には苦しさであるのに、これは嬉しさからである。このような作が相応に多い。
2720 水鳥《みづとり》の 鴨《かも》の住《す》む池《いけ》の 下樋《したひ》無《な》み いぶせき君《きみ》を 今日《けふ》見《み》つるかも
水鳥乃 鴨之住池之 下樋無 欝悒君 今日見鶴鴨
【語釈】 ○水鳥の鴨の住む池の下樋無み 「水鳥の」は、鴨の枕詞。「下樋無み」は、「下樋」は、地下に埋めてある樋で、地下水路である。「無み」は、それがないのでで、ここは池の水が停滞し、よごれている意で、「いぶせき」に続け、以上その序詞。○いぶせき君を 心が結ぼれて、晴れずにいた君をで、久しく逢えずにいた君をの意。○今日見つるかも 今日逢ったことであるよと、喜んだ心。
【釈】 水鳥の鴨の住んでいる池の、下樋がないので、水の交流がなくいぶせく思われるように、いぶせく思っていた君を、今日は逢ったことである。
【評】 女が久し振りに男に逢った喜びである。序詞は特殊なものであるが、この池は女の家のほとりにある物で灌水用の水として雨水を貯える池であって、したがって下樋などはないものとみえる。中心は「下樋無み」で、これは男の交通のないこと(201)を暗示しているものである。目に見るいぶせさを、心持に転じた点は平凡ではない。池に寄せての歌。
2721 玉藻《たまも》刈《か》る 井堤《ゐで》の柵《しがらみ》 薄《うす》みかも 恋《こひ》のよどめる 吾《わ》が情《こころ》かも
玉藻苅 井堤乃四賀良美 薄可毛 戀乃余杼女留 吾情可聞
【語釈】 ○玉藻刈る井堤の柵 「玉藻刈る」は、井堤の状態としていっているもので、枕詞。「井堤の柵」は、井堤としての柵で、柵を井堤としているのである。いずれも水を塞く設備であるが、井堤は井堰で、相応に堅固な物であるが、柵は木や竹を編み合わせて立てる物で、脆弱である。その脆弱の意で「薄み」と続け、以上その序詞。○薄みかも恋のよどめる 「薄み」は、相手の女が我を思う心の薄いので。浅いというのが普通であるが、柵との関係で言いかえたもの。「かも」は、疑問。「恋のよどめる」は、恋が停滞して、休止状態になっているのであろうかで、「る」は、「かも」の結。○吾が情かも あるいはまた、わが情のゆえであろうかで、わが情が薄いのであろうかの意。
【釈】 玉藻刈る井堤となっている柵の薄いように、女の情が薄いので恋が休止となっているのであろうか。あるいはまた、わが心の薄いからなのだろうか。
【評】 女との関係が、これという理由もなく、いつか疎遠になって来た男の、これは女の我を思う心が浅いせいだろうか、それとも我の女を思う心が浅いせいだろうかと、判じかねている心である。序詞の柵は、眼前の物を捉えて「薄み」を言いおこすためにしたものである。気分の歌ではあるから、序詞から本文の「薄み」への続き、またそれ以下も、全体にすっきりしたところの足りない作である。「玉藻刈る」も、枕詞風になっているが、井堤の修飾で、清い水であれば藻は生えるが、語としては大袈裟である。
2722 吾妹子《わぎもこ》が 笠《かさ》の借手《かりて》の 和射見野《わざみの》に 吾《われ》は入《い》りぬと 妹《いも》に告《つ》げこそ
吾妹子之 笠乃借手乃 和射見野尓 吾者入跡 妹尓告乞
【語釈】 ○笠の借手の 「借手」は、笠の内面の、頭のあたる所へ小さい輪を着ける、その輪の称。輪を同音で、下の「和」につづけて、以上その序詞。○和射見野に 巻二(一九九)「高麗剣和射見が原の」と出た。○妹に告げこそ 「こそ」は、希求の助詞。妹に告げてもらいたい。
【釈】 吾妹子の笠の借手である輪の、その和射見野へわが旅路は入ったと、家にある妻に告げてもらいたい。
(202)【評】 西より東へと遠い旅をしている男が、美濃国の和射見野まで来た時の感である。家を離れて遠く来たと思うあわれを、家の妻に告げてやりたいと思ったのである。「吾妹子が笠の借手の」という序詞は、恋いつづけている妹を、自分も被っている笠から連想したものであろう。語少なく、深いあわれを述べた歌である。野に寄せての歌。
2723 数多《あまた》あらぬ 名《な》をしも惜《を》しみ 埋木《うもれぎ》の 下《した》ゆぞ恋《こ》ふる 行《ゆ》く方《へ》知《し》らずて
数多不有 名乎霜惜三 埋木之 下從其戀 去方不知而
【語釈】 ○数多あらぬ名をしも惜しみ 「数多あらぬ名」は、ただ一つの名を強めていったもの。「しも」も、強意。一つしかない名を重んじて。○埋木の下ゆぞ恋ふる 「埋木の」は、地下にある物の意で、「下」にかかる枕詞。「下ゆぞ恋ふる」は、心の中を通して、そこでばかり恋うていることだ。○行く方知らずて どうなるかも知らずしてで、どうというあても無く。
【釈】 一つしかないわが名を惜しんで、心の中を通してのみ恋うていることである。どうなるというあても知らずに。
【評】 上代男子の、名を重んずる心と恋との相剋で、例の少なくないものである。「数多あらぬ名をしも」は力があり、「行く方知らずて」は拡がりがある。気分のある歌で、調べによって生かされている。埋木に寄せての歌。
2724 秋風《あきかぜ》の 千江《ちえ》の浦廻《うらみ》の 木積《こづみ》なす 心《こころ》は依《よ》りぬ 後《のち》は知《し》らねど
冷風之 千江之浦廻乃 木積成 心者依 後者雖不知
【語釈】 ○秋風の千江の浦廻の 「秋風の」は、秋風の吹く。「千江の浦」は、所在未詳である。○木積なす 木屑のように。海に浮かんでいた物が、風に吹き寄せられたのである。○心は依りぬ わが心は寄って行った。○後は知らねど 後のことはわからないけれども。
【釈】 秋風の吹く千江の浦に寄って来る木屑のように、わが心は寄って行った。後のことはわからないけれども。
【評】 男の引くがままに靡いた女の心である。将来の不安を思わないではないが、現在に心は足りているのである。譬喩が特殊で、しかもよく調和したものである。庶民の歌である。木積に寄せての歌。
(203)2725 白細砂《しらまなご》 三津《みつ》の黄土《はにふ》の 色《いろ》に出《い》でて 云《い》はなくのみぞ 我《わ》が恋《こ》ふらくは
白細砂 三津之黄土 色出而 不云耳衣 我戀樂者
【語釈】 ○白細砂三津の黄土の 「白細砂」は、白い細砂で、三津の状態をいったもの。「三津」は、官船の出入りする港の称で、難波であろう。「黄土」は、黄土で、染料としたもの。巻六(一〇〇二)「住吉の岸の黄土ににほひて行かむ」その他にもある。意味で「色」と続き、以上その序詞。○色に出でて云はなくのみぞ 「色に出でて」は、表面にあらわして。「云はなく」は、「云はぬ」の名詞形。○我が恋ふらくは 「恋ふらく」は、名詞形。
【釈】 白い細砂の敷いている三津の浜の黄土の、色にあらわしていうことをしないばかりであるよ。わが恋うることは。
【評】 男の打出でて女に訴えた歌である。「白細砂三津の黄土の」は、住吉においてのことと知られる。男はその地に来た京の人かと思われる。巻十四(三五六〇)「真金《まかね》吹く丹生《にふ》の真朱《まそほ》の色に出て言はなくのみぞ吾が恋ふらくは」があり、型となっていた言い方と思わせる。以下十九首、海に寄せての歌。
2726 風《かぜ》吹《ふ》かぬ 浦《うら》に波《なみ》立《た》つ 無《な》き名《な》をも 吾《われ》は負《お》へるか 逢《あ》ふとはなしに
風不吹 浦尓浪立 無名乎 吾者負香 逢者無二
【語釈】 ○風吹かぬ浦に波立つ 無いことの譬喩。○吾は負へるか 「か」は、詠嘆で、負うたことよ。
【釈】 風の吹かない浦に波の立つような無い名を、我は負うたことであるよ。逢ったことは無いに。
【評】 男の歌と取れる。嘆きではあるが感傷の少なく、調べにさっぱりしたところがある。浦に住む者の歌である。
一に云ふ、女《をみな》と念《おも》ひて
一云、女跡念而
【解】 結句の別伝である。無き名を立てた人が、女と思い侮っての意であろう。語続きが無理である。上の歌に対して、同じ感(204)をもった女が詠みかえて謡ったのであろう。
2727 菅島《すがしま》の 夏身《なつみ》の浦《うら》に 寄《よ》する浪《なみ》 間《あひだ》も置《お》きて 吾《わ》が念《おも》はなくに
酢蛾嶋之 夏身乃浦尓 依浪 間文置 吾不念君
【語釈】 ○菅島の夏身の浦に 所在未詳。三重県志摩郡答志島の南、菅島との説がある。○寄する浪 譬喩として「間も置きて」にかかり、以上その序詞。
【釈】 菅島の夏身の浦に寄せて来る浪のように、間隔を置いてもわれは思っていることではないのに。
【評】 意味の広いもので、絶えず相手を思っていることを、眼前の濱に寄せていっているのである。男女いずれにも通じるほどのものである。「寄する浪」を頼りにしたもので、地名さえ変えればどこの海べへでも流用のできるものである。謡い物として典型的なものである。
2728 淡海《あふみ》の海《うみ》 奥《おき》つ島山《しまやま》 奥《おく》まへて 我《わ》が念《おも》ふ妹《いも》が 言《こと》の繋《しげ》げく
淡海之海 奧津嶋山 奧間經而 我念妹之 言繁苦
【語釈】 ○奥まへて 思いを深めて。○言の繁けく 人の問題にする言葉の多いことだ。
【解】 上の(二四三九)人麿歌集の歌とほぼ同じである。「釈」「評」そちらへ譲る。
2729 霰《あられ》降《ふ》り 遠《とほ》つ大浦《おほうら》に 寄《よ》する浪《なみ》 よしも寄《よ》すとも 憎《にく》からなくに
霞零 遠津大浦尓 縁浪 縱毛依十方 憎不有君
【語釈】 ○霰降り遠つ大浦に 「霰降り」は、「とほ」と音を立てる意で、遠にかかる枕詞。「遠つ大浦」は、滋賀県伊香郡西浅井村字大浦で、琵琶(205)湖の北端にある浦。滋賀の大浦に対させて、「遠つ」を冠させた称。○寄する浪 下の「依す」に同音でかかり、以上その序詞。○よしも寄すとも 「よしも」は、「よし」で、ままよとしばらく許す意の副詞。「依すとも」は、人が我をその人に寄せようとも。○憎からなくに その人の憎くはないことであるに。
【釈】 霰のとおと降る、その遠つ大浦に寄せる浪のように、ままよ、人がその人を我に寄せようとも、その人の憎くはないことなのに。
【評】 男女いずれにも通じる歌であるが、女の歌としたほうがふさわしい。人々が無き名を立ててしきりに噂をするのに対して、迷惑には感じながらも、その相手の憎くないために、内心喜んでいる心である。「霰降り遠つ大浦に寄する浪」は、その地の歌であることを示すとともに、噂の程度の盛んなことをも暗示しているものである。「よしも寄すとも」も巧みである。謡い物であったろう。
2730 紀《き》の海《うみ》の 名高《なたか》の浦《うら》に 寄《よ》する浪《なみ》 音《おと》高《たか》きかも 逢《あ》はぬ子《こ》ゆゑに
木海之 名高之浦尓 依浪 音高鳧 不相子故尓
【語釈】 ○名高の浦に寄する浪 「名高の浦」は、巻七(一三九二)に出た。和歌の浦の南方、今は海南市に属している。「寄する浪」は、意味で「音」と続き、以上その序詞。○音高きかも 関係しているとの噂の高いことであるよ。
【釈】 紀伊国の海の名高の浦に寄せる浪の、その音のように噂の高いことであるよ。逢ってはいない女のゆえに。
【評】 「寄する浪」という型を、名高の浦につなぎ、「逢はぬ子ゆゑに」という同じく型となっている嘆きをいったものである。心は嘆きであるが、一首としては明るく、むしろ楽しげである。謡い物である。
2731 牛窓《うしまど》の 浪《なみ》の潮騒《しほさゐ》 島《しま》響《とよ》み よそりし君《きみ》に 逢《あ》はずかもあらむ
牛窓之 浪乃塩左猪 嶋響 所依之君尓 不相鴨將有
【語釈】 ○牛窓の浪の潮騒 「牛窓」は、岡山県邑久郡牛窓町。小半島である。「潮騒」は、巻一(四二)に出た。潮の騒ぎ。「浪の潮騒」は、浪(206)の騒がしい音。○島響み 島を響かして。以上は、牛窓の島全体の評判になったことの譬喩。○よそりし君に 「よそりし」は寄せられたで、人が中に立って取り持って婚約させたで、そうした関係の君に。○逢はずかもあらむ 「かも」は、疑問の係。「らむ」は、現在推量で、逢わずにいるのであろうかで、来るべき男の来ないのを不安に感じる意。
【釈】 牛窓の島に寄せる潮の騒がしい音が、島を響かせるような評判になって、人が我に取り持って婚約をした君に、逢わずにいることであろうか。
【評】 女の歌で、人が中に立って婚約をさせた男が、妻問いをしないことに対しての訝かりと不安をいっているものである。「牛窓の浪の潮騒島響み」は、評判の高かったことの譬喩であるが、関係のないことの明らかな男女に対して、漁村でそのような評判になったというそのこと自体がすでに特殊で、男はその土地としては多少とも身分のよい、情事を十分に解さない若者であったとみえる。それがまた仲介者もできた理由であろう。この譬喩にはそうした気分も籠もっていると取れる。それだと、「逢はずかもあらむ」はその延長で、男は妻問いを躊躇していたので、女はそれに対して不安を感じていることになる。ありうべき境ではあるが、特殊の感のある歌である。歌としては、女の単純な抒情をとおして、やや複雑な、物語に近い気分を暗示しているもので、巧みな歌とすべきである。
2732 奥《おき》つ波《なみ》 辺浪《へなみ》の来寄《きよ》る 左太《さだ》の浦《うら》の このさだ過《す》ぎて 後《のち》恋《こ》ひむかも
奧波 邊浪之來縁 左太能浦之 此左太過而 後將戀可聞
【語釈】 ○左太の浦の 所在未詳。土佐国にも伊予国にも同名の岬がある。同音で、下の「さだ」にかかり、以上その序詞。○このさだ過ぎて後恋ひむかも 「さだ」は、従来、時の意の古語と解されて来たが、『全註釈』は、批評、障害の意の語だろうといっている。この語は、上の(二五七六)に、「相見しからに言ぞさだ多き」と、今一か所出ているだけの語で、この解のほうが適当に思われる。今のこの評判を過ごして、後に恋をしようかなあ。
【釈】 沖の波や岸の浪が寄せて来る左太の浦の、このさだ、すなわち評判を見送って、後になって恋をしようかなあ。
【評】 男の歌で、心は明らかである。序詞は、左太の浦を示すとともに、噂の高さを暗示しているが、これは型の生むものである。謡い物であろう。
(207)2733 白浪《しらなみ》の 来寄《きよ》する島《しま》の 荒磯《ありそ》にも あらましものを 恋《こ》ひつつあらずは
白浪之 來縁嶋乃 荒磯尓毛 有申物尾 戀乍不有者
【語釈】 ○荒礒にも 「荒礒」は、海岸に現われている岩。
【釈】 白浪の寄せて来る島の荒磯であろうものを。このように恋いつづけていずに。
【評】 甲斐なき片恋を続けている心から、島の荒磯を羨んだのである。島に住む若者の実感としていったものである。形式によって救われているものである。
2734 潮《しほ》満《み》てば 水沫《みなわ》に浮《うか》ぶ 細砂《まなご》にも 吾《われ》は生《い》けるか 恋《こ》ひは死《し》なずて
塩満者 水沫尓浮 細砂裳 吾者生鹿 戀者不死而
【語釈】 ○潮満てば水沫に浮ぶ 満潮になれば、それに捲き立てられて、水沫の上に浮かぶ。○細砂にも 「にも」は、のごとくにもの意のもの。○吾は生けるか 訓がさまざまである。『略解』の訓。「か」は、感動の助詞で、生きていることであるよ。○恋ひは死なずて 恋死にはせずして。
【釈】 潮が満ちて来ると、水の沫の上に浮かぶ砂のようにも、われは生きていることであるよ。恋死にはせずに。
【評】 海べに住んでいる女の、夫に疎遠にされながらも恋いつづけている心である。譬喩に特色がある。必ずしも新しいものではないが、実感と思わせる細叙をして、生かしている。「恋ひは死なずて」と悲しんでいる時とて、自身を大観した語が、自然なものとなっている。
2735 住吉《すみのえ》の 岸《きし》の浦《うら》みに 重《し》く浪《なみ》の しくしく妹《いも》を 見《み》むよしもがも
住吉之 城師乃浦箕尓 布浪之 敷妹乎 見因欲得
【語釈】 ○岸の浦みに重く浪の 「岸の浦み」は、岸の浦あたりで、浦の岸というと同じ。「重く浪」は、繁く寄せる浪で、同音で「しくしく」に(208)かけ、以上その序詞。○しくしく妹を見むよしもがも 「しくしく」は、『代匠記』の訓。「しく」は繁くで、畳んで強めたもの。逢う方法がほしいものだで、「もがも」は、願望。
【釈】 住吉の岸の、その浦あたりに繁く寄る浪の、それに因みあるしくしくに、すなわち繁くも妹と逢う方法の欲しいものであるよ。
【評】 「重く浪のしくしく」は、形は序詞であるが、譬喩と選ぶ ところのないものである。謡い物であろう。
2736 風《かぜ》をいたみ 甚振《いたぶ》る浪《なみ》の 間《あひだ》なく 吾《わ》が念《も》ふ君《きみ》は 相念《あひも》ふらむか
風緒痛 甚振浪能 間無 吾念君者 相念濫香
【語釈】 ○風をいたみ甚振る浪の 「風をいたみ」は、風が烈しいので。「甚振る」は、甚しく浪の起こる意で、譬喩として「間なく」にかかり、以上その序詞。○相念ふらむか 同じようにわれを思っているであろうか。
【釈】 風が強いので、甚しく起こる浪のように、絶え間もなくわれが思っている君は、同じくわれを思っているのであろうか。
【評】 女の歌で、「相念ふらむか」が重点となっている。恋情としては普通の情であるが、女があらわに、男と対当の愛情を要求するのは稀れである。これには序詞が関係している。「風をいたみ甚振る浪の」は、間なくの譬喩であるが、一方には、女が周囲からはげしい妨害を受けて、男と逢えずにいることを暗示しているもので、その立場に立っての要求なのである。型のごとくなっている序詞にこうした心を盛った点に新意のある歌である。
2737 大伴《おほとも》の 三津《みつ》の白浪《しらなみ》 間《あひだ》なく 我《わ》が恋《こ》ふらくを 人《ひと》の知《し》らなく
大伴之 三津乃白浪 間無 我戀良苦乎 人之不知久
【語釈】 ○大伴の三津の白浪 「大伴」は、難波から和泉国へかけての広い範囲の名。「三津」は、難波の港で、官用のものであるところから「み」を冠したもの。「白浪」は、意味で「間なく」に続くもので、以上その序詞。○我が恋ふらくを人の知らなく 「恋ふらく」は、名詞形。「人」は、恋の相手で、女。「知らなく」も、名詞形。詠嘆を含んでいる。
(209)【釈】 大伴の三津に寄せる白波のように、絶間なくわが恋うていることを、相手の人はそれと知らないことであるよ。
【評】 作意は片恋の嘆きである。序詞は型となっているもの。四、五句は対照させての言い方で、内容も形も謡い物にふさわしいものである。謡い物であったろう。
2738 大船《おほふね》の たゆたふ海《うみ》に 碇《いかり》下《おろ》し いかにせばかも 吾《わ》が恋《こひ》止《や》まむ
大船乃 絶多經海尓 重石下 何如爲鴨 吾戀將止
【語釈】 ○大船のたゆたふ海に 大船がゆらゆらと動揺している海に。○碇下し 碇を下ろしてで、そのたゆたいをやめる意。碇を同音の「いか」に続け、以上その序詞。○いかにせばかも 『略解』の訓。どのようにすればで、「かも」は、疑問の係。○吾が恋止まむ わが恋はやむことであろうかで、この恋は片恋の苦しいものである。
【釈】 大船がゆらゆらと動揺する海に碇を下ろす、それに因みある、いかようにしたならば、わが恋はやむことであろうか。
【評】 片恋の苦しみを抱いて、どうする目あてもつかずにいる男の、どうすればこの苦しみから放たれようかと迷っている心である。「大船のたゆたふ海に碇下し」は、同音を起こすための序詞であるが、気分のつながりを強く持ったもので、我もそれのようにと、譬喩の心をも持たせたものである。この序詞は、上の(二四三六)人麿歌集の「大船の香取の海に碇おろし如何なる人か物念はざらむ」に縋ったもので、むしろその歌の心を進展させたごとき関係のものである。以下五首、船に寄せての歌。
2739 〓鳩《みさご》居《ゐ》る 沖《おき》の荒磯《ありそ》に 寄《よ》する浪《なみ》 行《ゆ》く方《へ》も知《し》らず 吾《わ》が恋《こ》ふらくは
水沙兒居 奧麁礒尓 縁浪 徃方毛不知 吾戀久波
【語釈】 ○〓鳩居る沖の荒礒に 「〓鳩」は、鷹の一種で、海の魚類を食とする猛禽。「沖の荒礒」は、沖に現われている岩で、魚を捕える場所。○寄する浪 意味で「行く方」と続き、以上その序詞。○行く方も知らず 「行く方」は、恋の上では、その目ざす所で、遂げること遂げられるとも思われない。○吾が恋ふらくは わが恋うることは。
(210)【釈】 〓鳩の居る沖の岩に寄せて来る波のように、その行く方を知らないのに因みをもって、目ざす所も知られない、わが恋うることは。
【評】 遂げられるあても付けられない片恋をしている男の嘆きである。序詞は譬喩よりのもので、航海中に見た光景に寄せたものである。調べは適当以上に張っている。謡い物であったからであろう。
2740 大船《おほふね》の 艫《とも》にも舳《へ》にも 寄《よ》する浪《なみ》 寄《よすとも吾《われ》は 君《きみ》がまにまに
大船之 艫毛舳毛 依浪 依友吾者 君之任意
【釈】 ○寄する浪 同音で「寄す」に続き、以上その序詞。○寄すとも吾は 人が我を君に言い寄せようともで、関係づけて評判しようとも。それもかまわないの余意をもったもの。○君がまにまに 君の心任せになろう。
【釈】 大船の艫にも舳にも寄せる浪のように、人が我を君に言い寄せて関係づけていおうとも、我は君の心任せになろう。
【評】 女が男に贈った形の歌である。「寄すとも」といっているが、それはすでに事実で、そういうことのある場合、女は迷惑に感ずるのが普通であるから、そうは思っていないと男に断わったのである。女のほうから求婚するごとき心である。序詞は、男女の住地をあらわすとともに、その評判の高いことを暗示しているものであり、いずれも型となっているものである。序詞の華やかさ、女の積極的のところは、謡い物だからであろう。
2741 大海《おほうみ》に 立《た》つらむ浪《なみ》は 間《あひだ》あらむ 公《きみ》に恋《こ》ふらく 止《や》む時《とき》もなし
大海二 立良武浪者 間將有 公二戀等九 止時毛梨
【語釈】 略す。
【釈】 大海に立つであろう浪は、絶え間があろう。我の君を恋うることは、やむ時もない。
【評】 この歌は序詞を用いず、対照によって詠んだもので、最も素朴な形である。謡い物としてはこの直接さは、好まれたものであったろう。
(211)2742 志珂《しか》の海人《あま》の 煙《けぶり》焼《や》き立《た》てて 焼《や》く塩《しほ》の 辛《から》き恋《こひ》をも 吾《われ》はするかも
牡鹿海部乃 火氣燒立而 燒塩乃 辛戀毛 吾爲鴨
【語釈】 ○志珂の海人の煙焼き立てて 「志珂」は、博多湾の志賀島(福岡県粕屋郡志賀町)。「煙焼き立てて」は、煙を立ててで、「焼き」は、強意のためのもの。○焼く塩の 海水を焼いて造る塩ので、その味の辛い意で続き、以上その序詞。○辛き恋をも吾はするかも 「辛き」は、塩からいで、「苦しき」を言い換えたもの。
【釈】 志河の海人が煙を強く立てて焼いている塩のように、辛い恋を我はしていることである。
【評】 恋の味わいとしての「辛き」という形容の語が、この歌の中心をなしている。三句を用いての序詞はそれを明らかにするためで、形は序詞ではあるが、説明に近いものである。この語が、新しいものだったからであったろう。志珂の地を限前に見ての作であろう。語は力を入れてのものであるが、抒情味の少ない作である。
右の一首は、或は云ふ、石川君子朝臣之を作る。
右一首、或云、石川君子朝臣作v之。
【解】 「石川|君子《きみこ》朝臣」は、巻三(二七八)に、「右、今案ずるに、石川朝臣君子、号を少郎子といへり」とある。霊亀元年に播磨守、養老五年に兵部大輔から侍従になり、神亀三年従四位下、巻三(二四七)左注によれば神亀年中、大宰少式になった人である。本巻中、作者に関していっているのはこれだけである。
2743 なかなかに 君《きみ》に恋《こ》ひずは 比良《ひら》の浦《うら》の 白水郎《あま》ならましを 玉藻《たまも》刈《か》りつつ
中々二 君二不戀者 枚浦乃 白水郎有申尾 玉藻苅管
【語釈】 ○なかなかに君に恋ひずは 「なかなかに」は、多くの場合の中にはの意の副詞。打消しの語が受ける時には、なまなかに。なまなかに君に恋をしようよりは。○比良の浦の白水郎ならましを 「比良の浦」は、琵琶湖西岸のそれと取れる。滋賀県滋賀郡志賀町南小松木戸一帯の湖岸。「白水郎ならましを」は、白水郎であろうものを。○玉藻刈りつつ このように藻を刈りつつ過ごそう。
(212)【釈】 なまなかに君を恋うているよりは、比良の浦の海人であろうものを。藻を刈りつつ過ごそう。
【評】 ある程度の身分のある女で、疎遠がちにする夫に対して苦しい思いを続けている女が、比良の浦の海人の思いなげな生活振りを見て、羨しく感じた心である。類歌の多いもので、「何ならましを」は慣用されていた言い方である。
或本の歌に曰はく、なかなかに 君《きみ》に恋《こ》ひずは 留牛馬《なは》の浦《うら》の 海人《あま》にあらましを 玉藻《たまも》刈《か》る刈《か》る
或本歌曰、中々尓 君尓不戀波 留年馬浦之 海部尓有益男 珠藻苅々
【語釈】 ○留牛馬の浦の 「留牛馬」は、「なは」もしくは「つな」に当てた字である。繩のほうが普通である。兵庫県相生市にある浦かという。巻三(三五四)に出た。○刈る刈る 刈り刈りして。
【評】 上の「比良」が「留牛馬」に変わり、「刈りつつ」が「刈る刈る」になっているのみである。また、巻十二(三二〇五)「おくれ居て恋ひつつあらずは田子の浦の海人ならましを玉藻刈る刈る」がある。謡い物として伝承され流布した跡の明らかな歌である。そうした歌は一般性の濃厚な、平明なものということが条件で、歌としての価値によってではないことが知られる。
2744 鱸《すずき》取《と》る 海人《あま》のともし火《び》 外《よそ》にだに 見《み》ぬ人《ひと》ゆゑに 恋《こ》ふるこの頃《ごろ》
鈴寸取 海部之燭火 外谷 不見人故 戀比日
【語釈】 ○鱸取る海人のともし火 鱸を捕るには、夜、それを集めるためのともし火をともし、遠く出てするところから、譬喩として「外」と続き、以上、その序詞。○外にだに見ぬ人ゆゑに よそながらにさえ見ない人にで、人は女。
【釈】 鱸を捕る海人のともし火のように、よそ目にさえも見たことのない人のゆえに、恋をしているこの頃であるよ。
【評】 見ぬ女にあこがれるという、例の多い心である。「鱸取る海人のともし火」という序詞は特殊なものである。海べの男の歌で、女は身分の上でか、住地の上でかの距離のあることを暗示している。
(213)2745 湊入《みなとい》りの 葦《あし》わけ小舟《をぶね》 障《さはり》多《おほ》み 吾《わ》が念《も》ふ公《きみ》に 逢《あ》はぬ頃《ころ》かも
湊入之 葦別小舟 障多見 吾念公尓 不相頃者鴨
【語釈】 ○湊入りの葦わけ小舟 「湊入り」は、舟が湊へ入ることで、名詞。湊は江口か河口かで、そうした所は葦が密生しているのである。「葦わけ小舟」は、葦を分けて進む小舟で、意味で「障多み」に続き、以上その序詞。○障多み 障りが多いのでで、女の周囲に妨害があるためである。
【釈】 湊入りをする葦を分けて進む小舟のように、障りが多いので、わが思う君に逢わずにいるこの頃であるよ。
【評】 女の嘆きである。序詞に特色のある歌である。この序詞は特殊なものであるが、湊のある地には適切なものであるところから、ほかにも用例のあるものとなっている。湊のある地の謡い物となっていたとみえる。船に寄せての歌。
2746 庭《には》清《きよ》み 沖《おき》へ榜《こ》ぎ出《い》づる 海人舟《あまぶね》の 梶《かぢ》取《と》る間《ま》なき 恋《こひ》もするかも
庭淨 奧方榜出 海舟乃 執梶間無 戀爲鴨
【語釈】 ○庭清み 「庭」は、労作をする場所の称で、普通名詞。ここは海の漁場というにあたる。「清み」は、清いので。清いとは、晴れて凪いでいる意。○梶取る間なき 「間なき」は、絶え間なきで、以上、恋の譬喩として下へ続く。
【釈】 漁場が晴れて凪いでいるので、急いで、沖へ榜ぎ出してゆく漁り舟の、梶を取るに絶え間のないような、絶え間もない恋をすることであるよ。
【評】 女を間断なく思っている心である。譬喩が特色となっている歌である。凪ぎを好機会として、漁場へ向かって急いで舟を榜ぐ、その梶の間断なさを捉えて譬喩とすることは、実況に親しんでいる者にして初めて可能なことである。漁民に親しまれた謡い物であったろうと思われる。
2747 味鎌《あぢかま》の 塩津《しほづ》をさして 榜《こ》ぐ船《ふね》の 名《な》は告《の》りてしを 逢《あ》はざらめやも
(214) 味鎌之 塩津乎射而 水手船之 名者謂手師乎 不相將有八方
【語釈】 ○味鎌の塩津をさして 続きから見て、「味鎌」は、大地名、「塩津」は小地名と取れるが、味鎌は所在不明である。巻十四(三五五一)「味鎌の潟にさく浪」その他二か所出ている。したがって「塩津」も、不明であるが、集中でほかに見えるこの名は、琵琶湖の北岸の地である。滋賀県伊香郡西浅井村塩津浜。○榜ぐ船の 船には名のある意で、「名」と続き、以上その序詞。○名は告りてしを 女がその名を男に告げたものをで、「て」は、完了で、強くいったもの。女が男に名を告げるのは求婚に応じたことである。○逢はざらめやも 「や」は、反語で、逢わないことがあろうか、逢おうの意。
【釈】 味鎌の塩津を指して榜いでいるわが船の名に因みある、女はその名を告げたものを、逢わないことがあろうか、逢おう。
【評】 女に求婚をして、同意を得ただけで別れた男が、女が果たして逢うだろうかと、多少の不安を感じ、同意したのだからと、その不安を押し返す心である。序詞に特色がある。「塩津をさして榜ぐ船の名は」という続きは船の名を女の名に転じたもので、特殊なものである。船には名のあったことは、例の少なくないことである。しかし相応な船についてのことであったろう。「塩津をさして」という船は、その範囲の船で、航路をいうことによってそれと知れるという関係のものであったろう。また、この歌は、それを榜いでいる舟子という立場に立っていっているものでもあろう。今よりはそのように推量するほかはないことである。
2748 大船《おほふね》に 葦荷《あしに》刈《か》り積《つ》み しみみにも 妹《いも》は心《こころ》に 乗《の》りにけるかも
大船尓 葦荷苅積 四実見似裳 妹心尓 乘來鴨
【語釈】 ○大船に葦荷刈り積み 「葦荷」は、海岸に生える葦を刈って、荷物としたものの称。大船に葦の刈った荷を積んで。譬喩として「しみみ」にかかり、以上その序詞。○しみみにも妹は心に乗りにけるかも 「しみみに」は、繁き意の「しみ」を畳み、「に」を添えての副詞。「乗り」に続く。一ぱいに、妹はわが心に乗ってしまっていることだなあ。
【釈】 大船に葦の荷を刈って積んで一ばいになっているように、妹はわが心に乗ってしまっていることだなあ。
【評】 序詞に特色のある歌である。葦は上代生活には関係の深いものであり、葦刈は一つの仕事であった。葦は水辺の物で、ここは海岸の物である。荷物の運搬はできる限りは船を用いたのであるから、すべて庶民生活の実際に即したものである。ここは、「しみみに」の序詞としているのであるから、刈り積んだ葦を感覚的に見たもので、細かい心がある。四、五句の成句を(215)序詞によって生かした歌である。
2749 駅路《うまやぢ》に 引舟《ひきふね》渡《わた》し 直乗《ただのり》に 妹《いも》は情《こころ》に 乗《の》りにけるかも
驛路尓 引舟渡 直乘尓 妹情尓 乘來鴨
【語釈】 ○駅路に引舟渡し 「駅路」は、駅に行く路で、駅は公道に沿って、駅馬を配置してある所の称。駅が川に沿っている時は、馬の代わりに船を配置した。ここはそれで、そうした所を水駅《みずうまや》と称した。「引舟」は、綱を着けて引く舟で、それが渡してあって、乗る意で「直乗」にかかり、以上序詞。○直乗に ひたすらに乗る意で、乗りとおしにの意。
【釈】 水駅への路に、引舟が渡してあって、それにひたすらに乗るように、妹はわが心に乗りとおしになってしまっていることであるよ。
【評】 これも序詞によって成り立っている歌である。序詞は、旅をしている男の、家に置いて来た妻を恋いとおしている心を、水駅の渡し舟に乗った時の心に寄せていったものである。適切で、機知も伴っている特色のあるものである。四、五句の成句に、さまざまな場合を結びつけた、典型的な謡い物である。
2750 吾妹子《わぎもこ》に 逢《あ》はず久《ひさ》しも うまし物《もの》 阿倍橘《あべたちばな》の 蘿《こけ》生《む》すまでに
吾妹子 不相久 馬下乃 阿倍橘乃 蘿生左右
【語釈】 ○うまし物 味のうまい物で、橘の実の味をいったもの。○安倍橘に 「安倍橘」は、『倭名類聚抄』に出ており、柚に似て形の小さい物であるが、それ以上は明らかでない。諸説がある。「安倍」は、駿河国の地名で、名産として冠したものであろう。食料とした物。「橘」は、木としていっている。
【釈】 吾妹子に逢わないことが久しい。味の良い安倍橘の木に、蘿が生えるまでに。
【評】 久しいことの譬喩として、木に蘿が生すということは用例が多く、成語のごとくなっている。これもそれであるが、「うまし物安倍橘」は新鮮味のあるものである。眼前を捉えていった形で、それによって妹を暗示している。妹に食物を連想するのは珍しい。以下四首、木に寄せての歌。
(216)2751 あぢの住《す》む 渚沙《すさ》の入江《いりえ》の 荒礒松《ありそまつ》 我《わ》を待《ま》つ児《こ》らは ただ一人《ひとり》のみ
味乃住 渚沙乃入江之 荒礒松 我乎待兒等波 但一耳
【語釈】 ○あぢの住む渚沙の入江の 「あぢ」は、味鳧。「渚沙」は、所在不明である。愛知説(知多郡豊浜町の須佐湾)、和歌山説(有田市|千田《ちだ》の小字)がある。巻十四(三五四七)東歌の「未勘国の歌」の中にこの地名がある。○荒礒松 海岸の岩の上に生えている松。同音で、「待つ」にかかり、以上その序詞。○我を待つ児らは 「児ら」の「ら」は、接尾語としてのもの。「児」は、女の愛称。
【釈】 味鳧の住んでいる渚沙の入江の荒礒の松のように、我を待っているかわゆい女は、ただ一人だけである。
【評】 「我を待つ児らは」は、妻以外には思う女もないの意を、妻のほうを主にしていっているものである。序詞は実景で、『代匠記』は一本松だろうといっているが、気分としてはまさにそれで、海上生活をしている者の目じるしとなっていた物であろう。渚沙地方の謡い物であったことを、心も形も明らかに示しているものである。一本松の譬喩は古くからあり、後にも伝わったものである。
2752 吾妹子《わぎもこ》を 聞《き》き都賀野辺《つかのべ》の 靡《なび》き合歓木《ねぶ》 吾《われ》は隠《こも》り得《え》ず 間無《まな》くし念《おも》へば
吾味兒乎 聞都賀野邊能 靡合歓木 吾者隱不得 間無念者
【語釈】 ○吾妹子を聞き都賀野辺の 「吾妹子を」は、吾妹子のことを。「聞き都賀」は、聞き継ぐを転じさせたもので、「聞き」までの七
(217)音は、都賀の序詞。「都賀野」は、所在不明である。栃木県の上下の都賀郡、大阪府の菟餓《とが》野、滋賀県の都賀山など諸説がある。○靡き合歓木 「靡き」は、旧訓。『童蒙抄』が「しなひ」と改め、諸注従っているが、『全註釈』は、この字をそのように用いた例はないとしている。従うべきである。「合歓木」は、合歓の木についていっているもので、したがって「靡き」は、葉が夜しぼむことを、男女間に関係させて、靡き寄るに言いかえたものと取れる。葉のしぼむ意を「隠り」と異語同義で続け、以上その序詞。○吾は隠り得ず われは家に籠もってはいられないで、妹の所へ行こうの意。
【釈】 吾妹子のことを聞き続ける、それに因みある都賀野の合歓の葉の、夜はしぼむようにわれは籠もってはいられない。絶え間なく思っているので。
【評】 序詞が主となっている歌で、序詞の中に序詞があるという複雑なものである。この序詞は、本来叙述とすべきことを、単純にするために序詞の形にしたものだからである。序詞によって見ると、女は男との関係を周囲から妨げられる状態になり、男とは逢えず籠もってのみいるのである。「吾妹子を聞き都賀」は、男は妹の噂を聞き継ぐだけの状態をいっているもの、また「靡き合歓木」は、妹が籠もってのみいることを気分的にいったもので、これは「吾は隠り得ず」の対照によって明らかである。「都賀野」は女の住地、「合歓木」は、季節をあらわしているものである。序詞はその地の謡い物であることを思わせるが、心は謡い物としては複雑にすぎる感がする。謡い物とすれば、それとして進展したものである。
2753 浪《なみ》の間《ま》ゆ 見《み》ゆる小島《こじま》の 浜久木《はまひさぎ》 久《ひさ》しくなりぬ 君《きみ》に逢《あ》はずして
浪間從 所見小嶋之 濱久木 久成奴 君尓不相四手
【語釈】 ○浪の間ゆ見ゆる小島の浜久木 浪の間をとおして見える、小島の浜に立つ久木で、久木は「あかめがしわ」の古名かという。巻六(九二五)に出た。
【釈】 浪の間をとおして見える、小島に立っているあの浜久木の、久しくもなった。君に逢わなくて。
【評】 女の歌である。序詞は、「久しく」を起こすためのものであるが、眼前を捉えた形のもので、男が、その小島に住んでいることを暗示しているものである。本来は海上生活をしている者の歌で、「君」は「妹」ではなかったかと思わせる歌である。それだと謡い物としてきわめてふさわしいものになるからである。
(218)2754 朝柏《あさがしは》 閏八河辺《うるやかはべ》の 小竹《しの》の芽《め》の 思《しの》ひて宿《ぬ》れば 夢《いめ》に見《み》えけり
朝柏 閏八河邊之 小竹之眼笶 思而宿者 夢所見來
【語釈】 ○朝柏閏八河辺の小竹の芽の 上の(二四七八)に、初句が「秋柏」、二旬目「潤和川べ」となって出ており、他は同一である。「小竹」を同音で、下の「思《しの》ひ」にかけた序詞。○思ひて宿れば夢に見えけり 思って眠ったので、その人が夢に見えたことであった。
【釈】 朝の柏が露にうるむ閏八河のほとりの小竹の芽に因む、君を偲んで寝たので、夢に見えたことである。
【評】 女の夢に男と逢ったのを喜んだ心である。上の(二四七八)人麿歌集の「秋柏潤和川べの細竹のめの人にしのべば公に勝へなく」に倣って作ったものである。原歌の豊かな気分を、平明な抒情に変えたもので、伝承されるとともに変わってゆく経路を示しているごとき歌である。小竹に寄せての歌。
2755 浅茅原《あさぢはら》 刈標《かりしめ》さして 空言《むなごと》も 縁《よ》そりし君《きみ》が 言《こと》をし待《ま》たむ
淺茅原 苅標刺而 空事文 所縁之君之 辞鴛鴦將待
【語釈】 ○浅茅原刈標さして 浅茅原に、わが刈り場所としての標をしての意で、茅は刈り草としての値もなく、また原の物で幾らでもあるところから、標をする必要のない物であるから、譬喩として「空言」にかかり、以上その序詞。「さして」は、標をして。上の(二四六六)に「浅茅原小野に標結ふ空言を」と出た。○空言も 空しい、実のない言葉であっても。○縁そりし君が 人が中に立って、取り持ちをしたところの君の。○言をし待たむ 直接にいってくれる言葉を待とうで、「し」は、強語。
【釈】 浅茅原に刈り場所としての標をする、そのような空しい言葉であっても、人が中に立って取り持ったところの君の、直接の言葉を待とう。
【評】 仲介する人があって求婚に応じた女が、男がそれきり何の進展も与えないのに対し、仲介する人のいったことが偽りであったにしても、やはり君の言葉を待とうと、すなおに思っている心である。部落民の歌である。部落生活にはこうしたことが少なくなかったとみえて、類想の歌がある。以下二十三首、草に寄せての歌。
(219)2756 鴨頭草《つきくさ》の 仮《か》れる命《いのち》に ある人《ひと》を いかに知《し》りてか 後《のち》もあはむといふ
月草之 借有命 在人乎 何知而鹿 後毛將相云
【語釈】 ○鴨頭草の仮れる命にある人を 「鴨頭草の」は、鴨頭草は今の露草で、その花は朝咲いて、夕べには萎むものなので、はかない意で「仮れる」の枕詞。「仮れる命に」は、仏教の語で、人身は地水火風の四大の仮りに会ったものだとするその意で、仮りの命で。○いかに知りてか どのようなものと考えてのことか。○後もあはむといふ いずれ逢おうというで、いうのは女。
【釈】 鴨頭草の花のように仮りに会っている命であるものを、どのように考えているのか、いずれ逢おうという。
【評】 男が求婚して、女に、いずれと婉曲に断わられたのに対して、男が怒りをもって呟いている心である。女のたやすくは決心のつかないのも、断わるに婉曲にするのも自然であるが、男はそのただちに応じないのを不満に感じ、物の弁えのない女だと、理屈を付けて、訝かりの形で憎んでいるのである。理屈とは仏説をそのままに受け入れた「仮れる命」である。当時には新鮮味のあったものでもあろうが、今日から見ると苦々しい優越感である。
2757 王《おほきみ》の 御笠《みかさ》に縫《ぬ》へる 有問菅《ありますげ》 ありつつ見《み》れど 事無《ことな》し吾味《わぎも》
王之 御笠尓縫有 在間菅 有管雖看 事無吾妹
【語釈】 ○王の御笠に縫へる有間菅 「王」は、天皇はじめ諸王までの総称。「縫へる」は、笠を造る意。「有間菅」は、摂津国の有馬(今の神戸市、三田市の地)で、そこから産する菅は名産であり、御料としての貢物になっていたのである。同音で「あり」に続き、以上その序詞。○ありつつ見れど事無し吾妹 「ありつつ見れど」は、関係を続けつつ見ているが。「事無し」は、非難すべき点がない吾妹よ。
【釈】 王の御笠に造る有間菅の、その名に因む、関係をつづけつつ見ているが、非難すべき点のない吾妹よ。
【評】 夫がその妻に、褒めていった歌である。永らく見続けていても、非難すべき点がないということは、夫として妻を褒めるには最上の語である。序詞はこの場合、褒める気分にきわめてふさわしいものである。有間の笠縫いをしている者の歌で、その地の謡い物である。それとして勝れたものである。
(220)2758 菅《すが》の根《ね》の ねもころ妹《いも》に 恋《こ》ふるにし 大夫心《ますらをごころ》 念《おも》ほえぬかも
菅根之 懃妹尓 戀西 益卜男心 不所念鳧
【語釈】 ○菅の根のねもころ妹に 「菅の根の」は、同音で「ね」にかかる枕詞。「ねもころ」は、心の底より。○恋ふるにし大夫心 原文は諸本「恋西益卜思而心」。旧訓「こひせましうらおもふこころ」。『略解』で本居宣長が、「益」を三句から四句に移して「恋ふるにし」、四句「思而」を、「男」の誤写であるとし、「益卜男」と改めたのである。大夫心も思われないことだなあ。
【釈】 心の底から妹を恋うているので、大夫の心も思われないことだなあ。
【評】 恋に心を奪われていることを、大夫として嘆いた心で、類想の歌の多い歌である。
2759 吾《わ》が屋戸《やど》の 穂蓼古幹《ほたでふるから》 採《つ》み生《おほ》し 実《み》になるまでに 君《きみ》をし待《ま》たむ
吾屋戸之 穗蓼古〓 採生之 實成左右二 君乎志將待
【語釈】 ○穂蓼古幹 「穂蓼」は、蓼の、穂を出したものに対する称。穂は秋出て、白色の花が咲く。辛味を愛して食用した。「古幹」は、古い茎で、枯れた物。○採み生し 実を採んで、蒔いて生やして、それがまた実になるまでで、以上、長い間の譬喩。
【釈】 わが屋戸の穂になった蓼の枯れた茎から、実を採って、蒔いて生やして、それがまた実になるまでに、君を待っていよう。
【評】 夫に疎遠にされている妻の、いつまでも夫を待っていようという心である。譬喩が珍しい。庶民として眼前を捉えてのもので、一般に親しみのあったものであろう。その蓼の扱い方が中心になっているものであるが、興味的になっていて、嘆きは帯びていない。謡い物で、軽い心をもって謡われたものであろう。「穂蓼古幹」は簡潔で、こなれていて、気の利いた語である。
2670 あしひきの 山沢《やまさは》ゑぐを 採《つ》みに行《ゆ》かむ 日《ひ》だにも逢《あ》はせ 母《はは》は責《せ》むとも
足檜之 山澤〓具乎 採將去 日谷毛相爲 母者責十方
(221)【語釈】 ○山沢ゑぐを 「山沢ゑぐ」は、山裾にある沢に生えているえぐで、えぐは烏芋で、食料にした物。巻十(一八三九)に出た。○日だにも逢はせ 「日だにも」は、日にだけでも。「逢はせ」は、『新考』と『新訓』の訓。逢えの敬語で、女に対しての慣用。○母は責むとも 母は責めようともと、仮想としていったもの。
【釈】 山沢のえぐを採みに行く日だけでも逢って下さい。たとえ母は責めようとも。
【評】 男から女に訴えた歌である。女はその男に関係したことで、厳しく母に監視されて、男は逢えずにいるので、男はえぐを採みに行く日を好機会として訴えているのである。庶民生活の色の濃い、実際に即した可憐な歌である。謡い物であったろう。
2761 奥山《おくやま》の 石《いは》もと菅《すげ》の 根《ね》深《ふか》くも 思《おも》ほゆるかも 吾《わ》が念妻《おもひづま》は
奧山之 石本菅乃 根深毛 所思鴨 吾念妻者
【語釈】 ○石もと菅の 岩の根もとに生えている菅で、場所の関係上、その根が深いので、「根深く」と続け、以上その序詞。○根深くも思ほゆるかも 「根深くも」は、心深くで、心の底から。○吾が念妻は わが愛している妻は。
【釈】 奥山の岩の根もとに生えている菅のように、心の底から思われることであるよ。わが愛している妻は。
【評】 夫の妻に贈った形の歌である。初句より三句までは、成句に近いものである。一般性のあるもので、これまた謡い物であろう。
2762 蘆垣《あしがき》の 中《なか》のにこ草《ぐさ》 にこよかに 我《われ》と咲《ゑ》まして 人《ひと》に知《し》らゆな
蘆垣之 中之似兒草 尓故余漢 我共咲爲而 人尓所知名
【語釈】 ○蘆垣の中のにこ草 「にこ草」は、箱根草といわれているが、確証はない。『全註釈』は和草で、若く柔らかい草だろうといっている。巻十六(三八七四)「射ゆ鹿を繋ぐ河辺の和草の身の若かへに」によると、そのように思われる。同音で「にこよかに」に続き、以上その序詞。○にこよかに我と咲まして 「にこよかに」は、にこやかに。にこにことというにあたる古語。「我と咲まして」は、「我と」は、我と我自身、「咲まし(222)て」は、咲むの敬語。思い出し笑いをなされての意。○人に知らゆな 他人にそれと知られるな。
【釈】 蘆垣の中に生えている和草に因む、にこやかに、我と思い出し笑いをなされて、人にそれと知られるな。
【評】 女が関係を結んだ男にその秘密の漏れないようにと警告した歌である。こうした注意は、自身がそれをしているところからの推量であろう。序詞は男の家のさまを思わせ、したがってこの男女は近く住んでいる者ということも思わせる。卷四(六八八)大伴坂上郎女の「青山を横ぎる雲のいちしろく吾と咲まして人に知らゆな」は、この歌に似通ったものであろう。
2763 紅《くれなゐ》の 浅葉《あさは》の野《の》らに 刈《か》る草《かや》の 束《つか》の間《あひだ》も 吾《わ》を忘《わす》らすな
紅之 淺葉乃野良尓 苅草乃 束之間毛 吾忘渚菜
【語釈】 ○紅の浅葉の野らに 「紅の」は、その色の浅いの意で、「浅」にかかる枕詞。「浅葉の野ら」は、所在未詳。武蔵国入間郡(埼玉県入間郡坂戸町浅羽)にも、遠江国磐田郡(静岡県磐田郡浅羽町)にもあり、ほかにもあろうと思われる名だからである。「野ら」の「ら」は、接尾語。○刈る草の つかみの意で「束」にかかり、以上その序詞。○束の間も吾を忘らすな 「束」は、長さの単位にも用いる語で、拳を握っての幅である。それを時間の上に移し、短い間の意にしたもの。短い間も。「忘らす」は、忘るの敬語で、われをお忘れくださるな。
【釈】 紅の浅いに因む浅葉の野に刈っている草の、その一つかみのような短い間も、われをお忘れくださるな。
【評】 女の男に訴えたものである。序詞は男女の住地と男の生活を暗示しているものである。一般性をもった心を素朴に詠んだものであるが、「紅の浅葉の野ら」は語が美しく、全体に明るい気分をもった歌である。その地方の謡い物ということを示している。
2764 妹《いも》が為《ため》 寿《いのち》退《のこ》せり 刈薦《かりこも》の 念《おも》ひ乱《みだ》れて 死《し》ぬべきものを
爲妹 壽遺在 苅薦之 念乱而 應死物乎
【語釈】 ○刈薦の 「乱れ」の枕詞。
【釈】 妹のために我は命を残している。刈薦のように恋の嘆きに心が乱れて、死ぬべきであるのに。
(223)【評】 片恋の嘆きの甚しいことを、女に訴えた歌である。「命遺せり」は、諦めきれずして生きている意。「死ぬべきものを」は、甚しく嘆きをすると、心が身より遊離して死ぬとされていた上に立ってのものである。誇張しているがようにみえるが、じつはそれのないものである。深刻味をもった歌である。
2765 吾妹子《わぎもこ》に 恋《こ》ひつつあらずは 刈薦《かりこも》の 思《おも》ひ乱《みだ》れて 死《し》ぬべきものを
吾妹子尓 戀乍不有者 苅薦之 思乱而 可死鬼乎
【語釈】 略す。
【釈】 吾妹子に恋を続けていずして、刈薦のように嘆きに乱れて、死ぬべきであるよ。
【評】 上の歌と同性質のものである。形も近いものであるが、これは単なる感傷で、上の歌のもつ積極性のないものである。平凡な作である。
2766 三島江《みしまえ》の 入江《いりえ》の薦《こも》を かりにこそ 吾《われ》をば公《きみ》は 念《おも》ひたりけれ
三嶋江之 入江之薦乎 苅尓社 吾乎婆公者 念有來
【語釈】 ○三島江の入江の薦を 「三島江の入江」は、摂津国三島郡|三個牧《さんかまき》村の入江で、淀川の西岸。巻七(一三四八)に出た。「薦」は、水辺の物。「刈り」と続け、以上その序詞。○かりにこそ 「かり」は、仮りで、かりそめに。
【釈】 三島江の入江の薦を刈り取る、その刈りというかりそめに、われを君は思ったことであった。
【評】 女が男の心の深くないのを恨んだ歌である。序詞は、男女ともに住んでいる土地と、その生活とをあらわしているものである。この不満は、真実をもっている女である限り、男の心の深い浅いにかかわらず抱くものである。特色のある歌である。
2767 あしひきの 山橘《やまたちばな》の 色《いろ》に出《い》でて 吾《わ》が恋《こ》ひなむを やめ難《がた》くすな
(224) 足引乃 山橘之 色出而 吾戀南雄 八目難爲名
【語釈】 ○山橘の 今の藪柑子で、実が赤く目立つところから、譬喩の意で、「色に出で」に続け、以上その序詞。○色に出でて吾が恋ひなむを 色に現われてわが恋うであろうことを。○やめ難くすな 原文「八目難為名」。「八目」は、旧訓「やめ」。『考』は「人目」の誤写として「ひとめ」、「難」を「かたみ」と訓み、「人目難みすな」で、人目を困らせるなの意としている。『全註釈』は旧訓に従い、文字通りに今のごとく訓んでいる。意は、やめ難くはするなで、やめようと思って、それができかねているのを、できるようにせよというのである。
【釈】 藪柑子の実のように色に現われて、わが恋うであろうことを、やめ難くはするな。
【評】 男が片恋の苦しさを訴えた歌である。四、五句はやや特殊な言い方であるが、男が女に咎められて、それに答えたものとすれば自然になる。とにかくこの歌は、男女、他の者とともに一つ所に居て、顔を合わせる場合の少なくない状態にあっての心と取れる。部落生活であれば、それは普通の状態である。そうした歌と思われる。
2768 葦鶴《あしたづ》の 騒《さわ》く入江《いりえ》の 白菅《しらすげ》の 知《し》られし為《ため》と 言痛《こちた》かるかも
葦多頭乃 颯入江乃 白菅乃 知爲等 乞痛鴨
【語釈】 ○白菅の 菅の一種で、白みを帯びた物。同音で「知ら」にかかり、以上その序詞。○知られし為と 諸注、訓が定まらない。『定本』の訓。秘密な関係を人に知られたためとて。○言痛かるかも ひどく言い騒がれることであるよ。
【釈】 鶴の騒いでいる入江に生える白菅の、その名に因む、人に知られたためとて、ひどく言い騒がれることであるよ。
【評】 男が秘密にしていた関係の、土地の人に知られてしまって、噂の高いのを嘆く心である。序詞は、その土地の入江であること、葦鶴の騒ぐによって噂の高いさまを暗示することは、謡い物の型となっているものである。四句「知られし為と」は、訓が問題になっているが、この訓が最も合理的で、また単純で、謡い物の条件にかなうものである。
2769 吾《わ》が背子《せこ》に 吾《わ》が恋《こ》ふらくは 夏草《なつくさ》の 刈《か》り除《そ》くれども 生《お》ひ及《し》くが如《ごと》
吾背子尓 吾戀良久者 夏草之 苅除十方 生及如
(225)【語釈】 ○刈り除くれども 刈って除くけれども。○生ひ及くが如 「及く」は、頻るで、続く意。続いて生える意。
【釈】 わが背子にわれが恋うることは、夏草の、刈り除くけれども、続いて生えるがようである。
【評】 巻十(一九八四)に、「このごろの恋の繁けく夏草の刈り掃へども生ひしくが如」があった。それと関係をもったものである。庶民生活に即した事実を直喩とした、きわめて平明な歌であるから、伝承される範囲が広く、こうした流動が起こったものとみえる。
2770 道《みち》の辺《べ》の いつしば原《はら》の 何時《いつ》も何時《いつ》も 人《ひと》の許《ゆる》さむ 言《こと》をし待《ま》たむ
道邊乃 五柴原能 何時毛々々 人之將縱 言乎思將待
【語釈】 ○いつしば原の 「いつしば」は「いつ」は、繁った意をあらわす接頭語。「しば」は、灌木で、繁った灌木の原。同音で「何時」にかかり、以上その序詞。○何時も何時も いつでもいつでもで、畳んで強めたもの。絶えずの意。○人の許さむ言をし待たむ 「人」は、相手の女で、距離を置いての称。「許さむ言を」は、求婚を承諾するであろう言葉を。
【釈】 道のほとりにあるいつしば原の名のように、いつでもいつでも、人の許すであろう言葉を待っていよう。
【評】 男の女に訴えて贈った形の歌である。男の求婚に対して、女がいつまでも決心がつかず、躊躇していた頃の心持で、男もそれに応じて物柔かに、気長なさまでいっているのである。求婚時期の一つの相で、恋の機微に触れた歌といえよう。多少身分ある者同士である。序詞は部落生活を暗示しているものである。
2771 吾妹子《わぎもこ》が 袖《そで》をたのみて 真野《まの》の浦《うら》の 小菅《こすげ》の笠《かさ》を 著《き》ずて来《き》にけり
吾妹子之 袖乎〓而 眞野浦之 小菅乃笠乎 不著而來二來有
【語釈】 ○袖をたのみて 袖を頼みにしてで、袖を袖笠にしてもらおうと頼んで。○真野の浦の小菅の笠を 「真野」は、今は神戸市の長田区東尻池町、西尻池町、真野町となっている地。菅笠の産地だったのである。「小菅」は、「小」は、愛称。○著ずて来にけり かぶらずに来たことである。
(226)【釈】 吾妹子の袖を頼みにして、真野の浦の菅の笠をかぶらずに来たことである。
【評】 雨催いの日、笠も持たずに妻の許へ来た男が、明るく、戯れ半分に妻にいった歌である。「真野の浦の小菅の笠」は、愛すべき物としていっているので、気分で女につながりのあるものである。真野の地の歌と思われる。
2772 真野《まの》の池《いけ》の 小菅《こすげ》を笠《かさ》に 縫《ぬ》はずして 人《ひと》の遠名《とほな》を 立《た》つべきものか
眞野池之 小菅乎笠尓 不縫爲而 人之遠名乎 可立物可
【語釈】 ○小菅を笠に縫はずして 「縫はずして」は、編み続けて笠とせずしてで、笠を妻の譬喩にして、妻ともせずにの意。○人の遠名を立つべきものか 「人」は、自身を客観的にいったもの。「遠名」は、遠くまでも広がった評判で、広い風評。「立つ」は、噂を立てる意。「か」は、疑問の助詞で、反語となっているもの。我に広い評判を立てるべきであろうか、そういうはずはない。
【釈】 真野の池の菅を、笠として編み続けず、妻ともしなかったのに、我に広い評判を立てるべきであろうか、そういうはずはない。
【評】 男が、その実は全く無いのに、評判ばかりいたずらに高くなったのを心外に感じ、そうしたはずはないと腹立った心である。「真野の池の小菅を笠に縫はずして」は、笠を妻の譬喩として、懸想はしたが関係を結ぶには至らなかったことをあらわしているものである。これは笠を編むことを職としている者の間には適切な譬喩であるが、それ以外の者には間接な、特殊になる譬喩である。真野の地の謡い物であったことを思わせる歌である。それとして見ると、「遠名」という語もおもしろく、屈折のある、上手な歌である。
2773 さす竹《たけ》の 葉隠《はごも》りてあれ 吾《わ》が背子《せこ》が 吾許《わがり》し来《こ》ずは 吾《われ》恋《こ》ひめやも
刺竹 齒隱有 吾背子之 吾許不來者 吾將戀八方
【語釈】 ○さす竹の葉隠りてあれ 「さす竹の」は、「さす」は、立つ意で、生え立っている竹で、竹の生態をいったもの。この語は枕詞に慣用されいるが、ここはそれではない。「葉隠りてあれ」は、葉の下に籠もっていよで、「あれ」は、命令形。以上、自分の家に寵もっていよの意の譬喩。○吾許し来ずは わが許に来ないでいたならばで、すでに来ているのを、仮想としていったもの。○吾恋ひめやも 「や」は、反語で、われも恋(227)いようか、恋いはしない。
【釈】 生い立っている竹の、その葉陰に籠もって居たまえよ。あなたが私の許へ来ないのであったならば、私も恋いようか、恋いはしない。
【評】 疎遠にして、稀れに訪うて来る夫の来た時、妻が恨んでいった形の歌である。まるきり来ないのであれば、私も忘れて思うまいものをという心を、皮肉まじりにいったものである。本心は、もっと繁く来てくれというのであるが、恋しさを怺《こら》えていた反動として、激しての物言いである。屈折を包んでの心で、激した気分が、さすがに美しい形をとおして現われているところに味わいがある。恨みの歌としては特殊なものである。
2774 神南備《かむなび》の 浅小竹原《あさしのはら》の うるはしみ 妾《わ》が思《おも》ふ公《きみ》が 声《こゑ》のしるけく
神南備能 浅小竹原乃 美 妾思公之 聲之知家口
【語釈】 ○神南備の浅小竹原の 「神南備」は、普通名詞で、神霊のこもる森。「浅小竹原」は、「浅」は、「深」に対する語で、丈の低い篠原。その慕わしい意で、「うるはし」と続き、以上その序詞。○うるはしみ妾が思ふ公が 慕わしくわが思っている公の。○声のしるけく 声であることが、それとはっきりしているの意。
【釈】 神南備にある丈低い篠原のように、慕わしくわが思っている公の声が、それとはっきり知れる。
【評】 女が、その姿を目にせず、声だけを聞いて明らかにわが夫の声だと感じ取った際の気分である。前後には触れず、ただその瞬間の気分だけをあらわしているものである。「神南備の浅小竹原の」という序詞は、譬喩でかかるもので、夫の身分に対する妻の気分を暗示しているものである。物越しの声によって、その人に対する気分の全部をあらわそうとしている作で、詠み方の新しさとともに美しさをもった歌である。
2775 山《やま》高《たか》み 谷辺《たにべ》にはへる 玉葛《たまかづら》 絶《た》ゆる時《とき》なく 見《み》むよしもがも
山高 谷邊蔓在 王葛 絶時無 見因毛欲得
(228)【語釈】 ○山高み谷辺にはへる 山が高いので、上へはのぼらず、谷の辺に這っている。○玉葛 「玉」は、美称、蔓草の総称。意味で「絶ゆる」に続き、以上その序詞。○見むよしもがも 「もがも」は、願望で、逢う方法の欲しいことである。
【釈】 山が高いので、谷辺に這っている蔓草のように、絶える時なくいつも逢う方法のほしいものである。
【評】 男の歌であろう。類想の多い歌である。この平明が愛されて流動したものとみえる。
2776 道《みち》の辺《べ》の 草《くさ》を冬野《ふゆの》に 履《ふ》み枯《か》らし 吾《われ》立《た》ち待《ま》つと 妹《いも》に告《つ》げこそ
道邊 草冬野丹 履干 吾立待跡 妹皆乞
【語釈】 ○道の辺の草を冬野に 「道の辺」は、ここは女の家の側の道の辺。「冬野に」は、冬野のごとくに。○履み枯らし 踏んで枯れさせて。○吾立ち待つと妹に告げこそ われが立って待っていると妹に告げてもらいたいで、「こそ」は、願望の助詞。
【釈】 道のほとりの草を、冬野のように踏んで枯らして、われが立って待っていると、妹に告げてもらいたい。
【評】 その家の者の目を忍んで女に逢おうとする男の心で、独語したものである。「草を冬野に履み枯らし」は、待ち遠しい気分を誇張していったもので、この誇張が興味となっていたのである。謡い物である。
2777 畳薦《たたみこも》 へだて編《あ》む数《かず》 通《かよ》はさば 道《みち》のしば草《くさ》 生《お》ひざらましを
疊薦 隔編數 通者 道之柴草 不生有申尾
【語釈】 ○畳薦へだて編む数 「畳薦」は、菰を編んだ敷物。「へだて編む数」は、菰に少しずつ間を隔てて編み重ねる数で、薦で編むために苧を往復させる度数の意で、以上、多いことの譬喩。○道のしば草生ひざらましを 道の芝草は生えなかったろうに。
【釈】 菰を編んだ敷物の、その菰に少しずつ隔てを付けて編む数ほどお通いになったならば、道の芝草は生えなかったろうに。
【評】 女が稀れに来た男を送り出して、家の出入り口に生えている芝草を見て、訴えていった形の歌である。主格を省き、敬語を用いていることがそれを思わせる。「畳薦へだて編む数」は、甚しい誇張である。これは庶民のすべてのしていたことで、その誇張が親しく、おもしろく感じられたことであろう。これも謡い物である。
(229)2778 水底《みなそこ》に 生《お》ふる玉藻《たまも》の 生《お》ひ出《い》でず よしこの頃《ごろ》は かくて通《かよ》はむ
水底尓 生玉藻之 生不出 縱比者 如是而將通
【語釈】 ○生ひ出でず 伸びて水上には出でずで、人目を忍ぶことの譬喩。
【釈】 水底に生えている藻が、伸びて水面には出ずにいるように、ままよ、当分の間は、このようにして通おう。
【評】 男が女の許へ通う途中、独語した形の歌である。「水底に生ふる玉藻の生ひ出でず」は、男が海べの路を行きながら、目に見たさまを捉えたものである。心としては、人目を忍びてということで、気分であるが、それを気分の具象である譬喩までは持ち込まず、その境界線に置いていっているごときものである。気分の範囲のものであるが、扱い方がやや異なっているもので、結果としては、そのために新鮮味のあるものとなっているのである。以下五首、藻に寄せての歌。
2779 海原《うなばら》の 沖《おき》つ繩苔《なはのり》 うち靡《なび》き 心《こころ》もしのに 念《おも》ほゆるかも
海原之 奧津繩乘 打靡 心裳四怒尓 所念鴨
【語釈】 ○沖つ繩苔 沖に生える繩苔で、今の海素麺かという。赤紫色の柔らかい海草で、食用とする。その状態から「うち靡き」と続き、以上その序詞。○うち靡き心もしのに 靡き寄って、心も萎えなえに。
【釈】 海原の沖に生えている繩苔のように靡き寄って、心も萎えなえに思われることだなあ。
【評】 女の男を恋うる心である。類想の多い歌である。序詞が譬喩のごとき働きをするとともに、住地をも暗示している。
2780 紫《むらさき》の 名高《なだか》の浦《うら》の 靡藻《なびきも》の 情《こころ》は妹《いも》に 寄《よ》りにしものを
紫之 名高乃浦之 靡藻之 情者妹尓 因西鬼乎
【語釈】 ○紫の名高の浦の 「紫の」は、その色の名高い意で、名高の枕詞。「名高の浦の」は、和歌山県海南市名高町の海岸。○靡藻の 「靡藻」(230)は、波に靡いている藻の意で、名詞。結句の「寄り」にかかり、以上その序詞。○寄りにしものを 寄ってしまったものを。
【釈】 紫の色の名高い、その名高の浦に靡いている藻のように、心は妹に寄ってしまったものを。
【評】 名高の浦に住む男が、その誠実を女に誓った歌である。序詞は例のように譬喩と住地とをあらわしているものである。誓いの歌であるにもかかわらず、語続きの美しさに重点を置いているものである。謡い物であったからと思われる。
2781 海《わた》の底《そこ》 沖《おき》を深《ふか》めて 生《お》ふる藻《も》の 最《もとも》今《いま》こそ 恋《こひ》はすべなき
海底 奧乎深目手 生藻之 最今社 戀者爲便無寸
【語釈】 ○海の底沖を深めて 「海の底」は、深いのみならず、遠い意で、沖にかかる枕詞。「沖を深めて」は、沖が深くして。○生ふる藻の 「藻」を、同音の、「最」の「も」に懸け、以上その序詞。○最今こそ恋はすべなき 「最」は、もっともと同じで、集中唯一の例。「すべなき」は、やる瀬のないことだ。「なき」は、「こそ」の結で、已然形であるべきだが、形容詞には已然形はなかったので、連体形で結んだもの。
【釈】 海の底の、その沖が深くして生えている藻の、その「も」に因みある、最も今こそ、わが恋はやる瀬ないことである。
【評】 恋の極まってやるせない嘆きを、気分としてあらわしている歌である。序詞が例のように、その嘆きをしている場所の海上であることと、そのやる瀬ない気分を暗示しているものである。「海の底沖を深めて生ふる藻の」は、そのやる瀬なさの具象である。「藻」を「最」という副詞の一音にかけているのも、その関係の密接さをあらわしているといえる。謡い物の型に従って構成している歌ではあるが、一首が純気分であるのと、序詞と本義とのつながりの特殊さは、個人的の歌と思われる。
2782 さ寐《ぬ》がには 誰《たれ》とも宿《ね》めど 沖《おき》つ藻《も》の 靡《なび》きし君《きみ》が 言《こと》待《ま》つ吾《われ》を
左寐蟹齒 孰共毛宿常 奧藻之 名延之君之 言待吾乎
【語釈】 ○さ寐がには 「さ」は、接頭語。「がに」は、ばかりに、程度にの意をあらわす助詞で、共寝をするほどのことは。○誰とも宿めど どんな女とも寝ようが。○沖つ藻の靡きし君が 「沖つ藻の」は、「靡き」の枕詞。「君」は、妹の敬称。沖つ藻のように我に靡いたあの方の。○言待つ吾を 「言待つ」は、案内の言葉を待っている。「を」は、感動の助詞で、われであるものを。
(231)【釈】 共寝をするほどのことは、どんな女ともしようが、沖の藻のように靡いたあの方の、案内の言葉を待っているわれであるものを。
【評】 男が関係を結んで、まだほどもないと思われる女を、意識して精神的に愛敬している心をいっている歌である。上古から我が国では肉体と精神とを一元的に見て、差別しては見なかった。この歌も、差別しているとまではいえないまでも、単に共寝のためではないといい、さらに「靡きし君が言待つ吾を」と敬意をもった言い方をしているのは、精神面に重点を置いているといえる。その意味で特色のある歌である。
2783 吾妹子《わぎもこ》が 何《なに》とも吾《われ》を 思《おも》はねば 含《ふふ》める花《はな》の 穂《ほ》に咲《さ》きぬべし
吾妹子之 奈何跡裳吾 不思者 含花之 穗應咲
【語釈】 ○何とも吾を思はねば どうともわれを思っていないのに。「ねば」は、「ぬに」に同じ。○含める花の穂に咲きぬべし 「含める花」は、否んでいる花。「穂に咲きぬべし」は、あらわに花と咲き出すだろうで、さりげなくしてはいられず、人目につくようになるだろうという譬喩。
【釈】 吾妹子はどうとも我を思っていないのに、われは蕾んでいる花の、あらわに咲き出すだろう。
【評】 懸想した女が冷淡なので、ますます心がつのりそうだということを、説明的にいった歌である。「含める花の穂に咲きぬべし」は、心が募って包みきれなくなるだろうというのを、譬喩としたものである。説明の心のものであるから含蓄はないが、形としては新味がある。以下四首、花に寄せての歌。
2784 隠《こも》りには 恋《こ》ひて死《し》ぬとも 御苑生《みそのふ》の 鶏冠草《からあゐ》の花《はな》の 色《いろ》に出《い》でめやも
隱庭 戀而死鞆 三苑原之 鷄冠草花乃 色二出目八方
【語釈】 ○隠りには 「隠」は、人知れず内々で、名詞。「は」は、強め。○鶏冠草の花の 今の鶏頭の花。色が派手に咲く意で、「色に出で」と続き、三、四句その序詞。○色に出でめやも 「や」は、反語。表面にあらわそうか、あらわしはしない。
【釈】 人知れずに、恋死にをすることがあろうとも、御苑生の鶏冠草の花のように表面にあらわそうか、あらわしはしない。
(232)【評】 男の片恋の苦しさを女に訴えたものである。訴えではあるが、初めから諦めてかかっているもので、ただ衷情を訴えるという抑制をもってのものである。これは身分の相違を背後に置き、そこから出る気分をいったものであろう。「御苑生の」という敬語もそれを暗示している。「恋ひて死ぬとも」は、甚しい物思いをすると、魂が身から離れて死ぬとしていたところからの語で、いかに嘆きをしようともというのを言いかえたもので、感傷の誇張ではない。
2785 咲《さ》く花《はな》は 過《す》ぐる時《とき》あれど 我《わ》が恋《こ》ふる 心《こころ》の中《うち》は 止《や》む時《とき》もなし
開花者 雖過時有 我戀流 心中者 止時毛梨
【語釈】 ○過ぐる時あれど 「過ぐ」は、過去になるで、散る意。散る時があるけれども。
【釈】 咲く花は散る時があるけれども、我が人を恋う心の中は、やむ時もなく続いている。
【評】 女に訴えた男の歌であるが、どういう関係の仲かはわからない。その時の花の聞落に関係させて、自分の心を説明したもので、後世に好まれた歌風である。
2786 山吹《やまぶき》の にほへる妹《いも》が 唐棣花色《はねずいろ》の 赤裳《あかも》のすがた 夢《いめ》に見《み》えつつ
山振之 尓保敞流妹之 翼酢色乃 赤裳之爲形 夢所見管
【語釈】 ○山吹のにほへる妹が 「山吹の」は、「にほふ」にかかる枕詞。「にほへる」は、美しい色をしているで、顔いろの美しい妹。○唐棣花色の 「唐棣花」は、庭梅で、薄い紅色。
【釈】 山吹のように美しい顔いろをしている妹の、唐棣花(233)色の赤裳を着けた姿が、夢に見え見えする。
【評】 夢の与える感じをいっただけの歌である。鮮やかに、みずみずしい色彩を二つ配合して、平面的に叙したもので、一つの新傾向を見せている歌である。
2787 天地《あめつち》の 寄《よ》り合《あ》ひの極《きは》み 玉《たま》の緒《を》の 絶《た》えじと念《おも》ふ 妹《いも》があたり見《み》つ
天地之 依相極 玉緒之 不絶常念 妹之當見津
【語釈】 ○天地の寄り合ひの極み 天と地とが近く寄り合って一つになる、その最後までの意。永久ということを具象的にいった成句。巻二(一六七)に出た。○玉の緒の絶えじと念ふ 「玉の緒の」は、玉を貫いている緒で、意味で「絶え」にかかる枕詞。「絶えじと」は、関係が絶えまいと。○妹があたり見つ 妹の家のあたりを見た。
【釈】 天と地とが寄り合って一つになる、その最後まで、玉の緒のように関係は絶えまいと思っている、妹の家のあたりを見た。
【評】 「妹があたり見つ」が中心で、ほかは妹に対する気分である。いつまでもということを、「天地の寄り合ひの極み」というごとき最大級の語をもっていっているのは、永らく遠い旅にあって、妹を恋うる思いの積もっていたことを暗示しているものである。一首の調べが強く張っていて、こうした大きい語を妥当化するものとなっている。すなわち調べが気分の直接の表現となっているのである。目を引く歌である。以下七首、玉の緒に寄せての歌。
2788 生《いき》の緒《を》に 念《おも》へば苦《くる》し 玉《たま》の緒《を》の 絶《た》えて乱《みだ》れな 知《し》らば知《し》るとも
生緒尓 念者苦 玉緒乃 絶天乱名 知者知友
【語釈】 ○生の緒に念へば苦し 「生の緒に」は、命の続く限り。「念へば苦し」は、人を思っていると苦しい。○玉の緒の絶えて乱れな 「玉の緒の絶えて」は、玉の緒が絶えて玉の乱れる意で、「乱れ」の譬喩。序詞の形になっている。「乱れな」は、乱れたい、思うままに振舞いたい。○知らば知るとも 人が知るならば知ろうとも。
【釈】 命の限り人を思っていると苦しい。玉の緒が絶えて玉が乱れるように、我も乱れたい。人が知るならば知ろうとも。
(234)【評】 片恋の苦しみをしつつも、名を重んじて人目に立たせまいと忍んで来た男が、その苦しさに堪えられなくなって来た時の気分である。「知らば知るとも」が中心で、今は名も思うまいというのである。調べが奔放で、抑制するところがなく、昂奮した気分をさながらにあらわしており、それが主体を成している歌である。「生の緒に」と「玉の緒の」との対照的なのも自然である。
2789 玉《たま》の緒《を》の 絶《た》えたる恋《こひ》の 乱《みだ》るれば 死《し》なまくのみぞ 又《また》も逢《あ》はずして
玉緒之 絶而有戀之 乱者 死卷耳其 又毛不相爲而
【語釈】 ○玉の緒の絶えたる恋の 「玉の緒の」は、「絶え」の枕詞。「絶えたる恋」は、絶えた夫婦関係。○乱るれば 諦められず、心が乱れるので。○死なまくのぞみ 「死なまく」は、死なむの名詞形で、「のみ」は、強意。死のうとしているばかりであるよで、甚しく嘆けば、死ぬとする意でいっているもの。○又も逢はずして また逢うことはなくて。
【釈】 玉の緒のように絶えた夫婦関係で心が乱れるので、死のうとするばかりであるよ。また逢うことはなくて。
【評】 女が、夫婦関係の絶えた男に、最後の挨拶の形で贈った歌である。「又も逢はずして」と、絶えての後のこととて、当然な余儀ないこととして、諦めていっている形になっているが、上からの続きで見ると、明らかに訴えの心を含んだもので、それがほぼ生かされた形になっている。若くはない女の歌で、物語的な味わいを帯びた歌である。
2790 玉《たま》の緒《を》の くくり寄《よ》せつつ 末《すゑ》終《つひ》に 去《ゆ》きは別《わか》れず 同《おな》じ緒《を》にあらむ
(235) 玉緒之 久栗縁乍 末終 去者不別 同緒將有
【語釈】 ○玉の緒のくくり寄せつつ 「玉の緒の」は、玉を貫いている緒の玉をの意のもの。「くくり寄せつつ」は、間の離れている玉を、双方からくくり寄せつつ。○末終に去きは別れず 「末終に」は、末には終いにで、最後にはの意。「去きは別れず」は、玉と玉とは、離れてはゆかずしてで、「ず」は、連用形。○同じ緒にあらむ 同じ緒の玉となっていよう。
【釈】 玉の緒をくくり寄せ寄せして、最後には、離れてゆかぬさまにして、同じ緒のものとなっていよう。
【評】 男より女に贈った歌である。全部が譬喩で、「玉の緒」は同棲生活、「玉」は男女である。上の(二四四八)「ぬば玉の間開けつつ貫ける緒も縛り寄すれば後逢ふものを」と通うところのある歌で、譬喩ではあるが気分化され、細かい心を織り込んだ美しいものとなっている。次第に同棲の手順をつけてゆこうというのは男の心と取れる。
2791 片糸《かたいと》もち 貫《ぬ》きたる玉《たま》の 緒《を》を弱《よわ》み 乱《みだ》れやしなむ 人《ひと》の知《し》るべく
片絲用 貫有玉之 緒乎弱 乱哉爲南 人之可知
【語釈】 ○片糸もち 「片糸」は、縒り合わせない前の糸の称で、普通使用する糸は、強くするために、片糸の二筋を縒り合わせたのである。「もち」は、もって。○緒を弱み 緒が弱いのでで、乱れる意で「乱れ」に続き、以上その序詞。○乱れやしなむ 心が乱れもしようかで、「や」は、疑問の係。○人の知るべく 他人にそれと察しられるほどに。
【釈】 片糸をもって貫いてある玉の、緒が弱いので、乱れるように、心乱れをするであろうか。他人に察しられるほどに。
【評】 女の歌である。関係している男の誠実が足りないために、心乱れが起こりそうで、そうなれば秘密の関係を人に察しられはしなかろうかと惧れた心である。序詞は、譬喩の意の濃厚なもので、「緒」を夫婦関係に、「片糸」をその関係の薄弱さに譬えたものである。譬喩として叙述にすると複雑になるものを、序詞として単純にし、気分化したものである。
2792 玉《たま》の緒《を》の うつし意《ごころ》や 年月《としつき》の 行《ゆ》き易《かは》るまで 妹《いも》に逢《あ》はずあらむ
玉緒之 寫意哉 年月乃 行易及 妹尓不逢將有
(236)【語釈】 ○玉の緒のうつし意や 「玉の緒の」は、魂の続いている限りで、命の意で「うつし」にかかる枕詞。「うつし意」は、原文諸本「嶋意」。旧訓「しまごころ」。『略解』で本居宣長は、「嶋」は「寫」の誤写とし、「うつしごころ」と改めたもの。巻十二(三二一一)「玉の緒の現し心や」という同形の用例がある。巻七(一三四三)の「一に云ふ」に「紅のうつし心《ごころ》や妹にあはざらむ」の用例もある。現しごころは正気な心。「や」は、係助詞で、反語となっている。○年月の行き易るまで 年月が移り変わるまでで、久しい間を。○妹に逢はずあらむ 妹に逢わずにいられようか。いられないの意。
【釈】 命ある正気な心で、年月の移り変わるまでの久しい間を、妹に逢わずにいられようか、いられはしない。
【評】 女と関係を結んでいる男が、何らかの事情で久しく女に逢えずにいる時の心である。そのことを嘆かずに憤りとしていっているところに特色がある。嘆くよりも深情である。調べが強くさわやかで、その気分にふさわしい。調べが主体となっている。
2793 玉《たま》の緒《を》の 間《あひだ》も置《お》かず 見《み》まく欲《ほ》り 吾《わ》が思《も》ふ妹《いも》は 家《いへ》遠《とほ》くありて
玉緒之 問毛不置 欲見 吾思妹者 家遠在而
【語釈】 ○玉の緒の間も置かず 「玉の緒の」は、玉と玉の間がある意で、「間」にかかる枕詞。○見まく欲り吾が思ふ妹は 「欲り」は、連用形で、「思ふ」に続く。
【釈】 玉の緒のように間も置かずに逢いたいと思う妹は、家が遠くあって。
【評】 心は明らかである。「家遠くありて」は、旅にあればもちろん、上代は遠方に妻を持っていることが珍しくなかったので、その意味での嘆きであろう。遠方ということを四句を費やしていっているのは、そのためと思われる。素朴な詠み方の歌である。
2794 隠《こも》りづの 沢《さは》たづみなる 石根《いはね》ゆも 通《とほ》りて念《おも》ふ 君《きみ》に逢《あ》はまくは
隱津之 澤立見尓有 石根從毛 達而念 君尓相卷者
【語釈】 ○隠りづの沢たづみなる 「隠りづ」は、隠り水で、人目につかない所にある水。「の」は、同意の名詞を重ねていう場合のもので、にし(237)ての意のもの。「沢たづみ」は、沢に立つ水で、「にはたづみ」と同構成の語で、沢に湧き出す水。○石根ゆも通りて念ふ 「石根ゆも」は、「石根」は、岩。「ゆ」は、経過地点をあらわすもので、岩の中をも。「も」は、詠嘆。「通りて念ふ」は、湧き出す水が、岩を通って湧き出すで、見ていっているもので、そのさまを、ただちに自身の気分の譬喩としていい、そのごとく我も思うと隠喩にしたもの。○君に逢はまくは 「君」は、前よりの続きで、男が女を指していっているものと取れる。「逢はまく」は、「逢はむ」の名詞形。逢うことのためには。
【釈】 人目に隠れている水で、沢に水の湧き出す所にある岩の中を通っている、それのように我も思う。君に逢おうことのためには。
【評】 山村の男の、女に懸想している頃の歌である。山に囲まれている小さい水源地の水の、岩を通って湧き出して来る状態を見て、我もこの水のような心をもって女に逢うようにしようと思ったのである。初句より四句までを費やして泉の状態を細叙しているが、これはその状態に刺激されて、結句の「君に逢はまくは」の心を起こしたので、この状態が一首の作因なのである。結果から見ると譬喩であるが、譬喩を意図したものではない。また、秘密に恋をしている気分を濃厚に暗示してもいるが、それも意図したものではなく、それ以前の、目に見た状態がおのずからそうしたことに繋がっているにすぎないものである。要するに原始的な態度の歌である。上の(二四四三)「隠処の沢泉なる石根ゆも通りてぞ念ふ吾が恋ふらくは」と同歌であって、この歌のほうが原形で、謡い物として伝承されているうちに平明化されて、そのように変化したのである。岩に寄せての歌。
2795 紀《き》の国《くに》の 飽等《あくら》の浜《はま》の 忘《わす》れ貝《がひ》 我《われ》は忘《わす》れじ 年《とし》は経《へ》ぬとも
木國之 飽等濱之 忘貝 我者不忘 年者雖歴
【語釈】 ○飽等の浜の忘れ貝 「飽等の浜」は、所在不明である。和歌山市加太町の南、田倉埼の海浜という。「忘れ貝」は、しばしば出た。同音で「忘れ」にかかり、以上その序詞。
【釈】 紀伊国の飽等の浜に寄せている忘れ貝の、我はその忘れることはしまい。年は経ようとも。
【評】 男の、関係を結んだ女に、将来も変わらないことを誓った歌である。飽等の地方の謡い物である。海辺の地ならどこへでも適用のできる一般性のある歌である。以下四首、貝に寄せての歌。
2796 水《みづ》潜《くく》る 玉《たま》にまじれる 礒貝《いそがひ》の 片恋《かたこひ》のみに 年《とし》は経《へ》につつ
(238) 水泳 玉尓接有 礒貝之 獨戀耳 年者經管
【語釈】 ○水潜る玉にまじれる 「水潜る」は、水の中に潜っているで、水中深く沈んでいる玉。これは真珠で、鰒の腹中にある物である。鰒には触れず、玉だけをいったもの。「まじれる」は、その玉と一緒にある。○礒貝の 礒は岩で、岩に付着している貝の称と取れる。下の続きで、単殻でなければならぬ。それだと鰒の類であろう。意味で「片」につづき、以上その序詞。
【釈】 水中深く沈んでいる玉にまじっている岩に付着している礒貝のように、片恋ばかりに年を経つついる。
【評】 年を重ねている片恋の嘆きであるが、明るく軽い歌である。海べの地の謡い物であったろう。序詞は美しく巧みである。
2797 住吉《すみのえ》の 浜《はま》に寄《よ》るといふ うつせ貝《がひ》 実《み》なき言《こと》もち 我《われ》恋《こ》ひめやも
住吉之 濱尓縁云 打背貝 實無言以 余將戀八方
【語釈】 ○うつせ貝 身の失せた貝で、貝殻となった物の総称。「空し貝」の転音と思われる。意味で「実なき」にかかり、以上その序詞。○実なき言もち 「実」は、恋の上で花に対させる語で、実意。「もち」は、もっての古形。実意のない花なる語をもって。○我恋ひめやも 我は恋をしようか、しはしないで、「や」は、反語。
【釈】 住吉の浜に寄るという空せ貝のように、実のない語をもって、我は恋をしようか、しはしない。
【評】 男が求婚をした時、女が男の言葉の真実を疑ったのに対して、男の答えて詠んだ歌である。序詞は、住吉のことを話に聞いている程度の人であるから、京の人であってもよい歌である。
2798 伊勢《いせ》の白水郎《あま》の 朝《あさ》な夕《ゆふ》なに 潜《かづ》くといふ 鰒《あはび》の貝《かひ》の 片念《かたもひ》にして
伊勢乃白水郎之 朝魚夕菜尓 潜云 鰒貝之 獨念荷指天
【語釈】 ○朝な夕なに潜くといふ 朝に夕に、海に潜いて取るという。○鰒の貝の 「鰒」は、殻が片方だけの物なので、意味で「片」に続き、以上その序詞。○片念にして 片思いであって。
(239)【釈】 伊勢の白水郎が、朝夕に波を潜いて捕るという鰒の貝の殻のように、片恋であって。
【評】 四句までを序詞にして、鰒の貝のことをいっているのは、そのことに興味があったからで、これは海に遠い地のことでなくてはならぬ。大和での謡い物であったろう。「鰒の貝の片念ひ」ということを、当時すでにいっていたのである。
2799 人言《ひとごと》を 繁《しげ》みと君《きみ》を 鶉《うづら》鳴《な》く 人《ひと》の古家《ふるへ》に 語《かた》らひて遣《や》りつ
人事乎 繁跡君乎 鶉鳴 人之古家尓 相語而遣都
【語釈】 ○人言を繁みと君を 『略解』の訓。人の物言いがうるさいからとて。「君」は、女より男を指してのもの。○鶉鳴く人の古家に 「鶉鳴く」は、鶉は荒れた所に住む鳥として、「古」にかかる枕詞。「人の古家」は、他人の空家。○語らひて遣りつ 「語らひて」は、逢って。「遣りつ」は、帰した。
【釈】 人の物言いがうるさいからとて、君を、他人の空家で逢って帰した。
【評】 男に逢って別れた後の心である。「鶉鳴く人の古家に」は、合理化してはあるが、特殊な逢い場所で、深い侘びしさのあるものである。歌はその侘びしさをいっているのである。この歌は、抒情をとおしてその場景を思わせるもので、物語的興味を感じさせる作である。一つの新傾向であったかと思われる。
2800 旭時《あかとき》と 鶏《かけ》は鳴《な》くなり よしゑやし 独《ひとり》宿《ぬ》る夜《よ》は あけば明《あ》けぬとも
(240) 旭時等 鷄鳴成 縱惠也思 獨宿夜者 開者雖明
【語釈】 ○旭時と鶏は鳴くなり 暁だと、時を告げて鶏は鳴いた。○よしゑやし ままよ。それでもよい。○独宿る夜はあけば明けめとも ひとり寝をしている夜は、明けるなら明けようとも。
【釈】 暁だと時を告げて鶏は鳴いた。ままよ、ひとり寝をしている夜は、明けるなら明けようとも。
【評】 ひとり寝をしていて、夜明けの鶏の声を聞いた時の心である。共寝の床に聞くその声と本能的に比較されて、どうでもかまわないと捨て鉢に似た気分を感じた、その表現である。気分が調べになって躍動している。調べが生命になっている作である。
2801 大海《おほうみ》の 荒礒《ありそ》の渚鳥《すどり》 朝《あさ》な旦《あさ》な 見《み》まく欲《ほ》しきを 見《み》えぬ公《きみ》かも
大海之 荒礒之渚鳥 朝名旦名 見卷欲乎 不所見公可聞
【語釈】 ○荒礒の渚鳥 「渚鳥」は、渚にいる鳥の総称で、小魚を食餌としているもの。荒礒にいる渚鳥で、朝、あさりをする習性をもっている意で「朝な旦な」に続け、以上その序詞。○朝な旦な見まく欲しきを 「朝な旦な」は、日々にで、日々に見たいのに。
【釈】 大海の海辺の磯にいる渚鳥の朝々にあさりをする、そのように朝々に見たいと思うのに、見えない公であるよ。
【評】 女が男の通って来ることの少ないのを不満にしている心で、一般性をもったものである。「大海の荒礒の渚鳥」の序詞は、序詞である関係上、同じく一般性をもったものでなくてはならぬ。これはこの男女の住地を暗示するとともに、譬喩として「朝な旦な」に続いているのであるが、続く心が明らかだとはいえない。野鳥は習性として、求食は早朝にするもので、渚鳥も同様であろう。それだと、海の小魚をねらうために海岸の岩の上に群れているのが印象的で、見る目に快いものでもあり、それは誰しも見馴れて親しいものであったろう。その意味で、「朝な旦な」に続けているものと思われる。海べの地の謡い物であったろう。
2802 念《おも》へども 念《おも》ひもかねつ あしひきの 山鳥《やまどり》の尾《を》の 永《なが》きこの夜《よ》を
(241) 念友 念毛金津 足檜之 山鳥尾之 永此夜乎
【語釈】 ○念へども念ひもかねつ 「念ふ」は、逢い難くしている妻を恋しく思うで、「かね」は、得ぬ意。妻を恋うるが、恋うる心を尽くし得なかったで、恋うるに余ったの意。○あしひきの山鳥の尾の 「山鳥の尾」は、長いことが特色となっているので、譬喩として「永」に続き、二句その序詞。なお山鳥は、夜は雌雄峰を異にして寝る鳥とされているので、ひとり寝ということを気分として絡ませての序詞。○永きこの夜を 秋の長い夜を。
【釈】 妻を恋い思ったが、恋い思うにも余った。あしひきの山鳥の尾のように長いこの秋の夜を。
【評】 秋の夜、ひとり寝をしている男の、恋を思う心で、きわめて一般性をもったものである。初二句にその心を総括していい、三句以下は、序詞を設けて夜の永さと、妻恋しい気分とを暗示したもので、型のごときものである。しかし一首の調べは、滑らかに美しく、感傷的気分をあらわし得ているものである。まさしく謡い物の条件を備えているもので、それとしては洗練を経た、都市的なものである。京で謡われていたものであろう。
或本の歌に曰はく、あしひきの 山鳥《やまどり》の尾《を》の しだり尾《を》の 長《なが》き永夜《ながよ》を ひとりかも宿《ね》む
或本歌曰、足日木乃 山鳥之尾之 四垂尾乃 長永夜乎 一鴨將宿
【語釈】 ○しだり尾の 「しだり」は、長く垂れている尾で、以上「長き」の序詞。○長き永夜を 旧訓「ながながしよを」を、本居宣長の『詞の玉緒』で改めたものである。上代の歌には五音句には「みづみづし」など躍ったものがあるが、七音句にはその例がなく、調べが弱くなるからだといっている。○ひとりかも宿む ひとり寝をすることであろうか。「かも」は、疑問の係。
【釈】 山鳥の尾のしだれている尾のように長く永い夜を、ひとりで寝ることであろうか。
【評】 この歌は、上の歌の別伝として扱われているが、全く異なった歌である。その境も取材も同一であるが、これは相聞には普通のことで、詠み方を異にしているものである。この歌には初めから個人的の匂いがなく、一般性をねらったもので、また極度に調子がよいために、嘆きの気分は全くなく、明るくたのしい歌となっているのである。典型的な謡い物である。この歌は「拾遺集」で柿本人麿の作とされ、小倉百人一首に収められたために、人口に膾炙している歌である。
2803 里中《さとなか》に 鳴《な》くなる鶏《かけ》の 喚《よ》び立《た》てて 甚《いた》くは鳴《な》かぬ 隠妻《こもりづま》はも
(242) 里中尓 鳴奈流鶴之 喚立而 甚者不鳴 隱妻羽毛
【語釈】 ○里中に鳴くなる鶏の喚び立てて 里の中に鳴いている鶏の雄鳥が、雌鳥を喚び立ててで、意味で「甚く鳴く」に続け、以上、その序詞。○甚くは鳴かぬ隠妻はも 「甚くは鳴かぬ」は、甚しくは泣かないで、上からは「甚く鳴く」と続くのを、「ぬ」の打消で上を転じて、内容を変えたもの。「隠妻はも」は、隠妻はなあ、と憐れんだ心。隠妻は関係を秘密にしている妻で、当時はむしろ普通のものであった。「鳴かぬ」は、その秘密を人に知られまいとしてである。
【釈】 里の中に鳴いている鶏の雄鳥の、雌鳥を喚び立てるそれとは反対に、ひどくは泣かないわが隠妻はなあ。
【評】 人目を憚って妻に逢い難くしている男が、妻はさぞ恨めしく思っていようと、思いやって憐れんだ心である。序詞に特色がある。「里中に鳴くなる鶏の喚び立てて」は、男女の住地と、男がそれに刺激されてこうした感を起こしたことを暗示しているもので、それは型ともなっていることであるが、この序詞はそれにとどまらず、「甚く鳴く」を、「鳴かぬ」と転回させて、語のおもしろさをも付け加えているのである。この語意の転回は、古い謡い物ではむしろ主体となっていたことであるが、次第に衰え、後の序詞は気分の暗示がそれに代わって来ているのであるが、この序詞は、その古風を復活して付加しているものである。部落の謡い物として愛された歌だろうと思われる。
一に云《い》ふ、里《さと》動《とよ》み 鳴《な》くなる鶏《かけ》の
一云 里動 鳴成鷄
【解】 初句の別伝である。里に響かせてで、原文のほうが落ちついていて、一首全体には調和する。刺激の強さを求めて変えたとみえる。
2804 高山《たかやま》に 高部《たかべ》さ渡《わた》り 高高《たかだか》に 我《わ》が待《ま》つ公《きみ》を 待《ま》ち出《い》でむかも
高山尓 高部左渡 高々尓 余得公乎 待將出可聞
【語釈】 ○高山に高部さ渡り 「高部」は、小鴨の一種。「さ渡り」は、「さ」は、接頭語。飛び渡りで、越えるさま。同音で下の「高高」にかかり、以上その序詞。○高高に 「高高」は、背伸びをして望む意で、待つ状態。○待ち出でむかも 待ちつけ得ようかなあ。「かも」は、疑問。
(243)【釈】 高山を高部が飛び渡ってゆく、その高々に背伸びをしわが待っている君を、待ちつけうるであろうかなあ。
【評】 女のその夫の来るのを待ち望んでいる心である。「高」を三回、「待つ」を二回重ねて、それによって音調をおもしろくしようとし、そこに力点を置いている歌である。これは謡い物としての要求からのもので、明らかに謡い物である。
2805 伊勢《いせ》の海《うみ》ゆ 鳴《な》き来《く》る鶴《たづ》の 音《おと》どろも 君《きみ》が聞《きこ》さば 吾《われ》恋《こ》ひめやも
伊勢能海從 鳴來鶴乃 音杼侶毛 君之所聞者 吾將戀八方
【語釈】 ○伊勢の海ゆ鳴き来る鶴の 伊勢の海からこちらへ鳴いて来る鶴ので、意味で「音」と続き、以上その序詞。○音どろも 「音どろ」は、ここよりほかはない語である。前後の続きから察しるほかはない語である。『新考』は、音ずれの地方語であろうという。これに従う。「も」は、なりとも。○君が聞さば 「聞さば」は、いわばの敬語。
【釈】 伊勢の海からこちらへ鳴いて来る鶴の音の、その音ずれなりとも君がおっしゃったならば、我は恋いようか恋いはしない。
【評】 全く音信も絶えている男を思っての女の嘆きである。「音どろ」は不明ではあるが、大意は上のごときものであろう。「伊勢の海ゆ鳴き来る鶴の」は、眼前を捉えるとともに、その男の住地をも暗示しているものである。鳴いて来る鶴にこのような方角を連想するのは、迎えてのことだからである。また、鶴に使を連想するのは古くからのことであるから、その気分も絡んでいよう。
2806 吾妹子《わぎもこ》に 恋《こ》ふれにかあらむ 沖《おき》に住《す》む 鴨《かも》の浮宿《うきね》の 安《やす》けくもなし
吾妹兒尓 戀尓可有牟 奧尓住 鴨之淨宿之 安雲無
【語釈】 ○恋ふれにかあらむ 「恋ふれにか」は、旧訓「こふるにか」。『略解』の訓。恋うればにかあらむの意で、「か」は、疑問の係。○沖に住む鴨の浮宿の安けくもなし 「沖に住む」は、鴨にかかる枕詞。「浮宿」は、水に浮かんで寝ている意で、譬喩として「安けくもなし」の序詞。
【釈】 吾妹子を恋うていればであろうか。沖に住んでいる鴨の浮宿のように、安らかさがない。
【評】 男が夜、おちおちと眠れないのを訝かって、その理由を求めて、求め得た時の心である。初二句、まずその理由をいい、(244)以下初めて眠れない状態をいっているのはそのためである。「沖に住む鴨の浮宿の」という序詞は、平常見馴れている光景であろう。無意識に恋していたのに心付くという境は、実際には多いことであろうが、歌としては珍しいものである。個人的な歌である。
2807 明《あ》けぬべく 千鳥《ちどり》数鳴《しばな》く しろたへの 君《きみ》が手枕《たまくら》 いまだ厭《あ》かなくに
可旭 千鳥數鳴 白細乃 君之手枕 未〓君
【語釈】 ○千鳥数鳴く 「千鳥」は、多くの鳥の意のもの。用例がある。「数鳴く」は、しきりに鳴いている。○しろたへの君が手枕 「しろたへの」は、「手枕」の枕詞。○いまだ厭かなくに 「厭かなくに」は、飽かないことであるものを。
【釈】 夜が明けそうに、多くの鳥がしきりに鳴いている。しろたえの君の手枕は、まだ飽かないことであるものを。
【評】 女の後朝の別れを惜しむ心で、最も一般的な心である。詠み方もそれにふさわしい外面的なものである。謡い物として謡われた歌であろう。
問答
【目】 既出。最初の一首を除くほかは、柿本人麿歌集以外の物で、区別して集めたものである。
2808 眉根《まよね》掻《か》き 鼻《はな》ひ紐《ひも》解《と》け 待《ま》てりやも 何時《いつ》かも見《み》むと 恋《こ》ひ来《こ》し吾《われ》を
眉根掻 鼻火紐解 待八方 何時毛將見跡 戀來吾乎
【語釈】 ○眉根掻き鼻ひ紐解け 眉が痒くなって掻き、くしゃみが出、下紐がひとりでに解けてで、いずれも人に逢う前兆としていたことである。○待てりやも 待っていたのであるかで、それは皆我が思っていたがゆえのことだとの意でいっているもの。○何時かも見むと恋ひ来し吾を 早く逢いたいと思って、恋うて来た我を。
(245)【釈】 眉を掻き、くしゃみが出、下紐が自然に解けて待っていたのであるか。早く逢いたいと思って恋うて来た我を。
【評】 男が女に逢った時の挨拶である。そうした場合には、男の真実を示すために、労苦をして来たことをいうのが型となっているのに、それを恋いに恋うて来たと言い換え、さらに女もそれと察して待っていたろうとまでいっている、きわめて積極的なものである。明るく自由な珍しい歌である。
右は、上に柿本朝臣人麿の歌の中に見ゆ。但し問答を以ての故に、累ねて茲に載す。
右、上見2柿本朝臣人麿之歌中1。但以2問答1故、累載2於茲1也。
【解】 「上に、見ゆ」というのは、(二四〇八)「眉根かき鼻ひ紐解け待つらむか何時かも見むと念へる吾を」である。これは離れていて妹を思いやった形のものであるのを、今は相向かってのものである。したがって第三句と五句とを変えて、著しく低俗の趣のあるものにしているのである。これは、謡い物としての興味にかなわしめようとしてのことである。人麿歌集の歌が、流行の結果、こうした扱いを受けていたのである。
2809 今日《けふ》なれば 鼻《はな》し鼻《はな》しひ 眉《まよ》かゆみ 思《おも》ひしことは 君《きみ》にしありけり
今日有者 昇之々々火 眉可由見 思之言者 君西在來
【語釈】 ○今日なれば 諸注、訓が定まらない。『全註釈』の、本文に即しての訓。今日になればで、今日になって見るとの意。○鼻し鼻しひ 旧訓。「鼻し」は、「し」は、強意の助詞。「鼻しひ」は、目しい、耳しいなどと同じく、鼻が通らなくなった意で、「鼻し」は、感を強めるために畳んだもの。くしゃみの出ることを具象的にいったもの。○眉かゆみ 眉がかゆくて。○思ひしことは 誰に逢うというのだろうと思った前兆は。○君にしありけり 君であったことだ。
【釈】 今日となって見ると、鼻がしきりに塞がり、眉が痒く、誰に逢うというのだろうと思ったことは、君であったことだ。
【評】 男の語をそのままに繰り返して、男に違えた喜びを漂わしている形のものであるが、問歌の生彩がなく、むしろ問歌に縋って拵らえた歌という感のあるものである。問答体の謡い物として作ったものだからである。一首としての独立性のないのはそのためである。
(246) 右二首
2810 音《おと》のみを 聞《き》きてや恋《こ》ひむ まそ鏡《かがみ》 目《め》に直《ただ》にあひて 恋《こ》ひまくも多《おほ》く
音耳乎 聞而哉戀 犬馬鏡 目直相而 戀卷裳太口
【語釈】 ○音のみを聞きてや恋ひむ 評判だけを聞いて恋うているべきであろうか。「や」は、疑問の係。○まそ鏡目に直にあひて 「まそ鏡」は、「目」にかかる枕詞。「目に直にあひて」は、「目」は、相手の容貌を代表させた語で、その人にの意で、「音」に対させたもの。「直にあひて」は、直接に逢って。○恋ひまくも多く 「恋ひまく」は、「恋ひむ」の名詞形。恋うるだろうこと。「多く」は、多くして。
【釈】 評判だけを聞いて恋うていようか。あなたに直接に逢って、恋うることが多くて。
【評】 女に初めて逢って、別れての後に贈った歌である。後世の後朝の歌にあたるものである。相逢った喜びをいうのが型になっていて、儀礼的なものである。今の恋の悩みを思うと、逢えずに悩んでいた時のほうが、まだ悩みが少なくて、かえって良くはなかったろうかというので、その場合に即した言い方をしたものである。儀礼の語だけには終わらせまいとしたものである。
2811 この言《こと》を 聞《き》かむとならし まそ鏡《かがみ》 照《て》れる月夜《つくよ》も 闇《やみ》のみに見《み》て
此言乎 聞跡平 眞十鏡 照月夜裳 闇耳見
【語釈】 ○この言を聞かむとならし 「この言を」は、男のいって来たその言葉を。「聞かむとならし」は、諸注訓が定まらない。「平」は原文「乎」で『新考』は、「乎」は、「平」の誤りとして、「ならし」と訓んでいる。誤写説であるが、妥当と思われるので、これに従う。聞こうとしてのことであろう。○まそ鏡照れる月夜も 「まそ鏡」は、「照る」の枕詞。問歌の語。照っている月も。○闇のみに見て 闇とばかりに見て来てで、「来て」の意が略されている。贈歌の形に合わせようとしてである。君を思うことに心を奪われて、照っている月も目には映らずに来たの意。
【釈】 君のそうした言葉を聞こうと思っていたらしいのです。まそ鏡のように照っている月も、闇とばかりに見て来て。
【評】 上の歌をひどく喜んでの心で、我はそうした言葉を聞きたさに、照っている月も目に入らずに過ごしていたというので、(247)男にも増して思慕していた心をいったものである。これは贈歌の「まそ鏡」という語に縋っていっているものである。「聞かむとならし」は、訓には問題があろうが、聞こうと思ってを、わざと婉曲に言いかえたものである。才のある詠み口である。二首同じ作者の歌とみえる。
右二首
2812 吾妹子《わぎもこ》に 恋《こ》ひてすべ無《な》み 白《しろ》たへの 袖《そで》反《かへ》ししは 夢《いめ》に見《み》えきや》
吾妹兒尓 戀而爲便無三 白細布之 袖反之者 夢所見也
【語釈】 ○白たへの袖反ししは 「白たへの」は、袖の枕詞。「袖反す」は、寝る時、袖口を折返すことで、これをすると、思う人と夢に逢えるという俗信があったのである。
【釈】 吾妹子を恋うて、やる瀬ないので、せめて夢に逢おうと、わが袖を折返して寝たのは、そちらの夢に見えましたか。
【評】 「袖反ししは夢に見えきや」は、初出のものである。当時としては一般性のあることを、平易にいったにすぎない歌である。
2813 吾《わ》が背子《せこ》が 袖《そで》反《かへ》す夜《よ》の 夢《いめ》ならし 真《まこと》も君《きみ》に 逢《あ》へりしが如《ごと》
吾背子之 袖反夜之 夢有之 眞毛君尓 如相有
【語釈】 ○夢ならし 夢であったろうと、強く推量したもの。○真も君に逢へりしが如 実際に、君に逢ったがようであった。
【釈】 わが背子が袖を折返して寝た夜の夢であったろう。実際に君に逢ったがようであった。
【評】 贈歌と同じ調子の歌である。「らし」と「真も」と響かせ合っているところなど、贈歌の四、五句と同じ手法である。同一人の手によって成ったものとみえる。
(248) 右二首
2814 吾《わ》が恋《こひ》は 慰《なぐさ》めかねつ ま気長《けなが》く 夢《いめ》に見《み》えずて 年《とし》の経《へ》ぬれば
吾戀者 名草目金津 眞氣長 夢不所見而 年之經去礼者
【語釈】 ○ま気長く 「ま」は、接頭語。「気長く」は、時久しく。○夢に見えずて 相手が夢に見えなくて。相手がこちらを思えば、夢に見えるという俗信の上に立つてのことで、夢に見えないということは、思われていない意で、恨む心よりのもの。
【釈】 私の恋は、慰めが得られなかった。時久しくも夢に見えなくて、年が過ぎたので。
【評】 関係の絶えた女に、男が未練気を起こして恨んだ歌である。語続きの婉曲なのはそのためである。例の多い事柄である。
2815 ま気永《けなが》く 夢《いめ》にも見《み》えず 絶《た》ゆれども 吾《わ》が片恋《かたこひ》は 止《や》む時《とき》もあらず
眞氣永 夢毛不所見 雖絶 吾之片戀者 止時毛不有
【語釈】 ○ま気永く夢にも見えず 贈歌の三、四句を取って、女自身のことに変えたもの。「見えず」は、見えずして。○絶ゆれども 関係はすでに絶えたけれども。男がこちらを思えば夢に見えるとして、それが無いのでの意。○吾が片恋は止む時もあらず 「吾が片恋」は、女が男に対しての片思いで、それは休んだ時もありません。
【釈】 時久しく、あなたは夢にも見えずして、心つながりは絶えてしまっていますが、私の片思いは休んだ時もありません。
【評】 「ま気永く夢にも見えず」と、男の恨みの語をただちに自身の恨みの語にし、それにもかかわらず、あなたに対しての片思いは止む時もありませんと、男にも増さって率直に、思慕の情を訴えたものである。同一作者の歌で、いずれも安易な詠み方のものである。
右二首
(249)2816 うらぶれて 物《もの》な念《おも》ほし 天雲《あまぐも》の たゆたふ心《こころ》 吾《わ》が念《も》はなくに
浦觸而 物莫念 天雲之 絶多不心 音念莫國
【語釈】 ○うらぶれて物な念ほし 憂えにしおれて物をお思いなさいますなで、「念ほし」は、念うの敬語。女に対しての慣用。○天雲のたゆたふ心 「天雲の」は、その状態の形容として「たゆたふ」にかかる枕詞。「たゆたふ心」は、躊躇する心で、ここは恋の上の誠の気迷いをする心。○吾が念はなくに 我は思ってはいないことであるのに。
【釈】 憂えしおれて、嘆きをなさいますな。天雲のように気迷いをする心は、我は思ってはいないことであるのに。
【評】 女に疎遠がちにしている男が、女から恨みをいわれたのに対し、誠実を告げて慰めた心である。「天雲のたゆたふ心」は、その場合としては適当の語と思われる。
2817 うらぶれて 物《もの》は念《おも》はじ 水無瀬川《みなせがは》 ありても水《みづ》は 逝《ゆ》くといふものを
浦觸而 物者不念 水無瀬川 有而毛水者 逝云物乎
【語釈】 ○水無瀬川ありても 「水無瀬川」は、水の涸れて無くなった川の称で、普通名詞。「水無し」が「水無瀬」に転じた語。ここは上の歌の「天雲の」との関係で、天の河の意。「ありても」は、上に続いて、そうした川があって。○水は逝くといふものを 水は流れるということであるのにで、天の河の水は目には見えないが、流れていることであるというの意。疎遠ではあるが、絶縁ではないことの譬喩。
【釈】 憂えにしおれて嘆きをすることはしまい。水の見えない天の河も存在して、水が流れていることであるのに。
【評】 男の歌をそのままには受け入れないが、さすがに頼みを懸けて、水無瀬川の譬喩でその頼む心をあらわしているのである。この譬喩は、直接にいえば烈しい語にもなりかねないものを、このように婉曲にしたために、訴えの気分を含んだものとなったので、その意味で上手である。
右二首
(250)2818 杜若《かきつばた》 佐紀沼《さきぬ》の菅《すげ》を 笠《かさ》に縫《ぬ》ひ 著《き》む日《ひ》を待《ま》つに 年《とし》ぞ《へ》経にける
垣津旗 開沼之菅乎 笠尓縫 將著日乎待尓 年曾經去來
【語釈】 ○杜若佐紀沼の菅を 「杜若」は、咲きの意で、佐紀の枕詞。「佐紀沼」は、佐紀にある沼で、佐紀は平城京の北方の地。「菅」は、笠の材料。○笠に縫ひ 笠に作って。○著む日を待つに かぶる日を待っているうちに。以上二句は譬喩で、「笠に縫ひ」は、わが妻と定めて。「著む日」は、結婚する時の意。○年ぞ経にける 年が過ぎたことであるよと、詠嘆したもの。
【釈】 杜若の咲く佐紀沼の菅をわが笠に作って、かぶる日を待っているうちに、年が過ぎたことであるよ。
【評】 女と婚約をした男の、結婚をせずに年の立った時、そのことを残念に思って訴えた歌である。女を菅に、婚約を「笠に縫ひ」に、結婚を「著る」に譬えた歌は例が多く、笠縫いをしている土地では常識になっていたとみえる。これもそれである。「杜若佐紀沼の菅を」は、その女が佐紀の地の者であることをあらわすとともに、杜若によってその美しさをも暗示しているものである。「待つに」は、男の怠った責任を避けるための語である。
2819 押照《おして》る 難波菅笠《なにはすががさ》 置《お》き古《ふる》し 後《のち》は誰《た》が著《き》む 笠《かさ》ならなくに
臨照 難波菅笠 置古之 後者誰將著 笠有莫國
【語釈】 ○押照る難波菅笠 「押照る」は、日の強く照る意で、難波の枕詞。「難波菅笠」は、難波の菅をもって作った笠で、名産であったとみえる。女が自身を譬えたもの。○置き古し 捨て置いて、古びさせてしまって。○後は誰が著む笠ならなくに 「後は」は、後となっての今はの意。「誰が著む」は、君以外の誰がかぶる。「笠ならなくに」は、笠でもないことであるものを。「著る」は結婚する譬。
【釈】 押照る難波菅笠を、かぶらずに捨てて置いて古びさせてしまって、後となっての今は、君以外の誰がかぶる笠でもないことであるものを。
【評】 この歌は、問に対しての答として、心の通じるものであるが、しかし部分的には明らかに矛盾していて、そぐわないものである。「難波菅笠」は、女が難波の地にいる者でなくてはならない。また、「置き古し後は誰が著む笠ならなくに」は、強(251)い恨みの語で、男を詰責しているものである。問の歌の、男が気を置いて、やさしく訴えているのに対し、処女である女のいうべき語ではない。この歌は難波に住んでいる女で、その関係している男から、多年絶縁同様にされていた女の、若さを過ぎた頃、男に対して縒りを戻そうと要求した歌と見て、初めて妥当感のあるものである。そうした歌であったろう。上の歌と問答として謡った人が、番わせる歌のなかったところから、強いて番わせた歌で、その謡い物を聞いた人は、聞いたがままに筆録してあったのが、編集者に資料として取り上げられたという関係のものであろう。そういうと、上の問の歌も、問というよりもむしろ独詠の歌の趣の勝ったものである。問答体の歌に興味をもち、新作以外に、既成の歌で、それぞれ無関係に作っている歌を、強いて番わせるということもありうべきことである。上の二首はそういう物であろう。
右二首
2820 かくだにも 妹《いも》を待《ま》ちなむ さ夜《よ》深《ふ》けて 出《い》で来《く》る月《つき》の 傾《かたぶ》くまでに
如是谷裳 妹乎待南 左夜深而 出來月之 傾二手荷
【語釈】 ○かくだにも妹を待ちなむ このようなさまだけでも、妹を待っていようで、待つことの心許ないさまをいったもの。○さ夜深けて出で来る月の 夜ふけてから出て来る月が。○傾くまでに 傾いて来るまでにで、ひどく深夜になったことを叙したもの。
【釈】 このようなさまだけでも、妹を待っていよう。夜がふけて出て来る月が、傾くまでに。
【評】 人目を忍ぶために、戸外で待ち合わせをする約束をしてあった男の、女の来ないのに対しての心、「かくだにも」は、深夜になっての心で、待ちくたびれた心を、強いて励ました心であろう。気分を主とした言い方で、線が細く、謡い物とは思われない歌である。
2821 木《こ》の間《ま》より 移《うつ》ろふ月《つき》の 影《かげ》惜《をし》み 徘徊《たちもとほ》るに さ夜《よ》ふけにけり
木間從 移歴月之 影惜 徘徊尓 左夜深去家里
【語釈】 ○木の間より移ろふ月の 木の間をとおって移ってゆく月の。「移ろふ」は、移るの連続。○影惜しみ 光を愛して。○徘徊るに 「た(252)ち」は、接頭語。「もとほる」は、一つ所をあちこち歩む意で、愛する意を具象的にいったもの。
【釈】 木の間をとおって移ってゆく月の光を愛して、そちこちとさまよっているうちに、夜が更けたことであった。
【評】 この歌は、明らかに月を観賞する歌で、恋の心をもったものではない。また、女の歌というよりも男の歌とみえるもので、問の歌とは関係のないものである。上の歌と番いになりうる歌を求めて、「月」「さ夜ふけ」というような語を含んでいるところから、強いて番わせたもので、この点上の問答より一段と明らかである。
右二首
2822 絶え領巾《たくひれ》の 白浜浪《しらはまなみ》の 寄《よ》りもあへず 荒《あら》ぶる妹《いも》に 恋《こ》ひつつぞ居《を》る
栲領巾乃 白濱浪乃 不肯縁 荒振妹尓 戀乍曾居
【語釈】 ○栲領巾の白浜浪の 「栲領巾の」は、栲をもって作った領巾で、色の白いところから白にかけた枕詞。「白浜浪の」は、白浜の浪の意で、「白浜」は、砂の白い浜。浪の寄る意で、「寄り」に続け、以上その序詞。○寄りもあへず 寄りきらずしてで、すなおには従わずに。「ず」は、連用形。○荒ぶる妹に 「荒ぶる」は、神の暴威を振う意に用いる語で、荒っぽくする妹を。上の(二六五二)に、「荒れ去きけらし逢はなく思へば」と出た。
【釈】 栲の領巾のように砂の白い浜に寄る浪のように、寄りきらずに、荒っぽくする妹を、恋い続けていることである。
【評】 「荒ぶる妹」というのが中心で、男が女のすなおにしないのを恨んでいっている語である。これは女からいうと、男に不満を感じ、恨む代わりに、甘えて拗ねたさまを見せるのを指しているのであろう。男もそれと知っていて、戯れ半分にいっているものである。「栲領巾の白浜浪の」は、印象的な景である。白い砂が、遠浅になって続き、浪が近く寄って来ない景である。男女の住地と、男の、女に対してもつ気分を暗示しているものである。
一に云ふ、恋《こ》ふるころかも
一云、戀流己呂可母
(253)【解】 第五句の別伝で、恋うているこの頃であるよとの意。本文の「恋ひつつぞ居る」と、心は同じであるが、このほうが説明的になり、したがって気分が稀薄になっている。
2823 かへらまに 君《きみ》こそ吾《われ》に 栲領巾《たくひれ》の 白浜浪《しらはまなみ》の 寄《よ》る時《とき》も無《な》き
加敞良末尓 君社吾尓 栲領巾之 白濱浪乃 縁時毛無
【語釈】 ○かへらまに ここに見えるのみの語で、かえって、反対に、の意の副詞。○寄る時も無き 訪い来る時もないことだ。「無き」は、「こそ」を連体形で結んだ古格。
【釈】 反対に、君こそはわれに、栲領巾の白浜浪のように寄ることもないことである。
【評】 問歌の語を用いて言い返したというだけのものである。同一人の作である。
右二首
2824 念《おも》ふ人《ひと》 来《こ》むと知《し》りせば 八重葎《やへむぐら》 おほへる庭《には》に 玉《たま》敷《し》かましを
念人 將來跡知者 八重六倉 覆庭尓 珠布益乎
【語釈】 ○八重むぐらおほへる庭に 「八重むぐら」は、八重と繁っている雑草で「おほへる」は、覆い隠している。○玉敷かましを 「玉」は、美しい小石。「まし」は、上の「せば」の帰結で、仮設。小石を敷くのは、貴人を迎える時の礼。
【釈】 思う人が来ると知ったならば、雑草の繁り隠している庭に、玉を敷こうものを。
【評】 男の訪ねて来たのを迎えての女の挨拶である。男を限りなく貴い人として、喜びの心をもっていっているので、明るい歌である。
2825 玉《たま》敷《し》ける 家《いへ》も何《なに》せむ 八重葎《やへむぐら》 おほへる小屋《をや》も 妹《いも》とし居《を》らば
(254) 玉敷有 家毛何將爲 八重六倉 覆小屋毛 妹与居者
【語釈】 ○妹とし居らば 諸注、訓がさまざまである。『古葉略類聚鈔』の訓。「し」を読み添えて、調子を張らせた点が、作意に調和する。満足だの余意のある言い方。
【釈】 玉を敷いた家も何にしよう。雑草の繁り隠している小屋でも、妹と一緒にいるならば満足だ。
【評】 答としての挨拶である。相手の語をそのままに捉え、相手の遺憾を喜悦に転回させている、典型的な答歌である。この形は後世に継承されたものである。
右二首
2826 かくしつつ 在《あ》り慰《なぐさ》めて 玉《たま》の緒《を》の 絶《た》えて別《わか》れば 術《すべ》なかるべし
如是爲乍 有名草目手 玉緒之 絶而別者 爲便可無
【語釈】 ○かくしつつ在り慰めて 「かくしつつ」は、このようにしつつで、現在の夫婦関係を指したもの。「在り慰め」は、一語で、「在り」は、継続をあらわす語。「慰め」は、慰め合って居て。○玉の緒の絶えて別れば 「玉の緒の」は、「絶え」の枕詞。「絶えて別れば」は、中が絶えて別れたならばで、想像。○術なかるべし やる瀬ないことであろう。
【釈】 このようにしつつ、続いて慰め合っていて、関係が絶えて別れたならば、やる瀬ないことであろう。
【評】 夫婦関係に十二分の幸福を感じ、静かな落ちついた気分をもっている女が、その幸福を意識した時、感謝に近い気分をもってその夫にいったものである。「玉の緒の絶えて別れば」は、現在の幸福感を言いあらわすために、比較として設けていっているもので、絶対に無いことと信じていっていることで、それがすなわち感謝の心なのである。日常生活の上で誰しも時としてもたされる感である。歌とされることは少ない境で、それを捉えて味わいのある歌としているものである。平凡に似て平凡ならぬ作である。
2827 紅《くれなあ》の 花《はな》にしあらば 衣手《ころもで》に 染《そ》めつけ持《も》ちて 行《ゆ》くべく念《おも》ほゆ
(255) 紅 花西有者 衣袖尓 染著持而 可行所念
【語釈】 ○紅の花にしあらば 「紅の花」は、紅花《べにばな》で、色の美しい物であり、また衣に染ませやすいものでもある。「し」は、強意。「あらば」は、仮設で、妻がそれであったら。○衣手に染めつけ持ちて わが袖に染ませて持って。○行くべく念ほゆ 行きたいと思われる。
【釈】 妹がもし紅花であったならば、わが袖に染めつけて、持って行きたいと思われる。
【評】 これは男が遠い旅へ出ようとする際、妻に別れを惜しんでいっている歌である。そういう際、別れ難くする人を、身に着けて行ける物にしたいということは、思いつきやすいことで、例歌の多いものである。「紅の花にしあらば」は、女の美しさを暗示しうるもので、若い女に対しては適切な思いつきである。これも上の歌とは関係のないものである。「玉の緒の絶えて別れば」を、遠い旅立ちとし、強いて番わせたものである。
右二首
譬喩
【標目】 この部立は、すでに巻三、七、十に出ており、また、後の巻十三、十四にも出て来る。物に寄せて思を陳ぶる歌よりも、譬喩の意の濃厚な物として抽き出した物であるが、既成の歌に後より分類を加えたものであるから、その境界は勢い曖昧とならざるを得ない。「譬喩」の部に加えられてはいるが、その程度の低いものと、「物に寄せて」の歌の譬喩の程度の高いものとは、全く差別が付けられないのである。中には、一見譬喩のごとく見え、その実それでないものさえあって、ある程度の混雑をもったものである。資料とした本にこのようになっていたところから、それにそのまま従ったのであろう。
2828 紅《くれなゐ》の 濃染《こぞめ》の衣《きぬ》を 下《した》に著《き》ば 人《ひと》の見《み》らくに にほひ出《い》でむかも
紅之 深染乃衣乎 下著者 人之見久尓 仁寶比將出鴨
【語釈】 ○紅の濃染の衣を 紅色の色濃く染めた衣を。○下に著ば 下着として着たならば。○人の見らくに 「見らく」は、見るの名詞形。○にほひ出でむかも 色の現われ出すであろうかで、下着の色が上着をとおして、それと目に着こうかの意で、「かも」は、疑問。
(256)【釈】 紅色の濃く染めた衣を下着として着たならば、人の見るに、上着を透いて現われ出すであろうかなあ。
【評】 「紅の濃染の衣」は、美しい女の譬。「下に著ば」は、ひそかに妻とする譬。「にほひ出でむかも」は、わが様子に現われようかの譬である。全部が隠喩になっており、語は美しく、調べも豊かさのある歌である。
2829 衣《ころも》しも 多《おほ》くあらなむ 取《と》り易《か》へて 著《き》なばや君《きみ》が 面忘《おもわす》れたらむ
衣霜 多在南 取易而 著者也君之 面忘而有
【語釈】 ○衣しも多くあらなむ 衣こそ多くありたいものである。「なむ」は、未然形に接して、希望をあらわす終助詞。○取り易へて著なばや 取りかえて別の衣を着たならばで、「や」は、疑問の係。○君が面忘れたらむ 君の面忘れをしていられようか。「面忘れ」は、顔を忘れる意で、恋の苦しさを忘れたいの意。
【釈】 衣こそ多くありたいものである。取りかえて着たならば、君の面忘れをしていられようか。
【評】 夫に対する恋に悩んでいる女の歌で、衣を取り変えて新しいものを着ると、気分が変わって来る体験から、それを頻繁にしたら、今の気分が一変して、目の前に現われて来る君の面影を忘れていられようかというのである。女性に特有の感性に立っての歌で、珍しい歌である。この歌にはどこにも譬喩の意がない。
右の二首は、衣に寄せて思を喩《たと》ふ。
右二首、寄v衣喩v思。
2830 梓弓《あづさゆみ》 弓束《ゆづか》巻《ま》き易《か》へ 中見《なかみ》さし 更《さら》に引《ひ》くとも 君《きみ》がまにまに
梓弓 々束卷易 中見刺 更雖引 君之隨意
【語釈】 ○梓弓弓束巻き易へ 「弓束」は、弓の握りの称で、その部分は革で巻いてある。「巻き易へ」は、今までの古い革を棄て、新しい革に巻きかえる意。○中見さし 原文「中見刺」、諸注、訓み難くして、じつにさまざまの訓を試みている。いかなることをいっているのか解せられないために、前後の関係から意味を模索しているためである。『全註釈』は最も肯いうる解を、疑いを残して下している。「中見」は、弓に矢を番え(257)る時に目印とする印の称で、「さし」は、その印をつける意であろうというのである。これは根拠となりうるかとみえる考証の伴ったものである。二、三句は弓を修繕する意。○更に引くとも 改めてその弓を引こうとも。
【釈】 梓弓の束を巻きかえ、中見をつけかえて、改めて引こうとも、君の心のままになろう。
【評】 女の歌で、一旦人の妻となっていたが、その人と絶縁をし、他の人の妻となろうとする時の心である。「梓弓」は自身の譬、「弓束巻き易へ中身さし」は、別人となっての皆である。「中見さし」は疑問のある語であるが、中見は修繕する部分の称で、弓束についでの物であるから、さしたる誤りはない解であろう。弓が生活に離れなかった時代の譬喩であって、当時としてはきわめて親しい語であったろう。
右の一首は、弓に寄せて思を喩ふ。
右一首、寄v弓喩v思。
2831 みさご居《ゐ》る 渚《す》に坐《ゐ》る船《ふね》の 夕潮《ゆふしほ》を 待《ま》つらむよりは 吾《われ》こそ益《まさ》れ
水沙兒居 渚座船之 夕塩乎 將待從者 吾社益
【語釈】 ○みさご居る渚に坐る船の 「みさご」は、上の(二七三九)に出た。魚類を食とする鳥。「みさご居る」は、渚の状態。「渚」は、海や川の水の上に浅く現われている地の称で、「坐る船」は、そこに擱坐して動けなくなっている船。○夕潮を待つらむよりは 「夕潮」は、夕刻の満潮で、それを待って上の船を漕ぎ出そうとしている意。○吾こそ益れ 我の君を待つことのほうが増さっていることだ。
【釈】 みさごの居る渚に擱坐している船が、夕潮の満ちて来るのを待つよりも、我の君を待つことのほうが増さっていることだ。
【評】 女の歌で、渚に擱坐して満潮を待つ船を、自身の夫を待つのに対比しているので、説明気分が強く働いているために、譬喩の様式にはなりかねる趣のある歌である。海べの歌で、謡い物であったろう。
右の一首は、船に寄せて思を瑜ふ。
右一首、寄v船喩v思。
(258)2832 山河《やまがは》に 筌《うへ》を伏《ふ》せおきて 守《も》りあへず 年《とし》の八歳《やとせ》を 吾《わ》が竊《ぬす》まひし
山河尓 筌乎伏而 不肯盛 年之八歳乎 吾竊※[人偏+舞]師
【語釈】 ○山河に筌を伏せおきて 「筌」は、今、うけと呼んでいる漁具で、竹を筒形に編み、尻を括った物で、山河の流れをせいて狭くした所、または水の落ち口に仕掛け、魚が流れ入るのを捕るもの。「伏せおきて」は、旧訓。「おき」は、読み添え。○守りあへず 番をしきれずしてで、筌の持主が油断をして。○年の八歳を吾が竊まひし 「年の八歳」は、多くの年。「竊まふ」は、盗むの連続。「し」は、「き」の連体形で、魚を盗みつづけたことだ。
【釈】 山河に人が筌を伏せて置いて、かかった魚の番をしきれずに、何年もの間、われに盗み続けられたことである。
【評】 筌は娘の母、魚は娘で、「竊まひし」は忍んで通った譬喩で、一首全体が隠喩となっている。山村の謡い物であったとみえる。隠喩にはしているが、心はあらわで、そこの絡み合いが興味であったろう。
右の一首は、魚に寄せて思を喩ふ。
右一首、寄v魚喩v思。
2833 葦鴨《あしがも》の 多集《すだ》く池水《いけみづ》 溢《あふ》るとも 儲溝《まけみぞ》の方《へ》に 吾《われ》越《こ》えめやも
葦鴨之 多集池水 雖溢 儲溝方尓 吾將越八方
【語釈】 ○葦鴨の多集く池水 「葦鴨」は、鴨は葦のある水辺にいるところからの称で、葦鶴と同じ。「多集く」は、多く集まる意。○儲溝の方に 「儲溝」は、設けてある溝で、池水が溢れると堤を害うので、水をはけさせる設備。 ○吾越えめやも われは越えては行こうか、行かないで、「や」は、反語。
【釈】 葦鴨の多く集まっている池の水の、たとえ溢れようとも、そうした場合のはけ口である儲溝のほうへ、われは越えて行こうか行きはしない。
【評】 秘密な恋をしている男の歌である。「池水」を自身に、「溢る」を思いの余ることに、「儲溝の方に吾越え」は、おのず(259)から表面に現われることの譬喩で、あくまでも秘密を守りおおせようと、自身を抑制している心である。すべてを譬喩にしていながら、最後に「吾越えめやも」と、吾をいっているのは底を割ったもので破綻である。事象に捉われすぎていて、気分化が足りないために、一首が散漫の感のあるものとなり、すっきりしない。
右の一首は、水に寄せて思を喩ふ。
右一首、寄v水喩v思。
2834 大和《やまと》の 室原《むろふ》の毛桃《けもも》 本《もと》繁《しげ》く 言《い》ひてしものを 成《な》らずは止《や》まじ
日本之 室原乃毛桃 本繁 言大王物乎 不成不止
【語釈】 ○大和の室原の毛桃 「室原」は、今の奈良県宇陀郡室生村地方(ほかに磯城郡田原本町唐古説、御所市室とする説もある)。「毛桃」は、果皮に毛の多い桃。室原をいうに「大和の」を冠しているのは、その地を力強くいおうとしてのことと取れる。こうした言い方はほかにも用例がある。○本繁く 幹が繁く。毛桃の木は枝を多く出すところから、「多く」の譬喩としたもの。○言ひてしものを 言い寄ったのに。○成らずは止まじ 「成る」は、事の成立する意で、夫婦関係とならなければ止やまい。「成る」は、毛桃にも縁語ともなっている。
【釈】 大和の室原の毛桃の木の、幹が繁くあるように繁くも言い寄ったのに、関係を成り立たせなければやめまい。
【評】 男が求婚をして、女が承諾しないので、自身を励まして必ず遂げようとする、類歌の多いものである。恋の成るを毛桃に譬えている。「大和の室原の毛桃」は、相手が室原の女で、男はよその者であったからで、「大和の」は女に対する感を強めるために冠させたものと取れる。この譬喩は例の多いものである。
右の一首は、菓《このみ》に寄せて思を喩ふ。
右一首、寄v菓喩v思。
2835 真葛《まくず》はふ 小野《をの》の浅茅《あさぢ》を 心《こころ》ゆも 人《ひと》引《ひ》かめやも 吾《われ》無《な》けなくに
(260) 眞葛延 小野之淺茅乎 自心毛 人引目八面 吾莫名國
【語釈】 ○真葛はふ小野の浅茅を 「真葛はふ」は、「真」は、美称。葛の這っているで、野の枕詞。「小野」の「小」は、接頭語。○心ゆも人引かめやも 「心ゆも」は、心から。「人引かめやも」は、「引かめ」は、旧訓で、『略解』は、浅茅は刈る物で引くものではないから、誤写だろうとして改めている。今は旧訓に従う。他人がわが物として引こうか、引きはしない。○吾無けなくに われという者が無いではないことなのにで、打消を二つ重ねて強くいったもの。
【釈】 葛の這っている野の浅茅を、心から他人が引こうか引きはしない。われという者が無いではないのに。
【評】 部落に住んでいる男が、美しい女と関係を結んで、他人に奪われるようなことがありはしないかと不安に感じつつ、それを強く打消している心である。強い語の裏に心弱さをもっている、陰影のある心である。浅茅を女に譬え、「真葛はふ小野の」で、その女の美しさを暗示している。全体に整っている歌で、それとしては「引かめ」が変である。謡い物となっていて、謡う時に「真葛」に引かれて謡い誤ったのを、そのまま筆録したというようなこともありうることである。とにかく原形ではなかったろう。
2836 三島菅《みしますげ》 いまだ苗《なへ》なり 時《とき》待《ま》たば 著《き》ずやなりなむ 三島菅笠《みしますががさ》
三嶋菅 未苗在 時待者 不著也將成 三嶋菅笠
【語釈】 ○三島菅いまだ苗なり 「三島菅」は、「三島」は、巻七(一三四八)に出た。高槻市南部。「いまだ苗なり」は、笠の編み料にはならな(261)い意。○時待たば著ずやなりなむ 「時待たば」は、下の菅笠の材料にする時を待っていたならば。「著ずやなりなむ」は、わが笠としてかぶらなくなるであろうかで、「や」は、疑問の係。○三島菅笠 三島の名産の菅笠としての称。詠嘆をもってのもの。
【釈】 三島の菅は、まだ苗である。笠の材料となる時を待っていたならば、笠としてかぶらなくなるであろうか。その三島菅笠よ。
【評】 三島の少女に心を寄せた歌である。菅を女に、笠を妻に譬えるのは、一般化したことで、これもそれである。一首、調べが明るく、華やかで、著しく躍動をもっている。三島地方で謡われていたものとみえる。
2837 み吉野《よしの》の 水隈《みぐま》が菅《すげ》を 編《あ》まなくに 刈《か》りのみ刈《か》りて 乱《みだ》りなむとや
三吉野之 水具麻我菅乎 不編尓 苅耳苅而 將乱跡也
【語釈】 ○み吉野の水隈が菅を 「み吉野」は、吉野川。「水隈」は、河隈というに同じく、川の屈折して隈となっているところの称。○編まなくに 「編む」は、薦に編む意。笠は縫うとのみいっている。編んで薦としないことであるのに。○刈りのみ刈りて乱りなむとや 「刈りのみ刈りて」は、ただ刈ったのみでで、我が物としただけの譬。「乱りなむとや」は、「乱り」は、ここは四段活用で、他動詞。「や」は、疑問の係で、下に「する」が略されている。乱して置こうとするのであるか。刈り取った菅は乱れやすいもので、打ち捨てて置く意。
【釈】 吉野川の河隈の菅を、編んで薦としないことであるのに、刈るだけ刈って、乱して置こうとするのであるか。
【評】 婚約をしたのみで、妻とされない女の嘆きである。「菅」は女、「編む」は妻とする譬喩である。「吉野の水隈」は女の住地である。全部譬喩にはなっているが、説明的気分が働きすぎているので、底の浅いものとなっている。しかし行き届いた、無理のない歌である。吉野川の渓谷の謡い物であったろう。
2838 河上《かはかみ》に 洗《あら》ふ若菜《わかな》の 流《なが》れ来《き》て 妹《いも》があたりの 瀬《せ》にこそ寄《よ》らめ
河上尓 洗若菜之 流來而 妹之當乃 瀬社因目
【語釈】 ○河上に洗ふ若菜の 「河上」は、ここは上流の意。「若菜」は、男が自身を譬えたもの。○流れ来て 「来て」は、現在の「行きて」というにあたる。妹を中心としていっているのである。○妹があたりの瀬にこそ寄らめ 「妹があたり」は妹がいる辺り。「瀬」は、その川は妹の家(262)の傍らをも流れているのである。
【釈】 上流で洗っている若菜のように流れて来て、妹の家の辺りの瀬に寄ろう。
【評】 男の家も女の家も一つ河に臨んで立っており、男の家は上流のほうにある。男はその河を流れて行く若菜を見て、それに自身を連想し、我もそのように流れて行って、妹が家の辺りの瀬に寄ろうというのである。「若菜」は譬喩ではあるが、それを目に見ることによって自身を連想したもので、意識して用いているものではなく、むしろ譬喩以前のものである。しかし一首全体が、その気分に引かれて、譬喩的気分のものとなっている。部落生活の気分の濃い、可隣な歌である。
右の四首は、草に寄せて思を喩ふ。
右四首、寄v草喩v思。
2839 かくしてや 猶《なほ》や守《まも》らむ 大荒木《おほあらき》の 浮田《うきた》の社《もり》の 標《しめ》にあらなくに
如是爲哉 猶八成牛鳴 大荒木之 浮田之社之 標尓不有尓
【語釈】 ○かくしてや猶や守らむ このようにしてなおこの上とも番をしているのであろうか。「や」は、疑問の係で、それを二つ重ねて強めたもの。男が番をするのは、片恋をさせている女である。○大荒木の浮田の社の標にあらなくに 「大荒木の浮田の社」は、奈良県五条市今井にある荒木神社だという。社は、古くは社は杜だったのである。「標」は、標繩で、社の神聖を冒させないもので、社を守っている物。我はそれではないことであるのに。
【釈】 このようにして、なおこの上ともその人を見守っているのであろうか。我は大荒木の浮田の杜の標繩ではないことであるのに。
【評】 初恋の女を、甲斐なく見守り続けている嘆きをいっているもので、例の多いものである。標をいうのに、「大荒木の浮田の社」を挙げている。その地方の歌であったゆえと取れる。巻七(一三四九)「かくしてやなほや老いなむみ雪零る大荒木野の小竹にあらなくに」があり、それと関係の深い歌である。先後はわからぬが、今の歌のほうが先のものかと思われる。「標」を譬喩としているのみの歌である。
(263) 右の一首は、標に寄せて思を喩ふ。
右一首、寄v標喩v思。
2840 幾多《いくばく》も 零《ふ》らぬ雨《あめ》ゆゑ 吾《わ》が背子《せこ》が 御名《みな》の幾許《ここだく》 滝《たぎ》もとどろに
幾多毛 不零雨故 吾背子之 三名乃幾許 瀧毛動響二
【語釈】 ○幾多も零らぬ雨ゆゑ どれほども降らない雨だのに。○御名の幾許 「御名」は、「御」は、美称。「幾許」は、甚しくの意の副詞。○滝もとどろに 「滝」は、激流。「とどろに」は、轟くほどにありの意。雨で、水嵩が増した意。
【釈】 どれほども降らない雨だのに、わが背子の御名は甚しく立って、激流の轟くようである。
【評】 秘密にしていた男女関係の早くも漏れて言い騒がれるのを、女の悲しんだ心である。悲しむのは、恋そのもののためではなく、男の面目に対してである。信仰が後退して、代わりに面目のほうが前進している心である。「幾多も零らぬ雨ゆゑ」「滝もとどろに」は、山間の渓流に限られたことであるから、山村の謡い物であったろう。雨と滝とを譬喩とはしているが、中間に本義を挾んだ、平明を主とした歌である。
右の一首は、滝に寄せて思を喩ふ。
右一首、寄v瀧喩v思。